岡本かの子

新時代女性問答—– 岡本かの子

一平 兎《と》に角《かく》、近代の女性は型がなくなった様《よう》だね。
かの子 形の上でですか、心の上でですか。
一平 つまり、心構《こころがま》えの上でさ。昔で云《い》えば新しい女とかいうようにさ。
かの子 特別な型はなくなりましたね。たとえば青踏《せいとう》時代の様に。
一平 つまり今の新しい女はそんな詩的な概念《がいねん》でなく、もっと実質的に入ったんだろう。
かの子 詩的概念を表現する様になったとでも云いましょうか。いえ詩的概念という言葉はあてはまりませんね。
一平 それは空想だろう。
かの子 いいえ、理想ですよ。
一平 要するに実質的になったんだね。
かの子 実質的とは。
一平 たとえば社会的のある理想を持つとすれば、すぐ社会運動に即《そく》するし、芸術的モーションを抱いてる人は芸術的の創作に即するという様に昔の女性は何となく一つの新しいということの憧憬があった。その憧憬が此頃《このごろ》は地《じ》べた[#「べた」に傍点]に踵《かかと》をつけて来た。
かの子 それは時代が非常に便利になったから何となく新しくあろうという憧憬が青踏社時代の様に鬱勃《うつぼつ》としていません。たとえばその鬱勃としたものが、手軽に云えば髪形の上や服装の上などに通《は》け口が出来《でき》ているでしょう。また婦人雑誌を読めば現代語が出て、それを読めば自分の程度の新しさと一致する心よさがあり、見るものすべてが流通|無碍《むげ》になっただけ、それだけ女性全般の中に蓄積《ちくせき》されたものがない様に思います。それから一般的に新しい色彩が行き亙《わた》っているため、本質的な思想家や芸術家は既成《きせい》の人を除いてはぼかされ易《やす》い様《よう》です。すべての女が相当な新《あた》らしいテクニカル・タームを覚え青踏社《せいとうしゃ》時代の新しさは近代の女性には常識程度に普遍化《ふへんか》されて来た様です。
一平 一つは外国からの格別《かくべつ》新しい思潮《しちょう》が入らなくなった勢《いきおい》もありはしないか。
かの子 ここの所|一寸《ちょっと》そういう風《ふう》な状態ですね。極《ご》く繊細《せんさい》な感覚的な拾物《ひろいもの》程度のものは一部の人の中に入って来てはいるけど。
一平 だから今じゃむしろ一般の女性の外形上の言語や服装等の上には皮相《ひそう》な新《あたら》し味《み》は非常にあるけど、内容は昔のものが地《じ》べたにならされただけのもので外形|程《ほど》の新し味が内容に於《おい》てはカルチベードされていないね。
かの子 一面から云《い》えば非常にもの分《わか》りのいい新鮮らしい女性が多い様に見えるけれど、それは近代の女性に許されている可成《かなり》の自由と、女性そのものの普遍化された新味から来る自負心《じふしん》とであって、内容そのものは真の創造や鬱勃《うつぼつ》たる熱情に乏《とぼ》しいと思います。近代の女性はなかなか巧利《こうり》的な所もあって兎角《とかく》利害の打算《ださん》の方が感情よりも先に立って利害得失を無視してどこまでも自分の感情を生かそうとする熱情の閃《ひらめき》は多くの場合に於て見られないと思いますね。この事は恋愛などに於ても。つまりしっかりした芸術作品を持ったり他の事業でも真摯《しんし》な地歩《ちほ》をかためて居《い》る女性以外には装飾《そうしょく》的な表皮《うわべ》の感情は多くひらめかして居ても本質的な真面目な熱情や感情が浅薄《せんぱく》です。或《ある》種の文学少女などことに。
一平 それは僕も同感だね。所《ところ》で西洋の文学上で近代的な女というのはどんなだい。それ何とかいう西班牙《スペイン》の無政府主義者の女ね。あれなんかどうだい。
かの子 ポール・モーランの「カタロオニュの夜」の中に現われるルメジオスですか。
一平 あれだってつまり、内容はツラディショナルな女の上に近代の主義主張をかぶせた種類の女を発見しただけなんだね。
かの子 いえ、あれは非常に垢抜《あかぬけ》した女だと思いますね。それから「トルコの夜」のヒロインはなお、とても現代の日本の女の常識的な新味はあれに較《くら》べることが出来《でき》ません。兎《と》に角《かく》現代では新しいという事が概念《がいねん》になり常識になったから少しも新しくはありません。
一平 それは実質的になったんだ。
かの子 そうです。新しい事を草履《ぞうり》を穿《は》く様《よう》にまた洋傘《ようがさ》をさすと同じ様にしています。
一平 つまり新しいという事を使用しているんだね。丁度《ちょうど》円太郎《えんたろう》自働車《じどうしゃ》の様に使用しているんだ。
かの子 そうです。
一平 電気の様に内容は分《わか》らなくても使用するだけの能力はあるんだ。
かの子 便利だからですね。
一平 僕はあの小説を読むと描き方はやわらかく感じるが、あの女は格別《かくべつ》新しいとは思わないね。
かの子 ただ何となく垢抜《あかぬ》けした感じがします。あれは散々《さんざん》今の新しさが使用し尽《つく》された後のレベルから今|一《いち》だん洗練を経《へ》た後に生《うま》れた女です。格別の新しがらなくとも新《あた》らしい智識《ちしき》の洗礼を受けたのちの彼女|等《ら》の素直さと女らしい愛らしさと皓潔《こうけつ》な放胆《ほうたん》がぎすぎすした理窟《りくつ》や気障《きざ》な特別な新らしがりより新らしいのでしょう。
一平 昔の新しい女は勇気はあったが、垢抜けしていなかった。どこか自然主義かリアリズムだった。ではこれからの女は今までの新らしさを土台にして垢抜けすることが一特色になるのかね。
かの子 宜《よ》い調和と賢《かしこ》い素直さと皓潔な放胆で適宜《てきぎ》に生きるというほどいつの時代にだって新鮮な生き方はなかろうと思いますわ。
一平 近代の青年は全《まった》く暗い影のない、何というかツルツル滑《すべ》った、そして危い程《ほど》ヒラヒラしたとりとめのない程その場その場で動いて行く。それに丁度適応する近代的女性があるだろうか。
かの子 宜《よ》い理智《りち》から明快に生きる青年と時代のカスをなめてただ軽薄《けいはく》にその場その場の生活をするのと両方でしょうね。もちろん女性にもそれに適応した型が幾つもの差別で存在してます。近代青年に対するあなたの観察は勿論《もちろん》一部分に対するものとしては誤《あやま》っては居《い》ません。が比較的に云《い》って、近代の青年は案外真面目な思想を抱いているものが多い様《よう》です。例えば彼|等《ら》の女性観を聞くと自分自身が女性でありながら一《い》ち一ち傾聴《けいちょう》せずには居られない位《くらい》に深刻に女性を解剖《かいぼう》しています。
一平 近代女性の恋愛はどうかね。今の青年は恋は出来《でき》ないと云っていて而《しか》も恋はするけどごく刹那《せつな》的恋を追って行くという傾向だろう。だから女の方の傾向もそうじゃないかね。男の方にはヘロイズムがなくなって享楽《きょうらく》生活を非常に重要視している。
かの子 女の方も女の権利とか位置とかを楯《たて》にして案外|浅薄《せんぱく》な利己主義な、お芝居気《しばいけ》を満足させるための気障《きざ》なのも往々《おうおう》にして見受けます。むしろ一般の風潮《ふうちょう》が多くそうであると云い度《た》い位です。そして反射神経でありあわせなラブレターの書式など、実にうまくなりましたこと。然《しか》しほんとうの恋をする女があるということは物論《もちろん》昔も今も決して変《かわ》ろう筈《はず》はありません。真当の恋というものの本質も標準も私が必ず知って居るというわけではないけれど、とにかくより執拗《しつよう》なより永遠的なものということですの。

底本:「愛よ、愛」メタローグ
   1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
   1976(昭和51)年発行
※「青踏《せいとう》時代」「心よさ」「流通|無碍《むげ》」「巧利《こうり》」「理窟《りくつ》」「物論《もちろん》」の表記について、底本は、原文を尊重したとしています。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年3月30日作成
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