山の声—– 宮城道雄

 私が失明をするに至った遠因ともいうべきものは、私が生れて二百日程たってから、少し目が悪かったことである。しかし、それから一度よくなって、七歳の頃までは、まだ見えていたのであるが、それから段々わるくなって、九歳ぐらいには殆ど見えなくなってしまった。それで、私が、今でも作曲する時には、その頃に私が見ていた、山とか月とか花とか、また、海とか川とかいうものの姿が、浮かんで来る。
 こういうわけで、自然の色も何も見たことがない、本当の生れつきからの盲人にくらべると、私はその点では、恵まれているといわなければならぬ。
 それにしても、私は子供の時に失明したので、私の心を慰めてくれるのは、音楽とか、或は春夏秋冬の音によって、四季の移り変りを知る他にはなかった。それで、音楽でも私は自然のものが非常に好きであった。
 このような関係で、私は音楽の道に入ったが、作曲をするようになった動機というものは、私の父は十二三歳の頃、私と私の祖母と二人を残して、朝鮮に行ったのである。ところが、あちらで父は獰猛な暴徒に襲われて、重傷をおわされたために、私の学資を送って来なくなった。
 私はその頃、二代目中島※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]※[#「てへん+交」、第4水準2-13-7]に就いて、箏を勉強していたが、父からの送金が絶えたので、師匠が教えているお弟子の、下習えというものをして学費を得ていた。私はこうして謝礼を貰って、一種の苦学みたいなことをしていたのである。
 私の師匠は教えることに、非常に厳しくて、弟子が一度教わったことを忘れるということはない。一度教えたことを忘れたら、二度と教えてはやらないという風であった。しかし、やはり子供であるから、一度教わっただけでは忘れることがあった。或る日、私が教えて貰った曲を忘れたので、師匠が怒って、思い出すまでは、家に帰らさんといって、夜になっても帰して貰えなかった。そうして、こういう時には、思い出すまでは、食事をさせられないのである。こういう厳しいお稽古を受けたのであった。これは今から考えると、大変野蛮なことのように思われるが、私はお腹がすいた時が、一番頭がはっきりする。従ってお腹のすいた時程、考えがまとまるのである。今でも何か考え事をする時は、余り沢山食べないように加減している。
 これからまた、冬には、寒稽古といって、千遍弾きということをやる。それは同じ曲を何日もかかって弾くのである。昔の人は万遍弾きといって、お宮のお堂に立て籠って徹夜で弾く。眠くなると、箏を弾いている姿勢のままで、うつむいて寝てしまい、目が醒めるとまた、弾き出すのである。こういう風に、昔の人は私たちよりも、まだ一層厳しい稽古をしたのである。
 私は十四歳の時に、父から呼ばれて朝鮮へ渡った。私が朝鮮に行ってからは、誰も教わる先生がなかったので、私は毎日、自分の師匠から習った曲ばかりを弾いていたが、しかし、それだけではどうも私には物足りなかった。
 その頃、私たちは仁川に住んでいたのである。丁度、私の家は小学校の下にあったので、私は学校の生徒が歌う唱歌や西洋の音楽などが聞こえて来るのを楽しみにしていた。それからまた、家の前が原っぱになっていたので、色々自然の音も聞くことができた。雨の音や霧の音などを聞いて自然の音を楽しみ、その中から得た印象によって、それを基にして、何か作曲してみたいと思っていた。丁度その折、私の弟がいつも読んでいた読本の中に、水の変態というのがあって、それは七首の歌によって、水が霧、雲、雨、雪、霞、露、霜と変って行くことが詠まれていたのである。
 私はそれにヒントを得て、「水の変態」という曲を作った。この曲は自分のものとしてはまだ、昔のお箏の手型からあまり出てはいなかったのである。元来、日本の箏の曲というものはハーモニーが考えられていないので、私はどうしても、日本の音楽にも必ずハーモニーが必要であると感じたので新しい作曲をする上について、西洋音楽を聞き、また、洋楽の先生に訊ねたりして、色々と工夫したわけである。それから年を経るに従って、私は朝鮮のようなところでなく、都会へ行って、勉強もしたり、また、一旗挙げたいと思って、東京へやって来たのである。それで私はまだ色々研究して、自分の芸を勉強しなければならぬと思っている。そして、自分の芸を完成させるためには、自分の一生が二度あっても三度あっても足りないと思っている。
 私は盲人であるけれども、勉強するには点字があるから不自由はしない。音楽の勉強をしたいと思えば、独逸《ドイツ》で出来ている、点字のオーケストラやピアノの曲の譜面があるので、それを手で探り探り読むのである。
 私はいつでも作曲するのに、晩の御飯を食べた後で一寸ひと寝入りして、世間が静かになってから、自分の部屋でコツコツ始めるのである。丁度、学生が試験勉強をするようなものである。或る時は、徹夜をする時もある。そして、夜が更けて、あたりが静まってしまうと、自分の神経の所為か、色々の音が聞こえて来るように思われるのである。
 これは人から聞いた話しであるが、西洋の或る作曲家が、山の静かな所へ行くと、山の音楽が聞こえて来る、しかし、それが、はっきりとしたものではないので、楽譜に書き改めることはできないが、しかしやはり何かしら聞こえて来るので、その音楽を掴もうとして掴み得ずに一生を終ってしまったということを聞いたことがある。
 私も夜が更けるに従って、色々の音が聞こえて来るのであるが、初めは、形のない、混沌としたしかも漠然としたその曲全体を感じる。それで私は最初に絵でいえば、構図というべきものを考えて、次に段々こまかく点字の譜に、それを書きつけるのである。そうして、作曲する時に、山とか、月とか花とかを、子供の時に見たものを想像しながらまとめてゆくのである。
 こうしたわけで、作曲の際とか詩などを読むという場合には、四季のことが人よりも一層深く感ぜられるのである。そうして、私は世の中の音、朝の音、夜の音などを静かに聞いていると、いつかそれに自分の心が誘われて、遠い所へ行っているような気持になることがある。
 次に、同じ雨の音でも春雨と秋雨とでは、音の感じが全然違っている。風にそよぐ木の音でも、春の芽生えの時の音と、またずっと繁った夏の緑の時の音とは違うし、或は、秋も初秋の秋草などの茂っている時の音と、初冬になって、木の葉が固くなってしまった時の音とは、また自ら違うのである。それから、紅葉の色も、自分には直接見えないけれども、その側に行くと、自分には何となくその感じがする。
 私は或る時、音楽学校から岐阜へ演奏旅行に行ったことがある。その時は、昼と夜と二度演奏をしたのであるが、昼の演奏を済ませてから、知事さんの招待で長良ホテルという所に行った。そして、私の傍に居合わせた者が皆、景色がよいといっていたが、私も何となく、河原が広いという感じがしたし、東京を遠く離れてやって来たという感じが沁々としたのである。昔、在原業平が遠く都を離れて東《あずま》へ来た時に、都鳥を見て読んだ、

  名にしおはばいざこと問はん都鳥
   我が思ふ人はありやなしやと

 という歌を思い出して、私は何か知らそういった気持になったことがあった。
 今日はスピード時代で、東京を遠く離れた所も汽車でわけなく行かれるのであるが、しかし、旅で夕方などになると、随分遠い所に来たような感じがする。これは音楽に関係したことではないけれど、私はスピードという言葉で思い出したが、最近はフランスあたりから飛行機で、四日間ぐらいで日本に飛んで来られるようになっている。そういうことのある度に、私は残念に思っていることは、自分の頭や、仕事は、なかなかスピードが出ないことである。私は将来まだ沢山研究したい事があるので、それをやり遂げるためには、今よりもっと、頭にスピードをかけて、勉強しなければならないと思っているのである。


底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「水の変態」宝文館
   1956(昭和31)年8月1日
入力:貝波明美
校正:小林繁雄
2007年8月13日作成
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