永井荷風

寺じまの記—– 永井荷風

雷門《かみなりもん》といっても門はない。門は慶応元年に焼けたなり建てられないのだという。門のない門の前を、吾妻橋《あずまばし》の方へ少し行くと、左側の路端《みちばた》に乗合自動車の駐《とま》る知らせの棒が立っている。浅草郵便局の前で、細い横町《よこちょう》への曲角で、人の込合《こみあ》う中でもその最も烈しく込合うところである。
 ここに亀戸《かめいど》、押上《おしあげ》、玉《たま》の井《い》、堀切《ほりきり》、鐘《かね》ヶ|淵《ふち》、四木《よつぎ》から新宿《にいじゅく》、金町《かなまち》などへ行く乗合自動車が駐る。
 暫く立って見ていると、玉の井へ行く車には二種あるらしい。一は市営乗合自動車、一は京成《けいせい》乗合自動車と、各《おのおの》その車の横腹《よこはら》に書いてある。市営の車は藍色、京成は黄いろく塗ってある。案内の女車掌も各一人ずつ、腕にしるしを付けて、路端に立ち、雷門の方から車が来るたびたびその行く方角をきいろい声で知らせている。
 或夜、まだ暮れてから間《ま》もない時分であった。わたくしは案内の女に教えられて、黄色に塗った京成乗合自動車に乗った。路端の混雑から考えて、とても腰はかけられまいと思いの外、乗客は七、八人にも至らぬ中、車はもう動いている。
 活動見物の帰りかとも思われる娘が二人に角帽の学生が一人。白い雨外套《あまがいとう》を着た職工風の男が一人、絣《かす》りの着流しに八字髭《はちじひげ》を生《はや》しながらその顔立はいかにも田舎臭い四十年配の男が一人、妾《めかけ》風の大丸髷《おおまるまげ》に寄席《よせ》芸人とも見える角袖《かくそで》コートの男が一人。医者とも見える眼鏡の紳士が一人。汚れた襟付《えりつき》の袷《あわせ》に半纏《はんてん》を重ねた遣手婆《やりてばば》のようなのが一人――いずれにしても赤坂《あかさか》麹町《こうじまち》あたりの電車には、あまり見掛けない人物である。
 車は吾妻橋をわたって、広い新道路を、向嶋《むこうじま》行の電車と前後して北へ曲り、源森橋《げんもりばし》をわたる。両側とも商店が並んでいるが、源森川を渡った事から考えて、わたくしはむかしならば小梅《こうめ》あたりを行くのだろうと思っている中《うち》、車掌が次は須崎町《すさきまち》、お降りは御在ませんかといった。降《おり》る人も、乗る人もない。車は電車通から急に左へ曲り、すぐまた右へ折れると、町の光景は一変して、両側ともに料理屋待合茶屋の並んだ薄暗い一本道である。下駄の音と、女の声が聞える。
 車掌が弘福寺前《こうふくじまえ》と呼んだ時、妾風の大丸髷とコートの男とが連立って降りた。わたくしは新築せられた弘福禅寺の堂宇を見ようとしたが、外は暗く、唯低い樹《き》の茂りが見えるばかり。やがて公園の入口らしい処へ駐《とま》って、車は川の見える堤へ上《のぼ》った。堤はどの辺かと思う時、車掌が大倉別邸前といったので、長命寺《ちょうめいじ》はとうに過ぎて、むかしならば須崎村《すさきむら》の柳畠《やなぎばたけ》を見おろすあたりである事がわかった。しかし柳畠にはもう別荘らしい門構もなく、また堤には一本の桜もない。両側に立ち続く小家《こいえ》は、堤の上に板橋をかけわたし、日満食堂などと書いた納簾《のれん》を飜しているのもある。人家の灯で案外明いが、人通りはない。
 車は小松嶋《こまつしま》という停留場につく。雨外套の職工が降りて車の中は、いよいよ広くなった。次に停車した地蔵阪《じぞうざか》というのは、むかし百花園や入金《いりきん》へ行く人たちが堤を東側へと降りかける処で、路端《みちばた》に石地蔵が二ツ三ツ立っていたように覚えているが、今見れば、奉納の小さな幟《のぼり》が紅白|幾流《いくなが》れともなく立っている。淫祠《いんし》の興隆は時勢の力もこれを阻止することが出来ないと見える。
 行手《ゆくて》の右側に神社の屋根が樹木の間に見え、左側には真暗な水面を燈火の動き走っているのが見え出したので、車掌の知らせを待たずして、白髯橋《しらひげばし》のたもとに来たことがわかる。橋快《はしだもと》から広い新道路が東南に向って走っているのを見たが、乗合自動車はその方へは曲らず、堤を下りて迂曲する狭い道を取った。狭い道は薄暗く、平家建《ひらやだて》の小家が立並ぶ間を絶えず曲っているが、しかし燈火《とうか》は行くに従つて次第に多く、家もまた二階建となり、表付《おもてつき》だけセメントづくりに見せかけた商店が増え、行手の空にはネオンサインの輝きさえ見えるようになった。
 わたくしはふと大正二、三年のころ、初て木造の白髯橋ができて、橋銭《はしせん》を取っていた時分のことを思返した。隅田川と中川との間にひろがっていた水田《すいでん》隴畝《ろうほ》が、次第に埋められて町になり初めたのも、その頃からであろうか。しかし玉の井という町の名は、まだ耳にしなかった。それは大正八、九年のころ、浅草公園の北側をかぎっていた深い溝が埋められ、道路取ひろげの工事と共に、その辺の艶《なまめか》しい家が取払われた時からであろう。当時凌雲閣の近処には依然としてそういう小家《こいえ》がなお数知れず残っていたが、震災の火に焼かれてその跡を絶つに及び、ここに玉の井の名が俄に言囃《いいはや》されるようになった。
 女車掌が突然、「次は局前、郵便局前。」というのに驚いて、あたりを見ると、右に灰色した大きな建物、左に『大菩薩峠《だいぼさつとうげ》』の幟を飜す活動小屋が立っていて、煌々《こうこう》と灯をかがやかす両側の商店から、ラヂオと蓄音機の歌が聞える。
 商店の中で、シャツ、ヱプロンを吊した雑貨店、煎餅屋《せんべいや》、おもちゃ屋、下駄屋。その中でも殊に灯《あかり》のあかるいせいでもあるか、薬屋の店が幾軒もあるように思われた。
 忽ち電車線路の踏切があって、それを越すと、車掌が、「劇場前」と呼ぶので、わたくしは燈火や彩旗《さいき》の見える片方を見返ると、絵看板の間に向嶋劇場という金文字が輝いていて、これもやはり活動小屋であった。二、三人残っていた乗客はここで皆降りてしまって、その代り、汚い包をかかえた田舎者らしい四十前後の女が二人乗った。
 車はオーライスとよぶ女車掌の声と共に、動き出したかと思う間もなく、また駐って、「玉の井車庫前」と呼びながら、車掌はわたくしに目で知らせてくれた。わたくしは初め行先を聞かれて、賃銭《ちんせん》を払う時、玉の井の一番賑な処でおろしてくれるように、人前を憚《はばか》らず頼んで置いたのである。
 車から降りて、わたくしはあたりを見廻した。道は同じようにうねうねしていて、行先はわからない。やはり食料品、雑貨店などの中で、薬屋が多く、次は下駄屋と水菓子屋が目につく。
 左側に玉の井館という寄席があって、浪花節語《なにわぶしかた》りの名を染めた幟が二、三流立っている。その鄰りに常夜燈と書いた灯《あかり》を両側に立て連ね、斜に路地の奥深く、南無妙法蓮華経の赤い提灯《ちょうちん》をつるした堂と、満願稲荷《まんがんいなり》とかいた祠《ほこら》があって、法華堂の方からカチカチカチと木魚を叩く音が聞える。
 これと向合いになった車庫を見ると、さして広くもない構内のはずれに、燈影《ほかげ》の見えない二階家《にかいや》が立ちつづいていて、その下六尺ばかり、通路になった処に、「ぬけられます。」と横に書いた灯《あかり》が出してある。
 わたくしは人に道をきく煩《わずら》いもなく、構内の水溜りをまたぎまたぎ灯の下をくぐると、家《いえ》と亜鉛《トタン》の羽目《はめ》とに挟《はさ》まれた三尺幅くらいの路地で、右手はすぐ行止りであるが、左手の方に行くこと十歩ならずして、幅一、二|間《けん》もあろうかと思われる溝にかけた橋の上に出た。
 橋向うの左側に「おでんかん酒、あづまや」とした赤行燈《あかあんどう》を出し、葭簀《よしず》で囲いをした居酒屋から、※[#「魚+昜」、U+9C11、254-6]《するめ》を焼く匂いがしている。溝際には塀とも目かくしともつかぬ板と葭簀とが立ててあって、青木や柾木《まさき》のような植木の鉢が数知れず置並べてある。
 ここまでは、一人《ひとり》も人に逢わなかったが、板塀の彼方《かなた》に奉納の幟が立っているのを見て、其方《そちら》へ行きかけると、路地は忽ち四方に分れていて、背広に中折《なかおれ》を冠《かぶ》った男や、金ボタンの制服をきた若い男の姿が、途絶えがちながら、あちこちに動いているのを見た。思ったより混雑していないのは、まだ夜になって間もない故であるのかも知れない。
 足の向く方へ、また十歩ばかりも歩いて、路地の分れる角へ来ると、また「ぬけられます。」という灯《あかり》が見えるが、さて共処《そこ》まで行って、今歩いて来た後方《うしろ》を顧ると、何処《どこ》も彼処《かしこ》も一様の家造《やづく》りと、一様の路地なので、自分の歩いた道は、どの路地であったのか、もう見分けがつかなくなる。おやおやと思って、後へ戻って見ると、同じような溝があって、同じような植木鉢が並べてある。しかしよく見ると、それは決して同じ路地ではない。
 路地の両側に立並んでいる二階建の家は、表付に幾分か相違があるが、これも近寄って番地でも見ないかぎり、全く同じようである。いずれも三尺あるかなしかの開戸《ひらきど》の傍に、一尺四方位の窓が適度の高さにあけてある。適度の高さというのは、路地を歩く男の目と、窓の中の燈火《あかり》に照らされている女の顔との距離をいうのである。窓際に立寄ると、少し腰を屈《かが》めなければ、女の顔は見られないが、歩いていれば、窓の顔は四、五軒一目に見渡される。誰が考えたのか巧みな工風《くふう》である。
 窓の女は人の跫音《あしおと》がすると、姿の見えない中から、チョイトチョイト旦那。チョイトチョイト眼鏡のおじさんとかいって呼ぶのが、チイト、チイートと妙な節《ふし》がついているように聞える。この妙な声は、わたくしが二十歳《はたち》の頃、吉原の羅生門横町、洲崎《すさき》のケコロ、または浅草公園の裏手などで聞き馴れたものと、少しも変りがない。時代は忽然《こつぜん》三、四十年むかしに逆戻りしたような心持をさせたが、そういえば溝の水の流れもせず、泡立ったまま沈滞しているさまも、わたくしには鉄漿溝《おはぐろどぶ》の埋められなかった昔の吉原を思出させる。
 わたくしは我ながら意外なる追憶の情に打たれざるを得ない。両側の窓から呼ぶ声は一歩一歩|急《せわ》しくなって、「旦那、ここまで入らっしゃい。」というもあり、「おぶだけ上《あが》ってよ。」というのもある。中には唯笑顔を見せただけで、呼止めたって上る気のないものは上りゃしないといわぬばかり、おち付いて黙っているのもある。
 女の風俗はカフェーの女給に似た和装と、酒場で見るような洋装とが多く、中には山の手の芸者そっくりの島田も交《まじ》っている。服装のみならず、その容貌もまた東京の町のいずこにも見られるようなもので、即ち、看護婦、派出婦、下婢《かひ》、女給、女車掌、女店員など、地方からこの首都に集って来る若い女の顔である。現代民衆的婦人の顔とでも言うべきものであろう。この顔にはいろいろの種類があるが、その表情の朴訥《ぼくとつ》穏和なことは、殆ど皆一様で、何処《どこ》となくその運命と境遇とに甘んじているようにも見られるところから、一見人をして恐怖を感ぜしめるほど陰険な顔もなければまた神経過敏な顔もない。百貨店で呉服物|見切《みきり》の安売りをする時、品物に注がれるような鋭い目付はここには見られない。また女学校の入学試験に合格しなかった時、娘の顔に現われるような表情もない。
 わたくしはここに一言して置く。わたくしは医者でもなく、教育家でもなく、また現代の文学者を以て自ら任じているものでもない。三田派《みたは》の或評論家が言った如く、その趣味は俗悪、その人品は低劣なる一介《いっかい》の無頼漢《ぶらいかん》に過ぎない。それ故、知識階級の夫人や娘の顔よりも、この窓の女の顔の方が、両者を比較したなら、わたくしにはむしろ厭《いと》うべき感情を起させないという事ができるであろう。
 呼ばれるがまま、わたくしは窓の傍に立ち、勧められるがまま開戸《ひらきど》の中に這入《はい》って見た。
 家一軒について窓は二ツ。出入《でいり》の戸もまた二ツある。女一人について窓と戸が一ツずつあるわけである。窓の戸はその内側が鏡になっていて、羽目《はめ》の高い処に小さな縁起棚《えんぎだな》が設けてある。壁際につッた別の棚には化粧道具や絵葉書、人形などが置かれ、一輪ざしの花瓶《はないけ》には花がさしてある。わたくしは円タクの窓にもしばしば同じような花のさしてあるのを思い合せ、こういう人たちの間には何やら共通な趣味があるような気がした。
 上框《あがりかまち》の板の間に上ると、中仕切《なかしき》りの障子《しょうじ》に、赤い布片《きれ》を紐《ひも》のように細く切り、その先へ重りの鈴をつけた納簾《のれん》のようなものが一面にさげてある。女はスリッパアを揃え直して、わたくしを迎え、納簾の紐を分けて二階へ案内する。わたくしは梯子段《はしごだん》を上りかけた時、そっと奥の間をのぞいて見ると、箪笥《たんす》、茶《ちゃ》ぶ台《だい》、鏡台、長火鉢、三味線掛などの据置かれた様子。さほど貧苦の家とも見えず、またそれほど取散らされてもいない。二階は三畳の間が二間、四畳半が一間、それから八畳か十畳ほどの広い座敷には、寝台《ねだい》、椅子《いす》、卓子《テーブル》を据え、壁には壁紙、窓には窓掛、畳には敷物を敷き、天井の電燈にも装飾を施し、テーブルの上にはマッチ灰皿の外《ほか》に、『スタア』という雑誌のよごれたのが一冊載せてあった。
 女は下から黒塗の蓋《ふた》のついた湯飲茶碗を持って来て、テーブルの上に置いた。わたくしは啣《くわ》えていた巻煙草を灰皿に入れ、
「今日は見物に来たんだからね。お茶代だけでかんべんしてもらうよ。」といって祝儀《しゅうぎ》を出すと、女は、
「こんなに貰わなくッていいよ。お湯《ぶ》だけなら。」
「じゃ、こん度来る時まで預けて置こう。ここの家は何ていうんだ。」
「高山ッていうの。」
「町の名はやっぱり寺嶋町《てらじままち》か。」
「そう。七丁目だよ。一部に二部はみんな七丁目だよ。」
「何だい。一部だの二部だのッていうのは。何かちがう処があるのか。」
「同じさ。だけれどそういうのよ。改正道路の向へ行くと四部も五部もあるよ。」
「六部も七部もあるのか。」
「そんなにはない。」
「昼間は何をしている。」
「四時から店を張るよ。昼間は静だから入らっしゃいよ。」
「休む日はないのか。」
「月に二度公休しるわ。」
「どこへ遊びに行く。浅草だろう。大抵。」
「そう。能《よ》く行くわ。だけれど、大抵近所の活動にするわ。同《おん》なじだもの。」
「お前、家《うち》は北海道じゃないか。」
「あら。どうして知ってなさる。小樽だ。」
「それはわかるよ。もう長くいるのか。」
「ここはこの春から。」
「じゃ、その前はどこにいた。」
「亀戸《かめいど》にいたんだけど、母《かア》さんが病気で、お金が入《い》るからね。こっちへ変った。」
「どの位借りてるんだ。」
「千円で四年だよ。」
「これから四年かい。大変だな。」
「もう一人の人なんか、もっと長くいるよ。」
「そうか。」
 下で呼鈴《よびりん》を鳴す音がしたので、わたくしは椅子を立ち、バスへ乗る近道をききながら下へ降りた。
 外へ出ると、人の往来《ゆきき》は漸く稠《しげ》くなり、チョイトチョイトの呼声も反響するように、路地の四方から聞えて来る。安全通路と高く掲げた灯の下に、人だかりがしているので、喧嘩かと思うと、そうではなかった。ヴィヨロンの音と共に、流行唄《はやりうた》が聞え出す。蜜豆屋《みつまめや》がガラス皿を窓へ運んでいる。茄玉子《ゆでたまご》林檎《りんご》バナナを手車に載せ、後《うしろ》から押してくるものもある。物売や車の通るところは、この別天地では目貫きの大通であるらしい。こういう処には、衝立《ついたて》のような板が立ててあって、さし向いの家の窓と窓とが、互に見えないようにしてある。
 わたくしは路地を右へ曲ったり、左へ折れたり、ひや合《あ》いを抜けたり、軒の下をくぐったり、足の向くまま歩いて行く中《うち》、一度通った処へまた出たものと見えて、「あら、浮気者。」「知ってますよ。さっきの且那。」などと言われた。忽ち真暗な広い道のほとりに出た。もと鉄道線路の敷地であったと見え、枕木《まくらぎ》を掘除《ほりのぞ》いた跡があって、ところどころに水が溜っている。両側とも板塀が立っていて、その後《うしろ》の人家はやはり同じような路地の世界をつくっているものらしい。
 線路|址《あと》の空地《あきち》が真直に闇をなした彼方のはずれには、往復する自動車の灯が見えた。わたくしは先刻《さっき》茶を飲んだ家の女に教えられた改正道路というのを思返して、板塀に沿うて其方《そちら》へ行って見ると、近年東京の町端《まちはず》れのいずこにも開かれている広い一直線の道路が走っていて、その片側に並んだ夜店の納簾と人通りとで、歩道は歩きにくいほど賑かである。沿道の商店からは蓄音機やラヂオの声のみならず、開店広告の笛太皷も聞える。盛に油の臭気を放っている屋台店の後には、円タクが列をなして帰りの客を待っている。
 ふと見れば、乗合自動車が駐《とま》る知らせの柱も立っているので、わたくしは紫色の灯をつけた車の来るのを待って、それに乗ると、来る人はあってもまだ帰る人の少い時間と見えて、人はひとりも乗っていない。何処まで行くのかと車掌にきくと、雷門を過ぎ、谷中《やなか》へまわって上野へ出るのだという。
 道の真中に突然赤い灯が輝き出して、乗合自動車が駐ったので、其方を見ると、二、三輌連続した電車が行手の道を横断して行くのである。踏切を越えて、町が俄《にわか》に暗くなった時、車掌が「曳舟《ひきふね》通り」と声をかけたので、わたくしは土地の名のなつかしさに、窓硝子《まどガラス》に額《ひたい》を押付けて見たが、木も水も何も見えない中に、早くも市営電車向嶋の終点を通り過ぎた。それから先は電車と前後してやがて吾妻橋をわたる。河向《かわむこう》に聳えた松屋の屋根の時計を見ると、丁度九時……。
[#地から2字上げ]昭和十一年四月

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年5月28日作成
2011年4月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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