寄席と芝居と—– 岡本綺堂

     一 高坐の牡丹燈籠

 明治時代の落語家《はなしか》と一と口に云っても、その真打《しんうち》株の中で、いわゆる落とし話を得意とする人と、人情話を得意とする人との二種がある。前者は三遊亭円遊、三遊亭遊三、禽語楼小さんのたぐいで、後者は三遊亭円朝、柳亭燕枝、春錦亭柳桜のたぐいであるが、前者は劇に関係が少ない。ここに語るのは後者の人情話一派である。
 人情話の畑では前記の円朝、燕枝、柳桜が代表的の落語家と認められている。就中《なかんずく》、円朝が近代の名人と称せられているのは周知の事実である。円朝は明治三十三年八月、六十二歳を以て世を去ったのであるから、私は高坐《こうざ》における此の人をよく識っている。例の「牡丹燈籠」や「|累ヶ淵《かさねがふち》」や「塩原多助」も聴いている。私の十七、八歳の頃、即ち明治二十一、二年の頃までは、大抵の寄席の木戸銭(入場料などとは云わない)は三銭か三銭五厘であったが、円朝の出る席は四銭の木戸銭を取る。僅かに五厘の相違であるが、「円朝は偉い、四銭の木戸を取る。」と云われていた。
 さてその芸談であるが、落語家の芸を語るのは、俳優の芸を語るよりも更にむずかしい。俳優の技芸は刹那に消えるものと云いながら、その扮装の写真等によって舞台のおもかげを幾分か彷彿させることも出来るが、落語家に至ってはどうすることも出来ない。したがって、ここで何とも説明することは不可能であるが、早く云えば円朝の話し口は、柔かな、しんみり[#「しんみり」に傍点]とした、いわゆる「締めてかかる」と云うたぐいであった。もし人情話も落語の一種であるというならば、円朝の話し口は少しく勝手違いの感があるべきであるが、自然に聴衆を惹き付けて、常に一時間内外の長丁場をツナギ続けたのは、確かにその話術の妙に因るのであった。
 私は円朝の若い時代を知らないが、江戸時代の彼は道具入りの芝居話を得意とし、赤い襦袢の袖などをひらつかせ[#「ひらつかせ」に傍点]て娘子供の人気を博し、かなりに気障《きざ》な芸人であったらしい。しかも明治以後の彼は芝居話を廃して人情話を専門とし、一般聴衆ばかりでなく、知識階級のあいだにも其の技倆を認めらるるに至ったのである。彼はその当時の寄席芸人に似合わず、文学絵画の素養あり、風采もよろしく、人物も温厚着実であるので、同業者間にも大《おお》師匠として尊敬されていた。
 明治十七、八年の頃とおぼえている。速記術というものが次第に行なわれるようになって、三遊亭円朝口演、若林|坩蔵《かんぞう》速記の「怪談牡丹燈籠」が発行された。後には種々の製本が出来たが、最初に現われたのは半紙十枚ぐらいを一冊の仮綴《かりとじ》にした活版本で、完結までには十冊以上を続刊したのであった。これが講談落語の速記本の嚆矢《こうし》であろうと思われるが、その当時には珍しいので非常に流行した。それが円朝の名声をいよいよ高からしめ、あわせて「牡丹燈籠」を有名ならしめ、さらに速記術というものを世間にひろく紹介することにもなったのである。
 私は「牡丹燈籠」の速記本を近所の人から借りて読んだ。その当時、わたしは十三、四歳であったが、一編の眼目とする牡丹燈籠の怪談の件《くだ》りを読んでも、さのみに怖いとも感じなかった。どうしてこの話がそんなに有名であるのかと、いささか不思議にも思う位であった。それから半年ほどの後、円朝が近所(麹町区山元町)の万長亭という寄席へ出て、かの「牡丹燈籠」を口演するというので、私はその怪談の夜を選んで聴きに行った。作り事のようであるが、恰もその夜は初秋の雨が昼間から降りつづいて、怪談を聴くには全くお誂え向きの宵であった。
「お前、怪談を聴きに行くのかえ。」と、母は嚇《おど》すように云った。
「なに、牡丹燈籠なんか怖くありませんよ。」
 速記の活版本で多寡をくくっていた私は、平気で威張って出て行った。ところが、いけない。円朝がいよいよ高坐にあらわれて、燭台の前でその怪談を話し始めると、私はだんだんに一種の妖気を感じて来た。満場の聴衆はみな息を嚥《の》んで聴きすましている。伴蔵とその女房の対話が進行するにしたがって、私の頸のあたりは何だか冷たくなって来た。周囲に大勢の聴衆がぎっしり[#「ぎっしり」に傍点]と詰めかけているにも拘らず、私はこの話の舞台となっている根津のあたりの暗い小さい古家のなかに坐って、自分ひとりで怪談を聴かされているように思われて、ときどきに左右を見返った。今日《こんにち》と違って、その頃の寄席はランプの灯が暗い。高坐の蝋燭の火も薄暗い。外には雨の音がきこえる。それらのことも怪談気分を作るべく恰好の条件になっていたに相違ないが、いずれにしても私がこの怪談におびやかされたのは事実で、席の刎《は》ねたのは十時頃、雨はまだ降りしきっている。私は暗い夜道を逃げるように帰った。
 この時に、私は円朝の話術の妙と云うことをつくづく覚った。速記本で読まされては、それほどに凄くも怖ろしくも感じられない怪談が、高坐に持ち出されて円朝の口にのぼると、人を悸《おび》えさせるような凄味を帯びて来るのは、実に偉いものだと感服した。時は欧化主義の全盛時代で、いわゆる文明開化の風が盛んに吹きまくっている。学校にかよう生徒などは、もちろん怪談のたぐいを信じないように教育されている。その時代にこの怪談を売り物にして、東京じゅうの人気をほとんど独占していたのは、怖い物見たさ聴きたさが人間の本能であるとは云え、確かに円朝の技倆に因るものであると、今でも私は信じている。
 春陽堂発行の円朝全集のうちに「怪談牡丹燈籠覚書」というものがある。これは円朝自身が初めてこの話を作った時に、心おぼえの為にその筋書を自筆で記《しる》して置いたのであるという。自分の心覚えであるから簡単な筋書に過ぎないが、それを見ても円朝が相当の文才を所有していたことが窺い知られる。円朝は塩原多助を作るときにも、その事蹟を調査するために、上州沼田その他に旅行して、「上野《こうずけ》下野《しもつけ》道の記」と題する紀行文を書いているが、それには狂歌や俳句などをも加えて、なかなか面白く書かれてある。実に立派な紀行文である。
「牡丹燈籠」の原本が「剪燈《せんとう》新話」の牡丹燈記であるとは誰も知っているが、全体から観れば、牡丹燈籠の怪談はその一部分に過ぎないのであって、飯島の家来孝助の復讐と、萩原の下人《げにん》伴蔵の悪事とを組み合わせた物のようにも思われる。飯島家の一条は、江戸の旗本戸田平左衛門の屋敷に起こった事実をそのまま取り入れたもので、それに牡丹燈籠の怪談を結び付けたのである。伴蔵の一条だけが円朝の創意であるらしく思われるが、これにも何か粉本《ふんぽん》があるかも知れない。ともかくも、こうした種々の材料を巧みに組み合わせて、毎晩の聴衆を倦《う》ませないように、一晩ごとに必ず一つの山を作って行くのであるから、一面に於いて彼は立派な創作家であったとも云い得る。
 前にもいう通り、話術の妙をここに説くことは出来ないが、たとえば、かの孝助が主人の妾お国の密夫源次郎を突こうとして、誤って主人飯島平左衛門を傷つけ、それから屋敷をぬけ出して、将来の舅たるべき相川新五兵衛の屋敷へ駈け付けて訴える件《くだ》りなど、その前半は今晩の山であるから面白いに相違ないが、後半の相川屋敷は単に筋を売るに過ぎないで余り面白くもない所である。速記本などで読めば、軽々《けいけい》に看《み》過ごされてしまう所である。ところが、それを高坐で聴かされると、息もつけぬ程に面白い。孝助が誤って主人を突いたという話を聴き、相手の新五兵衛が歯ぎしりして「なぜ源次郎……と声をかけて突かないのだ。」と叱る。文字に書けば唯一句であるが、その一句のうちに、一方には大事|出来《しゅったい》に驚き、一方には孝助の不注意を責め、又一方には孝助を愛しているという、三様の意味がはっきりと現われて、新五兵衛という老武士の風貌を躍如たらしめる所など、その息の巧さ、今も私の耳に残っている。団十郎もうまい、菊五郎も巧い。しかも俳優は其の人らしい扮装《つくり》をして、其の場らしい舞台に立って演じるのであるが、円朝は単に扇一本を以て、その情景をこれほどに活動させるのであるから、実に話術の妙を竭《つく》したものと云ってよい。名人は畏《おそ》るべきである。
 そこで考えられるのは、今日《こんにち》もし円朝のような人物が現存していたならば、寄席はどうなるかと云うことである。一般聴衆は名人円朝のために征服せられて、寄席は依然として旧時の状態を継続しているのであろうか。さすがの円朝も時勢には対抗し得ずして、寄席はやはり漫談や漫才の舞台となるであろうか。私はおそらく後者であろうかと推察する。円朝は円朝の出づべき時に出たのであって、円朝の出づべからざる時に円朝は出ない。たとい円朝が出ても、円朝としての技倆を発揮することを許されないで終わるであろう。
 田村|成義《なりよし》翁の「続々歌舞伎年代記」には、どう云うわけか、明治二十年度に於ける春木座の記事を全部省略してあるが、私の記憶によれば、かの「牡丹燈籠」が初めて劇化されたのは、春木座の明治二十年八月興行であったと思う。春木座は本郷座の前身である。狂言は、「怪談牡丹燈籠」の通しで中幕の「鎌倉三代記」に市川九蔵(後の団蔵)が出勤して佐々木高綱を勤めていたが、他は俗に鳥熊の芝居という大阪俳優の一座で、その役割は萩原新三郎(中村竹三郎)飯島の娘お露(大谷友吉)飯島の下女お米、宮野辺源次郎(中村芝鶴)飯島平左衛門(嵐鱗昇)飯島の妾お国(市川福之丞)飯島の中間孝助、山本志丈(中村駒之助)伴蔵(市川駒三郎)伴蔵女房おみね(中村梅太郎)等であった。さらに註すれば、右の中村芝鶴は後の伝九郎で、現在の芝鶴の父である。市川福之丞は後の門之助で、男女蔵の父である。市川駒三郎は後に団十郎の門に入って、宗三郎と改名した。中村梅太郎は後の富十郎で、現在の市川団右衛門の父である。この通し狂言の脚色者は何人《なんぴと》であるかを知らなかったが、後に聞けばそれは座付の佐橋五湖という上方作者の筆に成ったのであった。
 その当時、私は十六歳、八月は学校の暑中休みであるから、初日を待ちかねて春木座を見物した。一日の午前四時、前夜から買い込んで置いた食パンをかかえて私は麹町の家を出た。

     二 舞台の牡丹燈籠

 その当時、春木座で興行をつづけていた鳥熊の芝居のことは、かつて他にも書いたので、ここでは詳しく説明しないが、なにしろ団十郎も出勤した大劇場が桟敷と高土間と平土間の三分ぐらいを除いては、他はことごとく大入り場として開放したのである。木戸銭は六銭、しかも午前七時までの入場者には半札をくれる。その半札を持参すれば、来月の芝居は半額の三銭で見られる。われわれのような貧乏書生に取っては、まことに有難いわけであった。
 芝居は午前八時から開演するのであるが、そういうわけであるから木戸前は夜の明けないうちから大混雑、観客はぎっしり詰め掛けている。どうしても午前五時頃までに行き着いていなければ、好い場所へは這入られない。私などは大抵四時頃から麹町の家を出るのを例としていた。夏は、好いが、冬は少しく難儀であった。お茶の水の堤に暁の霜白く、どこかで狐が啼いている。今から考えると、まったく嘘のようである。
 しかしこの「牡丹燈籠」の時は、八月初めの暑中であるから、大いに威勢が好い。いわゆる朝涼《あさすず》に乗じて、朴歯《ほおば》の下駄をからから踏み鳴らしながら行った。十六歳の少年、懐中の蟇口には三十銭くらいしか持っていないのであるから、泥坊などは一向に恐れなかったが、暗い途中で犬に取り巻かれるのに困った。今日のように野犬撲殺が励行されていないので、寂しい所には野犬の群れが横行する。春木座へ行く時には、私は必ず竹切れか木の枝を持って出た。武器携帯で芝居見物に出るなどは、おそらく現代人の思い及ばないところであろう。この朝も途中で二、三度、野犬と闘ったことを記憶している。
 余談は措《お》いて、さてその芝居の話であるが、春木座の「牡丹燈籠」は面白かった。ほとんど原作の通りで、序幕には飯島平左衛門が黒川孝助の父を斬る件りを丁寧に見せていた。この発端を見せる方が、一般の観客には狂言の筋がよく判る。燈籠の件りも悪くはなかったが、円朝の高坐で聴いたような凄味は感じられなかった。やはり円朝は巧いと、ここでも更に感心させられた。一座が上方俳優であるから、こうした江戸の世界の世話狂言には、台詞《せりふ》がねばって聴き苦しいのは已むを得ない欠点で、駒三郎と梅太郎の伴蔵夫婦などは最も困った。中幕の「三代記」は駒之助の三浦、梅太郎の時姫、九蔵の佐々木であったが、この中幕よりも通し狂言の「牡丹燈籠」の方が大体に於いて面白かった。
 私は先月の半札を持参したから、木戸銭は三銭。弁当は携帯の食パン二銭、帰途に水道橋ぎわの氷屋で氷水一杯一銭。あわせて六銭の費用で、午前八時から午後五時頃まで一日の芝居を見物したのである。金の値に古今の差はあるが、それにしても廉《やす》いものであったと思う。
 その後、どこかの小芝居で「牡丹燈籠」上演をしたかどうだか知らないが、大劇場で上演したのは春木座の鳥熊芝居から五年の後、すなわち明治二十五年七月の歌舞伎座である。歌舞伎座では其の年の正月興行に、やはり円朝物の「塩原多助一代記」を菊五郎が上演して、非常の大入りを取ったので、その盆興行にかさねて円朝物の「牡丹燈籠」を出すことになったのである。脚色者は福地桜痴居士であったが、居士はこうした世話狂言を得意としないので、さらに三代目河竹新七と竹柴|其水《きすい》とが補筆して一日の通し狂言に作りあげた。初演の年月から云えば、春木座の方が五年の前であるが、それは已《すで》に忘れられて、「牡丹燈籠」の芝居といえば、一般にこの歌舞伎座を初演と認めるようになってしまった。
 歌舞伎座初演の役割は、宮野辺源次郎(市川八百蔵、後の中車)萩原新三郎(尾上菊之助)飯島の娘お露(尾上栄三郎、後の梅幸)飯島平左衛門、山本志丈(尾上松助)飯島の妾お国、伴蔵の女房おみね(坂東秀調)若党孝助、根津の伴蔵、飯島の下女お米(尾上菊五郎)等で、これも殆んど原作の通りに脚色されていたが、孝助の役が原作では中間《ちゅうげん》になっているのを、中間では余りに安っぽいと云うので若党に改めた。若党までも使う屋敷で、用人その他の見えないのは如何《いかん》という批評もあったが、これは原作にも無理があるのだから致し方がない。単に旗本というばかりで身分を明かさず、大身《たいしん》かと思えば小身のようでもあり、話の都合で曖昧《あいまい》に拵えてある。桜痴居士らも無論にそれを承知していた筈であるが、これも芝居として先ず都合の好いように拵えて置いたのであろう。
 舞台の成績が春木座の比でないことは云うまでもない。配役も適材適所である。八百蔵はむしろ平左衛門に廻るべきであったが、配役の都合で源次郎に廻ったので、旗本の次男の道楽者という柄には嵌《はま》らなかったが、同優はそのころ売り出し盛りであったので、さのみの不評をも蒙らずに終わった。松助の平左衛門もどうかと危ぶまれたのであるが、これは案外に人品もよろしく、旗本の殿様らしく見えたという好評であった。
 この時、わたしの感心したのは、菊五郎の伴蔵が秀調の女房にむかって、牡丹燈籠の幽霊の話をする件りが、円朝の高坐とは又違った味で一種の凄気を感じさせた事であった。高坐の芸、舞台の芸、それぞれに違った味を持っていながら、その妙所に到ればおのずから共通の点がある。名人同士はこういうものかと、私は今更のように発明した。秀調は先代で、女形としては容貌《きりょう》も悪く、調子も悪かったが、こういう役は不思議に巧かった。
 春木座の時にもこの狂言にちなんだ牡丹燈籠をかけたが、それは劇場の近傍と木戸前だけにとどまっていた。歌舞伎座の時には其の時代にめずらしい大宣伝を試みて、劇場附近は勿論、東京市中の各氷屋に燈籠をかけさせた。牡丹の造花を添えた鼠色の大きい盆燈籠で、その垂れに歌舞伎座、牡丹燈籠などと記《しる》してあった。盆興行であるので、十五と十六の両日は藪入りの観客に牡丹燈籠を画いた団扇を配った。同月二十三日の川開きには、牡丹燈籠二千個を大川に流した。こうした宣伝が効を奏して、この興行は大好評の大入りを占め、芝居を観ると観ざるとを問わず、東京市中に牡丹燈籠の名が喧伝された。今日ではどんなに大入りの芝居があっても、これ程の大評判にはなり得ない。
 その原因をかんがえるに、第一は社会がその当時よりも多忙で複雑になった為であろう。第二は東京が広くなった為であろう。第三は各劇場の興行回数が多くなった為であろう。この「牡丹燈籠」を上演した明治二十五年の歌舞伎座は、一月、三月、五月、七月、九月、十月の六回興行に過ぎなかった。今日では一年十二回の興行である。たとえば黙阿弥作の「十六夜清心《いざよいせいしん》」や「弁天小僧」のたぐい、江戸時代には唯一回しか上演されないにも拘らず、明治以後に至るまでその名は世間に知られていた。今日では、去年の狂言も今年は大抵忘れられてしまうのである。毎月休みなしの興行にあわただしく追い立てられて、観客の鑑賞力も記憶力も麻痺してしまうのであろう。
 劇場側ばかりでなく、世態もまた著しく変わった。明治時代、前記の「牡丹燈籠」上演の頃までは、市中の氷屋、湯屋、理髪店などのように諸人の集まる場所では、芝居の噂がよく出たものである。その噂をする客が多いために、湯屋の亭主や理髪店の親方も商売の都合上、新聞の演芸記事や世間の評判に注意していて、客を相手に芝居話などを流行らせたものである。したがって「湯屋髪結床の噂」なるものが、芝居の興行成績にも直接間接の影響をも及ぼしたのであるが、現今は殆んどそんなことは無い。湯屋や理髪店で野球や映画や相撲の噂をする客はあっても、芝居の噂をする客は極めて少ない。その相手になる亭主や親方も、自分が特に芝居好きでない限りは、芝居の話などをする者はない。
 紐育《ニューヨーク》や倫敦《ロンドン》で理髪店へゆくと、こっちが日本人で世間話の種が無いせいでもあろうが、芝居を観たかと必ず訊かれる。外国では「湯屋髪結床の噂」がやはり流行するらしい。巴里《パリ》にはバジン・テアトル(芝居風呂)などと洒落た名前を付けた湯屋もある。

     三 円朝の旅日記

 次は「塩原多助一代記」である。これも円朝の作として有名なものであるが、この作の由来について円朝自身が語るところに拠ると、彼が最初の考案は多助の立志譚を作るのではなくして、やはり「牡丹燈籠」式の怪談を作る積りであったと云う。怪談が変じて立志譚となったのは面白い。その経路は、こうである。
 円朝は生涯に百怪談を作る計画があって、頻りに怪談の材料を蒐集していると、その親友の画家柴田|是真《ぜしん》翁から本所|相生町《あいおいちょう》二丁目の炭屋の怪談を聞かされた。それは二代目塩原多助の家にまつわる怪談で、二代目と三代目の主人が狂死を遂げ、さしもの大家《たいけ》もついに退転するという一件であった。
 成程それは面白そうであるから、それを材料にして一編の怪談を組み立てようと云うことになったが、その当時、円朝はそれに就いて何の予備知識もなかった。塩原多助という人の名さえも知らなかった。そこで、まず相生町二丁目へ行って、土地の故老に塩原家のことを尋ねたが、何分にも年代を経ているので、一向にわからない。ようようのことで、塩原家の墓が浅草高原町の東陽寺にあることを探り出して、更にその寺へ尋ねてゆくと、墓は果たしてそこにあったが、寺でもやはり詳しいことは判らなかった。しかし住職と話している間に、円朝の眼についたのは、日本橋長谷川町の待合「梅の屋」の団扇《うちわ》が出ていることであった、そこで、梅の屋は檀家であるかと訊《き》くと、檀家というわけではないが、塩原家の墓については当寺に附け届けをする者は梅の屋だけであると、住職は答えた。梅の屋は円朝も識っているので、さらに梅の屋へ行って聞き合わせると、その老|女将《おかみ》は塩原家の縁者であったが、これも遠い昔の事はよく知らないと云う。しかも女将の口から、初代の多助は上州沼田在から江戸へ出て来た者であると云うことを聞き出したので、その翌日すぐに上州沼田へ向かった。明治九年八月二十九日である。
 それから先きの紀行は「上野下野道の記」に詳しく書いてある。円朝は千住から竹の塚、越ヶ谷を経て、第一日の夜は大沢町の玉屋という宿屋に泊まった。この方面には汽車の開通しない時代であるから、道中は捗取《はかど》らない。その夜の宿は土地で有名の旧家であるが、紀行には「蚤と蚊にせめられて思ふやうに眠られず。」とある。翌三十日は粕壁、松戸を経て、幸手《さって》の駅《しゅく》に入り、釜林という宿屋に泊まる。まことに気の長い道中である。
 この旅行に、円朝は弟子を伴わず、伝吉という車夫一人を供に連れて行ったので、道中はかなりに退屈したらしい。おまけに、今夜の宿もよろしくなかったらしく、紀行には「其夜は雨ふりて寝心も好からんと思ひのほかにて、蚤多く眠りかね、五時に起き出で、支度なしたり。」とある。行く先きざきで蚤や蚊に責められていたのは気の毒である。円朝は決して下等な宿屋に泊まったのではないが、毎晩この始末。むかしの旅の不自由が思いやられる。
 三十一日は利根《とね》の渡《わたし》を越えて、中田の駅を過ぎる。紀行には「左右貸座敷軒をならべ、剥げちょろ白粉の丸ポチャちら/\見ゆる。」とあって、ここで「あだし野や馬に食はるゝ女郎花《おみなえし》」という俳句を作っている。一々紹介することは出来ないが、この紀行の詳細を極めているのは実に驚くべき程で、途中の神社仏閣、地理風俗、旅館、建場《たてば》茶屋、飲食店、諸種の見聞、諸物価など、ことごとく明細に記入してある。後日の参考に書き留めて置いたのであろうが、円朝ほどの落語家となれば、一編の人情話を創作するにも、これだけの準備をしている。彼が一代の名人と呼ばれたのも決して偶然でない。
 その晩は真間田の駅で旧本陣の青木方に泊まる。紀行に「この宿は蚊帳も夜具も清らかにて、快く臥しぬ。」とあるから、円朝も今夜は助かったらしい。読んでいても、やれやれと安心する。九月一日、半田川を渡って飯塚の駅へ休み、それから小金井の駅へ出ようとする時、路に迷って難儀する。さんざん行き悩んだ末に二十町ほどの山を越えて、午後二時頃にようよう小金井の駅に辿り着いたが、眼がまわるほど空腹になったという。ここで飯を食って出ると、途中で夕立、雷鳴、その夜は石橋駅の旧本陣伊沢方に泊まり、町へ出て盆踊りを見物する。紀行に「昨年まで娼妓も踊に出でたるに、税金一夜に付き一人金二両二分を差出せとの布告ありしより、今年は懲り/″\して出る者無し。」とある。
 二日は雀の宮を過ぎて宇都宮に着く。東京から五日間を費したわけである。ここでは午前十一時頃に手塚屋に泊まる。豊竹和国太夫がここに興行中であると聞いて、その宿屋をたずねると、和国太夫も悦んで迎えて、思いがけなき面会なりと、たがいに涙をながした。紀行には「実に朋友の信義は言の葉に述べ難きものなり。」とて、その当時の光景を叙してある。円朝が多感の人であったことは、これで察せられる。
 あくる三日は宇都宮を立って、日光街道にかかる。上戸祭村で小休みをすると、「わが作話の牡丹燈籠の仇討に用ひた十郎ヶ峰はここから西北に見える。」とあるから、牡丹燈籠はこの以前の作であることが判る。今市駅の櫛田屋に休むと、同業三升屋勝次郎の忰に出逢った。これは和国太夫と違って、長の旅中困難の体《てい》に見受けたので、幾らか恵んで別れて出ると、途中で大雨、大雷、ずぶ濡れになって日光の野口屋に着いた。四日は好天気で、日光見物である。これは例の筆法で詳細に記入、ほとんど一種の日光案内記の体裁をなしている。その夜は野口屋に戻って一泊。五日は登山して、湯元温泉の吉見屋に泊まる。日光の奥で夜は寒く、「行燈にわびし夜寒の蠅ひとつ」の句がある。
 六日の朝はいよいよ沼田へ下《くだ》ることになって、山越えの案内者をたのむと、宿の主人が大音で「磯之丞、磯之丞」と呼ぶ。紀行には「山道の案内者は強壮の人こそよけれ、磯之丞とは媚《なま》めきたる弱々しき人ならんと心配してゐる折からに、表の方より入り来る男は、年ごろ四十一二歳にて、背は五尺四五寸、頬ひげ黒く延び、筋骨太く、見上ぐるほどの大男、身には木綿縞の袷に、小倉の幅せまき帯をむすび、腰に狐の皮の袋(中に鉄砲の小道具入り)をさげ、客の荷物を負ふ連尺《れんじゃく》を細帯にて手軽に付け、鉈作りの刀をさし、手造りのわらじを端折り高くあらはしたる毛脛の甲まで巻き付けたる有様は、磯之丞とは思はれぬ人物なり。」とある。磯之丞という名を聞いて不安心に思っていると、熊のような大男が現われたので、大いに安心したというのも面白い。殊にその磯之丞の人品や服装について、精細の描写をしているのを見ても、円朝の観察眼に敬服せざるを得ない。この磯之丞はよほど円朝の気に入ったと見えて、塩原多助の話の中にもそのまま取り入れてある。
 この山越しは頗る難儀であったばかりでなく、かの磯之丞の話によると、熊が出る、猪が出る。殊にうわばみが出るというので、供の伝吉はおどろき恐れて中途から引き返そうと云い出したが、円朝は勇気を励まして進んだ。紀行には「何業も命がけなりと胸を据ゑ」とある。わが職業については一身を賭《と》する覚悟である。この紀行の一編、読めば読むほど敬服させられる点が多い。
 小川村という所まで行き着かず、途中の温泉宿に泊まる。ここにも山の湯の宿屋の光景について精細の描写がある。温泉は河原の野天風呂で、蛇が這い込んで温まっているのを発見して、驚いて飛びあがる。その夜は相宿の人々と炉を囲んで、見るもの聞くもの一々日記帳に書き留めるので、警察の探索方と誤られて、非常に丁寧に取り扱われたなどという※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話がある。
 七日の朝は磯之丞に別れて、村を過ぎ、山を越え、九里の道を徒歩して、目的地の沼田の町に行き着いた。宿は大竹屋。早速に主人を呼んで、塩原多助の本家はどこにあるかと尋ねると、原町という所に塩原という油屋があるから、ともかくも明日呼び寄せますと云う。明くる八日の朝、宿の女房が原町の塩原金右衛門という人を案内して来た。年の頃は六十二、三で、人品賤しからず、ひどく丁寧に挨拶されて円朝も困った。紀行には「わたくしは東京長谷川町梅の屋の親類の者なり。少しお尋ね申したき事ありと、先づ日記の手帳を膝元に置き、初代多助の出生の跡は依然として在りやなど、さま/″\深く問ひけるに、その老人いぶかしく思ひしか、恐る/\申すやうは、先代塩原の家は当所より北の方(三里余)へ隔たりし下新田村と申すなりと、こま/″\と物語り、わたくしは初代の甥にあたる金右衛門と申す者の家にて、下新田を出でて当今は当駅の原町にて油屋を業としてゐると聞き、あら/\事情も解りしが、云々《うんぬん》。」とある。
 それから出発して、その夜は前橋駅の白井屋に一泊。九日には同駅の紺屋町に料理屋を営んでいる妹お藤をたずね、兄妹《きょうだい》久々の対面があって、ここでも円朝は泣かされている。その夜はここに一泊して、十日の早朝から帰途に就く。例の筆法で帰途の日記も詳しく書いてあるが、その日は太田の駅に着いて、呑竜《どんりゅう》上人の新田寺に参詣、はせを屋に一泊。十一日は足利に着いて、原田与左衛門方に一泊。十二日は猿田|川岸《がし》から舟に乗って栗橋に着き、さらに堺川岸から舟を乗り換えて、その夜は舟泊まりとなる。蚊の多いのに困ったとある。十三日は流山、野田を過ぎて、東京深川の扇橋に着く。八月二十九日から十六日間の旅行である。
 梅の屋の女将の話を聞いて、翌日すぐに出発は頗る性急のようでもあるが、その当時の習いとして、八月中は劇場、寄席、その他の興行物がすべて夏休みである。九月もまだ残暑が強いので、円朝などのような好い芸人は上半月を休むのが普通であった。その休業の時間を利用して、この旅行を企てたものと察せられる。この地方にはすべて汽車がないので、人力車又は舟の便を仮るのほかなく、大抵は徒歩であったから、旅馴れない円朝は定めて疲れたことであったろう。
 こういうわけで、最初は塩原家二代目三代目の怪談を作る予定が中途から変更して、初代の立志譚となったのである。その変更の理由は別に説明されていないが、おそらく梅の屋の女将の談話から何かのヒントを得た上に、更に沼田へ行って塩原家の遺族から昔話を聞かされ、却って初代の伝記に興味を感じるようになったのであろう。初代の塩原多助が江戸へ出て、粉炭《こなずみ》を七文か九文の計り売りして、それで大きい身代《しんだい》を作りあげたのは事実で、現にその墓は浅草高原町の東陽寺内に存在したのであるが、詳細の伝記は判然《はっきり》していないらしく、かの「塩原多助一代記」は殆んど円朝の創作で、大体は大岡政談の「越後善吉」を粉本にしたものであると云う。私も大方そうであろうと察している。
 果たして然らば、かの有名な「馬の別れ」のくだりなどは、なかなかよく出来ていると思う。勿論、これにも黙阿弥作の「斎藤内蔵之助の馬の別れ」という粉本が無いでもないが、多助の方が情味に富んで、聴衆を泣かせるように出来ている。わたしは運わるく、円朝の高坐で「馬の別れ」を聴かなかった。私の聴いたのは、お角婆の庵室へ原丹次とおかめの夫婦が泊まり合わせる件りであった。
 それについて思われるのは、円朝は人物の名を付けることが巧いことである。又旅のお角などは先ず普通であるが、その子が胡麻の灰で道連れ小平、その同類が継立《つぎたて》の仁助などは、いずれも好く出来ている。落語でも芝居でも、人名などは一種の符牒に過ぎないように思われるが、決してそうで無い。道連れの小平などという名を聞けば、いかにもそれが道中の胡麻の灰で、忌な眼を光らせて往来の旅人を窺っているらしく連想される。こういう点にも、円朝は相当の苦心を払っていたらしい。
 たとい越後善吉があるにしても、斎藤内蔵之助があるにしても、それだけの粉本では十五席の長い人情話は出来あがらない。一席ごとに皆それぞれの山を作って、昨晩の聴衆を今晩へ、今晩の聴衆を明晩へと引き摺って行かなければならない。その点は新聞の続き物と同様であるが、新聞は忌《いや》でも応でも毎日配達されて毎日読まされる。寄席の聴衆は自宅から毎晩わざわざ通って来るのであるから、よほど面白くないと毎晩つづけて来ることは無い。そこに多大の苦心が潜んでいるわけである。円朝をして今の世に在らしめば、その創意、その文才、いわゆる大衆作家としても相当の地位を占め得たと思う。
 この旅行は、彼が三十八歳の秋であった。

     四 塩原多助その他

 円朝の「塩原多助」を初めて舞台に上《の》せたのも、かの「牡丹燈籠」と同様、やはり春木座であった。その狂言名題は「塩原多助経済鑑」というのであったが、私はその芝居を観なかったので詳しいことを知らない。いずれにしても「牡丹燈籠」と「塩原多助」を上演したのは春木座が初めで、歌舞伎座は後である。
 歌舞伎座で初めて「塩原多助」を上演したのは、明治二十五年の一月興行で、名題は原作通りの「塩原多助一代記」、その主なる役割は原丹次、塩原角左衛門(八百蔵、後の中車)角左衛門の妻おせい、塩原の後家おかめ(秀調)原丹三郎(菊之助)娘お栄(栄三郎)又旅お角、明樽買久八(松助)塩原多助、道連小平(菊五郎)であった。円朝の原作では多助と小平が顔を合わせる件りがしばしばあるが、菊五郎がその二役を兼ねる都合から、舞台の上では両者の出会う場面を作ることが出来ず、小平の活動する件りは殆んど省略された。それが少しく遺憾であったが、役々いずれも好評、取り分けて例の「馬の別れ」が大好評で、この以来、塩原多助といえば直ぐに「馬の別れ」を思い出すほどに有名なものになってしまった。
 その時に、いわゆる劇通連のあいだには、菊五郎の芝居よりも円朝の話の方がやはり面白いという評があった。高坐の上では、あらゆる人物をことごとく円朝が話すのであるが、舞台の上では、あらゆる人物を菊五郎が勤めるわけには行かない。大抵は菊五郎以下の俳優が勤めるのであるから、興味はそれだけ減殺される結果に陥るというのである。しかも一般の観客はそんなことに無頓着で、この興行は大入り大当たりであった。原作者の円朝も頗る得意で、その一門の三遊派落語家数十名を率いて見物した。
 ついでに記《しる》すが、この時の中幕は「箱根山曾我初夢」で、工藤祐経が箱根権現に参詣し、その別当所で五郎の箱王丸に出会い、例の対面になるという筋であったが、その道具が居所替《いどころがわ》りで信州軽井沢の八幡屋という女郎屋になり、屏風のなかに一番目の道連れ小平が寝ている。祐経と小平は菊五郎の早替りである。そこへ栄三郎の女郎おあさが出て来ると、小平はそれを相手にして曾我に因《ちな》んだ口上茶番のようなことを云う。勿論、「塩原多助」の本筋には何の関係もないのであるが、こういう一種の趣向がその当時の観客に喜ばれた。この狂言も中幕も三代目河竹新七の作である。三代目の新七は二代目(黙阿弥)に及ばなかったが、さすがはその高弟だけに、師匠の作風をよく学んでいた。
「塩原多助」が大当たりを取ったので、その盆狂言には「牡丹燈籠」を上演することになったのである。それも好評であったことは前に云った。座方も俳優もそれに味を占めて、翌二十六年一月の歌舞伎座では「安政三組盃」を上演した。これは松林《しょうりん》伯円の講談に拠ったもので、人情話の好評から更に講談物の脚色に及んだのである。今日、映画の劇化が行なわれるように、その頃は寄席の読み物の劇化が行なわれる時代であった。
 この講談は町奉行所の与力《よりき》鈴木藤吉郎を主人公として、それに上野の寺侍杉田|大内蔵《おおくら》と柳橋の芸妓小染を配したもので、「三組盃」の題名はこの三人を意味するのであった。菊五郎は藤吉郎と馬丁幸吉の二タ役をつとめ、家橘(羽左衛門の父)が大内蔵、福助(歌右衛門)が小染を勤め、これも役々の評判がよかった。取り分けて菊五郎は主人公の藤吉郎よりも、二タ役の馬丁幸吉の方が好評で、五幕目小村井梅屋敷の場で主人の跡部甲斐守(松助)に嚇されたり賺《すか》されたりして、藤吉郎の秘密を口外する件りは、松助の跡部と共に大当たりであった。但しこの狂言も春木座が先きで、歌舞伎座はあとである。
「三組盃」の作者はやはり三代目新七であったが、大切《おおぎり》の浄瑠璃に「奴凧」が上演された。この浄瑠璃が黙阿弥の絶筆である。菊五郎が奴凧を勤めるに就いて、座方では去年の「牡丹燈籠」以上の宣伝法を案出し、一月六、七日の両日、浅草の凌雲閣、新橋の江木の塔、芝愛宕山の愛宕館の三カ所から歌舞伎座の印を捺した奴凧数百枚を放ち、それを拾って来たものには無料《ただ》で見物をさせることにした。
「塩原多助」が当たり、次いで「牡丹燈籠」が当たり、更に「三組盃」が当たったので、盆と正月には寄席の読み物に限るという風になって、その七月の歌舞伎座では、又もや円朝の安中草三《あんなかそうざ》を上演することになった。作者は三代目新七、名題は「榛名梅香団扇画《はるなのうめかおるうちわえ》」といい、主なる役割は恒川半三郎(左団次)妙義四郎蔵(松助)安中草三、溝呂木の幸吉(菊五郎)人来鳥のお歌(栄三郎)で、この興行には団十郎も出勤し、中幕の上「繿縷錦《つつれのにしき》」大晏寺堤は団十郎の春藤次郎右衛門、左団次の嘉村宇田右衛門、菊五郎の高市武右衛門、中幕の下「水滸伝|雪挑《ゆきのだんまり》」は団十郎の九紋竜史進、左団次の花和尚魯智深という役割。殊に大晏寺堤は団菊左の顔合わせで、開幕前の噂はなかなか高かったが、さて初日を出してみると客足が思わしからず、通し狂言の「安中草三」も在来の円朝物ほどに面白くないと云う不評で、この興行はさんざんの失敗に終わった。それに懲りたとみえて、歌舞伎座もその翌二十七年の一月興行には寄席の読み物は出さなかった。
 しかも菊五郎と円朝物とは離れぬ因縁が結ばれたらしく、二十八年一月の新富座では又もや円朝の「粟田口」を上演した。名題は「粟田口|鑑定折紙《めききのおりかみ》」主なる役割は小森新之丞、下男与助(菊五郎)大野惣兵衛(市蔵)荷足の仙太(猿之助)稲垣小左衛門、矢切村のおしの(松助)稲垣小三郎(菊之助)小三郎の妻おみよ(栄三郎)等で、矢切村の丈助殺しが見せ場であった。稲垣の下男丈助が悪人に語らわれて主人を破滅に陥れ、素知らぬ顔で矢切村の実家へ立ち寄ると、母のおしのは已《すで》にその秘密を知っていて、わが子にだまされたような顔をしながら、不意に短刀を丈助の脇腹に突き立てる。丈助は手負いになってから本心に戻り、悪事を懺悔して落ち入るという筋で、円朝の原作が已に「千本桜」の権太を粉本にしたものであるが、菊五郎がそれに扮していよいよ権太化してしまった。それでも松助のおしのと相俟って、息もつけないような面白い芝居を見せていた。この時は中幕に「鎌倉三代記」が出て、菊五郎の三浦、福助の時姫、芝翫の佐々木という顔揃いで、それも一つの呼び物となった為か、興行成績は頗る好かった。
 そこで、新富座ではその年の十月興行に又もや円朝物の「名人長次」を出すことになった。いつの代でもそうであるが、一つ当たるととかくに追い掛けたがるのが芝居道の癖である。円朝の続き話には外国の翻案物が数種あるが、これもモウパッサンの「親殺し」の翻案で、円朝の作としては余り面白いものではなく、円朝物もだんだん猟《あさ》り尽くされた形であった。狂言の名題は「指物師名人長次」、主なる役割は坂倉屋助七、長次の弟子兼松(松助)坂倉屋の娘おしま(福助)亀甲屋幸兵衛(市蔵)幸兵衛の女房おりう(秀調)指物師長次(菊五郎)等で、差したる見せ場もない芝居だけに問題にもならなかった。
 三十年十一月には、菊五郎が市村座で「塩原多助」を再演している。今日と違って、五、六年間に同じ狂言を繰り返すのは、よくよくの当たり狂言でなければならない。菊五郎の塩原多助が如何に人気を呼んでいたかが想像される。但し二度目であるために、通し狂言とはしないで一番目に据え、菊五郎は多助の一役だけを勤めて、道連れ小平の件りは省《はぶ》いていた。
 円朝物が行なわれるに従って、各所の小劇場でもそれを上演するものが少なくなかった。三十年九月には中洲《なかず》の真砂座で「乳房榎」を上演し、翌三十一年二月には同座で「真景累ヶ淵」を上演した。いずれも座付作者の新作で、作者は竹柴万治であったように記憶している。前者は一種の怪談物で、柳川重信(菊五郎)重信の妻おきは(秀調)磯貝浪江(八百蔵)下男庄助(松助)で上演の噂もあったが、若手の役が無いのと、大体の筋がさびしいのとで、上演の機会を失っていたものである。後者は近年、六代目菊五郎によって上演され、梅幸の豊志賀、菊五郎の新吉、いずれも好評を取った。
 三十二年十二月の歌舞伎座で「鏡ヶ池|操《みさおの》松影」を上演した。これも円朝物の江島屋騒動である。主なる役割は江島屋治右衛門(蟹十郎)同治兵衛(家橘)番頭金兵衛(松助)後家おとせ(八百蔵)治兵衛女房お菊(福助)嫁お里(栄三郎)等で、江島屋を呪っている後家おとせの家へ番頭金兵衛が来合わせる件りが、一日じゅうの見せ場となっていたが、他はいたずらに筋を運ぶのみで劇的の場面が少なく、時は歳末といい、俳優も中流であったので、かたがた不評の不入りに終わった。
 その翌年、三十三年八月に円朝は世を去ったのである。その年の十一月、春木座で円朝物の「敵討札所の霊験」を上演した。主なる役割は水司又市(市蔵)白鳥山平(稲丸)おやま(莚女)おつぎ(九女八)等で、これも差したる問題にならなかった。このほかにも、円朝物で脚光を浴びたものには「舞扇恨の刃」「業平文治漂流奇談」「緑林門松竹《みどりのはやしかどのまつたけ》」等々、更に数種にのぼるのであるが、小さい芝居は一々ここに挙げない。
 かくの如くに、円朝物の劇化がしばしば行なわれたにも拘らず、その歿後には一向に舞台にのぼらなくなった。それを話す人がこの世にいなくなっては、興行価値が乏しい為であろうか。その人去った後は、その続き話も自然に忘れられた為であろうか。実際、円朝の話も大かた忘れられて、その代表的作物として「塩原多助」「牡丹燈籠」「真景累ヶ淵」等が舞台の上にも繰り返され、一般の人にも記憶されているに過ぎない。

     五 団十郎の円朝物

 以上列挙したところに拠ると、大劇場で円朝物を上演したのは、ほとんど五代目菊五郎の一手専売というべきである。それは人情話の性質上、すべてが世話狂言式の物であるから、団十郎や左団次の出し物には適しない。もう一つには、菊五郎と違って団十郎らは、人情話の脚色物などを喜ばなかった為でもある。
 しかし団十郎らも全く円朝物に手を着けないわけでもなかった。左団次は前にも云った通り、菊五郎の安中草三に附き合って、恒川半三郎の役を勤めている。猶その以前、即ちかの「塩原多助」「牡丹燈籠」などが菊五郎によって上演されない頃、明治十九年新富座一月興行に於いて団十郎と左団次は已《すで》に円朝物を上演しているのである。それは「西洋話日本写絵」という六幕十五場の長編で黙阿弥が七十二歳の作である。勿論、黙阿弥一人の筆に成ったのではなく、門下の新七や其水も手伝ったのであろうが、七十二歳にしてこの作あり、その後にも「加賀鳶」「渡辺崋山」「花井お梅」その他の長編を続々発表しているのを見ても、黙阿弥の老健が思いやられる。外国の例はしばらく措き、日本でも近松といい、南北といい、黙阿弥といい、いずれも筆を執っては老健無比、まことに畏るべきである。
 この「西洋話」は円朝の「英国孝子伝」を脚色したもので、原作はやはり若林坩蔵の速記本として、かの「牡丹燈籠」などと同様、日本紙綴じの分冊として発行されたのである。したがって番附のカタリの中にも「若林坩蔵子が速記法にて綴りし絵本を、初席の種に仕組みし新狂言」と記してある。この時代には「速記法」などという名称が耳新しく感じられたのであった。英国の小説を福地桜痴居士が円朝に口授し、それに拠って円朝が翻案したもので、外国種だけに明治時代の話になっている。その主人公の孝子ジョン・スミスを清水重次郎という名で市川小団次が勤めた。小団次は晩年あまり振わなかったが、その当時は新富座の花形であった。
 他の役割は春見丈助(団十郎)井生森又作、家根屋清次(左団次)丈助の娘おいさ(源之助)重次郎の姉おまき(秀調)で、団十郎の丈助は川越藩の家老である。維新後に上京して宿屋を開業したが、士族の商法で思わしくない。そこへ旧藩地の百姓助右衛門が何かの仕入れに三千円を携えて上京し、旧藩の関係で丈助の宿屋に滞在すると、丈助は助右衛門をぶち殺して三千円を奪い、その死体の始末を友人井生森又作に頼む。団十郎が勤める役だけに、同じ貧乏士族でも筆売り幸兵衛などのようにじめじめしているのではない。積極的に相手をどしどしぶち殺して、その当時では大金というべき三千円を着服して涼しい顔をしている。
 その友人の又作なる者も同じく貧乏士族であるが、これも金になるなら何でも引き受けると云って、助右衛門の死体を行李詰めにして人力車に積み込み、上州沼田在の川に捨てる。その車を挽いて行った車夫が怪しんで強請《ゆす》りかけると、又作はおどろかず、車の蹴込みの板を取って車夫をぶち殺して立ち去る。揃いも揃ってきびきびしているのはさすがに団十郎と左団次の芝居で、センチメンタリズムなどは微塵もなく、いずれも徹底したものである。又作はそれを種にして、丈助の家へたびたび無心に来るので、丈助は面倒になって、これをも殺してしまうのである。
 こんな話ばかりでは人情話どころか、不人情話と云うべきであるが、さきに殺された助右衛門の娘おまきと忰重次郎、この姉弟《きょうだい》が父のかたきを尋ねる苦心談があり、結局は丈助が前非を悔いて切腹し、めでたしめでたしに終わることになっている。新富座でどうしてこんな物を上演することになったのか、私はその事情を知らないが、円朝物の速記本が流行するので、その脚色を思い付いたのであろう。さりとて「牡丹燈籠」「塩原多助」のたぐいはこの一座に不向きであるので、団十郎や左団次に出来そうな物という注文から、この「西洋話」が選抜されたものらしい。
 前年以来、新富座はとかくに不入り続きであったので、団十郎は一番目に石川五右衛門、中幕に「八陣」の加藤、二番目が「西洋話」の丈助を勤め、大切《おおぎり》浄瑠璃に「かっぽれ」を踊るという大勉強に、まず相当の成績を収めたが、二番目の円朝物は好評でなかった。それでも十年後の明治二十九年十一月、明治座で再演された。役割は井生森又作、家根屋清次(左団次)春見丈助(権十郎)娘おいさ(莚女)清水重次郎(米蔵)姉おまき(秀調)で、左団次と秀調が初演以来の持ち役であるために、この狂言が選抜されたらしいが、その後どこの大劇場でも重ねて上演しないので、円朝物の中でも忘れられた物の一つとなった。
 私は余りに多く円朝を語り過ぎた観があるが、なんと云っても円朝が明治時代における落語界の大立者《おおだてもの》で、劇方面にも最も関係が多いのであるから已むを得ない。これから転じて他の落語講談の舞台との関係を説くのであるが、これは非常に範囲が広い。江戸時代には小説作者と狂言作者とのあいだに一種の不文律があって、非常に大当たりを取った小説は格別、普通は小説を劇化しない事になっていた。互いに相侵さざるの意であったらしい。しかも天保以後にはその慣例がだんだんに頽れて来た。それと同時に、講談や人情話を脚色することも流行して来た。黙阿弥が二代目新七の頃、仮名垣魯文と共に葺屋町《ふきやちょう》の寄席へ行ったことがある。そのとき高坐に上がって玉屋栄次(二代目狂訓亭と自称していた)が聴衆に向かってこんな事を云った。
「わたくし共の話をお聴きになるのは、お笑いの為ばかりでなく、いろいろとお為になることがございます。現に今晩も狂言作者で名高い河竹其水《かわたけきすい》(黙阿弥の俳名)さん、戯作で売り出しの鈍亭魯文先生なぞがお見えになって居ります。この先生方もわたくし共の話を聴いて、御商売の種になさいますので……。」
 彼は黙阿弥と魯文の坐っている方を見ながら云ったので、他の聴衆も一度に二人を見返ると、魯文はにやにや笑っていた。黙阿弥はむっとして起《た》って帰った。ここにも魯文と黙阿弥の性格がよく現われているように思われる。高坐の上でそういう形式の自己宣伝を試みるのは穏当でないが、栄次も無根のことを口走ったのでは無い。実際その当時の戯作者や狂言作者が寄席の高坐から種々の材料を摂取していたのは、争いがたき事実であった。唯その人情話や講談のたぐいを小説化し又は戯曲化する場合に、どれだけ自己の創意を加えるかは、その作家の技倆如何に因るのであった。黙阿弥などの作には自己の創意が多量に加わっているのが多い。そんなわけであるから、江戸末期から明治の初年にわたる各種の世話狂言について、一々その出所を寄席の高坐に求めることになると、おそらく其の多きに堪えないであろう。

     六 柳桜と燕枝

 黙阿弥の作でしばしば上演を繰り返される世話狂言の一つに「髪結新三」がある。五代目菊五郎が初演以来の当たり狂言で、六代目も幾たびか舞台の上に復活している。書きおろしは明治六年、中村座の六月興行で、名題は「梅雨小袖昔八丈」という。原作は四幕十一場であるが、大詰の町奉行所などは初演だけにとどまって、再び舞台にのぼらない。
 誰も知るごとく、この劇の見せ場は二幕目の深川富吉町新三宅の場で、菊五郎の新三と中村仲蔵の家主長兵衛が大好評を博したのである。作としても黙阿弥の作中で屈指の傑作と称せられている。しかもこれは黙阿弥の創作ではなく、やはり寄席の高坐から移植されたもので、春錦亭柳桜《しゅんきんていりゅうおう》の人情話である。
 柳桜は名前を柳叟と云ったように記憶している。江戸末期から明治の中期にわたる人情話の真打株で、円朝ほどに華やかな人気はなかったが、江戸以来の人情話の本道を伝えているような、手堅い話し口であった。したがって、一部の人からは旧《ふる》いとも云われたが、その「四谷怪談」の如き、円朝とは又別種の凄味を帯びていた。かの「髪結新三」も柳桜が得意の読み物であった。私は麹町の万長亭で、柳桜の「髪結新三」を聴いたことがあるが、例の鰹の片身を分けるという件りは、芝居とちっとも違わなかった。して見ると、この件りは黙阿弥の創意をまじえず、ほとんど柳桜の口演をそのままに筆記したものらしい。ひとり円朝ばかりでなく、昔の落語家で真打株となるほどの人は、皆このくらいの才能を所有していたのであろう。
 私は明治五年に生まれたのであるから、もとより「髪結新三」の初演を知らない。五代目菊五郎の新三を初めて観たのは明治二十六年五月の歌舞伎座である。書きおろしの仲蔵は長兵衛と弥太五郎源七の二タ役を勤めたのであるが、この時は初代左団次が源七を勤め、松助が長兵衛を勤めていた。左団次の源七は不評であったが、松助の家主は仲蔵以来の出来と称せられて、やはり富吉町の新三宅が呼び物となっていた。しかも私は世評の高い割合に、この場を面白いとは感じなかった。先入主《せんにゅうしゅ》の関係があるのかも知れないが、私には高坐で聴いた柳桜の話の方が面白いように思われてならなかった。新三と家主との鰹の対話の呼吸《いき》などは、柳桜の方が確かに巧かった。こう云うと、私は黙阿弥の作にケチを付け、あわせて菊五郎と松助の技芸にケチを付けるように思われるかも知れないが、ともかくも春錦亭柳桜という落語家がなければ、この当たり狂言は生まれ出なかったであろうと云うことだけをはっきりと云って置きたい。落語家の柳桜は薄暗いランプの寄席で一生を終わって、今はその名を記憶する者も少ない。黙阿弥や、菊五郎や、松助や、いずれも名人の誉れを後世に残している。それに対して一種の感慨がないでも無い。
 大岡政談の中で最も有名なのは「天一坊」であろう。これも黙阿弥作の「扇音々《おうぎびょうし》大岡政談」によって今もしばしば上演を繰り返されているが、その原作は神田|伯山《はくさん》の講談である。伯山はこの講談の創作に苦心し、殊に紀州調べに遣わしたる家来らが容易に帰らず、百日の期日が尽きんとして越前守が切腹を覚悟するところへ、白石治右衛門、吉田三五郎の二人が馳せ着ける一節は、大いに肺肝を砕いたと伝えられる。舞台で観てもここが一日の見せ場である。
 私は高坐で伯山の「天一坊」を聴いたことが無いので、高坐と舞台との間にどれだけの相違があるかを知らないが、物が物だけに、これは「髪結新三」などの世話物とは違って、原作以上に劇化されているものと察せられる。
 この狂言を初演の当時、越前守を勤める坂東彦三郎と作者黙阿弥とのあいだに衝突があり、黙阿弥は脚本を取り返して立ち帰ろうとするのを、座主《ざぬし》の守田勘弥らが仲裁して無事に納まったという。彦三郎が座頭《ざがしら》の位地と人気を恃《たの》んで、脚本|改竄《かいざん》の我儘を主張したが為である。彦三郎といえども黙阿弥には敵し得ない。結局屈伏して原作の通りに上演することになったが、この狂言は非常の好評であったと云えば、彦三郎もいよいよ屈伏したであろう。黙阿弥も定めて痛快を感じたであろう。この初演は明治八年一月の新富座で、主なる役割は大岡越前守(坂東彦三郎)天一坊、白石治右衛門(尾上菊五郎)山内伊賀之助、吉田三五郎(市川左団次)等であった。
 明治以後の黙阿弥作として最もよく知られているものに「河内山」がある。明治十四年三月の新富座初演で、名題は「天衣紛《くもにまがう》上野初花」と云うことになっているが、黙阿弥は明治七年十月の河原崎座で「雲上野|三衣策前《さんえのさくまえ》」の名題のもとに同じ題材を取り扱っている。要するに「上野初花」は「雲上野」の改作である。これも原作は松林伯円の講談であるが、舞台と高坐とは大いに相違し、単に原作の人名と略筋を借りただけで、ほとんど黙阿弥の創作と云って好いほどに劇化されている。今日しばしば繰り返される大口の寮の場の如きは、たとい寺西閑心や鳥目の一角の焼き直しであろうとも、講談以外の創作であることを認めなければならない。この作がこれほど有名になったのは、新富座の初演当時、河内山宗俊(団十郎)片岡直次郎(菊五郎)金子市之丞(左団次)大口屋の三千歳(岩井半四郎)という顔ぞろいで、いずれも好評を博したと云うことも確かに一つの原因であって、もし第二流の俳優によって上演せられ、その当時さしたる評判もなくて終わったらば、おそらく舞台の上に長い生命を持続し得なかったであろう。
 黙阿弥の作としては余りに高く評価すべき種類のもので無い。
 落語界に於いて三遊亭円朝に対峙したのは柳亭燕枝《りゅうていえんし》である。円朝一派を三遊《さんゆう》派といい、燕枝一派を柳《やなぎ》派と称し、明治の落語界は殆んどこの二派によって占領されているような観があった。殊に燕枝は非常な好劇家で、常に団十郎の家にも出入りし、団十郎の俳名団洲に模して、みずから談洲楼と号していた。円朝は温順な人物であったが、燕枝は江戸っ子肌の暴っぽい人物で、高坐における話し口にもよくその性質をあらわしていた。好劇の結果、彼は落語家《はなしか》芝居をはじめ、各劇場で幾たびか公演して人気を取ったこともある。
 燕枝も円朝と同様、文字の素養があって俳句などをも善くした。したがって、自作の続き話も多かったが、速記本などには余り多く現われていないようである。彼が得意とする人情話には、悪侍や無頼漢が活動する世界が多く、何となく円朝は上品、燕枝は下品であるかのように認められたのは、彼として一割方の損であったかも知れない。燕枝は明治三十三年二月十一日、六十八歳を以て世を去った。彼は円朝よりも五歳の兄で、円朝と同年に死んだのである。三遊派も柳派も同時にその頭領をうしなって、わが落語界も漸く不振に向かうこととなった。
 燕枝の人情話の中で、彼が最も得意とするのは「嶋千鳥沖津白浪」であった。大坂屋花鳥に佐原の喜三郎を配したもので、吉原の放火や、伝馬町の女牢や、嶋破りや、人殺しや、その人物も趣向も彼に適当したものである。これは明治二十二年六月、大坂屋花鳥(坂東家橘)梅津長門(市川猿之助)佐原の喜三郎(中村駒之助)等の役割で、通し狂言として春木座に上演された。

 以上のほかにも、講談又は人情話の劇化されたものはたくさんある。ここでは最も有名な物のみを紹介したに過ぎない。劇場で講談又は人情話を上演するのは、あながちに題材に窮した為ではなく、寄席の高坐で売り込んだものを利用するという一種の興行策である。講談師や落語家も自分の読み物を上演されることを喜んだ。これも一種の宣伝になるからである。要するに、寄席と芝居と、たがいに持ちつ持たれつの関係で、高坐の話が舞台に移植されたのである。それも前に云う通り、円朝、燕枝らの死後は殆んど絶えた。
 今日では寄席の高坐が映画館のスクリーンに変わって、映画のストーリーが舞台にしばしば移植されるようになった。これも時代の変化である。唯それを劇化する人々が如何なる態度を以てそれに臨むか。映画をそのままに伝えるか、あるいは自己の創意を加えるか。それに因って劇作家の価値もおのずから定まるであろう。[#地から2字上げ](昭和一〇・舞台)

     附・明治時代の寄席

 私は先き頃ある雑誌に円朝や燕枝のむかし話をかいた。それは特にめずらしい材料でもなかったが、それでも今の若い人たちには珍しかったと見えて、私を相当の寄席通と心得たらしく、明治時代の寄席についてしばしば問い合わせを受けることがある。そこで老人、好い気になって、もう少し寄席のおしゃべりをする。今度は円朝や燕枝の個人に就いて語るのでなく、明治時代の寄席はどんな物であったかと云うことを一般的に説明するのである。
 明治といっても初期と末期との間には、著しい世態人情の相違がある。それを一と口に云い尽くすことは出来ないので、まず明治二十年前後から四十年頃までを中心として、その大略を語ることにしたい。
 今日《こんにち》と違って、娯楽機関の少ない江戸以来の東京人は、芝居と寄席を普通の保養場所と心得ていた。殊に交通機関は発達せず、電車もバスも円タクも無く、わずかに下町の大通りに鉄道馬車が開通しているに過ぎない時代にあっては、日が暮れてから滅多に銀座や浅草まで出かけるわけには行かない。まずは近所の夜見世か縁日ぐらいを散歩するにとどまっていた。その人々に取っては、寄席が唯一の保養場所であった。
 自宅に居ても退屈、さりとて近所の家々を毎晩訪問するのも気の毒、殊に雨でも降る晩には夜見世のそぞろ歩きも出来ない。こんな晩には寄席へでも行くのほかは無い。寄席は劇場と違って、市内各区に幾軒も散在していて、めいめいの自宅から余り遠くないから、往復も便利である。木戸銭も廉い。それで一夜を楽しんで来られるのであるから、みんな寄席へ出かけて行く。今日の寄席がとかくに不振の状態にあるのは、その内容いかんよりも、映画その他の娯楽機関が増加したのと、交通機関が発達した為であると思う。実際、明治時代の一夜を楽しむには、近所の寄席へでも行くのほかは無かったのである。
 それであるから、近所の寄席へ行くと、かならず近所の知人に出逢うのであった。私は麹町区元園町(此頃は麹町二丁目に編入されてしまった)に生長したが、近所の寄席は元園町の青柳亭、麹町二丁目の万よし、山元町の万長亭で、これらの寄席へ行った時に、顔を見識っている人に逢わなかった例は一度もなかった。かならず二、三人の知人に出逢う。殊に正月などは、十人|乃至《ないし》二十人の知人に逢うことは珍しくなかった。私が子供の時には、その大勢の人達から菓子や煎餅や蜜柑などを貰うので、両方の袂が重くなって困ったことがあった。
 そんなわけで、その頃の寄席は繁昌したのである。時に多少の盛衰はあったが、私の聞いているところでは、明治時代の寄席は各区内に四、五軒乃至六、七軒、大小あわせて百軒を越えていたという。その中でも本郷の若竹亭、日本橋の宮松亭を第一と称し、他にも大きい寄席が五、六十軒あった。江戸以来、最も旧い歴史を有しているのは、私の近所の万長亭であると伝えられていた。私は子供の時からしばしばこの万長亭へ聴きに行ったので、江戸時代の寄席はこんなものであったかと云う昔のおもかげを想像することが出来たのである。
 寄席の種類は色物席と講談席の二種に分かれていた。色物とは落語、人情話、手品、仮声《こわいろ》、物真似、写し絵、音曲のたぐいをあわせたもので、それを普通に「寄席」というのである。一方の講談席は文字通りの講談専門で、江戸時代から明治の初期までは講釈場と呼ばれていたのである。寄席は原則として夜席、すなわち午後六時頃から開演するのを例としていたが、下町には正午から開演するものもあった。これを昼席と称して、昼夜二回興行である。但し昼夜の出演者は同一でないのが普通であった。講談席は大抵二回興行と決まっていた。
 寄席の木戸銭は普通三銭五厘、廉いのは三銭乃至二銭五厘、円朝の出演する席だけが四銭の木戸銭を取ると云われていたが、日清戦争頃から次第に騰貴して、一般に四銭となり、五銭となり、以後十年間に八銭又は十銭までに騰《あが》った。ほかに座蒲団の代が五厘、烟草盆が五厘、これもだんだんに騰貴して、一銭となり、二銭となったので、日露戦争頃に於ける一夕の寄席の入費は木戸銭と蒲団と烟草盆あわせて、一人十四、五銭となった。中入りには番茶と菓子と鮨を売りに来る。茶は土瓶一個が一銭、菓子は駄菓子や塩煎餅のたぐいで一個五厘、鮨は細長い箱に入れて六個三銭であったが、鮨を売ることは早く廃《すた》れた。
 東京電燈会社の創立は明治二十年であるが、その電燈が一般に普及されるようになったのは十数年の後であって、大抵の寄席は客席に大ランプを吊り、高坐には二個の燭台を置いていた。したがって、高坐に出ている芸人は途中で蝋燭の芯《しん》を切らなければならない。落語家などが自分の話をつづけながら蝋燭の芯を切るのは頗るむずかしく、それが満足に出来るようになれば一人前の芸人であると云われていた。今から思えば、場内は薄暗かったに相違ないが、その時代の夜は世間一般が暗いので、別に暗いとも感じなかったのである。しかも円朝が得意の「牡丹燈籠」にも「真景累ヶ淵」にも、この薄暗いと云うことが余ほどの便利をあたえていたらしい。円朝の話術がいかに巧妙でも、今日のように電燈煌々の場内では、あれだけに幽暗の気分を漂わすことが出来なかったかも知れないと察せられる。
 暗い話のついでに云うが、その頃の夜は甚だ暗いので、寄席へゆくには提灯を持参する人が多かった。女はみな提灯を持って行った。往く時はともかくも、帰り路が暗いからである。寄席の下足場にはめいめいの下駄の上に提灯が懸けてあった。そこで、閉場《はね》になると、場内の客が一度にどやどやと出て来る。それに対して、提灯の火を一々に点《つ》けて渡すのであるから、下足番は非常に忙がしい。雨天の節には傘もある。傘と提灯と下駄と、この三つを一度に渡すのであるから、寄席の下足番はよほど馴れていなければ勤められない事になっていた。その混雑を恐れて、自宅から提灯を持って迎いに来るのもあった。それも明治二十二、三年頃からだんだんに廃れて、日清戦争以後には提灯をさげて寄席へゆく人の姿を見ないようになった。それでも明治四十一年の秋、私が新宿の停車場附近を通ると、これから寄席へゆくと話しながら通る二人づれの女、その一人は普通の提灯を持ち、ひとりは大きい河豚《ふぐ》提灯を持っているのを見た。その頃の新宿の夜はまだ暗かったのである。今日の新宿に比べると、実に今昔の感に堪えない。
 今日の若い人達も薄々その噂を聞いているであろうが、その当時における女義太夫の人気は恰も今日の映画女優やレビュー・ガールに比すべきものであった。江戸時代の女義太夫は頗る卑しめられたものであったが、東京の寄席でおいおい売り出すようになったのは明治十八、九年頃からのことで、竹本京枝などがその先駆であったと思われる。やがて竹本綾之助が現われ、住之助が出で、高坐の上は紅紫爛※[#「火+曼」、第4水準2-80-1]、大阪|上《のぼ》りとか阿波上りとかいろいろの名をつけて、四方からおびただしい女義太夫が東京に集まって来たのである。その全盛時代は明治二十二、三年頃から四十年前後に至る約二十年間で、東京の寄席の三分の一以上は、女義太夫一座によって占領さるる有様であった。かれらのうちには勿論老巧の上手もあったが、その大部分は若い女で、高島田に紅い花かんざしを売り物にしていたのであるから、一般に女義太夫と云わずして娘義太夫と称していた。芸の巧拙は二の次ぎとして、所詮は「娘」であるから人気を博したのである。
 今日の映画女優やレビュー・ガールの支持者に対しては、ファンという外来語をあたえられているが、その当時の娘義太夫支持者に対しては、ドウスル連という名称があたえられていた。字を宛てれば、堂摺連と書くのである。その名称の由来は、義太夫のサワリの糸に連れて、ドウスルドウスルと奇声を発して拍手喝采するからである。まじめな聴衆の妨害になること勿論であるが、何分にも多数が騒ぎ立てるのであるから、彼等の跋扈《ばっこ》に任せるのほかは無かった。堂摺連には学生が多かったから、今日は社会的に相当の地位を占めている実業家や政治家や学者のうちにも、かつてドウスルに憂き身をやつした経歴の所有者を少なからず見いだすであろう。
 娘義太夫全盛の証拠には、その当時の諸新聞は、二、三の大新聞を除いて大抵は「今晩の語り物」という一欄を設けて、各寄席毎晩の浄瑠璃外題と太夫の名を掲載していたのであった。日露戦争前後から堂摺連も次第におとろえ、娘義太夫もまた衰えた。
 日清戦争以後からは浪花節が流行して来た。その以前の浪花節は専ら場末の寄席に逼塞《ひっそく》して、聴衆も下層の人々が多かったのであるが、次第に勢力を増して来て、市内で相当の地位を占めている席亭も「御座敷浄瑠璃、浪花節」のビラを懸けるようになった。聴衆もまた高まって、相当の商人も行き、髭の生えた旦那も行き、黒縮緬の羽織を着た奥さんも行くようになった。そのほかに、明治三十年以後には源氏節、大阪仁和賀、改良剣舞のたぐいまでが東京の寄席にあらわれて、在来の色物はだんだんに圧迫されて来た。今日落語界の不振を説く人があるが、右の事情で東京の落語界はその当時から已に凋落の経路を辿りつつあったのである。[#地から2字上げ](昭和一一・一・日本及日本人)

底本:「綺堂芝居ばなし」旺文社文庫、旺文社
   1979(昭和54)年1月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2004年5月18日作成
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