佐々木味津三

右門捕物帖 のろいのわら人形 佐々木味津三

     

 ――その第二十四番てがらです。
 時は八月初旬。むろん旧暦ですから今の九月ですが、宵々《よいよい》ごとにそろそろと虫が鳴きだして、一年十二カ月を通じ、この月ぐらい人の世が心細く、天地|蕭条《しょうじょう》として死にたくなる月というものはない。
 だからというわけでもあるまいが、どうも少し伝六の様子がおかしいのです。朝といえばまずなにをおいても駆けつけて、名人の身のまわりの世話はいうまでもないこと、ふきそうじから食事万端、なにくれとなくやるのがしきたりであるのに、待てど暮らせどいっこうに姿を見せないので、いぶかりながらひとり住まいのそのお組小屋へいってみると、ぶらり――とくくっていたら大騒ぎですが、どう見てもそのかっこうは、これからくくろうとする人そっくりなのでした。それも、玄関前の軒下の梁《はり》のところへ、だらりと兵児帯《へこおび》をつりさげて、その下にぼんやりと腕組みしながら、しきりと首をひねっているのです。
「バカだな――」
「…………」
「なんて気のきかねえまねしてるんだ」
「…………」
「ね、おい大将。何しているんだよ」
 だが、返事がない。振り向きもせずに、だらりとつりさがっている兵児帯を見てはひねり、ひねっては見ながめている様子が、さながら死のうか死ぬまいかと思案でもしているかっこうそっくりでしたので、名人も少しぎょッとなりながら呼びかけました。
「知らねえ人が見りゃびっくりするじゃねえか。死にたくなるがらでもあるめえに、寝ぼけているんだったら目をさましなよ――」
 どんと背中をたたかれたのに、どうも様子が変なのです。のっそりとうしろを振り向きながら、上から下へ名人の姿をじろじろと見ながめていましたが、とつぜん、やぶからぼうに、ねっちりと妙なことをいいだしました。
「つかぬことをお尋ねするんだがね――」
「なんだよ。不意に改まって、何がどうしたんだ」
「いいえね、この梁《はり》からだらりとさがっている帯ですがね、だんなにはこれがなんと見えますかね」
「なんと見ようもねえじゃねえか。ただの帯だよ。二分も持っていきゃ十本も買える安物じゃねえか」
「でしょう。だから、あっしゃどうにもがてんがいかねえんですがね。だんなはいったいこの帯が人を殺すと思いますかね」
「変なことをいうやつだな。殺したらどうしたというんだ」
「いいえね。殺すかどうかといって、おききしているんですよ。どうですかね、殺しますかね。このとおりもめんの帯なんだ。刃物でもドスでもねえただのこのもめんのきれが、人を殺しますかね」
「つがもねえ。もめんのきれだって、なわっきれだって、りっぱに人を殺すよ。疑うなら、おめえその帯でためしにぶらりとやってみねえな。けっこう楽々とあの世へ行けるぜ」
「ちぇッ、そんなことをきいてるんじゃねえんですよ。首っくくりのしかたぐれえなら、あっしだっても知ってるんだ。だらりとね、もめんのきれがさがっている下に、人間の野郎が死んでいるんですよ。大の男がね、それもれっきとしたお侍なんだ。その二本ざしが、のど笛に風穴をあけられて、首のところを血まみれにしながら冷たくなっているんですよ。だからね、あっしゃどうにもその死に方が気に入らねえんだ。どうですかね、そんなバカなことってえものがありますかね」
「あるかねえか、やぶからぼうに、そんな妙なことをきいたってわからねえじゃねえか。どこでいったい、そんなものを見てきたんだ」
「どこもここもねえんですよ。きょうは八月の八日なんだ。一月は一日、二月は二日、三月は三日と、だんなもご存じのように月の並びの日ゃこの三年来、欠かさず観音様へ朝参りに行きますんでね。けさも夜中起きして白々ごろに雷門の前まで行くてえと、いきなりいうんです。もしえ、だんな、ちょいといい男ってね。こう陰にこもってやさしくいうんですよ」
「なんだよ。今のその変な声色は、なんのまねかい」
「女のこじきなんですがね。ええ、そうなんですよ。年のころはまず二十七、八。それがいうんですがね。ちょいといい男ってね。こうやさしくいうんですよ。だから、ついその――」
「バカだな。そのこじきがどうしたというんだ」
「いいえね、こじきはべつにどうもしねえんだ。とかく話は細かくねえと情が移らねえんでね、念のためにと思って申しあげているんだが、こじきのくせに、かわいい声を出していうんですよ。ちょいと、いい男、おにいさん。もしえ、だんな、情けは人のためではござんせぬ。七つの年に親に別れ、十の年に目がつぶれ、このとおり難渋している者でござんす。お手の内をいただかしておくんなんし、とこんなに哀れっぽく持ちかけるんでね。十の年に目のつぶれた者があっしの男ぶりまでわかるたア感心なものだと思って、三百文ばかり恵んでやったんですよ。するてえと、だんな、いいこころ持ちで観音様へお参りしながらけえってくるとね――」
「そこで見たのか」
「いいえ、そう先回りしちゃいけませんよ。話はこれからまだずっとなげえんだから、まあ黙ってお聞きくだせえまし。するとね、ぽっかり今日さまが雲を破ったんだ。朝日がね。まったく、だんなを前にして講釈するようですが、こじきに善根を施して、観音さまへお参りをすまして、いいことずくめのそのけえり道にお会い申す日の出の景色ぐれえいい心持ちのするものは、またとねえんですよ。だから、すっかりあっしも朗らかになってね、あそこへ回ったんですよ。あそこの妙見さまへね。だんなは物知りだからご存じでしょうが、下谷の練塀《ねりべい》小路の三本|榎《えのき》の下に、榎妙見というのがありますね。よく世間のやつらが、あそこは丑《うし》の刻《とき》参りをするところだとかなんだとか気味のわるいことをいっておりますが、どうしたことか、その妙見さまがまたたいそうもなくひとり者をごひいきにしてくださるとかいう評判だからね。事のついでにと思ってお参りに行くてえと、ぶらり――下がっているんですよ」
「なんだよ。何がぶらりとさがっているんだ」
「ほら、なんとかいいましたっけね。鈴でなし、鉦《かね》でなし、よくほうぼうのほこらやお堂の軒先につりさがっているじゃござんせんか。青や赤やのいろいろ取り交ぜた布切れがたらりとさがっておって、それをひっぱるとガチャガチャボンボンと変な音を出すものがありまさね」
「わにぐちか」
「そうそう、わにぐちですよ。そのわにぐちの布がぶらりとさがっているまっ下にね、死んでいるんだ、死んでいるんだ、さっき申した二本ざしのりっぱなお侍がね、ぐさッとのど笛をえぐられて、長くなっていたんですよ。だから、こいつあたいへん、何をおいてもまずだんなにお知らせしなくちゃと思ってね、さっそく大急ぎにいましがた駕籠《かご》でけえったんですが、それにしても死に方が気に入らねえんだ。いかに妙見さまは弁天さまのごきょうだいにしたって、ただの布切れが人ののど笛を食い破るなんてことは、どう考えたってもがてんがいかねえんだからね。いってえ、そんなバカなことがあるもんだろうか、ねえもんだろうかと思って、じつはそのなんですよ。帯とわにぐちとではちっと趣が違いますが、でも同じもめんの布だからね、これで死ねるだろうかどうだろうかと、こうしてここへだらりとつりさげて、いっしょうけんめいと考えていたんですよ」
「バカだな」
「え……?」
「あきれてものがいえねえといってるんだよ。にわか坊主の禅修行じゃあるめえし、帯とにらめっこをしてなんの足しになるけえ。それならそうと早くいやいいんだ。どうやら、また手数のかかるあな(事件)のようじゃねえか。役にもたたねえ首なんぞをひねっている暇があったら、とっとと朝のしたくをやんな。まごまごしてりゃ、ご番所から迎いが来るぜ」
 いっているとき――。
「だんな、だんな! 右門のだんな!」
 向こうかどをこちらへ大声で呼びながら、そのことばを裏書きでもするように必死と駆けてきたのは、ひと目にそれとわかるご番所からの使いです。しかも、駆け近づくと同時に手渡したのは、ご奉行《ぶぎょう》直筆の次のごとき一書でした。
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「ただいまつじ番所より急達これあり、奇怪なる事件突発いたしそうろう。
練塀《ねりべい》小路|榎《えのき》妙見境内にて一人。
柳原《やなぎわら》髭《ひげ》すり閻魔《えんま》境内にて一人。
右二カ所に、いずれも禄《ろく》持ち藩士とおぼしき人体の者ども、無残なる横死を遂げおる由内訴これありそうろう条、そうそうにお手配しかるべく。右取り急ぎ伝達いたしそうろう」
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「ちぇッ、おどろいたね――」
 伸びあがってじろりとうしろからそのお差し紙をのぞき見しながら、たちまち首をあげたのはわが親愛なる伝六でした。
「なんてまたはええだろうな。こんなに早くご番所へご注進が飛んでいったところをみるてえと、こりゃどうも大騒動ですぜ。それに、見りゃ妙見堂とお閻魔さまとふたところじゃござんせんか。まさかに、あっしのお目にかかった練塀小路の死骸《しがい》が、ひとりでに柳原まで浮かれだしていったんじゃありますまいね。え? ちょいと、だんな。――おやッ、かなわねえな。ね、ちょいと、[#「ね、ちょいと、」は底本では「ねちょいと、」]だんな。急にまたどうしたんですかい。ね、だんな! 何が気に入らねえんです。え? ちょいと、だんな! 何をおこったんですかい」
 めんくらったのも無理はない。いいこころ持ちに音をあげながらひょいと見ると、すぐにも外出のしたくを始めるだろうと思われた名人が、どうしたことか、お組屋敷へ帰るやいなや、急にむっつりと黙り込んで、ゆうゆうと庭先へ降りながら、そこに並べてあったおもとのはちを、あちらへひねり、こちらへひねり、しきりとのんきそうにいじくりだしたからです。いや、そればかりではない。にわかに三、四十、年が寄りでもしたような納まり方で、紅筆と番茶の冷やしじるを持ち出すと、おもとの葉の裏と表を丹念に一枚一枚洗いだしたので、さっとたちまち伝六空がかき曇ったかと見えるやいなや、ものすさまじい朝雷がガラガラジャンジャンと鳴りだしました。
「なんです! なんです! 何がいったい気に入らねえんですかよ! だから、あっしゃいつでもむだな心配しなくちゃならねえんだ。だんなが急げといったからこそ、あわてけえっておまんまのしたくもしたじゃござんせんか。しかるになんぞや、おもとなんぞにうつつをぬかして、何がいってえおもしれえんです。ね、ちょいと、え? だんな!」
「…………」
「耳はねえんですかい。ね、ちょいと。え? だんな! だてや酔狂でがみがみいうんじゃねえんですよ。お奉行さまがおっしゃるんだ、お奉行さまがね。そうそうにお手配しかるべしと、お番所じゃいちばんえれえお奉行さまがおっしゃるんですよ、にわか隠居が日干しに会ったんじゃあるめえし、おもとなんぞとにらめっこをしていたら、何がおもしれえんですかよ。ね、ちょいと。え? だんな! 聞こえねえんですかい」
 鳴れどたたけど返事はないのです。黙々として丹念に一枚一枚葉を洗ってしまってから、ゆうゆうと食事をしたため、ゆうゆうと蝋色鞘《ろいろざや》を腰にすると、不意にずばりとあいきょう者をおどろかせていいました。
「もう大将飛び出していった時分だ。ちょっくらいって、あば敬の様子を見てきなよ」
「え……?」
「あばたの敬公の様子を見てこいといってるんだよ」
「ちぇッ。ようやく人並みに口をきくようになったかと思うと、もうそれだからな。ほんとうに、どこまで人に苦労させるんでしょうね。お差し紙の来たのはだんななんだ。あば敬のところじゃねえ、だんなのところへ来たんですよ。疱瘡神《ほうそうがみ》の露払いじゃあるめえし、用もねえのに、わざわざとあばたのところへなんぞ行くがものはねえじゃござんせんか」
「しようがねえな。だから、おれもおめえの顔を見るとものをいいたくなくなるんだ。わからなきゃ、このお差し紙をもう一度よくみろい。名あてがねえんだ。どこにも名あてがねえじゃねえか。おれひとりへのおいいつけなら、ちゃんとお名ざししてあるべきはずなのに、どこを見ても右門の右の字も見当たらねえのは、お奉行さまがこの騒動を大あな(事件)とおにらみなすって、いくらか人がましいあば敬とおれとのふたりに手配りさせようと、同じものを二通お書きなすった証拠だよ。現の証拠にゃ、さっきの小者があば敬の組屋敷のほうへ飛んでいったじゃねえか。ただの一度むだをいったことのねえおれなんだ。見てくりゃわかるんだから、はええところいってきなよ」
「なんでえ、そうでしたかい。それならそうと早くいやいいのに、道理でね、さっきの使いめ、いま一本お差し紙をわしづかみにしていましたよ。ちくしょうめッ、にわかとあごに油が乗ってきやがった。あば敬の親方とさや当てするたア、まったく久しぶりだね。そうと事が決まりゃ気合いが違うんだ、気合いがな。ほんとうに、どうするか覚えてろッ。――おやッ。いけねえ。いけねえ」
 急に日本晴れとなりながら、ばたばたと駆けだしていったかと見えたが、まもなく抜き足さし足でもどってくると、事重大とばかりに目を丸めながら、声を落としてささやきました。
「ね、いるんですよ。大将がうちの表にまごまごしておりますぜ」
「敬公か」
「ええ。ねこのように足音殺しながらやって来やがってね。表からそうっと、うちの様子をうかがっているんですよ。ね、ほら、あれがそうですよ。あのかきねのそばにいるのがそうですよ」
 からだを泳がしてのぞいてみると、なるほど、それこそはまさしく同僚あばたの敬四郎とその配下ふたりです。まことに久方ぶりの対面というのほかはない。だが、いつまでたってもこの心がけよろしからざる同僚は、依然としてその了見が直らないと見えて、ぴったりかきねのそばへ身を寄せながらしきりとこちらの様子をうかがっていたので、それと知るや、名人はさっそうとして立ち上がりざま、吐き出すようにいいました。
「うすみっともねえったらありゃしねえや。伝六あにいのおしゃべりと、あば敬だんなのあの根性は、刀|鍛冶《かじ》にでもかけてたたき直さなきゃ直らねえとみえるよ。けんかになっちゃなるめえと思ったからこそ、わざわざおもといじりまでもやって、あとからゆっくり行こうと遠慮していたのに、すき見するとはなんのざまでえ。ひとからかい、からかってやるから、ついてきな」
 微笑しながら出ていくと、いたって静かにいったものです。
「これはこれは、おそろいでござりまするな。たいそうご熱心におのぞきのようでござりまするが、うちの庭に温泉でも吹き出しましたかな」
 めんくらったのはあば敬とその一党でした。不意をうたれてまごまごしているのをしり目にかけながら、ゆるやかにあごをなでると、なんと思ったか聞こえよがしに伝六へ命じました。
「練塀小路から先にしようぜ。大急ぎにな、二丁だぜ」
 ひらり乗るといっさん走り。――あとにつづいてあば敬とその一党も、逃がしてならじというように、三丁の駕籠をつらねながら、えいほうと韋駄天《いだてん》に追いかけました。

     

 かくして、追いつ追われつしながら行くこと十町。
 このまましつこく尾行されたら、少しく事がめんどうになりそうに思われましたが、こういう場合になると、伝六太鼓もなかなかにいい音を出すから不思議です。
「ちくしょうめッ。あば敬なんぞに追い抜けられてなるもんけえ。そう! そう! もっと大またに! 大またに! どうせおめえらは裸虫だ。かまわねえから、へそまで出して走っていきな。酒手もやるよ。たんまりとな。おれのふところが痛むわけじゃねえから、死ぬ気で走っていきな」
 行くほどに、走るほどに、首尾よく名人主従の駕籠《かご》は、日本橋の大通りを抜けきろうとするあたりで、完全に敬四郎たち一党の尾行からのがれました。と知るや、不意にずばりと右門流の抜き打ちでした。
「もういいだろう。駕籠屋駕籠屋、方角変えだ。行く先ゃ柳原のひげすり閻魔《えんま》だぜ」
 聞いて伝六が鳴らずにいられるわけのものではない。
「違うですよ! 違うですよ! 練塀小路へ先に行くはずだったじゃござんせんか。ね! ちょっと! かなわねえな。柳原へなんぞいってどうするんですかよ。まごまごしてりゃ、やつらに妙見さまのほうを先手打たれるじゃござんせんか。ね、ちょっと、聞こえねえんですかい。ね、だんな、だんな」
 追えど走れどむっつり右門です。ゆうぜんとあごをなでなで乗りつけたところは、ひげなきゆえにひげすり閻魔と名の高いそのお閻魔堂の境内でした。のっそり降りると、
「ウフフフフフ。ふくれているな」
 うれしいくらいにおちついたものでした。
「どうだえ、親方、ちっとはりこうになったかえ」
「え……?」
「またとぼけていやあがらあ。これが右門流の軍学というやつだ。かきねの外からすき見するほどの性悪だもの、あば敬なんぞといっしょに歩いていたひにゃ、じゃまされるに決まってるじゃねえか。おおかた、やつらは今ごろ妙見さまへ駆けつけて、きつねにでもつままれたような顔しているだろうよ。これからもあることだ、しっこいやつを追っ払うにはこうするんだから、よく覚えておきな」
「はあてね」
「何を感心しているんだよ」
「いいえね、向こうの木にすずめが止まっているんですよ。しみじみ見ると、すずめってやつめ変な鳥じゃござんせんかい」
「横言いうない。一本参ったら参ったと正直にいやいいんだ。それより、一件の物はどこにあるか、はええところかぎつけな」
 手分けしてそこの木立ちを抜けきるといっしょに、ふたりの目を強く射たものは、閻魔堂の正面にわいわいと集まっている人だかりです。
「寄るなッ、寄るなッ、寄ッちゃいかん! 寄るなッ。寄るなッ」
 声をからしてつじ番所の小役人たちが必死としかっているその様子から、問題の死骸《しがい》はその黒だかりの中にあることがひと目に察せられたので、名人は騒がずに近づきました。と同時に、いともとんきょうな音をあげたのはあいきょう者です。
「いけねえ! いけねえ! ね、ちょいと。やっぱり、わにぐちの下に死んでいるんですよ。ね、ほら、だらりとたれている下に伸びているじゃござんせんか。けさほど妙見堂で見た死骸もこのとおりでしたよ。こんなふうにあおむけにのけぞってね、のどから血あぶくを吹いて長くなっていたんですよ。どうもこりゃなんですぜ、いかにだんながなんといおうと、このだらりとたれているわにぐちが、ただものじゃねえですぜ。ええ、そうですとも! 物はためしなんだから、もういっぺん帯をここへたらして考えたほうが近道ですぜ。ね、ちょいと、え? だんな!」
 うるさくいうのを聞き流しながらのぞいてみると、いかさまわにぐちのたれ布の真下に長々とのけぞっているのです。しかも、傷が尋常でない。槍傷《やりきず》でもなく、刀傷でもなく、俗にのど笛と称されている首筋の急所を大きくぐさりとえぐりとられて、さながらその傷口はざくろの実を思わするようなむごたらしさでした。
「ほほうのう。ちとこれは変わり種だな」
 あごをなでなでじろじろと目を光らして、その人体を子細に見調べました。年のころは三十一、二。羽織はかまに幅広の大小、青月代《あおさかやき》を小判型にぐっとそりあげたぐあいは、お奉行からのお差し紙にもそれと明記してあったとおり、紛れもなくどこかの藩の禄《ろく》持ち藩士たることは、ひと目にして明らかです。藩士としたらどこの家中の者か、それがまず第一の問題でした。
「つじ番所のご仁!」
 棒矢来をこしらえながら、必死とやじうまの殺到を制していた町役人のひとりを呼び招くと、名人は穏やかにきき尋ねました。
「いつごろからここにお見張りじゃ」
「知らせのあったのが明けのちょうど六つでござりましたゆえ、そのときからでござります」
「だいぶ長い間お見張りじゃな。ならば、もう市中へもこの騒動の評判伝わっていることであろうゆえ、うわさを聞いて心当たりがあらば、これなる仁と同藩家中の者が様子見になりと参らねばならぬはずじゃが、それと思われる者は見かけなんだか」
「はっ、いっこうにそのようなけはいがござりませなんだゆえ、じつはいぶかしく思うていたところなのでござります」
 知らないために来ないのか、それとも知っていて来ないのか、知らないために来ないのならば問題でないが、知っていて来ないとすれば、これは考えるべき余地じゅうぶんでした。いずれの藩の者であろうと、おのれの家中の者が横死を遂げていると聞いたら、何をおいてもまず手続きを踏んで引き取りに来るべきが定法であるのに、知りつつわざと引き取りに来ないとすれば、そこに大きな秘密が介在するに相違なかったからです。――なぞを解くかぎも、またそこからというように、名人は烱々《けいけい》とまなこを光らしてうずくまると、おもむろにその身体検査を始めました。と同時に、鋭く目を射たものは、疑問の藩士の両手の指と手のひらに見える竹刀《しない》だこでした。
「ほほう、なかなかに武道熱心のかたとみゆるな。相当のつかい手がたわいなくやられたところを見ると――」
「え……? たわいなく眼《がん》がつきましたかい」
「黙ってろ」
 しゃきり出てお株を始めようとした伝六をしかりしかり、名人はぶきみなのも顧みず死骸《しがい》に手を触れて、丹念にその傷口を見しらべました。やはり、いかほど調べてみても突き傷ではない。刺し傷でもない。がぶりと深くえぐり取った奇怪きわまる傷口なのです。――名人の面はしだいに青ざめて、しだいに困惑の色が深まりました。竹刀だこの当たっているほど武道熱心な者が、見るとおり両刀は腰にしたままで、鯉口《こいぐち》さえ切るひまもなくあっさりやられているところを見ると、この下手人はじつに容易ならぬ腕ききにちがいなかったからです。加うるに、突いたのでもない、刺したのでもない、切ったのでもないとすれば、いかなる凶器でえぐったか、それがまず第一のなぞです。
「ね、ちょいと。誉れのたけえあごなんだ。あごをなでなせえよ、あごをね。そろりそろりとなでていきゃ、じきにぱんぱんと眼《がん》がつくじゃござんせんか。なでなせえよ、かまわねえんだから。ね、ちょいと。遠慮なくおやりなせえよ。え? だんな! 聞こえねえんですかい」
 うるさいやつがうるさくいうのを黙々と聞き流しながら、名人はぬっと手を入れてその懐中をしらべました。もし、懐中物でも紛失していたら、またそこに目のつけようもあったからです。――だが、紙入れはある。物取り強盗、かすめ取りのつじ切りでもないとみえて、小判が五枚と小粒銀が七、八ツ、とらの子のようにしまわれている紙入れがちゃんとあるのです。
「はあてね。五両ありゃ、はっぱ者なら一年がとこのうのうとして居食いができるんだ。この大将、身なりはいっこう気のきかねえいなか侍みてえだが、五両ものこづけえを、にこりともしねえで懐中しているところを見るてえと、案外|禄高《ろくだか》のたけえやつかも知れませんぜ。ね、ちょいと、違いますかい。え? だんな! 違いますかね」
 しかし、名人は完全にむっつり右門でした。懐中物になんの手がかりも、なんの不審もないとすれば、百尺|竿頭《かんとう》一歩をすすめて、さらに第二第三のネタ捜しをしなければならないのです。不浄な品物をでも扱うように、黙々としてその紙入れをふたたび死人のふところへ返したせつな! ――ひやりと名人の手に触れたものがある。取り出してみると同時に、その目が烱々《けいけい》とさえ渡りました。奇怪とも奇怪、疑問の変死人の懐中奥深くから出てきた品は、そも何に使ったものか、じつにいぶかしいことにも武家には用もあるまじき一個のかなづちと、くるくると紙に包んだ数本の三寸くぎだったからです。
「へへねえ。こりゃまたどうしたんですかい。やけにまた下司《げす》なものが出てきたじゃござんせんか。まさかに、この侍、棟梁《とうりょう》を内職にしていたんじゃありますまいね。え? だんな。ね、ちょいと。いったいこりゃなんですかね」
 間をおかずにやかましくさえずりだしたのをしり目にかけて、烱々《けいけい》と目を光らしながら右の二品を見ながめていましたが、さっそうとして立ち上がると、不意にずばりと抜き打ちの右門流でした。
「どうだね。あにい。おいらはひげすり閻魔《えんま》さまへお参りしたのはきょうがはじめてだ。ひと回り見物するかね」
「え……?」
「木があって、森があって、池があってね、なかなかおつな境内のようだから、ひと回り見物しようぜといってるんだよ」
「かなわねえな。思い出したようにしゃべったかと思うと、やけにまた変なことばかりいうんだからね。おたげえ死ねば極楽へ行かれる善人なんだ。用もねえのにお閻魔さまのごきげんなんぞ伺わなくたっていいんですよ。――ね、ちょいと。やりきれねえな。とっととそんなほうへいって、何が珍しいんですかよ」
 鳴り鳴り追ってきたのを振り向きもしないで名人がさっさとやっていったところは、お堂の裏の昼なお暗くこんもりと茂った森でした。のみならず、その森の中へずかずかはいっていくと、そくそくとそびえている杉の木立ちを一本一本丹念に見調べていましたが、と、――そこのいちばん奥の別して大きい一本の前まで歩み近づくや同時に、名人のもろ足がぴたりくぎづけになったかと見えるや、その両眼が物におびえでもしたかのごとく妖々《ようよう》としてさえ渡りました。なんとぶきみなことか、その太い杉の赤茶けた幹の腹には、手足そろったわら人形が、のろいのあのわら人形が、両足、両手、胸、首、頭と、七本の三寸くぎに打ちえぐられて、無言のなぞと、無限の秘密をたたえながら、ぐさりとくぎづけになっていたからです。しかも、そのくぎの新しさ! そのわら人形の新しさ! ――だれが見ても、ゆうべの丑満時《うしみつどき》にのろい打ったものとしか思えないのです。同時に、伝あにいがくちびるまでもまっさおにしながら、けたたましい音をあげました。
「ち、ち、ちくしょうめッ、やったな! やったな! あれですよ、あの野郎ですぜ。ふところから金づちと三寸くぎが出たじゃござんせんか。ね、ちょいと、あのわにぐちの下にのけぞっているあのいなか侍ですぜ。え! だんな。かなわねえな。生得あっしゃこういうものがはだに合わねえんだ。黙ってりゃ、もうけえりますぜ。ね、だんな、けえりますよ。え? ちょいと。返事しなきゃけえりますぜ」
 声はない。返事もない。また、ないのがあたりまえです。事ここにいたれば、秘密のとびらはすでにもう開かれたも同然だからです。名人は静かに近よりながら、その形をくずさないようにそおっとわら人形を抜きとると、裏を返して見調べました。と同時に目を射たものは、急――大きく急と書いた不思議な文字です。それから、のろいの相手の年がある。巳年《みどし》の男、二十一歳と、墨色あざやかにわら人形の背に書いてあるのです。
「やりきれねえな。そんな気味のわるいものをふところへしまって、どうするんですかよ。ね、ちょいと、なんとかひとことぐらいおっしゃいよ」
 しかし、名人はものすごいくらいおしでした。たいせつな物のようにわら人形を懐中すると、その早いこと早いこと。すたすたとお堂の前に帰っていった出会いがしらに、ぱったり顔を合わせたのは、練塀《ねりべい》小路の妙見堂から汗をふきふき駆けつけたあば敬とその一党です。
「忙しいことでござりまするな。お先へ失礼――」
 軽く一礼すると、待たしておいた駕籠《かご》にひらりうち乗りながら、涼しく命じました。
「ゆっくりでいいからな。練塀小路の妙見堂だぜ」
「ちぇッ。これだからな。駕籠屋やあば敬に口をきくくれえなら、かわいい子分なんだ、あっしにだっても口をきいたらいいじゃござんせんか。なんて意地曲がりだろうね」
 鳴るのに合わせてゆらりゆらりと駕籠をうたせながら、やがて乗りつけたところは、命じたその三本榎の妙見堂境内でした。
 しかし、あるべきはずの死骸はもうないのです。
「ちくしょうめッ。あば敬ですよ。あば敬がどっかへ隠したにちげえねえんですよ。けさ見たときゃ、ちゃんとこのわにぐちの下に長々とのけぞっていたのにね。やつめ、あっしどもがこっちへ回ってくるのを気がつきやがって、意地わるくもうかたづけさせたにちげえねえんですよ」
 むろん、それに相違ないと思われましたが、名人はゆうゆう淡々、顔色一つ変えずに、さっさとやっていったところは、お堂わきに雲つくばかりそびえ立っている三本榎のそばでした。ぎろり、目を光らしてその幹を調べると、ある、ある、まんなかのひときわ太い幹のひと目にかからぬうしろ側に、寸分違わぬ真新しいわら人形が、ぶきみにくぎづけとなっているのです。しかも、裏側の文字までがそっくりなのでした。急という不思議な文字を同じように、一つ書いて、その下にやはり巳年の男、二十一歳と、なぞのごとくに書いてあるのです。おもむろにそれを懐中するや、不意も不意なら意外も意外、じつにすさまじい右門流の命令が飛びました。
「十手だッ。十手だッ。伝の字、十手の用意しろッ」
 ひらり駕籠に乗ると、命じた先がまたさらにどうも容易ならぬ右門流でした。
「行く先ゃ忍《しのぶ》ガ岡《おか》の天海寺だ。急いでやりな」
 今の寛永寺なのです、[#「今の寛永寺なのです。」の誤り?]東叡山《とうえいざん》寛永寺というただいまの勅号は、このときより少しくあとの慶安年中に賜わったものですから、当時は開山天海僧正の名をとって、俗に天海寺と呼びならしていた徳川|由緒《ゆいしょ》のその名刹《めいさつ》目ざして、さっと駕籠をあげさせました。

     

 むろんのことに肝をつぶしたのは、わが親愛かぎりなき伝あにいです。およそめんくらったとみえて、ごくりごくりといたずらになまつばをのみながら、あのうるさいあにいがすっかり黙り込んで、目をさらのようにみはったきりでした。無理もない。僧正天海が将軍家お声がかりによって建立《こんりゅう》したその天海寺の中に、十手を必要とすべき下手人がいるとするなら、これはじつにゆゆしき一大事だったからです。
 だが、名人はまことになんともいいようもなく物静かでした。三橋《みはし》のところで乗り物をすてながら、さっさと伽藍《がらん》わきの僧房へやって行くと、案内の請い方というものがまたなんともかともいいようもなく古風のうえに、いいようもなく大前でした。
「頼もう、頼もう」
「どうれ」
 相手もまた古風に応じて、見るからに青やかな納所坊主がそこに手をついたのを見ながめると、ずばりといったことばが少しおかしいのです。
「ご覧のごとくに八丁堀の者じゃ。静かなへやがあらば拝借いたしたいが、いかがでござろうな」
「は……?」
「ご不審はごもっとも、この巻き羽織でご覧のごとく八丁堀者じゃ。仏道修行を思いたち、かく推参つかまつったが、うわさによれば当山は求道《ぐどう》熱心の者を喜んでお導きくださるとのお話じゃ。静かなへやがあらば暫時拝借いたしたいが、お許し願えましょうな」
「なるほど、よくわかりました。ご公務ご多忙のおかたが仏道修行とは、近ごろご奇特なことにござりまする。喜んでお手引きつかまつる段ではござりませぬゆえ、どうぞこちらへ」
 案内していったへやというのが、すさまじいことに二百畳敷きぐらいの大広間でした。しかも、その広いとも広いへやのうちには、調度も器具もなに一つないのです。まことにこれでは静かも静かもこれ以上の静かなへやはない。その大広間の、渺々《びょうびょう》として遠くかすんでみえるような広いへやのまんなかへ、ちょこなんと名人主従を待たしておくと、やがてのことに持ち運んできたのは、数十冊のあやにかしこい経典でした。
「お求めの尊いみ教えは、みなこのお経のうちにござりますゆえ、お気ままにご覧なされませ」
 言いすてながらすり足で納所坊主が立ち去っていったのを見すますと、それからがいかにも不思議でした。
「ちともったいないが、このお経をまくらにかりて、極楽の夢でも見せていただこうぜ。おまえもひと休み昼寝をやりな」
 いいつつ、お経に一礼してから、まくら代わりに積みあげて、ごろり横になると、いとも安楽そうにまなこを閉じたので、いまかいまかと十手にそりをうたしていた伝あにいが、たちまち百雷いちじに爆発させたのは当然でした。
「ちぇッ、なんですかよ! なんですかよ! 人を小バカにするにもほどがあるじゃござんせんか。十手はどうするんです! 用意しろとおっしゃった十手は、どうかたをつけるんですかよ。きのうきょうの伝六様の十手あしらいは気合いが違うんだ、気合いがね。あっしゃさっきから、もう腕を鳴らして待っているんですよ。どこにいるんです! ね、ちょいと、十手の相手のホシは、このお経の中にいるんですかい。え? だんな! どこにいるんですかよ」
「せくな、せくな。がんがんいう暇があったら寝りゃいいんだよ。お経をおつむにいただいて寝るほどありがたいことはねえんだ。極楽へ行けるように、ゆっくり休みな」
「おこりますぜ。ほんとに、人をからかうにもほどがあるじゃござんせんか。じゃ、一杯食わしたんですかい。十手の用意をしろといったな、うそなんですかい」
「うそじゃねえよ。おめえみたいなあわてものは、今から用意させておかねえと、いざ鎌倉《かまくら》というときになってとち狂うからと思って、活を入れておいたんだ。夜中の丑満時《うしみつどき》になりゃ、十本あっても足りねえほど十手が入り用になるんだから、寝るのがいやなら、そこにそうして、十手を斜に構えて、ゴーンと丑満が鳴るまで意気張っていな」
「ちぇッ。なんてまあ気のなげえ十手だろうね。あば敬はどうするんです。あば敬にしてやられたらどうするんですかよ。あの大将だって死にもの狂いに駆けずりまわっているにちげえねえんだ。さるも筆のあやまり弘法様も木から落ちるというからね。やにさがっているまにしてやられたら、どうするんですかよ」
 鳴れどたたけどもう声はない。仏道仏心|弥陀《みだ》の極意はこのひとまくらのうちにありといわぬばかりで名人は、求道弘法《ぐどうぐほう》の経巻を頭《つむり》の下にしながら、おりから聞こゆるお山の鐘を夢の国への道案内に、すやすやと心よいいびきをたてはじめました。しかも、ひとたび眠りについたとなると、なかなかに目をさまさないのです。あいきょう者の、怒り虫の、伝あにいの千鳴り太鼓が、あきれ返って眠りもやらず、二百畳のはてしもない大広間の中をかんしゃくまぎれに十手構えながら、あちらにまごまご、こちらにまごまごといったり来たりしているのもおかまいなしで、ゆうゆうと眠りつづけていましたが、とっぷり日が落ちきってしまったころになると、がばとはね起きざまに納所坊主を呼び招きながら、いともまじめくさって、おごそかにいったことでした。
「いや、どうも近ごろにないけっこうな修行をいたしました。事のついでにと申しては無心がましゅうて恐れ入るが、ちょうどお斎《とき》のころじゃ。夕食ご造作《ぞうさ》にはあずかれまいかな」
「はっ、心得ました。お目ざめになりますれば、ほかならぬあなたさまのことでござりますゆえ、たぶんそのご用がござりましょうと、もうしたくしておきましてござります」
「ほかならぬあなたさまとは、なんのことでござります」
「お隠しあそばしますな。さきほどからの不審なおふるまいといい、そちらのおかたのおにぎやかさといい、どうもご様子ががてんまいりませぬゆえ、いろいろとみなして評定いたしましたが、あなたさまこそ今ご評判の右門殿でござりましょうがな」
「あはははは、とうとう見破られましたか。それとわかれば、隠しだていたしませぬ。ちと詮議《せんぎ》いたさねばならぬことがござりますゆえ、このような無作法つかまつりましてござります。上さまご祈願所を汚しましたる不敬の数々、なにとぞお許し願わしゅう存じます」
「なんのなんの、そのごあいさつでは痛み入りまする。学頭さまもなんぞ容易ならぬ詮議の筋あってのことであろう、丁重にもてなしてしんぜいとのおことばでござりますゆえ、どうぞごゆるりとおくつろぎくださりませ」
 さすがは忍ガ岡学寮の青道心です。早くも名人の不審なふるまいをそれと看破したとみえて、まもなくそこに運ばれたのは、けっこうやかな精進料理の数々でした。
「ちぇッ。持ちたきものは知恵たくさんの親分だ。昼寝に手品があろうとは気がつかなかったね。まあごらんなせえよ。この精進料理のほどのよさというものは、またなんともかともたまらねえながめじゃござんせんか。しからば、ひとつ、おにぎやかなおかたも遠慮のうちょうだいと参りますかね」
 こんな気のいい男というものもたくさんはない。いましがたまでふぐのようにふくれていた伝六は、たちまちえびす顔に相好をくずしながら、運ぶこと、運ぶこと、はしと茶わんが宙に六方を踏んで目まぐるしいくらいでした。
 しかし、名人はなかなかに御輿《みこし》をあげないのです。兵糧とってじゅうぶんに戦備が整ったならばすぐにも出動するだろうと思われたのに、それからふたたびごろりとなって、ようやくあごをなでなで起き上がったのが深夜のちょうど九ツ。いんにこもってボーンボーンと時の鐘が打ちだされたのを耳にするや、物静かに手をたたいて呼び招いたのは、さきほどからの青道心でした。
「なんぞご用でも?」
「ちと承りたいことがござる。当山は悪魔退散邪法|調伏《ちょうぶく》の修法《すほう》をつかさどる大道場のはずゆえ、さだめしご坊たちもその道のこと詳しゅうご存じであろうが、ただいま江戸にて丑《うし》の時参りに使われる場所は、どことどこでござる」
「なるほど、そのことでござりまするか。丑の時参りは、てまえども悪魔調伏の正法を守る者にとりましては許すことのかなわぬ邪法でござりますゆえ、場所も所も知らぬ段ではござりませぬ。まず第一は練塀小路の妙見堂、つづいては柳原のひげすり閻魔《えんま》、それから湯島坂下の三《み》ツ又《また》稲荷《いなり》、少しく飛びまして本所四ツ目の生き埋め行者、つづいては日本橋|本銀町《もとかねちょう》の白旗|金神《こんじん》なぞ五カ所がまず名の知れたところでござります」
「よく教えてくれました。いろいろおもてなしにあずかってかたじけない。些少《さしょう》でござりまするが、お灯明《とうみょう》料にご受納願いとうござる」
 包んで出したのはやまぶき色が三枚。ひと寝入りするにもそつのないところが名人です。懐中離さぬ忍びずきんにすっぽり面をかくしてお山を下ったのがちょうど九ツの鐘の打ち終わったときでした。と同時のごとく目にはいったものは、町々つじつじを堅めているものものしい捕方《とりかた》たちの黒い影です。
「はあてね、あば敬が何か細工したんでしょうかね」
 くるっと七三にからげて飛び出していったかと見えたが、ときどき伝六も存外とすばしっこく立ちまわることがあるとみえて、てがら顔に駆けもどってくると、事重大というようにぶちまけました。
「いけねえ! いけねえ! まごまごしちゃいられませんぜ。あそこのかどに張っていた雑兵《ぞうひょう》をうまいことおだてて聞き出したんだがね、あば敬大将はあの下手人をのどえぐり修業のつじ切りだとかなんだとかおっかねえ眼《がん》をつけてね、お番所詰めの小者からつじ役人にいたるまでありったけの捕《と》り方《かた》を狩り集めて、江戸じゅうの要所要所に捕《と》り網を張らしているというんですぜ。ね、ちょっと――かなわねえな。またむっつり虫が起きたんですかい。え? だんな。だいじょうぶですかい。よう、だんな。ようってたらよう、だんな!――」
「黙ってろ。おれのむっつり虫は、一匹いくらという高値《こうじき》なしろものなんだ。気味のわるいところをお目にかけてやるから、てめえのその二束三文のおしゃべり虫ゃ油で殺して、黙ってついてきな。これから先ひとことでも口をきいたら、今夜ばかりは容赦しねえんだ。草香流が飛んでいくぜ」
 しかってすいすいとはいっていったところは、いましがた山の青道心からきき出した、丑《うし》の刻参り隠れ祈りの場所の一つである湯島坂下三ツ又稲荷の境内です。――もとより、あたりは真のやみ。しんちんと鬼気胸に迫って、ぞおっとえり首までがあわだつばかり、そのぶきみな境内をものともしないで、名人はほこらの裏にぬけると、ぴたり身を社殿の陰に寄せながら、じっと息をひそめて、何者かを待ちだしました。――伝六も声はない。しゃべるなとしかられたのがきいたためではないらしく、どうやらあたりのぶきみさ、ものすごさにおしゃべり虫がちぢみ上がったとみえて、ごくりごくりとなまつばをのんだままでした。
 半刻《はんとき》……。
 四半刻……。
 やがてのことに迫ってきたのは、屋の棟《むね》も三寸下がるというその真夜中の丑満時です。ゴーンと一つ鳴った。つづいてゴーンと二つめが鳴った。三つ、四つ、五つ、六つ、最後の八つめが鳴ってしまえば、丑の時参りが精根を傾けてのろい祈ると伝えられている、そののろいの時が来るのです――伝六の両足がぶるぶると震えだしたけはいでした。
 しかし、名人は身じろぎもせずに、じっと鬼気漂うやみの中を見すくめたままでした。
 刻! 一刻!
 さらに一刻! 二刻! そうして四半刻――。だが、なんの音もしないのです。足音はさらなり、くぎの音も金づちの音も聞こえないのです。と知るや、不意に名人がかんからと笑いだすと、投げすてるようにいいました。
「わはははは、とうとう今夜は待ちぼけくったか」
「え? なんですと! ね、ちょっと、ちょっと。な、な、なんですかい」
 同時に、伝六が爆発するように音をあげたのは当然でした。
「人をおどすにもほどがあるじゃござんせんか。気味のわるいいたずらをするっちゃありゃしねえや。あっしゃ三年ばかり命がちぢまったんですよ。おもしろくもねえ、待ちぼけくったとは何がなんですかよ。何を酔狂に、こんなまねしたんですかよ」
「おこったってしようがねえじゃねえか。向こうさまのごつごうで待ちぼけくわされたんだから、おいらに文句をいったって知らねえよ。またあしたという晩があらあ。さっさと帰りな」
「なんですと! あしたとはなんですかよ。急いでお手当しなくちゃならねえあば敬相手の大仕事じゃござんせんか。またあしたの晩があらあとは何がなんですかよ。けえらねえんだ。あっしゃけえらねえんですよ。人を茶にするにもほどがあらあ。下手人のつら拝ましていただくまでは、どうあったってここを動かねえんですよ」
「うるせえ坊やだな。むっつり右門とあだ名のおいらが、こうとにらんでの伏せ網なんだ。それほどだだをこねるなら、いってやらあ。おめえは朝ほど手に入れたわら人形の裏の文字を覚えているかい」
「つがもねえ。急という字があって、その下に巳年《みどし》の男、二十一歳と書いてあったじゃござんせんか。それがいったいどうしたというんですかよ」
「どうもこうもしねえのよ、なぞはその急の字なんだ。おめえなんぞは知らねえに決まってるがね。ありゃ急々如律令《きゅうきゅうにょりつれい》というのろいことばのかしら文字さ。のろいの人形に急と書いて一体、同じく急と書いてもう一体、最初の晩には二カ所に打ちつけて、二日めに如と書いたのが一体、三日めに律と書いて一体、四日めに最後の令の字人形の一体を打って祈り止めにするのが、昔から丑の時参りのしきたりなんだ。けさひげすり閻魔と妙見堂でお目にかかったあの二体は、ゆうべが初夜ののろいぞめのその二つだよ。としたら、今夜は如の字の祈りをするだろうとにらんで、さっきお山の青道心に教えられたこの三ツ又稲荷のあなへ伏せ網を張ったのになんの不思議もねえじゃねえか、おあいにくなことに待ちぼけくったのは、あな違いだっただけのことさ。おおかた、今夜は本銀《もとかね》町の白旗金神か、本所四ツ目の生き埋め行者のほうへでも、同じ仲間が人を替え手を替えてのろい参りにいったろうよ。おめえがもう少し気のきいた手下だったら、ふた手に分かれて張れるものをな。むっつり右門のからめ手攻めも、手が足りなきゃ、ひと晩ふた晩むだぼねおったとてしかたがなかろうじゃねえかよ。どうだね、気に入らないかね」
「ちぇッ、なにも今になって事新しくあっしを気がきかねえの役不足だのと、たなおろししなくたっていいですよ。おいらが光っていたひにゃ、だんなの後光がにぶくなるんだ。さしみにもつまってえいう、しゃれたものがあるんだからね。おいらのような江戸まえのすっきりしたさしみつまはおひざもとっ子の喜ぶやつさ。――えへへへ、ちくしょうめ、急にうれしくなりやがったな。そうと眼《がん》がついているなら、なにも好き好んでふくれるところはねえんだ。じゃなんですかい、その丑《うし》の時参りを押えとって、だんなのいつものからめ手|詮議《せんぎ》で糸をたぐっていったら、どこのどいつが、のろい参りのさむれえたちを、けさみてえにねらい討ちしているか、その下手人もぱんぱんと眼がつくだろうというんですかい」
「決まってらあ。いわし網を張るんじゃあるめえし、あば敬流儀に人足を狩り出すばかりが能じゃねえよ。あした早く、生き埋め行者と白旗金神と両方をこっそり調べにいってきな」
 いうにゃ及ぶとばかり急ぐほどに、しとしと霧のような秋時雨《あきしぐれ》です。

     

 雨は朝になっていつのまにか本降りと変わり、まことに天地|蕭条《しょうじょう》、はらりはらりと風のまにまに落ち散る柳葉が、いっそもう悲しくわびしく、ぬれて通る犬までがはかなく鳴いて、おのずから心気もめいるばかりでした。
 しかし、伝六はその雨もものともせずに、早朝、命ぜられた二カ所へ様子探りにいってきたとみえて、勢いよく帰ってくると、庭先からどなりました。
「眼《がん》だ、眼だ。白旗金神のほうはおるすでしたがね、やっぱりゆうべ本所四ツ目の生き埋め行者へ出たんですよ」
「やられていたか」
「いた段じゃねえ、ほこらの前にね、はかまをはいて大小さしたわけえ侍が、同じようにのど笛をえぐられてのけぞっていたんですよ」
「わら人形も見つけてきたか」
「そいつをのがしてなるもんですかい。一の子分が親分から伝授をうけたお手の内は、ざっとこんなものなんだ。ね、ほら、これですよ、これですよ、ほこらのうしろの大かえでに打ち込んであったんですがね。なにもかも眼のとおり、だんなのおっしゃった如の字がちゃんと書いてあるんですよ」
「ほほうな、巳年《みどし》の男、二十一歳という文字もちゃんと書いてあるな。どうやらこの様子だと」
「え……?」
「どうやらこの様子だと大捕物になりそうだといってるんだよ。どこの藩士がどういう男をのろっているか知らねえが、手を替え人を替えて幾晩ものろいつづけているところを見ると、丑《うし》の時参りの一味徒党もおろそかな人数じゃあるめえし、そいつらののど笛をねらっているやつも並みたいていのくせ者じゃねえよ。あば敬の様子はどんなだったか探っちゃこねえかい」
「それですよ、それですよ。そいつがどうも事重大なんだ。ゆうべ山下でも出会ったとおり、ああしてつじ番所の小役人まで狩り出して、江戸じゅう残らずへ大網を張ったはいいが、獲物はこそどろが三匹と、つつもたせの流れがひと組みと、ろくなやつあかからねえんでね。やつも少しあわを吹いたところへ、けさのこの生き埋め行者の一件が耳にはいったんだ。だからね、あばたこそあっても、さすがは敬四郎ですよ。のど切り騒動が申し合わせてほこらやお堂にばかりあるところから、やつめ、とうとう眼《がん》をつけたとみえて、今夜から手口を変えて総江戸残らずのお堂とほこらへ伏せ網を張るというんですよ」
「そいつあさいわいだ。なにもおいらは意地わるく立ちまわって、てがらをひとり占めにしてえわけじゃねえんだからな。人手を使っておてつだいくださるたア、願ったりかなったりだよ。だが、まず十中八、九むだ網だろうよ。ゆうべだってもあれほど四方八方へ網を張っておいて、生き埋め行者に迷って出た下手人を見のがすんだからな、そうと事が決まりゃ、おいらは今夜も湯島の三ツ又稲荷だ。夜あかししなくちゃならねえから、今のうちぐっすり寝ておきな」
「え……?」
「わからねえのかい。ゆうべ如の字の祈りを本所の四ツ[#「ツ」は底本では「ッ」]目へ打ったとすりゃ、残るところは律と令とのふた夜きりだ。一つあなの三ツ又稲荷へじっと伏せ網を張っておいたら、よしんば今夜かからなくとも、あしたの丑満時にゃいやおうなく三ツ又の網にひっかかるよ。伏せ網するならしじゅう一カ所を選ぶべし、いつかは必ず獲物あらんとは、捕物心得の手ほどきじゃねえか。つまらねえところで首をひねらずと、ぐっすり寝る勘考でもしろよ」
「いいえね、そりゃいいんだ。一つあなの三ツ又稲荷へ迷わずに伏せ網するのは大いにけっこうだがね。ちっとあっしゃくやしいんだ。人間てえものはこうも薄情なものかと思うとね、く、く、くやしいんだ。だんなの耳にこんなこと入れたかねえんだが、どうにもくやしいんですよ。く、く、くやしいんですよ」
「バカだな。なんだよ、不意にぽろぽろ泣きだして、何が悲しいんだよ」
「だってね、いま来がけに、ふたところばかりで耳に入れたんだが、江戸っ子も存外と薄情なんですよ。だんながてがらをしたときゃ、てめえらがむっつり右門になったような気どり方で、やんやというくせにね。少し手間が取れるともう、何やかやと、ろくでもねえことをいうんですよ。いつのまにか、けさの四ツ目行者のほうの一件も町じゅうにひろまったとみえてね、聞きゃあ、あば敬とむっつり右門のだんなとふたりして、きのうからお手当中だっていうが、いまだに下手人があがらねえとは情けねえじゃねえか。あんな気味のわるい人死にがこの先三日も四日もつづいたひにゃ、うっかりお堂参りもできねえやね、こんなにうわさしていやがるんだ。おまけにね、ぬかすんだ。聞いたふうなことをぬかしていたんですよ。いくらかむっつり右門のだんなにも、焼きが回ったかとね。人の苦労も知らねえで、こんなにつべこべといっていたんですよ。だから、あっしゃ……だから、あっしゃ、く、くやしくてなんねえんだ。くやしくてならねえんですよ」
「ウフフフフフ、そんなことで泣くのがあるかよ。つがもねえ。手間がかかりゃかかっただけ、お手拍子|喝采《かっさい》も大きいというもんだ。夏やせで少し身細りするにはしたが、目にさびゃ吹いちゃいねえよ。――しとしとまた小降りになったな。秋ゃ、秋、身にしむ恋のつまびきに、そぼふる雨もなんとやら、いっそ音締めもにくらしい、というやつだ。おいらが涙をふいてやらあ、雨の音を聞きながらひと寝入りするんだから、おめえもあの押し入れからまくらを持ってきな」
 ごろり横になると、見せてやりたいくらいなあの男まえを、なんの屈託もなさそうに、もうすやすやと軽やかないびきでした。――チチチチと鳴くのはこおろぎか松虫か、恋呼ぶわびしい虫の声である。
 やがて日が暮れました。そうして夜が訪れました。暮れるに早く、ふけるにおそい秋の夜も、五ツ四ツとふけ渡って、ほどたたぬまに打ち出されたのは九ツです。と同時に、名人はさっそうとして立ち上がると、黒羽二重の着流しに目深ずきん。さっとさわやかな命令が下りました。
「忍びの駕籠《かご》だ。急いで二丁用意しろッ」
 待ってましたとばかり、伝六の早いこと、早いこと。――だが、まもなく矢玉のように飛んで帰ると、けたたましくいいました。
「いけねえ! いけねえ! 出たんだ、出たんだ。もう今夜は出ちまったというんですよ。丑の時参りがね、もう出ちまやがって、白旗金神の境内にのけぞっているというんですよ」
「へへえね。それはまたどうしたんだい」
「おおかたね、毎晩毎晩やられるんで今夜は早参りしてやろうとでも思って出かけたところをまたばらされたらしいんだが、なにしろ不意打ちなんでね、網を張っていた連中は大騒ぎなんですよ」
「どうしてそれを聞き出したんだ」
「あば敬の手下からかぎ出してきたんだがね。今そこまでいったら、つじ役人どもがうろうろしているんで、うまいことかまをかけて探ったら、しかじかかくかくであば敬の行くえを捜しているところだというんですよ」
「捜すとはまたどうしたんだい。あば敬もいっしょに張り込んでいたんじゃねえのか」
「やつあ山の手を見まわりにいったるすだというんですよ。それがまた情けねえやつらなんだが、なんでもね、白旗金神の町かどの三方に三人も張っていたくせに、いつのろい参りがやって来て、いつばらされたかも、まるで知らねえとこういうんですよ。だから、なおさらあば敬に面目がねえと、手分けしていま必死とやつの立ちまわり先を捜しているさいちゅうだというんですがね。どっちにしてもまごまごしちゃいられねえんだ。お出かけなすったらどうですかい」
「よかろう。雨はどうだ」
「もう宵《よい》のうちから降りやんでいるんですよ」
「じゃ、遠くもねえところだ。眠けざましに、お拾いで参るとしようぜ。龕燈《がんどう》の用意をしてついてきな」
 じゃのめを片手に微行しながらやっていったのは、八丁堀から目と鼻のその問題の本銀《もとかね》町白旗金神境内です。いかさま不意打ちに会ったのが面目ないとみえて、そこの境内に尾を巻きながら、まごまごしていたのは、あば敬の命令によって、そのあたり一帯に伏せ網を張っていたつじ役人どもの五、六名でした。もちろん、まだそのままになっている死骸《しがい》のそばへ近づいていってみると、はかまに大小、白たび足駄《あしだ》の藩士姿に変わりはないが、倒れている位置が少し違うのです。いつものような社殿の前でなくちょうどそこはどろの道の境内の入り口でした。いぶかって懐中に手を入れてみると、ある、ある、出てきたのは背裏に、律と書いた巳《み》年の男、二十一歳のわら人形と、金づちと、三寸くぎです。
「ほほうな。のろいうちにはいろうとしたところをやられたとみえるな。伝六、龕燈《がんどう》をかしな」
 受けとりながら、ちかり、倒れている侍の胸もとを照らし出して見ながめるや同時でした。
「よよッ」
 さえまさったおどろきの声が、名人の口から放たれました。
「あるぞ、あるぞ。妙などろの足跡が腰から胸もとにかけてついているぞ」
 一見してけだものの足跡とおぼしき梅ばち型の小さいどろ跡が点々として死骸の着物の上についているのです。いや、着物の上ばかりではない。龕燈を照らしてその付近を見しらべると、雨上がりのどろの道にもところどころに消えやらぬ同じ四つ足の足跡がはっきり残っているのでした。――烱々《けいけい》とまなこを光らして、腰から胸へ、胸から首筋へ、そのどろの足跡と、あの疑問の槍傷《やりきず》でもない、突き傷でもない、刀傷でもない不思議なえぐり傷とを、見比べ見ながめ、じっと考えていたが、まことにこの慧眼《けいがん》、この断定こそは、われらが捕物名人むっつり右門にのみ許されるすばらしい眼のさえでした。
「犬だッ。この下手人は犬と決まったぞッ」
「え! こいつあたいへんだ。ど、ど、どこに犬だと書いてありますかい!」
「胸もとの梅ばち型のどろ跡をよくみろよ。それからのど笛の傷跡だ。ぐさりとざくろの実が割れたようにえぐられているなあ紛れもなくワン公が食い切った証拠だよ。胸のどろ跡は、首をねらって飛びついたときについたんだ。雨上がりでおおしあわせよ。道がどろでぬかるんでいたからこそ眼がついたというものさ。秋雨さまさまだよ。それにしても、この犬はただものじゃねえぜ。これだけの腕も相当らしいお侍をうんともすうともいわさずに、かみ倒すんだからな。どうだい、伝あにい、そろそろとむっつりの右門も板についてきかかったが、ちがうかね」
「ちぇッ、たまらねえね。とうとう三日めで眼がつきましたかい。さあ、ことだ。さあ、話がちっとややこしくなってきやがったぞ。犬が下手人とはおどろいたね。なにしろ、四つ足のすばしっこいやつだからな。いってえどうして締めあげるんですかい。草香流もワン公を相手なら、うまくものをいわねえかもしれませんぜ」
「騒ぐな、騒ぐな。ここまで眼がつきゃ、むっつり右門の玉手箱には、いくらでも知恵薬がしまってあるんだ。そろそろとうちへけえって、あごでもなでてみようぜ。――つじ役人のかたがた、いまに敬だんなも山の手から、ご注進を受けてここへお越しだろうからな。下手人は犬に決まったとことづてしてくんな。伏せ網もそのつもりでお張りなせえとな。じゃ、伝あにい、引き揚げようぜ」

     

 だが、帰ってみると、少しく様子がおかしいのです。山の手の見まわりについているはずの敬四郎がいつのまにか八丁堀へ引き揚げてきたとみえて、何を騒いでいるのか、そのお組屋敷のあたりは、小者たちがざわざわと去来しながら、不思議な人だかりでした。
「はあてね。なんだろうね。まさかに、やっこ先生、さじを投げたんじゃあるまいね」
 何かにつけて忙しい伝六が、いぶかりながら意外なことを伝えました。
「ちくしょうッ、やられた、やられた。なんてまあ運がわりいんだろうね。ひと足先にてがらをされたんですよ」
「なにッ。じゃ、もう下手人をあげてきたか!」
「きたどころの段じゃねえんですよ。おなわにした浪人者をひとりしょっぴいてね、おまけに今の先白旗金神で見てきた丑の時参りとそっくりなお武家の死骸をひとり、戸板に乗せて運び込んできているんですよ」
 不審に思いながら、ずかずかと近づいて、そこの庭先をのぞいてみると、いかさまひとりの浪人者がうしろ小手に結わいあげられながら、そのそばにはまた、なるほどのど笛をえぐられた羽織はかまの藩士の死骸が戸板のうえにのっかっているのです。これはまことに不思議といわざるをえない。今の先犬と眼をつけて帰ったばかりなのに、下手人が浪人者であるのも不審なら、同じような死骸が白旗金神以外のところからいま一つ現われたこともおよそ不思議なのです。――名人はのっそり近よると、あごをなでなで、ぎろり、鋭くその死骸を見ながめました。と思われたせつな、何を看破したのかさわやかに微笑すると、穏やかなことばが敬四郎のところへ放たれました。
「どうやらにせもののようだが、これはいったいどうしたんですかい」
「なにッ、にせ者とはなんだ。いらぬおせっかいだ。先手を打たれたくやしまぎれに、つまらぬけちをつけてもらうまいよ」
「いや、そうまあがみがみとことばにかどをたてるもんじゃござんせんよ。はかま大小藩士体のぐあい、のどをやられているぐあい、それに刻限のぐあいもよく似てはいますがね、まさしくこいつあにせ者ですよ。第一はこの首の傷だ、今まで手がけたやつはみんな犬にがぶりとかみ切られているのに、こりゃたしかに刀で突いた刺し傷じゃござんせんか。そちらの浪人者が下手人だというのもちっと不思議だが、いったいどこでお見つけになったんですかい」
 ずばりとみごとにホシをさされてぐっと二の句につまった敬四郎の様子を見かねたものか、そばからつじ役人のひとりが代わって答えました。
「なるほどね。そうおっしゃりゃ少し様子がおかしいが、でもこの浪人がたしかにやったんですよ。じつあ、敬だんなのおさしずがあったんでね、市《いち》ガ谷《や》八幡《はちまん》の境内に張っていたら、このおきのどくなお侍が向こうからやって来たのを見すまして、そっちの浪人者がいきなりのど輪を刺し通してから、懐中物を捜していやがったんでね、刻限の似通っているぐあいといい、首筋を刺したぐあいといい、どうやらホシにかかわりのある野郎だとにらんで、いやおうなくしょっぴいてきたんですよ」
「つがもねえ、まだ下手人のあがらねえのを世間がいろいろあしざまにいってるんで、あせってのことでしょうが、おたげえお上御用を承っている仲間なんだ。もう少し見通しのきいた仕事をしねえと笑われますぜ。懐中物をねらっていたというのが大にせ者だ。論より証拠、今までの死骸はみんな紙入れもきんちゃくも残っていたじゃござんせんかい。まさしく、この野郎は、きのうきょうの騒動につけ込んだただの切り取り強盗ですよ。下手人のあがり方がちっと手間がとれているんで、そこにつけ込み同じ手口のように見せかけて、てめえらの荒仕事もその罪跡を塗りつけようとたくらんでからの切り取り強盗にちげえねえんだ。あげてきたのは、おてがらもおてがらもりっぱな大てがらだが、少うしホシ違いでござんしたね」
 いっているとき、ばたばたと駆けつけてきたのは、同じ敬四郎の命をうけて、どこかのお堂にでも張り込んでいたらしいふたりの小者です。しかも駆けつけてくると、けたたましく訴えました。
「出た出た。敬だんな! また出たんですよ。四ツ谷の通りでふたりもね、お侍姿の者がのど首をやられて、おまけに懐中物をみんなさらわれているんですよ」
 その報告をきくや同時に、敬四郎ならで名人の目がきらりさえ渡るとともに、断ずるごとく自信に満ちたことばが放たれました。
「それもこの騒動につけ込んだ同じにせ者だ。浪人! つらをあげろッ」
 近寄りざまに、じっとそのふてぶてしい姿を見ながめ見しらべていましたが、ちらり、目を射たものは左手首の内側にはっきり見える「八丈島」という三字のいれずみ文字です、――せつな! すばらしい右門流の慧眼《けいがん》が、伝法な口調とともに飛んでいきました。
「人を食ったまねしやがったな。きさま、八丈島の島破りだろう。――なんでえ! なんでえ! いまさらぎょッとしたとて、ちっとおそいよ。八丁堀にゃ、むっつりの右門といわれるおれがいるんだ。なめたまねしやがると首が飛ぶぞ。おそらく、きのうきょうののど笛騒動が長引いているんで、それにつけ込んでの荒仕事やったんだろう。おれの眼はただの一度狂ったことがねえんだ。四ツ谷で今またふたりも似通った手口の死骸が見つかったというからにゃ、おそらく四、五人の仲間があってひとかせぎしてやろうと、おたげえ手をつなぎながら荒仕事やっているにちげえあるめえ。――敬だんな」
 ずばりとホシをさしておいて、穏やかに敬四郎を顧みると、ここらがいよいようれしくなる右門流でした。
「すっぽり腹を割ったところを申しましょうよ。あんたのあげたホシにけちをつけるわけじゃねえが、おきのどくながらこの野郎はネタ違いだ。といったらお気持ちがよろしくござんすまいが、ネタ違いであっても、こいつあ存外と大捕物ですよ。例の一件のほうは、いましがた犬のしわざとようやく眼がつくにはついたが、どうやらこの先ひと知恵絞らなきゃならねえようだからね、あっしゃ正直に申します。おたげえてがらを争ってまごまごしていたら、ご覧のとおり、こういうにせ手口のあいきょう者が飛び出して、ますます騒ぎを大きくするばかりなんだ。しかも、聞きゃ四ツ谷でもふたりやられているというんだからね。このいれずみでもわかるとおり、八丈島流しの凶状持ちが互いにしめし合わせて、騒動につけ込みながら荒かせぎしているにちげえねんだ。だからね、こっちも手分けして詮議《せんぎ》に当たろうじゃござんせんか。この野郎を締めあげてみたら、いま四ツ谷のほうでかせいだ仲間のやつらの居どころもわかることでしょうから、あんたはあんたでひとてがらたてておくんなせえまし。ようござんすかい、くれぐれもいっておきますが、二兎《にと》を追う者は一兎を得ずだ。両方のあなを手がけて、両方のホシを取り逃がしたら、お上の名にもかかわるんだからね。あんたもすっぱりとお気持ちよく手を引いて、この野郎と一味徒党の巻き狩りをやっておくんなせえまし。しかし、お気をつけなせえましよ。こやつのつらだましいは尋常じゃねえからね。おそらく、切り取り強盗のこやつと一味のやつらもそれ相当手ごわい連中ばかりでしょうから、そこのところを抜かりなくじょうずにひと知恵絞ってね、ひと網にお捕《と》りのときもずんと腹をすえておかかりなせえましよ。お使いをくださりゃ、からだに暇のあるかぎり、必ずともにおてつだいもいたしましょうからね。じゃ、急ぎますから失礼いたしますよ」
 条理の前には屈するのほかはない。われらが名人の腹を割り、事を分けての忠言に、いかなあばたの敬四郎もこのうえ横車は押せないとみえて、ようしとばかり心よく手を引きながら、にせ手口荒かせぎの浪人者を締めあげにかかったので、名人もまたあとになんの懸念も残さずさっさとお組屋敷へ帰ると、目をぱちくりさせている伝六へ、ずばりと一本まず見舞いました。
「いいか。これからがおいらのあごにものをいわせなくちゃならねえだいじなときなんだ。そばで破れ太鼓を鳴らしたら、主従の縁を切るぞ」
 はあてね、というように小さくなりながら、へやのすみへ神妙に引きさがったのを振り向きもせず、名人はひざの前へあのぶきみなわら人形をずらずらと裏返しに並べておくと、いずれの人形のうしろ背にも同じようにしるされてある巳年《みどし》の男、二十一歳というあのなぞの文字をじっとにらめながら、霊験あらたかな名物あごを、思い出したようになでてはさすり、さすってはなでつつ一心不乱に考えだしました。
 しかも、それが一刻《ひととき》や二刻ではないのです。寝もやらず、食事もとらず、新しい朝がやって来ても秋日の晴れた昼がやって来ても、そうしてやがてまた日が落ちかかっても、ひとつところにじっと端座したまま、身じろぎもせずにしんしん黙々と考えつづけたままでした。伝六またしかり。しゃべりたくて、鳴りたくて、たたきたくてたまらないのを必死にこらえながら、ちょこなんとへやのすみにちぢまって、小さく置き物のようにすわったままでした。――だが、とっぷり暮れて、宵五ツの鐘が遠くに消えていったせつな!
「いったッ。いったッ。伝公ッ、とうとうあごがものをいったぜ」
「てッ。ありがてえ! ありがてえ! ち、ちくしょうめッ――。は、腹が急にどさりと減りやがった。も、ものもろくにいえねえんです。なんていいましたえ。あごはなんていいましたえ」
「武鑑をしらべろといったよ」
「え……?」
「武鑑をおしらべあそばせと、やさしくいったのよ。わからねえのかい」
「はあてね。いちんち一晩寝もせず考えたにしちゃ、ちっと調べ物がおかしな品だが、いったいなんのことですかい」
「しようがねえな。このわら人形の裏の文字をよくみろよ。巳年の男、二十一歳とどれにも書いてあるんだ。書いてあるからには、この二十一歳の巳年の男が、のろい祈りの相手だよ。ところがだ、人を替え、日を替えてのろい参りに行った連中は、みんなそろってお国侍ふうの藩士ばかりじゃねえかよ。なぞを解くかぎはそこのところだよ。藩士といや、ご主君仕えの侍だ。その侍がああ何人もあやめられているのに、一度たりとも死骸を引き取りに来ねえのがおかしいとにらんで、ちょっくらあごをなでたのよ。そこでだね、いいかい、およそのろい祈りなんてえまねは、昔から尋常な場合にするもんじゃねえんだ。しかるにもかかわらず、お国侍の藩士がああもつながって毎晩毎晩出かけたところが不思議じゃねえかよ。ともかくも、ご本人たちはれっきとした二本差しなんだ。腕に覚えのある侍なんだからな、そのお武家が、人に恨みがあったり、人が憎かったり、ないしはまた殺したかったら、なにもあんなめめしいのろい参りをしなくたっていいじゃねえかよ。すぱりと切りゃいいんだ。生かしておくのがじゃまになったら、わら人形なぞを仕立てるまでのことはねえ、一刀両断に相手を切りゃいいんだよ。だのに、わざわざあんなまわりくどい丑の時参りなんかするのは、その相手が切れねえからのことにちげえねえんだ。切れねえ相手とは――、いいかい。のろい参りしたのは禄持ち藩士だよ、その禄持ちの藩士が切りたくても切れねえ相手とは、――おめえにゃ眼《がん》がつかねえかい」
「大つきだ、やつらがおまんまをいただいているお殿さまじゃねえんですかい」
「そうよ。眼の字だ。相手が身分のたけえ、手も出すことのできねえお殿さまだからこそ、陰から祈り殺すよりほかにはなき者にする手段はあるめえとひと幕書いた狂言よ。すなわち、その祈られているおかたが当年二十一歳、巳年の男というわけなんだ。としたら、武鑑を繰って二十一歳のお殿さまを見つけ出せば、どこの藩のなんというおかただか、ネタ割れすると思うがどうだね。いいや、そればかりじゃねえ、藩の名まえがわかりゃ、どうしてまたなんのために犬めがのろい参りの一党を毎晩毎晩食い殺してまわっているか、そのなぞも秘密もわかるはずだよ。いいや、そればかりでもねえ。まさしく、その犬はこの世にも珍しい忠犬だぜ。よくあるやつさ。忠義の犬物語お家騒動というやつよ。悪党がある。その悪党が一味徒党を組んでお家横領を企てて、おん年二十一歳の若殿さまをのろい殺しに祈ってまわる、そいつをかぎつけた忠犬が、かみころして歩いているという寸法さ。したがって、犬のうしろには糸をあやつる黒幕がなくちゃならねえはずだよ。お家だいじ、お国だいじ、忠義の一派というやつよ。だからこそ――、むすびを三つばかり大急ぎにこしらえてくんな」
「え? 犬をつり出すためのえさですかい」
「おいらが召し上がるんだよ、いただきいただき武鑑を繰って、ここと眼がついたら風に乗ってお出ましあそばすんだ。早く握りなよ」
「ちくしょうめ、どうするか覚えてろッ。へへえね、――ちょっとこいつあ大きすぎたかな、かまわねえや、つい気合いがへえりすぎたんだからね、悪く思いますなよ」
 さし出したのをいただきながら、禄高、官職、知行所なぞ克明に記録された武鑑を丹念に繰り調べると、ある、ある。まさしく巳年に当たる二十一歳の藩主がひとりあるのです。
「ほほうね。三万石のご主君だよ」
「ちぇッ、三万石とはなんですかい。やけにまたちゃちなお殿さまだね」
「バカをいっちゃいかんよ。お禄高は三万石だが、藤堂近江守《とうどうおうみのかみ》様ご分家の岩槻藤堂《いわつきとうどう》様だ。さあ、忙しいぞ。駕籠だッ。早くしたくをやんな」
 出るといっしょに打ち出したのはちょうど四ツ。いっさん走りに向かったのは、牛込|狸坂《たぬきざか》の岩槻藤堂家お上屋敷です。
「これからおめえの役だ。そこのお長屋門をへえりゃお小屋があるだろう。どこのうちでもいいから、うまいこと中間かじいやをひとり抱き込んで、屋敷の様子をとっくり洗ってきなよ」
「がってんだ。こういうことになると、これでおいらのおしゃべりあごもなかなかちょうほうなんだからね。細工はりゅうりゅう、お待ちなせえよ」
 命を奉じて忙しいやつが吸われるように消えていったかと見えたが、ほどたたぬまに屋敷の中からおどり出てくると、得意顔に伝えました。
「眼《がん》の字、眼の字。やっぱりね。おかしなことがあるんですよ」
「なんだい。殿さまが座敷牢《ざしきろう》にでもおはいりかい」
「いいや、家老がね、なんの罪もねえのに、もう三月ごし、蟄居《ちっきょ》閉門を食っているというんですよ。しゃべらしたなあの門番のじいやだがね、そいつが涙をぽろりぽろりとやって、こういうんだ。閉門食っているおかたは村井|信濃《しなの》様とかいう名まえの江戸家老だそうながね。あんな忠義いちずのご老職はふたりとねえのに、やにわに蟄居のご処罰に出会ったというんですよ。だからね――」
「犬を探ったか」
「そのこと、そのこと。なにより犬の詮議《せんぎ》がたいせつだと思ったからね、このお屋敷には何匹いるんだといったら、六匹いるというんだ。その六匹のうちでね、いちばんりこうと評判の秋田犬が、今のそのご家老のところにいるというんですよ」
「ホシだッ。その犬の様子は聞かなかったかい」
「聞いたとも、聞いたとも、そこが肝心かなめ、伝六がてがらのたてどころと思ったからね、いっしょにおいらもそら涙を流しながら探りをいれたら――。そのね、なんですよ、そのね――」
「陰にこもって、何がなんだよ」
「いいえね、そのご家老さまのところのべっぴんのお嬢さまがね、その秋田犬とふたりして、毎晩毎晩夜中近くになってから、お父御《ててご》さまの蟄居閉門が一日も早く解かれるようにと、こっそりご祈願かけにほこら回りをしていらっしゃるとこういうんですよ」
「それだッ。なぞは解けたぜ。今夜は最後の令の字人形ののろいの晩だ。伏せ網はあとの一つの三ツ又|稲荷《いなり》と決まったよ。駕籠屋《かごや》ッ。ひと飛びに湯島まで飛ばしてくんな」
 星、星、星。九ツ[#「ツ」は底本では「ッ」]下がりの深夜の道は、降るような星空でした。
「音を出しちゃならねえぞ」
 伝六を伴ってずかずかとはいっていったところは、最初の夜に伏せ網を張って待ちぼけ食わされた、あの三ツ又稲荷の境内奥の、しんちんとぶきみに鬼気迫るほこらのうしろです。
 一刻《いっとき》! 二刻! そして四半刻――。
「足音だッ。聞こえますぜ。だんな!」
 伝六のささやいた声とともに、ほんのり薄明るい星空下の境内の広庭へ、にょきにょきと黒い姿を現わしたのは、はかま、大小、忍び雪駄《せった》の藩士が三人。
「よッ。今夜は多いね」
「黙ってろ」
 しかりつつ様子やいかにと息を殺しながら見守っている名人のその一、二間ばかり先へ、くだんの三人はひたひたと歩みよると、なかのひとりが懐中から取り出したのは、まぎれもなくのろいの祈りのわら人形でした。――せつな! 濃いやみの木立ちの中から、ウシッ、ウシッというかすかな声が聞こえたかと思うやほえ声もあげず、うなり声もたてずに、疾風のごとく飛び出してきたのは、精悍《せいかん》このうえないまっくろな猛犬でした。と、見えるや同時です。人形出してのろい打ちに取りかかっている三人のうちのひとりののど首目ざしつつ、ぱっと虚空に身をおどらしたかと思うやいなや、がぶりとかみつきました。だが、その一せつなでした。
「また出たかッ」
 残ったふたりが叫びざまに抜き払うと同時に、手ができていたのです。よほどの剣道達者、腕に覚えの者たちであったとみえて、ひとりを倒したすぐとあとから、身をひるがえしつつ襲いかかろうとした猛犬をさッと一閃《いっせん》、薙《な》ぎ倒したかと見えるや浴びせ切りに切りすてました。といっしょです。
「ま! クロを仕止めましたな! もうこれまでじゃ、お家にあだなす悪人ばら、村井|信濃《しなの》が娘、田鶴《たず》がお相手いたしまする。お覚悟なされませい!」
 りんと涼しい叫び声もろとも、懐剣片手にふりかざしながらおどり出たのは、夜目にもそれと知られる二九二十《にくはたち》ごろのりりしくも美しい女性でした。
「さあ、出やがったッ。だんな! だんな! 犬使いの下手人が出たんですよ! 何をまごまごしているんですかい。草香流だッ。草香流ですよ!」
「とち狂うなッ。これまで来ても、おめえには善悪がわからねえのかッ。お家にあだなす悪人ばら成敗といまお嬢さんが名のったじゃねえかッ。――田鶴どの! おなごの身にあっぱれでござる! 八丁堀の近藤右門がおすけだちいたしまするぞッ」
 叫びざま、ぱっとおどり出すと、おちついているのです。ぽきりぽきりとおもむろに指鳴りさせながら、すいとふたりののろい侍の白刃下へ歩みよると、胸のすく伝法なあの啖呵《たんか》でした。
「犬でも三日飼われりゃ恩を忘れねえってんだ。お禄《ろく》をいただくご主君をのろうたア、世間のだれが許してもむっつり右門とあだ名のこのおいらの気っぷがかんべんできねえんだ。おひざもとを歩くにゃ、もっとりこうになって歩きなせえよ。そらッ。ぽきりと行くぜッ。これが江戸に名代の草香流だッ。涼むがいいやッ」
 ダッと急所の胸当てを一本。ばたり、ひとりを倒しておくと、まことにどうもいいようもなくよろしい啖呵でした。
「おあとのご仁! 江戸八丁堀にはね、大手、からめ手、錣正流《しころせいりゅう》、草香流、知恵たくさんのわっちみてえなのが掃くほどいるんだ。ついでにお涼みなせえよ」
 ぱっと飛び込みざまに、同じく急所へ一本。
「あっさりのめったな。どうやらかたづいたようです。お嬢さま、おてがらでござりましたな」
「ま! お礼もござりませぬ。ことばも、ことばもござりませぬ。この者たちは……」
 いいかけたのを、
「おっしゃらずに! おっしゃらずに! 人に聞かれちゃご家名にかかわります。おおかた、この連中がよからぬお家横領のたくらみを起こして、お殿さまをそそのかし、まずじゃまになるやつから先に遠ざけようと、忠義無類のあんたのお父御《ててご》さまを閉門のうきめに会わせたんでしょうね」
「はっ。そのとおりでござります。そればかりか、このように毎夜毎夜――」
「いいや、わかっておりますよ。このとおり毎夜毎夜人を替え、もったいないことにもお殿さまのお命を縮めたてまつろうとしているんで、おなごの身も顧みず、ひと知れずあなたおひとりで悪人ばらを根絶やしにしようと、ああして犬をお使いになったんでござんしょうが、それにしてもこのかわいそうな犬はよく慣らしたもんですね」
「お恥ずかしいことでござります。大の男を相手にわたくしひとりでは、とてもたくさんの悪人成敗はおぼつかないと存じまして、父がいつくしみおりましたこの秋田犬を、二十日《はつか》あまりもかかってひそかに慣らし込み、ようやくゆうべまでは首尾よう仕止めましたなれど、今宵《こよい》のこの危ういところ、ご助力くださりまして、田鶴は天にものぼるようなうれしさでいっぱいでござります……それにつけましても、クロを殺したことは……クロを殺しましたことは何より悲しゅうござります」
「お嘆き、ごもっともでござりましょう。そのかわり、このかわいそうなむくろをお殿さまにお目にかけて、それからこのわら人形でござります。これもいっしょにお見せ申したら、罪ないお父御《ててご》の閉門も解かれましょうし、お殿さまおみずから残った悪人ばらをご成敗あそばすでしょうから、お家もこれでめでたしとなりましょうよ。ここに涼んでおりまするふたりのご藩士は、あとから近所のつじ番所の者たちに引かして、こっそりお屋敷へ送り届けさせましょうからな。そなたは一刻も急がねばなりませぬ。はよう、犬と人形《ひとがた》をお持ち帰りになって、しかじかかくかくと申しあげ、クロの忠義をたてておやりなせえまし――伝あにい、早く手配しな。お嬢さまにはお駕籠《かご》を雇ってね。では、ごめんくだせえまし。八丁堀の右門はけっしてお家の秘密を口外するような男じゃござんせんからな。ご安心なさいませよ」
 ――すうと風にほつれた鬢《びん》を吹かして、秋虫をきききき帰っていった名人の姿のほどのよさ! ――。苦労をしたい。まったく江戸の女たちがこのゆかしく男らしい名人と恋に身を焼くほどもひと苦労したくなるのはあたりまえです。
 そうして八丁堀へ帰りついたのは、朝朗らかな白々あけでした。と同時のように、それを待ちうけながら、にこにこして名人を迎えたのは、あのあば敬のだんなです。
「おかげさまで――」
「おてがらでござりましたか」
「どうやら、一味徒党五人ばかりを捕えましたわい。やっぱり、そなたの眼のとおりでござったよ。八丈島から抜けてきたやつらが小判ほしさに、さっきのあの浪人めの入れ知恵で、騒動につけ込み、にせ手口の荒かせぎしたのでござったわい。ときに、そちらのホシはどうでござった」
「それもおかげさまで、しかし他言のできぬてがらでござります。それゆえと申しては失礼でござりまするが、どうぞあなたの捕物《とりもの》はあなたおひとりのおてがらにご上申なされませ。お奉行さまもお喜びでござりましょうよ。てまえのてがらは口外もできぬてがらでござりまするが、いちどきにあなたさまともども、二つの騒動が納まりましたのでござりまするからな。――伝あにいよ、二日分ばかりゆっくり寝るかね」
「ちげえねえ。敬だんな、ごめんなせえよ。お奉行さまからおほめがあったら、クサヤの干物でもおごらなくちゃいけませんぜ。てッへへへ。出りゃがった。ね、ほら、朝日がのっかりとお出ましになったんですよ。なんとまあ朗らかな景色じゃごんせんかね」
 こやつもきょうばかりは、あば敬だんなにたいそうもなくおせじがいいのです。――そこへうれしいたよりがぽっかりと訪れました。
「近藤右門様まいる。田鶴――」としてあるのです。
「はあてね。もうさっきのあのお嬢さまが、胸を焦がしたってわけじゃあるめえね」
「黙ってろ」
 開いてみると、次のごとき一書でした。
「さきほどは三ツ又稲荷にてうれしきお計らい、お礼申しあげまいらせ候《そうろう》。さそくに屋敷へ帰り、おさしずどおり、殿さまに申しあげ候ところ、万々のことめでたく運び候まま、お喜びくだされたくこのご恩は、田鶴一生忘れまじく、またの日、お身親しくお目もじもかないえばと、夢のまにまにそのこと念じまいらせ候。取り急ぎあらあらかしこ――」
「てへへへ。うれしいね。え! ちょいと、夢のまにまに念じまいらせ候とは、陰にこもって思いが見えて、うれしいじゃござせんか。いいや、なになに、お奉行さまからは表だってのご賞美はなくとも、こういうやさしいところが、夜ごと日ごとにぽうっとなって念じてくれりゃ、ね、だんな、いっそありがてえくらいじゃござんせんか。え? いけませんかね」
 だが、名人はにこりともしないで、なんの変哲もないというように、あごをもてあそんだままでした。――いい虫の音です。そのとき、いい秋虫の朝音が、チリチリと庭の茂みからきこえました。

底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2000年4月17日公開
2005年9月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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