佐々木味津三

右門捕物帖 お蘭しごきの秘密— 佐々木味津三

     

 ――その第二十八番てがらです。
「一ツ、三月十二日。チクショウメ、ふざけたまねをしやがる。女ノ女郎めが、不忍《しのばず》弁天サマ裏ニテ、お参リノ途中、腰ニ結ンデおったる、シゴキを盗み取られたとなり。くやしいが、ベッピンなり。昼間のことなれば、やいの、やいのと、呼ンダレド、呼ンダレド、だれも助けに来ねえとなり。いと怪し」
「一ツ、三月十三日。雨降ッテ、だんなのキゲンワロシ。
 シゴキどろぼう、また出りゃがった。両国|河岸《がし》にて、見せ物小屋の絵看板を、見とれておったれば、スルスルと腰から盗みとられたとなり。このほう、三割方、キリョウおちたるうえに、男が好きそうな下町っ子なり。雨なれば、呼ベド叫ベド人は来ズ、悲しやくせ者逃がしたり。と女の子が申し候《そうろう》」
「一ツ、三月十五日。だいぶ春めきて、四方《よも》の景色いとよろし。
 だんなが、食いていとのことなれば木ノ芽田楽コセエタリ。だんなが十九本。おらが三本、あとにてないしょに十六本、それはさておき、またまたチクショウメ、シゴキ盗人出やがったり。番町、旗本、大沢|八郎右衛門《はちろうえもん》方、奥勤メ腰元、地蔵まゆにて目千両とのことなり。お使いにて出先よりけえりの途中、牛込ご門わき、濠《ほり》ばたにてギュッとうしろよりくせ者だきしめ、腰のあたりをポテポテとなでたとみるまに、スルスルと、ハヤ盗まれたり、若き女の腰ばかりをねらうとは、憎さも憎し。くやしくて銭湯へ行くのも忘れたり」
「一ツ、三月十六日。
 春が来て、ヒトリ寝ルノハイヤナレド、花が咲くゆえがまんできけり」
「おっといけねえ、いけねえ。うっかりと声も出して読めねえや。こりゃおらがゆうべないしょによんだ歌なんだからな。こんなものをだんなに聞かれたひにゃ、手もなく笑われらあ。――はてな。まだあったと思ったが、もうねえのかな」
「ウフフ……」
「え! 起きていたんですかい! しゃくにさわるね。寝てたと思っていたら目があいていたんですかい!」
 声をたてて読んでいたのはもちろん伝六。しかも、読んでいたのは笑わせることに、『ふところ日記八丁堀伝六』と表紙にものものしい断わり書きの見えるとらの巻きなのですから、すさまじいのです。
「ウフフ。今のは歌かい」
「いらんお世話ですよ」
 春|行燈《あんどん》の向こうからこちらへ背を向けて、うつらうつらとまどろんでいたと思ったればこそ、つい心を許して口ざみしさのあまりに読むともなく読みあげていたのを、意外にもすっかり名人に聞かれてしまったので、恥ずかしさと腹だたしさに伝六は中っ腹でした。
「人の悪いにもほどがあらあ。ないしょごとってえものがあるんだ。人間にはだれだって他人に聞かせてならねえないしょごとってえものがあるんだからね。起きていたなら起きていたと、背中に張り紙でもしておきゃいいんですよ」
「おこるな、おこるな。感心しているんじゃねえかよ。おまえが敷島の道に心得があるたア、見かけによらず風流人だよ。花が咲くゆえがまんできけり、と特にけりで結んだあたりが、またいちだんとね、えもいわれぬ味があるよ」
「へへへ、ちくしょうめ、恥ずかしいね。ほめてくだすったんですかい。いえ、なに、それほどでもねえのだが、あっしだって木石じゃねえんだからね。人にしてみやび心のなかりせば、犬ねこ馬と同じなりけり、という歌もあるんで、ちょっとそのゆうべ、一首ものしてみたんですよ。へへへ、うれしいね」
「あきれたもんだよ」
「へ……?」
「ほんとうにほめられたと思ってらあ。みやび心だかなんだか知らねえが、おまえのとらの巻きゃ肝心かなめのことを書き落としておるな」
「な、な、何がなんです! 上げたり下げたり、しゃくにさわるね! 肝心かなめのことを書き落としているたア何がなんですかよ!」
「いま読みあげたしごきどろぼうのことよ。そりゃほんとうにあったことかい」
「ちぇッ、だから腹がたつというんですよ! こないだから口がすっぱくなるほどいったじゃござんせんか! これこれかくかくで、わけえ女の腰ひもばかりを抜きとる色きちげえみてえなやつが、あっちへ出たりこっちへ出たりしていやがるから、陽気が陽気だ、ねらうところも腰ばっかりで穏やかじゃねえ、ほかならぬわけえ女ばかりが災難に会ってるんだから、ちょっくらお出ましになって、娘っ子たちを安心させておやりなせえよと、顔を見るたびにいったじゃござんせんかよ! 女の子のこととなると、やけにつむじを曲げて、目のかたきにしているから、こういうことになるんだ。これには三ところしきゃけえてねえが、きょうのふた口を入れると、しめて八人、きゅうっと抱きしめられて、つるりとなでられて、するするとしごきを抜きとられているんですよ」
「そんなことをきいているんじゃねえんだよ。ふところ日記だか、へそ日記だか知らねえが、おまえさんのそのとらの巻きにはな――」
「いいえ、だんな! うるせえ! しゃべりなさんな! きょうはおらのほうが鼻がたけえんだ。事のしだいによっちゃ後世までも残るかもしれねえおらがのこの日記を、へそ日記とは何がなんですかよ! 毎日毎日、丹念に女の子の顔造作までも書き止めておいたからこそ、いざというときになって物の役にたつじゃござんせんか。口幅ったいことはいってもらいますまいよ」
「ウフフ。それが勘どころをはずれているというんだ。大きに丹念に書いたのはいいが、丹念なところは女の子の顔ばかりで、ホシの野郎はどんなやつか、肝心かなめの下手人の人相書きは、毛筋ほども書き止めていらっしゃらねえじゃねえかよ、だいじなことが抜けているというな、そのことなんだよ」
「はてね。――お待ちなせえよ。もういっぺん読み直してみるからね。――ちぇッ、なるほど、ねえや、ねえや。どこにもねえですよ! 自慢じゃねえが、りっぱに書き落としてありますよ」
「バカだな。てめえのしくじりをてめえで感心するやつがあるかい。ホシゃいってえどんなやつなんだ」
「それが穏やかじゃねえんですよ。つじ番所の下っぱ連に聞いたんだから、しかとのことアわからねえが、出る町、出るところ、出る場所ごとに人相も風体も変わってね、おまけにわけえ野郎だったり、中じじいだったり、ところによっちゃ女のばばあが出たりするってえいうんですよ」
「やられた女は、たしかにわけえ女ばかりなのかい」
「そ、そ、そうなんだ。そうなんだ。だから気がもめるんですよ。おかめやお多福やとうのたった女なら相手にするこっちゃねえんだが、八人ともに水の出花で、みなそれぞれ相当に値が踏めるんでね、よけい気がもめるんだ。よけいね、よけい気がもめてならねえんですよ」
「わかった、わかった。そんなになんべんもいわなくたってわかったよ。女の子のこととなると、むやみと力を入れりゃがって、あいそがつきらあ。じゃなにかい、ほかには何もとられた品はねえんだね」
「ねえから、なおのこと気がもめるんだ。きんちゃくだってかんざしだっても、とる気になりゃいくらでもとれるくせに、そういう品にゃいっこう目もくれねえで、おかしなところをつるりとやりゃがっちゃしごきばかりをねらうんでね、こいつかんべんならねえと、あっしもいっしょうけんめいに文句を考えて、このとおりとらの巻きにいと怪しとけえたんですよ。自慢じゃねえが、えへへ、なかなかこういうおつな文句は書けねえもんでね。ええ、そうですよ。学問がなきゃなかなか書けるもんじゃねえんですよ」
「能書きいわなくともわかっているよ。そのしごきは、どんなしごきだ」
「それが穏やかじゃねえんです。だんながお出ましにならなきゃ、おらが片手間仕事にちょっくらてがらにしようと、じつあきょう昼のうちに八人みんな回って、小当たりに当たってみたんですが、八本ともとられたしごきてえいうのが、そろいもそろって、目のさめるような江戸紫のね――」
「なにッ」
 がぜん、きらりとばかり目を光らすと、むっくり起き上がっていったものです。
「どうやら、聞きずてならねえ色だ。もしや、その江戸紫にゃ、どれにも鹿《か》の子《こ》絞りを染め抜いてありゃしねえか」
「あるんですよ! あるんですよ! そのうえできが少し――」
「風がわりで、ふっさりと幅広の袋ひもになってるだろう!」
「そうなんです! そうなんです! しごきといや、天智《てんち》天皇の昔から、ひと重のもので、ギュッと伊達《だて》にしごいて用いるからこそ、そういう名まえがついているくれえのものなのに、ふた重で袋仕立てになっているたアあんまり聞かねえからね、こいつ、何かいわくがあるだろうと、じつあ首をひねっていたんですが、かなわねえね。だんなはまたどうしていながらにそうずばずばと何もかもわかるんですかい」
「そんなことぐれえにらみがつかねえでどうするかい。目のさめるような江戸紫ときいたんで、ぴんときたんだ。まさしくそりゃ、いま江戸で大評判のお蘭《らん》しごきだよ」
「はあてね。なんですかい! なんですかい! 聞いたようでもあり、聞いたようでもねえが、今のそのお蘭しごきというななんですかい。くさやの干物に新口ができたとかいう評判ですが、そのことですかい」
「しようのねえ風流人だな。だから、おめえなんぞ歌をよんでも、花が咲くゆえがまんできけりになっちまうんだ。そんなことぐれえ知らねえでどうするんかい。加賀様の奥仕えのお腰元のお蘭というべっぴんが思いついて、江戸紫に今のその鹿の子絞りを染めさせ、袋仕立ての広幅にこしらえさせて、ふっさりふさのように結んでたらしたぐあいがいかにもいきで上品なところから、お蘭しごきという名が出たんだよ。くさやの干物とまちがえるようなおにいさんに手の出るような安い品じゃねえんだ。よりによってお蘭しごきばかりねらいとるたアただ者じゃあるめえ。慈悲をかけてお出ましになってやるから、したくしな」
「ちぇッ。ありがてえ。ちくしょうめ。だから、歌もよむものなんだ。春が来て花が咲くゆえとよんだればこそ、しごきどろぼうもだんなのお目に止まったじゃねえかよ。察するに、イの字とロの字のきちげえにちげえねえんだ。でなきゃ、よしやお蘭しごきが一本三両しようと五両しようと、おかしなところをつるりとなでて、わざわざ腰に締めているのを抜きとるなんて、人ぎきのわりいまねをするはずあねえんだから、べらぼうめ、おらがに断わりなしで江戸の女に手を触れるってえことからしてが、かんべんならねえんだ。おしたくがよければ出かけますぜ!」
 どこへ行くつもりなのか、ひとりで勢い込んでいるとき、けたたましく表口から呼びたてる声が聞こえました。
「だんなだんな、だんなはどちらでござんす!」[#「ござんす!」」は底本では「ござんす!「」]
「だれだ、だれだ。どこのどいつだよ。ただだんなじゃわからねえや。今ここに、だんなはふたりいるんだ。右門のだんなか、伝六だんなか、どっちだよ」
「そういう伝だんなでござんす。あんたに、伝だんなにちょっくら用があるんですよ」
「えへへ。うれしいことをいやがるね。伝だんなとは気に入ったね。待ちな、待ちな、今あけるからな。――そら、見てくんな。これが伝だんなのお顔だ。わざわざおれに用とは、どこのだれだよ」
 ことごとく上きげんでぬっと顔を出しながらのぞいてみると、――いないのです。影もない。姿もない。たしかに声も足音も聞こえたのに、人影はおろか、犬の子すらも生き物の影は皆無でした。
「ちくしょうッ。気味のわるいまねをしやがるね、よしねえよ、よしねえよ。隠れたってだめなんだから、ふざけたまねはよしねえよ」
 いぶかりながら、なにげなくひょいと足もとを見つめると、はからずも目を射たものはぶきみな一通の書状でした。あて名はない。
 そのうえに左封でした。――左封はいうまでもなく果たし状か脅迫状か、いずれにしても不吉を物語っている書状です。
「いけねえ! いけねえ! だんなッ、は、早く来てくださいよ! 変なものが舞い込みやがったんだ。気味のわりいものが飛び込んできたんですよ! は、は、早く来ておくんなせえよ!」
 けたたましく呼びたてて、名人のうしろからこわごわ背伸びしながらのぞいてみると、まさにそれは脅迫状でした。
「出すぎ者めがッ、いらぬ告げ口しやがって、ただはおかぬぞ。じゃまだてするなら、こちらにも覚悟があるから、さよう心得ろ」
 達筆にそう書いた脅迫状なのです。投げ込んでいった者はまぎれもなく町人風のことばつきだったのに、不審なことにも脅迫状のその差し出し人は、たしかに二本差しと思われる文面なのでした。
「ウフフ。おっかねえぜ」
「いやですよ! 気味のわりい。だんなまでがいっしょになっておどすとは、なんのことですかよ。名あてはねえが、おらがによこしたもんでしょうかね」
「あたりまえさ。伝だんなとやらがこのうちにふたりおるなら知らぬこと、そうでなけあおまえさんだよ。さよう心得ろとあるから、さよう心得ていねえとあぶねえぜ」
「冗、冗、冗談じゃねえんですよ。くやしいね。なんとかしておくんなさいよ」
「おいらは知らねえよ。伝だんなじゃねえんだからな。ウフフ」
「くやしいね! なんてまた薄情なこというんでしょうね。こういうときにこそ、主従の縁《えにし》じゃねえんですかよ! ちくしょうめッ。こんなことになるくれえなら、歌なんぞよまなきゃよかったんだ。いらぬ告げ口しやがってとあるな、おらが今だんなに話したお蘭しごきの一件にちげえねえが、どうしてまたおしゃべりしたことをかぎつけやがったんでしょうね」
「ご苦労さまに、毎日毎夜どこかそこらで見張っていたんだろうさ。今夜もおそらく、あとをつけてくるだろうよ。どうやら、本筋になりやがった。性根をすえてついてきな」
「だ、だ、だいじょうぶですかい」
「忘れるねえ! 久しくお使いあそばされねえので、草香流が湯気をたててるんだッ。よたよたしねえで、ちゃんと歩いてきなよ」
 こともなげに言い捨てながら、ぶきみなその脅迫状を懐中にすると、何をにらんでのことか、名人右門は駕籠《かご》にも乗らずに、その場からさっさと京橋を目ざしました。

     

「お、お、お待ちなさいよ、薄情だな。やけにそんなに急がなくともいいじゃござんせんか! 今夜ばかりは、いやがらせをしないでおくんなさい! え! だんな!」
「…………」
「ね! ちょいと! 意地曲がりだな。どこへいったい行くんですかよ! ねらわれているな、あっしなんだ。だんなは草香流をお持ちだからいいかもしれねえが、おらがの十手はときどきさびを吹いてものをいわなくなるんですよ。ね! ちょいと!」
「…………」
「やりきれねえな。今夜は別なんだ。黙ってりゃ、いまにもねらわれそうで気味がわりいんだから、子分がかわいけりゃ人助けだと思って、なんとかうそにも景気をつけておくんなさいよ」
 だが、もとより返事はないのです。――季節はちょうどまた花どきの宵《よい》ざかり。それゆえにこそ、花のたよりも上野、品川、道灌山《どうかんやま》からとうに八百八町を訪れつくして、夜桜探りの行きか帰りか、浮かれ歩く人の姿が魔像のような影をひきながら、町は今が人出の盛りでした。
 いうがごとくつけている者があるとしたら、尾行者にとっては人出のその盛りこそ、まことに屈強至極です。ねらわれているとしたら、また伝六にはこのうえもなくふつごう千万なのでした。自身もまたそれが恐ろしいとみえて、しきりとびくびくしながら、うしろ、前、左右に絶え間なく目を配って探ったが、しかしそれと思わしい者の影はない。だのに、名人がまた知ってのことか、わざとにか、いっこうにむとんちゃくなのです。つけていようがいまいが気にも止めないような様子で、さっさと通りを急ぎながら、やがて目ざしていったところは、そこの京橋ぎわの老舗《しにせ》らしいひと構えでした。
 見ると、夜目にもそれとわかる大きな看板がある。
「加賀家御用お染め物師 紅屋|徳兵衛《とくべえ》」
 としてあるのです。
「えへへ。なるほど、そうでしたかい。なるほどね」
 およそ途方もなく気の変わる男でした。鳴りに鳴っていたのに、血めぐりの大まかな伝六にも、加賀家お出入りの染め物師とある看板を見てはぴんときたとみえて、たちまち悦に入りながら、声からしてが上きげんでした。
「やけにうれしくなりゃがったね。このくれえのことなら、いくらあっしだっても眼《がん》がつくんですよ。それならそうと、出がけからいやいいのに、草香流が湯気をたてているのなんのと荒っぽいことをおっしゃったんで、あっしゃてっきりおどし文句の本尊の根城にでも乗り込むんだろうと肝を冷やしていたんですよ。ここへ来たからにゃ、お蘭しごきもここで染めあげたにちげえねえとおにらみなすってのことでしょうね」
「決まってらあ、江戸紫が紅徳か、紅徳が江戸紫かといわれているほどの名をとった老舗《しにせ》なんだ。加賀百万石の御用染め屋で、お蘭が加州家奥勤めのお腰元だったら、しごきもここが染め元と眼《がん》をつけるなあたりまえじゃねえかよ。むっつりしてはおっても、やることはいつだってもこのとおり筋道が通っているんだ、気をつけな」
「ちげえねえ!――おやじ、おやじ、紅屋のおやじ! おまえもちっと気をつけな。むっつり右門のだんなが詮議《せんぎ》の筋あって、わざわざのお越しなんだ。気をつけてものをいわねえと首が飛ぶぞッ」
「は……? なんでござんす? やにわとおしかりでございますが、てまえが何をしたんでござんす?」
 びっくりしたのは紅屋徳兵衛です。そこの店先にすわって、商売物のもう用済みになったらしい染め型紙をあんどんの灯《ほ》ざしにすかしてはながめ、ながめてはすかしつつ、一枚一枚と余念もなく見しらべていたところへ、ああいえばこういって口ばかりはけっして抜からぬ伝六、いっこうに筋道の通らぬどなり声が不意に飛んでいったので、不審げに目をみはりながらふり向いたその顔へ、名人の声が静かに襲いました。
「精が出るな、景気はどうかい」
「上がったり下がったりでござんす」
「世間の景気を聞いているんじゃねえんだ。おまえのところの景気だよ」
「下がったり上がったりでござんす」
「味にからまったことをいうおやじだな、お蘭しごきの売れ行きはどんなかい」
「売れたり売れなんだりでござんす」
「控えろ、何をちゃかしたことを申すかッ。神妙に申し立てぬと、生きのいい啖呵《たんか》が飛んでいくぞッ」
「それならばこちらでいうこと、かりにも加賀|大納言《だいなごん》さまお声がかりの御用商人でござんす。あいさつもなく飛び込んできて、何を横柄《おうへい》なことをおっしゃりますかい」
「とらの威をかるなッ」
 姿もひねこびれたおやじですが、いうこともまたひねこびれたおやじです。前田家出入りに鼻を高めたその鼻の先へ、すさまじくほんとうに生きのいい啖呵《たんか》が飛びかかりました。
「この巻き羽織、目にはいらぬかッ。加賀のお城下ならいざ知らず、八百万石おひざもとにお慈悲をいただいておって、何をふらち申すかッ。そちこれなる紺屋《こうや》たれさまのご允許《いんきょ》受けて営みおるかッ、加賀宰相のお許し受けたと申すかッ。不遜《ふそん》なこと申すと、江戸まえの吟味が飛んでまいるぞッ」
「なるほど、いや、恐れ入りました。じつは、そちらのやかましいだんなが、――いや、これは失礼。そちらの威勢のいいだんなが、やにわとおかしなことをおっしゃってどなりつけましたゆえ、つい腹がたったのでございます。なんともぶちょうほうなことを申して、恐れ入りました。ご詮議《せんぎ》の筋は?」
「お蘭しごきだ。売れ行きはどんなか」
「飛ぶように、――と申しあげたいが、なんしろ物が駄物《だもの》と違いまして少々お値段の張る品でござりますゆえ、月々さばけるはほんのわずか、それに染めあげるてまえのほうから申しましても、染め粉はもとより、ちりめんからして吟味いたしまして、織り傷一本、染めみだれひと筋ございましてもはねのけますゆえ、染めあがる品もわずかでござりまするが、売れ行きも月ならしせいぜい三、四十本というところでござります」
「このごろはどうだ」
「さよう? この月の十一日でござりましたか、三十六本仕上がってまいりましたのが、ついさきおとついまでに、みんな売れ切れましてござります」
「買い主はおおよそどっち方面だ」
「下町、山の手、お娘御たちも町家育ちお屋敷者と、ばらばらでござりまするが、まとまったところでは加賀様がやはり――」
「御用があったか」
「へえ、それも珍しく大口で、いま申したさきおとついの日、ひとまとめにして二十五本ほどお納めいたしましてござります」
「なに、二十五本とのう! いちどきに二十五本とは豪儀とたくさんのようだが、加賀家の御用は毎月そんなか」
「いいえ、ちとご入用の筋がござりまして、今度は格別でござります。月々しごきはたかだか三、四本、それもごくふう主のお蘭さまばかりでござりましてな、ご器量もお屋敷第一でござりまするが、ぜいたくもまたお腰元第一とみえまして、同じものをそう何本も何本もどうするかと思いますのに、もうこの半年ばかりというもの、毎月毎月決まって三本ずつご用命いただいておりまするでござります」
「なに! 月に決まって三本ずつとのう! なぞはそれだな」
「は……?」
「いや、こちらのことよ。伝六ッ」
「へ……?」
「おまえのふところ日記のあれは、いつから始まっておったっけな」
「ひやかしゃいけませんよ。三月十二日があれの出始め、いと怪しのほうもその日が初日じゃござんせんか」
「なるほどな。十一日に三十六本染め上がってきて、あくる日から幕があいたか。ちっとにおってきやがった。では、おやじ、その三十六本はもう一筋も残っていねえんだな」
「へえ、さようでござります。毎日毎日のお花見騒ぎで、手代はじめ職人どももみんな浮かれ歩いておりますんで、ここ当分あと口の染め上げは差し控えておりますんでござります」
「いかさまのう――」
 いいつつ、じろりと移したその目に、はしなくも映ったのは、おやじのひざわきに積み上げてある型紙の山です。染めあげた日取りの順序に積み上げてでもあるとみえて、いちばん上に置かれてある一枚に不審な点が見えました。
 第一は紋、梅ばち散らしの紋が型ぬきになっているのです。いうまでもなく、梅ばちは加賀家のご定紋でした。
 第二はその長さ。まさしく型紙の長さは、手ぬぐい地の寸法なのです。――同時に、きらりと鋭くまなこが光ったと見えるや、名人のさえまさった声が飛んでいきました。
「おやじ! 妙なことがあるな」
「なんでござります?」
「そのいちばん上の型紙よ。たしかにそりゃ手ぬぐいを染めた古型のようだが、違うかい」
「さようでござります。ついきのう染め上げて、もうご用済みになりましたんで、倉入りさせようといま調べていたんですが、これが何か?」
「何かじゃねえや! 梅ばちは加賀家のご定紋だ。縮緬《ちりめん》羽二重、絹地のほかにゃ手もかけたことのねえ上物染め屋と名を取った紅徳が、下物《げもの》も下々の手ぬぐいを染めるたあ、不審じゃねえかよ。どうだい、おかしいと思わねえかい」
「アハハ。なるほど、さようでござりましたか。いかにもご不審ごもっともでござりまするが、いや、なに、打ち割ってみればなんでもないこと、よそへ頼むはやっかいだ、ついでに二十五本ばかり大急ぎに染めてくれぬかと、加賀家奥向きから、ご注文がございましたんで、いたずら半分に染めたんでございます」
「なに、やはり二十五本とのう。百万石の奥女中が、そればかりの手ぬぐいを急いでとは、またどうしたわけだ」
「あす、上野でお腰元衆のお花見がございますんでな、そのご用を仰せつかったんですよ」
「ウフフ。そうかい。――ぞうさをかけた。甘酒でも飲んで、暖かく寝ろよ」
 ぷいと表へ出ると、うそうそとひとりで笑いながら、何思ったかやにわに伝六を驚かしていったものです。
「あにい。この辺のどこかにかまぼこ屋があったっけな」
「へ……?」
「かまぼこ屋のことだよ」
「はてね。かまぼことは、あの食うかまぼこのことですかい」
「あたりまえだよ」
「ちくしょうッ。さあおもしろくなりやがったぞ。右門流もここまで行くとまったく神わざもんだね。お蘭しごきの下手人がかまぼこ屋たア、しゃれどころですよ。板を背負ってはりつけしおきとはこれいかにとね。ありますよ! ありますよ! ええ、あるんですとも! その横町を向こうへ曲がりゃ、江戸でも名代の伊豆屋《いずや》ってえのがありますよ」
「買ってきな」
「へ……?」
「三枚ばかり買ってこいといってるんだよ」
「ね……!」
「何を感心しているんだ。うちのだんなは特別食い栄耀《えいよう》のおかただから、いちばん上等をくれろといってな、値段にかまわず飛びきり一品を買ってきなよ。それからついでに、あたりめ甘露煮、なんでもいいからおまえさんの口に合うようなものをいっしょにたんまり買って、酒も生一本を一升ばかり忘れずに求めてな、ほら、一両だ。これだけありゃたっぷりだろう」
「おどろいたな。ちょっと伺いますがね」
「なんだよ」
「なんしろ、陽気がこのとおりの木の芽どきなんだからね。ちょっと気になるんですが、まさかにぽうっときたんじゃござんすまいね」
「染めが違わあ。紅徳の江戸紫だっても、こんなに性のいい江戸前にゃ染まらねえんだ。一匁いくらというような高値《こうじき》なおいらのからだが、そうたやすくぽうっとなってたまるけえ。とっとと買ってけえって、お重に詰めて、あしたの朝ははええんだからな、いつでも役にたつようにしたくしておきな。おいら、ひと足先にけえって寝るからね、おしゃべりてんかん起こして道草食ってちゃいけねえぜ」
 不意打ちの命令に、鼻をつままれでもしたかのごとくぽうっとなりながらたたずんでいる伝六を残しておいて、さっさと先に八丁堀へ帰っていくと、春のよさりの灯影《ほかげ》を抱いて、ひとり寝の夢も紫色の、気のもめる安らかな夢路におちいりました。

     

 朝です。
 八百八町ひとわたり一円が、薄日の影も淡く銀がすみにけむって、のどかさいうばかりない花曇りでした。
 しかし、いっこうにのどかでないのは、宵越しに鼻をつままれたままでいる伝六です。
「じれってえね、いつまで寝ているんですかよ。明けたんだ、明けたんだ。もうとっくに今日さまはのぼったんですよ」
 がんがんとやりながらはいってくると、鼻をつままれた寝ざめの悪さが腹にたまっているとみえて、頭ごなしにがなりたてました。
「しゃくにさわるね。ゆうべなんていったんですかよ。朝ははええんだから道草食うなといったじゃござんせんか。つがもねえひとり者がまくらと添い寝をやって、何がそういつまでも恋しいんですかい。お重も、かまぼこも、瓢《ふくべ》も、ちゃんともう用意ができているんだ。どこへ行くか知らねえが、今のうちに起きねえと犬に食わしちまいますぜ」
 朝雷もけたたましく鳴りだしたのを、
「音がいいな」
 軽く受け流してぬっと夜着の中から顔を出すと、おちつきはらいながら不意にいいました。
「その鳴りぐあいじゃ切れ味もよさそうだから、威勢ついでにちょっくら月代《さかやき》をあたっておくれよ」
「な、な、なんですかい! ええ! ちょいと! 人を茶にするにもほどがあらあ、だから、ひとり者をいつまでもひとりで寝かしておきたかねえんだ。無精ったらしいっちゃありゃしねえ。寝ていて月代《さかやき》をそれとは、何がなんですかよ」
「何がなんでもねえよ。じゃいじゃいあたりゃいいんだ、早くしなよ」
「いやですよ」
「じゃ、おいていくぜ。おいら、花見に行くんだからね。それでもいやかい」
「てへへへ……そうですかい! そうですかい! ちくしょうッ。いいだんなだね。なんてまあいいだんなだろうな。あたりますよ! あたりますよ! それならそうと、変に気を持たせねえで、はじめからおっしゃりゃいいんだ。あたりますとも! あたりますとも! あたるなといったってあたりますよ! べらぼうめッ。忙しくなりゃがったね。――どこだ。どこだ、金だらいはどけへいったんだよ! てへへ。うれしがって金だらいまでががんがん鳴ってらあ。――ね! ほら! あたりますよ。じゃい、じゃいとね」
「やかましいな。節をつけてそらなくともいいよ」
「よかアねえんだ。威勢ついでにあたれとおっしゃったからね、景気をつけているんですよ。ね、ほら、じゃいといって、じゃいといって、じゃい、じゃいとね。できました、できました。へえ、お待ちどうさま」
「ばかにはええな。まだらにあたったんじゃあるめえね」
「少しくれえあったって、がまんおしなせえよ。こうなりゃはええほうがいいんだからね。お召し物は?」
「糸織りだ」
「出ました、出ました。それから?」
「博多《はかた》の袋帯だ」
「ござんす、ござんす、それから?」
「おまんまだ」
「ござんす、ござんす。それから?」
「…………」
「え! ちょっと! かなわねえな。もう出かけたんですかい」
 すうと立ち上がると、蝋色鞘《ろいろざや》を落として、差して、早い、早い。声もないが、足も早いのです。
 行くほどに、急ぐほどに、町は春、春。ちまたは春です。鐘は上野か浅草か、八百八町は花に曇って、浮きたつ、浮きたつ。うきうきと足が浮きたつ……。
「てへへ。参るほどに、もはや上野でおじゃる、というやつだ。歌人にはなりてえもんだね。ひとり寝るのはいやなれど、花が咲くゆえがまんできけり、というやつアこれなんだ。たまらねえ景色じゃござんせんかい。え! だんな?」
「…………」
「ちぇッ。またそれをお始めだ。世間つきあいてえものがあるんですよ、おつきあいてえものがね。みんなが浮かれているときゃ、義理にも陽気な顔をすりゃいいんだ。しんねりむっつりとまた苦虫づらをやりだして、なんのことですかよ。――よせやい。酔っぱらい。ぶつかるなよ。でも、いいこころもちだね。えへへへ。花は散る散る、伝六ア踊る。踊る太鼓の音がさえる、とね。――よッ。はてな」
 ぴたりと鳴り音を止めて、ややしばしわが目を疑うように見守っていたけはいでしたが、とつぜんけたたましい声をあげました。
「いますぜ! いますぜ! ね、ね、ちょっと! お蘭しごきが二十本ばかり。大浮かれに浮かれていやがりますぜ」
 おどろいたのも無理はない。ひとり、ふたり、三人、五人、いや、全部ではまさしく二十四人、その二十四人のお腰元たちが、丘を隔てて真向こうの桜並み木のその下に、加賀家ご定紋の梅ばち染めたる幔幕《まんまく》を張りめぐらしながら、いずれもそろって下町好みの大振りそでに、なぞのしごきのお蘭結びを花のごとくにちらちらさせて、梅ばちくずしのあの手ぬぐいを伊達《だて》の春駒《はるごま》かぶりにそろえながら、足拍子手拍子もろとも、いまや天下は春と踊り狂っていたからです。しかも、この踊りがまた尋常でないのでした。夜ごとのお屋敷勤めにきょうばかりは世間晴れての無礼講とあってか、下町好みのその姿のごとくに、歌も踊りもずっといきに砕けて、三味線《しゃみせん》太鼓に合わせながら、エイサッサ、コラサノサッサと婉《えん》になまめかしく舞い狂っているのです。
「おつだね。そろいのあの腰の江戸紫がおつですよ。ね、ちょいと。え! だんな!」
「ひとり足りねえようだな」
「なんです、なんです。何がひとり足りねえんですかい」
「しごきも二十五本、手ぬぐいも二十五本、両方同じ数をそろえて加賀家へ納めたと紅徳のおやじがいったじゃねえかよ。だのに、二十四人しきゃいねえから、ひとり足りねえといってるんだ。ちっとそれが気になるが、まあいいや。ひと目に手踊りの見物できるような場所を選んで、早く店を開きなよ」
「話せるね。むっつりだんなになっているときゃしゃくにさわるだんなだが、こういうことになるとにっこりだんなになるんだから、うれしいんですよ。おらがまた気のきくたちでね。おおかた筋書きゃこうくるだろうと、出がけに敷き物をちゃんと用意してきたんだ。へえ、お待ちどうさま。そちらがうずら、こちらが平土間、見物席ゃよりどりお好みしだいですよ」
 どっかりすわると、不思議です。さっそくことばどおり手踊り見物でもやるかと思いのほかに、名人はそのままくるりと背を向けて寝そべると、伝六なぞにはさらにおかまいもなく、もぞりもぞりとあごの下をなではじめました。
「くやしいね。なんてまた色消しなまねするんでしょうね。ちっとほめると、じきにその手を出すんだからね。え! ちょいと! 起きなせえよ!」
「…………」
「ね! だんな!――むかむかするね。酒の味が変わるじゃござんせんかよ、ゆうべ夜中までかかって、せっかくあっしがこせえたごちそうなんだ。せめてひと口ぐれえ、義理にもつまんでおくんなせえよ」
 だが、もう声はない。鳴れど起こせど、散るは桜、花のふぶきにちらりもぞりとあごをまさぐって、見向きもしないのです。
「ようござんす! 覚えてらっしゃいよ!、べらぼうッ。意地になってもひとりで飲んでみせらあ。――えへへ。これはいらっしゃい。あなたおひとりで。へえ、さようで。では、お酌をいたします。これは恐縮、すみませんね。おっと、散ります、散ります。ウウイ。いいこころもちだ。さあ来い、野郎、歌ってやるぞ。木《き》イ曽《そ》のネエ、ときやがった」
 ヨヤサノ、ヨヤサノ、コラサッサ。
「伝六さアまはここざんす」
 ならば行きましょ、西国へ。
 女夫《めおと》ふたりの札参り。
 じゃか、じゃか、じゃと踊って舞って、お蘭しごきの二十四人が向こうとこちらに声を合わせつつ、伝六ここをせんどと大浮かれです。
「品川沖から入道が、八本足の入道が、上がった、上がった、ねえ、だんな」
 ほんに、寝顔がよいそうな。
 意気な殿御にしっぽりと。
「ぬれたあとから花が散る。コラサノサアのさあこいだ。ねえ、だんな、いっぺえどうですかい」
 せつな!
 ザアという雨でした。花のころにはつきもののにわか雨です。
 とたん! 右往左往と右に走り左に逃げて、雨を避けながら走りまどう浮かれ女、浮かれ男の群衆の中から、とつぜん絹を裂くようないくつかの女の悲鳴があがりました。
「お出会いくださいまし!」
「お出会いくださいまし!」
「どろぼうでござります! お山同心さま!」
「くせ者でござります。くせ者が出ましてござります」
「しごきどろほうでござります」
「え! ちくしょうッ。だんな、だんな。出やがった、出やがった。ね、ほら、ほら! あれが出やがったんですよ」
 おどろいたのは、品川沖から上がったつもりで、たこも入道のひょっとこ踊りに浮かれ騒いでいた伝六です。うちうろたえて、ひょろひょろと立ち上がったその目の先を、なるほど走る。走る。三人! 五人! いや、六人! 八人!
 いずれもそれがならずもの、遊び人、すり、きんちゃくきりといったような風体のものばかりで、奪っては追いかけ、追いかけては奪い取って逃げ走るそのあとを、ぶっさき羽織、くくりばかま姿の上野お山詰め同心たちが追いかけながら、逃げまどうそれらの人の間をまた、雨と突然の変事におどろき逃げ走る群衆が右往左往と駆け違って、ひとときまえの極楽山はたちまち騒然と落花|狼藉《ろうぜき》阿鼻《あび》叫喚の地獄山と変わりました。
 だが、名人はいかにもおちついているのです。叫びを聞くやもろとも、さっと起き上がったので、すぐにも押えに駆けだすだろうと思われたのに、そのままじっとたたずみながら、おいらはこれを待っていたんだというように、烱々《けいけい》とまなこを光らして、ひとり、ふたり、三人とお山同心たちの手に押えられていくしごき掏摸《すり》の姿と数を見しらべていましたが、そのときはしなくも目に映ったのは、群衆の向こうの桜の小陰から半身をのぞかせて、怪しく目を光らせながら様子を見守っていた年若い町人の姿です。いや、町人づくりの、のっぺりとしたその男の姿が目にはいったばかりではない、下手人が行くのです、行くのです。奪いとったしごきを懐中にして、必死とお山同心の追撃をさけながら、桜の陰の怪しの町人目ざしつつ逃げ走っていく姿が矢のごとく目を射抜きました。同時です。
「狂ったな。おどし文《ぶみ》の文句のぐあいじゃ、まさしく二本差しのしわざとにらんでおったが、春先ゃやっぱり眼《がん》も狂うとみえらあ。しごきぬすっとの元締めさんは、ちゃちな青造さんだよ。やっこを押えりゃいいんだ。ぽかんとしていねえで、ついてきなよ」
 すいすいと足を早めた名人の姿を知って、ぎょっとなりながら逃げ隠れようとしたが、しかしすでにおそい。ぱらぱらと駆け集まっていく手をふさいだのは、お山同心の一隊です。
「神妙にしろッ」
 押えとったところへ、
「ご苦労にござる」
 ずういと歩みよると、おちついた声でした。
「それなる町人、ちょうだいいたしとうござるが、いかがでござろう」
「なにッ。尊公は何者じゃッ」
 けしきばんだのも当然でした。お山同心といえば権限も格別、職責もまた格別、上野東照宮|霊廟《れいびょう》づきの同心で、町方とは全然なわ張り違いであるばかりではなく、事いやしくもこの山内において突発した以上は、吟味、詮議《せんぎ》、下手人の引き渡し、大小のことすべてこの一円一帯を預かるお山同心にその支配権があったからです。――さればこそ、名人はいたっていんぎんでした。
「ご不審はごもっとも至極、てまえはこれなる巻き羽織でも知らるるとおり、八丁堀の右門と申す者でござる」
「おお、そなたでござったか! ご評判は存じながら、お見それいたして失礼つかまつった。では、この町人たちもなんぞ……?」
「さようでござる。ちと詮議の筋あるやつら、てまえにお引き渡し願えませぬか」
「ご貴殿ならば否やござらぬ。お気ままに」
「かたじけない――」
 ずかずかと年若いその町人のそばへ歩みよると、いつものあの右門流です。ぎろりと鋭く上から下へその風体をひとにらみしたかと見えるや、間もおかずに、ずばりとすばらしいずぼしの一語が飛んでいきました。
「きさま、紅屋の手代だな!」
「えッ――」
「びっくりしたっておそいや! 指だよ、指だよ。両手のその指の先に、藍《あい》や江戸紫のしみがあるじゃねえかよ。せがれにしちゃ身なりがちっとおそまつだ。番頭か手代とにらんだが、違ったか!」
「…………」
「はきはき返事をしろい! 気はなげえが、啖呵《たんか》筋が張りきっているんだ。おまけに、この雨じゃねえか、しっぽりぬれるには場所が違わあ、手間ア取らせねえで、はっきりいいなよ!」
「恐れ入りました。いかにもおめがねどおり、紅屋の手代幸助と申す者でござります」
「と申す者でござりますだけじゃ恐れ入り方が足りねえや。うちで染めて売ったしごきを、こんなにたくさんの人まで使ってとり返すからにゃ、ただのいたずらじゃあるめえ。二度売りやってもうけるつもりだったか」
「ど、どうつかまつりまして、そんなはしたない了見からではござりませぬ。じつは、ちとその――」
「なんだというんだよ」
「ひとに聞かれますると人命にかかわりますることでござりますゆえ、できますことならお人払いを――」
「ぜいたくいうねえ! 啖呵《たんか》のききもいいが、よしっ引き受けたとなりゃ、人一倍たのもしいおいらなんだ。人命にかかわるならかかわるように、おいらが計ってやらあ。何がどうしたというんだよ」
「弱りましたな。じつは、ちと恥ずかしいことでござりますゆえ、いいや、申しましょう。そういうおことばならば申しまするが、じつはその少々人目をはばかる不義の恋をいたしまして――」
「なんでえ! また色|沙汰《ざた》か。おいらがひとり者だと思って、意地わるくまたおのろけ騒動ばかし起こしゃがらあ。相手の女はどこのだれだよ」
「加賀家奥仕えのお蘭どのでござります」
「へえ。つやっぽい名まえが出りゃがったな。お蘭しごきのご本尊さまが相手かい。それにしても、この騒ぎはどうしたというんだよ」
「どうもこうもござりませぬ。お蘭とてまえは一つ町に育った幼なじみ。向こうは加賀家のお腰元に、てまえは染め物いじりの紅屋さんへ――」
「分かれて色修業に奉公しているうち、とんだほんものの色恋が染め上がったというのかい」
「というわけではござりませぬが、やはり幼なじみと申す者はうれしいものでござります。いつとはなしに思い思われる仲になりましたなれど、てまえはとにかく、お蘭はおうせもままならぬ奥勤め。文《ふみ》一つやりとりするにも人目をはばからねばなりませぬゆえ、お蘭どのが思いついてくふうしたのが、このお蘭しごきでござります。と申せばもうおわかりでござりましょうが、ひと重のしごきをわざわざ二重の袋仕立てにしたというのも、じつはその袋の中へてまえからの文を忍ばせて、首尾よく送り届ける仕掛けのためのくふうでござりました。それゆえ、決まってお蘭どのが月々三本ずつ――」
「よし、わかった。そんなにたくさんいるはずはねえのに、決まって三本ずつ新しいのを買うというのが不審だとにらんでいたが、ほしいのはしごきじゃなくて、おまえの口説《くぜつ》をこめた文が目あてだったというのかい」
「さようでござります。この月の十一日にも新規の品が三十六本仕上がりましたゆえ、そのうちの一本にいつものとおりこっそりとてまえの文を忍ばせておきまして、あすにも加賀様から沙汰《さた》のありしだい届けようと待ちあぐんでおりましたところ、運の尽きというものに相違ござりませぬ。でき上がったちょうどその日、所用がありまして、ついてまえが店をあけたるす中に、仕上がるのを待ちかまえておりましたものか、ばたばたと十一人ほどのお客さまがあとから買いに参られまして、店の者がまた秘密の文を仕込んだ一本がその中に交じっているとも知らず、どこのどなたか住まいもお名まえもわからぬお客さまがたに売りさばいてしもうたのでござります。それゆえぎょうてんいたしまして、もしや残りの二十五本に交じっていはしないかとさっそく調べようと存じましたが、これがまたあいにくなことには、同じその十一日に、加賀家から二十五本取りまとめて十五日に納入しろとのご用命があったとか申しまして、主人が一つ一つの桐箱《きりばこ》に入念な封印をほどこし御用倉へ厳重に納めてしまいましたゆえ、心はあせっても手が出せず、何をいうにも不義はお家の法度《はっと》と、きびしいおきてに縛られているお屋敷仕えのお腰元でござります。万が一ないしょの文が人手に渡り、ふたりの秘密があばかれましたら、てまえはとにかく、お蘭どのの命はあるまいと、そのことばかり恐ろしゅう思いまして、いろいろ思案いたしましたが浅知恵の悲しさ、そのまにも日がたっては一大事にござりますゆえ、悪いこととは知りながら、ついやるせなさのあまりに、もしかしたら運よく取り返すことができはしないかと、そちらに捕えられている八人のかたがたに旨を含め、お蘭しごきを締めている女を見かけしだい、かすめ取るよう、一本盗みとったら二分ずつ礼をさし上げる約束で、こっそりと文改めしたのでござります。なれども、悲しいかな、どなたの手に渡っているやら、むだぼねおりでござりましたところへ、こん日ここへあのかたがたがそろいのしごきでお花見にお越しとかぎつけましたゆえ、これ屈強と網を張っていたのがこんな騒ぎになりましたもと、それもこれも秘密のその文、見つけたいばっかりの一心でござりました。ありようはそれだけのこと、お慈悲のおさばきいただけましたらしあわせにござります」
「いかにもな。聞いてみりゃたわいがねえが、忍んだ恋ゆえの知恵がくふうさせたお蘭しごきとは、なかなかしゃれていらあ。事がそうと決まりゃ、おまえさんのいい人にも当たってみなくちゃなるめえ。向こうの桜の下に弁天さまが二十四体雨宿りしているようだが、おまえさんがご信心の腰元弁天はどの見当だ」
「それが、じつはおかしいんでござります。あのお腰元連といっしょに来なければならんはずなのに、どうしたことやら、肝心のそのお蘭どのが姿を見せませんゆえ、先ほどから不審に思うているのでござります」
「なに! お蘭がおらんというのかい。しゃれからとんだなぞが出りゃがったな。伝六ッ、伝六ッ。どこをまごまごしているんだ。ちょっくらあそこのお腰元衆のところへいって、お蘭がどうしておらんのか、ついでに二十四本のしごきの中も洗ってきなよ」
「へへんですよ。まごまごしていたんじゃねえ、それをいま洗ってきたんだ。二十五本納めたしごきが花見に浮かれ出たのに一本不足の二十四本とは、これいかにと思ったからね、ちょいと気をきかして当たってみたら、不思議じゃござんせんかい。二十四本のしごきはみなからっぽのぬけがらで、お蘭弁天がまたどうしたことか、きのう急に浅草の並木町とやらの家へ宿下がりを願い出して、それっきりきょうも姿を見せんというんですよ」
「なにッ、そうか! さては、やられたなッ。芽が吹きやがった。ゆうべ八丁堀へこかし込んだあのちゃちなおどし文のなぞが、それでようやく新芽を出しやがったわい。幸助ッ、むろんおまえがおどし文なんぞ、あんないたずらしたんじゃあるめえな」
「め、め、めっそうもござりませぬ。文取り返したさに、この四、五日は無我夢中、どんなおどし文かは存じませぬが、てまえの書いたものは文違いでござります」
「しゃれたことをぬかしゃがらあ。伝六ッ、お蘭の家は並木町のどこだといった」
「かどにかざり屋があって、それから三軒めのしもた屋だという話です」
「眼《がん》はそこだ。――お山同心のかたがた! お聞きのとおりでござる。慈悲は東照宮おんみたまもお喜びなさるはず、お召し捕《と》りの八人のやくざ者たちは、百たたきのおしおきにでもしたうえ、放逐しておやりくだされい。――幸助ッ」
「へえ」
「人の色恋のおてつだいはあんまりぞっとしねえが、お蘭しごきのくふうがあだめかしくて気に入った。おいらが慈悲をかけてひと知恵貸してやるからな。そのかわり、今すぐ南町ご番所へ自訴にいって、しかじかかくかくでござりますと正直に申し立てろ。さすれば、しごきをとられたお嬢さんたちの名まえも居どころもわかるはず。わかったら、けちけちしちゃいけねえぜ。おわびのしるしにお菓子折りの一つずつも手みやげにして、とったしごきは返してやりな。いいかい、忘れるなよ」
「ありがとうござります。このとおり、このとおり、お礼のしようもござりませぬ」
「拝むなはええや。無事におったら、お蘭弁天さまでもたんと拝みなよ。伝あにい! 用意はいいのかい」
「いうにゃ及ぶでごぜえます! ちきしょう、雨が小降りになりやがった。散れ散れ花散れ駕籠《かご》飛ばせとくりゃがらあ。山下で用意をしておりますからね。二丁ですかい、一丁ですかい」
「おごってやらあ。二丁にしなよ」
「ちぇッ、話せるね。こんなきっぷのいいおだんなを、なんだってまた江戸の女の子がいつまでもひとりでおくんだろうな。ほれ手がなけりゃ、おらがほれてやらあ。待っているからね、ゆっくり急いでおいでなせえよ」
 花のふぶきをひらひら浴びて、小降りの雨にしっぽりぬれて、花びら散り敷く道を山下めがけていっさん走りでした。

     

 しかし、そろえて待っていたその二丁の駕籠に乗ると同時です。けたたましく伝六が音をあげました。
「だんな、だんな、今ごろになって出りゃがった。変な野郎が、ちょこちょことつけだしましたぜ!」
「ほほう。案の定新芽が出たか。いずれはちゃちな野郎だろうが、念のために首実検しようかい」
 おどろきもせず、たれのあわいからのぞいてみると、これが早い、――年のころは三十七、八、町人づくり。雨の中を長ぞうりはいて着流しのくせに、ちょこちょこと二十間ばかりのあとから、じつに足が早いのです。
「まず町飛脚という見当かな。黒幕はたしかに二本差しにちげえねえが、あんなやつまで手先に使って、上野へ来たことまでかぎつけて、この山下に張り込んでいたところを見ると椋鳥《むくどり》ゃおおぜいさんかもしれねえや。かまわねえから、ほっときな」
「だ、だいじょうぶですかい」
「いま騒ぎだしゃ、えさがなくなるじゃねえかよ。草香流が節鳴りしてるんだ。こわきゃ先へ飛ばしな」
 ゆうゆうとうち乗ったまま急がせて、ほどなく乗りつけたところは、並木町のかどのかざり屋から三軒めの、お蘭が宿下がりしているというそのしもた屋です。――同時でした。見えがくれにつけてきた足早男が、ちらりとそれを見届けるや、いっさんにまたいずれかへ姿を消しました。
「ウフフ。おいらを相手に回して、古風なまねをしていやがらあ、久しぶりにあざやかなところを見せるかね。ついてきな」
 おどろきもせず、案内も請わずにずかずかはいっていくと、しいんと家のうちが静まり返っているのです。――と思われたその静かな屋内の奥から、よよとばかりに忍び泣く女のすすり音がきこえました。
 声をたよりに奥へはいってみると、へやは内庭にのぞんだ離れの六畳。見る目も婉《えん》にくずおれ伏して、ひとりしんしんと泣きつづけていたのは、ひと目にそれとわかるお蘭です。
「おどしの手がもう回ったね」
 えッ――というように、おどろき怪しみながら、ふり向いたお蘭の美しい泣き顔へ、さわやかに微笑を含んだ名人の声が注がれました。
「だいじょうぶ、幸助殿御から始終のことはもう承りましたよ」
「そういうあなたさまは!」
「むっつりとあだ名の右門でござんす」
「ま……それにしても、そのあなたさまがまた何しにここへ!」
「心配ご無用。幸助どんからおむつまじい仲を聞きましたんでね。いいや、あんたへ届けるはずの仕掛けしごきが人手に買われて、どうやらその買い主が文《ふみ》を種にあんたをおどしつけていやしねえかとにらみがついたんで、ちょっくらお見舞いに来たんですよ。泣いていたは、にらんだとおりそいつの手がもう回ったんでしょうね」
「そうでござりましたか! それで何もかもはっきり納得が参りました。まちがえて人手に買われたら買われたと、どのようにでもしてひとことそれをわたくしにお知らせくだされば、手だても覚悟もござりましたものを、いきなりさる男がやって参りまして、不義密通の種があがったとおどしの難題言いかけられましたゆえ、どうしようとお宿下がりを願って、このように生きたここちもなく取り乱していたのでござります」
「やっぱりね。おどしのその相手は、いったい何者でござんす」
「それが、じつは少し――」
「だいじょうぶ! おいらが乗り出したからにゃ、力も知恵も貸しましょうからね。隠さずにいってごらんなせえよ。どこのだれでござんす?」
「めぐりあわせというものは不思議なもの、もと同じ加賀様に仕えて、二天流を指南しておりました黒岩清九郎さまとおっしゃるかたでござります」
「やっぱり二本差しだったね。どうしてまたそやつの手にはいったんですかい」
「それも不思議なめぐりあわせ、じつは黒岩さまが今のようなご浪人になったのも、家中のご藩士をふたりほどゆえなくあやめたのがもとなのでござります。さいわい、その証拠があがりませなんだゆえ、ご処分にも会わず浪人いたしまして、今はここからあまり遠くもない下谷|御徒町《おかちまち》に、ささやかな町道場とやらを開いてとのことでござりまするが、そのご門人衆のひとりの姪御《めいご》さんとやらが買ったしごきの中に、わたくしあての恥ずかしい文があったとやらにて、不審のあまり清九郎さまに見せましたところ、同じ家中に仕えていたおかたでござりますもの、わたくしの名を知らぬはずはござりませぬ。このあて名のお蘭ならばまさしくあれじゃと、すぐにご見当がつきましたとみえ、ついおとついの日でござります、鬼の首でも取ったような意気込みで不意にお屋敷のほうへたずねてまいり、このとおり不義密通の種があがったぞ、ご法度《はっと》犯した証拠は歴然、殿のお手討ちになるのがいやなら、くどうはいわぬ、いま一度加賀家の指南番になれるよう推挙しろ、でなくばみどものいうがままにと――」
「けがらわしいねだりものをしたんですかい」
「あい。恥ずかしいことをいいたてて、どうじゃ、どうじゃと責めたてますゆえ、思案にあまり、きょうの晩までご返事お待ちくだされませと、その場をのがれて、ただ恐ろしい一心から、かく宿下がりをいたしましたが、幸助さまにご相談したとてもご心配をかけるばかり。ほかに力となるものとては、おじいさまおばあさまのおふたりがあるばかり、そのふたりもあいにくと善光寺参りに出かけまして、るすを預かっているのはたよりにならぬばあやがひとりきり、困り果ててこのように泣き乱れておりましたのでござります」
「そうでしたかい。黒岩だかどろ岩だか知らねえが、江戸っ子にゃ気に入らねえ古手のおどし文句を並べていやがらあ。ようがす! ちっと気になるやつが、さっき表をうろうろしやがって姿を消したからね。ちょっくら様子を見てまいりましょうよ」
 のぞいてみると、意外! 脱兎《だっと》のごとく消えてなくなったはずのあの町人が、いつのまにかかいがいしいわらじ姿につくり変えて、身ごしらえもものものしいうえに、こしゃくな殺気をその両眼にたたえながら、じっと中のけはいをうかがっているのです。
「ウフフ、背水の陣を敷いたかい。じゃ、こっちでもひとしばいうってやらあ」
 ずかずかと縁側伝いに離れへ帰ってくると、
「お蘭どの!」
 上がりがまちから不意に鋭く呼びかけたと見るや、じつに突然でした。いぶかるように呼ばれたそのお蘭がひょいと障子をあけたせつな!
「ちょっとあの世へいってきなせえよ!」
 声もろともに、ダッとひと突き、みごとな草香の当て身でした。
「冗、冗、冗談じゃねえ、だんな! 払い下げるなら、あっしがいただきますよ! こんなとてつもねえ弁天さまを、なんだってまたそんなにむごいことするんですかよ! べっぴんすぎて、ふらふらとなったんじゃござんすまいね」
「黙ってろい! ついてくりゃいいんだ。もうけえるんだよ」
 唖然《あぜん》となって、ぱちくりやっている伝六を促しながら、じつに不思議です。ゆうゆうと両手をふところにして、手もなくのけぞり倒れたお蘭をあとにしながら、さっさと表のほうへ出ていきました。同時に、ちらりとその姿をながめて、疾風のごとくに身を隠そうとした怪しの尾行者に、追いかけていったものです。
「ご苦労ご苦労。みんなによろしくな」
 言い捨てると、なぞは深し、行くのです、帰るのです。小降りの雨の中をぬれて歩いてかどを曲がりながら、ほんとうにさっさと道を急ぎました。――と見えたのはしかし二町足らず、ずかずかとふたたびかざり屋のかどまで引っ返してくると、ぴたり、そこの物陰に身を潜めながら、帰ると見せて立ち去ったお蘭の家の表のけはいに烱々《けいけい》と鋭いまなこを配り放ちました。
 来る! 来る!
 わらじ姿の町人こそは、まさしく黒岩の一味の、見る目、かぐ鼻、様子探りの先手であったとみえて、どこぞ向こうの町かげにでも潜み隠れていた清九郎たちに、いちはやく名人右門退散と注進したものか、待つほどもなくぞろぞろとやって来るのです。
 ひとり。ふたり。三人。四人。いずれも身ごしらえ厳重の武芸者ふうに作って、先頭に立った五分|月代《さかやき》こそ、体の構え、目の配り、ひときわ立ちまさっているところを見ると、たしかに当の黒岩清九郎にちがいない。しかも、あたりのけはいを見はばかるようにして、そのまま足早にお蘭の住み家の中へぞろぞろと姿を消しました。
 見ながめるや同時です。
「たいでえびをつったかな。まごまごすりゃ、今度こそ、おめえの首がそっぽへ向くかもしれねえから、小さくなって見物していなよ」
 言い捨てて、伝六をうしろに、ゆうぜんと引っ返していくと、ちょうどその出会いがしら。――気を失ったままでいるお蘭のからだを横抱きにして中から出てきた四人の者と、ぱったり面を合わせました。せつな! 莞爾《かんじ》とうち笑うと、すばらしい名|啖呵《たんか》が飛んでいったものです。
「忘れるねえ! これがお江戸八丁堀のむっつり右門の顔だッ。少しはぴりっとからしがきいたかッ」
「なにッ」
「よッ」
「はかったなッ」
「そうよ、知恵の小引き出しは百箱千箱、こうとにらんだ眼《がん》は狂い知らずだ。張った捕《と》り網にもこぼれはねえが、草香の当て身にもはずれがねえんだ。菜っ切り包丁抜いてくるかッ」
「ほざいたなッ。うぬにかぎつけられちゃめんどうと、おどしのくぎを一本刺しておいたが、こうなりゃなおめんどうだッ。二天流の奥義、見舞ってやるわッ」
 二本、三本、四本、いっせいに抜いて放って、さっと刃ぶすま固めながら小雨の表におどり出たのを、とどめの名啖呵です。
「笑わしやがらあ! これが折り紙つきの草香流だッ。お味はどんなもんかい」
 出たとならば、一陣、一風。二天流黒岩清九郎が赤岩清九郎になろうとも、右門秘蔵草香の当て身の前には歯も立たないのです。ばたり、ばたりと、一瞬の間に四人は雨どろの道にはいつくばりました。
「見ろいッ。弟子《でし》だか門人だか知らねえが、片棒かついだやつにゃ用はあるめえ。加賀大納言家じゃ清九郎一人に御用がおありだろうから、伝あにい、いつものとおりこれをなわにして自身番へしょっぴいてな、ご進物でござりますとすぐにお屋敷へ届けるよう、計らってきなよ。――おっと、待ったり。懐中にでもゆすりの種のかよわせ文《ぶみ》があるだろう。地獄へ行くには目の毒だ。功徳のためにいただこうよ」
 果然、ふところ深くに忍ばせていたのをすばやく抜きとっておくと、何も知らぬげに気を失っていたお蘭の花のごとき乳ぶさのあたりへ軽い活の一手を入れながら、莞爾《かんじ》としていったことです。
「痛いめに会わせましたね、一石二鳥の右門流といやちっと口はばったいが、一つにゃやつらをおびき寄せるため、二つにゃおまえさんにおけがのねえようにと、涼んでいてもらったんですよ。そのかわりに、このとおり幸助どんの心をこめた玉章《たまずさ》がおみやげだ。二度の奥勤めもできますまいから、しかるべき法を講じてね、早く長火ばちの向こうにおすわりなせえよ。――伝あにい、用を足してきたかい。人さまが手生けの花見でもけりがついたかな。花がこんなところでも散ってくらあ。かえるかね――」
 と、こともなげに立ち去りました。

底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年4月14日公開
2005年9月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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