永井荷風

すみだ川—–永井荷風

 俳諧師《はいかいし》松風庵蘿月《しょうふうあんらげつ》は今戸《いまど》で常磐津《ときわず》の師匠《ししょう》をしている実《じつ》の妹をば今年は盂蘭盆《うらぼん》にもたずねずにしまったので毎日その事のみ気にしている。しかし日盛《ひざか》りの暑さにはさすがに家《うち》を出かねて夕方になるのを待つ。夕方になると竹垣に朝顔のからんだ勝手口で行水《ぎょうずい》をつかった後《のち》そのまま真裸体《まっぱだか》で晩酌を傾けやっとの事|膳《ぜん》を離れると、夏の黄昏《たそがれ》も家々で焚《た》く蚊遣《かやり》の烟《けむり》と共にいつか夜となり、盆栽《ぼんさい》を並べた窓の外の往来には簾越《すだれご》しに下駄《げた》の音|職人《しょくにん》の鼻唄《はなうた》人の話声がにぎやかに聞え出す。蘿月は女房のお滝《たき》に注意されてすぐにも今戸へ行くつもりで格子戸《こうしど》を出るのであるが、その辺《へん》の涼台《すずみだい》から声をかけられるがまま腰を下《おろ》すと、一杯機嫌《いっぱいきげん》の話好《はなしずき》に、毎晩きまって埒《らち》もなく話し込んでしまうのであった。
 朝夕がいくらか涼しく楽になったかと思うと共に大変日が短くなって来た。朝顔の花が日ごとに小さくなり、西日が燃える焔のように狭い家中《いえじゅう》へ差込んで来る時分《じぶん》になると鳴きしきる蝉《せみ》の声が一際《ひときわ》耳立《みみだ》って急《せわ》しく聞える。八月もいつか半《なかば》過ぎてしまったのである。家の後《うしろ》の玉蜀黍《とうもろこし》の畠に吹き渡る風の響《ひびき》が夜なぞは折々《おりおり》雨かと誤《あやま》たれた。蘿月は若い時分したい放題身を持崩《もちくず》した道楽の名残《なごり》とて時候の変目《かわりめ》といえば今だに骨の節々《ふしぶし》が痛むので、いつも人より先に秋の立つのを知るのである。秋になったと思うと唯《ただ》わけもなく気がせわしくなる。
 蘿月は俄《にわか》に狼狽《うろた》え出し、八日頃《ようかごろ》の夕月がまだ真白《ましろ》く夕焼の空にかかっている頃から小梅瓦町《こうめかわらまち》の住居《すまい》を後《あと》にテクテク今戸をさして歩いて行った。
 堀割《ほりわり》づたいに曳舟通《ひきふねどおり》から直《す》ぐさま左へまがると、土地のものでなければ行先《ゆくさき》の分らないほど迂回《うかい》した小径《こみち》が三囲稲荷《みめぐりいなり》の横手を巡《めぐ》って土手へと通じている。小径に沿うては田圃《たんぼ》を埋立《うめた》てた空地《あきち》に、新しい貸長屋《かしながや》がまだ空家《あきや》のままに立並《たちなら》んだ処もある。広々した構えの外には大きな庭石を据並《すえなら》べた植木屋もあれば、いかにも田舎《いなか》らしい茅葺《かやぶき》の人家のまばらに立ちつづいている処もある。それらの家《うち》の竹垣の間からは夕月に行水《ぎょうずい》をつかっている女の姿の見える事もあった。蘿月|宗匠《そうしょう》はいくら年をとっても昔の気質《かたぎ》は変らないので見て見ぬように窃《そっ》と立止るが、大概はぞっとしない女房ばかりなので、落胆《らくたん》したようにそのまま歩調《あゆみ》を早める。そして売地や貸家の札《ふだ》を見て過《すぎ》る度々《たびたび》、何《なん》ともつかずその胸算用《むなざんよう》をしながら自分も懐手《ふところで》で大儲《おおもうけ》がして見たいと思う。しかしまた田圃づたいに歩いて行く中水田《うちみずた》のところどころに蓮《はす》の花の見事に咲き乱れたさまを眺め青々した稲の葉に夕風のそよぐ響をきけば、さすがは宗匠だけに、銭勘定《ぜにかんじょう》の事よりも記憶に散在している古人の句をば実に巧《うま》いものだと思返《おもいかえ》すのであった。
 土手へ上《あが》った時には葉桜のかげは早《は》や小暗《おぐら》く水を隔てた人家には灯《ひ》が見えた。吹きはらう河風《かわかぜ》に桜の病葉《わくらば》がはらはら散る。蘿月は休まず歩きつづけた暑さにほっと息をつき、ひろげた胸をば扇子《せんす》であおいだが、まだ店をしまわずにいる休茶屋《やすみぢゃや》を見付けて慌忙《あわて》て立寄り、「おかみさん、冷《ひや》で一杯。」と腰を下《おろ》した。正面に待乳山《まつちやま》を見渡す隅田川《すみだがわ》には夕風を孕《はら》んだ帆かけ船が頻《しき》りに動いて行く。水の面《おもて》の黄昏《たそが》れるにつれて鴎《かもめ》の羽の色が際立《きわだ》って白く見える。宗匠はこの景色を見ると時候はちがうけれど酒なくて何の己《おの》れが桜かなと急に一杯傾けたくなったのである。
 休茶屋の女房《にょうぼ》が縁《ふち》の厚い底の上ったコップについで出す冷酒《ひやざけ》を、蘿月はぐいと飲干《のみほ》してそのまま竹屋《たけや》の渡船《わたしぶね》に乗った。丁度河の中ほどへ来た頃から舟のゆれるにつれて冷酒がおいおいにきいて来る。葉桜の上に輝きそめた夕月の光がいかにも涼しい。滑《なめらか》な満潮の水は「お前どこ行く」と流行唄《はやりうた》にもあるようにいかにも投遣《なげや》った風《ふう》に心持よく流れている。宗匠は目をつぶって独《ひとり》で鼻唄をうたった。
 向河岸《むこうがし》へつくと急に思出して近所の菓子屋を探して土産《みやげ》を買い今戸橋《いまどばし》を渡って真直《まっすぐ》な道をば自分ばかりは足許《あしもと》のたしかなつもりで、実は大分ふらふらしながら歩いて行った。
 そこ此処《ここ》に二、三軒|今戸焼《いまどやき》を売る店にわずかな特徴を見るばかり、何処《いずこ》の場末にもよくあるような低い人家つづきの横町《よこちょう》である。人家の軒下や路地口《ろじぐち》には話しながら涼んでいる人の浴衣《ゆかた》が薄暗い軒燈《けんとう》の光に際立《きわだ》って白く見えながら、あたりは一体にひっそりして何処《どこ》かで犬の吠《ほ》える声と赤児《あかご》のなく声が聞える。天《あま》の川《がわ》の澄渡《すみわた》った空に繁《しげ》った木立を聳《そびや》かしている今戸八幡《いまどはちまん》の前まで来ると、蘿月は間《ま》もなく並んだ軒燈の間に常磐津文字豊《ときわずもじとよ》と勘亭流《かんていりゅう》で書いた妹の家の灯《ひ》を認めた。家の前の往来には人が二、三人も立止って内《なか》なる稽古《けいこ》の浄瑠璃《じょうるり》を聞いていた。

 折々恐しい音して鼠《ねずみ》の走る天井からホヤの曇った六分心《ろくぶしん》のランプがところどころ宝丹《ほうたん》の広告や『都新聞《みやこしんぶん》』の新年附録の美人画なぞで破《やぶ》れ目《め》をかくした襖《ふすま》を始め、飴色《あめいろ》に古びた箪笥《たんす》、雨漏《あまもり》のあとのある古びた壁なぞ、八畳の座敷一体をいかにも薄暗く照《てら》している。古ぼけた葭戸《よしど》を立てた縁側の外《そと》には小庭《こにわ》があるのやらないのやら分らぬほどな闇《やみ》の中に軒の風鈴《ふうりん》が淋《さび》しく鳴り虫が静《しずか》に鳴いている。師匠のお豊《とよ》は縁日ものの植木鉢を並べ、不動尊《ふどうそん》の掛物をかけた床《とこ》の間《ま》を後《うしろ》にしてべったり坐《すわ》った膝《ひざ》の上に三味線《しゃみせん》をかかえ、樫《かし》の撥《ばち》で時々前髪のあたりをかきながら、掛声をかけては弾くと、稽古本《けいこぼん》を広げた桐《きり》の小机を中にして此方《こなた》には三十前後の商人らしい男が中音《ちゅうおん》で、「そりや何をいはしやんす、今さら兄よ妹《いもうと》といふにいはれぬ恋中《こいなか》は……。」と「小稲半兵衛《こいなはんべえ》」の道行《みちゆき》を語る。
 蘿月は稽古のすむまで縁近《えんぢか》くに坐って、扇子《せんす》をぱちくりさせながら、まだ冷酒《ひやざけ》のすっかり醒《さ》めきらぬ処から、時々は我知らず口の中で稽古の男と一しょに唄《うた》ったが、時々は目をつぶって遠慮なく※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》をした後《のち》、身体《からだ》を軽く左右《さゆう》にゆすりながらお豊の顔をば何の気もなく眺めた。お豊はもう四十以上であろう。薄暗い釣《つるし》ランプの光が痩《や》せこけた小作りの身体《からだ》をばなお更に老《ふ》けて見せるので、ふいとこれが昔は立派な質屋《しちや》の可愛らしい箱入娘《はこいりむすめ》だったのかと思うと、蘿月は悲しいとか淋《さび》しいとかそういう現実の感慨を通過《とおりこ》して、唯《た》だ唯だ不思議な気がしてならない。その頃は自分もやはり若くて美しくて、女にすかれて、道楽して、とうとう実家を七生《しちしょう》まで勘当《かんどう》されてしまったが、今になってはその頃の事はどうしても事実ではなくて夢としか思われない。算盤《そろばん》で乃公《おれ》の頭をなぐった親爺《おやじ》にしろ、泣いて意見をした白鼠《しろねずみ》の番頭にしろ、暖簾《のれん》を分けてもらったお豊の亭主にしろ、そういう人たちは怒ったり笑ったり泣いたり喜んだりして、汗をたらして飽《あ》きずによく働いていたものだが、一人々々《ひとりひとり》皆死んでしまった今日《きょう》となって見れば、あの人たちはこの世の中に生れて来ても来なくてもつまる処は同じようなものだった。まだしも自分とお豊の生きている間は、あの人たちは両人《ふたり》の記憶の中《うち》に残されているものの、やがて自分たちも死んでしまえばいよいよ何も彼《か》も煙になって跡方《あとかた》もなく消え失《う》せてしまうのだ……。
「兄《にい》さん、実は二、三日|中《うち》に私《わたし》の方からお邪魔に上《あが》ろうと思っていたんだよ。」とお豊が突然話しだした。
 稽古の男は「小稲半兵衛《こいなはんべえ》」をさらった後《のち》同じような「お妻八郎兵衛《つまはちろべえ》」の語出《かたりだ》しを二、三度|繰返《くりかえ》して帰って行ったのである。蘿月は尤《もっと》もらしく坐《すわ》り直《なお》して扇子で軽く膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「実はね。」とお豊は同じ言葉を繰返して、「駒込《こまごめ》のお寺が市区改正で取払いになるんだとさ。それでね、死んだお父《とっ》つァんのお墓を谷中《やなか》か染井《そめい》か何処《どこ》かへ移さなくっちゃならないんだってね、四、五日前にお寺からお使が来たから、どうしたものかと、その相談に行こうと思ってたのさ。」
「なるほど。」と蘿月は頷付《うなず》いて、「そういう事なら打捨《うっちゃ》っても置けまい。もう何年になるかな、親爺《おやじ》が死んでから……。」
 首を傾《かし》げて考えたが、お豊の方は着々話しを進めて染井の墓地の地代《じだい》が一坪《ひとつぼ》いくら、寺への心付けがどうのこうのと、それについては女の身よりも男の蘿月に万事を引受けて取計らってもらいたいというのであった。
 蘿月はもと小石川表町《こいしかわおもてまち》の相模屋《さがみや》という質屋の後取息子《あととりむすこ》であったが勘当の末《すえ》若隠居の身となった。頑固な父が世を去ってからは妹お豊を妻にした店の番頭が正直に相模屋の商売をつづけていた。ところが御維新《ごいっしん》この方《かた》時勢の変遷で次第に家運の傾いて来た折も折火事にあって質屋はそれなり潰《つぶ》れてしまった。で、風流三昧《ふうりゅうざんまい》の蘿月はやむをえず俳諧《はいかい》で世を渡るようになり、お豊はその後《ご》亭主に死別れた不幸つづきに昔名を取った遊芸を幸い常磐津《ときわず》の師匠で生計《くらし》を立てるようになった。お豊には今年十八になる男の子が一人ある。零落《れいらく》した女親がこの世の楽しみというのは全くこの一人息子|長吉《ちょうきち》の出世を見ようという事ばかりで、商人はいつ失敗するか分らないという経験から、お豊は三度の飯を二度にしても、行く行くはわが児《こ》を大学校に入れて立派な月給取りにせねばならぬと思っている。
 蘿月|宗匠《そうしょう》は冷えた茶を飲干《のみほ》しながら、「長吉はどうしました。」
 するとお豊はもう得意らしく、「学校は今夏休みですがね、遊ばしといちゃいけないと思って本郷《ほんごう》まで夜学にやります。」
「じゃ帰りは晩《おそ》いね。」
「ええ。いつでも十時過ぎますよ。電車はありますがね、随分|遠路《とおみち》ですからね。」
「吾輩《こちとら》とは違って今時の若いものは感心だね。」宗匠は言葉を切って、「中学校だっけね、乃公《おれ》は子供を持った事がねえから当節《とうせつ》の学校の事はちっとも分らない。大学校まで行くにゃまだよほどかかるのかい。」
「来年卒業してから試験を受けるんでさアね。大学校へ行く前に、もう一ツ……大きな学校があるんです。」お豊は何も彼《か》も一口《ひとくち》に説明してやりたいと心ばかりは急《あせ》っても、やはり時勢に疎《うと》い女の事で忽《たちま》ちいい淀《よど》んでしまった。
「たいした経費《かかり》だろうね。」
「ええそれァ、大抵じゃありませんよ。何しろ、あなた、月謝ばかりが毎月《まいげつ》一円、本代だって試験の度々《たんび》に二、三円じゃききませんしね、それに夏冬ともに洋服を着るんでしょう、靴だって年に二足は穿《は》いてしまいますよ。」
 お豊は調子づいて苦心のほどを一倍強く見せようためか声に力を入れて話したが、蘿月はその時、それほどにまで無理をするなら、何も大学校へ入れないでも、長吉にはもっと身分相応な立身の途《みち》がありそうなものだという気がした。しかし口へ出していうほどの事でもないので、何か話題の変化をと望む矢先《やさき》へ、自然に思い出されたのは長告が子供の時分の遊び友達でお糸《いと》といった煎餅屋《せんべいや》の娘の事である。蘿月はその頃お豊の家を訪ねた時にはきまって甥《おい》の長吉とお糸をつれては奥山《おくやま》や佐竹《さたけ》ッ原《ぱら》の見世物《みせもの》を見に行ったのだ。
「長吉が十八じゃ、あの娘《こ》はもう立派な姉《ねえ》さんだろう。やはり稽古に来るかい。」
「家《うち》へは来ませんがね、この先の杵屋《きねや》さんにゃ毎日|通《かよ》ってますよ。もう直《じ》き葭町《よしちょう》へ出るんだっていいますがね……。」とお豊は何か考えるらしく語《ことば》を切った。
「葭町へ出るのか。そいつア豪儀《ごうぎ》だ。子供の時からちょいと口のききようのませた、好《い》い娘《こ》だったよ。今夜にでも遊びに来りゃアいいに。ねえ、お豊。」と宗匠は急に元気づいたが、お豊はポンと長煙管《ながぎせる》をはたいて、
「以前とちがって、長吉も今が勉強ざかりだしね……。」
「ははははは。間違いでもあっちゃならないというのかね。尤《もっと》もだよ。この道ばかりは全く油断がならないからな。」
「ほんとさ。お前さん。」お豊は首を長く延《のば》して、「私の僻目《ひがめ》かも知れないが、実はどうも長吉の様子が心配でならないのさ。」
「だから、いわない事《こ》ッちゃない。」と蘿月は軽く握り拳《こぶし》で膝頭《ひざがしら》をたたいた。お豊は長吉とお糸のことが唯《ただ》何《なん》となしに心配でならない。というのは、お糸が長唄《ながうた》の稽古帰りに毎朝用もないのにきっと立寄って見る、それをば長吉は必ず待っている様子でその時間|頃《ごろ》には一足《ひとあし》だって窓の傍《そば》を去らない。それのみならず、いつぞやお糸が病気で十日ほども寝ていた時には、長吉は外目《よそめ》も可笑《おか》しいほどにぼんやりしていた事などを息もつかずに語りつづけた。
 次の間《ま》の時計が九時を打出した時突然|格子戸《こうしど》ががらりと明いた。その明けようでお豊はすぐに長吉の帰って来た事を知り急に話を途切《とぎら》しその方に振返りながら、
「大変早いようだね、今夜は。」
「先生が病気で一時間早くひけたんだ。」
「小梅《こうめ》の伯父さんがおいでだよ。」
 返事は聞えなかったが、次の間《ま》に包《つつみ》を投出す音がして、直様《すぐさま》長吉は温順《おとな》しそうな弱そうな色の白い顔を襖《ふすま》の間から見せた。

 残暑の夕日が一《ひと》しきり夏の盛《さかり》よりも烈《はげ》しく、ひろびろした河面《かわづら》一帯に燃え立ち、殊更《ことさら》に大学の艇庫《ていこ》の真白《まっしろ》なペンキ塗の板目《はめ》に反映していたが、忽《たちま》ち燈《ともしび》の光の消えて行くようにあたりは全体に薄暗く灰色に変色して来て、満ち来る夕汐《ゆうしお》の上を滑って行く荷船《にぶね》の帆のみが真白く際立《きわだ》った。と見る間《ま》もなく初秋《しょしゅう》の黄昏《たそがれ》は幕の下《おり》るように早く夜に変った。流れる水がいやに眩《まぶ》しくきらきら光り出して、渡船《わたしぶね》に乗っている人の形をくっきりと墨絵《すみえ》のように黒く染め出した。堤の上に長く横《よこた》わる葉桜の木立《こだち》は此方《こなた》の岸から望めば恐しいほど真暗《まっくら》になり、一時《いちじ》は面白いように引きつづいて動いていた荷船はいつの間にか一艘《いっそう》残らず上流の方《ほう》に消えてしまって、釣《つり》の帰りらしい小舟がところどころ木《こ》の葉《は》のように浮いているばかり、見渡す隅田川《すみだがわ》は再びひろびろとしたばかりか静《しずか》に淋《さび》しくなった。遥か川上《かわかみ》の空のはずれに夏の名残を示す雲の峰が立っていて細い稲妻が絶間《たえま》なく閃《ひら》めいては消える。
 長吉は先刻《さっき》から一人ぼんやりして、或《ある》時は今戸橋《いまどばし》の欄干《らんかん》に凭《もた》れたり、或時は岸の石垣から渡場《わたしば》の桟橋《さんばし》へ下りて見たりして、夕日から黄昏、黄昏から夜になる河の景色を眺めていた。今夜暗くなって人の顔がよくは見えない時分になったら今戸橋の上でお糸と逢《あ》う約束をしたからである。しかし丁度日曜日に当って夜学校を口実にも出来ない処から夕飯《ゆうめし》を済《すま》すが否やまだ日の落ちぬ中《うち》ふいと家《うち》を出てしまった。一しきり渡場へ急ぐ人の往来《ゆきき》も今では殆《ほとん》ど絶え、橋の下に夜泊《よどま》りする荷船の燈火《ともしび》が慶養寺《けいようじ》の高い木立を倒《さかさ》に映した山谷堀《さんやぼり》の水に美しく流れた。門口《かどぐち》に柳のある新しい二階家からは三味線が聞えて、水に添う低い小家《こいえ》の格子戸外《こうしどそと》には裸体《はだか》の亭主が涼みに出はじめた。長吉はもう来る時分であろうと思って一心《いっしん》に橋向うを眺めた。
 最初に橋を渡って来た人影は黒い麻の僧衣《ころも》を着た坊主であった。つづいて尻端折《しりはしおり》の股引《ももひき》にゴム靴をはいた請負師《うけおいし》らしい男の通った後《あと》、暫《しばら》くしてから、蝙蝠傘《こうもりがさ》と小包を提げた貧し気《げ》な女房が日和下駄《ひよりげた》で色気もなく砂を蹴立《けた》てて大股《おおまた》に歩いて行った。もういくら待っても人通りはない。長吉は詮方《せんかた》なく疲れた眼を河の方に移した。河面《かわづら》は先刻《さっき》よりも一体に明《あかる》くなり気味悪い雲の峯は影もなく消えている。長吉はその時|長命寺辺《ちょうめいじへん》の堤の上の木立から、他分《たぶん》旧暦七月の満月であろう、赤味を帯びた大きな月の昇りかけているのを認めた。空は鏡のように明《あかる》いのでそれを遮《さえぎ》る堤と木立はますます黒く、星は宵の明星の唯《たっ》た一つ見えるばかりでその他《た》は尽《ことごと》く余りに明い空の光に掻き消され、横ざまに長く棚曳《たなび》く雲のちぎれが銀色に透通《すきとお》って輝いている。見る見る中《うち》満月が木立を離れるに従い河岸《かわぎし》の夜露をあびた瓦《かわら》屋根や、水に湿《ぬ》れた棒杭《ぼうぐい》、満潮に流れ寄る石垣下の藻草《もぐさ》のちぎれ、船の横腹、竹竿《たけざお》なぞが、逸早《いちはや》く月の光を受けて蒼《あお》く輝き出した。忽ち長吉は自分の影が橋板の上に段々に濃く描き出されるのを知った。通りかかるホーカイ節《ぶし》の男女が二人、「まア御覧よ。お月様。」といって暫《しばら》く立止った後《のち》、山谷堀の岸辺《きしべ》に曲るが否や当付《あてつけ》がましく、

と立ちつづく小家《こいえ》の前で歌ったが金にならないと見たか歌いも了《おわ》らず、元の急足《いそぎあし》で吉原土手《よしわらどて》の方へ行ってしまった。
 長吉はいつも忍会《しのびあい》の恋人が経験するさまざまの懸念《けねん》と待ちあぐむ心のいらだちの外《ほか》に、何とも知れぬ一種の悲哀を感じた。お糸と自分との行末……行末というよりも今夜会って後《のち》の明日《あした》はどうなるのであろう。お糸は今夜|兼《かね》てから話のしてある葭町《よしちょう》の芸者屋《げいしゃや》まで出掛けて相談をして来るという事で、その道中《どうちゅう》をば二人一緒に話しながら歩こうと約束したのである。お糸がいよいよ芸者になってしまえばこれまでのように毎日|逢《あ》う事ができなくなるのみならず、それが万事の終りであるらしく思われてならない。自分の知らない如何《いか》にも遠い国へと再び帰る事なく去《い》ってしまうような気がしてならないのだ。今夜のお月様は忘れられない。一生に二度見られない月だなアと長吉はしみじみ思った。あらゆる記憶の数々が電光のように閃《ひらめ》く。最初|地方町《じかたまち》の小学校へ行く頃は毎日のように喧嘩《けんか》して遊んだ。やがては皆《みん》なから近所の板塀《いたべい》や土蔵の壁に相々傘《あいあいがさ》をかかれて囃《はや》された。小梅の伯父さんにつれられて奥山の見世物《みせもの》を見に行ったり池の鯉《こい》に麩《ふ》をやったりした。
 三社祭《さんじゃまつり》の折お糸は或年|踊屋台《おどりやたい》へ出て道成寺《どうじょうじ》を踊った。町内一同で毎年《まいとし》汐干狩《しおひがり》に行く船の上でもお糸はよく踊った。学校の帰り道には毎日のように待乳山《まつちやま》の境内《けいだい》で待合せて、人の知らない山谷《さんや》の裏町から吉原田圃《よしわらたんぼ》を歩いた……。ああ、お糸は何故《なぜ》芸者なんぞになるんだろう。芸者なんぞになっちゃいけないと引止めたい。長吉は無理にも引止めねばならぬと決心したが、すぐその傍《そば》から、自分はお糸に対しては到底それだけの威力のない事を思返《おもいかえ》した。果敢《はかな》い絶望と諦《あきら》めとを感じた。お糸は二ツ年下の十六であるが、この頃になっては長吉は殊更《ことさら》に日一日とお糸が遥《はる》か年上の姉であるような心持がしてならぬのであった。いや最初からお糸は長吉よりも強かった。長吉よりも遥《はるか》に臆病《おくびょう》ではなかった。お糸長吉と相々傘にかかれて皆なから囃された時でもお糸はびく[#「びく」に傍点]ともしなかった。平気な顔で長《ちょう》ちゃんはあたいの旦那《だんな》だよと怒鳴《どな》った。去年初めて学校からの帰り道を待乳山で待ち合わそうと申出《もうしだ》したのもお糸であった。宮戸座《みやとざ》の立見《たちみ》へ行こうといったのもお糸が先であった。帰りの晩《おそ》くなる事をもお糸の方がかえって心配しなかった。知らない道に迷っても、お糸は行ける処まで行って御覧よ。巡査《おまわり》さんにきけば分るよといって、かえって面白そうにずんずん歩いた……。
 あたりを構わず橋板の上に吾妻下駄《あずまげた》を鳴《なら》す響《ひびき》がして、小走りに突然お糸がかけ寄った。
「おそかったでしょう。気に入らないんだもの、母《おっか》さんの結《ゆ》った髪なんぞ。」と馳《か》け出したために殊更《ことさら》ほつれた鬢《びん》を直しながら、「おかしいでしょう。」
 長吉はただ眼を円くしてお糸の顔を見るばかりである。いつもと変りのない元気のいいはしゃぎ切った様子がこの場合むしろ憎らしく思われた。遠い下町《したまち》に行って芸者になってしまうのが少しも悲しくないのかと長吉はいいたい事も胸一ぱいになって口には出ない。お糸は河水《かわみず》を照《てら》す玉のような月の光にも一向《いっこう》気のつかない様子で、
「早く行こうよ。私《わたい》お金持ちだよ。今夜は。仲店《なかみせ》でお土産を買って行くんだから。」とすたすた歩きだす。
「明日《あした》、きっと帰るか。」長吉は吃《ども》るようにしていい切った。
「明日帰らなければ、明後日《あさって》の朝はきっと帰って来てよ。不断着だの、いろんなもの持って行かなくっちゃならないから。」
 待乳山の麓《ふもと》を聖天町《しょうでんちょう》の方へ出ようと細い路地《ろじ》をぬけた。
「何故《なぜ》黙ってるのよ。どうしたの。」
「明後日《あさって》帰って来てそれからまたあっちへ去《い》ってしまうんだろう。え。お糸ちゃんはもうそれなり向うの人になっちまうんだろう。もう僕とは会えないんだろう。」
「ちょいちょい遊びに帰って来るわ。だけれど、私《わたい》も一生懸命にお稽古《けいこ》しなくっちゃならないんだもの。」
 少しは声を曇《くもら》したもののその調子は長吉の満足するほどの悲愁を帯びてはいなかった。長吉は暫《しばら》くしてからまた突然に、
「なぜ芸者なんぞになるんだ。」
「またそんな事きくの。おかしいよ。長さんは。」
 お糸は已《すで》に長吉のよく知っている事情をば再びくどくどしく繰返《くりかえ》した。お糸が芸者になるという事は二、三年いやもっと前から長吉にも能《よ》く分っていた事である。その起因《おこり》は大工であったお糸の父親がまだ生きていた頃《ころ》から母親《おふくろ》は手内職《てないしょく》にと針仕事をしていたが、その得意先《とくいさき》の一軒で橋場《はしば》の妾宅《しょうたく》にいる御新造《ごしんぞ》がお糸の姿を見て是非|娘分《むすめぶん》にして行末《ゆくすえ》は立派な芸者にしたてたいといい出した事からである。御新造の実家は葭町《よしちょう》で幅のきく芸者家《げいしゃや》であった。しかしその頃のお糸の家《うち》はさほどに困ってもいなかったし、第一に可愛い盛《さかり》の子供を手放すのが辛《つら》かったので、親の手元でせいぜい芸を仕込ます事になった。その後《ご》父親が死んだ折には差当《さしあた》り頼りのない母親は橋場の御新造の世話で今の煎餅屋《せんべいや》を出したような関係もあり、万事が金銭上の義理ばかりでなくて相方《そうほう》の好意から自然とお糸は葭町へ行くように誰《た》れが強《し》いるともなく決《きま》っていたのである。百も承知しているこんな事情を長吉はお糸の口からきくために質問したのでない。お糸がどうせ行かねばならぬものなら、もう少し悲しく自分のために別《わかれ》を惜しむような調子を見せてもらいたいと思ったからだ。長吉は自分とお糸の間にはいつの間《ま》にか互《たがい》に疎通しない感情の相違の生じている事を明《あきら》かに知って、更に深い悲《かなし》みを感じた。
 この悲みはお糸が土産物を買うため仁王門《におうもん》を過ぎて仲店《なかみせ》へ出た時更にまた堪えがたいものとなった。夕涼《ゆうすずみ》に出掛ける賑《にぎや》かな人出の中にお糸はふいと立止って、並んで歩く長吉の袖《そで》を引き、「長さん、あたいも直《じ》きあんな扮装《なり》するんだねえ。絽縮緬《ろちりめん》だねきっと、あの羽織……。」
 長吉はいわれるままに見返ると、島田に結《ゆ》った芸者と、それに連立《つれだ》って行くのは黒絽《くろろ》の紋付をきた立派な紳士であった。ああお糸が芸者になったら一緒に手を引いて歩く人はやっぱりああいう立派な紳士であろう。自分は何年たったらあんな紳士になれるのか知ら。兵児帯《へこおび》一ツの現在《いま》の書生姿がいうにいわれず情なく思われると同時に、長吉はその将来どころか現在においても、已《すで》に単純なお糸の友達たる資格さえないもののような心持がした。
 いよいよ御神燈《ごしんとう》のつづいた葭町の路地口《ろじぐち》へ来た時、長吉はもうこれ以上|果敢《はかな》いとか悲しいとか思う元気さえなくなって、唯《た》だぼんやり、狭く暗い路地裏のいやに奥深く行先知れず曲込《まがりこ》んでいるのを不思議そうに覗込《のぞきこ》むばかりであった。
「あの、一《ひ》イ二《ふ》ウ三《み》イ……四つ目の瓦斯燈《ガスとう》の出てるところだよ。松葉屋《まつばや》と書いてあるだろう。ね。あの家《うち》よ。」とお糸はしばしば橋場の御新造につれて来られたり、またはその用事で使いに来たりして能《よ》く知っている軒先《のきさき》の燈《あかり》を指し示した。
「じゃア僕は帰るよ。もう……。」というばかりで長吉はやはり立止っている。その袖をお糸は軽く捕《つかま》えて忽《たちま》ち媚《こび》るように寄添い、
「明日《あした》か明後日《あさって》、家《うち》へ帰って来た時きっと逢《あ》おうね。いいかい。きっとよ。約束してよ。あたいの家《うち》へお出《いで》よ。よくッて。」
「ああ。」
 返事をきくと、お糸はそれですっかり安心したものの如くすたすた路地の溝板《どぶいた》を吾妻下駄《あずまげた》に踏みならし振返りもせずに行ってしまった。その足音が長吉の耳には急いで馳《か》けて行くように聞えた、かと思う間《ま》もなく、ちりんちりんと格子戸の鈴の音がした。長吉は覚えず後《あと》を追って路地内《ろじうち》へ這入《はい》ろうとしたが、同時に一番近くの格子戸が人声と共に開《あ》いて、細長い弓張提灯《ゆみはりぢょうちん》を持った男が出て来たので、何《なん》という事なく長吉は気後《きおく》れのしたばかりか、顔を見られるのが厭《いや》さに、一散《いっさん》に通りの方へと遠《とおざ》かった。円い月は形が大分《だいぶ》小《ちいさ》くなって光が蒼《あお》く澄んで、静《しずか》に聳《そび》える裏通りの倉の屋根の上、星の多い空の真中《まんなか》に高く昇っていた。

 月の出が夜《よ》ごとおそくなるにつれてその光は段々|冴《さ》えて来た。河風《かわかぜ》の湿《しめ》ッぽさが次第に強く感じられて来て浴衣《ゆかた》の肌がいやに薄寒くなった。月はやがて人の起きている頃《ころ》にはもう昇らなくなった。空には朝も昼過ぎも夕方も、いつでも雲が多くなった。雲は重《かさな》り合って絶えず動いているので、時としては僅《わず》かにその間々《あいだあいだ》に殊更《ことさら》らしく色の濃い青空の残りを見せて置きながら、空一面に蔽《おお》い冠《かぶ》さる。すると気候は恐しく蒸暑《むしあつ》くなって来て、自然と浸《し》み出る脂汗《あぶらあせ》が不愉快に人の肌をねばねばさせるが、しかしまた、そういう時にはきまって、その強弱とその方向の定まらない風が突然に吹き起って、雨もまた降っては止《や》み、止んではまた降りつづく事がある。この風やこの雨には一種特別の底深い力が含まれていて、寺の樹木や、河岸《かわぎし》の葦《あし》の葉や、場末につづく貧しい家の板屋根に、春や夏には決して聞かれない音響を伝える。日が恐しく早く暮れてしまうだけ、長い夜《よ》はすぐに寂々《しんしん》と更《ふ》け渡って来て、夏ならば夕涼みの下駄の音に遮《さえぎ》られてよくは聞えない八時か九時の時の鐘があたりをまるで十二時の如く静《しずか》にしてしまう。蟋蟀《こおろぎ》の声はいそがしい。燈火《ともしび》の色はいやに澄む。秋。ああ秋だ。長吉は初めて秋というものはなるほどいやなものだ。実に淋《さび》しくって堪《たま》らないものだと身にしみじみ感じた。
 学校はもう昨日《きのう》から始っている。朝早く母親の用意してくれる弁当箱を書物と一所《いっしょ》に包んで家《うち》を出て見たが、二日目三日目にはつくづく遠い神田《かんだ》まで歩いて行く気力がなくなった。今までは毎年《まいねん》長い夏休みの終る頃といえば学校の教場が何《なん》となく恋しく授業の開始する日が心待《こころまち》に待たれるようであった。そのういういしい心持はもう全く消えてしまった。つまらない。学問なんぞしたってつまるものか。学校は己《おの》れの望むような幸福を与える処ではない。……幸福とは無関係のものである事を長吉は物新しく感じた。
 四日目の朝いつものように七時前に家《うち》を出て観音《かんのん》の境内《けいだい》まで歩いて来たが、長吉はまるで疲れきった旅人《たびびと》が路傍《みちばた》の石に腰をかけるように、本堂の横手のベンチの上に腰を下《おろ》した。いつの間に掃除をしたものか朝露に湿った小砂利《こじゃり》の上には、投捨てた汚い紙片《かみきれ》もなく、朝早い境内はいつもの雑沓《ざっとう》に引かえて妙に広く神々《こうごう》しく寂《しん》としている。本堂の廊下には此処《ここ》で夜明《よあか》ししたらしい迂散《うさん》な男が今だに幾人も腰をかけていて、その中には垢《あか》じみた単衣《ひとえ》の三尺帯《さんじゃくおび》を解いて平気で褌《ふんどし》をしめ直している奴《やつ》もあった。この頃の空癖《そらくせ》で空は低く鼠色《ねずみいろ》に曇り、あたりの樹木からは虫噛《むしば》んだ青いままの木葉《このは》が絶え間なく落ちる。烏《からす》や鶏《にわとり》の啼声《なきごえ》鳩《はと》の羽音《はおと》が爽《さわや》かに力強く聞える。溢《あふ》れる水に濡《ぬ》れた御手洗《みたらし》の石が飜《ひるが》える奉納の手拭《てぬぐい》のかげにもう何となく冷《つめた》いように思われた。それにもかかわらず朝参りの男女は本堂の階段を上《のぼ》る前にいずれも手を洗うためにと立止まる。その人々の中に長吉は偶然にも若い一人の芸者が、口には桃色のハンケチを啣《くわ》えて、一重羽織《ひとえばおり》の袖口《そでぐち》を濡《ぬら》すまいためか、真白《まっしろ》な手先をば腕までも見せるように長くさし伸《のば》しているのを認めた。同時にすぐ隣のベンチに腰をかけている書生が二人、「見ろ見ろ、ジンゲルだ。わるくないなア。」といっているのさえ耳にした。
 島田に結《ゆ》って弱々しく両肩の撫《な》で下《さが》った小作りの姿と、口尻《くちじり》のしまった円顔《まるがお》、十六、七の同じような年頃とが、長吉をしてその瞬間|危《あやう》くベンチから飛び立たせようとしたほどお糸のことを連想せしめた。お糸は月のいいあの晩に約束した通り、その翌々日に、それからは長く葭町《よしちょう》の人たるべく手荷物を取りに帰って来たが、その時長吉はまるで別の人のようにお糸の姿の変ってしまったのに驚いた。赤いメレンスの帯ばかり締《し》めていた娘姿が、突然たった一日の間《あいだ》に、丁度今|御手洗《みたらし》で手を洗っている若い芸者そのままの姿になってしまったのだ。薬指にはもう指環《ゆびわ》さえ穿《は》めていた。用もないのに幾度《いくたび》となく帯の間から鏡入れや紙入《かみいれ》を抜き出して、白粉《おしろい》をつけ直したり鬢《びん》のほつれを撫《な》で上げたりする。戸外《そと》には車を待たして置いていかにも急《いそが》しい大切な用件を身に帯びているといった風《ふう》で一時間もたつかたたない中《うち》に帰ってしまった。その帰りがけ長吉に残した最後の言葉はその母親の「御師匠《おししょう》さんのおばさん」にもよろしくいってくれという事であった。まだ何時《いつ》出るのか分らないからまた近い中に遊びに来るわという懐《なつか》しい声も聞《きか》れないのではなかったが、それはもう今までのあどけない約束ではなくて、世馴《よな》れた人の如才《じょさい》ない挨拶《あいさつ》としか長吉には聞取れなかった。娘であったお糸、幼馴染《おさななじみ》の恋人のお糸はこの世にはもう生きていないのだ。路傍《みちばた》に寝ている犬を驚《おどろか》して勢よく駈《か》け去った車の後《あと》に、えもいわれず立迷った化粧の匂《にお》いが、いかに苦しく、いかに切《せつ》なく身中《みうち》にしみ渡ったであろう……。
 本堂の中にと消えた若い芸者の姿は再び階段の下に現れて仁王門《におうもん》の方へと、素足《すあし》の指先に突掛《つっか》けた吾妻下駄《あずまげた》を内輪《うちわ》に軽く踏みながら歩いて行く。長吉はその後姿《うしろすがた》を見送るとまた更に恨めしいあの車を見送った時の一刹那《いっせつな》を思起すので、もう何《なん》としても我慢が出来ぬというようにベンチから立上った。そして知らず知らずその後を追うて仲店《なかみせ》の尽《つき》るあたりまで来たが、若い芸者の姿は何処《どこ》の横町《よこちょう》へ曲ってしまったものか、もう見えない。両側の店では店先を掃除して品物を並べたてている最中《さいちゅう》である。長吉は夢中で雷門《かみなりもん》の方へどんどん歩いた。若い芸者の行衛《ゆくえ》を見究《みきわ》めようというのではない。自分の眼にばかりありあり見えるお糸の後姿を追って行くのである。学校の事も何も彼《か》も忘れて、駒形《こまかた》から蔵前《くらまえ》、蔵前から浅草橋《あさくさばし》……それから葭町《よしちょう》の方へとどんどん歩いた。しかし電車の通《とお》っている馬喰町《ばくろちょう》の大通りまで来て、長吉はどの横町を曲ればよかったのか少しく当惑した。けれども大体の方角はよく分っている。東京に生れたものだけに道をきくのが厭《いや》である。恋人の住む町と思えば、その名を徒《いたずら》に路傍の他人に漏《もら》すのが、心の秘密を探られるようで、唯わけもなく恐しくてならない。長吉は仕方なしに唯《た》だ左へ左へと、いいかげんに折れて行くと蔵造《くらづく》りの問屋らしい商家のつづいた同じような堀割の岸に二度も出た。その結果長吉は遥か向うに明治座《めいじざ》の屋根を見てやがてやや広い往来へ出た時、その遠い道のはずれに河蒸汽船《かわじょうきせん》の汽笛の音の聞えるのに、初めて自分の位置と町の方角とを覚《さと》った。同時に非常な疲労《つかれ》を感じた。制帽を冠《かぶ》った額《ひたい》のみならず汗は袴《はかま》をはいた帯のまわりまでしみ出していた。しかしもう一瞬間とても休む気にはならない。長吉は月の夜《よ》に連れられて来た路地口《ろじぐち》をば、これはまた一層の苦心、一層の懸念《けねん》、一層の疲労を以って、やっとの事で見出《みいだ》し得たのである。
 片側《かたかわ》に朝日がさし込んでいるので路地の内《うち》は突当りまで見透《みとお》された。格子戸《こうしど》づくりの小《ちいさ》い家《うち》ばかりでない。昼間見ると意外に屋根の高い倉もある。忍返《しのびがえ》しをつけた板塀《いたべい》もある。その上から松の枝も見える。石灰《いしばい》の散った便所の掃除口も見える。塵芥箱《ごみばこ》の並んだ処もある。その辺《へん》に猫がうろうろしている。人通りは案外に烈《はげ》しい。極めて狭い溝板《どぶいた》の上を通行の人は互《たがい》に身を斜めに捻向《ねじむ》けて行き交《ちが》う。稽古《けいこ》の三味線《しゃみせん》に人の話声が交《まじ》って聞える。洗物《あらいもの》する水音《みずおと》も聞える。赤い腰巻に裾《すそ》をまくった小女《こおんな》が草箒《くさぼうき》で溝板の上を掃いている。格子戸の格子を一本々々一生懸命に磨いているのもある。長吉は人目の多いのに気後《きおく》れしたのみでなく、さて路地内に進入《すすみい》ったにした処で、自分はどうするのかと初めて反省の地位に返った。人知れず松葉屋《まつばや》の前を通って、そっとお糸の姿を垣間見《かいまみ》たいとは思ったが、あたりが余りに明過《あかるす》ぎる。さらばこのまま路地口に立っていて、お糸が何かの用で外へ出るまでの機会を待とうか。しかしこれもまた、長吉には近所の店先の人目が尽《ことごと》く自分ばかりを見張っているように思われて、とても五分と長く立っている事はできない。長吉はとにかく思案《しあん》をしなおすつもりで、折から近所の子供を得意にする粟餅屋《あわもちや》の爺《じじ》がカラカラカラと杵《きね》をならして来る向うの横町《よこちょう》の方《ほう》へと遠《とおざ》かった。
 長吉は浜町《はまちょう》の横町をば次第に道の行くままに大川端《おおかわばた》の方へと歩いて行った。いかほど機会を待っても昼中《ひるなか》はどうしても不便である事を僅《わず》かに悟り得たのであるが、すると、今度はもう学校へは遅くなった。休むにしても今日の半日、これから午後の三時までをどうして何処《どこ》に消費しようかという問題の解決に迫《せ》められた。母親のお豊《とよ》は学校の時間割までをよく知抜《しりぬ》いているので、長吉の帰りが一時間早くても、晩《おそ》くても、すぐに心配して煩《うるさ》く質問する。無論長吉は何とでも容易《たやす》くいい紛《まぎ》らすことは出来ると思うものの、それだけの嘘《うそ》をつく良心の苦痛に逢《あ》うのが厭《いや》でならない。丁度来かかる川端には、水練場《すいれんば》の板小屋が取払われて、柳の木蔭《こかげ》に人が釣《つり》をしている。それをば通りがかりの人が四人も五人もぼんやり立って見ているので、長吉はいい都合だと同じように釣を眺める振《ふり》でそのそばに立寄ったが、もう立っているだけの力さえなく、柳の根元の支木《ささえぎ》に背をよせかけながら蹲踞《しゃが》んでしまった。
 さっきから空の大半は真青《まっさお》に晴れて来て、絶えず風の吹き通《かよ》うにもかかわらず、じりじり人の肌に焼附《やきつ》くような湿気《しっけ》のある秋の日は、目の前なる大川《おおかわ》の水一面に眩《まぶ》しく照り輝くので、往来の片側に長くつづいた土塀《どべい》からこんもりと枝を伸《のば》した繁《しげ》りの蔭《かげ》がいかにも涼しそうに思われた。甘酒屋《あまざけや》の爺《じじ》がいつかこの木蔭《こかげ》に赤く塗った荷を下《おろ》していた。川向《かわむこう》は日の光の強いために立続く人家の瓦屋根《かわらやね》をはじめ一帯の眺望がいかにも汚らしく見え、風に追いやられた雲の列が盛《さかん》に煤煙《ばいえん》を吐《は》く製造場《せいぞうば》の烟筒《けむだし》よりも遥《はるか》に低く、動かずに層をなして浮《うか》んでいる。釣道具を売る後《うしろ》の小家《こいえ》から十一時の時計が鳴った。長吉は数えながらそれを聞いて、初めて自分はいかに長い時間を歩き暮したかに驚いたが、同時にこの分《ぶん》で行けば三時までの時間を空費するのもさして難《かた》くはないとやや安心することも出来た。長吉は釣師《つりし》の一人が握飯《にぎりめし》を食いはじめたのを見て、同じように弁当箱を開いた。開いたけれども何だか気まりが悪くて、誰か見ていやしないかときょろきょろ四辺《あたり》を見廻した。幸い午近《ひるぢか》くのことで見渡す川岸に人の往来は杜絶《とだ》えている。長吉は出来るだけ早く飯《めし》でも菜《さい》でも皆《みん》な鵜呑《うの》みにしてしまった。釣師はいずれも木像のように黙っているし、甘酒屋の爺は居眠りしている。午過《ひるすぎ》の川端はますます静《しずか》になって犬さえ歩いて来ない処から、さすがの長吉も自分は何故《なぜ》こんなに気まりを悪がるのであろう臆病《おくびょう》なのであろうと我ながら可笑《おか》しい気にもなった。
 両国橋《りょうごくばし》と新大橋《しんおおはし》との間を一廻《ひとまわり》した後《のち》、長吉はいよいよ浅草《あさくさ》の方へ帰ろうと決心するにつけ、「もしや」という一念にひかされて再び葭町の路地口に立寄って見た。すると午前《ひるまえ》ほどには人通りがないのに先《ま》ず安心して、おそるおそる松葉屋の前を通って見たが、家《うち》の中は外から見ると非常に暗く、人の声三味線の音さえ聞えなかった。けれども長吉には誰にも咎《とが》められずに恋人の住む家《うち》の前を通ったというそれだけの事が、殆《ほと》んど破天荒《はてんこう》の冒険を敢《あえ》てしたような満足を感じさせたので、これまで歩きぬいた身の疲労と苦痛とを長吉は遂《つい》に後悔しなかった。

 その週間の残りの日数《ひかず》だけはどうやらこうやら、長吉は学校へ通ったが、日曜日一日を過《すご》すとその翌朝《あくるあさ》は電車に乗って上野《うえの》まで来ながらふいと下《お》りてしまった。教師に差出すべき代数の宿題を一つもやって置かなかった。英語と漢文の下読《したよみ》をもして置かなかった。それのみならず今日はまた、凡《およ》そ世の中で何よりも嫌いな何よりも恐しい機械体操のある事を思い出したからである。長吉には鉄棒から逆《さかさ》にぶらさがったり、人の丈《たけ》より高い棚の上から飛下りるような事は、いかに軍曹上《ぐんそうあが》りの教師から強《し》いられても全級の生徒から一斉《いっせい》に笑われても到底出来|得《う》べきことではない。何によらず体育の遊戯にかけては、長吉はどうしても他の生徒一同に伴《ともな》って行く事が出来ないので、自然と軽侮《けいぶ》の声の中に孤立する。その結果は、遂に一同から意地悪くいじめられる事になりやすい。学校は単にこれだけでも随分|厭《いや》な処、苦しいところ、辛《つら》い処であった。されば長吉はその母親がいかほど望んだ処で今になっては高等学校へ這入《はい》ろうという気は全くない。もし入学すれば校則として当初《はじめ》の一年間は是非とも狂暴無残な寄宿舎生活をしなければならない事を聴知《ききし》っていたからである。高等学校寄宿舎内に起るいろいろな逸話《いつわ》は早くから長吉の胆《きも》を冷《ひや》しているのであった。いつも画学と習字にかけては全級誰も及ぶもののない長吉の性情は、鉄拳《てっけん》だとか柔術だとか日本魂《やまとだましい》だとかいうものよりも全く異《ちが》った他の方面に傾いていた。子供の時から朝夕に母が渡世《とせい》の三味線《しゃみせん》を聴くのが大好きで、習わずして自然に絃《いと》の調子を覚え、町を通る流行唄《はやりうた》なぞは一度聴けば直《す》ぐに記憶する位であった。小梅《こうめ》の伯父なる蘿月宗匠《らげつそうしょう》は早くも名人になるべき素質があると見抜いて、長吉をば檜物町《ひものちょう》でも植木店《うえきだな》でも何処《どこ》でもいいから一流の家元へ弟子入をさせたらばとお豊に勧めたがお豊は断じて承諾しなかった。のみならず以来は長吉に三味線を弄《いじ》る事をば口喧《くちやかま》しく禁止した。
 長吉は蘿月の伯父さんのいったように、あの時分から三味線を稽古《けいこ》したなら、今頃はとにかく一人前《いちにんまえ》の芸人になっていたに違いない。さすればよしやお糸が芸者になったにした処で、こんなに悲惨《みじめ》な目に遇《あ》わずとも済んだであろう。ああ実に取返しのつかない事をした。一生の方針を誤ったと感じた。母親が急に憎くなる。例えられぬほど怨《うらめ》しく思われるに反して、蘿月の伯父さんの事が何《なん》となく取縋《とりすが》って見たいように懐《なつか》しく思返された。これまでは何の気もなく母親からもまた伯父自身の口からも度々《たびたび》聞かされていた伯父が放蕩三昧《ほうとうざんまい》の経歴が恋の苦痛を知り初《そ》めた長吉の心には凡《すべ》て新しい何かの意味を以て解釈されはじめた。長吉は第一に「小梅の伯母さん」というのは元《もと》金瓶大黒《きんべいだいこく》の華魁《おいらん》で明治の初め吉原《よしわら》解放の時小梅の伯父さんを頼って来たのだとやらいう話を思出した。伯母さんは子供の頃《ころ》自分をば非常に可愛がってくれた。それにもかかわらず、自分の母親のお豊はあまり好《よ》くは思っていない様子で、盆暮《ぼんくれ》の挨拶《あいさつ》もほんの義理|一遍《いっぺん》らしい事を構わず素振《そぶり》に現《あらわ》していた事さえあった。長吉は此処《ここ》で再び母親の事を不愉快にかつ憎らしく思った。殆《ほとん》ど夜《よ》の目も離さぬほど自分の行いを目戍《みまも》っているらしい母親の慈愛が窮屈で堪《たま》らないだけ、もしこれが小梅の伯母さん見たような人であったら――小梅のおばさんはお糸と自分の二人を見て何ともいえない情《なさけ》のある声で、いつまで[#「いつまで」に傍点]も仲よくお遊びよといってくれた事がある――自分の苦痛の何物たるかを能《よ》く察して同情してくれるであろう。自分の心がすこしも要求していない幸福を頭から無理に強《し》いはせまい。長吉は偶然にも母親のような正しい身の上の女と小梅のおばさんのような或種《あるしゅ》の経歴ある女との心理を比較した。学校の教師のような人と蘿月伯父さんのような人とを比較した。
 午頃《ひるごろ》まで長吉は東照宮《とうしょうぐう》の裏手の森の中で、捨石《すていし》の上に横《よこた》わりながら、こんな事を考えつづけた後《あと》は、包《つつみ》の中にかくした小説本を取出して読み耽《ふけ》った。そして明日《あした》出すべき欠席届にはいかにしてまた母の認印《みとめいん》を盗むべきかを考えた。

 一《ひと》しきり毎日毎夜のように降りつづいた雨の後《あと》、今度は雲一ツ見えないような晴天が幾日と限りもなくつづいた。しかしどうかして空が曇ると忽《たちま》ちに風が出て乾ききった道の砂を吹散《ふきちら》す。この風と共に寒さは日にまし強くなって閉切《しめき》った家の戸や障子《しょうじ》が絶間《たえま》なくがたりがたりと悲しげに動き出した。長吉は毎朝七時に始《はじま》る学校へ行くため晩《おそ》くも六時には起きねばならぬが、すると毎朝の六時が起《おき》るたびに、だんだん暗くなって、遂には夜と同じく家の中には燈火《ともしび》の光を見ねばならぬようになった。毎年《まいとし》冬のはじめに、長吉はこの鈍《にぶ》い黄《きいろ》い夜明《よあけ》のランプの火を見ると、何ともいえぬ悲しい厭《いや》な気がするのである。母親はわが子を励ますつもりで寒そうな寝衣姿《ねまきすがた》のままながら、いつも長吉よりは早く起きて暖い朝飯《あさめし》をばちゃんと用意して置く。長吉はその親切をすまないと感じながら何分《なにぶん》にも眠くてならぬ。もう暫《しばら》く炬燵《こたつ》にあたっていたいと思うのを、むやみと時計ばかり気にする母にせきたてられて不平だらだら、河風《かわかぜ》の寒い往来《おうらい》へ出るのである。或時はあまりに世話を焼かれ過《すぎ》るのに腹を立てて、注意される襟巻《えりまき》をわざと解《と》きすてて風邪《かぜ》を引いてやった事もあった。もう返らない幾年か前|蘿月《らげつ》の伯父につれられお糸も一所《いっしょ》に酉《とり》の市《いち》へ行った事があった……毎年《まいとし》その日の事を思い出す頃から間《ま》もなく、今年も去年と同じような寒い十二月がやって来るのである。
 長吉は同じようなその冬の今年と去年、去年とその前年、それからそれと幾年も溯《さかのぼ》って何心なく考えて見ると、人は成長するに従っていかに幸福を失って行くものかを明《あきら》かに経験した。まだ学校へも行かぬ子供の時には朝寒ければゆっくりと寝たいだけ寝ていられたばかりでなく、身体《からだ》の方もまたそれほどに寒さを感ずることが烈《はげ》しくなかった。寒い風や雨の日にはかえって面白く飛び歩いたものである。ああそれが今の身になっては、朝早く今戸《いまど》の橋の白い霜を踏むのがいかにも辛《つら》くまた昼過ぎにはいつも木枯《こがらし》の騒ぐ待乳山《まつちやま》の老樹に、早くも傾く夕日の色がいかにも悲しく見えてならない。これから先の一年一年は自分の身にいかなる新しい苦痛を授けるのであろう。長吉は今年の十二月ほど日数《ひかず》の早くたつのを悲しく思った事はない。観音《かんのん》の境内《けいだい》にはもう年《とし》の市《いち》が立った。母親のもとへとお歳暮のしるしにお弟子が持って来る砂糖袋や鰹節《かつぶし》なぞがそろそろ床《とこ》の間《ま》へ並び出した。学校の学期試験は昨日《きのう》すんで、一方《ひとかた》ならぬその不成績に対する教師の注意書《ちゅういがき》が郵便で母親の手許に送り届けられた。
 初めから覚悟していた事なので長吉は黙って首をたれて、何かにつけてすぐに「親一人子一人」と哀《あわれ》ッぽい事をいい出す母親の意見を聞いていた。午前《ひるまえ》稽古《けいこ》に来る小娘たちが帰って後《のち》午過《ひるすぎ》には三時過ぎてからでなくては、学校帰りの娘たちはやって来ぬ。今が丁度母親が一番手すきの時間である。風がなくて冬の日が往来の窓一面にさしている。折から突然まだ格子戸《こうしど》をあけぬ先から、「御免《ごめん》なさい。」という華美《はで》な女の声、母親が驚いて立つ間《ま》もなく上框《あがりがまち》の障子の外から、「おばさん、わたしよ。御無沙汰《ごぶさた》しちまって、お詫《わ》びに来たんだわ。」
 長吉は顫《ふる》えた。お糸である。お糸は立派なセルの吾妻《あずま》コオトの紐《ひも》を解《と》き解き上って来た。
「あら、長《ちょう》ちゃんもいたの。学校がお休み……あら、そう。」それから付けたように、ほほほほと笑って、さて丁寧に手をついて御辞儀をしながら、「おばさん、お変りもありませんの。ほんとに、つい家《うち》が出にくいものですから、あれッきり御無沙汰しちまって……。」
 お糸は縮緬《ちりめん》の風呂敷《ふろしき》につつんだ菓子折を出した。長吉は呆気《あっけ》に取られたさまで物もいわずにお糸の姿を目戍《みまも》っている。母親もちょっと烟《けむ》に巻かれた形で進物《しんもつ》の礼を述べた後、「きれいにおなりだね。すっかり見違えちまったよ。」といった。
「いやにふけ[#「ふけ」に傍点]ちまったでしょう。皆《みんな》そういってよ。」とお糸は美しく微笑《ほほえ》んで紫《むらさき》縮緬の羽織の紐の解けかかったのを結び直すついでに帯の間から緋天鵞絨《ひびろうど》の煙草入《たばこいれ》を出して、「おばさん。わたし、もう煙草|喫《の》むようになったのよ。生意気でしょう。」
 今度は高く笑った。
「こっちへおよんなさい。寒いから。」と母親のお豊は長火鉢の鉄瓶《てつびん》を下《おろ》して茶を入れながら、「いつお弘《ひろ》めしたんだえ。」
「まだよ。ずっと押詰《おしづま》ってからですって。」
「そう。お糸ちゃんなら、きっと売れるわね。何しろ綺麗《きれい》だし、ちゃんともう地《じ》は出来ているんだし……。」
「おかげさまでねえ。」とお糸は言葉を切って、「あっちの姉さんも大変に喜んでたわ。私なんかよりもっと大きなくせに、それァ随分出来ない娘《こ》がいるんですもの。」
「この節《せつ》の事《こっ》たから……。」お豊はふと気がついたように茶棚から菓子鉢を出して、「あいにく何《なん》にもなくって……道了《どうりょう》さまのお名物だって、ちょっとおつなものだよ。」と箸《はし》でわざわざ摘《つま》んでやった。
「お師匠《っしょ》さん、こんちは。」と甲高《かんだか》な一本調子で、二人《ふたり》づれの小娘が騒々しく稽古《けいこ》にやって来た。
「おばさん、どうぞお構いなく……。」
「なにいいんですよ。」といったけれどお豊はやがて次の間《ま》へ立った。
 長吉は妙に気《き》まりが悪くなって自然に俯向《うつむ》いたが、お糸の方は一向変った様子もなく小声で、
「あの手紙届いて。」
 隣の座敷では二人の小娘が声を揃《そろ》えて、嵯峨《さが》やお室《むろ》の花ざかり。長吉は首ばかり頷付《うなずか》せてもじもじ[#「もじもじ」に傍点]している。お糸が手紙を寄越《よこ》したのは一《いち》の酉《とり》の前《まえ》時分《じぶん》であった。つい家《うち》が出にくいというだけの事である。長吉は直様《すぐさま》別れた後《のち》の生涯をこまごまと書いて送ったが、しかし待ち設けたような、折返したお糸の返事は遂に聞く事が出来なかったのである。
「観音さまの市《いち》だわね。今夜一所に行かなくって。あたい今夜泊ってッてもいいんだから。」
 長吉は隣座敷の母親を気兼《きがね》して何とも答える事ができない。お糸は構わず、
「御飯たべたら迎いに来てよ。」といったがその後《あと》で、「おばさんも一所にいらッしゃるでしょうね。」
「ああ。」と長吉は力の抜けた声になった。
「あの……。」お糸は急に思出して、「小梅の伯父さん、どうなすって、お酒に酔《え》って羽子板屋《はごいたや》のお爺《じい》さんと喧嘩《けんか》したわね。何時《いつ》だったか。私《わたし》怖くなッちまッたわ。今夜いらッしゃればいいのに。」
 お糸は稽古の隙《すき》を窺《うかが》ってお豊に挨拶《あいさつ》して、「じゃ、晩ほど。どうもお邪魔いたしました。」といいながらすたすた帰った。

 長吉は風邪《かぜ》をひいた。七草《ななくさ》過ぎて学校が始《はじま》った処から一日無理をして通学したために、流行のインフルエンザに変って正月一ぱい寝通してしまった。
 八幡さまの境内に今日は朝から初午《はつうま》の太鼓が聞える。暖い穏《おだやか》な午後《ひるすぎ》の日光が一面にさし込む表の窓の障子には、折々《おりおり》軒《のき》を掠《かす》める小鳥の影が閃《ひらめ》き、茶の間の隅の薄暗い仏壇の奥までが明《あかる》く見え、床《とこ》の間《ま》の梅がもう散りはじめた。春は閉切《しめき》った家《うち》の中までも陽気におとずれて来たのである。
 長吉は二、三日前から起きていたので、この暖い日をぶらぶら散歩に出掛けた。すっかり全快した今になって見れば、二十日《はつか》以上も苦しんだ大病を長吉はもっけの幸いであったと喜んでいる。とても来月の学年試験には及第する見込みがないと思っていた処なので、病気欠席の後《あと》といえば、落第しても母に対して尤《もっとも》至極《しごく》な申訳《もうしわけ》ができると思うからであった。
 歩いて行く中《うち》いつか浅草《あさくさ》公園の裏手へ出た。細い通りの片側には深い溝《どぶ》があって、それを越した鉄柵《てつさく》の向うには、処々《ところどころ》の冬枯れして立つ大木《たいぼく》の下に、五区《ごく》の揚弓店《ようきゅうてん》の汚《きたな》らしい裏手がつづいて見える。屋根の低い片側町《かたかわまち》の人家は丁度|後《うしろ》から深い溝の方へと押詰められたような気がするので、大方そのためであろう、それほどに混雑もせぬ往来がいつも妙に忙《いそが》しく見え、うろうろ徘徊《はいかい》している人相《にんそう》の悪い車夫《しゃふ》がちょっと風采《みなり》の小綺麗《こぎれい》な通行人の後《あと》に煩《うるさ》く付き纏《まと》って乗車を勧《すす》めている。長吉はいつも巡査が立番《たちばん》している左手の石橋《いしばし》から淡島《あわしま》さまの方までがずっと見透《みとお》される四辻《よつつじ》まで歩いて来て、通りがかりの人々が立止って眺めるままに、自分も何という事なく、曲り角に出してある宮戸座《みやとざ》の絵看板《えかんばん》を仰いだ。
 いやに文字《もんじ》の間《あいだ》をくッ付けて模様のように太く書いてある名題《なだい》の木札《きふだ》を中央《まんなか》にして、その左右には恐しく顔の小《ちいさ》い、眼の大《おおき》い、指先の太い人物が、夜具をかついだような大《おおき》い着物を着て、さまざまな誇張的の姿勢で活躍しているさまが描《えが》かれてある。この大きい絵看板を蔽《おお》う屋根形の軒には、花車《だし》につけるような造り花が美しく飾りつけてあった。
 長吉はいかほど暖い日和《ひより》でも歩いているとさすがにまだ立春になったばかりの事とて暫《しばら》くの間寒い風をよける処をと思い出した矢先《やさき》、芝居の絵看板を見て、そのまま狭い立見《たちみ》の戸口へと進み寄った。内《うち》へ這入《はい》ると足場の悪い梯子段《はしごだん》が立っていて、その中《なか》ほどから曲るあたりはもう薄暗く、臭い生暖《なまあたたか》い人込《ひとごみ》の温気《うんき》がなお更暗い上の方から吹き下りて来る。頻《しきり》に役者の名を呼ぶ掛声《かけごえ》が聞える。それを聞くと長吉は都会育ちの観劇者ばかりが経験する特種《とくしゅ》の快感と特種の熱情とを覚えた。梯子段の二、三段を一躍《ひとと》びに駈上《かけあが》って人込みの中に割込むと、床板《ゆかいた》の斜《ななめ》になった低い屋根裏の大向《おおむこう》は大きな船の底へでも下りたような心持。後《うしろ》の隅々《すみずみ》についている瓦斯《ガス》の裸火《はだかび》の光は一ぱいに詰《つま》っている見物人の頭に遮《さえぎ》られて非常に暗く、狭苦しいので、猿のように人のつかまっている前側の鉄棒から、向うに見える劇場の内部は天井ばかりがいかにも広々と見え、舞台は色づき濁った空気のためにかえって小さく甚《はなはだ》遠く見えた。舞台はチョンと打った拍子木の音に今丁度廻って止《とま》った処である。極めて一直線な石垣を見せた台の下に汚れた水色の布が敷いてあって、後《うしろ》を限る書割《かきわり》には小《ちいさ》く大名屋敷《だいみょうやしき》の練塀《ねりべい》を描《えが》き、その上の空一面をば無理にも夜だと思わせるように隙間《すきま》もなく真黒《まっくろ》に塗りたててある。長吉は観劇に対するこれまでの経験で「夜」と「川端《かわばた》」という事から、きっと殺《ころ》し場《ば》に違いないと幼い好奇心から丈伸《せの》びをして首を伸《のば》すと、果《はた》せるかな、絶えざる低い大太鼓《おおだいこ》の音に例の如く板をバタバタ叩《たた》く音が聞えて、左手の辻番小屋の蔭《かげ》から仲間《ちゅうげん》と蓙《ござ》を抱えた女とが大きな声で争いながら出て来る。見物人が笑った。舞台の人物は落したものを捜《さが》す体《てい》で何かを取り上げると、突然前とは全く違った態度になって、極めて明瞭に浄瑠璃外題《じょうるりげだい》「梅柳中宵月《うめやなぎなかもよいづき》」、勤めまする役人……と読みはじめる。それを待構えて彼方《かなた》此方《こなた》から見物人が声をかけた。再び軽い拍子木の音を合図に、黒衣《くろご》の男が右手の隅に立てた書割の一部を引取ると裃《かみしも》を着た浄瑠璃語《じょうるりかたり》三人、三味線弾《しゃみせんひき》二人が、窮屈そうに狭い台の上に並んでいて、直《す》ぐに弾出《ひきだ》す三味線からつづいて太夫《たゆう》が声を合《あわ》してかたり出した。長吉はこの種の音楽にはいつも興味を以て聞き馴《な》れているので、場内の何処《どこ》かで泣き出す赤児《あかご》の声とそれを叱咤《しった》する見物人の声に妨げられながら、しかも明《あきら》かに語る文句と三味線の手までを聴《き》き分ける。

 朧夜《おぼろよ》に星の影さへ二ツ三ツ、四ツか五ツか鐘の音《ね》も、 もしや我身《わがみ》の追手《おって》かと……

 またしても軽いバタバタが聞えて夢中になって声をかける見物人のみならず場中《じょうちゅう》一体が気色立《けしきだ》つ。それも道理だ。赤い襦袢《じゅばん》の上に紫繻子《むらさきじゅす》の幅広い襟《えり》をつけた座敷着の遊女が、冠《かぶ》る手拭《てぬぐい》に顔をかくして、前かがまりに花道《はなみち》から駈出《かけだ》したのである。「見えねえ、前が高いッ。」「帽子をとれッ。」「馬鹿野郎。」なぞと怒鳴《どな》るものがある。
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※[#歌記号、1-3-28]落ちて行衛《ゆくえ》も白魚《しらうお》の、舟のかがりに網よりも、人目いとうて後先《あとさき》に……
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 女に扮《ふん》した役者は花道の尽きるあたりまで出て後《うしろ》を見返りながら台詞《せりふ》を述べた。その後《あと》に唄《うた》がつづく。
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※[#歌記号、1-3-28]しばし彳《たたず》む上手《うわて》より梅見返《うめみがえ》りの舟の唄。※[#歌記号、1-3-28]忍ぶなら忍ぶなら闇《やみ》の夜は置かしやんせ、月に雲のさはりなく、辛気《しんき》待つ宵、十六夜《いざよい》の、内《うち》の首尾《しゅび》はエーよいとのよいとの。※[#歌記号、1-3-28]聞く辻占《つじうら》にいそいそと雲足早き雨空《あまぞら》も、思ひがけなく吹き晴れて見かはす月の顔と顔……
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 見物がまた騒ぐ。真黒に塗りたてた空の書割の中央《まんなか》を大きく穿抜《くりぬ》いてある円《まる》い穴に灯《ひ》がついて、雲形《くもがた》の蔽《おお》いをば糸で引上げるのが此方《こなた》からでも能《よ》く見えた。余りに月が大きく明《あかる》いから、大名屋敷の塀の方が遠くて月の方がかえって非常に近く見える。しかし長吉は他の見物も同様少しも美しい幻想を破られなかった。それのみならず去年の夏の末、お糸を葭町《よしちょう》へ送るため、待合《まちあわ》した今戸《いまど》の橋から眺めた彼《あ》の大きな円《まる》い円い月を思起《おもいおこ》すと、もう舞台は舞台でなくなった。
 着流し散髪《ざんぱつ》の男がいかにも思いやつれた風《ふう》で足許《あしもと》危《あやう》く歩み出る。女と摺《す》れちがいに顔を見合して、
「十六夜《いざよい》か。」
「清心《せいしん》さまか。」
 女は男に縋《すが》って、「逢《あ》ひたかつたわいなア。」
 見物人が「やア御両人《ごりょうにん》。」「よいしょ。やけます。」なぞと叫ぶ。笑う声。「静かにしろい。」と叱《しか》りつける熱情家もあった。

 舞台は相《あい》愛する男女の入水《じゅすい》と共に廻って、女の方が白魚舟《しらうおぶね》の夜網《よあみ》にかかって助けられる処になる。再び元の舞台に返って、男も同じく死ぬ事が出来なくて石垣の上に這《は》い上《あが》る。遠くの騒ぎ唄、富貴《ふうき》の羨望《せんぼう》、生存の快楽、境遇の絶望、機会と運命、誘惑、殺人。波瀾《はらん》の上にも脚色の波瀾を極めて、遂に演劇の一幕《ひとまく》が終る。耳元近くから恐しい黄《きいろ》い声が、「変るよ――ウ」と叫び出した。見物人が出口の方へと崩《なだれ》を打って下《お》りかける。
 長吉は外へ出ると急いで歩いた。あたりはまだ明《あかる》いけれどもう日は当っていない。ごたごたした千束町《せんぞくまち》の小売店《こうりみせ》の暖簾《のれん》や旗なぞが激しく飜《ひるがえ》っている。通りがかりに時間を見るため腰をかがめて覗《のぞ》いて見ると軒の低いそれらの家《うち》の奥は真暗《まっくら》であった。長吉は病後の夕風を恐れてますます歩みを早めたが、しかし山谷堀《さんやぼり》から今戸橋《いまどばし》の向《むこう》に開ける隅田川《すみだがわ》の景色を見ると、どうしても暫《しばら》く立止らずにはいられなくなった。河の面《おもて》は悲しく灰色に光っていて、冬の日の終りを急がす水蒸気は対岸の堤をおぼろに霞《かす》めている。荷船《にぶね》の帆の間をば鴎《かもめ》が幾羽となく飛び交《ちが》う。長吉はどんどん流れて行く河水《かわみず》をば何がなしに悲しいものだと思った。川向《かわむこう》の堤の上には一ツ二ツ灯《ひ》がつき出した。枯れた樹木、乾いた石垣、汚れた瓦《かわら》屋根、目に入《い》るものは尽《ことごと》く褪《あ》せた寒い色をしているので、芝居を出てから一瞬間とても消失《きえう》せない清心《せいしん》と十六夜《いざよい》の華美《はで》やかな姿の記憶が、羽子板《はごいた》の押絵《おしえ》のようにまた一段と際立《きわだ》って浮び出す。長吉は劇中の人物をば憎いほどに羨《うらや》んだ。いくら羨んでも到底及びもつかないわが身の上を悲しんだ。死んだ方がましだと思うだけ、一緒に死んでくれる人のない身の上を更に痛切に悲しく思った。
 今戸橋を渡りかけた時、掌《てのひら》でぴしゃりと横面《よこつら》を張撲《はりなぐ》るような河風。思わず寒さに胴顫《どうぶる》いすると同時に長吉は咽喉《のど》の奥から、今までは記憶しているとも心付かずにいた浄瑠璃《じょうるり》の一節《いっせつ》がわれ知らずに流れ出るのに驚いた。
  今さらいふも愚痴《ぐち》なれど……

と清元《きよもと》の一派が他流の模《も》すべからざる曲調《きょくちょう》の美麗を托した一節《いっせつ》である。長吉は無論|太夫《たゆう》さんが首と身体《からだ》を伸上《のびあが》らして唄ったほど上手に、かつまたそんな大きな声で唄ったのではない。咽喉から流れるままに口の中で低唱《ていしょう》したのであるが、それによって長吉はやみがたい心の苦痛が幾分か柔《やわら》げられるような心持がした。今更いうも愚痴なれど……ほんに思えば……岸より覗《のぞ》く青柳《あおやぎ》の……と思出《おもいだ》す節《ふし》の、ところどころを長吉は家《うち》の格子戸《こうしど》を開ける時まで繰返《くりかえ》し繰返し歩いた。

 翌日《あくるひ》の午後《ひるすぎ》にまたもや宮戸座《みやとざ》の立見《たちみ》に出掛けた。長吉は恋の二人が手を取って嘆く美しい舞台から、昨日《きのう》始めて経験したいうべからざる悲哀の美感に酔《え》いたいと思ったのである。そればかりでなく黒ずんだ天井と壁《かべ》襖《ふすま》に囲まれた二階の室《へや》がいやに陰気臭くて、燈火《とうか》の多い、人の大勢集っている芝居の賑《にぎわ》いが、我慢の出来ぬほど恋しく思われてならなかったのである。長吉は失ったお糸の事以外に折々《おりおり》は唯《た》だ何という訳《わけ》もなく淋《さび》しい悲しい気がする。自分にもどういう訳だか少しも分らない。唯だ淋しい、唯だ悲しいのである。この寂寞《せきばく》この悲哀を慰めるために、長吉は定めがたい何物かを一刻一刻に激しく要求して止《や》まない。胸の底に潜《ひそ》んだ漠然たる苦痛を、誰と限らず優しい声で答えてくれる美しい女に訴えて見たくてならない。単にお糸一人の姿のみならず、往来で摺《す》れちがった見知らぬ女の姿が、島田の娘になったり、銀杏返《いちょうがえし》の芸者《げいしゃ》になったり、または丸髷《まるまげ》の女房姿になったりして夢の中に浮ぶ事さえあった。
 長吉は二度見る同じ芝居の舞台をば初めてのように興味深く眺めた。それと同時に、今度は賑《にぎや》かな左右の桟敷《さじき》に対する観察をも決して閑却しなかった。世の中にはあんなに大勢女がいる。あんなに大勢女のいる中で、どうして自分は一人も自分を慰めてくれる相手に邂逅《めぐりあ》わないのであろう。誰れでもいい。自分に一言《ひとこと》やさしい語《ことば》をかけてくれる女さえあれば、自分はこんなに切なくお糸の事ばかり思いつめてはいまい。お糸の事を思えば思うだけその苦痛をへらす他のものが欲しい。さすれば学校とそれに関連した身の前途に対する絶望のみに沈められていまい……。
 立見の混雑の中にその時突然自分の肩を突くものがあるので驚いて振向くと、長吉は鳥打帽《とりうちぼう》を眉深《まぶか》に黒い眼鏡をかけて、後《うしろ》の一段高い床《ゆか》から首を伸《のば》して見下《みおろ》す若い男の顔を見た。
「吉《きち》さんじゃないか。」
 そういったものの、長吉は吉さんの風采《ふうさい》の余りに変っているのに暫《しばら》くは二の句がつげなかった。吉さんというのは地方町《じかたまち》の小学校時代の友達で、理髪師《とこや》をしている山谷通《さんやどお》りの親爺《おやじ》の店で、これまで長吉の髪をかってくれた若衆《わかいしゅ》である。それが絹ハンケチを首に巻いて二重廻《にじゅうまわし》の下から大島紬《おおしまつむぎ》の羽織を見せ、いやに香水を匂《にお》わせながら、
「長《ちょう》さん、僕は役者だよ。」と顔をさし出して長吉の耳元に囁《ささや》いた。
 立見の混雑の中でもあるし、長吉は驚いたまま黙っているより仕様がなかったが、舞台はやがて昨日《きのう》の通りに河端《かわばた》の暗闘《だんまり》になって、劇の主人公が盗んだ金を懐中《ふところ》に花道へ駈出《かけい》でながら石礫《いしつぶて》を打つ、それを合図にチョンと拍子木が響く。幕が動く。立見の人中《ひとなか》から例の「変るよーウ」と叫ぶ声。人崩《ひとなだ》れが狭い出口の方へと押合う間《うち》に幕がすっかり引かれて、シャギリの太鼓が何処《どこ》か分らぬ舞台の奥から鳴り出す。吉さんは長吉の袖《そで》を引止めて、
「長さん、帰るのか。いいじゃないか。もう一幕見ておいでな。」
 役者の仕着《しき》せを着た賤《いや》しい顔の男が、渋紙《しぶかみ》を張った小笊《こざる》をもって、次の幕の料金を集めに来たので、長吉は時間を心配しながらもそのまま居残った。
「長さん、綺麗《きれい》だよ、掛けられるぜ。」吉さんは人のすいた後《うしろ》の明り取りの窓へ腰をかけて長吉が並んで腰かけるのを待つようにして再び「僕ァ役者だよ。変ったろう。」といいながら友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の襦袢《じゅばん》の袖を引き出して、わざとらしく脱《はず》した黒い金縁眼鏡《きんぶちめがね》の曇りを拭きはじめた。
「変ったよ。僕ァ始め誰かと思った。」
「驚いたかい。ははははは。」吉さんは何ともいえぬほど嬉しそうに笑って、「頼むぜ。長さん。こう見えたって憚《はばか》りながら役者だ。伊井《いい》一座の新俳優だ。明後日《あさって》からまた新富町《しんとみちょう》よ。出揃《でそろ》ったら見に来給え。いいかい。楽屋口《がくやぐち》へ廻って、玉水《たまみず》を呼んでくれっていいたまえ。」
「玉水……?」
「うむ、玉水三郎……。」いいながら急《せわ》しなく懐中《ふところ》から女持《おんなもち》の紙入《かみいれ》を探《さぐ》り出して、小さな名刺を見せ、「ね、玉水三郎。昔の吉さんじゃないぜ。ちゃんともう番附《ばんづけ》に出ているんだぜ。」
「面白いだろうね。役者になったら。」
「面白かったり、辛《つら》かったり……しかし女にゃア不自由しねえよ。」吉さんはちょっと長吉の顔を見て、「長さん、君は遊ぶのかい。」
 長吉は「まだ」と答えるのがその瞬間男の恥であるような気がして黙った。
「江戸一の梶田楼《かじたろう》ッていう家《うち》を知ってるかい。今夜一緒にお出でな。心配しないでもいいんだよ。のろけるんじゃないが、心配しないでもいいわけがあるんだから。お安くないだろう。ははははは。」と吉さんは他愛もなく笑った。長吉は突然に、
「芸者は高いんだろうね。」
「長さん、君は芸者が好きなのか、贅沢《ぜいたく》だ。」と新俳優の吉さんは意外らしく長吉の顔を見返したが、「知れたもんさ。しかし金で女を買うなんざア、ちッとお人《ひと》が好過《よすざ》らア。僕ァ公園で二、三軒|待合《まちあい》を知ってるよ。連れてッてやろう。万事《ばんじ》方寸《ほうすん》の中《うち》にありさ。」
 先刻《さっき》から三人四人と絶えず上って来る見物人で大向《おおむこう》はかなり雑沓《ざっとう》して来た。前の幕から居残っている連中《れんじゅう》には待ちくたびれて手を鳴《なら》すものもある。舞台の奥から拍子木の音が長い間《ま》を置きながら、それでも次第に近く聞えて来る。長吉は窮屈に腰をかけた明り取りの窓から立上る。すると吉さんは、
「まだ、なかなかだ。」と独言《ひとりごと》のようにいって、「長さん。あれァ廻りの拍子木といって道具立《どうぐだて》の出来上ッたって事を、役者の部屋の方へ知らせる合図なんだ。開《あ》くまでにゃアまだ、なかなかよ。」
 悠然として巻煙草《まきたばこ》を吸い初める。長吉は「そうか」と感服したらしく返事をしながら、しかし立上ったままに立見の鉄格子から舞台の方を眺めた。花道から平土間《ひらどま》の桝《ます》の間《あいだ》をば吉さんの如く廻りの拍子木の何たるかを知らない見物人が、すぐにも幕があくのかと思って、出歩いていた外《そと》から各自の席に戻ろうと右方左方へと混雑している。横手の桟敷裏《さじきうら》から斜《ななめ》に引幕《ひきまく》の一方にさし込む夕陽《ゆうひ》の光が、その進み入る道筋だけ、空中に漂《ただよ》う塵と煙草の煙をばありありと眼に見せる。長吉はこの夕陽の光をば何という事なく悲しく感じながら、折々《おりおり》吹込む外の風が大きな波を打《うた》せる引幕の上を眺めた。引幕には市川《いちかわ》○○丈《じょう》へ、浅草公園|芸妓連中《げいぎれんじゅう》として幾人《いくたり》となく書連《かきつら》ねた芸者の名が読まれた。暫《しばら》くして、
「吉さん、君、あの中で知ってる芸者があるかい。」
「たのむよ。公園は乃公《おいら》たちの縄張中《なわばりうち》だぜ。」吉さんは一種の屈辱を感じたのであろう、嘘《うそ》か誠か、幕の上にかいてある芸者の一人々々の経歴、容貌、性質を限りもなく説明しはじめた。
 拍子木がチョンチョンと二ツ鳴った。幕開《まくあき》の唄《うた》と三味線が聞え引かれた幕が次第に細《こま》かく早める拍子木の律《りつ》につれて片寄せられて行く。大向《おおむこう》から早くも役者の名をよぶ掛け声。たいくつした見物人の話声が一時《いちじ》に止《や》んで、場内は夜の明けたような一種の明るさと一種の活気《かっき》を添えた。

 お豊《とよ》は今戸橋《いまとばし》まで歩いて来て時節《じせつ》は今《いま》正《まさ》に爛漫《らんまん》たる春の四月である事を始めて知った。手一ツの女世帯《おんなじょたい》に追われている身は空が青く晴れて日が窓に射込《さしこ》み、斜向《すじむこう》の「宮戸川《みやとがわ》」という鰻屋《うなぎや》の門口《かどぐち》の柳が緑色の芽をふくのにやっと時候の変遷を知るばかり。いつも両側の汚れた瓦屋根《かわらやね》に四方《あたり》の眺望を遮《さえざ》られた地面の低い場末の横町《よこちょう》から、今突然、橋の上に出て見た四月の隅田川《すみだがわ》は、一年に二、三度と数えるほどしか外出《そとで》する事のない母親お豊の老眼をば信じられぬほどに驚かしたのである。晴れ渡った空の下に、流れる水の輝き、堤の青草、その上につづく桜の花、種々《さまざま》の旗が閃《ひらめ》く大学の艇庫《ていこ》、その辺《へん》から起る人々の叫び声、鉄砲の響《ひびき》。渡船《わたしぶね》から上下《あがりお》りする花見の人の混雑。あたり一面の光景は疲れた母親の眼には余りに色彩が強烈すぎるほどであった。お豊は渡場《わたしば》の方へ下《お》りかけたけれど、急に恐るる如く踵《くびす》を返して、金竜山下《きんりゅうざんした》の日蔭《ひかげ》になった瓦町《かわらまち》を急いだ。そして通りがかりのなるべく汚《きたな》い車、なるべく意気地《いくじ》のなさそうな車夫《しゃふ》を見付けて恐る恐る、
「車屋さん、小梅《こうめ》まで安くやって下さいな。」といった。
 お豊は花見どころの騒ぎではない。もうどうしていいのか分らない。望みをかけた一人息子の長吉は試験に落第してしまったばかりか、もう学校へは行きたくない、学問はいやだといい出した。お豊は途法《とほう》に暮れた結果、兄の蘿月《らげつ》に相談して見るより外《ほか》に仕様がないと思ったのである。
 三度目に掛合《かけあ》った老車夫が、やっとの事でお豊の望む賃銀で小梅行きを承知した。吾妻橋《あずまばし》は午後の日光と塵埃《じんあい》の中におびただしい人出《ひとで》である。着飾った若い花見の男女を載《の》せて勢《いきおい》よく走る車の間《あいだ》をば、お豊を載せた老車夫は梶《かじ》を振りながらよたよた歩いて橋を渡るや否や桜花の賑《にぎわ》いを外《よそ》に、直《す》ぐと中《なか》の郷《ごう》へ曲って業平橋《なりひらばし》へ出ると、この辺はもう春といっても汚い鱗葺《こけらぶき》の屋根の上に唯《た》だ明《あかる》く日があたっているというばかりで、沈滞した堀割《ほりわり》の水が麗《うららか》な青空の色をそのままに映している曳舟通《ひきふねどお》り。昔は金瓶楼《きんべいろう》の小太夫《こだゆう》といわれた蘿月の恋女房は、綿衣《ぬのこ》の襟元《えりもと》に手拭《てぬぐい》をかけ白粉焼《おしろいや》けのした皺《しわ》の多い顔に一ぱいの日を受けて、子供の群《むれ》がめんこ[#「めんこ」に傍点]や独楽《こま》の遊びをしている外《ほか》には至って人通りの少い道端《みちばた》の格子戸先《こうしどさき》で、張板《はりいた》に張物《はりもの》をしていた。駈《か》けて来て止る車と、それから下りるお豊の姿を見て、
「まアお珍しいじゃありませんか。ちょいと今戸《いまど》の御師匠《おししょう》さんですよ。」と開《あ》けたままの格子戸から家《うち》の内《なか》へと知らせる。内《なか》には主人《あるじ》の宗匠《そうしょう》が万年青《おもと》の鉢を並べた縁先《えんさき》へ小机を据え頻《しきり》に天地人《てんちじん》の順序をつける俳諧《はいかい》の選《せん》に急がしい処であった。
 掛けている眼鏡をはずして、蘿月は机を離れて座敷の真中《まんなか》に坐り直ったが、襷《たすき》をとりながら這入《はい》って来る妻のお滝《たき》と来訪のお豊、同じ年頃《としごろ》の老いた女同士は幾度《いくたび》となくお辞儀の譲合《ゆずりあい》をしては長々しく挨拶《あいさつ》した。そしてその挨拶の中に、「長ちゃんも御丈夫ですか。」「はア、しかし彼《あれ》にも困りきります。」というような問答《もんどう》から、用件は案外に早く蘿月の前に提出される事になったのである。蘿月は静《しずか》に煙草《たばこ》の吸殻《すいがら》をはたいて、誰にかぎらず若い中《うち》はとかくに気の迷うことがある。気の迷っている時には、自分にも覚えがあるが、親の意見も仇《あだ》としか聞えない。他《はた》から余り厳しく干渉するよりはかえって気まかせにして置く方が薬になりはしまいかと論じた。しかし目に見えない将来の恐怖ばかりに満《みた》された女親の狭い胸にはかかる通人《つうじん》の放任主義は到底|容《い》れられべきものでない。お豊は長吉が久しい以前からしばしば学校を休むために自分の認印《みとめいん》を盗んで届書《とどけしょ》を偽造していた事をば、暗黒な運命の前兆である如く、声まで潜《ひそ》めて長々しく物語る……
「学校がいやなら如何《どう》するつもりだと聞いたら、まアどうでしょう、役者になるんだッていうんですよ。役老に。まア、どうでしょう。兄さん。私ゃそんなに長吉の根性が腐っちまッたのかと思ったら、もう実に口惜《くや》しくッてならないんですよ。」
「へーえ、役者になりたい。」訝《いぶか》る間《ま》もなく蘿月は七ツ八ツの頃によく三味線を弄物《おもちゃ》にした長吉の生立《おいた》ちを回想した。「当人がたってと望むなら仕方のない話だが……困ったものだ。」
 お豊は自分の身こそ一家の不幸のために遊芸の師匠に零落《れいらく》したけれど、わが子までもそんな賤《いや》しいものにしては先祖の位牌《いはい》に対して申訳《もうしわけ》がないと述べる。蘿月は一家の破産滅亡の昔をいい出されると勘当《かんどう》までされた放蕩三昧《ほうとうざんまい》の身は、何《なん》につけ、禿頭《はげあたま》をかきたいような当惑を感ずる。もともと芸人社会は大好《だいすき》な趣味性から、お豊の偏屈《へんくつ》な思想をば攻撃したいと心では思うもののそんな事からまたしても長たらしく「先祖の位牌」を論じ出されては堪《たま》らないと危《あやぶ》むので、宗匠《そうしょう》は先《ま》ずその場を円滑《えんかつ》に、お豊を安心させるようにと話をまとめかけた。
「とにかく一応は私《わし》が意見しますよ、若い中《うち》は迷うだけにかえって始末のいいものさ。今夜にでも明日《あした》にでも長吉に遊びに来るようにいって置きなさい。私《わし》がきっと改心さして見せるから、まアそんなに心配しないがいいよ。なに世の中は案じるより産《う》むが安いさ。」
 お豊は何分よろしくと頼んでお滝が引止めるのを辞退してその家を出た。春の夕陽《ゆうひ》は赤々と吾妻橋《あずまばし》の向うに傾いて、花見帰りの混雑を一層引立てて見せる。その中《うち》にお豊は殊更元気よく歩いて行く金ボタンの学生を見ると、それが果して大学校の生徒であるか否かは分らぬながら、我児《わがこ》もあのような立派な学生に仕立てたいばかりに、幾年間女の身一人《みひとつ》で生活と戦って来たが、今は生命《いのち》に等しい希望の光も全く消えてしまったのかと思うと実に堪えられぬ悲愁に襲われる。兄の蘿月に依頼しては見たもののやっぱり安心が出来ない。なにも昔の道楽者だからという訳ではない。長吉に志を立てさせるのは到底|人間業《にんげんわざ》では及《およば》ぬ事、神仏《かみほとけ》の力に頼らねばならぬと思い出した。お豊は乗って来た車から急に雷門《かみなりもん》で下りた。仲店《なかみせ》の雑沓《ざっとう》をも今では少しも恐れずに観音堂へと急いで、祈願を凝《こら》した後に、お神籤《みくじ》を引いて見た。古びた紙片《かみきれ》に木版摺《もくはんずり》で、

 お豊は大吉《だいきち》という文字を見て安心はしたものの、大吉はかえって凶《きょう》に返りやすい事を思い出して、またもや自分からさまざまな恐怖を造出《つくりだ》しつつ、非常に疲れて家《うち》へ帰った。

 午後《ひるすぎ》から亀井戸《かめいど》の竜眼寺《りゅうがんじ》の書院で俳諧《はいかい》の運座《うんざ》があるというので、蘿月《らげつ》はその日の午前に訪ねて来た長吉と茶漬《ちゃづけ》をすました後《のち》、小梅《こうめ》の住居《すまい》から押上《おしあげ》の堀割《ほりわり》を柳島《やなぎしま》の方へと連れだって話しながら歩いた。堀割は丁度真昼の引汐《ひきしお》で真黒《まっくろ》な汚ない泥土《でいど》の底を見せている上に、四月の暖い日光に照付けられて、溝泥《どぶどろ》の臭気を盛《さかん》に発散している。何処《どこ》からともなく煤烟《ばいえん》の煤《すす》が飛んで来て、何処という事なしに製造場《せいぞうば》の機械の音が聞える。道端《みちばた》の人家は道よりも一段低い地面に建てられてあるので、春の日の光を外《よそ》に女房共がせっせと内職している薄暗い家内《かない》のさまが、通りながらにすっかりと見透《みとお》される。そういう小家《こいえ》の曲り角の汚れた板目《はめ》には売薬と易占《うらない》の広告に交《まじ》って至る処《ところ》女工募集の貼紙《はりがみ》が目についた。しかし間もなくこの陰鬱《いんうつ》な往来《おうらい》は迂曲《うね》りながらに少しく爪先上《つまさきあが》りになって行くかと思うと、片側に赤く塗った妙見寺《みょうけんじ》の塀と、それに対して心持よく洗いざらした料理屋|橋本《はしもと》の板塀《いたべい》のために突然面目を一変させた。貧しい本所《ほんじょ》の一区が此処《ここ》に尽きて板橋のかかった川向うには野草《のぐさ》に蔽《おお》われた土手を越して、亀井戸村《かめいどむら》の畠と木立《こだち》とが美しい田園の春景色をひろげて見せた。蘿月は踏み止《とどま》って、
「私《わし》の行くお寺はすぐ向うの川端《かわばた》さ、松の木のそばに屋根が見えるだろう。」
「じゃ、伯父さん。ここで失礼しましょう。」長吉は早くも帽子を取る。
「いそぐんじゃない。咽喉《のど》が乾いたから、まア長吉、ちょっと休んで行こうよ。」
 赤く塗った板塀に沿うて、妙見寺の門前に葭簀《よしず》を張った休茶屋《やすみぢゃや》へと、蘿月は先に腰を下《おろ》した。一直線の堀割はここも同じように引汐の汚い水底《みなそこ》を見せていたが、遠くの畠の方から吹いて来る風はいかにも爽《さわや》かで、天神様の鳥居が見える向うの堤の上には柳の若芽が美しく閃《ひらめ》いているし、すぐ後《うしろ》の寺の門の屋根には雀《すずめ》と燕《つばめ》が絶え間なく囀《さえず》っているので、其処《そこ》此処《ここ》に製造場の烟出《けむだ》しが幾本も立っているにかかわらず、市街《まち》からは遠い春の午後《ひるすぎ》の長閉《のどけ》さは充分に心持よく味《あじわ》われた。蘿月は暫《しばら》くあたりを眺めた後《のち》、それとなく長吉の顔をのぞくようにして、
「さっきの話は承知してくれたろうな。」
 長吉は丁度茶を飲みかけた処なので、頷付《うなず》いたまま、口に出して返事はしなかった。
「とにかくもう一年|辛抱《しんぼう》しなさい。今の学校さえ卒業しちまえば……母親《おふくろ》だって段々取る年だ、そう頑固ばかりもいやアしまいから。」
 長吉は唯《た》だ首を頷付かせて、何処《どこ》と当《あて》もなしに遠くを眺めていた。引汐の堀割に繋《つな》いだ土船《つちぶね》からは人足《にんそく》が二、三人して堤の向うの製造場へと頻《しきり》に土を運んでいる。人通りといっては一人もない此方《こなた》の岸をば、意外にも突然二台の人力車《じんりきしゃ》が天神橋の方から駈《か》けて来て、二人の休んでいる寺の門前《もんぜん》で止った。大方《おおかた》墓参りに来たのであろう。町家《ちょうか》の内儀《ないぎ》らしい丸髷《まるまげ》の女が七《なな》、八《やっ》ツになる娘の手を引いて門の内《なか》へ這入《はい》って行った。
 長吉は蘿月の伯父と橋の上で別れた。別れる時に蘿月は再び心配そうに、
「じゃ……。」といって暫く黙った後《のち》、「いやだろうけれど当分辛抱しなさい。親孝行して置けば悪い報《むくい》はないよ。」
 長吉は帽子を取って軽く礼をしたがそのまま、駈《か》けるように早足《はやあし》に元《もと》来た押上《おしあげ》の方へ歩いて行った。同時に蘿月の姿は雑草の若芽に蔽《おお》われた川向うの土手の陰にかくれた。蘿月は六十に近いこの年まで今日《きょう》ほど困った事、辛《つら》い感情に迫《せ》められた事はないと思ったのである。妹お豊のたのみも無理ではない。同時に長吉が芝居道《しばいどう》へ這入《はい》ろうという希望《のぞみ》もまたわるいとは思われない。一寸の虫にも五分の魂で、人にはそれぞれの気質がある。よかれあしかれ、物事を無理に強《し》いるのはよくないと思っているので、蘿月は両方から板ばさみになるばかりで、いずれにとも賛同する事ができないのだ。殊《こと》に自分が過去の経歴を回想すれば、蘿月は長吉の心の中《うち》は問わずとも底の底まで明《あきら》かに推察される。若い頃の自分には親《おや》代々《だいだい》の薄暗い質屋の店先に坐って麗《うらら》かな春の日を外《よそ》に働きくらすのが、いかに辛くいかに情《なさけ》なかったであろう。陰気な燈火《ともしび》の下で大福帳《だいふくちょう》へ出入《でいり》の金高《きんだか》を書き入れるよりも、川添いの明《あかる》い二階家で洒落本《しゃれほん》を読む方がいかに面白かったであろう。長吉は髯《ひげ》を生《はや》した堅苦しい勤め人《にん》などになるよりも、自分の好きな遊芸で世を渡りたいという。それも一生、これも一生である。しかし蘿月は今よんどころなく意見役の地位に立つ限り、そこまでに自己の感想を暴露《ばくろ》してしまうわけには行かないので、その母親に対したと同じような、その場かぎりの気安めをいって置くより仕様がなかった。

 長吉は何処《いずこ》も同じような貧しい本所《ほんじょ》の街から街をばてくてく歩いた。近道を取って一直線に今戸《いまど》の家《うち》へ帰ろうと思うのでもない。何処《どこ》へか廻り道して遊んで帰ろうと考えるのでもない。長吉は全く絶望してしまった。長吉は役者になりたい自分の主意を通すには、同情の深い小梅《こうめ》の伯父さんに頼るより外《ほか》に道がない。伯父さんはきっと自分を助けてくれるに違いないと予期していたが、その希望は全く自分を欺《あざむ》いた。伯父は母親のように正面から烈《はげ》しく反対を称《とな》えはしなかったけれど、聞いて極楽見て地獄の譬《たとえ》を引き、劇道《げきどう》の成功の困難、舞台の生活の苦痛、芸人社会の交際の煩瑣《はんさ》な事なぞを長々と語った後《のち》、母親の心をも推察してやるようにと、伯父の忠告を待たずともよく解《わか》っている事を述べつづけたのであった。長吉は人間というものは年を取ると、若い時分に経験した若いものしか知らない煩悶《はんもん》不安をばけろり[#「けろり」に傍点]と忘れてしまって、次の時代に生れて来る若いものの身の上を極めて無頓着《むとんちゃく》に訓戒批評する事のできる便利な性質を持っているものだ、年を取ったものと若いものの間には到底一致されない懸隔《けんかく》のある事をつくづく感じた。
 何処《どこ》まで歩いて行っても道は狭くて土が黒く湿っていて、大方は路地《ろじ》のように行き止りかと危《あやぶ》まれるほど曲っている。苔《こけ》の生えた鱗葺《こけらぶ》きの屋根、腐った土台、傾いた柱、汚れた板目《はめ》、干してある襤褸《ぼろ》や襁褓《おしめ》や、並べてある駄菓子や荒物《あらもの》など、陰鬱《いんうつ》な小家《こいえ》は不規則に限りもなく引きつづいて、その間に時々驚くほど大きな門構《もんがまえ》の見えるのは尽《ことごと》く製造場であった。瓦《かわら》屋根の高く聳《そび》えているのは古寺《ふるでら》であった。古寺は大概荒れ果てて、破れた塀から裏手の乱塔場《らんとうば》がすっかり見える。束《たば》になって倒れた卒塔婆《そとば》と共に青苔《あおごけ》の斑点《しみ》に蔽《おお》われた墓石《はかいし》は、岸という限界さえ崩《くず》れてしまった水溜《みずたま》りのような古池の中へ、幾個《いくつ》となくのめり込んでいる。無論新しい手向《たむけ》の花なぞは一つも見えない。古池には早くも昼中《ひるなか》に蛙《かわず》の声が聞えて、去年のままなる枯草は水にひたされて腐《くさ》っている。
 長吉はふと近所の家の表札に中郷竹町《なかのごうたけちょう》と書いた町の名を読んだ。そして直様《すぐさま》、この頃《ごろ》に愛読した為永春水《ためながしゅんすい》の『梅暦《うめごよみ》』を思出した。ああ、薄命なあの恋人たちはこんな気味のわるい湿地《しっち》の街に住んでいたのか。見れば物語の挿絵《さしえ》に似た竹垣の家もある。垣根の竹は枯れきってその根元は虫に喰われて押せば倒れそうに思われる。潜門《くぐりもん》の板屋根には痩《や》せた柳が辛《から》くも若芽の緑をつけた枝を垂《たら》している。冬の昼過ぎ窃《ひそ》かに米八《よねはち》が病気の丹次郎《たんじろう》をおとずれたのもかかる佗住居《わびずまい》の戸口《とぐち》であったろう。半次郎《はんじろう》が雨の夜《よ》の怪談に始めてお糸《いと》の手を取ったのもやはりかかる家の一間《ひとま》であったろう。長吉は何ともいえぬ恍惚《こうこつ》と悲哀とを感じた。あの甘くして柔かく、忽《たちま》ちにして冷淡な無頓着《むとんちゃく》な運命の手に弄《もてあそ》ばれたい、という止《や》みがたい空想に駆られた。空想の翼のひろがるだけ、春の青空が以前よりも青く広く目に映じる。遠くの方から飴売《あめうり》の朝鮮笛《ちょうせんぶえ》が響き出した。笛の音《ね》は思いがけない処で、妙な節《ふし》をつけて音調を低めるのが、言葉にいえない幽愁を催《もよお》させる。
 長吉は今まで胸に蟠《わだかま》った伯父に対する不満を暫《しばら》く忘れた。現実の苦悶《くもん》を暫く忘れた……。

 気候が夏の末から秋に移って行く時と同じよう、春の末から夏の始めにかけては、折々《おりおり》大雨《おおあめ》が降《ふり》つづく。千束町《せんぞくまち》から吉原田圃《よしわらたんぼ》は珍しくもなく例年の通りに水が出た。本所《ほんじょ》も同じように所々《しょしょ》に出水《しゅっすい》したそうで、蘿月《らげつ》はお豊《とよ》の住む今戸《いまと》の近辺《きんぺん》はどうであったかと、二、三日過ぎてから、所用の帰りの夕方に見舞に来て見ると、出水《でみず》の方は無事であった代りに、それよりも、もっと意外な災難にびっくりしてしまった。甥《おい》の長吉が釣台《つりだい》で、今しも本所の避病院《ひびょういん》に送られようという騒《さわぎ》の最中《さいちゅう》である。母親のお豊は長吉が初袷《はつあわせ》の薄着をしたまま、千束町近辺の出水の混雑を見にと夕方から夜おそくまで、泥水の中を歩き廻ったために、その夜《よ》から風邪をひいて忽《たちま》ち腸窒扶斯《ちょうチブス》になったのだという医者の説明をそのまま語って、泣きながら釣台の後《あと》について行った。途法《とほう》にくれた蘿月はお豊の帰って来るまで、否応《いやおう》なく留守番にと家《うち》の中に取り残されてしまった。
 家の中は区役所の出張員が硫黄《いおう》の煙と石炭酸《せきたんさん》で消毒した後《あと》、まるで煤掃《すすは》きか引越しの時のような狼藉《ろうぜき》に、丁度|人気《ひとけ》のない寂しさを加えて、葬式の棺桶《かんおけ》を送出《おくりだ》した後と同じような心持である。世間を憚《はばか》るようにまだ日の暮れぬ先から雨戸を閉めた戸外《おもて》には、夜と共に突然強い風が吹き出したと見えて、家中《いえじゅう》の雨戸ががたがた鳴り出した。気候はいやに肌寒くなって、折々勝手口の破障子《やぶれしょうじ》から座敷の中まで吹き込んで来る風が、薄暗い釣《つるし》ランプの火をば吹き消しそうに揺《ゆす》ると、その度々《たびたび》、黒い油煙《ゆえん》がホヤを曇らして、乱雑に置き直された家具の影が、汚れた畳と腰張《こしばり》のはがれた壁の上に動く。何処《どこ》か近くの家で百万遍《ひゃくまんべん》の念仏を称え始める声が、ふと物哀れに耳についた。蘿月は唯《たっ》た一人で所在《しょざい》がない。退屈でもある。薄淋《うすさび》しい心持もする。こういう時には酒がなくてはならぬと思って、台所を探し廻ったが、女世帯《おんなじょたい》の事とて酒盃《さかずき》一《ひと》ツ見当らない。表の窓際《まどぎわ》まで立戻って雨戸の一枚を少しばかり引き開けて往来を眺めたけれど、向側《むこうがわ》の軒燈《けんとう》には酒屋らしい記号《しるし》のものは一ツも見えず、場末の街は宵ながらにもう大方《おおかた》は戸を閉めていて、陰気な百万遍の声がかえってはっきり聞えるばかり。河の方から烈《はげ》しく吹きつける風が屋根の上の電線をヒューヒュー鳴《なら》すのと、星の光の冴《さ》えて見えるのとで、風のある夜は突然冬が来たような寒い心持をさせた。
 蘿月は仕方なしに雨戸を閉めて、再びぼんやり釣《つるし》ランプの下に坐って、続けざまに煙草を喫《の》んでは柱時計の針の動くのを眺めた。時々|鼠《ねずみ》が恐しい響《ひびき》をたてて天井裏を走る。ふと蘿月は何かその辺《へん》に読む本でもないかと思いついて、箪笥《たんす》の上や押入の中を彼方《あっち》此方《こっち》と覗《のぞ》いて見たが、書物といっては常磐津《ときわず》の稽古本《けいこぼん》に綴暦《とじごよみ》の古いもの位しか見当らないので、とうとう釣ランプを片手にさげて、長吉の部屋になった二階まで上《あが》って行った。
 机の上に書物は幾冊も重ねてある。杉板の本箱も置かれてある。蘿月は紙入《かみいれ》の中にはさんだ老眼鏡を懐中《ふところ》から取り出して、先《ま》ず洋装の教科書をば物珍しく一冊々々ひろげて見ていたが、する中《うち》にばたりと畳の上に落ちたものがあるので、何かと取上げて見ると春着の芸者姿をしたお糸の写真であった。そっと旧《もと》のように書物の間に収めて、なおもその辺の一冊々々を何心もなく漁《あさ》って行くと、今度は思いがけない一通の手紙に行当《ゆきあた》った。手紙は書き終らずに止《や》めたものらしく、引き裂《さ》いた巻紙《まきがみ》と共に文句は杜切《とぎ》れていたけれど、読み得るだけの文字で十分に全体の意味を解する事ができる。長吉は一度《ひとたび》別れたお糸とは互《たがい》に異なるその境遇から日一日とその心までが遠《とおざ》かって行って、折角の幼馴染《おさななじみ》も遂にはあか[#「あか」に傍点]の他人に等しいものになるであろう。よし時々に手紙の取りやりはして見ても感情の一致して行かない是非《ぜひ》なさを、こまごまと恨んでいる。それにつけて、役者か芸人になりたいと思定《おもいさだ》めたが、その望みも遂《つい》に遂《と》げられず、空しく床屋《とこや》の吉《きち》さんの幸福を羨《うらや》みながら、毎日ぼんやりと目的のない時間を送っているつまらなさ、今は自殺する勇気もないから病気にでもなって死ねばよいと書いてある。
 蘿月は何というわけもなく、長吉が出水《でみず》の中を歩いて病気になったのは故意《こい》にした事であって、全快する望《のぞみ》はもう絶え果てているような実に果敢《はか》ない感《かんじ》に打たれた。自分は何故《なぜ》あの時あのような心にもない意見をして長吉の望みを妨《さまた》げたのかと後悔の念に迫《せ》められた。蘿月はもう一度思うともなく、女に迷って親の家を追出された若い時分の事を回想した。そして自分はどうしても長吉の味方にならねばならぬ。長吉を役者にしてお糸と添わしてやらねば、親代々の家《うち》を潰《つぶ》してこれまでに浮世の苦労をしたかいがない。通人《つうじん》を以て自任《じにん》する松風庵蘿月宗匠《しょうふうあんらげつそうしょう》の名に愧《はじ》ると思った。
 鼠がまた突如《だしぬけ》に天井裏を走る。風はまだ吹き止まない。釣《つるし》ランプの火は絶えず動揺《ゆらめ》く。蘿月は色の白い眼のぱっちりした面長《おもなが》の長吉と、円顔の口元に愛嬌《あいきょう》のある眼尻の上ったお糸との、若い美しい二人の姿をば、人情本の作者が口絵の意匠でも考えるように、幾度《いくたび》か並べて心の中《うち》に描きだした。そして、どんな熱病に取付かれてもきっと死んでくれるな。長吉、安心しろ。乃公《おれ》がついているんだぞと心に叫んだ。
    明治四十二年八月―十月作

    第五版すみだ川之序[「第五版すみだ川之序」は中見出し]

小説『すみだ川』を草《そう》したのはもう四年ほど前の事である。外国から帰って来たその当座一、二年の間はなおかの国の習慣が抜けないために、毎日の午後といえば必ず愛読の書をふところにして散歩に出掛けるのを常とした。しかしわが生れたる東京の市街は既に詩をよろこぶ遊民の散歩場《さんぽじょう》ではなくて行く処としてこれ戦乱後新興の時代の修羅場《しゅらじょう》たらざるはない。その中《なか》にもなおわずかにわが曲りし杖《つえ》を留《とど》め、疲れたる歩みを休めさせた処はやはりいにしえの唄《うた》に残った隅田川《すみだがわ》の両岸であった。隅田川はその当時|目《ま》のあたり眺める破損の実景と共に、子供の折に見覚えた朧《おぼ》ろなる過去の景色の再来と、子供の折から聞伝《ききつた》えていたさまざまの伝説の美とを合せて、いい知れぬ音楽の中に自分を投込んだのである。既に全く廃滅に帰せんとしている昔の名所の名残ほど自分の情緒に対して一致調和を示すものはない。自分はわが目に映じたる荒廃の風景とわが心を傷《いた》むる感激の情とを把《と》ってここに何物かを創作せんと企てた。これが小説『すみだ川』である。さればこの小説一篇は隅田川という荒廃の風景が作者の視覚を動《うごか》したる象形的幻想を主として構成せられた写実的外面の芸術であると共にまたこの一篇は絶えず荒廃の美を追究せんとする作者の止《や》みがたき主観的傾向が、隅田川なる風景によってその抒情詩的本能を外発さすべき象徴を捜《もと》めた理想的内面の芸術ともいい得よう。さればこの小説中に現わされた幾多の叙景《じょけい》は篇中の人物と同じく、否《いな》時としては人物より以上に重要なる分子として取扱われている。それと共に篇中の人物は実在のモデルによって活《い》ける人間を描写したのではなくて、丁度アンリイ、ド、レニエエがかの『賢き一青年の休暇』に現《あらわ》したる人物と斉《ひと》しく、隅田川の風景によって偶然にもわが記憶の中に蘇《よみがえ》り来《きた》った遠い過去の人物の正《まさ》に消え失《う》せんとするその面影《おもかげ》を捉《とら》えたに過ぎない。作者はその少年時代によく見馴《みな》れたこれら人物に対していかなる愛情と懐《なつか》しさとを持っているかは言うを俟《ま》たぬ。今年花また開くの好時節に際し都下の或《ある》新聞紙は※[#「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25]上《ぼくじょう》の桜樹《おうじゅ》漸《ようや》く枯死《こし》するもの多きを説く。ああ新しき時代は遂に全く破壊の事業を完成し得たのである。さらばやがてはまた幾年の後に及んで、いそがしき世は製造所の煙筒《えんとう》叢立《むらだ》つ都市の一隅に当ってかつては時鳥《ほととぎす》鳴き蘆《あし》の葉ささやき白魚《しらうお》閃《ひらめ》き桜花《おうか》雪と散りたる美しき流《ながれ》のあった事をも忘れ果ててしまう時、せめてはわが小さきこの著作をして、傷ましき時代が産みたる薄倖《はっこう》の詩人がいにしえの名所を弔《とむら》う最後の中《うち》の最後の声たらしめよ。
  大正二|癸丑《みずのとうし》の年春三月小説『すみだ川』幸《さいわい》に第五版を発行すると聞きて
[#地から3字上げ]荷風小史
[#改ページ]

[#3字下げ]すみだ川序[#「すみだ川序」は中見出し]

 わたくしの友人|佐藤春夫《さとうはるお》君を介して小山《おやま》書店の主人はわたくしの旧著『すみだ川』の限定単行本を上梓《じょうし》したいことを告げられた。今日《こんにち》の出版界はむしろ新刊図書の過多なるに苦しんでいる。わたくしは今更二十四、五年前の拙作小説を復刻する必要があるや否やを知らない。しかしわたくしは小山書店の主人がわたくしの如き老朽文士の旧作を忘れずに記憶しておられたその好意については深く感謝しなければならない。依《よっ》てその勧められるがままに旧版を校訂し併《あわ》せて執筆当初の事情と旧版の種類とをここに識《しる》すことにした。
 わたくしが初《はじめ》て小説『すみだ川』に筆をつけたのは西洋から帰って丁度満一年を過《すご》した時である。即ち明治四十二年の秋八月のはじめに稿を起《おこ》し十月の末に書き終るが否や亡友|井上唖唖《いのうえああ》君に校閲を乞い添刪《てんさん》をなした後《のち》草稿を雑誌『新小説』編輯者《へんしゅうしゃ》の許《もと》に送った。当時『新小説』の編輯主任は後藤宙外《ごとうちゅうがい》氏であったかあるいは鈴木三重吉《すずきみえきち》氏であったか明《あきらか》に記憶していない。わたくしの草稿はその年十二月発行の『新小説』第十四年第十二巻のはじめに載せられた。わたくしはその時|馬歯《ばし》三十二歳であった。本書に掲載した当時の『新小説』「すみだ川」の口絵は斎藤昌三氏の所蔵本を借りて写真版となしたものである。ここに斎藤氏の好意を謝す。
 小説『すみだ川』に描写せられた人物及び市街の光景は明治三十五、六年の時代である。新橋《しんばし》上野《うえの》浅草《あさくさ》の間を往復《おうふく》していた鉄道馬車がそのまま電車に変ったころである。わたくしは丁度その頃《ころ》に東京を去り六年ぶりに帰ってきた。東京市中の街路は到《いた》る処旧観を失っていた。以前木造であった永代《えいたい》と両国《りょうごく》との二橋は鉄のつり橋にかえられたのみならず橋の位置も変りまたその両岸の街路も著しく変っていた。明治四十一、二年のころ隅田川《すみだがわ》に架せられた橋梁《きょうりょう》の中でむかしのままに木づくりの姿をとどめたものは新大橋《しんおおはし》と千住《せんじゅ》の大橋ばかりであった。わたくしは洋行以前二十四、五歳の頃に見歩いた東京の町々とその時代の生活とを言知れずなつかしく思返して、この心持を表《あらわ》すために一篇の小説をつくろうと思立った。この事はつぶさに旧版『すみだ川』第五版の序に述べてある。
 旧版発行の次第は左の如くである。
 明治四十四年三月|籾山《もみやま》書店は『すみだ川』の外《ほか》にその頃わたくしが『三田《みた》文学』に掲げた数篇の短篇小説|及《および》戯曲を集め一巻となして刊行した。当時籾山書店は祝橋向《いわいばしむこう》の河岸通《かしどおり》から築地《つきじ》の電車通へ出ようとする静《しずか》な横町《よこちょう》の南側(築地二丁目十五番地)にあって専《もっぱ》ら俳諧《はいかい》の書巻を刊行していたのであるが拙著『すみだ川』の出版を手初めに以後六、七年の間|盛《さかん》に小説及び文芸の書類を刊行した。書店の主人みずからもまた短篇小説集『遅日』を著《あらわ》した。谷崎《たにざき》君の名著『刺青《しせい》』が始めて単行本となって世に公《おおやけ》にせられたのも籾山書店からであった。森鴎外《もりおうがい》先生が『スバル』その他の雑誌に寄せられた名著の大半もまた籾山書店から刊行せられた。
 大正五年四月籾山書店は旧版『すみだ川』を改刻しこれを縮刷本《しゅくさつぼん》『荷風|叢書《そうしょ》』の第五巻となし装幀《そうてい》の意匠を橋口五葉《はしぐちごよう》氏に依頼した。
 大正九年五月|春陽堂《しゅんようどう》が『荷風全集』第四巻を編輯刊行する時『すみだ川』を巻頭に掲げた。この際わたくしは旧著の辞句を訂正した。
 大正十年三月春陽堂が拙作小説『歓楽《かんらく》』を巻首に置きこれを表題にして単行本を出した時再び『すみだ川』をその中に加えた。
 昭和二年九月|改造社《かいぞうしゃ》が『現代日本文学全集』を編輯した時その第二十二編の中に『すみだ川』を採録した。
 昭和二年七月春陽堂の編輯した『明治大正文学全集』第三十一編にも『すみだ川』が載せられている。
 昭和三年二月|木村富子《きむらとみこ》女史が拙著『すみだ川』を潤色《じゅんしょく》して戯曲となしこれを本郷座《ほんごうざ》の舞台に上《のぼ》した。その時重なる人物に扮《ふん》した俳優は市川寿美蔵《いちかわすみぞう》市川松蔦《いちかわしょうちょう》大谷友右衛門《おおたにともえもん》市川紅若《いちかわこうじゃく》その他である。木村女史の戯曲『すみだ川』はその著『銀扇集《ぎんせんしゅう》』に収められている。
  昭和十年十月|麻布《あざぶ》の廬において
[#地から3字上げ]荷風|散人《さんじん》識《しるす》

底本:「すみだ川・新橋夜話 他一篇」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
   2005(平成17)年11月25日第23刷発行
底本の親本:「荷風小説 三」岩波書店
   1986(昭和61)年7月発行
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2009年12月20日作成
2010年11月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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