原田義人

流刑地で IN DER STRAFKOLONIE      フランツ・カフカ Franz Kafka ——-原田義人訳

「奇妙な装置なのです」と、将校は調査旅行者に向っていって、いくらか驚嘆しているようなまなざしで、自分ではよく知っているはずの装置をながめた。旅行者はただ儀礼から司令官のすすめに従ったらしかった。司令官は、命令不服従と上官侮辱とのために宣告を下された一人の兵士の刑の執行に立ち会うようにとすすめたのだった。この刑執行に対する関心は、流刑地《るけいち》でもたいして大きくはないらしかった。少なくとも木のない山腹に取り囲まれた深くて小さい砂地のこの谷間には、将校と旅行者とのほかには、頭髪も顔の髯《ひげ》ものび放題の、頭の鈍い大口の受刑者と、兵士が一人いるだけだった。その兵士は重い鎖をもっており、それから小さないくつかの鎖が出ていて、それで受刑者の足首や手首や首もしばられていた。またそれらの小さな鎖はつなぎの鎖でつなぎ合わされている。ところで、受刑者は犬のように従順に見えるので、まるで自由に四方の山腹をかけ廻らせておくことができ、執行の直前にただ笛を鳴らしさえすればもどってくるような様子に見受けられた。
 旅行者はそんな装置にはほとんど興味がなく、受刑者の背後でほとんど無関心そうにいったりきたりしていた。一方、将校のほうは最後の準備をととのえているところで、あるいは地中深くにすえつけた装置の下をはったり、あるいは上の部分を調べるために梯子《はしご》を登ったりしていた。ほんとうは機械係にまかせておけるような仕事だったが、彼がこの装置の特別な讃美者なのであれ、何かほかの理由からこの仕事をほかの者にまかせることができないのであれ、いずれにしてもひどく熱心にその仕事を実行していた。
「これですっかりすんだ!」と、ついに将校は叫んで、梯子を下りてきた。ひどく疲れていて、口を大きく開けて息をしており、二枚の薄い婦人用ハンカチを軍服のカラーのうしろに押しこんでいた。
「そういう軍服では熱帯では重たすぎますね」と、旅行者は将校が予想していたように装置のことをたずねるかわりに、そういった。
「まったくです」と、将校はいって、油脂で汚れた両手を用意されてあるバケツで洗った。
「でも、この軍服は故国を意味するものです。われわれは故国を失いたくありません。――ところで、この装置をごらん下さい」と、彼はすぐに言葉をつけ加え、両手を布でふき、同時に装置をさし示した。「今まではまだ手でやる仕事が必要でしたが、これからは装置がまったくひとりで働きます」
 旅行者はうなずいて、将校のあとにつづいた。将校はどんな突発事故に対しても言いのがれをつけておこうとして、やがていった。
「むろん、いろいろ故障が起こります。きょうは故障は起こらないとは思いますが、ともかくその覚悟だけはしておかなければなりません。この装置は実際、十二時間もぶっつづけに動くんです。でも、たとい故障が起っても、ほんの小さな故障ですむはずです。すぐなおるでしょう」
「おかけになりませんか」と、将校は最後にいって、籐椅子《とういす》の山から一つ引き出してきて、旅行者にすすめた。旅行者はことわるわけにはいかなかった。そこで、穴のふちで腰を下ろした。そして、その穴にちょっと視線を投げた。穴はそれほど深かった。穴の片側には掘り出された土が土手のように積み重ねられ、もう一方には装置が置かれていた。
「司令官があなたにこの装置を説明したかどうかわかりませんが」と、将校はいった。旅行者ははっきりしない手のしぐさで否定した。将校もそれ以上のことを要求しているわけではなかった。というのは、それなら自分自身で装置のことを説明することができるわけだ。「この装置は」と、彼はいってL字形のハンドルをつかみ、それで身体を支えた。「われわれの旧司令官の発明です。これに関するいちばん最初の実験が行われるようになったとき、私はすぐ協力し、完成までのあらゆる仕事に関係してきました。とはいっても、この発明の功績はあのかただけのものではありますが。あなたはわれわれの旧司令官のことをお聞きになりましたか。お聞きにならないのですね? ところで、この流刑地全体のしくみがあのかたの仕事だと私がいっても、それは言いすぎではありません。われわれ、あのかたの味方である者たちは、あのかたが亡くなったときすでに、流刑地のしくみがすっかりまとまったものなので、後任者は、たといたくさんの新しい計画を頭に描いていようと、少なくとも何年かのあいだは前のしくみを全然改めることができないだろう、ということを知っていました。われわれの予想は実際に的中もしたのです。新任の司令官はそれをみとめないわけにはいきませんでした。あなたが旧司令官をご存じなかったのは、残念なことです!――でも」ここで将校は言葉を中断した。「どうもおしゃべりしてしまって。で、あのかたの装置が今ここにわれわれの眼の前に立っています。ごらんのように、三つの部分から成っています。時がたつうちにこれらの部分のそれぞれにいわば俗称ができ上がりました。下部はベッドと言い、上部は図引きと呼ばれ、この中央のぶら下がっている部分はエッゲ(馬鍬《まぐわ》)と呼ばれています」
「エッゲですって?」と、旅行者はたずねた。彼はそれほど熱心には耳を傾けていなかった。太陽はこの影のない谷間に囚《とら》われたようで、あまりにも強烈に照りつけていた。考えを集中することはむずかしかった。それだけに、この将校は彼には驚嘆すべきものに思われるのだった。将校は、重そうな肩章をつけ、金モールを下げた窮屈そうな礼装の軍服に身を固めて、ひどく熱心にこの件を説明している。おまけに、話しながらも、ねじ廻しであちこちとねじをいじっているのだ。そこにいる兵士も旅行者と似たような気分に陥っているらしかった。兵士は両手の手首に受刑者の鎖を巻きつけ、片手を銃の上にのせ、頭をうなじのところで垂れ下げ、何ごとにも気を使ってはいなかった。旅行者はそれをいぶかしくは思わなかった。というのは、将校がフランス語でしゃべっているからだ。フランス語は兵士にも受刑者にもわかるはずがない。とはいえ、受刑者が将校の説明についていこうと努力していることが、それだけにいっそう目立った。一種の眠そうな頑固さで、いつでも将校がちょうど指さしているほうへ視線を向け、将校の話が今も旅行者の問いによって中断されたとき、将校とまったく同じように旅行者のほうをじっと見つめた。
「そうです、エッゲです」と、将校はいった。「この名前はぴったりです。針がエッゲのように並べられているし、全体がエッゲのように動くのです。もっともただ一つの場所だけで動くわけで、また働きがずっと精巧ではあります。ともかく、これからすぐおわかりになるでしょう。このベッドの上に受刑者が寝かされます。――つまり、私はまず装置の説明をしておいて、それからはじめて、動きかたそのものに実演させるつもりです。そうすれば、この装置の動きにいっそうよくついていくことができるでしょう。また、図引きのなかの歯車の一つがひどく磨滅しています。で、動き出すと、すごくぎいぎい鳴るのです。そうなると、言葉がほとんど聞き取れなくなります。部品はここでは残念なことにひどく手に入れることが困難なのです。――で、私が申しましたように、ここにベッドがあります。これは重ねた綿ですっかり張られています。その目的がなんなのかは、これからごらんになるでしょう。この綿の上に受刑者は腹ばいに寝かされます。むろん裸でです。ここが両手の、ここが両足の、ここが首の、それぞれ身体をしばりつけるための革ひもです。ここのところ、ベッドの頭のほうのはじに、私が申しましたように受刑者がまず顔を下向けにして寝るわけですが、ここにこの小さなフェルトの出ばりがあります。これは、受刑者のちょうど口のなかに入るようにたやすく調節することができます。このフェルトの用途は、叫んだり、舌をかみ切ったりすることを防ぐということです。むろん受刑者はフェルトを口に入れなければなりません。そうでないと、首の革ひもによって首が折られてしまいますから」
「それが綿ですか」と、旅行者はたずねて、身体をこごめた。
「そうです」と、将校は微笑しながらいった。
「ご自分でさわってごらんなさい」彼は旅行者の手を取って、ベッドの上をなで廻らせた。
「特別に調達された綿です。ですから、まったく外見は見わけがつきません。あとでこの綿の用途をお話しすることになるでしょう」
 旅行者はすでに少しばかりこの装置に気を取られるようになっていた。日射しをよけるため片手を眼の上に挙げ、装置を仰ぎ見た。大きな構造をもっていた。ベッドと図引きとは同じ大きさをもち、まるで二つの暗い長持のような外見をしている。図引きはベッドのおよそ二メートルほど上に取りつけられている。両者とも四隅は四つの真鍮棒《しんちゅうぼう》で接続されており、それらの棒は太陽の光でほとんど光を放射せんばかりだ。この二つの長持のあいだに一本の鋼鉄ひもでエッゲがぶら下げられてある。
 将校は旅行者のさきほどの冷淡さにはほとんど気づかなかったのだが、相手の今や湧《わ》き始めた関心には感づいたようである。そこで、旅行者がじゃまされずにながめるひまを与えてやろうとして、自分の説明を中断した。受刑者は旅行者を真似ている。しかし、手を両眼の上にかざすことができないので、裸の眼を細めて上を見上げるのだった。
「で、受刑者が寝かされるのですね」と、旅行者はいって、椅子にもたれ、両脚を組んだ。
「そうです」と、将校はいって、少し軍帽をうしろへずらし、手で熱い顔の上をなでた。「で、よろしいですか。ベッドも図引きもそれぞれ附属の電池をもっています。ベッドはその電池を自分のために使うのであり、図引きはエッゲのために使うのです。受刑者がしっかりしばりつけられると、ベッドが運動させられます。こまかに、ひどく速く震動し、左右にも上下にも同時に動くのです。あなたはこれと似た装置を病院でごらんになったことがあるでしょう。ただ、われわれのベッドではすべての運動が正確に計算されているのです。つまり、ベッドの運動はぴったりとエッゲの運動と合わされていなければなりません。ところで、このエッゲのほうに別のほんとうの遂行がゆだねられているのです」
「いったい、判決はどういうことになっているんです」と、旅行者がたずねた。
「ご存じでないんですか」と、将校は驚いていって、唇をかんだ。「あるいは私の説明が順序立っていないのであれば、お許し下さい。どうかお許しねがいます。つまり、以前には司令官が説明するのがつねであったものですから。ところが、新任の司令官は、こうした名誉ある職責を捨ててしまったのです。司令官がこのようなごりっぱな訪問客に」――旅行者はその敬意をこめた言い廻しを両手で拒もうとしたが、将校はその言い廻しにこだわった。「このようなりっぱな訪問客に、われわれの判決の形式について少しも知識をお授けしていないということは、これまた一つの改革でして、それは――」将校は呪いの言葉を唇まで出しかかっていたが、自分を抑えて、ただこういった。「私はそのことを知らされなかったのです。で、私に罪はありません。ところで、そうは申しましても私こそわれわれの判決法をもっともよく説明することができる人間ではありますが。というのは、私はここに」――彼はここで胸ポケットをたたいた――「旧司令官のこの装置に関する図面をもっております」
「司令官みずからの図面ですか」と、旅行者はたずねた。「いったい、そのかたはすべてを一身に集めておられたのですか。軍人であり、裁判官であり、建築技師であり、化学者であり、製図家だったのですか」
「そうですとも」と、将校はうなずきながら、じっと見つめる考えこんだようなまなざしをしていった。それから、自分の両手を調べるようにじっと見た。自分の手が、その図面類をつかむにしては十分に清潔でないように思われたのだ。そこで、バケツのところへいき、もう一度手を洗った。それから小さな革の紙入れを取り出して、いった。「われわれの判決はけっしてきびしいようには聞こえません。刑の宣告を受けた者の身体に、彼の犯した掟《おきて》がこのエッゲで書かれるのです。たとえばこの受刑者の身体には」――将校はその男を指さした――「『汝の上官をうやまえ』と書かれるでしょう」
 旅行者はちらっとその男のほうを見た。男は、将校が指さしたとき、頭を垂れ、何かを聞こうとして、聴力をことごとく緊張させていた。ところが、厚ぼったく結び合わされた唇の動きは、どうも彼が何もわかっていないということを示しているようであった。旅行者はいろいろたずねたかったが、男をながめながらただこうたずねただけだった。
「あの男は判決を知っているんですか?」
「いや」と、将校はいって、すぐ説明をつづけようとしたが、旅行者がそれをさえぎった。
「自分自身の判決を知らないのですかね?」
「いや」と、将校はふたたびいって、それからちょっとのあいだつまってしまった。まるで旅行者からその質問のもっとくわしい理由を求めているような様子だった。それから、こういった。「教えてやっても意味はないでしょう。なにしろ自分の身体で思い知るわけですから」
 旅行者はもう黙っていようと思った。受刑者が視線を自分に向けていたからだった。その視線は今語られた刑執行の手順を正しいと思うか、とたずねているように見えた。そこで、すでに椅子にもたれかかっていた旅行者は、また身体を前にかがめて、さらにたずねてみた。
「でも、あの男が刑を宣告されたということは、知っているんでしょうね?」
「それも知らないのです」と、将校はいって、相手からさらにいくらかの奇妙な発言を期待するかのように、旅行者に向ってほほえみかけた。
「それも知らないんですか」と、旅行者はいって、額の上をなでながら、「それでは、あの男は今でもまだ、自分の弁明がどういうふうに受け入れられたか知らないわけですね?」
「弁明する機会はもたなかったのです」と、将校はいって、わきへ眼をそらした。まるでひとりごとをいうような調子であり、自分にとってはわかりきっているこんなことを話して相手に恥かしい思いをさせまいとするかのようだ。
「だって弁明する機会はもったはずですが」と、旅行者はいって、椅子から立ち上がった。
 将校は、装置の説明に長いこと手間取る危険があることを知った。そこで旅行者のほうへ歩みよって、彼の腕にすがり、片手で受刑者を指さした。受刑者は注意が自分に向けられているらしいので、今度は直立不動の姿勢を取った。――兵士のほうも鎖をぐいと引っ張った。将校はいった。
「事情はこうなんです。私はこの流刑地で裁判官を命じられています。年が若いのにそうなんです。というのは、旧司令官のときにもあらゆる刑事事件のお手伝いをし、また装置についてもいちばんよく知っているのです。私が裁決するときの原則は、罪はいつでも疑いの余地がない、ということです。ほかの裁判所はこんな原則を守ることができません。というのは、そういう裁判所は多人数で行われ、その上にはさらに上級の裁判所があります。ここではそうではないのです。あるいは、少なくとも旧司令官のときにはそうではありませんでした。新司令官もたしかに私の裁判に介入したいという気持も見せはしましたが、これまでのところ私はうまく司令官の介入を拒むことができています。また、これからもやはりうまくそうなることでしょう。――あなたはこの事件の説明を聞こうと望まれました。けれど、この件もあらゆる事件と同様にまったく簡単なものです。ある中隊長がけさ告発してきたのですが、その内容は、その中隊長の当番兵として配属され、彼の戸口の前で眠ることになっていたこの男が、寝過ごして勤務をおこたってしまったのです。つまり、この男は、時計が時を打つごとに起立して、中隊長の戸口の前で敬礼する義務があるのです。これはけっしてむずかしい義務ではありませんし、どうしても必要な義務です。というのは、見張りにでも使役《しえき》にでもいつでも活溌な態度で用意ができていなくてはならないのです。その中隊長は、ゆうべ、当番兵が義務を果たしているかどうか、調べようと思いました。彼は二時が打ったときにドアを開けてみると、この男がうずくまって眠っているのを発見しました。中隊長は乗馬用の鞭をもってきて、この男の顔を打ちました。すると、起立して許しを乞うかわりに、あの男は上官の両足をつかみ、彼の身体をゆすって叫びました。『鞭を捨てろ、さもないと食い殺すぞ』――これが真相なのです。中隊長は一時間前に私のところへきました。私は中隊長の申し立てを書き取り、すぐそれにつづいて判決を書き取りました。それからあの男に鎖をつけさせました。これはすべて簡明です。もし私がまずあの男を召喚して訊問《じんもん》などしていたら、ただ混乱を生じただけでしょう。、あの男はうそをついたことでしょうし、もし私がそのうそを否定することに成功したなら、そのうそのかわりに新しいうそをつくというふうに、いつまでもつづいたことでしょう。しかし、今では私はあの男をつかまえていて、もう放しません。――これで万事の説明がおわかりですか。しかし、どんどん時間がたっていきます。ほんとうは刑の執行がもう始っていなければならないところですし、私は装置の説明をまだ終っていません」
 将校は旅行者を無理に椅子に坐らせると、ふたたび装置のほうへ歩みより、語り始めた。
「ごらんのように、エッゲは人間の体格にぴったり合っています。ここが上体にあたるエッゲ、ここが両脚にあたるエッゲです。頭にはこの小さいのみ[#「のみ」に傍点]だけを使うことになっています。おわかりですか」将校はいよいよ全般的な説明に入る気構えで、親しげに旅行者のほうへ身体をこごめてきた。
 旅行者は額にしわをよせてエッゲなるものをじっとながめた。裁判手続きについての教示は彼を満足させていなかった。それにしても、ここは流刑地のことであり、ここでは特別な処置が必要であって、すみずみにいたるまで軍隊式に進められなければならないのだ、と自分に言い聞かせないわけにはいかなかった。しかし、その上に新任司令官にいくらかの期待をかけていた。この司令官は、たしかにゆっくりとではあるが、この将校のかたくなな頭には入らないような新しい手続きを採用しようと意図したもののようだった。こんなことを順を追って考えたので、旅行者はたずねてみた。
「司令官は刑の執行に立ち会われますか」
「どうもわかりませんね」と、将校はこの突然の質問にひどく気を悪くして、いった。そして、彼の親しそうだった顔つきはゆがんでしまった。
「それだからこそ、われわれは急がなければならないのです。残念なことに、私の説明を省略さえしなければならないでしょう。しかし、私はあしたにでも、この装置がまたきれいになったら――これがひどく汚れてしまうことが、この装置のただ一つの欠点なのです――もっとくわしい説明を補うこともできましょう。そこで、今はただどうしても必要なことだけを申し上げることにしておきます。――で、男がベッドの上に寝て、ベッドが震動させられると、エッゲが身体の上へ下げられます。エッゲは各尖端がほんの少しだけ身体にふれるように、自然に調整されます。調整がすむと、すぐにこの鋼鉄のひもがぴんと張って棒のようになります。それからいよいよ活動が始まるわけです。素人《しろうと》は外見上では刑罰のちがいに気づきません。エッゲは一様に活動しているように見えます。エッゲは震動しながら各尖端を身体に突き刺します。身体のほうはその上にベッドによって震動しているわけです。そこでだれにでも判決の実行を検査することができるように、エッゲはガラス製にされました。針をガラスのなかに固定するということはいくつかの技術的困難をひき起こしましたが、いろいろと実験をやったあとで成功しました。われわれはそのためにはどんな努力もいといませんでした。というわけで、身体のなかに掟の文句が書きこまれていくのをだれでもガラスを通して見ることができるわけです。どうです、もっと近づいてこられて、針をごらんになりませんか?」
 旅行者はゆっくりと立ち上がり、そこへいって、エッゲの上に身体をこごめてながめた。
「どうです」と、将校がいった。「二種類の針が何列にも並んでいるでしょう。長い針はわきに短い針をもっています。つまり、長い針が書いて、短い針は水を噴き出し、血を洗い落して、文字をつねにはっきりさせておきます。血のまじった水はつぎに小さい樋《とい》に流しこまれ、最後にはこの大きな樋に流れ入り、この大きな樋の流出管は穴へと通じています」将校は血のまじった水が通っていく水路を指でくわしく示した。その水をできるだけ明白に見せるため、流水管の出口に両手をあててまぎれもなく水をすくう様子をしたとき、旅行者は頭を上げ、片手で身体のうしろを手探りしながら椅子へもどっていこうとした。そのとき、驚いたことに、受刑者も彼と同じようにエッゲの仕組みをもっと近くでながめるようにという将校のすすめに従わされているのを見た。受刑者はうつらうつらしている兵士を鎖のまま少し前へ引っ張り、自分でもガラスの上に身体をのり出していた。将校と旅行者との二人がちょうど見学したものを受刑者もおぼつかない眼で見てはいるが、説明を受けていないので、どうもよくわかるわけにはいかない様子が、見て取れた。受刑者はあちらこちらと身体をまげてのぞきこんでいた。何度もくり返して眼でそのガラスをながめわたしていた。旅行者は受刑者を追い返そうとした。というのは、この男がやっていることはさらに罰を受けそうに思われるのだった。ところが、将校は旅行者を片手でしっかと押しとどめ、もう片方の手で土手から土くれを取り上げ、それを兵士めがけて投げた。兵士はぎくりとして眼を上げ、受刑者がやっていたことに気づいて、銃を捨てると、靴のかかとで地面に踏ん張り、受刑者を引きもどした。そのため、受刑者はすぐ倒れてしまった。すると兵士は、受刑者が身をよじって、鎖をがちゃがちゃ鳴らしているのを、見下ろした。
「立たせろ!」と、将校は叫んだ。というのは、彼は旅行者が受刑者によってあまりにも気をそらされてしまったことに気づいたのだった。旅行者はエッゲなどにはおかまいなしに、エッゲの上をむこうまで身体を乗り出し、受刑者がどうなっているのかをたしかめようとした。
「受刑者を用心して扱え!」と、将校はふたたび叫んだ。将校は装置のまわりを走って廻り、自分で受刑者の肩の下をつかみ、何度か足をすべらせている受刑者を兵士の助けを借りながら立ち上がらせた。
「もうみんなわかりました」と、将校がまた自分のところへもどってきたときに、旅行者はいった。
「いちばん重要なことはまだですよ」と、将校はいって、旅行者の腕をつかんで、高いところを指さした。
「あの図引きのなかに歯車が入っていて、それがエッゲの運動を規定するのです。そしてこの歯車は判決が示している図面に従って調整されています。私は今でも旧司令官の図面を使っています。ここにそれがあります」――そういうと、例の革の紙入れから二、三枚の紙片を取り出した――「だが、残念なことにあなたの手にお渡しすることはできません。これは私がもっているもののうちもっとも貴重なものなのです。おかけ下さい。このくらいの距離をおいてお見せしますが、そうすればすべてよくごらんになれるでしょう」将校は最初に紙片を見せた。旅行者は何かほめ言葉を言いたかったが、ただ迷路のような何重にもたがいに交叉し合っている線が見えるだけで、しかもその線がすっかり紙面を埋めているので、骨折ってやっと白いすきまが見わけられるくらいだった。
「読んでごらんなさい」と、将校はいった。
「読めませんね」と、旅行者はいった。
「でも、はっきりしているじゃありませんか」と、将校がいった。
「ひどく精巧なものですが」と、旅行者は相手の言葉を避けるようにいった。「でも、私には解読できません」
「できますよ」と、将校はいうと、笑って紙入れをまたポケットにしまった。「学校の生徒に教える清書の字ではありません。長いことかかって読まなければなりません。あなたも最後にはきっとおわかりになるでしょう。これはむろん簡単な文字であってはならないのです。すぐに殺すのではなくて、平均して十二時間ほどの時間をかけてやっと殺すようなものでなければなりません。そして、六時間目に転機がくるように見積られています。そこで、じつにたくさんの飾りが本来の文字のまわりにつけられているのです。ほんとうの文字は一つの細い帯のような形で身体を取り巻くだけです。そのほかの身体の部分には飾りをつけることになっています。これで、エッゲおよび全装置の働きを十分に評価することがおできになるでしょうね?」将校は梯子の上に飛びのって、一つの歯車を回転させ、下へ向って叫んだ。「気をつけて下さい、わきへどいて!」そして、装置全体が動き出した。歯車がきしる音を立てなかったならば、きっとすばらしかったことだろう。将校はこのうるさい歯車の音に驚いて、拳《こぶし》で歯車をおどかすような身振りをすると、詫びをいうように旅行者のほうへ両腕をのばし、装置の動き工合を下から見るため、急いで梯子を下りた。まだ何かうまくいかないところがあるのだろうが、それは将校だけにしかわからない。将校はふたたび梯子をのぼって、両手を図引きの内部に突っこみ、それから早く下りるために、梯子を利用するかわりに一本の棒に伝わって下り、このうるさい音がするなかで相手に自分の言葉をわからせるため、極度の緊張をもって旅行者の耳もとで叫んだ。
「手順がわかりますか? エッゲが書き始めます。エッゲがあの男の背中に文字の最初の書写を終わると、あの重ねた綿が廻って、エッゲが新しいところに書けるように身体をゆっくりと反転させます。そうしているうちに皮膚を切って文字を書きつけた部分が綿の上にあたることになり、綿は特別なしかけで出血をすぐにとめ、文字の新しい彫りこみの用意がされます。このエッゲのへりのぎざぎざは、身体が反転させられていくうちに、傷口から綿をはがして、穴のなかへ投げ捨てます。そして、エッゲはまた仕事をつづけます。こうして、エッゲは十二時間にわたっていよいよ深く文字を刻んでいきます。最初の六時間には受刑者はほとんど以前と同じように生きています。ただ痛みに苦しめられるだけです。それから二時間後にフェルトが除かれます。というのは、受刑者はもう叫ぶこともできないのです。それから、ここの頭のほうにある電熱加温の鉢《はち》のなかに温かい米がゆが入れられます。受刑者は食べたければ、その鉢から舌でぺろぺろなめてかゆを食べることができます。だれ一人としてこのチャンスを逃がす者はいません。しかも、私の経験した処刑の数は多いのです。六時間目になると、やっと食べる楽しみが失われます。すると私は普通はここにひざまずいて、その様子を観察します。受刑者はこの最後の食物をのみこむことはまれで、ただ口のなかで動かしているだけで、それを穴のなかへ吐き出してしまいます。そのときには私は身体をかがめなければなりません。そうしないと、私の顔にかかってしまいます。だが、この六時間目には受刑者はなんとおとなしくなることでしょう! どんなぐずなやつにも分別がひらけてきます。まず両眼のところからそれが始まります。そして、眼からほかへ拡がっていきます。その有様をながめていると、自分でもエッゲの下に寝てみたいという気にさせられるくらいです。ところで、それ以上のことは起こりません。受刑者はただ文字を解読し始めるだけです。まるで耳を傾けているように、口をとがらせています。あなたはごらんになりましたが、文字を眼で解読することだってやさしいことではありません。ところが、われわれの受刑者は膚《はだ》に切りこまれたもので解読するわけです。もとより骨の折れる仕事ではあります。それを終えるのには六時間かかります。で、そのあとでエッゲが完全に受刑者の身体全体に刺さって、穴のなかへ投げこみます。穴のなかで死体は血のまじった水や綿の上にぴしゃりと音を立てて落ちます。それで裁判は終わります。そして、われわれ、つまり私と兵士とは死体を穴に埋めます」
 旅行者はそれまで将校のほうに耳を傾けて聞いていたが、両手を上衣のポケットに突っこんで、機械の仕事ぶりをながめやった。受刑者もそれをながめていたが、なんのことやらわかってはいない。少し身体をこごめて、ゆれ動いている針を眼で追っていたが、そのとき兵士が将校の合図によってナイフでうしろからシャツとズボンとを切り裂いたので、衣類が受刑者の身体から落ちてしまった。自分の裸身を隠すために、落ちていく衣類をつかもうとしたのだが、兵士が彼の身体をぐいと引き起こし、最後のぼろきれまで身体からふるい落してしまった。将校は機械を停止させた。そして、今やあたりを支配し始めた静けさのなかで受刑者がエッゲの下に寝かされた。鎖がとかれ、それのかわりに革ひもがしめられた。それは受刑者にとって最初の瞬間にはほとんどいましめをゆるめられたように感じられたらしかった。それから、エッゲがもう少し低く下げられた。やせた男だったのだ。エッゲの尖端がふれたとき、受刑者の皮膚の上を戦慄《せんりつ》が走った。兵士が受刑者の右手をしばりつけているあいだに、受刑者はどこへということもなく左手をのばした。ところが、それは旅行者が立っている方角だった。将校はたえずわきから旅行者をながめていた。まるで旅行者の顔から、自分が少なくとも表面的な説明をしてやったこの刑執行が与えた印象を読み取ろうとしているようであった。
 手首をしばることになっている革ひもが、切れてしまった。兵士が強くしめすぎたらしかった。将校に助けてもらおうと、兵士は切れた革ひもの切れはじを将校に見せた。将校も兵士のところへよっていき、旅行者のほうへ顔を向けていった。
「機械はとてもこまかく組み立てられていますので、ときどきどこかの部品が切れたり、折れたりしないわけにはいきません。しかし、そんなことによって判決全体に狂いを生じさせるようなことがあってはならないのです。ところで革ひもには補充品が用意されてあります。鎖の一つを使いましょう。とはいっても、右腕の振動の微妙さはそれによってそこなわれはしますが」そして、鎖をつけながら、なおもいった。「機械の維持のための予算も今ではひどく制限されています。旧司令官の下では私が自由に使える会計がこの目的だけのためにありました。ここには倉庫があって、そこにはありとあらゆる補充品が貯えられていたのです。告白しますと、私はそれをほとんどぜいたくに使いました。それも以前のことで、新しい司令官の主張するように現在のことではありません。新司令官にとっては、あらゆることがただ古い制度を打破するための口実に役立つのです。今では司令官がこの機械に関する会計を自分の管理に置いています。そして、新しい革ひもをもらいに人をやりますと、切れたのを証拠に出せと要求するのです。新しいのは一週間もたってやっととどき、しかも悪い品質のもので、たいして役に立ちません。ところが、私はそのあいだ革ひもなしでどうやって機械を運転したらよいのか、そのことに気を使ってくれる者はだれ一人としていないのです」
 旅行者のほうは考えこんでいた。外国の事情に決定的に介入することは、いつでも問題がある。彼は流刑地の住民でもなければ、この流刑地が属する国の国民でもない。もし刑執行に断罪を下したり、あるいはそれを阻止しようと思うなら、人からこういわれるだろう。お前は外国人だ。黙っていろ。それに対して少しでも答えられる言葉はなくて、ただつぎのようにつけ加えていうことができるだけだろう。自分はこの件についてはさっぱりわからない。なにしろ自分はただ見物しようという目的だけで旅行しているのであって、たとえば外国の裁判制度を変えようなどという目的なんかで旅行しているのではけっしてない、と。とはいうものの、この土地ではいろいろな事柄がひどくこちらの気をそそるものがある。裁判手続きの不公正なことと刑執行の非人間的なこととは疑う余地がない。それをだれだって旅行者の何か利己的な気持と受け取ることができないのだ。というのは、受刑者は彼にとっては縁のない者であり、同国人でもなければ、同情は全然そそらないような人間だ。旅行者は上級の役所のいろいろな紹介状をもっていて、この土地ではたいへん鄭重《ていちょう》に迎えられたのだった。そして、彼がこの刑執行に招待されたことは、この裁判についての彼の判断を要求していることを暗示するもののようにさえ思われた。今、あまりにもはっきり聞いたように、司令官はこの裁判手続きの賛成者ではなく、この将校に対してほとんど敵意ある態度を取っているだけに、いっそうそんなふうに思われるのだった。
 そのとき、旅行者は将校の怒った叫び声を聞いた。将校はちょうど、骨を折らないわけにはいかなかったのだが、受刑者の口にフェルトの出ばりを押し入れたところだった。すると、受刑者は我慢できない吐き気のうちに両眼を閉じ、嘔吐《おうと》した。将校は急いで受刑者をフェルトの出ばりから起こして、頭を穴へ向けようとした。ところがもう遅くて、汚れものがすでに機械を伝わって流れ落ちた。
「みんな司令官の罪だ!」と、将校は叫んで、思慮を失ってしまったようになって前の真鍮棒をゆすぶった。「私の機械はまるで馬小屋のように汚されてしまった」彼はふるえる両手で、起ったことを示した。「刑執行の一日前には食事を与えてはならない、ということを私が何時間ものあいだ司令官にわからせようとしないとなると、すぐこの有様ですからね。ところが、司令官の流儀の新しいおだやかな方針は私のとは別な考えかたをしています。司令官の取巻きのご婦人がたは、受刑者がつれてこられる前に、首のところまで砂糖菓子をつめこんでやる始末です。一生のあいだ悪臭が鼻をつくような魚を食って生きてきたのに、今度は砂糖菓子を食わなければならない、というわけです! でも、それもまあよろしいでしょう。私は何も異論は申しますまい。しかし、私が三カ月も前から請求している新しいフェルトをなぜ調達してくれぬのでしょう。どうして受刑者が吐き気をもよおさずにこのフェルトを口に入れることができるでしょうか。なにしろ、百人以上の者が臨終のときに吸ったり、かんだりしたのですからね」
 受刑者は頭を伏せてしまっていて、落ちついたように見えた。兵士は受刑者のシャツで機械を磨くことにかかりきりになっていた。将校が旅行者のほうへ近づいていったが、旅行者は何かを予感して一歩うしろへ退いた。ところが、将校は彼の手をつかまえて、わきへ引っ張っていった。
「ちょっとばかり内密にあなたとお話ししたいのですが」と、彼はいった。「よろしいでしょうか」
「結構ですとも」と、旅行者はいって、眼を伏せたまま、相手のいうことに耳を傾けた。
「この手続き、この処刑は、今あなたが驚嘆のうちに見学される機会をもたれているわけですが、現在われわれの流刑地ではもう公然たる支持者を一人ももっていません。私がそのただ一人の擁護者であり、同時に旧司令官の遺産のただ一人の擁護者でもあります。この手続きの拡大建設などということは、私はもう考えていません。私は現存するものの維持のために全力を費しているのです。旧司令官の存命中は、流刑地は彼の支持者であふれていました。旧司令官の説得力は私も一部分はもっているのですが、あのかたのもっておられた権力は私にはまったく欠けています。そのために支持者どもはこそこそ隠れてしまいました。まだ多くの支持者がいるのですが、だれ一人としてそのことを告白しません。もしあなたが、きょう、つまり処刑が行われる日ですが、茶店へいらっしゃって、いろいろ聞き廻られるならば、あなたはおそらくただあいまいな意見だけを聞かれることでしょう。それはどれも支持者ばかりなのです。しかし、現司令官の下で現司令官のさまざまな考えかたに動かされるとなると、そういう連中も私のためにはなんの役にも立ちません。ところで私はあなたにおたずねしたいのですが、この司令官のために、また彼に入れ知恵している司令官の側近の婦人どものために、このような生涯《しょうがい》の仕事が」――彼は機械を指さした――「消滅しなければならないものでしょうか。そんなことを許しておいてよいのでしょうか。ただ外国人として一日二日この島にいるだけとしても、そんなことを許しておいてよいでしょうか。しかし、ほんのしばらくでもぐずぐずしてはいられないのです。私の裁判権を奪おうとして何か準備されています。すでに司令部では何回も会議が行われています。それらの会議に私は招かれません。あなたの今日のご来訪も、私には全体の情勢を示すもののように思われます。連中は臆病なものですから、外国人であるあなたをまずよこしたのです。――以前には刑の執行はこんな有様とはどんなにちがっていたことでしょう! 処刑の前日には早くも谷間全体が人でいっぱいでした。みんな、ただ見るためにやってきたのです。朝早く司令官がご婦人がたをつれてこられました。ラッパの音が高らかに鳴って、この野営地全体を目ざませます。私は、いっさいの準備ができていると報告しました。ご一行は――身分の高い役人たちは欠席してはならなかったのです――機械のまわりに並びました。この籐椅子《とういす》の山はあの時代をわずかにしのばせるみすぼらしい残骸なのです。機械は磨かれてぴかぴか光っていましたし、死刑執行があるたびに新しい部品を受け取りました。何百人という人びとの前で――むこうの山腹まで、全観客が爪立ちしてながめていました――受刑者が司令官自身の手でエッゲの下に寝かされました。今日では下等な兵士がやることになっている仕事が、当時は裁判長である私の仕事であり、大いに名誉なことでした。さて、刑執行が始まりました! 騒音によって機械の働きがじゃまされるようなことはありませんでした。多くの観客はもう全然見物していないで、両眼を閉じて砂のなかに寝ていました。今、正義が行われているのだ、ということをみんなが知っていました。静けさのなかで聞こえるものはフェルトによって抑えられた受刑者のうめく声でした。今日では、フェルトが殺してしまうよりももっと強いうめき声を受刑者からしぼり出すことは、もうこの機械にはできません。ところがあのころには、文字を刻む針が腐蝕《ふしょく》させる液体をしたたらせていました。その液体は今ではもう使用してはいけないことになっているのです。さてやがて例の六時間目がくるのです! 近くで見物したいというみんなの希望を許すことはできないくらいでした。司令官はご自分の考えからだれよりもまず子供たちのことを考えてやれと命令されました。私はもちろん私の職務柄、いつでもそばにいてもよかったわけですが。で、私は小さな子供を左右の腕に一人ずつ抱いて、機械のところで何度もかがみこんだのでした。われわれみなは虐《さいな》まれている受刑者の顔から御光が射し始めたような表情をどんなふうに受け取ったことでしたろう。このついに達成された、そして早くも消え失せていく正義の光のなかで、われわれは自分たちの頬をどんなふうに輝かしていたことでしたろう! ねえ、君、なんとすばらしい時代だったろうねえ!」将校は、今自分の前に立っているのがだれなのか、忘れてしまったらしかった。彼は旅行者を抱いて、頭を旅行者の肩の上に置いた。旅行者はひどく当惑してしまい、いらいらしながら将校の身体を越えてむこうを見やった。兵士は機械掃除の仕事を終え、今度は飯盒《はんごう》から米がゆを鉢に入れた。もうすっかり元気を回復したように見える受刑者はこれに気づくやいなや、舌でかゆをぺろぺろなめ始めた。兵士は何度もくり返して受刑者を押しのけた。というのは、かゆはもっとあとで食べさせることになっているのだ。ところが、兵士が汚ない両手を突っこんで、がつがつしている受刑者の前でそのかゆを食べているのは、ともかくけしからぬことではあった。
 将校はすぐに正気を取りもどした。
「あなたの心を動かすつもりではなかったのです」と、彼はいった。「あのころのことを今わかっていただくことは不可能だ、ということは私もよく知っています。それに機械はまだ動いていますし、ひとりで働きます。機械はこの谷間にひとりぼっちになっていても、ひとりで働きます。そして、あのころのように何百という見物人がまるで蝿みたいに穴のまわりに集っていなくとも、死体は結局は今でもまだおだやかに飛んで穴のなかへ落ちていきます。あのころには、われわれは丈夫な手すりを穴のまわりにつけなければなりませんでしたが、それもずっと前に取り除かれてしまいました」
 旅行者は顔を将校からそむけようと思って、あてもなくあたりを見廻した。将校は、相手が谷間の荒涼とした風景をながめているのだ、と思った。そこで旅行者の両手をつかみ、相手の視線をとらえようとしてそちらへ身体を廻し、そしてたずねた。
「この不面目な有様にお気づきなのですか?」
 だが、旅行者はだまっていた。将校はほんのちょっとのあいだ、相手にかまうことをやめた。そして、両脚を開いたまま、両手を腰にあてて、無言で立ち、地面を見ていた。それからはげますように旅行者にほほえみかけて、いった。
「きのう、司令官があなたをここへ招待したとき、私はあなたのすぐ近くにおりました。私はその招待の言葉を聞きました。私は司令官をよく知っています。司令官がこの招待で何を狙っているのか、私にはわかりました。司令官の権力はこの私を処分するに十分なほど大きいにもかかわらず、まだ思いきってそうしようとしません。でも、きっとあなたという声望ある外国人のかたの判断にさらしてやろうというつもりなのです。司令官の計算は念入りなものです。あなたはこの島にこられてまだ二日目ですし、旧司令官とあのかたの考えかたというものをご存じなかったわけです。あなたはヨーロッパ的な考えかたにとらわれておられる。おそらくあなたは死刑一般の原則的な反対者であり、ことにこのような機械による処刑の原則的な反対者でしょう。その上、処刑が公衆の関心を集めることもなくさびしげに、すでにいくらか破損した機械によって進められる、ということをごらんになりました。――で、こういうことをすべて併せるならば(そう司令官は考えているのです)、あなたが私の手続きを正しくないとお考えになるのは、ひどくありそうなことではないでしょうか。そして、もしあなたが私のやりかたを正しくないとお考えならば、あなたはこのことを(私は相変らず司令官の考えているままの意味でお話ししているわけですが)黙ってはおられないでしょう。というのは、あなたはきっと、いろいろおためしになった確信に信頼をおいていらっしゃるはずです。あなたはたしかに多くの民族のたくさんの特性をごらんになったし、それらを尊重することをお学びにもなってはおられます。それゆえ、おそらくお国においてなされるように全力をふるってこのやりかたに反対を唱えられないかもしれません。しかし、そんなことは司令官も全然求めてはいないのです。ほんのかりそめの、ただ不用意な言葉だけで十分なのです。その言葉がただ司令官の望みに外見上だけでもかないさえすれば、何もあなたの確信とぴったり一致しなくともいいのです。司令官がずるさの限りをつくしてあなたから聞き出すだろうということは、私は確信しています。そして、司令官の取巻きのご婦人たちは車座をつくって坐り、耳をそば立てて聞くことでしょう。そして、あなたはたとえば『われわれの国では裁判手続きはちがっています』とか、『われわれの国では被告は判決の前に訊問を受けます』とか、『われわれの国には死刑以外の刑があります』とか、『われわれの国に拷問《ごうもん》があったのは、中世においてだけでした』とか、おっしゃるでしょう。それらは、正しくもあれば、あなたには自明に思われもする言葉です。しかし、私のやりかたには少しもさしさわりのない無邪気な言葉です。しかし、司令官はそれらの言葉をどう受け取るでしょうか。あの司令官がすぐ椅子をわきへ押しやり、バルコニーのほうへ急いでいく様子が、私には眼に見えるようです。取巻きのご婦人たちが司令官のあとをなだれを打って追いかけていく様子が、眼に見えるようです。司令官の声が――ご婦人たちはあの人の声を雷の声と呼んでいます――聞こえるようです。ところで、司令官はこんなことをいうでしょう。『各国の裁判手続きを調査するよう使命を帯びておられるあるヨーロッパの大学者は、古い慣例によるわれわれの手続きは非人間的なものである、といわれた。このようなかたのこのご判定をうかがったあとでは、この手続きを許しておくことはむろん私にはできない。そこで本日から私は指令するが――とかなんとか』司令官が告げたようなことは、あなたはおっしゃらなかった。私のやりかたを非人間的などと呼ばれなかった。それどころか反対に、あなたの深いご洞察《どうさつ》に相応して、それをもっとも人間的で、もっとも人間にふさわしいものと思っておられる。あなたはまたこの機械装置を感嘆しておられる。こんなふうにあなたは異議を申されるでしょう。しかし、それも手遅れです。すでにご婦人がたでいっぱいのバルコニーに、あなたは全然出てはいけないでしょう。あなたはご自分にみんなの注意をひこうとされるでしょう。叫ぼうとされるでしょう。でも、ご婦人の一人の手があなたの口をふさいでしまいます。――そして、私と前司令官との仕事も破滅してしまうのです」
 旅行者は微笑を抑えないでいられなかった。それでは、彼がひどく困難と考えていた課題は、ひどくやさしいものだったわけだ。彼は相手の言葉をかわしながらいった。
「あなたは私の影響力を買いかぶっておられるのですよ。司令官は私がもってきた紹介状を読みましたが、私が裁判手続きの専門家なんかではないということを知っています。もし私が意見を述べるならば、それは一個の私人の意見であって、ほかの任意のだれかの意見よりも少しだって重要というわけのものではありません。ともかく、私が知っていると思われる限りではこの流刑地でひどく広汎《こうはん》な権限をもっている司令官の意見に比べたらずっと意味がないものです。もしこの手続きについての司令官の意見が、あなたのお考えになっているほどきっぱりときまっているものならば、私のささやかな助力なんか必要としないで、おそらくはもうこの手続きの終りがきているはずですが」
 将校はもうわかったのだろうか。いや、まだわかっていなかった。彼は勢いよく頭を振り、ちょっと受刑者と兵士とのほうを振り返った。この二人はぎくりとして、米がゆを食べるのをやめた。将校は旅行者の近くまで近づいていき、彼の顔は見ないで、上衣のどこかを漠然《ばくぜん》とながめながら、さっきよりも低い声でいうのだった。
「あなたは司令官をご存じありません。あなたは司令官にとっても、またわれわれのすべてにとっても――どうかこんないいかたをお許し下さい――いわば無害な立場におられます。それで、私のいうことを信じていただきたいのですが、あなたの影響力はいくら高く評価しても評価しすぎることはできないのです。あなたがおひとりで刑の執行に立ち会われると聞いたとき、私はほんとうにうれしく思いました。司令官のこの指示が私を目当てにしているというならば、今度は私がそれを自分に有利なようにしむけてやるだけの話です。まちがった耳打ちとか軽蔑的なまなざしとかにまどわされることなく――そうしたものは刑の執行に相当大きな関心を抱いている場合には避けられないものでしょうが――あなたは私の説明を聞いて下さり、機械もごらん下すって、今度は刑執行を見学しようとされています。あなたのご判断はきっともうきまっているはずです。まだちょっとしたはっきりしない諸点が残っているとしても、刑執行をごらんになればそんなものは片づいてしまうでしょう。ところで、あなたにお願いしておきます。どうか司令官に対抗できるように私を助けていただきたいのです」
 旅行者はそれ以上将校に語らせておかなかった。
「どうしてそんなことができるでしょう」と、彼は叫んだ。「そんなことはまったく不可能です。あなたのお役に立つことも、あなたに害を加えることも、どっちだってできません」
「あなたはおできになります」と、将校はいった。旅行者は、将校が両手の拳を固めているのを、いくらか恐れをこめて見てとった。「あなたはおできになります」と、将校はいっそう迫ってくるようにくり返していった。「成功するにちがいない計画を一つもっています。あなたの影響力は十分でない、とあなたは信じておられます。ところが、それが十分である、ということを私は知っております。しかし、あなたのお考えがもっともだとみとめたとしても、この手続きを維持するためにあらゆること、そしておそらくはあまり十分とはいえないことでさえもやってみることが必要なのではないでしょうか。そこで、まあ私の計画を聞いて下さい。それを実行するためには、何よりもまず、あなたがきょうのところはこの流刑地で私のやりかたに関するあなたのご判断をできるだけさしひかえて下さることが必要です。もしあなたがざっくばらんにたずねられないときには、あなたはけっしてご自分の考えを表明されてはなりません。つまり、あなたのご発言は手短かで漠然としたものでなければならないのです。それについて語ることはあなたにはむずかしいことになるということ、あなたが不快に感じていらっしゃるということ、もし率直に話さなければならないとしたら、まったく呪いの言葉を爆発させないわけにいかないということを、人びとに気づかせなければなりません。私は何もあなたにうそをつけなどと求めはしません。けっしてそんなことはありません。あなたはただ手短かに答えていただきたいのです。たとえば、『ええ、私は刑の執行を見ました』とか、『ええ、私はあらゆる説明をうかがいました』とかいう調子にです。それだけのことで、それ以上のことをお願いしているわけではありません。あなたが感じていらっしゃると人びとに気づかせる不快な感情というものには、実際、十分な動機があります。たとい司令官の考えているような意味でではなくとも、そういう動機はたしかにあります。司令官はむろんそれを完全に誤解して、あの人の考えている意味で解釈することでしょう。私の計画もその点に根拠をおいているわけです。あす、司令部で司令官の主宰の下に上級行政官全員の大きな会議が行われます。司令官はむろん、こうした会議で見世物をつくり出すこつを心得てしまったのです。そのために回廊がつくられ、傍聴者でいつもいっぱいです。私はよんどころなくそうした相談会に加わらなければなりませんが、不快な気持で身ぶるいするほどです。ところで、あなたはどうあっても今度の会議に招待されるにきまっています。もしあなたがきょう、私の計画にふさわしい態度をとって下さるならば、この招待は私にとってどうしても願わしいものとなるでしょう。でも、もし何らかの理由からあなたがまだ招待されていらっしゃらなければ、招待してもらうように要求なさっていただきたいのですが。そうすれば招待を受けられることは、疑いありません。そこで、あなたはあす、ご婦人がたとともに、司令官のさじきに坐られるということになります。司令官は何度も上眼を使って、あなたがおいでになることをたしかめるでしょう。いろいろなどうでもいいような、滑稽な、ただ傍聴者をあてこんだだけの議題が論じられたあとで――たいていは築港のことです。いつもいつも築港のことです――裁判手続きのことも議題にのぼるでしょう。司令官の側からこれが出なかったり、あるいは十分早いうちに出ないような場合には、それが話に出るように私が計らいます。私は立ち上がって、きょうの刑執行の報告をしましょう。このような報告はその会談では慣例のものではありませんが、私はそれでもやってやります。司令官は、いつものように親しげな微笑を浮かべて私に礼をいうでしょう。そして、それからもう自分を抑えることができなくなり、この絶好の機会をつかむでしょう。『ただいま』とかなんとか彼はしゃべることでしょう。『刑執行の報告が行われました。この報告に私からつけ加えたいことはほかでもありません。まさにこの刑執行には、みなさんがご承知のようにわが流刑地にとって非常な名誉である訪問をたまわった偉大な学者のかたがお立ち会い下さいました。それにわれわれの今日の会議もこのかたのご出席によっていちだんとその意義を深めたわけであります。で、この偉大な学者のかたに向って、古い慣例による刑執行とそれに先立つ裁判手続きとをどう思われるか、おたずねしてみようではありませんか』むろん、満場の拍手、全員一致の賛成ということになります。私はいちばん大きく拍手します。司令官はあなたの前でお辞儀して、こういうでしょう。『それでは、全員を代表いたしまして、私からおたずねします』そこで、あなたは手すりのところへ歩み出られます。どうか両手を全員に見えるようにお置きになって下さい。そうでないと、ご婦人がたに手をつかまれ、指でもてあそばれますからね。――そして今やついにあなたのお話が行われるわけです。どうやってそれまでの何時間かの緊張を耐えていくか、私にはわからないくらいです。あなたは演説においてけっして限界などを置かれる必要はありません。真実を述べてさわぎ立てて下さい。手すりの上に身体をのり出して、がなり立てて下さい。そうです、司令官に向ってあなたのご意見、あなたのゆるぎないご意見をがなり立てて下さい。でも、おそらくあなたはそんなことはなさりたくないでしょう。そんなことはあなたのお人柄にはふさわしくないでしょうし、あなたのお国では、おそらくこういう場合には別な態度をおとりになるものでしょう。それももっともで、それでもまったく十分なのです。立ち上がったりなさらないでもいいのです。ただ一こと二ことおっしやるだけでいいのです。あなたの下にいる役人どもに聞こえるようにただささやくような調子でその言葉をおっしゃっていただくだけで結構です。それで十分です。あなたは何もご自分で刑執行に対して関心が欠けているとか、歯車がきしるとか、革ひもが切れたとか、フェルトがじつにたまらないほどむかつく、などということをお話しになる必要は全然ありません。いいえ、あとのことはみんな私が引き受けます。そして、私の申し上げることを信じていただきたいが、もし私の演説が司令官をあのホールから追い出さなければ、そのかわりに司令官をひざまずかせて、『旧司令官よ、君の前に私は頭を下げる』と、告白させてやるばかりです。――これが私の計画です。この計画の実行で私をお助け下さいますか。でも、むろんお助け下さるものと思います。それどころか、あなたはそうしなければならないのです」そして、将校は旅行者の両腕をとらえ、重い息をつきながら彼の顔を見た。最後の言葉はまるで叫ぶようにいったので、兵士と受刑者さえもそれに注意を向けていた。この二人は何もわからなかったにもかかわらず、食うことをやめて、口のなかでもぐもぐかみながら旅行者のほうを見やっていた。
 旅行者にとっては、自分が与えるべき返事ははじめから疑う余地がなかった。彼はこれまでの人生においてあまりにも多くの経験を積んでいたので、今の場合に動揺などしているわけがなかった。彼は根本において正直な人間であり、恐れなどというものを知らなかった。それにもかかわらず、今、兵士と受刑者とをながめて、ちょっとのあいだためらった。だが、ついにいわないではおられないままに、「いや、できません」と、いった。将校は何度かまばたきしたが、視線を旅行者から放さなかった。
「その説明をお聞きになりたいのですか」と、旅行者はたずねた。将校は無言のままうなずいた。「私はこんなやりかたに反対する者です」と、旅行者はいった。「まだあなたが私を信頼して打ち明けられないうちから――このご信頼を私はむろんどんなことがあっても悪用はいたしませんが――私がこのやりかたに介入することが正しいかどうか、また私の介入が少しでも成功の見込みがあるものかどうか、すでにいろいろ考えていました。その場合、私がだれを相手にすべきかは、はっきりわかっていました。むろん、司令官に向って申し上げるのです。あなたはその点を私にいっそうはっきり教えて下さいました。とはいっても、たとえば私の決心をそれではじめて固めさせて下すったわけではありませんが。反対に、あなたの正直な確信は、私の判断をまよわせはしないにしても、私の心を大いに打ちました」
 将校は無言のままでいたが、機械のほうを振り向くと、真鍮棒の一本をつかみ、つぎに少しばかり身体をうしろにそらせて、図引きを見上げた。すべてうまくいっているか、調べているような恰好だ。兵士と受刑者とはたがいに仲がよくなったらしい。受刑者は、固くしばりつけられているためやるのがむずかしいのに、兵士に向って合図をした。受刑者が兵士に何かをささやくと、兵士はうなずいて見せた。
 旅行者は将校のあとを追っていって、こういった。
「あなたは、私が何をしようとしているのか、まだおわかりになっていません。私はこのやりかたについての私の考えを司令官に話しはするでしょうが、会議なんかで話すわけではなく、二人だけで話すのです。それに、何かの会議に呼ばれるほど長くご当地にとどまりもしないでしょう。あすの朝に出発しているか、あるいは少なくとももう乗船していることでしょう」
 将校がその言葉に耳を傾けているようには見えなかった。
「では、このやりかたはあなたに納得してはいただけなかったわけです」と、将校はひとりごとをいって、微笑した。ちょうど、老人が子供のばかげたことを微笑し、その微笑の背後に自分のほんとうの考えをおさめておくような様子だった。
「では、もう時間だ」と、ついに将校はいって、突然、何かをうながすような、何か協力を求めて呼びかけているような気持のこもった明るいまなざしをして、旅行者をじっと見つめた。
「何をやる時間なのです」と、旅行者は落ちつかないような様子でたずねたが、返事はなかった。「お前は釈放だ」と、将校は受刑者に向ってその国語でいった。受刑者ははじめのうちは将校のいうことが信じられなかった。「さあ、お前は釈放だ」と、将校はいった。はじめて受刑者の顔はほんとうの生気を取りもどした。それはほんとうのことなのだろうか。ただ将校の気まぐれにすぎず、そんなものはいつまた変わるかもしれないのではなかろうか。外国人の旅行者が自分のために恩赦《おんしゃ》を受けさせてくれたのだろうか。どうしたというのだろう。受刑者の顔はそんなふうにたずねているようだった。しかし、長いことではなかった。たといどうであろうと、もし自由になれるものなら、ほんとうに自由になりたかったのだ。そこで、エッゲが許す限り、身体をゆすり始めた。
「革ひもを切ってしまうじゃないか」と、将校は叫んだ。「おとなしくしろ! すぐほどいてやる」そして、将校は兵士に合図して、兵士といっしょに仕事に取りかかった。受刑者は声を立てずに低くひとり笑った。顔をあるいは左側の将校へ、あるいは右側の兵士へと向け、旅行者のことも忘れなかった。
「そいつを引っ張り出せ」と、将校は兵士に命じた。その場合、エッゲがあるため、いくらか用心しなければならなかった。受刑者はあせったため、もう背中にいくつかの小さなかすり傷をつけてしまっていた。
 ところが、そのときから将校はもう受刑者のことはほとんどかまわなかった。彼は旅行者のほうへ歩みよって、また例の小さな革の紙入れをポケットから取り出し、それをめくっていたが、ついに探していた紙片を見つけ出して、こういった。
「読んでごらんなさい」
「私には読めません」と、旅行者はいった。
「そんな紙片は私には読めないと、さっき申し上げたじゃありませんか」
「どうか、とっくりとこの紙片をごらん下さい」と、将校はいって、旅行者といっしょに読むために彼の、わきに立った。それもなんの役にも立たなかったとき、まるで紙片にはどんなことがあってもさわってはならないかのように、かなり高く上げた小指で紙の上をたどってみせた。こういうふうにして、旅行者が読むことをやさしくしようというのだった。旅行者は、少なくともこの点で将校の気に入るようにやってやろうと努めてはみたが、彼には読むことはできなかった。すると、将校はその文句を一つ一つの文字でくぎりながらたどり始め、つぎにもう一度、それをまとめて読み上げた。
「『正しくあれ』というのです」と、将校はいった。「今度はあなたにもお読みになれるでしょう」
 旅行者はあまり紙の上に近くかがみこんだので、将校はさわられるのではないかという心配から、紙をさらに遠ざけた。そこで、旅行者はもう何もいわなかったけれども、彼が相変らず読めないことは明らかであった。
「『正しくあれ』というのです」と、将校はもう一度いった。
「そうかもしれません」と、旅行者はいった。「そこにそう書いてあるように思いますが」
「では、よいのです」と、将校は少なくともいくらかは満足していった。それから、紙片をもったまま梯子をのぼった。彼はひどく慎重に図引きにはめこみ、歯車じかけをすっかり切りかえているらしかった。それはひどく骨の折れる仕事にちがいなく、まったく小さな歯車が問題になっているにちがいなかった。ときどき、将校の頭は完全に図引きのなかに隠れてしまった。それほど精密に歯車じかけを調べなければならなかったのだった。
 旅行者は上からこの仕事ぶりをたえず眼で追いつづけていた。彼の首は固くなってしまい、両眼は太陽の光がふり注ぐ空によって痛くなった。兵士と受刑者とはただおたがい同士のことに夢中になっていた。すでに穴のなかに横たわっていた受刑者のシャツとズボンとは、兵士の手で銃剣の先にひっかけて拾い出された。シャツはひどく汚れていた。受刑者はそれをバケツで洗った。それからシャツとズボンとを身につけたときに、兵士も受刑者自身も大きな声で笑わないではいられなかった。というのは、衣類はうしろが二つに裂かれていたのだった。おそらく受刑者は、兵士を楽しませる義務があるものと思ったようで、裂き切られた服を着たままの姿で兵士の前で輪を描いてぐるりと身体を廻して見せた。兵士のほうは、地面にあぐらをかいて、笑いながら膝をたたいている。それでも、ともかく彼らはやはり偉い人たちがこの場にいることを考えないわけにはいかなかった。
 将校は上のほうでついに仕事をすませると、微笑しながらもう一度全体をすみずみまでながめわたし、今度はそれまで開いていた図引きの蓋を閉めて、下りてきた。そして、穴のなかをのぞき、つぎに受刑者を見て、受刑者が自分の衣類を穴から取り出したことを満足そうに見て取った。それから両手を洗うためにバケツのところへいったが、もう遅くて気持が悪いほど汚れているのをみとめた。両手を洗うことができないのを残念がりながら、とうとう手を砂のなかへ突っこんだ――この代用品は彼を満足はさせなかったのだが、それで我慢しないわけにいかなかったのだ。――それから立ち上がると、軍服の上衣のボタンをはずし始めた。そのとき、襟のうしろへ押しこんでおいた二枚の婦人もちハンカチがまず落ちてきた。
「さあ、ここにお前のハンカチがあるぞ」と、将校はいって、二枚を受刑者に投げてやった。そして、旅行者に向って、説明しながらいった。
「ご婦人がたの贈物です」
 彼は軍服の上衣を脱ぎ、それから完全に裸になるまでは、急いでいたらしかったにもかかわらず、一つ一つの衣料をひどく念入りに扱い、軍服についている銀モールは指で特別になで、ふさを振ってなおすのだった。こうした入念さにはほとんどそぐわなかったのだが、何か一つを扱い終わると、ただちに気に入らなそうに穴のなかへ投げ捨ててしまうのだ。彼に残された最後のものは、吊り帯のついた短剣だった。将校は剣のさやを払うと、剣を折ってしまい、折れた剣もさやも革ひももみんないっしょにつかんで、それらをひどく激しく投げ捨てたので、穴の下のほうでたがいにぶつかり合う音が聞こえたほどだった。
 今や将校は裸で立っていた。旅行者は唇をかみ、何もいわなかった。これからどういうことになるのか、彼にはわかったが、将校が何かやることを妨げる権利は彼にはなかった。将校がすがりついていた裁判手続きが、ほんとうに今にも廃止されようとしているのであれば――おそらくは旅行者の介入のためだ。旅行者のほうでは介入する義務があると感じているのだった――将校は今や完全に正しくふるまっているわけだ。旅行者も、彼の立場にあったならば、それとちがった行動をとらなかったことだろう。
 兵士と受刑者とは最初はなんのことやらわからず、はじめのうちは一度もこちらを見ようとしなかった。受刑者は二枚のハンカチを返してもらったことをひどくよろこんでいたが、いつまでもハンカチのことをよろこんでいるわけにはいかなかった。というのは、兵士が思いがけなくも素早く取り上げてしまった。すると今度は受刑者のほうが、兵士が挟んでおいた帯革からそれらのハンカチを引き抜こうとした。ところが兵士のほうはゆだんがなかった。そうやって二人は半ばふざけて争っていた。将校が完全に裸になったときにやっと、二人は気がついた。ことに受刑者は、何か大きな変化が起こるかもしれないという予感に打たれているようだった。自分に起ったことが、今や将校に起っているのだ。おそらく極端なところまでいくことだろう。どうも外国人の旅行者がそうするように命令を下したらしい。それでは、これは復讐《ふくしゅう》なのだ。自分では最後までの苦しみはなめなかったが、最後まで復讐はとげられるのだ。すると、彼の顔には満面の声のない笑いが現われ、もはや消えることがなかった。
 ところが、将校はすでに機械のほうに向っていた。将校がこの機械のことをよく知っていることは前もってわかっていたのではあるが、将校がその機械を扱い、また機械が彼のいうなりになる有様は、ほとんど人をびっくりさせるほどのものがあった。将校が手をエッゲに近づけただけで、エッゲは何度も上がったり下がったりして、最後に将校を受け入れるのに正しい位置に到達したのだった。ベッドのはじをつかんだだけで、ベッドは早くも震動し始めていた。フェルトの出ばりは彼の口に向ってきた。将校がその出ばりだけはほんとうは口に入れたくないことは、見てもわかった。しかし、ためらいはほんの一瞬つづいただけで、彼はすぐにおとなしくそれを口に入れた。すべては用意された。ただ例の革ひもだけはまだベッドのわきに垂れ下がっていたが、それは不必要らしかった。将校はしばりつけられる必要はなかった。そのとき、受刑者はそのゆるんだ革ひもに気づいたのだった。彼の考えによれば、革ひもが固くしめられていなくては、刑の執行は完全とはいえなかった。受刑者は熱心に兵士に合図し、二人は将校をしばりつけるためにかけつけていった。将校は、図引きを動かすハンドルを押そうとして、すでに片足をのばしていた。そのとき、二人がやってくるのを見た。そこで足を引っこめて、黙ってしばられている。とはいっても、今ではハンドルにもうとどくことができない。兵士も受刑者もそれを見つけ出すことはできないだろう。旅行者は身体を動かすまいと決心していた。その必要はなかった。革ひもがつけられるやいなや、機械もたちまち動き出した。ベッドが震動し、針が皮膚の上で踊り、エッゲは上下に振れている。旅行者はしばらくじっとながめているうちに、図引きのなかの歯車の一つがきしるはずだ、ということを思い出した。ところが、すべて静かで、ほんのわずかなうなり声さえも聞かれなかった。
 この静かな仕事ぶりのため、機械は明らかに人びとの注意からはずれてしまった。旅行者は兵士と受刑者とのほうをながめた。受刑者はみんなのなかでいちばん元気がよかった。機械のすべてが彼の興味をひくらしく、あるいはかがんだり、あるいは身体をのばしたりして、たえず人差指をのばしては、兵士に何かを示そうとしていた。旅行者にはその様子が耐えがたかった。彼はこの場に最後までとどまっていようと決心していたが、兵士と受刑者との二人をながめることは、そんなに長くは我慢できなかった。
「お前たち、帰りたまえ」と、彼はいった。兵士はおそらくそのつもりであったのだろうが、受刑者はその命令をほかならぬ罰と受け取ったのだった。彼は哀願するように両手を合わせ、この場にのこしておいてくれ、と頼んだ。そして、旅行者が頭を振って聞き入れようとしないでいると、ひざまずきさえした。旅行者は、いろいろ命令したところで今の場合にはなんの役にも立たないと見て取り、二人のそばへいって、二人を追っ払おうとした。そのとき、上の図引きのなかで物音がするのを聞いた。彼は見上げた。やっぱり歯車が故障なのだろうか。しかし、そうではなかった。図引きの蓋《ふた》がゆっくりともち上がって、やがてばたんと音を立てながら完全に開いた。歯車の一つのぎざぎざが現われ、上がっていき、やがてその歯車の全体が姿を現わした。まるで何か大きな力が図引きを圧しつけたために、この歯車にはおさまっている場所がもうなくなってしまったようだった。歯車は図引きのはじまで廻っていき、それからばたりと下へ落ち、砂の上を少しばかり立ったままころがっていったが、やがて横に倒れた。ところが、上では別な一つの歯車が早くも上へ現われていた。それにつづいて、大きいのや、小さいのや、ほとんど区別できないようなたくさんの歯車がつぎつぎに現われた。どれについても同じようなことになった。今度こそ図引きがどうあっても空になったにちがいない、といつも思われるのだが、そうすると特別数が多い別な歯車群が現われ、上まで上がっていき、下に落ち、砂の上をころがって、最後に横に倒れるのだった。このできごとのために受刑者は旅行者の命令をすっかり忘れてしまっていた。歯車が彼をまったく夢中にしてしまったのだ。たえず歯車の一つをつかもうとして、同時に兵士に向って自分を助けるようにけしかけていた。だが、びっくりして手を引っこめてしまう。というのは、すぐに別な歯車が現われ、少なくともころがってくるときにはぎょっとさせられるのだった。
 それに反して、旅行者はひどく心が落ちつかなかった。機械は瓦壊していくようであった。それが静かに動いたように見えたのは、眼の迷いだったのだ。将校がもう自分自身の心配ができなくなっているので、今は将校の身を引き受けてやらねばならない、というような気が旅行者にはしてきた。ところが、歯車がつぎつぎに落ちてくることが彼の注意全体をひいているあいだに、機械のほかの部分を監視することを忘れていた。しかし、今、最後の歯車が図引きから離れてしまったあとで、エッゲの上にのり出してのぞいてみると、新しいもっとひどい驚きに襲われた。エッゲは書きつけてはいないで、ただ突き刺しているだけだ。ベッドは身体を反転させはしないで、ただ震動しながら身体を針のところへ上げているだけなのだ。旅行者は手を出してやろうと思った。できるならば、機械の働きをとめてしまいたかった。これでは、将校がやろうとしていた拷問《ごうもん》というものどころのさわぎでなく、直接の殺害だ。旅行者は両手をのばした。ところがそのときにはもう、エッゲは普通なら十二時間目にはじめてやるように、突き刺された身体ごとわきへ廻っていた。血が何百というすじを引いて流れ、水ともまじらず、また小さな樋《とい》も今回はどうにもならなかった。そして今度は、さらに最後のことまでがうまくいかなかった。身体は長い針から離れようとせず、血をどくどく流しているが、穴の上に引っかかったまま、下へ落ちようとしない。エッゲはもうもとの位置へもどろうとするのだが、まるで自分が重荷から解放されていないことに自分で気づいているように、穴の上にじっととまっていた。
「手を貸してくれたまえ!」と、旅行者は兵士と受刑者とに向って叫び、自分で将校の両足をつかんだ。彼はここで身体を将校の両足に押しつけようとした。兵士と受刑者との二人には、向う側で将校の頭をつかませる。そうすれば、将校はだんだんと針から抜き取られるはずだ。ところが、二人はやってくる決心がつかないでいる。受刑者はまったくよそを向いている。旅行者は二人のほうへ出向いていき、二人を力ずくで将校の頭のところへつれてこなければならなかった。このときに旅行者はほとんど意に反して死体の顔を見た。まだ生きていたときとそっくりそのままだった。あのかならず表われるといっていた解脱《げだつ》の表情の徴候は発見されなかった。ほかのすべての者がこの機械に寝かされて見出したものを、将校は見出さなかったのだった。唇は固くつぐまれていた。眼は開いたままで、生きているような表情を浮かべ、まなざしはおだやかで、確信にみちていた。額には大きな鉄のみ[#「のみ」に傍点]の尖端が突きささっていた。
 旅行者が兵士と受刑者とを従えて流刑地のはずれにある何軒かの家のところにきたとき、兵士はその一軒を指さして、いった。
「これが茶店です」
 一軒の建物の階下は、奥行が深く、天井が低くて、四方の壁も天井もすすけきっている洞窟《どうくつ》のような部屋だった。その部屋は、街道に面して間口が開け放しになっている。この茶店は、司令部の宮殿風の豪華な建物を除いてみなひどく荒廃しているこの流刑地の普通の家とほとんど区別がないにもかかわらず、それでも旅行者に歴史的記念物という印象を与えた。そして、彼は以前の栄えた時代の権勢を感じたのだった。彼は近よっていき、二人の同伴者を従えたまま、茶店の前の街道に並んでいる人のいないテーブルのあいだを通っていった。建物の内部から吹いてくる冷たくてかびくさい空気を吸った。
「あの旧司令官はここに埋められているんです」と、兵士がいった。「基地の埋め場所は坊さんによって拒まれました。しばらくのあいだ、きまらなかったのですが、とうとうここに埋葬されました。そのことについては将校はきっとあなたに何もお話ししなかったでしょう。なにしろ、あの人はむろんそのことをいちばん恥じていましたからね。あの人は何度か、夜なかにあの旧司令官の死体を掘り出そうとしましたが、そのたびに追い払われたんです」
「その墓はどこにあるんだ?」と、兵士のいうことを信じることができなかった旅行者は、たずねてみた。すぐに、兵士と受刑者との二人は旅行者の前を走っていき、両手をさしのべながら墓のあるはずの方角を示した。二人は旅行者を奥の壁のところへつれていった。そこには、二、三のテーブルに客が坐っていた。港の人足たちらしく、顔いちめんにしっとりと黒い短かな髯を生やし、強そうな男たちだった。みんな上衣は着ていず、シャツはぼろぼろである。貧しくていやしい連中であった。旅行者が近づいていったとき、何人かの者は立ち上がり、壁に身体を押しつけ、彼のほうを見ていた。
「外国人だ」と、旅行者のまわりでささやく声がした。「墓を見ようっていうんだよ」
 人足たちはテーブルの一つをわきへ押しやった。そのテーブルの下にはほんとうに墓石があった。粗末な石で、テーブルの下に隠されることができるほど低い。ひどく小さい文字で書かれた墓銘がついている。旅行者はそれを読むためにひざまずかなければならなかった。それにはこう書いてあった。
「ここに旧司令官が眠る。今、姓名を記すことのできぬ彼の一派の者たちは、彼のために墓を掘り、石を置いた。ある年数のあとに、司令官はよみがえり、この家から一派の者たちをひきいて流刑地を奪還する、という予言がある。信じて、待て」
 旅行者がそれを読み終わり、立ち上がったとき、自分のまわりに男たちが立ち、ほほえんでいるのを見た。自分たちもお前といっしょに墓銘を読んだが、滑稽なものだと思ったし、お前も自分たちの意見に賛成するようにすすめる、といわんばかりだ。旅行者はそれに気づかぬようによそおって、何枚かの貨幣を男たちにわけ与え、さらにテーブルが墓の上に押しもどされるまで待ったあとで、茶店を出て、港へいった。
 兵士と受刑者とは茶店で知合いの者たちを見つけ、彼らに引きとめられた。だが、すぐ彼らから別れてきたにちがいない。というのは、旅行者がボートに通じる長い階段のなかほどまで下りていったときには、二人は彼のあとを追って走ってきたのだった。二人は最後の瞬間に旅行者に頼みこんで、無理にも自分たちをつれていかせるつもりらしい。旅行者が階段の下で一人の船頭と汽船への渡し舟の交渉をしているあいだに、二人はすごい勢いで階段をかけ下りてきた。無言のままだった。彼らはあえて叫ぼうとはしなかった。ところが、二人が階段の下に着いたときには、旅行者はもうボートに乗り、船頭がちょうど岸からボートを離したところだった。二人はまだボートへ跳び移ることができたかもしれない。ところが、旅行者は結び目のある重い一本のロープを舟底から取り上げ、それで追ってくる二人をおどかし、それによって二人が跳び移るのをはばんだのだった。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
入力:kompass
校正:青空文庫
2010年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

原田義人

変身 DIE VERWANDLUNG フランツ・カフカ Franz Kafka ——-原田義人訳

1

 ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。彼は甲殻のように固い背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓形のすじにわかれてこんもりと盛り上がっている自分の茶色の腹が見えた。腹の盛り上がりの上には、かけぶとんがすっかりずり落ちそうになって、まだやっともちこたえていた。ふだんの大きさに比べると情けないくらいかぼそいたくさんの足が自分の眼の前にしょんぼりと光っていた。
「おれはどうしたのだろう?」と、彼は思った。夢ではなかった。自分の部屋、少し小さすぎるがまともな部屋が、よく知っている四つの壁のあいだにあった。テーブルの上には布地の見本が包みをといて拡げられていたが――ザムザは旅廻りのセールスマンだった――、そのテーブルの上方の壁には写真がかかっている。それは彼がついさきごろあるグラフ雑誌から切り取り、きれいな金ぶちの額に入れたものだった。写っているのは一人の婦人で、毛皮の帽子と毛皮のえり巻とをつけ、身体をきちんと起こし、肘《ひじ》まですっぽり隠れてしまう重そうな毛皮のマフを、見る者のほうに向ってかかげていた。
 グレゴールの視線はつぎに窓へ向けられた。陰鬱《いんうつ》な天気は――雨だれが窓わくのブリキを打っている音が聞こえた――彼をすっかり憂鬱にした。「もう少し眠りつづけて、ばかばかしいことはみんな忘れてしまったら、どうだろう」と、考えたが、全然そうはいかなかった。というのは、彼は右下で眠る習慣だったが、この今の状態ではそういう姿勢を取ることはできない。いくら力をこめて右下になろうとしても、いつでも仰向《あおむ》けの姿勢にもどってしまうのだ。百回もそれを試み、両眼を閉じて自分のもぞもぞ動いているたくさんの脚を見ないでもすむようにしていたが、わき腹にこれまでまだ感じたことのないような軽い鈍痛を感じ始めたときに、やっとそんなことをやるのはやめた。
「ああ、なんという骨の折れる職業をおれは選んでしまったんだろう」と、彼は思った。「毎日、毎日、旅に出ているのだ。自分の土地での本来の商売におけるよりも、商売上の神経の疲れはずっと大きいし、その上、旅の苦労というものがかかっている。汽車の乗換え連絡、不規則で粗末な食事、たえず相手が変って長つづきせず、けっして心からうちとけ合うようなことのない人づき合い。まったくいまいましいことだ!」彼は腹の上に軽いかゆみを感じ、頭をもっとよくもたげることができるように仰向けのまま身体をゆっくりとベッドの柱のほうへずらせ、身体のかゆい場所を見つけた。その場所は小さな白い斑点だけに被《おお》われていて、その斑点が何であるのか判断を下すことはできなかった。そこで、一本の脚でその場所にさわろうとしたが、すぐに脚を引っこめた。さわったら、身体に寒気がしたのだ。
 彼はまた以前の姿勢にもどった。「この早起きというのは」と、彼は思った、「人間をまったく薄ばかにしてしまうのだ。人間は眠りをもたなければならない。ほかのセールスマンたちはまるでハレムの女たちのような生活をしている。たとえばおれがまだ午前中に宿へもどってきて、取ってきた注文を書きとめようとすると、やっとあの連中は朝食のテーブルについているところだ。そんなことをやったらおれの店主がなんていうか、見たいものだ。おれはすぐさまくびになってしまうだろう。ところで、そんなことをやるのがおれにとってあんまりいいことでないかどうか、だれにだってわかりはしない。両親のためにそんなことをひかえているのでなければ、もうとっくに辞職してしまっているだろう。店主の前に歩み出て、思うことを腹の底からぶちまけてやったことだろう。そうしたら店主は驚いて机から落っこちてしまうにちがいなかったのだ! 机の上に腰かけて、高いところから店員と話をするというのも、奇妙なやりかただ。おまけに店員のほうは、店主の耳が遠いときているので近くによっていかなければならないのだ。まあ、希望はまだすっかり捨てられてしまったわけではない。両親の借金をすっかり店主に払うだけの金を集めたら――まだ五、六年はかかるだろうが――きっとそれをやってみせる。とはいっても、今のところはまず起きなければならない。おれの汽車は五時に出るのだ」
 そして、たんすの上でカチカチ鳴っている目ざまし時計のほうに眼をやった。「しまった!」と、彼は思った。もう六時半で、針は落ちつき払って進んでいく。半もすぎて、もう四十五分に近づいている。目ざましが鳴らなかったのだろうか。ベッドから見ても、きちんと四時に合わせてあったことがわかった。きっと鳴ったのだ。だが、あの部屋の家具をゆさぶるようなベルの音を安らかに聞きのがして眠っていたなんていうことがありうるだろうか。いや、けっして安らかに眠っていたわけではないが、おそらくそれだけにいっそうぐっすり眠っていたのだ。だが、今はどうしたらいいのだろう。つぎの汽車は七時に出る。その汽車に間に合うためには、気ちがいのように急がなければならないだろう。そして、商品見本はまだ包装してないし、彼自身がそれほど気分がすぐれないし、活溌な感じもしないのだ。そして、たとい汽車に間に合ったとしてさえ、店主の雷《かみなり》は避けることができないのだ。というのは、店の小使は五時の汽車に彼が乗るものと思って待っていて、彼が遅れたことをとっくに報告してしまっているはずだ。あの男は店主の手先で、背骨もなければ分別もない。ところで、病気だといって届け出たらどうだろうか。だが、そんなことをしたら、ひどく面倒になるし、疑いもかかるだろう。なにしろ、グレゴールは五年間の勤めのあいだにまだ一度だって病気になったことがないのだ。きっと店主は健康保険医をつれてやってきて、両親に向ってなまけ者の息子のことを非難し、どんなに異論を申し立てても、保険医を引合いに出してそれをさえぎってしまうことだろう。その医師にとっては、およそまったく健康なくせに仕事の嫌いな人間たちというものしかいないのだ。それに、今の場合、医者の考えもそれほどまちがっているだろうか。事実、グレゴールは、長く眠ったのにほんとうに眠気が残っていることを別にすれば、まったく身体の調子がいい気がするし、とくに強い空腹さえ感じているのだった。
 ベッドを離れる決心をすることができないままに、そうしたすべてのことをひどく急いで考えていると――ちょうど目ざまし時計が六時四十分を打った――、彼のベッドの頭のほうにあるドアをノックする音がした。
「グレゴール」と、その声は叫んだ――母親だった――「六時四十五分よ。出かけるつもりじゃないのかい?」
 ああ、あのやさしい声! グレゴールは返事をする自分の声を聞いたとき、ぎくりとした。それはたしかにまぎれもなく彼の以前の声であったが、そのなかに下のほうから、抑えることのできない苦しそうなぴいぴいいう音がまじっていた。その音は、明らかにただ最初の瞬間においてだけは言葉の明瞭さを保たせておくのだが、その余韻《よいん》をすっかり破壊してしまって、正しく聞き取ったかどうかわからないようにするほどだった。グレゴールはくわしく返事して、すべてを説明しようと思っていたのだったが、こうした事情では、「ええ、わかりましたよ、ありがとう、お母さん、もう起きますよ」と、いうにとどめた。木のドアが距てているため、グレゴールの声の変化は外ではきっと気づかれなかったのだろう。というのは、母親はこの説明で満足して、足をひきずって立ち去った。ところが、このちょっとした対話によって、グレゴールが期待に反してまだ家にいるのだ、ということが家族のほかの者たちの注意をひいてしまった。そして、早くも父親がわきのドアを、軽くではあるが拳《こぶし》でノックした。
「グレゴール、グレゴール」と、父は叫んだ。「いったい、どうしたのだ?」そして、ちょっとたってから、もっと低い声でもう一度注意するのだった。「グレゴール! グレゴール!」
 もう一つのわきのドアでは、妹が低い声で嘆くようにいった。
「グレゴール、どうしたの? かげんが悪いの? 何か欲しいものはないの?」
 グレゴールは両方に向っていった。
「もうすんだよ」
 そして、発音に大いに気を使い、一つ一つの言葉のあいだに長い間《ま》をはさむことによっていっさいの目立つ点を取り除こうと努めた。父親はそれを聞いて朝食へもどっていったが、妹はささやくのだった。
「グレゴール、開けてちょうだいな。ね、お願い」
 だが、グレゴールはドアを開けることなど考えてもみず、旅に出る習慣から身につけるようになった家でもすべてのドアに夜のあいだ鍵《かぎ》をかけておくという用心をよかったと思った。
 はじめは、落ちつき払って、だれにもじゃまされずに起き上がり、服を着て、まず何よりさきに朝食を取ろう、それから、はじめてそれからのことを考えようと思ったのだった。というのは、ベッドのなかにいたのでは、あれこれ考えたところで理にかなった結論に到達することはあるまい、とはっきりと気づいたのだった。これまでしょっちゅうベッドのなかで、おそらくはまずい寝かたをしたためだろうが、そのために起った軽い痛みを感じた、ということを彼は思い出した。その痛みは、やがて起き上がってみるとまったくの空想だとわかったのだった。そして、自分のきょうのさまざまな考えごともだんだん消え去ることだろう、と大いに期待した。声の変化は旅廻りのセールスマンの職業病であるひどい風邪の前ぶれにすぎないのだ、ということを彼は少しも疑わなかった。
 かけぶとんをはねのけるのは、まったく簡単だった。ただちょっと腹をふくらませるだけで、ふとんは自然とずり落ちた。だが、そのあとが面倒なことになった。その理由はことに彼の身体の幅がひどく広かったからだ。身体を起こすためには、手足を使うはずだった。ところが、人間の手足のかわりにたくさんの小さな脚がついていて、それがたえずひどくちがった動きかたをして、おまけにそれらを思うように動かすことができない。やっと一本の脚を曲げようとすると、最初に起こることは、自分の身体がのびてしまうことだった。やっとその脚で自分の思うようにすることに成功したかと思うと、そのあいだにほかのすべての脚がまるで解放されたかのように、なんとも工合の悪い大さわぎをやるのだった。
「ともかくベッドのなかに意味もなくとどまっていないことだ」と、グレゴールは自分に言い聞かせた。
 まず彼は身体の下の部分を動かしてベッドから出ようとしたが、まだ自分で見てもいないし、正しい想像をめぐらすこともできないでいるこの下半身の部分は、ひどく動かすことがむずかしいとわかった。動作はのろのろ進むだけだった。とうとう、まるで半狂乱になって、力をこめ、むちゃくちゃに身体を前へ突き出したが、方角を誤ってしまい、足のほうのベッド柱にはげしくぶつかり、そのとき感じた痛みで、まさに自分の身体の下の部分が今のところいちばん敏感な部分なのだ、ということがわかった。
 そこで、まず最初に上体をベッドの外に出そうと試み、用心深く頭をベッドのへりのほうに向けた。これは思ったとおりうまくいき、身体の幅が広く、体重も重いにもかかわらず、ついに身体全体が頭の転回にのろのろとついて廻った。だが、頭をとうとうベッドの外の宙に浮かべてみると、このやりかたでさらに前へ乗り出していくことが不安になった。というのは、こうやって最後に身体を下へ落してしまうと、頭を傷つけまいとするならば奇蹟でも起こらなければできるものではない。そして、とくに今はどんなことがあっても正気を失うわけにはいかないのだ。そこで、むしろベッドにとどまっていようと心にきめた。
 だが、また同じように骨を折って、溜息をもらしながら、さっきのように身体を横たえ、またもや自分のたくさんの小さな脚がおそらくさっきよりもいっそうひどく争い合っているのをながめ、この勝手な争いに静けさと秩序とをもちこむことが不可能だとわかったときに、もうベッドのなかにとどまっていることはできない、たといベッドから出られるという希望がほんのちょっとしかないにしても、いっさいを犠牲にして出ようと試みるのがいちばん賢明なやりかたなのだ、とまた自分に言い聞かせた、だが同時に、やけになって決心するよりも冷静に、きわめて冷静に思いめぐらすほうがずっといいのだ、とときどき思い出すことを忘れなかった。そんなことを考えている瞬間に、眼をできるだけ鋭く窓のほうへ向けたが、狭い通りのむこう側さえ見えなくしている朝もや[#「もや」に傍点]をながめていても、残念ながらほとんど確信も元気も取りもどすわけにはいかなかった。
「もう七時だ」と、目ざましが新たに打つのを聞いて、彼は自分に言い聞かせた。「もう七時だというのに、まだこんな霧だ」
 そして、完全に静かにしていればおそらくほんとうのあたりまえの状態がもどってくるのではないかといわんばかりに、しばらくのあいだ、静かに、微かな息づかいをしながら、横たわっていた。
 だが、やがて自分に言い聞かせた。「七時十五分を打つ前に、おれはどうあってもベッドを完全に離れてしまっていなければならないぞ。それにまた、それまでには店からおれのことをききにだれかがやってくるだろう。店は七時前に開けられるんだから」そして、今度は、身体全体を完全にむらなく横へゆすってベッドから出る動作に取りかかった。もしこんなふうにしてベッドから落ちるならば、頭は落ちるときにぐっと起こしておこうと思うから、傷つかないですむ見込みがある。背中は固いようだ。だから、絨毯《じゅうたん》の上に落ちたときに、背中にけがをすることはきっとないだろう。落ちるときに立てるにちがいない大きな物音のことを考えると、それがいちばん気にかかった。その音は、どのドアのむこうでも、驚きとまではいかないにしても、心配をひき起こすことだろう。だが、思いきってやらなければならないのだ。
 グレゴールがすでに半分ベッドから乗り出したとき――この新しいやりかたは、骨の折れる仕事というよりもむしろ遊びのようなもので、いつまでもただ断続的に身体をゆすってさえいればよかった――、自分を助けにやってきてくれる者がいれば万事はどんなに簡単にすむだろう、という考えがふと頭に浮かんだ。力の強い者が二人いれば――彼は父親と女中とのことを考えた――それだけで完全に十分なのだ。その二人がただ腕を彼の円味をおびた背中の下にさし入れ、そうやって彼をベッドからはぎ取るように離し、この荷物をもったまま身体をこごめ、つぎに彼が床の上で寝返りを打つのを用心深く待っていてくれさえすればよいのだ。床の上でならおそらくこれらのたくさんの脚も存在意義があることになるだろう。ところで、すべてのドアに鍵がかかっていることはまったく別問題としても、ほんとうに助けを求めるべきだろうか。まったく苦境にあるにもかかわらず、彼はこう考えると微笑を抑えることができなかった。
 この作業は進行して、もっと強く身体をゆすればもうほとんど身体の均衡が保てないというところにまできていた。もうすぐ最後の決断をしなければならない。というのは、あと五分で七時十五分になる。――そのとき、玄関でベルが鳴った。「店からだれかがきたんだ」と、彼は自分に言い聞かせ、ほとんど身体がこわばる思いがした。一方、小さな脚のほうはただそれだけせわしげにばたばたするのだった。一瞬、あたりはしんとしていた。「ドアを開けないのだな」と、グレゴールは何かばかげた期待にとらわれながら思った。だが、むろんすぐいつものように女中がしっかりした足取りでドアへ出ていき、ドアを開けた。グレゴールはただ訪問者の最初の挨拶を聞いただけで、それがだれか、早くもわかった。――それは支配人自身だった。なぜグレゴールだけが、ほんのちょっと遅刻しただけですぐ最大の疑いをかけるような商会に勤めるように運命づけられたのだろうか。いったい使用人のすべてが一人の除外もなくやくざなのだろうか。たとい朝のたった一、二時間は仕事のために使わなかったにせよ、良心の苛責《かしゃく》のために気ちがいじみた有様になって、まさにそのためにベッドを離れられないような忠実で誠実な人間が、使用人たちのあいだにはいないというのだろうか。小僧にききにこさせるだけでほんとうに十分ではないだろうか――そもそもこうやって様子をたずねることが必要だとしてのことだが――。支配人が自身でやってこなければならないのだろうか。そして、支配人がやってくることによって、この疑わしい件の調査はただ支配人の分別にだけしかまかせられないのだ、ということを罪のない家族全体に見せつけられなくてはならないのか。ほんとうに決心がついたためというよりも、むしろこうしたもの思いによって置かれた興奮のために、グレゴールは力いっぱいにベッドから跳《と》び下りた。どすんと大きな音がしたが、それほどひどい物音ではなかった。絨毯がしいてあるため、墜落の力は少しは弱められたし、背中もグレゴールが考えていたよりは弾力があった。そこでそう際立って大きな鈍い物音はしなかった。ただ、頭は十分用心してしっかりともたげていなかったので打ちつけてしまった。彼は怒りと痛みとのあまり頭を廻して、絨毯にこすった。
「あの部屋のなかで何か落ちる音がしましたね」と左側の隣室で支配人がいった。グレゴールは、けさ自分に起ったようなことがいつか支配人にも起こらないだろうか、と想像しようとした。そんなことが起こる可能性はみとめないわけにはいかないのだ。だが、まるでグレゴールのこんな問いに乱暴に答えるかのように、隣室の支配人は今度は一、二歩しっかりした足取りで歩いて、彼のエナメル靴をきゅうきゅう鳴らした。グレゴールに知らせるため、右側の隣室からは妹のささやく声がした。
「グレゴール、支配人がきているのよ」
「わかっているよ」と、グレゴールはつぶやいた。しかし、妹が聞くことができるほどにあえて声を高めようとはしなかった。
「グレゴール」と、今度は父親が左側の隣室からいった。「支配人さんがおいでになって、お前はなぜ朝の汽車でたたなかったか、ときいておられる。なんと申し上げたらいいのか、わしらにはわからん。それに、支配人さんはお前とじかに話したいといっておられるよ。だから、ドアを開けてくれ。部屋が取り散らしてあることはお許し下さるさ」
「おはよう、ザムザ君」と、父親の言葉にはさんで支配人は親しげに叫んだ。
「あの子は身体の工合がよくないんです」と、母親は父親がまだドアのところでしゃべっているあいだに支配人に向っていった。「あの子は身体の工合がよくないんです。ほんとうなんです、支配人さん。そうでなければどうしてグレゴールが汽車に乗り遅れたりするでしょう! あの子は仕事のこと以外は頭にないんですもの。夜分にちっとも外へ出かけないことを、わたしはすでに腹を立てているくらいなんです。これで一週間も町にいるのに、あれは毎晩家にこもりきりでした。わたしたちのテーブルに坐って、静かに新聞を読むとか、汽車の時間表を調べるとかしているんです。糸のこ細工でもやっていれば、あの子にはもう気ばらしなんですからね。たとえばこのあいだも二晩か三晩かかって小さな額ぶちをつくりました。どんなにうまくできたか、ごらんになれば驚かれるでしょうよ。あの部屋にかけてあります。グレゴールがドアを開けましたら、すぐごらんになりますよ。ともかく、あなたがおいで下すって、ほんとによかったとわたしは思っております、支配人さん。わたしたちだけではグレゴールにドアを開けさせるわけにはいかなかったでしょう。あの子はとても頑固者でしてねえ。でも、朝にはなんでもないと申しておりましたが、あの子はきっと工合が悪いのですよ」
「すぐいきますよ」と、グレゴールはゆっくりと用心深くいったが、むこうの対話をひとことでも聞きもらすまいとして、身動きをしなかった。
「奥さん、私にもそれ以外には考えようがありませんね」と、支配人はいった。「たいしたことでないといいんですが。とはいえ、一面では、われわれ商売人というものは、幸か不幸かはどちらでもいいのですが、少しぐらいかげんが悪いなんていうのは、商売のことを考えるとあっさり切り抜けてしまわなければならぬことがしょっちゅうありましてね」
「では、支配人さんに入っていただいてかまわないね」と、いらいらした父親がたずね、ふたたびドアをノックした。
「いけません」と、グレゴールはいった。左側の隣室では気まずい沈黙がおとずれた。右側の隣室では妹がしくしく泣き始めた。
 なぜ妹はほかの連中のところへいかないのだろう。きっと今やっとベッドから出たばかりで、まだ服を着始めていなかったのだろう。それに、いったいなぜ泣くのだろう。おれが起きず、支配人を部屋へ入れないからか。おれが地位を失う危険があり、そうなると店主が古い借金のことをもち出して、またもや両親を追求するからだろうか。しかし、そんなことは今のところは不必要な心配というものだ。まだグレゴールはここにいて、自分の家族を見捨てようなどとは、ほんの少しだって考えてはいないのだ。今のところ絨毯の上にのうのうと寝ているし、彼の状態を知った者ならばだれだって本気で支配人を部屋に入れろなどと要求するはずはないのだ。だが、あとになれば適当な口実がたやすく見つかるはずのこんなちょっとした無礼なふるまいのために、グレゴールがすぐに店から追い払われるなどということはありえない。そして、泣いたり説得しようとしたりして支配人の気を悪くさせるよりは、今は彼をそっとしておくほうがずっと賢明なやりかただ、というようにグレゴールには思われた。だが、ほかの人びとを当惑させ、彼らのふるまいがむりもないと思わせたのは、まさにこのグレゴールの決心のつかない態度だった。
「ザムザ君」と、支配人は今度は声を高めて叫んだ。「いったい、どうしたんだね? 君は自分の部屋にバリケードを築いて閉じこもり、ただ、イエスとかノーとだけしか返事をしない。ご両親にいらぬ大変なご心配をかけ、――これはただついでにいうんだが――君の商売上の義務をまったくあきれはてたやりかたでおこたっている。君のご両親と社長とにかわって話しているんだが、どうかまじめになってすぐはっきりした説明をしてもらいたい。私は驚いているよ、まったく。君という人は冷静な分別ある人間だと思っていたが、急に奇妙な気まぐれを見せつけてやろうと思い始めたようだね。社長はけさ、君の欠勤の理由はあれだろうとほのめかして聞かせてくれはしたが――つまり最近君にまかせた回収金のことだ――、私はこの説明が当っているはずはない、とほんとうにほとんど誓いを立てんばかりにして取りなしておいた。ところが、こうやって君の理解しがたい頑固さを見せつけられては、ほんの少しでも君の味方をする気にはまったくなれないよ。それに、君の地位はけっしてそれほど安定したものじゃない。ほんとうは君にこうしたことを二人きりでいうつもりだったが、君がこうやって無益に私に手間取らせるんだから、ご両親にも聞かれていけないとは思われなくなった。つまり君の最近の成績はひどく不満足なものだった。今はかくべつ商売がうまくいく季節ではない、ということはわれわれもみとめる。しかし、全然商売ができんなんていう季節はあるものではないよ。ザムザ君、そんなものはあるはずがないよ」
「でも、支配人さん」と、グレゴールはわれを忘れて叫び、興奮のあまりほかのすべては忘れてしまった。「すぐ、今すぐ開けますよ。ちょっと身体の工合が悪いんです。目まいがしたんです。それで起きることができませんでした。今もまだベッドに寝ているんです。でも、もうすっかりさっぱりしました。今、ベッドから降りるところです。ちょっとご辛抱下さい! まだ思ったほど調子がよくありません。でも、もうなおりました。病気というものはなんて急に人間を襲ってくるものでしょう! ゆうべはまだまったく調子がよかったんです。両親がよく知っています。でも、もっと正確にいうと、ゆうべすでにちょっとした予感があったんです。人が見れば、きっと私のそんな様子に気がついたはずです。なぜ店に知らせておかなかったんでしょう! でも、病気なんて家で寝なくたってなおるだろう、といつでも思っているものですから。支配人さん! 両親をいたわってやって下さい! あなたが今、私におっしゃっている非難は、みんないわれがありません。これまでにそんなことは一ことだっていわれたことはありません。あなたはおそらく、私がお送りした最近の注文書類をまだ読んではおられないのでしょう。ともあれ、これから八時の汽車で商用の旅に出かけます。一、二時間休んだので、元気になりました。どうかお引き取り下さい、支配人さん。私はすぐ自分で店へいきます。そして、すみませんがどうか社長にこのことを申し上げて下さい」
 そして、グレゴールはこうしたことを急いでしゃべりまくり、自分が何をいっているのかほとんどわからなかったが、きっとベッドですでに習いおぼえた練習のおかげだろうか、たやすくたんすへ近づいて、それにすがって起き上がろうとした。ほんとうにドアを開け、ほんとうに姿を見せて、支配人と話そうと思ったのだった。今こんなに自分に会いたがっている人たちが、自分を見てなんというか、彼はそれを知りたくてたまらなかった。もし彼らがびっくりしたならば、もうグレゴールには責任がないわけで、落ちついていることができる。ところで、もしみんなが平気でいるならば、彼としても興奮する理由はないし、急げば八時にはほんとうに駅へいけるはずだ。最初、彼は二、三回すべすべしたたんすから滑り落ちたが、ついに最後の一跳びをやって立ち上がった。下半身の痛みは燃えるように痛んだが、もう全然気にもかけなかった。今度は、近くにあった椅子のもたれに身体を倒し、小さな脚を使ってそのへりにしがみついた。それによって自分を抑えることができたので、しゃべることもやめた。というのは、今では支配人のいうことに耳を傾けることができるようになっていた。
「息子さんのいわれることが一ことでもわかりましたか」と、支配人は両親にたずねた。「われわれをばかにしているんじゃないでしょうね?」
「とんでもないことです」と、母親はもう泣きながら叫んだ。「あの子はきっと大病なんです。それなのにわたしたちはあの子を苦しめたりして。グレーテ! グレーテ!」と、母親は大声でいった。
「なあに?」と、妹が別な側から叫んだ。両方はグレゴールの部屋越しに言葉を交わしていたのだ。
「すぐお医者様のところへいっておくれ。グレゴールが病気なんだよ。グレゴールが今しゃべったのを聞いたかい?」
「ありゃあ、まるでけものの声だった」と、支配人がいったが、その言葉は母親の叫び声に比べると目立って低かった。
「アンナ! アンナ!」と、父親は玄関の間越しに台所へ向って叫び、手をたたいた。「すぐ鍵屋を呼んできてくれ!」
 すぐさま、二人の娘はスカートの音を立てながら玄関の間をかけ抜けていった――いったい妹はどうやってあんなに早く服を着たのだろう――。そして、玄関のドアをさっと開けた。ドアの閉じる音は全然聞こえなかった。二人はきっとドアを開け放しにしていったのだ。大きな不幸が起った家ではそうしたことはよくあるものだ。
 だが、グレゴールはずっと平静になっていた。それでは、人びとはもう彼が何をいっているのかわからなかったのだ。自分の言葉ははっきりと、さっきよりもはっきりとしているように思えたのだが、おそらくそれは耳が慣れたためなのだろう。それにしても、ともかく今はもう、彼の様子が普通でないということはみんなも信じており、彼を助けるつもりでいるのだ。最初の処置がとられたときの確信と冷静さとが、彼の気持をよくした。彼はまた人間の仲間に入れられたと感じ、医師と鍵屋とをきちんと区別することなしに、この両者からすばらしく驚くべき成果を期待した。さし迫っている決定的な話合いのためにできるだけはっきりした声を準備しておこうと思って、少し咳払いしたが、とはいえすっかり音を抑えてやるように努力はした。おそらくこの物音も人間の咳払いとはちがったふうに響くだろうと思われたからだった。彼自身、それを判断できるという自信はもうなくなっていた。そのあいだに、隣室はすっかり静まり返っていた。おそらく両親は支配人といっしょにテーブルのところに坐り、ひそひそ話しているのだろう。それとも、みんなドアに身をよせて、聞き耳を立てているのかもしれない。
 グレゴールは椅子といっしょにゆっくりとドアへ近づいていき、そこで椅子を放し、ドアに身体をぶつけて、それにすがってまっすぐに立ち上がった――小さな足の裏のふくらみには少しねばるものがついていたからだ。――そして、そこで一瞬のあいだ、これまで骨の折れた動作の休憩をした。それから、鍵穴にはまっている鍵を口で廻す仕事に取りかかった。残念なことに、歯らしいものがないようだった――なんですぐ鍵をつかんだらいいのだろうか――。ところが、そのかわり顎《あご》はむろんひどく頑丈《がんじょう》で、その助けを借りて実際に鍵を動かすことができたが、疑いもなく身体のどこかを傷つけてしまったことには気づかなかった。傷ついたというのは、褐色の液体が口から流れ出し、鍵の上を流れて床へしたたり落ちたのだった。
「さあ、あの音が聞こえませんか」と、隣室の支配人がいった。「鍵を廻していますよ」
 その言葉は、グレゴールにとっては大いに元気づけになった。だが、みんなが彼に声援してくれたっていいはずなのだ。父親も母親もそうだ。「グレゴール、しっかり。頑張って! 鍵にしっかりとつかまれよ」と、両親も叫んでくれたっていいはずだ。そして、みんなが自分の努力を緊張して見守っているのだ、と思い描きながら、できるだけの力を振りしぼって気が遠くなるほど鍵にかみついた。鍵の回転が進行するにつれ、彼は鍵穴のまわりを踊るようにして廻っていった。今はただ口だけで身体をまっすぐに立てていた。そして、必要に応じて鍵にぶらさがったり、つぎにまた自分の身体の重みを全部かけてそれを押し下げたりした。とうとう開いた鍵のぱちりという澄んだ音が、夢中だったグレゴールをはっきり目ざませた。ほっと息をつきながら、彼は自分に言い聞かせた。
「これなら鍵屋はいらなかったわけだ」
 そして、ドアをすっかり開けようとして、ドアの取手の上に頭をのせた。
 彼はこんなふうにしてドアを開けなければならなかったので、ほんとうはドアがもうかなり開いたのに、彼自身の姿はまだ外からは見えなかった。まずゆっくりとドア板のまわりを伝わって廻っていかなければならなかった。しかも、部屋へ入る前にどさりと仰向けに落ちまいと思うならば、用心してやらなければならなかった。彼はまだその困難な動作にかかりきりになっていて、ほかのことに注意を向けるひまがなかったが、そのとき早くも支配人が声高く「おお!」と叫ぶのを聞いた――まるで風がさわぐときのように響いた――。そこで支配人の姿も見たが、ドアのいちばん近くにいた支配人はぽかりと開けた口に手をあてて、まるで目に見えない一定の強さを保った力に追い払われるように、ゆっくりとあとしざりしていった。母親は――支配人がいるにもかかわらず、ゆうべからといてある逆立った髪のままでそこに立っていたが――まず両手を合わせて父親を見つめ、つぎにグレゴールのほうに二歩進み、身体のまわりにぱっと拡がったスカートのまんなかにへなへなと坐りこんでしまった。顔は胸へ向ってうなだれており、まったく見えなかった。父親は敵意をこめた表情で拳《こぶし》を固め、まるでグレゴールを彼の部屋へ突きもどそうとするようだった。そして、落ちつかぬ様子で居間を見廻し、つぎに両手で眼をおおうと、泣き出した。そこで父親の頑強そうな大きな胸がうちふるえるのだった。
 グレゴールはむこうの部屋へは入っていかず、しっかりかけ金をかけてあるドア板に内側からよりかかっていたので、彼の身体は半分しか見えず、その上にのっている斜めにかしげた頭が見えるのだった。彼はその頭でほかの人びとのほうをのぞいていた。そのあいだに、あたりは前よりもずっと明るくなっていた。通りのむこう側には、向かい合って立っている限りなく長い黒灰色の建物の一部分が、はっきりと見えていた――病院なのだ――。その建物の前面は規則正しく並んだ窓によってぽかりぽかりと孔《あな》をあけられていた。雨はまだ降っていたが、一つ一つ見わけることのできるほどの大きな雨粒で、地上に落ちるしずくも一つ一つはっきりと見えた。テーブルの上には朝食用の食器がひどくたくさんのっていた。というのは、父親にとっては朝食は一日のいちばん大切な食事で、いろいろな新聞を読みながら何時間でも引き延ばすのだった。ちょうどまむかいの壁には、軍隊時代のグレゴールの写真がかかっている。中尉の服装をして、サーベルに手をかけ、のんきな微笑を浮かべながら、自分の姿勢と軍服とに対して見る者の敬意を要求しているようだ。玄関の間へ通じるドアは開いており、玄関のドアも開いているので、ドアの前のたたきと建物の下へ通じる階段の上のほうとが見えた。
「それでは」と、グレゴールはいったが、自分が冷静さを保っているただ一人の人間なのだということをはっきりと意識していた。「すぐ服を着て、商品見本を荷造りし、出かけることにします。あなたがたは、私を出かけさせるつもりでしょうね? ところで、支配人さん、ごらんのとおり、私は頑固じゃありませんし、仕事は好きなんです。商用旅行は楽じゃありませんが、旅行しないでは生きることはできないでしょうよ。ところで、支配人さん、どちらへいらっしゃいますか? 店へですか? 万事をありのままに伝えて下さるでしょうね? だれだって、ちょっとのあいだ働くことができなくなることがありますが、そういうときこそ、それまでの成績を思い出して、そのあとで障害が除かれればきっとそれだけ勤勉に、それだけ精神を集中して働くだろう、ということを考えるべき時なのです。私は実際、社長さんをとてもありがたいと思っています。それはあなたもよくご存じのはずです。一方、両親と妹とのことも心配しています。私は板ばさみになっているわけですが、きっとまた切り抜けるでしょう。今でもむずかしいことになっているのに、もうこれ以上私の立場をむずかしくはしないで下さい。店でも私の味方になって下さいませんか。旅廻りのセールスマンなんて好かれません。それは私にもよくわかっています。セールスマンはしこたまもうけて、それでいい暮しをやっている、と考えられているんです。そして、現実の姿もこうした偏見を改めるようにうながすものではないことも、私にはわかっています。でも、支配人さん、あなたはほかの店員たちよりも事情をよく見抜いておられます。いや、それどころか、ないしょの話ですが、社長自身よりもよく見抜いておられるんです。社長は事業主としての立場があるため、判断を下す場合に一人の使用人にとって不利なまちがいを犯すものなんです。あなたもよくご存じのように、ほとんど一年じゅう店の外にいる旅廻りのセールスマンは、かげ口や偶然やいわれのない苦情の犠牲になりやすく、そうしたものを防ぐことはまったくできないんです。というのも、そういうことの多くは全然耳に入ってこず、ただ疲れはてて旅を終えて帰宅したときにだけ、原因なんかもうわからないような悪い結果を自分の身体に感じることができるんですからね。支配人さん、どうかお帰りになる前には、少なくとも私の申し上げたほんの一部分だけでももっともだ、と思って下すっていることを見せて下さるような言葉を一ことおっしゃって下さい」
 だが支配人は、グレゴールの最初の言葉を聞くと早くも身体をそむけ、ただぴくぴく動く肩越しに、唇をそっくり返らしてグレゴールのほうを見返るだけだった。そして、グレゴールがしゃべっているあいだじゅう、一瞬のあいだもじっと立ってはいず、グレゴールから眼をはなさずにドアのほうへ遠ざかっていくのだった。とはいっても、まるでこの部屋を出ていってはならないという秘密の命令でもあるかのように、急がずにじわじわと離れていく。彼はついに玄関の間までいった。そして、彼が最後の一足を居間から引き抜いたすばやい動作を見たならば、この人はそのときかかとにやけどをしたのだ、と思いかねないほどだった。で、玄関の間では、右手をぐっと階段のほうにのばし、まるで階段ではこの世のものではない救いが自分を待ってくれているのだ、というような恰好だった。
 支配人をどんなことがあってもこんな気分で立ち去らせてはならない。そんなことをやったら店における自分の地位はきっとぎりぎりまであぶなくなるにちがいない、とグレゴールは見て取った。両親にはそうしたことが彼ほどにはわかっていないのだ。両親は永年のうちに、グレゴールはこの店で一生心配がないのだ、という確信を築き上げてしまっているし、おまけに今は当面の心配ごとにあんまりかかりきりになっているので、先のことなど念頭にはない始末だった。だが、グレゴールはこの先のことを心配したのだ。支配人を引きとめ、なだめ、確信させ、最後には味方にしなければならない。グレゴールと家族との未来はなんといってもそのことにかかっているのだ! ああ、妹がこの場にいてくれたらいいのに! 妹はりこう者だ。さっきも、グレゴールが落ちつき払って仰向けに寝ていたとき、泣いていた。それに、女には甘いあの支配人も、妹にくどかれれば意見を変えるだろう。妹なら玄関のドアを閉め、玄関の間で支配人の驚きを何とかなだめたことだろう。ところが、妹はちょうど居合わせず、グレゴール自身がやらなければならないのだ。そこで、身体を動かす自分の現在の能力がどのくらいあるかもまだ全然わからないということを忘れ、また自分の話はおそらくは今度もきっと相手に聞き取ってはもらえないだろうということも忘れて、ドア板から離れ、開いている戸口を通って身体をずらしていき、支配人のところへいこうとした。支配人はもう玄関の前のたたきにある手すりに滑稽な恰好で両手でしがみついていたのだった。ところが、グレゴールはたちまち、何かつかまるものを求めながら小さな叫びを上げて、たくさんの小さな脚を下にしたままばたりと落ちた。そうなるかならぬときに、彼はこの朝はじめて身体が楽になるのを感じた。たくさんの小さな脚はしっかと床を踏まえていた。それらの脚は完全に思うままに動くのだ。それに気づくと、うれしかった。それらの脚は、彼がいこうとするほうへ彼を運んでいこうとさえするのだった。そこで彼は早くも、いっさいの悩みはもうこれですっかり解消するばかりになったぞ、と思った。だが、その瞬間、抑えた動きのために身体をぶらぶらゆすりながら、母親からいくらも離れていないところで母親とちょうど向かい合って床の上に横たわったときに、まったく放心状態にあるように見えた母親ががばと高く跳《と》び上がり、両腕を大きく拡げ、手の指をみんな開いて、叫んだのだった。
「助けて! どうか助けて!」
 まるでグレゴールをよく見ようとするかのように、頭を下に向けていたのだが、その恰好とは逆に思わず知らずうしろへすたすたと歩いていった。自分のうしろには食事の用意がしてあるテーブルがあることを忘れてしまっていた。そして、テーブルのところへいきつくと、放心したようになって急いでそれに腰を下ろし、自分のすぐそばでひっくり返った大きなコーヒー・ポットからだくだくコーヒーが絨毯《じゅうたん》の上へこぼれ落ちるのにも全然気づかない様子だった。
「お母さん、お母さん」と、グレゴールは低い声で言い、母親のほうを見上げた。一瞬、支配人のことはまったく彼の念頭から去っていた。そのかわり、流れるコーヒーをながめて、何度か顎をぱくぱく動かさないではいられなかった。それを見て母親は改めて大きな叫び声を上げ、テーブルから逃げ出し、かけていった父親の両腕のなかに倒れてしまった。しかし、今はグレゴールには両親をかまっているひまがなかった。支配人はもう玄関の外の階段の上にいた。手すりの上に顎をのせ、最後にこちらのほうへ振り返っている。グレゴールはできるだけ確実に追いつこうとして、スタートを切った。支配人は何か勘づいたにちがいなかった。というのは、彼は何段も一足跳びに降りると、姿を消してしまったのだった。逃げていきながらも、「ひゃあ!」と叫んだ。その叫び声が建物の階段部じゅうに響いた。まずいことに、支配人のこの逃亡は、それまで比較的落ちついていた父親をも混乱させたようだった。父親は自分でも支配人のあとを追っていくとか、あるいは少なくとも支配人のあとを追おうとするグレゴールのじゃまをしないとかいうのではなくて、支配人が帽子とオーバーといっしょに椅子の一つの上に置き忘れていったステッキを右手でつかみ、左手では大きな新聞をテーブルから取って、足を踏み鳴らしながら、ステッキと新聞とを振ってグレゴールを彼の部屋へ追い返すことに取りかかった。グレゴールがいくら頼んでもだめだし、いくら頼んでも父親には聞き入れてもらえなかった。どんなにへりくだって頭を廻してみても、父親はただいよいよ強く足を踏み鳴らすだけだ。むこうでは母親が、寒い天候にもかかわらず窓を一つ開け放ち、身体をのり出して顔を窓からずっと外に出したまま、両手のなかに埋めている。通りと階段部とのあいだには強く吹き抜ける風が立って、窓のカーテンは吹きまくられ、テーブルの上の新聞はがさがさいうし、何枚かの新聞はばらばらになって床の上へ飛ばされた。父親は容赦《ようしゃ》なく追い立て、野蛮人のようにしっしっというのだった。ところで、グレゴールはまだあとしざりの練習は全然していなかったし、また実際、ひどくのろのろとしか進めなかった。グレゴールが向きを変えることさえできたら、すぐにも自分の部屋へいけたことだろうが、手間のかかる方向転換をやって父親をいらいらさせることを恐れたのだった。それに、いつ父親の手ににぎられたステッキで背中か頭かに致命的な一撃をくらうかわからなかった。だが、結局のところ、向きを変えることのほかに残された手だてはなかった。というのは、びっくりしたことに、あとしざりしていくのではけっして方向をきちんと保つことができないとわかったのだった。そこで彼は、たえず不安げに父親のほうに横眼を使いながら、できるだけすばやく向きを変え始めた。しかし、実のところその動作はひどくのろのろとしかできなかった。おそらく父親も彼の善意に気づいたのだろう。というのは、彼の動きのじゃまはしないで、ときどき遠くのほうからステッキの尖端でその方向転換の動作の指揮を取るような恰好をするのだった。父親のあの耐えがたいしっしっという追い立ての声さえなかったら、どんなによかったろう! それを聞くと、グレゴールはまったく度を失ってしまう。もうほとんど向きを変え終ったというのに、いつでもこのしっしっという声に気を取られて、おろおろしてしまい、またもや少しばかりもとの方向へもどってしまうのだ。だが、とうとううまい工合に頭がドアの口まで達したが、ところが彼の身体の幅が広すぎて、すぐには通り抜けられないということがわかった。グレゴールが通るのに十分な通り路をつくるために、もう一方のドア板を開けてやるなどということは、今のような心の状態にある父親にはむろんのことまったく思いつくはずがなかった。父親の思いこんでいることは、ただもうグレゴールをできるだけ早く部屋へいかせるということだけだった。グレゴールはまず立ち上がって、おそらくその恰好でドアを通り抜けることができるのだろうが、そのためにグレゴールがしなければならない廻りくどい準備も、父親はけっして許そうとはしないだろう。おそらく、まるで障害などはないかのように、今は格別にさわぎ立ててグレゴールを追い立てているのだ。グレゴールのうしろで聞こえているのは、もうこの世でただ一人の父親の声のようには響かなかった。そして、ほんとうのところ、もう冗談ごとではなかった。そこでグレゴールは、どうとでもなれという気持になって、ドアに身体を押しこんだ。身体の片側がもち上がり、彼はドア口に斜めに取りついてしまった。一方のわき腹がすっかりすりむけ、白色のドアにいやらしいしみがのこった。やがて彼はすっかりはさまってしまい、ひとりではもう動くこともできなかった。身体の一方の側の脚はみな宙に浮かび上がってしまい、もう一方の側の脚は痛いほど床に押しつけられている。――そのとき、父親がうしろから今はほんとうに助かる強い一突きを彼の身体にくれた。そこで彼は、はげしく血を流しながら、部屋のなかの遠くのほうまですっ飛んでいった。そこでドアがステッキでばたんと閉じられ、やがて、ついにあたりは静かになった。

2

 夕ぐれの薄明りのなかでグレゴールはやっと重苦しい失心したような眠りから目ざめた。きっと、別に妨げがなくともそれほど遅く目ざめるというようなことはなかったろう。というのは、十分に休んだし、眠りたりた感じであった。しかし、すばやい足音と玄関の間に通じるドアを用心深く閉める物音とで目をさまされたように思えるのだった。電気の街燈の光が蒼白く天井と家具の上部とに映っていたが、下にいるグレゴールのまわりは暗かった。今やっとありがたみがわかった。触角でまだ不器用げに探りながら、身体をのろのろとドアのほうへずらしていって、そこで起ったことを見ようとした。身体の左側はただ一本の長い不愉快に引きつる傷口のように思えたが、両側に並んでいる小さな脚で本格的なびっこを引かなければならなかった。それに一本の脚は午前の事件のあいだに重傷を負っていた――ただ一本しか負傷していないことは、ほとんど奇蹟だった――。そして、その脚は死んでうしろへひきずられていた。
 ドアのところでやっと、なんでそこまでおびきよせられていったのか、わかった。それは何か食べものの匂いだった。というのは、そこには甘いミルクを容れた鉢《はち》があり、ミルクのなかには白パンの小さな一切れが浮かんでいた。彼はよろこびのあまりほとんど笑い出すところだった。朝よりも空腹はひどく、すぐ眼の上まで頭をミルクのなかに突っこんだ。だが、間もなく失望して頭を引っこめた。扱いにくい身体の左側のために食べることがむずかしいばかりでなく――そして、身体全体がふうふういいながら協力してやっと食べることができたのだ――、その上、ふだんは彼の好物の飲みものであり、きっと妹がそのために置いてくれたのだろうが、ミルクが全然うまくない。それどころか、ほとんど厭気をおぼえて鉢から身体をそむけ、部屋の中央へはってもどっていった。
 グレゴールがドアのすきまから見ると、居間にはガス燈がともっていた。ふだんはこの時刻には父親が午後に出た新聞を母親に、そしてときどきは妹にも声を張り上げて読んで聞かせるのをつねにしていたのだが、今はまったく物音が聞こえなかった。妹がいつも彼に語ったり、手紙に書いたりしていたこの朗読は、おそらく最近ではおよそすたれてしまっていたようだった。だが、たしかに家は空ではないはずなのに、あたりもすっかり静まり返っていた。「家族はなんと静かな生活を送っているんだろう」と、グレゴールは自分に言い聞かせ、暗闇のなかをじっと見つめながら、自分が両親と妹とにこんなりっぱな住居でこんな生活をさせることができることに大きな誇りをおぼえた。だが、もし今、あらゆる安静や幸福や満足が恐怖で終りを告げることになったらどうだろうか。こんな考えに迷いこんでしまわないように、グレゴールはむしろ動き出し、部屋のなかをあちこちはい廻った。
 長い夜のあいだに、一度は一方の側のドアが、一度はもう一方のが、ちょっとだけ開き、すぐにまた閉められた。だれかがきっと部屋のなかへ入る用事があったにちがいないのだが、それにしろためらいもあまりに大きかったのだ。そこでグレゴールは居間へ通じるドアのすぐそばにとまっていて、ためらっている訪問者を部屋のなかへ入れるか、あるいは少なくともその訪問者がだれかを知ろうと決心していた。ところが、ドアはもう二度と開かれず、グレゴールが待っていたこともむなしかった。ドアがみな閉ざされていた朝には、みんなが彼の部屋へ入ろうとしたのだったが、彼が一つのドアを開け、ほかのドアも昼のあいだに開けられたようなのに、今となってはだれもやってはこず、鍵も外側からさしこまれていた。
 夜遅くなってからやっと、居間の明りが消された。それで、両親と妹とがそんなに長いあいだ起きていたことが、たやすくわかった。というのは、はっきり聞き取ることができたのだが、そのとき三人全部が爪先で歩いて遠ざかっていったのだった。それでは朝までもうだれもグレゴールの部屋へは入ってこないというわけだ。だから、自分の生活をここでどういうふうに設計すべきか、じゃまされずにとっくり考える時間がたっぷりとあるわけだ。だが、彼が今べったり床にへばりつくようにしいられている天井の高いひろびろとした部屋は、なぜか理由を見出すことはできなかったけれども、彼の心を不安にした。なにしろ五年来彼が住んでいた部屋なので、どうしてそんな気になるのかわからなかった。――そして、半ば無意識に身体の向きを変え、ちょっと恥かしい気持がないわけではなかったが、急いでソファの下にもぐりこんだ。そこでは、背中が少し抑えつけられるし、頭をもうもたげることができないにもかかわらず、すぐひどく居心地がよいように思われた。ただ、身体の幅が広すぎて、ソファの下にすっぽり入ることができないのが残念だった。
 そこに彼は一晩じゅういた。その夜は、あるいは空腹のためにたえず目をさまさせられながらもうとうとしたり、あるいは心配やはっきりしない希望に思いふけったりしなから、過ごしたのだった。そんな心配や希望を思っても結論は同じで、さしあたりは平静な態度を守り、忍耐と細心な遠慮とによって家族の者たちにさまざまな不快を耐えられるようにしてやらねばならぬという結論だった。そうした不快なことを彼の現在の状態においてはいつかは家族の者たちに与えないわけにはいかないのだ。
 つぎの朝早く、まだほとんど夜のうちだったが、グレゴールは早くも固めたばかりの決心をためしてみる機会をもった。というのは、玄関の間のほうからほとんど完全に身づくろいした妹がドアを開け、緊張した様子でなかをのぞいたのだった。妹はすぐには彼の姿を見つけなかったが、彼がソファの下にいるのをみとめると――どこかにいるにきまっているではないか。飛んで逃げることなんかできなかったのだ――ひどく驚いたので、度を失ってしまって外側からふたたびドアをぴしゃりと閉めてしまった。だが、自分の態度を後悔してでもいるかのように、すぐまたドアを開け、重病人か見知らぬ人間かのところにいるような恰好で爪先で歩いて部屋のなかへ入ってきた。グレゴールは頭をソファのへりのすぐ近くまでのばして、妹をながめた。ミルクをほったらかしにしたのに気づくだろうか。しかもけっして食欲がないからではなかったのだ。また、彼の口にもっと合うような別な食べものをもってくるのだろうか。妹が自分でそうしてくれないだろうか。妹にそのことを注意するくらいなら、飢え死したほうがましだ。それにもかかわらず、ほんとうはソファの下から跳び出して、妹の足もとに身を投げ、何かうまいものをくれといいたくてたまらないのだった。ところが、妹はまだいっぱい入っているミルクの鉢にすぐ気づいて、不思議そうな顔をした。鉢からは少しばかりのミルクがまわりにこぼれているだけだった。妹はすぐ鉢を取り上げたが、それも素手ではなくて、ぼろ切れでやるのだった。そして、鉢をもって出ていった。グレゴールは、妹がかわりに何をもってくるだろうかとひどく好奇心に駆られ、それについてじつにさまざまなことを考えてみた。しかし、妹が親切心から実際にもってきたものを、考えただけではあてることはできなかったにちがいない。彼の嗜好《しこう》をためすため、いろいろなものを選んできて、それを全部、古い新聞紙の上に拡げたのだった。半分腐った古い野菜、固まってしまった白ソースにくるまった夕食の食べ残りの骨、一粒二粒の乾ぶどうとアーモンド、グレゴールが二日前にまずくて食えないといったチーズ、何もぬってはないパン、バターをぬったパン、バターをぬり、塩味をつけたパン。なおそのほかに、おそらく永久にグレゴール専用ときめたらしい鉢を置いた。それには水がつがれてあった。そして、グレゴールが自分の前では食べないだろうということを妹は知っているので、思いやりから急いで部屋を出ていき、さらに鍵さえかけてしまった。それというのも、好きなように気楽にして食べてもいいのだ、とグレゴールにわからせるためなのだ。そこで食事に取りかかると、グレゴールのたくさんの小さな脚はがさがさいった。どうも傷はみなすでに完全に癒ったにちがいなかった。もう支障は感じなかった。彼はそのことに驚き、一月以上も前にナイフでほんの少しばかり指を切ったが、その傷がおとといもまだかなり痛んだ、ということを考えた。「今では敏感さが減ったのかな」と、彼は思い、早くもチーズをがつがつ食べ始めた。ほかのどの食べものよりも、このチーズが、たちまち、彼を強くひきつけたのだった。つぎつぎと勢いきって、また満足のあまり眼に涙を浮かべながら、彼はチーズ、野菜、ソースと食べていった。ところが新鮮な食べものはうまくなかった。その匂いがまったく我慢できず、そのために食べようと思う品を少しばかりわきへ引きずっていったほどだった。もうとっくにすべてを平らげてしまい、その場でのうのうと横になっていたとき、妹は彼に引き下がるようにと合図するため、ゆっくりと鍵を廻した。彼はもうほとんどうとうとしていたのにもかかわらず、その音でたちまち驚かされてしまった。彼はまたソファの下へ急いでもぐった。だが、妹が部屋にいるほんの短い時間であっても、ソファの下にとどまっているのには、ひどい自制が必要だった。というのは、たっぷり食事をしたため、身体が少しふくらんで、ソファの下の狭い場所ではほとんど呼吸することができなかった。何度か微かに息がつまりそうになりながら、いくらか涙が出てくる眼で彼はながめたのだが、何も気づいていない妹は箒《ほうき》で残りものを掃き集めるばかりでなく、グレゴールが全然手をつけなかった食べものまで、まるでもう使えないのだというように掃き集めた。そして、そうしたものを全部、バケツのなかへ捨て、木の蓋をして、それからいっさいのものを部屋の外へ運び出していった。妹が向きを変えるか変えないかのうちに、グレゴールは早くもソファの下からはい出て、身体をのばし、息を入れた。
 こういうふうにして毎日グレゴールは食事を与えられた。一回は朝、両親と女中とがまだ眠っているときで、二回目はみんなの昼食が終ったあとだ。というのは、食事後、両親はしばらく昼寝をし、女中は妹から何か用事を言いつけられて使いに出される。たしかにみんなはグレゴールを飢え死させようとはしなかったが、おそらく彼の食事についてはただ妹の口から伝え聞くという以上の我慢はできなかったのだろう。またきっと妹も、なにしろほんとうに両親は十分苦しんでいるのだから、おそらくほんのわずかな悲しみだけであってもはぶいてやろうとしているのだろう。
 あの最初の朝、どんな口実によって医者と鍵屋とを家から追い返したのか、グレゴールは全然知ることができなかった。というのは、彼のいうことは相手には聞き取れないので、だれ一人として、そして妹までも、彼のほうでは他人のいうことがわかる、とは思わなかったのだ。そこで、妹が自分の部屋にいるときにも、ただときどき妹が溜息をもらしたり、聖人たちの名前を唱えるのを聞くだけで満足しなければならなかった。のちになって妹が少しはすべてのことに慣れるようになったときにはじめて、――完全に慣れるというようなことはむろんけっして問題とはならなかった――グレゴールは親しさをこめた言葉とか、あるいはそう解釈される言葉とかをときどき小耳にはさむことができた。グレゴールが食事をさかんに片づけたときには、「ああ、きょうはおいしかったのね」と、妹は言い、しだいに数しげくくり返されるようになったそれと反対に手をつけていない場合には、ほとんど悲しげにこういうのがつねだった。
「またみんな手をつけないであるわ」
 ところで、グレゴールは直接にはニュースを聞くことができなかったけれども、隣室の話し声をいろいろ聞き取るのだった。人声が聞こえると、彼はすぐそれに近いドアのところへ急いでいき、身体全体をドアに圧しつける。ことにはじめのうちは、たといただこそこそ話にしろ、何か彼についてのことでないような話はなかった。二日のあいだ、三度三度の食事に、どうしたらいいのだろう、という相談をやっているのが聞かれた。ところで、食事と食事とのあいだの時間にも、同じ話題が語られるのだった。というのは、だれ一人としてひとりだけ留守をしようとしなかったし、またどんなことがあっても住居をすっかり空にすることはできなかったので、いつでも家には少なくとも家族のうちの二人が残っているのだ。女中も最初の日に――女中がこのできごとについて何を知っているのか、またどのくらい知っているのかは、あまり明らかではなかったが――すぐにひまをくれるようにと膝をついて母親に頼み、その十五分後に家を出ていくときには、涙ながらにひまを出してもらったことの礼をいった。まるでこの家で示してもらった最大の恩恵だとでもいうような調子だった。そして、だれも彼女に求めたわけでもないのに、ほんの少しでも人にはもらしませんから、などとひどく本気で誓うのだった。
 女中がひまを取ったので、今では妹が母親といっしょに料理もしなければならなかった。とはいっても、それはたいして骨が折れなかった。なにしろほとんど何も食べなかったのだ。グレゴールはくり返し聞いたのだが、だれかがほかの者に向って食べるようにとうながしてもむだで、出てくる返事といえばただ「いや、たくさん」とかいうような言葉だけにきまっていた。酒類もおそらく全然飲まないようだった。しょっちゅう妹は父親に、ビールを飲みたくないかとたずね、自分で取りにいくから、と心から申し出るのだが、それでも父親が黙っていると、父が世間態をはばかって心配している気持を取り除こうとして、門番のおかみさんにビールを取りにいってもらってもいいのだ、というのだった。ところが父親は最後に大きな声で「いらない」と、いう。そして、それでもう二度とビールのことは話されなかった。
 最初の日のうちに、父親は早くも母親と妹とに向って財産状態とこれからの見通しとについてすっかり話して聞かせた。ときどきテーブルから立ち上がって、五年前に自分の店が破産したときに救い出した小さな金庫から何か書きつけや帳簿をもってくるのだった。手のこんだ鍵を開け、つぎに探しているものを取り出したあとで鍵を閉める音が聞こえてきた。父親のそのときの説明は、一面では、グレゴールが監禁生活をするようになって以来はじめてうれしく思ったことだった。グレゴールはそれまで、あの店から父親の手に残されたものは全然ないのだ、と考えていた。少なくとも父親はグレゴールに対してその反対のことは全然いわなかった。もっともグレゴールもそのことについて父親にたずねたことはなかったのではあった。グレゴールがそのころ気を使っていたことは、家族全員を完全な絶望へ追いこんだ商売上の不幸をできるだけ早く家族の者たちに忘れさせるために全力をつくすということだった。そこであの当時彼は特別に熱心に働き始め、はとんど一夜にしてつまらぬ店員から旅廻りのセールスマンとなった。セールスマンにはむろん金もうけのチャンスがいろいろあり、仕事の成果はすぐさま歩合の形で現金に変わり、それを家にもち帰って、驚きよろこぶ家族の眼の前のテーブルの上にならべて見せることができた。あれはすばらしい時期だった。グレゴールはあとになってからも、家族全体の経費をまかなうことができ、また、事実まかなっただけの金をもうけはしたが、あのはじめのころのすばらしい時期は、少なくとも、あのころの輝かしさで二度くり返されることはなかった。家人もグレゴールもそのことに慣れ、家人は感謝して金を受け取り、彼もよろこんで金を出すのだったが、特別な気持の温かさというものはもう起こらなかった。ただ妹だけはグレゴールに対してまだ近い関係をもちつづけていた。グレゴールとはちがって音楽が大好きで、感動的なほどにヴァイオリンを弾くことができる妹を、来年になったら音楽学校へ入れてやろう、というのが彼のひそかな計画だった。そうなるとひどく金がかかるが、そんなことは考慮しないし、またその金もなんとかしてつくることができるだろう。グレゴールが町に帰ってきてちょっと滞在するあいだには、しょっちゅう妹との会話に音楽学校の話が出てくるのだったが、いつでもただ美しい夢物語にすぎず、その実現は考えられなかった。そして、両親もけっしてこんな無邪気な話を聞くのをよろこびはしなかった。だが、グレゴールはきわめてはっきりとそのことを考えていたのであり、クリスマスの前夜にはそのことをおごそかに宣言するつもりだった。
 ドアにへばりついて身体をまっすぐに起こし、聞き耳を立てているあいだにも、今の自分の状態にはまったく無益なこうした考えが、彼の頭を通り過ぎるのだった。ときどき、全身の疲れのためにもう全然聞いていることができなくなり、うっかりして頭をドアにぶつけ、すぐにまたきちんと立てるのだった。というのは、そんなふうにして彼が立てるどんな小さな物音でも、隣室に聞こえ、みんなの口をつぐませてしまうのだ。「また何をやっているんだろう」などと、しばらくして父親がいう。どうもドアのほうに向きなおっているらしい。それからやっと、中断された会話がふたたびだんだんと始められていく。
 グレゴールは十分に聞き取ったのだが――というのは、父親は説明をする場合に何度もくり返すのがつねだった。その理由は一つには彼自身がすでに長いあいだこうしたことに気を使わなくなっていたからであり、もう一つには母親が一回聞いただけでは万事をすぐのみこめなかったからだ――、すべての不幸にもかかわらず、なるほどまったくわずかばかりのものではあるけれども昔の財産がまだ残っていて、手をつけないでおいた利子もそのあいだに少しばかり増えた、ということであった。その上、グレゴールが毎月家に入れていた金も――彼は自分ではほんの一グルデンか二グルデンしか取らなかった――すっかり費われてしまったわけではなく、貯えられてちょっとした金額になっていた。グレゴールはドアの背後で熱心にうなずき、この思いがけなかった用心と倹約とをよろこんだ。ほんとうはこの余分な金で社長に対する父親の負債をもっと減らすことができ、この地位から離れることができる日もずっと近くなったことだろうが、今では父親の計らいは疑いもなくいっそうよかったわけだ。
 ところで、こんな金では家族の者が利息で生活していけるなどというのにはまったくたりない。おそらく家族を一年か、せいぜいのところ二年ぐらい支えていくのに十分なだけだろう。それ以上のものではなかった。つまり、ほんとうは手をつけてはならない、そしてまさかのときの用意に取っておかなければならない程度の金額にすぎなかった。生活費はかせがなければならない。ところで、父親は健康だがなにしろ老人で、もう五年間も全然仕事をせず、いずれにしてもあまり働けるという自信はない。骨は折れたが成果のあがらなかった生涯の最初の休暇であったこの五年のあいだに、すっかりふとってしまって、そのために身体も自由に動かなくなっていた。そこで母親が働かなければならないのだろうが、これが喘息《ぜんそく》もちで、家のなかを歩くのにさえ骨が折れる始末であって、一日おきに呼吸困難に陥り、開いた窓の前のソファの上で過ごさなければならない。すると妹がかせがなければならないというわけだが、これはまだ十七歳の子供であり、これまでの生活ではひどく恵まれて育ってきたのだった。きれいな服を着て、たっぷりと眠り、家事の手伝いをし、ささやかな気ばらしにときどき加わり、何よりもヴァイオリンを弾く、という生活のしかただった。どうしてこんな妹がかせぐことができるだろうか。家族の話が金をかせがなければならないというこのことになると、はじめのうちはグレゴールはいつもドアを離れて、ドアのそばにある冷たい革のソファに身を投げるのだった。というのは、恥辱と悲しみのあまり身体がかっと熱くなるのだった。
 しばしば彼はそのソファの上で長い夜をあかし、一瞬も眠らず、ただ何時間でも革をむしっているのだった。あるいは、大変な労苦もいとわず、椅子を一つ窓ぎわへ押していき、それから窓の手すりにはい上がって、椅子で身体を支えたまま窓によりかかっていた。以前窓からながめているときに感じた解放されるような気持でも思い出しているらしかった。というのは、実際、少し離れた事物も一日一日とだんだんぼんやり見えるようになっていっていた。以前はしょっちゅう見えていまいましくてたまらなかった向う側の病院も、もう全然見えなくなっていた。静かな、しかしまったく都会的であるシャルロッテ街に自分が住んでいるのだということをよく知っていなかったならば、彼の窓から見えるのは、灰色の空と灰色の大地とが見わけられないくらいにつながっている荒野なのだ、と思いかねない有様だった。注意深い妹は二度だけ椅子が窓ぎわにあるのに気づいたにちがいなかったが、それからは部屋の掃除をしたあとでいつでも椅子をきちんと窓べに押してやり、おまけにそのときからは内側の窓も開け放しておいた。
 もしグレゴールが妹と話すことができ、彼女が自分のためにしなければならないこうしたすべてのことに対して礼をいうことができるのであったら、彼女の奉仕をもっと気軽に受けることができただろう。ところが、彼はそれが苦しくてたまらなかった。妹はむろん、いっさいのことのつらい思いをぬぐい去ろうと努めていたし、時がたつにつれてむろんだんだんそれがうまくいくようになったのだが、グレゴールも時間がたつとともにいっさいをはじめのころよりもずっと正確に見て取るようになった。妹が部屋へ足を踏み入れるだけで、彼には恐ろしくてならなかった。ふだんはグレゴールの部屋をだれにも見せまいと気をくばっているのだが、部屋に入ってくるやいなや、ドアを閉める手間さえかけようとせず、まっすぐに窓へと走りよって、まるで息がつまりそうだといわんばかりの恰好であわただしく両手で窓を開き、まだいくら寒くてもしばらく窓ぎわに立ったままでいて、深呼吸する。こうやって走ってさわがしい音を立てることで、グレゴールを日に二度びっくりさせるのだ。そのあいだじゅう、彼はソファの下でふるえていた。だが彼にはよくわかるのだが、もしグレゴールがいる部屋で窓を閉め切っていることができるものならば、きっとこんなことはやりたくはないのだ。
 あるとき、グレゴールの変身が起ってから早くも一月がたっていたし、妹ももうグレゴールの姿を見てびっくりしてしまうかくべつの理由などはなくなっていたのだが、妹はいつもよりも少し早くやってきて、グレゴールが身動きもしないで、ほんとうにおどかすような恰好で身体を立てたまま、窓から外をながめている場面にぶつかった。妹が部屋に入ってこなかったとしても、グレゴールにとっては意外ではなかったろう。なにしろそういう姿勢を取っていることで、すぐに窓を開けるじゃまをしていたわけだからだ。ところが、妹はなかへ入ってこないばかりか、うしろへ飛びのいて、ドアを閉めてしまった。見知らぬ者ならば、グレゴールが妹のくるのを待ちうかがっていて、妹にかみつこうとしているのだ、と思ったことだろう。グレゴールはむろんすぐソファの下に身を隠したが、妹がまたやってくるまでには正午まで待たねばならなかった。そのことから、自分の姿を見ることは妹にはまだ我慢がならないのだし、これからも妹にはずっと我慢できないにちがいない、ソファの下から出ているほんのわずかな身体の部分を見ただけでも逃げ出したいくらいで、逃げ出していかないのはよほど自分を抑えているにちがいないのだ、と彼ははっきり知った。妹に自分の姿を見せないために、彼はある日、背中に麻布をのせてソファの上まで運んでいった。――この仕事には四時間もかかった――そして、自分の身体がすっかり隠れてしまうように、また妹がかがみこんでも見えないようにした。もしこの麻布は不必要だと妹が思うならば、妹はそれを取り払ってしまうこともできるだろう。というのは、身体をこんなふうにすっかり閉じこめてしまうことは、グレゴールにとってなぐさみごとなんかではないからだ。ところが、妹は麻布をそのままにしておいた。おまけにグレゴールが一度頭で麻布を用心深く少しばかり上げて、妹がこの新しいしかけをどう思っているのか見ようとしたとき、妹の眼に感謝の色さえ見て取ったように思ったのだった。
 最初の二週間には、両親はどうしても彼の部屋に入ってくることができなかった。これまで両親は妹を役立たずの娘と思っていたのでしばしば腹を立てていたが、今の妹の仕事ぶりを完全にみとめていることを、グレゴールはしばしば聞いた。ところが両親はしばしば、妹がグレゴールの部屋で掃除しているあいだ、二人で彼の部屋の前に待ちかまえていて、妹が出てくるやいなや、部屋のなかがどんな様子であるか、グレゴールが何を食べたか、そのとき彼がどんな態度を取ったか、きっとちょっと快方へ向いているのが見られたのでないか、などと語って聞かせなければならなかった。ところで母親のほうは比較的早くグレゴールを訪ねてみようと思ったのだったが、父親と妹とがまずいろいろ理にかなった理由を挙げて母親を押しとどめた。それらの理由をグレゴールはきわめて注意深く聞いていたが、いずれもまったく正しいと思った。ところが、あとになると母親を力ずくでとどめなければならなかった。そして、とめられた母親が「グレゴールのところへいかせて! あの子はわたしのかわいそうな息子なんだから! わたしがあの子のところへいかないではいられないということが、あんたたちにはわからないの?」と叫ぶときには、むろん毎日ではないがおそらく週に一度は母親が入ってきたほうがいいのではないか、とグレゴールは思った。なんといっても母親のほうが妹よりは万事をよく心得ているのだ。妹はいくらけなげとはいってもまだ子供で、結局は子供らしい軽率さからこんなにむずかしい任務を引き受けているのだ。
 母親に会いたいというグレゴールの願いは、まもなくかなえられた。昼のあいだは両親のことを考えて窓ぎわにはいくまい、とグレゴールは考えていたが、一、二メートル四方の床の上ではたいしてはい廻るわけにいかなかったし、床の上にじっとしていることは夜なかであっても我慢することがむずかしく、食べものもやがてもう少しも楽しみではなくなっていたので、気ばらしのために壁の上や天井を縦横十文字にはい廻る習慣を身につけていた。とくに上の天井にぶら下がっているのが好きだった。床の上にじっとしているのとはまったくちがう。息がいっそう自由につけるし、軽い振動が身体のなかを伝わっていく。そして、グレゴールが天井にぶら下がってほとんど幸福な放心状態にあるとき、脚を放して床の上へどすんと落ちて自分でも驚くことがあった。だが、今ではむろん以前とはちがって自分の身体を自由にすることができ、こんな大きな墜落のときでさえけがをすることはなかった。妹は、グレゴールが自分で考え出したこの新しいなぐさみにすぐ気づき――実際、彼ははい廻るときに身体から出る粘液《ねんえき》の跡をところどころに残すのだった、――グレゴールがはい廻るのを最大の規模で可能にさせてやろうということを考え、そのじゃまになる家具、ことに何よりもたんすと机とを取り払おうとした。ところが、その仕事はひとりではやれなかった。父親の助けを借りようとは思わなかったし、女中もきっとそれほど役には立たないだろう。というのは、この十六歳ばかりの少女は、前の料理女がひまを取ってからけなげに我慢していたが、台所の鍵はたえずかけておいて、ただ特別に呼ばれたときだけ開けるだけでよいということにしてくれ、と願い出て、許されていたのだった。そこで妹としては、父親がいないときを見計らって母親をつれていくよりほかに方法がなかった。興奮したよろこびの声を挙げて母親はやってきたが、グレゴールの部屋のドアの前で黙りこんでしまった。はじめはむろん妹が部屋のなかが万事ちゃんとしているかどうかを検分したが、つぎにやっと母親を入らせた。グレゴールは大急ぎで麻布をいっそう深く、またいつもよりしわをたくさんつくってひっかぶった。全体は実際にただ偶然ソファの上に投げられた麻布のように見えるだけだった。グレゴールは今度も、麻布の下でこっそり様子をうかがうことをやめなかった。今回すぐ母親を見ることは断念した。ただ、母親がやってきたことだけをよろこんだ。「いらっしゃいな、見えないわよ」と、妹がいった。母親の手を引っ張っているらしかった。二人のかよわい女が相当重い古たんすを置き場所から動かし、無理をするのでないかと恐れる母親のいましめの言葉を聞こうとしないで妹がたえず仕事の大部分を自分の身に引き受けている様子を、グレゴールは聞いていた。ひどく時間がかかった。十五分もかかった仕事のあとで、母親はたんすはやっぱりこの部屋に置いておくほうがいいのでないか、と言い出した。第一に、重すぎて、二人で父親の帰ってくるまでに片づけることはできないだろう。それで部屋のまんなかにたんすが残ることになったら、グレゴールの動き廻るのにじゃまになるだろう。第二に、家具を取り片づけたらグレゴールがどう思うことかわかったものではない。自分は今のままにしておくほうがいいように思う。何もない裸の壁をながめると、胸がしめつけられるような気がする。そして、どうしてグレゴールだってそんな気持がしないはずがあろうか。あの子はずっと部屋の家具に慣れ親しんできたのだから、がらんとした部屋では見捨てられてしまったような気がするだろう。「それに、こんなことをしたら」と、最後に母親は声を低めた。それまでも、ほとんどささやくようにものをいって、グレゴールがどこにいるのかはっきり知らないままに、声の響きさえもグレゴールに聞かれることを避けたいと思っているようであった。グレゴールが人の言葉を聞きわけることはできない、と母親は確信しているのだ。「それに、こんなことをしたら、まるで家具を片づけることによって、わたしたちがあの子のよくなることをまったくあきらめてしまい、あの子のことをかまわずにほったらかしにしているということを見せつけるようなものじゃないかい? わたしたちが部屋をすっかり以前のままにしておくように努め、グレゴールがまたわたしたちのところへもどってきたときに、なんにも変っていないことを見て、それだけたやすくそれまでのことが忘れられるようにしておくことがいちばんいい、とわたしは思うよ」
 母親のこうした言葉を聞いて、直接の人間的な話しかけが自分に欠けていることが、家族のあいだの単調な生活と結びついて、この二カ月のあいだにすっかり自分の頭を混乱させてしまったにちがいない、とグレゴールは知った。というのは、自分の部屋がすっかり空っぽにされたほうがいいなどとまじめに思うようでは、そうとでも考えなければほかに説明のしようがなかった。彼はほんとうに、先祖伝来の家具をいかにも気持よく置いているこの暖かい部屋を洞窟《どうくつ》に変えるつもりなのだろうか。がらんどうになればむろんあらゆる方向に障害なくはい廻ることができるだろうが、しかし自分の人間的な過去を同時にたちまちすっかり忘れてしまうのではなかろうか。今はすでにすっかり忘れようとしているのではないだろうか。そして、長いあいだ聞かなかった母親の声だけがやっと彼の心を正気にもどしたのではあるまいか。何一つ取りのけてはならない。みんなもとのままに残されていなければならない。家具が自分の状態の上に及ぼすいい影響というものがなくてはならない。そして、たとい家具が意味もなくはい廻るじゃまになっても、それは損害ではなくて、大きな利益なのだ。
 ところが、妹の考えは残念なことにちがっていた。妹はグレゴールに関する件の話合いでは両親に対して特別事情に明るい人間としての態度を取ることに慣れていたし、それもまんざら不当とはいえなかった。そこで今の場合にも、母親の忠告は妹にとって、彼女がひとりではじめ動かそうと考えていたたんすと机とを片づけるだけではなく、どうしてもなくてはならないソファは例外として、家具全体を片づけようと固執する十分な理由であった。妹がこうした要求をもち出すようになったのは、むろんただ子供らしい反抗心と、最近思いがけなくも、そして苦労してやっと手に入れた自信とのためばかりではなかった。実際、妹はグレゴールがはい廻るのには広い場所が必要で、それに反して家具はだれも見て取ることができるようにほんの少しでも役に立つわけではない、ということを見て取っていたのだった。だが、おそらくは彼女の年ごろの少女らしい熱中もそれに加わったのだろう。そういう熱中しやすい心は、どんな機会にも満足を見出そうと努めているのであって、今はこのグレーテという少女を通じて、グレゴールの状態をもっと恐ろしいものにして、つぎに今まで以上にグレゴールのために働きたいという誘惑にかられているのだ。というのは、がらんとした四方の壁をグレゴールがまったくひとりで支配しているような部屋には、グレーテ以外のどんな人間でもけっしてあえて入ってこようとはしないだろう。
 そこで妹は母親の忠告によって自分の決心をひるがえさせられたりしてはいなかった。母親はこの部屋でももっぱら不安のためにおろおろしているように見えたが、まもなく黙ってしまい、たんすを運び出すことで力の限り妹を手伝っていた。ところで、たんすはやむをえないとあればグレゴールとしてもなしですませることができたが、机のほうはどうしても残さなければならない。二人の女がはあはあ言いながらたんすを押して部屋を出ていくやいなや、グレゴールはソファの下から頭を突き出し、どうやったら用心深く、できるだけおだやかにこの取り片づけに干渉できるかを見ようとした。だが、あいにく、はじめにもどってきたのは母親だった。グレーテのほうは隣室でたんすにしがみつき、それをひとりであちこちとゆすっていたが、むろんたんすの位置を動かすことはできなかった。だが、母親はグレゴールの姿を見ることに慣れていない。姿を見せたら、母親を病気にしてしまうかもしれない。そこでグレゴールは驚いてあとしざりしてソファの別なはしまで急いでいった。だが、麻布の前が少しばかり動くことを妨げることはもうできなかった。それだけで母親の注意をひくのには十分だった。母親はぴたりと足をとめ、一瞬じっと立っていたが、つぎにグレーテのところへもどっていった。
 実のところ何も異常なことが起っているわけではない、ただ一つ二つの家具が置き変えられるだけだ、とグレゴールは何度か自分に言い聞かせたにもかかわらず、彼はまもなくみとめないわけにはいかなくなったのだが、この女たちの出たり入ったり、彼女らの小さなかけ声、床の上で家具のきしむ音、それらはまるで四方から数を増していく大群集のように彼に働きかけ、頭と脚とをしっかとちぢめて身体を床にぴったりとつけていたけれども、おれはもうこうしたことのすべてを我慢できなくなるだろう、とどうしても自分に言い聞かせないではいられなくなった。女たちは彼の部屋を片づけているのだ。彼にとって親しかったいっさいのものを取り上げるのだ。糸のこ[#「のこ」に傍点]やそのほかの道具類が入っているたんすは、二人の手でもう運び出されてしまった。今度は、床にしっかとめりこんでいる机をぐらぐら動かしている。彼は商科大学の学生として、中学校の生徒として、いやそればかりでなく小学校の生徒として、あの机の上で宿題をやったものだった。――もう実際、二人の女たちの善意の意図をためしているひまなんかないのだ。それに彼は二人がいることなどはほとんど忘れていた。というのは、二人は疲れてしまったためにもう無言で立ち働いていて、彼女たちのどたばたいう重い足音だけしか聞こえなかった。
 そこで彼ははい出ていき――女たちはちょうど隣室で少しばかり息を入れようとして机によりかかっているところだった――進む方向を四度変えたが、まず何を救うべきか、ほんとうにわからなかった。そのとき、ほかはすっかりがらんとしてしまった壁に、すぐ目立つように例の毛皮ずくめの貴婦人の写真がかかっているのを見た。そこで、急いではい上がっていき、額のガラスにぴたりと身体を押しつけた。ガラスはしっかりと彼の身体をささえ、彼の熱い腹に快感を与えた。少なくとも、グレゴールが今こうやってすっかり被い隠しているこの写真だけはきっとだれももち去りはすまい。彼は女たちがもどってくるのを見ようとして、居間のドアのほうへ頭を向けた。
 母と妹とはそれほど休息を取ってはいないで、早くももどってきた。グレーテは母親の身体に片腕を廻し、ほとんど抱き運ぶような恰好だった。
「それじゃ、今度は何をもっていきましょう」と、グレーテはいって、あたりを見廻した。そのとき、彼女のまなざしと壁の上にいるグレゴールのまなざしとが交叉した。きっとただ母親がこの場にいるというだけの理由で度を失わないように気を取りなおしたのだろう。母親があたりを見廻さないように、妹は顔を母親のほうに曲げて、つぎのようにいった。とはいっても、ふるえながら、よく考えてもみないでいった言葉だった。
「いらっしゃい、ちょっと居間にもどらない?」グレーテの意図はグレゴールには明らかであった。母親を安全なところへつれ出し、それから彼を壁から追い払おうというのだ。だが、そんなことをやってみるがいい! 彼は写真の上に坐りこんで、渡しはしない。それどころか、グレーテの顔めがけて飛びつこうという身構えだ。
 ところが、グレーテがそんなことをいったことが母親をますます不安にしてしまった。母親はわきへよって、花模様の壁紙の上に大きな褐色の一つの斑点をみとめた。そして、自分の見たものがグレゴールだとほんとうに意識するより前に、あらあらしい叫び声で「ああ、ああ!」というなり、まるでいっさいを放棄するかのように両腕を拡げてソファの上に倒れてしまい、身動きもしなくなった。
「グレゴールったら!」と、妹は拳を振り上げ、はげしい眼つきで叫んだ。これは変身以来、妹が彼に向って直接いった最初の言葉だった。妹は母親を気絶から目ざめさせるための気つけ薬を何か取りに隣室へかけていった。グレゴールも手伝いたかった。――写真を救うにはまだ余裕があった――だが、彼はガラスにしっかとへばりついていて、身体を引き離すためには無理しなければならなかった。それから自分も隣室へ入っていった。まるで以前のように妹に何か忠告を与えてやれると、いわんばかりであった。だが、何もやれないでむなしく妹のうしろに立っていなければならなかった。いろいろ小壜をひっかき廻していた妹は、振り返ってみて、またびっくりした。壜が床の上に落ちて、くだけた。一つの破片がグレゴールの顔を傷つけた。何か腐蝕性の薬品が彼の身体のまわりに流れた。グレーテは長いことそこにとどまってはいないで、手にもてるだけ多くの小壜をもって、母親のところへかけていった。ドアは足でぴしゃりと閉めた。グレゴールは今は母親から遮断《しゃだん》されてしまった。その母親は彼の罪によっておそらくほとんど死にそうになっているのだ。ドアを開けてはならなかった。自分が入っていくことによって、母親のそばにいなければならない妹を追い立てたくはなかった。今は待っているよりほかになんの手だてもなかった。そして、自責と心配とに駆り立てられて、はい廻り始め、すべてのものの上をはっていった。壁の上も家具や天井の上もはって歩き、とうとう絶望のうちに、彼のまわりの部屋全体がぐるぐる廻り始めたときに、大きなテーブルの上にどたりと落ちた。
 ちょっとばかり時が流れた。グレゴールは疲れ果ててそこに横たわっていた。あたりは静まり返っている。きっといいしるしなのだろう。そのとき、玄関のベルが鳴った。女中はむろん台所に閉じこめられているので、グレーテが開けなければならなかった。父親が帰ってきたのだった。「何が起ったんだ?」というのが彼の最初の言葉だった。グレーテの様子がきっとすべてを物語っているにちがいなかった。グレーテは息苦しそうな声で答えていたが、きっと顔を父親の胸にあてているらしい。
「お母さんが気絶したの。でももうよくなったわ。グレゴールがはい出したの」
「そうなるだろうと思っていた」と、父親がいった。「わしはいつもお前たちにいったのに、お前たち女はいうことを聞こうとしないからだ」
 父親がグレーテのあまりに手短かな報告を悪く解釈して、グレゴールが何か手荒なことをやったものと受け取ったことは、グレゴールには明らかであった。そのために、グレゴールは今度は父親をなだめようとしなければならなかった。というのは、彼には父親に説明して聞かせるひまもなければ、またそんなことができるはずもないのだ。そこで自分の部屋のドアのところへのがれていき、それにぴったりへばりついた。これで、父親は玄関の間からこちらへ入ってくるときに、グレゴールは自分の部屋へすぐもどろうというきわめて善良な意図をもっているということ、だから彼を追いもどす必要はなく、ただドアを開けてやりさえすればすぐに消えていなくなるだろうということを、ただちに見て取ることができるはずだ。
 しかし、父親はこうした微妙なことに気づくような気分にはなっていなかった。入ってくるなり、まるで怒ってもいればよろこんでもいるというような調子で「ああ!」と叫んだ。グレゴールは頭をドアから引っこめて、父親のほうに頭をもたげた。父親が今突っ立っているような姿をこれまでに想像してみたことはほんとうになかった。とはいっても、最近では彼は新しいやりかたのはい廻る動作にばかり気を取られて、以前のように家のなかのほかのできごとに気を使うことをおこたっていたのであり、ほんとうは前とはちがってしまった家の事情にぶつかっても驚かないだけの覚悟ができていなければならないところだった。それはそうとしても、これがまだ彼の父親なのだろうか。以前グレゴールが商売の旅に出かけていくとき、疲れたようにベッドに埋まって寝ていた父、彼が帰ってきた晩には寝巻のままの姿で安楽椅子にもたれて彼を迎えた父、起き上がることはまったくできずに、よろこびを示すのにただ両腕を上げるだけだった父、年に一、二度の日曜日や大きな祭日にまれにいっしょに散歩に出かけるときには、もともとゆっくりと歩く母親とグレゴールとのあいだに立って、この二人よりももっとのろのろと歩き、古い外套にくるまり、いつでも用心深く身体に当てた撞木杖《しゅもくづえ》をたよりに難儀しながら歩いていき、何かいおうとするときには、ほとんどいつでも立ちどまって、つれの者たちを自分の身のまわりに集めた父、あの老いこんだ父親とこの眼の前の人物とは同じ人間なのだろうか。以前とちがって、今ではきちんと身体を起こして立っている。銀行の小使たちが着るような、金ボタンのついたぴったり身体に合った紺色の制服を着ている。上衣の高くてぴんと張った襟の上には、力強い二重顎が拡がっている。毛深い眉《まゆ》の下では黒い両眼の視線が元気そうに注意深く射し出ている。ふだんはぼさぼさだった白髪はひどくきちんとてかてかな髪形になでつけている。この父親はおそらく銀行のものだと思われる金モールの文字をつけた制帽を部屋いっぱいに弧を描かせてソファの上に投げ、長い制服の上衣のすそをはねのけ、両手をズボンのポケットに突っこんで、にがにがしい顔でグレゴールのほうへ歩んできた。何をしようというのか、きっと自分でもわからないのだ。ともかく、両足をふだんとはちがうくらい高く上げた。グレゴールは彼の靴のかかとがひどく大きいことにびっくりしてしまった。だが、びっくりしたままではいられなかった。父親が自分に対してはただ最大のきびしさこそふさわしいのだと見なしているということを、彼は新しい生活が始った最初の日からよく知っていた。そこで父親から逃げ出して、父親が立ちどまると自分もとまり、父親が動くとまた急いで前へ逃がれていった。こうして二人は何度か部屋をぐるぐる廻ったが、何も決定的なことは起こらないし、その上、そうした動作の全体がゆっくりしたテンポで行われるので追跡しているような様子は少しもなかった。そこでグレゴールも今のところは床の上にいた。とくに彼は、壁や天井へ逃げたら父親がかくべつの悪意を受け取るだろう、と恐れたのだった。とはいえ、こうやって走り廻ることも長くはつづかないだろう、と自分にいって聞かせないではいられなかった。というのは、父親が一歩で進むところを、彼は数限りない動作で進んでいかなければならないのだ。息切れが早くもはっきりと表われ始めた。以前にもそれほど信頼の置ける肺をもっていたわけではなかった。こうして全力をふるって走ろうとしてよろよろはい廻って、両眼もほとんど開けていなかった。愚かにも走る以外に逃げられる方法は全然考えなかった。四方の壁が自分には自由に歩けるのだということも、もうほとんど忘れてしまっていた。とはいっても、壁はぎざぎざやとがったところがたくさんある念入りに彫刻された家具でさえぎられていた。――そのとき、彼のすぐそばに、何かがやんわりと投げられて落ちてきて、ごろごろところがった。それはリンゴだった。すぐ第二のが彼のほうに飛んできた。グレゴールは驚きのあまり立ちどまってしまった。これ以上走ることは無益だった。というのは、父親は彼を爆撃する決心をしたのだった。食器台の上の果物皿からリンゴを取ってポケットにいっぱいつめ、今のところはそうきちんと狙《ねら》いをつけずにリンゴをつぎつぎに投げてくる。これらの小さな赤いリンゴは、まるで電気にかけられたように床の上をころげ廻り、ぶつかり合った。やわらかに投げられた一つのリンゴがグレゴールの背中をかすめたが、別に彼の身体を傷つけもしないで滑り落ちた。ところが、すぐそのあとから飛んできたのがまさにグレゴールの背中にめりこんだ。突然の信じられない痛みは場所を変えることで消えるだろうとでもいうように、グレゴールは身体を前へひきずっていこうとしたが、まるで釘づけにされたように感じられ、五感が完全に混乱してのびてしまった。だんだんかすんでいく最後の視線で、自分の部屋が開き、叫んでいる妹の前に母親が走り出てきた。下着姿だった。妹が、気絶している母親に呼吸を楽にしてやろうとして、服を脱がせたのだった。母親は父親をめがけて走りよった。その途中、とめ金をはずしたスカートなどがつぎつぎに床にすべり落ちた。そのスカートなどにつまずきながら父親のところへかけよって、父親に抱きつき、父親とぴったり一つになって――そこでグレゴールの視力はもう失われてしまった――両手を父の後頭部に置き、グレゴールの命を助けてくれるようにと頼むのだった。

3

 グレゴールが一月以上も苦しんだこの重傷は――例のリンゴは、だれもそれをあえて取り除こうとしなかったので、眼に見える記念として肉のなかに残されたままになった――父親にさえ、グレゴールはその現在の悲しむべき、またいとわしい姿にもかかわらず、家族の一員であって、そんな彼を敵のように扱うべきではなく彼に対しては嫌悪をじっとのみこんで我慢すること、ただ我慢することだけが家族の義務の命じるところなのだ、ということを思い起こさせたらしかった。
 ところで、たとい今グレゴールがその傷のために身体を動かすことがおそらく永久にできなくなってしまって、今のところは部屋のなかを横切ってはい歩くためにまるで年老いた傷病兵のようにとても長い時間がかかるといっても――高いところをはい廻るなどということはとても考えることができなかった――、自分の状態がこんなふうに悪化したかわりに、彼の考えによればつぎの点で十分につぐなわれるのだ。つまり、彼がつい一、二時間前にはいつでもじっと見守っていた居間のドアが開けられ、そのために彼は自分の部屋の暗がりのなかに横たわったまま、居間のほうからは姿が見えず、自分のほうからは明りをつけたテーブルのまわりに集っている家族全員を見たり、またいわば公認されて彼らの話を以前とはまったくちがったふうに聞いたりしてもよいということになったのだった。
 むろん、聞こえてくるのはもはや以前のようなにぎやかな会話ではなかった。グレゴールは以前は小さなホテルの部屋で、疲れきってしめっぽい寝具のなかに身体を投げなければならないときには、いつもいくらかの渇望をもってそうした会話のことを考えたものだった。ところが今では、たいていはひどく静かに行われるだけだ。父親は夕食のあとすぐに彼の安楽椅子のなかで眠りこんでしまう。母親と妹とはたがいにいましめ合って静かにしている。母親は明りの下にずっと身体をのり出して流行品を扱う洋品店のためのしゃれた下着類をぬっている。売場女店員の地位を得た妹は、晩には速記とフランス語との勉強をしている。おそらくあとになったらもっといい地位にありつくためなのだろう。ときどき父親が目をさます。そして、自分が眠っていたことを知らないかのように、「今晩もずいぶん長いこと裁縫をしているね!」といって、たちまちまた眠りこむ。すると、母親と妹とはたがいに疲れた微笑を交わす。
 父親は一種の強情さで、家でも自分の小使の制服を脱ぐことを拒んでいた。そして、寝巻は役に立たずに衣裳かぎにぶら下がっているが、父親はまるでいつでも勤務の用意ができているかのように、また家でも上役の声を待ちかまえているかのように、すっかり制服を着たままで自分の席でうたた寝している。そのため、はじめから新しくはなかったこの制服は、母親と妹とがいくら手入れをしても清潔さを失ってしまった。グレゴールはしばしば一晩じゅう、いつも磨かれている金ボタンで光ってはいるが、いたるところにしみがあるこの制服をながめていた。そんな服を着たまま、この老人はひどく窮屈に、しかし安らかに眠っているのだった。
 時計が十時を打つやいなや、母親は低い声で父親を起こし、それからベッドにいくように説得しようと努める。というのは、ここでやるのはほんとうの眠りではなく、六時に勤めにいかなければならない父親にはほんとうの眠りがぜひとも必要なのだ。しかし、小使になってから彼に取りついてしまった強情さで、いつでももっと長くテーブルのそばにいるのだと言い張るのだが、そのくせきまって眠りこんでしまう。その上、大骨を折ってやっと父親に椅子とベッドとを交換させることができるのだった。すると母親と妹とがいくら短ないましめの言葉でせっついても、十五分ぐらいはゆっくりと頭を振り、眼をつぶったままで、立ち上がろうとしない。母親は父親の袖《そで》を引っ張り、なだめるような言葉を彼の耳にささやき、妹は勉強を捨てて母を助けようとするのだが、それも父親にはききめがない。彼はいよいよ深く椅子に沈みこんでいく。女たちが彼のわきの下に手を入れるとやっと、眼を開け、母親と妹とをこもごもながめて、いつでもいうのだ。
「これが一生さ。これがおれの晩年の安らぎさ」
 そして、二人の女に支えられて、まるで自分の身体が自分自身にとって最大の重荷でもあるかのようにものものしい様子で立ち上がり、女たちにドアのところまでつれていってもらい、そこでもういいという合図をし、それからやっと今度は自分で歩いていく。一方、母親は針仕事の道具を、妹はペンを大急ぎで投げ出し、父親のあとを追っていき、さらに父親の世話をするのだ。
 この働きすぎて疲れきった家庭で、だれがどうしても必要やむをえないこと以上にグレゴールなんかに気を使うひまをもっているだろうか。家政はいよいよ切りつめられていった。女中ももうひまを出されていた。頭のまわりにぼさぼさの白髪をなびかせている骨ばった大女が、朝と晩とにやってきて、いちばんむずかしい仕事をやるようになった。ほかのことはすべて、母親がたくさんの針仕事のかたわら片づけていた。その上、以前には母親と妹とが遊びごとや祝いがあると有頂天になって身につけていたさまざまな家宝の装飾品も、晩にみんなが集って売値の相談をしているのをグレゴールが聞いたところによると、売られてしまった。だが、最大の嘆きはいつでも、現在の事情にとっては広すぎるこの住居を立ち退くことができないということであった。なぜなら、グレゴールをどうやって引っ越させたものか、考えつくことができないからだった。しかしグレゴールは、引越しを妨げているものはただ自分に対する顧慮だけではないのだ、ということをよく見抜いていた。というのは、彼のことなら、一つ二つ空気|孔《あな》のついた適当な箱に入れてたやすく運ぶことができるはずだった。この家族の移転を主として妨げているのは、むしろ完全な絶望感であり、親威《しんせき》や知人の仲間のだれ一人として経験しなかったほどに自分たちが不幸に打ちのめされているという思いであった。世間が貧しい人びとから要求しているものを、家族の者たちは極限までやりつくした。父親はつまらぬ銀行員たちに朝食をもっていってやるし、母親は見知らぬ人たちの下着のために身を犠牲にしているし、妹はお客たちの命令のままに売台のうしろであちこちかけ廻っている。しかし、家族の力はもう限度まできているのだ。そして、母親と妹とが、父親をベッドへつれていったあとでもどってきて、仕事の手を休めてたがいに身体をよせ合い、頬と頬とがふれんばかりに坐っているとき、また、今度は母親がグレゴールの部屋を指さして「グレーテ、ドアを閉めてちょうだい」というとき、そして二人の女が隣室でよせた頬の涙をまぜ合ったり、あるいはもう涙も出ないでテーブルをじっと見つめているあいだ、グレゴールのほうは、ふたたび暗闇のなかにいて、その背中の傷は今はじめて受けたもののように痛み始めるのだった。
 夜も昼もグレゴールはほとんど一睡もしないで過ごした。ときどき彼は、このつぎドアが開いたら家族のいっさいのことはまったく以前のようにまた自分の手に引き受けてやろう、と考えた。彼の頭のなかには、久しぶりにまた社長や支配人、店員たちや見習たち、ひどく頭の鈍い小使、別な店の二、三の友人たち、田舎《いなか》のあるホテルの客室づき女中、楽しいかりそめの思い出、彼がまじめに、しかしあまりにのんびり求婚したある帽子店のレジスター係の女の子、そんなものがつぎつぎに現われた。――そうしたすべてが見知らぬ人びとやもう忘れてしまった人びとのあいだにまぎれて現われてくる。しかし、彼と彼の家族とを助けてはくれないで、みんな近づきがたい人びとであり、彼らが姿を消すと、グレゴールはうれしく思うのだった。ところが、つぎに家族のことなんか心配する気分になれなくなる。ただ彼らの世話のいたらなさに対する怒りだけが彼の心をみたしてしまう。何が食べたいのかも全然考えられないにもかかわらず、少しも腹は空いていなくとも自分にふさわしいものをなんであろうと取るために、どうやったら台所へいくことができるか、などといろいろ計画を立ててみる。今はもう何をやったらグレゴールにかくべつ気に入るだろうかというようなことは考えもしないで、妹は朝と正午に店へ出かけていく前に、何かあり合せの食べものを大急ぎでグレゴールの部屋へ足で押しこむ。夕方には、その食べものがおそらくほんの少し味わわれたか、あるいは――そういう場合がいちばん多かったが――まったく手をつけてないか、ということにはおかまいなしで、箒で一掃きして部屋の外へ出してしまう。部屋の掃除は、今ではいつも妹が夕方にやるのだが、もうこれ以上早くはすませられないというほど粗末にやるのだ。汚れたすじが四方の壁に沿って引かれてあるし、そこかしこにはごみと汚れものとのかたまりが横たわっている始末だ。はじめのうちは、妹がやってくると、グレゴールはそうしたとくに汚れの目立つ片隅の場所に坐りこんで、そうした姿勢でいわば妹を非難してやろうとした。しかし、きっと何週間もそこにいてみたところで、妹があらためるということはないだろう。妹も彼とまったく同じくらいに汚れを見ているのだが、妹はそれをほっておこうと決心したのだ。その場合に妹は、およそ家族全員をとらえてしまった、これまでの彼女には見られなかったような敏感さで、グレゴールの部屋の掃除は今でも自分の仕事であるという点を監視するのだった。あるとき、母親がグレゴールの部屋の大掃除を企てた。母親はただ二、三杯のバケツの水を使うことだけでその掃除をやり終えることができた。――とはいっても、部屋がびしょぬれになってグレゴールは機嫌をそこねてしまい、ソファの上にどっかと、腹立たしげに身動きもしないで構えていた――ところが、母親にその罰が訪れないではいなかった。というのは、夕方、妹がグレゴールの部屋の変化に気づくやいなや、彼女はひどく侮辱されたと感じて居間にかけこみ、母親が両手を高く上げて嘆願するにもかかわらず、身をふるわせて泣き始めた。両親は――父親はむろん安楽椅子からびっくりして跳ね起きたのだった――はじめはそれにびっくりして、途方にくれてながめていたが、ついに二人も動き出した。右側では父親が、グレゴールの部屋の掃除は妹にまかせておかなかったというので母親を責めるし、左側では妹のほうが、もう二度とグレゴールの部屋の掃除はしてやらないとわめく。母親は、興奮してわれを忘れている父親を寝室へひきずっていこうとする。妹は泣きじゃくって身体をふるわせながら、小さな拳でテーブルをどんどんたたく。そしてグレゴールは、ドアを閉めて、自分にこんな光景とさわぎとを見せないようにしようとだれも思いつかないことに腹を立てて、大きな音を出してしっしっというのだった。
 しかし、たとい妹が勤めで疲れきってしまい、以前のようにグレゴールの世話をすることにあきあきしてしまっても、母親はけっして妹のかわりをする必要はないし、グレゴールもほったらかしにされる心配はなかったろう。というのは、今では例の手伝い婆さんがいたのだ。長い一生をそのたくましい骨太の身体の助けで切り抜けてきたように見えるこの後家婆さんは、グレゴールをそれほど嫌わなかった。あるとき、別に好奇心に駆られたというのでもなく、偶然、グレゴールの部屋のドアを開け、だれも追い立てるわけでもないのにひどく驚いてしまったグレゴールがあちこちとはい廻り始めたのをながめると、両手を腹の上に合わせてぽかんと立ちどまっているのだった。それ以来、つねに朝晩ちょっとのあいだドアを少しばかり開けて、グレゴールのほうをのぞきこむことを忘れなかった。はじめのうちは、グレゴールを自分のほうに呼ぼうとするのだった。それには、「こっちへおいで、かぶと虫のじいさん!」とか、「ちょっとあのかぶと虫のじいさんをごらんよ」とか、おそらく婆さんが親しげなものと考えているらしい言葉をかけてくるのだ。こうした呼びかけに対してグレゴールは全然返事をせずに、ドアがまったく開けられなかったかのように、自分の居場所から動かなかった。この手伝い婆さんに気まぐれで役にも立たぬじゃまなんかさせていないで、むしろ彼の部屋を毎日掃除するように命じたほうがよかったろうに――ある早朝のこと――はげしい雨がガラス窓を打っていた。おそらくすでに春が近いしるしだろう――手伝い婆さんがまた例の呼びかけを始めたとき、グレゴールはすっかり腹を立てたので、たしかにのろのろとおぼつかなげにではあったが、婆さんに向って攻撃の身構えを見せた。ところが、手伝い婆さんは恐れもせずに、ただドアのすぐ近くにあった椅子を高く振り上げた。大きく口を開けて立ちはだかっている様子を見ると、手にした椅子がグレゴールの背中に振り下ろされたらはじめて口をふさぐつもりなのだ、ということを明らかに示していた。「それじゃあ、それっきりなのかい」と、グレゴールがまた向きなおるのを見て言い、椅子をおとなしく部屋の片隅にもどした。
 グレゴールは今ではもうほとんど何も食べなくなっていた。ただ、用意された食べもののそばを偶然通り過ぎるときにだけ、遊び半分に一かけ口のなかに入れるが、何時間でも口のなかに入れておいて、それからたいていは吐き出すのだ。はじめは、彼に食事をさせなくしているのは、この部屋の状態を悲しむ気持からだ、と考えていたが、部屋がいろいろ変わることにはすぐに慣れてしまった。ほかのところには置くことができない品物はこの部屋に置くという習慣になってしまっていたが、そうした品物はたくさんあった。住居の一室を三人の男の下宿人に貸したからだった。このきまじめな人たちは――グレゴールがあるときドアのすきまから確認したところによると、三人とも顔じゅう髯を生やしていた――ひどく整頓が好きで、ただ自分たちの部屋ばかりではなく、ひとたびこの家に間借りするようになったからには、家全体について、ことに台所での整頓のことに気をくばった。不必要なものや汚ないがらくたには我慢できなかった。その上、彼らは調度品の大部分は自分たちのものをもってきていた。そのために多くの品物は不要となったが、それらは売るわけにもいかないし、さりとて捨ててしまいたくもないのだった。そうした品物がみなグレゴールの部屋に移されてきた。そんなふうにして、灰捨て箱とくず箱とが台所からやってきた。およそ今のところ不要なものは、いつでもひどくせっかちな手伝い婆さんが簡単にグレゴールの部屋へ投げ入れてしまう。ありがたいことに、グレゴールにはたいていは運ばれてくる品物とそれをもっている手としか見えなかった。手伝い婆さんはおそらく、いつか機会を見てそれらの品物をまた取りにくるか、あるいは全部を一まとめにして投げ捨てるかするつもりだったのだろうが、実際にはそれらを最初投げ入れた場所にほうりぱなしにしておいた。しかし、グレゴールはがらくたがじゃまになって、まがりくねって歩かなければならなかったので、それを動かすことがあった。はじめはそうしないとはい廻る場所がなくなるのでしかたなしにやったのだが、のちにはだんだんそれが面白くなったのだった。そうはいうものの、そんなふうにはい廻ったあとでは死ぬほど疲れてしまって悲しくなり、またもや何時間も動かないでいるのだった。
 下宿人たちはときどき夕食も家で共同の居間で取るのだった。そのため居間のドアは多くの晩に閉ざされたままだ。だが、グレゴールはドアを開けるということをまったく気軽にあきらめた。ドアが開いている多くの晩でさえも、それを十分に利用しないでいて、家族には気づかれずに自分の部屋のいちばん暗い片隅に横たわっていた。ところが、あるとき、手伝い婆さんが居間へ通じるドアを少しばかり開け放しにした。下宿人たちが晩方入ってきて、明りをつけたときにも、ドアは開いたままだった。三人はテーブルのかみ手に坐った。以前は父親と母親とグレゴールとが坐った場所だ。そして三人はナプキンを拡げ、ナイフとフォークとを手に取った。すぐにドアのところに肉の皿をもった母親が現われ、彼女のすぐあとから妹が山盛りのじゃがいもの皿をもって現われた。食べものはもうもうと湯気を立てていた。下宿人たちは食べる前に調べようとするかのように、自分たちの眼の前に置かれた皿の上へ身をかがめた。そして実際、まんなかに坐っていて、ほかの二人には権威をもっているように見える男が、皿の上で一片の肉を切った。それが十分柔かいかどうか、台所へ突っ返さなくてもよいかどうか、たしかめようとしているらしかった。しかし、その男が満足したので、緊張してながめていた母親と妹とは、ほっと息をついて微笑し始めた。
 家族の者たち自身は台所で食事をした。それでも父親は台所へいく前にこの部屋へ入っていき、一回だけお辞儀をすると、制帽を手にもち、テーブルのまわりをぐるりと廻る。下宿人たちはみんな立ち上がって、髯のなかで何かをつぶやく。つぎに彼らだけになると、ほとんど完全な沈黙のうちに食事をする。食事中のあらゆる物音からたえずものをかむ歯の音が聞こえてくることが、グレゴールには奇妙に思われた。まるで食べるためには歯が必要であり、いくらりっぱでも歯のない顎《あご》ではどうすることもできないということをグレゴールに示そうとするかのようだった。グレゴールは心配そうに自分に言い聞かせた。
「おれは食欲があるが、あんなものはいやだ。あの人たちはものを食べて栄養を取っているのに、おれは死ぬのだ!」
 まさにその夜のことだったが――あれからずっと、グレゴールはヴァイオリンの音を聞いたおぼえがなかった――ヴァイオリンの音が台所から聞こえてきた。下宿人たちはもう夕食を終え、まんなかの男が新聞を引っ張り出し、ほかの二人に一枚ずつ渡した。そして、三人とも椅子にもたれて読み、煙草をふかしていた。ヴァイオリンが鳴り始めると、三人はそれに気づき、立ち上がって、爪立ちで歩いて玄関の間へいき、そこで身体をよせたまま立ちつづけていた。台所にいても彼らの物音が聞こえたらしい。父親がこう叫んだ。
「みなさんにはヴァイオリンの音がお気にさわるんではありませんか。なんならすぐやめさせますが」
「どうしまして」と、まんなかの男がいった。
「お嬢さんはわれわれのところにこられて、この部屋で弾かれたらどうです? こちらのほうがずっといいし、気持もいいですよ」
「それでは、そう願いますか」と、父親はまるで自分がヴァイオリンを弾いているかのように答えた。三人は部屋にもどって待っていた。まもなく父親は譜面台をもち、母親は楽譜を、妹はヴァイオリンをもってやってきた。妹は落ちついて演奏の準備をすっかりすませた。両親はこれまで一度も間貸しをしたことがなく、そのために下宿人たちに対する礼儀の度を超していたが、自分たちの椅子に坐ろうとはけっしてしなかった。父親はドアにもたれ、きちんとボタンをかけた制服の上衣のボタン二つのあいだに右手をさし入れていた。母親のほうは下宿人の一人に椅子をすすめられ、その人が偶然すすめた椅子が部屋のわきのほうの片隅にあったので、そこに坐りつづけていた。
 妹は弾き始めた。父親と母親とはそれぞれ自分のいる位置から注意深く妹の両手の動きを目で追っていた。グレゴールは演奏にひきつけられて少しばかり前へのり出し、もう頭を居間へ突っこんでいた。最初は自分が他人のことをもう顧慮しなくなっていることが、彼にはほとんどふしぎに思われなかった。以前には、この他人への顧慮ということが彼の誇りだった。しかも、彼は今こそいっそう自分の身を隠していい理由をもっていた。というのは、部屋のなかのいたるところに横たわっているごみが、ちょっとでも身体を動かすと舞い上がり、そのごみをすっかり身体にかぶっていた。糸くずとか髪の毛とか食べものの残りかすを背中やわき腹にくっつけてひきずって歩いているのだ。あらゆることに対する彼の無関心はあまりに大きいので、以前のように一日に何度も仰向けになって、絨毯に身体をこすりつけることもしなくなっていた。こんな状態であるにもかかわらず、少しも気おくれを感じないで、非の打ちどころのないほど掃除のゆきとどいている居間の床の上へ少しばかり乗り出していった。
 とはいえ、ほかの人たちのほうも彼に気づく者はいなかった。家族の者はすっかりヴァイオリンの演奏に気を取られていた。それに反して、下宿人たちははじめは両手をポケットに突っこんで、妹の譜面台のすぐ近くに席を占めていた。あまりに近いので三人とも楽譜をのぞきこめるくらいだった。そんなことをやったら、妹のじゃまになったことだろう。ところが、やがて低い声で話し合いながら、頭を垂れたまま窓のほうへ退いていった。父親が心配そうに見守るうちに、彼らはその窓ぎわにとどまっていた。すばらしい、あるいは楽しいヴァイオリン演奏を聞くつもりなのが失望させられ、演奏全体にあきあきして、ただ儀礼から我慢しておとなしくしているのだということは、実際見ただけではっきりわかることだった。ことに、三人が鼻と口とから葉巻の煙を高く吹き出しているやりかたは、ひどくいらいらしているのだということを推量させた。しかし、妹はとても美しく弾いていた。彼女の顔は少しわきに傾けられており、視線は調べるように、また悲しげに楽譜の行を追っている。グレゴールはさらに少しばかり前へはい出し、頭を床にぴったりつけて、できるなら彼女の視線とぶつかってやろうとした。音楽にこんなに心を奪われていても、彼は動物なのだろうか。彼にはあこがれていた未知の心の糧《かて》への道が示されているように思えた。妹のところまで進み出て、彼女のスカートを引っ張って、それによってヴァイオリンをもって自分の部屋へきてもらいたいとほのめかそう、と決心した。というのは、ここにいるだれ一人として、彼がしたいと思っているほど彼女の音楽に応《こた》える者はいないのだ。彼はもう妹を自分の部屋から出したくなかった。少なくとも自分が生きているあいだは、出したくなかった。彼の恐ろしい姿ははじめて彼の役に立つだろうと思われた。自分の部屋のどのドアも同時に見張っていて、侵入してくる者たちにほえついてやるつもりだ。だが、妹はしいられてではなく、自由意志で自分のところにとどまらなければならない。ソファの上で彼のわきに坐り、耳を彼のほうに傾けてくれるのだ。そこで彼は妹に、自分は妹を音楽学校に入れることにはっきり心をきめていたのであり、もしそのあいだにこんな事故が起こらなかったならば、去年のクリスマスに――クリスマスはやっぱりもう過ぎてしまったのだろうか――どんな反対も意に介することなくみんなにいっていたことだろう、と打ち明けてやる。こう説明してやれば、妹は感動の涙でわっと泣き出すことだろう。そこでグレゴールは彼女の肩のところまでのび上がって、首に接吻してやるのだ。店へいくようになってからは、妹はリボンもカラーもつけないで首を丸出しにしているのだった。
「ザムザさん!」と、まんなかの男が父親に向って叫び、それ以上は何もいわずに、人差指でゆっくりと前進してくるグレゴールをさし示した。ヴァイオリンの音がやみ、まんなかの下宿人ははじめは頭を振って二人の友人ににやりと笑って見せたが、つぎにふたたびグレゴールを見やった。父親は、グレゴールを追い払うかわりに、まず下宿人たちをなだめることのほうがいっそう必要だと考えているようであった。とはいっても、三人は全然興奮なんかしていないし、グレゴールのほうがヴァイオリンの演奏よりも彼らを面白がらせているように見えた。父親は三人のほうに急いでいき、両腕を拡げて彼らの部屋へ押しもどそうとし、同時に、自分の身体でグレゴールの姿が見えなくなるようにしようとした。今度は三人がほんとうに少しばかり気を悪くした。父親の態度に気を悪くしたのか、グレゴールのような隣室の住人がいるものとは知らなかったのに、今やっとそれがわかってきたことに気を悪くしたのか、それはもうなんともいえなかった。三人は父親に説明を求め、三人のほうで腕を振り上げ、落ちつかなげに髯を引っ張り、ほんのゆっくりした歩みで自分たちの部屋のほうへ退いていった。そうしているあいだに、突然演奏をやめて放心状態でいた妹はやっと正気を取りもどし、しばらくのあいだだらりと垂れた両手にヴァイオリンと弓とをもって、まだ演奏しているかのように楽譜をながめつづけていたが、突然身を起こすと、はげしい肺の活動をともなう呼吸困難に陥ってまだ自分の椅子に坐っていた母親の膝の上に楽器を置き、隣室へとかけこんでいった。三人の下宿人たちは、父親に押しまくられてすでにさっきよりは早い足取りでその部屋へ近づいていた。妹が慣れた手つきでベッドのふとんや枕を高く飛ばしながら寝具の用意を整えるのが見えた。三人が部屋へたどりつくよりも前に、妹はベッドの用意をすませてしまい、ひらりと部屋から脱け出ていた。父親はまたもや気ままな性分にすっかりとらえられてしまったらしく、ともかく下宿人に対して払わなければならないはずの敬意を忘れてしまった。彼は三人をただ押しまくっていったが、最後に部屋のドアのところでまんなかの人が足を踏み鳴らしたので、父親はやっととまった。
「私はここにはっきりというが」と、その人は片手を挙げ、眼で母親と妹とを探した。「この住居および家族のうちに支配しているいとわしい事情を考えて」――ここでとっさの決心をして床につばを吐いた――「私の部屋をただちに出ていくことを通告します。むろん、これまでの間借料も全然支払いません。それに反して、きわめて容易に理由づけることができるはずのなんらかの損害賠償要求をもって――いいですかな――あなたを告訴すべきものかどうか、考えてみるつもりです」彼は沈黙して、まるで何かを待ちかまえているかのように自分の前を見つめていた。
「われわれもただちに出ていきます」と、はたして彼の二人の友人もすぐさま口を出した。まんなかの男はドアの取手をつかみ、ばたんと音を立ててドアを閉めた。
 父親は手探りで自分の椅子までよろめいていき、どかりと腰を下ろした。まるでいつものように晩の居眠りをするために手足をのばしたように見えた。だが、ぐらぐらする頭が強くうなずいていることで、彼が全然眠っていないことがわかった。グレゴールはこうしたことが行われるあいだじゅう、下宿人たちが彼を見つけた場所にじっととどまっていた。自分の計画の失敗に対する失望と、またおそらくはあまりに空腹をつづけたことから起った衰弱とのために、身体を動かすことができなかった。彼はつぎの瞬間にはどっといろいろなものが墜落してくるだろう、と早くもある確信をもって恐れ、それを待ちかまえていた。ヴァイオリンが母親のふるえる指のあいだをすべって膝から床へと落ち、がたんと響きを立てたことも、彼をびっくりさせて動き出させることは全然なかった。
「お父さん、お母さん」と、妹はいって、話に入る前に手でテーブルを打った。「もうこれまでだわ。あなたがたはおそらくわからないのでしょうが、わたしにはわかります。こんな怪物の前で兄さんの名前なんかいいたくはないわ。だから、わたしたちはこいつから離れようとしなければならない、とだけいうわ。こいつの世話をし、我慢するために、人間としてできるだけのことをやろうとしてきたじゃないの。だれだって少しでもわたしたちを非難することはできないと思うわ」
「これのいうのはまったくもっともだ」と、父親はつぶやいた。まだ十分に息をつけないでいる母親は、狂ったような目つきをして、口に手を当てて低い音を立てながら咳をし始めた。
 妹は母親のところへ急いでいき、彼女の額を支えてやった。父親は妹の言葉を聞いて、何か考えがきまったように見えた。身体をまっすぐにして坐ると、下宿人たちの夕食からまだテーブルの上に置き放しになっている皿のあいだで小使の制帽をもてあそんでいたが、ときどきじっとしているグレゴールの上に視線を投げている。
「わたしたちはこいつから離れなければならないのよ」と、妹はもっぱら父親に向っていった。母親のほうは咳《せ》きこんで何も聞こえないのだ。
「こいつはお父さんとお母さんとを殺してしまうわ。そうなることがわたしにはわかっています。わたしたちみんなのように、こんなに苦労して働かなければならないときには、その上に、家でもこんな永久につづく悩みなんか辛抱できないわ。わたしももう辛抱できないわ」そして、彼女ははげしく泣き始めたので、涙が母親の顔の上にかかった。妹は機械的に手を動かしてその涙をぬぐってやった。
「お前」と、父親は同情をこめ、まったくそのとおりだというような調子でいった。「でも、どうしたらいいんだろうな?」
 妹は、途方にくれていることを示すために肩をすぼめた。泣いているあいだに、さっきの断固とした態度とは反対に、どうしていいのかわからなくなっていたのだった。
「あいつがわれわれのことをわかってくれたら」と、父親は半ばたずねるようにいった。妹は泣きながらはげしく手を振った。そんなことは考えられない、ということを示すものだった。
「あいつがわれわれのことをわかってくれたら」と、父親はくり返して、眼を閉じ、そんなことはありえないという妹の確信を自分でも受け容れていた。「そうしたらおそらくあいつと話をつけることができるんだろうが。だが、こんなふうじゃあねえ――」
「あいつはいなくならなければならないのよ」と、妹は叫んだ。「それがただ一つの手段よ。あいつがグレゴールだなんていう考えから離れようとしさえすればいいんだわ。そんなことをこんなに長いあいだ信じていたことが、わたしたちのほんとうの不幸だったんだわ。でも、あいつがグレゴールだなんていうことがどうしてありうるでしょう。もしあいつがグレゴールだったら、人間たちがこんな動物といっしょに暮らすことは不可能だって、とっくに見抜いていたでしょうし、自分から進んで出ていってしまったことでしょう。そうなったら、わたしたちにはお兄さんがいなくなったでしょうけれど、わたしたちは生き延びていくことができ、お兄さんの思い出を大切にしまっておくことができたでしょう。ところが、この動物はわたしたちを追いかけ、下宿人たちを追い出すのだわ。きっと住居全体を占領し、わたしたちに通りで夜を明かさせるつもりなのよ。ちょっとみてごらんなさい、お父さん」と、妹は突然叫んだ。「またやり出したわよ!」
 そして、グレゴールにもまったくわからないような恐怖に襲われて、妹は母親さえも離れ、まるで、グレゴールのそばにいるよりは母親を犠牲にしたほうがましだといわんばかりに、どう見ても母親を椅子から突きとばしてしまい、父親のうしろへ急いで逃げていった。父親もただ娘の態度を見ただけで興奮してしまい、自分でも立ち上がると、妹をかばおうとするかのように両腕を彼女の前に半ば挙げた。
 しかし、グレゴールは、だれかを、まして妹を不安に陥れようなどとは考えてもみなかった。彼はただ、自分の部屋へもどっていこうとして、身体の向きを変え始めていただけだった。そうはいっても、その動作がひどく目立った。今の苦しい状態のために、困難な回転をやる場合に頭の助けを借りなければならなかったからだ。そこで頭を何度ももたげては、床に打ちつけた。彼はじっととまって、あたりを見廻した。彼の善意はみとめられたようだった。人びとはただ一瞬ぎょっとしただけだった。そこでみんなは、沈黙したまま、悲しげに彼をじっと見つめた。母親は両脚をぴったりつけたまま前へのばして、椅子に坐っていた。疲労のあまり、眼がほとんど自然に閉じそうだった。父親と妹とは並んで坐り、妹は片手を父親の首に廻していた。
「これでもう向きを変えてもいいだろう」と、グレゴールは考えて、彼の仕事にまた取りかかった。骨が折れるために息がはあはあいうのを抑えることはできなかった。そこで、ときどき休まないではいられなかった。ところで、彼を追い立てる者はいなかった。万事は彼自身のやるがままにまかせられた。回転をやり終えると、すぐにまっすぐにはいもどり始めた。自分と自分の部屋とを距てている距離が大きいことにびっくりした。そして、身体が衰弱しているのにどうしてついさっきはこの同じ道を、こんなに遠いとはほとんど気づかないではっていけたのか、理解できなかった。しょっちゅうただ早くはっていくことだけを考えて、家族の者が言葉や叫び声をかけて彼をじゃますることはない、というのには気づかなかった。もうドアのところにまで達したときになってやっと、頭を振り返らせてみた。完全に振り返ったのではない。というのは、首がこわばっているのを感じたのだった。ともあれ、自分の背後では何一つ変化が起っていないことを見て取った。ただ妹だけが立ち上がっていた。彼の最後の視線が母親の上をかすめた。母親はもう完全に眠りこけていた。
 自分の部屋へ入るやいなや、ドアが大急ぎで閉められ、しっかりととめ金がかけられ、閉鎖された。背後に突然起った大きな物音にグレゴールはひどくびっくりしたので、小さな脚ががくりとした。あんなに急いだのは妹だった。もう立ち上がって待っていて、つぎにさっと飛んできたのだった。グレゴールには妹がやってくる足音は全然聞こえなかった。ドアの鍵を廻しながら、「とうとうこれで!」と、妹は叫んだ。
「さて、これで?」と、グレゴールは自分にたずね、暗闇《くらやみ》のなかであたりを見廻した。まもなく、自分がもうまったく動くことができなくなっていることを発見した。それもふしぎには思わなかった。むしろ、自分がこれまで実際にこのかぼそい脚で身体をひきずってこられたことが不自然に思われた。ともかく割合に身体の工合はいいように感じられた。なるほど身体全体に痛みがあったが、それもだんだん弱くなっていき、最後にはすっかり消えるだろう、と思われた。柔かいほこりにすっかり被われている背中の腐ったリンゴと炎症を起こしている部分とは、ほとんど感じられなかった。感動と愛情とをこめて家族のことを考えた。自分が消えてしまわなければならないのだという彼の考えは、おそらく妹の意見よりももっと決定的なものだった。こんなふうに空虚なみちたりたもの思いの状態をつづけていたが、ついに塔の時計が朝の三時を打った。窓の外ではあたりが明るくなり始めたのを彼はまだ感じた。それから、頭が意に反してすっかりがくりと沈んだ。彼の鼻孔《びこう》からは最後の息がもれて出た。
 朝早く手伝い婆さんがやってきたとき――いくらそんなことをやらないでくれと頼んでも、力いっぱいに大急ぎでどのドアもばたんばたんと閉めるので、この女がやってくると、家じゅうの者はもう静かに眠っていることはできなかった――いつものようにちょっとグレゴールの部屋をのぞいたが、はじめは別に異常をみとめなかった。グレゴールはわざとそんなふうに身動きもしないで横たわって、ふてくされて見せているのだ、と手伝い婆さんは思った。彼女はグレゴールがありとあらゆる分別をもっているものと思っていた。たまたま長い箒を手にもっていたので、ドアのところからそれでグレゴールをくすぐろうとした。ところがなんのききめも現われないので、怒ってしまい、グレゴールの身体を少しつついた。彼がなんの抵抗も示さずに寝ているところからずるずると押しやられていったときになってはじめて、女はおかしいな、と思った。まもなく真相を知ると眼を丸くし、思わず口笛のような音を出したが、たいしてそこにとどまってはいず、寝室のドアをさっと開いて、大きな声で暗闇に向って叫んだ。
「ちょっとごらんなさいよ。のびていますよ。ねていますよ。すっかりのびてしまっていますよ!」
 ザムザ夫妻はダブル・ベッドの上にまっすぐに身体を起こし、手伝い婆さんのいうことがわかるより前に、まずこの女にびっくりさせられた気持をしずめなければならなかった。だが、事情がのみこめると夫婦はそれぞれ自分の寝ていた側から急いでベッドを下りた。ザムザ氏は毛布を肩にかけ、ザムザ夫人はただ寝巻のままの姿で出てきた。二人はそんな恰好でグレゴールの部屋へ入っていった。そのあいだに、下宿人がやってきて以来グレーテが寝るようになった居間のドアも開けられた。グレーテは全然眠らなかったように、完全な身支度をしていた。彼女の蒼い顔も、眠っていないことを証明しているように思われた。
「死んだの?」と、ザムザ夫人はいって、たずねるように手伝い婆さんを見上げた。とはいっても自分で調べることができるし、また調べなくともわかることだった。
「そうだと思いますね」と、手伝い婆さんはいって、それを証明するためにグレゴールの死骸を箒でかなりの距離押してやった。ザムザ夫人は、箒を押しとめようとするような動作をちょっと見せたが、実際にはそうはしなかった。
「これで」と、ザムザ氏がいった。「神様に感謝できる」
 彼は十字をきった。三人の女たちも彼のやるとおり見ならった。死骸から眼を放さないでいたグレーテがいった。
「ごらんなさいな。なんてやせていたんでしょう。もう長いこと全然食べなかったんですものね。食べものは入れてやったときのままで出てきたんですもの」
 事実、グレゴールの身体はまったくぺしゃんこでひからびていて、もう小さな脚では身体がもち上げられなくなり、そのほかの点でも人の注意をそらすようなものがまったくなくなってしまった今になってやっと、そのことがわかるのだった。
「グレーテ、ちょっとわたしたちの部屋へおいで」と、ザムザ夫人は悲しげな微笑を浮かべていった。グレーテは死骸のほうを振り返らないではいられなかったが、両親につづいて寝室へ入っていった。手伝い婆さんはドアを閉め、窓をすっかり開けた。朝が早いにもかかわらず、すがすがしい空気にはすでにいくらかなま暖かさがまじっていた。もう三月の末だった。
 三人の下宿人が自分たちの部屋から出てきて、びっくりしたように自分たちの朝食を探してあたりをきょろきょろ見廻した。朝食の用意は忘れられていた。
「朝食はどこにあるんだ?」と、まんなかの人がぶつぶつ言いながら手伝い婆さんにたずねた。ところが婆さんは口に指をあてて、黙ったまま急いで、グレゴールの部屋へいってみるように、という合図をしてみせた。三人はいわれたとおりに部屋へいき、いくらかくたびれた上衣のポケットに両手を突っこんだまま、今ではもう明るくなった部屋のなかでグレゴールの死骸のまわりに立った。
 そのとき寝室のドアが開いて、制服姿のザムザ氏が現われ、一方の腕で妻を抱き、もう一方の腕で娘を抱いていた。みんな少し泣いたあとだった。グレーテはときどき顔を父親の腕に押しつけた。
「すぐ私の家を出ていっていただきましょう!」と、ザムザ氏はいって、二人の女を身体から離さないでドアを指さした。
「それはどういう意味なんです?」と、まんなかの人は少し驚きながらいって、やさしそうな微笑をもらした。ほかの二人は両手を背中に廻して、たえずこすっている。まるで自分たちに有利な結果に終わるにきまっている大きな争いをうれしがって待ちかまえているようだった。
「今申しているとおりの意味です」と、ザムザ氏は答え、二人の女と一直線に並んで下宿人たちのほうへ近づいていった。例の人ははじめのうちはじっと立ったまま、事柄を頭のなかでまとめて新しく整理しようとするかのように、床を見つめていた。
「それでは出ていきましょう」と、いったが、ザムザ氏を見上げた。まるで突然襲われたへりくだった気持でこの決心にさえ新しい許可を求めているかのようだった。ザムザ氏は大きな眼をしてただ何度かうなずいて見せるだけだった。それからその人はほんとうにすぐ大股で玄関の間へと歩いていった。二人の友人はしばらく両手の動きをすっかりとめたまま聞き耳を立てていたが、例の人のあとを追って飛んでいった。まるでザムザ氏が自分たちより前に玄関の間に入って、自分たちの指導者である例の人との連絡をじゃまするかもしれないと不安に思っているようであった。玄関の間で三人はそろって衣裳かけから帽子を取り、ステッキ立てからステッキを抜き出し、無言のままお辞儀をして、住居を出ていった。すぐわかったがまったくいわれのない不信の念を抱きながら、ザムザ氏は二人の女をつれて玄関口のたたきまで出ていった。そして、三人がゆっくりとではあるが、しかししっかりとした足取りで長い階段を降りていき、一階ごとに階段部の一定の曲り角へくると姿が消え、そしてまたすぐに現われてくるのを、手すりにもたれてながめていた。下へ降りていくにつれて、それだけザムザ家の関心は薄らいでいった。この三人に向って、そしてつぎには三人の頭上高く一人の肉屋の小僧が頭の上に荷をのせて誇らしげな態度でのぼってきたとき、ザムザ氏は女たちをつれて手すりから離れ、まるで気が軽くなったような様子で自分たちの住居へもどっていった。
 彼らは今日という日は休息と散歩とに使おうと決心した。こういうふうに仕事を中断するには十分な理由があったばかりでなく、またそうすることがどうしても必要だった。そこでテーブルに坐って三通の欠勤届を書いた。ザムザ氏は銀行の重役宛に、ザムザ夫人は内職の注文をしてくれる人宛に、そしてグレーテは店主宛に書いた。書いているあいだに手伝い婆さんが入ってきた。もう帰ると言いにきたのだった。というのは、朝の仕事は終っていた。届を書いていた三人ははじめはただうなずいてみせるだけで眼を上げなかったが、手伝い婆さんがまだその場を離れようとしないので、やっと怒ったように見上げた。
「何か用かね?」と、ザムザ氏がたずねた。手伝い婆さんは微笑しながらドアのところに立っていたが、家族の者たちに大きな幸福について知らせてやることがあるのだが、徹底的にたずねてくれなければ知らせてはやらない、といわんばかりであった。帽子の上にほとんどまっすぐに立っている小さな駝鳥《だちょう》の羽根飾りは、彼女が勤めるようになってからザムザ氏が腹を立てていたものだが、それが緩やかに四方へゆれている。
「で、いったいどんな用なの?」と、ザムザ夫人がたずねた。手伝い婆さんはそれでもこの夫人をいちばん尊敬していた。
「はい」と、手伝い婆さんは答えたが、親しげな笑いのためにすぐには話せないでいる。「隣りのものを取り片づけることについては、心配する必要はありません。もう片づいています」
 ザムザ夫人とグレーテとはまた書きつづけようとするかのように手紙にかがみこんだ。ザムザ氏は、手伝い婆さんがいっさいをくわしく説明し始めようとしているのに気づいて、手をのばして断固として拒絶するということを示した。女は話すことが許されなかったので、自分がひどく急がなければならないことを思い出し、侮辱されたように感じたらしく「さよなら、みなさん」と叫ぶと、乱暴に向きなおって、ひどい音を立ててドアを閉め、住居を出ていった。
「夕方、あの女にひまをやろう」と、ザムザ氏はいったが、妻からも娘からも返事をもらわなかった。というのは、手伝い婆さんがこの二人のやっと得たばかりの落ちつきをまたかき乱してしまったらしかった。二人は立ち上がって、窓のところへいき、抱き合って立っていた。ザムザ氏は彼の椅子に腰かけたまま二人のほうを振り返って、しばらくじっと二人を見ていた。それから叫んだ。
「さあ、こっちへこいよ。もう古いことは捨て去るのだ。そして、少しはおれのことも心配してくれよ」
 すぐ二人の女は彼のいうことを聞き、彼のところへもどって、彼を愛撫《あいぶ》し、急いで欠勤届を書いた。
 それから三人はそろって住居を出た。もう何カ月もなかったことだ。それから電車で郊外へ出た。彼ら三人しか客が乗っていない電車には、暖かい陽がふり注いでいた。三人は座席にゆっくりともたれながら、未来の見込みをあれこれと相談し合った。そして、これから先のこともよく考えてみるとけっして悪くはないということがわかった。というのは、三人の仕事は、ほんとうはそれらについておたがいにたずね合ったことは全然なかったのだが、まったく恵まれたものであり、ことにこれからあと大いに有望なものだった。状態をさしあたりもっとも大幅に改善することは、むろん住居を変えることによってできるにちがいなかった。彼らは、グレゴールが探し出した現在の住居よりももっと狭くて家賃の安い、しかしもっといい場所にある、そしてもっと実用的な住居をもとうと思った。こんな話をしているあいだに、ザムザ夫妻はだんだんと元気になっていく娘をながめながら、頬の色も蒼《あお》ざめたほどのあらゆる心労にもかかわらず、彼女が最近ではめっきりと美しくふくよかな娘になっていた、ということにほとんど同時に気づいたのだった。いよいよ無口になりながら、そしてほとんど無意識のうちに視線でたがいに相手の気持をわかり合いながら、りっぱなおむこさんを彼女のために探してやることを考えていた。目的地の停留場で娘がまっさきに立ち上がって、その若々しい身体をぐっとのばしたとき、老夫妻にはそれが自分たちの新しい夢と善意とを裏書きするもののように思われた。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
入力:kompass
校正:青空文庫
2010年11月28日作成
2012年7月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

原田義人

判決    DAS URTEIL  フランツ・カフカ Franz Kafka ——-原田義人訳

 すばらしく美しい春の、ある日曜日の午前のことだった。若い商人のゲオルク・ベンデマンは二階にある彼の私室に坐っていた。その家は、ほとんど高さと壁の色とだけしかちがわず、川に沿って長い列をつくって立ち並んでいる、屋根の低い、簡単なつくりの家々のうちの一軒である。彼はちょうど、外国にいる幼な友達に宛てた手紙を書き終えたばかりで、遊び半分のようにゆっくりと封筒の封をし、それから机に肘《ひじ》をついたまま、窓越しに川をながめ、橋と、浅緑に色づいている対岸の小高い丘とをながめた。
 この友達というのが、故郷での暮しに満足できず、すでに何年か前にロシアへ本格的に逃げ去っていったことを、彼は考えていた。今、その友人はペテルスブルクで商売をやっているが、最初はとても有望のようであったその商売も、ずっと前からすでにゆきづまっている様子で、こちらへ帰ってくることもだんだんとまれになってきているが、いつでもそれをこぼしていた。異国の空の下でむだにあくせく働いたわけで、顎や頬《ほお》いちめんの異様な髯《ひげ》が、子供のころから見慣《みな》れた顔をなんともぶざまにおおっていた。黄色な顔の皮膚の色は進行しつつある病気を暗示しているようであった。彼の語るところによれば、かの地における同郷仲間ともしっくりいかないで、かといってロシア人の家庭ともほとんどつき合いをしているわけでもなく、覚悟をきめた独身生活を固めているということだった。
 どうやら道に迷ってしまったらしいこんな男、気の毒とは思うが助けてやることのできないこんな男に、なにを書いてやろうというのか。また故郷へ帰り、生活をこちらへ移し、昔の友人関係とよりをもどして――そのためには実際、障害は全然ないのだ――、さらには友人たちの助力を信頼するように、などと忠告すべきだろうか。だが、そんなことは同時に、いたわって書けば書くほどむこうの心を傷つける結果となり、君のこれまでのすべての試みは失敗したのだ、もうそんなものから手を引くべきだ、帰ってきて、もう去ることのない帰郷者としてすべての人びとに驚きの眼を見はらせて甘んじていなければならないのだ、友人たちだけはいくらか理解してくれよう、君は年とった子供なのだ、こちらにとどまって成功している友人たちに黙ってついていかなければならないのだ、といってやるのに等しい。ところで彼に加えられるにちがいないそうしたいっさいの苦しみは、はたしてほんとうになんかの役に立つものだろうか。たぶん、彼を帰郷させるなどということは、けっしてできない相談なのだ。――おれにはもう故郷の事情はさっぱりわからない、と彼自身がいったではないか。――それで彼はどうあろうと異郷にとどまることだろう、友人たちの忠告に不愉快な思いをし、友人たちといっそう疎遠になって。ところで、もしほんとうに忠告に従って帰郷し、郷里で――もちろんこれはわざとそうするわけではないが、さまざまな事実によって――抑圧され、友人たちのなかにあっても、また友人たちがいなくてもしっくりした気持にはなれず、恥辱の思いに悩み、今度はほんとうに故郷も友人もいないということにでもなれば、今のまま異郷にとどまるほうが彼のためにずっとよいのではなかろうか。こうした事情の下では、彼が故郷でほんとうに身を立てるなどと、いったい考えることができるであろうか。
 こうした理由から、たとい手紙のつながりをなおもきちんとつづけようと思っても、どんなに離れている知人たちにもはばかることなく書き送るようなほんとうの意味の通信をすることはできなかった。その友人はすでにこれで三年以上も故郷へきたことはなく、帰らないのはロシアの政治情勢の不安定のためにどうしてもやむをえぬことだ、と説明していた。そこでの政情不安は、十万にも及ぶロシア人が平気で世界を歩き廻っているのに、つまらない一商人のほんのしばらくの外国旅行さえも許さないということであった。ところでこの三年のあいだには、まさにゲオルクにとって多くの変化が起っていた。およそ二年前にゲオルクの母の死去ということがあり、それ以来ゲオルクは父と共同生活をしていたが、そのことは友人もたしかに聞かされて、一通の手紙にそっけない表現でくやみを述べてきたが、そんな調子で書いた理由はおそらく、こんなできごとの悲しみは異郷にあってはまったく想像しがたいものだ、というところにあったのであろう。ところでゲオルクは、そのとき以来、ほかのすべてのことと同じように、自分の商売にもかなりな決意をもって立ち向っていた。おそらく母の生前は、父が商売において自分の考えを通そうとして、ゲオルクのほんとうの独自の活動を妨げていたのであった。おそらく父は母の死後、相変らず商売で働いてはいたものの、前よりはひかえ目になり、またおそらくは――きわめてありうべきことであったが――さまざまな幸運な偶然がもっと重大な役割を演じたのだった。ともかく商売は、この二年間のあいだに、まったく思いもかけぬくらいに発展していた。社員の数は二倍にしないでいられなかったし、売上げは五倍にもなり、今後いっそうの発展も疑いなく予想できるのだった。
 ところが例の友人は、こうした変化を全然知らなかった。前に、おそらくいちばん近くは例のくやみ状においてであったが、ゲオルクにロシアへ移住するように説き伏せようとし、ほかならぬゲオルクの商店の支店がペテルスブルクにあるとしたときの見通しをこまごまと述べてきた。彼の述べている数字は、ゲオルクの商売がそのころ占めていた規模に比べると、まったく影の薄いようなわずかのものだった。しかしゲオルクは、自分の商売の成果について友人に書いてやる気にはなれなかった。そんなことを書けば、あとになった今では、ほんとうに奇妙なふうに見えたことであろう。
 そこでゲオルクは、友人にはいつもただ意味のないできごとだけを書いてやるにとどめていた。静かな日曜日に思いめぐらすと、記憶のうちにとりとめなく積み重なっていくようなできごとだけを書いてやったのだった。彼はただ、友人が長い間隔を置いて故郷の町についてきっと思い描いているにちがいないような、そしてそれで満足しているにちがいないような想像を乱さないでおこうと努めた。それでゲオルクがやったことといえば、一人のなんでもない男と一人の同じようになんでもない娘との婚約を、友人にかなり間を置いた手紙で三度知らせてやったことであるが、つまらない話といってもやがて友人は、ゲオルクの意図にはまったく反して、この出来ごとに興味を抱き始めたのだった。
 だがゲオルクは、自分が一カ月前にフリーダ・ブランデンフェルトという金持の家庭の娘と婚約したということを打ち明けるよりも、以上のようなつまらない話を書くほうがずっとよかった。彼は婚約者としばしばこの友人のことを話し、また自分とこの友人とのあいだに交わされている特別な文通関係についても話した。
「それじゃあ、そのかたは私たちの結婚式にとても来ては下さらないわね」と、彼女はいった。「でも私は、あなたのお友だちのだれともお知合いになる権利はあるんだけれど」
「ぼくはあの男の迷惑になりたくないんだ」と、ゲオルクは答えた。「ぼくのいうことをよくわかってくれたまえ。あの男は、いってやればきっとくるさ。少なくともぼくはそう信じている。でも、もしそんなことをいってやれば、あれは無理じいされ、傷つけられた感じがするだろう。おそらくぼくのことをうらやましいと思い、きっと不満を感じ、しかもその不満をけっして消し去ることもできないままに、ひとりぽっちでロシアへ帰っていくことになるだろう。ひとりぽっち――それがどんなことか、君にはわかるかい?」
「ええ、わかるわ。それなら、ほかの方法で私たちの結婚のことを知ってもらえないかしら?」
「そういうやりかたがいけないとは、ぼくもいわないよ。でも、あの男の生きかたからいうと、とてもできそうにもないな」
「ゲオルク、あなたにそんなお友だちがいらっしゃるなら、あなたは婚約なんかなさらなければよかったんだわ」
「そうだ。婚約したのはぼくたち二人の責任だ。でも、今となっては、もう婚約を解消する気はないな」そして、彼の接吻を浴びながら、女が息をはずませて、
「でもほんとうからいうと私、その人のことが気になってしかたがないわ」といったとき、友人にいっさいを知らせてやることはそれほどあぶなかしいことでもない、とほんとうに考えた。
「彼はありのままのぼくをそのまま受け入れてくれなければいけないのだ。今のぼくよりもおそらくは彼との友情にふさわしいかもしれない人間を、ぼくは自分のなかから切り捨てることはできない」と、自分にいって聞かせた。
 そして事実、彼はこの日曜日の午前に書いた長い手紙のなかで、成立した婚約のことをつぎのような言葉で知らせてやることにした。
「最大のニュースのことをぼくは最後まで取っておいた。ぼくはフリーダ・ブランデンフェルトという娘と婚約した。この人は金持の家庭の娘だ。その家庭は、君がここから去ってからずっとあとになって当地に住むことになったのだ。だから、君はこの家のことはほとんど知っていないはずだ。ぼくの婚約者についてもっとくわしいことを知らせる機会はあるだろう。きょうのところは、ぼくがほんとうに幸福であり、ぼくたち同士の間柄では、君がぼくのうちに今ではごくありふれた友人を持つばかりでなく、幸福な友人を持つことになるというだけのちがいしかないのだ、ということで満足してくれたまえ。さらに君は、ぼくの婚約者のうちに、一人の誠実な女友だちを持つことになるのだ。それは君のような独身者にとっては、けっして無意味なことではない。彼女は君に心からよろしくといっているし、近く君に手紙を書くだろう。君がぼくたちを訪ねてくれることにいろいろ妨げがあることは、ぼくも知っている。しかし、ぼくの結婚式は、あらゆる障害を一気に打ち破る絶好のチャンスではないだろうか。だが、それはどうあろうとも、どんな顧慮もなく、ただ君の本心に従って行動してくれたまえ」
 この手紙を手にして、ゲオルクは顔を窓に向けたまま、長いあいだ机に坐っていた。通りすがりに横町から会釈《えしゃく》した一人の知人に対しても彼は放心したような微笑でやっと答えただけだった。
 やがて彼はその手紙をポケットに入れ、部屋を出ると、小さな廊下を通って父の部屋へいった。もう何カ月かのあいだ、彼はその部屋へいったことがなかった。また、その必要も全然なかったのだった。というのは、彼は父とはいつでも店で出会っていたのだ。二人はある食堂で昼食を同時にとるのだった。晩は、二人とも好きなような行動をするのではあったが、そのあとではなおしばらく共同の居間に坐って、めいめいが新聞を読んで過ごした。もっとも、ゲオルクが友人たちといっしょにいることや、このごろでは婚約者が彼を訪ねることが、いちばん多いのではあった。
 こんな晴れわたった午前でさえ、父の部屋がまっ暗であることに、ゲオルクは驚いた。狭い中庭の向うにそびえている壁は、それほどの影を投げていた。父は、亡くなった母のさまざまな思い出の品に飾られている部屋の片隅の窓辺に坐り、いくらか衰えてしまった視力の弱さを補おうとして、新聞を目の前に斜めに構えて、読んでいた。机の上には朝食の残りがのっていたが、その朝食はたいして手がつけられていないように見えた。
「ああ、ゲオルクか!」と、父はいって、すぐ彼のほうに歩み寄ってきた。重たげな寝衣が、歩くときにはだけて、すそがひらひらした。――「おやじは相変らず大男だな」と、ゲオルクは思った。
「ここはまったくかなわないほど暗いですね」と、彼はいった。
「そうだ、もう暗くなった」と、父は答えた。
「窓も閉めてしまったんですね?」
「わしはそのほうがいいんだ」
「そとはほんとうに暖かですよ」と、ゲオルクは前の言葉につけたすようにいって、椅子に坐った。
 父は朝食の食器を片づけ、それを箱の上にのせた。
「じつはお父さんにお話があるんです」と、老父の動きをぼんやりと目で追いながらゲオルクは言葉をつづけた。「やはりペテルスブルクへぼくの婚約のことを知らせてやることにしました」彼は手紙をポケットから少し引き出したが、またポケットへ落した。
「ペテルスブルクへだって?」と、父がきいた。
「ぼくの友人へです」と、ゲオルクは言い、父の目をうかがった。――「おやじは店ではこんなじゃないんだが。ここではどっしり坐って両腕を胸の上で組んだりしている」と、ゲオルクは思った。
「ふん、お前の友人へね」と、父は言葉に力をこめていった。
「お父さんもご存じのように、ぼくは婚約のことをはじめは黙っていようと思ったのです。心づかいからで、そのほかの理由なんかありません。ご存じでしょう、あの男は気むずかしい人間ですから。あの男の孤独な生きかたからいってほとんどありそうもないことではありますが、ほかのところからぼくの婚約のことを知るかもしれない、とぼくは考えました。――それはぼくにはどうにもなりませんもの。――でも、ぼく自身からはあの男にけっして知らせまい、と思ったのです」
「それで、今はまた考えを変えたというのか」と、父はきき、大きな新聞を窓べりに置き、その上に眼鏡を置くと、片手でそれをおおった。
「そうです。今はまた考えが変ったのです。あの男がぼくの親友なら、ぼくの幸福な婚約はあの男にとっても幸福であるはずだ、とぼくは思いました。それでぼくは、知らせてやることをもうためらわなくなりました。でも、その手紙をポストへ入れる前に、お父さんにいっておこうと思ったのです」
「ゲオルク」と、父はいって、歯のない口を平たくした。「いいか。お前はこのことでわしに相談するために、わしのところへきた。それはたしかにいいことだ。だが、今わしにほんとうのことを洗いざらい言わないなら、なんにもなりゃしない。なんにもならぬというよりもっといけないことだ。わしは今の問題に関係ないことをむし返すつもりはない。だが、お母さんが死んでから、いろいろといやなことが起った。おそらくそういうことが起こる時がきたのかもしれないし、わしらが考えているのよりも早くその時がきているのかもしれない。商売でもいろいろなことがわしにはわからないままになっている。おそらくわしに隠してあるのではあるまい。――わしに隠してあるなんて、わしは全然思いたくないからな。――わしはもう元気がなくなったんだろう。記憶力も衰えたからな。わしはもうたくさんのことを全部見ている力がない。一つには年という自然の結果だし、もう一つにはお母さんの死んだことがお前よりもわしに強い打撃を与えたからだ。――それはともかく、今の問題、つまりその手紙のことだが、ゲオルク、わしをだまさないでくれ。ほんのちょっとしたことだし、息をつくほどのことでもないじゃないか。だから、わしをだまさないでくれ。いったい、そのペテルスブルクの友だちというのは、ほんとうにいるのかね?」
 ゲオルクは当惑して立ち上がった。
「ぼくの友人たちのことなんか、ほっておきましょうよ。千人の友人だって、お父さんにはかえられません。ぼくの信じていることが、お父さんにはわかりますか? お父さんは自分の身体をいたわらなすぎます。でも、年をとれば、身体をいたわる権利があるというものです。お父さんはぼくの商売に欠かすことのできない人です。それはお父さんだってよくご存じのはずですね。でも、もし商売がお父さんの健康をそこねるというのなら、商売なんかあしたにでも永久にやめますよ。そんなことはいけません。それなら、お父さんのために別な生きかたを始めましょう。でも、根本からちがった生きかたをするのです。お父さんはこんな暗いところに坐っていらっしゃる。ところが居間にいらっしゃれば、明るい光を浴びることができるじゃありませんか。きちんと食事をあがって身体に力をつけるかわりに、朝食もちょっぴりあがるだけです。窓を閉めきっていらっしゃるけれど、そとの空気が身体にいいにきまっているじゃありませんか。いけません、お父さん! お医者をつれてきて、その指図に従おうじゃありませんか。部屋も取り変えましょう。お父さんが表の部屋へいき、ぼくがこっちへきます。お父さんには少しも模様変えなんかありません。みんなむこうへ持っていきます。でも、そうしたことをみんなやるまでにはまだ間があります。今は少しベッドに寝て下さい。お父さんには絶対に休息が必要です。さあ、着物を脱ぐのを手伝いましょう。いいですか、ぼくにもそんなことはできますとも。それともすぐ表の部屋へいきますか。それならしばらくぼくのベッドに寝て下さい。ともかくそれがりこうなやりかたというものでしょう」
 ゲオルクは父のすぐそばに立った。父はもつれた白髪の頭を深くうなだれていた。
「ゲオルク」と、父は低い声で、感動もなくいった。
 ゲオルクはすぐ父と並んでひざまずいた。彼は、父の疲れた顔のなかで、瞳孔《どうこう》が大きくみひらかれ目尻から自分に向けられているのを見た。
「お前にはペテルスブルクの友だちなんかいないんだ。お前はいつもふざけてばかりいたが、わしに対しても悪ふざけをひかえたことがなかった。お前がペテルスブルクなんかに友だちをもっているわけがあるものか! そんなことは全然信じられないぞ」
「もう一度よく考えて下さい、お父さん」と、ゲオルクはいって、父を椅子から起こし、父がまったく力なく立ち上がったとき、寝衣を脱がせた。
「これでまもなく三年になりますが、ぼくの友人はうちを訪ねてきたのですよ。お父さんがあの男をあまり好いていなかったことは、まだおぼえています。少なくとも二度、ぼくはあの男のきていることをお父さんに隠しました。じつはあの男がぼくの部屋にいたのでしたが。ぼくにはお父さんがあの男を嫌う気持がよくわかりました。あの男にはいろいろ妙なところがありますからね。でも、やがてお父さんは彼とまったくうちとけて話し合っていました。お父さんがあの男のいうことに耳を傾け、うなずいたり、質問したりしていることを、ぼくはとても誇りにしたのでした。よく考えてみれば、思い出すはずです。あの男は、そのときロシア革命の途方もない話をしました。たとえば、キエフへ商用旅行でいったとき、騒動のさなかに一人の神父がバルコンに立っているのを見たということ。その神父は、てのひらを切って大きな血の十字架を書き、その手を上げて、群集に呼びかけていた、というじゃありませんか。お父さん自身が、この話をあちこちでくり返し聞かせていましたよ」
 こうしているうちに、ゲオルクはうまく父をまた椅子に坐らせ、リンネルのパンツの上にはいているトリコットのズボン下も、靴下も、注意深く脱がせた。あまりきれいではない下着をながめて、彼は父のことをかまわないでおいた自分をとがめた。たしかに、父の下着の着換えに気をくばることも、彼の義務であったろう。父の将来をどうしようとするのか、彼は婚約者とまだはっきり話し合ったことはなかった。しかし、彼らは暗黙のうちに、父はもとの住居《すまい》にひとり残るものときめていたのだった。だが今は、父を自分の未来の家庭へ引き取ろうと、はっきりと急に決心した。よく考えてみれば、新しい家庭に父を引き取り世話するという考えは、あまりに遅く思い浮かんだようにさえ思われるのだった。
 両腕で父を抱えてベッドへ運んだ。ベッドへ二、三歩向かいながら、父が胸の上の時計の鎖をもてあそんでいるのをみとめたとき、恐ろしい感じが襲ってきた。彼は父をすぐベッドへ寝かすことができなかった。それほどしっかりと父はこの時計の鎖をつかんでいるのだった。
 しかし、父がベッドに寝るやいなや、万事うまく片づいたように思われた。父は自分でふとんにくるまり、かけぶとんだけをさらに肩のずっと上までかけた。父はそれほど無愛想そうにでもなく、彼を仰ぎ見た。
「ねえ、もうあの友人のことを思い出したでしょう?」と、ゲオルクはきき、父に向って元気づけるようにうなずいて見せた。
「よくふとんがかかっているかね?」と、父はきいた。両脚に十分かかっているかどうか、自分では見ることができないようであった。
「ベッドに入ったら、もうよい気分でしょう?」と、ゲオルクは言い、父にかかっているふとんをなおしてやった。
「うまくかかっているかね?」父はもう一度きいて、返事に特別気をつかっているようであった。
「静かになさい、うまくかかっていますよ」
「うそだ!」と、自分の問いに対する返事が終わるか終わらないうちに、父は叫び、力いっぱいふとんをはねのけたので、ふとんは一瞬飛びながらぱっと拡がった。父はベッドの上にまっすぐに立った。ただ片手だけは軽く天井にあてていた。「お前はわしにふとんをかけようとした。いいか、そんなことはわしにはわかっているんだぞ。だが、わしはまだふとんなんかかけてもらっていないぞ。これがわしのぎりぎりの力だとしても、お前なんか相手には十分だ。お前には十分すぎるくらいだ。お前の友だちのことはよく知っている。あの男はわしの心にかなった息子といえるくらいだ。だからお前はあの男も長年だましてきたのだ。そのほかにどんな理由がある? わしが彼のために泣いたことはないとでも、お前は思うのか? だからお前は自分の事務室に閉じこもったりするのだ。だれも入ってはいけない、社長は仕事中、というわけだ。――それもただ、お前がロシア宛ての偽手紙を書くことができるためなのだ。だが、ありがたいことに、だれも息子の量見を見抜きなさいなどとは父親に向って言いはしない。今ではお前は、わしを押えつけたと思っている。完全に押えつけたので、父親を尻の下にしくことができるし、父親は動けない、と思っている。それでお前さんは結婚する決心をしたのだ!」
 ゲオルクは父の恐ろしい姿を見上げた。父が突然よく知っているといったペテルスブルクの友人のことが、今までにないほど彼の心を打った。彼はその友人が広いロシアで痛手を受けている様子を思い浮かべた。掠奪《りゃくだつ》された空っぽの店の戸口に立っているのを見た。商品棚の残骸のあいだ、めちゃめちゃにされた品物のあいだ、垂れ下がったガス燈の腕木のあいだに、友人はまだたたずんでいる。なんだってそんなに遠くまで去っていかなければならなかったのだろう!
「わしをよく見ろ!」と、父は叫んだ。ゲオルクは、ほとんど呆然《ぼうぜん》としたまま、あらゆるものをつかむためベッドへ走っていこうとした。だが、途中で足がとまってしまった。
「あのいやらしい娘がスカートを上げたからだ」と父は、ひゅうひゅう音がもれる声でしゃべり始めた。「あいつがスカートをこうやって上げたからだ」そして、その様子をやって見せようとして、下着をたくし上げたので、父の太股には戦争のときに受けた傷あとが見えた。
「あいつがスカートをこうやって、こうやって上げたからだ。それでお前はあいつに引きよせられてしまったのだ。あの女と水入らずで楽しむために、お前はお母さんの思い出を傷つけ、友だちを裏切り、父親を身動きできぬようにベッドへ押しこんだのだ。だが、わしが動けるか、動けないか、さあ、どうだ」
 父は完全に自由に立ち、脚をばたばたさせた。自分の目が高いことを誇って、顔を輝かせていた。
 ゲオルクは、父からできるだけ離れて、部屋の片隅に立っていた。ずっと前に、廻り道などして背後や上から襲われるようなことがないように、すべてを完全にはっきり見きわめようと固く決心していたのだった。今やふたたび、ずっと前から忘れていたその決心を思い出したが、短い糸を針穴に通すようにまた忘れてしまった。
「だが、お前の友だちはお前に裏切られたわけではないぞ!」と、父は叫び、人差指を左右に動かしてそれを強調した。「わしはこの町での彼の代理人だったのだ」
「喜劇役者!」と、ゲオルクは叫ばないではいられなかったが、すぐにその損なことをさとって、もう遅すぎたが――両眼をじっとすえたまま――舌をかんだ。それで彼は痛みのために身体が曲がるほどだった。
「そうだ、もちろんわしは喜劇を演じたのさ! 喜劇! いい言葉だ! ほかにどんな慰めが、わしという年老いた男やもめの父親にあるだろうか? いってくれ――お前が答える瞬間だけはお前はまだわしの生きている息子というわけだ――、奥の部屋に閉じこめられ、不実な使用人どもに追い払われ、骨まで老いぼれたこのおれに、何が残されているというのだ? 息子のほうは歓声を上げながら世のなかを渡り、わしがこれまでに仕上げた店をやめてしまい、面白がって笑いこけ、紳士ぶった無口な顔つきをして父親から逃げ去ってしまうというのだ! わしがお前を愛さなかったと思うのか、お前の実の父親であるこのわしが」
「今度はおやじは身体を前にかがめてしまうだろう」と、ゲオルクは思った。「もしおやじが倒れ、くだけてしまったら!」この言葉が彼の頭のなかをかすめ過ぎた。
 父は身体を前にかがめたが、倒れはしなかった。ゲオルクは父が期待したように近づかなかったので、父はまた身体を起こした。
「そのままそこにいるがいい。わしはお前なんかいらないさ! お前にはまだここまでやってくる力があると、お前は思っているんだ。それだのにお前はよってもこない。そうしたいと思うからだ。思いちがいしないでくれよ! わしはまだまだお前よりずっと強いんだぞ。だが、おそらくおれのほうがお前に譲歩すべきだったのかもしれない。ところがお母さんが自分の力をわしに与えてくれたのだ。お前の友だちとおれは心から結ばれているし、お前の顧客《とくい》の名前はこのポケットのなかに入っているんだぞ!」
「シャツにさえポケットをつけている」と、ゲオルクは自分に言い聞かせた。それを言いふらしたら、おやじを世間に顔向けできぬようにしてやることができるんだ、と彼は思った。そう思ったのも、ほんの一瞬だった。というのは、彼はあとからあとからなんでも忘れてしまうのだった。
「お前の婚約者にしがみついていればいい。さあ、わしに立ち向ってみろ! わしはあの女をお前のそばから払いのけてやるぞ。どうやって払いのけるのか、お前にはわかるまい!」
 ゲオルクは、そんなことは信じないというように、しかめ面をした。父は自分のいうことがほんとうだと誓うように、ゲオルクがいる部屋の隅のほうにうなずいてみせた。
「きょうも、お前がやってきて、お前の友だちに婚約のことを書いてやったものだろうかと聞いたとき、わしは愉快だったよ。あの男はなんでも知っているんだ、ばかめ、なんでも知っているんだぞ! お前がわしから筆記具を取り上げることを忘れたものだから、わしがあの男に手紙を書いてやったんだ。だからお前の友だちは何年も前からこっちへこないのだ。お前自身よりあの男のほうがなんでも百倍もよく知っているんだ。お前の手紙は読まないで左手のなかでくちゃくちゃにしてしまい、わしの手紙のほうは右手にもって読むために目の前に拡げるというくらいだ!」
 父は激したあまり腕を頭上で振った。「あの男はなんでも千倍もよく知っているんだぞ!」と、彼は叫んだ。
「万倍もでしょうよ!」と、ゲオルクは父を嘲《あざ》けるためにいった。しかし、まだ口のなかにあるうちにその言葉はひどく真剣な響きをおびた。
「何年も前から、お前がこの疑問をたずさえてやってくるのを、わしはじっと待ち構えていたのだ! わしが何かほかのことに心をわずらわしていたとでも思うのか? わしが新聞を読んでいるとでも思っているのか? それ、見てみろ!」そういって、ゲオルクに新聞を投げてよこした。父はその新聞をどうやってかベッドのなかにまでもち運んでいたのだった。古新聞で、ゲオルクが全然知らない社名のものだった。
「お前は、一人前になるまでになんて長いあいだぐずぐずしていたんだろう! お母さんは死ぬことになって、よろこびの日を味わうことができなかった。お前の友だちはロシアで身を滅ぼし、三年も前にすっかり零落し果ててしまった。そしてこのわしは――わしがどういう有様かは、お前にも見えるはずだ。そのために目があるはずだ!」
「お父さんはぼくのすきを狙《ねら》っていたんですね!」と、ゲオルクは叫んだ。
 同情をこめたように父はつぶやいた。
「それをお前はおそらくもっと前に言いたかったんだろう。でも今ではもうどうにも遅いよ」
 それから父は声を高めた。
「これでお前にも、お前のほかに何があるのかわかったろう。これまではお前は自分のことしか知らなかったのだ! お前はほんとうは無邪気な子どもだったが、それよりも正体は悪魔のような人間だったのだ!――だから、わしのいうことを聞け。わしは今、お前に溺死《できし》するように宣告する!」
 ゲオルクは部屋から追い出されるように感じた。彼の背後で父がベッドの上にばたりと倒れる音が、走り去る彼の耳に聞こえつづけていた。階段をまるで斜面をすべるようにかけ下りていったが、部屋を夜の支度のために片づけようとして階段を上がってくる女中にぶつかった。
「まあ、なんていうことを!」と、女中は叫び、エプロンで顔を隠した。しかし、彼はもう走り去っていた。門から飛び出し、線路を越えて河のほうへひきよせられていった。まるで飢えた人間が食物をしっかとつかむように、彼は橋の欄干《らんかん》をしっかとにぎっていた。彼はひらりと身をひるがえした。彼はすぐれた体操選手で、少年時代には両親の自慢の種になっていた。だんだん力が抜けていく手でまだ欄干をしっかりにぎって、欄干の鉄棒のあいだからバスをうかがっていた。バスは彼が落ちる物音を容易に消してくれるだろう。それから低い声でいった。
「お父さん、お母さん、ぼくはあなたがたを愛していたんですよ」そして、手を離して落ちていった。
 その瞬間に、橋の上をほんとうに限りない車の列が通り過ぎていった。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
入力:kompass
校正:青空文庫
2010年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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原田義人

断食芸人               EIN HUNGERKUNSTLER フランツ・カフカ Franz Kafka ——原田義人訳

 この何十年かのあいだに、断食芸人たちに対する関心はひどく下落してしまった。以前には一本立てでこの種の大きな興行を催すことがいいもうけになったのだが、今ではそんなことは不可能だ。あのころは時代がちがっていたのだ。あのころには町全体が断食芸人に夢中になった。断食日から断食日へと見物人の数は増えていった。だれもが少なくとも日に一度は断食芸人を見ようとした。興行の終りごろには予約の見物人たちがいて、何日ものあいだ小さな格子檻《こうしおり》の前に坐りつづけていた。夜間にも観覧が行われ、効果を高めるためにたいまつの光で照らされた。晴れた日には檻が戸外へ運び出される。すると、断食芸人を見せる相手はとくに子供たちだった。大人たちにとってはしばしばなぐさみにすぎず[#「なぐさみにすぎず」は底本では「なぐさみにすぎす」]、ただ流行だというので見るだけだが、子供たちはびっくりして口を開けたまま、安全のためにたがいに手を取り合って断食芸人の様子をながめるのだった。断食芸人は、顔|蒼《あお》ざめ、黒のトリコット製のタイツをはき、あばら骨がひどく出ており、椅子さえはねつけて、まき散らしたわらの上に坐り、一度ていねいにうなずいてから無理に微笑をつくって観客の質問に答え、また格子を通して腕をさし出し、自分のやせ加減を観客にさわらせ、やがてふたたびすっかりもの思いにふけるような恰好となり、もうだれのことも気にかけず、檻のなかのただ一つの家具である時計の、彼にとってきわめて大切な時を打つ音もまったく気にかけず、ただほとんど閉じた両眼で前をぼんやり見つめ、唇をぬらすためにときどき小さなコップから水をすするのだった。
 入れ変わる見物人のほかに、観客たちに選ばれた常任の見張りがいて、これが奇妙にもたいていは肉屋で、いつでも三人が同時に見張る。彼らの役目は、断食芸人が何か人に気づかれないようなやりかたで食べものをとるようなことのないように、昼も夜も彼を見守るということだった。だが、それはただ大衆を安心させるために取り入れられた形式にすぎなかった。というのは、事情に通じた人びとは、断食芸人はどんなことがあっても、いくら強制されても、断食期間にはけっしてほんの少しでもものを食べなかった、ということをよく知っていた。この術の名誉がそういうことを禁じていたのだ。むろん、見張りがみなそういうことを理解しているわけではなかった。ときどきは見張りをひどくいい加減にやるようなグループがあった。彼らはわざと離れた片隅に坐り、そこでトランプ遊びにふけるのだった。それは、彼らの考えによれば断食芸人が何かひそかに同意してある品物から取り出すことができるはずのちょっとした飲食物をとるのを見逃がしてやっていい、というつもりらしかった。こんな見張りたちほどに断食芸人に苦痛を与えるものはなかった。この連中は彼を悲しませた。断食をひどく困難にした。ときどき彼は自分の衰弱をじっとこらえて、この連中がどんなに不当な嫌疑を自分にかけているのかということを示すため、こんな見張りがついているあいだじゅう、我慢できる限り歌を歌ってみせた。しかし、それもほとんど役に立たなかった。そうすると連中はただ、歌を歌っているあいだにもものが食べられるという器用さに感心するだけだった。芸人にとっては、格子のすぐ前に坐り、ホールのぼんやりした夜間照明では満足しないで、興行主が自由に使うようにと渡した懐中電燈で自分を照らすような見張りたちのほうがずっと好ましかった。そのまばゆい光は彼にはまったく平気だった。眠ることはおよそできないが、少しばかりまどろむことは、どんな照明の下でも、どんな時間にでも、また超満員のさわがしいホールにおいてでも、できたのだ。彼にとっては、こうした見張り番たちといっしょに一睡もしないで夜を過ごすことは好むところだった。こうした連中と冗談を言い合ったり、自分の放浪生活のいろいろな話を物語ったり、つぎに今度はむこうの物語を聞いたりする用意があった。そうしたことはすべて、ただ彼らを目ざませておき、自分が何一つ食べものを檻のなかにもってはいないということ、彼らのうちのだれだってできないほど自分が断食をつづけているということを、彼らにくり返し見せてやることができるからだった。しかし、彼がいちばん幸福なのは、やがて朝がきて、彼のほうの費用もちで見張り番たちにたっぷり朝食が運ばれ、骨の折れる徹夜のあとの健康な男たちらしい食欲で彼らがその朝食にかぶりつくときだった。この朝食を出すことのうちに見張り番たちに不当な影響を与える買収行為を見ようとする連中さえいることはいたが、しかしそんなことはゆきすぎだった。そういう連中が、それならただ監視ということだけのために朝食なしで夜警の仕事を引き受けるつもりがあるかとたずねられれば、彼らも返事はためらうのだった。それにもかかわらずこの連中からは嫌疑は去らなかった。
 とはいえ、これは断食というものとおよそ切り離すことのできない嫌疑の一つではあった。実際、だれも連日連夜たえず断食芸人のそばで見張りとして過ごすことはできなかった。したがって、だれも自分自身の眼でながめたことから、ほんとうに引きつづきまちがいなしに断食が実行されたかどうか、知ることはできなかった。ただ断食芸人自身だけがそれを知ることができた。だから彼だけが同時に、自分の断食に完全に満足している見物人であることができるのだった。だが、彼はまた別な理由からけっして満足していなかった。おそらく彼は断食によっては人びとの多くが彼を見るにしのびないというのであわれみの気持からこの実演を敬遠しないでいられないほどもやせ衰えているのではなくて、ただ自分自身に対する不満足からそんなにもやせ衰えているのだった。つまり、彼だけが、ほかの事情に明るい人も一人としてこのことを知らないのだが、断食がどんなにやさしいか、ということを知っていた。それはこの世でいちばんやさしいことだった。彼はそのことを秘密にしておいたわけではなかったが、人びとは彼のいうことを信じなかった。よくいってせいぜい人は彼のことを謙遜《けんそん》だと考えるのだが、たいていは宣伝屋だとか、インチキ師だとか考えるのだった。このインチキ師は、断食をやさしくすることを心得ているために断食はやさしいというわけだし、また厚かましくもそれを半ば白状さえするのだ、というわけだ。こうしたすべてを彼は甘受しなければならなかった。長い年月のあいだにはそんなことに慣《な》れたけれども、心のうちではこの不満がいつも彼をむしばんでいた。そして、まだ一度でも、断食期間が終ったあとで――その証明書が彼に交付されることになっていたが――みずから進んで檻を離れたことはなかった。断食の最大期間を興行主は四十日間ときめていて、それ以上は一度も断食させなかったし、大都会でもさせなかった。しかももっともな理由からだった。およそ四十日ぐらいのあいだは、経験からいうとだんだんと高まっていく宣伝によって一つの町の関心をいよいよそそることができたが、それからは観衆も受けつけなくなり、客の数がぐんと減るということがはっきりみとめられるのだった。むろんこの点では町と田舎《いなか》とではわずかなちがいはあったが、通常は四十日が最大期間であるという相場だった。そこで四十日目には、花でまわりを飾られた檻の戸が開かれ、熱狂した観客が円形劇場を埋め、軍楽隊が演奏し、断食芸人に必要な検査を行うために二人の医師が檻のなかへ入る。メガフォンによってその検査の結果が場内に知らされる。最後に二人の若い婦人が、ほかならぬ自分たちがくじ[#「くじ」に傍点]で選ばれたことをよろこびながらやってきて、断食芸人を檻から一、二段下へ手を引いて下ろそうとする。そこには小さなテーブルの上に念入りに選ばれた病人食が用意されているのだ。そして、この瞬間、断食芸人はいつでもさからおうとするのだった。なるほど彼は自分の骨の出た両腕を自分のほうへかがんだご婦人がたの助けてくれようとしてさし出された手に進んでのせはするのだが、立ち上がろうとはしないのだ。なぜ、まさに今、四十日後にやめるのか。もっと長く、際限もなく長くもちこたえただろうに。なぜ、まさに今、彼が最上の断食状態にあるところで、いや、まだけっして最上の断食状態にまでいっていないところでやめるのか。なぜ人びとは、もっと断食するという名誉、ただあらゆる時代を通じての最大の断食芸人であるばかりでなく(まったく、彼はもう最大の断食芸人にちがいないのだ)、自分自身を限りないところまで超えるという名誉を、彼から奪おうとするのか。断食する自分の能力にとって彼はどんな限界も感じていないのだった。なぜ彼をこんなにも感嘆していると称するこの群集がこんなにわずかしか辛抱しないのか。彼がこれ以上断食することに耐えるのなら、なぜ群集のほうでも耐えないのか。彼は疲れてはいたが、わらのなかでちゃんと坐っていた。今度はきちんと長いあいだ身体を起こし、食事のあるところへ行かなければならない。食事は、ただ考えただけで胸がむかついてきたが、それを口に出すことは助けてくれているご婦人たちへの遠慮からやっとこらえた。そして、見たところはひどく親切そうだが、ほんとうはひどく残酷なご婦人がたの眼を仰ぎ見て、弱い首の上でいよいよ重くなっている頭を振るのだった。だが、それからはいつでも起こることが起こるだけだ。興行主がやってきて、無言のまま――音楽が演説を不可能にしていた――両腕を断食芸人の頭上に上げる。まるで、天に向って、ここのわらの上にいる天の創造物、このあわれむべき殉難者《じゅんなんしゃ》をどうか見て下さい、とさそうかのようだ。たしかに断食芸人は殉難者ではあったが、ただまったく別な意味でなのだ。それから興行主は断食芸人の細い胴を抱く。その場合、誇張した慎重《しんちょう》さで、自分は今こわれやすいようなものを扱わなければならないのだ、と見る人に信じさせようとする。それから彼は――こっそり芸人の身体を少しゆするので、芸人は足と上体とを支えることができないため、あちこちとゆれる――そのあいだに死人のように顔が蒼ざめてしまったご婦人がたの手に芸人を渡す。もう断食芸人はすべてを我慢していた。頭は胸の上に垂れ下がり、まるで頭がころがっていき、胸の上でどうしてかわからないがとまっているかのようだった。身体は空っぽになっていた。両脚は自己保存の本能によって膝のところでぴったり合わさっていたが、地面をまるでほんとうの地面ではないというような様子でこするのだった。ほんとうの地面を両脚はまず最初に探しているのだった。そして、身体全体の重みが、とはいってもごくわずかなものではあったが、二人のご婦人の一方にかかった。その婦人は、助けを求め、あえぎながら――彼女はこの名誉な役目をこんな恐ろしいものとは考えていなかったのだ――まず首をできるだけのばして、少なくとも顔を断食芸人とふれないようにしようとしたが、これが彼女にはうまくいかず、運のいい同役の婦人が自分を助けにきてはくれないで、ふるえながら小さな骨の束のような断食芸人の手をおしいただくような恰好で運んでいくことで満足しているので、場内の熱狂した笑い声の下でわっと泣き出し、ずっと前から待ちかまえさせられていた小使と交代しなければならなかった。つぎが食事であった。興行主は断食芸人が失心したようにうとうとしているあいだにその口に少しばかり流しこんだ。断食芸人のこんな状態から人びとの注意をそらそうとして、陽気なおしゃべりをしながら、それをやるのだった。つぎに観客に対して乾杯の言葉がいわれたが、これは芸人が興行主にささやいたものを興行主から観客に伝えるということになっていた。オーケストラがにぎやかな演奏によってそうしたすべてを景気づけ、人びとはそれぞれ帰っていく。だれも見物したものに不満をいう権利はなかった。だれもそんな権利はなかった。ただ断食芸人だけが不満だった。いつでも彼だけがそうだった。
 こうやって彼は定期的なわずかな休息期間を挟みながら、多年のあいだ生きてきた。外見上ははなばなしく、世間からもてはやされながら、そうやって生きてきた。だが、それにもかかわらずたいていはうち沈んだ気分のうちにいた。そうした気分は、だれ一人としてそれをまじめに受け取ることを知らないために、いよいようち沈んでいった。どうやって彼をなぐさめたらよいのだろうか。彼にはどんな不満が残っていたのだろうか。そして、ときに彼をあわれんで、君の悲哀はおそらく断食からきているのだ、と彼に向って説明しようとする者があると、とくに断食期間が進んでいる場合には、彼が怒りの発作でそれに答え、けもののように檻の格子をゆすってみんなをびっくりさせることが起こりかねないのだった。ところが、こうした状態に対して興行主は一つの処罰の手段をもっていて、好んでそれを使った。彼は集った観客の前で断食芸人のこうしたふるまいのわびをいって、満腹している人びとにはすぐにはわからないが、ただ断食によって生じる怒りっぽさというものだけによって断食芸人のこんなふるまいが無理からぬものと思っていただけるはずだ、などとみとめるのだ。つぎにそれと関連して、断食芸人が今断食しているよりももっとずっと長く断食できると主張していることも、それと同じような理由で説明がつく、と話すにいたる。そして、たしかにこうした断食芸人の主張のうちに含まれていると興行主がいう、高い努力、善意、偉大な自己否定などをほめそやす。ところが、つぎに写真を示して(これは売りもするのだが)、ごくあっさりと断食芸人の主張を否定しようとする。というのは、その写真の上に見られるのは、断食四十日目の芸人で、ベッドに寝ていて、衰弱のあまり消え入らんばかりの様子なのだ。真実をこうしてねじまげる興行主のやりかたは、断食芸人がよく知っているものだったが、いつでもあらためて彼の元気をそぎ、あんまり度がすぎるものと思われた。断食をあまりに早くうち切ることの結果なのが、今ここでは原因として述べられているわけだ! この愚劣さ、こうした愚劣さの世界と闘うことは、不可能だった。彼はまだ何度でも格子のそばで興行主の話をむさぼるように聞いていたいのだが、写真が現われるといつでも格子から離れ、溜息をつきながらわらのなかへどうとくずれてしまう。そして安心した観客はまた近づいてきて、彼をながめることができた。
 こうした情景の目撃者たちは、一、二年あとになってそのことを振り返って考えると、しばしば自分がわからなくなるのだった。というのは、そのあいだにあの前に述べた激変が起ったのだった。それは、ほとんど突然起った。いろいろと深いわけがあるのだろうが、そんなものを探し出す気にだれがなったろうか。いずれにしろ、ある日のこと、ちやほやされていた断食芸人は自分が楽しみを求める群集から見捨てられたのを知った。群集は断食芸人よりもほかの見世物のほうへ流れていくのだった。興行主はもう一度彼をつれてヨーロッパ半分を巡業して廻り、まだあちらこちらで昔のような関心がよみがえっているのではないか、と見ようとした。すべてむなしかった。こっそり申し合わせたようにどこでも断食の見世物を嫌う傾向がつくられてしまっていた。むろん、ほんとうは突然そういうことになったのではない。今おくればせながら、以前は成功の陶酔のなかで十分には気づかなかったが、しかし十分に抑えきれなかったいくつもの前兆のことが思い出された。しかし、今それに抗するために何かを企てるといっても、すでに遅すぎた。いつかは断食の全盛時代がふたたびくるだろう、ということは確実だったが、今生きている人びとにとってはそんなことはなんのなぐさめにもならなかった。そこで、断食芸人は何をやったらいいのだろうか。何千という観客の歓声に取り巻かれていた者が、けちな歳《とし》の市にかかる見世物小屋へ現われるわけにはいかない。ほかの職業につくためには、断食芸人は年をとりすぎていただけでなく、何よりもまず断食にあまりにも熱狂的に没頭していた。そこで彼は人生の比類ない同伴者であった興行主と別れ、ある大きなサーカスに雇われた。自分の神経の過敏さを傷つけないため、彼は契約書の条項は全然見なかった。
 いつでも員数の出入りが平均し、補充がついていく無数の人間や動物や道具類をもつ大きなサーカスは、だれをも、またどんなときにでも、使うことができる。断食芸人もそうだ。むろん、それ相応にひかえ目な注文しかつけはしない。それに、この特殊な場合にあっては、雇われたのは断食芸人その人ばかりではなく、彼の古くからの有名な名前もそうなのであり、実際、年をとっていくのに衰えないこの芸の特性を思うと、もはや技能の全盛期にはいない老朽の芸人が落ちついたサーカスの地位に逃げこもうとしているのだ、などとはけっしていえなかった。それどころか、断食芸人は(まったく信じるに価することだったが)以前と同じように断食できる、と断言した。そればかりでなく、もし自分の意志にまかせてくれるなら(そして、そのことはすぐに約束してくれたが)、今こそはじめて正当に人を驚かせるだろう、とさえ主張した。とはいえ、この主張は、断食芸人が熱中のあまり容易に忘れてしまっていた時代の風潮というものを考えあわせてみるならば、サーカスの専門家たちのあいだではただ薄笑いを招くだけではあった。
 だが、根本においては断食芸人はほんとうの事情を見抜く眼を失ってしまったわけではなく、檻つきの彼を主要番組としてサーカスの舞台のまんなかには置かずに、外の動物小屋に近い、ともかく人のまったく近づきやすい場所に置いたことを、自明なこととして受け入れたのだった。色とりどりに書かれた大きな文句が檻のまわりをふち取り、そこに見られるものを告げていた。観客が上演の休憩時間に動物たちを見ようとして動物小屋に押しよせてくるとき、ほとんど避けられないことだが、人のむれは断食芸人のそばを通りすぎていきながら、ほんのちょっとそこに立ちどまるだけであった。狭い通路にあとからあとからつめかける人びとが、いこうと思っている動物小屋への途中でなぜこうやって立ちどまるのかわからないまま、落ちついてもっと長くながめることを不可能にするのでなかったならば、おそらく人びとは断食芸人のところでもっと長くとまっていたことだろう。このことがまた、彼が自分の人生目的としてむろんくることを願っている見物時間のことを考えると、どうしても身ぶるいが出てくる理由でもあった。はじめのころは休憩時間をほとんど待ちきれないくらいだった。魅せられたようになって彼はつめかけてくる群集をながめていた。ところがついに、あまりにも早く――どんなに頑強に、ほとんど意識的に自分をあざむこうとしても、こうした実際の経験には勝てなかった――たいていはそのほんとうの目的からいうと、いつでも、例外なく、ただ動物小屋へいく人びとだけなのだ、ということを確信しないわけにはいかなかった。しかし、遠くから見るこうした光景は、やはりまだきわめてすばらしいものであった。というのは、人びとが彼のところへやってくると、彼はたちまち、たえず変っていく二種類の人びとの叫び声やののしりの言葉のすさまじいさわぎに取り巻かれるのだった。一方の人びとは――この連中のほうがやがて断食芸人にはいっそう耐えがたくなったのだが――彼をゆっくり見ようとする人たちだった。だが、それもよくわかってのことではなく、気まぐれとつむじ曲りとからだ。もう一方の人びとは、まず何よりも動物小屋へいこうとする人たちだった。大群が通り過ぎていくと、のろまな連中が遅れてやってくる。この連中は、ただその気さえあれば、もう立ちどまることができないわけではないのに、大股でさっさと歩き、わき眼もふらずに通り過ぎていき、遅くならぬうちに動物たちのところへいこうとするのだった。そして、それほどしょっちゅうあるわけではないが、運のいい場合には、父親が子供づれでやってきて、指で断食芸人をさし示し、これがどういうものなのかをくわしく説明し、昔のことを語り聞かせ、この断食芸人はこれと似てはいるが比較にならぬほど大じかけな実演に出ていたのだ、というのだった。すると子供たちは、学校と日常生活とから得ている予備知識が十分でないため、いつでもなんのことやらわからぬままではあったが――子供たちにとって断食はなんだというのだろう――、それでも子供たちの探るような眼の輝きのなかには、新しい、未来の、もっと恵まれた時代の何かあるものがちらついていた。すると断食芸人はときどき、もし自分の居場所がこんなにも動物小屋に近くなかったならば、万事はもう少しよかったろうに、と自分に言い聞かせるのだった。動物小屋の臭気の発散、夜間における動物たちのざわめき、猛獣たちにやるため眼の前を運ばれていく生肉、餌をやるときのけものの叫び声、こうしたものが芸人をひどく傷つけ、たえず彼の心を押しつけるということは別としても、サーカスの連中は芸人をこんなに動物小屋の近くに置くことによって、場所の選択をあまりに手軽にやってしまったのだ。しかし、サーカスの幹部にその事情をよく説明するということは、芸人はあえてやろうとしなかった。ともかく、動物たちのおかげで彼もこんなにたくさんの見物人をもっているわけだ。その見物人のあいだには、ときどきはもっぱら彼を見ようという人も見出すことができるというものだ。そして、もし彼が自分の存在を人びとに思い出させようとするなら、そしてそれによってまた自分が正確にいえばただ動物小屋へいく道の上にある障害にすぎないということを思い出させようとするなら、どこへ彼を押しこんでしまうものかわかったものではなかった。
 とはいっても、小さな障害にすぎないのだ。しかも、いよいよ小さくなっていく障害なのだ。この今日において断食芸人に対する注目を集めようという風変りな趣向にも、人びとはもう慣れてしまい、この慣れによって芸人に関する判断も下されるのだ。彼はおよそできるだけ断食をしたいだけだ。そして、それをやりもした。しかし、もう何ごとも彼を救うことはできず、人びとは彼のそばを通り過ぎていくだけだ。だれかに断食の術のことを説明しようとしてみるがよい! 感じない人間には、わからせることはできないのだ。檻にめぐらされた美しい客よせ文句の文字はよごれ、読めなくなってしまった。そこで、それは引きはがされ、だれ一人としてそのかわりをつくろうということに思いつく者はいなかった。やりとげた断食日数を示す数字を書いた小さな黒板は、最初のうちは念入りに毎日書きあらためられていたのだったが、もうずっと前からいつでも同じものになっていた。というのは、最初の一週間が過ぎると係員自身がこのつまらぬ仕事にあきてしまった。そこで、断食芸人は以前夢見たように断食をつづけていき、苦もなくあの当時に予言したようにそれをうまくやりとげることができはしたのだが、だれも日数を数える者がなく、だれ一人として、また断食芸人自身も、もうどのくらいの成績を上げたものか、わからなかった。そこで、彼の心はいよいよ重くなっていった。そのころにいつかひまな人間が立ちどまり、古ぼけた数字をからかい、インチキ師というようなことをいったが、それはこういう意味ではたしかに、冷淡さと生まれつきの性悪さとが発見するもっとも愚かしいいつわりであった。というのは、断食芸人はあざむいたりせず、正直に働いていたのだが、世間のほうが彼をあざむいて彼の当然もらうべき報酬《ほうしゅう》を奪ってしまったのだった。

 だが、それからふたたび多くの日々が流れ過ぎて、それもついに終りになった。あるとき、この檻が一人の監督の眼にとまって、なぜこの十分使える檻を、腐ったわらをなかにいれたまま、こんなところに利用もしないでほっておくのか、と小使たちにたずねた。だれもその理由がわからなかったが、とうとうそのうちの一人が数字板の助けによって断食芸人のことを思い出した。人びとが棒でわらをかき廻し、そのなかに断食芸人を発見した。
「君はまだ断食をやっているのかね?」と、その監督はたずねた。「いったい、いつになったらやめるつもりだね?」
「諸君、許してくれ」と、断食芸人はささやくような声でいった。耳を格子にあてていた監督だけが、芸人のいうことがわかった。
「いいとも」と、監督はいって、指を額に当て、それによって断食芸人の状態を係員たちにほのめかした。少し頭にきている、というしぐさだ。「許してやるともさ」
「いつもおれは、みんながおれの断食に感心することを望んでいたんだ」と、断食芸人はいった。
「みんな、感心しているよ」と、監督は芸人の意を迎えるような調子でいった。
「でも、みんなは感心してはいけないんだ」と、断食芸人はいった。
「そうか、それなら感心しないよ」と、監督はいった。「なぜ感心してはいけないんだね?」
「おれは断食しないではいられないだけの話だからだ。ほかのことはおれにはできないのだ」
「まあ、そういうなよ」と、監督はいった。「なぜほかのことはできないのだね?」
「それはな、おれが」と、断食芸人はいって、小さな頭を少しばかりもたげ、まるで接吻するように唇をとがらして、ひとことでももれてしまわないように監督のすぐ耳もとでささやいた。「うまいと思う食べものを見つけることができなかったからだ。うまいと思うものを見つけていたら、きっと、世間の評判になんかならないで、きっとあんたやほかの人たちみたいに腹いっぱい食っていたことだろうよ」
 これが最後の言葉だったが、まだ彼のかすんだ眼には、おれはもっと断食しつづけるぞ、というもう誇らしげではないにしろ固い確信の色が見えた。
「それじゃあ、片づけるんだ!」と、監督はいった。断食芸人はわらといっしょに埋められた。例の檻には一頭の若い豹《ひょう》が入れられた。あんなに長いこと荒れ果てていた檻のなかにこの野獣が跳《と》び廻っているのをながめることは、どんなに鈍感な人間にとってもはっきり感じられる気ばらしであった。豹には何一つ不自由なものはなかった。豹がうまいと思う食べものは、番人たちがたいして考えずにどんどん運んでいった。豹は自由がないことを全然残念がってはいないように見えた。あらゆる必要なものをほとんど破裂せんばかりに身にそなえたこの高貴な身体は、自由さえも身につけて歩き廻っているように見えた。歯なみのどこかに自由が隠れているように見えるのだった。生きるよろこびが豹の喉もとからひどく強烈な炎熱をもって吐き出されてくるので、見物人たちがそれに耐えることは容易ではないほどだった。だが、見物人たちはそれにじっと耐えて、檻のまわりにひしめきより、全然そこを立ち去ろうとはしなかった。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
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原田義人

審判   DER PROZESS  フランツ・カフカ Franz Kafka ——-原田義人訳



第一章 逮捕・グルゥバッハ夫人との
    対話・次にビュルストナー嬢

 誰かがヨーゼフ・Kを誹謗《ひぼう》したにちがいなかった。なぜなら、何もわるいことをしなかったのに、ある朝、逮捕されたからである。彼の部屋主グルゥバッハ夫人の料理女は、毎日、朝の八時ごろに朝食を運んでくるのだったが、この日に限ってやってはこなかった。そういうことはこれまであったためしがなかった。Kはなおしばらく待ち、枕《まくら》についたまま、向う側の家に住んでいる老婆がいつもとまったくちがった好奇の眼で自分を観察しているのをながめていたが、やがていぶかしくもあれば腹がすいてきもしたので、呼鈴を鳴らした。すぐにノックの音が聞え、この家についぞ見かけたことのない一人の男がはいってきた。すんなりとはしているが、頑丈《がんじょう》な身体《からだ》のつくりで、しっくりした黒服を着ていた。その服は、旅行服に似ていて、たくさんの襞《ひだ》やポケットや留め金やボタンがつき、バンドもついており、そのため、何の用をするのかはっきりはわからぬが、格別実用的に見受けられた。
「どなたですか?」と、Kはききただし、すぐ半分ほどベッドに身を起した。
 ところが男は、まるで自分の出現を文句なしに受入れろと言わんばかりに、彼の質問をやりすごし、逆にただこう言うのだった。
「ベルを鳴らしましたね?」
「アンナに朝食を持ってきてもらいたいのです」と、Kは言い、まず黙ったままで、いったいこの男が何者であるか、注意と熟考とによってはっきり見定めようと試みた。
 ところがこの男はあまり長くは彼の視線を受けてはいないで、扉《とびら》のほうを向き、それを少しあけて、明らかに扉のすぐ背後に立っていた誰かに言った。
「アンナに朝食を持ってきてもらいたいのだそうだよ」
 隣室でちょっとした笑い声が聞えたが、その響きからいって、数人の人々がそれに加わっているのかどうか、はっきりしなかった。見知らぬ男はそれによってこれまで以上に何もわかったはずがなかったが、Kに対して通告するような調子で言った。
「だめだ」
「そりゃあ変だ」と、Kは言って、ベッドから飛びおり、急いでズボンをはいた。
「ともかく、隣の部屋にどんな人たちがいるのかを見て、グルゥバッハ夫人がこの私に対する邪魔の責任をどうとるのか知りたいのです」
 こんなことをはっきり言うべきではなかったし、こんなことを言えば、いわばその男の監督権を認めたことになるということにすぐ気づきはしたが、それも今はたいしたこととは思われなかった。見知らぬ男もずっとそう考えていたらしい。男がこう言ったからである。
「ここにいたほうがよくはないですか?」
「いたくもありませんし、あなたが身分を明らかにしないうちは、あなたに口をきいていただきたくもないんです」
「好意でやったんですよ」と、見知らぬ男は言い、今度は進んで扉をあけた。
 Kがはいろうと思ってゆっくり隣室へはいってゆくと、部屋はちょっと見たところ、前の晩とほとんどまったくちがったところがなかった。それはグルゥバッハ夫人の住居で、おそらくこの家具や敷物や花瓶《かびん》や写真やでいっぱいの部屋は、今日はいつもよりいくらかゆとりがあった。そのことはすぐには気づかなかったが、おもな変化は一人の男がいるという点にあっただけに、なおさらそうであった。男は開いた窓のそばで一冊の本を読みながらすわっていたが、ふと本から眼を上げた。
「君は部屋にいなければいけなかったのだ! いったいフランツは君にそう言わなかったか?」
「で、どうしようというんです?」と、Kは言い、この新しく知った人物から眼を転じて、戸口のところに立ち止っているフランツと呼ばれる男のほうを見、次にまた視線をもどした。
 開いた窓越しにまた例の老婆が見えたが、彼女はいかにも老人らしい好奇の眼で、今ちょうど、向い合った窓のところへ歩み寄って、その後の成行きを一部始終見届けようとしていた。
「グルゥバッハ夫人にちょっと――」と、Kは言い、彼から遠く離れて立っている二人の男から身を引離そうとするようなしぐさを見せて、歩みを進めようとした。
「いけない」と、窓ぎわの男が言い、本を小さな机の上に投げて、立ち上がった。「行っちゃいけない。君は逮捕されたんだぞ」
「どうもそうらしいですね」と、Kは言い、次にたずねた。「ところで、いったいどうしてなんです?」
「君にそんなことを言うように言いつかっちゃいない。部屋にはいって、待っていたまえ。訴訟手続きはもう始まったんだから、時が来れば万事わかるようになるだろう。君にこんなに親切に話すことは命令の範囲を出ているんだ。けれど、おそらくフランツ以外に聞いている者は誰もいないだろうし、あれからして規則に違反して君に親切なんだからね。これからさきも、君の監視者がきまったときのように幸運に恵まれるなら、安心できるわけだよ」
 Kはすわろうと思ったが、さて、部屋じゅうどこにも窓ぎわの椅子のほかにすわるところがないことに気づいた。
「まあ今に、万事がしごくもっともだということがわかるさ」と、フランツが言い、もう一人の男といっしょに彼のほうに歩み寄ってきた。特に後者はKよりもひどく背が高く、何度も彼の肩をたたいた。二人ともKの寝巻をためつすがめつして、君はこれからもっとわるいシャツを着なければならぬようになるだろうが、このシャツもほかの下着類といっしょに保管しておいてやろう、そして事が有利に解決したら、君にまた返してやろう、と言うのだった。
「そういうものを倉庫に入れるくらいなら、おれたちに渡したほうがましだ」と、彼らは言った。「倉庫ではしばしば横領されることがあるし、そのうえ、ある期間が過ぎると、その手続きが終ろうが終るまいがおかまいなく、何でもかでも売り払ってしまうからね。それに、こんな訴訟はなんて手間取ることだろう、ことに近頃はねえ! もちろん、最後には倉庫から売上金をもらうだろうが、第一に、売却の場合言い値の金高できまるものじゃなく、賄賂《わいろ》の金高が物を言うんだから、この売上金というやつからして少ないものだし、そのうえこんな売上金は、手から手へと長年かかって渡っているうちには、減ってゆくのが普通だよ」
 Kはこんな話にほとんど注意をはらっていなかった。自分の持物に対する所有権というものはおそらくまだあるはずだが、彼はそんなものをあまり重んじていなかったし、自分の置かれた状態をはっきり知ることのほうが、いっそう大切だった。しかし、この連中のいる前では、少しもゆっくり考えてみることができず、二番目の監視人――まったくのところただの監視人にすぎないはずだが――の腹がしょっちゅう、明らかになれなれしげに彼にぶつかり、彼が眼を上げると、頑丈そうな、わきへねじれた鼻をした、このでっぷりした図体とはおよそ似つかわしからぬ干からびて骨ばった顔が見え、この顔が彼の頭越しにもう一方の監視人と話し合っていた。いったいこいつは何者だろう? 何をしゃべっているのだろう? どんな役所の者なのだろう? おれは法治国に住んでいるのだし、国じゅうに平和が支配しているし、すべての法律は厳として存在しているのに、何者がおれの住居においておれを襲うということをあえてしたのだろうか? 彼はつねに、万事をできるだけ気安く考え、最悪のことはそれがほんとうに始まってから信じ、たといいっさいの危険が迫っても、将来のことは取越し苦労しない、という傾向であった。ところが今の場合、それは正しくないように思われた。すべてを悪戯《いたずら》と見なすことができようし、何かわからぬ理由から、おそらく今日は彼の三十歳の誕生日だからというのだろうが、銀行の同僚が計画した性《たち》のよくない悪戯と見なすことができよう。それはもちろんありうることだし、おそらくなんらかのやりかたで監視人たちに面と向って笑ってやりさえすれば事はすむのであって、そうすれば彼らもいっしょに笑いだすことだろう。おそらくこの連中は町角の使い走りの男たちなのだ。そう言えば、彼らに似ていないこともない。――それにもかかわらず、彼は今度の場合、この監視人のフランツという男を最初に見たまさにそのときから、彼がおそらくこの連中に対して持っている最小の利点さえも放棄はすまい、と決心したのであった。自分が冗談を解しなかったのだ、と後になって言われるだろうという点では、Kはほんの少しでも危険を覚えなかったが、確かに彼は――経験に徴して考えるなどというのは普通彼の習慣ではなかったのだが――二、三の、それ自体は取るに足らない出来事のことを、思い出していた。それらの場合に、意識的な友人たちとはちがって、ありうべき結果を少しも予想しなかったため、慎重でない態度をとり、そのため、その結果によってひどい目にあわされたのであった。あんなことは二度と繰返してはならないし、少なくとも今回はやってはならない。もし喜劇ならば、自分もいっしょになってやってやろう、そう彼は考えたのだった。
 彼はまだ自由であった。
「失礼します」と、彼は言って、急いで二人の監視人のあいだを通って自分の部屋へ行った。
「やつは物がわかるらしいな」と、背後で言うのが聞えた。
 部屋にはいった彼は、すぐ机の引出しをあけた。そこは万事がきちんと片づいていたが、捜した身分証明書だけは、興奮しているためか、すぐには見つからなかった。とうとう自動車証明書を見つけだし、それを持って監視人たちのほうへ行こうとしたが、この書類はあまり役にたたぬように思えたので、もっと捜したうえ、ついに出生証明を見つけだした。彼がまた隣室にもどったとき、ちょうど向い合った扉が開き、グルゥバッハ夫人がそこへ足を入れようとした。彼女はほんの一瞬間姿を見せただけで、Kを認めたとたん、明らかに当惑した様子を見せ、ごめんなさいと言って、引っこみ、きわめて慎重に扉をしめた。
「どうぞおはいりなさい」と、Kは今ならまだ言うこともできた。
 だが彼は、書類を持って部屋の真ん中に立ち、まだ扉をじっと見ていたが、扉は二度とは開かず、やがて監視人たちに声をかけられてびっくりした。二人の男は開いた窓ぎわの机にすわっており、Kが気づいたときには、彼の朝飯を食っていた。
「なぜあの人ははいらなかったんです?」と、彼はきいた。
「はいっちゃいけないんだよ」と、大きいほうの監視人が言った。「君は逮捕されているんだからな」
「いったいどうして逮捕なんかされているんです? しかもこんなやりかたで?」
「ああ、また始まったね」と、その監視人は言い、バタパンを蜜《みつ》の壺《つぼ》に浸した。「そんな質問には返答しないよ」
「答えてもらわなくちゃなりません」と、Kは言った。「これが私の身分証明書です、今度はあなたがたのを見せてください、それに何よりもまず逮捕状をね」
「冗談言うな!」と、監視人は言った。「君は君の立場に往生《おうじょう》できず、今君のすべての仲間の中でも明らかにいちばん身近にいるおれたちを無益に怒らせるつもりだったらしいな」
「そうだ、君も観念したほうがいいぜ」と、フランツが言い、手にしていたコーヒー茶碗《ぢゃわん》を口もとへは持ってゆかずに、長々と、いかにも意味ありげな、しかしどういうつもりなのかわからぬ眼差《まなざし》で、Kをじっと見つめた。
 Kは思わず知らず、フランツと視線で渡り合っていたが、やがて書類をたたいて、こう言った。
「これが私の身分証明書です」
「そんなものがなんだというんだ」と、大男の監視人がすぐさま叫んだ。「子供より行儀がわるいぞ。いったいどうしようっていうんだ? われわれ監視人と身分証明書だとか逮捕状だとかのことで議論すれば、君のたいへんな、厄介きわまる訴訟がたちまち片づくとでも思っているのか? われわれは下《した》っ端《ぱ》なんで、身分証明書なんか知ったことじゃないし、君を毎日十時間ずつ見張ってその報酬をもらうということ以外、何も君とは関係がないんだからね。これがおれたちの身分に関するすべてだ。それでもおれたちには、おれたちが仕えている偉い役所は、こんな逮捕をやる前には、逮捕の事由や逮捕人の身柄を非常に詳しく調べあげている、ということはわかるんだ。それに誤りなんかありやしない。われわれの役所は、おれの知るかぎりでは、もっともおれはいちばん下の連中だけしか知らないが、何か住民のうちに罪を捜すんじゃなくて、法律にもあるとおり、罪のほうに引きつけられ、そしておれたち監視人をよこさざるをえないんだ。それが法律というもんだ。どこに誤りがあるんだ?」
「そんな法律って知りませんね」と、Kは言った。
「それだからなお困るんだよ」と、監視人が言った。
「ただあなたがたの頭にだけある法律なんですよ」と、Kは言い、なんとかして監視人の考えていることのなかにはいりこみ、それを彼の都合のよいほうに向けるか、あるいはそれにもぐりこんで同化しようと思った。ところが監視人はただ突き放すように言うのだった。
「今にわかるようになるよ」
 フランツが嘴《くちばし》を入れ、
「おい、ウィレム、あいつは、法律を知らないって白状し、同時に、自分は無罪だって言い張っているぜ」
「まったくお前の言うとおりだが、あいつには全然わからせることはできやしないよ」と、もう一方の男が言った。
 Kはもう返事をしなかった。こんな下っ端の連中――彼ら自身が、そうだ、と白状している――のおしゃべりでこれ以上頭を混乱させられる必要なんかあろうか、と彼は思った。連中は、自分自身でもまったくわからないことを言っているのだ。落着きはらっているのは、阿呆《あほう》だからこそのことだ。自分と対等の人間とほんの少しでも言葉を交《か》わせば、万事は、こんな連中と長々しゃべっているよりも比較にならぬほど明瞭《めいりょう》になるだろう。Kは二、三度、部屋の中のあいている場所を行ったり来たりしたが、窓の向うに、例の老婆が一人のもっと老いぼれた老人を窓ぎわに引っ張ってきて、抱きかかえるようにしているのが見えた。Kはこんな見世物になっているのに我慢してはいられなかった。
「あなたがたの上役のところへ連れていってくれませんか」と、彼は言った。
「あちらが、そうしろ、と言われるならばね。それまではだめだ」と、ウィレムと呼ばれた男が言った。
「で、君に言っておくが」と、彼は言い足した。「部屋に帰っておとなしくしていて君についての指示が来るのを待ったがいいね。つまらぬ考えでぼんやりしてないで、落着いているがいいぜ。そのうち大きな命令が君に下るよ。君はおれたちを、おれたちの親切にふさわしいようには扱わなかったね。おれたちは相も変らぬつまらぬ連中かもしれないが、少なくとも今は君に対しては自由な人間だ、ということを君は忘れているんだ。これはけっして少しばかりの優越じゃないんだぜ。それでも、君が金を持っているなら、あの喫茶店から軽い朝飯ぐらいは取ってきてやるつもりはあるよ」
 この申し出には答えずに、Kはしばらくじっと立ち止っていた。隣の部屋の扉、あるいは控えの間の扉をあけてさえも、おそらく二人はあえて彼を阻止しないだろうし、極端にまでやってみることがおそらく最も簡単な、事の解決法であろう。けれど二人は彼につかみかかってくるかもしれないし、一度たたき倒されたならば、現在彼らに対してある点ではまだ持ち続けている優越的地位をすべて失ってしまうのだ。それゆえ彼は、事の自然な成行きがもたらすはずの解決の安全ということのほうを選び、部屋にもどったが、彼のほうからも監視人のほうからも、もう一言も発せられなかった。
 彼はベッドに身を投げ、洗面台から見事な林檎《りんご》を取った。昨晩、朝食のためにとっておいたものである。今のところこの林檎だけが彼の朝飯だが、一口大きくかじって確かめたところでは、ともかく、監視人たちのお情けで手に入れることができるかもしれない、きたならしい喫茶店の朝飯よりはずっとましだった。気分がよくなり、前途に期待が持てる気がした。この午前中は銀行の仕事を休むことになるが、それも、彼が銀行で占めているかなり高い地位からいえば、なんとでも言い訳がたつことだった。ほんとうの言い訳を述べるべきだろうか? 彼はそうしよう、と思った。その場合に大いにありうることだが、もし人が彼の言うことを信じないならば、グルゥバッハ夫人、あるいはあちらの二人の老人を証人にすることもできる。ところでこの二人の老人は、確かに今、向い合った窓ぎわに歩みを進めているのだった。監視の連中が彼を部屋に追いやって、いくらも自殺する可能性のあるここにただひとり放っておくということは、Kには不思議に思えたし、少なくとも監視人たちの考えそうな筋道から言って不思議であった。もちろん同時に、今度は自分の考える筋道からして、自殺するというどんな理由があるのか、と自問してみた。あの二人が隣室にすわっており、自分の朝飯を平らげてしまったから、とでもいうのか? 自殺しようなどというのはばかげたことであるから、たといしようとしても、そのばかばかしさのために実行はできなかったであろう。もし監視人たちの頭の足りなさがあんなにひどくないのであったら、連中もまた、おれと同じ確信から、おれをひとりで放っておくということに危険を認めなかったのだ、と考えることもできたのだが。連中は今、もし見ようと思うのなら、彼が、上等のブランデーを納めてある小さな戸棚《とだな》のところへ来て、まず一杯目を朝飯がわりに乾《ほ》し二杯目のほうは元気をつけるためだときめている様子を、ながめていることだろうが、二杯目のほうはただ、実際にそんな必要があるというおよそありそうもない場合に備えてやっているのだった。
 そのとき、隣室からの呼び声が彼をひどく驚かしたので、彼は歯をコップにぶつけた。
「監督が呼んでおられる!」と、いうことだった。彼を驚かしたのは、ただその叫び声だけだった。この短い、断ち切られたような、軍隊式の叫び声は、監視人のフランツのものとはまったく思えないものだった。ところで命令そのものは、彼にはきわめて好ましかった。
「とうとう来ましたね!」と、彼は叫び返し、戸棚をしめ、すぐ隣室へ急いで行った。そこには二人の監視人が立っていて、当然だといわんばかりに、彼をまた部屋へ追い返した。
「冗談じゃないぞ、え?」と、彼らは叫んだ。
「シャツを着たまま監督の前に出ようっていうのか? そんなことをしたら、あの人は君をさんざんにたたきのめさせるぞ、それにおれたちも巻き添えだ!」
「ちぇ、放っておいてくれたまえ!」と、もう洋服|箪笥《だんす》のところまで押しもどされていたKは、叫んだ。「寝込みを襲っておいて、礼装して来いもあるもんか」
「なんと言おうとだめだ」と、監視人たちは言ったが、Kが大声で叫ぶと、まったくおとなしく、いやほとんど悲しげにさえなり、そのため、彼を当惑させ、あるいはいわば正気に返らせるのだった。
「ばかばかしい仰山さだ!」と、なおもぶつぶつ言ったが、すでに上着を椅子から取上げ、しばらく両手で持ったまま、監視人たちの指図《さしず》を求めているような格好になった。二人は頭を振った。
「黒の上着じゃなくちゃいけない」と、彼らは言った。
 Kはすぐさま上着を床に投げ、言った。――彼自身、どんなつもりでこう言ったのか、わからなかった。
「だってまだ本審理じゃないんだ」
 監視人たちはにやりとしたが、主張はまげなかった。
「黒の上着じゃなくちゃいけない」
「そうすれば事が早くすむのなら、それでもかまいませんよ」と、Kは言い、自分で洋服箪笥をあけ、長いことたくさんの服をひっかきまわし、いちばんいい黒の服を選んだ。腰まわりの出来がよいので知人たちのあいだでほとんど大評判となった背広である。
 そして、別なシャツも引出して、念入りに着はじめた。風呂にはいれ、と無理|強《じ》いすることを監視人たちが忘れたので、万事を早めることができたのだ、と心ひそかに思った。しかし二人がおそらくそのことを思い出すのではないかと様子をうかがっていたが、もちろん彼らにはそのことは思いつかなかった。そのかわり、Kは着替えしております、という報告を携えてフランツを監督のところへやることを、ウィレムは忘れはしなかった。
 着物を完全に着てしまうと、ウィレムのすぐ前を通って、空《から》の隣室を抜け、次の部屋に行かねばならなかった。扉は両側ともすでに開かれていた。この部屋には、Kもよく知っているとおり、少し前からタイピストのビュルストナー嬢が住んでいるが、彼女は非常に早く仕事に出てゆくのがならわしであり、帰りも遅いので、Kとは挨拶《あいさつ》以上にたいして言葉を交わしたこともなかった。ところが夜間用の小さな机がベッドのそばから部屋の真ん中に引っ張り出されて審理用の机にされ、その向うに監督がすわっていた。脚《あし》を組んで、片腕を椅子の背にかけていた。
 部屋の隅《すみ》には三人の若い男がいて、壁にかかったマットに留めてあるビュルストナー嬢のさまざまな写真をながめていた。開いた窓の把手《とって》には、一枚の白いブラウスがかかっていた。向いの窓にはまた例の二人の老人がいたが、仲間がふえていた。というのは、彼らの背後に、ずっと背丈《せたけ》の高い一人の男が、胸のはだけたシャツ姿で立っており、赤みがかった髯《ひげ》を指でおしたり、ひねったりしていたからである。
「ヨーゼフ・Kだね?」と、監督はきいたが、おそらくはただ、Kのきょろきょろした眼差を自分に向けさせるためであった。Kはうなずいた。
「今朝《けさ》の出来事できっと非常に驚いただろうな?」と、監督はたずね、そう言いながら両手で、蝋燭《ろうそく》とマッチ、本と針床といった、まるで審理に必要な物ででもあるかのように夜間用の小さな机の上にのっている数少ない品物を、わきへ押しやるのだった。
「そうですね」と、Kは言ったが、ついに物のわかる人間に向い合って、自分のことに関して話ができるのだ、という快い感情が彼をとらえた。
「確かに驚きはしましたが、けっして非常に驚いたというわけでもありません」
「非常に驚いたわけでもない?」と、監督はきき、机の真ん中に蝋燭を立てて、そのまわりにはほかの品々を並べたてた。
「どうも申上げた意味を誤解しておられるらしいですが」と、Kは急いで述べたてようとした。
「つまり」――ここで彼は言葉を切り、椅子はないだろうかと、あたりを見まわした。
「すわってもかまいませんか?」と、彼はきいた。
「それはできないことになっている」と、監督は答えた。
「つまり」と、Kはこれ以上|間《ま》をおかずにしゃべりはじめた。「もちろん非常に驚きはしましたが、人間三十にもなると、そして、私がそういう運命にあったように、孤軍奮闘しなければならなかったとすると、驚きなんていうものには鍛えあげられ、たいして苦にもしなくなります。ことに今日の出来事のようなのにはそうです」
「なぜ、ことに今日の出来事のようなのにはそうなんだ?」
「事のすべてを冗談だと見ている、と言うんじゃないのです。冗談にしては、やられた道具だてがおおげさすぎますからね。アパートの住人みな、そしてあなたがたも、事に加担しておられるようですし、こうなると冗談の範囲を超《こ》えていますからね。だから、冗談なんだ、と言うつもりはありません」
「まったくそうだ」と、監督は言い、何本マッチがマッチ箱のなかにあるのか、数えていた。
「しかし一面、この事件はたいして重要性を持ってはいません。そう推論できるのは、私は告発されてはいるものの、私が告発されるような罪は、少しも見つけだせないからです。しかし、それも二の次です。問題は、誰に告発されたのか、ということです。どの役所が手続きをやっているのか? あなた方は役人なのか? どなたも制服は着ておられないし、あなた方の服は」――ここで彼はフランツのほうを向いた――「制服とは申せませんからね。どうみても、むしろ旅行服といったものです。こうした疑問に明瞭なご返事を願いたいと思います。これがはっきりすれば、お互いにきわめて気持よくお別れできる、と確信します」
 監督はマッチ箱を机の上に置いて、言った。
「君はたいへん間違っている。ここにおられる方々も私も、君の事件についてはまったく枝葉の存在なんだ。実のところ、それについてはほとんど何ひとつ知ってはいやしない。われわれは規則どおりの制服を着ることもできようが、それで君の事件がどうなろうというものじゃない。君が告発されているなどということは、私はまったく言えないし、あるいはむしろ、いったい君が告発されているのかどうかさえ、知ってはいないのだ。君が逮捕された、ということは確かだ。それ以上は知ったことじゃない。おそらく監視人たちが何かよけいなことをしゃべったかもしれないが、それならそれはただのおしゃべりだ。君の質問にはお答えしないが、われわれのことや、君にこれから起るかもしれないことやにはあまり頭を使わないで、それよりか君自身のことを考えるほうがよい、と忠告しよう。自分は潔白だという気持でこんな騒ぎをやらないことだな。君がほかのことでは与えているさしてわるからぬ印象を、ぶちこわしてしまうからね。それにまた、およそ口をもっと慎むことだ。君がこれまでしゃべったことはほとんどみな、ただほんの二言三言にとどめておいても、君の態度からしてわかったことだろうし、そのうえ、君にとって格別有利なものでもなかったからね」
 Kはじっと監督を見た。見かけたところ年下らしい男から、ここで杓子定規《しゃくしじょうぎ》の説教をされるのか? 公明正大に言ったおかげで、訓戒されるわけか? そして、逮捕理由についても命令の出し主についても、何も聞かされないのか? 彼は一種の興奮状態に陥って、あちこちと歩くのだったが、誰もその邪魔をする者はなく、彼はカフスを引っこめたり、胸のあたりにさわったり、頭髪をなで直したりし、三人の男の前を通りながら、言った。
「まったくばかげたことだ」
 これを聞いて三人は彼のほうを向き、言うことは聞いてやるがという様子だが、真剣な顔つきで、彼をじっと見た。Kは最後にまた監督の前で立ち止った。
「ハステラー検事は私の親友なんですが」と、彼は言った。「電話をかけてかまいませんか?」
「よろしい」と、監督は言った。「だが、電話をかけることにどんな意味があるのかは私にはわからないが、まあ、個人的な用事で検事と話さねばならないんだろうな」
「どんな意味かわからないですって?」と、Kは腹をたてたというよりは唖然《あぜん》として叫んだ。
「あなたはいったい何者です? 意味などと言っているくせに、およそありうるかぎり無意味なことをやっているじゃないですか? かわいそうなくらいばかげたことじゃありませんか? この方々がまず私を襲ったのに、今はこの部屋であちらこちらに立ったりすわったりしていて、あなたの面前で私に高等馬術をやらせているんです。私は明らかに逮捕されているらしいが、検事に電話することがどんな意味を持っているか、と言われるんですか? よろしい、電話はかけますまい」
「だがまあそう言わずに」と、監督は言って、電話のある控えの間のほうに手を伸ばし、「どうぞ、電話をかけたまえ」
「いや、もう結構です」と、Kは言い、窓ぎわへ行った。
 向うでは連中がまだ窓ぎわにいたが、今やっと、Kが窓ぎわへ寄ったので、静かにながめていることを少しばかり邪魔された様子だった。二人の老人は身体《からだ》を起そうとしたが、彼らの後ろの男が制していた。
「向うには向うで、あんな見物がいるんです」と、Kは大声で監督に向って叫び、人差指で外を示した。
「そこからどけ!」と、彼は窓向うにどなった。
 三人のほうもすぐ二、三歩退き、そのうえ、二人の老人は男の後ろにまわったが、男は二人の老人をその幅広い身体でおおい隠し、その口の動きから判断するのに、遠くてよくはわからないが何か言っているらしかった。しかし、彼らはすっかり見えなくなってしまったのではなく、そっとまた窓ぎわに近づくことのできる瞬間をねらっているらしかった。
「あつかましい、遠慮のないやつらだ!」と、部屋のほうに振返りながら、Kは言った。Kが横眼で見取ったところでは、監督もおそらく彼の言うことに同感だったらしかった。しかしまた、全然彼の言うことに耳をかしていないようにも思えた。というのは、片方の手をしっかりと机の上に押しつけ、指の長さをそれぞれ比べてみている様子だったからである。二人の監視人は飾り布でおおったトランクに腰をかけ、膝《ひざ》をこすっていた。三人の若い男が手を腰にあてて、ぼんやりとあたりを見ていた。どこか忘れられた事務室でのように静かであった。
「さて、みなさん!」と、Kは叫んだが、一瞬のあいだ、三人全部を肩に背負っているように思えた。「あなたがたのご様子では、私についての用件は終ったものと考えてよさそうですが。私の意見では、あなたがたの行動が正しかったか、正しくなかったか、というようなことをもうこれ以上考えずに、互いに握手し合って事を円満に決着することがいちばんよいように思われます。あなたがたも私と同意見でいらっしゃるなら、どうか――」
 そう言って彼は、監督の机に歩み寄って、手を差出した。監督は眼を上げ、唇《くちびる》を噛《か》んでKが差出した手を見ていた。監督は応じてくれるものと、Kはまだ思いこんでいた。ところが監督は立ち上がると、ビュルストナー嬢のベッドの上に置かれた、硬《かた》くて円い帽子を取上げ、新しい帽子をためすときやるように、両手で念入りにかぶりながら、「君は万事をなんて単純に考えているんだろう!」と、Kに言った。「円満に事を決着する、と言うのかね? いや、いや、ほんとうにそうはいかないよ。もっともそうかといって、君を絶望させるつもりは少しもない。いや、そんなことをどうしてしよう? ただ君は逮捕された、それだけの話だ。そのことを君に知らさねばならなかったので、そうしたまでだし、君がそれを受入れたということも見てとった。それで今日のところは十分だし、お別れもできる。もちろんしばらくのことだがね。きっと君は、もう銀行に行きたいところだろうね?」
「銀行ですって?」と、Kは言った。「私は逮捕されたんだ、と思っていましたよ」
 Kはちょっと居丈高《いたけだか》になってきいた。というのは、彼の申出た握手は受入れられなかったけれども、ことに監督が立ち上がってからは、この連中のすべてからいよいよ拘束されていない立場にある自分を感じたからである。彼はこの連中と戯れるのだった。彼らが立ち去るときになったら、玄関まで追っかけてゆき、私は逮捕されているのですが、と言ってやる下心だった。そこで彼はまた繰返した。
「逮捕されたんですから、どうして銀行へ行けましょう」
「ああ、そのことか」と、すでに戸口にいた監督は言った。「それは君の考え違いだよ。君は逮捕された、確かにそうだが、それは君が職業をやってゆくことを妨げはしないんだ。今までどおりの暮しかたをしても、ちっともかまわないんだ」
「それじゃあ逮捕されるのも、たいしてわるいことじゃありませんね」と、Kは言い、監督のそばに近づいた。
「初めからそう言っているはずだ」と、監督は言った。
「しかしそれなら、逮捕通知もたいして必要でなかったようですが」と、Kは言って、さらに近くへ寄っていった。ほかの連中も近寄ってきた。皆が狭い部屋の扉のところへ集まった。
「それは私の義務だったのだ」と、監督が言った。
「ばからしい義務ですね」と、Kは負けてはいずに言った。
「そうかもしれない」と、監督が答えた。「だが、こんな話で時間をつぶしたくない。君が銀行に行くものとばかり私はきめこんでいた。君はあらゆる言葉を気にしているので言っておくが、銀行に行くように君を強制するつもりはないんで、君が行きたいと思っているときめこんだだけのことだ。そして、君が気軽に出かけられ、銀行に出てもできるだけ目だたぬようにするため、君の同僚の三人の方々を君のためにここへお連れしてきてある」
「なんですって?」と、Kは叫び、三人をまじまじとながめた。このなんの特徴もない、貧血の若い男たちは、写真を撮《と》ったときの仲間としてだけ今も記憶に残っているのだが、事実彼の銀行の行員だが、同僚というわけでなく、同僚などというのはおおげさな話で、監督の全知全能ぶりにはすき[#「すき」に傍点]があることを示しているのだったが、ともかく彼らは銀行の下っ端の行員にはちがいなかった。どうしてKは彼らに気づかなかったのだろうか? この三人に気づかなかったなんて、なんと監督や監視人たちに気をとられていたことだろう! 身体つきのぎごちない、両手をぶらぶら振っているラーベンシュタイナー、金壺眼《かなつぼまなこ》のブロンドのクリヒ、慢性の筋肉引きつりのため気味の悪い薄笑いを浮べているカミナー。
「お早う」と、Kはしばらくして言い、きちんと頭を下げる三人に手を差伸べた。
「僕は君たちにちっとも気がつかなかった。それじゃ、仕事に出かけようか?」
 三人は笑いながら、ずっとそれを待ちもうけてでもいたかのように気を入れてうなずき、ただKが帽子を部屋に取残して手にしていないのに気づくと、彼らは皆相次いで取りに走っていったが、その様子からは、ともかくある種の当惑ぶりというものが想像されるのであった。Kは黙って立ったまま、二つの開いた扉を通ってゆく後ろ姿を見ていたが、いちばん後《あと》は、もちろん、気のはいっていないラーベンシュタイナーで、彼は格好のよい早足をやってみせるだけだった。カミナーが帽子を渡したが、Kは自分に、これはともかく銀行でもしばしばせざるをえないことだったが、カミナーの薄笑いはそうしようと思ってやっているのではない、いやおよそ彼は、自分でやろうと思って薄笑いなど浮べることはできないのだ、と言って聞かせた。次に控えの間でグルゥバッハ夫人が一同に玄関の扉をあけたが、彼女はまったくたいして責任を感じてはいないように見受けられた。そしてKは、いつもと同じように、不必要に深く彼女の大きな図体《ずうたい》に食いこんでいるエプロンの紐《ひも》を、見下ろした。表でKは、時計を片手にして、もう半時間にもなる遅刻をこれ以上不必要に延ばさないように、自動車に乗ろうと決心した。カミナーは、車を呼ぶために角まで走ってゆき、ほかの二人は明らかに、Kの気をまぎらそうと努めるのだったが、突然クリヒが筋向いの家の戸口を示した。そこにはちょうど、例のブロンドの髯《ひげ》の大男が姿を見せ、図体をすっかり見せてしまったことに最初の瞬間は少し当惑して、壁のところまで引っこみ、そこにもたれていた。二人の老人はまだ階段を降りてくるところだった。自分がすでに先刻見つけ、そのうえ現われるだろうと期待さえしていた例の男をクリヒが指さしたことに、Kは立腹してしまった。
「あんなところを見るんじゃない!」と、大声で叫んでしまい、一人前の男たちに対してこんな物の言いかたをすることがどんなに目だつことかに、気づくことさえなかった。だが弁解の必要もなかった。ちょうど自動車が来たからである。彼らは車に乗り、走りだした。そのときKは、監督と監視人たちとが帰ってゆくのに全然気づかなかったことを思い出した。監督に気を取られて三人の行員を見そこない、今度はまた行員たちに気を取られて監督を見失ったのだった。こんなことではあまり気を配っているとは言えないし、この点でもっと精密に観察しよう、とKは決心した。しかし、彼は思わず知らずのうちに振向き、自動車の背のクッションの上へ身体を曲げ、できればまだ監督と監視人たちが見えないか、とうかがってみた。しかし、すぐにまた向き直り、ゆったりと車の片隅《かたすみ》によりかかって、誰か相手を求めようとする試みさえもしはしなかった。今のところ話しかける必要がある様子もなかったが、三人の行員たちは疲れているようであり、ラーベンシュタイナーは右側、クリヒは左側で、車の外をながめ、ただカミナーだけが例のごとくにやにやして、なんでもいたしますという面持だった。こんなのをからかうことは、残念ながら人情としてできないことだった。

 この春Kは、できれば――というのはいつもたいてい九時までは事務室にすわっていたからだが――仕事のあと、ひとりでかあるいは行員たちといっしょに、ちょっとした散歩をし、そのあとであるビヤホールに行き、年配の紳士が多い常連のテーブルの仲間にはいって、普通、十一時まですわるというふうにして、夜分を過す習慣だった。しかし、たとえばKの仕事の力倆《りきりょう》と信頼できる点とを非常に評価している支店長にドライヴに誘われたり、あるいはその別荘での晩餐《ばんさん》に招かれたりするときには、こんな時間の割り振りにも例外があった。そのほかにKは、一週に一度、エルザという女のところへ行くが、夜じゅう通して朝も遅くまで或《あ》る酒場に勤めている女で、日中に訪《たず》ねると、きまってベッドにいて迎えるのだった。
 しかしこの夜は――日中は仕事に追われ、また丁重で親しげな誕生日の祝いを言われながらたちまち過ぎ去ってしまったが――Kはすぐ家に帰ろうと思った。昼間の仕事のちょっとした合間に、彼はそのことを考えていた。いったいなぜこんなことを考えるのかはっきりとはわからなかったが、今朝の出来事のためにグルゥバッハ夫人の家全体に大きな混乱が引起され、秩序を回復するためにはまさに自分が必要なように思われるのだった。しかし、この秩序が一度回復されれば、あの出来事のあらゆる痕跡《こんせき》は消えてなくなり、万事は元どおりになることだろう。ことに例の三人の行員については何も恐れる必要はなく、彼らはまた銀行の大勢の勤め人仲間のうちに埋もれてしまい、彼らにはなんらの変化も認められなかった。Kはときどき彼らを、一人あるいは三人いっしょにというふうに、自分の事務室に呼んでみたが、彼らの様子をうかがう以外の目あて[#「あて」に傍点]もなかったのだった。ところが、いつでも安心してかえすことができた。
 夜の九時半に、住んでいる家の前に来ると、入口で一人の若い男に出会った。その男はそこで足を踏んばって立っており、パイプをふかしていた。
「どなたです?」と、Kはすぐたずね、顔をその若い男に近づけたが、玄関の薄暗がりのなかではよくは見えなかった。
「門番の息子です、旦那《だんな》」と、若者は答え、パイプを口から放して、わきへどいた。
「門番の息子だって?」と、Kはきき、ステッキでいらいらしたように床をたたいた。
「旦那、ご用でしょうか? 親爺《おやじ》を呼んできましょうか?」
「いや、いいよ」と、Kは言ったが、その声のなかには、この男がある悪事をやったのだが自分はゆるしてやるのだ、というような何かゆるすような調子が含まれていた。
「もういいよ」と、彼は言い、歩みを進めたが、階段を登る前に、もう一度振向いた。
 まっすぐ自分の部屋へ行ってもよかったが、グルゥバッハ夫人と話したくなって、すぐ彼女の部屋の扉をたたいた。夫人は靴下を編みながら机のそばにすわり、机の上にはさらに一山の古靴下がのっていた。Kはどぎまぎして、こんなに遅くお邪魔してすみません、と申し訳をしたが、グルゥバッハ夫人は非常に愛想よく、そんな申し訳は聞きたくないというふうで、あなたならいつでも、お話ししてよい、私があなたを間借人のうちいちばんよい、いちばんりっぱな方だと思っていることはよくご存じでしょう、と言うのだった。Kは部屋を見まわしたが、また完全に元どおりになっていて、朝には窓ぎわの小さな机の上にのっていた朝飯の道具も、すでに片づけられてあった。
「女の手というやつは、こっそりと多くのものを片づけるものだ」と、思った。自分ならおそらく道具を即座にたたき割ってしまって、部屋から運び出すことなどはきっとできるものではなかったろう。彼はグルゥバッハ夫人を感謝めいた気持でじっと見つめた。
「なぜこんなに遅くまでお仕事をなさるんです?」と、彼はたずねた。
 二人とも机にすわり、Kはときどき手を靴下のなかへ突っこんだ。
「仕事が多うござんしてね」と、彼女は言った。「昼間は間借人の方々にかかりきりですし、自分の仕事を片づけておこうとすると、どうしても夜分だけしかありません」
「今日はさだめしよけいな仕事をおさせしましたろう?」
「どうしてですの?」と、夫人はたずね、いくらか真顔になって仕事の手を膝《ひざ》に休めた。
「今朝ここにいた連中のことです」
「ああ、あのこと」と、彼女は言い、また平静にかえって、「たいして手のかかることではありませんでしたわ」
 Kは黙って、靴下編みをまた始めた夫人をながめた。あのことを言ったので、彼女は不審に思っているようだ、あのことを言ったのを変なふうにとっているらしい、と思った。それだけに、あのことを言うことが大切なのだ。年配の婦人とだけあのことを話すことができる。
「いや、きっとお手数をおかけしました」と、彼は言った。「しかし、あんなことはもう二度と起りますまい」
「ええ、あんなことは二度と起りませんよ」と、励ますように言い、ほとんど悲しげに彼に微笑《ほほえ》みかけた。
「ほんとうにそうお思いですか?」と、Kはたずねた。
「そうですとも」と、彼女は低い声で言った。「けれど何より、あのことをあまりむずかしくお考えになってはいけませんわ。この世の中では何が起るかわかったものじゃありませんもの! Kさん、あなたがうちとけて私とお話しくださるので、私もつつまずに申しますが、私は扉の後ろでちょっと盗み聞きしましたし、二人の監視人たちも私にいくらか話してくれましたの。なにしろあなたのご運に関することですし、ほんとうに私の気にかかることですもの。そりゃあ、私には出すぎたことでしょうよ、なにしろ私は下宿の女将《おかみ》にすぎませんからねえ。ところで、少し監視人から聞いたと申しましたが、何かとりたててわるいことがあったとは、申せません。そんなことはありませんでした。逮捕されたと言いましても、泥棒なんかで逮捕されるのとはちがいますものねえ。泥棒のように逮捕されるんなら、わるいことですが、あなたの逮捕は――。そう、何か学問めいた感じですわ。もし何かばかげたことを申上げたなら、おゆるしください。私には何か学問めいた感じですわ、もちろん私にはよくわかりませんし、誰もわかるはずがないんですけれど」
「おっしゃったことはばかげたことじゃありませんよ、グルゥバッハさん。少なくとも私も部分的にはあなたと同じ考えです。だが私はこのことをあなたよりも鋭く判断しますから、私は簡単にそれを何か学問めいたことなどとは少しも考えないで、およそ無意味なことだと考えるんです。私は急に襲われたっていうわけです。もし眼がさめたらすぐ、アンナが来ないことなどに惑わされずに起き上がり、邪魔にはいる人間なんかに眼もくれずにあなたのところへ行き、今朝は番外に台所ででも朝飯を食べ、着物はあなたに私の部屋から持ってきていただいたなら、つまり理性的に振舞っていたなら、それ以上のことは何も起らず、起るはずのいっさいのことが防がれたことでしょう。でも心構えが全然できていなかったんです。たとえば銀行でなら心構えもできており、こんなことは起りようもないんです。自分の小使がいるし、外線と社内との電話が眼の前の机の上にあるし、顧客や行員がひっきりなしにやってきます。そのうえ、何よりも肝心なことですが、銀行ではいつも仕事とつながりがあり、そのためいつも頭が働いていて、こんな仕事の相手をさせられることは、まったく楽しみみたいなもんです。だが、事はすんだのですし、私もまったくこれ以上あんなことについてお話ししたくはありません。ただ、あなたのご判断、物わかりのよい女の方の判断というものをお聞きしたいと思ったのです。私たちの意見が一致したことをよろこんでいます。では私に手をお出しください、こんなに意見が一致したからは、手を握り合ってその気持を強めなくてはなりますまい」
 夫人は手を差出すだろうか? 監督のやつは手を差出さなかったが、とKは考え、夫人を前とは変って探るようにじっと見つめた。彼が立ち上がったので、彼女も立ち上がったが、Kが言ったことが全部はのみこめなかったので、少しこだわっている様子だった。このこだわりのため、彼女は、自分で少しも言おうとは思わなかった、そしてその場にまったくそぐわぬようなことを、口走ってしまった。
「どうかそうむずかしくお考えにならないでください、Kさん」と、彼女は言い、泣き声になって、もちろん握手などは忘れていた。
「私は何もむずかしくなぞ考えてはいないと思いますが」と、Kは言い、突然疲れを感じ、この夫人の同意などは意味がないということをさとったのだった。
 扉のところで彼はさらにたずねた。
「ビュルストナーさんはおりますか?」
「いらっしゃいません」と、グルゥバッハ夫人は言い、この素っ気ない返事に気づいて、おくればせながら物のわかったような気持をこめて、微笑んでみせた。
「あの方はお芝居ですわ。何かご用ですか? 私からお伝えしておきましょうか?」
「いや、ちょっとあの人とお話ししようと思っただけです」
「残念ですが、いつお帰りかわかりませんわ。芝居にいらっしゃると、いつもお帰りが遅いんでね」
「いや、どうでもいいんです」と、Kは言い、頭を垂《た》れて扉のほうにくるりと向き、出ようとした。「あの人の部屋を今日使ったことをおわびしようと思っただけです」
「それにはおよびません、Kさん、あなたは気を使いすぎますわ。あの人は何もご存じありませんし、朝早くから出かけているうちに、もうすっかり片づきました。ご自分でごらんになってください」
 そして、彼女はビュルストナー嬢の部屋の扉をあけた。
「結構です、よくわかっています」と、Kは言ったが、開いた扉のところまで行っていた。
 月が静かに真っ暗な部屋のなかにさしこんでいた。見たところでは、実際、万事元のままで、ブラウスももう窓の把手《とって》にはかかっていなかった。ベッドの布団《ふとん》が目だって盛り上がっていて、一部分が月光を浴びていた。
「あの人はよく夜遅く帰ってきますね」と、Kは言い、その責任はあなたにある、というようにグルゥバッハ夫人を見つめた。
「どうしても若い人たちはそうですわ!」と、グルゥバッハ夫人は言い訳をするように言った。
「確かにそうですね」と、Kは言った。「でも極端になりがちですよ」
「そうですね」と、グルゥバッハ夫人は言った。「あなたのおっしゃるとおりです、Kさん。おそらくこの人の場合もそうでしょう。ビュルストナーさんのことをわるく言うつもりはほんとうにありません。あの人はよい、かわいい娘さんですし、親切で、きちんとし、時間もしまりがあり、よく働きますから、万事たいへん感心しているんですが、もっと自分に誇りを持ち、慎みがなくてはならないということだけはほんとうですわ。今月になってもう二度も、場末の通りを男を変えて歩いているのを見ました。Kさん、あなただけに申しますが、私はほんとうにいやな気持がしました。けれど、そのうちあの人に面と向ってこのことを言うことに、どうしてもなるでしょう。それに、私にあの人のことを疑わせるのは、何もこのことだけではありませんわ」
「それはまったく見当ちがいですよ」と、怒って、ほとんどそれを隠すのを忘れて、Kは言った。「それにあなたは、私があの人のことについて言ったことを明らかに誤解なすったようですね。そんなつもりで言ったんじゃないんです。はっきり言っておきますが、あの人に何かそんなことを言っちゃいけませんよ。あなたは全然間違っておられる。私はあの人のことをよく知っていますが、あなたが言われたことはまったく嘘《うそ》です。まあ、どうもこれは言いすぎたかもしれません。何もあなたの邪魔をするわけじゃないんですから、なんなりとあの人におっしゃったらいいでしょう。おやすみなさい」
「Kさん」と、グルゥバッハ夫人は嘆願するように言って、彼がもうあけている扉のところまで、急いで追いかけてきた。「ほんとうのところまだあの人に話を持ち出そうとは思っていません。もちろん、その前にもっとよくあの人のことを見ようと思うんですけれど、私の知っていることをあなたにだけお打明けしたんです。結局のところ、こう考えるのは、自分の下宿をきれいにしておきたいと思う家主の誰でもの気持にちがいありません。そして私のつもりもそれとは少しもちがわないんですわ」
「きれいにだって!」と、Kは扉の隙間《すきま》から叫んだ。「もし下宿をきれいにしておこうと思われるなら、まずこの私に立ちのきを言わなくちゃならないでしょう」
 そして彼は扉をぴしゃりとしめ、低いノックの音にはもうおかまいなしでいた。
 だが、全然眠たくないので、まだ起きていて、ビュルストナー嬢が何時に帰ってくるかをこの機会に確かめよう、と決心した。それからまた、あまりよいことではないが、またあの女と一言二言話すことも、おそらくできるだろう。窓ぎわで横になって、疲れた眼を押えると、グルゥバッハ夫人を罰してやろう、ビュルストナー嬢を説き伏せて、いっしょにこの家を出てやろう、ということさえ一瞬頭に浮ぶのだった。しかしすぐに、そんなことをするのはおそろしくやりすぎだと思われたし、今朝の出来事のために住居を変える気になった自分というものに対して、疑念さえも覚えた。これよりも無意味で、ことに無益でばからしいことは、何もないだろう、と思うのだった。
 人けのない通りをながめることに飽きたとき、この家にはいってくる者がすぐソファから見えるように、控えの間の扉を少しあけてから、ソファの上に身を横たえた。およそ十一時まで、葉巻を一本ふかしながら、ソファの上に静かに横になっていた。それからあとは、もうそこにじっと待ってはいられなくなり、少し控えの間にはいった。こうすれば、ビュルストナー嬢の帰宅を早めることができるように思われたのだった。特に彼女を求める気持はなかったし、どんな格好の女だったかけっして詳しく思い出せもしなかったが、今は彼女と話がしたく、帰りが遅いため今日という日の終らぬうちに不安と混乱とを彼女がもたらしたことが、彼をいらつかせた。今晩の食事を食べもしないで、今晩に予定していたエルザを訪ねることもやめてしまったについては、彼女にも責任があるのだ。もちろん、今からでもエルザの勤めている酒場へ行けば、この二つのことは取返しがつく。それはもっと後《あと》で、ビュルストナー嬢と話が終ってからにしよう、と思った。
 十一時半を過ぎたとき、誰かの足音が階段のところで聞えた。考えに没頭し、自分の部屋ででもあるかのように足音高く控えの間をあちこち歩いていたKは、自分の部屋の扉の背後に逃げた。やってきたのは、ビュルストナー嬢だった。寒気を覚えながら、扉をしめるとき、絹のショールを細い肩に締めつけた。この機を失すれば、彼女は自分の部屋にはいってしまい、真夜中なので、きっとKはそこへ押し入ることもできないだろう。そこで今こそ声をかけるべきときだったが、自分の部屋の電燈をつけておくことを運わるく忘れていたので、暗闇《くらやみ》から出てゆくことは、まるで襲いでもするような格好になり、少なくとも相手を非常に驚かすことになったにちがいなかった。途方にくれ、また一刻の猶予もならなかったので、彼は扉の隙間から小声で呼んだ。
「ビュルストナーさん」
 それは呼びかけているのではなく、嘆願の調子だった。
「どなたかいらっしゃるの?」と、ビュルストナー嬢はたずね、大きな眼をしてあたりを見まわした。
「私です」と、Kは言って、姿を現わした。
「ああ、Kさんでしたの!」と、ビュルストナー嬢は微笑《ほほえ》みながら言った。
「今晩は」と、彼女はKに手を差出した。
「あなたにちょっとお話ししたいことがあるんです、今でよろしいでしょうか?」
「今ですの?」と、ビュルストナー嬢はたずねた。「今じゃなくちゃいけませんの? 少し変じゃありません?」
「九時からお待ちしていたんです」
「でも、私は芝居に行っていましたの。あなたがお待ちだなんて少しも存じませんでしたわ」
「お話ししようということの動機になっているのは、今日初めて起ったことなんです」
「それじゃ、倒れるほど疲れてはいますけれど、それ以外にはどうしてもお断わりする理由もありませんから、ほんの少しだけ私の部屋に来ていただきましょう。こんなところでは絶対にお話もできませんし、みなさんをお起ししてしまうでしょう。そうなったらほかの人たちのためというより、私たちのため不愉快なことになりますわ。私の部屋の明りをつけますから、それまでここでお待ちになってちょうだい。それからここの明りを消してくださいね」
 Kは言われるままにしたが、なおしばらく、ビュルストナー嬢が彼女の部屋からもう一度小声で、はいるようにと求めるまで待っていた。
「おかけください」と、彼女は言い、安楽椅子を示したが、彼女自身は、疲れていると言ったくせに、ベッドの枠柱《わくばしら》のところへ立ったままであった。小さいが花をいっぱい飾ってある帽子も、けっして脱がない。
「で、どんなご用ですの? ほんとうにお伺いしたいですわ」
 彼女は軽く脚を組んだ。
「あなたはおそらく」と、Kは言い始めた。「事柄は今お話しせねばならぬほど差迫ったことでないとお思いかもしれませんが、しかし――」
「前置きなどはいつも聞きすごしますわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「それなら私のほうも気が楽です」と、Kが言った。「あなたのお部屋が今朝《けさ》、いわば私の責任なんですが、少しかきまわされたんです。私の知らない連中の手で私の意に逆らってやられたことですが、申上げたように、私のためにやられたのです。それでおわびを申上げようと思ったのでした」
「私の部屋がですって?」と、ビュルストナー嬢は言い、部屋を見るかわりに、Kをまじまじとながめた。
「そうなんです」と、Kは言って、二人はここで初めて互いに視線を交《か》わした。「どういうふうにしてそれが行われたか、ということは全然申上げる価値がありません」
「でもそれがほんとうに伺いたいことですわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「いや」と、Kは言った。
「それじゃあ」と、ビュルストナー嬢は言った。「私は別に秘密に立ち入りたいとも思いませんし、おもしろくないとおっしゃるなら、何も異議は申上げません。あなたが求めていらっしゃるゆるしというのは、よろこんで差上げますわ、別にかきまわした様子も全然見受けられませんもの」
 平手を腰の辺へぴったり当てたまま、彼女は部屋のなかを一まわりした。写真のあるマットのところで立ち止った。
「まあごらんなさい!」と、彼女は叫んだ。「私の写真がほんとうにごちゃごちゃですわ。いやですこと。それじゃあやっぱり、誰かが私の部屋にはいりましたのね。失礼ですわ」
 Kはうなずいてみせ、単調で無意味なはしゃぎかたをどうしても抑《おさ》えられないでいるあの行員のカミナーのことを、心ひそかに呪《のろ》った。
「変なことですわ」と、ビュルストナー嬢が言った。「留守のあいだに私の部屋にはいってはいけないなんて、あなたご自身がよくおわかりでしょうに、私から申上げねばならないなんて」
「いや、つまり私が申上げたのは」と、Kは言い、自分も写真のところへ行った。「あなたのお写真に手をかけたのは、私じゃなかったということです。あなたはお信じにならないでしょうから申上げますが、審理委員会が三人の銀行員を引っ張ってきたんです。そのうちの一人は、近い機会に銀行から追い出してやろうと思っていますが、そいつが写真を実際手に取ったのです。そうです、審理委員会がここで開かれました」と、女が物問いたげな眼差《まなざし》で彼を見つめたので、彼は付け加えたのだった。
「あなたのためにですの?」と、女がたずねた。
「そうです」と、Kが答えた。
「そんなことありませんわ」と、女は叫んで、笑い声をあげた。
「でも」と、Kは言った。「それじゃあ私が無罪だと信じてくださるんですか?」
「さあ、無罪って……」と、女は言った。「たぶんゆゆしい判断をそうすぐには申せませんわ、それに私もあなたのことはよく存じておりませんけれど、すぐに審理委員会に押しかけられるなんていうだけでも、重罪人にきまっています。でもあなたは自由でいらっしゃるんですから――少なくともあなたの落着いたご様子を拝見して、あなたは牢獄《ろうごく》から逃げてきたんではないって判断できますけれど――そんな犯罪をおやりになるはずはありませんわ」
「そうです」と、Kは言った。「でも審理委員会は、私が無罪だ、あるいは考えられたほど罪はないのだ、とさとったかもしれません」
「きっとそうですわ」と、ビュルストナー嬢はきわめて慎重に言った。
「ねえ」と、Kは言った。「あなたは裁判|沙汰《ざた》のことはたいしてご存じじゃありませんね」
「ええ、存じません」と、ビュルストナー嬢は言った。「そしてこれまでもしばしば残念に思っていましたわ。なぜって、私はなんでも知っておきたいんですし、裁判のことなんかは特に興味があるんですもの。裁判というのは独特の魅力がありますわね? でもこの方面で私の知識はきっと完全なものになりますわ、来月になれば事務員としてある弁護士事務所にはいりますから」
「そりゃあ、たいへん結構です」と、Kは言った。「そうなればあなたに少しは私の審理にお力添えいただけましょう」
「もちろん、できますわ」と、ビュルストナー嬢が言った。「なぜできないということがありましょう? よろこんで私の知っていることをご用だてます」
「まじめで申上げているんですよ」と、Kは言った。「あるいは少なくとも、あなたがおっしゃっているのと同じ程度に半ばまじめで言っているんですよ。弁護士を引っ張ってくるには、事は少々小さすぎますが、できれば忠告者をよく利用しなければなりません」
「そうですね、けれど私に忠告者になってくれとおっしゃるんでしたら、問題は、いったい何なのかを知らなければなりません」
「それがまさにむずかしいんです」と、Kは言った。「私自身がわからないんです」
「ああ、それじゃ私をからかっていらっしゃったのね」と、ひどく失望した様子でビュルストナー嬢が言った。「そんなことのためにこんな夜遅くを選ぶなんて、あんまりばかげていますわ」
 そして、それまでずっと二人いっしょに立っていた写真のところから離れてしまった。
「いや、そうじゃありません」と、Kは言った。「ふざけてなんかいるんじゃありませんよ。私の言うことをお信じにならないっておっしゃるんですか! 私にわかっていることは、すでにあなたに申上げました。いや、私にわかっている以上にです。というのは、審理委員会なんていうものじゃなかったのですが、ただ私がそう勝手に名づけたのです。どうもどう言ってよいのかわからなかったものですから。審理などは全然行われませんでした、私はただ逮捕されただけなんです、けれどある委員会の手で行われたことだけは確かです」
 ビュルストナー嬢は安楽椅子にすわっていたが、笑い声をたてた。
「で、逮捕はどんなふうにして行われましたの?」と、彼女はきいた。
「恐ろしいことでした」と、Kは言ったが、今はそんなことなどは考えていないで、ビュルストナー嬢の様子にすっかり心を奪われていた。彼女は片手で顔をささえ、――肘《ひじ》は安楽椅子のクッションにのせていた――もう一方の手がゆるやかに腰をなでているのだった。
「それじゃああんまり月並みで、なんのことやらわかりませんわ」と、ビュルストナー嬢が言った。
「何が月並みすぎるとおっしゃるんです?」と、Kはたずねたが、すぐに思い出して、たずねた。「あのときどういう有様だったか、あなたに申上げろとおっしゃるんですね?」
 彼は動こうとしたが、立ち去ろうとはしなかった。
「もう疲れてしまいましたわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「お帰りが遅いんですよ」と、Kが言った。
「とうとうあげくの果てが、お叱《しか》りを受けるということになりましたのね。でも自業自得ですわ、なにせこんな時間にはあなたに来ていただくべきではなかったんですから。それに、これまでにもうわかったように、来ていただく必要もなかったんですわ」
「必要だったのです。それはすぐわかっていただけると思います」と、Kは言った。
「夜間用の机をベッドのところからこっちへ持ってきてもよろしいですか?」
「なんということをお思いつきになったのです?」と、ビュルストナー嬢は言った。「もちろんそんなことをしていただいては困ります!」
「それじゃあ、あなたにお見せできないじゃありませんか」と、その言葉によって測り知れない損害をこうむったように興奮しながら、Kは言った。
「そうね、もし説明してくださるのに必要なら、机をほんのそっと動かしてください」と、ビュルストナー嬢は言い、しばらくしてからかなり弱々しい声で付け加えた。「疲れていたので、つい度を越したことをさせてしまったわ」
 Kは机を部屋の真っ只中《ただなか》に置き、その後ろにすわった。
「人物の配置を正しくのみこんでいただきます。それはたいへんおもしろいんです。私が監督とします。そこのトランクの上には二人の監視人が腰かけており、写真のところには三人の若い男が立っています。窓の把手には、私はただついでに言っておくのですが、一枚の白いブラウスがかかっています。そして今や、審理が始まります。ああ、私は自分のことを忘れていました。最も重要な人物、つまりこの私は、ここの机の前に立っています。監督は脚を組み、腕を椅子の背にこうやってだらりと下げ、ひどくのんびりとすわっている。無類の不作法者です。そして今や、ほんとうに審理が始まります。監督は、まるで私の眼をさまさなくてはならないというように大声をあげ、真っ向からどなりつけます。あなたにおわかりねがうためには、恐縮ですが私もここでどなってみなければなりません。ところで、彼がこうやってどなるのは、ただ私の名前だけなんです」
 笑いながら耳を傾けていたビュルストナー嬢は、Kがどなるのをさえぎるために、人差指を口もとにあてたが、時すでに遅かった。Kはすっかり役柄に没頭していて、ゆっくりと叫んだ。
「ヨーゼフ・K!」
 それでも彼がおどかしたほどは大声ではなかったけれども、その叫び声は、突然口をついて吐き出されると、ゆっくりと部屋のなかでひろがってゆくように思われた。
 そのとき、二、三度隣室の扉をたたく音がした。力強く、短かな、規則正しいノックだった。ビュルストナー嬢は蒼《あお》くなり、手を胸にあてた。Kはなおしばらくのあいだ、今朝の出来事と彼がそれを演じてみせている相手のこの女と以外のことを何も考えることができなかっただけに、特にひどく驚いたのであった。気が落着くやいなや、ビュルストナー嬢のところへ飛んでゆき、彼女の手を取った。
「何もこわがることはありません」と、彼はささやいた。「万事は私にまかせておきなさい。人がいるはずはありませんよ。この隣は空部屋で、誰も寝てはいませんよ」
「でも」と、ビュルストナー嬢はKの耳もとでささやいた。「昨日《きのう》からあそこにはグルゥバッハさんの甥《おい》の大尉の人が寝ていますわ。ちょうどどの部屋もあいてはいませんのよ。私も忘れていました。それなのにあんなにどなったりなさって! そのため私は具合がわるいことになりますわ」
「そんなことは全然ありませんよ」と、Kは言い、彼女がクッションに倒れかかると、その額に接吻《せっぷん》した。
「どいて、どいて」と、彼女は言い、急いでまた身を起した。「帰ってください、お帰りになって。どうしようというおつもりですの、あの人は扉のところで聞き耳をたてていますわ、すっかり聞えますわ。なんて私に面倒をおかけになるの!」
「私は帰りませんよ」と、Kは言った。「あなたがもう少し落着かれるまでは。部屋の向うの隅《すみ》に行ってください、あすこなら私たちの話すことが聞えませんから」
 彼女はそこまで連れてゆかれるままになっていた。彼は言った。
「なるほどあなたにとって不都合なことではありましょうが、全然危険というようなことじゃない、ということをあなたはよく考えてくださらなくちゃいけません。ご存じのように、このことの鍵《かぎ》を握っているグルゥバッハさんは、そして特に大尉があの人の甥でありますからなおさらそうなるわけですが、あの人はたいへん私を尊敬し、私の言うことはなんでも無条件に信じているのです。あの人はそうでなくとも私の厄介になっています。かなりの金を私から借りたことがあるからです。私たちが同室したことに対する釈明については、少しでも辻褄《つじつま》が合うことならどんなことでも、あなたの申し出をお引受けしましょう。そして、グルゥバッハさんを動かして、ただ人々に対する釈明を信じさせるばかりでなく、ほんとうに心からそれを信じさせることができるのです。その場合あなたは、私をけっしていたわってはなりません。私があなたを襲ったのだ、という噂《うわさ》を広めてしまいたいとお思いなら、グルゥバッハさんをそういうふうに教えこむことはわけはありませんし、そう信じこんでも私に対する信頼を失いっこはありません。それほどあの人は私に傾倒しているんです」
 ビュルストナー嬢は、黙って、少し崩《くず》れた姿勢で、じっと床を見ていた。
「私があなたを襲ったのだ、とグルゥバッハさんが信じたってかまわないじゃありませんか?」と、Kは言葉を継いだ。
 すぐ眼の前に、彼女の髪毛《かみのけ》、分けられ、少しふくらみをつけ、しっかりとくくった、赤みがかった髪毛が、見えた。彼女が自分に眼差《まなざし》を向けるものと彼は思ったが、彼女は姿勢を変えないで言った。
「ごめんなさい、突然ノックが聞えたためすっかり驚いてしまったので、大尉がいることから起るかもしれない結果を恐れたわけじゃないの。あなたがどなられたあとたいへん静かになったのに、そこへノックの音が聞えたものですから、あんなに驚いてしまいました。また私は扉の近くにすわっていたものですから、ほとんどすぐそばにノックの音が聞えたの。あなたのお申し出はありがとうございますが、私は結構ですわ。私の部屋で起ったことはすべて、私が責任を持ちます。しかも誰が何を言ってきましてもそうしますわ。もちろん、あなたのご好意はよくわかりますが、それと並んで、どんな私に対する侮辱があなたのお申し出のなかに含まれているかをお気づきにならないなんて、ほんとうに不思議ですわ。でも、もうお帰りになって、私をひとりにしておいてください。今はさっき以上にひとりでいることが必要ですの。ほんの二、三分とおっしゃったのが、もう三十分かそれ以上にもなりましたわ」
 Kは彼女の手をとらえ、次に手首をつかんだ。
「お気をわるくしたんじゃありませんか?」と、彼は言った。彼女はその手をはずして、答えた。
「いいえ、どういたしまして。私はいつでも、どなたに対してでも、気なんかわるくはいたしませんわ」
 彼はふたたび彼女の手首をつかんだが、今度ははずしもせずに、そのまま彼を扉のところまで連れていった。Kは、帰ろうとしっかと心をきめていた。ところが、扉の前まで来ると、こんなところに扉があるなんて思いもしなかったというような顔で止ってしまい、ビュルストナー嬢はこの瞬間を利用してKから逃れ、扉をあけ、控えの間に滑《すべ》りこみ、そこからKに小声で言った。
「ねえ、ちょっとこっちに来てちょうだい。ごらんになって」――彼女は大尉の扉を示したが、扉の下からは明りがもれていた――「あの人は明りをつけて、私たちの様子をおもしろがって聞いていたんだわ」
「どれ」と、Kは言い、飛びこみ、女をひっとらえて、口に接吻し、それから顔じゅうに接吻したが、まるで渇《かわ》いた獣が、とうとう見つけだした泉の水に舌で飛びかかるような有様だった。ついに彼は、喉《のど》のあるあたりの頸《くび》に接吻し、そこに唇を長いあいだ押しあてていた。大尉の部屋から物音が聞えたので、彼は眼を上げた。
「もう帰ります」と、彼は言い、ビュルストナー嬢の洗礼名を呼ぼうとしたが、知らなかった。彼女は物憂げにうなずき、すでに半分ほど身体をそむけ、彼が手に接吻するままに呆然《ぼうぜん》としてまかせていたが、次に身体をかがめて部屋へ帰っていった。間もなくKはベッドの中に横たわった。すぐ眠りこんでしまったが、眠りにはいる前に、ほんのしばらく自分の振舞いを考え、満足を感じたが、もっと満足していないことが不思議だった。大尉がいるため、彼はビュルストナー嬢のことを真剣に心配したのだった。

第二章 最初の審理

 Kは電話で、次の日曜日に彼の件についてちょっとした審理が行われる、ということを伝えられた。この審理は、おそらく毎日曜日ではないが、次々に再三規則正しく行われるだろう、と彼の注意が喚起された。一方では、審理をすみやかに終えることは誰もの利益ではあるが、他方、審理はあらゆる点で徹底的でなければならず、といってそれと結びついている努力を考えると、けっしてあまり長すぎてもいけない。それゆえ、次々に続くが、それぞれは短い審理をやるという逃げ道を選んだ。審理日を日曜日にきめたのは、Kの職業上の仕事の邪魔をしないためである。貴君も同意されたものと仮定するが、もしほかの日をお望みなら、できるだけそれにそうようにはする。審理はたとえば夜でもよろしいが、夜ではきっと貴君の頭が十分|冴《さ》えていないだろう。ともかく、貴君に異存がないかぎり、日曜日ということにしておく。むろんのこと、かならず出頭してもらわなければならない、この点はきっと念を押す必要もなかろう、ということだった。出頭すべき家の番地が教えられたが、それは、Kがまだ一度も行ったことのない、離れた郊外の通りであった。
 この通知を受取って、Kは返事もせずに、受話器をかけた。彼はすぐさま、日曜日に出かけることにきめた。行くことはどうしても必要で、審理が始まったし、自分のほうもそれに対抗しなければならぬ。この審理でもう最初の最後にしてしまわなければならぬ。彼はまだ考えこんで電話のところに立っていたが、そのとき背後で支店長代理の声がした。電話をかけようとしたのだが、Kが通路をふさいでいたのだった。
「よくない知らせですか?」と、支店長代理は軽く言ったが、別に何かを聞き取ろうというためではなく、Kを電話から退《の》かせるためであった。支店長代理は受話器を取ると、電話が通じるのを待ちながら、受話器越しに言った。
「ちょっと、K君、日曜の朝、私のヨットでのパーティーにいらっしゃってくれませんか? かなりの集りになるはずで、きっと君のお知合いもそのなかにはいるでしょう。特にハステラー検事ね。来てくださいますか? どうかいらっしゃってください!」
 Kは、支店長代理の言うことに注意をはらおうとした。それは彼にとってつまらぬことではなかった。というのは、彼とけっしてよい関係にはなかった支店長代理のこの招待は、相手のほうからの宥和《ゆうわ》策を意味するものであったし、彼が銀行でどんなに重んじられるようになったか、彼の友情、あるいは少なくとも彼の公平さが銀行で二番目に偉い人間にどんなに重んずべきことに思われているか、を示す事実であった。この招待は、ただ電話のつながるのを待つあいだ受話器越しに言われたのではあったが、支店長代理の謙譲にほかならなかった。だがKは、第二の謙譲をもってそれに報いなければならなかったのだ。彼は言った。
「ありがとうございます! でも残念ですが、日曜日は時間がありません、先約がありますので」
「残念です」と、支店長代理は言い、向き直って、ちょうど通じた電話でしゃべりはじめた。
 短かな話ではなかったが、Kはぼんやりしてそのあいだじゅう電話のそばに立ち続けていた。支店長代理が受話器を下ろしたときになって初めて、彼はぎくりとし、必要もないのに立っていたことを少し言い訳するため、言った。
「今電話がかかってきて、どこそこまで来いということだったのですが、時間を言うのを先方が忘れたものですから」
「もう一度かけてきいたらどうですか」と、支店長代理は言った。
「たいしたことじゃないんです」と、Kは言ったが、それによって前の、それだけでもすでに態《てい》をなしていない言い訳をいよいよまずいものにした。支店長代理は、歩きながらなおほかのことをしゃべり、Kは無理に答えようとしたが、平日には裁判はすべて九時に始まるのだから、日曜日は午前九時に行くのがいちばんよろしいだろう、そんなことをおもに考えていた。
 日曜日は陰鬱《いんうつ》な天気だった。Kは前の晩遅くまで常連と飲んだり騒いだりで例の酒場にいたので、ひどく疲れており、ほとんど寝すごすところだった。じっくり考え、この一週間のあいだ考え抜いたさまざまなプランをまとめあげる時間もなく、取急いだまま、着物を着て、朝飯を食べずに、指定された郊外へ急いだ。奇妙なことに、あたりを見まわす余裕などはなかったのに、彼の事件に関係した銀行員のラーベンシュタイナー、クリヒ、カミナーと出会った。この前の二人は、電車に乗って、Kの行く道を横切ったのだが、カミナーはあるカフェのテラスにすわっていて、Kが通り過ぎると、物珍しそうに手すりの上に身体《からだ》を乗り出した。三人とも彼の後ろ姿をじっと見送り、自分らの上役が急いでゆくことをいぶかっていた。Kが車に乗ることをやめたのは、ある種の依怙地《いこじ》さというものだった。この自分の件で他人の助けを借りることは、たといどんな小さなのであってもいやだったし、誰をも求めたくはないし、そうすることによってどんな些細《ささい》な点までをもきれいにしておきたかったのである。しかし結局のところ、あまりに厳格に時間を励行することで審理委員会に対してへりくだろうというつもりは、全然なかった。ともかく彼は、今は、けっして一定の時間を指定されたわけではなかったが、できるだけ九時に到着したいと思って、急ぎ足で行ったのだった。
 建物は、自分でもはっきりと想像してみることはできないがともかくなんらかの特徴で遠くからでもわかるだろうし、あるいは入口の特別な人の動きで離れていても見分けがつくだろう、と考えていた。ところが、彼が行くことになっていたユリウス通りは、Kがそのとっつきのところで一瞬立ち止ってながめると、両側ともほとんどまったく一様な家々、高い、灰色の、貧しい人々の住む貸家ばかりが並んでいた。日曜日の朝なので、たいていの窓には人がいて、腕まくりの男たちがそこによりかかり、煙草をふかしたり、小さな子供を窓ぎわに用心深く、やさしくささえたりしていた。ほかの窓々には寝具がいっぱいつまっていて、その上にときどき女のもじゃもじゃな頭が現われた。人々は互いに街路を隔てて呼び合い、そんな呼び声がちょうどKの頭上で大きな笑い声を引起した。長い通りには一定の間隔をおいて、道路の高さよりも低いところにあって二、三段降りると行き着く、さまざまな日用品を売る店が並んでいた。それらの店へ女たちが出入りをしたり、階段の上に腰かけてしゃべったりしていた。品物を窓に向って差出している果物屋《くだものや》がいたが、その男もKもついうっかりして、それの手押車でKは危うく押し倒されるところだった。ちょうどそのとき、もっと豊かな住居街で使い古した蓄音器が、ひどく鳴りはじめた。
 Kは、ここまで来れば時間は十分ある、予審判事がどこかの窓から自分を見ていて、したがって自分が現われたのを知っている、というような格好で、ゆっくりと街路を奥へと進んでいった。九時少し過ぎであった。建物はかなり遠くにあり、ほとんど尋常でないくらいに間口がのびていて、特に入口は高くて幅が広かった。それは明らかにそれぞれの商品倉庫所属のトラックを通すためであり、それらの倉庫はこの時間ではまだしまっており、大きな中庭を取囲んでいて、さまざまな商会のマークをつけていたが、そのいくつかはKも銀行の業務上知っていた。いつもの習慣とはちがって、こういうような様子をすべて詳しく胸に畳んでおこうと、なおもしばらく中庭の入口のところに立ち止っていた。近くの箱の上に一人の裸足《はだし》の男がすわり、新聞を読んでいた。一台の手押車を二人の子供が揺すっていた。ポンプの前に、寝巻ジャケツ姿の、弱々しそうな若い娘がたたずんで、水がバケツに落ちるあいだ、Kのほうをながめていた。中庭の隅《すみ》では、二つの窓のあいだに一本の綱が張られ、洗濯物がもう干してあった。一人の男がその下に立ち、一言二言声をかけては仕事を指図《さしず》していた。
 審理室に行こうとして、Kは階段のほうに向ったが、またじっと立ち止ってしまった。この階段のほかに中庭にはまだ三つの別な階段の登り口があり、そのうえ中庭の奥の小さな通路は次の中庭へ通じているように見えたからである。部屋の位置をもっとよく教えてくれなかったことに立腹したが、自分を取扱うやりかたが特別怠慢で投げやりであるし、このことは大いに声を大にしてはっきり言ってやろうと腹をきめた。しかし結局は階段を登っていったが、裁判は罪によって引寄せられるのだ、と言った監視人のウィレムの言葉を思い出し、心のなかでその言葉を考えてみたけれども、それなら結局、審理室はKが偶然選ぶ階段の上にあるにちがいない、ということになるはずだった。
 登ってゆきながら、階段で遊んでいるたくさんの子供たちの邪魔をする結果になったが、子供たちは、Kが彼らの列をかきわけてゆくと、悪意のある眼でじっと見るのだった。
「この次またこの階段を登ることになったら」と、彼は心ひそかに思った。「連中を買収する菓子を持ってくるか、連中をなぐるステッキを持ってくるかのどちらかにしなければなるまい」
 もうすぐ二階というとき、ボールが行ききってしまうまで、しばらくたたずんで待ちさえしなければならなかった。大人のルンペンのようないやな顔つきをした二人の小さな子供が、そうやっている彼のズボンにつかまった。それを振切ろうとでもしようものなら、彼らを痛めつけないともかぎらず、また大声をあげられるのではないかと思って、やめにした。
 二階に来て、いよいよほんとうの部屋捜しが始まった。審理委員会はどこですか、ときくわけにもいかないので、指物師《さしものし》のランツという名前を考えだし、――この名前を思いついたのは、グルゥバッハ夫人の甥の大尉がそういう名前だったからだが――ここに指物師のランツという人が住んでいませんか、とどの部屋にもきいてまわり、部屋のなかをのぞきこむことができるようにしようと思った。しかし、それはたいてい造作なくできることがわかった。ほとんどすべての扉が開いていて、子供たちがはいったり、出たりしていたからである。どれもきまって、小さな、窓がひとつしかない部屋で、そこで炊事もするのだった。幾人かの女たちは腕に乳飲児《ちのみご》をかかえ、あいたほうの手でかまど[#「かまど」に傍点]の上で仕事をしていた。年端《としは》のゆかぬ、見たところエプロンだけしかつけていない娘たちが、非常に忙しげにあちこちと走りまわっていた。どの部屋でもベッドがまだふさがっていて、そこには病人やまだ眠っている人々が横になっていたり、あるいは着物のまま身体を伸ばしている人々がいた。扉がしまっている部屋では、Kはノックをして、ここに指物師のランツさんが住んではいませんか、とたずねた。たいてい女が扉《とびら》をあけ、用件を聞くと、部屋の中のベッドから身体を起す誰かに向って言うのだった。
「指物師のランツっていう人がここにいませんかって」
「指物師のランツ?」と、ベッドの人がきく。
「そうです」と、Kは言うが、そこには疑いもなく審理委員会はないのだから、彼の用件はもうすんでいるのだった。多くの人々は、Kが指物師のランツにどうしても会わなければならないのだと思いこんで、長いあいだ考えては、指物師の名を言うが、それがランツというのとほんの少しばかり似ている名前であったり、隣の人にきいてくれたり、あるいはずっと離れた部屋まで連れていってくれたが、彼らの考えでは、そういう人がおそらく又貸しで住んでいるかもしれないし、また自分たちよりも事情に明るい人がいる、というわけであった。ついにはKはもはやほとんど自分でたずねる必要がなくなり、こんなふうにして各階を引っ張りまわされると、初めは非常に実際的に思われていた自分の計画も、残念に思えてきた。六階に登るところで、もう捜すのをやめようと決心し、彼をさらに上へ連れてゆこうとする親切な若い男と別れて、降りていった。ところがすぐ、こういうふうにやってみたことがむだだったことに腹がたち、もう一度引返して、六階のとっつきの扉をノックした。その小さな部屋で彼の見た最初のものは、すでに十時を示している大きな壁時計だった。
「指物師のランツさんはこちらにいらっしゃいましょうか?」と、彼はたずねた。
「どうぞ」と、黒い輝く眼をした一人の若い女が言ったが、彼女はちょうど盥《たらい》で子供の下着を洗濯しており、ぬれた手で隣室の開いた扉を示した。
 Kは、何かの集りにはいったのだ、と思った。おびただしい、色とりどりの服を着た人々が――一人としてはいってきた彼に注意する者はなかった――窓が二つある中くらいの部屋にいっぱいで、部屋は、ほとんど天井の近くで回廊に取巻かれており、その回廊がまた同じように完全に満員で、人々はただ身をかがめてやっと立つことができ、頭と背中とを天井にぶつけていた。空気があまり淀《よど》んでいるように感じたKは、また出てゆき、おそらく彼の言葉を勘違いしたらしい例の女に言った。
「指物師のランツさんと申したのですが?」
「ええ」と、女は言った。「どうぞお通りになってください」
 もし女が彼のそばまで寄ってきて、扉の把手《とって》をとり、「あなたがおはいりになったら、しめなければなりません。もう誰もはいれません」と、言わなかったならば、Kはおそらく女の後《あと》には続かなかったであろう。
「それがいいですよ」と、Kは言った。「しかし、もう超満員ですよ」
 それでも彼はまた中へはいった。
 扉のすぐ近くのところで話していた二人の男のあいだを通り抜けると、――その一人は、大きくひろげた両手で金を勘定する動作をやっており、もう一方の男は彼の眼を鋭くのぞくのだった――ひとつの手がKをつかんだ。それは、小柄な、頬《ほお》の赤い若者だった。
「こちらです、こちらですよ」と、彼は言った。Kは男に引かれるままになって行ったが、ごちゃごちゃで沸きかえっている雑踏のなかにも狭い通路があいており、おそらくその通路で二つのグループに分れているらしい、ということがわかった。このことは、Kには左右の最前列にはほとんど一人として自分のほうに向いている顔が見あたらず、話と身振りとを自分のグループの連中にだけ向ってやっている人々の背中ばかりが見える、ということでもはっきりとした。たいていは黒服を着ており、古びた、長い、だらりと垂《た》れ下がった礼服姿であった。この服装だけが確かにKを戸惑いさせたが、そのほかの点では、彼にはすべてが政治的な地区集会のように見える、と思った。
 Kが連れてゆかれた広間の向うの奥には、やはり人でいっぱいの非常に背の低い演壇の上に、横向きに置かれてひとつの机が立っており、その背後、演壇の端に、一人の小柄な、肥《ふと》った、ふうふう鼻息をついている男がすわっていた。彼はちょうど、彼の背後に立っている一人の男と――このほうは肘《ひじ》を椅子の背につき、脚を組んでいたが――高笑いしながら話していた。何回となく腕を宙に振っているのは、誰かを野次ってまねているらしかった。Kを連れていった男は、報告するのに骨折った。爪立《つまだ》ちながら、すでに二度ほど何かを言おうとしたが、上にいる男には気づかれなかった。演壇の上のほかの連中の一人がその若者のことを注意すると、その男はやっと彼のほうを振向き、身体をかがめてその低声の報告を聞きとった。それから時計を引っ張り出し、ちらりとKのほうを見た。
「一時間と五分前に来なければいけなかったのだ」と、彼は言った。
 Kは何か返答しようと思ったが、その余裕がなかった。男がそう言うやいなや、広間の右側の半分でどっと不平のつぶやきが起ったからである。
「一時間と五分前に来なければならなかったのだ」と、男は声をあげて繰返し、また素早く広間を見下ろした。すぐに不平の声も高まったが、男がそれ以上何も言わなかったので、それもやっと次第に消えていった。今では広間は、Kがはいってきたときよりはずっと静かになっていた。ただ回廊にいる連中だけが、口々に、何かしゃべることをやめなかった。上のほうの薄暗がりと煙と塵《ちり》とのなかで見分けがつくかぎりでは、連中は下の人々よりは服装もわるかった。多くの連中は布団《ふとん》を持ってきて、すりむかないために、それを頭と部屋の天井とのあいだにおいていた。
 Kは、話をするよりも観察してやろう、と腹をきめたので、表向きの遅刻の申し訳をすることをやめて、ただこう言った。
「遅すぎたかはしれませんが、ともかく今は来たわけです」
 喝采《かっさい》の音が、また右側の半分から起った。御しやすい連中だな、とKは思ったが、ただ左側の半分が黙っているのが気になった。左側のほうはちょうど彼の背面になっており、そちらからはただきわめてまばらな拍手の音が起っただけだった。全員を一度に、もしそれができない相談なら、少なくとも暫時左側の連中をも味方にするには、どう言ったらよかろうか、と考えてみた。
「なるほどね」と、男が言った。「しかし、私は今となってはもう君を尋問する義務はないのだ」――また不平のつぶやきが起ったが、今度は誤解らしかった。というのは、男は人々を手で制しておいて続けたからである――「しかし、今日のところは例外として、尋問しようと思う。こんな遅刻は二度と繰返してはいけない。では、前に出たまえ!」
 誰かが演壇からとび降りたので、Kに余地ができ、彼は上へ登った。彼は机にぎゅうぎゅう押しつけられて立っていたが、背後の群衆が非常に大勢なので、予審判事の机とおそらくは判事その人さえも演壇から突き落すまいと思うなら、群衆に抵抗しなければならないほどであった。
 しかし予審判事はそんなことはいっこうおかまいなしで、いかにもゆったりと肘掛椅子にすわり、背後の男に何か終りの言葉を言うと、彼の机の上にある唯一の品物である小さなノートをつかんだ。それは学校ノートのようで、古びて、あんまりめくりすぎたらしく、すっかり形がくずれていた。
「では」と、予審判事は言い、ノートをめくり、確かめる調子でKに向って言った。「室内画家だったね?」
「ちがいます」と、Kは言った。「ある大きな銀行の業務主任です」
 こう答えると、下の右側のグループから笑い声がひとつ起り、それがあまりおかしそうだったので、Kもつりこまれて笑わないではいられなかった。人々は両手を膝《ひざ》の上に突っ張り、ひどい咳《せき》の発作のときのように身体をゆするのだった。回廊の上にいる何人かさえ笑った。すっかり気をわるくした予審判事は、下にいる連中に対しては権限が及ばぬらしく、回廊のほうでその償いをしようとして、とび上がり、回廊の連中をおどしつけるのだったが、これまでほとんど目だたなかった眉毛《まゆげ》が、眼の上で、ふさふさと、黒く、大きく寄り合った。
 ところが、広間の左半分はまだ依然として静かであり、そこでは人々が列をつくって並び、顔を演壇のほうに向け、壇上で交《か》わされる言葉にも、片方のグループの喧騒《けんそう》にも、同じように平静に耳を傾け、自分たちの列からちらほら人が立って別なグループとあちらこちらでいっしょに相談することをさえ、じっと見ている。左側のグループは、だいいち人数が少なかったが、結局のところ右側のグループと同じようにたいしたものでないらしいのだけれども、その態度の平静さがいっそう意味ありげに見えさせるのであった。Kがしゃべりはじめると、確かに自分は左グループの心持でしゃべっているのだ、というような気がした。
「予審判事さん、私が室内画家かというお尋ねは――むしろ、あなたはきかれたのではなくて、頭ごなしに私に言われたのですが――私に対してなされている手続きの全貌《ぜんぼう》の特色を示すものであります。もともと手続きじゃないと異議を申されるかもしれませんが、そのあなたの異議はまったく正しいと言えます。なぜならば、私がそれを認めるときにだけ手続きだと言えるからです。だが、今はしばらくそう認めてもおきましょう。そうするのは、いわば同情からです。およそこんな手続きを重んじようと思うときには、同情をもって以外に対すべき道がありません。私はだらしない手続きだとは申しませんが、この言葉をあなたの自己認識のために申上げたわけです」
 Kは語るのをやめて、広間を見下ろした。彼が言ったことは、鋭かったし、彼の意図以上に鋭くはあったが、しかし正しかった。喝采があちこちで起らなければならぬところだったが、全員黙ったままであり、人々は明らかに緊張して次に来るべきものを待っている面持で、おそらくはその静けさのうちには爆発が用意されているのであって、それは万事にけり[#「けり」に傍点]をつけるにちがいなかった。ちょうど広間の入口の扉が開き、仕事を終えたらしい例の若い洗濯の女がはいってきて、十分気をつかっているらしいのだが幾人かの人々の視線を自分のほうに引きつけているのは、眼ざわりなことだった。ただ予審判事だけがKを直接よろこばせたが、それは、Kの言ったことにすぐさま図星を当てられたらしいように見えたからであった。Kの発言に驚かされたからであるが、判事はそれまで、回廊に向って突っ立ちながら、そのままの姿勢で聞いていた。ところが今は、静かな間が生じたので、気づかれまいとするように、次第に腰をおろした。顔つきを抑えるためだろうが、ふたたび例のノートを取上げた。
「そんなことをしたって何の役にもたちませんよ」と、Kは続けた。「予審判事さん、あなたのそのノートも、私が言うことを裏づけています」
 自分の平静な言葉だけがこの見知らぬ集りのうちに響いていることにすっかり満足して、Kはそのうえ、ノートを無造作に予審判事から引ったくり、きたないものにさわりでもするかのように指先で中ほどの一枚をつまみ上げたので、ぎっしり文字のつまった、しみ[#「しみ」に傍点]だらけの、縁の黄色くなったページが、両側にだらりと下がった。
「これが予審判事の文書です」と、彼は言って、ノートを机の上に落した。
「予審判事さん、どうかごゆっくりと先をお読みください。こんな学校ノートなんか私は少しも恐《こわ》くはありませんよ。もっとも、私は二本の指でやっとつまめるだけで、手には取ろうとは思いませんから、中身は私にさっぱりわかりませんが」
 予審判事は机の上に落ちたノートを取上げ、少し整理してから、またそれを読もうとしたが、このことは、深い屈従のしるし[#「しるし」に傍点]でしかありえず、あるいは少なくともそう考えられるべきことであった。
 最前列の人々の顔は非常に緊張してKに向けられたので、彼はしばらく彼らのほうを見下ろした。いずれもが相当な年配の人々で、幾人かは白髯《はくぜん》であった。おそらく彼らこそ、予審判事の屈従によっても、Kが話しはじめてから保っていたその落着きを失わされなかったこの集り全体に、影響を与えうる鍵《かぎ》を握っている人物なのであろうか?
「私に起ったことは」と、Kは続けたが、今度は前よりもいくらか低目であり、絶えず最前列の顔をうかがっているため、話にいくらか落着かぬ表情を与えた。「私に起ったことは、まったくのところ個人的な事件にすぎず、私はそれをたいして深刻なものとは受取っていませんので、それ自体としてはさして重大ではありませんが、それは、多くの人々に対してなされている手続きのよい例であります。これらの人々のためにこそ私はこうやって立っているのであり、自分一個のためではありません」
 彼は思わず声を高めた。どこかで誰かが両手を高く上げて拍手をし、叫んだ。
「異議なし! そうだぞ。異議なし! もう一度言うぞ、異議なし」
 最前列の連中はあちこちで髯《ひげ》をしごいており、誰もその叫び声のほうに振向く者はなかった。Kもその叫び声を問題にはしていなかったが、それでも元気づけられた。満場の同意の喝采が起ることなどは今はもうまったく必要とは思っておらず、全員がこのことについて反省しはじめ、ただときどき誰かがこの説得に同意してくれれば十分であった。
「私はうまく話すなどということは望みません」と、Kはこうした確信から言った。「また私はとうていそんなことはやれません。予審判事さんのほうがおそらくずっと上手に話されましょう。それがご商売だからです。私が望んでいるのはただ、ある公然たる不正を公にしゃべろうということです。どうか聞いてください。私は約十日ばかり前から逮捕されています。逮捕という事実そのものがばかばかしいのですが、しかしそれは今ここで申上げるべきではありません。私は、朝、寝込みを襲われましたが、おそらくは――これは判事の言われたことからして否定できませんが――私と同様に無実な画家の誰かを逮捕せよ、という命令を受けたらしいのですが、この私が選ばれたのでした。隣室は二人の不作法な監視人に占領されました。たとい私が危険な強盗であったとしても、これ以上の用心はできなかったでしょう。そのうえ、この監視人たちがけしからぬやつらで、つまらぬことを私の耳にしゃべり散らし、賄賂《わいろ》をもらおうとし、いろんな口実をつかって下着や洋服を巻きあげようと思い、私の眼の前で私自身の朝飯を恥知らずにも平らげてから、私に朝飯を取ってきてやるからと称して金を求めました。それだけではありません。私は第三の部屋の監督の前に引出されました。それは、私がたいへん尊敬しているある婦人の部屋ですが、その部屋が、私のためとは言うものの、私には罪もないのに、監視人と監督とがいたためかなり荒されているのを見なければならなかったのです。自分を抑えることは容易ではありませんでした。でもどうやらできましたので、監督にきわめて平静に――もし彼がここにいるなら、そのことを保証してくれるはずです――なぜ私は逮捕されたのか、とたずねました。さてこの監督は、ただいま申しましたご婦人の椅子にこの上なく愚劣な傲慢《ごうまん》さを示しながらふんぞりかえっていたその有様が今も私の眼前に彷彿《ほうふつ》としているくらいですが、この男はなんと答えたでしょうか? 諸君、彼は結局のところ何も返答しませんでしたし、おそらくほんとうはまったく何も知らなかったのでしょうし、彼は私を逮捕して、それで我が事終れりという顔つきでした。この男はそのほかのことさえやりました。例の婦人の部屋に私の銀行の下級行員を連れてきておりましたが、この連中はその婦人の写真や持物に触れたり、ひっかきまわすのに一生懸命でした。これらの行員がいたことはもちろんほかにある目的があったのでして、私の部屋主や女中と同じように、私の逮捕のニュースを広め、私の公の名誉を毀損《きそん》し、特に銀行で私の地位をぐらつかせることになっていたのです。ところがそれはほんの少しでも成功しませんでした。私の部屋主はまったく淳朴《じゅんぼく》な人で――私はここで彼女の名前を尊敬をこめて申上げておきますが、彼女はグルゥバッハ夫人と言うのです――このグルゥバッハ夫人さえも、こんな逮捕は躾《しつけ》の十分でない子供が路地でやるわるさを出ないものだ、ということを見て取るだけの分別を備えておりました。繰返して申しますが、この出来事のすべては私に対してただ不快としばしの腹だちとをいだかせただけですが、またいっそうわるい結果を生ずることもありえたのではないでしょうか?」
 彼がここまで話して言葉を切り、黙りこんでいる予審判事のほうをうかがい見ると、この男がちょうど群衆のなかの誰かと眼で合図をしているのを認めたように思えた。Kは微笑して、言った。
「ちょうど今、この私のそばで予審判事さんは諸君の中の誰かとそっと合図をされたようです。これによって見ると、諸君の中には、この演壇上から指図されている人がいるようです。今の合図が舌を鳴らして野次れというのか、喝采しろというのか、私にはわかりませんが、事が一足先に露見したからには、万事のみこんだうえで、合図の意味など知ろうとは思いません。それは私にはどうでもよいのであって、私は公然と予審判事さんに、こそこそした合図のかわりに、はっきりと口に出して、『今、舌打ちしろ!』とか、次には『今、手をたたけ!』とかいうように命令していただいて結構だ、と申上げます」
 当惑したのか、それともいらいらしてきたのか、予審判事は椅子の上であちこちと身動きした。すでにさっき彼と話していた背後の男は、また彼のほうに身をかがめたが、ただ普通に励ますためなのか、それとも彼に特別な策を授けるためなのか、であろう。下のほうでは人々が、低声でだがさかんにしゃべり合っていた。これまでは対立する意見を持っていたように見受けられた二つのグループがまじり合って、ある者は指でKをさし、ほかの者は予審判事を指さすのだった。室内の霧のような塵《ちり》がひどく耐えがたく、遠くのほうに立っている連中をよくながめることを妨げた。特に回廊の客たちにはこれが邪魔であるにちがいなく、もちろんはばかりながら予審判事の顔色をうかがい、情勢を詳しく知るために、集会のメンバーたちにこっそりたずねないではいられなかった。返答するほうも、口に手をあてて、同じように小声でするのだった。
「もうじき終ります」と、Kは言い、打鈴《だれい》がなかったので、拳《こぶし》で机をたたいた。それに驚いて、予審判事とその黒幕との頭が左右に分れた。
「万事は私とは縁が薄いことですから、私は平静に判断を下しますが、この名目上の裁判に諸君が関心がおありとして、もし私の申すことをお聞きくだされば、大いに有益だと思います。私が申上げることに対して諸君がお互いにお話し合いになることは、後のことにしていただきたいのです。時間がありませんし、私はもうすぐ帰りますから」
 すぐに静かになったが、Kはすでに、そんなにもこの集会をリードしていた。もう初めのころのように叫ぶ者もなく、賛成の拍手をする者もなかったが、すでにKに納得されているか、あるいはもうほとんどそうなっているかのように見受けられた。
「疑いもなく」と、Kはきわめて小声で言った。集まった全員が緊張して耳を傾けていることが彼をよろこばせ、この静けさのうちにひとつのどよめきが生れ、それは最も熱狂的な拍手よりも心をそそったからである。
「疑いもなく、この法廷のあらゆる言動の背後には、したがって私の場合で言えば逮捕と今日の審理との背後には、ひとつの大きな組織があるのです。この組織は、買収のきく監視人や蒙昧《もうまい》な監督、最もうまくいって謙遜《けんそん》な予審判事を使っているばかりでなく、さらに、ともかく上級および最高の裁判官連をかかえ、それとともに、無数の広範な、廷丁《ていてい》、書記、憲兵、その他の雇いたち、それにおそらくは、私はこう言うことをはばかりませんが、首斬《くびき》り人の群れさえも従えております。そして、諸君、この大きな組織の意味はなんでしょうか? それは、無実の人々が逮捕され、彼らに対して無意味な、そしてたいていは私の場合のように得《う》るところのない訴訟手続きが行われる、という点にあるのです。万事がこのように無意味なのですから、役人連の極度の腐敗はどうして避けられましょうか? それはできない相談であり、最高の裁判官も独力ではなしとげることはけっしてできないでしょう。それだからこそ、監視人は逮捕された者たちから着物をはぎ取ろうとしますし、それだからこそ、監督は他人の住居に侵入しますし、それだからこそ、無実の人間が、尋問されるというよりはむしろ、集会の全員の前で侮辱されねばならないのです。監視人たちは、逮捕者たちの所有物が持ってゆかれる倉庫のことばかりしゃべっておりましたが、私は一度これらの倉庫を見たいと思います。その中で、逮捕者たちの苦労して稼《かせ》ぎ取った財産は、泥棒に等しい倉庫役人たちに盗まれるのでなければ、むなしく朽ちてゆくのです」
 Kは広間の隅《すみ》の金切り声に話を中断され、そちらを見ることができるように、眼の上に手をかざした。曇った日の光が塵煙《じんえん》を白っぽくし、眼をちかちかさせるからであった。それは洗濯していた例の女だが、現われたときすぐにKには、これこそまったくの邪魔物だ、という気がしたのだった。今しがた音をたてた罪があるのはこの女か、この女ではないかは、わからなかった。Kはただ、一人の男がこの女を扉のところの隅へ引っ張ってゆき、そこで抱きしめているのを、見た。しかし、金切り声をたてたのは女ではなく、男のほうであり、口を大きくあけて天井をながめていた。二人のまわりには小さな人の輪ができ、その近くの回廊の客たちも、Kによってこの集会に持ちこまれた真剣味がこうして中断されたことに、歓喜している様子だった。Kは最初の感じですぐに駆け寄ろうとし、また、そこの秩序を取戻し、少なくともその二人を広間から追い出すことがすべての人々の関心事にちがいない、と思ったのだったが、彼の前の最前列は頑《がん》としたままで、誰一人身動きもせず、誰もKを通らせなかった。むしろ彼を妨害する始末で、老人たちは腕を前に出し、誰かの手が――彼は振向く暇もなかった――背後から襟首《えりくび》をつかんだ。Kはもうまったく例の二人のことは考えず、自分の自由が拘束されたのだ、人々は逮捕をまじめになってやっているのだ、という気持になり、前後を忘れて演壇からとび降りた。こうして彼は、群衆とぴたりと向い合った。人々のことを正しく判断しなかったのではないか? 自分の話の効果を過信したのではないか? 自分がしゃべっているあいだは人々は取繕っていたのであるが、結論に達した今となっては、その仮装に飽いてしまったのだろうか? 彼を取囲んでいるのは、なんという顔どもなのだろう! 小さな黒い眼があちこちと視線を配り、頬《ほお》は酔いどれたちのようにだらりと垂れ、長い髯は剛《こわ》くてまばらで、それに手を突っこむと、髯に手を突っこんだのではなく、ただ爪で引っかかれるような感じだった。ところが髯の下には――そしてこれがほんとうの発見だったが――さまざまな大きさと色をした徽章《きしょう》が上着の襟《えり》についていた。見られるかぎり、すべての人々がこの徽章をつけていた。見せかけの左右両グループはみんな同類だったのだ。そして彼が突然振向くと、両手を膝に置いて静かに見下ろしている予審判事の襟元にも、その同じ徽章を見た。
「ああ」と、彼は叫び、両手を高く上げたが、突然いっさいが氷解したという思いがそうさせたのだった。
「君たちは実はみな役人なんだな、君たちはまったく、私が攻撃したあの腐敗した徒党なんだ。聴衆と探偵とになってここにつめかけ、見せかけだけのグループに分れて、私をためすために一方が喝采したのだ。罪のない人間をどうやって引っ張りこむかを研究しようとしたのだ! さて、おそらく諸君はここに来てむだではなかった。ある男が無実の罪の弁護を君たちに期待した、ということを大いに慰みにしたか、あるいは――寄ってくるな、さもないとなぐるぞ」と、Kは特に自分のほうへにじり寄ってきた、震えている一人の老人に言った――「あるいはほんとうに何かを勉強したはずだ。そこで君たちの商売に対してお祝いを言ってやろう」
 机の端にあった自分の帽子を素早くつかんで、ともかく完全な驚きで等しく黙りこくってしまった静寂の中を、出口へと殺到していった。ところが予審判事のほうがKよりも早かったらしく、扉のところで待ち受けていた。
「ちょっと待ちたまえ」と、彼は言った。
 Kは立ち止ったが、予審判事のほうは見ないで、彼がすでに把手に手をかけていた扉を見ていた。
「断わっておくが」と、予審判事は言った。「君は今日――君にはまだよくわかっていないらしいが――尋問というものが逮捕された者にいつでも与える利益を、放棄してしまったのだ」
 Kは扉に向って笑った。
「ルンペンどもめ」と、彼は叫んだ。「尋問なんかいっさい返上するよ」
 そして扉をあけ、階段を駆け降りた。背後では、またにぎやかになって集りの騒音が沸き上がったが、この出来事をおそらく研究者の態度で討議しはじめたのだった。


第三章 人けのない法廷で・
    学生・裁判所事務局

 Kは次の週のあいだ、改めて和解してくるのを毎日待っていた。尋問を拒絶すると言ったことを言葉どおりに取られたとは、信じられなかった。ところが期待した和解の申し出が、実際、土曜日まで来なかったので、何も言ってはこないが暗黙のうちにあの同じ家に同じ時間に来いというのだろう、と考えた。それで日曜日にまた出かけていったが、今度はまっすぐ階段と廊下とを通り抜けた。彼のことを覚えていた何人かの人々は戸口で彼に挨拶《あいさつ》したが、もう誰にもきく必要はなく、間もなく目ざす扉《とびら》に来た。ノックの音で扉が開かれ、扉のところに立ち止っている例の顔見知りの女にはもう眼もくれずに、そのまま隣室にはいろうとした。
「今日は法廷は開かれません」と、女が言った。
「なぜ開かれないんです?」と、彼は言い、信じようとはしなかった。ところが、女が隣室の扉をあけたので、彼も納得がいった。部屋はほんとうにからっぽで、からっぽなだけにこの前の日曜日よりもいっそうけちくさく見えた。相変らず演壇の上に立っている机には、二、三冊の書物がのっていた。
「あの本を見てもいいですか?」と、Kはたずねたが、特に興味があってのことではなく、この部屋にやってきてまったくむなしい結果に終りたくないためだった。
「いけません」と、女は言って、また扉をしめた。「それは許されていません。あれは予審判事さんの本です」
「ああ、そうですか」と、Kは言い、うなずいた。「きっと法律書だが、罪がないだけでなく何も知らぬうちに判決を下されてしまうというのが、この裁判所のやりかたなんだ」
「そうかもしれませんわ」と女は言ったが、彼の言うことがよくはわかっていないらしかった。
「それじゃあ、もう行こう」と、Kは言った。
「何か予審判事さんにお伝えすることがありますか?」と、女が言った。
「あの人をご存じですか?」と、Kはたずねた。
「もちろんですとも」と、女は言った。「主人が廷丁ですから」
 そう言われてはじめてKは、この前来たときは洗濯桶《せんたくおけ》だけがあったこの部屋が、今ではすっかり整った居間になっていることに、気づいた。女は彼が驚くのを認めて、言った。
「この部屋をただで借りているんですけれど、開廷日には部屋をあけなければなりません。主人の身分ではいろいろと不便もありますわ」
「部屋のことではたいして驚いてもいませんが」と、Kは言い、渋い顔で女を見つめた。「むしろご主人がおありだというのに驚いているんです」
「私があなたのお話を邪魔してしまったこのあいだの裁判のことをあてこすっていらっしゃるんですか?」と、女がきいた。
「もちろんですよ」と、Kは言った。「今日ではもう過ぎたことだし、ほとんど忘れてしまったが、あのときはほんとうに腹がたちました。それがどうです、ご主人があると自分で言われるんですからね」
「お話が折られたことは、あなたのためにわるいことではなかったのよ。みなさんはあとで、あなたについてずいぶんわるい判断を下していました」
「そうでしょうが」と、Kは話をそらしながら言った。「でもそれでは言い訳にはなりませんよ」
「私を知っていてくれる人なら、誰でも私を許してくれますわ」と、女は言った。「あのとき私に抱きついた人は、ずっと前から私を追っかけていたんです。私、普通は男の人をひきつけなんかしないんでしょうが、あの人にはそうなんです。このことは隠れもないことで、主人ももうのみこんでいるんですわ。でも主人は地位を維持しようと思うなら、我慢しなきゃならないんです。あの人は学生さんで、これから偉くなるんですもの。あの人はいつも私をつけまわして、あなたがいらっしゃるほんの少し前に帰っていったところですわ」
「ほかの連中もみんなそんなものですよ」と、Kは言った。「別に驚きませんよ」
「あなたはきっと、ここで何かを改善しようと思っているのね?」と、女はゆっくりと、探るように言ったが、自分にもKにも危ないことを何か言っているような様子だった。
「それはあなたのお話からわかっていましたわ。お話は私にはたいへん気に入りましたの。もちろんほんの一部分だけを伺ったのですけれど。初めのところは聞けませんでしたし、終りのところではあの学生といっしょに床の上にころがっていましたから。――ここはまったくいやですわ」と、しばらく間《ま》をおいて女は言い、Kの手を握った。「改善することができるとあなたは思っていらっしゃるの?」
 Kは微笑し、手を女の柔らかな両手の中で少し動かした。
「もともと」と、彼は言った。「あなたの言うようにここを改善するなんていうことは、僕にできる立場じゃないし、たとえばあなたがそんなことを予審判事に言おうものなら、きっと笑われるか、罰せられるかしますよ。事実僕は、自ら好んでこんなことに首を突っこむはずじゃなかったし、ここの裁判組織を改善する必要があっても、何も僕の眠りを妨げられるはずはないのです。ところが、僕が表向き逮捕されたということによって、――つまり僕は逮捕されたのです――ここに首を突っこまざるをえなくなったのですが、それも僕自身のためにですよ。それでもあなたに何かのお役にたつならば、もちろん大いによろこんでやりはします。ただ隣人愛からといったようなことじゃなくて、あなたのほうも僕を助けてくださることができるということがあるためです」
「いったいどうすればお助けできますの?」と、女がきいた。
「たとえばあの机の上の本を見せてくれればですよ」
「お安いご用ですわ」と、女は叫び、彼を急いで引っ張っていった。どれも古びた、すり切れた本で、厚表紙は真ん中でほとんどちぎれ、ただ紐《ひも》だけでやっとくっついていた。
「ここのものはなんでもなんてよごれているんだろう」と、Kは頭を振りながら言い、女は、Kが本を手にする前に、エプロンで少なくとも表面だけは塵《ちり》をぬぐいさった。
 Kはいちばん上の本を開いたが、いかがわしい絵が出てきた。一組の男女が裸でソファにすわっており、画家の卑俗な意図がはっきりうかがえたが、そのまずさ加減があまりにひどいので、結局は男と女とだけしか眼にははいらず、それがあまりに立体的に絵から浮び出て、ひどく固くなってすわっており、遠近法が間違っているため、やっとこさ互いに向い合っていることがわかる始末だった。Kはそれ以上めくるのをやめ、ただ二冊目の本の扉をあけると、『グレーテが夫のハンスよりこうむらねばならなかった苦しみ』という題名の小説だった。
「これが、ここで研究されている法律書か」と、Kは言った。「こんな人間たちに裁《さば》かれるなんて」
「あなたの援助をしますわ」と、女は言った。「よくって?」
「ほんとうにできるんですか、あなた自身、危なくならないで? あなたのご主人はなんでも上役の言うとおりだ、とさっきあなたはおっしゃったが」
「それでも私はあなたをお助けしますわ」と、女は言った。「こちらにいらっしゃい。私たちは相談しなければなりません。私の危険のことなんかもうおっしゃらないで。危険なんて、自分で恐《こわ》がろうとするときにだけ恐いんですわ。さあ、こちらにいらっしゃい」
 女は演壇を指さし、彼女といっしょに階段に腰かけるようにすすめた。
「きれいな黒い眼をしているのね」と、二人がすわると、女は言って、下からKの顔を見上げた。
「私もきれいな眼をしているって言われますわ。でもあなたのほうがずっときれいよ。あなたが初めてここにはいっていらっしゃったときすぐに、気がつきました。それだからこそまた、後《あと》からこの集会部屋にはいってきたんだわ。いつもはそんなことはしないし、いわば禁じられてもいるんですけれど」
 ははあ、こういうわけなんだな、とKは思った、彼女は身体《からだ》をおれに差出している、この女もここのまわりにあるあらゆるものと同様堕落しているんだ、まったく当然のことだが裁判所の役人には飽きてしまい、それだものだから気に入る他人に、眼がきれいだ、などとお世辞を言うのだ。Kは黙って立ち上がったが、自分の思っていることをはっきりと言ってやり、それによって女に自分の態度を明らかにしてやろう、という気構えだった。
「あなたが僕を助けられるとは思いませんね」と、彼は言った。「僕をほんとうに助けてくれるためには、偉い役人たちとの関係が必要だ。ところがあなたはただ、ここで大勢うようよしている下《した》っ端《ぱ》の連中だけを知っているんだ。こんな連中のことはきっとよくご存じだろうし、連中に頼んでまたさまざまなことをやってもらえましょう。それは、僕も疑いませんが、あの連中に頼んでやってもらうことなんかはどんなに大きくたって、訴訟の最後の結末にはまったくたいしたことではないでしょう。ところがあなたは、そのために二、三人の友達を取逃がすかもしれない。そうなることを僕は望みませんね。まああなたは、連中に対するこれまでの関係をお続けになることですね。つまり、それはあなたには欠かせぬことだ、と僕には思われるんですよ。こんなことを言うのは残念でないこともないのです。あなたのお世辞に何かお返しするとして、あなたも僕に気に入ったんですからね。特に、あなたが今のようにそうやって、別に理由もないのに僕のことを悲しそうに見つめているときにはね。あなたは、僕が戦わなければならない仲間の人だ。ところがあなたはそれにすっかり安住して、学生なんかを愛している。愛してはいないとしても、少なくともご主人よりは好きなのだ。そのことはあなたの話からすぐわかりますよ」
「いいえ」と、女は叫び、すわったままでKの手をとらえようとしたが、彼はその手を十分素早く引っこめることができなかった。
「今すぐ行かないで。私に間違った判断を下しておいて行ってはいけません! ほんとうにもうお帰りになるつもり? ほんの少しここにいてくださるご親切をお持ちになれないくらい私ってつまらぬ女ですの?」
「あなたは誤解しているんですよ」と、Kは言って腰をおろした。「僕がここにいることがほんとうにあなたに望ましいのなら、よろこんでいますよ。暇はあるんだが、今日は審理が行われると思って来たのでした。これまで言ったことで僕は、僕の訴訟について何も僕のためにやっていただきたくはない、ということをお願いしたのです。けれども、訴訟の結果なんか僕にはどうでもよいのだし、有罪の判決だってただ笑ってやるつもりでいるのだ、ということをあなたがお考えになるなら、援助をお断わりしたこともあなたの気をわるくすることはないはずです。これも、およそ裁判がほんとうに終るものと仮定してのことで、どうなるものかはなはだあやしいと思います。むしろ僕は、役人たちが怠慢なためか、忘れっぽいためか、あるいは怖気《おじけ》を振ったためかで、手続きはもう中止になったか、次のときには中止になるかするものと考えます。もちろんまた、何か相当な賄賂《わいろ》でも期待して訴訟を見かけだけ続行するということも、ありうることはありうるが、今から言っておきますが、まったくむだですね。僕は誰にも賄賂なんかやらないんだから。あなたが予審判事か、あるいは重要なニュースを好んで言いふらして歩く誰かかに、僕という人間には、どんなことがあっても、またあの連中がいろいろ知っているどんな術策によっても、賄賂なんか出させることはできないだろう、と言ってくださるならば、ともかくそれは、あなたが僕にやってくだされるご好意というものです。それはまったく見込みがないだろうということを、あなたはあの連中にはっきり言ってくだすって結構です。そうでなくとも連中もおそらく自分ですでにこのことに気づいているでしょうし、気づいてはいなくても、今すぐ知ってもらう必要なんかたいして僕にはないのです。そりゃあ知っていてもらえば、あの連中はむだな仕事をしないですむし、もちろん僕も不愉快な思いをいくらかしないですみますが、それだって、もしそれが同時に他の連中に打撃を与えるとわかったなら、よろこんで引受けますよ。そして、そうなることを、わざとやってみようと思うくらいです。ほんとうに予審判事をご存じなんですか?」
「もちろんですとも」と、女は言った。「あなたをお助けしようと言ったとき、まず第一にあの人のことを考えさえしたのですもの。あの人がただの身分の低い役人かどうかは知りませんでしたが、あなたがそうおっしゃるんですから、おそらくそうなのでしょう。それでも、あの人が上へ提出する報告はいつもいくらか有力なものだ、と信じています。そしてずいぶん報告を書きますわ。役人たちは怠け者だ、とあなたはおっしゃいましたが、きっとみんなそうではないし、あの予審判事さんは特にそんなことありませんわ。あの人はたくさん書きますのよ。たとえばこの前の日曜日には、裁判が夕方ごろまで続きました。みなさんが帰ってしまっても、予審判事さんは広間に残って、私はランプを持ってゆかねばなりませんでしたわ。家には小さな台所ランプしかなかったのですが、それで満足してすぐ書き物を始めました。そうしているうち、あの日曜日にちょうど休暇を取っていた主人も帰ってき、二人で家具を運びこみ、部屋を整え直しましたが、次にまた隣の人たちが来て、蝋燭《ろうそく》一本で話をしました。で結局、予審判事さんのことは忘れて、寝てしまいましたの。突然夜中に、もう夜ふけだったにちがいないんですが、私が眼をさますと、ベッドのそばに予審判事さんが立っていて、主人に光がこぼれぬように、ランプを手でさえぎっていました。それは要《い》らぬ心配でしたわ、主人はいつも、光がさしても起されぬくらい眠りこけているんですから。私はとても驚いたものですから、ほとんど声をあげようとしましたが、予審判事さんはたいへんやさしくて、私に気をつけるように戒め、今まで書き物をしていました、今あなたのところのランプをお返しに来たのです、あなたが寝ているところを見た有様はけっして忘れないでしょう、とささやきましたの。こんなことをお知らせしたのも、ただあなたに、予審判事さんはほんとうにたくさんの報告を書きますし、特にあなたについては書いているってことを言いたかったんですわ。なぜって、あなたの尋問が確かにあの日曜日の裁判のおもな仕事のひとつでしたもの。ところでこんな長い報告書がまったく意味のないものであるはずがありませんわ。でもそのほかに、この出来事からあなたは、予審判事さんが私に想いをかけていること、あの人はおよそ今初めて私のことを気にしだしたにちがいありませんが、この今という最初のときにこそ、私はあの人に大きな力を及ぼすことができるのだということ、をおわかりになれますわね。あの人がたいへん私のことを気にかけているということには、今ではほかの証拠もありますの。あの人は昨日《きのう》私に、あの人がたいへん信頼して協力者にしている例の学生を通じて、絹の靴下を贈り物にしてくれました。私が法廷を掃除してくれるという名目なんですけれど、それはただ口実にすぎませんわ。だってこの仕事は私の義務にすぎませんし、そのために主人は俸給をもらっているのですもの。きれいな靴下ですわ、ごらんなさい」――彼女は脚を伸ばして、スカートを膝《ひざ》まで引っ張り上げ、自分でも靴下をじっと見ていた、――「きれいな靴下ですわ、でもほんとうにあまりりっぱすぎて私には向かないわ」
 突然女は話を折って、Kを落着かせようとでもするように、彼の手の上に自分の手を置き、ささやいた。
「静かに、ベルトルトが私たちのほうを見ていますわ」
 Kはゆっくりと眼を上げた。法廷の扉のところに一人の若い男が立っていたが、小柄で、脚が少し曲っており、短く、薄い、赤みがかった髯《ひげ》で威厳をつけようとしているのだが、その髯の中に指を突っこんで絶えずひねくりまわしていた。Kは物珍しげにその男をながめたが、これは実に、彼がいわば実物でお目にかかった最初の、法律学という得体の知れぬものを学んでいる学生であり、おそらくはいつか高い官職につくだろうと思われる男だった。ところが学生のほうは、見たところまったくKなどは問題にしていないようであり、一瞬髯から抜いた指で女に合図だけしておいて、窓のところへ行ったが、女はKのほうに身体を曲げて、言った。
「気をわるくしないでちょうだい。いいえ、むしろ、私のことをわるい女だとは思わないようにお願いしますわ。あの人のところに行かなければなりませんの。いやな男ですわ、ちょっとあの曲った脚を見てちょうだい。でもすぐ戻ってくるわ、そしたら、もしあなたが連れていってくださるなら、あなたと行くわね、どこへでもあなたのお望みのところへ行きますわ、私を好きなようにしてちょうだい、私はここからできるだけ長く離れられたら、幸福でしょうし、もちろん、永久に離れられるのなら、いちばんいいわ」
 女はなおもKの手をさすっていたが、とび上がって、窓べに駆けていった。思わず知らずKは女の手を求めて空《くう》をつかんだ。女はほんとうに彼の心をそそった。自分がなぜ女の誘惑にまいってはいけないのかいろいろ考えてみたけれども、はっきりとした理由は見あたらなかった。女は裁判所のためにおれのことをとらえているのだ、という浅薄な理由を、彼は苦もなく払いのけた。どうして女はおれをとらえることなどできようか? おれはまだ依然として、少なくとも自分に関するかぎりは、裁判所のいっさいをぶちこわしてしまえるだけ自由ではないか? それに、援助しようという彼女の申し出も、誠実な響きがあったし、おそらくは価値のないものではなかった。そしておそらく、この女をやつらから奪い取って自分のものにしてしまうことよりもよい、予審判事とその一味とに対する復讐《ふくしゅう》はなかった。そうなれば、予審判事がKに関する嘘《うそ》っぱちの報告を苦心|惨憺《さんたん》してでっちあげた末、深夜に来てみると女のベッドが空《から》であるというような場面も、いつか起りうるわけである。そして女のベッドが空なのは、女がおれのものであり、窓ぎわのあの女、粗《あら》くて重い布地の黒ずんだ着物を着た、あの豊満でしなやかで温《あたた》かい肉体が、まったくただおれのものであるからなのだ。
 こうやって女に対するさまざまな思いに打勝ってから、窓ぎわでの低声の会話が彼には長すぎるように思われ、演壇を指の関節で、次には拳《こぶし》でさえたたいた。学生はちょっと女の肩越しにKのほうを見たが、いっこうおかまいなしで、女にぐいと身体を押しつけさえして、女を抱いた。女は、彼の言うことを熱心に聞いているかのように深く頭を垂《た》れ、学生は、女がかがむと、話のほうは中断もせずに首筋へ音をたてながら接吻《せっぷん》した。Kはこのような有様をながめて、女が訴えたところによると学生が女に及ぼしているという横暴ぶりが裏づけられているのを見てとり、立ち上がって、部屋をあちこちと歩いた。学生の様子を盗み見しながら、どうやったらいちばん早く追い払うことができるかを考えていたが、それだけに、すでにときどきどしんどしんと大きな音をたてていた彼のぶらぶら歩きに明らかに邪魔された学生が、次のように言ったとき、Kにはまんざら歓迎すべきことでないわけでもなかった。
「我慢ができなかったら、帰ったらいいだろう。ずっと前に帰っていたってよかったんだ、君がいなくたって誰も気にはかけないからね。いや、それどころか帰らなきゃいけなかったんだ、つまり僕がはいってきたときにさ、そしてできるだけ早くね」
 こう言ううちにはすべての怒りが爆発しているのだったろうが、同時にその言葉のうちには、気に入らない被告に話しかける未来の法官の傲慢《ごうまん》さが含まれていた。Kは学生のすぐ近くに立ったままで、薄笑いを浮べながら言った。
「我慢ができないというのはほんとうだが、このいらいらした気持は、君がわれわれを置いて帰ってくだされば、いちばん簡単に片づくんだ。だがもし君が法律の研究のためにここへ来ているとでもいうのなら――君が学生だっていうことは聞いたよ――よろこんで場所を明け渡し、その女の人と出てゆこう。ともかく君は、裁判官になる前にはもっともっと勉強しなくちゃなるまいからね。君の研究している司法制度のことはまだよくは知らないが、確かにもう臆面《おくめん》もなくりっぱにやってのけることを心得ていなさるような乱暴な演説とは、関係がないものと考えていますよ」
「こんな男を自由にうろつかせておくべきじゃなかったんだ」と、Kの侮辱的な言葉に対する釈明を女に対してやりたいらしく、学生は言った。「それは手落ちだった。予審判事には言ったんだが、尋問中は少なくとも部屋にとどめておくべきだった。予審判事はときどき合点《がてん》のゆかぬことをやるからな」
「くだらぬおしゃべりですよ」と、Kは言い、手を女のほうに伸ばした。「こっちへいらっしゃい」
「おいでなすったね」と、学生が言った。「いや、いや、この人は君には渡さないよ」
 そして、思いがけない力で女を片腕で抱き上げ、女をいとしそうにながめながら、背中を曲げて扉のほうに走っていった。そのあいだもKに対する恐れは見逃《みのが》すことができなかったが、それにもかかわらず、あいた手で女をさすったり押えたりして、さらにKの気持を高ぶらせようとするのだった。Kは、つかみかかろう、事の次第では首を絞めてやろうという気構えで、学生と並んで二、三歩走ったが、女は言った。
「むだだからおよしなさいな。予審判事が私を呼びによこしたの。私、あなたといっしょに行けないわ。このちっぽけないやらしい人が」と、言いながら、手で学生の顔をなでまわしながら、「このちっぽけないやらしい人が私を放さないのよ」
「で君は、放されたくないんだろう!」と、Kは叫び、片手を学生の肩にかけたが、学生は歯でぱくりと食いつこうとした。
「いけないわ!」と、女はわめき、Kの両手を払いのけた。「いけない、いけないわ、そんなことしないで、なんということなさるの! そんなことしたら私の身の破滅よ。放してあげて、ねえ、放してあげて。この人はほんとうにただ予審判事さんの命令どおりやっているんで、私を判事さんのところへ連れてゆくのよ」
「それじゃあ行ってもいいよ、そして君にはもう二度と会いたくないね」と、Kは幻滅を感じさせられ憤激しながら言い、学生の背中に一撃を与えたので、学生はすこしよろめいたが、すぐに倒れてしまわなかったことをよろこんで、女をかかえていっそう高くとびはねた。Kはゆっくり彼らの後《あと》からついていったが、これがこの連中からこうむった最初の文句なしの敗北だ、ということを見て取ったのだった。それだからといって、恐れる理由はもちろんなかった。戦うことを求めたればこそ敗北も喫したのだ。家にとどまっていて、あたりまえの生活をやっていれば、こんな連中の誰にでも優越し、一|蹴《け》りで自分の進路から放り出してしまえるのだ。そこで彼はきわめてばかげた光景を思い浮べてみるのだが、それはたとえば、この憐《あわ》れむべき学生、この空《から》威張りの坊や、脚の曲った髯の男が、エルザのベッドの前にひざまずき、手を合わせて許しを乞《こ》うている情景だった。この想像はKの気に入ったので、そうする機会がもしありさえしたら、学生を一度エルザのところへ連れていってやろう、と決心した。
 好奇心からKはさらに扉のところまで急いで行った。女がどこへ連れてゆかれるかを見ようとしたのだったが、学生がまさかたとえば女を腕にかかえて街路を行くはずはなかろう、と思った。道は思ったよりはるかに近いということがわかった。この居間のすぐ真向いに、狭い木造りの階段がおそらく屋根裏まで通じているらしく、それは曲っているので、終りまでは見えなかった。この階段を登って学生は女を運んでいったが、これまで走ったために弱ってしまい、すでにきわめてゆっくりと、あえぎながら登っていた。女は手で下のKに合図をし、肩を上げ下げして、自分はこの誘拐《ゆうかい》に何も罪がないのだ、ということを示そうとするのだが、この身振りにはたいして残念そうな気持も含まれてはいなかった。Kは女を、赤の他人のように無表情にながめていたが、自分が幻滅を感じたことも、幻滅をたやすく克服できるということをも、表面に出したくはなかったのだった。
 二人はすでに消えたが、Kはまだ戸口に立ち続けていた。女が自分を裏切ったばかりでなく、予審判事のところへ連れてゆかれるなどと言いたてて、自分をだましてもいるのだ、ということを認めざるをえなかった。予審判事が屋根裏にすわって待っている、などということはありえようはずがないではないか。木の階段をいつまでながめていても、何もわかりはしなかった。そのときKは登り口に小さな札を見つけたので、近寄ってゆくと、子供じみた、下手《へた》な文字で、「裁判所事務局昇降口」と書いてあった。それではこのアパートの屋根裏に裁判所事務局があったのか? それは多くの尊敬をかちうる施設とはいえないが、それ自体初めから最も貧しい人々に属するこのアパートの住人たちがその不用ながらくた[#「がらくた」に傍点]を投げこむような場所に事務局を持っているとするなら、この裁判所もさだめし金が思うようにはならないのだろう、と考えてみることは、被告にとっては気の軽くなることであった。もちろん、金はたっぷりあるのだが、裁判上の目的に使う前に役人連が着服してしまうのだ、ということもありえぬことではなかった。それはこれまでのKの経験に徴しても非常にありそうなことでさえあって、そうだとすれば裁判所のこうした堕落は被告にとっては品位を傷つけられることではあったが、結局のところは、裁判所が貧乏である場合よりも気楽ではあった。そこでまた、最初の尋問のときに被告を屋根裏に召喚することを恥じ、被告の住居を襲って悩ますことのほうを選んだのだ、ということはKにも理解できた。Kは裁判官に対してなんという位置にいることだろう! 裁判官は屋根裏にすわっているが、K自身は銀行で控えの間付きの大きな部屋を持ち、大きな窓ガラスを通して往来のはげしい町の広場を見下ろすことができるのだ。もちろん彼には、賄賂や横領による副収入はなく、小使に女を抱かせて事務室まで運ばせることはできなかった。しかしKは、少なくとも現在の生活にあっては、そんなことはよろこんであきらめきりたい気持だった。
 Kがまだ貼札《はりふだ》の前に立っていると、一人の男が階段を登ってきて、開いた扉から居間をのぞきこんだが、そこからは法廷も見えるのだった。男は最後にKに、少し前にここで女を見かけなかったか、とたずねた。
「君は廷丁さんですね、そうでしょう?」と、Kはたずねた。
「そうです」と、男は言った。「ああそう、あなたは被告のKさんですね、やっと気がつきました、ようこそおいでで」
 そして男はKに手を差出したが、Kはまったく予期しなかったことで驚いた。
「でも今日は法廷はお休みなんです」と、Kが黙っているのに、廷丁は言った。
「わかっています」と、Kは言い、廷丁の私服をながめたが、役目の唯一のしるしとして、普通のボタン二、三個のほかに、将校の古外套《ふるがいとう》から取ったらしい二個の金ボタンを見せていた。
「ほんの少し前に君の細君と話していたんだが、もういませんよ。学生が予審判事のところへ連れていったんです」
「ごらんのように」と、廷丁は言った。「家内はいつでも連れてゆかれます。今日は日曜日なんで、私は仕事をしなくてもいいんですが、私をここから追い払うために、どう見たって不用な用事で外にやられました。しかもあまり遠くまでやられたわけじゃないんで、大急ぎで行きさえすれば、まだ遅れないでもどれる見込みがあったんです。だからできるだけ速く走って、使いに出されたお役人に、伝言を扉の隙間《すきま》から相手には何を言っているのかわからぬくらい息もつかずにどなって、また走ってもどってきたんですが、学生のほうが私よりもっと急いでやってきたっていうわけです。もちろんあいつは道がずっと近くて、ただ屋根裏の階段を降りてきさえすればいいんですからねえ。私がもっと自由でさえあったら、あの学生のやつをここの壁のところへ押えつけ、ぶっつぶしてやりますよ。ここの貼札のところへね。しょっちゅうそのことを夢で見るんです。ここんところへ、少し床から持ち上げられてしっかと押えつけられ、腕を伸ばし、指をひろげ、曲った脚を丸くひねって、まわりには血しぶきがいっぱい。でもこれまでそれはただの夢なんです」
「ほかのやりかたがありませんか?」と、Kは微笑しながらきいた。
「どうもありませんや」と、廷丁は言った。「今ではもっといやなことになってきているんです。これまではただあいつが家内を自分のところへ引っ張っていっただけですが、今ではもう、どうせそうなるものとずっと前から思ってはいたんですが、予審判事のところへまで連れてゆくんです」
「ところで君の細君のほうには罪はないのかね?」と、Kは言ったが、こうたずねないではいられなくなったのであり、それほど彼も嫉妬《しっと》を覚えていたのであった。
「どういたしまして」と、廷丁は言った。「あれにいちばん罪があるくらいでさあ。家内はあいつに惚《ほ》れてるんです。あの男と言えば、女と見れば誰でも追いかけます。この家でだけでももう、あいつが忍びこんだ五軒からおっぽり出されたんです。家内はもちろんこの家じゅうでいちばんの別嬪《べっぴん》というわけですから、まさに私はどう防ぎようもないんです」
「そういうこととなると、もちろんどうしようもないね」と、Kは言った。
「どうしてどうしようもないんです?」と、廷丁はきいた。「あの学生は臆病者なんですから、家内にさわろうとしたら、一度、もう二度とはそんなことをやろうとはしなくなるようにぶちのめしてやらなきゃなりません。でも私にはできないことですし。ほかの人も私のためにやってはくれません、誰でもあの男の権勢を恐れているんでね。ただあなたのような人だけができるんですよ」
「いったいどうして僕が?」と、Kは驚いて言った。
「でもあなたは告訴されていましたね」と、廷丁は言った。
「そうなんだ」と、Kは言った。「それに、あの男はおそらく訴訟の結末を左右する力は持たないとしても、予審にはそいつができそうなだけに、心配しなくちゃいけないんです」
「そうですねえ」と、Kの意見はまったく自分自身のと同じように正しいものといわんばかりに、廷丁は言った。「でもここでは原則として、見込みのない訴訟はやられないことになっているんですが」
「僕の意見はあなたのとはちがいますね」と、Kは言った。「でもそれは別として、時にあの学生のやつを料理してやる必要はあると思いますね」
「あなたには大いに感謝しますよ」と、廷丁はいくらか儀礼的に言ったが、ほんとうは彼の最高の望みが実現できないものと信じこんでいるらしかった。
「おそらくまた」と、Kは言葉を続けた。「君の上役のほかの連中も、一人残らず同じように料理してやるに値しますね」
「そうですとも」と、何か自明のことだというかのように廷丁は言った。それから、これまでは非常に親しげにしてはいたが見せなかった、信じきったような眼差《まなざし》をして、Kを見て、言葉を付け加えた。
「あいつらはしょっちゅう陰謀をやっているんです」
 しかし、こういう話が彼には少し不快になったらしかった。話を折って、こう言ったからである。
「さて事務局に行かなくちゃなりません。いっしょにいらっしゃいませんか?」
「何も用事はないんだけれどね」と、Kは言った。
「事務局をごらんになれますよ。誰もあなたのことを気にはかけますまい」
「見る値打ちがありますかね?」と、Kは躊躇《ちゅうちょ》しながらきいたが、いっしょに行ってみたいという欲望を大いに感じていた。
「そりゃあ」と、廷丁は言った。「きっとおもしろいですよ」
「よし」と、Kはついに言った。「いっしょに行きましょう」
 そして、彼は廷丁よりも足早に階段を駆け登った。
 そこに踏み入ると、すんでのことで倒れそうになった。扉の後ろにもうひとつ階段があったからである。
「公衆のためには気をつかっていないようですね」と、彼は言った。
「およそ少しでも気なんかつかっていませんよ」と、廷丁は言った。「ごらんなさい、ここが待合室です」
 それは長い廊下で、そこから、立てつけのわるい扉をいくつか通って、屋根裏のそれぞれの小部屋に通じているのだった。
 直接光のはいる口がなかったけれども、真っ暗ではなかった。多くの小部屋は廊下に面して、一面の板仕切りのかわりに、むきだしだがともかく天井まで届いている木格子《きごうし》があり、それを通して光がさしこみ、またそれから、机にすわって書き物をしたり、ちょうど格子のところに立って隙間越しに廊下の人々をながめている幾人かの役人が見えるのだった。おそらくは日曜日であるため、廊下にはほんの少ししか人影がなかった。彼らはきわめて慎み深いという印象を与えた。ほとんど規則正しい距離をおいて、廊下の両側に置かれた二列の長い木製ベンチに腰をおろしていた。みなかまわぬ身なりであったが、たいていの人々は、顔の表情、物腰、髯のつくり、そのほか多くのほとんどはっきりとは言えない細かい点から言って、豊かな階級に属する人々であった。洋服掛けがないので、誰かしらの例にならっているらしく、彼らは帽子をベンチの下に置いていた。扉のすぐ近くにすわっていた人々がKと廷丁との姿を見ると、挨拶《あいさつ》のため立ち上がるのだったが、そうすると次の人々もそれを見て、自分たちもやはり挨拶しなければいけないと思い、そこですべての人々が、二人の通ってゆくとき立ち上がった。誰も完全にまっすぐ立ち上がる者はなく、背中は曲っており、膝もかがんで、往来の乞食《こじき》のような有様で立っていた。Kは自分よりも少し遅れて歩いている廷丁を待って、言った。
「あの人たちはどんなにか卑下しているんですね」
「そうです」と、廷丁は言った。「あれは被告です、ここでごらんになるのはみな被告なんです」
「そうですか!」と、Kは言った。「それじゃあ僕の仲間っていうわけですね」
 そして彼は、次の大柄で痩形《やせがた》な、すでにほとんど白毛《しらが》まじりになった頭髪をした男に向って言った。
「ここで何をお待ちですか?」と、Kは慇懃《いんぎん》にたずねた。
 ところがこんなふうに思いがけなく話しかけられて、その男はすっかり取乱してしまったが、それが明らかに、ほかのところでなら確かに自分も制御できるし、多くの人々に対してかちえた優越感を容易には捨てさってはいないような、世故に長《た》けた人であるだけに、その狼狽《ろうばい》ぶりは非常に痛ましく見えるのだった。ところでこの場所では、こんな単純な質問にも答えることができず、ほかの人々のほうを見て、自分を助けてくれる義務があるし、そうやって助けてくれなければ誰も自分に返答を要求することはできない、というような有様だった。すると廷丁は歩み寄って、その男を落着かせ、元気づけるために、言った。
「この方はまったくただ、何をお待ちですか、とおたずねになっただけなんですよ。どうぞお答えになってください」
 男は廷丁の声を聞きなれているらしく、そのためKがきくよりも効果があった。
「私が待っていますのは――」と、彼はしゃべりはじめたが、すぐつかえてしまった。明らかに彼は、質問にできるだけ詳しく答えるためにこう切り出すことを選んだのだったが、その先が続かなくなった。待っている人たちの何人かが近づいてきて、この三人のグループを取巻いたので、廷丁は彼らに言った。
「どいた、どいた、通路はあけなくちゃいけない」
 人々は少し退《の》いたが、元いた場所へはもどらなかった、そのうちに問われた男は気を落着かせ、ちょっと微笑《ほほえ》みさえもらしながら、答えた。
「一カ月前に、私の事件の証拠申請をしましてね、片づくのを待っているんです」
「まったくたいへんなお骨折りのようにお見受けできますね」と、Kが言った。
「ええ」と、男は言った。「なにせ自分のことですからね」
「誰もがあなたのように考えるとはきまっていませんよ」と、Kは言った。「たとえば私も告訴されているんですが、ほんとうに心からうまくゆくようにと願ってはいますものの、証拠申請だとか、あるいはそのほかの何かそういった類《たぐ》いのことを企てたことがありません。いったいあなたはそういうことを必要だとお考えですか?」
「私には詳しいことはわかりませんが」と、男はまたすっかりあやふやな態度になって言った。すなわち彼は明らかに、Kが自分をからかっているのだ、と思ったのであり、そのため、何かまた失敗をやるのではないかという心配から、前の答えをそのまま繰返すのがいちばんよいと考えたらしかったが、Kのいらいらしたような眼差を前にしてただこう言うのだった。
「私としては、証拠申請をしたのです」
「私が告訴されているとは、きっと思ってはいらっしゃらないのですね」と、Kはきいた。
「どういたしまして、そう思っております」と、男は言い、少しわきへ退いたが、返答の中には信頼ではなくて不安だけが現われていた。
「それじゃ、あなたは私の言うことを信じないんですね?」と、Kは言い、その男の屈従的態度に思わず知らず刺激され、どうしても信じさせてやろうというように男の腕をとらえた。しかし何も苦痛を与えてやろうとしたわけではないので、ほんの軽くとらえただけだったが、それでも男は、Kに二本の指ではなく、真っ赤な火ばさみでつかまれたように、悲鳴をあげた。このばかばかしい悲鳴でKは男に厭気《いやき》がさした。自分が告訴されていることを信じないのなら、ますます結構だ。おそらく自分のことを裁判官だとさえ思っているのだろう。そこで今度は別れの挨拶に本気で手をしっかと握り、ベンチに突きもどして、歩みを進めた。
「たいていの被告はああいうように神経質になっているんです」と、廷丁が言った。
 彼らの背後では、もう悲鳴をあげることをやめた例の男のまわりに、ほとんどすべての待ち合せている人たちが集まり、この思わぬ出来事について詳しくききただしているらしかった。そこへ、Kに向って監視人がやってきたが、おもにそのサーベルでそれとわかったのだけれども、少なくとも色から見るのに鞘《さや》はアルミニウムでできているらしかった。Kはそれに驚いて、手を出して握ってさえみた。悲鳴を聞きつけてやってきた監視人は、何が起ったのか、とたずねた。廷丁は二言三言言って彼を納得させようとしたが、監視人は、どうしても自分で調べる必要がある、と言いきって、会釈をし、非常に早くはあるがきわめて小刻みな、痛風《つうふう》のために堅苦しくなっているらしい足取りで、出向いて行った。
 Kは監視人や廊下の仲間のことを長くは気にかけていなかったが、およそ廊下の中ほどまで来ると、扉がなくてあいた場所になっており、右手に曲れそうになっているのに気づいたので、彼らのことをもうすっかり忘れてしまった。こちらに行っていいのか、と廷丁にきいてみると、廷丁はうなずいたので、Kはそこでほんとうに右手へ曲った。しょっちゅう一、二歩廷丁の先を歩かねばならぬことがわずらわしく、少なくともこの場所では、まるで自分が逮捕されて引きたてられてゆくような格好に見えることもありえた。それでしばしば廷丁の追いつくのを待ったが、廷丁はすぐにまたおくれてしまうのだった。ついにKは、自分の不快さにけり[#「けり」に傍点]をつけるため、言った。
「ここがどんなところか見てしまったから、もう帰ろうと思います」
「まだ全部ごらんじゃありませんよ」と、廷丁は少しも動じないで言うのだった。
「全部が全部見たくもありませんね」と、ほんとうに疲れを感じてさえいるKは言った。「もう帰りますよ、出口はどっちですか?」
「もうわからなくなっちまったんですか?」と、廷丁は驚いて言った。「この端まで行って、廊下を右へいらっしゃればまっすぐ戸口に出ます」
「いっしょに来てください」と、Kは言った。「道を教えてくれませんか、どうも間違いそうだ、ここにはたくさん道があるんでね」
「ひとつきりの道ですよ」と、もうとがめるような口調になって廷丁は言った。「あなたとまたもどってゆくわけにはいきませんね、報告しにゆかねばなりませんし、そうでなくともあなたのためにだいぶ時間をつぶしましたからね」
「いっしょに来なさい!」と、Kはとうとう廷丁の不実さを突きとめたというように、鋭い口調で繰返した。
「そんなにどならないでください」と、廷丁はささやいた。「ここはどこも事務室ですから。ひとりでお帰りになりたくないなら、もう少し私といっしょに行くか、あるいは、報告をすませてくるまでここで待ってくださいませんか。そうすればよろこんでごいっしょに帰りますよ」
「だめだ、だめだ」と、Kは言った。「待てはしないし、今いっしょに来たまえ」
 Kはまだ、自分がいる場所をよく見まわしていなかったが、その辺にぐるりとあるたくさんの木の扉のひとつが開いたときになって初めて、眼をそちらに向けた。Kの大声を聞きつけたらしい一人の娘が現われて、たずねた。
「何かご用ですか?」
 その背後に遠く、薄暗がりの中をさらに一人の男が近づいてくるのが見えた。Kは廷丁の顔をじっと見た。この男は、誰もあなたのことなど気にはかけない、と言ったのではなかったか。ところがもうすでに二人がやってきて、ほんの小人数でもたくさんだというわけだが、役人連が彼のことに注意を払うようになったし、なぜここに来たのか、という釈明をきこうとするだろう。唯一の筋の通った、認められうる釈明というのは、自分は被告であり、次の尋問の予定日をきこうと思ったのだ、というのであるが、彼としてはまさにこんな釈明こそしたくはない。特にこれは真実でもないからであるが、偽りだというわけは、彼はただ好奇心で来たのであり、あるいは、釈明としてはやはり通りにくいのだが、この裁判制度の内部もその外部と同じようにいやなものだ、ということを確かめようとする要求からやってきたのだからである。そしてまったく、自分のこういう臆測《おくそく》は正しいと思われたので、これ以上はいりこむつもりはなく、これまで見たことですっかり胸苦しくなっており、今この瞬間には、どの扉からもひょっこり現われてくるかもしれない高い地位の役人に対応するだけの心構えになってもいないので、廷丁といっしょか、あるいはやむをえなければひとりででも帰りたかった。
 ところが、彼が黙って立っていることが奇妙に思われたらしく、実際、娘も廷丁も、次の瞬間にはなんらかの大きな変化が彼に起るにちがいないし、それを見ないでおきたくはない、とでもいうようにKを見つめるのだった。そして戸口には、Kがさっき遠くから認めた男が立って、丈《たけ》の低い鴨居《かもい》にしっかりと身をささえて、気短かげな観客のように、爪立《つまだ》ちながら少し身体を揺すっていた。しかし娘はまず、Kのこんな態度は少し気分がわるいことに原因があるのだと気づき、椅子を持ってきて、きいた。
「おかけになりません?」
 Kはすぐすわり、もっとよい姿勢をとろうとして、肘《ひじ》を椅子の背にささえた。
「少しめまいがなさるんでしょう?」と、女は彼にきいた。娘の顔が彼のすぐ眼の前にあったが、多くの女がその女盛りに持っているような強烈な表情を浮べていた。
「心配なさらないほうがいいですわ」と、娘は言った。「ここでは珍しいことではありません。初めてここへ来ると、ほとんど誰でもこんな発作を起すのよ。ここは初めてですの? そうね、それなら珍しいことじゃないわ。太陽がここの屋根板を照りつけますし、熱くなった木が空気をうっとうしく、重苦しくするんです。ですからこの場所は事務室にはあまり向かないんです、もちろんそのほかの点ではいろいろ大きな利益があるにはあるんですけれど。でも空気の点では、訴訟当事者が大勢行き来する日には、そしてそういうのはほとんど毎日ですけれど、ほとんど息もつけないくらいなんです。それから、ここにはまたいろいろ洗濯物が干しにかけられるということをお考えになれば、――それを下宿人に全部が全部断わるわけにもいきませんものね――少しぐらい気分がおわるくなられても不思議でないとお思いでしょう。でも、しまいにはこの空気にすっかり慣れます。二度目か――あるいは三度目にいらっしゃるときには、ここでもう胸を押しつけるようなものをもうお感じにならなくなることでしょう。もうおよろしくはありません?」
 Kは答えなかった。こうして突然身体の具合がわるくなってここの連中の手のうちにはいったようになっていることがあまりにもつらいことだったし、そのうえ、今自分の不調の原因を聞いたばっかりに、よくはならないで、むしろ少しわるくなったのであった。娘はそれにすぐ気づいて、Kの元気を回復させるために、壁に立てかけてあった鉤《かぎ》付きの竿《さお》をとり、ちょうどKの頭上に備えつけられた、戸外に通じる小さな通風窓をつついてあけた。だが煤《すす》がひどくたくさん落ちてきたので、娘はその通風窓をすぐまた引っ張ってしめ、ハンカチでKの両手の煤をはらわなければならなかった。Kはあまりに疲れていて、それを自分で始末できなかったからである。歩いてゆけるのに十分なだけ元気を回復するまでここにゆっくりとすわっていたかったが、人々が彼のことなど気にかけることも少なければ少ないほど、なるたけ早く行かなければならなかった。ところがそのうえ、娘が言った。
「ここにはいらっしゃれませんわ、通行の邪魔になりますもの――」Kは、どんな通行の邪魔になるのか、と視線できいた――「よろしかったら、病室へお連れしましょう。あなた、手を貸してちょうだい」と、娘は戸口の男に言ったが、男もすぐ近寄ってきた。
 しかし、Kは病室へは行きたくなく、これ以上引きまわされることはまっぴらだったし、行けば行くほど腹がたつにちがいなかった。そこで、
「もう歩けます」と、言い、立ち上がったが、気持よくすわっていだだけに耐えられず、身体が震えるのだった。ところが身体をまっすぐに立てることもできなかった。
「どうもだめです」と、頭を振りながら言い、溜息《ためいき》をもらしながらまた腰をおろした。廷丁のことを思い出し、あの男ならそれでも簡単に連れ出してくれるだろうと思ったが、とっくにいなくなってしまったらしく、自分の前に立っている娘と男とのあいだを透かし見するのだが、廷丁は見あたらなかった。
「私が思うのに」と、男が言ったが、ところで男は身だしなみがよく、特にその、二つの長いとがった端に終っている灰白のチョッキで、目だった。「この人が気持わるくなったのはここの空気のせいだよ。だから、まず病室に連れてゆきなどしないで事務局から出てもらうのが、いちばんいいし、この人にもいちばん気持がいいんじゃないかな」
「そうですよ」と、Kは叫び、無性によろこんでほとんど男の話の中に割ってはいった、「きっとすぐよくなるでしょうし、そんなに弱っているわけじゃなく、ただ少し腋《わき》の下をささえてもらえばいいんです。たいしてお骨折りはかけませんし、道もそう遠くはありません。扉のところまで連れていっていただけば、少し階段の上で休んで、すぐなおります。つまりこんな発作を起すことなんかないことで、自分でも驚いているんです。私も勤め人ですし、事務室の空気には慣れているんですが、ここは、あなたのおっしゃるように、少し空気がわるすぎるようですね。ですから、少し連れていってはいただけませんか。どうもめまいがして、ひとりで立ち上がると、気持がわるくなるのです」
 そして、二人が彼の腕の下をとらえやすくするため、肩を上げた。
 ところが男は求めに応じないで、両手を知らん顔でポケットに突っこんだまま、大声をあげて笑った。
「ごらん」と、男は娘に言った。「やっぱり私の言ったとおりじゃないか。この人はどこででも気分がわるくなるんじゃなくて、この部屋に限ってわるくなるんだ」
 娘も微笑んだが、男があえてKをあまりひどく弄《なぶ》っているとでもいうように、男の腕を軽く指先でたたいた。
「だって君、どうだっていうんだ」と、男はなおも笑いながら言った。「そりゃあ、この人を連れてはゆくさ」
「それならいいわ」と、格好のいい頭をしばらくかしげながら、娘は言った。
「この人が笑っていることをあまり気にされなくていいんですのよ」と、娘はKに言ったが、Kはまた憂鬱《ゆううつ》になっていて、ぼんやり前を見つめ、釈明などいらない、というふうだった。「この人は――ご紹介してもいいでしょう? (男は手振りで許しを与えた)――この人は案内係なんです。待っている訴訟当事者に求められる案内をなんでもするんですが、この裁判所のことは人々のあいだであまり知られていませんから、いろいろ案内が求められます。この人はどんな質問にも応じられますから、もし気がお進みでしたら、それをためしてごらんなさいな。でもそれはこの人のただひとつの特色ではなくて、第二の特色はあのスマートな身なりなんです。私たち、つまり役人は、しょっちゅう、しかも第一番目に訴訟当事者たちと接触する案内係は、第一印象をよくするために、身なりもスマートでなければならない、と同じように思っています。私たちほかの者は、私をごらんになればすぐおわかりと思いますが、残念ながらたいへん粗末で古風な身なりをしています。着物にお金をかけることなんか、たいして意味もありませんわ、だって私たちはほとんどいつも事務局にいて、ここに寝泊りまでするんですもの。でも、申上げたとおり、案内係はりっぱな着物がいる、と私たちは等しく思っています。ところがその着物は、この点でいくらか変なんですが、お役所からは支給されませんので、私たちはお金を集め――訴訟当事者にも寄付していただき――この人にこんなきれいな着物やまたほかのやを買ったんですわ。今では万事が整って、よい印象を与えることもできるのに、この人ったら笑ってはまた台なしにしてしまい、人を驚かすんですのよ」
「そりゃあそうだが」と、男はあざけるように言った。「君、なぜこの人にわれわれの内幕を洗いざらいしゃべるのか、あるいは全然聞きたくもないのに無理に聞かせるのか、私にはわからないね。いいかい、この人は明らかに自分の用件があってここに来ているんだからね」
 Kは抗弁する気が全然なかった。娘の意図は親切なものらしいし、おそらくKの気をまぎらせ、あるいは気分をまとめる機会を彼に与えるためのものだったのだが、手段が間違っていたのだった。
「この人にあなたの笑ったわけを説明してあげなければいけなかったんだわ」と、娘は言った。「ほんとに人を侮辱するものだったわ」
「最後に連れていってあげれば、もっとわるい侮辱だってこの人は許しなさる、と私は思うね」
 Kは何も言わず、一度も顔を上げないで、二人が自分についてまるで事件についてのように論じ合っているのを、我慢していた。それが彼にはいちばん好ましかった。ところが突然、一方の腕に案内係の手、他方のに娘の手を感じた。
「じゃあ立ちなさい、お弱いお方」と、案内係は言った。
「お二人とも、ほんとうにすみません」と、よろこび驚きながらKは言い、ゆっくり立ち上がり、ささえをいちばん必要とする場所に自分のほうから他人の手を持っていった。
「私にはこう思われるんですけど」と、彼らが廊下に近づいたとき、娘は小声でKの耳にささやいた。「この案内係さんのことをよく思っていただくようにすることが、とりわけ、私の責任なんじゃないかしら。信じていただいて結構なんですけれど、私はほんとうのことを言おうと思います。あの人は冷たい人じゃないのよ。病気の訴訟当事者を連れ出すなんて、あの人の役目じゃありませんのに、ごらんのように、あの人はしますのよ。きっと私たちの誰もが冷たくなんかないし、きっとみなよろこんで人を助けたいんですわ。それでも裁判所の役人なものですから、私たちは冷たいし、誰も助けようなどとは思っていない、っていうように見えがちなんです。ほんとうにつらいわ」
「ここでちょっと休みませんか」と、案内係が言ったが、もう廊下に出て、Kがさっき話しかけた被告のちょうど前に来た。Kは、ほとんど自分を恥じていた。さっきはこの男の前にちゃんと立っていたのだが、今は二人がささえねばならず、帽子は案内係がひろげた指の上にのせており、髪形は乱れ、髪毛《かみのけ》は汗ばんだ額の上に垂れていた。ところが被告はそんなことには気づかぬ模様で、自分を越えてあらぬ方をながめている案内人の前にうやうやしげに立ち、ただ自分がここにいることを弁解しようとするのだった。
「今日はまだ」と、彼は言った。「私の申請が片づきはしない、ということをよく存じています。けれど、ここで待たしていただけるだろう、今日は日曜日だし、時間があるし、ここでお邪魔にはならない、と思ってまいりました」
「そんなに言い訳をおっしゃらなくたってよろしいですよ」と、案内係は言った。「そんなに気をつかっていただくのはまったく恐縮です。あなたはここで余計な場所ふさぎをしておられるが、私の面倒にならないかぎりは、あなたの事件の進行を逐一たどられるのを妨げはしませんよ。自分の義務をおろそかにしている人たちばかり見ていると、あなたのような人たちのことは我慢するようになります。どうぞおかけください」
「訴訟当事者を相手にすることをなんて心得ていることでしょう」と、娘は言い、Kもうなずいたが、すぐ、案内人が彼にまたきいたので、とび上がった。
「ここで腰かけませんか?」
「いや」と、Kは言った。「休みたくはありません」
 できるだけきっぱりとそう言ったのだが、実際は、腰かけることが彼には気持よかったにちがいなかった。まるで船酔いのようだった。難航中の船に乗っているように思われた。水が板壁の上に落ちかかり、廊下の奥からはかぶさる水のような轟々《ごうごう》という音が聞え、廊下は横ざまに振れ、両側に待っている訴訟当事者たちは下がったり、上がったりしているように思われるのだった。それだけに、自分を連れてゆく娘と男との落着きはらった様子がわからなかった。自分は彼らに引渡されたのであり、彼らが自分を手放すなら、木片のように倒れるにちがいなかった。二人の小さな眼からは、鋭い視線があちこちと走り、彼らの規則正しい足取りをKは感じるのだったが、ほとんど一歩一歩彼らに運ばれている有様なので、それに合わせることはできなかった。ふと、二人が自分に何か言っていることに気づいたが、何を言っているのかはわからず、ただ騒音だけが聞えてきた。その騒音はあたりにいっぱいで、それを貫いて|海の魔女《サイレン》のような変化のない高い調子が響くのが聞えた。
「もっと大きな声で」と彼は頭を垂れたままささやいてから、恥じた。自分には聞き取れないけれど十分大きな声で言われたのだ、ということを知っていたからである。そのときとうとう、眼の前の壁に穴があいたように、さわやかな風が吹きつけてきた。そしてそばで言う言葉を聞いた。
「初めは行きたがるが、ここが出口だ、と何回でも言ってやればいい。そうすれば動かなくなるよ」
 Kは、娘があけた出口の扉の前に立っていることに気づいた。身体じゅうの力が一時に戻ってきたような気がし、自由の身の前味を味わうのだった。すぐに階段に一段足をかけ、そこから、自分のほうに身体をかがめている二人の道づれに別れを告げた。
「どうもありがとう」と、彼はまた言い、繰返し二人の手を握ったが、二人が事務局の空気に慣れていて、階段からやってくる比較的さわやかな空気にも耐えがたそうなのを見てとって、初めて立ち去った。二人はほとんど返事もせず、もしKがきわめて素早く扉をしめてやらなかったならば、娘はおそらく倒れたであろう。Kはしばらくじっと立ち止っていたが、懐中鏡で髪を直し、次の踊り場にころがっている帽子を拾い上げ、――案内係がきっとそれを投げ出したのだった――階段を降りていったが、気持があまりにさっぱりし、あまりに大股《おおまた》で歩けたので、この変りかたにほとんど不安を覚えたくらいだった。こんな驚きは、これまでのまったくしっかりした健康状態のときにもまだ感じたことはなかった。肉体が革命を起そうとし、彼がこれまで古い肉体の働きに耐えてきたので、新しい働きを用意しようとしているのだろうか? できるだけ早い機会に医者のところへ行こうという考えをしりぞけはしなかったが、いずれにせよ彼は、――そのことを彼は決心できたが――これからの日曜日の午前はいつでも今日よりはよく使おう、と思うのだった。

第四章 ビュルストナー嬢の女友達

 最近Kは、ビュルストナー嬢とほんの少しでも話すことができなかった。きわめてさまざまなやりかたをしてみて、彼女に近づこうとしたが、彼女はいつでもそれを逃《のが》れることを心得ていた。事務室からすぐ家に帰り、明りもつけずに部屋にこもり、長椅子の上にすわって、控えの間をながめること以外に何もしなかった。たとえば女中が通り過ぎ、人のいないらしいその部屋の扉《とびら》をしめてゆくと、彼はしばらくしてから立ち上がり、それをまたあけてみるのだった。朝はいつもより一時間ばかり早く起きたが、おそらくビュルストナー嬢が勤め先に出てゆくとき、彼女とだけ出会うためだった。ところがこんな試みがどれもうまくゆかなかった。そこで、彼女に勤め先にも部屋あてにも手紙を書き、その中でもう一度自分の態度を弁明しようとし、どんな償いにも応じる旨を申し出、彼女が置こうと思うどんな限界もけっして踏み越えないことを約束し、一度会う機会を与えてほしいということだけを懇願し、あなたと相談しないうちはグルゥバッハ夫人ともどうしようもないのだから、特にそうしてほしい、と言ってやり、最後には、次の日曜日には一日じゅう部屋にいて、自分の懇請を聞きとどけてくださることを約束するような、あるいは少なくとも、何であってもあなたのおっしゃることに応ずると約束しているのになぜ私の懇願をかなえていただけないのかを説明するような、なんらかの合図をお待ちしている、と言ってやった。手紙はどれももどってはこなかったが、返事もまた来なかった。ところが日曜日にひとつの徴候が見られ、そのはっきりし加減は十分なほどだった。その朝は早くから、鍵穴《かぎあな》を通してKは、控えの間に特別な動きがあることを認めていたが、やがてそのわけがわかった。フランス語の女教師、彼女はドイツ人でモンタークといい、弱々しく、顔色の蒼《あお》い、少し跛《びっこ》の女で、これまで自分の部屋をとって住んでいたが、ビュルストナー嬢の部屋に引っ越したのだった。何時間も、彼女が控えの間を通って足を引きずるのが見られた。しょっちゅう、下着類とかカバーとか本とかを忘れて、そのために取りにゆき、新しい部屋に運ばねばならないのだった。
 グルゥバッハ夫人がKに朝飯を持ってきたとき――Kをひどく怒らせて以来、夫人はどんな小さなことも女中にはまかせなかった――Kは、五日ぶりに初めて彼女に話しかけないでいられなくなった。
「いったい今日は、なぜ控えの間がこう騒がしいんですか?」と、コーヒーを注《つ》ぎながらKはたずねた。「やめさせるわけにはいきませんか? 日曜日にわざわざ片づけなけりゃあいけないんですか?」
 Kはグルゥバッハ夫人のほうを見なかったが、彼女がほっとしたように息をつくのがわかった。Kのこのようなきびしい質問さえも、夫人は、許しあるいは許しの始まり、と考えたのだった。
「片づけているんじゃありません、Kさん」と、夫人は言った。「モンタークさんがビュルストナーさんのところへ移るだけのことでして、荷物を運んでいるんですわ」
 夫人はこれ以上は言わず、Kがどうそれをとり、話し続けることを許すかどうか、待ちかまえていた。だがKは夫人をためしたのだったので、考えこんだように匙《さじ》でコーヒーをかきまわし、黙っていた。それから彼女のほうに顔を上げて言った。
「ビュルストナーさんのことについてのあなたの前の疑いを、もう捨て去ってしまったでしょうね?」
「Kさん」と、この質問だけを待ちかまえていたグルゥバッハ夫人は叫び、彼女の重ねた手をKのほうに差出した。
「あなたは、このあいだの何気ない話をむずかしくおとりになったのですわ。私はちっとも、あなたなりほかのどなたかなりを傷つけようなどとは思いませんでした。Kさん、あなたはもう私とは長年のお付合いですから、そのことを信じていただけるはずですわ。私がこの数日どんなに思い悩んだか、あなたにはおわかりになれませんわ! 私が間借人の方の悪口を言うなんて! そしてあなたは、Kさん、そう思っていらっしゃるんです! そして、あなたのことを追い出すんだなんておっしゃったんだわ! あなたのことを追い出すなんて!」
 最後の言葉はもう涙でつまってしまい、エプロンを顔にあてて、声をあげてすすり泣きするのだった。
「泣かないでください、グルゥバッハさん」と、Kは言い、窓から外を見たが、ただビュルストナー嬢だけのことを考え、そして、彼女が見知らぬ娘を自分の部屋に迎え入れたことを考えていたのだった。
「泣かないでください」と、もう一度言ったが、振向くとグルゥバッハ夫人はまだ泣いていた。
「実際あのときは私もそうわるい意味で言ったんじゃありません。お互いに誤解していたんです。そういうことは旧友でも起りうることですよ」
 グルゥバッハ夫人はエプロンを眼の下までずらせて、Kがほんとうに仲直りしたのかを見た。
「ねえ、そういうわけだったんですよ」と、Kは言い、グルゥバッハ夫人の態度から判断するのに、例の大尉が何も暴露してはいないらしかったので、あえてさらに言葉を足した。「よその娘のことで私があなたと仲たがいするなんて、ほんとにそうお思いですか?」
「ほんとにそうですわね、Kさん」と、グルゥバッハ夫人は言ったが、いくらか安心したように思って早速まずいことを言ったのは、彼女の運のつきだった。「しょっちゅう自分にきいてばかりいるんですのよ。なぜKさんはあんなにビュルストナーさんのことばかり気にしているんだろう? あの方から何かいやな言葉を聞いたら私は眠れないっていうことをよくご存じなのに、あの人のことでなぜ私といさかいなんかなされるんだろう、って。あの人については、ほんとに自分の眼で見たことだけを申上げたんだわ」
 Kはそれに対して何も言わなかった。最後の言葉で夫人を部屋から放り出してやらねばならない、と思ったが、そうはせずにおいた。コーヒーを飲み、グルゥバッハ夫人におしゃべりがすぎるということを気づかせてやるのにとどめた。室外ではまた、モンターク嬢の、控えの間いっぱいを横切ってゆく引きずるような足音が聞えた。
「聞えますか?」と、Kはきき、手で扉のほうをさした。
「ええ」と、グルゥバッハ夫人は言い、溜息《ためいき》をついた。「私も手伝い、女中をやってお手伝いさせようとも思ったんですけれど、あの人は片意地な人で、なんでも自分で片づけようと思っているんです。ビュルストナーさんもビュルストナーさんですわ。モンタークさんに部屋を貸しているだけでもいやになることがあるのに、自分の部屋に呼びまでするんですからねえ」
「そんなことはあなたの知ったことじゃないですよ」と、Kは言い、茶碗の中の砂糖の残りをつぶした。「いったいそれで何かあなたの損害になるんですか?」
「いいえ」と、グルゥバッハ夫人は言った。「そのこと自体は私にはほんとに願ったりですわ。それで部屋がひとつあき、そこへ私の甥《おい》の大尉を入れることができるんですもの。最近あれをあなたのおそばの部屋に住ませておいたので、お邪魔じゃなかったか、とずっと前から心配していましたわ。あれはあんまり気のつくほうじゃないものですから」
「なんていうことを考えられるんです!」と、Kは言い、立ち上がった。「そんなつもりじゃ全然ありませんよ。あのモンタークさんが歩いているのを――ああ、またもどってきましたね――我慢できないからといって、あなたは私のことをどうも神経過敏とお考えのようですね」
 グルゥバッハ夫人は、まったく自分には手の施しようもないように思った。
「Kさん、引っ越しの残りを延ばすように申しましょうか? もしお望みなら、すぐそうしますけれど」
「いや、ビュルストナーさんのところへ移らせてやりなさい!」と、Kは言った。
「ええ」と、グルゥバッハ夫人は言ったが、Kの言うことを理解しきってはいないようだった。
「それじゃあ」と、Kは言った。「あの人の荷物を運ばなくちゃいけない」
 グルゥバッハ夫人はただうなずいた。この口もきけないで当惑している有様は、表面上はただ傲慢《ごうまん》さのように思えて、Kをいっそういらつかせるのだった。彼は、部屋の中を窓ぎわから扉まであちこちと歩きはじめ、それによってグルゥバッハ夫人の引下がる機会を奪ってしまったが、彼女はそういうことがなければきっと引下がっていたことであろう。
 ちょうどKがまた扉のところまで来たとき扉をたたく音がした。それは女中で、モンターク嬢がKさんと少しお話ししたいことがあり、それゆえ食堂でお待ちしているから、おいでくださるようお願いします、ということを伝えた。Kは女中の言うことを考えこんだようにじっと聞いていたが、ほとんど嘲笑《ちょうしょう》的な眼差《まなざし》をして、驚いているグルゥバッハ夫人のほうに振返った。この眼差はKがすでにずっと前からモンターク嬢の招きを予想していたのだし、それはまた、この日曜日の午前にグルゥバッハ夫人の下宿人たちによって味わわされねばならなかったわずらわしいことと大いに似合いのことだ、と言っているように見えた。すぐまいります、という伝言を持って女中を帰らせ、上着を換えるため洋服|箪笥《だんす》のところへ行き、面倒な人だとぶつぶつこぼしているグルゥバッハ夫人に対する返答として、朝食の道具をもう持っていってもらいたい、と頼んだだけだった。
「ほとんどなんにも手をおつけになっていませんわ」と、グルゥバッハ夫人は言った。
「ああ、いいんですから持っていってください!」と、Kは叫んだが、すべてのものにモンターク嬢が浸みこんでいるようであり、いやな気持だった。
 控えの間を通り抜けるとき、ビュルストナー嬢のしめきった扉をながめた。けれど、この部屋へ招かれたのではなく、食堂へだった。彼は食堂の扉を、ノックもせずにあけた。
 食堂は、奥行はきわめてあるのだが、間口は狭い、窓がひとつしかない部屋だった。その部屋には場所が大いにあるにはあるので、扉側の片隅《かたすみ》に戸棚《とだな》を二つ斜めに置くことができていたが、ほかの場所は長い食卓ですっかり占められ、食卓は扉の近くから始まって、大きな窓のすぐ近くまで達しており、そのため窓にはほとんど行かれないようになっていた。
 もう食事の支度《したく》ができていて、しかも、日曜日にはほとんどすべての下宿人がここで中食をとるので、多人数の支度であった。
 Kが部屋にはいると、モンターク嬢は窓ぎわから食卓のそばに沿ってKのほうにやってきた。二人は互いに、黙ったまま会釈《えしゃく》をした。次に、いつもと同じように頭をひどくもたげたモンターク嬢が言った。
「私のことをご存じかどうか知りませんが」
 Kは、眼を狭《せば》めながら女を見つめた。
「よく存じています」と、彼は言った。「だってもうかなり長くグルゥバッハ夫人のところにお住いじゃありませんか」
「でも、私がお見かけしたところでは、下宿のことはあまり気にかけていらっしゃらないようですが」と、モンターク嬢は言った。
「そんなことはありません」と、Kは言った。
「おかけになりませんか?」と、モンターク嬢は言った。二人は、黙ったまま、食卓の一番端にある椅子を二つ引出し、互いに向い合って腰をおろした。しかし、モンターク嬢はすぐまた立ち上がった。ハンドバッグを窓敷居に置き忘れ、それを取りにいったからである。部屋じゅうを擦《す》るように歩いていった。手提《てさ》げを軽く振りながらもどってくると、彼女は言った。
「私はただ友達に頼まれて、ちょっとお話ししたいのです。あの人は、自分で来ようと思ったのですが、今日は少し気分がわるいものですから。どうかあしからずお思いになって、あの人のかわりに私の申上げることをお聞きくださいまし。あの人も、私があなたに申上げる以外のことは申上げられませんでしょう。反対に私は、あの人よりも申上げられるものと思いますわ、私は比較的局外の立場にありますから。あなたもそうお思いでございましょう?」
「いったい、おっしゃることってなんですか?」と、Kは言葉を返したが、モンターク嬢の眼が絶えず自分の唇《くちびる》に注がれているのを見ているのに、疲れた。相手はそれによって、彼がまず言おうとすることに対する支配力を我が物としようとするのだった。
「私はビュルストナーさんご自身でお会いくださるようお願いいたしたのですが、それはご承知願えぬわけですね」
「そうです」と、モンターク嬢は言った。「あるいはむしろ、そうではありません、と申上げるべきかもしれません。あなたは妙にきっぱりとした物の言いかたをなさいますわね。一般に言って、お話しすることをお引受けしたわけでもなければ、またその反対にお断わりしたわけでもありません。でも、お話しすることを不必要と考える場合だってありうるわけでして、ちょうど今の場合がそうなんです。おっしゃることを伺って、今は私、はっきりとお話しできますわ。あなたは私のお友達に、手紙か口頭でお話しすることをお求めになりました。でもあの人は、これは私も少なくともそう考えなければならないのですが、このお話し合いがなんについてなのか知っております。そして、そのため、私にはわからない理由から、たといほんとうにお目にかかることになっても、それは誰のためにもならない、と確信しておりますのよ。そしてあの人は昨日になってやっと私にそのことを話してくれましたが、ほんのちょっとだけでした。そしてそのとき言ったことは、お会いすることはたぶんKさんにもたいしたことじゃないのでしょう、なぜならKさんもほんの偶然によってそんなことをお考えになったのであり、ご自分でもきっと、特別お話しいたさなくとも、たとい今すぐではなくてもほんのすぐあとで、そんなことがみな無意味だということにお気づきになるでしょうから、ということでした。それに対して私は、それはそうだがKさんにはっきりしたご返事をしてさしあげたほうが、事を完全にはっきりさせるためには有益なことだと思う、と答えました。私はこの役目を引受けることを申出ましたが、少しためらってから、あの人は私の言うことを承知しました。おそらく私はあなたのお望みのようにも振舞ったことと思いますが。なぜなら、どんなつまらぬ事柄においてでも、少しでもはっきりしないことがあれば心を悩ますものですし、今の場合のようにたやすく片づけることができるものなら、すぐしてしまったほうがよろしいですからね」
「どうもありがとうございます」と、Kはすぐ言い、ゆっくりと立ち上がり、モンターク嬢を見つめ、それから食卓の上、次に窓の外をながめ、――向う側の家は陽《ひ》を浴びていた――そして、扉のほうに行った。モンターク嬢は、彼の真意は全部が全部はわからないというように、二、三歩彼の後《あと》を追っていった。ところが、扉の前で二人は後に退《の》かねばならなかった。扉が開き、ランツ大尉がはいってきたからである。Kはこの男を初めて間近に見たのだった。大柄な、およそ四十ばかりの男で、褐色《かっしょく》に日焼けした、肉づきのいい顔をしていた。彼はちょっと会釈をし、それはKにも向けられたのだが、次にモンターク嬢のところへ行き、うやうやしげに手に接吻《せっぷん》した。その動作はなかなか物なれていた。彼のモンターク嬢に対する慇懃《いんぎん》さは、Kの彼女に対する取扱いぶりとは目だって著しい対照をなすものだった。それでもモンターク嬢は、別にKに対して気をわるくはしていないらしかった。なぜなら、Kには彼女がそういう素振りを見せたように思えたが、自分を大尉に紹介しようとしたからである。しかしKは、紹介してもらいたくはなく、大尉にもモンターク嬢にも少しでもうちとけることはできないように思えたし、あの手へ接吻する有様を見ていると、Kには、この女がきわめて純真で無私であると見せながら、その実、自分をビュルストナー嬢から引離そうとする一味と結託しているように思われるのだった。けれどもKは、そのことを見抜いたと信じたばかりでなく、モンターク嬢がひとつの巧妙な、確かに両刃《もろは》とも言うべき手段を選んだことを、見抜いた。この女はビュルストナー嬢と自分との関係の意味をおおげさに述べたて、特に頼まれた伝言の意味をおおげさに言って、同時にそれを、万事を極端に考えるのは自分だ、というふうに持ってゆこうと試みているのだ。そうはうまくゆかぬぞ、自分は何もおおげさに考えようとなんかしていないし、ビュルストナー嬢なんかは高が知れたタイピストであり、自分には長くは抵抗できたものじゃない、ということはわかっているんだ、と考えた。その際彼は、グルゥバッハ夫人からビュルストナー嬢について聞いたことは故意に計算には入れなかった。彼はこんなことを考えながら、ほとんど挨拶もしないで部屋を立ち去った。すぐ自分の部屋へ行こうと思ったが、背後の食堂から聞えるモンターク嬢の低い笑い声は、おそらく自分は大尉とモンターク嬢との二人を驚かしてやってもいいはずだ、という考えを彼にいだかせた。あたりを見まわし、まわりの部屋部屋のどれかから邪魔がはいることが考えられるかもしれないと聞き耳をたてたが、どこも静かであり、ただ食堂の話し声が聞かれるだけで、それと、台所に通じる廊下からはグルゥバッハ夫人の声が聞えてくるだけだった。機会は絶好のように思われた。Kはビュルストナー嬢の部屋の扉へ行き、低くノックした。いっこうに物の気配がしないので、もう一度ノックしたが、依然として返事がなかった。眠っているのだろうか? あるいはほんとうに気分がわるいのだろうか? あるいはまた、こんなに低くノックするのはKにちがいないと気づいて、ただその理由から居留守をつかっているのだろうか? Kは、彼女が居留守をつかっているのだ、と考え、いっそう強くノックし、ノックに返事がないので、ついに扉を慎重に、何か正しくない、そのうえ無益なことをやっているのだ、という感情がしないでもなかったが、あけてみた。部屋の中には誰もいなかった。そのうえ、Kが知っていた部屋の面影はほとんどなかった。壁ぎわに二つのベッドが並んで置かれ、扉の近くの三脚の椅子には着物や下着類がうず高く積まれ、戸棚がひとつあけっ放しになっていた。モンターク嬢が食堂でKと話しこんでいるうちにビュルストナー嬢は出かけてしまったらしかった。それによってKはたいして驚きもせず、ビュルストナー嬢にそんなにたやすく会えるものとはもうほとんど期待してはいなかったのであり、こんなことをやってみたのも、ほとんどただモンターク嬢に対する反抗の気持からであった。しかしそれだけに、扉をふたたびしめながら、食堂のあいた扉のところでモンターク嬢と大尉とが互いに話し合っているのを見たとき、彼にはつらい思いがしたのであった。Kが扉をあけたときから、二人はおそらくそこに立っていたのであり、Kをながめているなどという様子は少しも見せないようにし、低声で話し合いながら、話のあいだにぼんやりあたりを見まわしているときのような格好で、視線でKの動作を追っているだけだった。しかし、この視線はKに重苦しくかぶさってきて、彼は急いで壁に沿って自分の部屋へ帰っていった。

第五章 笞刑吏《ちけいり》

 最近のある夕方、事務室と中央階段とを隔てる廊下をKが通ると、――その晩は彼がほとんどいちばん後《あと》から家に帰ることになり、ただ発送室にだけまだ二人の小使が電燈ひとつの照らす光の下で働いていたが――まだ一度も自分で見たことはなかったが物置部屋があるだけだとこれまで思っていた扉《とびら》の後ろで、うめき声をあげているのが聞えてきた。驚いて立ち止り、聞き違いではないか確かめるため、もう一度聞き耳をたてた。――一瞬静かになったが、次にまたうめき声が聞えた。――おそらく立会いが要《い》ることだろうから、小使の一人を呼ぼうと思ったが、抑《おさ》えがたい好奇心に駆られたため、扉をノックしたうえであけてみた。想像していたとおり、物置部屋だった。戸口の後ろには、不用な古印刷物や投げ散らされた空《から》の陶製のインク瓶《びん》が、ごろごろしていた。ところが部屋の中には三人の男が立ち、この天井の低い部屋の中で背をかがめていた。棚《たな》の上につけた蝋燭《ろうそく》が彼らに光を投げていた。
「ここで何をやっているんだ?」と、興奮のためせきこんで、しかし高声でではなく、Kはきいた。明らかにほかの二人を牛耳《ぎゅうじ》っているらしい一人の男がまず彼の眼をひいたが、一種の濃い色の革服を着て、頸《くび》から胸元深くまでと両腕全体とをむきだしにしていた。この男は黙っていた。ところが別の二人が叫んだ。
「あなたが予審判事にわれわれのことで苦情を言ったものだから、われわれは笞《むち》で打たれなけりゃあならないんです」
 そう言われてやっとKが気がつくと、それはフランツとウィレムとであり、第三の男が、彼らを打つため、手に笞を持っていた。
「ところが」と、Kは言い、男たちを見つめた。「何も苦情を言ったわけじゃありませんよ。ただ、私の住居で起ったことを言っただけだ。そして君たちのほうも、けっして非の打ちどころのないように行動したわけじゃないからね」
「でも」と、ウィレムが言ったが、一方フランツはその背後に隠れて、明らかに身を守ろうとしているのだった。「われわれのサラリーがどんなにわるいかご存じなら、われわれについてもっとよい判断を下してもらえるはずですよ。私は家族を養わなけりゃなりませんし、このフランツは結婚しようと思っているんです。よくあることですが、もっと金が楽になるようにとするんだけれど、ただ働くだけでは、どんなに一生懸命やってみても、うまくゆきはしない。そこであんたのりっぱな下着類がわれわれを誘惑したわけで、もちろん、そんなことをするのは監視人には禁じられているし、不正にはちがいないんだけれど、下着は監視人のもの、というのはしきたり[#「しきたり」に傍点]で、これまではいつもそうだったんですよ、ほんとうに。それにまた、逮捕されるくらい運のわるい人間にそんな物が何の役にたつかも、わかりきったことじゃありませんか? もちろん、そんなことをあからさまに言い出されたんじゃ、罰が来るにきまっていますよ」
「君が今言ったことは、私も知らなかったし、またけっして君たちを罰するように要求したわけじゃないんだけれど、根本的なことを問題にしたんですよ」
「おいフランツ」と、ウィレムは別な監視人のほうを向いた。「この人はおれたちの処罰なんか要求しなかった、とおれが言ったろう? 今お前も聞いたとおり、この人はおれたちが罰せられなくちゃならないってことは知らなかったって言うんだ」
「こんな話に乗せられちゃだめだ」と、第三の男がKに言った、「罰は正当でもあるし、逃げられもしないものなんだ」
「そいつの言うことを聞いちゃいけません」と、ウィレムは言い、笞でぴしゃりとやられた手を素早く口に持ってゆくときにだけ、話をとぎらしたが、「われわれが罰せられるのは、ただあんたが密告したためなんですよ。そうでなければ、われわれのやったことを聞かれたって、なんにも起りはしなかったはずです。罰が正当だなんて言えるものですかね? われわれ二人、ことに私のほうは、監視人として長いあいだりっぱにやってきたんです。――あなただって、われわれが、役所の立場から言えば、よく監視したっていうことは、白状しなけりゃあならんはずだ。――われわれは、出世する見込みがあったんだ。きっと間もなくこの人みたいに笞刑吏になれたんだ。この人ときたら誰からも密告されないっていういい身分なんですよ。なぜってこんな密告なんてほんとうにほんのまれにしか起りませんからね。ところが今では万事おしまいです。われわれの出世も止ったし、監視人の役よりはずっと下の仕事をやらなきゃならないでしょうし、そのうえ、今はこんな恐ろしく痛い笞を食う始末ですからね」
「笞はそんなに痛いんですか?」と、Kはきき、笞刑吏が彼の前で振っている笞をよく見た。
「すっかり脱がされて裸にならなくちゃなりませんからね」と、ウィレムは言った。
「そうなんですか」と、Kは言い、笞刑吏をよくながめたが、水夫のように褐色《かっしょく》に日焼けして、野生的で元気のみなぎった顔をしていた。
「二人の笞を助けてやる見込みはありませんか」と、彼は男にきいた。
「だめだね」と、笞刑吏は言い、にやにやしながら頭を振った。
「着物を脱ぐんだ!」と、男は監視人たちに命令した。そしてまた、Kに言った。
「あいつらの言うことを全部信用しちゃいけませんぜ。なにせ笞が恐《こわ》くて少し頭が変になっているんだから。たとえば、ここのこの男が」――と、彼はウィレムのことを指さした――「自分の出世のことをしゃべったが、あれなんかはまったくばかげていまさあ。どうです、やつはなんて肥っているんだろう――笞で打っても最初は脂肪《あぶら》のなかに消えてしまいそうだ――なんでこの男があんなに肥っているかわかるかね? 逮捕者の朝飯を平らげちゃう癖があるからなんだ。あんたの朝飯を平らげちゃわなかったですかい? ね、おれの言ったとおりだ。ところでこんな腹をした男は、こんりんざい笞刑吏にはなれっこない、まったくなれっこありませんや」
「こういう腹の笞刑吏だっていますよ」と、ちょうどバンドをゆるめていたウィレムが言い張った。
「こら」と、笞刑吏は言い、笞で頸の上に一撃を加えたので、身体《からだ》をぴくぴく震わせた。「人の話なんか聞いていないで、着物を脱ぐんだ」
「この人たちを逃がしてくれたら、お礼はたっぷりしますよ」と、Kは言い、もう笞刑吏の顔は見ないで――こういう取引はお互いに眼を伏せたまますませるのがいちばんいいのだ――紙入れを取出した。
「きっとお次は、おれのことも密告し」と、笞刑吏は言った。「そしておれにも笞を食わせようっていうんだろう。だめだ、だめだよ!」
「よく考えてごらんなさい」と、Kは言った。「この二人が罰せられることを望んだのなら、いまさら金を出して助けてやるはずがないじゃないですか。ただこの戸をしめて、これ以上見たり聞いたりしたくないっていうんで家に帰れば、それでもすむんですよ。ところがそうはしない。むしろ、この人たちを逃がしてやりたいって真剣に考えているんです。二人が罰せられなきゃあならない、いやただ罰せられるかもしれない、とわかったなら、この二人の名前は言わなかったでしょう。私はこの二人に罪があるとは全然思いませんね。罪があるのは組織なんだ、上の役人たちなんだ」
「そのとおりですよ!」と、監視人たちは叫んだが、すぐ一撃をすでに着物を脱いだ背中に食った。
「もしここで君の笞の下に高位の裁判官がいるのなら」と、Kは言って、そう言いながらすでに振上げられていた笞を押えて下げさせた、「君がなぐることをほんとうに邪魔はしませんよ。反対に、君がそういういいことをやってくれるのを元気づけるために、金をやってもいいくらいだ」
「あんたが言うことは、もっともらしく聞えるが」と、笞刑吏は言った。「おれは賄賂《わいろ》なんかでだまされないぜ。おれの役目は笞でなぐることだから、なぐるまでだ」
 監視人のフランツは、おそらくKが割りこんできてよい結果になるものと期待しながらこれまでかなり控え目な態度でいたが、このとき、まだズボンだけははいたままで扉のところへ現われ、ひざまずいてKの腕に取りすがり、ささやいた。
「われわれ二人を助けていただけないなら、少なくとも私だけでも逃がす算段をやってみてください。ウィレムは私より年上で、あらゆる点で感じが鈍いですし、二年ばかり前に一度軽い笞刑を受けたことがあるんですが、私はまだそんな恥を受けたことはないし、ただウィレムに教えられたとおりにやっているだけなんです。あいつがよいにつけわるいにつけ、私の先生株でしてね。階下《した》の、銀行の前では、私の許婚《いいなずけ》が事の成行きを待っているんです。まったく恥ずかしくてたまらないくらいです」
 彼はKの上着で、涙でびしょぬれの顔をふいた。
「もう待ってはやらないぞ」と、笞刑吏は言い、両手で笞をつかみ、フランツに打下ろしたが、一方ウィレムは、隅にうずくまって、頭を動かそうともしないで、こっそり様子をうかがっていた。そのとき悲鳴があがったが、それはフランツのもらしたもので、とぎれず、変化のない叫びであり、まるで人間からではなく、拷問される機械からほとばしったように思われるものだった。廊下じゅうがその叫びで鳴りわたり、家全体がそれを聞いたにちがいなかった。
「わめいちゃいけない」と、Kは叫んだが、自分を抑えることができなかったのだった。そして、小使がやってくるにちがいない方角を緊張して見つめながら、フランツを突くと、それはたいして強かったわけではないが、それだけでもこの思慮を失った男は倒れ、痙攣《けいれん》しながら両手で床をかきむしるのだった。それでも殴打をのがれることはできず、笞は床の上にまで彼をつけまわし、彼が笞の下でころがっているあいだ、笞の先端は規則正しく上へ下へと飛んだ。そうしているうちにも遠くに小使が一人現われ、その二、三歩|後《あと》にはもう一人が現われた。Kは急いで扉をしめ、中庭に面した窓のひとつに歩み寄って、それをあけた。叫び声はすっかりやんだ。小使を近づけないために、彼は叫んだ。
「私だよ!」
「今晩は、主任さん」と、返事が叫んだ。「どうかしたんですか?」
「いや、なに」と、Kは答えた。「中庭で犬がほえているだけなんだ」
 それでも小使が動こうとはしないので、彼は言葉を足した。
「君たちは仕事をしていていいんだよ」
 小使たちと話をしなければならなくなる羽目にならぬように、窓から身体を乗り出した。しばらくしてまた廊下を見ると、小使たちはもう立ち去っていた。しかしKは窓ぎわにとどまっていて、物置部屋にはいろうともせず、家にもどりたくもなかった。見下ろすと、小さな四角の中庭で、そのまわりはぐるりと事務室が取囲み、窓はもうみな暗くなっていたが、最上階の窓だけが月光の反射を受けていた。Kは視線をこらして、二、三台の手押車をごちゃごちゃ集めてある木材置場の片隅の暗闇《くらやみ》のあたりを透かして見ようとした。笞刑を阻止することに成功しなかったことが彼の心を苦しめるのだったが、それがうまくゆかなかったのは彼の責任ではなく、もしフランツがわめかなかったら――確かにそれはひどく痛かったにはちがいないが、決定的なせつなには自分を抑えなくてはならぬものだ――もし彼がわめかなかったら、Kはまだ笞刑吏を説き伏せる手段を見つけだしたことだろうし、少なくともそれはきわめてありうべきことだった。最下級の役人どもがみな無頼漢なら、最も非人間的な役目を受持っている笞刑吏などはどうして例外であるはずがあろう。それにKは、あの男が紙幣を見て眼を輝かすさまをよく観察したし、男は明らかにただ賄賂《わいろ》の金額をせり[#「せり」に傍点]上げるために、大まじめで笞を振るう気配を見せたのだった。そしてKは金を惜しまなかったろう。監視人を逃がしてやることがほんとうに彼の関心事だった。この裁判組織の腐敗と戦うことを始めた以上、この方面からも手をつけるということは、当然なことだった。ところがフランツがわめき始めた瞬間に、もちろん万事はおしまいになってしまった。小使たちや、おそらくはここにいるあらゆる人々がやってきて、彼が物置部屋で連中と掛け合っている場面を襲われることは、Kにも我慢ができかねた。こんな犠牲はほんとうになにびとも自分に要求することはできないのだ。もし彼がやる気があるのだったら、自分自身で着物を脱ぎ、笞刑吏に自分が監視人の身代りになると申出たほうが、実際事はほとんどいっそう簡単であった。ところで笞刑吏はこの身代りをきっと受入れはしなかっただろう。なぜなら、そんなことをすれば、少しも利益にはならぬばかりか、彼の義務をひどくそこなうことになり、Kが訴訟手続中であるかぎり、裁判所のあらゆるメンバーに対してKに手をかけることが禁じられているにちがいないから、おそらくは二重に義務をそこなうことになったろう。もちろん、この場合には特別な規定が通用したかもしれない。いずれにもせよ、Kは扉をしめる以外にできることもなく、だからといってそれでKにとってあらゆる危険がまったく除かれるというわけのものでなかった。最後にフランツを突いたことは残念だが、興奮していたということだけで申し訳がたつというものだ。
 遠くで小使たちの足音が聞えた。彼らに目だたぬように、窓をしめ、中央階段のほうに行った。物置部屋の扉のところでしばらく立ち止り、聞き耳をたてた。まったく静まりかえっていた。あの男が監視人たちをなぐり殺してしまったのかもしれない。実際、彼らはまったく男の手中に納まったのだった。Kは把手《とって》に手を伸ばしかけたが、また引っこめた。もう誰も助けることはできないし、小使たちがすぐやってくるにちがいなかった。しかし、この事件をなお持ち出し、ほんとうの罪人、つまり自分の前に誰も姿を見せようとはしない高位の役人たちを、自分の力のかぎり、それ相応に罰してやろう、と心に誓った。銀行の表階段を降りながら、念入りに通行人たちを見たが、誰かを待っているような娘などはかなり広い範囲にわたって見受けられなかった。許婚《いいなずけ》が待っていると言ったフランツの言葉は、大いに同情をひこうという目的のためだけであるような、もちろん許してやるべき偽りであったことがわかった。
 次の日もまだ、監視人のことがKの念頭を離れなかった。仕事をしていても気が散って、無理にやってしまおうと思ったので、前日よりもなお少し長く事務室に居残らなければならなかった。帰りがけにまた物置部屋の前を通りかかり、習慣になっているかのように扉をあけてみた。真っ暗なはずと思っていたのに現実に見たものは、とうてい理解できなかった。万事が、昨晩扉をあけたとき見たままで、少しも変っていなかった。すぐ敷居の後ろまで来ている印刷物とインク瓶、笞を手にした笞刑吏、相変らずすっかり裸の監視人たち、棚の上の蝋燭、そして監視人たちは訴え、叫びはじめるのだった。
「ああ、あんた!」
 すぐKは扉をしめ、しっかとしめでもするかのように、拳《こぶし》で扉をたたいた。ほとんど泣きださんばかりに小使たちのところへ走ってゆくと、彼らはのんびりと謄写版の仕事をしていたが、驚いて仕事の手を休めた。
「物置部屋を片づけちまってくれないか!」と、彼は叫んだ。「まったく塵《ちり》の中に埋まっちまうよ!」
 小使たちは、明日掃除をするつもりでいた、と言ったので、Kはうなずき、もう夜も遅くなった今、自分が考えたとおり仕事を無理にさせるわけにもゆかなかった。小使をしばらく身近におこうと思って、しばらく腰をおろし、二、三枚の謄写をひっかきまわし、それで自分が謄写を調べているように見せかけることができたと思い、自分といっしょに小使たちが帰ろうとはしていないのを見てとったので、疲れきって、ぼんやりと、家へ帰っていった。

第六章 叔父《おじ》・レーニ

 ある日の午後――ちょうど郵便締切日の前なのでKは非常に忙しかったが、書類を持ってはいってくる二人の小使のあいだを押し分けて、田舎《いなか》の小地主であるKの叔父のカールが部屋にはいってきた。彼が叔父の姿を見かけてもたいして驚かなかったのは、それよりかなり前に、叔父がやってくるという知らせを受けてすっかり驚いていたからだった。叔父がやってくるということは、すでに約一カ月も前からKにはわかっていたことだった。すでにそのとき、叔父が少し前かがみになり、左手にぺしゃんこになったパナマ帽を持ち、右手を遠くのほうから自分に差出し、邪魔になるあらゆるものにぶつかりながら、あたりかまわぬ急ぎかたで机越しに手を握る有様が、Kには眼に見えるようだった。叔父は絶えずせかせかしていたが、いつもただ一日しか滞京しないのに、そのあいだに計画してきたことをみんな片づけなければならない、そのうえ、たまたま生じた面会や用談や楽しみなども何ひとつ逃すまい、という面倒な気持に追い立てられているからだった。そういう場合にKは、昔自分の後見人になってもらったこともあり恩があるので、あらゆる事柄で世話もせねばならず、そのうえ、自分のところに泊めなくてはならなかった。「田舎から来る幽霊」と、Kは日ごろ叔父のことを呼んでいた。
 挨拶《あいさつ》をすませるとすぐ、――肘掛椅子《ひじかけいす》にすわるようKはすすめたが、叔父はその余裕すらなかった――二人だけで少し話したいことがある、とKに頼んだ。
「どうしても人払いが必要なんだ」と、叔父は苦しげに唾《つば》をのみこみながら言った。「わしの安心のためには必要なんだ」
 Kはすぐさま、誰も部屋に入れてはいけないと命じて、小使たちを部屋から出した。
「いったいなんということをやったのだ、ヨーゼフ?」と、二人きりになったとき叔父は叫び、机の上にすわり、すわり心地をよくするためさまざまな書類を見境もなく尻《しり》の下に詰めこんだ。Kは黙っていた。なんの話かわかってはいたが、夢中になっていた仕事の緊張を突然解かれたので、まず心地よい疲労に身をまかせ、窓越しに向う側の通りをながめていた。彼の席からは、ただ小さな三角形の部分、二つの陳列窓のあいだの何もない壁の部分が見えるだけだった。
「窓の外なんか見ている!」と、叔父は腕をあげて叫んだ。「後生だから答えてくれ、ヨーゼフ! ほんとうなのか、いったいあんなことがほんとうにありうることかね?」
「叔父さん」と、Kは言って、ぼんやりしていた気持を振切った、「なんのことやらさっぱりわかりませんが」
「ヨーゼフ」と、叔父はたしなめるように言った。「わしの知るかぎり、お前はいつもほんとうのことを言ってきた。ところがお前の今の言葉を聞くと、どうもそれをわるいしるしととらなきゃならんようだね?」
「ああ、叔父さんの用件がわかりましたよ」と、Kは素直に言った、「きっと私の訴訟のことをお聞きになったんですね」
「そうだよ」と、ゆっくりうなずきながら、叔父は答えた。「お前の訴訟のことを聞いたんだ」
「いったい誰からですか?」と、Kはきいた。
「エルナが手紙で言ってよこしたんだ」と、叔父は言った。「あれはお前とは全然交渉がないし、残念ながらお前はたいしてあれのことを気にかけていない。それでもあれはそのことを聞いたんだぞ。今日あれの手紙をもらって、もちろんすぐここへやってきたんだ。別にほかの理由はなかったが、これだけでも十分理由になるように思われるな。お前に関する手紙の個所を読んでやるぞ」
 彼は紙入れから手紙を取出した。
「ここにある。こう書いてあるぞ。『ヨーゼフにはもうずっと会っておりません。先週一度銀行へまいりましたが、ヨーゼフはたいへん忙しく面会してもらえませんでした。ほとんど一時間ほども待ちましたが、ピアノのお稽古《けいこ》がありますので、家へ帰りました。あの人とお話ししたく思っておりますが、近く機会があることと思います。私の名付日にはあの人から大箱のチョコレートを贈ってもらいました。とてもかわいらしく、人目につきました。そのときお知らせすることを忘れておりましたが、お尋ねがあったので今やっと、思い出しました。チョコレートは、寄宿舎ではすぐなくなってしまいますのよ。チョコレートを贈ってもらったんだということを思い出すか出さないうちに、もうどこかへ行っていますわ。でもヨーゼフのことでは、もう少しお知らせしておきます。今書きましたとおり、銀行では、ちょうどどなたかとお話ししているというので、面会できませんでした。しばらくじっと待ってから、お話はまだ続きましょうか、と小使さんにきいてみましたの。そうしたら、きっとそうなるだろう、主任さんに対して起されている訴訟のことらしいから、という話でした。どんな訴訟なんですか、お間違いではないんですか、って私はききました。すると、いや間違いじゃない、訴訟だし、しかも重要な訴訟だ、けれどこれ以上のことは自分にはわからない、ということでした。自分も主任さんをよろこんでお助けしたい、あの人はいい、正しい人だから、でもどうやって始めたらいいのかわからない、ただ有力な人たちがあの人のことを取上げてくれるのを祈っているだけだ。きっとそうなるだろうし、結局はうまい決着がつくだろうけれど、主任さんの機嫌《きげん》から察するのに、さしあたりはどうもあまりうまくはいっていないらしい、ということでした。この話はもちろんたいして重要なものではないと思いましたし、単純そうな小使さんを慰めようと思って、ほかの人々に向ってそのことをしゃべらぬように言いましたが、みんなおしゃべりにすぎないと考えております。でも、お父様、今度こちらにおいでの節に、よくお調べになるなら、きっとためになることでしょうし、詳しいことをきき、またほんとうに必要ならば、お父様の大勢の有力なお知合いの方々の手を借りて事件に口をきくことは、お父様にはやさしいことでしょう。でも、そういうことが必要でないとしても、――そして必要でない場合がほんとうにいちばんありそうなことだと思われるのですけれど――少なくともあなたの娘にお父様を抱く機会を与えてくださるでしょうし、そうしたらうれしいと思います』――いい子だ」と、叔父は朗読をやめると、言って、二、三滴の涙を眼からぬぐうのだった。
 Kはうなずいたが、最近のさまざまなごたごたのためすっかりエルナのことを忘れ、彼女の誕生日のことも忘れていたので、チョコレートの話は明らかにただ、自分のことを叔父と叔母とに対してよく思わせてくれようとする心づかいから考えだしたものだった。それは非常にいじらしく、これからはきちんきちんと送ってやろうと思った芝居の切符ではきっと十分に償いきれないものだったけれども、寄宿舎を訪《たず》ね、ちっぽけな十八歳の女学生と話をするなどという気には今はなれなかった。
「で、どうだね?」と、叔父はきいたが、手紙ですっかり、急いでいたこと、興奮していたこと、を忘れてしまい、もう一度手紙を読んでいるらしかった。
「ええ、叔父さん」と、Kは言った。「ほんとうにそうなんです」
「ほんとうだって?」と、叔父は叫んだ。「ほんとうってどういうことなんだ? そんなことがほんとうだなんて、ありうることかい? どんな訴訟なんだ? でも刑事訴訟じゃあるまいな?」
「刑事訴訟なんです」と、Kは答えた。
「で、お前はここに落着きはらってすわっていながら、刑事訴訟を背負いこんでいるのか?」と、叔父は叫んだが、声がいよいよ大きくなっていった。
「落着いていればいるほど、結果はいいんです」と、Kは疲れたように言った。「心配しないでください」
「そんなことじゃ、わしのほうは安心できん!」と、叔父は叫んだ。「ヨーゼフ、なあヨーゼフ、自分のこと、親戚《しんせき》のこと、わしたちの家名のことを考えてごらん! お前はこれまで一門の名誉だったし、これからも一門の恥となってはいけないぞ。お前の態度は」と、彼は頭を斜めにかしげてKをじっと見つめた。「わしの気に入らん。まだ元気いっぱいでいる潔白な被告の態度じゃないぞ。さあ早く言いなさい、何に関したことなんだ、わしはお前を助けてやるから。もちろん、銀行に関したことなんだろう?」
「ちがいますよ」と、Kは言い、立ち上がった。「叔父さんの声は大きすぎますよ。きっと小使が扉のところに立って、聞いています。それは不愉快ですからね。むしろ外に行きませんか。外に出たら、何なりと叔父さんの質問にお答えしますよ。身内の人たちにも弁明しなけりゃならないとは、重々わかっていますからね」
「そうだ!」と、叔父は叫んだ。「まったく言うとおりだ、さあ急ぐんだ、ヨーゼフ、急ぐんだ!」
「まだ少し言いつけておかねばならないことがありますから」と、Kは言い、電話で代理を呼んだが、代理はすぐやってきた。興奮している叔父は、わざわざやらなくたってきまりきったことなのに、あなたを呼んだのはこの男だ、と代理に手でKのことをさしたりするのだった。Kは机の前に立ち、低い声でいろいろな書類を取上げながら、自分がいないあいだ今日のうちに片づけねばならないことをその若い男に説明したが、相手は冷やかな、しかし注意深い態度で聞いていた。叔父は、もちろん話を聞いているわけではないが、まず眼を丸くし、神経質そうに唇《くちびる》を噛《か》みながらそばに立って邪魔になっていたが、この様子だけでもすでに十分邪魔になるのだった。しかし次に、部屋のなかをあちこちと歩きまわり、窓の前とか絵の前とかに立ち止っては、しょっちゅう、「わしにはまったくわからん」とか、「いったいこれからどういうことになるのか言ってみなさい」とかいうように、いろいろ叫び声をあげるのだった。若い男はそれが全然気にならぬようで、Kの頼むことを終りまで落着いて聞き、いくらかメモをとって、Kと叔父とに一礼してから、出ていったが、叔父はちょうど男に背を向け、窓から外をながめ、両手を伸ばしてカーテンを皺《しわ》くちゃにしていた。扉がしまるかしまらぬうちに、叔父は叫んだ。
「とうとう操《あやつ》り人形が出ていった。今度はわしらが出てゆく番だ。さあ、これで出てゆける!」
 ホールには二、三人の行員や小使があちこちに立っており、またちょうど支店長代理が横切ってゆくところだったが、都合がわるいことに、訴訟についての質問をやめさせる手段がなかった。
「で、ヨーゼフ」と、叔父はそのあたりに立っている人々の挨拶に軽い会釈で答えながら、言い始めた。「もうはっきりと言ってくれ、どんな訴訟なんだ」
 Kは何か口ごもりながら、少し笑いもし、階段のところへ来てからやっと、人がいるところではおおっぴらに話したくないのです、と叔父に説明した。
「ほんとうにそうだ」と、叔父は言った。「だがもう話してもいいだろう」
 頭をかしげて、葉巻を短く、せわしげにぷかぷかふかしながら、叔父は一心に聞いていた。
「叔父さん、まずお断わりしておきますが」と、Kは言った。「普通裁判所の訴訟じゃないんです」
「それはいかん」と、叔父は言った。
「どうしてですか」と、Kは言い、叔父をじっと見つめた。
「それはいかん、って言うのだ」と、叔父は繰返した。
 二人は通りに通じる表階段の上にいた。門衛が聞き耳をたてているようなので、Kは叔父を引っ張りおろした。街路のにぎやかな往来が二人を迎えた。Kの腕にすがった叔父は、もうあまりせきこんで訴訟のことをきかなくなり、しばらくは黙りさえして歩みを進めた。
「だがどういうことが起ったのだ?」と、ついに叔父がきいたが、突然立ち止ってしまったので、その後ろを歩いていた人々は驚いて避けた。
「こんなことは突然起るものじゃなし、ずっと前からじっくり起ってくるのだから、その徴候もあったにちがいないのに、なぜ手紙でそれを言ってよこさなかったんだ? お前も知っているとおり、わしはお前のためになんでもやってきているし、今でもいわば後見人と言えるくらいで、わしは今日までそれを誇りにしてきた。もちろん今でもお前を助けてやるつもりだが、訴訟がもう始まっているとすると、どうもむずかしいぞ。ともかく、ここで少し休暇を取り、田舎のわしらのところへ来るのがいちばんいいだろう。それにお前は少し痩《や》せたぞ、どうもそう見える。田舎でお前は元気になるだろうし、そうなればよいことだ。なにしろこれから先も、きっといろいろと骨が折れようからな。それに、田舎へ行けば裁判所からもある程度逃げられる。ここではいろいろな権力手段があって、それをかならず自動的にお前にも適用するだろう。ところが田舎では、まずいろいろな機関を派遣するとか、ただ手紙や電報や電話でお前に働きかけようとするくらいのものだ。それならもちろん、効果が減るし、お前を解放はしないにしても、息がつけるだろう」
「ここを離れることは禁じるかもしれませんよ」と、叔父の話に少し釣りこまれたKは言った。
「そんなことをするとは、わしは思わん」と、叔父は考えこんだように言った。「お前が旅行に出たために役所の権力が減る面は、そんなに大きくはあるまい」
「叔父さんは」と、Kは言い、叔父を立ち止らせておかないように腕を取った、「私ほどこの事件に重きをおかないものと思っていましたが、ご自身でどうもむずかしく考えておられるようですね」
「ヨーゼフ」と、叔父は大声をあげ、立ち止ることができるようにKから逃れようとしたが、Kがそうはさせなかった。「お前は変ったな。お前はいつも非常に考える力がしっかりしていたのに、今はどうもどこかへ置き忘れたようだぞ? 訴訟に敗《ま》けてもいいのか? そうなったらどうなるのか、知っているか? そうなったら、お前は簡単に抹殺《まっさつ》されちゃうんだぞ。親戚全体が巻きこまれるか、少なくとも徹底的に辱《はずか》しめられるんだぞ。ヨーゼフ、しっかりしておくれ。お前のどうでもいいというような態度は、わしから正気を奪ってしまうほどだ。お前の様子を見ていると、『こんな訴訟があるからは、もう敗けたも同然だ』っていう諺《ことわざ》をほとんど信じたくなるくらいだ」
「叔父さん」と、Kは言った。「興奮は無用です。興奮しているのは叔父さんのほうだし、また私のほうもそうかもしれません。興奮したんでは訴訟に勝てませんからね。叔父さんのご経験は少々私を驚かせますが、いつも、そして今でも大いに尊敬しているんですから、私の実地の経験も少しは認めてください。身内の者まで訴訟によってわずらわされるって叔父さんがおっしゃられるんですから、――このことは私としてはまったく理解できませんが、まあそれは別なことだからやめましょう――よろこんでなんでもおっしゃることに従うつもりです。ただ田舎に滞在するということだけは、叔父さんのお考えの意味ででも利益になるとは思われませんね。そんなことをすりゃあ、逃げたことになるし、罪を自覚していることになりますからね。それに、ここにいるといよいよ追いまわされはするものの、また自分でもっと事を動かすこともできるんです」
「もっともだよ」と、叔父は、今はやっと互いに歩み寄りができた、というような調子で言った。「わしがそういうことを言いだしたのはただ、お前がここにいると、事がお前の無関心な態度で危なくなるように思えたし、わしがお前のかわりに事をやればいっそうよいと考えたからだ。だがもしお前が全力をあげて自分でやろうというのなら、もちろんはるかによいことだ」
「それじゃこの点で私たちは一致したわけです」と、Kは言った。「そこで、私がまずやらなきゃあならないことについて、何かお考えがありますか?」
「もちろん事柄をもっと考えてみなくちゃならん」と、叔父は言った。「お前もわかってくれるだろうが、わしはもうこれで二十年もほとんど田舎に居きりなので、こういう方面の勘が鈍ってしまったよ。こっちにいておそらく事情に明るい人たちとの、さまざまな肝心なつながりも、自然とゆるんでしまった。お前もよく知っているとおり、わしは田舎で少し見捨てられていたんだ。ほんとうにこんな事件にぶつかってみて初めて、自分でもそれがわかる。奇妙なことにエルナの手紙を読んだだけでそういうことがいくらかわかったし、今日もお前の顔を見ただけで、ほとんどはっきりわかったんだが、お前のこの事件は少々意外だったな。だがそんなことはどうでもよろしい、今いちばん大切なのは、時を失わないということだ」
 こう話しているうちにもう、爪立《つまだ》ちながら一台の自動車に合図して、運転手に行先をどなってやりながら、Kを後ろ手で自動車に引っ張りこんだ。
「これからフルト弁護士のところへ行こう」と、彼は言った。「あの男はわしの同窓生だった。お前も名前は知っているだろう? 知らないか? だが変だね。貧乏人の保護者で弁護士として、たいへん名声の高い人だ。だがわしは、人間としてのあの男に大いに信頼をおいている」
「叔父さんのやられることは、なんでも私には結構ですよ」と、叔父が用件を取扱ういかにもせっかちな、押しつけがましいやりかたに不快を覚えさせられたが、Kは言った。被告として貧民相手の弁護士のところへ行くことは、あまり愉快なことではなかった。
「こんな事件にも弁護士を頼めるものとは知りませんでした」と、彼は言った。
「もちろんだよ」と、叔父は言った。「わかりきったことじゃないか。どうして頼めないなんていうことがある? ところで、事件を詳しく知っておくため、わしにこれまで起ったことを話してくれないか」
 Kはすぐ話し始めたが、何も隠しだてはしなかった。完全にぶちまけるということが、訴訟は大きな恥辱だ、という叔父の意見に対してあえてやれる唯一の抗議だった。ビュルストナー嬢の名前はただ一度だけ、ほんのついでに口に出しただけだったが、それは何も公明正大になんでも言うという態度を傷つけるものではなかった。ビュルストナー嬢は訴訟とは何も関係がなかったからである。話しながら窓越しにながめ、自分たちがちょうど裁判所事務局のあった例の郊外に近づいているのを見てとり、叔父にそのことを注意したが、叔父はその偶然の一致をさして驚くべきこととは思わなかった。車は一軒の暗い家の前に止った。叔父は、すぐ一階のとっつきの部屋の扉のベルを鳴らした。待ちながら、にやにやして大きな歯をむきだし、ささやいた。
「八時だ。訴訟のことで行くのには尋常じゃない時間だな。しかしフルトはわしのことをわるくは思うまい」
 扉ののぞき窓に、二つの大きな黒い眼が現われ、しばらく二人の客をじっと見つめて、消えた。ところが扉はあかなかった。叔父とKとは互いに、二つの眼を見たという事実を確かめ合った。
「新しい女中で、見知らぬ人間を恐がっているんだろう」と、叔父は言い、もう一度ノックした。また眼が現われ、今度はほとんど悲しげに見えるのだったが、おそらくはただ、二人の頭のすぐ上で強くじいじい音をたてて燃えてはいるがほとんど光を出してはいない裸ガス燈の生みだした錯覚だったかもしれなかった。
「あけてくれ」と、叔父は叫んで、拳《こぶし》で扉をたたいた。「弁護士さんの友達なんだ!」
「弁護士さんは病気ですよ」と、彼らの後ろでささやく声がした。小さな廊下の向うの隅《すみ》の扉に寝巻姿の紳士が立ち、きわめて低い声でこう知らせたのだった。すでに長く待たされて腹のたっていた叔父は、ぐいと振向いて、叫んだ。
「病気? あの男が病気だっておっしゃるんですね?」そして、その紳士が病気そのものででもあるかのように、ほとんど挑《いど》みかかるような様子で男のほうに近づいていった。
「扉をもうあけましたよ」と、その紳士は言い、弁護士の扉を指さし、寝巻をかき合せて、消えた。扉はほんとうに開かれており、一人の若い娘が――黒い、少し飛び出た、あの眼をKはふたたび認めた――長い白エプロン姿で控えの間に立ち、蝋燭《ろうそく》を一本手にしていた。
「この次はもっと早くあけてください!」と、叔父は挨拶《あいさつ》するかわりに言ったが、娘のほうは少し膝《ひざ》をかがめて挨拶をした。
「おいで、ヨーゼフ」と、ゆっくりと娘のそばを通り過ぎるKに叔父は言った。
「弁護士さんはご病気です」と、叔父は止っていないでどんどん扉のほうに行くので、娘は言った。
 Kはまだぽかんと娘をながめていたが、娘のほうはすでに向き直って、入口の扉をまたしめにいった。人形のような格好の丸い顔で、蒼《あお》ざめた頬《ほお》と顎《あご》とが丸みを帯びているばかりでなく、こめかみも額ぎわも丸みを帯びていた。
「ヨーゼフ!」と、叔父はまた叫び、娘にきいた。
「心臓病かね?」
「きっとそうだと思います」と、娘は言い、蝋燭を携えて先に立ち、部屋の扉をあける暇をとらえた。蝋燭の光がまだ届かない部屋の隅のベッドで、長い髯《ひげ》の顔が身を起した。
「レーニ、誰が来たんだ?」と、蝋燭に眼がくらんで客の見分けがつかない弁護士がきいた。
「アルバート、君の旧友だよ」と、叔父は言った。
「ああ、アルバートか」と、弁護士は言い、この訪問客には何も取繕うことは要《い》らないというように、布団の上にぐったりと倒れた。
「ほんとうにそんなにわるいのかい?」と、叔父は言い、ベッドの縁に腰をおろした。「わしはそうは思わんぞ。いつもの心臓病の発作だよ。いつもと同じようにすぐ直るよ」
「そうかもしれないが」と、弁護士は低い声で言った。「でも今度はこれまでよりもわるいんだ。呼吸が苦しく、全然眠れないし、日ましに弱ってゆくんだ」
「そうか」と、叔父は言い、大きな手でパナマ帽をしっかと膝に押しつけた。
「そいつはわるい知らせだな。ところでちゃんと養生しているのか? それにここはどうも陰気で、暗いな。この前ここに来てからもうだいぶになるが、あのときはもっと親しみがあるように思えたぞ。ここにいるお前の小娘もあまり陽気じゃなさそうだし、どうもとりすましているな」
 娘はまだ蝋燭を手にして、扉の近くに立っていた。どうもはっきりしない彼女の眼差《まなざし》から推しはかるのに、叔父が今自分のことを話しているのだからそのほうを見たらよさそうなものなのに、叔父よりもむしろKを見ていた。Kは、娘の近くまでずらしていった椅子にもたれていた。
「おれのように病気だと」と、弁護士は言った。「安静にしなければならん。おれには別に陰気じゃないよ」そして少し間を置いてから、言葉を足した。「それにレーニはよくおれを看病してくれるよ。いい娘だ」
 しかし、その言葉に叔父は承服できず、明らかに看護婦に偏見をいだいているらしく、病人には何も言わなかったが、看護婦がベッドのところへ行き、蝋燭を夜間用の小さな机の上に置き、病人の上に身をかがめて、布団を整えながら病人と小声で話すのを、きびしい眼つきで追っていた。ほとんど病人への心づかいなどは忘れてしまい、立ち上がって看護婦の後《あと》にあちこちとついてまわり、たとい叔父が娘の首筋をとらえてベッドから引離したとしても、Kには不思議ではないように思われるのだった。K自身は万事を冷静にながめていたし、弁護士の病気はまったくあつらえむきでないわけでもなかった。叔父が自分の事件のためにやってくれている熱心さには逆らうこともできなかったので、別段自分が手を加えもしないでその熱心さがこういうふうにそらされることを、Kはよろこんで迎えたのだった。そのとき叔父が言ったが、おそらくただ看護婦を傷つけてやろうというつもりだけの言葉だった。
「看護婦さん、しばらく二人だけにしてくれないかね。友達と個人的な用件で話さねばならぬことがあるんだ」
 まだ病人の上にずっと身体《からだ》をかがめて、ちょうど壁ぎわの掛布団を伸ばしていた看護婦は、頭だけを向けて非常に落着いて言ったが、それは、怒りのためにつまってしまうかと思うとまた流れ出る叔父の話と、著しい対照をなしていた。
「ごらんのとおりたいへん病気が重いのですから、どんな用件もお話しはできません」
 看護婦は叔父の言葉をおそらくはただ億劫《おっくう》がって繰返したにすぎなかったのであろうが、ともかくそれは第三者から見てさえ嘲笑《ちょうしょう》しているもののようにとられ、叔父はもちろん、ちくりとやられた者のように飛び上がった。
「こん畜生」と、興奮のため喉《のど》を鳴らしはじめながら、まだ明瞭《めいりょう》に聞き取れはしない調子で言ったが、どうせそんなことになるだろうと予期していたKも仰天し、両手で口を押えてやろうというはっきりとした意図をもって叔父のところへ走り寄っていった。しかし好都合なことに、娘の後ろで病人が身体をもたげ、叔父は、何かいやなものをのみこんだような苦い顔をしたが、次に少し落着いて言った。
「もちろん、お互いに理性を失ってしまったわけじゃない。わしの要求することができない相談なら、わしも無理には要求すまい。だがもう出ていってくれないか!」
 看護婦はベッドのそばにしっかと立ち、完全に叔父のほうを向き、Kにはそれが見られたように思えたのだが、片手で弁護士の手をさすっていた。
「レーニの前ならなんでも言えるよ」と、疑いもなく切に願うような調子で、病人は言った。
「わしのことじゃないんだ」と、叔父は言った。「わしの秘密じゃないんだ」
 そして彼は向き直ってしまい、もう言い合いをやっているつもりはないが、まあちょっと考える余裕を与えてやろう、という様子だった。
「いったい誰のことなんだ?」と、消え入るような声で弁護士はきき、また身体を横にした。
「わしの甥《おい》なんだよ」と、叔父は言った。「いっしょに連れてきたよ」そして、紹介した。「業務主任ヨーゼフ・K」
「おお」と、病人はずっと元気になって言い、Kに手を差伸べた。「ごめんなさい、あなたには全然気がつきませんでした。レーニ、あっちへ行きなさい」と、看護婦に言ったが、娘のほうも全然逆らわず、病人はまるで長い別れででもあるかのように彼女に手を差伸べた。
「それじゃ君は」と、病人はついに叔父に言ったが、叔父も気持が解け、彼のほうに近寄った。
「見舞いに来てくれたんじゃなくて、用事で来たんだね」
 病気見舞いという考えがこれまで弁護士をうんざりさせていたかのようで、そこで今は元気づいたように見え、かなり骨の折れることであるのにちがいないのに、絶えず一方の肘で身体をささえたままの姿勢をとり、髯の真ん中あたりの一束をしょっちゅう引っ張っていた。
「あの阿魔《あま》が出ていってから」と、叔父は言った。「君はすっかり元気になったようだぞ」
 ここで言葉を切り、ささやいた。
「請け合うが、あの女め立ち聞きしている!」
 そして扉に飛びついて行った。しかし、扉の背後には誰もいなかったので、叔父はもどってきたが、彼女が立ち聞きしていないことは叔父にはいっそう陰険なことに思われたので、少しも失望してはいなかったけれども、確かに気をわるくしてはいた。
「君はあれを誤解しているよ」と、弁護士は言ったが、それ以上看護婦のことをかばおうとはしなかった。おそらくそれで、あの娘はかばう必要がないのだ、ということを言い表わそうとしたのであろう。しかし、ずっと熱心な調子で彼は言葉を続けた。
「君の甥御さんのことだが、もしこのきわめてむずかしい問題にぶつかれる元気がわしにあるなら、もちろんわしもたいへん幸《しあわ》せだと思っている。ただそれだけの元気があるかどうか大いに心配なんだが、ともかくなんであろうとやってみないで投げたくはないからね。もしわしで十分ではないなら、誰かほかの人を頼むこともできる。正直に言って、この事件にはたいへん興味があるんで、思いきってそれを手がけることをあきらめる気にはとうていなれない。もしわしの心臓がそれに耐えられないというのなら、少なくともここで、弁護士商売なんか完全に思いきる絶好の機会が見つかるというものだ」
 Kは、この話がさっぱりわからぬように思えて、説明を求めようとして叔父の顔を見つめたが、叔父のほうは蝋燭を手にして夜間用の机のそばにすわり、早速机から薬瓶《くすりびん》を絨毯《じゅうたん》の上にころがし落してみせ、弁護士の言うことのなんにでもうなずき、なんにでも同意しては、ときどきKにも同じような同意を促して彼の顔をうかがうのだった。おそらく叔父はすでに前もって弁護士に訴訟のことを言っておいたのだろうか? しかし、そんなことはありうるはずがなく、これまでここで起ったことはすべて、そんなことがないということを物語っているのだった。それゆえ、彼は言った。
「私にはおっしゃることがわかりませんが――」
「ほう、あなたのことを誤解しているとでも言われるんですかな?」と、弁護士のほうもKと同じように驚き、かつ当惑してたずねた。
「おそらく先走りしすぎたんでしょう。いったいなんのことで私と相談なさろうと言われるんですか? あなたの訴訟のことだとばかり思っていました」
「もちろんだよ」と、叔父は言い、次にKにたずねた。「いったい、どうしようっていうんだ?」
「そうなんですが、いったい私のことや訴訟のことをどこからお聞きになったんです?」と、Kはきいた。
「ああ、そのことですか」と、弁護士は微笑しながら言った。「わしは弁護士ですからね。裁判所の人たちと付合いもあるし、いろいろな訴訟、目だつ訴訟について話も出るわけだし、ことに友人の甥御さんのことともなれば、覚えてもいますよ。それに不思議はないわけです」
「いったいどうしようっていうんだ?」と、叔父はもう一度きいた。「お前はどうも落着きがないよ」
「あなたは裁判所の人たちと付き合っているんですね?」と、Kがきいた。
「そうですよ」と、弁護士が言った。
「お前は子供のようなことをきくね?」と、叔父は言った。
「自分の専門の人たちと付き合うんじゃなければ、いったい誰と付き合うんでしょう?」と、弁護士が言い足した。
 その言葉の響きは抗しがたいものがあったので、Kは全然返事をしなかった。
「でもあなたは大審院なんかの裁判で仕事をするんで、屋根裏なんかでするんじゃないでしょう」と、彼は言おうと思ったが、でも思いきってそれを実際言いだすことはできなかった。
「あなたもよくわかっていてもらいたいが」と、何かわかりきったことをついでにくどくど説明するような調子で、弁護士は言葉を続けた。「あなたもよくわかっていてもらいたいが、こういう付合いから弁護依頼人にとってのさまざまな大きな利益を引出せるんでね。しかもいろいろな点でだ。もっともそのことは伏せておいてくださらぬと困るがね。もちろんわしは今、病気のために少し思うようにゆかぬ点があるが、それでも裁判所のいい友達に見舞いに来てもらい、少しは耳に入れているんです。おそらく、ぴんぴんして一日じゅう裁判所で暮している多くの人たちよりもよけいに聞いていますよ。たとえばちょうど今もありがたい訪問客に来てもらっているんですよ」そうして暗い部屋の隅を指さした。
「いったいどこに?」と、驚いてしまったKは荒々しくきいた。彼はおろおろとあたりを見まわした。小さな蝋燭の光は向う側の壁まではとうてい届かなかった。ところがほんとうにその片隅に、何かが動きはじめた。そのとき叔父が高々と上げた蝋燭の光を浴びて、そこの小さな机のそばに一人の中年の紳士がすわっていた。その人物はきっと全然呼吸をしなかったので、そんなに長いあいだ気づかれなかったのだったろう。自分に注意が向けられたことに明らかに不満らしく、その人物は大仰に立ち上がった。短い翼のように両手を動かして、紹介や挨拶はいっさいお断わりと言おうとするかのようであり、どんなことがあっても自分が居合すことによって他人の邪魔をしたくはない、どうかまた暗がりに置いて自分がいることなど忘れてもらいたい、と願っているようであった。しかしこうなってはもうそんなわけにもゆかなかった。
「あなたには驚かされましたよ」と、弁護士は説明じみた調子で言い、同時にその紳士には促すようにこっちにいらっしゃいと合図をしたが、この人物はゆっくりと、ためらうようにあたりを見まわしながら、しかし一種の品位をもって近づいてきた。
「事務局長さん、――ああ、そうだ、ごめんください、ご紹介しませんでしたな、――こちらは友人のアルバート・K、こちらは甥御さんの業務主任ヨーゼフ・K、そしてこちらは事務局長さん。――で、事務局長さんはご親切にもおいでくださったのだ。こんなご訪問の価値というものは、ほんとうはただ、事務局長さんがどんなに仕事でお忙しいかという消息に通じているものだけがわかるんだよ。さて、それにもかかわらずこの方はおいでくださったので、もちろん、弱っているわしに許されるかぎり、いろいろお話ししていたんだ。訪問客があったらお断わりしろ、とレーニには命じてはなかったが、わしらだけで話そうという考えだったのだ。ところが君が扉を拳《こぶし》でたたいたわけだ、アルバート、そこで事務局長さんは椅子と机とを持って隅に引っこまれた。だがこうなると、できるだけ、つまりもしそうしようとする希望があるのなら、共通の用件について相談し合わなければならないし、うまく歩み寄りもできるということは、わかりきったことだ。――では事務局長さん」と、弁護士は頭をかしげ、卑屈な薄笑いを浮べて言い、ベッドの近くの安楽椅子を示した。
「残念ながらもうほんの少ししかお邪魔しておられません」と、事務局長は親しげに言い、ゆったりと安楽椅子にすわり、時計を見るのだった。「用事に追われていてね。だがいずれにせよ、私の友人のお友達とお知合いになる機会は取逃がしたくはありませんからね」
 彼は頭を軽く叔父のほうに曲げたが、叔父はこの新しい近づきに大いに満足しているように見えるものの、いつもの癖で敬意の心持を表現することができず、事務局長の言葉に対して、当惑したような、しかし大きな笑い声で調子を合わせるのだった。なんとも見苦しい光景だった! Kは落着いて皆を観察できた。誰も彼をかまう者はなかったからである。事務局長は、どうもこれは彼のならわしらしかったが、一度引っ張り出された以上、座談を進んで牛耳《ぎゅうじ》ったし、弁護士は弁護士で、初め身体が弱っていると言ったのはどうも新しい訪問客を追っ払うためのものだったらしく、手を耳にあてて注意深く聞いていた。叔父は蝋燭持ちの役を勤め、――彼は蝋燭のバランスを膝の上でとり、弁護士はときどき心配そうにそれをちらちら見るのだった――すぐに当惑の気持を忘れて、事務局長の話しぶりや、それに伴うしなやかな波を描くような手のこなしにすっかりよろこびきっていた。ベッドの柱によりかかっていたKは、事務局長によってどうも故意にまったく無視されてしまったらしく、ただ老紳士たちの聞き役にまわっていた。ところで、いったいなんの話なのか、ほとんどわからず、あるいは例の看護婦と彼女が叔父からこうむったひどい仕打ちとのことを考えたり、あるいは、この事務局長なる人物を一度見たことがなかったか、どうもあの最初の審理の集りのときじゃなかったかと考えたりしていた。あるいは見そこないかもしれないが、この事務局長はあの最前列の会衆、あのまばらな髯をした老人たちのあいだにりっぱに仲間入りしていたにちがいないと思われた。
 そのとき、陶器の割れるような騒音が控えの間から聞え、皆が聞き耳をたてた。
「どうしたのか、私が行ってみましょう」と、Kは言い、ほかの連中に自分を引止める機会を与えるかのように、ゆっくりと出ていった。控えの間にはいり、暗闇の中で見当をつけようとするかしないかのうちに、彼が扉にまだしっかと置いている手に、Kの手よりもずっと小さい手が置かれ、扉を静かにしめた。ここで待ちかまえていたのは、例の看護婦だった。
「なんでもなかったのよ」と、彼女はささやいた。「お皿を一枚、壁に投げただけなのよ、あなたをこっちに呼ぼうと思って」
 少しおどおどしながらKは言った。
「僕もあなただと思いましたよ」
「それじゃ、いっそういいわ」と、看護婦は言った。「こっちへいらっしゃい」
 二、三歩で曇りガラスの扉のところへ来たが、それを看護婦はKの前であけた。
「どうぞおはいりなさいな」と、女は言った。
 おそらく弁護士の仕事部屋であった。三つの大きな窓のそれぞれに面した床に小さな四角形を映してさしこんでいる月光を頼りにながめたかぎりでは、どっしりした古い家具類を並べた部屋だった。
「こっちよ」と、看護婦は言い、木彫りのもたれのついた、黒ずんだ長持を示した。腰をおろしながらKは部屋を見まわしたが、天井の高い大きな部屋で、貧民相手のこの弁護士の依頼人たちは、この部屋に入れられては面くらってしまうにちがいなかった。客が堂々たる机の前に進み出てゆく小刻みの歩みが、Kには眼に見えるような気がした。だがもうこんなことも忘れてしまい、ぴったりと彼に寄り添って彼をほとんど長持の横のもたれに押しつけている看護婦だけに、眼を奪われていた。
「あたしは思っていたのよ」と、女は言った。「あたしが呼ばなくたって、あなたのほうから自分で来るだろうって。でも変だったわ。部屋にはいるなりずっとあたしを見つめて、それからあたしを待たせたりなんかして。あたしのことレーニって呼んでね」と、早口でずばりと付け足したが、一瞬たりともこの会話をむなしくしてはならないとでもいうようだった。
「いいですよ」と、Kは言った。「だが、僕が変だったということだが、レーニ、それはたやすく説明のつくことですよ。第一には、お年寄りたちのおしゃべりを聞かねばならなかったんで、理由もなしに出てはこられなかったし、二番目には、僕は厚かましくはなく、むしろ臆病《おくびょう》なほうだし、君だって、レーニ、一思いにこっちのものになってくれそうにはほんとうに見えなかったからね」
「そうじゃないわ」と、レーニは言い、腕を長持のもたれにかけ、Kを見つめた。「あたしなんかあなたのお気に召さなかったんだし、今でもきっとお気に召してはいないのよ」
「お気に召すって、そりゃあたいしたことはないけれどね」と、Kは逃げを打ちながら言った。
「まあ!」と、女は微笑《ほほえ》みながら言い、Kの言葉とこの小さな叫び声とである種の優越をかちえたのだった。それゆえ、Kはしばらく黙っていた。部屋の暗さにもすでに慣れたので、調度のさまざまな細かい点も見分けがつくようになった。特に、扉の右側にかかっている一枚の大きな絵が彼の眼をひいたので、それをよく見るため、かがんだ。それは法服姿の一人の男を描いていた。丈《たけ》の高いいかめしい椅子にすわっているが、その椅子の金色が、いろいろな点でその絵から浮び上がっていた。変っているのは、この裁判官が落着きと威厳とをもってそこにすわっているのではなく、左腕をしっかと椅子の背と横のもたれとに押しつけ、右腕のほうはまったく自由にして、ただ手先で横のもたれを握っており、次の瞬間には、激しい、おそらくは憤りの身振りで飛び上がり、何か決定的なことを言うか、あるいは判決さえも下そうとしているかに見える、という点だった。被告はきっと階段の下のところにいるものと思われたが、階段のいちばん上の、黄色の絨毯《じゅうたん》を敷いた一段目までは絵の上に出ていた。
「きっとこれは僕の裁判官だね」と、Kは言い、指でその絵をさした。
「その人は知ってますわ」と、レーニは言い、やはり絵を見上げた。「しょっちゅう、ここへ来るのよ。この絵は若いときのだっていうんだけれど、あの人はこの絵に似ていたはずがないわ。だってあの人はほとんどちんちくりん[#「ちんちくりん」に傍点]なんですもの。それでも、ここのみんなと同じように、ひとりでいい気になって見栄坊《みえぼう》なもんですから、絵では寸法を引延ばして描《か》かせたのだわ。でもあたしも見栄坊だから、あなたのお気に召さないっていうんで、とても不満なのよ」
 女のこの言葉に返事をするかわり、Kはただレーニを抱き、ぐいと引寄せたが、女はじっと頭をKの肩にもたせかけていた。しかし、彼は付け加えて言った。
「どんな身分の人なの?」
「予審判事よ」と、女は言い、自分を抱いているKの手をつかみ、指をもてあそんだ。
「また予審判事なのか」と、Kは失望して言った。「身分の高い役人たちは隠れているんだ。でも、この人はいかめしい椅子にすわっているじゃないの」
「みんな作りごとよ」と、顔をKの手の上にかがめて、レーニは言った。
「ほんとうは、台所椅子の上に古い馬の鞍覆《くらおお》いをかけて、その上にすわっているのよ。でも、あなたはしょっちゅう訴訟のことばかり考えていなきゃならないの?」と、女はゆっくり言い足した。
「ちがうよ、けっしてそんなことはないんだ」と、Kは言った。「どうもあんまり考えなさすぎるくらいなんだ」
「そのことがあなたのやってる誤りじゃないのよ」と、レーニは言った。「あなたはあんまり強情すぎるっていう話だけれど」
「誰が言ったの?」と、Kはきいたが、女の身体を胸に感じ、その豊かな、黒い、しっかと巻いた髪毛を見下ろしていた。
「それを言ったら、おしゃべりしすぎるわ」と、レーニは言った。「名前はきかないでちょうだい。でも、あなたの間違っていることは捨てて、もうあんまり強情にしないことよ。この裁判所には逆らうことはできなくて、結局白状しなければならないのよ。どうかこの次のときには白状してちょうだい。そうしたら初めて、逃げる見込みができるのよ、そうしてから後のことよ。けれどそれだって人の助けなしではできないけれど、この助力のことで心配しちゃだめ、あたしが自分でしてあげるわ」
「君はこの裁判所のことと、そこで必要な嘘《うそ》のこととを、よく知っているね」と、Kは言い、あまりに激しく迫ってくる女を膝の上に抱き上げた。
「これでいいわ」と、女は言い、スカートの皺《しわ》を伸ばし、ブラウスを取繕いながら、膝の上で居ずまいを直した。それから両手で彼の頸《くび》にぶら下がり、身体をのけぞらせて、長いあいだ彼を見つめた。
「で、もし僕が白状しなければ、君は僕を助けられないの?」と、Kはためすようにきいた。どうもおれには女の助力者が集まるな、と彼はほとんど不思議にさえ感じながら思った。まずビュルストナー嬢、次は廷丁の細君で、最後はこの小さな看護婦だが、この女はおれに得体の知れない欲望をいだいているようだ。おれの膝の上にのっているこの様子はどうだ、まるでここがこの女の唯一の所を得た場所とでもいうみたいだ!
「だめよ」と、レーニは答え、ゆっくりと頭を振った、「そしたらあたしはあなたを助けられないわ。でも、あなたはあたしの援助なんてほしくはないし、どうでもいいんでしょう、あなたは身勝手で、人の言うことなんか聞かないんだから」
「好きな人がいるのね?」と、しばらくして女が言った。
「とんでもないよ」と、Kは言った。
「おっしゃいよ」と、女が言った。
「そうだね、まあ」と、Kは言った。「いいかい、もう切れてしまったんだ。けれど写真まで肌身につけているってわけさ」
 女にせがまれてエルザの写真を見せると、女は膝の上で丸くなって、写真をしげしげと見た。それはスナップ写真で、エルザがいつも酒場でよく踊る円舞のあとで、彼女を撮《と》ったものだった。スカートはまだ旋回中の襞取《ひだと》りのままひろがっており、しまった腰に両手をあて、頸をぐっと起し、笑いながら横を向いていた。誰に笑いかけているのかは、この写真ではわからなかった。
「コルセットの紐《ひも》をきつく締めているのね」と、レーニは言い、彼女の考えによるとそう見える個所を示した。
「こんな女、きらいだわ。不器用で荒っぽいわ。でも、あなたには優しくて親切でしょう、それは写真で見てわかるわ。こんなに大柄でがっしりした女って、優しくて親切な以外に取柄のないものよ。でも、あなたのために身を投げ出すことできるかしら?」
「できないね」と、Kは言った。「優しくて親切でもないし、僕のために身を投げ出すこともできないだろう。僕もまたこれまで、そのどっちだって求めたことはなかったさ。だが、僕は君ほどこの写真をよく見たことはなかったよ」
「じゃ、この人のことたいして問題にしてはいないのね」と、レーニは言った。「じゃ、あなたの恋人じゃないわけだわ」
「でも」と、Kは言った。「僕の言ったことを撤回はしないね」
「それじゃ、あなたの恋人でもいいわ。でも、この人を失ったり、誰かほかの人、たとえばあたしと取替えても、たいして恋しがりはしないわけね」
「確かに」と、Kは微笑しながら言った。「そういうことも考えられるが、この人は君に比べて大きな長所があるんだ。僕の訴訟のことを何も知らないってことさ。そして、たとい知っていても、そんなことを考えはしないだろうね。僕に折れて出るようになんてすすめはしないだろうよ」
「そんなこと長所じゃないわよ」と、レーニは言った。「ほかの長所がないんなら、あたしは勇気をなくさないわよ。何か身体に片輪のところあるの?」
「片輪のところ?」と、Kはきいた。
「そうよ」と、レーニは言った。「あたしにはこんなちょっとした片輪のところがあるのよ、見てごらんなさい」
 女は右手の中指と薬指とをひろげると、そのあいだには皮膜が、短い指のほとんど一番上の関節にまで達していた。Kは暗がりの中で、女の見せようとするものがすぐにはわからなかったが、そのため女は、Kがさわるように、彼の手を持っていった。
「なんという自然の戯れだ」と、Kは言い、手全体をすっかり見てしまってから、言葉を足した。「なんというかわいらしい距《けづめ》だ!」
 レーニは一種の誇らしさをもって、Kが讃嘆《さんたん》しながら自分の二本の指を何度も何度もあけたりすぼめたりする様子をながめていたが、最後にKはその指にさっと接吻《せっぷん》して、放した。
「まあ!」と、女はすぐに叫んだ。「あなたはあたしに接吻したのね!」
 口をあいたまま、素早く、女は膝頭《ひざがしら》で彼の膝の上ににじり登った。Kはほとんど呆然《ぼうぜん》として女の顔を見上げていたが、女がこうまで身近に来ると、胡椒《こしょう》のような、苦い、刺激的な香《かお》りが女から発散するのだった。女は彼の頭をかかえ頭越しに身をかがめて、彼の頸を噛《か》み、接吻し、髪毛《かみのけ》の中まで噛んだ。
「あんたはあたしに取替えたんだわ!」と、女はときどき叫んだ。「ごらんなさい、もうあたしに取替えたんだわ!」
 そのとき女の膝がすべり、短い叫び声をあげてほとんど絨毯の上に倒れかかった。Kは女をささえようとして抱いたが、女に引下ろされた。
「もうあんたはあたしのものよ」と、女が言った。

「これ家の鍵《かぎ》よ、いつでも好きなときに来てちょうだい」というのが、女の最後の言葉だった。そして、帰りかけている彼の背中に、なんとはなしの接吻がされた。玄関から出ると、雨がぱらぱら落ちてきた。たぶんレーニをまだ窓ぎわに見ることができようと、街路の真ん中へ行こうとしたとき、Kはぼんやりして全然気がつかなかったが、家の前に止っていた一台の自動車から、叔父が飛び出し、彼の腕をつかんで、玄関の扉へ彼を押しつけ、まるでそこへ釘《くぎ》づけにしようとでもいうかのような剣幕だった。
「こら」と、彼は叫んだ。「なんだってあんなことをやるんだ! せっかくうまくゆきそうだったお前の用件をめちゃめちゃにしちゃったじゃないか。ちっぽけなきたならしい女と、どろんをきめこんだりなんかして。そのうえ、あいつは明らかに弁護士の情婦じゃないか。そして一時間ぐらいも帰ってこないとは。言い訳をするでもなし、隠そうとするでもなし、公然と女のところへ走り、女にくっついているんだ。そうやっているあいだ、お前のために骨折っているこの叔父、お前のために味方にしておかねばならない弁護士、それにまず、今のところならお前の事件をまったく牛耳れるあのりっぱな事務局長、こうしてわしらは集まったんだ。どうやったらお前を助けられるか相談しようとし、わしは弁護士を慎重に扱わなければならん、弁護士は弁護士で事務局長をというわけだ。そこでお前には、少なくともわしを応援してくれる十分な理由があったんだぞ。ところがそうもしないで、お前は消えていなくなっているという始末だ。とうとう隠しきれなかったが、あの人たちは慇懃《いんぎん》な世なれた人たちだもんだから、そのことはしゃべらず、わしをかばってくれた。ところがとうとうあの人たちももう我慢ができなくなり、事件のことが話せないもんだから、黙りこくってしまった。わしらは何分か黙ってすわって、お前がもう帰ってこないかと、聞き耳をたてていたんだ。万事むだだった。とうとう初めの予定よりもずっと長く居残っていた事務局長が立ち上がり、別れの挨拶をし、わしを助けることができないで残念だ、とはっきり言われ、なんとも言えないご親切さでなおしばらく扉のところで待たれたうえ、帰ってゆかれた。あの人が帰っていったんで、わしはもちろんほっとした。わしはもう息がつまりそうだったからな。病人の弁護士には万事がもっとひどくこたえた。わしが別れを告げたときは、あのいいやつはもう全然口がきけなくなっていた。お前は確かにあの男の完全な破滅に手を貸し、お前が頼るよりほかない人間の死期を早めたんだぞ。そして、叔父のこのわしをこうやって雨の中に――さわってごらん、ずぶぬれだ――何時間も待たせておき、心配で苦しみ抜かせているんだ」

第七章 弁護士・工場主・画家

 冬のある午前のこと――戸外では陰鬱《いんうつ》な光の中に雪が落ちていた――まだ時間も早いのだがすでに疲れきってしまったKは、事務室にすわっていた。少なくとも下役の連中を寄せつけないように、大事な仕事をやっているのだから誰も入れてはならない、と小使に命じた。だが、仕事をするかわりに、椅子にすわったままぐるりと向きを変え、ゆっくりと机の上の二、三の物をどかしてしまうと、思わず知らず腕を伸ばして机の上に置き、頭を垂れてじっとすわり続けていた。
 訴訟のことが彼の頭を離れなかった。弁護文書を作成して裁判所に提出することがよくはないかと、すでに何度となく考えたのだった。その中で短い経歴を書き、比較的重要な事件のひとつひとつについて、どういう理由で自分はそういう行動をとったのか、そのような行動のしかたは現在判断してみるのに非難すべきか、是認すべきか、そして正しくなかった、あるいは正しかったとしてどんな理由をあげることができるのか、説明しようとした。どうも文句がないわけではないあの弁護士なんかの単なる弁護に比べて、このような弁護文書の利点は疑いもなかった。Kはまったくのところ、あの弁護士が何を企てているのか、全然知らなかった。いずれにせよたいしたことではなさそうだった。もう一カ月も自分を呼んでくれたことはないし、それより前に話したときにも、この男は自分のために多くのことをやってくれる能力があるのだ、という印象を受けたことは一度もなかった。何よりもまず、ほとんどまったくKに問い合せをしたことがなかった。ところが今の場合には質問すべきことがたくさんあったのだ。質問こそおもな事柄であるはずだった。自分自身で今の場合に必要な質問を並べたてることができる、という感じをKは持ったくらいだった。ところが弁護士は、質問するかわりに、自分のほうでおしゃべりをするか、黙って彼に向い合ってすわるかして、きっと耳が遠いからだろうが、少し机の上に前かがみになり、髯《ひげ》の中の一握りの束をしごき、絨毯《じゅうたん》の上に眼差《まなざし》を投げていたが、どうもちょうどKがレーニといっしょにころがった場所らしかった。ときどきKに、子供に与えるような二、三の訓戒を与えるのだった。役にもたたねば退屈でもあるおしゃべりで、Kは決着のついたときの謝礼では一文も払おうと思わなかったようなものだった。弁護士は彼を十分へこたれさせたと思うと、今度はきまって少し彼を元気づけようとしはじめた。自分はこれと似た多くの訴訟に、全面的にかあるいは部分的にでも勝ってきた、と言うのだった。それらの訴訟は、ほんとうはきっとこの訴訟ほどむずかしくはなかったのだろうが、外見上ではもっと絶望的なものだった。これらの訴訟の記録はこの引出しのなかにしまってある、――こう言いながら机の引出しのどれかをたたいてみせた――残念ながら、これらの文書は職業上の秘密に関することなので、お見せできない。しかしながら、今はもちろん、これらのすべての訴訟によって自分の獲得した豊富な経験はあなたのために役だつのだ。自分はもちろんすぐに仕事を始めたし、最初の願書はすでにほとんどできあがっている。弁護側の与える第一印象はしばしば訴訟手続きの方向をすべて決定してしまうものであるから、この書類はきわめて重要なものだ。遺憾ながら、もちろんあなたは、最初の願書類が裁判所に全然読んでもらえないこともしばしばあるのだ、ということに注意してほしい。役所はそれらを単に書類のうちに加えるだけであって、まず被告を尋問し観察することのほうがあらゆる書いたものよりも重要だ、ということを教えてくれる。そして、申請人がしつっこく願うと、役所は、あらゆる資料が蒐集《しゅうしゅう》されるやいなや、決定の前に、もちろん全体との連関において、すべての書類、したがってこの最初の願書も仔細《しさい》に検討されるのだと付け加える。しかし遺憾ながら、これもたいていはほんとうでなく、最初の願書は普通は置き忘れられるか、あるいはほとんど失われてしまうかして、たとい最後まで保存されたにしても、これは弁護士がもちろんただ噂《うわさ》に聞いたことではあるが、読んではもらえない。こういうことはすべて悲しむべきことではあるが、まったく正当な理由がないわけではない。あなたはどうか、手続きは公開さるべきものではなく、裁判所が必要と考えたときにだけ公開されうるのであるが、法律は別に公開すべきことを命じているわけではない、ということを忘れないでほしい。それゆえ、裁判所側の文書、ことに起訴状は被告および弁護人にはうかがいえないものであり、したがって一般には、何をねらって最初の願書を書くべきかということは全然わからないか、あるいは少なくともはっきりとはわからないし、そのため、事件に対して重要性のあることを何か含めるということは、本来ただまぐれあたりにしかできないことだ。真に有効で論証力に富む願書というのは、後に被告の尋問をやっているうち個々の公訴事実とその理由とがはっきりと浮び上がるか、あるいは推測できるようになったときに初めて、作成できる。こういう事情の下にあって、もちろん弁護人はきわめて不利で困難な立場にある。しかし、このこともあらかじめ定められている仕組みなのだ。すなわち、弁護人は本来法律では認められておらず、ただ黙認の形なのであって、当該の法律条文から少なくとも黙認ということが解釈できるかどうか、という点に関してさえ、論争されているくらいだ。したがって、厳密に言うと、裁判所によって公認された弁護士というものはいないのであり、この法廷の前に弁護士として現われるのは、すべて実は三百代言にすぎない。このことはもちろん、全然弁護士に対してきわめて不名誉な影響を与えているのであり、あなたがこのつぎ裁判所事務局に行ったときには、一度このことを見ておくために、弁護士控室をごらんになるとよろしい。そこにとぐろを巻いている連中に、あなたはおそらく一驚されるだろう。彼らにあてがわれた狭い、天井の低い部屋からして、裁判所がこれらの人々に対していだいている軽蔑《けいべつ》の念を示している。部屋はただ小さな天窓からだけ光を入れているが、この窓たるや非常に高いところにあるので、もし外を見ようと思うと背中に乗せてくれる仲間をまず捜さなくてはならず、おまけにそこではすぐ眼の前にある煙突の煙が鼻にはいってきて、顔を真っ黒にしてしまう始末だ。この部屋の床には――もうひとつだけこういう状態の実例をあげるが――一年以上も前から穴がひとつあって、人間が落ちこむほど大きくはないが、片足をすっぽり入れてしまうには十分なほどの大きさがある。弁護士控室は屋根裏の二階にある。そこで誰かがはまりこむと、脚は屋根裏一階にぶら下がり、しかも訴訟当事者たちが待っている廊下へちょうど垂れることになる。弁護士連がこういう状態を不名誉きわまることだと言っても、言いすぎではないのだ。当局へ苦情を持ち出しても少しも効果はないし、部屋の中の何かを自費で変えることは、弁護士にはまったく厳重に禁じられている。しかし、このような弁護士に対する待遇にも理由があるのだ。弁護人をできるだけ排除しようとしているのであり、すべてが被告自身の手でやられなくてはならないのだ。根本においてはわるい考えかたではないのだけれども、このことから、この裁判所においては弁護士は被告にとって不必要だ、ということを結論することよりも間違ったことはないだろう。反対に、この裁判所におけるほどに弁護士を必要とするところはほかにはないのだ。すなわち、手続きは一般に、ただ公衆に対して秘密にされているばかりではなく、被告に対しても秘密にされている。もちろん、秘密にすることができるかぎりのことでしかないが、しかしきわめて広い範囲にわたって秘密にすることはできるのだ。すなわち、被告も裁判所の文書にはさっぱり通じておらず、尋問からそれの根拠となっている文書のことを結論的に推察することはきわめてむずかしいし、ことに、当惑しきってもいれば、気を散らされるありとあらゆる心配も持っている被告にとっては、とりわけむずかしい。そこでここに弁護のはいりこむ余地があるわけだ。普通は尋問には弁護人は立ち会えないのだから、尋問のすんだ後《あと》で、しかもできたらまだ予審室の扉のところで待ち受け、被告から尋問のことを聞き取り、しばしばすでにきわめてぼやけているこうした報告から弁護に役だつことを取出さなくてはならない。しかし、これがいちばん大切なことなのではない。なぜなら、もちろんこういうやりかたでも有能な人間はほかの人たちよりは多くのものを聞きつけはするが、普通の場合、たいして物にすることができないからである。それでも、最も大切なものは弁護士の個人的なつながりであり、この点に弁護のおもな値打ちというものがあるのだ。ところできっとあなたは自分の経験からわかったことだろうが、裁判所の最下層の組織は完璧《かんぺき》とはゆかず、義務を忘れ買収されやすい役人を生んでいるので、そのため裁判所の厳重な箝口令《かんこうれい》にも穴があくのだ。そこでこの点に大多数の弁護士がつけこみ、買収をやったり、聞き込みをやったり、また少なくとも以前には、書類を盗み出す場合さえも起った。このようにして暫時のところは被告にとって驚くほど有利な結果が獲られるということは否定できないし、これらの小弁護士たちはそれを得意になって触れまわり、新しい顧客を誘うのだが、訴訟の先々の経過には全然役にたたないか、あるいはよい結果とはならない。ところでほんとうの値打ちがあるのは、正々堂々とした個人的なつながり、しかも高位の役人たちとのつながりだけである。もちろんこれは、高位の役人の中でも比較的低い地位の人たちのことを言っているのだ。ただこのようなつながりによってのみ、訴訟の進みに、初めはただ目だたぬくらいだが、後には次第にはっきりと、影響を及ぼすことができる。もちろん、そういうことができるのはほんの少数の弁護士に限られており、この点であなたの選択はきわめて有利だったのだ。このわし、フルト博士のようなつながりを持っているのは、おそらくただ一人か二人の弁護士だけだろう。こういう弁護士になると、もちろん弁護士控室の仲間などは問題とせず、またなんらの関係もない。しかし、それだけに裁判所の役人との結びつきは固いわけだ。このわし、フルト博士は、裁判所へ行き、予審判事控室で判事が偶然現われるのを待ち、彼らの機嫌《きげん》次第でたいていはただ見せかけだけの成果をあげたり、あるいはそれすら手に入れられない、などという目にあう必要はない。そんな必要は全然ないのであって、あなた自身も見たように、役人たち、その中にはほんとうに高位にある人々もいるが、こうした役人のほうが自分でやってき、はっきりとした、あるいは少なくとも容易に真相が解けるような情報を進んで与えてくれ、訴訟の今後の運びについても話し合い、そのうえ、個々の場合について人の言うことを納得し、よろこんでこちらの意見も受入れてくれるのだ。もちろん、この後《あと》の点ではあまり信用しすぎてはならないのであって、きわめて断固として彼らの新しい、弁護にとって有利な意見を発言してはくれても、おそらくまっすぐ事務局に帰って、次の日には、まさしく昨日とは反対のことを含み、彼らがもうすっかり脱却したと主張した最初の見解よりは被告にとっておそらくずっときびしいような裁判上の決定を、発表することがある。もちろんこういうことは防ぐことはできない。なぜなら、二人だけのあいだで言ったことは結局ただ二人だけのあいだで言われたことにすぎず、弁護側がほかに努力のしかたがない場合であっても、裁判所の人々の恩恵にあずかるということは、公の結論を下す場合に許されないことである。他面また、裁判所の人々が何かただ人間愛とか友情の気持とかいったものから弁護側、もちろん事情に通暁した弁護側、と結びついているのではない、ということも真実であって、彼らはむしろある点では弁護側を頼りにしているのである。この点にまさしく、当初からすでに秘密裁判所を規定している裁判組織の欠陥が現われているのだ。役人たちには民衆とのつながりが欠けており、普通の中くらいの訴訟に対しては十分構えができていて、こういう訴訟はおのずから軌道の上をころんでゆくし、ただときおり衝撃を与えるだけでよいのであるが、まったく単純な事件に対しては、特にむずかしい事件に対するのと同様、しばしば途方にくれてしまうのであって、昼も夜も絶えず法律に拘束されきっているため、人間的なつながりというものに対する正しい感覚を持たず、こういう場合にはそのことに大いに不自由を感ずるのだ。そこで彼らは助言を求めて弁護士を訪れ、その後からは小使が一人、たいていは非常に秘密にされている書類を持ってついてくるというわけだ。そこでこの窓ぎわには、まったく思いがけなかったような多くの人々が現われたというわけで、彼らはまったく茫然《ぼうぜん》として街路を見ており、一方弁護士のほうは、それに適切な助言を与えるため、机にすがって書類を研究したのだ。そのうえ、まさにこういう機会にこそ、裁判所の人々が彼らの職務をどんなに真剣に考えているか、彼らの性格上どうしても克服できない障害についてどんなに大きな絶望に陥っているか、ということを見ることができるのだ。役人の立場もけっして楽なものではなく、彼らを不当に評価して、彼らの立場が楽なものだなどと考えてはならないのだ。裁判所の身分の順序とか昇進とかいうものは無限であって、事情に明るい者にすらすっかり見通すことはできない。ところが法廷の手続きは一般には下層の役人にとっても秘密であり、そのため自分たちの関係している事件の先々の成行きについて完全に追求することは、ほとんどいつもできないし、したがって裁判事件というものは、どこからやってくるのかわからぬうちに彼らの視野に現われ、しばしばどこへ行くのかを知らぬままで進んでゆくのだ。それゆえ、個々の訴訟の段階、最後の決定、その理由などを研究して汲《く》み取りうる教訓というものは、これらの役人の手にははいることがない。彼らはただ法律によって彼らに規定されている訴訟の各部分にだけ携わるのであり、それ以上のこと、したがって彼らの仕事の成果については、概してほとんど訴訟の最後まで被告との結びつきを持っている弁護側ほどには知っていないのが通常の例である。それゆえ、この点においても、彼らは弁護側から多くの価値あることを聞くことができるのだ。こういうことをすべて念頭に置いたうえで、しばしば訴訟当事者たちに対して――誰でもこういう経験をするものだが――侮蔑《ぶべつ》的なやりかたで示される役人たちの怒りっぽさというものを、あなたは不思議と思わなければならない。あらゆる役人は、平静らしく見えるときでさえもいらいらしているのだ。もちろん、小弁護士たちは特に、こうした怒りっぽさに大いに悩まされなければならない。たとえば次のような話があるが、大いにありうるように思われることだ。ある老役人が、善良で物静かな人物だったが、特に弁護士の願書でこんがらかった裁判事件をまる一日一晩休みもなしに研究したのだった、――こんな役人たちは実際、よそでは見られぬくらい勤勉なのだ。――さて朝になり、二十四時間の、おそらくはたいして収穫もあがらなかった仕事の後、入口の扉のところへ行って、そこに隠れ、はいろうとする弁護士たちを階段へ突き落したのだった。弁護士たちは下の踊り場に集まり、どうしたらよいか相談した。一面から言うと、入れてもらうことを要求する権利がないのだから、その役人に対して合法的に何かを企てることはほとんどできないし、すでに言ったように、役人連を敵にまわすことは気をつけなければならない。しかし他の一面、裁判所で過すのでなければその日はむだになってしまうので、そこへはいりこむことが肝心でもあった。とうとう、この老人を疲れさせてやろう、ということに話がきまった。後《あと》から後から弁護士を繰出し、階段を登ってゆき、できるだけの、もちろん消極的抵抗をやって投げ落されると、そこで仲間に受止めてもらった。これがおよそ一時間ばかり続き、まったくのところ徹夜仕事ですでに弱っていたその老人は、すっかり疲れきって、事務局へ引下がってしまった。下の連中は初めはほんとうに引下がったものとは全然信じないで、まず一人をやってみて、ほんとうに人がいないかどうかを扉の陰で偵察させた。それからやっと皆が繰りこんだが、おそらくは誰一人ぶつぶつ言おうとする者もいなかった。というのは、弁護士にとっては、――最も微々たる者でもこういう事情は少なくとも一部分はわかっているのだが――裁判所に何か改善を持ちこむなり、それをやってみようとすることなどはまったく話の外のことだからである。ところが――これはきわめて特徴のあることだが――被告は誰でも、まったく単純な連中さえ、訴訟に足を突っこむなりすぐに改善の提案などを考えはじめ、それでしばしば、ほかのことをやればもっとずっとよく使えるものを、時間と労力とを空費するのだ。唯一の正しい道は、現状に満足するということだ。個々の細かな点は改善することができる場合でも、――だがこれがばかげた迷信なのだ――せいぜい未来のために少しは役だたせることはできようが、そのためしょっちゅう復讐《ふくしゅう》を求めている役人連の特別な注意をひいてしまうことになって、測り知れぬくらい損害をこうむってしまうのだ。ただ注意をひかぬようにすることだ! いくら意にそむくようになっても、落着いた態度でいることだ。この巨大な裁判組織はいわば永遠に浮動し続けるのであり、そのうえで独自な立場で何かを変革しても、足下の地面を踏みはずして自分が墜落するだけのことであり、その大きな有機体のほうはちょっとした妨害に対しては容易にほかの場所で――いっさいが結びついているからだが――補いをつけ、たといそれが、これが実はありそうなことでさえあるのだが、いっそう固く結合し、いっそう注意深く、いっそうきびしく、いっそう悪意を持つようにならないとしても、少なくとも不変の状態を続けるのだ、ということをよく見抜こうと努めることだ。とにかく仕事は、それをかき乱したりせずに、弁護士にまかせることだ。いくらとがめだてをしたところでたいして役にたつものではなく、ことにその理由をすっかり理解することができないでいるときにはそうなのだが、それでも、あなたが事務局長に対する態度で自分の事件についてどんなに損をしているか、ということは言っておかなければならない。この有力な人物はもう、あなたのために何かやってもらおうとする人たちのリストからはほとんど抹殺《まっさつ》されなくてはならなくなってしまったのだ。この訴訟についてのほんのちょっとした話でも、彼はわざとそれを聞き逃すようにすることだろう。まったく役人というのは、多くの点でまるで子供みたいなものだ。彼らはどんな他愛《たわい》もないこと、といってもちろんKの態度は残念ながらその部類にははいらないものだったが、そういうものによってもひどく傷つけられ、親友とも話さなくなり、出会ってもそっぽを向き、ありとあらゆることにおいて邪魔をするようになるものだ。ところがやがて、格別の理由もなく不意に、万事がどうも見込み薄に思われるというだけの理由でやけっぱちでこちらが試みるちょっとした冗談で、笑いだし、すっかり機嫌《きげん》を直してしまうことがある。彼らと付き合うのは、むずかしくもあればやさしくもあり、それに対する根本方針などというのはどだいないのだ。こういう世界で相当の成功を収めながら仕事をやってゆくことを心得るぐらいのことには、何もこみいったことは要《い》らないのであって、ほんの平凡な生活で十分なのだ、ということにはしばしば驚かされるほどである。もちろん、誰にでもあるように、気のふさぐときもやってはくる。そうなると、ほんの少しでもうまくいったことはないように思いこむし、初めからよい結果を生むときまっていた訴訟がうまくいったにすぎないし、別に手をかさなくてもそうなっただろう、と思われるのだ。ところが一方ほかの訴訟はすべて、いろいろ奔走し骨を折ったにもかかわらず、そしてちょっとした見かけの成功に大よろこびしたにもかかわらず、ことごとく失敗しているという目に会ってしまう。こうなるともちろん、もう確信が持てず、その本質から言ってうまく運んでいる訴訟をまさによけいな手出しをすることで横道にそらしてしまった、ときめつけられても、少しも否定する気持にはなれないだろう。これもまったく一種の自信ではあろうが、こうなったときわずかに残された唯一の気の持ちかたというにすぎない。こういう発作は――これはもちろんただの発作にすぎないものであって、それ以上ではないのだ――特に、十分に事を進めて満足のゆくようにやってきた訴訟が突然自分の手から奪われてしまうときに、弁護士に起るものだ。これがきっと、弁護士たる者に起りうるいちばん不快な事柄だろう。およそ被告によって弁護士から訴訟が奪われるというようなことはなく、そういうことはけっして起るものではないのであって、一度一定の弁護士を選んだ被告は、何事が起ろうとその弁護士を離れてはいけない。一度助けを求めた以上、およそひとりでやってゆくことなどどうしてできるものだろうか? それゆえ、そういうことは起らないのだが、確かにときどき、訴訟がどうもまずい方向をとり、弁護士がそれについてゆけないということは起る。訴訟も被告もいっさいが、弁護士から簡単に奪われてしまう。そうなると、役人との最もいいつながりももう役にはたちえない。役人たち自身が何も知らないからなのだ。こうなると訴訟はまさしくひとつの段階にはいったのであり、そこではもういかなる助力もやれるものではなく、訴訟をやっているのは余人の近づきえない法廷であり、被告も弁護士の手には届かなくなってしまうのだ。そして、ある日、家に帰ってみると、机の上には、あらゆる努力とこの事件に対するきわめて明るい希望とをもってつくった多くの願書がすっかりのっている。それらは、訴訟の新段階には持ちこむことが許されぬという理由で、差戻されたのであり、値打ちのない反古《ほご》なのだ。それでも訴訟はまだ敗《ま》けときまったわけではない。けっしてそんなことはなく、少なくとも訴訟が敗けたと認める決定的な理由はないのであって、ただ、もう訴訟のことは全然わからないし、これからももうそれについて何もわかることはなかろう、というだけのことなのだ。ところでこういうような場合というのは幸いに例外的なことであって、たといあなたの訴訟がこういう場合のひとつであっても、今のところはこういう段階からはまだはるかに遠い。ここではまだ弁護士が腕を振うに十分な機会があるし、こちらも存分にそういう機会を利用するつもりだということは、あなたも安心してよろしい。すでに言ったように、願書はまだ提出してないが、それは急いではいけないのであって、有力な役人たちと折衝を始めることのほうがずっと重要であり、そのことはすでにすませたのだ。はっきり申上げておかねばならないが、さまざまな成果があがっている。あらかじめ逐一打明けておかぬほうがよろしかろう。それによってあなたはただよからぬ影響を受けるだろうし、あまり有頂天にされるか、あまりに不安にされるかするだろうからだ。ただ、ある人々は非常に有利だと言ってくれたし、また援助してくれる意志が大いにある旨を言ってくれたが、一方、他の人々はそれほど有利だとは言わなかったが、けっして援助は拒みはしなかった、ということだけは申上げておく。したがって、成果は全体としてはきわめて上首尾ではあるが、予備折衝というのはすべてこういうようにして始まり、後日の発展を待って初めてこの予備折衝の値打ちというものがわかるのであるから、今上首尾だということから特別の結論を引出してはいけない。ともあれ、まだけっして失敗したわけではなく、いろいろのことがあったにせよ、例の事務局長を味方に引入れることに成功するならば、――このためにすでにいろいろなことを始めているが――全体はいわゆる――外科医が言うところの――きれいな傷というやつであって、安心して来《きた》るべきものを期待できるというものである。
 こんなような話で、弁護士は尽きるところを知らなかった。訪《たず》ねると、いつでもこういう話が繰返された。いつでも進展していると言うのだが、この進展というのがどういう種類のものか教えられることはなかった。いつでも最初の願書の仕事をやっているのだが、それはできあがってはおらず、たいてい、この次いらっしゃるときにはそれは大きな利点を明らかにしていることだろう、なにぶんにもこの前のときには、どうも見通しがつかなかったのだけれども、提出するのにはなはだ都合がわるかったもので、などということであった。こういう話にすっかり疲れきってしまったKは、しばしば、いろいろ事情がむずかしいとはしても、事の運びがあまりにゆっくりしすぎている、と言うのだったが、けっしてゆっくりしているわけではない、もっとももしあなたが時機を失せず弁護士に依頼していたら、すでにずっと事は運んでいたろうが、という返事だった。ところが遺憾なことにあなたはそれを怠ったのであり、こういう怠慢はさらにさまざまな不利をもたらすだろう、それは単に時間的な不利益ばかりではない、というのである。
 こうした訪問をありがたいことに中断してくれる唯一のものは、レーニであった。彼女はいつも心得ていてくれて、Kがいるとき弁護士に茶を運んでくるのだった。そうするとKの背後に立ち、弁護士が一種のがっつきかたで茶碗《ちゃわん》に深くかがみこみ、茶を注《つ》ぎ、飲むのをながめていると見せかけて、そっと手をKに握らせた。完全な沈黙が支配していた。弁護士は飲んでいた。Kはレーニの手を握り、レーニはしばしば、Kの髪毛《かみのけ》をやさしくなでるようなことをやってのけた。
「お前まだいたのかい?」と、茶をすませると、弁護士はきいた。
「茶道具を下げようと思ったのですの」と、レーニは言い、最後にKの手をもう一度握ると、弁護士のほうは口をぬぐって、元気を新たにしてKに説教しはじめるのだった。
 弁護士が手に入れようとしているのは、慰めだったのか、絶望だったのか? Kにはそれがわからなかったが、自分の弁護がどうもあまり結構な人間の手中にあるのでないということは確かだ、と思った。弁護士ができるだけ自分を前面に立てようとしていること、彼の言い草だとKの訴訟は大きなものだということだが、こんな大きな訴訟をやったことはこれまでに一度もないということ、それは歴然としたことだったけれども、Kは、弁護士の言うことはみなほんとうだろう、と考えた。ただ、彼が絶えず揚言する役人たちに対する個人的関係というのは、いつまでもうさんくさかった。いったいそういう連中がもっぱらKの利益のために利用し尽されるはずがあろうか? ただ身分の低い役人たちのことであって、したがって訴訟のある転回がおそらく昇進に重要な意味を持っているようなきわめて従属的な地位にある役人たちなのだ、ということを弁護士はけっして言い忘れはしなかった。おそらく彼らは弁護士を利用して、こういう、被告にとってはもちろん不利にきまっている転回をねらっているのではなかろうか? おそらく彼らはこういうことをどの訴訟ででもやるのではないのであって、確かに、そうしたことはありそうもないことだ。弁護士の名声を傷つけないようにしておくことが役人たちにとっても大いに大切であるため、訴訟の進行中に弁護士の仕事のために利益を譲歩するような訴訟の場合だって確かにあるのだ。だが、ほんとうにそういう事情だとすれば、どういうふうにして彼らはKの訴訟、弁護士も言明したようにきわめてむずかしく、したがって重要な訴訟であり、始まるとすぐ裁判所に大きな注意をひいたこの訴訟に、関与するつもりだろうか? 彼らがやろうとすることは、たいして疑問の余地がありえなかった。その徴候は実に、訴訟がすでに幾月も続いているのに最初の願書がまだ受理されていない点や、弁護士の申立てによると万事がやっと始まったばかりの状態にあるという点に、すでに認められるのだった。これはもちろん、被告を眠らせて無援の状態にしておき、次に突然決定を被告に突きつけるか、あるいは少なくとも被告の不利に終った予審を上級官庁に送局するという知らせを突きつけるかするのに格好なことだった。
 Kが自分で乗り出すことが、絶対に必要だった。いっさいがそうしようというつもりもなく彼の頭のなかを過ぎてゆくこの冬の日の午後のような、ひどい疲れの状態の真《ま》っ只中《ただなか》で、こうした確信は避けられなかった。これまで訴訟に対していだいていた軽蔑《けいべつ》は、もう通用しなかった。もし自分だけがこの世にいるのであったら、訴訟などは苦もなく無視できたであろうに、と思われたが、そうなれば訴訟などはおよそ成立しなかったであろうということも、もちろん確かなことだった。だが今では、叔父が彼をすでに弁護士のところへ引っ張っていったので、身内のことを考えてやることも問題であった。彼の立場はもう訴訟の経過から完全に離れきってはおらず、彼自身軽率にも一種の説明のつかない満足をもって知人たちに訴訟のことを言ったし、他の人々は、どうしてかわからぬが、訴訟のことを聞き知っており、ビュルストナー嬢との関係も訴訟に対応して動揺しているように見えた。――要するに、彼はもはや訴訟を受入れるか拒むかという選択権を持たず、その真っ只中に立ち、身を防がねばならなかった。疲れれば、わるいにきまっていた。
 もちろん、さしあたってのところはあまりに心配しすぎる理由はなかった。銀行では比較的短時日に現在の高い地位に登り、すべての人に認められてこの地位を守ることもできたのだから、今はただ、こういうことを可能ならしめた能力を少し訴訟に利用すればよいのであって、うまくゆくことは疑いがなかった。何よりもまず、何か成功をなしとげるためには、自分に罪があるかもしれないという考えをすべて払いのける必要があった。罪などはないのだ。訴訟は大きな仕事以外のものではなく、そういうものを彼はしばしば銀行のためにやって利益をあげてきたのであるが、その内部にはきまってさまざまな危険がひそみ、まずそれを防がなければならないような仕事なのである。このためにはもちろん、何か罪があるなどという考えをもてあそんでいてはならず、自分の利益に関しての考えをできるだけしっかりと保持していなければならない。この見地からすると、弁護士をできるだけ早く、できれば今晩のうちに断わって、自分の弁護をやめてもらうことも、避けられないことだった。弁護士の話によるとそういうことは前代|未聞《みもん》のことであり、おそらくは非常に侮辱的なことでもあろうが、訴訟における自分の骨折りが、どうも自分自身の弁護士に原因するらしい妨害に出会うということは、Kには我慢がならなかった。それで、弁護士を一度振切ってしまったら、願書をすぐ提出し、できれば毎日、裁判所がそれを考慮してくれるように催促せねばならないと思った。このためにはもちろん、Kがほかの被告のように廊下にすわり、帽子をベンチの下に突っこんでいるだけでは十分でなかった。K自身か女たちか、あるいは別な使いの者たちが毎日毎日役人をうるさく襲い、格子越しに廊下をながめてなどいないで自分たちの机にすわり、Kの願書を検討するようせきたてねばならなかった。こうした努力を捨ててはならないが、万事が組織化され監視されているにちがいないから、裁判所はきっと、自分の権利を守ることを心得ている被告にぶつかってくるにちがいなかった。
 だが、Kはこうしたことをすべてやりとげるだけの勇気はあったが、願書を書くことのむずかしさは圧倒的であった。前にも、つまり一週間ほども前には、こういう願書を自分でつくる必要に迫られた場合のことを、はじらいの感情をもって想像できるだけだったが、これがまたむずかしいものでもあるということは、全然考えてもみなかった。Kは思い出したが、ある午前のこと、ちょうど仕事で忙殺されていたとき、突然書類をみなわきへ押しのけて、用箋綴《ようせんつづ》りを取上げ、試みにあの願書まがいの書きかたをして、それをあの鈍重な弁護士に見せてでもやろうと思ったが、ちょうどこの瞬間に支店長室の扉があき、支店長代理が高笑いをしながらはいってきた。支店長代理はもちろん願書のことを知らぬのだから、それを笑ったのではなく、ちょうど今聞いたばかりの洒落《しゃれ》を笑ったのだったが、Kはそのとき非常に不快な思いをした。その洒落は、のみこむためには図解が必要だったので、支店長代理はKの机にすわりこみ、Kの手から取上げた鉛筆で、願書を書くことにきめていた用箋綴りの上にその絵を描きあげた。
 今日ではKはもう恥のことは忘れ、願書はどうしてもつくりあげてしまわねばならない、と思った。事務室ではそういう時間が見つからないとすれば、そしてそれはきわめてありそうなことであるが、そうなれば家で毎夜やらなければならない。夜でも十分でなければ、休暇をとらなければならない。ただ中途半端なところにとどまっていないことである。それは仕事でばかりでなく、いつでも、またどんな場合でもいちばんばかげたことだ。もとより願書というのはほとんど際限のない仕事であった。たいして心配性の人間ではなくとも、願書をいつか仕上げるというようなことはできない相談だ、というふうに思いこみやすかった。弁護士の書類完成を妨げているような怠慢とか術策とかのためではなく、現在の告訴状もそれの今後の増補もわからぬままに、きわめて細かな行動や出来事にいたるまで全生活を記憶に呼びもどし、書き表わし、あらゆる角度から検討しなければならなかったからである。そのうえ、こんな仕事はなんと憂鬱《ゆううつ》だったことだろう。それはおそらく、恩給をもらって退職した後《あと》で耄碌《もうろく》した精神を働かせ、長い毎日を暇つぶしする助けとしてやるのには格好の仕事だった。だが今は、Kは思考をすべて仕事に集中し、まだ昇進中で、すでに支店長代理にとって脅威となっており、一刻一刻がきわめてすみやかに流れてゆき、また短い夜を若い人間として享楽もしたいのに、この今こうした願書を書くことを始めなければならないのだ。彼の思いはまた嘆きに走るのだった。ほとんど無意識に、ただこうした思いを片づけるために、彼は控えの間に通じている電鈴のボタンに指でさわった。それを押しながら、時計を見上げた。十一時だった。二時間、長い、貴重な時を彼はむなしく費やし、もちろん、前よりもいっそう疲れていた。だが、値打ちのある決心をしたわけだから、時を失ったわけでもなかった。小使たちが、さまざまな郵便物のほかに二枚の名刺を持ってき、この方々はすでにかなり前からお待ちしています、と伝えてきた。それはまさしく銀行のきわめて大切な顧客で、ほんとうはどんなことがあっても待たせなどしてはならなかったのだった。なぜ彼らはこんなに都合のわるいときにやってきたのだろうか、またなぜ――客のほうもまた閉じた扉の向うでそうきいているように思われた――勤勉なKとしたことが、私用でいちばん大切な執務時間を空費したのだろうか? これまでのことに疲れ、また疲れきって来《きた》るべきものを期待しながら、第一の客を迎えるためKは立ち上がった。
 それは、小柄で元気のよい紳士で、Kがよく知っているある工場主だった。工場主は、Kの大切な仕事を邪魔したことをわび、Kのほうは、工場主をこんなに長く待たせたことをわびた。だが、このわびからして非常に機械的な調子、またはほとんど作りものの感じのする調子で言ったので、工場主がすっかり用件で夢中になっていなかったならば、それに気がついたにちがいなかった。男は気づきもしないで、急いで計算書や表をありとあらゆるポケットから引出すと、Kの前にひろげ、いろいろな項目を説明し、こうやって、ざっと見渡してさえ気がついたちょっとした計算の誤りを訂正し、一年ほども前にKと結んだ同じような仕事のことをKに思い出させ、ついでに、今度は別な銀行が莫大《ばくだい》な犠牲を払ってもこの仕事を申込んでいる、と言い、最後に黙って、Kの意見を聞こうとした。Kもまた事実、初めのうちは工場主の話をよくたどり、次に重要な仕事だという考えが彼の心をとらえもしたのだったが、ただ残念なことに長続きがせず、間もなく話に耳を傾けることから気がそれてしまい、それでもしばらくは工場主の騒々しい叫び声に頭でうなずいてみせていたが、とうとうそれもやめ、ただ、禿《は》げた、書類にかがみこんだ相手の頭をながめ、自分の話がすべて無益だと、いつ工場主が気づくだろうかと自問してみることだけにした。工場主が黙ってしまったときに、Kはまず、自分はお話を伺うことができないと白状する機会を与えてくれるために相手が黙ったのだ、とほんとうに思いこんだのだった。だが、明らかにあらゆる反対に身構えしている工場主の緊張した眼差《まなざし》を見て、用談を続けなければならないのだ、と気づいたときは、ただ残念に思われるだけだった。それで命令を受けるときのように頭を垂れ、鉛筆で書類の上をゆっくりとあちこちなでまわし、ときどき休んでは数字をじっと見つめた。工場主はKに異論があるのだと思い、おそらくは数字がまったくはっきりとはしていないためか、おそらくは決定的なものでないためか、いずれにせよ工場主は手で書類を覆《おお》い、Kにぴったり寄り添って、改めて仕事の一般的な説明を始めるのだった。
「むずかしいですね」と、Kは言い、口もとに皺《しわ》を寄せ、唯一のつかみどころである書類が覆われているので、ぐったりと椅子の肘掛《ひじかけ》に崩《くず》れかかった。すっかり元気がなくなりさえして眼を上げると、ちょうど支店長室の扉があいて、ガーゼの幕の後ろにでもいるようにぼんやりと支店長代理の姿が、そこに現われた。Kはそれ以上支店長代理が現われたことを考えてはいないで、彼が現われたために生じた、自分にとってきわめてよろこばしい直接の効果だけを追い求めるのだった。というのは、たちまち工場主は椅子からとび上がり、支店長代理のほうへ急ぎ足で飛んでいったからである。だがKは、支店長代理がまた消えてしまうのでないかと心配だったので、工場主を十倍も足早に歩かせてやりたいくらいだった。しかしそれは要《い》らぬ心配で、二人はぶつかり、互いに握手を交《か》わし、いっしょにKの机のところへやってきた。工場主は、業務主任にはどうも仕事に対する熱意が見られない、と苦情を言い、支店長代理の視線の下で改めて書類の上にかがみこんだKを、指さした。それから二人が机にもたれ、工場主は今度は支店長代理を自分の手中に収めようと懸命になると、Kには、恐ろしく大きいように思われるこの二人が頭の上で自分自身のことを相談しているような気がした。慎重に上眼をつかいながらゆっくりと、頭上で起っていることを見ようとし、書類の一枚を見もしないで机から取上げ、それを掌《てのひら》にのせて、自分自身も立ち上がりながら、その書類をそろそろと二人のほうに持ち上げた。こうしながら、格別どうしようということを考えたのではなく、自分からまったく面倒を除いてくれるあの大仕掛けな願書を仕上げたときには、きっとこういう態度をとるにちがいない、という気持で振舞っただけだった。すべての注意を注いで話に夢中だった支店長代理は、ただちらりと書類を見ると、そうやって差出されたものを全然読みもしなかった。業務主任に大切なものも、彼にはなんでもないものだったからである。そしてそれをKの手から取上げると、言った。
「ありがとう、もうみんな承知しています」
 そして、またそれを机にもどした。Kはむっとして彼を横から見つめた。だが支店長代理は全然気がつかないか、気がついたにしてもかえってそれに元気づけられるかして、しばしば高笑いし、一度ぬかりのない受けこたえで工場主を明らかに当惑させ、しかしすぐ自分自身の言ったことに異論をはさんでみせて相手を当惑から解きほぐしてやり、最後に彼の事務室に来るように誘い、そこでなら用件を終りまでやれるだろう、と言った。
「これはたいへんむずかしい用件です」と、工場主に言った。「それはすっかりわかっていますから。そして業務主任さんには」――こう言いながらもほんとうはただ工場主にだけ向って話しかけるのだった――「われわれだけで片づけるほうがお気に召すでしょう。この用件は冷静に考えることが必要ですからね。ところがこの方は今日はとても忙しいらしく、もう一時間以上も幾人かの人が控室で待っていますよ」
 Kはまだ、支店長代理から向き直り、愛想よさそうではあるがこわばった微笑を工場主に対してしてみせるだけの落着きを辛うじて持っていたが、そのほかのことには全然手を下すことができず、少し前かがみになって両手で机の上に身体をささえ、ちょうど机の後ろにいる売り子のような格好になり、二人が話を続けながら机から書類を取上げ、支店長室に消えてゆくのをながめていた。扉のところでなお工場主は振向き、これでお別れするのではなく、もちろん話の結果について業務主任さんにも報告するし、自分個人としてもまだほかにちょっとお話しすることがある、と言った。
 やっとKはひとりになった。誰か別な客を迎えようとは全然考えず、部屋の外の人々は自分がまだ工場主と折衝中だと思いこみ、このために誰も、そして小使さえも、自分のところへはいってこないのは、なんと気持のよいことだろう、という考えが、ただ漠然と彼の意識に上ってくるのだった。窓ぎわへ行き、手すりに腰をおろして、片手を把手《とって》にかけて身体《からだ》をささえ、広場を見やった。雪はまだ降っており、全然晴れあがってはいなかった。
 いったい何が自分を心配させるのかもわからぬまま、彼は長いあいだそうして腰かけていた。ただときどき少しぎくりとして肩越しに控室のほうを見たが、空耳だが物音を聞いたように思ったからであった。だが誰も来ないのでいくらか落着き、洗面台に行って冷たい水で洗うと、さわやかな頭になって窓べの場所にもどってきた。弁護を自分の手で引受けようという決心が、初めに思ったよりもいっそう重要に思えた。弁護を弁護士にまかせていたうちは、まだ根本的には訴訟にほとんど関係していなかったも同然で、ただ遠くからながめていたのであって、直接それから得《う》るところはほとんどなかったが、欲するなら自分の事件がどうなっているかを見ることができたし、また望むならば頭を向け直すこともできたのだった。それに反して、今や弁護を自分でやることになれば、――少なくともしばらくは――すっかり裁判所に身をさらさなくてはならなくなり、その結果は、後になれば自分の身を完全に、また最後的に解放することになるはずではあるが、これをうまくやるためには、どうしてもしばらくはこれまでよりも大きな危険を冒してゆかねばならなかった。この点については彼は疑わしく思っていたが、支店長代理と工場主と今日同席したことで十分確信させられたにちがいなかった。自分を弁護するというはっきりした決心をすっかりきめたのに、どうしてそこにすわっていたのか? だが、これから先どうなることだろうか? 自分の前にはどんな日々が立ちはだかっていることだろうか! 万事を切り抜けて好ましい結果に通じる道を発見するだろうか? きわめて慎重な弁護をやろうというのなら――そしてそれ以外のことはいっさい無意味なのだ――きわめて慎重な弁護をやろうというのなら、それには同時に、ほかのいっさいのことを除外してしまうことがどうしても必要ではないか? うまくやりおおせられるだろうか? そして、これをやりぬくことは銀行にありながらどうやって成功するだろうか? まったくのところ単に願書の問題ではなくて、訴訟全体に関することなので、願書ならば、たとい休暇を願い出ることは今さしあたってはたいへん思いきったことではあっても、休暇を取ればきっと十分だろうが、この訴訟となるとどれほど続くかさっぱり見通しがきかぬのだ。なんという障害が突然おれの経歴に投げこまれたことだろうか!
 そして今でも、銀行のために働かねばならぬのだろうか?――彼は机の上を見やった。――今でも客を招き入れ、彼らと折衝をせねばならぬのだろうか? 訴訟が進行し、あの屋根裏部屋では裁判所の役人たちがこの訴訟の文書をめぐって集まっているのに、銀行の仕事にかまっていなければならないのだろうか? 仕事はまるで、裁判所によって公認され、訴訟と関連してそれにつきまとっている拷問のようなものではないか? およそ銀行の中にあって、自分の仕事を評価するとともに、この特殊な状態を考慮してくれる人がいるだろうか? そんなことをしてくれる人は全然ない。誰がどれくらいそれについて知っているのかはまだまったくはっきりとはしていないが、訴訟のことは全然知られていないわけではなかった。だが支店長代理のところまでは噂はまだおそらく届いてはいないらしく、もしそうでなければ、この男がきっと同僚のよしみも人情もあったものではなくそれを利用しつくす有様を、すでにはっきりと見なければならなかったことだろう。そして支店長はどうだろう? 確かに彼はおれに好意を持っており、訴訟のことを聞けば、おそらくすぐにできるだけおれのために事を容易にしてやろうとしてくれるだろうが、きっとそういう態度を貫くことはできまい。なぜならば、おれがこれまで形成していたバランスが弱まりはじめるにつれて、支店長はいよいよ代理の影響に押されることとなり、代理はそのうえ支店長の苦しい立場を自分の勢力の増強のために利用しつくしているようなやつだからだ。それゆえ、おれは何を望むべきか? おそらくこんなふうに考えることによって抵抗力を弱めることになるだろうが、自分自身を欺かず、万事を現在としてできるだけはっきりと見ることもまた必要なことだ。
 格別の理由もなかったが、ただしばらくはまだ机に帰りたくはなかったので、窓をあけた。窓はなかなかあかず、両手で把手をまわさねばならなかった。やっとあけると、窓の幅と高さとだけ、煤《すす》の混じった霧が部屋に流れこみ、かすかな焦げる匂《にお》いで部屋をいっぱいにした。雪片もいくらか吹きこんできた。
「いやな秋ですね」と、Kの背後で工場主が言ったが、支店長代理のところからもどって、気づかれずに部屋にはいってきていたのだった。Kはうなずき、不安げに工場主の書類入れを見つめた。その中から彼は今にも書類を引っ張り出し、支店長代理との交渉の結果をKに話しそうだった。だが工場主はKの視線を追い、書類入れをたたき、それをあけないで言った。
「どういうことになったか、お聞きになりたいでしょう。書類入れの中にはもう契約書がはいっているのも同然です。支店長代理さんは魅力のある人ですね。だがまったく危険のない人じゃないですが」
 彼は笑ってKの手を握り、彼のことも笑わせようとした。ところがKには、工場主が書類を見せようとしないことがまたまたあやしく思われたので、工場主の言葉が少しもおかしくはなかった。
「きっと天気病みでいらっしゃるんですね? 今日はたいへんふさいでいらっしゃるようにお見受けしますが」
「そうです」と、Kは言い、両手でこめかみを押えた。「頭痛と家庭の心配です」
「まったくです」と、せわしげな人間で、人の言うことは落着いて聞けない工場主は、言った。「誰でも十字架を負わなければならんのです」
 工場主を送り出そうとするかのように、Kは思わず知らず扉のほうへ一歩進んだが、工場主は言った。
「業務主任さん、あなたにもう少しお話しすることがあります。こんな日に申上げてあなたをわずらわすことはたいへん恐縮ですが、最近二度もあなたのところへまいって、いつも忘れてしまっていたものですから。でもこれ以上延ばしますとおそらく完全に役にたたなくなりましょうからね。そうなると残念ですからねえ。なぜって私の話は根本においておそらく値打ちのないものではありませんからね」
 Kが答える余裕もないうちに、工場主は彼のそばに歩み寄り、指の関節で彼の胸をたたき、低い声で言った。
「あなたは訴訟にかかりあっていらっしゃるんですってね?」
 Kは後《あと》ずさりして、すぐさま叫んだ。
「支店長代理があなたにお話ししたんですね!」
「いや、そうじゃありません」と、工場主は言った。「支店長代理が知っているわけがないでしょう?」
「ではあなたは?」と、Kはずっと落着きを取戻して言った。
「あちらこちらで裁判所のことは何かと聞きますんでね」と、工場主は言った。「お話ししようと思うことも、まさにそのことなんです」
「たくさんな人が裁判所と関係を持っているんですね!」と、Kは頭を垂《た》れて言い、工場主を机のところへ連れていった。彼らは先ほどと同じようにすわったが、工場主は言った。
「お伝えすることのできることがたいして詳しくはなくて残念です。しかし、こういう事柄ではほんの少しでもおろそかにしてはなりませんからね。それに、私の尽力はささやかなものでありましょうが、あなたをなんとかしてお助けいたしたい気持に駆られておりますので。私たちはこれまで仕事の上のよい友達でしたからねえ。ところで――」
 Kは今日の相談のときの自分の態度のことでわびようとしたが、工場主は黙って話を中断させてはおらず、自分は急いでいるのだということを示すために書類入れを腋《わき》の下に高く押しこみ、言葉を続けた。
「あなたの訴訟のことは、ティトレリという男から知りました。画家でして、ティトレリというのはただその男の雅号ですが、ほんとうの名前は全然知りません。この男は、数年来ときどき私の事務所にやってきて、小さな絵を持ってくるんですが、――まるで乞食《こじき》みたいなもんですよ――私はいつでも一種の喜捨をやっています。ともかく好ましい絵でして、荒野の風景とかそういったものなんです。このやりとりが――二人とももう慣れてしまったんですが――まったくスムーズにいっていました。ところが、一度、こうやってやってくるのがあんまり頻繁《ひんぱん》に繰返されるので、私は文句を言ってやったところ、いろいろな話になり、ただ絵を描くことだけでどうやって暮してゆけるのか、私も興味を覚えたんですが、驚いたことに彼のおもな収入源が肖像画だということを聞きました。『裁判所の仕事をしています』と言うんです。『どんな裁判所だね』と、私がききました。すると裁判所のことを話してくれました。どんなにこの話で私が驚いたことか、あなたはいちばんよくわかってくださるでしょう。それ以来私は、この男が訪《たず》ねてくるたびごとに裁判所のニュースを何かと聞き、次第次第にそのことに関するある種の理解ができるようになりました。もとよりティトレリはおしゃべりでして、私はしょっちゅう追い払わなければなりませんが、それはこの男が嘘《うそ》をつくからばかりでなく、何よりも、私のような商売人は自分の仕事の心配だけでもほとんどぶっつぶれそうで、関係のない物事にはあまり気をつかっていられないためなんです。だがこれはただついでに申上げたわけです。おそらくこれで――私は思うんですが――あなたはティトレリのことが少しはおわかりのことと思いますが、この男は大勢の裁判官を知っていて、自分ではたいして力がないにしても、どうやったらさまざまな有力者に近づけるかという助言はできましょう。そして、たといこういった助言がそれ自体としては決定的なものでないにしても、私の考えるところでは、あなたがお持ちになればたいへん有益でありましょう。あなたはまったく弁護士みたいな方ですからね。私はいつも言っているんですよ。業務主任のKさんは弁護士みたいな人だってね。いや、私は何もあなたの訴訟のことで心配なんかしちゃおりません。ですが、ティトレリのところにおいでになりませんか? 私がご紹介すれば、あの男はきっと、彼にできることをなんでもやるでしょう。あなたは行くべきだと私はほんとうに思いますね。もちろん今日でなくとも結構でして、いつかおついでのときでいいんです。もちろん、――これは申上げておきたいと思いますが――私がこうおすすめしたからといって、ほんとうにティトレリのところにどうしても行かねばならぬということは少しもありません。いや、もしティトレリなんかいなくたってやってゆけるとお思いでしたら、確かに、あの男をまったく無視されることがいっそうよろしいでしょう。きっとあなたはとっくに詳しいプランをお持ちでしょうし、それならティトレリなんかはそれの邪魔をするばかりかもしれません。いや、それならもちろん、けっしていらっしゃらなくて結構なんです! それにきっと、こんな男から助言をもらうとなると我慢も要《い》りますからね。まあ、お気に召すようにしてください。これが紹介状、これが住所です」
 がっかりしてKはその手紙を受取り、それをポケットに押しこんだ。いちばんうまくいった場合でも、この紹介状のもたらす利益などは、工場主が自分の訴訟について知っており、画家がそのニュースをひろめてまわる、ということに含まれている損害に比べれば、比較にならぬくらい小さなことだった。もう扉のほうへ行きかけている工場主に一言二言礼を言うことも、ほとんどやる気にはなれなかった。
「行ってみますよ」と、扉のところで工場主と別れるとき、Kは言った。「あるいは、今は非常に忙しいので、一度私の事務室のほうへ来てもらいたいと書くかもしれません」
「あなたがいちばんいい策《て》を発見されるだろうということは、わかっていました」と、工場主は言った。「もちろん私は、訴訟について話すためにこのティトレリのような人物を銀行へ呼ぶなどということは、あなたがむしろ避けたいと思っていらっしゃるものとばかり思っていました。それに、手紙をこんな連中の手に渡すということは利益になるとばかりはかぎりませんからね。でもあなたはさだめし万事を考え抜かれたことでしょうし、どうやったらよいかは十分おわかりのことと思います」
 Kはうなずき、さらに控室を通って工場主について行った。だが、表面では平静を装っているものの、自分の言ったことに非常に驚いていた。ティトレリに手紙を書くだろうと言ったのは、もとよりただ工場主に対してなんとかして、紹介状はありがたく思っている、ティトレリと会う機会のことはすぐ考える、ということを示そうと思って言ったことにすぎないのだが、もしティトレリの味方が値打ちがあるものと見てとれば、ほんとうに手紙を書くことも躊躇《ちゅうちょ》はしなかっただろう。ところが、その結果として起るかもしれない危険のことは、工場主の言葉で初めて気がついたのだった。自分の悟性に対してほんとうにこんなにも信用できなくなったのだろうか? はっきりした手紙でうさんくさい男を銀行にまで呼び出し、支店長代理とは扉ひとつしか隔たっていない場所で自分の訴訟についての助言を求めるというようなことがありうるなら、もっとほかの危険も見逃《みのが》しているし、そんな危険のなかに飛びこむこともありうることだし、大いにありそうなことでさえなかろうか? 自分に警告してくれる人間がいつも自分のそばにいるものとばかりはかぎらない。そしてまさに今、全力を集中して歩み出なくてはならないときに、自分の用心深さに対するこれまで知らなかったようなこんな疑惑が現われるとは? 事務をやっているとき感じたあの困難が、今や訴訟においても始まったのだろうか? もちろん今ではもう、ティトレリに手紙を書き銀行に来てもらおうなどと思ったことがどうして可能だったのか、彼にはわからなかった。
 そのことを考えてまだ頭を振っていると、小使がそばにやってきて、この控室のベンチに腰かけていた三人の客に注意を向けさせた。彼らはすでに長いあいだKのところへ招かれるのを待っていた。小使がKと話すなり、立ち上がって、好機をとらえて誰よりも先にKの前に行こうとした。銀行側が無礼にもこの待合室で時間を空費させたもので、彼らのほうももう遠慮をしようとはしなかった。
「業務主任さん」と、早速一人が言った。だがKは小使に外套《がいとう》を持ってこさせ、小使の手を借りて着ながら、三人全部に向って言った。
「みなさんごめんなさい、今ちょうどお会いする時間がないんです。はなはだ恐縮ですがさし迫った外での用事を片づけなければなりませんので、すぐ出かけなければなりません。ごらんのとおり、今たいへん長く引留められておりましたので。明日でも、あるいはいつなり改めておいでねがえませんか。なんなら用件を電話でお話しすることにしませんか? または今手短かに何のご用件か伺っておいて、のちほど詳しく書面でお答えいたしましょう。もちろん、この次来ていただくのがいちばんよろしいのですけれど」
 このKの提案は、完全にむなしく待たされたことになった三人の客を非常に驚かせたので、黙って顔を見合すばかりだった。
「それじゃあ、そうきまりましたね?」と、帽子を持ってきた小使のほうを振向いたKは、たずねた。Kの部屋のあけっ放しの扉からは、戸外で雪がたいへんひどくなったのが見えた。そこでKは外套の襟《えり》を立てて、頸《くび》のすぐ下にボタンをかけた。
 ちょうどそのとき、隣室から支店長代理が出てきて、外套を着たKが客たちと言い合っているのを微笑しながらながめ、こうきいた。
「もうお帰りですか、業務主任さん?」
「そうです」と、Kは言い、身体を正した。「用件で出かけなければなりませんので」
 しかし支店長代理は、すでに客たちのほうを向いていた。
「で、この方々はどうなんです?」と、きいた。「もうかなりお待ちのように思うんですが」
「もう話がきまったんです」と、Kは言った。だが客たちはもう我慢ができなくなり、Kを取囲んで、用件が重要なものでなければ、一時間も待ちはしなかったろう、そして今すぐ、それもとっくりと個人的に、話し合ってもらいたい、と述べたてた。支店長代理は彼らの言うことをしばらく聞いていたが、帽子を手に持ち、あちこち塵《ちり》を払っているKのこともながめたうえで、言った。
「みなさん、たいへん簡単な策《て》があります。もし私でおよろしかったら、業務主任さんにかわってよろこんでお話を伺いましょう。みなさんのご用件はもちろんすぐお話ししてしまわなければなりません。私たちもみなさんのように商売人ですから、商売人の時間の大切なことはよくわかっております。こちらにいらっしゃいませんか?」
 そして、自分の事務室に通じる扉をあけた。
 Kが今やむなく放棄せねばならなかったものを、支店長代理はすべて我が物としてしまうことをなんと心得ていたことか! しかしKは、絶対的に必要である以上のものを放棄しなかったろうか? 不確かな、きわめて乏しいということを認めざるをえないような希望をいだきながら未知の画家のところへ行っているあいだに、銀行のほうでは彼の声望は取返しのつかぬような損害をこうむるのだった。外套をまた脱いで、まだ顔をそろえて待たされている二人の客だけでも取戻すほうが、ずっと賢明であったろう。彼の本立てで我が物顔に何か捜している支店長代理をそのとき見つけなかったなら、Kはおそらくそうしたかもしれない。Kが憤慨して扉に近づいたとき、支店長代理が叫んだ。
「ああ、まだ出かけなかったんですね」
 Kのほうに顔を向け、すぐまた捜し始めるのだったが、その顔の数多くの鋭い皺《しわ》は、老齢ではなくて、充実した気力を示しているように見えた。
「契約書を捜しているんですよ」と、彼は言った。「あの商会の社長さんが、君のところにあるはずだ、と言われるんだが。捜してくれませんか?」
 Kが一歩近づくと、支店長代理は言った。
「いや、ありました」
 そして、契約書だけではなく、きっとほかのものもたくさん入れているにちがいない大束の書類を持って、また自分の部屋にもどっていった。
「今のところはあいつは手には負えないが、おれの個人的な悶着《もんちゃく》が片づいたら、きっといちばん先に痛い目にあわせてやるぞ、しかもできるだけひどくだ」こう考えて少し気を落着けたKは、ずっと前から廊下に出る扉をあけて待っていた小使に、用件で外出したと折を見て支店長に伝えてくれと頼み、しばらくは自分の用事に完全に没頭できることにほとんど幸福を覚えながら、銀行を出た。
 すぐ画家のところへ行った。画家は郊外に住んでいるのだったが、裁判所事務局のある例のところとは全然反対の方面であった。もっとみすぼらしい界隈《かいわい》で、家々はもっと陰気くさく、小路は雪解けの上をゆっくりと漂っている汚物でいっぱいだった。画家の住む家では、大きな門の片方の扉だけがあいており、もう一方は下のほうの壁に穴があき、Kが近づいたとたん、気持のわるい黄色の臭《にお》う液体がこぼれてきて、それを避けようとして鼠《ねずみ》が一匹近くの溝《みぞ》へ逃げこんだ。階段の下では子供が一人地面に腹ばいになって泣いていたが、門の向う側のブリキ屋の仕事場から聞えてくる騒音がいっさいの物音を打消してしまうので、子供の泣き声はほとんど聞えぬくらいだった。仕事場の戸はあけっ放しで、何か仕事を囲んで半円形に三人の職人が立ち、ハンマーでその上をたたいていた。壁にかかった大きな一枚のブリキ板が蒼白《あおじろ》い光を投げ、それが二人の職人のあいだを透《とお》して、彼らの顔と仕事用の前掛けとを照らしていた。Kはこうしたすべてを軽く一瞥《いちべつ》しただけだった。できるだけ早く用事をすまし、ほんの少し画家から話を聞いただけですぐ銀行にもどろうと思った。もしここでほんのわずかでも成果をあげたならば、それは銀行での今日の仕事にもよい影響を及ぼすにちがいなかった。四階では歩度をゆるめなければならなかった。すっかり息切れがし、階段も各階も桁《けた》はずれに高かったが、画家はまったくてっぺんの屋根裏部屋に住んでいるということだった。空気もきわめてうっとうしく、踊り場がなく、狭い階段が両側の壁にはさまれており、その壁にはほんのところどころおそろしく上のほうに小さな窓がついていた。Kが少し立ち止ったとき、ちょうど二、三人ほどの少女がある部屋から飛び出し、笑いながら階段を駆け上がっていった。Kはその後《あと》をゆっくりとつけ、つまずいてほかの子たちに取残された一人の少女に追いつき、並んで登りながらきいてみた。
「絵描きのティトレリっていう人いる?」
 十三になるかならぬかのいくらか佝僂《せむし》のその少女は、きかれると片肘《かたひじ》でKを突き、そばから彼の顔をじっと見た。その子の幼さも不具も、この子がすでにすっかり堕落してしまっているという事実を否定できるものではなかった。少女はにこりともしないで、鋭いうかがうような眼差《まなざし》でむきになってKを見つめた。Kはその態度に気づかなかったように装って、きいた。
「絵描きのティトレリさんって知っている?」
 少女はうなずくと、今度は彼女のほうからたずねた。
「あの人になんの用事なの?」
 Kには、あらかじめ少しティトレリについて知っておくことが有益に思われた。
「おじさんのことを描いてもらおうと思うんだよ」と、彼は言った。
「描いてもらうの?」と、少女はきき、やたらに大きく口をあけ、Kが何か非常に驚くべきことかまずいことかを言ったのでもあるかのように手で軽く彼をたたき、そうでなくとも短かすぎるスカートを両手でつまみ上げると、高いところで叫び声がもう聞き取れぬくらいになっているほかの子供たちの後を追って、できるだけ早く駆け上がっていった。だが階段のその次の折り返しのところで、Kはまた少女たち全部といっしょになった。明らかに佝僂の子にKの意図を教えられて、彼を待っていたのだった。階段の両側に立ち、Kがうまく通るように壁に身体を押しつけ、手でエプロンの皺《しわ》を伸ばしていた。どの顔つきといい、またこんな人垣をつくることといい、子供らしさと堕落の味わいとの混じり合いを示していた。Kの後ろに笑いながら集まった少女たちの先頭に立ったのは、案内を引受けた例の佝僂だった。Kはすぐ正しい道筋がわかったのも、その子のおかげだった。すなわち、まっすぐ登ってゆこうとしたのだが、ティトレリのところへ行くには分れた階段を選ばなくてはならぬということを、その子は教えてくれた。画家のところへ行く階段は特に狭く、きわめて長く、曲ってはいないのですっかり見通しがきき、登りつめると直接ティトレリの扉の前で終っていた。扉の斜め上にはまった小さな天窓によってほかの階段とはちがって比較的明るく照らし出されているこの扉は、上塗りのしてない角材で組み上げられ、その上にはティトレリという名前が赤い色で肉太の筆描きをもって書かれていた。子供たちを従えたKが階段の真ん中まで来るやいなや、明らかに大勢の足音に促されたからであろうが、上の扉が少しあけられ、寝巻一枚を着ているらしい一人の男が扉の隙間《すきま》に現われた。
「おお!」と、一行がやってくるのを見て、男は叫んだ。佝僂の少女はよろこんで手をたたき、ほかの少女たちは、Kをもっと早く追いたてようとして、彼の後ろから押すのだった。
 まだ登りつめないうちに、上では画家が扉を大きく開き、深く身体をかがめて、Kにはいるようにすすめた。少女たちのほうは追い払い、子供がどんなに頼んでも、また彼の許しがなければ無理にでも押し入ろうとどんなにやってみても、一人でも入れようとはしなかった。ただ佝僂の子だけが画家の伸ばした腕の下をくぐり抜けることに成功したが、彼はその子の後を追い、スカートをつかむと自分のまわりでぐるぐると引きまわし、扉の前のほかの子たちのところへ置いた。子供たちは、画家がそうして持場を離れているあいだ、それでも敷居を越してやろうとはしなかった。Kはこういう有様をどう判断すればいいのかわからなかった。すなわち、万事がまるで仲よく馴《な》れ合いで行われているように見受けられるのだった。扉の子供たちは次々と頸《くび》を伸ばし、Kにはわからないさまざまなふざけた言葉を叫びかけ、画家もまた、彼の手中の佝僂の子がほとんど飛ぶように逃げてゆくあいだ、笑っていた。次に扉をしめ、もう一度Kに会釈《えしゃく》すると、手を差出し、名乗りながら言った。
「画家ティトレリです」
 Kは、背後で少女たちがささやいている扉を指さして言った。
「この家ではたいへん人気がおありのようですね」
「ああ、腕白《わんぱく》たちでして」と、画家は言い、寝巻の頸のボタンをかけようとするのだがだめだった。ところで画家は裸足《はだし》で、だぶだぶの黄ばんだズボンをはいているだけだが、ズボンは紐《ひも》で締められ、その長い端がぶらぶら揺れていた。
「この腕白たちにはほんとうに困っています」と、言葉を続けながら、いちばん上のボタンがちょうどちぎれてしまった寝巻から手を出し、椅子をひとつ持ってきて、Kにかけるようにすすめた。
「前に、あの連中の一人を――その子は今日はいなかったですが――描《か》いてやったことがありましたが、それからというもの、みな私の後を追いかけるんです。私がここにおりますと、いいと言うときだけはいってきますが、一度出かけようものなら、いつでも少なくとも一人ははいりこんでいます。私の部屋の鍵《かぎ》をつくらせて、互いに貸し合っているんですよ。いやわずらわしいったら、人様にはほとんど想像もつきますまい。たとえば、私が描くことになっているご婦人と帰ってきて、鍵で戸をあけると、筆で唇《くちびる》を真っ赤に塗った佝僂の子がそこの机のところに立ち、その子がお守《も》りをしなきゃならない小さな妹たちは暴《あば》れまわって、部屋の隅々《すみずみ》までよごしているというような有様なんです。また、つい昨日《きのう》起ったことですが、夜遅く帰ってきて、――どうかそのことをお考えくだすって、私のこんな格好や部屋の乱雑なことはお許しねがいます――で、夜遅く帰ってきて、ベッドにはいろうとすると、誰か私の脚をつねるやつがある。私はベッドの下をのぞいて、一人引っ張り出すっていうようなわけです。どうして私のところにこう押しかけるのか、私にはわかりませんが、私のほうから誘いをかけたのでないことは、あなたも今ちょうどごらんになったとおりです。もちろんこれには仕事の邪魔もされるというものです。このアトリエが無料で借りられるのでなければ、とっくに引っ越していたでしょう」
 そのときちょうど、扉の向うでやさしい、おどおどしたような声が叫んだ。
「ティトレリさん、もうはいってもいい?」
「いけないよ」と、画家は答えた。
「あたしだけでもいけない?」と、声がまたきいた。
「いけないね」と、画家は言い、扉のところへ行き鍵をかけた。
 Kはそのあいだに部屋を見まわした。このひどい小さな部屋がアトリエと呼ばれるかどうかは、言われなければひとりで思いつくものではなかった。奥行、間口ともにここでは、大股《おおまた》で二歩以上は、歩けそうもなかった。床、壁、天井、みな木造で、角材のあいだには細い隙間が見られた。Kの反対側の壁ぎわにベッドが置かれ、色とりどりの寝具が積み上げられていた。部屋の真ん中の画架には一枚の絵がのり、シャツがかぶせてあって、その袖《そで》が床までぶらさがっていた。Kの後ろには窓があり、窓からは霧を透して雪で覆《おお》われた隣家の屋根が見えるだけだった。
 鍵をまわしてしめる音は、Kに、すぐ帰るつもりだったことを思い出させた。そこで工場主の手紙をポケットから取出し、画家に渡して言った。
「あなたのお知合いのこの方からあなたのことを伺い、そのおすすめでまいったのです」
 画家はさっと手紙を通読し、それをベッドの上に投げた。もし工場主がきわめてきっぱりと、ティトレリは自分の知合いで、自分の喜捨に頼ってきた貧しい人間だ、と言ったのでなかったら、この有様を見ては、ティトレリが工場主のことを知らないか、あるいは少なくとも彼のことを思い出すことができないのだ、とほんとうに考えることもできたろう。そのうえ、画家はこうきくのだった。
「絵をお買いになりたいんですか、それとも肖像を描けとおっしゃるんですか?」
 Kはびっくりして画家を見つめた。いったい手紙には何が書いてあるんだろう? 自分がここに来たのはほかならない訴訟について問い合せようと思うからだ、と工場主が手紙で画家に告げているものだとばかりKは考えていた。あんまりあわてすぎ、よくも考えてみないで駆けつけたようだ! だが、こうなってはなんとか画家に答えなければならないので、画架に一瞥《いちべつ》を投げながら言った。
「ちょうど絵のお仕事ですね?」
「そうです」と、画家は言い、画架の上にかかっていたシャツを、ベッドの手紙のほうに投げた。
「肖像画です。いい仕事ですが、まだすっかりできあがってはいません」
 偶然がKに幸いし、裁判所のことを話すきっかけが、はっきりと彼に与えられたのだった。というのは、それは明らかに裁判官の肖像だったからである。ところでそれは、弁護士の事務室の絵にひどく似ていた。もちろんこれは全然別な裁判官であって、頬《ほお》の側にまで達している黒いもじゃもじゃの一面の髯《ひげ》を生《は》やした肥《ふと》った男だったし、あの絵は油絵だったが、これはパステルでさっとぼかしてあった。だがそのほかの点では似ていた。この絵でもやはり、ちょうど裁判官が肘掛けをしっかと握って、いかめしい椅子から威嚇《いかく》的な態度で立ち上がろうとしていたからである。
「裁判官ですね」と、Kはすぐ言おうとしたが、しばらくはまだ控えて、細部をよく見ようとするかのように絵に近づいた。椅子の背の真ん中にある大きな像がなんであるか彼にはわからなかったので、画家にそれをきいてみた。これはもう少し手を加えなくちゃならないんです、と画家は答え、小さな机からパステルを一本持ってくると、それで少しその像の輪郭をなすったが、そうしてもKにははっきりとはわからなかった。
「正義の女神《めがみ》なんです」と、画家は最後に言った。
「もうわかりましたよ」と、Kは言った。「ここに眼隠しの布があるし、ここに秤《はかり》がある。だが、踵《かかと》に翼が生えていて、飛んでいるんじゃありませんか?」
「そうなんです」と、画家は言った。「頼まれてこう描かなくちゃならなかったんですが、ほんとうは正義の女神と勝利の女神とをひとつにしたんです」
「どうもあまりうまい取合せじゃありませんね」と、Kは微笑しながら言った。「正義はじっとしていなくちゃいけませんね。そうでないと秤が揺れて、正しい判決ができませんからね」
「その点は依頼主の注文に従ったんです」と、画家は言った。
「きっとそうでしょうね」と、自分の言葉で誰も傷つけまいとしたKは、言った。
「この像は、ほんとうに椅子にすわっているままを描かれたんですね」
「いや」と、画家は言った。「私はその像も椅子も見ませんでした。いっさい考案ですが、描くべきものは注文をつけてもらいました」
「えっ、なんですって?」と、画家の言うことがよくわからないというようにわざと装いながら、Kは言った。「でもこれは、裁判官の椅子にすわっている裁判官でしょう?」
「そうですが」と、画家は言った。「でも高い地位の裁判官じゃなくて、こんなりっぱな椅子にすわったことなんかないんです」
「それなのにこんないかめしい物腰で描いてもらうんですか? まるで裁判所の長官のようにすわっていますね」
「そうです、この人たちは虚栄心が強いんですよ」と、画家は言った。「だが、こういうふうにして描いてもらっていいという、上のほうの許可を受けているんです。誰もが、どう描いてもらっていいのかきめられているんですよ。ただこの絵では服装や椅子の細部が見分けられませんね。パステルはこういう表現には不向きです」
「そう」と、Kは言った。「パステルで描かれているのは変ですね」
「裁判官がそう望まれたんです」と、画家は言った。「これはあるご婦人にあげることになっています」
 絵をながめていることが、彼に仕事をしようとする欲求を起させたらしく、シャツの袖をたくし上げ、二、三本パステルを手に取った。そしてKは、そのパステルの震える尖端《せんたん》の下で、裁判官の頭にしっくりとはまりながら赤みを帯びた陰影ができあがり、それが画面の縁に向って放射線状に消えてゆくのを、ながめていた。この陰影の戯れは次第に、飾りか高い名誉のしるし[#「しるし」に傍点]かでもあるように、頭を取巻いた。だが正義の女神の姿のまわりでは、ほとんど気づかれないような色調を除いて色が明るく、この明るさのうちに姿がことに浮び上がってくるように思われ、もうほとんど正義の女神も、勝利の女神をも思い出させず、今ではむしろ、すっかり狩猟の女神のように見えた。画家の仕事は、思ったよりもKをひきつけた。しかしついに、自分はもうこんなにここにいるのに、根本において自分自身のことをまだやっていなかった、と気づいて我が身をとがめるのだった。
「この裁判官はなんという人ですか?」と、彼は突然きいた。
「それは言えません」と、画家は答え、絵に深くかがみこんで、初めはあんなにも敬意をこめて迎えた客を明らかに無視するのだった。Kはそれを気まぐれと考え、それに腹をたてたが、こんなことで時間をむだにしたからであった。
「あなたはきっと裁判所とご懇意なんですね」と、彼はきいた。
 画家はすぐパステルをそばに置き、身体を起し、両手をこすって、にやにやしながらKを見つめた。
「いつも、すぐに真相を言えとばかりおっしゃるんですね」と、彼は言った、「紹介状にも書いてありますが、あなたは裁判所のことが聞きたいのに、私の気をひこうとしてまず私の絵のことを話されたのですね。だが、私はそれをわるくはとりませんが、そんなことは私の場合適当じゃないってことをご存じなかったんです。いや、結構ですよ!」と、Kが何か異議をさしはさもうとすると、画家は鋭くさえぎりながら言った。そして次にこう言葉を続けた。
「ところでおっしゃったことは完全に正しいのでして、私は裁判所に信用が厚いのです」
 Kにこの事実で満足する時間を与えようとするかのように、画家はちょっと間《ま》を置いた。また扉の向うで少女たちの声が聞えた。彼らは鍵穴のまわりにひしめいているらしく、おそらく隙間からでも部屋の中がのぞけるらしかった。Kはなんとかわびを言うのはやめにした。画家の気持をそらしたくはなかったが、画家があまりに高いところへ上ってしまい、こんなふうにしていわば人の手の及ばぬところに身を置いてしまうことを、確かに好まなかったからであった。それゆえ、彼はきいてみた。
「それは公に認められた地位なんですか?」
「いや」と、Kの言葉で先の話が腰を折られたように、画家は手短かに言った。しかしKは、相手を黙らせてしまうことを望まず、言った。
「で、そういうような認められていない地位のほうが認められているのよりも有力なことが、往々ありますね」
「それはまさしく私の場合がそうですね」と、画家は額に皺《しわ》を寄せてうなずいた。
「私は昨日工場主とあなたの事件について話しましたが、あの方が私に、あなたのことをお助けする気はあるか、とききましたので、『その方は一度私のところへ来ていただくといいんですが』と、お答えしました。で、あなたがこんなに早く来てくだすって、うれしいことです。事柄はあなたをたいへん悲しませているようですが、それについては私ももちろん不思議とは思いません。まず外套でもお脱ぎになったらどうですか?」
 Kはただほんの少しだけここにとどまるつもりだったが、画家のこのすすめは大いにありがたかった。部屋の空気が彼には次第にうっとうしくなってきたが、もうこれまでに何回か不思議に思いながら、部屋の隅《すみ》にある小さな、疑いもなく火のはいっていない鉄ストーヴを見ていたので、部屋の中のこの蒸し暑さは解《げ》しかねた。Kが外套を脱ぎ、上着のボタンもはずしていると、画家は弁解しながら言った。
「私は暖かくなけりゃいけないんです。だがここはたいへん気持がよろしいでしょう? 部屋はこの点、実に場所がいいんです」
 それに対してKは何も言わなかったが、彼を不快にしたのはほんとうは暖かさではなく、むしろこもった、息苦しくさせられるような空気のためであり、部屋はずっと前から換気されていないにちがいなかった。Kのこの気分のわるさは、画家が自分ではこの部屋で唯一の椅子にすわって画架の前に構えていながら、Kにはベッドの上にすわるようすすめたので、いよいよ強まったのだった。そればかりではなく、Kがベッドのほんの端にすわっている理由を画家は誤解したらしく、かえってKに、どうかお楽にしてくださいとすすめ、Kが躊躇《ちゅうちょ》しているので自分で出かけ、Kをベッドと布団のほうに深く押しこんだ。それからまた自分の椅子にもどり、ついに最初の具体的な質問を切り出したが、それはKにはほかのすべてのことを忘れさせたのだった。
「あなたは潔白ですか?」と、彼はきいた。
「そうです」と、Kは言った。
 この質問への返事はKを心からよろこばせた。ことにそれが、一人の私人に対して、したがってなんらの責任もなく言えたためであった。まだ誰も彼にこんなにあけすけにたずねたものはなかった。このよろこびを味わいつくすために、彼は言葉を足した。
「私はまったく潔白なのです」
「そうですか」と、画家は言い、頭を垂れて、考えこむ面持だった。突然また頭をもたげると、言った。
「もし潔白なら、事はきわめて簡単です」
 Kの眼差は曇った。この裁判所に信用が厚いと称する男は、無邪気な子供みたいなことを言う、と思った。
「私が潔白だからといって、事は簡単にはならないでしょう」と、Kは言った。それでも微笑せずにはおられず、ゆっくりと頭を振った。「裁判所が没頭しているたくさんの細かいことと関係がありますからね。ところで結局、本来は全然何もなかったはずなのに、どこからか大きな罪が出てくるのですよ」
「そう、そう、確かに」と、まるでKが自分の考えていることに要《い》らぬ邪魔をするとでもいうように、画家は言った。
「でもあなたは潔白ですね?」
「そりゃそうですよ」と、Kが言った。
「それがいちばん大切なことですからね」と、画家が言った。
 反駁《はんばく》などには影響される男でなかった。ただ、いかにも断固としてはいるものの、確信からそう言うのか、あるいはただ冷淡な気持から言うのかが、どうもはっきりとしなかった。Kはまずそのことを確かめようとし、そのため言った。
「あなたは確かに裁判所のことを私よりずっとよくご存じですし、私は、もちろんさまざまな人からですが、それについて聞いたこと以上にはほとんど知っていません。だがすべての人々の言うことは、軽率な告訴などは提起されないし、裁判所は一度告訴したとなると、被告の罪について固く確信し、この確信を取除くことは容易でない、ということではみな一致していますよ」
「容易でないですって?」と、画家はきき返し、片手を高く振った。
「いやけっして裁判所はそういう確信を取除かれませんね。この部屋で一枚のカンバスの上にすべての裁判官を並べて描き、あなたがそのカンバスの前で自分を弁護されたほうが、現実の裁判所でよりもずっと効果をあげられますよ」
「そうでしょう」と、Kはつぶやき、自分は画家をただちょっと探ってみようとしたのだったということを忘れていた。
 扉の向うでは、また一人の少女がききはじめた。
「ティトレリさん、お客さんはすぐ帰らないの?」
「みんな黙っていな!」と、画家は扉のほうに向って叫んだ。「お客さんとお話中だっていうことがわからないのか?」
 しかし、少女はこの返事では満足せず、またきいた。
「おじさん、その人のこと描《か》くの?」そして画家が答えなかったので、さらに言った。「ねえ、描かないでよ、そんないやなやつ」
 それに続いて、はっきりとはしない、賛成するような叫びが入り乱れて聞えた。画家は扉に飛んでゆき、ほんの少しだけ隙間《すきま》をあけると――嘆願するように差出された、合わさった少女たちの手が見えた――言った。
「静かにしないと、みんな階段から投げおろしてやるぞ。この階段にすわって、おとなしくしていなさい」
 おそらく子供たちはすぐには聞かなかったようで、画家は命令しなければならなかった。
「階段にすわるんだ!」
 するとやっと、静かになった。
「ごめんなさい」と、Kのところへまたもどってくると、画家は言った。
 Kは扉のほうにはほとんど向かず、相手が自分を守ろうと思っているのか、またどうやって守るつもりなのか、完全に画家にまかせていた。彼は今度もほとんど身動きせずにいたが、画家が彼のほうに身をかがめ、室外には聞かれないようにして彼の耳にささやいた。
「この女の子たちも裁判所に属しているんです」
「なんですって?」と、Kはきき、頭をわきに退《の》けて、画家をじっと見つめた。ところが画家のほうはまた椅子にすわり、半ば冗談、半ば説明のために、言った。
「まったくすべてが裁判所に属していますからねえ」
「そいつはまだ気がつきませんでした」と、Kは手短かに言った。画家の一般的な言いかたは、少女たちについてのヒントから不安な点をいっさい取除いていた。それでもKはしばらく扉のほうを見ていたが、その向うでは子供たちは今度は静かにして階段にすわっていた。ただ一人だけが、角材のあいだの裂目から一本の藁《わら》を突き出して、ゆっくりと上下に動かしていた。
「裁判所についての大要をまだご存じないようですね」と、画家は言い、両脚を大きくひろげ、爪先で床の上をぱちっと打った。「でもあなたは潔白なんだから、そんなものは必要としないでしょう。私ひとりであなたを助け出しますよ」
「どうやろうとおっしゃるんですか?」と、Kがきいた。「どんな論拠も裁判所にはむだだ、とほんの少し前ご自分で言われたばかりじゃありませんか」
「裁判所に持ち出されるような論拠だけがだめなんですよ」と、画家は言い、Kが微妙なある相違に気づいていないというように、人差指を上げた。「でも、この点について公の裁判所の背後、したがって評議室や廊下や、あるいはたとえばこのアトリエで試みることは、それとは事情が別なんです」
 画家の今言ったことは、Kにはもはやそれほど信じられぬことのようには思われず、それはむしろ、Kがほかの人々からも聞いたことと多くの一致を示していた。まったく、大いに有望でさえあった。裁判官がほんとうに、弁護士が言ったように容易に個人的な関係によって動かされるものならば、虚栄心の強い裁判官たちに対する画家の関係は特に重要であり、いずれにせよ過小に評価はできなかった。それからこの画家は、Kが次第に自分の身のまわりに集めた一群の援助者のうちでも、大いに板についていた。一度銀行で彼の組織力がほめられたことがあったが、まったくひとりになって自分だけに頼《たよ》らなければならない今では、それを極度にためしてみる絶好の機会を示すものだった。画家は、自分の説明がKに与えた効果を観察していたが、やがて少し不安らしい様子で言った。
「私がほとんど法律家のようにお話しすることを変にお思いじゃありませんか? 私がこんなに影響を受けているのは、裁判所の方々としょっちゅうお付合いをしているからなんです。もちろん、その利益もたくさんありますが、芸術的高揚は大部分消えてしまいますね」
「いったいどうやって初めて裁判官たちと結びつくようになられたのです?」と、Kは言ったが、画家をすっかり自分の仕事で使う前に、まずその信用を獲得しようと思ったのだった。
「非常に簡単なんですよ」と、画家は言った。「この結びつきは親譲りなんです。私の父がすでに裁判所の画家でした。それは、代から代へと伝えられてゆく地位なんです。このために新しい人間は使うことができません。すなわち、さまざまな役人の階級を描くためには、非常に多種多様な、そして何よりもまず秘密な規則が立てられているため、それらの規則はおよそある一定の家以外にはわかっていないのです。たとえば、あそこの引出しの中に父の手記がありますが、私は誰にも見せません。ところがそれを知っている者だけが、裁判官を描くことができるのです。けれど、私がこの手記をなくしても、私だけが自分の頭に畳んでいるたくさんの規則がありますので、誰も私の地位を私と争うことはできやしません。どんな裁判官も、昔の偉大な裁判官が描かれているように描かれたいのでして、それができるのは私だけです」
「それは羨《うらや》ましいかぎりですね」と、自分の銀行における地位を考えたKは、言った。「ではあなたの地位は微動もしないのですね?」
「そうです、微動もしません」と、画家は言い、誇らしげに肩をそびやかした。「それだからこそ、訴訟にひっかかっている哀れな男をそこここで助けてやろうという気にもなれるんですよ」
「で、どうやってそれができるんですか?」と、画家が今哀れな男と言ったのは自分ではないかのように、Kは言った。しかし画家は、話を脇道にそらさせてはいないで、言った。
「たとえばあなたの場合なら、あなたは完全に潔白なんだから、次のようなことをやってみようと思います」
 自分が潔白であることを繰返して言われることが、Kにはすっかりわずらわしくなっていた。こんなことを言って画家は訴訟がうまく片づくことを自分の援助の前提にしているが、もちろんそんなことでは援助も崩《くず》れてしまうだろうと、Kにはときどき思われるのだった。しかしこういう疑念があるにもかかわらず、Kは自分を抑《おさ》えて、画家の話すのをさえぎらなかった。画家の援助をはねつけるつもりはなく、援助してもらうことに決心していたのだったが、またこの援助のほうが弁護士のよりも危なげが少ないように思われた。このほうが悪気[#「悪気」に傍点]がなく、あけすけであるだけに、はるかに好ましかった。
 画家は椅子をベッドに近寄せて、声を低めて語り続けた。
「どんな種類の釈放を望まれるのか、まずお聞きしておくのをすっかり忘れていました。三つの可能性があって、ほんとうの無罪、外見上の無罪、それから引延ばし、となっています。もちろん、ほんとうの無罪がいちばんいいわけですが、ただ私にはこの種の解決をやれる力は少しもないのです。私の考えでは、ほんとうの無罪に持ってゆける力のある人は、およそ一人もいないと思います。この場合に決定力を持っているのはおそらく被告が潔白なことでしょう。あなたは潔白なのですから、おひとりであなたの潔白なことを頼りにすることも、実際できるわけです。それならあなたは私も要《い》らなければ、ほかのなんらの援助も要らないことになりますね」
 この整然たる言いかたは、初めはKを唖然《あぜん》とさせたが、次に彼は画家と同様声を低めて言った。
「あなたは矛盾に陥っておられる、と思いますね」
「なぜですか?」と、画家は我慢強くきき、にやにやしながら椅子にもたれかかった。この薄笑いがKに、画家の言葉の中にではなく、裁判手続きそのものの中に矛盾を見いだすことに今や取りかかっているのだ、という感情をいだかせた。それでもたじろいではおらずに、言った。
「あなたは初めには、裁判所にはどんな論拠も歯がたたないと言われ、次に、ただしこれは公開の裁判の場合だけのことで裏には裏があるのだ、と言われたが、今度は、潔白な者は裁判所に対してなんらの援助も要らない、とさえ言われるのです。この中にすでに矛盾があります。そのうえ、裁判官には個人的に働きかけることができる、と前には言われたのに、今度は前言を否定して、あなたの言われるほんとうの無罪はとうてい個人的な働きかけで手に入れることができないものだ、と言っておられる。その点に第二の矛盾があります」
「そんな矛盾はたやすく説明できますよ」と、画家が言った。「ここでは二つのちがった事柄が話に出ているので、法律に書いてあることと、私が個人的に経験したことと、それを混同しちゃいけませんよ。法律には、もっとも私は読んだことはありませんが、もちろん一面では、罪のないものは無罪とされる、と書いてあるが、他面、裁判官は手を使えば動かせる、とは書いてないでしょう。ところが私はその全然反対を経験したのでした。ほんとうの無罪宣告なんかひとつも知らないが、裁判官を動かした例はたくさん知っています。もちろん、私の知っている事件には無罪の場合がなかったのだ、ということもありえます。でもそんなことはありそうもないことじゃありませんか? あんなにたくさんの事件にただのひとつの無罪もないものでしょうか? すでに子供のときに、父親が家で訴訟のことを話すのを聞きましたし、父のアトリエにやってくる裁判官たちも、裁判のことを話したものです。私たちのサークルでは、およそほかのことなんか話さないのです。自分で裁判所に行く機会があるようになるとすぐ、私はそういう機会をいつも利用しつくし、無数の訴訟を重要な段階で傍聴し、眼で見ることのできるかぎりはそれを追っかけてきました。それなのに――私は告白しなければなりませんが――ほんとうの無罪宣告なんか出会ったためしがないのです」
「ただの一度も無罪宣告に出会ったことがないというわけですね」と、自分自身と自分の希望とに言い聞かすように、Kは言った。「ですがそのことは、裁判所について私がすでにいだいていた考えを裏書きするものです。ですから裁判所は、この面からも無用なわけですね。ただ一人の首斬《くびき》り人がいれば裁判所全体のかわりをすることでしょうよ」
「そう一般的な言いかたをしちゃいけません」と、画家は不満げに言った。「私はただ自分の経験のことを言ったんですから」
「でもそれで十分ですよ」と、Kは言った。「それとも以前に無罪宣告があったことを聞かれたことがあるんですか?」
「そういう無罪宣告は」と、画家は答えた。「もちろんあったはずです。ただ、それを確かめることがむずかしいだけです。裁判所の終局の決定は公開されませんし、それは裁判官にも近づきがたいものなので、そのため昔の判例についてはただ伝説が残っているだけなんです。こうした伝説はもちろんほんとうの無罪宣告を多数含んでさえいて、信じることはできましょうが、証明することはできないのです。それでも全然無視することはできないのでして、ある種の真実は確かに含んでいますし、またたいへん美しいので、私自身も、このような伝説を内容としているいくつかの絵を描いたようなわけです」
「単なる伝説じゃ私の意見を変えられませんね」と、Kは言った。「きっと裁判所の前に出たら、こういう伝説を引合いに出すわけにもいきますまいしね?」
 画家は笑った。
「そう、それはできませんね」と、彼は言った。
「それじゃ、そんなことについてしゃべるのも無益なわけです」と、Kは言い、画家の意見がありそうもないことだと思われ、またほかの意見と矛盾している場合でも、まずしばらくはみな受入れておこうと思った。画家が言ったことすべてを真相かどうか確かめたり、あるいは全然|反駁《はんばく》し去る時間は彼にはなかったし、たとい決定的ではないにせよなんらかのしかたで自分を援助するように画家を動かしたことで、上々のことだった。そこで彼は言った。
「それじゃほんとうの無罪宣告のことは除外するとして、もう二つの別な可能性のことを話すとしましょう」
「外見上の無罪宣告と引延ばし作戦とです。それだけが問題になりますね」と、画家は言った。「だが、その話をする前に、上着をお脱ぎになりませんか? きっとお暑いでしょう」
「そうですね」と、Kは言ったが、これまでは画家の説明だけにしか気を配っていなかったのに、今は暑さを思い出さされたため、ひどい汗が額の上ににじみ出てきた。「ほとんど耐えられませんね」
 画家は、いかにもKの不快がよくわかるというようにうなずいた。
「窓をあけてはいけませんか」と、Kがきいた。
「だめです」と、画家が言った。「ただガラス板をしっかりはめてあるだけですから、あけられないのです」
 Kはそこでやっと、画家か自分が突然窓ぎわに行き、窓をあけ放つという場合のことを今までずっと期待していたのだ、ということに気がついた。実は、霧でも口いっぱいに吸いこもうと待ちかまえていたのだった。この部屋で空気から完全に遮断《しゃだん》されているという気持が、彼に眩暈《めまい》を覚えさせた。自分のそばの羽根布団の上を軽く手でたたき、弱々しそうな声で言った。
「これじゃまったく気分もわるいし、健康にもわるいでしょうね」
「いや、そんなことはありません」と、画家は自分の窓を弁護するために言った。「窓があかないため、ただのガラス一枚だけなんですが、この部屋では二重窓よりもよく暖かさが保たれます。たいして必要じゃないんですが、換気をしようと思えば、材木の隙間のどこからでも空気がはいってきますんで、扉をひとつか、あるいは両方でもあければいいんです」
 Kはこの説明で少し安心させられ、画家の言う第二の扉はどこにあるかと、あたりを見まわした。画家はその有様に気づき、言った。
「扉はあなたの後ろにありますが、ベッドでふさがなけりゃならなかったんです」
 今やっとKは壁の小さな扉を見た。
「この部屋ではすべてがアトリエにしちゃあんまり小さすぎるんです」と、Kの非難に先まわりしようとするように、画家が言った。
「できるだけうまく配置をしなけりゃならなかったんです。扉の前にベッドじゃ、もちろんたいへんまずい場所にあるわけです。たとえば、私が今|描《か》いている裁判官なども、いつもベッドのそばの扉からはいってきます。そしてこの扉の鍵も渡してありますので、私が家にいなくとも、このアトリエにはいって私を待てるわけです。ところが彼は、たいてい私がまだ寝ているうちに朝早くやってくるんです。ベッドのそばの扉があけば、もちろんぐっすり寝込んでいても起されてしまいますよ。朝早く私のベッドに乗る裁判官を迎えるときの私の悪口|三昧《ざんまい》をお聞きになれば、あなたは裁判官に対する畏敬《いけい》の念などなくしてしまうことでしょう。もちろん鍵を取上げることはできましょうが、そうすりゃいっそう不快な目にあうだけです。なにしろこの部屋じゃ、どんな扉もほんの少し手を下すだけでわけなく蝶番《ちょうつがい》からはずせますからね」
 この話のあいだじゅう、上着を脱ぐべきかどうか、Kは考えていたが、もしそうしなければ、この部屋にこれ以上とどまることはできない、ととうとう見てとったので、上着を脱いだが、用談が終ったらまた着ることができるように、膝《ひざ》の上にのせた。上着を脱ぐやいなや、少女たちの一人が叫んだ。
「上着を脱いじゃったわよ!」そして、この見ものを自分でも見ようとして、子供たちはみな隙間にひしめき集まった。
「子供たちはつまり」と、画家が言った。「私があなたのことを描くので、あなたが上着を脱がれたのだ、と思いこんでいるんです」
「そうですか」と、Kは言ったが、腕まくりになってすわっているものの、前よりたいして気持がよくならないので、相手の言葉をほとんどおもしろいとも思わなかった。まるでぶつぶつ言うように、彼は言った。
「ほかの二つの可能性というのはなんでしたっけね?」
 その言いかたをまたもう忘れていたのだった。
「外見上の無罪宣告と引延ばし作戦とです」と、画家は言った。「どちらを選ぶかは、あなた次第です。いずれにせよ私が援助すればできることですが、もちろん骨が折れぬわけじゃありません。この点のちがいというのは、外見上の無罪宣告のほうは一時に集中した努力が必要ですし、引延ばしのほうはずっと少ないが、長く続く努力が必要だ、というところにあります。そこでまず外見上の無罪宣告のほうです。あなたがこれをお望みと言われるなら、私は全紙一枚にあなたの潔白なるゆえんの証明書をあげます。こういう証明書の型は父から伝えられていて、全然文句をつけられないものです。ところでこの証明書を持って、私の知っている裁判官のところをまわり歩くんです。そこでたとえば、今描いている裁判官が今晩モデルになりにここへ来たときに、その証明書を見せてやる、ということから始めるんです。私は彼にその証明書を見せ、あなたが無罪だということを言明し、あなたの無罪を保証してやります。だがそいつは、単に外面的ではなくて、ほんとうの、拘束力のある保証なんですよ」
 画家の眼つきの中には、Kが自分にこんな保証をするという重荷を負わせようとしているのだ、と言わんばかりの非難めいたものが浮んでいた。
「まったく大いにありがたいことです」と、Kは言った。「で、裁判官があなたを信じても、私にはほんとうの無罪を宣告してくれないんじゃありませんか?」
「すでに申しましたように」と、画家は答えた。「もとより、どの裁判官も私を信じてくれるかどうかはまったく確実なわけでなく、たとえば多くの裁判官は、あなたご自身をお連れすることを要求するでしょう。そうしたらあなたには一度ごいっしょに行っていただかなければなりません。もちろんこうなれば事はすでに半ばはうまくいったようなものです。ことに私はもちろん、問題の裁判官のところでどう振舞わなけりゃならないかっていうようなことは、前もって詳しくお教えしておきますからね。それよりまずいのは、――これも起るかもしれないんですが――私のことを初めから受けつけてくれない裁判官たちの場合です。こういう連中は、もちろん私はいろいろやってはみますが、あきらめることで、なに、そうやっても大丈夫なんです。なにしろ個々の裁判官が事を決定するわけじゃありませんからね。さてこの証明書に十分な数の裁判官の署名をもらったら、この証明書を携えて、まさにあなたの訴訟をやっている裁判官のところへ行きます。おそらくその署名ももらえましょうが、そうなれば万事はそれまでより少しは早く運んでゆくというものです。だがこうなればもう一般にはたいして妨害もなく、被告たちにとっていちばん確信の持てる時期なんです。変ではありますがほんとうのところ、人々はこの時期のほうが無罪宣告の後《あと》よりもいっそう確信が持てるものです。今やもう特別の骨折りなんか要りません。裁判官は証明書に相当数の裁判官たちの保証を得たわけですし、心配なくあなたに無罪を宣告できますし、もちろんさまざまな形式を踏んでからのことですが、私やほかの知人たちにもありがたいことに、疑いもなく無罪宣告をすることでしょう。ところであなたは裁判所を出て、自由というわけです」
「そうなれば自由というわけですね」と、Kは躊躇《ちゅうちょ》しながら言った。
「そうです」と、画家は言った。「しかしただ外見上だけ自由、あるいはいっそううまく言えば、しばらくのあいだの自由なんです。つまり、私の知人であるいちばん下のほうの裁判官たちは、最後的に無罪を宣告する権限がなく、そういう権限はただいちばん上の、あなたにも私にも、私たちすべてにとってまったく手の届かない裁判所だけが握っているのです。そこがどういうものかは、私たちにはわかりませんし、ついでに申しておけば、知ろうとも思わないんです。そこで、告訴から解放する大きな権限は私たちの裁判官も持っていませんが、彼らは確かに、告訴からゆるめる権限は持っているんです。すなわち、あなたがこういうふうにして無罪を宣告されると、あなたは一時告訴から離れますが、告訴はその後もあなたの上に漂っていて、上からの命令があり次第、すぐに効力を発生するんです。私は裁判所と非常に深い結びつきにありますから、またあなたに申上げられますが、裁判所事務局に対する規定中には、ほんとうの無罪宣告と外見上のとの区別は、純粋に外面的に示されているだけです。ほんとうの無罪宣告の場合には、訴訟文書は完全に廃棄され、手続きからすっかり姿を消し、告訴だけでなく、訴訟も、無罪宣告も取消され、いっさいが取消されるのです。外見上の無罪宣告となるのと別です。文書について言うと、無罪の証明、無罪の宣告、そして無罪宣告の理由についていよいよ文書がふえるという以外の変化は起らないのです。ところで文書は依然として手続き中ですから、裁判所事務局間の絶え間のない交渉によって要求されるままに上級各裁判所に送りこまれ、下級裁判所に差戻しになり、大小の振れ、長短の滞りによって上下に揺れるわけです。これらの道程は予測がつきません。外側から見ると、ときどきは、いっさいがずっと前から忘れられ、文書は紛失し、無罪宣告は完全なもののように見えます。だが、事情に明るい人間ならば、そんなことは信じません。文書は紛失したわけでなく、裁判所が忘れることなどありえません、いつか――誰もそれを期待しないわけですが――裁判官の誰かが文書を注意深く手に取り、この事件においては告訴がまだ生きていることを認め、即時逮捕を手配します。ここで私は、外見上の無罪宣告と新しい逮捕とのあいだには長時間が経過するということを認めたわけでして、それはありうることで、私もそういう場合をいろいろ知ってはおりますが、無罪を宣告された者が裁判所から家に帰ってみると、彼をまた逮捕するという命令を受けた人間が家で待っている、ということも同じようにありうることなんです。こうなればもちろん、自由な生活は終りです」
「そして訴訟は改めて始まるんですか?」と、Kはほとんど信じられないできいた。
「もちろん」と、画家は言った。「訴訟は改めて始まるんですが、また前と同様に外見上の無罪宣告を受ける可能性があるわけです。また全力を集中すべきで、けっして降参してはいけません」
 最後の言葉を画家が言ったのは、おそらく、少しげっそりしてしまったKが彼に与えた印象を考慮に入れてのことであった。
「ですが」と、画家が何か暴露することに先まわりするかのように、Kはきいた。「第二の無罪宣告を受けることは、最初の場合のよりもむずかしいんじゃありませんか?」
「この点では」と、画家が答えた。「なんともはっきりしたことは言えません。あなたはきっと、裁判官たちが第二の逮捕というんで、被告のために判決でなんらかの影響を受けるのではないか、とおっしゃるんでしょう? そういうことはありません。裁判官たちはすでに最初の無罪宣告の際にこの逮捕を予見していたのです。ですからこういう状態はほとんど影響力を持つことはありません。しかし、そのほかの無数の理由から、裁判官たちの気持や事件に対する法律的判断が別になっている場合もありますし、第二の無罪宣告のための努力は、変化した情況に適合させられなければなりませんし、一般的に言って、最初の無罪宣告の前と同じように力を尽してやられなくてはなりません」
「でも、この第二の無罪宣告もまた、終りというわけじゃないんでしょうね」と、Kは言い、それを拒むかのように頭をめぐらした。
「もちろんそうじゃありません」と、画家は言った。「第二の無罪宣告には第三の逮捕が続き、第三の無罪宣告の次には第四の逮捕と続いてゆきます。そのことは外見上の無罪宣告という言葉の中に含まれているわけです」
 Kは黙っていた。
「外見上の無罪宣告は、あなたには明らかに有利でないように見えますね」と、画家が言った。「おそらくあなたには引延ばしのほうがいっそうよくあてはまるでしょう。引延ばしなるものの本質を説明してさしあげましょうか?」
 Kはうなずいた。画家はゆったりと椅子によりかかり、寝巻のシャツをはだけ、片手をその中に差しこんで、それで胸と脇腹《わきばら》とをなでていた。
「引延ばしというのは」と、画家は言い、完全に適切な説明を捜しているようにしばらく前方を見つめるのだった。「引延ばしというのは、訴訟が引続いていちばん低い訴訟段階に引留められることを言うのです。これをうまくやるには、被告と援助者、特に援助者のほうが、裁判所と絶えず個人的な接触を保つことが必要です。繰返して申上げますが、この場合には外見上の無罪宣告を受けるときのような労力は必要ではありませんが、もっとずっと注意力が必要です。訴訟を絶えず眼から離さぬようにし、担当裁判官のところへ規則的に時間を隔て、またさらに特別なことのあるときには出向き、こういうふうにして親しみを持たせるように努めなければなりません。裁判官と個人的に知り合っていなければ、知合いの裁判官を通じて圧力をかけてやるとともに、そうだからといって直接の話し合いをあきらめてしまわないことです。この点を怠らなければ、訴訟は最初の段階を超《こ》えて進むことはないということを、十分確実に認めることができます。訴訟は終るわけでありませんが、被告は自由な場合とほとんど同じように有罪判決を受ける心配がありません。外見上の無罪宣告に比べて、引延ばしには、被告の将来がずっと安定しているという長所があります。つまり突然の逮捕に驚かされるというようなことがなく、ほかの形勢がきわめて不利のような場合であっても、外見上の無罪宣告を受ける場合につきもののさまざまな努力や焦慮を引受けねばならないと心配する必要はありません。もちろん引延ばしも被告にとって過小には考えられないところのある種の短所を持っています。こう言っても、被告がけっして自由にならないということを考えているのではありません。それは外見上の無罪宣告の場合にもほんとうのところでは同じだからです。私の言うのは、別な短所なのです。少なくとも外見的な理由がなければ、訴訟は停滞することはできません。それゆえ、訴訟において外面に向って何事かが起らなくてはなりません。それでときどきさまざまな指令が発せられなくてはなりませんし、被告が尋問され、審理が行われるとか、そのほかのことがなされなければならないんです。そこで訴訟はしょっちゅう、人為的に閉じこめられた小さな範囲で引きまわされなければなりません。これはもちろん、被告にある不快を伴うものではありますが、それもまたあなたはあまり思いすごしされてはいけません。実のところ万事はただ外面的なものでして、たとえば尋問もまったく簡単なものにすぎず、出かけてゆく暇や気持がなければ、断わることもできますし、ある裁判官たちの場合には、長い時期にわたってのさまざまな指示をあらかじめ相談してきめることもでき、本質的にはただ、被告なんだからときどき裁判官のところへ出向かなければならない、というだけのことです」
 最後の言葉がまだ語られているうちに、Kは上着を腕にかけて、立ち上がった。
「立っちゃったわよ!」と、すぐさま扉の外で叫び声がした。
「もうお帰りですか?」と、自分も立ち上がった画家が言った。「きっと空気のせいで部屋にはいたたまれなくなられたんでしょう。たいへん残念なことです。まだたくさんお話しせねばならなかったのに。もっと手短かに申上げねばならないところでした。でも、おそらくおわかりになっていただけたものと思います」
「ええ、そうですとも」と、Kは言ったが、聞くために無理にしていた努力で、頭が痛かった。こう保証してやったのに、画家は、帰路のKに慰めを与えてやろうとするように、これまで言ったことをみなもう一度取りまとめるため、言うのだった。
「二つの方法には、被告の有罪判決を妨げるという共通点があります」
「しかし、ほんとうの無罪宣告というものも妨げてしまいますね」と、自分がそれに気づいたことを恥じるように、Kは低い声で言った。
「あなたは事の核心を握られました」と、画家は早口に言った。
 Kは外套《がいとう》に手をかけたが、着る決心がつきかねていた。みんな引っつかんで、新鮮な空気の中へ駆けてゆくことがいちばんしたく思われた。子供は早まって、あのおじさんが着物を着る、と互いに叫び合っていたけれども、Kに着物を着させるにはいたらなかった。Kの気持をなんとか解釈することが画家には大切だったので、言った。
「私の提案についてまだ決心されていらっしゃらないようにお見受けします。それはごもっともだと思います。私も、すぐ決心することはなさらぬようにとさえ、おすすめしたのですからね。長所と短所とが紙一重なんです。万事詳しく見積ってみなければなりません。もちろんあまり時間を失うことはできませんが」
「またすぐまいります」と、Kは言い、急に決心して上着を着、外套を肩の上にひっかけ、扉のほうに急いだが、扉の後ろでは子供たちが叫びはじめた。Kには、叫んでいる少女たちが扉を通して見えるような気がした。
「だがお約束は守っていただきます」と、Kを送ってついては来なかったが、画家は言った。「でないと、自分から伺いに銀行に行きますよ」
「どうか扉をあけてください」と、Kは言い、把手《とって》を引っ張ったが、手ごたえを感じたので、少女たちが外でしっかと押えているのがわかった。
「子供たちがうるさいですが、いいですか?」と、画家はきいた。「むしろこの出口をお使いになったらどうですか」と、ベッドの後ろの扉を示した。
 Kは合点とばかりベッドまで飛んでもどってきた。ところがそこの扉をあけもしないで、画家はベッドの下にもぐりこみ、下からきいた。
「もうちょっとお待ちください。絵をひとつ見ていただけませんか? なんならあなたにお譲りしてもいいですよ」
 Kは、無愛想にもできない、と思った。なにしろ画家は自分のことを引受けてくれ、今後も援助すると約束もしてくれたのだが、自分が忘れっぽいため援助に対する報酬のことをも全然言ってはなかったし、無下《むげ》には断われなかった。そこで、アトリエから出ようと落着かずにうずうずしてはいたが、絵を見せてもらうことにした。画家はベッドの下から一束の額縁のない絵を取出したが、ひどく埃《ほこり》が積っていて、画家がいちばん上の絵から埃を吹き払おうとすると、しばらくは埃が眼の前にもうもうと立って息もつけなかった。
「荒野の風景です」と、画家は言い、Kにその絵を手渡した。二本の弱々しげな樹が描かれていて、はるかな距離をおいて黒ずんだ草の中に立っていた。背景は多彩な日没の光景だった。
「いいですね」と、Kは言った。「いただきましょう」
 Kは考えもなしにひどく手短かに言ったが、画家がその言葉を別にわるくもとらず、二番目の絵を床から取上げたので、ほっとしたのだった。
「これはその絵とは反対傾向の作品です」と、画家が言った。反対傾向の作品のつもりだったのだろうが、最初の絵に比べて少しのちがいも認められず、ここには樹々があり、ここには草があり、そこには日没がある、というようなものだった。だがKにはそんなことはどうでもよかった。
「美しい風景ですね」と、彼は言った。「両方いただき、事務室にかけましょう」
「モチーフが気に入られたようですね」と、画家は言い、第三の絵を持ち出し、「幸いなことに、ここにも同じような絵があります」
 ところが同じようなどころでなく、むしろ完全に同じ荒野の風景だった。画家は、古い絵を売るこの機会を存分に利用したのだった。
「これもいただきましょう」と、Kは言った。「三枚でいかほどでしょう?」
「ま、その話はこの次にしましょう」と、画家は言った。「お急ぎのようですし、私たちはどうせ連絡があるわけですからね。ともかく、絵が気に入られてうれしいことです。ここの下にある絵をみな差上げましょう。みな荒野の風景ばかりですが、もうこれまでにたくさんの荒野の風景を描きました。多くの人は、陰鬱《いんうつ》なのでこんな絵はいやだ、と拒まれますが、でもほかの人々には、あなたもその一人ですが、その陰鬱なのをこそ好かれます」
 しかし、Kは乞食画家の職業体験などには全然興味がなかった。
「みんな包んでください!」と、画家の話をさえぎって、彼は叫んだ。「明日小使が来て、持っていきますから」
「いや、それにはおよびません」と、画家が言った。「おそらく、すぐあなたと行ってくれる運び手をご用だてできるでしょう」
 そしてついにベッドの上に身をかがめると、扉をあけた。
「ご遠慮なくベッドの上にお乗りください」と、画家は言った。「ここに来る人は誰でもそうするんですから」
 こうすすめられなくともKも遠慮をするつもりはなく、片足を羽根布団の真ん中に置いていたが、あいた扉を通して向うを見て、足をまた引っこめた。
「あれはなんです?」と、彼は画家にきいた。
「何を驚いておられるんです?」と、画家のほうもKの有様に驚いて、きいた。「あれは裁判所事務局ですよ。ここに裁判所事務局があることをご存じなかったんですか? 裁判所事務局はほとんどどの屋根裏にもありますから、どうしてここにだけあってはならないということがありましょう? 私のアトリエもほんとうは裁判所事務局のものなんですが、裁判所が私に用だててくれているんです」
 ここに裁判所事務局を見つけたことにKはたいして驚きはしなかったが、主として自分自身、自分の迂闊《うかつ》さに驚いたのだった。しょっちゅう心構えをしていて、けっして驚かされたりしないで、左手には裁判官が自分のすぐそばに立っているのに、ぼんやり右手をながめたりしないというのが、被告の態度の根本原則だ、と彼は思っていたが、――まさにこの根本原則にしょっちゅう抵触するのだった。彼の前には長い廊下が延びており、そこから風が吹いてくるが、それに比べるとアトリエの空気のほうがまだしもさわやかに思われた。ベンチが廊下の両側に置かれ、Kの関係している事務局の待合室とそっくりそのまま同じだった。事務局の配置には細かな規定があるように思われた。今のところここでは、訴訟当事者たちの往来はたいしてしげくはなかった。一人の男がベンチの上で半ば横になり、顔をベンチの上に置いた両腕に埋め、眠っているらしかった。もう一人の男が廊下の奥の薄暗がりの中に立っていた。Kはベッドを乗り越えたが、画家は絵を持って彼に続いた。間もなく一人の廷丁《ていてい》に出会ったが、――Kは今では、私服の普通のボタンに混じってついている金ボタンですぐどんな廷丁でもそれとわかるのだった。――画家はその男に、絵を持ってこの方にお供するように、と頼んだ。歩いてゆくと、Kは次第に頭がぐらぐらしてきて、ハンカチを口に押し当てていた。出口のすぐそばまで来たとき、少女たちが彼らに向って殺到してきたが、これで見るとこの連中にかかってはやはりKも免れることができなかったのだった。子供たちは明らかにアトリエの第二の扉があけられたのを見て、こちら側からはいりこもうとしてまわり道をしたのだった。
「もうお供できませんよ!」と、子供たちに押しつけられて笑いながら、画家が叫んだ。
「さようなら! あまり長く考えこんでいないようにしてください!」
 Kは二度と画家のほうを振向かなかった。
 小路に出て、出会った最初の馬車に乗った。廷丁を追い払うことが彼には問題だった。普通ならばおそらく誰にも目だつような男ではないが、廷丁の金ボタンが絶えず眼にはいってたまらなかった。いかにも職務大事といわんばかりに、廷丁は御者台にすわろうとした。だがKは彼を追い払っておろした。Kが銀行の前に着いたときは、正午はもうとっくに過ぎていた。絵は車の中にほっぽらかしにしたかったが、いつかの機会に画家に向って、この絵を持って帰れと言う必要に迫られることがあろうか、と思った。そこでそれを事務室に持ちこませ、少なくともここ数日は支店長代理の眼を逃れることができるように、机の一番下の引出しに鍵をかけて入れた。

第八章 商人ブロック・弁護士の解約

 ついにKは、弁護士に自分の代理をさせることをやめる決心をした。こういうふうに振舞うことが果して正しいだろうか、という疑念は根絶できなかったが、それが必要であるという確信が勝ちを占めた。弁護士のところへ行こうという日になって、その決心は彼から仕事する能力を大いに奪い、ことに遅い仕事の運びのため、きわめて遅くまで事務室に居残らなければならず、やっと弁護士の扉《とびら》の前に立ったときは、もう十時を過ぎていた。ベルを鳴らす前に、電報か手紙で解約するほうがよくはないか、面談するとなるときっと非常につらいだろう、と考えてみた。それでもKはついに面談をやめようとは思わなかった。ほかの形で解約すれば、それはただ黙ってか、あるいはごくわずかな形式的な言葉で受入れられるだろうし、レーニにいくらかでも探ってもらわなければ、弁護士がどうやってこの解約を受取ったか、またまんざらつまらぬものでもない弁護士の意見によれば、この解約がどんな結果を生じるか、知りようがなかったからである。ところが弁護士がKに向い合ってすわって解約を不意に聞くとなれば、たとい弁護士がたいして心中を打明けなくとも、その顔つきや態度から自分の欲するすべてのことを容易に推量することができるだろう。さらに、弁護士に弁護をまかせ、自分の解約を引下げるほうがよいと確信させられる場合もないとは言えなかった。
 弁護士の扉のベルを鳴らしても、最初は例のごとくむなしかった。
「レーニのやつ、もっと早くできようものを」と、Kは考えた。それでも、寝巻姿の男かあるいはほかの誰かが自分をわずらわすことになるのであれ、いつものようにほかの依頼人がはいりこむのでなければ、それだけでもまだましだった。Kは二度目にボタンを押しながらもうひとつの扉を振向いてみると、今日はこれもしまったままだった。ついに弁護士の扉ののぞき窓に二つの眼が現われたが、レーニの眼ではなかった。誰かが扉をあけたが、しばらくはまだ扉を押えていて、居間のほうに向って叫んだ。
「あの人だよ!」
 そして、それからやっと完全にあけた。Kは、その背後のほかの居間の扉で鍵《かぎ》があわててしめられるのを聞きつけたので、扉にぶつかっていった。そこで扉がついにあくと、まっすぐに控室に飛びこみ、部屋のあいだに通じている廊下をレーニが下着姿で逃げてゆく有様を見た。扉をあけた男の警告が向けられたのは、彼女にだったのだ。しばらくその後ろ姿を見ていたが、やがて戸をあけた男のほうに向き直った。顎《あご》も頬《ほお》もひげ一面の小柄な痩《や》せた男で、手に蝋燭《ろうそく》を持っていた。
「ここに雇われているんですか?」と、Kはきいた。
「いや」と、男は答えた。「この家の者ではありません。弁護士さんは私の代理人でして、ある法律問題のためにここに来ているんです」
「上着も着ておられませんが?」と、Kはきき、手振りでその男のしどけない身なりを指さした。
「ああ、お許しください!」と、男は言い、彼自身初めて自分の格好をながめるように、蝋燭で自分を照らした。
「レーニはあなたの恋人ですか?」と、Kは手短かにきいた。両脚を少し開き、帽子を持った両手を背後で組んでいた。頑丈《がんじょう》な外套《がいとう》を着ているだけで、この痩せた小男には大いに優越しているように感じられた。
「とんでもないことです」と、相手は言い、驚いて身を守るように手を顔の前にあげた。「どうして、どうして、いったい何を考えておられるんですか?」
「まあ信用しておきましょう」と、Kはにやにやしながら言った。「それはそうとして――いらっしゃい」
 彼は帽子で男に合図をし、先に立ってゆかせた。
「なんというお名前ですか?」と、歩きながらKはきいた。
「ブロック、商人のブロックです」と、小男は言い、こう名乗りながらKのほうに向き直ったが、Kは相手を立ち止らせてはおかなかった。
「ほんとうのお名前ですか?」と、Kはきいた。
「そうですとも」というのが返事だった。「どうしてお疑《うたぐ》りになるんですか?」
「お名前をお隠しになる理由がおありだろうと思いましたんでね」と、Kは言った。
 彼はきわめて自由な気分だったが、こんなふうになれるのは、普通ならばただ、見知らぬ土地で卑しい連中と話していて、自分自身に関することはいっさい自分の胸に納めておき、ただ落着きはらって他人の利害のことをしゃべり、それによって相手をおだて上げたり、また思いのままに突き落すことができるときにだけやれることである。弁護士の事務室の扉のところでは立ち止り、扉をあけ、おとなしくついてきた商人に向って叫んだ。
「そんなに急がないでください! ここを照らしてくれませんか?」
 Kは、レーニがこの部屋に隠れていまいかと思い、商人に隅々《すみずみ》まで捜させたが、部屋はからっぽだった。裁判官の絵の前でKは、商人の後ろからズボンつりをつかんで押しとどめた。
「あれを知っていますか?」と、彼はきき、人差指で高いところを示した。
 商人は蝋燭を掲げ、眼をぱちくりさせながら見上げて、言った。
「裁判官です」
「位の高い裁判官ですか?」と、Kはきき、その絵が商人に与えた印象を観察するため、商人の側にまわった。商人は感嘆しながら見上げていた。
「位の高い裁判官ですね」と、彼は言った。
「あなたもたいして眼がきかないですね」と、Kは言った。「位の低い予審判事のうちでもいちばん低いやつですよ」
「ああ、思い出しました」と、商人は言い、蝋燭を下げ、「私もそんなことを聞きましたっけ」
「そりゃあもちろんね」と、Kは叫んだ。「すっかり忘れていました、もちろんあなたもお聞きになっているにちがいありませんね」
「だが、なぜもちろんなんですか、いったいなぜ?」と、Kに両手で追い立てられて扉のところまで動いてゆきながら、商人はきいた。廊下に出て、Kは言った。
「どこにレーニが隠れているかご存じでしょう?」
「隠れているですって?」と商人は言った。「そんなことはわかりませんが、台所に行って、弁護士さんにスープをつくっているのでしょう」
「なぜすぐおっしゃってくださらないのです?」と、Kがきいた。
「あなたをお連れしようと思ったのに、私のことを呼びもどされたものですから」と、矛盾する命令に混乱させられてしまったように商人は答えた。
「きっとうまくやったと思っているんでしょう」と、Kは言った。「とにかく連れていってください!」
 台所にKは行ったことはなかったが、驚くほど大きく、設備が整っていた。炉だけでも普通の炉の三倍も大きかったが、入口のところにかかっている小さなランプだけで台所が照らされているので、ほかのものは細かなところがわからなかった。炉のそばにレーニは例のごとく白いエプロン姿で立ち、アルコールランプの上にかかっている鍋《なべ》に卵を流しこんでいた。
「今晩は、ヨーゼフ」と、横眼を使いながら彼女は言った。
「今晩は」と、Kは言い、片手でわきにある椅子を示し、商人にすわるように合図をすると、彼は言われるままにすわった。だがKはレーニのすぐ後ろに行き、肩の上に身をかがめ、きいた。「あの男は誰なの?」
 レーニは片手でKを抱き、もう片方の手でスープをかきまぜながら、彼を引きつけて、言った。
「ブロックっていう、かわいそうな人で、貧弱な商人なのよ。まああの人を見てごらんなさい」
 二人は振返った。商人はKに示された椅子にすわり、もう要《い》らなくなった蝋燭の光を吹き消し、煙を防ごうと指で燈心を押えていた。
「君は下着姿だったぜ」と、Kは言い、手で女の頭をまた炉のほうに向けた。女は黙っていた。
「恋人なのかい?」と、Kがきいた。女はスープ鍋をつかもうとしたが、Kはその両手を取って、言った。
「返事をするんだ!」
「事務室へいらっしゃいよ、みんなお話ししてあげるわ」と、女は言った。
「いや」と、Kは言った。「ここで話してもらいたいね」
 女は彼にしがみつき、接吻《せっぷん》しようとした。だがKはそれを払いのけると、言った。
「今、接吻なんかしてもらいたくはない」
「ヨーゼフ」と、レーニは言い、懇願するようにだが真っ向からKの眼を見た。「ブロックにやきもち[#「やきもち」に傍点]なんか焼いちゃいけないわ。――ルーディ」と、商人のほうを向いて言うのだった、「あたしを助けてちょうだい。ねえ、あたし疑られているのよ、蝋燭なんか置いて」
 商人は気をつけていなかったと思われるのだったが、まったくよく事情をのみこんでいた。
「なぜあなたがやきもちなんか焼くのか、私にもわかりませんね」と、ほとんど刃向う様子もなく言った。
「私にもほんとうはわかりませんよ」と、Kは言い、微笑しながら商人を見つめた。
 レーニは高笑いして、Kが気がつかないでいるのを利用して、彼の腕の中にはいりこみ、ささやいた。
「もうあんな人放っておきなさいな。どんな人かごらんになったでしょう。あたしが少しあの人の面倒をみるのは、弁護士の大顧客《おおとくい》だからで、ほかの理由なんかないわ。ところであなたは? 今日弁護士さんとお話しになるつもり? 今日はたいへんおわるいんだけれど、もし会いたいというんなら、取次ぎますわ。でも今晩はずっとあたしのところにいてよ、ねえいいでしょう。もうずっとここにはいらっしゃらないんだもの。弁護士さんさえあなたのことをきいたわ。訴訟のことを粗末にしちゃだめよ。あたしも、聞いたことをいろいろお話しするわよ。でもまず最初に外套《がいとう》をお脱ぎなさいってば!」
 彼が外套を脱ぐのを助け、彼から帽子を取上げ、それを持って控室に駆けてゆき、駆けてくると、スープを見た。
「あなたのことを先に取次ごうかしら、それとも先にスープを弁護士さんのところへ持ってゆこうかしら?」
「まず取次いでくれたまえ」と、Kは言った。
 彼は腹をたてていた。ほんとうは、自分のこと、ことに疑問がある解約のことをレーニと詳しく相談しようと思っていたのだったが、商人がいるのでそんなことをする気がなくなってしまった。しかし、こんな微々たる商人にすっかり邪魔にはいられるにはあまりに自分の問題は重要なように思われたので、もう廊下に出ていたレーニを呼びもどした。
「やっぱりまずスープを持っていってくれたまえ」と、彼は言った。「僕と話すためにも元気をつけておかなきゃいけないし、きっとほしいんだろう」
「あなたも弁護士さんの依頼人でいらっしゃるんですね」と、確かめるように商人は部屋の隅から小声で言った、だが、それはKによくは取られなかった。
「あなたとなんの関係があるんです?」と、Kが言うと、レーニも言った。
「あんたは黙っていらっしゃい。――じゃ、最初にスープを持ってゆくわ」と、レーニはKに言い、スープを皿に注《つ》いだ。「でも心配だわ、すぐ眠ってしまうのよ。食事がすむと、すぐ眠ってしまうの」
「僕があの人に言うことを聞いてくれれば、眠りはしないさ」と、Kは言い、何か重大なことを弁護士と折衝するつもりであることを見抜かせようとし、いったい何なのか、レーニにたずねさせ、そこで初めて彼女の助言を求めようと思った。ところが女は、ただ言われた命令をきちんと果しただけだった。盆を持って彼のそばを通り過ぎるとき、故意に軽く彼にぶつかり、ささやいた。
「スープを飲み終ったら、できるだけ早くあなたを取返せるように、あなたのことを取次ぐわ」
「行きたまえ」と、Kは言った。「行きたまえ」
「もっと親切にするものよ」と、女は言い、盆を持ったまま扉のところでもう一度、すっかりこちらを向いた。
 Kは女の後ろ姿を見送った。弁護士を断わるという決心が、今は最後的にきまった。あらかじめレーニとそれについて話すことがもうできなかったことも、きっとかえってよかっただろう。女には事柄の全体に対する十分な見通しがほとんどついていないので、きっとやめるようにすすめたことだろうし、おそらくはKも今回はほんとうに解約を思いとどまったことだろう。そして依然として疑惑と不安とにとどまることになり、しかもこの決心はあまりに動かせないものなので、結局はしばらくしてこの決心を実行することになっただろう。しかし、決心が実行されるのが早ければ早いほど、損害は避けられるわけだった。ところで商人もおそらくそれについて何か意見があるかもしれない。
 Kは振返ったが、商人はそれに気づくやいなや、すぐ立ち上がろうとした。
「どうかそのままにしてください」と、Kは言い、椅子をひとつ商人のそばに置いた。
「ずっと前から弁護士さんに依頼なすっていらっしゃるんですか?」と、Kはきいた。
「そうです」と、商人は言った。「古くからの依頼人です」
「何年ぐらい、あの人に弁護をやってもらっているんです?」と、Kはきいた。
「どういう意味かわかりかねますが」と、商人は言った。「商売上の法律事件では――私は穀物商をやっていますんで――あの弁護士さんに、商売を始めたときから弁護をやってもらっています。それでおよそ二十年来のことですが、私自身の訴訟のほうは、あなたはきっとこちらのことをおっしゃっているんでしょうが、やっぱり初めからのことで、もう五年以上にもなります。そうです、五年はたっぷり越えました」
 そして古い紙入れを取出して、言葉を続けた。
「ここに全部書きつけてあります。お望みなら、はっきりした日付を申上げましょう。全部が全部覚えていることはむずかしいですからね。私の訴訟はどうももっと前から続いています。妻が死んですぐ始まったのですからね。で、もう五年以上にもなります」
 Kは商人のほうに寄っていった。
「それじゃあ、弁護士さんは普通の法律事件も引受けるんですか?」と、彼はきいた。裁判所と法律学とがこういうふうに結びついているということは、Kには非常に安心に思われた。
「こういう法律事件でのほうがほかの事件でよりも有能だとさえ言われています」しかし、言ったことを後悔しているらしく、片手をKの肩に置いて、言った。
「どうか私の言ったことは内密にお願いします」
 Kは安心させるように男の腿《もも》をたたいて、言った。
「いや、私は裏切り者じゃないですから大丈夫ですよ」
「つまりあの人は執念深いもんですからねえ」と、商人は言った。
「でも、あなたのような忠実な依頼人には、あの人もきっと変なまねはしないでしょう」と、Kは言った。
「とんでもない」と、商人は言った。「興奮すると見境がありませんし、それに私もほんとうはあの人に忠実なわけでもないんでしてね」
「どうしてなんですか?」と、Kはきいた。
「そのことをあなたにお話ししなくちゃいけませんか?」と、商人は思い惑うように言った。
「してくださってもかまわないでしょう」と、Kは言った。
「それでは」と、商人は言った。「一部だけ申上げますが、私たち二人が弁護士に対して何も言わないという約束をしっかりと守るように、あなたも私に秘密なことを打明けてくださるんですよ」
「あなたはたいへん用心深いな」と、Kは言った。「だが、あなたを完全に安心させるにちがいない秘密をひとつ申上げましょう。ところで、弁護士に対するあなたの不実というのはいったいどういうことです?」
「実は」と、商人はためらいながら、何か面目ないことを白状するような調子で言った。「あの人のほかにほかの弁護士たちもいるんです」
「そんなことなら、たいしてわるいことじゃありませんよ」と、少しがっかりして、Kは言った。
「ところがここじゃあ」と、白状しはじめてから苦しそうな息をついた商人は、Kの言葉でいっそううちとけて、言った。「それが許されないんです。そして、いわゆる弁護士のほかに三百代言を頼むことはことに許されていません。ところがまさにそのことを私はやっているんで、三百代言が五人いるんです」
「五人ですか!」と、Kは叫んだが、まずこの数に驚かされたのだった、「このほかに弁護士を五人もですか?」
 商人はうなずいた。
「今ちょうど六人目と交渉中なんです」
「だが、どうしてそんなにたくさん弁護士が要《い》るんです?」と、Kはきいた。
「みな要るんです」と、商人は言った。
「そのわけを説明してくれませんか?」と、Kがきいた。
「いいですとも」と、商人は言った。「まず、訴訟に敗《ま》けたくないからです。これはむろんのことです、そのためには、利用できるものはなんでも見逃すわけにはゆきません。ある場合、役にたつ見込みがまったく少ないときでも、投げてしまうわけにはゆきません。それゆえ私は、自分の持っているものをみな訴訟につかってしまいました。たとえば、商売から金を全部|注《つ》ぎ込みましたし、前には私の店の事務室はある建物のほとんど一階全部にまたがっていたのですが、今では裏のほうの小さな部屋ひとつで十分で、そこで小僧と二人きりで働いているようなわけです。こうさびれた原因となったものは、もちろん、金の蕩尽《とうじん》ばかりでなく、むしろ仕事の精力の蕩尽なのです。訴訟のために何かをやろうとすれば、ほかのことには、ほんの少ししかかかわってはいられませんからね」
「それじゃあなたご自身も裁判所で仕事をやられるんですか?」と、Kはきいた。「まさにそのことについて伺いたいものです」
「その点については、ほとんどお話しすることがありません」と、商人は言った。「初めのうちは確かにそうもしようとしたのですが、すぐやめにしてしまいました。あまりに疲れて、たいして効果がないんです。裁判所で自分で仕事をやり、交渉をやることは、少なくとも私には全然できないことだとわかりました。そこではただすわって待つことだけで、たいへんな骨折り仕事です。あなたご自身も、事務局のあの重苦しい空気はご存じのはずですね」
「僕が事務局に行ったということを、どうして知っているんですか?」と、Kはきいた。
「あなたが通ってゆかれたとき、ちょうど待合室にいたんです」
「なんという偶然でしょう!」と、すっかり夢中になり、これまでの商人の滑稽《こっけい》さも忘れて、Kは叫んだ。「それじゃあ私をごらんになったわけだ! 私が通っていったとき、あなたは待合室におられたのですね。そう、一度通ったことが確かにあります」
「たいした偶然じゃありませんよ」と、商人は言った。「私はほとんど毎日のようにあそこにいるんですから」
「私もこれからおそらくしばしば行かなきゃなりませんが」と、Kは言った。「きっともうあのときほどうやうやしく迎えられることはないでしょうね。みなが起立しましたからねえ。きっと、私のことを裁判官だと思ったのでしょう」
「いや」と、商人は言った。「あのときは廷丁に挨拶《あいさつ》したのですよ。あなたが被告だということは、私たちは知っていました。こんな噂《うわさ》はすぐ広まりますからね」
「じゃあ知っていたんですね。だがそうなると、私の態度はきっと傲慢《ごうまん》に見えたことでしたろう。そのことをとやかく言ってはいませんでしたか?」
「いや」と、商人は言った。「それどころか。でもつまらぬことですよ」
「つまらぬことって、どんなことです?」と、Kがきいた。
「なぜそんなことをおききになるんですか?」と、商人は腹立たしげに言った。「あなたはあそこの連中のことをよくはご存じでないらしく、おそらく事情を誤解していらっしゃるのでしょう。あなたはよくお考えにならなけりゃなりませんが、この手続きではしょっちゅういろいろな事柄が口の端《は》に上りますが、そんなことはもう常識で間に合うものではなく、誰もがただ疲れ果て、いろんなことに気をそらされていて、その穴埋めに迷信に没頭することになるんですよ。他人のことを言っているわけですが、私自身だってたいしてまとも[#「まとも」に傍点]じゃありません。こんな迷信のひとつは、たとえば、多くの人たちが被告の顔、ことに唇《くちびる》の格好から、訴訟の成行きを読み取ろうとすることです。そこでこの連中は、あなたの唇の格好から判断すると、きっとすぐにあなたに有罪の判決が下されるだろう、と主張していました。繰返して申上げますが、ばかばかしい迷信でして、たいていの場合は事実とも完全に相反するのですが、あんな仲間の中にいると、こんな考えからなかなか脱けられないのです。まあ思ってもごらんなさい、こうした迷信は激しい力を持っているのですよ。あなたはあそこで一人の男に言葉をおかけになりましたね? ところがその男はあなたにはほとんど一言も答えられなかった。そりゃあ、あそこでは頭が混乱するたくさんの理由がありますが、ひとつにはあなたの唇を見たこともそれなんです。あの男が後《あと》で話してくれたところでは、あなたの口の上にあの男自身の有罪判決を見たように思ったということです」
「私の唇ですか?」と、Kはきき、懐中鏡を取出して、じっと見た。「私の唇に別に変ったところは見えませんけれどね。で、あなたはどうですか?」
「私もそう思いますね」と、商人は言った。「全然そんなことはありませんよ」
「あの連中はなんて迷信深いんでしょう!」と、Kは叫んだ。
「だからそう申上げたでしょう?」と、商人がきいた。
「いったいあの人たちはそんなに行き来をし、意見を交換し合っているんですか?」と、Kは言った。「私はこれまで全然仲間からはずれていましたよ」
「一般には互いに行き来してはいません」と、商人は言った、「それはできないでしょう、なにしろ人数が多いですからね。それに共通の利害もほとんどないんです。ときどきはあるグループで共通の利害という信念が浮び出ることもあるんですが、すぐに間違いだということがわかってしまいます。裁判所に対して共同でやられることなど、何もありません。各事件も単独に調べられ、まったく慎重きわまる裁判所というものですよ。それで共同で何もやることはできないんです。ただ個人が何かこっそりうまくやったことはときどきあります。それが成功したときにやっとほかの人々が聞くというわけですから、どういうふうにしてやられたか誰にもわかりません。それで共同一致ということはなく、待合室のあちこちで寄り合うことがあっても、そこで相談はほとんどされていません。迷信深い考えというのは昔からあって、確かにおのずとふえています」
「あの待合室に待っている人たちを見ましたが」と、Kは言った。「まったく無益なことに思われましたよ」
「待つことは無益じゃありません」と、商人は言った。「無益なのは自分だけで手出しをすることです。すでに申上げたように、私は今、この弁護士のほかに五人頼んでいます。彼らに事を完全にまかせることができるだろうと、人は思うでしょう。私自身からして初めはそう思いました。しかし、それはまったく間違っているんです。ただ一人に頼んでいるときよりもまかしておけないくらいです。このことはおわかりでないでしょう?」
「ええ」と、Kは言い、商人があまり早くしゃべるのを妨げるために、なだめるように自分の手を相手の手の上に置いた。「どうかもっとゆっくりお話ししてください。どれもみな私にとって大切な事柄ですが、どうもあなたのお話についてゆけません」
「それをおっしゃってくだすって結構でした」と、商人は言った。「で、あなたはまだ新米で、末輩です。あなたの訴訟は半年ばかりでしたね? そう、そのことは伺いました。そんなに新しい訴訟だなんて! ところが私はこうした事柄をもう数限りなく考え抜いてきましたので、世の中でいちばんわかりきったことなんですよ」
「あなたの訴訟がもうそんなに進んでいるのを、きっとよろこんでおられるでしょう?」と、Kはきいたが、商人の事件がどういう状態にあるのかあけすけにたずねようとは思わなかった。ところが相手からも、はっきりした返事は得られなかった。
「そうです、訴訟は五年間もころがしてきました」と、商人は言い、頭を垂れた。「簡単な仕事じゃありませんよ」
 それからしばらく黙った。Kは、レーニがもう来ないか、と耳を澄ました。一面では、彼女が来なければと思った。まだまだ聞きたいことはあるし、商人とこうしてうちとけて話しているときレーニに邪魔されたくはなかったからである。だがその反面、自分が来ているのにこんなに長く弁護士のところにいることに腹をたて、スープを持ってゆくだけならこんなに長くかかるわけはない、と思った。
「私は今でもまだ」と、商人がまたしゃべりはじめたので、Kはすぐ注意を集中した。「私の訴訟が今のあなたのと同じように新しかったときのことを覚えています。あのときはここの弁護士さんだけでしたが、大いに安心していたわけじゃなかったんです」
 これでなんでも聞きこめるぞ、とKは考え、勢いよくうなずいたが、それによって商人をけしかけて、知る値打ちのあることをなんでも言わせることができる、というような様子だった。
「私の訴訟は」と、商人は続けた。「さっぱり進みませんでした。それでも審理は行われ、私もそのたびごとに出向き、材料を集め、帳簿を全部裁判所に提出しましたが、これは後で聞いたところによると、全然必要じゃなかったそうです。しょっちゅう弁護士さんのところへ行き、弁護士さんもいろいろな願書を出してくれました――」
「いろいろな願書ですって?」と、Kはきいた。
「そうです」と、商人が言った。
「それは私には大切なことです」と、Kは言った。「私の事件の場合、あの人は今でもまだ最初の願書を書いてばかりいるんです。まだ何もやってはいません。これでわかりましたが、あの人は破廉恥にも私のことを無視しているんだ」
「願書がまだ完成しないということは、きっといろいろ理由があるんでしょう」と、商人は言った。「ところで、私の願書がまったく値打ちのないものだということが、後になってわかりました。ある裁判所の役人の親切でそのひとつを自分で読んだことさえあります。それは大いに学者ぶったものでしたが、ほんとうは中身がからっぽでした。まず、私にはわからないひどくたくさんのラテン語、次に数ページにわたる裁判所に対する一般的な嘆願、それから、はっきり名前はあげてはないが事情に通じた者ならかならずわかるにちがいない一人一人の役人に対するお世辞文句、それから次に、まさしく犬のように裁判所にへりくだっている調子の弁護士の自賛、そして最後に、私のと似てるという以前の法律事件の吟味、というわけです。これらの吟味は、もちろん、私がたどれたかぎりでは、きわめて慎重にできていました。こうしたことで弁護士の仕事に判断を下そうとは思いませんし、私が読んだ願書もたくさんのもののうちのひとつでしかなかったわけですが、ともかく当時訴訟になんらの発展が見られなかったということだけは、今申上げておきたいと思います」
「それじゃ、どんな発展を望まれたんですか?」と、Kはきいた。
「おたずねはごもっともです」と、商人は微笑しながら言った。「この手続きでは発展はほんのまれにしか望めないんです。ところがその当時はこのことが私にはわかっていませんでした。私は商人ですが、当時は今よりもっとずっと商人でしたので、はっきりとした発展というものがほしくて、全体が結末に近づくとか、あるいは少なくとも規則正しく上昇の経過をたどるとかしてもらいたかったのです。ところがそうはゆかずに、あるものはただ、たいてい同じ内容を持つ尋問ばかりでした。返答はもうまるで連祷《れんとう》の文句みたいに覚えこんでしまいました。週に何回も裁判所の使いが、店や、住居や、そのほか私に出会えるどこにでもやってきます。それはもちろんわずらわしいことでした。(今では少なくともこの点、ずっとよくなりました。電話の呼び出しですからずっと面倒がありませんのでね)そして、私の商売仲間や特に親戚《しんせき》のあいだでは私の訴訟の噂《うわさ》が広まりはじめますし、そのためあらゆる方面からの中傷が起りましたが、最初の審理が近く行われるだろうという徴候さえもさっぱり見えません。そこで弁護士さんのところへ行き、苦情を言いました。すると長々と言い訳を聞かせてくれはしたのですが、私の思うようなことを何かやるということはきっぱりと拒絶し、審理日の確定を左右する力はなにびとも持たない、願書でそのことをしつっこく迫るのは――私はそれを要求したわけですが――まったく前代|未聞《みもん》のことだし、そんなことをしたら私もあの人も破滅してしまうだろう、と言うのでした。この弁護士がしようとしないのか、あるいはできないのかのいずれかで、ほかの人ならしてくれる気にもなろうし、またできもしよう、と考えました。そこでほかの弁護士を物色してみました。ところが、私は少し先まわりして申上げますが、それからの弁護士は一人として本審理の日限の確定を要求しませんし、やってもくれませんでした。それはもちろん、これから申上げようと思いますが、ある条件のためにできないことです。それゆえ、この点についてはここの弁護士さんの言うことはまんざら嘘《うそ》じゃなかったわけです。ところで、ほかの弁護士たちに頼んだことは、私は少しも残念に思うことはありませんでした。あなたもきっとフルト博士からとっくに三百代言についてさまざまなことをお聞きでしょうし、たぶん彼らのことを非常に軽蔑《けいべつ》して言ったことでしょうが、それは確かにほんとうのことです。もっとも、博士が三百代言たちのことを語って自分や自分の同僚たちのことを彼らと比較するときはいつでも、ある誤謬《ごびゅう》がはいりこむんでして、ついでにこのことをあなたにご注意申上げておこうと思います。つまり博士はそういうときに、しょっちゅう自分の仲間の弁護士を区別するため、『大弁護士』と呼びます。これが間違いで、もちろん誰でも気に入るなら自分を『大』と称することはできますが、この場合に決定力を持っているのはただ裁判所の慣習だけのはずです。それによると、三百代言のほかにさらに大小の弁護士があるんです。しかし、ここの弁護士さんとその仲間の人たちは小弁護士にすぎず、大弁護士というのは私はただ噂に聞いただけで一度も見たことがありませんが、小弁護士があの軽蔑されている三百代言たちの上にあるのと比較にならないくらい、小弁護士よりも高いところにいるんです」
「大弁護士ですね?」と、Kはきいた。「いったいどういう人たちなんですか? どうしたら会えるんですか?」
「ははあ、あなたはまだ彼らのことをお聞きになっていないんですね」と、商人は言った。「彼らのことを聞かされたあとで、しばらく彼らのことを夢に見ないような被告というのは一人もありません。だがあなたは、むしろそんな誘惑にかかってはなりません。大弁護士が何者かは、私は知りませんし、彼らのところへ近づくことはきっと誰にもできないのです。彼らが手がけたとはっきり言えるような事件を、私は知りません。かなりの被告を弁護はするんですが、被告の意志ではどうにもならないし、彼らが弁護しようと思う者たちだけを弁護するんです。だが、彼らが引受ける事件というのは、きっと下級裁判所を超《こ》えたものにちがいありません。ともかく、彼らのことを考えないほうがよいでしょう。そうでないとほかの弁護士との話や彼らの忠告や尽力というものがきわめていとわしく、無益なものと思われるからです。いっさい投げ出してしまって、家でベッドに寝ころび、何も聞かないでいるのがいちばんいいと思うようになるっていうことは、私自身経験ずみです。しかし、これもまたもちろんばかげたことでして、ベッドに寝ていていつまでも安閑とできるもんじゃありません」
「それじゃあ、あなたはその当時大弁護士のことは考えなかったんですか?」と、Kはきいた。
「長くは考えませんでしたが」と、商人は言い、また薄笑いした。「残念ながらすっかり忘れることはできませんし、ことに夜にはこんな考えがとかく浮んできましてね。しかし、当時私は即効をあげることを望みましたんで、三百代言のところへ行ったんです」
「まあ、こんなところにくっついてすわって!」と、盆を手にしてもどってきて、扉のところに立ったレーニが、言った。
 確かに二人はひどくくっついてすわり、少し身体《からだ》の向きを変えても頭をぶっつけ合ったにちがいなく、もともと小柄なところへもってきて背中を曲げている商人は、Kにも、すべてを聞き取ろうとすると、身体を深くかがめさせるのだった。
「もう少し待って!」と、Kはレーニに拒むように叫び返したが、まだ依然として商人の手の上に置いていた手を、いらだたしそうにぴくぴくさせた。
「この方が私の訴訟の話を聞こうとおっしゃるんだよ」と、商人はレーニに言った。
「さあお話しなさい、お話しなさい」と、女は言った。女は商人と愛情をこめて話すが、また見下げた様子が見られ、これがKの気にさわった。今ではわかったのだが、この男はやはりある値打ちがあるし、少なくも経験を持ち合せており、それをうまく話すことができるのだ。レーニはどうもこの男を不当に判断している、そう思った。彼は、商人が長いあいだしっかと持っていた蝋燭《ろうそく》をレーニが商人の手から取上げ、エプロンで手をふいてやり、蝋燭からズボンに垂《た》れたいくらかの蝋をかき取ってやるため商人のそばにひざまずくさまを、腹だたしげに見ていた。
「三百代言のことをおっしゃってくださろうとしたところでしたね」と、Kは言い、それ以上何も言わずに、レーニの手を押しやった。
「何をするのよ?」と、レーニはきき、軽くKをたたき、蝋を落す仕事を続けた。
「そうです、三百代言のことでした」と、商人は言い、考えこむように額に手をやった。Kは助け舟を出そうとして、言った。
「あなたは即効をあげようと思われ、三百代言のところへ行かれたのです」
「そう、そのとおりでしたね」と、商人は言ったが、話を続けなかった。
「きっとレーニの前ではそのことを言いたくないんだな」と、Kは思って、先をすぐ今聞きたいといういらだたしさを抑《おさ》え、もうこれ以上催促はしなかった。
「僕のことは通じてくれた?」と、彼はレーニに言った。
「もちろんよ」と、女は言った。「あなたのことをお待ちかねよ。もうブロックはやめにしなさいな。ブロックはまだここにいますから後《あと》でもお話できてよ」
 彼はまだ躊躇《ちゅうちょ》した。
「ここにいらっしゃいますか?」と、商人にきいたが、商人自身の返事が聞きたく、レーニが商人のことをまるでいない者のように言うのが気に入らず、今日はレーニに対して心ひそかに大いに腹をたてていた。ところがまた、レーニが返答しただけだった。
「この人はここによく泊るのよ」
「ここに泊るって?」と、Kは叫んだ。商人には自分が弁護士との話を手早く片づけるあいだだけ待ってもらうが、すんだらいっしょに出かけて、すべてを徹底的に、誰にも邪魔されずに語り合うつもりだった。
「そうよ」と、レーニは言った。「誰でもあなたみたいに好きなときにやってきて、弁護士さんに会わせてもらえはしないわ、ヨーゼフ。弁護士さんが病気なのに、夜の十一時にもなって会ってくださるのを、あなたってば全然ありがたいとも思っていないようね。あなたのためにお友達がやってくれることを、まるで当り前のことだぐらいにしか考えていないのね。でもあなたのお友達、少なくともあたしは、よろこんでやってあげてよ。なんにもお礼なんか要らないわ、ただあたしをかわいがってくれればそれでいいの」
「お前をかわいがるって?」と、Kは最初の瞬間に考えたが、それから次に頭の中をかすめる考えがあった。「そうだ、実際おれはこの女を愛しているのだ」それにもかかわらず、彼はほかのことをいっさい無視して、言った。
「私は依頼人だから、会ってくれるのは当り前さ。もし会ってもらうためにも他人の助力が必要だというなら、一歩行くごとにしょっちゅう乞食《こじき》のように頼んだり、ありがとうを言ったりしなくちゃならないだろうよ」
「この人ったら今日はなんて機嫌《きげん》がわるいんでしょう、ねえ?」と、レーニは商人にきいた。
「今度はおれがいないも同然だ」と、Kは思い、商人がレーニの不躾《ぶしつけ》を引取って次のように言ったとき、ほとんど商人に対してさえ気をわるくしていた。
「弁護士さんがこの方を迎えるのにはほかのいろいろな理由があるんだよ。つまり、この方の事件は私のよりも興味があるんだ。そのうえ、この方の訴訟は始まったばかりで、したがって手続きもたいして進行はしていないらしいから、弁護士さんはまだよろこんでこの方のことにかかりあっているんだ。けれども後ではきっと変ってくるよ」
「そう、そうね」と、レーニは言い、高笑いしながら商人を見た。「この人はなんておしゃべりなんでしょう! あなたはこの人のことなんか」と、ここで女はKに向った。「少しでも信用しちゃだめよ。いい人なんだけれど、おしゃべりなの。おそらくそのために弁護士さんもこの人のこと我慢ができないのよ。ともかく、気が向かなければこの人なんかに会わないわ。そんなことやめさせようって、あたしもずいぶん骨を折ったけれど、できないのよ。いい、何度もブロックが来たってお伝えするのに、三日目になってやっと会うような始末なの。でも呼ばれたちょうどそのときにブロックがその場にいないと、みんなだめになり、また改めてお伝えしなけりゃならないのよ。それであたしはブロックにここに泊ることを許してあげたの。弁護士さんが夜中でもこの人のことを呼ぼうとベルを鳴らすことも、これまでにあったことだわ。それで今ではブロックは夜中でも用意しているの。もちろん今度はまたブロックがいるってことがわかると、弁護士さんはこの方をお通ししてくれって頼んだことをときどきやめにしてしまうこともあるわ」
 Kは、問いかけるように商人のほうを見た。商人はうなずき、さっきKと話し合っていたのと同じように率直に言ったが、羞恥《しゅうち》のためにおそらく混乱しているのだった。
「そう、あなたもそのうち弁護士さんの言うことをよく聞くようになりますよ」
「この人はただ見せかけに苦情を言っているのよ」と、レーニは言った。「ここに泊るのはうれしいって、あたしにもう何べんも白状したわ」
 彼女は小さな扉のところへ行き、それを押しあけた。
「あなたこの人の寝室をごらんになる?」と、女はきいた。
 Kはそちらへ出かけ、敷居のところから、幅の狭いベッド一つでいっぱいになっている天井の低い、窓のない部屋をのぞきこんだ。このベッドに乗るにはベッドの枠柱《わくばしら》を越えなくてはならないはずだった。ベッドの枕もとには壁の中にくぼみがあって、そこには、一本の蝋燭、インク壺《つぼ》、ペンおよび訴訟文書らしい一束の紙が、ひどくきちんと置いてあった。
「女中部屋でお休みになるんですね?」と、Kはきき、商人のほうを振返った。
「レーニが空《あ》けてくれたんですよ」と、商人が答えた。「とても便利ですよ」
 Kは長く商人の顔を見つめていた。彼が商人から受けた第一印象は、おそらく正しかったのだ。訴訟がもう長いあいだ続いたので、経験を持っているにはちがいないが、これらの経験に高価な代償を払ったのだった。突然Kは商人のこの有様に耐えられなくなった。
「この人をベッドに連れてゆきたまえ!」と、彼はレーニに叫んだが、女は彼の言うことが全然わからないらしかった。だがおれ自身は弁護士のところへ行こう、解約を通告して、ただ弁護士からばかりでなくレーニと商人とからも縁を切ろう、と思った。ところが扉のところまで行くか行かないかのうちに、商人が低い声で言葉をかけた。
「業務主任さん」
 Kは機嫌のわるそうな顔つきで振返った。
「あなたは約束をお忘れになりましたね」と、商人は言い、椅子から懇願するように身体を伸ばした。「私にも秘密をおっしゃってくださるということでしたが」
「そうでした」と、Kは言い、自分をまじまじと見つめるレーニにも一瞥《いちべつ》を投げた。「それじゃ聞いてください。もちろんほとんど秘密というほどのものじゃないんです。これから弁護士のところへ行って、解約するんですよ」
「この人は弁護士を解約するんだ!」と、商人は叫び、椅子から飛び上がって、腕を振上げて台所じゅうを走りまわった。何度も繰返して叫ぶのだった。「この人は弁護士を解約するんだ!」
 レーニはすぐKに飛びかかっていったが、商人が邪魔にはいると、両手の拳《こぶし》で一撃を加えた。なおも拳を握ってKの背後を追いかけたが、Kのほうはかなり逃げていた。もう弁護士の部屋に足を入れていたが、そこでレーニが追いついた。扉をほとんどしめたが、足で扉を食い止めたレーニは、彼の腕をつかみ、引戻そうとした。ところが女の手首を強く圧《お》したので、女はうめき声をあげて手を放さねばならなかった。女はこれ以上部屋の中に踏みこむことはしなかったが、Kは扉に鍵《かぎ》をかけた。
「たいへんお待ちしていましたよ」と、弁護士はベッドから言い、蝋燭の光で読んでいた文書を夜間用の机の上に置き、眼鏡をかけると、Kを鋭く見つめた。Kはわびもせずに、言った。
「すぐに帰りますから」
 わびではなかったので、弁護士はKのこの言葉を相手にせずにやりすごし、言った。
「この次はもうこんな遅くはお会いしませんからね」
「それは願ったりです」と、Kは言った。
 弁護士は、いぶかしげにKの顔を見た。
「まあおかけください」と、言った。
「ではお言葉どおり」と、Kは言い、椅子を夜間用の机のそばに引寄せ、すわった。
「扉の鍵をおかけになったようですな」と、弁護士は言った。
「そうです」と、Kは言った。「レーニのためでした」
 彼は、誰でも容赦するつもりはなかった。ところが弁護士はきいた。
「あれがまたしつっこいことをしましたか?」
「しつっこいですって?」と、Kはきいた。
「そうです」と、弁護士は言って笑ったが、咳《せき》の発作を起し、それが止ると、また笑いはじめた。
「きっとあれのしつっこいことをごらんになったでしょうね?」と、きき、Kがぼんやりと夜間用の机の上についていた手をたたいたので、Kは素早くその手を引っこめた。
「あなたはそのことをたいして問題にしておられぬようだが」と、Kが黙っているので弁護士は言った。「そのほうがよろしい。さもないとわしがおそらくあなたにおわびしなければなりませんからな。それがレーニの奇妙なところでしてね。わしは前からそれを大目に見ていますし、あなたがたった今扉をおしめにならなかったら、お話もいたさなかったでしょう。この奇妙なところというのは、もちろんあなたにご説明するまでもないんですが、あなたは私のことを驚いてごらんになるので申上げておきますけれど、それは、レーニがたいていの被告の人々を美しいと思いこむことなんですよ。あれは誰にでもくっつき、誰にでもほれますし、もちろん誰からも愛されもします。その後で、私がよいと言えば、わしを興がらせるため、ときどきそれについて話してくれます。お見かけしたところだいぶ驚いていらっしゃるようですが、わしはこのことにたいして驚きはしませんね。見分ける眼力がありさえすれば、被告の人々はほんとうに美しいと見えることがしょっちゅうあるものですよ。これは確かに、奇妙な、いわば自然科学的と言える現象なんです。もちろん、告訴の結果何かはっきりとした、詳細に規定できるような容貌《ようぼう》上の変化が起るわけじゃありません。ほかの裁判事件の場合とはちがって、たいていの被告は普通の生活を続け、事件の世話をしてくれるいい弁護士がついていさえすれば、訴訟に少しもわずらわされません。それにもかかわらず、経験のある人々は、大勢の人々の中から被告を一人一人見分けることができます。どういう点でか、とあなたはおたずねになるでしょう。わしの返事はあなたを満足させるわけにゆかぬかもしれません。つまり、被告の人々はまさしくいちばん美しいんです。彼らを美しくするものは罪ではありません。なぜなら――わしは少なくとも弁護士としてこう申上げなくてはなりませんが――すべての被告が罪があるとはかぎらないのですからね。また、彼らを今から美しくしているのは、正しい処罰というものでもありません。被告はみな処罰されるとはかぎっていないからです。それゆえ、なんらかの形で彼らにつきまとっている、彼らに対して提起された訴訟手続きというものにあるにちがいありません。もちろん、美しい人たちのうちにも特に美しい人というのはあります。でもみな美しいことは確かであって、あのみじめな虫けらのようなブロックでさえ美しいんです」
 Kは、弁護士が語り終えたとき、すっかり気を落着け、最後の言葉には目だつほどにうなずきさえしたが、そうすることによって前々からの自分の見解にみずからの裏打ちを与えるのであった。その見解によるとこの弁護士は、いつも、そして今度も、事の本質には触れていない一般的なことばかり伝えては自分の気をそらし、いったい自分のために実際に仕事をして何かをやってくれたか、という根本問題は、避けよう避けようとばかりしているように思われるのだった。弁護士は確かに、Kがこれまでよりも自分に対して抵抗していることに気づいたらしかった。というのは、弁護士は黙ってしまい、Kのほうが話しだす機会を与えたからである。ところが、Kがいつまでも黙っているので、きいた。
「今晩は何かきまったご意図を持っていらっしゃったのですか?」
「そうです」と、Kは言い、弁護士をもっとよく見るため、片手で少し蝋燭の光をさえぎった。「今日をかぎりあなたには私の弁護をやめていただきたい、と申上げようと思います」
「なんですと」と、弁護士は言い、ベッドの中で半身をもたげ、片手で布団《ふとん》の上に身体をささえた。
「おわかりいただけたと思います」と、Kは身体をこわばらせてきちっと立ち、相手の出方に身構えするようにすわっていた。
「では、そのプランについてお話しすることもできますね」と、しばらくの後、弁護士は言った。
「もうプランなんていうものじゃありませんよ」と、Kが言った。
「そりゃあそうかもしれませんが」と、弁護士は言った。「でもわしらは何事もあわてすぎたくはありませんね」
 弁護士は「わしら」という言葉を使って、Kを手放す気は毛頭ないし、たとい代理人ではありえなくとも、少なくとも引続いて忠告者ではありたいというような素振りだった。
「あわてているわけじゃありません」と、Kは言い、ゆっくりと立ち上がり、自分の椅子の後ろに行った。「十分に考えましたし、おそらくあまり長く考えさえしたようです。決心はもうきまっています」
「それではもう少し言わせてください」と、弁護士は言い、羽根布団を退《の》け、ベッドの縁に腰かけた。むきだしの白毛《しらが》の脚は、寒さで震えていた。彼はKに、長椅子から毛布を取ってくれ、と頼んだ。Kは毛布を持ってきて、言った。
「そんなに冷えるようなことをなさる必要は全然ありませんよ」
「事はなかなか重大です」と、弁護士は言いながら、羽根布団で上半身を包み、それから両脚を毛布に突っこんだ。「あなたの叔父《おじ》さんはわしの友人だし、あなたもまた時のたつにつれわしにとって親しいものとなった。そのことを率直に申上げます。こう申上げても恥じる必要はないと思います」
 老人のこういう感傷的な話は、Kにはきわめてありがたくなかった。というのは、避けたいようなくだくだしい説明にどうしてもなったし、そのうえ、もちろん彼の決心をけっして翻すことはできなかったが、率直に白状するとそれをいろいろと迷わしたからである。
「ご親切にご心配いただいてありがとうございます」と、彼は言った、「あなたが私の事件をできるだけ、そして私にとって有利だとお考えのかぎりお引受けくだすったということも、よく存じております。しかし、最近、それは十分でないという確信を持つにいたりました。もちろん私は、あなたのようなたいへん年長で経験に富んだ方に、私の考えに従っていただくようにしようとはけっして思いません。もし私がときどき思わず知らずにそんなことをしようといたしましたなら、どうかお許しねがわなければなりませんが、事はあなたご自身のおっしゃられるようになかなか重大ですし、私の確信によりますと、訴訟に対してこれまでやった以上に強力に手を出すことが必要だと思われます」
「よくわかりましたが」と、弁護士は言った、「あなたは短気ですね」
「私は短気なんじゃありません」と、Kは少し興奮して言い、もうたいして自分の言葉に気を使わないことにした。「私が叔父といっしょにあなたのところへ初めて伺ったとき、私には訴訟なんかたいして問題ではなかったということは、あなたもご存じでしょうし、いわば力ずくで思い出させられるのでなかったなら、私は訴訟のことは完全に忘れていたのでした。ところが叔父が、あなたに弁護をお願いしろと言い張るものですから、叔父の気を損じないためにそうしました。それで、弁護士に弁護をおまかせするのは訴訟の重荷を少しでも避けるためなんだから、これで私の訴訟も前よりは気軽になるものとばかり思っていたわけです。ところが事実はまったく反対です。それまでは、あなたにお願いしてからほど訴訟のために心配させられるということは、なかったのです。私ひとりのときには、自分の事件については何も手を出しませんでしたが、それを心配することもほとんどなかったのでした。ところが今では、代理人もおられるし、何事が起っても万端の用意が整えられていて、ひっきりなしに緊張してあなたが手を下してくださるのを待っていたわけですが、さっぱりでした。もちろん、おそらくはほかの人からはもらえそうにもないさまざまな裁判所についての情報を、あなたからいただきはしました。しかし、訴訟が確かに私の気づかぬうちにだんだんと身に迫ってきている今となっては、それでは十分ではなくなったのです」
 Kは椅子を突きのけて、両手を上着のポケットに突っこんだまま立ち上がった。
「訴訟をやっているうちの、ある時期には」と、弁護士は低い声で落着いて言った。「本質的に新たな事態というものが起らなくなるのです。あなたと同じような訴訟の段階にある大勢の依頼人の方々が、これまでもわしの前に立って、あなたと同じようなことを言ったものですよ!」
「そうだとすると」と、Kは言った。「そういう同じような依頼人たちは、私と同じように当然な理由があったのです。それだからそんなことは全然私に対する反駁《はんばく》にはなりやしない」
「何もあなたに反駁しようとは思いません」と、弁護士は言った。「だがわしが申上げておきたいと思うのは、あなたにはほかの人々よりも判断力というものを期待していたということです。ことにあなたには、ほかの依頼人に対してやる以上に、裁判組織とわしの仕事とについて詳しくお教えしておいたんですからね。ところが今は、こんなにしてさしあげているのにあなたはわしを十分ご信用にならない、ということを見なければならないというわけです。あまりわしのことを軽く考えてくだすっては困りますね」
 弁護士はKに対してなんと卑屈な態度をとったことか! 確かに今においてこそいちばん感じやすくなっているにちがいない自分の身分に関する体面というものを全然忘れてしまっているのだ。なぜこういう態度をとるのか? 見かけたところ仕事の多い弁護士で、そのうえ金もあるらしいし、もうけがなくなることも一人ぐらいの依頼人を失うことももともとたいしたことではないはずだ。そのうえ、病身だし、仕事を減らすことを自分でも考えたほうがよいのだ。それにもかかわらずKのことをこんなに引きとらえているなどとは! なぜだろうか? 叔父に対する個人的な友誼《ゆうぎ》なのだろうか、あるいはKの訴訟をきわめて風変りなものと認めて、Kに対してか、あるいは――こういう可能性もけっしてなきにしもあらずだが――裁判所の友人たちに対して、自分の腕を見せようと望んでいるのだろうか? 遠慮なくKはためつすがめつして弁護士の顔を見るのだったが、相手そのものには何も変ったところが認められなかった。わざと無口のような顔つきをして自分の言葉の効果を待っているのだ、とほとんど考えることができる有様だった。しかし、彼は明らかにKの沈黙を自分にとってきわめて好意的に解釈したことが、次のように言葉を続けたことでわかった。
「いずれおわかりのことと思いますが、わしは大きな事務室を持ってはいますが、助手は一人も使ってはいません。以前はそれとちがい、二、三人の若い法律家がわしのために働いてくれていたときもあったのですが、今ではわしひとりでやっています。その理由は、わしが自分の専門を変え、だんだんあなたのケースのような法律事件だけをやるようにしたためでもありますが、また一部はこの種の法律事件によっていよいよ認識を深めたためです。わしの依頼人の方々や、わしが引受けた課題というものに対して罪を犯したくないと思うならば、こういう仕事は誰にもまかせられない、ということをさとったのです。しかし、仕事も全部自分でやろうと決心したについては、それ相応の結果を生じました。すなわち弁護の依頼をほとんどすべてお断わりせねばなりませんでしたし、わしと特に親しい人々の言うことだけしかきけませんでした。――ところで、わしが投げ捨てた屑《くず》のひとつひとつに飛びつくやつらもたくさんいますし、しかもほんの身近にさえいる始末です。そしてそのうえ、わしは過労で病気になってしまいました。けれども、わしは自分の決心を後悔はしていませんが、わしが実際にやったよりももっと弁護の仕事をお断わりすべきだったのかもしれません。しかし、お引受けした仕事にすっかり没頭するということは、絶対に必要であるということがわかりもしましたし、またよい結果で報いられもしました。わしはかつてある書き物の中で、普通の法律事件の弁護とこういう法律事件の弁護とのあいだの相違がきわめて巧みに表現されているのを見たことがあります。そこにはこう書いてありました。つまり、普通の弁護士は依頼人を細い糸で判決にまで導くが、別の弁護士は依頼人をすぐ肩にかついで、それをおろしたりしないで、判決まで、さらにはそれを超《こ》えたかなたにまで連れてゆく、というのです。そのとおりですね。ですが、わしがこんな大仕事で全然後悔していないなんて言えば、一から十まで正しいとは言えませんね。たとえばあなたの場合のように、わしの仕事が完全に誤解されるとなると、わしもほとんど後悔しますよ」
 Kはこんな談義で、納得させられるというよりは、むしろいらいらしてきた。弁護士の口調からなんとはなしに、自分を待っているものがなんであるか聞き取れるような気がした。いま譲るとなると、また例の慰め文句が始まるのだろう。願書が進捗《しんちょく》しているということ、裁判所の役人たちの機嫌がよくなったこと、だが仕事にはさまざまな大きな困難が直面していること、要するにそうしたいやになるほど知っているいっさいのことが持ち出され、またもや自分にはっきりとしない希望をいだかせたり、はっきりしない脅威で自分を苦しめたりしようとするのだ。そんなことはもう最終的に食い止めなくてはならない、と思ったので、彼は言った。
「弁護をお続けになる場合、私の事件について何をやってくださろうというのですか?」
 弁護士はこの侮辱的な質問にさえ乗ってきて、答えるのだった。
「あなたのためにすでにやってまいったことを、続行するんです」
「そのことならまったくわかっています」と、Kは言った。「ですが今はもうそれ以上おっしゃるにはおよびません」
「もう一回やってみようと思うんです」と、Kを興奮させた事柄はKに関係があるのではなくて自分に関係あることなのだ、とでもいうかのように弁護士は言った。
「つまりわしはこう思うんだが、あなたはわしの法律顧問としての地位を間違って判断されているばかりではなく、そのほかにも妙な態度をとられているが、そんな態度をとられるのは、あなたが被告であるのにあまりにいい待遇を受けていられる、あるいはもっと正しく言って、どうでもいいというふうに、少なくとも外見上どうでもいいというふうに取扱われている、ということのわるい結果ですね。このどうでもいいというふうに取扱っているということにも理由があるんですよ。つまり、自由であるよりも鎖につながれているほうがいいということもしばしばあるもんでしてね。だが、ほかの被告がどういうふうに取扱われているかということをあなたにお教えしたいと思いますが、そうすればおそらくあなたはそれから教訓を引出すこともできますよ。そこでこれからブロックを呼びますから、扉をあけてここの夜間用の机のそばにおかけになってください!」
「かしこまりました」と、Kは言い、弁護士が要求したとおりにした。いつでも学ぼうという心構えであった。しかし、どんな場合に対しても安全な処置をとっておこうと思って、彼はきいた。
「ですが、私があなたの弁護はお断わりしているということは、わかっていただけましたね?」
「わかりました」と、弁護士は言った。「しかし今晩のうちにも後戻《あともど》りされることがありえますね」
 彼はまたベッドに横になり、羽根布団を顎《あご》まで引寄せ、壁のほうに向き直った。それからベルを鳴らした。
 ベルの合図とほとんど同時にレーニが現われた。素早くあたりを見て、何が起ったのかを知ろうとした。ところがKが落着いて弁護士のベッドのそばにすわっていたので、ほっとした様子だった。自分をじっと見つめているKに、微笑《ほほえ》みながらうなずいてみせた。
「ブロックを連れておいで」と、弁護士は言った。ところが彼女は、ブロックを連れてくるかわりに、ただ扉の前まで出て、叫んだ。
「ブロック! 弁護士さんのところへいらっしゃいって!」
 それから、弁護士が壁のほうを向いたままで何も問題にしてはいないからであろうが、Kの椅子の後ろにこっそりとまわりこんだ。そうしてから、椅子のもたれの上に身体を曲げてきたり、もちろんきわめてやさしげに、また注意深げにだが、両手を彼の髪毛《かみのけ》の中に入れたり、頬をなでたりして、彼をうるさがらせるのだった。最後にKは、女の手をつかんでそんなことをさせまいとした。女はしばらく逆らったが、やがて手を彼にまかせた。
 ブロックは呼ばれてすぐやってきたが、扉の前で立ち止り、はいったものかどうかと考えている様子だった。眉毛《まゆげ》をつり上げ、弁護士のところに来いという命令が繰返されまいかと聞き耳を立てているかのように、頭をかしげていた。Kははいるように彼を勇気づけてもよかったが、ただ弁護士とばかりでなく、この家にあるいっさいのものと最後的に手を切ることに心をきめていたので、じっとしていた。レーニも黙っていた。少なくとも自分を追い払う者は誰もないとブロックは見てとり、顔を緊張させ、後ろにまわした両手を痙攣《けいれん》させながら、爪立《つまだ》ちではいってきた。扉は、退却してゆく場合のことを考えて、あけ放しにしておいた。Kは彼の顔を全然見ずに、うず高い羽根布団を依然として見ていたが、弁護士はその布団にくるまって壁ぎわまで身体を寄せていたので、姿が全然見えなかった。しかし、その声だけは聞えた。
「ブロックは来たかね?」と、彼がきいた。この問いは、すでにかなりな距離に進んでいたブロックの胸に明らかに一撃を与え、次にまた一撃を背中に与えたので、彼はよろめき、背中を深く曲げて立ち止って、言った。
「おります」
「なんだと言うのだね?」と、弁護士は言った。「都合のわるいときに来るんだね」
「お呼びではありませんでしたか?」と、ブロックは弁護士にというよりは自分自身にきいてみて、身を防ぐように両手を前に出し、逃げてゆく身構えをした。
「呼びはしたんだが」と、弁護士は言った。「都合のわるいときに来るんだね」
 そしてしばらく間《ま》をおいて、言葉を足した。
「君はいつも都合のわるいときにばかり来るね」
 弁護士がしゃべってからは、ブロックはもうベッドのほうを見ず、むしろ部屋の隅《すみ》のどこかを見つめ、話し手の視線があまりまぶしすぎて耐えられないというように、ただ耳を傾けるだけだった。だが、弁護士は壁に向ってしゃべり、しかも声が低く口早なので、聞き取ることもむずかしかった。
「帰ったほうがよろしいでしょうか?」と、ブロックがきいた。
「もう来ちゃったんだから」と、弁護士は言った。「いなさい!」
 弁護士はブロックの望みをかなえてやったのではなくて、笞《むち》で打つぞとでもいうようにおどしたのだ、と思えそうだった。今やブロックがほんとうに震えはじめたからである。
「昨日《きのう》わしは」と、弁護士が言った。「友人の第三席裁判官のところに行ったんだが、話がだんだん君のことになった。彼が言ったことを聞きたいかね?」
「ぜひどうぞ!」と、ブロックが言った。
 弁護士がすぐには返事をせぬので、ブロックはもう一度懇願を繰返し、ほとんどひざまずかんばかりに身体をかがめた。ところがそのとき、Kが彼に噛《か》みついていった。
「君はなんていうことをするんだ?」と、Kは叫んだ。
 レーニが彼の叫ぶのを妨げようとしたので、彼は女のもう一方の手もつかんだ。彼が女をしっかとつかんでいるものは、愛情の握りかたではなかったし、女も繰返し溜息《ためいき》をして、両手をもぎ取ろうとした。ところが、Kが叫んだおかげでブロックが罰を食った。弁護士がこうきいたからである。
「君の弁護士はいったい誰かね?」
「あなたです」と、ブロックは言った。
「で、わしのほかには?」と、弁護士がきいた。
「あなたのほかには誰もいません」と、ブロックが言った。
「それじゃ、ほかの人の言うこともきかないことだね」と、弁護士は言った。
 ブロックは弁護士の言うことをすっかりのみこみ、悪意のこもった眼差《まなざし》でKをじろじろながめ、彼に対して激しく頭を振った。この動作を言葉に翻訳すれば、乱暴な罵倒《ばとう》だったにちがいない。こんな連中とKは親しげに自分の事柄を語り合うつもりでいたのだ!
「もう邪魔はしませんよ」と、Kは椅子にもたれて言った。「ひざまずいたり、四つばいになったり、なんでも好きなようになさい」
 ところがブロックにも、少なくともKに対しては見栄《みえ》というものがあった。というのは、拳を振りまわしながらKに迫ってきて、弁護士の威をかりてその身近でだけやれるような大声で叫んだからである。
「あなたは私に対してそんなふうな口をきいてはいけません。それはよろしくありませんよ。なぜ私を侮辱なさるんです? しかもこの弁護士さんの前で、なぜなさるんです? ここでは、あなたと私との二人は、ただお慈悲で我慢していただいているんですよ。あなただって告訴されていて訴訟にかかりあっているんですから、私よりましな方というわけじゃありません。それでもあなたが紳士だというなら、あなたよりりっぱなというわけじゃないけれども、私もあなたと同様紳士ですよ。そして、ことにあなたからは紳士として口をきいていただきたいですね。あなたはここで腰をかけ、落着いて話を聞いているのに、私のほうはあなたの言いかただと四つばいになっているというので、あなたは優越感を持っていらっしゃるのなら、私は昔の判例のことを申しましょう。それは、容疑者にとっては静かにしているよりも動くほうがよろしい、なぜなら静かにしている者は、知らぬ間に秤《はかり》の上に乗り、罪を量られることにいつでもなるからだ、というんです」
 Kは何も言わずに、ただこの混乱した男をまじろぎもせずにじっと見つめていた。ほんのこの数秒のうちになんという変化が起ったのであろう! この男をあちらこちらと投げ出し、敵も味方も区別できなくさせているのは、訴訟なのだろうか? 弁護士はわざとこの男を侮辱し、今はただKの前で自分の権力を見せつけ、それによっておそらくはKのことも服従させようということだけをもくろんでいることが、この男にはわからないのだろうか? だがブロックがそういうことをさとることができず、あるいはさとっていても弁護士を非常に恐れているので何の役にもたたないのだとしても、それではどうして、弁護士をだまして、彼のほかになおほかの弁護士にやってもらっているということを隠しているほど、狡猾《こうかつ》で大胆なのだろうか? またどうして、Kがすぐにも自分の秘密を暴露できるというのに、Kに食ってかかるというようなことをあえてやるのか? ところが男はそれ以上のことをあえてやるのだった。弁護士のところへ行き、今度はそこでもKの苦情を言いはじめたのだった。
「弁護士さん」と、彼は言った。「この男が私に口をきくのをお聞きになりましたか? まだこの男の訴訟なんていうものは時間で数えることができるくらいなのに、五年も訴訟をやっている私のような者に、いいことを教えてやろうって言うんです。そのうえ私をののしりさえします。何も知らぬくせに、作法や義務や裁判所の慣習が要求するところを微力ながらできるだけ詳しく勉強してきた私というものを、ののしったりするんです」
「人のことなんか心配するんじゃないよ」と、弁護士が言った。「そして、君が正しいと思うことをやるんだ」
「おっしゃるとおりです」と、自分自身を勇気づけるように言い、ちらと横眼を使いながらベッドのすぐそばにひざまずいた。
「このとおりひざまずいています、弁護士さん」と、彼は言った。
 だが弁護士は黙っていた。ブロックは片手で控え目に羽根布団をなでた。この場を支配している静けさの中で、レーニはKの両手から離れると、言った。
「痛いわよ。放してちょうだい。あたしはブロックのところへ行くわ」
 女はそちちへ行き、ベッドの縁に腰をおろした。ブロックは女が来たことを大いによろこんで、すぐさまさかんな、しかし言葉には出さないしぐさで、弁護士に自分のことを取りなしてくれと頼むのだった。彼は明らかに弁護士の知らせを切に求めていたが、おそらくはただ、そうした知らせをほかの弁護士たちに利用しつくさせるという目的だけのためだった。レーニは、どうやったら弁護士に取入れるかを、詳しく知っているようだった。弁護士の手を示して、接吻《せっぷん》するように唇《くちびる》をとがらせてみせた。すぐブロックは手への接吻をやってのけ、レーニのすすめるままに、さらに二度もそれを繰返した。ところが弁護士はまだ依然として黙りこくっていた。するとレーニは弁護士の上にしなだれかかったが、このように身体を伸ばすと、彼女の美しく発育した身体がはっきりと見えるのだった。そして、弁護士の顔のほうに深くかがみこんで、その長い、白毛の髪毛をなでた。これで彼は返事を一言言わざるをえなくなった。
「どうもそれをこの男に話すことは躊躇《ちゅうちょ》するんだが」と、弁護士は言い、頭を少し振るのが見られたが、おそらくそれはレーニの手の感触にもっとあずかるためにちがいなかった。ブロックは、まるでこうやって聞くことは命《めい》を犯すことででもあるかのように、頭をうなだれて聞いていた。
「なぜ躊躇なさるんですの?」と、レーニはきいた。
 Kは、すでにしばしば繰返された、そしてこれからもしばしば繰返されるにちがいない、ただブロックにとってだけ新鮮味を失わないような、よく覚えこまれた会話を聞くような気がした。
「あの男は今日はどんなふうだった?」と、弁護士は答えるかわりに、きいた。レーニはそれについて述べる前に、ブロックのほうを見下し、この男が両手を彼女のほうにあげて懇願しながらすり合せる有様をしばらくながめていた。最後に彼女は真顔でうなずき、弁護士のほうに向き直り、言った。
「おとなしくして一生懸命でしたわ」
 長い髯を生やした老商人が、若い娘に有利な証言を嘆願するのだった。その場合に何か下心があるとしても、同じような立場にある一人の人間の眼にとって、是認されることは何ひとつなかった。弁護士がこんな見世場をやって自分を手に入れようなどとどうして考えることができるのか、Kには全然気持がわからなかった。自分をこれまでは追い払いはしなかったけれども、こんな場面を見せつけては今度こそ自分を離れさせることになるだろうに。弁護士はこの場に居合す者をほとんど侮辱しているのだった。それゆえ、弁護士のやり口というのは、幸いにもKはたいして長いあいだそれの思いどおりにならなくてもすんだのだが、依頼人がついに世の中のことをすべて忘れ、ただ訴訟の終るまでこのような迷いの道の上に身体を引きずってゆくことを望むというようにさせるものだった。もう依頼人ではなく、弁護士の犬だった。もし弁護士が、まるで犬小屋の中にはい入るようにベッドの下にはい入って、そこからほえてみろ、と命じたならば、この男はきっとよろこんでそうしたにちがいなかった。ここで語られているすべてを詳細に自分の胸に納めておいて、上級の場所でそのことを訴え、報告することを任務とするもののように、Kは確かめ考えこむようにじっと聞いていた。
「一日じゅうあの男は何をやっていたのかね?」と、弁護士はきいた。
「あたしはあの人のことを」と、レーニは言った。「あたしの仕事の邪魔をされないように、いつもいる女中部屋の中に閉じこめておきましたわ。隙間《すきま》越しに、何をやっているかときどき見ることができましたの。いつもベッドの上にひざまずいて、あなたがお貸しになった書類を羽根布団の上に開き、それを読んでいました。それはあたしにいい印象を与えましたわ。だって窓は通風孔に続いているだけで、光なんてささないんですもの。それなのにブロックが読んでいるなんて、なんて従順な人だろう、と思いましたわ」
「そう聞いて、うれしいよ」と、弁護士は言った。「だがちゃんとわかって読んでいたのかね」
 こんな会話が交《か》わされるあいだ、ブロックは絶えず唇を動かしていたが、明らかにレーニに言ってもらいたい返事をつぶやいてみているのだった。
「もちろんそんなことは」と、レーニは言った。「はっきりとはお答えできませんわ。とにかくあたしは、この人が徹底的に読んでいるのを見ましたの。一日じゅう同じページを読んでいて、読みながら指で一行一行たどっていましたわ。この人のほうをのぞきこむといつでも、読むことがひどく苦労なように溜息をついていました。この人にお貸しになった書類は、きっとわかりにくいものなんですのね」
「そうだよ」と、弁護士は言った。「それはもちろんむずかしいよ。わしはこの男にそれがいくらかでもわかったとは思わないね。あの書類はただ、わしがこの男の弁護のためにやっている闘いがどんなにむずかしいか、少しでも感じ取らせてやればよいのだ。そしてこのむずかしい闘いを、わしはいったい誰のためにやっているんだ? それは――言うのもばかばかしいが――ブロックのためなんだ。これが何を意味するかも、わしはこの男にわからせてやるよ。ひっきりなしに勉強していたかね?」
「ほとんどひっきりなしでしたわ」と、レーニは答えた。「ただ一度だけ水が飲みたいってあたしに頼みましたの。それで通風窓からコップ一杯渡してやりましたわ。それから八時にこの人を出してやって、食物をあげました」
 今ここでほめられているのは自分のことなのだ、そしてそれはKには印象を与えただろう、とブロックは横眼でちらとKを見た。今は大いに有望と思っているらしく、身のこなしもいっそう伸び伸びとし、膝《ひざ》であちこちと動いていた。それだけに、弁護士に次のように言われて凝然としてしまったのも、はっきりと見てとれるのであった。
「お前はこの男をほめているね」と、弁護士が言った。「しかし、そんなことをやると、まさにそのためにわしは話しにくくなるんだよ。つまり裁判官は、ブロックという男についても、それの訴訟についても、あまりよくは言わなかったんだよ」
「よくは言わなかったんですって?」と、レーニはきいた。「どうしてそんなことがあるんですの?」
 ブロックは、今はとっくに言われてしまった裁判官の言葉を自分の都合のいいように曲げる力をこの女が持っていると信じているかのように、緊張した眼つきで女を見つめた。
「よくはなかったね」と、弁護士は言った。「わしがブロックのことを話しはじめたら、不快そうになった。『ブロックのことはやめたまえ』と、言ったよ。そこで、『私の依頼人です』と、わしは言った。『あなたはいいように使われているんだ』と、彼が言う。そこでわしは、『彼の事件はまだだめにはなっていないと思います』と、言った。『あなたはいいように使われているんだ』と、相手が繰返した。『そうは思いませんが』と、わしは言ってやった。『ブロックは訴訟に熱心で、いつも自分の事件を追いかけています。私の家に住み込みも同然になって、いつでも情報に通じていようとしているのです。こんな熱心さは珍しいですよ。確かに個人的には愉快なやつではないし、作法はなっていなくて、きたならしいけれど、訴訟の点では非の打ちどころがありません』とな。わしも非の打ちどころなくしゃべったんだが、わざと誇張してやったんだ。そしたら彼はこう言うんだ。『ブロックはずるいだけだ。あの男はたくさんの聞き込みをかき集めて、訴訟を引延ばすことを知っている。けれどあれの無知のほうがずるさよりもずっと大きいくらいだ。あれの訴訟なんか全然始まっていないということを聞いたら、そして、訴訟開始の鐘の合図も全然鳴らされたことがないと言ってやったら、それに対してどう言うだろうか』ブロック、おとなしくするんだ」と、弁護士は言った。ブロックがよろよろする膝で立ち上がり、明らかに説明を求めようとする気配を示したからである。
 弁護士がはっきりした言葉でずばりとブロックに向って言ってのけたのは、これが初めてだった。疲れた眼で半ばはどこともなく、半ばはブロックのほうを見下したが、ブロックはこの眼差を見て、またへなへなとひざまずいてしまった。
「裁判官のこんな言葉は、君には全然意味を持たないんだよ」と、弁護士は言った。「どうか一言ごとに驚かないでもらいたいね。そんなことが繰返されると、もう全然打明けられないよ。一言話しはじめると、今こそ最終判決が下されるのだというような顔つきで見つめられるんだからねえ。ここにはわしの依頼人もいらっしゃるんだから、少しは恥を知ってもらいたい! この方がわしにおいてくださっている信用というものも台なしにしてしまうよ。いったい、どうしてくれっていうんだい? まだ君は生きているし、まだわしの後楯《うしろだて》っていうものがあるんだ。つまらぬ心配というものだよ! 最終判決は多くの場合、思いがけずに、任意の人の口から任意な時に下される、ということを君はどこかで読んだはずだ。いろいろな留保条件はあるが、それはもちろんほんとうだ。だが、君の心配はわしに不愉快だし、わしはその中にわしに対する必要な信頼の欠如というものを見る、ということもほんとうだ。いったいわしが何を言ったかね? ある裁判官の言ったことをそのまま伝えただけだよ。君も知っているとおり、さまざまな見方が手続きの周囲に積み重なって、見通すことができないほどになっているんだ。たとえばこの裁判官は手続きの始まりというものをわしとは別な時期において考えているんだよ。見解の相違というもので、何もそれ以上のものじゃないよ。訴訟のある段階において、昔からのしきたりで鐘が鳴らされる。この裁判官の見方によると、それで訴訟が始まるというんだ。それとちがう意見を今全部君に言って聞かせることはできないし、聞い