高村光太郎

山の春—— 高村光太郎

 ほんとうは、三月にはまだ山の春は来ない。三月春分の日というのに、山の小屋のまわりには雪がいっぱいある。雪がほんとに消えるのは五月の中ほどである。つまり、それまで山々にかぶさっていた、氷のように冷たい空気が、五月頃になると、急に北の方へおし流されて、もう十分あたたかくなっている地面の中の熱と、日の光とが、にわかに働きだして、一日一刻も惜しいような山の春があらわれ、又たちまちそれが夏にかわってゆくのである。東北の春のあわただしさは、リンゴ、梅、梨、桜のような、いわゆる春の花の代表が、前後する暇もなく、一時にぱっと開いて、まるで童話劇の舞台にでもいるような気を起させる。これは四月末のことであって、三月にはまだその自然の花々は固い木の芽の中にねむっているのだが、雑誌の三月号といえば、もう誰でも春の話をするにきまっているし、また事実、上野公園あたりの彼岸桜の蕾《つぼみ》は毎年きまってほころびはじめる。日本の国は南北に長いので、季節がこんなにずれていて、おかしいようでもあり、又それがおもしろくもおもえる。北の方ではラッセル車が出るというのに、南の方では桃の花が村々にのどかに咲く。
 自然の季節に早いところとおそいところとはあっても、季節のおこないそのものは毎年規律ただしくやってきて、けっしてでたらめでない。ちゃんと地面の下に用意されていたものが、自分の順番を少しもまちがえずに働きはじめる。木の芽にしても、秋に木の葉の落ちる時、その落ちたあとにすぐ春の用意がいとなまれ、しずかに固く戸をとじて冬の間を待っている。まったく枯れたように見える木の枝などが、じっさいはその内部でかっぱつに生活がたのしくおこなわれ、来年の花をさかせるよろこびにみちているのである。あの枯枝の梢を冬の日に見あげると、何というその枝々のうれしげであることだろう。
 さて、山の三月は雪でいっぱいだが、それでも、もう冬ではなくて春の一部にはちがいないので、雪は降っても又目立って解ける。零下一〇度程度の寒さはすくなくなり、屋根からは急にツララがさかんにぶらさがる。ツララは極寒の頃にはあまり出来ず、春さきになって大きなのが下る。ツララは寒さのしるしでなくて、あたたかくなりはじめたというしるしである。ツララの画を見ると寒いように感じるが、山の人がツララを見ると、おう、もう春だっちゃ、と思うのである。
 ツララがさかんになる頃には、水田の上にかぶさっていた雪の原に割れ目ができてくる。大てい畔《あぜ》にそって雪は解ける。雪の断層ができて、山岳でいう雪の廊下のようになる。それがくずれて、南側の日あたりに枯草の地面が顔を出す。地面が顔を出すが早いか、忽《たちま》ちここの日光をしたってフキの根からぽっかり青いフキノトウが出る。このへんではこれをバッケとよんでいる。二つ、三つ、雪の間の地面にバッケを見つけた時のよろこびは毎年のことながら忘られない。ビタミンBCの固まりのようだ。さっそく集めて、こげいろの苞《ほう》をとりすて、青い、やわらかい、まるい、山の精気にみちた、いきいきとしたやつを、夕食の時、いろりの金網でかろくやき、みそをぬったり、酢をつけたり、油をたらしたりして、少々にがいのをそのままたべる。冬の間のビタミン不足が一度に消しとぶような気がする。たくさんとった時は東京で母がしたように佃煮《つくだに》にしてたくわえる。痰《たん》の薬だといって父がよくたべていた。
 バッケには雌雄の別があって、苞の中の蕾の形がちがう。雌の方は晩春のころ長く大きく伸びてタンポポのような毛のついた実になって、無数に空中を飛んでゆく。
 バッケをたべているうちに、山ではハンノキに金モールの花がぶら下がる。この木を山ではヤツカ(八束か)とよんでいるが、大へん姿のいい木で、その細かい枝のさきに無数の金モールがぶら下って花粉をまく。小さな俵のような雌花があとでいわゆるヤシャの実になり、わたくしなどは木彫の染料に、それを煮出してつかう。もうその頃には地面の雪もうすくなり、小径《こみち》も出来て早春らしい景色がはじまり、田のへりにはヤブカンゾウの芽がさかんに出る。これもちょっと油でいためて酢みそでくうとうまい。山の人はこれをカッコといっている。カッコが出るとカッコ鳥がくるし、カッコ鳥がくると田植だと人はいうがそうでもないようだ。そのころきれいなのは水きわの崖などに、ショウジョウバカマという山の草が紫っぽいあかい花をつけ、又カタクリのかわいい紫の花が、厚手の葉にかこまれて一草一花、谷地《やち》にさき、時として足のふみ場もないほどの群落をなして、みごとなこともある。カタクリの根は例のカタクリ粉の本物の原料になるのだが、なかなか掘るのにめんどうらしい上、製造に手数がかかるので、今ではこの寒ざらし粉はむしろ貴重品だ。
 薬草のオーレンが咲いたり、又ローバイの木に黄いろい木質の花がさいたりしているうちに、今度は一度にどっとゼンマイやワラビが出る。ゼンマイの方が少し早く、白い綿帽子をかぶって山の南側にぞくぞくと生える。これは干ゼンマイにするといいのだが干し方がむつかしいし、山奥のでないと干すと糸のようにほそくなる。ワラビは山の雑草で、いちめんに出て取るのにまに合わないほどである。とってすぐ根もとを焼かないと堅くなる。一束ずつにしてこれを木灰入の熱すぎない湯に一晩つけて、にがみをとり、あげて洗って、今度は一度煮立ててさました塩水につけこみ、軽い重しをして、水からワラビの出ないように気をつける。もう一度塩水をかえてていねいに漬けると、夏から秋、お正月にかけて、まっ青な、歯ぎれのいいワラビの漬ものがたべられる。ワラビの頃あぶないのは野火だが、これは又別にかく。
 やがて、野山にかげろうが立ち、春霞がたつ。秋の夕方は青い霧が山々をうずめてうつくしく、それをわたくしは「バッハの蒼《あお》」と称しているが、春の霞はさすがに明るく、セリュリアン色の蒔箔《まきはく》のように山々の間にういている。遠山はまだ白いが、姿のやさしい、低い山々の地肌にだけ雪がのこって、寒さに焦げた鉾杉《ほこすぎ》や、松の木が、その山々の線を焦茶いろにいろどっているところへ、大和絵のような春霞が裾の方をぼかしている山のかさなりを見ていると、何だか出来立ての大きなあんぱんが湯気をたてて、懐紙の上にいくつも盛られているようで、わたくしは枯草の原の枯木の株に腰をおろして、「これは大きなあんぱんだなあ、うまそうだなあ、」と思って見ている。
 ウグイスという鳥は春のはじめは里の方に多くいるもので人家の庭などでさえずるが、山に来るのは初夏から秋までである。山にいても、どこにいてもこの鳥の声ばかりはあたりを払うような美しさを持っている。山では殊に谷渡りがすばらしい。山の春の鳥はまるで動物園のようで、朝夕はまことにおそろしい。鳥の出席率はどうも朝日の多少に左右されるらしい。キセキレイ、セグロ、コマ、ルリ、ウソ、ヤマガラ、ヤマバト、ヒバリ、とても書いていられないほど多い。いちばんふつうに路ばたにいるのは、やはり頬白で、朝くらいうちから「一筆啓上仕候《いっぴつけいじょうつかまつりそうろう》」とやっている。
 スミレ、タンポポ、ツクシ、アザミの類は地面いちめんを被《おお》っているから、スミレのあのかわいい花を踏みつぶさないでは小径もあるけない。そういう草のわか葉の中にヌノバと土地の人がよんで好んでたべる草がある。大きくなると、学名を「ツリガネニンジン」という草で、このわか葉はうでてゴマやクルミであえるとうまい。つみとると切口から白い乳が出るのでチチグサともいっている。小川のへりには、トリカブトや、ベコノシタなどという毒草が青々と出ているので用心する。大へんうまそうに見える。植物学者白井光太郎博士はトリカブト毒研究で死なれたそうだが、この光太郎はなかなか気をつけて、毒草にうっかりやられたり、何とかいうフランス王のように毒キノコなどに派手にはひっかからないつもりでいる。
 こんなことを書いているうちに季節はかけ足でやってくる。通りすがりの村の青年男女も目がさめたように水々しくなり、手製のスエターも軽そうだ。もうどこを見ても花のないところはなく、幾種類かのヤナギ、ドングリ科のいろいろの花、それにはまことに奇抜な形のが多く、山の中でめいめい一人で意匠をこらしているのかと思うとおかしい。ヤマナシの白、コブシの白、ウグイスカグラの白、その白がみなちがう。ウツギの変種か、ジクナシという淡紅色の花がいちめんに野にさき、ツツジもそろそろ芽ぐみ、やがて山桜が山にあからむ。山桜がいいピンク色にぽうっと山の中腹に目立つようになると、もう三月春分の日は過ぎる。小学校の染井吉野は二三日間にせっかちに咲きそろい、リンゴ畑も、梨畑も、青白くすでに満開になる。北上川にそって東北本線を下る車窓から旅客の見るリンゴの花のきよらかな美しさは夢のようだ。
 わたくしは昔、復活祭のころ、イタリア、パドワの古い宿舎にとまって、ステンドグラスの窓をあけたら、梨の花が夜目にもほの白かったことを思い出す。「町ふるきパドワに入れば梨の花」。わたくしは卓上の鈴をならして数杯のうまいキャンチをたのしみ味わった。この山の中にもいつかは、あの古都に感じるような文化のなつかしさが生れるだろうか。この山はまず何をおいても二十世紀後半の文化中核をつかもうとすることから始まるだろう。その上でこの山はこの山なりの文化がゆっくり育つだろう。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集第10巻」筑摩書房
   1958(昭和33)年3月10日初版第1刷発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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高村光太郎

山の秋—— 高村光太郎

 山の秋は旧盆のころからはじまる。
 カッコーやホトトギスは七月中旬になるともう鳴かなくなり、何となく夏らしい勢が山野に見えなくなってしまい、たんぼの稲穂がそろそろ七月末にはきざしてくる。稲穂の育ってくる頃、山や野にツナギという恐ろしいアブが雲のように出て人馬をなやます。山に入る人は肌をすっかり布でつつんでそのアブにさされるのを防ぐが、馬なども木につながれた縄をふりきってそのアブから逃げる始末で、その頃にはよく離れ駒が小屋の前をかけぬける。「馬こ見なかったかね」と時々村の人にたずねられた。
 稲の穂が出そろうと、たんぼの手入は一段落で、あの苦しい草とりも終り、ちょうどその時旧盆の農休みがくる。旧盆は農家にとって一年中のたのしい一週間で、まず餅をつきご馳走をつくり、先祖のお墓まいりをすませ、あとは盆踊に興じたり、村の青年たちは野球に夢中になったりする。旧盆には農家で供養をいとなむ。わたくしの居た部落でも、毎年輪番で当番をきめ、どこかの家に花巻町の光徳寺さまの和尚さんを招き、部落中の人が集ってお経をあげる。お経のあとでは持ち寄りのご馳走や、般若湯《はんにゃとう》の供養でたのしい一夕をすごす習慣になっている。和尚さんは五里の道を自転車でとばして来て、汗を入れると明るいうちに大きな立派な仏壇の前で読経にかかる。農家の人たちもそれぞれに輪袈裟《わげさ》のようなものを首にかけて揃ってそれに和する。読経がすむと、かねて備えのお膳を大きな、ぶちぬきの部屋にずらりと並べ、本家《ほんけ》、かまどの順を正して座につき、酒盛りがはじまる。村の娘や小母さんが酌にまわる。いい頃を見はからって和尚さんはみやげを持って又自転車で町にかえる。あとは又さかんなおふるまいになるのである。「田頭《たがしら》さんへ」とか、「御隠居さんへ」とか、屋号や通称をよび立てて朱塗の大きな盃のやりとりが行われ、いかにも歓をつくすということになる。
 盆踊は大てい山口部落から一里ほどのところにある昌歓寺という大きなふるいお寺の境内で行われる。もとはススキとツツジの大原野であったが、今は見わたすかぎり開墾された開拓村の一本路を部落の人たちははるばる昌歓寺まで踊りにゆく。秋とはいってもまだ日中はなかなか暑いので、わたくしはそこに行ったことがない。時とするとその流れが山口部落まで押してきて、部落の小学校の校庭で踊のあったこともある。
 平常ご馳走らしいご馳走もたべない村の人たちもお盆中はいろいろのご馳走をつくって一年中の食いだめをする。わたくしもよく方々の農家から小豆餅やなまり節などをもらった。例の白いのもさかんにのまれる。この白いのはうまく出来たのは何ともいえずうまく、甘味と酸味とがよく調和して、やわらかでしかも強く、囲炉裏のわきでひとり静かに茶碗でのむ趣はまことに最上の法楽であるが、又これの出来そこないとなると実にすごい。思いきり酸ぱく、しぶく、しかも度が強くて、のむと腹の中がじりじりと焼け、胃の中でまだ醗酵《はっこう》をやめないのでさかんにおくびが出る。そんなのでも村の人たちは酔を求めて浴びるようにのむから、山村の人たちの間では胃潰瘍《いかいよう》が非常に多い。胃ぶくろに孔《あな》があいて多くの人が毎年死ぬ。酒なしには農家の仕事は出来ず、清酒は高くて農家の手が届かず、やむを得ぬ仕儀ということである。
 いったいに農家の酒ぶるまいというものは徹底したもので、まずその家によばれると、いちばんさきに軽い御飯が出る。いろりのへりで、みそ汁につけものぐらいで一、二杯飯をくう。そして煙草をのみながら客同士が雑談にふける。その時間が相当に長く、よばれた時間から大てい三、四時間は遅れるが、その間に頭数が揃ってくるのだ。やがてお膳がずらりと並んで席がきまると例の通りの盃のやりとりが儀式のように始まり、それがだんだん乱れて来て、席から立って大きな銚子と、外の黒く、内の赤いうるし塗の大きな木盃とを持って、ふらふらと客同士が往来をはじめる。そのうち主人側では奥から大太鼓を持ち出す。それをどんとたたくと、まず音頭とりの声自慢が先にたって、この辺ではおきまりの「ごいわいの唄」というのを合唱する。単調だが、どこかに格式のあるような、相当に長い唄を五段うたう。これを唄い終ってからはめいめい得意の唄を声をかぎりに唄いのめし、手拍子かけ声が外の山々に反響するかと思われるばかりだ。その間でも例の白いのはがぶのみだし、少しのまずに居る人を見つけると忽《たちま》ち主人側の人が無理にものませる。とめる手を押えつけてのませる。奥からは娘さんや小母さんやお婆さんまで列をつくって出てきてさまざまな踊をはじめる。よく大黒舞などというのを見た。客も立って踊り、よろけ、中にはへたばってしまうのも出来る。酔いつぶさなければ振舞したことにならないというのであって、わたくしなど幸に酒に弱くもないから、ともかくもふらふらするくらいですむが、いよいよ帰ろうと思って出口に腰かけてゴム長をはいていると、そこへ家人は銚子と盃とを持って追いかけて来て勢こんで又のませる。これを「立ちぶるまい」という。そしておみやげのご馳走を渡される。もう夜になりかけたたんぼ道を歩いていると、今の家からはさかんな大太鼓の音と人間のわめく声とが渓流の音を消すようにひびいてくる。いつまでやっているのか、わたくしはまだ見届けたことがない。ただ岩手の人たちは不思議に人が好くて、こんな大騒ぎをしても、ついぞ乱暴な喧嘩《けんか》をしない。口げんかは相当にやるようだが、関東の人のような手の早いところは八年間に一度も見かけなかった。
 旧盆がすむと世の中が急にひっそりする。草木は生長をやめて専ら種子をつくる方にかかりはじめる。畠では、トマト、ナス、インゲンがまっさかり、小豆や大豆も大分大きくなり、土用にまいた大根ももう本根をのばし、白菜、秋キャベツもそろそろ結球をはじめ、ジャガイモも二番花を過ぎて玉を肥らせ、芋の子もしきりに親いものまわりに数を増し、南瓜《カボチャ》、西瓜《すいか》、南部金瓜はもう堂々と愛嬌《あいきょう》のある頭をそろえる。野山に山百合の白い花が点々と目立ち、そこら中に芳香を放つようになると、今度は栗の番になる。
 山麓《さんろく》から低い山にかけて東北には栗の木が多い。栗の木は材の堅いくせに育ちが早く、いくら伐《き》ってもいつのまにか又林になる。そして秋にはうまい栗の実をとりきれないほど沢山ならせる。山口部落の奥のわたくしの小屋はその栗林のまんなかにあるので、九月末になると殆と栗責めである。
 日中はまだ少し暑いが、朝の空気はむしろ肌さむいほどの清涼さ。そのきれいな空気を吸いに朝の戸口をとび出すと、眼の前の地面に栗いろの栗がころころ落ちている。この落ちて間もない栗の実の色とつやとは実に美しく、清潔な感じで、殊にお尻の白いところがくっきりと白く、まったく生きている。しっとりとした地面の上にこれが散らばっている黒と褐色との調和は高雅である。拾いはじめると、あちらにもこちらにも眼につき、繁ったニラの葉の中や、菊のかげ、ススキの根もとなどに光っている。毎朝ざるに一杯ずつ拾い、あとはすてて置く。拾っているうちにもぱらぱら落ちてくるし、小屋の屋根には案外大きな音をたてる。クマザサの中にもばさっと落ちるが、下草のある中に落ちた栗の実はなかなか見つけられないもので、不思議にうまくかくれてしまう。
 山の栗は多く実が小さいシバグリだが、小屋のあたりのはタンバグリとシバグリとの間くらいのもので食うのにあつらえ向きだ。毎日栗飯を炊いたり、うで栗にしたり、いろりで焼栗にしたりする。ぬれ紙につつんで灰の中で焼く焼栗を電灯の下でぼつぼつ食べていると、むかし巴里《パリ》の街角で、「マロンショウ、マロンショウ」と呼売していた焼栗の味をおもい出す。あの三角の紙包をポケットに入れて、あついのを歩きながら食べたことを夢のように思い出す。あれはフランス、ここは岩手、なんだか愉快になったものだ。
 部落の子供や小母さんらがよくかごを持って栗ひろいにくる。裏の山の南側のがけに取りきれないほど落ちているが、自然にどこの木が一番うまいというようなことがあるようである。栗拾いには随分山の奥の方まで出かけるが、そういう時に時々熊のいる形跡に出あって逃げてかえってきた人がある。熊も栗やドングリが好きで、この季節にさかんに出没する。熊は木のまたに棚というものをこしらえて、そこに坐って食べるらしい。
 秋風は急に吹いてきて、一朝にして季節の感じを変えてしまう。ばさりとススキをゆする風が西山から来ると、もう昨日のような日中の暑さは拭い去られ、すっかりさわやかな日和《ひより》となって、清涼限りなく、まったく宝玉のような東北の秋の日が毎日つづく。空は緑がかった青にすみきり、鳥がわたり、モズが鳴き、赤トンボが群をなして低く飛ぶ。いちめんのススキ原の白い穂は海の波のように風になびき、その大きな動きを見ると、わたくしは妙にワグネルの「リエンチ序曲」のあの大きな動きを連想する。ススキ原の中の小路をゆくと路ばたにはアスター系の白や紫の花が一ぱいに咲きそろい、オミナエシ、オトコエシが高く群をぬいて咲き、やがてキキョウが紫にぱっちりとひらき、最後にリンドウがずんぐりと低く蕾《つぼみ》を出す。リンドウは霜の降りる頃でもまだ残って咲く強い草だ。その頃部落の子供らが野山をかけめぐってさがすのはアケビである。路傍によく食べのこしのアケビの皮だけがうす紫のいい色をして落ちている。これを見つけた時の子供らのよろこびが眼に見えるようだ。子供らがアケビを食べれば、牛や馬はハギを食う。この荳科《まめか》の植物がよほど好きと見えて牛や馬の飼料に部落の人たちはハギを刈って山のようにかついでゆく。ハギは山野に生いしげるが、ここのはいわゆるヤマハギで赤の色がややうすい。わたくしはミヤギノハギの根を移植して小屋のまわりに繁茂させた。これは赤が濃い。ハギは実に強い草で、落葉を肥料にしてよく育ち、秋にはまっ赤な花を無数につけ、その中に白のまじる風情はすばらしい。白花のハギを殊に牛馬は好むという。その外、秋の野山で目立つのは繖形科《さんけいか》の花である。タラの木、ウドなどは巨大な花茎をぬいて空に灰白色を花火のようにひらいている。高山植物に属する花々もそこらにちらばっていて、秋はうっかり路もあるけない。
 うっかり路もあるけないといえば、秋にはマムシが殊に多い。マムシは夏の頃にはおとなしいが秋には気が荒くなるらしく、しばしば攻勢に出る。よく路ばたにとぐろをまいて控えているが、これにあんまり接近するといきなり飛びつく。とぐろを巻くのは攻撃態勢というものらしい。岩手ではマムシのことをクチバミと称しているが、わたくしの小屋はそのクチバミの巣だといわれる林の中に建っているので、マムシとは甚だ親しい。マムシは家族づれでいつもきまった巣に住んでいるらしく、毎年きまった場所に姿をあらわし、でたらめには歩かない。それでわたくしは一度もマムシの難にかからなかった。村の人は時々かまれる。かまれるとひどくはれて二、三週間は悩むようだ。中にはマムシ取りの名人がいて、棒のさきで首根っこをぎゅっとおさえ、たちまち口をあかせて牙《きば》をぬき、口からさいてきれいに皮をはいでしまう。まっしろな肉をそのまま焼いて食うらしいし、焼酎《しょうちゅう》にもつける。マムシの生きたのを町に持ってゆけば一匹幾百円かで売れるという。花巻駅の駅前広場にはいつでもマムシの黒焼を屋台で売っている。これはほん物だ。
 秋の紅葉は十月中旬だが、ハゼ、ウルシは九月末にもう紅くなる。きわだってさえた色に紅く染まり、緑の多い中に点綴《てんてい》されるのでまったく目ざましい。やがて村のまわりの山々の上の方から色づいてきて、満山が極彩色となる。雑木林の紅葉は楓《かえで》一色のよりも美しい。紅、茶、褐、淡黄、金色と木によって色が違うので、この自然の配合が又となく見ごとだ。山口山という三角山の中腹にあるブナやカツラの大木が金色に輝いているのは壮観で、まるで平安朝の仏画を見る思がする。不思議なことに油画ではまだ日本のこの濃度ある秋の色の分厚さを大胆に造型化していないようだ。梅原竜三郎ならやれそうだが。紅葉は木の葉ばかりでなく、足もとの草の葉の一枚一枚を皆貴重品にする。まったく錦《にしき》をふんで歩く外ない。平常つまらないと思っていたあわれな蔓草《つるくさ》までも威厳をもって紅葉する。
 名月は大てい十月初旬だが、うまい月の位置があるもので、ちょうど人間が空を仰ぎ見るのに都合のいい角度で空にあらわれる。わたくしの小屋のあたりから見ると、北上山系の連山、早池峯山《はやちねさん》の南寄りの低い山のあたりからのぼりはじめ、一晩かかって南の空を秋田境の連山までゆるゆるとわたる。塵《ちり》ひとつないきれいな空だから思いきりあかるい。風呂に入れば湯ぶねの中にも月光はさし、野に出ればススキの穂波が銀にきらめく。まったく寝るのが惜しくなって、わたくしはよくその光にぬれて深夜まで人っ子ひとり居ない野や山を歩いたものだ。小屋にかえれば西瓜《すいか》を割ったり、うで粟をむいたり、里芋をたべたりした。そんな晩に一度か二度美しい狐にあったこともある。紅葉がそろそろ散りはじめ、月もだんだんかけてくると、いよいよ茸《きのこ》の季節となる。
 この辺で秋の茸のいちばん早いのはアミノメという茸である。これは傘のうらにひだがなくて、小さな孔《あな》が無数にあり、網の目のようになっている茸であるが、小屋のまわりのハンの木などの根もとの落葉の中にひょっこり見つかる。ひとつ見つかると続いていくつも出てくる。時には列を成して草原に並んでいる。この茸はそのまま汁などにも入れるが、糸でつないで乾しておいてよく料理につかう。大してうまくもないが捨てがたい。松原の近所にはハツタケも出るが、東北にはマツタケのいいのが出ない。数も少いが、香りも味も京都方面のには敵《かな》わない。この辺でいちばん沢山出てうまいのはシメジ類である。キンタケ、ギンタケというのもその一種で、これは見て美しく、たべてうまい。キンタケは黄、ギンタケは白、椎茸《しいたけ》くらいの大きさで、落葉にかくれて一個所に群生している。部落の人はこれを塩漬にしておいて正月の料理用にする。ギンタケのみそ汁は山の珍だ。ムラサキシメジという紫の濃いきれいな茸も出るが、味はさほどでない。クリタケ、ウスタケ、アンズタケ、その他食用になるのがいろいろ出るが、ナメコはこの山には出ない。毒茸も多い。まっかなベニタケ、星のついたテングタケは恐ろしい毒物だし、夜になると燐光《りんこう》を発するツキヨダケというのも出る。椎茸とまちがえられるほどよく似た茸だが、ほのかな異臭があるし、うらのひだが細かい。暗夜木の根株などにぼんやり光っているのを見ると不気味である。イッポンシメジにも猛毒があり、タマゴテングダケは命とりだ。茸の中で殊に珍重されるのはマイタケとコウタケとである。マイタケは深山にあり、一貫目以上もある大きなものもあるが、太い胴体の上部にネズミの足のような手がたくさん出ている灰白色の茸だ。味もよく、だしが出て調理人によろこばれる。マイタケ専門に探してあるいて町で高価に売り、それで一時の暮しを立てているマタギの連中もいるという。コウタケのことをこの辺では馬喰茸《ばくろうたけ》といっているが、その名の通り見た眼には恐ろしい茸で、形は傘をお緒《ちょこ》口にしたようなものだが、色が黒く、毛だらけで、いかにも馬喰らしい。これも相当に大きくなり、町でよろこんで人が買う。乾しておくといい香りが出て、すまし汁に使える。歯ぎれのよい、食べでのある茸だ。わたくしは茸の図鑑と引きくらべて、「食」とある茸は何でも食べてみた。村の人の食べないようなものでも平気でたべた。老成すると煙の出るツチグリの若いのもたべたし、アワタケもたべた。アワタケは割に大きな、間のぬけた茸で、村の人はアンパンといって馬鹿にしている。いかにもアンパンという感じの、うまくもない茸であるが愛嬌《あいきょう》があった。
 秋の鳴く虫は語りつくせない。とにかくあらゆる種類の鳴く虫が一せいに小屋をかこんで夜は鳴く。ガチャガチャの声だけはきかなかったが、これは里の虫かもしれない。東京と同じようにここでもコオロギがいちばんあとに残って雪の頃までどこかの隅でとぎれとぎれに鳴いている。あわれのようだが、又それだけ生命の強さを物語っている。
 十月になると農家ではいよいよ一年の収穫で、たのしい忙がしい日が十一月一ぱいはつづく。まずヒエを刈る。ヒエは穂からこぼれ易いものなので刈り時があるらしい。根から刈って十本くらいを一株になるようにしばり合せて三角形にひらいて立て並べる。これを「しま」とよんでいるようだ。それから粟を刈る。粟は黄いろの穂をゆたかにたれてうつくしい。ジャガイモはもうすっかり掘り上げてしまい、インゲンも、小豆も、大豆もきれいに刈られる。豆をとったあとの大豆の株はたくさん農家の軒下に乾されて冬中の大切な飼料になる。稲の刈入時は戦のようだ。毎日総出で朝から晩まで休む暇もない。天候との競争のように見える。刈った稲束は一たん田の畔《あぜ》に逆さに並べられて幾日か置かれる。それからやがて本式に稲架《はぜ》にかけ並べられる。たんぼの中に太い棒を立てて、これに高く稲束を丸くつみ重ねる方式もあり、又は低く積む方式もある。夜など見るとまるで巨人が立っているようだ。普通は棚のように横に四段にしつらえた丸太に逆さにぎっしりかけ並べる。まるで路の両側に稲穂の塀が出来たように見える。その金いろの稲穂の塀の間の路をゆくと、あの一種独特な、うまそうな稲の香りが強烈に匂ってきて、農家の営みの大半がまず無事に終ったなという大安心を感じさせる。わたくしは町へ用足しに出て帰る途中など、この稲穂を見るのがたのしかった。穂にも大きな粒や小さな粒があり、長いのや短いのがある。穂の種類によるらしいが、ともかくそのむっとするような、母のふところの匂のような、あまいような、香ばしいような芳香の中を歩くのがたのしかった。部落を出はずれて林のかげの自分の小屋の方に近づくと、いつのまにか稲穂の香りの人間らしさは消えて、今度は秋の山々からりょうりょうと吹いてくるオゾンに富んだ微風の新鮮無比な、宇宙的感覚のようなものが胸一ぱいに満ちるのであった。(秋の味覚のリンゴのことは又別に書く。)

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集第10巻」筑摩書房
   1958(昭和33)年3月10日初版第1刷発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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高村光太郎

九代目団十郎の首—— 高村光太郎

 九代目市川団十郎は明治三十六年九月、六十六歳で死んだ。丁度幕末からかけて明治興隆期の文明開化時代を通過し、国運第二の発展期たる日露戦争直前に生を終ったわけである。彼は俳優という職業柄、明治文化の総和をその肉体で示していた。もうあんな顔は無い。之がほんとのところである。明治文化という事からいえば、西園寺公の様な方にも同じ事がいえるけれど、肉体を素材とせらるる方でない上に、現代の教養があまねく深くその風※[#「蚌のつくり」、第3水準1-14-6]《ふうぼう》に浸潤しているので、早く世を去って現代の風にあたる事なく終った団十郎よりは複雑である。団十郎はこの点純粋の明治の顔を持っていて、女でいえば洗髪のおつまのような其の世代の標式といえるのである。五代目菊五郎についても素より団十郎と同じ事が言えるわけであるが、菊五郎の方は余りに多く俳優であり過ぎて、その現われ方がむしろ旧幕の延長として意味があり、当代の文化一般を肉体化していたような趣のある包摂的な団十郎に比べるといささか世代の標式とはなし難い。
 私は今、かねての念願を果そうとして団十郎の首を彫刻している。私は少年から青年の頃にかけて団十郎の舞台に入りびたっていた。私の脳裡《のうり》には夙《はや》くすでに此の巨人の像が根を生やした様に大きく場を取ってしまっていた。此の映像の大塊を昇華せしめるには、どうしても一度之を現実の彫刻に転移しなければならない。私は今此の架空の構築に身をうちこんでいるけれど、まだ満足するに至らない。私のもまだ駄目だが、世上に幾つかある団十郎像という記念像もみな物になっていない。浅草公園の「暫」はまるで抜け殻のように硬ばって居り、歌舞伎座にある胸像は似ても似つかぬ腑ぬけの他人であり、昭和十一年の文展で見たものは、浅はかな、力み返った、およそ団十郎とは遠い芸術感のものであった。其他演劇博物館にある石膏《せっこう》の首は幼穉《ようち》で話にならない。ラグーザの作というのはまだ見ないでいる。団十郎は決して力まない。力まないで大きい。大根といわれた若年に近い頃の写真を見ると間抜けなくらいおっとりしている。その間ぬけさがたちまち溌剌《はつらつ》と生きて来て晩年の偉大を成している。一切の秀れた技巧を包蔵している大味である。神経の極度にゆき届いた無神経である。彼の第一の特色はその大きさにある。いかにも国運興隆の大きさである。彼の実際の身の丈けは今の吉右衛門よりも小さい。五代目菊五郎と並んだ写真では菊五郎の方がわずかに背が高い。その短躯《たんく》が舞台をはみ出す程大きいのである。彼は肥っても居ず痩《や》せても居なかった。彼の大きさは素質から来ている。深みから来ている。血統から、荒事師の祖先から来ている。絶体絶命の大きさなのである。
 団十郎の顔はぽかりと大きい。その道具立の一つ一つがゆったり出来ていて、此は隈取《くまど》られるために生みつけられた特別製の素材であった。其上に舞台上の修練によるあらゆる顔面筋の自由な発達があった。すべてが分厚で、生きていて、円融無礙《えんゆうむげ》であった。
 団十郎の顔は全体には面長である。横から見ると、後頭よりも顔面の方が勝っている。正面から見るとやや鉢開きの形をしていて頬が何処までも長く、滝のようにつづいている。前額の高いのを除いてはこれといって目立つ急な突起は無い。顴骨《かんこつ》も出ていない。下顎《したあご》にも癖がない。その幅のある瓜実顔《うりざねがお》の両側に大きな耳朶《みみたぶ》が少し位置高く開いている。おだやかな眉弓の下にある両眼は、所謂《いわゆる》「目玉の成田屋」ときく通り、驚くべき活殺自在の運動を有《も》った二重瞼《ふたえまぶた》の巨眼であって、両眼は離れずにむしろ近寄っている。眼輪匝筋《がんりんそうきん》は豊かに肥え、上眼瞼《うわまぶた》は美しく盛り上って眼瞼軟骨の発達を思わせる。眼瞼の遊離縁も分厚く、内眥《ないし》外眥《がいし》の釣合は上りもせず下りも為ない。そして涙湖、涙阜《るいふ》が異様な魅力を以て光っている。下眼瞼の下に厚い脂肪層が一度陰影を作り、それから直ぐ鼻翼の上の強いアクサンとなる。此の目玉に隈《くま》を入れて舞台で彼が見得を切る時、らんらんと言おうかえんえんと言おうか、又城外の由良之助のように奥深くじっと見つめる時、それは世紀の奥を貫く眼だ。鼻梁《びりょう》は太く長いが、別に高くはない。高過ぎて下品になる鼻ではない。むしろなだらかで地道である。顴骨から鼻の両側に流れる微妙な肉、そして更に下顎に及ぶ間延びのした大顴骨筋と咬筋とそれを被《おお》う脂肪と、その間を縫うこまやかな深層筋の動きとは彼の顔に幽遠の気を与え、渋味を与え、或時は凄愴《せいそう》直視し難いものを与える。団十郎は鼻下長である。彼の長い鼻下と大きな口裂と厚い唇とはあらゆる舞台面上工作の根拠地である。彼の口辺の筋肉の変化と強い頤唇溝の語るところは筆で書けない。此所は造型上でも一番手こずる難所である。とにかく清正の髯《ひげ》は此所に楽に生え、長兵衛の決意は此所でぐっ[#「ぐっ」に傍点]ときまり、鷺娘《さぎむすめ》の超現実性も此所からほのぼのと立ちのぼるのである。そしてあのムネ スウリも及ばないめりはり[#「めりはり」に傍点]が此所から出るのである。滝壺のようにとどろく声が生れるのである。団十郎の首はまだ出来ない。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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高村光太郎

気仙沼—— 高村光太郎

女川から気仙沼へ行く気で午後三時の船に乗る。軍港の候補地だといふ女川湾の平和な、澄んだ海を飛びかふ海猫の群団が、網をふせた漁場のまはりにたかり、あの甘つたれた猫そつくりの声で鳴きかはしてゐる風景は珍重に値する。湾外の出嶋《いづしま》の瀬戸にかかるとそこらの小嶋が海猫の群居でまつ白だ。此鳥の蕃殖地としては青森県の蕪嶋《かぶしま》が名高いが、此の辺にもこんなに沢山棲んでゐようとは思はなかつた。彼等はいち早く魚群を見つけて其上に円陣をつくる。彼等と漁船とは相互扶助の間柄だと人がいふ。「名ばかり」といふ礁を通り過ぎて外洋に出ると、船は南方二十余キロの金華山を後ろにして針路一直線に北に向ふ。水温二〇度、気温二七度、東方右舷の水平線に有るか無しかの遠洋航路の船が数分間置きに一定の煙を空に残してゆく。この水平線上の電信記号がいつまでも消えない。暮かかる頃、岩井崎から奥深い気仙沼湾にはひる。湾内は浅瀬で、もう暗やみの水路が甚だ狭い。大浦の陸とすれすれに進み、浮標の灯をたよりに入港する。午後七時半。
 船から見た気仙沼町の花やかな灯火に驚き、上陸して更にその遺憾なく近代的なお為着せを着てゐる街の東京ぶりに驚く。賑やかな海岸道路の宿屋には、もう渡波から此所に来てゐる虎丸一行御宿の大きな立札が出てゐる。玉錦一行の割当人名が出てゐる。私は或る静かな家に泊つたが、夏に旅行する者の必ず出会ふ旅館の普請手入といふものに此所でも遭つて当惑した。勉強な大工さんが夜でもかんかんやるのである。さうして在来の建方を「改良」して都会風な新様式に作りかへる。
 柳田國男先生の「雪国の春」といふ書物をかねて愛読してゐた私は粗忽千万にも気仙沼あたりに来ればもうそろそろ「金のベココ」式な遠い日本の、私等の細胞の中にしか今は無いやうな何かしらがまだ生きてゐるかも知れないなどと思つてゐた。気仙沼には近年大火があつたといふ。大火はほんとに業をする。
 翌日は朝からがんがん暑い此新時代の町を歩き廻る。社会施設の神経がひどく目につく。さういふ事に余程熱心な自治体らしい。古刹観音寺にゆけば婦人会の隣保事業があり、少林寺の焼あとにゆけば託児所で子供が鳩ぽつぽを踊つて居り、天満宮の山に登れば山上に公衆用水道栓があり、海の見晴らしにゆけば日本百景当選の巨大な花崗石の記念碑があり、あらゆる道路に街灯が並び、大きな新築の警察署があり、宏壮な小学校にはテニスの競技があり、学術講演会があり、一景嶋近辺へゆけば塩田何々町歩を耕地に整理して水田の何々町歩を得たといふ立札が立つて居り、夜になれば鼎座に浪華節《なにはぶし》があり、シネマがあり、公娼が居なくて御蒲焼があり、銀座裏まがひのカフエ街には尖端カフエ世界、銀の星、丸善がある。「車引いて商売する。悪いことあるか。」朝鮮人のアイスクリイム行商が反抗する。「ある、ある」とお巡りさんが腕をねぢつて連れて行つてしまふ。おそろしく至れり尽せりの外客整備に旅人はただ茫然として突き放されてゐる。此日小高い山腹の曹洞宗木食上人道場自在庵を訪ふ。洒脱な住職が慧海師将来の西蔵《チベツト》仏などを見せてくれた。「私は山形の画かきでありますがごらん下さい。お志があれば紙代でよろしい」と突然縁がはに軸をひろげた人がある。住職は、「此寺は貧乏寺でな、お盆前では御交際も出来ません、お盆にでもなれば何ぼか貰ひがありませうが」と断つてゐる。画家は又軸を包んで横に背負ひ「御縁があつたらまた」といつてとぼとぼ山を下りて行く。
 私は忽ち海が恋しくなつて其夜十時、遂に気仙沼の新調の洋服を見ただけで、釜石行の船に乗る。

底本:「日本の名随筆79 港」作品社
   1989(平成元)年5月25日第1刷発行
   1995(平成7)年8月20日第5刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集 第九巻」筑摩書房
   1957(昭和32)年11月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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高村光太郎

顔—— 高村光太郎

顔は誰でもごまかせない。顔ほど正直な看板はない。顔をまる出しにして往来を歩いている事であるから、人は一切のごまかしを観念してしまうより外ない。いくら化けたつもりでも化ければ化けるほど、うまく化けたという事が見えるだけである。一切合切投げ出してしまうのが一番だ。それが一番美しい。顔ほど微妙に其人の内面を語るものはない。性情から、人格から、生活から、精神の高低から、叡智《えいち》の明暗から、何から何まで顔に書かれる。閻羅《えんら》大王の処に行くと見る眼かぐ鼻が居たり浄玻璃《じょうはり》の鏡があって、人間の魂を皆映し出すという。しかしそんな遠い処まで行かずとも、めいめいの顔がその浄玻璃の鏡である。寸分の相違もなく自分の持つあらゆるものを映し出しているのは、考えてみると当然の事であるが、又考えてみるとよくも出来ているものだと感嘆する。仙人じみた風貌をしていて内心俗っぽい者は、やはり仙人じみていて内心俗っぽい顔をしている。がりがりな慾張でいながら案外人情の厚い者は、やはりがりがりでいて人情の厚い顔をしている。まじめな熱誠なようでいて感情に無理のあるものは、やはり無理のある顔をしている。お山の大将はお山の大将、卑屈は卑屈。争われない。だから孔子や釈迦や基督《キリスト》の顔がどんなに美しいものであったかという事だけは想像が出来る。言う迄もなく顔の美しさは容色の美しさではない。容色だけ一寸美しく見える[#「見える」に傍点]事もあるが、真に内から美しいのか、偶然目鼻立が好いのかはすぐ露《あらわ》れる。世間並に言って醜悪な顔立に何とも言えない美しさが出て居たり、弁天様のような顔に卑しいものが出て居たり、万人万様で、結局「思無邪」の顔が一番ありがたい。自分なども自画像を描く度にまだだなあと思う。顔の事を考えると神様の前へ立つようで恐ろしくもあり又一切自分を投出してしまうより為方《しかた》のない心安さも感じられる。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
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高村光太郎

開墾—— 高村光太郎

 私自身のやつてゐるのは開墾などと口幅つたいことは言はれないほどあはれなものである。小屋のまはりに猫の額ほどの地面を掘り起して去年はジヤガイモを植ゑた。今年は又その倍ぐらゐの地面を起してやはりジヤガイモを植ゑるつもりでゐる。外には三畝ばかりの畑を使はしてもらつて、此処にいろいろの畑作をやつてゐる。今のところそれだけである。無理をするのがいやなので自分の体力と時間とに相当したことだけを今後もやつてゆくつもりである。無理に成績をあげるやうなことをすると、自分の芸術上の仕事にもさしひびくし、体力をも酷使するやうになるに違ひないので、その範囲を明かに判断してかかつてゐる。体力酷使といふことは、一面自分でも大層勉強してゐるやうに感ぜられ、農家などにあつては、労働といへば体力酷使を意味し、引いては体力酷使をしなければ労働でないやうな錯覚を持つに至り、便利な機具などを使ふのは幾分労働忌避を意味するもののやうに考へられる傾さへあるが、これはまことに馬鹿げたことで、体力を酷使せずに必要なだけの仕事の出来るのを目標とせねばならないこと言ふまでもない。むやみに計画を壮大にしてそのために神身を労し過ぎ、仕舞には何のために苦しんでゐるのか分らなくなり、果ては絶望的破壊的な考へ方まで抱くに至るやうな例もままあるのは気の毒である。分相応よりも少し内輪なくらゐに始めるのがいいのだと私は信じてゐる。
 そんなわけで、私は極めて楽な程度の開墾のまねことのやうなことを去年の雪解後に始めたのであるが、驚いたことに、そんな程度のことでさへ素人の私をおびやかすに十分であつた。私の掌には長年の鑿だこが出来てゐて力仕事にかけては随分自信があるのであるが、鑿のあたる所と、馬鍬《まんが》のあたる所とは違ふと見えて、僅かなジヤガイモ畑の開墾で右の掌に血まめが三つばかり出来た。それがつぶれて一旦治つた後、皮下の深い所が膿み始めて、最初は痒く、やがてヅキヅキと痛み出して一週間ばかりは安眠も出来ない始末となつた。手首一面に腫れて二の腕の方までそれの犯して来る様子が物凄いので、たうとう花巻町に出かけて花巻病院長さんに見てもらひ、その夜すぐに右掌を切開して膿を出していただいた。それから毎日ガーゼの取りかへに病院通ひをするため一ヶ月足らずは花巻町の院長さん邸に逗留しなければならなかつた。その一ヶ月は丁度五月から六月にかけてのことなので畝作り、播種、施肥、その他栽培に一番肝要な時期だつたわけであるから、不在のままだつた私の開墾も畑もすつかり仕事が遅れてしまつた。六月末に山に帰つてみると、エン豆、インゲン、ジヤガイモなどはどうやら物になつたが、稗の苗などは雑草にすつかり食はれてしまつてゐた。一旦はびこり出した雑草はまだ不自由な右手の働きぐらゐでは中々退治がむつかしく、私の畑は雑草の中にいろんな作物が居留してゐるやうな状態となり、実にさんたんたるものであつた。
 その上、北上川以西の此の辺一帯は強い酸性土壌であり、知れ渡つた痩地である。そのことは前から知つてゐたし、又さういふ土地であるから此所に移住してくる気になつたのである。北上川以東には沖積層地帯の肥えた土地がたくさんあるのであるが、私はさういふ地方の人気のよくないことを聞き知つてゐたのである。野菜などが有りあまる程とれる地方では其を商品とする農家の習慣が自然とその土地の人気を浅ましいものにするのである。此所のやうに自給自足すら覚束ないやうな痩地の所へは買出しの人さへやつて来ず、従つて農人はおのづから勤勉であると同時に悪びれもせず、人間本来の性情を素直に保つてゐる。実際太田村山口の人達は今の世に珍しいほど皆人物が好くてのどかである。その代り強い酸性土壌なのである。そこで私はタンカルを使つた。これは宮沢賢治が在世の頃東北砕石会社の生産品として、彼自身もその売りひろめに奔走した石灰類なのであるが、今日漸くその効用がひろく認められて、今でも、東磐井郡長坂村付近にその後継会社があり、炭酸カルシウム、略してタンカルと呼ばれて、さかんに売り出されてゐる模様である。私はこれを宮沢家の手を経て此の部落に一車分配給してもらひ、部落の農家の間で少しづつ分けたのである。おかげでホウレン草もどうやら育ち、大豆、小豆などもうまくいつた。
 昨年はかなりの日照り年で、部落の中では井戸の涸れた家もある程であり、畑地も乾きすぎて大根の二葉が枯れ、小豆も不出来といふ騒ぎであつたが、私の畑は湿け気味の地面なので小豆も茄子も里芋もトマトも甚だよく出来た。小豆は思つたよりも多くとれ、殊に茄子とトマトは成績よく、霜の来るまでさかんに実りつづけた。
 ジヤガイモは開墾地と畑地と両方に植ゑてみたが、これは開墾地の方がよく、イモがきれいに味よく出来た。畑地の方のはどうも肌が荒れ勝ちだ。今年は一奮発して増産する気でゐる。此所の土壌には底に粘土層があるため、大根人参の類は長く伸びず、二股になつたり、鍵の手に曲つたりする。上の方へむやみに立ち上つてくるには驚いた。南瓜西瓜も試みたが上等とはいへなかつた。胡瓜は見事に出来て、毎朝江戸前の節成胡瓜の取立てを味噌や塩でたべたり、糠みそ漬にした。土地の農家では胡瓜を大量に塩漬にして一年中の用に備へてゐる。今年亡くなつた水野葉舟君からもらつた田口菜、キサラギナ、日野菜、セリフオンも立派に出来た。
 太田村には清水野《きよみずの》といふ大原野があるが、此所に四十戸ばかりの開拓団が昨年からはいり、もうぼつぼつ家が建ちかけてゐる。私は酪農式の開拓農が出来るやうに願つて、なるべくそれをすすめてゐる。そして乳製品、ホウムスパン、草木染に望みをかけてゐる。

底本:「日本の名随筆 別巻14 園芸」作品社
   1992(平成4)年4月25日第1刷発行
   1996(平成8)年10月30日第4刷発行
底本の親本:「高村光太郎選集 第六巻」春秋社
   1970(昭和45)年3月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

高村光太郎

回想録—— 高村光太郎

   一

 私の父は八十三で亡くなった。昭和九年だったから、私の何歳の時になるか、私は歳というものを殆と気にとめていない。実は結婚する時自分の妻の年も知らなかった。妻も私が何歳であるか訊《き》きもしなかった。亡くなる五六年前に一緒に区役所に行って、初めてその時妻の歳を知ったが、三つ位しか違わぬことが分った。私は現在目の前にあるものを尊しと思う。昔どうだったというようなことは全然自分の考に附き纏《まと》わない。良ければなおいいし、悪くてもそれが現在良ければいい。そういう風だから、自分の過去を振返って、自分の行跡を解剖し、幾つまで何々が好きで、幾つの時にそれを清算してそれからこういう方面に切込んで行ったなどということを考えるのは煩い。だから考えたことはない。自己解剖など私にはさっぱり興味がない。そんな風で、この頃よく以前の歳を訊かれることがあるけれども、よく覚えていないようなわけである。
 日記もつけたりつけなかったりである。生涯のうちでも一番緊張して重要な時は、日記などつける余裕もなく、従って後から一番知りたいと思うような時期の日記が欠けている。
 又言うまでもないことだが、吾々《われわれ》の記憶というものも本当の事実に正確であるかどうかも甚だ覚束《おぼつか》ない。過去の事実を屡々《しばしば》記憶のうちに喚《よ》び醒《さま》しているうちに、吾々は回想の中にその事実を次第に潤色し、いつかそれが本当の事実だと記憶して了うような場合も少くない。子供の時分から私は屡々父の回顧談を聴いたが、父は同じ話を何度も繰返しているうちに、その細部などいつか変って来ていることもあった。話の調子に乗って語っている間に、実際に父の記憶がそういう風になって来ていたのであろう。実際、歴史というものは、そういう堆積《たいせき》なのかもしれない。無数の事実の中から一種の創造が行われているわけなのである。

 父は子供の時、十二で浅草清島町の裏長屋から仏師屋へ奉公に出た。清島町の家は河童橋の通にあった。変な蝮屋《まむしや》のあるような小さな露地を入った九尺二間の長屋のずっと続いている暗い家で、近所|界隈《かいわい》はそういうものばかりのようであった。其処で祖母が父を教育してそだてたのである。
 私の家の先祖については、昔のことは分らない。父の言っていたのを受け継ぐより外ないが、鳥取の士分で、はっきりはしないが文化あたりに江戸に来て町人になった。髯《ひげ》の長兵衛と言われて、父のように髯が濃かったらしい。唯そんなことしか遺っていない。
 祖父は気の毒な人で、子供の時から非常な苦労をした。その父親、つまり私の曾祖父《そうそふ》にあたる人は、嘉永にはならぬ位の徳川末期の時分で、丁度その当時流行した富本節が非常に巧く、美声で評判になったものらしい。それで妬《ねた》まれて水銀を呑まされたとか言うことだ。その為に声は出なくなる、腰は立たなくなる、そのせいかどうかわからないが一種の中風になった。祖父は小さい時からその父親の面倒をみて、お湯へでも何処へでも背負って行ったと言う。商売の方は魚屋のようなものだったらしいが、すっかり零落し、清島町の裏町に住んで、大道でいろいろな物を売る商売をして病気の父親を養った。紙を細かく折り畳んだ細工でさまざまな形に変化する「文福茶釜」とか「河豚《ふぐ》の水鉄砲」とか、様々工夫をしたものを売った。そんな商売をするには、てきやの仲間に入らなければならぬ。それで香具師《やし》の群に投じ花又組に入った。そのことは、父の「光雲自伝」の中には話すのを避けて飛ばしているが、――そうして祖父は一方の親分になった。祖父は体躯《たいく》は小さかったが、声が莫迦《ばか》に大きく、怒鳴ると皆が慴伏《しょうふく》した。中島兼吉と言い、後に兼松と改めたが、「小兼《ちいかね》さん」と呼ばれていて、小兼さんと言えば浅草では偉いものだったらしい。祖父の弟で甲府に流れて行って親分になった人があるが、これは非常に力持ちの武芸の出来た人で、その弟がついているので祖父の勢力が大変強かった。喧嘩《けんか》というと弟が出て行った。江戸中の顔役が集まって裁きをつけたりしたことがあったと言う。だから私は子供の時分、見世物は何処へ行っても無代《ただ》だった。その時は解らなかったが、後で考えるとそのせいだったらしい。よく兄哥連《あにいれん》に背負われて行ったものだ。喧嘩の仕方なども、祖父から聞いて知っている。然し祖父が足を洗って隠居してからも連中が祖父のところに出入するのを、父は実に厭《いや》がったものだ。祖父は丁髷《ちょんまげ》をつけて、夏など褌《ふんどし》一つで歩いていたのを覚えている。その頃裸体禁止令が出て、お巡りさんが「御隠居さん、もう裸では歩けなくなったのだよ。」と言って喧《やかま》しい。そしたら着物を着てやろうというので蚊帳《かや》で着物を拵え素透《すどお》しでよく見えるのに平気で交番の前を歩いていた。谷中に移ってから父の住んでいる家の向う側の長屋を隠居所ということにして、夏の夕方など、長屋の格子の向うは障子になっていたが、其処で影絵を始めて評判になり、随分人が集まるようになった。祖父は声が自慢で、大津絵などうまく、影絵をやりながら唄ったりして、そういうことをやるのが楽しみのようであった。ものにこだわらない明るい気性で、後で考えると私共を実によく労《いたわ》ってくれたことがわかる。
 祖母は、私の生れた明治十六年に亡くなったが、なかなか偉い人のように思える。埼玉県の菅原という神官の娘で手蹟なども遺っているが、字も立派だし、神官の娘だけあって歌も詠むし、方位だとか暦のことは非常に委《くわ》しく、その書き遺したものなど見ると相当教養のある人だったように思われ、香具師の女房などには不思議な位である。人の話では何でも誘拐されて祖父の許《もと》に来たと言う。そして後妻になって祖父を扶《たす》け、それが祖父を感化して了った。祖父はもともとそれに生れついた人ではなかったから、祖母を貰ってからは足を洗おうとしていたらしいが、どういうきっかけか知らないが兎に角足を洗って、私の父が奉公の年季が明けた頃にはもう素人で、それから隠居して、父が当主になったのである。
 父には兄があって、それは先妻の子供で後まで中島と言っていたが、相当うまい大工であった。父は金華山のお寺に貰われてゆく筈であった。金華山にゆくことになったのも、神仏|混淆《こんこう》の時分だから、多分祖母の縁故からだと思う。ところがそれで頭を結いに行ったら、床屋の親爺が「そんな所へ行くのは惜しい。丁度|丁稚《でっち》を頼まれているから」というので、際どいところで仏師屋の高村東雲のところへ行くようになったのである。十二の年から十何年か勤め、その後で御礼奉公を二三年やって廿幾つかで年が明け、それから独立したわけだ。それは当時の為来《しきた》りとして決っていたことだ。丁度それが明治の初めに当って徴兵制の敷かれた頃で、跡取りの長男は兵隊にいかないでもよい制度だったから、その当時の風習に倣って戸籍上名儀だけだったが、師匠の妹の高村エツという人の養嗣子となり、以後高村幸吉となった。そして父は漸《ようや》く西町三番地に一家を持ち、祖父も前述のように隠居をして清島町を引上げて父と一緒になった。
 西町の家も文字通りの九尺二間の長屋であった。家の前を上野広小路の方から流れて来る細い溝が鉤《かぎ》の手になって三味線堀に流れていた。少し行ったところが佐竹原《さたけっぱら》という原っぱになっていて、長屋の裏手は紺屋の干場になっていた。その佐竹原に、祖父の元の仲間が儲仕事《もうけしごと》に奈良の大仏の模品を拵えて、それを見世物にしたことがある。その仕事の設計が余り拙いので、父は仏師だからつい、心は丸太で、こういう風に板をとりつければよいというようなことを口出ししたのがきっかけとなって、その仕事に引きずりこまれて監督になったらしい。大仏の中は伽藍洞《がらんどう》で、その中に階段をつけ、途中に色々な飾りものがあって、しょうつか婆が白衣で眼玉が動いていて非常に怖しかったのを覚えている。大仏の眼玉や鼻の孔《あな》から眺めると、品川のお台場の沖を通る舟まで見えるということであった。之が父の設計で余り岩畳に出来ているので、後で毀《こわ》すのに困ったらしく、神田明神のお祭の時にひどい暴風があっても半壊のままだったらしい。父がそんな見世物に手を貸してやっていたことなど、幸田露伴さんの小説の中にも出ているが、然し露伴さんは谷中に来てからの知合で、その頃はもとよりそんな方面の方とはつきあいはなかった。
 歳末になると、父は車を引張ってお酉様《とりさま》の熊手を売りにゆく。いろんな張子を一年かかって拵え、家の中を胡粉《ごふん》の臭いでいっぱいにし、最後に金箔《きんぱく》をつけて荷車に積んで売りに行ったものだ。そんなことが二三年続いたと思うが、つまり仏師の仕事だけでは食って行けなかったのだ。だがそうしている間に、彫刻家として認められる機会がちょいちょい出て来た。父の仕事振りを偶々《たまたま》通りすがりの石川光明さんがよく見ていて、その世話で展覧会に出品するようになった。矮鶏《ちゃぼ》などは、その頃拵えたものだ。あの矮鶏は非常によかったと今でも思う。私は五つ位の時だったが、矮鶏の鶏冠《とさか》の円いものなどうまく本当のように出来るものだというようなことを感じて見ていたことを微かに覚えている。それから皇居の御造営があって、皇后様の御部屋の狆《ちん》なども拵えた。
 然しその頃の彫刻家は――彫刻師《ほりものし》と言ったが――今のような世間との交渉は全くなく、鑑賞家から展覧会を見て仕事を頼まれるというようなことは殆となかった。その当時、父のところには、若井兼三郎、外山長蔵、金田兼次郎、三河屋幸三郎などという貿易商が頻々とやって来た。弁慶という独逸《ドイツ》人(父は発音が似ているとそんな風に言って了う。)なども、横浜の商会の手代でちょいちょい来た。父は、食う為には純粋に自分のやりたいものなどなかなか出来ず、マドロスパイプ、インクスタンド、洋傘の柄、ナイフ、時計台、鏡の縁だとか、そういうものの鋳ものにする時の木型を無数に彫った。ひょっとこの口が吸口になって鉢巻のところに煙草をつめこむパイプとか、足長手長を組合せて鏡の縁にするとか、蟹《かに》の鋏《はさみ》をペン置きにするとか、西洋人の気に入りそうな悪どいものだが、そんなものを沢山拵えた。一つが十銭か二十銭位だったから一円貰う為にはそんなものを可成拵えなければならぬわけだ。材はよく樟《くすのき》を使っていた。父の仕事は実に速かったが、そういうものでも投げやりには出来ぬ性だったから、合いはしないのだけれど、食べられぬからそんな仕事をするより外なかった。当時|牙彫《げぼり》がよく横浜に出て、非常に儲かったものだそうだが、父は自分は木彫を習ったのだからと言って遂にやらなかった。又その間に、鋳流しの蝋型《ろうがた》を作る仕事をした。
 その頃、父のところに出入していた人は、そういう貿易商などが主で、石川光明先生なども来られたらしいが、面立をはっきり覚えていない位である。仏師の方は、父のところに来るということは少なかった。父の相弟子で林美雲という人があったが、この人は東雲が亡くなってから父を師匠代りにして西町によく来ていた。和達さんというアンチモニーの匙《さじ》を初めて拵えた半分商人で半分職人の人がよく来て、家では歓迎した。又錺半さんという錺屋《かざりや》の職人がよく出入りしていたが、非常によい腕をもった人で、観音様の御堂に上っている絵馬のようなお供えの額を作って、その小さな一つを今でも私は父に貰って持っている。それは何でもないように見えていて、難しい仕事だ。そんなような職人との交際は他にもまだ沢山あったと思うが、東雲の亡くなった後は仏師の方はもう縁が切れたからであるか余り来なかった。
 丁度憲法発布の頃だから明治廿二年、西町から仲御徒町三丁目に引越した。その頃父がひどい病気をした。家中で、「ことによると駄目かもしれない。」と言っているのを心細い思いで聞いていたのを覚えている。癒《なお》ってからも一年位手が震えて父は何も仕事は出来なかった。それで仲御徒町の時の貧乏は実にひどいものだった。山本国吉(後の瑞雲さん)が一所懸命父の代作をして、それを三幸商会に持って行き、其の日の薬代などにしていたらしい。私も母に連れられて三幸商会に品物を納めに行った記憶がある。
 母は、今日で言うと小舟町辺の金谷という穀問屋に厄介になって居た人の娘であった。初めわかと言い、後にとよと言った。大変不幸な人で、私の祖父が余り気立がいいので見込んで倅《せがれ》の嫁にと話をし、半ば母を助ける意味で父のところに来ることになったらしい。だから母は父にそういう境遇から救われたわけだ。母はまるで自分というものを無くして父を立て、實に忠実に父に尽した。こういうことは、母だけは実際偉いと私は思っている。典型的な日本の母親のように思える。貧乏な中をどんな苦労でもしたものだ。母は学問はないが悟りは非常によく、字などもお家流だが大変上手であった。祖父は自分が懲りているので、父の代になって家庭に鳴物と勝負事は一切入れなかった。母は長唄と下方の笛が得意であったが、そんなものは皆|放擲《ほうてき》して了っていた。ただ母は昔からの為来《しきた》りを非常に尊び、年中行事に委《くわ》しく、それをきちんきちんとやった。未だにその習慣が思い出されると悪くない。
 些細《ささい》な生活の端くれのようだが、矢張そうすると一年がはっきりし、一月から十二月の終まで、いろんなことが繋《つな》がって生活そのものに非常に思出がつく。半分は迷信みたいなものがあって、晦日《みそか》には神主がやって来て荒神《こうじん》様を拝んで家中|御祓《おはらい》をして帰るとか、そんなことでもいろいろ家庭の情趣として私の心に残っているのは母の御蔭である。母は之を非常な貧乏の中でやっていた。竹筒をぶら下げておいて、一銭二銭のお金を入れ、月末に家賃になるだけ入れなければ家賃が払えないような貧乏であった。後に、父が美術学校の先生になってから、やっと生活が当り前に出来るようになったが、それからは学校の先生同志とのつきあいもあり、お弟子もふえたけれど、父は祖父の気性を承《う》けて派手なことが好きだったから、母は決して楽ではなかったらしい。谷中に来てからは、学校の先生になったというので、父を「先生」と呼ぶことにして通し、父が学校から戻ると家中の子供から弟子まで集めて玄関に迎えるようにしたので、初は私達子供は面食《めんくら》って了った。その頃は相当な学校の先生というと歩かないで皆車に乗った。俥屋が「お帰り」と大声で言うと、ずっと前に並んで出迎えて弟子達にも先生というものの位をつけさせたのだ。先ず威儀から始めて、以前の職人を直そうというのであった。あらゆる父の欠点は、母がすべて蔭になって外に現れないように尽し、それは当時はあたり前のような事に思えたが、その当り前のことがなかなかの事だということが、母が亡くなってみるとはっきりと分った。
 憲法発布の頃は、もう美術学校は出来ていた。そして竹内久一先生が一番先に彫刻の先生になっていたが、竹内先生が無理遣りに父に先生になれと言って交渉して来た。父は、そんなものはおかしくてなれないと断っていたが、岡倉さんに呼出されて懇々説諭されて漸《ようや》く引受けたらしい。天心先生がある時、不意に遊びに来られた時のことを覚えている。何處かの帰りで、既に半分酔ってやって来られ、家では岡倉さんは何でも酒がなくてはと言うので急に買いに行くやら大騒ぎをした。夏だったから座敷が開放してあるところへ、ガラスのホヤのついている蝋燭立《ろうそくたて》を二つ許《ばか》り並べた真中に床の前に胡坐《あぐら》をかいて、実にいい機嫌で可成夜更けまで何か滔々《とうとう》とやっていた。天心先生はお酒をのむと相当|呂律《ろれつ》が廻らなくなるので何を言ってるのか聞きとれないが、聞きとれてもどういう意味か子供の私には解らなかったろうから、既にその時に記憶はない。細い目を据えて、私の方をジロリジロリ見ている様子が非常に頭に残っている。何か愉快な豪傑みたいな気がして、普通の人とは違った歴史上の人が来て何かやっているような気がして、印象によく残ったのであろう。父は以前はよく酒を飲んだが、その当時は殆と飲まなくなっていたので、無理に奨《すす》められ仕方なく時々盃を口にしている様子が子供ながら解るので、私は厭《いや》な気持というのではないが非常に荷厄介なような感じで、早く帰ってくださればいいと思った。随分長時間彫刻のことやいろいろ芸談のようなことを語っているらしいが、父は仏師屋時代の習慣かもしれぬが「御意に御座ります。御意に御座ります。」と言っているので、私はあんなことを言わなければいいのにと思った。
 美術学校の岡倉さん時代は、先生というものは一年を通じて生徒の面倒をみることが出来れば他に何をしても構わないという状態で、きちんと学校には来ても来なくてもいいということで、先生は学校で多くお手本となるものを拵えていた。又政府の関係団体などから始終記念像等の註文が来る。先生はその製作に従事していれば、それが教授の一つの実例になって、生徒は見ていていろいろ学ぶ。例えば父が仕事に与った楠公の銅像の時は微かにしか覚えていないけれど、西郷隆盛の銅像の時はよく知っているが、美術学校の中に臨時に小屋を拵えてやっていた。楠公の像の木型が出来て、それを二重橋の内に持って行って飾りつけ、先ず明治天皇が天覧になった。その後で私共も見たが、父が全責任を負っているというので塩を撒《ま》いて行ったことを覚えている。兜《かぶと》の前についている剣に楔《くさび》を入れることを忘れて、陛下が突然地面にお降りになって、ぐるぐる像の周囲を御廻りになりながら天覧になったが、その時にその剣がぶらぶら揺れるので、それが落ちたら切腹ものだったと言っていたのを記憶している。あの像は木型だけは出来たが、鋳金が技術的に出来なかったので、岡崎雪声さんが外国を廻って鋳金の方法を研究して来られた。あれだけ拵えるのは、あの当時には大変なことだったのだ。又後藤貞行さんなども、あの像に関係したが、ああいう状態に馬がいる時は、ああいう具合に馬は尻尾を上げないと非難する人があって、それを反証する為に後藤さんは自分で馬を駆けさせてグッと引いて急に止った時の姿勢で、馬が尻尾を上げるということを実地に証明したりした。後藤さんは馬の解剖も委《くわ》しいし、馬のことは馬学的によく知っている訳だが、原型の彫刻的気持は解らないものだから、父は困って「脚のところをもう少し曲げたらよくはないか。」と話すと、後藤さんは、「馬の其処はそんな風に曲りません。」という。そうすると父は一遍に参って了って、「それじゃあ仕方がないが、何とか曲るようになりませんか、彫刻には勢いがなくてはいけないのだから、何とかして下さい。」などという談判をよくしていた。
 西郷さんの像の方は学校の庭の運動場の所に小屋を拵え、木型を多勢で作った。私は小学校の往還《いきかえ》りに彼処を通るので、始終立寄って見ていた。あの像は、南洲を知っているという顕官が沢山いるので、いろんな人が見に来て皆自分が接した南洲の風貌を主張したらしい。伊藤(博文)さんなどは陸軍大将の服装がいいと言ったが、海軍大臣をしていた樺山さんは、鹿児島に帰って狩をしているところがいい、南洲の真骨頂はそういう所にあるという意見を頑張って曲げないので結局そこに落ちついた。南洲の腰に差してあるのは餌物を捕る罠である。樺山さんが彼処で大きな声で怒鳴りながら指図していたのを覚えている。原型を作る時間は随分かかる。小さいのから二度位に伸ばすのである。サゲフリを下げて木割にし、小さい部分から伸ばしてゆく。そして寄木にして段々に積み上げながら拵えたものだ。山田鬼斎さん、新海(竹太郎)さんなどいろいろな先生が手伝っていた。その製作の工程には、それに準じて様々な仕事がある。削る道具も極く大きいから各種の工夫のあるものが要るし、大工に属する仕事が沢山ある。そういうのを生徒が毎日見ながら覚えることは生徒の為にはなったろうと思う。日蓮の像も竹内先生が矢張学校の中に大きな小屋を建ててその中で拵えたのだ。鋳金を失敗して、日蓮の胴体に大きな穴があいて、私等はそこから出たり入ったりして遊んだ。あれは幾度やってもうまく出来ないので鋳掛けで埋めた。一番よく鋳金が出来たのは楠公の像である。一番|酷《ひど》かったのは、大きいだけに日蓮の像で、桜岡三四郎という人が鋳金を引受けてやったのである。岡倉さんの時代には総て学校が綜合的《そうごうてき》に動いていて、彫刻もやれば大工の仕事も見る、鋳金も見学するという風で生徒の為によかったろうと思う。又学科では彫刻の生徒も日本画等をやった。私等も粉本などを稽古《けいこ》した。大観、春草等の人がいろいろなものを描いた時代を見て覚えている。
 ところが正木さんが校長になってからは、そのようなことはパッタリ止めになって、純粋に学校組織になり、事務の執り方から総てが西洋風になり、制服も洋服になった。それまでは例の闕腋《けってき》である。先生もきちんと時間までに登校し、一定の時間に帰る。官吏服務規定など見せられて、官吏は学校以外で私の仕事をしてはいけないということが書いてあるので、父は驚いて「もう家では仕事は出来ない。」と言い出した。それで暫く家の方に来る註文の仕事は決してやらなかった。そのうちに解釈が違うので、自分の仕事をしてもいいということが分って、「何だ馬鹿馬鹿しい。」と言って又やり始めた。だから、あの時代は父の作は一時途切れている。
 岡倉さんが美術学校を辞める時、父も一旦総辞職と共に学校を出たのだが、暫くして又学校に戻った。岡倉さんは学校の方に残ってくれるようにとしきりに言い、文部省の方で強圧的に残るように言って来たので、どうでもこうでも残るようになったものらしい。私は父が腑甲斐ないように考えて非常に憤慨したものだ。後で父にそのことを言ったら、矢張私達の為だと言った。その方が穏かでいいと言っていた。今考えると、大きい芸術の進路から言えば、何でもないことだが、父が学校に戻ったことを私は実際後々まで遺憾に思っていた。
 父は、私にいろいろ直接に話をするようなことはなく、お客のある時は私にお茶を持って来させるのである。母も心得ていて客のところへは必ず出されたものだ。私は其処に坐って話をきいていた。父は客と雑談を交しながら、或は半ば私に聞かせる積りのような場合もあったようである。私はよく其処へ呼ばれて行って、迷惑を感じて厭になったこともあるし、聞きながら憤慨を禁じ得なかったことも少くない。彫刻界や美術界の受賞の掛引きなど、なかなか弟子達の間にあって、金賞、銀賞の振合がどうだとか、此度はこれで我慢しておけとか、そしてこの次には何を出そうが金賞になることが前から決っているというような、そんな話が交されたことも屡々《しばしば》である。
 又私は父の仕事振りは始終見ていたが、父から直接弟子に講義をするような態度で教わったということはない。親子では、そういうことは変にテレ臭くて出来ないのである。父は、子供に向って講釈するなどというそんな改ったことは特に出来ないような人であった。他人に義理は立てても子供のことなど構って居られないといった方なのだ。却《かえ》って弟子にはなかなか親切に話をしたりした。その時には私は必ず傍に坐り込んで聞いたものだ。恐らく父の方でも私が傍で聞いているということを意識して話していたこともあったろうと思う。
 父は彫刻について「こなし」ということを大事に言っていた。外国の用語だとコンストラクションというようなことに関係するのであろうが、向うの人の言っている言葉では当嵌《あてはま》らないようである。「こなし」が本当に出来れば、ロダンの謂《い》うプランなども自ら出て来る。プランに相当する彫刻上の考は此方にはない。面《プラン》は向うの人の考であるが、然し「こなし」がはっきりゆけば自ら面が出て来る訳である。父などは「こなし」一本であった。彫刻に駄肉があるということが非常にいけないと言う。駄肉があるということは、まだこなせるということだ、牙彫《げぼり》から木彫に入った人の作には駄肉があって、それがいけないということをよく言っていた。石川光明さんの彫刻でも、私達から見ると、その作風のおっとりした良さは寧《むし》ろその駄肉にあるのだが、父流の考え方では、もっとこなしてみたいのである。象牙彫りは目方で値段が出る。石川先生のように非常にいいものは別であるが、普通のものは目方にかけて値段が出るので、職人は成るべく削らないようにして仕事をまとめる。多くは円筒形とか円錐形の中に、出張っているところを成るべく削らないで形を纏《まと》めるのである。従って父のような考え方では駄肉が甚しく目立つのであろう。
 父は又彫刻の「角」を非常に大事がる。之は外国で言う面と同じ根拠で、面をはっきりすると「角」が出来るのだから同じ意味だ。ただ見方が違うのである。後は「肉合《にくあい》」である。勿論これは「こなし」が出来た上での「肉合」でなければならぬ。日本の彫刻性の特色はその「肉合」にあるとさえ言える。このことは昔からそうのようで、例えば刀の目貫とか欄間の彫りとかの良さは純粋に「肉合」の面白さにある。肉の「こなし」方、それが良ければ彫刻は良くなってゆく。それが悪いのは、散漫になったり痩《や》せたりして、つまり真の彫刻性がなくなって了う。こんな風な簡単な仕事の上の合言葉みたいなもので、わが国の彫刻性というものは僅かに伝統を遺して段々伝わって来たのだ。少くとも「こなし」などという言葉は江戸時代から伝わっているもので、恐らく面打なども言っていた言葉であろう。
 父は、「こなし」が過ぎる程こなす人でなければうまくならぬと言っていた。それはものを大きく見て、大きい「肉合」を始めから出来る人だ。さもないと、細かい所ばかり拵えるようになって、ただ締りのない部分だけしか出来ない。そういうのは、室町時代の地蔵様などによくある非常に精巧に出来ているが重苦しいのである。部分を見るとよく出来ているが、全体から見るといけない。そういうのは「こなし」が出来ていないのである。全体の大まかさ、そんな点で上代のものは「こなし」が非常によく出来ている。寧ろ「こなし」だけで、部分は大して問題にしていない。夢殿の救世観音《くせかんのん》にしても、中宮寺の弥勒《みろく》にしても、よほど「こなし」が良く出来ている。
 仏師の出である父は、又「仕上げ」を非常に喧《やかま》しく言ったものだ。仕上げには、普通に仕上げるのと「本仕上げ」というのとあって、本仕上げは父の一生涯のうちにも幾度しかやらぬという位のものだ。仕上げの時には、木目に従って削って木目の自然に添って刀痕《とうこん》が揃ってゆくという風にするのだが、本仕上げになると、刀痕もなくなって了う位に細かに削る。之には独特の削り方があって、ただやっていたのでは出来ぬ。矢張小刀で削るのであるが、普通なら小刀を逆に使わなければ出来ぬところを、非常にむずかしいが特殊の方法で逆目もなしに出来るのである。本仕上げにして猶《な》お肉がいいというのを本当に良しとした。そんな点で中出来のものは一見よく見えがちなものである。父は本当に仕上げてもいい彫刻でなければ駄目だということをよく言っていた。だからロダンの未完成な作品の写真など見ると、「此を仕上げたらどうなるだろうな。」などと言った。私の知っているもので、父が本仕上げにしたものは、浅草の清光寺にある白檀《びゃくだん》の阿弥陀《あみだ》様がその一つだ。七、八寸ある像だが、非常な手間をかけて本仕上げに仕上げたものである。
 昔は、荒彫りをするこなし専門の人と、仕上げ専門の仕上師とがあって、分業になっていた。小作り位までやって仕上師に渡すという風で、全部自分でやれる人は、昔は殆と居なかったらしい。その中で綜合的《そうごうてき》に出来る人がよくなって来るのだ。父の仕事なども、初め父が原型を拵えると、それによって弟子に小作り位までやれるのがいて、それが小作りまでやって来ると、父がそれをうまくこなし、仕上師の方に渡すと奇麗に仕上げる。それを更に又父が刀を入れて生かし、父の作となって世の中に出るのである。だから父から言えば、いずれも不満なもので、そういうやり方のいけないことは充分に知っていたが、そうしなければ弟子達を養っていけなかった。父自身が最初から終いまでやったものも可成あるが、それは数から言ったら一生涯かかって五十点位なものであろう。流石《さすが》にそういう作品は、肉合とか、そういうものに神経が徹《とお》っているから死んだところがない訳で、父のものは父なりにちゃんと出来ているのである。
 いい彫刻があると、父はよく稽古《けいこ》に模刻した。明時代頃のやきものの白衣観音の素晴しいのがあるというので、よそから借りて来て、桜の材か何かで一心に自分で模刻しているようなことが時々あった。六十歳位まではそういうことをやっていて、その点私達も感心した。ただ父の鑑賞眼は専らその彫り方に向けられている。仏像などを見ても、上代のものよりは鎌倉時代のものを見る方を喜ぶ。快慶の仁王などに感心するのである。天平のものなどは、「いいにはいいけれども」などと言っていた。ロダンのものなど、どうしても最後まで感心しなかった。きっともっと仕上げたい気がするのではないかと思う。だから表現されたものなどということは一寸も頭に出て来ないのである。此は止むを得ないことで、父の裡《うち》に保持されていたものは僅かに「こなし」とか「にくあい」とかのわが国彫刻技術の伝統に他ならなかった。
 動物の彫刻など拵える時は、父は必ず実物を飼って写生を沢山した。鸚鵡《おうむ》を拵える時は鸚鵡を、猿を拵える時は猿を飼った。博物館にある「猿」は、シカゴの博覧会に出す為に苦心してやっていたが、なかなかうまく進捗《しんちょく》せず、谷中で荒彫をして、林町に越す時それを運んで、こちらで仕上げた。材は、後藤貞行さんの案内で、栃木県の山を歩いて見つけた珍しい栃の大木だった。相当深い山腹にあったのを切り出して持ち出すのに大変だったらしい。初めは真白な材の筈でそれに白猿を彫ろうという計画だったが、東京に持って来たらそれ程でなかったけれど、栃の木特有のチリチリした特徴があって、それが猿の毛並に合うと言って父は喜んでいた。谷中の家の庭にその材木を置き小屋掛けをしてやり始めたのだけれど、栃の木は固く、非常に逆目の多い木なので、普通の鑿《のみ》ではやれないので、正次さんという正宗系統の非常にうまい刀|鍛冶《かじ》に頼んで、いろいろな特別な鑿を拵えて仕事をしたことを覚えている。始めのうちは、此処と此処はいじってはいけないけれど、他はどうでもいいからどんどん削れと言って私共に削らせた。兎に角太い丸太を或る恰好《かっこう》にこなさなければならぬから実に大変であった。私共はその材の山の上に登って遊んだものだ。父の気持では、猿は日本で、羽をのこして飛び去った鷲はロシヤという見立であった。シカゴの博覧会ではロシヤの館が隣で、矢張アメリカでもそうとったらしい。又今何処にあるのか写真も余り遺っていないが、「山霊|訶護《かご》」という題で、山姥《やまんば》が木に寄掛っていると、其処に鷲が来て、それに対して山姥が山の小動物を匿《かくま》っている態のものだが、これは父が苦しんで一所懸命やった彫刻だった。高さ四尺位あって、写生はなかなかよく行っていたように思う。山姥の肋骨《ろっこつ》や何かのモデルには祖父がなったが、祖父は一所懸命その姿勢をしていたのを覚えている。それと同じ時代に、盲人が杖を持って河を渡っているところの彫刻があるが、これは米原雲海さんが拵えた悪どいものだが、それも父の名前になっている。
 そういう実際には父の拵えたものではないが父の名前になっている作品は大分ある。銅像は私が記憶にない頃からやっていたとみえて、若い頃の八の字|髭《ひげ》姿の松方正義伯のものなど物置に後まで木型があった。木で肖像を拵えるのだから、彫って行って気に入らないと又初めから拵えなおすので同じような首が実にいくらあるか分らない。皆仏様のように首を胴に嵌《は》めこんだものである。肖像で一番印象に残っているのは、平尾賛平さん夫妻の首だ。其の頃にはそういう肖像彫刻は未だ珍しい時代であった。父は原型を拵えてからやるのは始めは嫌いだったけれど、後にポインティング マシンが流行《はや》りだしてからは原型によってやるようになった。
 父は又|御輿《みこし》を拵えるのが好きであった。自分で屋根の反りなどを考え、生地で彫物をつけたものだ。御輿には桑名の諸戸清六という人から頼まれて拵えたものだの、葭町《よしちょう》の御輿などがある。これらはなかなか形がよく出来ていた。
 父と同時代の彫刻家で、個人的には非常に親密だったが、仕事の上で対立していたのは石川光明、竹内久一の両先生である。石川先生の彫刻は、父に言わせると、牙彫《げぼり》風の肉があって、どちらかと言うとこなれが少いと言っていたが、上品でおっとりして、よく人柄が出ているという点で尊敬していた。殊に薄肉がうまく、石川先生は絵の心得があるから煙管《きせる》の筒など彫ると非常に名人で、自分など到底及ばないと言った。竹内先生の方は少し下卑ていると言っていた。矢張、彫刻では石川先生のものに一番感心していたようである。私もそう思う。山田鬼斎先生は、余り世間では言われていないが、非常に腕の出来る人である。腕っこきだけれど、少しガツガツした仕事振りで、品がない。岡倉さんの妹を細君にしていて、非常に強硬な議論家で学校では皆に随分煙たがられていた。私も美術学校の時、何年級かで山田先生の受持であったが、人間は直情で良い先生であった。代表作は此と言って遺っているものは少いが、細かいものが方々に散らばっている。或|蒐集家《しゅうしゅうか》のところで、父の作になっている物に山田先生の作があった位で、一寸似た所がある。矢張刀法が強く、その点一寸父のものと似ているが、衣紋《えもん》の彫方なども全然違い、感じが荒っぽく一見山田先生の特色が出ている。余り仏像を彫らずに他のものを作っていたが、それがあの人の新味となっていた。
 石川先生の家は谷中の真島町だったが、そのすぐ隣が後藤貞行先生の家である。二人の先生は、どういうものか何となしに仲が悪く、年中|睨合《にらみあい》をしていた。後藤先生は元から馬の先生だから二頭ほど馬を持っていて、よく馬の説明をきかせてくれたし、指ヶ谷町の傍にある昔の名高い馬の先生のところに連れていって、馬に乗る稽古《けいこ》をするように私にしてくれた。後藤先生の彫る馬は、大抵身長が一尺か一尺五寸位なもので、それに油絵具で着色して無数に拵えた。彫刻自身としてはとるに足らぬものだけれど、標準的な理想的な馬の形を彫るので、後藤さんの馬を持っているとそういう馬が生れるという迷信のようなものが行われて、東北の馬産地で盛んに後藤先生の馬を欲しがった。馬の活動している様なところは拵えず、静止している標本的な馬の実際の雛型《ひながた》を拵えようというつもりだったらしい。今でも東北に行ったら、その作品は沢山遺っているに違いない。後藤先生は又、当時としては珍しい写真の技術の出来る人で、非常に重宝がられた。ある日、写真に使うアンモニヤの壜《びん》の口の固いのを無理に抜いた時、沸騰して顔に吹付け、それで片目を失った。それが楠公の像の頃であったが、それ以後、後藤先生は益々|颯爽《さっそう》として、独眼竜と称した。
 画家との往来は余りなかった。雅邦先生は学校の始めからその後も始終一緒だったから、時々事がある度に往来していて、父は雅邦さんを大変尊敬していたけれど、個人的には非常に親しいという程ではなかった。寧《むし》ろ川端玉章先生の方が親しかったが、それにしても仕事が違うので大したつきあいというのでもなかった。却《かえ》って工芸家の方に大島如雲さんなどとのつきあいがあった。是真さんとは往来があったかどうか私は記憶にないが、父は是真さんの絵を殊にその意匠をひどく買っていた。洒落《しゃれ》のうまいところなど好きなのである。だから是真さんのものからヒントを得て作った彫刻は沢山ある。河鍋暁斎の絵も好きであった。父は自分では全然絵が描けないから、絵が描ければとよく言って居り、私には絵を習えとよく言ったものだ。
 父の弟子分では山本瑞雲などが美術学校に就職する前の輸出物を拵えていた時分からの弟子で、高村家の大久保彦左衛門だと威張っていた。暫く大阪にいて、それから又帰って来たが、兎に角この人が一番古い。それから林美雲は前に述べたように以前は父と兄弟弟子だったが、東雲歿後は父を師匠代りにして来ていた。今はもう亡くなって了ったような弟子も随分いるが、私の知っている限りでは内弟子で余りよくなった人はいない。その中で米原雲海など頭を出している位で、然し米原雲海はもともと出雲にいた時本職大工の旁《かたわ》ら既に彫刻をやっていて相当出来ていた。本山白雲も内弟子の一人だが、あの人は学校に行ったのだし、谷中の時分の弟子の中でよくなった人は殆とない。父はそういう弟子の為に気を配って、古社寺保存の仕事に入れて、仏像台座を削ったりしてどうにか食べてゆけるようにしてやったりした。明珍さんなども、そういう仕事でとうとう奈良でものになった。細谷とか其他の人達もいた。明珍さんは、丹念で非常に正直な人だから修繕ものには実によく、苦労した人だが毒のない飄逸《ひょういつ》な人だったから奈良で人望を得た。弟子の才分に応じて職をやるようにしたのだが、弟子がやってゆけるようにする為に、父自身は随分無理な俗な仕事をしなければならなかったことも事実である。弟子が食ってゆく為に小作り位までして来れば、その悪いところを削り直して仕上げをして父の名を入れた。父の作った原型があればそれでいろんな弟子が食ってゆけたのだ。後には父に見せないで名前を入れて出した人もあるが、父は太っ腹なところがあって、「結局いいのだけが俺のになるのだ。」と言って何とも思っていなかった。そんな風だったが、金には縁がなく年中苦労していた。後々までそうで、晩年は父の作品も相当高くなったが、それは商人の間だけのことで、父は昔の勘定しか知らなかった。父の勘定の仕方は、一日の手間賃がいくらと決めて、幾日かかったからというので値段が出るのである。材料なども白檀《びゃくだん》とか特別のものになると違うが、普通のものは手間賃の中に入れて了う。基準になる一日の手間賃を、一円位上げようかなどと言って時々上げていたが、それにしても晩年十円位がせいぜいで、それ以上にはならなかったようだ。高くしようと思っても、その理窟でいくから、世間の人のようにはならない。「世間の人はよくとるが気の強いものだ。」などと言っていた。弟子の方が却《かえ》って高くとっていた人もある位である。五六軒の商人が入替り立替り仕事を頼んでは出来たものを持って行ったが、商人は酷《ひど》く儲《もう》けていたと見えて、父が死んだらその為に潰《つぶ》れたのが出来た位である。跡取りが駄目だからそれで潰れたのだと言って、私が恨まれたりした。

   二

 子供の時分、私は病身で弱かったから、両親は私を育てるのに非常に難儀したらしい。私の兄弟は、一番上の姉がさく、次がうめ、それから私、その後にしずという妹がいて、その次が道利、それから豊周になる。その下に孟彦という弟があり、それは藤岡姓となった。その次は妹でよしと言う。
 これらの兄弟のうちで、上の二人の姉だけが子供の時に亡くなった。私が生れるまでは、上が二人女の子だったから、母は総領が生れなくては当時の習慣で何時帰されても仕方がないというような気持で心配した。「光ちゃんがお腹の中にいた時に、今度生れるのが女の子だったら申訳がない。それでどうかして男の子が生れるようにというので方々の神様や仏様にお願いして願をかけたものだよ。そうして光ちゃんが生れた時、お祖父さんが『おとよ、出かした。』と言われた。其の時はこんな嬉しいことはなくて、天に登るような気がして――光ちゃんは私にとっては本当にいいんだよ。」と話してくれたことがあった。そんな風で、どちらかというと私は大事にされた。祖父なども私たちを授りものというような心持で、非常に労《いたわ》ってくれた。
 六つで私は小学校に入ったけれど、五つ位まで私は全然口が利けなかった。唖かと思って、母などは随分心配したらしい。医者は疳《かん》のせいだから、今に口が利けるから大丈夫だと言ったそうだが、或朝、頭中におできが出来た。昔の医者はそれが出る方がいいといって却って奨励したものだが、それがすっかり癒《なお》ったら急に口が利けるようになった。言語中枢に何か障碍《しょうがい》があったらしいのである。それから後で僅かの間にすっかり喋《しゃべ》るようになって、学校へ行く時分には差支えない位になっていた。
 母はお説教などは何も言ったことはないが、ただ言葉遣いだけは非常に喧《やかま》しく、何遍直されたか分らない。小学校へ行くようになって、他所《よそ》の子供の言葉を憶えて来てうっかり言うと、斯《こ》ういう風に言うのだと直されて了う。今日では江戸の言葉は無くなって了ったから、何を基準にしていいか分らないが、昔ははっきりいい悪いということが言えた。祖父も矢張言葉遣いに喧しく、変なことを言うと、「何だ、そんな田舎者のような口を利いてみっともない。」と叱られた。言っていけない言葉の中には、思い上った言葉だの、不心得な言葉が多く、だから一方では良心についての訓戒でもある。言葉遣いがいいということは、内容《なかみ》がいいということでもある。現在でも、私はものを書いたりする場合に、母のそれを思い出したりして、語感の上に非常に役立っているのを感じる。決して使えない言葉がいろいろあって、それが詩など書く時に本能的にひどく働くのだ。使いたくても変えるより仕方のない言葉とか表現の仕方とか沢山あって、それは母に教えられたことなどが本能的に出て来るのだと思う。自分のことから推して、言葉遣いで教えるということは非常にいい方法で、言葉の訓練ということはこれからの人にも大切だと私は思っている。

 子供の時分、私は夜が怖かった。今住んでいるこの家のある辺りは、以前は千駄木林町と言って、寛永寺のお台所の薪用の山であった。昔、鷹匠が住んでいた所で、古い庭園など荒果てて残って居り、あたりは孟宗竹《もうそうちく》の藪《やぶ》や茶畑、桜や櫟《くぬぎ》の林が一面で、父の家はその竹藪に囲まれた中にあった。だから鼬《いたち》や狐も居た。その前は谷中にいたが、彼処は墓地で、五重塔の下の芥坂という所は「投込み」といって、東京で首括《くびくく》りとか身投げなどの身許《みもと》の分らない者を身寄りの者が出て来るまで仮に埋葬する所であった。浅く埋めてあるから、時々足や手を犬がくわえ出したりしているのが見えたりして、昼間は平気だけれど、夜になると怖かった。丁度南方の土人の生活など今でもそうだろうと思うけれど、夜になると、あらゆる魑魅魍魎《ちみもうりょう》が一杯になった一種別の世界に入るような気がして、非常に恐ろしかった。子供の時を思うと、何だか世の中が暗かった気がして、一種の暗い世界が頭の中に出て来る。私は子供の時、変な幻想の世界の中に生きていたようであった。そして、朝になると本当によかったと思うことが度々であった。よく庭を一杯に籠《こ》めた朝靄《あさもや》に段々明るく陽が射して来る工合が何とも言えないいい気持であった。私の詩などにも靄が屡々《しばしば》出て来るが、私は子供の時分、靄というものに非常に敏感で、どうして大人にはこんなに美しいものが解らないのだろうと思ったものだった。
 昼間は平気で、始終谷中の墓地の中で遊んだ。彼処は江戸時代に計画的に設計された天王寺の入口なので、考えてよく出来ている。そこの茶屋の子供が同級生だったので尚更よく遊びに行ったわけだが、以前は彼処の茶屋は非常に贅沢《ぜいたく》な所で、大奥の女中などが出入りしていた。外観はつまらないが、中は贅沢なもので、抹香臭いのと同時に変に麝香《じゃこう》臭い所であった。墓地は今行ってみると格別のことはないけれど、その頃は大層広く思えたもので、其処には土手があって実に草の豊富な所であった。私は山野の旅行など殆としたことがなく、自然というといつもその墓地を思い出す程である。自然というものに対する私の気持は専ら谷中の墓地で養われたとさえ言えるように思う。
 子供の時、私は籤《くじ》を引くと必ず当るのでよく雇われたものだ。当るのには訳があって私は谷中の墓地は隅々まで精通していたから、文部大臣の森有礼を暗殺した西野文太郎の墓石を砕いてその一片《ひとかけ》を懐にして行くのである。私には確信があって、此を持ってゆけば当ると信じて行けば必ず当るのである。よく無尽講の籤引に頼まれて行って三四度当てた。父と時々往来していた牙彫《げぼり》の旭玉山さんのところの無尽講にも、誰かに頼まれて行って当てたことを覚えている。玉山さんは、髑髏《どくろ》の牙彫など拵えると鼻の孔《あな》へ毛を通すと目に抜けるという位の細かい細工をした人だが、この人はなかなか経済家で、彫刻家を糾合して無尽を拵えていたのである。私は小学校時代には非常に不思議なことが出来た。父の弟子の中に武州粕壁から来た野房儀平という男があって、この男の親類に山伏のような人がいて、それでいろいろ秘法を知っていた。私はその男にせびって到頭その秘法を教わった。例えば真赤におこっている炭火を素手に載せて揉《も》み消すことが出来た。堅炭のような強い火ほどいいのである。小学校には昔は炭火をおこして居たので、先生などの居るところでやって見せると驚いて、先生も不思議がって「変だな」といってやってみるが熱くて出来ない。私だけ出来て不思議に思ったものだがなぜか自分でも分らない。秘法を教わって、そうやると熱くないのだという自信があるから、恐らくその為なのだろうが、兎に角|火脹《ひぶく》れにならない。昔熱湯へ手を入れて黒白を争ったような場合も、矢張、正しい人は自分には神様がついているから大丈夫だという自信があるからいいので、手を入れて黒白を判別するのではなく、悪い者は其の前に既に降参するのだと思う。これも野房から習ったのだが、私は刀の刃も渡れた。普通の切れる刃なのだけれども、足の裏を真平らに刃の上に載せて、前後に動かさず擦らなければ、身体の重みだけでは切れない。自信を以て渡れば切れない。限度はあるだろうけれども、ああいう風なことは確に出来るものだということを、私は自分の体験からはっきり言うことが出来る。野房は、彫刻はまだ大成しない中に、頭が変になって、父の家の細工場の窓の所に足をかけて「向うから敵が来る。」などと言って気が狂って死んだ。
 何かあの頃は、そういう神秘的なようなことが頻《しき》りと行われた。盤梯山が破裂したり、三陸の津浪《つなみ》が起ったり、地震があったり、天変地異が頻々とあって、それにも少年の自分は脅かされた。地震のある時は夜空が変にモヤーッとした異様な明るさがある。之はこの頃学者の書いたものを読んで居たら、事実で、昔から言われていることだそうだ。その頃、私は夜になるとよく空を見ていたことを覚えている。少年の頃、私は寝ていてよく笑うので、気味悪がられた。隣りに寝ている祖父が揺起して、ものが憑《つ》くのだからと言って九字を切ったりしたことがある。子供から段々青年になる前の身体の衝動だろうと思うが、うとうとするとおかしくなって、自分でもその声で目が醒めるのだけれど、それが非常に凄く聞えて、周りの人は怖がった。然しそういう雰囲気の中でも一方下らぬ迷信のようなことで、決して家に入れないものがあった。
 仲御徒町の時分だが、コックリさんというのが流行って、講中のようになっていて毎晩のように近所の家にその集りがあった。あれは人心動揺する時に始るもののようだが、然し私の家では父も祖父も決してそれを家に入れなかった。そのことは、祖父の偉いところで、そういうものは駄目だと言っていたが、あのような事を家に入れなかった事は、私たちにとって非常によかったと思う。
 さくという一番上の姉は、明治廿五年に十六で亡くなった。非常に悧口《りこう》な子だったと家の人達は言っている。家では鳴物を禁じていたけれど、姉を仕込むようになってからは少し位何か出来なければいけないというので長唄を教えはじめたが、姉は一向にうまくない。音曲は祖父はうまかったが父は何にも出来なかったし、私もてんで駄目である。小学校の時に唱歌を教わって、帰って家で歌うと怒られた。そういう中で育ったせいか、曲そのものは解るし、音も頭の中に入っているが、声が出ないのである。だから小学校の時は、先生が弱ってオルガンを弾かせてやっと及第させた。青年になってからも、本郷の中央会堂の椽《たるき》の下のところでやっていた酒井勝軍のもとに通ったりして、発声の稽古《けいこ》などしたが、私には酒井勝軍も驚いた。音は知っているが、それを出そうとすると馬鹿に大きな変な声が出るものだから、酒井勝軍も弱って、君は後でやろうなどということになった。姉も駄目なので、母は「この子は女のくせに三味線がいじれない。」といって、変だと言っていた。そして細工物が好きで、画を描いたり、そんな方へばかり行って了うので、父が気がつき、西町に居た時に十歳前後で画を習わせ初めた。師匠は狩野寿信という人であったが、狩野派のやり方のよいことは、稽古の時に決して悪い材料を使わせないということである。悪いものを使って描いていると上達しないことは事実だ。稽古だからと言って決して悪い材料を使わせないことは、確に立派な方法である。父はその為、貧乏な中に姉に与える材料を買うのに苦労した。姉は絵を習い出すと、めきめきうまくなって、師匠の言うことは眷々《けんけん》服膺《ふくよう》して、熱心に通った。実に師匠思いで、先生から貰ったものは紙一枚でも大切に蔵《しま》って記念にしていた。絵は今遺っているものなど見ても子供とは思えぬような、なかなか確《しっか》りしたものを描いていて、その頃の展覧会などに出して賞を貰ったりしている。冬の日、紫のお高祖頭巾《こそずきん》を被《かぶ》って、畳紙《たとうがみ》や筆の簾巻《すだれまき》にしたのを持って通ってゆく姿が今でも眼に残っている。観音経を覚えて、上野の暗いところを通る時にはそれを誦《ず》しながら歩くと恐くないと語っていた。非常に親思いでもあって、その頃父は丁度四十二の厄年に当って、学校で梯子《はしご》から落ちて肋骨《ろっこつ》を折って怪我をしたり、シカゴ博覧会に出す猿を彫っていてうまく行かなかったりするのも厄が祟《たた》っていると思い、父の身代りになるようにと不動様に願をかけた。それで、不図病気になって、今で言う肺炎になって亡くなる時も、本当に父の代りに死ぬのだと思って喜んで死んだ。死ぬ八日前まで日記をつけているが、最後の所は震えて点々になって読めない。その日記が二冊残っているが、それを見ると全く大人で、子供とは言えない気がする。写真も残っているが、面ざしがどこか樋口一葉に似ている。
 父は姉の死によって衝撃をうけ、非常に落胆して悲しみ、その家に居るのにさえ堪えられなくなった。偶々《たまたま》林町に知り人の持家があって、ここに越して来たのである。秋だったから団子坂には菊人形があり、その人込の中を引越の車をひっぱって来たことを覚えている。

 私が父の彫刻の仕事を承《う》けついでやるということは、誰も口に出して言わないうちに決って了っていたことだ。跡とりは父の職を承けつぐことは決っていたことで、別に選択の何のと言うことはなく、自然にやるようになったのである。小学校の七つか八つ位の時、父から切出、丸刀《がんとう》、間透《あいすき》などを三本ばかり貰った。其の時に初めて父は私を彫刻の方へ導いて行くということをはっきり見せた訳だ。私は小刀を貰って彫刻家になったような気がして、何でも拵えてみたかった。丁度谷中に移って小学校を終る頃から、弟子が周りでやっているものだから、私は始終細工場に遊びに行って、その間に見たり聞いたりして、自然に道具やその他のことを覚えて行った。
 彫刻は、先ず小刀の柄をすげることが初りの一歩であった。詰り小刀の中身を貰う訳だが、檜《ひのき》の板を削って、すげる深さだけそこを削って嵌込《はめこ》み膠《にかわ》でつけて、小刀の柄がピッタリついて取れないようにすげ、それを上手《うま》く削って父なら父流の柄の形にこしらえ、椋《むく》の葉で手触りのないように仕上げるのである。それがなかなか出来ない。こんなのでは駄目だといって剥《は》がされて了う。小刀の中身の柄がささる溝が浅くなく深くなく僅かに余裕があって膠が入り込んでピッタリ喰付くのを良しとする。そうすると、すげた中身の廻りに空気が入らないから銹《さび》が来ない。それをうまく拵えるようにさせる。又柄を削るのも難かしい。削り方に流儀があって、だから小刀の柄を見ると誰の弟子ということが分る。父のは東雲系統である。柄の尻の所の丸め方、厚さと幅の関係、刃口の削り方など銘々の流儀で違う。又だから研ぎつけ方も違って来る。例えば石川光明さん系統の刃物は柄の恰好《かっこう》など見たところから違っている。従って、それを手に持っての扱い方が異る。それで筋一本削るだけでも流儀によって違って了うから、作風も自ら異って来るのは当然である。実際道具から違うということは、作風の違う大きな理由である。違った流儀の道具を見ると、変な所が丸めてあったり重かったりして何だか馬鹿のように見えるものである。父の流儀のが一番いきですっきりしているように見え、他の人のを見ると削ってやりたいような気がした。欄間を彫ったりする宮大工の小刀の形は全然違って、柄のすげ方も違い、使う時の持ち方も私等から見ると下等な持ち方をする。力が入るようにするのであろうが、そんな風な違うやり方をするということは、非常に忌んだ。「そんなげす[#「げす」に傍点]なことをするな。」と言われたものである。そういう事は凡《あら》ゆることにあった。鑿《のみ》などでも首の厭《いや》に長いものを持つことを厭がる。だから自ら決った道具になって了い、やり方も同じ道具の人は決って来るのであった。流儀というものが出来るのは当然なのだ。いろいろな流儀は、形の上だけのことでなく、生理的に出来て来る。木彫の中にも色々変っているものがあるが、なる程、ああいうようにやるからああいう風に出来るのだということが見ると夫々《それぞれ》分るのである。

 父からは、前にも述べたように直接弟子が教わるように教えては貰えなかった。私に対しては、手をとって教えるということは元よりない。又作ったものを見て貰うと言っても、いいとか悪いとか言うことはない。余り見苦しいと削って渡されるだけで、何処がどうということはない。改った教育は何もして貰えなかった。ただ為来《しきた》りに外れるようなことがあると怒られた。例えば仕事をしておいて、そのままにして出かけたりすると猛烈に怒られた。「職人というものは何処で仕事をしていたのだか分らないようにしていなければいけない。道具をうっちゃって置くようでは仕方がない。」と叱られた。だから仕事を奇麗にしまわないうちは、他のことは何も出来なかった。仕事の済んだ後の細工場は檜舞台《ひのきぶたい》のように奇麗にして、明日の仕事に備えていた。私は年中細工場にいて、何か始っているとすぐ割り込んで、父が弟子に教えているのを聞いた。
 小刀がどうやら研げるようになると、地紋の稽古《けいこ》をやらされた。地紋は仏師の方の伝統で仏師屋では実際にそれが必要なのだ。だからその稽古が伝統になっていて、私はその時は訳もわからず否応なしにやらせられて、実に厭であった。初めに父が端の方だけをやってくれて、後を習ってやるのだが、全く手に負えない。然しそれをよく彫る為には刃物も研がなければならぬしそれで刃物のことも解って来る。その稽古は檜の材に限って、今見ると勿体ないような五寸角で裏表やったものだ。一番初めに縦横の線だけのものをやる。一つの枠の中に四本の溝を同じ間隔で彫るのだが、その深さがなかなか揃わない。深さが揃っても今度は総体に深過ぎたり浅過ぎたりする。深過ぎると何かギリギリしてギスついた地紋になり、浅いと嵩《かさ》のない弱いものになって了い、丁度いい深さというものが幅に比例してあるのだが、それがなかなか呑込めない。その幅、深さの関係が非常にうまく合わないと地紋のよさが出て来ない。昔はそんなことは決して説明はしなかったから、「此は面白くない。」と言われるだけで、何故よくないのか分らない。同じことを新しくやり直す。その次が工地紋というのをやって、少しずつ複雑になるのだが、実は複雑な程易しくなるのであって、最初の簡単なのが一番厄介なのである。私は今でも時々その稽古をやってみるが、馬鹿にしていると、そんなことは出来なくなって、なかなかむずかしいものだ。地紋の稽古は本当にやらせると十種類ほど基本の形があって初め直線ばかりのものから七宝のような曲線のものになり、その次に新案と言って自分で考え出したものをやる。これをまあいいだろうというところ迄一年間位やらせるのであるが、然し恐らく誰もそれをよくやれた人はないだろうと思う。
 次に「ししあい」という彫の稽古になるが、これは彫金で謂《い》う「片切」と共通した彫り方で「ししあい」には一種の秘訣のようなものがあって、それを呑込ませる為にやるのだが、これもなかなか難しい。然しその時小刀以外に初めて丸刀《がんとう》を使い初めるので、非常に進んだという気がして嬉しい。それが済むと浮彫になる。浮彫は数知れず手本があって、大抵は狩野派の粉本からとって当てがわれる。花鳥、果実、獣などやると、次に水とか火焔《かえん》とかを稽古し、最後に人物をやる。人物は兆殿司《ちょうでんす》の羅漢の粉本をやるのであるが、他の画家の羅漢は余り彫刻にならないが兆殿司のはそのまま薄肉になるのは、恐らく余程立体的なのであろう。私もそれを盛んに稽古した。それで人間の顔の「にくあい」その他を覚えさせるのである。それが終ると板から離れて丸彫を始める。然し其処までやると丸彫になっても格別のことはなく、ひとりでにやれるようになる。大抵初めは人物より動物の方が面白いから、それを彫らせるのである。以前は布袋《ほてい》とか蝦蟇《がま》仙人などを手本にやったが、美術学校が始まるようになってからは、そんなものは生徒が面白がらないので写生風なものをやるようになっていた。その時分には、木彫の方でも油土で原型を拵えさせ、それを木で彫らせるという風になっていた。
 前に述べたように「こなし」を覚えることが骨子だから、荒彫を非常に重要視する。荒彫が本当にとれるようにならぬと、それから先に進めない。進んではいけないということになる。学校では成績をよくする為に、そんな厳重なことはしなかったが、家では、荒彫で本当に形がとれるようになるまでは仕上げはさせなかった。形がとれるようになれば次に「小作り」をやる。部分的な鼻とか口の切れ目とかを大体彫るわけだが、そういう場合でも小作りなら小作りで全体にいつも調子をとってやるので、端から部分的に片づけてゆくというやり方はしない。象牙彫《ぞうげぼり》などでは全体にかまわず端から仕上げてゆくというやり方は随分行われるが、木彫では決してそれをさせなかった。
 美術学校が始って私はそこに入ったが、正木さんが校長になって暫くして彫刻科の中に塑造科を設けることになり、今迄一緒にやっていた生徒が木彫科と塑造科に分れた。私は元より木彫の方の生徒である。木彫の生徒は同時に塑造もやったが、塑造科の生徒の方は塑造専門であった。塑造科の方の先生は長沼守敬先生であった。この人は不思議な潔癖家で、自分の説を一寸でも曲げないで直ぐ衝突するから、学校では忽《たちま》ち喧嘩《けんか》をして了った。私の父が調停係になっていた模様だが、最後には到頭学校を辞めて了った。長沼先生は油土をイタリアから取寄せ、油土で原型を拵えるのはその頃から始ったのである。粘土は後になっていじり始めたので、その頃はどんな大きなものでも油土を使った。それを石膏《せっこう》にとってそれから三本コムパスと針とで石などに移すというのが長沼先生のやり方であった。長沼先生が止されてから藤田文三さんが教授になったが、あの人の仕事は、何を拵えても同じになって了い、非常に癖のある彫刻で、幼稚で余りよくない。大層如才のない人で、生徒を甘やかして了った。長沼先生は生徒には厳しく仕事も真面目で面白いところがある。学校に遺っている老人の首なども真面目に拵えてある。長沼先生は非常に芸術的良心があるというのか、自分の彫刻などは駄目だというので、日本中の銅像などは皆|毀《こわ》れて了えばいいというような否定的な考え方になって、晩年は彫刻を諦めて了って自然を友として居るのを理想とし、彫刻界と交るのを厭がって居られたようであった。当時の塑造科の人々の拵えていたものは今考えるとサロンの彫刻のようなものだが、その頃はそれが非常に進んだものに見えて、木彫の方は時代に遅れているという気がしていた。
 美術学校を出る頃、私の拵えたものは変に観念的なもので、坊さんが普段の姿で月を見ているところとか、浮彫で浴衣《ゆかた》が釘に掛ってブラ下っていてそれが一種の妖気《ようき》を帯びているという鏡花の小説みたいなものを拵えたつもりで喜んでいた。それから浅草の玉乗などを拵えた。玉乗の女の子が結えられて泣いているのを兄さん位の男の子が庇《かば》っているところである。その頃朝早く見物人の入らない先に花屋敷に入れて貰って虎の写生を続けていたが、その道で六区を通り抜けると、十二階下の所で玉乗の稽古をしている。それが実に厳しく、それを見てそんなものを拵えたのだが、それを学校の彫塑会という展覧会に出したら、岩村透さんや白井雨山さんが目をつけて評判になった。その頃は、何かそう言った風な文学的な意図のものでなければ承知出来なかった。
 その時分、私は歌をやっていた。詰り彫刻ではやれない位に自分の裡《うち》に文学的な要求が出て来て、何か書かなければ居られなくなったのである。丁度森鴎外さんの「即興詩人」などが出た時分で、私はその頃は一かどの文学青年であった。そういうことは割合に小さい時から好きだったから、そういう方面の友達は別にいなかったけれど、学校で回覧雑誌などを出したことがある。そのうちに、与謝野鉄幹先生の「明星」が出て、暫くたってからそれに入ったり、又それ以前には久保先生の「雷会《いかづちかい》」などがあって、それに入っていた。そういう風で文学的なことが彫刻の上にも表現したくて仕方がない。卒業製作なども、何でも坊さんが経文を棄てて世の中に出るという所であった。私ばかりでなく機運が皆そんな風に動いていた。山本筍一がキリストの説教のところを作るとか、細谷三郎が俊寛を拵えるとか、何か文学的要素を持っているのがいいということになって、題も変てこな文学的な題をつけたものだ。後々まで悪い影響を学校の彫刻に与えたのは其処らから始っているようである。
 学校を出て研究科に入ったが、彫刻科の先生は残らず駄目であった。何等の新知識もないし仕方がない。洋画科の方を見ると黒田清輝先生のような人も居て進んで居るからというので、再入学して洋画科に入った。その時の同級生に藤田嗣治、森田恒友、岡本一平、田辺至の諸君などがいた。洋画を一年ばかりやった頃、岩村(透)さんが、「どうして洋画などへ入ったのだ?」と訊《き》くので「洋画へ入って新しい知識も得るしデッサンなどもやってみたい。」と言うと、「彫刻をやるのに、洋画は違うのだから、そんな無駄なことはしない方がいいだろう。」というので、岩村さんが父に持ちかけ、無茶苦茶に私の外国行をすすめた。私は外国に行くといっても、いろいろ研究してからの方がいいと思っていたので余り行く気がしなかったが、父は「今のうちなら自分も無理をしても金が稼げるから、年を老《と》ってからでは危い。」というので、無理遣《むりやり》に背広など拵えて始めて着たりして厭《いや》で仕方がなかったが、行くことに決めた。然し愈々《いよいよ》行くと決ってからは、皿洗いをしてでもやろうと考えていた。岩村さんはシカゴの博覧会の時にその審査員になって行って、向うの審査員に知合があったから、マクニール、フレンチ、ボノーなどという人達に宛てて「|最も将来ある《モーストプロミッシング》」彫刻家だからなどという紹介状を書いてくれた。それを命の綱として、父から二千円貰って出かけたけれど、旅費を取ると実にポッチリのわけだった。然も紹介状などは何の役にもたたなかった。そして働くといっても私の取る金は一週六ドルか七ドルの少いものだから、なかなかであった。後には父から金を拵えて送ってくれてはいたけれども、実に僅かな金なので、英吉利《イギリス》に渡ってからは農商務省の練習生というのにして貰い、月々六十円程貰ってやっていた。世話になったポーグラム先生という人は非常にいい人でいろんな事を助けてくれた。世間では沢山金でも持って行ったように思って、向うに居ても金持の連中などで対等のつきあいをしようと思った人達が居たりして、そういう時は何時も仲間外れをしていたが、金がないと言ってもどうしても本当にしなかった。後々まで何の時もそうで、世間の眼には帝室技芸員の坊ちゃんという風に映っていたらしい。然し実際は父は死ぬまで産を遺していなかった。それで私は外国から帰って後になって父の下職みたいな仕事をやって生活をしていたのも、結局そうより外に仕方がなかったのである。「金があるのに怪しからん。金があるから作品を世の中に出さないで威張っているのだ。」などということをよく言われたけれども、事実は私は金を貰う為にそんな詰らない仕事を父の下でやっていたのだ。だから私の生活については、世間の考と事実とは非常に違うのである。

 四年ばかりして外国から帰って来た。その当時矢張有島生馬、南薫造の両君が帰って来て、二人の展覧会が上野で開かれたがそれが新しい傾向として美術界を刺戟《しげき》した。丁度「白樺」の運動なども同時に起り私も向うの美術界の動向などを書いたりして、美術界の謂《い》わば新機運のようなものが次第に醸成されつつあった。白馬、太平洋などの会が相当盛んで、内田魯庵さんが評論を書いていた時代である。当時、真田久吉君という学校にいた時非常によく出来る人だったが、この人がわが国の印象派の傾向のような人を率いて運動をやろうとしていたところに、偶々《たまたま》斎藤与里さんが帰って来て一緒になって新しい美術の運動を起そうとした。其処に予《かね》てそういう考を抱いていた岸田劉生や木村荘八の諸君が合体して、フューザン会が成立した訳だ。フューザン会という名は斎藤与里さんがつけたのである。私は帰国して暫くした時で、父が六十一の還暦の祝でその肖像を私が作ったが、それが新傾向だというので評判になり、フューザン会の彫刻の方を私に入ってくれという話で勧められて加わった。あんなに熱っぽい運動というものは少い。然し中に二色あるのが矢張別れるもとで、斎藤さんなどの方は多少社会運動のような意味で道楽気があったが、岸田さんの方は本当にむきな芸術運動の積りであった。それで二回位やったけれど別れて了い、生活社というのを拵え、私は其の方に入った。神田にヴィナス クラブというのがあって、其処で、岸田劉生と木村荘八と僕ともう一人、四人で展覧会をやった。私は上高地で写生した油絵を可成出した。岸田君は後期印象派のような画風から脱却して、自分の本当の画に転換した初めで、主に写生で、移り変りの時期だったから幼稚なことは仕方なかったが、非常に質のいい仕事であった。※[#「赭のつくり/火」、第3水準1-87-52]《に》え返るような若い時代の連中で毎日進んで行くというような時代だから、二三日|遇《あ》わないと何処かしら解らなくなって了うという風な毎日を送っていた。だから殆と毎日遇っていたと言っていい位顔を会せて議論したり描いたりしたものだ。あんな猛烈な時代というものは尠《すくな》いだろうと思う。私が結婚したのは丁度その当時である。岸田劉生、木村荘八、清宮彬の諸君とはとりわけ親しくつきあっていた。然しいつの場合でも、私は運動の中心になるというのではなく、傍系のような形でやって居たと言えるであろう。
 そういう人々の印象派や後期印象派のような仕事が段々やっているうちにそれではどうにも行かなくなって御破算になり、正直に自分の見たものを描くより仕方がないというに立到った。岸田君は余りそんなことをしている中に胸を悪くし、鵠沼《くげぬま》に引込んで仕事をしていたが、その頃から岸田君の仕事は本当の画になって来たように思う。「白樺」の連中がデュラアのデッサンのもの凄いのに感心して、それに宗教的傾向が加ったりして岸田君を中心に「草土社」の運動になったのである。私は彫刻の方だったから、草土社には加わらなかった。
 彫刻家の中で私が一番親しくつきあったのは荻原守衛だ。アメリカで最初に会ったが、その時の印象では油切ったあくの強い人で、大言壮語する田舎者のように感じられて、私達江戸の教養ではそういうのを実に厭《いや》がる。然し後で考えれば、正直な丸出しの人で、段々油切った所がなくなり闊達ないいところだけが感じられて、日本に帰ってからなどは非常にいい人であった。一所懸命彫刻のことだけ考えていたような人で、今日私達が考えているような彫刻をやり出したのは矢張この人である。ロダンによってそういう事を悟ったのだろうと思う。よく角筈のアトリエに遊びに行ったものだが、私の帰国する前に帰って来ていて父の所にも時々訪ねて来たらしい。父も荻原君が好きで、よく手紙を貰ったようだ。父は、もうその頃は年寄で他にいろいろな傾向の新しい彫刻が出て旧弊な彫刻家になっていたが、荻原君は父を担いで、「あんなこまちゃくれた彫刻より先生のが一番いいんだ。」と言ったりして、父も悪い気がしないらしく、「守衛さんは若いけれどもいい。」と言っていた。

 私は鑑査を受ける展覧会に出品しないという建前であった。自分が鑑査を受けるなら神様に受けるので、人間などの鑑査を受けるべきではないという言分なのである。私が公の展覧会に出品したのは、第一回の聖徳太子奉賛会の展覧会の時が最初であったが、この時は審査はなく、総裁が宮様で父も出品を勧めるので、老人の首と木彫の鯰《なまず》とを出した。
「老人の首」というのは、此処へ乞食のようにして造花を売りに来る爺さんの顔が大変いいので、段々|訊《き》いてみると昔の旗本が落魄《おちぶ》れたのであった。それを暫く来て貰ってモデルになって貰ったが、江戸時代の昔の顔をしているのに牽《ひ》かれた訳だ。「鯰」は従来木彫の方では伝統的なものを何の考もなく拵えていたが、其の頃から私は木彫のああいう風なやり方を始めて、木彫に本来の自覚を持とうとしたのである。その頃鯰の他に魴※[#「魚+弗」、第3水準1-94-37]《ほうぼう》を拵えたが、「魴※[#「魚+弗」、第3水準1-94-37]」は武者小路さんたちが中心でやった「大調和展」に出した。それらの木彫を初めやりかけて父に見せた時はそんなに思わなかったらしいが、二度目に見せた時は父はびっくりしていた。父の驚き方は私の意図したところとは違うのであるが、父は刀がよく切れるようになったといって驚いたのである。例えば鯰の反っている外側の凸部の丸みは一刀でやれるが、反対側の横腹の凹部は一と当てで削ることは出来ない。途中で木目が変って逆目になるが、無理と知ってやって行くと逆目の所から割れて了う。どうしてもそれから先を刀を逆に使わなければならぬから一刀に彫れない。それを自分で考えて一刀でやって了った。父はそんなことに驚いたので、結局技術方面でどうしてやったかと思ったに過ぎない。その時に父は「此処の所に貝殻を彫って添えると面白い置物になる。」など言い言いしたものである。然し彫刻の彫り方については、他の人の全然気のつかない所を解ってくれた。
 それから桃、栄螺《さざえ》などを彫った。桃は彫刻としては一種の彫刻性の出せる果物だと思ってやったのだが、本当に解ってくれる人は少いだろうと思う。桃の天を指しているという曲線が面白いと思って彫ったのだが、彫り方も切出し一本でやったので、切出しの面白さを桃と調和させようとしてやったのである。
 栄螺も彫ったが、それを父に見せたら「この貝はよく見たら栄螺の針が之だけ出ているけれど一つも同じのがないね。」と言った。実はその栄螺を彫る時に、五つ位彫り損って、何遍やっても栄螺にならない。実物のモデルを前に置いてやっているが、実に面倒臭くて、形は出来るのであるが、どうしても較べると栄螺らしくない。弱いのである。どうしてもその理由が分らないので、拵え拵えする最後の時に、色々考えて本物を見ていると、貝の中に軸があるのである。一本は前の方、一本は背中の方にあって、それが軸になっていて、持って廻すと滑らかにぐるぐる廻る。貝が育つ時に、その軸が中心になって針が一つ宛《ずつ》殖えて行くということが解った。だからその軸を見つけなければ貝にならない。成程と思って、其処をそういう風に考えながら拵えたら、丸でこれまでのと違って確《しっか》りして動きのない拠《よ》り所が出来た。それで私は、初めてこういうものも人間の身体と同じで動勢《ムウヴマン》を持つということが解った。それ迄は引写しばかりで、ムウヴマンの謂《いわ》れが解らなかったが、初めて自然の動きを見てのみこまなければならないということを悟った。
 それ以来、私は何を見てもその軸を見ない中には仕事に着手しない。ところがその軸を見つけ出すことは容易ではない。然し軸は魚にも木の葉にも何にでも存在する。それを間違わずに見つけ出すのは、なかなか大変ではあるが、結局自然の成立ちを考え、その理法の推測のもとに物を見て、それに合えばいいし、そうでない時には又見直したりしてやるのである。木の葉一枚でもそれを見ないでやったものは、本当の謂《いわ》れが分らないから彫ったものが弱い。展覧会などにも、そういう弱い作品が沢山あるが、形は本物と一寸も違わないけれども、その形の拠り所が分っていないから肝心のところで逃げていて人形のようになって了う。人形と彫刻とは丸で格段の違いである。その違う製作的根拠をはっきりと気がついたのはその栄螺の彫刻の時だ。
 然し彫刻にしようとする自然物の中にも彫刻性のあるものとないものとがある。例えば果物にしても桃は彫刻になるが林檎《りんご》はならない。魴※[#「魚+弗」、第3水準1-94-37]や鯉は彫刻になるが、鯛はならない。お目出度いものだから鯛はよく彫られるが、単独に彫刻の題材にはならない。いろいろな物の中から彫刻性を多分に帯びているものを選び出して、それを題材とするのでなければ無意味である。それが解らないで無茶苦茶にやるのは、未だ彫刻が解っていないのだと思う。一寸見ると摘《つま》んでみたい位に本物らしく出来ている果物の彫りものとか、よく鮭を一枚一枚|鱗《うろこ》を拵えて本物のように彫ってあるものなどがあるが、ああいうのは本当の意味の彫刻ではなく、根附彫のような細工物になって了う。私なら鮭の頭だけ拵える。鮭も首だけにしてみると、彫刻的組立が出来て来る。
 又このこととは反対に、人間の力で彫刻的に表現されたものを、更に二重に彫刻として表現することも無意味だと思う。例えば能の舞台の姿は、一方から言うと、空間に於ける彫刻的な感銘を意図し振舞われている姿であるから、一種の彫刻的表現が大きな要素になっている。それを更に彫刻に拵えることは無意味だと私は思っている。

 私の乏しい作品も方々に散って、今は所在の解らないものが多い。「魴※[#「魚+弗」、第3水準1-94-37]」など相当に彫ってあるので、時々見たいと思うけれども行方不明である。何か寄附する会があって、そこに寄附して、その会に関係のある人が買ったという話だったが、その後平尾賛平さんが買ったという事も聞いたが、どうなったか分らない。「鯰」は房州の方の人が持っている。これは或る綴錦《つづれにしき》を織る人があって、その人が困っているので寄附して、その人のパトロンのような人が買った。尤《もっと》も鯰はあと二三尾彫っていて、その行先は分っている。一つは越後長岡の松木さんという人が持っている。「桃」は長谷川時雨さんが買った。お蚕の時に使う栃の木で刳抜《くりぬ》いた盆にのせると非常によくはまって、丁度お釈迦《しゃか》様の甘茶の時のように中に小さく桃があって面白いと思ってそれに載せて出したが、その盆にヴェルレーヌの詩句を彫ってあったのを面白く思って買われたのか、然し盆は売る積りではなかったから長谷川さんは弱られたらしい。第二回の大調和展に出した「鷽《うそ》」は野口米次郎さんの親類の人が買った。又後に出した「石榴《ざくろ》」は京都の方の好事家が持っている訳だが、此などは後で一寸借りたいと思って面倒な思をした。手放して了えば、自分の作ったものでも自由にならないから、愛着のある作品を人手に渡すのは厭《いや》になる。貧乏の最中だから仕方がなかったけれども、智恵子はそれを惜しがった。「蝉」は大分拵えたが、之も行先が分らないし、「栄螺」も全然分らない。「栄螺」は父から金を貰うので、百円位で買ってくれと言ったら、父は面白いから預っておこうと言ってとってくれた。そしたらある百貨店の美術部の人が父のところに来て、何百円とかで売れたといって父がその金を持って来てくれたことがあった。父は私のものがそんなに高く掛引なしに欲しい人があって売れたということでびっくりして居た。それ迄は私の仕事など「勝手なものを拵えている。」などとよく人に言っていたから、無論値段などありはしないと思っていたのである。
 首は可成作ったが、半分以上は父の仕事の下職のようにしてやっていたから、半ば父の意志が入って居り、数は沢山拵えたけれど自分の作には入らない訳だ。私が土で原型を拵えても、それを鋳金にしたり木彫にうつしたりする時に無茶苦茶に毀《こわ》されて了う。法隆寺の佐伯さんの肖像なども父の名で私が原型を拵えたものだが、出来上ったものはまるで元のものとは違う。佐伯さんの顔は丁度お婆さんみたいな柔和な顔でそれでいて非常に強いのである。坊さんは案外覇気のあるものだけれどもそれが無く、如何にも精神の深いものが出ている。ああいう顔を自分勝手に拵えたらいいだろうと思った。私が自分勝手に作った首はそれに較べると僅かである。大調和展の二回目に、アトリエ社の記者をしていた住友君の首を出したが、その首あたりから幾分か自分らしい彫刻が出来るようになった。黄瀛《コウエイ》の首もその前後の作品である。黄瀛は日本で中野の通信隊に入って伝書鳩を習い、私のところにも来ていたが、支那に帰って伝書鳩の隊長になり、中佐か何かになって喜んでいた。ところが漢奸《かんかん》だというので漢口の附近で一網打尽に殺戮《さつりく》されたらしい。漢口の山の中に伝書鳩の箱や設備が残っていたということだが、全然それきり消息がない。南京で居た町も調べて貰ったが、其処も全然形跡もない。当人もそれを恐がって手紙もくれるなと言っていたのだが――。(終戦後彼の無事だった事が分った。)
 黒田(清輝)さんの首もその頃作った。その後で、松戸の園芸学校の前の校長の赤星さんのを拵えたが、これは自分として突込めるだけ極度の写実主義をやってみたもので、一寸ドナテルロ風な物凄い彫刻である。松戸の学校の庭に建っていたが、此度供出した。それから女子大の成瀬仁蔵先生を拵えたが、これは暇がかかって十七年かかった。私はその人に実際に会ってみないと仕事が本当に行かない。成瀬さんにお目にかかったのは亡くなる直前で、首を作る為に行ったのでは困るからというので、お見舞ということにして病床でお目にかかっただけだから印象が薄かった。後は写真と学校の女の先生に会って聞いただけでやった。後には、成瀬さんが始終やらせていた理髪師を呼んで来て、頭の恰好《かっこう》を見て貰ったりした。女の先生の印象はいい加減なものだったが、理髪師の方は「此処のところが尖《とが》っていた。」とか、非常にはっきりしていた。序《つい》でがあって一両年前女子大で見たけれども、作としては味いがなくて余りよくない。
 智恵子の首は随分拵えたし、父の首も可成作っている。中には地震の時に毀《こわ》れたものもあるし、自分で毀したものもあるが、大体は残っている。久しくやっている団十郎の首は、石膏《せっこう》でとるつもりで始めたが、今は石膏がないから泥で固めて了おうと思っている。初めから塑像にするつもりならば、それはそれで味いの違うものが出来ると思っている。私の作ったものには首位の程度で、大きいものはない。これから大きいものを始めようという時に、材料などが無くなっているけれども、私の制作其のものに就ては、此からが本当の積りである。その為に今迄いろいろ蓄積し準備をして来た筈であるから。

 わが国の彫刻の歴史は、世界に誇示するに足る伝統を持っている。われわれはその秀れた伝統を正しく継承し、それをわれわれの新しい意味に於て発展させねばならぬ。
 日本の彫刻史中では、近い頃から言えば明治大正の時代では矢張荻原守衛がいいと思う。江戸時代は周知のように此と言ってまともに此こそ彫刻だというものはないが、彫刻の技術方面の伝統を繋《つな》いで来たことは確かである。それは唯職人としての伝統を保って、当人達は無意識でただ腕を競ってやっていたのだけれど、その中に含まれているものが矢張彫刻の本質からでなければならぬものがあって、それを絶やさず、どうやら繋いで来た訳である。宮彫師だの彫金の方の人達がそうであり、又根附彫や仏師などの中にもそういう人達はいた。又一方には民間で拵えた木像が多く、此は名も知れないようになっているが、その中にはどうかして偶々《たまたま》いいものがある。又恵比寿様とか大黒様とか、そういうものの中にも万更棄難いものもないわけではない。非常に片寄った畸形《きけい》なものだけれど、そういう中からいいものを見つけ出して、それを棄てずに純粋にして大きくしなければならぬと思う。
 然し彫刻としてむきになって立向うというものは、どうしても鎌倉時代あたりに行かなければならぬ。鎌倉では矢張運慶一派のものに見るべきものがあるが、ただ鎌倉のものは多少俗だ。然し運慶の無著禅師などは殊に立派であり、仏でも大日如来などはなかなかよい。矢張古いものを相当に研究しているし、それにその当時の溌剌《はつらつ》とした現世を見る眼が肥えて来ているのが表れている。ただどうしても時代のせいで、古いものから較べると俗気が入っているけれども、之は止むを得ない。それからこの時代は彫刻を拵える上の意匠が豊富になっている。此は彫刻について当時の彫刻家が自由に考えるようになった結果だと思う。
 平安朝では皆の感心するようなものは矢張私もいいと思う。神護寺の薬師は全くいい。特殊なもので、ああいうものはあれだけぽっつり在るのだけれど、いろいろな方面から考えてあの像は大変面白い。私はこの像製作の少し前頃から丸刀《がんとう》を使い始めたのではないかと思う。丸鑿《まるのみ》は、製作上の実際から考えると飛鳥《あすか》時代にはなく、飛鳥時代は平鑿ばかり使ったのだろうと思う。飛鳥時代のものは鼻下の人中のような処でも三角に彫ってあり、何処にも丸鑿を使った形跡がない。飛鳥時代の彫刻は、平鑿で削ってゆく清浄さ、その清浄な気持でやったから、丸鑿など思いもよらなかったのだろうと思う。私の考では、丸鑿の使い始めは乾漆像製作の際から起ったのではないかと考える。乾漆の際、箆《へら》でやると谷が丸くなるので、平鑿のような仕事は出来ないが、それが乾漆像に非常に柔い感じを出し得た。それで、木彫の場合にもその柔い感じを出そうとして丸鑿を使い出したものだろうと推測するのである。丸鑿は天平になると使い出し、唐招提寺の諸像あたりから本当に使い始めたように思う。丸鑿というのは丸くしゃくれるから、巧くやるとすっきりしていい代りに、下手をすると却《かえ》っていいところを取って了う。だから乱雑に使うと、取らないでいいところ迄取って了うので、筋ばかりになってうるさく、物が非常に貧弱になって了う。江戸時代になると丸鑿の弊害は極端で、肉がぼてている癖に貧寒なものが多い。
 然るに丸鑿を使っている唐招提寺の諸像もいいが、神護寺の薬師になると丸鑿の絶頂なのだ。あれは最もいい条件で丸鑿を使って居り、丸鑿でしゃくってあるけれども非常に謹んで使っていて決してやり過ぎていない。丸鑿でなければ出来ないことだけを実に有効にやっている。襞《ひだ》を丸鑿で木を深く削り込んで彫ってゆく意味がはっきり把《つか》んである。顔のようなところには肉を減らさない為に丸鑿は使わず、平鑿で突きつけて彫っている。あの仏像は技術の上からも非常に立派なもので、素晴しいと思う。
 天平になると、彫刻が彫刻として始めて完備した時代だから、いくらでもいいものが沢山あって、皆のいいというものは矢張いいと思う。天平末だろうが、新薬師寺の薬師なども私はいいと思う。肉のとり方がとても巧く、如何にも木というものを意識しているところがあって、新しい面を拓《ひら》いている。そういう意味であの像はなかなかいいと思う。天平の乾漆は概して皆よい。三月堂の不空羂索《ふくうけんさく》なども、大らかな堂々とした所があって、お頭《つむ》も案外写生だけれども美しい。天平の塑像もよい。当時の塑像は西洋流の塑像の拵え方とは違って、固い泥で押えつけて拵えたものだ。西洋流の塑像のモデリングという風な考え方だと、比較的柔い自由自在になる泥で捏《こ》ねて拵える感じがあるが、日本のは固い泥を次から次に叩いて拵えたものだから制作の感じがまるで違う。
 更に遡《さかのぼ》れば、私は夢殿の観音を最高のところに置きたい。此は彫刻などと呼ぶ以上に精神的な部類に入って了う。この御像は彫刻の技術としては無器用であるけれども、その無器用な所が素晴しい。彫刻的には不調和で無茶苦茶な作であるが、寧《むし》ろその破綻《はたん》から良さが出て来て居り、完全に出来ていない所から命が湧いて来ている例である。お顔と衣紋《えもん》は様式的に全く違う。御|身躯《からだ》は漢魏式の決りきったやり方を踏襲しているが、お頭や手は丸で生きている人を標準にして刻んで附けている。法隆寺金堂の薬師にもその傾きはあるけれども夢殿の観音の方が甚しい。あの御像は確かに聖徳太子をお作りする積りで拵えたに違いないと私は信じる。それで時間的には短い期間に早く拵えた作だと思う。長く考えながら拵えた作ではない。夢中になって拵え、かかりきりで一気|呵成《かせい》に仕上げた作だ。あの難しい時代を心配されて亡くなられた杖とも柱とも頼む聖徳太子を慕って、何だって亡くなられたろうと思う痛恨な悲憤な気持で居ても立ってもいられない思いに憑《つ》かれたようになって拵え、結果がどうなろうとそれを眼中に入れないで作られたものであろう。それは非常にあらたかなものである。自分で彫って拵えたろうけれども、その作者さえ其処に置いては拝めないように怖い仏であったろうと思う。御身躯は従来通りに作ったけれども、お頭は聖徳太子を思いながら拵えたのであろう。技術上微笑したようなお顔になっているけれども、拈華微笑《ねんげみしょう》の教義による微笑の意義を目指して拵えたという説があるようだが、私にはそうはとれない。あの時代に、ああいう風にこなすとああいう工合になるのは当然である。だから微笑を志してああいうお顔になったとは思えない。作り初めの人の彫刻を見ると、笑ったような顔に自然になりがちなもので、古い時代のものには可成それが手伝っているのだと思う。お目なども大きく見開いて居られるが、それもやっている中に大きくなって了ったのだと思う。聖徳太子を慕う痛恨な気持が端々に実によく出ているように思われ、お手なども変てこに絡んでいるが、そんな気持で拵えたものであろう。そして立てた其上は手も加えられない程怖しい御仏に感じられたと思う。普通の仏とは違って生物の感じがあり、何か化身のような気が漂っている。私達が今見てもそうだけれど、昔は尚更そういう感じが強かったに違いない。それで兎に角封じて了わなければならぬという気持が坊さんの間に起ったのだと思う。その為にただの秘仏ではなく、御身躯を布でぐるぐる巻きにして封じて了った。その位あの御仏の製作は真剣さに溢《あふ》れ、彫刻上のいろんなことなど考えている暇のない仏である。恐しいのはその精神が溢れているからである。私達を搏《う》つのは彫刻上の技巧ではなく、わけてその形ではなく、而もその中に籠《こも》って出て来る物凄い気魄《きはく》のようなものである。そういうものが如何に一番中心であり肝心なものであるかを感じる。どんなに彫刻として完備していても、それがなければ駄目だということが、あの像を見ると解るように思うのである。それがあの彫刻を全く無類に感じさせる。
 それはいろいろな意味で純粋な時代だから出来たのだろうとも思う。又それと同時に非常に難しい危機を孕《はら》んだ危い時代だったから、その中で彫刻家はああいう真剣さに溢れた仕事をし遂げたものだとも思う。
 われわれも一生涯にそんな彫刻を拵えたいと念じる。少くとも私達はこの厳しい時代に、そのような気持でやらなければ怠慢だと思う。  (談話筆記)

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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高村光太郎

黄山谷について—- 高村光太郎

平凡社の今度の「書道全集」は製版がたいへんいいので見ていてたのしい。それに中国のも日本のも典拠の正しい、すぐれた原本がうまく選ばれているようで、われわれ門外漢も安心して鑑賞できるのが何よりだ。
 今、このアトリエの壁に黄山谷の「伏波神祠詩巻」の冒頭の三句だけの写真がかかげられている。「蒙々篁竹下、有路上壺頭」に始まる個所だ。多分「書道全集」の図版の原型になった写真の大きな複写と思えるが、人からもらった時一見するなり心をうたれて、すぐ壁にかかげたのである。それ以後毎日見ている。黄山谷の書は前から好きであったが、この晩年の書を見るに及んでますます好きになってしまった。
 黄山谷《こうざんこく》の書ほど不思議な書は少い。大体からいって彼の書はまずいように見える。まずいかと思うとまずいともいえない。しかし普通にいう意味のうまさはまず無い。彼は宋代に書家として蘇東坡《そとうば》、米元章と並んで三大家といわれていたが、他の二人とはまるでその性質がちがう。東坡の書も米元章の書も実にうまい。まずいなどという分子はまるでない。どの一字をとってみても巧妙である。そしてやはり唐代の余韻がある。新鮮ではあるが、唐代からの二王や顔真卿の縄張りをそう遠くは離れていない。どちらも妍媚《けんび》だ。ところが黄山谷と来るとまるで飛び離れている。黄山谷はむしろ稚拙野蛮だ。顔真卿の影響をうけているといわれ、なるほどその趣もあるが、顔魯公よりも自由だ。勝手次第だ。一字ずつみると、その筆法は実に初心で、まるで習いはじめの人のように筆をはねたりする。馬鹿にのんびりしていたり、又くしゃくしゃと書きつめる。線をたるんでいるように書いたり、横に曲げたり、字のつづきも疎密にかまわない。行が片よったり、字くばりがでこぼこだったり、字の大小も方向も気にとめない。そして一々ぎゅっとおさえて書く。何しろひどく不器用に見える。
 それでいて黄山谷の書は大きい。実に大きな感じで、これに比べると蘇東坡も米元章もなんだかよそゆきじみて来る。何よりも黄山谷の書は内にこもった中心からの気魄《きはく》に満ちていて、しかもそれが変な見てくれになっていない。強引さがない。よく禅僧などの墨せきにいやな力みの出ているものがあるが、そういう厭味《いやみ》がまるでない。強いけれども、あくどくない。ぼくとつだが品位は高い。思うままだが乱暴ではない。うまさを通り越した境に突入した書で、実に立派だ。彼の元祐年代頃の書と思いくらべると、この「詩巻」の意味がよくわかる。
 朝、眼がさめると向うの壁にかけてあるその写真の書が自然に見えるのだが、毎朝見るたびに、はっとするほどその書が新らしい。書面全体からくる生きてるような精神の動きが私をうつ。この書が眼にはいると、たちまち頭がはっきりして、寝台からとび下りて、毎朝はじめて見るような思でその写真の前に立たずにいられない。そして「蒙々篁竹下」とあらためてまた見る。吸いよせられるような思で、「漢塁云々」まで来ると、もう顔を洗ったような気がする。まずいようだなどといっては甚だ申しわけがない。それどころではないのである。尤《もっと》もむかし王定国という人が彼の書を巧みでないといったそうで、黄山谷自身も、この詩巻を書いた時は背中にできものができていて、手が思うように動かないので字に成らなかったといったそうであるが、これはどうだか。手が動こうが動くまいが、こんな立派なものが書ければ申分ない。字に成らなかったといわれるが、むしろその方がよかったような気がする。殊にこの詩巻の自跋《じばつ》の数行はのびのびとしていて力強く、「水漲一丈、堤上泥深一尺」あたりの快さは無類である。随分癖のある書だが、それが少しもいやでなく、わざとらしくもない。そこがすばらしい。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
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高村光太郎

ミケランジェロの彫刻写真に題す ——-高村光太郎

 ミケランジェロこそ造型の権化である。
 造型の中の造型たる彫刻は従ってミケランジェロの生来を語るものであり、ミケランジェロの他の営為――土木、建築、絵画、詩歌の類はすべて彼の彫刻家的幽暗の根源から出ている。彼の眼に映ずる世界は一切彫刻的形象としてうけ入れられ、彼の精神の訴は一切彫刻的形象の様相を以て語られる。此の場合に於ける彫刻とは言わば高次の彫刻を意味する。彼の手に成る個々の彫刻は斯《か》かる高次の彫刻自体から直流する彫刻的彫刻に外ならず、此の根源の彫刻性を深く会得しなければ彼の個々の彫刻の持つ奥深い宇宙的性質は究められない。彫刻的面の力学的構成の大から、一本の指のさき、一片の衣襞の屈曲の小に至るまで、それは表面的顕現を統率する彫刻理法の中心につながり、その妙味の汲みつくし難い大洋のような分厚い重さ、重畳たる山又山のような積みかさなりの深さは、まことに世界の中に形成せられた一種別個の世界を見る思がする。
 キリスト教芸術の厳しさと、ギリシャ芸術の豊かさとが此所に全く融合し、更に近世的人間苦の抒情性、爆発性を内蔵して、遠くして近く、近くして遠い此の全人的芸術が生れた。ミケランジェロは近世初頭に於いて能《よ》く人類の持つ彫刻的能力を出し尽した観があり、従って以後数世紀に亘って、人類の人生観世界観の革新せられない限り、人はただ彼の彫刻の前に慴伏《しょうふく》する外はなかった。そしてただ徒《いたずら》にその表面様式を硬化させている外はなかった。彼以後の西欧彫刻は、遠くロダンの出現に至るまで、言わば蛇足を加えていたに過ぎない。ミケランジェロが近世初頭に於ける人間解放を意味するとすれば、ロダンは近世末期に於ける資本主義的成熟と崩壊との形象的象徴を意味するという点に於いて、ロダンが僅にミケランジェロの前に立ち得るのである。
 今世界の秩序は甚だしい動揺の中に居る。かかる世紀にあるわれわれ東瀛《とうえい》の民族が又改めてミケランジェロを静観することは意味深い。此の近世初頭に於ける人類の造型的権化をわれわれ東方の新らしい眼と心とを以てもう一度直視することは意味ふかい。
 われわれは淵源《えんげん》として夢殿の救世観世音《くせかんぜおん》を持つ。此の東方精神の造型的顕現の特質は幾多の起伏を超えて今新らしくわれわれの未現の世界に於いて再び精神の造型化にあらわれようとしている。われわれは一切を包摂し、融合して、進んで全一のコスモス的美の世界像を創建せねばならぬ。人類の持つ高次の彫刻性に二あるわけはない。それは恐らく星の世界に行っても同じであろう。その高次の彫刻性の一つの彫刻的あらわれとして殆と完璧《かんぺき》に近いミケランジェロの諸作を仔細《しさい》に点検することはわれわれの造型的意識に力と滋味とを与える。此の異邦の芸術の中にある民族的限界を超えた境地を観る者はたのしいかなと思わざるを得ない。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
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高村光太郎

ヒウザン会とパンの会——- 高村光太郎

 私が永年の欧洲留学を終えて帰朝したのは、たしか一九一〇年であった。
 当時、わが洋画界は白馬会の全盛時代であって、白馬会に非ざるものは人に非ずの概があった。しかし、旧套墨守《きゅうとうぼくしゅ》のそうしたアカデミックな風潮に対抗して、当時徐々に新気運は動きつつあった。その頃、有島生馬、南薫造の諸氏も欧洲から帰朝したばかりで烈々たる革新の意気に燃えていた。
 私が神田の小川町に琅※[#「王+干」、第3水準1-87-83]洞《ろうかんどう》と言うギャラリーを開いたのもその頃のことで、家賃は三十円位、緑色の鮮かな壁紙を貼《は》り、洋画や彫刻や工芸品を陳列したのであるが、一種の権威を持って、陳列品は総て私の見識によって充分に吟味したもののみであった。
 店番は私の弟に任し切りであったが、店で一番よく売れたのは、当時の文壇、画壇諸名家の短冊で、一枚一円で飛ぶような売れ行きであった。これは総て私たちの飲み代となった。
 私はこの琅※[#「王+干」、第3水準1-87-83]洞で気に入った画家の個展を屡《しばしば》開催した。(勿論手数料も会場費も取らず、売り上げの総ては作家に進呈した。)中でも評判のよかったのは岸田劉生、柳敬助、正宗得三郎、津田青楓諸氏の個展であった。
 ヒウザン会は、丁度その頃、新進気鋭の士の集合であり、当時洋画会の灰一色のアカデミズムにあきたらぬ連中の息抜き場であった。
 琅※[#「王+干」、第3水準1-87-83]洞を本拠として、多士済々、大体三つのグルウプに分れ、中でも一番勢力のあったのは岸田劉生及その友人門下生の一団であって、私も大体に於て岸田のグルウプであった。その他、川上凉花、真田久吉、万鉄五郎を中心とする一派、斎藤与里を中心とする一派等に分れていた。
 われわれヒウザン会同人は、当時、殆んど毎日のように本郷白山の真田久吉の下宿に集合して、気焔《きえん》を挙げていたものであるが、期熟して、その秋、第一回展を京橋角にあった読売新聞の楼上に開催した。それが又ひどい会場で、天井板のようにガタピシする床には少からず閉口した。
 私は油絵三点、彫刻を一点出品したが、岸田劉生は一室を占領し、万鉄五郎また多数を出陳して気勢をあげた。真田久吉の印象派風の作品など当時にあっては尖端《せんたん》をゆくものであった。この第一回展で特に記憶に残っているのは、先頃逝去した吉村冬彦氏(寺田寅彦博士)が夏目漱石氏と連れ立って来場され私の油絵や斎藤与里の作品を売約したことである。当時洋画の展覧会で絵が売れるなどと言うことは全く奇蹟的のことで、一同嬉しさのあまり歓呼の声をあげ、私は幾度びか胴上げされた。
 翌年、第二回を開いたが、間もなく仲間割れでちりぢりに分裂し、私や岸田は新たに生活社を起した。この系統が彼の草土社となったのである。
 その頃、特筆すべきは「現代の美術」と言う美術雑誌を主宰していた北村清太郎氏で、われわれの仲間ではペエル タンギイで通っていた。あらゆる意味から、この人ぐらい熱心に当時の美術界に尽力した人はないであろう。
 概括してヒウザン会の傾向をのべると、フォウビズム、印象派、後期印象派の三つに分れ、われわれの崇拝の的はゴオガンとゴッホであった。先輩の中で、われわれの兎も角承認したのは黒田清輝氏ただ一人である。
 当時、山脇信徳が文展に出品した「上野駅の朝」と題する絵は、当時の新傾向作品の代表的のもので、私は新聞雑誌上でこれを極力賞讃した。

 当時、文壇では若冠の谷崎潤一郎が「刺青」を書き、武者小路実篤、志賀直哉等によって「白樺」が創刊され、芸苑のあらゆる方面に鬱勃《うつぼつ》たる新興精神が瀰《ひろが》っていた。
「パンの会」はそうしたヌウボオ エスプリの現われであって、石井柏亭等同人の美術雑誌「方寸」の連中を中心とし北原白秋、木下杢太郎、長田秀雄、吉井勇、それから私など集ってはよく飲んだものである。
 別に会の綱領などと言うものがあるわけではなく、集ると飲んで虹のような気焔《きえん》を挙げたのであるが、その中に自然と新しい空気を醸成し、上田敏氏など有力な同情者の一人であった。
 パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、鎧橋傍《よろいばしわき》の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである。
 三州屋の集りの時は芳町の芸妓が酒間を斡旋《あっせん》した。
 パンの会は、当時、素晴らしい反響を各方面に与え、一種の憧憬を以て各方面の人士が集ったもので、少い時で十五六人、多い時は四五十人にも達した。異様の風体の人間が猛烈な気焔をあげるので、ついには会場に刑事が見張りをするようになった。
 詩人では当時の名家が殆んど顔を出したし、俳優では左団次、猿之助、段四郎、それに「方寸」の連中、阿部次郎はじめ漱石門下、潤一郎、荷風の一党など、兎も角盛なものであった。
 松山省三が「カフエ プランタン」をはじめたのもその頃であり、尾張町角には、ビヤホール「ライオン」があって人気を独占していた。ライオンではカウンター台の上に土で作ったライオンの首が飾ってあって、何ガロンかビールの樽《たる》が空くと、その度毎にライオンが「ウオ ウオ」と凄じい呻《うな》り声を発する仕掛であった。
「カフエにて」と題する当時の短い詩に、


  泥でこさへたライオンが
  お礼申すとほえてゐる
   肉でこさへたたましひが
  人こひしいと飲んでゐる

 

  無理は天下の醜悪だ
  人間仲間の悪癖だ
  酔つぱらつた課長殿よ
  さめてもその自由を失ふな

というのがある。
 永代橋の「都川」で例会があった時、倉田白羊が酔っぱらって大虎になり、橋の鉄骨の一番高いところへ攀《よ》じ登ったが川風で酔いが醒《さ》めて、さてこんどは降りられない。野次馬がたかって大騒ぎになったことがあった。白羊の眼が悪くなったのは、たぶんこんな深酒が祟《たた》っているのだろう。

   ○

「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚《とて》も素晴らしいのが元禄髷《げんろくまげ》に結っていた。元禄髷というのは一種いうべからざる懐古的情趣があって、いわば一目惚れというやつでしょう。参ったから、懐ろからスケッチ ブックを取り出して素描して帰ったのだが、翌朝考えてもその面影が忘れられないというわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描こうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結っていないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已《や》むを得ず昨夜のスケッチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでしょう、ということになった。
 いわばそれが病みつきというやつで、われながら足繁く通った。お定まり、夫婦約束という惚《ほ》れ具合で、おかみさんになっても字が出来なければ困るでしょう、というので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習わせるといった具合。
 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅《か》ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通ったらしいが、結局、誰のものにもならなかった。
 一年ばかり他所へいってしまって、又吉原へ戻って、年が明いたので、年明けの宴を張った。
 阿部次郎が通ったのが判った次第は、彼がやってきて、談|偶々《たまたま》その道に及び「君と僕とは兄弟だぜ」といったことからである。よくあることだが、私にとっては大事件だったわけだ。
 若太夫がいなくなってしまうと身辺大に落莫寂寥《らくばくせきりょう》で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だった。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判って呉れる筈である。

       失はれたるモナ・リザ

  モナ・リザは歩み去れり
  かの不思議なる微笑《ほほゑみ》に銀の如き顫音《せんおん》を加へて
  「よき人になれかし」と
  とほく、はかなく、かなしげに
   また、凱旋の将軍の夫人が偸見《ぬすみみ》の如き
   冷かにしてあたたかなる
  銀の如き顫音を加へて
   しづやかに、つつましやかに
   モナ・リザは歩み去れり

  モナ・リザは歩み去れり
   深く被はれたる煤色《すすいろ》の仮漆《エルニ》こそ
  はれやかに解かれたれ
  ながく画堂の壁に閉ぢられたる
  額ぶちこそは除かれたれ
  敬虔の涙をたたへて
  画布《トワアル》にむかひたる
   迷ひふかき裏切者の画家こそはかなしけれ
  ああ、画家こそははかなけれ
   モナ・リザは歩み去れり

  モナ・リザは歩み去れり
  心弱く、痛ましけれど
   手に権謀の力つよき
  昼みれば淡緑に
  夜みれば真紅《しんく》なる
   かのアレキサンドルの青玉《せいぎよく》の如き
  モナ・リザは歩み去れり

  モリ・リザは歩み去れり
  我が魂を脅し
  我が生の燃焼に油をそそぎし
  モナ・リザの唇はなほ微笑せり
  ねたましきかな
   モナ・リザは涙をながさず
   ただ東洋の真珠の如き
  うるみある淡碧《うすあを》の歯をみせて微笑せり
  額ぶちを離れたる
  モナ・リザは歩み去れり

  モナ・リザは歩み去れり
   かつてその不可思議に心をののき
   逃亡を企てし我なれど
   ああ、あやしきかな
  歩み去るその後《うしろ》かげの慕はしさよ
  幻の如く、又阿片を燔《や》く烟の如く
  消えなば、いかに悲しからむ
   ああ、記念すべき霜月《しもつき》の末の日よ
  モナ・リザは歩み去れり

 雷門の「よか楼」にお梅さんという女給がいた。それ程の美人というんじゃないのだが、一種の魅力があった。ここにも随分通いつめ、一日五回もいったんだから、今考えるとわれながら熱心だったと思う。「よか楼」の女給には、お梅さんはじめ、お竹さん、お松さんお福さんなんてのがいて、新聞に写真入りで広告していた。私は昼間っから酒に酔い痴《し》れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。


   わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ
  辛き酒を再びわれにすすむる
  マドモワゼル ウメの瞳のふかさ

といった有様だった。当時は又短歌もやっていたが


   かの雲をわれは好むと書きをへし

   ボードレールが酔ひざめの顔

などという歌が出来た。
 一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行っていたりすると、ヤケを起して麦酒壜《ビールびん》をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおっぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞッ」と呶鳴《どな》ると、見幕に野次馬は散らばったこともある。
 お梅さんが朋輩《ほうばい》と私の家へ押しかけて来た時、智恵子の電報が机の上にあったので怒って帰ったのが最後だった。その頃、私の前に智恵子が出現して、私は急に浄化されたのである。
 お梅さんはある大学生と一緒になり、二年ほどして盲腸で死んだ。谷中の一乗寺にその墓があるが、今でも時々思い出してお詣《まい》りしている。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
※「失はれたるモナ・リザ」の詩は、底本では一行が長くて二行にわたっているところは、二行目が3字下げになっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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高村光太郎

(私はさきごろ)—– 高村光太郎

 私はさきごろミケランジェロの事を調べたり、書いたりして数旬を過ごしたが、まったくその中に没頭していたため、この岩手の山の中にいながらまるで日本に居るような気がせず、朝夕を夢うつつの境に送り、何だか眼の前の見なれた風景さえ不思議な倒錯を起して、小屋つづきの疎林はパリのフォンテンブロオの森かと思われ、坂の上の雪と風とに押しひしがれてそいだような形になっている松の木はあのローマの傘松を聯想《れんそう》させ、見渡すかぎりの清水野のゆるい起伏はローマ郊外のいわゆるカムパーニヤ ロマーノの展望にさえ見えるのであった。炉辺で眼をつぶると、何だかアルノオ河の河岸の石だたみや、ポンテ ヴェッキオの橋が近所にあるように思われたり、遠くの空にローマのサン ピエトロの円屋根が聳《そび》えていたりする。今は一九五〇年の冬のはじめで、ここは日本東北地方の山の中だという現実がうそのように思えたりした。
 そういう心的状態の中で私はまっすぐにミケランジェロを凝視した。この稀有《けう》な人間の正体がどんなものであるかを見きわめようとした。私の脳裏のミケランジェロはその行蔵の表裏矛盾にみちしかも底の底ではただ一本道を驀進《ばくしん》するタンクのような人間であった。一体彼がとって動かぬ根本のささえとなったものは何であろう。時代の常識から考えればむろんそれは神であり、クリストであり、マリアであったといわねばならず、彼も亦神をかき、クリストを画き、マリアを画き、且つ石で彫り、神に祈る多くの詩を書いた。心のきしめく時必ず神をよんだ。だが、彼の神とは何であろう。どう考えてもそれはヴァチカン宮の中に居ない神のようである。彼自身が画にかき、彫刻に彫った神やクリストやマリアのようなものではなかったようだ。彼は十三四の頃から聖書によみ耽《ふけ》り、又ダンテの「神曲」に魂を奪われていたのであるから、それらのものが彼の内に形づくった素朴な映像が次第に増大して、後年の多くの製作となったには違いないが、その映像も最初はやはり先人の遺した多くの伝統的映像に養われたものであろうし、結局それは一つの仮設の世界のものであり、伝説的存立としての仮象であるから、彼の自らつくる神なりクリストなりマリアなりが、彼の内なる生きた神なりクリストなりマリアなりと同じであったとはうけ取れない。彼が一生涯に作った多くのそれらの絵画彫刻は、彼にとってまことに絵画であり彫刻であったに過ぎず、神やクリストやマリアはその絵画彫刻の伝説的主題として純粋な芸術的意味の外に意味は持たなかったに違いない。彼の内なる神とはただ犯し難い自然の理法の事であり、クリストとは人間の中の人間の事であり、マリアとは母の中なる母の事であったというより外はない。彼はクリスト教オルソドックスのまっただ中に生き、至上者法王と常に顔を合せながら、彼はまったくその外側に息づいていた。彼はそれらのもののドグマをそのままには受取らず、時代の常識としての宗教に仕えるかわりにもっと別の次元に身を置いていた。美こそ彼をささえていた唯一のものであり、彼にとって一切は美の次元から照射されてはじめて腑甲斐《ふがい》あるものとなった。美は宗教から出る放射物であり得ず、かかる宗教とは次元を異にする別個の力であり、いわゆる宗教上のもろもろの伝説は、ただ伝説として美の世界に役立つものでしかなかった。彼は法王庁カペラ シスチナの天井に旧訳聖書を画き、正面壁画に最後の審判を画きながら、ただひたすら人間造型の美を究めようとした。自然の理法が示す比例均衡の美を人間の手に変圧して捉えようとした。美に仕えることが彼の内なる神に仕えることであった。ヴァチカン宮の宗教は殆と彼と無縁であったように見える。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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