梶井基次郎

海 断片—– 梶井基次郎

……らすほどそのなかから赤や青や朽葉《くちば》の色が湧いて来る。今にもその岸にある温泉や港町がメダイヨンのなかに彫り込まれた風景のように見えて来るのじゃないかと思うくらいだ。海の静かさは山から来る。町の後ろの山へ廻った陽がその影を徐々に海へ拡げてゆく。町も磯も今は休息のなかにある。その色はだんだん遠く海を染め分けてゆく。沖へ出てゆく漁船がその影の領分のなかから、日向のなかへ出て行くのをじっと待っているのも楽しみなものだ。オレンジの混った弱い日光がさっと船を漁師を染める。見ている自分もほーっと染まる。

「そんな病弱な、サナトリウム臭い風景なんて、俺は大嫌いなんだ」
「雲とともに変わって行く海の色を褒《ほ》めた人もある。海の上を行き来する雲を一日眺めているのもいいじゃないか。また僕は君が一度こんなことを言ったのを覚えているが、そういう空想を楽しむ気持も今の君にはないのかい。君は言った。わずか数|浬《カイリ》の遠さに過ぎない水平線を見て、『空と海とのたゆたいに』などと言って縹渺《ひょうびょう》とした無限感を起こしてしまうなんぞはコロンブス以前だ。われわれが海を愛し空想を愛するというなら一切はその水平線の彼方《かなた》にある。水平線を境としてそのあちら側へ滑り下りてゆく球面からほんとうに美しい海ははじまるんだ。君は言ったね。
 布哇《ハワイ》が見える。印度《インド》洋が見える。月光に洗われたべンガル湾が見える。現在眼の前の海なんてものはそれに比べたらラフな素材にしか過ぎない。ただ地図を見てではこんな空想は浮かばないから、必要欠くべからざるという功績だけはあるが……多分そんな趣旨だったね。ご高説だったが……
「――君は僕の気を悪くしようと思っているのか。そう言えば君の顔は僕が毎晩夢のなかで大声をあげて追払うえびす[#「えびす」に傍点]三郎に似ている。そういう俗悪な精神になるのは止し給《たま》え。
 僕の思っている海はそんな海じゃないんだ。そんな既に結核に冒されてしまったような風景でもなければ、思いあがった詩人めかした海でもない。おそらくこれは近年僕の最も真面目になった瞬間だ。よく聞いていてくれ給《たま》え。
 それは実に明るい、快活な、生き生きした海なんだ。未《いま》だかつて疲労にも憂愁にも汚されたことのない純粋に明色の海なんだ。遊覧客や病人の眼に触れ過ぎて甘ったるいポートワインのようになってしまった海ではない。酢っぱくって渋くって泡の立つ葡萄酒のような、コクの強い、野蕃な海なんだ。波のしぶきが降って来る。腹を刔《えぐ》るような海藻の匂いがする。そのプツプツした空気、野獣のような匂い、大気へというよりも海へ射し込んで来るような明らかな光線――ああ今僕はとうてい落ちついてそれらのことを語ることができない。何故といって、そのヴィジョンはいつも僕を悩ましながら、ごく稀なまったく思いもつかない瞬間にしか顕われて来ないんだから。それは岩のような現実が突然に劈開《へきかい》してその劈開面をチラッと見せてくれるような瞬間だ。
 そういうようなものを今の僕がどうして精密に描き出すことができよう。だから僕は今しばらくその海の由来を君に話すことにしよう。そこは僕達の家がほんのしばらくの間だけれども住んでいた土地なんだ。
 そこは有名な暗礁や島の多いところだ。その島の小学児童は毎朝勢揃いして一艘の船を仕立てて港の小学校へやって来る。帰りにも待ち合わせてその船に乗って帰る。彼らは雨にも風にもめげずにやって来る。一番近い島でも十八町ある。いったいそんな島で育ったらどんなだろう。島の人というとどこか風俗にも違ったところがあった。女の人が時々家へも来ることがあったが、その人は着物の着つぶしたのや端《は》ぎれを持って帰るのだ。そのかわりそんなきれを鼻緒に巻いた藁草履やわかめなどを置いて行ってくれる。ぐみ[#「ぐみ」に傍点]ややまもも[#「やまもも」に傍点]の枝なりをもらったこともあった。しかしその女の人はなによりも色濃い島の雰囲気を持って来た。僕たちはいつも強い好奇心で、その人の謙遜な身なりを嗅ぎ、その人の謙遜な話に聞き惚れた。しかしそんなに思っていても僕達は一度も島へ行ったことがなかった。ある年の夏その島の一つに赤痢が流行《はや》ったことがあった。近くの島だったので病人を入れるバラックの建つのがこちらからよく見えた。いつもなにかを燃している、その火が夜は気味悪く物凄かった。海で泳ぐものは一人もない。波の間に枕などが浮いていると恐ろしいもののような気がした。その島には井戸が一つしかなかった。
 暗礁については一度こんなことがあった。ある年の秋、ある晩、夜のひき明けにかけてひどい暴風雨があった。明方物凄い雨風の音のなかにけたたましい鉄工所の非常汽笛が鳴り響いた。そのときの悲壮な気持を僕は今もよく覚えている。家は騒ぎ出した。人が飛んで来た。港の入口の暗礁へ一隻の駆逐艦《くちくかん》が打《ぶ》つかって沈んでしまったのだ。鉄工所の人は小さなランチヘ波の凌《しの》ぎに長い竹竿を用意して荒天のなかを救助に向かった。しかし現場へ行って見ても小さなランチは波に揉まれるばかりで結局かえって邪魔をしに行ったようなことになってしまった。働いたのは島の海女《あま》で、激浪のなかを潜っては屍体を引き揚げ、大きな焚火《たきび》を焚《た》いてそばで冷え凍えた水兵の身体を自分らの肌で温めたのだ。大部分の水兵は溺死した。その溺死体の爪は残酷なことにはみな剥《は》がれていたという。
 それは岩へ掻きついては波に持ってゆかれた恐ろしい努力を語るものだった。
 暗礁に乗りあげた駆逐艦の残骸は、山へあがって見ると干潮時の遠い沖合に姿を現わしていることがあった。

底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:Juki
1998年12月14日公開
2003年10月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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梶井基次郎

過古—— 梶井基次郎

母親がランプを消して出て来るのを、子供達は父親や祖母と共に、戸外で待っていた。
 誰一人の見送りとてない出発であった。最後の夕餉《ゆうげ》をしたためた食器。最後の時間まで照していたランプ。それらは、それらをもらった八百屋《やおや》が取りに来る明日の朝まで、空家の中に残されている。
 灯が消えた。くらやみを背負って母親が出て来た。五人の幼い子供達。父母。祖母。――賑《にぎや》かな、しかし寂しい一行は歩み出した。その時から十余年経った。

 その五人の兄弟のなかの一人であった彼は再びその大都会へ出て来た。そこで彼は学狡へ通った。知らない町ばかりであった。碁会所《ごかいしょ》。玉突屋。大弓所。珈琲《コーヒー》店。下宿。彼はそのせせこましい展望を逃《のが》れて郊外へ移った。そこは偶然にも以前住んだことのある町に近かった。霜解け、夕|凍《じ》み、その匂いには憶《おぼ》えがあった。
 ひと月ふた月経った。日光と散歩に恵まれた彼の生活は、いつの間にか怪しい不協和に陥っていた。遠くの父母や兄弟の顔が、これまでになく忌《いま》わしい陰を帯びて、彼の心を紊《みだ》した。電報配達夫が恐ろしかった。
 ある朝、彼は日当《ひあたり》のいい彼の部屋で座布団を干していた。その座布団は彼の幼時からの記憶につながれていた。同じ切れ地で夜具ができていたのだった。――日なた[#「なた」に傍点]の匂いを立てながら縞目《しまめ》の古りた座布団は膨れはじめた。彼は眼を瞠《みは》った。どうしたのだ。まるで覚えがない。何という縞目だ。――そして何という旅情……

 以前住んだ町を歩いて見る日がとうとうやって来た。彼は道々、町の名前が変わってはいないかと心配しながら、ひとに道を尋ねた。町はあった。近づくにつれて心が重くなった。一軒二軒、昔と変わらない家が、新しい家に挾まれて残っていた。はっと胸を衝《つ》かれる瞬間があった。しかしその家は違っていた。確かに町はその町に違いなかった。幼な友達の家が一軒あった。代が変わって友達の名前になっていた。台所から首を出している母らしいひとの眼を彼は避けた。その家が見つかれば道は憶《おぼ》えていた。彼はその方へ歩き出した。
 彼は往来に立ち竦《すく》んだ。十三年前の自分が往来を走っている! ――その子供は何も知らないで、町角を曲って見えなくなってしまった。彼は泪《なみだ》ぐんだ。何という旅情だ! それはもう嗚咽《おえつ》に近かった。

 ある夜、彼は散歩に出た。そしていつの間にか知らない路を踏み迷っていた。それは道も灯もない大きな暗闇であった。探りながら歩いてゆく足が時どき凹《へこ》みへ踏み落ちた。それは泣きたくなる瞬間であった。そして寒さは衣服に染《し》み入ってしまっていた。
 時刻は非常に晩《おそ》くなったようでもあり、またそんなでもないように思えた。路をどこから間違ったのかもはっきりしなかった。頭はまるで空虚であった。ただ、寒さだけを覚えた。
 彼は燐寸《マツチ》の箱を袂《たもと》から取り出そうとした。腕組みしている手をそのまま、右の手を左の袂へ、左の手を右の袂へ突込んだ。燐寸はあった。手では掴《つか》んでいた。しかしどちらの手で掴んでいるのか、そしてそれをどう取出すのか分らなかった。
 暗闇に点《とも》された火は、また彼の空虚な頭の中に点された火でもあった。彼は人心地を知った。
 一本の燐寸の火が、焔《ほのお》が消えて炭火になってからでも、闇に対してどれだけの照力を持っていたか、彼ははじめて知った。火が全く消えても、少しの間は残像が彼を導いた――
 突然烈しい音響が野の端から起こった。
 華ばなしい光の列が彼の眼の前を過《よぎ》って行った。光の波は土を匍《は》って彼の足もとまで押し寄せた。
 汽鑵車の烟《けむり》は火になっていた。反射をうけた火夫が赤く動いていた。
 客車。食堂車。寝台車。光と熱と歓語で充たされた列車。
 激しい車輪の響きが彼の身体に戦慄《せんりつ》を伝えた。それははじめ荒々しく彼をやっつけたが、遂には得体の知れない感情を呼び起こした。涙が流れ出た。
 響きは遂に消えてしまった。そのままの普段着で両親の家へ、急行に乗って、と彼は涙の中に決心していた。

底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年9月19日公開
2005年10月3日修正
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梶井基次郎

温泉—– 梶井基次郎

     断片 一

 夜になるとその谷間は真黒な闇に呑まれてしまう。闇の底をごうごうと溪《たに》が流れている。私の毎夜下りてゆく浴場はその溪ぎわにあった。
 浴場は石とセメントで築きあげた、地下牢のような感じの共同湯であった。その巌丈《がんじょう》な石の壁は豪雨のたびごとに汎濫する溪の水を支えとめるためで、その壁に刳《く》り抜かれた溪ぎわへの一つの出口がまた牢門そっくりなのであった。昼間その温泉に涵《ひた》りながら「牢門」のそとを眺めていると、明るい日光の下で白く白く高まっている瀬のたぎりが眼の高さに見えた。差し出ている楓《かえで》の枝が見えた。そのアーチ形の風景のなかを弾丸のように川烏《かわう》が飛び抜けた。
 また夕方、溪ぎわへ出ていた人があたりの暗くなったのに驚いてその門へ引返して来ようとするとき、ふと眼の前に――その牢門のなかに――楽しく電燈がともり、濛々《もうもう》と立ち罩《こ》めた湯気のなかに、賑やかに男や女の肢体が浮動しているのを見る。そんなとき人は、今まで自然[#「自然」に傍点]のなかで忘れ去っていた人間仲間[#「人間仲間」に傍点]の楽しさを切なく胸に染めるのである。そしてそんなこともこのアーチ形の牢門のさせるわざ[#「わざ」に傍点]なのであった。
 私が寐る前に入浴するのはいつも人々の寝しずまった真夜中であった。その時刻にはもう誰も来ない。ごうごうと鳴り響く溪の音ばかりが耳について、おきまりの恐怖が変に私を落着かせないのである。もっとも恐怖とはいうものの、私はそれを文字通りに感じていたのではない。文字通りの気持から言えば、身体に一種の抵抗《リフラクシオン》を感じるのであった。だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。またそう考えることは定まらない不安定な、埓《らち》のない恐怖にある限界を与えることになるのであった。しかしそうやって毎夜おそく湯へ下りてゆくのがたび重なるとともに、私は自分の恐怖があるきまった形を持っているのに気がつくようになった。それを言って見ればこうである。
 その浴場は非常に広くて真中で二つに仕切られていた。一つは村の共同湯に、一つは旅館の客にあててあった。私がそのどちらかにはいっていると、きまってもう一つの方の湯に何かが来ている気がするのである。村の方の湯にはいっているときには、きまって客の湯の方に男女のぽそぽそ話しをする声がきこえる。私はその声のもと[#「もと」に傍点]を知っていた。それは浴場についている水口で、絶えず清水がほとばしり出ているのである。また男女という想像の由《よ》って来るところもわかっていた。それは溪の上にだるま茶屋があって、そこの女が客と夜更けて湯へやって来ることがありうべきことだったのである。そういうことがわかっていながらやはり変に気になるのである。男女の話声が水口の水の音だとわかっていながら、不可抗的に実体をまとい出す。その実体がまた変に幽霊のような性質のものに思えて来る。いよいよそうなって来ると私はどうでも一度隣の湯を覗《のぞ》いて見てそれを確めないではいられなくなる。それで私はほんとうにそんな人達が来ているときには自分の顔が変な顔をしていないようにその用意をしながら、とりあいの窓のところまで行ってその硝子《ガラス》戸を開けて見るのである。しかし案の定なんにもいない。
 次は客の湯の方へはいっているときである。例によって村の湯の方がどうも気になる。今度は男女の話声ではない。気になるのはさっきの溪への出口なのである。そこから変な奴がはいって来そうな気がしてならない。変な奴ってどんな奴なんだと人はきくにちがいない。それが実にいやな変な奴なのである。陰鬱な顔をしている。河鹿《かじか》のような膚をしている。そいつが毎夜極った時刻に溪から湯へ漬かりに来るのである。プフウ! なんという馬鹿げた空想をしたもんだろう。しかし私はそいつが、別にあたりを見廻すというのでもなく、いかにも毎夜のことのように陰鬱な表情で溪からはいって来る姿に、ふと私が隣の湯を覗いた瞬間、私の視線にぶつかるような気がしてならなかったのである。
 あるとき一人の女の客が私に話をした。
「私も眠れなくて夜中に一度湯へはいるのですが、なんだか気味が悪るござんしてね。隣の湯へ溪から何かがはいって来るような気がして――」
 私は別にそれがどんなものかは聞きはしなかった。彼女の言葉に同感の意を表して、やはり自分のあれは本当なんだなと思ったのである。ときどき私はその「牢門」から溪へ出て見ることがあった。轟々たる瀬のたぎりは白蛇の尾を引いて川下の闇へ消えていた。向こう岸には闇よりも濃い樹の闇、山の闇がもくもくと空へ押しのぼっていた。そのなかで一本|椋《むく》の樹の幹だけがほの白く闇のなかから浮かんで見えるのであった。

 これはすばらしい銅板画のモテイイフである。黙々とした茅屋《ぼうおく》の黒い影。銀色に浮かび出ている竹藪の闇。それだけ。わけもなく簡単な黒と白のイメイジである。しかしなんという言いあらわしがたい感情に包まれた風景か。その銅板画にはここに人が棲んでいる。戸を鎖し眠りに入っている。星空の下に、闇黒のなかに。彼らはなにも知らない。この星空も、この闇黒も。虚無から彼らを衛《まも》っているのは家である。その忍苦の表情を見よ。彼は虚無に対抗している。重圧する畏怖《いふ》の下に、黙々と憐れな人間の意図を衛っている。
 一番はしの家はよそから流れて来た浄瑠璃語りの家である。宵のうちはその障子に人影が写り「デデンデン」という三味線の撥音と下手な嗚咽の歌が聞こえて来る。
 その次は「角屋」の婆さんと言われている年寄っただるま茶屋の女が、古くからいたその「角屋」からとび出して一人で汁粉屋をはじめている家である。客の来ているのは見たことがない。婆さんはいつでも「滝屋」という別のだるま屋の囲爐裡の傍で「角屋」の悪口を言っては、硝子戸越しに街道を通る人に媚を送っている。
 その隣りは木地屋である。背の高いお人好の主人は猫背で聾《つんぼ》である。その猫背は彼が永年盆や膳を削《けず》って来た刳物台《くりものだい》のせいである。夜彼が細君と一緒に温泉へやって来るときの恰好を見るがいい。長い頸《くび》を斜に突き出し丸く背を曲げて胸を凹《へこ》ましている。まるで病人のようである。しかし刳物台に坐っているときの彼のなんとがっしりしていることよ。彼はまるで獲物を捕った虎のように刳物台を抑え込んでしまっている。人は彼が聾であって無類のお人好であることすら忘れてしまうのである。往来へ出て来た彼は、だから機械から外して来たクランクのようなものである。少しばかり恰好の滑稽なのは仕方がないのである。彼は滅多に口を利かない。その代りいつでもにこにこしている。おそらくこれが人の好い聾の態度とでもいうのだろう。だから商売は細君まかせである。細君は醜い女であるがしっかり者である。やはりお人好のお婆さんと二人でせっせと盆に生漆《きうるし》を塗り戸棚へしまい込む。なにも知らない温泉客が亭主の笑顔から値段の応対を強取しようとでもするときには、彼女は言うのである。
「この人はちっと眠むがってるでな……」
 これはちっとも可笑《おか》しくない! 彼ら二人は実にいい夫婦なのである。
 彼らは家の間《ま》の一つを「商人宿」にしている。ここも按摩が住んでいるのである。この「宗さん」という按摩は浄瑠璃屋の常連の一人で、尺八も吹く。木地屋から聞こえて来る尺八は宗さんのひま[#「ひま」に傍点]でいる証拠である。
 家の入口には二軒の百姓家が向い合って立っている。家の前庭はひろく砥石《といし》のように美しい。ダリヤや薔薇《ばら》が縁を飾っていて、舞台のように街道から築きあげられている。田舎には珍しいダリヤや薔薇だと思って眺めている人は、そこへこの家の娘が顔を出せばもう一度驚くにちがいない。グレートヘンである。評判の美人である。彼女は前庭の日なたで繭《まゆ》を※[#「者/火」、第3水準1-87-52]《に》ながら、実際グレートヘンのように糸繰車を廻していることがある。そうかと思うと小舎ほどもある枯萱を「背負枠」で背負って山から帰って来ることもある。夜になると弟を連れて温泉へやって来る。すこやかな裸体。まるで希臘《ギリシャ》の水瓶である。エマニュエル・ド・ファッリャをしてシャコンヌ舞曲を作らしめよ!
 この家はこの娘のためになんとなく幸福そうに見える。一群の鶏も、数匹の白兎も、ダリヤの根方で舌を出している赤犬に至るまで。
 しかし向かいの百姓家はそれにひきかえなんとなしに陰気臭い。それは東京へ出て苦学していたその家の二男が最近骨になって帰って来たからである。その青年は新聞配達夫をしていた。風邪で死んだというが肺結核だったらしい。こんな奇麗な前庭を持っている、そのうえ堂々とした筧《かけひ》の水溜りさえある立派な家の伜《せがれ》が、何故また新聞の配達夫というようなひどい労働へはいって行ったのだろう。なんと楽しげな生活がこの溪間にはあるではないか。森林の伐採。杉苗の植付。夏の蔓切。枯萱を刈って山を焼く。春になると蕨《わらび》。蕗《ふき》の薹《とう》。夏になると溪を鮎がのぼって来る。彼らはいちはやく水中眼鏡と鉤針を用意する。瀬や淵へ潜り込む。あがって来るときは口のなかへ一ぴき、手に一ぴき、針に一ぴき! そんな溪の水で冷え切った身体は岩間の温泉で温める。馬にさえ「馬の温泉」というものがある。田植で泥塗れになった動物がピカピカに光って街道を帰ってゆく。それからまた晩秋の自然薯《じねんじょ》掘り。夕方山から土に塗れて帰って来る彼らを見るがよい。背に二貫三貫の自然薯《じねんじょ》を背負っている。杖にしている木の枝には赤裸に皮を剥《は》がれた蝮《まむし》が縛りつけられている。食うのだ。彼らはまた朝早くから四里も五里も山の中の山葵沢《わさびざわ》へ出掛けて行く。楢《なら》や櫟《くぬぎ》を切り仆《たお》して椎茸のぼた[#「ぼた」に傍点]木を作る。山葵や椎茸にはどんな水や空気や光線が必要か彼らよりよく知っているものはないのだ。
 しかしこんな田園詩《イデイイル》のなかにも生活の鉄則は横たわっている。彼らはなにも「白い手」の嘆賞のためにかくも見事に鎌を使っているのではない。「食えない!」それで村の二男や三男達はどこかよそへ出て行かなければならないのだ。ある者は半島の他の温泉場で板場になっている。ある者はトラックの運転手をしている。都会へ出て大工や指物師になっている者もある。杉や欅の出る土地柄だからだ。しかしこの百姓家の二男は東京へ出て新聞配達になった。真面目な青年だったそうだ。苦学というからには募集広告の講談社的な偽瞞にひっかかったのにちがいない。それにしても死ぬまで東京にいるとは! おそらく死に際の幻覚には目にたてて見る塵もない自分の家の前庭や、したたり集って来る苔の水が水晶のように美しい筧《かけひ》の水溜りが彼を悲しませたであろう。
 これがこの小さな字である。

     断片 二

 温泉は街道から幾折れかの石段で溪ぎわまで下りて行かなければならなかった。街道もそこまでは乗合自動車がやって来た。溪もそこまでは――というとすこし比較が可笑《おか》しくなるが――鮎が上って来た。そしてその乗合自動車のやって来る起点は、ちょうどまたこの溪の下流のK川が半町ほどの幅になって流れているこの半島の入口の温泉地なのだった。
 温泉の浴場は溪ぎわから厚い石とセメントの壁で高く囲まれていた。これは豪雨のときに氾濫する虞《おそ》れの多い溪の水からこの温泉を守る防壁で、片側はその壁、片側は崖の壁で、その上に人々が衣服を脱いだり一服したりする三十畳敷くらいの木造建築がとりつけてあった。そしてこれが村の人達の共同の所有になっているセコノタキ温泉なのだった。
 浴漕は中で二つに仕切られていた。それは一方が村の人の共同湯に、一方がこの温泉の旅館の客がはいりに来る客湯になっていたためで、村の人達の湯が広く何十人もはいれるのに反して、客湯はごく狭くそのかわり白いタイルが張ってあったりした。村の人達の湯にはまた溪ぎわへ出る拱門型に刳《く》った出口がその厚い壁の横側にあいていて、湯に漬って眺めていると、そのアーチ型の空間を眼の高さにたかまって白い瀬のたぎりが見え、溪ぎわから差し出ている楓《かえで》の枝が見え、ときには弾丸のように擦過して行く川烏《かわう》の姿が見えた。

     断片 三

 温泉は街道から幾折にもなった石段で溪の脇まで降りて行かなければならなかった。そこに殺風景な木造の建築がある。その階下が浴場になっていた。
 浴場は溪ぎわから石とセメントで築きあげられた部厚な壁を溪に向かって回《めぐ》らされていた。それは豪雨のために氾濫する虞《おそ》れのある溪の水を防ぐためで、溪ぎわへ出る一つの出口がある切りで、その浴場に地下牢のような感じを与えるのに成功していた。
 何年か前まではこの温泉もほんの茅葺《かやぶき》屋根の吹き曝《さら》しの温泉で、桜の花も散り込んで来たし、溪の眺めも眺められたし、というのが古くからこの温泉を知っている浴客のいつもの懐旧談であったが、多少牢門じみた感じながら、その溪へ出口のアーチのなかへは溪の楓が枝を差し伸べているのが見えたし、瀬のたぎりの白い高まりが眼の高さに見えたし、時にはそこを弾丸のように擦過してゆく川烏の姿も見えた。
 また壁と壁の支えあげている天井との間のわずかの隙間からは、夜になると星も見えたし、桜の花片だって散り込んで来ないことはなかったし、ときには懸巣《かけす》の美しい色の羽毛がそこから散り込んで来ることさえあった。

底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:二宮知美
1998年12月14日公開
2005年11月19日修正
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梶井基次郎

闇の書—– 梶井基次郎

 私は村の街道を若い母と歩いていた。この弟達の母は紫色の衣服を着ているので私には種々のちがった女性に見えるのだった。第一に彼女は私の娘であるような気を起こさせた。それは昔彼女の父が不幸のなかでどんなに酷《ひど》く彼女を窘《いじ》めたか、母はよくその話をするのであるが、すると私は穉《おさな》い母の姿を空想しながら涙を流し、しまいには私がその昔の彼女の父であったかのような幻覚に陥ってしまうのが常だったから。母はまた私に兄のような、ときには弟のような気を起こさせることがあった。そして私は母が姉であり得るような空間や妹であり得るような時間を、空を見るときや海を見るときにいつも想い描くのだった。
 燕のいなくなった街道の家の軒には藁で編んだ唐がらしが下っていた。貼りかえられた白い障子に照っている日の弱さはもう冬だった。家並をはずれたところで私達はとまった。散歩する者の本能である眺望がそこに打ち展けていたのである。
 遠い山々からわけ出て来た二つの溪《たに》が私達の眼の下で落ち合っていた。溪にせまっている山々はもう傾いた陽の下で深い陰と日表にわかたれてしまっていた。日表にことさら明るんで見えるのは季節を染め出した雑木山枯茅山であった。山のおおかたを被っている杉林はむしろ日陰を誇張していた。蔭になった溪《たに》に死のような静寂を与えていた。
「まあ柿がずいぶん赤いのね」若い母が言った。
「あの遠くの柿の木を御覧なさい。まるで柿の色をした花が咲いているようでしょう」私が言った。
「そうね」
「僕はいつでもあれくらいの遠さにあるやつを花だと思って見るのです。その方がずっと美しく見えるでしょう。すると木蓮によく似た架空的な匂いまでわかるような気がするんです」
「あなたはいつでもそうね。わたしは柿はやっぱり柿の方がいいわ。食べられるんですもの」と言って母は媚《なまめ》かしく笑った。
「ところがあれやみんな渋柿だ。みな干柿にするんですよ」と私も笑った。
 柿の傍には青々とした柚《ゆず》の木がもう黄色い実をのぞかせていた。それは日に熟《う》んだ柿に比べて、眼覚めるような冷たさで私の眼を射るのだった。そのあたりはすこしばかりの平地で稲の刈り乾されてある山田。それに続いた桑畑が、晩秋蚕もすんでしまったいま、もう霜に打たれるばかりの葉を残して日に照らされていた。雑木と枯茅でおおわれた大きな山腹がその桑畑へ傾斜して来ていた。山裾に沿って細い路がついていた。その路はしばらくすると暗い杉林のなかへは入ってゆくのだったが、打ち展けた平地と大らかに明るい傾斜に沿っているあいだ、それはいかにも空想の豊かな路に見えるのだった。
「ちょっとあすこをご覧なさい」私は若い母に指して見せた。背負い枠《わく》を背負った村の娘が杉林から出て来てその路にさしかかったのである。
「いまあの路へ人が出て来たでしょう。あれは誰だかわかりますか。昨夜湯へ来ていた娘ですよ」
 私は若い母が感興を動かすかどうかを見ようとした。しかしその美しい眼はなんの輝きもあらわさなかった。
「僕はここへ来るといつもあの路を眺めることにしているんです。あすこを人が通ってゆくのを見ているのです。僕はあの路を不思議な路だと思うんです」
「どんなふうに不思議なの」
 母はややたたみかけるような私の語調に困ったような眼をした。
「どんなふうにって、そうだな、たとえば遠くの人を望遠鏡で見るでしょう。すると遠くでわからなかったその人の身体つきや表情が見えて、その人がいまどんなことを考えているかどんな感情に支配されているかというようなことまでが眼鏡のなかへは入《い》って来るでしょう。ちょうどそれと同じなんです。あの路を通っている人を見るとつい私はそんなことを考えるんです。あれは通る人の運命を暴露《ばくろ》して見せる路だ」
 背負い枠の娘はもうその路をあるききって、葉の落ち尽した胡桃《くるみ》の枝のなかを歩いていた。
「ご覧なさい。人がいなくなるとあの路はどれくらいの大きさに見えて人が通っていたかもわからなくなるでしょう。あんなふうにしてあの路は人を待ってるんだ」
 私は不思議な情熱が私の胸を圧して来るのを感じながら、凝っとその路に見入っていた。父の妻、私の娘、美しい母、紫色の着物をきた人。苦しい種々の表象が私の心のなかを紛乱して通った。突然、私は母に向かって言った。
「あの路へ歩いてゆきましょう。あの路へ歩いて出ましょう。私達はどんなに見えるでしょう」
「ええ、歩いてゆきましょう」華《はな》やかに母は言った。「でも私達がどんなにちいさく見えるかというのは誰が見るの」
 腹立たしくなって私は声を荒らげた。
「ああ、そんなことはどうだっていいんです」
 そして私達は街道のそこから溪《たに》の方へおりる電光形の路へ歩を移したのであったが、なんという無様な! さきの路へゆこうとする意志は、私にはもうなくなってしまっていた。

底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:Juki
1998年12月14日公開
2003年10月11日修正
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梶井基次郎

闇の絵巻—– 梶井基次郎

最近東京を騒がした有名な強盗が捕《つか》まって語ったところによると、彼は何も見えない闇の中でも、一本の棒さえあれば何里でも走ることができるという。その棒を身体の前へ突き出し突き出しして、畑でもなんでも盲滅法《めくらめつぽう》に走るのだそうである。
 私はこの記事を新聞で読んだとき、そぞろに爽快《そうかい》な戦慄《せんりつ》を禁じることができなかった。
 闇《やみ》! そのなかではわれわれは何を見ることもできない。より深い暗黒が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえできない。何が在《あ》るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことができよう。勿論われわれは摺《すり》足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足《はだし》で薊《あざみ》を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。
 闇のなかでは、しかし、もしわれわれがそうした意志を捨ててしまうなら、なんという深い安堵《あんど》がわれわれを包んでくれるだろう。この感情を思い浮かべるためには、われわれが都会で経験する停電を思い出してみればいい。停電して部屋が真暗になってしまうと、われわれは最初なんともいえない不快な気持になる。しかしちょっと気を変えて呑気《のんき》でいてやれと思うと同時に、その暗闇は電燈の下では味わうことのできない爽《さわ》やかな安息に変化してしまう。
 深い闇のなかで味わうこの安息はいったいなにを意味しているのだろう。今は誰の眼からも隠れてしまった――今は巨大な闇と一如《いちにょ》になってしまった――それがこの感情なのだろうか。
 私はながい間ある山間の療養地に暮らしていた。私はそこで闇を愛することを覚えた。昼間は金毛の兎が遊んでいるように見える谿《たに》向こうの枯萱山《かれかややま》が、夜になると黒ぐろとした畏怖《いふ》に変わった。昼間気のつかなかった樹木が異形《いぎょう》な姿を空に現わした。夜の外出には提灯《ちょうちん》を持ってゆかなければならない。月夜というものは提灯の要《い》らない夜ということを意味するのだ。――こうした発見は都会から不意に山間へ行ったものの闇を知る第一|階梯《かいてい》である。
 私は好んで闇のなかへ出かけた。溪ぎわの大きな椎《しい》の木の下に立って遠い街道の孤独の電燈を眺めた。深い闇のなかから遠い小さな光を跳めるほど感傷的なものはないだろう。私はその光がはるばるやって来て、闇のなかの私の着物をほのかに染めているのを知った。またあるところでは溪の闇へ向かって一心に石を投げた。闇のなかには一本の柚《ゆず》の木があったのである。石が葉を分けて戞々《かつかつ》と崖へ当った。ひとしきりすると闇のなかからは芳烈な柚の匂いが立ち騰《のぼ》って来た。
 こうしたことは療養地の身を噛むような孤独と切り離せるものではない。あるときは岬の港町へゆく自動車に乗って、わざと薄暮の峠へ私自身を遺棄された。深い溪谷が闇のなかへ沈むのを見た。夜が更けて来るにしたがって黒い山々の尾根が古い地球の骨のように見えて来た。彼らは私のいるのも知らないで話し出した。
「おい。いつまで俺達はこんなことをしていなきゃならないんだ」
 私はその療養地の一本の闇の街道を今も新しい印象で思い出す。それは溪《たに》の下流にあった一軒の旅館から上流の私の旅館まで帰って来る道であった。溪に沿って道は少し上りになっている。三四町もあったであろうか。その間にはごく稀にしか電燈がついていなかった。今でもその数が数えられるように思うくらいだ。最初の電燈は旅館から街道へ出たところにあった。夏はそれに虫がたくさん集まって来ていた。一匹の青蛙《あおがえる》がいつもそこにいた。電燈の真下の電柱にいつもぴったりと身をつけているのである。しばらく見ていると、その青蛙はきまったように後足を変なふうに曲げて、背中を掻《か》く模《ま》ねをした。電燈から落ちて来る小虫がひっつくのかもしれない。いかにも五月蠅《うるさ》そうにそれをやるのである。私はよくそれを眺めて立ち留っていた。いつも夜|更《ふ》けでいかにも静かな眺めであった。
 しばらく行くと橋がある。その上に立って溪の上流の方を眺めると、黒ぐろとした山が空の正面に立ち塞《ふさ》がっていた。その中腹に一箇の電燈がついていて、その光がなんとなしに恐怖を呼び起こした。バァーンとシンバルを叩いたような感じである。私はその橋を渡るたびに私の眼がいつもなんとなくそれを見るのを避けたがるのを感じていた。
 下流の方を眺めると、溪が瀬をなして轟々《ごうごう》と激していた。瀬の色は闇のなかでも白い。それはまた尻《し》っ尾《ぽ》のように細くなって下流の闇のなかへ消えてゆくのである。溪の岸には杉林のなかに炭焼小屋があって、白い煙が切り立った山の闇を匍《は》い登っていた。その煙は時として街道の上へ重苦しく流れて来た。だから街道は日によってはその樹脂臭い匂いや、また日によっては馬力の通った昼間の匂いを残していたりするのだった。
 橋を渡ると道は溪《たに》に沿ってのぼってゆく。左は溪の崖。右は山の崖。行手に白い電燈がついている。それはある旅館の裏門で、それまでのまっすぐな道である。この闇のなかでは何も考えない。それは行手の白い電燈と道のほんのわずかの勾配のためである。これは肉体に課せられた仕事を意味している。目ざす白い電燈のところまでゆきつくと、いつも私は息切れがして往来の上で立ち留った。呼吸困難。これはじっとしていなければいけないのである。用事もないのに夜更けの道に立ってぼんやり畑を眺めているようなふうをしている。しばらくするとまた歩き出す。
 街道はそこから右へ曲がっている。溪沿いに大きな椎の木がある。その木の闇はいたって巨大だ。その下に立って見上げると、深い大きな洞窟《どうくつ》のように見える。梟《ふくろう》の声がその奥にしていることがある。道の傍らには小さな字《あざ》があって、そこから射して来る光が、道の上に押し被《かぶ》さった竹藪《たけやぶ》を白く光らせている。竹というものは樹木のなかで最も光に感じやすい。山のなかの所どころに簇《む》れ立っている竹藪。彼らは闇のなかでもそのありかをほの白く光らせる。
 そこを過ぎると道は切り立った崖を曲がって、突如ひろびろとした展望のなかへ出る。眼界というものがこうも人の心を変えてしまうものだろうか。そこへ来ると私はいつも今が今まで私の心を占めていた煮え切らない考えを振るい落としてしまったように感じるのだ。私の心には新しい決意が生まれて来る。秘《ひそ》やかな情熱が静かに私を満たして来る。
 この闇の風景は単純な力強い構成を持っている。左手には溪の向こうを夜空を劃《くぎ》って爬虫《はちゅう》の背のような尾根が蜿蜒《えんえん》と匍《は》っている。黒ぐろとした杉林がパノラマのように廻《めぐ》って私の行手を深い闇で包んでしまっている。その前景のなかへ、右手からも杉山が傾きかかる。この山に沿って街道がゆく。行手は如何《いかん》ともすることのできない闇である。この闇へ達するまでの距離は百|米《メートル》あまりもあろうか。その途中にたった一軒だけ人家があって、楓《かえで》のような木が幻燈のように光を浴びている。大きな闇の風景のなかでただそこだけがこんもり明るい。街道もその前では少し明るくなっている。しかし前方の闇はそのためになおいっそう暗くなり街道を呑《の》み込んでしまう。
 ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯《ちょうちん》なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに言ってみれば、「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんなふうに消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。
 その家の前を過ぎると、道は溪《たに》に沿った杉林にさしかかる。右手は切り立った崖である。それが闇のなかである。なんという暗い道だろう。そこは月夜でも暗い。歩くにしたがって暗さが増してゆく。不安が高まって来る。それがある極点にまで達しようとするとき、突如ごおっという音が足下から起こる。それは杉林の切れ目だ。ちょうど真下に当る瀬の音がにわかにその切れ目から押し寄せて来るのだ。その音は凄《すさ》まじい。気持にはある混乱が起こって来る。大工とか左官とかそういった連中が溪のなかで不可思議な酒盛りをしていて、その高笑いがワッハッハ、ワッハッハときこえて来るような気のすることがある。心が捩《ね》じ切れそうになる。するとそのとたん、道の行手にパッと一箇の電燈が見える。闇はそこで終わったのだ。
 もうそこからは私の部屋は近い。電燈の見えるところが崖の曲り角で、そこを曲がればすぐ私の旅館だ。電燈を見ながらゆく道は心易い。私は最後の安堵《あんど》とともにその道を歩いてゆく。しかし霧の夜がある。霧にかすんでしまって電燈が遠くに見える。行っても行ってもそこまで行きつけないような不思議な気持になるのだ。いつもの安堵が消えてしまう。遠い遠い気持になる。
 闇の風景はいつ見ても変わらない。私はこの道を何度ということなく歩いた。いつも同じ空想を繰り返した。印象が心に刻みつけられてしまった。街道の闇、闇よりも濃い樹木の闇の姿はいまも私の眼に残っている。それを思い浮かべるたびに、私は今いる都会のどこへ行っても電燈の光の流れている夜を薄っ汚なく思わないではいられないのである。

底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:高橋美奈子
1999年1月11日公開
2005年10月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

梶井基次郎

愛撫—— 梶井基次郎

 猫の耳というものはまことに可笑《おか》しなものである。薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮のように、表には絨毛《じゆうもう》が生えていて、裏はピカピカしている。硬《かた》いような、柔らかいような、なんともいえない一種特別の物質である。私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて堪《たま》らなかった。これは残酷な空想だろうか?
 否。まったく猫の耳の持っている一種不可思議な示唆《しさ》力によるのである。私は、家へ来たある謹厳な客が、膝へあがって来た仔猫の耳を、話をしながら、しきりに抓《つね》っていた光景を忘れることができない。
 このような疑惑は思いの外に執念深いものである。「切符切り」でパチンとやるというような、児戯に類した空想も、思い切って行為に移さない限り、われわれのアンニュイのなかに、外観上の年齢を遙《はる》かにながく生き延びる。とっくに分別のできた大人が、今もなお熱心に――厚紙でサンドウィッチのように挾んだうえから一思いに切ってみたら? ――こんなことを考えているのである! ところが、最近、ふとしたことから、この空想の致命的な誤算が曝露《ばくろ》してしまった。
 元来、猫は兎のように耳で吊《つ》り下げられても、そう痛がらない。引っ張るということに対しては、猫の耳は奇妙な構造を持っている。というのは、一度引っ張られて破れたような痕跡が、どの猫の耳にもあるのである。その破れた箇所には、また巧妙な補片《つぎ》が当っていて、まったくそれは、創造説を信じる人にとっても進化論を信じる人にとっても、不可思議な、滑稽な耳たるを失わない。そしてその補片《つぎ》が、耳を引っ張られるときの緩《ゆる》めになるにちがいないのである。そんなわけで、耳を引っ張られることに関しては、猫はいたって平気だ。それでは、圧迫に対してはどうかというと、これも指でつまむくらいでは、いくら強くしても痛がらない。さきほどの客のように抓《つね》って見たところで、ごく稀《まれ》にしか悲鳴を発しないのである。こんなところから、猫の耳は不死身のような疑いを受け、ひいては「切符切り」の危険にも曝《さら》されるのであるが、ある日、私は猫と遊んでいる最中に、とうとうその耳を噛《か》んでしまったのである。これが私の発見だったのである。噛まれるや否や、その下らない奴は、直ちに悲鳴をあげた。私の古い空想はその場で壊《こわ》れてしまった。猫は耳を噛まれるのが一番痛いのである。悲鳴は最も微《かす》かなところからはじまる。だんだん強くするほど、だんだん強く鳴く。Crescendo のうまく出る――なんだか木管楽器のような気がする。
 私のながらくの空想は、かくの如くにして消えてしまった。しかしこういうことにはきりがないと見える。この頃、私はまた別なことを空想しはじめている。
 それは、猫の爪をみんな切ってしまうのである。猫はどうなるだろう? おそらく彼は死んでしまうのではなかろうか?
 いつものように、彼は木登りをしようとする。――できない。人の裾を目がけて跳びかかる。――異《ちが》う。爪を研《と》ごうとする。――なんにもない。おそらく彼はこんなことを何度もやってみるにちがいない。そのたびにだんだん今の自分が昔の自分と異うことに気がついてゆく。彼はだんだん自信を失ってゆく。もはや自分がある「高さ」にいるということにさえブルブル慄えずにはいられない。「落下」から常に自分を守ってくれていた爪がもはやないからである。彼はよたよたと歩く別の動物になってしまう。遂にそれさえしなくなる。絶望! そして絶え間のない恐怖の夢を見ながら、物を食べる元気さえ失せて、遂には――死んでしまう。
 爪のない猫! こんな、便《たよ》りない、哀れな心持のものがあろうか! 空想を失ってしまった詩人、早発性|痴呆《ちほう》に陥った天才にも似ている!
 この空想はいつも私を悲しくする。その全き悲しみのために、この結末の妥当であるかどうかということさえ、私にとっては問題ではなくなってしまう。しかし、はたして、爪を抜かれた猫はどうなるのだろう。眼を抜かれても、髭《ひげ》を抜かれても猫は生きているにちがいない。しかし、柔らかい蹠《あしのうら》の、鞘のなかに隠された、鉤《かぎ》のように曲った、匕首《あいくち》のように鋭い爪! これがこの動物の活力であり、智慧《ちえ》であり、精霊であり、一切であることを私は信じて疑わないのである。
 ある日私は奇妙な夢を見た。
 X――という女の人の私室である。この女の人は平常可愛い猫を飼っていて、私が行くと、抱いていた胸から、いつもそいつを放して寄来すのであるが、いつも私はそれに辟易《へきえき》するのである。抱きあげて見ると、その仔猫には、いつも微かな香料の匂いがしている。
 夢のなかの彼女は、鏡の前で化粧していた。私は新聞かなにかを見ながら、ちらちらその方を眺めていたのであるが、アッと驚きの小さな声をあげた。彼女は、なんと! 猫の手で顔へ白粉《おしろい》を塗っているのである。私はゾッとした。しかし、なおよく見ていると、それは一種の化粧道具で、ただそれを猫と同じように使っているんだということがわかった。しかしあまりそれが不思議なので、私はうしろから尋ねずにはいられなかった。
「それなんです? 顔をコスっているもの?」
「これ?」
 夫人は微笑とともに振り向いた。そしてそれを私の方へ抛《ほう》って寄来した。取りあげて見ると、やはり猫の手なのである。
「いったい、これ、どうしたの!」
 訊《き》きながら私は、今日はいつもの仔猫がいないことや、その前足がどうやらその猫のものらしいことを、閃光《せんこう》のように了解した。
「わかっているじゃないの。これはミュルの前足よ」
 彼女の答えは平然としていた。そして、この頃外国でこんなのが流行《はや》るというので、ミュルで作って見たのだというのである。あなたが作ったのかと、内心私は彼女の残酷さに舌を巻きながら尋ねて見ると、それは大学の医科の小使が作ってくれたというのである。私は医科の小使というものが、解剖のあとの死体の首を土に埋めて置いて髑髏《どくろ》を作り、学生と秘密の取引をするということを聞いていたので、非常に嫌な気になった。何もそんな奴に頼まなくたっていいじゃないか。そして女というものの、そんなことにかけての、無神経さや残酷さを、今|更《さら》のように憎み出した。しかしそれが外国で流行《はや》っているということについては、自分もなにかそんなことを、婦人雑誌か新聞かで読んでいたような気がした。――
 猫の手の化粧道具! 私は猫の前足を引っ張って来て、いつも独り笑いをしながら、その毛並を撫でてやる。彼が顔を洗う前足の横側には、毛脚の短い絨氈《じゆうたん》のような毛が密生していて、なるほど人間の化粧道具にもなりそうなのである。しかし私にはそれが何の役に立とう? 私はゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげて来る。二本の前足を掴んで来て、柔らかいその蹠《あしのうら》を、一つずつ私の眼蓋《まぶた》にあてがう。快い猫の重量。温かいその蹠。私の疲れた眼球には、しみじみとした、この世のものでない休息が伝わって来る。
 仔《こ》猫よ! 後生だから、しばらく踏み外《はず》さないでいろよ。お前はすぐ爪を立てるのだから。

底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:高橋美奈子
1999年1月11日公開
2005年10月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

梶井基次郎

のんきな患者—– 梶井基次郎

     

 吉田は肺が悪い。寒《かん》になって少し寒い日が来たと思ったら、すぐその翌日から高い熱を出してひどい咳になってしまった。胸の臓器を全部押し上げて出してしまおうとしているかのような咳をする。四五日経つともうすっかり痩せてしまった。咳もあまりしない。しかしこれは咳が癒《なお》ったのではなくて、咳をするための腹の筋肉がすっかり疲れ切ってしまったからで、彼らが咳をするのを肯《がえん》じなくなってしまったかららしい。それにもう一つは心臓がひどく弱ってしまって、一度咳をしてそれを乱してしまうと、それを再び鎮めるまでに非常に苦しい目を見なければならない。つまり咳をしなくなったというのは、身体が衰弱してはじめてのときのような元気がなくなってしまったからで、それが証拠には今度はだんだん呼吸困難の度を増して浅薄な呼吸を数多くしなければならなくなって来た。
 病勢がこんなになるまでの間、吉田はこれを人並みの流行性感冒のように思って、またしても「明朝はもう少しよくなっているかもしれない」と思ってはその期待に裏切られたり、今日こそは医者を頼もうかと思ってはむだに辛抱をしたり、いつまでもひどい息切れを冒しては便所へ通ったり、そんな本能的な受身なことばかりやっていた。そしてやっと医者を迎えた頃には、もうげっそり頬もこけてしまって、身動きもできなくなり、二三日のうちにははや褥瘡《とこずれ》のようなものまでができかかって来るという弱り方であった。ある日はしきりに「こうっと」「こうっと」というようなことをほとんど一日言っている。かと思うと「不安や」「不安や」と弱々しい声を出して訴えることもある。そういうときはきまって夜で、どこから来るともしれない不安が吉田の弱り切った神経を堪《たま》らなくするのであった。
 吉田はこれまで一度もそんな経験をしたことがなかったので、そんなときは第一にその不安の原因に思い悩むのだった。いったいひどく心臓でも弱って来たんだろうか、それともこんな病気にはあり勝ちな、不安ほどにはないなにかの現象なんだろうか、それとも自分の過敏になった神経がなにかの苦痛をそういうふうに感じさせるんだろうか。――吉田はほとんど身動きもできない姿勢で身体を鯱硬張《しゃちこば》らせたままかろうじて胸へ呼吸を送っていた。そして今もし突如この平衡を破るものが現われたら自分はどうなるかしれないということを思っていた。だから吉田の頭には地震とか火事とか一生に一度|遭《あ》うか二度遭うかというようなものまでが真剣に写っているのだった。また吉田がこの状態を続けてゆくというのには絶えない努力感の緊張が必要であって、もしその綱渡りのような努力になにか不安の影が射せばたちどころに吉田は深い苦痛に陥らざるを得ないのだった。――しかしそんなことはいくら考えても決定的な知識のない吉田にはその解決がつくはずはなかった。その原因を臆測するにもまたその正否を判断するにも結局当の自分の不安の感じに由《よ》るほかはないのだとすると、結局それは何をやっているのかわけのわからないことになるのは当然のことなのだったが、しかしそんな状態にいる吉田にはそんな諦めがつくはずはなく、いくらでもそれは苦痛を増していくことになるのだった。
 第二に吉田を苦しめるのはこの不安には手段があると思うことだった。それは人に医者へ行ってもらうことと誰かに寝ずの番についていてもらうことだった。しかし吉田は誰もみな一日の仕事をすましてそろそろ寝ようとする今頃になって、半里《はんみち》もある田舎道を医者へ行って来てくれとか、六十も越してしまった母親に寝ずについていてくれとか言うことは言い出しにくかった。またそれを思い切って頼む段になると、吉田は今のこの自分の状態をどうしてわかりの悪い母親にわからしていいか、――それよりも自分がかろうじてそれを言うことができても、じっくりとした母親の平常の態度でそれを考えられたり、またその使いを頼まれた人間がその使いを行き渋《しぶ》ったりするときのことを考えると、実際それは吉田にとって泰山を動かすような空想になってしまうのだった。しかし何故不安になって来るか――もう一つ精密に言うと――何故不安が不安になって来るかというと、これからだんだん人が寝てしまって医者へ行ってもらうということもほんとうにできなくなるということや、そして母親も寝てしまってあとはただ自分一人が荒涼とした夜の時間のなかへ取り残されるということや、そしてもしその時間の真中でこのえたいの知れない不安の内容が実現するようなことがあればもはや自分はどうすることもできないではないかというようなことを考えるからで――だからこれは目をつぶって「辛抱するか、頼むか」ということを決める以外それ自身のなかにはなんら解決の手段も含んでいない事柄なのであるが、たとえ吉田は漠然とそれを感じることができても、身体も心も抜き差しのならない自分の状態であってみればなおのことその迷妄を捨て切ってしまうこともできず、その結果はあがきのとれない苦痛がますます増大してゆく一方となり、そのはてにはもうその苦しさだけにも堪え切れなくなって、「こんなに苦しむくらいならいっそのこと言ってしまおう」と最後の決心をするようになるのだが、そのときはもう何故か手も足も出なくなったような感じで、その傍に坐っている自分の母親がいかにも歯痒《はがゆ》いのんきな存在に見え、「こことそこだのに何故これを相手にわからすことができないのだろう」と胸のなかの苦痛をそのまま掴《つか》み出して相手に叩きつけたいような癇癪《かんしゃく》が吉田には起こって来るのだった。
 しかし結局はそれも「不安や」「不安や」という弱々しい未練いっぱいの訴えとなって終わってしまうほかないので、それも考えてみれば未練とは言ってもやはり夜中なにか起こったときには相手をはっ[#「はっ」に傍点]と気づかせることの役には立つという切羽《せっぱ》つまった下心《したごころ》もは入っているにはちがいなく、そうすることによってやっと自分一人が寝られないで取り残される夜の退引《のっぴ》きならない辛抱をすることになるのだった。
 吉田は何度「己《おのれ》が気持よく寝られさえすれば」と思ったことかしれなかった。こんな不安も吉田がその夜を睡《ね》むる当てさえあればなんの苦痛でもないので、苦しいのはただ自分が昼にも夜にも睡眠ということを勘定に入れることができないということだった。吉田は胸のなかがどうにかして和《やわ》らんで来るまでは否《いや》でも応でもいつも身体を鯱硬張《しゃちこば》らして夜昼を押し通していなければならなかった。そして睡眠は時雨空《しぐれぞら》の薄日のように、その上を時どきやって来ては消えてゆくほとんど自分とは没交渉なものだった。吉田はいくら一日の看護に疲れても寝るときが来ればいつでもすやすやと寝ていく母親がいかにも楽しそうにもまた薄情にも見え、しかし結局これが己《おのれ》の今やらなければならないことなんだと思い諦めてまたその努力を続けてゆくほかなかった。
 そんなある晩のことだった。吉田の病室へ突然猫が這入《はい》って来た。その猫は平常吉田の寝床へ這入って寝るという習慣があるので吉田がこんなになってからは喧《やか》ましく言って病室へは入れない工夫をしていたのであるが、その猫がどこから這入って来たのかふいにニャアといういつもの鳴声とともに部屋へ這入って来たときには吉田は一時に不安と憤懣《ふんまん》の念に襲われざるを得なかった。吉田は隣室に寝ている母親を呼ぶことを考えたが、母親はやはり流行性感冒のようなものにかかって二三日前から寝ているのだった。そのことについては吉田は自分のことも考え、また母親のことも考えて看護婦を呼ぶことを提議したのだったが、母親は「自分さえ辛抱すればやっていける」という吉田にとっては非常に苦痛な考えを固執していてそれを取り上げなかった。そしてこんな場合になっては吉田はやはり一匹の猫ぐらいでその母親を起こすということはできがたい気がするのだった。吉田はまた猫のことには「こんなことがあるかもしれないと思ってあんなにも神経質に言ってあるのに」と思って自分が神経質になることによって払った苦痛の犠牲が手応えもなくすっぽかされてしまったことに憤懣を感じないではいられなかった。しかし今自分は癇癪《かんしゃく》を立てることによって少しの得もすることはないと思うと、そのわけのわからない猫をあまり身動きもできない状態で立ち去らせることのいかにまた根気のいる仕事であるかを思わざるを得なかった。
 猫は吉田の枕のところへやって来るといつものように夜着の襟元から寝床のなかへもぐり込もうとした。吉田は猫の鼻が冷たくてその毛皮が戸外の霜で濡れているのをその頬で感じた。すなわち吉田は首を動かしてその夜着の隙間を塞《ふさ》いだ。すると猫は大胆にも枕の上へあがって来てまた別の隙間へ遮二無二《しゃにむに》首を突っ込もうとした。吉田はそろそろあげて来てあった片手でその鼻先を押しかえした。このようにして懲罰《ちょうばつ》ということ以外に何もしらない動物を、極度に感情を押し殺したわずかの身体の運動で立ち去らせるということは、わけのわからないその相手をほとんど懐疑に陥れることによって諦めさすというような切羽《せっぱ》つまった方法を意味していた。しかしそれがやっとのことで成功したと思うと、方向を変えた猫は今度はのそのそと吉田の寝床の上へあがってそこで丸くなって毛を舐《な》めはじめた。そこへ行けばもう吉田にはどうすることもできない場所である。薄氷を踏むような吉田の呼吸がにわかにずしり[#「ずしり」に傍点]と重くなった。吉田はいよいよ母親を起こそうかどうしようかということで抑えていた癇癪《かんしゃく》を昂《たか》ぶらせはじめた。吉田にとってはそれを辛抱することはできなくないことかもしれなかった。しかしその辛抱をしている間はたとえ寝たか寝ないかわからないような睡眠ではあったが、その可能性が全然なくなってしまうことを考えなければならなかった。そしてそれをいつまで持ち耐えなければならないかということはまったく猫次第であり、いつ起きるかしれない母親次第だと思うと、どうしてもそんな馬鹿馬鹿しい辛抱はしきれない気がするのだった。しかし母親を起こすことを考えると、こんな感情を抑えておそらく何度も呼ばなければならないだろうという気持だけでも吉田はまったく大儀な気になってしまうのだった。――しばらくして吉田はこの間から自分で起こしたことのなかった身体をじりじり起こしはじめた。そして床の上へやっと起きかえったかと思うと、寝床の上に丸くなって寝ている猫をむんずと掴《つか》まえた。吉田の身体はそれだけの運動でもう浪のように不安が揺れはじめた。しかし吉田はもうどうすることもできないので、いきなりそれをそれの這入《はい》って来た部屋の隅《すみ》へ「二度と手間のかからないように」叩きつけた。そして自分は寝床の上であぐらをかいてそのあとの恐ろしい呼吸困難に身を委《まか》せたのだった。

     二

 しかし吉田のそんな苦しみもだんだん耐えがたいようなものではなくなって来た。吉田は自分にやっと睡眠らしい睡眠ができるようになり、「今度はだいぶんひどい目に会った」ということを思うことができるようになると、やっと苦しかった二週間ほどのことが頭へのぼって来た。それは思想もなにもないただ荒々しい岩石の重畳する風景だった。しかしそのなかでも最もひどかった咳の苦しみの最中に、いつも自分の頭へ浮かんで来るわけのわからない言葉があったことを吉田は思い出した。それは「ヒルカニヤの虎」という言葉だった。それは咳の喉を鳴らす音とも連関《れんかん》があり、それを吉田が観念するのは「俺はヒルカニヤの虎だぞ」というようなことを念じるからなのだったが、いったいその「ヒルカニヤの虎」というものがどんなものであったか吉田はいつも咳のすんだあと妙な気持がするのだった。吉田は何かきっとそれは自分の寐《ね》つく前に読んだ小説かなにかのなかにあったことにちがいないと思うのだったがそれが思い出せなかった。また吉田は「自己の残像」というようなものがあるものなんだなというようなことを思ったりした。それは吉田がもうすっかり咳をするのに疲れてしまって頭を枕へ凭《もた》らせていると、それでもやはり小さい咳が出て来る、しかし吉田はもうそんなものにいちいち頸《くび》を固くして応じてはいられないと思ってそれを出るままにさせておくと、どうしてもやはり頭はそのたびに動かざるを得ない。するとその「自己の残像」というものがいくつもできるのである。
 しかしそんなこともみな苦しかった二週間ほどの間の思い出であった。同じ寐られない晩にしても吉田の心にはもうなにかの快楽を求めるような気持の感じられるような晩もあった。
 ある晩は吉田は煙草を眺めていた。床の脇にある火鉢の裾に刻煙草《きざみたばこ》の袋と煙管《きせる》とが見えている。それは見えているというよりも、吉田が無理をして見ているので、それを見ているということがなんとも言えない楽しい気持を自分に起こさせていることを吉田は感じていた。そして吉田の寐られないのはその気持のためで、言わばそれはやや楽しすぎる気持なのだった。そして吉田は自分の頬がそのために少しずつ火照《ほて》ったようになって来ているということさえ知っていた。しかし吉田は決してほかを向いて寐ようという気はしなかった。そうするとせっかく自分の感じている春の夜のような気持が一時に病気病気した冬のような気持になってしまうのだった。しかし寐られないということも吉田にとっては苦痛であった。吉田はいつか不眠症ということについて、それの原因は結局患者が眠ることを欲しないのだという学説があることを人に聞かされていた。吉田はその話を聞いてから自分の睡《ね》むれないときには何か自分に睡むるのを欲しない気持がありはしないかと思って一夜それを検査してみるのだったが、今自分が寐られないということについては検査してみるまでもなく吉田にはそれがわかっていた。しかし自分がその隠れた欲望を実行に移すかどうかという段になると吉田は一も二もなく否定せざるを得ないのだった。煙草を喫うも喫わないも、その道具の手の届くところへ行きつくだけでも、自分の今のこの春の夜のような気持は一時に吹き消されてしまわなければならないということは吉田も知っていた。そしてもしそれを一服喫ったとする場合、この何日間か知らなかったどんな恐ろしい咳の苦しみが襲って来るかということも吉田はたいがい察していた。そして何よりもまず、少し自分がその人のせいで苦しい目をしたというような場合すぐに癇癪《かんしゃく》を立てておこりつける母親の寐ている隙に、それもその人の忘れて行った煙草を――と思うとやはり吉田は一も二もなくその欲望を否定せざるを得なかった。だから吉田は決してその欲望をあらわには意識しようとは思わない。そしていつまでもその方を眺めては寝られない春の夜のような心のときめきを感じているのだった。
 ある日は吉田はまた鏡を持って来させてそれに枯れ枯れとした真冬の庭の風景を反射させては眺めたりした。そんな吉田にはいつも南天の赤い実が眼の覚めるような刺戟で眼についた。また鏡で反射させた風景へ望遠鏡を持って行って、望遠鏡の効果があるものかどうかということを、吉田はだいぶんながい間寝床のなかで考えたりした。大丈夫だと吉田は思ったので、望遠鏡を持って来させて鏡を重ねて覗いて見るとやはり大丈夫だった。
 ある日は庭の隅に接した村の大きな櫟《くぬぎ》の木へたくさん渡り鳥がやって来ている声がした。
「あれはいったい何やろ」
 吉田の母親はそれを見つけて硝子《ガラス》障子のところへ出て行きながら、そんな独《ひと》り言のような吉田に聞かすようなことを言うのだったが、癇癪を起こすのに慣れ続けた吉田は、「勝手にしろ」というような気持でわざと黙り続けているのだった。しかし吉田がそう思って黙っているというのは吉田にしてみればいい方で、もしこれが気持のよくないときだったら自分のその沈黙が苦しくなって、(いったいそんなことを聞くような聞かないようなことを言って自分がそれを眺めることができると思っているのか)というようなことから始まって、母親が自分のそんな意志を否定すれば、(いくらそんなことを言ってもぼんやり自分がそう思って言ったということに自分が気がつかないだけの話で、いつもそんなぼんやりしたことを言ったりしたりするから無理にでも自分が鏡と望遠鏡とを持ってそれを眺めなければならないような義務を感じたりして苦しくなるのじゃないか)というふうに母親を攻めたてていくのだったが、吉田は自分の気持がそういう朝でさっぱりしているので、黙ってその声をきいていることができるのだった。すると母親は吉田がそんなことを考えているということには気がつかずにまたこんなことを言うのだった。
「なんやらヒヨヒヨした鳥やわ」
「そんなら鵯《ひよ》ですやろうかい」
 吉田は母親がそれを鵯に極《き》めたがってそんな形容詞を使うのだということがたいていわかるような気がするのでそんな返事をしたのだったが、しばらくすると母親はまた吉田がそんなことを思っているとは気がつかずに、
「なんやら毛がムクムクしているわ」
 吉田はもう癇癪《かんしゃく》を起こすよりも母親の思っていることがいかにも滑稽になって来たので、
「そんなら椋鳥《むく》ですやろうかい」
 と言って独《ひと》りで笑いたくなって来るのだった。
 そんなある日吉田は大阪でラジオ屋の店を開いている末の弟の見舞いをうけた。
 その弟のいる家というのはその何か月か前まで吉田や吉田の母や弟やの一緒に住んでいた家であった。そしてそれはその五六年も前吉田の父がその学校へ行かない吉田の末の弟に何か手に合った商売をさせるために、そして自分達もその息子を仕上げながら老後の生活をしていくために買った小間物店で、吉田の弟はその店の半分を自分の商売にするつもりのラジオ屋に造り変え、小間物屋の方は吉田の母親が見ながらずっと暮らして来たのであった。それは大阪の市が南へ南へ伸びて行こうとして十何年か前までは草深い田舎であった土地をどんどん住宅や学校、病院などの地帯にしてしまい、その間へはまた多くはそこの地元の百姓であった地主たちの建てた小さな長屋がたくさんできて、野原の名残《なご》りが年ごとにその影を消していきつつあるというふうの町なのであった。吉田の弟の店のあるところはその間でも比較的早くからできていた通り筋で両側はそんな町らしい、いろんなものを商《あきな》う店が立ち並んでいた。
 吉田は東京から病気が悪くなってその家へ帰って来たのが二年あまり前であった。吉田の帰って来た翌年吉田の父はその家で死んで、しばらくして吉田の弟も兵隊に行っていたのから帰って来ていよいよ落ち着いて商売をやっていくことになり嫁をもらった。そしてそれを機会にひとまず吉田も吉田の母も弟も、それまで外で家を持っていた吉田の兄の家の世話になることになり、その兄がそれまで住んでいた町から少し離れた田舎に、病人を住ますに都合のいい離れ家のあるいい家が見つかったのでそこへ引っ越したのがまだ三ヶ月ほど前であった。
 吉田の弟は病室で母親を相手にしばらく当り触《さわ》りのない自分の家の話などをしていたがやがて帰って行った。しばらくしてそれを送って行った母が部屋へ帰って来て、またしばらくしてのあとで、母は突然、
「あの荒物屋の娘が死んだと」
 と言って吉田に話しかけた。
「ふうむ」
 吉田はそう言ったなり弟がその話をこの部屋ではしないで送って行った母と母屋《おもや》の方でしたということを考えていたが、やはり弟の眼にはこの自分がそんな話もできない病人に見えたかと思うと、「そうかなあ」というふうにも考えて、
「なんであれもそんな話をあっちの部屋でしたりするんですやろなあ」
 というふうなことを言っていたが、
「そりゃおまえがびっくりすると思うてさ」
 そう言いながら母は自分がそれを言ったことは別に意に介してないらしいので吉田はすぐにも「それじゃあんたは?」と聞きかえしたくなるのだったが、今はそんなことを言う気にもならず吉田はじっとその娘の死んだということを考えていた。
 吉田は以前からその娘が肺が悪くて寝ているということは聞いて知っていた。その荒物屋というのは吉田の弟の家から辻を一つ越した二三軒先のくすんだ感じの店だった。吉田はその店にそんな娘が坐っていたことはいくら言われても思い出せなかったが、その家のお婆さんというのはいつも近所へ出歩いているのでよく見て知っていた。吉田はそのお婆さんからはいつも少し人の好過《よす》ぎるやや腹立たしい印象をうけていたのであるが、それはそのお婆さんがまたしても変な笑い顔をしながら近所のおかみさんたちとお喋《しゃべ》りをしに出て行っては、弄《なぶ》りものにされている――そんな場面をたびたび見たからだった。しかしそれは吉田の思い過ぎで、それはそのお婆さんが聾《つんぼ》で人に手真似をしてもらわないと話が通じず、しかも自分は鼻のつぶれた声で物を言うのでいっそう人に軽蔑的な印象を与えるからで、それは多少人びとには軽蔑されてはいても、おもしろ半分にでも手真似で話してくれる人があり、鼻のつぶれた声でもその話を聞いてくれる人があってこそ、そのお婆さんも何の気兼《きがね》もなしに近所仲間の仲間入りができるので、それが飾りもなにもないこうした町の生活の真実なんだということはいろいろなことを知ってみてはじめて吉田にも会得《えとく》のゆくことなのだった。
 そんなふうではじめ吉田にはその娘のことよりもお婆さんのことがその荒物屋についての知識を占めていたのであるが、だんだんその娘のことが自分のことにも関聯して注意されて来たのはだいぶんその娘の容態も悪くなって来てからであった。近所の人の話ではその荒物屋の親爺さんというのが非常に吝嗇《けち》で、その娘を医者にもかけてやらなければ薬も買ってやらないということであった。そしてただその娘の母親であるさっきのお婆さんだけがその娘の世話をしていて、娘は二階の一《ひ》と間に寝たきり、その親爺さんも息子もそしてまだ来て間のないその息子の嫁も誰もその病人には寄りつかないようにしているということを言っていた。そして吉田はあるときその娘が毎日食後に目高《めだか》を五匹宛|嚥《の》んでいるという話をきいたときは「どうしてまたそんなものを」という気持がしてにわかにその娘を心にとめるようになったのだが、しかしそれは吉田にとってまだまだ遠い他人事《ひとごと》の気持なのであった。
 ところがその後しばらくしてそこの嫁が吉田の家へ掛取《かけと》りに来たとき、家の者と話をしているのを吉田がこちらの部屋のなかで聞いていると、その目高《めだか》を嚥《の》むようになってから病人が工合がいいと言っているということや、親爺さんが十日に一度ぐらいそれを野原の方へ取りに行くという話などをしてから最後に、
「うちの網はいつでも空《あ》いてますよって、お家の病人さんにもちっと取って来て飲ましてあげはったらどうです」
 というような話になって来たので吉田は一時に狼狽《ろうばい》してしまった。吉田は何よりも自分の病気がそんなにも大っぴらに話されるほど人々に知られているのかと思うと今|更《さら》のように驚かないではいられないのだったが、しかし考えてみれば勿論それは無理のない話で、今更それに驚くというのはやはり自分が平常自分について虫のいい想像をしているんだということを吉田は思い知らなければならなかったのだった。だが吉田にとってまだ生《なま》々しかったのはその目高を自分にも飲ましたらと言われたことだった。あとでそれを家の者が笑って話したとき、吉田は家の者にもやはりそんな気があるのじゃないかと思って、もうちょっとその魚を大きくしてやる必要があると言って悪《にく》まれ口を叩《たた》いたのだが、吉田はそんなものを飲みながらだんだん死期に近づいてゆく娘のことを想像すると堪《たま》らないような憂鬱な気持になるのだった。そしてその娘のことについてはそれきりで吉田はこちらの田舎の住居の方へ来てしまったのだったが、それからしばらくして吉田の母が弟の家へ行って来たときの話に、吉田は突然その娘の母親が死んでしまったことを聞いた。それはそのお婆さんがある日上がり框《かまち》から座敷の長火鉢の方へあがって行きかけたまま脳溢血《のういっけつ》かなにかで死んでしまったというので非常にあっけない話であったが、吉田の母親はあのお婆さんに死なれてはあの娘も一遍に気を落としてしまっただろうとそのことばかりを心配した。そしてそのお婆さんが平常あんなに見えていても、その娘を親爺さんには内証で市民病院へ連れて行ったり、また娘が寝たきりになってからは単《ひそか》に薬をもらいに行ってやったりしたことがあるということを、あるときそのお婆さんが愚痴話に吉田の母親をつかまえて話したことがあると言って、やはり母親は母親だということを言うのだった。吉田はその話には非常にしみじみとしたものを感じて平常のお婆さんに対する考えもすっかり変わってしまったのであるが、吉田の母親はまた近所の人の話だと言って、そのお婆さんの死んだあとは例の親爺さんがお婆さんに代わって娘の面倒をみてやっていること、それがどんな工合にいっているのか知らないが、その親爺さんが近所へ来ての話に「死んだ婆さんは何一つ役に立たん婆さんやったが、ようまああの二階のあがり下《お》りを一日に三十何遍もやったもんやと思うてそれだけは感心する」と言っていたということを吉田に話して聞かせたのだった。
 そしてそこまでが吉田が最近までに聞いていた娘の消息だったのだが、吉田はそんなことをみな思い出しながら、その娘の死んでいった淋《さび》しい気持などを思い遣《や》っているうちに、不知不識《しらずしらず》の間にすっかり自分の気持が便《たよ》りない変な気持になってしまっているのを感じた。吉田は自分が明るい病室のなかにい、そこには自分の母親もいながら、何故か自分だけが深いところへ落ち込んでしまって、そこへは出て行かれないような気持になってしまった。
「やはりびっくりしました」
 それからしばらく経って吉田はやっと母親にそう言ったのであるが母親は、
「そうやろがな」
 かえって吉田にそれを納得さすような口調でそう言ったなり、別に自分がそれを、言ったことについては何も感じないらしく、またいろいろその娘の話をしながら最後に、
「あの娘はやっぱりあのお婆さんが生きていてやらんことには、――あのお婆さんが死んでからまだ二た月にもならんでなあ」と嘆じて見せるのだった。

     

 吉田はその娘の話からいろいろなことを思い出していた。第一に吉田が気付くのは吉田がその町からこちらの田舎へ来てまだ何ヶ月にもならないのに、その間に受けとったその町の人の誰かの死んだという便りの多いことだった。吉田の母は月に一度か二度そこへ行って来るたびに必ずそんな話を持って帰った。そしてそれはたいてい肺病で死んだ人の話なのだった。そしてその話をきいているとそれらの人達の病気にかかって死んでいったまでの期間は非常に短かった。ある学校の先生の娘は半年ほどの間に死んでしまって今はまたその息子が寝ついてしまっていた。通り筋の毛糸雑貨屋の主人はこの間まで店へ据えた毛糸の織機で一日中毛糸を織っていたが、急に死んでしまって、家族がすぐ店を畳んで国へ帰ってしまったそのあとはじきカフエーになってしまった。――
 そして吉田は自分は今はこんな田舎にいてたまにそんなことをきくから、いかにもそれを顕著に感ずるが、自分がいた二年間という間もやはりそれと同じように、そんな話が実に数知れず起こっては消えていたんだということを思わざるを得ないのだった。
 吉田は二年ほど前病気が悪くなって東京の学生生活の延長からその町へ帰って来たのであるが、吉田にとってはそれはほとんどはじめての意識して世間というものを見る生活だった。しかしそうはいっても吉田は、いつも家の中に引っ込んでいて、そんな知識というものはたいてい家の者の口を通じて吉田にはいって来るのだったが、吉田はさっきの荒物屋の娘の目高《めだか》のように自分にすすめられた肺病の薬というものを通じて見ても、そういう世間がこの病気と戦っている戦の暗黒さを知ることができるのだった。
 最初それはまだ吉田が学生だった頃、この家へ休暇に帰って来たときのことだった。帰って来て※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》吉田は自分の母親から人間の脳味噌《のうみそ》の黒焼きを飲んでみないかと言われて非常に嫌な気持になったことがあった。吉田は母親がそれをおずおずでもない一種変な口調で言い出したとき、いったいそれが本気なのかどうなのか、何度も母親の顔を見返すほど妙な気持になった。それは吉田が自分の母親がこれまでめったにそんなことを言う人間ではなかったことを信じていたからで、その母親が今そんなことを言い出しているかと思うとなんとなく妙な頼りないような気持になって来るのだった。そして母親がそれをすすめた人間からすでに少しばかりそれをもらって持っているのだということを聞かされたとき吉田はまったく嫌な気持になってしまった。
 母親の話によるとそれは青物を売りに来る女があって、その女といろいろ話をしているうちにその肺病の特効薬の話をその女がはじめたというのだった。その女には肺病の弟があってそれが死んでしまった。そしてそれを村の焼場で焼いたとき、寺の和尚《おしょう》さんがついていて、
「人間の脳味噌の黒焼きはこの病気の薬だから、あなたも人助けだからこの黒焼きを持っていて、もしこの病気で悪い人に会ったら頒《わ》けてあげなさい」
 そう言って自分でそれを取り出してくれたというのであった。吉田はその話のなかから、もうなんの手当もできずに死んでしまったその女の弟、それを葬ろうとして焼場に立っている姉、そして和尚と言ってもなんだか頼りない男がそんなことを言って焼け残った骨をつついている焼場の情景を思い浮かべることができるのだったが、その女がその言葉を信じてほかのものではない自分の弟の脳味噌の黒焼きをいつまでも身近に持っていて、そしてそれをこの病気で悪い人に会えばくれてやろうという気持には、何かしら堪《た》えがたいものを吉田は感じないではいられないのだった。そしてそんなものをもらってしまって、たいてい自分が嚥《の》まないのはわかっているのに、そのあとをいったいどうするつもりなんだと、吉田は母親のしたことが取り返しのつかないいやなことに思われるのだったが、傍にきいていた吉田の末の弟も
「お母さん、もう今度からそんなこと言うのん嫌《いや》でっせ」
 と言ったのでなんだか事件が滑稽になって来て、それはそのままに鳧《けり》がついてしまったのだった。
 この町へ帰って来てしばらくしてから吉田はまた首|縊《くく》りの縄を「まあ馬鹿なことやと思うて」嚥《の》んでみないかと言われた。それをすすめた人間は大和《やまと》で塗師《ぬしや》をしている男でその縄をどうして手に入れたかという話を吉田にして聞かせた。
 それはその町に一人の鰥夫《やもめ》の肺病患者があって、その男は病気が重ったままほとんど手当をする人もなく、一軒の荒《あば》ら家に捨て置かれてあったのであるが、とうとう最近になって首を縊《くく》って死んでしまった。するとそんな男にでもいろんな借金があって、死んだとなるといろんな債権者がやって来たのであるが、その男に家を貸していた大家がそんな人間を集めてその場でその男の持っていたものを競売にして後仕末をつけることになった。ところがその品物のなかで最も高い値が出たのはその男が首を縊った縄で、それが一寸二寸というふうにして買い手がついて、大家はその金でその男の簡単な葬式をしてやったばかりでなく自分のところの滞《とどこお》っていた家賃もみな取ってしまったという話であった。
 吉田はそんな話を聞くにつけても、そういう迷信を信じる人間の無智に馬鹿馬鹿しさを感じないわけにいかなかったけれども、考えてみれば人間の無智というのはみな程度の差で、そう思って馬鹿馬鹿しさの感じを取り除いてしまえば、あとに残るのはそれらの人間の感じている肺病に対する手段の絶望と、病人達のなんとしてでも自分のよくなりつつあるという暗示を得たいという二つの事柄なのであった。
 また吉田はその前の年母親が重い病気にかかって入院したとき一緒にその病院へついて行っていたことがあった。そのとき吉田がその病舎の食堂で、何心なく食事した後ぼんやりと窓に映る風景を眺めていると、いきなりその眼の前へ顔を近付けて、非常に押し殺した力強い声で、
「心臓へ来ましたか?」
 と耳打ちをした女があった。はっとして吉田がその女の顔を見ると、それはその病舎の患者の付添いに雇われている付添婦の一人で、勿論そんな付添婦の顔触れにも毎日のように変化はあったが、その女はその頃露悪的な冗談を言っては食堂へ集まって来る他の付添婦たちを牛耳《ぎゅうじ》っていた中婆さんなのだった。
 吉田はそう言われて何のことかわからずにしばらく相手の顔を見ていたが、すぐに「ああなるほど」と気のついたことがあった。それは自分がその庭の方を眺めはじめた前に、自分が咳をしたということなのだった。そしてその女は自分が咳をしてから庭の方を向いたのを勘違いして、てっきりこれは「心臓へ来た」と思ってしまったのだと吉田は悟《さと》ることができた。そして咳がふいに心臓の動悸を高めることがあるのは吉田も自分の経験で知っていた。それで納得のいった吉田ははじめてそうではない旨を返事すると、その女はその返事には委細かまわずに、
「その病気に利くええ薬を教えたげまひょか」
 と、また脅《おびや》かすように力強い声でじっと吉田の顔を覗き込んだのだった。吉田は一にも二にも自分が「その病気」に見込まれているのが不愉快ではあったが、
「いったいどんな薬です?」
 と素直に聞き返してみることにした。するとその女はまたこんなことを言って吉田を閉口させてしまうのだった。
「それは今ここで教えてもこの病院ではできまへんで」
 そしてそんな物々《ものもの》しい駄目《だめ》をおしながらその女の話した薬というのは、素焼《すやき》の土瓶《どびん》へ鼠の仔を捕って来て入れてそれを黒焼きにしたもので、それをいくらか宛《ずつ》かごく少ない分量を飲んでいると、「一匹食わんうちに」癒《なお》るというのであった。そしてその「一匹食わんうちに」という表現でまたその婆さんは可怕《こわ》い顔をして吉田を睨《にら》んで見せるのだった。吉田はそれですっかりその婆さんに牛耳られてしまったのであるが、その女の自分の咳に敏感であったことや、そんな薬のことなどを思い合わせてみると、吉田はその女は付添婦という商売がらではあるが、きっとその女の近い肉親にその病気のものを持っていたのにちがいないということを想像することができるのであった。そして吉田が病院へ来て以来最もしみじみした印象をうけていたものはこの付添婦という寂しい女達の群《む》れのことであって、それらの人達はみな単なる生活の必要というだけではなしに、夫に死に別れたとか年が寄って養い手がないとか、どこかにそうした人生の不幸を烙印《らくいん》されている人達であることを吉田は観察していたのであるが、あるいはこの女もそうした肉親をその病気で、なくすることによって、今こんなにして付添婦などをやっているのではあるまいかということを、吉田はそのときふと感じたのだった。
 吉田は病気のためにたまにこうした機会にしか直接世間に触れることがなかったのであるが、そしてその触れた世間というのはみな吉田が肺病患者だということを見破って近付いて来た世間なのであるが、病院にいる一《ひ》と月ほどの間にまた別なことに打《ぶ》つかった。
 それはある日吉田が病院の近くの市場へ病人の買物に出かけたときのことだった。吉田がその市場で用事を足して帰って来ると往来に一人の女が立っていて、その女がまじまじと吉田の顔を見ながら近付いて来て、
「もしもし、あなた失礼ですが……」
 と吉田に呼びかけたのだった。吉田は何事かと思って、
「?」
 とその女を見返したのであるが、そのとき吉田の感じていたことはたぶんこの女は人違いでもしているのだろうということで、そういう往来のよくある出来事がたいてい好意的な印象で物分かれになるように、このときも吉田はどちらかと言えば好意的な気持を用意しながらその女の言うことを待ったのだった。
「ひょっとしてあなたは肺がお悪いのじゃありませんか」
 いきなりそう言われたときには吉田は少なからず驚いた。しかし吉田にとって別にそれは珍しいことではなかったし、無躾《ぶしつ》けなことを聞く人間もあるものだとは思いながらも、その女の一心に吉田の顔を見つめるなんとなく知性を欠いた顔付きから、その言葉の次にまだ何か人生の大事件でも飛び出すのではないかという気持もあって、
「ええ、悪いことは悪いですが、何か……」
 と言うと、その女はいきなりとめどもなく次のようなことを言い出すのだった。それはその病気は医者や薬ではだめなこと、やはり信心をしなければとうてい助かるものではないこと、そして自分も配偶《つれあい》があったがとうとうその病気で死んでしまって、その後自分も同じように悪かったのであるが信心をはじめてそれでとうとう助かることができたこと、だからあなたもぜひ信心をして、その病気を癒《なお》せ――ということを縷々《るる》として述べたてるのであった。その間吉田は自然その話よりも話をする女の顔の方に深い注意を向けないではいられなかったのであるが、その女にはそういう吉田の顔が非常に難解に映るのかさまざまに吉田の気を測ってはしかも非常に執拗にその話を続けるのであった。そして吉田はその話が次のように変わっていったときなるほどこれだなと思ったのであるが、その女は自分が天理教の教会を持っているということと、そこでいろんな話をしたり祈祷をしたりするからぜひやって来てくれということを、帯の間から名刺とも言えない所番地をゴム版で刷ったみすぼらしい紙片を取り出しながら、吉田にすすめはじめるのだった。ちょうどそのとき一台の自動車が来かかってブーブーと警笛を鳴らした。吉田は早くからそれに気がついていて、早くこの女もこの話を切り上げたらいいことにと思って道傍へ寄りかけたのであるが、女は自動車の警笛などは全然注意には入らぬらしく、かえって自分に注意の薄らいで来た吉田の顔色に躍起《やっき》になりながらその話を続けるので、自動車はとうとう往来で立往生をしなければならなくなってしまった。吉田はその話相手に捕《つか》まっているのが自分なので体裁の悪さに途方に暮れながら、その女を促して道の片脇へ寄せたのであったが、女はその間も他へ注意をそらさず、さっきの「教会へぜひ来てくれ」という話を急にまた、「自分は今からそこへ帰るのだからぜひ一緒に来てくれ」という話に進めかかっていた。そして吉田が自分に用事のあることを言ってそれを断わると、では吉田の住んでいる町をどこだと訊いて来るのだった。吉田はそれに対して「だいぶ南の方だ」と曖昧《あいまい》に言って、それを相手に教える意志のないことをその女にわからそうとしたのであるが、するとその女はすかさず「南の方のどこ、××町の方かそれとも○○町の方か」というふうに退引《のっぴ》きのならぬように聞いて来るので、吉田は自分のところの町名、それからその何丁目というようなことまで、だんだんに言っていかなければならなくなった。吉田はそんな女にちっとも嘘を言う気持はなかったので、そこまで自分の住所を打ち明かして来たのだったが、
「ほ、その二丁目の? 何番地?」
 といよいよその最後まで同じ調子で追求して来たのを聞くと、吉田はにわかにぐっと癪《しゃく》にさわってしまった。それは吉田が「そこまで言ってしまってはまたどんな五月蝿《うるさ》いことになるかもしれない」ということを急に自覚したのにもよるが、それと同時にそこまで退引《のっぴ》きのならぬように追求して来る執拗な女の態度が急に重苦しい圧迫を吉田に感じさせたからだった。そして吉田はうっかりカッとなってしまって、
「もうそれ以上は言わん」
 と屹《きっ》と相手を睨《にら》んだのだった。女は急にあっけにとられた顔をしていたが、吉田が慌《あわ》ててまた色を収めるのを見ると、それではぜひ近々教会へ来てくれと言って、さっき吉田がやってきた市場の方へ歩いて行った。吉田は、とにかく女の言うことはみな聞いたあとで温和《おとな》しく断わってやろうと思っていた自分が、思わず知らず最後まで追いつめられて、急に慌ててカッとなったのに自分ながら半分は可笑《おか》しさを感じないではいられなかったが、まだ日の光の新しい午前の往来で、自分がいかにも病人らしい悪い顔貌《がんぼう》をして歩いているということを思い知らされたあげく、あんな重苦しい目をしたかと思うと半分は腹立たしくなりながら、病室へ帰ると※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》、
「そんなに悪い顔色かなあ」
 と、いきなり鏡を取り出して顔を見ながら寝台の上の母にその顛末《てんまつ》を訴えたのだった。すると吉田の母親は、
「なんのおまえばっかりかいな」
 と言って自分も市営の公設市場へ行く道で何度もそんな目に会ったことを話したので、吉田はやっとそのわけがわかって来はじめた。それはそんな教会が信者を作るのに躍起《やっき》になっていて、毎朝そんな女が市場とか病院とか人のたくさん寄って行く場所の近くの道で網を張っていて、顔色の悪いような人物を物色しては吉田にやったのと同じような手段でなんとかして教会へ引っ張って行こうとしているのだということだった。吉田はなあんだという気がしたと同時に自分らの思っているよりは遙《はる》かに現実的なそして一生懸命な世の中というものを感じたのだった。

 吉田は平常よく思い出すある統計の数字があった。それは肺結核で死んだ人間の百分率で、その統計によると肺結核で死んだ人間百人についてそのうちの九十人以上は極貧者、上流階級の人間はそのうちの一人にはまだ足りないという統計であった。勿論これは単に「肺結核によって死んだ人間」の統計で肺結核に対する極貧者の死亡率や上流階級の者の死亡率というようなものを意味していないので、また極貧者と言ったり上流階級と言ったりしているのも、それがどのくらいの程度までを指しているのかはわからないのであるが、しかしそれは吉田に次のようなことを想像せしめるには充分であった。
 つまりそれは、今非常に多くの肺結核患者が死に急ぎつつある。そしてそのなかで人間の望み得る最も行き届いた手当をうけている人間は百人に一人もないくらいで、そのうちの九十何人かはほとんど薬らしい薬ものまずに死に急いでいるということであった。
 吉田はこれまでこの統計からは単にそういうようなことを抽象して、それを自分の経験したそういうことにあてはめて考えていたのであるが、荒物屋の娘の死んだことを考え、また自分のこの何週間かの間うけた苦しみを考えるとき、漠然とまたこういうことを考えないではいられなかった。それはその統計のなかの九十何人という人間を考えてみれば、そのなかには女もあれば男もあり子供もあれば年寄《としより》もいるにちがいない。そして自分の不如意や病気の苦しみに力強く堪えてゆくことのできる人間もあれば、そのいずれにも堪えることのできない人間もずいぶん多いにちがいない。しかし病気というものは決して学校の行軍のように弱いそれに堪えることのできない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱虫でもみんな同列にならばして嫌応《いやおう》なしに引き摺《ず》ってゆく――ということであった。

底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:二宮知美
1999年6月2日公開
2005年10月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

梶井基次郎

ある心の風景—– 梶井基次郎

 喬《たかし》は彼の部屋の窓から寝静まった通りに凝視《みい》っていた。起きている窓はなく、深夜の静けさは暈《かさ》となって街燈のぐるりに集まっていた。固い音が時どきするのは突き当っていく黄金虫《ぶんぶん》の音でもあるらしかった。
 そこは入り込んだ町で、昼間でも人通りは少なく、魚の腹綿《はらわた》や鼠の死骸は幾日も位置を動かなかった。両側の家々はなにか荒廃していた。自然力の風化して行くあとが見えた。紅殻《べにがら》が古びてい、荒壁の塀《へい》は崩れ、人びとはそのなかで古手拭のように無気力な生活をしているように思われた。喬の部屋はそんな通りの、卓子《テーブル》で言うなら主人役の位置に窓を開いていた。
 時どき柱時計の振子の音が戸の隙間から洩れてきこえて来た。遠くの樹に風が黒く渡る。と、やがて眼近い夾竹桃《きょうちくとう》は深い夜のなかで揺れはじめるのであった。喬《たかし》はただ凝視《みい》っている。――暗《やみ》のなかに仄《ほの》白く浮かんだ家の額《ひたい》は、そうした彼の視野のなかで、消えてゆき現われて来、喬は心の裡に定かならぬ想念のまた過ぎてゆくのを感じた。蟋蟀《こおろぎ》が鳴いていた。そのあたりから――と思われた――微《かす》かな植物の朽ちてゆく匂いが漂って来た。
「君の部屋は仏蘭西《フランス》の蝸牛《エスカルゴ》の匂いがするね」
 喬のところへやって来たある友人はそんなことを言った。またある一人は
「君はどこに住んでも直ぐその部屋を陰鬱にしてしまうんだな」と言った。
 いつも紅茶の滓《かす》が溜っているピクニック用の湯沸器。帙《ちつ》と離ればなれに転《ころが》っている本の類。紙切れ。そしてそんなものを押しわけて敷かれている蒲団。喬はそんななかで青鷺《あおさぎ》のように昼は寝ていた。眼が覚めては遠くに学校の鐘を聞いた。そして夜、人びとが寝静まった頃この窓へ来てそとを眺めるのだった。
 深い霧のなかを影法師のように過ぎてゆく想念がだんだん分明になって来る。
 彼の視野のなかで消散したり凝聚《ぎょうしゅう》したりしていた風景は、ある瞬間それが実に親しい風景だったかのように、またある瞬間は全く未知の風景のように見えはじめる。そしてある瞬間が過ぎた。――喬にはもう、どこまでが彼の想念であり、どこからが深夜の町であるのか、わからなかった。暗のなかの夾竹桃はそのまま彼の憂鬱であった。物陰の電燈に写し出されている土塀、暗と一つになっているその陰影。観念もまたそこで立体的な形をとっていた。
 喬《たかし》は彼の心の風景をそこに指呼することができる、と思った。

     二

 どうして喬がそんなに夜更けて窓に起きているか、それは彼がそんな時刻まで寝られないからでもあった。寝るには余り暗い考えが彼を苦しめるからでもあった。彼は悪い病気を女から得て来ていた。
 ずっと以前彼はこんな夢を見たことがあった。
 ――足が地脹《じば》れをしている。その上に、噛《か》んだ歯がた[#「がた」に傍点]のようなものが二列《ふたなら》びついている。脹れはだんだんひどくなって行った。それにつれてその痕《あと》はだんだん深く、まわりが大きくなって来た。
 あるものはネエヴルの尻のようである。盛りあがった気味悪い肉が内部から覗《のぞ》いていた。またある痕は、細長く深く切れ込み、古い本が紙魚《しみ》に食い貫《ぬ》かれたあとのようになっている。
 変な感じで、足を見ているうちにも青く脹れてゆく。痛くもなんともなかった。腫物《はれもの》は紅い、サボテンの花のようである。
 母がいる。
「あああ。こんなになった」
 彼は母に当てつけの口調だった。
「知らないじゃないか」
「だって、あなたが爪でかた[#「かた」に傍点]をつけたのじゃありませんか」
 母が爪で圧したのだ、と彼は信じている。しかしそう言ったとき喬《たかし》に、ひょっとしてあれじゃないだろうか、という考えが閃《ひらめ》いた。
 でも真逆《まさか》、母は知ってはいないだろう、と気強く思い返して、夢のなかの喬は
「ね! お母さん!」と母を責めた。
 母は弱らされていた。が、しばらくしてとうとう
「そいじゃ、癒《なお》してあげよう」と言った。
 二列の腫物《はれもの》はいつの間にか胸から腹へかけて移っていた。どうするのかと彼が見ていると、母は胸の皮を引張って来て(それはいつの間にか、萎《しぼ》んだ乳房のようにたるんでいた)一方の腫物を一方の腫物のなかへ、ちょうど釦《ボタン》を嵌《は》めるようにして嵌め込んでいった。夢のなかの喬はそれを不足そうな顔で、黙って見ている。
 一対《つい》ずつ一対ずつ一列の腫物は他の一列へそういうふうにしてみな嵌まってしまった。
「これは××博士の法だよ」と母が言った。釦の多いフロックコートを着たようである。しかし、少し動いてもすぐ脱《はず》れそうで不安であった。――
 何よりも母に、自分の方のことは包み隠して、気強く突きかかって行った。そのことが、夢のなかのことながら、彼には応《こた》えた。
 女を買うということが、こんなにも暗く彼の生活へ、夢に出るまで、浸《し》み込んで来たのかと喬は思った。現実の生活にあっても、彼が女の児の相手になっている。そしてその児が意地の悪いことをしたりする。そんなときふと邪慳《じゃけん》な娼婦は心に浮かび、喬《たかし》は堪《たま》らない自己|嫌厭《けんお》に堕《お》ちるのだった。生活に打ち込まれた一本の楔《くさび》がどんなところにまで歪《ひずみ》を及ぼして行っているか、彼はそれに行き当るたびに、内面的に汚れている自分を識《し》ってゆくのだった。
 そしてまた一本の楔、悪い病気の疑いが彼に打ち込まれた。以前見た夢の一部が本当になったのである。
 彼は往来で医者の看板に気をつける自分を見出すようになった。新聞の広告をなにげなく読む自分を見出すようになった。それはこれまでの彼が一度も意識してした事のないことであった。美しいものを見る、そして愉快になる。ふと心のなかに喜ばないものがあるのを感じて、それを追ってゆき、彼の突きあたるものは、やはり病気のことであった。そんなとき喬は暗いものに到るところ待ち伏せされているような自分を感じないではいられなかった。
 時どき彼は、病める部分を取出して眺めた。それはなにか一匹の悲しんでいる生き物の表情で、彼に訴えるのだった。

     

 喬はたびたびその不幸な夜のことを思い出した。――
 彼は酔っ払った嫖客《ひょうきゃく》や、嫖客を呼びとめる女の声の聞こえて来る、往来に面した部屋に一人坐っていた。勢いづいた三味線や太鼓の音が近所から、彼の一人の心に響いて来た。
「この空気!」と喬《たかし》は思い、耳を欹《そばだ》てるのであった。ゾロゾロと履物《はきもの》の音。間を縫って利休が鳴っている。――物音はみな、あるもののために鳴っているように思えた。アイスクリーム屋の声も、歌をうたう声も、なにからなにまで。
 小婢《こおんな》の利休の音も、すぐ表ての四条通ではこんなふうには響かなかった。
 喬は四条通を歩いていた何分か前の自分、――そこでは自由に物を考えていた自分、――と同じ自分をこの部屋のなかで感じていた。
「とうとうやって来た」と思った。
 小婢が上って来て、部屋には便利炭の蝋《ろう》が匂った。喬は満足に物が言えず、小婢の降りて行ったあとで、そんなすぐに手の裏返したようになれるかい、と思うのだった。
 女はなかなか来なかった。喬は屈託した気持で、思いついたまま、勝手を知ったこの家の火の見へ上って行こうと思った。
 朽ちかけた梯子《はしご》をあがろうとして、眼の前の小部屋の障子が開いていた。なかには蒲団が敷いてあり、人の眼がこちらを睨《にら》んでいた。知らぬふりであがって行きながら喬は、こんな場所での気強さ、と思った。
 火の見へあがると、この界隈《かいわい》を覆っているのは暗い甍《いらか》であった。そんな間から所どころ、電燈をつけた座敷が簾《すだれ》越しに見えていた。レストランの高い建物が、思わぬところから頭を出していた。四条通はあすこ[#「あすこ」に傍点]かと思った。八坂神社の赤い門。電燈の反射をうけて仄《ほの》かに姿を見せている森。そんなものが甍《いらか》越しに見えた。夜の靄が遠くはぼかしていた。円山、それから東山《ひがしやま》。天の川がそのあたりから流れていた。
 喬《たかし》は自分が解放されるのを感じた。そして、
「いつもここへは登ることに極めよう」と思った。
 五位が鳴いて通った。煤《すす》黒い猫が屋根を歩いていた。喬は足もとに闌《すが》れた秋草の鉢を見た。
 女は博多から来たのだと言った。その京都言葉に変な訛りがあった。身嗜《みだしな》みが奇麗で、喬は女にそう言った。そんなことから、女の口はほぐれて、自分がまだ出て※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》だのに、先月はお花を何千本売って、この廓《くるわ》で四番目なのだと言った。またそれは一番から順に検番に張り出され、何番かまではお金が出る由言った。女の小ざっぱりしているのはそんな彼女におかあはん[#「おかあはん」に傍点]というのが気をつけてやるのであった。
「そんなわけやでうち[#「うち」に傍点]も一生懸命にやってるの。こないだからもな、風邪ひいとるんやけど、しんどうてな、おかあはん[#「おかあはん」に傍点]は休めというけど、うち[#「うち」に傍点]は休まんのや」
「薬は飲んでるのか」
「うちでくれたけど、一服五銭でな、……あんなものなんぼ飲んでもきかせん」
 喬はそんな話を聞きながら、頭ではS―という男の話にきいたある女の事を憶《おも》い浮かべていた。
 それは醜い女で、その女を呼んでくれと名を言うときは、いくら酔っていても羞《はずか》しい思いがすると、S―は言っていた。そして着ている寝間着の汚《きたな》いこと、それは話にならないよと言った。
 S―は最初、ふとした偶然からその女に当り、その時、よもやと思っていたような異様な経験をしたのであった。その後S―はひどく酔ったときなどは、気持にはどんな我慢をさせてもという気になってついその女を呼ぶ、心が荒くなってその女でないと満足できないようなものが、酒を飲むと起こるのだと言った。
 喬《たかし》はその話を聞いたとき、女自身に病的な嗜好《しこう》があるのなればとにかくだがと思い、畢竟《ひっきょう》廓での生存競争が、醜いその女にそのような特殊なことをさせるのだと、考えは暗いそこへ落ちた。
 その女は※[#「病」の「丙」に代えて「亞」、第3水準1-88-49]《おし》のように口をきかぬとS―は言った。もっとも話をする気にはならないよと、また言った。いったい、やはり※[#「病」の「丙」に代えて「亞」、第3水準1-88-49]の、何人位の客をその女は持っているのだろうと、その時喬は思った。
 喬はその醜い女とこの女とを思い比べながら、耳は女のお喋《しゃべ》りに任せていた。
「あんたは温柔《おとな》しいな」と女は言った。
 女の肌は熱かった。新しいところへ触れて行くたびに「これは熱い」と思われた。――
「またこれから行かんならん」と言って女は帰る仕度をはじめた。
「あんたも帰るのやろ」
「うむ」
 喬は寝ながら、女がこちらを向いて、着物を着ておるのを見ていた。見ながら彼は「さ、どうだ。これ[#「これ」に傍点]だ」と自分で確めていた。それはこんな気持であった。――平常自分が女、女、と想っている、そしてこのような場所へ来て女を買うが、女が部屋へ入って来る、それまではまだいい、女が着物を脱ぐ、それまでもまだいい、それからそれ以上は、何が平常から想っていた女だろう。「さ、これが女[#「女」に傍点]の腕だ」と自分自身で確める。しかしそれはまさしく女の腕であって、それだけだ。そして女が帰り仕度をはじめた今頃、それはまた女[#「女」に傍点]の姿をあらわして来るのだ。
「電車はまだあるか知らん」
「さあ、どうやろ」
 喬《たかし》は心の中でもう電車がなくなっていてくれればいいと思った。階下のおかみは
「帰るのがお厭《いや》どしたら、朝まで寝とおいやしても、うちはかましまへん」と言うかも知れない。それより「誰ぞをお呼びやおへんのどしたら、帰っとくれやす」と言われる方が、と喬は思うのだった。
「あんた一緒に帰らへんのか」
 女は身じまいはしたが、まだ愚図ついていた。「まあ」と思い、彼は汗づいた浴衣《ゆかた》だけは脱ぎにかかった。
 女は帰って、すぐ彼は「ビール」と小婢《こおんな》に言いつけた。

 ジュ、ジュクと雀の啼声《なきごえ》が樋《とゆ》にしていた。喬は朝靄《あさもや》のなかに明けて行く水みずしい外面を、半分覚めた頭に描いていた。頭を挙げると朝の空気のなかに光の薄れた電燈が、睡っている女の顔を照していた。
 花売りの声が戸口に聞こえたときも彼は眼を覚ました。新鮮な声、と思った。榊《さかき》の葉やいろいろの花にこぼれている朝陽の色が、見えるように思われた。
 やがて、家々の戸が勢いよく開いて、学校へ行く子供の声が路に聞こえはじめた。女はまだ深く睡っていた。
「帰って、風呂へ行って」と女は欠伸《あくび》まじりに言い、束髪の上へ載せる丸く編んだ毛を掌に載せ、「帰らしてもらいまっさ」と言って出て行った。喬《たかし》はそのまままた寝入った。

     

 喬は丸太町の橋の袂《たもと》から加茂|磧《かわら》へ下りて行った。磧に面した家々が、そこに午後の日蔭を作っていた。
 護岸工事に使う小石が積んであった。それは秋日の下で一種の強い匂いをたてていた。荒神橋の方に遠心乾燥器が草原に転っていた。そのあたりで測量の巻尺が光っていた。
 川水は荒神橋の下手で簾《すだれ》のようになって落ちている。夏草の茂った中洲《なかす》の彼方《かなた》で、浅瀬は輝きながらサラサラ鳴っていた。鶺鴒《せきれい》が飛んでいた。
 背を刺すような日表《ひなた》は、蔭となるとさすが秋の冷たさが跼《くぐま》っていた。喬はそこに腰を下した。
「人が通る、車が通る」と思った。また
「街では自分は苦しい」と思った。
 川向うの道を徒歩や車が通っていた。川添の公設市場。タールの樽《たる》が積んである小屋。空地では家を建てるのか人びとが働いていた。
 川上からは時どき風が吹いて来た。カサコソと彼の坐っている前を、皺《しわ》になった新聞紙が押されて行った。小石に阻《はば》まれ、一しきり風に堪えていたが、ガックリ一つ転ると、また運ばれて行った。
 二人の子供に一匹の犬が川上の方へ歩いて行く。犬は戻って、ちょっとその新聞紙を嗅《か》いで見、また子供のあとへついて行った。
 川のこちら岸には高い欅《けやき》の樹が葉を茂らせている。喬《たかし》は風に戦《そよ》いでいるその高い梢《こずえ》に心は惹《ひ》かれた。ややしばらく凝視《みい》っているうちに、彼の心の裡のなにかがその梢に棲《とま》り、高い気流のなかで小さい葉と共に揺れ青い枝と共に撓《たわ》んでいるのが感じられた。
「ああこの気持」と喬は思った。「視《み》ること、それはもうなにか[#「なにか」に傍点]なのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」
 喬はそんなことを思った。毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑――病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距《へだた》りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、ここの高い欅の梢にも感じられるのだった。
「街では自分は苦しい」
 北には加茂の森が赤い鳥居を点じていた。その上に遠い山々は累《かさな》って見える。比叡山――それを背景にして、紡績工場の煙突が煙を立登らせていた。赤|煉瓦《れんが》の建物。ポスト。荒神橋には自転車が通り、パラソルや馬力《ばりき》が動いていた。日蔭は磧に伸び、物売りのラッパが鳴っていた。

     

 喬《たかし》は夜更けまで街をほっつき歩くことがあった。
 人通りの絶えた四条通は稀《まれ》に酔っ払いが通るくらいのもので、夜霧はアスファルトの上までおりて来ている。両側の店はゴミ箱を舗道に出して戸を鎖《とざ》してしまっている。所どころに嘔吐《へど》がはいてあったり、ゴミ箱が倒されていたりした。喬は自分も酒に酔ったときの経験は頭に上り、今は静かに歩くのだった。
 新京極に折れると、たてた戸の間から金盥《かなだらい》を持って風呂へ出かけてゆく女の下駄が鳴り、ローラースケートを持ち出す小店員、うどんの出前を運ぶ男、往来の真中で棒押しをしている若者などが、異様な盛り場の夜更けを見せている。昼間は雑閙《ざっとう》のなかに埋れていたこの人びとはこの時刻になって存在を現わして来るのだと思えた。
 新京極を抜けると町はほんとうの夜更けになっている。昼間は気のつかない自分の下駄の音が変に耳につく。そしてあたりの静寂は、なにか自分が変なたくらみを持って町を歩いているような感じを起こさせる。
 喬は腰に朝鮮の小さい鈴を提《さ》げて、そんな夜更け歩いた。それは岡崎公園にあった博覧会の朝鮮館で友人が買って来たものだった。銀の地に青や赤の七宝がおいてあり、美しい枯れた音がした。人びとのなかでは聞こえなくなり、夜更けの道で鳴り出すそれは、彼の心の象徴のように思えた。
 ここでも町は、窓辺から見る風景のように、歩いている彼に展《ひら》けてゆくのであった。
 生まれてからまだ一度も踏まなかった道。そして同時に、実に親しい思いを起こさせる道。――それはもう彼が限られた回数通り過ぎたことのあるいつもの道ではなかった。いつの頃から歩いているのか、喬《たかし》は自分がとことわの過ぎてゆく者であるのを今は感じた。
 そんな時朝鮮の鈴は、喬の心を顫《ふる》わせて鳴った。ある時は、喬の現身《うつせみ》は道の上に失われ鈴の音だけが町を過るかと思われた。またある時それは腰のあたりに湧《わ》き出して、彼の身体の内部へ流れ入る澄み透った溪流のように思えた。それは身体を流れめぐって、病気に汚れた彼の血を、洗い清めてくれるのだ。
「俺はだんだん癒《なお》ってゆくぞ」
 コロコロ、コロコロ、彼の小さな希望は深夜の空気を清らかに顫わせた。

     

 窓からの風景はいつの夜も渝《かわ》らなかった。喬にはどの夜もみな一つに思える。
 しかしある夜、喬は暗《やみ》のなかの木に、一点の蒼白《あおじろ》い光を見出した。いずれなにかの虫には違いないと思えた。次の夜も、次の夜も、喬はその光を見た。
 そして彼が窓辺を去って、寝床の上に横になるとき、彼は部屋のなかの暗にも一点の燐光《りんこう》を感じた。
「私の病んでいる生き物。私は暗闇のなかにやがて消えてしまう。しかしお前は睡らないでひとりおきているように思える。そとの虫のように……青い燐光を燃《もや》しながら……」

底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:陸野義弘
1998年10月13日公開
2005年10月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

梶井基次郎

ある崖上の感情—– 梶井基次郎

     

 ある蒸し暑い夏の宵《よい》のことであった。山ノ手の町のとあるカフェで二人の青年が話をしていた。話の様子では彼らは別に友達というのではなさそうであった。銀座などとちがって、狭い山ノ手のカフェでは、孤独な客が他所《よそ》のテーブルを眺めたりしながら時を費すことはそう自由ではない。そんな不自由さが――そして狭さから来る親しさが、彼らを互いに近づけることが多い。彼らもどうやらそうした二人らしいのであった。
 一人の青年はビールの酔いを肩先にあらわしながら、コップの尻でよごれた卓子《テーブル》にかまわず肱《ひじ》を立てて、先ほどからほとんど一人で喋《しゃべ》っていた。漆喰《しっくい》の土間の隅《すみ》には古ぼけたビクターの蓄音器が据えてあって、磨り滅ったダンスレコードが暑苦しく鳴っていた。
「元来僕はね、一度友達に図星を指されたことがあるんだが、放浪、家をなさないという質《たち》に生まれついているらしいんです。その友達というのは手相を見る男で、それも西洋流の手相を見る男で、僕の手相を見たとき、君の手にはソロモンの十字架がある。それは一生家を持てない手相だと言ったんです。僕は別に手相などを信じないんだが、そのときはそう言われたことでぎくっとしましたよ。とても悲しくてね――」
 その青年の顔にはわずかの時間感傷の色が酔いの下にあらわれて見えた。彼はビールを一と飲みするとまた言葉をついで、
「その崖の上へ一人で立って、開いている窓を一つ一つ見ていると、僕はいつでもそのことを憶《おも》い出すんです。僕一人が世間に住みつく根を失って浮草のように流れている。そしていつもそんな崖の上に立って人の窓ばかりを眺めていなければならない。すっかりこれが僕の運命だ。そんなことが思えて来るのです。――しかし、それよりも僕はこんなことが言いたいんです。つまり窓の眺めというものには、元来人をそんな思いに駆るあるものがあるんじゃないか。誰でもふとそんな気持に誘われるんじゃないか、というのですが、どうです、あなたはそうしたことをお考えにはならないですか」
 もう一人の青年は別に酔っているようでもなかった。彼は相手の今までの話を、そうおもしろがってもいないが、そうかと言って全然興味がなくもないといった穏やかな表情で耳を傾けていた。彼は相手に自分の意見を促されてしばらく考えていたが、
「さあ……僕にはむしろ反対の気持になった経験しか憶い出せない。しかしあなたの気持は僕にはわからなくはありません。反対の気持になった経験というのは、窓のなかにいる人間を見ていてその人達がなにかはかない運命を持ってこの浮世に生きている。というふうに見えたということなんです」
「そうだ。それは大いにそうだ。いや、それがほんとうかもしれん。僕もそんなことを感じていたような気がする」
 酔った方の男はひどく相手の言ったことに感心したような語調で残っていたビールを一息に飲んでしまった。
「そうだ。それであなたもなかなか窓の大家だ。いや、僕はね、実際窓というものが好きで堪《たま》らないんですよ。自分のいるところからいつも人の窓が見られたらどんなに楽しいだろうと、いつもそう思ってるんです。そして僕の方でも窓を開けておいて、誰かの眼にいつも僕自身を曝《さ》らしているのがまたとても楽しいんです。こんなに酒を飲むにしても、どこか川っぷちのレストランみたいなところで、橋の上からだとか向こう岸からだとか見ている人があって飲んでいるのならどんなに楽しいでしょう。『いかにあわれと思うらん』僕には片言のような詩しか口に出て来ないが、実際いつもそんな気持になるんです」
「なるほど、なんだかそれは楽しそうですね。しかしなんという閑《のど》かな趣味だろう」
「あっはっは。いや、僕はさっきその崖の上から僕の部屋の窓が見えると言ったでしょう。僕の窓は崖の近くにあって、僕の部屋からはもう崖ばかりしか見えないんです。僕はよくそこから崖路を通る人を注意しているんですが、元来めったに人の通らない路で、通る人があったって、全く僕みたいにそこでながい間町を見ているというような人は決してありません。実際僕みたいな男はよくよくの閑人なんだ」
「ちょっと君。そのレコード止してくれない」聴き手の方の青年はウエイトレスがまたかけはじめた「キャラバン」の方を向いてそう言った。「僕はあのジャッズというやつが大嫌いなんだ。厭《いや》だと思い出すととても堪らない」
 黙ってウエイトレスは蓄音器をとめた。彼女は断髪をして薄い夏の洋装をしていた。しかしそれには少しもフレッシュなところがなかった。むしろ南京鼠《なんきんねずみ》の匂いでもしそうな汚いエキゾティシズムが感じられた。そしてそれはそのカフェがその近所に多く住んでいる下等な西洋人のよく出入りするという噂《うわさ》を、少し陰気に裏書きしていた。
「おい。百合《ゆり》ちゃん。百合ちゃん。生をもう二つ」
 話し手の方の青年は馴染《なじみ》のウエイトレスをぶっきら棒な客から救ってやるというような表情で、彼女の方を振り返った。そしてすぐ、
「いや、ところがね、僕が窓を見る趣味にはあまり人に言えない欲望があるんです。それはまあ一般に言えば人の秘密を盗み見るという魅力なんですが、僕のはもう一つ進んで人のベッドシーンが見たい、結局はそういったことに帰着するんじゃないかと思われるような特殊な執着があるらしいんです。いや、そんなものをほんとうに見たことなんぞはありませんがね」
「それはそうかもしれない。高架線を通る省線電車にはよくそういったマニヤの人が乗っているということですよ」
「そうですかね。そんな一つの病型《タイプ》があるんですかね。それは驚いた。……あなたは窓というものにそんな興味をお持ちになったことはありませんか。一度でも」
 その青年の顔は相手の顔をじっと見詰めて返答を待っていた。
「僕がそんなマニヤのことを言う以上僕にも多かれ少なかれそんな知識があると思っていいでしょう」
 その青年の顔にはわずかばかりの不快の影が通り過ぎたが、そう答えて彼はまた平気な顔になった。
「そうだ。いや、僕はね、崖の上からそんな興味で見る一つの窓があるんですよ。しかしほんとうに見たということは一度もないんです。でも実際よく瞞《だま》される、あれには。あっはっはは……僕がいったいどんな状態でそれに耽《ふけ》っているか一度話してみましょうか。僕はながい間じいっと眼を放さずにその窓を見ているのです。するとあんまり一生懸命になるもんだから足|許《もと》が変に便《たよ》りなくなって来る。ふらふらっとして実際崖から落っこちそうな気持になる。はっは。それくらいになると僕はもう半分夢を見ているような気持です。すると変なことには、そんなとき僕の耳には崖路を歩いて来る人の足音がきまったようにして来るんです。でも僕はよし人がほんとうに通ってもそれはかまわないことにしている。しかしその足音は僕の背後へそうっと忍び寄って来て、そこでぴたりと止まってしまうんです。それが妄想《もうそう》というものでしょうね。僕にはその忍び寄った人間が僕の秘密を知っているように思えてならない。そして今にも襟髪《えりがみ》を掴《つか》むか、今にも崖から突き落とすか、そんな恐怖で息も止まりそうになっているんです。しかし僕はやっぱり窓から眼を離さない。そりゃそんなときはもうどうなってもいいというような気持ですね。また一方ではそれがたいていは僕の気のせいだということは百も承知で、そんな度胸もきめるんです。しかしやっぱり百に一つもしやほんとうの人間ではないかという気がいつでもする。変なものですね。あっはっはは」
 話し手の男は自分の話に昂奮《こうふん》を持ちながらも、今度は自嘲的なそして悪魔的といえるかも知れない挑《いど》んだ表情を眼に浮かべながら、相手の顔を見ていた。
「どうです。そんな話は。――僕は今はもう実際に人のベッドシーンを見るということよりも、そんな自分の状態の方がずっと魅惑的になって来ているんです。何故と言って、自分の見ている薄暗い窓のなかが、自分の思っているようなものでは多分ないことが、僕にはもう薄《うす》うすわかっているんです。それでいて心を集めてそこを見ているとありありそう思えて来る。そのときの心の状態がなんとも言えない恍惚《こうこつ》なんです。いったいそんなことがあるものですかね。あっはっはは。どうです、今から一緒にそこへ行ってみる気はありませんか」
「それはどちらでもいいが、だんだん話が佳境には入《い》って来ましたね」
 そして聴き手の青年はまたビールを呼んだ。
「いや、佳境には入って来たというのはほんとうなんですよ。僕はだんだん佳境には入って来たんだ。何故《なぜ》って、僕には最初窓がただなにかしらおもしろいものであったに過ぎないんだ。それがだんだん人の秘密を見るという気持が意識されて来た。そうでしょう。すると次は秘密のなかでもベッドシーンの秘密に興味を持ち出した。ところが、見たと思ったそれがどうやらちがうものらしくなって来た。しかしそのときの恍惚《こうこつ》状態そのものが、結局すべてであるということがわかって来た。そうでしょう。いや、君、実際その恍惚状態がすべてなんですよ。あっはっはは。空の空なる恍惚万歳だ。この愉快な人生にプロジットしよう」
 その青年にはだいぶ酔いが発して来ていた。そのプロジットに応じなかった相手のコップへ荒々しく自分のコップを打ちつけて、彼は新しいコップを一気に飲み乾した。
 彼らがそんな話をしていたとき、扉をあけて二人の西洋人がは入《い》って来た。彼らはは入《い》って来ると同時にウエイトレスの方へ色っぽい眼つきを送りながら青年達の横のテーブルへ坐った。彼らの眼は一度でも青年達の方を見るのでもなければ、お互いに見交わすというのでもなく、絶えず笑顔を作って女の方へ向いていた。
「ポーリンさんにシマノフさん、いらっしゃい」
 ウエイトレスの顔は彼らを迎える大仰な表情でにわかに生き生きし出した。そしてきゃっきゃっと笑いながら何か喋《しゃべ》り合っていたが、彼女の使う言葉はある自由さを持った西洋人の日本語で、それを彼女が喋るとき青年達を給仕していたときとはまるでちがった変な魅力が生じた。
「僕は一度こんな小説を読んだことがある」
 聴き手であった方の青年が、新しい客の持って来た空気から、話をまたもとへ戻した。
「それは、ある日本人が欧羅巴《ヨーロッパ》へ旅行に出かけるんです。英国、仏蘭西《フランス》、独逸《ドイツ》とずいぶんながいごったごたした旅行を続けておしまいにウィーンへやって来る。そして着いた夜あるホテルへ泊まるんですが、夜中にふと眼をさましてそれからすぐ寝つけないで、深夜の闇のなかに旅情を感じながら窓の外を眺めるんです。空は美しい星空で、その下にウィーンの市が眠っている。その男はしばらくその夜景に眺め耽っていたが、彼はふと闇のなかにたった一つ開け放された窓を見つける。その部屋のなかには白い布のような塊《かたま》りが明るい燈火に照らし出されていて、なにか白い煙みたようなものがそこから細くまっすぐに立ち騰《のぼ》っている。そしてそれがだんだんはっきりして来るんですが、思いがけなくその男がそこに見出したものはベッドの上にほしいままな裸体を投げ出している男女だったのです。白いシーツのように見えていたのがそれで、静かに立ち騰《のぼ》っている煙は男がベッドで燻《くゆ》らしている葉巻の煙なんです。その男はそのときどんなことを思ったかというと、これはいかにも古都ウィーンだ、そしていま自分は長い旅の末にやっとその古い都へやって来たのだ――そういう気持がしみじみと湧いたというのです」
「そして?」
「そして静かに窓をしめてまた自分のベッドへ帰って寝たというのですが――これはずいぶんまえに読んだ小説だけれど、変に忘れられないところがあって僕の記憶にひっかかっている」
「いいなあ西洋人は。僕はウィーンへ行きたくなった。あっはっは。それより今から僕と一緒に崖の方まで行かないですか。ええ」
 酔った青年はある熱心さで相手を誘っていた。しかし片方はただ笑うだけでその話には乗らなかった。

     2

 生島(これは酔っていた方の青年)はその夜|晩《おそ》く自分の間借りしている崖下の家へ帰って来た。彼は戸を開けるとき、それが習慣のなんとも言えない憂鬱を感じた。それは彼がその家の寝ている主婦を思い出すからであった。生島はその四十を過ぎた寡婦《かふ》である「小母《おば》さん」となんの愛情もない身体の関係を続けていた。子もなく夫にも死に別れたその女にはどことなく諦《あき》らめた静けさがあって、そんな関係が生じたあとでも別に前と変わらない冷淡さもしくは親切さで彼を遇していた。生島には自分の愛情のなさを彼女に偽る必要など少しもなかった。彼が「小母さん」を呼んで寝床を共にする。そのあとで彼女はすぐ自分の寝床へ帰ってゆくのである。生島はその当初自分らのそんな関係に淡々とした安易を感じていた。ところが間もなく彼はだんだん堪《たま》らない嫌悪を感じ出した。それは彼が安易を見出していると同じ原因が彼に反逆するのであった。彼が彼女の膚に触れているとき、そこにはなんの感動もなく、いつもある白《しら》じらしい気持が消えなかった。生理的な終結はあっても、空想の満足がなかった。そのことはだんだん重苦しく彼の心にのしかかって来た。そのうちに彼は晴ればれとした往来へ出ても、自分に萎《しな》びた古手拭のような匂いが沁《し》みているような気がしてならなくなった。顔貌にもなんだかいやな線があらわれて来て、誰の目にも彼の陥っている地獄が感づかれそうな不安が絶えずつきまとった。そして女の諦《あきら》めたような平気さが極端にいらいらした嫌悪を刺戟するのだった。しかしその憤懣《ふんまん》が「小母さん」のどこへ向けられるべきだろう。彼が今日にも出てゆくと言っても彼女が一言の不平も唱えないことはわかりきったことであった。それでは何故出てゆかないのか。生島はその年の春ある大学を出てまだ就職する口がなく、国へは奔走中と言ってその日その日をまったく無気力な倦怠で送っている人間であった。彼はもう縦のものを横にするにも、魅入られたような意志のなさを感じていた。彼が何々をしようと思うことは脳細胞の意志を刺戟しない部分を通って抜けてゆくのらしかった。結局彼はいつまで経ってもそこが動けないのである。――
 主婦はもう寝ていた。生島はみしみし階段をきしらせながら自分の部屋へ帰った。そして硝子《ガラス》窓をあけて、むっとするようにこもった宵の空気を涼しい夜気と換えた。彼はじっと坐ったまま崖の方を見ていた。崖の路は暗くてただ一つ電柱についている燈がそのありかを示しているに過ぎなかった。そこを眺めながら、彼は今夜カフェで話し合った青年のことを思い出していた。自分が何度誘ってもそこへ行こうとは言わなかったことや、それから自分が執《しつ》こく紙と鉛筆で崖路の地図を書いて教えたことや、その男の頑《かたく》なに拒んでいる態度にもかかわらず、彼にも自分と同じような欲望があるにちがいないとなぜか固く信じたことや――そんなことを思い出しながら彼の眼は不知不識《しらずしらず》、もしやという期待で白い人影をその闇のなかに探しているのであった。
 彼の心はまた、彼がその崖の上から見るあの窓のことを考え耽《ふけ》った。彼がそのなかに見る半ば夢想のそして半ば現実の男女の姿態がいかに情熱的で性欲的であるか。またそれに見入っている彼自身がいかに情熱を覚え性欲を覚えるか。窓のなかの二人はまるで彼の呼吸を呼吸しているようであり、彼はまた二人の呼吸を呼吸しているようである、そのときの恍惚《こうこつ》とした心の陶酔を思い出していた。
「それに比べて」と彼は考え続けた。
「俺《おれ》が彼女に対しているときはどうであろう。俺はまるで悪い暗示にかかってしまったように白《しら》じらとなってしまう。崖の上の陶酔のたとえ十分の一でも、何故彼女に対するとき帰って来ないのか。俺は俺のそうしたものを窓のなかへ吸いとられているのではなかろうか。そういう形式でしか性欲に耽《ふけ》ることができなくなっているのではなかろうか。それとも彼女という対象がそもそも自分には間違った形式なのだろうか」
「しかし俺にはまだ一つの空想が残っている。そして残っているのはただ一つその空想があるばかりだ」
 机の上の電燈のスタンドへはいつの間にかたくさん虫が集まって来ていた。それを見ると生島は鎖をひいて電燈を消した。わずかそうしたことすら彼には習慣的な反対――崖からの瞰下景《かんかけい》に起こったであろう一つの変化がちらと心を掠めるのであった。部屋が暗くなると夜気がことさら涼しくなった。崖路の闇もはっきりして来た。しかしそのなかには依然として何の人影も立ってはいなかった。
 彼にただ一つの残っている空想というのは、彼がその寡婦と寝床を共にしているとき、ふいに起こって来る、部屋の窓を明け放してしまうという空想であった。勿論彼はそのとき、誰かがそこの崖路に立っていて、彼らの窓を眺め、彼らの姿を認めて、どんなにか刺戟を感じるであろうことを想い、その刺戟を通して、何の感動もない彼らの現実にもある陶酔が起こって来るだろうことを予想しているのであった。しかし彼にはただ窓を明け崖路へ彼らの姿を晒《さら》すということばかりでもすでに新鮮な魅力であった。彼はそのときの、薄い刃物で背を撫でられるような戦慄を空想した。そればかりではない。それがいかに彼らの醜い現実に対する反逆であるかを想像するのであった。
「いったい俺は今夜あの男をどうするつもりだったんだろう」
 生島は崖路の闇のなかに不知不識《しらずしらず》自分の眼の待っていたものがその青年の姿であったことに気がつくと、ふと醒《さ》めた自分に立ち返った。
「俺ははじめあの男に対する好意に溢れていた。それで窓の話などを持ち出して話し合う気になったのだ。それだのに今自分にあの男を自分の欲望の傀儡《かいらい》にしようと思っていたような気がしてならないのは何故だろう。自分は自分の愛するものは他人も愛するにちがいないという好意に満ちた考えで話をしていたと思っていた。しかしその少し強制がましい調子のなかには、自分の持っている欲望を、言わば相手の身体にこすりつけて、自分と同じような人間を製造しようとしていたようなところが不知不識にあったらしい気がする。そして今自分の待っていたものは、そんな欲望に刺戟されて崖路へあがって来るあの男であり、自分の空想していたことは自分達の醜い現実の窓を開けて崖上の路へ曝《さら》すことだったのだ。俺の秘密な心のなかだけの空想が俺自身には関係なく、ひとりでの意志で著《ちゃく》々と計画を進めてゆくというような、いったいそんなことがあり得ることだろうか。それともこんな反省すらもちゃんと予定の仕組で、今もしあの男の影があすこへあらわれたら、さあいよいよと舌を出すつもりにしていたのではなかろうか……」
 生島はだんだんもつれて来る頭を振るようにして電燈を点《とも》し、寝床を延べにかかった。

     

 石田(これは聴き手であった方の青年)はある晩のことその崖路の方へ散歩の足を向けた。彼は平常歩いていた往来から教えられたはじめての路へ足を踏み入れたとき、いったいこんなところが自分の家の近所にあったのかと不思議な気がした。元来その辺はむやみに坂の多い、丘陵と谷とに富んだ地勢であった。町の高みには皇族や華族の邸に並んで、立派な門構えの家が、夜になると古風な瓦斯《ガス》燈の点《つ》く静かな道を挾《はさ》んで立ち並んでいた。深い樹立のなかには教会の尖塔《せんとう》が聳《そび》えていたり、外国の公使館の旗がヴィラ風な屋根の上にひるがえっていたりするのが見えた。しかしその谷に当ったところには陰気なじめじめした家が、普通の通行人のための路ではないような隘路《あいろ》をかくして、朽ちてゆくばかりの存在を続けているのだった。
 石田はその路を通ってゆくとき、誰かに咎められはしないかというようなうしろめたさを感じた。なぜなら、その路へは大っぴらに通りすがりの家が窓を開いているのだった。そのなかには肌脱ぎになった人がいたり、柱時計が鳴っていたり、味気ない生活が蚊遣《かや》りを燻《いぶ》したりしていた。そのうえ、軒燈にはきまったようにやもり[#「やもり」に傍点]がとまっていて彼を気味悪がらせた。彼は何度も袋路に突きあたりながら、――そのたびになおさら自分の足音にうしろめたさを感じながら、やっと崖に沿った路へ出た。しばらくゆくと人家が絶えて路が暗くなり、わずかに一つの電燈が足もとを照らしている、それが教えられた場所であるらしいところへやって来た。
 そこからはなるほど崖下の町が一と目に見渡せた。いくつもの窓が見えた。そしてそれは彼の知っている町の、思いがけない瞰下景《かんかけい》であった。彼はかすかな旅情らしいものが、濃くあたりに漂っているあれちのぎく[#「あれちのぎく」に傍点]の匂いに混じって、自分の心を染めているのを感じた。
 ある窓では運動シャツを着た男がミシンを踏んでいた。屋根の上の闇のなかにたくさんの洗濯物らしいものが仄《ほの》白く浮かんでいるのを見ると、それは洗濯屋の家らしく思われるのだった。またある一つの窓ではレシーヴァを耳に当てて一心にラジオを聴いている人の姿が見えた。その一心な姿を見ていると、彼自身の耳の中でもそのラジオの小さい音がきこえて来るようにさえ思われるのだった。
 彼が先の夜、酔っていた青年に向かって、窓のなかに立ったり坐ったりしている人びとの姿が、みななにかはかない運命を背負って浮世に生きているように見えると言ったのは、彼が心に次のような情景を浮かべていたからだった。
 それは彼の田舎の家の前を通っている街道に一つ見窄《みすぼ》らしい商人宿があって、その二階の手摺《てすり》の向こうに、よく朝など出立の前の朝餉《あさげ》を食べていたりする旅人の姿が街道から見えるのだった。彼はなぜかそのなかである一つの情景をはっきり心にとめていた。それは一人の五十がらみの男が、顔色の悪い四つくらいの男の児と向かい合って、その朝餉の膳に向かっているありさまだった。その顔には浮世の苦労が陰鬱に刻まれていた。彼はひと言も物を言わずに箸を動かしていた。そしてその顔色の悪い子供も黙って、馴れない手つきで茶碗をかきこんでいたのである。彼はそれを見ながら、落魄《らくはく》した男の姿を感じた。その男の子供に対する愛を感じた。そしてその子供が幼い心にも、彼らの諦めなければならない運命のことを知っているような気がしてならなかった。部屋のなかには新聞の付録のようなものが襖《ふすま》の破れの上に貼ってあるのなどが見えた。
 それは彼が休暇に田舎へ帰っていたある朝の記憶であった。彼はそのとき自分が危く涙を落としそうになったのを覚えていた。そして今も彼はその記憶を心の底に蘇《よみがえ》らせながら、眼の下の町を眺めていた。
 ことに彼にそういう気持を起こさせたのは、一棟《ひとむね》の長屋の窓であった。ある窓のなかには古ぼけた蚊帳《かや》がかかっていた。その隣の窓では一人の男がぼんやり手摺《てすり》から身体を乗り出していた。そのまた隣の、一番よく見える窓のなかには、箪笥《たんす》などに並んで燈明の灯った仏壇が壁ぎわに立っているのであった。石田にはそれらの部屋を区切っている壁というものがはかなく悲しく見えた。もしそこに住んでいる人の誰かがこの崖上へ来てそれらの壁を眺めたら、どんなにか自分らの安んじている家庭という観念を脆《もろ》くはかなく思うだろうと、そんなことが思われた。
 一方には闇のなかにきわだって明るく照らされた一つの窓が開いていた。そのなかには一人の禿顱《はげあたま》の老人が煙草盆を前にして客のような男と向かい合っているのが見えた。しばらくそこを見ていると、そこが階段の上り口になっているらしい部屋の隅から、日本髪に頭を結った女が飲みもののようなものを盆に載せながらあらわれて来た。するとその部屋と崖との間の空間がにわかに一揺れ揺れた。それは女の姿がその明るい電灯の光を突然|遮《さえぎ》ったためだった。女が坐って盆をすすめると客のような男がぺこぺこ頭を下げているのが見えた。
 石田はなにか芝居でも見ているような気でその窓を眺めていたが、彼の心には先の夜の青年の言った言葉が不知不識《しらずしらず》の間に浮かんでいた。――だんだん人の秘密を盗み見するという気持が意識されて来る。それから秘密のなかでもベッドシーンの秘密が捜したくなって来る。――
「あるいはそうかもしれない」と彼は思った。「しかし、今の自分の眼の前でそんな窓が開いていたら、自分はあの男のような欲情を感じるよりも、むしろもののあわれと言った感情をそのなかに感じるのではなかろうか」
 そして彼は崖下に見えるとその男の言ったそれらしい窓をしばらく捜したが、どこにもそんな窓はないのであった。そして彼はまたしばらくすると路を崖下の町へ歩きはじめた。

     

「今晩も来ている」と生島は崖下の部屋から崖路の闇のなかに浮かんだ人影を眺めてそう思った。彼は幾晩もその人影を認めた。そのたびに彼はそれがカフェで話し合った青年によもやちがいがないだろうと思い、自分の心に企らんでいる空想に、そのたび戦慄を感じた。
「あれは俺の空想が立たせた人影だ。俺と同じ欲望で崖の上へ立つようになった俺の二重人格だ。俺がこうして俺の二重人格を俺の好んで立つ場所に眺めているという空想はなんという暗い魅惑だろう。俺の欲望はとうとう俺から分離した。あとはこの部屋に戦慄と恍惚《こうこつ》があるばかりだ」

 ある晩のこと、石田はそれが幾晩目かの崖の上へ立って下の町を眺めていた。
 彼の眺めていたのは一棟の産科婦人科の病院の窓であった。それは病院と言っても決して立派な建物ではなく、昼になると「妊婦預ります」という看板が屋根の上へ張り出されている粗末な洋風家屋であった。十ほどあるその窓のあるものは明るくあるものは暗く閉《と》ざされている。漏斗型《じょうごがた》に電燈の被《おお》いが部屋のなかの明暗を区切っているような窓もあった。
 石田はそのなかに一つの窓が、寝台を取り囲んで数人の人が立っている情景を解放しているのに眼が惹《ひ》かれた。こんな晩に手術でもしているのだろうかと思った。しかしその人達はそれらしく動きまわる気配もなく依然として寝台のぐるりに凝立《ぎょうりつ》していた。
 しばらく見ていた後、彼はまた眼を転じてほかの窓を眺めはじめた。洗濯屋の二階には今晩はミシンを踏んでいる男の姿が見えなかった。やはりたくさんの洗濯物が仄《ほの》白く闇のなかに干されていた。たいていの窓はいつもの晩とかわらずに開いていた。カフェで会った男の言っていたような窓は相不変《あいかわらず》見えなかった。石田はやはり心のどこかでそんな窓を見たい欲望を感じていた。それはあらわなものではなかったが、彼が幾晩も来るのにはいくらかそんな気持も混じっているのだった。
 彼が何気《なにげ》なくある崖下に近い窓のなかを眺めたとき、彼は一つの予感でぎくっとした。そしてそれがまごうかたなく自分の秘《ひそ》かに欲していた情景であることを知ったとき、彼の心臓はにわかに鼓動を増した。彼はじっと見ていられないような気持でたびたび眼を外《そ》らせた。そしてそんな彼の眼がふと先ほどの病院へ向いたとき、彼はまた異様なことに眼を瞠《みは》った。それは寝台のぐるりに立ちめぐっていた先ほどの人びとの姿が、ある瞬間一度に動いたことであった。それはなにか驚愕《きょうがく》のような身振りに見えた。すると洋服を着た一人の男が人びとに頭を下げたのが見えた。石田はそこに起こったことが一人の人間の死を意味していることを直感した。彼の心は一時に鋭い衝撃をうけた。そして彼の眼が再び崖下の窓へ帰ったとき、そこにあるものはやはり元のままの姿であったが、彼の心は再び元のようではなかった。
 それは人間のそうしたよろこびや悲しみを絶したある厳粛な感情であった。彼が感じるだろうと思っていた「もののあわれ」というような気持を超した、ある意力のある無常感であった。彼は古代の希臘《ギリシャ》の風習を心のなかに思い出していた。死者を納《い》れる石棺《せっかん》のおもてへ、淫《みだ》らな戯れをしている人の姿や、牝羊《めひつじ》と交合している牧羊神を彫りつけたりした希臘《ギリシャ》人の風習を。――そして思った。
「彼らは知らない。病院の窓の人びとは、崖下の窓を。崖下の窓の人びとは、病院の窓を。そして崖の上にこんな感情のあることを――」

底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:多村栄輝
1998年11月17日公開
2005年10月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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梶井基次郎

Kの昇天 ――或はKの溺死—– 梶井基次郎

 お手紙によりますと、あなたはK君の溺死《できし》について、それが過失だったろうか、自殺だったろうか、自殺ならば、それが何に原因しているのだろう、あるいは不治の病をはかなんで死んだのではなかろうかと様さまに思い悩んでいられるようであります。そしてわずか一《ひ》と月ほどの間に、あの療養地のN海岸で偶然にも、K君と相識ったというような、一面識もない私にお手紙をくださるようになったのだと思います。私はあなたのお手紙ではじめてK君の彼地《かのち》での溺死を知ったのです。私はたいそうおどろきました。と同時に「K君はとうとう月世界へ行った」と思ったのです。どうして私がそんな奇異なことを思ったか、それを私は今ここでお話しようと思っています。それはあるいはK君の死の謎を解く一つの鍵であるかも知れないと思うからです。
 それはいつ頃だったか、私がNへ行ってはじめての満月の晩です。私は病気の故《せい》でその頃夜がどうしても眠れないのでした。その晩もとうとう寝床を起きてしまいまして、幸い月夜でもあり、旅館を出て、錯落とした松樹の影を踏みながら砂浜へ出て行きました。引きあげられた漁船や、地引網を捲《ま》く轆轤《ろくろ》などが白い砂に鮮かな影をおとしているほか、浜には何の人影もありませんでした。干潮で荒い浪が月光に砕けながらどうどうと打ち寄せていました。私は煙草をつけながら漁船のとも[#「とも」に傍点]に腰を下して海を眺めていました。夜はもうかなり更《ふ》けていました。
 しばらくして私が眼を砂浜の方に転じましたとき、私は砂浜に私以外のもう一人の人を発見しました。それがK君だったのです。しかしその時はK君という人を私はまだ知りませんでした。その晩、それから、はじめて私達は互いに名乗り合ったのですから。
 私は折りおりその人影を見返りました。そのうちに私はだんだん奇異の念を起こしてゆきました。というのは、その人影――K君――は私と三四十歩も距《へだた》っていたでしょうか、海を見るというのでもなく、全く私に背を向けて、砂浜を前に進んだり、後に退いたり、と思うと立ち留ったり、そんなことばかりしていたのです。私はその人がなにか落し物でも捜しているのだろうかと思いました。首は砂の上を視凝《みつ》めているらしく、前に傾いていたのですから。しかしそれにしては跼《かが》むこともしない、足で砂を分けて見ることもしない。満月でずいぶん明るいのですけれど、火を点けて見る様子もない。
 私は海を見ては合間合間に、その人影に注意し出しました。奇異の念はますます募《つの》ってゆきました。そしてついには、その人影が一度もこちらを見返らず、全く私に背を向けて動作しているのを幸い、じっとそれを見続けはじめました。不思議な戦慄《せんりつ》が私を通り抜けました。その人影のなにか魅かれているような様子が私に感じたのです。私は海の方に向き直って口笛を吹きはじめました。それがはじめは無意識にだったのですが、あるいは人影になにかの効果を及ぼすかもしれないと思うようになり、それは意識的になりました。私ははじめシューベルトの「海辺にて」を吹きました。ご存じでしょうが、それはハイネの詩に作曲したもので、私の好きな歌の一つなのです。それからやはりハイネの詩の「ドッペルゲンゲル」。これは「二重人格」というのでしょうか。これも私の好きな歌なのでした。口笛を吹きながら、私の心は落ちついて来ました。やはり落し物だ、と思いました。そう思うよりほか、その奇異な人影の動作を、どう想像することができましょう。そして私は思いました。あの人は煙草を喫《の》まないから燐寸《マッチ》がないのだ。それは私が持っている。とにかくなにか非常に大切なものを落としたのだろう。私は燐寸を手に持ちました。そしてその人影の方へ歩きはじめました。その人影に私の口笛は何の効果もなかったのです。相変わらず、進んだり、退いたり、立ち留ったり、の動作を続けているのです。近寄ってゆく私の足音にも気がつかないようでした。ふと私はビクッとしました。あの人は影を踏んでいる。もし落し物なら影を背にしてこちらを向いて捜すはずだ
 天心をややに外《はず》れた月が私の歩いて行く砂の上にも一尺ほどの影を作っていました。私はきっとなにか[#「なにか」に傍点]だとは思いましたが、やはり人影の方へ歩いてゆきました。そして二三間手前で、思い切って、
「何か落し物をなさったのですか」
 とかなり大きい声で呼びかけてみました。手の燐寸《マッチ》を示すようにして。
「落し物でしたら燐寸がありますよ」
 次にはそう言うつもりだったのです。しかし落し物ではなさそうだと悟《さと》った以上、この言葉はその人影に話しかける私の手段に過ぎませんでした。
 最初の言葉でその人は私の方を振り向きました。「のっぺらぽー」そんなことを不知不識《しらずしらず》の間に思っていましたので、それは私にとって非常に怖ろしい瞬間でした。
 月光がその人の高い鼻を滑りました。私はその人の深い瞳を見ました。と、その顔は、なにか極《き》まり悪気な貌に変わってゆきました。
「なんでもないんです」
 澄んだ声でした。そして微笑がその口のあたりに漾《ただよ》いました。
 私とK君とが口を利いたのは、こんなふうな奇異な事件がそのはじまりでした。そして私達はその夜から親しい間柄になったのです。
 しばらくして私達は再び私の腰かけていた漁船のとも[#「とも」に傍点]へ返りました。そして、
「ほんとうにいったい何をしていたんです」
 というようなことから、K君はぼつぼつそのことを説き明かしてくれました。でも、はじめの間はなにか躊躇《ちゅうちょ》していたようですけれど。
 K君は自分の影を見ていた、と申しました。そしてそれは阿片《あへん》のごときものだ、と申しました。
 あなたにもそれが突飛でありましょうように、それは私にも実に突飛でした。
 夜光虫が美しく光る海を前にして、K君はその不思議な謂《い》われをぼちぼち話してくれました。
 影ほど不思議なものはないとK君は言いました。君もやってみれば、必ず経験するだろう。影をじーっと視凝《みつ》めておると、そのなかにだんだん生物の相があらわれて来る。ほかでもない自分自身の姿なのだが。それは電燈の光線のようなものでは駄目だ。月の光が一番いい。何故ということは言わないが、――というわけは、自分は自分の経験でそう信じるようになったので、あるいは私自身にしかそうであるのに過ぎないかもしれない。またそれが客観的に最上であるにしたところで、どんな根拠でそうなのか、それは非常に深遠なことと思います。どうして人間の頭でそんなことがわかるものですか。――これがK君の口調でしたね。何よりもK君は自分の感じに頼り、その感じの由《よ》って来たる所を説明のできない神秘のなかに置いていました。
 ところで、月光による自分の影を視凝《みつ》めているとそのなかに生物の気配があらわれて来る。それは月光が平行光線であるため、砂に写った影が、自分の形と等しいということがあるが、しかしそんなことはわかり切った話だ。その影も短いのがいい。一尺二尺くらいのがいいと思う。そして静止している方が精神が統一されていいが、影は少し揺れ動く方がいいのだ。自分が行ったり戻ったり立ち留ったりしていたのはそのためだ。雑穀屋が小豆《あずき》の屑を盆の上で捜すように、影を揺ってごらんなさい。そしてそれをじーっと視凝《みつ》めていると、そのうちに自分の姿がだんだん見えて来るのです。そうです、それは「気配」の域を越えて「見えるもの」の領分へ入って来るのです。――こうK君は申しました。そして、
「先刻あなたはシューベルトの『ドッペルゲンゲル』を口笛で吹いてはいなかったですか」
「ええ。吹いていましたよ」
 と私は答えました。やはり聞こえてはいたのだ、と私は思いました。
「影と『ドッペルゲンゲル』。私はこの二つに、月夜になれば憑かれるんですよ。この世のものでないというような、そんなものを見たときの感じ。――その感じになじんでいると、現実の世界が全く身に合わなく思われて来るのです。だから昼間は阿片喫煙者のように倦怠《けんたい》です」
 とK君は言いました。
 自分の姿が見えて来る。不思議はそればかりではない。だんだん姿があらわれて来るに随《したが》って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれてこちらの自分はだんだん気持が杳《はる》かになって、ある瞬間から月へ向かって、スースーッと昇って行く。それは気持で何物とも言えませんが、まあ魂とでも言うのでしょう。それが月から射し下ろして来る光線を溯《さかのぼ》って、それはなんとも言えぬ気持で、昇天してゆくのです。
 K君はここを話すとき、その瞳はじっと私の瞳に魅《みい》り非常に緊張した様子でした。そしてそこで何かを思いついたように、微笑でもってその緊張を弛《ゆる》めました。
「シラノが月へ行く方法を並べたてるところがありますね。これはその今一つの方法ですよ。でも、ジュール・ラフォルグの詩にあるように

哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。

 私も何遍やってもおっこちるんですよ」
 そう言ってK君は笑いました。
 その奇異な初対面の夜から、私達は毎日訪ね合ったり、一緒に散歩したりするようになりました。月が欠けるに随《したが》って、K君もあんな夜更けに海へ出ることはなくなりました。
 ある朝、私は日の出を見に海辺に立っていたことがありました。そのときK君も早起きしたのか、同じくやって来ました。そして、ちょうど太陽の光の反射のなかへ漕ぎ入った船を見たとき、
「あの逆光線の船は完全に影絵じゃありませんか」
 と突然私に反問しました。K君の心では、その船の実体が、逆に影絵のように見えるのが、影が実体に見えることの逆説的な証明になると思ったのでしょう。
「熱心ですね」
 と私が言ったら、K君は笑っていました。
 K君はまた、朝海の真向《まっこう》から昇る太陽の光で作ったのだという、等身のシルウェットを幾枚か持っていました。
 そしてこんなことを話しました。
「私が高等学校の寄宿舎にいたとき、よその部屋でしたが、一人美少年がいましてね、それが机に向かっている姿を誰が描いたのか、部屋の壁へ、電燈で写したシルウェットですね。その上を墨でなすって描いてあるのです。それがとてもヴィヴィッドでしてね、私はよくその部屋へ行ったものです」
 そんなことまで話すK君でした。聞きただしてはみなかったのですが、あるいはそれがはじまりかもしれませんね。
 私があなたのお手紙で、K君の溺死を読んだとき、最も先に私の心象に浮かんだのは、あの最初の夜の、奇異なK君の後姿でした。そして私はすぐ、
「K君は月へ登ってしまったのだ」
 と感じました。そしてK君の死体が浜辺に打ちあげられてあった、その前日は、まちがいもなく満月ではありませんか。私はただ今本暦を開いてそれを確かめたのです。
 私がK君と一緒にいました一と月ほどの間、そのほかにこれと言って自殺される原因になるようなものを、私は感じませんでした。でも、その一と月ほどの間に私がやや健康を取り戻し、こちらへ帰る決心ができるようになったのに反し、K君の病気は徐々に進んでいたように思われます。K君の瞳はだんだん深く澄んで来、頬はだんだんこけ、あの高い鼻柱が目に立って硬く秀でてまいったように覚えています。
 K君は、影は阿片のごときものだ、と言っていました。もし私の直感が正鵠《せいこく》を射抜いていましたら、影がK君を奪ったのです。しかし私はその直感を固執するのでありません。私自身にとってもその直感は参考にしか過ぎないのです。ほんとうの死因、それは私にとっても五里霧中であります。
 しかし私はその直感を土台にして、その不幸な満月の夜のことを仮に組み立ててみようと思います。

 その夜の月齢は十五・二であります。月の出が六時三十分。十一時四十七分が月の南中する時刻と本暦には記載されています。私はK君が海へ歩み入ったのはこの時刻の前後ではないかと思うのです。私がはじめてK君の後姿を、あの満月の夜に砂浜に見出したのもほぼ南中の時刻だったのですから。そしてもう一歩想像を進めるならば、月が少し西へ傾きはじめた頃と思います。もしそうとすればK君のいわゆる一尺ないし二尺の影は北側といってもやや東に偏した方向に落ちるわけで、K君はその影を追いながら海岸線を斜に海へ歩み入ったことになります。
 K君は病と共に精神が鋭く尖《とが》り、その夜は影がほんとうに「見えるもの」になったのだと思われます。肩が現われ、頸《くび》が顕われ、微かな眩暈《めまい》のごときものを覚えると共に、「気配」のなかからついに頭が見えはじめ、そしてある瞬間が過ぎて、K君の魂は月光の流れに逆らいながら、徐々に月の方へ登ってゆきます。K君の身体はだんだん意識の支配を失い、無意識な歩みは一歩一歩海へ近づいて行くのです。影の方の彼はついに一箇の人格を持ちました。K君の魂はなお高く昇天してゆきます。そしてその形骸は影の彼に導かれつつ、機械人形のように海へ歩み入ったのではないでしょうか。次いで干潮時の高い浪がK君を海中へ仆《たお》します。もしそのとき形骸に感覚が蘇《よみが》えってくれば、魂はそれと共に元へ帰ったのであります。

哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。

 K君はそれを墜落と呼んでいました。もし今度も墜落であったなら、泳ぎのできるK君です。溺れることはなかったはずです。
 K君の身体は仆《たお》れると共に沖へ運ばれました。感覚はまだ蘇えりません。次の浪が浜辺へ引き摺《ず》りあげました。感覚はまだ帰りません。また沖へ引き去られ、また浜辺へ叩きつけられました。しかも魂は月の方へ昇天してゆくのです。
 ついに肉体は無感覚で終わりました。干潮は十一時五十六分と記載されています。その時刻の激浪に形骸の翻弄《ほんろう》を委《ゆだ》ねたまま、K君の魂は月へ月へ、飛翔《ひしょう》し去ったのであります。

底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年10月10日公開
2005年10月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

梶井基次郎

『青空』のことなど—–井基次郎

文藝部から嶽水會雜誌の第百號記念號へ載せる原稿をと請はれたが、病中でまとまつたものへ筆を起す氣力もなく、とりとめもない「青空」のことなどで私に課せられた責を塞ぐことにする。

「青空」といふ雜誌は大正十四年の一月から昭和二年の央まで發行されてゐた。僕達三高卒業生の據つてゐた同人雜誌であつた。皆が三高を出てから東京へ行つて出したので、それの追憶と云へば舞臺は東京になる譯であるが、私はそれの培はれた三高時代の思ひ出にこの話を限り度い。三高時代私達は劇研究會といふものを持つてゐた。これが青空の前身であつた。それは劇の方では本讀み、演出などをやつてゐたが、そこには名目通りの劇研究があつたといふよりも、寧ろ廣汎な文藝に對する私達の飽くなきアスピレイシヨンが團結してゐたのであつた。劇作は思ひ出して見ても、外村茂の數篇位ゐで、演出は――この演出に就て語るのは實にたくさんの記述が要る。私達でやる筈になつてゐた試演會は校長の禁止で、公演の前日に迄もなつてゐて、それを思ひ切らなければならない破目になつたのである。今でこそそのことはこんなにもあつさりと書けるのであるが、その當時その打撃は私達の生活をまるで打ちのめしてしまつた。校長からはその代償といふ譯ではなかつたらうがとにかくいくらかの金が出たのであるが、それはたしか新聞へ出す中止廣告の廣告代にも足らなかつた。そのうへ、大道具小道具に要した金、練習場、會場に要した金、プログラムや切符に要した金、それらは會員達が何ヶ月もかかつて積立てた準備金の到底補充出來る額ではなかつた。中止に氣落ちした面々がまた心を取直して何の希望もない經濟的なまた勞力的なあと片付けを默々とやりはじめたときの氣持は今思ひ出しても涙が零れる。それのみか――これはだん/″\あとになつて耳に入つて來たことではあるが――私達の公演を援けたフロインデインに就て下等な憶測が、學校當局ではどうであつたか知らないが、生徒達のなかに働らいてゐたらしいのである。これには胸が煮えたぎる程口惜しかつた。恥あれ! 恥あれ! かかる下等な奴等に! そこにはあらゆるものに賭けて汚すことを恐れた私達の魂があつたのだ。彼等にはさういふことがわからない。これは實に口惜しいことだつた。それから何年も經つてからであつたが、ある第三者からふとそのことに觸れられた。場所も憶えてゐるが、それは大學の池のふちである。――その瞬間、ながらく忘れてゐたその屈辱の記憶が不意に胸に迫つて來て、私の顏色が見る見る變つたので、何にも知らないその人を驚かしたことがあつた。こんな屈辱は永らく拭はれることのないものである。
 ついでだからそのときの出し物を思ひ出して見よう。

チエホフの 「熊」      一幕
シングの  「鑄掛屋の結婚」 一幕
山本有三の 「海彦山彦」   一幕

「熊」の老僕にはあとで「青空」の同人になつた小林馨がなつた。小林は東北の生れで東北なまりが、その役を實にうまく生かした。借金取にはあとで「眞晝」を作つた楢本盟夫がなつたが、楢本は、ぷん/\怒る男なので、またその短氣なせりふが打つてつけで、今思ひ出しても思はず笑へて來るほど面白かつた。シングの「鑄掛屋の結婚」はこの三つのなかで芝居としては一番いいものだと今でも思つてゐるが、それは稽古を重ねてゐるうちに自然胸に感じられて來たことであつて、たつたそれだけのことでも、自分等の努力が手探りにわからせて呉れたのだと思ふとどんなに樂しかつたか知れない。これには「青空」の中谷孝雄が田舍の老牧師になつて出てゐる。「眞晝」の淺見篤も一役持つてゐた。中谷の老牧師は袋かなにかをかぶせられてぶん撲られたりするのであるがこれがまた可笑しかつた。臺本は松村みね子氏の譯本に據つたのだつたが、この定評ある飜譯もテキストと讀みあはせて見ると意味を通じなくしてしまつてあるせりふや誤つたト書などがあつて、その發見などはなか/\鼻の高いものだつた。英國の俗謠が出て來る。それはヱルダー先生に Fisher Women の譜を借して貰つて稽古した。「海彦山彦」は「青空」の外村茂と淺沼喜實とがやつた。これには撲り合ひの兄弟喧嘩があるので、それを熱心な外村がやるものだから、ほんたうの喧嘩みたいで、毎日それをやるときになると稽古する部屋の向ひの魚屋から人が立つて見てゐた。まだ/\かういふことを書けば切りがない。とにかく私達が何ヶ月もかかつて計畫し努力した、恐らくは三高はじめての試演會といふものは蓋のあく前日に、生徒としての最後のもので脅かすことによつて、差止めになつてしまつたのである。
 劇研究會としてこの試演ほど大きい事業はなかつたのであるが、私達はこの會合の名目通りに劇ばかりをやつてゐた譯ではなかつた。私や中谷などは別に戲曲を物せず却つて小説を書いてゐた。そして「青空」を出すやうになつてからは誰も戲曲を書く物はなくなつた。當時私達の持つてゐた雜誌は回覽雜誌で「眞素木《マシロギ》」といふ、原稿を單に製本しただけのものであつた。これは三册程しか出來なかつたと思ふ。ここへ書いたものが、嶽水會雜誌に原稿が集まらなくて、僕のものや中谷のものが轉載されたことがあつた。この「眞素木」といふ名前は後で「青空」の隨筆欄の名になつた。
 私達は斯樣にして小さいものではあつたが非常に強固な文學的な團體を形作つてゐた。行先は東京の文科であり、東京へ出たら必ず私達で雜誌を作らうといふ氣持が云はずして釀されてゐた。ところが兔角さういふことは後れ勝ちになるもので、東京へ出て直ぐと思つてゐた發行が半年少しも後れて初號は次の年の一月にやつと出ることになつた。同人はその劇研究會の中谷、外村、小林、それに私、そこへ中谷が獨文科の忽那吉之助を連れて來て五人、も一人それも中谷の友人で今鏘々とした新進歌人の稻森宗太郎が早稻田から加はつた。當時同人雜誌はまだ實に少ないものであつた。大學では小方又星、伊吹武彦、淺野晃、飯島正、大宅壯一、それに一高の連中がやつてゐた「新思潮」が漸く出はじめた頃で、慶應からは「青銅時代」「葡萄園」――「辻馬車」や早稻田の「主潮」などは私の記憶に間違ひがなければ「青空」よりも遲れてゐた。今の「新思潮」は當時の「新思潮」が潰れてから出たので勿論「青空」よりはあとである。思へばその時分が同人雜誌氾濫のはじまりであつた。
 その後間もなく私達のなかへは、私達のあと三高で劇研究會を維持してゐた、淀野隆三、淺沼喜實、北神正の三人が、東京へ出て來たので加はり、次いで飯島正や三好達治、北川冬彦の二詩人參加し、三年目にやはり劇研究會からの龍村謙が來、「青空」は年を追つて益々人を殖した。稀に例外があつたが、みな三高から、それも劇研究會からはひつて來たのである。そのほかにも同人を擧げなければ「青空」についての全體は語られないが、まとまつて「青空」のことを書く積りでもなし、管々しいことは省く。とにかく「青空」は昨年の七月同人の多くが卒業論文で忙しくなり編輯をやめるまで月々撓みなく發行されてゐた。別に花々しく世のなかの視聽を欹てたといふ譯でもなく、流行の新人を送り出した譯ではなかつたが、それの持つてゐた潛勢力は當時人も知り私達も自信してゐた。そして同人の多くが入營や卒業のため四散してしまつた今でも、なほ私はそれを信じてゐる。「青空」は遊戲氣分のない、融通の利かないほど生眞面目なものを持つた人達の集りであつた。廣く世の中へ出て見るに隨て、私達は私達の持つてゐた粗樸な熱意に振り返り敬禮せずにはゐられない。「青空」から新人會へ、文學から解放運動へ出て行つた私達の一人はその後もよく云つてゐた。「全く青空でがんがんやつたのがよかつた」然り「青空」はなによりも私達の腹を作つた。
 室生犀星氏は嘗て私達の中谷孝雄の作品を評して、氏獨特の表現で、「第一流の打ち込み方」と云つた。そしてこの評はまさに肯綮である。外村茂は「青空」のなかでもその苦しいまで正義感に溢れた作風で人々の注目、畏敬を集めてゐた。こんな人達の今後の活動は、潛心を終つた淀野隆三の活動と共に非常に私達を期待させるものである。北川冬彦、三好達治は二人とも名を成した詩人である。「青空」も考へて見れば隨分いい人達を持つてゐた。
 この稿は劇研究會の追憶としても「青空」の記録としてもその十分の一も完全ではない。記載すべき人の名も事柄もその煩に堪へないので書くことを止した。そのうへ會員同人の人達が共有した追憶を私一人で私したやうな氣持がしてならない。それだけのお斷りを云つて置く。
 京都を思ひ出し、三高を思出す毎に、尚賢館の北室や、佛教青年會館や、丸山の明ぼのを思ひ出す。私達が集まつて晩くまで本讀みをし、話をしたのも、佛蘭西から歸られた折竹先生を迎へてコポオの話を聞いたのも、さうした部屋の私達の圓居のなかであつた。そしてその記憶は常に東京のそれよりも樂しい。東京の思ひ出はいつも空つ風に吹き曝されてゐるやうな感じがある。京都ではいつもなにか温かく樂しいものが私達を包んでゐて呉れた。温かく、樂しいばかりではない。私はそのなかに自分を勇氣づけて呉れるものを常に感じてゐるのである。
(昭和三年十二月)

底本:「梶井基次郎全集 第一卷」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日初版第1刷発行
初出:「嶽水會雜誌」
   1928(昭和3)年12月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:高柳典子
2005年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

梶井基次郎

『新潮』十月新人號小説評—– 梶井基次郎

     子を失ふ話 (木村庄三郎氏)

 書かれてゐるのは優れた個人でもない、ただあり來りの人間である。それらが不自然な關係の下に抑壓された本能を解放しようとして苦しむ。作者は客觀的な態度で個々の人物に即し個々の場面を追ひつゝ書き進んでゐる。作者は人物の氣持や場面を近くに引付けてヴイヴイツドに書くことに長じてゐる人であるが、この作品ではそれを引き離して書いてゐる。そしてその手法が澄んでゐるためか「人間の持つ悲しさ」といふやうなものが背後に響いてゐる。どうにもならないといふ感じである。恐らくこの作品はこれでおしまひなのではなからうと思はれる。どう見てもあそこで完結させることは出來ない。また小さいことではあるが「けちな放蕩」と書いてある。けちなといふやうな價値感情を含んだ言葉はこの作品の緊りを傷けるものである。この作品に於て私は作者の新なる沈潛を感じる。そしてそれはいゝ結果になつてあらはれてゐる。が、それは在來のものゝ綜合であり完成であつて、新しい境地へは踏出してゐない。在來の氏に感じてゐた私の不滿は、だからまだ滿されてはゐない。この完成が終れば氏はその方へ出て行くのであらう。私はそれを期待する。

     N監獄懲罰日誌 (林房雄氏)

 林氏に對する私の豫備知識は貧弱である。いつかの新小説にのつたものしか讀んでゐない。また文藝戰線の人々やその文學論にも最近の關心である。そんなことがわかつてからとも思ふが、まあ思つたまゝを云ふ。
 伯父の急激な對蹠的な轉向を輪廓づけた、その圖形が妥當であるかないか、それは問題にしようとは思はない。たゞこの圖形はそれ自身が立派な意義を持つものであることを認める。然しこの圖形が強い力で迫つて來るためにはもつと肉付けが必要であると思ふ。末尾の言葉で作者もそれを認めてゐるやうに思へるが、それ以上作者が美しい放浪者の心とか懷疑者の心とか金鑛とか漠然とした言葉を用ひてゐるためなのではなからうか。
 懲罰日誌そのものゝなかには囚人の悲慘がユーモアに包まれて寫されてゐる。そのユーモアの一つは「錆びついた心」を持つた獄吏の戲畫的な存在である。も一つは犯行者の犯行なるものである。然しそのユーモラスな效果が消えて行つたあと心に迫つて來る重苦しい眞實がある。ともかく私は懲罰日誌には心を打たれた。所々自然科學の言葉が使はれてゐたり、一度云ひ表したことを重ねて使つて效果を深めたり、作者の文體は知的な整つた感じを持つてゐる。偏した味ではなく正統な立派なところがある。そして、それは作者の文學的意圖に合したものであらうことが推察される。

     アルバム (淺見淵氏)

 平板な嫌ひはあるがその落ちついた筆致は作者がともかくあるところまでゆきついた人であることを思はせる。朝に出たときより幾分の削除が行はれてゐるやうに思ふが、とにかくこの作品は書き拔いたといふ感じがある。なまじ陰影的な效果を覘はず、その書き拔いたところから、却つてあと/\まで續く餘韻が出來たやうに思ふ。それはオリガのイメイジである。それもあの生活を背景にした主人公があゝいふ風な感興を持つたロシアの女のイメイジである。そしてその餘韻に就ては末尾のピチカツトが效果的な作用をしてゐる。親しみの多い作品である。

     變人を確かめる (八木東作氏)

 最初「はあ、あの氣持を書いてゐるな」と思つたぎり讀み捨てておいたものを此度また讀みかへして見た。讀みかへしてまた讀みかへした。その度に作者の前書に書いてゐることの意味が段々強くなるのを知つた。
 その聲低く語られる物語は、その一見他奇のない文體にも似ず、非常に緻密に物されてゐる。書いてあることに無駄がないといふより、書いてあることの重要さが大きいのだ。例へば六七頁の「私はポケツトから回數券を取出した。すると女は、それを見てすぐ同じ樣に帶の間から回數券を取出した。そして一枚切りとつた。それで私は、自分のだけ一枚切り取つて殘りをポケツトに返した。そして、切り取つた一枚を指の間に挾んで持ちながら女の手もとを見ると、また同じやうに指の間に挾んでゐた。もはやどこでも一緒におりて來るものときまつた。」はその瞬間の主人公の緊張した氣持が、表面へ出して來るよりも餘計效果的に讀者に觸れて來る。さう云つた風である。そんな風に作者は主人公の女に對する氣持の起伏の消息や、陰影に富んだ然も純な性格を、語るより以上に感ぜ[#「感ぜ」に傍点]しめてある。この話のどこにも馬鹿氣たところはない。私は作者のかういふ風な書き方に同感を持つ者だ。八木氏等の出してゐる麒麟といふ同人雜誌は最近寄贈をうけてゐたが、自分は讀まなかつたが、この小説のやうに外見はあまり引立たない。然し内容は――とこの小説の讀後の感じはそんなところへまで變に實感を持たせるのである。

     晴れた富士 (崎山猷逸氏)

 この作品はこの作者の平常のものよりも惡いやうに思はれる。私は感心出來なかつた。「二」の馬車のなかで姉の肩が曉の腕に觸れて、そんなことも淋しく思ふ。――あのあたりのやうな眞實さがこの作品の重要なところに缺けてゐると思ふ。

     姉の死と彼 (中山信一郎氏)

 依怙地なやうな變に感じのある作家である。然しそれもこの作品に於ては完成から非常に遠いと思はれる。

     桃色の象牙の塔 (久野豐彦氏)

 これの批評は差控へる。

     結婚の花 (藤澤桓夫氏)

 この作家の從來の作品に於て、これまで私にネガテイヴな價値しか持つてゐなかつたものは、この作品によつてポヂテイヴなものに改められた。それはこの「三」に於けるが如き立派な完成を見たからである。實感を伴はない文字の遊戲と思はれてゐたものが、強い實感を現すための新しい手段と見直せるやうになつた。それでもなほ得心のゆかぬ個所もある。それは作者と私との趣味の相違や、私の讀み方の不足や、作者の技巧の未完成が混り合つて原因してゐるのであらうが、そんな個所は末梢的であつて、何よりも私はこの作品を貫いてゐる作者のまともな精神に觸れて心強く思つた。そして「冬の切線」や「明日」を讀み直したのであるが、そんなものと比較して細いことを書き度いと思つてゐたが、時間が切迫したため何時かの機會に讓ることにする。

     早春の蜜蜂 (尾崎一雄氏)

 全篇清新な筆觸で書かれてゐる。殊に蜜蜂の描寫、八年前の或る朝の記憶は秀れてゐる。然し讀み終つてなにか物足らぬ感じがある。それは各部分が秀れた描寫であるに拘らず、それを緊めくゝるものが稀薄なせいである。二年前の短篇に於ても蜜蜂と妹の死との間にはつながりの必然性がない。二年前と今との氣持の相違を書いて後半の追憶に移るのは自然ではあるが積極的な意味を持つてゐる譯ではない。然し最後にK子の死を敍したあと不吉な二月、それに關聯して再び蜜蜂のことへかへつて來たのは首尾照應してさきの蜜蜂を生かしてはゐる。物足りなく思ふもう一つは主人公の氣持が純眞ではあるが、その力み方に少し誇張したところが感じられることである。それはこの作品を汚すものではない。却つてある美しさを與へてはゐるが、この作品を深めるものではないと思ふ。
 然しこの二つのこと、積極的な不滿ではない。何となく物足りなく思ふ。その原因をそこに求めたばかりである。
「さゝやかな事件」以外にこの人を知らなかつた私はこの作品によつて世評を欺かない作者のいい素質を見たと思つてゐる。

 中谷がやることになつてゐたこの批評を、中谷が小説をかいたため書けなかつたといふので、編輯の淺沼から此方へ廻された。やりなれないことでもあり、同人の清水が京都から上京して來たり、氣を散らして、たうとう締切に迫られ充分なものが書けなかつた。作家諸氏や編輯者にお詫びをしなければならない。
 最後に、新潮が新人號を出して同人雜誌の作家に書かせたことは時宜を得たいゝ企てゞあると思ふ。
 それは文壇にとつても同人雜誌作家にとつてもよき刺戟となつたに違ひない。若しまた新人號がヂヤナリズムとして成功してゐたならば、それは新潮社にとつても同人雜誌作家にとつても賀すべきことであつた。更によき次回の新人號のためにその成功であつたことを願ふ。

(大正十五年十一月)

底本:「梶井基次郎全集 第一卷」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日初版第1刷発行
初出:「青空」
   1926(大正15)年11月号
入力:土屋隆
校正:高柳典子
2005年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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梶井基次郎

『亞』の回想—–梶井基次郎

 亞は僕にとつては毎月の清楚な食卓だつた。その皿の數ほどの頁、そしてリフアインされたお喋り。その椅子につくことは僕の閑雅なたのしみであり矜りであつた。伊豆へ來てもう一年にもなるが、その間に北川から送つてくれた亞は積つて、いつも机邊にあつた。そのなかの詩や散文は自づと口に出て來る位僕には親しい。村の本屋へ新刊の雜誌が來てゐても、此頃は買はずに歸るのが常である。流行文學よりも色づいた柿の葉の一片を持つて歸る方が今の僕にはたのしい。しかし亞は、渡り鳥を待つほども、自分は待つのだ。殊に最近北川と三好が加はつてから。
 安西君。僕には亞の詩壇的な回顧は出來ません。僕はただ、表紙に魚が四匹、甲板におかれてある龕燈の燈が消えてしまつた寂寥をあなたに告げるばかりです。
(昭和二年十二月)

底本:「梶井基次郎全集 第一卷」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日初版第1刷発行
初出:「亞」第三十五(終刊)号
   1927(昭和2)年12月1日発兌
入力:土屋隆
校正:高柳典子
2005年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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梶井基次郎

「青空語」に寄せて(昭和二年一月號) 『青空』記事 ——梶井基次郎

文藝時代十二月號の小説は、林房雄だけが光つてゐる。『牢獄の五月祭』の持つ魅力が他の小説の光りを消すのだ。然し彼の作品の持つ明るさを以て、全世界を獲得すべきプロレタリヤの信念の明るさ、若しくは作者等の戰線を支配してゐる希望の明るさの表現されてゐるものと見ることには贊成出來ない。それは寧ろ彼自身の文學の持つ明るさである。

       ×

 火つきのいゝきり[#「きり」に傍点]炭のやうな、前者の作風に反して、改造十二月號葉山嘉樹の『プロレタリヤの乳』は凡そ濕つた薪にも似てゐる。話の本筋が燃えたと思ふと、直ぐそれは作者の亢奮に燻る。それはかの作を甚だ讀みづらくさせてゐる(が作者が讀者を燻さうとしたらしいことは、その本筋の振はないことでも感じられる)。然しそのなかには、「今日も日が暮れやがる」といふやうな得難い融合もある。先蹤を持たない表現の難いことを思ふ。それにしても、プロレタリヤの持つ重々しい力の感じはこの作に於て表現されてゐる。

       ×

 文藝城、新思潮、眞晝、葡萄園、山繭、驢馬等、目星しい同人雜誌の十二月號の出ないのはどうしたことか。

       ×

 凡そ同人雜誌は、新しい藝術の苗床であり花床でなければならない。然も今日多數の同人雜誌、同人雜誌作家の大部分は今尚今後幾度のメタモルフオーゼを行はなければ、その發芽にも至らぬやうに思へる。

       ×

 漠然とした新人なるものはあり得ない。

底本:「梶井基次郎全集 第一卷」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日初版第1刷発行
初出:「青空」
   1927(昭和2)年1月号
入力:土屋隆
校正:高柳典子
2005年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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梶井基次郎

「親近」と「拒絶」—-梶井基次郎

「スワン家の方」誌上出版記念會

 佐藤君と淀野の譯したこんどの本を讀んで見て第一に感じることは、プルウストといふ人がこの小説において「回想」といふことを完成してゐるといふことだ。その形而上學から最も細かな記述に至るまですつかりがこのなかにあると云つていい。しかし何から何までべた一面に書いたといふのではなくて、これにはプルウストの方法といふものがあつて、それによつて僕達は恰度經驗を二度繰り返すやうな思ひをさされるのだ。プルウストは意志的な記憶、理智の記憶といふやうなものでは決してこの回想を書いてゐない。プルウストの書いたことを引合ひに出して來れば、
「われわれが過去を喚起しようとするのは徒勞であり、われわれの理知のあらゆる努力は空しい。過去は、理智の領域のそと、その力のとどかないところで、思ひもかけない、何か物質的な物體のなかに(その物質的な物體がわれわれに與へるだらう感覺のなかに)隱されてゐる。」
 このやうな過去によつてプルウストは書いてゐるのだ。
 その前をもう少し出して來ると――
「私はあのケルト民族の信仰を非常に尤ものことと思ふ。それは、われわれの失つた人の魂が何か下等なもの、獸類とか、植物とか、無生物とかのなかに閉ぢ籠められてゐて、われわれがその木の傍を通るとか、その魂の捕へられてゐる物を所有するとかいふ日が來るまでは、(多くの魂にとつては、さういふ日は決して來ないのだが、)實際その魂はわれわれに失はれてゐる。その日が來ると魂は顫へ、われわれを呼ぶ、そしてわれわれがそれを認めると直ぐに、咒縛は破れるのだ。われわれによつて自由にされた魂は死を征服して、われわれの許に歸つて一緒に生きるといふのである。われわれの過去についてもこれと同樣である。」
 プルウストは過去といふものをこのやうに考へてゐる。またこのやうな考へから導き出されて來た方法はこの小説の全部に浸みわたつてゐて、どのやうに微細な感情のニユアンスでも彼は掴まへて來て生命を與へる。それによつて僕達はさきほども云つた經驗を二度繰返す切ない思ひにとらはれるのだ。
 プルウストのこのやうな考へ方は「失ひし時を索めて」と表題の脇に記された言葉でも明かだが、失つた記憶が生き返つて來るのはこんな風に全然他力で偶然で、そんな偶然が生涯にいくらあることか、われわれはそんな偶然をすつかり逃してしまはないために際限もなく待つてゐるといふ譯にはいかないので、次には死といふもう一つの偶然が僕達をさらつていつてしまふと感慨を洩らしてゐる所など、いかにも過去の思ひ出のみに生きたプルウストらしく僕達の感慨を強ひるのだ。しかしこれはまた一方、題材を狹い心内の世界に限りながら何册もの大作を書いたプルウストの意氣込みとも見ていいので、彼がどんなに尻を落付けてこの回想を綴らうとしてゐるかがわかるのだ。實際プルウストの尻の落ち付け方はたいしたもので、例へば「自分は叔父の以前ゐた部屋の方へ歩いて行つた」と書くとすると次はその叔父さんのことになり、芝居のことになり、女優のことになり、僕達がもう夙つくに前のひつかかりを忘れてしまつた頃になつてひよつくりまた部屋のことに歸つて來るといふ風で、讀む方でもよほどさういふところを氣をつけて讀まないとコンテイニユイテイを失つてしまつて面白くなくなつてしまふ。しかしまあ全體の構成がさういふ風にして出來てゐるので、それが回想といふもののとる最も自然な形態にはちがひないのだ。たとへて云つて見れば、田舍のお婆さんが病院へ來て自分の病氣を醫者に話してゐるときの説話法のやうなもので、それがまた最もインテイメイトな話し方でもあるのだ。實際このインテイメイトなプルウストの話し方は佛蘭西人の生活や生活感情と云つたものを、これまで僕達が佛蘭西の小説を讀んで親しんでゐたより以上に、よりリアルに、僕達に近づけたので、僕達はさう云つた生活のデイテイルに限りのない親しさを感じる一方、またこれまでにない拒絶の感情をもうけとるのだ。僕は一度ヴアイオリン彈きのクライスラーが舞臺にあらはれたのを見て、まるで狼が洋服を着て出て來たやうな大變「エトランジエ」の感じを起したことがあるが、こんどの感じもそれで、プルウストが彼の祖父さんや祖母さんをより生き生きと書けば書くほどその同じ「エトランジエ」の姿がくつきりして來る。このことはまた彼等の生活の敍述が必然僕達に縁のない佛蘭西人の信仰に固有な聖人の名だとか、教會の建物のこまごました部分の名だとか、さう云つたものの非常に多くを伴つて來ることからでも起り得るのだとも思ふ。
 プルウストの文章はプルウストの話し方が少し難かしい上に、今云つたインテイメイトな話し方で、大層譯すのに困難な長いセンテンスを持つてゐるやうだ。そこへまた今云つた聖人の名だとか、お菓子の名だとか、僕達がそれに相應した心像を持つてゐない名が二つ三つ行列してはひつて來るともう駄目で、到底一度では意味の通らない文章になつてしまふ。僕はこの誌上出版記念の會へ顏出しするために是非一と通りは讀んでしまひ度かつたのだが、文章のさういふところがかたまつて出て來るとついほかのことを考へてしまつて大層進みが惡かつた。また無理にこんな本を讀んでしまひ度くもないので、回想の甘美な氣持に堪へなくなつて來ると遠慮なく頁から眼を離し、かういふ人間のものを讀んでゐるとどこまで此方の素朴な經驗の世界が侵されてしまふかわからないと思ふとまた本を閉ぢてしまふのだ。
 プルウストのことについては立派な評論もあるだらうし、またこれからも立派なものが書かれるだらう。だから僕は喜んでこの半分しか讀んでゐない感想を書いて提出することとしよう。終りに臨んでこれから何册もこれを出してゆく譯者、佐藤君と淀野の自愛を願つておく。
(昭和六年九月)

底本:「梶井基次郎全集 第一卷」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日初版第1刷発行
初出:「作品」
   1931(昭和6)年9月号
入力:土屋隆
校正:高柳典子
2005年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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