一
将軍家斉の時代であった。天保の初年から天候が不順で旱天と洪水とが交※[#二の字点、1-2-22]《こもごも》襲い夏寒く冬暑く日本全国の田や畑には実らない作物が枯れ腐って凶年の相を現わしたが、俄然大飢饉が見舞って来た。将軍家お膝元大江戸でさえ餓※[#「くさかんむり/孚」、第3水準1-90-90]《がひょう》道に横たわり死骸から発する腥《なまぐさ》い匂いが空を立ち籠めるというありさまであった。
上野広小路に救い小屋を設けて、幕府では貧民を救助した。また浅草の米蔵を開いて籾《もみ》を窮民に頒ったりした。しかしもちろんこんな事では日々に増える不幸の餓鬼どもを賑わすことは出来なかった。米の磨汁《とぎしる》を飲むものもあれば松の樹の薄皮を引き※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《むし》って鯣《するめ》のようにして食うものもあり、赤土一升を水三升で解きそれを布の上へ厚く敷いて天日に曝らして乾いたところへ麩《ふ》の粉を入れて団子に円め、水を含んで喉を通し腹を膨らせる者もあった。金はあっても売り者《て》がないので、みすみす食物を摂ることが出来ず、錦の衣裳を纒《まと》ったまま飢え死にをした能役者もあった。元大坂の吟味与力の陽明学者の大塩平八郎が飢民救済の大旆《たいはい》のもとに大坂城代を焼き打ちしたのはすなわちこの頃の事である。江戸三界、八百八町、どこを見ても生色なく、蠢《うごめ》くものは飢えた人、餓えた犬猫ばかりであったが、わけても本所深川辺りは当時の盛り場であっただけ悲惨《みじめ》さは一層目に立った。
その本所の亀沢町に身分こそ徳川の旗本であったが小禄の貧しさは損じた門破れた屋敷の様子にも知れる左衛門太郎という武士があった。実子の麟太郎《りんたろう》はまだ少《わか》く額には前髪さえ立てていたがその精悍さは眼付きに現われその利発さは口もとに見え、体こそ小さく痩せてはいたが触れれば刎ね返しそうな弾力があった。
彼の一家も饑饉《ききん》に祟《たた》られ、その日その日の食い扶持《ぶち》にさえ心を労さなければならなかった。その貧困のありさまは彼の日記にこう書かれてある。「予この時貧骨に到り、夏夜|無※[#「巾+廚」、第4水準2-12-1]《かやなく》、冬|無衾《きんなく》、ただ日夜机に倚《よ》って眠る。しかのみならず大母病気にあり、諸妹幼弱|不解事《ことをかいせず》、自ら縁を破り柱を割《さ》いて炊《かし》ぐ、云々」ところで父の左衛門太郎は馬術剣術の達人で気宇《きう》人を呑む豪傑ではあったが平常賭け事や喧嘩を好んで一向家事を治めなかったので一家の会計は少《わか》い麟太郎が所理《とりおこな》わなければならなかった。
ある朝、麟太郎はいつものように破れた縁へ腰を掛け米の徳利搗《とっくりづ》きをやっていた。徳利搗きというのは他でもない。五合ばかりの玄米《くろごめ》を、徳利の中へ無造作に入れて樫《かし》の棒でコツコツ搗《つ》くのであって搗き上がるとそれを篩《ふるい》にかけその後で飯に炊《かし》ぐのであった。彼は徳利搗きをやりながらも眼では本を読んでいた。
その朝も米を搗き終えるといつものように釜へ移しに縁を廻って厨《くりや》へ行った。竈《かまど》の前へ片膝を突いて飯の煮えるのを待ちながらも手からは書物を放さなかった。武経七書を読んでいるのである。
紙の破れた格子窓からすぐに往来が見えていたが、その往来に佇《たたず》んで小鼓《こつづみ》を打っている者がある。麟太郎は書物から目を上げて音のする方を眺めて見た。銀のような白髪を背後《うしろ》で束《たば》ね繻珍《しゅちん》の帯を胸高に結んだ※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけた老女がこっちを見ながら静かに鼓を調べている。その物腰が上品で乞食《ものもらい》の類とは見えなかった。麟太郎はしばらく耳を澄まして鼓の音色《ねいろ》に聞き入った。いらいらしている人の心へ平和と慰安とを与えようとして遙かの青空からでも来たようなまことに穏《おだや》かな音色であって、それを聞いている麟太郎の心は自然自然に柔らげられた。父の性格を受け継いで豪放濶達の彼ではあったが打ち続く貧困と饑餓のためにこの日頃心は平和を失い、読んでいる書物の文字の意味さえ呑み込めないまでになっていたが鼓の音色を耳にするや否や平和が立ち帰って来たのである。
「それにしても老女は何者であろう。そしていったい何んのためにいつまでも鼓を打っているのであろう」
彼は不思議に思いながら厨《くりや》から外へ出て行った。そして老女へ近付いた。彼の眼に真っ先に映ったのは、名匠の刻んだ姥《うば》の面のような神々《こうごう》しい老女の顔であった。その次に彼の眼に付いたものは彼女の持っている鼓であった。漆黒《しっこく》の胴、飴色の皮、紫の締め緒を房々と結んだやや時代ばんだその鼓は生命《いのち》ない木製の楽器とは見えず声のある微妙な生物《いきもの》のように彼の瞳に映ったのであった。
「ご老女」と麟太郎は呼びかけた。しかしその後はどう云ってよいか継ぎ穂に困《こう》じて黙ってしまった。すると老女は仮面《めん》のような顔をわずか綻《ほころ》ばして笑ったが穏《おだや》かな調子でこう云った。
「どうぞあなたのお芳志《こころざし》をお施こしなされてくださいまし」
「容易《たやす》いことです、進ぜましょう」麟太郎は袂《たもと》へ手を入れたが鳥目《ちょうもく》などは一文もない。まして家の内を探したところで金のありよう筈がない。彼は当惑して赤面したが焚きかけの飯の事を思い出してにわかに元気付いて云うのであった。
「鳥目《ちょうもく》とてはござらぬが、饑饉《ききん》のおりから米飯がござる。それもわずかしかござらぬによって俺《わし》の分だけ進ぜましょう」――急いで厨《くりや》へ駈け込んで湯気《いき》の上がっている米飯を鉢へ移して持って来た。すると老女は頷《うなず》きながら穏かな声でこう云った。
「私は欲しゅうはござりませぬ。そこに仆れている饑えた人にそれを差し上げてくださいまし」
見ればなるほど往来の上に子を負った女が仆れている。子供の方は死んでいるらしい。麟太郎は女の側《そば》へ行って鉢の飯を膝の前へ置いてやった。それから老女を振り返って見たが、もうそこには老女はいなかった。遙か離れた往来の人混みの中から鼓の音が、餓鬼道の巷《ちまた》に彷徨《さまよ》っている血眼《ちまなこ》の人達の心の中へ平和と慰安と勇気とを注ぎ込もうとするかのように穏かに鳴るのが聞こえては来たが……。
麟太郎はふとした動機からその時まで懸命に学んでいた支那の学問を投げ捨てて当時流行の蘭学を取ったがこれが開運の基となって彼の世界は展開された。彼はこんな順に立身した。
蛮書翻訳係。軍艦練習所教授方頭取。それから咸臨丸の船長として米国へ航海した事もあった。作事奉行格並に軍艦奉行。もうこの頃は麟太郎は四十を幾年《いくつ》か越していた。そうして彼の名声は既に日本的になっていた。ある時は彼は塾を構えて有為の人材を養成した。坂本竜馬、陸奥宗光、いずれも彼の塾生であった。
しかし喬木風強し矣《い》! 幕府の執政に疑がわれて「寄合い」の身に左遷された。
ちょうどこの時分の事であった。欝勃《うつぼつ》たる覇気と忿懣とを胸に貯《たくわ》えた麟太郎は上野の車坂を本所の方へ騎馬でいらいらと走らせていた。燈火の点《つ》き初めた夕暮れ時で往来には人々が出盛っていた。人声、足音、物売りの叫び。やかましいほど賑やかであった。その時、騒然たる物の音を縫って鼓の音が聞こえて来た。麟太郎は思わず馬を止めて音のする方へ眼をやった。三十年前に一度見た姥の面のような顔を持った上品な老女が彼を見ながら鼓を打っているではないか。彼の心は静かに和《なご》み海のように胸が開けて来た。
翌日彼は召し出されて軍艦奉行を命ぜられたのである。
二
その後麟太郎はもう一度だけ鼓の持ち主に邂逅《いきあ》った。明治元年三月十三日のしかも日中のことである。この頃大江戸は釜で煮られる熱湯のように湧き立っていた。十五代続いた徳川家にようやく没落の悲運が来て、将軍|慶喜《よしのぶ》は寛永寺に屏居《へいきょ》し恭順の意を示している一方、幕臣達は隊を組んで安房、下総、会津等へ日に夜に脱走を企てる。征討大総督|有栖川宮《ありすがわのみや》は西郷隆盛を参謀として東山北陸東海の、三道に分れて押し寄せて来る。二百数十年泰平を誇ったさすが繁華な大江戸も兵燹《へいせん》にかかって焼土となるのもここしばらくの間となった。贅沢《ぜいたく》出来るのも今のうちだ、それ酒を飲め女を買えと、町人達まで自暴自棄となって悪事|三昧《ざんまい》に耽けるようになった。切り取り強盗《おしこみ》、闇討ち放火《つけび》、至る所に行なわれ巷の辻々には切り仆された武士の屍《かばね》が横たわっていたりまた武家屋敷の窓や塀には斬奸状が張られてあったり、二百万人を包容していた幕府所在地の大きな都には平和の影さえも見られなくなった。麟太郎は軍事取り扱かいという重大の役目を持っていたが強硬なる非戦論の主謀者として逸《はや》り立つ旗本八万騎を鎮撫しなければならなかった。彼は官軍に内通している獅子《しし》身中の虫と見られ、ある夜のごときは数十人の兵にその身辺を取りまかれ鉄砲の筒口を一斉に向けられ硝煙に包まれたことさえあった。
「慶喜の生命《いのち》は助けなければならない。江戸を兵燹《へいせん》から守らなければならない。好い策はないか。よい策はないか」と、寧日のない騒忙の裏にこの事ばかりを考えた。
「西郷に会おう。西郷は知己だ。会って赤誠《せきせい》を披瀝しよう」これが終局の決心であった。こう決心はしたものの心にはかなりの不安があった。多智大胆権謀無双、隼《はやぶさ》のような彼ではあったが、西郷との会見は重荷であった。
当日になると式服を纒《まと》い馬上に鞭を携えて薩州の邸へ歩ませた。芝高輪《しばたかなわ》まで向かう間に彼の眼に触れる事々物々は焦心の種ならぬはない。兵を近在に避けようとして荷車を曳く商人《あきゅうど》の群れ。刀の柄《つか》に手を掛けて四方に眼を配りながらノシノシ歩く家人《けにん》の群れ。店を開けている家は稀《まれ》である。陽はカンカンと照ってはいるが街々の姿は暗く見える。
突然、横町から十人余りの幕兵が塊《かた》まって現われたが、互いに耳打ちをしたかと思うと麟太郎の行く手を遮《さえぎ》った。そしてその中の頭領らしい一人の武士が声を掛けた。
「しばらくお待ちくだされい!」と。
麟太郎は静かに馬を止めた。それから彼らを見廻したが、「諸君の風貌は逼《せま》ってござるが、そもそも何事が起こりましたかな?」鋭い口調で詰問した。
彼らはそれには答えなかった。
「そういうご貴殿こそどこへ参られるな?」
「君命を帯びて薩州邸まで……」
「江戸開け渡しのご相談にか? フン」と一人が嘲笑った。麟太郎の張り切った神経はこの「フン」のために切れそうになった。怒りの声を張り上げて一句嘲罵を報いようとした。その刹那聞こえて来たものが、例の鼓《つづみ》の音である。春陽のようにも温かく松風のようにも清らかな、人の心を平和に誘う天籟《てんらい》のような鼓の音!
麟太郎の心に余裕が出来た。彼は穏かに微笑して訓すような口調でこう云った。
「諸君の身上はお察し申す。ただし、某《それがし》の考えはいささか諸君とは異なってござる。江戸を開くも開かぬも皆将軍家のおためでござる。全く他に私心はござらぬ――諸君のために某《それがし》計るに、東照神君の英霊の在《おわ》す駿州久能山に籠もられるこそ策の上なるものと存ぜられ申す。そこにて天下を窺《うかが》わせられい」
実《げ》にもと思う武士達の顔をズラリと一渡り見廻してから彼は手綱《たづな》を掻い繰った。馬は粛々と歩を運ぶ。危険は瞬間に去ったのである。
彼と西郷との会見について後年彼はある人に次のようなことを語ったことがある。
「薩摩屋敷へ行って見ると、すぐに一室へ案内された。しばらくすると西郷は洋服の足へ薩摩下駄を穿いて、熊次郎という僕《しもべ》を従え平気な顔をして現われた。庭から室へはいって来ると『先生おおきに遅刻し申した』こう云ってノッソリ座を構えたものだ。大事件を眼前に控えているようなそういった様子はどこにもない。俺も一向平気なものでしばらく雑談を交わせていたが、云うだけの事は云ってしまおうと俺は本題へはいって行った。懸河の弁を尽くしたものさ。すると西郷は膝へ手を置き黙って終いまで聴いていたが、
『いろいろ議論もございましょうが私が一身にかけましてお引き受けすることに致しましょう』と卒直に一言云ったものだ。これで会見はお終いだ。そして慶喜公のお命と江戸の命とが保証されたのさ」
爾来、麟太郎の生活は、やっぱり危険で困難であった。がしかしそのつど大勇猛心と海のように広い度量とで易々《やすやす》と荒濤《あらなみ》を凌《しの》いで行った。彼はいつでも平和であった。晩年になるといよいよ益益彼の襟懐は穏かになった。参議兼海軍卿。こんなに高い栄誉の位置に一度は登ったこともある。従二位勲一等伯爵という、顕爵さえも授けられた。とはいえ天性洒落の彼は誇りも驕《たか》ぶりもしなかった。いつも門戸を開放し来るに任せて談笑した。官吏も来れば相場師も来る。力士も来れば茶屋の女将《おかみ》も来る。
それはある日のことであったが、八百善《やおぜん》の女将が機嫌伺いに彼の屋敷を訪ずれた時、突然彼はこんなことを訊いた。
「女で、鼓の名人で、永生きをした者はなかったかえ? ……天保の時分にもう老人《としより》で明治の初年まで生きていた……」
「さあ」と女将は不思議そうに彼の顔色を窺いながらしばらくじっと考えていたが、
「志賀山初という名人が近年まで生きておりましたが」
「どんな様子の女だったね?」
「なかなか上品のお婆さんでした」
「それじゃその人かも知れないな……俺は三度まで逢ったんだがね。それもいつも往来でね」
「それで、何んですか、ご前とは、何か関係でもございましたので?」
「あるといえばあったようなもの、ないと云えばなかったようなものさ……ところで、初というその老女はどんな具合に死んだかな? 往来の上で野|倒《た》れ死にかな?」
「まさかそんな事もありますまい」女将の返辞は平凡であった。
明治三十一年の十二月十九日に彼は死んだ。眼を瞑《と》じる時こう云ったと看護のある人が公開した。
「いよいよ俺ももういけねえ」と。これは恐らく聞き違いであろう。彼は恐らくこう云ったのであろう。
「いよいよ俺ももう聞けねえ」と。鼓が聞けないと云ったのであろう。
姓は、勝。通称は、麟太郎。そして号は海舟であった。
底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
1924(大正13)年1月1日号
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
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