佐々木直次郎

落穴と振子 THE PIT AND THE PENDULUM エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe 佐々木直次郎訳

Impia tortorum longos hic turba furores
Sanguinis innocui, non satiata, aluit.
Sospite nunc patria, fracto nunc funeris antro,
Mors ubi dira fuit vita salusque patent.


「ここにかつて神を恐れざる拷問者の群れ、飽くことなく、
罪なき者の血に、長くそが狂暴の呪文《じゅもん》を育《はぐく》みぬ。
今や国土やすらかに、恐怖の洞穴はうちこわされ、
恐ろしき死のありしところ、生命と平安と現われたり」
[#ここから10字下げ]
〔パリのジャコバン倶楽部の遺趾《いし》に建てらるべき市場の門扉にしるすために作られた四行詩〕

 私は弱っていた、――あの長いあいだの苦痛のために、死にそうなくらいひどく弱っていた。そして彼らがやっと私の縛《いまし》めを解いて、坐ることを許してくれたときには、もう知覚が失われるのを感じた。宣告――恐ろしい死刑の宣告――が私の耳にとどいた最後のはっきりした言葉であった。それからのちは、宗教裁判(1)官たちの声が、なにか夢のような、はっきりしない、がやがやという音のなかに呑みこまれてしまうように思われた。それは私の心に回転[#「回転」に傍点]という観念を伝えた。――たぶん、水車の輪のぎいぎいまわる音を連想したからであったろう。それもほんのちょっとのあいだであった、やがてもう私にはなにも聞えなくなったから。しかし少しのあいだはまだ、私には眼が見えた、――がなんという恐ろしい誇張をもって見えたことであろう! 私には黒い法服を着た裁判官たちの唇が見えた。その唇は白く――いまこれらの言葉を書きつけている紙よりも真っ白に――そして怪奇なほど薄く、その冷酷――動かしがたい決意――人間の苦痛にたいするむごたらしい軽侮を強く示してあくまでも薄く、私の眼にうつった。私は、自分にとっては運命であるところの判決が、なおその唇から出ているのを見た。その唇が恐ろしい話しぶりでねじれるのを見た。その唇が私の名の音節を言う形になるのを見た。そしてそれにはなんの音もないので私は戦慄《せんりつ》した。私はまた、この無我夢中の恐怖の数瞬間に、その部屋の壁を蔽《おお》うている黒い壁掛けが静かに、ほとんど眼にたたぬほどかすかに、揺れるのを見た。それから私の視線はテーブルの上にある七本の高い蝋燭《ろうそく》に落ちた。最初はその蝋燭が慈悲深い様子をしていて、自分を救ってくれそうな白いほっそりとした天使たちのように思われた。だがその次には、たちまち非常に恐ろしい嫌悪の情が私の心をおそってきて、体じゅうのあらゆる繊維が流電池の線にでも触れたようにぴりぴりと震えるのを感じ、同時に天使の姿は炎の頭をした無意味な妖怪《ようかい》となってしまい、彼らからはなんの救いも得られないということがわかった。それから私の空想のなかへは、墓のなかにはさぞ甘美な休息があるにちがいないという考えが、美しい音楽の調べのように、しのびこんできた。この考えはゆっくりと、またこっそりとやってきて、それを十分味わえるようになるまでにはだいぶ長くかかったようであった。だが私の心がやっとはっきりとその考えを感じ、それを味わったちょうどその瞬間、裁判官たちの姿は魔法のように私の前から消えた。高い蝋燭は虚無のなかへ沈み、その炎もすっかり消えうせてしまった。真っ黒な暗闇がそれにつづいた。あらゆる感覚は冥府《めいふ》へ落ちる霊魂のように、狂おしい急激な下降のなかに嚥《の》みこまれるように思われた。そのあとはただ、沈黙と、静止と、夜とが、宇宙全体であった。
 私は気絶していたのであった。しかしそれでも意識がすっかり失われていたとは言いたくない。それがどれくらい残っていたかということは、ここで断定しようとは思わないし、書こうとも思わない。だがすべてが失われていたのではなかった。深い眠りのなかでも――いや! 無我夢中のときでも――いや! 気絶しているときでも――いや! 死んでいても――いや! 墓のなかにあってさえも、すべてが失われるものではないのだ[#「ものではないのだ」に傍点]。でなければ人間にとって不滅ということがなくなる。もっとも深い眠りから覚めるとき、我々はなにかしら[#「なにかしら」に傍点]薄紗《うすもの》のような夢を破るものである。しかし一秒もたつと(その薄いものはそれほど脆《もろ》いものであろう)我々はいままで夢をみていたことをもう覚えていない。気絶からよみがえるまでには二つの段階がある。第一は、心的もしくは精神的存在の知覚の段階であり、第二は、肉体的存在の知覚のそれである。もし我々がこの第二の段階に達したときに、第一の段階の印象を思い起すことができるとするなら、これらの印象が彼岸の深淵《しんえん》の記憶を雄弁に語っていると言ってもよいようだ。そしてその深淵とは――なんであるか? 我々はどうして、少なくともその深淵の影を死の影と区別したらいいか? しかし私が第一の段階と名づけたものの印象がもし意のままに思い起されないものとしても、長いあいだたったのちに、それらの印象が自然にやってきて、どこからやってきたのかと怪しむようなことはあるまいか? かつて一度も気絶したことのない人は、赤々と燃え輝いている石炭のなかに、不思議な宮殿やどこか見知ったような顔などを見る人ではない。世の多くの人々の眼にはうつらないような悲しげな幻影が空中に浮んでいるのを見る人でもない。なにかの珍しい花の香を嗅《か》いでもの思いにふける人でもない。いままではなんの注意もひいたことのないような音楽の韻律の意味を考えて頭が乱される人でもない。
 思い出そうとする考え深いいくたびもの試みの最中に、私の霊魂が落ちていったあの虚無らしい状態の形跡をよせ集めようとする熱心な努力の最中に、ときどきうまく思い出せたと思う瞬間があった。あとになって明晰《めいせき》な理性の保証するところによると、その無意識らしい状態にだけ関している記憶を、呼び起した短い、ごく短い時期があった。この影のような記憶がぼんやりと語っているところによると、背の高い者たちが、無言のまま私の体を持ち上げて、下の方へ――下の方へ――なおも下の方へと運んでいったので、とうとう私はその果てしない下降ということを考えただけで気持の悪い眩暈《めまい》に圧倒されてしまったのだ。また私は、心が不自然なほど静かだったので、漠然とした恐怖を感じたのだ。次にはすべてのものがみな急に動かなくなったという知覚がきた。まるで私を運んでいる者たち(恐ろしい一行!)が下降しながらとっくに限りないものの限界をも越えてしまって、彼らの労苦に疲れはてた歩みをとどめたかのように。そののちに思い起すのは平坦と湿気との感じである。それからはすべてが狂乱[#「狂乱」に傍点]――考えることを許されないいまわしいもののあいだを忙しくとびまわる記憶の狂乱である。
 まったくとつぜんに、私の魂に運動と音とが――心臓のはげしい運動と、耳に響くその鼓動の音とが、戻ってきた。それからいっさいが空白である合間。やがてまた音と、運動と、触覚――体じゅうにしみわたるぴりぴり疼《うず》く感覚。次に思考力を伴わない単なる生存の意識、――この状態は長くつづいた。それからまったくとつぜんに、思考力[#「思考力」に傍点]と、戦慄するような恐怖感と、自分のほんとうの状態を知りつくそうとする熱心な努力。つぎには無感覚になってしまいたいという強烈な願望。それから魂の急速なよみがえりと、動こうとする努力の成功。そして今度は審問や、裁判官たちや、黒い壁掛けや、宣告や、衰弱や、気絶などの完全な記憶。それからは、その後につづいたすべてのことの、後日になって熱心な努力でやっと漠然と思い起すことのできたすべてのことの、完全な忘却。
 これまでは私は眼を開かなかった。私は縛めを解かれて仰向けに横たわっているのを感じた。手を伸ばすと、何かじめじめした硬いものにどたりと落ちた。何分間もそこに手を置いたまま、自分がどこにいてどうなって[#「どうなって」に傍点]いるのか想像しようと努めた。眼を開いて見たかったが、そうするだけの勇気がなかった。身のまわりのものを最初にちらと見ることを私は恐れたのだ。恐ろしいものを見るのを恐れたのではない。なにも[#「なにも」に傍点]見るものがない[#「ない」に傍点]のではあるまいかと思って恐ろしくなったのだった。とうとう、はげしい自暴自棄の気持で、眼をぱっとあけてみた。すると私のいちばん恐れていた考えが事実となってあらわれた。永遠の夜の暗黒が私を包んでいるのだ。私は息をしようとしてもがいた。濃い暗闇は私を圧迫し窒息させるように思われた。空気は堪えがたいほど息づまるようであった。私はなおじっと横たわって、理性を働かせようと努めた。宗教裁判官のやり方を思い出して、その点から自分のほんとうの状態を推定してみようと試みた。宣告が言いわたされ、それから非常に長い時間がたっているような気がした。しかし自分が実際に死んでいると想像したことは一瞬時もなかった。そのような想像は、物語では読むことはあるが、ほんとうの生存とはぜんぜん矛盾するものである。――だが、いったい私はどこに、どんな状態でいるのであろう? 死刑を宣告された者が通常 〔autos-da-fe’〕(「信仰の行為(2)」)で殺されることは私も知っていた。そしてそれが私の審問された日のちょうどその夜にも執行されたのであった。私は自分の牢《ろう》へ送りかえされて幾月ものあいだ起りそうにもない次の犠牲を待つことになったのであろうか? そんなことがあるはずはないと私はすぐ悟った。犠牲者はすぐに必要なのだ。そのうえ、私の前の牢は、トレード(3)にあるすべての監房と同じように、石の床であって、光線がぜんぜんさえぎられてはいなかった。
 恐ろしい考えがこのとき急に念頭に浮び、血は奔流のように心臓へ集まった。そして少しのあいだ、私はもう一度無感覚の状態にあともどりした。我に返るとすぐ、全身の繊維が痙攣《けいれん》的に震えながらも、すっと立ち上がった。頭の上や身のまわりやあらゆる方向に両腕を乱暴に突き出してみた。なんにも触れなかった。それでも墓穴[#「墓穴」に傍点]の壁に突き当りはしないかと思って、一歩でも動くことを恐れた。汗が体じゅうの毛孔から流れ出て、額には冷たい大きな玉がたまった。この不安な苦痛にとうとう堪えられなくなった。そこで両手をひろげ、かすかな光線でもとらえようと思って眼を眼窩《がんか》から突き出すようにしながら、注意深く前へ動いた。私は何歩も進んだ、しかしやはりすべてが暗黒と空虚とであった。私はいままでよりも自由に呼吸をした。私の運命が少なくともいちばん恐ろしいものではないことはまず明らかであるように思われた。
 そしてなおも注意深く前へ歩きつづけているあいだに、今度はトレードの恐怖についてのいろいろの漠然とした噂《うわさ》が、私の記憶に群がりながら浮んできた。牢については前から奇妙なことが言い伝えられていた。――つくり話だと私はいつも思っていたが――しかしいかにも奇妙な、声をひそめてでなければくりかえして話すことができないくらいにもの凄《すご》い話であった。私はこの地下の暗黒の世界で餓死させられるのであろうか? さもなければ、たぶん、それよりもっと恐ろしいものではあろうが、どんな運命が私を待っているのであろうか? その結果が死であり、それも普通の苦しさ以上の死であろうということは、あの裁判官らの性質をよく知っている私には疑う余地もなかった。ただその方法と時間とが、私を考えさせ、あるいは悩ましたすべてであった。
 ひろげていた手はとうとうなにか固い障害物につき当った。それは壁であったが、石造らしく――ひどくなめらかで、ぬらぬらしていて、冷たかった。私はそれについて行った。ある昔の物語が教えてくれた注意深い警戒の念をもって、一歩一歩進んだ。しかし、この方法は牢の広さを確かめる手段とはならなかった。というのは、一まわりしてもとの出発点に戻っていても、そのことがわからないからであって、それほどその壁は完全に一様なものらしかった。そこで私は、宗教裁判所の部屋のなかへ連れて行かれたときにポケットのなかにあったナイフを探した。がそれはなかった。私の衣服は粗末なセルの着物にかわっていたのだ。出発点を認められるようにそのナイフの刀身をどこか石の小さい隙間にさしこんでおこうと思ったのであったが。しかしこの困難は、心が乱れていたので初めはどうにもできないもののように思われたが、実はちょっとしたものにすぎなかった。私は着物のへりを一部分ひき裂いてその布片《きれ》をずっと伸ばして、壁と直角に置いた。牢獄のまわりを手さぐりして回っているうちに、完全に一周すればこの布片に出会うことはまちがいない。少なくともそう私は考えた。だが、この牢の広さや、または自分の衰弱を、勘定に入れていなかった。地面はじめじめしてすべった。私はしばらくのあいだ前へよろめきながら進んでいたが、そのうちにつまずいて倒れた。ひどい疲労のために倒れたまま起き上がれなかった。そして横になるとすぐ眠りが私をおそった。
 目が覚めて、片腕を伸ばすと、かたわらには一塊のパンと水の入った水差しとが置いてあった。ひどく疲れきっていたので、私はこの事がらを十分考えてみることもなく、がつがつと貪《むさぼ》るように食ったり飲んだりした。それから間もなく牢獄のなかをまた回りはじめ、かなり骨を折ってやっとあのセルの布片のところへやってきた。つまずいて倒れるときまでに五十二歩を数え、また歩きはじめてからさらに四十八歩を数えて――そのときに布片のところへ着いたのであった。してみると全体で百歩あることになる。そして二歩を一ヤードとして私はこの牢獄の周囲を五十ヤードと推定した。しかし壁のところで多くの角に出会ったので、この窖《あなぐら》――窖であろうということは想像しないわけにはゆかなかった――の形状を推測することはできなかった。
 このような調査には私はほとんど目的を――たしかに希望などは少しも――持っていなかった。けれども漠然とした好奇心が私を駆ってその調査をつづけさせた。私は壁のところを離れて、この構内の地域を横断してみようと決心した。初めは非常に用心しながら進んだ。床は固い物質でできているらしかったが、ねばねばしていて油断がならなかったからだ。しかしとうとう勇気を出して、ためらわずにしっかりと足を踏み出した、――できるだけ一直線によぎろうと努めながら。こんなふうにして十歩か十二歩ばかり進んだときに、さっきひき裂いた着物のへりの残片が両足のあいだに絡まった。私はそれを踏みつけて、ばったりと俯向《うつむ》けに倒れてしまった。
 倒れた当座は狼狽《ろうばい》していたので、一つのちょっと驚くべき事がらにすぐ気づくわけにはゆかなかったが、何秒かたつと、まだ倒れているあいだに、それが私の注意をひいた。それはこういうことであった。私の頤《おとがい》は牢獄の床の上についていたが、唇や頭の上部が、顎よりも低くなっているらしいのに、なににも触れていないのである。同時に額がしっとりとした湿気にひたっているように思われ、腐った菌類の独得の臭いが鼻をついてきた。私は片手を突き出した。すると自分が円い落穴《おとしあな》のちょうど縁のところに倒れていることに気がついたので、ぞっと身ぶるいした。その落穴の大きさはもちろん、そのときには確かめる方法もなかったが。私はその縁のすぐ下の石細工のあたりを手さぐりして、うまく小さな石のかけらを取り出し、それをその深淵のなかへ落してみた。何秒ものあいだ、石が落ちてゆくとき落穴の壁につき当る反響に、私はじっと耳を傾けていた。とうとう陰鬱に水のなかへ落ちて、高い反響がそのあとにつづいた。それと同時に、頭上で戸をぱっとあけ、また同じようにすばやくしめるような音がして、一すじの弱い光線がとつぜん暗闇のなかにひらめいたかと思うと、またたちまちにして消えてしまった。
 私は自分のために用意されてあった運命をはっきりと知った。そしてちょうど折よく偶然に起った出来事によって助かったことを喜んだ。倒れる前にもう一歩進む、すると私はふたたびこの世に出ることができなかったのだ。そしていままぬかれた死こそは、宗教裁判所に関する話のなかで荒唐無稽な愚にもつかぬものと私のそれまで思いこんでいた種類のものであったのだ。宗教裁判の暴虐の犠牲者には、もっとも恐るべき肉体的の苦痛を伴う死か、またはもっともいまわしい精神的の恐怖を伴う死か、どちらかを選ぶのである。私はその後者を受けることになっていたのだ。長いあいだの苦痛のために、私の神経は自分の声にさえ身ぶるいするほど衰弱し、どんな点からでも、自分を待ち受けているこの種の迫害にはたいへん適当な材料となっていたのであった。
 手足をぶるぶる震わせながら、私は壁の方へ手さぐりで戻った、――私の想像力がいまこの牢獄のいろいろな位置にたくさん描き出した落穴の恐怖をおかすよりも、むしろその壁のところで死のうと心を決めながら。もっとも他の心持ちでいたときなら、私はこれらの深淵の一つへ跳びこんで一思いに自分の惨めな運命の結末をつけてしまう勇気があったろう。だがそのとき私はもっとも完全な臆病者であった。私はまたこれらの落穴について前に読んだこと――とっさに[#「とっさに」に傍点]生命を絶つということは彼らの恐ろしい計画のなかには少しもないということ――も忘れることができなかった。
 精神の興奮は幾時間も私を眠らせなかった。がとうとう私はふたたび眠りに落ちた。目を覚ますと、前と同じように一塊のパンと水の入った水差しとが置いてあった。焼くような渇きを覚えたので、私はその水差しの水を一飲みに飲みほした。それには薬がまぜてあったにちがいない、――飲むか飲まないうちにたまらなく睡くなったから。深い眠りが私におそいかかってきた、――死の眠りのような深い眠りが。どれだけ長くそれがつづいたか、もちろん私にはわからない。しかしまた眼を開いたときには、今度は身のまわりのものが見えるようになっていた。どこにその光源があるのか初めはわかりかねた異様な硫黄色の微光によって、この牢獄の広さや様子を見ることができたのだ。
 牢獄の大きさについて私はひどく思い違いをしていた。壁の全周囲は二十五ヤードを超えていなかった。この事実は数分のあいだ、私に役にも立たない非常な苦労をさせた。まったく役にも立たない、――なぜなら、私の取りまかれているこの恐ろしい事情のもとにあって、牢獄の面積などということよりも下らないことがあろうか? だが、私の心はつまらないことに異常な興味を持っていた。そして、測量をするときに自分が犯した誤ちの理由を明らかにしようとする努力に没頭した。とうとう真相が頭に閃《ひらめ》いた。最初に探索しようと試みたときには、倒れるまでに五十二歩を数えていた。そのときはセルの布片へもう一歩か二歩というところへまで来ていたにちがいない。実際、私はほとんど窖を一周していたのだ。それから眠った、――そして眼が覚めると、前に歩いたところを逆に戻ったにちがいない、――こうして周囲を実際のほとんど二倍に想像したのだ。心が混乱していたので、私は壁を左にして歩きだし、戻ったときには壁を右にしていたことに気づかなかったのだ。
 私はまた、この構内の形についてもだまされていた。手さぐりながら歩いたときに角がたくさんあったので、ずいぶん不規則な形だという考えを持っていたのであった。昏睡《こんすい》や睡眠からさめた者に与えるまったくの暗闇の効果というものはこんなに強いものなのだ! 角というのはただ、不規則な間隔をおいたいくつかの凹み、あるいは壁龕《へきがん》にすぎなかった。牢獄の全体の形は四角であった。私が前に石細工だと考えたものは、今度は鉄かあるいはなにか他の金属の大きな板らしく思われ、その継目《つぎめ》が凹みになっているのであった。この金属板を張った構内の壁の全面には、修道僧の気味の悪い迷信が生みだした恐ろしく厭《いと》わしい意匠の画が、不器用に描きなぐってあった。骸骨《がいこつ》の形をして脅すような容貌をした悪鬼の姿や、そのほか実に恐ろしい画像などが、一面にひろがって壁をよごしていた。私は、これらの怪物の輪郭は十分はっきりしているが、その色彩が湿った空気のためであろうか、褪《あ》せてぼんやりしているらしいことを認めた。それから今度は床にも注意してみた――が、それは石造だった。その真ん中に、さっきその虎口をのがれたあの円い落穴が口を開いていた。がそれはこの牢獄のなかにただ一つしかなかった。
 こういうことをすべて私はぼんやりと、しかも非常な努力をして、見たのだ。――というわけは、体の状態が眠っているあいだにひどく変っていたからである。今度は仰向けになって体をながながと伸ばし、低い木製の枠組《わくぐみ》のようなものの上に臥《ね》ていた。その枠に馬の上腹帯に似た長い革紐でしっかりと縛りつけられているのだ。革紐は手足や胴体にぐるぐると巻きつけてあって、頭と左腕とだけが自由になっていたが、その左腕も非常な骨折りをしてやっと、かたわらの床の上に置いてある土器の皿から食物を取ることができるだけの程度にすぎなかった。恐ろしいことには、水差しがなくなっていた。恐ろしいことには――というのは、堪えがたいほどの渇きのために体が焼きつくされるようであったからだ。この渇きを刺激するのが私の迫害者どもの計画であったらしい、――なぜなら皿のなかの食物はひりひりするように辛く味をつけた肉であったから。
 眼を上の方へ向けて、私はこの牢獄の天井を調べた。高さは約三、四十フィートであって、側面の壁と非常によく似た造りであった。その天井の鏡板の一枚にあるたいへん奇妙な画像が、私の注意をすっかり釘《くぎ》づけにするように強くひきつけた。それは普通によく描かれているような時《タイム》の画像(4)であって、ただ違うのは大鎌のかわりに、ちょっと見たところでは、古風な掛時計についているような巨大な振子《ふりこ》を描いたのであろうと想像されるものを、持っていることであった。しかしこの機械の様子には、なにかしら私にもっと注意深く眺めさせるものがあった。まっすぐに上を向いてそれを眺めると(というのはそれの位置はちょうど私の真上にあったから)、なんだかそれが動いているような気がした。間もなくその考えは事実だということがわかった。その振動は短く、もちろんゆっくりしていた。私はいくらか恐怖を感じながらも、それよりももっと驚異の念をもって、数分間それを見まもっていた。とうとうそののろい運動を見つめるのに疲れてしまって、監房のなかのほかの物に眼をうつした。
 かすかな物音が私の注意をひいたので、床の方に眼をやると、大きな鼠が何匹かそこを走っているのが見えた。彼らはちょうど私の右の方に見えるところにある例の井戸から出てきたのだ。私が眺めているときでさえ、彼らは、肉片の匂いに誘われて、がつがつした眼つきをして、あわただしそうに群れをなしてやってきた。彼らを脅して肉片によせつけないようにするには、たいへんな努力と注意が必要だった。
 ふたたび視線を上の方へ向けたときまでには、半時間か、それともあるいは一時間も(というのは完全に時間を注意することはできなかったから)たっていたかもしれない。そのとき見たことで、私はすっかり狼狽《ろうばい》し、驚かされた。振子の振動は一ヤード近くもその振幅を増しているのだ。当然の結果として、その速度もまた大きくなっていた。しかし、私がもっとも不安だったのは、それが眼に見えて下降してくる[#「下降してくる」に傍点]という考えであった。それから私は、その振子の下端がきらきら光る鋼鉄の三日月形になっていて、先端から先端までは長さが一フィートほどあり、その先端は上の方を向き、下刃は明らかに剃刀《かみそり》の刃のように鋭いということを見てとった。――それを見てどんなに恐ろしく感じたかは言うまでもない。それは剃刀のようにがっしりしていて重いらしく、刃の方からだんだんに細くなって、上は固くて幅の広い部分になっている。そして真鍮《しんちゅう》の重い柄につけてあって、空気を切って揺れるときに全体がしゅっしゅっと音をたてた[#「しゅっしゅっと音をたてた」に傍点]。
 私はもう、拷問の巧みな僧侶によって自分のために用意された運命を疑うことができなかった。私があの落穴に気がついたということは、とっくに宗教裁判所の役人どもには知れていた。――あの落穴[#「あの落穴」に傍点]――その恐怖こそ私のような大胆不敵な国教忌避者のために用意してあったのだ。あの落穴[#「あの落穴」に傍点]――それこそ地獄の典型であり、噂によれば彼らのあらゆる刑罰のなかの極点と考えられているものだ。この落穴に落ちこむことを、私はまったく偶然の出来事によってのがれたのであった。そして私は驚愕《きょうがく》、つまり拷問の罠《わな》に落ちこんで苦しむことが、この牢獄のいろいろな奇怪な死刑の重要な部分となっていることを知った。深淵へ落ちなかったからには、私をその深淵のなかへ投げ込むということは、かの悪魔の計画にはなかった。そこで(ほかにとるべき方法もないので)それより別の、もっとお手やわらかな破滅が私を待つことになったのだ。お手やわらかな! こんな言葉をこんな場合に使うことを思いつくと、私は苦悶《くもん》のなかでもちょっと微笑したのだった。
 鋼鉄の刃のもの凄い振動を数えているあいだの、死よりも恐ろしい長い長い幾時間のことを、話したところでなんになろう! 一インチずつ――一ライン(5)ずつ――長い年月と思われる間《ま》をおいて、やっとわかるような降り方で――下へ、もっと下へと、降りてくる! それがひりひりするような息で私を煽《あお》りつけるくらい身近に迫ってくるまでには、幾日か過ぎた、――幾日も幾日も過ぎたにちがいない。鋭い鋼鉄の臭いが私の鼻孔をおそった。私は祈った、――それがもっと速く降りてくるようにと、天がうるさがるほど祈った。気が狂ったようになり、揺れているその偃月刀《えんげつとう》の方へ向って自分の体を上げようともがいた。それからまた急に静かになって、子供がなにか珍しい玩具を見たときのように、そのきらきら輝く死の振子を見て微笑しながら横たわっていた。
 もう一度、まったく無感覚のときがあった。それは短いあいだであった。なぜなら、ふたたび我に返ったときに振子は眼につくほど下っていなかったから。しかしあるいは長いあいだであったかもしれない、――というのは、私の気絶するのに気をつけていて、振子の振動を思うままに止めることもできる悪魔どものいることを、私は知っていたから。正気づくとまた、私はひどく――おお! なんとも言いようもないほど――気分が悪く衰弱していることを感じた、ちょうど長いあいだの飢え疲れのように。その苦痛のあいだにさえ、人間の本能は食物を求めるのであった。私は苦しい努力をして左腕を紐の許すかぎり伸ばし、鼠が食い残しておいてくれた食物のわずかな残りを手に入れた。その一片を口のなかへ入れたとき、私の心には半ば形になった歓喜の――希望の――念が湧《わ》きあがった。しかしこの私が[#「この私が」に傍点]希望などになんの用があろう? それはいま言ったとおり、なかば形になった考えであった。――人はよくそんな考えを持つが、それは決して完成されるものではない。私はそれが歓喜の――希望の――念であることを感じた。しかしまたそれが形になりかけて消えてしまったことを感じた。それを仕上げようと――取りもどそうと努めたが無駄だった。長いあいだの苦しみは、私のあらゆる普通の心の能力をほとんど絶滅させてしまっていた。私は低能者になっていた、――白痴になっていた。
 振子の振動は私の身の丈《たけ》と直角になっていた。私は偃月刀が自分の心臓の部分をよぎるように工夫してあることを知った。それは外衣のセルを擦り切るだろう、――それから返り、そしてまたその動作をくりかえすだろう、――二回――三回と。振幅がもの凄く広くなり(約三十フィートか、またはそれ以上)、しゅっしゅっと音をたてて降りてくる勢いが鉄の壁さえ切り裂くくらいであっても、数分間というものはそれのすることはやはり私の外衣を擦り切ることだけであろう。ここまで考えてくると私の考えはとまった。この考えより先へは行けなかった。私はしつこくこの考えに注意を集めた、――ちょうどそうすれば鋼鉄の刃の下降をそこで[#「そこで」に傍点]とめることができるかのように。私は偃月刀が衣服を切って通るときの音を――布地が摩擦されることが神経にさわる奇妙なぞっとするような感覚を、わざと考えてみた。こうしたくだらないことをいろいろと歯の根が浮くくらいになるまで考えてみた。
 下へ――じりじり下へ、振子は這《は》い降りてくる。私はその振子の横に揺れる速度と、下へ降りてくる速度とを照らしあわせて、狂気じみた快感を感じた。右へ――左へ――遠く広く――悪鬼の叫びをあげて! 私の心臓めがけて、虎のような忍び足で下へ! この二つの考えのどっちかが力強くなるにしたがって、私はかわるがわるに笑ったり叫んだりした。
 下へ――まちがいなく、無情に下へ、それは私の胸から三インチ以内のところを振動しているのだ! 私は左腕を自由にしようとしてはげしく――猛《たけ》りくるって――もがいた。その左の腕はただ肘《ひじ》から手首までだけが自由になっていた。手は非常な苦心をしてやっとかたわらの皿から口のところへ動かせるだけで、それ以上は動かせなかった。もし肘から上の紐を切ることができたら、私は振子をつかまえて止めようとでもしたことであろう。それは雪崩《なだれ》を止めようとするのと同じようなことだ!
 下へ――なおも休みなく――なおも避けがたく下へ! それが振動するたびに私はあえぎ、もがいた。一揺れごとに痙攣的に身をちぢめた。眼はまったく意味のない絶望からくる熱心さで、振子が外の方へ、上の方へと跳びあがるあとを追った。そしてそれが落ちてくるときには発作的に閉じた、死は救いであったろうが。おお、なんという言うに言われぬ救いであろう! あの機械がほんの少しばかり下っただけであの鋭いきらきら光る斧《おの》を私の胸に突きこむのだ、ということを考えると、体じゅうの神経がみなうち震えた。この神経をうち震えさせ――体をちぢませるものは希望[#「希望」に傍点]であった。宗教裁判所の牢獄のなかであってさえ死刑囚の耳にささやくものは希望[#「希望」に傍点]――拷問台の上にあってさえ喜びいさむ希望――であった。
 もう十回か十二回振動すれば鋼鉄の刃が私の外衣にほんとうに触れるということがわかった。――そしてそれがわかると、ふいに、私の心には鋭い落ちついた絶望の静けさがやってきた。この幾時間ものあいだ――あるいはおそらく幾日ものあいだ――いま初めて私は考えた[#「考えた」に傍点]。すると、自分を巻いている革紐つまり上腹帯は一本だけ[#「一本だけ」に傍点]だということが思いついた。私は何本もの紐で縛られているのではなかった。剃刀のような偃月刀の最初の一撃が紐のどの部分をよぎっても、その紐が切りはなされて、左手を使って体から解きはなすことができるにちがいない。だが、その場合には鋼鉄の刃のすぐ近くにあることがどんなに恐ろしいことだろう! ほんのちょっとでももがいたらどんなに危ないことになるだろう! そのうえに拷問吏の手下どもが、こんなことがありそうだと察して、それに備えておくということもありそうなことではなかろうか? 紐が私の胸の振子の通るところに巻いてあるということがありそうだろうか? このかすかな、そして最後と思われる希望が破られるのを恐れながらも、私は胸のところをはっきり見られるくらいにまで頭を上げてみた。革紐は手足も胴も縦横にぐるぐると堅く巻いてあった、――ただ人をうち殺すその偃月刀の通り路だけはのけて[#「ただ人をうち殺すその偃月刀の通り路だけはのけて」に傍点]。
 頭をもとの位置に下ろすとすぐ、前にちょっと言ったところの、そしてその半分が、燃えるような唇に食物を持って行ったときにぼんやり浮んだところの、あの救いという考えのまだ形をなさない半分、というより以上にうまく言いあらわせないものが、私の心にひらめいた。全体の考えがいまあらわれてきたのだ。――弱い、あまり正気でもない、あまりはっきりしないものであったが、――それでもとにかく全体であった。私はすぐに自暴自棄の勇気で、その考えの実行にとりかかった。
 もう幾時間も、私の臥ている低い枠組のすぐ近くには、鼠が文字どおり群がっていた。彼らは荒々しく、大胆で、がつがつして飢えていた。――彼らの赤い眼は、ただ私が動かなくなりさえしたら私を餌食にしようと待ちかまえているように、私の方を向いてぎらぎらと光っていた。「この井戸のなかであいつらはいったいどんな食物を食いつけてきたのだろう?」と私は考えた。
 彼らは、私がいろいろ骨を折って追い払おうとしたのに、もう皿のなかの食物をちょっぴり残しただけで、すっかり食いつくしてしまっていた。私はただ手を皿のあたりに習慣的に上げ下げして振っていたのだが、とうとうその無意識に一様な運動は効き目がなくなってしまった。貪欲《どんよく》にも鼠どもはちょいちょい鋭い牙《きば》を私の指につきたてた。私は残っている脂っこいよい香のする肉片を、手のとどくかぎり革紐にすっかりなすりつけて、それから手を床からひっこめて、息を殺してじっと臥ていた。
 初めはその飢えきった動物どもも、この変化に――運動の中止されたのに――驚きおそれた。彼らはびっくりして尻込みした。井戸の方へ逃げたやつも多かった。しかしこれはほんのしばらくのことにすぎなかった。彼らの貪欲をあてにしたのは無駄ではなかった。私が身動きもしなくなったのを見てとると、いちばん大胆なやつが一、二匹、枠の上に跳びあがって、革紐を嗅《か》いだ。これがまるで総突撃の合図のようであった。彼らは井戸から出てきて、新たに群れをなして駆け集まってきた。枠の木にかじりつき――それを乗りこえ、そして幾百となく私の体の上に跳びあがった。振子の規則正しい運動などはちっとも彼らの邪魔にはならなかった。彼らは振子に撃たれるのを避けながら、油を塗った革紐に忙しく群がった。彼らは押しよせ――群がって私の上に絶えず積みかさなった。咽喉の上でのたうちまわった。その冷たい唇が私の唇を探した。彼らの群がってくる圧迫のために私はなかば窒息しかかった。なんとも言いようのない不快な感じが胸に湧きあがり、じっとりとした冷たさで心臓をぞっとさせた。それでも一分もたつと、私はこの争闘もやがて終ってしまうだろうと感じた。私は革紐の緩むのをはっきりと悟った。すでに一カ所以上も切れているにちがいないことがわかった。超人間的の決心をもって、私はじっと[#「じっと」に傍点]横たわっていた。
 私の予想はまちがっていなかった、――忍耐も無益ではなかった。やっと私は自由[#「自由」に傍点]になったのを感じた。革紐は幾すじかになって体からぶら下がった。しかし振子の刃はもう胸のところに迫った。それは外衣のセルを裂いていた。その下のリンネルも切っていた。またも二回揺れた。すると鋭い苦痛の感覚があらゆる神経に伝わった。しかし逃げ出る瞬間がきているのだ。手を一振りすると、私の救助者どもはあわてふためいてどっと逃げさった。じりじりと身を動かし――気をつけて、横ざまにすくみながら、ゆっくりと――革紐からすりぬけて、偃月刀のとどかないところへ身をすべらした。少なくとも当分は、私は自由になったのだ[#「私は自由になったのだ」に傍点]。
 自由! ――宗教裁判所の手につかまれながら! 恐怖の木の寝台から牢獄の石の床に足を踏み出すとすぐ、あの地獄のような恐ろしい機械の運動がぴったりと止り、なにか眼に見えない力でするすると天井の上に引き上げられるのを私は見た。これは非常に強く身にしみた教訓であった。私の一挙一動がみな看視されていることは疑いがない。自由! ――私はただ苦悶の一つの形式による死をのがれて、なにか他の形式の、死よりもいっそう悪いものの手に渡されることになったにすぎないのだ。そう考えながら、私をとり囲んでいる鉄の壁をびくびくして見まわした。なにか異常なことが――初めははっきりと見分けることのできなかったある変化が――この部屋のなかに起ったことは明らかであった。何分間も夢み心地にわななきながら茫然《ぼうぜん》として、私はただいたずらにとりとめのない臆測にふけっていた。そのあいだに、この監房を照らしている硫黄色の光の源を初めて知るようになった。それは幅半インチほどの隙間からくるのだ。その隙間というのは壁の下の方で牢獄をぐるりと一まわりしている。だから壁は床から完全に離れているように見えたし、またほんとうに離れていたのである。その隙間からのぞこうと骨を折ったが、もちろん無駄であった。
 この試みをやめて立ち上がると、この部屋の変化の神秘が急に理解されるようになってきた。私は前に、壁上に描かれている画の輪郭は十分はっきりしてはいるが、その色彩がぼんやりしていて明瞭ではないようだということを述べた。ところがその色彩がいまや驚くほどの強烈な光輝を帯びて、しかも刻一刻とその光輝を増し、その幽霊のような悪鬼のような画像を、私の神経より強い神経をさえ戦慄させるほどの姿にしたのだ。狂暴なもの凄い生き生きした悪魔の眼は、らんらんとして前にはなにも見えなかったあらゆる方向から私をにらみつけ、気味のわるい火の輝きでひらめくので無理にも想像力でそれを幻だと考えてしまうわけにはゆかなかった。
 幻どころか! ――呼吸をするときでさえ、灼熱《しゃくねつ》した鉄の熱気が鼻をついてくるのだ! 息のつまるような臭いが牢獄に満ちた! 私の苦悶をにらんでいる眼は一刻ごとにらんらんとした光を強くした! 血の恐怖の画の上には真紅のもっと濃い色がひろがった! 私はあえいだ! 息をしようとしてあえいだ! 私の迫害者どもの計画についてはなんの疑いもない、――おお、人間のなかでもいちばん無慈悲な! おお、いちばん悪魔のような者ども! 私はその真っ赤に熱した鉄板から監房の真ん中の方へあとじさりした。眼の前にさし迫った火刑の死を考えると、あの井戸の冷たさという観念が、苦痛をやわらげる香油のように心に浮んできた。私はその恐ろしい井戸のふちへ走りよった。眼を見はって下の方を見た。燃えたった屋根のぎらぎらする光が井戸の奥そこまで照らしていた。それでもしばらくは、私の心は錯乱していて自分の見たものの意味を理解しようとはしなかった。やっとそれが私の心に入ってきた、――無理に押し入った、戦《おのの》き震える理性に焼きつけた。おお、ものを言う声が出たらいいのだが! ――ああ、恐ろしい! ――ああ、このほかの恐ろしさならなんでもよい! 鋭い叫び声をあげて私はそのふちから駆けもどり、両手に顔をうずめた、――はげしく泣きながら。
 熱は急速に増した、私は瘧《おこり》の発作のようにぶるぶる震えながら、もう一度眼をあげた。監房のなかには二度目の変化が起っていた、――そして今度の変化は明らかに形[#「形」に傍点]に関するものであった。前と同様に、初めのうちは起りつつあることを感知し理解しようと努めたが、無駄だった。だが、疑念のなかにとり残されているのも長くはなかった。二回も私がのがれたので、宗教裁判所は復讐《ふくしゅう》を急いでいた。そして懼怖《おそれ》の王(6)とこのうえふざけているわけにはゆかなくなったのだ。部屋は前には四角形であった。私はいまその鉄の四隅のなかの二つが鋭角をなしているのを――したがって当然ほかの二つは鈍角をなしているのを認めた。この恐ろしい角度の違いは、低くごろごろいうような、または呻《うめ》くような音とともに急速に増した。またたくまに部屋はその形をかえて菱形となった。しかしこの変化はそれでやみはしなかった、――私はそれがやむのを望みもしなければ願いもしなかった。その灼熱した壁を私は、永遠の平和の衣服として胸にぴったり着けることができるのだ。私は言った、「死――この落穴の死でさえなければどんな死でもいい!」ばかな! この落穴のなかへ[#「この落穴のなかへ」に傍点]私を駆りたてるのが、この燃える鉄板の目的であることを知らなかったのか? その灼熱に耐えることができるか? あるいはもしそれに耐えることができるとしても、その圧力に逆らうことができるか? そしていまや菱形は、なにも考えるひまを与えないくらいの速さでますます平たくなってきた。その中心、つまりその幅の広いところは、大きく口を開いているあの深淵の真上であった。私はたじろいだ、――が迫ってくる壁は抵抗できないように私を前へ押しすすめた。とうとう焼けこげて悶《もだ》えくるしむ私の体には、もう牢獄の堅い床の上に一インチの足場もなくなった。私はもうもがかなかった、が私の苦悶は、一声の高い、長い、最後の、絶望の絶叫となってほとばしった。私は自分が落穴のふちへよろめきよったのを感じた、――私は眼を逸《そ》らした――
 がやがやいう人声が聞えた! 多くの喇叭《らっぱ》の音のような高らかな響きが聞えた! 百雷のような荒々しい軋《きし》り音が聞えた! 炎の壁は急にとびのいた! 私が失神してその深淵のなかへ落ちこもうとした瞬間に、一つの腕がのびて私の腕をつかんだ。それはラサール将軍(7)の腕であった。フランス軍がトレードに入ったのだ。宗教裁判所はその敵の手に落ちた。

(1) 十二世紀ごろから始まりその後数世紀にわたって、ローマ教会の教権擁護のために、異端その他宗教に関する罪悪を摘発撲滅するために行われた、歴史上有名な裁判。――フランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ポルトガル、その他ヨーロッパの諸国においてさかんに行われて、異教徒の迫害に利用され、ことにスペインにおける宗教裁判はその糺問《きゅうもん》が峻烈《しゅんれつ》で処刑が残酷なので有名であった。第十八世紀にいたってようやくやみ、スペインでは最も遅く、一八三四年まで行われた。
(2) ポルトガル語で「信仰の行為」の意。宗教裁判所の異教徒処刑の判決宣告式、およびその処刑、ことに火刑を言う。ここではその火刑の意味である。――宗教裁判において有罪と決定されたものは、異端の帽と異端の服とをつけさせられ僧侶の行列に囲まれて、跣足《はだし》で市街をひきまわされ、最後に聖壇の前に立って死刑を宣告され、刑吏の手によって生きながら焚《や》き殺されるのであった。
(3) Toledo――スペイン中央部のトレード州の町。マドリッドの南西にある。
(4) 普通よく見られるとおり、大鎌を肩にし、砂時計を手にしている老人の画。
(5) 一インチの十二分の一の長さ。
(6) 「死」のこと。――旧約ヨブ記第十八章第十四節、「やがて彼はその恃《たの》める天幕より曳離《ひきはな》されて懼怖の王[#「懼怖の王」に傍点]の許《もと》に駆《おい》やられん」
(7) Antonie Charles Louis Colinet Lasalle(一七七五―一八〇九)――ナポレオン一世の部下の有名な将軍。彼がスペインに攻め入ったのは一八〇八年である。
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底本「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1977(昭和52)年5月10日40刷改版
   1998(平成10)年12月25日78刷
※本文中の(1)~(7)は訳注番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように小書きされています。
入力:江村秀之
校正:鈴木厚司
2005年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木直次郎

宝島 宝島 スティーブンソン Stevenson Robert Louis-佐々木直次郎訳

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買うのを躊躇する人に


もしも船乗《ふなのり》調子の船乗物語や、
 暴風雨《あらし》や冒険、暑さ寒さが、
もしもスクーナー船や、島々や、
 置去《おきざ》り人《びと》や海賊や埋められた黄金《おうごん》や、
さてはまた昔の風のままに再び語られた
 あらゆる古いロマンスが、
私《わたし》をかつて喜ばせたように、より賢い
 今日《こんにち》の少年たちを喜ばせることが出来るなら、
――それならよろしい、すぐ始め給え! もしそうでなく、
 もし勉強好きな青年たちが、
昔の嗜好を忘れてしまい、
 キングストンや、勇者バランタインや、
森と波とのクーパー(註一)[#「(註一)」は行右小書き]を、もはや欲しないなら、
 それもまたよろしい! それなら私と私の海賊どもは、
それらの人や彼等の創造物の横《よこたわ》る
 墳墓の中に仲間入りせんことを!
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第一篇 老海賊

第一章「ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」へ来た老水夫

 大地主のトゥリローニーさんや、医師のリヴジー先生や、その他の方々《かたがた》が、私に、宝島についての顛末を、初めから終りまで、ただまだ掘り出してない宝もあることだから島の方位だけは秘して、すっかり書き留めてくれと言われるので、私は、キリスト紀元一七――年に筆を起し、私の父が「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋(註二)[#「(註二)」は行右小書き]」という宿屋をやっていて、あのサーベル傷のある日に焦《や》けた老水夫が、初めて私たちの家《うち》に泊りこんだ時まで、溯ることにする。
 私は、彼が、船員衣類箱(註三)[#「(註三)」は行右小書き]を後から手押車《ておしぐるま》で運ばせながら、宿屋の戸口のところへのそりのそりと歩いて来た時のことを、まるで昨日《きのう》のことのように覚えている。背の高い、巌乗な、どっしりした、栗色の男だった。タールまみれの弁髪がよごれた青い上衣の肩に垂れていた(註四)[#「(註四)」は行右小書き]。手は荒れて傷痕だらけで、黒い挫けた爪をしていた。そしてサーベル傷が片頬にきたなく蒼白くついていた。私はまた覚えている。彼は入江を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、そうしながらひとりで口笛を吹いていたが、それから突然、その後もたびたび歌ったあの古い船唄を歌い出したのだった。――


「死人箱《しびとのはこ》にゃあ十五人――
  よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!

 揚錨絞盤《キャプスタン》の梃《てこ》を[#「梃《てこ》を」は底本では「挺を」]※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すのに調子を合せて歌って嗄《しゃが》らしたらしい、高い、老いぼれたよぼよぼの声だった。それから彼は持っていた木挺のような[#「木挺のような」はママ]棒片《ぼうぎれ》で扉《ドア》をこつこつと叩き、私の父が出ると、ぶっきらぼうにラム酒を一杯注文した。それを持ってゆくと、彼は、酒の品評家のように、ちびりちびりと味いながらゆっくり飲み、その間も、あたりの断崖を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したり店の看板を見上げたりしていた。
「これぁ便利な入江だ。」とようやく彼は言い出した。「この酒屋も気の利いた処《とこ》にあるな。客は多いかね、大将《てえしょう》?」
 父は、いや、残念ながら客はごく少くてどうも、と彼に言った。
「うむ、そうか、」と彼は言った。「じゃあ己《おれ》にゃ持って来いの泊り場所だ。おいおい、お前《めえ》、」と手押車を押して来た男に呼びかけて、「ここへ車をつけて己の箱をおろしてくんねえ。己はしばらくここに泊ることにするぜ。」と言い続けた。「己ぁあっさりした男でな。ラムと|卵かけ塩漬豚肉《ベーコン・アンド・エッグズ》さえあれぁいいんだ。そしてあそこのあの岬を通る船を見張ってるのさ。己を何と言ったらいいって? 船長と言って貰《もれ》えてえ。おお、なるほど、あれか、――そうれ。」と彼は三枚か四枚の金貨を閾《しきい》のところへ投げ出した。「そいつがすっかりなくなったら、そう言って来い。」と司令官のように厳《いかめ》しい顔をして言った。
 そして、実際、衣服こそ粗末でものの言い方もぞんざいではあったけれども、彼には平水夫《ひらすいふ》らしいところは少しもなく、平生人をこき使ったりぶん殴ったりし慣れている副船長か船長のように思われた。手押車を押して来た男の話によれば、彼はその日の朝「|ジョージ王《ロイアル・ジョージ》屋」のところで駅逓馬車(註六)[#「(註六)」は行右小書き]を降り、海岸沿いにどんな宿屋があるかと尋ねて、私の家が多分評判がよく、また一軒離れていると聞かされたのであろう、他のところよりも私の家を滞在処に択んだのだという。そしてこの客人について私たちの知り得たことはそれだけだった。
 彼はいつもごく無口《むくち》な男であった。昼は一日中、真鍮の望遠鏡を持って、入江の周りや、または断崖の上をうろついていた。晩はずっと談話室《パーラー》の隅の炉火のそばに腰掛けて、あまり水を割らない強いラムを飲んでいた。話しかけられても大抵は口を利かなかった。ただ不意におそろしい顔をして見上げ、霧笛のように鼻を鳴らすだけだった。で、私たちも家《うち》のあたりへ来る人々も間もなく彼を相手にしないようになった。毎日、彼は、ぶらぶら歩きから帰って来ると、だれか船乗《ふなのり》が街道を通って行かなかったかと尋ねるのが常であった。初めのうちは、私たちは、彼がこういう質問をするのは自分と同じ仲間がほしいからだと思っていた。が、彼には、彼がそういう連中を避けたがっているのだということがわかりかけて来た。海員が「ベンボー提督屋」に泊ると(折々海岸伝いにブリストル(註七)[#「(註七)」は行右小書き]へ行く者が泊ることがあったのだ)、彼はカーテンをつけてある入口からその男を覗いて見てから、談話室へ入るのであった。そしてだれでもそういう人のいる時には、彼はいつでも必ず小鼠のようにこっそりしていた。少くとも私だけには、この事柄は不思議ではなかった。というのは、私は幾分彼と懼れを共にする者であったからである。彼は或る日私を脇へつれて行き、もし「一本脚の船乗を油断なく」見張っていて、見えたらすぐに知らせてくれさえしたら、毎月の一日に四ペンス銀貨を一枚ずつやると約束したのだ。月の一日が※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って来て、私が自分の報酬を請求すると、彼はただ私に向って鼻を鳴らして、私をじっと睨みつけることが、たびたびあった。が、その週の終らないうちに必ず考え直して、その四ペンスの銀貨を持って来てくれ、「一本脚の船乗」に気をつけておれという例の命令を繰返した。
 その人物がどんなに私の夢を悩ませたかは、言うまでもないくらいである。嵐の夜々、風が家全体を揺り動かし、激浪が入江や断崖に轟きわたる時には、その男がいろいろの姿で、またいろいろの悪魔のような形相をして現れるのであった。時には脚が膝のところで切れており、時には股《もも》のつけ根から切れていた。また時には、もとからその一本脚しかなくて、それが胴体の真中についているという怪物であることもあった。その男が生垣《いけがき》や溝を跳び越えてぴょんぴょん跳びながら私を追っかけて来るのは、中でも一番怖しい悪夢であった。で、結局、私は毎月四ペンスの金《かね》を貰うためにこんな忌わしい妄想に悩まされて、かなり割が合わない訳だった。
 しかし、私はその一本脚の船乗のことを思うとそんなに脅かされはしたけれども、船長その人には彼を知っている他のだれよりもずっと怖《こわ》くはなかった。彼は頭がもたないほどのたくさんのラムを飲む晩もあったが、そういう時には、時としては、坐りこんで例のいやな古い奇怪な船唄を歌い、だれをも念頭に置かなかった。が「時には、みんなにぐるりと杯をゆきわたらせて、ぶるぶるしている一座の者すべてに、無理に自分の話を傾聴させたり、自分の歌う後をつけて合唱させたりすることもあった。「よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と」で家が家鳴《やな》りするのを、私はたびたび聞いたことがある。近所の人々は皆びくびくしながら一所懸命に歌う仲間入りをし、目をつけられないようにと銘々が互に競って大声を出して歌ったのだ。なぜなら、こういう発作の時には彼はこの上なく高飛車に出たからで、みんなに黙れと言ってテーブルを手でぴしゃりと打つ。何か尋ねるとかっと癇癪を起したり、時には何も尋ねないからと言って、一座の者が自分の話を聞いていないのだときめこんで、怒ったりする。そして、自分が眠くなるまで飲んで寝床へよろめきこむまでは、だれ一人も宿屋を立去らせようとしないのであった。
 彼の話は中でも最も人々を怖がらせたものであった。それは実に恐しい話だった。首絞《くびし》めや、板歩かせ(註八)[#「(註八)」は行右小書き]や、海上の暴風雨《あらし》や、ドゥライ・トーテューガズ(註九)[#「(註九)」は行右小書き]や、スペイン海(註一〇)[#「(註一〇)」は行右小書き]での乱暴な所業やそこの土地土地などの話だった。彼自身の言うところから察すれば、彼はかつて海上を航海した最も邪悪な人間どもの間で過して来た者に相違ない。そして彼がこういう話をする時の言葉遣いは、彼の語った罪悪とほとんど同じくらいに、樸訥な私たちの田舎の人々をぞっとさせたのであった。父は、これでは宿屋も潰されてしまうだろう、やたらにいじめつけられ、口を利けば呶鳴《どな》りつけて黙らされ、震えながら寝床へやらされるのでは、間もなくだれもここへ来なくなるだろうから、といつも言い言いしていた。しかし、私は、彼が泊りに来たことは私たちのためになったと、ほんとうに信じている。人々もその当時は怖がっていたが、しかし振り返ってみると彼のいたことをむしろ好いていたのだ。それは平穏無事な田舎の生活には素敵な刺激だった。そして、若い人たちの中には、彼のことを「まことの船乗」だとか、「ほんとの老練な水夫」だとか、その他そういうような名で呼び、イギリスが海上で覇をなしたのはああいう類《たぐい》の人がいたればこそだと言って、彼に敬服するような顔をする連中さえもいたのである。
 一方から言えば、実際、彼は私たちの家を潰しそうにも思われた。というのは、彼は幾週も幾週も、そうしてついには幾月も幾月も滞在し続けたので、前の金はみんなとっくに使い尽したのだが、それでも父にはどうしてもまた勘定を頂きたいと言い張るだけの勇気が出なかったのである。もしいつでもそれをちょっと口に出したところで、船長は唸ると言ってもいいくらいに大きく鼻息を鳴らして、可哀そうな父を睨みつけて部屋から追い出してしまうのだった。そんなのにはねつけられた後に父が両手を揉み絞って(註一一)[#「(註一一)」は行右小書き]いるのを私は見たことがある。そして、そんな苦悩や恐怖の中に日を送ったことがきっと父の不幸な若死《わかじに》をよほど早めたのに違いないと思う。
 船長は、私たちのところにいた間に、靴下を数足行商人から買った他《ほか》には、身につけるものを何一つ変えたことがなかった。帽子の縁《ふち》の上反《うわぞり》が一箇処垂れると、彼はその日以来それをぶら下げておき、風の吹く時などずいぶんうるさいにも拘らず、そのままにしていた。私は彼の上衣の有様も覚えているが、彼は二階の自分の部屋でそれに綴布《つぎ》をあて、死ぬ前にはそれはまったく綴布だらけだった。彼は手紙を一度も書くこともなければ受取ることもなかったし、近所の人たち以外にはだれとも口を利いたこともなく、その人たちと口を利くのも大概はラムに酔った時だけだった。例の大きな船員衣類箱は私たちの中のだれ一人も開けてあるのを見た者はかつてなかった。
 彼は一度だけ逆《さから》われたことがあった。それはもう彼の末期に近い頃で、私の父が死病に罹って病勢がよほど進んでいる時のことだった。リヴジー先生が或る日の午後遅く父を診《み》に来て、母の出したちょっとした夕食をとり、「ベンボー屋」には厩舎《うまや》がなかったので、村から馬が迎えに来るまで一服やろうと談話室へ入って行った。私は先生の後からついて入ったが、雪のように白い髪粉《かみこ》をつけ(註一二)[#「(註一二)」は行右小書き]、きらきらした黒い眼をした、挙動の快活な、品のよい立派なその医師と、粗野な田舎の人々、就中《なかんずく》、ラムが大分※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、テーブルに両腕を張って腰掛けている、垢じみた、鈍重な、酔眼朦朧たる、ぼろぼろ着物の案山子《かかし》みたいな例の海賊君との対照が、目に止ったことを覚えている。突然、彼は――というのは船長のことだが――あの相も変らぬ唄を歌い出した。――


「死人箱にゃあ十五人――
  よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!
 残りの奴は酒と悪魔が片附《かたづ》けた――
  よいこらさあ、それからラムが一罎と!

 初め私は「死人箱《しびとのはこ》」というのは二階の表側の室にある彼のあの大きな箱のことだと思っていて、それが私の悪夢の中では例の一本脚の船乗のこととこんがらかっていたものだった。しかしこの時分には私たちは皆とっくにその唄に特別の注意を払わなくなっていた。で、それは、その晩、だれにも珍しくはなかったのだが、リヴジー先生だけには初めてで、先生にはあまりよい感じを起させなかったのを私は見て取った。というのは、先生はいかにも腹を立てた顔でちょっとの間見上げたからで、それから植木屋のテーラー爺さんにリューマチスの新療法についての話を続けた。とかくしているうちに、船長は自分の歌でだんだんと元気づいて来て、とうとう前のテーブルを手でぴしゃりと敲いた。黙れ――という意味であることを私たちみんなが知っているやり方だった。みんなの話し声はぴたりと止んだが、リヴジー先生の声だけは別であった。彼は、はっきりと穏かにしゃべり、言葉の合間合間にパイプをぱっぱっと吸いながら、前の通りに話し続けた。船長はしばらくの間彼を睨みつけ、それからもう一度手でぴしゃりと敲いて、さらに強く睨み、とうとうひどい野卑な罵り言葉を吐き出した。「おい、黙れ、野郎ども!」
「君は私《わたし》に言っているのかね?」と医師が言った。そしてその悪党が、また罵り言葉で、そうだと言うと、「私はたった一|事《こと》君に言っておくことがあるがね、」と医師は答えた。「それは、もし君が相変らずラムを飲み続けていると、この世から間もなくごく下劣なならず者が一人消え失せるだろうということだ!」
 老人めの激怒は恐しいものだった。彼は跳び立って、水夫用の摺込ナイフをひき出して刃を開き、それを掌にのせて振り動かしながら、医師を壁に突き刺してやると脅しつけた。
 医師は身動きさえもしなかった。前の通りに肩越しに振り向いて、同じ調子の声で、彼に話しかけた。室中の者に聞えるようにと幾らか高くはあったが、しかしまったく落着き払ったしっかりした声だった。――
「そのナイフをすぐさまポケットにしまわぬと、私は名誉にかけてお前をきっと次の巡回裁判で絞首《しめくび》にしてやるぞ。」
 それから二人の間に睨み合いが始まった。が、船長の方が間もなく降参し、武器を収めて、負けた犬のようにぶつぶつ言いながら、再び自分の席に坐った。
「ところでね、」と医師は続けて言った。「私の区にそういう奴がいるとわかったからには、私はこれからしょっちゅうお前に気をつけているから、そのつもりでいるがいい。私は医者だけじゃない。治安判事もやっているのだ。で、お前に対するちょっとした告訴でも握ったが最後、それがただ今夜のような無作法のためであったにしろ、お前をひっ捕えさせてここから追っ払わせることにしてやるからな。これだけ言っておく。」
 それから間もなくリヴジー先生の馬が戸口のところへ来たので、先生はそれに乗って帰って行った。が、船長は、その晩も、またそれから後の幾晩も、黙っておとなしくしていたのであった。

第二章 黒犬《ブラック・ドッグ》現れて去る

 この後遠からず、私たちにとうとう船長を厄介払いしてくれたあの不可思議な出来事の最初の事件が起ったのである。もっとも、その出来事というのは、だんだんとわかる通り、船長に関することをすっかり厄介払いしたという訳ではないのであるが。その冬はひどく寒くて、永い間|厳《きび》しい霜が降《お》り、烈しい風が吹いた。そして、可哀そうな父が春まで持ち越しそうにもないことは、初めからよくわかっていた。父は日毎に衰弱してゆき、母と私とは宿屋のことを何から何まで切り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]していて、ずっととても忙しくて、例の厭な客人には大して構わずにいた。
 一月の或る朝、ごく早い頃のことであった。――刺すような酷寒の朝で、――入江は一面に霜で真白になっており、漣《さざなみ》は静かに磯の石ころを洗い、太陽はまだ低くて、丘の頂《いただき》に射《さ》し、遠く海の方を照しているだけだった。船長はいつもより早く起きて、浜を下って行った。古びた青色の上衣の広い裾の下に彎刀《カトラス》(註一三)[#「(註一三)」は行右小書き]をぶら下げ、小脇に真鍮の望遠鏡を抱え、帽子を阿弥陀にかぶっていた。私は覚えているが、彼が大胯《おおまた》に歩いてゆくにつれてその後に彼の息が煙のように残っていた。そして彼が大きな岩角を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った時に私の聞いた最後の音は、怒ったような大きな荒い鼻息で、それはちょうど心ではまだリヴジー先生のことを思っているかのようだった。
 さて、母は二階に父と一緒にいた。私は船長の帰って来た時の用意に朝食の支度をしていたが、その時|談話室《パーラー》の扉《ドア》が開《あ》いて、それまでに私の一度も見たことのない男が入って来た。蒼白い色の男で、左手の指が二本なかった。彎刀を身につけてはいるけれども、あまり強そうには見えなかった。私はいつも船乗なら、一本脚でも二本脚でも、よく気をつけていたのだが、この男には頭を悩ましたのを覚えている。水夫らしくもないが、しかしまたどことなく海臭いところがあったのだ。
 何の御用ですかと尋ねると、彼はラムをくれと言った。しかし、私がそれを取りに室から出かけると、彼はテーブルの上に腰を下して、私にそばへ来いと手招きした。私は手にナプキンを持ったまま立ち止った。
「坊やこっちへ来な。」と彼は言った。「もっとこっちへ来な。」私は一歩近づいた。
「この食事は己《おれ》の仲間のビルのかい?」と彼はちょっと横目をして尋ねた。
 私は、あんたの仲間のビルという人は知らない、これは家《うち》に泊っている、私たちが船長と言っている人のだ、と言ってやった。
「なるほど、」と彼は言った。「己の仲間のビルのことなら船長と言われもするだろうな。あいつは片頬に切傷《きりきず》がある。そしてなかなか面白《おもしれ》えとこがあるよ、ことに酔っ払うとだ、ビルの奴はね。まあ証拠として申し上げようかな。その船長という男にゃ片頬に切傷がある、――そしてお望みとあれば言うが、それぁ右の頬だ。ああ、それ御覧、言いあてたろう。ところで、己の仲間のビルはこの家《うち》にいるかね?」
 私はその人は散歩に出ていると言った。
「どっちの方だ、坊や? どっちの方へ行っているんだい?」
 で、私が例の岩を指し、あの方から帰って来そうで、もう間もなく帰るだろうと言い、その他二三の問に答えると、その男は言った。「ああ、ビルの奴にゃ己に逢うなあ飲むのと同じくれえ嬉しいだろうな。」
 この言葉を言った時の彼の顔付はちっとも愉快そうではなかった。また、彼が言った通りのことを思っているとしたところで、この男は考え違いをしているのだと思う理由が私にはあった。しかし何も自分の知ったことではない、と私は思った。それにまた、どうしていいかもわからなかった。その他所《よそ》の男は宿屋の戸口のすぐ内側のところをうろついてばかりいて、鼠を待ち構えている猫のように岩角の方を窺っていた。一度私は街道へ出てみたが、彼はすぐさま私を呼び戻し、私が彼の気に入るように速くそれに従わなかったところが、彼の蒼白い顔が非常に怖しく変り、私を跳び上らせたほどの罵り言葉で、入れと命令した。私が戻るや否や彼は半ば御機嫌をとり半ば鼻であしらうような元の態度に返り、私の肩を軽く叩いて、お前はよい子だ、己はほんとにお前が好きなんだ、と言った。「己にも倅《せがれ》が一人あるがね、」と彼は言った。「お前《めえ》と瓜二つで、己の自慢の種よ。だが子供に大切なことは躾《しつけ》だ、坊や、――躾だよ。ところでだ、もしお前がビルと一緒に航海したことがあれぁ、二度言われるまでそこに立っているなんてこたぁしめえ、――お前はそんなこたぁしねえよ。そんなやり方はビルは決してやらねえ。またあの男と一緒に航海した者だってもやらねえさ。さて、あれぁいかにも仲間のビルだぞ、遠眼鏡《とおめがね》を抱えてね、おやおや、ほんとにな。坊や、お前と己とはちょいと談話室《パーラー》へ戻って、扉《ドア》の後《うしろ》にいてさ、ビルをちょっとばかりびっくりさせてやろうよ、――うん、確かにそうだ。」
 そう言いながら、その男は私と一緒に談話室へ戻り、隅の方で私を彼の背後に立たせ、二人とも開いている扉の蔭に隠れるようにした。諸君も想像されるように、私はひどく不安でびくびくしていたが、その他所の男も確かに怖がっているのを見て取ると、私の恐怖の念はさらに加わった。彼は彎刀の柄《つか》にすぐ手をやれるようにしたり、刀身が鞘からいつでも抜けるようにしたりした。そして私たちがそこに待っている間中、彼は咽喉《のど》の詰る思いをしているかのように絶えず唾をごくりごくりと嚥みこんでいた。
 やがて大胯に船長が入って来て、右も左も見ずに扉を背後にばたんと閉《し》めると、朝食の用意のしてあるところへと室を突っ切ってまっすぐに進んだ。
「ビル。」と他所の男が言ったが、その声は強いて大胆そうに見せかけようとしているように思われた。
 船長はぐるりと後へ向いて私たちと向き合った。その顔には赭味《あかみ》がすっかりなくなっていたし、鼻までが蒼かった。幽霊か、悪魔か、それよりももっと怖いものでも見た人間のような顔付であった。そして、確かに、まったくちょっとの間にひどく老いぼれて元気のなくなった彼を見ると、私は気の毒に思った。
「おい、ビル、己を知ってるだろ。お前《めえ》は昔の船友達を知ってるな、きっと、ビル。」と他所の男が言った。
 船長は喘ぐような息をした。
「黒犬《ブラック・ドッグ》だな」」と彼は言った。
「でなくてだれなものか?」と一方は大分落着いて来て返答した。「まさにその黒犬《ブラックドッグ》が昔の船友達のビリーに逢いに来たのさ、『|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋』へな。ああ、ビル、ビル、お互《たげえ》にずいぶんといろんな目に遭ったものだな、己がこの二本指をなくしてから此方《このかた》よ。」と不具になった手を挙げてみせた。
「で、おい、」と船長が言った。「お前《めえ》は己を探し出した。己はここにいる。だから、さあ、はっきり言ってくれろ。何の用だ?」
「さすがはお前だ。」と黒犬が言った。「お前の言う通りだよ、ビリー。ところで己はこの子供からラムを一|杯《ぺえ》貰えてえんだ。己ぁこの子がとても気に入ったのだ。それから、どうか掛けてくんねえ。昔の船友達らしく、ざっくばらんに話すとしようじゃねえか。」
 私がラムを持って戻って来た時には、二人はもう船長の朝食の食卓の両側に腰を掛けていた。――黒犬の方は扉の近くにいて、片方の眼を昔の友達に、片方の眼を私の思ったところでは逃げ場所につけておけるようにと、斜に腰掛けていた。
 彼は、私に、あっちへ行っておれ、そして扉を広く開けっ放しにして行ってくれ、と言いつけた。「鍵穴《かぎあな》から覗いたりなんかすると承知しねえぞ、坊や。」と彼は言った。で、私は二人を残して、帳場へ退いた。
 私は耳をすまして聞いてやろうと確かに一心になってはいたけれども、大分永い間、早口にべらべらしゃべる低い声の他《ほか》には何一つ聞えなかった。が、とうとう、その声はだんだん高くなり出して来て、船長の一語二語を聞き取ることが出来た。大抵は罵り言葉だった。
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。それでおしまいだ!」と船長は一度|呶鳴《どな》った。そしてまた呶鳴った。「もしぶらんこ(註一四)[#「(註一四)」は行右小書き]になるなら、みんながぶらんこだ、ってえんだ。」
 それから突然、凄じく罵り言葉やその他のやかましい物音が起った。――椅子とテーブルとが一度にひっくり返り、続いて刃物の打ち合う音がし、それから苦痛の叫び声がしたかと思うと、次の瞬間には、私は、黒犬が全力で逃げ、船長が猛烈に追っかけてゆくのを見た。二人とも抜き放った彎刀を手にし、黒犬は左の肩からたらたらと血を出していた。ちょうど戸口のところで、船長はその逃げてゆく男を狙って最後の物凄い一撃を浴《あび》せかけたが、もし家《うち》のベンボー提督の大きな看板で妨げられなかったなら、その一撃は確かにその男を背骨まで切り下したことだろう。今でも看板の下側にその刀痕が残っている。
 この一撃が果合《はたしあい》の終りであった。一度街道へ出ると、黒犬は、傷を負っているにも拘らず、一目散に走り逃げ、しばらくのうちに丘の縁の向うへ姿を消してしまった。船長はと言えば、彼は呆然としたように看板を見つめながら突っ立っていた。それから手で眼を何遍もこすり、やっと家の中へ引返して来た。
「ジム、」と彼が言った。「ラムだ。」そしてそう言った時に、少しよろめき、片手を壁にあてて身を支えた。
「怪我しましたか?」と私は叫んだ。
「ラムだ。」と彼は繰返して言った。「己はここから行かなきゃならん。ラムだ! ラムだ!」
 私はラムを取りに走って行った。しかし、さっきから起ったいろいろのことですっかりあわてていたので、コップを一つ壊したり樽の注口を駄目にしたりした。そしてまだまごまごしているうちに、談話室で何かがどかりと倒れる音が聞えたので、駆け込んで見ると、船長が床の上に大の字になって寝ていた。それと同時に、叫び声や喧嘩《けんか》騒ぎに驚いた私の母も私を助けに階下《した》へ駆け降りて来た。私たちは二人がかりで彼の頭を抱え上げた。彼は大層烈しく苦しそうに息をしていた。が、眼は閉じ、顔は気味の悪いほどの色をしていた。
「やれやれ、何てことだろう。」と母が叫んだ。「この家《うち》にゃ何て情《なさけ》ないことになったものだろう! それにお父さんは御病気だしねえ!」
 しばらくの間、私たちは船長の手当をするにはどうしたらいいかまるでわからなかった。また、彼があの他所の男との格闘で致命傷を受けたものと思いこんでもいたのだ。私はラムを持って来て、彼の咽喉へ流しこんでやろうとしたことはしたけれども、彼は歯をしっかりと喰いしばっていて、顎は鉄のように固かった。そこへ扉が開いてリヴジー先生が父を診察しに入って来たので、私たちはほっとした。
「おお、先生、」と私たちは叫んだ。「どうしたらよろしいでしょう? この人はどこを怪我しているのでしょう?」
「怪我だと? 馬鹿なことを!」と医師が言った。「あんた方《がた》や私と同様ちっとも怪我なんかしていませんよ。この男は中風を起したのだ、私が注意してやった通りにね。さあ、ホーキンズさんのおかみさん、あなたは早く二階の御主人のところへ行って下さい。そして、なるべくならこのことは御主人には話さずにな。私の方は、こいつのやくざな命《いのち》を助けるために一所懸命にやらねばならん。それからジムには金盥《かなだらい》をここへ持って来て貰おうね。」
 私が金盥を持って戻って来た時には、医師はもう船長の袖を切り開いて、大きな逞しい腕をまくりあげていた。その腕には数箇処に文身《いれずみ》がしてあった。「幸運あり」というのと、「順風」というのと、「ビリー・ボーンズのお気に入り」というのが、二の腕にごく巧みにはっきりと彫ってあった。それから、肩に近いところには、絞首台とそれにぶら下っている男とのスケッチがあり、なかなか生々《いきいき》と出来ていると私は思った。
「自分のことの予言だな。」と医師は指でその絵に触りながら言った。「さて、ビリー・ボーンズ君、というのが君の名前ならだが、君の血の色をちょっと拝見するよ。ジム、」と私に向って、「君は血を見るのが怖《こわ》いかね?」
「いいえ。」と私は答えた。
「よし、では、」と彼が言った。「金盥を持っていてくれ給え。」そう言って彼は刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]針を取って血管を切り開いた(註一五)[#「(註一五)」は行右小書き]。
 ずいぶんたくさん血が取られてから、船長はやっと眼を開《あ》けてぼんやりとあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。最初は医師の顔がわかると、紛れもない顰《しか》め面《づら》をした。次に私が目に入ると、ほっとした様子だった。しかし突然顔色が変り、起き上ろうとしながら、叫んだ。――
「黒犬《ブラック・ドッグ》はどこだ?」
「黒犬《ブラック・ドッグ》なんぞはここにはおらんよ、君が自分で背負っている他《ほか》にはな。(註一六)[#「(註一六)」は行右小書き]」と医師が言った。
「君は相変らずラムを飲んでいたものだから、中風を起したんだ、私が君に言ってやった通りに。で、私は、ずいぶん厭ではあったが、君を墓から頭を先にしてひきずり出してやったのだ。ところで、ボーンズ君――」
「それぁ俺《わし》の名じゃねえ。」と彼は遮った。
「どうだっていいさ。」と医師が答えた。「私の知合《しりあい》の海賊の名だよ。簡短でいいから君をそう言うことにするのだ。で、君に言っておかねばならんのはこういうことなのだ。ラムの一杯くらいなら君の命を取ることもあるまい。が、一杯やれば、もう一杯、もう一杯とやることになる。で、私は自分の仮髪《かつら》を賭けて言うが、もしお前はぴたりと止《や》めてしまわなければ、きっと死ねぞ、――わかったかね? ――死んで、聖書に書いてあるあの男みたいにお前の往くべき処へ行くんだぞ。(註一七)[#「(註一七)」は行右小書き]さあ、さあ、力を出すんだ。今度だけは手伝って寝台《ベッド》までつれて行ってやるよ。」
 私たちは、二人がかりで、ひどく骨折って、やっと彼を二階へひっぱり上げ、寝台へ寝かしてやった。すると彼は、ほとんど気絶しているかのように、頭をぐたりと枕に落した。
「さあ、いいかね。」と医師が言った。「これで私は責任をすませたのだ。――ラムということは君には死ということだぜ。」
 そう言うと彼は、私の腕を取りながら、父を診察しにそこを去った。
「何でもないことさ。」彼は扉を閉めるや否や言った。「あの男をしばらく静かにしておけるだけの血をぬいてやったのだ。あの男は一週間はあそこで寝ていなければいけない、――それがあの男にも君|方《がた》にも一番よいことだ。しかしもう一度発作を起せばあの男も往生だよ。」

第三章 黒丸《くろまる》

 午《ひる》頃、私は冷い飲物と薬とを持って船長の室へ入って行った。彼は、少しばかりずり上っただけで、私たちが室を出て来た時とほとんど同じようにして寝ていて、弱ってもおり興奮してもいるようだった。
「ジム、」と彼が言った。「ここじゃあ頼りになるなあお前《めえ》ばかりよ。で、己だっていつもお前にゃよくしてやったろう。一月《ひとつき》でも四ペンス銀貨をやらなかった月はないしさ。ところで、ねえ、己は今このようにずいぶ弱ってるし、だれも構っちゃくれねえ。で、ジム、お前己にラムを一|杯《ぺえ》持って来ておくれ。なあ、くれるだろ、え?」
「お医者さまが――」と私は言いかけた。
 けれども彼は急に、力のない声で、しかし心から、医師の悪口を言い出した。「医者なんて奴あみんな阿呆だ。」と彼は言った。「それに、あの医者なんか、へん、船乗のことなんぞ何を知ってるんだ? 己ぁ、瀝青《チャン》みてえに暑くって、仲間の奴らあ黄熱でばたばた斃《たお》れる処《とこ》にもいたことがあるし、地震で海みてえにぐらぐらしてる御結構な土地にもいたことがある。――そんな処をあの医者が知っているかい? ――そして己はラムで命を繋いでいたんだ、ほんとうによ。己にゃあ、ラムは何よりの好物だ、大事《でえじ》な女房だ。己は今|風下《かざしも》の海岸に浮いている情ねえ老いぼれ船みてえなもんだから、そのラムが飲めねえとなれぁ、ジム、お前に祟《たた》るぞ。それからあの医者の阿呆にもな。」と彼はそれからまたしばらくの間悪口を言い続けた。「見てくれ、ジム、己の指はこんなにぶるぶるしているよ。」と口説くような調子で続けた。「じっとさせておけねえのだ。出来ねえんさ。今日《きょう》はまだ一|滴《しづく》もやらねえんでね。あの医者は馬鹿だよ、ほんとに。もしラムを少しも飲まなけれぁ、ジム、己は酒精《アルコール》中毒が起るよ。もう少しは起ってるのだ。己にゃあその隅に、お前の後《うしろ》に、フリント親分が見えてるんだ。刷物《すりもの》みてえに、はっきりと見えてるんだ。もし酒精中毒を起すとなると、己ぁ荒《あれ》え渡世をして来た男だ、大騒ぎを起すぜ。あの医者だって一杯だけなら何でもあるめえって言ったよ。一杯持って来れぁ一ギニー金貨を一枚やるよ、ジム。」
 彼はだんだんと興奮して来たので、父に障りはしないかと私ははらはらした。父はその日はひどく悪くて、安静が必要だったのだ。それに、今船長の言った先生の言葉もあるから大丈夫だろうと思ったし、鼻薬でつろうとするのにはちょっと癪にさわった。
「あんたのお金なんかちっともほしかあないよ。お父さんにあんたが借りてる分の他《ほか》にはね。」と私は言った。「一杯だけ持って来てあげるが、それだけだよ。」
 それを持って来てやると、彼はひったくるように掴んで、すっかり飲み干してしまった。
「よしよし、」と彼が言った。「確かに、幾らかよくなったよ。ところでな、おい、あの医者はどのくれえこの寝床ん中に寝てなきゃなんねえって言ってた?」
「どうしても一週間は、って。」と私は言った。
「ひえっ!」と彼は叫んだ。「一週間だと! そんなこたぁ出来ねえ。それまでにゃあ奴らは黒丸《くろまる》を持って来らあ。あのやくざ水夫どもはこの今だって己の風上へ出てうまくやろうとしてうろつき※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってるんだ。あいつらは自分の分を取っておけねえんで、他人《ひと》の分をふんだくろうとするんだ。それが船乗らしい振舞《ふるめえ》か? え、聞きてえもんだ。だが己はつましい人間だ。自分の大事な金は一度も無駄使いもしなけれぁ、なくしもしねえ。も一度奴らに一|杯《ぺえ》喰わしてくれよう。奴らなんざあ怖《こわ》かねえ。なあ、己はまた帆を広げて、もう一度奴らを出し抜いてやるぞ。」
 こう言いながら、彼は、私が痛くてもう少しで大声を出しかけたほど私の肩をぎゅっと掴んで、脚を重量品のように重そうに動かしながら、ようようのことで寝台《ベッド》から起き上った。彼の言葉は意味には元気があったけれども、それを言っている声が弱々しいので、その対照が哀れだった。彼は寝台の端に腰を掛けた姿勢をとると、語をちょっと休んだ。
「あの医者にやられた。」と彼は呟いた。「耳鳴りがする。寝かしてくれ。」
 私が大して手伝わないうちに彼はまた以前の場所へ倒れ、しばらくは黙ったままでいた。
「ジム、」とようやく彼は言い出した。「今日あの水夫を見たろう?」
「黒犬《ブラック・ドッグ》かい?」と私は尋ねた。
「ああ! 黒犬《ブラック・ドッグ》だよ。」と彼は言った。「あいつ[#「あいつ」に傍点]は悪い奴だ。が、あいつをけしかけたもっと悪い奴がいるのだ。でな、己がどうにかして逃げられねえで、奴らが己に黒丸をさしつけたらな、いいかね、奴らの狙ってるのは己の古い衣類箱なんだよ。お前、馬に乗ってな、――乗れるね、乗れるかな? うむ、よしよし、じゃあ、馬に乗ってな、行くんだ、――そのう、なあに、言っちまえ! ――あのいまいましい医者の阿呆んとこへ行って、みんなを――治安判事だの何だのを――呼び集めてくれって話すんだ。そうすれぁ、あの男は『|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋』へ押しかけて来て――奴らをひっ捕えてくれるだろう、――フリントの船員をそっくりみんな、残ってる奴らみんなをな。己は一等運転士だったんだ、己はな。フリントの一等運転士だったのだ。そしてあの場所を知ってるのは己一人なんだよ。あの人は、今の己みてえに死にかけていた時に、サヴァナ(註一八)[#「(註一八)」は行右小書き]であれを己にくれたのだ。だがな、奴らが黒丸を己んとこへ持って来るまでは、それとも、お前がまた黒犬か、一本脚の船乗をだ、ジム、――ことに其奴《そやつ》だぜ、――其奴らを見るまでは、お前、言いに行くんじゃねえぞ。」
「だけど、その黒丸って何ですか、船長さん?」と私は尋ねた。
「それはね、呼出状さ。奴らが持って来たらお前に言ってやるよ。だが油断なく見張っててくれ、ジム。そうすりゃお前を相棒にして分けてやるからな、きっと。」
 彼はそれからしばらく取りとめのないことを言い、その声はだんだん弱っていった。が、私が薬をやると、「船乗で薬を飲みたがるなんて奴あ己だけだ。」と言いながら、子供のようにそれを服《の》んでから間もなく、とうとうぐっすりと気絶したように寝入ってしまったので、私はそこを立去った。もし万事が無事にいっていたなら自分がどうしていたかということは、私にはわからない。恐らくは医師にすべての話をしてしまったことであろう。というのは、私は、船長があの打明け話をしたことを後悔して私を殺しはしまいかと思って、とても怖かったからである。しかし実際起ったのは、その晩父がまったく急に亡《な》くなったことで、そのために他の事は皆そっちのけになってしまった。私たちの当然な悲歎、近所の人たちの弔問、葬式の手配、その間にもしなければならない宿屋のすべての仕事、などでずっとひどく忙しくて、私は船長のことを思う暇も碌々なく、まして彼を恐しがってなぞいられなかったのだ。
 彼は翌朝には階下へ降りて来るには来たし、いつもの通りに食事はした。もっとも、食べる方は少ししか食べなかったが、ラムはいつもよりもたくさん飲んだかも知れない。なぜなら、顔を顰め鼻息を鳴らしながら帳場から自分で勝手に取って来て飲み、だれ一人もそれを止《と》めようとする者がなかったのだから。葬式の前の晩にも彼は相変らず酔っ払っていたが、その喪中の家で、例のいやな古い船唄を彼がのべつに歌っているのを聞くのは、たまらないことだった。だが、彼は弱ってはいたけれども、私たちはみんな彼をひどく怖がっていたし、医師は急に何マイルも離れた患者のところへ行って、父の死んだ後は家の近くへ一度も来なかったのだ。私は船長が弱っていると言ったが、実際、彼は力を回復するよりも却って弱ってゆくように思われた。彼は這うようにして二階を上り下りし、談話室《パーラー》から帳場へ行ったりまた戻ったりした。時には、壁につかまって身を支えながら歩いてゆき、嶮《けわ》しい山を登る人のように苦しくはあはあ息をしながら、鼻を戸口の外へ突き出して海の香を嗅ぐこともあった。私に特に話しかけることは別になかった。自分のした内証話はほとんど忘れてしまっていたのだろうと思う。しかし気分は前よりはそわそわして、体《からだ》の弱っていることを差引すると前よりは荒っぽくなった。酔っ払った時などは、彎刀《カトラス》を引き抜いて、前のテーブルの上に抜身のまま置いたりするような、ひやひやさせることをした。しかし、そんなような有様ではあったけれども、前よりは他の人々のことを気にかけなくなり、自分だけの考えに耽って、幾らか気が変になっているのかと思われた。例えば、一度などは、私たちの非常に驚いたことには、鄙《ひな》びた恋唄のような、違った歌を歌い出したりしたものだった。それは、彼がまだ船乗にならない前の若い時分に覚えたものに違いなかった。
 このようにして過ぎていったが、葬式の翌日、霧深い、身を斬るような、霜寒の午後の三時頃、私は戸口のところにしばらく立って、父についての悲しい思いに耽っていた。すると、だれかが街道をのろのろとこっちへやって来るのが見えた。その男は、杖で自分の前をこつこつ叩いているし、眼と鼻との上に大きな緑色の覆いをかけているところをみると、明かに盲《めくら》であった。そして年か衰弱のせいのように傴僂《せむし》になっていて、頭巾《ずきん》附の大きな古びたぼろぼろの水夫マントを着ているので、実に不恰好《ぶかっこう》な姿に見えた。私は生れてからあんな恐しい様子をした者を見たことがなかった。彼は宿屋から少し離れたところに止ると、声を張り上げて奇妙な単調な調子で、前に向ってだれにともなく言いかけた。――
「どなたか御親切な旦那さま、哀れな盲人《めくら》に教えてやって下さい。私はわがイギリスのために、ジョージ陛下万歳! 名誉の戦争に出まして、大事な眼をなくした者でございます。――私の今おりますのは、この国のどこでございましょう、何という処でございましょうか?」
「ここは黒丘《ブラック・ヒル》入江の『|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋』だよ、小父《おじ》さん。」と私が言った。
「声がしましたな、」と彼は言った。――「お若い方《かた》の声だ。どうか御親切なお若い方、私にお手を貸して、中へ案内して下さいませんか?」
 私が手を差し出すと、今まで物言いのやさしかった、その怖しい、眼のつぶれた奴は、たちまちその手を万力《まんりき》のようにしっかと掴んだ。私はびっくりしてひっこもうと身を※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》いた。が、盲人は腕をぐっとひっぱっただけで私を身近へひきつけた。
「さあ、小僧、俺《わし》を船長のところへつれて行け。」と彼は言った。
「それぁとても駄目ですよ。」と私が言った。
「おお、言ったな!」と彼はせせら笑った。「まっすぐにつれて行け。でねえと、この腕をへし折ってくれるぞ。」
 そう言いながら、私の腕を捩り上げたので、私は思わず叫び声をあげた。
「でも、私《わたし》の言うのはあんたのためなんですよ。」と私が言った。「船長さんは以前の船長さんじゃないんだもの。抜身の彎刀《カトラス》を持って坐っているよ。この間も他《ほか》の方《かた》が――」
「さあ、さっさと歩くんだ。」と彼は私の言葉を遮った。私はその盲人の声のような無慈悲な、冷酷な、不愉快な声はかつて聞いたことがなかった。手の痛さよりもその声の方がもっと私をおじけさせた。それですぐ彼の言うことをきいて、まっすぐに歩いて戸口のところから談話室の方へと進んで行った。その談話室に、あの病気の老海賊がラムに酔ってぼんやりして坐りこんでいるのだ。盲人は私にぴったりとくっついて、鉄のような拳で私を掴み、堪えられないほどの重さで私に凭《もた》れかかっていた。「まっすぐに奴のところへつれて行って、奴に見えるとこまで来たら、『ビルさん、あんたの友達が来ましたよ。』って呶鳴《どな》るんだ。もししねえと、こうしてやるぞ。」そう言うと彼は私の腕をぐいとひっぱり上げたので、私は気が遠くなりそうに思った。あれやこれやで、私はこの盲乞食がすっかり怖くなったので船長の恐しさを忘れてしまい、談話室の扉《ドア》を開《あ》けると、言いつけられた言葉を震え声で呶鳴った。
 可哀そうに、船長は眼を上げると、一目でラムの気《け》がなくなり、まったく酔いが醒めてしまった。その顔の表情といったら、恐怖というよりもむしろ死病の表情であった。彼は立ち上ろうとしたが、しかし、それだけの力も体に残っていたとは私には思えない。
「さあ、ビル、そのままで坐ってろよ。」と乞食が言った。「眼は見えなくても、耳は指一本動かしたってわかるんだ。用事は用事さ。お前《めえ》の右の手を出してくんな。小僧、奴の右手の手頸を掴んで、俺の右手の近くへ持って来い。」
 私たちは二人とも寸分違わず盲人の言う通りにした。と、私は、盲人が杖を持っている手の掌中から、船長の掌の中へ、何かを渡したのを見た。船長は直ちにそれを握った。
「さあこれですんだ。」と盲人が言った。そしてその言葉を口にすると急に私を掴んでいる手を放し、ほんとうとは思えないくらいに見当も違えず素速く、談話室から街道へと跳び出し、私がまだじっと突っ立っていると、彼の杖の音が街道をこつ、こつ、こつ、こつと遠くまで行くのが聞えた。
 私か船長かが我に返ったようになるまでにはしばらく間があった。が、とうとう、そしてほとんど同時に、私はまだ掴んでいた船長の手頸を離し、彼の方は手をひっこめて掌の中をぱっと見た。
「十時!」と彼は叫んだ。「六時間ある。まだ奴らを出し抜けるぞ。」そして跳び立った。
 と同時に、彼はよろめき、咽喉へ手をあて、ちょっとの間ぐらぐらしながら立っていたが、それから、異様な声を立てながら、ばたりと俯伏に床《ゆか》へ倒れた。
 私は、母を呼びながら、直ちに彼のそばへ駆け寄った。が急いでももう無駄だった。船長は猛烈な卒中にやられて死んでしまっていた。奇妙なことだが、近頃こそ彼を可哀そうに思いかけてはいたけれども、私は確かに彼を好いたことなんぞ決してないのに、彼が死んだのを見るや否や、どっと涙が出て来たのであった。それが私の見た二度目の死で、一度目の死の悲しみが私の心にまだ生々《なまなま》しかったのだ。

第四章 船員衣類箱

 私は、もちろん、時を移さず、自分の知っている限りのことを母に話した。多分、ずっと前に話しておくべきであったのだが。そして直ちに私たちはむずかしい危険な立場にいることに気がついた。船長の金《かね》――もし彼が幾らかでも持っているなら――には確かに私たちに支払うべき分があった。が、船長の船友達、とりわけ私の見た二人の例証たる人間、黒犬《ブラック・ドッグ》とあの盲乞食とが、その死んだ男の借金の支払のために自分たちの分捕品を見棄てる気になるということは、ありそうにもなかった。船長の言いつけたようにすぐに馬に乗ってリヴジー先生のところへ駆けつけるとすると、母は独りぽっちになって保護する者がなくなるので、それは思いもよらぬことだった? 実際、もうあまり永くこの家に居残っていることは、私たちどちらにとってもとても出来ないように思われた。台所の炉の中で石炭の落ちる音にも、掛時計のかっちかっちいう音にさえも、私たちはびくびくした。私たちの耳には、近づいて来る跫音《あしおと》が四辺に頻りにどかどか聞えるような気がした。談話室《パーラー》の床《ゆか》に倒れている船長の死体やら、あのいやらしい盲乞食がすぐ近くにうろついていて今にも帰って来そうなことを思うやらで、私は恐しくて身の毛のよだつ時があった。何とか速くきめなければならなかった。そして私たちはとうとう、二人一緒に出かけて隣村《となりむら》へ行って助けを求めようという考えが思いついた。言うが早いかやり出した。帽子もかぶらないままで、私たちは直ちに、迫って来る夕闇の霜寒の霧の中へ駆け出した。
 その村というのは、次の入江の向側にあって、こちらから見えはしないが、何百ヤードも離れていなかった。それに大層心強かったのは、例の盲人がやって来た方、また恐らく帰って行った方とは、反対の方角にあったことだった。私たちはそう永くは街道にいなかったのだが、それでも時々立ち止って互に縋《すが》り合い耳をすました。しかし何も変った音はしなかった。――ただ、岸に打ち寄せる漣《さざなみ》の低い音と、森で鴉がかあかあ鳴く声だけだった。
 村へ着いたのはもう灯《ひ》ともし頃《ごろ》だった。そして、家々の戸口や窓から洩れる黄ろい光を見た時の嬉しさを、私は決して忘れることがあるまい。だが、それが、後でわかったように、私たちがそこで得られた最上の助けだったのだ。という訳は、――人々が自分を恥じたろうと思われるであろうが、――だれ一人として私たちと一緒に「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」へ引返そうという者がなかったからである。私たちの難儀を話せば話すほど、ますます――男も女も子供も――皆自分たちの家へすっこむのだった。フリント船長の名は、私には初めてであったけれども、村ではよく知っている人もあって、非常に恐れさせる力があった。それに、「ベンボー提督屋」の先の方の側で野良《のら》仕事をしていた人たちの中には、見慣れない男が何人も街道にいるのを見て、それを密輸入者だと思って逃げ出したことがあるのを、思い出す者もあったし、また、少くとも一人は、キット入江と言っているところに小さな帆船《ラッガー》を一艘見たことがあった。実際、フリント船長の仲間であった者ならだれであろうと、村の人を死ぬほど怖がらせるに十分であった。で、結局、別の方角にあるリヴジー先生のところへなら進んで馬を走らせようという者が幾人もいたけれども、私たちを助けて宿屋を護ろうとする者は一人もいなかったのである。
 臆病はうつると世間では言う。しかしまた、一方、議論は非常に勇気をつけるものである。で、銘々が言うだけのことを言ってしまうと、母は皆に言った。父親のないこの子のものであるお金は損したくない、と母は言い切った。「あなた方《がた》がどなたも来て下さらないなら、ジムと私《あたし》が行きます。」と母が言った。「戻って行きますよ、来た道をね。いやどうも有難うござんした。図体《ずうたい》ばかり大きくて、胆っ玉の小さい方《かた》ばかりですね。死んだっていいから、私たちはあの箱を開《あ》けてみます。すみませんがその嚢を貸して下さいな、クロスリーさんのおかみさん。私たちの貰う権利のあるだけのお金を入れて来るんですから。」
 もちろん、私は母と一緒に行くと言った。また、もちろん、人々はみんな私たちのことを無鉄砲だと呶鳴《どな》った。が、それでもなお、一緒に行ってやろうという者は一人もなかった。ただ、私たちが襲われないようにと、弾丸を籠めた一挺のピストルを私に渡してくれ、また帰りに追いかけられた場合の用意に、馬にちゃんと鞍をつけておこうと約束してくれただけだった。一方、一人の若者が、武装した援助の人を探しに、医師の許へ馬を走らせることになった。
 私たち二人がその寒い晩この危険な冒険に出かけた時には、私の胸はひどくどきどきと動悸うった。ちょうど満月が昇り始めていて、霧の上の方の縁《へり》を通して赤くほのかに現れた。このために私たちはますます急いだ。という訳は、これでは、再び出て来る前に、すっかり昼のように明るくなっていて、家から私たちの出るのが見張っている者どもに見つけられてしまうことは、明かだったからである。私たちは音を立てずに速く生垣に沿うて走って行った。また、私たちの恐怖の念を増すものは何一つ見もしなければ聞きもしなかった。そしてとうとう「ベンボー提督屋」へ着いて、入口の扉《ドア》を背後にぴたりと閉めると、まったくほっとした。
 私がすぐさま閂《かんぬき》をさし、私たちは、船長の死体のある家の中にただ二人きりで、暗闇《くらやみ》の中でちょっとの間はあはあ喘ぎながら立っていた。それから母が帳場から蝋燭を取って来て、私たちは互に手を取り合いながら、談話室へ入って行った。船長は私たちの出て来た時のまま、仰向になって、眼を開いて、片腕を伸ばしながら、横っていた。
「鎧戸を下《おろ》して、ジムや。」と母が小声で言った。「あいつらが来て外から覗くかも知れないから。それからね、」と、私が鎧戸を下してしまうと、母が言った。「あれ[#「あれ」に傍点]から鍵を取らなきゃならないんだがね。あんなものに触《さわ》るなんてねえ!」そう言いながら母はしゃくり泣きのようなことをした。
 私はすぐさましゃがんで膝をついた。船長の手の近くの床《ゆか》の上に、片面を黒く塗った、小さな丸い紙片《かみきれ》があった。これがあの黒丸[#「黒丸」に傍点]であることは疑えなかった。取り上げて見ると、裏面に、頗る上手な明瞭な手跡で、こういう簡短な文句が書いてあった。「今夜十時まで待ってやる。」
「十時までなんだって、お母さん。」と私は言った。ちょうどそう言った時、家《うち》の古い掛時計が鳴り出した。この不意の音で私たちはぎょっとして跳び上った。けれども、これはよい知らせだった。というのは、まだ六時だったから。
「さあ、ジムや、あの鍵だよ。」と母が言った。
 私は彼のポケットを一つ一つ探った。小さな貨幣が二三箇に、指貫《ゆびぬき》が一つに、糸と大きな縫針、端を噛み切ってある捩巻煙草《ねじまきたばこ》が一本と、曲った柄の附いた|大形ナイフ《ガリー》と、懐中羅針儀と、それから引火奴箱《ほくちばこ》、これだけが入っているだけだったので、私は絶望し始めた。
「じゃ多分頸の周りについてるんだろうよ。」と母が言ってくれた。
 厭でたまらないのをこらへて、シャツの頸のところを引き裂くと、果して、タールまみれの紐に鍵が下げてあったので、私は彼の大形ナイフでその紐を切った。この上首尾に私たちはもう大丈夫だと思い、さっそく二階へ駆け上って船長が永い間寝泊りしていた小さな室へ入った。そこに例の箱が彼の着いた日以来置いてあるのだ。
 その箱は、外から見たところでは他の船乗衣類箱と同じようだった。蓋には「B.」という頭字《かしらじ》が烙鉄《やきがね》で烙印してあった。永い間手荒く扱われたためか角は幾分ひしゃげて壊れていた。
「鍵をおくれ。」と母が言った。そして、錠は非常に固かったけれども、瞬く間に母はそれを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して蓋をはね開けた。
 煙草とタールとの強い臭いが内部からぷんとして来たが、一番上には、入念にブラシをかけて折り摺んである一着のすこぶる上等な服の他《ほか》には、何も見えなかった。この服はまだ一度も着てない、と母は言った。その下からは、ごったまぜで、――四分儀、ブリキの小鑵が一箇、煙草が数本、ごく立派なピストルが二対、銀の棒が一本、古いスペインの懐中時計が一箇、それにあまり値打のない大抵は外国製の装身具類が幾つか、真鍮で拵えたコンパスが一つ、それから珍しい西インドの貝殻が五つ六つあった。その時以来、私は、どうして船長が悪業を犯してお尋ね者の放浪生活を送っている間この貝殻を持ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていたのかと、不審に思うことがたびたびある。
 これまでに私たちの見つけた幾らかでも値打のあるものは銀と装身具だけで、これはどちらとも私たちには不向のものだった。その下に古びた船員作業服が一着あった。方々の港口の洲で海水を浴びたために白っぽくなっていた。母はいらいらしてそれをひっぱり出した。すると箱の中にある最後の物が私たちの前に現れた。油布《ゆふ》でくるんだ書類のような包と、触《さわ》ると金《かね》の音のじゃらじゃらするズックの嚢だった。
「あの悪者たちに私が正直な女だということを見せてやろう。」と母が言った。「私は自分の貰わなきゃならない分だけは貰うが、一文だって余計にゃ取らないよ。クロスリーさんのおかみさんの嚢を持っていておくれ。」そして母は船長の勘定高をその海員の嚢から私の持っている嚢の中へと数えて入れ始めた。
 それはなかなか永くかかる面倒な仕事だった。なぜなら、その貨幣はいろいろの国のさまざまの大きさのもので、――ダブルーン金貨や、ルイドール金貨や、ギニー金貨や、八銀貨や、その他私の知らないものなどが、みんなめちゃくちゃに詰め込んであったのだから。それにまた、ギニー金貨がほとんど一番少く、母に勘定の出来るのはそのギニー金貨だけなのであった。(註一九)[#「(註一九)」は行右小書き]
 私たちが半分ばかり数えた時、私は突然母の腕に手をかけた。しいんとした霜寒の空気の中に、私をぎょっとさせた音を聞いたからである。――冱《い》てついた街道をあの盲人の杖がこつ、こつ、こつと叩く音だ。私たちが息を殺して坐っている間に、その音はだんだんだんだんと近づいて来た。やがて杖で宿屋の入口の扉を強く敲いた。それから把手《とって》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す音が聞え、あの盲人めが入ろうとするのであろう、閂ががたがたいうのが聞えた。それから永い間、内も外もひっそりしていた。とうとう、また、こつ、こつと杖の音がし始めて、ゆっくりと再び微かになってゆき、ついに聞えなくなったので、私たちは言うに言われぬくらい喜び、また有難く思った。
「お母さん、みんな持って逃げて行きましょうよ。」と私が言った。きっと、扉に閂がさしてあるのが怪しいと思われて、面倒を惹き起すに違いないと思ったからである。もっとも、その閂をさしておいたことを私がどんなに有難く思ったかは、あの恐しい盲人に逢ったことのない人には到底わからないのであるが?
 しかし母は、怖がってはいる癖に、自分の当然受取るべき分より少しでもたくさん取ることを承諾しようとせず、またそれより少いのも頑固に承知しなかった。まだなかなか七時にもならない、と母は言った。母は自分の権利を知っていて、それだけを得たいというのだ。そしてなおも私と言い争っていた時に、小さな低い呼子《よびこ》の音が丘の大分離れた処で鳴った。二人ともそれを聞けば十分だった。いや、十二分だった。
「取った分だけ持ってゆくことにするよ。」と母は跳び上りながら言った。
「じゃ僕は勘定を帳消しするためにこれを持ってゆこう。」と私は油布の小包を取り上げながら言った。
 次の瞬間には、空《から》の箱のそばに蝋燭を残したまま、私たちは二人とも階下へ手探りして降りていた。その次の瞬間には扉を開けて一散に逃げ出していた。私たちの出たのは一刻も早過ぎるということはなかった。霧はずんずんと霽《は》れてゆくところであった。月はもうどちらの側の高地をもまったくはっきりと照していた。そして谷のちょうど底のところと旅店の戸口の周りだけにまだ薄い霧が破れずにかかっていて、私たちが逃げ出す初めの間だけ身を隠すことが出来たのだ。丘の麓から少ししか行かないところ、村までの半分道よりずっと手前で、私たちは月光の中に出なければならなかった。それだけではなかった。走っている何人もの跫音《あしおと》がもう私たちの耳に聞えて来たのである。その方向を振り返って見ると、灯が一つあちこちと揺れ動き頻りに速くこちらへ進んで来るので、今やって来る者どもの中の一人が角燈を持っていることがわかった。
「ねえ、お前、」と母が急に言った。「このお金を持ってずんずん逃げておくれ。私は気が遠くなりそうだから。」
 これではどうしたって私たち二人とももうおしまいだ、と私は思った。どんなに私は近所の人々の臆病を呪ったことだろう。どんなに私は母が正直であってまた慾張りであったことや、さっきは無鉄砲でありながら今は心弱くなったことを、咎めたことだろう! 幸運にも、私たちはちょうど小さな橋のところにいた。それで私はよろよろしている母を助けて土手の縁までつれて行くと、果して、母はほっと吐息《といき》をついて私の肩にぐったりと倒れかかった。私はどうしてそれだけの力が出たのかわからないし、手荒なことをしたのかも知れないが、とにかく、どうにかこうにか母を橋のアーチの下から少し離れた土手の下へ曳きずって行った。それ以上は動かすことが出来なかった。橋があまり低くてその下は私が這ってゆけるだけだったからである。そういう訳で私たちはそこに止《とど》まっていなければならなかったが、――母はほとんど全身が見えるところにいたし、二人とも宿屋から声の聞えるところにいたのである。

第五章 盲人の最期

 私の好奇心は、或る意味で、私の恐怖の念よりも強かった。なぜなら、私は自分のいた処にじっとしていられなくて、再び土手へ這い上ったからで、そこから、頭を金雀花《えにしだ》の茂みの後に隠して、私の家の前の街道を見渡そうと思ったのである。私がちょうどよい場所を占めるか占めないに、敵どもはやって来始めた。七八人で、ばたばたと調子を乱した足音をさせながら街道を激しく走り、角燈を持った男が数歩先に立っていた。三人の男が互に手を取り合って一緒に走っていたが、霧を通してながらも、この三人組の真中の男が例の盲乞食だと私は見て取った。次の瞬間、その男の声で私の思った通りだということがわかった。
「戸をぶっ壊せ!」と彼が叫んだ。
「よしきた!」と二三人が答えた。そして「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」へどっと突進し、角燈持ちがそれに続いた。それから私には彼等が立ち止ったのが見え、今までとは低い調子で何か言っているのが聞えた。戸口が開いているのを見てびっくりしたのであろう。しかしその静かなのはしばらくしか続かなかった。盲人が再び命令を下したのである。彼があせって怒り狂っているかのように、その声はさらに大きく高く響きわたった。
「入《へえ》れ、入れ、入れ!」と彼は喚《わめ》き、皆がぐずぐずしているのを罵った。
 四五人の者が直ちに命令に従い、二人がその怖しい乞食と共に街道に残った。しばらく間《ま》があったが、やがて驚きの叫び声がし、それから家の中から喚く声がした。――
「ビルの奴あ死んでるぞ!」
 しかし盲人は再び彼等がぐずぐずしているのを口ぎたなく罵った。
「ずるけ野郎ども、二三人で奴の体《からだ》を調べるんだ。残りの奴らは上へ行って箱を手に入れろ。」と彼は叫んだ。
 彼等の足が私の家の古い階段をがたがたっと駆け上る音が私に聞えた。あれでは家はぐらぐら揺れたに違いない。それからすぐ後に、またびっくりした声が起った。船長の室の窓がばたんと開《あ》け放され、硝子ががちゃんと壊れる音がした。そして一人の男が月光の中へ頭と肩とをぐっと出して、その下の街道にいる盲乞食に話しかけた。
「おい、ピュー、」と彼が叫んだ。「先に来た奴らがいるんだ。だれかが箱をすっかり掻き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してあるぜ。」
「あれぁあるか?」とピユーが呶鳴《どな》った。
「金《かね》はあるよ。」
 盲人は金なんぞ糞喰らえだと言った。
「フリントの書《け》えたものがあるか、ってえんだ。」と叫んだ。
「それぁここにゃ見えねえ。」とその男は答えた。
「じゃあ、下にいる野郎ども、ビルの体についてやしねえか?」と盲人が再び叫んだ。
 すると、多分船長の体を調べるために階下に残っていた男であろう、別の奴が宿屋の戸口のところへ出て来て、「ビルの体はもうすっかり検査してあらあ。何一つ残っちゃいねえ。」と言った。
「じゃ宿屋の奴らだ、――あの小僧だ。奴の眼をくり抜いてくれりゃあよかった!」と盲人のピューが叫んだ。「奴らはたった今ここにいたんだ、――俺が入《へえ》ろうとした時に戸に閂をさしていやがったんだ。おい、みんな、散らばって、奴らを見つけ出せ。」
「違《ちげ》えねえ、奴らはここに燈《ひ》を残してゆきやがった。」と窓のところにいる奴が言った。
「散らばって奴らを見つけ出せい! 家を探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れ!」とピューは杖で街道を敲きながら繰返して言った。
 それに続いて、私の古い家中が大騒ぎになった。ずっしりした足があちこちとどやどや歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。家具がひっくり返される。扉が蹴破られる。あたりの岩までが反響するくらいだった。それから、その連中は一人一人再び街道へ出て来て、家の者たちがどこにも見当らないと言った。ちょうどこの時、さっき死んだ船長の金を数えていた母と私とを狼狽させたと同じ呼子の音が、もう一度夜気を擘《つんざ》いてはっきりと聞えたが、この時は二回繰返して鳴った。私は前にはそれを盲人が仲間を襲撃に呼び集める彼のいわば喇叭《らっぱ》のようなものと思っていたのであった。が、今度は、それが村の近くの丘辺からの合図で、それを聞いた時の海賊どもの様子から考えて、危険が迫っていることを彼等に警告する合図であるということが、わかった。
「ダークがまた鳴らしたぜ。」と一人が言った。「二度だぞ! 引揚げなきゃなるめえ、兄弟《きょうでえ》。」
「引揚げるだと、この卑怯者め!」とピューが叫んだ。「ダークは初めっから馬鹿で臆病者なんだ、――あんな野郎にゃ構うこたぁねえ。奴らはすぐ近くにいるに違えねえんだ。遠くへ行ってるはずはねえ。つかめえているも同じだ。散らばって奴らを捜せ、やくざども! えい、畜生、俺に眼が見えたらなあ!」と喚いた。
 この言葉は幾らか利目《ききめ》があったらしい。二人の男ががらくた物の間をここかしこと探し始めたが、しかし、私には、本気にやっているのではなくて、始終自分の身の危険に半ば気を配っているように思われた。一方、他の連中は街道にぐずついて立っていた。
「この馬鹿野郎どもめ、何万両が手に入《へえ》ろうってのに、尻込みしてやがるなんて! あれを見つけ出しゃあ、手前《てめえ》たちは王様みてえに金持になれるんだ。それがここにあるってことがわかってながら、もじもじして突っ立ってやがる。手前たちの中にゃビルに面と向えた奴が一人もなかったんだ。それを俺がやったんだぞ、――この盲人《めくら》がな! それだのに手前たちのために俺は運をなくしなきゃならねえ! 馬車を乗り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]せようってのに、這《へ》えつくばいの乞食になって、ラムを貰って歩かなきゃならねえんだ! 手前たちにビスケットについている虫だけの勇気でもありゃあ、奴らを掴めえられるんだがなあ。」
「ちぇっ、ピュー、己たちぁダブルーン金貨を手に入れたんだぞ!」と一人がぶつぶつ言った。
「奴らがあのいまいましい物を隠したんかも知れねえ。」と別の男が言った。「ジョージ金貨(註二〇)[#「(註二〇)」は行右小書き]をやるからな、ピュー、ぎゃあぎゃあいうのはよせよ。」
 ぎゃあぎゃあいうとは当嵌《あてはま》った言葉であった。こういう反対を受けてピューの憤怒はますますひどくなった。ついにはまったく逆上してしまって、右に左に盲滅法彼等に打ってかかり、彼の杖で一人ならずしたたか殴りつけられる音がした。
 彼等の方も、盲の悪漢を罵り返し、ひどい言葉で嚇《おど》しつけ、彼の杖を掴んで※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎ取ろうとしたが駄目だった。
 この喧嘩《けんか》で私たちは助かったのだ。こうしてまだ盛んに暴《あば》れている間に、村の側にある丘の上から別の物音が聞えて来た。――駆けて来る馬の蹄の音である。それとほとんど同時に、生垣の方からピストルの音がしてぱっと火花を発した。これは明かに危険を知らせる最後の合図であった。なぜなら、海賊どもは直ちに向を変えて四方八方へ分れて走り出したから。或る者は入江伝いに海の方へゆき、或る者は丘を斜に横切ってゆきなどして、半|分《ぷん》とたたないうちに彼等の影も見えなくなり、ピューだけが残された。彼を見棄てて行ったのは、狼狽のあまりか、それとも彼の悪口や打擲《ちょうちゃく》に意趣返しをするためか、私にはわからない。がとにかく彼は後に残って、狂気のように街道を行ったり来たりしながらこつこつ叩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、仲間の者を手探りしたり呼び立てたりした。その挙句に方角を間違え、私の前を通り越して村の方へ数歩走りながら、叫んだ。――
「ジョニー、黒犬《ブラック・ドッグ》、ダーク、」とその他の名も呼び、「お前《めえ》たちは年寄のピューをおいてゆくんじゃねえだろうな、兄弟《きょうでえ》、――年寄のピューをな!」
 ちょうどその時、馬蹄の音が高地の頂上に達したかと思うと、四五人の騎者の姿が月光の中に現れ、全速力で坂路を駆け下りて来た。
 これを聞いてピューは方向を間違えていたのに気がつき、きゃっと叫んで向を変え、溝の方へまっすぐに走って、その中へ転《ころ》げ込んだ。しかし彼はすぐさま再び立ち上って、また駆け出したが、今度はすっかり顛倒していたので、走って来る一番近い馬の真下へ突き進んだ。
 騎手は彼を救おうとしたが、駄目だった。悲鳴をあげてばったりとピューは倒れ、その声は夜の空気の中へ高く響きわたった。四つの蹄は彼を踏みにじり蹴飛ばして通り過ぎた。彼は横倒しに倒れ、それからぐにゃりと俯向になって、それっきり動かなくなった。
 私は跳び立って、馬に乗っている人たちに声をかけた。彼等もこの椿事《ちんじ》にびっくりして、ともかく馬を留めようとしていた。それで彼等が何者か私にはすぐにわかった。皆の後に後《おく》れてやって来たのは、村からリヴジー先生の許へ行った若者であった。その他の人々は税務署の役人たちで、その若者は途中でこの人たちに会い、気転を利かして一緒に直ちに引返して来たのだ。例の帆船《ラッガー》がキット入江に入っているという知らせが監督官のダンスさんの耳に入ったので、彼はその晩私の家の方向へやって来たのだった。そのお蔭で母と私とは命拾いをしたのである。
 ピューは死んでいた。まったくことぎれていた。母の方は、村まで運んで行って、冷い水を少しや嗅塩《かぎしお》(註二一)[#「(註二一)」は行右小書き]や何やをやると、間もなく再び正気に返った。怖がったのだがそのために別条はなかった。しかしまだ受取るお金の足りなかったことをこぼし続けていた。一方、監督官は出来るだけ速くキット入江へ馬を走らせた。けれども彼の部下の人たちは、馬から下りて、それをひっぱったり、時には支えてやったりして、その上絶えず伏兵を恐れながら、峡谷を手探って下って行かねばならなかったので、皆が入江へ下り着いた時には、例の帆船がすでに錨を上げて航進し始めていたのは、怪しむに当らないことだった。もっとも、船はまだ入江の中にはいた。監督官はその船に声をかけた。すると中からだれかの声が答えて、月明りのところへ出ないようにしろ、さもないと弾《たま》を喰らうぞ、と言った。そして同時に、一発の弾丸がぴゅうっと飛んで来て彼の腕を掠めた。それから間もなく、帆船は岬を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って見えなくなってしまった。ダンスさんは、彼の言葉で言えば、「水を離れた魚《さかな》みたいに」そこに突っ立った。もうこうなっては出来ることはB――へ急いで人をやって税関の監視船に知らせてやることだけだった。「でもそうしたところでまず何にもなるまい。奴らはすっかり逃げてしまって、もうおしまいだからな。」と彼は言って、「ただ、私《わたし》はピュー先生を踏んづけてやったのは愉快だよ。」と言い足した。この時までには彼は私の話を聞いて知っていたからである。
 私は彼と一緒に「ベンボー提督屋」へ戻ったが、あれほどめちゃめちゃになった家は諸君にも想像出来ないくらいである。掛時計さえも、あいつらが母と私とを乱暴に探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていた間に叩き落されていた。そして、実際に持って行かれたものは、船長のあの金嚢《かねぶくろ》と、銭箱の中の銀貨が少しとだけではあったけれども、私にはすぐに私たちの家《うち》はもう潰されたということがわかった。ダンスさんにはこの場の有様が合点がゆかなかった。
「奴らは金を持って行ったと言うんだね? ふうん、とすると、ホーキンズ、奴らの探していたのは一体何だい? もっと金がほしかったのかな?」
「いいえ、お金じゃないと思います。」と私は答えた。「実は、私の胸ポケットに持っている物だと思うのです。実を申しますと、それを安全なところへ置きたいんですが。」
「なるほどね。いいとも。」と彼は言った。「よければ、私が預ってあげよう。」
「私は、多分、リヴジー先生が――」と私が言いかけた。
「まったくそうだ。」と彼はごく機嫌よく私の言葉を遮った。「まったくそうだよ、――紳士で治安判事だからね。で、今思いついたんだが、私もあそこへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、あの人か大地主さんに報告した方がよかろう。ピューさんは死んだのだ、何と言ったところでな。と言って、私はそれを残念に思う訳じゃないが、とにかく彼は死んだんだ。で、世間の人たちはこのことを種にして陛下の税務署の役人を非難するだろう、もし種に出来ればだ。でね、どうだい、ホーキンズ。よければ、一緒につれて行ってあげよう。」
 私はその言葉に対して心から彼に礼を言った。そして二人は馬の繋いである村へ歩いて戻った。私が自分のつもりを母に話してしまった時分には、一同はもう馬に跨っていた。
「ドッガー、君の馬はいい馬だから、この子を君の後《うしろ》に乗せてあげ給え。」とダンスさんが言った。
 私がドッガーの帯革につかまって馬に乗るや否や、監督官は命令を下し、一行はぽかぽかと早足で街道をリヴジー先生の家へと向った。

第六章 船長の書類

 私たちは途中をずっと疾く馬を走らせて、とうとうリヴジー先生の家の戸口の前に停った。家は前面から見ると真暗《まっくら》だった。
 ダンスさんが私に跳び下りて戸を敲いてくれと言ったので、ドッガーのくれた鐙《あぶみ》にぶら下って私は降りた。ほとんどすぐに女中が戸を開いた。
「リヴジー先生はいらっしゃいますか?」と私は尋ねた。
 いいえ、と女中は言った。先生は午後帰って来たのだが、お屋敷へ晩餐によばれて行って、今夜は大地主さんと一緒に過している、とのことだった。
「それではそこへ行こう、諸君。」とダンスさんが言った。
 今度は、道程《みちのり》が近かったので、私は馬には乗らずに、ドッガーの鐙革《あぶみかわ》につかまりながら門番小屋附の門まで走って行った。そこから、葉が落ちてしまって、月光に照されている、長い並木路を上って、屋敷の建物の白い輪廓が大きな古い庭園を両側に見渡している処まで来た。ここでダンスさんは馬から下りて、私を一緒につれてゆき、一言通ずると、家の中へ通された。
 下男は私たちを導いて筵《むしろ》を敷いた廊下を通ってゆき、ついに大きな書斎へと案内した。書棚がぎっしりと列んでいて、その一つ一つの書棚の上には胸像が置いてあった。そこに、大地主さんとリヴジー先生とが、パイプを手にして、真赤に燃えている炉火の両側に腰掛けていた。
 私は大地主さんをそんなに間近に見たことがそれまでに一度もなかった。彼は六フィート以上もある背の高い人で、それに相応して幅もあり、無骨な豪傑風の顔は、永い間の旅行ですっかり荒れて赤らみ皺がよっていた。眉毛は真黒で、すぐぴりぴり動いた。そのために、怒りっぽいというのではないが、気短で傲慢といったような顔付に見えた。
「お入りなさい、ダンス君。」と彼はすこぶる厳かに、また丁寧に言った。
「やあ、今晩は、ダンス。」と医師は頷いて会釈しながら言った。「それから、ジムも、今晩は。どういう風の吹き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しでここへやって来たのかね?」
 税務監督官は硬くなって直立しながら、学課をやるように一部始終の話をした。すると、二人の紳士がどんなに身を乗り出し、互に顔を見合せ、驚きと興味とのために煙草を吸ふのも忘れていたかは、諸君にお目にかけたかったくらいであった。私の母が宿屋へ引返したところまで聞くと、リヴジー先生は腿をぽんと打ち、大地主さんは「えらいぞ!」と叫んで、その途端に持っていた長いパイプを炉の鉄格子にぶっつけて折ってしまった。話のすむ大分前から、トゥリローニーさん(というのは、覚えておられるであろうが、大地主さんの名である)は自分の席から立ち上って、室内を大胯に歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていたし、医師は、もっとよく聞き取ろうとでもするように、髪粉をつけた仮髪《かつら》を脱いで腰掛けていて、その短く刈込んだ黒い頭はまったくすこぶる珍妙に見えた。
 とうとうダンスさんは話を終った。
「ダンス君、」と大地主さんが言った。「君はなかなか立派な男だ。それから、その腹黒い極悪な不埒者を馬蹄にかけたことは、私《わたし》は善行だと思うねえ、君。油虫を踏み潰したようなものだよ。このホーキンズという子も偉い。ホーキンズ、そのベルを鳴らしてくれないか? ダンス君にビールをあげなくちゃならんから。」
「それで、ジム、」と先生が言った。「君は奴らの探していた物を持っているんだね?」
「はい、ここにあります。」と私は言って、油布の包を彼に渡した。
 医師はそれをつくづく眺めながら、開けたくて指をむずむずさせていたようだった。が、開けないで、静かに上衣のポケットの中へしまった。
「大地主さん、」と彼は言った。「ダンスはビールを頂戴したら、無論、陛下の御用を勤めに行かねばなりません。しかし、ジム・ホーキンズは私の家《うち》に泊めるためにここにいさせたいと思いますから、御免を蒙って、冷《コールド》パイを取りよせて、ジムに夕食を食べさせたいのですが。」
「どうぞ、リヴジー君。」と大地主さんが言った。「ホーキンズは冷《コールド》パイなんぞよりももっといいものを手に入れたんだ。」
 そこで大きな鳩パイが運ばれて側《サイド》テーブルに載せられ、私は鷹のように空腹だったので、たっぷり食べた。その間にダンスさんはなおいろいろとお世辞を言われて、やがて引下って行った。
「ところで、大地主さん。」と医師が言った。
「ところで、リヴジー君。」と大地主さんが同じ瞬間に言った。
「一時《いちどき》にゃ一人ずつ、一時にゃ一人ずつ。」とリヴジー先生が笑った。「あなたは今のフリントのことを聞いたことがおありでしょうな?」
「聞いたことがあるかって!」と大地主さんが叫んだ。「あるどころじゃないさ! あいつはこの上なしという残忍な海賊だった。黒髯《ブラックビアド》(註二二)[#「(註二二)」は行右小書き]だってフリントに比べれぁ子供みたいなものだった。スペイン人が彼をべらぼうに恐れておったので、私は、実際、時には彼がイギリス人であるのを自慢したこともあったくらいだよ。私はトゥリニダッド(註二三)[#「(註二三)」は行右小書き]の沖であいつの船の中檣帆《トップスル》をこの眼で見たことがあるが、私の乗っていた船の臆病船長の大馬鹿野郎めが引返したのだ、――引返したんだよ、君、スペイン港(註二四)[#「(註二四)」は行右小書き]へな。」
「いや、私も彼のことはイングランドで聞いたことがありますがね。」と医師が言った。「しかし要点は、彼は金《かね》を持っていたろうか? ということです。」
「金だって!」と大地主さんが叫んだ。「君はさっきの話を聞かなかったのかい? あの悪党どもの探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っているのが金でなくて何だね? あいつらが金でなくって何をほしがるものかね? あいつらが碌でなしの命《いのち》を賭けるのは金でなくって何のためかね?」
「それはやがてわかるでしょう。」と医師が答えた。「だがあなたのように滅法に熱してしまって大声を出されては、私は一|言《こと》も口を出せませんよ。私の知りたいのはこういうことなんです。このポケットに私の持っているものが、フリントが宝を埋めた場所の何かの手掛りになるとして、その宝は多額のものだろうか? ということですよ。」
「多額だともさ、君!」と大地主さんは叫んだ。「もし君の今言ったような手掛りがあるとすれば、私はブリストルの波止場で船を一艘艤装して、君やこのホーキンズを一緒につれて行って、たとい一年かかってもその宝を探し出すつもりだ。それくらいの額はあるだろうよ。」
「よろしい。」と医師が言った。「それでは、ジムが承知なら、この包を開けてみましょう。」と彼はそれを自分の前のテーブルの上に置いた。包は縫いつけてあったので、医師は自分の器械箱を持ち出して来て、医療鋏で縫目を切らなければならなかった。中には二つの物が入っていた、――一冊の帳薄と、封緘した一枚の紙と。
「まず先に帳簿の方を調べてみよう。」と医師が言った。
 彼がそれを開ける時には彼の肩越しに大地主さんも私も二人とも覗きこんでいた。私は、リヴジー先生が親切に手招きしてくれたので、食事をしていた側テーブルを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、その詮索の楽しみに与《あずか》りに行っていたのである。最初の頁には、ペンを手に持った人が無駄書きか練習にやったような、書き散らした文字があるだけだった。その中の一つは例の文身《いれずみ》の文句と同じ「ビリー・ボーンズ お気に入り」というのであった。それから、「副船長W・ボーンズ氏」というのと、「ラムもうなくなる」というのと、「パーム礁島(註二五)[#「(註二五)」は行右小書き]沖で彼はあいつを貰った」というのがあった。他にも幾つか文句があったが、大抵は一語のもので読めなかった。私は、「あいつを貰った」のはだれなのか、またその男の貰った「あいつ」とは何なのか、不審に思わずにはいられなかった。大方、背中にナイフでも喰らったのだろう。
「これぁ大して得るところがないな。」とリヴジー先生が言って、頁をめくった。
 次の十一二頁には、奇妙な記入が一杯にしてあった。行の一端に日附があり、もう一方の端に金額が書いてあることは、普通の会計簿と同様であるが、しかし、説明の文句の代りに、二つの間にはただ違った数の十字記号だけが記《しる》してあった。例えば、一七四五年の六月十二日には、七十ポンドの額が明かにだれかに支払ったことになっているが、その事由の説明としては十字記号が六つ記《しる》してあるばかりであった。もっとも、「カラカス(註二六)[#「(註二六)」は行右小書き]沖」というように場所の名や、または六二度一七分二〇秒、一九度二分四〇秒というように単に緯度経度が、書き加えてあるところも少しはあった。
 この記録はかれこれ二十年以上も続いていて、年月がたつにつれて一々の記入高が大きくなってゆき、終りに、五六度間違った寄算をした後に総高が出してあって、「ボーンズの身代」という言葉が書き加えてあった。
「何のことだか私にはさっぱりわからん。」とリヴジー先生が言った。
「真昼のように明白だよ。」と大地主さんが大声で言った。「これはあの腹黒の畜生めの会計簿さ。この十字記号は奴らの沈めた船か掠奪した町の名の代りなんだ。金高はあの無頼漢の貰った分前だし、それから、曖昧ではいけないと奴《やっこ》さんの思ったところでは、何とか幾分はっきりと書き足してあるだろう。それ、『カラカス沖』とあるね。これは、その海岸の沖で海賊どもに乗り込まれた不幸な船があったということなんだよ。可哀そうに、その船に乗っていた人たちはねえ、――とっくの昔に珊瑚になっているだろうよ。(註二七)[#「(註二七)」は行右小書き]」
「なるほど!」と医師が言った。「さすがに旅行家は違ったものだ。いや、その通り! そして、この男の地位が上るにつれて、金高が殖えていますね。」
 この帳簿には、その他に、終り近くの白紙のところに記《しる》してある二三の場所の方位と、フランスと、イギリスと、スペインの金《かね》を共通の価格に換算する表くらいしかなかった。
「倹約家《しまつや》だ!」と医師が叫んだ。「この男は騙《だま》されるような人間じゃなかったですな。」
「ところで今度はもう一つの方だ。」と大地主さんが言った。
 紙の方は、封印の代りに指貫《ゆびぬき》で幾箇処も封緘してあった。多分、私が船長のポケットの中にあるのを見つけたあの指貫だろう。医師はその封緘を非常に注意して開けると、ばらりと現れ出たのは、或る島の地図(註二八)[#「(註二八)」は行右小書き]で、緯度経度、水深、山や湾や入海の名、それから船をその海岸の安全な碇泊所に入れるに必要らしいあらゆる細目なども書いてあった。その島は長さ約九マイル、幅五マイルで、肥った竜が立ち上ったといったような形をしていて、陸で囲まれた良港が二つあり、中央部には「遠眼鏡《スパイグラース》山」と記された山があった。それより後の日附の書き加えが幾つかあったが、とりわけ、赤インクで書いた十字記号が三つあって、」――その二つは島の北部に、一つは南西部にあり、この後の十字記号のそばには、同じ赤インクで、船長のたどたどしい筆蹟とはよほど違った」小さな、綺麗な手蹟で、「宝の大部分はここに。」――と書いてあった。
 裏には、同じ手蹟で、次のようなさらに詳しいことが書いてあった。――

「北北東より一ポイント(註二九)[#「(註二九)」は行右小書き]北に位して、遠眼鏡の肩、高い木。
 骸骨島東南東微東。
 十フィート。
 銀の棒は北の隠し場にあり。東高台の傾斜面にて、黒い断巌に面を向けてその十尋南のところに見出すを得。
 武器は、北浦の岬の北方、東に位し四分の一ポイント北に寄れる砂丘に容易に見出さる                      
 J・F。

 これだけだった。が、簡短なものではあり、私には理解の出来ないものではあったけれども、これを見ると大地主さんとリヴジー先生とは大喜びだった。
「リヴジー君、」と大地主さんが言った。「君は厄介な医者商売なんぞはさっそくやめだね。明日《あす》私はブリストルへ立つ。三週間のうちに――三週間だぜ!――いや、二週間で――十日でだ、――我々はイギリスでも最上の船とだね、君、それから選り抜きの乗組員を手に入れるのだ。ホーキンズは船室給仕《ケビンボーイ》になって来るんだ。お前は素敵な船室給仕になるよ、ホーキンズ。君は、リヴジー君、船医だ。私は司令官になる。レッドルースと、ジョイスと、ハンターもつれてゆこう。我々は、順風を受けて、速く航海し、何の苦もなくその場所を見つけ、どうにも出来んほどの――あり余るほどの金を手に入れて、――それからはずっと金が湯水のように使えるようになるんだ。」
「トゥリローニーさん、」と医師が言った。「私は御一緒に行きますよ。それからジムも行くことは私が請合います。ジムはきっとこの企ての誉《ほまれ》たる者になるでしょう。ただ、私には気にかかる人が一人だけいます。」
「で、それぁだれだい?」と大地主さんが大声で言った。「君、其奴《そやつ》の名を言い給え!」
「あなたです。」と医師が答えた。「あなたは口を慎めないからです。この紙のことを知っているのは私たちだけじゃありません。あの今晩宿屋を襲った奴らや――確かに大胆な向う見ずの暴れ者たちだが――それから、例の帆船《ラッガー》に残っていた者どもも、また、恐らくあまり遠くもないところにいるその他の奴らも、みんな、水火を冒してもその金を手に入れようと決心しているんです。私たちは出帆してしまうまでは一人も離れてはなりません。ジムと私とはそれまでの間くっついていましょう。あなたはブリストルへ行かれる時にはジョイスとハンターとをつれてお出でなさい。そして、初めからおしまいまで、私たちのだれ一人も、私たちの見つけたもののことを一言も口にしてはなりません。」
「リヴジー君、」と大地主さんが答えた。「君の言われることはいつも正しい。私は墓のように黙っていますよ。」
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第二篇 船の料理番《コック》

第七章 ブリストルへ行く

 海へ出る準備が出来るまでには、大地主さんの想像したよりも永くかかった。また、私たちの最初の計画は一つとして――私をそばに置いておくというリヴジー先生の計画でさえ――思ったように実行されはしなかった。先生は留守の間を預る医者を探しにロンドンへ行かなければならなかった。大地主さんはブリストルで頻りに奔走していた。そして私は、猟場番人のレッドルース爺さんの監督の下に、ほとんど囚人のようにして、屋敷にずっと住んでいた。だが、海の空想や、見知らぬ島々や冒険などの恍惚となるような予想で、頭は一杯だった。私は例の地図のことを幾時間も打続けて考えた。その地図の細かいところまでみんなよく覚えていたのだ。家事管理人の室の炉火のそばに腰掛けながら、私は、空想の中で、あらゆる方向からその島に近づいて行き、その島の表面を残る隈なく踏査し、遠眼鏡《スパイグラース》山と言われるあの高い山に千回も攀《よ》じ登って、その頂上からいろいろに変化する素晴しい跳望を眺めて楽しんだ。時にはその島は野蛮人で一杯で、それと私たちは闘った。時には危険な獣がたくさんいて、それが私たちを追っかけて来た。しかし、そういうあらゆる空想の中でも、私たちが後に実際の冒険で出合ったような奇妙な傷ましい出来事は一つも思い浮ばなかったのである。
 こうして何週間も過ぎていったが、或る日、リヴジー先生に宛てた手紙が一通来た。それには「同氏不在の節はトム・レッドルース又はホーキンズ少年開封の事」と書き添えてあった。この命令に従って、私たちは、というよりもむしろ私は――というのは猟場番人は印刷した物の他《ほか》はうまく読めなかったからであるが――次のような重大な知らせを読んだ。――

  「一七――年三月一日
ブリストル、古錨《オールド・アンカー》 旅宿にて。

 リヴジー君、――小生は貴下が屋敷に居られるか、それともまだロンドンに居られるかわからないので、この手紙を両地へ二通出します。
 船は購入して艤装してあります。いつでも出帆出来るように準備して、碇泊している。あれより気持のよいスクーナー船(註三〇)[#「(註三〇)」は行右小書き]は貴下にも想像出来ないでしょう。――子供でも操縦が出来るかも知れない。――二百トンで、名はヒスパニオーラ号。
 この船は小生の旧友ブランドリーの周旋で手に入れたもので、彼は始めから終りまで実によくしてくれています。この感心な男は小生のために一心に働いてくれました。それからまた、ブリストルの人々も、我々の目指している港のことを――というのは宝のことだが――嗅ぎつけるや否や、だれも彼も非常によく働いてくれたと言ってもよいでしょう。」
「レッドルースさん、」と私は手紙を途中で止《や》めて言った。「リヴジー先生はこんなことは喜ばれますまいよ。あんなに言ってあったのに、大地主さんはやっぱりしゃべっておしまいになったんだね。」
「ううん、うちの旦那さまより偉《えれ》え人があるかな?」と猟場番人は唸るように言った。「大地主さんがリヴジー先生に遠慮してものが言えねえなんて、そんなべらぼうな話があるもんか。」
 そう言われたので私は説明するのは一切やめて、すぐに読み続けた。――

「ブランドリー自身がヒスパニオーラ号を見つけて、非常にうまく掛合ってごく安価で手に入れてくれたのです。ブリストルにはブランドリーをひどく毛嫌いしている連中もいます。彼等は、この正直な男を、金のためには何でもやるとか、ヒスパニオーラ号は彼のものだったのを、馬鹿に高い値で小生に売りつけたのだ、などとまで言います。――実に見え透いた中傷だ。だが、彼等の中の一人だって、この船の真価を否定する者はありません。
 今までのところは何一つ故障もありませんでした。もっとも、職工たちは――艤装人やら何やらは――じれったいくらいのろのろしていた。が、それは時のたつうちにどうにかなった。小生を悩ませたのは乗組員でした。
 小生はちょうど二十人ほしいと思いました、――土人や、海賊や、またはかの憎むべきフランス人に襲われた場合の用意にです。――そして六人だけ見つけるのにさえ非常に苦労をしました。ところがそのうちに実に素敵な幸運で小生は正に自分の必要とする男にめぐりあったのです。
 小生は波止場に立っていたのですが、その時、ほんのちょっとした偶然の機会で、その男と口を利くようになりました。聞いてみると、以前船乗をやっていた男で、今は居酒屋をやっているが、ブリストル中の船乗をみんな知っている、陸で健康を害したので、もう一度海へ出るために料理番《コック》としてのよい口を得たい、ということでした。彼の言うところでは、その朝は潮《しお》の香を嗅ぎにそこへやって来ていたのだそうです。
 小生は非常に感動して、――貴下ももし居られたらそうだったでしょう、――そして、ただ気の毒と思う情から、その場で彼を船の料理番に雇い入れました。のっぽのジョン・シルヴァーと彼は呼ばれています。そして脚が一本ありません。しかしこのことは推薦状だと小生は見倣《みな》しました。彼はかの不朽の名声あるホーク(註三一)[#「(註三一)」は行右小書き]の下で国家の為に働いてその片脚をなくしたのだからです。ところが彼には扶助料がついていないんだよ、リヴジー君。今は何という怪《け》しからん時代だろう!
 ところで、君、小生は料理番を一人見つけただけだと思ったのだが、しかし実は小生の発見したのは全乗組員であったのです。シルヴァーと小生と二人で数日の中にこの上なしの倔強な老練な水夫の一団を集めたのです。――見た目はよくはないが、その面付《つらつき》から察すれば実に性根《しょうね》のしっかりした奴らです。これならきっと軍艦でも動かせるよ。
 のっぽのジョンは小生のすでに雇い入れておいた六七人の中から二人を除けさえしました。彼は、彼等が大事な冒険には恐れなければならぬあの海に慣れぬ奴らだということを、直ちに小生に見せてくれました。
 小生は、牡牛の如《ごと》くに食い、丸太の如くに眠って、素晴しく健康で元気です。しかし、わが老練な水夫君らが揚錨絞盤《キャプスタン》の周りを足踏み鳴らして歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る(註三二)[#「(註三二)」は行右小書き]のを聞くまでは、小生は一刻をも享楽しないでしょう。さあ、海へ! 宝なんぞはどうだっていい! 小生を夢中にさせているのは海の輝きだ。だから、リヴジー君、大急ぎでやって来給え。もし貴下が小生に敬意を持つならば、一時間も無駄にし給うな。
 ホーキンズ少年は、レッドルースを守護役にして、母親に会いにやって下さい。それから二人とも全速力でブリストルへよこして下さい。
[#地から3字上げ]ジョン・トゥリローニー。
 追伸。――書き洩したが、ブランドリーは航海長に素晴しい男を見つけてくれました。――頑固な男なのは残念だが、しかし他のあらゆる点では宝のような人物だよ。ブランドリーで思い出したから序《ついで》に書いておくが、彼はもし我々が八月末までに帰って来ない場合には伴船《ともぶね》を後からよこすことになっている。それから、のっぽのジョン・シルヴァーは副船長にすこぶる有能な男を発見した。アローという名の男だ。また、呼子を吹いて号令する正式の水夫長《ボースン》もいるよ、リヴジー君。だから、ヒスパニオーラ号では万事軍艦式にやります。
 書くのを忘れていたが、シルヴァーは財産家です。小生は彼がまだ一度も借越したことのない銀行通帳を持っているのを知っています。彼は細君を残して宿屋の方をやらせるそうだ。そしてその細君というのは黒人なんだから、貴下や小生の如《ごと》き永年の独身者は、彼がまた海へ出ようとするのは、健康のためと同じく細君のためだと推量しても、もっともな次第だ。
[#地から3字上げ]J・T。
 再追伸。――ホーキンズは母親の許で一晩泊ってもよろしい。
[#地から3字上げ]J・T。」

 この手紙がどんなに私を興奮させたかは諸君も御想像出来るであろう。私は嬉しくて我を忘れるくらいであった。そしてもし私がだれかを軽蔑したことがあるとするなら、それはトム・レッドルース爺さんだった。彼はただぶつぶつ言ったり泣言を並べたりするだけだった。猟場番人の下働はだれでも喜んでレッドルースと地位を代えたろう。がそれは大地主さんの意向ではなかった。そして大地主さんの意向は彼等みんなの間では法律のようなものであったのだ。レッドルース爺さんの他にはぶつぶつ不平を言う者さえだれ一人もいなかったろう。
 その翌朝、爺さんと私とは徒歩で「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」へ向った。行ってみると母は丈夫で元気だった。永い間あれほどの苦労の種だった船長は、もう悪《あ》しき者|虐遇《しひたげ》を息《や》める処(註三三)[#「(註三三)」は行右小書き]へ行ってしまった。大地主さんは、何もかも修繕させ、食堂などや看板も塗り換えさせ、家具も幾つか買い足してくれた。――とりわけ、帳場には母のために美しい臂掛椅子が一脚買ってあった。それからまた、私が出かけて行っている間母に手不足がないようにと、小僧として子供を一人見つけて来ておいてもあった。
 この子供を見ると、私は初めて自分の立場がわかった。その瞬間までは私は目前の冒険のことばかり考えて、後に残してゆく家《うち》のことはちっとも考えていなかった。それが、今、この不器用などこかの子供を見て、これが母のそばに私の代りになってここにいるのかと思うと、初めて涙がこみ上げて来た。私はその子供に苦労させたかも知れない。というのは、彼はその仕事には新米で、私は何回となく機会のある度に彼を直してやったり叱ったりしたし、そういう機会をつかまえることにかけては私は迂濶な方ではなかったから。
 その夜が過ぎて、次の日、昼食の後に、レッドルースと私とは再び徒歩で街道へ出た。私は、何と、生れて以来住み慣れた入江と、懐しい「ベンボー提督」――彼は塗り換えられていたので、もうさほど懐しくはなかったが――とに、さよならを言った。最後に私の心に思い浮んだものの一つは、縁反帽《ふちぞりぼう》をかぶって、頬にサーベル傷をつけ、真鍮の古い望遠鏡を抱えて、たびたび浜辺を大胯に歩いていたあの船長のことであった。間もなく私たちは角を曲ったので、私の家は見えなくなった。
 黄昏《たそがれ》頃、灌木の生い茂った荒地にある「|ジョージ王《ロイアル・ジョージ》屋」のところで、私たちは駅逓馬車に乗り込んだ。私はレッドルースとでっぷり太った老紳士との間に挟み込まれた。そして、馬車は疾く動いていたし夜気は冷かったにも拘らず、私は最初からよほどうとうとしていて、やがて、宿駅から宿駅へと丘を上り谷を下りながら、ぐっすりと丸太のように眠ったに違いない。というのは、横腹を肱《ひじ》でつかれてようやく目を覚し、眼を開《あ》けて見ると、馬車は或る都会の街路の大きな建物の前に止っていて、夜はもうとっくに明けていたからである。
「どこですか?」と私は尋ねた。
「ブリストルさ。」とトムが言った。「降りるんだよ。」
 トゥリローニーさんは、スクーナー船での作業を監督するために、波止場のずっと下手にある宿屋に泊っていた。で、そこまで私たちは歩いて行かねばならなかったが、その途は埠頭に沿うていて、大小さまざまの、いろいろの艤装の、あらゆる国々の船が無数にいるそばを通ってゆくので、私の嬉しさは非常なものだった。或る船では、水夫たちが歌いながら作業をしていた。また或る船では、檣や帆桁などの、私の頭上高いところに、蜘蛛の巣ほどに細く見える索にぶら下っている人たちがいた。私は生れてからずっと海浜に育って来たのではあるが、それまでは海の近くにいたことが一度もなかったような気がした。タールや潮《しお》の香も何か物珍しいものだった。私は、いずれも遠く大洋を渡って来た、実に珍奇な船首像を見た。また、耳に環を嵌《は》め、頬髯をくるくるとちぢらせ、タールまみれの弁髪を下げて、肩で風を切りながら、不恰好《ぶかっこう》な水夫歩きをやっている、老練な水夫たちをたくさん見た。たといそれだけの人数の王様や大僧正を見たにしたところで、私はそれ以上に喜びはしなかったろう。
 そして私自身も航海に出ようとしているのだ。呼子を吹いて号令する水夫長や、弁髪を垂れて船唄を歌う海員たちと一緒に、スクーナー船に乗って航海に出ようとしているのだ。まだ知らない島へ向けて、埋められた宝を捜しに、航海に出ようとしているのだ!
 私がなおもこういう喜ばしい夢想に耽っている間に、私たちは不意に或る大きな宿屋の前へ出て、大地主のトゥリローニーさんに出会った。大地主さんは、丈夫な青い服を着用して、すっかり船の士官のように着飾り、顔をにこにこさせながら、水夫の歩き方を素敵にうまく真似て、戸口から出て来るところだった。
「やあ、やって来たな。」と彼は叫んだ。「先生も昨夜《ゆうべ》ロンドンから来られたよ。万歳! これで船の乗組員がすっかり揃ったぞ!」
「おお、そうですか。」と私は叫んだ。「でいつ出帆するんですか?」
「出帆か!」と彼は言った。「うむ、明日《あす》出帆するんだ!」

第八章 「遠眼鏡《スパイグラース》屋」の店で

 私が朝食をすませると、大地主さんが「遠眼鏡《スパイグラース》屋」の店のジョン・シルヴァーに宛てた手紙を一通私に渡して、波止場に沿うて、大きな真鍮の望遠鏡を看板にした小さな居酒屋をよく気をつけて行けば、訳なくそこが見つかる、と言ってくれた。私は、船や水夫をもっと見られる機会が出来たのに大喜びで、出かけてゆき、ちょうど波止場が今が一番忙しい時だったので、人や車や荷物がひどく込合っている間を拾い歩きし、やがてその居酒屋を見つけた。
 それはなかなか立派な小ぢんまりした酒場だった。看板は近頃塗り換えたもので、窓には瀟洒な赤いカーテンが掛っており、床《ゆか》には綺麗に砂が撒いてあった。両側に街路があり、どちら側にも開け放した扉《ドア》があったので、その天井の低い大きな室は、煙草の煙が濛々としていたのに、かなりよく見通された。
 客は大部分船乗だった。そしてずいぶん大きな声でしゃべり合っているので、私は、入ってゆくのが怖《こわ》いような気がして、戸口でためらっていた。
 そうしてぐずぐずしている時に、一人の男が脇の室から出て来たが、私は一目でそれがのっぽのジョンに違いないと思った。左の脚がほとんど股のつけ根のところから切れており、左の腋の下に※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖《かせづえ》(註三四)[#「(註三四)」は行右小書き]を持っていて、それを驚くべく器用に扱い、それをあてて鳥のようにぴょんぴょん跳び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていた。大層|丈《たけ》が高くて巌乗な男で、顔はハムのように大きく、――不器量で蒼白いが、利口そうでにこにこしていた。実際、非常に機嫌がよいらしく、口笛を吹きながらテーブルの間を動き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、贔屓《ひいき》の客人たちには愛想のいい言葉をかけたり、その肩をぽんと叩いたりしていた。
 さて、実を言うと、私は、大地主のトゥリローニーさんの手紙にのっぽのジョンのことを書いてあるのを見た実に最初の時から、その男こそ私が「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」で永い間見張っていたあの一本脚の水夫ではあるまいかと、心の中で恐れを抱いていたのであった。しかし今目前にいる男を一目見ただけで十分だった。私は船長や、黒犬《ブラック・ドッグ》や、盲人のピューを見ていたので、海賊がどんなようなものかということは知っているつもりだった。――海賊とは、私の考えによれば、このさっぱりした快活な気質の亭主とはまるで違った人間なのだ。
 私は直ちに勇気を出して、閾《しきい》を跨ぎ、その男が※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖に凭《もた》れながら一人の客と話している処へ、まっすぐに歩いて行った。
「シルヴァーさんですね?」と私は尋ねて、手紙を差し出した。
「そうですよ。」と彼が言った。「いかにも、それがわっしの名でさあ。してあんたはだれですかね?」それから大地主さんの手紙を見ると、彼は何だかぎょっとしたように私には思われた。
「おお!」と彼は、手を差し出しながら、大層大きな声をして言った。「なるほど。君はわっしたちの今度の船室給仕《ケビンボーイ》だね。やあ、初めて。」
 そして彼は私の手を大きな掌の中にしっかりと握った。
 ちょうどその時、ずっと向うの方にいた客の一人が、急に立ち上って、扉の方に進んだ。その扉は彼のじきそばにあったので、彼はすぐに街路へ出てしまった。しかしそのあわただしい様子が私の注意を惹き、私は一目でそれがだれだかわかった。それは、「ベンボー提督屋」へ最初にやって来た、指の二本ない、あの蒼白い顔をした男だった。
「おお、あいつを止めて! あれは黒犬《ブラック・ドッグ》だ!」と私は叫んだ。
「だれだろうと構やしねえが、しかし奴あ勘定を払ってねえんだ。おい、ハリー、走ってって奴を掴めえてくれ。」とシルヴァーが叫んだ。
 するとその扉の一番近くにいた中《うち》の一人が跳び立って、後を追っかけて行った。
「よしんば奴がホーク大将にしろ勘定は払わせてやる。」とシルヴァーが呶鳴《どな》った。それから私の手を放して、――「奴がだれだと言いなすったかね?」と尋ねた。「黒《ブラック》、何だったかね?」
「犬《ドッグ》ですよ。」と私は言った。「トゥリローニーさんはあの海賊どものことを話しませんでしたか? あいつはあの中の一人でしたよ。」
「そうかい?」とシルヴァーが叫んだ。「わっしの店にそんな奴が! ベン、お前《めえ》走ってってハリーに加勢してくれ。あの馬鹿どもの一人だったのか、奴が? モーガン、奴と飲んでたのはお前だったな? ここまでやって来い。」
 モーガンと呼ばれた男――年寄の、白髪の、マホガニー色の顔をした水夫――は、噛煙草《かみたばこ》をもぐもぐやりながら、大分おずおずして出て来た。
「ところで、モーガン、」とのっぽのジョンはすこぶる厳《いかめ》しく言った。「お前はあの黒《ブラック》――黒犬《ブラック・ドッグ》を前に一度も見たことがねえな、え、そうだろ?」
「ねえんですよ。」とモーガンは言って、お辞儀をした。
「お前は奴の名前《なめえ》を知らなかったんだな、そうだろ?」
「そうですよ。」
「よし、トム・モーガン、そいつぁお前のためにゃ結構なこった!」と亭主は大声で言った。
「もしあんなような奴とつきあってたんなら、二度と己《おれ》の家《うち》へ足を入れさすんじゃなかったぞ。そいつぁ間違《まちげ》えっこなしだ。で、奴あお前に何と言ってたい?」
「おいらはほんとに知らねえんですよ。」とモーガンは答えた。
「お前の肩の上にのっかってるのは、そりゃあ頭か、それとも三孔滑車《みつめせみ》(註三五)[#「(註三五)」は行右小書き]か?」とのっぽのジョンは呶鳴《どな》りつけた。「ほんとに知らねえんですだと、ほんとに! 多分お前はだれと話してたのかほんとに知らねえっていうんだろ、多分な? おい、こら、あいつは何のことをしゃべってたんだ、――航海《こうけえ》のことか、船長《せんちょ》のことか、船のことか? さっさと言ってみろ! 何の話だった?」
「船底潜《ふなぞこもぐ》らせ(註三六)[#「(註三六)」は行右小書き]のことを話してたんでさ。」とモーガンが答えた。
「船底潜らせだと? 大層《てえそう》お似合なこったよ。違《ちげ》えねえや。元んとこへ戻れ、トムの間抜《まぬけ》野郎め。」
 そして、モーガンが彼の席へよろめき帰ると、シルヴァーは私に内証話のような囁き声で言ったが、それは非常に諂《へつら》うような調子に私には思えた。――
「あれぁとても正直者なんだよ、あのトム・モーガンはね。ただ頓馬《とんま》なだけでね。ところで、」と彼は声高に再びしゃべり続けて、「待てよ、――黒犬《ブラック・ドッグ》と? いいや、己ぁそんな名前は知らねえ。知らねえとも。だが、どうやら見たような気が――そうだ、見たことがある、あの野郎を。あいつはよくここへ盲乞食と一緒に来たぞ。うん、よく来たよ。」
「そうですよ、間違いありません。」と私は言った。「僕はその盲人《めくら》も知っています。ピューという名前でしたよ。」
「そうだった!」とシルヴァーは今はまったく興奮して叫んだ。「うん、ピューだ! 確かにそういう名前だった。ああ、あいつはぺてん師らしかったな、まったく! とにかく、もしあの黒犬をつかめえれば、トゥリローニー船長《せんちょ》に、いいお知らせが出来る訳だぞ! ベンはなかなか走る男だ。水夫にゃあベンくれえよく走る男はあんまりいねえ。あの男なら訳なく奴に追いつくだろう、きっとな! 奴は船底潜らせのことを話してたと? この己が[#「この己が」に傍点]奴に船底潜らせをやってやるぞ[#「やるぞ」に傍点]!」
 彼は、こういう文句を吐き出すように言っている間、始終、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖で店をあちこちとぴょんぴょん歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら、手でテーブルを叩いたり、中央刑事裁判所《オールド・ベーリー》(註三七)[#「(註三七)」は行右小書き]の裁判官やボー街(註三八)[#「(註三八)」は行右小書き]の警吏でも得心させそうなくらいの興奮した様子を見せたりしていた。「遠眼鏡屋」で黒犬を見てから私の例の疑念はすっかり再び呼び覚されていたので、私はその料理番《コック》をよく気をつけて注視していた。しかし、彼は私などにわかるには余りに心が深く、余りに悟り早く、余りに利口だった。そして、さっきの二人の男が息を切らして戻って来て、追っかけて行った奴を人込みの中で見失ってしまったと言って、まるで泥棒などのように呶鳴《どな》りつけられている頃には、私はのっぽのジョン・シルヴァーの潔白なことを請合ってもいいくらいの気持になっていたのであった。
「ねえ、ホーキンズ、」と彼は言った。「俺《わし》のような人間にもこんな情ねえ辛《つれ》えことがあるんだ。わしなあ、そうじゃねえかい? トゥリローニー船長がねえ、――あの方《かた》はどう思いなさるかなあ? いめいめしいあん畜生めが、俺の家《うち》に坐りこんで、俺んとこのラムを飲んでやがったなんて! そこへ君がやって来て、そいつをはっきり言ってくれたのだ。それだのに俺は、このいまいましい眼の前で、みすみす奴を逃がしちまったんだ! で、ホーキンズ、君は船長さんと一緒に俺を公平に判断しておくれ。君は子供だ。子供じゃあるが、ペンキみてえにはしっこい。それは君が初めて入《へえ》って来た時に俺にゃあちゃんとわかってるんだ。で、こういう訳だよ。こんな古|棒片《ぼうぎれ》をついてぴょっこぴょこ歩いてる俺に、何が出来るかね? 俺も丈夫な船長だった時なら、すぐに訳なく奴に追っついて、さっそくひっ捕えてくれるんだ。そうともよ。だがこれじゃあ――」
 と言いかけて、突然、言葉を切り、そして、何かを思い出したように口をあんぐり開けた。
「勘定を!」と彼は喚いた。「ラムが三杯だ! えい、こん畜生、勘定のことを忘れちまうなんて!」
 そして、腰掛にどかんと腰を落して、彼は涙が頬を流れ落ちるまで笑いこけた。私もそれにひきこまれずにはいられなかった。そして私たちは一緒に笑い続けたので、酒場中が鳴り響いた。
「やれやれ、己も何てやくざな老いぼれ水夫になったものだろう!」と彼はようやく頬を拭いながら言った。「君と俺とは仲よくしような、ホーキンズ。これじゃあ俺もきっと船のボーイ並《なみ》に扱われるだろうからねえ。だが、さあ、出かける用意をし給え。こうしちゃいられねえ。義務は義務だ、なあ君。俺も自分の古ぼけた縁反帽をかぶって、君と一緒にトゥリローニー船長んとこへ行って、この事件を報告するとしよう。なぜって、いいかい、これぁ大事件なんだからね、ホーキンズ君。そして、君だって俺だって、信用っていったようなものでは、これはどうもすまされんことだからね。君だってそう思うだろう。利口じゃなかったな、――俺たち二人とも利口じゃなかったさ。だが、畜生! あの勘定を取り損うなんてうめえ洒落だったよ。」
 そして彼は再び笑い始めた。余り心《しん》から笑うので、私は彼のようにその洒落はわかりはしなかったけれども、また彼と一緒になって笑い興ぜずにはいられなかった。
 埠頭に沿うて二人がしばらくの道を歩いてゆく間も、彼は実に面白い連《つれ》になってくれた。途にあるいろいろの船について、その艤装や、トン数や、国籍などを言ってくれたり、やっている作業を――これは荷卸ししているのだとか、あれは船荷を積み込んでいるところだとか、あれは出帆しようとしているのだとか――説明してくれたりした。また時々は、船や水夫などのちょっとした逸話を話してくれたり、海語を私がすっかり覚えこんでしまうまで繰返して言ってくれたりした。私はこれは実にいい船友達が出来たものだと思い始めた。
 宿屋に着くと、大地主さんとリヴジー先生とは一緒に着席していて、スクーナー船を検査に行く前に、祝杯に一クォート(註三九)[#「(註三九)」は行右小書き]のビールを飲み終えたところであった。
 のっぽのジョンは、例の話を、初めから終りまで、非常に熱心に、またまったくありのままに話した。「そういうわけでした。ね、そうだったね、ホーキンズ?」と彼は時々言い、私はその度にまったくその通りだと言うことが出来た。
 二人の紳士は黒犬が逃げたのを残念がった。が私たち皆はどうも致し方がないということに意見が一致した。そして、お愛想を言われてから、のっぽのジョンは※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を取り上げて出て行った。
「今日の午後四時までに全員乗船だぜ。」と大地主さんが彼の後から呶鳴《どな》った。
「はいはい。」と料理番は廊下で叫んだ。
「いや、大地主さん、」とリヴジー先生が言った。「私は概してあんたの発見されたものにはあまり信を措きませんが、これだけは言えますな? ジョン・シルヴァーは気に入りましたよ。」
「あの男はまったく頼もしい奴さ。」と大地主さんが断言した。
「ところで、ジムも一緒に船へ来てもいいでしょうな?」と先生が言い足した。
「無論いいとも。」と大地主さんが言った。「帽子をお持ち、ホーキンズ。船を見にゆくんだ。」

第九章 火薬と武器

 ヒスパニオーラ号は少し沖に碇泊していたので、私たちはたくさんの他の船の船首像の下を通ったり船尾を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ったりしてゆき、それらの船の錨索が、時には私たちの舟の竜骨《キール》の下で軋り、時には私たちの頭上で揺れ動いた。しかし、とうとうヒスパニオーラ号に横附けになり、上ってゆくと、副船長のアローさんが出迎えて挨拶した。日に焦《や》けた老海員で、耳に耳環をつけ、眇《すがめ》だった。この人と大地主さんとはごく親しくて仲がよかったが、トゥリローニーさんと船長との間は同じようにいっていないことに私は間もなく気づいた。
 船長は鋭敏らしい人であった。船の中のことには何もかも腹が立っているような様子で、間もなくその理由を私たちに話すことになった。私たちが船室《ケビン》の中へ下りてゆくかゆかぬに、一人の水夫が後からついて来たのである。
「スモレット船長がお話申したいとのことで。」と彼が言った。
「私はいつでも船長の命令の通りにする。お通ししろ。」と大地主さんが言った。
 船長は、その使者のすぐ後にいたので、直ちに入って来て、扉《ドア》を背後に閉《し》めた。
「で、スモレット船長、どういうお話ですかな? 万事うまくいっていてほしいものだが。万事きちんと整頓して航海にさしつかえないようになっていますか?」
「は、」と船長が言った。「たとい御立腹を蒙っても、はっきり申し上げた方がよいと思います。私《わたし》はこの航海を好みません。船員を好みません。それから副船長を好みません。これが手っ取り早いところです。」
「多分、君はこの船も好まんのだろうね?」と大地主さんが尋ねた。大層怒っているのが私にはわかった。
「まだ験《ため》してみないので、それは何とも申し上げられません。」と船長は言った。「結構な船のようです。それ以上は言えません。」
「恐らく、君は君の雇主も好まんのかも知れんね?」と大地主さんが言った。
 しかしここでリヴジー先生が口を入れた。
「ちょっと待って下さい、」と彼は言った。「ちょっと待って下さい。そういうような質問は感情を害するばかりで何にもなりゃせん。船長は言い過ぎているか、あるいは言い足りないのです。で、私は船長の言葉について説明を求めなければなりません。あなたはこの航海を好まないと言われますね。で、それはなぜですか?」
「私は、いわゆる封緘命令(註四〇)[#「(註四〇)」は行右小書き]で、その方《かた》のためにその方が命ぜられる処へこの船をやるのに雇われたのです。」と船長が言った。「そこまでは結構です。しかし私には今わかったのですが、平水夫たちが一人残らず私の知っている以上のことを知っております。これは公平じゃないと私は思います。公平だとお思いですか?」
「いや、思いませんな。」とリヴジー先生が言った。
「次にです。」と船長が言った。「私は我々が宝を探しに行くのだということを聞いております――それも、いいですが、私自身の部下から聞いたんですよ。ところで、宝というものはなかなか気をつけねばならないものです。私は宝探しの航海はどうしても好みません。しかも、それが秘密の航海で、その上(トゥリローニーさん、失礼ですが)その秘密が鸚鵡《おうむ》にまで話してあるのでは、ますます好みません。」
「シルヴァーの鸚鵡にかね?」と大地主さんが尋ねた。
「まあものの譬えがです。」と船長が言った。「べらべらしゃべってある、という意味です。どうもあなた方はお二人とも御自分のしようとしておられることがおわかりでないと思いますが、私の考えを申し上げましょう、――生きるか死ぬるか、際《きわ》どい仕事ですよ。」
「それはまったく明かなことです。そして多分その通りでしょう。」とリヴジー先生が答えた。「私たちはその危険を冒している。が、私たちはあなたの思っておられるほどに物識らずではありません。次に、あなたは乗組員を好まないと言われますね。あれらはよい水夫じゃありませんか?」
「私は好まないのです。」とスモレット船長は答えた。「その段になれば、私は自分の部下は自分で選ぶべきだったと思います。」
「多分そうあるべきだったでしょう。」と医師が答えた。「私の友人は、多分、乗組員を選ぶ時にはあなたにも一緒に来て頂くべきであったでしょう。しかし、あなたを軽んじたようなことがよしあったにしても、それは何気《なにげ》なくやったことで、故意ではありません。それから、あなたはアロー君も好まないのですね?」
「好みません。あれはよい海員だとは信じます。が、乗組員と狎々《なれなれ》し過ぎるので、よい高等船員とは申されません。副船長というものは交際を避けておるべきです、――平水夫と酒を飲んだりなぞすべきじゃありません!」
「あの男が酒を飲むというのかね?」と大地主さんが大声で言った。
「いいえ。ただ親しみ過ぎるというだけで。」と船長が答えた。
「なるほど。で、船長、結局のところは?」と医師が尋ねた。「あなたの希望されることを言って下さい。」
「さよう。あなた方は飽くまでこの航海をおやりになる決心ですか?」
「断然。」と大地主さんが答えた。
「よろしい。」と船長が言った。「それなら、私が自分の証明出来ないことを言っていたのをこれまで我慢して聞いて頂いたのですから、もう少し言うのを聞いて下さい。彼等は火薬と武器とを前部船艙に入れています。ところで、この船室《ケビン》の下によい場所があります。なぜそこへ入れないのですか? ――これが第一の点。それから、あなた方は四人の従者をつれてお出でですが、その中には前の方で寝ることになっている人もあるそうです? なぜこの船室のそばの棚寝床《バース》に寝させないのですか? ――これが第二の点。」
「まだあるのかな?」とトゥリローニーさんが尋ねた。
「もう一つです。」と船長が言った。「もう秘密が洩され過ぎています。」
「非常に洩され過ぎていますな。」と医師が相槌を打った。
「私が自分の耳で聞いたことを申し上げましょう。」とスモレット船長が続けて言った。「あなた方は或る島の地図を持っておられるそうです。その地図には宝のある処を示すのに十字記号がついているそうです。そしてその島の在る処は――」と言ってその緯度と経度とを正確に挙げた。
「私はそれを言ったことは決してない、だれ一人にも!」と大地主さんが叫んだ。
「でも船員は知っております。」と船長が返答した。
「リヴジー君、それは君かホーキンズかに違いない。」と大地主さんが叫んだ。
「だれが言ったかということは大したことじゃありません。」と医師が答えた。そして私にはわかったが、医師も船長もどちらともトゥリローニーさんの抗弁には大して顧慮しなかった。実際のところ、私だってそうだった。大地主さんは実に口に締りのないおしゃべり屋だったから。だが、この場合には私はほんとうに彼の言った通りだろうと思うし、まただれも島の位置まで言った者はなかったのだと思う。
「ところで」と船長が続けて言った。「私はどなたがその地図を持っておられるかは存じません。しかし、それは私やアロー君にだって秘密にしておいて頂きたいと、私は主張します。でなければ私は辞職させて頂きたいと思います。」
「なるほど。」と医師が言った。「あなたは私たちに、その事を秘密にしておいて、それから、ここに私の友人の従者たちを置き、船内のすべての武器と火薬とを備えて、船尾の部分を守備所にして貰いたい、と言われるのですね。つまり、あなたは暴動を気遣っておられるのですね。」
「もしもし、」とスモレット船長が言った。「別に気を悪くするつもりではありませんが、言うべきことを私に教えられる権利はお持ちにならんはずです。もし船長にそんなことが言えるだけの根拠があれば、まったく航海などする理由はない訳でしょう。アロー君のことを言えば、あれはまったく正直な男だと私は信じています。船員たちの或る者もそうです。いや、みんな案外正直者かも知れません。しかし、私はこの船の安全とこの船に乗っている人一人残らずの生命について責任があります。どうも、私の考えるところでは、万事が十分よくいっていないようです。それであなた方に確実な予防手段を執って頂きたいというのです。でなければ私に職を罷めさせて下さい。これだけです。」
「スモレット船長、」と医師は微笑しながら言い始めた。「大山鳴動して鼠一匹という寓話を聞かれたことがありますか? 失礼ですが、あなたはその寓話を思い出させます。あなたがここへ入って来られた時には、私は自分の仮髪《かつら》を賭けて言うが、それ以上のことを心に思っておられたのでしょう。」
「先生、」と船長が言った。「あなたは賢い方《かた》です。私がここへ来ました時には、解職させて頂くつもりでした。トゥリローニーさんが一|言《こと》でもお聞きになろうとは思いませんでしたから。」
「いかにも聞きはしなかったろうさ。」と大地主さんが叫んだ。「リヴジー君がここにいなかったら、私は君を叩き出してでいたろうよ。が実際は、このように君の言うことを聞いてやったのだ。で、まあ、君の望む通りにするとしよう。しかし、君のことはよく思わんよ。」
「それは御随意です。」と船長が言った。「私は自分の義務は果してお目にかけます。」
 そう言うと彼は立去った。
「トゥリローニーさん、」と医師が言った。「案に相違して、あなたはこの船に二人も正直な人間を乗せましたね、――あの人とジョン・シルヴァーと。」
「シルヴァーはそう言いたければ言ってもいいさ。」と大地主さんが叫んだ。「が、あの我慢の出来んいかさま師のことなら、私は断言するが、あの男の振舞は男らしくない、海員らしくない、全然イギリス人らしくない、と思うよ。」
「まあ、今にわかるでしょう。」と医師が言った。
 私たちが甲板へ出て来た時には、水夫たちはもう、よいこら、よいこらと掛声をしながら、武器と火薬とを運び出しにかかっていて、船長とアローさんとがそばに立って監督していた。
 今度の配置はまったく私の気に入った。スクーナー船全部が検査された。中部船艙の後の部分であったところに、六箇の棚寝床《バース》が船尾に拵えてあった。そしてその一組の船室は左舷の側にある円材(註四一)[#「(註四一)」は行右小書き]の出ている廊下で厨室と前甲板下水夫部屋《フォークスル》とに続いているだけだった。初めは、船長と、アローさんと、ハンターと、ジョイスと、医師と、大地主さんとがこの六つの棚寝床を占めることにきまっていたのであった。ところが今度は、レッドルースと私とがその中の二つに入ることになり、アローさんと船長とが甲板の船室昇降口室《コムパニヨン》で寝ることになった。そこは両側とも拡げられていて、最上後甲板下船室《ラウンドハウス》と言ってもいいくらいであった。もちろん、やはり天井はごく低かった。が二つの吊床《ハンモック》を吊《つる》すだけの余地はあった。そして副船長でさえこの配置には喜んでいたようだった? 多分、彼でさえ乗組員には疑いを抱いていたのであろう。だがこれはただ推量である。というのは、後にわかるように、私たちは永くは彼の世話にならなかったのだから。
 私たちが皆一所懸命に働いて、火薬と棚寝床とを移していると、その時、船員の最後の一二人と、のっぽのジョンとが、艀《はしけ》でやって来た。
 料理番《コック》は猿のようにうまく舷側《ふなばた》を上って来て、やっていることを見るや否や、「おや、兄弟《きょうでえ》! これぁ何だい?」と言った。
「火薬の場所を変えてるんだよ、ジャック。」と一人が答えた。
「やれやれ、何てこった。」とのっぽのジョンが叫んだ。「そんなことをしていちゃあ、きっと明日《あす》の朝の潮時《しおどき》をはずしちまうぜ!」
「俺《わし》の命令さ!」と船長がぶっきらぼうに言った。「お前は下へ行くがいい。みんなが夕食を待っているだろう。」
「はいはい。」と料理番は答えた。そして前髪に手を触れる敬礼をして、すぐ厨室の方へ姿を消した。
「あれはよい男ですぬ、船長」と医師が言った。
「そうかも知れませんな。」とスモレット船長は答えて、「おい、それはゆっくりやれ、ゆっくり。」と火薬を運んでいる連中に向って続けてしゃべった。それから突然、私たちが船の中央部に運んで来た旋回砲、真鍮の九ポンド砲を私が調べているのを目に留めると、――「こら、その給仕《ボーイ》、そこにいちゃいかん! 料理番《コック》のところへ行って何か手伝いをしろ。」と呶鳴《どな》った。
 それで私は急いで駆けてゆくと、彼がずいぶん大きな声で医師にこう言うのが聞えた。――
「私にはこの船で気に入った者は一人も出来ますまいよ。」
 確かに、私は大地主さんとまったく同感で、船長を心の底から憎んだ。

第十章 航海

 その夜は一晩中、私たちはいろいろの物をその各の場所にしまいこむのに大混雑し、またブランドリーさんやその他の大地主さんの知人たちが、大地主さんの平安な航海と無事の帰航とを祈りに、小舟何艘にも一杯乗ってやって来た。「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋では私にその半分の仕事があった晩も一晩だってなかった。そして、明方《あけがた》少し前に、水夫長《ボースン》が呼子を鳴らして、船員が揚錨絞盤《キャプスタン》の梃《てこ》に[#「梃《てこ》に」は底本では「挺に」]就《つ》き始めた時分には、私はへとへとに疲れていた。その二倍も疲れていたにしても、私は甲板を去りはしなかったろう。それほどすべてが私には物新しくて興味があったのだ、――簡短な号令も、呼子の鋭い音《ね》も、船の角燈のちらちらする光の中をそれぞれ自分の場所へ駆けてゆく人々も。
「さあ、|肉焼き台《バービキュー》、歌を一つやれよ。」と一人の声が叫んだ。
「あの昔のをな。」と別の声が叫んだ。
「よしきた、兄弟。」と※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖に凭《もた》れてそばに立っていたのっぽのジョンが言って、すぐに節《ふし》も文句も私のよく知っているあの唄をやり出した。――


「死人箱《しびとのはこ》にゃあ十五人――」

すると全部の水夫が合唱《コーラス》をやった。――


「よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!」

そしてその「さあ!」のところで梃《てこ》を[#「梃《てこ》を」は底本では「挺を」]威勢よく※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
 こんな気の立った瞬間にさえ、その唄は私の心をたちまちにして懐しい「ベンボー提督屋」へつれ帰らせた。そして私にはあの船長の声がその合唱の中で歌っているのが聞えるような気がした。しかし、やがて錨がまっすぐに上げられた。やがてそれは水をぽたぽた滴らせながら船首のところにぶら下った。やがて帆が風を十分に孕み出し、陸や船が両側で飛ぶように動き出した。そして、私が一時間ばかりの眠りを貪ろうとして横になることが出来る前に、ヒスパニオーラ号はもう宝の島をさして航海を始めていたのである。
 私はその航海のことを詳細に物語ろうとは思わない。航海はかなり順調にうまくいった。船はよい船であることがわかったし、船員たちは腕利きの水夫だったし、船長は自分の任務を十分に了解していた。しかし、私たちが宝島まで来ないうちに、知っておいて貰わなければならぬ二三の事件が起った。
 第一に、アローさんが船長の気遣っていたより以上に、厄介な人間になった。水夫たちには少しも睨みが利かず、部下の者は彼に対して勝手なことをした。しかし、悪いのは決してそれだけではなかった。航海に出てから一二日たつと、彼は、眼をとろんとさせ、頬を赤くし、口を吃《ども》らせ、その他の酔っている徴候も示しながら、甲板へ出て来出したのである。幾度も彼は恥をかいて下へ行けと命ぜられた。時には自分で転《ころ》んで怪我《けが》をしたり、時には一日中あの船室昇降口室《コムパニヨン》の片側にある自分の小さい寝床の中に横になっていたり、そうかと思うと、時には、一二日の間はほとんど素面《しらふ》でいて自分の仕事を少くとも普通にやっていることもあった。
 一方、彼がどこで酒を手に入れるのか、私たちにはどうしてもわからなかった。それは船での謎だった。私たちはずいぶん彼に注意していたけれども、少しもそれを解くことが出来なかった。そして、面と向って彼に尋ねれば、酔っている時には彼はただ笑っているばかりだったし、素面の時には、水の他《ほか》は何もついぞ飲んだことがないと真面目《まじめ》くさって否定するのだった。
 彼は副船長として役に立たず、水夫たちに悪い感化を及ぼすばかりではなく、この分では間もなく自分の身をも滅ぼすことになるに違いないということは明白だった。そういう訳だったから、逆浪の立っている或る暗い晩、彼がまったく姿を消して二度と出て来なかった時には、だれも大して驚きもせず、さほど気の毒がりもしなかった。
「海へ落ちたんだな!」と船長が言った。「いや、これであの男に足械《あしかせ》をかける手数が省けたようなものですよ。」
 しかし副船長がいなくなったものだから、もちろん、水夫たちの一人を昇進させることが必要となった。水夫長のジョーブ・アンダスンが船中では一番適任だったので、水夫長という名称は旧《もと》通りであったけれども、幾分か副船長の役を勤めることになった。トゥリローニーさんは航海をしたことがあって、その知識のために大層役に立った。凪《なぎ》の時にはたびたび自分で当直勤務《ウオッチ》をやることがあったからである。また、舵手《コクスン》のイズレール・ハンズは注意深い、狡猾な、老練な、経験のある海員で、まさかの時にはほとんど何でも任《まか》すことが出来る男だった。
 彼はのっぽのジョン・シルヴァーの腹心の友であって、彼の名を挙げると、私は自然、皆が|肉焼き台《バービキュー》(註四二)[#「(註四二)」は行右小書き]と呼んでいる、私たちの船の料理番《コック》のことを話す順序になって来る。
 船の中では、彼は、両手とも出来るだけ自由に使えるようにと、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を頸の周りにかけた一本の締索《しめなわ》にぶら下げていた。彼が隔壁に※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖の足を突っぱって、それで身を支え、船の揺れ動くままに任せながら、陸上にいて安全な人のように料理をやり続けているのを見るのは、なかなか面白かった。天候の非常に荒れた日に彼が甲板を横切ってゆく有様は、なお一層奇妙だった。彼は一本か二本の索を用意して一番幅の広い場所を突っ切る時にはそれを頼りにした。――その索のことをのっぽのジョンの耳環と皆は言っていたが。そして、或る時は※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を使い、また或る時はそれを例の締索で脇に曳きずって、他の人の歩くのと同じくらいに速く、一つの場所から他の場所へと動いてゆくのであった。それでも、以前に彼と一緒に航海したことのある人々の中には、彼がそんな有様になったのを見るのは可哀そうだと言う者もいた。
「あの男は並《なみ》の人じゃねえんだよ、あの|肉焼き台《バービキュー》はな。」と舵手が私に言った。「若《わけ》え時にゃ良《え》え教育を受けたんで、その気になれぁ書物みてえにちゃんと立派にしゃべれるんだ。それから強《つえ》えぞ、――獅子《ライオン》だってのっぽのジョンのそばあたりにもよれやしねえんだぜ! 己は、あの男が四人の者と取っ組み合って、其奴《そいつ》らの頭を叩き合したのを見たことがある。――あの男の方は素手《すで》でよ。」
 水夫たちは皆彼を尊重し、彼に服従さえした。彼は一人一人に対しての口の利き方を心得ていたし、だれにも何か特別の世話を焼いてやった。私にはずっと変らず親切で、私が厨室へ行くといつも喜んでくれた。そこは彼が始終新しいピンのように綺麗にしておいた。皿なども磨き立てて掛けてあり、彼の鸚鵡《おうむ》が一隅にある鳥籠の中にいた。
「来給え、ホーキンズ、」と彼はよく言った。「来てジョンと話をしておくれ。だれよりも君が来てくれるのが嬉しいよ、坊や。まあ腰を掛けて変った話でも聞いてくれ給え。これがフリント船長《せんちょ》だ、――己はこの鸚鵡をあの名高《なだけ》え海賊の名を取ってフリント船長って言ってるんだよ、――このフリント船長がな、今度の航海《こうけえ》はうまくゆくって予言しているぜ。そうじゃなかったかね、船長?」
 すると鸚鵡は「八銀貨! 八銀貨! 八銀貨!」と非常に速いのに言い続け、息が切れはしまいかと思われるまで、またはジョンがハンケチを鳥籠の上に投げかけるまで、それを止《や》めない。
「ところで、この鳥はね、」とジョンは言う。「多分二百歳ぐらいだろうよ、ホーキンズ。――鸚鵡って奴は大概《てえげえ》いつまででも生きてるものなんだ。で、だれでもこいつよりももっとたくさん悪い事を見て来たものがあれぁ、それは悪魔だけに違えねえさ。この鳥はイングランドと一緒の船にいたこともあるんだ。あの大海賊のイングランド船長(註四三)[#「(註四三)」は行右小書き]とね。こいつはマダガスカルにもいたことがあるし、マラバーにも、スリナムにも、プロヴィデンスにも、ポートベロー(註四四)[#「(註四四)」は行右小書き]にもいたことがある。あの銀貨や銀塊を積んだ難破船の引揚げの時にもいたんだ。そこでこいつは『八銀貨』を覚えたんだから、不思議はない訳さ。その八銀貨が三十五万枚もあったんだぜ、ホーキンズ! こいつはまたゴア(註四五)[#「(註四五)」は行右小書き]の港の外でインド太守の船に乗込みのあった時にもいたんだよ。でも、こうして見ていると、まるで赤ん坊みてえに思えるだろう。だがお前《めえ》は火薬の臭《にお》いを嗅いだことがあるんだ、――そうだろ、船長?」
「針路転換用意。」と鸚鵡《おうむ》は金切声を立てる。
「ああ、利口な奴だ、こいつは。」と料理番は言って、ポケットから角砂糖を出して鸚鵡にやる。それから、その鳥は横木をつついて、信じられないほど口ぎたない言葉を吐き続ける。「ほら、ねえ、君、」とジョンが言い足す。「朱に交れば赤くなる、って奴さ。己のこの無邪気な鳥が、可哀そうに、こんなひどい言葉を使うんだからね。無論、何にも知らずにだよ。言わば牧師さんの前だってこれと同じことを言うんだろうからねえ。」そして、牧師さんと言うところで、彼はいつものしかつめらしいやり方で前髪に手を触れるので、私はこんなよい男はまたとあるまいと思ったものだった。
 とかくしているうちにも、大地主さんとスモレット船長とはやはりよそよそしい間柄であった。大地主さんはそのことを少しも意に介しなかった。彼は船長を軽蔑した。船長の方は、話しかけられた時の他は決して口を利かなかったし、その話しかけられた時でも、つっけんどんで、ぶっきらぼうで、素気《そっけ》なく、一言も無駄口を利かなかった。一度言いこめられた時に、彼は、船員については自分は思い違いをしていたようだ、中には自分の希望通りに敏捷な者もいるし、みんながかなりよくやっている、と白状した。船に関しては、彼はそれがまったく気に入っていた。「この船はほとんど風上に間切《まぎ》っても進めますな。女房にだってこれほど言うことをきかせる訳にはゆきますまいよ。しかし、」と彼は言い足すのだった。「まあ、我々が帰国していないのが残念です。私はこの航海を好みません。」
 大地主さんは、それを聞くと、ぷいと顔を背けて、頤を突き出しながら(註四六)[#「(註四六)」は行右小書き]、甲板をあちこちと歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。
「もうちっとでも失敬なことを言うと、俺《わし》の癇癪玉も破裂するぞ。」と彼はよく言った。
 私たちは幾度か暴風に遭ったが、それはただヒスパニオーラ号の優良な性質を証拠立てただけであった。船の中の者は皆十分に満足しているようだった。そうでなければ、よくよくの気むずかし屋だったに違いない。というのは、私の信ずるところでは、ノアの方舟《はこぶね》此方これほど甘やかされた船員は決してなかったのだから。ちょっとした口実があっても、強い|水割りラム《グロッグ》が振舞われたりした。また、何でもない日に、例えば、大地主さんがだれかの誕生日だということを聞いたというような日などには、プディングが出た。それから、林檎の樽が一ついつでも中部甲板に蓋を開けたまま置いてあって、だれでも好きな者が勝手に食べられるようになっていた。
「こんなことからよいことが起ったというのは、まだ聞いたことがない。」と船長はリヴジー先生に言った。「水夫を甘やかすのは、彼等を悪魔にする。私はそう信じています。」
 しかし、これからわかるように、よいことがその林檎樽から確かに起ったのである。というのは、もしその林檎樽がなかったなら、私たちは何の警告も受けることがなかったろうし、一人残らず叛逆の手にかかって殺されてしまったかも知れないのだから。
 それは次のような次第であった。
 私たちは、目指している島――私はもっとはっきり書くことは許されていない――の風上に出るために、これまでは貿易風について赤道の方へ走っていたが、今度は赤道から離れてその島へ向って走り、昼夜油断なく見張りをしていた。最も多くに見積っても、私たちの往航の最後の日に当る頃のことであった。その夜のうちか、遅くとも翌日の正午前には、宝島が見えるはずであった。私たちは南南西に進んでいて、正横にむらのない風を受け、浪は静かだった。ヒスパニオーラ号は絶えず一様に横揺れし、時々船首の第一斜檣《ボースプリット》を水に突っ込んでぱっと飛沫《しぶき》をあげた。上も下もすべての帆が風を孕んでいた。だれも彼も大元気だった。もう私たちの冒険の最初の部分の終りにごく近かったからである。
 さて、日没のすぐ後、私は自分の仕事をすっかりすませて、自分の棚寝床《バース》へ行く途中、ふと林檎を食べたいと思った。私は甲板へ走り上った。当直の者は皆前部にいて島を見張っていた。舵輪を握っている男は帆の前縁を見ながら、ゆっくりとひとりで口笛を吹き続けていた。そしてその口笛の音が、船首や舷側《げんそく》にあたる浪のしゅうしゅうという音を除けば、聞える唯一の音であった。
 私は体《からだ》ぐるみ林檎樽の中へ入り込んだ。すると林檎がほとんど残っていないのがわかった。が、そこで暗がりの中に坐っていると、波の音やら船の動揺やらで、つい寝込んだか、それとも眠りかけようとしていたか、その時、だれか重い男がすぐ近くにどしんと腰を下した。その男が肩を樽にもたせかけると樽がぐらぐらと揺れたので、私がもう少しのことで跳び上ろうとした時、その男がしゃべり始めた。それはシルヴァーの声だった。そして、私は一ダースの言葉も聞かないうちに、どんなことがあっても出てゆくどころではなく、極度の恐怖と好奇心とで、ぶるぶる震えながらも耳を傾けて、そこに蹲った。というのは、その一ダースの言葉から、私は船中にいるすべての正直な人たちの生命が自分一人に懸っていることを知ったからである。

第十一章 林檎樽の中で聞いた話

「いいや、己じゃねえ。」とシルヴァーが言った。「フリントが船長《せんちょ》だったんだ。己は、こんな木の脚をついてるんで、按針手《クォータマスター》だったよ。己が脚をなくした時の片舷《かたがわ》からの一斉射撃で、ピューの奴めも眼玉をなくしたのさ。己の脚を切ってくれたのは上手な外科医だった、――大学なんかもみんなすまして、――ラテン語もどっさり知ってたし、その他《ほか》何でも知っていてね。だが、その男も犬みてえに縊《くび》り殺されて、他の奴らと同じに天日《てんぴ》に曝されたぜ、コーソー要塞(註四七)[#「(註四七)」は行右小書き]でよ。あれはロバーツ(註四八)[#「(註四八)」は行右小書き]の手下だった、あれはな。あれも船の名を変えたんで起ったことさ、――大幸運《ロイアル・フォーチュン》号とか何とかね。だから、船に名をつけたら、そのままにしておくことだな。イングランドがインドの太守を虜《とリこ》にしてから、己たちみんなを無事にマラバーから乗せて戻ったカサンドラ号だってそうだったし、赤い血を見て暴れ狂って手当り次第の船をやっつけ、金貨で今にも沈みそうになった、フリントの船の海象《ウオルラス》号だってそうだったよ。」
「ああ!」と別の声が叫んだが、それは船中で一番若い水夫の声で、明かに感歎しきった声だった。「あの人は仲間の華《はな》だったんだね、あのフリントって人は!」
「デーヴィス(註四九)[#「(註四九)」は行右小書き]も偉い奴だったそうだ、みんなの話じゃあな。」とシルヴァーが言った。「己は一度もあの人と一緒に船に乗ったことはねえ。初めはイングランドの船に乗り、それからフリントの船に乗った、というのが己の経歴だ。そして今じゃあ、言わば自前《じまえ》になったって訳さ。己はイングランドの時には九百ポンド貯《た》め、フリントのところでは二千ポンド貯めた。これぁ平水夫にしちゃあ悪かあねえだろ。――みんなちゃんと銀行に預けてあるよ。肝腎なのは稼ぐことじゃねえ、貯めることだ。こいつあ違えねえとこだぜ。イングランドの手下の奴らあ今みんなどこにいる? わからねえ。フリントの手下は? それぁ、大抵はこの船にいて、プディングを貰って喜んでやがるが、――その前《めえ》にゃ乞食をしていた奴もある。眼をなくしたピューの奴などは、恥しくもなく、国会の議員さまみてえに一年に千二百ポンドも使ったものだ。奴は今どこにいる? そうさ、もう死んじゃって、あの世にいらあ。だがその前二年ってものは、馬鹿めが! あいつは饑《かつ》えていやがったんだよ。奴は乞食をする、盗みはやる、人殺しをやる、おまけに飢死《うえじに》と来るんだからなあ!」
「じゃあ、金《かね》だって大して役にゃ立たない訳ですね、つまり。」とその若い水夫は言った。
「馬鹿にゃあ大《てえ》して役に立たねえとも、違えねえさ、――金だって何だって。」とシルヴァーが大声で言った。「だが、なあ、おい。お前《めえ》は若《わけ》え。若えが、ペンキみてえにはしっこい。それはお前をちょっと見た時から己にゃあちゃんとわかってるんだ。だから己はお前を一人前の男と同じに話をするんだぜ。」
 この憎むべき老いぼれの悪漢が、私に使ったのとそっくり同じ言葉のおべっかを、他の人間に言っているのを聞いた時の私の気持がどんなだったかは、諸君も想像出来るであろう。私は、もし出来さえしたら、樽越しに彼を突き殺してやったろうと思う。その間に、彼は、窃《ぬす》み聞きされているとは少しも思わずに、しゃべり続けた。
「分限紳士《ぶんげんしんし》ってなあこういうものなんだ。奴らは荒仕事をやるし、ぶらんこ往生覚悟の仕事をやるが、闘鶏《けあいどり》みてえに贅沢に飲み食いする。そして一航海やって来ればだ、そうさなあ、ポケットにゃ何百ファージングの代りに何百ポンドと入《へえ》ってる。(註五〇)[#「(註五〇)」は行右小書き]ところで、大概《てえげえ》の奴らはそれをラムや大尽遊びに使っちまって、またぞろシャツ一枚で海へ出かけるという訳さ。だが己のやり口はそうじゃねえ。己はそれをそっくりためておく。こっちに少し、あっちに少しという風にして、どこにもあんまりたんとはおかねえ。嫌疑がかかるからな。己ぁ五十だぜ、いいかね。今度の航海から帰《けえ》りせえすりゃ、真面目《まじめ》な紳士の暮しを始めるんだ。まだずいぶん早《はえ》え、ってお前は言うだろう。ああ、だが己は今までだって安楽に暮して来たのだ。してえと思うことでやらなかったことは何一つなかったし、いつも柔かな寝床に寝てうめえものばかり食ってたんだ。海に出てる時だけあ別だがね。その己が初めはどうだったかね? お前と同じに、平水夫さ!」
「なるほど、」と一方の男が言った。「だが他の金はみんなもうなくなった訳ですね? これから後はあんただってブリストルへは顔が出せねえでしょう。」
「じゃあ」己の金がどこにおいてあると思うかね?」とシルヴァーは嘲笑《あざわら》うように尋ねた。
「ブリストルにさ、銀行だの何だのにな。」と相手の男が言った。
「この船が錨を揚げた時にゃあそうだったのさ。」と料理番《コック》は言った。「だが今時分は己の女房がそいつをすっかり握ってるのだ。そして『遠眼鏡《スパイグラース》屋』は借地権も暖簾《のれん》も道具一式もすっかり売り払って、嬶《かかあ》どんは己と逢うためにそこを出ているよ。己はお前を信用してるから、どこで逢うことにしているのか言ってやってもいいが、そうすると仲間の奴らが嫉むだろうからな。」
「で、あんたはおかみさんを信用出来るのかい?」と一方の男が尋ねた。
「分限紳士って者は、」と料理番が答えた。「普通は仲間同志じゃあんまり信用しねえものだ。そしてそれももっともなんだ、確かにな。だが、己にゃあまた己の流儀があるのさ。だれかが仲間の者を裏切るなんてこたぁ、――己を知っているだれかのことだが、――このジョンのいる同じ場所じゃ起りっこねえんだ。ピューを恐れてる奴もいた。またフリントを恐れてる奴もいた。がそのフリントはまたフリントで己を恐れていた。恐れてはいたが、また己のことを自慢にもしていた。あいつらはこの上なしの乱暴な船乗だった、フリントの船員はな。悪魔だってあいつらと一緒に海へ行くのは尻込みしたろうよ。ところでだ、ほんとのところ、己は法螺吹きじゃねえし、お前の見てる通り己は仲間を仲よくさせているが、己が按針手だった時にゃあ、フリントの手下の海賊どももおとなしいことったら、小羊[#「小羊」に傍点]と言ったって追っつかねえくれえだったぜ。ああ、お前だってこのジョンと一緒の船にいりゃあひとりでにわかるよ。」
「いや、実はね、」と若者が答えた。「ジョン、あんたと今の話をするまでは、あっしは今度の仕事は大して気が進まなかったんでさ。だがもうわかった。握手しましょう。」
「お前は強え男だ。おまけにはしっこい。」とシルヴァーは、樽ががたがた揺れるくらい心をこめて握手しながら、答えた。「それに分限紳士としちゃあ己の見たことのねえくれえ男前がいいしな。」
 この時分には、彼等の遣っている言葉の意味が私にはわかりかけていた。「分限紳士」というのは明かに普通の海賊のことに違いなく、(註五一)[#「(註五一)」は行右小書き]私の窃《ぬす》み聞きしたこの小場面は、実直な船員の一人が堕落させられる最後の一幕だったのだ。――恐らくそれは船中に残っている最後の実直な者であったのだろう。しかし、この点では私は間もなく安堵させられる話を聞いたのだ。シルヴァーがちょっと口笛を吹くと、もう一人の男がぶらぶら歩いて来て二人のそばに坐った。
「ディックは話がついたよ。」とシルヴァーが言った。
「おお、ディックが話がつくってこたぁ己ぁ知ってたよ。」と舵手《コクスン》のイズレール・ハンズの声が答えた。「この男は馬鹿じゃねえからな、このディックは。」それから彼は噛煙草をぐにゃぐにゃやって唾をぺっと吐いた。「だが、おい、」と続けて言った。「己の聞かして貰《もれ》えてえのはこういうことさ、|肉焼き台《バービキュー》。一|体《てえ》、いつまで己たちはうろうろ舟みてえにぐずぐずしてるんだね? 己ぁもうスモレット船長《せんちょ》にゃうんざりしてる。奴は永《なげ》えこと己をこき使いやがったよ、畜生! 己ぁあの船室《ケビン》へ入りてえんだ、そうさ。奴らの漬物《ピックル》だの葡萄酒だの何だのがほしいんだ。」
「イズレール、」とシルヴァーが言った。「お前の頭は大して役に立たねえぞ、相変らずな。だがお前は聞くことだけは出来そうだ。何しろでっけえ耳をしているからな。ところで、己の言うことはこうだ。お前は水夫部屋に寝てるんだ、せっせと働くんだ、丁寧な口を利くんだ、酔っ払わずにいるんだ、己が命令するまではだ。その通りにしてるんだぞ、小僧。」
「うむ、いやだなんて己は言やしねえ。言ったけえ?」と舵手はぶつぶつ言った。「己の言うのは、いつだ? ってえんだ。それが己の言ってることなんだ。」
「いつだと! こん畜生!」とシルヴァーが叫んだ。「よし、では、聞かして貰えてえんなら、いつだか言ってやろう。己がこれならやれると思う最後のぎりぎりの時、それがその時なんだ。スモレット船長という立派な海員《けえいん》がいて、この有難《ありがて》え船を己たちのために動かしてくれる。あの大地主と医者の奴が地図やなんぞを持っていてくれる。――それがどこにあるのか己にはわからねえじゃねえか? お前たちだってわからねえだろ。そこでだ、己は、あの大地主と医者とに金《かね》をめっけ出させて、それを船に積み込む手伝いをさせてやろう、ってつもりなんだ。それからがこっちのやる番だよ。もしお前たち大馬鹿野郎どもがみんなが頼りになるなら、己は、スモレット船長にまた船を半分途まで戻させて、それからやっつけるのだ。」
「なあに、ここに乗ってる己たちだってみんな海員だ、と己は思うんだがな。」と若者のディックが言った。
「己たちだってみんな平水夫だ、って言う間違えだろうよ。」とシルヴァーがつっけんどんに言った。「なるほど己たちは一つの針路に船を進めることは出来るが、しかしだれがその針路をきめるんだい? お前さん方みんながたびたびしくじるのは、そこなんだ。もし己の思う通りにするとすりゃあ、己はスモレット船長に少くも貿易風の中まで船を戻させる。そうすりゃ、いまいましい見込違いもなければ、一日にちょっぴりの水だけ飲んでなけれぁならんような目にも遭わずにすむだろう。だが手前たちがどんな質《たち》の連中か己は知ってる。現なまを船に積み込み次第《しでえ》、己は島で奴らをやっつけねばなるめえ。情《なさけ》ねえやり方さ。しかし手前たちは酔っ払うまでは決して仕合せになれねえって連中なんだ。えい、糞いまいましい、手前たちのような手合と一緒に船に乗ってるのはつくづく厭《いや》んなっちゃうぜ!」
「止《や》めろよ、のっぽのジョン。」とイズレールが叫んだ。「だれがお前《めえ》に逆《さから》ったい?」
「うむ、己がこれまでにどれほどたくさんの立派な船が舷側《ふなばた》に攻め寄せられたのを見て来たとお前は思う? それから、どれほどたくさんの元気な若え奴らが仕置波止場(註五二)[#「(註五二)」は行右小書き]で天日に曝されたのを見たと思う?」とシルヴァーが叫んだ。「そりゃあみんな、ただ急ぎに急いだからなんだぜ。わかったか? 己は海のことならちったぁ心得てるんだ、己はな。もし手前たちが今のままにして、うまくやってきせえすれぁ、馬車に乗って歩く身分になれるのだ、そうともよ。だが手前たちゃ駄目さ! 己はお前たちを知ってる。お前たちは明日にでもラムを一口飲んで、縊り殺されることになるだろうよ。」
「お前が牧師みてえな男だってこたぁだれだって知ってるよ、ジョン。だが、他《ほか》にもお前と同じくれえ帆も捲けれぁ舵も取れる者だっているぜ。」とイズレールが言った。「奴らはちっとは遊びも好きだった、そうとも。とにかく、奴らはそんなに世間離れがしてねえで、どいつもみんな陽気に大尽遊びをやったものさ。」
「そうかね?」とシルヴァーが言った。「なるほど。で、その連中は今はどこにいる? ピューはそんな風な奴だったが、乞食になって死んじまった。フリントもそうだったが、サヴァナでラムで命をなくした。ああ、あの連中は立派な船乗だった、ほんとにな! ただ、今はどこにいる?」
「しかしねえ、」とディックが尋ねた。「奴らを攻撃して、それから奴らをどう始末するんですね、とにかく?」
「うん、お前はさすがだ!」と料理番は感歎したように叫んだ。「それが己が仕事と言ってることだよ。ところで、お前はどう思う? 島流しみてえに奴らを島に残して来るかね? それならイングランドのやり方だろう。それとも豚肉《ぶたにく》みてえに奴らを叩っ切るかね? それならフリントかビリー・ボーンズのやり方だろうな。」
「ビリーはそれにゃお誂《あつれ》え向きの男だったな。」とイズレールが言った。「『死人《しびと》は咬みつかず』って奴《やっこ》さんはよく言ってたっけ。ところで、今じゃ自分で死んでござるので、咬みつくかつかねえかってことはちゃんと何もかも御存知の訳だ。もし今までに荒っぽい船員があの世へ行ったことがあるとすりゃ、それぁビリーだな。」
「お前の言う通りだ。」とシルヴァーが言った。「荒っぽくてめちゃな奴だった。だが、いいかね。己は穏かな人間だ、――まるで紳士だ、ってお前たちも言うだろう。しかし今度は大事《でえじ》な場合だ。やることはやらにゃならんよ、兄弟《きょうでえ》。己は投票する、――殺しちゃう方へだ。己が国会にいて、馬車に乗って歩いている時に、あの船室《ケビン》にいる口やかましい奴どもにゃ一人だって帰って来て貰えたかねえ、お祈りの式に出て来た悪魔みてえに思いがけなくな。己の言うのは待てということだ。しかし時機が来たら、やっつけるのだ!」
「ジョン、お前は偉者《えらもの》だ!」と舵手が叫んだ。
「見てからそう言うがいいさ、イズレール。」とシルヴァーは言った。「たった一つ己に望みがある、――トゥリローニーが望みだ。己はこの手であの間抜野郎の首を胴体から捩じ切ってやるのだ。ディック!」と彼は急に言葉を止めて言い足した。「お前、いい子だから、ちょっと跳び上って、己に林檎を一つ取ってくれ。咽《のど》を湿《しめ》すんだから。」
 その時の私の恐怖は想像出来るであろう! その力さえあったなら私は跳び出て逃げ出したことだろう。けれども私の手足も心も同様に私をためらはせた。ディックが立ち上りかけるのが聞えた。それからだれかが彼を止めたようだった。そしてハンズの大声に言う声が聞えた。――
「おお、止《よ》せ止せ! その樽の中のものなんかしゃぶるなよ、ジョン。ラムを一|杯《ぺえ》やろうじゃねえか。」
「ディック、」とシルヴァーが言った。「お前を信用するよ。樽の上に計量器がある、いいかい。それ、鍵だ。小皿に一杯入れて持って来てくれ。」
 私はびくびくしてはいたけれども、アローさんが身を滅ぼすようになった強い酒を手に入れたのも、こんな風にしてだったに違いない、と思わずにはいられなかった。
 ディックはほんのしばらくの間行っていたが、彼のいない間イズレールは料理番にずっと囁き続けていた。私の聞き取れたのはほんの一二語に過ぎなかったけれども、それでも私は重大な消息を知った。というのは、他にも同じような意味のきれぎれの文句の他に、こういう文句全体が聞えたからである。「あいつらはもう一人もこっちへつくめえよ。」とすると、船中にはまだ忠実な船員もいる訳であった。
 ディックが戻って来ると、三人は順々に小皿を取って飲んだ。――一人は「運がいいように。」と言って飲み、もう一人は「フリントのために祝杯を。」と言って飲み、シルヴァーは歌のような調子で「己たちのために祝杯を挙げる。しっかりやるんだ。そうすりゃ獲物はどっさり、御馳走もどっさりだ。」と言って飲んだ。
 ちょうどその時、樽の中にいる私に何だか明るい光がぱっと射《さ》して来た。見上げると、月が昇っていて、後檣《ミズンマスト》の頂を銀色にし、前檣帆《フォースル》の前縁に白く輝いているのだった。そして、それとほとんど同時に、見張りの者の声が「陸が見えるぞう!」と叫んだ。

第十二章 戦争会議

 甲板をどかどかと走る足音がした。人々が船室《ケビン》や水夫部屋《フォークスル》から駆け上って来るのが聞えた。それで、私はたちまちに樽の外へひらりと出て、前檣帆《フォースル》の後《うしろ》に隠れ、船尾の方へくるりと向を変えて、広い甲板のところへ出て来ると、ちょうど折よく、風上船首へと走ってゆくハンターとリヴジー先生とに一緒になった。
 そこには船員がすでにみんな集っていた。帯のようになっていた霧が月の出とほとんど同時に霽《は》れていた。船から遥か南西に当って、二つの低い山が二マイルばかり離れて立っているのが見え、その中の一つの背後に第三のもっと高い山が聳えていて、その山嶺はまだ霧に包まれていた。三つとも尖っていて円錐形をなしていた。
 これだけを私はほとんど夢心地で見た。というのは、一二分前のあのぞっとするほどの恐しさから、私はまだ恢復していなかったからである。その時スモレット船長が命令を下す声が聞えた。ヒスパニオーラ号は二ポイントだけ風の吹いて来る方角の方へ向けられ、今度はちょうど島の東側を島に触れずに通り過ぎるような針路で進んで行った。
「さて、みんな、」と船長は、すべての帆が帆脚索で十分に張られた時に、言った。「君たちの中でだれか以前に前のあの島を見た者があるかね?」
「わっしが見ました。」とシルヴァーが言った。「わっしは或る貿易船に料理番《コック》をしてました時に、あそこへ水を取りに行ったことがごぜえます。」
「碇泊所は南側で、小島の蔭だと思うが?」と船長が尋ねた。
「はあ、そうです。骸骨《スケリトン》島ってその島を皆は申しております。もとは海賊どもの大事《でえじ》な処でして、わっしらの船にいた一人の水夫が奴らのつけていた名前をみんな知ってました。北の方にあるあの山を奴らは前檣《フォーマスト》山と言っております。三つの山が南の方へ一列に並んでますな、――前檣山と、大檣《メーンマスト》山と、後檣《ミズンマスト》山という風に。けれど、大檣山を――あの雲のかかったでっけえ奴ですが――奴らは普通は遠眼鏡《スパイグラース》山って言っておりますよ。奴らが船を掃除するのに碇泊していた間、あの山に見張りを置いたという訳でね。失礼ながら、奴らが自分らの船を掃除しましたのは、あそこなんですから。」
「ここに海図があるがね。」とスモレット船長が言った。「それがあの場所かどうか見てくれ。」
 その海図を手にした時、のっぽのジョンの眼はきらりと輝いた。しかし、紙が新しいので、私には彼が失望しなければならぬことがわかった。それは私たちがビリー・ボーンズの衣類箱の中で見つけたあの地図ではなくて、正確な写しで、すべてが――地名も高度も水深も――すっかり書いてあったが、ただあの赤い十字記号と書込みの備考とだけがなかった。シルヴァーの苦悩はひどかったに違いないが、彼にはそれを隠すだけの意力があった。
「そうですよ、」と彼は言った。「これは確かにあの場所で。なかなかうまく描《け》えてありますねえ。だれが描えたんですかなあ? 海賊なんて奴あとても物識らずで描けめえとあっしは思いますがな。はあ、ここにありますよ、『キッド船長(註五三)[#「(註五三)」は行右小書き]碇泊所』とね、――あっしの船友達もそう言ってました。南の岸に沿うて強い潮が流れていて、それから西の岸を北の方へずうっと上っております。なるほどね、」と彼は言った。「船を風上に向けて島の風上へおやりになったのは、ようごぜえましたな。ともかく、船を入れて手入れをなさろうっておつもりなら、この辺にゃここよりよい処はごぜえませんよ。」
「有難う。」とスモレット船長が言った。「また後で力を貸して貰うことがあるだろう。行ってよろしい。」
 私はジョンが島について自分の知っていることをいかにも冷静に公言したのには驚いた。そして、彼が私の方へ近づいて来るのを見た時にはどきどきしたことを白状する。無論、私が林檎樽で彼の話を窃《ぬす》み聞きしたことは彼は知らなかったのだが、それでも、この時分には、私は彼の残忍さと二枚舌と勢力とには非常に怖しくなっていたので、彼が私の腕に手をかけた時にはほとんど身震いを隠せないくらいであった。――
「ああ、ここは面白《おもしれ》え処《とこ》だぜ、この島はな、――若《わけ》え者が上陸するにゃほんとに面白え処だ。」と彼は言った。「水浴びも出来る、木にも登れる、山羊も狩れるぞ。それに、自分でも山羊みてえにあの山のてっぺんへも行けるんだ。うむ、己だって若返《わかげえ》って来る。自分の木の脚を忘れちまいそうだよ。若くって、足指が十本揃ってるってこたぁ、楽しいことさ。違えねえぜ。君がちょいと探検にでも行ってみてえと思ったら、ちょっとジョン爺《じい》に言って来いよ。持ってく弁当を拵《こせ》えてやるからな。」
 そう言って私の肩を実に親しそうにぽんと叩くと、彼はぴょっこぴょっこ歩き出して、下へ行った。
 スモレット船長と、大地主さんと、リヴジー先生とは、後甲板で一緒に話していた。私はその人たちに自分の聞いた話を知らせたくてたまらなかったけれども、おおっぴらにその人たちの中へ割り込む訳にもゆかなかった。それで何かもっともらしい口実を見つけ出そうと頭の中であれこれと思案している間に、リヴジー先生が私をそばへ呼びつけた。彼は自分のパイプを下に置いて来たのであるが、非常な煙草好きなので、私にそれを取りにやらせるつもりだったのだ。けれども、私は人に洩れ聞きされずに話せるくらいに彼に近づくや否や、すぐに言い出した。――「先生、お話があります。船長さんと大地主さんとを船室《ケビン》へつれて降りて下さい。それから何かにかこつけて私を呼んで下さい。私は恐しいことを聞いたんです。」
 医師はちょっと顔色を変えたが、次の瞬間には自分の心を制した。
「有難う、ジム。」と彼は大層大きな声で言い、「それだけ聞けばよかったのだ。」と私に何か尋ねたかのようにした。
 そう言うと彼はくるりと後へ向いてまた他の二人の仲間に加わった。三人はしばらく一緒に話していた。そして、だれ一人もぎょっとしもせず、声を高めもせず、驚いたような声さえ立てなかったけれども、リヴジー先生が私の頼みを伝えたことは十分明かだった。というのは、私の聞いた次のことは船長がジョーブ・アンダスンに命令を下したことで、全員が呼子で甲板に召集されたからである。
「諸君、」とスモレット船長が言った。「私は諸君に一|言《こと》言いたいことがある。向うに見えるあの島が我々の目当にして来た場所だ。トゥリローニーさんは、我々みんなの知っている通り、大層気前のよい方《かた》であるので、今しがた私に一二言お尋ねになり、私が船中の各員上下ともその義務を尽し、これ以上は望まれないくらいであるとお答が出来たところが、トゥリローニーさんと私と先生とは船室へ降りて諸君の[#「諸君の」に傍点]健康と幸運とを祝して杯を挙げることになり、諸君にも酒を振舞って私たちの[#「私たちの」に傍点]健康と幸運とを祝して飲んで貰うことになった。これについて私の思うところを言うことにすると、誠に結構なことであると思う。それで諸君も私と同様に思われるならば、そうして下すった紳士のために万歳を唱えて貰いたい。」
 万歳の声が続いて起った。――それは当然のことだった。けれども、それがいかにも盛んに心から熱誠に響きわたったので、私はこの同じ人々が私たちの血を流そうと企《たく》らんでいるのだなどとはほとんど信じられぬくらいであった。
「もう一つスモレット船長《せんちょ》のために万歳だ。」とのっぽのジョンが、初めの万歳が鎮まった時に、叫んだ。
 するとそれもまた威勢よく唱えられた。
 それが終ると三人の紳士は下へ降りて行ったが、程なく、ジム・ホーキンズは船室に用があるという伝言があった。
 行って見ると、三人ともテーブルの周りに着席していて、スペインの葡萄酒が一罎《ひとびん》と乾葡萄とが前に載せてあり、医師は仮髪を膝の上に置いて、絶えず煙草を吹かしていたが、それが先生の昂奮しているしるしだということは私は知っていた。暖かい晩だったので、船尾の窓は開けてあって、海に残っている船跡《ふなあと》に月光がきらきらと輝いているのが見えた。
「さあ、ホーキンズ、」と大地主さんが言った。「何か言うことがあるそうだね。すっかり話しておくれ。」
 私は命ぜられた通りにし、シルヴァーの会話の一部始終を出来るだけ簡短に話した。それを話し終えるまではだれも口を出さなかったし、また三人の中の一人も身動きさえせず、初めから終りまで私の顔にじっと眼を注いでいたのであった。
「ジム、お掛け。」とリヴジー先生が言った。
 そして彼等は私をテーブルに向ってそばに掛けさせて、私に葡萄酒を一杯|注《つ》いでくれ、乾葡萄を手にいっぱい入れてくれて、それから三人とも代る代る、銘々会釈をしながら、私の幸運と勇気とのために、私の健康を祝して乾杯してくれた。
「さて、船長、」と大地主さんが言った。「君の言った通りだった。私は間違っていた。私は自分の馬鹿であることを認めて、君の命令を待ちます。」
「馬鹿なのは私も同じです。」と船長は答えた。「暴動をやるつもりの船員が前にその前兆を示さなかったということは聞いたことがありません。いやしくもそれを見抜く眼のある人ならわかりますし、それに応じて手段を執ります。しかし、この船員には、」と彼は言い足した。「私はまんまと一杯喰わされました。」
「船長、」と医師が言った。「失礼ですが、そこがシルヴァーです。実に素敵な男ですな。」
「帆桁《ほげた》の端に吊り下げてやったら素敵に似合いましょうな。」と船長が答えた。「しかしこれは無駄話です。こんなことを言っていても仕方がありません。私は三つ四つ考えていることがありますが、トゥリローニーさんのお許しを得て、申してみましょう。」
「君は船長です。話されるのは当然ですよ。」とトゥリローニーさんが鷹揚に言った。
「第一にです。」とスモレットさんは始めた。「我々はやり続けねばなりません。引返すことが出来ないからです。もし私が針路を転ずる命令を下そうものなら、彼等は直ちに謀叛を起しましょう。第二に、我々には時間がまだあります、――少くとも、あの宝を見つけるまでは。第三に、忠実な船員もいます。ところで、早かれ晩《おそ》かれ打合いを始めなければならんのですが、私の提議しますのは、いわゆる機会の前髪を捉えて、或る日彼等が少しも予期していない時に撃ってかかるということです。トゥリローニーさん、あなたのお家《うち》の召使たちは信用出来ると思いますが?」
「私自身と同様です。」と大地主さんが断言した。
「あの三人に、」と船長は数えた。「私たちで七人になりますな、このホーキンズも入れて。ところで、実直な船員の方は?」
「恐らくトゥリローニー君の選ばれた者でしょう。シルヴァーに出会われない前に、自分で見つけられた連中ですな。」と医師が言った。
「いいや、」と大地主さんが答えた。「ハンズは私の選んだ中の一人だったからねえ。」
「私もハンズは信用出来るものと思っていました。」と船長が言い添えた。
「そしてあいつらがみんなイギリス人だとはな!」と大地主さんは呶鳴《どな》り出した。「私はこの船をぶち壊してしまいたい気になるよ。」
「そこで、皆さん、」と船長が言った。「私の申し得る最善のことはこれだけです。どうか、じっとしていて、油断なく警戒していなければなりません。それは男にはつらいことだということはわかっています。撃ってかかる方がよっぽど愉快ではありましょう。だが味方の者がわかるまでは何とも致し方がありません。じっとしていて、風の出るのを待つ、これが私の意見です。」
「このジムは、」と先生が言った。「だれよりも我々の役に立ってくれますよ。皆もこの子には気を許していますし、それにジムは気のつく子ですから。」
「ホーキンズ、私はお前を非常に信用しているよ。」と大地主さんが言い添えた。こう言われると私はかなり絶望しかけた。まるで頼りない心細い気がしたからだ。しかし、不思議に引続いて起った出来事で、実際、私のために皆が救われることになったのである。とかくするうちに、私たちは思うままに話し合ったが、私たちの信頼出来るとわかっている者は二十六人の中に僅か七人であった。そしてこの七人の中で一人は子供だから、私たちの側の大人は向側の十九人に対して六人の訳だった。
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第三篇 私の海岸の冒険

第十三章 どうして海岸の冒険を始めたか

 翌朝私が甲板へ出て見た時には、島の様子はすっかり変っていた。風はその時はまったく凪いでいたけれども、船は夜の間によほど進行していて、今は、低い東海岸の南東半マイルばかりのところに動かずにいた。灰色の森林が島の表面の大部分を蔽うていた。その一様な色合は、低地にある黄ろい砂地の縞と、他の樹々より高く立っている――或るものは一本で、或るものは群をなして――たくさんの松柏類の高い樹木とで、破られてはいた。が、全体としての色調は変化がなくてくすんでいた。例の山々は裸岩の尖峯をなして植物帯の上にくっきりと聳え立っていた。どの山も奇妙な恰好《かっこう》をしていたが、三四百フィートあって島では一番高い遠眼鏡《スパイグラース》山は、やはり形も一番奇妙で、ほとんどどの方面からも垂直に聳え立っていて、それから頂上のところで突然切り取られたようになっているので、彫像を載せる台のようだった。
 ヒスパニオーラ号は大洋のうねりで排水孔が水の下へ入るほど横揺れしていた。帆の下桁は滑車《せみ》を強くひっぱり、舵はあちこちへばたんばたんと音を立て、船全体はぎいぎい軋ったり、唸るような音を立てたり、跳び上ったりして、工場のようだった。私は後支索にしっかりと縋《すが》りついていなければならなかったが、何もかも私や眼の前で眩暈《めまい》するほどぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていた。というのは、船足がついている時は私はなかなか船に酔わなかったのだが、こうじっとしていて罎《びん》のようにころころさせられるのでは、胸がむかむかせずにはいられなかったからで、とりわけ、朝の、空腹の時ではそうだった。
 多分そのためであったろうが、――多分、灰色の憂鬱な森林や、荒涼たる岩石の尖峯や、嶮《けわ》しい磯に白波を立てて轟きわたっているのが見えも聞えもする寄波《よせなみ》など、そういう島の光景のためであったろうが、――とにかく、太陽は赫々《あかあか》と焼くが如《ごと》くに輝いていたし、海辺《うみべ》の鳥は私たちの周り中で魚を漁《あさ》って啼き叫んでいたし、永く航海をして来た後に上陸出来ることはだれだって嬉しかろうと思われるだろうが、私の心はすっかり滅入っていた。そして、前方をそうして最初に眺めた時から、宝島のことなど思うさえも厭になった。
 退屈な朝仕事を私たちはやらなければならなかった。少しでも風の吹きそうな気配《けはい》もないので、ボートを下して水夫を乗り込ませ、船を曳索《ひきなわ》で曳いて、島の角を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、狭い水路を上って、骸骨《スケリトン》島の蔭の碇泊所まで三四マイル行かねばならなかったのだ。私はそのボートの中の一艘に自ら進んで乗り組んだ。もちろん、何の用事もなかったのであるが。暑気はひどくて、水夫たちは仕事に猛烈に不平を鳴らした。アンダスンは私の乗っていたボートを指揮していたが、乗員を取締るどころか、一番ひどくぶつぶつ言った。
「ふん、こんなことは永《なげ》えこっちゃねえんだ。」と彼は罵り言葉と共に言うのだった。
 これはずいぶん悪い徴候だなと私は思った。というのは、その日までは船員は任務を活溌に喜んでやって来たのだからである。が、島が見えるともう訓練の綱が弛んでしまったのだ。
 入って行く間中、のっぽのジョンは舵手《かじとり》のそばに立って船の操舵を指揮していた。彼はその水路を自分の掌のように知っていた。そして、舷側《ふなばた》にいて測鉛で水深を測っている男がどこでも海図に記《しる》してあるよりも水が深いと言ったけれども、ジョンは一度も躊躇しなかった。
「退潮《ひきしお》で底がぐうっと洗い流されてるんだよ。」と彼は言った。「で、この水路はまあ言わば鋤で掘り出されてるようなものなのさ。」
 私たちはちょうど海図に錨の記してある処に投錨した。一方は本島、もう一方は骸骨島で、どちらの岸からも三分の一マイルばかりのところだった。海底は綺麗な砂であった。錨を投げ込むと、鳥の群《むれ》がぱっと飛び立って森の上をぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら啼き叫んだ。けれども一分とたたないうちに再び舞い降りて、すべてがもう一度ひっそりとした。
 その場所はまったく陸で囲まれており、森で埋ったようになっていて、樹木はちょうど高潮線(註五四)[#「(註五四)」は行右小書き]のところまでも生い茂り、海岸は大抵平坦で、山々の頂は、ここに一つ、彼処に一つと、円形劇場のようになって遠くにぐるりと立っていた。二つの小川が、というよりもむしろ二つの沼が、この池と言ってもいいところへ注いでいて、海岸のその部分のあたりにある簇葉《むらば》は一種の毒々しい輝きを持っていた。船からは、小屋や柵壁はちっとも見えなかった。それらは樹木の間にすっかり埋っていたからだ。それで、もし船室昇降口室《コムパニヨン》にあの海図がなかったなら、私たちは、その島が海中から生じてから此方《このかた》そこにかつて碇泊した最初の者であると思ったかも知れなかった。
 そよとの風もなかったし、また、半マイルも彼方に、外洋の磯に打ち寄せ岩石に激して、どどうっと響いている寄波の他《ほか》には、何の物音もしなかった。その碇泊所一面には一種特別の澱んだ臭いが漂うていた、――水に浸った木の葉や腐った木の幹の臭いが。私は、医師が、悪い卵を口にした人のように、頻りに鼻でくんくん嗅いでいるのを認めた。
「実のことは知らないが、しかしここに熱病があることは私はこの仮髪《かつら》を賭けるよ。」と先生は言った。
 水夫たちの挙動はボートの中では驚くべきものであったとするなら、彼等が船へ帰って来た時にはそれはほんとうに険悪なものとなって来た。彼等は甲板のあちこちに寝ころんで呶鳴《どな》りながら話し合っていた。ほんのちょっとした命令が出されたところが、脹《ふく》れっ面《つら》をし、不承不承にぞんざいにそれをやった。実直な船員までがかぶれたに違いない。船中には他の者を匡正してやる者が一人もいなかったからである。暴動が雷雲のように私たちの上に覆いかかっていることは明かだった。
 そして、この危険を看て取った者は、私たち船室《ケビン》の連中ばかりではなかった。のっぽのジョンはあっちの群からこっちの群へと熱心に歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、頻りに忠告をしていた。手本としてはだれもそれ以上は示せないくらいであった。彼はまったくいつにもないほどいそいそとしていて慇懃だった。だれに対してもにこにこしていた。何か言いつけられると、ジョンは、この上もなく快活に「はいはい!」と言いながら、直ちに自分の※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をあてた。そして、他に何もすることのない時には、他の者の不平を隠そうとでもするように、次から次へと唄を歌い続けた。
 その陰鬱な午後のあらゆる陰鬱な事柄の中でも、のっぽのジョンのこの一目瞭然たる心遣いは最も気味悪く思われた。
 私たちは船室で会議を開いた。
「さて、」と船長が言った。「もし私が構わずにもう一度命令を出そうものなら、全船の者がたちまちにどっと私たちを襲って来るでしょう。御覧の通り、こういったような有様です。私に乱暴な返事をしましたでしょう? ところで、私が何か言い返せば、たちまち槍が飛んで来るでしょうし、何も言わなければ、シルヴァーはこれには何か訳があるのだと悟るでしょう。そうなれば万事休すです。そこで、頼りになる人間がたった一人だけおります。」
「で、それはだれです?」と大地主さんが尋ねた。
「シルヴァーです。」と船長が答えた。「あいつはあなた方や私と同様に一所懸命に揉み消そうとしています。これはちょっとした不平です。あいつは機会さえあれば間もなく奴らを説いてそれを止めさせましょうよ。で、私の提議しますのは、奴にその機会を与えようということなんです。水夫たちに午後の上陸を許してやろうじゃありませんか。もし彼等がみんな行けば、私たちはこの船を操縦して戦いましょう。もし彼等が一人も行かなければ、その時は、私たちは船室《ケビン》を守るのです。神が正しき者を護って下さいますように。もし何人かが行けば、よろしいですか、シルヴァーは奴らをまた小羊のようにおとなしくして船へつれて来ますよ。」
 そういうことに決定された。弾丸を籠めたピストルが確実な味方の者全部に配られた。ハンターと、ジョイスと、レッドルースとは秘密を打明けられたが、それを聞いても、私たちの予期していたよりも驚きもしなかったし元気も盛んだった。それから、船長は甲板へ行って船員に言い渡した。
「諸君、」と彼は言った。「今日は暑くて、みんな疲れていて元気がない。一度上陸しても別にさしつかえはあるまい、――ボートもまだ揚げてないことだし。君たちはあの快艇《ギッグ》に乗って、何人でも好きなだけ午後中上陸してもよろしい。日没《ひのいり》の半時間前に砲を撃《う》って知らせる。」
 その愚かな奴らは陸へ上るや否や宝に蹴躓《けつまず》いて向脛《むこうずね》をへし折るくらいに思っていたに違いない。というのは、彼等はみんなたちまち仏頂面を直して、万歳を叫んだからで、その声は遠くの山に反響して、鳥がもう一度碇泊所の周りに飛び立ってがあがあ鳴き騒いだ。
 船長は彼等の邪魔になっているようなへまなことはしなかった。彼は、上陸隊を取纏めることはシルヴァーに任せて、すぐに身を隠した。彼がそうしたのはよかったと私は思う。もし船長が甲板にいたなら、もはや現在の事態を知っていないような風をしていることさえ出来なかったろう。事態は白昼のように明かだったのだ。シルヴァーは船長で、有勢な叛徒の船員を部下に有しているのだ。実直な水夫というのは――そして私は間もなく船中にそういう者たちがいるという証拠を知ることになったのであるが――ごく愚鈍な連中だったに違いない。いや、もっと正確に言えば、ほんとうのところはこうではなかったろうかと思う。すなわち、発頭人どもの示す手本によってすべての船員が不平を抱くようになったので、ただ、或る者はその程度がひどく、或る者はそれが少かったのだ。そして、少数の者は、大体善良な連中なので、それ以上になりもしなければさせられもしなかったのであろう。ぶらぶらしていてずるけることと、船を奪って罪もない多くの人を殺すこととは、まったく別のことなのである。
 とにかく、やがて上陸隊が編成された。六人のものが船に留《とど》まることになり、シルヴァーをも含めた残りの十三人が乗り込み始めた。
 その時のことだった、私たちの生命を救うによほど与《あずか》って力のあったあの向う見ずな考えの最初のものが、私の頭に思い浮んだのは。シルヴァーが六人を残してゆくとなれば、味方が船を占領してそれを操縦して戦うことが出来ないことは明かであった。また、たった六人だけ残されるのだから、船室の連中が現在のところ私の助力を必要としないことも同じく明かだった。私は上陸しようと直ちに思いついたのだ。で、すぐさま舷側を滑り下りて、近い方のボートの艇首座に身を丸くしてちぢこまった。と、ほとんど同時にそのボートは押し出された。
 だれも私に目を留める者がなく、ただ舳《へさき》の漕手が「お前かい、ジム? 頭を低くしていろよ。」と言っただけだった。しかし、シルヴァーは、もう一艘のボートから、目ざとくこっちを見て、それが私かどうかを大声で尋ねた。で、その瞬間から私は自分のしたことを後悔し始めた。
 船員たちは渚まで競漕したが、私の乗っていたボートは、幾分先に出発していた上に、軽くもあり漕手もよかったので、もう一艘のボートを遥かに抜いて進み、舳が岸辺の樹木の間に突き込むと、私は一本の枝を掴んでぶら下って、一番近くの茂みの中へ躍り込んだ。その時にはシルヴァーやその他の者はまだ百ヤードも後にいた。
「ジム、ジム!」とシルヴァーが大声で呼んでいるのが聞えた。
 しかしもちろん私はそれには少しも気を留めなかった。跳んだり、屈《かが》んだり、押し分けたりしながら、真正面へとまっすぐにひた走りに走り、とうとうその上走れなくなった。

第十四章 第一撃

 私はのっぽのジョンをすっぽかしてやったのがひどく嬉しかったので、愉快な気持になって、自分の今いる奇妙な土地を多少の興味をもって見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し始めた。
 私は、柳や、蒲《がま》や、変てこな見慣れない沼沢性の樹木などが一面に生い茂っている沼のような地域を横切って来て、その時は、波のように起伏している広い砂原の端のところに出ていた。その砂原は長さ約一マイルあり、松の樹が少しと、大きくなったのは樫に似ているが、葉が柳のように青白い、曲りくねった樹木がたくさん、点々と散在していた。この空地の向側には、例の山の一つが立っていて、二つの奇怪な峨々《がが》たる峯をぎらぎらと太陽に輝かせていた。
 私は今初めて探検の喜びを感じた。この島は無人島であった。船の仲間は後にして来たし、行手には口の利けない獣と鳥の他《ほか》には何一つ生物《いきもの》がいなかった。私は樹々の間をここかしこと歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。あちこちに私の知らぬ花の咲いた植物があった。あちこちに蛇が見えたが、その中の一匹は岩棚から鎌首をあげて、独楽《こま》の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るような音を立てながら私を睨んでいた。それが有毒な敵で、その音こそあの有名ながらがら蛇の音だとは、私は少しも思ってもみなかった。
 それから、あの樫のような樹――鮮色樫あるいは常緑樫という名だということを後になって聞いた――の長く続いた茂みのところへやって来た。その樹は黒苺《くろいちご》のように砂に沿うて低く生えていて、大枝は妙にねじれ、葉は藁屋根のようにこんもりしていた。この茂みは一つの砂丘の頂から下へ延びていて、下へゆくにつれて拡がりもし高くもなり、蘆の生い茂った広い湿地の縁まで達していた。その湿地を近い方の小川が滲み込みながら進み、碇泊所へ流れ込んでいた。沼は強烈な太陽の光の中に湯気を立てていて遠眼鏡《スパイグラース》山の輪廓はもやもやとして震えて見えた。
 突然、蒲の間がざわざわし始めた。野鴨が一羽ぐわあと鳴いて飛び立ち、続いてまた一羽また一羽と、間もなく沼の全表面の上には鳥の大群が空中に啼き叫びながら輸を描いて飛び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。私はすぐに、船の仲間のだれかが湿地の縁に沿うて近づいて来たのに違いないと判断した。果して私の思った通りだった。間もなく、ずっと遠くに低い人声《ひとごえ》が聞え、なおも耳を傾けていると、それがだんだん大きく近くなって来た。
 それを聞くと私は非常に怖《こわ》くなって、一番近くの鮮色樫のこんもりしている下へ這い込んで、耳をすましながら、小鼠のように黙って、そこにしゃがんでいた。
 別の声が返事をした。すると初めの声が、それはシルヴァーの声だということが私にはその時わかったが、また話し始めて、永い間|滔々《とうとう》としゃべり続け、ただ時々別の声が口を出すだけだった。その音調から察すれば、彼等は熱心に、またほとんど烈しいくらいに、話し合っているに違いなかった。しかし、はっきりした言葉は一つも私の耳に入らなかった。
 とうとうその話し手たちは立ち止ったらしかった。そして多分坐ったようであった。というのは、彼等がそれ以上近づいて来なくなったばかりではなく、鳥の群もだんだん静かになりかけ、再び沼地の自分たちの場所に下り始めたからである。
 そして今私は自分の仕事を等閑《なおざり》にしていることに気がついて来た。無鉄砲にもあの兇漢どもと一緒に上陸したからには、いくら何でも自分の出来ることは彼等の相談を窃《ぬす》み聞きすることだ、そして自分の明白な義務は、都合よく低く這っている樹々の下に隠れて出来るだけ近くへ忍び寄ることだ、と思い始めたのだ。
 話し手のいる方角は、彼等の声の響だけではなく、数羽の鳥がまだその闖入者《ちんにゅうしゃ》たちの頭上に驚いて舞っている様子でも、かなり精確にわかった。
 四つん這いになって這いながら、私は彼等の方へそろそろと、しかし脇目もふらずに進んで行った。とうとう、木の葉の隙間へ頭を上げると、沼のそばに、樹木が密に生えている小さな緑の谷がはっきりと見下されて、そこにのっぽのジョン・シルヴァーともう一人の船員とが向い合って話しながら立っていた。
 太陽が彼等を全身照していた。シルヴァーは帽子をそばの地面の上に投げ出していて、彼の暑気でてらてらしている、大きな、すべすべした、色白の顔は、哀願するように相手の男の顔に向けられていた。
「兄弟《きょうでえ》、」と彼は言っていた。「これもお前《めえ》を尊敬してるからのことだぜ、――尊敬だぞ、違《ちげ》えねえぜ! もしお前が好きでなけりゃあ、己がこんなとこまで来てお前にわざわざ言って聞かせてやると思うか? もうすっかりきまってることだ、――今更お前がどうにもこうにも出来やしねえ。己がこう言ってるのもお前の首をつなぐためなんだ。で、もしあの乱暴な奴らのだれかがこのことを知ったら、己ぁどうなるか、トム、――え、おい、どうなると思う?」
「シルヴァー、」と相手の男が言った。――そして私には、彼が顔を真赤にしているばかりではなく、鴉のように嗄《しゃが》れた声を出し、またその声がぴんと張った索のように震えているのがわかった。――「シルヴァー、」と彼は言った。「お前は年寄だ。そして正直者だ。ともかくそういう評判を取ってるんだ。それにまた、たくさんの貧乏な水夫たちの持っていねえほどの金《かね》も持っている。それから胆っ玉もある、確かにな。それだのに、お前はあの馬鹿どもの仲間にひきこまれようって言うのかい? そんなお前じゃねえ! 己はそんなことをするくれえなら片手をなくしたっていい。それぁ神様が己を照覧していらっしゃるくれえ確かにだ。もし己が自分の義務に背いたら――」
 と、その時突然、彼の言葉は或る叫び声で遮られた。私は実直な船員を一人見つけたのであったが、――さて、今、ちょうどそれと同時に、もう一人の実直な船員の知らせがわかって来たのである。沼のずっと遠くで、突然、怒った叫び声のような音声が起ったかと思うと、それに続いて別の声がし、それから恐しい長く引いた悲鳴が一声聞えた。遠眼鏡山の岩は幾度となくその悲鳴を反響した。沼の鳥の群はことごとく一斉にぶうんと羽音を立てて再び飛び立ち、天を暗くした。そして、永い間その死のをめき声がなおも私の頭の中で鳴り響いていた後に、ようやく寂寞が再びあたりを領し、ただ、また降りて来る鳥のさわさわという羽音と、遠くの大浪のどどうっと響いて来る音とが、午後の懶《ものう》さを擾《みだ》しているだけだった。
 トムはその声を聞くと拍車をかけられた馬のように跳び上った。が、シルヴァーは眼を瞬きもしなかった。彼は軽く※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖に凭《もた》れながら、じっとその場所に立っていて、今にも跳びかかろうとする蛇のように相手の男を見守っていた。
「ジョン!」と水夫は片手を差し伸ばしながら言った。
「手を触《さわ》るな!」とシルヴァーは一ヤードほど跳び退きながら叫んだ。それは熟練した体操家のような速さと確かさだと私には思われた。
「厭なら触らねえよ、ジョン・シルヴァー。」と一方の者が言った。「お前に己をこわがらせるのは、良心が咎めるからだぞ。だが、一|体《てえ》、あの声は何だったい?」
「あれか?」とシルヴァーが、ずっと微笑はしていたが、しかし前よりはもっと用心深くしながら、答えた。彼の眼は大きな顔の中でほんのピンの先ほども小さくなっていたが、しかし硝子の破片のように閃いていた。「あれか? おお、あれぁアランだろうと思うな。」
 それを聞くと可哀そうなトムは勇士のようにかっと怒った。
「アランだと!」と彼は叫んだ。「では、まことの船乗としてあの男の魂を安らかならしめ給え! で、ジョン・シルヴァー、お前は永《なげ》えこと己の仲間だったが、これからはもう仲間じゃねえぞ。己は犬みてえにみじめな死に方をしようとも、義務をしながら死ぬつもりだ。お前たちはアランを殺したんだろう? 殺せるなら、己も殺せ。だが己はお前たちなんぞ物ともしねえぞ。」
 そう言うと、その勇敢な男は料理番《コック》にくるりと背を向けて、海岸の方へ歩き出した。しかし彼は遠くまでは行かれぬ運命だった。一声叫びながら、ジョンは一本の木の枝を掴むと、手早く※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を腋の下から外して、その奇怪な飛道具を空気を切ってぶうんと投げつけた。それは、尖頭を先にして、可哀そうなトムの背中の真中のちょうど両肩の間に、恐しい勢でぶっつかった。彼は虚空を掴み、ううんと呻いて、倒れた。
 彼がひどく怪我《けが》をしたかさほどでもなかったかは、だれにもわからなかった。その音から判断すれば、恐らく、彼の背中は即座に打ち砕かれたのであろう。それに彼には恢復するだけの時間も与えられなかった。シルヴァーは、片足はなく※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖もなくとも、猿のように敏捷で、次の瞬間にはトムの上に跨って、その抵抗も出来ない体《からだ》に二度もナイフを柄《つか》のところまで突き刺したのだ。彼がそうして突き刺している時に息を切らしてはあはあいっているのが、私の隠れている場所からも聞えた。
 私は気が遠くなるということはほんとうはどんなことであるか知らないが、それからしばらくの間は見えるものことごとくが自分の前から渦巻く靄《もや》の中をぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行ったことは知っている。シルヴァーも、鳥も、高い遠眼鏡山の山頂も、私の眼の前で倒になってくるくるくるくると※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行き、耳の中では、あらゆる種類の鐘が鳴り響き、遠くの声がわあっと叫ぶのが聞えた。 私が再び正気に返った時には、かの極悪人は気を落着けていて、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を腕の下にし、帽子をかぶっていた。そのすぐ前には、トムが芝生の上にじっと動かずに横っていた。けれどもその殺人者は彼のことを少しも気にかけないで、その間血塗れのナイフを一把の草で拭いていた。その他のものは何の変化もなく、太陽は、湯気立っている沼や、山の高い尖頂に、依然として無慈悲に輝いていて、私は、自分の眼の前で殺人が実際に行われて、一人の人間の生命がつい一瞬前に無残に絶たれたのだということを、ほとんど信ずる気にはなれないのであった。
 しかしその時ジョンは手をポケットの中に入れて、呼子を取り出し、いろいろの調子の音《ね》で吹くと、それが暑い空気の中を遠くまで響きわたった。私には、無論、その合図の意味はわからなかった。が、それを聞くとたちまちに私の恐怖が目覚めて来た。もっとたくさん人がやって来るのだろう。私は発見されるかも知れない。彼等はすでに実直な人々を二人まで殺しているのだ。トムとアランとの後に、私が次にやられるのではなかろうか?
 すぐさま私は逃げ出すことにして、出来るだけ速くこっそりと、森のもっと開けた部分へと、再び這い戻りかけた。そうしていると、あの老海賊とその仲間たちとの間に互に呼び交している声が聞え、危険を知らせるその声が私の足を早めさせた。茂みを出るや否や、私は、人殺しどもから離れられさえすれば逃げる方向などにはほとんど構わずに、それまでに走ったことのないほどひた走りに走った。そして走っている間に、恐怖はいよいよ募って来て、しまいには狂気じみたものになった。
 実際、だれでも私より以上に助かる見込のなくなった者はあるだろうか? 合図の砲の鳴る時が来ても、どうして私は、人殺しの罪悪を犯したばかりのあの悪鬼どもにまじって、ボートのところまで下りて行かれようか? 私を真先に見つけた奴が鴫《しぎ》の首でもひねるように私をひねり殺しはしないだろうか? 私が姿を見せないそのことが彼等には私が彼等を恐れていることの、従って私が彼等のやったことを知っていることの証拠と思われはしないだろうか? もうどうしたって駄目だ、と私は思った。さようなら、ヒスパニオーラ号よ。さようなら、大地主さんや、先生や、船長さん! 私には、餓死するか、謀叛人どもの手にかかって殺されるかの他には、何も残されてはいなかった。
 この間もずっと、前に言ったように、私はなおも走り続けていて、少しも気がつかずに、あの二つの峯のある小山の麓に近づいて、島の中でも、鮮色樫がもっと疎《まばら》に生えていて、恰好《かっこう》も大きさももっと森林樹らしく見える部分へ入り込んでいた。その樹々にまじって、或るものは五十フィート、或るものは七十フィート近くの高さのある、数本の松の樹がちらほら生えていた。空気もまた、下の沼のほとりよりは爽かな香がした。
 そしてここでまた、新たな驚きが、私に、胸をどきんとしながら立往生させたのであった。

第十五章 島の男

 山はこのあたりでは嶮《けわ》しくて石だらけだったが、その山腹から礫《こいし》がばらばらと離れて、樹の間をがらがらと音を立てて跳びながら落ちて来た。私の眼が本能的にその方向へ向くと、一つの姿が非常な速さで一本の松の樹の幹の後へ跳び込んだのが見えた。それが何であったか、熊か、人間か、猿か、私にはまるでわからなかった。どす黒くて、毛でむしゃむしゃしているようだった。それ以上はわからなかった。しかしこの新しい怪物の出現は私を立ち止らせた。
 私は今や両側とも断たれたようなものであった。背後にはあの人殺しどもがいる。前にはこの得体《えたい》の知れぬものが潜《ひそ》んでいる。そこで直ちに私は自分の知らぬ危険よりはむしろ自分の知っている危険の方を取ることにした。シルヴァーだってこの森の怪物に比べればそれほど恐しくないような気がしたので、私は急に踵を返して、肩越しに油断なく振り返りながら、ボートの方角へと引返しかけた。
 と、たちまちその怪物が再び姿を現し、大きく迂回して、私の行手を遮りかけた。私はともかく疲れていたが、よし朝起きた時のように元気があったにせよ、そういうような相手と速さを競うことは自分には到底無駄だということがわかった。幹から幹へとその怪物は鹿のように跳び移り、二本の脚で人間のように走ってはいたが、走る時にはほとんど身を二つに折り曲げて屈んでいて、私のそれまでに見たどの人間とも似ていなかった。でもそれは人間だった。それはもはや疑うことが出来なくなった。
 私はふと以前に聞いたことのある食人種の話を思い出した。私はもう少しのことで救いを呼ぼうとした。けれども、いかに野蛮人ではあってもそれが人間だったという事実だけでも、幾らか私を安心させ、それに比例してシルヴァーの恐しさが甦って来た。それで、私は立ち止って、何か逃げる方法はないかと思案した。そうして考えていると、自分がピストルを持っていたことがぱっと頭に思い浮んだ。自分が素手《すで》ではないことを思い出すや否や、勇気が再び心の中に燃え上った。そして私はその島の男にきっぱりと顔を向け、彼の方へつかつかと歩いて行った。
 彼はこの時には他の樹の幹の後に隠れていた。が、私をよく見守っていたに違いない。という訳は、私が彼のいる方角へ動き出すや否や、また姿を現して、私に逢うために一歩踏み出したからである。それから、躊躇したり、あとしざりしたり、再び前へ出たりしたが、その挙句、私のびっくりしまごついたことには、ぺたんと跪いて、組み合した両手を哀顔するようにして差し出した。
 それを見ると私はもう一度立ち止った。
「君はだれだい?」と私は尋ねた。
「ベン・ガンだよ。」と彼は答えた。その声は嗄《しゃが》れていてぎごちなくて、銹びた錠前のようだった。「俺《わし》は可哀《かええ》そうなベン・ガンだよ。この三年間も人間と口を利いたことがねえんだ。」
 私にはその時、この男が自分と同じく白人で、その目鼻立ちは人好きのするくらいでさえあることが、わかった。彼の皮膚は、むき出しになっているところはどこも、日に焦《や》けていた。唇までが黒くなっていた。そして碧い眼はそのようなどす黒い顔の中でまったく際立っていた。私のそれまでに見たり空想したりして来たあらゆる乞食の中で、彼はぼろぼろの着物を着ている点では大将だった。彼は古びた船の帆布と古びた船布とで拵えた襤褸《ぼろ》着物を着ていた。そしてこの異様な補綴細工《つぎはぎざいく》は、真鍮のボタンだの、木片だの、タールまみれの括帆索の紐輪だのという、実に種々様々な不調和な留具《とめぐ》ですっかりくっつけてあった。腰には真鍮のびじょ金《がね》のついた古びた革帯を巻いていたが、それが彼の服装全体の中で唯一の確かなものだった。
「三年間もだって!」と私は叫んだ。「じゃあ君は難破したのかい?」
「いいや、そうじゃねえよ、兄弟《きょうでえ》。」と彼は言った。――「置去りにされたんさ。」
 この置去りと言う言葉は私も前に聞いたことがあって、それが海賊仲間にはごくありふれた一種の怖しい刑罰で、反則者に僅かばかりの火薬と弾丸とを持たせ、どこか遠くの人のいない島に上陸させて、置いて来ることだ、ということは知っていた。
「三年前に置去りにされてね、」と彼は言い続けた。「それからこっちは、山羊と、苺《いちご》と、牡蠣《かき》で命を繋いで来たんだ。どこにいても人間ってものはね、人間てものはどうにかやってゆけるもんだねえ。だが、兄弟、俺は人間の食物《くいもの》がほしくってたまんねえのさ。お前《めえ》さんはひょっとしてチーズを一|片《きれ》持ち合していやしねえかね、え? 持たねえって? やれやれ、俺あ幾晩も幾晩も永《なげ》え夜《よ》うさりチーズの夢をみたよ、――大概《てえげえ》、炙《あぶ》った奴さ。――そしてまた目が覚めてみると、やっぱりここにいるのさ。」
「もしいつか僕がまた船へ乗れたら、君にチーズをどっさりあげるよ。」と私が言った。
 この間中、彼は、私のジャケツの地質に触ってみたり、私の手を撫でたり、私の長靴を眺めたり、概して、彼の話している合間合間に、同じ人間仲間のいることに子供のような喜びを示していたのであった。けれども、私の最後の言葉を聞くと、彼はぎっくりとしたようにこすく顔を振り上げた。
「もしいつかまた船に乗れたら、ってお前さんは言ったね?」と彼は私の言葉を繰返して言った。「ふうん、すると、だれがお前さんの邪魔をするのかい?」
「君じゃあないことだけは確かさ。」と私は答えてやった。
「そりゃそうだよ。」と彼は叫んだ。「ところでお前さんは――お前さんは何ていう名だね、兄弟?」
「ジムだよ。」と私は言ってやった。
「ジム、ジム。」と彼はまったく喜んでいるらしく言った。「じゃ、ねえ、ジム、俺はね、お前さんが聞くと恥しがるくれえ乱暴な渡世をして来た男だよ。まあ、例えばさ、お前さんはこの俺に信心|深《ぶけ》え母親《おふくろ》があったとは思うめえ、――この俺を見てね?」と彼は尋ねた。
「いや、なあに、格別そうでもないがねえ。」と私は答えた。
「ああ、そうかね。」と彼は言った。「とにかく、俺にゃあそんな母親があったのさ、――素敵に信心深え母親がな。それに俺も行儀のいい信心探え子供だったよ。教義問答なんか、とても聞き取れねえくれえ早口に、ぺらぺら言えたもんだぜ。それがこういう有様になったのだよ、ジム。そしてこれも墓石の上で投銭戯《あないち》(註五五)[#「(註五五)」は行右小書き]をやったのが始まりさ! それが始まりだったが、それからだんだん深入りしたんだ。俺の母親は俺にそうなるって言ってたよ。何もかもすっかり言いあてたのさ、母親はな。信心深え女《ひと》だったなあ! だが、俺がこんなとこに置かれることになったなあ、神様の思召しだったよ。俺あこの淋しい島でそんなことをすっかり考えて来たんで、今じゃまた信心深え男に返《けえ》ってるんだ。もうラムなんか決してあんなにたくさん飲みやしねえ。もっとも、初めてありつけた時にゃあ、もちろん、縁起にほんのちょっとくれえはやるがね。俺あ真人間にならなくちゃあならんし、その見越しもちゃんとついているんだ。それにね、ジム、」――とあたり中を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、耳語くらいに声を低めて、――「俺は金持なんだぜ。」
 私は、その時、この男はこんな寂しいところに独りぽっちでいたために可哀そうに気が変になっているのだと思った。そして、その気持がきっと私の顔に現れたのだろうと思う。というのは、彼は躍起となってその言葉を繰返したから。――
「金持だぜ! 金持だってえんだよ! で、お前さんにいい話をしてあげよう。俺はお前さんを立派な男にしてあげるぜ、ジム。ああ、ジム、お前さんは自分の運勢を有難く思うようになるよ、きっと。何《なん》しろ、お前さんは俺を一番先にめっけてくれた人だからなあ!」
 そして、こう言った時、突然彼の顔に不機嫌な影がさし、彼は片手に掴んでいる私の手を強く握ると、私の眼の前に嚇《おど》すように人差指を挙げた。
「ところで、ジム、ほんとのとこを言っておくれよ。あれぁフリントの船じゃねえのかい?」と尋ねた。
 この言葉を聞くと、私にはうまい考えが思い浮んだ。私は味方を一人見つけたと思いかけ、すぐに彼に答えてやった。
「フリントの船じゃないよ。それにフリントはもう死んじゃった。だが、君が訊《き》くから、ほんとのことを言ってあげるんだが、――あの船にはフリントの子分が何人か乗っているんだ。私たち残りの者はそれで困ってるんだよ。」
「一本――脚の――男はいねえかね?」と彼は喘ぐように言った。
「シルヴァーかい?」と私は尋ねた。
「ああ、シルヴァーだ! そういう名前《なめえ》だったよ。」と彼が言った。
「あの男は料理番《コック》なんだ。そしてまた張本人なんだよ。」
 彼はまだ私の手頸を持っていたが、これを聞くとそれをぎゅっと握り締めた。
「もしお前がのっぽのジョンの使に来たんなら、己《おれ》あ豚みてえにやられるんだ。それぁ己にゃわかってる。だがお前はどこにいると思う?」と彼は言った。
 私は直ちに心をきめて、彼に、返事として、私たちの航海の一部始終や、私たちが今どんな苦境に陥っているかということを、話してやった。彼は非常に熱心な興味をもって聞いていたが、話し終えると、私の頭を軽く叩いた。
「お前さんはいい子だ、ジム。」と彼が言った。「で、お前さん方《がた》はみんな困った羽目になっているんだね? よし、じゃあ、ベン・ガンを信用しなせえ、――ベン・ガンはそれにゃあお誂《あつれ》え向きの男だよ。ところで「その大地主さんて人は人を助けるのに太《ふと》っ腹《ぱら》になれそうな人だとお前さんは思うかね?――お前さんの話だと、その人も困った羽目になってるということだが。」
 私は大地主さんはこの上なく心の大きい人だと言ってやった。
「そうかい。だがね、」とベン・ガンは答えた。「俺は門番にして貰ったり、仕着《しきせ》をして貰ったり、そんなようなことをして貰《もれ》えてえ、って言うつもりじゃねえんだぜ。そんなこたぁ俺の目当じゃねえんだよ、ジム。俺の言うつもりなのは、大地主さんが、もう或る人間のものも同様な金の中から、大枚、まあ千ポンドぐれえ、分けて下さりそうかい? ということなのさ。」
「それぁきっとして下さると思うよ。」と私は言った。「ほんとは、みんなが分前を貰うことになってるんだから。」
「それから[#「それから」に傍点]国へ帰る船賃は要《い》らないのかい!」と彼は非常にずるい顔付をしながら言い足した。
「知れたことさ。」と私は叫んだ。「大地主さんは紳士だもの。それにまた、あいつらを厄介払いしてしまえば、君にも船を国へ帰す手伝いをして貰わなきゃならないしね。」
「ああ、それぁそうだろな。」と彼は言った。そして非常に安堵したような様子だった。
「じゃあ、お前さんにいい話をしてあげるとしよう。」と彼は話し続けた。「それだけ言うことにするぜ。俺はね、フリントがあの宝を埋めた時にゃあ、あの人の船にいたんだ。あの人は六人の者と一緒さ、――六人とも丈夫な水夫だった。あの連中は一週間近くも陸にいたし、俺らは海象《ウオルラス》号に乗って岸に寄ったり離れたりしてたんだ。或る日のこと、合図があって、フリントが一人で小さなボートに乗って帰《けえ》って来た。頭を青い肩巾《スカーフ》で包んでね。お陽《ひ》さんが昇りかけてた時で、あの人の顔は恐しく真蒼に見えたね。だけど、あの人だけで、いいかね、六人はみんな死んだのだ、――死んで埋められたんだぜ。どうしてあの人にそんなことがやれたのか、俺らの船の者一人も合点《がてん》がいかなかったな。何にしてもともかく、闘い、殺害、不意の死(註五六)[#「(註五六)」は行右小書き]だったのさ、――あの人が六人を相手にしてな。ビリー・ボーンズは副船長だったし、のっぽのジョンは按針手《クオータマスター》だった。その二人が宝はどこにあるのかって訊いたんだよ。するとあの人は言った。『ああ、手前《てめえ》たちぁしたけりゃ上陸してもええぜ、そしてここに残るがいいや。』とね。『だが、この船の方は、もっと獲物を探しに荒し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るんだぞ、畜生!』そう言ったものさ。
 ところで、俺は三年前に別の船に乗っててね、この島を見たんだ。で、言ったのさ、『おい、みんな、ここにゃフリントの宝があるんだ。上陸してめっけようじゃねえか。』とね。船長《せんちょ》はそれにゃ気が進まなかったが、仲間の奴らはみんな賛成して、上陸した。十二日もみんなで宝を探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、毎日毎日奴らは俺に悪態《あくたい》をつき、とうとう或る朝みんなが船へ行っちまった。『お前《めえ》はな、ベンジャミン・ガン、』って奴らは言うんだ。『ここに鉄砲を置いとくぜ、それから鋤と、鶴嘴《つるはし》とをな。』とね。『お前はここに残ってるがいいや。そしてフリントの金をめっけ出して自分のものにしな。』って奴らは言うのさ。
 でね、ジム、もう三年間俺はここにいるのさ。そしてその日から此方ってもの、人間の食物は一口も食わねえんだよ。だがねえ、おい、俺を見ておくれ。俺は平水夫みてえに見えるかい? 見えねえだろ。また、そうじゃなかったんだからな。」
 そう言うと、彼は瞬きをして、私をきゅっと抓《つね》った。
「その大地主さんて人に言っておくれよ、ジム。」――と彼は話し続けた。「あの男はそうじゃなかったんです、――とそう言うんだぜ。三年が間あの男はこの島の人間になっていました、昼も夜も、天気のよい日も雨の日も。そして時々はお祈りのことも考えてたようでした(と言うんだよ)。それから時々は、年とった母親がまだ生きてるなら、その母親のことも考えてたようでした(とね)。だけどガンは大抵(とこうだよ)――あの男は大抵別の事に夢中になってました。そう言ってからお前さんは大地主さんを一つつねるんだぜ、こんな工合にな。」
 と言って彼は非常に親しげな風にまた私を抓った。
「それからな、」と彼は続けた。――「それから、行ってこう言うんだよ。――ガンは善人でごぜえます(とな)。そして、あの男も元はやっぱりその仲間でしたが、あんな分限紳士よりは、生れつきの紳士の方を、とっても――いいかい、とってもだよ――信用しています、とね。」
「うん、君の言ったことは僕には一|言《こと》もわからないねえ。」と私は言った。「だが、そんなことはどうだっていい。どうして僕が船へ帰れるかね?」
「ああ、そりゃあ困ったこったね、確かに。」と彼が言った。「よしよし、俺のボートがあるよ。俺がこの二本の手で拵《こせ》えた奴さ。白い岩の下に隠してある。まさかの時にゃあ、暗くなってからあれを使ってみてもいいよ。おやっ!」と彼は急に呶鳴《どな》り出した。「あれぁ何だね?」
 ちょうどその時、日が沈むまでにはまだ一二時間はあったのに、雷のような砲声が起って島中が鳴り響いたのである。
「戦《いくさ》を始めたんだよ!」と私は叫んだ。「僕について来給え。」
 そして私は碇泊所の方へ、怖《こわ》さも何もすっかり忘れて、走り出した。すると、山羊の皮を着た島に置去りにされた男は、私のそばにくっついて、身軽く楽々と駆けた。
「左、左、」と彼が言った。「左手へ左手へと行くんだよ、ジム君! その木の下へ入《へえ》るんだ! そこが俺が初めて山羊を殺した処さ。今じゃあ山羊の奴らはこんなとこまで下りて来やしねえ。ベンジャミン・ガンが怖《こえ》えんで、みんなあの山の上へ逃げちまったよ。ああ! そこにはばかがある。」――墓場というつもりだったに違いない。「塚があるだろ? 俺は時々ここへ来てお祈りをするんさ。多分|今日《きょう》あたりは日曜だろうと思った時にね。それぁなるほど礼拝堂じゃねえさ。だけど、この方がよっぽど有難《ありがて》えような気がしたよ。で、お前さんは言うんだぜ、ベン・ガンは手不足で困りやした、ってね。――牧師さまはいらっしゃらねえし、聖書や旗でせえねえんですから、とね。」
 私が走ってゆく間に彼はそのようにしゃべり続けていたが、別に返事を期待するのでもなく、また私も何の返事もしなかった。
 大砲の音の次に、かなり間をおいてから、小銃の一斉射撃が聞えた。
 それが止んでまたひっそりとし、それから、私は、前方四分の一マイルとないところに、英国国旗《ユニオンジャック》が森の上の空中に翻っているのを見た。

第四篇 柵壁


第十六章 医師が続けた物語 どうして船を棄てたか

 あの二艘のボートがヒスパニオーラ号から岸へ行ったのは、一時半――海語で言うと三点鐘(註五七)[#「(註五七)」は行右小書き]――頃であった。船長と、大地主と、私とは、船室《ケビン》でいろいろと相談をしていた。一陣の微風でもあったなら、吾々は船に残っている六人の謀叛人を襲い、錨索を放って、沖へ出たであろう。しかし風はなかったし、その上、どうにも仕方がなくなったことには、ハンターが降りて来て、ジム・ホーキンズがいつの間にかボートへ入り込んで皆と一緒に上陸してしまったと知らせてくれた。
 吾々はジム・ホーキンズを疑う気は少しも起らなかったが、彼が無事でいられるかと非常に心配になった。ああいう気の荒くなっている連中と一緒に行ったのでは、吾々が再びあの子を見られるかどうか見込は五分五分のように思われた。吾々は甲板へ駆け上った。瀝青《チャン》が板の接目《つぎめ》で泡立っていた。その場所に漂う気持の悪い悪臭が私の胸を悪くさせた。もし熱病や赤痢を嗅げる処があるとするなら、あの厭な碇泊所こそ正にそれであった。例の大人の悪党は前甲板の帆の下でぶつぶつ言いながら坐っていた。岸には河口のすぐ近くにあの二艘の快艇《ギッグ》が繋いであって、両方ともに一人ずつ残って坐っていた。その中の一人は「リリバリアロー(註五八)[#「(註五八)」は行右小書き]」を口笛で吹いていた。
 何もせずに待っていることはたまらなかった。それで、ハンターと私とが情報を求めに小形端艇《ジョリボート》に乗って上陸しようということになった。
 前の快艇はその漕手らの右の方に曲っていたが、ハンターと私とは、海図にある柵壁の方向へと、真直《まっすぐ》に漕いで行った。ボートの番をするのに残された二人の者は、吾々の現れて来たのにあわて出したようだった。「リリバリアロー」もぴたりと止んだ。そして両人がどうしたらいいかと相談しているのが見えた。もし彼等がシルヴァーのところへ知らせに行ったなら、すべては違った成行になったかも知れなかった。が、彼等は何か命令されていたのであろう、元のところに静かに坐って、また「リリバリアロー」をやり出した。
 海岸にはちょっと出張った処があって、私はそこを彼等と吾々との間にするように舟を進めた。そういう訳で、吾々は上陸しない先にもう快艇が見えなくなっていた。岸に着くと私は舟から跳び出し、暑さを避けるのに大きな絹のハンケチを帽子の下に入れ、安全のためにちゃんと火薬を填めた一対のピストルを持って、ほとんど走るようにして進んだ。
 百ヤードと行かないうちに、柵壁に着いた。
 それはこういう風になっていた。清水の泉が一つの円い丘のほとんど頂上のところに湧き出ていた。さて、この丘の上に、その泉をも取り入れて、堅牢な丸太小屋が造ってあり、危急の場合には四十人くらいの人数を収容出来たし、四方とも壁に小銃射撃が出来るように銃眼を穿ってあった。小屋の周り中は樹木を伐り払って広い空地にしてあり、その上にまた、高さ六フィートの※[#「木+戈」、U+233FE、148-2]囲《くいがこい》をめぐらしてあった。この※[#「木+戈」、U+233FE、148-3]囲には開き戸もなければ明《あ》いている箇所もなく、非常に堅固なので、時間や勢力をかけずには引き倒すことが出来ないし、相当間隔を置いてあるので、包囲者は身を隠すことも出来なかった。この丸太小屋の中にいる人々の方は、あらゆる点で包囲者に対して有利であった。静かに隠れていて、敵を鷓鴣《しゃこ》のように射撃することが出来るのだ。ただ食糧があってよく見張りをしていさえすればよかった。まったくの奇襲を受けるのでない限りは、一聯隊の敵に対してもその場所を守ることが出来たかも知れなかった。
 私に特に気に入ったのは、泉であった。吾々はヒスパニオーラ号の船室に十分よい場所を占めていて、武器と弾薬も、食べる物も、種々の上等の酒も豊富にあったけれども、一つだけ手抜りがあった。――水がなかったのである。私がそのことを考えている時、断末魔の人間の悲鳴が島中に響きわたった。私は非業の死はこれが初めてではない。――かつてカムバランド公爵(註五九)[#「(註五九)」は行右小書き]閣下に仕えていたことがあり、フオンテノイ(註六〇)[#「(註六〇)」は行右小書き]では自分も負傷したことがある。――が、この時は心臓がどきんとした。「ジム・ホーキンズがやられた。」と真先に思ったのである。
 昔軍人だったということは有難いことであるが、しかし医者であるということはなおさらである。もう一刻もぐずぐずしてはいられない。そこで私は直ちに決心をし、時を移さず海岸へ引返して、小形端艇に跳び乗った。
 好運にもハンターは上手な漕手だった。吾々のボートは水を切って進み、間もなく横附けになったので、私はスクーナー船に上って行った。
 みんなは、当然のことながら、すっかりどぎまぎしていた。大地主は敷布《シーツ》のように蒼白な顔をして坐っていて、自分がみんなをこんな災難に陥れたことを考えていた。善良な人だ! 六人の前甲板の水夫の中の一人も大地主と同じくらいの顔色をしていた。
「こんなことには初めての男が一人いますよ。」とスモレット船長は、その男の方へ頭を動かしながら、言った。「彼《あれ》はあの悲鳴を聞いた時には、今少しで気絶しそうでしたよ、先生。ちょっと舵を動かしてやれば、あの男は我々の味方になりましょう。」
 私は自分の計画を船長に話した。そしてそれを実行する細かい手筈《てはず》を二人で決定した。
 吾々は、レッドルース老人に装弾した銃を三四挺と身を護るための敷蒲団《マットレス》を一枚与えて、船室と前甲板下水夫部屋《フォークスル》との間の廊下に立たせた。ハンターはボートを船尾窓の下に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、ジョイスと私とはそのボートに火薬の鑵や、銃や、堅《かた》パンの嚢や、豚肉の小樽や、コニャックの樽や、私には何より大事な薬箱などを積み込み始めた。
 その間に、大地主と船長とは甲板に留《とど》まり、船長は舵手《コクスン》に声をかけた。船に残っている者の中の頭立《かしらだ》った男なのである。
「ハンズ君、」と彼は言った。「ここに我々二人は銘々一対ずつのピストルを持っている。もし君ら六人の中のだれでもちょっとでも信号めいたことをすれば、その者は命《いのち》をなくするんだぞ。」
 彼等は大層びっくりした。そして、ちょっと相談してから、一人残らず船首の昇降口を転《ころ》げ込んで下りて行った。疑いもなく、吾々を背後から不意打しようと思ったのであろう。ところが、円材の出ている廊下にレッドルースが彼等を待ち構えているのを見ると、彼等は直ちに方向を転じて、一人の頭が再び甲板にひょいと出た。
「降りろ、畜生!」と船長が叫んだ。
 するとその頭はまたひょいとひっこんでしまった。そして、しばらくは、その六人のごく意気地のない水夫どもは何の音も立てなかった。
 この時分までには、吾々は、手当り次第の物を抛り込んで、小形端艇に積めるだけ積み込んでしまった。ジョイスと私とは船尾窓から抜け出して、再び岸へ向って進み、オールの動く限り速く一所懸命に漕いだ。
 こうして二度もやって来たので、岸にいる見張人はかなり驚いた。「リリバリアロー」はまた止んだ。そして、吾々がちょうど例の小さな岬の蔭に彼等を見失おうとする時に、彼等の一人がひらりと岸へ跳び移って姿を消した。私は計画を変えて彼等のボートを破壊してやろうかとも思ったが、シルヴァーやその他の者どもがすぐ近くにいるかも知れないし、余り慾張り過ぎてはあるいはすべてが失敗に終るかも知れないと思って、思い止《とど》まった。
 吾々は間もなく前と同じ場所に上陸し、丸太小屋に必要品を入れにかかった。最初は三人ともどっさり荷物を背負って行って、それを防柵の上から投げ込んだ。それから、ジョイスを残して、それの番をさせ――無論一人ではあるが、銃を半ダースも持たせておいた――ハンターと私とは小形端艇に引返して、もう一度荷物を背負った。こうして二人は息をつく間もなく進み、とうとう全部の積荷を運んでしまうと、二人の召使は丸太小屋の中に自分たちの位置を占め、私は全力を出してヒスパニオーラ号へ漕ぎ戻った。
 吾々が二回もボートに荷を積み込もうとしたことはずいぶん大胆らしく思われるが、ほんとうはそれほどでもなかった。彼等は無論人数では優っていたが、吾々は武器で優っていた。上陸している連中は一人も銃を持っていないので、彼等がピストルの射撃出来る距離以内に来ないうちに、吾々は少くとも六人はやっつけることが出来るつもりだった。
 大地主は船尾の窓のところで私を待っていた。さっきの気の遠くなったような様子はすっかりなくなっていた。彼は繋艇索を掴んでそれを結びつけ、それから吾々二人は命がけでボートに荷を積み込み始めた。積荷は豚肉と火薬と堅パンで、それに、大地主と私とレッドルースと船長とに銘々ただ銃が二挺ずっと彎刀《カトラス》が一本ずつだった。残りの武器と火薬とは二尋半の水の中へ投げ込んだ。それで、そのぴかぴかした鋼鉄の刃物などがずっと下に綺麗な砂の底で太陽に輝いているのが見えた。
 この時分には潮が退《ひ》き始めていたので、船は錨の周りをぐるぐる動いていた。例の二艘の快艇の方角で微かにおういと呼ぶ声が聞えた。ジョイスとハンターとはそれとはずっと東の方にいるので、二人のことはそれで安心出来たけれども、その声は吾々の一行に早く出かけなければならないことを警告した。
 レッドルースは廊下の彼の場所を引揚げて、ボートの中へ跳び下りた。そこで吾々はスモレット船長に便利なようにとボートを船の船尾張出部《カウンター》のところへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
「おい、お前ら、」と船長が言った。「私の言うことが聞えるか?」
 水夫部屋からは何の返事もなかった。
「お前にだ、エーブラハム・グレー、――お前に私は口を利いているのだぞ。」
 それでも答がない。
「グレー、」とスモレット氏は少し声高に再び言い始めた。「私はこの船を立退《たちの》くところだ。で、お前に船長について来いと命令する。お前が心底《しんそこ》は善人だということは私は知っている。また、恐らく、お前たちみんなの中の一人だって悪党ぶっているほどの悪党じゃあないのだ。私はここに時計を手に持っている。私のところへ来るのにお前に三十秒だけ余裕を与えてやる。」
 しばらく間があった。
「さあ、お前、」と船長が言葉を続けた。「そんなに永くぐずぐずしていちゃいかん。私は一秒一秒自分の命もここにいられる方々《かたがた》の命も危険に曝《さら》しているのだ。」
 突然格闘が始まり、打合いの音がしたかと思うと、片頬にナイフの傷を受けたエーブラハム・グレーが躍り出て来て、口笛で呼ばれた犬のように、船長のところへ走って来た。
「来ましたよ、船長。」と彼は言った。
 そして次の瞬間には、彼と船長とは吾々のボートに跳び下り、吾々はボートを押し出して漕ぎ出した。
 吾々は本船からはすっかり離れた。が、まだ上陸して吾々の柵壁の中にいるのではないのだ。


第十七章 医師が続けた物語    小形端艇《ジョリボート》の最後の航行

 この五度目の航行は今までの時とはまるで違っていた。第一に、吾々の乗り込んでいた薬壺のような小さいボートは非常に積み込み過ぎていた。大人が五人で、その中の三人――トゥリローニーと、レッドルースと、船長――は丈が六フィート以上あり、これだけでももうそのボートの運ぶことになっているよりも以上だった。それに加えて、火薬と豚肉とパン嚢とがあったのだ。艫《とも》では舷側《げんそく》上部まで水に触れていた。何度か舟は水をかぶり、私のズボンと上衣の裾とは、百ヤードと行かないうちに、すっかりびしょびしょに濡れてしまった。
 船長は吾々を釣合よく坐らせたので、ボートは前よりは幾らか平らになった。けれどもやはり、吾々は息をするのさえ気がかりだった。
 第二に、潮がその時は退いていて、――漣《さざなみ》の立っている強い潮流が内湾を西の方へ流れ、それから吾々がその朝入って来た海峡を南の方へ外海の方へと流れていた。その漣でさえ積み込み渦ぎた吾々の舟には危険であったが、最も悪いことは、舟がほんとうの針路《コース》から押し流されて、例の岬の蔭の吾々の正当な上陸所から遠ざかっていることだった。もし潮流のままに任せていたなら、舟はあの快艇《ギッグ》のそばに着いて、そこへは海賊どもがいつ現れるかも知れなかった。
「柵壁の方へボートの先を向けておけないんですがね。」と私は船長に言った。私が舵を操っていて、船長とレッドルースとの二人の新手《あらて》がオールを漕いでいたのだ。「舟は潮《しお》に流され通しです。もう少し強く漕げませんか?」
「そうするとボートがひっくり返ってしまいます。」と船長が言った。「どうか、あなたは舟を風上へ向けて下さらなければいけません、――潮に勝って進めるのが見えるまで風上へ向けて下さい。」
 私はその通りにやってみたが、潮は絶えずボートを西の方へ押し流すので、とうとう舳《へさき》を真東に、すなわち吾々の行くべき方向とちょうど直角くらいに、向けるようになってしまった。
「この分ではとても岸に着けませんな。」と私が言った。
「これが我々の執れる唯一の針路《コース》だとすれば、こうする他《ほか》はありませんね。」と船長が答えた。
「我々は潮に逆《さから》って漕いでいなければなりません。おわかりの通り、」と彼は言い続けた。「もしあの上陸所の風下へ流されたら最後、どこで岸に着けるかわかったものじゃありません。おまけに奴らの快艇《ギッグ》に襲われるかも知れないのです。しかし、こうして進んでおれば潮もだんだん弱くなるにきまっているし、そうすれば岸伝いにすぐに漕ぎ戻れますよ。」
「潮はもう弱って来ましたよ。」と艇首座に坐っていたグレーが言った。「舟をちっとは緩めてもいいでしょう。」
「有無う、君。」と私はまるでこれまで何もなかったかのように言った。吾々はみんな彼を味方の一人として遇することに心の中できめていたからである。
 突然船長がまた口を開いたが、その声が少し変っているように私は思った。
「あ、大砲!」と彼は言った。
「私もそのことは考えていました。」と私は言った。船長がきっと堡塁を砲撃されることを考えているのだと思ったからである。「奴らはとても大砲を陸に揚げることは出来ません。よしんばそれが出来たにしても、あの森の中をひっぱり上げることは決して出来やしませんよ。」
「艫《とも》の方を御覧なさい、先生。」と船長が答えた。
 吾々は九ポンド砲のことをすっかり忘れていたのだ。そして、怖しいことには、五人の悪漢がその砲の周りで忙しく立ち働いていて、砲身の被筒《ジャケット》と言っている、航海中はそれに被せてあったあの丈夫な防水布の覆いを取除けているのだった。それだけではなかった。同時に私の心にぱっと思い浮んだのは、その砲の砲弾と火薬とを残して来たことで、斧を一振りすればそれがそっくり船にいる悪者どもの手に入るのであった。
「イズレールはフリントの砲手でしたよ。」とグレーが嗄《しゃが》れ声で言った。
 どんな危険を冒しても、吾々はボートの舳《へさき》をまっすぐに上陸地に向けた。この時分には吾々は、吾々のやらなくてはならぬ穏かな漕ぎ方でさえ舵が利くだけの速力が得られるくらいに、潮流からずっと離れていたので、私は舟を目的地の方へしっかりと向けておくことが出来た。しかし、非常に困ったことには、私が今執っている針路のために、吾々の舟はヒスパニオーラ号に艫《とも》を向ける代りに舷側《ふなばた》を向けて、納屋の大扉のような射外すことのない大標的になっているのだった。
 私には、あのブランディー面《づら》の悪党のイズレール・ハンズが甲板の上に砲弾を一つどしんと抛り出したのが、見えたばかりではなく、聞えもした。
「だれが一番射撃のうまい人です?」と船長が尋ねた。
「トゥリローエーさんがずぬけています。」と私が言った。
「トゥリローニーさん、あいつらの中の一人を狙い撃ちして下さいませんか? なるべくならハンズの奴を。」と船長が言った。
 トゥリローニーは鋼鉄のように冷静だった。彼は自分の鉄砲の点火薬を調べてみた。
「もしもし、」と船長が叫んだ。「その鉄砲は静かにやって下さい。でないとボートがひっくり返りますから。トゥリローニーさんが狙いをつけられる時にはボートの釣合を取るように全員用意。」
 大地主が鉄砲を肩に上げると、漕手は手を止《や》め、みんなは平衡を保つために反対の側に凭《もた》れかかり、すべてが実にうまくいって舟が一滴の水もかぶらなかったくらいであった。
 この時分には悪漢どもは大砲を旋軸の上で※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してしまっていて、ハンズは※[#「木+朔」、第3水準1-85-94]杖《こみや》を持って砲口のところにおり、従って最も弾丸に身を曝している訳だった。けれども、吾々は運が悪かった。というのは、ちょうどトゥリローニーが発砲した時にハンズは身を屈め、弾丸は彼の頭上をぴゅっと掠めたからで、倒れたのは他の四人の中の一人であった。
 その男のあげた悲鳴に反響する如《ごと》く声をあげたのは、船にいる仲間どもだけではなかった。岸からも大勢の声が起った。で、その方向を眺めると、上陸している方の海賊どもが樹立の間からぞろぞろと出て来て、あわててボートの中へ跳び込むのが見えた。
「こちらへあの快艇《ギッグ》がやって来ますよ。」と私が言った。
「では、力漕だ。」と船長が叫んだ。「もう舟が沈みはしないかと構っちゃおられません。もし岸に着けなけりゃあ、おしまいです。」
「一艘だけに乗り込んでいる。」と私は言い足した。「もう一艘の方の奴らは岸を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って我々の行手を断つつもりらしい。」
「奴らには走るのがつらいでしょうよ。」と船長が答えた。「何しろ、陸へ上った船乗ですからね。私の気になるのは奴らじゃありません。砲弾です。まるで絨毯の上の球《たま》ころがしだ! だれがやったってやり損ねるはずがありゃしません。大地主さん、火縄が見えたら言って下さい。オールで舟を停めますから。」
 この間にも、舟はそのような積み込み過ぎたボートとしてはかなり速く前進していたし、進んでゆく間に水もほとんどかぶらなかった。もう岸に迫っていて、三四十本も漕げば浜に乗り上げたろう。というのは、退潮《ひきしお》のために、簇生している樹々の下に、狭い砂地が帯のようにすでに現れていたからである。快艇はもはや恐れるには及ばなかった。例の小さな岬のためにそれはもう吾々のところからは見えなくなっていた。あれほどひどく吾々を手間取らせた退潮は、今度はその償いをして、吾々の攻手《せめて》を手間取らせていた。ただ一つの危険は大砲だった。
「出来さえすれぁ、停って、もう一人狙い撃ちしてやりたいんだがな。」と船長が言った。
 しかし、彼等がどんなことがあろうと発砲を遅らせないでおくつもりでいることは明かであった。さっきの倒れた男が死んではいなくて、這って行こうとしているのが私にも見えたのに、彼等はその仲間の方を見ようとさえしなかった。
「用意!」と大地主が叫んだ。
「停れ!」と船長は反響のように速く叫んだ。
 そして船長とレッドルースとは舟の艫《とも》がそっくり水の中へ入ったくらいに力を入れてぐっと逆漕《バック》した。その刹那《せつな》、砲声が轟然と起った。これがジムの聞いた第一の砲声であったのだ。大地主の射撃の音は彼のところでは聞えなかったのだから。その弾丸がどこを通ったかは、吾々の中の一人も正確にはわからなかった。が、それはきっと吾々の頭上を飛んで行ったのであって、吾々の災難はその煽り風のせいもあったかも知れない、と私は思う。
 ともかく、ボートは、三フィートの水の中へ、ごく静かに艫の方から沈んで行って、船長と私とは向い合いながら突っ立った。他の三人は真逆さまに落ちて、ずぶ濡れになりぶくぶくと泡を立てながら起き上って来た。
 ここまでは大した損害はなかった。一人も命は落さなかったし、吾々は無事に岸まで徒渉することが出来た。しかし、吾々の荷物はみんな水の底に沈み、その上困ったことには、五挺の鉄砲の中の二挺しか役に立たなくなったのであった。私のは、私は一種の本能で膝から素早くひっ掴んで頭の上に差し上げた。船長の方は、弾薬帯で肩に背負っていて、賢い人らしく弾機装置の方を上にしていた。他の三挺はボートと一緒に沈んだのである。
 さらに吾々の懸念を増したことには、岸沿いの森の中に人声《ひとごえ》がすでに近づいて来るのが聞えた。そして、吾々には、この半ば跛になったような有様で柵壁へ行く道を断たれる危険があるだけではなく、ハンターとジョイスとが六七人の敵の者に攻撃されたなら、しっかりと踏み止まるだけの分別や気転があるかどうかという憂慮もあった。ハンターはしっかりした男だった。それは吾々にはわかっていた。がジョイスの方が怪しかった。――従僕としては、また人の衣服にブラシをかけるには、面白い、丁寧な男であったが、軍人としてはまったく適していないのだ。
 こんなことを考えながら、吾々は、小形端艇と、吾々の火薬と食糧品との大半とを後に残して、出来るだけ速く岸まで徒渉した。


第十八章 医師が続けた物語       第一日の戦闘の終り

 吾々は、今吾々と柵壁との間にある細長い森林地を突っ切って、一所懸命に前進した。すると一歩一歩と進む毎に海賊どもの声がだんだん近くにがやがや言っているのが聞えて来た。間もなく、彼等の走る跫音《あしおと》や、彼等が藪を押し分けてゆく時の枝のぽきぽき折れる音までも、聞えるようになった。
 私はこれでは本気で一合戦やらなければなるまいということがわかりかけて来たので、自分の点火薬を調べた。
「船長、」と私は言った。「トゥリローニー君は射撃の名人です。あなたの鉄砲をやって下さい。あの人のは役に立たんのですから。」
 二人は鉄砲を取換え、トゥリローニーは、この騒動の始まり以来のように黙々として冷静に、ちょっと立ち止って、どこもみな役に立っようになっているかを確めた。同時に、私は、グレーが何も武器を持っていないのに気がついて、自分の彎刀《カトラス》を渡してやった。彼が手に唾し、眉を顰《しか》めて、その刀身をびゅうびゅうと空気を切って振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すのを見ると、吾々みんなは元気が出て来た。彼の体《からだ》のどの線を見ても、この新しい味方が一|廉《かど》の役に立つ人間だということは、明かだった。
 さらに四十歩ほど進むと、森の縁へ来て、前面に柵壁が見えた。吾々はその囲柵の南側の真中あたりに行き着いた。すると、ほとんど同時に、七人の謀叛人が――水夫長《ボースン》のジョーブ・アンダスンを先頭にして――その南西の隅のところにどっと一斉に現れて来た。
 彼等はびっくりしたように立ち止った。そして彼等が気を取直さないうちに、大地主と私だけではなく、丸太小屋からハンターとジョイスまでが、火蓋を切る暇があった。この四人の射撃は幾らかばらばらな一斉射撃となったが、しかしその役目は果した。敵の一人は実際倒れ、残りの奴らはすぐさまくるりと背を向けて樹立の中へ跳び込んだ。
 弾丸を籠め直してから、吾々は倒れた敵を介抱してやろうと防柵の外側について下りて行った。その男はまったく死んでいた。――心臓を射貫かれたのだ。
 吾々がこの成功を喜びかけていたちょうどその瞬間、ピストルが叢林の中でばあんと鳴り、一発の弾丸が私の耳を掠めてぴゅっと飛び、可哀そうにトム・レッドルースがよろよろして地面へばったり倒れた。大地主も私も二人とも撃ち返した。が、何も狙うものがなかったのだから、恐らく火薬を浪費しただけであったろう。それから吾々はまた弾丸を籠めると、可哀そうなトムに注意を向けた。
 船長とグレーとがすでに彼の傷を調べていたが、私は一目でもう駄目だと見て取った。
 吾々が敏捷に一斉射撃を返したので、謀叛人どもはもう一度潰走したのだろうと思う。吾々はその上もう妨害を受けずに、その可哀そうな年寄の猟揚番人を持ち揚げて柵壁を越し、血を出しながら呻いているのを丸太小屋の中へ運び込んだ。
 可哀そうなこの老人は、吾々が難儀なことになったまったくの始まりから、今こうして丸太小屋の中に横らされて死んでゆこうとしている時に至るまで、一言の驚きや、不平や、恐れの言葉も、承諾の言葉さえも、口に出したことがなかった。彼はトゥロイ人の如《ごと》く勇敢にあの船の廊下の敷蒲団《マットレス》の蔭で敵に備えていた。彼はいかなる命令にも黙々として、頑固に、よく従った。彼は吾々の仲間の中の最年長者で、吾々よりも二十歳も年長だった。そして今、死んでゆこうとしているのは、このむっつりした、年寄の、勤勉な召使であったのだ。
 大地主は彼のそばにどかりと膝をついて、子供のように泣きながら、彼の手に接吻した。
「お医者さま、わっしは行くのでごぜえますか?」と彼は尋ねた。
「トムや、」と私は言った。「お前はほんとうの故郷《くに》へ行くのだよ。」
「俺《わし》は先に鉄砲で奴らに一発喰らわしてやりたかった。」と彼が答えた。
「トム、」と大地主が言った。「私を赦《ゆる》すと言ってくれないか?」
「そんな勿体《もってえ》ねえことが、わっしからあんたさまに言えますか、旦那さま?」というのがその返事であった。「だが、それでようごぜえます、アーメン!」
 しばらくの間黙っていた後、彼はだれかが祈祷を上げてくれた方がよいと思うと言った。「それが慣例《しきたり》ですからね。」と言訳するように言い足した。それから間もなく、その上一言も言わずに、死んでしまった。
 それまでの間に、船長は、胸やポケットのあたりが非常に膨らんでいるのは前から私も気づいていたが、そこからさまざまな品物をたくさん出した。――英国の国旗や、聖書や、一巻きの丈夫そうな綱や、ペンや、インクや、航海日誌や、何ポンドかの煙草などであった。彼は囲柵の中に伐り倒して枝を切り去った相当長い樅の木が一本あるのを見つけて、ハンターに手伝って貰って、それを、丸太小屋の隅の樹幹が交叉して角をなしている処に立てた。それから、屋根に攀《よ》じ登って、自分の手で国旗を結びつけて掲げた。
 それをしてしまうと船長は大いに安堵したようだった。彼は再び丸太小屋へ入って来て、他には何事もないかのように、さっきの品物を数え始めた。しかし彼はそれにも拘らずトムの臨終には目を離さなかった。そして、息を引取るや否や、別の国旗を持って来て、それを恭しく死体の上にかけた。
「そんなにお歎きなさるな。」と彼は大地主の手を握りながら言った。
「この人のことはこれですっかりいいのです。船長と主人とに対する義務を果しながら斃《たお》れた船員には何も心配はありません。これは教会で言うのとは違うかも知れません。が、それが事実です。」
 それから彼は私を脇へひっぱって行った。
「リヴジーさん、」と彼が言った。「あなたと大地主さんとは何週間たったら件船《ともぶね》が来ると思ってお出でですか?」
 私は、それは週ではなくて月できめてあるのであって、もし吾々が八月の末までに帰らなかったら、ブランドリーが吾々を探しに伴船を出すことになっているが、それよりも早くもなければ遅くもない、と彼に言った。「ですから御自分で計算してみて下さい。」と私は言った。
「ははあ、なるほど、」と船長は頭を掻きながら答えた。「とすると、どんなに神様の有難い思召しを蒙っていることを酌量してみましても、我々はかなり詰開《つめびら》き(註六一)[#「(註六一)」は行右小書き]になっていると申さなければなりませんな。」
「それはどういう意味ですか?」と私は尋ねた。
「我々があの二度目の積荷をなくしたのは残念です。私の言うのはそのことですよ。」と船長が答えた。「火薬と弾丸とは、まあ足りましょう。しかし食糧が不足なんです。非常に不足で、――リヴジーさん、恐らくあの余分の口が減って我々に好都合なくらい、それくらいに不足なんです。」
 そう言って彼は旗の下の死体を指した。
 ちょうどその時、どおんという轟然たる音とびゅうっと唸る音を立てて、一発の砲弾が丸太小屋の屋根の上を飛び去って、ずっと遠くの森の中に落ちた。
「ほほう!」と船長が言った。「どんどん撃て撃て! お前らにはもう火薬があんまりないぜ。」
 二度目に撃った時には、狙いは前よりはよくて、弾丸は柵壁の内側に落下して、ぱっと砂煙を立てたが、しかしそれ以上に何の損害も与えなかった。
「船長、」と大地主が言った。「この小屋は船からちっとも見えないはずです。奴らの狙っているのは国旗に違いない。あれを卸した方がよかありませんか?」
「私の旗を引下すのですって!」と船長が叫んだ。「いいえ、私は下しません。」そして彼がその言葉を言うや否や、吾々は皆彼に賛成したと思う。なぜなら、それは単に剛毅な、海員らしい、正常な感情であったばかりではない。その上にそれは立派な策略でもあって、敵に吾々が彼等の砲撃を軽蔑していることを示したからである。
 その夕刻中彼等はずっと大砲を撃ち続けた。次々に来る弾丸は、飛び越して行ったり、届かなかったり、囲柵の中で砂を蹴上げたりした。しかし、彼等は高く発射しなければならなかったので、弾丸は威力を失って落ち、柔かい砂の中に埋ってしまった。弾丸の跳ね返る恐れは少しもなかった。そして、一弾が丸太小屋の屋根を突き抜けて跳び込み、さらに床《ゆか》を突き抜けて行ったけれども、吾々は間もなくそういう荒遊びに慣れてしまって、クリケットくらいにしか気にかけなくなった。
「こうなるとよいことが一つありますな。」と船長が言った。「前の森にはだれもいそうにもないことです。潮はよほど退《ひ》いているから、さっきの荷物は水から出ているだろう。豚肉を取りに行こうという志願者。」
 グレーとハンターとが真先に進み出た者であった。十分に武装して二人は柵壁の外へそっと出た。が、その派遣が無益であることがわかった。謀叛人どもは吾々の思ったよりも大胆であった。それとも彼等はイズレールの砲術に案外信頼していたのだ。というのは、四五人の奴らが頻りに吾々の荷物を運び去って、それを持って一艘の快艇《ギッグ》のところまで徒渉していたからである。その快艇はすぐそばにあって、潮流に押し流されないようにするためにオールを漕いだりしていた。シルヴァーは艇尾座にいて指揮していた。そして彼等は皆、今は、彼等自身のどこか秘密の武器庫から持ち出した銃を一挺ずつ持っていたのであった。
 船長は腰を下して航海日誌を書き出した。その記入の初めの方はこうである。――
「船長アレグザーンダー・スモレット、船医デーヴィッド・リヴジー、二等船匠手エーブラハム・グレー、船主ジョン・トゥリローニー、船主の従僕、非海員ジョン・ハンター及びリチャード・ジョイス――以上は船の乗員中の忠実なる者として残れる者の全部なり――は、切詰めたる定量にて十日間の糧食を携えて、本日上陸し、宝島の丸太小屋に英国国旗を掲ぐ。船主の従僕、非海員トマス・レッドルース、叛徒に射殺さる。船室給仕ジェームズ・ホーキンズ――」
 そして、ちょうど同時に、私は可哀そうなジム・ホーキンズの運命がどうなったろうかと思っていたところであった。
 すると陸の方からおういと呼ぶ声がした。
「だれかが俺《わし》らを呼んでおります。」と見張りに立っていたハンターが言った。
「先生! 大地主さん! 船長さん! おうい、ハンター、君かい?」という叫び声がした。
 それで私が戸口のところまで走ってゆくと、ちょうど、ジム・ホーキンズが無事で達者で柵壁を攀《よ》じ越えてやって来るのが見えたのであった。


第十九章 ジム・ホーキンズが再び始めた物語       柵壁内の屯営

 べン・ガンは旗を見るや否や立ち停り、私の腕を掴んでひき止め、腰を下した。
「おい、」と彼が言った。「あすこにお前《めえ》さんの仲間がいるぜ、確かに。」
「あれぁどうも謀叛人らしいよ。」と私は答えた。
「そんなことがあるもんか!」と彼は叫んだ。「なあに、分限紳士でなけりゃだれ一人船をつけやしねえこんな処《とこ》だもの、シルヴァーなら海賊旗《ジョリー・ロジャー》(註六二)[#「(註六二)」は行右小書き]を立てるだろうよ。それにゃあ間違《まちげ》えなしさ。いいや、ありゃお前さんの仲間だ。それに、さっき戦争があったろう。でお前さんの仲間が勝ったんだと思うねえ。それでここへ上陸してあの古い柵の中に入《へえ》ってるのさ。あの柵は何年も何年も前にフリントが拵《こせ》えたものだ。ああ、あの人はまったく大将《てえしょう》らしい人だったよ、あのフリントはな! ラムの他《ほか》にゃあ、あの人にかなうものは何にもなかったんだ。怖《こえ》え者なんて一人だってなかったんだぜ。シルヴァーだけは別だがね。――シルヴァーはそれっくれえ気の利いた奴だったよ。」
「なるほど、」と私は言った。「じゃそうかも知れない。そんならそれでいい。それなら僕は一層急いで行って味方と一緒にならなくちゃ。」
「いやいや、兄弟《きょうでえ》、」とベンが答えた。「そうはゆかねえ。お前はいい子だ。違《ちげ》えねえよ。だが、何と言っても、まだほんの子供だよ。ところで、ベン・ガンとなるとなかなか抜目はねえ。ラムに酔ってたってそこへは行かねえぜ、お前さんの行こうとしてる処へはな、――ラムに酔ってたって行かねえとも、俺《わし》がその生れつきの紳士って人に逢って、その人から名誉にかけての約束てえ奴を聞くまではな。でお前さんは俺の言った言葉を忘れはしねえだろな。『とっても(とこう言うんだぜ)、とっても信用しています。』とね、――それからあの人をつねるんだよ。」
 そして彼は前と同じような巧みな様子で三度目に私を抓《つね》った。
「それからベン・ガンに用のある時にゃ、どこへ行きゃあ会えるか知ってるね、ジム。今日《きょう》お前さんと会ったあすこだぜ。それから、会いに来る人は手に何か白い物を持って来るんだよ。そして一人だけで来なきゃいけねえ。おお! それからお前さんはこう言ってほしいね。『ベン・ガンにゃあ自分の仔細があります。』って言うんだぜ。」
「なるほど、」と私は言った。「わかったようだよ。君には何か言い出したい話があって、大地主さんか先生に逢いたいのだね。それから、君は僕と会ったあすこへ行けばいるんだね。それだけかい?」
「それからいつ頃? っていうことだな。」と彼は言い足した。「そうさな、正午《ひる》頃から六点鐘頃までだ。」
「よろしい。」と私は言った。「じゃあ僕はもう行ってもいいかい?」
「お前さんは忘れやしねえだろな?」と彼は心配そうに尋ねた。「とっても、ということと、仔細がある、ということを、言うんだぜ。仔細がある。これが大事なことなんだよ。男と男の話としてね。よし、さあ、」――とやはり私を掴まえながら――「もう行ってもいいだろうよ、ジム。それからね、ジム、もしお前さんがシルヴァーに逢っても、ベン・ガンを売るようなことはしめえな? 拷問にかけられたってしゃべりゃしめえな? 大丈夫だね。それから、もしあの海賊どもが浜で野営するならばだ、ジム、朝にはきっと人死《ひとじに》があるだろうぜ。」
 この時に轟然たる音が彼の言葉を遮り、一発の砲弾が樹立を突き裂いて、私たち二人が話していた処から百ヤードと離れていない砂地の中へ落下した。次の瞬間には二人とも別々の方向へ逃げ出していた。
 それから後のたっぷり一時間は、砲撃が頻りに島を震わせて、砲弾が絶えず森に落ちた。私はその恐しい弾丸に始終追われて、あるいは追われているような気がしたのであるが、隠れ場所から隠れ場所へと逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。しかし、砲撃がそろそろ終りかける頃には、弾丸が一番多く落ちる柵壁の方へはまだ行く勇気はなかったけれども、再び幾らか元気が出かけていた。そして、東へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り路をしてから、岸辺の樹立の間をそろそろと下りて行った。
 太陽はちょうど沈んだばかりで、海風《うみかぜ》は森の樹をざわざわと鳴らして吹きまくり、また碇泊所の灰色の水面を波立たせていた。潮も遠くまで退いていて、広々とした砂地が現れていた。空気は、日中の暑さの後に、冷えて来て、私のジャケツを通して身に滲み込んだ。
 ヒスパニオーラ号はやはり前に投錨した処にいた。けれども、果して、海賊旗《ジョリー・ロジャー》――海賊の黒い旗――をその斜桁上外端《ピーク》にひらひらと翻していた。私が見ている時にもまだ、また赤く砲火が閃き轟然たる砲声がして、大きな反響を起し、もう一発の砲弾が空中をびゅうっと飛んで行った。それが最後の砲撃だった。
 しばらくの間私は横って、攻撃の後の騒ぎを見ていた。柵壁の近くの渚では、水夫たちが斧で何かを叩き壊していた。後でわかったが、例の小形端艇《ジョリボート》であった。彼方の、川口の近くには、樹立の間に焚火が盛んに燃えていて、その地点と本船との間を一艘の快艇《ギッグ》が絶えず行ったり来たりしており、前にはあんなに不機嫌だった水夫たちは、オールを漕ぎながら子供のように喚いていた。しかし、その声にはラムを飲んだらしい調子があった。
 とうとう、私はもう柵壁の方へ戻れるだろうと思った。私は低い砂の出洲《です》をかなりずっと下っていた。この出洲は碇泊所を東で抱え、半潮(註六三)[#「(註六三)」は行右小書き]の時には骸骨《スケリトン》島と連っているのである。そして今、私は立ち上ると、出洲をもう少し下ったところに、低い灌木の間から、かなり高い、色が妙に白っぽい岩が一つだけ立っているのが目に入った。私は、これがベン・ガンの話したあの白い岩かも知れない、いつかボートが要《い》ることになるかも知れないが、それを捜す処はわかった訳だ、と思いついた。
 それから森の中を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行って、柵壁の裏手、すなわち海岸向きの側へ再び着き、間もなく味方の人たちに大いに歓迎された。
 私は間もなく自分の一部始終の話をしてしまって、あたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し始めた。その丸太小屋は角材にしない丸木のままの松の幹で造ってあった、――屋根も、壁も、床《ゆか》も。床は数箇処砂地の面から一フートないし一フート半も高くなっていた。戸口のところにはポーチがあり、そのポーチの下に、例の小さな泉が、幾らか奇妙な性質の人工の溜池――というのは、船の大きな鉄釜の底を抜いて、船長の言葉で言えば「船荷を満載した時の水準線まで」砂の中に埋めたものなのであるが――の中へ湧き出ていた。
 小屋の骨組の他にはほとんど何も残されてはいなかった。が、一つの隅に、炉床の代りに敷いてある板石と、火を入れる古い銹びた鉄の籠とがあった。
 円い丘の傾斜面と柵壁の内側全部とは、この小屋を建てるために樹木をすっかり伐り払ってあった。その切株で見ると、ずいぶん立派な喬木の林が伐り倒されたことがわかった。土は大抵、その樹木を取除けた後に、雨に流しやられたり、風の吹き寄せた砂に埋められたりしていた。ただあの釜から流れ下っている小川のところだけでは、苔や、何かの羊歯《しだ》や、地を這っている小さな灌木などが、こんもり生い茂っていて、砂地の中にまだ緑色をしていた。柵壁のすぐ近くの周りに――防禦のためには近過ぎると皆は言ったが――森林がまだ高く密に繁っており、陸の側は皆樅だが、海の方は鮮色樫がよほどまじっていた。
 前に言ったあの寒い夕風は、この粗末な建物のありとあらゆる隙間からぴゅうぴゅう吹き込んで来て、細かい砂の雨を絶間なしに床《ゆか》に撒き散らした。私たちの眼の中にも砂、歯の間にも砂、夕食の中にも砂があり、あの釜の底の泉の中にも、まさしく、煮えかかった粥のように、砂が踊っていた。この小屋の煙突というのは、屋根に開《あ》いている一つの四角な穴であった。だから、外へ出てゆく煙はほんの僅かで、残りは小屋の中に渦巻いて、私たちに絶えず咳をさせたり涙を出させたりした。
 これにかてて加えて、新たに味方になったグレーは、謀叛人の中から跳び出して来る時に受けた傷のために、顔に繃帯をしていたし、可哀そうなトム・レッドルース爺さんは、まだ埋葬されずに、硬くなって、英国国旗《ユーニヨン・ジャック》に蔽われたまま、壁に沿うて横っているのであった。
 もし私たちが何もせずに坐りこんでいさせられたならば、私たちは皆きっと意気銷沈してしまったことだろう。しかし、スモレット船長は決してそんなことをするような人ではなかった。全員が彼の前に呼び集められ、彼は私たちを当直の組に分けた。医師と、グレーと、私とが一組、大地主さんと、ハンターと、ジョイスとが他の一組になった。私たちみんなは疲れていたけれども、二人は薪を取りにやられるし、他の二人はレッドルースの墓を掘りにかからされるし、医師は料理番《コック》に指命されるし、私は戸口のところに歩哨に立たされた。そして船長自身は一人一人のところへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、私たちを励ましたり、どこでも必要なところでは手を貸したりした。
 折々、医師は戸口のところへやって来て、少し外気を吸ったり、けむくてたまらぬ眼を休ませたりした。そうして来る度に、私にちょっと言葉をかけた。
「あのスモレットという人は私よりは偉い人間だよ。そして私がこう言う時にはなかなかのことだぜ、ジム。」と彼は一度は言った。
 また或る時は彼はやって来てからしばらくの間黙っていた。それから頭をかしげて、私をじっと眺めた。
「そのベン・ガンというのはしっかりした男かね?」と彼が尋ねた。
「私にはわかりません。」と私は言った。「正気な男かどうかもよくわからないんです。」
「正気かどうかという疑いがあるくらいなら、その男は正気だよ。」と先生が答えた。「無人島に三年もただ爪を咬んで暮していた人間というものはね、ジム、君や私と同様に正気に見えるというはずがないのだ。そんなことは人間の性質としてはないことだよ。その男がほしがっていると君の言ったのはチーズだったかね?」
「ええ、チーズです。」と私は答えた。
「じゃあ、ジム、」と彼は言った。「食物にやかましいとどんないいことになるか見て御覧。君は私の嗅煙草《かぎたばこ》入れを見たことがあるだろうね? で君は私が嗅煙草を取り出すのは一度も見たことがないだろう。その訳はこうだ、あの嗅煙草入れの中にはパルマ・チーズ(註六四)[#「(註六四)」は行右小書き]が入れてあるのさ、――イタリーで出来たチーズで、すこぶる滋養のある奴だ。そこで、あれをベン・ガンにくれてやるとしよう!」
 夕食を食べる前に私たちはトム爺さんを砂の中に埋葬して、帽子を脱いだまま風に吹かれて暫くの間その周りに立っていた。薪はずいぶんたくさん取って来てあったが、船長の気に入るほどではなかった。彼は頭を振って、私たちに「明日《あす》はもっと元気を出して取って来なくっちゃいけません。」と言った。それから、みんなが豚肉を食べ、一人一人がかなり強いブランディーを一杯ずつ飲んでしまうと、三人の頭株は一隅に集って、これから先のことを相談した。
 三人はどうしたらいいか途方に暮れている様子だった。糧食がごく乏しいので、救助の来るずっと前に私たちは飢餓に迫られて降服するより他しようがなかったからである。しかし、私たちの最上の望みは、海賊どもをどしどし殺して、彼等が旗を曳き下して降参するか、ヒスパニオーラ号に乗って逃げ出すまでやっつけることだ、ということに決定した。彼等はすでに最初の十九人から十五人に減っていたし、その他に二人が負傷しているし、少くとも一人――あの大砲のそばで撃たれた男――は、よし死んでいないにしても、重傷を負うていた。私たちは彼等にずどんとやってやる度毎に、自分たち自身の命を落さずに、極度の注意をしてやらなければならない訳だった。そして、この他に、私たちには二つの有力な味方があった。――ラムと風土とである。
 ラムについて言えば、私たちは約半マイルも離れていたのに、彼等が夜遅くまで喚いたり歌ったりしているのが聞えるくらいであった。また風土の方について言えば、彼等は沼地に野営していて、医薬の用意もないので、一週間とたたぬうちに半分の者は病気に罹って寝込むだろう、と先生はその仮髪《かつら》を賭けて断言した。
「そういう訳で、」と彼は言い足した。「もし我々がみんな先に撃ち倒されなければ、あいつらは喜んであのスクーナー船でこそこそ逃げて行ってしまうでしょうよ。奴らのほしいのはいつでも船で、船さえあればまた海賊を始められるんですからな。」
「私はまた船をなくしたのは今度が初めてで。」とスモレット船長が言った。
 諸君も想像される通り、私はへとへとに疲れていた。そして、何遍も何遍も寝返りうつまでは寝つかれなかったが、寝ついてしまうと、丸太のようにぐっすりと眠った。
 他の人たちがとっくに起きていて、もう朝食をすませて、薪の山を前日の一倍半ばかりもたくさんにした頃に、私はどさくさする物音と人の声とで目を覚した。
「休戦旗だ!」とだれかが言うのが私に聞えた。それから、すぐ後に、驚いたような叫び声と共に、「シルヴァーが自分で来たぞ!」と聞えた。
 それを聞くと、私は跳ね起きて、眼を擦《こす》りながら、壁の銃眼のところへ走って行った。

第二十章 シルヴァーの使命

 果して、柵壁のすぐ外側に二人の男がいて、一人は白い布片を振っており、もう一人はまさしくシルヴァーで、そのそばに落着き払って立っていた。
 まだごく早くて、私が戸外で感じた一番寒い朝だったように思う。寒気は骨の髄までも滲み徹った。空は晴れわたって頭上には一片の雲もなく、樹々の頂は太陽に照されて薔薇色に輝いていた。しかしシルヴァーが彼の副官と共に立っている処では、すべてがまだ影の中にあって、彼等は、夜の間に沼沢地から這い上った低い白い靄《もや》に、深く膝のところにまでも浸されていた。この寒気と靄とを合せて考えると、この島の有難くない処であることがわかった。それは、明かに、湿気のひどい、熱病に罹り易い、不健康な場所であった。
「諸君、屋内《なか》にいるんだ。」と船長が言った。「九分九厘までこれは策略ですから。」
 それから彼はかの海賊に声をかけた。
「だれだ? 止れ。でないと撃つぞ。」
「休戦旗ですぜ。」とシルヴァーが叫んだ。
 船長はポーチにいて、用心深く騙《だま》し撃《う》ちをやられても中《あた》らぬところにいるようにしていた。彼は振り向いて私たちに言った。――
「先生の組は見張りに就《つ》け。リヴジー先生はどうか北側にいて下さい。ジムは東側。グレーは西。非番の組、全員銃に装填せよ。諸君、元気よく、注意深く。」
 それから再び彼は謀叛人たちの方へ振り向いた。
「で、そんな休戦旗を持って来て何の用があるんだ?」と彼は呶鳴《どな》った。
 今度は、返事をしたのはもう一人の男だった。
「シルヴァー船長《せんちょ》が話を纏めにお出でなすったんで。」とその男が叫んだ。
「シルヴァー船長《せんちょ》だと! そんな人は知らんな。だれのことだい?」と船長は大声で言った。そして独り言のようにこう言い足すのが私たちに聞えた。「船長だって? おやおや、驚いたな。えらい御出世だ!」
 のっぽのジョンは自分で答えた。
「わっしのことでさあ。あんたが脱走なすってから、この若《わけ》え奴らがわっしを船長《せんちょ》に選んだのでさ。」――と「脱走」という言葉に特に力を入れた。「わっしらは、もし折合いせえつくものなら、喜んで降参しますよ、ぐずぐず言わずにすぐさまね。わっしの聞かして貰《もれ》えてえのは、スモレット船長、わっしをこの柵の外へ無事に出させて、鉄砲を撃たねえ前に弾丸《たま》の届かねえとこへゆくまで一分ほど待ってくれる、てえあんたの約束ですよ。」
「おい、」とスモレット船長が言った。「己《おれ》は貴様に口を利きたいとはちっとも思っちゃおらん。もし貴様の方で己に口が利きたいなら、来たっていい。それだけのことさ。不信義なことをするとなれぁ、それは貴様の方だろうよ。そんなことをすれぁ有難い目に遭うぜ。」
「それで十分ですよ、船長。」とのっぽのジョンは機嫌よく叫んだ。「あんたから一|言《こと》約束の言葉を聞けば十分ですよ。わっしは紳士ってものを知ってますからなあ、間違えなくね。」
 休戦旗を持っている男がシルヴァーを制止しようとするのが見えた。また、船長の返事がいかにも横柄なのを聞けば、これは不思議ではなかった。しかし、シルヴァーは声を立ててその男を笑い、そんなにびくびくするなんて馬鹿げているよとでもいうように、その男の背中をぽんと叩いた。それから柵壁まで進んで、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をその上から投げ込み、片脚を上げると、非常に勢よく上手に柵を乗り越して無事に内側へひらりと下りた。
 白状するが、私はこういう有様にすっかり気を取られてしまって、歩哨の役目などはちっともやりはしなかった。実際、私はもう自分の東側の銃眼を離れて、船長の背後までこっそり行っていたのである。船長はその時は閾《しきい》の上に腰を掛けて、膝の上に肱《ひじ》をつき、両手で頭を支えながら、砂の中の古い鉄の釜からぶくぶくと湧いている水をじっと見ていた。彼は「いざ、乙女《おとめ》よ、若人《わこうど》よ。(註六五)[#「(註六五)」は行右小書き]」と口笛を吹いていた。
 シルヴァーは丘を登って来るのに恐しく骨を折った。傾斜は嶮《けわ》しいし、木の切株はたくさんあるし、砂地は柔かいと来ているので、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を持った彼は方向を換えようとしている帆船のように体が自由に利かないのであった。しかし彼は黙々として男らしくそれをやり通し、とうとう船長の前まで来て、見事な態度で船長に挨拶した。彼は晴着を着飾っていた。真鍮のボタンのたくさんついている素敵に大きな青色の上衣は膝まで垂れており、綺麗なモールで飾った帽子は阿弥陀に頭にのっかっていた。
「おお、来たな。」と船長は顔を上げながら言った。「坐ったがよかろう。」
「内へ入れてくれねえんですかい、船長?」とのっぽのジョンは不平を言った。「ほんとに、えらく寒い朝だから、外の砂の上に坐るなんてつれえですねえ。」
「そうさなあ、シルヴァー、」と船長が言った。「もし貴様が実直にさえしていたなら、今頃は船の炊事室に坐っていられたんだろうがな。それは自業自得さ。お前は、己の船の料理番《コック》であるか、――それなら立派な待遇を受けるんだが、――それとも、くだらん謀叛人で海賊のシルヴァー船長であるかだ。その方なら絞首《しめくび》になるがいいや!」
「ようがす、ようがす、船長。」と船の料理番《コック》は、命ぜられた通り砂地に腰を下しながら、答えた。「あんたは後でまたわっしに手を貸して立たしてくれなくちゃならんでしょうからな。それだけのことでさ。これぁなかなか気持のいい立派な処《とこ》にお出でですなあ。やあ、ジムがいるね! お早う、ジム。先生、御機嫌よう。これはこれは、皆さん方《がた》は言わば仕合せな一家族みてえに御一緒にお出ででごぜえますな。」
「おい、何か言うことがあるなら、言った方がいいぜ。」と船長が言った。
「御もっともで、スモレット船長。」とシルヴァーが答えた。「いかにも、義務は義務ですからね。じゃあ、申しますがね、昨晩《ゆうべ》のあれはあんた方はうめえことをおやんなすったもんですなあ。確かに、うめえことでしたよ。それぁわっしも隠しやしません。あんた方の中にゃ木挺を[#「木挺を」はママ]ずいぶ器用に使う人がいるんですねえ。で、隠しやしませんが、そりゃあわっしの手下ん中にゃびくついた奴もいましたよ。――いや、みんながびくついたかも知れねえ。そういうわっしだってびくついたかも知れねえ。そのためにわっしがこうして折合いをつけにやって来たんかも知れませんよ。だがね、いいですかい、船長、二度とああはゆきませんぜ、畜生! わっしらの方も歩哨を立てますし、ラムもちったぁ控えることにしますからな。あんた方はわっしらがみんなほろ酔い加減だったと思ってるかも知れねえ。だが、わっしは確かに素面《しらふ》でしたぜ。ただえらく疲れてただけでさ。わっしがもうちょっとだけ早く目が覚めせえしたら、その場であんた方を掴めえたんですがねえ。掴めえましたとも。わっしがあの男んとこへ行って見た時にゃ、あの男はまだ死んでやしませんでしたからね、まだね。」
「それで?」とスモレット船長はこの上なく冷静に言った。
 シルヴァーの言ったことはすべて船長には謎のようでまるでわからなかったが、船長はそんな口振りは少しも示さなかった。私はと言えば、薄々わかりかけて来た。ベン・ガンが最後に言った言葉が頭に思い浮んだのだ。私は、海賊どもがみんな焚火の周りに酔っ払って寝ている間にあのベン・ガンが奴らを見舞ったのだろうと思い始め、私たちの相手にする敵がたった十四人になったと数えて喜んだ。
「それで、こういう訳ですよ。」とシルヴァーが言った。「わっしらはあの宝がほしいし、またどうあっても手に入れるつもりだ、――それがわっしの方の目的ですよ! あんた方はむしろただ命《いのち》が助かりたいんでしょう。それがあんた方の方の目的でさあね。あんたは海図を持っていなさるね?」
「それはそうかも知れん。」と船長が返事した。
「おお、なあに、持ってなさるよ。それぁわっしにゃわかってますさ。」とのっぽのジョンが答えた。「そんなに人に素気《そっけ》なくなさるこたぁありませんや。そんなことをしたって何の役にも立たねえんですから。そいつぁ間違えっこなしでさ。わっしの言いてえのは、わっしらはあんたの海図がほしいってことだ。でねえ、あんた方に害をしようってつもりはちっともねえんでさあ――わっしはね。」
「それは駄目だぜ、おい。」と船長が口を挿んだ。「貴様らがやろうとしていたことは己たちにはちゃんとわかっているし、己たちの方は平気だ。なぜって、貴様らはもうそれが出来ないんだからな。」
 そして船長は泰然と彼を眺め、パイプに煙草を填《つ》め出した。
「もしエーブ・グレーの奴が――」とシルヴァーが急に呶鳴《どな》り出した。
「止《や》めろ!」とスモレットさんが大声で言った。「グレーは己に何も言わなかったし、己もあの男に何も尋ねはしなかった。それに、己はむしろ貴様もあの男もこの島全体も海の中から地獄へ吹き飛ばしてやりたいくらいなんだ。おい、これでそのことについちゃ貴様には己の心がわかったはずだ。」
 こうちょっと呶鳴りつけられたのでシルヴァーは冷静になったようだった。彼はそれまではだんだんいらだって来ていたのだが、今は気を落着けた。
「いや、これはどうも、」と彼が言った。「多分、あっしは、紳士って方々がその時の場合によってどんなことを適当と考《かんげ》えるか考えねえかってことの区別をつけなかったんでしょう。で、船長、あんたはパイプをやろうとしていなさる様子だから、わっしも遠慮なくやりますぜ。」そう言って彼はパイプに煙草を填めて、それに火をつけた。そして、その二人の人はしばらくの間は煙草を吹かしながら無言で坐り、互に顔を見合ったり、また煙草を止《や》めたり、また前へ屈んで唾を吐いたりしていた。その二人の様子を見ているのは芝居のように面白かった。
「ところで、こういう話ですよ。」とシルヴァーがまた始めた。「宝を手に入れられる海図をわっしらに渡して貰《もれ》えましょう。それから、可哀《かええ》そうな水夫らを撃ち殺したり、寝てる間に頭に孔をあけたりするのは、やめて貰えましょう。そうして下さりゃ、どっちでもお好きな方《ほう》にしてあげますぜ。宝を積み込みせえすりゃ、わっしらと一緒に船に乗んなさるか。それなら、あっしが名誉にかけてきっとあんた方をどっかへ無事に上陸させてあげましょう。それともまた、もし、わっしの手下の中にゃ乱暴な奴もいて、こき使われた怨みを持ってるんで、一緒に船に乗るのがお気が進まねえなら、ここに残ったってようがすぜ。それなら、あんた方と食物を一人一人に分けましょう。そして、これもきっと、船を見かけ次第それに信号して、あんた方を迎えにここへ来させてあげますよ。どっちでもね。どうです、訳のわかった話でしょう。これよりいいことって望めやしませんぜ。しませんともさ。それからね、」――と声を張り上げて――「この丸太小屋ん中にいるみんなの人に、わっしの言ったことをよく考えて貰えてえんだ。一人に言ってることは、みんなに言ってることなんだから。」
 スモレット船長は坐っていたところから立ち上って、パイプの灰を左手の掌にはたき出した。
「それだけか?」と彼は尋ねた。
「一|言《こと》も残さずすっかりだ、畜生!」とジョンは答えた。「これを厭だというなら、あんた方はわしの見納《みおさ》めで、後は鉄砲|丸《だま》をお見舞《みめえ》するだけだ。」
「至極結構。」と船長が言った。「今度は己の言うことを聞かしてやる。もし貴様らが武器を持たずに一人一人やって来るなら、己は、貴様らみんなた鉄械《かせ》をかけた上で、イギリスへつれて帰って公平な裁判にかけてやるということを、約束してやろう。もしやって来ないというなら、このアレグザーンダー・スモレットは陛下の旗を掲げているのだ、きっと貴様らみんなを魚《さかな》の餌食にしてくれるぞ。貴様らは宝を見つけることが出来ない。貴様らは船を動かすことも出来ない、――貴様らの中には船を動かせそうな奴が一人だっていないよ。貴様らは我々と戦うことも出来ない、――そら、グレーは貴様らの仲間の六人の中から抜け出て来たんだぜ。お前さんの船は動きが取れなくなっていますよ、シルヴァーさん。お前さん方は危い風下の海岸にいるようなものなんだ、すぐにわかるだろうがね。己はここに立って貴様にそれだけ言ってやる。これが貴様が己から聞く最後の親切な言葉だぞ。この次己が貴様に逢った時には、必ず、貴様の背中に一発撃ち込んでやるんだからな。おい、小僧、歩くんだ。とっとと出て行け、どうか、ずんずん、駆足でな。」
 シルヴァーの顔は観物《みもの》だった。激怒のために眼玉は跳び山しそうだった。彼はパイプから火を振い出した。
「手を貸して立たしてくれ!」と彼は叫んだ。
「己は厭だ。」と船長が答えた。
「だれか手を貸して立たしてくれねえか?」と彼は喚いた。
 私たちは一人も動かなかった。彼は、非常に口ぎたない呪いの言葉をがなり立てながら、砂地を這って行って、ポーチに掴まると、ようやく再び立ち上って※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をあてた。それから泉の中へぺっと唾を吐いた。
「そら! これが己の手前《てめえ》たちに思っていることだ。」と彼は呶鳴《どな》った。「一時間とたたねえうちに、この古ぼけた丸太小屋にラム樽みてえに穴をあけてくれるぞ。笑っとけ、畜生、笑っときやがれ! 一時間とたたねえうちに、手前らは笑う反対《はんてえ》に泣面《なきづら》をかくんだ。死ぬ奴は運のいい奴だぞ。」
 そして、恐しい罵り言葉を吐いて彼は躓《つまず》きながら立去り、砂地をやっとのことで下って、四遍か五遍しくじった後に、休戦旗を持った男に助けられて柵壁を越すと、瞬く間に樹立の中へ姿を消してしまった。

第二十一章 攻撃

 シルヴァーの姿が見えなくなるや否や、それまでその姿をじっと見送っていた船長は、小屋の内部の方へ振り向くと、グレーの他には私たちが一人も自分の持場にいないのを見た。私たちが船長の立腹したのを見たのは、この時が初めてであった。
「部署に就《つ》け!」と彼は呶鳴《どな》った。それから、私たちがみんなこそこそと自分の場所に戻ると、「グレー、」と船長は言った。「君の名は航海日誌に記《しる》しておく。君は海員らしく自分の義務を守ったのだ。トゥリローニーさん、あなたには驚きましたな。先生、あなたは兵役に就《つ》いておられたことがあったと思いますがな! もしフォンテノイでもそういう風に服務しておられたのでしたら、寝床に入っておられた方がよかったでしょうよ。」
 医師の組は皆銘々の銃眼のところに戻り、残りの者は頻りに予備の銃に装填したが、だれも彼も顔を赤くし、小言で耳が痛がったのは、諸君も信じられることだろう。
 船長はしばらくの間無言のままで見ていた。それから口を開いた。
「諸君、」と彼は言った。「私はシルヴァーに罵詈の一斉射撃を浴《あび》せてやりました。わざと猛烈にやつつけたのです。で、奴の言ったように、一時間とたたないうちに、我々は攻め込まれましょう。我々が人数で劣っていることは、私が申すまでもありませんが、しかし我々は隠れて戦うのです。そしてもうちょっと前なら、我々は紀律をもって戦うのだと言えたでしょう。諸君にその気さえあれば、奴らを打ち負かすことが出来るということは、私は少しも疑いません。」
 それから彼は各自の持場を巡回し、すべて異状のないのを確めた。
 小屋の二つの短い側の東側と両側とには、銃眼が二つしかなかった。ポーチのある南側にも、また二つあり、北側には、五つあった。銃は私たち七人に対してちょうど二十挺あった。薪は四つの山に――テーブルとでも言ったように――積み上げてあって、各の側の真中あたりに一つずつあり、この各のテーブルの上には、弾薬と四挺の装填した銃とがいつでも防禦者の手に取れるように置いてあった。小屋の真中には、彎刀《カトラス》が並べてあった。
「火を抛《ほう》り出しなさい。」と船長が言った。「寒くなくなったし、眼に煙《けむ》を入れてはなりませんから。」
 鉄製の火籠をそっくりトゥリローニーさんが持ち出して、燃えさしは砂の中に突っ込んで消された。
「ホーキンズは朝飯《あさめし》がまだだな。ホーキンズ、勝手に取って、自分の持場へ帰って食べなさい。」とスモレット船長が続けて言った。「さあ、早くするんだ。すまないうちにまた食べたくなるだろうよ。ハンター、全員にブランディーを配れ。」
 そして、それが配られている間に、船長は心の中で防禦の計画をすっかり立てた。
「先生、あなたは戸口を引受けて下さい。」と彼は再び言い始めた。「気をつけて、体を出さないことです。内にいて、ポーチから撃って下さい。ハンター、東側を守ってくれ、そこだ。ジョイス、君はな、西側に立つんだ。トゥリローニーさん、あなたは一番射撃の上手な人です、――あなたとグレーとは、銃眼の五つある、この長い北側を引受けて下さい。危険のあるのはそこですから。もし奴らがそこまで上って来て、こっちの窓から我々に向って撃ち込むようになっては、すこぶる面白からん形勢になりますよ。ホーキンズ、君と私とは射撃にはあまり役にたたんから、そばに立ってて弾丸籠《たまご》めをして手伝いをするとしよう。」
 船長の言ったように、寒気はもう過ぎていた。太陽は小屋の周りをぐるりと取巻いた樹立の上まで昇るとすぐ、開拓地へ強く照りつけて、靄《もや》をたちまちに飲み干してしまった。間もなく砂地は焼け、丸太小屋の丸太の樹脂《やに》が融け出した。ジャケツも上衣も脱ぎ棄て、シャツは胸をはだけ、袖を肩までもまくり上げて、私たちは、銘々が自分の持場で、暑気と不安とで熱に浮かされたようになって立っていた。
 一時間たった。
「畜生め!」と船長が言った。「こいつあどうも赤道無風帯みたいに退屈だな。グレー、口笛を吹いて風を呼んでくれ。(註六六)[#「(註六六)」は行右小書き]」
 ちょうどその瞬間に攻撃の最初の知らせがあった。
「お尋ねいたしますが、」とジョイスが言った。「だれかが見えましたら、撃つんですか?」
「そう言ったじゃないか!」と船長は叫んだ。
「有難うございます。」とジョイスはやはり穏かな慇懃な調子で答えた。
 その後しばらくは何事もなかった。が、今の話で私たちみんなは気をひきしめて、耳も眼も緊張させていた。――銃手は銃を両手で構え、船長は口を堅く結び、顔を顰《しか》めて、小屋の真中に突っ立った。
 そうして数秒たつと、突然ジョイスが銃を手早く上げて発砲した。その銃声が消え去るか去らないに、外からはそれに応じてばらばらな一斉射撃が起り、囲柵のあらゆる側から引続いて一弾また一弾と飛んで来た。数発の弾丸が丸太小屋に中《あた》ったが、一発も内へは入らなかった。そして、煙が消え去った時には、柵壁も、その周りの森も、前と同じようにひっそりとしてだれもいなかった。枝一本揺れないし、銃身がぴかりと閃いて敵のいることを示しもしなかった。
「君の狙った奴に中ったか?」と船長が尋ねた。
「いいえ。」とジョイスは答えた。「中らなかったと思います。」
「それでもほんとのことを言うのはまだしも結構。」とスモレット船長が呟いた。「ホーキンズ、この人の鉄砲に弾丸《たま》を籠めてやりなさい。先生、あなたの側には何発ほど来ましたか?」
「はっきりとわかっています。」とリヴジー先生が言った。「この側には三発発砲して来ました。ぴかりと光るのが三つ見えたのです、――二つはくっついて、――一つはずっと西の方で。」
「三発と!」と船長は繰返して言った。「それから、トゥリローニーさん、あなたの側は何発でしたか?」
 しかしこれはそう容易には答えられなかった。北からはたくさん来たのだ。――大地主さんの計算では七発、グレーの言うところによれば、八発か九発だった。東と西とからは、たった一発ずつしか発砲されなかった。だから、攻撃は北側から開始されるので、他の三方では見せかけの敵対行為に煩わされるだけだ、ということは明かだった。しかしスモレット船長は彼の手配を少しも変えなかった。彼の主張するところでは、もし謀叛人どもが柵壁を越えるのに成功すれば、どれでも護りのない銃眼を占領して、私たちをこの砦《とりで》の中で鼠のように射殺してしまうだろう、というのであった。
 それにまた、私たちには考えている余裕も大してなかった。不意に、わあっと喊声をあげながら、一群の海賊が北側の森から躍り出して、柵壁へとまっすぐに走って来た。同時に、銃火がもう一度森から開かれて、一発のライフル銃の弾丸がひゅうっと戸口から飛んで来て、医師の銃をめちゃめちゃに壊してしまった。
 突撃隊は猿のように柵の上に群った。大地主さんとグレーとは続けざまに発砲した。三人の奴が倒れた。一人は前へ倒れて囲柵の中へ落ち、二人は後へ倒れて外側に落ちた。しかしこの中で、一人は明かに負傷したよりもびっくりして倒れたのであった。なぜなら、彼はたちまち再び立ち上って、すぐに樹立の中へ姿を消してしまったから。
 二人が斃《たお》れ、一人が逃げ、四人がうまく私たちの防禦陣地の内へ足を入れた。同時に、森の蔭からは、七八人の者が、いずれも明かに数挺ずつの銃を持っているらしく、丸太小屋めがけて、中りはしないが猛烈な射撃を続けた。
 闖入《ちんにゅう》して来た四人の者は小屋に向ってまっすぐに突進し、走りながら喚き声をあげた。すると樹立の中にいる連中もわあっと喚き返して彼等を声援した。こちらからは数発撃った。しかし、射手があせっていたので、一発も効果はなかったらしい。瞬く間に、四人の海賊は丘を攀《よ》じ登って私たちに迫って来た。
 水夫長《ボースン》のジョーブ・アンダスンの頭が中央の銃眼のところににゅっと現れた。
「奴らをやっつけろ、みんな、――みんな!」と彼は雷のような声で呶鳴《どな》った。
 同時に、もう一人の海賊はハンターの銃口を掴み、それを彼の手から捩り取り、銃眼からひったくって、猛烈な一撃を喰わしたので、ハンターは可哀そうに気絶して床《ゆか》の上に倒れた。その間に、もう一人の奴は無事に小屋をぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、不意に戸口に現れ、彎刀で医師に打ってかかった。
 私たちの位置はすっかり反対になった。もうちょっと前には、私たちは掩護物の蔭から身を曝している敵を射撃していたのだが、今では、曝露されていて一撃も返すことの出来ないのは私たちの方となった。
 丸太小屋は煙で一杯になった。私たちが割合に無事だったのはそのためであった。叫び声とどたばたする音、ピストルを発射する閃光と轟音、一声の高い呻き声などが、私の耳の中に鳴り響いた。
「出るんだ、諸君、出るんだ。外で戦うんだ! 彎刀《カトラス》を取れ!」と船長が叫んだ。
 私は例の薪の山から一本の彎刀を素早くひっ掴んだ。と同時にだれかが別のをひっ掴んで、私の指の関節をさっと切ったが、私はそれをほとんど感じなかった。私は戸口を跳び出して明るい日光の中に出た。だれかがすぐ背後から来たが、だれだかわからなかった。真正面には、医師が自分の攻撃者を追って丘を下っていたが、ちょうど私の視線が先生に落ちた時に、先生は刀を打ち下し、その海賊は顔に大きな斬傷を受けて、仰向に※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》きながら倒れた。
「小屋を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れ、諸君! 小屋を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れ!」と船長が叫んだ。そして、この騒ぎの中でさえ、私は船長の声に変ったところがあるのに気がついた。
 機械的に私は命令に従い、東の方へ振り向き、彎刀を振りかざしながら、小屋の角を走り曲った。すると次の瞬間にはアンダスンとばったり顔を合せた。彼は大きな声で喚いて、短剣を頭上高く振り上げ、それが月光にきらりと光った。私は恐しいと思う暇もなかったが、今にも一撃が下されようとする途端に、たちまち一方の脇へ跳び退き、柔かい砂の中に足を踏み外して、斜面を真逆さまに転げ落ちた。
 私が最初戸口から跳び出した時には、他の謀叛人どもも、私たちをやっつけてしまおうと、すでに防柵に攀《よ》じ登っていたのである。赤い寝帽《ナイトキャップ》をかぶって、口に彎刀を啣《くわ》えた一人の男などは、もう上まで登ってしまって、片脚をこちらへ跨いでいたのだった。ところで、その間はごくしばらくだったので、私が再び立ち上った時にはすべての者が元と同じ姿勢で、赤い寝帽をかぶった奴はやはり半分跨ぎかけたままだし、もう一人の奴はやはり柵壁の上に頭だけを出していた。しかし、この僅かな間に、戦はもう終って、勝利は味方のものとなった。
 グレーが私のすぐ背後からついて来て、大男の水夫長が打ち損じたのをやり直す暇もないうちに、水夫長を斬り倒してしまったのだ。もう一人の奴は、小屋の中へ発砲しようとしていた刹那《せつな》に銃眼のところで撃たれて、今は断末魔の苦悶をやりながら横っていて、手にしているピストルからはまだ煙が出ていた。第三人目の奴は、私の見たように、先生が一撃でやっつけたのだ。防柵を攀《よ》じ登ってやって来た四人の中で、たった一人だけが殺されずに残った訳で、その男は、戦場に彎刀を残して、殺されはしまいかと恐れながら今再び柵を攀じ出ようとしているところだった。
「撃て、――小屋から撃て!」と先生が叫んだ。「おい、君ら、隠れ場へ戻るんだ。」
 しかしこの言葉は顧みられず、一発も撃たれなかったので、闖入者《ちんにゅうしゃ》の一人だけ生き残った奴は逃げおおせて、他の連中と一緒に森の中へ姿を消してしまった。三秒もたつと、倒れている五人の他には攻撃隊は影もなかった。四人は防柵の内側に、一人はその外側に倒れていた。
 先生と、グレーと、私とは、大急ぎで小屋の方へ走り戻った。生き残った奴らは間もなく自分たちの銃の置いてある処へ戻るだろうし、いつ射撃を再び始めるかも知れなかった。
 小屋の中はこの時分には幾らか煙が少くなっていた。そして私たちは勝利を得るために払った価格を一目で見て取ったのである。ハンターは自分の銃眼のそばに昏倒して横っていたし、ジョイスは自分の場所で頭を射貫かれて、二度と動けない有様になっていた。そして、小屋のちょうど真中には、大地主さんが船長を支えていて、二人とも同じくらい蒼ざめていた。
「船長が負傷した。」とトゥリローニーさんが言った。
「奴らは逃げましたか?」とスモレットさんが尋ねた。
「逃げられる奴だけはみんな、確かに。」と先生が答えた。「だが、どうしてももう逃げられない奴が五人います。」
「五人ですって!」と船長が叫んだ。「ふうむ、それぁいい。こっちの三人に対して五人やられたんなら、今じゃ我々は九人に対する四人ですな。それなら初めより歩《ぶ》がよくなった訳ですよ。あの時は我々は十九人に対する七人でした。またはそう思っていたのでしたが、あれではどうもやりきれませんからねえ。」★

 ★謀叛人は間もなく総計僅か八人になったのである。というのは、スクーナー船の船上でトゥリローニーさんに撃たれた男が、負傷したその晩に死んだからだ。しかし、このことは、もちろん、忠実な側の者には後になるまでは知られなかったのである。

第五篇 私の海の冒険

第二十二章 どうして海の冒険を始めたか

 謀叛人どもは引返しては来なかった、――森の中から発砲さえして来なかった。彼等は、船長の言うのによれば、「その日の食糧だけは貰って」しまったのである。それで私たちはその場所を自分たちだけのものに出来たし、負傷者の傷を調べたり食事をとったりする平穏な時間もあった。大地主さんと私とは、危険をも構わずに、屋外で料理をした。そして屋外にいてさえ、医師が手当をしている負傷者の高い呻き声が聞えて来るのが怖《こわ》くて、自分たちのしていることがほとんどわからないくらいであった。
 戦闘で倒れた八人の中で、たった三人だけがまだ息《いき》があり、――それは、銃眼のところで撃たれた海賊の一人と、ハンターと、スモレット船長とである。そしてこの中の初めの二人は死んでいるも同様だった。実際、謀叛人の方は、先生の外科手術を受けているうちに死んだし、ハンターは、私たちが出来るだけのことはしたが、一度も意識を恢復しなかった。彼はその日|中《じゅう》死生の間をさまよい、私の家《うち》で卒中の発作に罹ったあの老海賊のように荒い息遣いをしていた。しかし、彼の胸の骨はあの一撃で打ち砕かれていたし、頭蓋骨は倒れた時に挫けていて、その夜のうちに、何の徴候もなく声も立てずに、彼は神の許へ行ってしまった。
 船長はと言えば、彼の傷はいかにも重くはあったが、しかし危険なものではなかった。どの器官にも致命傷は負っていなかった。アンダスンの弾丸が――というのは最初に船長を射撃したのはジョーブの奴だったからであるが――肩胛骨《けんこうこつ》を折って肺に触れていたが、ひどいことはなかった。第二弾は脹脛《ふくらはぎ》の筋肉を少し切り裂いて引違えただけだった。彼はきっと恢復するが、しかしその間、これから数週間は、歩いても腕を動かしてもいけないし、出来る時には口を利くことさえよくない、と先生が言った。
 私自身の偶然に受けた指関節の切傷は、ほんの蚤の喰ったくらいのものだった。リヴジー先生はそれに膏薬《こうやく》を貼って、おまけに私の耳をひっぱった。
 食事の後に、大地主さんと先生とは船長のそばにしばらく坐って相談をした。そして思う存分にしゃべり合ってしまうと、それは正午を少し過ぎた頃であったが、先生は自分の帽子とピストルとを取り上げ、彎刀《カトラス》を佩《お》び、例の海図をポケットに入れ、銃を肩にかけて、北側の防柵を乗り越え、さっさと樹立の中へ入って行った。
 グレーと私とは、上官たちの相談しているのが聞えないようにと、丸太小屋のずっと端の方に一諸に坐っていたが、グレーは、医師が出て行ったのにまったく呆気《あっけ》に取られて、パイプを口から取り出したまま、それをまた口に啣《くわ》えるのもすっかり忘れたほどだった。
「おやおや、」と彼は言った。「一体全体、リヴジー先生は気でも違ったんかい?」
「なあに、そんなことはないさ。」と私が言った。「気が違うということになれぁ、この僕たちの中では先生が一番おしまいだよ。僕はそう思うさ。」
「じゃあ、兄弟《きょうでえ》」とグレーが言った。「先生は気が違っていねえんかも知れねえ。だが、あの人[#「あの人」に傍点]の方が気が変になっているのでねえとするとだ、いいかい、このわっし[#「わっし」に傍点]の方が変なのだな。」
「僕はこう思うよ、」と私が答えた。「先生には何か思いつきがあるんだとね。そしてもし僕の思う通りなら、先生は今ベン・ガンに会いにいらしったんだよ。」
 後で明白になったことだが、私の思った通りだった。しかし、とかくするうちに、小屋の中は息苦しいまでに暑く、防柵の内側の狭い砂地は真昼の太陽に照りつけられて燃え立っようだったので、私の頭にはまた一つの考えが浮び始めた。それは決してさほど正しい考えではなかった。私に思い浮び始めたというのは、先生を羨むことなのであった。先生は森のひいやりとする樹蔭を歩きながら、周りに鳥の啼くのを聞いたり、松の樹の心地よい香を嗅いだりしているのに、私は、暑さで融けた樹脂《やに》のくっついた衣服を着て、焙《あぶ》られるような思いをしながら坐っていて、自分の周りには血がたくさん流れているし、あたり中に死体がごろごろ横っているので、それを見ていると、この場所がつくづく厭になり、その厭だという気持はほとんどここが恐しいというくらいに強いものだった。
 私が丸太小屋を洗い落したり、それから食後の食器を洗って始末している間中、この厭だという気持と羨ましいという気持はますます強くなる一方で、とうとうしまいには、自分がパン嚢のそばにいて、その時だれも私を見ていないのを幸いに、逃げ出す用意の手始めに、上衣の両方のポケットに堅《かた》パンを一杯詰め込んだ。
 私は馬鹿だった、と言われても仕方がない。確かに私は馬鹿な大胆過ぎることをやろうとしていたのだ。しかし、自分の出来るだけの用心をしてそれをやる決心だった。それだけの堅パンがあれば、どんなことが起ったにしても、少くとも、次の日のよほど遅くまではひもじい思いをすることはなかったろう。
 次に私が身につけたものは一対のピストルであった。そして角《つの》製火薬筒と弾丸とはすでに持っていたので、武器はこれで十分だと思った。
 私が頭に描いた計画はと言えば、それはそれだけとしては悪い計画ではなかった。碇泊所を東で外海と分っている例の砂の出洲《です》を下って行って、昨夕目についたあの白い岩を見つけ出して、ベン・ガンがボートを隠しておいたのがそこかどうかをつきとめようというのだ。これは確かにやる価値のあることだと私は今も信じている。しかし私は囲柵から出ることは許されまいと思いこんでいたので、私の唯一の方法は、だれも気をつけていない時に何とも言わずに無断でこっそり抜け出ることであった。これは、計画そのものをまで悪いものにするくらいな、悪いやり方であった。しかし私はほんの子供だったし、ぜひやろうと決心していたのだ。
 さて、とうとう素晴しい機会を見つけることになった。大地主さんとグレーとは頻りに船長に繃帯を巻く手伝いをしていた。だれも見ている者がなかった。私は跳び出して柵壁を越え樹立の茂みの中へ駆け込み、私のいないことが気づかれないうちに、もう仲間の人たちの呼び声の聞えないところまで行っていた。
 これが私の二度目の愚かな行いで、小屋を護るのに健康な人をたった二人だけ残して出たのだから、一度目のあの冒険とは遥かに悪かったのだ。しかし、これも、一度目の時のように、私たちみんなを救うことの助けになったのである。
 私は島の東海岸をさしてまっすぐに進んで行った。碇泊所から決して目を留められないようにするために、出洲の外海に面した側を下って行くことにしていたからである。まだ暖かくて日が照ってはいたけれども、もう午後も大分遅くなっていた。喬木の森を縫うようにしてどんどん歩いて行くと、ずっと前の方から間断なく雷のように轟いている寄波《よせなみ》の音が聞えたばかりではなく、樹の葉のざあざあ鳴る音や大枝の擦れ合う音までが聞えて来たので、海風《うみかぜ》がいつもよりも強く海岸に吹きつけていることがわかった。間もなく、冷い風が私の体《からだ》にあたって来た。そしてさらに数歩行くと、森の縁の開けたところへ出て、見渡すと、海は水平線までも青々として日に照され、寄波は磯に沿うてのたうち白波を立てているのだった。
 私は宝島の周囲では海が静かだったのを一度も見たことがない。太陽が頭上に輝きわたり、空気はそよとも動かず、海面は波立たずに青々としていようとも、こういう大浪はいつも外海に面した海岸にはどこでも打ち寄せて、昼も夜も雷のように轟きわたっているのだった。それで私にはこの島では浪の音の聞えない処が一箇所でもあろうとはほとんど信じられない。
 私は大喜びで寄波のそばをずっと歩いて行き、とうとう、もう十分に南の方まで来たと思って、何かのこんもり茂った灌木に身を隠して、用心しながら出洲の背へ這い上った。
 私の背後は海で、前面は碇泊所であった。海風は、いつになく烈しく吹いたためにいつもよりも早く吹き尽してしまったとでもいう風に、すでに止んでいた。その後には、南南東からの弱い変り易い微風が吹いて、大きな層をなした霧を運んで来た。そして碇泊所は、骸骨《スケリトン》島の風蔭で、初めて私たちが入って来た時のように静かで鉛のようにどんよりしていた。ヒスパニオーラ号は、その滑かな一面の鏡のような水面に、檣冠から吃水線までくっきりと映っていて、海賊旗《ジョリー・ロジャー》が|斜桁上外端《ピーク》にぶら下っていた。
 その舷側には一艘の快艇《ギッグ》が横附けになっていて、シルヴァーがその艇尾座におり、――彼は私にはいつでも見分けがついた、――それから、二人の男が本船の船尾の舷牆に凭《もた》れていたが、その中の一人は赤い帽子をかぶっていた。――まさしく、数時間前に防柵に馬乗りになっているのを私が見たあの悪漢だ。見たところでは彼等はしゃべったり笑ったりしているようだった。もっとも、その距離――一マイル以上――では、無論、言っていることは私には一語も聞き取れなかったが。と、突然、実に怖しい、この世のものとは思えぬ叫び声がして、最初は私はひどくびっくりしたが、すぐフリント船長の声を思い出し、その鳥が飼主の手頸に棲《とま》っているのがその鮮かな羽毛の色でそれと見分けられるような気さえした。
 それから間もなくその端艇は本船を離れて岸に向って漕いでゆき、赤い帽子をかぶった男とその仲間の男とは船室《ケビン》の昇降口から下へ降りて行った。
 ちょうどその時に太陽は遠眼鏡《スパイグラース》山の背後に沈んで、霧がずんずん集って来るので、いよいよ本式に暗くなりかけて来た。私は、もしその夜ボートを見つけるのなら、一刻もぐずぐずしてはいられないと気がついた。
 例の白い岩は、矮林の上に十分見えてはいたが、まだ八分の一マイルばかり出洲を下ったあたりにあって、矮木の間を時々は四つん這いになって這いながらそれに近づくまでには、かなりの時間がかかった。そのごつごつした岩の面に私が手をかけた時には、ほとんど夜になっていた。岩のすぐ下手に、緑の芝地のごく小さな凹地《くぼち》があって、それが、土手と、その辺にすこぶるたくさん生えている膝くらいまでの高さのこんもりした下生《したばえ》とで隠されていた。そして、この凹《へこ》みの真中に、果して、山羊の皮で作った小さなテントがあった。ちょうどイギリスでジプシー人が持ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っているようなテントだった。
 凹地の中へ降りて、そのテントの端を上げてみると、ベン・ガンのボートがあった。――まさしく紛れもない手製のものだった。強靱な木を不器用な一方に偏った枠組にして、それに、毛の方を内側にした山羊の皮を張ったものである。これは私にさえ極めて小さいので、大きな大人を乗せて浮ぶことが出来ようとは私にはほとんど想像出来ないくらいであった。出来るだけ低く取附けた腰掛梁《こしかけばり》が一つと、舳《へさき》に足架《あしかけ》のようなものと、推進用の両櫂《ダブル・パッドル》(註六七)[#「(註六七)」は行右小書き]が一本とあった。
 私はその当時は古代のブリトン人が造ったような革舟《コラクル》(註六八)[#「(註六八)」は行右小書き]をまだ見ていなかったが、その後になって見たことがある。それで、ベン・ガンのボートを一番はっきり説明するには、かつて人間の造った最初の最もまずい革舟のようなものだと言えばいいと思う。しかし、それは革舟のあの大きな便益は確かに持っていた。すなわち、極めて軽くて持ち運び易いのである。
 さて、もうボートを見つけてしまったのだから「私も今度だけは隠れ遊びもたんのうしたろうと思われるだろう。けれども、それまでの間に、私は別の考えを思いつき、それがとてもやりたくなっていたので、たといスモレット船長にさえ逆《さから》ってでもそれを実行したろうと思う。それは、夜陰に乗じてそっと海へ乗り出し、ヒスパニオーラ号の錨索を切って、どこでも流れ着く処へ船を坐礁させようというのであった。私は、謀叛人どもが、その朝撃退されてからは、錨を揚げて海へ出て行くことを何よりも望んでいるものと、すっかりきめこんでいた。で、それを邪魔してやるのは面白いことだろうと思った。そして、あのように番人どもに一艘のボートも残しておかないのだから、それはほとんど危険なしに出来そうだと考えたのである。
 私は真暗《まっくら》になるのを待っために腰を下して坐り、堅パンをたらふく食べた。その夜は私の目論《もくろみ》には万に一つという誂え向きの夜だった。霧はその時は空をすっかり蔽うていた。昼の名残《なごり》の光がだんだん淡くなってまったく消えてしまうと、真の暗闇《くらやみ》が宝島を包んだ。そして、とうとう、私が革舟を担《かつ》いで、夕食を食べたその凹地《くぼち》から躓《つまず》きながら手探りして出た時には、その碇泊所全体で目に見える箇所はたった二つしかなかった。
 一つは、岸の大きな焚火で、そのそばに敗北した海賊どもが湿地で酒宴を開いていた。もう一つは、暗闇の中のほんの朦朧たる明りで、碇泊している船の位置を示しているものだった。船は退潮《ひきしお》につれてぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていて、――船首が今私の方へ向いており、――船中の唯一の灯は船室にあったのだ。それで、私に見えたのは、船尾の窓から流れ出る強い光線が霧に反映しているものに過ぎなかったのである。
 退潮はすでにしばらく続いていたので、私は長い一帯のじくじくした砂地を徒渉しなければならなかった。そこでは何回も踝《くるぶし》の上までもずぶずぶと沈んだ。それからやっと退《ひ》いていっている水の縁のところまで来たので、少し水の中へ入って行って、多少力を出して機敏に革舟を竜骨《キール》のところを下にして水面に浮べた。

第二十三章 退潮《ひきしお》が流れる

 この革舟《コラクル》は――それを使わない前から十分わかっていたが――私くらいの背や重さの人間にはごく安全なボートで、荒海でもふわふわと浮くし敏捷に動いた。しかし、操縦するにはこの上もなくひねくれた偏屈な舟だった。どうやってみても、いつも風下へばかり流れるし、ぐるぐるぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るのがそいつの一番得意の手だった。ベン・ガンでさえあの舟が「その癖がわかるまでは扱いにくい」奴だったということを認めている。
 無論、私にはその癖がわかっていなかった。その舟は私の行かねばならぬ方角以外のあらゆる方向へぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。大抵の時は横向になっていたので、潮《しお》がなかったなら私は到底船に着けなかったろうと思う。幸運にも、私がどう櫂を漕いでいても、潮は舟を絶えず押し流していた。そしてちょうど行手にヒスパニオーラ号があって、ほとんどそれに会い損うはずがなかった。

初めは船は私の前に何か暗闇よりももっと黒いものの汚点のようにぼうっと見えていたが、それからその円材や船体が形をなして見え始めたかと思うと、次の瞬間には、というように思われたのであるが(なぜなら、先へ進むにつれて、退潮《ひきしお》の流れがだんだん疾くなって来ていたから)、私はもう船の錨索のそばに来ていたので、すぐにそれを掴まえた。
 錨索は弓の弦《つる》のようにぴんと張っていた。――船はそれほど強く錨をひっぱっていたのだ。船体の周りでは、真黒な闇の中で、漣《さざなみ》を立てた潮流が小さな山川のように泡立ちさざめいていた。私の船用|大形ナイフ《ガリー》でぷっつりと切ってやれば、ヒスパニオーラ号はぶんぶん帆を唸らせながら潮流と共に流れ下るだろう。
 ここまではよかった。しかし次に私の思い浮べたのは、ぴんと張っている錨索を急に切るというのは、蹴る馬のような危険なものだということだった。もしヒスパニオーラ号を錨から切り離すような無鉄砲なことをしようものなら、九分九厘まで、私と革舟とはまるっきり空中へ叩き飛ばされるだろう。
 それで私はそのことはすっかり思い止《とど》まった。そして、もし幸運が再び私に特別に恩恵を与えてくれなかったなら、私は自分の計画を放棄しなければならなかったろう。けれども、南東南から吹き始めていた弱い微風は、日が暮れてからは、次第に南西風に変っていた。ちょうど私が考えこんでいる間に、一陣の風が起って、ヒスパニオーラ号に吹きつけ、船を潮流の中へ無理に押し上げた。そのために、非常に嬉しかったことには、錨索が私の手の中で弛んだのが感じられ、それを掴んでいた手がちょっとの間水の下へ入った。
 そこで私は決心して、大形ナイフを取り出し、歯でそれを開いて、索の股《こ》を一つ一つと切り、とうとう船は二つの股で揺れ動いているだけになった。それから私はじっとして、もう一度風が吹いて来て索の緊張が緩んだらこの残りの股を切断しようと待っていた。
 この間中、船室《ケビン》から高い声が聞えていた。が、実を言えば、私は他の考えにすっかり気を取られていたので、それにはほとんど耳を籍《か》さずにいた。けれども、もう他にすることがなくなったので、もっとそれに注意し始めた。
 一方の声は、以前フリントの砲手だったという舵手《コクスン》のイズレール・ハンズの声だと私にはわかった。もう一方は、もちろん、例の寝帽《ナイトキャップ》をかぶった男だった。二人とも明かに酒に酔っていたが、それでもまだ飲み続けていた。という訳は、私が耳を傾けている間にさえ、その中の一人が、酔っ払った叫び声をあげながら、船尾の窓を開《あ》けて何かを抛《ほう》り出したが、それを私は空罎《あきびん》だろうと判断したからである。しかし彼等は酩酊しているだけではなかった。猛烈に怒っていることは明かだった。罵り言葉が霰のように飛び、時々はきっと殴り合いになるに違いないと思うほどの呶鳴《どな》り声がした。けれどもその度に喧嘩《けんか》は次第にやんで、声はしばらくの間ぶつぶつと低くなり、やがてまた次の喧嘩が始まり、それも何事もなく次第にすんでゆくという風だった。
 岸の方には、岸辺の樹立を通して野営《キャムプ》の大きな焚火があかあかと燃えているのが見えた。だれかがのろい単調な古びた水夫の唄を歌っていて、一節の終り毎に声を下げて震わし、歌い手に根気がなくなって止《や》めるより他《ほか》にはまるで終りがないように思われた。私はその唄を航海中に一度ならず聞いたことがあって、こういう文句を覚えこんだ。――


「七十五人で船出をしたが、
 生き残ったはただ一人《ひとり》。

そして、これは、その朝あれほど無残にも死傷者を出した連中にとっては、幾らか陰惨にも適切過ぎる唄だと、私は思った。しかし、実際、私の見たところから考えると、こういう海賊たちは皆、彼等が船を走らせる海と同じように無神経なものだったのだ。
 やがて風が吹いて来た。スクーナー船は闇の中で斜に動いて近づいて来た。私は錨索がもう一度弛んだのを感じたので、ぐっと力をこめて残りの縄をぷっつりと切った。
 風は革舟にはほんの僅かしか作用を及ぼさなかったので、私はもう少しでヒスパニオーラ号の船首にぶっつけられようとした。同時にそのスクーナー船は後端を中心にして潮流を横切ってゆっくりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って両端が今までと反対の位置になりかけた。
 私は今にも革舟が顛覆するかと思ったので、死物狂いになって努力した。そして革舟を直接に押し離すことが出来ないとわかったので、今度は船尾の方へまっすぐに押し進んで行った。ついに私はその危険な隣人から免れた。そして最後に革舟をぐっと推進させたちょうどその時に、私の手がふと船尾の船牆を越えて水中に垂れ下っている一本の軽い索にあたった。と、即座に私はそれを掴んだ。
 どうしてそんなことをしたのか自分でもほとんどわからない。初めはただ本能だったのだ。が、一度それを手に握って、それがしっかりしているのがわかると、好奇心がむらむらっと湧き起って来て、船室の窓からちょっと覗いてやろうと決心した。
 私はその索を手繰《たぐ》って引き寄せ、もう十分近づいたと思った頃に、非常な危険を冒して自分の半身ほど立ち上り、そうして船室の天井と室内の一部とを見渡した。
 この時分には、スクーナー船とそれの小さな伴船《ともぶね》とはかなり速く水を分けてすうっと流れていた。実際、私たちはすでに野営の焚火と平行になるところまでも来ていた。船は絶えず水沫を跳ばしながら無数の漣を押し切って進み、ざあざあ大きな音を立てていた。それで、窓閾《まどしきい》の上へ眼をやるまでは、私はなぜあの番人どもが一向驚かないのか合点がゆかなかったのだ。だが、一目見ると十分だった。また、そのぐらぐらしている小舟からは、一目だけしか見られなかった。その一目で、ハンズと彼の仲間の男とが絡み合って猛烈な組打をやっており、互に相手の喉頸《のどくび》をひっ掴んでいるのが見えたのである。
 私は再び腰掛梁にどかんと腰を下した。ちょうどよい時だった。すんでのことに舟から水中へ落ちるところであった。しばらくの間は、私には、煙ったランプの下で一緒にゆらいでいたあの狂暴な真赤になった二つの顔の他には、何一つも見えなかった。それで私は眼を閉じて、もう一度眼を闇に慣らそうとした。
 例の果しのない唄もとうとう終って、野営の焚火を囲んでいる人数の減った仲間全体は、私のたびたび聞いたあの合唱をやり出していた。――


「死人箱《しびとのはこ》にゃあ十五人――
  よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!
 残りの奴は酒と悪魔が片附けた――
  よいこらさあ、それからラムが一罎と!」

 ちょうど私が、酒と悪魔とが正にその瞬間にヒスパニオーラ号の船室でどんなに活躍しているかを考えていた時に、急に革舟がぐっと傾いたのに驚かされた。同時にそれはぐらぐらとして、それから針路を変えたように思われた。速力はその間に異様に増していた。
 私は直ちに眼を開《あ》けた。周り中には一面に漣があり、鋭いざあざあいう音を立てて泡立ち、微かに燐光を発していた。私の舟は依然としてヒスパニオーラ号の船跡《ふなあと》の数ヤードのところをぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていたが、そのヒスパニオーラ号までも針路がよろよろしているようであったし、その円材が夜の闇の中で少し揺れ動いているのが見えた。いや、もっと見つめていると、その船もやはり南の方へ方向を転じているのが確かにわかった。
 私は肩越しに振り返って見た。すると心臓がどきんとして肋骨にぶつかったような気がした。自分の真後《まうしろ》に、野営の焚火の光があったのである。潮流は直角に曲っていて、それと共に高いスクーナー船と小さな踊っているような革舟とをぐるりと押し流して来たのだ。だんだん速くなり、だんだん烈しく泡立ち、だんだん高い音を立てながら、潮は瀬戸を通って外海へとぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら進んでゆく。
 突然、私の前にあるスクーナー船は激しく針路を逸して、多分二十度も曲った。するとほとんど同時に船中で叫び声が起り、続いて別の叫び声がした。船室昇降梯子をどかどかと歩く足音が聞えた。それで、あの二人の酔漢もとうとう喧嘩《けんか》を中止して自分たちが災難に遭っていることに気がついたのだということがわかった。
 私はそのみすぼらしい小舟の底にぺったりと寝そべって、自分の魂を神にひたすらに委ねていた。海峡の終るところで、私たちはきっと荒波の砕けている沙洲にぶっつかるに違いなく、そこで私のすべての心労も迅速に終ってしまうだろうと思った。そして私は死ぬことは多分堪えられたろうが、近づいて来る運命を傍観しているのは堪えられなかった。
 絶えず大浪にあちこちと押しやられ、時々は飛び散る飛沫《しぶき》に濡れ、今度水の中に突き込まれたら死ぬだろうと絶間なく思いながら、そうして私は何時間も横っていたに違いない。次第に疲れが増して来た。こういう恐怖の中でさえ、私の心は痺《しび》れたようになり、折々は無感覚になった。遂にはとうとう眠ってしまい、波に揺られる革舟の中で、私は横になって故郷と懐しい「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」とを夢にみた。

第二十四章 革舟《コラクル》の巡航

 目が覚めた時はもうすっかり夜が明け放れていて、私は宝島の南西端のところに漂うているのだった。太陽は昇っていたが、大きな山容の遠眼鏡《スパイグラース》山の背後にあって私にはまだ見えなかった。その山はこっち側では恐しい断崖をなしてほとんど海へ下っていた。
 ホールボーリン岬と後檣《ミズンマスト》山とが私のすぐ近くにあった。山は禿山で暗い色をしており、岬は四五十フィートの高さの断崖になっていて、その縁《へり》には落ちて来た岩石がたくさんごろごろしていた。私は海の方へ四分の一マイルも出ていないので、漕ぎ寄せて上陸しようというのが最初に考えたことだった。
 その考えは間もなく断念した。ごろごろしている岩石の間には砕け波が噴き上って轟いていた。高い反響が次から次へと起り、ひどい飛沫が飛び散っていた。それで、私は、近よったところで、荒磯に打ちつけられて死ぬか、でなければ、突き出た険岩を攀《よ》じ登ろうとして徒らに体力を使い尽すだけだとわかった。
 それだけではなかった。巨大なぬらぬらした怪物――いわば、非常な大きさの蝸牛《かたつむり》の柔かいようなもの――が、岩石の平たくなった上を一緒に這ったり、ざぶんと高い水音を立てて海の中へ落ち込んだりしているのが、見えたのである。そういうものが五六十匹も群っていて、それの吠える声は岩々にこだましていた。
 私はその後になって、それが海驢《あしか》というものであり、全然害をしないものであることを知った。
 しかし、磯が険難で寄波が高く荒立っている上に、この動物の恰好《かっこう》を見ては、私がその上陸所が厭になるのには十二分であった。そういう危難に向ふくらいなら、むしろ海上で餓死する方がよいと思った。
 とかくするうちに、もっとよい機会と思われるものが前に現れた。ホールボーリン岬の北に、陸がずっと続いていて、潮が低いので、長く延びた黄ろい砂地を露《あら》わしていた。その北には、もう一つ、別の岬――例の海図には|森の岬《ケープ・オヴ・ザ・ウッヅ》と記されているもの――があって、高い緑の松の樹で蔽われ、その樹が海の縁《へり》までも生えていた。
 私は、シルヴァーが宝島の西海岸全体に沿うて北の方へと流れている潮流があると言ったのを思い出した。そして、自分の位置から考えて、自分がすでにその潮流に乗っていると知ったので、ホールボーリン岬を後にして、それよりは都合がよさそうに見える森の岬に上陸を企てるために体力を使わずに貯えておくことにしよう、と考えたのである。
 海には大きな滑《なめら》かなうねりがあった。風は南からむらなくそよそよと吹いていたので、風と潮流とには喰違いがなく、大浪はぐうっと高まってはまた砕けずに下って行った。
 もしそうでなかったなら、私はとっくに命を失っていたに違いない。ところが、そういう訳だったから、私の小さな軽いボートが易々《やすやす》と安全に波に乗ってゆく有様は驚くべきものだった。私が舟の底にじっと横っていて、ただ片眼だけを舟縁の上へやっていると、幾度も、大きな青い波の頂上が私のすぐ上にぐうっと高く上るのが見えた。それでも革舟《コラクル》はただちょっと跳ね上って、弾機《ばね》仕掛のように踊り、鳥のように軽々《かるがる》と向側の波窪へ降りてゆくのであった。
 少したつと私はずいぶん大胆になり出して、自分の櫂を漕ぐ手並を試《ため》してみようと起き上った。しかし、重さの按排が少し変っただけでも、革舟の動作には甚しい変化が生ずるのだった。そして私が動くか動かないに、ボートは、今までの穏かな踊るような運動は直ちにやめて、眩暈《めまい》がするほどの嶮《けわ》しい水の斜面をまっすぐに走り下って、次の波の横腹へぱっと水煙《みづけむり》をあげながら舳《へさき》を深く突っ込んだ。
 私はびしょ濡れになって度胆を抜かれ、すぐさま元の位置に返った。すると革舟は再び落着いたようで、私を前のようにふわふわと大浪の間を運んでくれた。この舟には手出しをしてはならぬということは明かだった。で、自分にはこの舟の針路を左右することは毫も出来ないのだから、この分では、私には陸へ着けるどんな望みが残されているだろうか?
 私は非常に怖《こわ》くなって来たが、それでも心を乱さずにいた。先ず第一に、十分に用心して体を動かしながら、自分の航海帽で少しずつ革舟の淦《あか》(註六九)[#「(註六九)」は行右小書き]をかい出した。それから、もう一度眼を舟縁の上へやりながら、どうしてこの舟がこんなに静かに大狼を滑り抜けてゆくのかということを研究しにかかった。
 すると、どの波も、海岸や船の甲板から見えるような、大きな、滑かな、つやつやした山ではなくて、まさしく、陸上の山脈のように嶺や平坦な処や谷間がたくさんあるものだ、ということがわかった。革舟は、なすがままにさせておくと、くるくる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら、その低い処をいわば縫うようにしてゆき、波の嶮《けわ》しい斜面や高いすぐ崩れ落ちる頂上を避けてゆくのであった。
「ははん、なあるほど、」と私は思った。「僕がこうして寝ていて、釣合を失わずにいなければならないことは確かだ。しかしまた、櫂を舟縁に置いて、時々平らな処で陸の方へ一推し二推しやれることも確かだぞ。」こう思うが早いか実行した。私は両肱《りょうひじ》で体を支えて実に苦しい姿勢をしながら寝て、折々一二本弱いのに漕いでは舳《へさき》を岸の方へ向けた。
 これはすこぶるくたびれもするし、まだるっこくもある仕事ではあったが、それでも私は確かに進んでいるのが目に見えた。そして、森の岬に近づいて来た時には、その岬にはきっと着き損うに違いないことはわかったけれども、それでも数百ヤード東の方へ来ていた。実際、私は岸に迫っていた。涼しげな緑の梢が一緒に風に揺れ動いているのが見え、次の岬には間違いなく着けるにきまっていると思った。
 その時に、非常に困ったことには、私は咽喉《のど》の渇きに苦しめられかけて来た。太陽が頭上からかんかん照りつける、それを波が千倍にも反射する、海水が私にかかって乾き、唇までも塩で硬《こわ》ばる、こういうことが一緒になって咽喉は焼けつき頭がずきずき痛み出した。で、そんなに間近に樹立が見えると、私はそこが恋しくてたまらなかった。しかし潮流は間もなく岬を通り越して私を流して行った。そして次の海の視界が展開した時に、私は或るものを見て、それが私の考えの性質を変えたのであった。
 ちょうど私の正面に、半マイルと離れていないところに、私は帆を揚げて走っているヒスパニオーラ号を見たのだ。もちろん、私は捕虜にされるものと思った。けれども、水のないのにひどく苦しめられていたので、そう考えると嬉しいのか悲しいのかほとんどわからなかった。そして、それがどちらとも判断がつかないうちに、私はすっかり驚いて、ただ眼を丸くして訝るより他にしようがなかった。
 ヒスパニオーラ号は大檣帆《メーンスル》と二つの斜檣帆《ジブ》とを張っていて、その美しい真白な帆布は雪か銀のように太陽に輝いていた。私が最初にその船を見た時には、すべての帆が風を受けて膨らんでいて、北西へ針路を向けていた。それで私は船に乗っている人たちは島をぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って碇泊所へ戻って行こうとしているのだろうと思った。ところが、やがて船がだんだんと西の方へ転回しかけたので、彼等が私を認めて、追っかけて来ようと船首を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しているのだと考えた。しかし、とうとう、船は真正面に風上へ向き、すっかり逆帆を喰って、帆を風に震わせながら、しばらくはそこに立往生した。
「へまな奴らだな。」と私は言った。「あいつらはまだやっぱり梟のように酔っ払っているのに違いない。そして、スモレット船長ならどんなに彼等を叱りとばして追い使ったろうと思った。
 とかくするうちに、スクーナー船は次第に風下へ向い、再び別の針路を執って、一分くらいの間疾く帆走したかと思うと、もう一度ちょうど風上に向って停った。こういうことを再三再四繰返した。あちこちへ、上ったり下ったり、北へ、南へ、東へ、西へと、ヒスパニオーラ号は急に突き進み、その度毎に初めにやったように止って、帆布をものうげにぱたぱたさせるのだった。だれも舵を扱っていないのだということが私にはもう明かになって来た。そして、もしそうとすれば、あの連中はどこにいるのだろう? 彼等は正体もなく酔いつぶれているか、それとも船を見棄ててしまったのだろうから、多分、もし私が船に乗り込めるならば、船を船長に返せるかも知れない、と私は考えた。
 潮流は革舟とスクーナー船とを同じ速度で南の方へ(註七〇)[#「(註七〇)」は行右小書き]押し流していた。スクーナー船の方の帆走はずいぶん気儘で間歇的で、ずいぶん永い間動きが取れなくなってうろうろしていることがあったので、潮流とは遅くはならないにしても、確かに少しも速くはなかった。もし私が起き上って櫂を漕ぎさえしたなら、きっとその船に追いつけると思った。この計画はちょっと冒険のようなところがあって私の興味を湧き起し、船首の昇降梯子のそばに水樽があることを思うと私の勇気は二倍になった。
 起き上ると、ほとんどすぐにまたぱっと水煙のお見舞を受けた。が今度は自分の目的をやり通すことにした。そして出来るだけの力を揮い用心をして、舵を操られていないヒスパニオーラ号を追って漕ぎ出した。一度ひどく波をかぶったので、心臓を鳥のようにどきどきさせながら、漕ぐのを止めて淦《あか》をかい出さねばならなかった。けれども次第に慣れて来て、ただ時々|舳《へさき》をぶっつけたり顔に白波をぶっかけられたりするだけで、波の間を革舟を進めて行った。
 私は今や急速にスクーナー船に近づいていた。舵柄がばたんばたんと動く度にそれについている真鍮がぴかぴか光るのまでが見えた。それでも一人の姿も甲板には見えなかった。船は見棄てられたのだと想像しない訳にはゆかなかった。もしそうでなければ、あの連中は下で酔って寝ているのだ。それなら多分私は彼等を当木《あてぎ》で塞いでしまって、船を自分の思うままに出来るかも知れない。
 しばらくの間は船は私には何より困ることをしていた。――じっとしていることだ。船は正南へ向い、無論、始終針路がぐらぐらした。風下へ向く度毎に帆は幾分膨らみ、そうするとすぐにまた風の方へ向くのだ。これが私には何より困ることだと言う訳は、船は、帆布が大砲のようにばたばた鳴り、滑車《せみ》が甲板の上で転《ころ》がってがらがら音を立て、そういうどうにも出来ないような様子に見えながら、それでもなお、潮流の速さのためだけではなくて、当然にも大きいものである風圧を全部受けるために、やはり私から向うへ走り続けていたからである。
 しかし、ついに、いよいよ機会が来た。風がしばらくの間落ちてごく弱くなり、潮流が次第にヒスパニオーラ号を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、船は中央を舳《へさき》にしてゆっくりと回転し、ついには船尾を私に向けた。船室の窓はやはり開《あ》けっ放しになっており、テーブルの上に懸っているランプは昼になってもまだやはりともれていた。大檣帆は旌旗のようにだらりと垂れた。潮流がなかったなら船はちっとも動かなかったのだ。
 それまでしばらくの間は私は船と遠ざかってさえいた。が、こうなって来ると、努力を二倍にして、もう一度船に追いつこうとし始めた。
 もう船から百ヤードとないところまで来た時に、突然また風が吹いて来た。船は左舷に風を受け、身を屈めて燕のようにすっと波を掠めながら再び動き出した。
 私は最初は絶望しかけたが、すぐにそれは喜びに変った。船は※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って私に舷側《ふなばた》を向け、――なおも※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、私との距離を半分、それから三分の二、それから四分の三と縮めて来た。竜骨前端部の下で波が白く泡立っているのが見えた。革舟の中の私の低い位置からは、船は非常に高いものに見えた。
 それから、不意に、私はわかって来た。それまでは考える余裕が――身を動かして自分を救う余裕がほとんどなかったのだ。私が一つのうねり波の頂にいる時に、スクーナー船が次のうねり波を越えて下って来た。第一斜檣《ボースプリット》が私の頭上にあった。私は跳び立って、革舟を水の下へ強く蹴って飛び上った。片手で第二斜檣《ジブブーム》を掴み、片足は支索と転桁索との間にひっかけた。そしてそこにしがみついて喘いでいる時に、鈍い物音がして、スクーナー船が革舟にぶっつかってそれを打ち壊して、私が戻る処もなしにヒスパニオーラ号に残されたのだということがわかった。

第二十五章 海賊旗《ジョリー・ロジャー》を引下す

 私が第一斜檣《ボースプリット》の上にのっかるかのっからないに、第三斜檣帆《フライイング・ジブ》が大砲のような音を立てて煽られ、今までと反対の舷に風を受けることになった。そうして反対になったためにスクーナー船は竜骨《キール》のところまでも震えた。だが、他の帆はやはり風を受けて膨らんでいたので、次の瞬間にはその斜檣帆《ジブ》は再び煽り返されて、だらりとぶら下った。
 このために私はもう少しのことで海の中へはね飛ばされるところだった。それで、もう一刻もぐずぐずせずに、第一斜檣を這ってゆき、甲板の上へ頭を先にして転がり下りた。
 私は最上前甲板の風下の側にいたので、やはり風を受けて膨らんでいる大檣帆《メーンスル》のために、後甲板の或る部分は私には見えなかった。だれ一人も見当らなかった。あの謀叛以来一度も洗ったことのない甲板の板には、たくさんの足跡がついていた。そして、頸のところを叩き割られた空罎《あきびん》が一本、排水孔の中を生きているもののようにあちこちと転がっていた。
 突然ヒスパニオーラ号は真正面に風上に向った。私の背後の斜檣帆はばたばたと大きな音を立てた。舵はどんとぶっつかった。船全体が気持の悪いほど動き震え、同時に大檣帆の[#「大檣帆の」は底本では「大縦帆の」]下桁が船の内側に揺れ動き、帆が滑車のところで唸って、私に風下の後甲板が見えるようにした。
 二人の番人は、なるほど、そこにいた。赤帽の男は、木挺の[#「木挺の」はママ]ように硬ばって、仰向に倒れ、両腕を十字架のように伸ばして、開いた唇の間から歯を見せていた。イズレール・ハンズは、舷牆に倚りかかっていて、頤を胸につけ、両手は前へ投げて甲板に投げ出し、顔は、日に焦《や》けた表皮の下が、脂蝋燭のように蒼白かった。
 しばらくの間は船は悍馬のように跳びはねたり横へ動いたりし、帆は今左舷に風を受けて膨らんだかと思うと、次には右舷からの風で膨らみ、帆の下桁があちこちと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るので、そのために檣《マスト》がぎいぎいと高い音を立てた。それにまた、時々は、舷牆を越えてぱあっと水煙が飛んで来たり、船首をうねり波に猛烈にぶっつけたりした。今はもう海の底へ沈んでしまった、あの手製の一方に偏った革舟《コラクル》よりも、この艤装した大きな船の方がずっとひどく揺れるのだった。
 スクーナー船が跳び上る度に、赤帽の男はあちこちと滑り動いた。しかし、――見ていて物凄いことには、――彼の姿勢も、歯を露わしたにやにや笑いの表情も、そういう手荒い取扱いを受けても、少しも変らないのであった。また、船が跳び上る度に、ハンズの方はだんだんに一層|体《からだ》を沈めて甲板へずり下ってゆくようで、両脚は絶えず前へ滑り出し、体全体が船尾の方へ傾いてゆくので、その顔は、だんだんと私に見えないようになり、とうとう、片耳と、一方の頬髯の擦り切れた捲毛だけしか、見えなくなってしまった。
 同時に、私は、二人ともの周りに、甲板の板にどす黒い血のはねかった痕を認めたので、彼等が酔った怒りにまかせて互に殺し合ったのに違いないと思いかけて来た。
 私がこうして眺めて不審に思っている間に、静かな瞬間、船がじっとしている時に、イズレール・ハンズは少し向き直って、低い呻き声を出しながら、身を捩って私の最初に見た時の位置に戻った。その呻き声は苦痛と死ぬほどの衰弱とを語っていて、呻く時の顎をだらりと開けた様子は私の心に哀れを催させた。しかし、林檎樽で窃《ぬす》み聞きした話を思い出すと、憐みの情はすっかりなくなった。
 私は船尾の方へ歩いて行って、大檣《メーンマスト》のところまで行った。
「来たよ、ハンズさん。」と私は皮肉に言った。
 彼は大儀そうに眼玉を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。が、余りにひどく弱っていて驚きを言い現すことも出来なかった。出来たのは一|言《こと》「ブランディーを。」と言うことだけだった。
 これはもうぐずぐずしていてはならぬと私は思った。で、また甲板を横切って突然傾いた帆の下桁をくぐり抜けながら、船尾へ走って行って、船室昇降口の階段を下って船室《ケビン》へ入った。
 そこはほとんど想像も出来ないほどの乱雑な有様になっていた。錠を下した箇処はどこも皆、海図を捜すのに打ち壊して開けてあった。床《ゆか》には泥がべたべたついていた。悪党どもが野営《キャムプ》の周りの沼地を捗って来た後に、ここに坐って酒を飲んだり相談をしたりしたのだ。一面に真白に塗って、鉱金《めつき》で玉縁にしてある隔壁には、きたない手の痕がついていた。何ダースというたくさんの空罎《あきびん》が、船の揺れ動くのにつれて、隅で一緒にがちゃがちゃ音を立てていた。先生の医書が一冊テーブルの上に開いてあって、その紙が半分ほども引きちぎってあった。煙草の火をつけるのに使ったのだろうと思う。こういう有様の真中に、ランプはまだやはり薄暗い焦茶色のくすぼった光を投げていた。
 私は穴蔵へ入って行った。樽はみんななくなっていたし、罎《びん》の方は実に驚くほど多数が飲み干したり投げ棄てたりしてあった。確かに、謀叛が始まって以来、彼等は一人でもかつて素面《しらふ》でいられるはずがなかったのだ。
 私はそこここと捜し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、ブランディーが幾らか残っている罎を一本見つけたので、ハンズにやることにした。それから自分には、堅パンと、漬けた果物を幾つかと、乾葡萄の大きな房を一つと、チーズを一片見つけ出した。これだけのものを持って甲板へ出て行き、自分の分は舵手《コクスン》の手には決して届かない、舵の頭の蔭のところに置き、前部の水樽のところまで行って、水をぐうっと十分に飲んで、それから、ようやく、ハンズにブランディーをやった。
 彼はその罎を口から離すまでには一ジル(註七一)[#「(註七一)」は行右小書き]は飲んだに違いない。
「ああ、うまかったな、畜生。こいつがほしかったんだ!」と彼が言った。
 私はすでに自分の場所に腰を下して食べ始めていた。
「大分《だいぶ》怪我《けが》したかい?」と私が尋ねた。
 彼はぶうぶう言い出した。というよりも、むしろ、吠えたと言った方がいいかも知れない。
「もしあの医者が船にいたら、己《おれ》ぁすぐに癒ったろうがな。だが己にゃあ運がねえんだ、この通りにな。が、これぁ己だけのことさ。そこにいる間抜めはすっかりくたばってやがるぜ、其奴《そやつ》は。」と彼は言い足して、赤い帽子をかぶった男を指した。「奴はどのみち船乗じゃなかったんだ。ところでお前《めえ》はどっから来たんだい?」
「うむ、僕はこの船を占領しに来たんだよ、ハンズ君。だから、追って何とかお達しがあるまでは、君は僕を船長と思っていてくれ給え。」と私は言った。
 彼はずいぶん苦々《にがにが》しい顔をして私を見たが、何とも言わなかった。幾分か顔の色がよくなっては来たが、まだやはり体の工合がひどく悪いように見え、船ががたんがたん動く度に、やはり向うへのめり、ずり下っていた。
「それはそうと、ハンズ君、」と私は言い続けた。「僕はあんな旗を揚げておくことは出来ないよ。だから、失礼だけれど、あれを引下すぜ。あんなものよりはない方がましだ。」
 そして、私は、再び帆の下桁をくぐり抜けながら、旗索《はたづな》のところへ走って行き、彼等のいまいましい黒い旗を下して、それを海の中へ抛《ほう》り投げた。
「国王陛下万歳!」と私は帽子を打ち振りながら言った。「そしてシルヴァー船長はもうおはらい箱だ!」
 ハンズは、その間もずっと頤を胸につけながら、鋭くずるそうに私を見つめていた。
「己の考《かんげ》えじゃあ、」と彼はとうとう言い出した。――「己の考えじゃあな、ホーキンズ船長《せんちょ》、お前だって幾らか岸に着きてえんだろ、なあ。で、相談をするとしようじゃねえか。」
「ああ、よかろう、喜んで相談に乗るよ、ハンズ君。言ってみ給え。」と私は言った。そしてまたむしゃむしゃと食べ出した。
「この男はな、」と彼は、死骸を力なく頤で示しながら、言い始めた。――「オブライエンって名で、――げびたアイルランド人さ、――この男と己とが、船を戻すつもりで、船に帆を張ったのさ。ところがだ、奴はもう死んじゃった、奴はよ、――淦《あか》みてえに死んじゃった。で、だれが一|体《てえ》この船を走らせるかね。己の考えるとこじゃ、己がお前に教えてやらなきゃあ、お前はそんなことの出来る人間じゃねえ。そこでだ、いいかな、おい、お前は己に食物だの飲物だの、それから傷のとこを縛る古い肩巾《スカーフ》かハンケチだのを持って来てくれるんだ。いいかい。そうすりゃ、己はお前に船の動かし方を教えてやろう。それなら何もかも五分五分だろうと思うがな。」
「僕も一つ言いたいことがあるんだがね。」と私が言った。「僕はキッド船長の碇泊所へは戻らない。北浦へ入って行って、あすこで船をそうっと浜に乗り上げるつもりなんだ。」
「なるほど、そりゃそうだろ。」と彼は叫んだ。「なあに、己だってそんなにひでえ阿呆でもねえ、つまりはな。わかってるよ。わからねえものかい? 己は自分の賽を投げてみてだ、負けたんさ。そして勝ってるのはお前なんだ。北浦だと? まあ、仕方がねえや。ねえとも! お前の手伝いをしてこの船を仕置渡止場まででも※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してやろうよ、畜生! してやるとも。」
 さて、この言葉には幾分条埋の通ったところがあるように、私には思われた。それで、私たちは即座に相談を纏めた。三分もたつうちに、私はヒスパニオーラ号を追風で易々と宝島の岸に沿うて走らせていて、心の中には、正午前に北の岬を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、さらに高潮になる前に北浦まで間切って(註七二)[#「(註七二)」は行右小書き]行き、高潮になった時に船を安全に浜に乗り上げて、潮が退《ひ》いて上陸出来るようになるまで待とう、という楽しい希望を抱いていた。
 それから私は舵柄を括りつけて、下へ降り、自分の衣類箱のところへ行って、母に貰った柔かい絹のハンケチを取って来た。そのハンケチで、私も手伝って、ハンズは腿に受けた血の出ている大きな突傷《つききず》を繃帯し、そして、少しばかり食べ、ブランディーをまた一口二口飲むと、彼は目に見えて元気づき、前よりはまっすぐにも坐り、大きな声ではっきりも口を利き、すべての点で別人になったように見えた。
 風は素晴しく私たちに役立ってくれた。船は追風を受けて鳥のようにすっすっと走り、島の岸は閃くように過ぎ去り、眺望は一分毎に変って行った。間もなく高台を通り過ぎ、矮生の松が疎《まばら》にちらほらと生えている低い砂地のそばをどんどん進み、やがてそこもまた通り越して、島の北の端をなしている岩山の角を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってしまった。
 私は自分の新しい司令者たる地位に大いに得意だったし、日の照っている晴れわたった天候とこのように刻々に違ってゆく海岸の展望とで愉快だった。今はもう水もうまい食物もたっぷりあるし、柵壁を脱走したことでこれまでひどく私を責めていた良心も、自分がこの大きな獲物を手に入れたために静められた。だから、甲板のあちこちと私の後を追うて嘲弄するように見ている舵手の眼と、彼の顔に絶えず浮んでいる変な微笑さえなかったなら、私にはその上望むものは何一つなかったろうと思う。その微笑は、何か苦痛と衰弱とのようなものを含む微笑――窶《やつ》れた老人の微笑だった。が、その他に、私の働いているのを狡猾にじろじろじろじろと見守っている彼の表情には、ちょっぴり嘲弄のようなものが、どこか陰険なところが、あったのだ。

第二十六章 イズレール・ハンズ

 風は、望み通りに吹いてくれて、今度は西風に変った。それで私たちはそれだけ易々と島の北東の角(註七三)[#「(註七三)」は行右小書き]から北浦の入口まで帆走することが出来た。ただ、投錨することは出来ないし、潮がもっと十分に満ちて来るまでは船を浜に乗り上げる訳にはゆかなかったので、私たちは無聊に苦しんだ。舵手《コクスン》は停船の仕方を私に教えてくれた。私はずいぶん何度もやってみてようやくうまくいった。それから二人とも黙ったまま坐って、また食事をした。
「船長《せんちょ》、」と彼はやがて、前と同じあの不愉快な微笑を浮べながら、言い出した。「ここに己の船仲間のオブライエンがいるがねえ。お前こいつを船から抛《ほう》り出してくれちゃどうだい。己は大概《てえげえ》はものを気にする男じゃねえし、こいつをばらしたことなんぞ何とも思ってやしねえ。だが、こうしておいても別に飾りにもなるめえと思うが、え、どうだね?」
「僕はそんなに力がないし、それにそういう仕事は嫌いだ。その男がそこにころがっていたって、僕ぁ構わないよ。」と私が言った。
「この船は縁起の悪い船さ、――このヒスパニオーラ号はね、ジム。」と彼は眼をしばたたきながら話し続けた。「このヒスパニオーラ号じゃずいぶたくさん人が殺されたよ、――お前や己がブリストルで乗り込んでからこっち、可哀《かええ》そうに死んじゃった水夫はとてもたくさんなものだ。己ぁこんな不運な目にゃ遭ったことがねえ。ねえとも。それに、このオブライエンの奴もいるが、――こいつも死んでる。そうだろな? ところでと、己ぁ学問がねえが、お前は読み書きも勘定も出来る子だ。で、ぶちまけて言うが、お前は、死んだ人間ってものは死んでそれっきりのものと思うか、それとも、また生き返《けえ》って来るものと思うかね?」
「人間の体は殺すことが出来るがね、ハンズ君、魂は殺せないものだよ。君だってそんなことぐらいはちゃんと知ってるはずだ。」と私が答えた。「そこにいるオブライエンは今じゃ別の世界にいるんだ。そしてそこから多分僕たちを見ているだろうよ。」
「ああ!」と彼は言った。「やれやれ、そいつぁいけねえ、――そいじゃ人を殺すなんて暇潰しみてえなもんだなあ。だが、己のこれまでの経験じゃあ、魂なんてものは大《てえ》したもんじゃねえ。己は魂って奴を相手に一か八かやってみてやろうよ、ジム。ところで、お前はもう存分にしゃべったんだから、一つ頼みがあるんだ。お前、あの船室《ケビン》へ降りて行って、己にあれを――ええと、あのう――えい、畜生! 名が思い出せねえぞ」うん、そうそう、お前、葡萄酒を一罎《ひとびん》、持って来てくんねえか、ジム。このブランディーは己にゃ強過ぎて頭へ来るんでね。」
 ところで、舵手のこうして口籠ったのはちょっと不自然に思われた。それに、ブランディーよりも葡萄酒の方がよいと言うのに至っては、私は全然ほんとうにしなかった。話全体が口実なのだ。彼は私に甲板から去らせたいのだ。――それだけは明かだった。けれども、どういう目的でそうするのか、私にはどうしても想像がつかなかった。彼の眼は決して私の眼と会わなかった。
 その眼は、空を見上げたり、死んでいるオブライエンをちらりと見たり、あちこちと、上へ下へと、絶えずきょろきょろしていた。その間も始終、彼は微笑し、ひどく気が咎めて極《きま》りの悪いような様子で舌をべろべろ出しているので、彼が何かを企《たく》らんでいるのだということは小さな子供にでもわかったろう。しかし、私は、自分の有利な点がどこにあるかもわかっていたし、こんなひどく愚鈍な奴には自分の疑念を最後まで容易に隠しておくことが出来るとわかっていたので、すぐに返事をしてやった。
「葡萄酒かい?」と私は言った。「その方がずっといいとも。白がいいか、それとも赤がいいかれ?」
「そうさな、己にゃどっちだって同じだよ、兄弟《きょうでえ》。」と彼は答えた。「強くって、たっぷりありせえすりゃ、そんなこたぁ構うもんか。」
「よしよし。」と私は答えた。「ポート葡萄酒を持って来てあげよう、ハンズ君。だが、探さなくちゃならんだろうよ。」
 そう言って、私は出来るだけ大きな音を立てて船室昇降階段を駆け降りると、靴を脱いで、円材の出ている廊下をそっと走って行き、|前甲板下水夫部屋《フォークスル》の梯子を上って、船首の昇降口から頭をひょいと出した。私がそんなところにいようとは彼が思いもよらぬということは私にはわかっていた。しかしそれでも私は出来る限りの用心をした。すると、確かに、私の最悪の疑いがまったくほんとうであるということがわかったのであった。
 彼は両手と両膝とで自分のいた場所から体を上げていた。そして、動く度に脚がかなりぴりぴり痛むようではあったが、――呻き声を抑え隠すのが私に聞き取れたから、――それでも、かなりの速さで甲板を横切って身を曳きずって行った。半|分《ぶん》ほどのうちに彼は左舷の排水孔のところへ行って、一巻きの綱の中から、柄までも血塗れになっている長いナイフ、というよりもむしろ短剣を取り出した。下顎を突き出しながら、ちょっとの間それを見て、切先《きっさき》を手にあてて試《ため》してから、ジャケツの懐の中へ急いで隠すと、また元の場所へ戻って舷牆に凭《もた》れかかった。
 これだけわかれば十分だった。イズレールは動き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ることが出来る。彼は今では武器を持っている。で、もし私を遠ざけるために彼がさっきあれほど骨折ったのなら、私を殺すつもりなのだということは明かだった。その後に彼がどうするつもりなのかということは、――北浦からあの湿地の間にある野営《キャムプ》までまっすぐに島を横切って這って行こうとするつもりなのか、それとも、大砲を発射して、自分の方の仲間の者が先に助けに来てくれるのを頼みにするつもりなのかということは、無論私にはわからないことだったが。
 しかしながら、私は彼を一つの点で信頼することが出来ると確信した。というのは、その点で私たちの利害が一致していたからだ。それはこのスクーナー船の処置ということである。私たちは二人とも、船をどこかの避難所へ十分安全に乗り上げさせて、時機の来た時には、なるべく骨も折らず危険もなしに再び海へ出られるようにしておきたい、と望んでいるのだ。それで、それをやってしまうまでは自分の命は確かに助けておかれるだろうと私は考えた。
 このように心の中でいろいろと考えている間も、私は体を遊ばせてはいなかった。そっと船室へ戻って、また靴を穿き、手当り次第に葡萄酒の罎《びん》を一本掴むと、それを申訳の理由に持って、再び甲板に出て行った。
 ハンズは私が降りて行った時のようにしていて、すっかり体を丸めて、光にも堪えられないほど衰弱しているとでもいった風に眼瞼《まぶた》を伏せていた。しかし、私が来ると顔を上げ、よく慣れた手付で罎の頸を叩き折り、「運がいいように!」という彼の気に入りの乾杯の言葉を言いながら、ぐうっと飲んだ。それからしばらくはじっとしていたが、今度は噛煙草を一本ひっぱり出して、私に一片切ってくれと頼んだ。
「そいつを一|片《きれ》切ってくんねえ。己はナイフを持っていねえから。よし持ってたって、切るだけの力もねえ。ああ、ジム、ジム、己ぁやり損ったようだよ! 一片切ってくれ。それがどうやらこの世の噛み納《おさ》めらしいよ、兄弟。己ぁもう墓場へ行くんだ、きっとな。」
「よし、」と私が言った。「煙草を切ってあげよう。だが、もし僕が君で、自分がそんなに工合が悪いと思ったら、キリスト教徒らしくお祈りをするがねえ。」
「なぜだい?」と彼は言った。「え、なぜだか言ってくれよ。」
「なぜだって?」と私は叫んだ。「君はつい今しがた死人のことを僕に尋ねたじゃないか。君は自分の信用を破ったんだ。君は罪を犯したり偽《いつわ》りを言ったり人の血を流したりして暮して来たんだ。今だって君の殺した人間が君の足許にころがっている。それだのに君はなぜって訊《き》くんだね! 神様のお慈悲をお願いするためだよ、ハンズ君、そのためさ。」
 私は、彼が血塗れの短剣をポケットの中に隠していて、それで私を殺してしまおうと企らんでいることを思うと、思わず少し熱して話した。彼の方は、葡葡酒をぐっと飲むと、ひどく真面目《まじめ》くさって口を利き出した。
「三十年も己は方々の海をわたり※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、その間にゃいい目にも悪《わり》い目にも遭えば、もっといい目にももっと悪い目にも遭ったし、いい天気にも悪い天気にも遭ったし、食物がなくなったこともあれば、斬り合いをやったこともあるし、その他《ほか》いろんな目に遭ったよ。ところでね、実際のところ、己ぁいい事をしていい目に遭ったってこたぁまだ一度だってねえ。先に打ってかかる奴が己ぁ好きだ。死人《しびと》は咬みつかねえ。これが己の考《かんげ》えといったところさ、――アーメン、まあそれでいいや。時にねえ、おい、」と彼は、急に口調を変えて、言い足した。「こんな馬鹿っ話《ぱなし》はこれっくれえでたくさんだ。潮がもうずいぶんさして来たぜ。さあ、ホーキンズ船長、己の指図する通りにやるんだ。そうすりゃ船はすぐに走り出して片附いちまおうぜ。」
 すっかりで二マイル足らず船を走らせればよかったのだ。けれどもここの航行はなかなか面倒だった。この北の碇泊所の入口は狭くて浅い上に、東と西とに陸があるので、スクーナー船を入れるにはよほどうまく操縦しなければならなかった。が、私は上手な機敏な助手だったと思うし、ハンズは優れた水先案内人《パイロット》だったと信ずる。というのは、船は、見るも気持のよいくらい正確に手際よく、代る代る針路を変えて、岸を掠めながら、ひらりひらりと身を交すようにして入って行ったからである。
 岬を通り過ぎるや否や、陸地が私たちのぐるりに迫って来た。北浦の岸は南の碇泊所の岸と同様に樹木がこんもりと生い茂っていた。が湾内はもっと狭くて長く、広い河口のようで、実際またそうなのであった。私たちの真正面の、南の瑞に、もうぼろぼろに腐朽してしまって見る影もない船が一艘見えた。もとは三本|檣《マスト》の大きな船であったのだが、ずいぶん永い間|雨風《あめかぜ》に曝されていたので、ぽたぽた水を滴らしている海藻が大きな蜘蛛の巣のように周囲にぶら下っていたし、甲板には海岸に生える灌木が根をおろしていて、今ちょうど花が一杯咲き乱れていた。それは実に傷《いた》ましい光景であったが、しかしまたこの碇泊所が穏かなところであることを私たちに示していた。
「おい、あそこを見ろよ。」とハンズが言った。「船を乗り上げるにゃ持って来いの処《とこ》があらあ。細かな平たい砂地で、ちっとの風もねえし、ぐるりにゃあずっと樹があるし、あの古船《ふるぶね》の上にゃ庭みてえに花が咲いてるぜ。」
「で、乗り上げたら、また船を出すにはどうするんだろう?」と私は尋ねた。
「なあに、それぁこうさ。」と彼が答えた。「干潮《ひきしお》の時に綱を持ってあっちの向側の岸へ行くんだ。あのでっけえ松の樹のどれか一つにその綱をぐるりと巻く。それからそいつを持って帰《けえ》って」揚錨絞盤《いかりまき》に巻いて、潮を待ってるんだ。満潮《みちしお》になったら、みんなでその綱をひっぱれば、船はひとりで出るみてえにすうっと出るよ。さあさあ、坊や、用意するんだ。船着場が近いのに、船足が速過ぎるぞ。少し面舵《おもかじ》、――そうだ、――ようそろ(註七四)[#「(註七四)」は行右小書き]、――面舵、――少し取舵《とりかじ》、――ようそろ、――ようそろ!」
 そんな風に彼は命令を下すと、私は息もつかずにそれに従った。そのうちに、突然、彼は「さあ、おい、開け!」と叫んだ。そこで私は舵輪をぐっと風上に操った。するとヒスパニオーラ号は急速にぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、低い樹の茂った岸に船首を向けて走り続けた。
 こういう操縦に興奮していたために、それまでは私が絶えずずいぶん油断なく舵手を警戒していたのが、幾分お留守になっていた。その時でさえ、私は、船が水底に触れるのを今か今かと待ちながら、やはり非常に面白がっていたので、自分の頭上に懸っている危難をすっかり忘れてしまい、右舷の舷牆の上から首を伸ばしながら、船首の前に広く拡がっている漣を見つめていたのである。それで、急に何だか不安になって、頭を振り向けなかったなら、私はひとたまりもなく殺されてしまったことであろう。恐らく、靴か何かのきしむ音が聞えたのか、彼の影の動くのが眼尻で見えたのかも知れない。それとも、恐らく、猫のような本能のためであったかも知れない。が、とにかく、私が振り返った時には、果して、ハンズが、右手に例の短剣を握って、私の方へすでに半分も近よっていたのであった。
 私たちは眼と眼とがぶつかった時には二人とも大きな声を立てて叫んだに違いない。しかし、私の声は恐怖の金切声であったが、彼のは突っかかって来る牡牛のような憤怒の唸り声だった。それと同じ瞬間に彼は前へ躍りかかり、私は船首の方へ横さまに跳んだ。その時に、私は掴んでいた舵柄を放すと、それが風下の方へ烈しく跳ねた。このために私は命が助かったのだと思う。という訳は、その舵柄がハンズの胸にあたって、彼はしばらくの間ぴたりと止ったからである。
 彼が立直れないうちに、私は彼に追いつめられていた隅っこから無事に出て、甲板中をあちこち逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れるようになった。大檣《メーンマスト》のすぐ前で立ち止って、ポケットからピストルをひき出すと、彼がもう向を変えてまっすぐに私をまた追って来ていたけれども、冷静に狙いを定めて、引金を引いた。撃鉄はかちっと落ちたが、火花も出なければ音もしなかった。点火薬が海水のために役に立たなくなっていたのだ。私は自分の不注意がいまいましかった。なぜもっとずっと前に自分の唯一の武器に火薬を入れ換え弾丸を籠め換えておかなかったのか? それをしておいたなら、今のように、この屠殺者の前に逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってばかりいる羊のような目に遭わなかったろうに?
 彼は負傷してはいたが、素速く動くことは驚くべきほどで、彼の白髪《しらが》雑りの髪の毛は顔に振りかかり、その顔は焦心と憤怒とで英国商船旗のように真赤だった。私は自分のもう一挺の方のピストルを試してみる暇もなかったし、また、実際、役に立たないにきまっていると思ったので、試してみようという気持も大してなかった。ただ、一つのことだけは私にははっきりわかっていた。私はただ彼の前から逃げるだけではいけない。そんなことをしていれば、彼は、ちょっと前に私をもう少しで船尾へ追い込もうとしたように、じきにまた船首へ追い込んでしまうだろう。そうして掴まったが最後、あの九インチか十インチもある血塗れの短剣でぐざりとやられて、それがこの世の最後となるだろう。私は、かなりの大きさの大檣に掌をあてて、全神経を張りつめて待っていた。
 私が逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るつもりだということを見て取ると、彼も立ち止った。そしてしばらくの間は、彼の方は剣で打ってかかる真似をし、私の方はまたそれに対応する動作をしていた。それはまるで私が故郷の黒丘《ブラック・ヒル》入江の岩のあたりでよくやったような遊び事であった。だが前には、勿論、今のように胸をひどくどきどきさせてやったことは一度もなかった。それでも、やはり、それは子供の遊び事だった。そして、私はこんな腿に負傷をしている大分年とった水夫なんぞに負けるものかと思った。実際、私は大いに元気が出かかっていたので、この事件の結末がどうなるかということを二三ちらちらっと考えてみることが出来た。そして、自分がこれを永びかせることが出来るということは確かにわかったが、また、結局逃げおおせてしまう見込がないということもわかった。
 さて、こういう有様になっているうちに、突然ヒスパニオーラ号は乗り上げて、ぐらぐらとし、ちょっとの間砂地に擱坐したかと思うと、どっと左舷へ傾いて、甲板が四十五度の角度になり、一桶ほどの水が排水孔の中へはね込み、甲板と舷牆との間に水溜りのようになって溜った。
 私たちは二人ともその途端にひっくり返り、二人ともほとんど一緒になって排水孔の中へ転がり込んだ。死んでいる赤帽の男も、両腕をやはり拡げたまま、硬ばって私たちの後から転げて来た。私たちは実際ごく近くなっていて、私の頭が舵手の脚にごつんとぶっつかって私の歯が音を立てたくらいであった。そうして打ちあたったけれども、再び立ち上ったのは私の方が先であった。
 なぜなら、ハンズは死体と絡み合っていたからである。このように船が急に傾いたために甲板は走り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る場所ではなくなってしまった。私は何か新たな逃げる方法を見つけなければならなかった。それもすぐ見つけなければならなかった。敵は私に触れんばかりのところにいるからだ。とっさに私は後檣《ミズンマスト》の横静索(註七五)[#「(註七五)」は行右小書き]に跳びついて、索を手繰りながらずんずんと攀《よ》じ登り、檣頭横桁に腰を下すまでは息もつかなかった。
 私はそうして機敏にやったために助かったのだ。私が上へ逃げ上っている時に、短剣が私の下半フートとないところに突き刺さったのである。そして、イズレール・ハンズが口をぽかんと開け顔を私の方へ振り上げながら突っ立っている有様は、まったく驚きと失望との彫像のようだった。
 私はちょっと暇が出来たので、時を移さず自分のピストルの点火薬を換え、それから、一挺がいつでも使えるようになると、念に念を入れるために、もう一挺の方の弾薬を取り出して、それも初めから新たに装填し直しにかかった。
 私がこういう事を始めたのでハンズはびっくり仰天した。彼には形勢が彼の方に悪くなっていることがわかりかけた。そして、どうしようかと明かに躊躇した後、彼もまた横静索に大儀そうに掴まって、短剣を歯で啣《くわ》えながら、ゆっくりと苦しそうに登り始めた。負傷した足をひきずり上げるには、非常に時間もかかり、幾度も呻き声を出さねばならなかった。それで、彼が三分の一より上へさほど上らないうちに、私は悠々と自分の準備をすませてしまった。それから、どちらの手にもピストルを持って、彼に話しかけた。
「ハンズ君、」と私は言った。「もう一歩でも上ってみ給え。君の脳天を撃ち抜くよ! 死人《しびと》は咬みつかないはずだね。」と言い足して、私はくっくっと笑った。
 彼はすぐさま止った。その顔がぴりぴり動いているので、何かを考えようとしているのだということが、私にはわかった。ところがその考え方がいかにものろのろしていて骨折っているので、私は、今の安全な立場にいて、声を立てて笑った。とうとう、彼は三度唾を嚥みこんでから、口を利き出したが、顔にはやはり極度に困りきった同じ表情を浮べていた。口を利くために口から短剣を取らねばならなかったが、しかしその他には彼は少しも動かずにいた。
「ジム、」と彼は言った。「己たちぁどうも料簡《りょうけん》がいけねえようだ、お前も己もな。で、仲直りしなけりゃなるめえ。船があんなによろけせえしなけれぁ、己はお前をつかめえたんだがな。だが己にゃあ運がねえんだ、まったくよ。己は降参しなくちゃならねえようだ。船長をしたこともある人間が、お前みてえな小僧っ子に降参するなあ、辛《つれ》えこったよ。なあ、ジム。」私は彼の言葉を面白がって聞きとれ、微笑し続けて、飼場の雄鶏のように得意になっていた。と、はっと思う間に、彼の右手が肩の後へ行った。何かが空気を切って矢のようにぴゅうっと飛んで来た。私は打たれた感じがしたかと思うと次には烈しい痛みを感じ、肩のところを檣に突き刺された。その瞬間の怖しい痛みと驚きとで――それは自分の意思でしたのだとは私はほとんど言えないし、意識した狙いはなしにやったのだと確信するが――私のピストルが二挺とも発射して、二挺とも私の手から離れた。落ちたのはそのピストルだけではなかった。息の詰ったような叫び声と共に、舵手は横静索を掴んでいる手を放して、頭を先にして海の中へ落ち込んだのである。

第二十七章 「八銀貨」

 船が傾いているために、檣《マスト》はずっと遠く水の上へ突き出ていて、檣頭横桁の私の棲木《とまりぎ》の下には、湾の水面の他に何もなかった。ハンズはさほど上まで上っていなかったので、従って私よりは船の近くにいて、私と舷牆との間に落ちた。彼は一度だけ白波と血との石鹸《シャボン》泡のようになった水面へ浮び上ったが、それからまた沈んで、それっきり浮き上らなかった。水が静まると、船の舷側の影の、綺麗な、ぴかぴかする砂の上に、彼が体をちぢこめて横っているのが見えた。一二尾の魚が彼の体の前をすいすいと通って行った。時々、水が震えると、彼が起き上ろうとでもするように少し動いたように見えた。しかし、それでも、彼は撃たれた上に溺れたのだから、すっかり死んでいるのだ。私を殺そうとしたその場所で魚の餌食になることになったのだ。
 そのことがはっきりすると、私は急に気持が悪くなり、気が遠くなり、恐しくなり出して来た。熱い血が背中と胸とにたらたらと流れていた。短剣が私の肩を檣に突き刺している箇処は、熱した鉄のように焼けつくように思われた。だが、私を苦しめたのは、こういう実際の痛みはさほどでもなかった。それなら自分には声も立てずに我慢が出来るように思われたからだ。私を悩ませたのは、檣頭横桁からあの静かな緑色をした水の中の舵手《コクスン》の死体のそばへ落ちはしまいかという、心に抱いている恐怖であった。
 私は爪がずきずきするまで両手でしがみつき、危険を見まいとでもするように眼を閉じた。すると次第に心が落着いて来て、動悸もいつもの速さに静まり、再び我に返った。
 最初に思ったのは短剣を抜き取ろうということだった。が、余りに強く突き刺さっていたのか、それとも怖くて出来なかったのか、とにかく私は烈しく身震いをして止《や》めてしまった。ところが、まったく奇態なことには、そうして身震いしたためにその事が出来てしまった。ナイフは、事実、もう少しのことでまったく外れるところだったのだ。それは皮膚をほんのちょっとだけ刺していたので、身震いするとそこが裂き取れたのである。もっとも、血は前よりは盛んに流れ出たが、私は再び自分の自由になり、ただ上衣とシャツとを檣に打ちつけられているだけとなった。
 この上衣とシャツとは急に体をぐいと動かして切り取り、それから右舷の横静索を伝って再び甲板に戻った。私は心弱くなっていたので、イズレールがついさっきそこから落ちた、水の上へ差し懸っている左舷の横静索を、再び伝って降りる気にはどうしてもなれなかったのだ。
 私は船室へ下りて行って、自分の傷に出来るだけのことをした。その傷はずいぶん痛んだし、まだどんどん出血していた。しかし深い傷でもなければ危険な傷でもなく、また腕を動かしてもひどく苦痛だということもなかった。それから私はあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、船が今では或る意味で自分のものだったから、その船の最後の乗客をも船から掃い出してやろうと思い立った。――例の死人のオブライエンである。
 彼は、前に言ったように舷牆に突き当って、そこで、気味の悪い不恰好《ぶかっこう》な人形のようにころがっていた。なるほど人間の大きさはしているが、人間らしい色や人間らしい綺麗さとは何と違っていることだろう! その場所にいてくれたので、私は容易に彼を始末することが出来た。それに、私は悲惨な冒険に慣れたために死人に対する恐怖がほとんどすっかりなくなっていたので、糠《ぬか》の嚢か何かのように彼の腰を掴んで、ぐっと一度持ち上げると、船の外へ投げ落した。彼はどぶんと音を立てて水の中へ沈んで行った。赤い帽子は取れて、水面に浮んだ。そしてはねかった水が静まると、彼とイズレールとが並んで横っているのが見えて、二人とも水が揺れるにつれてゆらゆらしていた。オブライエンは、まだごく若い男なのに、頭がひどく禿げていた。その禿頭を、彼は自分を殺した人間の膝にのっけて横っていた。そして敏捷に動く魚がその二人の上をあちこちと泳いでいた。
 私は今では船にただ一人となった。潮はつい今変ったばかりであった。太陽はやがて沈もうとしていて、すでに西岸の松の樹の影がちょうど碇泊所のあたりに射《さ》しかけて、甲板の上に模様をなして落ちていた。夕風が吹き起っていて、それは東にある峯の二つある山のためによほど受け止められてはいたけれども、それでも索具は静かに少し歌うように鳴り出していたし、垂れていた、帆はあちこちとばたばたし出していた。
 私は船が危険になったのがわかりかけた。で、斜檣帆《ジブ》を急いで下して甲板へばたばた落した。が大檣帆《メーンスル》の方はそれよりは厄介だった。もちろん、スクーナー船が傾いた時に、帆の下桁が舷外へぐらりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、帆桁帽と一二フィートの帆布とが水の中へ入ってさえいた。このためになおさら危険だと私は思った。それでも、非常に強く張りつめているので手を出すのが恐しいような気もした。とうとう、私はナイフを取り出して揚索を切った。すると斜桁上外端《ピーク》が直ちにばったりと落ちて、弛んだ帆布の大きな腹部が水の上に拡がって浮いた。そして、どうひっぱってみても下索《さげなわ》は動かすことが出来なかったので」私に出来たのはそれだけだった。それ以上のことでは、ヒスパニオーラ号は、私自身と同様、運に頼るより他はなかった。
 この時分には碇泊所全体はすっかり影になってしまっていたが、――落陽の最後の光線が、森の隙間から射して来て、あの破船を覆うている花に、宝石のようにきらきらと輝いたのを、私は今も忘れられない。もう寒くなりかけて来た。潮は急速に外海の方へ流れて行っていて、スクーナー船はますます傾いて船梁が垂直になるほどになった。
 私は船首の方へ這って行って下を覗いた。よほど浅いようだったので、まさかの時の用心にあの切れている錨索に両手で掴まって、そうっと船の外へ体を下して行った。水は私の腰までもなかった。砂は固くて、漣の痕が一面についていた。それで、大檣帆を湾の水面に広く曳きずって、傾いているヒスパニオーラ号を後に残して、私は大元気で岸まで徒渉した。ほとんど同時に太陽はまったく沈み、風は揺れ動いている松林の間で薄暮の中を低くひゅうひゅうと鳴っていた。
 ともかく、とうとう、私は海から上ったし、また空手《からて》で戻って来たのでもなかった。あそこに、ヒスパニオーラ号が、とうとう海賊どもの手からすっかり離れて、いつでも味方の人々を乗せて再び海に出られるようになっているのだ。私は何よりも柵壁へ帰りついて自分の手柄話をしたくてたまらなかった。あるいは私は自分のやった隠れ遊びについてちょっとぐらい叱られるかも知れない。がヒスパニオーラ号を取戻したことはそういう文句をすっかり決着させてしまうだけの答になるのだ。そして私はスモレット船長でも私がただ暇潰しをしていたのではないと言ってくれるだろうと思った。
 そんなことを思いながら、素敵な元気で、丸太小屋の味方の人たちの方へ戻りかけた。ふと、キッド船長の碇泊所へ注いでいる川の中の一番東にあるのが自分の左手にある二つ峯の山から流れ出ていることを思い出したので、川幅が狭い間に流れを渡っておこうと思って、その方向へ進路を曲げた。森はかなり開けていて、低い方の山嘴に沿うて行くと、やがてその山の角を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってしまい、それから間もなくその川を脛の半ばまで水に入って渉った。
 渉ってしまうと、私があの置去り人《びと》のベン・ガンに出会った処の近くへ来た。それで眼を四方へ配りながら、一層用心して歩いた。もうほとんど薄暗くなっていて、私が二つの峯の間の割目が開けている処まで来ると、一条のゆらゆらした火の光が空に映えているのに気がついた。そこにはあの島の男が盛んに火を燃して夕食の料理をしているのだろう、と私は考えた。しかし、どうして彼がそんなに不注意に自分の居所を示しているのかと、心の中で不審に思った。というのは、あの光が私に見えるくらいだから、海岸の沼地に野営しているシルヴァーの眼に入らない訳がなかったからである。
 だんだんと夜はますます暗くなって来た。私はただ自分の目指す方向へめちゃくちゃに進んで行くだけだった。私の背後の二つ峯の山も、右手の遠眼鏡山も、だんだんと微かにぼんやりして来た。星も稀で光が薄かった。私は、自分のさまよい歩いている低地で、絶えず藪の中で躓《つまず》いたり砂の凹穴の中へ転がり込んだりした。
 急に何だかあたりが明るくなった。見上げると、淡い微かな月光が遠眼鏡山の頂上に射していた。それから間もなく、何か幅の広い銀色のものが樹々の後《うしろ》に下へ低く動いてゆくのが見え、月が昇ったことがわかった。
 これを助けにして、残りの道程《みちのり》を急いで進み、時には歩いたり、時には走ったりして、気をあせりながら柵壁へ近づいて行った。それでも、柵壁の前にある森の中へ入りかかった時には、さすがに歩みを弛めて少しは気をつけて進むだけの用心はした。誤って自分の味方の人に撃ち倒されては、私の冒険も情ない結末となってしまうからだ。
 月はだんだんと高く昇った。その光は森の幾分開けた箇処を通してここかしこに広く注ぎ始めた。ところが、私の真正面に、それとは違った色の光が樹立の間に見えて来た。それは赤い熱そうな光で、時々少し暗くなり、――ちょうど、くすぶっている篝火の余燼のようであった。
 どうしても私にはそれが何なのかわからなかった。
 とうとう私は開拓地の縁のところまで下って来た。そこの西端はすでに月光を浴びていた。その他の処は、丸太小屋も、まだ黒い影の中にあって、長い銀色の光線で市松模様になっていた。小屋の両側には、大きな焚火が燃え尽きて明るい余燼となっていて、赤い強い反射光を放ち、柔かな淡い月光とひどく対照していた。人影《ひとかげ》一つも動かず、風の音の他には物音一つしなかった。
 私は、心の中で非常に不審に思いながら、また恐らく少しは怖くも思いながら、立ち止った。大きな火を焚くということは味方の習慣ではなかった。実際、私たちは、船長の命令で、薪には幾分けちなくらいであったのだ。それで、自分のいない間に何か悪いことになったのではないかと気がかりになり出した。
 私は絶えず影にいるようにして東側をこっそりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってゆき、闇の一番濃い、都合のよい処で、防柵を越えた。
 念に念を入れて、私は四つん這いになり、何の音も立てずに小屋の隅の方へそろそろと進んだ。もっと近づくと、私の心は急に大いに気楽になった。鼾《いびき》の声というものは本来は気持のよいものではないし、他の場合には私はそれに苦情を言ったことも段々あったが、この時だけは、味方の人たちが眠りながら一緒に大きく安らかに鼾をかいているのを聞くと、音楽を聞くような気がした。海上で当直夜番の叫ぶ声、あの美しい「変りなあし。」という声でも、これ以上に心強く私の耳に響いたことはなかった。
 その間にも、一つのことだけは疑いがなかった。あの人たちの夜番の仕方が非常に悪いということである。もし今こうして忍び寄って来ているのがシルヴァーと彼の一味の者であったなら、一人だって夜明《よあけ》の光を見られまい。それというのも船長が負傷しているからのことだ、と私は思った。そして、こうして当番に就《つ》く者も少いほどの危険な状態に皆を残して出て来たことに対して、私はまた烈しく自分を責めた。
 この時分には私は戸口のところまで行って立ち上っていた。内はただ真暗なので、眼では何一つ見分けることが出来なかった。音の方は、一様な単調な鼾の声と、時々、私にはどうしてもわからぬ、ばたばたしたり、こつこつしたりする、小さな音とが聞えた。
 両腕を前へ差し出しながら私は落着いて入って行った。私は自分の場所に寝ていて、朝になって皆が私を見て驚く顔を見てやろう。(そう思って、私は声を立てずに含み笑いをした。)
 私の足が何か蹴ると動くものにぶつかった。――それは眠っている人の脚だった。その男は寝返りをうって唸ったが、目は覚さなかった。
 と、その時、突然、闇の中から鋭い声が起った。
「八銀貨! 八銀貨! 八銀貨! 八銀貨! 八銀貨!」と小さな碾臼《ひきうす》の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る音のように切間もなく変化もなしに続けた。
 シルヴァーの緑色の鸚鵡《おうむ》のフリント船長だ! こつこつと木の皮をつついているのが聞えたのは、その鳥だったのだ。どの人間よりもよく夜番をして、こうしてそのうるさい繰返し文句で私の来たことを知らせたのは、その鳥だったのだ。
 私は気を取直すだけの暇もなかった。鸚鵡の鋭い速い声で、眠っていた人々は日を覚して跳び起きた。そして、力強い罵り言葉と共に、シルヴァーの声が叫んだ。――
「だれだ?」
 私は振り向いて逃げようとしたが、一人の人に猛烈にぶっつかって跳ね返り、また走り出すと今度は別の男の腕の中へ跳び込んでしまった。その男は私を掴んでしっかりと抱きすくめた。
「松明《たいまつ》を持って来い、ディック。」私がそうして確実に捕えられた時にシルヴァーが言った。
 すると、一人の男が丸太小屋から出て行って、やがて火のついている焼木《やけぎ》を持って戻って来た。
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第六篇 シルヴァー船長

第二十八章 敵の宿営で

 松明《たいまつ》の赤い光が丸太小屋の内部をぱっと照すと、私の懸念していた中でも一番悪いことが起っているのがわかった。海賊どもが小屋も食糧も占領していた。前のように、コニャックの樽もあれば、豚肉やパンもあった。そして、私の恐怖を十倍にも増したことには、捕虜の影もなかった。私は味方の人たちが皆殺されてしまったのだと判断するより他《ほか》はなかった。そして、自分もそこにいて皆と一緒に死ななかったことを思うと、非常に心苦しかった。
 そこにはみんなで海賊が六人いた。他の奴らは生き残ってはいなかったのだ。六人の中の五人までは立っていて、酔って寝入ったばかりのところを不意に起されたので、赤い腫《は》れぼったい顔をしていた。六人目の者は肱《ひじ》をついて体《からだ》を起しているだけだった。彼は死人のように蒼い顔をしていて、頭に巻いている血のにじんだ繃帯は、彼が近頃負傷したのであって、しかもつい先頃手当をしたのだということを語っていた。私は、あの大攻撃の時に撃たれて森の中へ逃げ戻った男がいたことを思い出し、こいつがその男だということを疑わなかった。
 鸚鵡《おうむ》はのっぽのジョンの肩にとまって、羽毛を嘴で整えていた。ジョン自身も、私のいつも見慣れているよりは幾らか蒼ざめていたし、もっといかつい顔をしていると、私は思った。彼はまだ、例の談判にやって来た時の上等な広幅羅紗の一着を着ていたが、それは、泥土でよごれたり、森の鋭い茨で裂けたりして、ひどく傷《いた》んでいた。
「ふん、そうか、」と彼は言った。「こいつあジム・ホーキンズだな、畜生! ちょいとお立寄り、ってとこかね、え? よしよし、まあ、友達らしく扱ってやろう。」
 そう言うと彼はブランディーの樽に腰を下して、パイプに煙草を填《つ》め始めた。
「その松明《たいまつ》を貸してくれ、ディック。」と彼は言い、それから、煙草に火を十分つけてしまうと、「ああ、それでいいよ。」と言い足した。「その火を薪の山の中へ突っ込んでくれろ。そいから、お前《めえ》たち、紳士|方《がた》、坐ったらどうだい! ――ホーキンズ君のために立ってなくたっていいんだぜ。ホーキンズ君はお前たちをゆるして下さるだろうよ[#「下さるだろうよ」に傍点]。そいつぁ間違《まちげ》えっこなしさ。ところで、ジム、」――と煙草を止めて、――「お前《めえ》がここへやって来たなあこのジョン爺《じい》もまったくもって嬉しいが驚いたよ。お前がはしっこい奴だってこたぁ己《おれ》が初めてお前を見た時からわかってるさ。だが、これぁどうも己にゃまるで合点がいかねえぞ、まったくな。」
 以上の言葉に対しては、十分想像されるであろうように、私は何の返事もしなかった。彼等は私に壁を背にして立たせてるた。私は、臆せずにシルヴァーの顔を見ながら、そこに立っていた。表面はずいぶん大胆そうにしていたつもりであるが、心の中には暗澹たる絶望を抱いていた。シルヴァーは大いに落着いてパイプを一二服吹かし、それからまたしゃべり続けた。
「ところで、なあ、ジム、お前がここへ来た[#「来た」に傍点]からにゃあ、ちっとばかし言って聞かせることがあるんだ。己ぁいつもお前が好きだった、お前がな。元気な小僧だし、己の若くっていい男だった時に生写《いきうつ》しだからよ。いつも己はお前が仲間に入《へえ》ってくれて、紳士で死んで貰《もれ》えてえもんだと思ってた。ところが、なあ大将《てえしょう》今度はお前はどうもそうしなくっちゃならねえ。なるほどスモレット船長《せんちょ》は立派な海員《けえいん》だ。それぁ己もいつだって白状するさ。だが紀律が厳《きび》し過ぎらあ。『義務は義務だ。』って奴《やっこ》さんはよく言う。またそれにゃあ違《ちげ》えねえ。お前もうあの船長に近よらねえようにしろよ。あの医者だってお前にゃひどく怒ってるぜ、――『恩知らずの腕白者』って言ってたんだ。で、手つ取り早《ばえ》えとこを言っちまえば、まずこうだ。お前は自分の組の方へは帰《けえ》れねえ。あいつらはお前に帰って貰えたかあねえんだからね。そこで、お前が一人っきりでまた一つの組を起すとなると、こいつあどうも淋しかろうて。で、そうするんでなけりゃ、お前はシルヴァー船長の組に入らなきゃなるめえな。」
 ここまではよかった。とすると、味方の人たちはまだ生きているのだ。私は、船室《ケビン》の人たちが私の脱走を怒っているというシルヴァーの言葉の真実であることを幾分か信じたけれども、自分の聞いたことのために、悲しむよりは、むしろほっとした。
「お前が己たちに掴まってるってことは己は何も言わねえ。」とシルヴァーが言い続けた。「ほんとはそうなんだがね、間違えなしにな。己ぁ万事相談づくでやる人間だ。嚇《おど》していいことになったってこたぁ己ぁ一度も知らねえ。もしお前が働いてくれる気ならだ、なあ、こっちへつくがいい。もし厭ならばだ、ジム、そうさ、自由に厭だって返事するんだ。――自由で結構さ、兄弟《きゃうでえ》。で、どんな海員だってこれより公平なことが言える者がいるなら、お目にかかりてえや!」
「それじゃあ、僕は返事をしなきゃいけないのかい?」と私はひどく震えた声で尋ねた。彼のこの鼻であしらうような話の全体にわたって、私は自分に迫りかかっている死の威嚇を感じさせられ、頬はほてり心臓は胸の中で苦しいほど動悸うった。
「なあ、おい、」とシルヴァーは言った。「だれもお前に無理強いはしねえ。篤《とく》と考《かんげ》えろよ。己たちぁ一人だってお前をせき立てはしねえつもりだ、兄弟。お前と一緒にいると愉快で時のたつのがわからねえくれえだからなあ。」
「ではね、」と私は少し大胆になって言った。「もし僕がどちらかにきめなきゃならないんなら、僕は、ほんとうのことや、あんた方《がた》がどうしてここにいるのか、僕の方の人たちがどこにいるのかってことを、知らして貰う権利がある訳だねえ。」
「ほんとのとこだと!」と海賊の一人が太い唸り声で私の言葉を繰返して言った。「ふん、そいつがわかった奴は仕合せ者だろうて!」
「おい、お前に話しかけられるまではお前は黙って控えてるがいいんだ。」とシルヴァーはその男に向って荒々しく呶鳴《どな》った。それから、元の優しい口調で、私に答えた。「昨日《きのう》の朝のことだ、ホーキンズ君、折半直(註七六)[#「(註七六)」は行右小書き]に、リヴジーさんが休戦旗を持ってやって来たんさ。『シルヴァー船長、お前は裏切られたんだ。船は行っちまったぞ。』ってお医者は言うのだ。そうさな、多分己たちは酒を飲んで、盃を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す景気づけに唄でも歌っていたんだろう。そうじゃねえとは言わねえ。ともかくだれ一人気をつけていた者はなかったんだ。で、外を見ると、驚いたな! あの古船《ふるぶね》はいねえんさ。あの時のみんなみてえなぽかんと間抜面《まぬけづら》をした阿呆どもは見たことがねえな。いや、この己が中でも一番ぽかんとしてたって言っても、間違えなしさ。『ところで、相談をしようじゃないか。』ってお医者は言うんだ。己たちは相談をした。あの人と己とな。それで、己たちはここにいることになったって訳さ。食物も、ブランディーも、丸太小屋も、お前たちが気を利かして切っといてくれた薪も、まあ言わばこの結構な舟を檣頭横桁《クロスツリーズ》から内竜骨《ケルソン》までそっくり、貰ったんだ。あの人たちの方は、てくてく出て行った。どこにいるのか己にゃわからねえ。」
 彼は再び静かにパイプを吸った。
「それからな、」と彼は話し続けた。「お前がその頭に、お前もその条約の中へ入ってるんだと思いこむといけねえから、一番おしめえに聞いた言葉を聞かしてやろう。『あんた方《がた》は何人で立退《たちの》くんですかい?』と己が言ったんだ。すると、『四人だ。』ってあの人は言うのさ。――『四人で、その中《うち》一人は負傷してる。あの子供は、どこにいるのか俺《わし》は知らん、畜生。またどこにいようと大して構わん。俺らはあいつにゃほとほと閉口した。』こうあの人は言ってたぜ。」
「それだけかい?」と私が尋ねた。
「そうさ、お前に聞かさんけりゃならんことはこれだけだよ、坊や。」とシルヴァーが答えた。
「と今度は僕がどちらかきめなきゃならないんだね?」
「で今度はお前がどっちかきめなきゃならねえんだ。違えねえ。」とシルヴァーが言った。
「じゃ言おう。」と私は言った。「僕は、自分がこれから先どんなことを覚悟しなけりゃならないかよくわからないような馬鹿じゃない。どんな悪いことになろうと、僕は気にかけやしないんだ。君たちと一緒になってから此方《このかた》、ずいぶんたくさん人の死ぬのを見て来たからね。だが一つ二つ君たちに言うことがある。」とここまで言って来た時分には私はすっかり興奮していた。「まず第一にはこういうことだ。君たちは今悪い有様になっている。船はなくなる、宝は手に入らない、人数は減る。君たちの仕事はすっかり駄目になっちまった。そこで、だれがそうしたのか知りたければ言うが、――それは僕だったんだよ! 僕は、島が見えたあの晩に林檎樽の中にいて、ジョン、君と、それから、ディック・ジョンソン、君と、それから、今はもう海の底にいるハンズとが話しているのを聞いて、一時間とたたないうちに君たちの言ったことを一語も残さずみんな知らせたんだ。それから、スクーナー船はと言うと、あれの錨索を切ったのも僕なら、君たちがあの船に乗せておいた人たちを殺したのも僕、あの船を君たちの中の一人だって二度ともう見られない処へ隠したのも僕だよ。勝って笑えるのは僕の方なんだ。僕はこの事件では初手《しょて》から上手《うわて》に出ているんだ。僕はもう君たちが蝿ほども怖《こわ》かあない。さあ、僕を殺すとも生かすとも、好きなようにしてくれ給え。だが一つのことだけ言っておこう。もうこれっきりだ。もし君たちが僕の命を助けてくれるなら、すんだことはすんだことにして、君らが海賊をしたために裁判にかけられる時にゃ、僕は出来るだけのことをして君たちを救ってあげよう。どちらかきめるのは君たちの方だ。他人《ひと》を殺して君たち自身に何にもならぬことをするか、それとも、僕を生かしておいて、君たちが絞首《しめくび》になるのを助かる証人を残しておくかだ。」
 私はここで言葉を止めた。というのは、実際、私は息が切れたし、それに、驚いたことには、そこにいる者が一人も身動きもしないで、みんなが羊のようにただ私を見つめて坐っていたからである。そして彼等がまだじっと見つめている間に、私は再び口を切った。――
「それからね、シルヴァーさん、あんたはここにいる中で一番偉い人だと思うが、もし僕が殺されるようなことになったなら、あんたはどうか先生に僕の死に方を知らせてあげて下さい。」
「心に留めておこう。」とシルヴァーは言ったが、非常に奇妙な口調だったので、彼が私の頼みを嘲笑《あざわら》っているのか、それとも私の勇気に感心していたのか、私にはどうしてもいずれとも判断しかねた。
「まだ一つ言い添えることがある。」と例のマホガニー色の顔をした年寄の船乗――モーガンという名の――私がブリストルの埠頭にあったのっぽのジョンの居酒屋で見たことのあるあの男――が叫んだ。「黒犬《ブラック・ドッグ》を知ってたのもこいつだったぞ。」
「そうさ、それからな、」と船の料理番《コック》は言い足した。「もう一つ言い添えることもあるぜ、畜生! ビリー・ボーンズから海図をかっぱらったのもやっぱりこの子供だったよ。たびたび己たちはこのジム・ホーキンズのためにしくじったんだ!」
「じゃあこうしてくれるぞ!」とモーガンは罵り言葉と共に言った。
 そして彼は、二十歳の若者のような勢でナイフを抜いて、跳び立った。
「止《や》めろ!」とシルヴァーが叫んだ。「お前は何だ、トム・モーガン? 多分お前は船長のつもりだったんだろう、大方な。馬鹿めが。だが己がよく教えてやろう! 己に逆《さから》えば、お前はこの三十年|前《めえ》からたくさんの奴がお前の前に遭ったような目に遭うんだぞ。――帆桁の端にぶら下げられた奴もいやがるんだ、畜生! それから船の外へ抛《ほう》り出された奴もいる。みんな魚の餌食になったものさ。己に面と向って反対《はんてえ》した奴で、その後でいい目に遭った奴は、一人だっていねえんだぜ、トム・モーガン。そいつぁ間違えっこなしだぞ。」
 モーガンはじっとしてしまった。しかし他の連中からぶつぶつ嗄《しゃが》れ声の不平が起った。
「トムの方に道理があるよ。」と一人が言った。
「己はずいぶん永《なげ》え間一人にいじめられるのを我慢して来たんだ。この上またお前《めえ》にいじめられてたまるもんか、ジョン・シルヴァー。」と別の者が言い足した。
「手前《てめえ》ら紳士たちの中でだれかこの己[#「この己」に傍点]と議論か喧嘩《けんか》できまりをつけてえって奴がいるのか?」とシルヴァーは、まだ火のついているパイプを右手に持ったまま、樽の上の坐り場所からぐっと前へ身を屈めながら、奴鳴った。「どうしようってのか言ってみろ。手前らあ唖《おし》じゃあるめえ。してえ奴にゃさせてやる。己も永え年月《としつき》過して来て、今になって大馬鹿野郎めに己の面先《つらさき》で生意気な真似をさせておくと思うか? 手前たちだってやり方は心得てるんだ。みんな自分じゃ分限紳士のつもりなんだからな。さあ、いつだって向って来い。やれる奴は彎刀《カトラス》を手に取れ。そうすりゃ、己は、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖《かせづえ》をついちゃいるが、このパイプが空《から》にならねえうちに、其奴《そやつ》の臓腑がどんな色をしているか見てやろう。」
 だれも動かなかった。だれも答えなかった。
「それがお前たちのやり方だ、そうだろ?」と彼はパイプを口へ戻しながら言い足した。「そうさ、お前たちゃどのみち見掛ばかりの奴らだ。相手にするほどの値打もねえ、手前らはな。多分手前たちだって自分の国の言葉はわかるだろう。己は選ばれてここで船長になってるんだぞ。己はずんと一番|偉《えれ》え人間だからこそここで船長になってるんだぞ。手前らにゃ分限紳士らしく勝負する気はねえんだ。それなら、畜生、己の言うことをきいてりゃいいんさ、まったくよ! ところで、己はこの子供が好きなんだ。こんないい子供は見たことがねえ。この子はこの小屋ん中にいる手前ら鼠野郎を二人一緒にしたよりも以上の人間だ。で、己の言うのはこうだ。この子に手をかける奴は己が相手になってやる、――これが己の言うことだ。違えねえぞ。」
 この後は永い合間があった。私は壁を背にしてまっすぐに立っていて、心臓はまだ大鎚のように烈しく動悸うっていたが、しかし今では一条の希望の光が胸の中に射《さ》し込んで来た。シルヴァーは壁に凭《もた》れかかって、腕を組み、パイプを口の隅に啣《くわ》えて、まるで教会にでもいるように落着いていた。それでも、眼は絶えずこっそりときょろきょろし、不従服な部下を眼尻で見ていた。彼等の方はと言うと、だんだんに丸太小屋の遠くの方の端へ寄り合ってゆき、彼等のひそひそと囁く低い声が流れのように私の耳に絶間なしに聞えて来た。一人一人彼等はこっちを見上げ、そして松明《たいまつ》の赤い光がちょっとの間彼等の興奮した顔を照すのだった。しかし彼等が眼を向けるのは私の方へではなく、シルヴァーの方へだった。
「手前らはたんと言うことがあると見えるな。」とシルヴァーは言って、空中へぺっと唾を吐き跳ばした。「大声で言って己に聞かせるか、でなきゃ止《や》めちまえ。」
「失礼だがね、」と彼等の中の一人が答えた。「お前《めえ》さんは規則によっちゃずいぶんずぼらだが、多分|他《ほか》の規則は守ってくれるんだろうな。ここにいる船員は不服があるんだ。ここにいる船員はこけおどかしはちっとも有難かねえんだ。ここにいる船員は他の船員と同じに自分たちの権利があるんだ、遠慮のねえとこを言えばね。で、お前さんの拵《こせ》えた規則で、己たちは一緒に話し合ってもいいだろうと己は思うんだ。今んとこはお前さんを船長と認めるから、お前さんの許しを願う訳さ。だが己は自分の権利を要求して、会議を開きに外へ出ますぜ。」
 こう言って、いやに丁寧な水夫式の敬礼をして、のっぽの、面相の悪い、黄ろい眼をした、三十五くらいのその男は、戸口の方へすまして歩いて行って、小屋の外へ出てしまった。すると残りの連中も順々にそれに倣《なら》った。一人一人が出てゆく時に敬礼をし、一人一人が何とか言訳を添えた。「規則に従ってね。」と一人は言った。「水夫部屋会議で。」とモーガンは言った。そんな風に何とか言って皆が出て行き、後にはシルヴァーと私とだけが松明と共に残された。
 船の料理番は直ちにパイプを口から取った。
「さて、ねえおい、ジム・ホーキンズ。」と彼はしっかりした囁き声で言った。その声はやっと聞き取れるくらいのものだった。「君はもう少しで殺されるかも知れんところだ。いや、もっとずっと悪いことにゃ、拷問されるかも知れんところだ。奴らは己を排斥《へえせき》しようとしてるからな。だが、いいかね、己はどんなことがあっても君に味方してやる。己にゃそういうつもりはなかったんだ。そうだ、君があんなにぱすぱすとしゃべるまではなかったんさ。己は、あんな大金《てえきん》を手に入れ損《そこ》ねるし、おまけに首を絞《し》められるとなったんで、やけっぱちになりかかっていた。だが己にゃ君が頼りになる男だってことがわかったんだ。己は自分にこう言ったのさ。ジョン、お前はホーキンズに味方しろ。そうすりゃホーキンズはお前に味方してくれるだろう。お前はあの子の最後のカルタ札だし、それから、ジョン、あの子はお前の最後のカルタ札だってこたぁ違えねえんだぞ! 持ちつ持たれつだ。お前が自分の証人を救えば、あの子はお前の首を救ってくれるだろうよ! とね。」
 私はぼんやりとわかりかけて来た。
「君は何もかも駄目になったと言うんだね?」と私は尋ねた。
「うん、まったく、そうなんだ!」と彼は答えた。「船はなくなる、首もなくなる、――そういった有様さ。一度は己もあの湾を捜してみたんだよ、ジム・ホーキンズ。だがスクーナー船なんてまるで見えやしねえ。――で、己も強情者だが、へこたれてしまったよ。あの会議を開いてる奴らはね、まったくの馬鹿野郎の臆病者さ。己は君の命をあいつらから救ってあげるよ、――出来る限りはだ。だがね、いいかい、ジム、――その代りにだ、――君はのっぽのジョンがぶらんこになるのを救ってくれるんだぜ。」
 私は当惑した。彼の求めていることはそれほど望みのないことと思われたのだ。――何しろ、彼は永年の海賊で、初めから終りまで張本人なんだから。
「僕に出来ることは、してあげるよ。」と私は言った。
「じゃこれで話がきまった!」とのっぽのジョンが叫んだ。「君は元気よく言ってくれた。で、有難《ありがて》え! 己に助かる見込が一つ出来た訳だ。」
 彼は、薪の中に立てかけてある松明のところまでぴょこぴょこ跳んで行って、パイプに新しく火をつけた。
「己の言うことをよく聞いてくれ、ジム。」と彼は元のところへ戻りながら言った。「己は分別のある人間だよ、そうともさ。己は今じゃ大地主の側についてるんだ。君があの船をどこかへ無事に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したってことは己にゃわかってる。どんな風にしてやったか、そいつぁわからねえが、とにかくあれは無事なんだ。ハンズとオブライエンとは丸めこまれたんだろうと思う。あいつら[#「あいつら」に傍点]はどっちとも己は大《てえ》して信用していなかったよ。ところでよく聞いてくれ。己は何も訊《き》かねえし、他の奴らにも訊かせはしねえ。勝負のついた時を己は知っている。知ってるとも。それから頼りになるしっかりした若者を知っている。ああ、君は若《わけ》えし、――君と己とが一緒になれぁたんといいことが出来るかも知れねえなあ!」
 彼は樽から錫の小杯にコニャックを注いだ。
「兄弟、飲まねえか?」と彼が尋ねた。そして私が断ると、「じゃあ、自分だけで一口やるぜ、ジム。」と言った。「己は一|杯《ぺえ》やらなきゃならねえんだ。面倒な事を控えてるんでね。面倒な事って言えば、あのお医者はどうして己に海図をくれたんだろうな、ジム?」
 私の顔はありありと不審の色を浮べたので、彼はその上尋ねる必要のないのを見て取った。
「ああ、そうさ、でもくれたんだよ。」と彼は言った。「あれにゃきっと何か訳があるぜ、――あれにゃあ確かに何か訳がな、ジム、――いいにしろ悪いにしろ。」
 そして彼はまたそのブランディーを一口飲んで、最も悪い事を予期している人のように、大きな薄色の頭を振った。

第二十九章 再び黒丸

 海賊どもの会議はしばらく続いていたが、やがて一人の者が小屋へ入って来て、私の眼には何となく皮肉に見える、さっきと同じ例の敬礼をまたやってから、ちょっとの間|松明《たいまつ》を貸して貰いたいと頼んだ。シルヴァーは簡単に承諾した。するとその使者は再び出て行き、後には私たちが暗闇《くらやみ》の中に残された。
「そうら、そろそろ騒ぎが起って来るぜ、ジム。」とシルヴァーが言った。彼は、この時分には、すっかり親しい打解けた口調になっていた。
 私は一番近くの銃眼のところへ行って、外を見た。例の大きな焚火の余燼はもうほとんど燃え尽きて、今ではごく弱くぼんやりと光っているので、私にはあの密謀者たちが松明をほしがった訳がわかった。柵壁までの傾斜面を半分くらい下ったところで、彼等は一団になって集っていた。一人が松明を持っていた。もう一人が皆の真中に膝をついていたが、その手に持っている開いたナイフの刀身が、月光と松明の光とで違った色に輝くのが見えた。その他の者は身を前へ屈めて、膝をついている男のしていることを見ているようだった。その男が手にナイフと共に一冊の書物を持っているのを私はどうにか見分けることが出来た。そして、どうしてそんな不似合なものが彼等の手に入ったのだろうとまだ訝っていると、その時膝をついていた者がまた立ち上って、一同が小屋の方へ一緒に歩き出した。
「やって来るよ。」と私は言った。そして自分の元の場所へ戻った。彼等を見ていたのを見つけられては自分の沽券《こけん》にかかわるような気がしたからである。
「よしよし、奴らを来させろ、なあ、――奴らを来させろだ。」とシルヴァーは陽気に言った。
「己にゃまだ最後の手段があるからな。」
 戸が開いて、五人の男が、入ったばかりのところにごたごたとかたまって立ったが、その中の一人を前へ押し出した。その男が一足一足と踏み出す毎にためらいながら、それでも握った右の手を前へ差し出しながら、のろのろと進んで来るのを見るのは、他の場合だったらずいぶんとおかしかったろう。
「おい、こら、さっさとやって来い。」とシルヴァーが呶鳴《どな》った。「取って喰おうたぁ言やしねえ。そいつを手渡ししろ、間抜め。己ぁ規則は知ってるよ、そうともさ。総代をやっつけるようなことはしねえや。」
 この言葉で勇気がついて、その海賊は前よりは速く進み出て、シルヴァーに手から手へ何かを渡すと、もっと一層敏捷に仲間たちのところへ再び戻って行った。
 料理番《コック》は渡されたものを眺めた。
「黒丸《くろまる》だな! そうだろと思ってた。」と彼は言った。「手前らはどっからこの紙を取って来たんだ? おやおや、こりゃどうだい! なあ、おい、これぁ縁起がよくねえぞ! 手前たちは監督からこれを切るなんて馬鹿な真似をしたんだな。どの馬鹿が聖書を切ったんだ?」
「ああ、そら見ろ!」とモーガンが言った。――「そうら見ろ。おいらの言わねえこっちゃあねえ。そんなことをしていいことになるはずがねえって、おいらが言ったんだ。」
「ふうむ、手前たちは仲間で相談してきめたんだな。」とシルヴァーが言い続けた。「じゃ手前らはみんなぶらんこ往生することになると思うな。どの阿呆の間抜めが聖書なんぞを持ってたんだ?」
「ディックだよ。」と一人が言った。
「ディックだと? じゃあディックはお祈りをするがいいや。」とシルヴァーが言った。「奴の好運もこれまでだ、ディックのな。そいつぁ間違えっこなしだぜ。」
 しかしこの時例の黄ろい眼をしたのっぽの男が口を出した。
「おしゃべりは止《や》めろ、ジョン・シルヴァー。ここにいる船員は、規則通りにみんなで会議を開いて、お前に黒丸をつきつけたんだ。お前も、規則通りに、そいつを裏返して、そこに書《け》えてあることを見てくんねえ。それからしゃべるがいいさ。」
「有難うよ、ジョージ。」と料理番が答えた。「お前はいつも仕事はてきぱきしてるし、規則は十分心得てるし、ジョージ、己ぁお前を見るなあ好きだよ。さてと、とにかく、こりゃ何だな? ははあ! 『免職』と、――なあるほど、そうだな? なかなかうまく書えてあるわい、確かにな。刷った物みてえだ、まったくさ。ジョージ、お前の手蹟《て》かい? まあ、お前はすっかりここにいる船員の中での頭《かしら》になってるんだな。お前は次にゃ船長《せんちょ》になれるぜ、きっとだよ。すまねえが、ちょいとその松明《たいまつ》をも一度取ってくんねえか? このパイプが消えたんだ。」
「さあ、おい、」とジョージが言った。「ここにいる船員を馬鹿にするのもいい加減にしねえ。お前はおどけてるつもりなんだろう。がお前はもう駄目だよ。その樽から下りて来て、投票するがよかろうて。」
「手前は規則を知ってるって言ったように思うがな。」とシルヴァーは軽蔑したように答えた。「ともかく、手前が知らねえにしろ、己は知ってるんだ。だから己はここにいる、――己はまだ手前たちの船長だぞ、いいか、――手前たちが自分の苦情を言って、己がそれに答えてやるまではだ。それまでの間は、手前らの黒丸は堅《かた》パン一つほどの値打もねえんだ。それがすんでから、考えるとしよう。」
「おお、」とジョージが答えた。「お前はちっとも心配《しんぺえ》するこたねえや。己たちゃ[#「己たちゃ」に傍点]間違ったこたぁしねえよ、己たちはな。第《でえ》一、お前は今度の仕事をやり損《そこ》ねた。――いくらお前がずうずうしい男だって、これにゃそうじゃねえとは言えめえ。第二に、お前は敵をこの罠から何にもならねえのに逃がしちまった。なぜ奴らは出て行きたがったか? そりゃ己ぁ知らねえ。だが奴らがそうしたがってたこたぁ確かだ。第三、お前は、己たちが奴らの出かけるとこをやっつけようとするのを、させなかった。おお、己たちぁお前の腹の底を見抜いてるんだよ、ジョン・シルヴァー。お前は奴らに内通したがってるんだ。それがお前の不都合なとこだ。それから、第四は、この小僧のことだ。」
「それだけか?」とシルヴァーが平然と答えた。
「これだけあれぁたくさんさ。」とジョージが言い返した。「お前のへまのために己たちぁみんなぶらんこになって天日《てんぴ》に曝《さら》されるだろうよ。」
「よし、じゃあ、いいか。その四箇条に返答してやろう。一つ一つ返答してやる。己が今度の仕事をやり損ねたと? ふむ、ところで、手前たちはみんな、己のやりたかったことを知ってるはずだ。それから、もしその通りになってたら、己たちぁ明日《あす》といわず今晩にもヒスパニオーラ号に乗り込んでて、一人残らず生きていて、元気で、うめえ乾葡萄入りのプディングをたらふく食べ、宝を船艙に一|杯《ぺえ》積み込んでた、ってことも知ってるはずだ、畜生! そんなら、だれがその己の邪魔をしたんだ? だれがこの正式の船長の己をせき立てて早まらせたんだ? だれが己たちの上陸した日に己にあの黒丸をつきつけて、この舞踏《ダンス》を始めたんだ? ああ、面白《おもしれ》え舞踏だよ、――違えねえや、――ロンドンの仕置波止場でぶら下げられて縄の先でやる踊りみてえさ、まったくな。だが、だれがこんなことをやったんだ? そうさ、それぁアンダスンと、それからハンズと、それから手前、ジョージ・メリーだぞ! そして手前はそのおせっかいな奴らの中で一人だけ生き残ってる奴なんだ。それだのに、生意気千万にも己に代って船長になろうとするなんて、――己たちみんなをこんな目に遭わせた手前がだ! こん畜生め! こんな大べらぼうな話って聞いたこたぁねえ。」
 シルヴァーはちょっと言葉を切ったが、私は、ジョージとその仲間の者たちの顔で、以上の言葉が無駄ではなかったのを見て取ることが出来た。
「それが第一条の答だ。」と被告のシルヴァーが呶鳴って、額から流れる汗を拭うた。小屋が震えるほど猛烈にしゃべっていたからである。「やれやれ、ほんとに、手前たちと話してると厭んなっちまうぜ。手前たちゃ物の弁《わきめ》えもなけりゃ物覚えも悪いと来てるんだからな。手前たちの母親《おふくろ》は何だって手前らを海へなんぞ出したのか己にゃあわからねえ。海だと! 分限紳士だと! 仕立屋が手前たちに相応の商売《しょうべえ》だろうよ(註七七)[#「(註七七)」は行右小書き]。」
「さあ、続けろ、ジョン。」とモーガンが言った。「残りのもさっさと言え。」
「ああ、残りのか!」とジョンが答えた。「ありゃあなかなか立派なものだな、そうじゃねえか? 手前たちは今度の仕事はやり損ねたと言う。ああ! もしどのくれえひどくやり損ねてるか手前たちにわかりゃあ、きっと、手前たちゃびっくりするぜ! 己たちゃもうすぐ絞首《しめくび》になりそうなとこなんだぞ。それを考えただけでも己は頸が硬《こわ》ばるくれえだ。多分、手前らも見たことがあるだろう、鎖で絞《し》め殺されて、鳥がその周りに集ってる奴らを。潮《しお》で流されてゆくのを船乗が指してるんだ。『あれぁだれだい?』って一人が言う。『あれかい! ああ、あれぁジョン・シルヴァーさ。己ぁ被奴《あいつ》をよく知ってたよ。』と別の奴が言う。それから上手※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しをして次の浮標《ブイ》の方へ船を走らせていると、その鎖ががちゃがちゃ鳴るのが聞える、って訳さ。まあ、それが己たちのゆきつくところだ、己たちみんなのな。これもこいつと、ハンズと、アンダスンと、その他《ほか》手前たちいまいましい馬鹿野郎どものお蔭なんだ。それから、第四条の、その小僧のことが聞きてえんならだ、畜生! 言ってくれるが、其奴《そいつ》は人質じゃねえか? 人質をなくしちまおうってえのか? いいや、いけねえ。其奴は己たちの最後の頼みになるんだ、きっとだ。その小僧を殺すって? 己ぁ厭だよ、兄弟! それから、第三条か? ああ、そうだ、第三条にゃ言うことがうんとある。大方、手前たちはほんとの大学出の医者が毎日|診《み》に来てくれるのを有難えとも思わねえんだろな?――ジョン、頭を打ち割られたお前も、――ジョージ・メリー、まだ六時間とたたねえ前に瘧《おこり》をやって、今の今だってレモンの皮みてえな色の眼をしているお前もさ。それから、大方、手前たちは伴船《ともぶね》のやって来るのも知らねえんだろ、多分な? だが、来るんだぞ。それもそんなに永えこっちゃねえ。で、そうなって来ると人質があって喜ぶのはだれだかわかるだろ。それからと、第二条の、己がなぜ取引をしたかってことならだ、――へん、手前らがそれをして貰えたくって己んとこへ膝をついて這《へ》えつくばってやって来たんだ、――膝をついてな、やって来たんじゃねえか。それっくれえ手前たちゃ萎《しを》れてたんだ。――それにまた、己がそれをしなかったら、手前らは飢死《うえじに》してたろうて。――だが、そんなこたぁどうだっていい! こいつを見ろ、――そうすりゃ訳がわからあ!」
 そう言って彼は床《ゆか》の上に一枚の紙を投げ出したが、私にはすぐにそれが何だかわかった。――まさしく、私があの船長の衣類箱の底で油布に包んであるのを見つけた、三つの赤い十字記号のついている、黄ろい紙の海図であった。なぜ先生がそれを彼にやったのかということは、私には想像出来ないことだった。
 しかしそのことが私には合点のゆかぬことだったとするなら、海図の現れたことは生き残っている謀叛人どもには信じられぬことだった。彼等は鼠に跳びかかる猫のようにそれに跳びかかった。海図は手から手へと渡され、一人が別の奴からひったくった。そして、それを調べながら罵ったり呶鳴《どな》ったり子供のように笑ったりしている有様は、彼等が黄金そのものをいじっているばかりではなく、さらにもう無事にそれを積んで海に出ているようだと、思われるくらいであった。
「そうだよ、」と一人が言った。「こりゃ確かにフリントだ。J・Fと書えて、下に線を引いて、それに索結びみてえなものも書えてある。あの人はいつもこう書えてたよ。」
「こりゃいいや。」とジョージが言った。「だが己たちゃ船がねえから、どうしてあれを持って行くんだい?」
 シルヴァーが突然跳び立って、片手を壁にあてて身を支え、「手前に断《ことわ》っておくぞ、ジョージ。」と呶鳴った。「もう一|言《こと》生意気な口を利こうものなら、己は手前をひっぱり出して勝負するんだぞ。どうしてだと? へん、そんなことを己が知ってるものか? 手前らこそそれを己に教えてくれなきゃならなかったんだ、――余計な差出口をして己のスクーナ一船をなくしちまった手前とその他の奴らとがだ、この馬鹿野郎どもめが! だが手前らは駄自さ。それが言えるもんか。手前らにゃ油虫ほどの智慧もねえんだ。だが、ジョージ・メリー、手前だって丁寧な口だけは利けるんだし、また己がそうさせてやるぞ、いいか。」
「そいつぁまず申分のないとこだ。」と老人のモーガンが言った。
「申分がないだと! 己もそう思う。」と料理番が言った。「手前らは船をなくした。己は宝をめっけた。これじゃあだれが偉《えれ》え人間だい? で、もう己は辞職するぜ、畜生! さあ、もう手前らの好きな奴を選挙して船長にしろ。己はやめちまったんだ。」
「シルヴァーだ!」と皆が叫んだ。「いつまでも|肉焼き台《バービキュー》だ! 肉焼き台が船長《せんちょ》だ!」
「じゃそうきまったんだな?」と料理番が叫んだ。「ジョージ、お前はどうやらもう一度待たなきゃならねえようだなあ、おい。己が怨み深《ぶけ》え人間でねえのがお前にゃ仕合せだ。だがそいつぁ己の流儀じゃなかったんだぞ。それから、兄弟、この黒丸はどうする? もう大《てえ》して役にも立つめえな? ディックが自分の運をそこねて自分の聖書を駄目にした。まあそれっくれえのところさ。」
「この聖書は接吻《キス》して宣誓するにゃまだ役に立っだろうね?」とディックはぶつぶつ言った。彼は自分で呪いを招いたのに明かに不安を感じているのだった。
「少し切り取ってある聖書がかい!」とシルヴァーが嘲笑するように答えた。「駄目さ。そんなものは小唄本ほどの利目もねえや。」
「だって、そうかね?」とディックは嬉しそうに叫んだ。「まあ、でもね、持っててもいいだろうと思うねえ。」
「そら、ジム、――お前にゃ珍しいものだよ。」とシルヴァーが言って、その紙を私にひょいと抛《ほう》ってくれた。
 それはクラウン貨幣(註七八)[#「(註七八)」は行右小書き]ほどの大きさの円い紙だった。一番終りの紙だったので、片側は白かった。もう一方の側にはヨハネ黙示録の一二節が見え、――その中でもこういう文句が私の心にぎくりとこたえた。「犬および殺人者は外に居るなり。(註七九)[#「(註七九)」は行右小書き]」その印刷している側は焼木の炭を塗って黒くしてあったが、その炭がもう剥げかかって私の指を少しよごしていたのだ。白い側には同じく炭で「免職」という一語が書いてあった。私はその珍品を現在もそばに持っている。が、今では文字はすっかり消えて、拇指の爪でつけたようなかすり痕が一つ残っているだけである。
 それがその夜の事件の結末であった。その後間もなく、酒がみんなにぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]されて、私たちは寝ることになった。そしてシルヴァーの復讐は、高々、ジョージ・メリーを歩哨に立たせて、もし誠実にやらないと殺してしまうぞと嚇したことだけだった。
 私は永い間眼を閉じることが出来なかった。確かに私には考えることがたくさんあったのである。その日の午後自分が殺した男のことや、自分の非常に危険な立場のことや、とりわけ、シルヴァーの今やって見せた素晴しい芸当――片手では謀叛人どもをくっつけておき、もう一方の手では、出来るものでも出来ないものでもありとあらゆる手段によって、和解をして自分のみじめな命を救おうと努める――のことなどについてである。そのシルヴァー自身は安らかに眠って、高い鼾《いびき》をかいていた。それでも、彼を取巻いている暗澹たる危難や、彼を待っている恥ずべき絞首台のことを考えると、彼が悪人ではあっても、私の胸は彼のために痛むのであった。

第三十章 宣誓解放

 森の縁から呼びかける、はっきりした、力強い声で、私は目を覚された。――実際、私たちみんなが目を覚されたのだ。歩哨でさえも、戸口の柱に凭《もた》れていたのを身を起して、睡気ざましに体をゆすっているのが見えたから。――
「おうい、丸太小屋あ!」とその声は叫んだ。「医者が来たぞ。」
 まさしくそれは医師であった。その声を聞くと私は嬉しかったが、それでもその嬉しさには夾雑物《まざりもの》がないではなかった。私は自分の不従順なこそこそした行為を思い出してどぎまぎした。そして、その行為のために自分がどんなことになったか――どんな連中の間にいてどんな危険に取巻かれているか――ということを思うと、面目なくて先生に顔が合されなかった。
 夜がまだすっかり明けきっていなかったから、先生は暗い中に起きて来たのに相違ない。私が銃眼のところへ駆け寄って外を見ると、先生は、この前一度シルヴァーが来た時のように、地を這っている靄《もや》に膝のところまでも包まれて立っているのが見えた。
「やあ、先生! お早うごぜえまあす!」とシルヴァーは、すぐにすっかり目を覚して好人物らしいにこにこ顔をしながら、叫んだ。「ずいぶんとお早《はえ》えんですねえ、まったく。諺にもあります通り、喰物《くいもの》にありつくのは早起きの鳥ですよ。(註八〇)[#「(註八〇)」は行右小書き]おい、ジョージ、お前、体をゆすぶり起して、リヴジー先生が柵をお越しになる手伝いをしてあげろ。みんな工合がようごぜえますよ、あんたの患者はね、――みんな工合がよくって元気でさあ。」
 ※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を肱《ひじ》の下にあて、片手を丸太小屋の側壁につけて、丘の頂に立ちながら、彼はこうぺらぺらとしゃべり続けたが、――声も、態度も、顔付も、まったく以前のジョンであった。
「それに、あんたがまったくびっくりなさることがありますぜ。」と彼は言葉を続けた。「ここにゃちっちゃなお客がいますんで、――ひっ! ひっ! 新規の賄《まかない》附の下宿人って訳でさ。達者でぴんぴんしてますよ。このジョンのすぐ横で、船荷の宰領(註八一)[#「(註八一)」は行右小書き]みてえに寝ましたよ、――夜っぴて、枕を並べてね。」
 リヴジー先生はこの時分には柵壁を越えて料理番《コック》のかなり近くへ来ていた。それで先生がこう言う時の声の変っているのが私にはわかった。――
「ジムじゃないか?」
「まさに間違えなくそのジムで。」とシルヴァーが言った。
 先生は何も言わなかったが、ぴたりと止った。そして、また動き出すことが出来るようになったと思われるまでには、何秒かかかった。
「よし、よし、」とやがて彼は言った。「義務第一で、遊びその後だ。お前だってそう言うだろうな、シルヴァー。まずお前のところのあの患者たちを診察するとしよう。」
 それからすぐ医師は丸太小屋へ入って来て、私には怖い顔をして頷いて会釈し、病人の間で仕事にとりかかった。彼は、こういう不信義な悪魔どもの間では自分の生命が一本の髪の毛に懸っているようなものだということは知っていたには相違ないが、少しの懸念もしていないような様子をしていた。そして、まるで平静なイギリスの家庭を普通に往診してでもいるように、自分の患者たちにいろいろとしゃべっていた。彼の態度は皆に反応したのだろうと思う。というのは、彼等も医師に対して、何事も起らなかったかのように――彼がやはり船医であり、彼等がやはり忠実な平水夫であるかのように――振舞っていたから。
「お前は工合がよくなっているよ、なあ、おい。」と彼は頭に繃帯をした男に言った。「九死に一生を得た人間というのがいるなら、それはお前のことだ。お前の頭は鉄のように堅いに違いないな。それからと、ジョージ、どんな様子だ? ひどい顔色をしているな、確かに。ふうむ、お前の肝臓がな、でんぐり返っているんだぞ。お前はあの薬を飲んだか? 皆の者、この男はあの薬を飲んだかね?」
「はいはい、旦那、確かにこいつは飲みましたよ。」とモーガンが答えた。
「うむ、私もこのように謀叛人の医者になっている以上は、というよりも監獄医になっている以上はと言った方がいいんだがね、」とリヴジー先生は非常に快活な調子で言った。「とにかく、ジョージ陛下と(陛下万歳!)絞首台とのために一人の命でもなくしないようにするというのは面目にかけて大切なことだからな。」
 悪漢どもは互に顔を見合せたが、この手痛い言葉を黙って聞き流してしまった。
「ディックは気分がよくねえんですが。」と一人が言った。
「よくないって?」と医師が答えた。「じゃあ、ここへ来なさい、ディック、そして舌を見せて御覧。いや、これで気分がよかったら不思議だろうて! この男の舌を見てはフランス人だって恐しがるよ。こいつも熱病さ。」
「ああ、それ見ろ、」とモーガンが言った。「聖書を裂いたからそんなことになっただ。」
「あんまり頓馬だからそんなことになっただ、――お前の言う真似をするとね。」と医師は言い返した。「あんまり頓馬で、よい空気と毒気との区別も知らず、乾燥した土地と疫病のあるいやな泥沼との区別も知らんからだよ。まあ、大抵は、――もちろんこれはただ私の考えだが、――そのマラリヤ熱をお前たちの体から取ってしまうまでには、お前たちはみんな恐しい目に遭わなけりゃならんだろう。沼地に野営するなんて、どうしてそんなことをしたんだい? シルヴァー、お前には私も驚いたよ。お前は、何もかもひっくるめて見たところ、他の多くの者ほど馬鹿じゃないが、しかし、どうも健康の法則の観念と来ちゃ初歩も持っていないようだな。」
 医師は一人一人に薬を調合してやり、彼等はまったく笑止なほどへいこらしてその処方薬を飲んだが、その様子は人殺しをした謀叛人や海賊というよりは貧民学校の生徒のようだった。それがすむと医師が言った。――「さあ、今日《きょう》はこれでいい。ところで今度はあの子供とちょっと話をしたいんだがねえ。」
 そして彼は私の方へぞんざいに頭を振り動かした。
 ジョージ・メリーは戸口のところにいて、苦《にが》い味のする薬を飲んだ後でぺっぺっと唾を吐いていたが、医師のそう言い出した言葉を聞くなり真赤な顔をしてくるりと振り向き、「いけねえ!」と叫んで口ぎたなく罵った。
 するとシルヴァーが平手でぴしゃりと樽を叩いた。
「黙れ!」と彼は呶鳴《どな》って、ほんとうに獅子のようにあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。「先生、」とそれから彼はいつもの調子で言葉を続けた。「わっしは、あんたがこの子を可愛《かえぇ》がっていなさることを知ってるんで、そのことを考えていたんでさあ。わっしらはみんなあんたの御親切をほんとに有難く思っていますし、御覧の通りにあんたを信用していて、薬を酒みてえに飲んでます。で、わっしはこうしたらみんなに都合がいいだろうと思うんですがねえ。ホーキンズ、君は若《わけ》え紳士として名誉にかけての約束って奴を俺《わし》にしてくれねえか、――生れは貧乏だが、お前は若え紳士だからな、――逃げ出さねえという、名誉にかけての約束をしてくれねえかい?」
 私はすぐにその誓約をした。
「では、先生、」とシルヴァーが言った。「あんたはあの柵の外側へちょいと出て下せえ。そうして下さりゃ、あっしはこの子をこっち側までつれてゆきましょう。そうすれぁ柵越しに話が出来るでしょう。じゃ、さようなら、先生。それから大地主さんとスモレット船長によろしく。」
 これまではただシルヴァーの凄い見幕だけで抑えつけられていた皆の不平は、医師が小屋を出てしまうとすぐに爆発した。シルヴァーは、敵味方に二股をかけているとか――自分だけで別に和解をしようとしているとか――仲間の者たちの利益を犠牲にするとか言って、要するに、彼の正にやっている通りのそのことを、手厳しく非難された。今度は、それが実に明白であるように私にも思われたので、彼がどうして彼等の怒りを逸《そら》せられるか私には想像がつかなかった。しかし、彼は残りの者どもを一緒にしたより二倍ものしたたか者であった。それに昨晩の勝利は彼等の心を圧倒していた。彼は彼等に馬鹿だの間抜だのとあらゆる悪たれ口をたたき、私を医師と話させることは必要なのだと言い、例の海図を彼等の面先《つらさき》に振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してみせ、宝探しに行くことになっているその日になって条約を破るなんてことが出来るかと尋ねた。
「いいや、そんなことが出来るもんか!」と彼が叫んだ。「条約を破るのはその時が来てのことだ。それまでは、奴《やっこ》さんの長靴にブランディーを塗って磨けと言われても、あの医者の奴をごまかしておくんだ。」
 それから彼は火を焚きつけろと彼等に言いつけて、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をついて、片手を私の肩にかけながら、傲然と外へ出た。得心させられたというよりは彼の口達者な弁舌に黙らされて、方々にばらばらになっている連中を後に残して。
「ゆっくりと、おい、ゆっくりと。」と彼が言った。「己たちが急ぐと見ようものなら、奴らはすぐにかかって来るかも知れねえからな。」 それで、ごくゆっくりと私たちは砂地を進んで、医師が柵壁の向側で私たちを待っている処の方へ行った。そして、容易に話の出来る距離まで来るや否や、シルヴァーは立ち止った。
「このことも書き留めておいて下せえまし、先生。」と彼が言った。「それから、この子があんたに話しますでしょうが、わっしはこの子の命を救ってやりましたし、そのために免職させられもしました。それにゃ違えごぜえません。先生、人間がわっしのように危《あぶね》えことまでやった時にゃ、――言わば命をそっくり投げ出して向う見ずなことをやった時にゃ、――その人間に一|言《こと》くれえやさしい言葉をかけてやんなすっても、大方、さしつかえはねえとお考えでごぜえましょうな? 今はわっしの命だけじゃなくって――おまけにこの子の命にもかかわってるってことを、どうか覚えておいて頂きてえんで。で、先生、後生ですから、わっしに親切な言葉をかけて、ちっとでも望みが持てるようにしてやって下せえ。」
 シルヴァーは、一度ここへ出て来て仲間の者と丸太小屋とに背中を向けると、人間が変ってしまった。頬までがこけたように思われ、声が震えていた。これほど真面目《まじめ》な人間は一人もないくらいであった。
「うむ、ジョン、お前は怖がっているんじゃないかね?」とリヴジー先生が尋ねた。
「先生、わっしは臆病者じゃありません。そうですよ、わっしはね、――そんな[#「そんな」に傍点]に臆病者じゃありませんとも!」と言って彼は指をぱちっと鳴らした。「わっしが臆病者ならそんなことは言やしませんや。だが正直に白状しますが、わっしは絞首台のことを思うとぞくぞくするんでさ。あんたは立派な正直な人だ。あんたみてえな立派な人は見たことがねえ! で、あんたがわっしのした悪いこともお忘れにゃならねえだろうが、わっしがどんないいことをしたかってこともお忘れにならねえ、ってこともわっしは知ってますよ。そこでと、わっしはあっちへ行って――この通りにね――あんたとジムとを二人きりにしておきますぜ。で、このこともあっしの手柄として書きつけておいて下せえ。これだってずいぶんと無理をしてやってることですからね、そうですとも!」
 そう言いながら彼は少し後へ戻って、話し声の届かないところまで行き、そこで木の切株に腰を下して口笛を吹き始めた。そして、時々その座席の上でぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、私と医師との方を見たり、部下の不従順な悪党どもの方を見たりした。その悪党どもは、焚火――それを彼等は頻りに再び焚きつけていた――と小屋との間の砂地を行ったり来たりして、小屋から豚肉とパンとを運び出して朝食の用意をしていたのである。
「そうか、ジム、君はここにいたんだね。」と先生は悲しそうに言った。「自業自得でどうも仕方がない、ねえ、君。まったくのところ、私には君を責める気はない。が、親切であっても不親切であっても、これだけは言っておきたい。スモレット船長が丈夫だった時には、君は跳び出そうとはしなかった。そしてあの人が悪くなって、どうにも出来ない時だったので、あれはどうもまったく卑怯なことだったのだよ!」
 私はこの時には泣き出したことを白状しよう。「先生、」と私は言った。「勘忍して下さい。僕は十分自分を責めました。僕の命はどうせないものです。そして、もしシルヴァーが僕を庇《かば》ってくれなかったら、僕は今時分は死んでいたでしょう。それで、先生、これを信じて下さい。僕は死ぬのはかまいません、――それが僕には当然なのでしょうから、――しかし僕の心配するのは拷問です。もしあいつらが僕を拷問するとなると――」
「ジム、」と先生が私の言葉を遮ったが、その声はすっかり変っていた。「ジム、私はそんなことをさせておけん。さあ、跳び越せ。逃げ出そう。」
「先生、僕は誓言したんです。」と私は言った。
「わかってるよ、わかってるよ。」と彼は叫んだ。「だが、ジム、今はそんなことは仕方がない非難も恥も、一切合財、私が引受けるよ、ねえ、君。だが君をここへ残しておくってことは私には出来ないんだ。さあ、跳べ! 一跳びで外へ出られる。二人で羚羊《かもしか》のように逃げ出そう。」
「いいえ。」と私は答えた。「あなたは御自分ならそんなことをなさらないということはよく御存じです。あなただって、大地主さんだって、船長さんだってそうです。僕だってそんなことはしません。シルヴァーは僕を信用したんです。僕は誓言したんですから、戻って行きます。けれども、先生、まだ僕にはお話することが残っていたんですよ。もしあいつらが僕を拷問するとなると、僕はひょっとして一|言《こと》くらい口を滑らしてあの船がどこにあるかということを言うかも知れません。といいますのは、僕は船を取戻したんです。一つには運がよかったのと、一つには冒険をやったのとで。あれは、北浦の、南の浜の、高潮線のすぐ下のところにおいてあります。半潮の時にはきっと高く水を離れているでしょう。」
「船をね!」と先生がびっくりして言った。
 私が大急ぎで自分の冒険のことを話すと、先生は無言のまま私の言うことをしまいまで聞いていた。
「どうもこれには宿命といったようなものがあるね。」と彼は私が話し終えると言った。「事毎に、私たちの命を救ってくれるのは君なのだ。それだのに、私たちが君に命をなくさせるようなことをすると君は思うかい? そんなことをしたら実にすまん訳だよ、君。君は奴らの陰謀を見つけた。君はベン・ガンを見つけた。――あれは君がこれまでにした中で一番よい行いで、また、君がこれから九十まで生きようとも、あれ以上によいことは出来ないだろう。おお、そうそう、ベン・ガンのことを言えばだね! あれぁ実にいたずら者だよ。おい、シルヴァー!」と先生は大きな声で叫んだ。「シルヴァー!――一|事《こと》お前に忠告するがね、」と彼は料理番が再び近づいて来ると言葉を続けた。「あの宝を探しにゆくのはあんまり急がん方がいいぜ。」
「そうですねえ、先生、わっしは出来るだけのことはしますが、どうもそりゃあむずかしいですね。」とシルヴァーが言った。「失礼ですが、わっしはあの宝を捜すことで自分の命とその子の命を繋いでるだけなんですから。それにゃあ違えありません。」
「じゃ、シルヴァー、」と医師は答えた。「もしそうなら、もう一歩進んで言っておこう。宝を見つけた時には用心をしろよ。」
「先生、」とシルヴァーが言った。「男と男の話としちゃ、そりゃあ何だか奥歯に物の挟まってるような言い方ですね。あんたがどうしようとしていなさるのか、どうして丸太小屋を出なさったのか、どうしてあの海図をわっしに下さったのか、わっしにゃわからねえ。わかるもんですかい? それでも、わっしは眼をつぶって、望みの持てる言葉一つも聞かされずに、あんたの言いつけ通りにして来たんですぜ! だが、いや、今のはひど過ぎる。もしあんたが思ってなさることをきっぱりわっしに言って下さらねえんなら、ちょいとそう言って下せえ。そうすりゃわっしだって成行にまかせますから。」
「いやね、」と医師は考えこみながら言った。「私にはそれ以上言う権利がないのだ。それは私の秘密じゃないんだからなあ、シルヴァー。でなけりゃ、きっと、お前に話してやるんだが。しかし私は自分の言えるだけのことをお前に言うとしよう。一歩だけ先へ出て言うのだ。でないと、船長に叱られるからねえ、きっと! 第一に、私はお前にちっとばかり望みを持たせてやろう。シルヴァー、もし私たちが二人ともこの狼の罠から生きて出られたら、私は、偽誓だけはしないが、自分の全力を尽して、お前を救ってやろう。」
 シルヴアーの顔は晴々とした。「先生、あんたがわっしの母親《おふくろ》でも、きっと、それ以上のことは言えますまいよ。」と彼が叫んだ。
「まあ、それが私の第一の譲歩だ。」と医師は言い足した。「第二のは一つの忠告だがな。その子を始終お前のすぐそばにおいて、もし助けの要《い》る時には、おういと大声で呼んでくれ。そしたら私はお前に加勢しに行ってやろう。私がでたらめを言っているかどうかは、それでお前にもわかるだろう。じゃ、さようなら、ジム。」
 そしてリヴジー先生は柵越しに私と握手し、シルヴァーに頷いて会釈して、足早に森の中へ入って行った。

第三十一章 宝探し――フリントの指針

「ジム、」とシルヴァーは私たち二人だけになると言った。「もし己がお前の命を救ったんなら、お前は己の命を救ってくれたんだ。それは忘れねえよ。先生がお前に逃げろって合図したのを己は見たんだ、――この眼尻でな、見たとも。それから、お前がいやですて言うのも見たぜ、聞くようにはっきりとね。ジム、これで己は君に一つ借りが出来たよ。あの攻撃がしくじってから此方己ぁ初めて望みが持てたんだ。それも君のお蔭さ。ところで、ジム、己たちはこれからあの宝探しに行かなくちゃならんのだがね、これも封緘命令で、行ってみるまではわからねえという奴でな、己ぁ気が進まねえんだ。で、お前と己とは、言わば互《たげえ》に持ちつ持たれつで、しっかりくっついていなきゃいけねえ。そしてどんなことがあろうと首が助かることにしようぜ。」
 ちょうどその時、一人の男が焚火のところから朝飯の支度が出来たぞと私たちを呼んだ。それで、私たちはやがて砂地のここかしこに坐って堅パンとフライにした塩漬肉とを食べ始めた。彼等は牛を一頭丸焼するに適当なくらいの火を焚いてあった。そしてそれが今非常にかっかと盛んに燃えているので、風上からようやくその火に近づけるだけで、その方からでも用心をしなければ近づけなかった。それと同じ浪費的な気持で、彼等は食べ切れる三倍もの肉を料理したようであった。そして一人の奴は、訳もなくげらげら笑いながら、残った分を焚火の中へ投げ込んだ。火は、こういう珍しい燃料を抛《ほう》り込まれて、ますます盛んにごうごう音を立てて燃えた。私は今までにあんなに明日《あす》のことを気にかけない人たちを見たことがない。その日暮しというのが彼等のやり方を説明し得る唯一の言葉である。そして、彼等は小競合にはすこぶる大胆ですぐにけりをつけてしまうけれども、食物を浪費したり歩哨が眠ったりするのでは、とても永びく戦争などには全然不適当だということが私にはわかった。
 シルヴァーでさえ、肩の上にフリント船長をとまらせて、盛んに食べながら、彼等の思慮のなさに対して一言の非難もしなかった。そして、彼がそれまでにこの時ほどの狡猾さを示したことは一度もないと私は思ったので、そのことは私を一層驚かせたのだ。
「そうさ、兄弟、」と彼は言った。「|肉焼き台《バービキュー》がいてこの頭でもってお前たちのために考えてやるてえのは、お前たちにゃ仕合せなことだぜ。己はほしかったものを手に入れたんだ、そうとも。なるほど、奴らは確かに船を持っている。どこに持ってるのか、己ぁまだ知らねえ。だが、己たちは宝を見つけせえすりゃ、方々跳び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って探しあてるさ。そうなれぁ、兄弟、ボートを持っている己たちの方が勝ちだと思うな。」
 彼は、口一杯に熱い塩漬豚肉を頬張りながら、こんな風にしゃべり続けた。こうして彼は皆の希望と信頼とを回復した。同時に自分の希望と自信とをも取戻したのだろうと思う。
「この人質のことを言えばね、」と彼は話し続けた。「さっきのが、この子のひどく好きな連中との話しじまいだろうと思うよ。己はちょいといいことを聞いたが、それもこの子のお蔭だ。だがそれはもうすんでしまったことさ。宝探しに行く時にゃ己はこの子に綱をつけてつれて行くとしよう。なぜって、いいかい、何か事の起った場合の用心に、当分は、己たちはこの子を黄金みてえに大事《でえじ》にしておくんだからな。船も宝も両方とも手に入《へえ》って、仲間で陽気に海へ出るようになったら、その時にゃあな、己たちはホーキンズ君を説きつけて味方に誘うてよ、無論、いろいろ尽してくれたお礼に、分前もやるとしようよ。」
 皆がこの時上機嫌だったのは不思議ではなかった。私はと言うと、すっかりしょげていた。シルヴァーが今言った計画が実行出来るようになれば、すでに二重に裏切者である彼は、それを採用するに躊躇しないだろう。彼はまだどちらの陣営にも足をかけていた。それで、彼が、私たちの側へついて精々絞首を辛うじて免れるよりは、海賊どもと一緒に富と自由とを得る方を択ぶだろうということには、少しの疑いもなかった。
 いや、そればかりではなく、よし彼が余儀なくリヴジー先生との約束を守らねばならないようなことになったとしても、その場合でさえ私たちの前にはどんなに危険があったろう! 彼の手下の者たちの疑念が確実なものとなって、彼と私とが命がけで戦わなければならなくなった時には、――彼は不具《かたわ》で、私は子供、――相手は五人の倔強で敏捷な水夫たちだから、――どんなことになるだろう!
 こういう二重の懸念にかてて加えて、味方の人たちの振舞にもまだどうしても解けぬ謎があった。柵壁から出て行ったことも説明がつかないし、海図を譲ったことも合点がゆかぬし、さらに一層わからないのは、先生がシルヴァーに「宝を見つけた時には用心をしろよ。」と最後に警告したことだった。で、どんなに私が朝飯の味も碌々わからなかったか、どんなに不安な心を抱いて海賊どもの後について宝を捜しに出発したかということは、諸君にも容易にわかるだろう。
 だれか見る人がいたら、私たちはずいぶん珍妙な様子に見えたろう。みんなよごれた水夫服を着て、私を除く他はみんな十分に武装していた。シルヴァーは、腰に大きな彎刀《カトラス》を佩《お》び、四角い裾の上衣の一つ一つのポケットにピストルを一挺ずつ入れている他に、他に二挺の鉄砲を――一挺は前に一挺は後に――吊り下げていた。その上にも彼の奇妙な風体《ふうてい》を完全にするために、フリント船長が彼の肩に棲って意味もない船乗の言葉をいろいろでたらめにべちゃべちゃしゃべり散らしていた。私は腰に綱を巻かれて、船の料理番《コック》の後に従順について行った。彼はその綱の括りつけてない方の端を、時には空《あ》いている方の手で持ち、時には強い歯で啣《くわ》えていた。どう見ても、私はまるで踊り熊という恰好《かっこう》でひっぱられているのであった。
 他の人々はいろいろな荷物を背負っていた。或る者は鶴嘴《つるはし》やシャヴェル――それがヒスパニオーラ号から彼等が陸へ持って来た物の中で一番必要な物だったのだから――を持ち、また或る者は昼食の用意に豚肉やパンやブランディーを背負った。こういう食糧が皆もとは味方の貯臓物であったのを私は見て取った。それでシルヴァーが前晩言った言葉のほんとうであることがわかった。もし彼が医師と契約を取極めなかったならば、彼と謀叛人たちとは、船に逃げられたのだから、ただ清水を飲み、狩猟をしてその獲物を食べて、命を繋ぐより他はなかったに違いない。ところが、水はあまり彼等の口に合はないのだし、船乗というものは大抵射撃がうまくない。おまけに、食物がそんなに欠乏している時には、火薬がどっさりあるということはありそうにもなかったのだ。
 さて、このように支度して、私たち一同は――確かに日蔭にいなければならぬ例の頭を割った奴までも――出立し、一人一人とばらばらに浜の方へ行って、あの二艘の快艇《ギッグ》のある処へ来た。この快艇までが海賊どもの酔って馬鹿騒ぎをした痕を留めていて、一艘は腰掛梁《こしかけばり》が一つ壊れており、二艘とも泥だらけで淦《あか》もかい出してなかった。安全のために二艘とも持って行くことになった。そこで、人数を二つに分けて、碇泊所の水面に乗り出した。
 漕いでゆく間に、海図のことで多少議諭が起った。例の赤い十字記号は、無論、指標としては余りに甚しく大き過ぎたし、それに、裏面の備考の文句も、次に掲げるように、幾分曖昧なところがあった。それは、読者も思い出されるであろうが、こう書いてあったのである。――


北北東より一ポイント北に位して、遠眼鏡の肩、高い木。
骸骨島東南東微東。
十フィート。」

 だから、高い木が主《おも》な目標なのであった。今、私たちの真正面では、碇泊所は二百フィートから三百フィートまでの高さの高原で画られていて、その北は遠眼鏡《スパイグラース》山の傾斜した南の肩に接し、南の方へ向ってはまた隆起して、後檣《ミズンマスト》山と言われているごつごつした嶮岨《けんそ》な高地になっていた。この高原の頂には異った高さの松の樹がたくさん生えていた。ここかしこに、違った種数の松の樹が附近の樹々よりも正味四五十フィートも高く聳えているので、その中のどれがフリント船長のさした「高い木」であるかということは、その場所へ行って、羅針儀の示度で定めるより他はないのであった。
 しかし、そういう訳ではあったけれども、ボートに乗っている連中はだれも彼も、まだ半分も海を渡らない先から、もう自分の好きな木を択り出していた。のっぽのジョンだけは肩をすくめて(註八二)[#「(註八二)」は行右小書き]彼等にそこへ行くまで待っておれと言った。
 私たちは、シルヴァーの指図で、腕をあまり早く疲らせないようにと、ゆっくりと漕いだ。そしてずいぶん長い間舟に乗ってから、第二の川――遠眼鏡山の森の割目を流れ下っている川――の口に上陸した。そこから、左へ曲って、高原の方へ傾斜地を登り始めた。
 初めのうちは、ねとねとした泥深い地面と、こんがらかっている沼地の植物とのために、進むのがなかなか捗らなかった。けれども、だんだんと山は嶮《けわ》しくなりかけ、足の下も石がちになって来て、樹木もその性質が変り、もっと間が開けて生えているようになって来た。実際、私たちが今近づいているのは島でも非常に気持のよい処であった。香《かおり》の強い金雀花《えにしだ》や、花の咲いている多くの灌木が、ほとんど草に取って代っていた。緑色の肉豆蒄《にくずく》の木の茂みが、赤い幹をして広い影をつくっている松の樹と共に、ここかしこに散在していた。そして肉豆蒄の芳香は松の樹の香気とまじっていた。その上に、空気は澄んでいてすがすがしく、強い日光の中では、このことは素晴しく爽快に感じられた。
 一行は扇の形に広く拡がって、大声をあげたりあちこちに跳んだりして進んだ。その真中あたりに、他の者たちとは大分|後《おく》れて、シルヴァーと私とがついてゆき、――私は例の綱に繋がれ、彼は滑り易い砂礫の上をひどくはあはあ喘ぎながら登っていた。実際、時々私は彼に手を貸してやらねばならなかった。でなければ彼は足を踏み外して山を転《ころ》げ落ちたに違いない。
 こうして半マイルばかり進んで、高原の頂上に近づいていた時に、一番左の方にいた男が、おじけたように大声で喚き出した。続けざまに幾度も叫び声を立てたので、他の者もその男の方向へ走り出した。
「宝をめっけたはずぁねえよ。」とモーガン爺が、右の方から私たちのそばを急いで通り過ぎながら、言った。「あれぁずっとてっぺんにあるんだからな。」
 実際、私たちもその場所へ行ってみると、それはまったく違ったものだった。かなり大きな一本の松の樹の根もとに、緑の蔓草に絡まって、その蔓草は小さい骨を幾分か持ち上げてさえいたが、人間の骸骨が、衣服の屑片と共に、地面の上にあったのである。だれも彼もちょっとの間はぞっとしたと私は思う。
「こいつは船乗だったんだぜ。」とジョージ・メリーが言った。彼は、他の者よりは大胆だったので、骸骨のずっと近くへ行っていて、衣服の襤褸《ぼろ》を調べていたのだ。「ともかく、これぁ船乗の服だ。」
「そうともさ、そりゃ多分そうだろうとも。」とシルヴァーが言った。「こんな処《とこ》に僧正さまもめっかるめえからな。だが、この骸骨の寝方はどうだい? これぁ自然じゃあねえな。」
 実際、もう一度見直すと、その死体が自然の姿勢になっていると想像するのは不可能であるように思われた。多少乱れている(それは、多分、鳥がその死体を啄んだためになったのか、あるいはだんだんと遺骸を取巻いて来た蔓草が徐々に生い茂ったためになったのであろう)のを別にすれば、その男は完全にまっすぐに横っていて、――両足は一つの方向を指し、両手は、水へ跳び込む人の手のように頭の上へ伸ばして、ちょうどその反対の方向を指しているのであった。
「俺のぼけた馬鹿頭にも一つ考えついたことがあるよ。」とシルヴァーが言った。「ここに羅針儀がある。あすこに骸骨《スケリトン》島のてっぺんが歯みてえに突き出てる。ちょいと方位を取ってみてくれろ、その骸骨の向いている方のな。」
 それをやってみた。死体はまっすぐに島の方向を指していたし、羅針儀は正しく東南東微東を指示した。
「そうだろうと思ってた。」と料理番が叫んだ。「これぁ指針だよ。この線をまっすぐに行くと北極星と結構なお宝があるって寸法さ。だが、畜生! フリントのことを思うと身内《みうち》がぞくぞくするぞ。これも奴さん[#「奴さん」に傍点]の洒落に違えねえ。奴《やっこ》さんとあの六人の奴だけがここへ来て、奴さんが其奴らを一人残らず殺しちまった。それからこいつ一人だけをここへひっぱって来て、羅針儀に合せて寝かしたんだよ、あん畜生! こいつあ骨が長えし、髪の毛が黄ろいな。そうだ、これぁアラダイスだろう。お前はアラダイスを覚えてるだろ、トム・モーガン?」
「ああ、ああ、覚えてるよ。」とモーガンが答えた。「あいつぁおいらに借金があったんだよ、そうなんだ。それにここへ上陸する時にゃおいらのナイフを持って行きやがったぜ。」
「ナイフって言やあ、どうして奴のナイフがここらにころがっていねえんだろな?」と別の男が言った。「フリントは水夫のポケットから物を抜き取るような人間じゃなかったし、鳥だってあんなものは持って行くめえがなあ。」
「違えねえ、そりゃほんとだ!」とシルヴァーが叫んだ。
「ここにゃ何一つ残ってやしねえ。」とメリーがまだ骸骨の中を探りながら言った。「銅貨一枚なけりゃ煙草入れ一つもねえや。これぁどうも当《あた》り前《めえ》じゃねえと思うな。」
「うん、確かに、そうだ。」とシルヴァーが同意した。「当り前でもなけりゃ、有難くもねえ、ってところさ。いやどうも驚くねえ! 兄弟。だが、もしフリントが生きてたら、ここはお前たちにも己にもよくねえ処だったろうぜ。あいつらも六人だったが、己たちも六人だ。そしてあいつらは今骸骨になってるんだからな。」
「おいらはあの人の死んだのをこの眼で見たんだ。」とモーガンが言った。「ビリーの奴がおいらをつれて入《へえ》ったんさ。すると、あの人はもう死んでて眼の上に銅貨をのっけていたよ。」
「死んだとも、――そうさ、確かにあの人は死んじまったよ。」と繃帯をした奴が言った。「だが、もし幽霊ってものが出るとすりゃ、フリントの幽霊は出るだろうて。気の毒に、あの人はよくねえ死に方をしたからな、フリントは!」
「そうさ、その通りだったよ。」と別の者が言った。「あの人は怒ったり、ラムを持って来いって呶鳴《どな》ったり、また唄を歌ったりしていた。唄と言やあの人は『十五人』ばっかしだったなあ、兄弟。で、ほんとのとこを言や、己ぁあれからってものはあの唄を聞くなぁ好きじゃねえんだ。ありゃあえらく暑い時で、窓が開《あ》けっ放しになってたんで、あの唄がとってもはっきり聞えて来たよ。――でもその時にゃもうあの人には死の網がかかってたのさ。」
「おい、おい、」とシルヴァーが言った。「その話はもうよせよ。奴さんは死んじまったんだし、幽霊になって出て来もしねえよ。少くも昼のうちは出て来はしめえ。そいつは聞違えっこなしだ。心配《しんぺえ》は身の毒さ。さあ、ダブルーン金貨を探しに前進だ。」
 私たちは出発するにはした。が、太陽がかんかん照ってぎらぎらする昼間《ひるま》であったにも拘らず、海賊どもはもう分れ分れになって森の中を走ったり喚いたりせずに、互に並んで歩き、息をひそめて話した。あの死んだ海賊の恐しさが皆の心にしみこんでいたのだ。

第三十二章 宝探し――樹《こ》の間《ま》の声

 一つには今の騒ぎで気が滅入ったのと、また一つにはシルヴァーや病気の連中を休息させるために、一行の者全体は、高地の頂上に達するとすぐ、腰を下した。
 その高原は西の方へ幾らか傾斜していたので、私たちの休んだ場所からは、どちら側にも広い展望が見渡せた。前には、樹々の梢の上に、寄波《よせなみ》で縁取られている|森の岬《ケープ・オヴ・ザ・ウッズ》が見えた。背後には、碇泊所や骸骨《スケリトン》島が見下せたばかりではなく、東の方に――例の出洲《です》と東側の低地とをまったく越えて――渺茫たる外海までが見えた。私たちの真上には遠眼鏡《スパイグラース》山が聳え立って、一本松が点々と生えていたり、絶壁で黒くなっていたりした。聞える物音とては、島のぐるり中から響いて来る遠くの砕け波の音と、叢林の中で鳴く無数の虫の声だけであった。人影《ひとかげ》一つなく、海上には帆影《ほかげ》一つない。眺望の広大さまでがその寂蓼の感じを一|入《しお》増した。
 シルヴァーは、腰を下すと、彼の羅針儀で方位を取った。
「骸骨島から一直線のあたりには、『高い木』は三本ある。」と彼は言った。「『遠眼鏡の肩』ってのは、あそこの少し低くなった処《とこ》のことだろうと思うな。もう金《かね》をめっけるなあ造作のねえ事さ。先に腹を拵えてえような気もするな。」
「おいらは腹が空《す》いてやしねえ。」とモーガンが唸るように言った。「フリントのことを思ったんで空かねえんだろう――と思うんだ。」
「ああ、でも、お前、お前はあの男の死んでるのを有難えと思え。」とシルヴァーが言った。
「あの男は人相の悪い奴だったな。」と別の海賊が身震いしながら叫んだ。「おまけに、顔が青くってね。」
「あれゃあラムのためになったんだよ。」とメリーが言い足した。「青い! うむ、青かったねえ。それぁほんとの言葉だよ。」
 あの骸骨を見つけてこんなことばかりを考えるようになってからは、彼等はだんだんと低い声で口を利くようになり、今ではほとんど囁き声くらいになっていたので、彼等の話し声は森の静寂をほとんど破らなかった。と、突然、私たちの前面の樹立の真中から、力のない、高い、震え声で、節《ふし》も文句もよく知っているあの唄を歌い始めるのが聞えて来た。――


「死人箱《しびとのはこ》にゃあ十五人――
  よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!」

 この時の海賊どものようにひどくびっくりした人たちを私は一度も見たことがない。魔法をかけられたように六人の者は顔色を失ってしまった。跳び上る者もいたし、他の者にしがみつく者もいた。モーガンは地面にへたばった。
「ありゃフリントだ、違《ちげ》え――!」とメリーが叫んだ。
 その唄は始まった時のように突然止んだ。――だれかが歌い手の口に手をあてたかのように、歌の半ばで急に中絶した、とでもいう風であった。緑の梢の間から日光で輝いている澄んだ大気の中をずっと遠く流れて来たので、私にはその唄は軽やかに心地よく聞えた。だから他の連中がそんなに恐しがっているのは不思議であった。
「おい、」とシルヴァーは、灰色になった唇で言葉を出そうと努めながら、言った。「こいつぁいけねえ。出かける用意をしろ。これぁどうも変なこった。己にはあの声はだれだかわからねえ。だが、あれぁだれかが悪戯《わるさ》をしてるんだ、――だれか正体のある人間がだ、それにゃ違えねえ。」
 こう言っているうちに彼は勇気を取戻し、それと共に顔色も幾分ついて来た。すでに他の者たちも彼の励ます言葉に耳を藉しかけて、少し正気に返っていたが、その時、また同じ声が聞え出した。――今度は唄ではなくて、微かな遠くからの呼び声で、それが遠眼鏡山の谷間にもっと微かにこだました。
「ダービー・マグロー、」とその声は哀哭する――それがその声を最もよく言い現す言葉であった――ように言った。「ダービー・マグロー! ダービー・マグロー!」と幾度も幾度も繰返し、それから少し声を高めて、ここには書かない罵り言葉と共に、「ラムを船尾へ持って来おい、ダービー!」と言った。
 海賊どもは地面に根が生えたように立ち竦み、眼玉が顔から跳び出そうであった。その声が消えてしまって永くたっても、彼等はなおも無言のまま恐しそうに前を見つめていた。
「もう確かだぜ!」と一人が喘ぐように言った。「帰《けえ》ろうよ。」
「あれぁあの人の死ぬ時の言葉だった。」とモーガンが呻くように言った。「あの人がこの世で一番おしめえに言った言葉だ。」
 ディックは自分の聖書を取り出して、ぺらぺらと祈祷した。彼は、船乗になって悪い仲間に入る前には、よい育ちであったのだ。
 それでも、シルヴァーは参らなかった。歯をがちがち鳴らしているのが私には聞えたが、しかし彼はまだ降参していなかった。
「この島にゃダービーのことを聞いた奴はだれもいねえはずだ。ここにいる己たちの他《ほか》には一人だっていねえはずだが。」と彼は呟いた。それから、強いて元気を出して、「兄弟、」と叫んだ。「己はあの金を取りにここへ来たんだ。人間にだって悪魔にだって負けやしねえぞ。フリントが生きてる時だって己は奴がちっとも怖《こわ》かなかったんだ。死んでるあいつなんか怖《こえ》えもんか。ここから四分の一マイルとねえ処に七十万ポンドって金があるんだ。青っ面《つら》をした大酒飲みの老いぼれ海員《けえいん》の――それも死んでる奴が怖えってって、そういう大金《てえきん》に尻《けつ》を見せて逃げるなんて分限紳士が、どこの世界にあるけえ?」
 しかし彼の手下の者たちが元気を盛り返す様子は一向になかった。実際、むしろ、彼の言葉が死者に対して不遜なのにますます恐しがるようだった。
「止《や》めろよ、ジョン!」とメリーが言った。「幽霊に逆うなよ。」
 その他の者たちに至っては皆すっかり恐しがって返事をすることも出来なかった。彼等はそれだけの勇気があったならてんでに逃げ出したことであろう。だが恐怖のために彼等は互に寄り合い、ジョンの大胆さが自分たちを助けてくれるかのように、彼のすぐ近くにいた。彼の方は、自分の弱気をかなりに抑えつけていた。
「幽霊だと? うむ、そうかも知れねえ。」と彼は言った。「だが、己には腑に落ちねえことが一つある。山彦《やまびこ》がしたな。ところで、影のある幽霊なんてだれも見たことがねえ。とすればだ、幽霊に山彦なんかあってどうするものかね? そいつは変だろ、確かにな?」
 この論拠は私には甚《はなは》だ薄弱に思われた。しかし何が迷信家の心を動かすかわからぬもので、私の驚いたことには、ジョージ・メリーが大いに安堵した。
「うむ、そりゃそうだな。」と彼が言った。「お前は利口だよ、ジョン、確かに。さあ、引返《ひっけえ》すんだ、兄弟! 己たちゃやり口が間違ってると思うよ。考えてみると、なるほど、あれぁフリントの声みてえだったが、やっぱり、あの人の声そっくりじゃなかったぜ。あれぁだれか他の奴の声に似てたな、――あれぁあのう――」
「ベン・ガンさ、きっと!」とシルヴァーが呶鳴《どな》った。
「うん、そうだ。」とモーガンが、膝をついていたのを跳び立ちながら、叫んだ。「ありゃベン・ガンだよ!」
「それだってあんまり変りはねえだろ?」とディックが尋ねた。「ベン・ガンだってここに生きていねえことは、フリントと同じだ。」
 しかし年をとった方の海員たちはこの言葉を鼻であしらった。
「なあに、ベン・ガンなんかだれも気にかけやしねえ。」とメリーが叫んだ。「死んでいようが生きていようが、だれも気にかけやしねえや。」
 彼等の元気が恢復し、顔色も普通になって来た様は、驚くべきほどであった。間もなく彼等は一緒にしゃべり出し、時々話をやめて聞耳を立てた。それっきり何の声も聞えて来なかったので、やがて皆は道具を肩に担って再び出発した。メリーは、骸骨島から一直線に皆を歩かせるために、シルヴァーの羅針儀を持って先に歩いて行った。彼の言ったのはほんとうだった。死んでいようが生きていようが、ベン・ガンのことなどだれも気にかけはしなかった。
 ディックだけはまだ例の聖書を手に持って、歩きながら恐しそうにあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]していた。しかしだれも彼に同情する者はなく、シルヴァーなどは彼の用心を冷かしさえした。
「己ぁ言ったろう、」とシルヴァーが言った。――「お前は聖書を駄目にしたんだって己ぁ言ったろう。誓言をするだけの役にも立たなくなったものを、幽霊が怖がるとでもお前は思ってるのか? これっぽちの値打もねえぜ!」と彼は、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖でちょっと身を支えながら、太い指をぱちっと鳴らした。
 しかしディックは気が楽になるはずもなかった。実際、その若者が病気に罹っているのが間もなく私にははっきりわかった。暑気と、疲労と、今の事の衝撃《ショック》とで早められて、リヴジー先生の預言した熱病が、明かにずんずんとひどくなっていたのだ。
 その頂上は、このあたりでは開けていて気持よく歩けた。前に言ったように高原は西の方へ傾斜しているので、私たちの進む途は少し下り坂になっていた。松の樹の大きいのや小さいのが広く離れて生えていたし」肉豆蒄や躑躅《つつじ》の叢の間でさえ、広く開けた空地が熱い日光に焼けていた。私たちは、島を突っ切ってほとんど北西に進んで行くと、一方では「遠眼鏡山の肩の下にますます近づき、また一方では、私が一度|革舟《コラクル》の中で揺られて震えていたことのあるあの西側の湾がますます広く見渡せた。
 そのうちに例の高い木の中の一番初めの木のところへ着いたので、方位を取ってみると、その木ではないとわかった。二番目の木もそうだった。三番目の木は一|叢《むら》の下生《したばえ》の上に二百フィート近くも高く空中に聳え立っていた。巨人のような植物で、赤い幹は小屋ほどの大きさがあり、その周囲の広い樹蔭《こかげ》では歩兵一箇中隊でも演習が出来たろう。これは島の東の海からも西の海からも遠くから目につくし、海図に航海目標として書き入れられていたかも知れないくらいのものだった。
 しかし今私の道連《みちづれ》の者どもの心を動かしたのは、その木の大きさではなかった。それは、その拡がった樹蔭の下のどこかに七十万ポンドの黄金が埋めてあるということであったのだ。彼等が近づくにつれ、金《かね》のことを思う心はさっきまでの恐怖を呑みこんでしまった。彼等の眼はぎらぎらと燃えた。足は次第に速く軽くなった。心は、彼等の一人一人を彼方で待っているあの幸運、一生涯中贅沢と快楽とをさせてくれるあの財宝に、すっかり夢中になっていた。
 シルヴァーは、ぶうぶう言いながら、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をついてぴょこぴょこ跳んで行った。彼の鼻孔は脹れて震えていた。その熱したてらてらした顔に蝿がとまると彼は狂人のように罵った。私に括りつけてある綱を荒々しくひっぱり、時々は恐しい顔付をして私の方を振り向いた。確かに彼は少しも自分の気持を隠そうとはしなかった。そして確かに私はその彼の気持を印刷物のように読み取った。こうして黄金のすぐ近くへ来ると、他のことはすべて忘れてしまっていたのだ。彼のした約束も医師から聞いた警告も二つとも過去の事だったのだ。そして、彼が宝を手に入れ、夜陰に乗じてヒスパニオーラ号を見つけ出して乗り込み、この島にいる正直な人々を一人残らず叩き殺して、初めにもくろんでいた通りに、罪悪と財宝とを積み込んで出帆してしまいたいと思っているのだということは、私には疑うことが出来なかった。
 こういう懼れで心が乱れていたので、宝探しの連中の速い歩調に後れずについて行くのは私には辛《つら》かった。折々私は躓《つまず》いた。シルヴァーが綱を荒々しくひっぱったり人殺しのような眼付で私を睨みつけたりしたのは、その時だったのだ。私たちより後れてしまって、今では殿《しんがり》となっているディックは、熱が上り続けているので、一人でべちゃくちゃと祈ったり罵ったりしていた。それもまた私のみじめさを増したが、その上、挙句の果に、私は、神をも敬わぬあの青い顔をした海賊が――唄を歌ったり酒を持って来いと喚いたりしながらサヴァナで死んだという男が――かつてこの高原で手ずから六人の同類を殺したという惨劇のことを思って、悩まされたのであった。今はこのように平和なこの森も、その時は悲鳴で鳴り響いたに違いない、と私は思った。そして、そう思っただけでさえ、その悲鳴がまだ鳴り響いているように思われてならなかった。
 私たちは今や茂みの縁に来た。
「ばんざあい、兄弟、みんな一緒に行くんだぜ!」とメリーが叫んだ。そして先頭にいる者が急に駆け出した。
 と、突然、十ヤードと先へ行かないうちに、彼等が立ち止ったのが私たちに見えた。低い叫び声が起った。シルヴァーは、魔に憑かれた者のように※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖の足で土をはね跳ばしながら、歩む速さを二倍にした。そして次の瞬間には彼と私もぴたりと停った。
 私たちの前には大きな掘った穴があった。側面が落ち込んでいて、底に草が萌え出ているところからみると、ごく昨今に掘ったものではなかった。この穴の中には、二つに折れた鶴嘴《つるはし》の柄《え》と、幾つもの荷箱の板が散らかっていた。その板の一つに、海象《ウォルラス》号という名――フリントの船の名――が、烙鉄で烙印を押してあるのを、私は見た。
 すべてが疑う余地のないほど明白であった。隠してあった物は見つけられて奪われてしまったのだ。七十万ポンドはなくなってしまったのだ!

第三十三章 首魁の没落

 この世の中にこれほどの顛倒は決してなかった。その六人の者は銘々まるでぶん殴られでもしたかのようだった。しかし、シルヴァーだけには、その打撃はほとんど直ちに過ぎ去った。それまでは彼は競馬馬のようにあの金のことばかりにひたすら心をはやらせていたのであった。ところが、それがたちまちにしてぴたりと止められたのである。そして彼は少しもあわてず、気を取直し、他の者たちがまだ失望を自覚するだけの余裕がないうちに自分の計画を立て変えてしまった。
「ジム、」と彼が囁いた。「これを持って、面倒の起った時の用意をしていてくれ。」
 そして彼は二つの銃身のあるピストルを一挺私に渡してくれた。
 同時に彼は北の方へ静かに動き出して、数歩行ってその穴を私たち二人と他の五人との間にあるようにした。それから私を見て、「なかなか危いことになったぞ。」と言うかのように頷いてみせたが、実際、私もそうだと思った。彼の顔付は今はすっかり親しそうになっていた。こんな風に絶えず変るのに私も反感を起して、「君はまた寝返りうったんだね。」と囁かずにはいられなかった。
 彼にはそれに答えるだけの余裕がなかった。海賊どもが、罵り喚きながら、相次いで穴の中へ跳び降り始め、板を脇へ投げ出しながら、指で掘り始めたのである。モーガンが金貨を一枚見つけた。彼は罵り言葉を続けざまに吐きながらそれを差し上げた。それは二ギニー金貨で、十五秒ほどの間彼等の手から手へと渡されていた。
「二ギニーだぜ!」とメリーが、それをシルヴァーに振ってみせながら、呶鳴《どな》った。「これがお前《めえ》の言う七十万ポンドけえ? お前は商売《しょうべえ》のうめえ人間じゃあなかったかね? お前は今までに何一つやり損ねたことのねえ男だと、この唐変木の間抜めが!」
「ずんずん掘って見ろよ、手前《てめえ》たち。」とシルヴァーは落着き払って横柄に言った。「豚胡桃《ぶたぐるみ》でも出て来るだろうぜ」きっとな。」
「豚胡桃だと!」とメリーは金切声で繰返した。「兄弟《きょうでえ》、あれを聞いたか? うん、確かにあの男は何もかもみんな知ってたんだぞ。奴の面《つら》を見ろ。ちゃんとあそこに書《け》えてあるぜ。」
「へん、メリー。」とシルヴァーが言った。「また船長《せんちょ》になるつもりか? 手前は押《おし》の強《つえ》え野郎だよ、まったく。」
 しかし今度はだれも皆全然メリーの味方をした。彼等は、恐しい眼付をして背後を振り向きながら、穴から這い上りかけた。ただ一つだけ私たちに都合のよさそうなことを私は認めた。彼等は皆シルヴァーと反対の側に上って行ったのである。
 こうして、私たちは、一方に二人、もう一方に五人、穴を間にして立ったが、だれ一人第一撃を始めるだけの勇気を出す者はなかった。シルヴァーは身動きもしなかった。※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をついてまっすぐに立ったまま、彼等を見つめて、いつもの通りに自若としているように見えた。確かに、彼は勇敢な男であった。
 とうとう、メリーは口を利いた方がよいと思ったらしかった。
「兄弟、」と彼が言った。「奴らはあすこに二人っきりだぞ。一人は、己たちみんなをここまでつれて来て、己たちをこんなぶざまな目に遭わせやがった、老いぼれの不具《かたわ》だ。もう一人は、己が心の臓を抉《えぐ》り出してくれようと思ってる餓鬼だ。さあ、兄弟――」
 彼は声を張り上げ片腕を振り上げて、明かに突撃の指揮をするつもりだった。しかしちょうどその時、――ばあん! ばあん! ばあん!――と三発の小銃弾が茂みの中から飛んで来た。メリーは真逆さまに穴の中へ転がり落ちた。頭に繃帯をした男は独楽《こま》のようにくるくるっと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってから、横向にばったりと倒れて、その場で死んだが、まだぴくぴく動いていた。他の三人はくるりと向を変えて一所懸命に逃げ出した。
 瞬きする間もないうちに、のっぽのジョンは※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》いているメリーにピストルの二つの銃身から発射した。そしてメリーが断末魔の苦悶をやりながら彼の方に眼をぐるりと向けると、彼は、「ジョージ、己がお前を往生させてやったのだね。」と言った。
 同時に、医師と、グレーと、ベン・ガンとが、肉豆蒄の木の間から、まだ煙の出ている銃を持って私たちのところへ跳んで来た。
「前へ!」と先生が叫んだ。「全速力だ、みんな。奴らとボートの間を断《た》たなきゃならん。」
 それで私たちは非常な速さで駆け出して、時には胸のところまである藪の中も突き抜けて走って行った。
 しかしシルヴァーだけは私たちに後れずについて来ようと一所懸命になっていたのだ。その男が胸の筋肉が張り裂けそうなくらいに※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をついて跳びながらやりおおせた業《わざ》は、普通の健全な体の人間でもとても及ばぬ業であった。これは先生もそう言っておられる。そういう訳で、私たちが傾斜面の頂上に着いた時には、彼はすでに私たちより三十ヤードくらいの後にいて、今にも息も止りそうになっていた。
「先生、」と彼は呼びかけた。「あすこを御覧なさあい! 急ぐこたぁありませんぜ!」
 確かに、急ぐ必要はなかった。高原のもっと開けた処に、三人の生き残った者たちが、初めに駆け出したと同じ方向に、まっすぐに後檣《ミズンマスト》山の方へ、まだ走っているのが見えた。私たちはすでに彼等とボートとの間にいるのだ。それで、私たち四人は腰を下して息をついたが、その間に、のっぽのジョンが、顔の汗を拭いながら、ゆっくり私たちに追いついて来た。
「どうも有難うごぜえました、先生。」と彼が言った。「あんたは、わっしとホーキンズにとっちゃ、ちょうどいい時に来て下せえましたようで。で、やっぱりお前《めえ》なんだな、ベン・ガン!」と言い足した。「うん、お前は確かに面白《おもしれ》え奴だよ。」
「俺《わし》はベン・ガンだよ、そうさ。」と島に置去りにされた男は、もじもじして鰻のように体をくねらせながら、答えた。「で、」と彼は大分永く間をおいてから言い足した。「変りはねえかい、シルヴァーさん? まず達者だよ、有難う、ってとこだろう。」
「ベン、ベン、」とシルヴァーは呟いた。「お前に一|杯《ぺえ》喰わされようとはな!」
 医師は、謀叛人どもが逃げる時に棄てて行った鶴嘴《つるはし》を一挺取りに、グレーを戻らせた。それから、ボートのある処まで私たちがぶらぶらと山を下って行く間に、先生はそれまでに起った事を手短に物語ってくれた。その話はシルヴァーが心から興味を持ったものであった。そして薄馬鹿の置去り人《びと》のベン・ガンが始めから終りまでその主人公なのであった。
 ベンは、島中を永い間ただ一人でさまようている間に、例の骸骨を見つけた。――それの所持品を掠奪したのは彼であったのだ。彼は宝を見つけた。そしてそれを掘り上げた(あの穴の中に折れていたのは彼の鶴嘴の柄であった)。彼はその宝を背負って、高い松の樹の根もとから、島の北東隅の二つ峯の山にある洞穴まで、うんざりするほど何度も何度も往復して運び、ヒスパニオーラ号の到着する二箇月前から、宝はそこに安全にしまってあったのである。
 医師は、あの攻撃のあった日の午後に、この秘密をベン・ガンから聞き出すと、また、その翌朝、碇泊所に船のいなくなったのを見ると、シルヴァーのところへ出かけて行って、今ではもう無用のものになった例の海図を彼にやり、――ベン・ガンの洞穴にはガンが自分で塩漬にした山羊の肉が十分に貯えてあるので、シルヴァーに食糧もやり、――柵壁から二つ峯の山まで安全に移る機会を得るために何もかもやってしまった。その山の方にいれば、マラリヤに罹る恐れもないし、金の番をすることも出来たからである。
「君について言えばね、ジム、」と先生が言った。「私はそうしたくはなかったんだ。だが私は、義務を守っている人たちにとって一番いいと思ったことを、したのだよ。で、君がその人たちの中の一人でなかったとすれば、それはだれの咎《とが》だったろうかね?」
 その朝、海賊どもが先生のために怖しい失望をすることになっているので私がその捲添えを喰うに違いないということに気がつくと、先生は洞穴までずっと駆け通しで帰り、船長を護るのに大地主さんだけを残して、グレーと置去り人とをつれて出発し、あの松の樹のそばの近くにいられるようにと、島を対角線に突っ切って進んで行った。けれども、間もなく私たちの方の一行が先に進んでいることがわかったので、足の速いベン・ガンを前に走らせて、一人で彼の出来るだけのことをさせることにした。その時に、彼は昔の船友達の迷信を利用してやろうと思いついた。それが大いにうまく当ったので、グレーと医師もやって来て、宝探しの連中の到着しないうちにすでに待伏せしていることが出来たのである。
「ああ、」とシルヴァーが言った。「ホーキンズをつれて来たのはわっしにゃ仕合せでした。さもなけりゃ、あんたはジョン爺《じい》をずたずたに切らせて、何とも思いなさらなかったでしょうよ、先生。」
「何とも思わなかったろうて。」とリヴジー先生は機嫌よく答えた。
 そしてこの時分には私たちは快艇《ギッグ》のところへ着いていた。医師は鶴嘴《つるはし》でその中の一艘を打ち壊し、それから私たちみんなはもう一艘の方に乗り込んで、北浦をさして海路で※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行こうと出発した。
 それは八九マイルの航行であった。シルヴァーは、もうほとんど死にそうなくらいに疲れていたけれども、私たち他の者と同様にオールを取らされ、舟は間もなく穏かな海の上をずんずんと飛ぶように進んだ。間もなく私たちは海峡を通り抜けて、島の南東の角を狙った。そこは四日前にヒスパニオーラ号を曳綱で曳いて入った処である。
 二つ峯の山のそばを通り過ぎる時に、ベン・ガンの洞穴の黒い入口と、そのそばに銃に凭《もた》れて立っている人の姿とが見えた。それは大地主さんだった。私たちはハンケチを打ち振って万歳を三唱したが、シルヴァーの声もだれにも劣らないほど熱誠にそれに加わった。
 さらに三マイル進み、ちょうど北浦の口を入ったところで、私たちの出会ったのは他《ほか》ならぬ、ひとりで動いているヒスパニオーラ号だった。この前の満潮で浮き上ったのだ。そしてもし南の碇泊所のようにひどい風があったり強い潮流があったりしたならば、船はもう二度と見られないところへ流れて行ってしまったか、あるいはどこかへ坐礁してどうにも出来なくなってしまっていたろう。しかし実際は、大檣帆《メーンスル》が破損した以外には、悪くなったところはほとんどなかった。それで、別の錨をつけて、それを一尋半の水の中へ落した。私たち一同は、ベン・ガンの宝蔵《たからぐら》に一番近い地点であるラム入江へと、再び漕いで※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。それからグレーが一人だけで快艇を漕いでヒスパエオーラ号へ戻り、そこで番をしてその夜を過すことにした。
 浜から洞穴の入口までは緩い傾斜をなして上っていた。その頂上で、大地主さんが私たちを出迎えた。私には彼は懇ろに親切にしてくれて、私の脱走したことについては、叱るにも褒めるにも一|言《こと》も言わなかった。シルヴァーが丁寧なお辞儀をすると、少しむっと赤い顔をした。
「ジョン・シルヴァー、」と彼は言った。「お前は非常な悪党で詐欺師だ、――実に驚くべき詐欺師だよ。私はお前を告訴するなと言われている。だから、しないつもりだ。しかし死んだ人たちが磨石《ひきうす》のようにお前の頸《くび》にぶら下っているのだぞ(註八三)[#「(註八三)」は行右小書き]。」
「どうも有難うごぜえます、はい。」とのっぽのジョンは、またお辞儀をしながら、答えた。
「私に有難うなんてよくも言えたもんだ!」と大地主さんが叫んだ。「私としては自分の義務を非常に怠ることになるんだ。退《の》いていろ。」
 それから私たちみんなは洞穴へ入った。そこは広い風通しのよい場所で小さな泉と清水の水溜りがあり、その上には羊歯《しだ》が蔽いかかっていた。床《ゆか》は砂地であった。大きな焚火の前に、スモレット船長が寝ていた。そして、遠くの方の隅には、大きな山のような貨幣と、四辺形に積み上げられた黄金の棒とが、焚火の焔にただぼんやりとちらちら光っているのが見えた。それが、私たちが手に入れようとして遥々やって来た、そしてまたヒスパニオーラ号からすでに十七人の生命を失わさせた、フリントの宝なのであった。それを集めるために、どれだけ多くの血が流され悲しみが味われたか、どれだけの立派な船が海原《うなばら》で船底に孔をあけて沈められたか、どれだけの勇敢な人々が眼隠しされて船側の板を歩かせられて海に落ちたか、どれだけの大砲の弾丸が撃たれたか、どれだけの恥辱と虚偽と残虐とが行われたか、恐らく、生きている人間でそれを語り得る者は一人もなかったろう。だが、それらの罪悪にそれぞれ与《あずか》り、またそれぞれその報酬に与《あずか》ろうと望んでその甲斐《かい》のなかった人間が、その島にまだ三人いるのであった。――シルヴァーと、年寄のモーガンと、ベン・ガンとだ。
「来給え、ジム。」と船長が言った。「君は君の縄張ではいい子供だよ、ジム。だが君と私とがもう一度一緒に航海に出ようとは私は思わんな。君は生れつきあまり人気者なので私には手に負えんよ。そこにいるのはお前だな、ジョン・シルヴァー? おい、何しにここへ来たのだ?」
「わっしの義務をやりに戻って来ましたんで、はい。」とシルヴァーが答えた。
「ふむ!」と船長が言った。そしてそれっきり何も言わなかった。
 その夜私が味方の人たちに囲まれて食べた晩餐の何と楽しかったことか。また、ベン・ガンの塩漬の山羊の肉や、ヒスパニオーラ号から持って来た幾つかの珍味や一罎《ひとびん》の年|経《へ》た葡萄酒で、その食事の何とおいしかったことか。確かに、それ以上に楽しげな幸福な人々はまたとなかったに違いない。そして、そこにはシルヴァーもいて、ほとんど焚火の光の届かない後の方に坐っていたが、しかしうまそうに食べ、何でも用のある時にはすぐに前へ跳んで来るし、私たちの笑う時にはおとなしく声を立ててそれに加わりさえした。――まったく、航海に出かけて来た時と同じあの柔和な、慇懃な、従順な船員であった。

第三十四章 それから結末

 その翌朝、私たちは早くから働き始めた。この恐しくたくさんの黄金を浜まで陸路で一マイル近く運搬し、そこからボートでヒスパニオーラ号まで三マイル運搬するのは、そのような小人数の働き手にはずいぶんの仕事であったからである。まだ島をうろついている三人の奴は、大して私たちに面倒をかけなかった。山の肩のところに歩哨を一人だけ立たせておけばいかに不意に襲って来ても十分大丈夫だったし、その上、彼等は戦闘にはもう十二分に懲々《こりごり》していると私たちは思ったのだ。
 だから作業はどしどし進められた。グレーとベン・ガンとはボートで往復し、彼等の行っている間にその他の者は浜に宝を積み上げた。綱の端にぶら下げた二本の金の棒は、大人一人に十分な荷で、――それを持ってのろのろと歩けるくらいのものだった。私は、運ぶのには大して役に立たないので、一日中洞穴の中にいて、せっせと金貨をパン嚢の中に詰め込んでいた。
 それは実に珍しい蒐集物《コレクション》だった。いろいろな貨幣のある点ではビリー・ボーンズの箱の中にあった金《かね》と同じであったが、それよりはずっとたくさんでもありずっと種々雑多でもあったので、私にはそれを種類分けするのがこの上もなく面白かった。イギリスや、フランスや、スペインや、ポルトガルなどの貨幣があり、ジョージ金貨や、ルイ金貨もあれば、ダブルーン金貨、ダブル・ギニー金貨、モイドー金貨、セクィン金貨(註八四)[#「(註八四)」は行右小書き]もあり、過去百年間のヨーロッパのあらゆる国王の宵像を刻した貨幣があるかと思うと、糸の束か蜘蛛の巣のように見えるものを押刻した珍奇な東洋の貨幣もあり、丸い貨幣に四角い貨幣、それから頸にかけでもするかのように真中に孔を穿った貨幣まであって、――世界中のほとんどあらゆる種類の金《かね》がこの蒐集物の中にあったに違いないと思う。数はと言えば、確かに秋の木《こ》の葉のようにあったので、私の背中は屈んでいるために痛くなり、指はそれを択り分けるのでずきずきしたくらいであった。
 次の日もまた次の日もこの作業が続いた。毎日夕方になると一財産が船に積み込まれるのだが、しかし次の一財産が翌朝を待っているのだった。そして、この間中、私たちはあの三人の生き残っている謀叛人の消息を少しも聞かなかった。
 とうとう、――三日目の晩だったと思うが、――先生と私とが、島の低地を見下せる山の肩のところをぶらぶら歩いていると、その時、下の真暗な闇の中から、叫んでいるようでもあり歌っているようでもある声が風に運ばれて来た。私たちの耳に届いたのはほんの少しで、その後はすぐ元の静寂に返った。
「可哀そうにな。あれぁ謀叛人どもだよ!」と先生が言った。
「みんな酔っ払ってるんで。」とシルヴァーの声が私たちの背後からした。
 シルヴァーは全然自由を許されていたと言ってもよく、また、毎日剣もほろろの扱いを受けていたにも拘らず、自分ではもう一度すっかり特権を与えられた親しい従者になったつもりでいるようだった。実際、彼がそういう馬鹿にされた待遇を実によく忍んで、絶えず飽くまでも慇懃にみんなに取入ろうと努めていたことは、非常なものであった。それでも、だれも彼を犬以上にはあしらわなかったと思う。そうでないのは、ベン・ガンか、私くらいのもので、ベン・ガンは昔の按針手《クォータマスター》をやはりひどく恐れていたのだし、私は事実彼に感謝すべきことがあったのだ。もっとも、実際、私には他のだれよりも彼を悪く思ってもいい理由もあったように思う。というのは、彼があの高原で新たな裏切りを企《たく》らんでいるのを見ていたからであるが。そういう次第で、医師が彼に答えたのはかなり素気なかった。
「酔っ払っているか譫語《うわごと》を言っているかだ。」と先生が言った。
「仰しゃる通りでごぜえますよ。」とシルヴァーが答えた。「そして、どっちだってちっとも構やしません、あんたにもわっしにも。」
「お前は自分を慈悲深い人間だと言ってくれとは言うまいな。」と先生は冷笑しながら答えた。
「で、私の気持を聞いたらお前は驚くかも知れんよ、シルヴァー君。だがもし彼等が確かに譫語を言っているものとわかればだ、――あの中の少くとも一人が熱病に罹っていることはまず確かなんだからな、――私はこの野営地から出て行って、自分の体にはどんな危険を冒そうとも、自分の医術の助けをあの連中に藉《か》してやらねばならん。」
「失礼ですが、あんた、そりゃあいけませんよ。」とシルヴァーは言った。「あんたの御大切《ごてえせつ》な命がなくなりますからね。違えありませんぜ。あっしは今じゃすっかりあんたの側についてるんでさ。だから味方の人を減らせたかぁありません。あんたはもちろんのことです。あんたにゃ御恩を受けていますからね。だがあそこの下にいる奴らと来ちゃあ、約束を守れるような奴じゃごぜえません、――そうですとも、守りてえと思ったって守れねえ奴らでさあ。おまけに、あんたが約束を守れるってことも、奴らにゃ信じられねえんですから。」
「うん、そうだろう。」と先生が言った。「お前は約束を守れる人間だよ。それは私たちも知ってるさ。」
 さて、それがその三人の海賊について私たちの得たほとんど最後の消息であった。ただ一度だけ私たちはずっと遠くで一発の銃声を聞き、彼等が猟をしているのだろうと推測した。会議が開かれて、彼等を島に棄てて行かねばならぬということにきまった。――これにはべン・ガンが非常に喜んだし、グレーが大いに賛成したということは、言っておかねばならない。私たちは、かなり多くの火薬と弾丸と、塩漬の山羊の肉の大部分と、数種の薬と、他の幾つかの必要品と、道具類と、衣類と、一枚の余分の帆と、一二尋の綱と、それから医師の特別の希望で煙草の立派な贈物とを、残しておいてやった。
 それがほとんどその島での私たちの最後の行為であった。それ以前に、私たちは宝を船に積み込んでしまい、何かの難儀のあった場合の用意にと十分の水と山羊の肉の残りとを運び入れておいたのだ。そしてついに、或る朝、私たちは、自分たちに思うままに出来るのはほとんどそれだけだったが、錨を揚げ、かつて船長が防柵で掲げてその下で戦ったあの国旗を翻しながら、北浦を出帆した。
 間もなく私たちにわかったことだが、例の三人の奴は私たちの思ったよりも近くで私たちを見ていたに違いない。というのは、瀬戸を抜け出る時には、船は南の岬のごく近くを進まなければならなかったが、その岬の砂の出洲に彼等が三人とも一緒に跪いて、哀願するように両腕を挙げているのが見えたからである。彼等をそんなみじめな有様に残してゆくのは、私たちみんなに憐みの心を起させたと私は思う。けれども私たちはまた暴動の起るような危険を冒すことは出来なかったし、それに彼等を国へつれて帰って絞首台に送るのは親切が却って仇になるようなものであったろう。医師は彼等に声をかけて、食糧品を残しておいてやったことと、それがどこにあるかということとを知らせてやった。しかし、彼等はやはり私たちの名を呼び続けて、後生ですからお慈悲にこんな処に残して行って死なせないで下さいと哀訴していた。
 とうとう、船がなおもその針路を続けて、今では声の届かないところへずんずん進んでいるのを見ると、その中の一人――どの男だったかわからない――が嗄《しゃが》れた叫び声をあげながら跳び立って、銃を肩にあてたかと思うと、一発ぶっ放した。その弾丸はシルヴァーの頭上を越え大檣帆《メーンスル》を貫いてぴゅうっと飛んで行った。
 その後は、私たちは舷檣の蔭に隠れていたが、その次に私が顔を出して見た時には彼等はもう出洲から姿を消してしまっていて、その出洲さえも次第に遠ざかってほとんど見えなくなっていた。それが、とにかく、そのことの終りだった。そして正午前には、私の何とも言えぬほど嬉しかったことには、宝島の一番高い岩までが青い水平線の下に没してしまった。
 私たちは人員がひどく足りなかったので、船中の者はだれも彼も働かなければならなかった。――ただ船長だけは船尾に敷いた敷蒲団《マットレス》に横って命令を下していた。よほど恢復してはいたけれども、まだ安静を要したからである。私たちはスペイン領アメリカ(註八五)[#「(註八五)」は行右小書き]にある一番近い港に船首を向けた。それは新手《あらて》の水夫がなしに帰航するという危険を冒すことは出来なかったからだ。ところが今はまだそれがなかったものだから、方向不定の風が吹いたり疾強風が二度も吹いて来たりして、そこへ着かないうちに私たちは皆へとへとに疲れてしまった。
 ちょうど日没の頃に、船は陸地に囲まれた実に美しい湾内に投錨した。するとすぐに、海岸から黒人やメキシコ・インド人や混血人《あいのこ》などの一杯に乗っている小舟が周囲に漕ぎ寄せて来て、果物や野菜を売りつけたり、海の中へ小銭を投げて貰って潜って取らせてほしいと言ったりした。そんなにたくさんのにこにこした愛嬌のある顔(ことに黒人)や、熱帯の果物の香味や、とりわけ、町にともれ始めた灯影は、あの島に滞在していた間の陰惨な血腥い、いろいろな事と対照して、まったく恍惚とさせるほどであった。先生と大地主さんとは、私をつれて、宵の口を陸で過そうと上陸した。ところが、そこで二人はイギリス軍艦の艦長に逢って、その人と話しこみ、その人の軍艦へ一緒に行き、短く言えば、非常に愉快で時の移るのも忘れてしまったので、私たちがヒスパニオーラ号の舷側《ふなばた》に帰って来た時には夜がもう明けかかっていたのであった。
 ベン・ガンがただ一人で甲板にいたが、私たちが船に上るや否や、馬鹿に体を捩りながら、私たちに白状をし始めた。シルヴァーが逃げたのだ。数時間前に彼が岸からやって来た小舟に乗って逃げ出すのを、その置去り人は見て見ぬ振りをしていたのであった。そして今、彼は、そうしたのはただ私たちの命《いのち》を救いたかったためで、もし「あの一本脚の男が船に残ってた」なら、私たちの命はきっとなくなったろう、と断言した。しかし、それだけではなかった。料理番《コック》は空手《からて》では行かなかった。彼はだれも気づかない間に隔壁を切り抜いて、多分三四百ギニーくらい入っている貨幣の嚢を一つ、これから先の放浪の用意にと、持って行ったのである。
 それくらいの廉い金で彼を厄介払いしたことを皆は喜んだと私は思う。
 さて、かいつまんで話せば、私たちはその港で数人の船員を雇い入れて、無事に帰航を続け、ヒスパニオーラ号がブリストルに到着したのは、ちょうどブランドリーさんが伴船の準備をしようと考えかけていた時であった。出帆した時に乗っていた人々で船と一緒に戻って来たのは五人だけだった。まさしく、「残りの奴は酒と悪魔が片附けた」のだ。もっとも、確かに、私たちは、あの悔賊どもの歌った――


「七十五人で船出をしたが、
 生き残ったはただ一人《ひとり》。

というその船ほどのひどい目には遭わなかった訳であるが。
 私たちは皆、その宝をたっぷり分けて貰って、銘々の性質に従って、利口にか愚かにか使った。スモレット船長は今では海上生活を止《や》めている。グレーは自分の貰った金を貯蓄したばかりではなく、急に立身したいという望みを起して、自分の本職を勉強した。そして今では立派な全帆装船の副船長でその共同所有者の一人になっている。それに結婚もして、子供もある。ベン・ガンはと言うと、彼は千ポンド貰ったのであるが、それを三週間で使い果すか無くするかしてしまった。いや、もっと正確に言えば、十九日間でだ。なぜなら、二十日目にはまた金を貰いにやって来たのだから。それから、彼は、まさしく島で懸念していた通りに、門番にして貰った。今でもやはり生きていて、多少馬鹿にされてはいるが、村の子供たちに非常に好かれていて、日曜日や聖徒祭日には教会での名うての唱歌者になってある。
 シルヴァーのことは、私たちはあれから消息を聞いたことがない。あの恐しい一本脚の船乗はとうとう私の生涯からすっかり消え失せてしまった。しかし、恐らく彼は黒人の細君にめぐり逢って、多分まだその細君やフリント船長と一緒に安楽に暮していることだろう。そうであってほしいものと思う。というのは、あの世では彼の安楽になれる見込はごく少いのだから。
 銀の棒と武器(註八六)[#「(註八六)」は行右小書き]とは、私にはよくわからぬけれども、多分、フリントの埋めた処にまだあるのだろう。そして確かにそこにあろうがどうだろうが私の構ったことではない。牛と荷馬車の綱とでひっぱられようとも、私はあの呪われた島へはもう二度と行かないつもりだ。そして今でも私のみる一番の悪夢は、あの島の岸にどどうっと打ち寄せている波の音を聞く時か、または、「八銀貨! 八銀貨!」というフリント船長の鋭い声が耳の中に鳴り響いて、寝床の中でがばと跳び起きる時なのである。
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〔買うのを躊躇する人に〕

一 キングストンや、…………クーパー。――「キングストン」はウィリヤム・ヘンリー・ジャイルズ・キングストン(一八一四―一八八○)。「勇者バランタイン」はロバート・マイケル・バランタイン(一八二五―一八九四)。共にイギリスの少年文学の作者である。「森と波とのクーパー」はアメリカの小説家ジェームズ・フェニモー・クーパー(一七八九―一八五一)をさす。未開拓時代のアメリカ大陸を描いた五部作、及び海洋文学をもって有名であり、それらの作品は少年の読物としても喜ばれている。二行後の「それらの人や彼等の創造物」とは、これらの作家やその作中人物のことである。前節の「置去り人」については、本文の第十五章に説明されている。
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〔第一篇 老海賊〕
二 「ベンボー提督屋」。 ――ジョン・ベンボー(一六五三―一七〇二)という十七世紀末のイギリスの有名な提督の名を屋号にし、その肖像を看板にしている宿屋である。なお、この宿屋は居酒屋も兼ねているのである。
三 船員衣類箱。 ――船員が航海中に衣類その他の所持品を入れる木製の箱。船の水夫部屋の舷側にぴったり嵌るように、普通は、側が少し傾斜して、底よりも蓋の方が小さくなっている。
四 弁髪が…………。 ――往時の水夫は短い弁髪を下げていた。
五 「死人箱にゃあ…………」。――西インドの海賊のことを歌った唄の最初の二行である。第二行は畳句《リフレーン》になっている。「死人箱」というのは西インド諸島中の一つの小島の名。海賊船がその死人箱島に乗り上げた時に助かったのは僅か十五人の海賊とラム酒が少しとだけであったという。それからこの畳句が出ているのであって、畳句の方は唄の本筋には無関係なのである。第一行を水夫長が歌うと、第二行の畳句を水夫たちが合唱して、「よいこらさあ」の「さあ」に当るところで、力を合せて、錨を捲き揚げる絞盤の梃《てこ》を[#「梃《てこ》を」は底本では「挺を」]ぐいと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、次にまた水夫長が歌い、合唱がそれに続くのである。
六 駅逓馬車。――宿駅と宿駅との間を定期に往復する乗合馬車。鉄道が出来る前の主要な交通機関であった。
七 ブリストル。――ブリストルはこの物語の時代にはイギリスでの第二の大きな海港であった。
八 板歩かせ。――舷から海へ突き出した板を眼隠しして歩かせ、海中へ陥って溺死させることで、十七八世紀頃に海賊が彼等の捕虜を殺すために用いた方法である。
九 ドゥライ・トーテューガズ。――メキシコ湾のフロリダ半島の南方の海上にある一群の珊瑚礁。
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一○ スペイン海。――住時、南アメリカの北岸のカリブ海に面した地方一帯の海を漠然と指した名称。スペイン本国と当時のスペイン領アメリカとの航路に当り、昔盛んに海賊が出没した。
一一 両手を揉み絞る。――苦しみ、悲しみ、悶えの時などの身振り。
一二 髪粉。――この頃の紳士は仮髪《かつら》をつけていたので、その仮髪にふりかける粉のこと。
一三 彎刀。――この頃の船乗のよく持っていた、重い、彎曲した刀。
一四 ぶらんこ。――「ぶらこん往生」、すなわち絞殺、絞刑のこと。
一五 刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]針を取って…………。――昔の医術に、刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]と言って、血管を刺して血を出す療法があったのである。
一六 黒犬なんぞは…………。――英語の「黒犬《ブラック・ドッグ》」という語は「不機嫌」という意味でもあり、「黒犬を背負う」は「不機嫌である」、「機嫌が悪い」ということを意味する。その意味を使った洒落である。
一七 聖書に書いてある…………。――新約全書使徒行伝第一章第二十五節に「すでに、ユダは此つとめを離れて其住くべき処に往きたり。」とある。「聖書に書いてあるあの男」はこのイスカリオテのユダをさし、「往くべき処」は地獄のことである。
一八 サヴァナ。――北アメリカの大西洋岸にある港。今の合衆国のジョージア州にある。
一九 ダブルーン金貨や、…………。――「ダブルーン金貨」は往時のスペインの金貨。「ルイドール金貨」はルイ十三世時代に初めて鋳造されて大革命まで通用していたフランスの金貨。「ギニー金貨」は十七世紀後葉から十九世紀初葉まで流通していたイギリスの金貨。「八銀貨」は表に8R(八レーアルの意味)の字を記《しる》してあるスペインの古銀貨である。この物語は冒頭に書いてあるように一七――年代のことであるから、当時はこれらの貨幣が流通していたのであるが、ギニー金貸以外は外国の貨幣であるから、勘定が出来ないのである。
二○ ジョージ金貨。――当時流通していた聖ジョージの像を刻したイギリスの貨幣。
二一 嗅塩。――婦人などに用うる鼻で嗅がせる気附薬。
二二 黒髯。――本名エドワード・ティーチ。スペイン海を荒し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った残忍不敵な有名な海賊。
二三 トゥリニダッド。――西インド諸島中の最南の島。スペイン海にある。
二四 スペイン港。――トゥリニダッド島の首都。
二五 パーム礁島。――北アメリカのフロリダ半島の西海岸にある島。タムパ港を湾内に有するタムパ湾の入口にある。
二六 カラカス。――南アメリカのヴュネズエラの首府。
二七 とっくの昔に珊瑚に…………。――人間が海に沈んで死ぬと骨が珊瑚になると昔は考えられていたからである。
二八 島の地図。――巻頭の地図参照。なお、第三篇以後においては物語の進行に従い必要に応じてこの地図を屡々参照のこと。
二九 一ポイント。――羅針盤の周囲の三十二分の一。すなわち直角の八分の一の角度。
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〔第二篇 船の料理番〕
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三○ スクーナー船。――縦帆式帆装の帆船。時には四檣または五檣のものもあるが、普通二檣あるいは三檣である。帆が縦帆式であることは特に第五篇のために記憶されること。
三一 ホーク。――イギリスの有名な提督エドワード・ホーク(一七〇五―一七八一)のこと。一七四七年と一七五九年とにフランスの艦隊と戦って破ったことがある。
三二 水夫らが揚錨絞盤の周りを…………歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。――すなわち、絞盤を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して錨を捲き揚げ、出帆すること。
三三 悪しき者虐遇を息める処。――冥土のこと。旧約全書ヨブ記第三章第十七節に「彼処《かしこ》にては悪しき者虐遇を息め、倦み憊れたる者|安息《やすみ》を得。」とある。
三四 ※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖。――跛者などが腋の下にあてて歩くに用うる丁字形の杖。撞木杖。
三五 三孔滑車。――船で静索や支索を張ったりその他の目的に用いる締索を通す三箇の孔のあいている滑車。円くて、孔が三つついているので、顔を罵って三孔滑車かと言ったのであろう。因に、これらの船乗たちはその会話に頻りに海語を用いている。
三六 船底潜らせ。――長い索でたぐって一舷から他舷へ、または船首から船尾へ、船底の水を潜り越させる刑罰のこと。往時イギリスやオランダの海軍で一種の懲罰として重罪人に科したものである。
三七 中央刑事裁判所。――ロンドンの往時の有名な裁判所。
三八 ボー街。――一七四九年に建てられたロンドンの有名な警察裁判所のある街の名。
三九 一クォート。――一ガロンの四分の一。わが六合余。
四○ 封緘命令。――或る時期まで、または船艦などが或る地点に達するまでは、開封すべからざる命令。その時期またはその場所に到って初めて開封して任務を知るのである。
四一 円材。――船では檣、桁、防材などをいう。
四二 肉焼き台。――大きな肉をのせて焙る鉄製の枠のこと。料理室で使うものであるから、それを料理番のジョン・シルヴァーの綽名にしたのである。
四三 イングランド船長。――実在した有名な海賊、ネッド・イングランドのこと。
四四 マダガスカルにも…………。――マダガスカル島は往時インド洋の海賊が根拠地とした島。マラバーはインド南西の海岸、スリナムはオランダ領ギアナのこと、プロヴィデンスはカリブ海にある島、ポートベローはパナマ地峡の北岸にあった港、いずれも昔海賊に荒された土地であった。
四五 ゴア。――インドの西海岸にあるポルトガルの植民地。
四六 頤を突き出す。――怒った時の態度。
四七 コーリー要塞。――アフリカの黄金海岸にあったイギリスの要塞。
四八 ロバーツ。――海賊バーソロミュー・ロバーツのこと。最後に軍艦と戦闘して死んだ。
四九 デーヴィス。――海賊ハウエル・デーヴィスのこと。大胆無類の海賊だったが、部下の一人に殺された。前のロバーツはこの男の後継指揮者であった。
五○ 何百ファージングの代りに何百ポンドと…………。――一ファージングは四分の一ペニーという小額であり、一ポンドは二十シリング、一シリングは十二ペンスであるから、ポンドはファージングの約一千倍近くに当るのである。
五一 「分限紳士」というのは…………。――海賊は、掏摸やこそ泥や普通の強盗などを軽蔑して、自分たちを戯れに「分限紳士」と称していたのである。
五二 仕置波止場。――テムズ河のロンドンの披止場にあった、海賊どもが鎖で絞殺されて日に曝された仕置場。
五三 キッド船長。――有名な海賊ウィリヤム・キッド。彼は後にボストンで捕えられてイギリスへ送られ、一七〇一年にロンドンの仕置波止場で絞殺された。
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〔第三篇 私の海岸の冒険〕
五四 高潮線。――海浜に残る高潮すなわち満潮の跡。
五五 投銭戯。――小銭を投げて穴の中へ入ったものな取る子供のやる賭戯。
五六 闘い、殺害、不意の死。――イギリス教会公定祈祷書の中にある文句である。

〔第四篇 柵壁〕
五七 三点鐘。――船では、定刻を報ずるに、零時半に時鐘を一点打ち、二時に二点打ち、以下半時間毎に一点ずつ加えて打ち、八点に至ると、当直の交代時間となり、また一点に返るのである。故に、四時、八時、十二時が八点鐘の時刻であり、一時半は三点鐘である。
五八 「リリバリアロー」。――一六八六年頃に作られたアイルランドの旧教徒を諷刺嘲笑した政治的歌謡。「リアロー、リアロー、リリ・バリアロー」云々という畳句《リフレーン》があるのである。一六八八年の革命の勃発に与《あずか》って力があったと言われ、革命の間及びその後にイングランド中で非常に流行し、軍隊や人民に盛んに歌われた。
五九 カムバランド公爵。――ジョージ二世の第三子、イギリスの将軍であるウィリヤム・オーガスタス(一七二一――一七六五)。
六○ フォンテノイ。――あるいはフォントノア。ベルギーの村。ここで、一七四五年五月十一日、カムバランド公の率いたイギリス、オランダ、オーストリアの聯合軍五万が、フランス軍七万と戦って敗れた。両軍の死傷はすこぶる多大であったと伝へられている。
六一 詰開き。――航海用語で、帆船が出来るだけ風上に向って帆を揚げ、風の来る方に近く帆走し上ること。ここでは船長がその語を比喩的に用いたのである。
六二 海賊旗。――黒地に白く頭蓋骨と二つの交叉した大腿骨とを染め抜いた海賊の旗。
六三 半潮。――満潮と干潮との中間。
六四 パルマ・チーズ。――パルマはイタリー北部にある州で、その地方で製するチーズは古くから有名であった。
六五 「いざ、乙女よ、若人よ。」――イギリスの昔の歌謡。
六六 口笛を吹いて風を呼ぶ。――凪《なぎ》の時には口笛を吹けば風が吹き出すという船乗の迷信があったのである。

〔第五篇 私の海の冒険〕
六七 両櫂。――訳語がないので仮にこう訳しておく。両端に水掻の扁平部がある櫂で、舟の左右両側で交々水を掻くのである。
六八 革舟。――木の骨組に獣皮を張って造った原始的な小舟。今日でもウェールズ、アイルランド、フランスなどの河川湖水で漁夫が用いる。ごく軽くて背負って遊ぶことが出来るのである。
六九 淦。――舟底のたまり水。
七○ 南の方へ。――これは原作者の誤りであろう。「北の方へ」でなければならない。
七一 一ジル。――一クォートの八分の一。わが約八勺。一合近くの量。
七二 間切る。――帆船が風上に向って進む時の言葉で両舷を代る代る風にあてて風上に向って電光形の航路で進行することをいう。この時は南風だから、北の岬を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってそこから北浦まで南の方へ帆走するには、間切らなければならないのである。
七三 北東の角。――この「北東」の語は妥当ではない。「北西」の誤りであるかも知れない。でなければ「北の岬の北東の角」の意味であろう。
七四 ようそろ。――船の向が現在のままでよしという意味を舵手に伝へる命令の言葉。
七五 横静索。――檣を左右側方に支持するために檣頭から両舷へ張ってある静索。

〔第六篇 シルヴァー船長〕
七六 折半直。――船では甲板当直は四時間交代であるが、午後四時から八時までは折半されて二時間交代に行われる。その間を折半直という。朝には折半直はないのだから、この語は原作者の誤りであろう。
七七 仕立屋が手前たちに相応の商売。――イギリスでは「仕立屋は九人で男一人前」という諺もあって、仕立屋が男らしからぬ商売として軽蔑されていたのである。
七八 クラウン貨幣。――王冠を刻した貨幣。銀貨で五シリングの価格であるから、相当大きなものである。直径一寸三分くらいもあった。
七九 「犬および殺人者は外に居るなり」。――聖書の最後の頁にあるヨハネ黙示録第二十二章第十五節の中にある句。
八○ 諺にもあります通り、食物にありつくのは…………。――「早起きの鳥は虫を捕える」という諺があるのである。わが国の「早起き三文の得」の意味の諺。
八一 船荷の宰領。――商船の航海中船荷の上に乗り添うて守り送る人。上乗《うわのり》とも言う。
八二 肩をすくめる。――軽蔑、冷淡、不快などの身振り。
八三 死んだ人たちが磨石のように…………。――新約全書マタイ伝第十八章第六節の中に「磨石をその頸に懸けられて海の深みに沈められん方‥‥」云々とある句から言ったのである。
八四 ダブル・ギニー金貨、…………。――「ダブル・ギニー金貨」は四十二シリングに当るイギリスの昔の金貨。「モイドー金貨はポルトガルの往時の金貨。「セクィン金貨」は昔のヴェニス共和国の金貨。
八五 スペイン領アメリカ。――往時、中央アメリカ及び南アメリカには、現在の諸国の独立する以前に、広大なスペイン領があった。現今でもそれらの地方ではスペイン語が行われている。
八六 銀の棒と武器と。――第六章「船長の書類」の中にある地図の裏の文句参照。
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底本:「宝島」岩波文庫、岩波書店
   1935(昭和10)年10月30日初版第1刷発行
   1956(昭和31)年6月30日第17刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「亦→また、既に→すでに、於いて→おいて、於ける→おける、甚だ→はなはだ、以て→もって、殆ど→ほとんど、度々→たびたび、漸く→ようやく、極く→ごく、傍→そば、暫く→しばらく、直ぐ→すぐ、真直→まっすぐ、何故→なぜ、殊に→ことに、更に→さらに、尤も→もっとも、勿論→もちろん、益々→ますます、猶→なお、早速→さっそく、遂に→ついに、此処彼処→ここかしこ、彼処→あすこ、尚→なお、所謂→いわゆる、忽ち→たちまち、何処→どこ、彼奴→あいつ、何時→いつ、苟も→いやしくも、悉く→ことごとく、如何→いか、尚更→なおさら、筈→はず、誰→だれ、頗る→すこぶる、即ち→すなわち、咄嗟→とっさ、全く→まったく、著→着、ハンヅ→ハンズ、乃至→ないし、謂わば→いわば、彼方此方→あちこち、此奴→こいつ、駈→駆、差支え→さしつかえ」
※「燈」と「灯」の使い分けは、底本通りです。
※一部、ルビを補いました。
※入力に際しては、「宝島」新潮文庫(佐々木直次郎・稲沢秀夫訳)を参考にしました。
入力:kompass
校正:伊藤時也
2009年8月12日作成
2012年2月23日修正
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佐々木直次郎

宝島—–序–佐々木直次郎

「宝島」はロバート・ルーイス・スティーヴンスン(一八五○―一八九四)の最初の長篇小説であり、彼の出世作であるが、また彼の全作中でも最も高名な名作であることは周知の通りである。紀行文、随筆《エッセー》、短篇小説などにおける彼の数年間の文筆生活の後に、一八八一年の九月、スコットランドのブレーマーでの療養中に書き始められた。作者自身の記すところによれば、彼が或る日彼の妻の連子である少年ロイド・オズバンのために空想で描いて与えた一枚の島の地図がその起源であったという。この地図にスティーヴンスンは想像力を刺激され、島を宝島と名づけて、それによってこの海賊と宝との物語を組立て、その少年を唯一人の聴き手として書き始めたのであるが、燈台技師であった作者の父トマス・スティーヴンスンもまたやがてその聴き手に加わった。かくしてこの小説はすでに最初から少年のみならず成人あるいは老人をも読者に有したと言い得るかも知れない。トマスは熱心な聴き手となって、作中のビリー・ボーンズの衣類箱が探される時にはその中にある種々の品物を挙げ、またフリントの船の名を「海象《ウオルラス》号」とつけたのも彼であった。こうして初めの十五章が書き上げられたが、当時は作の表題は「船の料理番《コック》」であった。それによっても察せられるように、本篇における最も重要な人物はヒスパニオーラ号の料理番として現れるジョン・シルヴァーなのである。スティーヴンスンは毎夕食後家族のためにこの物語を読み続けていたが、偶々アレグザーンダー・ジャップという人が訪れてその仲間に入り、この話にはなはだ興味を感じて、帰る時に最初の数章の原稿を持ち去り、それを友人である少年新聞「ヤング・フォークス紙」の編輯者ジェームズ・ヘンダスンに送った。間もなくこの作は同紙上に連載され始めた。題名を「宝島」と改めたのはヘンダスンである。しかし、第十五章の次で作者は恐らく行詰りを感じたのであろう、一度執筆を放棄したが、その冬を越すためにスウィスの保養地ダーヴォスに赴いてから、再びこの作のペンを執り上げ、物語の書き手を主人公ジム・ホーキンズから一時的に医師リヴジーに移して書き継ぎ、逐に最後の章まで完成させた。「ヤング・フォークス紙」には一八八一年の十月上旬から翌年の一月下旬までにわたって掲載され、その発表当時には批評家の注目をも惹かず、世評にも上らなかったが、一八八三年十二月に単行本として出版されるに至って、世人に歓喜をもって迎えられ、啻《ただ》に少年のみならず、政治家、法律家などに至るまでも耽読されたと言われ、スティーヴンスンの名声を初めて高めたのであった。それ以来今日まで引続いて広く読まれていると共に、また文学史上においても確乎たる古典的地位を贏《か》ち得ているのである。
「宝島」は洵《まこと》に少年文学であると同時に成人をも十分に愉しませ得る小説であり、大衆文学であると同時に文学に対して最も優れた理解力と鑑賞力とを有する人々にも愛読され得る作品である。この作が凡百の軽文学を遥かに抜いているのは、全篇の構成から措辞の末に至るまでに滲透している作者の芸術的感覚と手腕とによってであろう。スティーヴンスンがイギリス文学中有数の文章家《スタイリスト》であることは已に人の知るところであるが、本篇における彼の小説的技術もまた極めて高度のものであることは認めざるを得ない。ただ、第十六章から三章だけの書き手が異っていることは全体としては幾分の技術的欠陥とも言い得られぬではない。しかし、それらの章もそれ自身としては完全な効果を収めており、また通読に際して不自然ないしは不調和の感をほとんど与えない。この作にあってはスティーヴンスンの作家的短所は影を潜め、長所は遺憾なく発揮されている。事件、情景等の叙述、描写の比類少き巧みさは、恐らくすべての読者の直ちに気づくところであろう。全篇にわたって、脳裡に残る傑れた場面はかなり多くを挙げることが出来る。あるいは、全三十四章が印象的な場面のほとんど連続である。しかも、少年ジム・ホーキンズ、その母、老海賊ビリー・ボーンズ、医師リヴジー、海賊|黒犬《ブラック・ドッグ》、盲人ピュー、大地主トゥリローニー、船長スモレット、島の男ベン・ガン、舵手イズレール・ハンズ、船員ディック・ジョンソン、その他作中諸人物は各それぞれの明確さと自然さとをもって描かれているが、特に評家の最も讃歎するのは、隻脚の海賊ジョン・シルヴァーの性格創造である。この快活、饒舌、柔和、慇懃、陰険、横柄、勇敢、残忍、聡慧、雄弁、剛胆、狡猾――端倪すべからざる人物は、実に溌剌として紙上に躍っているのが見られるであろう。

   一九三五年十月

 佐々木直次郎

底本:「宝島」岩波文庫、岩波書店
   1935(昭和10)年10月30日初版第1刷発行
   1956(昭和31)年6月30日第17刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「亦→また、既に→すでに、甚だ→はなはだ、以て→もって、乃至→ないし、殆ど→ほとんど」
※底本で「灯」と使い分けられているは「燈」は、新字には改めませんでした。
※一部、ルビを補いました。
※入力に際しては、「宝島」新潮文庫(佐々木直次郎・稲沢秀夫訳)を参考にしました。
入力:kompass
校正:伊藤時也
2009年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木直次郎

二都物語 上巻 チャールズ・ディッケンズ——-佐々木直次郎訳

     序

「二都物語」はチャールズ・ディッケンズ(一八一二―一八七〇)の一八五九年の作である。すなわちこの巨匠が数え年四十八歳の時の作である。作者は一八三六年に諧謔小説「ピックウィク倶楽部」によって一躍ウォールター・スコット以後のイギリス随一の流行作家となり、以来「オリヴァー・トゥウィスト」、「ニコラス・ニックルビー」、「骨董店」、「バーナビー・ラッジ」、「マーティン・チャッズルウィット」、「ドムビー父子」、「デーヴィッド・コッパフィールド」、「物淋しい家」、「小さなドリット」等の諸大作その他の作品を発表して、既に、当時全ヨーロッパにおける最も高名な小説家の一人であり、その名声のみならず文学的手腕においても彼の高潮に達していたのであった。「二都物語」の作者自身の緒言に記されているように、彼がこの作の主要な観念を思い付いたのは彼の年少の友人ウィルキー・コリンズの劇を演じていた時であって、それは一八五七年の夏のことであった。しかし、その思付きはただごく漠然たるものであり、当時は家庭的不和のためにはなはだしく心を苦しめられていて、ただちにそれの具体化に著手することが出来なかったが、やがて、フランス革命を背景としてその観念を中心に一の物語を創作することとし、慎重綿密にその考案、準備、構想を進めたらしい。翌五八年の一月末には、彼の親友であり後に彼の伝記作者となったジョン・フォースターに宛てた書簡の中で、「いつかは」というその物語の標題を報じており、更に同年三月には「生埋《いきう》め」、「黄金《こがね》の糸」、「ボーヴェーの医師」という標題を挙げている。また、書かれた正確な年月は不明であるが、一八五五年から書き始めた彼の覚書帳《メモランダム》の中には、この作について、「二つの時期――フランスの劇のように間に時の推移のある――にわたる物語については如何? そういう思付きのための標題。時! 森の木の葉。散らばった木の葉。偉大な車輪。※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って。古い木の葉。ずっと以前に。遠く離れて。落葉。二十五年。何年も何年も。過ぎ去る歳月。毎日毎日。伐り倒された樹。記憶のカートン。やくざ者。二つの世代。」とあり、他に、この作の主要人物である獅子の豺《やまいぬ》としてのカートンと、同じく作中人物のクランチャー夫妻とについての萠芽的な思付きが記されている。しかし、五八年の五月にはディッケンズは妻のキャサリンと遂に合意の別居をすることとなり、また同年から彼の自作朗読会を始めたので、その年もその制作に没頭することが出来ず、翌五九年の三月に至ってようやく「二都物語」と現在の標題が決定され、「ハウスホールド・ワーヅ誌」に代って創刊された同じく彼自身の主宰する週刊雑誌「オール・ジ・イア・ラウンド誌」上に、その第一号すなわち四月三十日号から同年の十一月二十六日号までにわたって連載されたのである。かつ、同年六月から十二月までにわたってチャップマン・アンド・ホール社から作者の他の諸長篇と同様に月刊分冊で逐次出版され、ただちに巨万の読者に迎えられた。これは八分冊に分れ、各分冊に「ピックウィク倶楽部」の挿画以来フィズの名で知られたハブロット・ブラウンの挿画が二葉ずつ入り、第六分冊までは定価各一シリング、最後の第七第八分冊は合本二シリングであって、その最後の分冊に標題紙《タイトルページ》や目次などと共に緒言が附せられた。制作の前及びその間に作者が異常な苦心を重ね努力を払い時日を費したことは彼の手記や書簡などによって窺い知られる。
 本篇の手法に関する意図について、作者は制作中の書簡にこう書いている。「私は、真実に迫った人物、しかし彼等が対話によって自分自身を現すよりも以上に物語そのものが現すべき人物がいて、各章ごとに興味の加わる、画のように叙述した一つの物語[#「画のように叙述した一つの物語」に傍点]を作るこの小さな仕事に専心している。他の言葉で言えば、(中略)人物を出来事それ自身の臼の中で搗き砕き、その人物から彼等の興味を打ち出して、出来事の物語を書くことが出来ると思ったのである。」
 フランス革命に取材したことについては、作者が年来絶えず繰返して読み、決して厭きることのなかった、トマス・カーライルの名著「フランス革命史」に負うところが極めて多かった。この物語の文体、思想等についても、カーライルの影響を示しているところが見られる。なお、作者が制作の準備中に知人であるカーライルに自分の目的に役立ちそうな数冊の参考書の借用を請うたところ、カーライルはただちに荷車二台に満載したフランス革命に関する文献をディッケンズの邸宅に送り届けたという。
「二都物語」は「バーナビー・ラッジ」に次ぐディッケンズの第二の歴史小説であり、また彼の最後の歴史小説である。歴史小説と言っても、時代を過去に採り、背景を歴史的事件に求めただけであって、登場する人物はことごとく非歴史的人物であり、作者自身の純然たる創造になる人物のみである。本篇の主人公である、自己犠牲的な深い愛によって進んで断頭台の下に立つ弁護士シドニー・カートンは、疑いもなく近代小説の群像中でも最も魅力ある性格の一であるに違いない。その他、その正義感のために暴虐な貴族の手によってバスティーユ牢獄に投獄され、十八年間監禁されていた医師アレクサーンドル・マネット、その娘リューシー・マネット、フランスの貴族の地位と財産とを自ら抛棄してイギリスで自活するシャルル・エヴレモンド、その叔父サン・テヴレモンド侯爵、パリーの酒店の主人であり革命党員であるエルネスト・ドファルジュ、その妻テレーズ・ドファルジュ、銀行員ジャーヴィス・ロリー、弁護士ストライヴァー、走使いクランチャー、家政婦プロス等の諸人物は、いずれも、円熟した大作家にふさわしい手腕で鮮かに創造されている。そして、これらの人物が、フランス大革命の前及びその間の時代を背景とし、イギリス及びフランスの両国、主としてロンドンとパリーとの二都を舞台として演ずる劇的な物語は、実に津々たる興味にみちているのである。ある意味ではまさしく歴史小説であるよりも以上に伝奇小説《ロマンス》であるかもしれない。
 また、この作はディッケンズの全作中において特異な地位を占めるものである。「ピックウィク倶楽部」以下彼の諸長篇の大部分にあっては、殊に前半期の多くの作にあっては、筋《プロット》はあまり顧慮ないしは重視されず、誇張して言えば全篇が挿話の連続であり、豊かな興味は主として作中諸人物の滑稽感《ヒューマー》や哀感《ペーソス》に集中しているのが普通であるに対して、本篇では、筋《プロット》は完全に首尾一貫し、全体の構成がはなはだ緊密であり、作中諸人物はことごとく物語の進展に関与し、物語は巧みな戯曲的展開をもって章を逐うて最後の不可避的な結末に至る。すなわち、その人物以上に事件の進展に読者の感興が惹かれる。他の諸大作よりも量において小であり、人物の数も比較的に少く、全体的に極めて圧縮されていることもまた、この作の顕著な一特質である。
 外面的にはディッケンズの最大の特徴である諧謔《ヒューマー》は、本篇にあっては題材の性質上著しく抑制されている。しかしそれは全然影を潜めているのではなく、この作の処々に現れて微妙な効果を収めていることは、細心な読者には容易に認め得るところである。
 その異常な題材、印象的な人物、劇的な事件、巧緻な手法、等、等によって、この物語はあらゆる読者を深く愉しませるのみならず、また、終りの方に表現されているその主要観念は、愛や人生そのものについて考えさせるものをも含んでいる。
 従来の批評家がディッケンズの他のいかなる作よりもこの作に対する評価について意見を異にし、ある評家は諧謔《ヒューマー》に乏しいこの物語をさほど高く評価せず、また他の評家はこれをこの作家の最も完璧な傑作と激賞し、作者自身もその完成の少し前に本篇を「自分のこれまでに書いた最上の物語」として期待したが、作家が最近の労作を自己の最上の作と考えやすい傾向などをも考慮に入れても、要するに、この「二都物語」が、ディッケンズの代表作とは遠いものであるにせよ、単に彼の力作たるに止まらず、少くとも「デーヴィッド・コッパフィールド」その他と共にこの民衆の作家、小説文学の巨匠の最高傑作の一であり、かつ世界の文学における傑れた一名作であることは、何等の疑いもあり得ない。
 物語は全三巻から成る。第一巻は、一七七五年の秋から冬へかけての数日間のことを取扱い、この物語全曲に対する短い静かな序曲に過ぎない。第二巻は、一七八〇年の三月からフランス革命勃発の三年後すなわち一七九二年の八月に至るまでの十二年間余にわたり、最も変化に富む展開部に当る。第三巻は、一七九二年秋から翌九三年暮までの一年数箇月間、革命の真最中のことであり、荒れ狂う終曲であると共に、全曲の最高潮《クライマクス》である。
 第三巻中の医師マネットの手記によって物語の発端は遠く一七五七年まで遡り、更に第三巻の結末にはシドニー・カートンのそれから数十年後の予想が記され、時代はフランス革命の前後数十年間にわたっているが、この作の姿なき主人公はフランス革命であるとも言い得る。この物語によって読者は絵画的に具象化されたかの革命とその時代とについて歴史書以外の知識と感銘とを得るであろう。その意味で、この小説は、人類の歴史が過去に有した最大の動乱の時代の一であるフランス革命の時代に興味と関心とを有する人々にも読まれるに価するものである。
 訳者の他のすべての飜訳におけると同様に、訳文中に傍点[#「傍点」に傍点]を附してある箇処は、原文においてだいたい強調の意味をもって斜体活字《イタリック》で印刷されている箇処であり、訳文中圏点[#「圏点」に丸傍点]を附してある語は、同じく原文に強調の意味をもって頭文字のみで記されている語である。ダッシュ、句読点、その他については、絶えず数種の底本を対照して適当と考えるところに拠る。
 星標★を附した箇処の語句には巻末に註を附して、主として作品の細部または細部の語句をも正確に理解するに必要なことを記したが、各読者が単にその必要に応じて参照さるべきである。
 同じく巻末に附した解説は、もし読まれるならば、原作の後に読まれることを希望したい。

   一九三六年八月[#地から3字上げ]佐々木直次郎
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     目次
 
 序(訳者)

緒言
第一巻 甦る
 第一章 時代
 第二章 駅逓馬車
 第三章 夜の影
 第四章 準備
 第五章 酒店
 第六章 靴造り
第二巻 黄金の糸
 第一章 五年後
 第二章 観物
 第三章 当外れ
 第四章 祝い
 第五章 豺
 第六章 何百の人々
 第七章 都会における貴族
 第八章 田舎における貴族
 第九章 ゴルゴンの首

  註(訳者)

  解説(訳者)
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    二都物語
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     緒言

 私が自分の子供たちや友人たちと共にウィルキー・コリンズ氏の劇の「凍れる海」を演じていた時に、私は初めてこの物語の主要な観念を思い付いたのである★。その観念を自分自身で具体化してみたいという強い欲望が、その時私に起った。それで私は自分の空想の裡《うち》で特別の注意と感興とをもってそれを追究したが、空想裡ではそれは烱眼な観客に対しての上演を必要ならしめたのであった。
 その観念が私の心に親しくなって来るにつれて、それは次第次第にそれの現在の形体になって来た。その制作の間を通じて、それは私を完全に捉えていた。私は、これらの頁の中になされかつ感じられているところのことを、自分ですべて確かになしかつ感じたくらいにまで、それらを実感したのである★。
 かの大革命の前ないしはその間におけるフランスの人民の状態についてここに何等かの言及(いかにわずかなものであろうとも)がなされている時にはいつでも、それは、真に、最も信頼するに足る証拠に基いてなされているのである。カーライル氏の驚歎すべき書物★の哲学に何かを附け加えるということは何人にも望むことが出来ないけれども、あの怖しい時代についての一般の絵画的な理解の手段に何ものかを附け加えたいというのは私の希望の一つであったのである。

     ロンドン、タヴィストック館★にて、 一八五九年十一月。
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    第一巻 甦《よみがえ》る
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    第一章 時代

 それはすべての時世の中で最もよい時世でもあれば、すべての時世の中で最も悪い時世でもあった。叡智の時代でもあれば、痴愚の時代でもあった。信仰の時期でもあれば、懐疑の時期でもあった。光明の時節でもあれば、暗黒の時節でもあった。希望の春でもあれば、絶望の冬でもあった。人々の前にはあらゆるものがあるのでもあれば、人々の前には何一つないのでもあった。人々は皆真直に天国へ行きつつあるのでもあれば、人々は皆真直にその反対の道を行きつつあるのでもあった。――要するに、その時代は、当時の最も口やかましい権威者たちのある者が、善かれ悪しかれ最大級の比較法でのみ解さるべき時代であると主張したほど、現代と似ていたのであった。
 イギリスの玉座には、大きな顎をした国王と不器量な顔をした王妃とがいた。フランスの玉座には、大きな顎をした国王と美しい顔をした王妃とがいた★。どちらの国でも、現世の利得を保持している国家の貴族たちには、天下の形勢が永久に安定しているということは水晶よりも明かなのであった。
 それはキリスト紀元一千七百七十五年のことであった。その恵まれた時代には、現代と同様に、さまざまの心霊的な啓示がイギリスに授けられた★。サウスコット夫人★は彼女の第二十五囘の祝福された誕生日を迎えたばかりであったが、近衛騎兵聯隊の予言者の一兵卒が、ロンドンとウェストミンスター★とを呑み込む手筈が出来ていると言い触らして、彼女の荘厳な出現を先触れしていた。例の雄鶏小路《コック・レーン》の幽霊★でさえ、あの昨年の精霊も(不可思議にも独創力に欠けていて)御託宣《メッセジ》をやはりこつこつと叩いて知らせたように、自分の御託宣《メッセジ》をこつこつと叩いて知らせた後に、鎮められてから、ちょうど十二年たったに過ぎなかった。それとは違って俗世界の出来事であるが、ただの音信《メッセジ》が、つい先頃、アメリカにおける英国臣民の会議から、イギリスの国王ならびに人民宛にやって来た★。不思議なことには、この音信《メッセジ》の方が、これまで雄鶏小路《コック・レーン》のどの雛《ひよっこ》から受け取ったどんな通信よりも、人類にとってもっと重要なものであるということが、後にわかったのである★。
 心霊的な事柄では概して楯と三叉戟との姉妹国★ほどに恵まれていなかったフランスは、紙幣を造ってはそれを使い果して、素晴しい勢で下り坂を転げ落ちていた★。その他《ほか》、キリスト教の牧師たちの指導の下に、フランスは、一人の青年がおおよそ五六十ヤードばかり離れた視界の内を通り過ぎる修道僧たちの穢《きたな》らしい行列に敬意を表するために雨中に跪《ひざまず》かなかったからといって、その青年の両手を切り取り、舌を釘抜《くぎぬき》で引き抜き、体を生きながら焼くように、宣告したりするような慈悲深い仕事をして楽しんでいた。その受難者が死刑に処せられた時に、フランスやノルウェーの森林には、歴史上にも怖しい、嚢と刃物との附いているある動かし得る枠細工★を作るために、伐り倒されて板に挽かれるようにと、運命という樵夫《きこり》が既に印《しるし》をつけておいた樹木が、生い繁っていたのであろう。また、その日には、死という農夫がかの大革命の時の自分の死刑囚護送馬車にするために既に取除けておいた粗末な荷車が、パリー近隣のねとねとした土地を耕している百姓たちのむさくるしい納屋の中に、田野の泥にまみれ、豚に嗅ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]され、禽《とり》どもに塒《とや》にされて、雨露を防いでいたのであろう。しかし、その樵夫《きこり》とその農夫とは、絶えず働いてはいるけれども、黙々として働いているのである。それで、彼等が跫音《あしおと》を忍ばせながら歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っているのを、誰一人として聞きつけはしなかった。彼等が目を覚しているのではなかろうかと疑いを抱くだけでも、無神論者で叛逆者になるというのであったから、それはなおさらのことであったのだ。
 イギリスでは、大層な国民的の自慢ももっともだというだけの秩序や保安は、すこぶる怪しいものだった。武器を携えた連中の大胆不敵な押込強盗や、大道強奪は、首都でさえ毎晩のように行われた。市内の家庭へは、家具を家具商の倉庫に移して安全にしてからでなければ市外へ出てはならぬと、公然とお達しがあった。夜の追剥《おいはぎ》は昼間《ひるま》は本市《シティー》★で商売をしている男であった。そして、「首領《キャプテン》★」の資格で止れと命じた自分の仲間の商人に正体を見破られて詰《なじ》られると、勇ましくその男の頭を射貫《いぬ》いて馬を飛ばして逃げ去った。駅逓馬車★が七人の剽盗に待伏せされ、車掌がその中の三人を射殺したが、「弾薬が欠乏したために」自分も残りの四人に射殺された。その後で駅逓馬車の客は無事安穏に掠奪された。あの素晴らしい勢力家のロンドン市長も、ターナム・グリーン★で一人だけの追剥に立ち止って所持品を渡せとやられたものだった。追剥はその著名な人物を彼の随行員一同の目の前で剥奪したのであった。ロンドンの監獄の囚人が獄吏と戦闘をし、弾丸を籠めた喇叭銃《らっぱじゅう》★が尊厳なる法律によって囚人たちの中へ撃ち込まれたこともあった。盗賊どもが宮廷の引見式で貴族たちの頸から金剛石《ダイヤモンド》の十字架を切り偸んだこともあった。銃兵たちが密輸品を捜索するためにセント・ジャイルジズ★へ入って行くと、暴民が銃兵に発砲し、銃兵が暴民に発砲したこともあった。が、誰一人としてこれらの出来事のどれ一つをも大して変ったこととは考えなかったのである。こうした出来事の最中に、いつも多忙でいつも無益であるよりも有害な絞刑吏は、のべつに用があった。時には、ずらりと並んだいろいろな罪人を片っ端から絞殺したり、時には、火曜日に捕えられた強盗を土曜日に絞首にしたり、時には、ニューゲート★で十二人ずつ手に烙印を押したり、また時には、ウェストミンスター会館《ホール》★の入口のところで小冊子《パンフレット》を焼き棄てたりした。今日《きょう》は、兇悪な殺人者の命《いのち》を取るかと思うと、明日《あす》は、百姓の倅《せがれ》から六ペンスを奪ったけちな小盗の命《いのち》を取ったりした。
 こういうすべての事柄や、これに類した数多《あまた》の事柄が、その親愛なる一千七百七十五年とそのすぐ前後に起っていたのであった。例の樵夫《きこり》と農夫とが誰にも気づかれずに働いていた間、そういう事柄に取巻かれながら、大きな顎をしたあの二人と、不器量な顔と美しい顔をしたあのもう二人とは、すこぶる堂々と歩み、彼等の神授の王権を傲然と携えて行った。こういう風にして、一千七百七十五年は、その王者たちや、無数の微賤な人々――この物語に出て来る人々をもその中に含めて――を導いて、彼等の前に横わる道を進ませたのである。
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    第二章 駅逓馬車

 十一月も晩《おそ》くのある金曜日の夜、この物語と交渉のある人物の中の最初の人の前に横わっていたのは、ドーヴァー街道であった。そのドーヴァー街道は、その人の前にと同じく、シューターズ丘《ヒル》★をがたがたと登ってゆくドーヴァー通いの駅逓馬車の先に横わっているのであった。その人は駅逓馬車の脇に沿うて泥濘の中を阪路を歩いて登っていたのであるが、他の乗客たちもやはりそうしていた。それは、何も彼等がこういう場合に少しでも歩行運動に趣味を持っていたからではなく、その丘も、馬具も、泥濘《ぬかるみ》も、馬車も、みんなひどく厄介なものだったので、馬どもはそれまでにもう三度も立ち停ったし、おまけに一度などは、ブラックヒース★へ馬車を曳き戻そうという反抗的な意思をもって、街道を横切って馬車を牽き曲げたからなのである。しかし、手綱と鞭と馭者と車掌とが、一緒になって、放置しておけば、動物の中には理性を賦与されているものもいるという議論に非常に都合のよくなる目論《もくろみ》を、禁止するところのあの軍律を、読み聞かせた★のだ。それで、馬どもも降参して、彼等の任務をまたやり出したのだった。
 彼等は、頭をうなだれ尾を震わせながら、折々は、四肢の附根《つけね》のところで潰れはしないかと思われるくらいに、足掻《あが》いたり躓《つまず》いたりして、どろどろの泥の中を進んで行った。馭者が、油断なく「どうどう! はい、どうどう!」と言いながら、彼等を立ち止らせて休ませるたびに、左側の先導馬は、いかにも並外れて勢のある馬らしく――頭や頭に附いているすべてのものを激しく振り動かし、こんな丘へこんな馬車を曳き上げるなんてことが出来るものかと言っているようだった。その馬がそういう音を立てるたびごとに、例の旅客は、神経質な旅客ならするように、びくっとして、心がどきどきするのであった。
 谷間という谷間には濛々《もうもう》たる霧がたちこめていた。そして、悪霊のように、安息を求めて得られずに、寄るべなく丘の上へさまよい上っていた。じっとりした、ひどく冷い霧、それが、荒れた海の波のように、目に見えて一つ一つと続いて拡がっている漣《さざなみ》をなして、空中をのろのろと進んで来る。馬車ランプの燃えているのと、その附近の道路の数ヤードとを除いては、何もかもランプの光から遮っているくらいに、濃い霧だった。そして、喘ぎながら曳っぱっている馬の立てる湯気がそれと雑《まじ》り、その霧がみんな馬の吐き出したものかと思われるほどであった。
 例の旅客の他《ほか》に、もう二人の旅客が、その駅逓馬車の脇に沿うて丘をのそりのそりと登っていた。三人とも、耳の上も頬骨のところまでも身をくるんでいて、膝の上までの大長靴を穿いていた。この三人の中の誰一人も、自分の見たことからは、他の二人のどちらかがどういう類《たぐい》の人物であるか言えなかったろう。また、銘々は、自分の二人の道連《みちづれ》の肉眼に対してと同様に、彼等の心眼に対しても、ほとんど同じくらいたくさんのものを纒って自分を隠していた。その頃の旅人は、ちょっと知り合っただけで打解けることをひどく嫌っていたのである。というのは、道中で逢う人間は誰であろうと、それが追剥か、追剥とぐるになっている者であるかもしれなかったからである。その追剥とぐるになっているということなら、何しろ、宿駅★という宿駅、居酒屋という居酒屋には、亭主から一番下っぱの怪しげな厩舎係までにわたって、「首領《キャプテン》」の手当を貰っている者が誰かしらいるという時代では、それはいかにもありそうなことなのだ。そんなことをドーヴァー通いの駅逓馬車の車掌が腹の中で思ったのは、一千七百七十五年の十一月のその金曜日の夜、シューターズ丘《ヒル》をがたがた登りながらのことで、その時、彼は馬車の後部にある自分だけの特別の台に立って、足をどんどんと踏み、自分の前にある武器箱に目と片手とを離さずにいた。その武器箱の中には、彎刀《わんとう》を一番下にして、その上に七八挺の装薬した馬上拳銃が置いてあり、それの上に一挺の装薬した喇叭銃が載せてあったのだ。
 このドーヴァー通いの駅逓馬車は、車掌が乗客を疑《うたぐ》り、乗客たちは相互に疑り車掌を疑り、みんなが他の者を一人残らず疑り、馭者は馬より他《ほか》のものは何も信用しないという、それのいつも通りの和気靄々《わきあいあい》たる有様であった。その馬については、それらがこの旅行には適していないということを、馭者は潔白な良心をもって両聖約書にかけて宣誓することでも出来た。
「どうどう!」と馭者が言った。「はい、どう! もう一度ぐっと曳っぱりゃ、てっぺんだぞ、いまいましい奴め。手前《てめえ》たちをそこまで漕ぎつけさせるにゃあおれあずいぶん骨を折ったからな! ――ジョー!」
「おうい!」と車掌が答えた。
「何時《なんじ》だろうね、ジョー?」
「十一時たっぷり十分過ぎてるよ。」
「驚いたな!」といらいらした馭者は叫んだ。「それでいてまだシューターズのてっぺんへ著けねえんだぜ! ちえっ! やい! そら行け!」
 例の勢のある馬は、断乎としていうことをきかないでいたところへ鞭でぴしりとやられたので、今度は断然と爬《か》き登り出した。すると他の三頭の馬もそれに倣った。もう一度ドーヴァー通いの駅逓馬車はがたごとと動き出し、乗客たちの大長靴もその脇に沿うてぴしゃりぴしゃりと進んで行った。馬車が止る時には彼等は止り、それとぴったりくっついていた。もし、その三人の中の誰でも一人が、他の者に、霧と闇との中へ少し先に歩いて行こうではないかと言い出すような、大胆なことをしようものなら、彼は自分を追剥としてたちどころに射殺されるようにするようなものであったろう。
 最後の疾駆で馬車は丘の頂上に達した。馬はまた息《いき》をつぐために立ち止り、車掌は下りて来て、下り坂の用心に車輪に歯止《はどめ》をかけ、乗客を入れるために馬車の扉《ドア》を開《あ》けた。
「しっ! ジョー!」と馭者は、馭者台から見下しながら、警告するような声で叫んだ。
「何だい、トム?」
 彼等は二人とも耳をすました。
「馬が一匹|緩駈《ゆるがけ》でやって来るぜ、ジョー。」
「いや[#「いや」に傍点]、馬が一匹|疾駈《はやがけ》でだよ、トム。」と車掌は答えて、扉《ドア》を掴んでいる手を放し、自分の席へひらりと跳び乗った。「お客さん方! よろしいですか、皆さん!」
 大急ぎでこう頼むと、彼は喇叭銃に撃鉄をかけ、撃つ身構えをした。
 この物語に既に記載されている例の旅客は、馬車の踏台に乗って、入りかけていた。他の二人の旅客は、彼のすぐ後にいて、続いて入ろうとしていた。彼は、半身を馬車の中に、半身を馬車の外にしたまま、踏台に立ち止った。他の二人は道路の彼の下に立ち止った。彼等三人は馭者から車掌へ、車掌から馭者へと眼をやり、そして耳をすました。馭者は振り返って見、車掌も振り返って見、例の勢のある馬でさえ、逆らいもせずに、耳を欹《そばた》て振り返って見た。
 夜の静かな上に、馬車のがらがらごとごという音が止《や》んだための静けさが加わって、あたりは全くひっそりしてしまった。馬の喘ぐのが伝わって馬車がぶるぶる震動し、ちょうど馬車が胸騒ぎしてでもいるようだった。旅客たちの心臓はおそらく聞き取れそうなくらいに高く鼓動していたろう。とにかく、そのひっそりしている合間は、人々が息を殺し、固唾《かたず》を呑み、何事が起るかと思って動悸を速めている様子を、聞えるほどに表《あらわ》したのであった。
 疾駈《はやがけ》で来る馬の蹄の音が猛烈に丘を上って来た。
「おうい!」と車掌は呶鳴れるだけの大きな声で呼びかけた。「こらあ! 止れ! 撃つぞ!」
 馬の歩みはぴたりと止められた。そして、頻りに泥をはねかす音と足掻《あが》く音がすると共に、霧の中から一人の男の声が聞えて来た。「それあドーヴァー通いの馬車かい?」
「何だろうといらぬお世話だい!」と車掌が言い返した。「お前《めえ》こそ何者だ?」
「それあドーヴァー通いの馬車なの[#「なの」に傍点]かい?」
「どうしてそんなことを知りてえんだ?」
「もしそうなら、わっしはお客さんに用があるんだよ。」
「何というお客さんだい?」
「ジャーヴィス・ロリーさんだ。」
 例の記載ずみの旅客はただちにそれが自分の名前であるということを告げ知らせた。車掌と、馭者と、他の二人の旅客とは、胡散《うさん》そうに彼をじろじろ見た。
「そこにじっとしていろよ。」と車掌が霧の中の声に呼びかけた。「もしおれが間違《まちげ》えをやらかすとなると、そいつあお前《めえ》の生涯中取返しがつかねえんだからな。ロリーって名前のお方、じかに返事してやって下せえ。」
「どうしたのだね?」と、その時、例の旅客は穏かに震えた口振りで尋ねた。「わたしに用があるというのは誰だね? ジェリーかい?」
(「あれがジェリーってえんなら、そのジェリーてえ奴の声が、おれにゃ気にくわねえよ。」と車掌がひとりでぶつぶつ言った。「あいつはおれの気に入らねえほどの嗄《しゃが》れ声をしていやがるよ、あのジェリーはな。」)
「そうですよ、ロリーさん。」
「どうしたのだい?」
「あっちの向うからあなたの後を追っかけて急ぎの書面を持って来ましたんで。T社で。」
「わたしはあの使いの者を知っていますよ、車掌。」とロリー氏は言って、道路へ下りたが、――彼が下りるのを背後から他の二人の旅客は丁寧にというよりは素速く手助けし、その二人はすぐに馬車の中へもぐり込んで、扉《ドア》を閉《し》め、窓も引き上げてしまった。「あの男なら近くへよこしても大丈夫だ。何も間違いはないから。」
「なけりゃいいが、わしにゃあそいつがほんとに信じられねえ。」と車掌が無愛想な独《ひと》り言《ごと》のように言った。「おういおい!」
「よしよし! おうい!」とジェリーは前よりももっと嗄《しゃが》れ声で言った。
「並足で来るんだぞ。いいか? それからもしお前がその鞍にピストル袋をつけてるんなら、手をそいつの近くへやるのをおれに見せねえようにしろよ。何しろおれは間違《まちげ》えをするなあ悪魔みてえに速《はえ》えんだからな。そしておれが間違《まちげ》えをやらかす時にゃ、きっと鉛|弾丸《だま》でやるんだからな。さあ、もうやって来い。」
 一頭の馬と乗手との姿が、渦巻いている霧の中からのろのろと出て来て、例の旅客の立っている、駅逓馬車の脇のところまでやって来た。その乗手は身を屈め、それから、車掌をちらりと仰ぎ見ながら、一枚の小さく折り摺《たた》んだ紙片を旅客に手渡しした。乗手の馬は息を切らしていて、馬も乗手も両方とも、馬の蹄から男の帽子まで、泥まみれになっていた。
「車掌!」と旅客は、平静な事務的な信頼の語調で、言った。
 用心深い車掌は、右手を自分の持ち上げている喇叭銃の台尻に、左手をその銃身にかけ、眼を騎者に注ぎながら、ぶっきらぼうに答えた。「へえ。」
「何も懸念することはない。わたしはテルソン銀行のものだ。ロンドンのテルソン銀行はお前さんも知っているに違いない。わたしは用向でパリーへ行くところなのだ。酒代《さかて》に一クラウン★あげるよ。これを読んでいいね?」
「速くして下さいますんならね、旦那。」
 彼は自分のいる側の馬車ランプの明りの中にそれを開《あ》けて、そして読んだ、――最初は口の中で、次には声を立てて。「『ドーヴァーにて|お嬢さん《マムゼール》を待て。』と。長くはないだろう、ねえ、車掌。ジェリー、こう言ってくれ。わたしの返事は、甦る[#「甦る」に丸傍点]、というのだった、とね。」
 ジェリーは鞍の上でぎょっとした。「そいつあまたとてつもなく奇妙な御返事ですねえ。」と彼は精一杯の嗄《しゃが》れ声で言った。
「その伝言《ことづて》を持って帰りなさい。そうすれば、わたしがこれを受け取ったことが、手紙を書いたと同じくらいに、先方にわかるだろうからね。出来るだけ道を急いで行きなさい。じゃ、さようなら。」
 そう言いながら、旅客は馬車の扉《ドア》を開《あ》けて入った。が、今度は相客たちは少しも彼の手助けをしなかった。彼等は自分の懐中時計や財布を長靴の中へ手速く隠し込んでしまって、その時はすっかり眠っている風をしていたのだ。それは、特にはっきりした目的があってのことではなく、ただ、何等かの他の種類の行動の原因を作るような危険を避けるためなのであった。
 馬車は再びがらがらと動き出し、下り坂へ来かかると、前よりももっと濃い環を巻いた霧が周りに迫って来た。車掌はまもなく喇叭銃を武器箱の中へ戻し、それから、その中にある他の武器を検《しら》べ、自分の帯革につけている補充用の拳銃《ピストル》を検べると、自分の座席の下にある小さな箱を検べてみた。その中には二三の鍛冶道具と、火把《たいまつ》が一対と、引火奴箱《ほくちばこ》が一つ入っていた。それだけすっかり備えておいたのは、折々起ったことであるが、馬車ランプが嵐に吹き消された時には、車内に入って閉《し》めきり、火打石と火打|鉄《がね》とで打ち出した火花を藁からほどよく離しておけば、かなり安全にかつ容易に(うまくゆけば)五分間で明りをつけることが出来たからである。
「トム!」と馬車の屋根越しに低い声で。
「おうい、ジョー。」
「あの伝言《ことづて》を聞いたかい?」
「聞いたよ、ジョー。」
「お前《めえ》あれをどう思ったい、トム?」
「まるでわかんねえよ、ジョー。」
「じゃあ、そいつも同《おんな》じこったなあ。」と車掌は考え込むように言った。「おれだってまるっきりわかんねえんだからな。」
 霧と闇との中にただ独り残されたジェリーは、その間に馬から下りて、疲れ果てた馬を楽にさせてやるばかりではなく、自分の顔にかかっている泥を拭ったり、半ガロン★ほどの水を含むことの出来そうな自分の帽子の鍔《つば》から水気を振い落したりした。駅逓馬車の車輪の音がもう聞えなくなってしまい、夜がまたすっかり静まり返るまで、彼はひどく泥のはねかっている腕に手綱をかけたまま立っていたが、それからぐるりと身を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して丘を歩いて下り出した。
「あんなにテムプル関門《バー》★から駈け通しで来たんだからなあ、お婆さん、お前《めえ》を平地《ひらち》へつれてくまではおれはお前《めえ》の前脚を信用出来ねえよ。」とこの嗄《しゃが》れ声の使者は、自分の牝馬をちらりと眺めながら、言った。「『甦《よみがえ》る』だとよ。こいつあとてつもなく奇妙な伝言《ことづて》だなあ。そんなことがたくさんあった日にゃあ、お前《めえ》のためにやよくあるめえぜ、ジェリー! なあ、おい、ジェリー! もし甦るなんてことが流行《はや》って来ようものなら、お前《めえ》はとてつもなく面白くもねえことになるだろうぜ、ジェリー!★」
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    第三章 夜の影

 あらゆる人間が他のあらゆる人間にとって深奥な秘密であり神秘であるように出来ているということは、考えてみると驚くべき事実である。私が夜間にある大きな都会に入る時、その暗く寄り集っている家々の一つ一つがそれぞれの秘密を包んでいるということや、その一つ一つの家の中の一つ一つの室がまたそれぞれの秘密を包んでいるということや、そこにいる幾十万の胸の中に鼓動している一つ一つの心臓が、それの思い描いている事柄によっては、それに最も近しい心臓にとっても一の秘密である! ということは、考えると厳《おごそ》かな事柄である。死というものでさえ、その恐しさの幾分かは、このことに基くのである。もはや私は自分の愛したこの懐《なつか》しい書物の紙葉をめくることが出来ない。そして、いつかはそれをみんな読もうと思っていた望みも空しくなってしまう。もはや私は深さの測り知られぬこの水の底を覗き込むことが出来ない。瞬時の光がちらりと射し込んだ時に、私はその水の中に沈んでいる宝やその他の物を瞥見したことがあったのだが。その書物は、私がたった一頁だけ読んでしまうと、永久に永久にぴたりと閉じられる宿命《さだめ》になっていたのだ。その水は、光がその水面に閃いていて、私が岸に何も知らずに立っている時に、永遠の氷に鎖《とざ》される宿命《さだめ》になっていたのだ。私の友人が死ぬ。私の隣人が死ぬ。私の恋人、私の心の愛人が死ぬ。それは、その個人の裡《うち》に常に宿っていた秘密の仮借なき凝固であり永久化であるのだ。そういう秘密を私もまた自分の裡に宿して自分の生涯の終りまで持って行くことであろう。私の今通っているこの都会のどの墓地にでも、この都会の忙しく働いている住民たちが、その心の一番奥底では、私にとって窺い知りがたいものであり、あるいは私が彼等にとってそうであるよりも以上に、窺い知りがたい死者というものが、果しているであろうか?
 この、生得の、他人に譲ることの出来ない資産ということでは、例の馬上の使者も、国王や、宰相や、ロンドン随一の富裕な商人などと全く同じだけのものを持っているのであった。また、がたがたと音を立てて行く一台の古ぼけた駅逓馬車の狭苦しい中に閉じこめられている、あの三人の旅客にしても、やはりそうなのだ。彼等は、一人一人が自分自身の六頭牽の馬車に乗って、あるいは自分自身の六十頭牽の馬車に乗って、自分と隣の者との間に一つの郡ほどの間隔を置いてでもいるように、完全に、お互が神秘なのであった。
 例の使者はゆっくりした早足で馬に乗って引返し、かなり幾度も路傍の居酒屋に止って酒を飲んだが、しかし、なるべく口を噤み、帽子を眼深《まぶか》にかぶっているようにしていた。彼はそういう帽子のかぶり方に極めてよく釣合った眼をしていた。黒味がかかった眼で、色でも形でも深みが少しもなく、もし余り遠く離れていると何かの事で片眼だけが見つけ出されはしないかと恐れてでもいるかのように――ひどくくっつき過ぎているのだ。その眼は、三角の痰壺のような古ぼけた縁反帽《ふちそりぼう》の下、頤と咽《のど》とを巻いてほとんど膝あたりまで垂れ下っている大きな襟巻の上に、陰険な表情をしていた。止って一杯飲む時には、彼は、右手で酒をぐうっとやる間だけ、その襟巻を左手で取り除け、それがすむや否や、すぐに再び巻きつけてしまうのだった。
「いいや、ジェリー、いやいや!」と使者は、馬に乗っている間も一つの事ばかり考え返しながら、言った。「そいつあお前《めえ》のためにゃよくあるめえぜ、ジェリー。ジェリー、お前《めえ》は実直な商売人なんだからな、そいつあお前の[#「お前の」に傍点]商売にゃ向くめえよ! よみが――! うん、旦那は一杯飲んで酔っ払ってたに違《ちげ》えねえや!」
 あの伝言《ことづて》は彼の心をひどく悩ませたので、彼は何度も帽子を脱いで頭をがりがり掻くより他《ほか》に仕方がないくらいであった。ぱらぱらと禿げている脳天を除いては、硬《こわ》い黒い髪の毛がその頭一面にぎざぎざと突っ立っていて、ほとんど彼の団子鼻のあたりまでも生え下っていた。その頭は鍛冶屋の作った物のようであった。髪の生えた頭というよりは、堅固に忍返《しのびがえ》し★を打ちつけてある塀の頂に似ていた。だから、蛙跳び★の一番の名人でも、跳び越すのにこれほど危険な男は世の中にもいないと言って、彼を跳び越すことは断《ことわ》ったかもしれなかった。
 彼がテムプル関門《バー》の傍のテルソン銀行の戸口のところにある番小屋の中の夜番人に渡し、その夜番人がまたそれを中にいる上役たちに渡すことになっているはずの、あの伝言《ことづて》を持って、馬を早足で歩ませながら引返している間、夜の影は、彼にとっては、その伝言《ことづて》から生じたような形をしているように見え、その牝馬にとっては、その馬[#「その馬」に傍点]だけにしかわからないいろいろの不安の種から生じたような形をしているように見えたのであった。そういう不安の種はたくさんあったらしく、馬は路上のあらゆる物影におびえていた。
 その間に、例の駅逓馬車は、お互に窺い知りがたい三人の相客を車内に乗せたまま、がたがた、ごろごろ、がらがら、ごとごとと、そのもどかしい道を進んで行った。この三人にも、同じように、夜の影は、彼等のうとうとしている眼と取留めのない思いとが心に浮ばせた通りの姿をして現れた。
 テルソン銀行がその駅逓馬車の中で取附けに逢っていた。あの銀行員の乗客が――馬車が特別ひどく揺れる度に、隣の乗客にぶつかって、その人を隅っこに押しつけることのないために、車内の者が皆しているように、吊革に片腕を通したまま――眼を半ば閉じながら自分の座席でこくりこくりやっていると、小さな馬車の窓や、そこから仄暗《ほのぐら》く射し込んで来る馬車ランプや、向い合っている乗客の嵩ばった図体などが、銀行に変って、一大支払をやっているのだった。馬具のがちゃがちゃいう音は、貨幣のじゃらじゃらいう音になった。そして、五分間のうちに、テルソン銀行でさえ、その国外及び国内のあらゆる関係方面をみんなひっくるめて、かつてその三倍の時間に支払ったことのあるよりも以上に多額の、為替手形が支払われた。それから今度は、テルソン銀行の地下の貴重品室が、その乗客の知っているような高価な品物や秘密物を納めたまま(そしてそれらの物について彼の知っていることは少くはなかったのだ)、彼の前に開かれた。そして、彼は大きな幾つもの鍵と微かに弱々しく燃えている蝋燭とを持ってその中へ入って行った。すると、その品々は、彼が最後に見た時とちょうど同じに安全で、堅固で、無事で、平静であることがわかった。
 しかし、銀行がほとんど絶えず彼と共にあったけれども、また馬車も(阿片剤を飲んだための苦痛があるように、混乱したのにではあるが)絶えず彼と共にあったけれども、その夜|中《じゅう》流れて止《や》まなかったもう一つの印象の流れがあった。彼はある人を墓穴から掘り出しに行く途中なのであった。
 ところで、彼の前に現れる多数の顔の中のどれが、その埋葬されている人のほんとうの顔なのか、夜の影は示してくれなかった。だが、それらはどれもこれも年齢四十五歳の男の顔であって、主として異っているのは、その表《あらわ》している感情と、その瘠せ衰えた様子の物凄さとの点であった。自負、軽蔑、反抗、強情、服従、悲歎などの表情が次々に現れ、いろいろのこけた頬、蒼ざめた顔色、痩せ細った手や指などが次々と現れたのだ。しかしその顔はだいたいは同一の顔で、頭はどれもまだそういう年でもないのに真白だった。幾度も幾度も、このうとうとしている旅客はその亡霊に尋ねるのであった。――
「どれくらいの間埋められていたんです?」
 その答はいつも同じであった。「ほとんど十八年。」
「あなたは掘り出されるという望みはすっかり棄てておられたのですね?」
「ずっと以前に。」
「あなたは御自分が甦《よみがえ》っていることを御存じなのですね?」
「みんながわたしにそう言ってくれる。」
「あなたは生きたいとお思いでしょうね?」
「わしにはわからない。」
「あの女《ひと》をあなたのところへお連れして来ましょうか? あなたの方からあの女《ひと》に逢いにいらっしゃいますか?」
 この質問に対する答は、いろいろさまざまで、正反対のもあった。時には、とぎれとぎれに「待ってくれ! 余り早く彼女《あれ》に逢ってはわたしは死にそうだから。」という返事をすることもあった。時には、さめざめと涙の雨にくれ、それから「わたしを彼女《あれ》のところへ連れて行ってくれ。」という返事をすることもあった。また時としては、じっと見つめて当惑したような顔をして、それから「わしはそんな女を知らん。わしには何のことかわからん。」という返事をすることもあった。
 そういう想像上の会話の後に、この旅客は、その憐れな人間を掘り出してやるために、空想の裡《うち》で――ある時は鋤で、ある時は大きな鍵で、ある時は自分の両手で――掘って、掘って、掘るのであった。顔にも髪にも土をくっつけたまま、ようやく出て来ると、その男はたちまち倒れて塵になってしまう。すると旅客ははっとして我に返り、窓を下して、霧と雨とを頬に実際に感じるのであった。
 それでも、彼が眼を見開いて、霧と雨や、ランプから射す光の動いてゆく斑紋や、ぐいぐいと遠退《とおの》いてゆく路傍の生垣などを眺めている時でさえ、馬車の外の夜の影は、いつの間にか馬車の内の夜の影のあの連《つらな》りと一緒になるのだった。テムプル関門《バー》の傍のほんとうの銀行も、前日のほんとうの事務も、ほんとうの貴重品室も、彼の後を追っかけて来たほんとうの急書も、彼が持たして返したほんとうの伝言も、みんなそこにある。そういうものの真中から、例の幽霊のような顔が現れて来る。すると彼はまたそれに話しかける。
「どれくらいの間埋められていたんです?」
「ほとんど十八年。」
「あなたは生きたいとお思いでしょうね?」
「わしにはわからない。」
 掘って――掘って――掘っている――と、とうとう二人の乗客の中の一人がたまりかねたような身動きをするので、彼ははっと気がついて窓を引き上げ、片腕をしっかりと吊革に通して、眠っている二人の姿を黙想する。そのうちにいつの間にか彼の心は二人のことから離れて、彼等は再び銀行と墓穴との中へ滑り込んでしまう。
「どれくらいの間埋められていたんです?」
「ほとんど十八年。」
「掘り出されるという望みはすっかり棄てておられたのですね?」
「ずっと以前に。」
 この言葉がつい今しがた口で言われたようにまだ耳に残っている――今までにかつて口で言われた言葉が彼の耳に残ったようにはっきりと残っている――時に、その疲れた旅客は、明るい光に気がついてはっとし、夜の影がもう消え失せていることを知った。
 彼は窓を下すと、顔を外に突き出して、さし昇る太陽を眺めた。そこには、山脊のようになって長く連っている耕地があって、犂《からすき》★が一つ、前夜馬を軛《くびき》から離した時に残されたままにしておいてあった。耕地の向うには、静かな雑木林があって、燃えるように紅《あか》い木の葉や、金色のように黄ろい木の葉が、梢にまだたくさん残っていた。地面は冷くてしっとり湿《しめ》っていたけれども、空は晴れわたっていて、太陽は燦然と、穏かに、美わしく昇っていた。
「十八年とは!」と旅客はその太陽を眺めながら言った。「お慈悲深いお天道《てんとう》さま! 十八年間も生埋《いきう》めにされているなんて!」
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    第四章 準備

 駅逓馬車が午前中に無事にドーヴァーへ著くと、ロイアル・ジョージ旅館《ホテル》★の給仕|頭《がしら》は、いつもきまってするように、馬車の扉《ドア》を開《あ》けた。彼はそれを幾分儀式張って仰《ぎょう》々しくやったのであった。というのは、何しろ、冬季にロンドンから駅逓馬車で旅をして来るということは、冒険好きな旅行者に祝意を表してやってしかるべきくらいの事柄であったからである。
 この時までには、その祝意を表さるべき冒険好きの旅行者は、たった一人しか残っていなかった。他の二人は途中のそれぞれの目的地で下りてしまっていたからだ。馬車の黴臭い内部は、その湿《しめ》っぽい汚《よご》れた藁と、不愉快な臭気と、薄暗さとで、幾らか、大きな犬小屋のようであった。藁をふらふらにくっつけ、長い毳《けば》のある肩掛をぐるぐる巻きつけ、鍔《つば》のびらびらしている帽子をかぶり、泥だらけの脚をして、その馬車の中から体《からだ》をゆすぶりながら出て来た、乗客のロリー氏は、幾らか、大きな犬のようであった。
「明日《あす》カレー★行きの定期船は出るだろうね、給仕?」
「さようでございます、旦那、もしお天気が持ちまして風が相当の順風でございますればね。潮《しお》は午後の二時頃にかなり工合よくなりますでしょう、はい。で、お寝《やす》みですか、旦那?」
「わたしは晩になるまでは寝まい。しかし、寝室は頼む。それから床屋をな。」
「それから御朝食は、旦那? はいはい、畏りました。は、どうぞそちらへ。和合《コンコード》の間へ御案内! お客さまのお鞄《かばん》と熱いお湯を和合《コンコード》の間へな。お客さまのお長靴は和合《コンコード》の間でお脱がせ申すんだぞ。(上等の石炭で火が燃やしてございますよ、旦那。)床屋さんを和合《コンコード》の間へ呼んで来ておあげなさい。さあさあ、和合《コンコード》の間の御用をさっさとするんだよ!」
 その和合《コンコード》の寝室というのはいつも駅逓馬車で来た旅客にあてがわれていたので、そして、駅逓馬車で来た旅客たちはいつも頭の先から足の先までぼってり身をくるんでいたので、その室は、ロイアル・ジョージ屋の人々にとっては、そこへ入って行くのはただ一種類だけの人に見えるが、そこから出て来るのはあらゆる種類のさまざまの人であるという、妙な興味があるのだった。そういう訳で、六十歳の一紳士が、大きな四角いカフスとポケットに大きな覆布《ふた》のついている、かなり著古してはあるが、極めてよく手入れのしてある茶色の服に正装して、朝食をとりに行く時には、別の給仕と、二人の荷持と、幾人かの女中と、女主人とが、和合《コンコード》の間と食堂との間の通路の処々方々に偶然にもみんなぶらぶらしていたのであった。
 食堂には、その午前、この茶色服の紳士より他《ほか》に客はなかった。彼の朝食の食卓は炉火の前へ引き寄せてあった。そして、その火の光に照されながら、食事を待って腰掛けている間、彼は余りじっとしているので、肖像画を描《か》かせるために著席しているのかと思われるくらいであった。
 彼はすこぶるきちんとして几帳面に見え、両膝に手を置き、音の大きな懐中時計は、あたかもかっかと燃えている炉火の軽躁さとうつろいやすさとに自分の荘重さと寿命の永さとを競《きそ》わせるかのように、垂片《たれ》のあるチョッキの下で朗々たる説教をちょきちょきちょきちょきとやっていた。彼は恰好のよい脚をしていて、少しはそれを自慢にしていたらしい。というのは、茶色の靴下はすべすべとぴったり合っていて、地合が上等のものであったし、緊金《しめがね》附きの靴も質素ではあったが小綺麗なものだったから。彼は、頭にごくぴったりくっついている、風変りな小さいつやつやした縮れた亜麻色の仮髪《かつら》をかぶっていた。この仮髪《かつら》は髪の毛で作られたものであろうが、しかしそれよりもまるで絹糸か硝子質の物の繊維で紡いだもののように見えた。彼のシャツ、カラー類は、靴下と釣合うほどの上等なものではなかったが、近くの渚に寄せて砕ける波頭《なみがしら》か、海上遠くで日光にきらきらと光っている帆影ほどに白かった。習慣的に抑制されて穏かになっている顔は、潤《うるお》いのあるきらきらした一双の眼のために、例の一風変った仮髪《かつら》の下で始終明るくされていた。その眼をテルソン銀行風の落著いた遠慮深い表情に仕込むには、過ぎ去った年月の間に、その眼の持主に多少は骨を折らせたものに違いない。彼は健康そうな頬色をしていて、その顔には、皺がよってはいたけれども、憂慮の痕は大して見えなかった。だが、おそらく、テルソン銀行の機密に参与する独身の行員たちというものは、他人の苦労に主としてかかりあっていたのであろう。そして、おそらく、|他人のお古《セカンドハンド》の苦労というものは、|他人のお古《セカンドハンド》の著物と同様に、脱ぐのも著るのも造作のないものなのであろう。
 肖像画を描《か》かせるために著席している人との類似を更に完全にしようと、ロリー氏はうとうとと寐入《ねい》ってしまった。朝食が運ばれて来たのに彼は目を覚された。そして、自分の椅子を食事の方へ動かしながら、給仕に言った。――
「若い御婦人が今日《きょう》ここへ何時《なんどき》来られるかもしれないが、その方《かた》のために部屋を用意しておいてもらいたい。その御婦人はジャーヴィス・ロリーさんはいないかと言って尋ねられるかもしれないし、それとも、ただ、テルソン銀行から来たお方はいないかと尋ねられるかもしれない。そしたらどうか知らせて下さい。」
「は、畏りました。ロンドンのテルソン銀行でございますね、旦那?」
「そうだ。」
「は、承知いたしました。手前どもでは、あなたさまのところの方々《かたがた》がロンドンとパリーの間を往ったり来たりして御旅行なさいます時に、たびたび御贔屓にあずかっております、はい。テルソン銀行では、旦那、ずいぶん御旅行をなさいますようで。」
「そうだよ。わたしどもの銀行は、イギリスの銀行であると同じくらいに、全くフランスの銀行ででもあるようなものだからね。」
「は、なるほど。でも、旦那、あなたさまはあまりそういう御旅行はしつけてお出でになりませんようでございますが?」
「近年はやらない。わたしどもが――いや、わたしが――この前フランスから戻ってから十五年になるよ。」
「へえ、さようでございますか? それでは手前がここへ参りましたより以前のことでございますよ、はい。ここの人たちがここへ参りましたよりも以前のことで、旦那。このジョージ屋はその時分は他《ほか》の人の経営でございました。」
「そうだろうねえ。」
「しかし、旦那、テルソン銀行のようなところになりますと、十五年前はおろか、五十年ばかりも前でも、繁昌していらっしったということには、手前がどっさり賭《かけ》をいたしましてもよろしゅうございましょうね?」
「それを三倍にして、百五十年と言ったっていいかもしれんな。それでも大して間違いじゃないだろうよ。」
「へえ、さようで!」
 口と両の眼とを円くしながら、給仕人《ウェーター》は食卓から一足下ると、ナプキンを右の腕から左の腕へと移して、安楽な姿勢をとった。そして、客の食べたり飲んだりするのを、展望台か望楼からでもするように見下しながら、立っていた。あらゆる時代における給仕人《ウェーター》のかの昔からの慣習に従って。
 ロリー氏は朝食をすましてしまうと、浜辺へ散歩に出かけた。小さな幅の狭い曲りくねったドーヴァーの町は、海の駝鳥のように、浜辺から隠れて、その頭を白堊の断崖の中に突っ込んでいた★。浜辺は山なす波浪と凄じく転げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っている石ころとの沙漠であった。そして波浪は己《おの》が欲するままのことをした。その欲するままのこととは破壊であった。それは狂暴に町に向って轟き、断崖に向って轟き、海岸を突き崩した。家々の間の空気は非常に強く魚臭い臭いがして、ちょうど病気の人間が海の中へ浸りに行くように、病気の魚がその空気に浸りに来たのかと想像されるほどであった。この港では漁業も少しは行われていたが、夜間にぶらぶら歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って海の方を眺めることが盛んに行われた★。殊に、潮《しお》がさして来て満潮に近い時に、それが行われるのであった。何一つ商売もしていない小商人が、時々、不可思議千万にも大財産をつくることがあった。そして、この附近の者が誰一人も点灯夫に我慢がならないことは不思議なくらいだった。
 日が昃《かげ》って午後になり、折々はフランスの海岸が見えるくらいに澄みわたっていた空気が、再び霧と水蒸気とを含んで来るにつれて、ロリー氏の思いもまた曇って来たようであった。日が暮れて、彼が朝食を待っていた時のようにして夕食を待ちながら、食堂の炉火の前に腰掛けていた時には、彼の心は、赤く燃えている石炭の中をせっせと掘って掘って掘っているのであった。
 夕食後の上等なクラレット★の一罎は、赤い石炭の中を掘る人に、ともすれば仕事を抛擲させがちであるからということの他《ほか》には、何の害もしないものである。ロリー氏は永い間安閑としていたが、そのうちに、中年を過ぎた血色のいい紳士が一罎を傾け尽した場合にいつも見られるようなこの上もなく満足だという様子で、自分の葡萄酒の最後の杯を注《つ》いだ時に、がらがらという車輪の音が狭い街路をこちらの方へとやって来て、旅館の構内へごろごろと入って来た。
 彼は杯に口をつけずにそれを下に置いた。「|お嬢さん《マムゼール》だな!」と彼は言った。
 数分たつと給仕人《ウェーター》が入って来て、マネット嬢がロンドンからお著きになって、テルソン銀行からお出でになった紳士にお目にかかれるなら仕合せですと言っていらっしゃいます、と知らせた。
「そんなに早く?」
 マネット嬢は途中で食事をおとりなったので、今はちっともほしくはないそうで、もしテルソン銀行の紳士の思召しと御都合さえよろしければ、すぐにお目にかかりたいと非常にお望みです、とのこと。
 そのテルソン銀行の紳士は、そのためには、ただ、無神経な捨鉢らしい風に杯の酒をぐうっと飲み乾《ほ》し、例の風変りな小さい亜麻色の仮髪《かつら》を耳のところでしっかりと抑えつけて、給仕人《ウェーター》の後についてマネット嬢の部屋へと行きさえすればよいのであった。そこは大きな暗い室で、黒い馬毛織を葬式にふさわしいような陰気なのに飾りつけ、どっしたりした黒ずんだ卓子《テーブル》を幾つも置いてあった。これらの卓子《テーブル》は油を塗ってぴかぴかと拭き込んであるので、室の中央にある卓子《テーブル》に立ててある二本の高い蝋燭は、どの板にもぼんやりと映っていた。あたかもその蝋燭が黒いマホガニーの深い墓穴の中に埋められていて、そこから掘り出されるまではその蝋燭からはこれというほどの光は期待することが出来ないかのようだった。
 そこの薄暗さでは見透すのが困難であったので、ロリー氏は、だいぶん擦り切れているトルコ絨毯の上を気をつけて歩きながら、マネット嬢は一時どこか隣の室あたりにいるのだろうと想像したが、やがて、例の二本の高い蝋燭の傍を通り過ぎてしまうと、彼には、その蝋燭と煖炉との間にある卓子《テーブル》の傍に、乗馬用外套を著て、まだ麦藁の旅行帽をリボンのところで手に持ったままの、十七より上にはなっていない一人のうら若い婦人が、自分を迎えて立っているのを認めた。彼の眼が、小柄で華奢な美しい姿や、豊かな金髪や、尋ねるような眼付をして彼自身の眼とぴたりと会った一双の碧い眼や、眉を上げたり顰《ひそ》めたりして、当惑の表情とも、不審の表情とも、恐怖の表情とも、それとも単に怜悧な熱心な注意の表情ともつかぬ、しかしその四つの表情を皆含んでいる一種の表情をする奇妙な能力(いかにも若々しくて滑《なめら》かな額《ひたい》であることを心に留めてのことであるが)を持つ額などに止《とど》まった時――彼の眼がそれらのものに止まった時に、突然、ある面影がまざまざと彼の前に浮んだ。それは、霰が烈しく吹きつけて波が高いある寒い日、この同じイギリス海峡を渡る時に彼自身が腕に抱いていた一人の幼児の面影であった。その面影は、彼女の背後にある気味の悪い大姿見鏡の面《おもて》に横から吹きかけた息《いき》なぞのように、消え去ってしまい、その大姿見鏡の縁には、幾人かは首が欠けているし、一人残らず手か足が不具だという、病院患者の行列のような、黒奴《くろんぼ》のキューピッドたちが、死海の果物★を盛った黒い籠を、黒い女性の神々に捧げていたが、――それから彼はマネット嬢に対して彼の正式のお辞儀をした。
「どうぞお掛け遊ばせ。」ごくはっきりした気持のよい若々しい声で。その口調《アクセント》には少し外国|訛《なま》りがあったが、それは全くほんの少しである★。
「わたしはあなたのお手に接吻いたします、お嬢さん。」とロリー氏は、もう一度彼の正式のお辞儀をしながら、昔の作法に従ってこう言い、それから著席した。
「あたくし昨日《きのう》銀行からお手紙を頂きましたのでございますが、それには、何か新しい知らせが――いいえ、発見されましたことが――」
「その言葉は別に重要ではありません、お嬢さん。そのどちらのお言葉でも結構ですよ。」
「――あたくしの一度も逢ったことのない――ずっと以前に亡《な》くなりました父のわずかな財産のことにつきまして、何かわかりましたことがありますそうで――」
 ロリー氏は椅子に掛けたまま身を動かして、例の黒奴《くろんぼ》のキューピッドたちの病院患者行列の方へ心配そうな眼をちらりと向けた。あたかも彼等が[#「彼等が」に傍点]その馬鹿げた籠の中に誰でもに対するどんな助けになるものでも持っているかのように!
「――そのために、あたくしがパリーへ参って、あちらで、その御用のためにわざわざパリーまでお出で下さる銀行のお方とお打合せをしなければならない、と書いてございましたのですが。」
「その人間というのがわたしで。」
「そう承るだろうと存じておりました。」
 彼女は、彼が自分などよりはずっとずっと経験もあり智慮もある方《かた》だと自分が思っているということを、彼に伝えたいという可憐な願いをこめて、彼に対して膝を屈めて礼をした(当時は若い淑女は膝を屈める礼をしたものである)。彼の方ももう一度彼女にお辞儀をした。
「あたくしは銀行へこう御返事いたしました。あたくしのことを知っていて下すって、御親切にいろいろあたくしに教えて下さる方々《かたがた》が、あたくしがフランスへ参らなければならないとお考えになるのですし、それに、あたくしは孤児《みなしご》で、御一緒に行って頂けるようなお友達もございませんのですから、旅行の間、そのお方さまのお世話になれますなら、大変有難いのでございますが、と申し上げましたのでございます。そのお方はもうロンドンをお立ちになってしまっていらっしゃいましたが、でも、そのお方にここであたくしをお待ち下さるようにお願いしますために、その方《かた》の後《あと》から使いの人を出して下すったことと存じます。」
「わたしはそのお役目を任されましたことを嬉しく思っておりました。それを果すことが出来ますればもっと嬉しいことでございましょう。」とロリー氏が言った。
「ほんとに有難うございます。有難くお礼を申し上げます。銀行からのお話では、その方《かた》が用事の詳しいことをあたくしに御説明して下さいますはずで、それがびっくりするような事柄なのだから、その覚悟をしていなければならない、とのことでございました。あたくしはもう十分その覚悟をいたしておりますので、あたくしとしましてはどんなお話なのか知りたくて知りたくてたまらないのでございますが。」
「御もっとも。」とロリー氏は言った。「さよう、――わたしは――」
 ちょっと言葉を切ってから、彼はまた例の縮れた亜麻色の仮髪《かつら》を耳のところで抑えつけながら、こう言い足した。――
「どうも言い出すのが大変むずかしいことなのでして。」
 彼が言い出さずに、躊躇しているうちに、彼女の視線とぱったり出会った。と、例の若々しい額が眉を上げてあの奇妙な表情をし――しかしそれは奇妙なという他《ほか》に可愛いくて特有の表情であったが――それから、彼女は、何かの通り過ぎる物影を思わず掴むか引き止めるかのように、片手を挙げた。
「あなたはあたくしのまるで知らないお方なのでしょうか?」
「そうじゃないと仰しゃるんですか?」ロリー氏は両手を拡げて、議論好きなような微笑を浮べながらその手をぐっと左右に差し伸ばした。
 彼女がこれまでずっとその傍に立っていた横の椅子へ物思わしげに腰を下した時に、眉毛と眉毛の間、この上なく優美な上品な鼻筋をした女らしい小さな鼻のすぐ上のところに、例の表情が深まった。彼は彼女が物思いに沈んでいるのを見守っていたが、彼女が再び眼を上げた瞬間に、こう話し出した。――
「あなたの帰化なさいましたこの国では、あなたをお若いイギリスの御婦人として|マネット嬢《ミス・マネット》と申し上げるのが一番よろしいかと存じますが?」
「ええ、どうぞ。」
「|マネット嬢《ミス・マネット》、わたしは事務家でございます。今わたしには自分の果さなければならん事務の受持が一つございますのです。あなたがそれをお聴き取り下さいます時には、わたしをほんの物を言う機械だというくらいにお思い下さい。――全くのところ、わたしなぞはそれと大して違ったものじゃありません。では、お嬢さん、御免を蒙って、わたしどもの方《ほう》のあるお得意さまの身の上話をあなたにお話申し上げることにいたしましょう。」
「身の上話ですって!」
 彼女が言い返した言葉を彼はわざと聞き違えたらしく、急いで言い足した。「そうです、お得意さまです。銀行業の方ではお取引先のことをお得意さまといつも申しておりますんで。その方《かた》はフランスの紳士でした。科学の方面の紳士で。非常に学識のある人で、――お医者でした。」
「ボーヴェー★出身の方《かた》ではございませんの?」
「そうですねえ、ええ、ボーヴェー出身の方《かた》です。あなたのお父さまのムシュー★・マネットと同じように、その紳士はボーヴェー出身の方《かた》でございました。あなたのお父さまのムシュー・マネットと同じように、その紳士もパリーでなかなか評判の人でした。わたしがその方《かた》とお近付《ちかづき》になりましたのはそのパリーだったのです。わたしたちの関係は事務上の関係でございましたが、しかし非常に親しくして頂いておりました。わたしはその頃わたしどものフランスの店におりまして、それまでには――そう! 二十年間もそこにおりましたのですが。」
「その頃――と仰しゃいますと、いつ頃なのでございましょうかしら?」
「わたしは、お嬢さん、二十年前のことをお話申しておるのです。その方《かた》は御結婚なさいました、――イギリスの御婦人とでした。――そしてわたしは財産管理人の一人になりました。その方《かた》の財務上の事は、他《ほか》のたくさんのフランスの紳士方やフランスの御家庭の財務と同様に、すっかりテルソン銀行に任せてございましたのです。そんな風にして、わたしは現在、いや以前から、たくさんのお得意さまのあれやこれやの管理人になっております。これは皆ただの事務上の関係ですよ、お嬢さん。それには友情とか、特別の関心とかはなく、感情といったようなものは何もないのです。わたしは事務の人間として今日までの生涯を送って来ました間に、そういうのの一つから他《ほか》のにと移って参りました。それは、ちょうど、わたしが毎日事務を執っています間に、一人のお得意さまから他のお得意さまへと移ってゆきますようなもので。手短に申しますと、わたしには感情というものがございませんのです。わたしはほんの機械なんです。で、話を続けることにいたしますと――」
「でもそれはあたくしの父の身の上話でございましょう。あたくし何だか、」――と例の不思議な表情をする額が彼に向って熱心になりながら――「あたくしの母が父の亡くなりましてからたった二年しか生きていなくて、あたくしが孤児《みなしご》になりました時に、あたくしをイギリスへ連れて来て下さいましたのは、あなたでしたように、思われて参りました。あなたに違いないような気がいたします。」
 ロリー氏は、彼の手を握ろうとして信頼するように差し伸べられた、ためらっている、小さな手を取って、それを幾らか儀式張って自分の脣にあてた。それから彼はその若い淑女をすぐにまた彼女の椅子のところへ連れて行った。そして、左手では椅子の背を掴み、右手を使って自分の頤を撫でたり、仮髪《かつら》の耳のところをひっぱったり、自分の言ったことを注意させたりしながら、立って、腰掛けて自分を見上げている彼女の顔を見下した。
「|マネット嬢《ミス・マネット》、それはいかにも[#「いかにも」に傍点]わたしでした。ところが、それ以来わたしがあなたに一度もお目にかからなかったことをお考え下されば、わたしがつい今、自分のことを、わたしには感情というものがないとか、わたしと他の人たちとの関係はみんなただの事務上の関係だとか申しましたことが、ほんとうであることがおわかりになりますでしょう。そうです、一度もお目にかかりませんでした。あなたはそれ以来ずっとテルソン商社の被後見人ですのに、わたしはそれ以来ずっとテルソン商社の他《ほか》の事務にばかり齷齪《あくせく》していたのです。感情なんて! わたしにはそんなものを持つ時まもなく、機会もありません。わたしは一生、お嬢さん、大きなお札《さつ》の皺伸機《しわのし》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して過すのですよ。」
 自分の毎日の仕事をこういう奇妙なのに説明してから、ロリー氏は亜麻色の仮髪《かつら》を両手で頭の上から平らに抑えつけ(これは全く余計なことで、そのぴかぴかした表面は前から何も及ばないくらいに平らになっているのである)、それから元の姿勢に返った。
「ここまでは、お嬢さん、(あなたの仰しゃいました通り)あなたのお気の毒なお父さまの身の上話なのです。ところが、これからは違うのですよ。もしも、あなたのお父さまが、お亡くなりになったという時に、亡くなられたのではない、としますと――。驚かないで下さい! そんなにびっくりなすっては!」
 彼女は、実際、跳び立つほどびっくりしたのだった。そして両手で彼の手頸を掴んだ。
「どうぞ、」とロリー氏は、左の手を椅子の背から離して、それを烈しくぶるぶる震えながら彼の手を握っている懇願するような指の上に重ねながら、宥《なだ》めるような調子で言った。――「どうぞお気を鎮めて下さい、――これは事務なんですから。今申しましたように――」
 彼女の様子がひどく彼を不安にさせたので、彼は言葉を切り、どうしようかと迷ったが、また話し出した。――
「今申しましたように、ですね。もしもムシュー・マネットが亡くなられたのではないとしますと、ですよ。もしもあなたのお父さまが突然に人にも言わずに姿を消されたのだとしますと、です。もしも神隠しか何かのようにされたのだとしますと、です。どんなに恐しい処へ行かれたか推測するのはむずかしくはないが、どんなことをしてもお父さまを探し出すことは出来ないのだとしますと、ね。お父さまには同国人の中に一人の敵があって、その敵が、この海の向うでわたしが若い時分どんな大胆な人でもひそひそ声で話すことも恐しがっていたということを知っているような特権を――例えばですね、書入れしてない書式用紙にちょっと名前を書き込んで、誰をでも牢獄へどんなに永い間でも押しこめておけるという特権★を――使える人間だったとしますと、ですね。お父さまの奥さんに当る人が、王さまや、お妃《きさき》さまや、宮廷や、僧侶に、何か夫の消息を聞かしてくれるようにと歎願なすったが、みんな全く何の甲斐《かい》もなかったとしますと、ですね。――もしもそうだったとしますと、そうすると、そのあなたのお父さまの身の上は、ボーヴェーのお医者である、今の不幸な紳士の身の上になるのです。」
「どうかもっとお聞かせ下さいますように。」
「お聞かせいたしますよ。しようとしているところです。あなたは御辛抱がお出来になりますね?」
「今のようなこんな不安な気持でいるのでさえなければ、あたくしどんなことでも辛抱が出来ますわ。」
「あなたは落著いて仰しゃいますし、あなたは落着いて――いらっしゃいますね[#「いらっしゃいますね」に傍点]。それなら大丈夫ですな!」(しかし彼の態度は彼の言葉ほどには安心していなかった。)「事務ですよ。事務とお考え下さい、――しなければならない事務とね。さて、もしそのお医者の奥さんが、大変気丈夫な勇気のある御婦人ではありましたけれども、お子さんがお生れになるまでにこの事で非常に御心痛になりまして――」
「その子供と仰しゃいますのは女の子だったのでございますねえ。」
「女のお子さんでした。こ――これは――事務ですよ、――御心配なさらないで下さい。お嬢さん、もしそのお気の毒な御婦人が、お子さんがお生れになるまでに非常に御心痛になりまして、そのために、可哀そうなお子さんにはお父さまはお亡くなりになったものと信じさせて育てて、御自分の味われたようなお苦しみは幾分でも味わせまいという御決心をなさいましたものとしますと――。いやいや、そんなに跪いたりなすっちゃいけません! 一体どうしてあなたがわたしに跪いたりなぞなさるんです!」
「ほんとのことを。おお、御親切なお情《なさけ》深いお方、どうかほんとのことを!」
「こ――これは事務ですよ。あなたがそんなことをなさるとわたしはまごついてしまいます。まごついていてはわたしはどうして事務を処理することが出来ましょう? さあさあ、お互に頭を明晰にしましょう。もしあなたが今、例えばですね、九ペンスの九倍はいくらになるか、あるいは二十ギニーは何シリングかということを、言ってみて頂ければ★、よほど気が引立つんですがねえ。わたしだってあなたのお心の工合にもっともっと安堵が出来るというものですが。」
 こう頼んだのに対して直接には答えなかったけれども、彼女は、彼がごく穏かに彼女を起してやった時に、ジャーヴィス・ロリー氏に多少の安心を与えるくらいに、静かに腰を掛けたし、ずっと彼の手頸を握っていた手を今までよりももっとしっかりさせたのであった。
「それでよろしい、それでよろしい。さあ、しっかりして! 事務ですよ! あなたは事務を控えているのです。有益な事務をね。|マネット嬢《ミス・マネット》、あなたのお母さまはあなたに対してそういう御方針をお執りになったのです。で、お母さまがお亡くなりになり、――御傷心のためかと思いますが、――その時あなたは二歳で後にお遺されになりましたのですが、お母さまは御自分では何の甲斐《かい》がなくてもお父さまの捜索を決して怠られなかったのに、あなたには、お父さまが牢獄の中でまもなく死なれたのだろうか、それともそこで永い永い年月《としつき》の間痩せ衰えていらっしゃるのだろうかと、どちらともはっきりわからずに過すというような黒い雲もささずに、花のように、美しく、幸福に、御生長になるようになさいましたのです。」
 こう言いながら、彼は、房々と垂れている金髪を、感に堪えないような憐みの情をもって見下した。あたかもその髪がもう既に白くなっているのかもしれぬと心の中で思い浮べてでもいるかのように。
「御承知のように、御両親には大した御財産はございませんでしたし、お持ちになっていらしたものは皆お母さまとあなたとのお手に入りました。お金《かね》にしても、その他《ほか》の何かの所有物にしても、今さら新しく発見されるものは何一つなかったのです。しかし――」
 彼は自分の手頸がいっそうしっかりと握り締められるのを感じたので、言葉を切った。これまで特に彼の注意を惹いていた、そして今では動かなくなっている、額の例の表情は、ますます深まって苦痛と恐怖との表情になっていた。
「しかしあの方《かた》が見つかったのです。あの方《かた》は生きてお出でになるのです。さぞひどく変っていらっしゃることでしょう。ほとんど見る影もなくなっておられるかもしれません。そんなことのないようにと思ってはいるのですが。とにかく、生きておられるのです。あなたのお父さまはパリーで昔の召使の家に引取られてお出でになるので、それでわたしたちはそこへ行こうとしているところなのです。わたしは、出来れば、お父さまであるかどうかを確めるためにですし、あなたは、お父さまを生命と、愛と、義務と、休息と、慰安とに復《かえ》さしておあげになるためにです。」
 身震いが彼女の体に起り、それが彼の体に伝わった。彼女は、まるで夢の中ででも言っているように、低い、はっきりした、怖《お》じ恐れた声でこう言った。――
「あたしはお父さまの幽霊に逢いにゆくのですわ! お逢いするのはお父さまの幽霊でございましょう、――ほんとのお父さまじゃなくって!」
 ロリー氏は自分の腕に掴まっている手を静かにさすった。「さあ、さあ、さあ! もうわかりましたね、わかりましたね! 一番よい事も一番悪い事ももうすっかりあなたにお話してしまったのですよ。あなたはあのお気の毒なひどい目に遭われた方《かた》のおられるところをさしてよほど来ておられるのです。そして、海路の旅が無事にすみ、陸路の旅も無事にすめば、すぐにその方《かた》の懐《なつか》しいお傍《そば》へいらっしゃれましょう。」
 彼女は、囁き声くらいに低くなった前と同じ調子で、繰返して言った。「あたしはこれまでずっと自由でしたし、ずっと幸福でしたのに、でもお父さまの幽霊は一度もあたしのところへ来て下さいませんでしたわ!」
「もう一|事《こと》だけ申し上げますと、」ロリー氏は、彼女の注意を惹きつけようとする一つの穏かな手段として、その言葉に力を入れて言った。「あの方《かた》は見つかりました時には別の名前になっておられました。ほんとうのお名前は、永い間忘れておられたか、それとも永い間隠しておられたのでしょう。今それがどっちだか尋ねるということは、無益であるよりも有害でしょう。あの方《かた》が何年も見落されておられたのか、それともずっと故意に監禁されておられたのか、どちらか知ろうとすることも、無益であるよりも有害でしょう。今はどんなことを尋ねるのも、無益どころか有害でしょう。そういうことをするのは危険でしょうから。どこででもどんなのにでも、その事柄は口にしない方がよろしいでしょう。そして、あの方《かた》を――何にしてもしばらくの間は――フランスから連れ出してあげる方がよろしいでしょう。イギリス人として安全なわたしでさえ、またフランスの信用にとって重要であるテルソン銀行でさえ、この件の名を挙げることは一切避けているのです。わたしは自分の身の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りに、この件のことを公然と書いてある書類は一片も持っておりません。これは全然秘密任務なのです。わたしの資格証明書も、記入事項も、覚書も、『甦《よみがえ》る』という一行の文句にすっかり含まれているのです。その文句はどんなことでも意味することが出来るのです。おや、どうしたんですか! お嬢さんは一|言《こと》も聞いていないんだな! |マネット嬢《ミス・マネット》!」
 全くじっとして黙ったまま、椅子の背に倒れかかりもせずに、彼女は彼の手の下で腰掛けて、全然人事不省になっていた。眼は開いていてじっと彼を見つめており、あの最後の表情はまるで彼女の額に刻《きざ》み込まれたか烙《や》きつけられたかのように見えた。彼女が彼の腕にひどくしっかりと掴まっているので、彼は彼女に怪我させはしまいかと思って自分の体を引き離すのを恐れた。それで彼は体を動かさずに大声で助力を求めた。
 すると、まるで赭《あか》い顔色をして、髪の毛も赭く、非常にぴったりと体に合っている型の衣服を著て、頭には親衛歩兵の桝型帽、それもずいぶんの桝目のもの★のような、あるいは大きなスティルトン乾酪《チーズ》★のような、実に驚くべき帽子をかぶっているということを、ロリー氏があわてているうちにも認めた、一人の荒っぽそうな婦人が、宿屋の召使たちの先頭に立って部屋の中へ駈け込んで来て、逞しい手を彼の胸にかけたかと思うと、彼を一番近くの壁に突き飛ばして、その可哀そうな若い淑女から彼を引き離すという問題をすぐさま解決してしまった。
(「これはてっきり男に違いないな!」とロリー氏は、壁にぶっつかると同時に、息《いき》もつけなくなりながら考えた。)
「まあ、お前さんたちはみんな何てざまをしてるんだね!」とその女は宿屋の召使たちに向って呶鳴りつけた。「そんなところに突っ立ってわたしをじろじろ見てなんかいないで、どうしてお薬やなんぞを取りに行かないの? わたしなんか大して見映《みば》えがしやしないよ。そうじゃないかい? どうしてお前さんたちは要《い》るものを取りに行かないんだよ? 嗅塩《かぎしお》と、お冷《ひや》と、お酢《す》と★を速く持って来ないと、思い知らしてあげるよ。いいかね!」
 それだけの気附薬を取りに皆が早速方々へ走って行った。すると彼女はそうっと病人を長椅子《ソーファ》に寝かして、非常に上手に優《やさ》しく介抱した。その病人のことを「わたしの大事な方《かた》!」とか「わたしの小鳥さん!」とか言って呼んだり、その金髪をいかにも誇らかに念入りに肩の上に振り分けてやったりしながら。
「それから、茶色服のお前さん!」と彼女は、憤然としてロリー氏の方へ振り向きながら、言った。「お前さんは、お嬢さまを死ぬほどびっくりさせずには、お前さんの話を話せなかったの? 御覧なさいよ。こんなに蒼いお顔をして、手まで冷くなっていらっしゃるじゃありませんか。そんなことをするのを[#「そんなことをするのを」に傍点]銀行家って言うんですか?」
 ロリー氏はこの返答のしにくい難問に大いにまごついたので、ただ、よほどぼんやりと同情と恐縮とを示しながら、少し離れたところで、眺めているより他《ほか》に仕方がなかった。一方、その力の強い女は、もし宿屋の召使たちがじろじろと見ながらここにぐずぐずしていようものなら、どうするのかは言わなかったが何かを「思い知らしてやる」という不思議な嚇《おど》し文句で、彼等を追っ払ってしまってから、一つ一つ正規の順序を逐うて病人を囘復させ、彼女を宥《なだ》め賺《すか》してうなだれている頭を自分の肩にのせさせた。
「もうよくなられるでしょうね。」とロリー氏が言った。
「よくおなりになったって、茶色服のお前さんなんかにゃ余計なお世話ですよ。ねえ、わたしの可愛いい綺麗なお方!」
「あなたは、」とロリー氏は、もう一度しばらくの間ぼんやりした同情と恐縮とを示した後に、言った。「|マネット嬢《ミス・マネット》のお伴をしてフランスへいらっしゃるんでしょうな?」
「いかにもそうありそうなことなのよ!」とその力の強い女が答えた。「でも、もしわたしが海を渡って行くことに前からきまってるんなら、天の神さまがわたしが島国《しまぐに》に生れて来るように骰子《さいころ》をお投げになるとあんたは思いますか?」
 これもまたなかなか返答のしにくい難問なので、ジャーヴィス・ロリー氏はそれを考えるために引下ることにしたのであった。
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    第五章 酒店

 大きな葡萄酒の樽が街路に落されて壊れていた。この事故はその樽を荷車から取り出す時に起ったのであった。樽はごろごろっと転がり落ちて、箍《たが》がはじけ、酒店の戸口のすぐ外のところの敷石の上に止って、胡桃の殻のようにめちゃめちゃに砕けたのだ。
 近くにいた人々は皆、自分たちの仕事を、あるいは自分たちの無為を一時中止して、その葡萄酒を飲みにその場所へ走って行った。街路のごつごつした不揃いな敷石は、四方八方に向いていて、それに近づくあらゆる生物《いきもの》を殊更《ことさら》に跛《びっこ》にしてやろうというつもりのもののように思われたが、その敷石が流れた葡萄酒を堰き止めて、小さな水溜りを幾つも作っていた。その水溜りは、それぞれ、その大きさに応じて、そこへ来て押し合いへし合いしている群集に取巻かれた。男たちの中には、跪いて、両手を合せて掬《すく》って、その葡萄酒が指の間からすっかりこぼれてしまわないうちに、自分で啜ったり、自分の肩の上に身を屈めている女たちにも啜らせてやろうとしたりする者もあった。中には、男も女も、欠けた陶器の小さな湯呑で水溜りを掬ったり、女たちの頭から取った手拭までも浸して、それを幼児の口の中へ絞り込んでやったりする者もあった。また、葡萄酒が流れてゆくのを堰き止めようと、小さな泥の堤防を築く者もいた。上の方の高い窓から見物している者たちに教えられて、あちこちと走り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、新しい方向に流れ出してゆく葡萄酒の小さな流れを遮り止める者もいた。渣滓《おり》の滲み込んでいるじくじくした樽の破片にかじりついて、酒で朽ちたじめじめした木片をさもうまそうに舐めたり、噛みさえしたりする者もいた。葡萄酒の流れ去る下水は一つもなかった。それで、それがすっかり吸い上げられたばかりではなく、それと一緒にずいぶんたくさんの泥までが吸い上げられたので、この街には市街掃除夫がいたのではなかったかと思われたくらいであった。もっとも、これは、誰でもこの街のことをよく知っている人が、そういう市街掃除夫などという者が奇蹟的にもここに現れるということを信ずることが出来たとしてのことであるが。
 笑い声と興がっている声――男たちや女たちや子供たちの声――の甲高《かんだか》い響が、この酒飲み競争の続いている間、その街路に鳴り響いていた。この競技には荒っぽいところがほとんどなくて、ふざけたところが多くあった。それには特別な仲のよさが、一人一人が誰か他の者と仲間になりたいという目立った意向があって、そのために、酒に運のよかった連中や気さくな連中の間ではとりわけ、剽軽《ひょうきん》に抱き合ったり、健康を祝して飲んだり、握手をしたり、さては十二人ばかりが一緒になって手を繋ぎ合って舞踏をするまでになったのであった。ところが、葡萄酒がなくなってしまって、それのごくたっぷりあった場所までが指で引掻かれて焼網模様をつけられる頃になると、そういう騒ぎは、始った時と同じように急に、ばったりと止んでしまった。切りかけていた薪に自分の鋸を差したまま放《ほお》って来た男は、またその鋸を挽き出した。熱灰《あつはい》の入っている小さな壺で自分自身か自分の子供かの手足の指の凍痛を和《やわら》げようとしてみていたのを、その壺を戸口段のところに放《ほお》っておいて来た女は、壺のところへ戻った。穴蔵から冬の明るみの中へ出て来た、腕をまくって、髪を縺《もつ》らし、蒼白な顔をした男たちは、立去って再び降りて行った。そして、日光よりももっとこの場にはふさわしく見える陰暗がこの場面に次第に募って来た。
 その葡萄酒は赤葡萄酒であって、それがこぼれたパリーの場末のサン・タントワヌ★の狭い街路の地面を染めたのであった。それはまた多くの手と、多くの顔と、多くの素足と、多くの木靴とを染めた。薪を挽いている男の手は、その薪材に赤い痕を残した。自分の赤ん坊の守《もり》をしている女の額《ひたい》は、自分の頭に再び巻きつけた襤褸布片《ぼろぎれ》の汚染《しみ》で染められた。樽の側板《がわいた》にがつがつしがみついていた連中は、口の周囲に虎のような汚斑をつけていた。そういうのに口を汚《よご》している一人の脊の高い剽軽者が、その男の頭は寝帽《ナイトキャップ》にしている長いきたない袋の中に入っていると言うよりも、それからはみ出ていると言った方がよかったが、泥まみれの酒の渣滓《おり》に浸した指で、壁に、血[#「血」に丸傍点]――となぐり書きした。
 やがて、そういう葡萄酒もまたこの街路の敷石の上にこぼされる時が、またそれの汚染《しみ》がそこにある多くのものを赤く染める時が、来ることになっていたのである★。
 さて、一時の微光のためにサン・タントワヌの聖なる御顔から★払い除けられていた暗雲が、またサン・タントワヌにかかってしまったので、そこの暗さはひどくなった。――寒気と、汚穢と、疾病と、無智と、窮乏とが、その聖者の御前に侍している貴族であった。――いずれも皆非常な権勢のある貴人であったが、とりわけそうなのはその最後の者であった。老人を碾《ひ》いて若者にしたというお伽話の碾臼《ひきうす》とは確かに違った碾臼で恐しくも碾きに碾かれて来た人間の標本が、あらゆる隅々に震えていた。あらゆる家々の戸口を出入していた。あらゆる窓から覗いていた。風にあおられているあらゆる形ばかりの衣服を著ながらうろうろしていた。彼等を捏《こ》ね潰した碾臼は、若者を碾いて老人にする碾臼であった。子供たちまでが年寄のような顔と沈んだ声とをしていた。そして、その子供たちの顔にも、大人《おとな》の顔にも、年齢のあらゆる皺の中に鋤き込まれてからまた現れて来ているのは、飢餓という目標《めじるし》であった。それは至る処に蔓っていた。飢餓は竿や綱にぶら下っているみすぼらしい衣服の中に入って高い家々から突き出されていた。飢餓は藁と襤褸と木材と紙とで補片《つぎ》をあてられてその家々の中へ入っていた。飢餓は例の男が鋸で挽き切るわずかな薪のどの屑の中にも繰返された。飢餓は煙の立たぬ煙突からじっと見下していたし、塵芥の中にさえ食えるものの残屑一つない穢《きたな》い街路から跳び立った。飢餓はパン屋の棚の少しばかり並べてある粗悪なパンの小さな一塊ずつに書いてある文字であった。腸詰屋では売り出してある犬肉料理の一つ一つに書いてある文字であった。飢餓は囘転している円筒の中の焼栗の間でその干涸《ひから》びた骨をがらがら鳴らしていた。飢餓は数滴の油を不承不承に滴《た》らして揚げた皮ばかりの馬鈴薯の薄片の入っているどの一文皿の中にも粉々に切り刻まれていた。
 飢餓の住所はすべてのものがそれに適合していた。気持の悪いものと悪臭とのみちている狭い曲りくねった街路、それから幾つも岐《わか》れている別の狭い曲りくねった街路、そのどこにもかしこにも襤褸と寝帽《ナイトキャップ》との人間が住んでいて、どこにもかしこにも襤褸と寝帽《ナイトキャップ》との臭いがして、目に見えるすべてのものが険悪そうに見える考え込んでいるような顔付をしている。人々の狩り立てられたような様子の中にも、いよいよ追い詰められるとなると振り返って反抗するかもしれぬという野獣の気持がまだ幾分かはあった。彼等は銷沈していてこそこそしてはいたけれども、焔の眼は彼等の間にないではなかった。また、彼等の抑えつけている感情のために血の気の失せた、きっと結んでいる脣もないではなかった。また、彼等が自分でかけられるか、それとも人にかけてやることを考えている、あの絞首台の縄に似たのに顰《ひそ》めている額《ひたい》もないではなかった。商売の看板は(そしてそれは店の数とほとんど同じほどあったが)、いずれも皆、窮乏の物凄い図解であった。牛肉屋や豚肉屋は肉の一番脂肪分の少い骨の多い下等なところだけを描いたのを出していた。パン屋は一番粗末なけちなパン塊を描いて出していた。酒店で酒を飲んでいるところとしてぞんざいに画いてある人々は、水っぽい葡萄酒やビールの量りの悪いことをぶつぶつ言いながら、凄い顔をして互にひそひそ話をしていた。道具類と兇器類とを除いては、景気よく描き出されているものは何一つとしてなかった。ただ、刃物師の小刀や斧は鋭利でぴかぴかしていたし、鍛冶屋の鉄鎚はどっしりと重そうであったし、鉄砲鍛冶の店にある商品はいかにも人を殺しそうであった。鋪道のあの人を跛《びっこ》にしそうな石には、泥水の小さな溜りはたくさんあっても、別に歩道はなくて、家々の戸口のところでいきなりに切れていた。その埋合せに、下水溝が街路の真中を流れていたが、――それはともかく流れる時だけである。流れる時というのはただ豪雨の後ばかりで、その時にはたびたび矯激な発作でも起したように家々の中へまで流れ込むのだった。街々を突っ切って、遠く間を隔てて、不恰好な街灯が一つずつ、滑車綱で吊《つる》してあった。日が暮れて、点灯夫がそれを下し、火を点じて、また吊し上げると、弱い光を放っている数多《あまた》の仄暗い灯心が、病みほうけたように頭上で揺れ動いて、あたかも海上にあるようであった。実際それらは海上にあるのであった。そして船と船員とは嵐に遭う危険に臨んでいたのであった★。
 なぜなら、この界隈の痩せこけた案山子《かかし》たち★が、する仕事もなく腹を空《す》かしながら、永い間点灯夫のすることを眺めているうちに、その点灯夫のやり方を改良して、自分たちの境涯の暗闇《くらやみ》を明るくするために、その滑車綱で人間をひっぱり上げようという考えを思い付く★時が、やがて来ることになっていたからである。しかし、その時はまだ来てはいなかった。そして、フランスを吹きわたるどの風も徒らにその案山子たちの襤褸をはたはたと振り動かすだけであった。なぜなら、鳴声も羽毛も美しい鳥ども★は一向に自らを戒めるところがなかったからである。
 さっきの酒店は角店《かどみせ》で、外見や格式が他の大抵の店よりも立派であった。その酒店の主人は、黄ろいチョッキに緑色のズボンを著けて、店の外に立って、こぼれた葡萄酒を飲もうと争っている有様を傍観していた。「こいつあおれの知ったことじゃねえや。」と彼は、最後に肩を一つ竦《すく》め★ながら、言った。「市場《いちば》から来た連中がしでかしたんだからな。奴らにもう一つ持って来させりゃいい。」
 その時、ふと彼の眼が例の脊の高い剽軽者があの駄洒落《だじゃれ》を書き立てているに止ったので、彼は路の向側のその男に声をかけた。――
「おいおい、ガスパール、お前そこで何してるんだい?」
 その男は、そういう手合のよくやるように、さも意味ありげに自分の駄洒落《だじゃれ》を指し示した。ところが、それが的《まと》が外《はず》れて、すっかり失敗した。これもそういう手合にはよくあることである。
「どうしたんだ? お前は気違い病院行きの代物か?」と酒店の主人は、道路を横切って行って、一掴みの泥をすくい上げ、それを例の洒落《しゃれ》の落書の上になすりつけて消しながら、言った。「どうしてお前は大道なんかで書くんだ? こんな文句を――さあ、おれに言ってみろ――こんな文句を書き込む場所が他《ほか》にないのか?」
 こう言い聞かせながら、彼は汚れていない方の手を(偶然にかもしれぬし、そうではないかもしれぬが)その剽軽者の胸のところに落した。剽軽者はその手を自分の手でぽんと敲いて、ぴょいと身軽く跳び上り、珍妙な踊っているような恰好で下りて来ながら、酒で染った自分の靴の片方を、足からひょいと振り脱いで手に受け止め、それを差し出して見せた。そういう次第で、その男は、飽くことのない悪戯《いたずら》好きであることは言うまでもないが、極端な悪戯《いたずら》好きの剽軽者らしく見えた。
「靴を穿きな、靴を穿きな。」ともう一人の方《ほう》が言った。「酒は酒と言って、それで止《や》めとくんだぞ。」そう忠告しながら、彼は自分の汚れた方の片手をその剽軽者の衣服で拭いた。――その男のせいでその手を汚したのだというので、全くわざとやったのだ。それから、道路を再び横切って、酒店へ入った。
 この酒店の主人というのは、猪頸《いくび》の、勇敢そうな、三十歳くらいの男であった。そして熱しやすい気性の人間に違いなかった。というのは、身を斬るような寒い日だったのに、彼は上衣を著ないで、それを肩へ投げかけていたからである。シャツの袖もまくし上げてあって、日に焦《や》けた腕は肱のところまでむき出しになっていた。それから、頭にも、自分自身のくるくると縮れている短い黒っぽい髪の毛より他《ほか》には、何もかぶっていなかった。彼は総体に浅黒い男で、感じのいい眼をしており、その眼と眼との間にはかなり大胆な豪放さがあった。概して愛嬌のよさそうな男であるが、執念深そうでもある。明かに強い決意と頑固な意思とを持った男だ。右側にも左側にも深淵のある隘路を駈け降りて来る時には出くわしたくない男である。というのは、どんなことがあってもこの男を後戻りさせることは出来ないだろうから。
 彼の妻のマダーム・ドファルジュは、彼が店に入って来た時には、店の中の勘定台の後に腰掛けていた。マダーム・ドファルジュは彼とほぼ同年輩のがっしりした婦人で、滅多に何でも見ないように思われる油断のない眼と、たくさん指環を嵌めた大きな手と、きりっとした顔と、きつい目鼻立ちと、非常に落著き払った態度とをしていた。マダーム・ドファルジュには、彼女なら自分の管理しているどの勘定ででも自分の気のつかない間違いを滅多にやることはあるまいと誰でもが予言出来そうな、一種の特性があった。マダーム・ドファルジュは寒がりだったので、毛皮にくるまって、その上、首の周りには派手な肩掛《ショール》をぐるぐる巻きつけていた。もっとも、それも大きな耳環が隠れてしまうほどにはしていなかったが。彼女の編物がその前にあったが、彼女はそれを下に置いて爪《つま》楊枝で歯をほじくっていた。左の手で右の肱を支えながら、そうして歯をほじくっていて、マダーム・ドファルジュは、自分の御亭主が入って来た時には何も言わずに、ただ一度だけちょっと咳払いをした。この咳払いは、彼女が爪楊枝を使いながら黒くくっきりとした眉毛をわずかばかり揚げることと共に、彼女の夫に、彼が路の向側まで行っていた間に誰か新しいお客が立寄っていないか、店を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してお客の間を探した方がいいだろう、ということを暗示したのである。
 そこで酒店の主人は眼をぐるぐるっと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してみると、その眼は、やがて、一隅に腰掛けている一人の中年過ぎの紳士と一人の若い淑女とに止った。店には他《ほか》にも客がいた。骨牌《かるた》をしているのが二人、ドミノーズ★をしているのが二人、勘定台のところに立ってわずかな葡萄酒を永くかかってちびちび飲んでいるのが三人いたのだ。勘定台の後へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行く時に、彼は、その中年過ぎの紳士が若い淑女に「これが例の男ですよ。」と目色で言ったのを見て取った。
「一体全体お前さんたち[#「お前さんたち」に傍点]はそんな処で何をしてるんだい?」とムシュー・ドファルジュは心の中で言った。「こちとらはお前さんたちなんか知らねえや。」
 しかし、彼はその二人の見知らぬ人には気がつかぬ風をして、勘定台のところで飲んでいる三人組の客と談話をし始めた。
「どうだね、ジャーク★?」とその三人の中の一人がムシュー・ドファルジュに言った。「こぼれた葡萄酒はみんな飲んじまったかい?」
「一|滴《しずく》も残さずによ、ジャーク。」とムシュー・ドファルジュは答えた。
 こんな風に洗礼名★の交換がすんだ時、マダーム・ドファルジュは、爪楊枝で歯をほじくりながら、また一つ咳払いをし、また少し眉毛を揚げた。
「あのみじめな獣たちは大抵は、」と三人の中の二番目の者がムシュー・ドファルジュに向って言った。「葡萄酒の味を知るなんてこたあ滅多にねえんだからな。いや、葡萄酒だけじゃねえ、黒パンと死ぬこととの他《ほか》のものの味を知るってことは滅多にねえんだ。そうじゃねえか、ジャーク?」
「そうだよ、ジャーク。」とムシュー・ドファルジュは返答した。
 こうして二度目にその洗礼名を交換している時に、マダーム・ドファルジュは、極めて落著き払ってやはり爪楊枝を使いながら、また一つ咳払いをし、また少し眉毛を揚げた。
 今度は、三人の中の最後の者が、空《から》になった酒を飲む器《うつわ》を下に置いて脣をぴちゃぴちゃ舐めながら、自分の言うことを言い出した。
「ああ! それよりはもっと悪いんさ! ああいう可哀そうな畜生どもがしょっちゅう口にしてるのは苦《にが》い味ばかりなんだ。そして奴らはつらい暮しをしているんだよ、ジャーク。おれの言う通りだろ、ジャーク?」
「お前の言う通りだよ、ジャーク。」というのがムシュー・ドファルジュの返事であった。
 この三度目の洗礼名の交換が終った瞬間に、マダーム・ドファルジュは爪楊枝をやめて、眉毛をきっと上げ、自分の座席で少しさらさら音をさせた。
「待てよ! うん、なるほど!」と彼女の夫は呟いた。「諸君、――わしの家内だ!」
 三人の客はマダーム・ドファルジュに向って自分たちの帽子を脱いで、それを大袈裟に振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。彼女は、頭をぐるりと向け、彼等をちらっと見て、彼等の敬礼に報いた。それから、彼女は何気ない風に店の中をちらりと見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、見たところ非常に平静な沈著な様子で自分の編物を取り上げて、余念なく編み出した。
「諸君、」ときらきら光る眼を注意深く彼女に注いでいた彼女の夫は、言った。「さよなら。あの独身者向きに設備してある部屋は、それ、君たちが見たいと言って、さっきわしがちょっと表へ出た時に尋ねていたあの部屋だが、あれは六階にあるんだ。そこへゆく階段の出入口は、わしの家の窓際の、この左手にくっついた、」と手で指しながら、「小さな中庭のところにあるよ。しかし、今思い出したんだが、君たちの中の一人はあすこへ行ったことがあるんだから、道案内は出来る訳だね。じゃ、諸君、さようなら!」
 その三人の客は飲んだ葡萄酒の勘定を払って、そこから出て行った。ムシュー・ドファルジュの眼は編物をしている妻をじっと見守っていたが、その時、例の紳士がさっきの隅っこから進み出て、ちょっと一|言《こと》お伺いしたいと言った。
「お安いことで。」とムシュー・ドファルジュは言って、その紳士と一緒に戸口のところまで静かに歩を運んだ。
 二人の会談は極めて短かったが、また極めててきぱきしたものだった。ほとんど最初の一語で、ムシュー・ドファルジュははっとして非常に注意深く耳を傾けた。それが一分と続かないうちに、彼は頷《うなず》いて出て行った。すると紳士は例の若い淑女を手招きして、その二人もまた出て行った。マダーム・ドファルジュは眉毛も動かさずに指を敏捷に動かしながら編物をして、何も見ようとしなかった★。
 ジャーヴィス・ロリー氏とマネット嬢とは、こうしてその酒店から出て来ると、ムシュー・ドファルジュがつい先刻彼の他の客たちに教えてやったあの階段の出入口のところで彼と一緒になった。そこは悪臭のある小さな暗い中庭に向いていて、多数の人々の住んでいる積み重なったたくさんの家々の共同の入口になっていた。床瓦《ゆかがわら》を鋪いた薄暗い階段へと続く床瓦を鋪いた薄暗い入口のところで、ムシュー・ドファルジュは昔の主人の息女に対して片膝を曲げて身を屈め、彼女の手を自分の脣にあてた。それは優雅な行為であったが、しかしそのやり方はちっとも優雅ではなかった。数秒の間に極めて著しい変化が彼に起っていたのだ。彼の顔には愛嬌のいいところがなくなったし、開《あ》けっ放しの様子も少しもなくなり、寡言な、怒りっぽい、危険な人間になっていた。
「ずいぶん高いんです。少々厄介ですよ。ゆっくりかかった方がいいでしょう。」三人が階段を昇りかけた時に、ムシュー・ドファルジュはきっとした声でロリー氏にこう言った。
「あの方《かた》は独りでおられるのですか?」と後者が囁いた。
「独りでですと! お気の毒に、あの方《かた》と一緒にいるなんて者はいやしませんよ。」と今一人の方《ほう》が同じ低い声で言った。
「では、あの方《かた》はしょっちゅう独りでおられるんですか?」
「そうです。」
「あの方《かた》自身のお望みで?」
「あの方《かた》自身の余儀ない事情ででさ。あの人たちがわっしを見つけ出して、わっしがあの方《かた》を引取るかどうか、またわっしが危険を冒しても慎重にやってくれるかどうかと聞きただした後で、わっしは初めてあの方《かた》にお目にかかったんですが、――その時あの方は独りであったように、今でもそうなんですよ。」
「ひどく変っておられるでしょうな?」
「変ってるですって!」
 酒店の主人は立ち止って、片手で壁をどんと叩き、恐しい呪いの言葉を呟いた。どんな露骨な返事でもこの半分の力をこめることも出来なかったろう。ロリー氏の気分は、彼が二人の同伴者と共にだんだんと昇ってゆくにつれて、だんだんと沈んでゆくのであった。
 パリーの古くからの込んでいる地域にある、そういう階段や、それの附属物は、今でもずいぶんひどいものであろう。が、その当時では、それは、そういうものに慣れて無感覚になっていない人の感覚には実に厭わしいものだった。大きな不潔な巣のような一つの高い建物の内部にある一つ一つの小さな住居――言葉を換えて言えば、共同の階段に向いている一つ一つの戸口の内にある一室ないし数室――は、銘々の階段の中休み段に銘々の塵芥を山のように積み重ねておき、その上、残りの塵芥を窓から抛り出した。こうして出来たどうにも手のつけようのない始末に負えぬ腐敗の堆塊は、たとい貧窮と剥奪とがそれの無形の不潔物を空気に多量に含めなくてさえも、あたりの空気を十分汚したであろう。そこへその二つの悪い原因が一緒になって加わったものだから、そこの空気はほとんど我慢の出来ぬものになっていた。こういう空気の中を、塵埃と毒気との急勾配の暗い堅坑を通って、路は続いているのであった。ジャーヴィス・ロリー氏は、刻一刻とひどくなって来る自分自身の心騒ぎと、自分の若い同伴者の興奮とに負けて、二度も立ち止って休息した。その立ち止ったのは二度とも陰気な格子のところであった。その格子からは、少しでも腐敗せずに残っている衰えたよい空気は皆逃げ出して、すべての悪くなった不健康な瓦斯体が這い込んで来るように思われたのであった。その銹びた鉄棒の間から、ごちゃごちゃになっている附近の様子が、眼で見えるというよりも、舌で味われるようであった。そして、ノートル・ダム★のかの二つの大きな塔の頂よりこっちにある、あるいはそれよりも低いところにある区域内には、健康な生活や健全な熱望などの見込をちょっとでも持っているものは何一つとしてないのであった。
 遂に、階段のてっぺんに達し、彼等は三度目に立ち止った。が、屋根裏部屋の階まで行くには、今までよりももっと勾配の急な、幅の狭い、もう一つ上の階段をまだ昇らなければならなかった。酒店の主人は、あの若い淑女に何か質問をされるのを恐れてでもいるように、絶えず少し先に立って歩き、絶えずロリー氏の歩く側を進んで来たが、このあたりでくるりと向き直り、肩にかけていた上衣のポケットの中を入念に探って、一つの鍵を取り出した。
「じゃ、君、扉《ドア》には錠を下してあるんですね?」とロリー氏は意外に思って言った。
「ええ。そうです。」というのがムシュー・ドファルジュの厳しい返事であった。
「君はあの不仕合せな方《かた》をそんなに閉じこめておくのが必要だと思うのですね?」
「わっしは鍵をかけておくのが必要だと思うんです。」ムシュー・ドファルジュはロリー氏の耳のもっと近くで囁いて、ひどく顔を蹙《しか》めた。
「どうしてです?」
「どうしてですって! もし扉《ドア》が開《あ》けっ放しになっていようものなら、あの人はあんなに永い間押しこめられて暮して来られたので、怖《こわ》がって――暴《あば》れて――われとわが身をずたずたに引き裂いて――死んでしまうか――どんな悪いことになるかわからないからでさ。」
「そんなことがあり得るだろうか?」とロリー氏は大声で言った。
「そんなことがあり得るだろうかってんですか!」とドファルジュは苦々《にがにが》しく言い返した。「そうですよ。われわれが美しい世の中に住んでいる時に、そんなことは実際[#「実際」に傍点]あり得るのです。また、その他《ほか》のそういうようなことがたくさんあり得るんです。あり得るだけじゃない。現にあるのです、――いいですか、あるんですよ! ――あの空の下で、毎日毎日ね。悪魔万歳だ。さあ、行きましょうか。」
 この対話はごく低い囁き声で行われたので、その一語も若い淑女の耳には達しなかった。けれども、この時分には彼女は強烈な感動のためにぶるぶる震え、彼女の顔には深い不安と、とりわけ憂慮と恐怖とが表れていたので、ロリー氏は元気づかせる一二語を言うのを自分の義務と感じた。
「しっかりなさい、お嬢さん! しっかりして! 事務ですよ! 一番つらいことはじきにすんでしまいましょう。ただ部屋の戸口を跨ぐだけのことです。そうすれば一番つらいことはすんでしまうのですよ。それからは、あなたがあの方《かた》に対して持ってお出でになるあらゆるよいこと、あなたがあの方《かた》に対して持ってお出でになるあらゆる慰安、あらゆる幸福が始るのです。ここにおられるわたしたちの親切な友達にそちら側から力を藉してもらいましょう。それで結構、ドファルジュ君。さあ、さあ。事務ですよ、事務ですよ!」
 彼等はゆっくりとそっと上って行った。その階段は短くて、彼等はまもなく頂上へ著いた。そこへ来ると、そこで階段が急に一つ曲っていたので、彼等には突然三人の男が見えるようになった。その三人は一つの扉《ドア》の脇にぴったり寄り添うて頭を屈めていて、壁にある隙間か穴から、その扉《ドア》のついている室の中を熱心に覗き込んでいるのだった。足音が間近に迫って来るのを聞くと、その三人の者は振り向いて、立ち上った。見ると、それはさっき酒店で酒を飲んでいたあの同一の名の三人であった。
「わっしはあなた方が訪ねてお出でなすったのにびっくりして、あの連中のことを忘れてましたよ。」とムシュー・ドファルジュは弁明した。「おい、君ら、あっちへ行ってくれ。わしたちはここで用事があるんだから。」
 三人の者は傍をすうっと通り抜けて、黙ったまま降りて行った。
 その階には他《ほか》に扉《ドア》が一つもないようであったし、自分たちだけになると酒店の主人はその扉《ドア》の方へ真直に歩いてゆくので、ロリー氏は少しむっとして囁き声で彼に尋ねた。――
「君はムシュー・マネットを見世物にしてるのかね?」
「わっしは、選ばれた少数の者に、あなたが御覧になったようなやり方で、あの人を見せるのです。」
「そんなことをしていいものですかな?」
「わっしは[#「わっしは」に傍点]いいと思っています。」
「その少数の者というのはどんな人たちです? 君はその人たちをどうして選ぶのですか?」
「わっしは、わっしと同じ名の者を――ジャークってのがわっしの名ですが――ほんとうの人間として選ぶんです。そういう連中には、あの人を見せてやることはためになりそうなんでね。が、もう止《よ》しときましょう。あなたはイギリス人だ。だからそんなことは別問題です。どうか、ほんのちょっと、そこで待ってて下さい。」
 二人に後に下っているようにと諭《さと》すような手振りをしながら、彼は身を屈めて、壁の隙間から覗いて見た。ほどなく再び頭を揚げると、彼は扉《ドア》を二度か三度叩いたが、――それは明かにそこで物音を立てるだけの目的でしたのであった。それと同じ目的で、鍵を扉《ドア》にあてて三四度ずうっと引き、その後で、それを不器用に錠の中へ挿し込み、出来るだけがちゃがちゃさせながらそれを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
 扉《ドア》は彼の手でゆっくりと内側へ開き、彼は室内を覗き込んで何かを言った。すると弱々しい声が何かを答えた。どちら側からもただの一|言《こと》以上はしゃべらなかったに違いない。
 彼は肩越しに振り返って、二人に入るようにと手招きした。ロリー氏は自分の片腕を令嬢の腰にしっかりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、彼女を支えた。彼女がぐったりと倒れかかるように感じたからである。
「こ――こ――これは――事務ですよ、事務ですよ!」と彼は励ましたが、その頬には事務らしくもない一滴の涙が光っていた。「お入りなさい、お入りなさい!」
「あたくしあれが怖《こわ》いのです。」と彼女は身震いしながら答えた。
「あれとは? 何のことです?」
「あの方《かた》のことですの。あたくしの父のこと。」
 彼女はそういう様子だし、案内者は手招きしているので、幾分やけ気味になって、彼は自分の肩の上でぶるぶる震えている彼女の腕を自分の頸にひっかけ、彼女を少し抱え上げるようにして、彼女をせき立てて室内へ入った。彼は扉《ドア》のすぐ内側のところで彼女を下し、自分にしがみついている彼女を支えた。
 ドファルジュは鍵を引き出し、扉《ドア》を閉《し》め、内側から扉《ドア》に錠を下し、再び鍵を抜き取って、それを手に持った。こういうことを皆、彼は、順序正しく、また、立てられるだけの騒々しい荒々しい音を立てて、やったのであった。最後に、彼は整然たる足取りで室を横切って窓のあるところまで歩いて行った。彼はそこで立ち止って、くるりと顔を向けた。
 薪などの置場にするために造られたその屋根裏部屋は、薄暗くてぼんやりしていた。何しろ、そこの屋根窓型の窓というのは、実際は、屋根に取附けた扉《ドア》であって、街路から貯蔵物を釣り上げるのに使う小さな起重機《クレーン》がその上に附いていた。硝子は嵌めてなく、フランス風の構造の扉《ドア》ならどれも皆そうなっているように、二枚が真中で閉《し》まるようになっていた。寒気を遮るために、この扉《ドア》の片側はぴったりと閉《し》めてあり、もう一方の側はほんのごく少しだけ開《あ》けてあった。そこからわずかな光線が射し込んでいるだけだったので、最初入って来た時には何を見ることも困難であった。そして、こういう薄暗がりの中で何事でも精密さを要する作業をする能力は、どんな人間にしてもただ永い間の習慣によってのみ徐々に作り上げることが出来るだけであったろう。しかるに、そういう種類の作業がその屋根裏部屋で行われていたのであった。というのは、一人の白髪の男が、戸口の方に背を向け、酒店の主人が自分を見ながら立っている窓の方に顔を向けながら、低い腰掛台《ベンチ》に腰掛けて、前屈みになってせっせと靴を造っていたからである。
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    第六章 靴造り

「今日《こんにち》は!」とムシュー・ドファルジュは、靴を造るのに低く屈んでいる白髪の頭を見下しながら、言った。
 その頭はちょっとの間揚げられ、そして、ごく弱々しい声が、あたかも遠くで言っているかのように、その挨拶に答えた。――
「今日《こんにち》は!」
「相変らず精が出るようですね?」
 永い間の沈黙の後に、頭はまたちょっとの間上げられ、さっきの声が答えた。「はい、――仕事をしております。」今度は、顔が再びがくりと垂れる前に、やつれた両眼が問いかけた人をちょっと見た。
 その声の弱々しさは哀れでもあり物凄くもあった。幽閉と粗食も確かにそれに与ってはいたろうけれども、それは肉体的の衰弱から来る弱々しさではなかった。それの悲惨な特性は、それが孤独でいて声を使うことがなかったことから来る弱々しさであるということであった。その声はずっとずっと以前に立てた音声の最後の弱い反響のようであった。それは人間の声らしい生気ある響をすっかり失っているので、かつては美しかった色彩が色褪せて見る影もない薄ぎたない汚染《しみ》になってしまったような感じを与えるのであった。それは非常に沈んだ抑えつけられた声なので、まるで地下の声のようであった。それは望みの絶えた救われない人間をよく表《あらわ》していて、ちょうど、飢えた旅人が、曠野の中をただ独りさまようて疲れ果て、行き倒れて死ぬ前に、故郷と近親の者とを思い出す時の声はこうでもあろうかと思われるくらいであった。
 無言の作業の数分間が過ぎた。それから例のやつれた眼が再び見上げた。それは、幾分でも興味や好奇心からではなく、その眼の見て知っている唯一の訪問者が立っていた場所から、まだその人が立去っていないことを、予め、ぼんやりと無意識に知覚したからであった。
「わたしはね、」とその靴造りからじっと眼を放さずにいたドファルジュが言った。「ここへもう少し明りを入れたいんですがね。もう少しくらいなら我慢が出来ましょうね?」
 靴造りは仕事を止《や》めた。耳をすましているようなぼんやりした様子で、自分の一方の側の床《ゆか》を見た。それから、同じように、もう一方の側の床《ゆか》を見た。それから、話しかけた人を仰いで見た。
「何と仰しゃいましたか?」
「あなたはもう少しくらいの明りは我慢が出来ましょうね?」
「あんたが入れるというなら、わたしは我慢しなけりゃならん。」(その最後の言葉にほんのごくわずかばかりの力を入れて。)
 開いている方の片扉が更にもう少し開《あ》けられ、差当りその角度で動かぬようにされた。幅の広い光線が屋根裏部屋の中へさっと射し込み、その靴工がまだ仕上らぬ靴を膝の上に載せたまま働く手を休めている姿を見せた。彼の二三の普通の道具と、鞣皮《なめしがわ》のさまざまの切屑とが、彼の足もとや腰掛台《ベンチ》の上に散らばっていた。彼は、ぎざぎざに刈った、しかしさほど長く延びていない白い鬚と、肉の落ちた顔と、非常に光る眼をしていた。その眼は、よし事実大きくはなかったにしても、まだ黒い眉毛ともじゃもじゃの白髪の下で、肉が落ちて痩せこけた顔のために大きく見えたであろう。ところが、それは生れつき大きかったので、異様に大きく見えた。黄ろいぼろぼろになったシャツの咽《のど》もとが開いていて、体《からだ》の萎《しな》びて痩せ衰えているのが見えた。彼の体も、古ぼけた麻布の仕事服も、だぶだぶの靴下も、身に著けているすべてのひどい襤褸《ぼろ》著物も、永い間じかに日光と外気とにあたらなかったために、すっかり色が褪せて、一様にくすんだ羊皮紙のような黄色になっているので、どれがどれだか見分けもつきかねるくらいであった。
 彼は片手を自分の眼と光との間に揚げていたが、その手の骨までが透き通って見えるように思われた。仕事の手を休めたまま、じっとぼんやりした眼付をしながら、彼はそうして腰掛けていた。彼は、音声を場所と結びつける習慣を失ってしまったかのように、最初に自分のこちら側、次にあちら側と見下してからでなければ、決して自分の前にいる者の姿を見ないのであった。まずこんな風にきょろきょろして、口を利くのも忘れてからでなければ、決して口を利かないのであった。
「今日《きょう》のうちにその一足の靴を仕上げようというんですか?」とドファルジュは、ロリー氏に前へ出るようにと手招きしながら、尋ねた。
「何と仰しゃいましたかな?」
「今日《きょう》の中にその一足の靴を仕上げるつもりなのですか?」
「仕上げるつもりだということはわたしには言えません。仕上るだろうと思うだけです。わたしにはわかりません。」
 しかしその質問は彼に仕事のことを思い出させ、彼は再び身を屈めて仕事にかかった。
 ロリー氏は、令嬢を扉《ドア》の近くに残して、無言のまま前へ出て来た。彼がドファルジュの傍に一二分間ばかりも立っていた頃、靴造りは顔を上げて見た。彼は別の人間の姿を見ても別に驚いた様子は見せなかった。ただ、その姿を見ると彼の片方の手のぶるぶるしている指が脣にふらふらとあてられ(彼の脣も爪も同じ蒼ざめた鉛色をしていた)、それからやがてその手はばたりと仕事のところへ落ち、彼はもう一度靴の上へ身を屈めた。この見上げるのとこれだけの動作をするのとはほんのしばらくしかかからなかった。
「そら、あなたのところへお客さんですよ。」とムシュー・ドファルジュが言った。
「何と仰しゃいましたか?」
「お客さんが来ていらっしゃるよ。」
 靴造りは前のように顔を上げて見たが、しかし仕事から手を離さなかった。
「さあ!」とドファルジュが言った。「ここに、出来のよい靴を見ればすぐおわかりになる方《かた》が来てお出でになるのだ。お前の拵えているその靴をこの方《かた》にお目にかけなさい。旦那《ムシュー》、それを取ってみて下さい。」
 ロリー氏はそれを手に取った。
「この方《かた》に、それがどんな種類の靴か、また製造者の名前は何というのか、申し上げなさい。」
 いつもよりももっと永い間をおいてから、靴造りはこう答えた。――
「あんたのお尋ねになりましたのはどんなことだったかわたしは忘れました。何と仰しゃいましたのですか?」
「この方《かた》の御参考に靴の種類を説明してあげることが出来ないか? と言ったのだよ。」
「それは婦人靴です。若い婦人の散歩靴です。それは今の流行のものです。わたしはその流行を一度も見たことがありませんでした。わたしは型を一つ持っているのです。」彼は、束《つか》の間《ま》のほんの微かな誇りの色を浮べながら、その靴をちらりと見やった。
「それから製造者の名前は?」とドファルジュが言った。
 その靴造りは、する仕事がなくなったので、右手の指の節《ふし》を左の掌《てのひら》に載せ、次には左手の指の節を右の掌に載せ、それから次には片手で鬚の生えた頤を撫で、そういうことを規則正しく一瞬も休まずに続けた。彼が口を利いた後で必ず陥る放心状態から彼を囘復させる骨折は、誰か非常に虚弱な人を気絶から囘復させたり、何かの打明け話を聞くことが出来ようかと思って、死にかかっている人間の魂を引き止めようと努めたりするのに似ていた。
「わたしの名前をお尋ねになりましたのですか?」
「いかにも尋ねた。」
「北塔百五番。」
「それだけか?」
「北塔百五番。」
 吐息《といき》とも呻《め》き声ともつかぬものうい音《ね》をほっと洩らすと共に、彼はまた身を屈めて仕事をし出したが、やがて沈黙はまた破られた。
「あなたは本職の靴造りではないのでしょうね?」と、彼をじっと見つめながら、ロリー氏が言った。
 この質問をドファルジュに転嫁したがっているかのように、彼のやつれた眼はドファルジュの方に向いた。が、その方面からは何の助けも来なかったので、その眼は床《ゆか》を捜してから質問者に戻った。
「わたしが本職の靴造りではないだろうって? はい、わたしは本職の靴造りではありませんでした。わたしは――わたしはここへ来てから覚えたのです。独りで覚えたのです。わたしはお許しを願って――」
 彼はそう言いかけたまま何分間もぼんやりした。その間中、あの両手の規則的な代る代るの動作を繰返していた。彼の眼は、とうとう、そこからさまよい出た元の顔へゆっくりと戻った。その顔に止ると、彼ははっとして、眠っていた人がつい今目が覚めて、前夜の話題をまた話し出すような工合に、再び言い始めた。
「わたしはお許しを願って独りで覚えたいと思いましたが、ずいぶん永い間かかってやっとのことでそのお許しを得ました。その時からずっと靴を造っております。」
 彼が取り上げられている靴を受け取ろうとして手を差し出した時に、ロリー氏はなおも彼の顔をじっと覗き込みながら言った。――
「ムシュー・マネット、あなたは私のことをちっとも覚えていらっしゃいませんか?」
 靴は床《ゆか》にばたりと落ち、彼はその質問者をじいっと眺めながら腰掛けていた。
「ムシュー・マネット、」――ロリー氏は自分の片手をドファルジュの腕にかけて、――「あなたはこの人のことをちっとも覚えていらっしゃいませんか? この人をよく御覧なさい。私をよく御覧なさい。あなたのお心の中には、昔の銀行員や、昔の仕事や、昔の召使や、昔のことが少しも浮んで参りませんか、ムシュー・マネット?」
 その永年の間の囚人がロリー氏とドファルジュとを代る代るじいっと見つめながら腰掛けているうちに、額《ひたい》の真中の、永い間掻き消されていた、活動的な鋭い知能の徴《しるし》が、彼にかぶさっていた黒い霧を押し分けてだんだんと現れて来た。と、その徴は再び霧に覆われ、次第に微かになり、とうとう消え去ってしまった。が、それは確かにそこに現れたのであった。そして、その表情は、壁に沿うて彼の姿の見られるところまでそうっと歩いて来て、今はそこに彼を見つめながら立っている令嬢の、美しい若い顔にも寸分の違いなくそっくりに現れたので、――その彼女は、最初は、たとい彼を近づけず彼の姿を見まいとするためではないにしても、恐怖を交《まじ》えた憐憫の情から両手をただ挙げていただけであったのに、今は、亡霊のような彼の顔を自分の暖かな若い胸に休ませて、それを愛撫して生命と希望とに引戻してあげたいという熱望で震わせながら、その手を彼の方に差し伸べていたのであるが、――その表情は彼女の美しい若い顔にも寸分の違いなく(もっともその性質はいっそう強かったが)そっくりに現れたので、移り動く光のようにそれが彼から彼女に移ったのかと思われるくらいであった。
 暗黒がその表情に代って彼に覆いかぶさっていた。彼が二人を見つめる注意が次第次第に弱くなり、その眼は陰鬱な放心状態で前のようにして床《ゆか》を捜し自分の周りを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。遂に、深い長い吐息を一つつくと、彼は靴を取り上げて、また仕事にかかった。
「あの方《かた》だという見分けがおつきになりましたか、旦那《ムシュー》?」とドファルジュが囁き声で尋ねた。
「つきました。一瞬間ですがね。最初はわたしはそれを全く望みがないと思いましたが、ほんの一瞬間、わたしが以前よっく知っていた顔を確かに見ました。しいっ! わたしたちはもっと後へさがりましょう。しいっ!」
 彼女は屋根裏部屋の壁のところから離れて、彼の腰掛けている腰掛台《ベンチ》のごく近くまで行っていた。手を差し出せば身を屈めて仕事をしている自分に触れるところにいる人の姿をも意識しない彼の様子には、何となくぞっとするようなところがあった。
 一語も話されなかったし、何の音も立てられなかった。彼女は彼の傍に精霊のように立っていたし、彼は仕事をしながら屈んでいた。
 そのうちに、彼は手に持っている道具を靴造り用の小刀《ナイフ》に持ち替える必要が出来た。その小刀《ナイフ》は彼女の立っている側と反対の側にあった。それを取り上げて、再び仕事にかかろうと屈んだ時に、ふと彼女の衣服の裾《スカート》が目についた。彼は眼を上げて、彼女の顔を見た。傍に見ていた二人の者ははっとして前へ出た。が、彼女は片手を動して彼等を制止した。彼がその小刀《ナイフ》で彼女を突き刺しはしまいかと、彼等は懸念したにしても、彼女は少しもしなかった。
 彼は恐しい眼付で彼女を見つめた。そして、しばらくしてから、彼の脣は、まだ少しの声もそこから出て来はしなかったけれども、何かの言葉を言う形をし出した。漸次に、速い苦しげな息遣いの合間合間に、こう言うのが聞えて来た。――
「これはどうしたことだろう?」
 涙を顔にぽろぽろ流しながら、彼女は自分の両の手を脣にあて、それに接吻して彼に送った。それから、その手をちょうど彼の破滅させられた頭をそこに休ませるかのように、自分の胸の上に組み合せた。
「あなたは牢番さんの娘さんではありませんね?」
 彼女は溜息をつくように言った。「ええ。」
「あなたは誰ですか?」
 彼女は、まだ自分の声の調子が当《あて》に出来なかったので、彼と並んでその腰掛台《ベンチ》に腰を掛けた。彼は尻込みした。が彼女は自分の片手を彼の腕にかけた。彼女がそうした時に奇妙な戦慄が彼を襲い、それが目に見えて彼の体中に伝わった。彼は彼女を見つめながら、小刀《ナイフ》をそっと下に置いた。
 長い捲毛にしている彼女の金髪は、ぞんざいに掻き分けてあって、彼女の頸のところまで垂れていた。彼は手を少しずつ伸ばし、その髪を手に取り上げてじっと見入った。そうしている最中に彼は気がふらふらとして、もう一度深い吐息をつくと、靴を造る仕事を始めた。
 しかし永い間ではなかった。彼女は彼の腕を放して、彼の肩に手をかけた。すると彼は、あたかもその手がほんとうにそこにあるのかということを確めようとするかのように、二度か三度それを疑わしげに眺めてから、仕事を下に置き、自分の頸のところへ手をやって、黒くなった一筋の紐を取り出した。その紐には摺《たた》んである襤褸の小片が結びつけてあった。彼はそれを膝の上で気をつけて開《あ》けた。中にはほんの少しの髪の毛が入っていた。彼がいつか以前に自分の指に巻きつけて取ったらしい一筋か二筋の長い金髪だった。
 彼は彼女の髪の毛を再び手に取って、それをつくづくと眺めた。「同じものだ。どうしてそんなことがあるはずがあろう! あれはいつのことだったろう! どうしてだったかな!」
 例の思いを凝すような表情が彼の額に戻って来た時、彼はその表情が彼女の額にもあるのに気がついたようであった。彼は彼女を光の方へまともに向けて、彼女を眺めた。
「わしが呼び出されたあの晩、彼女《あれ》はわしの肩に頭をあてていた。――彼女《あれ》はわしの出かけるのを心配していた。わしの方は少しも心配などしなかったのに。――それからわしが北塔へ連れて来られた時に、これがわしの袖についているのをあの人たちが見つけたのだ。『あなた方もこれはわたしに残しておいて下さるでしょうな? これはわたしの魂の脱獄には助けになるかもしれんが、体の脱獄には決して助けになることは出来んものだから。』わしはそう言ったものだった。わしはそれをよく覚えている。」
 彼はこれだけの文句を口に出せるまでには、何度も何度も脣でその文句の形をしてみたのであった。しかし、話そうとする言葉が出て来始めると、ゆっくりではあったけれども、次々に続いて出て来た。
「これはどうしてだったろうな? ――あれはあなただったのか[#「あれはあなただったのか」に傍点]?」
 彼が恐しく不意に彼女の方に振り向いたので、もう一度、二人の傍観者ははっとした。だが、彼女は彼の手に掴まえられたまま全くじっと腰掛けていて、ただ低い声でこう言った。「どうぞ、お願いでございますから、皆さま、あたくしたちの近くへお出で下さいますな、口をお利き下さいますな、お動き下さいますな!」
「おや!」と彼は叫んだ。「あれは誰の声だったかな?」
 この叫び声を立てると彼は両手を彼女から離し、自分の白髪のところへ上げて、気違いのようにそれを掻きむしった。それも次第に止んでしまった。彼の靴造りの仕事以外のどんなことでも彼には次第に止んでゆくように。そして彼はあの小さな包みを再び摺み、それを胸のところへしまいこもうとした。が、やはり彼女を見ていて、陰気な顔をしながら頭を振った。
「いや、いや、いや。あなたは若過ぎる。若盛り過ぎる。そんなことはあるはずがない。この囚人がどんなになっているか見て御覧。この手は彼女《あれ》の知っていた頃の手ではない。この顔も彼女《あれ》の知っていた頃の顔ではない。この声も彼女《あれ》の聞いたことのある声ではない。いや、いや。彼女《あれ》も――またその頃のわしも――北塔で永い年月《としつき》がたたぬ前のことだ、――ずっとずっと昔のことだ。優しい天使さん、あなたの名前は何というのですか?」
 彼の語調と挙動との和《やわら》いだのに喜んで応ずるように、彼の娘は彼の前に跪いて、訴えるように両手を彼の胸のところへ差し出した。
「おお、あなたさま、いつかまた別の時に、あたくしの名前や、あたくしのお父さまがどなたでしたか、お母さまがどなたでしたか、またそのお二人のつらいつらいお身の上をどうしてあたくしがちっとも知らずにいましたか、お話申し上げましょう。けれども、今は申し上げられません。ここでは申し上げられません。ここで今申し上げられますのは、どうかあたくしにお手をあててあたくしを祝福して下さいましとお願いすることだけでございますわ。あたくしに接吻して下さいまし、接吻して下さいまし! おお、お懐《なつか》しいお方、お懐しいお方さま!」
 彼の冷い白い頭は彼女のつやつやした髪の毛と雑《まじ》り、その髪は彼を照す自由の光であるかのようにその頭を温め輝かせた。
「もしあなたがあたくしの声をお聞きになりまして、あたくしの声に――そうなのかどうかあたくしは存じません、そうであるようにと思っているのでございますが――あたくしの声に、以前あなたのお耳にとって美わしい音楽でありましたお声に幾らかでも似たところがございましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! もしあなたがあたくしの髪にお触りになりまして、あなたがお若くて自由でいらした頃にあなたのお胸にもたれた最愛の方《かた》のお頭《つむり》を思い出させるものが何でもございましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! もしあたくしがこれから御一緒に家庭をつくって、出来るだけ忠実に出来るだけ真心をこめてあなたにお仕えいたしましょうと申し上げます時に、あなたのお気の毒なお心が思い悩んでいらっしゃる間、永い間見棄てられていた家庭を思いお出しになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし!」
 彼女は彼の頸をいっそうしっかりと抱き締めて、彼を子供のように自分の胸のところで揺り動かした。
「もしあたくしが、お懐しいお懐しいお方、あなたのお苦しみはもうすみました、そのお苦しみからあなたをお救いするためにあたくしはここへ参りました、あたくしたちは平和に安穏に暮すためにイギリスへ行くのです、と申し上げます時に、あなたが、御自分の有益な御生涯が無駄になりましたことや、あたくしたちの生れ故郷のフランスがあなたにたいそう意地わるであったことを思いお出しになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! それからまた、もしあたくしが自分の名前と、生きてお出でになるあたくしのお父さまのお名前と、お亡《な》くなりになりましたお母さまのお名前を申し上げます時に、あたくしのお気の毒なお母さまが御慈愛からあたくしのお父さまのお苦しみをあたくしにお隠しになりましたため、あたくしがお父さまのために一日中骨を折ったことや一晩中眠らずに泣き明かしたことが一度もなかったことを、あたくしの立派なお父さまの前に跪いて、お父さまのお赦《ゆる》しをお願いしなければならないのです、ということがおわかりになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! お母さまのために、それから、あたくしのために、お泣き下さいまし! まあ皆さま、何て有難いことでしょう! 父の浄らかな涙があたくしの顔に落ちますの。父の啜り泣きがあたくしの胸に響いて来ますの。おお、御覧下さいまし! あたくしたちのために神さまに感謝して下さいまし、何と有難いことでしょう!★」
 彼は彼女の胸の中でぐったりとなり、その顔は彼女の胸のところに落ちていた。それは実に感動的な光景であった。しかも、これまでに彼が受けて来た非行と苦難とを思えば、実に恐しい光景であった。二人の傍観者は顔を蔽うたのであった。
 屋根裏部屋の静けさは永い間乱されずにいた。そして、彼の波打つ胸も震える体も、あらゆる嵐の後に必ず来るあの静穏――人間にとっては、生活という嵐が遂には鎮まって必ずそこへ落著くあの休息と沈黙との表象――に永い間委ねられていた。それから、二人の傍観者はその父親と娘とを床《ゆか》から抱き起そうと前へ進み出た。父親の方はだんだんに床《ゆか》にずり下っていて、疲れ果てて、昏睡状態になってそこで横わっていた。娘の方は、片腕に父の頭を載せておけるようにと、彼と一緒に下へうずくまっていた。そして、彼に垂れかかっている彼女の髪の毛は彼から光を除けていた。
「もし父を起さずにおいて、」と彼女は、ロリー氏が何度も鼻をかんだ後で二人の上に身を屈めた時に、ロリー氏に片手を挙げながら、言った。「父をこの家からすぐ連れて行けるように、あたくしたちがすぐさまパリーを立つ手筈がすっかり出来ますならば――」
「だが、お考え下さい。お父さまは御旅行をなすってもよろしいですか?」とロリー氏が尋ねた。
「父にとってあんなに恐しいこの都にいるよりは、まだしもその方がよい、とあたくしは思いますわ。」
「それあそうですよ。」と、見たり聞いたりするのに跪いていたドファルジュは、言った。「そればかりじゃありません。ムシュー・マネットは、あらゆる理由から、フランスを去られる方が一番いいんです。じゃあ、わっしは馬車と駅馬を雇って来ましょうか?」
「それは事務ですな。」とロリー氏は、すぐさま彼の几帳面な態度に返りながら、言った。「事務をやらねばならんのでしたら、わたしがやる方がいいでしょう。」
「では、どうぞあたくしたち二人をここに残しておいて下さいまし。」とマネット嬢は言い張った。「御覧の通り父はこんなに落著いて参りましたから、もう父をあたくしと一緒に残してお出でになりましても御心配はございません。どうして御心配なことなどございましょう? 誰も入って来ませんように扉《ドア》に錠を下して下さいますなら、きっと、父は、あなた方がお戻りになります時には、お出かけの時と同じように穏かにしておりますでしょうよ。何にしましても、あなた方がお帰りになりますまであたくしは父を預りましょう。そしてお帰りになりましたらあたくしたちは早速父を連れ出すことにいたしましょう。」
 ロリー氏もドファルジュも二人とも、このやり方は幾分気が進まず、二人の中のどちらか一人が残ることに賛成であった。けれども、馬車と馬の手配りをしなければならぬだけではなく、旅行免状の手配りもしなければならなかったし、それに、日も暮れようとしていて、時間が切迫していたので、とうとう、ぜひしなければならない用事を大急ぎで二人に分けて、それをしに二人が急いで出かけるということになった。
 それから、闇が迫って来ると、娘は自分の頭を父親のすぐ傍の堅い床《ゆか》の上に横えて、彼を見守っていた。闇はだんだんと濃くなって来た。そして二人は静かに横わっていた。そのうちに、とうとう、壁の例の隙間から灯光が一つちらちら洩れて来た。
 ロリー氏とムシュー・ドファルジュとが、すっかり旅行の準備をすませて、旅行用の外套や肩掛膝掛などの他《ほか》に、パンと肉、葡萄酒、熱い珈琲を携えて来た。ムシュー・ドファルジュは、この食糧と、彼の持っているランプとを、靴造りの腰掛台《ベンチ》(その屋根裏部屋にはそれ以外に藁蒲団の寝台《ベッド》が一つあるだけだった)の上に置いた。それから彼とロリー氏とは囚人を呼び覚し、助けて立ち上らせた。
 彼の顔に現れた、おびえたような、茫然とした驚きの中に、彼の心の奥を読み取ることは、いかなる人智にも出来なかったろう。彼がこれまでに起ったことを知っているのかどうか、彼等が彼に言ったことを思い出せるのかどうか、彼が自分の自由になっていることを知っているのかどうか、それはいかなる智慧も解くことの出来ない疑問であった。彼等は彼に話しかけてみた。が、彼はひどくまごまごして、返事もなかなか出来ないので、彼等は彼の当惑する様にびっくりして、当分はその上彼をいじくらないことにしようということにした。彼は、時々両手で頭を抱えるような、前には彼に見られなかった、狂気じみた、我を忘れたような挙動をした。それでも、娘の声だけでも聞くのは幾分気持がよいらしく、彼女が口を利く時にはきっとその方へ振り向くのであった。
 圧制に服従するのに永い間慣れていた人間に見られる柔順な態度で、彼は、彼等が飲み食いするようにと与えたものを飲み食いし、彼等が身に著けるようにと与えた外套やその他の身に纒うものを著た。彼は娘がその腕を彼の腕と組もうとするのにすぐに応じて、彼女の手を自分の両手に取って――放さずに持っていた。
 一同は下へ降り始めた。ムシュー・ドファルジュはランプを持って真先に行き、ロリー氏はその小さな行列の殿《しんがり》になった。あの長い本階段をそう幾段も降りないうちに彼は立ち止って、屋根をじっと見つめ、壁をじろじろ見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
「この場所を覚えていらっしゃいますか、お父さま? あなたはここを上っていらしたことを覚えていらっしゃいますか!」
「何と仰しゃったかな?」
 しかし、彼女がその問を繰返さないうちに、彼はあたかも彼女がその問を繰返したかのように答を呟いた。
「覚えているかって? いいや、覚えていない。あれはずいぶん以前のことだったからな。」
 彼が牢獄からこの家へ連れて来られたことについては少しの記憶も持っていないのは、彼等には明白になった。彼等は彼が「北塔百五番。」と呟くのを聞いた。そして、彼が自分の周囲を眺める時には、明かにそれは自分を永い間取囲んでいた堅固な城壁を探し求めるためであったのだ。一同が中庭まで来ると、彼は、吊上げ橋のあるのを予期しているように、知らず識らずのうちに歩き振りを変えた。ところが、吊上げ橋がなくて、からりとしている街路に馬車が待っているのを見ると、彼は娘の手を放して、また自分の頭を抱えた。
 入口のあたりには人だかりもなかった。たくさんの窓のどれにも人影は見えなかった。街路にも偶然に通りかかっている人さえ一人もいなかった。不自然なほどの沈黙と寂寞とがあたりを領していた。ただ一人の人間だけが見えた。それはマダーム・ドファルジュであった。――彼女は入口の側柱に凭れかかって編物をしていて、何も見ずにいた。
 かの囚人が馬車の中へ入ってしまい、彼の娘がその後に続いて入ってしまった時に、ロリー氏は、囚人が彼の靴を造る道具とあの仕上っていない靴とを哀れげに求める声を聞いて、踏台の上に足を止めた。マダーム・ドファルジュはただちに自分の夫に声をかけて自分がそれを取って来ようと言い、編物をしながら、中庭を通って、ランプの光の届かぬところへ歩いて行った。彼女は急いでそれを持って降りて来て、馬車の中へそれを手渡しした。――そしてすぐに入口の側柱に凭れかかって編物をし、何も見ようとしなかった。
 ドファルジュは馭者台に乗って、「城門へ!」と命じた。馭者は鞭をひゅうっと鳴らし、一同の乗った馬車は弱い光を放って頭上に吊り下っている街灯の下をがらがらと走って行った。
 頭上に吊り下っている街灯――立派な街になるほどますます明るく、悪い街になるほどますます薄暗く吊り下っている――の下を通って、また、灯火のついた店や、楽しげな群集や、灯光で装飾された珈琲店や、劇場の入口などの傍を通り過ぎて、市門の一つへと。そこの衛兵所の、角灯を持った兵士たち。「免状だ、旅行者たち!」「ではこれを御覧下さい、お役人さん。」とドファルジュが、馬車から降りて、その役人たちを由々しげに離れたところへ連れてゆきながら、言った。「これが車内の頭の白い人の旅行免状です。この免状は、あの人と一緒に、わっしが――で引渡されまし――」 彼は声を低くした。すると衛兵たちの角灯の間にざわめきが起った。そして、その角灯の一つが軍服を著た腕で馬車の中へ突き入れられると、その腕に接続した眼が、不断の日の、いや不断の夜の眼付とは違った眼付で、その頭の白い人を眺めた。「よろしい。通れ!」と軍服から。「御機嫌よろしゅう!」とドファルジュから。そして、だんだんと光の弱くなってゆく頭上に吊り下っている街灯がしばらく続いている下を通って、星が広くたくさん輝いている下へ。
 動かざる永遠の灯《ともしび》――その中のあるものは、この小さな地球から非常に遠く隔っているので、その光線が果してこの地球をそこで何事でも苦しんだりしている空間中の一点として見つけたことさえあるかどうか疑わしいと学者が言っている――のその穹窿の下に、夜の影は広々とまた黒々としていた。夜が明けるまでの、冷い、眠られぬがちな時間を通じて、その夜の影は、ジャーヴィス・ロリー氏――埋められていて掘り出された人と向い合って腰を掛け、この人からどんな微妙な能力が永久に失われたのか、どんな能力が囘復出来るのかと訝《いぶか》っているロリー氏――の耳に、もう一度、あの以前の問を囁いた。――
「あなたは甦《よみがえ》りたいとお思いでしょうね?」
 それからまたあの以前の答を囁くのだった。――
「わしにはわからない。」
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     第二巻 黄金《こがね》の糸
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    第一章 五年後

 テムプル関門《バー》の傍のテルソン銀行は、一千七百八十年においてさえ、古風な場所であった。それはごく狭くて、ごく暗くて、ごく不体裁で、ごく勝手が悪かった。その上に、その商社の社員たちがその狭いのを誇りとし、その暗いのを誇りとし、その不体裁なのを誇りとし、その勝手の悪いのを誇りとしているという精神的の特質でも、それは古風な場所であった。彼等は自分の銀行が狭くて暗くて不体裁で勝手の悪い点で際立っていることを自慢さえしていて、もしそれがこれほどひどくなかったならば、銀行の品格はそれだけ低くなるだろうという、明確な信念に燃えていた。これは決して消極的な信念ではなくて、もっと便利な営業所に対して彼等が閃かす積極的な武器であった。テルソンは(と彼等は言うのだった)何もゆとりなどを必要としない。テルソンは何も明りなどを必要としない。テルソンは何も装飾などを必要としない。ノークス商会には必要かもしれぬ。スヌークス兄弟商会には必要かもしれぬ。だが、テルソンには、有難いことには! だ――。
 こういう社員は誰でも、テルソン銀行を改築しようなどという問題を持ち出そうものなら、自分の息子でも勘当したことであろう。この点ではその銀行はこの国とよほど似ていた。この国は、永い間非常に非難のあった、しかし品格だけはますます備わって来た法律や慣習を改善しようと言い出した息子たちを、はなはだしばしば勘当したのだから。
 こういう次第で、テルソン銀行は意気揚々と不便の極致になってしまっていた。白痴のように強情な扉《ドア》を低い軋り音を立てながらぐいと開《あ》けた後に、諸君はテルソン銀行の中へ二段だけ下って降りる。そして、小さな勘定台の二つある、みすぼらしい、小さな店の中で、諸君は我に返る。そこでは、この上もなく年をとった人たちが、諸君の小切手をちょうど風がそれをさらさら音を立てさせるかのように振り動かしてみたり、また、この上もなく黒ずんだ窓の傍でその署名を調べてみたりする。その窓はフリート街★から来る泥土をいつも雨のように浴びせられていて、その窓に附いている鉄格子と、テムプル関門《バー》の重苦しい影とのためにいっそう黒ずんでいたのだ。もし諸君が自分の用件で「銀行」と会う必要が生ずるならば、諸君は奥の方にある罪人の監房のようなところに入れられる。諸君がそこで空費された生涯ということについて黙想していると、やがて銀行は両手をポケットに突っ込んでやって来る。そこの陰気な薄明りの中では諸君は彼を辛うじて細眼《ほそめ》で見ることが出来るだけだ。諸君のお金《かね》は虫の喰った古い木製の抽斗《ひきだし》の中から出て来る。またはその中へ入って行く。その抽斗が開《あ》けられたり閉《し》められたりする時に抽斗の微分子が諸君の鼻の中を舞い上ったり諸君の咽《のど》を舞い下ったりするのである。諸君の銀行紙幣は、まるでそれが再びもとの襤褸《ぼろ》にずんずん分解しつつあるかのように、黴臭い匂いをしている。諸君の金属器類はそこらあたりのどぶ溜のようなところの中へしまいこまれる。そして悪《あ》しき交りがそれの善き光沢を一日か二日のうちに害《そこな》う★のである。諸君の証券は台所と流し場とを改造した俄か造りの貴重品室の中へ入ってしまう。そしてその羊皮紙から脂肪がすっかり蝕《く》い取られてその銀行の空気になってしまう。家庭の書類を入れた諸君の軽い方の箱は、階上の、いつも大きな食卓が置いてあるが決して御馳走のあったことがないバーミサイドの部屋★へ上って行く。そして、その部屋で、一千七百八十年においてさえ、諸君の以前の愛人や諸君の小さな子供たちによって諸君に宛てて書かれた最初の手紙は、アビシニアかアシャンティーにふさわしい狂暴な残忍さと兇猛さとをもってテムプル関門《バー》の上に曝されている首★に、窓越しに横目で見られる恐怖から、ようやくのことで免れるのである。
 しかし、実際、その当時では、死刑に処するということは、あらゆる商売や職業に大いに流行している方法であった。そしてテルソン銀行でもそれに後《おく》れは取らなかった。死ということはあらゆることに対する大自然の療法である。とすればどうしてそれが法律の療法でないことがあろうか? そういう訳で、文書偽造者は死刑に処せられた。不正な紙幣の行使者は死刑に処せられた。信書の不法開封者は死刑に処せられた。四十シリング六ペンスを偸んだ者は死刑に処せられた。テルソン銀行の戸口にいる馬の番人が馬を曳いて逃走して死刑に処せられた。不正貨幣の鋳造者は死刑に処せられた。犯罪の全音域中の楽音を鳴らす者の四分の三は死刑に処せられた。そうしたところで犯罪防止に少しでも役に立ったという訳ではない、――事実は全くその正反対であったと言ってもいいくらいであったかもしれぬ、――が、そうすることは一つ一つの事件の煩わしさを一掃(現世に関する限りでは)して、それに関係のあることで考慮しなければならないようなことを他に一切残さなかったのだ。そういう次第で、テルソン銀行も、その全盛時代には、同時代の他の大きな営業所と同様に、非常に多くの人命を奪ったものである。だから、もしその銀行の前で打ち落された首が、こっそりと始末されないで、テムプル関門《バー》の上にずらりと並べられていたならば、その首は、おそらく、銀行の一階が受けているわずかばかりの明りをかなりはなはだしく遮ったことであろう。
 テルソン銀行のさまざまの薄暗い食器戸棚や兎小屋のようなところに押しこめられて、この上もなく年をとった人たちがいかにも真面目《まじめ》に事務を執っていた。彼等は青年をテルソン銀行ロンドン商社に採用した時には、その青年が老年になるまで彼をどこかに隠しておく。彼等は彼を乾酪《チーズ》のように暗い場所に貯蔵しておくのだ。するとしまいに彼は十分にテルソン風の風味と青黴★とを帯びて来るのである。そうなってようやく、彼は、人目に立つように大きな帳簿を調べたり、自分のズボンとゲートルとを銀行の全体の重みに加えたりして、人目に触れることを許されるのであった。
 テルソン銀行の戸外に――呼び入れられる時でなければどうあっても決して入ることのない――時には門番になり時には走使《はしりづか》いになる、雑役夫が一人いて、その銀行の生きた看板になっていた。彼は、使いに行っている時の他《ほか》は、営業時間中にはそこにいないことは決してなかった。そして、その使いに行っている時には、彼の倅《せがれ》が彼の代理をした。彼にそっくり生写《いきうつ》しの、十二歳になる、人相の悪い腕白小僧だ。世間の人々は、テルソン銀行が大まかなやり方でその雑役夫を使ってやっているのだということを承知していた。その銀行はいつも誰かしらそういう資格の人間を使ってやっていたのであって、歳月がこの人間をその地位に運んで来たのである。彼の姓はクランチャーといって、幼少の頃に、ハウンヅディッチ★の東教区教会で、代理人を立てて悪行を棄てると誓った時に★、ジェリーという名を附け加えてもらっていた。
 場面は、ホワイトフライアーズ★のハンギング・ソード小路《アレー》におけるクランチャー氏の私宅であった。時は、|わが主の紀元《アノー・ドミナイ》千七百八十年、風の強い三月のある日の朝、七時半。(クランチャー氏自身はわが主の紀元のことをいつもアナ・ドミノーズと言っていた。キリスト紀元なるものはあの一般に流行している遊びの発明された時から始っているのであって、それを発明したある婦人が自分の名をそれに与えたのだ、と明かに思い込んでいたものらしい。★)
 クランチャー君の借間《アパートメント》は附近が悪臭のない場所ではなかった。そして、たといたった一枚だけの硝子板の嵌っている物置を一室に数えるとしても、間数《まかず》は二つきりであった。しかし、その二|間《ま》はごくきちんと片附いていた。その風の強い三月のある日の朝、まだ時刻が早かったのに、彼の寝ている部屋はもうすっかり拭き掃除がしてあった。そして、朝食の用意に並べてあるコップや敷皿と、がたがたする樅板との間には、ごく清潔な白い布が掛けてあった。
 クランチャー君は、寛《くつろ》いでいるハーリクィンのように、補綴《つぎはぎ》だらけの掛蒲団をかぶって寐ていた★。最初は、ぐっすりと眠っていたが、だんだんと、寝床の中でのたくり※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ったり波打ったりし始め、遂には、例の忍返《しのびがえ》しを打ちつけたような髪の毛で敷布《シーツ》をずたずたに裂きそうにしながら、蒲団の上へぬっと起き上った。その途端に、彼は恐しく怒り立った声で呶鳴った。――
「畜生、あいつめまたやってやがるな!」
 部屋の一隅に跪いていた、おとなしそうな、勤勉そうな女が、今言われたあいつとは彼女のことであるということが十分にわかるほどあわてておどおどして、立ち上った。
「こら!」とクランチャー君は、寝床の中から片方の長靴を探しながら、言った。「お前《めえ》またやってやがるな。そうだろ?」
 この二度目の会釈で朝の挨拶をすませると、彼は三度目の会釈として片方の長靴をその女をめがけて投げつけた。それはひどく泥だらけな長靴であった。そして、それは、彼が銀行の時間がすんでからきれいな靴で家へ戻って来るのに、次の朝起きる時にはその同じ長靴が粘土だらけになっていることがしばしばあるという、クランチャー君の家事経済に関係のある、奇妙な事柄★を紹介し得るのである。
「何を、」とクランチャー君は、狙った的《まと》に中《あ》てそこなってから自分の呼びかける人間の言い方を変えて、言った。――「何を手前《てめえ》はしてやがったんでえ、人に迷惑をかける奴め?」
「わたしはただお祈りを唱えていただけですよ。」
「お祈りを唱えていたと! ひでえ阿魔《あま》だよ、手前《てめえ》は! へえつくばりやがって、おれに悪いことになるようにって祈るなんて、どういうつもりなんだ?」
「わたしはお前さんに悪いようになんて祈りやしませんよ。お前さんによいようにと祈ってたんです。」
「そうじゃねえだろ。よしそうだったにしろ、おれあそんな勝手な真似なんぞしてもれえたかねえ。おい! お前《めえ》のおっ母《かあ》はひでえ女だぜ、ジェリー坊。お前《めえ》の父《とう》ちゃんの運がよくならねえようにってお祈りをするんだからな。お前《めえ》は律義なおっ母を持ったもんだよ、お前《めえ》はな、小僧。お前《めえ》は信心深えおっ母を持ったもんだぞ、お前《めえ》はよ、なあ、坊主。へえつくばって、自分の独り息子の口からバタ附きパンをひったくって下さいって祈るんだからなあ!」
 小クランチャー君(彼はシャツのままでいた)はこれをひどく怒って、母親の方へ振り向くと、自分の食物を祈って取ってしまうようなことは一切してくれるなと烈しく異議を唱えた。
「ところで、この自惚《うぬぼ》れ女め、手前《てめえ》はな、」とクランチャー君は、前後撞著に気がつかずに、言った。「手前の[#「手前の」に傍点]お祈りの値打がどれだけあるだろうと思ってるんだい? 手前の[#「手前の」に傍点]お祈りに手前《てめえ》のつけてる値段を言ってみろ!」
「わたしのお祈りは心の中から出て来るだけだよ、ジェリー。それより他《ほか》に値打ってありゃしないよ。」
「それより他に値打ってありゃしないだと。」とクランチャー君は繰返して言った。「じゃあ、大《てえ》して値打のねえものなんだな。あったってなくったって、おれあもう祈ってもれえたかねえんだぞ。おれあそんなこたあ我慢が出来ねえ。おれあ手前が[#「手前が」に傍点]こそこそやってそのために不仕合せにされるなんて厭だ。手前《てめえ》がぜひともへえつくばらなけりゃならねえんなら、手前《てめえ》の亭主や子供のためになるようにへえつくばれ。ためにならねえようにやるんじゃねえぞ。もしおれに邪慳《じゃけん》な女房さえなかったならだ、そいからこの可哀《かええ》そうな子供に邪慳なおっ母さえなかったならばだ、おれあ、先週なんざあ、悪いように祈られたり、目論《もくろみ》の裏をかかれたり、信心のために出し抜かれたりして、この上なしの運の悪い目になんぞ遭わねえで、お金《かね》を幾らか儲けてたんだ。ち、ち、畜生め!」とそれまでの間に衣服を著てしまっていたクランチャー君が言った。「あの先週は、神信心だのあれやこれやの呪い事だので、おれあぺてんにかけられて、可哀《かええ》そうな実直な商売人めがこれまで出くわしたことのある中でも一番不仕合せな目に遭ったじゃねえか! おい、ジェリー坊、お前《めえ》著物を著てな、おれが靴を磨いてる間、時々おっ母に気をつけてろよ。そしてまたへえつくばりそうな様子がちょっとでも見えたら、おれを呼ぶんだぜ。てえのはだ、手前《てめえ》、いいかい、」とここで彼はもう一度女房に話しかけて、「おれあまたあんな風にやられたかねえからなんだぞ。おれあ貸馬車みてえに体がぐらぐらしてるし、阿片チンキを飲んだみてえに眠いし、体の筋はあんまり使い過ぎてるんで、もし痛みでもなかろうものなら、どれがおれでどれが他人《ひと》さまだかわかんねえくれえなんだ。それだのにおれの懐《ふところ》工合はそのためにちっともよくはならねえ。で、おれあどうも、手前《てめえ》が朝から晩まであれをやってて、おれの懐工合がよくならねえようにしてるんじゃねえかと思うんだ。おれあそんなことは勘弁がならねえ、この人に迷惑をかける奴め。さあ、手前《てめえ》、何とか言うことがあるかい!」
 その上にまだ、「ああ! そうだよ! 手前《てめえ》はそれに信心|深《ぶけ》え人間だったな。それなら自分の亭主や子供のためにならねえようなことはしめえな、そうだろな? そうとも、手前はしねえとも!」というような文句を呶鳴ったり、ぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っている彼の憤怒の囘転砥石からその他の皮肉の火花を散らしたりしながら、クランチャー君は自分の長靴磨きや出勤準備をやり出した。そうしている間に、彼の息子は、この方《ほう》の頭は父親よりは幾分柔かな忍返しを打ってあるし、その若々しい眼は父親のと同じに互にくっついていたが、言いつかった通りに母親を見張っていた。彼は時々、身支度をしている自分の寝間の物置から飛び出して来て、小さな叫び声で「おっ母《かあ》、お前《めえ》つくばろうとしてるな。――おうい、父《とう》ちゃん!」と言い、そして、そういう佯《いつわ》りの警報を発してから、親不孝なにたにた笑いを浮べながらまた自分の部屋へ飛び込んで、あの可哀そうな婦人を大いにまごつかせるのであった。
 クランチャー君の機嫌は、彼が朝食に向った時にも、ちっともよくなっていなかった。彼はクランチャー夫人が食前の祈祷をするのを特別の憎悪の念をもって憤った。
「やい、人に迷惑をかける奴め! 手前《てめえ》は何をしていやがるんだい? またあれをやってるのか?」
 彼の妻は、ただ「食事前に祝福を願った」だけだと弁明した。
「そんなこたあしてくれるな!」とクランチャー君は、あたかも女房の祈願の効験でパンの塊が消え失せてゆくのが見えはしまいかと思ってでもいるようにあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、言った。「おれあ祝福してもらって家《うち》から追ん出されたかねえんだよ。おれあ祝福で自分の食物《たべもの》を食卓からふんだくられるなあ厭だ。じっとしてろ!」
 ちっとも陽気にならなかった宴会で一晩中起きてでもいたかのように、ひどく赤い眼と怖《こわ》い顔をして、ジェリー・クランチャーは、動物園の四《よ》つ足《あし》連中のように食事を前にして唸りながら、朝食を食べるというよりも噛みちらかしていた。九時近くになると、彼は苛立《いらだ》った顔付を和《やわら》げ、そして、自分の本性にかぶせられる限りの恥しからぬきちんとした外見を装《よそお》いながら、その日の業務に出て行った。
 その業務たるや、彼自身が自分のことを好んで「実直な商売人」と称してはいたけれども、どうも商売とは言いがたいものなのであった。彼の元手《もとで》は、背の壊れた椅子を切り縮めて拵えた木製の床几《しょうぎ》一つだけであった。その床几を、小ジェリーが、父親と並んで歩きながら、銀行のテムプル関門《バー》に一番近い窓の下のところまで毎朝運んで行くのだった。その場所で、その雑役夫の足を寒気と湿気とから防ぐために、どれでも通りがかりの車から拾い取ることの出来た最初の一掴みの藁を加えれば、その床几はその日の陣所となるのだ。彼のこの持場にいるクランチャー君は、フリート街やテムプル★によく知られていることは関門《バー》そのものと同じくらいであった。――また形相の悪いこともそれとほとんど同じであった。
 例のこの上もなく年をとった人たちがテルソン銀行へ入って行く時に自分の三角帽に手をかけて挨拶するのにちょうど間に合うようにと、九時十五分前に陣取って、ジェリーは、その風の強い三月の朝、彼の部署に就いたのである。小ジェリーは、関門《バー》を通り抜けて侵入していない時には、父親の傍に立っていて、自分の愛らしい目的には適当なくらいに小さい通りがかりの少年たちに、手厳しい種類の肉体的及び精神的の危害を加えてやろうとしていた。お互に非常によく似た父と子とが、銘々の両の眼が互に近よっていると同じように二つの頭を近よせながら、フリート街の朝の人通りを黙然《もくねん》と眺めている様子は、二匹の猿にすこぶる類似していた。その類似は、成人のジェリーの方は藁を噛んでは吐き出しているのに、少年のジェリーの方は頻りにぱちぱち瞬きしている眼で父親やフリート街の他のあらゆるものをきょろきょろと気をつけているという、従属性の情况によって減少されはしなかった。
 テルソン銀行所属の常雇の屋内小使の一人が戸口から頭をにゅっと出して、こういう指図を伝えた。――
「門番さん御用ですよ!」
「万歳、父ちゃん! 朝っぱらにとっつきから一仕事だい!」
 小ジェリーは、こう言って父親の門出《かどで》を祝うと、例の床几に腰を下して、父親の噛んでいた藁に継承的な興味を持ち始め、それから考え込んだ。
「いっつも銹《さび》だらけだ! 父ちゃんの指はいっつも銹だらけだ!」と小ジェリーは呟いた。「父ちゃんはあんな鉄の銹をみんなどっからつけて来るんだろう? ここじゃあ鉄の銹なんてつくはずがねえんだがなあ!」
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    第二章 観物《みもの》

「お前はもちろんオールド・ベーリー★をよく知っているね?」とこの上もなく年をとった事務員の一人が走使いのジェリーに言った。
「へえい、旦那。」とジェリーはどこか強情な様子で答えた。「ベーリーは知っておりますとも[#「とも」に傍点]」
「あ、そうだろう。それからお前はロリーさんを知ってるな。」
「ロリーさんなら、旦那、わっしはベーリーを知ってるよりはよっぽどよく知ってますよ。実直な商売人のわっしがベーリーを、」とその問題の役所へ不承不承に出頭した証人に似なくもないように、ジェリーは言った。「知りたいと思ってるよりはよっぽどよく知ってまさあ。」
「よしよし。じゃあな、証人の入って行く戸口を見つけて、そこの門番にロリーさん宛のこの手紙を見せるんだ。そうすれば門番はお前を入れてくれるだろう。」
「法廷へですか、旦那?」
「法廷へだ。」
 クランチャー君の二つの眼はお互に更に少しずつ近よって、「こいつあお前《めえ》どう思う?」と尋ね合ったように思われた。
「わっしは法廷で待っているんですかい、旦那?」と彼は、眼と眼のその相談の結果として、尋ねた。
「今言ってやるよ。門番は手紙をロリーさんに渡してくれるだろう。そうしたら、お前は何でもロリーさんの目につくような身振りをして、あの人にお前のいる場所を見せてあげるんだぞ。それからお前のしなければならんことは、あの人の用事があるまでそこにずっといるだけだ。」
「それだけなんですか、旦那?」
「それだけだ。あの人は走使いの者を手許にほしいと仰しゃるのだよ。これにはお前がそこにいることをあの人に知らせてあるのさ。」
 老事務員が手紙を丁寧に摺《たた》んで表書をした時に、クランチャー君は、その行員が吸取紙を使う段になるまで彼を無言のまま眺めていた後に、こう言った。――
「今朝《けさ》は偽造罪を裁判するんでしょうね?」
「叛逆罪さ!」
「それじゃあ四《よ》つ裂《ざ》き★だ。」とジェリーは言った。「むごたらしいことをするもんだなあ!」
「それが法律だよ。」と老事務員は、びっくりしたような眼鏡を彼に向けながら、言った。「それが法律だよ。」
「人間に※[#「木+戈」、129-2]《くい》を打ち込むなんていくら法律だってひでえとわっしは思いますよ。人間を殺すのだって十分ひでえが、※[#「木+戈」、129-3]《くい》を打ち込むなんて全くひでえこっでさあ、旦那。」
「そんなことはちっともないさ。」と老事務員は返答した。「法律のことを悪く言うものじゃない。自分の胸にあることと声にすることに気をつけるんだよ、ねえ、お前。そして法律のことは法律にまかせておくがいい。それだけの忠告をわたしはお前にしてあげるよ。」
「わっしの胸と声に宿ってるものってのは、旦那、湿気でさあ。」とジェリーは言った。「わっしの暮し方がどんなに湿《しめ》っぽい暮し方だか、旦那のお察しに任《まか》せますよ。」
「うむ、うむ、」と老行員は言った。「わたしたちはみんなさまざまな暮しの立て方をしてるんだよ。湿っぽい暮しの立て方をしている者もあれば、干涸《ひから》びた暮しの立て方をしている者もあるさ。さあ、手紙だ。行って来てくれ。」
 ジェリーは手紙を受け取った。そして、表面に見せかけているほどには内心では敬意を持たずに、「そういうお前さんだって実入《みい》りの少い爺さんだろうよ。」と心の中で言いながら、お辞儀をして、通りすがりに自分の息子に行先を告げて、出かけて行った。
 その時代には、絞刑はタイバーン★で行われていたので、ニューゲートの外側のかの街は、その後にそこの附物《つきもの》となった一の不名誉な醜名を、まだ受けてはいなかった。しかし、その監獄は厭わしい処であった。その中では大抵の種類の背徳や悪事が行われ、そこではいろいろの恐しい疾病が生れた。その疾病は囚人と共に法廷へ入り込んで、時としては被告席から裁判所長閣下にさえ真直に突き進んで、閣下を裁判官席からひきずり下すこともあった。黒い法冠をかぶった裁判官が囚人に死の判決を宣告すると同じくらいにはっきりと自分自身に死の判決を宣告し、しかも囚人よりも先に死ぬことさえも、一度ならずあった。その他《ほか》のことについては、オールド・ベーリーは死出の旅宿のようなものとして名高かった。そこからは、色蒼ざめた旅人たちが、二輪荷車や四輪馬車に乗って、他界への非業の旅へと、絶えず出立したのである。もっとも二マイル半ばかりは一般公衆の街路や道路を通って行くのだが★、それを見て恥辱とするような善良な市民は、よしあったにしても、ごく稀であった。――それほど習慣というものは力強いものであり、またそれほど始めからよい習慣をつけておくということは望ましいことなのである。オールド・ベーリーは、また架形台★でも名高かった。これは賢明な昔の施設物の一つで、誰一人としてその程度を予知することの出来ない刑罰を課したものであった。なおまた、そこは笞刑柱★でも名高かった。これも懐《なつか》しい昔の施設物の一つであって、その刑の行われているのを見る