高村光雲

幕末維新懐古談 私の父の訓誡 ——-高村光雲

 さて、いよいよ話が決まりましたその夜、父は私に向い、今日までは親の側《そば》にいて我儘《わがまま》は出来ても、明日からは他人の中に出ては、そんな事は出来ぬ。それから、お師匠様初め目上の人に対し、少しでも無礼のないよう心掛け、何事があっても皆自分が悪いと思え、申し訳や口返しをしてはならぬ。一度師の許《もと》へ行ったら、二度と帰ることは出来ぬ。もし帰れば足の骨をぶち折るからそう思うておれ。
 家《うち》に来るは師匠より許されて、盆と正月、一年に二度しかない。またこの近所へ使いに来ても、決して家に寄る事ならぬ。家へ帰るのは十一年勤めて立派に一人前の人に成って帰れ。……とこういい聞かされました。
 そして、父は再び言葉を改め、
「今一ついって置くが、中年頃に成っても、決して声を出す芸事は師匠が許しても覚えてはならぬ。お前の祖父はそのために身体を害し、それで私は一生無職で何んの役にも立たぬ人になった。せめてお前だけは満足なものになってくれ」と涙を流して訓誡されました。
 この事だけは私は今によく覚えております。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:山田芳美
校正:土屋隆
2006年1月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

高村光雲

幕末維新懐古談 安床の「安さん」の事—— 高村光雲

 町内に安床《やすどこ》という床屋がありました。
 それが私どもの行きつけの家《うち》であるから、私はお湯に這入《はい》って髪を結ってもらおうと、其所《そこ》へ行った。
「おう、光坊《みつぼう》か、お前、つい、この間頭を結《い》ったんじゃないか。浅草の観音様へでも行くのか」
 主人の安さんがいいますので、
「イエ、明日《あす》、私は奉公に行くんです」
と答えますと、
「そうかい。奉公に行くのかい。お前は幾齢《いくつ》になった」
などと話しかけられ、十二になったから、八丁堀の大工の家へ奉公に参る旨を話すと、安床は、大工は、職人の王なれば、大工になるは好かろうと大変賛成しておりましたが、ふと、何か思い出したことでもあるように、
「俺は、実は、人から頼まれていたことがあった。……もう、惜しいことをした」
と、残り惜しそうにいいますので、理由を聞くと、それは元《もと》、この町内にいた人だが、今は大層出世をして彫刻《ほりもの》の名人になっている。何んでも日本一のほりもの[#「ほりもの」に傍点]師だということだ。その人は高村東雲《たかむらとううん》という方《かた》だが、久方《ひさかた》ぶりに此店《ここ》へお出《い》でなすって、安さん、誰か一人|好《い》い弟子を欲しいんだが、心当りはあるまいか、一つ世話をしてくれないかと頼んで行ったんだ。俺は、今、お前の話を聞いて、その事を思い出したんだが、実に惜しいことをした……しかし、光坊、お前は大工さんの所へ明日行くことに決まってるというが、それはどうにかならないかい。大工になるのも好いが、彫刻師になる方がお前の行く末のためにはドンナに好いか知れないんだ。……という話を安さんが私の頭を結いながら乗り気になって話しますので、私も子供心にチョイと脳《あたま》が動いて、
「小父《おじ》さん、その彫刻師ってのは、あの稲荷《いなり》町のお店《たな》でコツコツやってるあれなんですか」と私は使いに行く途中にその頃あったある彫刻師の店のことをいい出しますと、
「あんなもんじゃないよ。あれは、ほりもの[#「ほりもの」に傍点]大工で、宮彫《みやほ》りというんだが、俺のいう高村東雲先生の方は、それあ、もっと上品なものなんだ。仏様だの、置き物だの、手間《てま》の掛かった、品《ひん》の好い、本当の彫物《ちょうこく》をこしらえるんで、あんな、稲荷町の荒っぽいものとは訳が違うんだ。そりゃ上等のものなんだ。だからお前、ただの大工や宮師《みやし》なんかとは訳が違って素晴らしいんだよ。光坊、お前やる気なら、俺がお前のお父さんに話してやる。どっちも知った顔だから、俺が仲へ這入ってやる」
 こう安さんはしきりと私に勧めます所から、私も何時《いつ》かその気になって、
「それじゃア小父さん、私は大工よりも彫刻師になるよ」と承知をしました。

 そこで、気の逸《はや》い安床は、夜分《やぶん》、仕事をしまってから、私の父を訪《たず》ねて参り、時に兼さん、これこれと始終のことをまず話し、それから、
「その東雲という人は、お前の家の隣りにいた人で、それ、日本橋通り一丁目の須原屋茂兵衛《すはらやもへえ》の出版した『江戸名所|図会《ずえ》』を専門に摺《す》った人で、奥村藤兵衛さんの悴《せがれ》の藤次郎さん、……これがその東雲という方なんで、今では浅草|諏訪町《すわちょう》に立派な家を構え……」と、キサクな調子で、小肥《こぶと》りの身体《からだ》を乗り出して話すものでありますから、父も心動き、
「聞けば、その東雲先生は、この同じ長屋に生まれた人だというし、お前とは親しいお方というから、それでは一つその彫刻の方へお願い申そうか。話の決まった大工の方は親類のことでかえって好いと思ったが、また考えて見ると、奉公先の身内なのは事によってはおもしろくないかも知れない。折角お前さんもそういって勧めてくれること故、これは一つお願い申すことにしよう。だが、まあ当人の志が何よりだから悴に聞いて見ましょう」というと、「そのことなら本人はもう先刻承知のことだ。善は急げだ、髪も結っていることだし、早速それでは明日《あす》俺が伴《つ》れて行こう」
と、ここで話が決まりました。

 この安さんという人は、その頃四十格好で、気性の至極面白い世話好きの人でありましたから、早速、先方へその話をして、翌日、私を東雲師匠の宅へ伴れて行ってくれました。
 それが、ちょうど私の十二歳の春、文久三年三月十日のことですが、妙なことが縁となって、大工になるはずの処が彫刻の方へ道を換えましたような訳、私の一生の運命がマアこの安さんの口入れで決まったようなことになったのです。で、私に取ってはこの安さんは一生忘られない人の一人であります。
 後年私はこの安さん夫婦の位牌《いはい》を仏壇に祭り、今日でもその供養を忘れずしているようなわけである。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:山田芳美
校正:土屋隆
2006年1月15日作成
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高村光雲

幕末維新懐古談 私の子供の時のはなし—– 高村光雲

 これから私のことになる――
 私は、現今《いま》の下谷《したや》の北清島町《きたきよしまちょう》に生まれました。嘉永《かえい》五年二月十八日が誕生日です。
 その頃《ころ》は、随分|辺鄙《へんぴ》なむさくるしい土地であった。江戸下谷|源空寺門前《げんくうじもんぜん》といった所で、大黒屋繁蔵というのが大屋さんであった。それで長屋建《ながやだ》てで、俗にいう九《く》尺二|間《けん》、店賃《たなちん》が、よく覚えてはいないが、五百か六百……(九十六|文《もん》が百、文久銭一つが四文、四文が二十四で九十六文、これが百である。これを九六百《くろくびゃく》という)。
 四、五年は別に話もないが……私の生まれた翌年の六月に米国の使節ペルリが浦賀《うらが》に来た。その翌年、私の二ツの時は安政の大地震《おおじしん》、三年は安政三年の大暴風――八歳の時は万延元年で、桜田の変、井伊掃部頭《いいかもんのかみ》の御首《みぐし》を水戸の浪士が揚げた時である。――その時分の事も朧気《おぼろげ》には記憶しております。

 十歳の時、母の里方《さとかた》、埼玉の東大寺へ奉公の下拵《したごしら》えに行き、一年間いて十一に江戸へ帰った。すると、道補の実弟に、奥州|金華山《きんかざん》の住職をしている人があって、是非私を貰《もら》いたいといい込んで来ました。父は無頓着《むとんちゃく》で、当人が行くといえば行くも好《よ》かろうといっていましたが、母は、たった一人の男の子を行く末|僧侶《そうりょ》にするは可愛そうだといって不承知であったので、この話は中止となった。
 私は十二歳になりました。この十二歳という年齢《とし》は、当時の男の子に取っては一つのきまり[#「きまり」に傍点]が附く年齢《とし》である。それは、十二になると、奉公に出るのが普通です。で、両親たちも私の奉公先についてよりより相談もし心配もしておったことであるが、私は、生まれつきか、鋸《のこぎり》や鑿《のみ》などをもって木片を切ったり、削ったりすることが好きで、よく一日そんなことに気を取られて、近所の子供たちと悪戯《いたずら》をして遊ぶことも忘れているというような風であったから、親たちもそれに目を附けたか、この児《こ》は大工にするがよろしかろうということになった。大工というものは職人の王としてあるし、職としても立派なものであるから、腕次第でドンナ出世も出来よう、好きこそ物の上手で、俺《おれ》に似て器用でもあるから、行く行くは相当の棟梁《とうりょう》にもなれようというような考えで、いよいよ両親は私を大工にすることにした。

 ちょっとその頃の私どもの周囲の生活状態を話して見ると、今からは想像の外《ほか》であるようなものです。現在《いま》ではただの労働者でも、絵だの彫刻だのというようなことが多少とも脳《あたま》にありますが、その頃はそうした考えなどは、全くない。絵だの彫刻だのということに気の附くものは、それは相当の身分のある生活をしている人に限られたもので、貧しい日常を送っている町人の身辺には、そんなことはまるで考えても見なかったものです。早い話が、家のつくりのようなものでも、作りからして違っている。今日ではドンナ長屋でも床《とこ》の間《ま》の一つ位はあるけれども、その時代は、普通の町人の家には床の間などはない。玄関や門などはなおさらのこと、……そういうもののあるのは、居附《いつ》き地主か、名主《なぬし》か、医者の家位です。住居でも、衣食のことでも、万事大層手軽なものでありますから、今いったような絵画彫刻というようなことに気が附かぬのは当然なことである。何んでも手に一つの定職を習い覚え、握りッ拳《こぶし》で毎日|幾金《いくら》かを取って来れば、それで人間一人前の能事として充分と心得たものです。
 そんなわけで、私も単純に大工という職業を親たちが選んでくれたので、私にもまた別に異存のありようもなかった。でいよいよ弟子入りをするということに話は進んで行くのであるが、そのまた弟子入りということも簡単なものであった。弟子入りとして、弟子師匠と其所《そこ》に区別が附いて相当の礼をして、師弟の関係の出来るのは、それは学文《がくもん》とか、武芸の方のことであって、普通町人|側《がわ》の弟子入りは、単に「奉公」で「デッチ奉公」であります。デッチ野郎が小僧に行くことでありますから、別段特別の意味はないのであるが、ただ、その年期のことが普通一般の定則として、十一歳がその季に当っていたのであります。十二歳になると、奉公盛り、十三、十四となると、ちっと薹《とう》が立ち過ぎて使う方でも使いにくくて困るといったもの……十四にもなってぶらぶら子供を遊ばして置く家があると、「あれでは貧乏をするのも当り前だ。親たちの心得が悪い」と世間の口がうるさかったもの――だから、十一、二歳は奉公の適期であって、それから十年間の年季奉公。それが明けると、一年の礼奉公――それを勤め上げないものは碌《ろく》でなしで、取るにも足らぬヤクザ者として町内でも擯斥《ひんせき》されたものでありました。

 私は、その頃の幼名を光蔵《みつぞう》と呼んでおりました。
「光蔵、お前も十二になった。奉公に行かんではならん。お前は大工になるが好《よ》かろう。どうだ。大工になるか」
 父の言葉に対して私は不服はありませんから、
「大工は好《い》い、……大工に行きましょう……」
「そうか、それでは好い棟梁を探してやろう」
 父はこういいましたが、ちょうど、私の父兼松の弟の中島鉄五郎という人の家内の里が八丁堀の水谷町《みずたにちょう》に大工をやっておったので、他を探すよりも、身内《みうち》のことでもあるし、これが好かろうと、いよいよ、明日《あす》は、おばさんが、私をその大工の棟梁の家へ伴《つ》れて行ってくれることになりました。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第6刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:山田芳美
校正:土屋隆
2006年1月15日作成
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高村光雲

 まず、いろいろの話をする前に、前提として私の父祖のこと、つまり、私の家のことを概略《あらまし》話します。
 私の父は中島兼松《なかじまかねまつ》といいました。その三代前は因州侯の藩中で中島|重左《じゅうざ》エ門《もん》と名乗った男。悴《せがれ》に同苗《どうみょう》長兵衛《ちょうべえ》というものがあって、これが先代からの遺伝と申すか、大層|美事《みごと》な髯《ひげ》をもっておった人物であったから、世間から「髯の長兵衛」と綽名《あだな》されていたという。その長兵衛の子の中島|富五郎《とみごろう》になって私《わたし》の家は全くの町人《ちょうにん》となりました。

 富五郎の子が兼松、これが私の父であります。父の家は随分と貧乏でありました。これは父が道楽をしたためとか、心掛けが悪かったとかいうことからではありません。全く心柄《こころがら》ではないので、父の兼松は九歳の時から身体《からだ》の悪い父親の一家を背負《せお》って立って、扶養の義務を尽くさねばならない羽目《はめ》になったので、そのためとうとうこれという極《き》まった職業を得ることも出来ずじまいになったのであります。父としては種々《いろいろ》の希望もあったことでありましょうが、つまり幼年の時から一家の犠牲となって生活に追われたために、習い覚えるはずのことも事情が許さず、取り纏《まと》まったものにならなかったことでありました。
 祖父に当る富五郎は八丁堀《はっちょうぼり》に鰻屋《うなぎや》をしていたこともありました。その頃《ころ》は遊芸が流行で、その中《うち》にも富本《とみもと》全盛時代で、江戸市中一般にこれが大流行で、富五郎もその道にはなかなか堪能《たんのう》でありましたが、わけて総領娘は大層|上手《じょうず》でありました。父娘《おやこ》とも芸事が好き上手であったから自然その道の方へ熱心になり、娘は十か十一の時、もう諸方の御得意から招かれて、行く末は一廉《ひとかど》の富本の名人になろうと評判された位でありました。親の富五郎も鼻高々で楽しんでおりましたが、ふと、或る年悪性の疱瘡《ほうそう》に罹《かか》って亡《な》くなってしまいました。そのため富五郎は悉皆《すっかり》気を落としてしまい、気の狭い話だが、自暴《やけ》を起して、商売の方は打っちゃらかして、諸方の部屋《へや》へ行って銀張りの博奕《ばくち》などをして遊人《あそびにん》の仲間入りをするというような始末になって、家道は段々と衰えて行ったのでありました。
 しかし、この富五郎という人は極《ごく》気受けの好《い》い人で、大層世間からは可愛がられたといいます。やがて、家業を変えて肴屋《さかなや》を始め、神田《かんだ》、大門《だいもん》通りのあたりを得意に如才なく働いたこともありますが、江戸の大火に逢《あ》って着のみ着のままになり、流れて浅草《あさくさ》の花川戸《はなかわど》へ行き、其所《そこ》でまた肴屋を初めたのでありました。
 花川戸の方も、所柄《ところがら》、なかなか富本が流行《はや》りまして、素人《しろうと》の天狗連《てんぐれん》が申し合せ、高座をこしらえて富本を語って大勢の人に聞かせている(素人が集まって語り合うことをおさらいという。これに月さらい、大さらいとある)。根が好きでもあり、上手でもあった富五郎がこの連中へ仲間入りをしたことは道理《もっとも》な話……ところが富五郎が高座に出ると、大層評判がよろしく、「肴屋の富さんが出るなら聞きに行こう」というようなわけでした。このおさらいは下手《へた》な者が先に語る。多少上手な者が後《あと》で語るのが通例である。そのため聴衆は先に語る人に悪口をいう。下手な人が高座に上がると、「貴様なぞは早く語って降りてしまえ、富さんの出るのが遅くなるぞ」など騒ぎました。すると、その連中の中に、この事を口惜《くや》しがり、富五郎の芸を嫉《そね》むものがあって、私《ひそか》に湯呑《ゆのみ》の中に水銀を容《い》れて富五郎に飲ませたものがあったのです。そこは素人の悲しさに、湯くみがない。湯くみは友達が替わり合ってしたのですから、意趣を持った男はその隙《ひま》に悪いことをしたのと見える(本職の太夫《たゆう》は、他人には湯はくませはしない。皆門人を使うことになっている)。富五郎はその晩から恐ろしく吃逆《しゃっくり》が出て、どうしても留《と》まらない。身体《からだ》も変な工合《ぐあい》になって行きました。
 すると、それを見たお華客《とくい》先の大門通りの薬種屋の主人が、「これあいけない、富五郎さん、お前さんは水銀《みずがね》にやられたのだ、早速手当てをしなければ……」というので、その主人は一通りの薬剤のことには詳しかったので、解剤《げざい》をもって手当てをしました。すると、ようやく吃逆は直りましたが、声は全く立たなくなる。身体は利《き》かなくなる。まるで中気《ちゅうき》のような工合になって、ヨイヨイになってしまいました。
 この時はちょうど私の父の兼松が九歳の時であります。九歳の時から一家扶養の任に当って立ち働かねばならない羽目になったというのはこれからで、その上弟が二人、妹が一人、九ツや十の子供には実に容易ならぬ負担でありました。

 こういう風の一家の事情|故《ゆえ》、その暫《しばら》く前から奉公に出ていた袋物屋を暇取って兼松は家《うち》へ帰って来ました。家へ帰って来はしたものの、どうして好《い》いか、十歳にも足らぬ子供の智慧《ちえ》にはどうしようもない。けれど、小供《こども》心に考えて、父富五郎は体こそ利かぬようになったが、手先はまことに器用な人であったから、「お父《とう》さん、何か拵《こしら》えておくれ、私《わたし》が売って見るから」というので、子供ながら手伝い、或る玩具《おもちゃ》を製《こしら》え、それを小風呂敷《こぶろしき》に包んで縁日へ出て売り初めたのです。
 そのおもちゃというのは、今では見掛けもしませんが、薄い板を台にして、それに小さな梯子《はしご》が掛かり、梯子の上で、人形《にんぎょう》の火消しが鳶口《とびぐち》などを振り上げたり、火の見をしていたりしている形であります。それがチョット思いつきで人目を惹《ひ》き、子供が非常にほしがるので、相当商売になりました。で、細々《ほそぼそ》ながら、まずどうにかやって行く……その内、縁日の商いの道が分るにつけ、いろいろまた親子で工夫をして、一生懸命に働いては、大勢の一家を子供の腕一本でやって行きました。
 こういう有様であるから、とても普通《なみ》の小供のように一通りの職業を習得するは思いも寄らず、糊口《くちすぎ》をすることが関《せき》の山《やま》でありました。その中《うち》、兼松も段々人となり、妻をも迎えましたが相更《あいかわ》らず親をば大切にして、孝行|息子《むすこ》というので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を背負《おぶ》って行く。頭を剃《そ》って上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。

 私の母は、埼玉県|下高野《しもたかの》村の東大寺という修験《しゅげん》の家の出であります。その家の姓は菅原《すがわら》。道補《どうほ》という人の次女で、名を増《ます》といいました。こうした家柄に育てられた増は相当の教育を受け、和歌の道、書道のことなどにも暗からぬほどに仕附けられておりましたので、まず父の兼松には不相応なほど出来た婦人であった。察するに、増は、兼松の境遇に同情し、充分の好意をもって妻となったのであったと思われます。兼松には先妻があり、それが不縁となって一人の男子もあった(これが私の兄で巳之助《みのすけ》という大工で、今年《ことし》七十八歳、信心者《しんじんもの》で毎日神仏へのお詣《まい》りを勤めのようにしております。今は日本橋《にほんばし》浜町《はまちょう》の娘の所で、達者で安楽にしている)。その中へ、自ら進んで来てくれて、夫のため、舅《しゅうと》のために一生を尽くした事は、私どもに取っても感謝に余ることである。
 祖父富五郎はちょうど私が十二歳で師匠の家に弟子《でし》入りした年、文久三年七十二歳の高齢で歿《ぼっ》しました。
 また私の父兼松は明治三十二年八十二歳にて歿し、母は明治十七年七十歳にて亡くなりました。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第6刷発行
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   1929(昭和4)年1月刊
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高村光雲

佐竹の原へ大仏をこしらえた はなし—– 高村光雲

私の友達に高橋定次郎氏という人がありました。この人は前にも話しました通り、高橋鳳雲の息子さんで、その頃は鉄筆で筒を刻《ほ》って職業としていました。上野広小路の山崎(油屋)の横を湯島の男坂の方へ曲がって中ほど(今は黒門町か)に住んでいました。この人が常に私の宅へ遊びに来ている。それから、もう一人田中増次郎という蒔絵師がありました。これは男坂寄りの方に住んでいる。どことなく顔の容子が狐に似ているとかでこんこんさんと綽名をされた人で、変り物でありましたが、この人も定次郎氏と一緒に朝夕遊びに来ていました。お互いに職業は違いますが、共に仕事には熱心で話もよく合いました。ところで、もう一人、矢張り高橋氏の隣に住んでる人で野見長次という人がありました。これは肥後熊本の人で、店は道具商で、果物の標本を作っていました。枇杷、桃、柿などを張子《はりこ》でこしらえ、それに実物そっくりの彩色をしたもので一寸盛籠に入れて置物などにもなる。縁日などに出して相当売れていました。この野見氏の親父さんという人は、もと、熊本時代には興行物に手を出して味を知っている人でありましたから、長次氏もそういうことに気もあった。この人も前の両氏と仲よしで一緒に私の宅へ遊びに来て、互いに物をこしらえる職業でありますから、話も合って研究しあうという風でありました。

 ある日、また、四人が集っていますと、相変らず仕事場の前をぞろぞろ人が通る。私達の話は彼の佐竹の原の噂に移っていました。
「佐竹の原も評判だけで、行ってみると、からつまらないね。何も見るものがないじゃありませんか。」
「そうですよ。あれじゃ仕様がない。なにか少しこれという見世物が一つ位あってもよさそうですね。なにかこしらえたらどうでしょう。うまくやれば儲かりますぜ」
「儲る儲らんはとに角、人を呼ぶのに、あんなことでは余り智慧がない。なにか一つアッといわせるようなものをこしらえてみたいもんだね」
「高村さん、何か面白い思いつきはありませんか」
 というような話になりました。
「左様さ……これといって面白い思いつきもありませんが、何か一つあってもよさそうですね。原の中へこしらえるものとなると、高値なものではいけないが、といってちっぽけな見てくれのないものではなおさらいけない……どうでしょう。一つ大きな大仏さんでもこしらえては……」
 笑談《じょうだん》半分に私はいい出しました。皆が妙な顔をして私の顔を見ているのは、一体、大仏をこしらえてどうするのかという顔つきです。で、私は勢い大仏の趣向を説明してみねばなりません。
「大きな大仏をこしらえるというのは、大仏を作って見物を胎内へ入れる趣向なんです。どのみち何をやるにしても小屋をこしらえなくてはならないが、その小屋を大仏の形でこしらえて、大仏を招きに使うというのが思いつきなんです。大仏の姿が屋根にもかこいにもなるが、内側では胎内|潜《くぐ》りの仕掛けにして膝の方から登って行くと、左右の脇の下が瓦灯口《がんどうぐち》になっていてここから一度外に出て、印を結んでいる仏様の手の上に人間が出る。そこへ乗って四方を見張らす。外の見物からは人間が幾人も大仏さまの右の脇の下から出て、手の上を通って、左の脇の下へ入って行くのが見える。それから内部の階段を曲がりながら登って行くと、頭の中になって広さが二坪位、ここにはその目の孔、耳の孔、口の孔、並びに後頭に窓があって、そこから人間が顔を出して四方を見張らすと江戸中が一目に見える。四丈八尺位の高さだから大概《あらまし》の処は見える。人間の五、六人は頭の中へ入れるようにして、先様お代りに、遠眼鏡などを置いて諸方を見せて、客を追い出す。降りてくると胴体の広い場所に珍奇な道具などを並べ、それに因縁をつけ、なにかおもしろい趣向にして見せる。この前笑覧会というものがあって、阿波の鳴戸のお弓の涙だなんて壜に入れたものを見せるなどは気が利かない。もっと、面白いことをして見せるのです……」
「……そうして切《きり》の舞台に閻魔さまでも躍らして、地獄もこのころはひまだという有様でも見せるかな……なるほど、これは面白そうだ」
「大仏が小屋の代りになるところが第一面白い。それで中身が使えるとは一挙両得だ。これは発明だ」など高橋氏や田中氏は大変おもしろがっている。ところが野見氏は黙っていてなんともいいません。考えていました。
「野見さん、どうです。高村さんのこの大仏という趣向は……名案じゃありませんか」
 高橋氏がいいますと、
「左様ですな。趣向は至極賛成です。だが、いよいよやるとなると、問題は金ですね、金銭《かね》次第だ。親父《おやじ》に一つ話してみましょう」
 野見氏は無口の人で多くを語りませんが、肚では他の人よりも乗気になっているらしい。私は、当座の思いつきで笑談半分に妙なことをいいましたが、もし、これが実行された暁、相当見物を惹いて商売になればよし、そうでもなかった日には、飛んだ迷惑を人にかけることになると心配にもなりました。

 野見長次さんは早速、親父さんにその話をしました。
 野見老人は興行的の仕事の味のわかっている人。これは物になりそうだ。一つやってみたいというので、長次さんが老人の考えを持って来て、また四人で、相談して、一応、私はその大仏さまの雛形を作ってみるということになりました(実のところは雛形を作っても大工や仕事師に出来ない。また金銭問題で止めになるに違いないとは思いましたが、とに角、自分でいい出したことだから雛形に掛りました)。
 その日は竹屋へ行って箱根竹を買ってきて、昼の自分の仕事を済ますと、夜なべをやめて、雛形に取り掛りました。見積りの四丈八尺の二十分一、即ち二尺四寸の雛形を作り初めたのです。まず坪を割って土台をきめ、しほん[#「しほん」に傍点]といって四本の柱をもって支柱を建て、箱根竹を矯《ため》て円蓋を作り、そのしほん[#「しほん」に傍点]に梯子段を持たせて、いつぞやお話した百観音の蠑螺《さざえ》堂のぐるぐると廻って階段を上る行き方を参考としまして、漸々と下から廻りながら登って行く仕掛をこしらえて行きました。最初の大仏の膝の処で、次は脇の下、印を結んでいる手の上に人間が出られるようになる。それから左から脇を入って行くのが外から見え、だんだんと顔面へ掛り、口、目、耳へ抜けるように竹をねじって取りつけます。……雛形は出来たがこれは骨ばかり、一寸見るとなんだかさっぱりわからない。変なものが出来ましたが、張子《はりこ》紙で上から張ってみますと、案外、ありありと大仏さまの姿が現われてきました。
「おやおや何をこしらえているのかと思っていたら、大仏様が出来ましたね」
 と家の者はいっております。
「大仏に見えるかね」
「大仏様に見えますとも」
 といっております。大仏が印を結んで安坐している八角の台の内部が、普通の見世物小屋位あるわけになります。出来上がったので、それを例の三人の友達に見せました。
「うまく行った。これならまず大丈夫勝利だが、今度はこれをこしらえるに全部で何程金が掛るか、これが問題です。そこで、この事は仕事師に相談するのが早手廻しで、この四本の柱をたよりにして仕事をするものは仕事師の巧者なものより外にない。早速当ってみよう」
 ということになりました。で、御徒《おかち》町にいた仕事師へ相談をすると、これは私共の手で組立てが出来ないこともないが、こういう仕事は普通の建物とは違いカヤ[#「カヤ」に傍点]方の仕事師というものがある。それはお城の足場をかけるとか、お祭りの花車《だし》小屋、また興行物の小屋掛けを専門にしている仕事師の仕事で、一種また別のものですから、その方へ相談をしたらよろしかろうというのでありました。それではその方へ話をしてくれまいかと頼むと、早速引き受けて友達を伴《つ》れて来てくれました。

 私はそのカヤ方の仕事師という男に逢って見ました。
 私の肚の中では、この男に逢って雛形を見せたら、恐らくこれは物になりません、というだろうと思っておりました。もし、そういってくれたら却って私にはよかったので、この話はそれで消えてしまう訳。もしそうでもないと、話がだんだん大きくなって大仏が出来るとなると、私の責任が重くなる。興行物としての損益はわかりませんが、もし損失があっては資本を出す考えでいる野見さんに迷惑が掛ることになります。どうか、物にならないといってくれればいいと思って、その男に逢いますと、仕事師は暫く雛形を見ておりましたが、
「これはどうもうまいもんだ。素人の仕事じゃない。この梯子の取付けなどの趣向はなかなか面白い。私共にやらされてもこう器用には出来ません」
 といって褒めています。それで、これを四丈八尺の大さに切り組むことが出来るかと訊《き》くと、訳はないという。この雛形ならどんなにでもうまくいくというのです。そして早速人足を廻しましょう、といっております。その男の口裡《くちうら》で見ると、十日位掛れば出来上がりそうな話。野見さん初め他の友達もこれでいよいよ気乗りがして来ました。
 しかし、この仕事はカヤ方の仕事師ばかりでは出来ません。仕事師の方は骨を組むのでありますが、この仕事は大工と仕事師と一緒でなければ無論出来ません。そこで大工を頼まなければならないので誰に頼もうという段になったが、高橋氏が、私の兄に大工のあることを知っているので、その人に頼むのが一番だという。なるほど私の兄に大工があるが、しかしこういう仕事を巧者にやってのける腕があるかどうか、それは不安心、けれども、苟《いや》しくも棟梁といわれる大工さん、それが出来ないという話はない、漆喰の塗り下で小舞貫を切ってとんとんと打っていけば雑作《ぞうさ》もなかろう。兄さんを引張り出すに限るというので、私もやむなく兄を頼むことに致しました。
 そこで、兄は竹屋から竹を買い出してくる。千住の大橋で真中になる丸太を四本、お祭の竿幟《のぼり》にでもなりそうな素晴しい丸太を一本一円三、四十銭位で買う。その他お好み次第の材料が安く手に入りました。そこで大工の方で、左官に塗らせるまでの仕事一切を見積って幾らで出来るかというと(無論仕事師の手間賃も中に入っていて)、百五十円でやれるということです。それで、兄の友達の左官で与三郎という人が下谷町にいるので、それに漆喰塗りの方を頼んで貰いました。
 黒漆喰で下塗りをして、その上に黒に青味を持った丁度大仏の青銅の肌のような色を出すようにという注文……それが五十円で出来るというのでした。すると、まず二百円で大仏全体が出来上がることになります。そうして、胎内に一つの古物見立展覧場を作るとして、いろいろの品物を買いこむのだが、この方には趣向を主として実物には重きを置きませんからまず百円の見積り……たりない所は各自《てんで》の所持品を飾っても間に合わせるという考えです。それで何から何まで一切合切での総勘定が三百円で立派にこの仕事は出来上がるというのでありました。
「よろしい。三百円、私が出します」
 と野見さんはいうのです。なにも経験、当っても当らなくても、こうなっちゃ、損得をいっていられない。道楽にもやってみたい。儲かれば重畳……いよいよ取り掛りましょう、ということになりました。
 それが三月の十五日で、梅若さまの日で、私が雛形を作ってから十日も経つか。話は迅《はや》く、四月八日釈迦の誕生日には中心になる四本の柱が立って建前というまでに仕事が運んでいました。最初はまるで串戯《じょうだん》のように話した話が、三週間目には、もう柱が建っている。実に気の早いことでありました。

 さて、カヤ方の仕事師は人足を使って雛形をたよりに仕事に取り掛って、大仏の形をやり出したのですが、この仕事について私の考えは、まず雛形を渡して置けば、大工と仕事師とで概略《あらまし》出来るであろう。自分は時々見廻り位で済むことだと思っておりました。で、膝を組んだ形、印を結んだ形、肩の丸味の付けよう……それから顔となってきて、顔には大小の輪などをこしらえて、外からどんどん木を打《ぶ》つけて……うまく仕事は運んでいることだと思っておりました。
 ある日、私は、どんなことになるかと心配だから仕事の現場へ行って見ると、これはどうも驚いた。まるで滅茶滅茶なことをやっている。これには実に閉口しました。

 大工や、仕事師は、どんなことをしているかというに、まるで仕事師が役に立たない。先には苦もないようなことをいっておったが、実際に臨んでは滅茶滅茶です。また、兄貴の大工の方も同様でまるでなっていないのです。たとえば、大仏が膝を曲げて安坐をしているその膝頭がまるで三角になっている。ちっとも膝頭だという丸味が出来ておりません。印を結んだ手が手だかなんだか、指などはわからない。肩の丸味などは矢張り三角で久米の平内《へいない》の肩のよう……これには閉口しました。
「これはいけない。こんなことは雛形にない」
 と私がいうと、
「どうも、こうずう[#「ずう」に傍点]体が大きくては見当がつきません」
 仕事師も、大工も途方に暮れているという有様……そこでこのままでやられた日には衣紋竿を突張ったような大仏が出来ますから、私は仕事師、大工の中へ入って一緒に仕事をすることに致しました。
「私のいうようにやってくれ」というので指図をした。
 膝や肩の丸味は三角の所へ弓をやって形を作り、印を結んだ手は片面で、四分板を切り抜いて、細丸太を切って小口から二つ割にして指の形を作る。鼻の三角も両方から板でせって鼻筋をこしらえ小鼻は丸太でふくらみをこしらえる……という風に、一々仏の形のきまりを大|握《つか》みに掴んでこしらえていかせるのですが、兄貴の大工さんも、差し金を持って見込みの仕事をするのならなんでも出来るが、こんな突飛な大仕掛けな荒仕事となると一向見当がつきません。仕事師の方も普通の小屋掛けの仕事と違って、大仏の形に形取った一つの建物の骨を作るのですから、あたってみると漠然として手が出ません。ここをこうといいつけても間に合わないという風で、私は大に困りましたが、困ったあげく、芝居の道具方の仕事をやっているある大工をつれて来て、これにやらせてみますと、なかなか気が利いていて役に立ちます。私はこの大工を先に立てて仕事を急ぎました。
 それで、私はよすどころでなく毎日仕事場へいかねばならなくなった訳であります。が、毎日高い足場へ上って仕事師大工達の中へ入って仕事をしていますと、なかなかおもしろい。面白半分が手伝って本気で汗水を流して働くようになりました。今日では思いも寄らぬことですが、また歳も若し、気も旺《さか》んであるから、高い足場へ上って、差図をしたり、竹と丸太をいろいろに用いて、頤《おとがい》などの丸味や胸などのふくらみをこしらえておりますと、狭い仕事場で小仏を小刀の先でいじっているとはまた格別の相違……青天井の際限もない広大な野天の仕事場で、こしらえるものは五丈近い大きなもの、陽気はよし、誰から別段たのまれたということもなく、まあ自分の発意から仲のよい友達同士が道楽半分にやり出した仕事ですから、別に小言の出る心配もなし、晴れた大空へかんかんと金槌の音をさせて荒っぽく仕事をするので、どうも、甚だ愉快で、元来、まかり間違えば自分も大工になる筈であったことなど思い出して、独りでに笑いたくなるような気持にもなったりしたことでありました。
 だんだんと仕事の進むにつれて、大仏の頭部になってきましたが、大仏の例の螺髪《らはつ》になると、一寸困りました。俗に金平糖というポツポツの頭髪でありますが、これをどうやっていいか、丸太を使った日には重くなって仕事が栄《は》えず、板では仕様もない。そこで、考えて、神田の亀井町には竹|笊《ざる》をこしらえる家が並んでおりますから、そこへ行って唐人笊を幾十個か買い込みました。が、螺髪の大きい部分はそれが丁度はまりますけれども、額際とか、揉《もみ》上げのようなところは金平糖が小さいので、それは別に頃合いの笊を注文して、頭へ一つ一つ釘で打ちつけていったものです。仏さまの頭へ笊を植えるなどは甚だ滑稽でありますが、これならば漆喰《しっくい》の噛り付きもよく、案としては名案でありました。
「やあ、大仏様の頭に笊が乗っかった」
 などと、群衆は寄ってたかって物珍しくわいわいいっております。突然にこんな大きなものが出来出したので、出来上がらない前から人々は驚いているという有様でありました。

 ある日、私は、遠見からこれを見て、一体どんな容子に見えるものだろうと思いましたので、上野の山へ行って見ました。丁度、今の西郷さんのある処が山王山で、そこから見渡すと、右へ筋違いにその大仏が見えました。重なり合った町家の屋根から、ずっと空へ抜けて胸から以上出ております。空へ白い雲が掛って、笊を植えた大きな頭がぬうと聳えている形はなんというていいか甚だ不思議なもの……しかし、立派な大仏の形が悠然と空中へ浮いているところは甚だ雄大……これが上塗りが出来たら更に見直すであろうと、一層仕事を急いで、どうやら下地は出来ましたので、いよいよ、左官与三郎が塗り上げましたが、青銅の味を出すようにという注文でありますから、黒ッぽい銅色に塗り上げると、大空の色とよく調和して、天気のよい時などは一見銅像のようでなかなか立派でありました(この大仏に使った材料は竹と丸太と小舞貫と四分板、それから漆喰だけです)。
「どうも素晴らしいものが出来ましたね。えらいものをこしらえたもんですね」
 など見物人は空を仰いでびっくりしております。正味は四丈八尺ですが、吹聴は五丈八尺という口上、一丈だけさばを読んで奈良の大仏と同格にしてしまいました。そこで口上看板を仮名垣魯文先生に頼み、立派な枠をつけ、花を周囲に飾って高く掲げました。こんな興行物的の方は友達の方が受持ちでやったのでありました。
 それから、胎内の方は野見の親父さんの受持ちで、切舞台には閻魔の踊りを見せようという趣向。そこでまた私は閻魔の顔をこしらえさせられるなど自分の仕事をそっちのけにして忙しいことで、エンマの顔は張子に抜いてぐるぐる目玉を動かすような仕掛けにして、中へ野見の老人が入って仕草をするという騒ぎ……一方、古物展覧の方も古代な布片《きれ》とか仏像のような、なんでも時代がついて、曰く因縁のありそうなものを並べ、鳴戸のお弓の涙などと子供だましでなく、大人でも感服しそうな因縁書などを野見の老人がやって、一切、内外共に出来上がりまして、いよいよ蓋を明けましたのが確か五月の六日……五日の節句という目論見であったが、間に合わず、六日になったように記憶しております。
 この興行物は「見流しもの」といって、ずっと見て通って、見た客は追い出してしまうので、見世物としては大勢を入れるに都合のいいやり方であります。大仏の頭が三畳敷位の広さで人間が五、六人位は入れますが、目、口、耳の窓から外を見ると、先の客は後から急《せ》かれて出て行くので、入り交《かわ》り立ち交るという手順、手っ取早く出来ております。蓋が明いた六日の初日には、はたして大入りでありました。

底本:「日本の名随筆46 仏」作品社
   1986(昭和61)年8月25日第1刷発行
   1991(平成3)年4月25日第9刷発行
底本の親本:「高村光雲懐古談」新人物往来社
   1970(昭和45)年12月発行
入力:加藤恭子
校正:菅野朋子
2000年10月30日公開
2005年6月27日修正
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