葛西善蔵

蠢く者—– 葛西善藏

 父は一昨年の夏、六十五で、持病の脚氣で、死んだ。前の年義母に死なれて孤獨の身となり、急に家財を片附けて、年暮れに迫つて前觸れもなく出て來て、牛込の弟夫婦の家に居ることになつたのだ。その時分から父はかなり歩くのが難儀な樣子だつた。杖無しには一二町の道も骨が折れる風であつたが、自分等の眼には、一つは老衰も手傳つてゐるのだらうとも、思はれた。自分も時々鎌倉から出て來て、二三度も一緒に風呂に行つたことがあるが、父はいつもそれを非常に億劫がつた。「脚に力が無いので、身體が浮くやうで氣持がわるい」と、父は子供のやうに浴槽の縁に掴まりながら、頼りなげな表情をした。流し場を歩くのを危ぶながつて、私に腕を支へられながら、引きずられるやうにして、やうやくその萎びた細脛を運ぶことが出來た。
「こんなに瘠せてゐるやうで、これでやつぱし浮腫《むく》んでゐるんだよ」と、父は流し場で向脛を指で押して見せたりした。
「やつぱしすこし續けて藥を飮んで見るんですね」
「いや、わしの脚氣は持病だから、藥は效《き》かない。それよりも、これから毎日すこしづつそこらを歩いて見ることにしよう。さうして自然に脚を達者にするんだな。そして通じさへついて居れば……」と、父はいつも服藥を退けた。
 父、弟夫婦、弟たちのところから小學校に通はせてある私の十四になる倅、父が來て二三日して産れた弟の長男――これだけの家族であつた。牛込の奧の低い谷のやうになつたごみ/\した町の狹い通りは、近所に大きな印刷會社があつて、そのため人通りも荷馬車などの往來も、かなり劇しかつた。さうした通りを、午前午後の時刻を計つては、日當りのいゝ玄關わきの二疊に寢かした赤んぼを根氣よくあやした後で、田舍から着て來た帽子のついた古外套に腰の曲つた身體をつゝみ、竹杖に縋つては、よち/\と軒下を傳ふやうに歩いてゐる父の姿に、偶然鎌倉から出て來た自分が出會ひ、思はず涙を呑むやうな氣持に打たれたことがあつた。自分には、父の氣持が解る氣がした。「父の散歩!」悲しい微笑の氣持で自分は斯う呟いたが、むしろ、それは傷ましい氣持のものだつた。父は孫たちのために生きたく思つてゐる――自分は心の中で父に感謝した。
 私と同じやうに父は酒飮みで、どんな病氣の場合でも酒を節するとか、養生に努めたりするとか云ふやうな性質の人ではなかつた。田舍にゐても生來の氣無精と脚の不自由から、滅多に外へは出なかつた父が、この東京のごみ/\した劇しい通りの街中を、脚を達者にするため散歩する――さうした父の心持は、生活に對する自分等の心持までも、いくらか明るい方に向けて呉れた。
 父は三度ほど、弟や私の倅といつしよに、私の五年越し部屋借りの、建長寺内の山の上の寺に來て、夜遲くまで酒を飮み合つた。
「此頃やはり、毎日少しづつでも歩くせゐか、脚の具合がたいへんいゝやうだ」と、最後に見えたのは三月下旬だつたが、父はさう云つて悦んでゐた。
「それは結構ですね。しかし、何しろあの邊はあんなにひどい通りだから、散歩も餘程氣を附けなさらないと。もしなんでしたら、どうです、當分こつちへ來てませんか。この通り部屋は廣いんですし、閑靜ですし、散歩も庭だけで間に合ふんだから……」
「いや、わしが來たところで仕方がないさ。獨り者のお前のところより、やはり子供たちといつしよの方がいゝ。わしには東京の散歩で結構だ」と、父はかぶりを振るやうにして云つた。
 がその父の日課の散歩も、それから後いくらも續かなかつた。五月初め頃から父は床に就くやうになり、七月中旬に死んだ。一切の藥餌も受けなくなり、絶食同樣の日が二十日近くも續いて、ほとんど骸骨のやうに瘠せてしまつたが、元來が頑丈な體質の、殊に永年の飮酒や持病の脚氣にも左程に弱らされてゐなかつたらしい強い心臟のために、却つて死の苦痛を長引かせることになつた。失敗と不幸の一代を送つて來て、殊に生の執着心を失つてゐたらしく見えた父の、最後に見せて呉れた根強い生への執着は、其後自分にいろいろなことを考へさせた。……

 が、こゝまで書いて來て、フツト、自分ながらひどく意氣込んで書いて來たことにテレた氣持になり、ペンを止めて、ついこの四五日前から始めた日課の散歩にと、下宿を出た。六疊の部屋の隅の壁に押附けられたやうに坐つて、何ヶ月にも油も附けない蓬々とした櫛卷の髮を見せて、おせいは、此間友人のTの細君から裏地まで添へて貰つて來た木綿縞の袷を、幾日かかゝつて縫つてゐるのを、今日もひろげてゐた。自分は外套を着、鳥打帽をかぶつて、默つて出て來た。
 近くの本郷三丁目の交叉點を横切るのさへ、自分にはいつもかなりの思ひだつた。きまりのやうに一二囘は屹度交通巡査の合圖を躊躇した後、思ひ切つて不自由な脚してよちよちと駈けるやうに線路を越して、初めてほつと息を吐く。そこから左り側の歩道を、店屋の飾り窓を覗いたり、本屋の雜誌の表紙を見たり、露店の古本をひやかしたりしては、出來るだけゆつくりと一高前の角のところまで歩き、そこから同じ道を歸つて來る。――と云ふだけのほんの短い散歩なのだ。父のやうに竹の杖は持たないが、外套の襟を立て、兩手をポケツトに突込み、背を曲げて、膝の屈折が自由にならないやうな頼りない感じで、一歩々々と氣をつけて歩くのだ。一二ヶ月前から痲痺の感じは消えたのだが、運動筋の神經は容易に恢復しないのらしい。自分はあの窪地のごみ/\した通りを歩いてゐた父の姿を思ひ出す。そして自分の姿を顧みる。だが散歩と云ふことも、日課とするべく何と云ふ億劫な、面白味のない退屈な仕事だらう。父にもさうだつたに違ひないのだ。だが、父は長生きしたいと思つてそれを續けたのだらうが、俺もやはり、それなんか知ら? 同じ退屈するなら、やはり蒲團の中にもぐり込んでゐるか、地震で柱の歪んだ部屋の黄色い壁――附鴨居の下の天井下の小壁などにひどいひゞを見せた壁に向つて、煙草の煙でも吹いてゐた方が、まだしもましぢやないか知ら? 部屋の隅にはおせいが借りられて來た猫かのやうに、座蒲團も敷かず火鉢も當がはれず、ぼろ/\になつた着物を着て、背を丸くして坐つて、ちよい/\臆病らしく眼をあげて俺の不機嫌な顏色をぬすみ見てゐる。俺は氣の附かないやうな風をして「これがまだ二十五と云ふ若い女なのだ。そして俺だつてまだ三十八と云ふ年齡の男なのだ。それがどうしたと云ふのだらうこの老いぼれ方がさ……」と云つたやうなことを、ぼんやり考へてゐる。それが、斯うした生活が、もう半年から續いてゐる――とふと考へて來ると、自分は譯の分らない呻き聲のやうなものが、腹の底からこみあげて來るやうな衝動を感じて、ついふら/\とこの億劫な日課に出かけて來ると云つたやうな氣持でもあつた。
 三月上旬だと云ふに、前晩の小指大の雹が降つたとかで、厭な寒い風の吹く日だつた。一高前から例に依つて引返さうとして、ふとTの休みの日なことを思ひ出し、勇氣を出して駒込まで歩いて行つた。Tは二三日前から風邪を引いて休んでゐると云つて、床に就いてゐた。
「君の方へも何とも云つて來ないかい? 僕の方へもあれつきりなんだがね……」と、Tが私が坐るなり云ひ出した。
「いや、僕の方へは何とも云つて來つこないだらう、あゝして歸したんだから。それにしても君の方へ何とも云つて來ないと云ふのは、をかしいね。また人事相談へでも持込むつもりかね。無茶なことを考へ出されちや、弱るからね」
「人事相談とはしかし考へたもんだね。が二度とはもうあんなことしやしないだらう。だいぶ悄げてゐたやうだつたぢやないか」
「しかし田舍の人たちのやることはわからないからな。どつちみちあれが歸ると一等いゝんだがね。無理に追出すと云ふ譯にも行かず、實際今度は僕も弱つたよ。仕事は手に附かず、下宿の方は溜るし、いつそどこかへ遁走でもしようかと考へてゐる」
「そいつは可哀相だよ。それにしても一體どんな考へでゐるのかね。あの子も。一生君のそばに居りたいと云ふほどの考へでもなささうだし、君の妻子のことも何もかも承知してゐるんだしね。それに毎日あゝして小さくなつてゐて、晩には晩で醉拂つては打たれるだらうしね。それでも歸らうとは云はないんだから、一寸あの子の了見にもわからないところがあるね」と、Tは探るやうな眼付を見せた。
「それが僕にもわからないんだよ。それがはつきりわかつてゐると、どうにも僕の氣持をきめることが出來るんだけれど、幾ら問詰めて行つても更にはつきりした手應《てごた》へがないんでね。そして何かしら野生の動物めいた感じの執拗な眼付をして、あゝしていちんち部屋の隅つこにうずくまつてゐるんだから、つい酒でも飮むと打つたりなんかするやうなことになるんだよ。ゆうべも夜中に隣りの學生君に怒鳴られたよ。解決は明日俺がつけてやるから、今夜は寢つちまへ、毎晩々々勉強の邪魔ぢやないか、もう二時だぞ、人間には誰にだつて神經と云ふものがあるんだからね――ひどく叱られちやつたね」
「神經があるはよかつたな。何しろ下宿でひどく迷惑してゐることだらうから、少し氣をつけるんだね。自分の身から出た錆ぢやないか。それでは兎に角先方から手紙の來次第僕が鎌倉へ行つてどつちかへ話をきめて來るが、その結果で、それでは當分君のところへ預けると云ひ出したら、君にそれだけの責任が持てるか?」
「そりや仕方がないだらう。僕は田舍の女房にもすつかり打明けて、田舍へ引込むやうな場合には伴れて行つてもいゝと云ふことになつてゐるんだがね、唯一つ困つたことは、あれがもう姙娠してゐて、何故かそれを俺に隱してゐるんぢやないかと云ふ氣がされて仕方がないんだがね。それを此間來た叔父さんと云ふのに打明けたか打明けなかつたか、打明けてあるとすると、君が出かけて行つても話が一寸面倒になると思ふんだ。俺は實際永い間あれが女だと云ふことを頭に入れたことがなかつたやうで、今度いつしよに居られて見て、初めてあれもやはり女と云ふ恐ろしい難物なんだつたと氣がついて見ると、俺も實はほんとから怖くなり出して、此頃では僕の方がだん/\降參しかけてゐる形なんだ。子供の出來ることは怖くないが、女そのものが俺には怖い……」と自分もつい昂奮して來て、嘆息するやうに云つた。
「それは迂濶だつたねえ!」と、Tも難かしい顏付を見せて云つた。
「たしかに迂濶だつた。僕もあれが來た當座から、そのことを考へなかつたわけではなかつたのだが、どうも、不自然な防ぎ方をしようと云ふやうな氣にはなれなかつたのだね。あゝ、自然と云ふ奴にはかなはないなあ……」と、自分はまたも嘆息せずに居れなかつた。
「しかしそれが、確かにさうなのか? さうときまつたとなると、一寸問題だよ」
「それが僕にもはつきりしたことがわからないのだ。あいつが何かしら意地くねわるい氣持から俺にまだ隱してゐるのか、さうらしく見せかけてゐるのか、どうもよくわからない、よし! 今夜こそひとつはつきりと訊《き》いて見てやらう……」
「そんな話は醉はん時優しく訊いて見る方がいゝから、今夜は止したまへよ。もし何だつたら、うちの細君に訊かして見るから、何とか云つてうちへよこすことにしたまへ」
 Tに忠告されて、すつかり疲れた暗い氣持になつて、電車で歸つて來た。ところがまた、その晩遲く、醉つた揚句に飛んでもない淺ましい活劇を演じてしまつた。
 姙娠の詰問から、つい此間の警察の人事相談の方へと脱線したのが始まりだつた。日暮れ時分巡査が差紙を持つて來て、おせいが顏色を變へて行つて見ると、鎌倉から叔父が出て來てゐた。が結局警察でも「もう子供のことではないんだから、無理に引擦るやうにして伴れて行つても、女の方から追かけて來るやうなんだと、また飛び出して來るんだから、そこはよく納得の行くやうに話をして、伴れて歸るがいゝだらう」と、叔父に云ふほかなかつた。おせいには「お前さんは、その人への貸金を取立てゝ歸ると云つて出て來たんださうだが、今訊くと、うちへは當分歸りたくないからどこか奉公口の見つかるまでその人の下宿に厄介になつて居ると云ふんだが、そんなに永く厄介になつてゐて、もし宿料でも請求されるやうなことにでもなると、折角のお前さんとこの貸金だつて取れないやうなことにならんとも限らんからね。よくその邊のことも考へて見て、叔父さんといつしよに歸ることにしたらいゝだらう。兎に角一應その人の下宿へ行つてよく相談するんだな」と云つた。叔父はその晩私の部屋に泊つたが、結局伴れて歸ることが出來なかつた。
「俺が迷惑だ! 歸れ! 歸れ!」と、自分は例の調子で、眼を据ゑて、大聲で怒鳴つた。「いきなり警察へ持込んだりなんかして、俺だつていゝ恥さらしぢやないか。惡黨奴! お前さへ歸つて行けば、双方に文句がないんぢやないか。一體どんな氣持で、いつまでも斯うしてゐるのか、それをはつきり云つて見たらいゝぢやないか。俺が迷惑だと云ふことが、お前にわからないのか。俺は獨りになりたいんだ。それでないと仕事が出來ないんだ。さう頼むやうに、云つて來てるんぢやないか。斯うして毎日氣を腐らして、仕事は出來ないし、宿料は溜るし、今日も女房から、長男も長女もこの頃入學試驗の準備で夜も十二時近くまで勉強してゐる、せめて毎日玉子の一つ宛でもやりたいと思ふがそれも自由にならない有樣で不憫だと、云つて來てる位なんだ。さうした受驗準備の費用さへ俺には送れないんだ。試驗が受かれば受かつたで、その準備も考へなければならないんだから、そして後一ヶ月と間がないんだからね。兎に角明日にも早速歸つて行つて貰はう。俺も隨分永い間お前の厄介になつた。それは知つてる。がそれは、別の方法で屹度返す。が斯うした下宿での同居生活だけは、これ以上俺には我慢が出來ない。そして田舍の女房子供たちまでも、お前といつしよのことを知つてゐる。そして俺は子供たちに玉子喰はす金さへ送れないのだ。歸つて呉れ! 歸つて呉れ! 俺は氣が狂つちまふぞ! 氣が狂つちまふぞ!」と、自分は齒をギリ/\噛み合しながら、あたりの學生たちが此頃試驗前の勉強中なのも忘れて、怒鳴り續けた。
 今朝妻の手紙を讀んだ時には左程にも強く感じなかつた玉子と云ふ言葉が、斯う怒鳴り續けてゐるうち、醉拂つた頭の中にふと閃くやうに喚びかへされた。自分は一寸眼を瞑つて、拂ひ退けたい氣持から、頭を激しく振つて見た。あの九月一日の地震當時の思ひ出――鬼門々々、あれが一切の破壞者だつたのだ。「だが玉子? 玉子がどうしたと云ふんだつたつけな?……あ、さうか、俺はその玉子で生命を助かつたと云ふ譯なんだ」と、はつきり考へ浮んだ。
 その日も自分は遲く起きて、宿醉ひの氣分で朝飯を拔いて、机の上に鏡を立て、石鹸の泡を顏いつぱい塗りたくつて、右の揉上げから剃刀をスーツと一當て頬へと下ろしたところへ、丁度ドシンと來た。自分は剃刀の手を止めてあたりを視※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したが、何しろ古いには古いが巖丈に出來た建物のことだから、裏の崖崩れは恐れたが家は滅多に潰れるやうなことはないと、泡を喰つて飛び出すほどの決心は咄嗟には起らなかつたのだが、十疊の入り口の杉戸を一枚開けて風通しのいいところへおせいが朝運んで來て置いて行つたお鉢の上にお膳が載つてゐて、小丼の中にその日一日分の玉子の三つが積まれてあつたが、その一つが疊の上に落ちて流れ出した。
「これはかなり強いぞ。疊を汚してはいけないな……」自分は斯う思つて、まだ一寸無精してゐたい氣持だつたが、剃刀を机の上に置いて、お膳の傍まで二間程の疊の上を歩いて行つた時、グワラ/\ツと來て激しく自分の身體が杉戸に打つかつたので、そのまゝ半ば夢中で跣足で玄關から飛び出し、匐ひずるやうにして二間程も外へ出て、ふと後をふり返つた刹那、二階建の茅葺きの棟がペチヤンとなつてゐた。玄關わきの茶の間にゐた老僧夫婦と門前通りの男の人で、樒の枝を貰ひに來てお茶を飮んでゐた三人とが、下敷きになつた。幸ひに三人とも怪我もなく半時ほどして出て來たが崖崩れが續き、五寸程の地割れが出來たりして、辛うじて芍藥畑の隅の山茶花の下に戸板を持つて來て老僧夫婦と自分との三人が寄りかたまつて、搖れて來る度に山茶花の幹にしがみ附いてゐた。建長寺内の大建物は山門を殘したほか悉く潰れて、大方丈の裏の大崖はまださかんに凄まじい音を立てゝ崩れてゐた。二時間ほどしたが自分等の山の上の寺を誰も訪ねては來ず、自分も老夫婦を殘して下の樣子を見に行くのも氣がかりだつた。自分は高い石段の上から杉の樹の間を通して建長寺の大本堂、方丈、佛殿などの潰れた屋根を見下ろして、さつきの叫び聲から想像してもかなり人死にもあつたことゝ、云ひやうのない氣持で突立つてゐた。さうした場合、最初に、石段の下から、「Nさん生きてゐるかよう! みんな生きてゐるかよう!」斯う泣き聲を振り立てゝ、半ば狂亂の姿の藁草履穿きで、石段が刎ね、上からケシ飛んで行つた井戸の屋根、中程から折れた直徑七八寸程の杉の木、倒れた門の茅屋根――さうした間を、危險も忘れたかのやうに駈け上つて來たのは、おせいだつた。「生きてる! みんな生きてるぞ!」自分も思はず大きな聲で叫んだ。その時のおせいの顏を、自分は忘れることが出來ない。落ちて疊の上を流れた玉子と、おせいの眞劍な泣き顏――その印象が、恐らく一等強く自分の頭に燒きつけられてゐるかも知れない。自分はそれまでは毎食に一つは生玉子を飮むことを缺かさなかつたのだが、東京へ出て來て、生玉子を飮むと屹度下痢をするので、以來は絶對に生では用ひないことにして來た。自分の健康があの時以來ひどく損じられ、胃腸の弱つた爲めには違ひないが、同時に自分の弱い神經が極度に傷つけられ、脅え、その爲め斯うした病的な生理作用を來たしてゐるのではないかとも、考へてゐる。
 がその、玉子、おせいの顏、田舍の妻の實家に食客さしてある三人の子供――この三つのものが、この晩の自分の醉拂つた頭の中に何か知らそぐはないばら/\な感じ――それがふと妻の手紙に口を滑べらしてから、醉拂ひの錯亂した神經が、更にカツと燃え立つて來た。それに、つい三四日前の日のことだが、自分のところに珍らしく三人ほど客がいつしよになつた。そんな場合、下宿から借りてゐる小さな茶器では隨分不自由だつた。何しろ自分は震災後五日目に、汚れた單衣一枚で出て來たのだつた。野天で二晩、おせいの家は潰れなかつたので二晩泊めて貰つたが、食糧の缺乏に脅かされ切つてゐた當時のことで、自分にはそれ以上踏み止つてゐるだけの勇氣が出なかつた。自分には人間の美しさ、誠實なものゝ代りに、醜くさ、淺ましさのみが、その短い數日間に、露骨に味はゝされた。自分はおせいの家に滯つてゐた食料の借金の證書を書き――自分は草鞋を穿いて出發の用意が出來、そして切手を賣る店も無論潰れてゐる際、額面相當の印紙を貼らせようとおせいの爺さんが大騷ぎをして搜しにやらせたり――そんなことが自分の出發の氣分を一層慘めなものにして、追ひ立てられるやうに、五年越し居馴染んだ建長寺内を出て來たのだ。おせいは門前の通りまで送つて來たが「すぐたよりを下さいね」と、幾度も念を押して云つた。「よし/\、すぐよこすよ」と云つて、やう/\引き出した小さなトランクに机の上や抽斗のものなど入れたのを背負つて、竹の杖を突いて歩き出したが、心の中では、迚も二度とはこの場所に足を踏み入れる勇氣はないと云ふことは、はつきりと考へられた。そして途中程ヶ谷驛の庇下に一晩ごろ寢をして、翌日東神奈川からやう/\のことで汽車に乘り込み、鎌倉に行く前にゐた今の下宿に轉げ込むやうにしてはひつたのだが、來る早々、二三年前から兆候のあつた脚氣が、ほとんど衝心的な状態で起つて來た。そんなわけで、使つてゐる机、座蒲團、ドテラ、茶器の類まで一切下宿からの借物で、着てゐる着物も友人の誰彼から、羽織、綿入をと貰ひ集めたものだつた。おせいが十月初旬出て來た時、幾らかの金を仕度して、せめて夜具だけでも持つて來いと云つてやつたのだが、爺さんは渡してよこさなかつた。おせいはその日空手で、金の受取さへ持たずにすぐ引返して來た。貧乏な自分ではあるが、五年越し世帶持同樣の獨り暮しを續けて來て、いつとなしこま/\した物が集つてゐたので、斯うして急に下宿生活をして見ると、何かにつけかなり不自由だつた。金で一度に買ひ揃へれば、いゝぢやないか――さう思ひ諦めても、氣の濟まないやうな品も、無いこともなかつた。額も少なかつたが、しかし無理工面の金を持つて行つて、空手で、而も一向不得要領で歸つて來て、いつまでも、ずる/\と居催促のつもりで居るのか――斯う思ふと自分は腹が立つた。おせいが來た時分は、便所への起ち歩きも、困難な状態だつた。で、しばらく世話をしてゐて呉れ――斯う頼んだのは、自分の一生の失策だつたか知ら? Tがおせいの叔父にも云つたやうに、おせいの方でも餘りに永く世話をし過ぎ、自分の方でも餘りに永く厄介をかけ過ぎた――さう云つた譯合ひのものでもあらうが、が自分に取つてはおせいはその永い間、一人前の女だと云ふ感じさへ起させなかつた――三度三度山の下のおせいの家から岡持ちでご飯を運び、晩にはお酌をして床に寢かしつけて歸る、病氣の時には看病もする、さうした調法と云ふだけのものだつたのだ。それが今では朝自分が眼をさますと、狹い六疊の部屋に、やはり借り蒲團の床を敷き並べて、赭茶けた蓬々とした髮の頭を枕からはづして鼾をかいて眠つてゐる。自分は毎朝幾度か搖り起さなければならない。それだけのことからも自分の寢起きの氣分が滅茶々々にされて、それから晩酌にかゝる時刻まで、終日いら/\した氣持を依怙地に抑へつけては、汚れた黄色い壁に向つて、暗い空想の繰返しを續けてゐなければならないのだ。二人とも幾日にもお湯へも行かなければ、調髮もしない。そしておせいもやはり執念深く默りこくつては、終日部屋の隅つこに坐りつゞけてゐる。自分は年の暮れに迫つて、郷里に妻子を見舞ひ、自分の健康上から、また子供たちの爲め村に小屋でも造つて久しぶりで家族生活を營むべく、その下相談に歸り、妻の實家に一週間ほど滯在して來た。その時おせいは置き去りにでもされることと思つたか、泣いて同行を迫り、やう/\下宿のお上さんたちの調停で思ひ宥めさしたが、後から自分の俥を追ひかねまじき氣配で、汽車が上野を出て、初めて自分はほつと息を吐いた。自分は妻に彼女のことを打明けて頼むほかなかつた。
「そりや迚もたゞでは歸りますまいね。あなたも飛んだいゝものを掴まへて結構ですわ。あなたが色男だからなんでせう。わたしの方ではちつとも構ひませんから、どうぞ伴れて來て下さい」と、もう鬢に白毛を見せ始めた、過激な臺所仕事ですつかり窶れ切つた妻は、自分の鬚に無數の白いのを見せ、頭の地の薄く透いて見える、室内もよち/\と歩いてゐるやうな自分を前にして、斯うひやかすやうに笑ひながら云つた。
「いや決してさう云ふ譯ではないんだがね、何しろあの女には親父が死ぬ時も隨分世話になつてゐるし、この春弟の細君の病氣の場合も厄介をかけてゐるし、自分だつて病氣のし通しだつた。夏には赤痢めいたものまでやつて、その揚句が今度の脚氣だ。そんないろんな因縁からも、無理に追ひ出すと云ふわけにも行かないんだよ」
「だからわたしの方ではちつとも構やしませんから、今度は伴れていらしつたらいゝでせう。さうなつたら誰にしたつて、おいそれとは素直に出て行きやしないもんでせう」
「借金を綺麗に拂つてやつても、出て行かないか知ら?」
「それはわかりませんね。先方の親たちはどんな風に考へてゐるか、その娘さんだけの考へではないかも知れませんからね」
「そこだて、俺の弱るのは……」
「それは仕方がないでせう、あなたご自分の仕出來したことなんだから。そしてもう身持にでもなつてるんぢやありません?……」
「そんなことはまだない。兎に角それでは頼む。試驗が受かつて二人とも汽車で通ふことになるんだと、朝も隨分早いんだし、僕の仕事と酒の兩方の面倒はお前だけでは見きれまい。頑固な質だが、働くことは幾らでも働く女だから……」
 自分は斯う云つて、妻と別れて來た。が東京に引返して見ると、同じ斯うした日々だつた。自分は明けて十二になつた次女と約束して來た學校鞄さへ、送つてやれなかつた。……
「次女はもう眠つてゐるだらうが、上の二人はそれではまだ勉強かな。まだ十二時前だからな。女房もまだお相伴に起きてゐるのかな。そして俺は、斯うして醉拂つて、おせい相手に毎晩の管を繰返してゐようと云ふ光景かね。……さうさう、それからその玉子の話か……その玉子一つ喰はせられないと云ふ例の女房の愚痴手紙と來たんだな……」三月の上旬ながらまだ雪のどつさり積つてゐる遠い郷里の、當がはれた八疊の部屋に炬燵でもして、薄暗い五燭の電燈の下でまだ勉強してゐるであらう可憐げな子供たちの姿が、醉つた自分の頭にも描き出されて、自分はおせいに向けてゐた眼をふと瞑つて、斯う心の中に呟いた。そして、それらを拂ひ退けるべく、二三度激しく頭を振つた。が、すぐまた、自分はおせいに向つて叫んだ。
「これを見ろ! どんなことが書いてあるか手前讀んで見ろ! 因業爺の娘! 上書きは男の子が自分の名前で自分で書いてよこしたんだが、中身は女房なんだ。俺は玉子で地震を助かつたが、子供等も玉子でも喰はせないと、試驗が通らないんだぞ。なんだあの因業爺奴、また此間來た叔父と云ふ男だつてなんだ、金を拂ふから荷物はよこせと云つても、何も云へやしないぢやないか。あの地震早々の場合證書を書かして追出すなんか、一種の脅喝だよ。そして勝手に自分の物をさらつて行つて、内金を持たしてやつても受取一本、ドテラ一枚渡してよこさないぢやないか。立派な横領だぞ。俺の方でこそあべこべに人事相談へなり、何へなり訴へたい位だ。金には代へられない親父の遺品だつてあるんだし、あの掛蒲團の染めた蒲團皮は、あれは死んだおふくろが嫁に來た時のを、大事にして使つてゐるんだぞ。勝手な眞似をしたら、それこそ今に屹度罰が當るから、見てゐやがれ。手前は田舍者だから本郷の振袖火事なんてことも知るまいがな、今に思ひ當るから、見てゐやがれ! しかし兎に角、もうおとなしく歸つて呉れ。俺はあんな因業爺の娘とこれ以上暮してゐることは、我慢がならないんだよ。身體も神經も、滅茶々々ぢやないか。お前のとこでは、俺に玩具にされたと口惜しがつてゐるか知れないが、自然ぢやないか。ああして五年もの間放つて置いて、間違ひがなかつたとしたら、却つて不自然なんだ。お前にしたつて、お互ひぢやないか。だから、俺の方でも謝まるから、もう素直に歸つて呉れ。明日の朝俺の眠つてゐるうちに出て行つて呉れ。桂庵とか何とかへ引かゝらずに、眞直ぐにこの間の叔父さんところまで歸つて呉れ。金はどんな都合してもこしらへるから、兎に角一應引取つて呉れ。もう半年ぢやないか。そしてその間に、俺は何一つ仕事をしてゐない。俺は親父が俺の子供等へと殘して行つて呉れた杉林や林檎畑まで賣拂つて、どうやら無理をしてこゝまで來たんだが、もうあとには何にも無いんだ。一二册あつた本も、震災で、版權でも賣りたいにも、それもないんだ。後生だから歸つて呉れ。これから先き、どう出世出來ると云ふ自分でもない――それもわかつてるだらう。俺は仕事が出來ないんだ。氣が狂つちまふ。俺の子供たちのことも不憫だと思つたら、おとなしく出て行つて呉れ。俺は斯うして酒なぞ飮んでゐられる場合ぢやないんだ。この手紙を讀んで見ろ! 讀んで見ろ! どんなことが書いてあるか、讀んで見ろ!」自分はおせいの顏に手紙を突きつけるやうにして、斯う大聲で云つた。
「讀まなくたつて、わかつてますよう」と、鼠色に汚れたエプロンの下に兩手を差入れてぢつと聽いてゐたおせいは、斯ういつもの突かゝるやうな調子で云つた。
「讀まなくては、わからない。だが讀みたくないものを讀ませはしないから、それでは明日は歸るか?」
「わたし、歸りません!」
「歸りません、と云つたつて、俺は歸すよ。もう大抵にして、歸つて貰はうぢやないか。下宿へだつて、迷惑ぢやないか。居催促としては執念深過ぎる!」
「……あたい、それでは、いつ居催促だと、云つた! いつ云つた!」おせいは斯う云つたが、唇を歪めて、今にも泣き出しさうな顏して、男のやうに濃い眉の下の小さな眼をいつぱいに瞠つては、自分の顏を正面《まとも》に視た。
「いつ云つたつて……さうぢやないか、そのほか理由がないぢやないか。兎に角迷惑だから、出て行つて呉れ。警察でも、お前はさう云つて來たんださうぢやないか。兎に角明日の朝は、俺の寢てゐるうちに出て行つて呉れ。出て行つて呉れさへすると、文句はないんだから」
「あたい、何と云はれたつて、出て行かない。追出されたつて、出て行かない。家へも歸らないし、どこへも出ても行かない。行くもんか!」
「惡黨! 何と云ふ剛情な奴かねえ! 如何に因業爺の娘だからつて、ほんとにわからないのかなあ。……それでは一體居催促でないとすると、何なんだ? それをはつきり云つて貰はうぢやないか。また家へ歸つて、茶店の前に立つて、厭らしい聲して、寄つていらつしやい、お歸りなさいまし、お休みなさい、よう――てなことを云ふのも厭だから、それで當分の間何か奉公口でも見つかるまで置いて呉れと云ふのか、それともどこまでも俺のところにゐたいと云ふのか、兎に角それをはつきり云つて貰はうぢやないか。このまゝずる/\べつたりでは、俺は迷惑だと云ふんだ。兎に角はつきり云つて、頼むなら頼むで、はつきりして貰はうぢやないか。云つて見たらいゝぢやないか。剛情だなあ……何と云ふ惡黨かねえ。お前と云ふ女は!」
「云はないよ。誰がそんなこと云ふ奴があるか! 手前こそいゝ惡黨ぢやないか。何もかもわかつてる癖に、晝間は晝間で、夜は夜で毎晩鷄の鳴く時分までもそんなことを云ひ出しては人を虐《いぢ》め拔いてやがつて、誰が出て行つてやるもんか! 一生でも取附いてやるからね……惡黨! 薄情野郎奴! 忘れやがつたかよ、この惡黨野郎奴が!」齒を喰ひしばり、眼を血走らせて、蓬々とした髮の中から角でも出さうなやうな形相して、おせいも斯う叫び罵つた。
「ム……この獄道者が! 因業爺は爺として、あのおふくろの心配が、貴樣にはわからないのか。だからなぜ最初おふくろが迎ひに來て呉れた時に、素直について歸らなかつたんだ。永い間あのおふくろが、俺たちのことを庇つてゐて呉れたんぢやないか。その義理としても、俺は一日だつて貴樣を置いてやるわけには行かないんだ。たつた今のうち出て行け! 桂庵へなりどこへなり、勝手に出て行け!」
「誰が出て行くもんか。老ぼれ! お前さんの方で出て行くがいゝ、あたいは行かないよ。なんだその、眼鏡なぞかけて、鬚なぞ生やかしたつて、ちつとも怖かないんだよ」
「何だと、老ぼれ……もう一遍云つて見ろ。……毆ぐられるな!」
「何遍だつて云つてやる。云つてやるとも!」
 自分の右の拳固が、おせいの丸く紅い頬桁目がけて、二三度續けざまに飛んだ。が勢ひよくうまく當らなかつたので、今度は起ちあがつてふら/\する脚をあげて蹶飛ばさうとしたが、「何、この老ぼれ野郎が、人を蹶飛ばす氣か。……敗けやしないぞ! 敗けやしないぞ!」斯う云つて、彈力の塊りそのものゝやうな勢ひで、兩手を突張りながら向つて來て、自分はひとたまりもなくドシンと壁際に打倒された。おせいは胸倉を取つて、上から武者振りついて來た。そして起きあがらうと※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]いてゐる自分の背中の上へ、裂け目の上の附鴨居が壁土といつしよにドシンと落ちて來たので、自分はカツと夢中になつて、「こん畜生! /\」と叫び續けてゐるおせいの顏や頭と處構はず打つたり蹶つたりしてゐたが、ヒーツと云ふ悲鳴を聞いて、手足を止めておせいの顏を視ると、口からタラ/\血が出てゐたので、自分もゾツとした。それでまた彼女は氣でも狂つたかのやうにしがみ附いて來た。
「こん畜生! こん畜生! お前はあたいのあれを忘れたね。あたいのあの、大事なあのことを、忘れてゐるんだわ、お前さんに見せこそしなかつたが、もう形がちやんと出來てゐたんだよ。丁度セルロイドのキユーピーさん見たいに、形がちやんと出來てゐたんだよ。あたいが誰にも氣附かれないやうに、そつと裏の桃の樹の下に埋めて、命日には屹度水などやつてゐたんだよ。この十九日で、丁度になるんだよ。それを貴樣は何だ! ※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45]け臭つてゐやがるんかよ、忘れてゐやがるんかよ! この畜生野郎が! そんな薄情者だから、田舍のあんないゝ子供さんたちのことだつて、見てやれないんぢやないか。手前の薄情から、あたいのあれを、呪ひ殺したも同樣ぢやないか。あたいはね、默つて他所へは嫁にも行けない身體なんだよ。白を切つて他處の赤んぼを産むことの出來ない身體なんだよ。だからこそ、手前のやうな老ぼれの傍にもゐたいと、足蹶にまでされても、出て行かないんぢやないか。それが貴樣にわからないのか! わかつてゐても、わからない風をして、今まで虐め通して來たんだね? さあ、お前の方こそ、はつきり云つてご覽! それがお前に云へたら、あたいはこれからだつて、出て行くよ。出て行つてやるとも! 身投げしたつて、構ふもんか。さあ、はつきりと云つてご覽! それとも、あたいの口から、こんなことまで云ひ出させたくつて、斯うして來たのか?……エーン、口惜しい! 口惜しい!」見る間に紫色に腫れあがつた唇から血をタラ/\疊の上に滴らし、吊るしあがつた眼から涙を溢れ落して、おせいは子供のやうに泣じやくつた。
「あーん……」と、自分は打ちのめされた氣持で、彼女の兩手を取つた。
「さうか/\、もうよし/\、俺がわるかつた。俺はこの通り手をついて謝まるから、もう勘忍して呉れ。俺もほんとは、そこまでは深く考へてゐなかつたのだ。俺は唯卑怯で、そして意氣地無しだつたのだ。どうか許して呉れ。俺はもう追ひ出しもしないし、これからは決して虐めなんかしないから、今夜のところはどうか勘忍して呉れ。そして、俺は明日から屹度仕事にかゝる。そして、何もかも、いゝ方に向けるやうに、ほんとに努めるから、これまで通り俺の面倒を見て呉れ。お前の家の方へも、俺からはつきりと交渉することにする。そして身體や頭の健康も直すつもりだから、明日は退儀でもお湯へ行き、髮も結つて呉れ。田舍の子供たちへも金を送ることにして、お前の氣の濟むやうにもするから、どうか頼む。もうようく解つたから、もう泣くのをやめて呉れ……」斯う云つた自分も、知らず/\、泣いてゐた。
 鴨居の取れた黄色い壁の部屋を出て、午前と午後との二度、父の姿、おせいの所謂キユーピーさんのこと、郷里の子供たちのことなどを思ひ描きながら、日課の散歩を續けた。本郷通りの銀杏の並木の芽生えはまだ見られなかつたが、空の色はすつかり春だつた。「おせいの家の、その桃と云ふのが、もう咲いてるか知ら。近いうちおせいの問題傍々出かけて行つて、見て來ようかな……」斯んなことを思つたりしては、一日々々と散歩區域を擴げることに、努めた。

底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年10月5日第1刷発行
   2009(平成21)年2月19日第9刷発行
底本の親本:「葛西善藏全集」改造社
   1928(昭和3)年
初出:「中央公論」
   1924(大正13)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年5月5日作成
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葛西善蔵

遊動円木—– 葛西善蔵

 私は奈良にT新夫婦を訪ねて、一週間ほど彼らと遊び暮した。五月初旬の奈良公園は、すてきなものであった。初めての私には、日本一とも世界一とも感歎したいくらいであった。彼らは公園の中の休み茶屋の離れの亭《ちん》を借りて、ままごとのような理想的な新婚の楽しみに耽《ふけ》っていた。私も別に同じような亭を借りて、朝と昼とは彼らのところで御馳走になり、晩には茶屋から運んでくるお膳でひとり淋しく酒を飲んだ。Tは酒を飲まなかった。それに、Tのところで飲むと、その若い美しい新夫人の前で、私はTからいろいろな説法を聴かされるのが、少しうるさかったからでもある。
 互いに恋し合った間柄だけに、よそ目にも羨《うらや》ましいほどの新婚ぶりであった。何という優しいTであろう、――彼は新夫人の前では、いっさい女に関する話をすることすら避けていた。私はある晩おおいに彼に叱られたことがある。それは、私がずっと以前に書いたものの中に、けっして彼のことを書いたのではないのだがサーニン主義者めいたものを書いたのを、彼は自分から彼のことを書いたもののように解して、蔭では怒っているのだそうである。
「君のように、ある輪郭を描いておいて、それに当てはめて人のことを書くような書き方はおおいにけしからんよ。失敬な! 失敬な!」
 彼はその晩も、こう言って、血相を変えて私に喰ってかかった。酒を飲んでいた私は、この突然な詰問に会って、おおいに狼狽《ろうばい》した。
「あれは、けっして君のことを書いたというわけではないじゃないか。あんな事実なんか、全然君にありゃしないじゃないか。君はKに僕と絶交すると言ったそうだが、なぜそんなに君が怒ったのか、僕の方で不思議に思ったくらいだよ。君がサーニン主義者だなんて、誰が思うもんかね。あれはまったく君の邪推《じゃすい》というものだよ。君はそんなことのできるような性質の人ではないじゃないの」私はいちいち事実を挙げて弁解しなければならなかった。
「そんならいいが、もし君が少しでもそんな失敬なことを考えているんだと、僕はたった今からでも絶交するよ。失敬な! 失敬な!」彼はこう繰返した。
「いやけっしてそんなことはないよ。そんな点では、君はむしろ道徳家の方だと、ふだんから考えているくらいだよ」
「それならいいが……」
 こんな風で、私は彼の若い新夫人の前で叱られてからは、晩のお膳を彼のところへ運びこむのを止しにした。これに限らず、すべての点で彼が非常に卓越した人間であるということを、気が弱くてついおべっかを言う癖のある私は、酒でも飲むとつい誇張してしまって、あとでは顔を赤くするようなことがあるので、淋しくても我慢してひとりで飲む気になるのである。
「浪子さんと言っちゃいけないだろうか?」
「いけないよ……」
「なんて言うの? 奥さんと言うのもあまり若いんで、少し変じゃないか?」
「そんなことないよ。やっぱし奥さんと言ってやってくれたまえな」と、彼は言った。
 こうしたところにも、彼の優しい心づかいが見られて、私はこの年下の友だちを愛せずにいられなかった。しかし私には、美しくて若い彼の恋人を奥さんと呼ぶのは何となくふさわしくないような気がされて、とうとう口にすることはできなかった。
 私たちは毎日打連れて猿にお米をくれに行ったり、若草山に登ったり、遠い鶯《うぐいす》の滝の方までも散歩したりして日を暮した。鹿どもは毎日雨戸をあけるのを待ちかねては御飯をねだりに揃ってやってきた。若草山で摘《つ》んだ蕨《わらび》や谷間で採った蕗《ふき》やが、若い細君の手でおひたしやお汁《つけ》の実にされて、食事を楽しませた。当もない放浪の旅の身の私には、ほんとに彼らの幸福そうな生活が、羨ましかった。彼らの美しい恋のロマンスに聴き入って、私はしばしば涙を誘われた。私はいつまでもいつまでも彼らのそばで暮したいと思った。が私にはそうしてもいられない事情があった。
 あしたお別れという晩は、六畳の室に彼らと床を並べていっしょに寝ることにした。その晩は洋画家のF氏も遊びに来た。酒飲みは私一人であった。浪子夫人がお酌をしてくれた。私は愉快に酔った。十一時近くになって皆なで町へお汁粉をたべに行った。私は彼らのたべるのをただ見ていた。大仏通りの方でF氏と別れて、しめっぽい五月の闇の中を、三人は柔かい芝生を踏みながら帰ってきた。ブランコや遊動円木などのあるところへ出た。「あたし乗ってみようかしら? 夜だからかまやしないことよ……」と浪子夫人が言いだした。
「あぶないあぶない! それにお前なんかは乗れやしないよ」Tはとめた。
「でも、あたし乗ってみたいんですもの……」
 浪子夫人はすっと空気草履を穿《は》いたまま飛び乗って、そろりそろりと揺がし始めた。しんなりした撫肩《なでがた》の、小柄なきゃしゃな身体を斜にひねるようにして、舞踊か何かででも鍛えあげたようなキリリとした恰好《かっこう》して、だんだん強く強く揺り動かして行った。おお何というみごとさ! ギイギイと鎖《くさり》の軋《きし》る音してさながら大濤《おおなみ》の揺れるように揺れているその上を、彼女は自在に、ツツツ、ツツツとすり足して、腰と両手に調子を取りながら、何のあぶな気もなく微笑しながら乗り廻している。実際驚異すべき鮮かさである。私にはたんにそれが女学校などで遊戯として習得した以上に、何か特別に習練を積んだものではないかと思われたほどに、それほどみごとなものであった。Tもさすがに呆気《あっけ》に取られたさまで、ぼんやり見やっていたが、敗けん気を出して浪子夫人のあとから鎖につかまって乗りだしてみたが二足と先きへは進めなかった。たちまち振り飛ばされるのである。が彼は躍起となって、その大きな身体を泳ぐような恰好して、飛びついては振り飛ばされ、飛びついては振り飛ばされながらも、勝ち誇った態度の浪子夫人に敗けまいと意気ごんだ。
「梅坊主! 梅坊主」
 私はこう心の中に繰返して笑いをこらえていたが、ふっと笑えないようなある感じがはいってきて、私の心が暗くなった。
「禅骨! 禅骨!」
 私は今度はこう口へ出して、ほめそやすように冗談らしく彼に声をかけたが、しかし私の心はやはり明るくならなかった。私たちみたいな人間に共通したある淋しい姿を見せられた気がして、――それは恋人にも妻にも理解さすることのできないような。……
 浪子夫人はますます揚々とした態度で、大濤のように揺れる上を自在に行ったり来たりした。鎖の軋《きし》る音が、ギイギイ深夜の闇に鳴った。

底本:「日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集」集英社
   1969(昭和44)年7月12日
入力:住吉
校正:小林繁雄
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葛西善蔵

父の葬式—– 葛西善蔵

 いよいよ明日は父の遺骨を携《たずさ》えて帰郷という段になって、私たちは服装のことでちょっと当惑を感じた。父の遺物となった紋付の夏羽織と、何平《なにひら》というのか知らないが藍縞《あいじま》の袴《はかま》もあることはあるのだが、いずれもひどく時代を喰ったものだった。弟も前年細君の父の遺物に贈られた、一族のことで同じ丸に三つ柏《がしわ》の紋のついた絽《ろ》の羽織を持っているが、それはまた丈がかなり短かかった。
「追而葬式の儀はいっさい簡略いたし――と葉書で通知もしてあるんだから、いっそ何もかも略式ということにしてふだんのままでやっちまおうじゃないか。せっかく大事なお経にでもかかろうというような場合に、集った人に滑稽《こっけい》な感じを与えても困るからね」とその前の晩父が昨年の十一月郷里から持ってきた行李から羽織や袴を出してみて、私は笑いながら言ったりした。
「そんなものではないですよ。これでけっこう間に合いますとも。その場に臨んでみると、ここで思ってるようなものじゃないですよ」と、義兄は私たちを励ますように言った。
「それではひとつ予習をしてみるかな。……どうかね、滑稽じゃないかね?……お前も羽織を着て並んでみろ」と、私は少し酒を飲んでいた勢いで、父の羽織や袴をつけて、こう弟に言ったりした。
「何で滑稽だなんて。こんなあほらしいことばかし言ってる人見たことはない……」と、私とは十近くも違う姉は、さすがにムッとした様子を見せて言った。
「まあとにかく先方へ行った上で、集った人たちの様子によって第一公式にするか、第二公式にするか、まあそういうことにしようじゃありませんか」と、弟も笑いながら言った。
 朝落合の火葬場から持ってきたばかしの遺骨の前で、姉夫婦、弟夫婦、私と倅《せがれ》――これだけの人数で、さびしい最後の通夜をした。東京には親戚といって一軒もなし、また私の知人といっても、特に父の病死を通知して悔《くや》みを受けていいというほどの関係の人は、ほとんどないといってよかった。ほんの弟の勤めさきの関係者二三、それに近所の人たちが悔みを言いに来てくれたきりだった。危篤《きとく》の電報を石ノ巻にいる義兄へだけ打ったが、それは七月十一日の晩で、十二日の午後姉夫婦が駆けつけ、十三日の朝父は息を引取った。葬式の通知も郷里の伯母、叔父、弟の細君の実家、私の妻の実家、これだけへ来る十八日正二時弘前市の菩提寺《ぼだいじ》で簡単な焼香式を営《いとな》む旨を書き送った。
 十七日午後一時上野発の本線廻りの急行で、私と弟だけで送って行くことになった。姉夫婦は義兄の知合いの家へ一晩泊って、博覧会を見物して帰るつもりで私たちより一足さきに出かけた。私たちは時間に俥《くるま》で牛込の家を出た。暑い日であった。メリンスの風呂敷包みの骨壺入りの箱を膝に載せて弟の俥は先きに立った。留守は弟の細君と、私の十四の倅と、知合いから来てもらった婆さんと、昨年の十一月父が出てきて二三日して産れた弟の男の赤んぼとの四人であった。出て行く私たちより留守する者たちのさびしさが思いやられた。
 昨年の八月義母に死なれて、父は身辺いっさいのことを自分の手で処理して十一月に出てきて弟たちといっしょに暮すことになったのだが、ようよう半年余り過されただけで、義母の一周忌も待たず骨になって送られることになったのだった。実の母が死んですぐその年に義母が来たのだが、それからざっと二十年の間私たちは大部分旅で暮してきて、父とも親しく半年といっしょに暮した憶えもなく過してきたようなわけで、ようようこれからいっしょに暮せる時が来た、せめて二三年は生きてもらって好きな酒だけでも飲ませたいと思った甲斐もなく、父自身にしても私たちの子供らの上に深い未練を残して行った。永年の持病の脚気が死因だった。鎌倉へも二度来た。二度目はこの三月で、私の部屋借りの寺へ二晩泊って上機嫌で酒を飲んで弟にお伴されて帰って行ったが、それが私との飲み納めだった。私は弟からの電話でこの八日に出てきたが、それから六日目の十三日に父は死んだのだった。
「やっぱし死にに出てきたようなものだったね。ああなるといくらかそんなことがわかるものかもしれないな。それにしても東京へ出てきて死んでくれてよかった。田舎にいられたんだとなかなか面倒だからね。こう簡単には片づけられはしないよ。……そうそう、昨年のおふくろの時も、ちょうどこの汽車で僕らは帰ったんだよ」
「そうでしたね。あの時もずいぶん暑かった」
「そうだったなあ……」
 ヘンに目立つような真四角な風呂敷包みを三等車の網棚に載せて、その下の窓ぎわに腰かけながら、私たちはこう囁《ささや》き合ったりした。不憫《ふびん》なほど窶《やつ》れきった父の死にぎわの面影が眼に刻まれていたが、汽車に乗りこんで私たちはややホッとした気持になった。もうあとは簡単に葬ってきさえすればいいのだ――がさすがに食堂へ行って酒を飲んでくる気にもなれず、睡っておきたいと思いながら睡れもしなかった。
「おやじはもうどの辺まで往ったろうか。生きているうち脚に不自由したので、死んでからおおいに駈け廻っているんじゃないかな」
「いや、まだ引導《いんどう》も渡されてないんだから、どこへも往きやしないでしょうよ。お寺で吾々の行くのを待ってるでしょうよ」
「まあそうだろうな。それにしてもなかなかいいおやじだったね。子供らにはずいぶん厄介をかけられ通したが、子供らにはちっともかけていない。死んだ後にだって何一つ面倒なことって残してないし、じつに簡単明瞭な往生じゃないか。僕なんかにはちょっと真似ができそうにないね。考えてみるとおやじ一代の苦労なんてたいへんなものだったろうよ。ただこれで、第一公式なんていうことなしに、ポカポカとすましてこられるんだと申し分ないがなあ……」
「たいていだいじょうぶでしょうよ。ほかに来る人ってもないんだから、このままだってかまやしませんよ。また着るとしても、ほんのお経の間だけでしょう」
「何しろ簡単なもんだな。葬式という奴もこうなるとかえって愛嬌があっていいさ。また死ぬということも、考えてみるとちょっと滑稽な感じのものじゃないか。先の母の死んだ時は、まだ子供の時分だったせいか、ずいぶん怖かったがね、今度のおやじの場合は、ひどくいじらしく不憫《ふびん》な気はされたが、また死ぬということが何となく滑稽なような気もしたね。すっかり赤んぼみたいになって、仏面になっちまってるのに、まだ未練らしく唇なんか動かしたりして、それがいかにも死んで行くのが情けないといった風じゃないか。あんなおやじがなあと思うと、気の毒でもあり、また、もうよくわかりましたからおとなしく目をお瞑《つむ》りなさいと、僕はおかしくなったが、この上また葬式まで僕らにかかって滑稽化されたんではおやじの仏も浮ばれないんじゃないかしら」
「いやおやじは僕らの行届かないことだって何だって、みんなわかってくれてますよ。往生がよすぎるんで、滑稽にも感じられたんでしょう。年だって六十五というと、そんなに不足という方でもないんだし……」
「そう言うとそんなものだがな……」
 青森へは七時に着いた。やはりいい天気であった。汽船との連絡の待合室で顔を洗い、そこの畳を敷いた部屋にはいって朝の弁当をたべた。乗替えの奥羽線の出るのは九時だった。
「それではいよいよ第一公式で繰りだしますか?」
「まあ袴だけにしておこうよ。あまり改った風なぞして鉄道員に発見されて罰金でも取られたら、それこそたいへんだからね」
 私たちはまだこんな冗談など言い合ったりしていたが、やがて時間が来て青森を発車すると同時に、私たちの気持もだんだん引緊ってきた。一昨日は落合の火葬場の帰り、戸山ヶ原で私は打倒れそうになったが、今朝は気分もはっきりしていた。三つ目のN駅は妻の村であった。窓から顔を出してみると、プラットホームの乗客の間に背丈の高い妻の父の羽織袴の姿が見え、紋付着た妻も、袴をつけた私の二人の娘たちも見えた。四人は前の方の車に乗った。妻の祖母と総領の嫁さんとは私たちの窓の外へ来て悔《くや》みを言った。次ぎのK駅では五里ばかし支線を乗ってくる伯母をプラットホームに捜したが、見えなかった。次ぎが弘前《ひろさき》であった。
 弟の細君の実家――といっても私の家の分家に当るのだが――お母さん、妹さん、兄さんなど大勢改札口の外で、改った仕度で迎いに出ていてくれた。自動車をやっているので、長兄自身大型の乗合を運転して、昔のままの狭い通りや、空濠の土手の上を通ったりして、何十年にも変りのない片側が寺ばかしの陰気な町の菩提寺へと乗りつけた。伯母はもう一汽車前の汽車で来ていて、茶の間で和尚さんと茶を飲んでいた。たった一人残った父の姉なのだが、伯母は二カ月ほど前博覧会見物に上京して、父のどこやら元気の衰えたのを気にしながらも、こう遠くに離れてはお互いに何事があっても往ったり来たりはできないだろうから――こう言って別れたのだが、やっぱしそういうことになった。
「どこで死ぬのも同じことだから、お前たちの傍で死んできて、これほどのことはない。お前たちもお互いに仕合せだった……」私たちが挨拶すると、伯母はちょっと目をしばたたきながら言った。
 六つ七つの時祖母につれられてきた時分と、庫裡《くり》の様子などほとんど変っていないように見えた。お彼岸に雪解けのわるい路を途中花屋に寄ったりして祖母につれられてきて、この部屋で痘痕《あばた》の和尚から茶を出された――その和尚の弟子が今五十いくつかになって後を継いでるわけだった。自分も十五六年前までは暑中休暇で村に帰っていると、五里ほど汽車に乗ってお盆の墓参りに来たものだが、その後は一度も訪ねてなかった。父も不幸な没落後三十年ぶりで、生れ故郷の土に眠むるべく、はるばると送られてきたのだった。途中自動車の中から、昔のままの軒庇《のきびさ》しを出した家並みの通りの中に、何年にも同じ古びさに見える自分らの生れた家がちらと眺められて、自分は気づかないような風をしていたがちょっと悲しい気持を誘われたりした。
 本堂の傍に、こうした持込みの場合の便宜のために、別に式壇が設けられてあって、造花などひととおり飾られてあった。そこへ位牌堂から先祖の位牌が持ちだされて、父の遺骨が置かれた。思いがけなかった古い親戚の人たちもぼつぼつ集ってきた。村からは叔父と、叔母の息子とが汽車で来た。父の妹の息子で陸軍の看護長をしているという従弟とは十七八年ぶりで会った。九十二だというが血色といい肉づきといい、どこにも老衰の兆《きざ》しの見えないような親戚の老人は、父の子供の時分からのお師匠さんでもあった。分家の長兄もいつか運転手の服装を改めて座につき、仕出し屋から運ばれた簡単な精進料理のお膳が二十人前ほど並んで、お銚子《ちょうし》が出されたりして、ややいなかのお葬式めいた気持になってきた。それからお経が始まり、さらに式場が本堂前に移されて引導を渡され、焼香がすんですぐ裏の墓地まで、私の娘たちは造花など持たされて形ばかしの行列をつくり、そこの先祖の墓石の下に埋められた。お団子だとか大根の刻んだのだとかは妻が用意してきてあった。それから後に残った人たちだけ最初の席に返って、今度は百カ日の供養のお経を読んでもらった。それからまた、ちょうどパラパラ落ちてきた雨の中を、墓まで往復した。これで百カ日の法事まですっかりすんだというわけであった。
「その代り三年忌には、どうかしたいと思いますね。その時にはいっしょの仏様もだいぶあるようだから。今度はこんなことでおやじに勘弁してもらおう」と、私は父とは従妹の、分家のお母さんに言った。
「ほんとにそう思いますか? ほんとにそうしておあげなさいよ。あなたのとことわたしのとこくらいのものですよ、本家分家があんな粗末な位牌堂に同居してるなんて。NのにしてもSのにしてもあんなに立派でしょうが……」お母さんは感慨めいた調子で言った。同姓間の家運の移り変りが、寺へ来てみると明瞭であった。
 最後まで残った私と弟、妻の父、妻と娘たちとの六人は、停車場まで自動車で送られ、待合室で彼女たちと別れて、彼女たちとは反対の方角の二つ目の駅のOという温泉場へ下りた。
「やれやれ、ご苦労だった。これでまあどうやら無事にすんだというわけだね。それでは今夜はひとつゆっくりと、おやじの香典で慰労会をさしてもらおうじゃないか」
 連日の汗を旅館の温泉に流して、夕暮れの瀬川の音を座敷から聴いて、延びた頤髯《あごひげ》をこすりながら、私はホッとした気持になって言った。
「まあこれで、順序どおりには行ったし、思ったよりも立派にできた方ですよ。第一公式なんかの滑稽はかまわないとしても、金の方でボロが出やしないかとビクビクだったが、それもどうやら間に合ったんだし、大事な人たちは来てくれたし、まあけっこうな方でしょう」会計や事務いっさいを任されてきた弟の窶《やつ》れた顔にも、初めて安心の色が浮んだ。
「戒名《かいみょう》は何とか言ったな?……白雲院道屋外空居士か……なるほどね、やっぱしおやじらしい戒名をつけてくれたね」
「そうですね。それにいかに商売でも、ああだしぬけに持ちこまれたんでは、坊さんも戒名には困ったでしょうよ。それでこういった漠然としたところをつけてくれたんじゃないでしょうか」
「いやどうしてなかなか、よくおやじの面目をつかんでるよ。外空居士もう今ごろはどの辺まで往ってるか……」
 いつまでも尽きないおやじの話で、私たちは遅くまで酒を飲んだ。明日はこの村の登記所へ私たちはちょっとした用事があった。私たちの村はもう一つ先きの駅なのだが、父が村にわずかばかし遺《のこ》して行ってくれた畑などの名義の書き替えは、やはりここの登記所ですませねばならなかった。それだけが今度の残務だった。
「登記所の方がすんだら、明日はどうしましょうか」
「そうねえ、こんな場合はどこへも寄らないものだというから、また出なおしてくるまでもひとまず帰ろうか。来た時と方面を変えて、奥羽線で一直線に帰ろうじゃないか。葬式を出した後というものはずいぶんさびしいものなんだろうが、こうしたところに引かかっていると、さっぱりヘンな気持のものだね。遠くまで吾々で送ってきたというよりも、遠くへまで片づけにやってきたという方が、どうも適切のような気もするね……」
 この辺一帯に襲われているという毒蛾を捕える大|篝火《かがりび》が、対岸の河原に焚《た》かれて、焔《ほのお》が紅《あか》く川波に映っていた。そうしたものを眺めたりして、私たちはいつまでしても酔の発してこない盃を重ねていた。

底本:「日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集」集英社
   1969(昭和44)年7月12日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:住吉
校正:小林繁雄
2011年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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葛西善蔵

父の出郷—– 葛西善蔵

 ほんのちょっとしたことからだったが、Fを郷里の妻の許《もと》に帰してやる気になった。母や妹たちの情愛の中に一週間も遊ばしてやりたいと思ったのだ。Fをつれてきてからちょうど一年ほどになるが、この夏私の義母が死んだ時いっしょに帰って、それもほんの二三日妻の実家に泊ってきたきりだった。この夏以来私は病気と貧乏とでずいぶん惨めだった。十月いっぱい私はほとんど病床で暮した。妻の方でも、妻も長女も、ことに二女はこのごろやはり結核性の腹膜とかで入院騒ぎなどしていて、来る手紙も来る手紙もいいことはなかった。寺の裏の山の椎《しい》の樹へ来る烏《からす》の啼き声にも私は朝夕不安な胸騒ぎを感じた。夏以来やもめ暮しの老いた父の消息も気がかりだった。まったく絶望的な惨めな気持だった。
「ここは昔お寺のできなかった前は地獄谷といって、罪人の頸を刎《は》ねる場所だったのだそうですね」と、私はこのごろある人に聞いて、なるほどそうした場所だったのかと、心に思い当る気がした。
 昨年の春私を訪ねてきて一泊して行った従兄《いとこ》のKは、十二月に東京で死んで骨になって郷里に帰った。今年の春伯母といっしょにはるばるとやってきて一泊して行った義母は、夏には両眼失明の上に惨めな死方をした。もう一人の従弟のT君はこの春突然やってきて二晩泊って行ったが、つい二三日前北海道のある市の未決監から封緘葉書《ふうかんはがき》のたよりをよこした。
 ――その後は御無沙汰しておりました。七月号K誌おみくじ[#「おみくじ」に傍点]の作を拝見し、それに対するいたずら書きさしあげて以来の御無沙汰です。いや御通知いたしかねていたのです。半僧坊のおみくじでは、前途成好事――云々とあったが、あの際大吉は凶にかえるとあの茶店の別ピンさんが口にしたと思いますが、鎌倉から東京へ帰り、間もなく帰郷して例の関係事業に努力を傾注したのでしたが、慣れぬ商法の失敗がちで、つい情にひかされやすい私の性格から、ついにある犯罪を構成するような結果に立到り、表記の未決監に囚われの身となりおります次第、真に面目次第もありません。
 昨日手にしたC誌十一月号にあなたの小品が発表されていましたので、懐かしさのあまり恥を忍んでこうした筆を取りました。それによると御病気の様子、それも例の持病の喘息《ぜんそく》とばかりでなく、もっと心にかかる状態のように伺《うかが》われますが、いかがでございますか、せっかくお大事になさいますよう祈ります。私の身は本年じゅうには解決はつくまいと覚悟しております。……
 ああ! と私はまたしても深い嘆息をしないわけに行かなかった。まったく救われない地獄の娑婆《しゃば》だという気がする。死んで行った人、雪の中の監獄のT君、そして自分らだってちっとも幸福ではない。
 私も惨めであるが、Fも可哀相だった。彼は中学入学の予習をしているので、朝も早く、晩日が暮れてから遠い由比ヶ浜の学校から帰ってくるのだった。情愛のない、暗い、むしろ陰惨な世界だった。傷みやすい少年の神経は、私の予想以上に、影響されているようにも思われた。
 十一月の下旬だったが、Fは帰ってきて晩飯をすますとさっそくまた机に向って算術の復習にかかった。私は茶店の娘相手に晩酌の盃を嘗《な》めていたが、今日の妻からの手紙でひどく気が滅入《めい》っていた。二女は麻疹《はしか》も出たらしかった。彼女は八つになるのだが、私はその時分も冬の寒空を当もなく都会を彷徨《ほうこう》していた時代だったが、発表する当のない「雪おんな」という短篇を書いた時ちょうど郷里で彼女が生れたので、私は雪子と名をつけてやった娘だった。私にはずいぶん気に入りの子なのだが、薄命に違いないだろうという気は始終していた。私は都会の寒空に慄《ふる》えながら、ずいぶん彼女たちのことを思ったのだが、いっしょに暮すことができなかったので、私は雪おんなの子を抱いてやるとその人は死ぬという郷里の伝説を藉《か》りて、そうした情愛の世界は断ち切りたいと、しいて思ったものであった。「雪子は死ぬだろう……」と、私は今朝の烏啼きのことがまた思いだされた。
「雪子はまた麻疹も出たらしいね。今日母さんから手紙が来たよ……」と、私はFに話しかけた。
「そう……」と言って彼は私の顔をちらと視たが、すぐまた鉛筆を紙の上に走らした。
 私もそれきり黙って盃を嘗《な》めつづけていたが、ふと、机に俯向いている彼の顔に、かなりたくさんの横皺《よこじわ》のあることを発見して、ひとつはこうした空気から遁《のが》れたい気持も手伝って、
「ほう……お前の額にはずいぶん皺が多いんだねえ! 僕にだってそんなにはないよ。猿面冠者《さるめんかじゃ》の方かね。太閤様だな。……ハハハ。せい公そうだろう?」と茶湯台の向うに坐ってお酌していた茶店の娘に同感を強いるような調子で言った。
「そうのようですね。お父さんにはそんなにないようですね」と、娘も何気なく笑って二人の顔をちょっと見較べる様子しながら言った。
 それが失策だった。Fは黙ってちらりと眼を私の方に向けたが、それが涙で濡《ぬ》れていた。どんな場合でも、涙は私の前では禁物だった。敏感な神経質な子だから、彼はどうかすると泣きたがる。それが、泣くのが自然であるかもしれないが、私は非常に好かないのだ。凶暴な人間が血を見ていっそう惨虐性を発揮するように、涙を見ると、私の凶暴性が爆発する。Fの涙は、いつの場合でも私には火の鞭《むち》であり、苛責《かしゃく》の暴風であった。私の今日の惨めな生活、瘠我慢《やせがまん》、生の執着――それが彼の一滴の涙によって、たとえ一瞬間であろうと、私の存在が根柢から覆《くつが》えされる絶望と自棄を感じないわけに行かなかった。この哀れな父を許せ! 父の生活を理解してくれ――いつの場合でも私はしまいにはこう彼に心の中で哀訴《あいそ》しているのだ。涙で責めるな!……私はまたしてもカアッとしてしまった。
「何だって泣くんだ? これくらいのこと言われたって泣く奴があるか! 意気地なしめ!」
「だって……人のことを……猿面だなんて……二人でばかにするんだもの……」と、彼はすすりあげながら言った。
 こう聞いて、私は全身にヒヤリとしたものを感じて、口を緘《と》じた。二人でばかにする……この不用意な言葉が、私の腹のどん底へ、重い弾丸を投じたものだ。なるほどそんな風に考えたのか、火鉢の傍を離れて自分はせっせと復習をしている、母や妹たちのことを悲しく思いだしているところへ、親父は大胡座《おおあぐら》を掻いて女のお酌で酒を飲みながら猿面なぞと言って女と二人で声を立てて笑う、それが癪《しゃく》に障ったのはむりもないと私にも考えられたが、しかしとにかく泣くということを私は非常に好まなかった。
「とにかく貴様のような意気地なしは俺には世話ができないから、明日|早速《さっそく》国へ帰れ!」と私は最後に言った。
 すぐにも電報と思ったが、翌朝方丈の電話を借りさせて、東京の弟の勤め先きへすぐ来るようにとかけさせた。弟の来たのは昼ごろだった。
「じつはね、Fを国へ帰そうと思ってね、……いや別にそんなことで疳癪を起したというわけでもないんだがね、じつはもうこれ以上やれきれないんだよ。去年もあんなことで年を越せなくて二人で逃げだしてさんざんな目に会ったが、今年はもっと状態がわるい。身体の方ばかしでなく神経の方もだいぶまいっているらしい。毎晩ヘンな夢ばかし見てね、K君のことやおふくろのことや、……俺は少し怖くなった、とにかく早くここを逃げだしたい。僕も後から国へ帰るか、それとも西の方へ放浪にでも出かけるか、どっちにしても先きにFを国へ帰しておきたいから……」
「いやそういうわけでしたらなんですけど、三月といってももうじきですからね、Fさんが中学に入りさえすれば、また私たちの方で預ってもどうにでも都合がつきますからね……」
「いや僕もそんなことも考えないわけではないがね、僕もじつはおやじのところへ帰りたいのだよ。いっさいを棄てて、おやじといっしょに林檎《りんご》の世話でもして、とにかく永く活《い》きる工夫をしたい。僕も死にたくないからね。このままで行ったんでは俺の健康も永いことはないということが、このごろだんだんはっきりと分ってきた。K君、おふくろ、T君はまたあんなことになるし、今度はどうしても俺の番だという気がして、俺もほんとに怖くなってきた。ここは昔地獄谷といって罪人の刑場だったそうだが、俺はただ仏様のいる慈悲の里とばかり思ってやってきたんだがね、そう聞いてみるとなるほどこの二年は地獄の生活だったよ。ここを綺麗にして出るとなると七八百の金が要るんだがね、逃げだしたためT君のような別な地獄へ投りこまれることになるかもしれないがね、それにしても死神に脅《おびや》かされているよりはましだという気がするよ。僕はどうかするとあの仏殿の地蔵様の坐っている真下が頸を刎《は》ねる場所で、そこで罪人がやられている光景が想像されたり、あの白槇《しろまき》の老木に浮ばれない罪人の人魂が燃えたりする幻覚に悩されたりするが、自分ながら神経がどうかしてる気がして怖くなる……」と、私は弟の顔を見ると泣いても訴えたい気持をそそられた。
「いや、そういうわけでしたらそれではFさんの方はそういうことにしましょうか。兄さんの方は後でまたゆっくりと方法を考えて、国へ帰るにしても旅へ出るにしても、とにかくあまりむりをなさらない方がいいでしょう」と言って弟は私の憔《やつ》れた顔にちょっと視入《みい》ったが、
「それにしても、そういう気持が出るのも一つは病気のせいなんでしょうが、Kさんの時なんか今目を瞑《つむ》るという間ぎわまでも死神だとか何だとかそんなことは言わなかったようですがねえ、そう言ってはなんでしょうが兄さんは少しその禅の方へ、凝ってるというわけでもないんでしょうが、多少頭を使いすぎるためもあるんじゃないでしょうか、私なんかには分りませんけど……」
「そんなことはないよ。禅とは別問題じゃないか。誰が禅みたいなあほらしいものに引かかって、自分の生きる死ぬるの大事なことを忘れる奴があるか!」と、私はムッとして声を励まして言ったが、多少|図星《ずぼし》を指された気がした。
「それではとにかく行李を詰めましょうか」と、弟はおとなしく起って、次ぎの室の押入れからFの行李を出してきた。
 学校へはきゅうに郷里に不幸ができて帰ることになったからとFに言わせて、学校道具を持ってこさせた。昼のご飯を運んできた茶店の娘も残っていて手伝ったが、私の腹の底は視透《みす》かしているらしいのだが、口へ出しては言いださなかった。寺の老和尚さんも「そうかよ。坊やは帰るのかよ。よく勉強していたようだったがなあ……」と言ったきりで、お婆さんも、いつも私がFを叱るたびに出てきてはとめてくれるのだが、今度は引とめなかった。私たちの生活のことを知り抜いている和尚さんたちには、こうした結末の一度は来ることに平常から気がついているのだった。行李の中には私たち共用の空気銃、Fが手製の弓を引くため買ってきた二本の矢、夏じゅう寺内のK院の古池で鮒《ふな》を釣って遊んだ継《つ》ぎ竿、腰にさげるようにできたテグスや針など入れる箱――そういったものなど詰められるのを、さすがに淋しい気持で眺めやった。妻に宛《あ》てた簡単な手紙も入れさせた。
「すんだら一杯飲もうか」と言って娘に仕度をさせた。
「まだ出るころじゃないのか?」と、弟の細君のお産のことを訊いた。
「もうとっくに時が来てるんでしょうから、この間から今日か今日かと待ってるようなわけで、今晩にもどうかというわけなんでしょう」
「そりゃたいへんだね。何しろ今年はみんなが運がわるいようだからよっぽど気をつけないと」
「身体の方にどこにもわるいところがなさそうだから、だいじょうぶだろうと思うけど」
 こうして私たちは日の暮れるのを待った。最初の動機は、Fの意気地なしの懲《こら》しめと慰めとを兼ねて一週間も遊びに帰えすつもりだったのが、つい自分ながらいくらか意外なような結果になったのだった。しかしこうした場合だから迷わんで断行した方がいいと私はしいて気を張っていたが、さすがにFと別れるのがもの悲しく、これがついに一生の別れででもあるかのような頼りない気さえした。Fの方は昨晩からずいぶん悄《しょ》げていたが、行李もできて別れの晩飯にかかったが、いよいよとなると母や妹たちや祖父などに会えるという嬉しさからか、私とは反対に元気になった。
「母さんとこで二三日も遊んだら、祖父さんの方へ行ってすぐ学校へ行くようにせ。僕もじき帰る。どっちにしてもお前の入学試験時分までには帰るから、どこにおっても意気地なくかかって泣いたりするな」と、私はFに最後の訓戒を垂れた。
 すっかり暗くなったところで弟は行李を担《かつ》いで、Fとの二人が茶店の娘に送られて出て行ったが、高い石段を下り建長寺の境内《けいだい》を通ってちょうど門前の往来へ出たかと思われた時分、私はガランとした室に一人残って悲みと寂しさに胸を噛まれる気持で冷めたくなった盃を嘗《な》めていたところへ、電報! と言う声が聞えて、寺のお婆さんが取次いで持ってきてくれたが、原稿|催促《さいそく》の電報だろうと手に取ってみると、差出人が妻の名だったので、私はハッとして息を呑んだ。
「雪子が死んだ……」そう思うと封を切る手が慄《ふる》えた。――チチシスアサ七ジウエノツク――私はガアーンと頭を殴られた気がして、呆然《ぼうぜん》としてしまった。底知れない谷へでも投りこまれたような、身辺いっさいのものの崩落、自分の存在の終りが来たような感じがした。
「どうかなすったんですか?」と、お婆さんは私の尋常《じんじょう》でない様子を見て、心配そうに言った。
「おやじが死んだんだそうです……おやじが死んだんだそうです」と、私は半分泣声で繰返した。
「とにかくあいつらを呼んでこなくては……」
 私は突嗟《とっさ》に起ちあがって、電報を握ったまま暗い石段を駈け下り、石段の下で娘に会ったが同じことを言って、夢中で境内《けいだい》を抜けて一気にこぶくろ[#「こぶくろ」に傍点]坂の上まで走った。そして坂の途中まで下りかけていた彼らの後からオーイオーイF!……と声をかけた。
「おやじが死んだという電報だ。それで明日の朝女房が出てくるというんだが、とにかく引返してくれ」と、私は息を切らして言った。
「おやじが死んだ……?」と、弟も声を呑んだ。
「おやじが死んだからって、あれが出てくるってのも変な話だが、とにかくただ事じゃないね……」
「そうですねえ……」
 こうして話しながら引返したが、変死、頓死《とんし》――とにかく父は尋常の死方をしたのではないということが、私たちの頭に強く感じられた。室に帰ってきて幾度電報を繰りひろげてみても、ほかに解釈のしようもなかった。
「やっぱしこんなことだったのか。それにしてもまさかおやじとは思ってなかった。雪子のことばかし心配していたんだが、この間から気になっていた烏啼きや、ゆうべあんなつまらないことでFが泣きだしたのも――たぶんおやじはちょうどその時分死にかけていたんだろうがね、それにしてもなんとか前におやじから手紙の一本もありそうなものだったがなあ……」
「それにしても、おやじが死んだからって嫂《ねえ》さんが出てくるっていうのも、どうも変だと思いますがね……」
「しかしほかに判断のしようがないじゃないか。とにかく死んだんだとすれば、尋常な死方をしたもんじゃないだろう。それではとにかく今夜お前たちは帰って、明日の朝上野へ出てくれないか。そしてすぐ電報を打ってくれないか。今夜いっしょに行ってもお前とこでは寝るところもないんだし、今夜はよく眠って気を落ちつけて出て行きたいから」
「その方がいいでしょう。とにかく兄さんにしっかりしてもらわないと、あまり神経を痛めてまた病気の方を重くしても困りますからね。遅かれ早かれ一度はこういう時期が来るんでしょうからね、まあ諦《あきら》めるほかないでしょうよ」と、こういた場合にもあまり狼狽《ろうばい》した様子を見せない弟は、こう慰めるように言って、今度は行李を置いてFと二人で出て行った。
 が翌朝十時ごろ私は寝床の中で弟からの電報を受け取ったが、チチブジデキタ――という文句であった。それで昨夜チチシスのシがアの字の間違いであったことがすぐ気づかれてホッと安心の太息をついたが、同時に何かしら憑《つ》き物にでも逃げだされたような放心の気持と、禅に凝ってるのではないかと言った弟の言葉が思いだされて、顔の赧《あか》くなるのを感じた。……
 じつは弟たちが出て行った後、私は一人で娘相手に酒を飲み続けていたが、私は坐っているにも堪えない気持で、盃持つ手の慄《ふる》えもやまなかった。
「押入れの袴《はかま》を出してくれ。これから老師さんへ独参に行ってくるから」と、娘に言った。
「もう九時でしょう」
「何時だってかまわない……」
 私はこう言って羽織と足袋を脱ぎ、袴をつけて、杉の樹間の暗い高い石段を下り、そこから隣り合っている老師のお寺の石段を、慄える膝頭を踏ん張り、合掌の姿勢で登って行ったのであった。春以来二三度独参したことがあるがいつも頭からひやかされるので、すっかり悄《しょ》げていっこうに怠けているのだが、しかしこうした場合のことだから、よもや老師はお見捨てはなさるまい、自分は老師の前に泣きひれ伏しても、何らか奇蹟的な力を与えられたいと、思ったのだ。蔦が厚く扉をつつんだ開かずの門のくぐりから、寂寞《せきばく》とした境内《けいだい》にはいって玄関の前に目をつぶって突立った。物音一つ聴えなかった。暗い敷台の上には老師の帰りを待っているかのように革のスリッパが内へ向けて揃えられてあり、下駄箱の上には下駄が載って、白い籐《とう》のステッキなども見えたが、私の二度三度の強い咳払いにも、さらに内からは反響がなかった。お留守なのかしら?……そうも思ったが、私は何となく不安になってきた。「老師さん!……」と私は渾身《こんしん》の力を下っ腹に入れて、叫んだ。……老師さん!……老師さん!……老師さん!……さらに反響がなかった。庫裡《くり》に廻って電灯の明るい窓障子の下に立って耳を傾けたが、掛時計のカッタンカッタンといういい音のほかには、何にも聞えてこない。私はまた玄関で二三度叫んだ。それから数株の梅の老木のほかには何一つなく清掃されている庭へ出て、老師の室の前の茅葺《かやぶ》きの簷下《のきした》を、合掌しながら、もはや不安でいっぱいになった身体をしいて歩調を揃えて往ったり来たりして、やはり老師さん! 老師さん! を繰返し続けたが、だんだんその叫び声が自分ながら霜夜に啼く餓《う》えた野狐の声のような気がされてきて、私はひどく悲しくなってきて、私はそのまま地べたに身体を投げだして声の限り泣きたいと思った。雨戸を蹶飛《けと》ばして老師の前に躍《おど》りだしてやるか――がその勇気は私にはなかった。私は絶望と老師を怨《えん》じたい気持から涙のにじみでてくる眼をあげて、星もない暗い空を仰いだが、月とも思われない雲の間がひとところポーと黄色く明るんだ。「父だ!」とその瞬間にそう思った。父の亡魂なのだ。不孝の子を父ははるばると訪ねてきてくれたのだと思うと私はまた新しく涙が出てきたが、私は父を慕う心持で胸がいっぱいになった。「お前も来い! 不憫《ふびん》な子よ、お前の三十五年の生涯だって結局闇から闇に彷徨《ほうこう》していたにすぎないんだが、私の年まで活《い》き延びたって、やっぱし同じことで、闇から闇に消えるまでのことだ。妄想未練を棄てて一直線に私のところへ来い。その醜態は何事だ!」父は暗い空の上からこう言った気がして、私はフラフラと昏倒するような気持になった。そこの梅の老木の枝ぶりも、私には誘惑だった。私はコソコソと往きとは反対の盗み足で石段を帰ってきたが、両側の杉や松の枝が後ろから招いてる気がして、頸筋に死の冷めたい手触りを感じた。……

「で、ゆうべあんなことで、ついフラフラとあの松の枝にぶらさがったはいいとして、今朝になってほんとに俺の正体は人間でなくて狐だったなんということだったら、多少痛快だったな……」と、寝床の中で電報を繰返して読みながら、そうした場合のことなどまで空想されて、苦笑を感じないわけには行かなかった。
 弟とFは四時ごろ帰ってきた。
「おやじどうした?」
「いや別にどうもなくて無事で来ましたがね、じつは今度いっさい家の方の始末をつけ、片づける借金は片づけ、世帯道具などもすべてGに遣ってしまって、畑と杉山だけ自分の名義に書き替えて、まったく身体一つになって出てきたんだそうですよ。親戚へもほとんど相談なんかしなかったものらしいですね。行李一つと夜具だけ上野までチッキをつけて、一昨日ほとんどだしぬけに嫂《ねえ》さんところへ行ってすぐ夜汽車で来るつもりだったんでしょうがね、夜汽車は都合がわるいと止められたんで、一昨日の晩は嫂さんところへ泊って、昨日青森まで嫂さんに送られて一時の急行で発ってきたんだそうですがね、私の方の電報はチチアスアサ七ジと間違いなく来てますが、何しろひどく思いきったもんですね」
「まあそうだな。でも思いきって出てきてよかったさ。身体の方はだいぶ弱ってるようか?」
「いや脚が少し不自由なだけで、ほかはなかなか元気のようですよ。朝からさっそく飲んでましたがね、ようやく寝たもんですから……」
「なんにしても思いきって出てきてよかったよ。ああして一人でいたってしようがないんだからね。そうかといって僕らが行って整理をつけるとなると、畑だって山だって難かしいことになるからね、何しろおやじうまくやった、大出来だね」
「まあそうでしょう。春になって雪でも消えたら一度桐でも伐りに行こうなんて、なかなか吹いてますよ」
「それにしてもおやじとしてはずいぶん命がけの決心だったのだろうからね、電報の間違いぐらい偶然でないのかもしれないが、こんな間違いがあるとかえって長生きするもんだというからそうであってくれるといいがね、おふくろなんかの場合のように、鎌倉まで来たはいいやですぐ死なれたのでは困っちまうなあ」
「まさかみんながみんなそんなことも。……どうも兄さんの考え方は」と弟は非難と冷笑の色を見せたが、言葉は続けなかった。
「それでは大急ぎで仕事を片づけて三日中に出て行くからね。……おやじには出てきてくれたんでたいへん安心して悦《よろこ》んでいると言ってくれ」私はこう言って弟だけ帰したが、それでは一昨晩の騒ぎの場合は父は私の妻の実家で酒を飲んでいたんだし、昨晩のあの九時ごろはたぶん盛岡附近を老の独り身を汽車に揺られていたわけであるが――がそれにしてもこのあわただしい出て来方は、何ものかに招かれての急ぎの途中ではないかと思うと、私はまたしても暗い気持に囚われた。

底本:「日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集」集英社
   1969(昭和44)年7月12日初版発行
入力:住吉
校正:小林繁雄
2011年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

葛西善蔵

浮浪—– 葛西善蔵

     一

「また今度も都合で少し遅くなるかも知れないよ。どこかへ行つて書いて来るつもりだから……」と、朝由井ケ浜の小学校へ出て行く伜のFに声をかけたが、「いゝよ」とFは例の簡単な調子で答へた。
 遠い郷里から私につれられて来て建長寺内のS院の陰気な室で二人で暮すことになつてから三月程の間に、斯うした目には度々会はされてゐるので、Fも此頃ではだいぶ慣れて来た様子であつた。私が出先きで苦労にしてゐるほどには気にしてゐない風である。近くの仕出し屋から運んで来るご飯を喰べ、弁当を持つて出かけて、帰つて来ると晩には仕出し屋の二十二になる娘が泊りに来て何かと世話をしてゐて呉れてるのであつた。
 二月一日の午後であつた。鎌倉から汽車に乗り、新橋で下りて、銀座裏のある雑誌社で前の晩徹夜をして書きなぐつた八枚と云ふ粗末な原稿を金に代へ、電車で飯田橋の運送店に勤めてゐる弟を訪ねると丁度退ける時分だつたので、外へ出て早稲田までぶら/\話しながら歩るくことにした。神楽坂で原稿紙やインキを買つた。
「近所の借金がうるさくて仕様が無いので、どこかに行つて書いて来るつもりだ。……大洗の方へでも行かうと思ふ」と、私は弟に云つた。
「うまく書けるといゝですがねえ……」と、斯うした私の計画の度々の失敗を知つてゐる弟は、不安な顔して云つた。
 その晩は弟夫婦の借間の四畳半で弟と遅くまで飲み、その翌日も夕方まで飲んで、六時過ぎ頃の汽車で上野を発つた。水戸へ着いたのは十一時頃であつた。すぐ駅前の宿屋へ飛び込んだ。
 駅前から大洗まで乗合自働車も通つてゐるが、私はやはり那珂川を汽船で下らうと思つた。大洗のK楼と云ふ家に十三年前――丁度Fが郷里で生れた年、半年余り滞在してゐたことがある。やはり無茶な日を送つてゐたものであつた。その家を指して行つて見ようと思つた。川の両岸の竹藪や葦、祝町近くの高い崖、海運橋とか云つた高い長い橋、茶屋と貸座敷ばかし軒を並べた古めかしい感じの祝町を通つて、それから数町の間の松林の中の砂路――それらが懐かしく思はれないでもないのである。が朝一泊の宿料を払つて見ると、私の財布の中が余りに心細く思はれ出した。それに曇つた、今にも雪でも降り出しさうな、寒い厭な天気だつたので、私はまた一時間ばかし汽車に乗つて助川駅に下りた。そして町の方に小さな呉服屋を出してゐる内田を訪ねて行つた。
 場末の、小さな茅葺屋根の家で、店さきの瀬戸物の火鉢を前にして、内田は冴えない顔色してぼんやり往来を眺めてゐた。小さな飾窓には二三反の銘仙物や半襟など飾られ、店には安物の木綿縞やネルなど見すぼらしく積まれてゐた。七八年前彼が兄の家から分家して開店した時分私が一寸訪ねたことがあつたが、その時分と較べてさつぱり品物が殖えたやうにも見えなかつた。
「どうして来たの?」と、彼は私の顔を疑ぐり深い眼して視ながら云つた。
「いや実は……」と私は訪ねて来た事情を話して、「そんな訳だからどこか十日ばかし置いて呉れるやうな宿屋を案内して貰ひたいんだがね……」
「まあそれではあがり給へ」と云つて、次ぎの室の長火鉢の傍へあげた。
 この前会つた細君を離縁して、一昨年小学教師の娘の若い細君を貰つたが、半月程前女の子を産んだと云つて、細君は赤んぼと蒲団に寝てゐた。近所から手伝ひに来てゐる細君の妹だと云ふ十七八の娘が酒の用意をした。内田は飲めない方だが私の相手をして、その間に細君の湯たんぽやおしめの取代へなどにまめ/\しく動いてゐた。内田は私より一つ年上の三十六で、初めて父親になつたのであつた。
 丁度節分の日であつた。三時頃から雪が降り出した。日が暮れてから私たちは小僧が「福は内鬼は外!」と大きな声で叫びながら豆撒きしてるのを聞きながら外へ出た。海岸の宿屋まで十町ばかしの間雪に吹かれながら歩るいた。
 その晩は案内されたS閣と云ふ宿屋で、私たちは、芸者やお酌をよんで飲んだり騒いだりした。「お客さんを五六日……」斯う内田は宿のお内儀に云つた。
 家構へも大きく、室数もかなりあつて、殺風景な庭ながら大きな池もあつた。座りながら障子のガラス越しに青い海が眺められた。が海水浴専門の場所なので私のほかには客は一人もなかつた。女中もゐなかつた。老夫婦と若夫婦と風呂番の爺さんとご飯炊き――それだけであつた。この村での相当の地主だつたが十年程前に自分所有の田を埋めて普請をして今の商売をやり出したのだと云ふ赭ら顔の、頭の禿げた六十近い主人は、頬髯など厳めしく生やして、中風で不自由な足して、日向の庭へ出ては、悪戯好きな若い犬を叱りつけたりなどしてゐた。若主人は養子であつた。それが料理番をした。一人娘の若いお内儀は子の無い三十近い女で、平べつたい赭ら顔のがさつな女であつた。「あなたは、こゝへ斯う云ふ風に頬髯を生やすと、あなたのお父さんそつくりですね」と、私は両手で自分の頬に鐘馗髯を描く手真似をして、余り応柄なのが癪に障つて酔つた時に云つてやつたことがあつた。何事にもつけ/\云ふ彼女も、さすがに怯んだ態であつた。

     

 雪の中なぞ歩るいたせゐか、私はその翌日から風心地で、昼間は寝床の中で過し、夕方近くなつて起きては遅くまで酒を飲んだ。雪がかなり積つてゐた。ひとりで波の音を聞きながら酒を飲んでゐると、Fのことがしきりに思ひ出されて来る。鎌倉の方でも降つたゞらうが、寺から学校までは十五町程もあるので、今朝は困つたゞらうと云ふやうなことが考へられる。昨年の暮に死んだ従兄のことが考へ出されてならない。……
 その従兄のことを、私は前にある雑誌へ発表した未完原稿の続きとして書くつもりであつた。がその原稿では私はかなり手古摺つてゐた。書く気分はまつたく無くなつてゐるのだが、投つて了ふ訳に行かない事情もあつた。それで、今度はどんなことをしても、二十枚でも三十枚でも書いて帰らねばならないと思つた。その原稿が書けない為めに、此頃の私の気持がかなり不自由なものにされてゐた。その原稿では多く知人の悪口めいたことばかし書き立てたので、そんなことが祟つて、それで斯う書けないのではないか知らと、私は呪はれてゐるやうな気さへしたのだ。
 三日目の晩私はいよ/\思ひ切つて晩酌をやめて、二時過ぎまで机に向つて六七枚書いた。その朝、朝昼兼帯のお膳を持つて来たお内儀が、私が箸を置くのを待つて、
「今日は旧の大晦日だもんですから、払ひの都合もあるもんですから、ご勘定を頂きたいと申して居るんですが……」と云ひ出した。
「さうですか。それは困りましたね。実は私は金は持つてないんですがね、それで内田君に頼んでつれて来て貰つたやうな訳なんですが……」
「いや、それはね、内田さんがつれて来て下すつたお客さんのことですから、内田さんから頂戴すれば手前の方では差支えない訳なんですけどね、ご都合でどうかと思ひましたものですからね、それに内田さんとは顔は知つてると云ふだけで大して懇意と云ふ訳でもありませんし、あの人の停車場前の兄さんの店からは近いのでちよい/\した買物位ゐはしてるんですが、あの内田さんの方とはそんなこともないんですからね……」とお内儀は厭な顔して云つて、内田のこともひどく見縊つた様子を見せた。
「いや決して御迷惑をかけるやうなことはありませんから。少し急ぎの仕事があつて来たのですが、この通りあと五六日で書きあがるのですから……」と、私は茶湯台の上の原稿を見せて弁解するやうに云つた。
「一体内田さんとはどんなお知合なんですか……お友達でゝも?」と、お内儀は二人の職業や風体の相違から二人の関係を不審に考へてる風でもあつた。
「え、旧い友人なんですよ」と、私は云ふほかなかつた。
「あの人、兄さんや親御さんたちともちつとも似てゐませんね」
「さうですか。僕親御さんたちのことはよく知らないが、兄さんとは似てゐないやうだけど、親御さんたちともさうですか」
「えゝ親御さんたちもあんな顔はしてゐませんよ」お内儀は斯んなやうなことまで云つてお膳をさげて出て行つた。
 内田の人相のことなど余計な話ぢやないかと、私は鳥渡した反感を抱かされたが、兎に角内田も余り信用されてなさゝうなのが心細く思はれた。が今の自分の話でお内儀は納得したことゝ思つて机に向つてゐると、夕方内田は気忙しさうな様子でやつて来て、
「こんな手紙が来たよ」と、宿からの手紙を懐ろから出した。
「さうか。やつぱし何とかやかましいことを云つてるのか」と、私は手紙を読んで見たが、成程なか/\鹿爪らしい文句を並べ立てゝゐた。毎晩遅くまで酒を飲み、日中もおやすみになり――云々と云つたやうな文句も見えた。
「この通りやう/\書き始めたところなんだから、もう五六日のところ君から話して呉れよ」
「何枚位ゐ出来たんだ?」
「いや昨晩から書き出したんでまだ六七枚しか書いてないが、これからずん/\書けるんだから」
「ぢや兎に角帳場へ行つて話して来よう」
 それで、五六日延期と云ふことになり、其後二晩ばかし徹夜などして十五六枚まで書き続けたところ、パツタリと筆が進まなくなつた。晩酌をやめたり徹夜なんかの習慣がほとんどなかつたのに、二晩も続けた為めに頭も身体の調子もすつかり狂はして了つた。一二日ぼんやり机の上を眺めてゐたが厭になつて原稿を破ぶいて了つた。その晩私は自棄気味で酒を飲んでゐると内田がやつて来た。
「気に入らなくて破ぶいたが二三日にも二三十枚でも書きあげるつもりだから心配するなよ。どうせ金が足りなければ僕の小さな本の版権でも売つて払ひをするから。何しろこの原稿では実に厭になつてるんで、金の問題でなくどうしても今度は片附けて帰りたいと思つてるんだから……」
「いや実は今帳場へも寄つて来たんだがね、何しろ七十円からになつてるさうだからね、それに君は遅くまで酒を飲んでは芸者々々なんて云ふてんで、ひどく厭がつてるやうだから、兎に角ひと勘定して貰ひたいと云ふんだがね……」
「そいつは困つたね。兎に角君からもう一度話して呉れよ。何だつたら明日東京の本屋へ手紙を出して交渉してもいゝから」
 二人で帳場へ行つて話をすることにしたが、何しろ私はひどく酔つてゐたので、却つてまずい印象を与へることになつたらしい。がその晩の事は私にはよく分らなかつた。それで其翌朝はいつになく早起きして、机に向ふ気になつた。
「ゆうべはすつかり酔払つて了つてよく分らなかつたが、内田君何とか云つてゐましたか?」と、私はお膳を持つて来たお内儀に訊いた。
「え、今日お見えになる筈です。今に見えませう」と、お内儀も何気ない顔して云つた。
 晴れたいゝ天気であつた。海が青く輝いてゐた。床の間の大花瓶の梅が二三輪綻びかけたのも風情ありげに見えた。猟銃の音など聞えた。斯んな気持なら書けるぞ! と云ふ気がされた。あの不幸な従兄が最後まで人をも世をも怨まず、与へられた一日々々の生を感謝するやうな気持で活きてゐた静かな謙遜な心境が同感出来るやうな思ひが、私の胸にも動きかけてるのを感じた。「これでいゝのだ。斯う云ふ気持で素直に書いて行けばいゝのだ」斯う思つて私はまた新らしく原稿紙に題を書きつけた。この小説で私は従兄の霊に懺悔したいことがあるのだが、世間的な羞恥心から私はいつも躊躇を感じてゐる。それで彼の霊魂から責められてる気がする。霊魂を欺くことは出来ない。霊魂を否定したところが、自分の良心の苦痛は去らない。私がこの小説を書き続けられないのは単に技巧などで困つて居るせゐではなく、さうした根本的な欠陥、自責の念から書き渋つて了ふのらしい。やつぱし素直な謙遜な気持にならなければいけないと思つた。さう思ふと気分が軽くなつて、筆を持つ勇気が出て来た。斯うして雑念を去つて机に向つてゐられると云ふことだけでもたいへんな幸福なことではないか、さう思つて二三枚書き続けて行つた。
 が午後内田がやつて来て、帳場で相談でもして来たか険しい顔して座るなり、
「今度はたゞでは延ばすまいから君の持つてるものを質入れして幾らかでも入れることにするから、君の持つてるものを出せ」と云ひ出した。
「そんな馬鹿なこと出来やしないよ。後幾日のことでもなし、そんな訳なら東京へ手紙を出して金を拵へることにする……そんなこと出来るもんか」と、私もムツとして云つた。
「そんなら俺の方でも引受けられないよ。何が馬鹿なことなんだ。金が無くて払へなければ、さうするのが当然ぢやないか」
「そりやさうかも知れないが、しかし二三日中にも片附けられるんだから、そんなことまでせんだつていゝ」
「だつて宿で待たないと云つてるから仕方がないぢやないか」
「だからそこを君からもう一度話して呉れたらいゝぢやないか」
「俺としてもたゞでは話が出来ないぢやないか。幾らか内金でも入れて、それで後二三日待つて呉れとでも云はなければ、宿でだつて聞き入れやしないよ。だから出せ……」
「厭だよ……」
「わからないなあ君も。兎に角宿では君のやうなお客さんはご免だと云つてるんだから、金を入れると云つたつて今度は何と云ふか知れやしないんだぜ。だから兎に角品物を出せ」
「仕様が無いなあ。ぢや兎に角さう云ふことにして呉れ」と云つて、私は外套と羽織と時計の三品を出した。
「外套は暮に百円で拵へたばかしなんだぜ」
「だつて質屋へ持込むとなると幾らも貸しやしないよ。この銘仙の羽織なんか幾らになるもんか。時計は幾ら位ゐしたものなんだ?」
「買ふとなると二十五円もするが」と私はすつかり愛想の尽きた投げ出した調子になつて云つた。
 彼がその包みを持つて帳場へ下りて行つた後私は一人で煙草を自棄に吸ひながら、先刻の幸福な気分のすぐ後だつたゞけに、自分に対して皮肉な気持を感じない訳に行かなかつた。が何しろ相手は細かしい商人なんだからと思ひ返した。お内儀が気にした人相のことなど考へられた。突出た狭い額、出歯の醜い歯並、尖つた頤、冴えない顔色、一重瞼の吊りあがつた因業さうな眼付――が兎に角自分が頼りにして来たのがいけなかつたのだ。帳場へ行つてどんな風に話をしてゐるのかと疑はれる気もしたが、やつぱし帰つて来ると、
「帳場では幾らか内金を入れても君のやうなお客はご免だと云ふから、兎に角君はこれから東京へ帰つて金を拵へて来るか、金を送るかどつちかにしたらいゝだらう」と卒気なく云ひ放つた。
「そんなこと出来やしないよ。こんなことで東京へ帰られやしないぢやないか。だから斯んなことにして呉れないか。どうしてもこゝで厭だと云ふんだつたら、僕は他の旅館へ行つて二三日滞在して金を拵へることにするから、その間の費用として十五円ばかし心配して呉れないか。外套を質に置くか、それでなかつたら町の方の安い宿屋へ二三日のところ話して呉れないか」と私は懇願的に出た。
「真平ご免だ」と、彼は勝誇つた調子で云つた。
「ご免だと云つて、それならば僕の方でも金は拵へて払ふから品物を渡すのはご免だよ」
「それならば俺の方でもこゝの保証はご免蒙るよ」
「それは勝手だ。僕の方では警察にでも立合つて貰ふから。その方がまだ気持がいゝよ」
 お内儀も這入つて来て二人の問答の間に口を入れたりしたが、やつぱし内田の方から断らせるやうに宿へ話し込んだものに違ひないことが明瞭になつて来た。彼としてはこゝで突放すのが一番有利だと思へるのも尤もでもある。それで話が難かしさうになると、彼はさつさと室を出て行つた。無理解と云ふ以外に私のやうな職業に対する反感も手伝つてゐるやうに見えた。
「私の方では内田さんと話がついたのですから、兎に角出て頂きます」お内儀は斯う云つて内田が残して行つたと云ふ羽織だけ持つて来た。
「内田さんだから羽織だけでも置いて行つたんで、警察の立合となると何一つだつて残しやしませんよ」
「しかしその方がまだ気持がよかつた。それであの品物は内田君が持つて行つたんですね?」
「え持つて行きましたよ」
「さうですか。それでは兎に角内田の兄さんとこへでも行つて話して見よう。何しろ馬鹿々々しい話だ」
「さうですねえ、兄さんにはまた兄さんだけの考へもありませうから」と、お内儀も幾らか同情したやうな調子で云つた。

     三

 兄さんの家は停車場近くであつた。その辺は鉱山と同時に新らしく開けた、長家風の粗末な建物がごちや/\軒を並べたやうな町であつた。店さきに座つてゐた四十一二の兄さんは「まあおあがり……」斯う云つて私を奥へ案内しかけたが、先刻と同じやうに険悪な顔した内田が奥から出て来て、私を外へ引張り出した。
「何しに来たんだ?」
「兄さんへでも相談して見ようと思つて来たさ」
「兄さんなんか相手にするもんか。それよりも東京へ帰つたらいゝだらう」
「帰られはしないよ。それに汽車賃だつてありやしないさ」
「汽車賃位ゐなら貸してやらう」
「ご免だ」
「そんなら勝手にするさ。しかしこれ以上はどんなこと云つて来たつて俺の方では相手にしないからね、そのつもりでゐ給へ。営業妨害だよ。君なんかの相手になつてゐられるもんか」彼は斯う云ひ棄てゝ歩るいて行つた。
 何と云ふ可笑しな男だらう、しかし自分なんかの生活では有勝ちのことなんだが、あの男にとつては非常に真剣な一大事なのかも知れないと思ふと、彼の後姿を見送つて、私には苦笑以上に憤慨の気も起らなかつた。そして店さきに引返して土間の腰掛に腰をかけながら、兄さんに今度の事情を話した。
「そんな訳なもんですから、これから手紙を出して金を取寄せる間、二三日のところどうかしたいと思ふんですけど、それで内田君が持つて来た品物を質入れした内から十五円ばかり借りたいと思ふんですけど、何しろ内田君はひどく激昂してゐるんで、それであなたから何とか内田君に話して貰ひたいと思ふんですが……」内田も多分品物は宿屋に渡してあることゝ思はれたが、此際斯う云ひ出すほかなかつた。
「あれは何しろあの通りいつこくな奴でして、商売上のことでは私の方でも干渉もするし、また干渉もせずにゐられませんが、その他のことでは、一切干渉しないことにしてゐるんで、こつちで親切で云ふことでもすぐ反抗して来ると云つたやうな訳ですから、私が行つて見ても何と云ふか知れませんがね、それでは私は今すぐ後から出かけますから、あなたひと足さきに行つてゝ呉れませんか。一寸しかけた用事を片附けてすぐ後から参ゐりますから……」
 斯う云はれて私はまたひとりで内田の店まで十町近くのところを歩るいて行つた。店さきには鉱山の印半纏の上に筒袖の外套を着て靴を穿いた坑夫の小頭とでも云つた男が立ちながら、襦袢の袖を出さして見てゐた。縮緬と絹との一対づゝであつた。
「幾らに負かるんかね?」
「お値段のところはどうも。まつたくお取次ぎ値段でして、昨年の高い時分には十二三円からした品物なんですから、七円と云ふのはまつたくもうお取次ぎの値段を申しあげたんで、他所を聞いてご覧になつて高いやうなことがありましたらいつでもお返しになつて差支えありませんから、まつたくどうもお値段のところは……さうですね、それではほんのお愛嬌に十銭だけお引きしませう」
「十銭と云ふと、やつぱし七円だな」
「へえ、まつたくどうもお値段のところは……随分お安く申しあげてあるんで」
 斯んな調子で、彼は算盤を弾いて見たりして三十分程も相手をして骨を折つたが、結局「それではまた後で……」と云ふことで男は出て行つた。傍で見てゐた私も気の毒な気がした。この二対しかない絹物の袖の売れる機会は、斯うした店では稀なことに違ひなかつた。私が来合せた為め売れなかつたのだと、この男のことだから思ひ兼ねないものでもないと云ふ気もされた。彼は不機嫌さうに起つて後ろの棚へ品物を蔵つて、
「何しに来た?」と、一層険しい顔して云つた。
「すぐ後から兄さんも来る筈だから」
「兄さんが来たつて誰が来たつて、俺の方では一切この交渉はご免を蒙る。営業妨害だよ。この忙がしい身体を君のことなんかに構つてゐられないよ。兎に角早速東京へ帰るなり別の宿屋へ行くなりそれは勝手だが、すぐ金を拵へて来て貰はないと俺が迷惑する。君のやうな非常識な人間相手は真平ご免だ」剣もほろろの態度で、斯う云つてぷいと奥へ引込んで了つた。
 私は店さきに座つてもゐられないし、また最早彼と交渉する気力も興味の余地も無い気がして、また兄さんの方へ引返して来た。内田とは十五年程前、私が大学病院で痔の手術を受けた時、彼は陰嚢水腫の手術を受けに出て来て、その時からの知合であつた。二月上旬の霙の降つた寒い日であつた。一番目が兵隊あがりのやはり痔の患者、二番目が彼で、やがてまだ死人のやうに睡つてゐる彼が手押車で廊下から患者の控室に運び込まれたが、時々不気味な呻り声を出して出歯の口を開けた蒼醒めた顔は、かなり醜い印象を私に与へたものであつた。その時附添つて来たのが兄さんであつた。それから六十日程の間私達は隔日に顔を合はして、お互ひに訪問し合つたりするほど懇意になつた。そして病院の裏の桜の咲き初めた時分、ほんの二三日の違ひで病院から解放されることになり、若かつた私達は互ひに懐しい気持で別れることになつた。それから不思議にも二三年置き位ゐに私達は会つてゐた。私が帰郷の途中彼のところへ寄つたり、彼が上京の度に下宿に訪ねて来たりした。四五年前であつた。彼は慢性の花柳病治療の為め上京して、私が案内して神田の方の某専門大家を訪ねて診察を受けたところ、彼の予算とは何層倍の費用がかゝりさうなのに嚇かされて、彼は治療を断念した。そして、彼が持つて来た金で二人で神楽坂の待合で遊んだ。その割前を厳しく彼から請求されたが、私はその時分家を持つてゐたのだつたけれどひどい困窮の場合で、その工面がつかなかつた。その結果二人はやはり今度のやうな罵り合ひの状態で物別れになり、私の方では絶交のつもりであつた。ところが昨年の夏、団体で横須賀へ軍艦の進水式を見に来た序でだと云つて、十四五人の同勢と突然に訪ねて来た。ビールなぞ飲んで一時間ばかり休んで行つた。それから二度東京へ出た序でだと云つて訪ねて来て、半日位ゐ遊んで行つた。
「それではやつぱし、鎌倉へ来たのもたゞ遊びに来たのではなく、割前の貸しを請求するつもりで来たのだが、さすがに云ひ出せなくて帰つたのかも知れないな」と、私は思ひ当る気がした。
 私はまた兄さんと店さきで話した。
「何しろ非常に激昂してゐて駄目なんですがね。あなたに行つていたゞいても駄目だらうと思ひますよ。それで、先刻も話したやうな訳で今度はどうしても書かずには帰れないやうな事情になつて居るので、東京の本屋に版権でも売つて金を取寄せることにしますから、二三日滞在するだけの金を――十五円ばかし貸していたゞけないでせうか。値ひは無いんですけど羽織と袴をお預けすることにしますから……」私は内田の方は諦めて、今度は兄さんに頼んで見た。
「それでは兎に角どう云ふ事情になつて居るのかあれにも訊いて見ませう。何しろ見かけのやうでなく商人なんてものは内が苦しいもんですから……」兄さんは斯う熱のない調子で云つて出て行つた。
 二時間ばかしも寒い店さきに腰をかけて待つてゐた。旧暦の年始客が手拭買ひに寄つたり、近所の内儀さんが子供の木綿縞を半反買ひに来たりして、十六七の小僧が相手になつてゐた。
「遅くなりまして。途中で年始客の酔払ひにつかまつたものですから、……どうも失礼しました」兄さんは幾らか赤い顔して帰つて来たが、
「いや、あれも別段激昂してると云ふ訳でもないやうですが、さうした方が、あなたの為めにもいゝと云ふんでして。……やはり一応お帰りになつて金策なさつた方がいゝでせう」
「さうでしたか。どうもご苦労さまでした」と、私も予期してゐたことながら当惑して、
「どうも仕方がありませんね。それで、帰るとしてももう時間が遅いし、どこか他の宿屋へ行つて事情を話して返事の来る間置いて貰ひたいと思ふんですが、それで誠に申し兼ねますが袴をお預けしますから五円だけ貸していたゞけますまいか」と、今度は五円と云ひ出した。
「いや、袴はいゝですから……」と云つて、帳場机の上の銭箱から出して、私の前に置いた。
 私はそれを懐ろに入れると、逃げるやうにしてそこを出た。乗客以外にも通行出来るやうになつてゐる駅の架橋を渡つて行くと、中程の改札口のところに外套を着た鳥打帽の人相の好くない男が二人も立つてゐて、私の風体をじろ/\睨むやうに視た。この四五日前にもまた鉱山で三百人からの坑夫を解傭したので、万一を警戒してゐる刑事だなと、私にもすぐ感じられた。停車場前の駄菓子や蜜柑など並べた屋台店の火鉢に婆さんと話してゐる印半纏の男、その前で自転車を乗り廻してゐる同じ風体の男に、
「G館はどつちでしたかね?」と訊くと、
「G館?……」と、二人の男はほとんど同時に斯う云つて、私の顔に近寄つて来さうな風を見せたので、私もハツと気がついてさつさと通り過ぎた。
 十年ばかし前に一泊したことのあるG館へと暗い海岸の砂路を歩るいて行くと、すぐそこに近年新らしく普請された鉱山の御用旅館の広い玄関が眼に入つたので、却つて大きな家の方が話が解るだらうと思ひ直して、そこへ這入つて行つた。

     

「僕はS閣に滞在してゐたんだが、少し間違ひが出来て持物を取られてやつて来た訳なんだがね、決して怪しい者ではないから、東京へ手紙を出して返事の来る間二三日置いて貰ひたいと思ふんだが、どうだらう、一寸番頭さんに来て貰ひたいんだが?……」
 お膳が出て、酒を一二本ばかし飲んだところで、京都弁の若い女中に斯う云つて頼んだ。主人も奉公人もすべて京都から来てるのださうで、出て来た若い番頭も京都弁で、
「いや実は私はまだ来たばかしのものでござんして、斯う云ふことにはよう慣れませんもんやで、ほかの者をよこしますよつて……」番頭は私の話を聞いたが、斯んなやうなことを云つてはこそ/\出て行つた。
「いや、君のところが一番こゝでは大きい家と見込んでやつて来た訳なんだがなあ」と私は後姿を見送りながら云つたが、最早望みがないと思つた。
 今度は印半纏の客引の男が来たが、
「それでは今夜一晩だけお宿をしますから、明日はお宿替へを願ひたいと云ふことで、主人の方ではさう申して居りますので……」私が幾度も同じやうなことを云つて頼んだが、先方でもやはり斯ういつまでも同じことを繰返した。
「どうもそれでは仕方がないな」と、私も云ふほかなかつた。
 一寸綺麗な女中で、それでも感心に遅くまで耳に柔かい京都弁で相手をしてお酌をした。兎に角明日は東京の本屋へ電話をかける決心をして、酒の力で睡つた。
 九時頃寝床の中で電話帳を見て、女中にかけさせた。それから朝昼兼帯の遅い朝飯を喰べて、電話の通じるのを待つ間起きてるのに堪へない気持から、また床の中にもぐり込んで女中に借りた講談の雑誌など読んでゐたが、なか/\電話が通じなかつた、幾度も局へ催促させたが、最初からほんとに申込んであつたのか、係り合ふのを厭がつて申込まなかつたのか、たうとう電気のつくまで通じなかつた。もう一晩と頼んで見たが聴き入れさうな様子も無いので、私は日暮れ方そこの電燈の明るい玄関から外へ出た。例の新開町を寒い風に吹かれて、途中の汚ない物置めいた建物の劇場の曾我廼家五十九郎丈へとか曾我廼家ちやうちんへとかの幟など佗しい気持に眺めながら、通りがゝりに見知つてゐた内田の家の近所の商人宿を指して行つた。ほんの電報を打つたりする位ゐの金しか残つてゐなかつた。
 翌日は二月の十五日で、私が鎌倉を出てから丁度十五日経つてゐた。九時頃に起きて早速東京の弟のところへ二十円電報為替で送るやうに書いた電報を女中に頼んだが、すると早速また女中がお勘定をと云つてやつて来た。酒を三合飲んで三円五銭と云ふ勘定であつた。
「海岸の方の宿にゐたんだが、予算を狂はして金が無いんだけれど、明日までには屹度来るんだからもう一晩置いて呉れつて帳場へ話して呉れ」
 斯う云つてやると四十越した働き者らしい、しかし正直さうなお内儀が出て来て、やはりお宿替へを請求したが、私は羽織と袴を渡してもう一晩の猶予を乞ふた。
「私は毎晩酒を飲まないと睡れないものだから、やはり酒は三合宛つけて下さい」私は斯う附け足したが、それも承知して呉れた。
 私は三合のおつもりの酒を手酌で飲みながら、今晩店から弟が帰つて電報を見て明日は屹度何とか云つて来るだらうと、ホツと一息ついた気持で、割箸に挟まつた都々逸の辻占を読んで見たりしたが、それは、私は籠の鳥と諦めては居るが時節待てとは気が永い――と云つたやうなものだつたので、これは少し辻占が好くないと思つた。
 日当りのいゝ、わりに小綺麗な気持のいゝ六畳の室であつた。斯うしてる間に十枚でも十五枚でも兎に角に書きあげてしまひたいと思つて、私は朝から原稿紙をひろげて返事の来る間やつて見たが、やはり五六枚書くと後が続かなかつた。午後の三時頃まで待つたが返事がないので、またお内儀がやつて来た。
「もう一晩だけ! 屹度返事が来る筈になつてるんですから……」
 私は袷も脱ぎ、綿入一枚へ宿の褞袍を着て、質入れを頼むと十円借りて来た。それで今明晩の宿料を払つた。そしてまた電報を打つた。晩酌の時の辻占は、花の方に誠があればいつか鳥だつて来て啼くだらうと云つた意味のやはり心細いものであつた。
 三日目は朝から曇つた寒い日であつた。いよ/\明朝こそは否応なしに出なければならないのだ。午後の三時頃まで待つたがやはり何の信りもなかつた。今日のうちに警察の保護を願つて電話をかけて貰はうかとも思つたが、その前にもう一度内田に頼んで見ようと思つて、これが最後の財産の万年筆を懐ろにして出かけて行つた。警察署は宿から五六軒離れてゐた。そこの、これも鉱山の寄附だと云ふ銅で出来た門や柵を眺めながら、内田との結果で今にもそこをくぐらねばならぬことを考へて、綿入れ一枚の自分の姿がさすがに惨めに顧られた。
「まだ居たのか?……たうとう君は兄さんに借りたさうだね。どこまで押しが太いんだか、おつ魂消た話だよ」と彼は例の調子で、店さきで私の風体をじろ/\視ながら、冷笑を浮べて云つた。
「なあに大したことぢやないさ。普通のことだよ」と、私も相手を冷笑の気持で云つた。
「君等には普通のことか知れないが、吾々の眼から見てはまるで無茶だね。そんな非常識な人間の相手は出来ないよ。なぜ東京へ帰らないんだ。愚図々々してゐてはもつとひどいことになるんだと云ふことがわからないのかねえ……」
「わからないね。それに斯んな態で東京へも帰られはしないよ」
「今どこに居るんだ?」
「M屋に居る。……それで」と云つて、私は今電報を待つてる事情を述べ、万年筆を提供するから五円貨して呉れと云つた。
「今夜にも屹度来るんだよ。金の来る来ないが別としても、返事だけは屹度来る筈なんだからな。何しろ手紙を出してる間が無かつたんで、電報でばかし居所を云つてやつてあるんで、そんなことで行違ひが出来てるのかも知れないが、しかし屹度今夜にも来ると思ふから……」
「M屋の勘定が幾ら位ゐになつてゐるんだ?」
「十円ばかし……」
「それではその十円と汽車賃だけあると東京へ帰れるんだね?」
「まあまあさうだな」
「それでは万年筆をよこせ。あとはM屋の方は俺が引受けるから、すぐ東京へ帰るんだ。S閣の方を早く片附けて貰はないと俺が迷惑するからな」
「そりや帰るには帰るけれど、今まで待つたんだからな、明日まで待つて見る。宿料も明日までは払つてあるんだから」
「いや今日すぐこれから発つんでなくつちやご免だよ」
「ぢや仕方が無い、発つてもいゝ」
「それでは今すぐ後から行くから君はさきに帰つてゐ給へ」
 斯う云はれて私は宿に帰つてゐると、彼は間もなくやつて来たが、また二言三言云ひ合つてるうちに、私でさへ来るか来ないか疑つてゐる為替の受取の委任状を書けとか、何日までにS閣の払ひの金を送らないと品物を勝手に処分してもいゝと云ふ証書を書けとか、面倒臭いことを云ひ出したので、癪に障る気もなくつい「そんな厭なことばかし云ふんだつたら、いゝから帰つて呉れ。万年筆を置いて帰つて呉れ」と云ひ出した。
「なあんだ、人の忙しいところを引張り出して来やがつて。帰るとも。しかし後でどんなことになつたつて俺はもう知らんぞ」
「あゝいゝとも。帰つて呉れ」と、私も今度は幾らか痛快だつた気がして、云ひ放つた。
 夕方から霙混りの雨になつた。晩酌の時の辻占は「逢ふての帰りか逢はずの行きか、寒い月夜のかとう節」と云つたものであつた。考へて見たが今度は判断がつかなくなつた。いよ/\明日は警察の厄介になるか、万年筆眼鏡兵古帯古帽子など屑屋に売払つて木賃宿へ行き改めて手紙を出すか、その二つの手段ほかないと思つた。それにしても弟から何の信りもないと云ふことが不審であつた。内田も居ることだし、いかに何でもまさか斯んな目に会つてることゝは思ふまいから、それで放つてあるのか、それとも勤め先きの用事で留守にでもして細君が途方に暮れてゐるのか、さうでもなければ何とか信りがある筈なのだが、やはりもつと底まで落込めとの神の戒めかとも思はれた。警官との応待、留置場で慄えてゐる姿、木賃宿で煎餅蒲団にくるまつてゐる光景など想像された。それも、そんな世界も死んだ従兄も一度は通つたのだと思ふと、満更親しみのない場所ではない気がされて、従兄のことが新らしく思ひ出されたりした。それにしても生憎の雨のことが気になり出した。雪にでもなつてゐたら敵はないと思ひながら寝床に就いたが、翌朝起きて見ると空はカラリと霽れあがつて、日が暖かく窓に射してゐたので、私は兎に角今日の天候に感謝した。そして遅い朝飯を喰べて、午後の二時頃までと決心を極めて、机の上の原稿紙を風呂敷につゝみ、静座をして心を落付けてゐた。
 が一時近い頃であつた、女中が廊下を駈けて来て、「来ましたよ!」と云つて電報為替の封筒を持つて這入つて来た。来たのが不思議だと云つた顔して私の顔を視た。
「幾ら来たの?」と、女中は田舎者の馴れ/\しさで云つた。
「二十円と云つてやつたんぢやないか」と、私も嬉しさを隠して当然のことのやうに云つた。
 早速質受けを頼んだ。あとに十円残る勘定である。昨日内田に断つてよかつたと思つた。私はこの金を宿に渡して、東京の本屋と交渉を始めようかとも思つて見た。この宿の人達は私の気に入つてゐた。私はやはりこの宿で原稿を書きあげて帰らうかとも思つた。このまゝ空手で帰るのが如何にも残念に思はれ、またこゝを出てどこに落付けると云ふ当もない気がした。が一方またこれ以上こゝに踏み止まると云ふことは、少し駄々張り過ぎるやうな気もされた。
「どうしたものでせう、僕その金を渡して置いて、その間に別なところから金を取寄せて仕事を片附けて帰りたい気もするんですがねえ?」と、お内儀に相談的に云つて見た。
「さうですねえ、しかし何でせう、斯う云ふことの後ですからねえ、却つてお気持よくお発ちになつた方がいゝでせうが」と、お内儀も穏かな調子で云つた。
「さうですね。ではやつぱし発つことにしませう」
 私も斯う云つて、気持よくそのM屋を出た。

     

 一時幾らの汽車で助川を発つたのであつたが、ふと思ひついて、かなり躊躇されたのであつたが、途中のA駅で下りた。そこには私には未見の人ではあるがS氏と云ふ有名な作家が別荘生活をしてゐる。私はその人を訪ねて、事情を話してどこか宿屋を紹介して貰はうと思つたのだ。余りに残念でもあり、弟夫婦に会はせる顔もない気がされるのだ。停車場前に俥がゐないので、私は道を訊ねて歩るいて行つた。五時近くで寒い風が吹いてゐた。寂れた感じの町であつた。四五町も行つて、教へられた火の見櫓の下から右に細い路を曲つて畠へ出て、ぬかるみの路を二三町来てまた右に岐れて沼の方へとだら/\と下りて行つたが、すぐそこの百姓家の上の方にペンキ塗の小さな建物があるので、多分それだらうと思つて垣根の廻りを一廻りしたが、門らしいものがなく、人の住んでるらしい気配もないので、また畠の中の路に出て、それから小学校の建物にぶつかつたり、やう/\一人の百姓に会つて、あれがさうだと茅葺屋根の家を教へられて麦畑の中を行つて見ると違つた人の名札であり、それから諦めて引返しかけると、他所行きの身装をした百姓の内儀さんらしい女に会つて、東京の人の別荘ならもつと先だと教へられ、今度こそはと松林の中など通つて行つて見ると、新らしい建物の玄関が締つてゐて門内には下駄の跡もないので、それでは東京へ引揚げてゐるのだらうと引返しかけたが念の為めに門前の百姓家に声をかけて訊いて見ると、さつきの茅葺屋根の家の前の小径を下りて沼の畔に出るのだと教へられた。
「Sさんは此頃お見えになつてるやうですか?」と、私はその爺さんに訊いた。
「二三日前にお見かけしましたが、多分居りますでせう」
 もうすつかり暮色が立こめてゐた。私はまた引返して麦畑の中を通つてさつきの茅葺屋根の家の前の小径を下りて行つたが、かなりの大きさらしい沼を前にして、一軒の百姓家に並んでS氏の質素な建物の別荘があつた。斯うしてやう/\のことで尋ね当てたが、勇気が挫けて、しばらく玄関の外に立つてゐたが、思ひ切つて声をかけた。すると年増の女中らしい人が出て来て、
「東京へ行つてゝお留守ですが、明日は帰る筈です」と云つた。
「さうですか。では失礼しました。……私はKと云ふ者ですが」
「Kさん……?」
「さうです。実は初めてあがつた者ですが、……失礼しました」
 私は斯う云つて、名刺も置かず逃げるやうにあわてゝ引返して、ホツと太息を吐いた。留守でよかつたと思つた。斯うした行動が耻ぢられた。が思ひ立つたことは兎に角一度はぶつかつて見なければ気の済まない、抑制を知らない自分の性質を知つてゐる私は、これも仕方がない、これで遺憾なく失敗して東京へ帰れるのだと思ふと、心が慰められる気がした。そして駈けるやうに暗いぬかるみの路を急いだが、やつぱし最初に見たペンキ塗りの家の方へ出て来た。ぐる/\と円を描くやうにして、狐につまゝれた人間のやうにそこら中を歩るいてゐた訳である。
 弟のところに着いたのは九時過ぎであつた。彼は遅く帰つて来て今ご飯を済ましたばかりだと云つて、疲れた顔をしてゐた。
「いや、とんだ目に会つて来た」と、私は無頓着な調子で云つたが、心から弟夫婦に申訳ない気がした。
 最初の電報は何枚かの附箋がついて夜遅く配達になつてゐた。弟はその翌日の昼頃電報為替を出したので、無論遅くもその日の中には配達になるものと思つて、別に私の方へは電報も打たなかつたのであつた。それがその翌日の昼頃私の手に入つたのであつた。
「何しろ失敗だつた」と、私達はそれから酒を飲み出したが、私は斯う繰返すほかなかつた。
「こつちではまさかそんなことになつてることゝは思はないし、多分どこかへ飲みにでも行つて、その金まで内田さんに立替へて貰ふ訳に行かなくて電報でも打つたんだらう位ゐに思つてゐたので、大したことに考へてゐなかつたのですよ。それに、やつぱし内田さんにしてもまるつきり商売が違ふんだから、それだけの理解もつかない訳で、どん/\勘定が登つてはと心配し出したのも無理もないでせうよ」
「いや何しろ大失敗だつた。やつぱし鎌倉を出て来ない方がよかつたかな。それが、今度こそは屹度書けると思つたものだからな、実際金の問題ばかしでなく、あの原稿が気になつて仕様がないもんだからね、ほんとに癪に障るから明日にでも本屋に交渉して金が出来たら、またどこかへ出かけようとも思つてゐる」
「もう止した方がいゝでせうよ。金が出来たらばやつぱしお寺へ帰る方がいゝと思ふがなあ、Fちやんもどんなに心配してるか」
「ほんとにねえ、Fちやんが気の毒ですわ」と、気の弱い細君は眼をうるませて云つた。
「Fには会ひたい。もう小遣ひも無くなつてるだらう」と、私にもFのことばかしは気がゝりであつた。

     

 二三日経つて、私は鎌倉八幡前の宿屋から使ひをやつて、Fを呼んだ。仕出し屋の娘も一緒に来たので三人で晩飯を喰べた。日が暮れるとFだけさきに帰つて行つた。「お前も一緒に帰つて呉れよ」と云つたが娘は聴かなかつた。
「Fさんあなたそれではさきに帰つてゝ下さいね。わたしどうしてもお父さんを伴れて帰りますからね。それでないとわたしうちへ帰つて叱られるんですもの」娘はFを送り出しながら斯う云つた。
「そんなこと云つたつて駄目だよ。金どころかこの通り外套も時計も取られて来た始末で、兎に角もう一度方面を変へて出かけて来る。そして今度こそは屹度一週間位ゐで書きあげて金を持つて帰つて来るから、うちへ帰つてさう云つて呉れ」
「困るわ、そんなことでは。うちではたいへん怒つてるんだから。Fさん一人置いといてもう二十日にもなるのに何のたよりも無いつて、今日もポン/\怒つてゐたところなんだから、どうしてもあなたに来ていたゞいて極りをつけて貰ひたいと云つてよこしたんですから、わたし一人では帰らりやしないわ」と娘は泣き出しさうな顔して云つた。
「だからさ、頼む。金が無いんだからね、寺へ帰つたつてまた毎日のやうに怒つて来られたんでは仕事は出来ないし、結局また飛び出さなければならないことになるだらう。さうなると益々困るばかしだ。お前のとこだつてそれだけ迷惑が大きくなる訳だからね。それにどうしてもこの原稿だけは今度片附けて了ひたい。これさへ片附けると、どんな方法でも講じて金を拵へて帰るからね、もう一度一週間か十日ばかしの間我慢して呉れつて、お前が帰つてさう云つて頼んで呉れよ。ね、いゝだらう?」私は斯う繰返したが、娘は承知しなかつた。
「そんならいゝわ、わたしどこまでもついて行くから。そしてお金の出来る間待つてゐるから」と、娘は私が相当に金の用意がしてあると思つたらしく、離れた小さな眼に剛情な色を見せて云ひ出した。
「そんならさうしなさい。しかし僕はこれから御殿場の方へ行くつもりなんだぜ。それでもいゝかね?」
「よござんすわ。うちでもさう云つてよこしたんですから、構はないわ」
 その晩は泊つて明朝発つつもりだつたのだが、相手になつてるのがうるさくなつて、私はかなり酔つてもゐて大儀だつたが、宿の勘定を済まして外へ出た。斯うは云ひ張るものゝまさか娘は汽車までついて来るやうなこともあるまいと私はたかをくゝつて歩るきながら冗談など云ひかけたが、娘の様子が真気らしくもあるので、私は少し怖くなりかけた。東京行きの汽車が間もなくやつて来た。汽車の音を聞きながら、
「ほんとに行く気なんか?」と、私は念を押さずにゐられなかつた。
「ほんとですとも。あなたが帰つて下さらないんですもの……」と、娘は泣き出しさうな顔しながらも、思ひ詰めた眼付を見せて云つた。
「ぢやあ二枚買ふよ」
「いゝわ、汽車賃位ゐはわたしのとこにもありますから」
 私はまたも狐につまゝれたやうな気持で、一枚を娘に渡して改札口を出て汽車に乗り、向ひ合つて腰掛に座つた。娘は紡績に汚れた銘仙の羽織を着た平常の身装であつた。「いや大船まで行つたら、下りると云ひ出すだらう。しかし下りないとなると困つたことだぞ」と、汽車が動き出すと私も不安になつた。ほんとにあのいつこく者の親父にどこまでもついて行けと云ひつけられて来たのかも知れないと思ふと、不憫にもなり、またこの娘一人を頼りにしてゐるFが娘の帰りを待つてるだらうと思ふと、Fが可哀相にもなつた。「ほんとに大船で下りないやうだつたら俺も帰らうか知ら。浮浪ももう沢山ぢやないか」と云ふ気もされたが、しかし構やしないと云ふ気にもなつた。自然に揺れ止むまで揺られてゐるか――と、自分と糞度胸を煽る気にもなつた。
「大船で乗替へて向うへ着くと十二時一寸過ぎになるんだが、宿屋で起きるか知ら?……」と私は話しかけたが、
「さうですかねえ」と、襟に頤を埋めて、黙りこくつた表情を動かさなかつた。
 やはり十四五年前富士登山の時、山を下りて腹を痛めて一週間ばかし滞在してゐたずつと町の奥の、古風なF屋と云ふ宿屋の落付いた室が思ひ出されたりした。

底本:「ふるさと文学館 第九巻【茨城】」ぎょうせい
   1995(平成7年)年3月15日初版発行
底本の親本:「葛西善蔵全集 2」津軽書房
   1975(昭和50)年発行
初出:「国本」
   1921(大正10)年5月号
※「由井ケ浜」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2002年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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葛西善蔵

不良兒—– 葛西善藏

 一月末から一ヶ月半ほど、私は東京に出てゐた。こんなことは今度が初めてと云ふわけではないので、私はいつものやうにFは學校へは行つてゐることと思つてゐた。ところが半月ほど經つて出したお寺からの手紙には、Fは私が出た後全然學校を休んで、いくらすゝめても私が歸るまで學校へは行かないと云つて、困るから、私に早く歸るやうにと云つて來てゐた。またその後だつたが、東京の或る友人から、君の子供が鎌倉で憂欝病にかゝつてゐると云ふことだが、君は知つてゐるのか――と、どこからそんな噂が傳はつたものか、弟のところへ宛てて葉書で私に注意して呉れた。
 二月十六日に私は東京を發つて、疲れ切つた暗欝な氣分をいくらかでも換へたいつもりから、東北地方を汽車で一※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りして來た。郷里の妻を訪ねて、Fが東京の中學へ入學出來たら郊外へでも世帶をもたうと云ふそんな下相談などして、二十三日に歸つて來て、その手紙や葉書を見たので、二十四日に弟の二階に居る文科受驗生の井出君を鎌倉にやつた。
「仕樣がない奴だ。兎に角Fをつれて來て下さい。云ふことを聽かなかつたらひつぱたいてもいゝから……」と私は井出君にいひつけてやつた。
 その晩寺に泊つた井出君は、Fは叱られるからどうしても厭だと云ふのを、淺草の活動寫眞を見せると云ふ約束で、東京まで引つ張り出しさへすればどうにかなるだらうと云ふのでつれ出したのだが、結局活動の見せ損で、Fに新橋から歸られ、井出君ひとりでぼんやり歸つて來た。で私はいよ/\腹を立てて翌日更に井出君を引返してやつたが、心元なく思はれたので、夕方勤め先から歸つて來た弟に、「井出君ではやはり駄目らしいから、お前行つてつれて來て呉れないか。剛情で仕樣がない奴だ。何もかも分つてゐて、あゝ横着を極め込んでるんだから、癖になるから……」と、急き立てゝ出してやつた。間もなくやつぱし井出君ひとりで「どうしても厭だと云つて何と云つても聽かないもんですから……」と云つて歸つて來た。それから日が暮れてFは食事や一切の世話をして呉れてるS屋の娘――と云つても二十三になるおせいといつしよに、怯けた顏してやつて來た。行違ひになつた弟は遲く終列車で歸つて來た。
 そんな譯で、Fはかなりひどく叱られねばならなかつた。翌日は雪が降つて、私は熱があつて床の中へ這入つてゐたが、貴樣のやうな人間は小僧にでもなつちまへ!」と[#「!」と」はママ]云つて、新聞の廣告を見て、井出君に外へつれ出させようとまで思つたが、弟夫婦や昨年の暮から出て來てゐる老父に取做されて思ひ止つた。尤も小僧と云ふのは言葉だけの威嚇なんだが。
 その日の午後Fは井出君といつしよに寺に歸つた。井出君は晝間は自分の勉強をし、晩はFの遲れた學課を見て呉れることになつた。
 それからも私は東京に引かゝつてゐて――金の都合が出來なかつたので――三月十四日に、一ヶ月半ぶりで、弟のところから老父を誘ひ出して二人で寺に歸つて來た。脚の不自由な老父は、玄關わきの二疊で、暮れに産れた弟たちの赤んぼの寢床のわきに、脊を丸くして火鉢にあたりながら、終日新聞を讀んだりして所在ない日を送つてゐた。ひどく億劫がるのを、私は手を引張らんばかりにして、つれ出したのであつた。
 老父は私よりも酒が強かつた。閑靜な寺の座敷を悦んで、老父は朝から私相手に飮んで、二晩泊つて十六日の午後少し時間が遲かつたが醉つた身體を井出君に介抱されながら、初めての江の島に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて歸ると云つて、元氣で出て行つた。その日は特にFに學校を休ませて送らせた。三人は江の島の棧橋の手前の茶店で榮螺の壺燒や丼などたべて、藤澤に出て、Fだけが大船で別れて乘替へて來たのだが、寺へ歸つたのは十時半頃だつたので、少し時間が遲過ぎると思つたが、格別氣にも止めなかつた。十七日はいつもの時間通り、豫習をやつてゐるので七時頃歸つて來た。十八日の晩は二時過ぎまで私は起きて待つたが、たうとうFは歸つて來なかつた。十六日の晩の時間の遲過ぎたなど考へ合はされて、いろ/\に氣を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して見たが、結局私の永い留守の間にFは不良少年に取つかれたのだらうと云ふ疑惑が、私の心を慘めに昏迷さした。小僧と不良少年――斯うした暗示が最後までFに利用されて、私に祟つた。
 前の晩だつたが、Fが次の室の寢床に這入つて間もなく、彼の睡入らないのを知つて故意に彼に聞えるやうに、私は酒を飮みながら、彼の性質のよくないことをおせいに話して、殊にこの前井出君につれられて東京に出て、淺草で活動を見さしたり御馳走させたりした上、井出君に鼻を明かして自分ひとり新橋から歸つて來た――私はそのことを非難した。Fはそのことだけはまだ私に明かされてゐないことと思つてゐたらしかつた。彼は寢床の中でそれを聽いてゐた。そして心を傷めた。後になつて考へて見ると、その晩のことが事件の動機を作つたやうなものであつた。後に新聞に――學校退出後活動寫眞に入り歸宅の時間遲れし爲め父に叱られるを氣遣ひ云々――などと出たが、それは間違ひだつた。
 兎に角Fは私と二人きりになつて、ひどく脅えてゐた處だつた。東京でひどく叱られたと云つても、私と二人きりではなかつた。十六日に老父に歸へられ、十七日の晩は――私はいつも面罵一方の方なんだがその晩はどうかしてそんなことだつたし、十八日の朝いつものやうに私の枕元で行つて參りますと挨拶した時、いつものやうに互ひの視線がピツタリ感じが合はなかつた。それがFにも感じられた。でその日も彼は時間通りに歸つて來たのであつたが、すぐ這入れずに、雨戸を締めた濡縁の外に立つて、しばらく中の樣子をうかゞつてゐた。そのうちに時間が經つて、私が雨戸を明けて手洗鉢で手を洗つた時、Fの方では私が彼の立つてる姿に氣がついた筈だと思つたが、私は氣がつかなかつたのでそのまゝ雨戸を締めたが、それで彼はやはり私が前の晩のことを怒つてゐるものと思ひ込んで、二時間も外に立つた後そつと物置きに忍び込んで、翌朝の五時頃晩飯も朝飯も食はず、そつとまた學校へ出て行つたのだつた。……
 十九日は日曜だつた。が豫習生は日曜も休まないことになつてゐるので、若しやと云ふので、お寺の婆さんも心配して下の方丈の電話を借りて學校へかけて呉れたが、受持ちの教師が出て來て、Fはいつもの通り學校で勉強してゐると云ふ返事だつた。で早速おせいに迎ひに行つて貰つた。ゆうべはどこに泊つて、どこで飯を食つて――さう思ふと、私には唯不良少年の場合のみ慘めに聯想された。由比ヶ濱の小學校までは二十町からあつた。私はじつと部屋の中に坐つてゐるに堪へない氣持で、寺の前の高い石段の上を往つたり來たりした。日曜の天氣で、石段の下の通りは、半僧坊詣りの客で賑かだつた。Fを郷里からつれて來て一年半程になるが、此頃になつてだん/\、斯うした父子二人きりの不自然な生活からの神經の傷害――それがお互ひに堪へ難いものに思はれて來た。Fは一昨年の春流行感冒から重い肋膜を患つて危い命を取止め、引續き夏休みにかゝつて、十月に奧州の山の中からつれ出して來て十一月から由比ヶ濱の小學校へ通はせたのだが、さう云ふわけで、學課の方も健康もひどく鈍つてゐた。二冬の海岸の小學校生活――濕氣の強い山の上の寺は、彼には寢るだけの場所だつた――は、彼の身體をかなりしつかりさせた。後れてゐた學課の方もぼつ/\取返して來たやうに思はれた。が彼の性質はだん/\陰欝になり神經質になりいろ/\な點から注意が必要になつて來てゐた。斯うした生活状態がいけないのに違ひなかつた。私も氣がついて、幾度か郷里の妻の許に歸さうと思つたのだ。最後は、昨年の十一月だつたが、東京から弟を態々《わざ/\》呼んで、Fの行李まで擔ぎ出さしたのだが、丁度獨りの老父が郷里の家を疊んで出て來たのとカチ合つた爲め、その時もお流れになつた。そして卒業式も後幾日と云ふところまで來てゐたのであつた。
 私は石段の上で彼等の歸つて來るのを待つてゐた。近所の男の子が石段を駈け上つて來た。
「小父さん、今ね、せいちやんがね、Fちやんをそこまで伴れて來たんですがね、門の中まで來てFちやんがまた遁げ出したさうですから、せいちやんが小父さんにすぐ來て下さいつて……」
「さうですか、どうも有難う……」と云つたが、私はすぐ駈け出して行く氣になれなかつた。どこまで手古擦らす氣なのだ、罰當り奴!……と云ふ氣がした。
「それではね、おせいちやんにね、いゝから構はないで歸つて呉れつて、さう云つて呉れませんか。ほんとに仕樣がない奴だ……」と、私は男の子に云つて、がつかりした氣持になつて家にはひつた。
 おせいは息を切つて歸つて來た。
「どうだつた?」
「いえね、やつぱしゆうべはそこの物置に歸つて來て寢たんですつて。學校歸りに途中で他所の子と喧嘩して、顏に傷したからお父さんに叱られるから歸らなかつたと云つてね、さうかと思ふと井出さんと活動を見たことをお父さんが怒つてるから歸らなかつたんだとかね、そんなこと云つてね、途中も歸るのは厭だ/\と云ふのをやう/\そこまで引張るやうにして伴れて來たんでしたが、………」と、おせいは申譯なささうに云つた。
「ご飯はどうしたんだらう?」
「ゆうべも今朝も喰べてないんですつて。お辨當も空でしたわ」
「ぢやあまた日が暮れたら歸つて來るだらう。いゝ氣になつてあゝしてゐるんだらうから、ほつて置け。仕樣がない奴だ」
 その晩はそつと寢鳥でも押へる氣持で、時を置いて物置や軒下や、下の建長寺の山門のまはりなど提灯つけて見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたが、夜更けになつても影も見えなかつた。
「それではやつぱし不良少年のところへでも歸つたんだらう。ゆうべ物置きへ寢たと云ふのも嘘かも知れない」と、私はすつかり暗い氣持になつた。
「さうですかねえ。そんなものに取つかれたんですかねえ。そんなFちやんでもないやうですがねえ……」
「いやさうかも知れないよ。そんなものがあつて學校を休んでゐたのかも知れないし、さうでなかつたら、おやぢを送つて行つた晩は時間が合はないやうだからね、あの晩の歸りにでもどうかしたのかも知れないね。兎に角唯事ではなささうだから、弟のところに電話をかけて呉れないか。……Fが見えなくなつたから金を少し仕度して明日早く來て呉れつて」斯う云つて、東京の弟の近所の酒屋から弟を呼び出さして、方丈の電話を借りておせいに云はした。
 翌朝九時頃やつて來た弟と二人で、兎に角學校へ行つて見ることにした。
「多分この邊の山だらうと思ふが、山のどこか洞穴見たいなところにでも潜んでゐるんだらうと思ふが、何しろ飯を食つてないんだし、夜は冷えますからね、今頃はもうフラ/\で動けなくなつてゐるんだと、時が經つてはなんだから、町を一※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りしたら早速僕は半僧坊の山からその邊を搜すことにしませう。町の方ではありませんね……」と、弟は歩きながら云つた。
「それとも、昨日は下の方へさがつたさうだからね、お前のところへでも歩いて行くつもりで、横濱への道はこの一月乘合自動車で往復して知つてるからね、東京まで歩くつもりでフラ/\行つたかも知れないね」
「さうでせうか。そんなだと、兎に角山を搜して見て見つからなかつたら、私は東京まで歩いてもいゝ、途中行倒れにでもなつてるんだと、警察へでも訊くと大抵わかるでせうから……」と、弟は東京までもひとりで歩かうと云ふつもりだつた。
 學校で受持の若い先生に會つたが、この頃のFの樣子に別に變つたところも見えないと云ふ話だつた。Fと席を並べてゐる生徒を教室の廊下へ呼び出して、Fがこの頃活動でも見に云つたやうな話をしてゐなかつたかと、訊いて呉れたりしたが、そんな話は聽かなかつたとその生徒は云つた。一昨日も昨日の朝も平生と變つたことがなく、冗談なぞ云つて遊んでゐたと、無邪氣な目をしてその生徒は云つた。先生は成績簿を出して見せて呉れた。どうやら七點平均には行つてるやうだつた。操行は甲だつた。
「學校へ來てはよく眞面目に勉強する方でした。成績も學期毎に少しづつは好くなつて來てゐます。唯これと云つて特に優れた點のないのはお氣の毒ですが……」と、先生は同情を持つて云つて呉れた。
「私はまたもつとわるいのかと思つてゐました。自分でもさう思つて氣がひけてゐたのか、この一二學期は通信簿を私には見せなかつたやうです。東京の中學は迚も受からないと自分でも思ひ込んでゐたやうで、だん/\日が迫つて來るし、そんなことからもだいぶ氣を痛めてゐたのかも知れませんが、大體無口な方なもんですから……」
「さう云ふと、どの生徒にも特別に懇意なと云ふ友達の一人や二人はあるものですが、Fさんには特にこれと云つて特に懇意にしてる友達はなかつたやうです」
 Fのさうした孤獨な心持には、自分も同感された。滿たされない孤獨な少年の心は、不良な誘惑の手に、小雀のやうに握られてしまつたのに違ひない。入學試驗の脅迫――彼が入學出來ないと、彼の母や妹たちは東京へは出て來られなかつた――さうした責任感?……そして彼自身東京の中學の受からないことを知つてゐた。私はFに對しては寧ろ偏愛的だつた。私は私自身の存在を否定してゐる。自身の壽命に見切りをつけてゐる――それだけに、私が彼にかけてゐる希望は過大なものだつた。妻や娘たちに對する愛情とは別なものだつた。彼女等に對しては、私は嘗て犧牲的な感じを持つたことがない。Fにだけはそれを持つことが出來た。彼女等は何年來妻の實家の食客だつた。がFだけは私以上のものだ。が斯うした私の氣持の働き方には、多分の不自然なものがあつた。彼に取つては、私と云ふものは、單に苛酷な、容赦のない、怖い父に過ぎなかつたらう。彼の小僧志願の心持は、さうした私への反抗でもあり、同時にまた彼自身の能力否定の糊塗的行爲でもあつた。がその結果は、全然不良少年的な活動ぶりを發揮した。――いつしか不良少年の群に入り次第に惡化し……云々などと或る新聞では書いてゐたが、さう云はれても仕方がないほどの惡才に長けたところがあつた。
「さう/\」と、私たちが歸らうとすると、先生は思ひ出したと云つた風で云つた。
「ついさつきでしたが、逗子の藥屋だと云ふ人が見えて、Fさんが昨日小僧になりたいとか云つて訪ねて行つたさうで、Fさんの成績や性質など話して貰ひたいと云つて寄つてありましたが、こちらではいゝやうに云つて置きましたが、あなたの方へもお訪ねするやうなことを云つてましたが、會ひませんでしたか。名刺を置いて行つた筈です……」斯う云つて、先生は職員室からその名刺を持つて來て見せた。
「さうでしたか。それでは私たちは行違ひになつたのでせうが、どうもわかりませんね、全然そんな心當りがないのです。それではやつぱし逗子あたりのわるい奴に掴つたものでせうか。全然ひとりでそんなところを訪ねて行く……逗子へは一度もまだ行つたこともないのですから……」と私は云つたが、その時まではまだ、まさかと思つてゐた不良少年の豫感が、最早動かせない事實のやうに思はれて、私は眼も眩むやうな氣がした。
 私たちはその名刺を借りて外へ出た。山を搜さうと云ふ弟の心構へも無になつた。彼もまた、最早私と同じやうな暗い聯想に囚はれない譯に行かなかつた。「困つたことになりましたなあ……」と、彼も嘆息した。
「兎に角逗子へ行かう。その藥屋に居るのかゐないのか、ゐて呉れるといゝが、なんにしても手遲れになつてはいけない」
 私たちは斯う話しながら鐵道のガードの下を停車場の方へ歩いて來ると、向うから駈けるやうにしてやつて來るおせいに會つた。おせいは息を切らしてゐた。
「私はね、あなた方が出たあと八幡前の占ひやに見て貰ふつもりでね、占ひやに寄つてそれから一寸床屋さんに寄つたんですの。するとお内儀さんがね、今朝Fちやんが近所の時計屋さんの幼稚園へ行つてる子の手を引いて、床屋の前を通つたのをたしかに見たんですつて。そんなこととは知らないもんだから、Fちやんがどうしたんだらうとヘンに思つてゐたんですつてね……」
「ぢやまだ居るんだね?」
「居るんでせう。でもまた私がいきなり突かけて行つて逃げ出されてもたいへんですからね、今床屋のお内儀さんにそつと裏から時計屋へ行つて、時計屋のお内儀さんに譯を云つて逃げられないやうに頼んで置いて、あなた方を搜しに來たんですの」
「それではお前が行つて、彼奴に逃げられないやうにして床屋さんまで引張つて來て置いて呉れないか。僕は兎に角逗子の方を調べて來よう、どんなことになつてるのかわからないから。それにしてもうつかりしてまた逃げられちやいけないよ。彼奴ひとりの智慧ぢやないんだらうから油斷出來ないよ」
 私は斯う弟に云つて彼等と別れて、逗子までの往復切符を買つて汽車に乘つた。その床屋と云ふのはおせいのうちの親戚で、Fを學校へ出す時そこへFの寄留を頼んだので、床屋の人たちは私たちのことをよく知つてゐた。それにしても今朝逗子の藥屋がたしかに學校へ來てゐるのだから、床屋のお内儀さんがFを見かけたと云ふのは、間違ひだらうと云ふ氣がされた。その時計屋なら、Fが修繕の催促で幾度も使ひに行つた事もあり、私の眼鏡が毀れた時、前から持つてゐた東京の眼科醫の檢査の書附を持たしてやつて、Fに待たして安物の眼鏡を買はしたこともあり、また私たちはいつもその近所のお湯屋へ行くのでその家の前は始終通つてゐた。床屋とは十軒と離れてゐない近所だつた。さうしたところにFが潜伏してゐようとは、一寸かんがへられなかつた。やはり逗子の方がほんたうだらうと思はれた。誘拐した相手が持餘して來たのか、それとももつと惡事を働かせる爲め強ひたのか、それともまたFが、どうしても私のところへは歸らないで小僧になると云つて相手のものに頼んだのか、兎に角彼ひとりの智慧ではないと思はれた。物置に寢たと云ふのもみんな嘘だと思はれた。その晩彼は取返しのつかない侮辱を受けて、私に面目ないところから、斯うしたことになつたのだとすると、彼もまた不憫な奴である。私は彼の年齡時分――彼は十二歳八ヶ月だつた――の、私自身の性的な記憶を喚び起されたりした。
 汽車が出て間もなく、夏時分のやうな氣紛れな通り雨が、ザアツとやつて來た。私はその頃も、七度二三分位の熱がずつと續いてゐた。身體を動かすことが一番いけないのだつた。熱の出て來た徴候の足の甲や掌などのチク/\と刺すやうな不快な感覺が、腰掛に坐つた私の氣持を一層不安にした。逗子へ着くと雨は止んだ。その藥屋は驛から一町となかつた。度量衡や化粧品など並べた小綺麗な店だつた。髷の若いお内儀さんが店先きに坐つてゐた。
「一寸うかゞひますが、十四位の男の子が昨日とかこちらへ見えたさうですが、まだ居りますでせうか。實は鎌倉の小學校からこちらのことをうかゞつて來たのですが……」と、藥屋の名刺を出して、隱されるやうなことがあつてはならないと用心して相手の顏色を見ながら、云ひ出した。
「は、さうでしたか。その子供さんのことでお出でになつたので……はあ、さう云ふ子供さんは昨日見えるには見えましたけど、實は斯う云ふ譯ですぐ鎌倉へ歸りましたですが……」
 お内儀さんの話では、學校通ひの仕度のまゝのFが、突然訪ねて來て、小僧に置いて呉れと云つたが、主人は、明後日鎌倉に用事があるからその時學校や親の方を訪ねて、その上で置くことにするから一先づ歸れと云つて、鎌倉までの汽車賃を呉れて歸したのだと云ふことで、お内儀さんの話にはすこしも曖昧な點が感じられなかつた。
「鎌倉から歩いて來たと云つて、お父さんと二人で斯う云ふお寺に居るんだが、お父さんは病氣で上の學校へあげられないから、私は小僧になるのだと云つて、お父さんは斯う云ふ商賣だと云ふことも云ひますし、見たところ子柄もわるくないやうだし、實はうちでもたいへん小僧をほしがつてるところなので、それでさう云つて歸しますとね、大へん悄れてゐたやうでしたが、ひどく元氣のない風でフラフラと停車場の方へ歩いて行くので、宅が後を追つて行つて汽車賃を渡したんださうでして、それで明日のつもりが今日鎌倉へ行くことになりましたので、學校へも寄りましたんでせうが、多分お宅の方へも※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りましたことでせうが、まあさう云ふ譯でございましたのですかねえ……」と、お内儀さんは驚きと好奇の眼を見張つた。
「それでなんでせうか、その時何か伴れ見たいなものでもその邊に見えなかつたやうでせうか?」
「さあ、そこまで氣がつきませんでしたけど、別にそんなものは見えませんやうでしたが……」
「それではどうしてこちらで小僧さんが入用だと云ふことがわかつたんでせう?」
「さあそれは、そこに小僧入用の札の出てるのを見かけて這入つたのか、それとも鎌倉の停車場前に懇意にしてるうちがあつて、そこへも頼んであつたのでそこからでも聞いて來たものでせうかと、こちらではさう思つてゐましたのですが」
「それにしても彼奴がひとりでなあ……?」と、私は伴れの者がその邊に立つてゐてそつとFの樣子をうかゞひ、Fがうまく藥屋に這入れさうなのを見屆けてそのまゝ遁走したか、それともその晩には商品でも持出させるつもりだつたらうかと、曲者が立つてゐたとしたらどこらだつたらうかと、私は店先きの腰掛にかけながら、店屋の並んだ狹い往來を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したりした。しかしまた、それから鎌倉の方へ立※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたところを見ると、Fが失敗して停車場へ行つた時、そこで其奴が待つてゐたのだらうと思はれた。
 奧から婆さんも出て來て、「まあそんなことだつたのかねえ。お父さんは病氣で寢てゐるなんて、どうしてご病氣どころぢやないぢやないか」と、私の樣子を見ながら云つたりした。
「この邊の宿屋にでも泊つてゐたんだとすると、心當りのうちもありますから、もしなんでしたら訊かせませうでせうか。もう追つけ宅も歸る時分ですが、……自轉車で參つたもんですから」と、お内儀さんは親切に云つて呉れた。
 そこを出て、汽車の時間を待つ間に、驛前の交番へも行つて頼んだ。刑事もゐて、宿屋へは泊つた形跡はないと云つた。
「またこの邊へ立※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るやうだつたら、すぐ抑へませう。こゝで斯うして見張つてる以上は見遁しつこありませんからね。鎌倉にも不良少年が居るさうだが、……十四ですね、それ位の年だと三日目か四日目には屹度出て來ますよ」と刑事は云つた。
 時計屋の方が?……と、私は心に念じながら鎌倉へ歸つて來た。改札口の外に、紺の詰襟服にマントを羽被つた、黒の中折れ帽の弟が、暗い顏して立つてゐた。
「Fが時計店にゐた?」と、私は外に出るとすぐ訊いた。
「さあそれが……」と、弟は息を呑んだ。
 時計屋の方も、やはり失敗だつたのだ。十一時頃床屋のお内儀さんに行つて貰つた、その二時間ほど前に、Fは時計屋を出てゐた。逗子の藥屋の場合と、同じやり口であつた。昨晩八時頃やはり小僧に置いて呉れと云つて突然訪ねたのを、餅など燒いて食はせたりして、時計屋では泊めて呉れた。東京の弟のところに居るのだと云つて、牛込の弟の住所は明瞭に云つてあつた。私も東京に居ることにしてあつたが、住所はいゝ加減な出鱈目を云つてあつた。Fは東京から小僧の口を搜しに來たやうに云つた。時計屋では何か家庭の事情でもあつて家出したものだらうとは思つたが、Fが、自分は機械などいぢくるのが好きだから時計屋になりたいなぞと云つたりして、云ふことに筋道も立つてゐたので、主人の弟で海軍省とかの技手を勤めてゐる人に、今日役所の歸りに私の弟を訪ねさせて、話をきめる筈にしてゐた。Fは朝飯前に店先きを掃いたり、時計屋の子といつしよに近所の花屋に花を買ひに行つたり――その時に床屋のお内儀さんが見かけた譯だつた。それから間もなく、Fは一度東京に歸つて叔父さんとよく相談して出直して來ると云つて、主人の弟の人の東京から歸るまで待てと云つて引止めたのを振切つて、そこ/\に出かけたのだつた。外から歸つて來た主人は、その時はまだFが時計を持出したのに氣がつかなかつたが、後から自轉車で追かけて行つて極樂寺前で追ついて、Fが極樂寺坂の方へ行かうとするので、東京へ歸るのなら引返して汽車で歸つた方がいゝだらうと云ふと、電車の囘數劵一枚出して見せて、これがあるから、江の島を見て行くのだと云つて、長谷から電車に乘つたと云ふのであつた。……床屋のお内儀さんが時計屋から聽いて來て呉れた話は、大體斯うであつた。
 私たちはまた床屋まで引返して來て、おせいもゐて、お内儀さんからその話を聽き直したのだが、いよ/\見當がつかなくなつた。
「やつぱし相手の奴が引張り出しに來たのだらうか。何か持出しやしなかつたかな?……時計屋で別にそんな話はしてゐませんでしたか?」
「え、別にそんなことは云つてゐませんでしたよ……」と、お内儀さんは曇りのない調子で云つた。
「兎に角警察へ頼むほか仕方がないね。どうも仕樣がない奴だなあ……」
 私たちはすつかり途方に暮れて、がつかりして、床屋を出ようとしてゐるところへ、やはりS屋のおせいの嫂さんが、息を切らして、駈け込むやうに這入つて來た。
「まあ丁度いゝところでした。今ね、山の内の駐在所から建長寺の方へ電話がかゝりましてね、Fさんが腰越で時計屋に時計を賣つてるところとかを巡査に掴つて、駐在所に留めてあるから引取りに來いと云つて來たんださうですが、あなた方がお留守なんで私が代つて出ましたのですが、山の内の巡査のおつしやるには、本署の方へ寄つてそれからすぐ腰越へ行くやうにと云ふことでしたよ。……まあこゝに皆さんがゐて丁度よかつた。町の方だと云ふからこちらへでも寄つて聞いたら樣子がわかるかも知れないと思ひましてね、ほんとに駈けて來ましたのよ……」と、嫂さんは斯う云つて、ホツとした。
「さうでしたか。どうも有難うござんした……」と、私もホツとして云つたが、一昨晩以來S屋一家の人たちにかけた心配だけでも、たいへんなものだと思つた。
 私たちはそゝくさと外へ出て、警察署へと半町程も歩いた時分、またおせいが私たちを呼びかけて追かけて來た。
「……Kさん、あなた時計をお持ちですか?」と、彼女は急き込んだ調子で訊いた。
「時計?……持つてるよ……持つてるだらう……どうして?」と、私は突嗟の問ひに面喰つて、それともどうかして忘れて來たかな? と云つた氣もして、あわてた手つきで帶の間から時計を出して見せた。
「さうですか。それだとなんですけど、……Fちやんがまたお父さんの時計だとか云つて賣つてたんださうですから……」おせいは私の顏に注意深い視線を投げたが、斯う云つて口籠つた。
「……あゝさうか」と、私もやう/\そこに氣がついたが、「しかし時計屋では盜まれてゐないと云ふんだらう。それだけに尚いけないや。どんな奴の時計だかわかつたもんぢやない。まあ兎に角警察へ行つて來る……」私たちは斯う云つて彼女と別れた。
 後になつて考へて見ると、その時のおせいの注意で、兎に角一應時計屋へ引返して調べなかつたと云ふことが、私たちの大きな手ぬかりだつた。私たちが床屋を出たあと、お内儀さんや嫂さんやおせいたちの間に話が出て、何しろゆうべはFが時計屋に泊つたのだから……さうに違ひないだらうとは誰にも考へられることで、それでおせいに追かけさして注意して呉れたのだが、その時の自分の神經は不良少年と云ふ見えない影に脅かされて錯亂してゐたし、時計屋では盜難の話は出なかつたと云ふことだし、兎に角當人さへ抑へてしまへばさうしたことの處分は後でどうにもつくと云ふ考へだつた。その時引返して、Fが時計屋から持出したことが分つてゐたら、Fを腰越の駐在所で白状さすことが出來て、Fに不良少年などの虚構の餘地を與へずに濟んで、ああまでは事件を大袈裟にせずに片附けられたのかも知れないと思ふ。ところがその時ふとした手ぬかりから――當人が掴つたと云ふので氣がポーツとなつてもゐた――訪ねなかつたのが、たうとう最後まで機會を失つて、私が訪ねた時は、最早私たちは取返しのつかない慘めな立場に投り込まれてゐたのだつた。
 時計屋では、現物を刑事が持つて調べて來られるまで持出されたことに氣がつかなかつたのだといふ――私は時計屋の主人の言葉を信じたい。Fが朝店さきを掃いたりしてゐた時はまだ表の戸がしまつてゐて、店の中が薄暗かつた。その時Fが店のガラス箱の上に二三十置いてあつた機械の動かない傷み物の中から、小型のニツケル臺に金メツキの片側と、ニツケルの腕時計との二つを盜んだのだつた。後でそこの職人の話では、二つで拾圓位ゐの價格のものらしかつた。が兎に角Fは金時計と思つて選び取つた譯であるから、ある新聞に――小説家の倅金時計を盜む――と云ふ見出しで書いてゐたが、心理的に云つても正しい書方である。ところがまた、Fが極樂寺坂の方へ歩いて行く途中、長谷の時計屋に寄つて、二つで五拾錢で買つて呉れと云つて斷わられてゐた。それから極樂寺前の錺屋にも賣りに這入つたらしい――そこから出て來たFを自轉車で追かけて行つた主人が見つけて、そしてFが長谷から電車に乘るのを見送つたと云ふことである。自分は親としての愚痴であるが、それまでの途中に、Fが持出したことを主人に發見されなかつたと云ふことは、私は自分の子の罪を庇ひたい卑しい心からではないが、Fのためにはたいへん不幸なことだつた。……
 警察では、がつしりした體格の、赭ら顏の老練さうな巡査が、腰越の駐在所へ、さつきの子供の親がこれから引取りに行くところだからと、電話をかけた。私は一昨晩以來のことを話した。
「ゆうべはそこの八幡前の時計屋にやはり小僧に置いて呉れと云つて泊つたのださうですが、今も訊いて貰つたのですが時計屋では時計を盜まれてゐないやうな樣子で、さうして見るとその時計がどこから出たのか、腰越の方でも充分調べていたゞくつもりですが、都合でこちらへも彼奴を引張つて來ますから、よく取調べて説諭をしていたゞきたいと思ひますが……」腰越は藤澤署の管轄内だらうと思つてゐたので、腰越で放免されることになつても、さうした不良少年などの場合は、やはり鎌倉署に頼むほかないと思つて、私はさう云つた。
「は、それはその時のご都合で。……それでは兎に角あちらで濟みましたら、歸りに一寸寄つていたゞきますかな」
「承知しました。實はさつき山の内の駐在所の方からこちらへ寄つて行くやうにと云ふことでしたので……」
 私は物慣れた巡査の態度にいゝ感じを受けて、入口の外のベンチに腰かけてゐた弟を促して、すぐ近くの停留場から、もうすつかり遊覽季節の客で混み合つてゐる藤澤行きの電車に乘つた。つい五日前にFが老父を送つてこの電車に乘つたのだが、三時間前にはどんな氣持で乘つてゐたらうか、そのFを今度はまた自分等兄弟が引取りに乘つた譯であるが、七里ヶ濱の眺めどころではなく[#「眺めどころではなく」は底本では「跳めどころではなく」]、お互ひに默り込んでゐた。
「山の中でゝも見つかつて呉れた方が、まだよかつたがなあ。……その時計を賣らして、それからどうするつもりだつたらう。旅費を呉れてお前のところへでも放してやるつもりだつたか、それともその金のあるうちこの邊を浮浪し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るつもりだつたらうか」
「さうですねえ、やつぱしそんなものがついてるんだと、幾らかでも金のあるうちは歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてることでせうよ。それにしても、そんな時計なんかFちやんに賣らせたりしてるやうな不良少年だと、大したもんぢやないと思ひますがなあ……」
「何しろ今度は僕も少し油斷し過ぎたものな。留守が少し永過ぎた……」
「しかしまあ死骸であがつたとか、何とか云ふんぢやないから、まあ諦めるほかないでせうねえ……」と、弟は慰めるやうに云つた。
 龍口寺前で下りると、駐在所はすぐだつた。往來を見下ろすやうに、右側の小高い場所の、小ざつぱりした建物だつた。私たちが來意を告げると、若い細君が出て、「只今宮樣のお詣りがございまして、それで出て居りますですが、ぢき歸つて參りますから、どうぞ……」と、愛想よく迎へて呉れた。丸いテーブルと三四脚の粗末な椅子の置かれた狹い應接室だつた。Fは隣りの同じやうな部屋の、ガラス窓の下のベンチに、學校鞄をさげマントを着たまゝ腰かけてゐた。Fは私達を見て泣き出しやしないかと思つたが、そんな風もなく、逆上《のぼ》せたやうな赤い、硬張つた顏してゐて、脅えてる風も見せなかつた。
「時計屋へは、東京へ行くのだがおあしを落したから、お父さんの時計だが買つて呉れと云つて行つたのださうですが、何しろまだ子供さんのことですから、それで時計屋では下の交番まで知らして來たんださうでして、……」と、細君は云つた。
「どうもとんだご厄介をかけました。でもお蔭樣で掴まりましたから、充分こちらで取調べていたゞきませう。これまでのところでは盜癖はないやうなんですが、嘘は云ふやうですから、――その時計にしても、私のものではありませんから、鎌倉の時計屋で盜んだのでないとすると、どこか他で盜んだか誰かに貰つたか――貰つたと云ふのも變なことで、何か惡い者でもついてるのかも知れないと思ひますが、兎に角嘘では通らないものだと云ふことをよく教へて置きたいと思ひますから……」
「いえもうほんの子供さんの出來心で……」と、細君は如才のない應對ぶりだつた。
「その時計を出して見せろ」とFに云ふと、マントのポケツトから金メツキの一つを出した。
「この時計どこから出した?」
「貰つた……」
「貰つた……?……誰に?」
「秋山と云ふ子に……」
「秋山と云ふ子に? どこの子だそれは? なんだつて呉れたの?」
「賣つて來いつて……」
「賣つて來いつて、それではその子も腰越までいつしよに來たのか?」
「ウム……」
「その子はどうした?」
「知らない……」
「知らないつて、一體どこの子だ、家は知つてるだらう?」
「八幡前の裏の方から出て來るが、家は知らない」
「その子一人きりか?」
「もう一人慶ちやんと云ふ子と……」
「それはどこの子だ?」
「妙本寺の方から出て來る子だが、家は知らない」
「二人とも何んだ、學生か?」
「逗子の中學へ行つてる子だ……」
「何んと云つてこの時計を賣つて來いつて云つた?」
「唯この時計を賣つて來いつて。……云ふこと聽かなけあ、ひつぱたくぞと云つた」
「誰が?」
「秋山と云ふ子が……」
「秋山と云ふ子の時計なのか?」
「ウム……」
「逗子の藥屋へつれて行つたのも二人なのか?」
「ウム……」
「なんだつてつれて行つた?」
「貴樣小僧になれつて……云ふこと聽かないとひつぱたくぞつて……」
「八幡前の時計屋へもか?」
「ウム……」
「そして今朝又呼び出しに來たのか?」
「ウム……」
「一體その二人といつから知つたんだ?」
「お祖父さんを送つて行つた歸りに……」
「どこで?」
「八幡樣の裏のところで……」
「そしてどうした?」
「貴樣俺の乾分になれつて。……云ふこと聽かないとひつぱたくぞつて」
「お前はどう云つた? そして一つもひつぱたかれなかつたのか?」
「その時はひつぱたかれなかつた。僕は默つて歩いて來た……」
「一昨日の歸らなかつた晩は、ひつぱたかれたのか? あの晩蕎麥屋へでもつれ込まれて、蕎麥でも喰はされたのか? お前はおせいちやんにその晩は物置に寢たとか云つたさうだが、それは嘘なんだね?」
「物置に寢たと云ふのは嘘ぢやない。蕎麥屋なんかへも行きやしない」
「それではあの日學校の歸りに、友達と喧嘩して顏に傷したから、僕に叱られるから歸らなかつたとおせいちやんに云つたさうだが、それは嘘で、その秋山とか云ふ奴等にひつぱたかれたんだね?」
「…………」
「物置へはお前一人で寢たのか……」
「僕一人で寢た……」
 巡査が歸つて來るまでの間に、私とFとはかうした問答を重ねたが、それがどこまでが本當なのか嘘なのか要領を得ない氣がされたが、兎に角彼一人のしたことでないと云ふことは、確められた氣がした。かうして生命に別状なく、大して窶れてもゐないやうな當人を掴まへた以上、他の大抵のことはどうでもいゝとして唯暴行を加へられてゐるかゐないか――そのことを考へると、私の氣持は隨分慘めなものだつた。そのことだけはどこまでもはつきりさせて、相手の奴等に充分制裁を加へてやりたいと思つた。それにしてもいつのまにこゝまで落ち込んでゐたかと思ふと、斯うした場所のベンチに曝されてゐる片意地さうな萎けた眼付をしてゐる彼の姿が、淺ましく醜くゝ、何かしら野生的な小動物めいた感じさへされて、私は自分自身の呪はれた存在を思はない譯には行かなかつた。
「兎に角今に巡査さんが歸つて來たら、何もかもはつきり正直に云ふんだな。嘘を云つたつて、駄目さ。僕なんかの前とは違ふからね、こゝでは嘘では通らない。だから何もかも正直に白状すると、僕等からなんとでもお願ひして堪忍して貰つてやるが、さうでないと、幾日だつてこゝに留めて置いて貰はにやならん。その時計の出さきがはつきりしない以上、どうにも仕方がないんだからね。だからね、今に巡査さんが來たら、どんな云ひにくいやうなことでも、みんな正直に云つちまふんだよ、それでないと、取返しのつかないことになつちまふよ。どうしたつて、嘘では通らないんだからね。解つた?……」私と弟とは代る/\斯う云ひ置いて、應接室の椅子に歸つて、煙草を吸つてゐた。
 間もなく巡査が歸つて來て、私達と三人でFの學校鞄や辨當の中なども檢べたが、別に不審なやうなものも出て來なかつた。一昨日持つて出たきりの辨當の中にはこち/\になつた飯粒が喰付いてゐた。
「では一二時間も私たちは外へ出て參りますから。なか/\剛情な奴で、嘘も云ふやうですから、幾ら毆つて下さつてもよろしいですから、どうか本當のことを白状さしていたゞきたいと思ひます。容易なことでは本當のことを云はないかも知れませんから……」
 巡査が調べるのを應接室で私たちは聽いてゐたが、「オイ小僧! 貴樣この時計をどこで盜んで來た?」などと語調をかへて訊いてゐたが、Fはやはり私たちに云つたと同じことを繰返してゐて、埓が明きさうにないので、私たちは巡査に斷わつて、丁度前から降り出した強い雨の中を、下の通りへ出て、近くの蕎麥屋へはひつた。風も出て吹き込むので暖簾をはづして表の戸を締めた薄暗い部屋の茶湯臺に向ひ合つて、晝飯を食つてゐない私たちは蕎麥と酒を頼んだ。
「酒臭い息なんかして行つてわるいかな? 巡査なんて氣の小さなもんだらうからな」
「そんなこともないだらう。ちつと位いゝでせうよ」
「その一緒について來たと云ふ奴はどうしたらう。Fが引張られたのを見て逃げちまつたか、それとも今にFが免《ゆる》されて出て來るかと思つて、時計が惜しくてまだこの邊にうろ/\してるんだらうか」
「いや無論そんな奴等のこつたから、この邊になんか愚圖々々してるもんぢやないでせう」
「兎に角鎌倉の奴等には違ひないんだな。僕の名前位は知つてる奴等かも知れないな」と、十七八の不良中學生の姿が、いろ/\と私には想像された。斯うした三月下旬の春氣分に浮かされて、學校を怠けて漫然とこの邊を浮浪し歩いてゐるやうな、深い企らみなんかない奴等の仕業のやうにも考へられた。
「それにしても小僧に押込まうと云ふのはどう云ふ譯だつたらう?」
「さあそれは、Fちやんが歸りにくゝなつたんで自分からさう云つたんぢやないでせうか」
「さうか知ら?……」
 日が暮れかけて、私たちは駐在所に歸つて行つたが、應接室にはさつきの巡査と部長がゐて、椅子に腰かけて煙草を吸つてゐた。Fは隣りの部屋のベンチにさつきのやうに坐つてゐた。
「どうもご厄介さまでした。如何でしたらう、白状しましたでせうか?」と私は訊いたが、相手の二人とも疑はしげな冷笑したやうな眼付を見せたが、不得要領な挨拶ぶりだつた。
「いやどうもね、いろ/\訊いて見たのですがなか/\剛情のやうでしてな……」と、さつきの巡査が云つた。
「ではさつきの時計は、あれはどうしたのでせう?」
「さあそれも、どうもはつきりしたことがわからないんですがねえ……」
「さうでせうか。それではもしなんでしたら、それがわかるまで幾日でもこちらの方へ留めて置いていたゞきたいのですが、どうも私たちにもさつぱり要領得ないものですから……」私はこの邊は藤澤署の管轄だらうと思つてゐたので、藤澤へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてもいゝと思つたので斯う云つたのだつたが、やはり鎌倉部内だつたのだ。
「いやもうこゝでは留めて置く場所もありませんし、兎に角本署の方へ、本署でもいづれ調べることでせうから、本署へ行つて……」こちらではもう關係がないんだから早く引取れと云つた、態度だつた。
「何にしろ困りましたなあ。どうも仕樣がない奴です。私と二人きりで暮してゐるので、つい注意が行屆かなかつたのでしたが、やつぱり低能なんですな。ずつと早婚の子なもんですから、やつぱし腦味噌が足りないんだと見えて、こんなことになつちまひまして……」と、相手の二人の取付端のない態度に失望と泣笑ひを感じて、私は云つた。
「いやどうして/\、低能どころぢやない、しつかりしたもので……なか/\どうも、出來たお子さんです……云ふことだつてどうして十四としてはしつかりしたものだ……」
 巡査は斯う如何にも感心したと云つた調子で云つて部長と顏を見合せたが、同時にひどく擽つたいやうな笑ひを浮べて、二人は私の顏に視入つた。――何と云ふ親馬鹿……それが、斯う云ふことを意味してゐたのだとは、その時の自分には察しられなかつた。
 私たちが外へ出てゐた間にか、或はもつと前、Fが掴まると同時に、本署から電話でFのしたことがすべて明瞭になつてゐたのに違ひないのだ。Fがその時に素直に白状するとよかつたのだ。どこまでも欺き了せると思ひ込んだ、ひねくれた剛情な子供らしい淺はかさがいけなかつた。警察と云ふ特殊な手にかゝつてゐるのだと云ふことが、都會で育つて中學の試驗でも受けようといふ年ならば多少は理解がある筈なんだが、野生的に大部分田舍で育つて來た彼には、そんなことに、理解が出來てゐなかつた。警察と親との相違なんか、それほど大したものとは、彼には考へられなかつたかも知れない。尤も、彼としては、必死の場合であつたらうが、自分等でさへ、彼の剛情――傲慢にさへ思はれた彼の態度には、結局同情を持つことが出來なかつたが、何と云ふ親馬鹿!……その時もそこまではFを疑へなかつた。警官の要領を得させない態度が氣にはなつたが、やはり半信半疑のまゝで、Fを引張つてすつかり暗くなつた外へ出た。どうせ最早嚢の中の鼠だ、Fの云ふなりになつて、根氣で彼の底を突き止めてやれ――斯うした腹もあつて、兎に角無事で掴まつてよかつたと、警官たちへお禮を云つて、駐在所を出たのだつた。
 電車がこないので、村を出て海岸の上の停留場まで三人は歩いた。雨はやんでゐたが、空は暗く、波の音は高く聞えてゐた。Fとは、一昨日の朝から會はないのだが、斯うして並んで歩いてゐると、ひどく久しぶりのやうな氣もされるが、また、平生のFではない――まだ何者かの支配につながれてゐる他所々々しい子で、完全な自分のFではないやうな氣もされて、口を利くのも億劫な氣がされた。
「巡査が何と云つた?」
「小僧、貴樣この時計をどこから盜んで來たつて……」
「お前は何て云つた?」
「秋山と云ふ子に賣つて來いつて……」
「それだけのことか。ほかにも何か訊かれなかつた?」
「何も訊かれなかつた……」
「毆られたか?」
「ウム」
「幾つ?」
「一つ……」
「その秋山とか云ふ子が腰越の時計屋までついて來たとか云つたが、さうか?」
「さうぢやない、七里ヶ濱まで一緒に來て、その子はそこで待つてるからつて……」
「その慶ちやんとか云ふ子もそれでは一緒だつたのか?」
「さうぢやない、その子は長谷の停留場の近くで待つてるつて……」
「嘘ぢやないのか? 斯うなつてから嘘をついたつて仕樣がないよ。男らしく正直に云つちまふんだな。嘘ぢやないか?」
「嘘ぢやない……」
 私と弟とが代る/\訊ねたが、Fはどこまでも斯んな風に云ひ張つた。
「ではその秋山と云ふ子も七里ヶ濱から長谷へ引返したのか?」
「ウム……」
「どう云つて?」
「貴樣時計を賣つたら長谷へ歸つて來いつて。歸つて來なかつたらひどい目に會はすつて……」
 追求すればするほど、私たちは混亂ともどかしさを感じた。兎に角Fの云ふなりになつて、長谷の停留場に着くと、私たちは電車の下り口をFとは離れて、改札口の外へ出ると、Fとは十間程も後に離れて、Fをその邊をぶら/\歩かせた。Fは海岸通りの暗い方へ往つたり、引返して線路を越えて大佛の方へ往つたり、雨あがりの路を日和下駄でチヨコ/\と歩いた。袴を穿いて、短いマントの帽子をかぶつて、猫脊の恰好して、チヨコ/\と私たちのさきになつて歩いた。路次めいたところへ這入つて行つたり、明るいところへ出て來たり、さうして三十分餘りもそちこち歩いてゐたが、私の氣のせいか、Fの歩調がだん/\速度が加つて行くやうに思はれた。――後で考へると、その時Fの脚がだん/\震へて來て、自然にさうした歩調になつたのだらう――がその時にはさうとは考へなかつたので、自業自得とは云ひながら、八幡前の時計屋で朝飯を喰べたきりで空腹でもあらうし、また相手の奴等にはすつかり脅迫され切つてゐるので、其奴等が掴つた際の後難を怖れて、氣が氣でないのではないかと思ふと不憫でもあつたが、またさうして私たちのさきになつてマントの帽子を深くかぶつてチヨコ/\と默つて行つたり來たりしてゐる姿を見ると、何かしら凶兆の小黒い烏めいたものの子――さう云つたものに魅せられた不吉な子であるやうな感じがされた。私たちは歩くのに疲れた。それらしい影にも見當らなかつた。
「この邊で鳥打帽をかぶつて飛白の着物を着た十八九位の學生風の男が二人、ぶら/\やつてゐたのに氣がつきませんでしたでせうか?」と、私は停留場のそばの踏切番だか轉轍手だかの小屋の前に立つて、二三人ゐた若い男の人たちに訊いた。
「さあ……氣がつかなかつたが、それは何時頃のことですか?」
「何時頃つてはつきりしたことはわからないんだが、この邊で待つてることになつてゐたんで……」
「どうも氣がつきませんでしたね……」さつきから幾度もその邊をぶら/\やつてゐたので、舊式な鳥打帽をかぶつた私を刑事とでも思つたかのやうな顏して、彼等の一人は云つた。
 私たち三人はそこからまた電車に乘り、驛前で下りて、警察署のすぐ前の蕎麥屋にはひつて、私と弟とはビールを飮みFには天丼をあてがひながら、また同じことを繰返してFに訊いた。がどこまで押して見ても、Fの答へは同じだつた。
「ほんとに嘘ぢやないのか。警察へ行つてからでは、どうにもならなくなるんだよ。お前がいくら剛情を張つたつて、刑事も居るし、お前の嘘なんか通りつこないんだからね。それがはつきりしないうちは幾日だつて留められるよ。今のうちお前がはつきり云ふと、僕等がどんなにも謝つて許して貰つてやる事も出來るけれど、警察へ出てまで嘘をついたとなると、ほんとにたゞごとでは濟まないことになる、お父さんだつて隨分迷惑をせにやならんことになるんだから、今のうちにほんとのことを云つて呉れ……」と、私たちは氣が氣でなく、頼むやうにしつこく云つたが、
「嘘ぢやない……」と、Fは云ひ張つた。
「どうもそれでは仕方がないなあ」と、私たちは諦らめるほかなかつた。單に時計だけのことだとまた考へやうもあるとしても、不良少年との關係は、私たちには手に負へないことだつた。
 帳場に坐つてゐた主人に、「此近所に秋山とか慶ちやんとか云ふ名の中學生がゐないでせうか?」と訊いて見たりしたが、知らないと云つた。私たちは蕎麥屋を出て、往來を突切つてすぐ向うの警察署のドアを開けてはひつて、三人は警部補の前に立つた。晝間の巡査のほかに六七人の巡査がテーブルに向つてゐた。私はそこでもFの一切のこと――今度の經過について警部補に詳しく話さねばならなかつた。警部補はまだ若い、鬚の無い豐頬の、警官らしく冷靜な態度の人だつた。
「……そんな譯でして、この時計はどこまでも其奴等に賣つて來いつて云はれたんだと云ひますし、ゆうべ泊つた時計屋では盜まれてゐないと云ふことですし、どうも此奴の云ふことが私たちには譯がわからないんで、何しろ今度は私が永く留守にして、その間學校を休んでゐたさうで、その間にさう云ふ奴等に捲き込まれたのか、此奴の云ふのではほんの此頃だと云ふんですが、何しろさつぱり要領を得ないんで、どうかこちらのなんで調べていたゞきたいと思ひまして、幾日でも留め置いてもよろしいですから……」
「時計屋へ泊つた……それはどこの?」
「すぐ八幡前のSと云ふ時計屋ださうで」
「S……それは怪しからんね、勝手に子供を泊めたりなんかして、……誰か時計屋の近所の旅館へでも電話をかけて、Sにすぐ來るやうに……」と警部補は云ふと、一人の巡査が電話より私が行つて來ませうと出て行つたが、ぢき歸つて來て、
「Sは逗子へ行つて留守ださうで、歸り次第すぐよこすやうに云つて來ました」
「さうか……」と警部補はうなづいた。
 その金メツキの時計は、私たちが來ると同時に警部補のテーブルの上に出されてあつた。「さう云ふと、いかにも不良少年でも持つてゐさうな時計のやうな氣もしますが」と、私は云つたりしたのだ。ところが、後になつて時計屋の主人の話では、その時計はその晩時計屋へ使ひに行つた巡査が時計屋へ賣つたものださうで、その巡査がテーブルの上の時計を何氣なく手に取つて見て自分の賣つたものだと氣がつき、それで電話でなしに自身時計屋へ行つたものらしい。して見ると、その時まで時計屋から何の屆けも出てゐなかつたとしても、その時にはもう警察ではFの盜んだことが明瞭になつてゐた譯である。それで、警察では特に、それから二時間ほどの時間の餘裕を與へて、今に時計屋の主人が出て來ると何もかもわかるんだぞ、だから今のうちに素直に白状しろ――斯う云ふつもりだつたかも知れない。がそれを、Fはしなかつた。Fとしてはいよ/\主人が出て來ても、まだ不良少年を擔ぎ通すつもりだつたらうが、それがたいへんいけなかつた。そしてまたそこまで行つてまだそこに氣のつかなかつた私の親馬鹿――不良少年と云ふFの暗示にかゝつてすつかり眼が眩んでゐた譯だつた。それにその時になつて、もう一つの時計さへFは出してゐなかつた。それも恐らく腰越で檢べられた時に――それはマントの裾の片隅を破つたか自然に破れたのか、そこに隱してあつたが――それも發見されてゐたのに違ひない。警察では何もかも明瞭になつてゐたのだ。唯不良少年と云ふことに多少の根據でもあらうかと、職掌上ちよつとは疑ひを持つたかも知れないが、當人を引張り出して來て見ると、所謂警察眼で、一目で全然幼稚な虚構であることがわかつたのだ。時計屋からだつてそのことは無論聽き出してあつた譯だ。要するにFの所謂惡化程度、境遇、家庭の事情――それを取調べるだけの必要だつたのだ。そしてそれ等が悉く、警官の同情を買ふべく、餘りに點が少なかつたと云ふ譯であらう。
「逗子の開成?……さうぢやないだらう、……すると鎌倉中學の方ぢやないかな……鎌倉中學の方にも不良少年は居ると云ふことだが……」と警部補は冷笑を浮べてFの顏を見ながら、氣をひいて見るやうに、云つて見たりした。
「ふだん金なぞ持たして置くんですか?」
「別に持たして置くと云ふこともないですが……」
 一人の巡査が、Fの體格を見たり、下眼瞼を開けて見たり、袴に二ヶ所鉤裂きの出來てるのを檢べたりしたが、
「これはどうしたの?」
「物置きで寢た時竹で破ぶいた……」
「その時はお前さんほんとに一人だつたんだね?」
「ほんとに一人だつた」
 そしてその巡査は、
「いくら不良少年だつて、金を取るとか、……何かするとか、目的なしにどうもするもんぢやありませんよ」と、どちらともつかないやうな調子で笑ひながら云つて、自分の席にかへつた。
「それにしても一昨日の晩物置きに寢て、晩飯も朝飯も食はずに學校へ行つたんださうですね。よく何も食はずに居れたもんだな……」と、警部補と席を並べてゐる今朝の巡査が云つた。
「それはほんとのやうです。どうかしてわるくすねると、一日位は食はなくても平氣で居るやうな質ですから……」
「ホウ、それぢやあ……?」と、巡査は首を傾げて意味ありげな視線を私に向けたが、それきり口を噤んだ。
「ふだんあまりやかましくしても駄目ですよ。子供はほんとに今が大事な時ですからな。毎日日が暮れてあそこまで一人で歸るなんて、それからして第一不注意ですよ」
 と、警部補は私に説諭的な口調で云つた。
「いや別にそんなにやかましくしてゐる譯ではないんですが、何しろ餘り出來ない方なもんですから、それで豫習を少し嚴しくやらしてゐたんでしたが、それを今度は私の留守中學校を休んでゐたと云ふので、それで叱つたんでしたが、ふだんはそんなにもやかましくしてゐる譯でもないんです」
 と、私は辯解的に云つた。
「しかしいくら出來ないからと云つて、……中學へはひれるとかはひれないとか、そんな問題ぢやないぢやないですか。兎に角餘り刺激するやうなことはよかないですよ……」と、たしなめる調子で、一重瞼の射すやうな眼光を向けて云つた。
 十時もだいぶ過ぎたが、時計屋の姿は見えなかつた。混亂と昂奮から、私は喘息の發作でも來さうな氣がした。Fはその間警部補のテーブルの前に立詰めだつたが、最早問答も途絶えて、Fは片意地さうに顏を俯向けてゐた。
「それではひとつ、小父さんが訊いて見てやるかな、……ちよつとこつちへ來い」
 警部補は斯う云つて、何とも得體の知れないやうな微笑を口尻に浮べて起ちあがつて、Fを奧の方へつれて行つた。それではやつぱし不良少年と云ふのは事實のことだらうか、三十分程の間だつたが、私には永い慘忍な沈默の時間だつた。席にかへつて來た警部補の顏は、すつかり無表情に引緊つてゐた。
「それではやつぱし、不良少年といふのは事實なんでせうか?」
 私が斯う訊いたが、警部補はやはり無表情な一瞥を與へたきりで答へなかつた。そしてちよつとの間額に掌をあてゝ考へ込む樣子をしてゐたが、心を決したと云つた風で、そばのガラスのペンを執り、紙の上へ持つて行つた。もう私たちの方は振向うともしない態度だつた。
「それではその秋山と云ふ子は、いつもどんな着物を着てゐるかね?」
「飛白の着物……」
「飛白は木綿かね、絹かね?」
「木綿……」
「模樣はどんな模樣かね? 十の字のやうになつてるのか、それともお前さんの着てるやうな模樣かね、どつちだ?」
「僕の着てるやうなもののもつと小さいの……」
「もつと小さいつてどれ位かね?……こんなもんかね?」
「ウム……」
「羽織の紐はどんな色だつた?」
「茶見たいな……」
「太さはどうだ?」
「餘り太い方ではない……」
「帶は? 木綿か絹か? どんな色をしてゐた?」
「…………」
「木綿か絹か?……お父さん見たいな帶か、それともメリンスか?」と、私は口を出したが、警部補は餘計な――と云つた眼付を見せた。
「メリンス……」
「色は?」
「…………」
「あんなやうなのか?」と、警部補は壁の方を指した。
「あんなやうなののもつと黒つぽいの……」
「フーム……そして下駄はどんなのを履いてる?」
「朴齒の日和……」
「緒は何だ、革かね布地かね?」
「布地見たいな……」
「どんな色?」
「黒い……」
「確かに黒い色かね?」
「ウム……」
「しつかり云はなくちやいけないよ。間違へちやいけないよ……」と、私は應援的にFに注意した。
「確かに黒い色の布地の緒だね?」
「ビロード見たいな……」
「フーム……ビロード見たいな」警部補は時々符號めいた線を紙の片隅につけながら、訊問をすゝめた。
「それでは帽子はどんな帽子?」
「鳥打帽……」
「いつも鳥打帽かね?」
「ウム……」
「どんな色の?」
「鼠色見たいな……」
「鼠色見たいで、それで格子かなんかあるかね?」
「ある……」
「ある、……それへ徽章をつけてゐるのかね?」
「ウム……」
「どんな徽章?」
「ペンを交へたやうな……」
「ペンを交へたやうな、……足袋はどうだ、いつも穿いてるか穿いてないか……?」
「穿いてない……」
「いつも穿いてないか?」
「いつも穿いてない……」
「髮はどうだ、長くして分けてるか、それとも短く刈り込んでるか?」
「少し長くしてるが、分けてはゐない……」
 斯んな風にして顏の雜作の一つ/\、皮膚の色、骨格、身長など明細に調べて行つた。もう一人の慶ちやんと云ふ方も服裝などは大體似寄つたものだつたが、體格容貌は異つてゐた。
「それではその秋山と云ふ方は瘠せて、長い黒い顏なんだね? そしてその慶ちやんと云ふ方が肥えて丸い顏してるんだね、そしてその方が色が白いんだね? さうだつたかね?」
「ウム……」
「年は二人とも十八位で、それで背丈はどんな方だ、二人とも?」
「背丈は普通だ……」
「普通つて?」
「……四尺九寸位」と、Fは思ひ切つたやうに顏を眞赤にして云つた。
「四尺九寸位なんて、お前そんなはつきりしたことが云へるのかい?」と、私はついまた口を出さずに居られなかつた。そして又傍の巡査を顧みて、
「十八位でそれだけの背丈があるもんでせうか?」と、たまらなくなつて話しかけたが、
「まあそんなものでせうな」と、巡査は無關心に云つた。
「金齒でも入れてなかつたか?」と、警部補は續けた。
「なかつた……」とFは答へたが、また思ひ出したと云つた風で、
「前にはないが、奧の方にあつた」と云ひ直した。
「それはどつちの方だ、秋山と云ふ方か、慶ちやんと云ふ方か?」
「秋山と云ふ方……」
 こゝまで來て、私は思はず嘆息するやうに云つた。
「それほどまでにはつきり云へる人間が、どうしてまた不良少年なんて云ふ奴等に威嚇かされた位でそんな馬鹿なことをしたのかなあ……」私は斯う獨り言のやうに云つたが、涙がにじんで來るのを覺えて、警官たちの顏を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したが、警官たちの目にもやはり一瞬間意味不明の異樣な閃めきが傳はつたやうに感じられた。親としての感情には警官とても變りのない譯である。
 Fの訊問は、大體斯んなことで濟んだ。奧へつれ込まれた時どんなことを白状したのかわからないが、訊問中のFの態度は、かなりわるい感じだつた。警部補に問詰められてウム/\と返事する――それがひどく傲慢からでもあるやうに聞えるし、また極度の苦痛から齒を食ひしばるため自然に發しられる言葉のやうにも思はれた。顏を眞赤にし、醜く唇を歪め、時々私の顏に横目を向け、總身を震はしながら、そのウム/\を繰返した。私は寧ろ、私自身彼の立場に置かれなかつたことを、呪ひたい氣持だつた。
「やつぱしそれでは、さうした不良少年見たいなものがついてゐたんでせうか?」
「まあ、よく調べて見んと……」
「やはりその何か暴行でも加へられた形跡でも?……」
「兎に角よく調べてから……」と、警部補はどこまでも不得要領な態度で、うるさげな顏して云つた。
「實は入學試驗の都合で、こつちの學校の免状式が二三日で濟み次第すぐ東京へやるつもりでゐるのですが、大抵幾日位でそれが分るでせうか。免状式が濟み次第東京へやつて差支へございませんでせうか。こちらのご都合でいつでもまた東京から呼び寄せますから……」
「さあ……」と警部補は一寸考へ込んだ風だつたが、「それでは一週間だけこつちに置いて貰ひませう。そのうちには何とか調べがつくでせうから」
「實はこの二十五日から入學試驗が始まるので、その方へも願書を出してあるものですから……」一週間と聞いて、私は當惑して嘆願するやうに云つた。
「さうですか。……それではと、明日は祭日だと、明後日――それではあと二日」と、警部補は考へ/\だつたが、きつぱりと確信の籠つた調子で云つた。
「さうですか。どうも有難うございます。それでは私たちの方でも、明日から此奴を引張り歩いて、其奴等を掴まへることにしますから。其奴等の掴まるまではそれでは此奴をこつちに置くことにしますから……」
「ではさうしてご覽なさい」
「この時計は其奴等を掴まへるまでこちらへお預けして置きますから」と云つたが、私には明日にも其奴等を掴まへて見せると云ふ自信があつた。斯う明瞭になつた以上は、警察の力ばかり頼りにはしてゐられないと云ふ腹だつた。
「こつちで預かると云ふ譯にも、……まだそれだけの手續きがついてないことだからな」
「でもさうした不良少年の品物を私たちが家に持つて歸ると云ふのもなんですから、どうか時計はこちらで……」
「では、こつちで預つても仕方がないんだが、まあ……」と、警部補は苦笑しながら時計を片寄せた。
「それではその相手の奴等を引張つて來て、此奴の云つたことに間違ひないやうでしたら、何とか此奴の處分だけは許していたゞけませうか。何しろ免状式前でもあり、入學にも差支へるやうなことになるんで、何とか處分だけは許していたゞきたいと思ふんですが」と、警部補の顏に視入りながら哀願の調子で云つたが、
「それはいづれ明日署長と相談の上で、すべて署長の意見にあることですから……」と、彼はやはり冷淡な調子で云つた。
 外に出て、私たちはすつかり疲れ切つて驛前から自働車で寺に歸つたが、井出君も東京から來てゐた。
「警察で云つたことは嘘ぢやないんだらう? 嘘だつたらたいへんだぞ、もう本式になつちまつたんだからね。でもまだ今のうちなら、嘘なら嘘だつたと云ふと、これからでも行つて謝つて來てやるが……」と、やつぱし私には腑に落ちないところがあるので訊いたが、
「嘘ぢやない」と、Fは云つた。
「奧で警部さんにどんなことを訊かれた?」
「お母さんがあるのかないのかとか、どうしていつしよにゐないんだとか……」
「そんなことだけか?」
「さうだ」
「それにしても、警部さんの前であれだけの答辯の出來る人間が、不良少年見たいな奴等に威嚇かされた位で、どうしてこんな馬鹿なことをしたのかなあ。氣をつけろ!」と私は叱つたが、それにしてもF一人の惡智慧でなかつたと云ふことが、自分としてはせめてもの慰めであつた。
「そんなものが居るんですかねえ、おつかねえや/\」と、お寺の婆さんやおせいたちも舌を卷いた。
 翌日は春季皇靈祭で、晴れたいゝ天氣であつた。境内の櫻もぽつ/\咲きかけてゐた。私たち三人して、Fを囮にして、不良少年を狩り出さうと云ふ譯である。多少興味のあることでもあつた。
「逆縁ながらそれではひとつ、敵討に出かけてやるかな」と、私は笑つて云つたりした。「僕が餘り創作が出來ないので、Fの奴とんだ創作をやつた」と、云つたりした。Fには昨日の通りの服裝をさせた。「鞄は置いて行つてもいゝだらう、マントを着てるからわからないから」と云つたが、鍵裂きのまゝの袴に日和を履かした。私たちは各自にステツキや、井出君は太い竹の棒を持つた。「不良少年なんて生意氣だ! 掴まへたら毆りつけてやらうか!」と、井出君は逞ましい腕に力をこめて云つた。「しかしそんな奴等だから、刄物位は持つて居るだらうから油斷しちやいけませんよ」と、私は注意した。警察の手に掴まる前に自分等の方で掴まへ、誠意を以て彼等の改悛を求め、場合に依つては自分等もいつしよになつて警察へ謝つてやつてもいゝと思つた。
「それでは出かけて來るからね、晩にはどつさり御馳走をこしらへて置いて呉れ、凱旋祝ひをせにやならんから……」とおせいに云ひつけて、私たち四人は九時過ぎに寺を出た。
 弟を先頭に、それから二十間ほど離れてF、それからまた二十間程後になつて私と井出君とは並んで、ゆつくりした歩調で建長寺前の通りを町の方へ繰出して行つた。うらゝかな春の日の光りとは、そぐはないやうな自分等の氣持だつた。八幡前の石段を登り、神前に好首尾を祈り、表の高い石段を降り、境内の舞樂殿の附近や石の鳥居前のあたりなどでは、特に目につき易いやうにFをぶら/\させて、私たちは離れて油斷なく看視した。それから八幡前の通りを、兩側の綻びかけた櫻の間を歩いて停車場に行き、私たちは外のベンチに腰かけて、驛前の廣場をFにそちこちと歩かせた。Fは腑向いた[#「腑向いた」はママ]なりで、機械的に、私たちの方も周圍の雜沓も目に入らぬかの樣子で、小刻みに往つたり來たりした。
「どうした氣持で歩いてるもんかなあ?」
 と、私は前の晩の長谷での印象を思ひ浮べながら、云つた。
「どんな氣持つて、そりやいろ/\心配してるもんでせう。相手の奴が怖くもあるんだらうし、いよ/\掴つて對決となつたら、また自分の方にもボロが出るやうなことがあるのかも知れませんからね」と、弟は云つた。
「何にしろ祭日なんで都合がわるかつたな。それでないと往きか歸りかをこゝで張り込んでゐると屹度掴まるんだがなあ」
「さうでしたね。それで警察でも、大體當りがついてるんだが、今日は祭日だからもう一日と延ばして云つたのかも知れませんね」
「さうなんだらうな……」
 斯う話してる時、私はふと、外からやつて來た、帽子はかぶつてないが大島か何かの揃ひの着物にセルの袴をつけた、反りかへるやうに腕組みをした立派な體格の男に目がとまつた。オヤ? と思つたが、それが昨日の受附の巡査だつたことに、すぐ氣がついた。顏なぞも剃つて見違へるやうになつてゐた。
「あれがゆうべのあの巡査だよ。堂々たるもんぢやないか。あゝしてゐると一寸巡査とは思はれないね。今日は非番なんだらうが、それではやつぱし僕等のことでゝも歩いてるのかな」と、待合室にはひる姿を見送つて、私は弟にさゝやいた。
 巡査がぢきに出て行つて、私はお辭儀をしぞこなつたが、私たちも斯うして歩いてゐると云ふことが、屹度巡査に好い印象を與へたに違ひないと思はれた。警察の誠意が有難く思はれた。
 鎌倉不案内の弟に代つて、今度は私が先頭に立つて、一時間もして停車場を出たが、秋山と云ふのはいつも妙本寺の方から來ると云ふのでその邊の店屋で秋山と云ふ姓を訊ねたり、妙本寺の境内にはひつたり、そこに遊んでゐた十七位の逗子の中學の帽子をかぶつた學生に訊いて見たりしたが、やつぱり手がゝりがなかつた。「鳥打帽へ徽章を附けたりすることは、絶對に學校では許しませんから」と、その學生は云つた。それから大町通りをFの學校の方に出て――どうかすると其奴等は日曜などにボールを投げに見えることもあると云ふFの話なので、その邊で、しばらく網を張つたが、それらしい影も見えなかつた。でその近くの停留場からFひとり長谷まで電車に乘せ、私たちは一臺遲れて乘ることにした。ところが後の電車がどうかしたかなか/\やつて來ないので、囮をさらはれはしないかと私たちは氣を揉んだ。
「そんな奴等の事だから、隨分敏感なもんだらうから、當分影を潜めて出て來ないかも知れないな」
「さうかも知れませんね。ちやんとした巣窟でも構へてゐるやうな、案外專門的な奴等かも知れませんからね。逗子横須賀の方まで繩張りにして始終そんなやうなことをしてゐるやうな奴等だと、ちよつと難かしいですね」と、弟も云つた。
「何しろ敵討なんてたいへんなもんだね。昔の人が何年もかゝつて搜し歩いたんだらうが、兎に角敵討なんてたいへんなものなんだね」と、私は弟と顏を見合せて苦笑したが、三人とももうだいぶ倦怠が感じられて來た。そして私自身の暗い記憶が、またしても頭に浮んで來た。
 それは少年時代から、永い月日の間何かに觸れては責められて來た最初の汚點の一つなんだが、昨日の腰越以來また新らしく喚びさまされて、絶えず頭の底で苦しくうごめいてゐた。私が八つの年、沒落した一家が母の村に引越して、一冬母の實家に同居した。尋常二年生だつた私は村の學校に入つて間もなくだつたが、ある日草紙か何か忘れて來て一旦家に歸つて來て、またそれを取りに學校へ行つたのだが、上級生たちの授業中で、そこらに誰も見えなかつたので、出る時そこの下駄箱に澤山載つてゐたスケート――と云つても木の臺に簡單な滑り金を打つたもの――の中から、一等粗末に見えた藁緒の一足を、ついふら/\と掻ぱらふ氣になり、羽織の下に忍ばして持ちかへり、裏の土藏の臺石にスケートの臺を打つけて金だけ放し、藁は屋敷のわきの小川へ一つ宛つ投り込んだ。投り込んでしまつてから、ひどくわるい、取返しのつかないことをしたと空怖ろしくなり、子供ながらひどく昏迷を感じたが、放した二本の金は二三日縁の下へ隱して置いた。母に云つたらば買つて呉れないこともなかつたのだらうが、何にしろ私はまだ八つで、金のついたスケートは履ける年齡ではなかつたし、村の子供たちのやうに練習もなかつたので、父は練習用に竹をつけたのをこしらへて呉れたが、子供心に恥かしく思ひ、往來へは出ず裏の空地の雪を踏みかためて練習してゐたのだつたが、もう一つの不平は、私たちが村に來る前、私が從兄の中學生に一足分貰つたのを、引越の時紛失したか、母が村に來て誰かに呉れたかして無くなつてゐたので、私には隨分不平だつたものらしい。母は金が折れたから棄てた――そんな風に云つてゐたやうたが[#「ゐたやうたが」はママ]、兎に角私には不平だつた。そんなことも手傳つたのかも知れない。兎に角さうして二三日縁の下に隱して置いたが、そのまゝ自分の臺に打つけて出歩く大膽さもなかつたか、子供ながらに用心したものか、近所の年上の子供と從兄に貰つたのだと云つてその子供の金と交換して履いて一日もしたかで、偶然に私の盜んだのもつい近所の子供のもので、交換した相手の方からそれが暴露して來た。金の裏に所有主の名が刻まれてあつたので、云ひ遁れよう餘地もなかつた。私は母に學校を休まされて嚴しい糺問を受けたが、私はどこまでも從兄に貰つたのだと云ひ張つた。夜に入つて母は神棚に燈明をあげ、茶碗に水を盛り、それに護摩木と云ふものを浮べて呑ませると云つた。「嘘でないと何ともないが、嘘だつたら、これを呑むと咽喉から血を吐いてすぐ死ぬ。それでもいゝか。さあお呑みなさい……」と、茶碗をつきつけられて、私はすつかり恐ろしくなり、聲をあげて泣いて、許しを乞うた。私はその時ですつかり懲りてしまつた。がその時から三十年近く經つて、因果がFに報いて來た。自分は二度と泥棒だけは企てなかつたが、さうした血がやはりFに傳つたものだらうかと、昨日腰越の駐在所でFを見出し、時計を出された時には、空恐ろしい氣がされた。
 やがて三人は電車に乘つたが、私にはそんなことなど思ひ出されてだん/\憂欝になり、今朝出て來た時の勇んだ氣持が失はれて行つた。警察でも取あげたことであり、Fもあれまでにはつきり云つたのだからよもや嘘ではあるまいと思はれたが、やはりどこやら曖昧な、不透明な惱ましい感じを拂ひ退けることが出來なかつた。
「今あそこの路次で、不良少年らしい奴等が五六人寄つて立話をしてゐたが、彼奴等ぢやないかな?」と、井出君が電車が海岸の別莊町を通り過ぎた時に云つたが、長谷から引返すのも億劫な氣がして、兎に角大佛の境内へと、はひつて行つた。
 そちこちに置かれた、大佛のわきの石の腰かけに、私たち三人は一人づつ離れて腰かけて、やはりFをぶら/\させてゐたが、大佛の前に立つて水兵たちが寫眞をとつたり四五人づれの大學生がやつて來たり、入替り立替りやつて來る遊覽客のほかに、それらしい影も見られなかつた。境内の奧の櫻もまだ綻びかけたばかしだつたが、その下で大勢の醉拂ひが唄つたり踊つたりしてゐた。私たちは口をきゝ合ふのも退儀になつて來て、一時間もしてそこを出て來たが、今度は長谷の通りを自動車の埃りを浴びながら私がやはり先頭でやつて來たが、私は身體も氣分も疲れ切つてゐた。停車場の裏手の空地では、女相撲の興行が始つてゐて、假小屋の高い櫓の上では朝からポン/\太鼓の音が聞えてゐた。小屋の前には挑發的な女相撲の繪看板が何枚か飾られて、しきりに客を呼びこんでゐたが、不良少年なぞには誂へ向きの興行物だと云ふ氣がされて、しばらくその前に佇んでゐたが、さすがに這入つて見る勇氣が出なかつた。或は十八日Fが歸らなかつた晩、學校の歸りこの太鼓の音に誘惑され、いくらも※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り道にはならないので、小屋の前を通りかゝつてつい這入る氣になつて時間を遲らしたのではないだらうか――その方が活動へ這入つたと云ふよりも根據がありさうな氣がされたが、そんなことを今Fに訊ねたところで、無益だと云ふ氣がされて、訊いて見る氣にもなれなかつた。それから停車場前に出て、逗子の中學の帽子をかぶつて往來で遊んでゐた四五人の學生にも訊いて見たりしたが、更に手がかりは得られなかつた。
 もう三時だつた。私たちは近所で遲い晝飯をたべながら、私と弟とはビールを飮んで、
「やつぱしそりや、學生なんてもんぢやありませんね。職工かなんかですね」と、弟は云つた。
「どうもさうらしいな。第一そんな鳥打に飛白の着流しで通ふ中學生なんて、今時ある譯がないね。ズツクの鞄をさげてると云ふが、辨當箱入だらう。向うへ行くと青服か何かに着替へるんで、逗子へ通ふと云ふのも嘘で、田浦か横須賀の職工に違ひないね。そんな奴等に掴まつて、面白半分から貴樣小僧になれとか何とか威嚇かされたんだらうが、Fも隨分つまらない奴等に掴まつたもんだねえ! さうだらう? 中學生なんて云ふのは嘘だらう?」と、私はFの氣をひいて見るつもりから、斯う侮蔑した口調で云つたが、
「いやさうぢやないよ、職工なんかぢやなかつたよ」と、Fは打消したが、ポツと顏を赤らめた。それが、相手が職工と圖星をさゝれて、羞ぢたのだと、私には判斷された。職工なんかだと、暴行は免れてゐるかも知れない――さうも思はれたが、しかしそれも確かめられたことではなかつた。
「そんならその鞄にどんなやうな本がはひつてゐた?」
「どんな本で……」と、Fはちよつと口籠つたが「やつぱしお父さんなんか讀むやうな……」と、曖昧に云ひ紛らした。
「僕なんか讀むやうな、……嘘さ、大方講談本かなんかだらう、職工だつて講談本位は讀むさ」と、私は白々しい氣がして、Fの顏を視て云つた。Fも默つた。
 夕方近くなつてそこを出て、弟とFとはすぐ停車場へ、私と井出君とは八幡前をもう一度一※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りしてついでに時計屋へ寄つて樣子を聽いて見るつもりで、S時計店の硝子戸を開けてはひつたが、店には私には顏見知りの主人が一人で、懷中時計の修繕をやつてゐた。
「私はゆうべの子供のおやぢですが、實はもつと早くに挨拶にあがる筈でしたが、すつかり調べがついた上でゆつくりお詑びにあがるつもりで、つい失禮してゐましたが……」と、私はFの家出の事情から、朝から斯うして相手の不良少年の狩り出しに歩いてゐることを話した。
「ハヽア左樣で……」と、主人はニヤ/\薄笑ひを浮べて狐疑的な眼して私の顏に視入つてゐたが、「……そんな譯でして、私も家の者どもゝすつかり信用しちまつたので、云ふことがちやんと出來てるもんですからな、これは何か家庭の事情でもあつて、お母さんが違ふとか何とかそんなことで、それで東京から小僧の口を搜しに來た――當人がさう云ふもんですからな、それで實は今日弟を役所の歸りに牛込の叔父さんとこに寄さして話をきめようと――當人も叔父さんとこへ云つて呉れと云ふものですからな……何しろすつかり信じちまつたものですからな」と、いくらか辯解めいた調子も見えて、ゆうべからのことを詳しく話した。
「それで私のことはどんな風に?」
「いやあなたのことも、斯う云ふご商賣をしてゐると云ふことも云つてましたが、當人は萬事叔父さんの方へ相談して呉れと云ふので、それで……」
「私の住所はどんなことに云つてましたか」
「やはり東京のどことか云つてましたが、お父さんには相談しても駄目だから、叔父さんの方へ行つて呉れと云ふものですから……」
「さうでしたか……」と云つたが、私にはふと、こゝでも逗子の藥屋の場合と同じやうに、私のことも本當を打明けて云つたのではないかと、云ふ氣がされた。Fは、こちらは時計店では鎌倉でも繁昌の方だから――などと云ひもしたと、主人も云つたが、東京から突然やつて來た子供にそんなことが一寸云へさうにも思はれないことだし、何しろFの學校の徽章のついた帽子、學校の名入りの名刺をはさんだ鞄、また兎に角一年半の間毎日その邊を往來もしてゐたことだし、私の使ひにも幾度かやらされてゐることでもあり、鎌倉の生徒だ位の判斷は、どこからだつて附きさうなものである。それだけの判斷が附かずに、全然風來のものと思つて、泊めたと云ふことは信じられないことだ。Fは私に虐待されてゐるとか、逗子の藥屋で云つたやうに私が病氣で貧乏だから小僧になるのだ――半ば私への申譯または反抗心から、本當にさう思ひ込んで頼んだのだが、それには私へ直接に交渉したのでは駄目だから、東京の叔父に相談して呉れ――さう云つたやうに頼んだものかも知れない。時計屋ではそれを信じて、それで私の方を後※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しにして、一應東京の弟の方へ當つて見、その上で私の方へ交渉してFを窮境……から救ひ出してやる――そんな風に考へたのかも知れないが、ところがFは主人の弟の人の東京から歸らない前に逃げ出した――歸つて來られて一切が暴露された場合のことが、Fにも考へられたらう――その時掻拂つて出た二つの時計が長谷の時計屋で五十錢に賣れたらば、多分それを汽車賃にして、東京の私の弟のところへ逃げ込んだものだらう。それともその金のあるうち浮浪を續けて、もつと深入りすることになつたか、それはわからない。後から主人が自轉車で追かけて、Fが二度目に賣りに行つた錺屋から出て來た時に、主人とFとの間にどんな會話が交されたことか私には推測出來ないが、或は、
「時計を持つてるだらう? それは置いて行け!」期う主人に云はれたが、
「いやこれは、一つは僕のお父さんのだし、一つは僕のだ、盜んだのではない……」Fは斯う白を切つたのかも知れない。
 何しろ往來ではあり、相手は子供だし、殊に私の住所を明かしてあつたのだとすれば、また明かさずに東京から奉公口を搜しに來たものと思つたとしても、私や警察へ無斷で子供を泊めたと云ふことは、何としても落度には違ひない。それやこれやを考へて、主人はFがその時は長谷の停留場から電車に乘るのを見屆け、強硬な態度に出ずに放してやつて、すぐ警察へ屆けて、警察の手で腰越で抑へるやうな手段に出たのかも知れない。それが後の煩ひを避ける一番賢い手段に違ひなかつた。
「何しろ時間も八時を過ぎてしまつたしね、まだ晩飯も食つてないと云ふことで、それから東京へ歸らすのも可哀相だと思つたものですから、奧で餅など燒いて食はせたりしましてな……」主人はやはり狐疑的な眼して云つたが、いつまでしても時計のことは云ひ出さなかつた。
 昨日東京の弟の家を訪ねた、主人の弟だと思はれる若い男が外からはひつて來て、店の賣臺の上へドカリと腰かけて、土間の丸い腰かけに坐つて主人と話してゐる私の横顏を見下ろすやうにして默つて聽いてゐたが、私はその方へは顏は向けなかつたが、冷めたい侮蔑的な彼の表情が、絶えず刺すやうに意識された。
「それではやつぱし、その時計はこちら樣のものではないんですね? その時計では實は非常に困つて居るんですが……」主人も無論今までには警察へ呼び出されて、その時計を見せられたことゝ思つたので、不安心な氣持で訊いた。「いやそれが、やつぱし手前とこの物でござんしてな……」と、主人はやはりピカ/\と金齒を見せた薄笑ひを浮べて云つた。
「やつぱし彼奴一人で、盜んだもんでせうか?」
「まあさうでせうな。……實は今朝刑事がやつて來ましてな、この時計に見憶えがあるかと云ふから、あると云ふとね、もう少しで胡麻化されるところだつたよ、それでは一つこれへ判を押して呉れと云つて、盜難屆に判を押さして持つて行きましたがね、今日は祭日だからこれで休みだとか云つて出て行きましたがな……」
「さうでしたか……」と云つたが、私には今朝停車場で見うけた和服姿の巡査のことが浮んだ。私たちの爲めに不良少年を搜してゐたのではなく、盜難屆の用事を濟まして、それからぶらりと停車場に姿を現はした――それだつたのかなあ?……と、私は情けなくなつた。頭がカツと燃えあがつた後の、深い絶望的な溜息で、私はふら/\と昏倒を感じた。
「彼奴が出かける時、誰かほかに呼び出しにでも來たやうな風がありませんでしたらうか?」
「別段そんな風は見えませんでしたよ」
「この八幡前の裏の方から出て來ると云ふんですが十七八の中學生風だか職工だか、なんでも慶ちやんと云ふんださうですが、そんな名の子供を知りませんでせうか?」
「知りませんな……」
「その錺屋から出て來た時も、電車に乘る時も、彼奴一人でしたらうか?」
「さうでした」
「その錺屋と云ふのはどの邊でせうか?」
「極樂寺前のKと云ふ活動寫眞のすぐ近所ですがね、實は私もその時にはまだ時計のことには氣がつかなかつたのでしたが、職人の者を追かけさせたのでしたが、どうも何だか要領得ないやうなことを云つて歸つて來たもんですからな、それで私も丁度あの邊へ用事もあつたもんだから、自轉車を飛ばしたやうな譯でしてね……」主人はこれ以上のはつきりしたことは云はなかつた。
 外は薄暗くなつてゐた。
「やつぱし彼奴が盜んだのだつた。不良少年なんてみんな嘘だ。……何と云ふひどい奴かなあ!」と、外へ出て待つてゐた井出君に云つたが、深い溜息と共に眼頭の熱くなるのを感じた。ドシンと、底知れない闇の底へ蹶落された氣持だ。これと云ふも自分の不注意から起つた、偶然のFの失策として、その責任は自分の擔ふべきものだと考へられるとしても、この最後まで嘘でもつて自分等を引ずり※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してゐたFの性根は憎むべく、わが子ながら輕蔑を感じた。さうした感情がまた、私自身にかへつて、私の胸を慘酷に噛み破るものでなければならない。
「どうしてFさんもそんなことをしましたかねえ! どこにそんなことする必要がありますかねえ!」と云つた井出君の厚い近眼鏡の蔭に、チラと涙の光るのが見えた。私は心のうちで彼に感謝した。
 八幡前の裏通りを停車場へと、井出君と並んで、私は足も地に着かないやうな氣持で歩いて行つたが、ふと薄闇の向うから、建長寺の老師が健かな歩調でやつて來るのに會つた。私は立停つて足を揃へて、いつにも衰へを見せない深い閃めきを湛へたやうな老師の眼に視入りながら、お辭儀をした。
「どうもご無沙汰して居りまして……」と、私は毎度ながら獨參を怠けてゐるお詫びを云つた。
「どちらかへお出かけかな? どちらかへお出かけかな?」と、老師は二三歩あるき出しながら言葉をかけた。
「どうもまづいことがありまして、まづいことばかしありまして……」と、私はいろ/\な意味で恐縮を感じながら答へた。
「その錺屋へもちよつと行つて來ませう。そこだつてどんなことになつてるかわからないから。何しろ一筋繩ではいかん奴ですからね、調べるだけ調べてかゝらないと」私は斯う云つて、二人で電車に乘るため警察前の方へ出て來たが、事件以來のことが一時に胸を衝いて來て、
「何と云ふひどい奴かねえ!……井出君にもわかりますか……? 親の頸へ繩をつけて引※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してゐたやうなものぢやないですか……何と云ふ馬鹿な奴かなあ!」私は斯う叫ぶやうに云つて、人通りの途絶えた松の木の下の往來を力任せに打つたが、黒檀まがひの巖丈なステツキが中ほどからぽつきり折れた。私はその折れたまゝのステツキを持つて電車に乘り、長谷で下りてその錺屋を訪ねたが、出て來た主人らしい若い人が胡亂さうな眼付して、そんな子供は見えなかつたと云つて、相手にならなかつた。今度はFに感付かれてまた遁げ出されては大變だと思つて、私一人長谷の通りから俥で馳けつけたが、Fはやはり元氣はないが格別變つた樣子も見せず、待合室の入口で囮の役を勤めてゐた。入口に近い中のベンチに、弟は欝ぎ込んだ暗い顏して腰かけてゐた。
「やつぱし駄目、不良少年も何もかもみんな嘘さ。彼奴一人の仕業だつた。警察ではもう朝のうちに、時計屋から盜難屆まで出さしてある……」弟のそばに腰かけて、私は低い聲で云つた。
「やつぱしそんなことだつたかなあ……」と、弟も唇をゆがめて、苦痛な表情を見せた。
「Fちよつと來い」と呼んで私たちの間に腰かけさせたが、最早怒る元氣もなく、
「お前みんな嘘だつたんだね。警察では最初からみんなわかつてゐたんだよ。それを昨晩あんな嘘を警部さんの前で云つたのが、あれが一等いけなかつたな。……お前長谷の活動寫眞のそばの錺屋へも賣りに寄つたさうだな?」――Fは默つてうなづいた。
 それから井出君の來るのを待つて、私とFと弟との三人は警察へ行つて、私たちの係りの警官ではなかつたが、部長の前に深く陳謝し、係りの警官への傳言を頼んで外へ出たが、寺への歸りの途中も口を利き合ふ元氣もなかつた。今日一日の喜劇にもならない愚かしい行動が、慘めに顧みられた。
 その晩二時過ぎまで、Fは更に私から嚴しい叱責を受けた。警察での陳述が全然虚構だつたとしては、少しうますぎる、その裏にまだ多少の事實が潜んでゐやしないかと云ふ疑念もあつたが、また彼自身の自發的な告白からではなかつたとしても、これ以外には何の疚しいことも殘つてゐないのだとすると、子供として半ば以上許されたと云ふ安心と明るい氣分が樣子に見えなければならないのだ。さう云ふ樣子が見られない。弟にせがまれて頭をさげても、不自然な感じだつた。私は涙が出て仕方がないのだが、ふだんは泣き蟲の彼が、泣きもしなかつた。警部補の前で調べられた時と同じやうに、幾らか片ちんばの眼が血走つてぎら/\と光り、下唇を醜く突出して、身體をぶる/\震はしてゐた。それとも、それが私に對しての強い反逆――それが根本の動機であつて、こゝに到つて尚斯うした傲岸な態度を私に見せようと云ふつもりか、私には迷はない譯には行かなかつた。
「このほかには、ほんとにわるいことが何も殘つてないか? あつたら今のうちに云つちまへ。明日警察へ行けば何もかもわかるのだから、あつたら今のうちに云つた方がいゝ。ほんとに何もないのか?」
「何もない……」
「何もないつて、それが嘘ぢやないのか? 斯うなつたら、何もかも男らしく綺麗に云ふものだよ。どんな人間だつて間違ひと云ふことはあるものだから、一旦斯うなつた以上は卑怯な態度を執るものぢやない。そんな卑怯な人間だつたら、惡黨になつたつて碌な惡黨になれやしないよ。だから何かあつたら、今のうちに男らしく云へ!」
「何もない……」
「ほんとに嘘ぢやないのか?」
「嘘ぢやないつて!」と彼は激しく總身を震はし、齒を喰ひしばるやうにして云つた。
 警察での訊問には時間のことはほとんど簡略――その必要は彼等には最初からなかつたのだ――されてゐた。それで、今度は自分も警部補の眞似をして、一々書き取りながら、十六日老父を送つて行つて來たその晩の時間から段々と問詰めて行つたが、はつきりしてゐるやうでどこにか引かゝりが出來て來る。小僧にならうとした動機を追窮されて、苦し紛れから、小僧になれと威嚇《おど》かしたのは中學生でも職工でもなく、扇ヶ谷の方の酒屋の小僧だつたなどと出鱈目を云ひ出してまたも迷路へ絲を曳きかけたりしたが、一喝されて、それは素直に默つた。おせいの隙をうかゞつて遁げ出した時、扇ヶ谷の方へ出て、それから再び學校へと引返したのだがさすがにはひれずに學校附近の往來でぶら/\してゐた時、横須賀歸りの箱車に會つて、ふと小僧にでもなるほか仕方がないと思ひ詰めて、その箱車の後について逗子へ行つたのだつた。そんな譯で扇ヶ谷の酒屋の小僧など持出した譯であるが、兎に角すべてを告白してしまつたと云ふ素直さが、いつしよに暮してゐて、朝晩に細かい表情にまで注意を拂つてゐる自分には、それが感じられない。まだ何か潜んでゐる! と云ふ直覺を、自分は酒を飮みながら詰問してゐたのだが、鈍らすことが出來なかつた。嫌疑者を幾晩も睡らさずに訊問を續けて無意識状態に陷らせて告白させる――さう云つた方法も行はれてゐると云ふことも聞いたことあるが、自分もしまひにはさう云つた慘忍な氣持すら湧いて來て、自分も同じことを繰返し/\順序を替へたりして根掘り葉掘り追窮しては彼の疲勞につけ入らうと企てたりしたが、彼は極度の緊張に堪へ兼ねたかのやうに突然立ちあがつて、
「そんなにどこまでも嘘だ/\と云ふんなら、僕これから一人で警察へ行つて謝まつて來る!」斯う突かゝるやうに叫んで袴を穿きさうにした。
「馬鹿野郎が! 今何時だと思つてゐるんだ。貴樣一人で行つて謝まつて、それで濟むくらゐのことなら、斯うしてみんなして騷いでゐやしない。叔父さんにしても井出君にしても、忙がしい身體なんだぜ。俺の病氣のことだつて知つてるだらう。誰の爲めにみんなが斯うした馬鹿な目に會つて、警察へまで引出されて耻を掻いてゐるのか、ちつとあ考へても見ろ、この罰當り奴が! そんな人の人情のわからないやうな奴は、碌な人間ぢやないぞ。……この馬鹿者が!」私も斯う呶鳴つたが、私はがつかりしてしまつた。空恐ろしい氣さへされて、Fを床に就かした。
「あんな奴のことだからね、どんなこともし兼ねない奴だからね、今夜はお前も氣をつけて呉れ」と、私は弟に注意した。逃げ出しもし兼ねないし、自殺もし兼ねない――さう思ふと、私は怖くなつた。翌朝十時頃疲れた睡りからさめたが、弟とFの姿が見えないので、來てゐたおせいに「Fたちはどうした?」と訊いたが、おせいの話で、私は思はず「しまつた」と云つて、蒲團を飛出した。弟はおせいの爺さんと相談して、二人でFをつれて警察へ出かけたと云ふのである。
「もうよつぽど經つの?」
「まだ三十分位のものでせう、出かけたのはほんのさつきでしたから。叔父さんの方ではまた、叔父さんはゆうべは一寸も睡むらなかつたさうで、今朝私が來ると、何しろ兄もひどく疲れてゐるやうで氣の毒だから、自分ひとりで行つて來ようかしら、警察へはなるべく早く行つた方がいいだらうからと、さうおつしやるもんですから、それではうちのお父さんと二人で行つたらどうでせう、役には立ちますまいけど年寄りだから、さう云つて私はうちへ行つてお父さんを呼んで來たんでしたが、それはどうもわるうござんしたねえ……」
「そりや困つたことをして呉れたなあ。今になつて、僕が行かないなんて、警察へ對してだつてわるいし、そんな卑怯なことは出來ない譯なんだからな。どんな病氣だからつて、自分の子のしたことぢやないか、僕が出て行かないと云ふ法がないよ。それに僕が行つてよく頼まないとわからないこともあるし、弟の奴も案外しつかりしてゐるやうで斯うした肝腎の場合に姑息なことをするなんて、やつぱし學問をしてゐないせゐだな。兎に角みんなが警察に居るうちに行かないと、一旦引取つてしまつた以上それきりなんだから、學校や新聞のことなんかもあるんだし、兎に角大急ぎで自動車を呼んで呉れ。何しろ困つたことをして呉れた……」
 建長寺の電話を借りて停車場前の自動車屋にかけさせ、井出君も起して私たちは顏を洗つて自動車の來るのを待つたが、なかなか來ないので、往來まで出て待つことにして二人で出かけたが、往來の門のところで若い巡査が一人立ち番してゐた。何かあるのか知ら? と思つたが、一昨晩警察で顏を見知つた巡査なので挨拶して、「何しろ不良少年には弱らされましたよ。これからまた警察へ行くところです」などと笑ひながら話してゐると、空の自動車が一臺反對の方からやつて來たが多分少し下の方で引返して來たものと思ひ、手をあげて停めて、「警察前まで」と云つて乘つたが、少し駛つてから立派な膝かけのあるのに氣がついて、
「君は停車場前の自動車ですか?」
「いやさうぢやありません」
「さうですか。實は停車場前へ電話をかけて、もう來る時分だと待つてゐたところだつたので、多分さうだらうと思つて停めたのですが……」
「さうですか。私の方ではまたあそこで巡査と話してゐたから、多分警察の人だらうと思つて停めたのでしたが、なあによござんす、どうせあちらへ歸るんだから」斯う云つて警察前まで乘せて呉れた。
 途中では彼等に會はなかつたので、若しやと望みをかけて警察のドアを開けてはひつて行つたが、例の警部補と昨日の和服姿の巡査との二人が事務を執つてゐるきりで、室内は出拂つて、夜分とは違つた靜かな空氣が漂つてゐた。私は警部補の前でいろ/\と陳謝したが、
「もう濟んでしまつたことですから」と、うるさげに、冷淡に云つたきりで、相手にならなかつた。
「それではどうか學校の方へだけでも内聞に、……あと二三日で免状式といふところなもんですから」と、私は最後にまさか露骨に新聞へだけは書かさないやうにして呉れとも云ひ兼ね、また頼んだところで今更仕樣があるまいと思つたが、相手の心持を推量したくも思ひ、未練らしく斯うも最後に頼んで見たが、何の感じも動かない冷淡な一瞥を報いられたばかしだつた。
 外に出て、停車場前から馬車に乘り、がつかりした、何もかもおしまひだと云つた淋しい氣持で、春の日を浴びながら歸つて來たが、小袋坂を登りきつてふと四五間前を見ると、狹い往來の左側を二三人の婦人と四五人の子供づれの一行の後から、見覺えのある署長が劍柄を握りながらついて行くので、門のところに立つてゐた巡査と思ひ合はされ、さては高貴のお方の半僧坊へのお詣りの護衞だなと氣がついたが、署長の方でも馬車の音にふり返つて、ヂロリと鋭い凝視を私たちに向けたが、突嗟のことで下車するだけの心構への出來ないうちに、自分の不良兒のことなども思ひ浮んだりして混亂した氣持のうち乘り越してしまつたが、建長寺の門はそこから幾間とも離れてゐなかつたので、私たちが降りるとすぐ後から御一行もお着きになつたので、門の巡査はすつかり敬禮の姿勢を執つてゐた。私はひどく恐慌を感じながらも、心の中で、「それではこの署長の意見ですべてが決定した譯だな……」さう思ふと、脊に浴びせられてゐる署長の鋭い眼光が意識されて、私は何とも云へないムズ/\した感觸が脊筋を傳はつた。警察官と云ふ職務に對して、自分は初めて稍はつきりした感じを抱かされた氣がされた。
「どうだつた?」と、私は歸つてゐた弟に訊いた。
「いや大して難かしいことも云はなかつた。簡單な注意だけで濟んだ」
「Fの方は?」
「奧につれて行かれて、刑事見たいな人に、書いたものを讀んで聽かされて、これに間違ひないかと云ふからないと云ふと、そんならそれに名前を書いて指で判を押せつて……」
「それだけか?」
「お前は中學へはひるんださうだが、中學どころか、二度とこんなことをすると、すぐ監獄へぶちこまれるんだぞつて……」
「さうか」と云つたが、最早何を云ふ張合ひもなかつた。
 どうせ日が暮れて立たせる譯だが、Fの行李や夜具の始末にかゝらせようとしてゐるところへ、S時計店の名刺を持つて、そこの職人だと云ふ若い男が訪ねて來た。私と火鉢に向き合つて坐つたが、ほとんど三十分餘りも要領を得ないことを冗々《くど/\》と並べて、低能なんぢやないかしら、何を云ひ出すつもりなんだらうといゝ加減私たちをいら/\させたところで、結局、もう一つ時計を持つてる筈だから出してほしいと云ふのだつた。
「實は手前どもでも氣がつきませんでしたので、ゆうべ消防の寄合ひがあつて、長谷の時計屋も同じ消防だものですから、そんな話が出て、その子供なら二つ持つて來た、二つで五十錢でいいからと云つて來たんだが、それに違ひない、さう云はれて手前どもでも初めて氣がついたやうな譯でして……」と、どうして低能どころではないなか/\用心深い調子だつた。
「F、持つてゐるだらう?……出せ」と、傍で聞いてゐたFに云つたが、マントの裾からすぐ出した。古いニツケルの腕時計でやはり動かないものだつた。
「もうほかに何かないの? あつたらみんないつちまひなさい。みんな云つちまふと、氣が輕くなるから……」と弟も云つた。
「蓄音機の針……」
「一箱か?」
「半分ばかしはひつてゐたの」
「ほかに何かないか?」
「ほかには何もない」
「馬鹿な奴だなあ。だからゆうべあんなにまで訊いたんぢやないか。どうも何か殘つてる氣がしたんで、あんなに訊いたのに、云はないもんだから、結局こんなことになるさ」と、つい口に出て、
「それで、やつぱし警察へは屆けてあるんですね?」
「いや、それは、手前どもの方でも決してわるくはお取計ひいたしませんから、一應手前どもへお寄り下さるやうにといふ主人の話でございますが……」とやはり不得要領な用心深い調子だつた。
「それではすぐ後から弟をやりますから。何しろ斯う云ふことになつて居るので、警察へ屆けてあるんだと一應警察の手を經ないといけませんから……」斯う云つて時計は渡さずに歸したが、屆けてあるともないとも云はずに、職人は歸つて去つた。
「やつぱし屆けたんだけど、警察ではもう事件は濟んだんだから直接にかけあへ、一體お前のところでも無斷で子供を泊めたりするから斯んなことが起るんだ、とか何とか叱られたんでせう。それで若しこつちで時計を出さないやうだと困るとでも思つて、あゝ用心深く出て來たんですね」と云ふ、後で歸つて來ての弟の話だつた。
「どうだ、F、氣をつけろよ。世間と云ふものはみんなそんなもんだよ。向うではお前をどこまでも泥棒するためにはひり込んだ位に思つてもゐるだらうし、泥棒の子の親だから、あんな時計でも隱しやしないかと、思はれるやうなもんだからね、隨分と耻晒らしな話さ。あんな時計をまた、東京へ持つて行つて、お祖父さんや叔父さん叔母さんに嘘をついて、誰かに貰つたのだとか云つて、腕にかけて歩くつもりだつたのかい? 情けない奴だなあ、お前が中學へはひれたら、ニツケルの腕時計を買つてやると云つてゐたんぢやないか。そんなにほしければ、僕の時計だつてやりもするし、いくらだつて買つてやるぢやないか。僕も實に懲りたから、これから生涯時計と云ふものは持たないつもりだから、お前も二度とは斯う云ふことをして呉れるな。どんな人間だつて間違ひといふものはあるんだから、今度のことは許すから、氣をつけて、人の爲めになるやうなえらい人間にならなければいけない。僕は貧乏だけど、一生貧乏で暮すだらうが、お前の學資は、お祖父さんがちやんと用意して呉れてる。ケチな根性を起して呉れるな。……どうだ、今度はちつたあ氣持も直つたらう、そんなら叔父さんへもお辭儀をしろ」と、Fに云つた。Fの表情もやうやく和らげられてゐた。
「その蓄音機の針はどうしたの?」
「七里ヶ濱で鳥居なぞこさへて遊んだ」
 おせいのうちから古いのを貰つて來ては、木片へ刺して鳥居とかいろ/\な細工をして遊んでゐることは、自分も知つてゐた。それにしても、あの波の高い七里ヶ濱邊で、春の日を浴び、空腹を抱へて、途方に暮れて何時間かさうしたことをして一人で遊んでゐたのだらうが、よくふら/\と波に捲き込まれて行かなかつたことだと、自分等の運命に感謝した。
 別れの晩飯をたべ、行李と夜具を俥屋に運ばせ、三人は八時過ぎに出て行つた。せめて二三日も井出君に殘つて貰はうかとも思つたが、やはり全然一人になる方がいゝと思つて、明日から永い間續くであらう幽閉の日々を、このがらんとした十疊八疊打通しの暗い室で、謹愼して送らねばならないと、覺悟を極めた。

底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年10月5日第1刷発行
   2009(平成21)年2月19日第9刷発行
底本の親本:「葛西善藏全集」改造社
   1928(昭和3)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年3月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

葛西善蔵

遁走—— 葛西善蔵

 神田のある会社へと、それから日比谷の方の新聞社へ知人を訪ねて、明日の晩の笹川の長編小説出版記念会の会費を借りることを頼んだが、いずれも成功しなかった。私は少し落胆《らくたん》してとにかく笹川のところへ行って様子を聞いてみようと思って、郊外行きの電車に乗った。
 笹川の下宿には原口(笹川の長編のモデルの一人)が来ていた。私がはいって行くと、笹川は例の憫《あわ》れむようなまた皮肉《ひにく》な眼つきして「今日はたいそうおめかし[#「おめかし」に傍点]でいらっしゃいますね」と、言った。
 こう言われて、私は頭を掻《か》いた。じつは私は昨日ようようのことで、古着屋から洗い晒《ざら》しの紺絣《こんがすり》の単衣《ひとえ》を買った。そして久しぶりで斬髪した。それで今日会費の調達――と出かけたところなのだ。
「書けたかね?」と、私は原口の側に坐って、訊いた。
「一つ短いものができたんだがね……それでじつは今朝《けさ》から方々持歩いているんだが、どこでもすぐ金にはしてくれない」と、原口は暗い顔して言った。
「それで、君のところへは会の案内状が来た?」
「いや、僕が家を出る時はまだ来てなかった」と彼は同じ調子で言った。
「僕のところへもまだ来てない。しかしおかしいじゃないか、明日の会だというのに……。それにKやAのところへは四五日も前に行ってるそうだぜ。どうしたんだろうね君……?」
「そんなこと僕に訊《き》いたって、分りゃせんさ。それに、元来作家なんてものは、すべてこうしたことはいっさい関係しないものなんだよ」笹川はこう、彼のいわゆる作家風々主義から、咎《とが》めるような口調で言った。
 彼のいわゆる作家風々主義というのは、つまり作家なんてものは、どこまでも風々来々的の性質のもので、すべての世間的な名利とか名声とかいうものから超越《ちょうえつ》していなければならぬという意味なのである。時流を超越しなければならぬというのである。こういう点では彼は平常からかなり細心な注意を払っていた。たとえば、卑近《ひきん》な例を挙げてみれば、彼は米琉《よねりゅう》の新しい揃いの着物を着ていても、帽子はというと何年か前の古物を被《かぶ》って、平然として、いわゆる作家風々として歩き廻っているといった次第なのである。
「……それでは君、僕はそういうわけだから、明日の晩は失敬するからね」原口はこう笹川に挨拶《あいさつ》して、出て行った。
「原口君は原口君であんなことを言ってくるし、君は君でそんなだし、いったい君は僕のことをどんな風に考えているのかね? 温情家とか慈善家とでも思っているのかね? とんでもない!」原口の出て行った後で、笹川は不機嫌を曝《さら》けだした、罵《ののし》るような調子で私に向ってきた。
 私は恐縮してしまった。
「いやけっしてその、そんな風に考えているというわけでもないのだがね……。それでやはり、原口君もいくらか借りてるというわけかね?」
「そうだよ。高はいくらでもないが、今朝までにはきっと持ってくるという約束で持って行った金なんだがね」
 彼はますます不機嫌に黙りこんでしまった。私はすっかりてれ[#「てれ」に傍点]て、悄《しょ》げてしまった。
「準備はもうすっかりできたのかね?」と、私は床の間の本箱の側に飾られた黒革のトランクや、革具のついた柳行李《やなぎごうり》や、籐《とう》の籠などに眼を遣《や》りながら、言った。
「まあね。がこれでまだ、発《た》つ朝に塩瀬へでも寄って生菓子《なまがし》を少し仕入れて行かなくちゃ……」
 壁《かべ》の衣紋竹《えもんだけ》には、紫紺がかった派手な色の新調の絽《ろ》の羽織がかかっている。それが明日の晩着て出る羽織だ。そして幸福な帰郷を飾る羽織だ。私はてれ[#「てれ」に傍点]隠しと羨望《せんぼう》の念から、起って行って自分の肩にかけてみたりした。
「色が少しどうもね。……まるで芸者屋のお女将《かみ》でも着そうな羽織じゃないか」風々主義者の彼も、さすが悪い気持はしないといった顔してこう言った。
 私は、原口のように「それでは僕も明日の晩は失敬するからね」と思いきりよく挨拶《あいさつ》して帰りえないで、ぐずぐずと、彼と晩飯前の散歩に出た。その間も、一言も彼の口から「会費ができたかね?」といったような言葉が出ない。つまり、てんで、私の出席するしないが、彼には問題ではないらしい。
 いったい今度の会は、最初から出版記念とか何とかいった文壇的なものにするということが主意ではなかったので、ほんの彼の親しい友人だけが寄って、とにかくに彼のこのたびの労作に対して祝意を表そうではないかという話からできたものなのだ。それがいつか彼の口から出版屋の方へ伝わり、出版屋の方でも賛成ということで、葉書の印刷とか会場とかいうような事務の方を出版屋の方でやってくれることになったのだ。だからむろん原口や私の名も、そのうちにはいっていなければならぬはずだ。それを勝手に出版屋の方で削除《さくじょ》するというのはいささか無法のことでもあり、またそれが世間当然のことだとしても、もっぱらその交渉の任に当っている笹川に、今までにその事が全然分らずにいるというのがおかしい。……彼はいわゆる作家風々主義で、万事がお他人任《ひとまか》せといった顔はしているけれど、事実はそうなのだから。
 私は彼から二十円という金を借りている。彼は今度の長編を地方の新聞へ書いている間、山の温泉に半年ほども引っこんでいた。そして二カ月ほど前に、相当の貯金とかなりの得意さで、帰ってきたのだ。私は彼に会った時に、言った。「君がいなかったものだから、僕は嚊《かかあ》も子供も皆な奪られてしまったよ」と。
 これはまったくの冗談のつもりから、言ったのではないのだ。事実は、私が妻子たちを養うことができないため、妻の兄の好意で、妻子たちを田舎《いなか》へ伴《つ》れて行ってくれたのだ。しかし私としては、どこまでも妻子たちとは離れたくなかったのだ。私はむりに伴れて行かれる気がした。暴虐《ぼうぎゃく》――そんな気さえしたのだ。それでも、私の友人たちのただ一人として、私に同情して妻子たちを引止める方へ応援してくれた人がないのだ。誰も彼も、それが当然だ、と言うのだ。しかし笹川だけは、平常から私のことを哀しき道伴れ――だと言って、好意を寄せてくれたのだ。それで私はその時も、「笹川さえいてくれたら……」こう思わずにはいられなかったのだ。
 はたして私は一人になって、いっそう悪い状態に置かれた気がした。私は妻子たちといっしょにいて病気と貧乏に苦しめられていた時よりも、いっそう元気を失ったのだ。私は衰えきった顔して、毎日下宿の二階から、隣りの墓場を眺めて暮していたのだ。笹川は同情して、私に金を貸してくれた。その上に彼は、書きさえすれば原稿を買ってやるという雑誌まで見つけてきてくれた。こうして彼は私を鞭撻《べんたつ》してくれたのだ。そして今また今度の会へもぜひ私を出席さして、その席上でいろいろな雑誌や新聞の関係者に紹介してくれて、生活の便宜《べんぎ》を計ってやると言っていたのだ。
 彼はほとんど隔日《かくじつ》には私を訪ねてきてくれた。そしていつも「書けたかね?……書けない?……書けないなら書かないなんて……だから君はお殿様だというんだよ!」こういった調子で、鞭撻を続けてくれたのだ。しかし何という情けないことだろう! 私は何が、自分をこんなにまで弱らしてしまったのかを、考えることができない。愚か者の妻の――愚痴ばかし言ってくる――それほどならば帰る気になぞならなければよかったのに――彼女からの時々の手紙も、実際私を弱らすものだ。けれどもむろん、そのためばかしとはいえない。とにかく私には元気がない。動くものがない。私の生命力といったようなものが、涸渇《こかつ》してしまったのであろうか? 私は他人の印象から、どうかするとその人の持ってる生命力とか霊魂《れいこん》とかいったものの輪郭《りんかく》を、私の気持の上に描くことができるような気のされる場合があるが、それが私自身のこととなると、私にはさっぱり見当がつかないのだ。こうした状態の自分に、いったい何ができるだろう? 彼が躍起《やっき》となって鞭撻を加えれば加えるほど、私の心持はただただ萎縮を感じるのだ。彼は業《ごう》を煮やし始めた。それでもまだ、彼が今度きゅうに、会のすんだ翌朝、郷里へ発《た》たねばならぬという用意さえできなかったら、あるいはお互の間が救われたかもしれない。しかし彼の出発のことは、四五日前決ってしまった。そこで彼はまったく私に絶望して、愛想を尽かしてしまったのだ、そして「君のような心がけの人は、きっと今に世の中から手ひどいしっぺ[#「しっぺ」に傍点]返しを喰うぞ」と、言った。しっぺ[#「しっぺ」に傍点]返しとは、どんなことを意味するであろうか? まさか私を、会の案内状から削除《さくじょ》するという意味ではあるまい……?

 私たち二人は、よく行く、近くの釣堀の方へと歩いた。樹木の茂った丘の崖下の低地の池のまわりには、今日も常連らしい半纏着《はんてんぎ》の男や、親方らしい年輩の男や、番頭らしい男やが五六人、釣竿を側にして板の台に坐って、浮木《うき》を眺めている。そしてたまに大きなのがかかると、いやこれはタマだとか、タマではあるまいとか、昨日俺の釣った奴だとか、違うとかいったようなことを言っては、他の連中までがわいわい騒いでいる。そしてそうした大きな鯉の場合は、家から出てきた髪をハイカラに結《ゆ》った若い細君の手で、掬《すく》い網のまま天秤《てんびん》にかけられて、すぐまた池の中へ放される。
 私たちは池の手前岸にしゃがんで、そうした光景を眺めながら、会話を続けた。
「いったい君は、今度の金を返す意志《つもり》なのか、意志でないのか、はっきりと言ってみたまえ」彼はこういった調子で、追求してくるのだ。
「そりゃ返す意志だよ。だから……」
「だから……どうしたと言うんかね? 君はその意志を、ちっとも表明するだけの行為に出ないじゃないか。いったい今度の金は、どうかして君の作家としての生活を成立させたいというつもりから立替えた金なんで、それを君が間違いなく返してくれると、この次ぎの場合にも、僕がしなくもまたきっと他の誰かがしてくれるだろう、そうなればあるいは君の作家生活もなりたつことになるかしれんというつもりから考えてしてやったことなんだが、そんなことが君という人にはまるで解らないんだからね、しようがないよ、そして何か言うと、書けないから書けない……だ。だから君はお殿様だよ」
 彼はすべての芸術も、芸術家も、現代にあっては根本の経済という観念の自覚の上に立たない以上、亡びるという持論から、私に長い説法をした。
「君は何か芸術家というものを、何か特種な、経済なんてものの支配を超越した特別な世界のもののように考えているのかもしれないが、みたまえ! そんな愚かな考えの者は、覿面《てきめん》に世の中から手ひどいしっぺ[#「しっぺ」に傍点]返しを喰うに極っているから」
「いや僕もけっしてその、経済関係を無視するとかそんな大《だい》それた気持からではないのだがね、またそれを無視するほどの元気な気持であれば、きっと僕にも何かできるだろうがね、何しろ今度はまったくどうしようもなかったのだよ」
「どうしようもないからどうしようもないと言って、すましていられるところが、君の太いところだよ。そこへ行くと原口はとにかく彼の意志を表明したさ……書いたからね。彼もおそらく君以上にぽしゃって[#「ぽしゃって」に傍点]いるだろう。要するに根本は経済問題からさ。しかしとにかく彼は書いて、それを持歩いているが、金が間に合わないから、明日の僕の会へも出席しないと言ってるじゃないか。ところが君はそうじゃない。一文も僕に返せないでも、三円という会費を調達して出席しようというのだ。君にそれだけの能力があるのなら、なぜ僕にそれだけでも返して、出席の方は断わるという気持になれないのかね? これはけっしてたんなる金銭の問題でないのだよ。そういう点について全然無自覚な君を、僕もまさか憎む気にはなれないが、しかし気の毒に思わずにいられないのだよ。そして単衣を買ったとか、斬髪したとか……いったい君はどんな気持でこの大事な一日一日を過しているのか僕にはさっぱり解らない」
 こういった彼の調子には、やはり真実のあることを、私は感じないわけには行かなかった。「いや僕も、君の言うことがよく解ったよ。それでは僕も明日は出席しないからね……」私は少し哀《かな》しくなって、こう言った。
 私はいわゆる作家風々主義ということについて、理解の足りなかったことに、気づいた。そしてとにかく彼は私なぞとは比較にならないほど確乎《かっこ》とした、緊張した、自信のある気持で活きているのだということが、私を羨ましく思わせたのだ。
 私はまた彼の後について、下宿に帰ってきた。そして晩飯の御馳走になった。私は主人からひどく叱られた憫《あわ》れな犬のような気持で、不機嫌なかれの側を、思いきって離れえないのだ。それにまた、明後日の朝彼が発《た》つのだとすると、これきり当分会えないことになる……そうした気持も手伝っていたのだ。そしてお互いにもはや言い合うようなことも尽きて、身体を横にして、互いに顰《しか》め面《つら》をしていたのだ。
 そこへ土井(やはり笹川の小説のモデルの一人)がやってきた。彼はむずかしい顔して、行儀よく坐ったが、
「君のところへは案内状が行ったかね?」と、私は訊いた。
「いや来ない……」
「ふーむ」と言った彼は頤《あご》のあたりを撫で廻して、いっそうまた気むずかしく考えこんだ風であったが、やがて顔をあげて、笹川に向って言いだした。
「じつは、僕も発起人の一人となっていて、今さらこんな我儘を言ってすまないわけだが、原口君とか馬越君とかそうした親しい友人を除外した、全然出版屋政策本位の会だとすると、僕の気持としては、出席したくはないのだ。もともとそうした動機からなりたった会ではないのだからね。それで僕は今ここに明日の会費を持っているから、これで原口君とか馬越君とか明日出席しない人たちだけ寄って、僕らの最初の心持どおり、君のこのたびの労作に対して心ばかりのお祝いをしたいと思うから、どうかそういうことにして、悪しからず思ってくれたまえ」土井はこう言って、近所に住っている原口を迎えに、すぐにも起《た》ちあがりそうな気勢《けはい》を見せた。
「そりゃ君困るよ」と笹川は狼狽《ろうばい》して言った。「そんなこと言われては、僕は困っちまうよ。君はどうしても出席してくれたまえ。それでないと僕が困っちまうよ。とにかく出席してくれたまえ、……けっして悪いことにはならないから。とにかく君は出席してくれなくちゃ困るよ」
「いやそう言わないで、許してくれたまえ。ね、いいだろう? 僕は原口君を迎えに行ってくるからね……」
「そりゃ君、いかんよ。原口君や馬越君の方は、問題はおのずから別だからね。とにかく君は出席してくれたまえ!」笹川のこういった調子には、しゃにむに! といった真剣さがあった。
「しかしどうして原口君や馬越君の場合は、問題が別なんかね? もともとそんな性質の会では……」
「いや、それは僕は、作家という立場からして、この会の成立ちとか成行きとかいうことには関係しないけれど、しかしたんに出版屋という立場から考えたなら、無名であって同時に貧乏な人間を歓迎しないということは、むしろ当然じゃないか……」
「まあ君……」と、私は手を振って、土井に言った。「君は出席したまえな、僕らには関係なく……」
 土井も黙ってしまった。三人は身体を横にして、立肱に頭を載《の》せて、白けきった気持の沈黙を続けていたが、ふとまた笹川の深く憫れむといったような眼つきが私の顔に投げつけられたので、私は思わずひやりとした。
「僕はこれで馬越君のことについては、これまでいろいろと考えてきたつもりだ。どうかして君の生活をなりたたせたい、この活《い》きた生活の流れの上に引きだしたいものといろいろと骨を折ったつもりだが、しかしこのごろになって、始めて、僕は君の本体なるものがどんなんか、少し解りかけた気がする。とにかく君の本体なるものは活きた、成長して行く――そこから芽が吹くとか枝が出るとかいったようなものではなくて、何かしら得体の知れないごろっ[#「ごろっ」に傍点]とした、石とか、木乃伊《みいら》とか、とにかくそんなような、そしてまったく感応性なんてもののない……そうだ、つまり亡者《もうじゃ》だね」
「……」
「……君はひどく酔払っていたから分らないだろうがね、あの洲崎で君が天水桶《てんすいおけ》へ踏みこんで濡鼠《ぬれねずみ》になった晩さ、……途中水道橋で乗替えの時だよ、僕はあそこの停留場のとこで君の肩につかまって、ほんとにおいおい声を出して泣いたんだぜ。それはいくら君という人を突ついてみても、揺ぶって叩いても、まるで活きて行けるものといった感じの手応えが全然ないのだからね。それは君もたしかに一個の存在には違いないだろう、しかし何という哀しい存在だ! そしてまた君は君一人の人ではないのだ、細君とか子供とかいうつながりを持った人なのだ……」
 こう言った彼の眼の光りは、やはり疑うことのできない真実な感動を私に語った。しかしとにかく彼は私にとっては、あまりに複雑で、捉えることができないのだ。
「そうかもしれないね。そして君は活きたものの、どこまでも活きて行く上の風々主義者だ。そして僕は死物の、亡者の風々主義者というわけだろう」私はすっかり絶望的な、棄鉢《すてばち》の気持になって言った。
 私と土井とはかなり遅くなって、笹川の下宿を出た。「とにかく明日は君のところへ寄るから」と、土井は別れる時私に言った。

 笹川は、じつに怖い男だ。彼は私の本体までもすっかり研究してしまっている。そしてもはや私は彼にとっては、不用な人間だ。彼は二三度、私を洲崎に遊びに伴れて行ってくれた。そしてあるおでん屋[#「おでん屋」に傍点]の女に私を紹介した。それは妖婦タイプの女として、平生から彼の推賞している女だ。彼はその女と私とを突合わして、何らかの反応を検《み》ようというつもりであったらしい。私はその天水桶へ踏みこんだ晩、どんな拍子からだったか、その女を往来へ引っぱりだして、亡者のように風々と踊り歩いたものらしい。そして天水桶へ陥《おちい》ったものらしい。彼はそのことも書くに違いない。――彼は今、哀しき道伴れという題で、私のことを書いているそうだから。
 彼の今度の長編は、彼の親しい六七人の友人たちをモデルにしたものだ。そしてかなり辛辣《しんらつ》に描かれている。しかもそうした友人たちが主催となって、彼の成功した労作のために祝意を表そうというのだ。作者としては非常な名誉なわけだ。
 午後、土井は袴《はかま》羽織《はおり》の出席の支度で、私の下宿へ寄った。私は昨晩から笹川のいわゆるしっぺ[#「しっぺ」に傍点]返しという苦い味で満腹して、ほとんど堪えがたい気持であった。「しかし笹川もこうしたしっぺ[#「しっぺ」に傍点]返しというもので、それがどんな無能な人間であったとしても、そのために亡びるだろうというような考え方は、僕は笹川のために取らない」と、私は笹川への憤慨《ふんがい》を土井に言わずにはいられなかった。
「しかしまあそう憤慨したところで、しかたがないよ。とにかく僕はこれから会場へ行ってみて、誰か来てるだろうから様子を聞いた上で、僕も出席するしないを決めるつもりだから。そして僕も出席するようだったら、君を迎えに来るから、
「いやとにかく僕は出席したくないから、そうしないでくれたまえ」と、私は言った。
 土井の出て行った後で、私は下宿のまずい晩飯の箸《はし》を取った。……彼らの美酒《びしゅ》佳肴《かこう》の華やかな宴席を想像しながら。が土井は間もなく引返してきた。「どうか許してくれたまえ」と、私は彼に嘆願した。しかし彼は聴かなかった。結局私は彼に引張られて、下宿を出た。
 会場は山の手の賑やかな通りからちょっとはいった、かなりな建物の西洋料理屋だ。私たちがそこの角を曲ると、二階からパッとマグネシュウムの燃える音がした。「今泣いた子が笑った……」私はこうして会費も持たずに引張られてきた自分を極《き》まり悪く思いながら、女中に導かれて土井の後から二階へあがった。そして電灯を消した暗い室に立った大勢の人たちの後ろに、隠れるように立った。マグネシュウムがまた二三度燃やされた。それから電灯がついて三十人に近い会衆は白布のテーブルを間にして、両側の椅子に席を取った。
 主催笹川の左側には、出版屋から、特に今晩の会の光栄を添えるために出席を乞《こ》うたという老大家のH先生がいる。その隣りにはモデルの一人で発起人《ほっきにん》となった倉富。右側にはやはりモデルの一人で発起人の佐々木と土井。その向側にはおもに新聞雑誌社から職業的に出席したような人たちや、とにかくかなり広く文壇の批評家といった人々を網羅《もうら》した観《かん》がある。私は笹川の得意さを想うと同時に、そしてまた昨日からの彼に対する憤懣《ふんまん》の情を和らげることはできないながらに、どうかしてH先生のような立派な方に、彼の例の作家風々主義なぞという気持から、うっかりして失礼な生意気を見せてくれなければいいがと、祈らずにはいられなかったのだ。
 私の席の下の方に、知らない人たちの間に挟《はさ》まって、今さらのように失意な淋しい気持で、坐っていた。やがて佐々木は、発起人を代表して、皆なの拍手に迎えられて、起ちあがった。それはかなり正直な、明快な、挨拶《あいさつ》ぶりであった。
「……いったいに笹川君の書くものは、これまでのところではあまり人気のある方では、なかったようです。それで、今度の笹川君の労作にかかる長編の出版されるについては、私たち友人としては、なるべく多くの人気の出ることを、希望しないわけには行きません。それで笹川君のために、私たち友人が寄ってこういう会を催そうというような話は先からあるにはあったのですが、しかし私はその後会のことについてはいっさい相談を受けておらないのです。それでいったいどんな文句の葉書が皆さんのところへ送られたのか、じつは私としてはまったく突如《だしぬけ》に皆さんの御承諾《ごしょうだく》の御返事をいただいたような始末でして……まったく発起人という名義を貸しただけでして……発起人としてかようなことを申しあげるのは誠に失礼なわけですが、どうか事情悪しからず……」こういったようなことを、述べたのだ。しかし彼の態度や調子は、いかにも明るくて、軽快で、そしてまた芸術家らしい純情さが溢《あふ》れていたので、少なくとも私だけには、不調和な感じを与えなかった。「大出来だ! 彼かならずしも鈍骨と言うべからず……」私もつい彼の調子につりこまれてこう思わず心の中に微笑《ほほえ》んだほどだ。しかし他の友人以外の人たちは、こうした佐々木の挨拶を聴いてどう思ったか、それは私には分らない。何となれば今度の笹川の長編ではモデルとして佐々木は最も苛辣《からつ》な扱いを受けている。佐々木に言わせれば、笹川の本能性ともいうべき「他の優越に対する反感性」が、佐々木の場合に特別に強く現われている言うのだ。――こうしたことを読んでいて、今の佐々木の挨拶を聞いては、他の人たちはあるいは私とは違った意味の微笑を心の中に浮べたかもしれない。
 続いて笹川は、その小さな身体をおこした。そして最も謹厳《きんげん》な態度で、「じつは、私は、いろいろと……恐縮しておりますので……これで失礼します……」こう言って、恭《うやうや》しく頭をさげた。これでおしまいであったのだ。私にはいくらかあっけない、そしてぎす[#「ぎす」に傍点]っとしたような感じがされたが、しかしむろん彼の態度は立派なものに違いなかった。それからビールや酒や料理が廻って、普通の宴会になった。非常な盛会だ――誰しもこう思わずにはいられなかっただろう。
 十一時近くなって、散会になった。後に残ったのは笹川と六人の彼の友だちと、それに会社員の若い法学士とであった。そして会計もすんで、いよいよ皆なも出かけようという時になって、意外なことになった。……それは、今朝になって突然K社(出版屋)の人が佐々木を訪ねてきて、まだ今夜の会場が交渉してないから、彼に行って取極めてきてくれと言って、来たのだそうだ。
「……幸いこの家が明いていたから、よかったようなものの、他に約束でもあって断わられたとしたら、せっかくここを指して集ってきた人たちに対して僕が名義人として何と言って、皆さんへ申訳するのだ! どんな不面目迷惑を蒙《こうむ》らなければならぬか! そんな責任は俺にはないはずだ。万事は君が社と交渉していたのじゃないか……それをどこまでも白ばくれて、作家風々とか言って、万事はお他人任せといった顔して……それほどならばなぜ最初から素直《すなお》に友人に打明けて、会のことを頼まないのか? 君はいつもいつも友人を出汁《だし》に使って、君という人はじつに……」
 佐々木は心から怒ってしまったのだ。彼は顔を真赤にして、テーブルの上にのしかかるように突立って、拳固を振廻さないばかしの調子で、呶鳴《どな》りだしたのだ。私たちはふたたび椅子に腰をおろし始めた。そして偶然のように、笹川一人が、テーブルの向う側に置かれていた。
「いや、そう言われると、僕は何かひどい……」笹川も顔を真赤にして、皆なの顔を見ないようにして、こう呟くように言った。
「いや、君がどこまでもそう白ばくれるつもりなら僕も言うが、じつは僕は今朝K社の人へ僕はそんな訳なら出席しないと言ったのだ。すると、いやそれでは困る、それであなたの方でそう怒《おこ》るなら私の方でも申しあげますが、いったい今度の会をやるということと、倉富さんが評論を書くということは、最初から笹川さんの出版条件になっております……と言うんじゃないか、それでもまだ君は……」
「いや、それは違う……それならばいっしょにK社へ行って訊いてみてもいい……」笹川はテーブルと暗い窓の間を静かに歩きながら、やはり呟くように言った。
「何という君は、恐ろしい人だ! 僕はこんなことまで言いたくないと思うが、君があまり意固地だから言うが、君がこの前短編集を出す時も、K社へ行って僕も出したがっているからと言ったそうじゃないか。僕はその時も君が困っている時だったから何も言わなかったけれど、君はいつもそうして蔭へ廻っては友だちを出汁《だし》に使って、そして自分だけいい顔しているようなことをやるじゃないか。なぜ君はもっと素直になれないのだ! 君はいつもいつも……」こう言って平生から感情強い佐々木は、テーブルの上に大きな身体を突附《うつぶ》せたかと思うと、ワッと声を揚げて泣いてしまったのだ。
 新調の羽織を着て、小さな身体に袴を引摺るように穿《は》いた笹川は、やはり後ろに手を組んだまま、深く頭を垂れてテーブルと暗い窓の間を静かに歩いていた。
 明いていた入口から、コックや女中たちの顔が、かわるがわる覗きこんだ。若い法学士はというと、彼はこの思いがけない最後の――作家なぞという異った社会の悲喜劇? に対してひどく興味を感じたらしく、入口の柱にもたれて皆なの後ろから、金縁の近眼鏡を光らして始終白い歯を見せてニヤリニヤリしていた。……
 私はひどく疲れきって下宿に帰って、床につくとすぐ眠ることはできた。しかし朝眼が醒めてみると、私は喘息《ぜんそく》の発作状態に陥《おちい》っていた。昨夜の激情が、祟《たた》ったのだ。
 雨が降っていた。私はまず、この雨の中を憤然としてトランクを提げて東京駅から発って行ったであろう笹川の姿を、想像した。そして「やっぱし彼はえらい男だ!」と、思わずにはいられなかったのだ。
 私は平生から用意してあるモルヒネの頓服《とんぷく》を飲んで、朝も昼も何も喰べずに寝ていた。何という厭な、苦しい病気だろう! 晩になってようよう発作のおさまったところで、私は少しばかりの粥《かゆ》を喰べた。梅雨前の雨が、同じ調子で、降り続いていた。
 私は起きて、押入れの中から、私の書いたものの載《の》っている古雑誌を引張りだして、私の分を切抜いて、妻が残して行った針と木綿糸とで、一つ一つ綴《つづ》り始めた。皆な集めても百|頁《ページ》にも足りないのだ。これが私の、この六七年間の哀れな所得なのだ。その間に私は幾度、都会から郷里へ、郷里から都会へと、こうした惨めな気持で遁走し廻ったことだろう……
 私はまったく、粉砕《ふんさい》された気持であった。私にも笹川の活きた生活ということの意味が、やや解りかけた気がする。とにかく彼は、つねに緊張した活きた気持に活きるということの歓びを知ってる人間だ。そしてそのために、あるいはある場合には多少のやり[#「やり」に傍点]すぎがあるかもしれない。しかしそれでもまだ自分のような生きながらの亡者と較べて、どんなに立派で幸福な生活であるか!
 四五日経った。土井は私に旅費を貸してくれた。子供らへの土産物《みやげもの》なども整えてくれた。私は例の切抜きと手帳と万年筆くらい持ちだして、無断で下宿を出た。
「とにかくまあ何も考えずに、田舎で静養してきたまえ、実際君の弱り方はひどいらしい。しかしそれもたんに健康なんかの問題でなくて、別なところ来てるのかもしれないが、しかしとにかく健康もよくないらしいから、できるだけ永くいて、十分静養してくる方がいいだろう。もっともそうした君を、田舎でも長く置いてくれるかどうかは、疑問だがね……」
 上野から夜汽車に乗る私を送ってきてくれた土井は、別れる時こう言った。

底本:「日本文学全集31 葛西善蔵 嘉村礒多集」集英社
   1971(昭和44)年7月12日初版
初出:「新小説」
   1918(大正7)年9月
入力:岡本ゆみ子
校正:伊藤時也
2010年7月14日作成
2011年10月25日修正
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葛西善蔵

椎の若葉—— 葛西善藏

 六月半ば、梅雨晴《つゆば》れの午前の光りを浴びてゐる椎《しひ》の若葉の趣《おもむき》を、ありがたくしみ/″\と眺《なが》めやつた。鎌倉行き、売る、売り物――三題話し見たやうなこの頃の生活ぶりの間に、ふと、下宿の二階の窓から、他家のお屋敷の庭の椎の木なんだが実に美しく生々した感じの、光りを求め、光りを浴び、光りに戯れてゐるやうな若葉のおもむきは、自分の身の、殊《こと》にこのごろの弱りかけ間違ひだらけの生き方と較《くら》べて何と云ふ相違だらう。人間といふものは、人間生活といふものは、もつと美しくある道理なんだと自分は信じてゐるし、それには違ひないんだから、今更に、草木の美しさを羨《うらや》むなんて、余程自分の生活に、自分の心持ちに不自然な醜さがあるのだと、此《こ》の朝つく/″\と身に沁《し》みて考へられた。
 おせいの親父《おやぢ》と義兄《にい》さんが見えて、おせいを引張つて帰つて行つたのは、たしか五月の三十日だと思ふ。その時も、大変なんでしたよ。僕にはもと/\掠奪《りやくだつ》の心はないんだ。人情としての不憫《ふびん》さはあるつもりなんだが、おせいを何《ど》うして見たところで僕の誇りとなる筈《はず》はない。それくらゐのことは、自分も最早《もう》四十近い年だ、いくらか世の中の塩をなめて来てゐるつもりだから、それ程間違つた考へは持つてをらないつもりである。
 本能といふものの前には、ひとたまりもないのだと云はれれば、それまでのことなんだが、何うにかなりはしないものだらうか。本能が人間を間違はすものなら、また人間を救つてくれる筈だと思ふ。椎の若葉に光りあれ、我が心にも光りあらしめよ。
 十二日に鎌倉へ行つて来ました。十三日は父の命日、来月の十三日は三周忌、鎌倉行きのことが新聞に出たのは十三日なのです。十二日の晩たしか九時いくらの汽車で鎌倉駅を発《た》つて来たらしいのですが、鎌倉署の部長さんだと思ふ、名刺には巡査飯田栄安氏とありますが、この方に発車まで見送られ、何うしたか往復の切符の復《かへ》りをなくし、またお金もなくし、飯田さんに汽車賃を借りて乗つて来たやうな訳なんだが、本郷の下宿へ帰つたのは多分十一時過ぎになつてゐたらうと思ふ。すると、電話が掛つて来た。下宿の女中さんなどは無論寝てゐたんだが、電話に出て、読売[#「読売」に白丸傍点]からだと取次いでくれた。滅多に読売新聞社なんかから電話があることはないんだが、何うしたのかと思つて電話に出て見ると、僕が鎌倉のおせいの家で散々乱暴を働き、仲裁に入つた男の睾丸《こうぐわん》を蹴上《けあ》げて気絶さしたとか、云々《うんぬん》の通信なんだがそれに間違ひはありませんか、一応お訊《たづ》ねする次第です――と云つたやうな話を聞き、ひどく狼狽《らうばい》した訳です。斯《か》うなつては弁解したところで仕方がないのだ。何分穏便のお取計らひを願ひたい、斯う云つて電話を切つたやうな訳でしたが、その翌朝の十三日は親父の命日の日だ。兎《と》に角《かく》余程親父には気に入らないと見えて、とかく親父の日にお灸《きう》を据《す》ゑられる。僕は何処《どこ》までも小説のつもりで話してゐるのだから、いろいろ本当の名前を挙《あ》げては悪いのだが、僕は自己小説家だから云ひますが、読売新聞社が其《そ》の晩に電話を掛けて呉《く》れて、翌朝の新聞に何行かの僕の釈明を載せて呉れたことは非常にありがたく思ふ。何年か前、やはり鎌倉で、僕の総領の失策から、新聞に書かれたことがあつて弱つたことがあるが、あの時の鎌倉の署長さんは、たしか吉田さんと云つたと思ふが、僕としては精一杯お詫《わ》びをした筈であり、子供は尋常六年生だつたが、もうあと半月そこ/\で卒業になる場合だから、鎌倉へ置いて悪いと云ふならば、あしたにも郷里へ帰す、何んな責任でも帯びるから、いろ/\な書類の手続きだけは勘弁して下さいと、男泣きに泣いて涙を流してお願ひした筈だつたのだが、何うもお役所といふものは、我々の考へてゐるやうなわけにはゆかないものらしく、何もわけの分らない十三歳の男の子に、拇印《ぼいん》を押させ――そんな子の拇印なぞが、それ程役所には大事なものか知ら。が、それは余談だが、それで雑誌「改造」に「不良児」といふ、それこそは事実の記録なんですが、それを書き、その上に神奈川県の警務部長さんか、さう云つた方に対して新聞で公開状を書き、県の取締方針に就《つ》いてお伺ひしたいと考へたのだつたが、それで何うしても諒解《りやうかい》を得られないのなら自分等としての立場はない。現代の生活苦ばかしを救つてくれ、またその方針で保護されることは有難くもあり、我々が安んじて君国の人民であり……それと同時に人間の本能として避けがたい親子夫婦、いろいろな場合の人情苦に対しても、やはり親切な保護者でありたいと思ふのは、我々としての余りに虫の好すぎた註文だらうか。その後すぐ、吉田署長さんは、たしか県の刑事部長か何かに栄転なされたので、吉田さんに僕が公開状を書く機会を逸して了《しま》つて、未《いま》だに残念に思つてゐる。僕もその当時は逆上《のぼ》せましたから、吉田署長さんの返事次第では、自分も何とか自分の身を処決したいと思つたくらゐだが、人に恨みがある筈がない。皆、皆我が身の至らぬのに違ひないのだ。
 十二日朝七時いくらの汽車で鎌倉行きの往復切符を買つて乗り込んだ。前の晩実は、全然の責任を負つて呉れて僕とおせいの一族との中に這入《はひ》つてくれてる中村氏を駒込《こまごめ》に夜遅く訪ねたのだが、奥さんだけにお目にかゝり、それとなく事情の切迫してゐることを訴へ、その翌朝なんです。お金も八九円しか無かつたことであり、何うしようかと躊躇《ちうちよ》はしたんだが、だん/\と事惰が迫つては来る、一応――三四日しておせいはまた下宿に逃げて来たのだ――で彼女の言ひ分も確めたいと思ひ、震災以来一度も行つたこともないんだから、一通りの様子を見て来たいと思つて行つた訳なんだが、それが飛んでもないことになつた。小説といふものにするんだとこんな程度のものでは面白くも可笑《をか》しくもないんだが、自伝小説の一節としては僕はやはり記録して置きたい。
 名刺を何うかして無くしてしまつたのは残念だ。着なれない洋服なんか着て行つたので、何処《どこ》のポケットへ入れて無くしてしまつたのか、そんなことで復《かへ》りの切符もなくしたんだ。が、たしか新潟県の方の小学校の先生だつたと思ふ。あちらさんも洋服を着て、いくらか旧式な昔流の鞄《かばん》をお持ちになつてゐたが、学術視察にお出でになられたんださうで、それで鎌倉見物のことを車中で相談をかけられ、鎌倉駅を下りて、僕は僕の名刺の裏に、八幡宮、大塔宮、引返して駅前から電車で大仏、観音、それだけで三時間位はかゝるだらうと思ふから、江の島へ廻つては余程急いでも夕方になるでせうと思ひますから、さう云ふ順序になさつては如何《いかゞ》ですかと、簡単な地図を書き、将軍道の並木の前の所で別れ、それから、おせいの家で震災後駅前に始めた飲食店をそれとなく見たいと思ひ、路地を曲つたところ、悪いことは出来ないもので、建長寺にをつた時分、酒を続けてゐてくれた内田屋の御大《おんたい》に会ひ、では、おせいのお袋さんだけに会ひたいと思つたんだ。つまりおせいは、そのバラック飲食店で姉といつしよに、ゴロツキのやうな客相手に酌婦《しやくふ》めいたことをするのは厭《いや》だと云つて逃げて来たやうな訳なんだ。それにまた、実は、鎌倉行きは単純な鎌倉行きではなかつたんです。辻堂の中村さんをお訪ねして、本の方のことで御相談を得たいと思ひ、鎌倉駅で下りると同時に辻堂行きの切符を買つた訳なんである。久し振りで、本当に震災後初めて十ヶ月振りで鎌倉の駅を見、あの松、あの将軍道の桜並木を見て、実に愉快でもあり、やはり都会の空気とは違つた新しさ、海からの風、六年間|居馴染《ゐなじ》んだ空気、風情《ふぜい》の懐《なつか》しさに、酒を飲まなくつたつて酔つたやうな気分にならずにゐられなかつた。何ともしやうがないことぢやないか。僕は喧嘩《けんくわ》するつもりはないんだし、また喧嘩を吹かけられる程の弱味のない人間なんだから喧嘩がはじまる訳はないんだ。ところでね、やはりそのおせいのお袋さんや姉さんのおとめさんのやつてるバラック飲食店へ寄ることになつたんだ。仲々よく出来てるバラックだ。僕の思つてゐたより立派なバラック飲食店で、硝子《ガラス》の戸を開けてはひると、カフェーらしく椅子《いす》、テーブルの土間もあり、座敷には茶湯台《ちやぶだい》も備はつてをり、居間といふか茶の間といふか、そちらには長火鉢《ながひばち》も置いてあり、浅見と朱で書いた葛籠《つゞら》も備はつてゐるやうな訳で、いろ/\よく出来てゐると思つて感心したくらゐなんだから、乱暴なぞ働かうなんかの心持ちはないんだ。お袋さんと話してをるうちに、おせいの家の本家の若旦那《わかだんな》の喜平さんが見え、さうしてゐるうちに、向うを代表して中へ這入つてくれてゐる小池さん――「蠢《うごめ》くもの」――の中に出て来てゐる人事相談のお方なんだ。僕には大事な人だ。だから、お袋さんと話し、喜平さんと一二杯お酒も飲み合ひ、喜平さんの仙台二高時代の話なぞもきいた、それからなんだ。一通りの話がすんだもんだから、小池さんに一寸《ちよつと》外へ出て貰《もら》つて、駅前の葭簾張《よしずば》りの下のベンチで、よく/\懇談をした筈だ。そこですんだもんだから、僕は朝飯も食つてないんだ、前の洋食屋へはひつて御飯を食べたいから、サイダーでも飲んでおつき合ひくださらんかと云つたところ、矢張りおせいのお母さんの家の方がいゝでせうと云はれたんで、それもさうかと思ひ、ものの話しがすみ、道理のわけが分りさへすれば曇りかゝりのあるお互ひぢやないんだから、そこで僕もいくらか安心が出来たのです。
 だが、まだ/\酔払つてゐる時刻ではないのです。それから駅の一寸|顔馴染《かほなじみ》の車屋さんの俥《くるま》に乗つて建長寺の方へ出掛けたんだ。久し振りで八幡さまの横を通り、あの小袋坂を登り、越え、下つた時の気持は僕としては悪い気持ではなかつた。勘当を受けた男がそれとなく内内で勘当を許され、久し振りで我家の門をはひるやうな気持でもあつたんだ。矢張りあの辺の景色はいゝ。いつも変らぬ杉並木の風情も立派だ。震災で崩《くづ》れなかつた山門を見たとき、これは崩れる山門ぢやない――そんなやうな気さへされて、建長興国の思ひにとざゝれました。
 僕が足掛六年もゐた宝珠院、震災時分命から/″\で飛出した宝珠院も、本堂一つ残つたきり、何もかも無くなつてゐる。崖の崩れ、埋れた池――何といふ侘《わ》びしさかな。本堂の仏殿の前に立つて、礼拝《らいはい》をしたが、腹の底から瞼《まぶた》の熱くなる気がした。天源院に渡辺さんを訪ねたところ、お互ひにやれ/\と云つた気持で、自分は寺の妙高院に案内され、先住老僧のお写真を拝み、をばさんともお会ひして、何と云ふ嬉《うれ》しい日だつたでせう、さう云つて渡辺さんのバラック妙高で大変愉快に御馳走《ごちそう》になつてゐたところへ何う云つた拍子でおせいの親父がはひつて来たもんでせう。おせいの親父には借金も残つてをるし、おせいの姉のおとめさんからも金を借りて、それがみんな証書になつてをる訳なんだが、さりとて、僕としてはそれ程弱く出なければならない理由もないやうに思つてゐるんだ。いろ/\と両方に言ひ分もあり、事件といふものはこんがらかつて来ると、結ばれた糸をほぐすやうな根気と誠実さがなければ駄目なんだ。彼等の言ひ分は重々|尤《もつと》もであると思ふが、また我輩《わがはい》善蔵君としても、震災以来のナン[#「ナン」に傍点]についてはやはり遺憾《ゐかん》に思つてゐるんだ。つまりおせい君はその間に挾《はさ》まつて何う身動きも出来ないやうな状態なんぢやないかな。僕はおせいを悪い性質のをなごだとは考へてゐない。しかし何分にも周囲が悪いといふやうな気がされて仕方がない。こんなことを云ふと、向うの一族でも憤慨する人が沢山ありさうには思ふが、僕の感じだから仕方がないんだ。
 おせいの親父さんとそこで何んなことを云ひ合つたのか、一寸僕にははつきりしたことは云へないのだが、渡辺さんが呼びに行つてくれたのかな、そんな筈がないと思ふんだが、それならばおせいのぢいさんが話を聞いて押掛けて来たのだらうと思ふ。僕には愉快な道理はない。その前に朝のうちにおせいの義兄の小池さんといふ人と会つて、一通りのことは話を決めてゐたわけなのですから。大体おせいの親父招寿軒浅見安太郎さんは、渡辺さんの先住老僧があの老年で、あの震災当時をばさんと一緒に潰《つぶ》され、幸《さいはひ》にお怪我《けが》もなくて出て、僕もさうだつたんだが、どこを頼ることもできず、僕の厄介《やくかい》になつてをる招寿軒だからと思つて、老僧をばさんのことをお願ひしたとき招寿軒主人、またおばあさん――おせいのお母さんなぞも、それだけの義理を尽してくれたとは何うにも考へられない。さういふいろ/\の心持で招寿軒のぢゝい、宝珠のばあさん、現住謙栄師――いろ/\な思ひで酒を飲んだのでは面白くない。渡辺さんに対して随分迷惑したと思つてそんなことまで考へると味気ない気がして来る。僕はお金も欲しくはなかつたのだが、そんないろ/\な気分から渡辺さんに汽車賃十円貸してくれと云つて申込んで、たしかに一時自分の財布に入れたと思ふが、そんな法がある可《べ》きぢやないんだから矢張りお返ししたやうに思ふ。それからだ。かなり酔払つて来たんだらうから、帰りにまたそのバラック飲食店に寄りたくなつたのか、寄るといふ馬鹿はないんだ。それ程信用してないものならば、信用しない人間のところへ寄るなんていふことは間違ひのもとであることで褒《ほ》めた話ではない。そこをのんべといふ奴は仕方がないもんでして、酔つたと見えるんですな。僕はどの程度の乱暴をしたか、それは知らないんだが、大体としては私は、手を以《もつ》て人を打ち、人の器物を破壊し、人の体に怪我をさせるといふことは大変好かない。如何《いか》なる場合に於《おい》てもそれは好かない。そんなことを云ふと随分笑ふ人もあるだらうけれど、我輩の手は呪《のろ》はれた手なんだ。「呪はれた手」といふ小品を書いたこともあるが、我輩の娘、いまは十四になるが、七八年前僕等がもつと貧乏な時代、郷里で親父どもの世話になつてをつた時分だつたものだから義理ある母の手前、不憫《ふびん》ではあつたが、娘の頬《ほつ》ぺたを打つた。打つて親父の家を出て、往来の白日の前に立つて見て、涙を止めることが出来なかつた。打つまじきものを打つた、この手に呪ひあれ、呪はれた手であるといふ心持から「呪はれた手」といふのを書いて二度三度これを繰返してはならない、さう思つて来てゐるわけなのですが、いつも酔払つては喧嘩ばかししてをるといふことになつてをつて、それもこれも皆心の至らぬ故《ゆゑ》に違ひない。

 世間のことはいろ/\とむつかしく出来てゐるものらしく、僕達には分らないことが多い。自分を本当に信じてゐてくれるをんな、男なんて、この世間に幾人ゐるんだらうか。せい公もどれくらゐまでに僕を信じてゐてくれて、僕のところに居りたいと云つてをるのか、僕には何うにも分りかねる。をんなといふものの正体が、僕にはかなり分つてゐないらしい。それやこれやとは話しがとんちんかんになるやうで、ひどく気がひけるんだが、いろ/\のことから、女房子供の所へ帰つて行くほか道がないやうな状態になつた。この下宿西城館の厚意といふものは大変なんだけれど、いつまでもその厚意を受けてゐられないほど、わたしの与太は過ぎたらしい。われ/\は自分の過失について何《ど》の程度までに責任を背負つていゝか、人間の過失といふものは、矢張りむつかしい入組んだ事情から醸《かも》されて来てをることが多いんぢやないか。妻子縁類のこと、をんなのこと、思ひつめて行くと何うにもならないところにいつでも打突《ぶつつ》かつて行く。昔ならば坊主になつて、何《な》にも彼《か》にも三十八年間の罪業過失の懺悔《ざんげ》をしたいところであるんだが、――此《こ》の間演伎座で中車《ちゆうしや》の錨知盛《いかりとももり》を見たが、弁慶が出て来て知盛の首に数珠《じゆず》を投げかけたところ、知盛憤然として、四姓始まつて以来、討てば討ち、討たるればまた討ち返す、これが源氏平家の家憲であつた。だから坊主になれなぞとは失敬な! といふやうな意味のことを云つて錨綱を体に巻いて海にはひつたやうなところは、やはり僕は日本人の伝習感情として、何うにもしやうがないものらしい。それと僕の心持などは、較《くら》べてゐるやうなことは無論思ひはしないんだが、真面目《まじめ》に考へたところで、何うしたらばいゝんだらう。すべては、人生は、生活は、かう云ふものだと思ひ諦《あきら》めて、頭のよくなることを考へ、悧巧《りかう》になることの工夫をし、それで気がすめば大変いゝことだとは思ふが、僕には何うにもまだそこまで悟りが出来てゐない。二三の友人は持つてをるつもりだが、僕にはやはり何よりも女房は親密であり、また女房の方でも僕のことを心配してゐてくれてるやうな気もするんだが、それもやはり世の中のうつけた考へなのかも知れない。しかし、さう云つては女房は可哀さうだな。おさん[#「おさん」に傍点]は不憫だとかいふやうな文句を大阪の文楽座できいて何うにも涙が出て仕方がなかつたことがあるが――

 ぽつねんと机の前に坐り、あれやこれやと考へて、思ひのふさぐ時、自分を慰めてくれ、思ひを引立ててくれるものは、ザラな顔見知合ひの人間よりか、窓の外の樹木――殊にこのごろの椎の木の日を浴び、光りに戯れてゐるやうな若葉ほど、自分の胸に安らかさと力を与へてくれるものはない。鎌倉行き、売る、売り物、三題話のやうな各々《おの/\》の生活――土地を売つた以上は郷里の妻子のところに帰るほかない。人間墳墓の地を忘れてはならない。椎の若葉に光りあれ、僕は何処《どこ》に光りと熱とを求めてさまよふべきなんだらうか。我輩の葉は最早朽ちかけてゐるのだが、親愛なる椎の若葉よ、君の光りの幾部分かを僕に恵め。
                          (大正十三年六月)

底本:「現代日本文學大系 49 葛西善藏 嘉村磯多 相馬泰三 川崎長太郎 宮路嘉六 木山捷平 集」筑摩書房
   1973(昭和48)年2月5日初版第1刷発行
※底本は旧仮名新字で、カタカナで表記した名詞の拗促音のみ小書きしている。ルビ中の拗促音も、これにならって処理した。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林田清明
校正:松永正敏
2000年9月21日公開
2006年3月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

葛西善蔵

死児を産む—– 葛西善蔵

 この月の二十日前後と産婆に言われている大きな腹して、背丈がずんぐりなので醤油樽《しょうゆだる》か何かでも詰めこんでいるかのような恰好《かっこう》して、おせいは、下宿の子持の女中につれられて、三丁目附近へ産衣《うぶぎ》の小ぎれを買いに出て行った。――もう三月一日だった。二三日前に雪が降って、まだ雪解けの泥路を、女中と話しながら、高下駄でせかせかと歩いて行く彼女の足音を、自分は二階の六畳の部屋の万年床の中で、いくらか心許《こころもと》ない気持で聞いていた。自分の部屋の西向きの窓は永い間締切りにしてあるのだが、前の下宿の裏側と三間とは隔っていない壁板に西日が射して、それが自分の部屋の東向きの窓障子の磨《す》りガラスに明るく映って、やはり日増に和《やわ》らいでくる気候を思わせるのだが、電線を鳴らし、窓障子をガタピシさせている風の音には、まだまだ冬の脅威《きょうい》が残っていた。
「早く暖かくなってくれないかなあ!……」と、自分はほとんど機械的にこう呟《つぶや》く。……
 やがて、新モスの小ぎれ、ネル、晒《さら》し木綿などの包みを抱えて、おせいは帰ってきた。
「そっくりで、これで六円いくらになりましたわ。綿入り二枚分と、胴着と襦袢《じゅばん》……赤んぼには麻の葉の模様を着せるものだそうだから」……彼女は枕元で包みをひろげて、こう自分に言って聞かせた。
「そうかねえ……」と、自分は彼女のニコニコした顔と紅《あか》い模様や鬱金色《うこんいろ》の小ぎれと見|較《くら》べて、擽《くすぐ》ったい気持を感じさせられた。
「ほんとに安いものね。六円いくらでみんな揃《そろ》うんだから……」
 自分はクルリと寝返りを打ったが、そっと口の中で苦笑を噛み潰《つぶ》した。
 六円いくら――それはある雑誌に自分が談話をしたお礼として昨日二十円届けられた、その金だった。それが自分の二月じゅうの全収入……こればかしの金でどう使いようもないと思ったのが、偶然にもおせいの腹の子の産衣料となったというわけである。そして彼女はあのとおり嬉しそうな顔をしている。無智とも不憫《ふびん》とも言いようのない感じではないか。それにつけても、呪《のろ》われた運命の子こそ哀れだ……悩ましさと自責の念から、忘れかけていた脊部肋間の神経痛が、また疼《うず》きだした。……
 こうした生活が、ちょうどまる二カ月も続いているのだった。毎日午後の三四時ごろに起きては十二時近くまで寝床の中で酒を飲む。その酒を飲んでいる間だけが痛苦が忘れられたが、暁方《あけがた》目がさめると、ひとりでに呻《うめ》き声が出ていた。装飾品といって何一つない部屋の、昼もつけ放しの電灯のみが、侘《わび》しく眺められた。

 永い間自分は用心して、子を造るまいと思ってきたのに――自然には敵《かな》わないなあ!――ちょうど一年前「蠢《うごめ》くもの」という題でおせいとの醜《みにく》い啀《いが》み合いを書いたが、その時分もおせいは故意にかまた実際にそう思いこんだのか、やはり姙娠してると言いだして、自分をしてその小説の中で、思わず、自然には敵わないなあ! と嘆息させたのであるが、その時は幸いに無事だったが、月から計算してみて、七月中旬亡父の三周忌に帰郷した、その前後であるらしい。その前月おせいは一度鎌倉へつれ帰されたのだが、すぐまた逃げだしてき、その解決方に自分から鎌倉に出向いて行ったところ、酒を飲んでおせいの老父とちょっとした立廻りを演じ、それが東京や地方の新聞におおげさに書きたてられて一カ月と経っていない場合だったので、かなり億劫《おっくう》な帰郷ではあった。郷里の伯母などに催促《さいそく》され、またこの三周忌さえすましておくと当分厄介はないと思い、勇気を出して帰ることにしたのだが、そんな場合のことでいっそう新聞のことが業腹でならなかった。そんなことで、自分はその日酒を飲んではいたが、いくらかヤケくそな気持から、上野駅まで送ってきた洗いざらしの単衣《ひとえ》着たきりのおせいを郷里につれて行って、謝罪的な気持から妻に会わせたりしたのだが、その結果がいっそうおもしろくなかった。弘前《ひろさき》の菩提寺《ぼだいじ》で簡単な法要をすませたが、その席で伯母などからさんざん油をしぼられ、ほうほうの体《てい》で帰京した。その前後から自分は節制の気持を棄てた。その結果が、あと十日と差迫った因果の塊《かたま》りと、なったというわけである。……
 ああ、それにしても、何というおもしろくないことだろう! 書きだしてからもう十日も経っているというのに、まだ五枚と進んでいないのだ。いや、書くことが何もないのだ。それに、実際物を書くべくいかに苦患《くげん》な状態であるか――にもかかわらず、S君は毎日根気よくやってきては、袴の膝も崩さず居催促を続けているという光景である。アスピリンを飲み、大汗を絞《しぼ》って、ようよう四時過ぎごろに蒲団を出て、それから書けても書けなくても、自分は一時間余り机に向わなければならない。そして一枚でも渡さないと、彼は帰ってくれないのだ。むろん雑誌の締切りに間に合わないことを承知でいて、彼は意固地になっているのだ。
「よしよし、きっとうまく逃げてやろう。何もかもいっさい棄ててしまおう……」こう自分は、ほんとうに二三日前に決心したのだ。そして仙台にいる弟に電報を打ったのだ。
 明日か明後日、弟は出てくることになっている。あと十日と迫ったおせいの身体には容易ならぬ冒険なんだが、産婆も医者もむろん反対なんだが、弟につれさせて仙台へやっちまう。それから自分は放浪の旅に出る。
 仙台行きには、おせいもむろん反対だった。そのことでは「蠢《うごめ》くもの」時分よりもいっそう険悪な啀《いが》み合いを、毎晩のように自分は繰返した。彼女の顔にも頭にも生疵《なまきず》が絶えなかった。自分も生爪を剥いだり、銚子を床の間に叩きつけたりしては、下宿から厳しい抗議を受けた。でも昨今は彼女も諦めたか、昼間部屋の隅っこで一尺ほどの晒《さら》しの肌襦袢を縫ったり小ぎれをいじくったりしては、太息《ためいき》を吐《つ》いているのだ。
 何しろ、不憫《ふびん》な女には違いない。昨年の夏以来彼女の実家とは義絶状態になっていたのだが、この一月中旬突然彼女の老父|危篤《きとく》の電報で、大きな腹をして帰ったのだが、十日ほどで老父は死に、ひと七日をすます早々、彼女はまた下宿に帰ってきた。母も姉たちもいるのだが、彼女の腹の始末をつけてくれようとは、実家では言ってくれなかった。「よそへでもやって産ませるくらいなんだから、嫁もいることだし、お産の世話はできないから……」母にこう言われて、彼女もさすがに悄然《しょうぜん》とした気持で帰ってきたのだった。
 産婆の世話で、どこかの病院かで産まして、それから下宿の下の三畳の部屋でもあてがって、当分下宿で育てさせる――だいたいそうと相談をきめてあったのだが、だんだん時期の切迫とともに、自分の神経が焦燥《しょうそう》しだした。
「あなたの奥さんのうちは財産家なんで、子供の面倒も見てくれるんで、それで奥さんのことというと大事に思うんだろうが、わたしのうちはね、貧乏でね、お産の世話もしないというんでね、それでわたしのことというと、どっこまでもそうしてばかにするんだね? そうなんだろう? この悪党野郎が!……」おせいはこんなことまで言いだして、血相を変えて、突かかってきた。
「ばか! 誰がそんなことを言った?……お前の腹の子を大事に思えばこそ、誰も親身のもののいないこうした下宿なんかで、育てたくないと言ってるんじゃないか。それにお前なんかには、とてもひとりで赤んぼうなんか育てられやしないよ。赤んぼがいなくたって、このとおりじゃないか……」
「そんな言いわけは聞かないよ、赤んべえだ。……育てれなけりゃ遣《や》っちまえばいいじゃないか、お金をつけて遣っちまえばいいじゃないか」
「そんなことできやしないじゃないか。だから仙台へ行け……」
「行かないよ。誰が行くもんか、そんなに邪魔にされて。……赤んぼがほしいが聞いて呆《あき》れら、自分の餓鬼《がき》ひとりだって傍に置いたこともないくせに……」
「………」自分の拳固が彼女の頬桁《ほおげた》に飛んだ。……

 ほとんど一カ月ぶりで、二時過ぎに起きて、二三町離れたお湯へ入りに行った。新聞にも上野の彼岸桜がふくらみかけたといって、写真も出ていたが、なるほど、久しぶりで仰ぐ空色は、花曇りといった感じだった。まだ宵のうちだったが、この狭い下宿街の一廓にも義太夫の流しの音が聞えていた。
「明日は叔父さんが来るだ……」おせいはブツブツつぶやきながらも、今日も白いネルの小襦袢を縫っていた。新モスの胴着や綿入れは、やはり同じ下宿人の会社員の奥さんが縫ってくれて、それもできてきて、彼女の膝の前に重ねられてあった。
「いったいどんな気がしているのかなあ?……あんなことをしていて。……やはり男性には解らない感じのものかもしれないな」と、自分は多少の憐憫《れんびん》を含めた気持で、彼女のそうした様子を眺めて、思ったりした。
「蠢《うごめ》くもの」では、おせいは一度流産したことになっている。何カ月目だったか、とにかく彼女のいわゆるキューピーのような恰好をしていたのを、彼女の家の裏の紅い桃の木の下に埋めた――それも自分が呪《のろ》い殺したようなものだ――こうおせいに言わしてある。で今度もまた、昨年の十月ごろ日光の山中で彼女に流産を強いた、というようにでも書き続けて行こうとも思って、夕方近くなって机に向ったのだったが、年暮れに未知の人からよこされた手紙のことが、竦然《しょうぜん》とした感じでふと思いだされて、自分はペンを措《お》いて鬱《ふさ》ぎこんでしまった。
 それは、自分と同姓の、しかも自分とは一廻り下の同じ亥年《いどし》の二十六歳の、K刑務所に服役中の青年囚徒からの手紙だった。彼の郷国も、罪名も、刑期も書いてはなかったが、しかしとにかく十九の年からもう七年もいて、まだいつごろ出られるとも書いてないところから考えても、容易ならぬ犯罪だったことだけは推測される。――とにかく彼は自分の「蠢くもの」を読んでいるのだ。
 で、自分はまた、手文庫の底からその手紙を取りだして、仔細に読んでみた。
 刑務所の書信用紙というのは赤刷りの細かい罫紙《けいし》で、後の注意という下の欄には――手紙ノ発受ハ親類ノ者ニノミコレヲ許スソノ度数ハ二カ月ゴトニ一回トス賞表ヲ有スル在所人ニハ一回ヲ増ス云々――こういった事項も書きこまれてある。そして手紙の日づけと配達された日との消印の間に二十日ほど経っているが、それが検閲《けんえつ》に費された日数なのであろう。そしてその細罫二十五行ほどに、ぎっしりと、ガラスのペンか何かで、墨汁の細字がいっぱいに認められてある。そしてちょっと不思議に感じられたのは、その文面全体を通じて、注意事項の親族云々を聯想させるような字句が一つとして見当らないのだが、それがたんに同姓というだけのことで検閲官の眼がごまかされたのだろうとも考えられないことだし、してみると、この文面全体に溢れている感じが、おそらく係りの人を動かしたものとしか考えられない。いわゆる、悔悛《かいしゅん》の情云々――そういったところだったに違いない。自分はその二三句をここに引いてみよう。自分としては非常に忸怩《じくじ》とした、冷汗を催《もよお》される感じなんだが。――こうした悪虐な罪人がなお幾年かを続けねばならぬ囚人生活の中からただ今先生のために真剣な筆を走らしていますことは、何かしら深い因縁のあることと思います。ぶしつけな不遜《ふそん》な私の態度を御|赦《ゆる》しくださいませ――なおもなおも深く身を焦さねばならぬ煩悩《ぼんのう》の絆《きずな》にシッカと結びつけられながら、身ぶるいするようなあの鉄枠《てつわく》やあるいは囚舎の壁、鉄扉にこの生きた魂、罪に汚れながらも自分のものとしてシッカと抱いていねばならぬ魂を打つけて、血まみれになっているその悲惨さを体味しながらそれでも一条の灯を認めて姑息《こそく》ながらに生きているは「蠢《うごめ》くもの」その他などに現れた先生の芸術云々――モグラモチのように真暗な地の底を掘りながら千辛万苦して生きて行かねばならぬ罪人の生活、牢獄の生活から私が今解放されて満足を与えられつつあるのは云々――私に生きて行かねばならぬ私であることを訓《おし》えてくださった「蠢くもの」は私の醒めがたい悪夢から這《は》いださしてくださいました――私がここから釈放された時何物か意義ある筆の力をもって私ども罪に泣く同胞のために少しでも捧げたいと思っております――何卒紙背の微意を御了解くださるように念じあげます云々――

 終日床の中にいて、ようよう匐《は》いでるようにして晩酌をはじめたのだったが、少し酔いの廻りかけた時分だったので、自分はその手紙を読んで何とも言えない憂鬱と、悩ましい感じに打たれた。自分の作のどういう点がほんとに彼を感動さしたのか――それは一見明瞭のようであって、しかしどこやら捉《とら》えどころのない暗い感じだった。おそらくあの作の持っている罪業的な暗い感じに、彼はある親味と共鳴とを感じたのでもあろうが、それがひどく欠陥のある稚拙《ちせつ》な彼の文章から、自分にそうした曖昧《あいまい》な印象を与えたものであろうと思われたが、それにしても「迂濶《うかつ》に物は書けない……」自分は一種の感動から、こう心に叫んだのだった。彼はあの作の動機に好意を持っていてくれてる。モグラモチのように蠢きながらも生きて行かねばならぬ、罪業の重さに打わなきながらも明るみを求めて自棄してはならぬ――こういった彼の心持の真実は自分にもよくわかる気がする。といって自分のあの作が、それだけの感動に値いするものだとはけっして考えはしないのだが、第一にあの作には非常な誇張がある、けっして事実のものの記録ではないのだが、それがこの青年囚徒氏に単純な記録として読まれて、作品としての価値以上の一種の感激を与えていたということになると、自分は人間としての良心の疚《やま》しさを感じないわけに行かないのだ。どっちにしたって同じことじゃないか?――自分はこうも思いたかったのだが、迂濶に物を書いてはならない――そうした気持を払い退けることができなかった。あまりにも暗い刺戟的な作――つまりはその基調となっている現在の生活を棄てなければ、出て行かなければ――それが第一の問題なのだが、ところがどうだ?……ますます深味に落ちて行くばかりではないか? 「蠢くもの」以前、またその後の生活だって、けっしてこの未知の青年に対して恥じないような生活を、自分にはしてきているとは、言えないのだ。
 たまらないような気持から、自分としてはめったにないことなんだが、寒い風の外に出て、三丁目附近のレストランに出かけて行った。十時を過ぎていた。自分も鎌倉から出てきて一年余りの下宿生活の間に、三四度も来たことのある階下の広い部屋だったが、その晩は思いがけなくクリスマスの夜だった。入口の隅のクリスマスの樹――金銀の眩《まばゆ》い装飾、明るい電灯――その下の十いくつかのテーブルを囲んだオールバックにいろいろな色のマスクをかけた青年たち、断髪洋装の女――彼らの明るい華かな談笑の声で、部屋の中が満たされていた。自分は片隅のテーブルでひとりでいくつかの強い酒の杯を重ねたが、思いがけなかったその晩の光景は、いっそう自分の気分を滅入《めい》らせたのだった。あの鉄枠の中の青年の生活と、こうした華かな、クリスマスの仮面をつけて犢《こうし》や七面鳥の料理で葡萄酒の杯を挙げている青年男女の生活――そしてまた明るさにも暗さにも徹しえない自分のような人間――自分は酔いが廻ってくるにしたがって、涙ぐましいような気持にさえなってきて、自分の現在の生活を出るというためからも、こうした怪しげな文筆など棄てて、ああした不幸な青年たちに直接に、自分として持ってきたすべてを捧げたい――そうしたところに自分の救いの道があるのではあるまいか、などと、いつものアル中的空想に囚《とら》われたりしたが、結局自分はその晩の光景に圧倒され、ひどく陰鬱《いんうつ》な狂おしいような気持で、十二時近く外へ出たのだった。……
 自分はその前年の九月の震災まで、足かけ五年間、鎌倉の山の中の古寺の暗い一室で、病気、不幸、災難、孤独、貧乏――そういったあらゆる惨《みじ》めな気持のものに打挫《うちくじ》かれたような生活を送っていたのだったが、それにしても、実際の牢獄生活と較べてどれほど幸福な、自由な、静かな恵まれた生活であるかを思って、自分はなお自分の乏しい精力で、自分だけの仕事をして行こうという勇気を失わずに来ることができた。が、あの高い煉瓦塀の中でのいっさいの自由を奪われたような苦役生活の八年間――どれほどの重い罪を犯したものか、自分なんかにはほとんど想像もつかないことではあるが、何しろ彼はまだ当年十九歳の、いわばまだ少年と言っていい年齢だったのだ。それがそれほどの重大な犯人……? そしてまた、そうした八年間の実際の牢獄生活の中にも、彼はまだ生の光りを求むる心を失わずにいるかのようにも思える。そしてまた、彼はこのさきまだ何年くらい今の生活を続けなければならないのか――そのことは彼の手紙に書いてなかった。

 四月二日朝、おせいは小石川のある産科院で死児を分娩《ぶんべん》した。それに立合った時の感想はここに書きたくない。やはり、どこまでも救われない自我的な自分であることだけが、痛感された。粗末なバラックの建物のまわりの、六七本の桜の若樹は、もはや八分どおり咲いていた。……

底本:「日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集」集英社
   1969(昭和44)年7月12日初版発行
入力:住吉
校正:小林繁雄
2011年10月25日作成
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葛西善蔵

子をつれて—– 葛西善藏

 掃除をしたり、お菜《さい》を煮たり、糠味噌を出したりして、子供等に晩飯を濟まさせ、彼はやうやく西日の引いた縁側近くへお膳を据ゑて、淋しい氣持で晩酌の盃を甞めてゐた。すると御免とも云はずに表の格子戸をそうつと開けて、例の立退《たちの》き請求の三百が、玄關の開いてた障子の間から、ぬうつと顏を突出した。
「まあお入りなさい」彼は少し酒の氣の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐた處なので、坐つたなり元氣好く聲をかけた。
「否《いや》もうこゝで結構です。一寸そこまで散歩に來たものですからな。……それで何ですかな、家が定まりましたでせうな? もう定まつたでせうな?」
「……さあ、實は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい」
 彼は起つて行つて、頼むやうに云つた。
「別にお話を聽く必要も無いが……」と三百はプンとした顏して呟きながら、澁々に入《はひ》つて來た。四十二三の色白の小肥《こぶと》りの男で、紳士らしい服裝してゐる。併し斯うした商賣の人間に特有――かのやうな、陰險な、他人の顏を正面に視れないやうな變にしよぼ/\した眼附してゐた。
「……で甚だ恐縮な譯ですが、妻《さい》も留守のことで、それも三四日中には屹度歸ることになつて居るのですから、どうかこの十五日まで御猶豫願ひたいものですが、……」
「出來ませんな、斷じて出來るこつちやありません!」
 斯う呶鳴るやうに云つた三百の、例のしよぼ/\した眼は、急に紅い焔でも發しやしないかと思はれた程であつた。で彼はあわてゝ、
「さうですか。わかりました。好《よ》ござんす、それでは十日には屹度越すことにしますから」と謝《あや》まるやうに云つた。
「私もそりや、最初から貴方を車夫馬丁同樣の人物と考へたんだと、そりやどんな強い手段も用ゐたのです。がまさかさうとは考へなかつたもんだから、相當の人格を有して居られる方だらうと信じて、これだけ緩慢に貴方の云ひなりになつて延期もして來たやうな譯ですからな、この上は一歩も假借する段ではありません。如何なる處分を受けても苦しくないと云ふ貴方の證書通り、私の方では直ぐにも實行しますから」
 何一つ道具らしい道具の無い殺風景な室の中をじろ/\氣味惡るく視※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、三百は斯う呶鳴り續けた。彼は、「まあ/\、それでは十日の晩には屹度引拂ふことにしますから」と、相手の呶鳴るのを抑へる爲め手を振つて繰返すほかなかつた。
「……實に變な奴だねえ、さうぢや無い?」
 やう/\三百の歸つた後で、彼は傍で聽いてゐた長男と顏を見交はして苦笑しながら云つた。
「……さう、變な奴」
 子供も同じやうに悲しさうな苦笑を浮べて云つた。……

 狹い庭の隣りが墓地になつてゐた。そこの今にも倒れさうになつてゐる古板塀に繩を張つて、朝顏がからましてあつた。それがまた非常な勢ひで蔓が延びて、先きを摘んでも/\わきから/\と太いのが出て來た。そしてまたその葉が馬鹿に大きくて、毎日見て毎日大きくなつてゐる。その癖もう八月に入つてるといふのに、一向花が咲かなかつた。
 いよ/\敷金切れ、滯納四ヶ月といふ處から家主との關係が斷絶して、三百がやつて來るやうになつてからも、もう一月《ひとつき》程も經つてゐた。彼はこの種を蒔いたり植ゑ替へたり繩を張つたり油粕までやつて世話した甲斐もなく、一向に時が來ても葉や蔓ばかし馬鹿延びに延びて花の咲かない朝顏を餘程皮肉な馬鹿者のやうにも、またこれほど手入れしたその花の一つも見れずに追ひ立てられて行く自分の方が一層の慘《みじ》めな痴呆者《たはけもの》であるやうな氣もされた。そして最初に訪ねて來た時分の三百の煮え切らない、變に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り冗《くど》く持ちかけて來る話を、幾らか馬鹿にした氣持で、塀いつぱいに匐ひのぼつた朝顏を見い/\聽いてゐたのであつた。所がそのうち、二度三度と來るうちに、三百の口調態度がすつかり變つて來てゐた。そして彼は三百の云ふなりになつて、八月十日限りといふいろ/\な條件附きの證書をも書かされたのであつた。そして無理算段をしては、細君を遠い郷里の實家《さと》へ金策に發《た》たしてやつたのであつた。……
「なんだつてあの人はあゝ怒《おこ》つたの?」
「やつぱし僕達に引越せつて譯さ。なあにね、明日《あした》あたり屹度|母《かあ》さんから金が來るからね、直ぐ引越すよ、あんな奴《やつ》幾ら怒つたつて平氣さ」
 膳の前に坐つてゐる子供等相手に、斯うした話をしながら、彼はやはり淋しい氣持で盃を甞め續けた。
 無事に着いた、屹度十日までに間に合せて金を持つて歸るから――といふ手紙一本あつたきりで其後消息の無い細君のこと、細君のつれて行つた二女のこと、また常陸の磯原へ避暑に行つてるKのこととKからは今朝も、二ツ島といふ小松の茂つたそこの磯近くの巖に、白い波の碎けてゐる風景の繪葉書が來たのだ。それには、「勿來關に近いこゝらはもう秋だ」といふやうなことが書いてあつた。それがこの三年以來の暑氣だといふ東京の埃りの中で、藻掻き苦しんでゐる彼には、好い皮肉であらねばならなかつた。
「いや、Kは暑を避けたんぢやあるまい。恐らくは小田を勿來關に避けたといふ譯さ」
 斯う彼等の友達の一人が、Kが東京を發つた後で云つてゐた。それほど彼はこの三四ヶ月來Kにはいろ/\厄介をかけて來てゐたのであつた。
 この三四ヶ月程の間に、彼は三四の友人から、五圓程宛金を借り散らして、それが返せなかつたので、すべてさういふ友人の方面からは小田といふ人間は封じられて了つて、最後にKひとりが殘された彼の友人であつた。で「小田は十錢持つと、澁谷へばかし行つてゐるさうぢやないか」友人達は斯う云つて蔭で笑つてゐた。晩の米が無いから、明日の朝食べる物が無いから――と云つては、その度に五十錢一圓と強請《ねだ》つて來た。Kは小言《こごと》を並べながらも、金の無い時には古本や古着古靴などまで持たして寄越した。彼は歸つて來て、「そうらお土産《みやげ》……」と、赤い顏する細君の前へ押遣るのであつた。(何處からか、救ひのお使者《つかひ》がありさうなものだ。自分は大した贅澤な生活を望んで居るのではない、大した欲望を抱いて居るのではない、月に三十五圓もあれば自分等家族五人が饑ゑずに暮して行けるのである。たつたこれだけの金を器用に儲けれないといふ自分の低能も度し難いものだが、併したつたこれだけの金だから何處からかひとりでに出て來てもよささうな氣がする)彼にはよくこんなことが空想されたが、併しこの何ヶ月は、それが何處からも出ては來なかつた。何處も彼處も封じられて了つた。一日一日と困つて行つた。蒲團が無くなり、火鉢が無くなり、机が無くなつた。自滅だ――終《しま》ひには斯う彼も絶望して自分に云つた。
 電燈屋、新聞屋、そばや、洋食屋、町内のつきあひ[#「つきあひ」に傍点]――いろんなものがやつて來る。室《へや》の中に落着いて坐つてることが出來ない。夜も晩酌が無くては眠れない。頭が痛んでふら/\する。胸はいつでもどきん/\してゐる。……
 と云つて彼は何處へも訪ねて行くことが出來ないので、やはり十錢持つと、Kの澁谷の下宿へ押かけて行くほかなかつた。Kは午前中は地方の新聞の長篇小説を書いて居る。午後は午睡や散歩や、友達を訪ねたり訪ねられたりする時間にあてゝある。彼は電車の中で、今にも昏倒しさうな不安な氣持を感じながらどうか誰も來てゐないで呉れ……と祈るやうに思ふ。先客があつたり、後から誰か來合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入つた、一層壓倒された慘めな氣持にされて歸らねばならぬのだ――
 彼は齒のすつかりすり減つた日和《ひより》を履《は》いて、終點で電車を下りて、午下《ひるさが》りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの下宿の前庭の高い松の樹を見あげるやうにして、砂利を敷いた阪路を、ひよろ高い屈《まが》つた身體《からだ》してテク/\上つて行くのであつた。松の樹にはいつでも蝉がギン/\鳴いてゐた。また玄關前のタヽキの上には、下宿の大きな土佐犬が手脚を伸して寢そべつてゐた。彼は玄關へ入るなり、まづ敷臺の隅の洋傘やステツキの澤山差してある瀬戸物の筒に眼をつける――Kの握り太の籐のステツキが見える――と彼は案内を乞ふのも氣が引けるので、こそこそと二階のKの室へあがつて行く。……
「……K君――」
「どうぞ……」
 Kは毛布を敷いて、空氣枕の上に執筆に疲れた頭をやすめてゐるか、でないとひとりでトランプを切つて占ひごとをしてゐる。
「この暑いのに……」
 Kは斯う警戒する風もなく、笑顏を見せて迎へて呉れると、彼は初めてほつとした安心した氣持になつて、ぐたりと坐るのであつた。それから二人の間には、大抵次ぎのやうな會話が交はされるのであつた。
「……そりやね、今日の處は一圓差上げることは差上げますがね。併しこの一|圓金《ゑんきん》あつた處で、明日《あした》一日凌げば無くなる。……後をどうするかね? 僕だつて金持といふ譯ではないんだからね、さうは續かないしね。一體君はどうご自分の生活といふものを考へて居るのか、僕にはさつぱり見當が附かない」
「僕にも解らない……」
「君にも解らないぢや、仕樣が無いね。で、一體君は、さうしてゐて些《ちつ》とも怖《こは》いと思ふことはないかね?」
「そりや怖《こは》いよ。何も彼《か》も怖いよ。そして頭が痛くなる、漠然とした恐怖――そしてどうしていゝのか、どう自分の生活といふものを考へていゝのか、どう自分の心持を取直せばいゝのか、さつぱり見當が附かないのだよ」
「フン、どうして君はさうかな。些《ちつ》とも漠然とした恐怖なんかぢやないんだよ。明瞭な恐怖なんぢやないか。恐ろしい事實なんだよ。最も明瞭にして恐ろしい事實なんだよ。それが君に解らないといふのは僕にはどうも不思議でならん」
 Kは斯う云つて、口を噤んで了ふ。彼もこれ以上Kに追求されては、ほんたうは泣き出すほかないと云つたやうな顏附になる。彼にはまだ本當に、Kのいふその恐ろしいものゝ本體といふものが解らないのだ。がその本體の前にぢり/\引摺り込まれて行く、泥沼に脚を取られたやうに刻々と陷沒しつゝある――そのことだけは解つてゐる。けれどもすつかり陷沒し切るまでには、案外時がかゝるものかも知れないし、またその間にどんな思ひがけない救ひの手が出て來るかも知れないのだし、また福運といふ程ではなくも、どうかして自分等家族五人が饑ゑずに活《い》きて行けるやうな新しい道が見出せないとも限らないではないか?――無氣力な彼の考へ方としては、結局またこんな處へ落ちて來るといふことは寧ろ自然なことであらねばならなかつた。
(魔法使ひの婆さんがあつて、婆さんは方々からいろ/\な種類の惡魔を生捕つて來ては、魔法で以て惡魔の通力を奪つて了ふ。そして自分の家來にする。そして滅茶苦茶にコキ使ふ。厭《いや》なことばかしさせる。終《しま》ひにはさすがの惡魔も堪へ難くなつて、婆さんの處を逃げ出す。そして大きな石の下なぞに息《いき》を殺して隱れて居る。すると婆さんが搜しに來る。そして大きな石をあげて見る、――いやはや惡魔共が居るわ/\、塊《かたま》り合つてわな/\ぶる/\慄へてゐる。それをまた婆さんが引掴《ひつつか》んで行つて、一層ひどくコキ使ふ。それでもどうしても云ふことを聽かない奴は、懲らしめの爲め何千年とか何萬年とかいふ間、何にも食はせずに壁の中や巖の中へ魔法で封じ込めて置く――)
 これがKの、西藏《チベツト》のお伽噺――恐らくはKの創作であらう――といふものであつた。話上手のKから聽かされては、この噺は幾度聽かされても彼にはおもしろかつた。
「何と云つて君はヂタバタしたつて、所詮君といふ人はこの魔法使ひの婆さん見たいなものに見込まれて了つてゐるんだからね、幾ら逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたつて、そりや駄目なことさ、それよりも穩《おと》なしく婆さんの手下になつて働くんだね。それに通力を拔かれて了つた惡魔なんて、ほんとに仕樣が無いもんだからね。それも君ひとりだつたら、そりや壁の中でも巖の中でも封じ込まれてもいいだらうがね、細君や子供達まで卷添《まきぞ》へにしたんでは、そりや可哀相だよ」
「そんなもんかも知れんがな。併しその婆さんなんていふ奴《やつ》、そりや厭な奴だからね」
「厭だつて仕方が無いよ。僕等は食はずにや居られんからな。それに厭だつて云ひ出す段になつたら、そりや君の方の婆さんばかしとは限らないよ」
 夕方近くになつて、彼は晩の米を買ふ金を一圓、五十錢と貰つては、歸つて來る。(本當に、この都會といふ處には、Kのいふその魔法使ひの婆さん見たいな人間ばかしだ!)と、彼は歸りの電車の中でつく/″\と考へる。――いや、彼を使つてやらうといふやうな人間がそんなのばかりなのかも知れないが。で彼は、彼等の酷使に堪へ兼ねては、逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。食はず飮まずでもいいからと思つて、石の下――なぞに隱れて見るが、また引掴まへられて行く。……既に子供達といふものがあつて見れば! 運命だ! が、やつぱし辛抱が出來なくなる。そして、逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。……
 處で彼は、今度こそはと、必死になつて三四ヶ月も石の下に隱れて見たのだ。がその結果は、やつぱし壁や巖の中へ封じ込められようといふことになつたのだ。……
 Kへは氣の毒である。けれども彼には何處と云つて訪ねる處が無い。でやつぱし、十錢持つと、澁谷へ通《かよ》つた。
 處が最近になつて、彼はKの處からも、封じられることになつた。それは、Kの友人達が、小田のやうな人間を補助するといふことはKの不道徳だと云つて、Kを非難し始めたのであつた。「小田のやうなのは、つまり惡疾患者見たいなもので、それもある篤志な醫師などに取つては多少の興味ある活物《いきもの》であるかも知れないが、吾々健全な一般人に取つては、寧ろ有害無益の人間なのだ。そんな人間の存在を助けてゐるといふことは、社會生活といふ上から見て、正しく不道徳な行爲であらねばならぬ」斯ういふのが彼等の一致した意見なのであつた。
「一體貧乏といふことは、決して不道徳なものではない。好い意味の貧乏といふものは、却て他人に謙遜な好い感じを與へるものだが、併し小田のはあれは全く無茶といふものだ。貧乏以上の状態だ。憎むべき生活だ。あの博大なドストヱフスキーでさへ、貧乏といふことはいゝことだが、貧乏以上の生活といふものは呪ふべきものだと云つてゐる。それは神の偉大を以てしても救ふことが出來ないから……」斯うまた、彼等のうちの一人の、露西亞文學通が云つた。
 また、つい半月程前のことであつた。彼等の一人なるYから、亡父の四十九日といふので、彼の處へも香奠返しのお茶を小包で送つて來た。彼には無論一圓といふ香奠を贈る程の力は無かつたが、それもKが出して置いて呉れたのであつた。Yの父が死んだ時、友人同志が各自に一圓づつの香奠を送るといふのも面倒だから、連名にして送らうではないかといふ相談になつて(彼はその席には居合せなかつたが)その時Kが「小田も入れといてやらうぢやないか、斯ういふ場合なんだからね、小田も可愛相だよ」斯う云つて、彼の名をも書き加へて、Kが彼の分をも負擔したのであつた。
 それから四十九日が濟んだといふ翌くる日の夕方前、――丁度また例の三百が來てゐて、それがまだ二三度目かだつたので、例の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り冗《くど》い不得要領な空恍《そらとぼ》けた調子で、並べ立てゝゐた處へ、丁度その小包が着いたのであつた。「いや私も近頃は少し腦の加減を惡るくして居りましてな」とか、「ええその、居《きよ》は心を移すとか云ひますがな、それは本當のことですな。何でも斯ういふ際は多少の不便を忍んでもすぱりと越して了ふんですな。第一處が變れば周圍の空氣からして變るといふもんで、自然人間の思想も健全になるといふやうな譯で……」斯う云つたやうなことを一時間餘りもそれからそれと並べ立てられて、彼はすつかり參つてゐた處なので、もう解つたから早く歸つて呉れと云はぬばかしの顏してゐた處なので、そこへ丁度好くそのお茶の小包が着いたので、それが氣になつて堪らぬと云つた風をしては、座側《わき》に置いた小包に横目をやつてゐた。また實際一圓の香奠を友人に出して貰はねばならぬ樣な身分の彼としては、一斤といふお茶は貴重なものに違ひなかつた。で三百の歸つた後で、彼は早速小包の横を切るのももどかしい思ひで、包裝を剥《は》ぎ、そしてそろ/\と紙箱の蓋《ふた》を開けたのだ。……新しいブリキ鑵の快よい光! 山本山と銘打つた紅いレツテルの美はしさ! 彼はその刹那に、非常な珍寶にでも接した時のやうに、輕い眩暈すら感じたのであつた。
 彼は手を附けたらば、手の汗でその快よい光りが曇り、すぐにも錆が附きやしないかと恐るゝかのやうに、そうつと注意深く鑵を引出して、見惚《みと》れたやうに眺め※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。……と彼は、ハツとした態《さま》で、あぶなく鑵を取落しさうにした。そして忽ち今までの嬉しげだつた顏が、急に悄《しよ》げ垂《た》れた、苦《にが》いやうな悲しげな顏になつて、絶望的な太息を漏らしたのであつた。
 それは、その如何にも新らしい快よい光輝を放つてゐる山本山正味百二十匁入りのブリキの鑵に、レツテルの貼られた後ろの方に、大きな凹みが二箇所といふもの、出來てゐたのであつた。何物かへ強く打つけたか、何物かで強く打つたかとしか思はれない、ひどい凹みであつた。やがて、當然、彼の頭の中に、これを送つた處のYといふ人間が浮んで來た。あの明確な頭腦の、旺盛な精力の、如何なる運命をも肯定して驀地《まつしぐ》らに未來の目標に向つて突進しようといふ勇敢な人道主義者――、常に異常な注意力と打算力とを以て自己の周圍を視※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、そして自己に不利益と見えたものは天上の星と雖も除き去らずには措かぬといふ強猛な感情家のY、――併し彼は如何に猜疑心を逞うして考へて見ても、まさかYが故意に、彼を辱しめる爲めに送つて寄越したのだとは、彼にも考へることが出來なかつた。……それは餘りに理由《いはれ》ないことであつた。
「何しろ身分が身分なんだから、それは大したものに違ひなからうからな、一々|開《あ》けて檢《しら》べて見るなんて出來た譯のものではなからう。つまり偶然に、斯うした傷物《きずもの》が俺に當つたといふ譯だ……」
 それが當然の考へ方に違ひなかつた。併し彼は何となく自分の身が恥ぢられ、また悲しく思はれた。偶然とは云へ、斯うした物に紛れ當るといふことは、餘程呪はれた者の運命に違ひないといふ氣が強くされて――
 彼は、子供等が庭へ出て居り、また丁度細君も使ひに行つてゝ留守だつたのを幸ひ、臺所へ行つて※[#「木+雷」、第4水準2-15-62]木《すりこぎ》で出來るだけその凹みを直し、妻に見つかつて詰問されるのを避ける準備をして置かねばならなかつた。

 それから二三日經つて、彼はKに會つた。Kは彼の顏を見るなり、鋭い眼に皮肉な微笑を浮べて、
「君の處へも山本山が行つたらうね?」と訊いた。
「あ貰つたよ。さう/\、君へお禮を云はにやならんのだつけな」
「お禮はいゝが、それで別段異状はなかつたかね?」
「異状?……」彼にもKの云ふ意味が一寸わからなかつた。
「……だと別に何でもないがね、僕はまた何處か異状がありやしなかつたかと思つてね。……そんな話を一寸聞いたもんだから」
 斯う云はれて、彼の顏色が變つた。――鑵の凹みのことであつたのだ。
 それは、全く、彼にも想像にも及ばなかつた程、恐ろしい意外のことであつた。鑵の凹みは、Yが特に、毎朝振り慣れた鐵亞鈴《てつあれい》で以て、左りぎつちよ[#「左りぎつちよ」に傍点]の逞しい腕に力をこめて、Kの口調で云ふと、「えゝ憎き奴め!」とばかり、毆《なぐ》りつけて寄越したのださうであつた。
「……K君そりや本當の話かね? 何でまたそれ程にする必要があつたんかね? 變な話ぢやないか。俺はYにも御馳走にはなつたことはあるが、金は一文だつて借りちやゐないんだからな……」
 斯う云つた彼の顏付は、今にも泣き出しさうであつた。
「だからね、そんな、君の考へてるやうなもんではないつてんだよ、世の中といふものはね。もつともつと君の考へてる以上に怖ろしいものなんだよ、現代の生活マンの心理といふものはね。……つまり、他に理由はないんさ、要するに貧乏な友達なんか要《い》らないといふ譯なんだよ。他に君にどんな好い長所や美點があらうと、唯君が貧乏だといふだけの理由から、彼等は好かないといふんだからね、仕樣がないぢやないか。殊にYなんかといふあゝ云つた所謂道徳家から見ては、單に惡病患者視してるに堪へないんだね。機會さへあればさう云つた目障りなものを除き去らう撲滅しようとかゝつてるんだからね。それで今度のことでは、Yは僕のこともひどく憤慨してるさうだよ。……小田のやうな貧乏人から、香奠なんか貰ふことになつたのも、皆なKのせゐ[#「せゐ」に傍点]だといふんでね。かと云つて、まさか僕に鐵亞鈴を喰はせる譯にも行かなかつたらうからね。何しろ今の裟婆と[#「裟婆と」はママ]いふものは、そりや怖ろしいことになつて居るんだからね」
「併し俺には解らない、どうしてそんなYのやうな馬鹿々々しいことが出來るのか、僕には解らない」
「そこだよ、君に何處か知ら脱《ぬ》けてる――と云つては失敬だがね、それは君は自分に得意を感じて居る人間が、慘《みじ》めな相手の一寸したことに對しても持ちたがる憤慨や暴慢といふものがどんな程度のものだかといふことを了解してゐないからなんだよ。それに一體君は、魔法使ひの婆さん見たいな人間は、君に仕事をさせて呉れるやうな方面にばかし居るんだと思つてるのが、根本の間違ひだと思ふがな。吾々の周圍――文壇人なんてもつとひどいものかも知れないからね。君のいふ魔法使ひの婆さんとは違つた、風流な愛とか人道とか慈《いつ》くしむとか云つてるから悉くこれ慈悲忍辱の士君子かなんぞと考へたら、飛んだ大間違ひといふもんだよ。このことだけは君もよく/\腹に入れてかゝらないと、本當に君といふ人は吾々の周圍から、……生存出來ないことになるぜ! 世間には僕のやうな風來々坊《ふうらい/\ばう》ばかし居ないからね」
 今にも泣き出しさうに瞬《しばた》たいてゐる彼の眼を覗き込んで、Kは最後の宣告でも下すやうに、斯う云つた。

 …………
 眼を醒まして見ると、彼は昨夜のまゝのお膳の前に、肌襦袢一枚で肱枕して寢てゐたのであつた。身體中そちこち蚊に喰はれてゐる。膳の上にも盃の中にも蚊が落ちてゐる。嘔吐を催させるやうな酒の臭ひ――彼はまだ醉の殘つてゐるふら/\した身體を起して、雨戸を開け放した。次ぎの室で子供等が二人、蚊帳も敷蒲團もなく、ボロ毛布の上へ着たなりで眠つてゐた。
 朝飯を濟まして、書留だつたらこれを出せと云つて子供に認印を預けて置いて、貸家搜しに出かけようとしてる處へ、三百が、格子外から聲かけた。
「家も定《き》まつたでせうな? 今日は十日ですぜ。……御承知でせうな?」
「これから搜さうといふんですがな、併し晩までに引越したらそれでいゝ譯なんでせう」
「そりや晩までゝ差支へありませんがね、併し餘計なことを申しあげるやうですが、引越しはなるべく涼しいうちの方が好かありませんかね?」
「併し兎に角晩までには間違ひなく引越しますよ」
「でまた餘計なことを云ふやうですがな、その爲めに私の方では如何なる御處分を受けても差支へないといふ證書も取つてあるのですからな、今度間違ふと、直ぐにも處分しますから」
 三百は念を押して歸つて去つた。彼は晝頃までそちこち歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて歸つて來たが、やはり爲替が來てなかつた。
 で彼はお晝からまた、日のカン/\照りつける中を、出て行つた。顏から胸から汗がぽたぽた流れ落ちた。クラ/\と今にも打倒れさうな疲れた頼りない氣持であつた。齒のすり滅つた下駄のやうになつた日和《ひより》を履いて、手の脂《やに》でべと/\に汚れた扇を持つて、彼はひよろ[#「ひよろ」に傍点]高い屈つた身體してテク/\と歩いて行つた。それは細いだら/\の坂路の兩側とも、石やコンクリートの塀を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したお邸宅《やしき》ばかし並んでゐるやうな閑靜な通りであつた。無論その邊には彼に恰好な七圓止まりといふやうな貸家のあらう筈はないのだが、彼はそこを拔けて電車通りに出て、電車通りの向うの谷のやうになつた低地の所謂細民窟附近を搜して見ようと思つて、通りかゝつたのであつた。兩側の塀の中からは蝉やあぶら[#「あぶら」に傍点]やみん[#「みん」に傍点]/\やおうし[#「おうし」に傍点]の聲が、これでもまだ太陽の照りつけ方が足りないとでも云ふやうに、ギン/\溢れてゐた。そしてどこの門の中も、人氣が無いかのやうにひつそり閑《かん》としてゐて、敷きつめた小砂利の上に、太陽がチカ/\光つてゐた。で「斯んな廣いお邸宅の靜かな室で、午睡でもしてゐたいものだ」と彼はだらだら流れ出る胸の汗を拭き/\、斯んなことを思ひながら、息を切らして歩いて行つた。左り側に彼が曾て雜誌の訪問記者として二三度お邪魔したことのある、實業家で、金持で、代議士の邸宅があつた。「やはり先生避暑にでも行つてるのだらうが、何と云つても彼奴等《きやつら》はいゝ生活をしてゐるな」彼は羨ましいやうな、また憎くもあるやうな、結局藝術とか思想とか云つてゝも自分の生活なんて實に慘《みじ》めで下らんもんだといふやうな氣がされて、彼は歩みを緩《ゆる》めて、コンクリートの塀の上にガラスの破片を突立てた廣い門の中をジロ/\横目に見遣りながら、歩いて行つたのであつた。が丁度その時、坂の向うから、大きな體格の白服の巡査が、劍をガチン/\鳴らしながらのそり/\やつて來た。顏も體格に相應して大きな角張つた顏で、鬚が頬骨の外へ出てる程長く跳ねて、頬鬚の無い鍾馗そのまゝの嚴《いか》めしい顏をしてゐた。處が彼が瞥《ちら》と何氣なしに其巡査の顏を見ると、巡査が眞直ぐに彼の顏に鋭い視線を向けて、厭に横柄なのそり/\した歩き振りでやつて來てるので、彼は何といふことなしに身内の汗の冷めたくなるのを感じた。彼は別に法律に觸れるやうなことをしてる身に憶えないが、さりとて問ひ詰められては間誤《まご》つくやうなこともあるだらうし、またどんな嫌疑で――彼の見すぼらしい服裝だけでもそれに値ひしないとは云へないのだから――「オイオイ! 貴樣は? 厭に邸内をジロジロ覗き歩いて居るが、一體貴樣は何者か? 職業は? 住所は?」
 で彼は何氣ない風を裝ふつもりで、扇をパチ/\云はせ、息の詰まる思ひしながら、細い通りの眞中を大手を振つてやつて來る見あげるやうな大男の側を、急ぎ脚に行過ぎようとした。
「オイオイ!」
 ……果して來た! 彼の耳がガアンと鳴つた。
「オイオイ!……」
 警官は斯う繰返してものゝ一分もじつと彼の顏を視つめてゐたが、
「……忘れたか! 僕だよ……忘れたかね? ウヽ?……」
 警官は斯う云つて、初めて相好を崩し始めた。
「あ君か! 僕はまた何物かと思つて吃驚しちやつたよ。それにしてもよく僕だつてことがわかつたね」
 彼は相手の顏を見あげるやうにして、ほつとした氣持になつて云つた。
「そりや君、警察眼ぢやないか。警察眼の威力といふものは、そりや君恐ろしいものさ」
 警官は斯う得意さうに笑つて云つた。
 午下《ひるさが》りの暑い盛りなので、そこらには人通りは稀であつた。二人はそこの電柱の下につくばつて話した。
 警官――横井と彼とは十年程前神田の受驗準備の學校で知り合つたのであつた。横井はその時分醫學專門の入學準備をしてゐたのだが、その時分下宿へ怪しげな女なぞ引張り込んだりしてゐたが、それから間もなく警察へ入《はひ》つたのらしかつた。
 横井はやはり警官振つた口調で、彼の現在の職業とか收入とかいろ/\なことを訊いた。
「君はやはり巡査かい?」
 彼はそうした自分のことを細かく訊《き》かれるのを避けるつもりで、先刻から氣にしてゐたことを口に出した。
「馬鹿云へ……」横井は斯う云つて、つくばつたまゝ腰へ手を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して劍の柄を引寄せて見せ、
「見給へ、巡査のとは違ふぢやないか。帽子の徽章にしたつて僕等のは金モールになつてるからね……ハヽ、この劍を見よ! と云ひたい處さ」横井は斯う云つて、再び得意さうに廣い肩をゆすぶつて笑つた。
「さうか、警部か。それはえらいね。僕はまたね、巡査としては少し變なやうでもあるし、何かと思つたよ」
「白服だからね、一寸わからないさ」
 二人は斯んなことを話し合ひながら、しばらく肩を並べてぶら/\歩いた。で彼は「此際いい味方が出來たものだ」斯う心の中に思ひながら、彼が目下家を追ひ立てられてゐるといふこと、今晩中に引越さないと三百が亂暴なことをするだらうが、どうかならぬものだらうかと云ふやうなことを、相手の同情をひくやうな調子で話した。
「さあ……」と横井は小首を傾《かし》げて急に眞面目な調子になり「併し、そりや君、つまらんぢやないか。そんな處に長居するもんぢやないよ。氣持を惡くするばかしで、結局君の不利益ぢやないか。そりや先方《むかう》の云ふ通り、今日中に引拂つたらいゝだらうね」
「出來れば無論今日中に越すつもりだがね、何しろこれから家を搜さにやならんのだからね」
「併しそんな處に長居するもんぢやないね。結局君の不利益だよ」
 彼の期待は端《はづ》れて、横井は警官の説諭めいた調子で斯う繰り返した。
「さうかなあ……」
「そりやさうとも。……では大抵署に居るからね、遊びに來給へ」
「さうか。ではいづれ引越したらお知らせする」
 斯う云つて、彼は張合ひ拔けのした氣持で警官と別れて、それから細民窟附近を二三時間も歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。そしてやう/\恰好な家を見つけて、僅かばかしの手附金を置いて、晩に引越して來るといふことにして歸つて來た。がやつぱし細君からの爲替が來てなかつた。昨日の朝出した電報の返事すら來てなかつた。

 その翌日の午後、彼は思案に餘つて、横井を署へ訪ねて行つた。明け放した受附の室とは別室になつた奧から、横井は大きな體躯《からだ》をのそり/\運んで來て「やあ君か、まああがれ」斯う云つて、彼を二階の廣い風通しの好い室へ案内した。廣間の周圍には材料室とか監督官室とかいふ札をかけ幾つかの小間があつた。梯子段をのぼつた處に白服の巡査が一人テーブルに坐つてゐた。二人は中央の大テーブルに向ひ合つて椅子に腰かけた。
「どうかね、引越しが出來たかね?」
「出來ない。家はやう/\見附かつたが、今日は越せさうもない。金の都合が出來んもんだから」
「そいつあ不可《いか》んよ君。……」
 横井は彼の訪ねて來た腹の底を視透かしたかのやうに、むづかしい顏をして、その角張つた廣い顏から外へと跳ねた長い鬚をぐい/\と引張つて、飛び出た大きな眼を彼の額に据ゑた。彼は話題を他へ持つて行くほかなかつた。
「でも近頃は節季近くと違つて、幾らか閑散なんだらうね。それに一體にこの區内では餘り大した事件が無いやうだが、さうでもないかね?」
「いや、いつだつて同じことさ。ちよい/\これでいろんな事件があるんだよ」
「でも一體に大事件の無い處だらう?」
「がその代り、注意人物が澤山居る。第一君なんか初めとしてね……」
「馬鹿云つちや困るよ。僕なんかそりや健全なもんさ。唯貧乏してるといふだけだよ。尤も君なんかの所謂警察眼なるものから見たら、何でもさう見えるんか知らんがね、これでも君、幾らかでも國家社會の爲めに貢獻したいと思つて、貧乏してやつてるんだからね。單に食ふ食はぬの問題だつたら、田舍へ歸つて百姓するよ」
 彼は斯う額をあげて、調子を強めて云つた。
「相變らず大きなことばかし云つてるな。併し貧乏は昔から君の附物《つきもの》ぢやなかつた?」
「……さうだ」
 二人は一時間餘りも斯うした取止めのない雜談をしてゐた。その間に横井は、彼が十年來續けてるといふ彼獨特の靜座法の實驗をして見せたりした。横井は椅子に腰かけたまゝでその姿勢を執つて、眼をつぶると、半分とも經たないうちに彼の上半身が奇怪な形に動き出し、額《ひたひ》にはどろ/\汗が流れ出す。横井はそれを「精神統一」と呼んだ。
「……でな、斯う云つちや失敬だがね、僕の觀察した所ではだ、君の生活状態または精神状態――それはどつちにしても同じやうなもんだがね、餘程不統一を來して居るやうだがね、それは君、統一せんと不可《いか》んぞ……。精神統一を練習し給へ。練習が少し積んで來ると、それはいろ/\な利益があるがね、先づ僕達の職掌から云ふと、非常に看破力が出て來る。……此奴《こやつ》は口では斯んなことを云つてるが腹の中は斯うだな、といふことが、この精神統一の状態で觀ると、直ぐ看破出來るんだからね、そりや恐ろしいもんだよ。で、僕もこれまでいろ/\な犯人を掴《つか》まへたがね、それが大抵晝間だつたよ。……此奴怪しいな、斯う思つた刹那にひとりでに精神統一に入るんだね。そこで、……オイコラオイコラで引張つて來るんだがね、それがもうほとんど百發百中だつた」
「……フム、さうかな。でそんな場合、直ぐ往來で繩をかけるといふ譯かね?」
「……なあんで、繩なぞかけやせんさ。そりやもう鐵の鎖で縛つたよりも確かなもんぢや。……貴樣は遁《のが》れることならんぞ! 貴樣は俺について來るんだぞ! と云ふことをちやんと暗示して了ふんだからね、つまり相手の精神に繩を打つてあるんだからな、これ程確かなことはない」
「フム、そんなものかねえ」
 彼は感心したやうに首肯《うなづ》いて警部の話を聞いてゐたが、だん/\と、この男がやはり、自分のことをもその鐵の鎖で縛つた氣で居るのではないか知らといふ氣がされて來て、彼は言ひやうのない厭惡と不安な氣持になつて起ちあがらうとしたが、また腰をおろして、
「それでね、實は、君に一寸相談を願ひたいと思つて來たんだがね、どんなもんだらう、どうしても今夜の七時限り引拂はないと疊建具を引揚げて家を釘附けにするといふんだがね、何とか二三日延期させる方法が無いもんだらうか。僕一人だとまた何でもないんだが、二人の子供をつれて居るんでね……」
 しばらくもぢ/\した後で、彼は斯う口を切つた。
「そりや君|不可《いか》んよ。都合して越して了ひ給へ。結局君の不利益ぢやないか。先方だつて、まさか、そんな亂暴なことしやしないだらうがね、それは元々の契約といふものは、君が萬一家賃を拂へない場合には造作を取上げるとか家を釘附けにするとかいふことになつて居るんではないのだからね、相當の手續を要することなんで、そんな無法なことは出來る譯のものではないがね、併し君、君もそんなことをしとつてもつまらんぢやないか。君達はどう考へて居るか知らんがね、今日の時勢といふものは、それは恐ろしいことになつてるんだからね。いづれの方面で立つとしても、ある點だけは眞面目にやつとらんと、一寸のことで飛んでもないことになるぜ。僕も職掌柄いろ/\な實例も見て來てるがね、君もうつかりしとると、そんなことでは君、生存が出來なくなるぜ!」
 警部の鈍栗眼《どんぐりまなこ》が、喰入るやうに彼の額に正面《まとも》に向けられた。彼はたじろいだ。
「……いや君、併し、僕だつて君、それほどの大變なことになつてるんでもないよ。何しろ運わるく妻が郷里に病人が出來て歸つて居る、……そんなこんなでね、餘り閉口してるもんだからね。……」
「……さう、それが、君の方では、それ程大したことではないと思つてるか知らんがね、何にしてもそれは無理をしても先方の要求通り越しちまふんだな。これは僕が友人として忠告するんだがね、そんな處に長居をするもんぢやないよ。それも君が今度が初めてだといふからまだ好いんだがね、それが幾度もそんなことが重なると、終ひにはひどい目に會はにやならんぜ。つまり一種の詐欺だからね。家賃を支拂ふ意志なくして他人の家屋に入つたものと認められても仕方が無いことになるからね。そんなことで打込《ぶちこ》まれた人間も、隨分無いこともないんだから、君も注意せんと不可《いか》んよ。人間は何をしたつてそれは各自の自由だがね、併し正を踏んで倒れると云ふ覺悟を忘れては、結局この社會に生存が出來なくなる……」

 …………
 空行李、空葛籠、米櫃、釜、其他目ぼしい臺所道具の一切を道具屋に賣拂つて、三百に押かけられないうちにと思つて、家を締切つて八時近くに彼等は家を出た。彼は書きかけの原稿やペンやインキなど入れた木通《あけび》の籠を持ち、尋常二年生の彼の長男は書籍や學校道具を入れた鞄を肩へかけて、袴を穿いてゐた。幾日も放《ほ》つたらかしてあつた七つになる長女の髮をいゝ加減に束ねてやつて、彼は手をひいて、三人は夜の賑かな人通りの繁《はげ》しい街の方へと歩いて行つた。彼はひどく疲勞を感じてゐた。そしてまだ晩飯を濟ましてなかつたので、三人ともひどく空腹であつた。
 で彼等は、電車の停留場近くのバーへ入つた。子供等には壽司をあてがひ、彼は酒を飮んだ。酒のほかには、今の彼に元氣を附けて呉れる何物もないやうな氣がされた。彼は貪るやうに、また非常に尊いものかのやうに、一杯々々味ひながら飮んだ。前の大きな鏡に映る蒼黒い、頬のこけた、眼の落凹んだ自分の顏を、他人のものかのやうに放心した氣持で見遣りながら、彼は延びた頭髮を左の手に撫であげ/\、右の手に盃を動かしてゐた。そして何を考へることも、何を怖れるといふやうなことも、出來ない程疲れて居る氣持から、無意味な深い溜息ばかしが出て來るやうな氣がされてゐた。
「お父さん、僕エビフライ喰べようかな」
 壽司を平らげてしまつた長男は、自分で讀んでは、斯う並んでゐる彼に云つた。
「よし/\、……エビフライ二――」
 彼は給仕女の方に向いて、斯う機械的に叫んだ。
「お父さん、僕エダマメを喰べようかな」
 しばらくすると、長男はまた云つた。
「よし/\、エダマメ二――それからお銚子……」
 彼はやはり同じ調子で叫んだ。
 やがて食ひ足つた子供等は外へ出て、鬼ごつこ[#「ごつこ」に傍点]をし始めた。長女は時々|扉《ドア》のガラスに顏をつけて父の樣子を視に來た。そして彼の飮んでるのを見て安心して、また笑ひながら兄と遊んでゐた。
 厭らしく化粧した踊り子がカチ/\と拍子木を鼓いて、その後から十六七位の女がガチヤ/\三味線を鳴らし唄をうたひながら入つて來た。一人の醉拂ひが金を遣つた。手を振り腰を振りして、尖がつた狐のやうな顏を白く塗り立てたその踊り子は、時々變な斜視のやうな眼附きを見せて、扉と飮臺《テーブル》との狹い間で踊つた。
 幾本目かの銚子を空にして、尚頻りに盃を動かしてゐた彼は、時々無感興な眼附きを、踊り子の方へと向けてゐたが、「さうだ! 俺には全く、悉くが無感興、無感興の状態なんだな……」斯う自分に呟いた。
 幾年か前、彼がまだ獨りでゐて、斯うした場所を飮み※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りほつき歩いてゐた時分の生活とても、それは決して今の生活と較べて自由とか幸福とか云ふ程のものではなかつたけれど、併しその時分口にしてゐた悲痛とか悲慘とか云ふ言葉――それ等は要するに感興といふゴム鞠《まり》のやうな彈力から彈《はじ》き出された言葉だつたのだ。併し今日ではそのゴム鞠に穴があいて、凹めば凹んだなりの、頼りも張合ひもない状態になつてゐる。好感興惡感興――これはをかしな言葉に違ひないが、併し人間は好い感興に活きることが出來ないとすれば、惡い感興にでも活きなければならぬ、追求しなければならぬ。さうにでもしなければこの人生といふ處は實に堪へ難い處だ! 併し食はなければならぬといふ事が、人間から好い感興性を奪ひ去ると同時に惡い感興性の彈力をも奪ひ取つて了ふのだ。そして穴のあいたゴム鞠にして了ふのだ――
「さうだ、感興性を失つた藝術家の生活なんて、それは百姓よりも車夫よりもまたもつと惡い人間の生活よりも、惡い生活だ。……それは實に惡生活だ!」
 ポカンと眼を開けて無意味に踊り子の厭らしい踊りに見恍れてゐた彼は、彼等の出て行く後姿を見遣りながら、斯うまた自分に呟いたのだ。そして、「自分の子供等も結局あの踊り子のやうな運命になるのではないか知らん?」と思ふと、彼の頭にも、さうした幻影が悲しいものに描かれて、彼は小さな二女ひとり伴れて歸つたきり音沙汰の無い彼の妻を、憎い女だと思はずにゐられなかつた。
「併し、要するに、皆な自分の腑甲斐ない處から來たのだ。彼女《あれ》は女だ。そしてまた、自分が嬶や子供の爲めに自分を殺す氣になれないと同じやうに、彼女だつてまた亭主や子供の爲めに乾干《ひぼし》になると云ふことは出來ないのだ」彼はまた斯うも思ひ返した。……
「お父さんもう行きませうよ」
「もう飽きた?」
「飽きちやつた……」
 幾度か子供等に催促されて、彼はやう/\腰をおこして、好い加減に醉つて、バーを出て電車に乘つた。
「何處へ行くの?」
「僕の知つてる下宿へ」
「下宿? さう……」
 子供等は不安さうに、電車の中で幾度か訊いた。
 澁谷の終點で電車を下りて、例の砂利を敷いた坂路を、三人はKの下宿へと歩いて行つた。そこの主人も主婦《かみ》さんも彼の顏は知つてゐた。
 彼は帳場に上り込んで「實は妻が田舍に病人が出來て歸つてるもんだから、二三日置いて貰ひたい」と頼んだ。が、主人は、彼等の樣子の尋常で無ささうなのを看て取つて、暑中休暇で室も明いてるだらうのに、空間が無いと云つてきつぱりと斷つた。併しもう時間は十時を過ぎてゐた。で彼は今夜一晩だけもと云つて頼んでゐると、それを先刻から傍に坐つて聽いてゐた彼の長女が、急に顏へ手を當てゝシク/\泣き出し始めた。それには年老つた主人夫婦も當惑して「それでは今晩一晩だけだつたら都合しませう」と云ふことにきまつたが、併し彼の長女は泣きやまない。
「ね、いゝでせう? それでは今晩だけこゝに居りますからね。明日別の處へ行きますからね、いいでせう? 泣くんぢやありません……」
 併し彼女は、ます/\しやくりあげた。
「それではどうしても出たいの? 他所《よそ》へ行くの? もう遲いんですよ……」
 斯う云ふと、長女は初めて納得《なつとく》したやうにうなづいた。
 で三人はまた、彼等の住んでゐた街の方へと引返すべく、十一時近くなつて、電車に乘つたのであつた。その邊の附近の安宿に行くほか、何處と云つて指して行く知合の家もないのであつた。子供等は腰掛へ坐るなり互ひの肩を凭せ合つて、疲れた鼾を掻き始めた。
 濕《しめ》つぽい夜更けの風の氣持好く吹いて來る暗い濠端を、客の少い電車が、はやい速力で駛つた。生存が出來なくなるぞ! 斯う云つたKの顏、警部の顏――併し實際それがそれ程大したことなんだらうか。
「……が、子供等までも自分の卷添《まきぞ》へにするといふことは?」
 さうだ! それは確かに怖ろしいことに違ひない!
 が今は唯、彼の頭も身體も、彼の子供と同じやうに、休息を欲した。

底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年10月5日第1刷発行
   2009(平成21)年2月19日第9刷発行
底本の親本:「葛西善藏全集」改造社
   1928(昭和3)年
初出:「早稻田文學」
   1917(大正6)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

葛西善蔵

湖畔手記—– 葛西善藏

 たうとうこゝまで逃げて來たと云ふ譯だが――それは實際悲鳴を揚げながら――の氣持だつた。がさて、これから一體どうなるだらう、どうするつもりなんだらうと、旅館の二階の椅子から、陰欝な色の湖面を眺めやつて、毎日幾度となく自問自答の溜息をついた。海を拔くこと五千八十八尺の高處、俗塵を超脱したる幽邃の境、靈泉湧出して云々――と書き出してある日光湯本温泉誌と云ふのを、所在ないまゝに繰りひろげて讀んで見ても、自分の氣持は更にその境に馴染んで來なかつた。よくもこゝまで上つて來たものではある、が今度はどうして下れるか、自分の蟇口は來る途中でもう空になつてゐた。どこに拾圓の金を頼んでやれる宛はないのである。心細さの餘り、自分はおゝ妻よ! と、郷里の妻のことを思ひ浮べて、幾度か胸の中に叫んだ。でこの手記は、大體妻へ宛てゝ書くつもりだが、が特に何かの理由を考へ出したと云ふ譯では無論ないのだ。昨日――九月九日のある東京新聞の栃木版に、生ける屍の船長夫妻と云ふ見出しで、船の衝突で多數の人命を失つた責任感から、夫妻で家出して、鹿沼町の黒川と云ふ川に深夜投身自殺を計つたが、未遂で搜し出されたと云ふ記事を自分は寢床の中で讀んだが、町の人々の間にはそれが狂言自殺だなぞと云ふ非難もあると書かれてゐるが、そんな年配の夫婦が狂言自殺?――そんなことがあり得るだらうか。そしてまた、その生ける屍と云ふ文句が、自分の聯想を更に暗い方に引いて行つた。
「生ける屍か……」と、自分はふと口の中で呟いた。
 白根山一帶を蔽うて湧き立つ入道雲の群れは、動くともなく、こちらを壓しるやうに寄せ來つつある。そして湖面は死のやうに憂欝だ。自分の胸は弱い。そして痛む。人、境、倶不奪――なつかしき、遠い郷里の老妻よ! 自分は今ほんたうに泣けさうな氣持だ。山も、湖水も、樹木も、白い雲も、薄緑の空も、さうだ、彼等は無關心過ぎる!
 今日は東京で、親しい友人の著作集の出版記念會に、自分も是非出席しなければならないのだつた。それも駄目、あれも駄目。仕事の方も駄目、皆駄目なことになるのだ。斯うしてすべての友人からも棄てられ、生活からも棄てられて、結局生ける屍となるか、死せる屍となるか、どちらかなんだらうが、慘めな悲鳴を揚げつゝ逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る愚か者よ! 自分は自分のその、慘めな姿を凝視するに堪へない。
 雲の山が、いつの間にか、群山を壓してしまつてゐる。湖水は夕景の色に變つてゐる。自分は少し散歩して來よう。……
 白根山、雲の海原夕燒けて、妻し思へば、胸いたむなり。
 秋ぐみの、紅きを噛めば、酸く澁く、タネあるもかなし、おせいもかなし。
 湯瀧のさき、十五町ほど湖畔の道を、戰場ヶ原を一眸の下に眺められるあたりまで、道々花を摘みながら、ゆつくりと歩いた。原一面薄紫色に煙つてゐた。何と云ふ美しい眺めだらう。十八九年前の思ひ出から、自分は夕闇の迫つて來るのも忘れて、しばらく立つてゐた。湖水の暗い色は、冷めたい戰慄を傳へた。
 自分のかゝりの女中は、あい子と云つた。二十だと云ふが、十七八にしか見えない、素直なやさしい娘である。彼女は自分の採つて來た花を帳場に持つて行つて、一つ/\紙片に名を書きつけて來て呉れた。――秋グミ、大カメノキ、ツリガネニンジン、ゴマナ、ニガナ、ハタザヲ、ワレモカウ、ミヤマウド、ヒヨドリバナ、アキノキリンサウ、カウゾリナ、ヤマハハコ――自分の知つてゐるのは秋グミだけだつた。
 いつもの晩より遲く、二時頃まで自分は酒を飮んだ。滯在客はほとんどゐないのだ。それで女中たちは代る/″\遊びに來て呉れた。ナカ子、ハナ子、マス子、ツル子、ハマ子、ユキ子、それとアイ子との六人居るのだが、女中と云ふよりは娘と云つた感じの、十六七から二十までのやさしい氣立てのいゝ娘たちである。早く十一月になつて、日光の町にさがる日を、彼女等はどんなにか樂しみに待つてゐるらしい。そしてまた彼女等は、自分のことを、どんな人間かと疑つて見たこともないかのやうに、無邪氣に振舞つてゐる。それが時々自分を憂欝にさせる。……
 四日の日――さうだつた、Kの咯血したのも、やはり先月の四日だつたが――自分は朝から金策に出歩いてゐた。自分は月末の下宿の拂ひを濟ましてなかつた。自分は九月號の雜誌には一つも書けなかつたので、全然の無收入だつた。自分は二三の雜誌社を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。が下宿に差出すべく餘りに少な過ぎる額しか、出來なかつた。それに、前の晩またもおせいと醜い掴み合ひの喧嘩をやつたので、兎に角ひどく厭な氣分の日だつた。牛込にKを訪ねたが、Kはやう/\床の上に起きあがれる程度で、まだ談話は遠慮しなければならなかつた。やはり一度咯血したことのある弱い細君の顏は痛痛しいほどやつれてゐた。自分はそこ/\に外へ出て、若松町から電車に乘つたが、すつかり滅入つた氣分だつた。一ヶ月前の咯血の時、細君から速達郵便を受けて車で駈けつけたが、喀血がなか/\止まらなかつた。咳く度に混つて出た。自分も四五日の間、食がふだんのやうにたべられなかつた。三四年前自分もその經驗では、どれほど脅かされたものだつたらう。
「あの容態では、どうかなあ? よくなれるか知ら。何しろたいへんなことだなあ……」
と、思はずわがことのやうに、暗い溜息をついた。
 神樂坂の鳥屋に遲い晝飯にはひつて、酒を飮んだ。下宿の出がけにポケツトに入れて來た、玄關の状差しにはひつてゐた郷里の長男からの手紙と、信州の別所温泉から出したSからの繪葉書とを、盃を舐めながら讀んで見た。長男からの手紙は、九月の新學期に間に合せて、どうして學用品の代を送つて呉れなかつたかと云ふ、詰責の文句だつた。心にかけながら、つい送つてやれなかつたのだ。Sは十日程前から、戀人と、信州の温泉めぐりをやつてゐるのだつた。別所温泉は自分も六七年前に半年程引かゝり、田舍藝者にふられた小説を書いた思ひ出の土地だつた。高原に立ちて四方の山々を眺め、雲を見る、多少の感慨無き能はず――斯う云つたやうな文句が走り書きに書かれてあつた。斯うした簡單な文句が、自分にはいろ/\なことを想はしめた。羨望とも、同感とも、同情とも、云ひやうのない氣持だつた。何と云ふヒタ向きな男だらう! 勇敢な酷烈な戀――自分は、氣持を引緊められるのを拒ぐことが出來なかつた。彼等の直情な戀に較べて、自分とおせいとの關係の、如何に醜く、耻づべきだか。互ひにドブ泥のなすり合ひをしてゐるやうなものなのだ。戀でもなく愛でもなく、そして彼女は姙娠三ヶ月?……自分は飮んだ酒がグツとこみあげて來るやうな氣持がした。淺ましくも、呪はれた、自分等二人だ。妻よ、輕蔑と憐れみを以つて許してほしい。さうだ、自分は今では、おせいにすら輕蔑されてゐるやうな、すつかりヤクザな人間なのだ。
「俺もどこかへ行きたい。どこかへ/\、行つちまひたい。そして當分歸つて來まいか知ら。……下宿へ歸つたつて、何が自分を待つてゐるんだ? 書き損ひの原稿と、あの髮を蓬々さした、狐憑きのやうな眼付きして、厭な姙婦氣取りのおせいとが待つてゐると云ふ譯かな。あゝ、厭だ厭だ。何も彼も厭だなあ。……行つちまへ! 行つちまへ!」と、自分は心の中に繰返して、われと勢ひづけた。
「この停滯、この墮落、自分の全身中がドブ泥見たいなものでいつぱいなんぢやないか知ら? これが人間の生活だとは、俺自身にも考へられない。一日でも一刻でも、この頃の生活を棄てろ。二人で釀す惡臭から遠退け。でないと、貴樣は今に自分から窒息するのだ……」
 ふと十八年前、二十の年、暑中歸郷の途中、日光見物旁々湯本から金精峠へ、鬼怒川の上流に出ようとして、途中無理をした爲め戰場ヶ原にさしかゝつた時分にはもうすつかり日が暮れ、その上大雨に降られ、初めての道ではあり、原の眞中頃でどうにも歩けなくなつた時、後から牛を曳いて來た十五六の少年に助けられ、二荒山の下の木挽小屋で、一晩泊めて貰つたことのある――その戰場ヶ原のことが、ふと頭に浮んで來たのだつた。「さうだ/\、あそこがいゝ。あの原を久しぶりで見て來よう。あの憂欝な湖水もよかつた……」自分は鳥屋からツーリングを呼んで貰つて、すぐ上野驛へ駈けつけたのだつた。
 その當年の少年も、今では幾人かの父となつて、平和な日を送つてゐるのか知ら? 彼は二十四五の兄と二人で、その小屋で炊事役をし、兄の挽いた板を牛で日光の町へ運び、そしてまた兄の木挽きの弟子でもあつた。丁度その日は彼等の父が日光の町から酒の二升樽をさげてやつて來たのだが、息子が酒を飮まないので、おやぢさん一人で手酌で飮んでゐるところであつた。自分のびしよ濡れの小倉服は土間の焚火のまはりにかけ、息子の褞袍を着せられて、生干の椎茸と川魚を大鍋で煮たのを肴に、空腹に熱燗をしたゝかに御馳走になつた。自分とおやぢさんとは、三枚ほど筵を並べた板敷の上に、薄團まで着せられて寢かされたが、息子たちは土間の焚火のまはりに横になつて、一夜を明かしたのだつた。それからざつと二十年、忘れ得ぬ懷かしい旅の思ひ出であつた。その一夜を思ふ時、自分の荒み切つた胸にも、人生と云ふ母のふところに温ためられた少年の日が、還つて來る氣がする。
 自分は今度もまた、雨の中を、夕方四人の田舍婆さんと乘り合せ、ガタ馬車に搖られながらその原を通つて來たのだ。方角はたしかさうらしいが、ずつと道に近く、二棟ばかりの小屋が立つてゐた。滯在中に一度それとなく、訪ねて見よう。

 十四日。發熱八度三分。左脊部肋間の神經痛堪へ難し。アスピリンを飮み終日臥床呻吟。昨夜の無理がたゝつたのだ。「すべてが、妄想と云ふものの仕業か知らん? 絶望して見たり、希望を描いて見たり、憎惡、愛着、所有感、離脱感――何もかも皆己れと云ふ擴大鏡を透しての妄想と云ふものか知らん? あの山の樹木、湖の水が自分等に無關心のやうに、自分も社會、人間、周圍に對して無關心な氣持になれないものか知ら。生の溺愛か、離脱か、はつきり出來ないものか知ら。はつきり出來ないところに何か知ら生活の味……?」が斯んな山の上に來て、蒲團の中で斯んなことを考へたりする自分の阿呆さ加減に氣づいて、ひとりできまりわるくなつた。
 近所で材木を挽く鋸の音、庭の筧の音、鷄や家鴨の聲、下山の準備で屋根屋、大工、經師屋などはひつてゐるので屋根上でトタンを打つける音、鑿の音、さま/″\な音で晝間は山の宿も決して靜かではないのだが、熱のためについうつら/\と寂滅の境に落ちてゐた。
 昨日は珍らしくカラリと晴れて、そして暖かだつたので、氣分がいくらか好かつた。それで、宿料の心配から、午後から何かしら書きはじめたいと思つた。按摩を呼びにやつた。こゝへ着いた翌日かに一度呼んだことがある、五十近い、口鬚なぞ刈込んだ、やはり日光在だと云ふが、中年後に習つたのだと云ふから下手だつたが、この前の時はわりに叮嚀に揉んだ。昨日は無茶だつた。「旦那の身體は一度揉んですつかりわかつちめえましたから、こゝのとこさへよく揉んで置くとね」斯んなことを云つては、左りの肩胛部のあたりを滅茶苦茶にグリ/\やり、強く叩き、頭もほんの形式ばかりに手拭を卷いてゴシ/\やりながら「どうですね旦那、片手で斯う云ふ風に緊まるのですぞ」なぞと自慢らしく手拭を右左りと片手で引絞つて見せ、それで「どうもお粗末さま」斯う云つてペコンと一つ頭をさげ、いくらかは視えるらしい薄氣味わるい眼の、土氣色した顏を自分に向けた。腰をさすらうとも横になれとも云はなかつた。この前の時もさうだつたが、それでやはり上下分の料金七拾錢を帳場から持つて行くのだつた。さすがに自分も毒氣を拔かれた氣持で「それでは……」と云つて、この前と同じやうに五拾錢銀貨を一つ彼の大きな掌に載せ、呼鈴を押して女中を呼んだ。自分はすつかり脅えた氣持で蒲團の中に横になつたが、亂暴な揉み方や叩き方を意固地に我慢してゐたお蔭で、折角温泉で鎭つてゐたのが、急にチク/\痛み出して來た。ホーツと熱が出だした。按摩の殘して行つた惡臭がいつまでも鼻から消えず、手垢で染つてゐた手拭が、眼から去らなかつた。後悔と疲勞とで、自分の氣分は滅茶々々だつた。
「水神樣のお祭りで船競漕があるさうですから、いらつしやいませんか」と、晝のお膳の時、あいちやんが誘つて呉れた。
「皆さんが行くの?」
「え、うちからもみんな行きますし、よそでも大抵行きませう。それに福引きや何かもあるんですよ」
「さう。ぢやあ行つて見てもいゝな」と、自分は云つた。
 どうかすると、褞袍一枚では散歩に出て肌寒い感じのするやうな天氣の續く此頃としては、申し分のない好日和だつた。二時頃、宿の褞袍に鳥打帽をかぶり、氣樂な浴客らしく手拭ひをさげ、赤い緒のすがつた宿の下駄を突かけて、ふらりと出かけた。わりに大きな建物ばかしだが旅館としては六軒、店屋が三軒ほど、養魚場の出張所、電燈會社の出張所、馬車屋、駐在所、二三の木挽き小屋、狹い暗い共同浴場の幾棟、温泉の神樣の小さなお宮――これだけで、この山々の行止まりの湖畔に小さな部落を造つてゐるのだつた。自分の宿からも湖畔まで一町となかつた。ドヽン/\と太鼓の音がしきりに聞えて、旅館の女中さん、おかみさん、若奧さん風の女、皆それぞれに盛粧を凝らし、いろ/\な色のパラソルをかざしなどして、ぞろ/\湖畔へと繰り出してゐた。その間に背に「ゆ」と赤く染めた印半纏を着た男たちが忙がしげに駈け※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、すつかりお祭り氣分だつた。湖畔の巖の上に祭壇が造られ、白木の三寶の上に大きな紅白のお供へ、一升ビンの御神酒、長柄の銚子に三つ組の盃、白幣、御神燈、そして湖水からでも拾ひあげたらしい頃合ひの石に墨で「水神祭」と書かれたのが、立てられてあつた。渚に立てられた栂か樅の荒削りの眞新しい長い丸太に張りわたされた綱には、紙の國旗が長閑《のどか》な感じに動いてゐた。その下でお宮のらしい大太鼓がドヽン/\と若い衆の手で鳴らされた。道わきの石垣の上には賞品や福引きの袋が積まれ、應援の樂隊として一つのボートに石油鑵が二つ積み込まれた。一、櫓競漕。二、竿競漕。三、盲目競漕。四、ボートのリレー。――餘興は斯んな順序で進むのだつた。選手は養魚場の番人、木挽き兼船頭、旅館の主人や番頭、馬車屋――年齡にして十六七から五十六七と云ふ雜多な取組であつた。
「なか/\始まりませんね」
「第一神主さんがゐないんで祭文の讀み手がないと云ふ騷ぎなんですよ。何しろ今年から始めたんださうだから……」と、山崩れを防ぐための、道わきの低い石垣に並んで腰かけた同じ宿の滯在の客が自分に教へた。
 宿の女中さんたち八人、小さな子守りの娘まで加はつて、皆羽織姿ながら美しい色彩を見せて、自分等のすぐ前の渚の石垣に、石入りの指輪を見せた手に美しい日傘をかざしなどして、ずらりと並んで腰かけた。宿々のさうした幾組みかで、祭壇の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りや狹い道ばたが埋められた。それが滿山の濃緑、湖水の深碧と對照して、時ならぬ一團の花叢を見せたかの感じだつた。そしてそれが更に絃歌臭を聯想せしめず、また山の荒くれた男たちに手折らるべく、美し過ぎる、山の少女たちの感じだつた。それらが、時々ブウ/\笛を鳴らしながら中禪寺から登つて來るガタ馬車の田舍婆さんや、一晩泊りの女づれの客や、中禪寺から散歩の西洋人夫婦などの眼を見張らせた。
 やがて、大工さんでもあらうか――年配の男が何やら讀みあげると、娘たちに福引袋が渡され、先づ世話役や選手たちが御神酒をいたゞいた後、そこに見物に來てゐた男すべてに、その銚子と盃で御神酒が注ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]され、その上に男、女、子供の差別なく一同に二寸大の紅白の餅が配られた。
「どうも行屆いたものですなあ」と、自分等は感心した。
 帶上げと香油と束髮の櫛、足袋と白粉と手鏡、帶上げとハイカラな封筒と絲卷き――大抵はさう云つた取合せのものだつた。可哀相に、十三の筒袖着た子守娘は、一番貧しい袋に當つた。
「何がほしいの? 何かほしいものある?」自分は宿へ歸つて何か買つてやりたいと思つたが、その子は答へなかつた。
 斯うして、やう/\競漕が始められた。白根山續きの外山と云ふ山の麓まで、渚から二町餘りもあるのか知ら――その麓近くに、横に一町程の距離を置いて二つの浮標が置かれ、それを籤引きで分けた八人宛の紅白二組の競漕だつたが、先頭に乘り出した紅組の馬車屋のTさんと云ふ二十二三の屈強の若者の櫓が、浮標まで行かないうちに折れたが、そのまゝ競漕が續けられたので、赭い虎鬚の逞しい湖水の番人の必死の働きもその效なく、紅組の慘敗に終つた。斯うしてプログラムの進んで行くのを、自分はかなり無關心な、疲れた氣持で眺めてゐた。太鼓の音、ブリキ鑵の響き、歡呼、聲援、拍手――それが四邊の靜寂をふるはした。竿競漕、新聞紙の袋をかぶつた盲目竸漕――これがひどく見物人の腹を抱へさせた。が斯うした物音や笑ひ聲や、選手たちの必死な競漕ぶりを見てゐるうちに、いつとなしに自分の心は暗くうなだれて來た。自分は今更のやうに淺黄色に晴れた空、山、湖、集つた人人を眺めやつて、さびしい氣持になつた。それでゐて、自分は最後のボートのリレーの終るまで居殘つた。宿の人たちも皆歸り、すつかり暗くなつて、御神燈の中の電燈がともり、そしてまだ舊暦八月十五日夜の月がのぼつてゐなかつた。
「誰か知つた人が來ないか知ら? どうもそんな氣がするが……」そんな筈のないことを知つてゐながら自分は中禪寺からの馬車の中の顏を、そこに腰かけた時からのぞいて視ずにゐられない氣持だつた。
 酒を飮んで少し元氣づいたところで、自分は女中たちに誘はれて、褞袍を二枚かさね着して、十時過ぎに湖水に乘り出した。船頭は吉さんと云ふ。木挽きが本業の、二十四五のおとなしい若者だつた。一度鱒釣りに出かけて、知つてる仲だつた。彼は船頭としてもかなりの腕だつた。竿竸漕では一着を取つた。
 あい子、はま子、ます子、なか子と、自分との四人だつた。女中たちは二組に分れて出たのであつた。娘たちは聲を揃へて合唱した。湯瀧の上に船を停めて、吉さんはハモニカを吹き、自分は娘たちの合唱に耳を傾けた。空には中秋の滿月がほの白くかゝつてゐた。――わがふるさとに來て見れば、君やむかしの君ならず――とか、――晝は旅して夜は夜で踊る、末はいづこではつるやら――斯う云つた文句が耳にはひつた。
「成程な、後の唄は、これは生ける屍[#「生ける屍」に傍点]の中の文句だつたな……」と、自分にもふと思ひ當つた。
 晝の選手たちの飮めや唄への騷ぎの音が、死水のやうに靜かにほの白く輝いてゐる湖面をわたつて來る。自分も聲を張りあげて唄ひたいと思つたが、それが出なかつた。
 夜靜カニ水寒ウシテ魚喰ハズ、滿船空シク月明ヲ載セテ歸ル――自分は斯うした片言憶えの文句を口吟んだ。
 何の意味?……否! 好き山の乙女達よ、いつまでも清く美しくあれよ。そして自分の藝術?……自分は思はず溜息をついた。

 ゆうべも遲くまで酒を飮んだ。あい子はキチンと坐つて、厭な顏を見せずに酌をして呉れた。こゝへ來て自分は毎晩一升近くの酒を飮んでゐる。それを彼女は、初め來た時と變りのない態度で相手になつてゐる。ほとんど一年ぶりで、自分はちよつとの間ながらおせいとの啀み合ひから、遁れられた譯である。ゆうべ彼女は、自分の机の上の原稿紙に、三四首の即興歌を書いて見せた。多少文學少女なのかな? と、自分はちよつとした興味をそゝられた。自分も童謠めいたものを書いた。たしか――白根の山の、老いたる熊は、ものうく雪の、穴ごもり――斯う云つたやうなものだつた。
「湯本には昔から泥棒と云ふものは、はひつたことはないんですつて。だからどこのうちでも戸締りはしないんですの。下りる時も、夜具でも道具でもみんなこのまゝにして行くんですよ」
「夏、客の澤山の時でも?」
「さうですよ」
「僕このまゝそうつと逃げだしたら、どうだらう。日光まで行かないうちに掴まつちまふだらうな。裏山へはひつたつて、二日と凌げないだらうな。どうしたつて日光へ出る外ないだらう。何時間か後氣がついて、番頭さんが中禪寺まで自轉車を飛ばして、電報か……電話を日光へかける、大抵そこらで參つちまふんぢやないかな? うまく汽車に乘り込めて東京にはひれたとしても、大したことはあるまいね。新米の泥棒なんかも、大抵そんなことだらう。何しろ逃げ出しにくい、要害のいゝところだな。どうだらうあいちやん、僕がほんとに逃げ出したら、うちで追かけさせるか知ら?」自分は柄にない幼稚な活動寫眞的興味から、斯う云つて見た。
「わたしにはわかりませんわ、そんなこと……」幾らか鼻にかゝるフヽとくゝんだやうな笑ひ聲をして、疑ふ樣子もなく、云つた。
「どうしてお仕事をなさらないの? もう十日からになるんでせう。お仕事をなさりにゐらしたんぢやないんですか?」
「そのつもりで來たんだけど、出來ないんだね」
「どうしてでせう」
「まだ土地に慣れないんだね。それに僕熱が出るんだ……」
「熱つてどんな熱なんですの?」
「あい子さんの熱……それは冗談だが、僕神經痛が持病なんだ。それにこゝも……」斯う笑ひながら云つて、褞袍の胸を指さきで叩いて見せた。
「それでは肺の方なんですの?」
「嘘だよ」と、自分は打消したが、彼女は顏色を曇らせた。
 斯んな樣子で、ゆうべも夜を更かしたのだつた。が今朝は四時、眞暗なうちに眼がさめて、それからはどうしても睡付かれなかつた。枕元の水指しの水を飮み干し、自分でまた洗面所に行つて、山から引いてる氷のやうに冷めたい水を酌んで來た。夜は明け離れたが、霧のやうな細雨で、灰色の空が重く湖水に垂れ、山々は濛々と煙つてゐた。佗しいと云ふより痛い感じである。自分は傘をさして、一番奧の、二三町離れた山の麓の孤屋《ひとつや》の蓼の湯にと、出かけた。机の上には、ゆうべの歌の紙は、もう見えなかつた。そんなことも思はれて、蘆の一面に生えた沼のわきの細路を歩いて行つたが、褞袍のかさね着で、まだうす寒さを感じた。
 浴槽は一坪餘りの、ほんの形ばかしの上の方を板で仕切つたものだつた。まだ誰もはひらないらしく、硫黄が一面に汚らしく浮いてゐた。自分はしばらくたじろいだ氣持で眺めてゐたが、思ひ切つて褞袍を脱ぎ、流し場にあつた板切れで掻き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、少し熱目なのを我慢してはひつたが、さすがに顏を洗う氣にはなれなかつた。ぢつと身體を動かさないやうにして湯の面を見てゐたが、一尺ほど下に何やらブワ/\したものが動いてゐるので、二三度やり損じた上で掬ひあげて見ると、二十本ほどもならうかと思はれる女の髮のもつれた束だつた。それが湯垢やら硫黄やらでヌラ/\になつてゐた。自分はぞうつとして素早く流し場の溝に棄てたが、その二三本が指の間に卷きついて早速には取れなかつた。自分は左りの指さきで一本々々摘まみ取らなければならなかつた。自分はそこ/\に身體を拭いて外へ出たが、胸がむかついて來る氣がした。惡女の妄執――そんな氣もされた。
「どうせ若い美しい女なんか、あんな美しい湯に行きやしないだらうから、多分田舍の婆さんなんかの髮なんだらうが、ひよつとすると、あの婆さんたちの誰かのかも知れないな……」中禪寺から乘り合せて、馬車屋とさかんに猥談を交はして來た四人の田舍婆さんたちの顏の一つ/\まで浮んで來て、そこらに漂ふ硫黄と沼氣の惡臭い匂ひに、息を詰らした。
 午後から本降りになり、西北の風が強く吹きつけた。板の雨戸を締め切つたので、部屋の中はすつかり暗くなつた。自分は蒲團の中にもぐり込んだ。何しろ一間幅の廊下が玄關から四十八間とかあると云ふ、その一番奧ではないが、それに近い部屋だつたので、荒れしぶく風雨の音、庭の筧の音のほかには何一つ聞えて來なかつた。アスピリンを飮み、頭から蒲團をかぶつて、うつら/\しかけると、思ひ出したやうにガタ/\と來る雨戸の音に脅かされては、睡りを妨げられた。その度に、自分の神經は恐怖から慄へた。妻子のこと、おせいのことが、うつら/\した、熱つぽい頭腦に浮んだり消えたりした。
「Sたちはどうしたらう。もう東京に歸つたか知ら。それともまだ別所に滯在してゐるのか知ら?」ふと、Sのことが、懷かしく思ひ出されたりした。
 斯うした雨の日を、彼等は如何に樂しく語り合つてゐることだらうか! どうかして自分も別所へ行つて見たい、彼等を訪ねて見たいと、自分は胸を締めつけられるやうな思ひで、彼等のことを想ひ遣つた。
 暮るゝを惜むかの如くしづやかに黄昏れそめた鹽田|平《だひら》の全面を見おろし、あの自分にも思ひ出の縁結びに利益のあると云ふ觀音樣の境内の石の玉垣にもたれ合つて、眞直ぐに立ちのぼる淺間山の白い煙りを眺めやつて、彼等はどんなことを語り合つたのであらうか? 雨の宵には、三里さきの上田の街の朧ろな灯を遠見に眺め、上り下りの電車自動車の數なぞかぞへて、興じ合つたことでもあらうか?
 死よりも強いと云はれる戀、年齡や巧利を棄てた戀――そこに生甲斐を見出したSは、幸福だと云つていゝ。自分はさうした戀愛の實例を、幾つか胸の中に數へて見た。そしてこの自分の惠まれない生存、粉々に打碎かれて手入れの仕樣のないやうな自分等の生活の酒壜――それは最早、土塊に過ぎないのだ。
 あいちやんがお膳を運んで來た音で、ハツと目をさました。びつしより汗をかいてゐた。郷里の家に、父がまだ生きてゐて、妻子や大勢の人が集つてゐるやうな夢を見てゐた。また齒ぎしりでもしてゐたのか、下の齒が一二本ポロ/\に缺け崩れて行く夢が、はつきりと不氣味に頭に殘つた。
「何だか怖いやうな夢を見てゐた」と、盃をさし出しながら話しかけたが、
「さうですか」と、彼女は取澄した返事をした。そして二本目のお銚子から、なかちやんと云ふやはり二十の娘と代つた。
 色白の、頬の豐かな、肉附きのいゝ、眼に愛嬌のある、氣のよささうな娘である。自分が若くて嫁を貰ふんだつたら、多分この娘を選ぶだらう。彼女は、家の百姓仕事が忙しくなるので、みんなよりさきに、近いうちに歸らねばならぬのだと云つて、さびしがつた。
「わたし歸つても、そりやつまらないんですよ。わたしこれで、お百姓仕事はなんでもするんですよ。田へも畑へも、それからなんだつてするのよ。こゝに居るとこんな風をしてますけど、うちへ歸るとまるで乞食見たいな風して、そりやなんだつてやりますわ」
 と、素朴なアクセントをつけ、しなを造つて、絶えず眼に笑ひを見せながら、彼女は云ふのだ。
「早くお嫁に行つたらいゝでせう」
「お嫁に行つたつて、やつぱしお百姓さんでせう。つまらないわ……」
「それなら、東京へでも出て、どこかいゝとこへでも奉公して見たらどう?」
「奉公したつて、やつぱしつまらないぢやないの。歸つて來ると、やつぱしお百姓さんでせう」
「ぢやあ、お百姓さんで結構ぢやないの。お百姓さんは一等いゝですよ……」
 自分は斯う云つたが、ふと思ひ當ることがあつた。いつか、彼女に來年もまた來るのかと訊いた時、彼女と誰ちやんとは、來年はわからないと云つた。やつぱし秋の收穫の濟み仕第、所謂お百姓さんのところへ、お嫁に行くことにきまつてゐるのに違ひない。その歡びの期待と、處女期を棄てる惱ましさから、この娘の眼は斯んなにまで美しく燃えてゐるのか――自分は斯う腹の中に思ひながら、盃持つ手を抑へて、彼女の顏を視直した。自分の結婚時代、妻のこと――それからの十五年で、結局自分等は何を報いられたか。そこには苦い生活のカスが殘されたばかしでないか。妻の髮も、かなり白くなりかけて來てゐるのに、未だに自分は一家を成してゐない。さうしては、更に本能の過失を重ねて行く。家庭生活の苦しみも樂しみも知らぬ間に、家庭生活と云ふものに、すつかり幻滅し切つてゐた自分を、自分は今更どうすることも出來ないのだ。妻は、一般の妻としては隨分慘めな妻であるに違ひないが、三女の兒女の母としての生活には相當の滿足と誇りとを持ち得る筈だ。自分には何物も無い。そして心ならずも彼女等から離れて暮してゐると云ふことが、そしてまたそれが不斷の二重三重もの心の負擔となつて、自分の生活の基礎を暗く、悲劇的なものにしてゐる。それにつけても、自分は、おせいとの關係を呪ひたい。自分の過失は過失として、戀愛もなく、啓發もない二人の關係を、これ以上自分は續けたくないのだ。これまで幾度か和解的に別れられる機會があつたのを、彼女は頑強に斥けて自分等の生活に喰ひ入り、そして皮肉にも、姙娠したと云ふ。――だが、おせいよ、自分は今、溢れ流れてゐる宿の浴槽にひとりでつかつて來て、若い娘のお酌で、明るい電燈の下で、寢床の上で、外の風雨の音を聽きながら、あたゝかい酒を飮んでゐるが、お前はあの四疊半の部屋で、今頃ひとりでどうしてゐる? 思へばお前も不憫な女だ。だが、俺に妻子と云ふものがなかつたとしたら、俺も決して、今までのやうに酷薄な態度は執れなかつたと思ふ、無論愛し合へたと思ふ。不用意だつたとしても、俺たちの關係も、動機はそんなに不純であつたとは思へない。お前は仕事の出來ない俺に、俺の不幸續きに、病氣に同情して呉れ、ほとんど獻身的に盡して呉れた。それは、俺も、忘れてはゐない。また、斯うして離れてゐると、お前の苦しい立場も、よく考へられる。親同胞を棄てゝまで家出して來た以上、今更俺に妻子があるから歸れと云はれてのめ/\と歸つて行けないお前の氣持を、一概に女の妄執だとケナしつける自分の方が、よつぽど卑怯でもあり、自分勝手かも知れない。だが、俺にはSほどの勇氣が無い。それに俺の心持は今、尖がり過ぎてゐる。俺は何もかも、ほしくないのだ。妻子もほしくなければ、お前も、お前の腹の子も、ほしくないのだ。極端に云へば、俺自身をもほしいとは思はない。俺は最早、生活にヘコ垂れはじめたらしい。書くものも、一つ/\駄目になる。俺はどこに生の希望と悦びをつなぐのだ? が今に、だん/\と生活も好くなり、書くものも良くなる……? がその今に、が曲物なんだ。どうして、信じられたものぢやないのだ。その今に、引きずられて徒勞を重ねて行くべく俺は少し厭いたやうだ。
 だが、おせいよ、氣をゆたかに持て。人間のことは、すべてが悲劇のやうにも、また悲劇でも喜劇でも何でもないやうにも、思へば、思へるのだ。どんな大きな災難でも、不幸でも過ぎて見れば、煙のやうなものぢやないか。まあ、出來てしまつたものは仕方がないとして、腹の子に氣をつけるんだな。
 酒は樽の菊正、喰べ物は思つたより豐富だ。俺は兎に角まだ當分居るつもりだ。――十八日快晴、午前十時何十分かにかなりの強震二囘あり。家の中の人みな飛び出す。――

 Sは信州へ發つ二三日前の晩、久しぶりで自分の下宿へ訪れ來た。ほんとに久しぶりだつた。三四月頃までは、ちよい/\往つたり來たりしてゐたのだが、其後バツタリとSは姿を見せなくなつた。自分はまた、おせいとの問題がだん/\とわるくこんがらかり、耻さらしな事件がつゞき、ほとんど昏迷状態からして、ついSのところをも訪ねずにゐた。自分とSとは、彼是十五年近くの親しい友人だが、遊里方面の交際は一切無いので、その方の消息は自分はまるで知らないのだ。殊に今度の――あの謹直堅固なSが、さうした熱烈眞劍な戀を何ヶ月か續けて來て此頃では互ひに一切を棄てゝもと云ふ切迫した状態にまで進んでゐるのだとは、まつたく自分には想像にも及ばないことだつた。それもつい十日程前に、他の友だちに聞かされた時には、餘り意想外な話なので、つい吹き出した位だつた。
「そりや此頃のSは、一杯のコーヒー代だつて惜しいだらうよ」と、友だちは云つた。
「何しろ毎晩なんだから、大きいよ。一晩だつて缺かさないんだから、そして女の方でも一切他の座敷へは出ないと云ふんだからね、一晩二十圓づつとしたつて、そりやSだつてたいへんだらうよ。何しろお互ひにひどく惚れ合つたものさ。やつぱし家庭が、どうも面白くないらしいんだね……」と、友だちもやはり微笑を浮べながら、同情した調子で云つた。
「さうかなあ、Sにもそんなことがあるのかなあ! ちつとも知らなかつた。實は此間ね、H社で偶然久しぶりで落ち合つたが、Sがひどく焦躁な態度で原稿料を請求してゐるのを傍で聞いてゐて、妙だなあ、金のことでは斯んな風な男ぢやないと思つてゐたが、どうかしてゐるのか知らと、僕は彼の態度に寧ろ反感を持つたのだが、さうかなあ、そんなことになつてるとは知らなかつた」と、その時のSの苛々した態度を思ひ浮べ、反感を持つた自分を濟まなく思つた。
「しかし誰しも一度は通る道だからね。そして俺たちはもう何をしたつて、大丈夫だよ。壞れつこないよ。Sだつて大丈夫うまく切り拔けるさ。そして今までのあの堅い殼を打壞せたら、彼の藝術だつてもつと自由な、暢び/\したものになるだらう。さう云ふ點では、今度のことは、彼にはいゝことだよ」
「さうだね、どうせ一度は、遲かれ早かれ誰の上にも來ることなんだらうからな……」
「さうだなあ、遲かれ早かれ……か、兎に角一度は誰の上にも來るんだね。あのSさへたうとう引つかかつたからなあ……」と、二人は思はず顏を見合はして、ほゝ笑まずにはゐられなかつた。
「それにしてもSは幸福だよ。今が頂上と云ふところかも知れないが、兎に角お互ひに好いて好かれてゐるんだからね、Sとしては滿足な譯だらう。それに較べると、俺なぞの貧乏籤と來ちやお話にならないよ」と、自分はついまた、愚痴を洩らした。
「…………?」友だちはチラと自分の顏を見たが、それには答へなかつた。……
 Sのことを聞いたのは、その時が初めだつたのか。
 十年程の家庭生活の間に、Sは三人の子の父として、良人として、社會人としてほとんど破綻らしい影さへ見せずに來てゐた。作家生活と云ふよりも、謹直な知識階級の健實な生活ぶりを續けて來てゐた。物質的にも精神的にも用心深い、多少臆病らしくさへ思はれるほどに冒險味に乏しい生活ぶりだつた。彼自身から、獨善主義――と自分のことを云つてゐた位だつた。彼は十年一日の如く忠實な家庭の支持者だつた。それがつい二年程前から、家庭生活の無興味、現在の否定、人生への懷疑――さう云つた虚無的な、否定的な口吻を洩らすのを、自分は時々耳にするやうになつた。彼は滅多に自身の愚痴など云ふ性質の男ではなかつた。それだけに、彼の内に潜在して、悶えてゐるものゝ影が、自分の胸に強く感じられるやうな場合もあつた。
「しかしSは頑固だからなあ、俺たち友人のどれもこれも、みんな破綻だらけの生活をして來てゐるが、Sだけは大丈夫らしいな……」と、この一二年來めつきり憂欝になり、神經質になつて來てゐる彼のことを考へながら、心の中でさう思つて來たのだつた。そして、震災前あたりから、友人の誰彼といつしよにSも遊び出したと云ふ話を耳にしても「さうかしら、ほんとか知ら?」と、自分には微笑を催さしめる程度にしか、彼の噂さを聞いてゐなかつた。それが、つい四五ヶ月會はずにゐた間の出來事だつたのだ。
「Sも此頃は憔悴してるよ。何しろ毎晩なんださうだから、そして夜明け頃女に途中まで送られて歸るんださうだが、情死もし兼ねない双方の逆上《のぼ》せ方ださうぢやないか。なんにしてもSと云ふ男も變つた男さねえ!」最近のSに逢つた誰もが、斯んなやうなことを云つた。
 成程、さう思つて見る氣のせゐばかしでなく、その晩のSの窶れ方に、自分は一寸胸を打たれた。白皙だつた顏の艶も失せ、頬のげつそり削《こ》けたのが目立つて見えた。濃い髯の剃り跡の青々しさにも、何やら悲しい思ひを誘はれた。Sのやうな男でさへ、戀と云ふものゝ前には斯んなにもなるのか!……自分は思はず腹の中で嘆息した。相手が素人でない金のかゝる女だと云ふだけに、純情一本氣のSの立場が、傷々しい氣もされた。
「此の間の晩、たうとうワイフにも、何もかも一切告白した。どうにもならない相手との苦しい義理合ひから、何もかも一切つゝまず涙を流して告白したんだが、ワイフなんてどうにも仕方がないもんだね、良人の涙を以ての告白にも同感してゐるのかしてゐないのか、默つて聽いてゐると云ふだけなんだからね。なんとか云つて呉れるべきなんだ、それをどこまでも默つて……そんな法つてないんだ。唯それからは僕が三時に歸つても、屹度起きてゐて、僕の脱ぎすてた着物をたゝんだりして、それから階下へおりて行く……そんなことだつてこれまでは一度だつてなかつたんだ」Sは斯んなことも云つた。
「場合に依つては、いつでも家庭を破壞してもいゝと思つてゐる。唯子供たちのことを思ふと、不憫だ。子供たちのことを思ふと、いつでも泣かされる……」
 Sが眼がしらに涙を溜めてゐることが、よく自分にわかつた。自分には慰めよう言葉もなかつた。
「まあ/\、君のやうにさういつこくに考へるなよ。君の氣持はよくわかるけれど、しかしさう君のやうにいつこくに考へ過ぎてもいけないと思ふな。どうにかそのうちには解決の道が開けると思ふよ。双方に誠實さへあれば、どんな場合に立ち到つても、救はれると思ふよ。僕とおせいとの場合のやうな、こんなのは駄目だが……」おせいは昨晩から、彼女に當がつてある階下の三疊に引込んでゐて、その場にはゐ合せなかつた。
「それで、僕はいろ/\と考へて見たんだが、結局一番いゝ方法は、僕は今重い肺病になつて、南湖院にでも入院して、どんなに會ひたくとも會へない身體になる……まあそんな方法しか、考へられないんだ。でもないと、一晩でも會はずにゐられない……あゝ僕も肺病になりたい……肺病の人が羨ましい」彼は斯う叫ぶやうに云つた。
 酒を飮んでゐたのだが、すぐには、彼の顏を見る勇氣がなかつた。思はず、窓外の隣り屋敷の庭園の暗い植込みに眼を遣つてゐた。そして二三度も眼をしばたゝいた。
「しかし肺病になつても、會はずに居られないとなつたら……?」自分はふと斯んなことも思つたが、口へ出すのが、傷々しい氣がされた。
 何と云ふ思ひつきだらう、この肺病嫌ひと云ふよりも寧ろ肺病恐怖患者だつたSが! 自分等の友人間では、大抵肺炎位は冒された經驗の無い人はないのだが、Sだけはその用心過ぎる位な几帳面な日常生活に依つて、それを免かれて來てゐた。それだけにこの病氣に對しては、常識以上に過敏だつた。
「やつぱし彼等の間にも、人知れぬ苦勞があるのだらう。妻子がありそしてだん/\と中年に入りかけて家庭と云ふものに興味を失ひかけた男の戀の姿と云ふものは、やつぱし傷ましいものだなあ……」
 これ以上に突き進めることも、退くことも出來ずに肺病にでも遁れたいと云ふ、Sの氣持は、自分にもわかる氣がされた。偶然だつたが、この日もKの細君から速達の手紙が來てゐた。自分は當座の小遣ひを幾らか封筒に入れて使ひを出すところだつた。
「どう、君も幾らか寄進に附いて呉れない?」と、Sに云つた。
「さう、ぢやアほんの少しばかしたが……」
 Sは快く五圓出して呉れた。そして九時頃そこ/\に歸つて行つた。蒸暑い晩だつた。愛欲の業火に身を燒かれてゐるS、氷嚢を三つも四つも胸や頭に載せて、咳く度に血の混つた臭い啖汁を吐いてゐるK、そして自分とおせい――自分はしばらく盃の手を休めて、暗い庭の植込みに眼をやつてゐた。
「俺の此頃の生活は、一番いけないやうだ。誰のと較べても、一番鈍つてゐる。どうかして淨める方法がないか、燃やす方法がないだらうか?」自分は斯う思つて、深い吐息した。Sはその晩、自分にいゝ衝動を與へて行つて呉れたのだ。……

 烈しい雷雨の晩で電燈つかず、古風な行燈と机の隅に立てた蝋燭の明りで、今日の午後についたKの細君からの葉書を、また讀んで見た。「やつぱしさうかなあ……」と自分は又しても最初彼を見舞つた時の豫感が繰り返されて、嘆息するほかなかつた。――最《も》う、とても病人はだめでございます。こゝ五六日間は餘程注意して居らなければなりません。非常にうはこと、うめきをしますので、なんとも云はれぬ心細さを感じてゐます。まだ國からも參りませんので何うかと心配してゐます。あなた樣もどうか早く歸つて下さいまし。病人も心さびしきことと思ひます……――斯う云つた走り書きの、絶望的な文句だつた。二十七日の日附だつた。
 四五日前東京から、若い友だちのA君が、下宿に溜つてゐた手紙類や、不自由してゐた剃刀や革砥、爪切り鋏、おせいからの傳言など持つてやつて來て呉れて、二晩泊つて歸つて行つた。その中にも十一日の日附の細君の葉書が混つてゐたが、それには、此月中に床上げが出來るかどうかわからないが、落付いては來たから安心してくれ――と云つた調子で、却つて自分の病氣のことを心配してくれて大事にするやうにと、書いてあつた。その時分はまだ山へ來てどこへもたよりをしてゐなかつたので、自分はやはり發熱で下宿で寢てゐるものと思つて、それで下宿へ出した葉書だつた。それを讀んで、自分は稍安心して、湖水の繪葉書に簡單な見舞の文句を書いてやつた。それが折返しの今日の絶望的な細君の葉書だつた。そして、自分としても此際直ぐにはどうしやうも無いのだと云ふ頼りない溜息のほかには、いゝ思案もないのだ。
「御病人が出來たんですか? それではお歸りになるんでせう?」二三日前からアイちやんに代つてお酌に出てゐる、ナカちやんが云つた。
「しかし歸れあしないでせう、これからひと仕事でもしないことには。……しかし困つたなあ、どうもあぶないらしいな」
「やつぱしお友だちの方なんですか? それはその奧さんからの葉書?」
「さう。向うでも待つてるらしいんでね、早速歸らなければならないんだが、どうにもならないぢやないか。それに僕も非常に神經を傷めてゐるんでね、さうしたいろ/\なことから離れたくて斯うして來てゐるんでね、仕事の出來ないのも、やつぱしひどい神經衰弱のせゐなんだよ」
「さうですか。そしてその御病人の方はまだ若いんですの?」
「さう若いと云ふ方ではないね、僕より二つ上だから四十か。奧さんの方はまだ二十七だから若い。」
「さうですか、そして病氣は何病氣なんですの?」
「やつぱし肺病だね」斯う云つて、自分は口を噤んだ。
 中禪寺行きの朝の一番の馬車に間に合ふやう、蝋燭の明りで、おせいにすぐKを見舞ふやうにと、繪葉書を書いた。雷雨を衝いて、足尾から山越えして來たと云ふ五六十人程の在郷軍人の團體が、十時頃遲く着いて、夜中過ぎまで下の座敷で大騷ぎをやつてゐた。それに睡りを妨げられ、K夫妻のことが夢うつゝに斷れ/″\に思ひ出された。
 A君の來た日も雨だつた。セルに夏羽織の彼は、夕方の馬車の中で寒さに慄へながら來たのだつた。もう二度厚い霜が下りて、山々は日一日と目だつて色づいて來た。東京の十一月の中頃の氣候を思はせた。彼が歸る日は珍らしく快晴だつたので、送つて行くことにし、いつしよに例の戰場ヶ原の木挽小屋の跡を訪ね、原の中程の三本松の茶屋で、茶を飮んで別れて來た。一里十何町かの往復である。木挽小屋の跡は小笹やクゴ草の間にそれと分つたが、その時分の木挽の兄弟は、今は日光の町にゐないことだけは確かで、行衞は分らないと云ふそこの茶屋の爺さんの話だつた。「やつぱしそれでは、あの人たちだつて、どうなつてゐることかなあ……」正午近い日を浴びて、銀色に輝く樹肌の、二抱へに餘る楢の巨木の林の美しさに見惚れたりしながらも、自分は何となく淡い幻滅感をそゝられて、淋しく口笛を吹きながら阪道を登つて來た。二三日前から禁漁となつた湖は、黄、紅白、濃淡の緑と、とり/″\に彩られた山の姿を逆さに、鮮かに映してゐた。が斯うしたこの湖の誇りも、やがてひと月の後には、氷と雪に封じられて、死の湖として永い冬を過さなければならないのだ。對岸の麓では、土工たちが、この湖を一周する路普請にかかつてゐる。その樹を倒し、土砂を崩したりしてゐる音が、湖畔の靜かな空氣を一部分掻き濁してゐる。國立公園の豫定區域になつてゐるのだ。そして一二年の後には、自動車が通り、電車が通りして、永久にこの湖の憂欝な感じが失はれることだらう。そしてまた、二度と自分等を快く受入れるやうな場所ではなくなることだらう。……
 往復二里半餘りの、たつたそれだけのその日の散歩にも、自分は足を痛め、發熱するほど疲労した。
「何と云ふ弱蟲! 鑄《い》かけの利かない古鍋、地金としてだつて誰も引取り手はあるまいな……」自分は、自嘲する。
 温泉の效能も、この冷めたい雨續きの天候には敵はないのだ。自分は幾日か喘息の發作と神經痛で終日寢床の中で呻いた。そして夕方近く起きて醉ふための酒を十一時過ぎまで飮み、三時頃、雨戸をしめない外の暗闇に脅かされでもしたかのやうに目をさます。そして自分のこと、Tのこと――さうだ、彼は、自分等「哀しき仲間」の中でも、特に慘めな方の一人であるかも知れない。
 もう二三日で、一ヶ月になるのだ。山も、湖も、温泉も、娘たちも、周圍のすべてが、自分の感興から失せてしまつた。やはり彼等のすべてもまた、自分の肉親、妻子、おせい、哀しき仲間――それらと同じやうに、結局暗欝と苦惱を吹込む存在にほかならないのだ。酒よりも強く自分を醉はしめて、妻よ! などと呼びかけさせ、詩人らしくさへならしめたあの最初の魅力が、どこへ消えてしまつたのだ! 泡沫の如く感興は消え去る。が、酒の狂醉、苦痛の自己麻醉劑――自分はこの二つの、完全な中毒者だ。この夜と晝との交互の麻醉劑に依つて、辛うじて自分の一日一日が延ばされてゐるのに違ひない。が自分とても、自分の神經系統の傷害程度の意外に進んでゐるものだらうとは氣附いてゐない譯ではない。酒の力でやう/\四時間足らずの睡眠。心氣朦朧、鈍頭痛、耳鳴り、そして後頭部半面の筋肉が硬直すると云ふのか浮腫《むく》むと云ふのか――顏の筋肉もさうだ――それが硬張るやうなむず痒いやうなヘンな不愉快な感じだ。それが少しでも物を考へたり書いたりした翌日には、覿面に現はれる徴候だ。自分にも無論その原因がはつきりは分らない。が兎に角このぐうたらな手記が、今や宿料に迫られ、そして一刻も早くKを見舞ひたい一心を以てしても、日に一枚半枚の平均にしか書けないとは、何と云ふ情けないことだらう。
「結局Kは肺病で命を取られるだらうが、俺は何か知ら? この分で行つたんでは、どうしたつて狂死と云ふところかな。しかし發狂は厭だなあ。氣が狂つて、死ぬにも死ねず、何年か妻子たちに嘆きを見せる……氣ちがひだけは厭だ」寢床の中で悶掻き拔いた揚句にやつて來る、うつら/\とした自己麻醉の状態の中で、自分は斯う呟いた。それが遁れることの出來ない、自分の運命のやうに思はれた。
 Kにしても、また同じ仲間の×にしても、××にしても、自分としても、恐らくは四十と云ふ峠を越せずに、それ/″\に自分の身内に巣喰うた惡魔の無意識の中にも戰ひ續けて來て、結局は打敗かされるのだ。明るみ、奮鬪、社交、圓滿な家庭――永年それらを希求しつゝ、そして誰もが同じやうに反對の方向に沈んで行き、その結果が肺病か狂氣かだ。さうした哀しき仲間を、自分は見過ぎた。それが避け難い自分等の運命なのだ。自己の意志も、他からの強制も、ある程度までしかの效力が無いのだ。自分は昨年の震災當時まで足かけ五年間、建長寺内の山の上の寺の暗い部屋で、蟄息的な生活を續けて來た。「東京へ出たまへ。明るい世界へ出たまへ。こんなところに居ると、君の氣持は暗くなるばかしぢやないか」と、その時分ある友人が自分に忠告的に云つて呉れた。「駄目なんだよ。それが出來ないんだよ。自分の内のいろ/\なものが傷つき、弱つてしまつてゐるんだ。それで、さうした明るい激しい世界には迚も堪へられないんだよ。神經も身體も普通の人間に、こんなところに一ヶ月も居れと云つたつて、辛抱出來ないと同じ譯さ」と、自分も答へたことがあつた。人間誰しも好んで暗い道を選びたくはないのだが、身内の魔物の不斷の脅威に、自分等はいつの間にか征服されてゐるのだ。……
 さびしき妻より――東京から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]されて來た妻の手紙の文句の後に、斯う書いてあるのを讀むと、今更のやうに自分もさびしく、うら悲しい氣持になる。この手記は最初から妻にあてて、おせいとのいきさつの一切を謝罪的な氣持で書くつもりだつたのが、いつの間にか、最初の心持から反れたヘンな小説めいたものになつてゐたと云ふことも、いろ/\な意味から自分をさびしく思はせる。が兎に角自分は、一日も早くこれを金にして、山を下らなければならないのだ。七月以來妻と自分との間が一層疎遠になつてゐる。亡父の三周忌におせいを伴れて行つて會はせたのが、失敗だつたのだ。今度はこの手記で、妻の諒解を求めるつもりだつたのが、また失敗である。やはり、自然の時を待つほかないのだ。(さびしき夫より)……

「欺く」と云ふ題で、今月號のある婦人雜誌に發表した三十枚程の短篇が、たうとうKの絶筆となつた。十月三日は珍らしく快晴だつたので、自分は午後から湖一周の新道をひとまはりして疲れて歸つて來ると、机の上にKの細君からの電報が載つてゐた。(ゴゼン三ジニシス)萬事終れりである。午前六時五十分の電報だつた。臨終の時間から考へても、恐らく細君一人のほかには誰もゐなかつたに違ひない。
「それにしても、もう一欺き二欺きしても、生き延びれなかつたのかなあ……」唯一の飮み相棒でもあつた彼に、自分は心の中で盃をさゝげた。
(キムラサンシス、セトシバンジセワス、アスクニヨリオヂクルヨシ、ヘン)午後五時におせいが打つた電報は、翌日の十時頃配達になつた。(カヘレヌバンジハカラヘ)自分は斯う返電を打つほかなかつた。
「欺く」と云ふのは、二三年前Kが窮乏の餘り、萬事盡きて、郷里の他家へ嫁いでゐる唯一人の親身の姉へ、急病來て呉れと云ふ僞電を打ち、姉が丁度流産したばかしの時だつたので、本家に當る叔父が、遙々と備後忠海町から急行でやつて來たのを夫婦でのこ/\東京驛に出迎へた――その時のことを、正直に、素直に書いたものだつた。「わしはもう十中八九駄目と思うて、これ、この通りぢや」と叔父はカバンの中から黄平の紋附、羽織、袴なぞ取出して見せた――と云つたやうな文句もあつた。その叔父が今度もまた出て來る譯なのだが、今となつては、その「欺く」一篇は、叔父への謝罪文となつたやうなものだ。
「欺く」を自分は原稿の時に讀まされたが、それで見ても彼が如何に永年の間ひそかに病苦と戰ひ續けて來たかが、わかるのだ。そしてまた今更のやうに、永年の間彼の努力の足りないことを責めて來た自分の鈍感を、耻かしく思ふ。
 編輯者の好意から「欺く」はすぐに金に替へられたが、婦人雜誌に載せるものとしては餘りにヂミ過ぎると云ふので、もつと華かなものと云ふ先方の注文から、それの代りを執筆中、丁度一ヶ月前九月四日午後二時に咯血したのだつた。その一週間前の二十八日の日に、彼は下宿に訪ねて來て、二人で遲くまで飮み合つた。
「しつかりしろよ。細君が氣の毒ぢやないか。……先方の好意に對しても、欺く[#「欺く」に丸傍点]はまた他に處分できるから、その代りを早く書いてやれよ。締切が五日頃なんだらう。……」
「やるよ。大いにやるとも! 俺もな、此頃はほんとに一生懸命にやつてるんだよ。君の云ふやうなものでもないんだぜ。嘘だと思ふならワイフに訊いて見ろ!」彼はいつになく、昂然として、睨みつけるやうにして云つた。その晩が、彼との飮み納めだつたのだ。
 新聞の廣告で、「欺く」が十月號で發表されることを知つた。そして彼の絶筆が、創作欄に入れられず、趣味欄と云ふところに入れられてあつたと云ふことは、不遇作家としてのKの一生を、何よりも有力に語つてゐるものだ。そしてこの、「欺く」の作者ほど、自をも他をも欺き得なかつた人を、自分はほとんど知らない。
(キムラサンアスヨル八ジタツ)八日午後おせいが打つた電報である。自分はその時刻に、湖畔の暗い道を十二三町、湖水の落ち口、湯瀧の上に新道でかけられた巖丈な荒削りの橋の上に立つた。宿の階下では二百人近い學生の團體客が、食後の茶話會とかで大騷ぎをしてゐた。自分は獨りで酒を飮んでゐるに堪へない氣持だつた。高さ四十五丈、巾數丈と云ふ瀧の音は、橋の上に立つた自分の脚をわなゝかせた。後ろは暗い死のやうな湖面だつた。自分は手を合はして默祷した。「Kよ許せ!……」細君と叔父に護られ、二三の友人に車窓まで見送られて、一壺の骨となつて、今や永久に彼には辛らかりし都會を去るのだ。そして彼は最早「悲鳴を揚ぐる」の人ではないのだ。悲鳴を揚げつゝ登つて來て、十五年來の親友の死すら見送りに行けない自分も、決して幸福ではないのだ。彼は有名無名――そんなことを死際まで氣にしてゐるやうな男ではなかつた。咯血後最初に見舞つた時に、自分には彼の覺悟がわかつた氣がした。無名にして陋巷に窮死する――それもこれも仕方がないのだ。是モ好シ山堂無月ノ夜、一天ノ星斗闌干ニ墮ツ――さうだ、Kよ! 自分は心から君の靈の光榮を信ずる。

底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年10月5日第1刷発行
   2009(平成21)年2月19日第9刷発行
底本の親本:「葛西善藏全集」改造社
   1928(昭和3)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

葛西善蔵

血を吐く—– 葛西善藏

おせいが、山へ來たのは、十月二十一日だつた。中禪寺からの、夕方の馬車で着いたのだつた。その日も自分は朝から酒を飮んで、午前と午後の二囘の中禪寺からの郵便の配達を待つたが、當てにしてゐる電報爲替が來ないので、氣を腐らしては、醉ひつぶれて蒲團にもぐつてゐたのだつた。
「東京から女の人が見えました」斯う女中に喚び起されて、
「さう……?」と云つて、自分は澁い顏をして蒲團の上に起きあがつた。
 おせいは今朝の四時に上野を發つて、日光から馬返しまで電車、そこから二里の山路を中禪寺までのぼり、そしてあのひどいガタ馬車に三里から搖られて來たわけだつた。自分は彼女の無鐵砲を叱責した。おせいはふだん着の木綿袷に擦り切れた銘仙の羽織――と云つて他によそ行き一着ありはしないのだが――そんな見すぼらしい身なりに姙娠五ヶ月の身體をつゝんでゐるのだつた。
「そんなからだして、途中萬一のことでもあつたら、たいへんぢやないか。誰がお前なんかに來いと云つた! 默つて留守してゐればいゝんぢやないか。それに女一人で、來るやうなとこぢやないぢやないか!」自分はいきなりガミ/\怒鳴りつけたので、彼女は泣き出した。
「これでも、いろ/\と心配して、ゆうべは寢ずに……そして……斯うしていろ/\と心配してやつて來たんですのに……」彼女は、斯う云つてしやくりあげた。
 雜誌社に金を借りに※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたこと、下宿でも、自分が二ヶ月も彼女ひとり打ちやらかして置いて歸らないので非常に不機嫌なこと、そんなことを冗々《くど/\》と並べ立てた。聽いて見ると尤もな話だつた。が折角の彼女の奔走甲斐もなく、彼女の持つて來た金では、またも、宿料に追付かなくなつてゐた。
「よし/\、わかつた。それではまた、なんとか一工夫しよう。折角來たついでだから、四五日湯治するもいゝだらう。それにしても君は、亂暴だねえ! そんなからだして……」
 二三日前に初雪があつた。その雪どけのハネが、彼女の羽織の脊まであがつてゐた。
「兎に角ドテラに着替へて、ひとはひりして來よう。……何しろこの通り寒いんだからね。冬シヤツにドテラ二枚重ねてゐて、それで寒いんだからね。それに來月早々宿でも日光にさがつちまふんだからね。毎日その準備をしてゐるんで、こつちでも氣が氣でないもんだから、此間から毎日酒ばかし飮んでゐた」木管でひいてる硫黄泉のドン/\溢れ出てゐる廣い浴槽にふたりでつかりながら、自分は久しぶりで孤獨から救はれたホツとした氣持で、おせいに話しかけたりした。
 宿では、千本から漬けるのだと云ふ來年の澤庵の仕度も出來、物置きから雲がこひの戸板など引出して、毎日山をくだる準備に忙がしかつた。今月中に二組の團體客の豫約を受けてゐるほかには、滯在客は自分一人きりで、一晩泊まりの客もほとんど來なかつた。紅葉は疾くに散つて、栂、樅、檜類などの濁つた緑の間に、灰色の幹や枝の樹膚を曝らしてゐた。湯の湖は、これからの永い冬を思ひ佗びるかのやうに、凝然と、冷めたく湛へてゐた。
 夏前から文官試驗の勉強に來てゐて、受驗後も成績發表まで保養がてら暢氣に滯在してゐる二人の若い法學士――F君は二十五、N君は二十四――二人とも學校を出てすぐ大藏省に入つたのだが、試驗準備中は何ヶ月役所を休んでゐても月給が貰へるのだと云ふ、羨ましいやうな身の上の青年たちだつた。彼等は白根山、太郎山などと、毎日のやうに冐險的な山登りをやつてゐた。足にも身體にも自信のない自分は、精々湯の湖畔を一周して石楠花のステツキを搜したり、サビタの木のパイプを伐りに出かけるやうな時に彼等のお伴をしたが、すつかり懇意になつてゐた。がN君は成績發表前、月初めに歸京して、廣い宿にF君と自分の二人だけになつた。それからぢき成績が發表されたが、二人とも見事にパスしてゐた。
 十日頃に自分の仕事も一片附いたので、それからは、天氣さへいゝと、F君につれられて、蓼沼、金精峠などと、自分も靴に卷ゲートル着けて、そこら中を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、はつきりしない金の當てを待つてゐるもどかしさ、所在なさの日を紛らして送つてゐた。晩には大抵、自分の部屋か、彼の部屋かで酒を飮みながら話し合つた。畠違ひの斯うした青年と近づきを持たない自分に、F君は未來のある新時代の青年官吏――官吏と云ふ言葉はヘンだが――として、甚だ好ましい印象を與へた。健全で、頭腦が明快で、趣味あり禮讓ある一個の立派な青年紳士だつた。文學などの鑑賞力に就いても、かなりに磨かれてゐることを思はせた。
「いつしよに歸りませう。私の方はどうせ二日や三日は延びても構はないのですから」F君は斯う云つて呉れた。
 自分も、十五六日頃には引拂へるつもりだつた。それで、一日々々とF君に延ばして貰つてゐるのだが、F君の口答試驗の日割が新聞に發表され、その都度で彼はどうしても十六日には山をくだらねばならぬことになつた。その前日、自分等は最後の散歩を、戰場ヶ原の奧、幸徳沼の牧場に――いつしよにした。晝飯後、往復三里の道だつた。F君に聞いてゐた以上に、いゝ景色だつた。「この沼は一等綺麗だ」とF君が云つた。小笹の上に寢そべつてゐる牛の群れ、F君に寫眞機を向けられてのそり/\白樺の林の中を遠退いて行く逞しい黒斑の牡牛、男體山太郎山の偉容、沼に影を浸す紅葉――こゝの景色が一等明るく、そしてハイカラだと云ふF君の言葉が、自分にも首肯《うなづか》れた。「牧場の家」で、焚火の爐邊で搾り立ての牛乳を飮み、充分に滿足して、自分等は日暮れ方宿に歸つた。そしていつしよに湯にはひり、別れの晩餐を共にした。が彼はその翌日も、一日延ばして呉れたのだつた。彼は、一人取殘される自分に、同情して呉れたのだつた。自分が宿の女中たちにも飽きられ、厄介者視せられて、みじめな、たよりない氣持で日を送つてゐるのを、青年の純な心から、同情してゐて呉れたのだつた。何と云ふ親切!……牧場行きの場合でも、彼は終始先きに立つて熊笹に蔽はれた細徑の樹の根、刺のある枯薊――さう云つたものにまでも注意して呉れ、また彼には自由に飛び越えられる小川だつたが特に自分のためにそこらの大きな石を搜して來て川の中に路を造つて呉れたりした。酒を飮んでゐる場合以外の、自分のさびしげな、物悲しげな姿が、すくすくと眞直ぐに伸びた若い彼の心を、何かしらそゝるところがあつたのかも知れない。……
 いよ/\の十七日は、朝から霧のやうな雨が降つてゐた。馬返しまで五里餘の道を、彼は歩いてくだるのだつた。すつかり支度の出來たところで、彼は自分の部屋で、別れの杯を擧げることになつた。
「かつきり一時間だけ……」彼の腕時計を見ながら斯う云つて酒をすゝめはじめたが、もう三十分、もう十分と云ふことで、たうとう十二時近くなつてしまつた。
「私のはキザなんですけど……」斯う云つて、彼は肩書附きの名刺を自分に渡した。その裏に――音もなく秋雨けぶる湯の宿に、くみかはしけり別れの酒を――彼は斯う書いて呉れた。
 辭退するのを、自分もまたゲートルを卷きレーンコートを着て、途中まで送つて行くことにした。
「僕に構はないで、あなたはドン/\先きを急いで下さい。あなたの姿の見える間、僕はついて行くんですから。あなたの姿が見えなくなつたところで、僕は引返すことにしますから、あなたは僕に構はないでドン/\急いで下さい。時間を遲らしてしまつたのですから……」湖畔の道を足弱の自分と並んで行く彼を、自分は斯う云つて促し立てた。
 一町遲れ二町遲れして――が道がグルリと曲がると、三四町先きをステツキを振りながら大股に歩いて行く彼の後姿を見出して、自分はその度に「オーイ! オーイ!」と怒鳴つた。が彼の歩調はだん/\と早まつた。自分は一里十町――戰場ヶ原の中程の三軒家の茶店までは追付いて行つて、そこで茶を飮んで別れたいと思つたのだが、二十町も來ないうちに自分は息が切れてしまひ、路傍に打倒れさうになり、彼の姿を失つてしまつた。で自分は最後の「オーイ!」を長く叫んで、悄然として雨の中を引返したのだつた。
 それからの五日間、自分は朝から飯も食はずに酒を飮み、睡むり、そしてまだ醉のさめ切らないうちに湯に飛び込んで來ては、また飮み出す――そんなことを繰返してゐたのだつた。

 が、たうとう、おせいが來た翌々日、自分はまた朝から酒を飮んで、夕方、飮食物共だつたが、洗面器にほとんど三杯――殊に最後の一杯は、腐つた魚の腸のやうなものを、何の疼痛も感ぜずにドク/\と吐いてしまつた。その晩はほとんど昏睡状態だつた。夕方からの霰が、翌日は大吹雪になつてゐた。膏藥か松脂のやうな血便が、三四日續いた。それが止んだ自分にポカリとまゐるのではないかと云ふ氣もされたが、しかし無意識のうちに搜してゐたのかも知れない死場所としては、この山の湖畔はわるくないと思つた。田舍の妻子、おせいの腹の子のことで、おせいに遺言した。
「酒のせゐですから、よくあることですから、あなたが今度が初めてでしたら、決して心配なことはありませんから、力を落さないで……」
 宿の主人は斯う繰返して力を附けて呉れたが、しかし結局中禪寺からおせいの分と二臺俥を呼びあげることになつた。そして、馬返しと日光の間の清瀧の古河製銅所の病院へ、中禪寺から電話で交渉して呉れた。
「俺はこゝにゐたいんだがなあ、山をさがりたくはないなあ……」
 自分は眼を開くのも退儀な氣持で、斯う駄々子らしく枕元のおせいに呟いたが、ふと――くみかはしけり別れの酒を――あの好青年の殘して行つて呉れた歌が頭に浮んで來て、自分はほゝ笑ましく温かい氣持から、合はした瞼の熱くなるのを覺えた。

底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年10月5日第1刷発行
   1987(昭和62)年4月8日第7刷発行
底本の親本:「葛西善藏全集」改造社
   1928(昭和3)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:蒋龍
校正:林 幸雄
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葛西善蔵

奇病患者—– 葛西善藏

 薪の紅く燃えてゐる大きな爐の主座《よこざ》に胡坐を掻いて、彼は手酌でちび/\盃を甞めてゐた。その傍で細君は、薄暗い吊洋燈と焚火の明りで、何かしら子供等のボロ布片《きれ》のやうな物をひろげて、針の手を動かしてゐた。そして夫の、今夜はほとんど五合近い酒を飮んでも醉を發しない、暗い、不機嫌な、屈托顏をぬすみ視た。そして時々薪を足して、爐の火を掻き熾《おこ》した。
 外では雪が、音も立てずに降りしきつてゐた。晝頃から降り續けたので、往來は宵のうちに埋つて了つてゐた。
 勝手元の水溜桶に、珍しくもないばり/\と氷の張る音が聞えてゐた。茅葺屋根の軒下に宿つてゐる雀が、時々寒氣に堪へ兼ねたやうにチヽと啼いた。彼は小用を足すに、表戸を開けて見た。國道を隔てた前の杉山すら、見ることが出來なかつた。そして悉くが雪に封じ込められた、渾沌とした靜寂の中に、杉山から引いた桶の水ばかりが、鼕々《とう/\》と云つた音を立てゝは落ちてゐた。
 隣りの低地のアカシヤの林の中に、堀立小屋を組んで棲んで居る木挽の家のボロ壁の隙間からは、焚火の明りがちら/\洩れてゐた。彼等もまた早寢をしても寒さの爲めに眠れないので、焚火に背腹を炙つては、夜を更かしてゐるのであつた。
「まだ終列車の音がしないやうだね」
 彼は爐邊にかへつて來て、肩を慄はしながら獨語のやうに云つた。
「さうですね。どうせもう今夜なんか遲れるでせう。それとも弘前あたりで止まりになるか知れませんね」
「そんなことだらう。……まだある?」
「はい…………」
 細君は素直に起《た》つた。そして灰の中にぢかに置いた沸つてる鐵瓶の中へ銚子を入れた。
 が彼ももう酒は不味くなつてゐた。が眼口に苦い皺を寄せながら、默つて盃を甞め續けた。そして彼は、内からだん/\と促迫して來てるらしい氣管部の呼吸《いき》苦しい壓迫を、酒の醉で胡麻化して了ひたいものだと、思つたのであつた。ある場合には、それも成功した。併し今夜は彼自身にも、それが心細く、頼りなく、感じられてゐた。彼は飮んでも/\、暗い冷めたい穴のやうな處へと、引込まれて行く氣がしてゐた。
「俺はどうも今夜は危ぶないらしい。苦しくなりさうだ……」
「だからお酒はお止めなさいよ。そして早くお休みになつたら」
「馬鹿! 貴樣はまた酒のせゐ[#「せゐ」に傍点]だと思つてるんだね。……あゝ、どうかして十日も二十日も降り續いて、郵便も電報も一切止まつて呉れないかな。さうなると當分は誰からの怖い手紙も見ずに濟むつて譯だからね」
 彼は悄氣《しよげ》切つた調子になつて、云つた。そして呼吸苦しさから、輕い痙攣を感じ出したらしい手附きして、機械的に盃を唇に運んでゐた。そしてまた發作前の常習慣の、何も彼も腹立たしい、苛ら/\した、神經的の衝動を鎭制しようと云ふ風に、凝《ぢつ》と燃える火に見入つてゐた。
「併し、今となつては、お金を返せない以上は、それは何と云はれたつて仕方のないことですからね。……それをまた一々氣にして見た處でどう仕樣もないぢやありませんか」
「そりやさうさ、何と云はれたつて仕方の無いことだがね、併し友人間の道徳問題にまでされて居るとなつてはね、非常に厭な氣がするよ。そりや勿論、さう云つた性質のものではあるのだらうがね。……兎に角お前も讀んで見い、俺は繰返して讀むのは厭だ。……少し苦しいやうだな……」
 細君は起つて、次ぎの子供等を寢かしてある、晝は彼の書齋としてる室の机の上から、Kの手紙を持つて來た。そしてボロ布片の行李を片寄せて、郵券二枚貼つた十枚近い原稿紙の長い手紙を默讀し始めた。Kの手紙は次のやうな意味のものであつた。――
 S君
 どうか早く金を送つて呉れ給へ。全くお願ひする。どうか僕を助けて呉れ給へ。後でどんなお禮でもする。後でその金を返してあげてもいゝ。どうか早く金を送つて呉れ給へ。病氣になりさうだ。夜も、心配で、一時間おき位に眼がさめる。苛ら/\して仕樣が無い。
 下宿へは、(そのことを思ふと氣の毒でならない、彼等は實にみじめなのだ。中にも困つたことは、税金の拂ひが出來ないので、この二十八日――明日までにそれが納められないと差押へを向けられるのだと云つて、主婦さんが涙を流して嘆き悲しんでゐるのです)で、君からのを當《あて》にして、屹度どうかしてあげるから、ときつぱり云つてあるんだ。さうして置いて、若し出來なかつたら、どうするんだ、僕は? どうして僕はこんなに苦勞性なのだらう。恐ろしい氣がする。何と思つても仕方が無い。今となつては、もう何處へ話を持込まうと云ふことも出來やしない。非常に困つてゐる。じれて、待つて、苛ら/\してゐる。
 部屋に坐つてゐることが出來ない。行く處もない。當もなく往來をぶら/\歩いてゐる。(實はもう電車賃も無いんだ!)早く金を送つて呉れ給へ。一刻も早く、送つてくれ給へ。一刻も早く、送つてくれ給へ。
 今の場合、どうか何も考へたり思つたりしないで呉れ給へ。そんなことは後にしてくれ給へ。そして兎に角動いて呉れ給へ。(僕も動いてゐる)電報を打ちに出かけて呉れ給へ。――今直ぐ。僕は嘆願する。(僕は、自分の状態を甚だ醜いと思つてゐる。だけれども僕は病氣になりさうなんだ。僕は生來心臟が弱い、それだから、急《せ》いたりする時になると、無闇矢鱈と急くんだ。そんなことも僕にはちやんと解つてゐるんだ)僕を憐んでくれ給へ。
 あゝ、兎に角金が今直ぐに來て呉れゝばそれでいゝんだ。さうでないと、どんなに好いことがあつても駄目だ。どうか、金を早く送つて呉れ給へ。(手紙でなく、電報でだよ)
 S君
 僕は、とう/\昨日郷田と平松のゐる前で愚痴をこぼした。……後で福井君も來合せて。君から金を送つて來ないことを云つて散々愚痴をこぼした。郷田は澁いやうな苦しいやうな顏をして頻りと心配してゐた。そして、直ぐ、君に手紙を書くと云つてゐた。(自己の責任といふことで徹底的な手紙を書くと云つてゐた。その爲めには君と絶交しても構はないといふ口吻であつた)――後で僕は、ほんとに馬鹿なことをしたと思つた。
 僕は、昨日も家にはゐられなかつたので出かけた。途中で、ふと日曜であることを思うて郷田を訪ねたのだ。それから二人で更に平松の處へ行つたのだ。そして、そんな話をして十一時過ぎまでゐた。僕は郷田と歩いて山王下へ出て電車に乘つた。――僕は郷田と二人つきりになつた時、郷田は僕を叱るやうに罵つた。僕は全く別のことを考へてゐたので、彼の言葉は好く解らなかつたが、何でも、「君は馬鹿だ――僕のことだよ――ほんに淺墓な人間だ、無分別だ、意氣地無し意氣地無し」こんなやうな意味の言葉だつたと思ふ。そして、君が歸る時[#「歸る時」に傍点]、(いや、彼は、君を歸す時[#「歸す時」に傍点]、と云つた)なぜ一應友人に相談しなかつたのだ、と云つた。
 たいへん我儘な、勝手な手紙を書いて失禮。併し君は無禮を許して呉れると信じてゐる。……
 併しS君、――何事も序でだ、もう少し僕にお喋舌りを許して呉れ給へ。(實際僕はお喋舌りだ)が僕もまた、この手紙が、一方ならず君に憤懣と侮辱を與へることになるだらうと云ふことも、僕は考へて居る。また奧さんや子供さん達のことを思うては、實際罪惡感にすら責められる。けれども、僕の方のことも、察して貰ひたいものだ。僕もまた君と同じ程度に貧乏なんですぞ! そして僕ははにかみ屋[#「はにかみ屋」に傍点]だ、そして誰一人慰めて呉れ手のない、一人ぼつちの人間なんだ。
 僕は昨日も、(いや今でも――)餘程平松に借款を申込まうかと思つた。(多分彼は應じて呉れるだらう)けれどもそれは、僕には出來ないことなんだ。このことは、君もいろ/\な意味から考へて、僕を諒として貰ひたいものだ。
 彼等は、君のことを奇病患者[#「奇病患者」に傍点]見たいなものだと、言つた。つまり、君が如何に七轉八倒して苦しんでゐても、手を下して救ふと云ふことは出來ない、また手を下すべき性質のものでも無いと云ふのだ。さう云ふ患者は、ある特志な醫師などに取つては興味もあり、また救ふことも出來るかも知れないが、吾々としては嚴正な傍觀の態度を執るか、またその奇怪な苦悶の觀物《みせもの》(彼等は觀物と云ふ)を囘避するか、それとも吾々社會生活の圈内から除き去るか、この三つの方法しか無いと云ふのが、彼等の一致した意見なんだ。(おゝ、何と云ふ怖い小父さん達だ! そしてまた彼等は、君等のこの春の都落ち――をも斯う云ふ風に觀て居るのですぞ!)
 斯の如く怖い小父さん達へ對して、この意氣地なしの、はにかみ屋[#「はにかみ屋」に傍点]の僕がどうして借款なぞ申込むことが出來ませう! 萬一にもきちんと返濟することが出來なかつたら? (そんな間違ひが、どうして生じないだらうとは自信出來ますか?)
 また僕の如き貧乏なそして流行しない作家が、彼等貴族的道徳的藝術家の間に介在するのを許されて居る、――そのことに就ても君は考へて見て呉れ給へ。君と僕とが本質的にどれ程の差別ある人間であらうか? 君を奇病患者視して居る彼等は、果して僕を本質的に健全な人間と許して居るだらうか? いや/\、決してさうではありません。つまり、簡單に云つて見れば、斯うした場合に借款なぞ申込み得ない僕の臆病な自制――卑怯な我慢ひとつに原因した問題なのです。それが彼等に安心を與へて居るのです。そして僕の介在が許されて居るのです。この我慢が一寸でも――今の限度からはづれて見給へ、僕もまた忽ち君と同じやうな奇病患者扱ひを受けるに極《きま》つて居るのだ。(僕はその状態に堪へることは出來ません)僕は寧ろ斯うした場合特に我慢の無い君の性格を羨ましく思つてゐる程です。けれども僕はまだ、君程に、山へ入つて一生を送らうと云ふ程の諦めも悟りも出來てゐない。否、僕はやはり都會で生きたいのです、生き拔きたいのです! その爲めには全然彼等と沒交渉になると云ふことは、堪へられません。僕は今でも餘りに孤獨です。そしてまた、それにはいろ/\な意味から云つて利益不利益の問題も含まれてゐると云ふことも、認めて呉れなくてはならない。(自分の如き貧乏な、そして流行しない作家として生きる爲めには!)
 それにしても、君が歸つてからこの半月程の間に、僕はどれ程いろ/\な厭な思ひや、厭なことを考へさせられたか! たつた五十圓餘りの金の爲めに!
 併しS君、――君がもう少し附け加へることを許すであらうならばだ――(どうしてまた君が遙々と奧州|下《く》んだりから擔ぎ出して來たあれだけの懸物の中に、一本も眞物《ほんもの》と云ふものが含まれてなかつたのでせう? どうして悉くが贋物だつたのでせう? 運命でせうか? そして何故また君がそれを祖先傳來の家寶だなどと白々しく――さうとしか思はれません――言ひ張つたか?――平松はこのことだけでも許すべからざる悖徳行爲だと云つた)
 S君
 僕の無禮な、言ひ過ぎのお喋舌りを許して呉れ給へ。そして僕を誤解せずに呉れ給へ。僕とてもまた、彼等見せかけ[#「見せかけ」に傍点]の、無氣力な人道家道徳家に對して、反感と侮蔑とを感じて居ると云ふ點では、君に讓りたいとは思ひません。おゝ奇病患者とは何と云ふ慘忍な言葉だ! 彼等の何處を押せばそんな音が出るのだらう? 併しSよ、焦慮する勿れだ。いや、彼等の何處を押したからつて、もともと、本質的に、自分等貧乏人の爲めに出すべき何等の音も持ち合せてはないのだと云ふことを、――善いにも惡いにも如何なる意味に於ても何等の共鳴する處のない他人同志であるといふことを、――奇病患者なぞと御大層な罵詈を並べようと、それも畢竟單なる思ひ附きの言葉であつて、善いにも惡いにも何等必然性のない空な遊戯的な意味のものであるといふことを、――如何なる叱責の手紙を書かうともそれは單なる隙つぶしの爲めであると云ふことを、――考慮して、君は意を安んじていゝのである。
 おゝパリサイの徒たる、亞流の徒たる、彼等もまた、畢竟これ奇病患者たるに過ぎないではないか! 妄言多謝
          十二月二十七日朝[#地から3字上げ]K生
    S兄

 ――
 手紙を讀み終つた細君の、その赤黒い、肉附いた、盆のやうな大きな顏が、火のやうに赤くなつてゐた。そして幅の廣い肩に波を打たして、凝と手紙の上へ眼を落してゐた。その顏がまた、彼の惘乎《ぼう》となつた眼の前に、室いつぱいに擴大されて行くやうな變異な相貌となつて、おつ被《か》ぶさつて來るやうに見えた。彼はすつかり、窒息的な呼吸遣ひに陥いつてゐた。呼氣が延び、鼻孔が擴がつて、そして輕い咳と共に流れ出るやうに出て來るどろ/\した痰汁を、爐の隅に置いてある眞鍮の痰吐きに吐いてゐた。そして油汗の浸染《にじ》んだ、土色を帶びた青い顏は、苦悶と、すつかり頼り無げの表情から、酷く引歪められてゐた。
「……奇病患者とは實に恐れ入つた言葉だね。……あゝ苦しい! ……寢よう……」
 やがて彼はふら/\と起ちあがつて、次ぎの室の、厚い藁蒲團の中に埋まるやうになつて眠つてゐる七つになる長男の傍へ這入つて行つたが、
「あゝ苦しい。……あれを拵へて持つて來て呉れ――重吉の持つて來て呉れた葉つぱ[#「つぱ」に傍点]を。……飮んで見よう……」
 彼は絶望的に、呻くやうに、嗄がれた聲して呼んだ。
 村の老人の持つて來て呉れた喘息の妙藥だといふ蓬の葉の乾したのを、細君は茶袋から出して土瓶で煎じた。そして其の煎じた汁を、湯呑みへ一杯、悶絶せんばかりに苦しんでゐる彼の枕元へ持つて行つた。
 彼は腹這ひになりながら、眼をつぶつて一口二口味ふやうに啜つて、顏をしかめた。そして自分を憫れむやうな頼りなげな苦笑を洩らした。
「……變な味……」
「もう一杯持つて來て見ませうか?」
「いやもう澤山だよ……」
 彼は斯う云つて、夜具の襟に頤を埋めて、眼をつぶつた。そして何といふことなし、瞼の裏に涙の浸染《にじ》んで來るのを覺えて、ちよつとの間ながら病苦の薄らいで行くやうなうと/\した氣持になりかけた。

底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年10月5日第1刷発行
   1987(昭和62)年4月8日第7刷発行
底本の親本:「葛西善藏全集」改造社
   1928(昭和3)年
入力:蒋龍
校正:川山隆
2010年9月11日作成
2011年1月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

葛西善蔵

贋物 —–葛西善蔵

 車掌に注意されて、彼は福島で下車した。朝の五時であった。それから晩の六時まで待たねばならないのだ。
 耕吉は昨夜の十一時上野発の列車へ乗りこんだのだ、が、奥羽線廻りはその前の九時発のだったのである。あわてて、酔払って、二三の友人から追いたてられるようにして送られてきた彼には、それを訊《たず》ねている余裕もなかったのだ。で結局、今朝の九時に上野を発ってくる奥羽線廻りの青森行を待合せて、退屈なばかな時間を過さねばならぬことになったのだ。
 が、「もとより心せかれるような旅行でもあるまい……」彼はこう自分を慰《なぐさ》めて、昨夜送ってきた友だちの一人が、意味を含《ふく》めて彼に贈ってくれたところのトルストイの「光の中を歩め」を読んでいた。
 ストーヴのまわりには朝からいろいろな客が入替った。が耕吉のほかにもう一人十二三とも思われる小僧ばかりは、幾回の列車の発着にも無頓着な風で、ストーヴの傍の椅子《いす》を離れずにいた。小僧はだぶだぶの白足袋に藁草履《わらぞうり》をはいて、膝きりのぼろぼろな筒袖を着て、浅黄《あさぎ》の風呂敷包を肩にかけていた。
「こらこら手前まだいやがるんか。ここは手前なぞには用のないところなんだぜ。出て行け!」
 掃除に来た駅夫に、襟首《えりくび》をつかまえられて小突き廻されると、「うるさいな」といった風で外へ出て行くが、またじきに戻ってきて、じっとストーヴの傍に俯向いて立ったりしていた。
「お前どこまで行くんか?」耕吉はふと言葉をかけた。
「青森まで」と小僧は答えた。青森というのは耕吉の郷国だったので、彼もちょっと心ひかれて、どうした事情かと訊《き》いてみる気になった。
 小僧は前借で行っていた埼玉在の紡績会社を逃げだしてきたのだ。小僧は、「あまり労働《しごと》が辛いから……」という言葉に力を入れて繰返した。そして途中乞食をしながら、ほとんど二十日余りもかかって福島まで歩いてきたのだが、この先きは雪が積っていて歩けぬので、こうして四五日来ここの待合室で日を送っているのだというのであった。
「巡査に話してみたのか?」
「話したけれど取上げてくれない」
「そんなはずってあるまい。それがもし本当の話だったら、巡査の方でもどうにかしてくれるわけだがなあ。……がいったいここではどうして腹をこしらえていたんだ? 金はいくら持っている? 年齢はいくつだ? 青森県もどの辺だ?」
 耕吉は半信半疑の気持からいろいろと問訊《といただ》してみたが、小僧の答弁はむしろ反感を起させるほどにすらすらと淀《よど》みなく出てきた。年齢は十五だと言った。で、「それは本当の話だろうね。……お前嘘だったらひどいぞ」と念を押しながら、まだ十二時過ぎたばかりの時刻だったので、小僧と警察へ同行することにした。
 警察では受附の巡査が、「こうした事件はすべて市役所の関係したことだから、そっちへ伴れて行ったらいいでしょう」と冷淡な態度で言放ったが、耕吉が執固《しつっこ》く言だすと、警部など出てきて、「とにかく御苦労です」といった調子で、小僧を引取った。で、「喰詰者《くいつめもの》のお前なぞによけいな……」こう後ろから呶鳴りつけられそうな気もされてきて、そこそこに待合室へ引返して「光の中を歩め」を読みおえたが、現在の頼りない気持から、かなり感動を受けた。
 ちょうど三月の下旬にはいっていた。が乗客はまだいずれも雪国らしいぎょうさんな風姿《なり》をしている。藁沓《わらぐつ》を履《は》いて、綿ネルの布切で首から頭から包んだり、綿の厚くはいった紺の雪袴《もんぺ》を穿《は》いたり――女も――していた。そして耕吉の落着先きを想わせ、また子供の時分から慣れ親しんできた彼には、言い知れぬ安易さを感じさせるような雪国らしいにおい[#「におい」に傍点]が、乗客の立てこんでくるにしたがって、胸苦しく室の中に吐き撒《ま》かれていた。
「明日から自分もこの一人になるのだ」と、彼はふと思った。「いつからか自分にはこうしたことになって、故郷に帰ることになるだろうという予感はあったよ」とも思った。そして改札口前をぶらぶらしていたが、表の方からひょこひょこはいってくる先刻の小僧が眼に止ったので、思わず駈け寄って声をかけた。
「やっぱしだめだった? 追いだして寄越した?」
「いいんにゃそうじゃない。巡査が切符を買って乗せてやるって、だから誰かに言っちゃいけないって……今にここへ来て買ってやるから待っておれって」
 小僧はこう言ったが、いかにもそわそわしていて、耕吉の傍から離れたい風だったので、「そうか、それはよかった。……これでパンでも買え」と言って、十銭遣った。そしてあれからどうしたかということは訊かずに離れてしまった。
 が耕吉が改札して出るようになっても、その巡査が来ないのか、小僧はしきりに表の方や出札口前をうろうろしていた。耕吉は橋を渡り、汽車に乗って、窓から顔を出していたが、やがてプラットホームの混雑も薄れてきても、小僧も巡査の姿も見えないので、「やっぱしだめなんだろう」とも思っていたが、発車間ぎわになって、小僧は前になり巡査は後から剣をがちゃがちゃさせながら、階段を駈け下りてきた。そして耕吉の窓の下をも一二度、口鬚《くちひげ》の巡査は剣と靴音とあわてた叫声を揚《あ》げながら、例の風呂敷包を肩にした、どう見ても年齢にしては発育不良のずんぐりの小僧とともに、空席を捜し迷うて駈け歩いていた。「巡査というものもじつに可愛いものだ……」耕吉は思わず微笑した。

 それきり小僧とは別の客車だったので顔を合わさなかった。が彼は思いもかけず自分の前途に一道の光明を望みえたような軽い気持になって、汽車の進むにしたがって、田圃《たんぼ》や山々にまだ雪の厚く残っているほの白い窓外を眺めていた。「光の中を歩め」の中の人々の心持や生活が、類《たぐ》いもなく懐しく慕《した》わしいものに思われた。自分にもあんな気持にもなれるし、あんな生活も送れないことはないという気がされたのだ。偶然な小僧の事件は、彼のそうした気持に油を濺《そそ》いだ。
「そうだ! 田舎へ帰ると、ああした事件やああした憫《あわ》れな人々もたくさんいるだろう。そうした処にも自分の歩むべき新しい道がある。そして自分の無能と不心得から、無惨にも離散になっている妻子供をまとめて、謙遜《けんそん》な気持で継母の畠仕事の手伝いをして働こう。そして最も素朴な真実な芸術を作ろう……」などと、それからそれと楽しい空想に追われて、数日来の激しい疲労にもかかわらず、彼は睡むることができなかった。

 翌朝彼は本線から私線の軽便鉄道に乗替えて、秋田のある鉱山町で商売をしている弟の惣治を訪ねた。そして四五日|逗留《とうりゅう》していた。この弟夫婦の処に、昨年の秋から、彼の総領の七つになるのが引取られているのであった。
 惣治はこれまでとてもさんざん兄のためには傷《いた》められてきているのだが、さすがに三十|面《づら》をしたみすぼらしい兄の姿を見ては、卒気《そっけ》ない態度も取れなかった。彼は兄に、自分の二階へ妻子たちを集めてはどうかと言ってみた。食っているくらいのことはたいしたことでもなし、またそれくらいのことは、兄のいかにも自信のあるらしい創作を書いても儲《もう》かりそうなものだと思ったのだ。
「もっとも今も話したようなわけで、破産騒ぎまでしたあげくだから、取引店の方から帳簿まで監督されてる始末なんで、場合が場合だから、二階へ兄さんたちを置いてるとなると小面倒なことを言うかもしれませんが、しかしそれとてもたいしたことではないんです。兄さんたちさえ気にかけなければ、貸間に置いてあるんで経済は別だと言えばそれまでの話なんだから……」
 その晩だいぶ酒の浸みたところで、惣治は兄に向ってこう言った。気まぐれな兄の性質が考えられるだけに、どうせ老父の家へ帰ったって居つけるものではないと思ったのだ。
「しかし酒だけは、先も永いことだから、兄さんと一緒に飲んでいるというわけにも行きますまいね。そりゃ兄さんが一人で二階で飲んでる分にはちっともかまいませんが、私もお相伴《しょうばん》をして、毎日飲んでるとなっては、帳場の手前にしてもよくありませんからね」
 これが惣治の最も怖れたことであった。
「……そりゃそうとも、僕も今度はまったく禁酒のつもりで帰ってきたのだ」と耕吉は答えた。「じつはね、僕も酒さえ禁《や》めると、田舎へ帰ったらまだ活《い》きて行く余地もあろうかと思ってね……」
 耕吉はついこうつけ加えたが、さすがに顔の赤くなるのを感じた。そのうち弟は兄のかなり廃物めいた床の間の信玄袋に眼をつけて、
「兄さんの荷物はそれだけなんですか?」と、何気ない気で訊ねた。
「そうだ」と、耕吉は答えるほかなかった。そして、それで想いだしたがといった風で上機嫌になって、
「じつはね、この信玄袋では停車場へ送ってきた友だちと笑ったことさ。何しろ『富貴長命』と言うんだからね。人間の最上の理想物だと言うんだ。――君もこの信玄袋を背負って帰るんだから、まあ幸福者だろうてんでね、ハハハ」
 惣治にはおかしくもなかった。相変らずあんなことばかし言って、ふわふわしているのだろうという気がされて、袋から眼を反《そ》らした。その富貴長命という字が模様のように織りこまれた袋の中には、汚れた褞袍《どてら》、シャツ、二三の文房具、数冊の本、サック、怖しげな薬、子供への土産《みやげ》の色鉛筆や菓子などというものがはいっていた。
 さすがに永いヤケな生活の間にも、愛着の種となっていた彼の惣領も、久しぶりで会ってみては、かねがね想像していたようにのんびりと、都会風に色も白く、艶々した風ではなかった。いかにも永い冬と戦ってきたというような萎縮《いじ》けた、粗硬な表情をしていた。「ただに冬とのみ戦ってきたのだとは言えまい」と、彼も子供の顔を見た刹那《せつな》に、自分の良心が咎《とが》められる気がした。一日二日相手に遊んでいるうち、子供の智力の想ったほどにもなく発達しておらないというようなことも、彼の気持を暗くした。
「俺も正式に学校でも出ていて、まじめに勤めをするとか、翻訳の稽古《けいこ》でもしていたら、今ごろはこうしたことにもならずにすんだものを、創作なぞと柄《がら》にもないことを空想して与太《よた》をやってきたのが間違いだったかしれん。どうせ俺のような能なし者には、妻子四人という家族を背負って都会生活のできようはずがない。田舎へ帰ってきたのは当然の径路というもんだろう。よくもまあ永い間、若い才物者|揃《ぞろ》いの独身者の間に交って、惨めなばかを晒《さら》していられたものだ……」
 彼はこの惣領の三つの年に、大きな腹をした細君を郷里に帰したのだ。その後またちょっと帰ってきては一人|生《う》ましたのだ。……がさて、明日からどうして自力でもってこれだけの妻子どもを養って行こうかという当は、やっぱしつかなかった。小僧事件と、「光の中を歩め」の興奮から思いついた継母の手伝いの肥料担ぎや林檎の樹の虫取りも、惣治に言われるまでもなく、なるほど自分の柄にはないことのようにも思われだした。「やっぱし弟の食客《しょっかく》というところかなあ……」と思うほかなかった。……
 二階の窓ガラス越しに、煙害騒ぎの喧《やか》ましい二本の大煙筒が、硫黄臭い煙を吐いているのがいつも眺められた。家のすぐ傍を石炭や礦石を運ぶ電車が、夜昼のかまいなく激しい音を立てて運転していた。丈の低い笹と薄《すすき》のほかには生ええない周囲の山々には、雪も厚くは積もれなかった。そこらじゅうが赭《あか》く堀返されていた。
「母さんはいつ来るの?」
「もう少しするとじき。今度はね、たアちゃんも赤んぼも皆な来るの。そして皆なでいっしょにここにいるの。……早く来るといいねえ」
「あア……」
 こうした不健康な土地に妻子供を呼び集めねばならぬことかと、多少暗い気持で、倅《せがれ》の耕太郎とこうした会話を交わしていた。
 こうした二三日の続いた日の午後、惣治の手紙で心配して、郷里の老父がひょっこり出てきたのだ。
「俺が行って追返してやろう。よし追返されないまでも、惣治の傍に置いてはよくない。ろくなことを仕出来《しでか》しゃしない。とにかくどんな様子か見てきてやれ」老父はこうした腹で出てきたのだ。
 その晩三人の間に酒が始ったが、酒の弱くなっている老人はじきに酔払った。そして声高く耕吉を罵《ののし》った。しまいに耕吉は泣きだした。
「それは空涙というものではないんか? 真実の涙か? 親子の間柄だって、ずいぶん空涙も流さねばならぬようなこともあればあるものだ。お前はその涙でもって、俺や惣治を動かして、それで半年でも一年でものんべり[#「のんべり」に傍点]と遊んでいるつもりではないんだろうな。そんならばまあいい。お前もまさか、お釈迦様《しゃかさま》が檀特山《だんどくせん》へはいって修行したというほどの決心で帰ってきたというものを、追返すというわけにも行くまい。その代り俺の方で惣治からの仕送りを断るから、それでお前は別に生計を立てることにしたがいいだろう。とにかくいっしょにいるという考えはよくない」
 気のいい老父は、よかれ悪《あし》かれ三人の父親である耕吉の、泣いて弁解めいたことを言ってるのに哀れを催《もよお》して、しまいにはこう慰《なぐさ》めるようにも言った。ことに老父の怒ったのは、耕吉がこの正月早々突然細君の実家へ離縁状を送ったということについてであった。その事件はまだそのままになっていたが、そのため両家の交際は断えていたのだ。
「何という無法者だろう。恩も義理も知らぬ仕打ではないか!」
 老父は耕吉の弁解に耳を仮《か》そうとはしなかった。そして老父はその翌朝早く帰って行った。耕吉もこれに励まされて、そのまた翌日、子のない弟夫婦が手許に置きたがった耕太郎を伴れて、郷里へ発ったのであった。

 往来に雪解けの水蒸気の立つ暖かい日の午後、耕吉、老父、耕太郎、久助爺との四人が、久助爺の村に耕吉には恰好《かっこう》の空家があるというので、揃《そろ》って家を出かけた。瀬音の高い川沿いの、松並木の断続した馬糞に汚れた雪路を一里ばかりも行ったところが、そのG村であった。国道沿いながら大きな山の蔭になっていて、戸数の百もあろうかというまったくの寒村であった。
 かなり長い急な山裾《やますそ》の切通し坂をぐるりと廻って上りきった突端に、その耕吉には恰好だという空家が、ちょこなんと建っていた。西向きの家の前は往来を隔てた杉山と、その上の二千尺もあろうという坊主山で塞《ふさ》がれ、後ろの杉や松の生えた山裾の下の谷間は田や畠になっていて、それを越えて見わたされる限りの山々は、すっかり林檎畠に拓《ひら》かれていた。手前隣りの低地には、杉林に接してポプラやアカシヤの喬木がもくもくと灰色の細枝を空に向けている。右隣りの畠を隔てて家主の茅屋根が見られた。
 雪庇いの筵《むしろ》やら菰《こも》やらが汚ならしく家のまわりにぶら下って、刈りこまない粗葺きの茅屋根は朽って凹凸になっている。
「……これかい、ずいぶんひどい家だねえ」
 耕吉は思わず眼を瞠《みは》って言った。
「この辺の百姓家というものはたいていこんなもんでごいす[#「ごいす」に傍点]。これでもお前様たちがはいってピンと片づけてみなせ、けっこうな住家《すまいや》になるで。在郷には空いてる家というものはめったにないもんでな、もっとも下《しも》の方に一軒いい家があるにはあるが、それがその肺病人《ぶらぶらやまい》がはいった家だで、お前様たちでは入れさせられないて、気を悪くすべと思ってな」
 久助爺はこれでたくさんだと言うつもりであった。
「子供らもいっしょのことだから、そんな病人のはいった家ではいけまい」と老父もそれに同意したが、
「なるほどこれでは少しひどい」と驚いた。
 表戸を開けてはいると四坪の土間で、藁《わら》がいっぱい積まれてあった。八畳の板の間には大きな焚火の炉《いろり》が切ってあって、ここが台所と居間を兼ねた室である。その奥に真暗な四畳の寝間があった。その他には半坪の流し場があるきりで、押入も敷物もついてなかった。勾配《こうばい》のひどく急な茅屋根の天井裏には煤埃《すすほこ》りが真黒く下って、柱も梁《はり》も敷板も、鉄かとも思われるほど煤《すす》けている。上塗りのしてない粗壁《あらかべ》は割れたり落ちたりして、外の明りが自由に通っている。
「狐か狸でも棲《すま》ってそうな家だねえ」耕吉はつくづくそう思って、思わず弱音を吐いた。
「何しろ家賃が一カ月七十銭という家だからな、こんなもんだろう」と老父は言ったが、嫁や孫たちが可哀想だという口吻《くちぶり》でもあった。
「古いには古い家でごいす[#「ごいす」に傍点]。俺が子供の時分の寺小屋だったでなあ。何度も建てなおされた家で、ここでは次男《おじ》に鍛冶屋させるつもりで買ってきて建てたんだが、それが北海道へ行ったもんで、ただうっちゃらかしてあるんでごいす[#「でごいす」に傍点]。これでも人がはいってピンと片づけてみなせ、本当に見違えるようになるで……」
 久助爺はけろりとした顔つきでこう繰返すので、耕吉は気乗りはしなかったが、結局これに極めるほかなかった。……
 月々十円ばかしの金が、借金の利息やら老父の飲代やらとして、惣治から送られていたのであった。それを老父は耕吉に横取りされたというわけである。家屋敷まで人手に渡している老父たちの生活は、惨めなものであった。老父は小商《こあきな》いをして小遣いを儲けていた。継母は自分の手しお[#「しお」に傍点]にかけた耕吉の従妹の十四になるのなど相手に、鬼のように真黒くなって、林檎《りんご》や葡萄《ぶどう》の畠を世話していた。彼女はちょっと非凡なところのある精力家で、また皮肉屋であった。
「自家《うち》の兄さんはいつ見ても若い。ちっとも老《ふ》けないところを見ると、お釈迦様という人もそうだったそうだが、自家の兄さんもつまりお釈迦様のような人かもしれないねえ。ヒヒヒ」こういった調子で、耕吉の病人じみた顔をまじまじと見ては、老父は聴かされた壇特山《だんどくせん》の講釈を想いだしておかしがった。五十近い働き者の女の直覚から、「やっぱしだめだ。まだまだこんな人相をしてるようでは金なぞ儲けれはせん。生活を立てているという盛りの男の顔つきではない。やっぱしよたよたと酒ばかし喰らっては、悪遊びばかししていたに違いない」腹ではこう思っているのであった。こうした男にいつまでも義理立てしている嫁の心根が不憫《ふびん》にも考えられた。
「自家では女は皆しっかり者だけれど、男は自堕落者揃いだ。姨《おば》にしても嫂《あね》にしても。……私だってこれで老父さんには敗けないつもりだからねえ」……「向家《むこう》の阿母さんが木村の婆さんに、今度工藤の兄さんが脳病で帰ってきたということだが、工藤でもさぞ困ることだろうと言ってたそうなが、考えてみるとつまり脳病といったようなもんさね。ヒヒヒ」
 老父と耕吉とが永い晩酌にかかっていると、継母はこんなようなことを言っては、二人の気を悪くさせた。
 どんなものが書けるのだろうと危ぶまれはしたが、とにかくに小説を書いて金を儲けるという耕吉の口前を信じて、老父はむり算段をしては市《まち》へ世帯道具など買いに行った。手桶の担ぎ竿とか、鍋敷板とかいうものは自分の手で拵えた。大工に家を手入れをさせる時も、粗壁に古新聞を張る時も、従妹を伴れては老父が出かけて行った。そしてそういう費用のすべては、耕吉の収入を当てに、「Gの通《かよい》」といったような帳面を拵《こしら》えてつけておいた。
 ある晩酒を飲みながら老父は耕吉に向って、
「俺はこうしてまあできるだけお前には尽しているつもりだが、よその親たちのことを考えてみろ、そんなもんではないぜ。これがもし世間に知れてみなさい、俺のことをいい親ばかだと言うに極まっている。……いったいお前は今度帰る時、もし俺たちがてんでかまいつけないとしたら、東京へ引返して働くのは厭だと言うし、まあいったい妻子供をどうするつもりだったのか?」
 と索《さぐ》るような眼をして言った。で耕吉はつい東京で空想していた最後の計画というのを話した。
「私はその時は詮方《せんかた》がありませんから、妻を伴れて諸国巡礼に出ようと思ってたんです。私のようなものではしょせん世間で働いてみたってだめですし、その苦しみにも堪ええないのです。もっとも妻がいっしょに行く行かないということは、妻の自由ですが……」
「乞食をしてか、……が子供はどうするつもりか?」
「子供らは欲しいという人にくれてしまいます」
「フーム……」老父は黙ってしまった。
 数日後、耕吉はひどく尻ごみする自分を鞭打して、一時間ばかし汽車に乗って、細君の実家《さと》へお詫びに出かけた。――細君は自儘には出てこれぬような状態になっていた。で、「右の頬を打たれたら左の頬も向けよう」彼はしきりにこうした気持を煽《あお》りたてて出かけて行ったのだが、舅《しゅうと》には、今さら彼を眼前に引据えて罵倒《ばとう》する張合も出ないのであった。軽蔑《けいべつ》と冷嘲《れいちょう》の微笑を浮べて黙って彼の新生活の計画というものを聴いていたが、結局、「それでは仕度をさせて一両日中に遣《や》ることにしましょう」と言うほかなかった。今度だけは娘の意志に任《まか》せるほかあるまいと諦《あきら》めていたのだ。

「俺の避難所はプアだけれど安全なものだ。俺も今こそかの芸術の仮面家どもを千里の遠くに唾棄《だき》して、安んじて生命の尊《とうと》く、人類の運命の大きくして悲しきを想うことができる……」
 寝間の粗壁《あらかべ》を切抜いて形ばかりの明り取りをつけ、藁と薄縁《うすべり》を敷いたうす暗い書斎に、彼は金城鉄壁の思いかで、籠《こも》っていた。で得意になって、こういったような文句の手紙を、東京の友人たちへ出したりした。彼ら五人の親子は、五月の初旬にG村へ引移ったのであった。
 彼は、たちまちこのあばらや[#「あばらや」に傍点]の新生活に有頂天《うちょうてん》だったのである。そしてしきりに生命とか、人類の運命とか、神とか愛とかいうことを考えようとした。それが彼の醜悪《しゅうあく》と屈辱《くつじょく》の過去の記憶を、浄化《じょうか》するであろうと、彼は信じたのであった。彼は自分のことを、「空想と現実との惨《いた》ましき戦いをたたかう勇士ではあるまいか」と、思ったりした。そして今や現実の世界を遠く脚下に征服して、おもむろに宇宙人生の大理法、恒久不変《こうきゅうふへん》の真理を冥想することのできる新生活が始ったのだと、思わないわけに行かないのであった。
 彼は慣れぬ腰つきのふらふらする恰好《かっこう》を細君に笑われながら、肩の痛い担ぎ竿で下の往来側から樋の水を酌《く》んでは、風呂を立てた。睡れずに過した朝は、暗いうちから湿った薪を炉に燻《くす》べて、往来を通る馬子《まご》の田舎唄に聴惚れた。そして周囲のもの珍しさから、午後は耕太郎を伴れて散歩した。蕗《ふき》の薹《とう》がそこらじゅうに出ていた。裏の崖から田圃に下りて鉄道線路を越えて、遠く川の辺まで寒い風に吹かれながら歩き廻った。そして蕗の薹や猫柳の枝など折ってきたりした。雪はほとんど消えていた。それでも時には、前の坊主山の頂きが白く曇りだして、羽毛のような雪片が互いに交錯《こうさく》するのを恐れるかのように条《すじ》をなして、昼過ぎごろの空を斜めに吹下ろされた。……
「これだけの子供もあるというのに、あなたは男だから何でもないでしょうけれど、私にはおいそれ[#「おいそれ」に傍点]と別れられるものと思って? あなたには子供が可愛いいというのがどんなんか、ちっとも解ってやしないのです。私が間《なか》にはいって嘗《な》めた苦労の十が一だって、あなたには察しができやしません。私はどれほど皆から責められたかしれないのですよ。……お前の気のすむように後の始末はどんなにもつけてやれるから、とても先きの見込みがないんだから別れてしまえと、それは毎日のように責められ通したのですけれど、私にはどうしてもこの子供たちと別れる決心がつかなかったのです。つまり私のばかというもんでしょう……」
「まあまあそれもいいさ。何事も過ぎ去ったことだ。いっさい新規蒔直《しんきまきなお》しだ。……僕らの生活はこれからだよ!」
 生活の革命だと信じて思い昂《たかぶ》っている耕吉には、細君の愚痴話には、心から同情することができなかったのだ。

 惣治は時々別荘へでも来る気で、子供好きなところから種々な土産物など提げては、泊りがけでG村を訪ねた。
「閑静でいいなあ、別世界へでも来た気がする。終日《いちんち》他人の顔を見ないですむという生活だからなあ」
 惣治はいつもそう言った。……厭な金の話を耳に入れずに、子供ら相手に暢気《のんき》に一日を遊んで暮したいと思ってくるのであった。耕吉は弟があの山の中の町から出てきて、まるで別世界へでも来たように感心するのを、おかしがった。
「そうかなあ。……しかし僕には昼間はこのとおり静かだからいいけれど、夜は怖い。ひどい風だからねえ、まるで怒濤の中でもいるようで、夜の明けるのが待遠しい。それに天井からは蜘蛛やら蚰蜒《げじげじ》やら落ちてくるしね……」
「そういったわけでもないですがね、……兄さんには解らんでしょうが、遣繰《やりく》り算段一方で商売してるほど苦しいものはないと思いますね。朝から晩まで金の苦労だ。だからたまにこうして遊びに出てきても、留守の間にどんな厭な事件が起きてやしないかと思うと、家へ帰って行くのが退儀でしかたがない。だから僕もここへ来てこうして酒でも飲んでいると、つくづくそう思いますね。せめて二三千円の金でも残ったら、こうした処へ引っこんで林檎畠の世話でもして、糞|草鞋《わらじ》を履《は》いて働いてもいいから暢気に暮したいものだと。……僕もあまり身体が丈夫でありませんからね。今でも例の肋膜《ろくまく》が、冬になると少しその気《け》が出るんですよ」
 惣治も酔でも廻ってくると、額に被《か》ぶさる長い髪を掌で撫《な》で上げては、無口な平常に似合わず老人じみた調子でこんなようなことを言った。
「そうだろうね、商売というものもなかなかうまく行かんもんだろうからね。僕もせめて三十円くらいの収入があるようになったら、お前も商売を廃《や》めて、皆でいっしょに暮すがなあ。どうせ姨《おば》さんには子供はあるまいから、僕の子供を嬶《かかあ》と二人で世話するとして、お前は畠を作ったり本を読んだりするんだね。そして馬を一疋飼おうじゃないか。……お前は馬に乗れるかい?」
「乗れますとも! 僕は家で最中困った時には、馬を買って駄賃までつけたんですからね」
 惣治は今に始まらぬ兄の言うことのばかばかしさに腹が立つよりも、いつになったらその創作というものができて収入の道が開けるのか、まるで雲を攫《つか》むようなことを言ってすましていられる兄の性格が、羨《うらや》ましくもあり憎々しくもあるような気がされた。
「兄さんとは性分が違うというんでしょうね。僕にはとても兄さんのようには泰然としておれない。もっともそれでないと、小説なんかというものは考えられまいからなあ」
「そうでもないさ。僕もこのごろはほとんど睡れないんだぜ。夜は怖いからでもあるが、やはり作のことや子供らのことが心配になるんさ。僕は今亡霊[#「亡霊」に傍点]という題で考えているんだがね、つまりこの二年間ばかしの生活を書こうと思っているんだ。亡霊といっても他人の亡霊にではないが、僕自身の亡霊には僕はたびたび出会《でくわ》したよ。……お前にはそんな経験はあるまい?」
 耕吉はまじめな顔して言った。それはこの二年ばかし以来のことだが、彼は持病の気管支と貧乏から、最も恐れている冬が来ると、しばしばこの亡霊に襲われたと言うのだ。彼は家を追われた病犬のように惨めに生きていたというのだ。そして下宿へも帰れずに公園の中をうろついているとか、またはケチな一夜の歓楽を買おうなどと寒い夜更けに俥《くるま》にも乗れずに歩いている時とか、そういったような時に、よくその亡霊に出会したというのであった。
「……そんな場合の予感はあるね。変にこう身体がぞくぞくしてくるんで、『お出でなすったな』と思っていると、背後《うしろ》から左りの肩越しに、白い霧のようなものがすうっと冷たく顔を掠《かす》めて通り過ぎるのだ。俺は膝頭をがたがた慄《ふる》わしながら、『やっぱし苦しいと見えて、また出やがったよ』と、泣笑いしたい気持で呟《つぶや》くのだ。僕は僕の亡霊が、僕の虐待《ぎゃくたい》に堪えかねては、時々本体から脱けでるものと信じていたんだからね」
「そうですかねえ。そんなこともあるものですかねえ。……何しろ早く書くといいですねえ」
「そうだ。……僕もこれさえ書けたらねえ。何しろ僕もその時分はひどい生活をしていたんだからね。希望も信仰も、また人道とか愛とかいうようなことも解らなかったし、せめてはその亡霊にでも縋《すが》ろうと思ったのだ。友だちはそれは酒精中毒からの幻覚というものだったと言ったが、僕にはその幻覚でよかったんさ。で僕は、僕という人間は、結局自分自身の亡霊相手に一生を送るほかには能のない人間だろうと、極めてしまったのだ。……お前はどう思ってるか知らんが、突然妻の家へ離縁状を送ったというのも、ひとつはそんな動機から出てるんだぜ……」
 惣治には兄の亡霊談は空々しくもあり、また今ではその愛とか人道とかいうようなものを心得ているらしい口吻には疑いも感じられたが、酒精中毒という診断には心を動かされた。
「しかし乱暴な話ですねえ。そんな動機からぴしぴし離縁状など出されては、相手が困るでしょう」
 惣治は兄の論法に苦笑を感じた。

 四月も暮れ、五月も経《た》って行った。彼は相変らず薄暗い書斎に閉籠って亡霊の妄想《もうそう》に耽《ふけ》っていたが、いつまでしてもその亡霊は紙に現れてこなかった。
 ある日雨漏りの修繕に、村の知合の男を一日雇ってきた。彼は二間ほどもない梯子を登り降りするのに胸の動悸を感じた。屋根の端の方へは怖くて近寄れもせなかった。その男は汚ない褌など露わして平気でずぶずぶと凹む軒端へつくばっては、新しい茅を差していた。
 彼は屋根の棟に腰かけて、ほかほかと暖かい日光を浴びながら、健康に育った子供の時分のことを想いだして、不甲斐なくなった自分の神経をわれと憫笑《びんしょう》していた。一度もまだはいって行ってみたことのない村の、黝《くろず》んだ茅屋根は、若葉の出た果樹や杉の樹間に隠見している。前の杉山では杜鵑《ほととぎす》や鶯が啼《な》き交わしている。
 ふと下の往来を、青い顔して髯や髪の蓬々《ぼうぼう》と延びた、三十前後の乞食のような服装の男が、よさよさと通って行くのが、耕吉に見下された。
「あれは何者《なん》だ?」
「あれですかい、あれは関次郎というばかでごいす[#「ごいす」に傍点]」
「フーム、……そうか」
 彼は何気ない風して言ったが、呼吸も詰るような気がされた。「なるほど俺もああかな、……なるほど俺と似ているわい」
 彼はそこそこに屋根に下りて、書斎に引っこんでしまった。
 青い顔して、人目を避けて、引っこんでいる耕吉の生活は、村の人たちの眼には不思議なものとして映っていた。「やっぱしな、工藤の兄さんも学問をし損《そん》じて頭を悪くしたか……」こう判断しているらしかった。でそうした巌丈《がんじょう》な赭黒《あかぐろ》い顔した村の人たちから、無遠慮な疑いの眼光を投げかけられるたびに、耕吉は恐怖と圧迫とを感じた。新生活の妄想でふやけきっている頭の底にも、自分の生活についての苦い反省が、ちょいちょい角を擡《もた》げてくるのを感じないわけに行かなかった。「生活の異端……」といったような孤独の思いから、だんだんと悩まされて行った。そしてそれがまた幼い子供らの柔かい頭にも感蝕して行くらしい状態を、悲しい気持で傍観していねばならなかった。
 永い間、十年近い間、耕吉の放埒《ほうらつ》から憂目《うきめ》をかけられ、その上三人の子まで産まされている細君は、今さら彼が郷里に引っこむ気になったという動機に対して、むしろ軽蔑の念を抱いていた。
「あなたには他人への迷惑とか気の毒とかいう心持が、まるで解らないんですねえ、まったく平気なんだから……」
 細君は何にかにつけて、耕吉の独立心のないことを責めたてた。弟の手に養われて、それをよいことかのように思っている良人の心根が、今さらに情けなくも心細くも思われるのであった。
「あなたはあまり気がよすぎるですよ、……正直すぎる」
 こうも言って、彼が他人の感情に鈍感で、他人の恩恵を一図に善意にのみ受取っている迂遠《うえん》さを冷笑した。「ばか正直でずうずうしくなくてはできないことだ」細君は良人の性質をこうも判断した。
「ばか言え、お前なぞに何が解る……」彼は平気を装ってこう言っているが、やはり心の中は咎《とが》められた。……
 下の谷間に朝霧が漂うて、アカシアがまだ対《つい》の葉を俯《ふ》せて睡っている、――そうした朝早く、不眠に悩まされた彼は、早起きの子供らを伴れて、小さなのは褞袍《どてら》の中に負《お》ぶって、前の杉山の下で山笹の筍《たけのこ》など抜いて遊んでいる。
「お早うごいす[#「ごいす」に傍点]」
 暗い中に朝飯を食ってそれぞれ働きに行く村のおやじ[#「おやじ」に傍点]どもが声をかけて行く。それがまたまじめで、健康で、生活とか人生とかいうことの意味を深く弁《わきま》えている哲人のようにも、彼には思われたりした。そしてこの春福島駅で小僧を救った――時の感想が胸に繰返された。
「そうだ! 田舎へ帰るとああした事件や、ああした憫《あわ》れな人々もたくさんいるだろう。そうした処にも自分の歩むべき新しい道がある……」
 しかしその救いを要する憫れな人というのは、結局自分自身にすぎなかったことに気がついて、さすがに皮肉を感じないわけに行かないのであった。

 離れていても、継母はおりおり耕吉への皮肉な便りを欠かさなかった。「あまり勉強がすぎても身体に毒だから、運動がてらその辺の往来の馬糞を集めておいてくれ」といったようなことである。耕吉はそんな便りを聞くたびに、妻子の前へも面はゆい思いのされたが、苦笑にまぎらしているほかなかった。
「お継母《かあ》さんはあのとおり真向な、念々刻々の働き者だからいい人だと思うけれど、何しろあの毒舌には敵《かな》わん。あれだけは廃《よ》してくれるといいと思うがなあ。老父までもかぶれ[#「かぶれ」に傍点]てすっかり変な人間になっちゃったよ。俺も継母《はは》が来てから十何年にもなるけれど、俺は三|月《つき》といっしょに暮したことがないもんだから、俺は俺の継母ほどいい継母というものは日本じゅうどこ捜したってあるまいと思ってたんだがね、今度ですっかり継母の味というものが解っちゃった」
 耕吉は酒でも飲むと、細君に向って継母への不平やら、継母へ頭のあがらぬらしい老父への憤慨《ふんがい》やらを口汚なく洩《も》らすことがあった。細君は今さらならぬ耕吉の、その日本じゅうにもないいい継母だと思っていたという迂愚《のろま》さ加減を冷笑した。そして「私なんか嫁入った当時から、なかなかただ[#「ただ」に傍点]の人ではないと思ってた」と、誇らしげに言った。
「私なんかには解りませんけど、後妻というものは特別に可愛いもんだといいますね。……後妻はどうしても若くもあるし、……あなたも私とあのようになっていたら、今ごろは若い別嬪《べっぴん》の後妻が貰えてよかったんでしょうに」
「そうしたもんかもしれんな。してみると老父へも同情しなければ……。俺はいっこうばかだから、そうしたことさえお前に聴かないと解らないんだ。……俺などには何も書けやせん」
 亡霊の妄想を続ける根気も尽き、野山への散歩も廃めて、彼は喘《あえ》ぐような一日一日を送って行った。ともすると自然の懐ろは偉大だとか、自然が美しいとかいって、それが自分とどうしたとかいうでもない、埒《らち》もない感想に耽りたがる自分の性癖《せいへき》が、今さらに厭わしいものにも思われだした。晩酌の量ばかりがだんだんと加わって行った。十円の金のほとんど半分は彼の酒代になった。その結果はちょいちょい耕太郎が無心の手紙を持たされて、一里の道を老父の処へ使いにやらされた。……継母が畑へ出た留守を覘《うかが》うのであった。それでも老父は、
「耕太郎可愛さにつき金一円さしあげ候、以来は申越しこれなきよう願いあげ候」といったような手紙の中に、一円二円と継母に隠した金を入れて寄越した。

「俺もせめて二三年前に帰ってくるとよかった。そして小面倒な家族関係で揉《も》まれていたら、今ごろはもう少し人間が悧巧《りこう》になっていたかと思うけれど、何しろのっぽう[#「のっぽう」に傍点]一方で暮してきたんだから自分ながら始末にいけない。そこへ行くと惣治の方は俺と較べてよほど悧巧だ。あれはどんなに酔払っても俺にもそんな話はしないが、俺はこのごろになってようよう、彼がああして家を出て他郷《たび》で商売をする気になった心持が解ったよ。彼は老父たちにさえそうした疑念を抱かせないような具合にして、いつの間にかするりと家を脱けていたんだからね、よほど悧巧なところがある」
「そりゃ惣治さんの方は苦労してるからあなたとは違いますとも。だからあなたもいっそ帰ってなぞこなければよかったんですよ。どう気が変って帰ってなぞきたんでしょう。親たちがどんな生活をしてるかもご存じなしに、自分ほどえらいものはないという気でいつまでも自分の思いどおりの生活をして通した方が、あなたのためにはよかったんでしょう。……あなたの芸術というもののためにも、その方がどれほどよかったかしれないと思いますがね、私たちにはわかりませんけど」一生亭主と離れていても不自由ないという自信でも持ってるらしい口吻で、細君は言った。
「そうだったかしれない」と耕吉も思った。
「やはり俺のように愚かに生れついた人間は、自分自身に亡霊相手に一生を終る覚悟でいた方が、まだしもよかったらしい。柄にもない新生活なぞと言ってきても、つまりはよけいな憂目を妻子どもに見せるばかしだ」さりとて継母の提議に従って、山から材木を出すトロッコの後押しに出て、三十銭ずつの日手間を取る決心になったとして、それでいっさいが解決されるものとも、彼には考えられなかった。
 初夏からかけて、よく家の中へ蜥蜴《とかげ》やら異様な毛虫やらがはいってきた。彼はそうしたものを見るにつけ、それが継母の呪いの使者ではないかという気がされて神経を悩ましたが、細君に言わせると彼こそは、継母にとっては、彼女らの生活を狙《ねら》うより度しがたい毒虫だと言うのであった。
 彼は毎晩酔払っては一時ごろまでぐっすりと睡りこんだ。眼が醒《さ》めては追かけ苦しい妄想に悩まされた。ある時には自分が現在、広大な農園、立派な邸宅、豊富な才能、飲食物等の所有者であるような幻しに浮かされたが、また神とか愛とか信仰とかいうようなことも努めて考えてみたが、いずれは同じく自分に反ってくる絶望苛責の笞《しもと》であった。そして疲れはてては咽喉《のど》や胸腹に刃物を当てる発作的《ほっさてき》な恐怖に戦《おのの》きながら、夜明けごろから気色の悪い次ぎの睡りに落ちこんだ。自然の草木ほどにも威勢よく延びて行くという子供らの生命力を目の当り見せられても、讃美の念は起らず、苦痛であった。

 第二の破産状態に陥って、一日一日と惨めな空足掻《からあが》きを続けていた惣治が、どう言って説きつけたものか、叔父から千円ばかしの価額の掛物類を借りだしたから、上京して処分してくれという手紙のあったのはもう十月も中旬過ぎであった。ちょうど県下に陸軍の大演習があって、耕吉の家の前の国道を兵隊やら馬やらぞろぞろ通り過ぎていた。そうしたある朝耕吉は老父の村から汽車に乗り、一時間ばかりで鉱山行きの軽便鉄道に乗替えた。
 例の玩具めいた感じのする小さな汽罐車は、礦石や石炭を積んだ長い貨車の後に客車を二つ列ねて、とことこと引張って行った。耕吉はこの春初めてこの汽車に乗った当時の気持を考え浮べなどしていたが、ふと、「俺はこの先きも幾度かこの玩具のような汽車に乗らねばならぬことかしらん?」という気がされ、それがまた永遠の運命でもあるかのような気がされた。我と底抜けの生活から意味もなく翻弄《ほんろう》されて、悲観煩悶なぞと言っている自分の憫《あわ》れな姿も、省《かえりみ》られた。
 閉店同様のありさまで、惣治は青く窶《やつ》れきった顔をしていた。そしてさっそくその品物を見せるため二階へ案内した。
 周文、崋山、蕭伯、直入、木庵、蹄斎、雅邦、寛畝、玉章、熊沢蕃山の手紙を仕立てたもの、団十郎の書といったものまであった。都合十七点あった。表装もみごとなものばかしであった。惣治は一本一本床の間の釘へかけて、価額表の小本と照し合わせていちいち説明して聴かせた。
「この周文の山水というのは、こいつは怪しいものだ。これがまた真物だったら一本で二千円もするんだが、これは叔父さんさえそう言っていたほどだからむろんだめ。それから崋山、これもどうもだめらしいですね。じつはね、この間町の病院の医者の紹介で、博物館に関係のあるという鑑定家の処へ崋山と木庵を送ってみたんだが、いずれも偽物のはなはだしきものだといって返して寄越したんです。僕ら素人眼《しろうとめ》にも、どうもこの崋山外史と書いた墨色が新しすぎるようですからね」
 しかし耕吉の眼には、どれもこれも立派なものばかしで、たいした金目のもののように見えた。その崋山の大幅というのは、心地よげに大口を開けて尻尾を振上げた虎に老人が乗り、若者がひいている図で、色彩の美しい密画であった。
「がこれだってなかなか立派なもんじゃないか。東京の鑑定家なんていうものの言うことも迂濶《うかつ》に信用はできまいからね。田舎者の物だというんで変なけち[#「けち」に傍点]をつけて、安く捲き上げるつもりかなんかしれやしないからね。……真物かもしれないぜ」
「いやどうもこの崋山はだめらしい。僕も毎日こうやってちょいちょい掛けてみてると、こいつは怪しいというような奴はだんだん襤褸《ぼろ》が眼についてくる。でまあ、このうちで勝負をするという奴は蕭伯の[#「蕭伯の」は底本では「簫伯の」]二|副対《ふくつい》、直入、蕃山息游軒、蹄斎、それから雅邦、玉章、寛畝――この三本は新しい分だからむろんだいじょうぶだろう。ことにこの玉章の鶏は、先年叔父さんが上京して応挙の鯉とかを二千円で売ってきた時に、玉章に頼んで書かしてきたというんだから間違いっこはない。それから蕃山の手紙も、これは折紙つきだからだいじょうぶだ」茶掛けとでもいうのらしい蕃山の一幅は、革紐つきの時代のついた立派な桐箱にはいっていた。
 雅邦とか玉章とかいう名は聞いていても、その作物を見たこともなし、まして周文とか蕭伯とか[#「蕭伯とか」は底本では「簫伯とか」]直入とかいう名は聞くも初めての耕吉には、その真贋《しんがん》のほどは想像にも及ばなかったが、しかし価額表と照し合せての惣治の見当には、たいした狂いがなさそうに彼にも考えられた。そしてとにかくにこれだけのものを借りだした惣治の才略に感服した。
「何しろたいしたもんだ。一本五十円ずつと見積ってもたいしたもんじゃないか。五百や六百というこっちゃないぜ。とにかく俺は毎日の朝|発《た》つことにしよう。そして手早く極めてきてやる」耕吉は調子づいて言った。
「そうしてもらいましょう。僕も初めは鉱山の役人どもに売りつけるつもりで奔走してみたんだが、いざとなるとなかなか金は出せない。この間も寛畝を好きだという人が印譜から写真にしたものやら持ってきて、較べてみていたが、しまいにこの寛畝の畝の字に疑問な点があるとか言って難癖《なんくせ》をつけて、それでおじゃんさ。そんな訳だから、気長に一本一本売るつもりならこの辺でもいいが、纏《まとま》った金にしようというには、やっぱし東京でないとだめらしい」
 その晩は惣治も久しぶりでの元気で、老人の帳場まで仲間にはいって、三人で鶏などつぶして遅くまで酒を飲んだ。すくなくとも千円からの金が、数日中には確実にはいるという話は、忠実に勤めている帳場のしょぼしょぼした眼にも、悦ばしげの光りを注いだ。
「早くそこへ気がついて、兄さんに御苦労していただくとよかったんですな。この辺ではとてもこれだけの品物は捌《さば》けませんや。やっぱし東京に限りますなあ」
 毎日帳場に坐っていても、仕事というものはなくて、このひと月はただ掛物をそちこち持ち歩かせられて日を送っていた老人は、これで一安心したという風であった。
 予算どおりの価格に売れると、叔父はその中から二三百円だけ取って、あと全部惣治の儲《もう》かるまで貸しておくという好条件であった。叔父はその金で娯楽半分の養鶏をやるというのであった。……叔父は先年ある事業に関係して祖先の遺産を失ってからは、後に残った書画骨董類を売喰いして凌《しの》いでいるのであった。
「何しろこんないい話ってない。神様がお前を救ってくれたんだろう」
 耕吉は叔父の厚意に感激して、酔って涙ぐましい眼つきをして言った。そして初めて弟に一臂《いっぴ》の力を仮《か》すことのできる機会の来たことを悦んで、希望に満ち満ちて翌朝東京へ発った。

 上野へ朝着いて、耕吉はすぐ新進作家の芳本の下宿している旅館へ電話をかけた。
「僕ね、今度ね、商売に出てきたんだが、……千円ばかしの品物を持ってきたんだが、……だから宿料の点はだいじょうぶだから、四五日君の処へ置いてくれ」
「ではとにかく来たまえ」耕吉の聴取りにくい電話を受けて、芳本は答えた。
 惣治から借りてきた恐ろしく旧式なセルの夏外套を着て、萌黄《もえぎ》の大きな風呂敷包を載《の》せて、耕吉は久しぶりで電車に乗ってみたが、自分ながら田舎者臭い姿には気がひけた。
 まだ朝の八時前だったが、芳本は朝飯をすまして一散歩してきて、机の前にもきちんと坐っていた。一二年前のある文芸雑誌に、ばかに大きな湯呑で茶を飲んでいる芳本の体躯が、その湯呑で蔽《おお》われているようなカリケチュアが載《の》ったことがあるが、ちょうど今もきゃしゃな小さな体躯に角帯などしめて、その大きな楽焼の湯呑で茶を飲んでいた。
「イヨー、すっかり米屋さんといった風じゃないか、蠣殻町《かきがらちょう》だね、……どう見ても」ぬうっとはいってきた耕吉の姿を見上げて、芳本はくりくりした美しい眼を光らして、並びのいい白い歯を見せて笑った。耕吉は「これだ」と言って風呂敷包を座敷の隅に置いて、
「じつはね、今度ね、祖先伝来の家宝を持ちだしてきたんさ。投売りにしても千円はたしかだろう。僕の使う金ではないが、弟の商売の資本にするのだ」
 耕吉は弟にもそう言われてきたことだが、またそれだけのもったいないをつける価値もあると信じたので、特に祖先伝来の家宝という言葉に意味を持たせて言ったのだ。
「まあまあ話は後にして、とにかく一風呂浴びてくるといいね。ばかに煤《すす》ぼけてるじゃないか」
 潔癖な芳本は、久しく湯にもはいらず、むさ苦しく髯など延ばした耕吉の顔を気にして、自分から石鹸や手拭を出してはせきたてた。
 芳本は平生から、「俺は潔癖から、いやむしろ高慢から、つねに損をしている。他人に迷惑をかけられている。俺はつねに美しいものを求めて、あべこべ[#「あべこべ」に傍点]に泥を投げつけられているんだが、つまり高慢が俺の病いだ」こう言っていた。耕吉はふと汽車の中でそのことを想いだして、せいぜい四五日の同居ではあるが誰を訪ねたものかと迷ったあげく、つい芳本を選んだのである。嫌われ者の耕吉の依頼をも、芳本ならば彼のいわゆる美しい高慢から、卒気なく断るようなこともあるまいと、耕吉は考えたのであった。
「それだけのもので一本も鑑定がついてないという法はないと思うがねえ……」
 ひととおり耕吉の話を聴いた後で芳本は言った。
「なあにね、俺の叔父さんが、貸金などの代りに取ったものばかしだから、鑑定などついてないさ」
 耕吉は白々しく答えた。で芳本はさっそく友人のSという洋画家へしかるべき日本画家への紹介を頼む電話をかけてくれたが、
「Sは今晩の汽車で、一家を挙げて、奈良へ転居するんだそうだ、それで取りこんでいるが夕方来てくれ、紹介しようというんだ。……とにかく俺は一仕事してくる、誰か来てるようだから。君は本でも読んでいたまえ」こう言って室を出て行った。
 旅館の一室が、ある本屋の仮編輯室になっていた。そこへ毎日四五人の若い作家連が寄って、分担して大部の翻訳物に従事していた。芳本もその一人であった。他にも耕吉の知った顔が一人二人いたが、芳本から話を聞いて、便所のついでに廻ってきて、耕吉の家宝を仔細らしく展《ひろ》げてみては、「たいしたもんじゃないか。これだけあるとだいぶ飲めるね」と言ったりした。
 翌朝芳本と二人で、Sの紹介状を持って、Mといってかなり有名な日本画家を半蔵門近くの宅に訪ねて行った。Sから電話で頼んでもあったので、すぐ明るい日本室の画室へ通された。いったい日本画の大家なぞというものはかなり厭味なもったいぶったものだろうという耕吉の予想に反して、M先生はきさく[#「きさく」に傍点]な快活な調子で話した。
「S君は羨ましいですなあ。私もずいぶん引越し好きの方で、今もってそちこち引越し歩いているが、情けないことに市内に限られている。そこへ行くとS君の方は東京から大阪とか、奈良とか気の向き次第どこへでも勝手に引越しができるというんだから、豪儀《ごうぎ》なもんです」
 ざっと紹介状に眼を通した後で、先生はこんなことも言ったりした。
 口不調法《くちぶちょうほう》な耕吉に代って、芳本は耕吉の出京の事情などひととおり述べた。
「それでは拝見しましょうか……」
 若い弟子に毛氈《もうせん》の上の描きかけの絹やら絵筆やらを片づけさせながら、先生は座を直した。
 耕吉は期待と不安の念に胸をどきどきさせながら、周文、崋山、蕭伯と[#「蕭伯と」は底本では「簫伯と」]、大物という順序から一本一本出して行った。
「周文ですかな……」ちょっと展《ひろ》げて見たばかしで、おやおやと言った顔して、傍に畏《かしこ》まっている弟子の方へ押してやる。弟子は叮嚀《ていねい》に巻いて紐を結ぶ。
 中には二三本首を傾げて注意しているようなものもあったが、たいていは無雑作な一瞥《いちべつ》を蒙《こうむ》ったばかしで、弟子の手へ押しやられた。十七点の鑑定が三十分もかからずにすんだ。その間耕吉は隠しきれない不安な眼つきに注意を集めて、先生の顔色を覗《うかが》っていたが、先生の口元には同じような微笑しか浮んでこなかった。見終って先生は多少|躊躇《ちゅうちょ》してる風だったが、
「何しろ困りましたですなあ。しかしそういう御事情で出京なさったということでもあり、それにS君の御手紙にも露骨《ろこつ》に言えという注文ですから申しあげますが、まあほとんどと言いたいですね。とてもあなたの御希望のようなわけには行かんと思いますがね。露骨なところを申しあげれば、私には全部売払ったとしてもせいぜい往復の費用が出るかどうかという程度だろうと思いますがね、……これでは何分にも少しひどい」
 いかに何でも奥州|下《く》んだりから商売の資本を作るつもりで、これだけの代物を提げてきたという耕吉の顔つきを、見なおさずにはいられないといった風で、先生はハキハキした調子で言った。
「それではその新しい方の分も、全部贋物なんでしょうか」芳本も呆《あき》れ顔して口を出した。
「さようのようです。雅邦さんの物も、これは弟子の人たちの描いたものでもないようですね。○○派の人たちの仕事でしょう。玉章さんの物なんか、ひところは私たちの知ってる数だけでも日に何十本という偽物が、商人の手で地方へとんだものです。寛畝さんのものはわりによく模《ま》ねてあると思いますが、真物はまだまだずっと筆に勁烈《けいれつ》なところがあります。私もじつはせめて二三本もいいものがあると、信用のできる書画屋の方へも紹介しようと思ったんですがね、これではしようがありませんね。やはりお持ち帰りになった方がお得でしょう」
 仕事の邪魔された上に、よけいな汚らわしいものを見せられたといったような語気も見えて、先生はいろいろなことを言って聞かしたが、悄気《しょげ》きった眼の遣《や》り場にも困っているらしい耕吉の態を気の毒にも思ったか、
「しかし直入さんはあなたのお国の方へお出でになったことがありますかね? お出でになったようなことがあると、あるいは真物かもしれませんね。それから蕃山の手紙というのは私には解りませんから、これも相当の金になるかもしれませんね。何しろいずれもあまり古くから家に伝ったものではないようですね」
 耕吉は最後の一句に止めを刺されたような気がして、恐縮しきって、外へ出た。
 銀座の方へ廻ると言って電車に乗った芳本と別れて、耕吉は風呂敷包を右に左に持替えて、麹町《こうじまち》の通りを四谷見附まで歩いた。秋晴の好天気で、街にはもう御大典の装飾ができかかっていた。最後の希望は直入と蕃山の二本にかかった。
 そこの大きな骨董屋《こっとうや》へはいってまず直入を出したが、奥から出てきた若主人らしい男はちょっと展《ひろ》げて見たばかしで巻いてしまった。たいしたえらいものではないからあるいは真物かもしれないという気で、北馬蹄斎の浮世絵も見せたが、やはり同じ運命であった。こればかしは、――これで往復の費用を出さねばならぬというので桐箱からとりだした蕃山の手紙は、ちょっと展げてみて、「おや……蕃山?――違うぞ」と首を傾げていたが、箱の中に入れてあった守札のような紙の字を見て、
「なあんだ、蕃山、息、――游軒か、フフフフ」
 と冷笑を漏《も》らし、不愛想な態度で奥へ引っこんでしまった。
「こんなような品は手前どもでは扱《あつか》っておりませんが、どこそこなら相談になりましょう」傍に坐っていた番頭は同じ区内の何とかいう店を教えてくれたが、耕吉は廻ってみる勇気もなく、疲れきって帰ってきた。
「熊沢蕃山、息、游軒か、……よかったねえ」
 編輯室の人たちも耕吉の話を聞いて、笑いはやした。
「熊沢蕃山という人のことなら僕らにもちっとは当りがつくが、その息子の先生と来てはさっぱり分っちょらんがな、何事をやった人物かい? どんなことをして生きていた人物かいっこうわからんじゃないか。そもそもまたそんな人物の手紙を麗々《れいれい》と仕立てて掛けておくという心懸けのほどが、僕には解らんねえ」芳本はくりくりした美しい眼を皮肉らしく輝かして言った。
「息游軒おるかい?」
 芳本の仕事に出た後で、耕吉は寝転んで本など読んでいると、訪ねてきた友人たちがこう言ってはいってくるようになった。一日も早く帰りたいから旅費を送ってくれと言ってだした惣治への手紙が、十日経っても二十日待っても来ないのであった。
「君の弟さんには会ったことがないからどんな性格の人物かわからんが、あるいはこれを機会に、君へ遠島を仰《おお》せつけた気でいるんじゃないかい? そうだと困るね」
 芳本は日増に不快と焦燥の念に悩まされて、暗い顔してうっそり[#「うっそり」に傍点]かまえている耕吉に、毎日のようにこんなことを言いだした。
「まさか……」
 惣治はいよいよ断末魔の苦しみに陥《おちい》っていることを思いながらも、耕吉もそうした疑惑に悩まされて行った。

底本:「日本文学全集31 葛西善蔵 嘉村礒多集」集英社
   1969(昭和44)年7月12日初版
初出:「早稲田文学」
   1917(大正6)年2月
入力:岡本ゆみ子
校正:伊藤時也
2010年7月14日作成
2011年10月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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葛西善蔵

哀しき父—– 葛西善藏

       一

 彼はまたいつとなくだん/\と場末へ追ひ込まれてゐた。
 四月の末であつた。空にはもや/\と靄《もや》のやうな雲がつまつて、日光がチカ/\桜の青葉に降りそゝいで、雀《すゞめ》の子がヂユク/\啼《な》きくさつてゐた。どこかで朝から晩まで地形《ぢぎやう》ならしのヤートコセが始まつてゐた……。
 彼は疲れて、青い顔をして、眼色は病んだ獣《けもの》のやうに鈍く光つてゐる。不眠の夜が続く。ぢつとしてゐても動悸《どうき》がひどく感じられて鎮《しづ》めようとすると、尚《な》ほ襲はれたやうに激しくなつて行くのであつた。
 今度の下宿は、小官吏の後家さんでもあらうと思はれる四十五六の上《かみ》さんが、ゐなか者の女中相手につましくやつてゐるのであつた。樹木の多い場末の、軒の低い平家建の薄暗くじめ/\した小さな家であつた。彼の所有物と云つては、夜具と、机と、何にもはひつてない桐《きり》の小箪笥《こだんす》だけである。桐の小箪笥だけが、彼の永い貧乏な生活の間に売残された、たつたひとつの哀《かな》しい思ひ出の物なのであつた。
 彼は剥《は》げた一閑張《いつかんばり》の小机を、竹垣ごしに狭い通りに向いた窓際《まどぎは》に据《す》ゑた。その低い、朽《くさ》つて白く黴《かび》の生えた窓庇《まどびさし》とすれ/\に、育ちのわるい梧桐《あをぎり》がひよろ/\と植つてゐる。そして黒い毛虫がひとつ、毎日その幹をはひ下りたり、まだ延び切らない葉裏を歩いたりしてゐるのであつたが、孤独な引込み勝な彼はいつかその毛虫に注意させられるやうになつてゐた。そして常にこまかい物事に対しても、ある宿命的な暗示をおもふことに慣らされて居る彼には、その毛虫の動静で自然と天候の変化が予想されるやうにも思はれて行くのであつた。
 孤独な彼の生活はどこへ行つても変りなく、淋《さび》しく、なやましくあつた。そしてまた彼はひとりの哀しき父なのであつた。哀しき父――彼は斯《か》う自分を呼んでゐる。

 彼にはこれから入梅へかけての間が、一年中での一番|堪《た》へ難い季節になつてゐた。彼は此頃《このごろ》の気候の圧迫を軽くしよう為めに、例年のやうに、午後からそこらを出歩くことにしようと思つた。けれども、それを続ける事はつらいことでもある。カーキ色の兵隊を載せた板橋火薬庫の汚ない自動車がガタ/\と乱暴な音を立てて続いて来るのに会ふこともあつた。吊台《つりだい》の中の病人の延びた頭髪《かみのけ》が眼に入ることもあつた。欅《けやき》の若葉をそよがす軟《やはらか》い風、輝く空気の波、ほしいまゝな小鳥の啼声……しかし彼は、それらのものに慄《ふる》へあがり、めまひを感じ、身うちをうづかせられる苦しさよりも、尚《なほ》堪へ難く思はれることは町で金魚を見ねばならぬことであつた。
 金魚と子供とは、いつか彼には離して考へることの出来ないものになつてゐた。

       

 彼はまだ若いのであつた。けれども彼の子供は四つになつてゐるのである。そして遠い彼の郷里に、彼の年よつたひとりの母に護《まも》られて成長して居るのであつた。
 彼等は――彼と、子と、子の母との三人で――昨年の夏前までは郊外に小さな家を持つていつしよに棲《す》んでゐたのである。世の中からまつたく隠遁《いんとん》したやうな、貧しい、しかし静かな生活であつた。子供は丁度ラシャの靴をはいてチヨコ/\と駈《か》け歩くやうになつてゐたが、孤独な詩人のためには唯一の友であり兄弟であつた。
 彼等は縁日で買つて来た粗末な胡弓《こきゆう》をひいたり、鉛筆で絵を描いたり、鬼ごつこなぞして遊んだ。棄《す》てられた小犬と、数匹の金魚と亀の子も飼つてゐた。そして彼等の楽しい日課のひとつとして、晴れた日の午後には子供の手をひいて、小犬をつれて、そこらの田圃《たんぼ》の溝《みぞ》に餌《ゑ》をとりに行くことになつてゐた。けれども丁度彼等のさうした生活も、迫りに迫つて来てゐたのであつた。従順な細君の溜息《ためいき》がだん/\と力無く、深くなつて行つた。ながく掃除を怠つてゐた庭には草が延び放題に延びてゐた。
 金魚は亀の子といつしよに、白い洗面器に入れられて縁側に出されてあつた。彼等の運命は一日々々と追つて来てゐるのであつたが、子供の為めの日課はやはり続けられてゐた。それが偶《たまた》ま訪《たづ》ねて来たいたづらな酒飲みの友達が、彼等の知らぬ間に亀の子を庭の草なかに放してなくなしてしまつた。彼は云ひやうのない憂鬱《いううつ》な溜息を感じた。「はア、カメない、カメノコない……」子供も幾日もそれを忘れなかつた。それからして彼等の日課も自然と廃せられることになり、間もなく、彼等の哀しき離散の日が来てゐたのであつた。――

       

 彼は気の進まない自分を強《し》ひて、午後の散歩を続けてゐる。そしていつか、彼は彼の散歩する範囲内では、どこのランプ屋では金魚を置いてる、置いてないかが大概わかるやうになつてゐた。彼は都会から、生活から、朋友《ほういう》から、あらゆる色彩、あらゆる音楽、その種のすべてから執拗《しつあう》に自己を封じて、ぢつと自分の小さな世界に黙想してるやうな冷たい暗い詩人なのであつた。それが、金魚を見ることは、彼の小さな世界へ焼鏝《やきごて》をさし入れるものであらねばならない。彼は金魚を見ることを恐れた。そして彼はなるべく金魚の見えない通りを/\と避《よ》けて歩くのであつたが、うつかりして、立止つて、ガラスの箱なんかにしな/\と泳いでゐるのに見入つてゐることがあつた。そして気がついて、日のカン/\照つた往来を、涙を呑《の》んで歩いてゐるのであつた。けれども、彼もだん/\とそれに慣れては行つた。が、彼は今年になつてはじめて、どこかの場末の町の木陰《こかげ》に荷を下し休んでゐた金魚売を見た時の、その最初の感傷を忘れることが出来ない。……

       四

 いつか、梅雨前《つゆまへ》のじめ/\した、そして窒息させるやうに気紛《きまぐ》れに照りつけるやうな、日が来てゐた。
 彼は此頃《このごろ》午後からきまつたやうに出る不快な熱の為めに、終日閉ぢこもつて、堪へ難い気分の腐触《ふしよく》と不安とになやまされて居る。寝たり起きたりして、喘《あへ》ぐやうな一日々々を送つてゐるのであつた。
 陰気な、昼も夜も笑声ひとつ聞えないやうな家である。が、湿つぽい匂《にほ》ひの泌《し》みこんだ同じやうに汚ならしい六つ七つの室《へや》は、みんなふさがつてゐた。おとなしい貧乏な学生達と、彼の隣室には、若い夫婦者とむかひ合つた室には無職の予備士官がはひつてゐた。そしていつも執拗に子供のことや、暗い瞑想《めいさう》に耽《ふけ》つてぐづ/\と日を送つてゐる彼には、最初この家の陰気で静かなのが却《かへ》つて気安く感じられたのであつたが、それもだん/\と暗い、なやましい圧迫に変つてゐるのであつた。
 予備士官は三十二三の、北国から出て来たばかりの人であつた。終日まつたく日のさゝない暗い室にとぢこもつてゐて、何をしてるのとも想像がつかなかつた。大きな不格好《ぶかつかう》な髪の薄い頭をして、訛音《なまり》のひどい言葉でブツ/\と女中に何か云つてることもあつた。時々汚ない服装《なり》の、ひとのおかみさんとも見える若い女が訪ねて来ることがあつたが、それが近所の安淫売《やすいんばい》だつたと云ふことが、後になつて無口の女中から漏《も》らされてゐた。
 それがつい……まだ幾日も経《た》つてゐないのであつた。ある朝女中が声をひそめて「腸がねぢれたんださうですよ……」と軍人の三四日床に就《つ》き切りであることを話してゐた。それから一両日も経つた夕方、吊台《つりだい》が玄関前につけられて、そして病院にかつぎこまれて、手術をして、丁度八日目に死んだのである。腸の閉鎖と、悪性の梅毒に脊髄《せきずゐ》をもをかされてゐたのであつた。
 また隣室の若い細君は、力無く見ひらいた眼の美しい、透き通るやうな青白い顔をして、彼がこの家へ来てから幾《ほと》んど起きてゐた日がないやうであつた。細君孝行な若い勤め人の夫は、朝早く出て晩遅く帰るのであつたが、朝晩に何かといたはつてゐるのが手に取るやうに聞こえるのであつた。細君の軽い咳音《せきおと》もまじつて、コソ/\と一晩中語りあかしてゐるやうなこともあつた。
 彼は此頃の自分の健康と思ひ合はして、払ひ退《の》けやうのない不吉な、不安なかんがへになやまされてゐる。病人の絶えない家のやうにも思はれるのであつた。裏は低い崖《がけ》になつて、その上が墓地の藪《やぶ》になつてゐるが、この家の地所もやはり寺の所有なのであつた。ワクの朽《くさ》つた赤土の崖下の蓋《ふた》のない掘井戸から、ガタ/\とポンプで汲《く》み揚げられるやうになつてゐて、その上が寺の湯殿になつてゐた。若い女の笑ひ声なども漏れてゐることがあつた。そして崖上の暗い藪におつかぶされてゐるこの家では、もう、いやに目まぐるしい手足を動かして襲つて来る斑《まだ》らの黒い大きな藪蚊が、朝夕にふえて行くのであつた。
 彼は飲みつけない強い酒を呷《あふ》つて、それでやう/\不定な睡眠をとることにしてゐる。そして病的に過敏になつた彼の神経は、そこらを嗅《か》ぎ廻るやうに閃《ひら》めき動いて、女中を通して、自分のこの室にも病人がゐて、それが彼のはひる少し前に不治の身体になつて帰郷したのだと云ふことや、こゝの主人も丁度昨年の今頃|亡《な》くなつたのだと云ふことなど、断片的にきゝ出し得たのであつた。
 彼は毎晩いやな重苦しい夢になやまされた。

 ……彼の子供は裸体《はだか》になつてゐた。ムク/\と堅く肥え太つて、腹部が健康さうにゆるやかな線に波打つてゐる。そして彼にはいつか二三人の弟妹が出来てゐるのであつた。室は広くあけ放してあつて、青青とした畳は涼しさうに見える。そこには子供の祖父も、祖母も弟妹もゐるのだが、みんなはゴロ/\寝ころんでゐる。唯《たゞ》彼ひとりが、ムクムクと堅く肥え太つて、ゆるやかに張つたお腹を突き出して、非常に威張つた姿勢をして、手を振つて大股《おほまた》に室の中を歩いてゐるのであつた。
 ふと、ペラ/\な黒紋附を着た若い男がはひつて来て、坐つて何か云つてるやうであつた。すると子供は歩くのを止《や》めて、ちよつと突立つて、
「さうか。それではお前はおれの抱《かゝ》へ医者《いしや》になるか――」斯《か》う、万事を呑込んでゐるやうな鷹揚《おうやう》な態度で云ふのであつた。それを傍《そば》から見てゐた父は、わが子のその態度やものの云ひぶりに、覚えず微笑させられたのである。……
 それが夢なのである。彼には幾日かその夢の場の印象がはつきりと浮かべられてゐた。それは非常に大きなユーモアのやうにも考へられるのである。また子供といふものの如何《いか》にさかんなる矜《ほこ》りに生きて居るかと云ふことを思はしめるのである。それからまた、辛うじて医薬によつて支《さゝ》へられてゐた彼の父の三十幾年と云ふ短い生涯から彼自身の健康状態から考へて、子供の未来に、暗い運命の陰影を予想しないわけに行かないのであつた。

       五

 久しぶりで郷里の母から手紙があつた。母は彼女の孫をつれて、ひと月余り山の温泉に行つてて、帰つて来たばかりのところなのである。
 彼女は彼女の一粒の子と、一粒の孫とを保護するためにこの世に生れて来、活《い》きてゐるやうな女であつた。そして月に幾度となく彼女の不幸な孫の消息について、こま/″\と書き送りもし、またわが子の我まゝな手紙を読むことに、慰藉《ゐしや》を感じてゐた。
 彼等の行つてゐた温泉は、汽車から下りて、谷あひの川に沿うて五六里も馬車に揺られて山にはひるのであつた。温泉の近くには、彼女の信仰してゐる古い山寺があつて、そこの蓴菜《じゆんさい》の生える池の渚《みぎは》に端銭《はせん》をうかべて、その沈み具合によつて今年の作柄や運勢が占はれると云ふことが、その地方では一般に信じられてゐた。彼女もまた何十年となく、毎年今頃に参詣《さんけい》することにしてゐて、その占ひを信じてゐるのであつた。
 母の手紙では今年の占ひが思はしくないので気がかりだと云ふこと、互ひに気をつけるやうにせねばならぬと云ふこと、孫のたいへん元気であること、そして都合がついたら孫の洋服をひとつ送るやうにと云ふのであつた。孫は洋服を着たいと云つてきかない、そしてお父さんはいやだ、何にも送つてくれないからいやだと云ふのであつた。彼女はそんなことは云ふものでないと孫を叱《しか》つてゐる。そして靴と靴下だけは買つてやつたが、洋服は都合して送るやうにと云ふのであつた。
 それは朝からのひどい雨の日であつた。彼は寝衣《ねまき》の乾《かわ》かしやうのないのに困つて、ぼんやりと窓外《まどそと》を眺《なが》めて居た。梧桐《あをぎり》の毛虫はもうよほど大きくなつてゐるのだが、こんな日にはどこかに隠れてゐて姿を見せない、彼は早くこの不吉な家を出て海岸へでも行つて静養しようと、金の工面《くめん》を考へてゐたのであつた。
 疲れた彼の胸には、母の手紙は重い響であつた。彼は兎《と》に角《かく》小箪笥《こだんす》を売つて、洋服を送つてやることにした。そして、
「……どうか、そんなことを云はさないやうにして下さい。私はあれをたいへんえらい人間にしようと思つて居るのです。私はいろ/\だめなのです……。どうか卑しいことは云はさないやうにして下さい。卑しい心を起させないやうにして下さい。身体さへ丈夫であれば、今のうちは何もいらないのです……」
 彼は子供がいつの間にそんなことを云ふまでになつたかを信じられないやうな、また怖《おそ》ろしいやうな気持で母への返事を書いた。そして彼がこの正月に苦しい間から書物など売払つて送つてやつた、毛糸の足袋《たび》や、マントや、玩具《おもちや》の自動車や、絵本や、霜やけの薬などを子供はどんなに悦《よろこ》んで「これもお父さんから、これもお父さんから」と云つて近所の人達に並べて見せたと云ふことや、彼の手紙をお父さんからの手紙と云つて持ち歩くと云ふことなどを思ひ合して、別れてわづか一年足らずに過ぎない子供の現在を想像することの困難を感ずるのであつた。

 霧のやうな小雨が都会をかなしく降りこめて居る。彼は夜遅くなつて、疲れて、草の衾《しとね》にも安息をおもふ旅人のやる瀬ない気持になつて、電車を下りて暗い場末の下宿へ帰るのであつた。
 彼は海岸行きの金をつくる為に、図書館通ひを始めてゐる。……
 彼の胸にも霧のやうな冷たい悲哀が満ち溢《あふ》れてゐる。執着と云ふことの際限もないと云ふこと、世の中にはいかに気に入らぬことの多いかと云ふこと、暗い宿命の影のやうに何処《どこ》まで避けてもつき纏《まと》うて来る生活と云ふこと、また大きな黴菌《ばいきん》のやうに彼の心に喰ひ入らうとし、もう喰ひ入つてゐる子供と云ふこと、さう云ふことどもが、流れる霧のやうに、冷たい悲哀を彼の疲れた胸に吹きこむのであつた。彼は幾度《いくたび》か子供の許《もと》に帰らうと、心が動いた。彼は最も高い貴族の心を待つて、最も元始の生活を送つて、真実なる子供の友となり、兄弟となり、教育者となりたいとも思ふのであつた。
 けれども偉大なる子は、決して直接の父を要しないであらう。彼は寧《むし》ろどこまでも自分の道を求めて、追うて、やがて斃《たふ》るゝべきである。そしてまた彼の子供もやがては彼の年代に達するであらう、さうして彼の死から沢山の真実を学び得るであらう――

       

 苦しい図書館通ひが四五日も続いた、その朝であつた。彼はいつものやうに、暁方《あけがた》過《す》ぎからうと/\と重苦しい眠りにはひつて、十時少し前に気色のわるい寝床を出たのであつた。
 日が、燻《くす》べられたやうな色の雨戸の隙間《すきま》から流れ入つて、室の中はむし/\してゐた。彼は雨戸を開けて、ビシヨ/\の寝衣を窓庇《まどびさし》の釘《くぎ》に下げて、それから洗面器を出さうとして押入れの唐紙《からかみ》を開けた。見なれた洗面器の中のうがひのコップや、石鹸箱《シャボンばこ》や、歯磨の袋が目に入つた。
 と、彼は軽く咳《せ》き入つた、フラ/\となつた、しまつた! 斯《か》う思つた時には、もうそれが彼の咽喉《のど》まで押し寄せてゐた――。

 熱は三十七八度の辺を昇降してゐる。堪へ難いことではない。彼の精神は却《かへ》つて安静を感じてゐる。
「自分もこれでライフの洗礼も済んだ、これからはすこしおとなになるだらう……」
 孤独な彼は、気まゝに寝たり起きたりしてゐる。そしていつか、育ちのわるい梧桐の葉も延び切つて、黒い毛虫もみえなくなつてゐる。彼の使つた氷嚢《ひようなう》はカラ/\になって壁にかゝつてゐる。窓際の小机の上には、数疋《すうひき》の金魚がガラスの鉢《はち》にしな/\泳いでゐる。
 彼は静かに詩作を続けようとしてゐる。
                          (大正元年八月)

底本:「現代日本文學大系 49 葛西善藏 嘉村磯多 相馬泰三 川崎長太郎 宮路嘉六 木山捷平 集」筑摩書房
   1973(昭和48)年2月5日初版第1刷発行
※底本は旧仮名新字で、カタカナで表記した名詞の拗促音のみ小書きしている。ルビ中の拗促音も、これにならって処理した。
入力:林田清明
校正:松永正敏
2000年9月21日公開
2006年3月18日修正
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葛西善蔵

おせい—– 葛西善藏

「近所では、お腹《なか》の始末でもしに行つたんだ位に思つてゐるんでせう。さつきも柏屋のお内儀さんに會つたら、おせいちやんは東京へ行つてたいへん綺麗になつて歸つたと、ヘンなやうな顏して視てましたよ」と、ある晩もお酌をしながら、おせいは私に云つた。
 父の四十九日の供養に東京に出て行つて、私もそのまゝ弟の家の二階で病氣の床に就いてしまつた。肺尖の熱が續き、それから喘息季節にかゝつて、三ヶ月餘り寢通してしまつた。その間ずつと、いつしよに出て行つたおせいの看病を受けてゐた。四十九日が百ヶ日を過ぎても、私は寺へ歸つて來られなかつた。「Kがお供をつれて歩いてる……」東京の友人たちの間にも斯う噂されたりした。
「近所ではそんな風に思つてゐるのかなあ。何しろこの邊と來てはそんなことの流行《はや》るところだからな。……それではどうかね、ひとつ僕等もこさへて見ようか知ら。おせいちやんさへ構はないんだと、僕はちつとも構はないね。僕に落胤があるなんて、男の面目としてもわるい話ぢやないな」と、私も冗談らしく云つたが、しみ/″\と顏を視てゐると、やはり氣の毒な氣がして來る。
 山の上の部屋借りの寺へ高い石段を登り降りして三度々々ご飯を運び、晩は晩で十二時近くまで私の永い退屈な晩酌のお酌をさせられる――雨、風、雪――それは並大抵の辛抱ではなかつた。それが丁度まる三年續いた。まる三年前の十二月、彼女の二十歳の年だつたが、それがあと半月で二十四の春を迎へるのだつた。その三年の間、彼女は私の貧乏、病氣、癇癪、怒罵――あらゆるさうしたものを浴びせかけられて來た。私はエゴイストだ。また物質的にも精神的にも少しの餘裕もない生活だつた。私は慘めな自分の力いつぱい仕事に向けるやうにして、喘ぐやうな一日一日を送つて來たのだつた。「少し長いものが一つ出來るまで世話して置いて呉れ。それさへ出來たらお前のとこの借金も返してやるし、おせいちやんにも何でもお禮をする。僕は仕事さへ出來ればいゝんだから、仕事が出來て金さへはひるやうになつたら、お前とこのお父さんにも資本だつて何だつて貸してやるよ」私は斯う子供にでも云ふやうなことを云つたりしては、叱つたり宥めたりして、自分の氣紛れな氣分通りを振舞つて來たのだつた。おせいの家への借金もかなりの額になつてゐたが、三年經つたが、長篇どころか、この夏貧弱な全收穫の短篇集一册出せたきりで、その金もおせいの家の借金へは※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]らず、自分の父の死んだ後始末などに使つてしまつた。私はチエホフの「犧牲」と云ふ短篇が思ひ出されたりした。醫學生の研究臺となり、性慾機關となり、やがてその醫學生は學校を卒業して女と別れて行く、女はまた別の醫學生に見出されて同棲して同じ生活を繰返さゝれる――おせいと自分の場合とは違ふとしても、二十だつた娘がもうぢき二十四になる――この三年間のことを考へたゞけでも自分は氣の毒にならずにゐられない。何と云ふ忠實ないゝ娘だつたらう。せめて性的にでも慰めてやるべきだつたらうか。が自分は今、春になつて雪でも消えたら、遠く郷里の山の中に引込みたいと思つてゐるのだ。自分はその時のことを考へると淋しくなる。自分のやうな人間のために多少でも婚期に影響した――そんなこともあり得ないとは、或は云へないかも知れない。
「關係してるんだらう。ないと云ふのはどうも嘘らしいな。案外君と云ふ男は何にもしてゐないやうな顏してゐて、何でもやつてるんだからな、わかりやしないよ。さうなんだらう? また君としても關係してると云つてる方が氣が樂ぢやないか」と、ある友人が私に云つたりした。
「まあさうだな。それではさう云ふことにして置くさ」と、私も苦笑するほかなかつた。
 夏父を郷里に葬つて鎌倉に歸つて來ると、私はすつかりポカンとしてしまつて、それを紛らすため何年にもしたことのない海水浴に出かけて行つた。建長寺境内から由比ヶ濱まで汗を流しながら毎日通つた。海水場の雜沓は驚かれるばかりだつた。砂の上にも水の中にも、露はな海水着姿の男女が、膚と膚と觸れ合はんばかしにして、自由に戲れ遊んでゐる。さうした派手な海水着の若い女たちの縱いまゝな千姿萬態のフヰルムが、夕方寺に歸つておせいのお酌で飮み始めると、何年にも憶えない挑發的な感じで眼先きにちらついて來て、私は頓に健康が恢復された氣になり、チエホフの醫學生の役をも演じ兼ねない危險を感じさせられたりしたが、それも十日とは續かなかつた。無茶な海水通ひからまた昨年來止んでゐた熱が出だして、東京で靜養を強ひられることになつた。昨年も今年も、おせいの看病で私は救はれて來た。
「どうだねおせいちやん、春になつたら僕の方のゐなかへ行かないか。奧州の方も見て置くさ。山の林檎の世話なぞして、半分百姓見たいなことをして暮すつもりだがね、急にはうまく行くまいがね、三年もしたらどうにか百姓並の飯位は喰へるやうになるだらうと思ふよ。僕の女房だつておせいちやんが行つて呉れると屹度喜ぶよ。斯うして四五年も別れて暮して來てるんだからね、女房だけでは僕の仕事の方までの世話が出來ないさ。僕の方のゐなかからだつて、いゝお婿さんは見つかるよ……」と、私は此頃も酒を飮みながらおせいに云つた。
「あなたさへつれて行つて下さるなら、私はどこへだつて行くわ。お婿さんなんか私は要らないわ……」と、おせいはいつもの相手を疑はない調子で云つた。
「行かうよ。いつもの通りあの鞄を持つて、魔法壜を肩にさげて……」
 どこへ出かけるにも、おせいは私の藥を飮むための用意の魔法壜を肩にさげさせられた。さうした背丈の低い彼女の姿を、私は遠い郷里の山の中へ置いて、頭の中に描いて見た。

底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年10月5日第1刷発行
   1987(昭和62)年4月8日第7刷発行
底本の親本:「葛西善藏全集」改造社
   1928(昭和3)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:蒋龍
校正:林 幸雄
2009年10月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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