甲賀三郎

罠に掛った人 甲賀三郎

        

 もう十時は疾《と》くに過ぎたのに、妻の伸子《のぶこ》は未《ま》だ帰って来なかった。
 友木《ともき》はいらいらして立上った。彼の痩《やせ》こけて骨張った顔は変に歪んで、苦痛の表情がアリアリと浮んでいた。
 どこをどう歩いたって、この年の暮に迫って、不義理の限りをしている彼に、一銭の金だって貸して呉《く》れる者があろう筈《はず》はないのだ。それを知らない彼ではなかった。だから、伸子が袷《あわせ》一枚の寒さに顫《ふる》えながら、金策に出かけると云った時に、彼はその無駄な事を説いて、彼女を留めた。然《しか》し、伸子にして見ると、このどうにもならない窮境を、どうにかして切抜けたいと、そこに一縷《いちる》の望みを抱くのにも無理はなかった。で、結局友木は無益な骨折と知りながら、妻を出してやる他はなかった。そうして、結果は彼の予期した通り、妻はいつまで経《た》っても帰って来ないのだった。彼女は餓《うえ》と寒さに抵抗しながら、疲れた足で絶望的な努力を続けているに違いないのだ。
 彼は可憐な妻が、あっちで跳ねつけられ、こっちでは断わられ、とぼとぼと町をさまよい歩いている姿を思い浮べたが、それはいつとはなしに、狐のように尖《とが》った顔をした残忍そのもののような高利貸の玉島《たましま》の、古鞄を小脇に掻《か》い込んで、テクテク歩いている姿に変った。友木の眼には涙がにじみ出た。彼はそれを払い退《の》けるように、眼を瞑《つむ》って頭を振ったが、彼の握りしめた拳《こぶし》は興奮の為にブルブル顫えた。
 この春、彼と妻とは続いて重い流行性感冒に罹《かか》った。ずっと失業していた友木は、それまでに親戚や友人から不義理な借財を重ねていたので、万策尽きて玉島から五十円の金を借りた。それからと云うものは、友木は病気から十分に恢復《かいふく》し切らない身体《からだ》で、血のような汗を流しながら、僅《わず》かな金を得ると、その大半は利子として玉島に取られて終《しま》うのだった。そして、借金は減る所か、月と共にグングン増えて、いつか元利積って二百円余りになった。玉島は少しも督促の手を緩めず、殊《こと》に年の暮が近づいて来ると、毎日のように喚《わ》めき立てに来るのだった。友木夫妻が三日ばかり食物らしいものを口にせず、年の暮を控えて、一銭の金も尽き、路頭に迷い出る他に道のなくなったのは、玉島の為だと云っても好いのだった。
 妻の帰りを待ち侘びながら、友木の心の中は玉島を呪う念で一杯だった。
 ジ、ジ、と異様な音を立てて、最後の蝋燭《ろうそく》が燃え切ろうとした。ゆらゆらとゆらめく焔《ほのお》に、鶏小屋にも勝って荒れ果てている室の崩れ落ちた壁に、魔物を思わすような彼の黒い影が伸びたり縮んだりした。
 玉島を呪い続けていた友木の胸にふと或る事が浮んだ。彼はぎょっとして四辺《あたり》を見廻したが、やがて、彼は一つ所をじっと見詰めた。彼の表情は次第に凄くなって来た。顔は土のように蒼《あお》くなった。
「うむ」
 彼は苦しそうに唸《うな》った。両方の顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》からはタラタラと糸のような汗が垂れた。
「うむ。殺《や》っつけてやろう」
 彼はとうとう最後の言葉を呟《つぶや》いた。彼は玉島を殺して終おうと決心したのだった。
 彼は玉島と引替えにするような、彼の安い生命を嘲《あざけ》った。然し、彼は他に生きる道はないのだ。あの狐のような玉島が赤い血潮を流しながら、彼の足許《あしもと》でヒクヒクと四肢を顫わして、息の絶えて行く哀れな姿を思い浮べると、彼は鳥渡《ちょっと》愉快だった。玉島を殺せば玉島の為に苦しめられている幾人かの人を救う事も出来るではないか。こんな気持もあった。そうしたいろいろの考えが、とうとう彼に玉島を殺す決心をさせたのだった。
 こう決心すると、彼は妻の帰って来ないうちに、家を逃れ出る必要があった。妻の顔を見ると、決心が鈍るかも知れないし、妻に余計な苦痛を与えるような結果になるかも知れない。


「私はお前に永らく苦労をかけた。私はもう生きて行く道を知らない。私はあの吸血鬼のような玉島を殺して自殺する。お前一人なら、どうにかして生きる道を見出す事が出来るだろう。意気地のない亭主の事などは、永久にお前の記憶から抹殺して、生甲斐《いきがい》のある生き方をして呉れ」

 こんな遺書を書き残して置こうかと思ったが、何だか余り月並な夫のする事と思ったし、それに見つかり方が早くて、玉島を殺す所を留められるような事になっても困るし、友木は妻には何にも知らさない事にした。
 玉島の家は無人ではあったが、戸締りは中々厳重らしい。噂によると、夜の警戒は一層激しいと云う事であるから、どうして忍び込むかと云う事が問題だった。殺す方法は更に問題だった。友木には短刀は愚か、肥後守《ひごのかみ》のような簡単な小刀さえなかった。そんなものを買う金は無論ない。もしそんな金があったら、仮令《たとえ》それが十銭であったにしろ、芋でも買って餓を凌《しの》ぎ、玉島を殺す事は明日の問題にしたに違いないのだ。友木は玉島を殺すべき兇器さえ持たない事を思うと、苦笑せざるを得なかった。
 蝋燭は最後の燃えんとする努力をするように、パッと一瞬間明るくなると共に、見る見る焔が小さくなって、忽《たちま》ち消て終った。
 友木はのっそりと真暗な部屋を出た。

        

 通りは歳晩の売出しで、明るく且《か》つ賑《にぎや》かだった。飾窓にはいろいろと贅沢《ぜいたく》な品が並べられて、そのどれもが、友木が一月に一度も手に入れる事の出来ないような金額の定価がついていた。十一時近かったけれども、空風《からっかぜ》に裾を捲《ま》くられながら、忙《せわ》しそうに歩き廻っている人で群れていた。
 友木はこう云う人々の間に交って、身装《みなり》が少し見すぼらしいと云う以外に、人目を惹くような特徴は示していなかった。彼の多少殺気立っている顔色も、年の暮を足を棒にして歩き廻っている人々には、少しも注意を惹かなかったのだった。彼も亦《また》年の暮を忙しそうに歩いている一人としか見えなかったのは彼にとって仕合せだった。
 彼自身は然し、始終何者かに追かけられる気持だった。鳥打帽子を眉まで被《かぶ》って、屈《かが》み加減にどんどん歩いて行った。
 玉島の家は薄暗い横丁にあったが、夜用のない商売とて、年の暮と云うのに、もうすっかり門を閉じて寝静まっていた。
 友木は玉島の家に近づくと、四肢が妙にブルブル顫え出して、唇が異様に渇いて来た。彼はうろうろと門の前を二三回往復した。
 戸を叩く勇気はなかった。何かの口実で彼に会う事は出来るとしても、素手ではどうする事も出来ない。旨い隙を見て飛かかったとしても、老人ではあるが、頑丈そうな玉島には、友木は反《かえ》って組み伏せられるかも知れない。何とかして兇器を手に入れて、寝入っている所とか、背後からとか、兎《と》に角《かく》、不意をつかなければ成功しそうにないのだ。
 友木は潜《くぐ》り戸や裏木戸に手をかけて見たが、ビクともしなかった。門を乗り越すには未だ時刻が早過ぎる。
 友木は云い現わす事の出来ない焦燥と不安とを感じながら、玉島の家の前を往きつ戻りつした。時々通りかかる人影に追われては、通りの方に出た。通りを一廻りしては又家の前に来た。
 夜は次第に更けて、寒さはいよいよ増して来た。が、忍び入るべき機会は少しも彼に与えられなかった。けれども彼の勇気は容易にひるまなかった。彼は執拗に目的の家の廻りを離れなかった。
 何回目かに、通りの方から玉島の家のある薄暗い横丁に這入《はい》って来た時に、友木の足にポーンと当ったものがあった。見ると、それは小さい風呂敷包だった。友木は何の気なしに取り上げた。風呂敷の中は軽い紙束のような手触りのするものだった。
 もしや、と思って友木はドキンとした。彼はよく金を拾う場面を空想したものだった。金を拾うより他に方法はないと思った事は再々あった。金を拾えばどんなに嬉しかろうと思った事も度々あった。奇蹟的に金を拾って窮境を脱する事の出来る事を幾度か熱望した。が、空想は遂に空想に終って、そんを奇蹟はかつて実現した事がなかった。
 然し、今日と云う今日こそ、正にその奇蹟が起ったのではあるまいか。こう思いながら、そうして一種異様な不安に襲われながら、友木は風呂敷包を開いた。中から紙包が現われた。そうして、
 何たる奇蹟!
 紙包の中味は正に紙幣束《さつたば》だった。
 友木の手はブルブル顫えた。彼はあわてて紙幣束を懐中に捻《ね》じ込んだ。持ちつけない額なので、能《よ》く目算は出来なかったが少くとも五百円はあるらしかった。
 友木は夢中で走り出した。兎に角、その場にいる事が恐ろしかったので。
 数町離れた所へ来て、彼はホッと息をついた。
 どうしよう。
 届けようか。落主が知れれば一割位|貰《もら》えるかも知れない。が、落主が直《す》ぐ知れないと、そのままお預けだ。では、いっそ初めから、謝礼だけ引いて届けようか。いや、それは分った時に困る。いっそ、そんなら皆借りて終おうか。
 五百円あればもう死ななくて好い。玉島を殺すにも及ばぬ。これを一転機として、運が開けて来るかも知れぬ。五百円落すような迂闊《うかつ》な人間は、これが無いからと云って、さして困りもしまい。
 借りよう。友木はとうとうそう決めて終った。
 彼は四辺が急に明るくなったように感じた。希望が、涸《か》れかかった彼の胸から湧き出して来た。
 彼はふと妻の事を思い出した。
 真暗な家に帰りついて、彼のいないのを発見した彼女は、どうしているだろうか。それとも彼女は未だ町をうろつき廻っているのだろうか。
 早く、早く、吉報を知らしてやらなくてはならない。
 友木は胸をわくわくさせながら家の方に駆け出した。

        

 家は真暗だった。
 友木は手探りで室の中に這入って、声を掛けて見たが、妻は帰っていなかった。
 彼は家を出て、近所の荒物やで蝋燭を二本買った。ビクビクしながら、懐中から拾った金のうちの十円紙幣を一枚抜き出して渡したが、店の者は別に怪しみもせず剰金《つりせん》を呉れた。それから彼は食糧品店に行った。彼は軟かい食パンとバタとハムの鑵《かん》を買った。それから果物屋で真赤に熟した林檎《りんご》を買った。彼は喉をグビグビ云わせながら家へ帰った。
 太い真白な西洋蝋燭は久し振りで快よい照明を与えた。彼は夢中になって食パンに食いついた。それから林檎に齧《かじ》りついた。
 腹が十分になって少し余裕が出ると、彼は久しく吸わなかった、煙草が無性に欲しくなった。彼は再び外に出て煙草を買った。胡坐《あぐら》を掻きながら、一息煙を吸うと得も云われない気持だった。つい先刻死を決した自分が、恰《まる》で別人のように思われた。
 妻はどうしたのか中々帰って来なかった。
 彼は悠然と構えてはいたが、実は一刻も早く妻の顔が見たいのだった。早く彼女と喜びを分ちたかった。が、妻は容易に姿を見せないのだった。
 彼は少し不安になって来た。彼女の身に何か異変が起ったのではないか。もしや自動車にでも轢《ひ》かれたのではなかろうか。或いは金策が出来ない為に、無分別な考えを出したのではなかろうか。彼の不安は次第に募って来た。
 もしや彼を見限って逃げたのではなかろうか。万々そんな事はないと思いながら、友木は悪い方へと考えが向くばかりだった。
 いや、矢張り果《はか》ない望みをかけながら、知人から知人へとうろつき廻っているのだろう。友木は考え直した。然し、それにしては遅過ぎる。事によったら自動車に――友木は気が気でなかった。
 この時、ふと彼は部屋の中に変ったものを見つけた。
 部屋の中ほどの床板の上に、燃えさしの短い蝋燭が立っているではないか。彼が先刻この部屋を出かけた時には、最後の蝋燭が燃え切ったので、現にその痕《あと》が一たらしの蝋の上に、真似ばかりの尖《さき》の焦げた芯がついたまま、別に床板に残っている。して見ると、この燃えさしの蝋燭は、彼が出てから誰かが持って来たものだ。無論それは伸子に違いないのだ。
 では、妻は一度帰って来たのだ。そうして、彼の姿が早えないので、又どこかへ出かけたものと見える。一体どこへ出かけたのだろうか。出かけたにしても、行く当《あて》もない彼女はもう帰って来そうなものだ。彼は一層不安になり出した。
 彼は外に出て妻を探そうかと思った。然し、当がないのであるから行違いになる恐れがある。彼はどうする事も出来ない不安に、気をいら立たせながら、四辺を見廻した。
 と、部屋の隅に手紙らしいものが置かれてあるのが、初めて眼についた。彼はドキンとしながら、飛びつくようにしてそれを手に取った。
 それは確かに伸子の置手紙だった。
 友木はあわてて読み下したが、彼の顔色は忽ちサッと蒼くなった。手紙には次のような事が書かれていたのだった。
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「少しでも望みのありそうな所は、残らず訪ねて見ました。然し、あなたが初め仰有《おっしゃ》ったように、全部駄目でした。私は悄然《しょうぜん》として家に帰りました。あなたはどこにお出になったのか、お留守でした。私は袂《たもと》の中にあった一かけの蝋燭を出して、火をつけ、じっとあなたの帰られるのを待っていました。何と云う佗しい気持だったでしょう。私達は明日はこの物置のような家さえ、出なければならないのです。一銭の貯えもなく、一銭の金を得る途さえ与えられないのです。私はじっと考えました。いろいろの事が考え浮びました。もう涙も出ませんでした。
 結局、私達は生きて行けないのです。私は決心しました。私と云う足手纏《あしてまとい》がなければ、男ですもの、あなたはきっと何か生きる道を、見出されるに違いないのです。私は決心しました。私はあなたから離れます。
 あなたから離れると云っても、私はあなたなしに生きて行けない事は能く知っています。ですから私は死にます。私はあの憎い玉島を殺して死のうと思います。玉島は用心深いそうですが、女ですから油断しましょう。私は金を返えしに来たような風をして彼に会い、隙を見て刺殺します。
 長い間愛して頂いた事を深く感謝します。稀《たま》には憐《あわ》れな私の事を思い出して下さい。どうぞ、生甲斐のある人生をお送りになりますように。
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[#地付き]伸子」

 友木は皆まで読まずに夢中になって外へ飛び出した。足は驀地《まっしぐら》に玉島の家へ向っていた。
 妻は彼と同じ事を考えたのだ。手紙の文句さえが、彼が妻に書き残そうと考えていた事と、同じではないか。彼女は彼と入れ違いに玉島の家に向ったのだ。
 もう間に合わないかも知れない。彼女は玉島を殺して終ったかも知れない。恐ろしい事だ!
 だが、彼女だって、そう易々《やすやす》と玉島の家の中には這入れないだろう。殊に女の事だ。玉島に組み伏せられたかも知れない。どうかそうあって呉れ!
 早まるな、伸子。もう玉島なんかどうでも好いのだ。殺す必要があったら、お前より先に俺がやっつけているのだ。ああ、俺が逃したばかりに、お前は殺人の罪を犯したかも知れない。ああ、恐ろしい、どうぞ、未だ殺していませぬように。間に合いますように。
 友木は譫言《うわごと》のように口の中でブツブツ呟きながら、ひた走りに走っていた。

        

 ああ、駄目だ!
 玉島の家の二階から燈火が射《さ》していた。潜り戸に隙があって、押すと訳なく開いた。
 ああ、伸子は中に這入ったのだ。
 友木は潜り戸を押し開けて、中庭を走りながら、もしやその辺に血に染《にじ》んだ短刀を持った伸子が気絶でもしてはいないかと、眼を忙しく動かした。が、何も眼には留らなかった。
 玄関にも血の垂れたような痕はなかった。
 未だ惨劇は起らなかったのか。伸子は無事か。玉島に組み留められたのか。ああ、それでも好い。どうか無事でいて呉れ。
 友木は勝手を知った家なので、階段を駆け上って、玉島の応接室になっている部屋を目がけて突進した。
 と、突如として、人の争う物音が響いた。
 友木は鞠《まり》のように部屋の中に飛び込んだ。
 見ると、伸子がどこで手に入れたのか、ギラギラ光る短刀を閃《ひら》めかして、勢い鋭く玉島に詰め寄せている。玉島は壁側に押しつけられて、両手を前に差し出しながら、訳の分らない叫声を挙げているのだった。
「伸子、止《よ》せっ!」
 友木は怒鳴った。しかし、伸子の耳には這入らないのか、只《ただ》一刺にと、足を一歩踏み出した。玉島はぎゃっと云う鳥の絞められるような声を出した。
 友木は伸子に飛ついた。右の手で、しっかり彼女の短刀を持った手を握った。
 伸子は激しく身を藻掻《もが》きながら振り返った。友木の顔を見ると、
「あッ! あなた?」
 と叫んで、短刀をガラリと落すと、張りつめた力を急に失なったように、ガックリと友木の胸に凭《よ》りかかった。
「無茶じゃ。無茶じゃ」
 危く生命を落す危険から逃れてホッとしながら、恐怖に蒼ざめた顔をしかめて、玉島は叫んだ。
「何が無茶だ」
 友木は憎悪に充ちた眼で蒼くなっている玉島を見ながら怒鳴った。
「何が無茶じゃて? こんな無茶な事が世の中にあるもんかいな。貸した金を返えしもせず、人を殺そうとするなんて、阿呆らしくてものが云えんがな」
「ものが云えなければ黙ってろ。貴様のような奴は殺しても好いのだ」
「無茶苦茶じゃ。謝りもせんと、云いたい事を吐《ぬ》かす。もう辛抱が出来ん。わしは告訴する」
「ふん、告訴でも何でもして見ろ。俺はもうお前なんか恐くないぞ」
「わしは恐うのうても、お上は恐いぞ」
「恐くない」
「阿呆云うな。牢へ這入らんならんぞ」
「構わない」
「無茶じゃ。無茶じゃ。そんな事云わんと、金を返えして呉れ」
「ふふん。そんなに金が欲しいか。金を返えせば文句はないんだな」
「金を返えして、大人しゅう引取って呉れたら、何にも云わん」
「よし、では金を返してやるから、証文を寄越せ」
「証文はお前の女房が破って終ったがな」
 玉島は情けなさそうな顔をして云った。
「よう、破った、ふん」
 友木は伸子を静かに抱き起して訊いた。
「お前破ったのか」
「ええ」
 死人のように蒼ざめた顔ではあったが、彼女は割にしっかり答えた。
「証文は破っても金高は覚えているだろう」
 友木は玉島に云った。
「うん、そら覚えとるとも」
「それじゃ云って見ろ。証文がなくなれば返えさなくても好いのだが、俺はお前見たいな卑《さも》しい人間と違って、そんな事は嫌いだ。払ってやるから、金高を云え」
「えっ、払って呉れる? 夢じゃないかいな。金高は元利合計で、二百二十八円と四十六銭じゃ」
「よし」
 友木は懐中から紙幣束を引摺り出して、覚束《おぼつか》ない手つきで数え始めた。
「さあ、ここに二百三十円ある」
「夢じゃないかいな。生命を取られるかと思うたら、金を返えして貰えるなんて、こんな有難い事はないて。油断さして置いて、又、短刀でブスリとやる積りじゃないか」
「黙れ。愚図々々云わないで早く受取れ」
「何や、気味が悪いな」
 玉島は恐々《おそるおそる》紙幣を受取って、馴れた手つきで数えた。そうして、友木が全く金を返えして、別に害心のない様子を見て取ると、今までの悄気《しょげ》た様子はどこへやら、急に顔を輝やかして、ホクホクし出した。
「確かにあります。待って下さい。今おつりを出すさかいにな」
「剰金《つり》なんかいらん。取っとけ」
「えッ、それはほんまかいな」玉島は仰天しながら、「友木はん、あんたは貧乏してても、どことなく他の人と違うと思ったが、やっぱり豪《えら》い。感心なものや」
「黙れ」友木は一喝した。「それでもう云う事はないか」
「何にも云う事はおまへん。お礼しますがな」
 玉島はペコンと頭を下げた。
「よしッ。それではこっちに云い分があるぞ。おのれ、よくも永い間俺を苦しめたなッ!」
 友木は拳を固めて、玉島がペコンと下げた横顔を張り飛ばした。
 玉島はよろよろとして、情けなさそうに顔をしかめながら、
「あ痛! ああ、これがおつりの分かいな」
「何をッ!」
 癪《しゃく》に障った友木はもう一つ玉島を張り飛ばした。
「伸子、さあ帰ろう」
 友木は伸子を促がして、悠々と凱旋将軍のように、玉島邸を引上げた。

        

 家に帰りついた友木は、簡単に伸子に金が手に這入った訳を話した。彼は然し拾った金をそのまま着服したのだとは云わなかった。思いがけなく大金を拾って、落主から礼金を貰ったのだと云った。伸子は無論それを信じた。
「好かったねえ」
 彼女は喜びに溢《あふ》れた顔をして云った。然し、友木の顔は暗かった。
 不安のうちに一夜を明かした友木は、翌朝早々伸子を促がして旅に出る事にした。彼は東京にじっとしているのが何となく恐ろしかったのだった。家主に滞っていた家賃を払い、身の廻りのものを整えると、二人は汽車に投じて湘南地方に向った。
 然し、友木は未だ解放されなかった。
 その夜、宿で夕刊を手に取った友木はあっと声を上げた。
「なあに」
 伸子は驚いて夫の顔を見上げた。
「た、大変だ。玉島が殺された」
「えッ」
 二人は夕刊を引張りこしながら、段抜きの記事を読んだ。
 夕刊の報ずる所によると、高利貸の玉島は今朝二階の一室に冷くなって横たわっているのを、雇人《やといにん》の聾の婆さんに発見せられた。玉島の胸には短刀が突刺っていた。兇行の時間は今暁一時|乃至《ないし》二時で、強盗の所為らしいとあった。
「まあ、驚いた。じゃ、私達の帰って直ぐ後で殺されたのね」伸子は喘《あえ》ぐように云った。
「うん。潜戸は開いていたし、玄関は締りはなかったし、強盗が這入ったんだね」
「初めはあなたが殺そうとし、次に私が殺そうとしたのを、救《たす》かって置きながら、とうとう三番目の強盗に殺されるとは、よくよく殺される運だったのね」
「うん、全く運のない奴だ」
「天罰ね。でも、私達が殺さないで好かったわ」
「しかし、俺達は疑われるかも知れない」
「本当ね。急にお金が這入って、急に旅行に出たりして、それに私達は玉島の所へ行っているんですものね。疑われるには道具立が揃い過ぎているわ。もし、警察へ呼ばれたらどうしましょう」
「仕方がない。その時の事さ」
 友木は妻を安心させるように事もなげに云ったが、心のうちの不安は一通りのものではなかった。いや、不安は既に通り越していた。彼は恐怖に顫えていた。よし、玉島を殺した疑いは晴せるとしても、拾った金を横領したと云う事は隠すべくもなかった。もし、それを隠せば、玉島を殺したと云う嫌疑は高まるばかりである。事によると、玉島を殺した嫌疑も云い解けないかも知れない。
「あなた、どうかなすったの」
 伸子は友木が急に黙り込んだのを心配そうに訊いた。
「何でもないさ。疲れたんだよ。もう寝ようじゃないか」
 女中に床を取らせて友木は横になった。然し、不安に次ぐ恐怖は高まるばかりで、寝つく事は出来なかった。
 夜が明けてから、廊下を通る足音がする度に、もしや刑事がと胸をひしがれていた友木は、寝不足の眼を脹らしながら起き出て、急いで朝刊に眼を通した。
 そこには思いがけない幸運が待っていた。新聞には玉島を殺した犯人が早くも捕縛された事を報じていた。
「まあ、好かった」
 伸子は胸を撫で下しながら嬉しそうに云った。
 然し、友木は未だ十分に解放されていなかった。
 新聞の報ずる所によると、玉島を殺した男は武山清吉《たけやませいきち》と云って、或る小さな酒屋の若い雇人だった。彼は前夜主人の命令で、得意先に掛取りに行って、五百円余りの紙幣を風呂敷包にして懐中に入れ家へ持って帰る途中で落して終った。彼は気がついてから夢中になって探し廻ったが、誰かに拾われて終ったと見えて、どこにも見当らなかった。
 彼の主家は引続く不景気に破産しかかっていたので、その金がなければ愈々《いよいよ》破滅の他はなかった。清吉はよくその事情を知っていたので、自殺して詫びるより他はないと思って、茫然《ぼんやり》しながら歩き廻っていた。そのうちにふと気がつくと、彼は一軒の大きな家の前に立っていた。それは彼の主家の附近で、評判の悪い玉島と云う高利貸の家である事が分った。彼は夢中で歩き廻っていたが、矢張り落した金の事を考えていたと見えて、掛取り先から主家へ帰る途順を歩いていたのだった。
 ここの家なら五百や千の金はいつでも転っているだろう。彼は玉島の標札を見上げながら、ふと、こんな事を考えた。そうして、何心なく潜戸を見ると、どうしたのか細目に開いていた。彼は眼に見えない何物かに引摺られるように、潜戸を押した。潜戸は訳なく開いた。彼はフラフラと中に這入った。玄関もどうした事か開け放しになっていた。彼は二階から洩れて来る燈火を頼りに、階段を上った。彼はフラフラと燈火のついている部屋に這入った。すると、玉島が起きていて、彼を怒鳴りつけた。彼は夢中でそこに落ちていた短刀を拾い上げた。そうして、玉島を刺し殺した。
 机の上に紙幣があるのが眼についた。彼はそれを懐中に捻じ込んだ。彼は金庫に眼をつけて開けようとしたが、それは駄目だった。そのうちに恐ろしくなって、家を飛び出し、当もなくうろついているうちに、巡回の警官に怪まれて、最寄の警察署の留置場に入れられていたのが、今日昼頃初めて玉島を殺した事を自白したのだった。
「まあ、気の毒な人ね」
 読み終った伸子は、顔を蒼くして溜息をつきながら云った。彼女は然し未だ夫の嘘には気づいていないらしかった。
 友木は死人のように蒼ざめた顔を上げて、一つ所を見詰めながら、吃り吃り云った。
「運命だよ。運命と云う奴はいつでも罠を掛けて待っているんだよ。それが人生なんだ」
「それで」伸子は多少夫の様子を審《いぶ》かりながら云った。「その罠にかかる人がつまり不幸と云う訳なんですわね」
 友木は然し、それに答えようとしなかった。そうして、深い溜息をついた。
                      (「探偵」一九三一年五月)

底本:「「探偵」傑作選 幻の探偵雑誌9」ミステリー文学資料館・編、光文社文庫、光文社
   2002(平成14)年1月20日初版1刷発行
初出:「探偵」駿南社
   1931(昭和6)年5月号
入力:川山隆
校正:伊藤時也
2008年11月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

甲賀三郎

徹底的な浜尾君—— 甲賀三郎

 浜尾四郎君は鋭い頭の持主であった。それに卑しくも曖昧な事を許して置けない性質で、何事でも底まで追究しなければ止まない風があった。従って時には根掘り葉掘り問い質して、為に相手がしどろもどろになる事があった。之は一見意地悪るのようであるが、決してそうではなく、全く物事をいい加減にして置く事が出来ない為で、実は真正直な人であった。
 他人に対して相当追究する一方、自分自身に対しても亦厳重で、曖昧な態度などは微塵もなかった。議論の場合ばかりでなく、単なる会話の時にも、用語には細心の注意をして、どこからも突込まれないように、相手の返答すべき事を、予め限定された一点に追込んで置くという風であった。従って浜尾君の議論なり会話なりには毫末も陥穽というものがなく、誠に公明正大で、相手は時によると、単に「はい」とか「いいえ」とか、簡単に答えるより他にないほどであった。
 然し、こういった無色透明の態度や、鋭ど過ぎる頭は、往々余裕を欠くもので、そういった嫌いは若干浜尾君にもあったようである。だから浜尾君をよく知らないものは、彼から春風駘蕩たるものを感ずるよりは、秋霜烈々たるものを感ずる事が多かったらしい。私がここに浜尾君が非常に親切で、且つ世話好きな半面を持っていたといったら、意外に感ずる人があるかも知れない。
 鋭い頭の持主の長所であって、且つ通弊とする所は、俗にいう、つーといえばかーと応えるような敏感な者に対しては親しむけれども、鈍感なものにはどうもいい感情を持たない事である。尤も鈍感といい、敏感という事は、そうした人々の賢愚の絶対値を極めるものでない。敏感鈍感という事は、単位時間に於ける頭脳反応の大きさである。だから、敏感な人が時間をかければ、多くの効果が挙げられるというのではなく、鈍感な人でも時間をかければ、敏感な人に勝る仕事は出来る訳である。然し、一般に敏感な人は鈍感な人が馬鹿に見える。馬鹿に見えないまでも、いかにも交際し悪い。そういう意味で、浜尾君にとっては、鈍感な人達は互いに迷惑な相手であったに違いないと思う。
 敏感な人は、つまり単位時間に於ける頭の働きが大きいのであるから、どうしても自らの才に頼り不勉強になり易い。所が、浜尾君はこの原則に反して実に勉強家であった。一つには彼の負けじ魂が知らぬという事を嫌っての結果でもあろうが、そればかりではなく、物事の追究という事そのものに、非常な興味を持っていた為だと思う。例えば、彼の専攻の法律の事について質問した時、彼は相手が素人だと思っても、決していい加減な返辞はしない。知らない場合は知らないと答え、而も後に必ず十分に調べて答えて呉れる。その良心的な点と、熱心且つ親切な点は敬服の他はない。
 ここまで書けば浜尾君は何事にも誠にハッキリした人であった事が十分諒解されると思う。一般に人の世は不純なもので、中々このハッキリした態度で押切れるものではないが、浜尾君は堂々と押切っていた。不純な気持や、世間一般の考えで浜尾君に対すると、面喰う場合が多いであろう。然し、こっちも亦その覚悟になって、ハッキリした態度で行くと、実に交際し易い、いい人であった。
 浜尾君の才筆については喋々する必要がない。徹底的な気質の一面に、幼少の頃から芸術性が豊かで、中学卒業後法律を専攻するようになったのは、むしろ周囲の人の意外とする所であったそうである。啻《つと》[#ルビの「つと」はママ]に文筆のみならず、音楽にも亦深い趣味と諒解があって、誠に多芸多能の人であった。
 こうした性格、学識、多趣味は最も随筆に必要な事であって、又それらのものは必ず随筆のうちに現われるものである。今や、春秋社から浜尾君の遺稿随筆集が出版されると聞いて、読者諸君と共に、故浜尾君の珠玉の如き文章に親しむ事が出来るのを、心から喜ぶものである。   (一〇・一二・一七)

底本:「日本探偵小説全集 5 浜尾四郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1985(昭和60)年3月29日初版
   1993(平成5)年3月5日4版
底本の親本:「浜尾四郎随筆集」春秋社
   1936(昭和11)年1月
初出:「浜尾四郎随筆集」春秋社
   1936(昭和11)年1月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2013年1月23日作成
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甲賀三郎

蜘蛛—— 甲賀三郎

 辻川博士の奇怪な研究室は葉の落ちた欅《けやき》の大木にかこまれて、それらの木と高さを争うように、亭々《ていてい》として地上三十尺あまりにそびえている支柱の上に乗っていた。研究室は直径二間半、高さ一間半ばかりの円筒形で、丸天井をいただき、側面に一定の間隔でおなじ大きさの窓が並んでいた。一年あまり風雨にさらされているので、白亜の壁はところどころ禿げ落ちて鼠色になり、ぜんたいは一見不恰好な灯台か、ふるぼけた火見櫓《ひのみやぐら》とも見えた。私はそれを感慨ふかく見上げた。
 一年前に物理化学の泰斗《たいと》である辻川博士がとつぜん大学教授の職をなげうって、まるで専門違いの蜘蛛の研究をはじめたときは、世間にかなり大きいセンセーションをまきおこしたが、さらに博士が東京郊外のこんな野なかに火見櫓のような研究室をつくって、地上三十尺の円筒形の建物のなかにこもったのをみたときには、博士は狂せりと嘆じた人もすくなくなかったほどで、私などもまったく博士の真意がくめなくて、いささか呆れた一人だった。
 しかし、当の博士は、世人の非難や嘲笑にはいっこう無頓着で、孜々《しし》として蜘蛛の研究に没頭して、研究室のなかに百にあまる飼育函をおき、数かぎりなき蜘蛛の種類をあつめ、熱心に蜘蛛の習性その他を観察した。半年とたたないうちに博士のこの奇妙な研究室には、世界各地の珍奇な蜘蛛がみられるようになったのである。
 半年を経過するころには健忘症の世人は、もう博士がこの奇妙な研究室に閉じこもって、蜘蛛の研究をしていることなどは思い出してみようともしなかったが、ある夜辻川博士を訪ねてきた友人の大学教授潮見博士が、この研究室から墜落惨死した事件があって、一時また騒ぎだしたことがあった。そのころには物好きな人たちはわざわざこの研究室をみにきたものだった。むろん辻川博士は容易に他人を室内へ入れなかったので、そうした人たちは地上から、五間も高くそびえている円形の塔を下から仰ぎみて満足するより仕方なかったのだった。
 しかし、世間の人はすぐその事も忘れてしまった。辻川博士はふたたび世間と隔離して蜘蛛の研究をはじめることができた。が、それはながくはつづかなかった。というのは博士は一月ばかり前に、ふとした不注意から熱帯産の毒蜘蛛に咬《か》まれて、奇怪きわまるうわ言をしゃべりつづけながら瀕死の状態で病院にかつぎこまれ、一週間ばかり昏酔状態をつづけたのち、とうとう斃れてしまったのだった。世人はむろんふたたび博士のことについて騒ぎだしたが、それもやはり永くつづかず、博士の死とともにこの奇妙な研究室と、そのなかに生棲する数百の蜘蛛についてはいまはかえりみる人もなくなった。
 私は大学の動物学教室に助手をつとめて、節足動物につきすこし専門知識があるので、ときおり博士にまねかれて、研究について相談をうけたりした。辻川博士はまえにものべたとおり物理化学では世界的の学者だったが、動物学では素人なので、私のようなものでもいくぶん博士の研究をたすけることができたのだった。しかし、それもほんのはじめのあいだだけで、博士のようにすぐれた頭脳をもった人にはまたたくひまに私などが遠く及ばないぐらいの知識を獲得せられるのはなんでもないことだった。私は一二度博士がなぜ専門の物理化学を抛擲《ほうてき》して、とつじょ蜘蛛の研究に従事せられたのかということをきいてみたが、博士は笑って答えられなかった。
 遺族の人の困ったのは、この研究室の始末だった。というのは建物のこともそうであるが、さらにそのなかにある数百の蜘蛛の処置にいたってはまったく手のつけようがないので、それらの蜘蛛のなかには、人命をうばう毒蜘蛛もあるというので、彼らは恐れてちかづかず、処置はすこし専門知識のある私に一切ゆだねられることになった。そこで、私は今日ここにこうして一人でやって来たのである。
 さて私は落葉をふんでこの奇妙な建物にちかづき、しばらく感慨ぶかく円形の塔を仰ぎみたすえ、急傾斜の鉄筋コンクリートの階段をのぼった。のぼりきると、そこにたたみ一畳じきよりすこしひろいぐらいの|踊り場《ランジング》があり、そこに研究室内にはいる唯一のドアがひらいていた。階段と踊り場はむろん円形の研究室に密接はしていたが、両者は別個につくられて、ごくわずかな間隙をおいて、分離せられていた。(このことはささいなことであるが、のちに重要な関係をもつので、とくにつけ加えておく)
 私は研究室内にはいった。
 博士の生前にたびたび出入したこともあり、動物学ことに節足動物門について専攻している私には、じゅうぶん馴れているべきであるにもかかわらず、私は思わずぞっとしてたちすくんだ。
 壁にそってずらりとならべられた函のなかにはそれぞれ八本の足をつけた怪物がおもいおもいに網をはって蟠踞《ばんきょ》していた。大形のおにぐも[#「おにぐも」に傍点]や、黄色に青黒い帯をしたじょろうぐも[#「じょろうぐも」に傍点]や、脚がからだの十数倍もあるざとうむし[#「ざとうむし」に傍点]や、背に黄色い斑点のあるゆうれいぐも[#「ゆうれいぐも」に傍点]や、珍奇なきむらぐも[#「きむらぐも」に傍点]や、その他とたてぐも[#「とたてぐも」に傍点]、じぐも[#「じぐも」に傍点]、はぐも[#「はぐも」に傍点]、ひらたぐも[#「ひらたぐも」に傍点]、こがねぐも[#「こがねぐも」に傍点]など、あらゆる種類の蜘蛛が、一月ほど餌をあたえられないために、極度に痩せて、貪婪な眼をギョロギョロと光らせていた。そのうえに函の始末が悪かったためか、のがれでた蜘蛛たちは天井や部屋のすみに網をはっていた。壁のうえ、床のうえにも幾匹となく無気味なかたちをしてぞろぞろと走りまわっていた。
 私はしかしみずからをはげまして、充分に注意しながら函をのぞきまわった。熱帯産のおそるべき毒蜘蛛はさいわいにも厳重に密閉された函のなかにちゃんと収められていた。辻川博士がどんなふうにしてそれにかみつかれたのか、博士が発見されたときにはすでに瀕死の状態で、ただとりとめのない呪いの言葉をとぎれとぎれにうなっていただけで、よくわからないのだが、とにかく、当の毒蜘蛛は逸出《いっしゅつ》していなかったので私はほっと安心した。それから私は部屋のすみずみから書棚や机の裏側、床のつぎめなどを厳密にしらべはじめた。もしや私の知らないでいた有毒の蜘蛛が逃げだしてひそんでいないかとおもったからである。
 私はべつにそんな有毒な蜘蛛はみとめなかったけれども、博士常用の机の裏側をあらためたときに、机の脚の一部に電流のスイッチが一つとりつけてあるのを発見した。電燈用や、暖炉用にしてはへんなところにとりつけてあるので、私はふしぎに思って、二三度パチパチとひねってみた。しかし、予期した通りべつに室内の電燈もつかず、なんのためのスイッチかすこしもわからなかった。
 私はすこし疲れをおぼえたので、ちょっと休息するために、部屋の中央の博士の常用の安楽椅子のほこりをはらって、どっかと腰をおろして、煙草に火をつけた。窓外には箒《ほうき》のように空ざまに枯枝をはっている欅の大木をとおして、晴れわたった蒼空がみえて、冬の午後の日ざしが室内までもはいりこんでいた。
 煙草のけむりの行方をながめながら、私は博士の生前のことをぼんやり考えていた。博士はどっちかというと陰険な人つきあいのわるい人だった。そのために学問上には相当の功績をあらわしながら、おなじ学者仲間からはむしろ嫌われていた。ことに博士の同僚だった潮見博士は快活な明るい人だったから、辻川博士とはどうしても両立せず、陰気なだけ辻川博士のほうがいつも圧迫されがちで、潮見博士のほうではべつだんなんとも思っていなかっただろうけれども、辻川博士のほうでは潮見博士をよほど快よくおもっていなかったふうがあった。もっとも辻川博士はあくまで陰性で、面とむかって不快の状をあらわすようなことはなかったようだ。
 こんなことを考えているうちに私はふと潮見博士が、研究室の階段から墜落惨死したときのことを思いおこした。それはいまから半年ばかり前の夏の終り時分のことだった。辻川博士から呼ばれて午後七時ごろ私がこの部屋にはいってきたときには、辻川博士は私がいまかけている安楽椅子に身体をうずめて、あい対した潮見博士としきりになにか話をしていた。辻川博士の調子はふだんとちがってひどくはしゃいでいて別人のように高笑いをしたりしていた。博士は私の姿をみとめると、すぐに立上って、かたわらの椅子をすすめて潮見博士を紹介した。(潮見博士は入口のドアをちょうど背中にして腰をおろしていた。したがってあい対していた辻川博士は、ドアのほうをむいていたわけで、私のはいった姿は辻川博士にすぐみえたわけである。潮見博士の位置はのちに重大なる関係をもってくるので、ちょっとつけ加えて置く)
 それから私たち三人は愉快に談笑をかわした。まえにものべたとおり、辻川博士が平素とちがって、ひじょうに快活だったし、それに話上手の潮見博士がいたし、辻川博士と二人きりのときには、いつも話のきっかけにきゅうする私も、つい釣り込まれて大いに喋った。私はこのときに潮見博士のユーモアをまぜた独特の揶揄や皮肉と、よくまわる舌とに感心して、それにこころよくあいづちを打つ辻川博士をみて、世上で二人の不和を云々するのは全く誤伝だとおもった。(しかし、これは私の浅薄なおもいちがいだった)
 私たちの話はなかなかつきなかった。ものの二時間もしゃべりつづけたと思う。そのときに突如として潮見博士は飛びあがった。私はびっくりして博士の顔を見たが、土のように蒼かった。博士は悲鳴をあげながら背後のドアに飛びついて、部屋の外に飛びだした。あまりに不意の出来ごとで私にはなんのことやらわからなかったが、私はなんでも床の上をはっている珍らしい一匹の蜘蛛を見たように思った。その蜘蛛はたぶん潮見博士の足もとへはって行ったのだろう。
「とたてぐも[#「とたてぐも」に傍点]の一種なんだよ。潮見君は毒蜘蛛と間違えたんだよ」
 その床の上をはっている蜘蛛をさして辻川博士はそんなことをいったと思う。(私はあとに臨検した警官にもそう証言した)
 が、そのときはそんなことをくわしく耳に留めている余裕はなかった。というのは、潮見博士が飛びだすと同時にドアの外でギャッという悲鳴とともに、ドタドタという物の落ちる音がしたからで、私は驚いてドアの外へでようとした。すると、辻川博士があわてて私を抱きとめて、
「あぶない、階段が急だから」と口早にいって、私をひきもどして、博士のほうが先に外に出た。
 それからさきは新聞にもくわしく出たとおり、外に飛びだした潮見博士は階段で足を踏みすべらして、途中で二三回、階段に頭をぶつけながら、階下まで転落して、その場で即死してしまったのだった。辻川博士と潮見博士とはあまり仲がよくないということがつたえられていたりしたので、臨検した警官はかなり厳重に事情を聴取した。しかし、両博士がきわめて平和裡に談笑していたことは私が証言したし、潮見博士が突如として戸外に飛びだしたのは、まったく足許にはいよったある種の蜘蛛をみて、毒蜘蛛とでも誤認したためとしか思われないし、その蜘蛛は毒蜘蛛でもなんでもなく、誤認したのは潮見博士の過失であり、ことに階段から転落したのはまったく潮見博士の過失によるのであるから、辻川博士にはなんの責任もないわけである。そこで辻川博士にはなんらの咎めはなかった。しかし、この問題では各新聞紙が競って興味本位に報道して、辻川博士が突如として大学をやめて専門ちがいの蜘蛛の研究をはじめたことや、三十尺の支柱に支《ささ》えられる円形の塔にこもっていることなどをこと新らしく書きだして、大いに世人の好奇心を煽《あお》った。そのために、研究室の下には一時、見物人がむれて、辻川博士はひじょうに不快なめをしたことは、前にものべたとおりである。その後も博士は蜘蛛の研究をやめようとせず、研究室に閉じこもっていたが、最近ではすこし頭の調子が狂いだしたらしく様子が変だということを私はきいた。
 私は円形の奇妙な研究室のなかで、醜怪な蜘蛛類にかこまれながら、思わずも故辻川博士の懐旧にふけったが、ふと気がつくと、テーブルの灰皿にはいつのまにすったのか、吸殻が林のように立っていた。私は時間のうつったのに驚きながら立ちあがって、念のためにもう一度、飼育函のなかの蜘蛛類を観察して、それらの処分法について、頭のなかに一つのプランをつくりあげた。そこで、私がこの研究室にやってきた目的はたっせられたわけであるから、私は前にものべたとおりこの部屋に出入する唯一のドアに手をかけて静かに内側に開いて、なにげなく一歩外へふみだそうとしたが、そのときに私はアッと叫んで、グラグラとしながらドアにしがみついた。私はもうすこしのことで直下三十尺を墜落するところだったのだ。それはなんと不可思議なことであろう。ドアの外にはたしかにあるべきはずの踊り場も階段も、影も形もなく消え失せているのだった! はるかに脚下には三十尺の支柱の土台となっている円形のコンクリートの地盤が、私をさそうように冷たくよこたわっている。
 私はいくどか眼をこすって見直した。しかし、錯覚でもなんでもなかった。私は室内を見まわした。しかし、むろん、ここ以外にドアがあろうはずがない。私はドアをバタリと閉めて、よろめきながら室内にはいって、ひとつひとつ窓をのぞきまわった。すると、どうだ。踊り場とそれへかけられた階段は三つ目の窓の下にくっついていた。
 私は茫然とした。窓から踊り場に飛びおりれば、私は階下へおりることはできる。だからこの奇妙な塔上に閉じこめられることはまぬがれることができるのだが、しかし、きんきん一時間ぐらいの間に鉄筋コンクリートの階段が移動したとはなんと不思議千万ではないか。
 しばらく茫然と突ったっているうちに、私はふとあることに思いついた。私は窓から差込んでいる日足をじっと観察した。それから窓外にそびえている大木をじっと観察した。
 私は発見した! この円形の研究室はそれをささえている支柱を軸にして静かに廻転しているのだ! 私は突如思いあたった。私はこの部屋にはいるとまもなく机の裏側に妙なスイッチがあるのを見つけて、パチパチとひねってみて、結局元どおりにしたつもりだったが、あのために電路が閉じて、この直径二間半の鉄筋コンクリートの丸い塔が廻転をはじめたのにちがいないのだ。私は塔の廻転した距離を目測したが、階段の移動は二間半ぐらいで、角度にして約百二十度ぐらいだった。移動に要した時間は約一時間であるから、廻転速度は約三時間に三百六十度すなわち一廻転するものと思われた。
 私はすぐスイッチをきろうかと考えたが、ふと完全に一廻転させて元の位置にかえしたほうがよいと考えて、そのままに放置した。そうしてふたたび部屋の中央の安楽椅子に腰をおろして、なんのためにこの研究室が廻転するようにつくられているのであろうかと静かに考えはじめた。
 私はハッとあることに思いついた。私はあまりに恐ろしい考えに、思わずグラグラとした。私はいたむ頭をかかえて立ちあがった。そうして狂気のごとく部屋のなかを歩きまわった。それから私はあらあらしく部屋のなかのものを手当りしだいに押しのけて、なにものかを見つけだそうと焦った。私は辻川博士の秘密が知りたかったのである。この研究室のどこかに辻川博士の秘密が隠されていると信じたのである。
 まるで狂ったように荒れまわっていた私は、とうとう書架のうしろの秘密の隠し場所から、故辻川博士の日記を発見した。私はふるえる手でバラバラとページをくった。そうして、私はやはりそこに博士の秘密を見出したのだった。

       *   *   *

 ×月×日
 Sを殺そうと決心してから三ヵ月になる。このごろになってようやく一つのプランを思いついた。Sを殺さなければならない理由は、まったく主観的のもので、おれは良心を安んじさせるためにジャスチファイする必要はないと思う。おれは世間をあざむけばよいのだ。良心をあざむく必要はすこしもない。
 おれはSを殺そうという考えが、すこしでもにぶりかけたら、彼がおれに加えたかずかぎりなき有形無形の侮辱を思いだせばよいのだ。Sは二人だけの場合であると、公開の席であるとにかかわらず、諧謔《かいぎゃく》の仮面のもとに、おれをあざけり、おれを軽蔑し、おれを圧迫し、おれをののしりつづけた。このことは彼自身が意識していると意識していないとにかかわらず、おれには忍ぶべからざる侮辱である。しかし、おれのいじけた性質と訥弁《とつべん》にたいする、彼のはなやかな性質と雄弁とは、おれを彼にたいして反抗を不可能ならしめて、つねに道化役者の地位においた。世人は彼の雄弁と諧謔とにみせられて、哄笑をするたびに、そのかげにおれという被害者がはぎしりしていることにぜんぜん気がつかなかった。いや、いまさらおれはこんなことをくどくどと書きつける必要はない。結論はかんたんだ。おれはSを憎む。殺さなければならないほど憎む。それはうごかすべからざる事実だ。問題は彼を殺すべき方法である。
 おれは過去三ヵ月にわたって、あらゆる殺人方法について研究してみた。が、どの方法も確実性と絶対不発見性とを具有しているものはなかった。
 ただ一つちょっと面白い方法だと思ったのは、外国人のかいた短い探偵小説だった。
 それはAという男がBという男を殺さなければならなくなって、ある大きいビルの一階と最上階にまったくおなじ位置に各一室をかりうけて、それをまったく同様に飾りつけた。もし眼かくしして突然そのうちの一つに連れこまれたとしたら、眼かくしをとられた刹那《せつな》はたして、どの階にいるのかわからないことを必要とするのだった。こうしておいてある夜AはBを一階の部屋に連れこんで、とつじょ彼の自由を拘束して、この部屋には自動爆発装置が敷設してあるといつわり、いまより三十分後正九時にはこの部屋は爆発して、お前は粉微塵になるのだと脅かしたのちに、彼に睡眠剤をあたえて昏酔させた。そうして昏酔しているBをかかえて、かねて用意してあった最上階の一室に連れこんで、時計を九時五分前に止めて部屋のなかにBをおきドアをとざして逃げさった。このときに時計は必要な時間で止めておかねばならない。なぜならばいつ眼ざめるかわからないからである。
 Bはふと眼ざめた。気がつくと手足をいましめられている。しかし、さいわいにそれはゆるんでいたので、さっそく振りほどいた。彼はしだいにAの脅迫の言葉を思いだした。(彼はむろん一階の部屋にいると思っている)彼はハッとして時計をみた。九時五分前! 爆発にはあますところ五分しかない。彼は狼狽してドアに飛びついた。しかし、ドアはびくともしない。彼の狼狽はその極にたっして、窓に飛びついた。ところが窓はさいわいにあいた。ここは一階であると彼は思っている。――で、彼はいきおいよく飛びおりた。一瞬ののち彼はむろん街路に血にまみれて即死していた。
 この方法はなかなか巧妙である。しかし、静かに考えてみると、最上階と一階のおなじ位置の部屋をかりうけて、これをまったく同一に飾りつけてほかから怪しまれないようにするにはそうとうの困難があり、かつ昏酔している人間を一人かかえて、一階から最上階までだれにもとがめられないで、はこぶことはよういなことではない。そのうえにこの方法の致命的欠陥というのは結果がぜんぜん偶然的で、必然性がないということである。というのは、眼ざめたBが註文どおり狼狽してくれればよいが、もし冷静に観察されると、まず第一に時計のとまっていることを看破せられるであろう。第二に窓をひらいたときに、それが一階でないということをさとられるおそれがある。そしてもっともおそるべきことはいったん看破られたが最後Bの陳述によってAは殺人未遂というのがれられない運命をになうにいたるであろう。
 そこでおれは右の方法に一つの改良をほどこした。それはBにたいしてなんら強制力をもちいないことである。強制力をもちいさえしなければ、もしやり損なったさいもなんのとがめをうけずにすむわけである。
 ×月×日
 おれは予定どおり大学をやめた。郊外の研究室の工事も着々すすんでいる。おれははじめ邸内の一部に研究室をたてようとおもった。そのほうがSをたびたび招いたりするのに都合がよいのであるが、いかに巧妙にいっても、人目のおおい市内では、おれの計略を見やぶられるおそれがあるから、不便な郊外をえらぶことにした。
 ×月×日
 とうとう研究室ができた。研究室の秘密については、おれは都合のよい人間をしっていたので、絶対に他に洩れる心配はない。設計施工をやった人間は、研究上必要だと信じているのだ。まさかおれが殺人をする目的で、こんな装置をしたとは思っていない。
 ×月×日
 研究はいよいよ蜘蛛ときめた。はじめは蛇にするつもりだったが、蜘蛛類にも猛毒なものがあるからそれを利用することにした。
 ×月×日
 今日深夜ひそかにテストをしてみた。しごく成績がよい。おれがはじめ心配したのは回転速度だった。いったい吾人は等速運動をしている時に、ほかに比較すべきものがなければぜんぜん意識しないものだ。下等動物のうちには、ほかに比較すべきものがあっても平気なものがある。たとえば蠅のごときものは、はしる馬の背にでもじっととまっている。この蠅の習性はかの蠅取器なるものに利用されている。すなわち静かに回転する木片のうえに蠅の好むものをぬっておくと、蠅はそれにとまる。かれは木片がじょじょに回転して、ついにでることのできない穴倉におとしいれられるまで気がつかないのだ。
 しかし、人間がはたして外界に比較すべきもののない場合に等速運動に気がつかないかどうか――真の等速運動なら心配はないが、人為的等速運動において――おれはすこし心配だった。それで回転速度をきわめてすくなくした。人は秒針の運動はよく認識することができる。しかし、秒針の運動でもちょっとみた瞬間にはわからないもので、だから人は懐中時計が動いているかどうかを試すときに、眼によらないで耳によるのを普通としている。
 分針の運動にいたってはほとんど認識できないといってよい。もっとも時計のおもてには区画があるから、二三分見つめていると、一つの区画に近づくのでやや運動をみとめることができる。区画がなければほとんどわからないであろう。もしそれ時針の運動にいたっては、ぜんぜん認識することができないであろう。そこでおれは回転速度をおおよそ三時間に一回転としてテストをやってみた。結果はきわめて良好だった。
 ×月×日
 おれはまたプランに一つの改良を加えた。最初の考えではおれはSと二人きりで研究室であおうと思っていた。しかし、二人きりではおれがあるいはSを突落したのではないかという疑いをうけるおそれがある。外部に目撃者をおくとすると、研究室の回転を見破られるおそれがある。そのうえおれは夜あたりにだれもいないとき、かつ窓から外のものがみえないときを選ばなければならぬから、目撃者を外におくわけにはいかない。そこでおれは目撃者を内部におくことにした。この方法は目的どおりSが墜落してから、研究室の移動をさとらしめないことに骨が折れる。しかし、人は異常な出来事のさいには狼狽するものだから、このときには、急激に研究室を原状にもどしても気づかれはしないだろう。
 ×月×日
 とうとう成功した。おれはSをよんでつとめて歓待した。Sは哀れにもいまに死ぬことを知らないで、あいかわらず皮肉をまじえておれを揶揄しながら談笑した。おれはおかしさをかみこらえて、彼に毒蜘蛛の恐るべきことと、最近一匹が逃げだしていまに行方のしれないことを話してきかせてやった。さすがの彼もひじょうに気味悪がっていた。しばらくするとかねてよんであった大学の動物学教室の助手をしているKがやってきた。おれはそっとスイッチをひねって研究室をじょじょに回転させた。だれも気づかない。おれは気づかせまいとして一生懸命に話した。SやKはおれが平素のおれでないのに多少気づいたであろう。
 おれはころあいを計ってかねて足許にふせてあったとたてぐも[#「とたてぐも」に傍点]の一種を放した。蜘蛛はのそのそとSの足許にはいよった。毒蜘蛛の話におびえていた彼は蒼くなって突立った。そしてドアのそとに飛びだした。(あるいはSはおれが彼を殺すつもりで毒蜘蛛を彼にむけたと思ったかもしれぬ。彼はおれが彼を恨んでいることを多少感づいていただろうし、彼の逃げかたがあまりに真剣だったから)このときにドアは踊り場からほんの少ししか離れていなかったはずである。しかし、ほんのわずかでも離れていてはたまったものではない。彼はたちまち踏みはずして、いったん階段のなかほどに落ちて、跳ねかえって地上に落ちた。彼は即死した。おれの目的は完全にたっせられたが、よし彼が即死しなくても、おれが殺したということができないはずである。目撃者Kはむろんおれの殺意をみとめはしなかった。Sが蜘蛛をおそれて悲鳴をあげて外に飛びだして、勝手に階段からすべり落ちたのである。おれはKが狼狽しているひまに研究室を原状に復した。このときは加速度が加わったはずであるが、Kはすこしも気づかなかった。
 ×月×日
 阿呆どもが研究室の下にきてわいわい騒いでいる。一人ぐらいおれの計略を見破るものがあってよいのだが、そんなやつはいないらしい。
 ×月×日
 Sは死んだ。それは明かな事実だ。しかし、おれはSの死によって予期したようになぐさめられないで、なんだか物足りなくてしかたがない。おれはSを殺せばこんな蜘蛛の研究はやめるつもりだった。Sの死によって教授を失った大学はきっとおれを迎えにくるだろうと思っていたが、大学からはなんともいってこない。残念ではあるが、おれはなんだか蜘蛛の研究がやめられないような気がする。
 ×月×日
 大学からはなんの音沙汰もない。おれはまたせっせと蜘蛛の研究をはじめだした。
 ×月×日
 今日は熱帯産の毒蜘蛛の雌雄が手にはいった。
 ×月×日
 おれはなんだか蜘蛛に呪われているようだ。飼ってある蜘蛛どもが、妙に探偵のような眼つきをしておれをにらんでしかたがない。
 ×月×日
 おれは呪われている! あの熱帯産の毒蜘蛛がSの亡霊だとは気がつかなかった。あの眼をみろ、あの眼はSがこの研究室の脚下に血まみれになってよこたわっていたときの眼だ。あいつは毒蜘蛛になったのだ!
 ×月×日
 負けてたまるものか。たかのしれた毒蜘蛛に。SもSだ。殺されるような意気地なしだけあって、蜘蛛になりさがるとは。よし来い。おれは貴様とたたかうぞ。いじめていじめ抜いてやるぞ。だがあの眼つきは、ああおれはこのごろ蜘蛛がおそろしくなってきた。眼だ眼だ。おそろしい蜘蛛の眼だ。
 ×月×日
 蜘蛛の眼がおそろしい。おれはとうていこの部屋のなかで眠ることはできぬ。よしッ、あすはいよいよ最後の勝負だ。見ろ、Sの毒蜘蛛め、ひとつかみにつぶしてやるぞ。

       *   *   *

 おそろしい蜘蛛の日記はここで終っていた。読み終った私はおそろしさにガタガタとふるえだした。ふと気がつくと、私の周囲にズラリとならんだ函のなかから、幾百幾千と数限りない蜘蛛が右から、左から、前から、後からゾロゾロと私めがけてよってくるのだ。私は無我夢中にドアにとびついて押しあけた。ふしぎなことにはそこにちゃんと階段があった。私はあとをもみずに飛ぶように走りおりた。
 数日のあいだ私は熱をだして病床によこたわっていた。そのあいだに奇妙な研究室は火を出して、内部はすっかり焼けてしまい、数百の蜘蛛もことごとく焼け死んだ。当局の見込みは乞食か浮浪人の類がはいりこんで火を出したのだろうというのだった。もし火を出さなかったら、あの異様な塔は永久に静かに回転をつづけて、容易に人に気づかれなかったかもしれないと、私はいまでもそう思っている。
                   (〈文学時代〉昭和五年一月号発表)

底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1984(昭和59)年12月21日初版
   1996(平成8)年8月2日8版
初出:「文学時代」
   1930(昭和5)年1月号
入力:網迫、土屋隆
校正:小林繁雄
2005年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

甲賀三郎

青服の男—— 甲賀三郎

          奇怪な死人

 別荘――といっても、二昔《ふたむかし》も以前《まえ》に建てられて、近頃では余り人が住んだらしくない、古めかしい家の中から、一人の百姓女が毬《まり》のように飛出して来た。
「た、大へんだア、旦那さまがオッ死《ち》んでるだア」
 之《これ》が夏なら街路にはもう人の往来《ゆきゝ》もあろうし、こんな叫び声が聞えたら、あすこ、こゝの別荘から忽《たちま》ち多勢の人が飛んで来ようが、今は季節外れの十二月で、殊《こと》にこの別荘地帯は茅《ち》ヶ|崎《さき》でも早く開けた方で、古びた家が広々と庭を取って、ポツン/\と並んでいる上に、どれも之も揃って空家と来ているので、誰一人応ずる者はない。百姓女の叫び声は、徒《いたず》らにシーンとした朝の空気に反響《こだま》するばかりである。
「た、大へんだア、お、小浜《おばま》の旦那がオッ死《ち》んでるだア」
 百姓女が駈け出しながら、二度目にこう叫んだ時に、向うの垣根の端にひょっこり百姓男が現われた。
「お徳《とく》でねえか。ど、どうしただア」
「八《はち》さア」百姓女はホッとしたように息をついて、「お、小浜の旦那が死んでるだアよ」
「ハテね」
 八と呼ばれた百姓男はキョトンとして、
「小浜の旦那はもう大分前にオッ死んだでねえか」
「違うだよ」お徳はもどかしそうに手を振って、
「死んだ旦那の跡取《あととり》の人だアよ」
「ふむ、甥っ子だが、あんでもそんな人が跡さ継《つ》いだと聞いたっけが、跡取ってから一度もこの別荘さ来た事がねえだ。どんな人だか、誰知るものもねえだが」
「その人がね、昨日の朝見えたゞよ」
「不意にかよ」
「ウンニャ、前触れがあってね、掃除さしといて呉《く》れちゅうから俺《おら》、ちゃんとしといたゞ」
「一人で来たのかよ」
「ウン、顔の蒼白《あえ》え若え人でな。年の頃はやっと三十位だんべい。ちょっくら様子のいゝ人だアよ」
「それでお前、オッ惚《ぽ》れたちゅうのかい」
「この人《ふと》は。馬鹿|吐《こ》くでねえ。俺《おら》の年でハア、惚れるのなんのちゅう事があるもンけえ」
「ハヽヽ、怒るでねえ。それからどうしたゞね」
「昼間は家ン中や庭さ歩き廻って、何するでなしにソワ/\してたっけが、夕方になって、俺《おら》頼まれた通り夕飯さ拵《こしら》えて持って行くと、どこにもいねえだ」
「いねえ――どうしたゞね」
「分らねえだよ。兎《と》に角、どの位《くれ》え探してもいねえだ。どこかへ行っちまったゞよ」
「だけども、可笑《おか》しいでねえか。飯さ頼んで置いてよ」
「俺も可笑しいと思ったゞが、いねえものはいねえさ。断りなしに帰《けえ》るとは変な人だと、ちっとばかり腹さ立ったゞよ。だけどよ、不用心だと思って、締りさちゃんとして引上げたゞ。所が八さア。今《い》ンまの先、別荘の前さ通ると、裏口が開いてるでねえかよ。俺《おら》不審に思って庭さ這入《へえ》って見ると、雨戸が一枚こじ開けてあるだ。俺《おら》、大きな声で呼ばったゞ。何の返辞もねえだ。恐々《こわ/″\》中さ這入《へえ》って見ると旦那さアが書斎の籐椅子に腰さ掛けて眠っているでねえか。あれまア、こんな所で転寝《うたゝね》さして、風邪引くでねえかと傍《そば》さ寄ると、俺《おら》もう少しで腰さ抜かす所だったゞ。旦那さアは眠ったようにオッ死《ち》んでるだア」
「そいつは事だゝ。すぐにお医者さア呼ばらなくちゃならねえだ。俺《おら》、町まで一走《ひとはし》りして来《く》べい」
「八さア、頼むからそうして下せえ。俺《おら》、この辺で待ってるだ。俺《おら》、一人であの家へ行くのは、おっかなくて、とても出来ねえだよ」
 お徳は今更のように身顫いしながらいった。

          僕は生きてる

「之アどうする事も出来ない。すっかり縡切《ことき》れている」
 八太郎の急報で飛んで来た町の寺本医師は死体を一眼見ていった。
 それから眼を引っくり返して見たり、聴診器を当てたり、綿密に調べてから、
「狭心症だ。若いのに可哀想に――大分|以前《まえ》から心臓が悪かったらしいな」
「昨日初めて合いましたゞが」お徳はいった。
「蒼い顔さしていましたゞ。だが、こんな事になるなんて、夢にも考えましねえだったゞ」
「兎に角、遺族[#「遺族」は底本では「遣族」]の人に知らせなくちゃならんが、宿所はどこかな」
「二三日前に手紙さ貰いましたゞから、それに書かっているべい」
 一旦家に帰ったお徳は手紙を持ってやって来た、寺本医師はそれを取上げて、
「東京市淀橋区柏木緑荘アパート小浜信造。ハヽア、アパートなんかにおる所を見ると、未《ま》だ独り者らしいな。仮令《たとえ》自分の持家にもせよ、締りを破って這入《はい》って、たった一人で死んでるという事になると、一応駐在所に知らせた方がいゝな」
 寺本医師の指図でお徳は駐在所へ走って、長井巡査を呼んで来た。
「ふゝん」お徳から仔細を聞いて長井巡査はひどく感嘆しながら、「二三日|以前《まえ》に、昨日来るという手紙を寄越して、お前さんがちゃんと掃除して待ってると、約束通りやって来たんだね。そして昼のうちはブラ/\していて、夕方お前さんが頼まれた通り飯を運んで行くと、どこへ行ったのかおらなかったんだね。そして、いつ帰ったか戸締りを破って這入って、籐椅子に凭《もた》れたまゝ狭心症で死んでいた――ふうん」ともう一度感嘆して、「よし直ぐ行く」
 追取刀《おっとりがたな》で駆けつけた長井巡査は寺本医師を見ると、丁寧に礼をして、
「先生、病死に違いありませんかね」
「狭心症に間違いありませんよ」
「いつ頃ですかなア、死んだのは」
「さようさ。今の様子が死後十時間|乃至《ないし》十四、五時間という所ですから、死んだのは昨夕《ゆうべ》の八時から十二時の間でしょうか」
「八時から十二時」と巡査は手帳につけながら、「その間にこゝへ帰って来た訳ですなア」
「帰ってすぐ死んだとするとその通りですな」
「なるほど」と、手帳を訂正しながら、「帰って来たのはその以前《まえ》かも知れませんなア。然し、帰って来たのが十二時以後という事はあり得ない訳ですか」
「まアそういう事です」
「他殺でもなく、又変死でもなく、只《たゞ》の病死だとすると、問題はない訳ですが、念の為に署の方へ報告して置きましょう」
 長井巡査は手帳を閉じてポケットに入れると、さっさと歩いて行った。
 寺本医師も帰り支度をしながら、お徳に、
「この人は伯父さんから別荘を譲られてから、昨日初めてこゝへ来たんだね」
「そうでごぜえますだ。先《せん》の旦那がなくなられますと、すぐ手紙が参《めえ》りまして、儂《わし》はなくなった人の甥っ子だが、別荘さ譲り受ける事になったゞから、前々《めえ/\》通り管理していてくんろっていって来ましたゞ。それからハア、もう二年にもなりますだが、来たのは昨日さ初めてゞごぜえますだ」
「初めて別荘に来て、すぐ死ぬとは気の毒な人だねえ」
「全くでごぜえますだ」
 お徳がそういって相槌を打った時に、お徳の亭主の竹谷義作《たけやぎさく》が紙片《かみきれ》のようなものを手にして、頭をふり/\やって来た。何とも訳が分らぬという顔つきだった。彼はお徳を見ると叫んだ。
「オイ、お徳よ。俺《おら》ア、丸で狐に撮《つま》まれたようだよ」
 そういって手にした紙片を出したが、それは電報だった。
「どうしたゞかよ」
 お徳は何か恐いものでも取るように、オズ/\と電報を受取ったが、すぐ大きな声を出した。
「ひゃア、こ、これは、あんちゅう事だ」
 寺本医師が電報を覗き込むと、
[#天から2字下げ]ナニノマチガイカ オバマシンゾウハイキテイル ヨクシラベコウ
「うむ」寺本医師は唸《うな》った。「じゃ、この死んでいる男は小浜信造じゃないのだな。之《これ》アいよいよ警察の仕事になって来たわい」

          鳶《とび》色の洋服

 所轄警察署から小浜信造宛に、
  スグオイデコウ
 という電報が打たれた。
 午後二時過ぎ小浜信造はやって来た。色の蒼白い三十そこ/\の華奢《きゃしゃ》な青年だった。
 一旦警察署に出頭した信造は、司法主任以下に連れられて、現場の別荘に着いたが、お徳は信造を見ると、卒倒するほど驚きながら叫んだ。
「あれまア、旦那さま」
「あゝ、お徳さん」信造は馴々《なれ/\》しくいった。
「昨日はどうも失敬したよ。夕方に急に思い出した事があったので、黙って東京へ帰って終《しま》って――」
 司法主任の榎戸《えのきど》警部は信造に向って、意外という風に、
「じゃ、あなたは昨日こゝへいらしたのですね」
「えゝ」今度は信造の方で不審そうに、「お徳さんからお聞きにならなかったのですか」
「聞きました。然し、その人間が死んだ人間と同じ人間だと思っていましたので――」
「御冗談です。僕は死にやしません。こうやって生きてますよ」
「ふむ」流石《さすが》の警部も狐に撮《つま》まれたような顔をしながら、「兎に角、屍体を見て下さい」
 信造は屍体を一眼見ると叫んだ。
「あゝ、卓一だ」
「え、ご存じの方ですか」司法主任は反問した。
「えゝ、知ってますとも、従兄弟《いとこ》です。もしかしたらそうじゃないかと思っていたんですが。あゝ、卓一君、可哀想に――こ、こんな有様で死ぬとは――」
「ふむ、従兄弟ですか」榎戸警部は信造と死者とを見比べながら、「実によく似ている。従兄弟とはいいながら実によく似てますなア。然しこの人はどういう訳でこんな所へ来たのでしょうか」
「それについて心当りがあります。実は僕は卓一君と昨日こゝで会う約束があったのです。尤もそれは僕の方からいい出したのではなく、卓一君の方で至急に秘密で会いたいといって来たので、秘密の用ならこゝがいゝだろうといってやりました。卓一君からは折返して、では金曜日の午後――つまり昨日の午後ですね、別荘の方に行くからという手紙が来ました」と、信造はポケットを探ぐって、クチャ/\になった手紙を取り出して、「之です。この通り、金曜日の午後行くと書いてありましょう。それで僕は管理人の竹谷さんの所に手紙を書いて、別荘を掃除して置いて貰って、昨日朝からやって来たんですが、卓一君は午後になっても姿を見せず、僕は元来気短かで待たされるのは何よりも苦痛なんですが、一生懸命に辛抱して夕方までいました。然し、夕方にはもう耐《たま》らなくなって、大体向うから会いたいといって置きながら、約束を守らないとは人を馬鹿にするにも程があると、腹が立って、むしゃくしゃして、とうとうお徳さんにも断らず、ここを飛び出して、東京へ帰って終ったのです」
「なるほど、その後で卓一君は来た訳ですか」警部はうなずきながら、「その秘密の用件というのはどういう事でしょうか。お差支えなくば――」
「多分金の事だろうと思います。卓一君はちょい/\金の相談を持ちかけましたので――大方何かいゝ事業があるから投資しろとか何とかいう事でしょう」
「なるほど、ではあなたは之までに卓一君の勧めで、時々投資なすったという訳ですか」
「いゝえ」信造は飛んでもないという風に首を振って、「卓一君の事業と来ちゃ、お話にならない事ばかりでしてね、帽子の中に畳み込みの傘を入れて置いて、イザ雨という時にボタンを一つ押すと、パッと拡がるという発明だとか、靴の下に車をつけて、背中に蓄電池を背負っていて、小さいモーターで廻す発明だとか、そうかと思うと、海の水から金《きん》を採るとか、日本中の猫を買い占めるとか――」
「なんの為に猫を買い占めるんですか」
「そうすると三味線が出来なくなって洋楽が盛んになるというんです。卓一君は洋楽が好きなもンですから」
「ハヽア――どうも変っていますな」
「えゝ、変っていますとも。そうかと思うと、アメリカから女サーカスを招聘《しょうへい》して一儲けするんだから資金を貸せだの、困ってる劇団があるから、金を出してやれだの――この頃はひどく連珠《れんじゅ》に凝りましてね」
「連珠? あゝ五目並べの事ですか」
「五目並べなんていおうものなら、卓一君は眼に角を立てゝ怒りますよ。五目並べなんていったのは昔の話で、今では高木名人考案の縦横十五線の新連珠盤が出来て、段位も段差のハンディキャップも確立するし、国技として外国に紹介するには最もいゝ競技で、国際親善の為に大いに発展させるべきものだといいましてね、その連盟とかに金を出せというんです。昨日の用というのもそれじゃないかと思っていました」
「どうして約束通り来なかったのでしょう」
「卓一君はね、何か途中でひょいと思いつくと約束も何にもない、すぐそっちの方に行って終《しま》いますのでね。そうかと思うと、急に思い立つと夜中でも何でも、どん/\押しかけて来ます。そんな男なんです」
「なるほど、中々変ってますな。一種の天才ですな。尤も天才は狂人と隣り合せだといいますが――それで何ですか。心臓は弱かったのですか」
「この頃は押の強い事を心臓が強いといいますね」信造はニヤリと笑って、「その意味では卓一君は心臓の強さは一流ですが、本当の心臓はとても弱かったんです。僕アいつ心臓が停って死ぬか知れんといつもいってました」
「そうでしたか」警部は一寸考えて、「では何ですな。卓一君は何か他の事を考えて、あなたとの約束を忘れていた所、夜になって急に思い出して、こゝへやって来たという訳ですか」
「えゝ、あいつの事だから、もう矢も楯も耐らなくなって、こゝへ来ると、戸締りがしてあるのも構わず叩き破って這入ったんでしょう。その途端に狭心症を起したんですな。可哀想に」
 そういって、信造は悲痛な表情をして卓一の屍体を眺めた。
「だが、よく似てますなア」警部は感嘆したようにいった。
「えゝ」信造はうなずいて、「よく間違われました。母同志が姉妹でして。ですから卓一君は小浜でなくて、北田というんです。僕とは従兄弟の関係がありますが、死んだ小浜の伯父とは全然血の繋りがなく、従って伯父の財産はそっくり僕が継いだんです。所が僕は全くの独りぼっちで、全然係累がありませんから、今の所、僕の相続人は卓一君で、僕が死ねば僕の財産はそっくり卓一君のものになるんですが、先に死んで終《しま》って――」
「俺《おら》ハア」とお徳が口を出した。「こゝにオッ死《ち》んでる人が、昨日昼来た人だとばかり思っていたゞよ」
「並べて比べて見ると、違った所があるんだがね」信造はお徳にいった。「初めての人ではそう思うのも無理はないよ。だが、お徳さん、洋服が違ってやしないか。どうだね、僕の洋服に覚えがないかね」
 お徳はじっと信造の洋服を見つめていたが、
「そうだ、思い出したゞよ。確かに旦那さまに違えねえだ。昨日の昼ござらしたのはお前《めえ》さまだよ。確かに今着てござらっしゃる鳶色の洋服だよ。そういえば、そこに死んでござらっしゃる人の洋服は青いだゝ。俺《おら》ハア、あんで洋服にさ気イつかなかったべい」
「そりゃ、君誰だって、こんな所に人の死んでるのを見たら、そこまでは気がつかんさ。無理もないよ」
「全く俺《おら》ア、小浜の旦那がオッ死《ち》んでるだと思ったゞよ」
「いや、どうも」警部は軽く頭を下げて、「もう警察の問題ではありません。ではどうぞ。後片づけをお願いいたします」
 やがて警察の一行は引上げて行った。

          二人の足取

 警察署へ帰ると、榎戸警部は一行のうちに交っていた望月刑事を呼んだ。
「今日の事件は大体に於て怪しむべき点はないようだ。あの小浜信造という青年の説明した所によると、死んでいた北田卓一という青年は突飛な性格の持主らしく、夜中に友達の家に押しかけて、戸締りを破って這入るなどという事を平気でやる男らしい。死因も全く病気という事だし、之以上突つく必要もないと思うが、尚《なお》君、念の為、昨日と今日の信造と卓一の足取りを洗って見て呉《く》れ給え。当の信造にはもう何事もないようにいって安心を与えて置いたから、仕事はやりいゝだろうと思う」
 望月刑事は命を受けて、先ず第一に茅ヶ崎の駅に出かけた。夏ならば兎に角、十二月という月では乗降客も少いので、駅員が覚えてはいないかと思ったのだった。
 果して駅員は覚えていた。
 昨日の朝十時三十三分着の下り列車で、鳶色の服を着た信造らしい青年が下車した。それから同日の午後六時三分発上り列車の発車間際に、やはり鳶色の服を着た信造らしい青年が駆けつけて来て、アタフタと乗り込んだ。何だかひどく不機嫌で、切符売場で一寸駅員といいやったりしたという事である。それから今日の午後二時九分で、同じ服装をした青年が下車した。と、之だけの事で、昨日以来の小浜信造の足取ははっきりした。
 所が、青色の服を着た北田卓一の事はさっぱり分らなかった。午後六時までは確実に彼は別荘に来なかったから、六時以後、終列車までに来なければならない筈である。午後六時六分着から午前零時三十四分着まで、合計九本の列車があるが、どの列車からも卓一らしい青年は下車しなかった。もしかしたら、乗越すとか、又は熱海にでも行っていて引返して来るという事もあるから、上り列車についても調べて見たが、やはり全然手係りはなかった。鳶色服の信造の事については駅員がよく覚えていて、同じような青色服の青年を看過《みすご》すとは考えられない。そうすると、卓一は汽車で来たのではないという事になる。汽車でなければ自動車である。
 望月刑事は更に藤沢平塚間の乗合自動車《バス》について調べて見た。冬期で回数も少く、定員が少い上に乗客は定員以下であるから、車掌は殆ど乗客を暗記している。所が、卓一らしい青年は乗っていなかった。
 卓一が茅ヶ崎の別荘にやって来た唯一の乗物は乗用自動車《ハイヤー》である。
 望月刑事は首を捻《ひね》りながら、その日の夕刻東京に着いた。先ず第一に訪ねたのは小浜信造のいるアパート緑荘である。緑荘は鉄筋コンクリートの宏壮なアパートだった。信造は茅ヶ崎にいて留守なのは分り切っているが、彼は信造の友人と称して、アパートの管理人に訊いた。
「小浜さん、いますか」
 管理人は首を振って、
「留守ですよ。茅ヶ崎の別荘へ行きました」
「え」望月刑事は態《わざ》と驚いて、「小浜さん、別荘を持ってるのかなア」
「小浜さんはどうして中々金持なんですよ。二年|以前《まえ》に伯父さんの遺産を貰ってね、何でも何十万という事ですよ」
「何十万! そいつア初耳だ。そんな金持の癖にアパートに独り住居してるんですか」
「変ってますからね。厭人病《えんじんびょう》っていうんだそうで。交際が嫌いでね。こゝにいても殆んど訪ねて来る人はありませんよ。あなたはどなたですか」
「望月といいます。つい近頃お知合になったのでして。茅ヶ崎へは何の用で行かれたんですか」
「それがね、可笑《おか》しいんですよ。今朝、茅ヶ崎の別荘の管理人から、小浜信造死んだ、遺族に通知頼むってね、私宛に電報が来たんです」
「へえ、どういう事ですか。それは」
「丁度、小浜さんがいましたから、その電報を見せると、カン/\に怒ってね、誰かの悪戯だといって、すぐ返電を打ちましたが、折返し警察から、すぐ来て貰いたいという電報が来ましたので、ブツ/\いいながら行かれました」
「どうしたという訳でしょうね」
「何かの間違いに極ってまさア。当人はピン/\しているんだから」
「可笑しいですなア」
「全く変なんですよ。昨日は一日茅ヶ崎の別荘で待ち呆《ぽ》けを食わされたといいますから」
「昨日も茅ヶ崎へ行かれたんですか」
「えゝ、誰かゞね、茅ヶ崎の別荘で会いたいというので朝から出掛けたんですよ。所が夕方まで待ってもやって来ないというので、小浜さんはプン/\しながら帰って来ました」
「何時頃お帰りでしたか」
「さア、九時半か、十時頃でしたろう」
 信造は昨日午後六時三分茅ヶ崎発の汽車で東京に向ってるから、真直ぐに帰れば八時過ぎにはアパートに着く筈である。途中で食事か何かの為に寄り道をしていたのだろう。望月刑事はそう思いながら、
「その会われるという方はどなたでしょうか」
「知りませんね」管理人はジロリと刑事を見て、「大方従兄弟だという人だろうと思いますが、私には分りませんよ」
「昨夕の十時頃帰って来て、それからずっと今朝までおられたのですね」
「えゝ、ずっとおられましたよ」
 管理人はそういって、もう一度ジロリと刑事の顔を見た。刑事は今後の捜査上、身分を知られない方がいゝので、いゝ加減に切上げた。
「どうもお邪魔しました。なに、別に用はないんです。又来ます」

          卓一という男

 北田卓一の住居は蒲田区内のジメ/\した低地にあった。卓一も独り者なので、永辻栄吉という家に同居していた。近所で訊いて見ると永辻というのは円タクの運転手らしい。
 望月刑事が当家《こゝ》へ訪ねたのは、日ももうトップリ暮れた頃だった。栄吉は稼ぎに出ていて未だ帰らず、三十そこ/\と思われる狡猾《こす》そうな顔をした女房が留守番をしていた。
 こゝでは望月刑事は身分を隠さず、肩書つきの名刺を出した。おかみは亭主の栄吉が毎々交通事故かなんかで、警察の呼出しを食ってると見えて、刑事と知っても格別そう驚かなかったが、茅ヶ崎署から来たのだと気がつくと突然眼の色を変えて叫んだ。
「卓一さんが死んだって、ど、どうしたんでしょうか。先程《さっき》信造さんから知らせがあったんですけれども、宅《うち》が出ているもンでどうしようもないんですよ」
「狭心症でね」刑事は静かにいった。「信造さんの別荘で死んでいたんですが、何ですか、卓一さんは不断から心臓が弱かったですか」
「それがね、丸で嘘見たいなんですよ。顔色は蒼白くって、病人臭い所はありましたが、とても元気な人で、押《おし》が強くて、つまり心臓が強いんでしょう。所が本当の心臓はいつ停って終《しま》うか分らないんですって。まさかと思っていましたが、本当に停って終ったんですわねえ」
「昨日はずっと宅に居られたんですか」
「いゝえ、卓一さんがじっと宅になんかいるものですか。どこへ行くんだか毎日朝から飛歩いていますよ。よくまア、あゝ用があると思いますよ。自分の事はこれっぱかしもしないで、人の事ばかり世話を焼いて、いつも懐中《ふところ》はピイ/\の癖に大きな事ばかりいって、信造さんの懐中ばかり当にしてるんですよ。信造が死にや、奴の財産は俺のものだから、いくらでも出してやるんだがなア、なんて、そんな事ばかりいってるんですよ」
「じゃ、昨日茅ヶ崎へ行った事はおうちじゃ知らなかったんですね」
「所がね、あなた、卓一さんは昨夕七時頃にひょっこり帰って来ましてね、腹が減った、飯だ、飯にして呉《く》れという騒ぎなんでしょう。私は泡食って仕度したんですよ。すると、御飯の途中で、突然しまった、と大きな声を出すんです。私は吃驚《びっくり》してどうしたんですって訊くと、信造と茅ヶ崎の別荘で会う約束がしてあったんだ、すっかり忘れて終った、というんです。約束しといちゃ忘れるのは毎度の事ですから、そう騒がなくてもいゝでしょうというと、いや、他の事と違って、相手は信造だ、それに今度はどうしても奴に金を出させなければならないのだから、奴を怒らしては困るんだ。すぐ之から行くっていうんです。まさか今頃まで待っちゃいないでしょうといったんですが、いや、信造はあゝいう奴だから、今夜中は待ってるに違いない。よし帰って終ったとしても、兎に角僕は約束を破らないで別荘まで行ったという事を見せて置かないと、後が困る、どうあっても行くって頑張るんです。それまではまアいゝんですが、今度は宅の自動車に乗せて行けといって諾《き》かないんです。汽車で行きなさいといったら、汽車なんかのろ臭くって駄目だってね。なアに、よく聞いて見りゃ、汽車賃がないんですよ。宅も卓一さんにはちょく/\借りられて弱っていますので、汽車賃を用達《ようだ》てるのは嫌だしといって商売物の車に乗せるのも嫌だったんですが、卓一さんと来ると口が旨いですからね。今度は必ず成功する、信造から纏《まとま》った金が取出せるから、その時にはウンとお礼をする。この機会を逃して後で後悔したって僕ア知らんよ、なんて拝んだり威《おど》したりして、とうとう宅を渋々承知させたんです」
(そうか、やっぱり卓一は自動車で来たんだな、之で足取がはっきりした)と望月刑事は思いながら、
「自動車で出かけたのは何時頃でしたか」
「そうですね、九時頃でしたろうか。何でも向うへ着いたのが、十一時過ぎとかいってましたっけ」
「こちらの御主人はすぐ引返したんですね」
「えゝ、所がね、向うへ行って、卓一さんが又駄々を捏《こ》ねましてね」おかみはしようがないという風に顔をしかめながら、「茅ヶ崎の駅近くに来ると、卓一さんはこゝでいゝ、後は歩くというんですって。どうせ来た序《つい》でだし、もう少しの事だから、家まで送ろうというと、いや、ひょっと信造が待ってると、自動車の音が分るし、自動車に乗って来たなんて事が分ると、奴の機嫌を損じるから、汽車で来た心算《つもり》でこゝから歩くって、諾《き》かないんですって。そこで宅は別荘の大分手前で車を停めて、卓一さんを下して、そのまゝ引返して来たんです。卓一さんはその時は別に胸が苦しいような様子だったとは聞かなかったのですが」
 之ですべては明瞭になった。もう之以上は訊くべき事もないと思ったので、刑事は腰を上げた。
「どうも、お邪魔しました」
「宅が帰り次第、お手伝いに参りますからって、信造さんに宜しく仰有《おっしゃ》って下さい」
 喋《しゃべ》り疲れたか、おかみはホッとしたようにいった。

          夜店の連珠

「なるほど、それじゃ問題にならんね」
 望月刑事の報告を聞いた榎戸警部は煙草の灰を叩き落しながらいった。
「えゝ、どうも犯罪はないらしいですよ。卓一の死因が病死だとするとね」
「念の為再検視をしたが、全く狭心症の為と判明した。だから、殺人事件では絶対にない。それに之が逆に信造が死んだのだとすると、卓一が財産を相続する事になって、多少の疑惑を生ずるが、卓一が死んだのじァね。何だろう、卓一の遺産なんてものはないんだろう」
「遺産どころか借金が残っていますよ。遺恨か何かなら知らず、金の為に卓一を殺す者はないでしょう」
「第一病死じゃ問題にならん。然し、卓一は何だって、人のいない別荘へ戸締を破って這入ったんだろうね」
「そこが一寸不審に思われるんですが、何しろ卓一という男は、他人《ひと》のものと自分のものを区別しないというような男で、何事も行き当りばったり、気分の動くまゝにやるという人間ですから、他人といっても信造の別荘ですし、締り位破って這入るのは平気だろうと思います。それに考えて見れば、奴ア帰りの汽車賃がないんだから、信造のいるいないに係らず、あそこへ泊るよりなかったでしょう。翌日は信造なり、永辻なりへ電報を打って、金を送らせる心算《つもり》だったのでしょう」
「自動車で長距離を揺られて、それから若干歩いた上に、戸締りを破ったり、過激な運動をしたものだから、持病の心臓で参ったという訳か」
「そうでしょうね。兎に角、信造のいう事と、アパートの管理人や、永辻のおかみのいう事がピッタリ会いますから」
「えゝと、信造は金曜日の朝、茅ヶ崎へ行くといってアパートを出たんだね。その目的ははっきりしないが、別荘で従兄弟の卓一に会う為らしいと管理人はいうんだね。それから、その夜九時から十時の間に信造は待呆けを食わされたといって、プン/\怒りながらアパートに帰って来た。一方、卓一は当日朝から出かけて、夕方帰って来て、急に信造との約束を思い出して、永辻にむりやりに自動車に乗せて貰って、茅ヶ崎に向った。信造らしい青年が三度茅ヶ崎駅から乗降したのは確実で、一方卓一らしき青年は一回も乗降しておらん。怪しい点は一つもないな」
「只一つ分らない点は、信造が八時頃東京に着いて、アパートに帰るまで何をしていたかという点ですが」
「そいつア別に大した問題でもあるまい。信造に聞けばいうだろうし――別に聞くにも及ぶまいて」

 とこういう訳で、この事件はそのまゝになって終った。
 それから四ヶ月ほど経って、急にポカ/\と暖くなった春の宵、望月刑事は別の事件で上京して、渋谷の道玄坂の通りを歩いていた。
 ふと見ると、例の大きな盤を置いた連珠屋を取巻いて多勢の見物が群がっている。望月刑事は何気なくそこを通り過ぎようとして、見物の中に一人の男を発見して、急に立止った。ゾロリとした着流しで、帯の間に両手を挟んでニヤリ/\しながら盤に見入っているのは、疑いもなく小浜信造だった。刑事は一寸声を掛けようかと思ったが、相手が迷惑するといけないと思って止めて、その代りに信造と盤とを見比べながら様子を眺めていた。
 大きな碁盤には例の通り、黒と白の木で作った碁石《いし》代りのものが、二三十並んでいる。黒はどこへ打っても、すぐ四三か四々が出来て勝てそうだ。所が白に旨い手があって、先に五が出来て止るようになっている。二手《ふたて》目に黒の勝にならなければ、三十銭なり五十銭なり出して、薄ぺらな五六銭にも値いしないようなパンフレットを買わなければならないのだ。
 連珠屋はうるさいほど喋りながら、しきりに客に勧誘する。見る/\二三人の人が手を出して、必勝だと確信していたのがみんな外れて意外な顔をしながら、金を払った。
 刑事は世の中は広いものだ、よくこんな軽率な人の種の尽きないものだと思いながら、もう興味がなくなったので、そこを離れようとすると、信造が声を出した。
「一つやって見ようか」
「へえ、どうぞ」
 連珠屋は鴨が来たとばかり、手にした木製の黒石を信造に渡した。
 パチリ。
 信造の打った所は急所らしかった。
 連珠屋はうむと唸って、じっと盤面を見つめたが、パチリと白を下した。
 パチリ、二つ目の黒石で、見事に四々が出来た。
「旦那、大した腕ですなア」
 連珠屋は渋面《じゅうめん》を作りながら、信造を賞讚した。
 信造は得意そうにニヤリと笑って、そのまゝ列を離れて、さっさと行こうとした。
 と、この時に、咄嗟に望月刑事の頭に閃めいたものがあった。
 刑事は自分の考えにぎょっとしながら、早足に信造を追って、背後《うしろ》から、
「北田さん、卓一さん」と呼んだ。
 信造はぎょっとして振り返ったが、ジロリと刑事の顔を見ると、そのまゝ行こうとした。
「もし/\、北田さん」と刑事は追|縋《すが》った。
「人違いだ」
 信造はそういって、ドン/\行こうとする。
「待って下さい。待てといったら待たないか」
 刑事のきっとした声に、思わず立止った信造の耳に、望月刑事は低声《こゞえ》でいった。
「信造だなんて胡魔化しても駄目だぞ。お前は北田卓一だ。一緒に来い。指紋を取って調べるから」
 と、信造は見る/\額に膏汗《あぶらあせ》を流して、フラ/\と刑事の肩に凭《もた》れかゝった。

          三つの理由

「死んだのはやっぱり信造だったんですよ」
 望月刑事は司法主任の榎戸警部に稍々《やゝ》得意そうに話していた。
 警部は感嘆したように、
「一杯食わされていたのか。然し、君はよく発見したね」
「偶然、全く偶然でした。渋谷の道玄坂で、ふと信造を見かけたのですが、奴がむつかしい連珠の問題を訳なく解いたので、ハッと気がついたのです。何しろ、信造という男は人嫌いの変り者で勝負事なんか一切やらない筈なんです。それに反して、卓一は何にでも手を出す男で、事件の起った時も連珠に凝っていたといいます。――信造が連珠! 可笑しいなと思った途端に、ふと思い出したのは先達《せんだって》の信造の態度でした。交際嫌いの変り者だというのに、実によくペラ/\とよく喋りました。その時はつい気がつかないで見過していたのですが、急にその事が頭に閃めいて――」
「然し、それだけでは十分じゃない――」
「えゝ、ですから試みに卓一と呼んで見ると、ぎょっとしたようでしたから、隙《す》かさず指紋を取るぞと威かすと、奴は背後《うしろ》めたい事があるので、忽《たちま》ち顔色を変えて、フラ/\と倒れかゝりました。後は何の苦もなくスラ/\と白状しましたので」
「大した手柄だ」
「お賞めに与《あずか》って恐縮です。奴の白状した所によると、つまりこうなんです。信造と茅ヶ崎の別荘で会おうと約束したのもその通りで、信造が別荘に行って待呆けを食って、むしゃくしゃして、夕方に別荘を飛び出したのも、やはりその通りなんです。六時三分の上り列車に乗ったのは、正真|紛《まが》いなしの信造だったんです。それから先が違うので――立腹した信造はその足で直ぐ蒲田の永辻の家へ行って、居合した卓一を詰《なじ》ったのです。所が二言三言いっているうちに、信造の顔色が変って、そのまゝそこへ斃《たお》れて終ったんです。信造は以前から心臓が弱くて、いつ狭心症を起すか知れない状態だったんです。無闇に腹を立てゝ、汽車から降りると、空腹《すきはら》のまゝ永辻の家へ駆けつけたりしたのが悪かったんでしょうね。
 思いがけなく信造が死んだので、卓一も永辻夫婦も驚きましたが、こゝで三人は相談をして、卓一が死んだ事にして、卓一が信造になろうと決めました。卓一と信造とは元々よく似ていましたから、別荘の方を胡魔化すのは何でもありません。むつかしいのはアパートの方ですが、之も管理人に一寸顔を合すだけですから、どうにかやれると考えたのです。之が無口で交際嫌いの信造の方が、お喋べりの交際の広い卓一に代るのですと、到底出来ませんが、逆に交際の殆どない信造の方に化けるのですから、比較的優しい訳です。
 之から先はもう何でもない事で、卓一の洋服を着せた信造の屍体を積んで、永辻は茅ヶ崎の別荘へ行き、卓一は洋服を取替えて、信造に成り澄して、アパートへ帰りました。永辻は別荘が戸締りがしてあったので、仕方がなく戸締りを破りましたが、卓一の不断のやり方から反って卓一らしいと見られた訳です」
「なるほど、よく分ったが」警部は一寸眉をひそめながら、「一体何の為に卓一は信造になる必要があったのかね。そんなことをしなくっても、信造の財産はそっくり卓一のものになる訳じゃないかね」
「そこですよ。主任。えーと、相続税というものはどれ位かゝるんですか」
「信造の財産はどれ位あったかね」
「五六十万でしょう」
「直系の親族でないものゝ遺産相続だから、二割位かね。なるほど、それが惜しかったのか」
「未だ理由があります。卓一は俺が信造の財産を相続すれば、いくらでも金を出してやると方々に約束していましたので――」
「なるほど」警部は笑って、「他人《ひと》の金だった時分には、いくらでも気前よく約束出来たが、自分のものになって見ると、惜しいか。ハヽヽヽ、人情の然らしむる所だね」
「卓一はそう易々《やす/\》と信造の遺産が手に這入《はい》ると思っていなかったので――信造が結婚すればそれっきりですからね。ですから、手軽に方々約束したんですが、思いがけなく遺産が[#「遺産が」は底本では「遣産が」]手に這入って、そういう連中に押かけられては事ですから、永辻を買収して、信造になって終ったという訳で、永辻は卓一の遠縁に当って、欲もあるが義理もあって、引受けたんです。それからもう一つ、卓一がいうんですが、今までの自分というものに愛想が尽きたので、之を機会に信造に化《な》って、無口で真面目な人間に更生しようと考えた、とこういうんです」
「兎に角、一寸犯罪史に類のない犯罪だね、結局の所殺人ではなし」と、警部は考えながら、「相続税の脱税と、身分詐称かね、それから屍体遺棄――屍体遺棄といえるかなア、別荘の中へ置いたんだから」
「許可がなくて、屍体を運搬した罪がありませんか」
「そんな所だなア。それから家宅侵入――どうかな、之も成立するかどうか分らん」
「でも、犯罪は犯罪でしょう」
「無論犯罪だ」警部は大きな声でいった。「最も近代性があって、それから」と考えながら、「些《いさゝ》かユーモアのある犯罪だね」
                   (〈現代〉昭和十四年一月号発表)

底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1984(昭和59)年12月21日初版
   1996(平成8)年8月2日8版
初出:「現代」
   1939(昭和14)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:小林繁雄
2005年10月6日作成
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甲賀三郎

真珠塔の秘密—— 甲賀三郎

        

 長い陰気な梅雨が漸《ようや》く明けた頃、そこにはもう酷《きび》しい暑さが待ち設けて居て、流石《さすが》都大路も暫《しばら》くは人通りの杜絶える真昼の静けさから、豆腐屋のラッパを合図に次第《しだい》に都の騒がしさに帰る夕暮時、夕立の様な喧《やかま》しい蝉の声を浴びながら上野《うえの》の森を越えて、私は久し振りに桜木町《さくらぎちょう》の住居に友人の橋本敏《はしもとびん》を訪ねた。親しい間とて案内も乞わずにすぐ彼の書斎兼応接室の扉《ドアー》を叩いて中へ入ると、机に向って何か考えて居たらしい彼は入口へ首を捻《ね》じ向けながら、
「やあ、君か。久し振りだね。まあ掛け給え」
「昼間は暑くてとても出られないからね。上野の森は然《しか》し悪くはないね」
「上野と云《い》えば君、今度の展覧会の真珠塔だがね」友は扇風器を私の方へ向けながら、「何か変った事を聞かないかい」
「イヤ。いろいろ評判は聞くが変った事は聞かないね。何か事件でも起ったのかね」
 友は黙って数葉の名刺を私に渡した。一枚は警視庁の高田《たかだ》警部の名刺で、「東洋真珠商会主|下村豊造《しもむらとよぞう》氏貴下に御依頼の件あり参上仕るべく何分|宜《よろ》しく願上候《ねがいあげそうろう》」と書いてあり、一枚は東洋真珠商会主下村豊造氏の名刺で、一枚は同製作部主任|佐瀬龍之助《させりゅうのすけ》と書かれて居た。
「この二人が少し前に会いに来たそうだ」友は私の見終るのを俟《ま》って云った。「恰度《ちょうど》僕が留守だったので後程伺うと云い置いて帰ったそうだよ」
 先年東京に××博覧会が開かれた時、其《そ》の一館に有名なるM真珠店が数十万円と銘打って、一基の真珠塔を出陳して世人を驚かした事は、尚諸君の記憶に新《あらた》なる所であろう。所が本月より×××省主催の美術工芸品展覧会が、上野竹の台に開催せらるると、近来M真珠店に対抗して漸く頭角を現わして来た東洋真珠商会は、先年のM商店の出品物を遥《はるか》に凌駕《りょうが》する壮麗な真珠塔を出陳したのである。諸君も既《すで》に御承知の事と思うが、私の見た所では塔の高さは約三尺|彼《か》の大和薬師寺《やまとやくしじ》の東塔を模したと云われ、三重であるが所謂《いわゆる》裳階を有するので、一寸《ちょっと》見ると六階に見える。各階|尽《ことごと》く見事な真珠よりなり、殊《こと》に正面の階《きざはし》を登って塔内に入らんとする所に嵌《は》められているものは、大きさと云い形といい光沢《つや》と云い世界にも又あるまじき逸品で、価格三十八万円と云うのも成程と思われる。展覧会開催以来新聞は随分此記事で賑《にぎ》わされたので、ある新聞によると、東洋商会はM商店の製作部の腕利《うできき》の技師を買収して、此の真珠塔を造らしめたのだと云い、ある新聞によると、その技師は不都合の廉《かど》があって、M商店を放逐《ほうちく》せられたのであると云う事であった。私は新聞で知り得た事を、知れる限り友人に話した。折柄|呼鈴《ベル》が激しく鳴って、書生が二人の紳士を伴って入って来た。
「私が橋本です」友は立ち上って云った。「こちらは私の友人の岡田《おかだ》君です」
「申し遅れまして」と五十|恰好《かっこう》の赤顔にでっぷりと肥《ふと》った紳士は丁寧に礼をしながら、「私は下村でございます」
「私は佐瀬でございます」三十を少し越したかと思われる頭髪を綺麗に別《わ》けた、色白の背の高い紳士は云った。友は椅子をすすめながら、
「どうも暑くなりまして。……して御要件は」
「それがその、ええちと他聞を憚《はばか》る事でございまして」商会主は汗を拭きながら云った。
「その点は御心配に及びません。岡田君はいつも私と一緒に働いて呉《く》れる人で、私同様と御思い下さって差支えありません」
「さようでございますか」と商会主は漸く落ち着いて、「実は何でございます。今回私共が×××省御主催の展覧会に出品いたして居りまする真珠塔につきまして、誠に不思議な事が起りましたので、早速警視庁へ御相談に来《あが》りました所、あちらではそう云う事は却って貴君《あなた》に御願い申すがよかろうと云う事で、甚《はなは》だ御迷惑ながら御依頼に上った次第でございます。新聞ではいろいろに申しますが、別に私共はM商店に対抗して立つのどうのと云う事はございませんが、私は元来こう云う事が好きでございまして、東洋独特の工芸品として、外国人に誇れるものを造りたいと予々《かねがね》苦心をいたして居りましたわけでございます。所が幸《さいわい》に、こう云う方面には非凡の腕前のある佐瀬君が来て呉れましたので、今日どうやら人様の口に乗るような品が出来ましたのでございます」
 商会主の語る所は斯《こ》うであった。六月の二十日に展覧会が開かれて四五日も経《た》った頃、恰度世間で真珠塔の噂が頂点に達していた時分である。商会に二人の客があった。一人は外国人で、アメリカの富豪にして東洋美術品の蒐集家《しゅうしゅうか》マッカレーと云い、一人は一見外国人かと思われる堂々たる日本紳士で有名なる代議士|花野茂《はなのしげる》と云う名刺を示して商会主を驚かした。マッカレーは全然日本語に通じないようで、其の日本紳士は流暢《りゅうちょう》なる英語で通訳したそうである。要件は近々娘が結婚するので、七月十日頃の汽船で帰るが、その贈物に例の真珠塔が欲しいが値も高いし、それに会期中持ち帰る訳にも行くまいから、二週間以内に十万円位であの模造品を造って呉れまいかと云うのであった。商会主は佐瀬技師と相談の上八万円で引受けたのであった。日本紳士は、「どの位の程度迄似せる事が出来るか」と聞いたので、佐瀬は、「どうしても品が落ちますから、専門家にかかっては敵《かな》わないが、素人になら一寸見別けのつかぬ程度に出来ましょう」と答えたので、大変満足して、早速手附に二万円払い、尚期限を遅らしたり、真物《ほんもの》と充分似ない時には破約すると云う条件で帰って行った。それから佐瀬は二週間専心に此の製作に従事し漸く造り上げた。其間期限の事で一回花野氏から電話があり、こちらからも一度電話をかけたが留守であった。取引の日には早速花野氏が来て出来栄《できばえ》を見て大変喜び、早速残金を支払い自動車で帰ったのである。
 それでこの仕事は無事すんだ訳であるが、それから二三日経った今朝の事、佐瀬は展覧会場へ行って相変らず自分の製作品に、人だかりの多いのを満足しながら、肩越しに真珠塔を一目見ると、アッと思わず顔色を変えたそうである。
「全く今朝は驚きました」佐瀬は口を開いた。「思わず人を掻《か》き分けて前へ出ました」
 前へ出て能《よ》く見ると、一目見て直覚した通り、真珠塔はいつか模造品と置き換えられて居た。
「素人方には少しも御分りならないかも知れませんが、動かぬ証拠は、実は私が模造品を造ります際に数の都合上どうしても、疵《きず》のあるのを一つ使わねばならないので、庇《ひさし》の蔭に眼のつかない所へ嵌《は》めたのです」
「全く。私もその疵のある真珠の事を云われる迄はどうしても置き換えられた事は信じられませんでした」と商会主は口を添えた。
 佐瀬は早速商会主を呼んで、取り敢えず守衛の所へ行った。貴重品ばかりの所であるから、夜は特別に二人居て交代で不寝番《ねずばん》をする事になって居たのである。守衛は始めは中々云わなかったそうであるが、激しい詰問にとうとう白状した所は、二日|許《ばか》り前の晩夜中にガチャンと硝子《がらす》の破《こわ》れる音がしたのでハッと二人で詰所を飛びだすと、一人の曲者《くせもの》が将《まさ》に明りとり窓から逃げ出す所で、その窓硝子を一枚落したのであった。大急ぎで入口を開けて外へ出た時には既に逃走して居た。場内を見ると、真珠塔がいつの間にか箱から出され、棚から一間許りの所に置かれて居た。併《しか》し外には何の被害もなかったので二人相談の上、塔を箱の中に戻し、硝子は風で落ちた事にして知らぬ顔をして居たのであった。即ち守衛達は盗賊が未遂の中に逃げたものと思って居たが、それは真物は既に運び去られ、今や偽物を運び入れんとした際に発覚したのであった。そこで二人は展覧会の事務所に届出《とどけ》いで、それから警視庁の方へ行ったのであるが、何分秘密を要する事で、遂に橋本に依頼する事になったのである。
「陳列箱の鍵は平生《へいぜい》誰が持って居るのですか」友は始めて口を開いた。
「二つありまして、一つは守衛一つは私が持って居ります」佐瀬は答えた。
「塔の重量はどの位ですか」
「三貫五百目です。大理石の台がありますから」
「成程不思議な事件だ。宜しい御引受けしましょう。先ず現場と守衛から調べねばなりませんね」
 商会主が喜んで佐瀬と共に辞去すると、やがて橋本は警視庁へ電話を掛けた。
「モシモシ、ハア高田君? ええ例の件でね一寸展覧会の夜間入場の便宜を計って貰いたい。ええ、マッカレーは昨日帰国した。ふん確かな人間? どうも真珠塔は買わないらしいって。ホテルの給仕が日本人の持って帰るのを見た。ああそうですか。花野は偽名らしいって。そうでしょうなあ。併し何か花野氏と縁故のあるものらしい。ふん、そうそう何でも大きな外国人らしい話も達者な奴らしい。いやどうも有難う。ええすぐ展覧会の方へ行きます。さようなら」私の方を向いて、「どうだ君。一緒に現場へ来ないかね」

        

 夏の永い日ざしもはや傾いて、外はもう夕暗《ゆうやみ》であった。上野の山内は白く浮いて出る浴衣がけの涼みの男女の幾群かが、そぞろ歩きをして居た。
 展覧会では二人の守衛が待ち受けて居た。幸二人とも恰度先夜の宿直で早速現場に案内して呉れた。
 場内はしんとして、夜間開場の設備はないので、広い会場の天井に只二ヶ所、うす暗い電燈が、鈍い光りを眠むそうに投げて、昼間《ちゅうかん》満都の人気を集めて、看客《けんぶつ》の群れ集うだけ、それだけ人気《ひとけ》のない会場は一層静かなものであった。守衛の一人は年頃六十以上の背の高い老人で、一人は軍人上りとか云う丸々とした、頑丈そうな四十恰好の男で、いずれも頗《すこぶ》る好人物らしく見えた。
 問題の塔は正面入口のすぐ右側に、四方硝子の戸棚に収められ、夜眼にもそのすべすべした豊麗な膚《はだ》は清い色を放って居た。曲者の飛び出した窓は、地上から十五尺ばかりの所を館の周囲をとりまいて居る一連の明りとり窓の一つで、壁際にある一列の陳列棚は九尺であるから、その頂部《いただき》より尚六尺の上に開かれて居る。
「そうです。私が見付けましたので」若い方の守衛は友の問に答えた。「恰度飛び出す所でした。ええ、どの入口にも鍵がかかって居りました。確かです。私共が入口を開けるのに手間取って居たものですから、曲者を逃がして仕舞いました。私共が全《まる》で共謀《ぐる》かなんぞになって居るように思われますので甚だ残念ですが、どうしてあの塔をあの高い窓から運び出したのでしょう」
 友は窓の高さを目測したり、戸棚の周囲を丁寧に調べたりした揚句、腕を組んで瞑想を始めた。この時こそ友の頭脳《あたま》の最も働いている時である事を知っている私は、黙ってそれを眺めて居た。
「窓硝子の落ちた音で気が付いたと云うのは確かですか」友は突然に聞いた。
「確かです。破片《かけ》が散って居りましたり、外に硝子のこわれた所はありませんでしたから」
 友は又深い瞑想に陥った。
 やがて何か思いついた如く、守衛達に一礼して場外に出た。山下《やました》の菊屋《きくや》で夕食をした後友は神田《かんだ》に行こうと云い出した。私は云うがままに彼について行った。
「何分守衛が発見してすぐ訴えないものだから、指紋は勿論《もちろん》、何の証拠になるようなものもない」路々友は語った。「守衛は大丈夫らしいね」
 神保町《じんぼうちょう》の停留場で我々は降りた。その辺の迷路にも似た小路《こじ》を、あちこちと二三丁歩いて、ある建物の前に来た時に、彼は立止って突然《いきなり》その呼鈴《ベル》を押した。私は驚いて表札を見ると花野茂としてあった。取次が出ると橋本は花野さんに御目にかかりたいと云った。
「先生は今御旅行中です」とブッキラ棒に取次は答えた。
「私もそう新聞で承知いたしました」友は云った。
「併し是非御願いいたしたい事がありますので、迷って居りますと、今朝電車で偶然久しい前外国で御目にかかった事のある一寸御名前を忘れましたが、その方がこちらと御知合だそうで、先生は御在宅の筈《はず》だと教えて下さいましたので」
「ハテな。誰だろうな」と取次は書生部屋の仲間に振り向いて云った。
「外国と云えば田村《たむら》さんじゃないかね。併しあの人は先生の留守は知っている筈だがね」
「脊《せ》の高い一寸外国人のような方ですが」
「じゃ田村さんだ。どうしてそんな事を云ったろう」
「田村さんは只今どちらでしょう」すかさず橋本は聞いた。
「駿河台《するがだい》の保命館《ほめいかん》に御出でしょうと思います」書生は迂散《うさん》くさそうに答えた。
「どうも有難うございました」礼を云って友は外へ出た。足は自《おのず》と駿河台に向う。
 最近に増築した保命館は此辺切っての旅館であった。幸か不幸か田村君は在宅であった。
「マッカレーさんと仰有る人から頼まれましたのですが」と友は刺を通じた。我々は彼の部屋に通された。橋本が人相書に依って訪ね出した所の、その人相の所有者は悠然として我々の前に現われたのである。
「早速ですが田村さん。私は実はこう云う職業のものですが」と再び名刺を渡しながら、「何事も隠さず云って頂きたい。そうでないと我々は貴君を氏名詐称と、若《も》しかすると、詐欺取材で告発しなければなりません」
 田村氏は一度は青くなり一度は怒ったが、やがて観念した如く話し出したのは次の如くであった。彼はマッカレーに近づいて何か一儲けをしようとして居ると、マッカレーが真珠塔が欲しいと云うので之幸《これさいわい》と、模造品を商会に造らせ、売り込もうとしたがマッカレーに看破《みやぶ》られ止むなく宅へ持ち帰ったが、八万円もヒド工面で造《こし》らえたので、もう夜逃げの外はないと覚悟して居ると、不思議な買手が現われて助かったのである。その買手はマッカレーの紹介だと云って訪ねて来た男で結局七万円で譲ったのだった。
「黒眼鏡をかけた脊の高い、少し猫脊のような人で頤鬚《あごひげ》をつけて何だか聞き覚えのある声の人でしたが矢張初対面で、少し怪しい所もありましたが、背に腹は代えられず一万円の損で譲りました。この上貴君方に訴えられれば申分ありません。天罰です」
「イヤ、私は貴君を告発しなければならない位置に居るものではありません。御話しに偽《いつわり》がないと云う条件で、別に荒立てる必要はありません」と友が云った。
「天地神明に誓って偽でない事を断言します」
 保命館を出て駿河台下の方へ来かかると折柄、そこの大時計は十時を打ち出した。折角|手繰《たぐ》った糸が又この異様な新な買手の為《た》めにプッつりと切り離たれたのは、友にとって打撃に相違なかったが、左程落胆している模様も見えなかった。ここで私達は別れたのである。

 翌日午後橋本から電話で帰りに寄って呉れと云うので、私は勤先からすぐ彼を訪ねた。
「やあよく来て呉れたね。実は六時に佐瀬、そら例の商会の技師の、あの人が来る事になっているが、僕は一寸出掛けねばならないので、君一つ相手をして、成可《なるべ》く七時頃迄待たせて居《お》いて貰いたいのだがね」
 私が引受けると、彼は直ぐ出掛けて行った。六時に佐瀬がやって来た。私は友が急用で出掛けた事と是非待って居て貰いたい事を告げると、彼は迷惑そうに腰を下した。
「橋本さんは少しは当りがつきましたでしょうか」
「さあ」私は彼の問にどの程度迄答えてよいか分らなかったので、「多少見当はついたようです」
「不思議な事件ですからなあ、あの外国人や花野さんが関係して居るんでしょうか」彼は聞いた。
「それは多分関係はないでしょう」
「どうして分りましたか」彼は意外と云う風に少し声を高めた。
「イヤ、多分真物とスリ替える目的で、模造品を註文したのではなかろうかと思うのです」
 七時に近《ちかづ》いても友は帰って来なかった。佐瀬が暇《いとま》を告げようとした時に、電話の呼鈴が激しく鳴った。私は急いで受話機を取り上げると、橋本の声で、佐瀬君を待たして御気の毒であったが、実はもう御帰りかと思って、御宅の方へ伺った所で、塔の問題に少し当りがついたから、皆さんに御話したいから、すぐに二人で来て呉れと云うのであった。
 佐瀬の宅は築地橋《つきじばし》に近い河岸沿いの宅で、通されたのは西洋館の広々とした応接室、飾のついた電燈が皎々《こうこう》と、四辺《あたり》の贅沢な調度品を照らして居た。部屋の中には何時の間にか呼んだと見えて、下村商会主も高田警部の顔も見えた。
「佐瀬さん失礼いたしました」一同席が極まると橋本は口を切った。「殊に御許しもなく皆さんを御呼びしたのを悪しからず。実は真珠塔の隠されて居る所が分りましたので」
「どこですか」商会主と技師とそうして私が殆《ほとん》ど同時に叫んだ。
「只今御眼にかけます」と云うが早いか、彼は壁の腰羽目の一部に手をかけたかと思うと、見よ。忽《たちま》ち壁は開かれて、其の中に燦《さん》として一基の真珠塔が輝いて居るではないか。突如佐瀬は卓上《テーブル》の花瓶を取って怒れる眼鋭くハッシと許り橋本目がけて投げつけた。其時早く高田警部は佐瀬の腕を扼したので、的ははずれて、真珠塔に丁と当って、無残塔は微塵《みじん》に散った。商会主の顔はさっと蒼白に変じた。其時橋本の凜《りん》とした声は響いた。
「イヤ御心配に及びません。それは偽物です」
    ×   ×   ×   ×
「今度の事件は頗る簡単だよ。君」私が桜木町の彼の家に帰りついて、香の高い紅茶をすすりながら相変らずの彼の敏腕を賞めると、彼はこう云った。
「つまり二から一引く一さ。現場を見て第一に感じたのは、あれ丈《だけ》の塔をスリ替えるのに窓からやると云うのは可怪《おか》しい。あの高い窓から塔を一つ運び出し一つは運び入れると云う事は、一寸不可能じゃないかね。それにもう一つ変なのは、硝子の音がしたので逃げたのではなく、逃げる時にこわした事だ。つまり偽物の塔は出し放しにして逃げたんだね。まるで忍び込んだのを広告するようなものだ。そこで僕は別の方面を考えた。つまりスリ替えられて居ないんじゃないかと。然し曲者の入った事と、真珠のうちの一つがスリ替えられて居る事は事実だ。そこで甚だ漠然としては居るが、真物を偽物と思わせる為めに一つの真珠をとり替える為めに忍び込む。これは可能だからな。そうして殆ど佐瀬のみに可能じゃないか。鍵も彼が持っている。発見したのも彼だ。そこで少しばかり奴さんに疑いをかけて置いたのさ。そこで例の田村を探し出して叩いて見ると、変な奴が来て買って行ったと云う。眼鏡や頤鬚それに猫脊などは変相の初歩だからね。聞いたような声だとも云うし、ははあ、之は佐瀬だと感じたのさ。それにもともと、塔の事を知って居るのは何人もないんだからな。まあ大体|彼奴《きゃつ》と見たのさ。彼は始めから田村が何か不正の為めの註文と感付いたに違いない。それでそっと田村をつけて、あの米国人が買わなかったのを見て、之を譲り受け他日ゆっくり真物とかえようと思ったんだろうよ。罪は外国人と詐欺師が負う訳だからね。彼には共謀者はないようだから、塔は多分彼の家に隠されて居るに違いない。多分応接室だろうと思った。と云うのは戸棚や物置はすぐ探されるからね。そこで彼をここに待たして置いて、約束があるように云って上り込んで、部屋を探したのだ。所が腰羽目の寄木細工に一ヶ所|手垢《てあか》のついている所がある。ふと思いついたのが箱根《はこね》細工の秘密箱さ。そこでいろいろやって見ると、板の合せ目が少しズレて、そこへもう一枚の板が又ズレて来ると云う奴で、結局小さな穴があいてそこに釦《ボタン》がある。これを一寸押してみると壁が開くと云う仕掛で、あとは君の知っている通りさ」
                         (一九二三年八月号)

底本:「「新趣味」傑作選 幻の探偵雑誌7」光文社文庫、光文社
   2001(平成13)年11月20日初版1刷発行
初出:「新趣味」
   1923(大正12)年8月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年4月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

甲賀三郎

支倉事件 甲賀三郎

          呪の手紙

 硝子《ガラス》戸越しにホカ/\する日光を受けた縁側へ、夥《おびたゞ》しい書類をぶち撒《ま》けたように敷散らして其中で、庄司利喜太郎氏は舌打をしながらセカ/\と何か探していた。彼は物事に拘泥しない性質《たち》で、十数年の警察生活の後現在の新聞社長の椅子につくまで、いろ/\の出来事を手帳に書き留めたり、書類の整理をしたりした事は殆《ほとん》どなかった。今日急に必要が出来て或る書類を探し始めたのだが、二十分経っても更に見当らないので、気短の彼はそろ/\焦《じ》れて来た。
 彼はもう探すのを止めようと思った。そうして書類を見たいと言った友人の顔を思い浮べながら、云うべき冒葉を口の中で呟いた。
「昨日一日探したけれども、見つからんかったよ。大した事じゃないから、君、どうでもえゝじゃないか」
 けれども、苦虫を噛み潰したような顔をしているその友人は、中々こんな事で承知しそうもないように思われたので、新聞社長は再びせっせと堆高《うずたか》い書類を漁《あさ》らねばならなかった。
 書類の間に鼠色に変色した大型の封筒が挟まっているのが、ふと彼の眼を惹いた。
 彼は急いで封筒を取上げて裏を返して見た。果して裏には墨黒々と筆太に支倉喜平《はせくらきへい》と書いてあった。彼は眉をひそめた。
「はてな、どうしてこんなものが残っていたのかしら」
 中を開けて見るまでもなかった。執拗な支倉の呪の言葉で充ち満ちているのだ。支倉は彼が庄司氏に捕われて獄に送られ断罪まで十年の間に、庄司氏に当て呪の手紙を書き続けた。庄司氏は一つ一つに番号を打ってあった呪の手紙の最後の番号が七十五であった事を覚えている。その手紙の一つがどうした事か偶然発見されたのだ。庄司氏はふと過去を追憶した。
 豪胆な、そうして支倉の犯した罪については少しも疑念を挟んでいなかった彼は、こんな呪の手紙位にはビクともしなかった。それに彼の強い性格と溢れるような精力は、彼を過去の愚痴や甘い追憶などに浸る事を許さなかった。然し支倉の事件は彼の長い警察生活の中で重要な出来事の一つだった。捜査の苦心、証拠蒐集の不備の為の焦慮、当時の世論の囂々《ごう/\》たる毀誉褒貶《きよほうへん》の声、呪の手紙、そんなものが可成《かな》り彼を苦しめた。
 彼の眼前に宣教師支倉の獰猛《どうもう》な顔、彼が法廷で呶鳴った狂わしいような姿、彼の妻の訴えるような顔、さては証拠蒐集の為に三年前に埋葬された被害死体を発掘した時の物凄い場面などが、それからそれへと浮んで来た。

 それから二、三日経った或る夜、庄司氏の応接室で卓子《テーブル》を取り巻いて主客三人の男が坐っていた。髪の毛の薄い肥った男は探偵小説家だった。色白の下|顋《あご》の張った小柄な男は警視庁の石子《いしこ》巡査部長だった。
「石子君は当時刑事でね、支倉事件に最初に手をつけた人なんだ」
 庄司氏の顔は今宵支倉事件を心行くまゝに語る機会を得た事を喜ぶように輝いていた。
「初めは極《ご》く詰らない事からでしてね」
 石子は語り出した。
「これが小説だと、凄い殺人の場面か、茫然とするような神秘的な場面か、それとも華やかな舞踏会の場面からでも始まるのですが、事実談はそうは行きませんよ」

          逃亡

 大正六年一月末、午後二時の太陽は静に大東京の隅々までを照していた。松飾などは夙《とう》に取退《とりの》けられて、人々は沈滞した二月を遊び疲れた後の重い心で懶《ものう》げに迎えようとしていたが、それでも未だ都大路には正月気分の抜け切らない人達が、折柄の小春|日和《びより》に誘われて、チラホラ浮れ歩いていた。それらの人を見下しながら、石子刑事は渡辺刑事と並んで目黒行の電車に腰を掛けていた。電車はけたゝましい音を立てながら疾駆していた。
「ねえ、渡辺君」
 石子刑事は囁いた。
「之がもう少し大事件だと張合があるが、窃盗位じゃ詰まらないねえ」
「うん」
 眼を瞑《つぶ》ってウト/\していた渡辺刑事は、突然に話しかけられたので好い加減な生返辞《なまへんじ》をした。
 石子刑事は鳥渡《ちょっと》不機嫌になった。彼は詰らない窃盗事件だと云ったけれども、内心では得意だったのである。官服の巡査から私服の刑事に出世してから一年間、若い彼の心は野心に燃えていたけれども生憎事件らしいものに突き当らず、いつも他の刑事の後塵を拝しているような始末なので、稍《やゝ》焦り気味だったのが、今度始めて彼の手で嗅ぎ出した、どうやらもの[#「もの」に傍点]になる事件だったので、彼は充分意気込んでいるのだった。
 渡辺刑事は、口を結んで黙っている下|顋《あご》の張った同僚の横顔をチラリと見て軽く舌打をしたが、然し対手《あいて》の気を引き立てるように言った。
「そうでもないよ、君。たゞの窃盗とは違うさ。牧師の身でありながら聖書を盗むのだからね。而《しか》も君の話だと白昼堂々と盗み出すと云うじゃないか」
「そりゃそうなんだがね」
 石子刑事は少し機嫌を直した。
 石子刑事が、岸本清一郎と云う聖書販売人をしている青年の訪問を受けたのは三、四日前の夜だった。岸本は石子刑事が未だ所謂《いわゆる》官服で神楽坂署内の交番で立番勤務をしていた時分に、交番の近所にいた不良中学生だった。眉の濃いきりっとした顔立の少年で、どことなく不良にして置くのは惜しいような気がしたので、石子刑事はそれとなく善導につとめたのだった。その甲斐があって、彼は非常に感激して、後には別人のようになり、基督《キリスト》教信者になって、真面目に勉強するようになった。所が家庭の事情で、どうしても学校を続けられない事になり、石子刑事も、いろ/\尽力してみたが、遂に力及ばず、岸本青年はとうとう中学を中途で廃業して、聖書販売人になったのだった。彼は今でも石子刑事の恩義を忘れないで、時折は刑事の宅《うち》を訪ねた。石子が私服に出世した時に一番喜んだのは本人の次には恐らく彼だろう。
 その晩、岸本は暫《しばら》くもじ/\していたが、
「石子さん、実は信仰仲間を傷つけたくないのですが、大分以前から聖書を盗む奴がいるのです。大方当りはついているのですけれども、一つ教会の信用を損わないように挙げて下さらないでしょうか」
 彼の云う所によると、横浜の日米聖書株式会社と云うので、久しい以前からちょい/\聖書が紛失する。併し最近まで判然たる所は分らなかったが、二、三日前に今度会社で新に刷って倉庫に入れたまま、未だ売出さない所の新旧約全書が神保町辺の本屋で盛に販売されるので愈※[#二の字点、1-2-22]《いよ/\》確実になったと云うのだった。石子刑事は大した事件だとは思わなかったが、快く引受けてやったのだった。
「君の話によると、中々容易ならん奴だぜ」
 渡辺刑事は重ねて云った。
「うん、それ程でもないが、僕は第六感と云うのか、どうも奴がたゞの窃盗ではないような気がするのだ。殊によったら何か重大な犯罪でもやっていやしないかと思うのだ。渡辺君、何分宜しく御助力を頼むぜ」
 石子刑事は前途に何か期する所のあるように答えた。
 折柄電車は台町の二丁目で止まった。

 白金三光町から府下大崎町に跨った高台の邸宅は陽を受けた半面を鮮かに浮き出させながら、無人境のように静まり返っていた。
 石子刑事は渡辺刑事を伴ってとある横丁に這入《はい》った。
「あの家なんだ」
 石子は少し前方の可成大きな二階家を指し示しながら、
「僕は兎《と》に角当って見るから、君はこの辺で見張りをしていて呉れ給え。そしてもし僕が十分間出て来なかったら、なんとか旨《うま》い口実をつけて様子を見に来て呉れ給え」
 渡辺刑事は石子が先輩振って指図がましく振舞うのが不愉快だった。先輩と云っても石子はほんの少し許《ばか》り早く私服になったので、年齢から云ってもどっちも三十には少し間のある位の若者に過ぎないのだった。然し、今度の事件は兎に角石子が主として調べ上げたのだし、彼は云わば助手の位置にいたのだから、不承々々承知した。
「宜しい。僕はこの角から表門と勝手口とを見張っているから、しっかりやって来給え」
 石子は渡辺が内心不平なのを察していたが、今の彼はそんな事を省みていられない位、初陣の功名と云ったような気が燃えていた。彼は驀《まっしぐら》に目指す家に近づいた。
 古くはあるが見上げるような太い門柱と、植込みの繁っている中庭の奥から鳥渡姿を見せている堂々たる玄関が、意気揚々としていた彼の心を少し暗くした。門標に筆太に書かれている支倉喜平と云う四字が威圧するように彼の眼を射った。
 彼の目指す家の主人は宣教師である。相当学識もあり社会的地位も高い。聖書会社から聖書を盗み出したと云う忌わしい嫌疑で、彼に神楽坂署まで同行を求めて行くのであるが、もし彼がその犯人でなかったら、彼に対する気の毒さと自分の面目をどうしよう。いや彼が犯人であると云う事は確実であると信じているが、もし同行を拒んだらどうしたものだろうか。彼の大胆な遣口《やりくち》を見ると、きっと素直に出頭に応じないに違いない。こんな考えで石子刑事の頭は暫く占領された。
 岸本青年の依頼を受けると、石子刑事は翌日神田神保町の書店を訪ね歩いた。二、三の書店で、彼は問題の卸元で未だ市場に出さない聖書が販売されている事を確めて、其出所を調べると、支倉喜平という宣教師の手からである事が分った。彼は支倉の容貌の特徴など委《くわ》しく聞いた上、直ぐに横浜へ向った。
 途々《みち/\》彼は考えた。盗まれた書籍の量は相当大きいから、到底手などで提げられるものではない。必ず車で運び出したものに違いないとすると停車場の車を利用したと見るべきであろう。然し、彼等は口留をされているかも知れないから、先《ま》ず聖書会社の附近でそれとなく聞いて見るが好い。そう思った彼は桜木町の駅から真直に山下町の日米聖書会社に向った。
 会社の直ぐ筋向うに一軒の車宿《くるまやど》があったので、それとなく聞いて見ると、通常こう云う所では後のかゝり合いになるのを恐れて、容易に口を開かないものであるが、意外にも輓子《ひきこ》達は口を揃えて進んで事実を話して呉れた。
 彼等の云う所によると、殆ど日曜毎に宣教師風の男が駅の車で会社に乗りつけて、締っている口を開けて這入り、沢山の書物を積んで帰ると云う事である。容貌を聞くと全く神田の書店で聞いた支倉の容貌に一致するのだった。輓子達が進んで話したのは支倉がいつも駅の車を利用して、自分達の車に乗らない為の不平が手伝っているのだった。
 石子はその足で聖書会社を訪ねた。会社の書記は勉めて問題に触れたくないようだったが、書籍の盗難については渋々肯定したのだった。
 白昼堂々と車を駆って盗みに這入る彼の大胆さを思って、石子刑事は支倉その人を見るように門札をうんと睨んだ。

 支倉喜平の門標をうんと睨みつけた石子刑事は、つか/\と門内に這入った。
 取次に出た女中に彼は慇懃《いんぎん》に云った。
「先生は御在宅でございましょうか」
「はい」
 女中は眩しそうな顔をして彼の顔を見上げた。
 しめたと思った彼は、その嬉しさを少しも顔に現わさないで、肩書のない石子友吉と云う名刺を差出しながら、
「こういう者でございますが、是非先生にお目にかゝって、お教えを受けたいと存じますが、御都合いかゞでございましょうか」
 一礼をして引下った女中はやがて首尾いかにと片唾《かたず》を呑んでいる石子の前に現われた。
「どうぞお通り下さいまし」
 第一の難関は見事に突破された。彼はホッと息をついた。
 通されたのは奥まった離座敷だった。六畳敷きほどの広さの小ぢんまりとした部屋は床の間の基督《キリスト》受難の掛軸や、壁間の聖母《マリア》の画像や違棚の金縁背皮の厚い聖書らしい書物など、宣教師らしい好みで飾られていた。
 やがて、ノッシ/\と現われて来たのは中肉中背ではあるが、褞袍《どてら》姿の見るからに頑丈そうな毬栗《いがぐり》頭の入道で、色飽くまで黒く、濃い眉毛に大きな眼をギロリとさせた、中世紀の悪僧を思わせるような男だった。
 書店や車宿で大凡《おおよそ》の風貌を聞いて想像していた石子刑事も彼を見ると稍たじろいだ。もし初対面で彼を見る人があったら誰が彼を宣教師と思う人があるだろうか。
「先生でございますか」
 石子刑事は聞いた。
「支倉です」
 彼は上座にむずと坐って爛々たる眼を輝かした。
「実は私は警察の者です」
 石子刑事は寸刻の隙を与えず、然し平然と彼を見やりながら、
「玄関でそう申しては召使いの人に対して御迷惑と存じましたので態《わざ》と申上げなかったのですが」
「はあ、警察の方が何の用事があるのですか」
 流石《さすが》に少し狼狽の色を見せながら彼は答えた。
「実は牛込神楽坂署の署長が是非あなたにお会いしてお聞きしたい事がありますので、私に署までお伴《つ》れするようにと云いつかったのです」
 小兵ながらも精悍の気の全身に漲《みなぎ》っている石子刑事は色白の顔に稍赤味を帯びさせて、丸い眼を隼のように輝かせながら、否か応か、大きな口をへの字に結んでいる支倉の顔をきっと仰ぎ見た。
 鳥渡《ちょっと》狼狽の色を見せた支倉は忽《たちま》ち元の冷静な態度に帰って、梃《てこ》でも動かぬと云う風だった。
「警察へ行くような覚えは更にないが、何か聞きたい事があればこちらへ来られてはどうですか」
 彼の声は身体に相応《ふさわ》しい太い濁声《だみごえ》で、ひどい奥州訛りのあるのが、一層彼をいかつく見せた。
「ご尤もです」
 石子はうなずいて見せた。
「然し署長は何分多忙な身体ですから、お出でが願えると好都合なのですが」
「もし嫌だと申したらどうするのですか」
「それは大変困るのです。是非どうか――」
「一体どう云う用事なのですか」
「それは私に分りませんのです」
「ふうん」
 支倉は暫く睨むように刑事を見ていたが、
「お気の毒じゃがお断りしましょう。いやしくも聖職に奉じているものが、用事の内容が分らないで、軽々しく警察に行く事は出来ません」
 押問答の中に時間はどん/\経つ。約束の時間になれば渡辺刑事がやって来る。下手な事をやられて、変に勘違いをされたり、依怙地《いこじ》になられては困って終《しま》う。石子刑事は、気が気ではなかった。重ねて口を開こうとするとたんに玄関で案内を乞う声が聞えた。
「ご免下さい」
 確に渡辺刑事の声である。
 石子はしまったと思った。

 石子刑事は渡辺刑事の声が玄関でしたので、しまったと思っていると、やがて女中が出て来て支倉に低声《こゞえ》で何か囁いた。
「君の友人とか云う人が訪ねて来たそうじゃが」
 支倉は苦り切って云った。
「あゝ、渡辺って云うのでしょう」
 石子は白ばくれて云った。
「一緒に近所まで来て別れたのですが、何か用事が出来たのかしら」
「別に用はありませんがと仰有《おっしゃ》ってゞした」
 女中は云った。
「そうですか、それじゃ未だ少し手間取れるから、先へ行って呉れと云って呉れませんか」
「はい、承知いたしました」
 女中が退って行くと、石子は支倉の方に向き直って、
「どうも失礼いたしました。こちらに伺っている事を知っていたものですから、鳥渡寄って見たものと見えます」
 彼は鳥渡言葉を切って、
「で、いかゞでしょう。お出《い》で願われませんでしょうか」
 支倉はじっと眼を瞑《つぶ》って考えていたが、警察の手配りが届いているのを観念したらしく、
「宜しい。何の用かは知らぬが、兎に角一緒に行きましょう」
「どうも有難うございます」
 第二の難関を突破した石子刑事は再びホッとして礼を云ったが、未だ油断はなかった。
「直ぐ願えましょうか」
「えゝ、直ぐ行きましょう」
 支倉は割に気軽く答えた。
「鳥渡着物を着替えますから待っていて下さい」
 支倉が居間の方へ引下ると、石子刑事は直ぐに起《たち》上って、廊下に出て柱の蔭に隠れるようにしながら、じっと居間の様子を覗った。支倉の着物を着替えている姿が、チラ/\と見え隠れする。彼の筋張った手や、着物の端や、忙しそうに畳の上を這廻る帯の運動で手にとるように分った。
 余りじっと見詰めていた事が彼の人格を無視し過ぎるとも思われるし、さっきからの気の疲れもあるし、石子刑事はふと庭に眼をやった。縁の直ぐ前にある梅の枝が処女の乳首のようなふわりと脹らんだ蕾《つぼみ》をつけているのが眼に映った。やがて春だなあ、そう思って再び首を捻じ向けて居間の方を見ると、もう着物の端が見えない。気の故《せい》だか人気《ひとけ》がないように思われる。石子刑事ははっと顔色を変えて居間に飛込んだ。
 不吉な予感のあった通り、そこには支倉の姿はなかった。箪笥の前に小柄な女が佇《たゝず》んでいた。年の頃は二十七、八で、男勝りを思わせるような顔は蒼醒めて、眼は訴えるように潤んでいた。
「奥さん」
 一目で支倉の細君と悟った石子は大声で叫んだ。
「御主人はどこへ行きましたか!」
「只今表の方へ出ました」
 細君は静かに答えた。
 石子刑事は安心した。表へ出れば、表門からであろうが、勝手口からであろうが、待ち構えている渡辺刑事に直ぐ見つかって終《しま》う。そう周章《あわ》てるに及ばない。彼はそう思って落着くと、支倉の後を追う前に彼の鋭い眼で部屋の中をグルリと一廻り睨め廻した。彼の眼にふと開いた襖から鳥渡見えている二階へ通じる階段が映じた。その上にはさっき支倉が褞袍《どてら》の上にしめていた黒っぽい帯が蛇のようにのたくっていた。瞬間に彼の第六感はしまったと頭の中で叫んだ。
 彼は脱兎の如く部屋を飛出すと忽ち階段を駆け上った。八畳と六畳二間続きの南に向いた縁の硝子戸が一枚開いていた。その傍に駆け寄って見ると、下はふか/\した軟かそうな地肌だった。その地肌の上に歴々《あり/\》と大きな足袋裸足の跡と思われる型が、石子刑事を嘲けるように二つ並んでついていた。

 それから二、三日経った或る夜、庄司氏の応接室で卓子《テーブル》を取り巻いて主客三人の男が坐っていた。髪の毛の薄い肥った男は探偵小説家だった。色白の下|顋《あご》の張った小柄な男は警視庁の石子《いしこ》巡査部長だった。
「石子君は当時刑事でね、支倉事件に最初に手をつけた人なんだ」
 庄司氏の顔は今宵支倉事件を心行くまゝに語る機会を得た事を喜ぶように輝いていた。
「初めは極《ご》く詰らない事からでしてね」
 石子は語り出した。
「これが小説だと、凄い殺人の場面か、茫然とするような神秘的な場面か、それとも華やかな舞踏会の場面からでも始まるのですが、事実談はそうは行きませんよ」

         

 白金三光町から府下大崎町に跨った高台の邸宅は陽を受けた半面を鮮かに浮き出させながら、無人境のように静まり返っていた。
 石子刑事は渡辺刑事を伴ってとある横丁に這入《はい》った。
「あの家なんだ」
 石子は少し前方の可成大きな二階家を指し示しながら、
「僕は兎《と》に角当って見るから、君はこの辺で見張りをしていて呉れ給え。そしてもし僕が十分間出て来なかったら、なんとか旨《うま》い口実をつけて様子を見に来て呉れ給え」
 渡辺刑事は石子が先輩振って指図がましく振舞うのが不愉快だった。先輩と云っても石子はほんの少し許《ばか》り早く私服になったので、年齢から云ってもどっちも三十には少し間のある位の若者に過ぎないのだった。然し、今度の事件は兎に角石子が主として調べ上げたのだし、彼は云わば助手の位置にいたのだから、不承々々承知した。
「宜しい。僕はこの角から表門と勝手口とを見張っているから、しっかりやって来給え」
 石子は渡辺が内心不平なのを察していたが、今の彼はそんな事を省みていられない位、初陣の功名と云ったような気が燃えていた。彼は驀《まっしぐら》に目指す家に近づいた。
 古くはあるが見上げるような太い門柱と、植込みの繁っている中庭の奥から鳥渡姿を見せている堂々たる玄関が、意気揚々としていた彼の心を少し暗くした。門標に筆太に書かれている支倉喜平と云う四字が威圧するように彼の眼を射った。
 彼の目指す家の主人は宣教師である。相当学識もあり社会的地位も高い。聖書会社から聖書を盗み出したと云う忌わしい嫌疑で、彼に神楽坂署まで同行を求めて行くのであるが、もし彼がその犯人でなかったら、彼に対する気の毒さと自分の面目をどうしよう。いや彼が犯人であると云う事は確実であると信じているが、もし同行を拒んだらどうしたものだろうか。彼の大胆な遣口《やりくち》を見ると、きっと素直に出頭に応じないに違いない。こんな考えで石子刑事の頭は暫く占領された。
 岸本青年の依頼を受けると、石子刑事は翌日神田神保町の書店を訪ね歩いた。二、三の書店で、彼は問題の卸元で未だ市場に出さない聖書が販売されている事を確めて、其出所を調べると、支倉喜平という宣教師の手からである事が分った。彼は支倉の容貌の特徴など委《くわ》しく聞いた上、直ぐに横浜へ向った。
 途々《みち/\》彼は考えた。盗まれた書籍の量は相当大きいから、到底手などで提げられるものではない。必ず車で運び出したものに違いないとすると停車場の車を利用したと見るべきであろう。然し、彼等は口留をされているかも知れないから、先《ま》ず聖書会社の附近でそれとなく聞いて見るが好い。そう思った彼は桜木町の駅から真直に山下町の日米聖書会社に向った。
 会社の直ぐ筋向うに一軒の車宿《くるまやど》があったので、それとなく聞いて見ると、通常こう云う所では後のかゝり合いになるのを恐れて、容易に口を開かないものであるが、意外にも輓子《ひきこ》達は口を揃えて進んで事実を話して呉れた。
 彼等の云う所によると、殆ど日曜毎に宣教師風の男が駅の車で会社に乗りつけて、締っている口を開けて這入り、沢山の書物を積んで帰ると云う事である。容貌を聞くと全く神田の書店で聞いた支倉の容貌に一致するのだった。輓子達が進んで話したのは支倉がいつも駅の車を利用して、自分達の車に乗らない為の不平が手伝っているのだった。
 石子はその足で聖書会社を訪ねた。会社の書記は勉めて問題に触れたくないようだったが、書籍の盗難については渋々肯定したのだった。
 白昼堂々と車を駆って盗みに這入る彼の大胆さを思って、石子刑事は支倉その人を見るように門札をうんと睨んだ。

 支倉喜平の門標をうんと睨みつけた石子刑事は、つか/\と門内に這入った。
 取次に出た女中に彼は慇懃《いんぎん》に云った。
「先生は御在宅でございましょうか」
「はい」
 女中は眩しそうな顔をして彼の顔を見上げた。
 しめたと思った彼は、その嬉しさを少しも顔に現わさないで、肩書のない石子友吉と云う名刺を差出しながら、
「こういう者でございますが、是非先生にお目にかゝって、お教えを受けたいと存じますが、御都合いかゞでございましょうか」
 一礼をして引下った女中はやがて首尾いかにと片唾《かたず》を呑んでいる石子の前に現われた。
「どうぞお通り下さいまし」
 第一の難関は見事に突破された。彼はホッと息をついた。
 通されたのは奥まった離座敷だった。六畳敷きほどの広さの小ぢんまりとした部屋は床の間の基督《キリスト》受難の掛軸や、壁間の聖母《マリア》の画像や違棚の金縁背皮の厚い聖書らしい書物など、宣教師らしい好みで飾られていた。
 やがて、ノッシ/\と現われて来たのは中肉中背ではあるが、褞袍《どてら》姿の見るからに頑丈そうな毬栗《いがぐり》頭の入道で、色飽くまで黒く、濃い眉毛に大きな眼をギロリとさせた、中世紀の悪僧を思わせるような男だった。
 書店や車宿で大凡《おおよそ》の風貌を聞いて想像していた石子刑事も彼を見ると稍たじろいだ。もし初対面で彼を見る人があったら誰が彼を宣教師と思う人があるだろうか。
「先生でございますか」
 石子刑事は聞いた。
「支倉です」
 彼は上座にむずと坐って爛々たる眼を輝かした。
「実は私は警察の者です」
 石子刑事は寸刻の隙を与えず、然し平然と彼を見やりながら、
「玄関でそう申しては召使いの人に対して御迷惑と存じましたので態《わざ》と申上げなかったのですが」
「はあ、警察の方が何の用事があるのですか」
 流石《さすが》に少し狼狽の色を見せながら彼は答えた。
「実は牛込神楽坂署の署長が是非あなたにお会いしてお聞きしたい事がありますので、私に署までお伴《つ》れするようにと云いつかったのです」
 小兵ながらも精悍の気の全身に漲《みなぎ》っている石子刑事は色白の顔に稍赤味を帯びさせて、丸い眼を隼のように輝かせながら、否か応か、大きな口をへの字に結んでいる支倉の顔をきっと仰ぎ見た。
 鳥渡《ちょっと》狼狽の色を見せた支倉は忽《たちま》ち元の冷静な態度に帰って、梃《てこ》でも動かぬと云う風だった。
「警察へ行くような覚えは更にないが、何か聞きたい事があればこちらへ来られてはどうですか」
 彼の声は身体に相応《ふさわ》しい太い濁声《だみごえ》で、ひどい奥州訛りのあるのが、一層彼をいかつく見せた。
「ご尤もです」
 石子はうなずいて見せた。
「然し署長は何分多忙な身体ですから、お出でが願えると好都合なのですが」
「もし嫌だと申したらどうするのですか」
「それは大変困るのです。是非どうか――」
「一体どう云う用事なのですか」
「それは私に分りませんのです」
「ふうん」
 支倉は暫く睨むように刑事を見ていたが、
「お気の毒じゃがお断りしましょう。いやしくも聖職に奉じているものが、用事の内容が分らないで、軽々しく警察に行く事は出来ません」
 押問答の中に時間はどん/\経つ。約束の時間になれば渡辺刑事がやって来る。下手な事をやられて、変に勘違いをされたり、依怙地《いこじ》になられては困って終《しま》う。石子刑事は、気が気ではなかった。重ねて口を開こうとするとたんに玄関で案内を乞う声が聞えた。
「ご免下さい」
 確に渡辺刑事の声である。
 石子はしまったと思った。

 石子刑事は渡辺刑事の声が玄関でしたので、しまったと思っていると、やがて女中が出て来て支倉に低声《こゞえ》で何か囁いた。
「君の友人とか云う人が訪ねて来たそうじゃが」
 支倉は苦り切って云った。
「あゝ、渡辺って云うのでしょう」
 石子は白ばくれて云った。
「一緒に近所まで来て別れたのですが、何か用事が出来たのかしら」
「別に用はありませんがと仰有《おっしゃ》ってゞした」
 女中は云った。
「そうですか、それじゃ未だ少し手間取れるから、先へ行って呉れと云って呉れませんか」
「はい、承知いたしました」
 女中が退って行くと、石子は支倉の方に向き直って、
「どうも失礼いたしました。こちらに伺っている事を知っていたものですから、鳥渡寄って見たものと見えます」
 彼は鳥渡言葉を切って、
「で、いかゞでしょう。お出《い》で願われませんでしょうか」
 支倉はじっと眼を瞑《つぶ》って考えていたが、警察の手配りが届いているのを観念したらしく、
「宜しい。何の用かは知らぬが、兎に角一緒に行きましょう」
「どうも有難うございます」
 第二の難関を突破した石子刑事は再びホッとして礼を云ったが、未だ油断はなかった。
「直ぐ願えましょうか」
「えゝ、直ぐ行きましょう」
 支倉は割に気軽く答えた。
「鳥渡着物を着替えますから待っていて下さい」
 支倉が居間の方へ引下ると、石子刑事は直ぐに起《たち》上って、廊下に出て柱の蔭に隠れるようにしながら、じっと居間の様子を覗った。支倉の着物を着替えている姿が、チラ/\と見え隠れする。彼の筋張った手や、着物の端や、忙しそうに畳の上を這廻る帯の運動で手にとるように分った。
 余りじっと見詰めていた事が彼の人格を無視し過ぎるとも思われるし、さっきからの気の疲れもあるし、石子刑事はふと庭に眼をやった。縁の直ぐ前にある梅の枝が処女の乳首のようなふわりと脹らんだ蕾《つぼみ》をつけているのが眼に映った。やがて春だなあ、そう思って再び首を捻じ向けて居間の方を見ると、もう着物の端が見えない。気の故《せい》だか人気《ひとけ》がないように思われる。石子刑事ははっと顔色を変えて居間に飛込んだ。
 不吉な予感のあった通り、そこには支倉の姿はなかった。箪笥の前に小柄な女が佇《たゝず》んでいた。年の頃は二十七、八で、男勝りを思わせるような顔は蒼醒めて、眼は訴えるように潤んでいた。
「奥さん」
 一目で支倉の細君と悟った石子は大声で叫んだ。
「御主人はどこへ行きましたか!」
「只今表の方へ出ました」
 細君は静かに答えた。
 石子刑事は安心した。表へ出れば、表門からであろうが、勝手口からであろうが、待ち構えている渡辺刑事に直ぐ見つかって終《しま》う。そう周章《あわ》てるに及ばない。彼はそう思って落着くと、支倉の後を追う前に彼の鋭い眼で部屋の中をグルリと一廻り睨め廻した。彼の眼にふと開いた襖から鳥渡見えている二階へ通じる階段が映じた。その上にはさっき支倉が褞袍《どてら》の上にしめていた黒っぽい帯が蛇のようにのたくっていた。瞬間に彼の第六感はしまったと頭の中で叫んだ。
 彼は脱兎の如く部屋を飛出すと忽ち階段を駆け上った。八畳と六畳二間続きの南に向いた縁の硝子戸が一枚開いていた。その傍に駆け寄って見ると、下はふか/\した軟かそうな地肌だった。その地肌の上に歴々《あり/\》と大きな足袋裸足の跡と思われる型が、石子刑事を嘲けるように二つ並んでついていた。

          

 石子刑事に宛てた支倉の手紙には次のような事が書かれていた。


拝啓
 過日|態々《わざ/\》御来訪下され候節は失礼仕候。一旦御同行申すべきよう申し候え共、つら/\考うるに警察署の取調べと申すものは意外に長引くものにて、小生目下|鳥渡《ちょっと》手放し難き用件を控えおり、長く署内に留め置かれ候ようにては迷惑此上なし。依って右用件済み次第当方より出頭仕るべく候間左様御承知下され度候。尚一筆書き加え候が、多分は聖書の件と存じ候が、あれは尾島書記より貰い受けしものにして、決して盗み出せしものに非ず、右御誤解なきよう願上候。呉々も小生居所についての御詮議は御無用に願度、卿等の如き弱輩の徒には到底尋ね出ださる余に非ず、必ず当方より名乗って出《い》ずべきにより、無用の骨折はお止めあるよう忠告仕候。

 石子刑事は歯噛みをして口惜しがった。
 手紙を見せられた渡辺刑事も激怒した。
「馬鹿にしていやがる」
 稍《やゝ》あって石子は腹立たしそうに云った。
「聖書の事などは云いやしないのだろう」
 渡辺刑事が聞いた。
「無論云いやしない」
 石子は余憤の未だ静まらない形で、荒々しく答えた。
「ではきゃつ脛《すね》に持つ疵で早くも悟ったのだね。それにしても聞きもしないのにこんな事を書くのは白状したようなものだ」
 渡辺は鳥渡息をついで、
「尾島書記と云うのに会ったかい」
「会ったさ、然し貰ったと云うのは嘘だよ。会社の方で公の問題にしたくないと云う考えがあるので、それにつけ込んでこんな事を云っているのだ」
 石子は一気にそう云ったが、やがて調子を変えて、
「そんな問題は後廻しだ。一刻も早くきゃつを捕えなければならん」
「無論だとも」
 渡辺は言下に答えた。
 その日午後に又もや支倉から石子刑事に宛て一通の書留速達が舞い込んで来た。それには家の廻りなどをいくら警戒しても無駄な事だと云った意味が、前の手紙よりも一層愚弄的に書いてあった。
「畜生!」
 石子は心の中で叫んだ。
「おのれ、今に見ろ、然し俺は冷静に考えねばならんぞ。こんな嘲弄的な言葉を書いて送って、捜索の方針を胡魔化す積りかも知れない。こう云う時こそ反って彼奴《きゃつ》の家を厳重に見張る必要があるのだ」
 其夜、石子と渡辺は特に八時頃から支倉の家を見張る事にした。生憎朝からドンヨリと曇り、寒空で、夜になってからは身を切るような木枯がピュウ/\吹いて来た。二人は帽子を眉深《まぶか》く被って襟巻に顋《あご》を埋めながら、通行人に疑われないように何気ない風をして家の附近をブラリ/\と歩いていた。連日の疲労と焦慮で二人はゲッソリ痩せていた。
 主人のいない支倉の家はシーンとしていた。
 細君は無論の事、女中さえも外出しない。出入りをする御用商人もなければ訪ねる客もなかった。夜が更けて来るにつれて往来の人も杜絶えて、万物皆凍りついたかと思われるようだった。
「今晩も駄目か」
 落胆したように渡辺刑事が囁いた。

 落胆した渡辺刑事を慰めるように石子刑事は態《わざ》と元気よく答えた。
「未だ落胆するには早い。今晩はきっと来るよ」
 然し十二時を過ぎるまで予期した支倉は遂に姿を現わさなかった。人と云っては只一人、宴会帰りの学生らしいのが、朴歯《ほおば》の下駄をカラコロ/\と引摺って、刑事の跼《かが》んでいる暗闇を薄気味悪そうに透して見て通ったきりだった。
 石子刑事は泣き出したいような気持だった。同じ気持の渡辺に何か話しかけようと思って捩《ね》じ向くと、遙か向うの方から怪しい人影が見えた。彼はブラ/\とこっちへ向って来る。
 石子刑事ははっと緊張した。
 怪しい影はだん/\近づいて来た。二重廻しにすっかり身体《からだ》を包んで、片手に風呂敷包を抱えているらしいのがチラと見える。鳥打帽子を眉深に被っているが、色白の年の若い男で、支倉とは似もつかなかった。石子刑事は落胆した。
 怪しい男はちっとも気のつかない様子で刑事達の前を通り過ぎると、支倉の家に近づいたが、彼は何の躊躇もなくツカ/\と門内へ這入った。
 石子刑事は勇躍した。
 さっきから様子を見ていた渡辺刑事も喜色を面に浮べながら、
「とう/\やって来たな、だがあいつは支倉じゃないね?」
「違う」
 石子は微笑ながら答えた。
「然し、関係のある奴に相違ない」
「兎に角出て来る所を押えよう。此間のような目に遭うといけないから、僕は庭の方を警戒しているよ」
「そうだ。今度逃がすと大変だ」
 石子は苦笑いしながら、
「じゃ庭の方を頼むぜ」
 二人は裏と表とに別れて、怪漢の出て来るのをじっと待っていた。
 当もなく待っているのも随分辛くもあり、長くもあったが、当があって今か今かと待ち設《もう》けるのはそれ以上に長く辛かった。一分が十分にも三十分にも思えるのだった。四晩の辛労に肝腎の巨魁を捕える事は出来なかったが、確にその片割れと思える男を取押える事が出来るのであるから、両刑事の胸は躍っていた。それだけ一刻も早く彼の出て来るのが待たれるのだった。
 実際では三十分余り、石子刑事には三時間も待ったかと思われる頃、植込を通して玄関にほんのりと燈火《あかり》がさして、人の出て来る気配がした。渡辺刑事も早く察したと見えて、門の方へ引返して来た。
 門から出て来たのは確に先刻の男だった。風呂敷包はそのまゝ持って来たらしく、それに先刻のように抱えていない、ブラリと提げているので、半分以上二重廻しの下からはみ出していた。薄べったい角張ったものらしい。
 彼が門外へ踏み出して三、四間歩くと、待構えた石子と渡辺は左右から包囲するように彼に近づいた。
「もし/\」
 石子刑事が先ず声をかけた。
 怪しい男は吃驚《びっくり》して飛上った。もう少しで風呂敷包を取り落す所だった。
「いや心配しないで宜しい。僕達は刑事なんだ。鳥渡聞きたい事があるんだがね」
 石子は静かに云った。
「はあ」
 彼は二人の刑事の顔を見くらべながらおど/\と答えた。
「君の住所と名前を云って呉れ給え」
「白金三光町二十六番地、浅田順一です」
「職業は?」
「写真師です」
「何、写真師?」

 深夜の支倉邸に出入した怪しい男は石子刑事の訊問に平然と答えた。
「そうです。ついこの先の写真館です」
「ふむ、で、何の用でこの夜更にこゝへ来たのかね」
 石子刑事は意気込んで訊ねた。
「奥さんの写真の焼増が出来上ったので持って来たのです」
「その風呂敷包はなんだね」
「之ですか之は見本帳です」
 彼は進んで風呂敷包を拡げて見せた。彼の云った通り大形の帳面でいろ/\の写真が張りつけてあった。
「それにしてもこんな夜更けに来たのはどう云う訳だ。第一ここの主人は留守ではないか」
「御主人のことは知りませんが、今朝奥さんが急に焼増をたのまれまして、どんなに遅くても今日中に届けて呉れと云われましたので、以前から御贔屓《ごひいき》になっていますから止むを得ずお引受したのです」
 彼の答えは澱《よど》みがなかった。石子はそっと渡辺の顔を見た。
 確に支倉に関係ある男と睨んで深夜に取押えた怪漢が、思いがけなく附近の写真館の主人だったので、石子刑事は落胆して終《しま》った。それは彼の返答に曖昧な所がなく、警察署へ同行を求める口実もないので、そのまゝ帰すより仕方がなかった。
 石子は渡辺刑事の顔を覗ったが、渡辺にも格別好い智恵がないらしかった。
「どうも失礼、よく分りました」
 石子刑事は写真師に云った。口惜しそうな調子は隠す事が出来なかった。
 写真師は別に嬉しそうでもなく、腹を立てたと云うでもなく、黙って一礼するとさっさと歩いて行った。
 渡辺刑事は如才なくそっと彼の跡を追った。
 暫くすると刑事は帰って来た。
「確に浅田写真館の中へ這入ったよ」
 渡辺は茫然《ぼんやり》している石子にそう云った。
 二人はもう之以上見張りを続ける勇気がなくなった。夜が明けるのを待兼ねて二人はそれ/″\宿所へ引上げた。
 石子刑事が一眠りして正午近く神楽坂署へ出ると、書留速達の分厚の封筒を受取った。それは又しても見覚えのある支倉からの手紙だった。石子はちょっと舌打しながら封を切った。
 手紙には矢張以前のように嘲笑的言辞で充ちていた。が、三度目ではあるし、始めての時程は腹も立てなかった。
 が、翌朝再び支倉から分厚の手紙を受取った時には流石の石子刑事は彼の執拗さには呆れざるを得なかった。手紙は無論その都度消印を調べるのだけれども、一つ一つ差出局が違っていて、浅草だったり神田だったり、麹町だったりしたので、何の手懸りにもならなかった。
 手紙には相変らず嘲弄的な事が書並《かきつら》ねてあった。石子刑事はふゝんと嘲笑い返しながら読んでいたが、次の一句に突当ると、彼の忿懣《ふんまん》はその極に達した。
「青き猟師よ。汝の如き未熟の腕にて余の如き大鹿がどうして打とめ得られようぞ。万一打留め得られたら、余は汝に金十万円を与えよう」

 重ね/″\の侮辱に若い石子刑事は、もう我慢がならなかった。彼は果して支倉の手に這入るものやら、又そんな事が捜索上無益か有害かそんな事を考えている余裕もなく、支倉の留守宅へ宛て返事を書いた。
「手紙見た。丁度金の欲しい所であるから、折角の十万円頂戴する事にしよう。忘れずに用意をして置け」
 手紙はそんな意味だった。
 支倉喜平の大胆不敵の振舞に少しく不安を感じた石子刑事は渡辺刑事と相談の上、遂に委細を司法主任の大島警部補に報告した。
「ふん」
 赤ら顔の大島主任は眉をひそめて、
「成程、そいつは厄介な奴だ。抛って置いては警察の威信にかかわる。出来るだけ早く捕えて終おう。ついては石子君、決して君の手腕を疑う訳ではないが、こいつは一つ根岸君に加勢して貰おうじゃないか。こう云う横着な奴にはどうしても老練家が必要だからね」
 根岸と云うのは当時署内切っての老練な刑事で、警察界には二十年近くもいるのだった。他署で鳥渡|失策《しくじ》った事があって、官服に落されようとしたのを危く免れてこの署に転勤して、私服予備と云う刑事よりも一段低い位置にいた時にすら署内の刑事残らず指揮した程だった。石子は根岸とは親しい仲だったので格別不服はなかった。
「徹宵の張り番とは中々骨を折ったね」
 話を聞いた痩ぎすの根岸刑事は、浅黒い顔を緊張させながら石子刑事に云った。
「然し張込みは対手に悟られると効果が薄いよ。兎に角隣近所や出入の商人に監視を頼んで置くのが好い。こう云う場合に本人が普段近所に評判が好いんだと鳥渡困るがね、逆だと非常に都合が好いんだ、進んで知らして呉れるからね。それから写真を早く手に入れて各署へ廻して置かねばいけない。それから君の押えた写真師、浅田とか云った男だね、そいつは十分調べて見る価値があるね」
 石子刑事は根岸の言葉を噛みしめるように黙々として聞いていた。

 二月初めの陰鬱な空から粉雪がチラ/\していた。
 石子刑事は早朝から白金三光町の支倉の家の近隣を歩いて四五軒の家に、支倉の監視をたのみまわった。
 意外だった事には彼が事情の概略を話して、支倉主人が帰って来た形跡があったり、又支倉の家に何か変った事が起ったら、早速警察へ知らして貰いたいと云う事を依頼すると、いずれも快よく引受けて呉れた事だった。彼等の口裏から察しると、支倉はどうした訳か近所の人達からよく思われていないようだった。
 こんな事なら三晩も四晩も徹宵見張りをする事はなかったと後悔しながら、それでも案外旨く事の運んだのを喜びながら、石子は写真を手に入れる為に支倉の家に向った。
 支倉の細君は石子の姿を見ると不愉快な表情をしたが、然し調子よく彼を迎えて奥の一間へ通した。石子刑事は高圧的にすべての写真を取り出す事を命じた。細君は唯々として分厚い写真帳や古ぼけた写真を彼の目の前に運んだ。
 写真帳を繰っているうちに、石子刑事は思わずあっと叫んだ。
 それは半ば口惜しい叫声で、半ば感嘆の叫声だった。写真帳のどの部分からも支倉自身の写真と思われるものは尽《こと/″\》く引裂かれているのだった。

 何と云う抜け目のない悪人だろうか。
 写真帳からは彼の一人写しは無論、二、三人で写しているのや、大勢と一緒に写している写真の彼の姿と思われる部分はすっかり引裂いてあった。無論手箱の中に収められたキャビネや手札形の写真の中には彼の姿の片鱗さえなかった。いつの間に之だけの周到な用意をしたのだろうか。
 石子刑事は何気なく聞いた。
「奥さん、此間のあなたの焼増はどれですか」
「それはあの」
 彼女はドギマギしながら、
「お友達の所へ送って終《しま》いました」
 石子刑事は細君の顔色をじっと観察した。それから半ば引裂かれた写真の台紙に残っている写真館の名を手帳に控えて外に出た。
 それから彼は手帳に記された二、三の写真館を訪ねた。驚いた事にはどの写真館でも石子刑事の求める種板はすべて最近に買収せられていた。無論支倉の仕業に相違ない、余りの彼の機敏さに石子刑事は茫然とした。
 けれども彼はこんな事では屈しなかった。
 彼の頭脳《あたま》には半ば引裂かれた一葉の写真が記憶に残っていた。それは支倉が四、五人の宣教師仲間と写したものらしく、無論彼自身の姿は引裂いてあったが、右の端に白髪の外国人が端然と腰をかけていた。外人宣教師は数も少いし、支倉の派に属するものとすれば一層範囲は狭められるし、殊に白髪の老人と云う特徴があるから、どうにか尋ね出せそうに思われた。
 彼は二、三の教会を尋ね廻った。そうしてそれがどうやら府下中野の中野教会のウイリヤムソンと云う牧師らしい事が分った。
 石子刑事はその足ですぐに中野に向った。短い冬の日はもう暮れかゝっていた。
 中野教会でウイリヤムソンの所を聞いて狭苦しい横丁を幾曲りかしながら、彼の宅を訪ねると幸い彼は在宅だった。遭って見ると確に写真の老人に相違なかった。
 対手が外国人だし、宣教師と云う職にある人だし、聞き届けて呉れるかどうか危ぶみながら支倉の逃亡した話をして、一緒に写している写真を貸して貰いたいと切出すと、案じるより生《うむ》が易く、彼は、「神様は悪い事の味方しません」
 と云って快く支倉と一緒に写っている写真を貸して呉れた。
 石子は帰署して手に入れた写真を大島司法主任に差出すと、牛込細工町の自宅に帰った。
 妻のきみ子はいそ/\と彼を迎えたが、やがて一通の封筒を差出した。書留速達で来たものだった。取上げて見ると、あゝ、又しても支倉からの手紙だった。彼は思わず力一杯畳の上に叩きつけた。妻は眼を丸くした。
 内容は相も変らず嘲笑に充ちて居た。近いうちにお宅へお礼に出るなどと書いてあった。それにしても彼はどうして自分の宅の番地を知ったのであろうか。
 呆気にとられている妻に手短に事情を話した末、石子は云った。
「こんな奴の事だから事によったら本当に俺の宅に来るかも知れない。無論俺の留守を覗って来るのだ」
「まあ嫌だ」
 妻は顔をしかめた。
「馬鹿! 刑事の女房がそんな事でどうするのだ」
 彼は苦笑いしながら、
「もし来たら、何食わぬ顔をして丁寧にもてなして上へ上げて、お前はお茶菓子でも買いに行くような風をして交番へ行くんだ。交番の方はよく頼んで置くから分ったかい」
「えゝ、もし来たらそうしますわ」
「よしじゃ俺は一寸交番へ行って来る。きゃつ事によったら、こゝの近所をうろついたかも知れない」

「君、こう云う奴が僕の事を何か聞かなかったかい」
 交番に行くと石子刑事は、そこにいた顔馴染の巡査に支倉の容貌を委《くわ》しく話した。
「えゝ、来ましたよ。朝でした。丁度私の番の時です。そいつに違いないのです」
 巡査は答えた。
 彼の話によると、今朝方支倉はブラリとこの交番を訪ねて、繃帯をした腕を示しながら、
「私は此間電車から落ちてこの通り怪我をしたのですが、その節傍に居られた石子刑事さんに大へん御厄介になったのです。是非一度お訪ねしてお礼がしたいのですが、あの方のお住居は、どちらでしょうか」
 と聞いたのだった。
 で、巡査は委しく石子刑事の宅を教えたのである。
「繃帯をしていたって?」
 石子は聞き咎めた。
「えゝ」
「怪我をしたようだったかい」
「そうですね、どうもそうらしかったですよ」
 どうして怪我をしたのか知ら。二階から飛降りた時かしら。
 石子は鳥渡考えて見たが、もとより分る筈がなかった。
「ではね、君、もし今度この辺をうろついていたら、早速捕まえて呉れ給え」
 石子はそう云い置いて家に帰った。
 翌日の午後、石子刑事が署に出ると、又しても書留速達の分厚い手紙を受取った。
「又かい」
 根岸刑事がにや/\しながら聞いた。
「執拗《しつこ》い奴だね」
 傍にいた大島主任が云った。
「あゝ、そう/\。君の持って来た写真は複写して、今朝各署へ配付したよ」
「そうでしたか」
 石子は簡単に返事をして、静に手紙の封を切った。予期した通り中には嘲笑的な文句が充満していた。
「はがき有難うよ。十万円は用意してあるから、いつでも取りに来いよ」
 と云う文句に突当ると、石子は鳥渡首を傾けたが、急に頓狂な声を出した。
「あいつは留守宅と連絡しています」
「何だって?」
 主任が驚いたように聞いた。
 石子は口早に十万円云々で腹立まぎれに留守宅へはがきを出した事を話した。
「その返辞が来たと云う訳だね」
 根岸刑事は暫く腕を組んで考えていたが、
「もう一度写真屋の浅田を召喚しなければならぬ」
「一度喚んだのですか」
 石子が聞いた。
「うん、君が奔走している間に一度喚んだのだがね、旨く云い抜けて中々本当の事を云わない。あいつも相当喰えない奴だよ。思う所があって態《わざ》と帰宅を許したのだがね。彼奴《きゃつ》の行動については渡辺刑事が気をつけている筈だよ」
「支倉の奴が私の宅の近所へ来たんですよ」
 石子は思い出したように云った。
「交番で私の住所を調べやがってね。近々私の宅を訪ねると云うので女房は震え上っているんですよ。ハヽヽヽ」
 この時扉が開いて一人の巡査が顔を出した。
「司法主任、電話です」
 急いで出て行った大島警部補はやがて興奮した面持で帰って来た。
「北紺屋《きたこんや》署からだ」
 彼は早口に云った。
「今朝配付の写真に該当する人物が、先般来度々同署へ出頭したそうだ」
「何、なんですって!」
 根岸と石子の両刑事は同時に叫んだ。

「確にあなたの云われる通りの男です」
 若い巡査はうなずいた。
 石子刑事は北紺屋署の陰鬱なジメ/\した一室で彼に相対していた。
「三度来たと思います」
 巡査は続けた。
「何でも車掌の不注意で電車から転がり落ちて、その為に腕に繃帯をしていましたし、医者の証明書見たいなものも持っていました」
「で、損害賠償でも取ろうと云うのですか」
 余りの人もなげな振舞に石子刑事は唇を噛みながら聞いた。
「そうなのです。どうしても電気局|対手《あいて》に損害賠償を取るんだと云って、非常な権幕でした。然し私の見た所では大した傷でもないようだし、告訴までして騒ぐ程の事もなかろうと、穏かに示談にしたらいゝだろうと勧めたのです」
「それでどうしました」
「いや実に執拗い男でね、警察は誠意がないとか、弱いものをいじめるとか、喚き立てましてね、閉口しました。然し結局告訴するにはいろ/\面倒な手続きがいる事が分ると渋々帰って行きました」
 何と云う大胆不敵な奴だろう。逃亡中のお尋ね者の身体で、例え所を隔てた他署とは云え、警察署へ堂々と出頭して、而も強硬な態度で喚き立てたりしたとは!
 石子刑事は云う所を知らなかった。
 若い巡査は気の毒そうに云った。
「そんな奴と知れば勿論捕えるのでしたが、少しも知らなかったものですから。それにしても警察へ出て来るなんて、実に驚くべき奴ですね」
 石子刑事は頭をうなだれて北紺屋署を出た。
 帰署して委細を司法主任に報告すると、主任は口惜しそうに云った。
「もう少し早く写真が手に這入ると、捕まったんだなあ」
 根岸刑事は無表情な顔をして黙っていた。
 石子は根岸の冷然とした態度が少し癪に障ったけれども、考えて見ると写真の事に気がつかなかったのは全く自分の落度だから仕方がない。彼は面目なげに頭を掻いた。
「どうも相すみませんでした」
「何、失敗は成功の母さ。君がそれだけ経験を得た事になるのさ。ハヽヽヽ」
 司法主任は磊落《らいらく》に笑ったが、直ぐに語気を変えて根岸を省みながら、
「然し何だね。これ位大胆不敵な奴は珍しいね。之が無学な奴なら前後の考えもなく無茶でやったと云う事が出来るかも知れんが、奴は充分学識があるのだからね、全く警察を軽蔑しているのだよ。電車から落ちて腕を少し怪我した位で、お尋ね者の身体で損害賠償を取りに警察へ出て来るとは随分好い度胸だね」
「人を舐《な》めた奴ですよ」
 根岸は相変らず冷然と答えた。
「実に人を食った奴だ」
 石子刑事は独言のように叫んだ。彼は支倉に愚弄されている自分の哀れな姿を思うと、腹立たしさに堪えなかった。今に見ろ! と心の中で叫んでいた。
 突然扉が開いて、蒼い顔をした渡辺刑事がよろめくように這入って来た。
「ど、どうしたんだ」
 流石の根岸も驚きながら聞いた。
「逃がしたのです。あの写真師を――彼奴《あいつ》は又支倉の家へ行きました。出て来たのを尾行すると彼は宅の前を通り過ぎてグン/\歩いて行くのです。所が私は巧に撒かれて終《しま》ったのです」
 渡辺刑事は溜息をつきながら一座を見廻した。

          旧悪

 支倉喜平の一件は署内でも評判になった。勢い大島司法主任は署長に逐一報告しなければならなかった。
「怪《け》しからん奴だ」
 話のすむのをもじ/\して待っていた署長は年の割に毛の薄い頭から湯気でも立てるように赫《か》っとして、早口の北陸訛りで怒鳴った。
「そんなやつを抛っとくちゅうやつがあるもんか、関《かま》わん、署員総がゝりで逮捕するんだ」
 署長と云うのは、つい一週間程前に堀留署から転任した人だった。前任地では管内の博徒を顫え上らした人で、真っすぐな竹を割ったような気性の人で、よく物の分る半面には中々譲らない所があり、場合によると非常に熱狂的な快男児だった。庄司利喜太郎と云えば無論知っている人がある筈だ。後に警視庁の重要な位置を占めた人である。不祥な事件に責を負って潔《いさぎよ》く誰一人惜しまないもののないうちに、警察界を引退した人だが、当時は大学を出て五、六年の三十二三歳の血気盛りで、こうと思えば貫かぬ事のない時代だった。
「そう云う奴は君」
 暫くして庄司署長は云った。
「きっと前にも悪い事をしているに違いない。少し身許を洗って見たらどうだ」
「私もやって見ようと思っていた所でした」
 署長の慧眼を称えるように司法主任は答えた。
 署長の見込は外れなかった。支倉の本籍山形県へ照会すると、果して彼は窃盗の前科三犯を重ねた曲者だった。宣教師の資格も正式に持っているかどうか疑わしかった。
 石子刑事は直ちに彼の上京以来の行動の探査を始めた。
 彼は毎日のように支倉からの嘲弄の手紙を受取って、彼の行方を突留ることの出来ない腑甲斐《ふがい》なさに歯ぎしりをしながら、方々を駆け廻って、それからそれへと溯って、支倉の昔の跡を嗅ぎ廻った。
 支倉は三光町へ来る前は高輪にいた。高輪の前には神田にいた。神田の前には横浜にいた。所が不思議な事には彼は前住地の三ヵ所でいつでも極って火事に遭っているのだった。
 横浜の場合は全焼、神田と高輪の場合は半焼けだった。高輪の時は附近の人に質《たゞ》すと確に半焼けであるにも係わらず、保険会社では動産保険の全額を支払っていた。神田の時は支倉の隣家の人が放火をしたのだと錦町署へ密告したものがあった。その為に隣家の人は一週間程同署へ留めて置かれたが、結局証拠不十分で、のみならず、支倉が同情して、身柄引下を嘆願に来たりしたので、彼は間もなく放免されたような事実があった。
 こう云う事実を突留た石子刑事は久々で自宅の居間に坐って、じっと腕を組んで考えた。
 火事に遭った事は偶然だろうか。偶然でないとは云えないけれども、三度が三度ながら火事に遭って、いつでも少からぬ保険金を受取っているのは偶然以上ではなかろうか。尚調べた所によると彼は収入以上の贅沢な暮しをしている。それに現在の大きな家も彼の所有であるし、外に家作を持っている。聖書を盗んだ高も中々の額に上っているようだが、その外に何かの手段で金を得なければあれだけの財産は出来ない。尤も財産を作るには利殖の方法もあるし、比《たと》えば定期市場に手を出すような方法もあるから、一概には云えないが、三度の火事は疑えば疑えない事はない。彼の今までのやり方を見れば保険金詐取の放火である事が殆ど確実ではないか。
 石子が火鉢の前で考えに沈んでいると、表戸がガラリと開いた。

「郵便かしら」
 表戸がガラリと開いたので、妻のきみ子はぞっとしたようにそう云って立上った。
「郵便じゃなかったわ」
 やがて晴々した顔で彼女が這入って来た。後には岸本青年がニコ/\しながら従っていた。
 石子は彼の姿を見ると、機嫌よく言葉をかけた。
「やあ、よく来たね」
「大へん御無沙汰いたしました」
 岸本はすゝめられた座蒲団を敷きながら、
「何だかお顔色が悪いじゃありませんか」
「うん、君のいつか話した聖書泥棒だね。あいつで今手こずっているんだよ」
「そうですか、未だ誰だか分らないのですか」
 岸本は眼鏡越しに愛くるしい眼を無邪気に光らせながら聞いた。
「何、犯人は分っているんだが、捕まらないので弱っているんだ」
「そうですか。一体何と云う奴なんです」
「支倉喜平と云う奴なんだ」
「えっ、支倉?」
「そうだよ。君知ってるのかい」
「知っています。矢張りあれでしたか。どうも評判の好くない人でね。若い者にはすっかり嫌われているのです。所が教会の老人組と来た日には事勿《ことなか》れ主義でね。それに少し嘘涙でも流して見せようものなら、すぐ胡魔化されるのですから――それで何ですか支倉は逃げたんですか」
「僕が逃がしちゃってね、いやはや大弱りなのだ。実に大胆不敵で悪智恵の勝れた奴でね。こゝだけの話だが、実はとても俺の手に合いそうもないのだよ」
「そんな事はありますまいが」
 岸本はニコリと笑ったが、急に真面目になって、
「本当にそんな悪い奴なのですか」
「悪いにも何にも、大悪党だ」
「そうですか。もしそうだとすると少し話があるのですが」
「支倉についてかね」
「そうです」
「どう云う話なんだね」
 石子は思わず首を前へ突き出した。
「御承知の通り私は四年生まで城北中学にいましたが、小林と云う理科の先生がありましてね、基督教信者でしたが、娘さんの確《たしか》貞子と云いましたが、それを行儀見習いに支倉の所へ女中に出したのです。三年前の事ですが、娘さんは十六位でした。私も未だ不良だった時代ですから、トテシャンだとか、いや何だとか云って騒いでは、不良仲間と一緒に手紙を送ったりして、先生を心配さしたものです。内気な可愛い娘さんでしたよ」
 岸本は鳥渡顔を赤らめたが、すぐ真顔になって、
「その娘さんが間もなく家出して、未だに行方不明なのです」
「え、その家出と云うのも支倉の家をかい」
「いゝえ、そうではないらしいのです」
 岸本も委しい事は知らなかったが、何でもその貞子と云う娘が、支倉に奉公中病気になって、その為に暇を貰って、知合の宅《うち》から毎日病院に通っていたが、ある朝いつものように病院に行くと云って家を出たまゝ帰らなかった。
 それからもう三年経つが、未だに行方不明というのだった。
「もしかすると支倉がどうかしたんじゃないでしょうか」
 岸本は不安そうに云った。

 可憐な娘が行方不明になったのは支倉が誘拐でもしたのではないかと云う岸本の言葉に、石子刑事は、
「さあ」
 と云って腕を組んだ。
 支倉の家に女中をしているうちに行方不明にでもなったのなら格別、病気の為に暇を取って帰ってからの事だとすると、濫《みだ》りに支倉を疑う訳には行かない。然し今までの支倉の不敵な行動と、いろ/\疑わしい前身を考え合せて見ると、女中の家出と云う一見ありふれた事件ながら、直に無関係と極めて終う訳にも行かない。女中の病気は何か、どうして病気になったか。家出当時の状況など一応取調べて見ねばなるまい。
 石子刑事は腕組を解いて顔を上げた。
「その小林と云う先生は今でも学校にいるのかい」
「えゝ、相変らず動植物を受持って、生徒に馬鹿にされているのですよ」
「どこだね、住居は」
「江戸川橋の近所です。確か水道端町だと思いました」
「その娘さんは何病だったか知らないかい」
「それでね、妙な噂があるのですよ」
 岸本は声をひそめながら、
「花柳病らしいと云うのです」
「ふーン、十六の娘がね」
 石子は首を傾けた。
「不良中学生なんて云うものはどこから聞出して来るか、いろんな事を知ってるものですよ。それに先生の娘さんがシャンだなんて騒いでいたのでしょう。支倉へ行ってからも行動は大小となく探り出して来るのですよ」
 岸本の噂の聞覚えや、推測によるとその娘は支倉に犯されて忌まわしい病気になったのではないかと云うのだった。
「同級生にひどい奴がありましてね、そいつはある名士の息子なんですが、少し低能で二十いくつかで四年級だったのです。そいつが時間中に小林先生に娘さんの御病気は何ですかと大きな声で聞きましてね、その時、小林先生の今にも泣き出しそうに口を歪めた、何とも名状すべからざる気の毒な顔は今でも覚えています」
「ふーん、いや好《い》い事を知らして呉れた」
 石子刑事は再び腕を組んで、深く考えに陥ち込んだ。
 岸本青年は所在なさに細君に話しかけた。
「奥さん、何か面白い話はありませんか」
「えゝ、別にありませんね。私もね、今の話の支倉と云う人から威《おど》かされているんですよ」
「えっ、どうして?」
「始中終《しょっちゅう》脅迫状みたいなものが来るんですよ」
 きみ子は眉をひそめながら、
「今にお前の宅へお礼に行くから待って居ろなんて、そりゃ凄い事が書いてあるんです」
「へえー、ひどい奴だなあ」
 岸本は呆れたように云った。
「ですから私毎日ビク/\してるのよ」
 きみ子は淋しそうな顔をした。
 石子は二人の話声が耳に這入らないようにじっと考え込んでいた。
 三年前の女中の失踪。誘拐されたか、自殺したか、それとも殺されたか、いずれにしても死んだのなら死体が出そうなものだ。親の身として似寄りの死体が出たら、きっと見に行った事であろう。死体の出ないのは未だ生きているのか。
 疑問の怪物支倉の女中の謎の失踪。こりゃ愈※[#二の字点、1-2-22]むずかしくなって来たぞ。
 石子刑事は思わずうーむと唸った。

 岸本から三年前に支倉方の女中が行方不明になった事を聞いた翌晩、石子刑事は女中の父親である城北中学の教師小林氏の自宅を訪ねた。
 面長の頬骨の出た生活に疲れたような小林氏は、乱雑に古ぼけた書物の積上げてある壁の落ちた床の間を背にして、眼をしばたゝきながら、ポツリ/\と話した。
「仰せの通りあれが行方不明になりましたのは丁度三年前です。この頃はもう諦めましてな、成る可く思い出さないようにしているのです。
 貞子は長女です。兄が一人ありますが、之はお恥かしい次第ですが、すっかりグレて終《しま》いましてな、結局あなた方の御厄介になるのではないかと心配しています。弟の方は只今中学に参って居ります。妹はまだ小学校です。あれは内気な病身と云った性質だったものですから、それに御覧の通り貧乏ではありますし、学校を中途で引かせまして、幸い世話して呉れる人があって、支倉さんへ行儀見習いと云う事で差出したのでした」
 陰気な部屋でそれに電燈も暗かったが、小林氏の話振りには何かこう陰惨な所があって、引入れられるような気がするのを不思議に思っていた石子は、ふと気がつくと、小林氏の黒ずんだ歯並びの悪い歯の中で上の二本の犬歯、俗に云う糸切歯が勝れて長く、それが口を開く度に異様な妖怪じみた印象を与える為だった。
「所が」
 小林氏は一向そんな事に気づかないで相変らず異様な犬歯をチラつかせながら、
「全く以て思いもかけぬ事でした。尤も娘は身体は大きい方でしたが、何を云うにも十六と云う年ですし、支倉さんは宣教師と云う教職に居られるのですし、間違いがあるなどとは夢にも思っていませんでした。それが」
 小林氏はこゝで鳥渡《ちょっと》言葉を切って、云い憎そうにした。
「そんな風の事を鳥渡聞きました」
 石子刑事はやはりそうだったのかと思いながら、小林氏に気易く話させるように、態《わざ》と事もなげに云ったのだった。
「もう、お聞きでしたか。お恥かしい次第です」
 小林氏の話によると貞子は支倉の為に暴力をもって辱かしめられたのだった。そして忌まわしい病気を感染された為に働く事が出来なくなり、暇を貰って知合の家から病院通いをしなければならなかったのだった。流石《さすが》の石子も只《たゞ》あきれて聞く許《ばか》りだった。
「三年前の一月末でした。夜遅く貞を預けてあった知り合の家から使がありまして、貞はこっちへ来てないかと云うのです。だん/\わけを聞きますと、朝いつもの通り病院へ行くと云って出たきり帰って来ないので、病院初め心当りは皆訪ねたけれども、どこへも立寄った形跡がないと云うのです」
 それから小林氏の方でも手を分けて、訪ね廻ったが、一向手懸りがない。無論置手紙もないし、はがき一本寄越して来ない。警察へも捜索願を出したが、杳《よう》として消息がないのだった。
「死んだものと諦めているのです」
 小林氏は眼を瞬きながら、
「子供心にも恥しいとでも思いましたか、投身でもしたのでしょう」
「そのお知合と云うのはどう云う関係なんですか」
「貞を支倉へ世話をして呉れた人でしてね。貞が治るまでの費用は支倉の方で出すと云う事になっていたので、中に這入って貞を預かって呉れたのでした」
 小林氏の話振が陰気なのと、ニョッキリ出た犬歯が何となく容貌を奇怪に見せるので、暗い電燈が段々暗くなるような気がするのだったが、石子刑事は尚も熱心に問い質《たゞ》した。
「立入って聞きますが、その辱しめられた事や病気をうつされた事などは当人からお聞きでしたか」
「後には本人にも云わせましたが、初めに気づきましたのは私の弟なのです。こいつは誠に手のつけられない奴で、酒から身を持ち崩して今は無頼漢《ごろつき》同様になって居ります。誠に重々恥しい事ばかりです。こいつが、無論私の所へも毎度無心に参りますが、貞の支倉に居た時分には時々その方へも無心に参ったのです。で、蛇《じゃ》の道は蛇《へび》とやら云って、悪い奴ですから悪い事には直ぐ気がつきます。貞を威しすかしてすっかり様子を聞いたのです。それから奴は度々支倉さんの所へ出かけて、無心を吹きかけたようでした」
 支倉を強請《ゆす》って金にするとは上には上があるものだと感心しながら、石子刑事は膝を進めた。
「その弟御さんと云うのは東京にお出《いで》ですか」
「えゝ、神田に居るのですが」
 困った事を耳に入れたと云う風で、小林氏は後を濁した。
「御住所を教えて頂けませんでしょうか」
 刑事の依頼に今更取消す訳にも行かず、呉々《くれ/″\》も弟の不利益にならないようにと頼んだ末、小林氏は住所を委《くわ》しく話した。石子はこれを書留めて家を辞した。いつの間にやら大分夜が更けていた。
 翌朝石子刑事は神田三崎町に小林定次郎を訪ねた。
 変にゴミ/\したような感じのする横丁を這入って行くと、軒の傾きかけたような車宿《くるまやど》があった。
 そこの二階の一室に彼はいたのだった。
 ギシリ/\と粗末な梯子段を軋らせながら、窮屈そうに降りて来た彼は、石子刑事を見てペコンと頭を下げた。朝から酒気を帯びていた。
「警察の旦那ですか。あっしゃ近頃御厄介になるような事はいたしやせんが」
 どっちかと云うと丸い肉附きの好い、見るから酒毒で爛《たゞ》れたと云う赤ら顔や、はだけた胸のだらしなさは、痩せて仙骨を帯びたと云った風の兄の小林氏とはこれが兄弟かと疑われる程似もつかなかったが、口を開くと二本の異様な長い犬歯が現われて、血統のものにちがいないことを語っているようだった。
「何、心配するような事じゃないのだ」
 石子刑事は気軽く云った。
「鳥渡《ちょっと》内密に聞きたい事があるのだがね」
「そうですかい。じゃ、すみませんが上って下さい。汚いのなんのって、珍しく汚いのですから、そのお積りで」
 二階裏の一室は立てば忽ち頭を打つような窮屈さだった。剥出《むきだ》しの曲りくねった垂木には一寸程も埃が積もっていた。
「支倉の奴ですかい」
 石子刑事が切り出すと彼は忽ち大声を出した。
「旦那、あんな悪党はありませんぜ。あれが耶蘇の説教師だていから驚きまさあ」
「支倉にいた親類の娘さんが行方不明になったそうだね」
「えゝ、あの野郎め、未だやっと十六になった許《ばか》りの姪を手籠めにしやがって、挙句の果にどっかへ誘《おび》き出して殺して終《しま》いやがったんでさあ」

 定次郎の放言には石子刑事も驚いた。
「オイ/\、声が大きいぜ、滅多な事を云うなよ」
「へえ、すみません。実はわっちの方にも之と云う手証《てしょう》がねえもんですから、仰せの通り大きな声は出せねえのです。少しでも証拠がありゃ、今まで黙っちゃいないのです。
 一体《いってえ》兄貴が意気地がねえもんだから、現在の娘をあんな眼に遭わされて、運命だ、いや荒立てゝは身の恥だなんて、中学校の先生なんてものはみんなあんなもんですかねえ。だから、あっしゃ見ちゃいられねえのです。姪を元の身体《からだ》にして返せとまあ、旦那、談判に出かけたもんです。支倉の奴は木で鼻を縛《くゝ》ったような挨拶をしやがったが、おかみさんが分った方《ひと》でねえ、病気の方は医者にかけて治療させると云う事になって姪の奴は一先ず世話した人の宅へ引取って、それから病院に通わせると云う事になったのです」
「それから」
「それから、その詫《わび》の印《しるし》にていんで、二百――ハヽヽッ、旦那兄貴はなんか言ってましたか」
「お前が支倉から二百両|強請《ゆすっ》たと云ったよ」
「じょ、冗談ですよ、旦那、強請たなんて、強請ったにも何もまるっきり貰っちゃいませんです。話だけ二百両で片を附けると云う事になった翌日、姪の奴が行方知れずになったのです」
「ふん、で、金の方はどうした?」
「あっしゃ何でも支倉の奴が邪魔者だと云うので殺《や》ったに違いねいと思って、飛込んで行ったのです。所が野郎落着き払って、逆にあっしに喰ってかゝるのです。貞が見えなくなったと云うのは貴様が隠したに違いない。早く本人を連れて来い。でなきゃ金は一文だって出せないぞ、って息巻くんでさあ、恰《まる》で云う事が逆なんでさあ」
「ふん、それからどうしたね」
 石子刑事は早口に聞いた。
「あっしも黙っちゃいませんや、ね、旦那」
 調子づいた定次郎は臭い息を吐きながら、
「あっしが貞子を隠すなんて途方もねえ事です。所がどうも口となるとあっしゃ不得手でしてね、とう/\支倉にやり込められて、僅かばかりの涙金で、スゴ/\と引下って来たんです」
「ふむ」
 石子刑事は腕を組んだ。
「じゃ君は貞子の事については心当りがないのだね」
「からっきし、見当も何もつかないんです。だが、あいつも十六だったんですから、自分から死ぬ気なら遺書《かきおき》の一本も書くでしょうし、生きてるなら三年|此来《このかた》便りのない筈はねえでしょう。あっしはどうしても支倉が怪しいと睨んでいるんだ。旦那、あんな悪い野郎は御用にしておくんなさい」
 定次郎の話も支倉に対する疑惑をいよ/\深くするだけで、積極的には何の役にも立たなかった。石子刑事は元気なく頭を垂れたまゝ汚い車宿を出た。
 外へ出た彼はそのまゝ帰署して根岸刑事に相談しようかと思ったが、思いついて、一度支倉の留守宅を訪ねて、彼の妻に会って問い質して見ようと云う気になった。彼は水道橋駅から省線電車に乗り込んだ。
 支倉の家は相変らずしーんとしていた。十日許りの間に庭の梅の木は主人のいないのも知らぬ気に一輪、二輪|綻《ほころ》びかけていた。離座敷に通されて、梅の枝を見上げた時に、取逃がした日の事が歴々《あり/\》と思い出されて、それからの苦しい四晩の徹夜、それから今日までの苦心の数々が、なんだか遠い昔から続いているように石子刑事に思われたのだった。

 色蒼ざめた支倉の細君は頭を垂れて静かに石子刑事の前に坐った。
 事件以来既に二回会っているのだが、悠《ゆっ》くり観察もしなかったが今見る彼女は物ごしの静かな、あのいかつい支倉には似合しくない貞淑そうな美しい婦人だった。年もかねて聞いた二十八と云う実際よりは若く見えた。静子と云う名も人柄に相応《ふさわ》しい。
「御主人からお便りはありませんか」
 石子は打|萎《しお》れた細君に幾分同情しながら聞いた。
「はい、少しもございません」
「御心配でしょう。然し私の方でも困っているのですよ。別に大した事ではないのですから、素直に御出頭下さると好いんですが、こう云う態度をお取りになると大変ご損ですよ」
「はい、お上に御手数をかけまして申訳けございません」
「何とか一日も早く出頭されるようにお奨め下さる訳に行きませんでしょうか」
「はい、居ります所さえ分りますれば、仰せまでもございません。早速出頭致させるのでございますが、何分どこに居ります事やら少しも分りませんので、致方ございません」
 彼女は澱《よど》みなく答えた。
「ご尤もです」
 女ながらも相当教養もあり、日曜学校の教師をしている位だし、夫の為云うまいと決心すれば、生優《なまやさ》しい問い方では口を開く女ではないと見極めをつけた石子は、話題を別の目的の方へ転じた。
「二、三年前とか、こちらの女中をしていた者が行方不明になった事があるそうですね」
「はい」
 細君は狼狽したように答えた。
「その後行方は分りませんか」
「はい、分りませんようです」
「こちらで病気になったのだそうですね」
「はい」
 彼女は初めて少し顔を上げて、探るような眼付で石子を仰ぎ見た。眉の美しい女だな、石子はふとそんな事を思った。
「病気は何でしたか」
「はい」
 彼女は再び首を垂れてじっとしていた。
「花柳病だとか云う話を聞きましたが」
 刑事は畳かけるように云った。
「はい、あの」
 彼女は哀願するように石子を見上げながら、
「お聞き及びでもございましょうが、申さば夫の恥になる事でございますが、夫がつい悪戯を致しまして――」
 彼女の声はそのまゝ消えて行った。
「叔父とかゞ喧《やか》ましい事を云ったそうですね」
「はい」
 彼女は観念したように、
「父と申すのは中学校の先生で誠に穏かな人でございますが、兄弟ながら叔父と云う人は随分訳の分らない人でございました」
「その女中と云うのはどんな風でした」
「大人しい子で、器量もよく、それに仲々よく働きまして重宝な子でございました。病気になりまして知合の家に下げられ、そこから病院に通う事になりましても、別に私共を恨んでいる様子もありませんでした。親が裕福でありませんので、外出着にはいつも年の割に地味な黒襦子《くろじゅす》の帯を締めて、牡丹の模様のメリンスの羽織を着て居りました。行方が知れずなりました日も、やはりその身装《みなり》で病院へ行くと云って、いつものように元気よく出て行ったのだそうでございますが、その姿が眼に見えるようでございます」
 彼女はそう云いながらそっと眼を拭った。

          追跡

 石子刑事が四、五日間支倉の前身を洗う為に奔走している間、根岸刑事の采配で渡辺始め多くの刑事が、支倉の所在を追跡して廻った。高飛をした形跡は更にないのであるが、刑事達の苦心は少しも報いられないで、杳として何の手懸りも掴むことが出来なかった。石子刑事へ当てた彼の嘲弄の手紙は相変らず毎日のように書留速達で署へ飛込んで来た。神楽坂署では署長始め署員一同がジリ/\していたのだった。
「ちょっ、この上はあの怪しい写真屋に泥を吐かせる外はない。何か旨《うま》い工夫はないかなあ」
 老練な根岸刑事もあぐね果てこんな事を考えながら腕を組んだ。
 朧《おぼろ》げながら支倉の旧悪を調べ上げた石子刑事は久々で署へ出勤した。刑事部屋には窓越しに快い朝日が差していた。
「ふん」
 逐一話を聞いた根岸刑事はじっと考えながら、
「古い事だし放火の方は本人に口を開かせるよりほかはないね。女中の方は成程疑わしいには疑わしいが、何にしても死骸が出なくては手がつけられない。ひょっとすると生ているかも知れないからね」
「然しね、根岸君」
 石子は云った。
「三度移転して三度ながら火事に遭っているとは可笑《おか》しいじゃないか」
「うん、確に可笑しい。三度ともと云うのは偶然過ぎるからね。所がね石子君、困る事はそう云う偶然が絶対にないと云うことが出来ない事だ。何でも一度は疑って見る、之が所謂《いわゆる》刑事眼で、又刑事たるものは当然、然《しか》あるべきなんだが、之が刑事が世間から爪弾きされる一つの原因になっているんだから困るよ。職業は神聖である。刑事も一つの職業である。刑事たるものは絶えず人を疑わねばならない、だから人を疑うのは刑事としては神聖な訳じゃないか。ハヽヽヽ」
「君の云う通りだ。ハヽヽヽ。然しね君、支倉のような遣方《やりかた》では刑事ならずとも疑わざるを得んじゃないか」
「全くだ」
 根岸はうなずいた。
「そこで一つその三度の火事についても一つ疑って見ようじゃないか」
 根岸は腕を組んで考え込んだが暫くすると元気よく云った。
「神田に居た時の火事には誰か支倉の隣の人を犯人だと云って密告したと云うじゃないか」
「そうだ」
「犯人は往々|無辜《むこ》の人を犯人だと云って指摘するものだよ。それがね時に嫌疑を避けるのに非常に有効なんだ。こんな他愛もない方法で、仲々胡魔化されるんだよ」
「じゃ、密告した奴が怪しいと云う訳だね」
「所でね。犯人と目指されている男を弁護する奴に往々真犯人があるのだ」
「と云うと」
 石子刑事は鳥渡《ちょっと》分らなかった。
「支倉はその密告された隣の男を貰い下げに行ったと云うじゃないか」
「うん」
「好《い》いかね。保険金詐取の目的で自宅へ放火する。そして隣人を密告する。密告して置いて素知らぬ顔で、そんな事をする人ではありませんと云って貰い下げに行く。どうだい、嫌疑を避けるには巧妙な方法じゃないか」
「成程、では支倉が――」
 石子が云い続けようとすると、一人の刑事が顔色を変えて飛び込んで来た。
「今支倉の隣家から電話で、支倉の家から荷物を積み出したそうです」
「何っ!」
 根岸刑事は飛び上がった。

 支倉《はせくら》の家から荷物を積み出したと云う隣家からの報告を聞いて、根岸刑事は勇躍した。
「君、兎に角運送店の名前をしっかり見といて貰うように云って呉れ給え」
 電話を聞いた刑事にそう云うと、根岸は石子の方を向いて云った。
「石子君、荷物の追跡だ。第一に運送店を突留めるのだ」
 分り切った事まで指図がましく云う根岸の言葉は決して愉快ではなかったが、今の石子刑事にはそんな事を考えている余裕がなかった。彼は折好く居合した渡辺刑事と一緒に足取も軽く、今度こそは逃さないぞと云う意気込で三光町に出かけた。
 隣家について聞いて見ると、出した荷物は支那鞄に柳行李《やなぎごうり》合せて四、五個らしく、手荷車で引出したのだが、さて運送店の事になると少しも手懸りがない。引出す所を目撃していたと云う女中にいろ/\聞いて見たが、半纏《はんてん》の印《しるし》さえ覚えていないのだ。只提灯は確になかったと云うから、そう遠くへは運び出したとは思われぬ。
「何か覚えていませんか。一寸した事でも好いんですが」
 石子は一生懸命に聞いた。
「何でも好いんです。何か目印になるようなものはありませんでしたか」
 女中は泣出しそうな顔になってじっと考えて居たが、やがて細い声で切々《きれ/″\》に答えた。
「半纏の背中が字でなくって赤い絵のようなものが描いてありました。背の低いずんぐり肥った人でした」
「どっちの方から来てどっちへ行きましたか」
「来たのは大崎の方からでした。行ったのはあっちです」
 女中は市内の方を指し示した。
「仕方がない、大崎方面の運送屋を片端から調べよう。未だ帰っていないかも知れないが」
 石子は渡辺刑事の方を向いて云った。
 二人は別れ/\に運送店を物色し始めた。
 大崎駅附近を受持った石子刑事は、取り敢ず一軒の大きな運送店に這入った。
「僕はこう云うものですがね」
 石子は肩書つきの名刺を出しながら、
「今日三光町の方へ車を出さなかったかね」
 せっせと荷造りをしながらわい/\騒いでいた人夫達はピタリと話を止めると、ジロ/\と石子を眺めた。
「宅じゃありませんね」
 やがて中の一人がブッキラ棒に答えた。
「この辺の運送店で背の低い、ずんぐり肥えた人のいる所はありませんか」
「知りませんね」
 対手は相変らず素気なく答えた。人夫達は荷造りの手を止めると、思い/\に腰を下して、外方《そと》を向きながら煙草を吸い出した。
「分らないかね」
 石子は落胆《がっかり》したように、
「困ったなあ、少し調べたい事があるんだがね。まあ一服さして貰おうか」
 独言のように云いながら、彼は土間の一隅に腰を下した。人夫達は、敵意のある眼で彼を盗み見た。
「少いけれどもね、之で一つお茶菓子でも買って呉れないか」
 石子刑事は一円紙幣を出した。薄給の刑事で限られた軽少な手当から、之だけの金を出すのは辛かったが、彼等に親しく口を開かせるのには有効な方法で、彼は度々この方法で成功したのだった。
 車座となって番茶の出がらしを啜りながら、石子の御馳走の餠菓子を撮《つま》んで雑談に耽っているうちに彼等はだん/\打解けて来た。

「背の低い肥った運送人、どうも知りませんね。お前どうだい」
 人夫の一人は云った。
「この辺にはどうもそんなのは居ないようだね」
 一人が考え/\答えた。
 石子刑事の御馳走と世間馴れた話振に、すっかり打解けた運送店の人夫は知っているだけの事は残らず話し、背の低い運送人についても考えて呉れたが、結局誰も知らない事になって、石子刑事は何一つ得る所なくその運送店を出ねばならなかった。
 石子刑事はそれから丹念に運送店を一軒々々訪ね歩いたが、正午近くまで何の効果もなかった。
 目黒駅から五反田駅の方にかけて尋ね歩いていた渡辺刑事も正午頃まで無駄足をしていた。
 が、この度は運は渡辺刑事にあった。
 彼が落胆しながら重い足を引摺って五反田の方から引返して来ると、或る狭苦しい横丁に、うっかりしていると見落すような一軒の小さい運送店があった。彼は薄暗い店前《みせさき》を覗いた。
「お宅じゃなかったですかね、背の低いがっしりした若い者のいたのは」
 奥から主人らしい男が仏頂面をして出て来て、胡散臭《うさんくさ》そうに渡辺刑事を見た。
「兼吉の事ですか」
「そう/\、兼吉さんでしたね」
「何かご用なんですか」
「実はね」
 渡辺刑事は声を潜めた。
「支倉さんから頼まれて来たんですが」
「あゝそうですか」
 主人は急に愛想よくなった。
「先程は沢山頂戴いたしまして有難うございました」
「荷物は間違いなくついたでしょうね」
 しめたと心中|雀躍《こおどり》しながら渡辺はさあらぬ体で云った。
「えゝ、確かにお納めいたしました」
「もう兼吉さんは帰っているんですか」
「えゝ、何か御用でしょうか」
「えゝ、ちょっと」
「おい、兼吉」
 主人は奥を覗いて呼んだ。
 出て来たのは背の低い頑丈そうな男で、半纏の背中に真赤な胡蝶の形が染め出されていた。
「何かご用ですか」
「支倉の荷物はどこへ運んだか云って貰いたいのだ。僕はこう云う者だ」
 忽《たちま》ち態度を変えて渡辺は名刺を差出しながら、威嚇するように兼吉と云う若者を睨みつけた。
 若者は、チラと渡辺のさし出した名刺を見ると、不機嫌な顔をして、口をへの字に結んで横を向いた。
「おい」
 対手の態度に少し狼狽した渡辺刑事は再び呶鳴った。
「早く云わないか」
「そんなに頭ごなしに云わなくっても好いじゃありませんか。悪い事をしたと云う訳じゃなし」
 彼はぷん/\して答えた。
 もしや口止めでもされていると生優しい問方では云うまいと思って、高圧的に出て見たのだったが、対手にこう出られると渡辺刑事も返す言葉がない。
「いや悪かった。つい癖が出てね」
 渡辺刑事は苦笑しながら、
「まあ、気を悪くしないで呉れ給え。すまないが荷物の送先を教えて呉れ給え」
 若者の機嫌は少し治ったが、未だ容易に口を開こうとしなかった。
「おい、兼吉、旦那もあゝ仰有《おっしゃ》るんだ。早く申上げたら好いじゃないか」
 主人が口を添えた。
「飯倉一丁目の高山と云う宅《うち》ですよ」
 彼は漸く吐き出すように云った。

 運送店を突留めてそこの若い者からどうやら荷物の届先を聞き出して渡辺刑事は、喜び勇んで支倉の家の附近に引返した。打合せてあった通り石子刑事は茫然《ぼんやり》待っていた。渡辺が成功した事を伝えると、彼は雀躍《こおど》りして喜んだ。
 二人は直ぐに帰署して司法主任に事の次第を報告した。
「よし」
 司法主任は上機嫌だった。
「応援を五、六人連れて直ぐ逮捕して来給え」
「さあ」
 根岸刑事は落凹んだ眼をギロ/\させながら云った。
「余り騒がん方が好いじゃないですかなあ。鳥は威かさない方が好いですからなあ」
「そんな悠長な事が云ってられるものか」
 司法主任は少し機嫌を損じた。
「愚図々々していると又逃げて終《しま》うよ」
「そうです」
 石子は勢いよく云った。
「運んだ荷物は中々少くないのですから、当分潜伏する積りと見て好いでしょう。大丈夫いますよ。一時も早く捕えたいものです」
「うん、それも宜かろう」
 根岸は皮肉な苦笑を浮かべながら、
「然しね、君、自然に逃げた鳥は又巣に戻って来るが、威かした鳥はもう帰って来ないよ」
「謎みたいな事を云うね」
 石子は根岸の皮肉な笑に報いるべくニヤリとした。
「謎じゃないさ。僕はどうもその高山と云う家へ踏込む事は賛成出来ないのだ」
「どうして?」
「支倉にしては手際が悪いからね」
「何だって」
 石子は聞咎めた。
「そうすると詰り君は、支倉は僕達に潜伏場所を突留められる程ヘマではない。云い変えれば僕達には本当の潜伏場所などは突留められないと云うのだね」
「そう曲解して貰っては困る」
 根岸刑事は持前の調子で冷然と云った。
「兎に角僕の考え通りやってみよう」
「そうし給え」
 横合から渡辺刑事が吐き出すように云った。彼はさっきから、自分が折角苦心して探し出した飯倉一丁目の家に、根岸刑事がケチをつけるような事を云うのでいら/\していたのだった。
 根岸刑事はジロリと渡辺を見たが、何にも云わなかった。
 石子、渡辺両刑事は五、六人の応援を得て、飯倉一丁目を目指して繰出した。
 目的の家はT字路の一角に建った格子造りの二階家だった。裏口に二人、辻々の要所に一人宛同僚を立たせて、表口から石子、渡辺が這入る事に手筈を極めた。
 日ざしの様子ではもう四時近いと思われた。寒《かん》は二、三日前に明けたけれども、朝から底冷えのするような寒さだった。日当りの悪い高山の家の前には、子供の悪戯であろう、溝石の上に溝から引上げて打ちつけた厚氷が二つ三つに砕けて散って居た。
 ふと上を仰ぐと二階の半面には鈍い西日がさして、屋根の庇に夏から置き忘られたのだろう、古びた風鈴が寒そうに吊下っていた。
「ご免下さい」
 石子は声をかけた。
「はい」
 奥から出て来たのは十五六の女中風の小娘だった。
「芝の三光町から来ましたが、支倉の旦那に一寸お目にかゝりたいのです」
「はい」
 小娘はこっちの名も聞かずに引込んで行った。石子はしめたと思った。

 返辞いかにと片唾《かたず》を飲んでいる石子刑事の前へ現われたのは女中でなくて、四十近い品のある奥さん風の女だった。
「あの、支倉さんのお使いですか」
 彼女は腑に落ちないような顔で石子を仰ぎ見た。
「はい、そうです」
「荷物を取りにお出《いで》たのですか」
 意外な言葉である。流石の石子も鳥渡《ちょっと》二の句がつげなかった。
「え、荷物を取りに?」
「そうじゃないんですか」
 奥さんは後悔したように云った。
「さっき支倉さんから荷物が一車来ましてね、いずれ頂きに上るから預っといて呉れと云う事でしたから、もう取りに見えたのかと思いましたのですが」
「じゃ、支倉さんは居られないのですね」
 石子は落胆《がっかり》した。
「はい、見えては居りません」
「支倉さんに是非お目にかゝりたいのですがね。今どちらにお出でゞしょうか」
「さあ、それは手前共には分りませんが、お宅の方でお聞き下さいましたら」
「お宅で伺って、こっちへ来たのですがね、鳥渡お待ち下さい」
 石子は外に立っている渡辺を呼びかけた。
「君、支倉さんは居ないんだって」
「そんな筈はないがね」
 渡辺はのっそり這入って来た。彼は奥さんに軽く頭を下げながら、
「さっき荷物が来たでしょう」
「はい」
 奥さんは警戒するように眼を光らした。
「じゃ、支倉がいないと云う筈がない」
 渡辺は語調を強めた。
「いゝえ、私共では荷物をお預りした切りです。一体あなた方は何ですか」
 奥さんも少し景色ばんだ。
「いえ、何、ちょっと支倉さんに用があるのですがね」
 石子は渡辺の方を向いて、
「君、いなければ仕方がないさ。出直そうじゃないか」
 渡辺は首を振った。彼は自分がこの家を突留た為でもあろうか、支倉がこの家に潜んでいる事を深く信じているのだった。
「じゃ何でしょう奥さん」
 渡辺は尚も鋭く云った。
「支倉は此頃お宅へ訪ねて来たでしょう」
「はい、二、三日前に一度」
「それからずっといるでしょう」
 勢いづいた渡辺は追究した。
「いゝえ」
 奥さんは不快そうな顔をした。
「一体あなたはどなたですか」
「僕は刑事です」
「えっ!」
 奥さんは顔色を変えた。
「奥さん、支倉は今警察のお尋ね者なんです。あれを匿《かく》まうような事があっては不為ですぞ」
「何も匿まいはいたしません」
 彼女はきっぱり云ったが、何となくオド/\していた。
「君」
 渡辺は石子の方を振向いた。
「兎に角荷物を見せて貰おうじゃないか」
 石子はさっきから渡辺が少しやり過ぎると思っていた。性質から来るのか、石子の遣方は渡辺とは違う所があった。然しこうなっては騎虎《きこ》の勢い、渡辺に従って座敷に踏み込むより仕方がなかった。奥さんも別に二人の上るのを拒みもしなかった。
 支倉から来た荷物は玄関脇の四畳半に積み重ねてあった。どの部屋もきちんと整頓されていた。二人は何物をも見逃すまいと、鋭い眼で隅々までも睨め廻したが、支倉の姿は無論、彼の潜伏していたらしい形跡もなかった。
「うむ、根岸の云った事が本当だったかな」
 石子はもし支倉がいたら、
「どうだい、君みたいな生温《なまぬる》い事では駄目だぜ」
 と得意になって云うだろう所の、情気切っている渡辺の耳許で囁いた。

 石子、渡辺の両刑事が飯倉の高山の家に乗込んでいる時分、三光町の支倉の家では細君の静子が力なげに外出の支度をしていた。
 彼女は白金学院の女学部を出て更に神学科を修めて、二十七と云う若い女ながらも自宅に日曜学校を開いて、教鞭を取っていたので、支倉が神学徒の仲間に知られるようになったのも過半は彼女の為だったのだ。夫が忌しい嫌疑を受けて出奔してからは、度々刑事の来訪を受けるし、家の周囲にも絶えず監視の眼が光っているようだったので、日曜学校の生徒も遠退き、こちらからも遠慮するようになって今は訪ねる人もなく、彼女も只管《ひたすら》謹慎して、滅多に外出しないのだったが、今日は朝方荷物を飯倉一丁目の高山――それは信者の仲間だった――の家に送り出して終《しま》うと、気分がすぐれないように襟に顔を埋めてじっと一間に坐っていた。
 さらでだに少人数には広過ぎた家は夫なき今、小女一人を対手では恰も空家にでも住んでいるようにガランとしていた。
 昼食後も亦元の所に坐って茫然《ぼんやり》薄日の差す霜解けの庭を眺めていたが、三時を過ぎると物憂げに立上って、気の進まぬように着物を着替え初めたのだった。
 彼女がキチンとした身装《みなり》をして蒼ざめた顔を俯向けながら、門の外へ出たときは、かれこれ四時だった。
 二、三歩門の前を離れると、彼女はきっと頭を上げて鋭く四辺《あたり》をグルリと見廻して、人影のないのを見きわめると、又トボトボと歩き出した。
 然し彼女は誤っていたのだった。
 彼女が安心して歩き出すと、隣の家の勝手口に置いてあった大きな埃溜《ごみため》の蔭からニョッキリ立上った男があった。二重廻しを着た小柄な、一見安長屋の差配然とした中年の男で、眉深《まぶか》に被った鳥打帽子と襟巻とで浅黒い顔の大部分は隠れていたが、鋭い眼がギョロリ/\と動いていた。彼は何食わぬ顔で静子を追跡し出した。
 彼女は尾行者のある事には少しも気づかないで、通りに出ると電車には乗らず、目黒の方へ歩いて行った。無論怪しい男は追って行く。
 彼女が目黒駅に辿りついて切符売場の窓に向うと、怪しい男は彼女の真後に食っついて蟇口を開いて待構えていた。
「中野往復を下さいな」
 彼女は小窓を覗くようにして云った。
 彼女は切符を受取るとさっさと改札口に向った。もう少し悠《ゆっく》りしていれば彼女の直ぐ後から、
「中野片道一枚」
 と叫んでいる怪しい男に気がついたであろうが、彼女は何事か深く考えている様子でそんな事には少しも気がつかなかった。
 プラットホームに降りて電車を待つ間も、電車に乗り込んでからも、代々木駅で乗替えの間も、怪しい男は絶えず静子と適当の間隔を保ちながら、鋭く彼女を観察していた。
 中野駅で電車が止まると静子はそゝくさと降りた。怪しい男も無論続いて降りた。
 静子は足を早めた。短い冬の日はもう傾きかけて、冷い夕方の風が頬を硬張らせるように吹いた。彼女は通りから横丁に這入り、左に折れ、右に曲って細々《こま/″\》した家が立並んで、時に埃の一杯散かっている空地のある新開地らしい路を縫って行く。やがて一軒の西洋風の鳥渡した木造建築の前に立止ったが、直ぐその中へ消えた。
 怪しい男はその家の前でピタリと止った。
 標札には中野同仁教会、ウイリヤムソンとあった。

 怪しい男は教会の前をブラ/\往ったり来たりして、中の様子を覗った。生憎《あいにく》日が未だ暮れ切らないで、通行人も相当あったし、疑われないようにするには余程骨が折れた。と云って四辺《あたり》に身を隠す蔭もなかった。
「ちょっ、おまけに粗末ながらも洋館と来てやがるので、中の様子が少しも分らない。いっそ中野署へ電話をかけて応援を頼もうか」
 と怪しい男は呟いた。
 彼は神楽坂署の根岸刑事だったのである。彼は支倉の家から荷物を運び出したと云う事を聞いた時に、小首を傾けた。夜分人知れずやるのなら兎に角、白昼車を引出しては人目を惹くのは知れた事、直ぐに送先を嗅ぎ出される位の事は支倉は知っている筈である。但し、こっちで油断していると思って、そっと運び出して知合の家にでも預けて置いて、気のつかないのを確めた後に受取にでも行く計画か、そんなら態とこっちも気がつかない風をして対手を油断させ、それとなく家を警戒していて、ノコ/\受取りに来る所を捕えるのが上分別である。何にしても直ぐに飛び込んで行くのは考えものだと思ったが、渡辺刑事が功をはやって聞き入れそうもないので、それはそれとして彼は支倉の宅へ出かけて見張っていたのだった。と云うのは手品師の右の手の動く時は左の手に気をつけよと云うように、荷物を運び出してその方に注意を向けようとしたとすれば、宅の方が怪しいと睨んだのである。果して彼の推察通り細君の外出となったのであるが、注意深い彼は細君を尾行する際に、も一人の刑事にちゃんと家を警戒させて置いた。荷物で釣出し、細君で釣出して、その留守に悠々と支倉が乗込むかも知れないと思ったからである。
 根岸刑事は相変らず教会の前を往来《ゆきゝ》しながら考えた。
 中野署に応援を頼むのも好いがその間に逃げられては何にもならぬ。踏込んで行くのには確実な証拠を掴まないと、殊に対手は外国人の家であるから、後がうるさい。一体細君はこゝへ何をしに来たのか。支倉と会う為だと考えるのが至当だろう。そうすると支倉はこゝに潜伏しているのか、それともこゝで妻と落合おうと云うのか、それとも細君は支倉に会う為でなく外の用でこゝへ来たのか、何にしてももう少し様子を見ねば分らない。支倉の這入る所か出て来る所を押えるのが一番好いが、こんな狭い往来で身体を隠す所がないので困る。流石の根岸も思案に暮れていた。
 思案に暮れながらふと教会の裏口に眼を見やると、二重廻しに身を包んだ怪しい人影が忍び寄るのが見えた。あっと云う間にすっと中へ消えて終った。根岸刑事は緊張した。彼はそっと裏口に近寄った。
 が、流石の根岸刑事も、彼が裏口に忍び寄った瞬間に曲者は家の中を素通りして、早くも表へ飛出したのには気がつかなかった。
 玄関の所で曲者は、後について来た静子を濁声《だみごえ》で叱った。
「馬鹿! 尾行《つけ》られて来たじゃないか。刑事らしい奴が裏口の方にいる。仕方がない、俺は直ぐ行く。実印を浅田に渡せ。いいか分ったか」
「あ、あなた、もう逃げるのは止《よ》して下さい」
 静子はあわてゝ彼の袖を引張ったが、曲者は袖を振払って表へ飛出すと、折柄の夕暗にまぎれていずくともなく消え失せた。

          素人探偵

 麻布一之橋から白金台の方へ這入って行く、細々《こま/″\》とした店舗《みせ》が目白押しに軒を並べている狭苦しい通りから、少し横丁に這入った三光町の一角に、町相応の古ぼけた写真館が建っていた。
 余寒の氷が去りやらぬ二月半の夜更け、空はカラリと晴れて蒼白い星が所在なげに瞬いていたが、物蔭は一寸先も見えない闇だった。写真館の表は軍装いかめしい将軍の大型の写真と、数年前に流行《はや》った服装の芸者らしい写真と、その外に二、三枚の写真を飾った埃ぽい飾窓に、申訳につけられた暗い電燈が、ボンヤリ入口を照らしていた。
 その入口の浅田写真館とかゝれた看板を見上げながら、一人の怪しげな男が暫くじっと佇んでいたが、中へ這入りもせず、そっと横の路次から手探りで裏口の方へ廻って行った。
 裏口へ廻った怪しい男は木戸から洩れる燈火《あかり》を頼りに、そっと忍寄って、コツ/\と戸を叩き出した。
 さっと一条の白光線が滝のように流れて、開いた木戸から一人の男が飛出した。
 木戸が再び閉ると一瞬照し出されたゴタ/\したみすぼらしい裏口の光景は消えて、四隣は又元の真の闇になった。
「大丈夫かい」
 外から木戸を叩いた男が低声《こゞえ》で云った。
「大丈夫です。もう寝ました」
 中から出て来た男が囁いた。
「何か手懸りが見つかったかね」
「大した事もありませんが、こゝの主人は此頃時々公証役場へ出入しますよ。多分支倉に頼まれたのだろうと思います」
「公証人の名は分らないかい」
「神田大五郎とか云うのです」
「神田なら可成有名な公証人だ」
「それからね、石子さん」
 中から出て来た男は呼びかけた。青年らしい声音《こわね》である。
「松下一郎と云う男と盛に手紙の往復があるのです」
「松下一郎?」
「えゝ、私はね、どうもそれが支倉の変名じゃないかと思うのです。手蹟がね、例のそらお宅で見せて貰った脅迫状によく似ているのです」
「で、所は分らないのかい」
「分らないのです。むこうから来るのには所が書いてありませんし、こっちから出す奴はいつも浅田が自身で投函するらしいのです」
「ふん、そいつは怪しいな。岸本君、もう一度骨折頼むよ」
「宜しゅうございます。どうかして所を調べましょう」
「何しろね、対手は手剛《てごわ》いから気をつけなければならないよ。根岸でさえ手を焼いているのだから」
「承知しました。あなた方の方はどうなんです」
「さっぱり手懸りがないんだ」
 石子――読者諸君も既にお察しの通り、浅田写真館に忍び寄った曲者は石子刑事だった。中から出て来たのは即ち、岸本清一郎青年である――は口惜しそうに云った。
「いつでもヘマ許《ばか》りさ。荷物を担ぎ込んだ所を突き留て飛び込むと、本人がいる所か、ホンの荷物の中置所にしたに過ぎないのだ。そうやって我々の注意を他へ向けて細君に呼び出しをかけているんだからね。所がそいつを看破って、密会場所を突き止た根岸が亦、いつの間にやら彼に逃げられて、寒空に中野の教会の外で五時間も立たされたと云う始末なんだ」
 二人は尚もボソ/\と打合せをした後、そっと左右に別れたのであった。

「岸本、ちょっと」
 浅田写真館主は気むずかしい顔をして呼んだ。
「はい」
 岸本は彼の前に畏《かしこま》った。
「わしはちょっと出掛けるからね。この焼増の分と、それから之を台紙に張るんだ。ロールを旨くやらなければいかんぞ」
「はい、承知しました。今日の現像はどういたしましょう」
「いや、現像は好い。未だ独りでやらせるには少し危い」
「大丈夫ですよ、先生」
 岸本は美しい眉をきりっと揚げた。
「ハヽヽヽ」
 浅田は猪口才《ちょこざい》なと云わんばかりに笑った。
「まあ止しとこう。現像はしくじられると取返しがつかんからな」
「そうですか」
 岸本は不服そうに云った。
「おい、お篠」
 浅田は妻を呼んだ。
「では出かけるよ」
「いってらっしゃい」
 次の間からお篠は大きな声で答えた。
 ブロマイドの焼付を終って暗室を出て、岸本はせっせと台紙に出来上っていた写真を貼りつけていると、お篠が傍へやって来た。
「岸本さん、精がでるね」
「駄目ですよ、おかみさん、どうも貼付が拙くって」
「何それで結構だよ」
「そうですか」
「岸本さん、主人が喧しくって嫌でしょう」
「そんな事ありませんよ」
「主人はどうも気むずかしやでね、それだから書生がいつかなくて困るの。岸本さんは長く辛抱して下さいね」
 お篠は岸本の横顔を眼尻を下げてのぞき込みながら云った。
「えゝ、おかみさん、どうぞ長く置いて下さい」
「置いてあげますとも」
「先生はどこへ出かけられたのですか」
「どこだか、大方又|支倉《はせくら》の奥さんの所へでも行ったんだろう」
「え、支倉さん?」
「お前さん知ってるのかね」
「えゝ、私前にキリスト教信者だったもんですから、名前だけ知ってるのです」
「そうかい。支倉さんはそう云えば耶蘇だね」
「支倉さんの奥さんは中々偉いそうですね」
「何、偉いかどうだか分るもんか」
 おかみは忽ち機嫌が悪くなった。
「御主人が留守だからって、主人を呼んじゃ相談ばかりしている。馬鹿にしてるじゃないか」
「支倉さんは留守なんですか」
「どこかへ逃げているんだよ」
「え、何か悪い事でもしたんですか」
「どうもそうらしいんだよ。あんな人に係り合ってゝは、末々きっと損をするに定《きま》っていると私は思うんだよ」
「へえ――、そんな悪い人ですか」
「人相が好くないんだよ。見るから悪相なの。尤も奥さん見たいに虫も殺さない顔をしていたって当にはならないけれど」
「そんなに悪い人相なんですか」
「鳥渡お待ち、写真があるから」
 お篠はゴソ/\机の抽出を探していたが、やがて一袋の古い写真を取出した。
「どうだね。之がみんな支倉さんの分さ」
「大へんありますね」
「古くからの馴染だからね。之が支倉さんさ」
「成程恐い顔ですね。之が奥さんですか」
「そうだよ。そんなのが油断がならないのだよ」
 眼の前の沢山の写真をいじくっていた岸本は、ふと一葉の写真に眼を落とすとあっと驚いた。

 支倉一家の写真をいじくっているうちに、ふと一葉の写真に眼を落として、岸本はあっと驚いた。それは小林貞子の写真だった。
「どうしたの」
 お篠は怪しんで聞いた。
「何、何でもないのです」
「おや、やっぱり若いのが好いと見えるね」
 おかみは岸本の持ってる写真を見ると、ニヤリと笑いながら云った。
「そう云う訳じゃありません」
「お生憎さま、岸本さん、その娘はもう死んだよ」
「えっ、死んだんですって?」
 岸本はギクリとした。
「大そう驚くね」
 お篠はジロリと岸本を見ながら、
「確な訳じゃないが死んだろうと思うのさ。それは支倉さんの女中なんだよ」
「あゝ、女中さんですか」
「それがね、三年前に行方不明になって終《しま》ったのよ」
「へえ!」
「未だに分らないらしいが、まあ死んだんだろうね」
「そうですね、三年も行方が分らないとすると、死んだのかも知れませんね、どうして行方不明になったんですか」
「それがね、そんな小娘だけれども、油断がならないね、支倉の旦那が手を出したらしいんだよ。男ってみんなそう云う者さ。それがもとで一旦宿へ下げられたんだがね、まあそんな事で子供ながらも世の中が嫌になり家出したんだろうさ」
「可哀そうですね」
「可哀そうだと思うかね」
「思いますね」
「ふん、口先ばかりだろう。男なんてものはそんな事を平気で仕でかして置いて、直ぐケロリと忘れて終《しま》うんだから」
「そんな事はありませんよ。おかみさん」
「そう、岸本さんはそんな事はないかも知れないね」
「それで何ですか、おかみさん」
 岸本はお篠の言葉をはぐらかしながら、
「支倉さんはどこに居るか分らないのですか」
「分らないの。尤も主人は知ってるかも知れない。手紙のやり取りなどして、いろ/\頼まれるらしいから」
「おかみさん、そんな悪い人ならそう云う風に隠まうのは好い事じゃありませんね」
「私もそうは思っているがね、之も浮世の義理で仕方がないのさ」
「義理って、そんな大切なもんですか」
「お前さんなどは未だ若いから、そんな事は分らないのも無理はないが、義理と云うものは辛いものさ」
「そんなに度々手紙が来るのなら、どこにいるかおかみさんも知ってるでしょう」
「おや、岸本さん、嫌に支倉さんの事を気にするね」
 お篠はしげ/\岸本を見ながら、
「お前さんは警察の廻し者じゃあるまいね」
「飛んでもない」
 岸本はギクリとしたが、あわてゝ取消した。
「私はまがった事が嫌いだから、そんな事を聞くとだまってられないのです」
「そう、そりゃ誰だってまがった事は嫌いだけれども、世渡りの上ではそうとばかり云ってられないのだよ」
「そんなものですかなあ」
「まゝにならぬは浮世のならいって云うでしょう、私もまゝにならなくってこまっているの、じれったい」
「それで支倉さんは――」
「おや又支倉さんかえ、変だねえ」
 お篠は岸本をにらんだ。
 支倉の事を聞き過ぎて、おかみに不審を起されたので、岸本は狼狽しながら、
「いえ、何、そう云う訳じゃないのです。私は何でも聞き出すと中途で止めるのが嫌いな性質《たち》なので、つい根掘り葉掘り聞くんです。お気に障ったらご免なさい」
「別に気にしやしないけれども、じゃ、お前さんの気のすむまでお聞きなさいな」
「もう好いんですよ。おかみさん」
「可笑しい人だね。遠慮なくお聞きと云うと、もう好いなんて」
「じゃ、聞きましょうか」
 岸本はニコ/\しながら、
「じゃ、先生は何の用で支倉さんの宅へ行くんですか」
「ホヽヽヽ」
 お篠は笑った。
「突拍子もない事を聞き出したね。何でもね、支倉さんが家作かなんか、奥さんに譲りたいので、その手続をする事を頼まれたらしいのさ」
「へえー」
「詰りね」
 おかみは声を潜めた。
「支倉さんは詐欺でもやったらしいんだね。それで捕まると之が取返されるだろう。抛《ほっ》といて差押えでも食うと困るから、急いで名義を書変えるんだろうさ」
「それに奥さんは美人だから」
 岸本は皮肉にニヤ/\笑いながら、
「先生も一生懸命と云う訳なんですね」
「何を云うんだい」
 おかみは忽ち目に角立てた。
「主人《うち》がそんな真似をしたら只では置かない」
「どうするんですか」
 岸本は意地悪く聞いた。
「どうするって」
 おかみは大声を上げた。
「それこそこんな家にいてやるものか」
「そしてどうするんですか。おかみさん」
「どうするって」
 嫉妬で赫《かっ》となったお篠は呶鳴った。
「男|旱《ひで》りがしやしまいし、私は私でどうにでもやって行けるさ」
「先生は何ですか、そんなに支倉の奥さんと仲が好いんですか」
 かね/″\主人が支倉の留守宅にしげ/\出入して、細君の相談相手になっているのを快く思っていないお篠は、岸本から焚きつけられていよ/\敦圉《いきま》いた。
「ほんとに馬鹿にしている。詰らない真似でもして見ろ。私は身投でもして困らしてやるから」
 少し薬が利き過ぎたので、岸本は相槌の打ちように困って終《しま》った。
 彼は宥《なだ》めるように云った。
「おかみさん、大丈夫ですよ。先生に限ってそんな事があるもんですか」
「ホヽヽヽ」
 お篠も興奮し過ぎたのを後悔したらしく、
「岸本さん、心配しなくても好いわよ。冗談さ。誰が身投などするものか。身投げなんて、おゝ嫌だ、考えてもぞっとする」
 お篠は何か思い出したらしく、ブルッと顫えた。
 そして云おうか云うまいかと暫く迷っていたが、やがて岸本に向って、
「岸本さん、あなた身投の上ったのを見た事があって」
「いゝえ」
 岸本は首を振った。
「私は一度見た事があるのよ。えーと一年二年、そう足かけ三年になるわ。この先の大崎のね、そら池田ヶ原って、今は大分家が建ったけれども、あの原の真ん中に古井戸があってね、確六月か七月だったと思う。身投が上ったの。それがね、余程長く浸っていたと見えて、眼も当られないように腫れ上って、顔も何にも分りゃしない、手でも何でも触ればすぐ取れて終うの。気味の悪いったらありゃしない。ベッ、おゝ嫌だ」
 おかみは顔をしかめた。

 古井戸から上った糜爛《びらん》した死体、それは三年前の話だったけれども、岸本は余り好い気持がしなかった。
「嫌ですね、それで女だったんですか」
「えゝ、そう」
「誰だか分ったんですか」
「いゝえ、分りゃしないの。それがね岸本さん、警察なんて随分ひどいものね。そんなむごたらしい死骸が二、三日もそのまま抛ってあったわよ。と云うのはね、何でもあの原が高輪の警察と品川の警察との境になっているんですって。それでね、手柄だったら奪い合いをするんだけれども、そんな嫌な事は塗すくり合って、どっちからも検視が下りないんですってさ。結局高輪の方で検視して葬ったんだそうだけれども、身許などまるで分らず了《じま》いさ。そんな事で行方不明なんて人が世間にザラにあるんだね」
「年はいくつ位だったんですか」
「見た所で若い人だと云う事は分ったけれども、少しも見当がつかなかったわ。お医者さんが二十二、三と鑑定したと新聞に出ていたよ」
 もしやお貞の死体ではないかと乗気になって聞いて見たが、年が恰《まる》でちがうので岸本はがっかりした。
「私が見に行ってた時には」
 お篠は思い出したように云った。
「支倉《はせくら》の旦那が丁度居てね」
「えっ、支倉さんが」
「そうなの、二人でね、見た所は若そうだが可哀想な事をしたものだって話合ったっけ」
「支倉さんも態※[#二の字点、1-2-22]《わざ/\》見に来たのですか」
「さあ、態※[#二の字点、1-2-22]だったか、通りがかりだったか、そんな事に覚えはないさ」
「兎に角、身投なんて嫌な事ですなあ」
 余り支倉の事を問い過ぎて悟られてはならずと、岸本は態と話をはぐらかした。
「本当に嫌なこったよ」
 おかみは顔をしかめたが、
「あゝ、大変だ、すっかり喋っちゃって夕方の支度をしなくっちゃ」
 岸本は一人になって又せっせと仕事をしていると、主人が帰って来た。彼はちらりと岸本の仕事をしているのを覗くと、そのまゝ奥の居間に引ッ込んだ。
「お帰り」
 お篠は台所から声をかけた。
 浅田はどっかと火鉢の前に腰を下すと、
「お篠」
 と不機嫌な声で呼んだ。
「なんですか」
 お篠は前掛で濡れた手を拭きながら現われた。
「今度来た書生には気をつけろ」
 浅田は低い力の籠った声で、お篠の顔をじっと見ながら云った。
「何ですって」
「俺の留守なんかに、ペチャクチャ詰らん事をあいつに話すなと云うんだ」
「な、何ですって」
 お篠は顔色を変えた。
「私がいつペチャクチャ詰らん事を話しました」
「話したとは云やしない。話すなと云うんだ」
「人を馬鹿にしている」
 お篠は呶鳴り出した。
「手前こそ用もないのに支倉の奥さんの所へ行って、ペチャクチャ喋ってばかりいる癖に」
「おい/\、大きな声を出すな」
「大きな声で云われていけないような事を何故するんだ」
 お篠は未だ怒号を止めない。
「そして人の事ばかり云ってやがる。私が何をしたと云うんだ」
「おい/\、勘違いをしちゃいけないぜ」
 浅田は困ったような顔をして宥《なだ》めた。
「俺はたゞ岸本に気をつけろと云ったきりだよ」
「大きにお世話だよ。私が何をしようと」
 お篠は顔を脹《ふく》らした。

 浅田は苦笑いをしながら、どうやらお篠を宥めると、夕食をすませて二階に上った。そして一隅の机に向って何やら書き始めた。
 やがて書き終ると封筒に入れ上書を書いて、のそ/\と下に降りた。
 下では待構えていたように岸本が声をかけた。
「先生、お出かけですか」
「あゝ、ちょっとそこまで」
 岸本は目慧《めざと》く浅田の持っている手紙に目をつけて、
「先生、郵便でしたら私が出して来ましょう」
「何、いゝんだ」
 浅田はそう云い棄てゝ外へ出た。
 岸本は主人の姿が見えなくなると脱兎の如く身を飜えして二階に上った。彼は主人の机の傍へ寄ると忙しく何か探し始めた。机の上、鍵のかゝっていない抽斗《ひきだし》の全部を一つ一つ改めて、そして注意深く又元通りにした。
 やがて落胆したように彼は呟いた。
「ふむ、中々用心深い奴だ。どうも見当らない」
 そのうちにふと彼は机の上の一枚の吸取紙に気がついた。よく見ると、松下一郎様と云う文字が微かに左文字に見える。肩書の所番地も飛び/\に読めそうだ。
「しめたぞ」
 岸本は嬉しそうに呟いた。
「初めの字は確に『本』だぞ。ハテ、本郷かな、本所かな、あゝ二字目は少しも分らない、それから米か知らん。それとも林かな上の方がかすれているのでよく分らないな。次の字は川らしいな、町の字はハッキリ分るんだが、それから最後が『館』らしいな、あゝ、写真館だ、さては松下一郎と云う奴は写真館にいるのだ。何写真館かしら。あゝ、たしかに『内』と云う字は読めるのだが、山内かしら大内かしら、うむ、『本』『川』『町』『内』写真館、あゝ、どうかしてもう少し読めないかな」
 岸本がいら/\しながら吸取紙を眺めていると、下でお篠の呼ぶ声がした。
「岸本さん、岸本さーん」
「ちょっ困るな」
 岸本は地団駄を踏んで、吸取紙を横|睥《にら》みに睨んで、おかみの呼ぶ声に気を取られながら、腹立たしそうに呟いた。
「岸本さん」
 お篠はそう呼びながらミシ/\音をさせて二階に上って来た様子。岸本は残念ながらつと机の傍を離れて梯子段の口許に近寄った。
「何ですか、おかみさん」
「何をしてるの、岸本さん」
「別に何にも」
「そう」
 漸く上りついたおかみは岸本の顔を見上げながら、
「主人《たく》が何か云ったかい」
「いゝえ、何にも」
「そう。そんなら好いけれど」
「何ですか、おかみさん。先生は少し可笑しいですぜ」
「どうして?」
「どうしてたって、秘密に手紙をやりとりして居られますぜ」
「本当かい」
「本当ですとも、松下一郎って男名前で来るんですけれども、返辞はきっと先生自身でポストへ投げ込まれるのですよ。外の手紙はみんな私に云いつけて出させるのですけれども、その返辞だけは御自身でお出しになるのですよ」
「畜生!」
 お篠は呶鳴った。
「じゃ矢張り私を誑《だま》しているんだな」
 折柄表通りに浅田の姿が見えたので、二人はあわてゝ下に降りた。

 浅田は家の中に這入ると、そのまゝ無言で二階へトン/\と上った。
 彼は注意深く部屋を一通り見廻した後、椅子にどっかと腰を下して、あーっと欠伸を一つしたが、ふと机の上を見て、
「おや」
 と呟いた。
 机の上はちゃんと自分が整頓して置いた通り、何一つ位置を変えないで、そのまゝにはなっているが、所謂第六感と云うか、何となく何者かゞ手を触れたような気がするのだ。
「はてね」
 腕組をしたまゝ、鋭い眼で机の上を睨んでいたが、ふと吸取紙に眼がついた。気の故《せい》だか少し位置が、捩《ねじ》れているようだ。
 彼は吸取紙を取上げて、頭の上の電燈に照して見た。
「しまった」
 彼は軽く呟いて、頭を上げると唇を噛んで、じっと遠方を睨みながら、考え込んだ。
 やがて彼は再び仔細に吸取紙を調べ出した。彼の口辺には微笑が現われて来た。彼は何を思ったか一枚の封筒を取出して、吸取紙と並べて机の上に置いた。それからペンを取って、尚も考え考え封筒の上にペンを動かした。
「本所区菊川町二十三番地大内写真館、うん之でよし」
 意地の悪そうな笑みを洩らして書上った封筒を眺めていたが、やがて吸取紙で押取ってピリピリと二つに裂くと、クルクルと丸めてポンと足許の屑籠へ拠り込んだ。
 彼は呼鈴を押した。
 ミシ/\と岸本が上って来た。
「先生、何か御用ですか」
「うん、ちょっと現像をやろうと思うのだが、薬品は揃っているだろうな」
「はい、揃っています」
「それじゃ、君は少しこの辺を片付けて置いて呉れ給え」
「はっ、承知しました」
 浅田は暗室に這入ると、直ぐに現像を初めようとはせず、光線を導き入れる赤色硝子の嵌《はま》った小窓から、そっと部屋の様子を覗っていた。
 岸本はせっせと部屋を掃除していた。そのうちにふと屑籠に気がつくと、彼は屈んで中から丸められた封筒を取出した。彼ははっとしたようだったが、やがてジロッと暗室の方へ眼をやって、背中を小窓の方へ向けて、机の上を整頓するような風をして、そろ/\と封筒を拡げた。
 岸本の相好はみる/\崩れた。彼は嬉しさを隠すことが出来ないで子供のように大きく眼を瞶《みは》った。
 やがて封筒を再びクル/\と丸めると、屑籠の中へ押込んで、何喰わぬ顔で又掃除を始めた。
 暗室の中では浅田はバットを揺り動かしながら考えていた。
「ふゝん、やっぱりきゃつは廻し者だ。油断のならない事だ。だがきゃつ、素人で幸いだて」
 やがて現像を終えて、定着バットの中へ乾板を入れると、浅田はのそ/\暗室から出た。
 岸本は掃除をすませて、窓際の椅子にかけてポカンとしていた。
「掃除が出来たら下へ行って好いよ」
 浅田は云った。
「はい」
 岸本の姿が見えなくなると、浅田は机の前にどっかと腰を下して呟いた。
「きゃつから刑事の耳に這入るのが、明日中として、刑事の無駄足を踏むのが明後日か、ふん、二、三日は余裕がある訳だな」

          放火事件

「な、何でえ。何んだって人に突当りゃがった」
 この寒空に薄汚い半纏一枚の赤ら顔のでっぷりした労働者風の男が、継の当った股引を穿《は》いた足許もよろ/\と、先ず百円見当の月給取らしい小柄な洋服男の上衣を掴んで呶鳴った。
「冗談云うな、お前の方から突当ったんじゃないか」
 洋服男は虚勢を張って呶鳴り返した。然し眼は迷惑そうにキョト/\していた。
 小川町から駿河台下に通う電車通り、空はドンヨリとして、どちらかと云うと雪催いの鬱陶しさだったが、今宵は十五日で職人の休日でもあれば、五十稲荷の縁日でもあり、割合に人通りがあった。
 所がヒョロ/\と右の酔っ払い、対手欲しげに俗に云う千鳥足でよろめいていたのを、通行人は眉をひそめて避けて通ったが、出会頭にぶつかったのが、洋服男の不運だった。
「な、何だと、俺の方から突当ったと。人を馬鹿にするねえ。俺は酔っているんじゃねえぞ」
 尚も管を巻くのを、洋服男は堪えかねて上衣を掴んだ手を振りもぎると、酔払いはよろ/\とよろめいて危く転びかけたが、やっと踏み止《とゞ》まると、さあ承知しない。
「おや、味な真似をしやがったな。こん畜生! どうするか見やがれ」
 彼は洋服男に武者振りついた。
 周囲《まわり》はいつか見物の山だった。が誰一人手を出そうと云う人はない。顔をしかめて苦々しげに見ている人もあれば、ニヤ/\しながら面白そうに眺めている人もあったが、仲裁に這入ろうと云う人はなかった。
 所へ通りかゝったのは石子刑事だった。彼は岸本の報告を受取って、今朝から本所に出かけ尋ね廻ったけれども、目的の町には勿論どの町にも大内などゝ云う写真館は見当らなかった。落胆して牛込の自宅へ帰る途中、小川町で電車を降りて、縁日で賑っている中を何か獲物でもないかとブラ/\歩いていたのだった。
「喧嘩か」
 そう呟いた彼は人混みを分けたが身体が小さい方なので、容易に中が見えない。
「何ですか、喧嘩ですか」
 彼は隣の人に聞いた。
「酔払がね、大人しそうな人に喧嘩を吹きかけているのですよ」
「そいつは気の毒だ。仲裁に這入りましょう。ちょっと前へ出して下さい」
 そう云って石子はだん/\前へ出たが、管を巻いている酔っ払いの顔を見るとあっと驚いた。彼は支倉の行方不明になった女中の叔父、小林定次郎だった。
「おい、いゝ加減にしろ」
 石子は定次郎の肩を掴まえた。
 定次郎はひょろ/\しながら酔眼朦朧として、石子刑事の顔を見据たが、嬉しそうに叫んだ。
「やあ、旦那ですか」
 そうして大人しくなる所か、急に元気づいて一層はしゃぎ出した。
「やあ、旦那、いゝ所へお出下せえました。さあ野郎、警察の旦那が見えたぞ。もういくらジタバタしたって駄目だ。どっちが白か、黒か、ちゃんと裁きをつけて貰うんだ。何を笑ってやがるんでえ」
 彼は見物に向って呶鳴り出した。
「この旦那はお前、支倉《はせくら》の野郎をとっ掴まえて下さるんだ。おや未だ笑ってやがる。手前達は支倉を知らねえのかい、あの悪党の支倉を」
 定次郎は次第に呂律《ろれつ》が廻らなくなって来た。
 往来の真中で、而も大勢の見物に向って、へゞれけに酔った定次郎が、支倉々々と喚き出したので石子刑事は驚いた。
「おい/\、下らん事を云うな。おい、黙れったら」
 けれども定次郎は愈※[#二の字点、1-2-22]調子づいた。
「何でえ、支倉が何でえ。あんな野郎に嘗《なめ》られてこの俺様が黙って引込んでられるけえ。さあ来い。うむ、支倉が何でえ」
 定次郎はとうとう往来の上へ潰れて終《しま》った。
 折好く巡回の巡査が通りかゝったので、石子は刑事の手帳を示しながら、
「こいつはね、鳥渡知ってる奴なんです。三崎町にいるんですがね、すみませんが保護をしてやって下さい」
 巡査は弥次馬を追払いながら、定次郎を引立てゝ行った。
 彼に喧嘩を吹きかけられた対手は見物が次第に散々《ちり/″\》になっても、そこを動こうともせず、やがてツカ/\と石子の傍へ近寄った。
「あの、ちょっとお伺いしますが、今あの男の云った支倉と云うのは支倉喜平の事じゃありませんか」
「えゝそうです」
 石子は吃驚して彼の顔を見た。
「あなたは警察の方なんですね」
「そうです。神楽坂署のものです」
「では支倉の事につきまして、少しお耳に入れたい事があるのですが」
「え、じゃあなたは支倉を御存じですか」
「えゝ、よく知って居るのです。彼の為にひどい目に遭った事があるのです。支倉は放火をしたんじゃないかと思うのです」
「え、え」
 石子刑事は思いがけない収穫に顔色をかえんばかりに喜んだ。
「そんな話なら往来ではなんですから。――えーと私の家へでも来て頂きましょうか。牛込ですが」
「私の家は直ぐそこですから」
 洋服男が云った。
「拙宅までお出下さいませんか」
 路々話したところに依ると、彼の名は谷田義三《たにだよしぞう》と云って、丸の内の或る商事会社に勤めているのだった。
 家は淡路町の裏通りにあった。
 彼は家の前に辿りつくと、這入る前に隣の二階家を指した。
「建て代りましたがね、之が支倉の家だったのです」
 彼の家はこぢんまりとした平家で、綺麗好きと見えて、よく整頓した一間へ通された。
「さあ、随分古い事です。やがて十年になりましょうか。路々鳥渡お話した通り隣から火事が出ましてね」
 彼の云う所によると、火事は支倉の家を半焼にしてすみ、彼の家は幸いに類焼を免れたのだったが、原因が放火だというので、思いがけなくも彼が嫌疑を受けて、一週間警察に止め置かれたのだった。
「一週間目に支倉が来て口添えをして呉れたので、やっと放免せられました。実に馬鹿々々しい目に遭ったものです。所が当時は口添えをしてくれたり、いろ/\親切にして呉れたので、支倉を有難いと思いましたが、今考えて見るとどうも一杯嵌められたらしいのです」
 火事の出た日の前日の夜、彼が鳥渡支倉の家を訪ねると、支倉は奥の一間でしきりに書物の手入をしていた。何でも久しく抛って置いたので、書物にカビが生えたと云って揮発油を綿に浸ましてせっせと拭いていたのだった。
「所が可笑しいんですよ」
 谷田は一寸息をついだ。

「尤もみんな後で考えた事なんですが、第一夜になって書物の手入れを始めた事も疑えば疑えるんです。それに揮発油を含んだ綿を殆ど一回々々変えるのですよ。御承知の通り、綿は何もそう度々変えなくても好いのです。見ているうちに揮発油を含んだ綿がそこいら中に散りましたよ。私は家に帰ってから女房にあゝ綿を散らけては火の用心が悪いなあと話したものです。それを警察へ行った時に気がつけば好いものを、余りの事で気が転倒しているものですから、すっかり忘れて了ったのです。警察では可成侮辱的取調べを受けましたよ。少しばかり動産をつけて置いたものですからね」
 人の好さそうな谷田は恰《まる》でそれが昨日の事ででもあったように口惜しそうな顔をした。
「で、先《さ》っ刻《き》申上げた通り、当時は支倉を少しも疑わず、寧ろ親切を喜んでいたのですが、後に外から聞き込んだ事の為に、私の場合もてっきり、支倉が自分の家に火をつけ、そっと密告状を書いて、私を訴えて嫌疑を外らしたのだと信じるのです」
「その外から、聞いたと云う話は?」
 石子は谷田の話がかつて根岸刑事の推察した通りなので、彼の明察に敬服しながら聞いた。
「こゝの火事の後間もなく支倉は高輪の方へ越したのですが、二年経つか経たないうちに又々火事に遭ったのですね。その時も半焼だったのですが、彼は保険の勧誘員に二百円賄賂を贈りましてね、全焼と云う事にして、保険金の全額をせしめたのです」
「どうしてそれが分りましたか」

 石子は膝を進めた。
「この賄賂を取った男から直接に聞いたのです。その男は外にも悪い事をしたと見えましてね、間もなく辞められましてね、私の勤めている会社へ暫く雇われていました。そんな風な男ですから、やっぱり真面目に勤まらず、先年辞職しましたが、私の宅《うち》へ遊びに来た時に、隣に支倉がいたと云う事を聞いて、懺悔話をして聞かせたのです。その男の考えもどうも高輪の方も放火らしいと云って居りました。そんな事で支倉を信用していたのが、間違っていた事がすっかり分ったのです」
 期待していた話も矢張り単なる推測に過ぎないので、石子は落胆した。然し、少くとも保険金詐取の罪だけは確なようだった。
「その男の住所は分っていますか」
 石子は聞いた。
「えゝ、分ってるには分っていますが、折角内済になっているのですから――」
 谷田は口籠った。
「大丈夫ですよ。会社の方に告訴の意志がなければ、その人の方は罪になりませんよ」
「そうでしょうか」
 谷田は半信半疑だった。
「然し妙だな」
 石子はふと思い出したように云った。
「保険会社の方は警察の報告を聞くでしょうから、半焼か全焼か分る筈ですがね」
「それがその」
 谷田は云い悪くそうに、
「何でも警察の刑事だったか巡査だったかも、十円か二十円で買収したんだそうです」
「そうですか」
 石子は苦笑した。
「どうもね、仲間内にも時々心得違いの人が出るので困りますよ」
「尤も何ですな、こう申しちゃ失礼ですけれども、随分むずかしい時には生命がけの仕事をなさるのに、報いるものが少いのですから」
「そうですね」
 石子は苦笑を続けながら、
「それもそうですがね、要するに社会の裏面の事を扱っているから誘惑が多いんですよ。悪い事をした方で直に買収にかゝるんでね」

「素人はどうも推測を確実なものゝように誇張するから困るな」
 谷田の家を出ると、石子刑事は思わずこう呟いた。
 彼の云った事も充分参考になるにはなったが、別に目撃した訳じゃなし、有力な証拠があるではなし、支倉に対する嫌疑は濃厚になるけれども、要するにそれだけである。
「本人は巧に踪跡を晦まして、今だに絶えず嘲弄状を送って来る。そして本人には窃盗、詐欺、放火殺人などの嫌疑がかゝっているが確実な証拠はすこしも挙がらない。こんな奇妙な事件は始めてだ」
 本所界隈を一日歩き廻って無駄足を踏んだ失敗を、計らずも神田で酔払いの定次郎の引合せで谷田に会い、その埋合せが出来るかと思ったのが、そうも行かなかったので、路々こんな事を考えながら石子は元気なく家に帰った。
 家には思いがけなく岸本が悄気切って控えていた。
 妻のきみ子は笑いながら、
「岸本さんはお払箱になったんですって」
「どうして?」
 石子は意外だった。
「すっかり失敗《しくじ》って了ったんです、素人探偵は駄目ですよ」
 岸本は頭を掻いた。
「どうしたんだい」
「何にもしやしないのです。今日ね、随分気をつけていたんですけれども、ついバットを一枚割ったのです。すると奴さん怒りましてね、直ぐ出て行けと云うのです。どうもね、前から怪しいと睨らまれていたらしいのです。おかみさんが随分取りなして呉れましたが駄目です。頑として聞かないのです。あなたがお止めになるのを無理に自分から引受けて置きながらどうも申訳ありません」
「ふーん、まあ仕方がないさ」
 石子は投げやるような調子で云ったが、
「所で、君、本所の写真屋も駄目だぜ。君の云うような宅《うち》はありゃしない」
「えっ、そうですか」
 岸本は驚いた。
「それを聞きたいと楽しみにしていたんですが、駄目だったんですかなあ」
「君は一体どう云う風にして、探り出したのだい」
「屑籠の中に書損いの封筒が投げ込んであったのです」
「ふん、君の話では奴|却々《なか/\》用心して尻尾を掴ませないと云う事だったが、屑籠のような誰でも覗きそうな所に、封筒の書損いが抛り込んであったのは可笑しいね」
「そうです。僕だって書損いだけなら容易に信用しやしないのですけれども、その前に吸取紙に押し取られているのを見たのです」
「ふん、そんなにはっきり分ったのかい」
「いゝえ、極めて不鮮明なんです。本の字と米だか林だかハッキリしない字と川の字、それから何とか内写真館と読めただけでした」
「書損いの封筒の前にそれを見たんだね」
「そうです。奴が郵便を書終ると例の如く自分で入れに行きましたから、私は直ぐに二階に駆け上って、吸取紙を見るとそれだけの事が分ったのです」
「それから」
「もっと委しく判読しようと一生懸命になっていると、おかみさんが上って来たのです。おかみさんを好い工合に胡魔化して下へ降りると、奴が帰って来ましてね、直ぐ二階に上りましたが、暫くすると私を呼んで之から現像を始めるから、そこいらを片付けて置けと云って暗室へ這入ったのです。片付けているうちに屑籠の封筒が眼についたのです」
「君に片付けろと云って暗室へ這入ったのだね」

          徒労

 聞いていた石子は咎めるように云った。
 石子の咎めるような語勢に岸本は吃驚したように答えた。
「そうです」
「そりゃ君、少し考えて見たら分るじゃないか」
 石子は噛みつくように云った。
「いゝかね、ふだん非常に用心深い男がだね、書損いの手紙を屑籠に投げ込んで、それから君に掃除しろと云うのは可笑しいじゃないか、え、第一君を呼んで態※[#二の字点、1-2-22]掃除さすのにだね、屑籠の中に重要な手紙の這入っているのに気がつかないと云う筈がないじゃないか」
「そうでしたね、私はやられたんだ!」
「ふゝん、奴は暗室の中から覗いてたのさ。君の素性を見破るのと、俺に一日暇を潰させるのと、一挙両得と云う訳さ」
「どうもすみませんでした」
 岸本は詫《あやま》った。
「素人だから仕方がないや」
 石子は苦笑した。
「そりゃ、あなた無理ですわ」
 きみ子が傍から取りなした。
「そこで吸取紙の方だが、君は何かい、奴が外へ出る、君が二階へ駆け上る、そして一番初めに吸取紙を見たかい」
「いゝえ、抽斗やなんか探してからです」
「屑籠は見なかったかい」
「屑籠と、あゝ、見ました見ました」
「その時に封筒はなかったろう」
「ありませんでした」
 岸本は我ながらあきれたと云う顔をした。
「それ見給え。奴は帰ってから封筒を囮に投げ込んだのだ。すると待てよ」
 石子はじっと腕を組んだ。岸本は心配そうに石子の顔を見上げた。
 暫くすると、石子は元気よく云った。
「そうだ、大分分ったぞ。吸取紙の方は本物なのだ。流石の奴もこいつはうっかりしていて気がつかなかった。所が吸取紙を見られた形跡がある。そうだろう君、吸取紙は位置を動かしたんだろう」
「さあ、外のものは注意して元通り置いたんですが、吸取紙はつい下からおかみさんが上って来たもんですから、あわてゝ机の上へ置きましたので、元の位置より狂ったかも知れません」
 岸本は弁解した。
「そこだ。いゝかね、奴さんの位置に立って見る。うっかり残した吸取紙の文字ははっきり分るのはホンの二、三字だけれども、何分東京市内の番地だから少し頭を使えば直ぐ判じられて終《しま》う。さあ困った。そこで一計を案じて、いかにも吸取紙に残った所らしくて、恰《まる》で違った所を考え出して、本当らしく持かけて態《わざ》と敵の手に渡して終う。そうするとよしその計を看破られても元々だし、敵が軽々に信じて終えば、吸取紙の字から推断されるだろう所の本当の場所を知られずにすむ。敵ながら天晴《あっぱれ》の方法じゃないか」
「成程」
 岸本は感嘆した。
「奴も中々偉いが、石子さんも偉いなあ」
「感心していちゃいけない」
 石子は少し機嫌を直しながら、
「所で吸取紙に残っていたと云う字は何々だっけね」
「『本』之は区の名ですね、本所でなければ本郷ですね、之だけは確です。それから町の名が森だか林だかで始まるのです。その次が川らしいのです。それから何と云うか兎に角何とか内写真館です」
「ふん、本郷だね、本所でなければ。そこで森と、森なら森川町か林なら、はてな、林町と、林町は小石川だったかしら」
「本郷にも林町はありゃしませんかね、駒込林町と云うのが」
 岸本は云った。
「ふん、然し、駒込はついていなかったんだろう」
「えゝ、町名だけのようでした」

 石子刑事は翌朝本郷に出かけた。
 先ず森川町を目指して行ったのだが、好運にも直ぐ竹内と云う写真館を発見する事が出来た。一高の少し手前を左の方へダラ/\と坂を下った右側だった。
 浅田写真館よりは大分繁昌しているらしく、飾窓《ウインドウ》の写真にも現代風の令嬢や、瀟洒たる青年の半身姿などが飾ってあった。
 石子刑事は暫く飾窓の前に佇んで中の様子を覗った後、一高前の交番に行って刑事の手帳を示し、神楽坂署へ電話をかけた。迂闊《うかつ》に飛び込んで又裏口からでも逃げられては、折角の苦心も水の泡だと思ったので応援を頼んだのである。
 五、六名の応援刑事が到着するのを千秋の思いで待ちかねていた石子は、彼等の姿が見えると、すぐに夫々手配りをして、竹内写真館の入口のドアを押して中へ這入った。流石に異様な緊張の為に息が弾むのだった。
 這入ると直ぐ突当りに幅の広い階段があって、「お写しの方は直ぐに二階に上って下さい」と云う札が目を惹くように立て掛けてあるきり、中はしーんとしていた。石子刑事は暫く考えていたが、思い切って静かに階段を上った。
 上は広い洋風の待合室になっていた。中央の卓子《テーブル》の上には厚い表紙の金縁の写真帳がいくつも置かれていた。石子がどうしようかと窓際の長椅子の前に佇んでいると、次の間から一人の書生が現われた。
「いらっしゃいまし」
「今日は、ちょっと松下さんにお目にかゝりたいのですが」
 石子は丁寧に云った。
「松下さんは居られませんですが」
 書生は吃驚したように云った。
「どちらへ行かれましたか」
「松下さんは滅多にこっちへ来ないのですよ」
 書生は怪訝そうな表情で答えた。
「こちらに居られると云う事を聞いて来たのですが」
「はあ、居る事にはなっていますが」
 書生は困ったように、
「鳥渡お待ち下さい」
 そう云って彼は引込んだが、引違いにこの家の主人《あるじ》らしい四十恰好の風采の好い男が出て来た。
「いらっしゃいまし。まあ、お掛け下さいまし」
 彼は愛想よく云った。
「有難うございます」
 石子は軽く頭を下げて答えた。
「松下さんと云うのは一体何をしている人ですか」
 主人は意外な質問を発した。石子は面喰った。
「何をしているって、こちらに御厄介になっているんでしょう」
「それがね、誠に奇妙な人物なんですよ」
 主人は顔をしかめながら、
「私の所に居る事になっているらしいのですが、滅多に姿を見せないのです」
「はてね、私はずっとこちらにいると思っていたんですが」
 石子は主人の顔色を覗った。
「どうもそう見せかけているらしいのです」
 主人は苦笑いしながら、
「時々郵便が来るのです。そして松下は三日目に一度位それを取りに来るのですよ」
「こちらとはどう云う関係なんですか」
「書生と云う事になっているんですがね」
 主人の答えは益※[#二の字点、1-2-22]意外である。
「つい二週間位前ですかしら、別に誰の紹介もなくブラリとやって来ましてね、写真が研究したいから門下生にして呉れと云うのです。私の所では住込で研究さしていろ/\雑用もさせる代りに少しばかり給料をやるのと、いくらか教授料を取って、通いで研究させるのと二種類あるのです」

 竹内写真館主の話によると、その松下と名乗る男は早速|束脩《そくしゅう》を納めて門下に加わったのだった。所が一向写真を研究しようともせず、前に云った通り三日目か四日目に彼宛に来る郵便物を取りに来るのだった。
「恰《まる》で私の宅を郵便の中継所のようにしているので、私も少し腹が立ちましたから断ろうかと思っているのですが、何分三週間の謝礼を前に取っているものですから、期限が来るまで鳥渡《ちょっと》云い出し悪《に》くかったのです」
「松下と云うのは三十六、七の色の真黒な頑丈な男で、眼が大きくて眉の気味の悪い程濃い、ひどく東北訛のある大きな声を出す男でしょう」
「その通りです」
 主人の云う所は嘘とは思えぬ。石子は登りつめた絶頂から九仭《きゅうじん》の谷へ落されたように情なくなった。
「今手紙は来ていませんか」
「一昨日《おとゝい》でしたか、すっかり持って行った所です」
 あゝ、又しても僅な違いで出し抜かれて終《しま》った。
「実は私はこう云う者です」
 石子は名刺を差出しながら、
「松下と云う男は本名を支倉と云って、ある犯罪の嫌疑者なのです。今度もしやって来ましたら引留めて警察へ渡して下さい」
 写真館主は名刺を受取って、吃驚したように眼を瞶《みは》りながら答えた。
「承知いたしました」
 石子刑事は悄然として外へ出た。
 度々の事とて見張をして呉れている同僚に合す顔がないのだった。
 同僚には手短かに話をして、歯噛みをしながら署へ帰った。
 今度こそはと期待していた根岸刑事は石子の話を聞くと落胆《がっかり》して終《しま》った。
「どうも旨く立廻る奴だなあ」
「全く以て我ながら嫌になるよ」
 石子は面目なげに答えた。
「支倉だけでも好い加減持て余しているのに、浅田なんて一筋縄で行かぬ奴がついているのだからね、骨が折れる訳さ。だけど、それだけ材料があると、愈※[#二の字点、1-2-22]浅田の奴を引っぱたいて本音を吐かせる事が出来るよ。前に一度飴を甞《な》めさして帰してあるのだ。今度こそは少し辛い所を見せてやるぞ」
 根岸は珍しく興奮した。
「然し奴素直に出て来るかしら。何か旨い口実があるかね」
「そうだね、岸本とか云う君の諜者はどう云う契約だったんだ」
「あれは諜者と云う訳じゃないのだ。僕に鳥渡恩を着ている事もあるし、行方不明になっている例の女中も鳥渡知っていると云うような訳で、進んで浅田へ住込んだのだがね、危いと思っていた割合にはよくやったが、結局駄目だったよ。契約なんてむずかしい事はありゃしないさ。只書生に這入ったんだよ」
「うん、じゃ岸本を利用して契約不履行とかなんとか云う訳にもいかんね」
「犯人隠匿と云う訳にも行かんし、営業違反と云う事もなし、全く困るね」
「世間ではよくこうした場合に、徒《いたずら》に口実を拵《こしら》えて良民を拘引すると云うがね」
 根岸刑事はふだんの冷然たる態度に帰って云った。
「今の場合のように非常に濃厚な嫌疑のある男の逃走を援助している男をだね、取押えて調べる道がないとすると、殆ど犯罪の検挙は出来ないじゃないか。時に誤って良民を苦しめる事があるとしても、その人はだね、丁度そんな嫌疑のかゝる状態にいたのが云わば不運で、往来で穴の中へ陥ちたり、乗ってる電車が衝突したりするのと同じ災難じゃないか。こっちは決して悪気でやっているのじゃないからね」
「そんな議論は然し世間には通用しないさ」
 石子は苦笑いをした。

「つまりこうなんだ」
 石子刑事は続けた。
「災難と云っても、穴に陥ちたり、電車で怪我したりしたのは夫々賠償の道があるだろう。我々の方へ引懸かったのはどうせ犯罪の嫌疑者だから、扱い方もそう生優くしていられないさ。さんざんまあ侮辱的な扱いを受けて揚句損の仕放しじゃ、辛い訳だね」
「賠償する事にしたって好いさ。どうせそうザラにある訳じゃないから。新聞はそんな方ばかり書くから矢鱈《やたら》に多いようだが、そんなものじゃないからね」
「所がそうなると僕達は直ぐ成績に影響して来るからビク/\もので、碌《ろく》な検挙は出来ないぜ」
「何にしても悪い事をする奴がなくなればいゝんだがなあ」
「そうなると僕達は飯の食上げだぜ」
「ハヽヽヽ」
「ハヽヽヽ」
 二人は顔を見合して笑ったが、さて現実の問題として見ると、こんな呑気な事は云っていられなかった。
「兎に角、俺が、浅田を引っ張って来よう」
 根岸が云った。
「そうかい、じゃお願いしようか。僕はもう少し支倉の旧悪の方を突ついて見よう。何と云って連れて来るんだい」
「無策の策と云うか、当って砕けろと云うか、別に口実なんか拵《こしら》えないでやって見よう。対手も食えない奴だから下手な事は云わん方が好いだろう」
 根岸と石子は別れ/\に白金と高輪に向った。
 石子が高輪へ出かけたのは、そこの警察へ行って放火事件を委しく調べる為だった。
「さあ、無論記録にあるはあるでしょうがね、五、六年前に半焼一軒じゃ鳥渡さがすのに骨が折れましょうて」
 係の巡査は首を捻った。
「今日は馬鹿に古い調物があるなあ」
 隣にいた巡査がニヤ/\しながら云った。
「僕の方は三年前の仮埋葬死体の照会だ」
「え、三年前」
 耳寄りな話だと石子刑事はその巡査の方を向いて聞いた。
「どう云うんですか」
「何ね、三年前にね、大崎の池田ヶ原の古井戸から女の死体が出ましてね、身許不明で大崎の共同墓地へ埋葬したんですがね、今日或地方から照会がありましてね、親心と云うものは有難いものですね、三年前に家出したまゝ行方不明の娘があるので、どこで見たんですかね、仮埋葬の広告を見たとみえて、早速の照会なんですよ」
 三年前! 池田ヶ原! 家出娘! 何と似寄った話ではないか。
 石子刑事は胸を轟かした。
「いくつ位の娘なんですか」
「二十二、三です」
「そうですか」
 石子は落胆した。
「えーと、やっと見つかりましたよ」
 隣の巡査が声をかけた。
「支倉方より出火、半焼と之でしょう」
 巡査の指し示す所を見ると、確に石子の求める記録だった。彼はそれを写し取って外へ出た。
 世め中はだん/\春らしくなる。物持らしい家の南に向った気の早い梅は、塀越しに一輪二輪綻びかけていた。冷たく顔に当る風さえが、眼に見えない伸びようとする霊気を含んでいるようだった。
 力なく/\帰署する石子の頭には、支倉の失踪を中心として起ったいろ/\の奇怪な事件が渦を捲いていた。

          魔手

「奥さん、これですっかり手続はすみました」
 浅田は落着き払って云った。
「どうもいろ/\有難うございました」
 静子は丁寧に頭を下げた。
 こゝは支倉の留守宅の離れ座敷である。基督《キリスト》受難の掛額や厚ぼったい金縁の聖書其他の調度がありし日の姿そのまゝに残っている。石子刑事が見たら感慨無量であろう。相対した男女の二人は支倉の妻の静子と写真師浅田である。
 庭には午後の陽が暖かそうに一杯当っていた。
「之でこの家も高輪の借家の方もみんなあなたのものになった訳です」
 浅田は生際の薄くなった額を撫で上げながら、気味の悪い笑いを洩らした。
「ほんとにお手数をかけました」
 静子は格別嬉しそうにせず、
「何ともお礼の申上げようがありません」
 浅田は要件が済んで終《しま》っても中々尻を上げようとせず、又新しい敷島に火を点けて、四辺《あたり》をジロ/\睨み廻していた。
 静子は手持無沙汰で、一刻も早く彼の帰って呉れる事を念じていた。
「お淋しいでしょう」
 暫くすると浅田が云った。
「はい」
「お子供さんの御病気はいかゞですか」
「有難うございます。病気はもう夙《とう》から好いんでございますけれども――」
 静子は後を濁らした。支倉との間に出来た太市《たいち》という今年六つになる男の子は、少し虚弱な質で、冬になると直ぐ風邪を引いて熱を出したりするので、一月の初めから温かい海岸にいる親切な信者の所へ預けてあった。一月末には迎いに行く事になっていたが、丁度刑事に踏み込まれたりして、迎いに行くのが延々になり、子供にこんな有様を見せたりするのは面白くなかったし、幸い子供も帰りたがらないので、その儘預け切りになっているのだった。
「支倉さんも坊ちゃんに会いたがっていましたよ」
「――――」
 静子は黙ってうつむいた。涙がにじみ出て来た。子供に会いたいのは彼女とても同じ事、一時も早く親子三人団欒して、昔の平和な生活に帰りたかった。もしや子供が今頃父母を慕って泣いていはせぬかと思うと、落着いた気はなかった。一時の心得違いから家を外に隠れ廻っている夫が恨めしかった。彼女はどうして夫が逃げ隠れをして、自分に家作を譲ったりする事を急ぐのか、よく分らないのだった。
 静子は顔を上げた。睫《まつげ》にキラ/\と小さい露が宿っていた。
「何でございましょうか、夫は之で警察へ出頭いたしますでしょうか」
「さあ、分りませんね」
 浅田は意地の悪い笑を浮べながら、
「まあ自首なんかなさるまいよ。誰でも刑務所へ這入るなどは感心しませんからね」
「あの」
 静子は顔色を変えた。
「じゃ、矢張り罪になるような事をしたんでございますか」
「さあ」
 浅田は困ったと云う表情をしながら、
「まあそうでしょうね」
「どんな事をしたんでございましょう」
「奥さんご存じないのですか」
「聖書の事でございましたら」
 静子は云い悪くそうに、
「あれは決して盗んだのではない。正当に譲り受けたのだと申して居りました」
「そうですか。じゃ何か外にあるのでしょう」
 浅田はニヤリと笑った。

 ニヤリと笑った浅田は続けた。
「何か未だ外にあるんでしょうよ。あゝ逃げ廻る所を見れば」
「いいえ。逃げていると云う訳ではありません」
 静子は躍起となった。
「この譲渡しの手続きさえすめば進んで警察へ出頭するものと信じて居ります」
「所がね、奥さん」
 浅田は狡猾《ずる》そうな表情を浮べながら、
「支倉さんは未だ逃げ歩く積りですよ。本郷の方ですね、手紙の送先の写真館ですね、あれが発覚しそうになって来たので、近々又格別の所を云って寄越す事になっているのです」
「本郷の方はどうなったのですか」
「私が少し失敗《あやま》ったものですからね」
 浅田は腮《あご》を撫でながら、
「宅《うち》へ探偵の廻物《まわしもの》が這入ったのですよ。小僧だと思って抛って置いたのですが、うっかりして本郷の方を嗅ぎ出されそうになったのです。それでね態《わざ》と外の所を教えて遣《や》って、昨日叩き出して終《しま》ったのですが、昨日今日あたりは探偵の奴め間違った所を探し歩いて、靴をすり減らしている事でしょうよ。ハヽヽヽ」
「そんな危険な思いをしないで、早く自首して呉れると好いんですがねえ」
 静子はホッと溜息をついた。
「然しね、奥さん、これはそうあなたが簡単に考えて居られるような事じゃありませんよ」
「えっ」
「と云って、そう驚く程でもありませんがね」
 浅田は態と話を切って、じっと静子の顔を見た。
 静子は浅田の気味の悪い視線を避けながら、
「どう云う事なんでございましょうかしら」
「さあ、私にもよくは分りませんがね。もし支倉さんが潔白なのでしたら、あゝ逃げ廻る必要もなくあなたに周章《あわて》て財産を譲る必要もない筈です。今だに姿を晦ましているのは何か重大な罪を犯して居られるのではないかと思われますがね」
「そんな筈はございません。そんな逃げ廻るような罪を犯している気遣いはありません」
 静子はきっぱり云った。
「そうですか、それなら結構ですが」
 浅田はニヤリとして、
「大分前の事ですが、あなたの所の女中さんが行方不明になった事がありましたね」
「はい」
 静子は恨めしそうに浅田を見上げながら答えた。
「あの女中さんは、こんな事を云っちゃなんですが、支倉さんがどうかなすったのでしょう」
「はい」
「そんな事で警察へ呼ばれるんじゃないでしょうか」
「そんな筈はないと存じます。あの時の事はちゃんと片がついているのでございますから」
「はゝあ、ちゃんと片づいているのですか」
「はい、神戸《かんべ》牧師に仲に這入って頂きまして、すっかり話をつけましたのです」
「何でも無頼漢《ごろつき》の叔父かなんかゞいたようですが、そんな奴が訴えでもしたのではありませんか」
「さあ、そんな事はないと存じますが、あの叔父と申すのは随分分らない人でしたから――」
「そうだったようですね。私はあの女中さんを隠したのもそいつの仕業だろうと思っているのですよ」
「主人もそう申して居りました」
「然し、聖書の事位ならそう逃げ隠れしなくても好さそうなもんですがなあ」
 浅田は独言のように云ったが、何を思ったか形を改めて云った。
「ねえ、奥さん」

 浅田は形を改めて切出した。
「ねえ、奥さん。こんな事を云っちゃなんですけれども、支倉さんはそう頼みになる人ではありませんよ」
「――――」
 静子は黙って、咎めるように浅田の顔を仰ぎ見た。
「ひどい事を云う奴だとお思いかも知れませんが、支倉さんの今度の遣方などは凄いものですよ。一月の末でしたかね、刑事がやって来た時に支倉さんは巧妙な方法で逃げたでしょう。そうしてあの晩は火薬製造所跡の庭で一晩明したのだそうですよ。何でも大きな松の木があるそこの下で一晩明したと云ってられました。それで秀吉が木下藤吉郎と名乗った故事になぞらえて、松の下で一夜を明したと云うので、松下一郎と云う名を思いついたのだそうです。松下一郎と名乗って本郷の竹内写真館に書生に入り込み、入り込むたって名ばかりで、実は手紙の中継所《なかつぎしょ》にして置くなんて、鳥渡普通の人には思いつかない事ですよ。そうして警察の方へは始終愚弄した手紙をやっているんですよ。そんな事を考え合わすと、支倉と云う人は可成恐ろしい人ですよ」
 静子は依然として黙っていた。
「余計な事かも知れませんが」
 浅田は続けた。
「奥さん、今のうちにお見切にたったらいかゞですか。幸いに財産もあなたの名義になったんですし――」
「ご親切は有難うございますが」
 静子は堪えかねたと云う風に遮った。
「そんな話はどうぞお止め下さいまし」
「そうでしょう。そりゃご夫婦の間として、ご立腹ご尤もです。然し奥さん」
 浅田は異様に眼を輝かした。
「私の云う事も聞いて下さい。私は実際奥さんに敬服しているのです。学問もおありだし、確乎《しっかり》して居られる。私のとこのお篠などは無教育で困るのです。あんな奴はどうせ追出して終うのですが、どうでしょう、奥さん、私の願いを聞いて頂けましょうか」
「お願いと仰有いますのは」
 静子は蒼くなった。
「奥さん、そんな野暮な事を仰有らなくても、もう大体お気づきじゃありませんか。私も今度は随分骨を折りました。私がいなければ支倉さんは夙に捕っているのです。私は事によると罪になるかも知れないのです。私がこんな危険を犯して尽したと云うのは、どう云う訳だとお思いになります。奥さん私はたった一つの望みが叶えたいばかりじゃありませんか。ね、奥さん、支倉さんなんかにくっついていては碌な事はありません。浅田はとに角正業で堂々とやっているのです。奥さん、どうかよく考えて下さい」
「私はそんな事にお返事申上げる事は出来ません」
 静子は決心したように云った。
「失礼でございますけれども、どうぞお帰り下さいまし。子供ではございますけれども女中も居る事でございますから」
「奥さん」
 浅田は気色ばんだ。
「では私の申出を、無下にお退《しりぞ》けになるのですか」
「止むを得ません」
「では何ですか、私があなたのために法律を犯すことさえして尽したのをお認め下さらないのですか」
「それはどんなにか感謝しているのでございます。然しそれとこれとは事が違います」
「ではあなたは飽まで支倉さんに操を立てようと云うのですか」
「はい」
「そうですか。男の私が之れほどまでにあなたを慕っているのに、私の心を察して呉れないのですね。私は詰らない人間です。然し浅田も男です。そんな冷たい事を仰有るなら覚悟がありますぞ」

「どんなお覚悟ですか」
 浅田の脅迫するような言葉に、一生懸命に勇気を振い起した静子は蒼白い顔にホンノリと赤味を現わして反問した。
「私の口一つで支倉さんは刑務所行です。どうせ軽い罪ではありません。刑務所へ行ったらいつ出られる事か、奥さん、あなたは支倉さんが赤い着物を着て牢屋で呻吟されるのをお望みですか」
「支倉に罪があるのなら致方ございません」
「奥さん、あなたはまあ何と云う気丈な事を云うのです」
 浅田は声を顫わせた。
「そんな冷たい事を云わないで、どうぞ私の望みを叶えて下さい。私は浮気で云うのではありません。心からあなたを思っているのです。ね、私はあなたに拒絶されたら生きてる甲斐がないのです。奥さん、どうぞ叶えて下さい」
「浅田さん。そうまで思って頂くのは冥加の至りですけれども。女中が居ります。どうぞお引取り下さい。それに第一あなたには、お篠さんと云う立派な方があるじゃございませんか」
「お篠なんか問題じゃないのです。あんな無教育な分らない奴なんか明日にも追出して終《しま》います。奥さん、どうぞ叶えると返辞をして下さい」
「浅田さん――」
「この通りです、奥さん」
 浅田は畳に額をすりつけん許《ばか》りに両手をついて頭を下げた。
「まあ、そんな事をなすっては困ります」
「私はあなたに拒絶されては生きていられないのです」
 浅田は泣き声を出した。
「ねえ、奥さん、一生の願いです」
「それは無理と云うものです」
「そんな事を仰有らないで――」
「もうどうぞお帰り下さい」
 静子は思わずきっと云った。
「じゃ何ですか」
 浅田は態度を改めた。
「之ほど云っても私の望みを聞いて呉れないのですか」
「致し方ございません」
「奥さん、よくも恥をかゝせましたね。こうなっては浅田も男です。のめ/\とは帰りません」
「――――」
 静子は非常な不安に襲われて、身体を縮ませながら浅田の様子を覗った。
「もう一度よくお考え下さい」
 彼は息を弾ませながら云った。
「考える余地はございません」
 浅田は無言ですっくと立上った。静子はブル/\頭えながら身構えした。
 浅田は猛獣が獲物に近寄るようにジリ/\と彼女に迫った。
「何をなさるのです」
 静子は必死の力を振って叫んだ。
「し、失礼な事をなさると、声を揚げますよ」
 然しそんな努力は反って薪に油を注ぐようなものだった。彼女がこう叫んだのをきっかけに浅田は飛びかゝった。
 静子は一生懸命に身を※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》いた。然しそれは畢竟《ひっきょう》猫に捕えられた鼠の悲しい無駄な努力だった。浅田はジリ/\と彼女を羽交締めにした。
 静子は繊弱《かよわ》い女の身の弱い心から、殊に対手は今まで親切にして呉れた浅田ではあるし、声を挙げて女中を呼ぶ事は幾分躊躇されたので、黙って身を※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]いていたので、浅田はそれにつけ込んで彼女を押倒そうとした。彼女は最早忍んでいられなかった。救いを呼ぼうと思ったとたんに、遠く離れた所だったが、足音がした。
 浅田ははっと彼女を抱きしめていた腕の力を抜いた。その隙に彼女は逃げ出した。浅田は直ぐに彼女を追った。格闘が始まった。襖が外れてドタンバタンと音がした。
 バタ/\と誰やら駆けつけて来る音がした。

 静子は必死に浅田の魔手から逃れようとする、計らずも起った格闘にドタンバタンと音がしたが、其音に駆けつけて来たのは誰ぞ、それは思いがけなくも夜叉のような形相をしたお篠だった。
 浅田は驚いて、静子を捕えた手を放した。静子ははっと飛び退いて乱れた裾を掻き合せた。
 お篠はいきなり浅田に獅噛《しが》みついた。
「何をふざけた事をしやがるのだっ!」
 お篠は浅田に武者振りつきながら泣声を振絞るのだった。
 浅田はお篠を振放そうとしたが、女ながらも必死の力を籠めているので生優しいことでは放れない。彼は大きな拳を上げて、お篠の頬を撲り飛ばした。それから打つ、蹴る、噛みつく、暫し乱闘が続いた。
 お篠は口惜し涙に咽《むせ》びながら、切々《きれ/″\》に喚き出した。
「口惜しいっ! ひ、人を馬鹿にしやがって、亭主のいない留守につけ込みやがって、何だこの態《ざま》は! さっきからいくら玄関で呶鳴ったって、下駄がちゃんと脱いであるのに、返事をしやがらねえ、変だと思っているうちに奥の方でドタンバタンと音がするから来て見ればこの体だ。何てい恥ざらしな真似をするんだ。口惜しい、口惜しいよう」
「静かにしろ」
 浅田の眉は悪鬼のように吊上がった。
「愚図々々|吐《ぬ》かすと、只じゃ置かないぞ」
「なんだって、只は置かないって面白い、手前が恥しい真似をしやがって、あたしをどうしようていんだ。殺すなら、さあ殺せ」
「うるさいっ」
 浅田は呶鳴った。
「貴様みたいな奴を誰が殺すもんか。こゝでは話が出来ない、家へ帰れ」
「誰がこのまゝ家へ帰るもんか。あたしゃこの場で何とか極りをつけて貰うまで一寸だって動きゃしない」
「帰れったら帰らないか」
「いやだよう、支倉の奥さん、何とか鳧《けり》をつけとくれ」
 静子は蒼白い顔をして、大きく肩で息をしながら、浅間しい夫婦の乱闘を眺めてはら/\していたが、どうする事も出来なかった。
 浅田はとう/\お篠の腕を捻上げて、グン/\引立てた。
「奥さん」
 部屋を出る時に浅田はグッと静子を睨みつけながら云った。
「どうも失礼いたしました。このお礼はきっとしますぞ」
 静子はブル/\顫えて顔を伏せた。
 泣き喚くお篠をしっかり小脇に抱えて、玄関に出ると浅田はハッと立竦んだ。
 そこには根岸刑事が冷やかな笑を浮べながら、突立っていた。
 日外《いつぞや》一度取調べられてから、どことなく底気味の悪い刑事だと思っていた根岸が、時も時、ひょっこり眼の前に立っていたのだから、浅田の驚きは大抵でなかった。彼は思わずお篠を抱えた手を放した。
「態《ざま》見ろ」
 お篠は呶鳴り出した。
「警察の旦那がお前に用があると云って来たので、大方こゝに潜り込んでやがるのだろうと思って、旦那を案内して来たんだ。それを知らないで、ふざけた真似をした上に、あたしをこんな酷い眼に遭せやがった。ヘン、玄関に刑事さんが待っているとは気がつかなかったろう。いゝ気味だ。さあ旦那、こんな奴は早く引っ縛って連れて行っておくんなさい」
「真昼間から夫婦喧嘩は恐れ入るね」
 根岸刑事はニヤ/\とした。
「夫婦喧嘩じゃありません。この野郎が支倉の奥さんに――」
 お篠が喚き立てようとするのを浅田は押えた。
「根岸さん、私に何か御用ですか」
「えゝ、鳥渡聞きたい事があるので、署まで来て貰いたいんですよ」
「そうですか、じゃ直ぐ参りましょう」

          墓を発《あば》く

 牛込神楽坂署の密室で、庄司署長を始めとして、大島司法主任、根岸、石子両刑事の四人が互に緊張した顔をして何事か協議していた。
「すると何だね」
 大島司法主任は石子に向って云った。
「その大崎の池田ヶ原の古井戸の中から上った死体が、支倉の家にもと女中をしていて三年前に行方不明になった小林貞と云う女ではないかと云うのだね」
「そうです」
 石子刑事は答えた。
「その死体は死後六ヵ月を経過していたと云うのですが、そうすると死んだ時が恰度その女が行方不明になった時に一致するのです。貞と云う女は既に三年になるのに何の便りもないのは既に死んでいるものと認めて好いでしょうし、その井戸から上ったと云う女も今だに身許不明なのですから、同一人ではないかと云う事も考えられます。それに井戸のある場所が大崎ですし、もし支倉がその女を井戸へ投げ込んだのではないかと疑えばですね、井戸のある所が支倉の近所で、誘《おび》き出して投げ込むには屈竟な所ですから、どうもその娘でないかと思うのです」
「成程」
 司法主任は大きくうなずいた。
「所がですね、年齢の点が一致しないのです。当時の警察医の報告では二十二、三歳と云う事になっているのです。実際は十五か十六の訳なんですが」
「ふーん」
 主任は考え込んだ。
「年齢が違うにもかゝわらず、私が尚そうではないかと主張するのは、こう云う事実があるのです。私は高輪署へ支倉の放火事件の事を調べに行って偶然にそう云う身許不明の溺死体があった事を聞き込んだのですが、妙な事には、私の為に自ら進んで諜者になって例の浅田と云う写真師の所へ住み込んだ岸本と云う青年が同じような事を聞き出したのです」
「浅田の宅で聞き出したのかね」
「そうなんです。浅田の家内のお篠とか云うのが、池田ヶ原の井戸から問題の女の死体が出た時に見に行ったと云うのです」
「えッ」
 主任は身体を乗出した。
「で、何かい死体に見覚えがあったとでも云うのかい」
「そうだと問題はないのですがね」
 気の早い主任の言葉に石子は苦笑しながら、
「何しろ井戸の中に六ヵ月もいたのですから、判別はつきますまいよ」
「じゃどうしたと云うのだね」
「お篠の云うにはですね、彼女がその死体を見に行った時に、現場で支倉に出食わしたと云うのです」
「ふゝん」
「そして二人で、見た所は未だ若いようだが、可哀そうな事をしたものだと話合ったそうです」
「成程」
「支倉がその死体を見に行ったと云う事は、鳥渡我々の頭へピンと来る事実じゃありませんか」
「そうだね」
 主任はうなずきながら、
「犯人はきっと犯行の現場を見に来ると云った我々の標語《モットー》から云うと、支倉が池田ヶ原の古井戸まで死体を見に行ったと云う事は看過すべからざる事実だね」
「支倉が浅田の妻君に向って、『どこの女だか知らないが、可哀想なものだね』と云った事などは犯罪心理学の方から云って面白い事だね」
 浅田の取調べの席を外して特に列席していた根岸刑事は口を挟んだ。
「僕もそう思うのだがね」
 石子刑事は気乗のしないように答えた。
「どうも年の点でね」
「死後六ヵ月を経過した溺死体の年なんてものは的確に分るものじゃないさ」
 今まで黙々として聞いていた庄司署長は初めて口を出した。
「で、何かい、その死体は他殺ちゅう事になっとるのか、それとも自殺となっとるのかね」

「自殺と云う事になっているのです」
 石子は署長の質問に答えた。
「然し、司法検視をやっていないのですからね。警察医が形式的に見たのに過ぎないのです」
「当時の井戸の状態はどうなっとったのかね、過失で落ちるかも知れんと云う状態になっとったかね」
「それがですね」
 石子は署長のグン/\追究するような質問に少したじろぎながら、
「何分三年も前の事で、その後井戸は埋めて終いましたし、どうもよく分らないのです。然し調べた所に依りますと、確に井戸側はあったようで、過失で陥込むような事はなかろうと思われます」
「ふん」
 署長は忙《せわ》しく瞬きながら、
「それで何だろう、その娘が覚悟の自殺をしたかも知れんと云う事実はないのだろう。遺書なんか少しもなかったと云うじゃないか」
「遣書なんか一通もないのです。それに年が僅に十五か十六ですから、聞けば少しぼんやりした方で、クヨ/\物を考える質《たち》ではなかったそうですから、自殺と云う事は信ぜられませんね」
「じゃ、君、過失でもなし、自殺でもないとすると、他殺に極っとるじゃないか」
「えゝ、その屍体が貞と云う娘に違いないとしてゞですね」
「年齢の差などは当にならんさ」
 署長は押えつけるように云った。
「僕の考えでは一度その屍体を調べて見る必要があるね」
「然し、署長殿」
 司法主任は呼びかけた。
「その屍体は自殺と云う事になっているのですが」
「そいつも確定的のものでありませんね」
 根岸が口を出した。
「死後六ヵ月の溺死体とすると容易に自殺他殺の区別を断言する事は出来ませんね」
「それもそうだ」
 主任はうなずいたが、
「どうも高輪署が屍体を普通の行政検視ですませ、司法検視をしなかったのは手落だなあ」
「それはね」
 石子刑事は云った。
「どうも品川署との所管争いでおっつけっこをしていた結果ですよ。何しろあの原は恰度両署の境界になっていますからね。で、結局高輪署が背負込んだ時には、えゝ面倒臭いと云うので、形式的に検視をしたのじゃないかと思います」
「他署の非難は第二として」
 署長は云った。
「どうだ、その屍体を調べようじゃないか」
「さあ」
 大島主任は二人の刑事の顔を見廻した。
「屍体発掘は面倒ですし、もしそうでない場合にはね」
 石子刑事は考え/\云った。
「僕はやって見たら、好いと思うね」
 根岸刑事は云った。
「支倉の今迄の遣口を見ると、どうもその位の事はやり兼ねないからね。高の知れた聖書を盗んだゝけの問題ならそう逃げ隠れする必要もなし、あんなに執拗に警察を嘲弄する必要もないのだ。それは奸智に長《た》けている事は驚くべきものだ。殺人位平気でやる奴だよ」
「僕もその意見には賛成だが、然し、それは問題の屍体が小林貞かどうかと云う事とは別だからね」
「然し君の話だと九分九厘まで行方不明になった女中の屍体らしいじゃないか」
「そうは思うがね、何分年齢が違うし、それに溺死後半年で見出され、埋葬後既に三年に垂《なんな》んとしているから、発掘したって果して誰だか鑑別はつくまいと思うのだ」
「年齢の相違する点から云うと実際考えものだね。もし違うとどうも責任問題だからね」
「やって見るがえゝじゃないか」
 署長は声を高くして拳をドシンと机に当てた。
「間違えば仕方がない、それ迄の話だ。責任は一際俺が背負う」
「宜しい」

 署長の責任を負おうと云う言葉に大島司法主任は赭ら顔を緊張させた。
「その屍体を発掘させましょう。責任は署長を煩わすまでもない私が負います」
「賛成です」
 根岸刑事は云った。
「署長始めそう云われるなら、私も安心です。やりましょう」
 石子刑事は語尾に力を籠めて云った。
「では、その発掘場所其他の取極めについては石子君を煩わそう」
 主任は云った。
「承知いたしました」
 相談が一決すると、石子刑事は勇躍して大崎の共同墓地に向った。
 所が問題はそう簡単ではなかった。
 身許不明の屍体の仮埋葬は墓地の片隅の十坪あまりの地所内で行われるのだが、墓標などは元より何一つ印が立っていないのだった。
 三年前の井戸から上った屍体が果してどの辺に埋めてあるのやら恰《まる》で見当がつかないのである。と云って片っ端から掘っては、どの屍体がどれやら証明する手段がない。要するに誰かその屍体はこゝに埋めたと云う事を知っているものゝ智恵を借りるよりない。
 石子刑事はハタと困った。
 彼は兎に角、この墓地で長く墓掘《はかほり》人夫をしているものを物色した。幸に二、三人の人夫を尋ね出す事が出来た。けれども三年前の屍体だと云うと、いずれも云い合わしたように、
「さあ」
 と小首を傾けるのだった。
 石子刑事は躍起となった。折角自分が云い出して、署長始め司法主任も進んで発掘に賛成したのに、いざと云う場合になって埋葬箇所が分らないではすまされない。彼は共同墓地を中心として熱心に心当りを尋ね廻った。そうして其日の夕刻彼は漸く一人の墓地人夫を探し当てゝ、朧気《おぼろげ》ながらに当時の有様を知る事が出来たのだった。
「えーと」
 人夫は真黒な皺だらけな顔を仔細らしく傾けながら、
「そうです、もう三年になりますよ。暑い時分でした。井戸から上ったと云う、プク/\に脹れた二た目とは見られない娘の屍体を埋めた事があります。大きな花模様のある着物を来て黒っぽい帯しめていましたっけ」
「え、え、何だって」
 石子刑事は耳を疑うように問返した。彼がかつて支倉の妻の静子から聞いた所に依ると、女中のお貞は家出当時、牡丹模様のメリンスの着物に黒繻子の帯をしめていたと云うではないか。
「着物の事なんか委しく知ってますのはね」
 人夫は石子の驚きが激しかったので、弁解するように云った。
「実はその何です。着物を見ると派手な子供ぽいものを着ているし、帯を見ると黒ぽくて年寄染みているでしょう。それに身体の様子も子供ぽいのに、エヘヽヽ」
 人夫は卑しく笑い出した。
「旦那の前ですけれども、その……がね、すっかり発達して立派に大人なんです。それで仲間で一体年はいくつかって賭をしましたよ。そんな事で割によく覚えているのです」
 聞いているうちに石子刑事の頭に被さっていた暗い影は朝霧のように次第に晴れて行った。彼の心配していた年の点もどうやら説明のつくらしい所がある。お貞の屍体に相違ないと云う考えが確乎として来た。
 翌朝神楽坂署の前には一台の大型自動車が勇ましくエンジンの響きを立てゝいた。車には大島司法主任、石子、渡辺両刑事以下四、五人の刑事と制服の巡査、案内役の人夫などがいずれも顔面を緊張させて乗込んでいた。彼等は大崎の墓地に死後半年に発見せられ、埋葬後三年を経過した他殺の嫌疑ある死体を発掘に向うのだった。
 やがて自動車は爆音けたゝましく疾駆し始めた。

 大空はドンヨリ曇って、その下を鼠色の怪しげな形をした雲が不気味な生物のように、伸びたり縮んだりしながら、東北の風に吹き捲くられて西南へ西南へと流れて行った。
 広々とした稍小高い丘に大小取交ぜ数百基の墓石が不規則に押並んで、その間に梵字を書いた卒塔婆の風雨に打たれて黒ずんだのや未だ木の香の新しいのなどが、半《なかば》破れた白張の提灯などと共に入交っていた。墓石の周囲の赤黒い土は未だ去りやらぬ余寒の激しさに醜く脹れ上っていた。遙に谷を隔てた火葬場の煙突からは終夜《よもすがら》死人を焼いた余煙であろう、微に黄ぽい重そうな煙を上げていた。墓地には殆ど人影はなかった。
 折柄、墓石の下に永久《とこしえ》の安い眠りについている霊を驚かすように一台の大型自動車がけたゝましい爆音を上げて、この大崎町の共同墓地を目がけて、驀地《まっしぐら》に駆けつけて来た。
 やがて自動車は墓地の入口にピタリと止った。中からドヤ/\と降りた人達は墓地の発掘に出張した神楽坂署の一行だった。
 墓地の一隅に十坪あまりの平坦な所があった。うかと通り過ぎた人には只の空地と見えたかも知れぬ。然しそこは引受人のない身許不明の屍体を仮りに埋葬した所だった。墓石はもとより墓標すらなく、埋葬した当時にホンの少しばかり盛り上っていた土も雨に流され、風に曝されて、いつの程にか形を止《とゞ》めぬようになっているのだった。
 警官の一行は案内の人夫に連れられて、空地の前に立った。
 同じ人間に生れて同じく定命つきて永劫の眠りについても、或者は堂々と墻壁《しょうへき》を巡らした石畳の墓地に見上げるような墓石を立てゝ、子孫の人達に懇《ねんご》ろに祭られている。それ程でなくても、墓石一基に香華一本位の手向のあるのは普通であろう。それに何等の不幸ぞ。この一隅に葬られている人達は名さえ知られないで、恰《まる》で犬か猫のように無造作に埋められている。勿論畳の上で死んだ人達ではないのだ。然しこの墓地の一隅に立ってこんな感傷的な考えを起す人は稀だろう。都会生活の人々は忙しくてそんな事を考えている暇はないのだ。況んや、今こゝに来た人達は大島司法主任を初めとしいずれも警察界の人で、而も三年前に埋葬された身許不明の死体が他殺の疑いありとして発掘すべくやって来たのであるから、いずれも顔面に只ならぬ緊張の色を現わして、こんな小さな同情心みたいなものを起す余裕のなかったのは当然である。
「どこの所だ」
 大島警部補は案内の人夫を顧みて、呶鳴りつけるように云った。
「こゝです」
 人夫は空地の中程を指し示した。
「よし、掘り出せ」
 主任の命令が一下すると、ショベルを手にして待構えていた二、三人の人夫は一塊りになって、指し示された箇所に出た。やがて、サクッとショベルの先が軟かい赤土に突当った。
 一突、二突、見る見るうちに穴は掘られて行く。警官達は無言でじっと見つめていた。どうして聞伝えたか近所の長屋のおかみや子供達が十人あまり、だらしない風をしながら、遠巻きにパラリと取巻いていた。
 空からは時折りパラ/\と雨滴が落ちた。遮ぎるものゝない野を肌の下まで浸み亘るような冷たい風が通り過ぎて行く。
 掘り起された土は穴の廻りに次第に堆高《うずたか》く積まれて行った。さして深くない墓穴の事とて、人夫のショベルはやがて何かに突き当った。彼等は云い合したように穴を覗き込むと、忽ちショベルの手を休めて、警官隊に合図をした。さっきから待ちかねていた石子刑事は飛び出して穴を覗いた。穴の底には白骨の一部が現われていた。

 白骨の一部が見え出すと、人夫は注意してショベルを動かし出した。やがて完全な一人分の白骨が掘り出された。屍体は埋葬当時は無論粗末ながらも棺に収めてあったのであろうが、今はその破片さえ認められぬ程朽ち果てゝいた。着衣の一部と思われるものさえも止《とゞ》めていなかった。
 白骨は直に用意の白木の箱に収められて自動車に積まれた。主任以下が乗り込むと、自動車は再びけたゝましい音を立てゝ、凱歌を奏するように揚々として走り去って行った。
 白骨はそのまゝ警視庁の鑑識課に運ばれた。溺死体や惨殺された死体など、近親の人でさえ容易に見分けのつかぬものである。況んや、今発掘して来た屍体は井戸から上った時に既に六ヵ月を経過して何者とも判弁し難かったのであった。現にこの女を井戸に投げ込んだと云う嫌疑を受けている支倉が、当時この屍体を平気で見に行って、誰も彼の家の女中である事に気がつかない事を確めているのではないか。
 それを埋葬後三年を経過して、すっかり白骨に化している屍体をどうして、どこの何者と確定する事が出来るだろうか。
 鑑識課に白骨を置くと石子刑事は鑑識がすむまで残る事にして、他の一行は再び自動車を駆って一先ず帰署する事になった。
 庄司署長は結果いかにと待受けていた。
「どうだ、旨く掘り当てたかね」
 彼は大島主任の顔を見ると直ぐに声をかけた。
「はい、人夫の指定した所に丁度旨く可成り長く埋まっていたらしい白骨がありました」
「そうか、それで鑑識課の方へ廻したのだね」
「はい」
「旨く鑑定が出来るか知らん」
「大丈夫だろうと思います。小林貞の骨格の特徴などが相当分って居りますし、着衣の一部なども手に入れる事が出来ましたから」
「そうか」
 署長は暫く考えていたが、
「支倉の逮捕は一体どうなったのだ。一向|捗《はかど》らんじゃないか」
「申訳ありませんです」
 主任は頭を下げながら、
「根岸が例の浅田と云う写真師を召喚して取調べて居りますから、遠からず、彼の潜伏場所が判明するだろうと思います」
「浅田と云う奴は中々食えぬ奴らしいが、根岸で旨く行くかね」
「根岸なら心配はないと思いますが、場合によっては私が調べます。署長殿を煩わす程の事はないと存じます」
「君がそう云うなら暫く根岸に委せて置くとしよう。で、鑑識の結果はいつ分るのだね」
「石子が残っていますから判明次第帰署して報告する事になっています」
 折柄|扉《ドア》をコツ/\叩く者があった。
 大島主任が立上って扉を開くと恰《まる》で死人のように蒼ざめた顔をした石子刑事がヨロ/\と這入って来た。
「ど、どうしたんだ君」
 大島主任は驚いて声を上げた。
「署長」
 石子刑事は苦しそうに喘ぎながら、振り絞ったような声を上げた。
「私はじ、辞職いたします」
「どうしたんだ」
 署長は不審そうに彼の顔を眺めながら、
「しっかりしろ、突然辞職するったって訳が分らないじゃないか。訳を云って見給え」
「屍体が違ったのです。全然違うのです」
「えっ」
 署長と主任は同時に驚駭《きょうがい》の声を上げた。
「全然違うのです。今朝掘り出したのは老人の屍体なのです」
 石子刑事は悲痛な表情を浮べて口籠りながら云った。
 署長と主任は思わず顔を見合せた。

 石子刑事の意外な報告に署長は思わず司法主任と顔を見合せたが、やがて静かに云った。
「君、そう興奮してはいかん。もう少し落着いて委《くわ》しく話して見給え」
「はい」
 石子は余りに狼狽《うろた》えた自分の姿を少し恥じながら、
「先刻大崎の墓地から白骨になった死体を発掘して、鑑識課へ持って行きました事は主任から御聞きの事と存じます。私は一人残りまして結果を待って居りました。恰度居合せました医者は小首を捻りながら、
『どうも可笑しいぞ。之は女の死体じゃない』
と申して居りましたので、少し心配して居りますと、所へ外の用件で見えた帝大の大井博士が御出になりまして、じっと暫く見て居られましたが、
『君、之は男の骨だよ。而も老人だ』
と云われたのです。外の人と違って、博士の鑑定せられたのですから絶望です」
「うん、そうか」
 署長はうなずきながら、
「つまり掘った死体が間違っていたのだね。問題の池田ヶ原の井戸から上った死体が男だったと云う訳ではないだろう」
「はい」
「そうすればその井戸から上った女の死体は墓地のどこかに埋まっている訳じゃないか」
「はい。そうです。高輪署の記録が違っていなければ、あの墓地のどこかに埋まっている筈です」
「高輪署の記録が違っている筈がないじゃないか。現に君を案内した人夫も三年前にそういう死体を扱った事を認めたじゃないか」
「はい。然し彼の覚えていた場所を掘った所が老人の死体が出て来たのです」
「然し」
 署長は押被せるように云った。
「人夫がそう正確に場所を覚えていた訳じゃないだろう。一間や二間、どっちへ狂ったって分りゃしない」
「それはそうですけれども」
 石子は当惑したような表情をしながら、
「そう云う当てずっぽの掘り方では果して問題の死体であるかどうかと云う事は証明が非常に面倒になります」
「面倒になったって埋っているものなら掘り当る事が出来るさ。それに大体見当がついとるじゃないか」
「それはそうですけれども」
「もう一度掘るさ。どうだね大島君」
「そうですね」
 主任は答えた。
「も一度掘るよりありませんね。このまゝ止める訳にも行きますまい」
「埋めた死体がないと云う筈はない。掘り当てるまでやるさ。それとも君は」
 署長は石子の方を向いて、
「諦めたとでも云うのかね」
「いゝえ、そうじゃないのです」
 石子は稍力強く答えた。
「署長殿がお許し下されば何回だって掘ります。然しその結果ついに目的の死体が判明しなかった場合には問題になりますから、寧ろ今私がお咎めを蒙って、辞めようかと思ったのです」
「辞めるなんて云う程の大きな事じゃないじゃないか。君は今三年前の殺人で殆ど証拠が湮滅しかゝっている大事件の探査にかゝっとるのじゃないか。之しきの事にめげてどうするのだ」
「はい」
「間違いは間違いだ。大いに遣《や》り給え」
「そう云って頂くと私も非常に心強いのです」
 石子は感激しながら、
「遣ります。大いに遣ります」
 石子は決心の色を面に浮べて、一礼すると勇気凜々と云う足取りで戸口に近づいた。
 署長はその有様を快げに見送っていたが、何を思ったか声をかけた。
「あゝ、君、石子君、鳥渡待ち給え」

 戸口から出ようとする所を呼び止められた石子刑事は微に不安の色を浮べながら戻って来た。
「何か御用ですか」
「うん、墓地の発掘の時には僕も行こう」
「えっ」
 石子刑事は驚いて署長の顔を見上げた。
「僕も行って立会おう。その方が好い」
「然し署長殿」
 主任は口を出した。
「あなたが行かれて、もし――」
「今度間違うと動きが取れなくなると云うのだろう。何全部俺が責任を負うさ。俺には失敗したからって部下の罪にするような卑怯な事は出来ない。だから出ても出なくても同じなのだ。俺が一緒と云う事は石子君を励ます上に於ても効果がある筈だ」
「それはそうです」
 主任はうなずいた。
「じゃ、明日みんなで出かける事にしよう」
「然し」
 主任は尚気が進まぬように、
「今度失敗すると、永久にこの事件は闇から闇に葬られて検挙が出来ません」
「君は失敗の事ばかり心配するじゃないか」
 署長は叱責するように云った。
「仮令《たとえ》三年前埋葬した屍体だって、実際埋めたものならない筈もなし、又、それと証明の出来ない筈はない。警察官がそう引込思案では駄目だ。我々はこの世から悪人を根絶すると云う任務を持っている。その為には悪人を検挙して法官の前に差出さねばならん。悪人がいつまでも、明白な証跡を我々に提供して呉れない以上、我々は時々冒険を敢てしなくてはならん。見込捜索と云う事は無論ある程度まで危険を伴う。然しそう/\いつでも証拠の歴然とするのを待って検挙を始めると云う訳には行かんじゃないか」
「それは御説の通りです」
 主任は静かに答えた。
「じゃ、ひとつ我々は、確信を持って支倉の旧悪を立証すべき証拠物件の蒐集にむかおうじゃないか」
「承知いたしました」
 大島司法主任は答えた。
「私も何も徒《いたずら》に消極主義を称える訳じゃないのです。署長殿がそう云う御決心なら、大いに気強い訳です。必ず死体を探し出しましょう」
「宜しい、では明日は墓地に僕も行く」
 署長はきっぱり云い切ったが、言葉をついで、
「それから君、支倉の検挙を一日も早くしなければならんぞ。逃走後既に三、四週間にもなっている。然も彼は今尚毎日のように警察に宛て、愚弄嘲笑の限りを尽した手紙を寄越すではないか。実に横着極まる奴だ。一日も早く捕えねばならん」
「その点は御安心下さい」
 主任は云った。
「浅田の取調べが調子よく進んでいます。遠からず彼の居所が判明するでしょう。実は石子君に早くその方に廻って貰いたいのですが、死体発掘と云う重要な事の為に遅れているのです」
「私も一時も早く支倉逮捕の方に廻りたいのです。彼は私に対して一方ならぬ侮辱を加えているのです」
「うん、そうだ。君はどうしても彼を捕えねば男が立たんのだ。大いに君に期待しよう」
 署長は大きくうなずいたが、やがてきっとなって、
「では、兎に角明日は一同揃って墓地に出かけ、目的の死体を掘り出すとしよう」
「承知いたしました。では一切の準備をいたして置きましょう。それから君」
 主任は石子刑事に向って、
「今日掘って来た死体は明日元の所へ埋めなければならんね」
「そうです」
 石子は答えた。
「明日出かける時に持って行く事としましょう」
 大島主任と石子刑事は署長に一礼して立上った。二人の顔面には堅い決心の色が溢れていた。
 あゝ、彼等は果して三年前の埋葬屍体を発掘し、支倉の旧悪を発《あば》き得るや如何に。

 屍体発掘に失敗した大島司法主任、石子刑事を初め神楽坂署員一同の不安と焦燥のうちにその夜は明けた。
 翌朝も前日のように暗雲低く飛んで時に薄日の差すような陰鬱な日だった。前日の大型自動車には新しく乗り込んだ庄司署長が中央に構え、誤って掘り出した白骨の棺と共に、時に砂塵を上げ、時に泥土を跳飛ばしながら、大崎の墓地を目がけて疾駆した。
 昨日の失敗に懲りた石子刑事は案内役の人夫に事の次第を簡単に話した末、もう一度埋葬箇所[#「箇所」は底本では「筒所」]を熟考するように命じた。
「たしかに昨日掘った辺りだと思いますがね」
 人夫は皺だらけの渋紙のような顔に困惑の色を浮べながら、
「事によるともう少し左寄りだったかも知れません。ようがす。もう一度掘り返しましょう」
 そう云って人夫は墓地の中程に進んで、昨日掘り返した跡のすぐ隣の地点を指し示した。
「今度はこの辺を掘って見ましょう」
 人夫の後に従った石子刑事は少し遅れて大股に歩んで来る署長の方に振り向いた。
「こゝをもう一度掘らして見ます」
「宜かろう」
 署長は大きくうなずいた。
 はっしと許《ばか》りに人夫はショベルを軟かい赤土に突込んだ。
 周囲に立った署長初め三、四の警官は黙って人夫の手の動くのを見守っていた。
 穴は次第に大きく開いた。
 ショベルから勢いよく一塊りの赤黒い土が投げ出されると、バラ/\と細かい黄ろぽい土塊が代りに穴の中へ転げ込んだりした。
 やがて穴の底には昨日のように白骨の一部が現われ出た。石子刑事は息を殺して白骨が次第にその全部を現わして来るのを見つめていた。
 掘り出された白骨は殆ど完全に骨ばかりになっていた。棺も着衣も腐朽して殆ど痕跡を止めない程だった。只屍体の背部の恰度屍体の下敷になっていたと思われる部分に、少しばかりボロボロになった布片が残っていた。
 石子刑事は注意深くその布片を地上に拡げて見た。布片は二重になっていて、下敷になっているのは帯の一部らしく、上側のは着物の一部らしかった。帯と思われるものは黒ぽい色で、割に幅の広いものゝ一部と思われた。石子刑事は見る/\喜色を現わして、不安そうに白骨を眺めている大島主任を呼びかけた。
「司法主任殿、之は女帯の一部らしいですよ」
「成程、君の云う通りらしいね」
 司法主任はじっと布片を眺めながら、
「こっちの方は着物らしいが、色がすっかり褪せて終《しま》ってよくは分らないけれども、何か模様があるようだね」
「地もメリンスらしいじゃありませんか」
「うん、どうもそうらしい」
「そうすると」
 石子刑事はいよ/\面を輝かしながら、
「服装の点が問題の死体に一致します。おい、君」
 彼は人夫の方を振り向いて、
「女は模様のあるメリンスの着物に黒い繻子の帯をしめていたと云ったね」
「えゝ、そうです」
 人夫はうなずいた。
「それが恰度小林貞の家出当時の服装に一致するのです」
 石子は主任に向って云った。
「じゃ」
 先刻から黙って石子の話を聞いていた署長は始めて少し微笑みながら、
「之に違いないのだね」
「はい」
 石子は署長の方に向き直った。
「之に相違ないと思います」
「うん」
 署長は満足そうに、
「白骨の寸法から見ても少女らしく思われる。宜しい、之を持って引上げよう」
 署長の命令の下に昨日の老人の白骨は元の穴に埋られ、棺の中には新たに掘出した白骨が収められた。

          曙光

 二回目に発掘して来た白骨が小林貞と判明したか、自殺か他殺か区別がついたか、その鑑定の結果は後に述べる事として、一度神楽坂署の刑事部屋を覗いて見る事にしよう。
 三尺の頑丈な戸口の外には出入する所のない、十畳敷ばかりのガランとした刑事部屋は、二方の窓から受入れる光線で割合に明るいが、誰でもこの部屋に入れられて、物凄い眼つきの荒くれ男に取巻かれて、鋭い質問を浴せかけられたら、怯じ恐れないものはないであろう。況《ま》して少しでも後暗い事のあるものは縮み上って、恐れ入るのが当然である。然し中には強情なしたゝか者があって、時には刑事達の手荒い取調べにも頑強に屈しないものがある。写真師浅田の場合はそれだった。
「それでは何だね、君はどうしても支倉の居所を知らないと云うのだね」
 根岸刑事は大抵の人間ならその一睨みで、震え上って終《しま》いそうな冷いギロリとした眼でじっと対手を見据えた。
「知りません」
 渡辺刑事初め二、三の刑事達に取巻かれた浅田は、浅黒い顔の些《しさゝ》か血の気は失せていたが、平然として答えた。
「好い加減にしろ」
 根岸刑事は責めあぐんだように、
「いつまで隠していたって仕方がないじゃないか。君が支倉の居場所を知らないと云う筈がないじゃないか」
「何と云ったって、知らないものは知りません」
「ふゝん、未だ頑張るんだね。君は毎日のように支倉と文通していたじゃないか」
「文通はしていました。然しそれは大内と云う写真館を中に置いての事で、直接に文通していた訳ではありません」
「だからさ」
 根岸刑事は押被せるように、
「その中に置いている家を云えと云うんだ」
「大内の方が発《ば》れて終ったので、別の所を拵《こしら》えて知らせると云う事になったきり、何とも云って来ないから、今どこに居るのか少しも分らないのです」
「馬鹿を云え。その打合せはちゃんとすんでいる筈だ。君は支倉がどんな罪を犯している男か大体想像はついているだろう。犯罪人を庇護するのは犯罪だと云う事を知らないのかっ」
「知っています」
「じゃ、早く支倉の居所を云うが好い」
「知りませんから云えません」
「ちょっ、強情な奴だな。おい、君は一体、拘留されてから今日は幾日目だと思うんだい」
「そんな事はあなたの方が好く御存じの筈です」
 浅田は無念そうな顔をして云った。
「ふゝん」
 根岸は嘲笑いながら、
「今日でもう三日目なんだぜ。初めは俺も下手に出て、君を怒らさないように、あっさりと白状させようと思ったのだ。俺は一体手荒な事が嫌いで、誰を調べるにしてもこんな荒っぽい言葉は遣った事はないのだが、君のような強情な奴に会っては敵わない。この根岸が堪忍の緒を切ったら、どんな事になるか分らないぞ」
 さして大きな声と云うのではないが、根岸の詰問には一種の底力があって肺腑にグン/\応えて来る。それに彼のギロ/\した眼の不気味さ。流石の浅田もぶるっと顫えた。けれども彼も尋常一様の曲者ではない。根岸刑事の脅迫するような言葉を、うんと丹田に力を入れて跳返しながらきっぱり云った。
「何と云われても知らぬ事は知りません」
「一体君は」
 根岸刑事は少し態度を和げながら、
「どう云う義理があってそう、支倉の利益を計るのだい」
「別に義理なんかありません」
「ふん、そうか」
 根岸は冷笑を浮べながら、
「じゃ何か目的があるのだね」

 根岸刑事に支倉の利益を計るのは何か目的があるのだろうと云われて、浅田はドキリとしたが、顔色には少しも現わさずに平然と答えた。
「何も目的はありません」
「そうかね」
 根岸はニヤリと笑った。
「君がどうも繁々と支倉の留守宅に出入するのは、何か目論見があったのだと思えるがね」
「――――」
 浅田は黙って唇を噛んだ。
「僕が君の細君に連れられて支倉の宅へ行った時には、何だか騒ぎがあったようだね」
「――――」
「細君が、お篠さんとか云ったね、大そう腹を立てゝいたじゃないか」
「あいつはどうも無教育で、所構わず大声を出すので困るのです」
 浅田はポツリ/\答えた。
「と許《ばか》りは云えまいよ。あの時はどうも君が悪いようだったね」
「どうしてゞすか」
「おい、浅田」
 根岸はきっとなった。
「白ばくれゝば事がすむと思うと大間違いだぞ。俺は何もかも知ってるんだぞ」
「何もかもと云うのはどの事ですか」
 浅田は嘯《うそぶ》いた。
「お前が支倉の細君にした事だ」
 根岸は呶鳴りつゞけた。
「何の事ですか、それは」
「馬鹿! 貴様は未だそんな白々しい事を云うのかっ! 貴様は根岸を見損ったか。根岸はどんな人間だか知ってるか。痛い目をしないうちに恐れ入って終え」
「――――」
 浅田は答えない。
「よし、支倉の留守宅でお前がどんなことをしたか、お篠を召喚すれば直ぐわかることだ。オイ、渡辺君」
 根岸は渡辺刑事を呼んだ。
「直ぐお篠を連れて来て呉れ給え」
「宜しい」
 渡辺刑事は勢いよく立上った。
「鳥渡待って下さい」
 浅田はあわてゝ、声をかけた。
「何の用だい」
 渡辺刑事は嘲るように答えた。
「お篠を呼ぶ事は待って下さい」
「待てと云うなら、待ちもしようが」
 渡辺はきっと浅田を見据えながら、
「どう云う訳で待って呉れと云うのだ」
「あいつはどうも智恵の足りない奴で、物事の見境なく喚き立てますから――」
「好いじゃないか」
 渡辺は押被せるように云った。
「何を云ったって君に疚《やま》しい所がなければ差支えないじゃないか」
「所がその」
 浅田は困惑しながら、
「あいつはある事無い事を喋るのです」
「無い事なら恐れるに及ばんじゃないか」
「そりゃそうですけれども――」
「渡辺君」
 根岸はもどかしそうに声をかけた。
「いつまで愚図々々と一つ事を聞いていたって仕方がないじゃないか。早くお篠を呼び給え」
「承知だ」
 渡辺は勢いよく答えた。
「直ぐ行くよ」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 浅田はうろたえ出した。
「あんな碌でなしを呼んだって仕方がありません」
「おい」
 根岸は浅田をギロリと睨みつけて、
「貴様は何か女房に喋られて悪い事をしているな」
「そんな事はありません」
「支倉の逃亡を援助しているだけなら何もそう女房を恐れる筈はない。どうも一筋縄で行く奴ではないと思っていたが、貴様は何か大きい事をやってるな」
「決してそんな事はありません」
「そうに違いない。すっかり洗い上げるから覚悟しろ」
「え、そんな覚えはありませんけれども」
 浅田はあきらめたように云った。
「こうなっては仕方がありません。何もかも申上げましょう」

 何もかも申上げましょうと云った浅田の言葉に根岸刑事は心中大いに喜んだが、素知らぬ顔をしながら、
「そう素直に出れば何も事を荒立てる事はない。次第によっては直ぐ放免しても好いのだ」
「じゃ何ですか、すっかり申上げれば直ぐ帰して呉れますか」
 浅田は少し身体《からだ》を乗り出した。
「そんな事は始めから分り切っているじゃないか。それ以上君を引っばたいて詰らぬ埃を立てようとは思っていないよ」
「そう始めから仰有って下されば私は直ぐ知っているだけの事は申上げたのです」
「始めからそう云っているじゃないか」
「何、そんな事仰有りゃしません。無闇に脅かしてばかりいられたので――」
「そんな事は今更云わんでも好いじゃないか」
 根岸はニヤリとした。
「話が分れば、一つすっかり云って貰おうじゃないか」
「云いますよ」
 浅田は真顔になって答えた。
「所でね根岸さん。私はほんとうに支倉が今どこにいるか知らないのですよ」
「何っ!」
 根岸は声を上げた。
「ほんとうなんです。この期《ご》に及んで何嘘を云うもんですか。ほんとうに知らないんです」
「ふん、全く知らないのかい」
 根岸は些か口調を和げて半信半疑と云う風に云った。
「全く知らないのです。然し近く私の所へ知らす事になっていたのです。ですからことに依ると宅《うち》へ手紙が来ているかも知れないのです」
「黙れ」
 根岸刑事が呶鳴った。
「この根岸がそんな甘手に乗ると思うか。貴様の宅《うち》に支倉から手紙が来たか来ないか位はちゃんと調べてあるぞ。そんな甘口で易々と貴様は放免しないぞ」
「じゃ何んですか」
 浅田は不審そうに根岸を見ながら、
「私の宅へ松下一郎と云う名で手紙は来ていませんか」
「来ていない」
「そりゃ可笑しいな」
 浅田はじっと考えながら、
「そんな筈はないんだが、もう、どうしたって来ているのですがね。じゃ、今日あたり来るのでしょう」
 浅田の様子が満更嘘を云っているようでもないので、根岸は少し不審に思いながら、
「じゃ、何だね、支倉の方から打合せの手紙が来る事になっているのだね」
「そうです」
「そんならやがて知らせが来るかも知れん」
 根岸は考えながら、
「じゃ、君こうして呉れないか。支倉が何んと云う偽名で寄越すか知れんが、仮りに松下一郎で来たとしたら、その手紙を我々が開いて好いと云う事を承諾して呉れないか」
「えゝ、仕方がありません」
 浅田は渋々云った。
「承知しましょう。だが無闇にどれでも開封せられても困りますが」
「そりゃ心配しなくても好いさ。いくら俺達だって、常識と云う事は心得ているからね」
「そんなら好うがす」
 浅田は大きくうなずいた,
「それで私は帰して呉れるでしょうね」
「さあ」
 根岸は気が進まないように答えた。
「君を帰すとすると手紙は直接君の手に這入るからね。支倉から来た分を隠される恐れがあるんでね」
「もうそんな事は決してしませんよ」
「うん、それもそうだろうが、こっちの方じゃ警戒しなければならんからね」
「じゃ、何ですか、云うだけ云わして置いて、帰して呉れないのですか。一体あなた方は約束と云うものを守らないのですか。あたたは始めに私を帰すと約束したではありませんか」
 浅田は気色ばんだ。
「そうむきにならなくっても帰すよ」
 根岸は静かに云った。
「だが条件がある」

「どう云う条件ですか」
 浅田は不安そうに聞き返した。
「何そうむずかしい事じゃない。刑事をね、一人君の宅《うち》へ泊り込ますのだ。そして郵便をその都度すっかり見せて貰う事にするのだ」
「随分辛い条件ですね」
 浅田は暫く考えていたが、
「仕方がありません。承知しました。そうしなければどうせ帰して貰えないのだから」
「宜しい」
 根岸は満足そうにうなずいた。
「そう事が極まれば早速実行するとしよう」
 浅田はほっと息をついた。
 彼は漸く三日間の辛い責苦を逃れる事が出来たのだった。彼は支倉に対する義理立てと支倉の妻に対する愛着から、飽くまで強情を張り通して支倉の居所に関する事は口を開くまいと思ったけれども、刑事部屋での連日の執拗な訊問はほと/\彼の精根を尽きさした。それに根岸が彼が支倉の留守宅で支倉の妻に挑みかゝった事を、薄々知っているらしい口吻を洩らすので、流石の浅田もすっかり諦めて終《しま》って、根岸の云い放題になったのだった。
「じゃ渡辺君」
 根岸は渡辺刑事を呼びかけた。
「君一つ浅田と一緒に行って、支倉から手紙が来るまで泊り込んでいて呉れないか」
「好し」
 渡辺はうなずいた。
 浅田は渡辺刑事に引立てるように促されて、渋々神楽坂署の門を出た。
 留守宅ではお篠が夫が警察に留られて三日も帰って来ない所在なさを沁々《しみ/″\》味わいながら、しょんぼりとしていた。一時の腹立まぎれに警察へ追いやるような事をしたものゝ、日数が経つにつれて、お篠はやはり夫の事が思い出されるのだった。今日あたりはもう坐っても立ってもいられないので、恥も外聞も忘れて貰い下げに行こうと思っていたのだった。そこへ、ひょっくり夫が無事に帰って来たので、お篠は飛び立つ思いで夫を迎えた。
「まあ、よく帰って来られたわねえ」
「――――」
 浅田は黙って不機嫌らしく彼女を睨んだ。
「怒っているの」
 お篠は不安そうに、
「堪忍して頂戴、みんな私が悪いのだから。腹立まぎれに詰らない事を云っていけなかったわね」
 縋《すが》りつかん許りにして訴える自分の言葉に一言も報いようとしない夫を恨めしげに見上げたお篠は、ふと初めて夫の後ろに見馴れない男がいたのを見つけた。
「まあ、誰かいるのねえ。人の悪いったらありゃしない」
 お篠は腹立たしそうに、
「一体誰なの、お前さんは。又刑事なんだろう」
「そうですよ。おかみさん」
 渡辺はニヤ/\と笑った。
「随分しつこいのね、警察と云う所は」
 お篠はそろ/\声を上げ出した。
「又、支倉さんから来た手紙を探しに来たのかい。一日のうちに二度も来るのね」
「おい、静かにしろ」
 浅田は低い声で叱るように云って、刑事の方を向いた。
「旦那どうぞお気にされないように願います。いつでもこう云う奴なんですから」
「この方は刑事じゃないの」
 お篠は不安そうに夫の顔を見上げながら聞いた。
「刑事さんだよ。用があってお出でなすったんだよ」
「どう云う用?」
「お前が云ったように支倉さんから来る手紙を押えにさ」
「まあ」
 お篠は大きく眼を見開いた。
「そんなら断って終《しま》えば好いのに」
「所がそうは行かなくなったんだ。支倉さんの手紙が手に這入るまで旦那は泊り込むんだよ」
「まあ」
「ちょっ、そう驚いて許りいないで、茶でも出せ」
 浅田はそう云って長火鉢の前にどっかと坐った。

 渡辺刑事が支倉から来る手紙を押収すべく浅田の家に乗り込んだ時に、石子刑事はトボ/\と蔵前通りを歩いていた。
 二度目に発掘した屍体は幸にも専門家の鑑定によって、年の若い女と決定した。そして髑髏に際立ってニッキリはえている二本の犬歯はまるで牙のようで、それが死んだ小林貞の特徴とピタリと合っていた。
 石子刑事が貞の親に会った時に直ぐ彼は犬歯が異様に発達している事を感じたが、其の叔父の定次郎も矢張りそうした犬歯の持主で、この犬歯の特徴は小林家の特徴と云って好いのだった。けれどもそれだけで、その白骨になった屍体を小林貞と極める訳には行かぬ。それに一つ困った事には、鑑定の結果は十五、六の小娘にしては骨格が稍大きすぎると云う事だった。行方不明になっている女中は年相応の大きさで決して大柄の女ではなかったので、大き過ぎると云う事は、屍体を小林貞なりと断定するには不利な鑑定だったのである。それで残された唯一の手がかりとしては、死体の下敷となっていた為に、漸く痕跡を残した腰の辺の着衣の一部だけである。で、取敢ずボロ/\になった布片を高等工業学校に送って鑑定を乞うたのだった。其結果が今日分るので、石子刑事はそれを聞き取るべく学校に出かけて行くのだった。
 石子刑事に取っては浮沈の分れる時と云って好いのだった。染色科の教授の鑑定の如何によっては、掘り出した白骨は小林貞と確定する事が出来る。そうすれば只に三年前に行方不明になった女の死体を尋ね出したと云うだけではなく、進んで支倉の恐ろしい犯罪を立証する事が出来るかも知れぬ。が、然しもし鑑定の結果が予期に反したとすると、第一に数日間全精力を傾倒して、必死の思いでかゝった仕事が根本から水泡に帰して終う。のみならず、署長以下同僚に対して合わせる顔がない、そして女中失踪事件は再び迷宮に這入り、支倉を糺弾する事が出来なくなる。支倉を取逃がしてから一日として安き思いのなかった石子刑事は、今日の鑑定の結果がひどく気に懸《かゝ》るので、すっかり心を暗くして重い足を引摺って、あれこれと思い悩みながら歩んで行くのだった。
 彼は漸く高等工業学校の門に辿りついた。彼は門衛に来意を告げて、大川に流れ込む細い溝に沿って半町ばかりの石畳の路を歩いて行った。校舎のある辺りはもう直ぐ大川で、満々と水を湛えて流れる水は岸をヒタ/\と打っていた。三月の暖かい陽は不規則な波紋を画がく波頭をキラ/\照していた。どこからともなく一銭蒸気のカタ/\と云う音が響いていた。
 染色科の若い教授は学者らしい重厚な顔に、微笑を堪えながら石子刑事を迎えた。
「何分古いものでしてね」
 教授はポツリ/\話出した。
「確定的にハッキリ申上げる事は出来ませんがね、黒ぽい方は確に繻子の帯地です。それからもう一つの方は」
 若い教授は鳥渡言葉を切った。固唾を呑んで聞いていた石子は、はっと面を上げて一言一句も聞き落とすまいと身構えた。こゝからは大川が一眼に見渡せて、折柄満々たる風を孕んだ帆船が一艘悠々と上って行くのが見えた。言葉を切って鳥渡窓外の景色を眺めていた教授は、ふと緊張した石子に眼を落とすと周章《あわて》て言葉をついだ。
「もう一つの方はメリンスの地に模様があります。その模様は大きな花、多分牡丹かと思えるものゝ一部で、色はすっかり褪せていますが、確に元は赤色だったのですよ」
 聞いているうちに石子の暗い心は春光に浴した蕾のように次第にほぐれて来た。彼の顔には押えても押え切れない喜びの微笑が浮び出て来るのだった。

「有難うございました」
 思い通りの結果を得た石子刑事は、嬉しそうにして若い教授に頭を下げながら、
「お蔭で貴重な手懸りが得られました」
「そうですか、それは結構でした」
 若い教授は鷹揚にお辞儀をした。
 校門を出た石子刑事の足取は揚々としていた。見込をつけた通り発掘した屍体は九分通り小林貞の屍体に相違なかった。自殺か他殺か其点は未だはっきりしないが、屍体の上った場所と云い、前後の事情から押して、先ず支倉の所為と見て好い。この上は出来るだけ証拠を集めて支倉を自白させる許りだ。
 それにしても支倉はどこにいるのだろうか。この考えに突当ると石子刑事の晴れやかだった顔は俄に暗くなった。
 石子刑事はふと又暗い気持になったが、出来るだけ気を変えて、滅入る心を今日の成功に励ましながら、この吉報を署長以下に報告すべく神楽坂署へ急いだ。
 石子刑事に代って支倉追跡の任に当って、写真師浅田の家に泊り込んだ渡辺刑事の苦心も一通りのものではなかった。彼は一歩も家の外へ出る事は出来なかった。三食とも近所の仕出し屋から運ばせて、夜でも昼でも油断なく眼を光らしているのだった。すべての郵便物は配達夫から直接に受取り、怪しいと思われるものは浅田に命じて開封させた。浅田の出す手紙にも一々注意深く気を配ばらねばならなかった。彼は敵地にいる斥候兵のように全身を眼と耳とにして、一分たりとも気を許す事が出来なかったのである。
 もし今度しくじって再び浅田と支倉との間に文通でもさせたら、それこそ一大事で、二人とも尋常一様の者でない。驚くべく好智に長けた者であるから、そうなると再び何かの手懸りを掴む事は容易な事ではないのだ。浅田は表面恐れ入ったように見せかけてはいるが、隙を見せたら、どんな事を企てるか分らないのである。
 こうした渡辺刑事の並々ならぬ苦心は三日三晩の間空しく続いた。一口に三日三晩と云うけれども、こんな苦しい緊張を三日三晩も続けると云う事は尋常な者では出来る事ではない。流石の渡辺刑事もゲッソリと身体が痩せて、針の落ちた音にさえ飛上る程、神経が鋭く尖った。
 支倉は早くも様子を悟ったのだろうか。浅田が何か気のつかぬ方法で知らしたのではなかろうか。支倉の嘲笑状は相変らず毎日のように警察に飛び込んで来る所を見ると、高飛をしたとは思われない。尤も一度愈※[#二の字点、1-2-22]高飛をするらしい手紙を寄越した事があったので、各停車場に手配をした事があったが、それは全く警察を愚弄する為であった事が間もなく判明した。彼には高飛をするような気はないらしいのである。
 彼は只巧に逃げ廻りながら、警察を馬鹿にする事に無限の興味を持っているらしい。無論自分の犯した罪が続々暴露して、恐ろしい罪名で追跡されている事などは思っていないらしい。もし彼がそんな事に気づいていれば、毎日のように警察に愚弄状を送ったり、大胆不敵にも北紺屋署に出頭して市電対手に損害賠償を要求しようとしたりしないで、一時も早く高飛すべきである。彼は一体何の目的で警察を煙に巻きながら逃げ廻っているのだろうか。そうした大胆な行為が自分の過去を疑われる種になる事などは少しも考えていないのだろうか。
 それからそれへと続出する疑問はどう解き様もなかった。只渡辺刑事の現実の問題としては三日三晩の間、支倉からは杳として何の便りも聞く事が出来ないと云う事だった。
 渡辺刑事はもうがっかりして終《しま》った。

 渡辺刑事が浅田の家に泊り込んでから四日目の朝、引続く空しい努力にヘト/\になっている時に、配達夫は一声郵便と叫んで、数通の手紙を投げ込んで行った。
 配達夫の近づく足音にもう次の間まで出て待構えていた渡辺刑事は素早く飛出して拾い上げたが、そのうちに上封に見覚えのある太い字がいきなり眼についたので、ハッと思いながら裏を返すと、松下一郎と云う四字が電光のように彼の眼を打った。彼は思わずその手紙を握りしめて、神に感謝したのだった。
 渡辺刑事に呼ばれて、眼前で開封すべく松下一郎の手紙を差出された浅田は、心持蒼い顔をして、手をブル/\顫わしながら封を切った。
 手紙の文面は浅田に指輪と時計を持って来て貰いたいと云うのだった。持って行く場所はどことも指定してなかった。
「場所が書いてないね」
 渡辺刑事は射るような眼で浅田を見ながら云った。
「書いてありません」
 浅田は手紙を渡辺の前に差出しながら答えた。
「どこか打合《うちあわ》してあるんだろう」
「いゝえそんな事はありません」
 浅田は首を振った。
「じゃ、どこへ持って行くのか分らないじゃないか。君、今更嘘を云ったって仕方がないじゃないか、ほんとうの事を云って呉れ給え」
「全く打合せなんかしてはありません」
「ではどうして届けるのだい」
「その都度打合せをしているのです」
「打合せると云うと、支倉のいる所が分ってる訳だね」
「いゝえ、そうじゃないのです」
 浅田はあわてゝ云った。
「じゃ、どうして打合すのだね」
「この手紙に消印のしてある郵便局へ留置《とめお》きでこっちから手紙をやるのです」
「えっ」
 渡辺刑事は彼等の奸智に長けた事と用心深い事にすっかり感心して終《しま》った。浅田は捨鉢になったように黙りこんだ。
「ふん」
 渡辺刑事はじっと腕を組んで考えた。支倉が、留置郵便を受取りに来る所を押えようか、いやいや、何事にも用心深い彼が果して自身で受取りに来るかどうか疑問である。それに郵便局のある所は可成繁華な所で、大路小路が入り乱れているから、万一押え損ねると中々面倒になる。寧ろどこか閑静な捕まえ易い所に誘《おび》き出して押えるのが好い。
 渡辺刑事はきっと顔を上げた。
「君、直ぐに返辞を書いて呉れ給え、文句はこう云うのだ。依頼の品は明後日午前十時、両国の坂本公園へ持参する。都合が悪かったら直ぐお知らせを乞う。好いかい」
「承知しました」
 浅田は素直に渡辺刑事の面前で云われるまゝに支倉宛の手紙を認めた。渡辺は仔細に手紙を改めて、どこにも支倉に疑念をさしはさませる余地のないのを充分に確めた後に封筒に入れて、自ら封をして上書を浅田に書かせ、浅田を同道させてポストまで行って投函した。そうして厳重に浅田を監視して、追手紙《おいてがみ》を出して裏を掻かれる事を防いだ。
 その日の午後訪ねて来た同僚の刑事に渡辺は委細を話して、明後日は充分抜りなく手配をして貰う事を頼んだ。我事なれりと喜んだ渡辺刑事は油断なく浅田の行動を覗いながら、その日の来るのを一日千秋の思いで待ち焦れていた。
 流石不敵の支倉も今は袋の鼠同様になった。水も洩らさぬ警察の網の手は次第に狭められて彼の縛につく日も遠からぬ事になった。
 怪人支倉は果して渡辺刑事のかけた罠に易々と捕えられるであろうか。

 待ちに待った日は来た。今日こそは午前十時に坂本公園に待ち構えている刑事達によって、支倉は逮捕せられるのである。万一に備える為に未だ浅田方の警戒をゆるめないで、油断なく眼を配っていた渡辺刑事は今朝から何回となく時計を眺めながら、十時の近づくのをソワ/\として待っていた。
 時計の針が九時少し過ぎた頃、一通の郵便が拠り込まれた。渡辺刑事が急いで取上げて見ると、それは肉太に松下一郎と書かれた支倉からの手紙だった。
 ドキッとした渡辺は浅田を呼ぶ暇もなく無意識に封を切って、二、三行を一時に読み下すような勢いで文面を見た。
 手紙には依頼の品を日本橋の坂本にどうとかすると云う風に書いてあったが、坂本と云う人は知らない人で不安心だから、浅田自身で明後日午前十時に深川八幡の境内に持って来て貰いたいと書いてあった。
 渡辺刑事は茫然として手紙を落として終った。
 何と云う抜目のない用心深い男だろう! 彼は渡辺刑事があれ程苦心して疑念を起させないように浅田に書かした手紙さえも、頭から信用して終う事をしなかったのだ。両国の坂本公園のような所へ誘き出そうとした事に不安を感じたと云えば感じたかも知れないが、要するに彼は念には念を入れると云う用心から、もう一度浅田に手紙を送ったのだ。もし手紙が浅田の偽筆だったり、又は強制されて書いたものだったりしたら、この二度目の手紙で真相が分るかも知れないのだ。それにしても両国の坂本公園を態《わざ》と読み違えた風をして坂本と云う人は知らないなどと、空々しい事を書いて来るとは何と奸智に長けた奴だろう。
 渡辺刑事は目頭が熱くなる程憤慨した。
 が、ふと気がつくと彼は愕然とした。これ程の奴だから、こう云う断りの手紙を出して置いて、そっと坂本公園の様子を見に来るかも知れない。彼自身来ないまでも誰かに頼んで公園の様子を探るかも知れない。もし彼に公園の物々しい警戒を鳥渡でも悟られたら一大事である。彼はもう二度と浅田の手紙を信用しないであろう。そうなるといつ彼が捕えられるか見当がつかぬ事になる。一時も早く公園の警戒を解かねばならぬ。渡辺刑事はいら/\した。けれども彼自身が迂闊に出かける訳に行かない。留守に又浅田がどんな手段を取るやら分らぬ。あゝ、どうしたら好いだろう。約束の十時は刻々に近づいて来る。
 折柄表の戸がガラリと開いた。渡辺刑事はホッと安心の息をついた。這入って来たのは思いもかけぬ石子刑事だった。
「よく来て呉れた」
 石子の手を執らんばかりにして渡辺は云った。
「之を見て呉れ給え」
「支倉から何か云って来たのか」
 石子は渡辺が只ならぬ様子で差出した手紙を一目見るより叫んだ。そうして引ったくるように受取ると、一気に読み始めた。
「うん、又裏を掻かれたのだ」
 渡辺は情けなさそうに云った。
「畜生!」
 読み終った石子刑事は唇を噛んだ。
「どこまで悪智恵の働く奴だか訳が分らない」
「一時も早く公園の警戒を解いて貰わねばならないのだ」
 渡辺が叫んだ。
「そうだ。もしきゃつに悟られると大変だ。すぐ電話をかけて警戒を解くとしよう」
 石子は直ぐ応じたが、落胆したようにつけ加えた。
「あゝ、今日こそは逃がさないと思ったのに」
「僕もそう思って今朝からソワ/\していたんだ」
 渡辺は残念そうに云った。
「兎に角、僕は電話をかけて来るよ。何、未だ望みはあるよ。支倉に悟られて終った訳じゃないんだから。鳥渡待っていて呉れ給え。悠《ゆっく》り対策を講じよう」
 石子はそう云い捨てゝ足早に外へ出た。

 渡辺刑事が支倉の手紙を握ったまゝ、何か考えるともなく、茫然突立っていると、やがて石子刑事が急ぎ足で帰って来た。
「君、もう心配はないよ」
 石子は渡辺の顔を見ると直ぐに云った。
「警戒は直ぐ解く事になった。もうきゃつに悟られる気遣いはない。それに一人だけ公園に残して、きゃつらしい奴が立廻らないか見せる事にしてあるよ」
「そうか、それで安心した」
 渡辺はほんとうに安心したように云った。
「所で第二段の備えだがね。僕は真逆《まさか》支倉が君が浅田に書かした手紙を真向から信じないのではないと思う」
「僕もそう思うよ。きゃつは疑り深い性質《たち》だから、安心の為にこんな手紙を寄越して、会見の場所を変えたのだろう」
「それに違いないが、愈※[#二の字点、1-2-22]そうとすると、一時も早く返辞をやって彼を安心させなければいけない」
「そうだ、すぐに浅田に返辞を書かせよう」
「そうして呉れ給え。僕は今日こそ間違いはないと思ったが、対手が対手だから、もしやと懸念して両国へ行く前にこゝへ訪ねたのだったが、来て好い事をしたね」
「そうだったよ」
 渡辺刑事はうなずいた。
「君が来て呉れないと、この手紙の事をみんなに伝える事が出来ないで、大変困った事になるんだったよ」
「きゃつの旧悪の事は大分はっきりして来たんでね」
 石子は顔を曇らしながら、
「一時も早く捕えないと、警察の威信にもかゝわるし、第一僕は署長にたいしてあわせる顔がないんだ」
「その点は僕だって同じ事だ。署長のいら/\している顔を見ると身を切られるより辛い。全くお互に意気地がないんだからなあ。毎日のように嘲弄状を受取りながら犯人が挙げられないんだからなあ」
「そうだよ、僕達はとても根岸のように落着き払っていられないよ」
「矢張り年の関係だなあ。僕達も年を取ればあゝなるかも知れないが、今はとてもあいつの真似は出来ないなあ」
 渡辺は相槌を打ったが、ふと思いついたように、
「で何かい、あの屍体は愈※[#二の字点、1-2-22]小林貞と確定したのかい」
「うん、確定したよ」
 石子は急に晴々《はれ/″\》とした顔をした。
「そう/\、君はずっとこの家に張り込んでいたのだから、知らなかったっけね。頭蓋骨に非常な特徴があってね、それに残っていた着衣の一部が家出当時のものと判明したから、もう大丈夫だよ。只骨組が少し大き過ぎると云うのだが、大した障りにはなるまいと思う」
「そうか、それは手柄だったね」
「そんな話は後廻しとして、浅田に返辞を書かそうじゃないか」
「そうだ」
 渡辺刑事は階段の上り口から大声で呼んだ。
「おい、君、鳥渡降りて来て呉れ給え」
 浅田は仏頂面をしてノッシ/\と降りて来た。彼はジロリと石子を横目で睨んだ。
「支倉からこう云う返辞が来たんだ」
 渡辺は浅田に支倉からの手紙を示した。
「誰が開けたんですか」
 浅田は手紙を受取ると、苦り切ってそう云った。
「僕が開けたんだ。急場の場合で仕方がなかったんだ」
 渡辺は押えつけるように云った。
「そうですか」
 浅田は一言そう云ったきりで、暫く拡げた手紙を眺めていた。
「承知したと云う返辞を書いて貰いたいんだ」
 渡辺は厳かに云った。
「ようござんす」
 浅田は割に素直に返辞をした。
「支倉さんも運が尽きましたね。八幡さまの境内で、捕るようになるとは神罰とでも云うのでしょう」

          網の魚

 大正六年三月某日、前日午後からシト/\と降り出した春雨は夜に這入ってその勢いを増し、今日の天気はどうあろうと気遣われたのが、暁方からカラリと晴れ上って、朝はシトヾに濡れた路に所々に水溜があったり、大きく轍《わだち》の跡がついているのを名残として、美しい朝日がキラ/\と輝いて、屋根からも路の上からも橋の上からも、悠々と陽炎《かげろう》を立たせていた。
 由緒のある深川八幡宮の広々とした境内は濡そぼった土の香しめやかに、殊更に掃清めでもしたように、敷つめた砂の色が鮮かに浮び出ていた。雨に打たれて半《なかば》砂の中に潜り込んだ、紙片が所々に見えて、反て風情を添えていた。
 未だ昼には間のある事とて、露店商人も数える程しかなく、ホンの子供対手の駄菓子店や安い玩具を売る店などが、老婆や中年のおかみさんによって、ションボリと番をせられているだけで、怪しげな薬を売ったり、秘術めいた薄ぺらな本などを売りつける香具師《やし》達の姿は一つも見当らなかった。
 社頭は静寂としていた。
 拝殿の前の敷石には女鳩男鳩が入乱れて、春光を浴びながら嬉々として何かを漁っていた。小意気な姐さんが袋物の店を張る手を休めて、毎日眺めている可愛い小鳥達を、今日始めて見るように見惚れていた。参詣人はチラホラその前を通り過ぎた。
 すべてが長閑《のどか》だった。
 玩具店を張る老婦も、神前に額《ぬかず》く商人風の男も、袋物店の娘に流目《ながしめ》を投げてゆく若者も、すべて神の使わしめの鳩のように、何の悩みもなく、無心の中に春の恵みを祝福しているのだった。彼等に取ってはこの一刹那に於てすら、神に逆らって罪を犯すものがあり、その罪人を血眼になって追い廻している警吏のある事などは考えの外であった。
 事実、この時に当って神楽坂署の刑事達は続々この平和境に押出して来るのだった。
 或者はポッと出の田舎者のような風をしていた。或者は角帽を被って大学生を装うていた。或者は半纏を羽織って生《は》え抜きの職人のような服装をしていた。彼等は素知らぬ顔で、表面この静寂な空気に巧に調和を取りながら、外の参詣人の間に交って、それ/″\油断なく定められた部署を警戒していたのだった。
 中にも軽快な洋服を着て青年紳士然としていた石子刑事の心労は一通りでなかった。何故なら彼は今日捕縛すべき怪人支倉の顔を知っている唯一の人間だったからである。尤も支倉の持徴のある容貌は十分刑事達の頭に這入ってはいるけれども、彼もさるものどんな変相をしているかも知れぬ。支倉は枯薄《かれすゝき》の音にも油断なく身構えると云う男であるから、もし少しでも怪しいと感じたら、逸早く逃げ出すに違いない。それに今日は殊更に浅田を連れて来ていない、と云うのは彼から何か合図でもされてはと云う懸念からであるが、それだけに浅田の姿が見えない事は支倉に疑念を起させ易い。それにもし彼が石子の姿でも認めれば大変である。彼が先に石子の姿を見出すか、石子の方で先に彼を見出すかそれで殆ど勝負は極るのである。尤も大勢の刑事達が網を張っているから、支倉の方でよし先に見つけて逃げ出しても、容易には逃げおおせまいが、それは第二として石子はどうしても第一番に彼を見出さねばならないのだ。支倉の秘密を発く端緒を握ったのも彼である。最初に支倉を逃がしたのも彼である。それ以来の日夜の苦心焦慮は実に惨憺たるものであった。今日逃がしてなるものか。石子刑事は全身の血を湧き立たせながら、定められた部署のない自由な身体をあちこちと歩き廻らせていた。

 午前十時は刻々に近づいて来た。
 いつの間にか露店の数が増えて参詣人の人々も次第に多くなり、境内は朝の静寂から漸く昼間の喧噪へと展開して行くようだった。
 今まで一塊になって日向ぼっこをしていた子供や子守り女の群はもうそんな悠暢な事はしていられないと云う風にキョト/\と歩き廻り始めるのだった。
 石子刑事は油断なくこんな光景を睨み廻していたが、何を思いついたか足を早めて鳥居の外へ急いだ。と、その辺にしゃがんでいた見るから田舎臭い、真黒な日に焼けた中年の男が、脂だらけの煙管をポンとはたいて、腰に差した薄汚い煙草入にスポリと収めると、ヒョロ/\と立上って、石子の前に歩み出でヒョイと頭を下げて、
「鳥渡ものをお尋ね申しますだが」
 と、云ったが、直ぐ低声《こゞえ》になって、
「どうした、来たのかい」
 と口早に聞いた。
「いや、未だ」
 石子も低声で鋭く答えた。
「どうして外へ行くのだ」
 彼は重ねて聞いた。
 この田舎爺然としている男は田沼と云う刑事で、柔道三段と云う署内切っての強の者で、今日は特に選抜されて出て来たので、スワと云えば直ぐ飛び出して腕力を奮おうと云うのである。
「実はね」
 石子は答えた。
「今ふと思いついたのだが、支倉の奴はとても喰えない奴だからこゝの境内までは来るまいかと思われるのだ、奴はきっと八幡様の手前の方にそっと見張っていて、浅田の姿を見つけようとするだろうと思うのだ。それだから、こっちはその裏を行って、電車通りに待構えていて、きゃつが電車から降りようと車掌台に姿を現わした時に逸早く見つけようと云うのだよ」
「成程、それは有効な方法だ」
 田沼はうなずいた。
「けれども第一きっと電車で来るとは極ってはいないし、もし向うに先に感づかれると困るよ」
「そこはどうせ運次第だよ。第一そんな事を云えばきゃつが今日こゝへ来るかどうかさえ疑わしいんだからね。僕だって一生懸命だから万に一つの仕損じはないと思うけれども、もし取逃がしたとしても十人もの人間で網を張っているのだから大丈夫さ。では、宜しく頼むよ」
 石子はそう云い棄てると、さっと電車通りの方へ出た。そっと時計を見ると十時に十五分前である。彼は轟く胸を押えて、停留場の少し前の電信柱の蔭に隠れて、前後に激しく揺れながら疾走して来る電車をきっと睨んだ。
 支倉がもし浅田の手紙を警察の罠ではないかと云うような懸念を持っていたら、彼も油断なく電車の中から外の様子を覗っているかも知れないが、疾走している電車の中からは外を観察すると云う事は困難であるし、それに混雑した昇降口から降りる時には、そう油断なく外へ気を配ると云う余裕がない。どうしてもそっと物蔭に隠れている者にすっかり身体を曝して終う。況んや支倉の方はそう云う用意がないとすると、どうしても覗っている石子刑事の方が勝を占める訳だ。石子刑事も又そこを計算に入れて、こうして柱の蔭から電車の乗降客を監視し出したのだが、さてやって見ると思った程楽な仕事ではない。後から後からと続いて来る満員電車の前後の出入口から一時に吐き出される人は可成数が多い。
 こゝはもう終点に近いので、乗る客が割合に少いのは混雑をいくらか減少はしていたけれども、その一人々々を見逃さないようにするのは一通《ひとゝおり》の骨折ではなかった。
 十時は刻々に近づいて来る。
 支倉の姿は未だ見えない。石子は次第に不安になって来た。

 十時に垂《なんな》んとしても支倉の姿が見えないので、石子刑事はいら/\して来た。
 彼は又もや形勢を察して巧に逃げたのだろうか。それとも外の方法で境内へ潜り込んだか。境内に這入れば同僚の刑事達が犇々《ひし/\》と網を張っているのだから、捕まるに違いないのだが、今だに境内から何の知らせも来ないのは、写真位で覚えている風体だから、変相でもしているので、発見出来ないのではなかろうか。石子はいろ/\に思い惑いながらも、後から後からと続いて来る電車に油断なく眼を配っていた。
 鳥渡電車が杜切れた。
 石子はホッと張りつめた息を抜いて、あたりを見廻した。彼の前にはいろ/\の風体の人が右往左往していた。重そうな荷を積んだ荷馬車の馬の手綱を引いて、輓子《ひきこ》は呑気そうな鼻歌を歌いながら、彼の前を通り過ぎた。水溜りでもぬかるみでもお関いなしにガタビシと進んで行くので、泥が礫《つぶて》のように四方に飛んだ。粋な爪皮《つまかわ》をつけた足駄を穿いた年増が危げにその間を縫いながら、着物に撥ねかけられた泥を恨めしそうに眺めていたりした。
 そんな目まぐるしいような光景が石子の眼の前で展開していたが彼は遠くをばかり見つめていた眼の調節が急に取れないで、それがボンヤリと説明のない映写の幕を見ている様に眼に写るのだった。
 石子はふと我に返って、あわてゝ軌道の方を見た。恰度一台の電車が疾駆して来る所だった。暫く杜切れていたので車掌台には外へハミ出す程客が乗っていた。やがてけたゝましい音を立てゝ、電車は石子の前を通り過ぎたがその時に一人の面構えの獰猛な男が電車の戸口から一杯人の詰っている車掌台へ出ようとあせっている姿が眼についた。あゝ、それはこの一月間夢にだに忘れないで、尋ね廻っている仇敵支倉の姿だった!
 石子は思わず、
「しめたっ!」
 と叫んだ。
 電車は石子から二十間程離れた停留場に停った。乗客は雪崩のように争って降りた。その中に揉み込まれて支倉の油断なく眼を光らしながら降りる姿がハッキリ見えた。彼は黒っぽい二重廻しを着て[#「着て」は底本では「来て」]足駄を穿いていた。
「足駄などを穿いて悠々としている所を見ると、俺達の計画は一向知らないと見えるぞ」
 石子は彼の姿を見失わないように、そっと物蔭から出て跡をつけながら、そう呟いた。彼の胸はもう嬉しさでワク/\していたが、勉めて平静を装って気づかれないようにだん/\彼に迫って行った。
 支倉はのろ/\と八幡社の鳥居の方へ進んで行った。そこには十人ばかりの刑事が腕を撫で待ち構えているのだ。後からはジリ/\と石子刑事が追って行く。彼は正に網の中の魚である。流石の彼も浅田の手紙にこんな恐ろしい魂胆があるとは気がつかなかったと見えて、恰《あたか》も何者かに操られるように、ヒョロ/\と境内に這入って行く、彼の運命も遂に尽きたのだろうか。
 支倉の足が一歩境内に踏み込むと、石子はホッと安心の息をついた。未だ彼との間は十間ばかり離れているので、果して同僚の刑事が支倉の姿を認めたかどうか分らないけれども、間もなく刑事は石子の姿を認めるだろう。そうすれば直ぐに合図をするから、苦もなく捕って終う。兎に角もう十分に網の中に追い込んだのだから心配はない。
 石子刑事がホッと気を緩めた瞬間に、支倉は不意に後を振り向いた。あっと思う暇もなく石子は彼に見つけられて終った。支倉は異様な叫声を上げると、直に足駄を脱ぎ飛ばした。

          受縛

 不意に振り向いた支倉は石子刑事の姿を見ると、忽ち跣足《はだし》になって一散に鳥居内に駆け込んだ。安心し切っていた石子はこの思いがけない出来事にあわて気味に彼の跡を追った。
 支倉《はせくら》と石子との距離は近づいた、と、支倉はヒラリと身を転じて一廻りすると、恰度石子と入れ交りになって、そのまゝ電車通りの方に駆け出した。袋の鼠も同然と境内の方へ追い詰めて行った石子は、はっと彼の二重廻しを掴んだが、彼は素早くそれを脱ぎ棄てたので石子刑事はタジ/\とした。その暇に彼はドン/\逃げて行く。咄嗟の間に早くも一切を悟った支倉は境内の方へ逃げては一大事と、態と石子を近くまで誘き寄せ、一歩の所でクルリと方向を転じて通りの方へ逃げ出したのである。
 文章に書くと相当長いが、之すべて一瞬の出来事で、鳥居近くに構えていた田沼刑事もそれと悟る暇がなかったのだった。
「しまった」
 そう心の中で叫びながら、石子刑事は忽ち用意の呼子の笛をピリ/\と吹いた。笛の音に応じて境内からバラ/\と四、五人の思い思いの服装の刑事達が現われた。見ると石子が一人の怪しい男を追って行く。それっと云うので一瞬の猶予もなく彼等はその後を追った。
 支倉は毬栗頭を振り立てゝ走って行く。結んだ帯がいつしか解けて、長く垂れた端が裾に絡みつく。支倉は頑丈な身体の持主で、気力も頗《すこぶ》る盛んではあったが、この時に年三十八と云うので、そう思うようには駆けられない。追って来るのは本職の刑事で半ばは二十台の血気盛んな屈強な男である。彼は次第に追いつめられた。
 停留場の附近で、先頭に立った石子刑事の手が彼の腕に触れた。道行く人が何事ぞと驚いているうちに、後から駆けて来た四、五人の刑事がバラ/\と彼に折重なって捕縄は忽ちかけられた。
 かくて怪人支倉は逃走後一ヵ月有余、三月の空蒼く晴れ渡った朝、深川八幡社頭で哀れにも神楽坂署員に依って捕縛せられたのだった。聖書窃盗の嫌疑を受けて逃亡した彼は、こゝに他日恐ろしい罪名の許に鉄窓に十年の長きに亘って坤吟する呪わしい贖罪の第一歩を踏み出したのだった。
 縛についた時の彼の服装は茶の中折に縞の綿入の着流し、その上に前に述べた通り黒っぽい二重廻しを着て足駄を穿いていた。が、彼の懐中には現金八十余円入の財布の外に、新しい麻裏の草履が一足に、弁慶縞の鳥打帽子が一つ、毒薬硫酸ストリキニーネの小瓶が潜められていた。麻裏草履と鳥打帽子は云うまでもなく、すわと云う時に逃げ出す為で、毒薬は最後の処決の為であろう。之を見ても彼の用意と覚悟が覗われる。
 私は今まで長々と支倉喜平が逃亡から受縛に至るまでの経路を述べた。その如何に波瀾重畳を極めたるかは読者諸君に、私の拙《つたな》い筆を以てしてもよくお分りの事と思う。大正六年と云えば正に今より十年前であるが、この時代に於て、アルセーヌルパンの小説物語をそのまゝ地で行くような大胆不敵にして、かくまで奸智に長けた曲者が実在していようとは、種々の空想を逞しゅうして探偵小説を書く私でさえが夢想だにしなかった所である。具《つぶさ》に今日までの物語を読まれた諸君は今更ながら書き立てなくても、彼がいかなる権謀を逞しゅうしたか十分お分りの筈である。
 彼の受縛を境としてこの物語の前篇は尽きる。これより後に現われる訊問より断罪に至る中篇は、後篇に当る彼の執念の呪と相俟って、更に奇々怪々たる事実を諸君の眼前に展開するのである。

          訊問

 捕えられた支倉の奇々怪々な言行を述べるのに先立って、鳥渡《ちょっと》断って置きたい事がある。之は読者諸君に取っては退屈な事で御迷惑であるかも知れない。然し之は是非述べて置かないと後の事に重大な関係があるので、一回だけ辛抱をして貰いたいと思う。
 それは支倉の容貌の事であるが、彼は好く云えば魁偉、悪く云えば醜悪と云うか、兇悪と云うか、兎に角余程の悪相であったらしい。背丈《せい》はさして高くなく、肉付も普通で所謂中肉中|背丈《ぜい》だが、色飽まで黒く、それに一際目立つクッキリとした太い眉、眼は大きくギロリ/\と動く物凄さ。頬骨は高く出て、見るから頑丈そうな身体、それに生れつきの大音の奥州弁でまくし立てる所は、彼のいかつい毬栗頭と相俟って、さながら画に描いた叡山の悪僧を目のあたり見るようだった。彼を知っている人は殆ど口を揃えて第一印象がどうしても悪人としか思えなかったと云う。
 尤も醜怪な悪相をしていたからと云って、心まで悪人だとは極っていない。史記の仲尼弟子列伝中に孔子が、「吾言を以て人を取り之を宰予《さいよ》に失う。貌《ぼう》を以て人を取り之を子羽《しう》に失う」と云っている。宰予と云うのは論語にもある通り昼寝をして孔子に叱られた人で、弁舌利口だったが人間は小人だった。そこで孔子が弁舌に迷わされて一時胡麻化されたのを後悔した言葉だ。子羽と云うのは本名を澹台滅明と云って容貌が頗る醜怪だったので、孔子も私《ひそ》かに排斥して弟子とするのを喜ばなかった。所がこの人は頗る立派な人で、後に弟子の三百人も取って、其名を諸侯に知られるようになった。そこで孔子が容貌で人を判断して誤った事を後悔して、宰予の場合と並べて弟子達を戒められたのだ。尤も之には異説があって、孔子家語によると、子羽は容貌頗る君子然としていたが、心は駄目だった。孔子が容貌の君子然としているのに迷わされて、しくじったと恰《まる》で正反対の事が書いてある。が、要するに孔子のような大聖でも、つい容貌で人を判断して誤った場合があったので、孔子の失敗談は後にも先にも此の一事だけだから面白い。
 所で、支倉喜平だが、彼はかく容貌が悪相だったが、その上に彼は実際悪い事をしている。既に前科三犯を重ねて、今又聖書の窃盗を遣り、女中に来た少女に暴行を加えている。之は何れも証拠があり罪状歴然としている上に、更に放火殺人と云う重罪の嫌疑をかけられている。之では警察当局者でなくても、先ず彼は悪人であると見なければならない。それから石子刑事が自宅を訪ねて来た時に逃亡してから逮捕せられるに至るまでの彼の行動と云うものは、頗る警察を愚弄したもので、その大胆不敵と緻密なる用意、奸智に長けたる事には驚く外はない。逃亡中に北紺屋署へ出頭して市電気局を訴えようとしたり、写真館に弟子入りしてそこを手紙の仲介所にしたり、いずれも普通一般の人間の考え及ぶ所ではない。
 彼が何故あんなに逃げ歩いたか、何故警察に宛て嘲弄状を度々送ったか。彼自身の弁明は後に出て来るが、頗る曖昧で第三者を首肯せしめる訳に行かぬ。こんな点は彼が確に性格異状者である事を語っていると思う。
 で、こう云う訳で神楽坂署では支倉を目するに重大犯人であると考えたのは当然である。殊に刑事達は彼の嘲弄に一方ならず激昂していた際であるから、彼が愈※[#二の字点、1-2-22]捕縛せられて署へ護送せられた時には蓋し署内に凱歌の声が溢れたろうと思う。
 さて支倉は神楽坂署へ押送されると、直に大島司法主任の面前に引っ張り出された。
 彼はいかなる訊問を受けるか。彼果して素直に自白するや否や。

 支倉喜平は司法主任の面前に引据えられた。左右には刑事が控えている。
 もし誇張した形容が許されるなら、司法主任以下直接事件の関係者たる根岸、石子、渡辺の諸刑事は、正に勇躍して彼を迎えた事だろうと思う。蓋し支倉の一筋縄で行かぬ人間である事は明かに分っているのであるから、証拠も既に相当集まっているのであるし、こいつ一番是が非でも泥を吐かしてやろうと云う意気込みが、云い合さないまでも、各自の心のうちに十分あった事であろう。
 支倉も身から出た事とは云いながら、訊問の始めからこう云う印象を警吏に持たれるのは哀れな所がある。
「姓名は」
 司法主任はジッと彼を睨みつけながら厳かに云った。
「支倉《はせくら》喜平」
 彼は臆する所なく濁声《だみごえ》で答えた。
「年齢は」
「三十八歳」
「住所は」
「芝白金三光町××番地」
「職業は」
「伝道師です」
「うむ」
 司法主任は大きくうなずいて、下腹に力を入れながら、
「君は当署から使が行って同行を求めた時に、何故偽って逃亡したのか」
「逃亡した訳じゃない」
 支倉は主任の言葉を跳ね返すように、
「警察などと云う所は詰らぬ事で人を呼び出して、三日も四日も勝手に留て置くものだ。僕はそんな侮辱的な事をされるのが心外だったから出頭しなかったまでだ」
「うむ」
 主任は彼の不敵な答弁に些か感情を損ねたらしく、いら/\する様子が見えた。
「お前はどう云う訳で呼び出されるのか知っていたか」
「多分聖書の事だと思う」
 彼は太い眉を上げながら大音に答えた。
「聖書の事なら決して君達に手数はかけない、あれは譲り受けたのだから、どこへ売り払おうと僕の勝手だ」
「それなら尚の事逃げ廻るには及ばんじゃないか。何か外に後暗い事があるに相違ない」
「そんな事は絶対にない」
「お前は逃亡中に度々署や刑事に宛て愚弄を書き連ねた手紙を寄越したのはどう云う訳か」
 主任は少し調子を変えて外の事を聞き出した。
「あれは訪ねて来た刑事の態度が余り不遜で、非常に侮辱的に考えたから、その報復にあゝ云う手紙を書いたのだ」
「そうか、そういう訳だったのか」
 主任は軽くうなずいたが、急に調子を変えて、
「おい、こうなったらもう潔く何もかも云って終《しま》ったらどうだ。当署ではちゃんと調べがついているのだぞ」
「それは何の事だね。僕には少しも分らん」
 支倉は嘯《うそぶ》いた。
「そうか、では問うが、お前は今から三年前に小林貞と云う女を女中に置いたのを忘れやしまい」
「小林貞?」
 支倉の鋭い眼がギロリと動いた。
「そんな女中がいたと覚えている」
「その女にお前は暴行を加えた覚えがあるか」
「そんな覚えはない」
 彼は言下に否定した。
「白々しい事を云ってはいけない」
 主任は叱りつけるように云った。
「本人の叔父の小林定次郎からちゃんと暴行の告訴が出ているぞ」
「そんな筈はない」
 支倉は少し狼狽し出した。
「その話はちゃんと片がついている」
「片がついているとはどう云う事か」
「当時|神戸《かんべ》という知合の牧師が仲介にたって、相当の事をして以後問題の起らぬ筈になっている」
「そうか、それでは暴行の事実を認めるのだね」
「――――」
 支倉は黙って答えない。

 支倉が黙り込むと、大島主任は勝誇ったように追究した。
「黙っていては、分らんじゃないか」
「その事ならどうか神戸牧師に聞いて下さい」
 支倉は諦めたように答えた。
「そうか、よし、ではその事は後廻しとしよう」
 警部補は満足げにニヤリとしたが、直ぐ真顔になって、
「その小林貞と云う女中はその後行方不明になっているが、その居場所はお前が知っている筈だ。隠さずに云うが好い」
「そんな事は知らない」
 支倉は激しくかぶりを振った。
「わしが知る訳がない」
「馬鹿を云え」
 主任は一喝した。
「知らんとは云わさんぞ」
「貞の行方は叔父の定次郎が知ってる筈だ」
 支倉も負けないで喚くように云った。
「定次郎が病気の治療代を度々請求するので、一度本人を連れて来いと云った所、定次郎は本人を見せるともう金が取れないと思って隠して終ったのだ」
「そうか、するとお前は定次郎に本人を連れて来い、金を遣るとこう云ったのだな」
「そうです」
「それじゃお前が貞を隠したとしか思えないじゃないか」
「どうしてですか」
「貞が出て来なければ金を遣る必要がないじゃないか」
「そんな事になるかも知れないが、わしは貞を隠した覚えは毛頭ない」
「そうか、それからもう一つ聞くが、お前は前後三回も火事に遭っているね」
「遭っている」
 支倉はうなずいた。
「同じ人が三度も続けて火事に遭うのは奇妙だと思わないか」
「別に奇妙だとは思わない。非常に運が悪いと思っている」
「然し、運が悪い所ではないじゃないか。お前は火事の度に保険金が這入り、だん/\大きい宅《うち》に移っているじゃないか」
「そんな失敬な質問には僕は答えない」
 支倉はきっと大きい口を結んだ。
「答えない訳には行かないぞ」
 主任は冷笑した。
「お前はその火事がいずれも放火だと云う事を知っているだろう」
「三度とも放火だかどうだか知らないが、神田の時は放火だと聞いた」
「お前が放火をしたのだろう」
「以ての外だ。僕はあの火事の為に大切な書籍も皆焼いて終《しま》って、大変迷惑したんだ。冗談もいゝ加減にして貰いたい」
「黙れ」
 主任は堪えていた癇癪が一時に破裂したように呶鳴った。
「宜い加減な事を云って事がすむと思うと大間違いだぞ。俺の云う事には一々証拠があるのだ。根もないことを聞いているのではないぞ」
「証拠?」
 支倉は少しも動じない。
「どんな証拠か知らぬが見せて貰いたいものだ」
「では知らぬと云うのだな」
「知らぬ、一切知らぬ」
「よし、では今は之だけにして置く。追って取調べるから、それまでによく考えて置け」
「考えても知らぬものは知らぬ。そう/\度々呼出されては迷惑千万だ。それ以上聞く事がないなら帰して貰いたい」
「何、帰して呉れ?」
 主任は憎々しげに支倉を睨んだ。
「貴様のような奴を帰す事が出来るものか。大人しく留置場に這入って居れ」
「じゃ、僕を拘留すると云うのか」
 支倉は気色ばんだ。
「それは人権蹂躙も甚だしい。一体何の理由で僕を拘留するのだ。僕は正業に従事している。何一つ法に触れるような事をしていない。拘留を受ける覚えはない」
 支倉は喚き立てた。

 喚き立てる支倉を尻目にかけながら、大島司法主任は冷かに云った。
「貴様は道路交通妨害罪で二十九日間拘留処分に附するのだ」
「え、道路交通妨害罪?」
 支倉は唖然とした。
 当時警察の権限ではいかに濃厚な嫌疑者でも、訊問の為に身柄を拘留すると云う事は出来なかった。で、警察ではそういう嫌疑者に好い加減な罪名をつけて拘留するのが通例だった。
 支倉の場合には殆ど理由に困って、交通妨害などゝ云う罪を附したのだが、之は全く窮余の策で、いわば人権蹂躙である。然し、嫌疑者に一々帰宅を許していては、逃走なり証拠湮滅なりの恐れがあるから、多くはこう云う風に何か罪名をつけて拘留したので、司法当局でも黙認と云ったような形だったらしい。
「こいつを留置場へ抛り込んで置け」
 主任は傍にいた刑事に命令した。
 支倉は二人ばかりの刑事に荒々しく引立て行かれた。
 後に残った石子と渡辺の二刑事は非難するような眼を主任に向けた。
「主任」
 石子が勢い込んで言った。
「あんな生温い事ではあいつが泥を吐く気遣いはありません」
「まあ、そうせくな」
 主任は押えつけるように答えた。
「そう手取早く行くものじゃない。どうせ皆で交る/″\攻め立てなければ駄目さ」
「そりゃそうですけれども」
「午後にもう一回僕がやるから、その次は根岸君と君とにやって貰うんだね」
「そうですね」
 根岸は稍考えていたが、
「私は主任のお手伝いをする事にして、石子君と渡辺君とに元気の好いところをやって貰いましょうか」
「それも宜かろう」
 主任はうなずいた。
「それから、あいつの云った神戸《かんべ》とか云う牧師ですね。一度調べて見なければなりませんね」
「そうだ」
 主任は思い出したように、
「早速召喚しよう」
「いや」
 根岸は凹んだ眼を考え深そうにギロリと光らしながら、
「喚んでも来るかどうか分りませんよ。石子君にでも行って貰うんですなあ」
「行きましょう」
 石子が口を出した。
「では石子君は神戸牧師の所へ行って呉れ給え。それから根岸君と渡辺君とは午後僕の調べた後を、もう一度厳重にやって呉れ給え」
「承知しました」
 三刑事は頭を下げた。
「どれ昼飯にでもしようか」
 大島主任は機嫌よく立上ろうとした。
 所へ、あわたゞしく一人の刑事が走って来た。
「主任、支倉がどうしたのか苦悶を始めました。監房をのたうち廻っています」
「えっ」
 一同は驚いて顔を見合せたが、主任は口早に石子に向って云った。
「君、あいつの懐中物はすっかり取り上げたんだろうね」
「えゝ」
 石子はうなずいた。
「毒薬を持っていたとか云うが――」
「毒薬は無論第一に取上げました」
「では、急病でも起したと見える」
 主任は飛んで来た刑事を振り向いて、
「直ぐ医者を呼んで呉れ給え」
「承知しました」
 刑事が出て行くと、主任はすっくと立上った。
「おい、見に行こう」
 一同がうち連れて独房の前に立つと、薄暗い不潔な箱の中で、支倉が顔蒼ざめて手足をバタバタさせながら呻吟していた。

「どうしたのか」
 大島主任は独房の中を覗きながら声をかけた。
「うーむ」
 支倉は然し答えようともしないで唸り続けていた。
 石子刑事は檻の中に這入って、支倉を抱き起したが、彼は蒼い顔をして苦悶をしているだけで、吐血した模様もない。
「どうしたんだ」
 石子は呶鳴った。
「うーむ、苦しい、俺は死ぬんだ」
 支倉は喘ぎながら答えた。
 所へ急報によって警察医が駆けつけて来た。
 小柄な老医は支倉の脈をじっと握っていたが、
「どうしたんだね、腹でも痛いのかね」
 と優しく聞いた。
「えゝ」
 支倉はグッタリしながら答えた。
「そうか、抛っときゃ治るよ。大した事じゃない。何か悪いものを食べたのか」
「えゝ、呑んだのです」
「呑んだ?」
 医師は驚きながら、
「何を呑んだのだね」
「銅貨を呑んだのです。僕は、僕は死ぬ積りなのだ」
「何、銅貨を呑んだ」
 石子は叫んだ。
「どこにそんなものを隠していたのだ」
 支倉は苦しそうにグッタリしたまゝに答えない。石子は心配そうに医師に聞いた。
「大丈夫でしょうか」
「大丈夫です」
 医師はうなずいた。
「銅貨を呑んだって死にゃしません。脈も確ですし、心配はありません」
「そうですか」
 石子は安心したように、
「いやに世話を焼かせる奴だ。ちょっいつの間にか銅貨をくすねていやがる。未だ何か隠しているんだろう」
 こう云って石子は腹立たしそうに支倉を揺ぶるようにして厳重に懐中や袂を探り初めた。
「痛い、ひどい事をするなっ」
 支倉は喚いた。
「何か薬をやって頂けますか」
 主任は支倉を尻目にかけながら医師に聞いた。
「えゝ、健胃剤でもやりましょう」
「ほんとうに大丈夫ですか」
「えゝ、大丈夫ですよ」
「おい、支倉」
 主任は支倉の方を振り向くと大音声に叱りつけた。
「詰らぬ真似をするな。そんな馬鹿な事をして訊問を遅らそうとしたって駄目だぞ」
 支倉は主任の罵声を聞くと、ジロリと凄い眼を向けたが、そのまゝ黙り込んで了った。
 主任は暫く支倉を睨みつけていたが、やがて刑事達を従えて足音荒く部屋に引上げた。
「ちょっ人騒がせな奴だ」
 主任は未だプン/\していた。
「主任、直ぐ引出して来て、とっちめてやろうじゃありませんか」
 石子も興奮しながら云った。
「それが好い、よし俺が引出して来てやろう」
 気の早い渡辺刑事は立ち上って出て行こうとした。
「おい/\、そうあわてるな」
 根岸刑事は出て行こうとした渡辺を呼び留めた。
「いくら何でも今調べるのは可哀想だ。それに今聞いたって云う気遣いはないよ。今晩一晩位は独房に置いとくのが好いのだ。どんな強情な奴でも、一人置かれるといろ/\と考えて心細くなるから、素直に云うものだよ」
「それは対手《あいて》に依るよ」
 渡辺は渋々席につきながら、
「あいつにはそんな生優しい事では行かないよ」
「まあ、行くか行かぬかそっとして置くさ。それよりね、主任」
 根岸は大島の方を見て、
「女房を一度喚んで調べましょうや、何か知っているかも知れませんぜ」
「うむ、そうだ。そうしよう」
 主任はうなずいた。

 支倉の妻の静子は根岸刑事の献策によって警察に出頭を命ぜられて、取調を受ける事になった。
 それより前に石子刑事は取敢ず芝今里町の神戸《かんべ》牧師を訪ねたのだった。
 神戸牧師と云うのは当時三十五、六、漸く円熟境に這入ろうとする年配で、外国仕込の瀟洒たる宗教家だった。支倉の妻が日曜学校の教師などをして、同派に属している関係から知合となり、妻の縁で支倉も続いて出入するようになり、小林貞を支倉の家に預けるようにしたのも、彼が口を利いたのだった。そんな関係で支倉は神戸牧師に師事をしていたのだった。
 石子刑事が名刺を通じると直ぐに二階の一室に通された。
 白皙な顔に稍厚ぽったい唇をきっと結んで現われた牧師は、石子にちょっと会釈して座につくと不興気に云った。
「何か御用事ですか」
「はあ、鳥渡支倉の事についてお伺いしたい事があるのです」
 石子は畏まって云った。
「支倉? はゝあ、どんな事ですか」
「実は支倉はある嫌疑で神楽坂署に留置してあるのです」
「支倉が」
 神戸牧師は鳥渡驚いたようだったが、直ぐ平然として、
「はゝあ、どう云う嫌疑ですか」
「それはいろ/\の嫌疑で鳥渡こゝでは申上げられないのですが、それにつきまして、お尋ねしたいのは支倉の家に居りました小林貞と云う女の事についてなのです」
「はゝあ」
「支倉が小林貞と云う娘に暴行を加えたと云う話なのですが」
「その事を私に聞こうと云うのですか」
 神戸牧師は稍鋭く聞いた。
「えゝ。そうなのです。支倉があなたに聞いて呉れと云うのです」
「支倉が私に聞いて呉れと云ったんですって?」
「えゝ」
「そうですか」
 神戸牧師は暫く考えていたが、
「支倉がそう云ったのなら、差支ないかも知れませんがね。兎に角人の名誉に関する事ですから申上げかねますね」
「それはそうでしょうけれども、真相が分りませぬと支倉に不利になるかも分りません。私達も出来るだけ事の真相を掴みたいと思っているのですから決して御迷惑になるような事はいたしませんから、ご存じの事を教えて下さい」
「あなたの云われる事は能く分りますがね。兎に角重大な事ですからな。まあ、云うのはお断りしたいと思います」
「では差支のない事だけを云って下さいませんか」
「さあ、どんな事が必要なのですか。一つ聞いて見て下さい。答えられるだけは答えますから」
「小林貞と云うのは、あなたの御世話で支倉方に行儀見習いと云うので置いて貰ったのだそうですが、そうですか」
「私の世話と云う程ではありません。あれの親が私の娘を支倉さんの家に置いて貰う事にしたらどうだろうと云うので、宜かろうと云った位のものです」
「その娘に支倉がどうとかしたと云うのは本当ですか」
「それは本当とも嘘とも申上げられません」
「では、本人が病気の為に暇を貰ったと云うのは本当ですか」
「えゝ、そんな事でした」
「何の為に病気になったのですか」
 石子はじっと神戸牧師の迷惑そうな顔を見上げた。

 石子刑事の質問に神戸牧師は愈※[#二の字点、1-2-22]迷惑そうな顔を曇らしながら、
「それはお答え出来ません」
「そうですか」
 石子は暫く考えていたが、牧師の態度が中々強硬で容易に話しそうもないので諦めたように、
「そう仰有られてはどうも仕方がありません。然し、私は職責上お尋ねするので、此まゝあなたから少しも要領を得ないで帰署する事は甚だ困るのですが」
 石子の落胆したようた様子を見た神戸牧師は、気の毒になったか少し言葉を和げながら、
「職責上と云われると私も知っているだけの事は云わなければなりますまい。ではこうして下さい。もし正式に検事なり署長なりから召喚があれば私はその人達の面前で申述べる事にしましょう。他人の迷惑になるかも知れない事を不用意のうちに喋るのは嫌ですから」
「では何ですか」
 石子は元気よく云った。
「署長の前でならお話し下さいますか」
「えゝ、もしそれが必要だと云うならそうしましょう」
「有難うございます」
 石子は頭を下げた。
「ではご迷惑でもそう願いましょう。帰署いたしまして、早速手続きをいたします」
 石子刑事は直接神戸牧師から支倉の事に関する有力な手懸りを得られなかったのは残念だったけれども、牧師自身が警察の呼び出しに応じて、署長の面前で話しても好いと云った言葉で稍勢いを得て神楽坂署に引上げた。

 石子が帰署したのはもう夕方近くだった。
 刑事部屋では支倉の妻静子の訊問が始まっていた。
 彼女は地味なお召の着物に黒っぽい紋つきの羽織を重ね、キチンと膝を揃えてじっとうな垂れながら刑事の不遠慮な鋭い質問に、只微にハイとかイーエとか答えるだけだった。時々血の気の失せた蒼白い顔を上げて、長い睫の下から怨ずるような、憤るような眼を刑事達に投げかけていた。
 静子の訊問はこの日を皮切りとして三日間続いた。警察当局者の考えでは支倉の犯した数々の罪、前後三回に亘る放火だとか、女中小林貞の殺害など必ず静子が知っているものと信じていたのだった。この女の口を開けさえすれば片が附くと云う考えだったから、この取調べは可成峻厳に行われたのである。
 支倉の訊問は彼の妻の訊問と平行して行われたのだったが、知らぬ存ぜぬ一点張りで押通した彼も、この妻の訊問には可成苦しんだものらしい。彼が後に自ら大正の佐倉宗五郎なりと気狂いじみた事を云い出したのも、或はこの時の事を指しているのかと思われる。
 彼女の訊問は前に云った通り三日続いた。然し、彼女はよくそれに堪えた。彼女は相当教養もあり、支倉も彼女に対しては十分尊敬を払っているようであり、夫婦仲も好いと思われるのだから、大抵の事は支倉も打明けるだろうし、打明けないまでも或程度まで察しがつくだろうし、どうでも支倉のやった事を知っているに違いないと云うので、刑事達は交る/″\厳重に彼女を責め立てたのだった。が、事実は彼等の予期に反して、彼女の口からは何事も聞く事が出来なかった。どうせ夫の大事を軽々しく喋る女ではないと云う見込ではあったけれども、こうまでしても口を開かないのは、実際に彼女は何事も知らないと認めるより仕方がなかった。
「ちょっ」
 三日目には流石の根岸刑事もとうとう匙を投げた。
「強情な女だ。だが実際知らないらしい」
「知らない筈はないと思うが」
 渡辺刑事は口惜しそうに云った。
「実際知らないのかなあ」
 かくて静子の口から分ったのは小林貞の暴行事件の真相だけだった。

 話は三年前に溯《さかのぼ》る。
 真白に咲き乱れた庭の沈丁花の強烈な香が書斎に押寄せて来て、青春の悩みをそゝり立てるような黄昏時だった。若い牧師|神戸《かんべ》玄次郎氏は庭に向った障子を開け放して、端然と坐って熱心に宗教書を読み耽っていた。
 机の上の瑞西《スイッツル》から持って帰った置時計はチクタクと一刻千金と云われる春の宵を静に刻んでいた。
 折柄襖が静かに開いて夫人が淑かに現われた。
「あの支倉さんが是非お目にかゝりたいと仰有るのですが」
 振り向いて夫人の顔を見た神戸氏は稍顔を曇らし乍ら反問した。
「支倉が?」
「はい」
 支倉は彼の妻の静子の紹介で神戸氏の所へ両三回出入しているのであるが、俗に云う虫が好かないと云うのか、神戸氏はどうも厚意が持てないのだった。罪人を救い、曲ったものを正すべき宗教家として、人を遇する上に感情を交えるのは慎むべき事であるが、神でない以上愛憎を感じるのは止むを得ぬ。尤も神戸氏は決して支倉を憎んでいるのではない。只何となく少しばかり気に入らぬと云うだけなのだ。彼の方から師事して教えを求めに来るのを排斥する訳には行かぬ。
 彼はバタリと机の上の書物を閉じた。
「こちらへお通しなさい」
 支倉喜平は一癖ある面魂《つらだましい》に一抹の不安を漂わせながら、書斎に這入って来た。
「御無沙汰いたしました」
 彼は平伏した。
「こちらこそ、お変りなくて結構です。まあお敷なさい」
 牧師は彼に蒲団をすゝめた。
「有難うございます」
 支倉は蒲団を敷こうともせず、モジ/\していた。
 暮色が忍びやかに部屋の中に這入って来た。
 あたりが模糊として、時計の音が思い出したように響いた。
 神戸氏はつと立上って頭上の電燈のスイッチを捻った。さっと黄色を帯びた温かい光が流れ落ちて、畳の目を鮮かに照した。夕闇は部屋の隅の方に追いやられた。
 モジ/\していた支倉は神戸氏が静かに元の座に帰った時に、つと決心したように頭を上げたが、直ぐに力なげにうな垂れた。
 息苦しいような沈黙が続いた。沈丁花の香が主客の鼻孔に忍込んでこの場を一層重苦しくするのだった。
 支倉は再びきっと顔を上げた。
「先生」
 彼は苦しそうに叫んだ。
「どうぞ笑って下さい。責めて下さい。支倉は哀れな人間です」
「どうしたのですか」
 神戸氏は気の毒そうに彼を見た。
「話して御覧なさい」
「先生、私は卑しい人間です。私は弱い人間です」
 口早にそう云い切った支倉は暫く息をついていたが、やがて悲痛な顔をしながら、
「先生、私の鼻を見て下さい」
 神戸牧師は彼の真黒ないかつい顔の真中についている巨大な鼻をじっと見た。牧師は真面目に彼の鼻を観察した。
 彼の真剣さは牧師に微笑だにさせる余裕を与えなかったのである。
「先生、私は性慾が旺盛なのです。私のこの大きな鼻がそれを証明しているのです」
 神戸氏は別に返答を与えないでじっと気の毒な彼の興奮している顔をうち守った。
「先生、どうぞ懲らして下さい。許して下さい。そうして救って下さい」
 支倉は殆ど泣かん許りに掻口説《かきくど》いた。
 お茶を運んで来た夫人はさっきから襖の外に佇んでいた。

「そう興奮しないで静かに話して下さい」
 神戸牧師は宥めるように支倉に云った。
「先生、私は大変な罪を犯したのです。汚れた罪なのです」
「どんな汚れた罪でも償えない筈はありません。話して御覧なさい」
「先生、私は女を犯したのです。無垢の少女を。私は前に云った通り性慾の醜い奴隷なのです。実は一月許り前に妻が郷里の秋田へ帰りました。その留守の閨《ねや》淋しさに私は女中の貞に挑みかゝり、とう/\暴力を以て獣慾を遂げて終ったのです」
 支倉は云い悪くそうにポツリ/\と口を切りながら、漸く自分の罪を云い終ると、じっと顔を伏せた。
 神戸氏は支倉の意外な告白に些か驚きながら、
「それは飛んだ事をしましたね」
「私の罪はそれだけではありません」
 やがて支倉は顔を上げて、情けなさそうに云った。
「私は女に忌わしい病気をうつして終ったのです」
「え、え」
 泰然として聞いていた牧師も余りの事に思わず声を上げた。彼はそんな忌わしい病気に犯されているのだろうか。これが仮りにも宗教界に身を置くものゝ所業だったのであろうか。
「何とも申上げようがありません。お目にかゝってこんな恥かしい事をお話しなければならない私をお憐み下さい」
「よく告白しました。あなたはきっと救われると思います」
「有難うございます。先生、私の浅間しい所業は罰せられずには置かなかったのです。女房にも女の親にも知られて終いました。女の叔父と云うのが手のつけられない無頼漢なのです。私は絶えず脅迫されるのです」
 神戸氏は鳥渡|誑《たぶらか》されたような気がした。彼は支倉のしょげ切った姿から眼を離して、庭前をチラリと見やった。夕闇に丁字の花が白く浮んでいた。
 支倉はさっきから真摯な態度で彼の罪を告白していた、と神戸氏は思っていたが、今聞くと彼は女中の伯父から脅迫される事を恐れて、自分の所へ縋りに来たとも思える。彼の流していたのは必ずしも悔悟の涙でなくて、救いを求めに来たのは彼の霊でなくて、肉体であったかも知れない。
「先生」
 支倉は黙り込んだ牧師を不安そうに見上げながら、
「私は心から悔悟しているのです。どうか救って下さい」
 支倉の悔悟は偽りか。この瞬間に於ける彼の至情は、よしそれが神の罰を恐れる為でなく、無頼漢の脅迫を恐れる為であったとしても、正に悔悟と認めて好い。彼のこの告白に対して石を投げて責め得る人は恐らくないであろう。神戸牧師は居住いを正した。
「で、私はどうすれば好いのですか」
「叔父との間を調停して頂きたいのです」
 支倉はホッとしながら答えた。
「無論私は再びこんな誤ちを犯さない事を誓います」
「その叔父とか云うのとはどう云う話になっているのです」
「たゞもう姪を元の通りの身体《からだ》にして帰せと云って喚き立てる許りなのです」
「そうですか」
 神戸氏は暫く考えていたが、
「私はこんな問題に触れるのは好みませんが、折角のお頼みですから、兎に角その叔父と云うのに一度会って見ましょう。所で父親の方はどうなのですか」
「無論立腹しているには違いないのですが、父の方は別に直接には何とも云わないのです」
「父親の方は私も一度位会った事があるかと思っています。父親をさし置いて叔父の方がそう喧しく云う事もないでしょう。兎に角私から穏かに話して見ましょう」

 神戸牧師の情ある言葉に支倉は度々頭を下げて礼を述べて帰って行った。
 それから神戸氏はいろ/\尽力して、漸くの事で女中の貞は親許に引取り、支倉は慰藉料として二百円、外に女の病気が治るまで病院に通わせ、その治療代を負担すると云う条件で一先ず型がついたのだった。
 いよ/\、約束の金を叔父の定次郎に渡すと云う段になって、神戸牧師は支倉の態度に少し驚かされた。
 支倉は叔父の定次郎から脅迫されて窮境に陥った時に、涙を流して神戸氏に訴えた。その時の彼の心情は蓋《けだ》し憐れむべきものがあって、悔悟の状も溢れ出て、何人と雖《いえど》もあの際尚彼を笞打《むちう》つと云うには忍びなかったであろう。それなればこそ神戸氏も気の毒に思って、調停の役を務めたのだったが、漸く解決して金を渡す時の彼の態度はガラリと変った。
 彼は金を取られた事が残念で耐らないのだった。
「金を渡しました」
 と云って神戸氏に報告した時の彼の無念そうな様子には、神戸氏も一驚を喫したのだった。
 要するに彼は一種の守銭奴だったらしい。
 或場合には狂的に金を出す事を惜しんだのである。彼の数々の犯罪もこの金銭を極端に愛すると云う所から起ったとも云える。彼が心から告白して救いを神戸氏に求めた時の至情は、いざ金を出すと云う際に、忽ちその影は潜めて、彼の半面醜い陋劣な心事が赤裸々に現われて来るのだった。此の点では彼は二重人格者であると云う事が云える。
 表面的に事件が解決すると共に、神戸牧師は事件から手を引いて終った。叔父の定次郎は其後もチョイ/\支倉の家へ強請《ゆすり》に行ったらしい。小林貞が病院へ行く途中から姿を消したのはそれから間もなくであった。
 神戸牧師は貞が行方不明になったと云う事を聞いた時に、あの強慾な叔父がいずれへか売飛ばしでもしたかと思って、憐れに感じたが、然しそれ以上に穿鑿する義理合も好奇心もなかったので、そのまゝにしていたのだった。支倉はその後時折神戸氏を訪ねて来た。
 以上が神戸牧師が警察に出頭して陳述した要点だった。支倉の妻の静子がこの事について申述べた所も略《おおよそ》同様であった。
 拘引以来三日間何事を問われても知らぬ存ぜぬと云い張っていた支倉は、又しても今日午後から刑事部屋に引出されて、石子、渡辺両刑事に調べられていた。
「おい、白ばくれるな、小林貞はどこへ隠したのだっ。早く云え」
 短気の渡辺刑事は怒号していた。
 支倉は相変らず黙々として冷やかな眼で刑事の顔を見上げていた。
「証拠は充分に上っているのだぞ」
 石子刑事は歯がみをしながら云った。
「だまっていればいる程損なんだ。立派に白状すれば情状酌量と云う事がある。お前が強情を張る為に罪のない女房まで痛い目を見ているではないか」
「え、女房が調べられているって」
 支倉はギクリとした。
「そうさ。罪もない細君は三日三晩続けざまに調べられているんだ」
 石子は態《わざ》と、誇張して脅かしつけようとして、嘲けるように云った。
「そりゃひどい。女房が何を知るものか」
 支倉は苦悶の色を隠そうとしながら云った。
「知ってるか知らないか調べているのだ」
 石子は支倉がひるむ色を見せたので、嵩《かさ》にかゝって云ったが、支倉はまたプッツリと黙り込んで終った。
 刑事部屋の三尺の戸がガラリと開いた。
 現われたのは大島主任と根岸刑事である。
「未だ白状しないか。よし俺達が調べよう」

 よし俺が調べようと云って出て来た主任の顔を見ると、石子は驚いたように叫んだ。
「あっ、主任、ひどく顔色が悪いじゃありませんか」
「うん」
 主任は眉をひそめながら答えた。
「少し気分が悪いのだ」
 大島主任の顔色は真蒼だった。見かけはでっぷりして丈夫そうな身体だったが、彼は性得《しょうとく》心臓が弱かったので、余り興奮したり、調べ物に身を入れたりすると、よく脳貧血を起すのだった。
「私達は未だ疲れやしませんから暫くお休みになったらどうですか」
 渡辺刑事は心配そうに云った。
 刑事達が調べ疲れると新手と入れ交ると見える。調べられる支倉はいつまでも休息を与えられないのだとすると、いかに頑健な彼でも、遂には反抗の力が尽きる時が来るだろうと思われる。
「いや、何でもない」
 主任はきっぱり云った。
「僕は支倉が自白をする迄はとても休息などしていられないのだ」
「僕も随分留めたのだがね」
 根岸刑事が云った。
「主任がどうしても聞かないのだ」
「そうですか、ではお願いする事にしましょう」
 石子はそう云って渡辺刑事と共に部屋を出て行った。
「支倉」
 主任はじっと彼を見詰めながら云った。
「お前は未だ小林貞の居場所を白状しないのかい」
「知らぬ事はいくら問われても答える事が出来ぬ」
 支倉はいま/\しそうに答えた。
「そうか、よし、そんなら女の居所を俺が教えてやるッ」
 主任は怒号した。
「えっ」
 支倉はあきれたような表情で主任の顔を見上げた。
「小林貞は大崎の古井戸の中にいるのだッ」
「え、え」
 支倉は飛上った。
「お前は警察が何にも知らぬと思っているのかッ」
 主任が大崎の古井戸と云った時にさっと顔色を変えた支倉は、忽ち元の素知らぬ顔に戻って嘲るように云った。
「貞の行方が分っていれば好いじゃありませんか。今まで何だって私に訊ねたのです」
「何っ、貴様は本官を愚弄するかっ」
 大島主任は憤怒の極に達したが、もう次の言葉を発する事が出来ずフラ/\と倒れようとした。
「あっ、どうしました。お気を確に」
 根岸は驚いて主任を抱き止めた。
「な、なに、大丈夫だ」
 主任は血の気の失せた唇を噛みしめながら云った。
「まあ、お休みなさい」
 根岸は主任を無理に押とめて、支倉に向って云った。
「ねえ、支倉君、世話を焼かすじゃないか。司法主任を怒らしても仕方がないじゃないか。知ってるだけの事は素直に話した方が好いと僕は思うね」
「知らないから仕方がない」
 支倉は相変らずぶっきら棒ながら、いくらか優しく答えた。
 嫌疑者訊問法について或る著述を読んで見ると、第一に嫌疑者を脅かさない事、嫌疑者に対して立腹しない事、嫌疑の内容を知らしめない事などが挙げてある。今支倉喜平を訊問している警吏は主任始めいずれも経験に富んだ其道の豪の者揃いであるから、これしきの事を知らない筈がない。無論彼等は始めは定石通り訊問をしたのだが、元来支倉が一筋縄で行く人間ではないのだから、生優しい手段は尽《こと/″\》く効を奏せず、いら/\して来た彼等は今は殆ど頭ごなしに押えつけて白状させようとしている。
 流石老巧の根岸刑事は未だいくらか余裕があって、ジリ/\押しに調べようとする。支倉がガミ/\云われ通した後だから、いくらか動かされた。

「ねえ、君」
 根岸刑事は鋭い眼を薄気味悪く光らしながら、ジリ/\訊問を進める。
「我々は既に度々云う通り、証拠のない事を云っているのじゃないのだ。然し、今は証拠があるとかないとか云う事を超越して、直接君の良心に訴えたい。君も仮りにも宗教的な仕事をしていたのだろう。侮い改めよと人に云って聞かした事もある筈だ。ねえ、君が何か悪いと思う事をしていたら、此際すっかり云って貰おうじゃないか。我々の職務は決して犯人に不利益な事のみを捜し出すのじゃない。利益になる事も充分探り出して、意見書を添えて検事局へ送るのだよ。君が素直に自白さえすれば、我々は少しも君を憎んでいやしない、署長によく頼んで罪が軽くなるように計って貰おう。僕の云う事に偽りはない。君のように反抗をし続けていると結局君の損なんだよ」
「反抗している訳では毛頭ない」
 根岸の縷々として尽きない言葉に、支倉は少し面を和げながら答えた。
「然し知らない事は返事が出来ないし、あまり威丈高になって聞かれると、勢い僕の方でも黙って引込んで居られないと云う訳だ」
「成程、君の云う事は尤だ。然し我々は君が知らない筈がないと思うのだがね」
「それは意見の相違で、つまり水かけ論さ」
「そうすると君は高輪の火事の時に半焼になったが、保険の勧誘員に金をやって全焼の扱いにして貰った事も否定するのだね」
「勧誘員に金はやったよ。然しそれは単なる謝礼の意味で、半焼を全焼にして貰った覚えなどはない」
「あの火事の晩に、君は俗に立ン坊と云う浮浪人に金を出して雇っているが、あれは何の為だったのだね」
「何の為でもない」
 ふと口を滑らした支倉はあわてゝ続けた。
「いやそんな者を雇った覚えはない」
「ふん、ではそれはそうとして、君は小林貞の叔父の定次郎には度々脅迫されて、弱ったろうね」
「あいつは実に悪い奴だ」
 支倉は口惜しそうに、
「あいつには随分ひどい目に会わされた」
「ふん、それで君が小林貞を病院から帰る途中で連れ出したのは何時《いつ》頃だったかね」
「そんな事は知らぬ」
 支倉は中々根岸刑事の手に乗らない。春日遅々と云うけれども、根岸の念の入った取調べにいつか日はトップリと暮れて終《しま》った。
「根岸君」
 じっと聞いていた主任は、苦しそうな表情を浮べながら、
「どうもいけない、頭がフラ/\する。僕は休息したいから、後を又石子達に頼む事としよう」
 そう云いながら主任は力なげに出て行った。やがて、石子と渡辺が荒々しく這入って来た。
「おい、支倉」
 石子はいきなり呼びかけた。
「未だ白状しないのか。往生際の悪い奴だ」
「いつまでも強情を張ると痛い目を見せるぞ」
 渡辺は呶鳴った。
「支倉君」
 根岸刑事が云った。
「この二人は若いから、ほんとに君をどんな目に遭わすか知れないよ。そんな詰らぬ目に遭ってから云うよりは、今云った方が好くないか。どうせ云わねばならぬ事だから、その方が得と云うものだぜ」
「得だろうが損だろうが、少しも知らぬ事は云えぬ」
 夜は次第に濃くなって行く。ガランとした刑事部屋の真中に坐らせられた支倉の頭上には、高く薄暗い電燈が只一つ灯《つ》いているきりで、凹んだ眼、尖った頬骨、大きな鼻と凹凸の多い彼の顔にクッキリとした影をつけて、彼を一層物凄く見せていた。
「よしっ、そんならお前に見せるものがあるっ」
 そう叫んで石子は何やら白いものを取り出したが、支倉は一目見ると、
「あっ」
 と叫んだ。

 支倉が一目見るより、あっと叫んだのは何事か。石子刑事の取り出したものは白く曝れた髑髏だった。
「支倉、この髑髏をよく見ろ」
 石子は支倉の眼の前に気味の悪い頭蓋骨をつき出した。
「これは何だ」
 支倉は叫んだ。
「分らないか。この髑髏の歯を見てみろ。之はお前に殺された小林貞の骸骨だ」
「え、え」
 支倉は恐怖の色を現わして顔を背向《そむ》けようとした。
「おい、何もそう恐がる事はない」
 渡辺刑事は石子から髑髏を受取りながら、
「お前の可愛がった女の骨じゃないか」
 未だ深夜と云う程ではない。けれどもこゝは聞くだに恐ろしい刑事部屋で、あたりは寂としている。それに荒くれた刑事達に取巻かれて、髑髏を眼の前につきつけられたのであるから、流石の支倉もギョッとしたに相違ない。もし彼が小林貞を殺していたとすると、いかに恐怖を感じたであろうか。想像するに難くない。
 然し、強胆な支倉はチラと取乱した姿を見せただけで、忽ち元の憎々しい人を人とも思わぬ態度に帰った。
「そんなものは俺は知らない。貞を殺したなどと飛んでもない事を云うな」
「貞の屍体は大崎の古井戸から出て来たのだがね」
 根岸は静かに云った。
「君はその時に見に行ったそうだが、どんな気持がしたね」
「大崎の古井戸から女の屍体が上がった事があった。俺はそれを見に行ったのを覚えている。然し、あれは決して貞ではない」
「そんな事はないよ。確に貞の屍体だよ」
「いや、あの上がった屍体はすっかりと腐爛していたから誰の屍体だか分りゃしない。現にあの時の検視官にも何も分らなかった筈だ」
「支倉君、君は非常に委しいことを知っているね」
「――――」
「君は何か思い当る所があったので、検視の結果に深い注意を払っていたのだろう。ね、そうだろう」
「――――」
「支倉」
 耐りかねたように石子刑事が叫んだ。
「お前が古井戸の中へ女を抛り込んだ事はいかに隠そうとしても無駄な事なのだ。早く有体《ありてい》に云って終《しま》え」
「いつまでも隠し切れるものではないよ」
 根岸はネチ/\した調子で続ける。
「僕も随分いろ/\の犯人を調べた。中には強情なのがあって、容易に白状しないのがあったが、結局はみんな恐れ入ったよ。事実犯した罪を最後まで知らないと云い張れるものではないのだ。どうせ事実を云わねばならぬとすると、早い程好いよ。裁判に廻っても非常に得だし、それに君の自白が長引けば長引く程、妻子も長く困る訳だよ」
「君の云う事は能く分る」
 支倉はうなずきながら、
「僕だって覚えがあるなら無論云う。こんな所にいつまでも入れられているのは苦痛だし、妻子の事を思うと身を切られるより辛い。本当に何も知らぬからいくら問われても之以上は答えぬ。早く裁判に廻して呉れ」
「じゃ、君は飽くまで知らぬと云い張るのだな」
 根岸は調子を変えてグッと支倉を睨んだ。
「そうだ」
 支倉は根岸の炯々《けい/\》たる眼光に射られながら、跳返すよう答えた。
「よしっ」
 根岸は突立上った。
「僕はもう何も云う事はない。之から先、君がどんな苦しい眼をみようと僕は構わぬ。君がもし僕の云った事に思い当ったら、一言根岸に会いたいと云い給え、じゃ又会おう」
 こう云い棄てゝ根岸は部屋の外へ出た。
 今までジリ/\していた渡辺刑事は、髑髏を片手に支倉の前ににじり寄った。

 夜は次第に更けて行く。
 こゝは浮世を外にした別世界。名を聞くさえ、気の弱い者は顫え上る刑事部屋である。髑髏を片手に支倉に迫った渡辺刑事の身辺からは正に一道の凄気が迸《ほとばし》った。
「支倉、貴様はいかに冷静を装って、知らぬ一点張りで通そうとしても、そうは行かぬぞ。貴様が何一つ疚しい所がないのなら、何故最初から堂々と出て来て云い開きをせぬ。逃げ廻ったと云うのが身に覚えのある証拠だ。それに、逃げ廻るさえあるのに、その間にした貴様の所業の数々は誰が見ても貴様は悪人とよりは思えぬ。その上、聖書の窃盗、放火、暴行傷害など歴然たる証拠が上っている。貴様は一番罪の重い殺人罪から逃れたいのだろうが、之も動きの取れない被害者の屍体の出た今日、どう云い開こうとしても詮ない事だ。貴様は何故この分り切った犯罪を一時も早く白状して、お上の慈悲を仰ごうとせぬのだ。貴様はどうあっても、この髑髏に覚えがないと云うのかっ」
 先刻からの続けざまの訊問に興奮して来た支倉は、独特の大きな濁声《だみごえ》で叫んだ。
「知らぬ、知らぬ、何と云われても知らぬ」
「知らぬ事があるものかっ」
 渡辺刑事は怒号した。
「之は貴様の可愛がった女の髑髏だ。さあよく見ろ」
 渡辺刑事は髑髏をピタリと支倉の顔に押しつけた。
 支倉が何事か叫ぼうとすると、部屋の入口がガラリと開いて、ぬっと這入って来た人がある。
 それは庄司署長だった。
 署長は柔道で鍛え上げたガッシリとした長身をノッシ/\と運びながら、喜怒哀楽を色に現わさないと云う不得要領なボーッとした風で、何気なく刑事達に声をかけた。
「おい、どうしたい。未だ片はつかんのか」
「はい」
 石子は固くなりながら、
「未だ自白いたしません」
「そうか」
 彼は軽くうなずいたが、支倉の方を向いて、
「おい、君、未だ片がつかんそうじゃね」
 夜はもう余程更けている。花には未だ早いが折柄の春であり、宵のうちには一段の賑いを見せていた神楽坂の通りも、今は夜店もチラホラと通る人も稀であろう。風こそ吹かね、底冷えのする寒さは森々として身に染みる。火の気のない冷たい部屋で長時間続行訊問せられる支倉は身から出た錆とは云いながら憐である。
「おい、君、早く本当の事を云って終《しま》ったらどうだね」
 署長は黙っている支倉に促すように云った。
 支倉はじっと自分よりは七つ八つ若いと思われる署長を見上げた。

 後に支倉が獄中で書いた日記を見ると、この神楽坂署の取調を想起して、
「十二時の鐘がゴーンと鳴ると、署長が亡者を責む地獄の鬼のように、ノッソリと現われる」
 と書いてあった。
 この事について神楽坂署が裁判所へ出した報告には、
「取調の都合上時に夜に到るまで訊問を続行し、十時過ぎに至れる事あり」
 とあった。そのいずれが正しいか知る由もないが、兎に角、時の神楽坂署では夜遅くまで訊問を続行した事はあったらしい。支倉が、
「十二時の鐘がゴーンと鳴ると」
 云々と書いたのは多少修辞上の言葉で、必ずしも署長が鐘の音を合図に現われたものではないと思われる。支倉が果して殺人罪を犯していたかどうか。それは神聖なる裁判に待つよりないが、彼が他に悪事を働いている事は疑う余地がない。傲慢な彼に対して取調べが峻厳を極めたのも止むを得ないであろう。
 さて、署長の訊問振りはいかに。

「おい君、貞ちゅう女はどこに隠したんだ。未だ考えがつかんかね」
 庄司署長は、赤味のある丸顔に強度の近眼鏡の下から割に小さい眼をしばたゝかせながら、迫らず焦らず悠然と訊問を始めた。
「隠した覚えがないから考えつく訳がないです」
 流石に支倉も対手が署長であるだけ、幾分言葉遣いも丁寧である。
「隠した覚えがないと云っても、そりゃいかんよ。君があの女の為に金を強請《ゆす》られるようになって、うるさがっていたと云う事は蔽うべからざる事実じゃからね。じゃ君はあの女はどうして行方不明になったと思うのだね」
「そんな事はよく分りませんが、多分叔父の定次郎がどうかしたんじゃないでしょうか」
「どうかしたとは?」
「どっかへ売飛ばしでもしたんでしょう」
「ハヽヽヽ、君は妙な事を云うね。あの定次郎と云う男は女の為に好い金の蔓にありつけた訳じゃないかね。折角の金の蔓をまさか端《は》した金で売飛ばしもしまいじゃないか。それよりも君こそあの女は邪魔者だ。病院の帰りに誘拐してどこかへ売飛ばしたのだろう」
「決してそんな事はありません」
「よく考えて御覧」
 署長はじっと支倉を見詰ながら、
「君は知っている事をすっかり話して終《しま》わないうちはこゝは出られないよ。ね、聖書を盗んだ事はもう証拠歴然として動かす事は出来ないのだ。それだけで君は検事局に送られ、起訴になるに極《きま》っている。それでだね、潔《いさぎよ》く外の事も云って終ったらどうだね。いずれ予審判事が見逃す気遣いはなし、今こゝで白状した方が余程男らしいがね」
「犯した罪なら白状しますが、知らぬ事は申せません」
 支倉は荒々しく答えた。
「ふん、それがいけないのだ」
 署長は調子を稍強めた。
「君が知らない筈がないからね、君がそうやって頑張っているうちは、罪もない細君まで共々厳重に調べられるのだ。君が口を開かなければ細君の口を開かすより仕方がないからね」
「家内は何にも知りません」
 支倉は叫んだ。
「君は今家内は何にも知らないと云ったね」
 署長は念を押すように云いながら、
「そうかも知れない。然し家内は知らないと云ったね。家内は知らないと云う位だから君は無論知っている事があるのだね、早くそれを云い給え。細君はすぐ家に帰すから」
「――――」
 支倉はきっと唇を結んで、物凄い表情をした。こうなったら彼は容易なことで口をひらかないのだ。
「おい、黙っていちゃ分らないじゃないか。早く本当の事を云って、こんなうるさい訊問を二度と受けない様にしたらどうだ。一時も早く裁判に廻って、潔く服罪した方が好いじゃないか。僕も職掌上出来るだけ君の罪が軽くなるようにしようし、君だって相当の財産があるのだから、後に残った妻子は別に困りゃしまい。え、どうだい」
 署長は諄々として説いた。手を替え品を替えと云う言葉があるが、支倉のような頑強な拗者《すねもの》にかゝっては全くその通りにしなければならぬ。署長はどうかして支倉の口を開かせようと思って、子供でも扱うように騙したり賺《すか》したりして責め訊ねた。署長には元より他意はない。当時の支倉も知らぬ存ぜぬと突っ張りながらも、署長の訊問には可成感銘したのであろう。それは後の彼の自白に徴しても知られる。
 然し更にその後呪いの鬼になった彼が、此署長の訊問中の不用意な片言隻語を捕えて、いかにそれを利用したか。読者諸君は一驚を喫せられる時があるであろう。
「お話はよく分りました」
 支倉はぬっと頭を上げた。
「よく考えて見ますから今日は寝さして下さい」
「うむ」
 寝さして呉れと云う支倉の言葉に、署長は暫く考えていたが、
「よし、今日の取調は之で終ろう。明日又訊ねるから考えて置くが好い」
 午後から引続いた長い訊問は之で終った。

 支倉は淋しい独房で破れ勝ちな夢を結ぶ事になった。
 翌朝も快い春めいた空だった。人々は陽気に笑いさゞめきながら、郊外に残《のこ》んの梅花や、未だ蕾の堅い桜などを訪ねるのだった。忙しそうに歩き廻る商店街の人達さえ、どことなくゆったりとした気分に充ちていた。
 独房に閉じ込められた支倉喜平には、然し春の訪れはなかった。彼を自白せしめようと只管《ひたすら》努力している警吏達にも、春を味わうような余裕はなかった。真四角な灰色の警察署の建築の中はあわただしいものではある。
 この朝は神楽坂署の内部は、何となく憂色に閉ざされていた。
 司法主任の大島警部補が急に病が革《あらた》まったのである。
 彼が病を押して身を挺して支倉の訊問に当っていた事は前に述べたが、昨日は殊に気分の勝れなかったのを無理に出署したのだが、出署して見れば支倉を取調べずには居られない。で、刑事達の留めるのも聞かず訊問を始めたが、忽ち興奮して終って持病の心臓をひどく痛めて終った。帰宅するとそのまゝバッタリ斃れて終ったのであった。
「大島主任はどうもいけないらしいです」
 真蒼な顔をして署長室に這入って来た石子は、署長の顔を見つめながら云った。
「えっ」
 物に動じない署長も流石《さすが》に驚駭の色を現わして突立上った。
 大島主任が昏々として無意識状態となり、食塩注射によって、辛じて生死の間を彷徨しているその日の午後、石子、渡辺両刑事は又もや支倉を留置場から引出した。主任の弔合戦である。二人は初めから殺気立っている。
「おい、支倉、どうしても云わないか」
 渡辺刑事は息巻いた。
「こうなったら根比べだ。貴様が先に参るか、俺が斃れるか。何日でも訊問を続けるばかりだ」
「支倉、幾度も云って聞かせる通り」
 石子刑事も噛みつかん許りに呶鳴った。
「貴様のした事は明々白々なのだ。知らぬ存ぜぬで云い張ろうとしても無駄な事だぞ」
 然し支倉は容易に自白しようとはしなかった。
 午後の日は次第に傾いて漸く薄暮に及んだが、訊問は未だ止まなかった。刑事部屋の堅く閉ざされた扉を通じて、時々刑事の怒号する声が外に洩れ聞えた。
 日もトップリと暮れはてた時分刑事部屋の扉が開いて、蒼白い顔をした支倉がぬっと現われた。背後には油断なく両刑事が従っている。彼は便所へ行く事を許されたのだった。
 この時の支倉の気持はどうであったろうか。
 彼は今恐ろしい犯罪の嫌疑を受けて、日夜責め問われている。彼の行動は充分そんな嫌疑を蒙るに足るのだ。
 既に読者諸君も御存じの通り、数々の証拠が挙っている。が、然しその証拠は嫌疑を深めるだけの力はあるが、動かすべからざる確定的のものはないと云って好い。それだからどうしても彼を自白させなければならない。所が、彼は証拠の薄弱なのを知ってか、容易に口を開かない。之まで名だゝる強《したゝ》か者を子供のように扱った警吏達も、すっかり手こずって終った。今は乃木将軍が旅順を攻め落した時のように遮二無二、口をこじ開けてゞも白状させようとしているのだ。流石の支倉もヘト/\になりながら便所に這入った。
 石子、渡辺両刑事はじっと外に張番《はりばん》をしていた。

 便所に這入った支倉は中々出て来なかった。
 拘留中の嫌疑者が間々便所から逃走する事があるので、窓にはすっかり金網が張ってあるし、殊に大切な嫌疑者だから両刑事が爛々たる眼を輝かして見張をしているのだから、とても逃走などと云う事は出来ない。彼は今休む暇なき思いを、あわれ便所に暫しの安息を求めているのだろうか。それにしても少し長過ぎる。
 渡辺刑事は待ち切れないで外から声をかけると、中からは返辞の代りに呻き声が聞えた。と、戸が開いて支倉がよろ/\と出て来た。彼の口の廻りにはベットリと血がついて、右の拳からはタラ/\と血汐が流れて着物に垂れかゝっていた。
「どうしたのだっ」
 渡辺、石子の両刑事は同時にそう叫んで、両方から彼を押えた。
「うむ」
 支倉は苦しそうに喘いだ。
 かつて彼が銅貨を呑んで自殺を計って以来、再びそんな事をさせないように、厳重な警戒をしていたのであるから、刑事はこの有様を見て、只怪しみ驚く許りだった。
 急報によって直ぐ警察医は駆けつけて来た。
 取調の結果、支倉は便所の窓硝子を打欠いて、その破片を呑んだのである事が判明した。
 医師は一応診察した後、以前銅貨を呑んだ時のように、大した障りのない事を断言した。
 こんな事がいきり立っている刑事に素直に受入れられる筈がない。
「畜生」
 渡辺刑事は叫んだ。
「野郎又狂言自殺をやりやがったなっ」
「硝子なんか呑んだって死ねるものかい」
 石子刑事も口惜しそうに云った。
「そんな詰らない真似をして取調を遅らそうとしやがる。誰がなんと云ったって、きゃつが放火や殺人罪を犯している事は確実なんだ。白状させずに置くものか」
 けれども二人はその日は訊問を続ける事が出来なかった。支倉も弱っていたし、それにその夜大島司法主任がとう/\死んで終ったのだった。
 司法主任の死は支倉事件の為のみではなかったかも知れない。然しこの事件が重大な原因をなしていた事は確である。そして支倉の訊問中主任が死んだと云う事は署全体にとって大きな激動であった。
 大島主任に代って任命された人は佐藤と云う警部補であった。この人は諄々として温情を以て説くと云う人だった。それにこの人は始めの経緯を知らないから、支倉に対して先入的偏見乃至反感を持っていない。全く白紙の状態で彼に臨む事が出来た。それは支倉を自白させる上に於て確に有効だったと思われる。
 佐藤主任と根岸刑事は支倉に向って根気よく自白の利益である事を説き、署長に縋って罪の軽くなるように計る事を勧めた。その間、石子、渡辺両刑事や署長が交る/\続行訊問をやった事は無論である。然し支倉の訊問も随分長引いたから、今更こんな管々《くだ/\》しい取調べを繰返すのは止める事としよう。
 が、こゝに一つ省く事が出来ないのは、何故かくまで頑強だった支倉が飜然自白するに至ったかと云う問題だ。
 之は要するに妻子を枷にして諄々と説かれた為ではないかと思う。とすると後の事に関係があるから、最後の署長の取調べだけは省略する事が出来ない。
「支倉、お前も大概にして覚悟を極めたらどうか」
 支倉の所謂「十二時の鐘がボーンと鳴ると現われて来る」署長は賺《すか》すように云った。
「お前は妻子が可愛くないのか。僕にも子供があるから子の可愛いことはよく分るが、お前だってもいつまでも妻子を苦しめて置く気はあるまい。お前の自白が長引けば長引く程、妻子は余計な心配をする訳ではないか。こゝの所をよく考えて見るが好い」

「妻子に余計な苦労をかけるのはお前の本意じゃあるまい」
 署長の説諭は諄々として続く。
「僕はお前に身に覚えのない事を白状せよとは云っていない。覚えのある事は結局自白しなければならぬのだから、早い程好いと云っているのだよ。お前は後の事を心配しているのだろうが、立派にあゝやって家作もあるのだし、僕も出来るだけの事はする積りだから、妻子の事は少しも心配がないと思う。いつまでも頑張って辛い訊問を受けるより、男らしく白状して終ったら好いじゃないか」
「ねえ、支倉君」
 根岸刑事は署長の後を継いで云った。
「もう大抵分って呉れたろうと思う。いつも云う通り君の方でさえ素直に自白して呉れたら、我々は出来るだけ君の為を計る積りだ。署長さんもあゝ云う風に妻子の事は心配しなくても好いと引受けて下さるのだから、この上我々に迷惑をかけて、徒《いたずら》に自分の不利益を計るより、綺麗さっぱりと白状して終おうじゃないか」
 佐藤司法主任や根岸刑事は、ジリ/\と恩愛を枷に搦手《からめて》から攻める。一方では石子、渡辺両刑事が真向から呶鳴りつける。その合間々々には精力絶倫の庄司署長が倦まず撓まず訊問をする。一旦云わぬと決心したら金輪際口を開かぬと云う流石強情な支倉も、こゝに至っては全く弱り果てゝ終った。かてゝ加えて妻子の事も気に掛る。
 仮令《たとえ》一寸|逃《にげ》ても何とか口を開かねば、只知らぬ存ぜぬでは、突張れない羽目となって来た。その機微を察した署長はどうしてそれを見逃そうぞ。
「さあ、真直に云うが好い。小林貞は一体どこへやったのだ」
「誠にお手数をかけました」
 支倉は頭を下げながら、
「貞はいかにも私が誘拐したのです」
「うむ」
 署長は大きく眼を見張って、
「誘拐してどうした」
 支倉喜平は神楽坂署に捕われてから、昼夜責め問われても、只知らぬ存ぜぬの一点張りだったが、訊問こゝに一週|日《じつ》、彼は始めて貞の行方について口を開いたのだった。庄司署長も根岸刑事も飛び立つ思いであるが、さあらぬ体で、この先の返答をじっと待った。
「申訳ありません。売飛ばしました」
 支倉は深刻な表情を浮べながら答えた。
「なに、売飛ばした」
 署長は鸚鵡返しに云って、
「どこへ売飛ばした」
「上海《シャンハイ》です」
「何、上海?」
「はい」
「うん、そうか。然し、お前が直接|上海《シャンハイ》へ売渡す事はあるまい。誰かの手を経たのだろうが、それはどこの何者か」
「それは忘れました」
「なに、忘れた。そんな筈はない、思い出して見よ」
「何しろ三年も前の事だからすっかり忘れて終いました」
「そんな馬鹿な事があるものか。人並外れて記憶の好いお前が、そんな大事件を忘れて終う筈がない。云い出したからにはハッキリ云ったら好いだろう」
「どうも思い出せません」
 彼は再び以前の支倉に戻って、何を聞かれても、それから先は知らぬ存ぜぬと云い張り出した。
 然し凱歌はもう警察側に上っていた。一言も口を開かぬ時なら格別、仮令片言隻語でも犯した罪に関する事を喋ったら、もうしめたものである。それからは追求又追求して前後矛盾した所を突込んで行けば、いかな犯人でも尻尾を押えられるに極っている。
「おい、支倉」
 根岸は奥の手を出した。
「上海《シャンハイ》へ売飛ばしたとだけでは分らないじゃないか。一旦立派に白状しようと決心した以上、手数をかけないで云って終え」

          自白

 署長以下刑事達に入り代り責め問われて、今は口を開かぬ訳に行かなくなり、貞を上海《シャンハイ》に売飛ばしたと答えたが、それからそれへと追求急で、署長の手から石子、渡辺両刑事の手に渡される時分には、彼の答弁はしどろもどろで、辻棲の合わぬ事|夥《おびたゞ》しく、次第に上海へ売飛ばしたと云うのが怪しくなって来た。
 最後に再び根岸の訊問となって急所々々を突込まれ、揚句例の如く諄々として、一時も早く自白して、署長の慈悲に縋るが好いと説かれた時に、彼は非常に感激したらしく、両手をついてうな垂れた。
「恐れ入りました。もう包み隠しは致しません。すっかり白状いたします。どうぞ署長さんの前に連れて行って下さい」
 犯人自白の心理と云うとむずかしくなるが、どう云うものか犯人は出来るだけ偉い人の前で自白したがるものだと云う。こんな所にまで階級意識が働くのか、それとも少しでも正確に自白を伝えようと思うのか、兎に角面白い心理である。
 根岸刑事は支倉が署長の前で告白がしたいと云った時に、元より経験の深い彼であるから、それを不快と思う所か、心中大いに喜んで、早速署長にその事を伝えたのである。
 署長は雀躍せんばかりに喜んで、取るものも取敢ず駆けつけて来た。
 既に覚悟を極めた支倉はこゝで悪びれもせず、逐一彼の犯した罪過を白状した。
 彼の恐ろしい罪悪の内容は之を脚色すると、正に一篇の小説になるのであるが、今は先を急ぐがまゝに、只彼の自白に従って有のまゝを記して置くに止《とゞ》める。

 大正二年の秋、空高く晴れ渡った朝であった。支倉の為に忌わしい病気を感染された小林貞は、恥かしい思いをしながら伊皿子《いさらご》の某病院で治療を受け、トボ/\と家路に向ったが、彼女はふと道端に佇んでいた男を見ると、
「おや」
 と云って立止まった。
 そこには支倉喜平がニコ/\しながら仔んでいたのだった。
「貞や、わしはさっきからお前を待っていたのだがね」
 支倉は驚いている彼女の顔を眺めながら、
「お前の病気が早くよくなるように、もっと好いお医者の所へ連れてってやろうと思っているのだが、一緒にお出《い》で」
 貞と云う娘は既に度々云った通り当時僅に十六歳、それに温柔な物をはっきり云い切る事の出来ない、見ようによっては愚図とも云える内気な娘だったから、旧主の支倉の云う事ではあるし、恐ろしい企みがあるなどと云う事は少しも知らないから、いやだと振り切る事が出来ず、無言で支倉に従ったのだった。
 支倉は先ず彼女を安心させる為に、赤坂の順天堂病院へ彼女を連れ込んだ。然し、診察を受けさすと云う意志のない彼は、貞をゴタ/\した待合室に暫く待たせて置いた揚句、今日は病院の都合が悪いからと云って、再び外に連れ出した。それから彼は少女を新宿に伴った。新宿で彼は貞と共に或る活動写真館に這入り、時の移るのを待ったのだった。恐ろしい魔の手が背後に寄って、刻々に死の淵に導いている事を夢にも知らず、ラヴシーンの映画を子供心に嬉々として眺めていたとは、何たる運命の皮肉であろうか。
 活動小屋を出た頃には暮れ易い秋の日に、あたりは薄暗くなっていた。そこで夕食にと、支倉は貞に天どんを喰べさした。無心に天どんを喰べている少女を見て、支倉は果してどんな気持がしたであろうか。
 彼は新宿からの帰途を態《わざ》と山の手線の電車を選んだ。
 当時貞のいる知合の家と云うのも目黒駅からそう遠くなかったので、支倉は別に疑われる事なしに彼女を誘う事が出来た。
 目黒で下車した時には日はもうトップリ暮れていた。

 目黒駅で下車した支倉は態と裏路を選んで、女を池田ヶ原の方へ連れ込んだ。
 今でこそ目黒駅は乗降の客が群れて、中々の混雑を見せているが、大正三年頃は頗る閑散な駅で、昼間でも乗降客がせいぜい四、五人と云う有様で、ましてや夜となると乗降客は殆どなかった位である。それは大崎へ出る路は元より今のように家が立並んではいないし、表通りだけはバラ/\と家が立っているが、裏は直ぐ今云う池田ヶ原である。宵の口ではあるが、人通りなどは絶えてない。
 支倉はたゞ広い草茫々と生えている野中へと進んで行った。貞は何気なくついて行く。やがて原の中央の古井戸に近づくと、支倉は態と足を遅らして、少女と肩を並べるなり、あっと云う間もなく彼女に飛びかゝって、かねて用意の手拭で絞め殺し、死体は古井戸の中へ抛り込んで終った。
 この死体が越えて六ヵ月目に浮き上って、何者とも知れない自殺死体となって埋葬せられ、それから三年目の大正六年二月神楽坂署の手で発掘せられたのである。死体が着衣の一部と、犬歯の特異な発達によって、小林貞と確認せられたことは前に述べた通りである。
 貞の父親が血眼になって娘の行方を探した事は云うまでもない。又叔父の定次郎が支倉が怪しいと睨んで再三掛合った事も既に読者諸君の御承知の事である。然し、無論支倉は白《しら》を切って対手にしなかった。当時支倉が神戸《かんべ》牧師に宛て送った手紙にその有様が覗かれる。
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「此度の件に就ては色々御心尽しを忝《かたじけ》のうし、何と御礼申してよきやら、御礼の申上げようも無之《これなき》次第、主は必ず小生に成代《なりかわ》り、御先生の御心尽しの万分の一たりとも、屹度《きっと》主は御先生へ御酬い下さる事を信じて疑わざるものに候。(中略)あゝ牧師殿の切なる御言葉にお委せいたし、先方では病院より逃奔さすとか、今又隠すとか、一度ならず二度ならず失敬千万事、然し御先生の言葉もある事、目をつぶって一百円だけ出します。夫れ以上はなんとも仕方無之候。賢明なる牧師殿よ、何分宜敷御取計らい被成下《なしくださる》よう御願申上候」
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 右の手紙について神戸牧師は、何故支倉が既に落着した事件につき尚繰返し縷々として自分に手紙を送り、貞の行方について何事も知らぬ事を、殊更に申述べたかと不審には思ったけれども、真逆、当時既に支倉が貞を殺害した後だとは思わなかったのである。
 尚、小林定次郎の訴えにより、当時の高輪署は二刑事を派して、一応事情を調べ、支倉を喚問して取調を行った。が、それは殆ど形式的な調べで、簡単な聴取書を徴されて、支倉は放還せられたのだった。この事は後に支倉が獄中で繰返し繰返し、書き連ねているからこゝに書き添えて置く。
 殺人の外に彼は恐るべき放火の罪を自白した。
 彼は先ず最初横浜で保険金詐取の目的で放火をして、旨々《うま/\》と成功した。それに味をしめて、神田内に転住した時に、再び放火を企てた。
 彼は或る夕、書籍の手入をするように見せかけて、綿屑に揮発油を染み込ませては、本箱の後に抛り込んだ。そして夜半にそれに火を点けたのである。
 自分の家が焼けて終うと、彼は恐るべき奸計を弄した。即ち彼は私《ひそ》かに密告状を認《したゝ》めて、彼の家の隣人谷田義三が保険金詐取の目的で放火を企てたものであると錦町署へ訴えたのである。こうして置けば放火と云う事が判明しても、自己の嫌疑を隣人の方へ向ける事が出来る。何と恐るべき計画ではないか。迷惑したのは谷田である。

 失火と放火との区別は場合によっては、余程経験を積んだ警吏にも容易に分らないそうである。又放火と判明してもその犯人を見出す事も中々困難なものとせられている。警察署が密告状によって先ず谷田に嫌疑を向けたのは止むを得ない事であろう。
 谷田が恰度嫌疑を受け易い位置にいたのか、それとも彼の答弁が場所柄に馴れない為に、益々嫌疑を深めたのか、彼は中々釈放せられなかった。凡そ一週間と云うものは留置せられたのだった。
 一週間目に支倉は殊勝な顔をして警察に出頭し、谷田の為に嘆願をしたのだった。之も亦極めて巧妙な方法で、彼は充分彼の地位を利用したのである。警察では彼を牧師と信じて、全然嫌疑の外に置いている。そこへいかにも同情したような顔つきで、谷田と云う人は決してそう云う事をする人ではないと熱心に弁護したのであるから、流石の警察もすっかり一杯嵌められて終《しま》った。
 第三回の放火は前にも増して、巧妙で且つ大胆不敵に行っている。これは品川署の管内であったが、彼は俗に立ン坊と称する浮浪人を一人傭い入れて、彼の家に火をつけさした。そうして、当夜は平然と妻と衾《しとね》を同じゅうし、枕を並べて熟睡していたのである。品川署もすっかり騙されて、支倉には一片の嫌疑さえかけなかった。
 この時は半焼に止《とゞ》まったのだったが、支倉は品川署の署員に十円を贈って書類を胡麻化し、保険会社の外交員に三百円を与えて全焼と云う事に報告させて、巧に保険金の全額を受取った。重ね重ねの悪辣さには驚くの外はないのである。
 貞に対する暴行、抑※[#二の字点、1-2-22]本事件を巻き起すに至った原因の聖書の窃盗なども、無論すっかり自白したのだった。
 彼の不逞極まる罪状や、執拗な逃走振り、それに強情に拒否を続けた態度が態度だっただけ、一旦自白となると、スラ/\と澱《よど》みなく潔くすべてを打明けた態度には、署長始め掛員一同すっかり敬服して終った。
 彼の長い自白が終ると、庄司署長はホッと重荷を下して、喜びの色に輝きながら云った。
「うむ、よく白状した。これでわしも職務を果す事が出来たし、お前もさぞかし気が晴々した事と思う。この上は神聖な裁判官の審きを受ける許りだ。犯した罪は悔い改めれば消えて終う。然しながら国の定めた掟によって罰は受けなければならない。その覚悟はあるだろうな」
「はい」
 恰《まる》で打って変った人のように、打ち萎れて涙に咽んでいた支倉は漸く顔を挙げて、
「その覚悟はいたして居ります。誠に今まで長らく御手数をかけて相すみませんでした。あなたの之までの御心尽しには只感謝の外はありませぬ。後の所はくれ/″\も宜しくお願いいたします」
「うむ、それは云うまでもない事だ。では今の自白の聴取書を拵えるから栂印を押せよ。それから、之で当署の仕事は済んだのであるから、直ぐに検事局に送るのであるが、希望があるなら妻子に一度会わせてやろうがどうじゃ」
「有難うございます」
 支倉は感激の色を浮べながら署長を仰ぎ見た。
「妻には一度会いたいと思いますが、子供には」
 彼は口籠りながら、
「子供には会いたいと思いません」
「うむ、そうか」
 既に父となっている署長は流石に親子恩愛の情を押し計って、暗然としてうなずきながら、
「それでは早速女房を呼んでやろう」
「それからお言葉に甘える次第でありますが、一度神戸牧師にお会わせ下さいますようお願いいたします。先生の前で心残りなく懺悔がいたしたいと存じます」
「宜しい」
 署長は支倉の殊勝な依頼を快く承知した。
「直ぐ手続をとってやろう、それまでによく休息するが好い」
 其夜は支倉は犯した罪をすっかり自白して終った気安さに、今までは罪を蔽い隠す不安と、責め問われる苦痛と、良心の苛責から、夜もおち/\夢を結ぶ事が出来なかったのを、今は心にかゝるものもなく、グッスリと熟睡したのだった。
 翌日彼が起き出ると、直ちに入浴させられ、署長の好意で待ち構えていた床屋に、蓬々《ほう/\》と延びた髪をすっかり刈らせる事が出来た。彼はサッパリした気持になって、只管《ひたすら》に懺悔の時の来るのを待っていた。
 この時に署長室では警察の召喚状を受取って不審に思いながら出頭した神戸牧師が、署長から支倉の数々の罪状を聞かされて、只あきれて驚いていたのだった。
「彼は昨夜すっかり自白したのです」
 署長は静かに云った。
「それであなたの面前で懺悔がしたいと云っているのですが、会ってやって呉れませんか」
 この時のことを回顧して神戸牧師はこう云っている。


「――これが庄司氏の説明であった。
我らは其一々を聞いて驚いたのであった。前にも述べたように、当時までまさか支倉が貞子を隠す必要もないと思い込んで居たのであるから、此物語りは全く新聞中の新聞であったのである。しかしそう思えば、成程思い当る事もないではない、曩日《のうじつ》の彼の愚痴の繰り事や、其怨恨の情は歴然浮び出るのだった。其午後の事であった。署長庄司氏はいよ/\彼を検事局へ送るに就いては、一度面会して遣ってくれと頼むのであった。我れらは不承々々乍ら、それを承諾して其時間を待っていた」
[#ここで字下げ終わり]
 読者諸君は神戸牧師の最後の一句、「不承々々ながら云々」と云う言葉に不審を起されるかも知れない。と云うのは牧師と云う者は罪を救うべき者で、ましてや平素師事されている支倉が懺悔がしたいと云うのだから、進んで聞いてやるべきではないか。
 然し、私はこう思う。この不承々々と云う言葉は蓋し不用意のうちに書かれたので、何となく気が進まないと云う軽い気持を現わしたのであろう。
 神戸牧師は既に諸君の知られる通り、その第一印象に於て支倉に好意を持つ事が出来なかった。小林貞の事件には止むを得ず仲裁の労を執ったが、支倉の宗教界に身を置くものに似合しからざる行為や、事件前後の彼の執った態度などには眉をひそめて、もはや支倉には関係したくないと云う気持は充分あったに相違ない。世を救い人を救う大事業に従事する宗教家は決してセンチメンタリズムに終始する事は出来ない、否、むしろ宗教家程卓絶した理性を必要とするのではあるまいか。こんな理窟を並べて読者諸君を退屈させては相すまん次第だが、こう云った事が後の事件にも多少関係があるので鳥渡《ちょっと》申述べて置く。
 兎に角、神戸牧師が支倉の殊勝な自白の事を聞いて、徒に興奮せず、又頭から支倉を憫然と思って感傷的な気持に溺れても終わず、十分理性を働かしながら、渋々と云ったような態度で支倉の懺悔の場面に立会ったのは、彼の性格の一面が覗われると共に、他日支倉の断罪に当って、有力な素因を造ったのだった。
 それにしても神戸牧師は気の毒であった。彼はこの僅々半時間の支倉との面会の為に、後年数年の長きに亙って、云うべからざる不快な眼に遭わなければならなかったのである。支倉に会う事の気が進まなかったのは、蓋し虫が知らしたのであろうか。

 机を前にして署長は悠然と肘付椅子に腰を掛けていた。それと並んだも一つの肘付椅子に神戸牧師が席を占めていた。傍には証人として喚ばれていたウイリヤムソンと云う外国宣教師が、当惑そうに眉をひそめながら普通の椅子に腰をかけていた。それだけでこの狭い署長室はいくらも余地がなかった。
 めっきり春めいて来た午後の陽はポカ/\と窓に当っていた。窓の外には僅かばかりの庭があって、ヒョロ/\と数本の庭木が立っていたが、枝から枝へとガサゴソと小鳥が飛んでいた。時折チヨ/\と鳴く声が室内へ洩れ聞えて来た。
 三人は無言のまゝじっと控えていた。
 やがて扉が開いて、面|窶《やつ》れのした支倉の妻の静子が刑事に附添われながら、蒼白い顔をうな垂れて這入って来た。彼女は室内に這入ると、そのまゝベタンと板の間の上へ坐って頭も得上《えあ》げず、作りつけた人形のようにじっとしていた。後れ毛が白い頸の上で微に戦《おのゝ》いていた。神戸牧師は意味もなくそんなものを見つめていた。
 附添って来た刑事は直ぐ出て行ったが、やがて又そわ/\と這入って来て、中の有様を見渡すと又出て行ったりした。そんな事が何となく物々しく感ぜられて、やがて起ろうとする事件を暗示して、異様な静けさが一座の人々に息苦しい緊張を与えるのだった。
 物狂わしい沈黙が数分間続いた。
 コツ/\と云う忍びやかな足音が聞えて来た。
 やがて扉がスーッと開いて、腰縄を打たれた支倉が悄然と這入って来た。石子と渡辺の二刑事が彼の背後に従っていた。
 彼は命ぜられるまゝに署長と神戸牧師の前にあった椅子に腰を下して、じっと頭を下げていた。
「支倉」
 署長は優しく呼びかけた。
「お前は日頃尊敬している神戸牧師に面会する事が出来て嬉しいであろう。何なりとも心置きなく話すが好い」
 署長の言葉と共に、神戸牧師は少し椅子を乗り出して、きっと支倉を見やった。
 この時の事を神戸牧師は回想してこう書いている。
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「小さい署長の部屋の中央に二脚の安楽椅子があった。庄司氏は其一つを、予は他の一つを占領していた。予の隣座に偶※[#二の字点、1-2-22]《たま/\》証人として来ていたウイリヤムソンと云う宣教師が坐っていた。机を隔てゝ支倉の細君静子も居た。やがて一人の刑事が室を出たり這入ったりした。其数分後に喜平は背後に打縄をつけられたまゝで、室内に這入って来た。無論二人の刑事は彼の背後に付添うていた。喜平が一脚の椅子に腰を下ろすと、庄司氏は我らを引合せて其多年の知友に面会さす好意を示した。予は第一に彼に云い聞かせたのである」
[#ここで字下げ終わり]
 神戸牧師はきっと支倉の顔に眼を注ぎながら諄々として説いた。
「君は今朝来僕に合す顔がないと心配しているそうだが、決してそんなことはない。聞けば君は愈※[#二の字点、1-2-22]従来の罪状を一切告白したそうだが、それは大変に好かった。最早数年来隠し切っていた罪を腹から出して終った以上、面目がないも何にもないではないか。却って今日は晴々した気持だろう。殊に基督教はかゝる場合に分る筈である。基督《キリスト》は罪ある者の為に来り罪ある者と共に死なれた。この同情の救主を頼りにする意味の分るのは今である。潔く信仰を以て検事局へ行き給え」
 ウイリヤムソンも続いて云った。
「キリストの十字架の両側にいた盗賊すらキリストに救われた。それを能く思って下さい」

 神戸《かんべ》、ウイリヤムソン両牧師から、懺悔の為に既に罪は救われたから、清き信仰の生活に這入って潔く法の裁きを受けるように諭《さと》されて、支倉はじっと頭を下げたまゝ、両眼からハラ/\と涙を流して、声を忍んで泣いていた。
 静子は涙に濡れた蒼ざめた顔をつと上げた。
 ともすれば籠み上げて来る鳴咽を噛みしめながら、腸《はらわた》のちぎれるような声を振り絞って夫に向って、訴えるように、励ますように、掻口説《かきくど》くのだった。
「あなた。今のお二人の御教えをお聞きになりましたか。あの通りでございます。私は何にも申上げる事はございませぬ。どうぞ今お二人が仰《おおせ》られたお心持で行って下さい。後の事はどうぞ決して気に懸けて下さいますな。私は小児を大切に育てます。又貞の後世も懇《ねんご》ろに弔ってやりますから、後の事は何も心配しないで下さい」
 支倉は漸く顔を上げた。彼はハラ/\とはふり落ちる涙に、しとゞに両頬を濡らしながら、悔恨と慚愧と感謝との交錯した異様にひん曲った表情をして、激しく身体を慄わせて、悲痛な声を上げた。
「皆様に御迷惑をかけて相すみませぬ。別しても署長さんの御好意の程は生涯忘れません。申上げようもない大罪を犯しました。何とも申訳のない次第でございます」
 一座はしんと静まり返った。
 麗かな日は相変らず硝子窓に映じている。小鳥の囀る声はチヨ/\と長閑である。然し、この狭い一室に閉じ籠った人達は、恰《まる》で切離された別世界の人のように、時間を超越し、空間を超越し、醜い肉体を離れて、霊と霊とが結び合うのを、じっと経験していた。
 支倉は暫く新たな涙に咽んでいたが、やがて思い直したように妻の方に向き直った。
「静子、許して呉れ。わしは云いようのない大悪人だったのだ。お前は嘸《さぞ》かしわしを恨んでいるだろう。わしのようなものを夫に持って後悔しているだろうね」
 細々と絶えんとしては続く悲鳴に似たようなすゝり泣きが、一座の人達を限りない哀愁と異様な恐怖に陥れるように、いつまでも続いた。静子は夫の問いに答えようとしては意志の力では押える事の出来ない、泉のように湧いて来る歔欷《すゝりなき》の声に遮《さえぎ》られて、容易に声が出ないのだった。
 厳めしい警官達も顔を背向《そむ》けずにはいられなかった。
 漸く気を取り静めた彼女は激しくかぶりを振って、夫の問に答えるのだった。
「いゝえ、そんな事はありません。私は少しも後悔などはいたして居りません」
 支倉は妻の健気な一言に激しい衝動を受けて、身体をブル/\慄せた。彼の顔面には感激の情が充ち満ちていた。
「ほんとうにお前はそう思って呉れるのか」
「はい」
 妻の返辞は短かったが、犯すべからざる力が籠っていた。
「よく云って呉れた。お前のその一言はわしにどんなに心強く響く事であろう。わしは実に幸福だ」
 支倉は眼を活々と輝かして妻をじっと見つめていたが、やがてふと思いついたように、
「そうだ。お前も差向き何かと不自由であろう。今わしは八十円程金を持っている。署長さんの手許に保管してある筈だから、わしはそのうち二十円もあれば好い。残りの六十円はお前に遣るから好いようにして呉れ」
「いえ、いえ」
 静子はハンカチを眼に押し当てゝ、激しくかぶりを振りながら、
「その御心配は御無用です。私はお金など要りませぬ。あなたこそ御入用でしょう。どうぞそのまゝお持ち下さいまし」
「いゝや」
 支倉は妻が金などは要らぬと云うのを押し止めながら、
「わしにはもう金などは不要なのだ。そうだ、誠お前がいらないのなら、せめて死んだ貞の為に墓でも建てゝやって呉れ」
「おゝ、ほんにそうでございました。そう云う思し召なら頂戴いたしましょう。私は少しも欲しくありませんが、仰せの通り死んだ貞の墓を建てゝ、後《あと》懇《ねんごろ》に弔ってやりましょう」
「あゝ――っ」
 支倉はとう/\男泣きに泣き崩れた。
「あゝ、わしはもう何にもいらぬ。もう何も思い残す所はない。署長さんの手許にある金は全部お前に遣るから、後々の事を宜しく頼むぞ」
 一座は一種云うべからざる圧迫を感じた。
 戸外では罪ある者も罪なき者も折柄の春光を浴びて、嬉々として自由に足どり軽く歩き廻っている。
 然るにこの狭苦しい冷たい一室では、夫は恐ろしい罪名の許に背後に縛《いましめ》の縄を打たれて、悔悟の涙に咽び、妻は褥《しとね》さえない板敷に膝を揃えて坐ったまゝ、不遇な運命に泣いているのだ。免るべからざる人間生活の裏面にまざ/\と直面して、誰か何の感動を受ける事なしにこの有様を見る事が出来ようか。
 両手を膝の上に置いて、すゝり上げる声を噛みしめながら、肩を激しくふるわせて、悲嘆に暮れているいじらしい静子の姿に、流石の庄司署長も思わず眼をしばたゝくのだった。
 神戸牧師はすっかり厳粛さに打たれて終った。
 彼はこの時の事をこう書いている。
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「当時の署長室の三十分ばかりの光景は、我ら数人の熟視した事であって、其厳粛荘重の有様と、我ら一同の満足とは今に至るまで忘れかぬる美しい記憶である」
[#ここで字下げ終わり]
 神戸牧師は、支倉の立派な態度に打たれて、もはや迷惑も何も忘れておもわず彼の方を向いて云った。
「頼みたい事があるなら遠慮なく云い給え。何なりとも屹度《きっと》して上げようから」
 支倉は牧師の方を振り向いた。彼の眼には新たなる感謝の涙が光っていた。
「有難うございます。御恩の程は忘れませぬ。もう何もお頼み申す事はありませぬ。この上は天国に生れ代って、皆様の御恩義に報います」
 支倉の美しい告白の場面は之で終った。
 彼は直ちに検事局に送られる事になった。
 こゝに遺憾に堪えなかったのは、当時の庄司署長が年少気鋭にしてよくかの如き大事件を剔抉《てっけつ》し得たが、惜むらくは未だ経験に乏しかったので、彼の自白に基いて有力たる証拠を蒐集する事をしないで、早くも検事局へ送った事であった。
 然し、それは無理もない事であった。と云うのは支倉の自白が余りに立派であった事で、立会人であった神戸牧師が前掲の言葉のうちで認めている通り、彼の自白が真実である事は少しも疑う余地がなかった。のみならず彼は繰返し繰返し署長に感謝の念を捧げている。それは署長の取調べが情誼を尽し巧に人情の焦点を衝いて、支倉をして深く感銘させた為であって、彼が将来署長に向って反噬《はんぜい》を試みようなどとは夢にも思っていなかった。その為にも早《はや》証拠蒐集等の事をなさず、只彼の自白を基礎として検事局へ送ったのである。
 之が後年数年の長きに亘って事件を混乱に陥らしめ、彼支倉をして生きながらの呪いの魔たらしめ、多数の人を戦慄せしめた大きな素因であった。
 或人は庄司署長を攻撃して、功名に逸《はや》る余り、無辜《むこ》を陥いれたので、支倉は哀れな犠牲者だと云うその是非についてこれより述べよう。

 庄司署長は果して支倉に罪なき罪の自白を強要したのであろうか。
 彼は三年前に犯されてあわやその儘葬り去られようとしていた恐るべき犯罪を発《あば》き出した事について、警察署長として大きな誇りを感じていたに違いない。殊にその犯人が一筋縄で行かない曲者で、手を替え品を替え辛苦数日、昼夜肝胆を砕いて訊問した末、漸く自白せしめる事が出来たのであるから、彼は心中勇躍していた事も十分察せられる。後日支倉断罪に当って証拠に不十分の廉《かど》を生じたとしたら、正に此喜悦の余りの不用意と見るべきで、そこに人間としての彼を見る事が出来るではないか。もし彼が人間味のない冷血漢であって、支倉の自白に多少でも強制の痕がある事を認めたら、恐らく後日自白を飜えしはしないかと云うことに考え及んで、抜きさしならない証拠の蒐集にかゝったであろう。或はその証拠蒐集に当って悪辣な手段を弄したかも知れぬ。
 然し彼はそんなこともしなかったし、又する必要もなかったと云うのは、支倉の自白は心からの自白であって、少しも強いられた痕がなく、それ所か支倉は繰返し署長に対して感謝の念を表示していたのである。
 後年神戸牧師は支倉告白の場面に就いて、述懐してこう書いている。
[#ここから2字下げ]
「――この始終の消息と此談話とは其後事件の迷惑を唱えられるようになってからは、却って益※[#二の字点、1-2-22]あり/\と想い出さるゝのであって、何故あの時の彼の美しい懺悔が、急転掌を返したように彼の心地は変ったか。さるにても彼《か》の時の懺悔の意味は他にあったのであろうかと想わざるを得ないのであった。
殊に『弔いのために懐中少い中から、これをさいても費用に費ってくれ』と云うた彼の言葉はまさか殺しもしない者のために此犠牲を払うにも当るまいと想われるのであった。が、又考えようによっては、殺しはせぬが憐愍《れんびん》のために其妻女の美しい同情に惹かされてツイ涙と共にあのような事を口走ったものでもあるのか。其とかくの事実は現に世間と共に一種の謎として取り残されては居るが、しかし我等の印象から云えば、古い文字ではあるが、『鳥の将に死なんとするや其声哀し、人の将に死なんとするや其言う処善し』である、の前科者で、且つ今は数罪を数えられて、窃盗、放火、詐欺、強姦、殺人者である彼が、僅に数分の事であっても其の啜り上ぐる声涙の下から、懺悔と感謝の言葉が出たと云う事は、彼も亦人の子であると観るのが何故に誤りであろう。仮令彼は法廷で罪を一々白状しないまでも、其霊性の根から湧いて出た其正直な告白の方が、遙に立派な声明ではないか」
[#ここで字下げ終わり]
 然り、かくの如く支倉の告白の場面は厳粛であって、心からの真実の告白と見るべくして、毫も強制せられた虚偽の自白とは思わるべき節はなかったのである。この意味に於て、時の署長は固く彼の自白を信じたものと思う。
 然しながら後に彼が獄中に於てものした日記や、神戸牧師其他に訴えた手紙を読むと、言々血を吐く如く、鬼気迫って遂に読み下し得ないものがある。もし前後の事情を少しも知らずして、彼自身の訴える如く冤枉者《えんおうしゃ》であると信じるかも知れぬ。
 それらの事は後に詳説するとして、兎に角支倉喜平は、詐欺、窃盗、文書偽造、暴行、傷害、贈賄、放火、殺人、という八つの罪名の許に検事局に送られる事になった。

 支倉喜平は殺人放火以下八つの恐ろしい罪名で検事局に押送される事になった。
 こゝで一寸意外に感じるのは、庄司署長以下刑事連が支倉を自白させるに当って、繰返し罪の軽減を計ってやると云った言葉である。放火殺人暴行と並べると、その一つを犯してさえ重罪は免れないのだから、況んや未だその上に余罪を並べ立てられては、とても罪の軽減などは望まれぬ。署長も始めから支倉に情状酌量の余地があるとは思っていなかったかも知れない。では、署長は彼を欺いたのだろうか。
 然し、こんな問題で署長を責めるのは少し酷であろう。社会の安寧秩序を保つ上に於て、犯罪人を検挙して告発する職務にある以上、頑強な犯人や、反社会思想の顕著な者に対し、温情を以て諄々として説く事は必要であろうし、時にその途なしと考えながらも自白すれば重かるべき罪も軽くなるように説くのも蓋し止むを得ないであろう。但し、支倉を告発するに際して、洗いざらいにすべての罪を挙げて、八つまで罪名を附したのは稍遺憾の点がある。之は一つには支倉が極悪人であると云う心証を与える為でもあり、一つには警察署の方で不問に附しても、検事局或いは予審廷で犯罪事実が現われては何にもならぬのみならず、反って警察側の失策になる事を恐れたのであろうが、いずれにしても警察当局者が功名に逸《はや》ったと云う非難は或程度まで受けねばなるまい。
 支倉を検挙して恐るべき犯罪事実を自白せしめたのは、何と云っても警察当局者の一大成功である。而もそれは当時の署長が庄司利喜太郎氏であったればこそ始めて出来たのであると云っても過言ではあるまい。頑健なる巨躯、鉄の如き神経、不屈|不撓《ふとう》の意志、それらのものが完全に兇悪なる支倉を屈服せしめたのである。
 庄司署長在らざりせば、支倉の犯罪は遂に世に出なかったかと思われる。
 この意味に於て庄司署長は司法警察の殊勲者である。署長の得意思いやるべしである。で、彼は勢いに駆られて彼支倉を極悪人として告発した。もとより彼は功名を強調する積りは無論なかったであろう。
 実際署長の眼には、彼支倉は極悪人として映じたであろう。又、支倉が悪人であった事には異議を称える人は恐らくないであろう。
 庄司署長が支倉の自白の直後に当って今少し冷静に考えて、適当な処置を取ったならば、支倉は当時にあっては署長の温情に対して感謝の涙を流し、誰の面前に於てもその事を繰返し述べていたのであるから、決して他日|漫《みだり》に反噬《はんぜい》するような事もなく、庄司署長は有終の美をなしたのであろうが、こゝに少しく用意を欠いた為に、後日非常な面倒を惹起《じゃっき》し、極一部からではあるが、署長が立身の踏台として、支倉を犠牲としたのであるなどと云われる事があったのは惜むべき事であった。
 庄司署長が一身の栄達を計る為に支倉を犠牲者としたと云う非難について一言したい。
 凡そ警察署長たるものは犯罪人検挙を以て重要な職務の一つとするから、どの署長でも犯罪人を踏台にして出世したと云わば云えるので、こんな事で非難されては警察署長のなり手がないであろう。要は取調べ方が辛辣だとか、無辜を強いたとか、卑怯な方法を用いたとか云う点があれば攻撃せられるのであろうが、支倉事件にはそんな点があるであろうか。
 事件が事件だけに、犯人が犯人だけに、多少訊問方法に遺憾があったかも知れない。然し、犯人自白の場面の公明正大なるを見ると、そんな疑問は飛んで終う。誰しも支倉が後に自白を根本的に覆して終うなどとは予想しない。

 大分面白くない議論めいた事が続くが、事の序《ついで》にもう少し述べさして貰おう。でないと後に起る複雑な事件に正確な判断が下せないからである。
 問題は支倉の自白が真実か虚偽かと云うのにある。尤も読者諸君の既に知られる通り、彼の自白は誠に立派なもので、誰でもあれが虚偽であるとは考えない。後に彼が自白を覆えしたからこそ問題になったのであって、それだからと云って直ぐに神楽坂署で拷問にかけたとか、ありもしない罪を着せたとかいうのは当らないと思う。支倉自身は後にはいろ/\と酷い目に遭わせられた事を云い立てたけれども、当時にあっては何に感じたか涙を流して庄司署長の徳を称えていたのだから、後でそんな事を云い出しても不利な所がある。

 庄司署長にした所で、当時は何と云っても三十を少し出た許りで、青雲の志に燃えている時だ。一体日本の教育は子供の時から猛烈な戦闘意識を養う事になっている。立身出世をせよと教える。そうしてその為には少しでも前へ出なければいけないので、時には儕輩《せいはい》を排斥する位の事はしなければならない。前の人が斃れゝばそれが幸いで、その死屍を踏み越えて前進する。宇治川の先陣争いで、佐々木が梶原を誑《だま》した位の事は何でもない事になっている。
 今はそうでもないが、今から十年前となると、何と云っても官学の元締めの帝大の卒業生などは鼻息の荒いもので、何とかして出世しようと思う。一つには学生と云うものが誠に純真で、世相の複雑な事が分らないから、先輩などのやり方がまだるこしくって、彼等が社会に出てまごついているのが歯痒ゆい。俺ならあんな事をするものか。乃公《だいこう》一度び出《いず》れば手に唾して栄職につく事が出来ると考える。そして何分にも長い学生生活に倦きているから、社会に出て働くと云う事に無限の興味と期待を持っている。だから卒業したての学生の意気組みと職業的良心と云うものは素晴らしいものだ。之は誰でも学窓を出たての就職当時の事を回想すればきっと思い当る所があると思う。この意気組みと職業的良心が誠に貴い所で、之を善用し活用すれば大したものになるのだが、悲しい事には官庁でも会社でも組織に欠陥がある為に、素直にそれを受け入れる事が出来ない。その為にフレッシュマンの意気は次第に沮喪し、元気は消耗し萎縮して終《しま》う。遂には次期の学生から意気地のない先輩と見られるようになる。
 そこで問題の庄司署長であるが、彼は当時学窓を出て未だ幾何《いくら》も経っていない。彼には意気組みの素晴らしいものがあると同時に、十分な職業的良心を持っていた事と私は信じる事が出来る。いや、この庄司と云う人は例外的な人で、恐らくいくつになっても漲《みなぎ》るような意気と、良心とを捨てる人ではないと思う。
 支倉事件の検挙の方針を誤っていたか、訊問の方法が失敗だったか、そんな問題は第二として、又誠心誠意を以てやった事ならどんな事でも好いと云う暴論は吐かないが、少くとも、庄司署長がこの問題に対して良心を枉《ま》げていたとは思われないのである。
 が、一方、支倉喜平に対しても彼が獄中で縷々として冤罪を訴えた心事は実に憐むべきで、涙と戦慄なしには彼の獄中記を読む事は出来ないであろう。彼に対しても又数多の同情者の現われたのは蓋し当然である。
 面白くない事を縷々として述べたが、之だけの事情をすっかり呑み込んで置いて貰わないと、これから展開する支倉対庄司署長の闘争。それに、も一人東都弁護士会にその人ありと云われた能勢氏と云う豪傑が現われて、三つ巴になって相争うと云う本篇の最も興味のある所が理解出来ないのだ。
 事件はどう云う風に転回するだろうか。

          断罪

 神楽坂署で潔く自白をすませた支倉は、欣々然として検事局に送られた。欣々然と云う形容は少し誇張に過ぎる嫌いがあるけれども、少くとも彼は全く解放せられた気持だった。その気持は神楽坂署で数日間続行訊問をやられた苦痛から逃れる事が出来た為か、又は積悪を自白して良心の苛責から免れて、安住な心の落着き場を見出した為か、それは支倉自身に尋ねて見なければ分らぬ事であるが、彼は恰度悪戯をした小児《こども》がひどく叱られてしょげた後の打って変ったはしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]のように、恐ろしい罪名を附けられて検事局へ送られながら、少しも悪びれた様子がなく、反て幾分亢奮をしていたらしく思われる。
 係りの検事は夙《つと》に令名のある小塚《おづか》氏だった。小塚検事は多年刑事裁判に従事した人とは思えない温顔に、流石に対手の心の底まで見抜くような透き通った眼で支倉を見据えながら、徐々に訊問をした。
 支倉はスラ/\と彼の罪悪を自白した。
 彼は一月足らず警察を嘲弄しながら逃げ廻った後神楽坂署に拘禁されて、彼の言葉を借りて云うと、七日七晩責め抜かれても、容易に口を開かなかったのが、漸く女を上海《シャンハイ》に売飛ばしたと云い立てたのが三月十八日で、それから畳かけられてとうとう残らず犯罪事実を自白したのが十九日、それで小塚検事の取調べが二十日で、即日起訴されているのであるから、彼がいかに恐れ入って、悔悟の涙に咽びながら事実を申立てたかと云う事が分る。
 彼は小塚検事にこう云っている。
「私は断じて偽りは申しません。又他にも重大な犯罪を犯して居りますから、決して一つや二つは隠し立ては致しません。尤も私は神楽坂署に拘留せられて居る間、偽りも申した事はありますが、その当時は自分の犯罪を自白せずに自殺しようと思い、石を呑んだり硝子を呑んだり、銅貨を呑んだり、又は古釘で頭蓋を突き破って死のうとしたり試みましたが、自殺の目的を達する事を得ず、煩悶している間に今日の場合は寧ろ潔く事実を陳《の》べ、妻子が無関係であるのに再三再四裁判所へ呼出されて迷惑する事のないようにした方が宜しいと決心がつきましたから、昨十九日署長にも願って妻子の事に就いて後事を託したいと存じ、中野の宣教師ウイリヤムソンを呼んで頂き面会して後事を託し、尚神戸牧師及妻にも面会を許して頂き、心の残りのないようにして此処へ参りましたのですから、決してもう偽りは申しませぬ」
 彼はそう前提して、聖書の窃盗は元より前後三回の放火についても詳細自白し、尚貞を殺した事についても次の如く陳述した。
「――時刻は夕方であったかと思いますが、夫れが大正二年九月二十六日の事であったかどうか記憶がありませぬ。貞がいなくなったのが同日であったとすれば其の日であったか、何時だったかも思い出せませぬ。然し私は貞の居なくたったと云う日の午後九時頃、実は上大崎所在の空地内なる古井戸へ貞を突落として殺したのであります」
 小塚検事は静かに支倉を観察した。そうして傍にあった神楽坂署から被告人と共に送って来た戸籍調書と前科調書とに眼を落とした。直ぐその傍には証拠物件が堆高く重ねてあった。小塚氏はじっと考えを凝した。
 窓外《そと》では恰度この時春光を浴びながら、透き通るようなうすものゝショールを長々と飜えして、令嬢風の女連が、厳めしい煉瓦造りの建物を黙殺し乍ら歩いていた。
 やがて小塚検事は筆を取って予審請求書に署名をした。そうして、
「司法警察官意見書記載の犯罪事実全部を起訴す」
 と書き加えた。

 支倉喜平《はせくらきへい》は小塚検事に依って起訴されると、即日予審判事|古我清《こがきよし》氏によって第一回の訊問を受けた。
 型の如く住所氏名職業等を問質した後、判事は厳然として前科を述べよと云った。
 支倉の前科については正しい調書があるからこゝで鳥渡述べて置こう。
 彼はすべてゞ前科四犯を重ねているのだった。
 初犯は明治三十六年で、山形地方裁判所鶴岡支部で窃盗罪により重禁錮三ヵ月に処せられている。当時彼は二十二歳である。二犯は翌三十七年で、同じく窃盗で山形地方裁判所にて重禁錮三月半を科せられ、三犯は三十九年奈良地方裁判所で、相変らず窃盗罪で重禁錮六ヵ月、四犯は四十年矢張窃盗で京都地方裁判所で重禁錮二年を申渡されているが、何故か京都の裁判所では之を一犯としている。之で見ると殆ど出獄するや否や次の罪を犯しているのだった。
 次に聖書の窃盗につき予審判事が訊問すると、彼は聖書を私《ひそか》に会社から盗出した事実は肯定したが、書記と黙契があったので必ずしも窃盗ではないと申立てた。次に放火の審理に移ったが、彼は尽く事実を肯定した。
 問 大正三年十月四日午前四時頃其空家に火を放《つ》けたか。
 答 私は放けません。私が名前の分らぬ土工に頼んで放けさせました。其附近の開懇土地に入り込んで居た山谷《さんや》部屋の土工だった三十位の男に頼んだので、放ける三、四日前に頼みました。
 問 放ける方法を教えたか。
 答 教えません。空家に火をつけて呉れないか。火事になって俺の家が焼ければ保険金が取れて都合が好いのだと話しました。其の土工の放けるのは見ません。
 問 火事になった時に分ったか。
 答 私は家内と二階に寝て火の燃え上るのを知らずに居りましたが、隣の莫大小《メリヤス》屋の職人が門か垣根を打破って、私等を起して救い出して呉れたので、朝の四時か五時頃でした。
 問 如何なる方法で火を放けたか。
 答 知りません。私の処に揮発油はありましたが、自分が放けたのではなく、揮発油を使ったか否か知りません。
 問 幾何《いくら》燃えたか。
 答 私所有の一軒は全部燃えました。
 問 保険金を受取ったか。
 答 千八百円許り受取りました。
 放火の件が終ると訊問は一転して貞殺害の事に及んだ。劈頭《へきとう》彼は強姦の事実を否定して、犯した事は犯したが暴力は用いないと云った。
 問 被告は人を頼んで示談をしたか。
 答 神戸《かんべ》牧師を頼んで何も云わぬと云う事で百円遣り示談にいたしました。神戸の手へ金を渡した月日を覚えません。
 問 然るに被告は貞子を殺す決心をしたか。
 答 咄嗟の場合に殺す決心をしました。金百円を渡したものの未だ淋疾に罹って居りましたから病院に入院させる積りでしたが、能く考えると自然自分の不始末が分ると思い、病院へ行かず新宿へ連れそれから用達を致し、新宿より山の手線の電車に乗り、目黒駅に下車し、自宅へ帰る途中、私宅より三町程離れた野原の蓋なき古井戸へ貞を突き落としました。
 こう云う風に予審判事に対しても彼はスラ/\と犯罪事実を自白したのだった。
 古我予審判事は直に拘留状を発した。
 判事は徐《おもむろ》に放火殺人以下八つの罪名に於て被告支倉喜平を東京監獄に拘留すと書いて最後に署名をした。時に午後九時を過ぎる事二十分で、支倉が東京監獄に這入ったのが同日午後十時だった。

 東京地方裁判所予審判事古我清氏は自宅の書斎で牛込神楽坂署から送付して来た支倉喜平に関する調書を片ッ端から熱心に調ていた。
 調書は調べれば調べる程、一種の怪味に充ち満ちていた。喜平が聖書の窃盗をなした事や、貞と云う年若き女を犯して之に淋疾を感染さした事実等は疑う余地がないが、他の重大なる犯罪放火及殺人に至っては、彼は立派に自白を遂げているけれども、尚一抹の暗雲が低迷している所がある。もし彼の自白する所が尽く真実であるとすると、実に彼は古今稀に見る兇賊である。然しながら未だ軽々に之を断ずる事は出来ない。余程慎重なる審理を要する。之が古我氏の第一の意見であった。喜平は前科四犯を重ねている。
 法官は被告人を取扱うに当って、前科の有無と云う事には出来るだけ拘泥しない事が必要であるし、殊に支倉は今はキリスト教に帰依し、一部からは牧師と見られている程、宗教に身を投じているのであるから、出来るだけ彼の人格を認めねばならぬ。然し飜えって考えるに、彼は明治三十六年から明治四十年までは殆ど連続的に四回の窃盗罪を犯し、最後に二年の刑を受けて明治四十二年に出獄、明治四十四年にキリスト教の信者となったのであるが、彼の起訴された窃盗罪は大正五、六年に連続して行い、殺人は大正二年、第一回の放火は明治四十五年で、殆ど連続して犯意を以ているもので、毫も悔悛した所を認める事が出来ない。今回起訴せられた八つの罪の如きも、殆ど確実に之を犯していると思われるのである。
 古我判事は沈思熟考の末、本事件に当るべきプランを樹《たて》て終った。彼はホッと溜息をついて、傍の冷え切った番茶をグッと啜った。
 翌日出所した古我判事は直に本事件の参考人として、被告の妻静子、証人として小林定次郎、神戸牧師の二人を喚問する事を書記に命じた。
 そうして一方では直に芝白金の支倉喜平の宅を捜査すべく手続をしたのだった。
 大正六年三月二十六日午後予審判事、裁判所書記の一行を乗せた自動車は突如として支倉の家の前に止まった。
 静子は子供を連れて外出していて不在だった。家には静子の母である老婆と、喜平の甥である少年とが留守をしていたが、判事は、物々しい有様にキョト/\としている二人を立会人として、家宅内全部を捜索して、聖書明細書、質物台帳、各一通、離婚届、建物譲渡に関する書類各一通、外に書状数通を押収した。
 捜索時間は約四十分だった。
 それからその足で直ぐ古我判事の一行は貞子殺害の場所とせられている古井戸の実地検証を行って調書と共に詳細な図面を拵えた。調書中には次のような事が書かれていた。
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一、同所より更に小林貞子を投入殺害したりとの古井戸の箇所に至るには前記支倉方居宅前の五反田桐ヶ谷に通ずる道路を南行して中丸橋を渡り進む事約三丁にして、東西に通ずる道路の交叉点に至る。之より左折して東方に入る事約三十間にして道路の左側に接し古井戸の存したる地点に達す。
一、立会人の申立つる所に依れば該井戸附近は旧時松、杉等の密林及び竹藪等の間少し許りの畑地を有するのみにして、該井水は番人小屋の飲用に供せられしも、其後次第に伐採開墾せられ大正二年頃は所謂池田の新開地と称し寂寥たる原野と化し、該井戸側は腐朽し周囲は棒杭を立て針金を引廻し僅に崩壊を防ぎ、大正三年十月|浚渫《しゅんせつ》の際まで其のまゝに放置せられ、発掘せる木根所々に散在し、井戸の傍に一条の小径ありて雑草中を南北に縦貫し居たりと云う。
[#ここで字下げ終わり]
 この調書は中々の名文だ。一読草茫々たる原野中の古井戸を髣髴とせしめて、凄愴の気人に迫るものがある。

 三月二十九日支倉の妻静子は予審廷に召喚せられて、参考人として古我判事に訊問せられた。
 神楽坂署で夫の恐ろしい罪の自白を聞いて、既に覚悟はしていたけれども、こうして改めて予審廷に呼び出されると、彼女は新な涙に誘われて、天帝の無慙な試練に歯を喰いしばってこらえているのだった。
 問 其方は支倉喜平の妻か。
 答 そうです。
 問 いつ夫婦になったか。
 答 明治四十三年十一月夫婦になりました。其翌年頃入籍いたしました。
 あゝ、此の答えによると彼女は支倉が四度目の刑を終って出獄して間もなく結婚しているのである。
 当時彼女は十九歳だったのである。
 問 どこで夫婦になったか。
 答 秋田県小坂鉱山の私の実家でした。支倉が当時横浜市の聖書会社に勤め、聖書販売|旁※[#二の字点、1-2-22]《かた/″\》伝道の為め小坂鉱山に参り、教会にいました信者の世話で親が結婚の約束をしたのです。私は十九歳でした。
 問 喜平が窃盗犯により入獄した事を聞いたか。
 答 前科ある事は此度神楽坂警察署で初めて知りました。宗教家は間違いないものだと云う事を聞き夫婦になったのです、前科ある事を私に話ませんでした。
 あゝ、何と哀れなる彼女ではないか。彼女は未だうら若い身を親の極めた夫に嫁して、夫が悪人と云う事は少しも知らずに貞節を尽していたのだった。彼女が神楽坂署で訊問を受けてから、夫の自白に立会うまでの振舞いは、真に夫を思い子を思うの情切で、鬼を欺く係官さえ涙ぐましたと云う。
 問 現住所の古家に住み込み喜平は建増したか。
 答 そうです。買った古家の造作を取換え且つ北側に只今も残っている貸家を建てました。千円許り要《い》ったそうで、古家に続けて一棟も建増したのです。
 問 其建築の費用をどこから出したか。
 答 聖書を売って儲けた金と、高輪で焼けて、保険会社より受取った金で建てたと思います。
 古我判事は進んで前後三回罹災した火事の事情を詳細に訊問して一転して女中貞の事に這入り、徐に質問を進めて行った。
 訊問は貞が行方不明になった事に及び、当日叔父の定次郎が支倉方に、貞の行方を尋ねに来た事に及んだ。
 問 定次郎の来た月日時間は如何《いつ》か。
 答 月日を覚えません。夕方でした。其時の話に今日病院へ行くとて貞子が出て帰らぬとの事でした。私は何時退院してどこに居たか知りませんでした。
 問 其時喜平は在宅したか。
 答 其時は居りませんでした。
 問 当日喜平は何時に家を出て、何時に戻ったか。
 答 朝八時か九時頃家を出て、貞子の叔父さんが去って後戻りました。支倉の戻ったのは夕飯後ですから、七時か八時頃であったと思います。
 問 喜平は当日どこへ行ったとの話であったか。
 答 平常黙って出るので尋ねませんから、どこへ行ったか存じません。
 問 戻った時喜平の様子は変った所はなかったか。
 答 別にありませんでした。
 静子は知れるがまゝに、少しも悪びれず事実を申立てた。
 夫に対して絶対服従していた彼女は夫の犯罪には、少しも干与していなかった。全く表面的な事実だけしか知らないのだった。

 蒼ざめた横顔を見せながら、問われるまゝにスラ/\と返辞する静子の哀れな姿を古我判事はじっと眺めていたが、やがて優しく云った。
「宜しい。今日は之だけにして置きます。では今の問答を読み聞かせます」
 書記の読み上げるのをじっと聞いていた彼女は黙って頭を下げた。彼女は印形を持っていなかったので、調書には署名をした切りで、印を押す事が出来なかった。
「宜しい」
 判事の許しの声に彼女はホッとして室を出て行った。
 古我氏はじっとその後姿を見送っていたが、やがてはっと緊張しながら、待たせてあった証人小林定次郎を呼び入れた。定次郎は日に焼けた真黒な顔に場馴れのしない不安そうな顔でオズオズ這入って来た。
 判事は彼に宣誓をさせた後、型の如く姓名年齢身分職業を問いたゞし、直ちに訊問に這入った。
 定次郎の訊問は頗る平凡で、何等新奇な事はなかった。貞の死体の鑑定の事だけをこゝに掲げて置こう。
 問 貞の体格は如何か。
 答 年の割に丈高く中肉でした。
 問 大正三年十月上大崎の古井戸より女の死体の出た事を承知か。
 答 その当時は知りませんでした。
 問 先頃其死体を埋葬地より掘り出し証人は見たか。
 答 二度見ました。前の日のは間違えたもので、次の日の分を警察で見ました。布片の残りと骨を見せられました。
 問 それは貞子の骨並に着用したる布類と思ったか。
 答 私としては布類の方は全然知らず、骨については貞子が平素笑った時に鬼歯が両方一個宛目立って見えました。見せられた歯に鬼歯が一本ずつ出て居ますから同人の死体と思いました。
 古我判事は息を継ぐ暇もなく翌三十日証人神戸牧師を訊問した。
 神戸牧師は支倉の妻が自己の教会員だった関係から、支倉が神学校に這入る時の保証人となったのが彼との交渉の始めで、小林貞の事件には止むなく仲裁の労を取ったのだったが、それが元で彼の自白に立会う事になり、遂には予審廷に引出されて、不愉快な訊問を受けなければならぬ事となった。本事件解決の重大な鍵の一つはこの人が握っていたと云って好い位だったので、証人として数回法廷に立たねばならなかった。人に情をかけたのが、反って仇となって、詰らぬ目に遭ったと云う訳だ。
 神戸氏は大きな口をきっとへの字に結んで、眉のあたりに不快な節の隆起を見せながら、古我判事の前に腰を下した。
 問 証人は小林貞の父より交渉あった事を支倉に申したか。
 答 そうです。その趣を話し如何なる処置を執るかと支倉に告げました。
 問 支倉は何と答えたか。
 答 謝罪する又病人を治してやると申しました。父と云うのは正直な男で、初めは謝罪と病気治療で済ますと申して居りました。
 問 其後交渉は如何に為ったか。
 答 彼は弟定次郎は労働者だから成るべく事実を知らしたくない。知らすと無理な要求をするかも知れないと申して居りましたが遂に弟に話したと見え、弟一人か又は二人一緒に、私方へまいりました。
 弟定次郎が蛇《じゃ》の道は蛇《へび》で支倉の悪事に感づいた事が、思えばこの事件の起る原因だったのだ。支倉は彼の脅迫を恐れて貞を殺したのだろうか。

 神戸牧師の証言は縷々として続く。
 答 支倉を呼び寄せて小林の申出を話すと、少しの金は出来るけれどもそんな大金は払えぬと申しました。且つ同人は小林の方で是非金を取ると云うならば裁判の問題にするとも云いました。小林定次郎も聞いて呉れねば告訴すると云いました。私は支倉にそんな馬鹿な事をするよりも示談にした方がよいと勧告しました。其結果支倉は百円ならば出すと云い其旨を小林方へ伝えました。
 問 小林定次郎は最初三百円と云い、後に二百円で承諾したる如く述べているが如何《どう》か。
 答 私は前申す如く最初の要求が二百円位であったろうと思います。古い事で慥《しか》と記憶ありません。
 問 証人は貞子に逢った事があるか。
 答 あります。多分定次郎が一度貞子を連れて私方に来ました。痩せた小さい女でした。
 貞子は背が高いとも云い、小柄とも云い、証人が各々まち/\の返答をしているのはどう云うものか、興味のある点だ。
 三月三十一日には証人として小林貞を預かって病院に通わしていた中田かまと云う老婆が喚ばれた。この辺りからボツ/\井戸から上った死体が果して貞子かどうかと云う事が判明して来る。
 問 証人は小林貞子とは如何なる知合であったか。
 答 大正元年中貞子が上京した時より知って居ります。其父は前に私方より学校へ通学し、その後弟定次郎方へ同居しましたが、キリスト教信者なので、互に往復し、貞子上京の事も知っています。
 問 証人は貞子より直接支倉の為め強姦されしや否やを聞かなかったか。
 答 病状として、病み歩行困難なる事を聞きましたけれども、支倉にどうされたかを貞子より直接聞きませんでした。
 問 幾日間預かったか。
 答 入院するまでの間ですが日数は覚えません。
 問 貞子はいつまで病院へ通ったか。
 答 九月二十六日と思います。朝八時か九時頃病院へ行くと申して私方を出ました。
 問 貞子は当時十六歳であったか。
 答 そうでした。大きさは普通でした。病気に罹った為か少し痩ていました。
 問 貞子のいなくなった日如何なる服装で出かけたか。
 答 着物は判然しませぬが、帯は覚えて居ります。既ち帯の片側は黒の毛繻子にて片々はメリンス中形で、色は紫か濃い鼠か判然しません。帯の巾は男帯より少し広いので五、六寸位と思います。矢絣の単衣の着物であったかも知れません。
 古我判事は中田かまを退廷させると、貞子が通っていた高町病院長高町氏を呼び入れた。判事は服装につき聞きたゞしている。
 問 最後に貞子が証人方へ来た頃どんな服装を致して居ったか。
 答 覚えて居りません。
 問 証人は神楽坂警察署に於て頭蓋骨を見せられたか。
 答 見せられました。顴骨《けんこつ》高くなく骨腫弱なると十五、六の女の頭蓋骨なることを認め、心の内で貞子の頭蓋骨も此位のものであろうと思いました。
 古我判事は中一日を置いて四月二日には疾風迅雷的に古井戸を浚渫《しゅんせつ》した人夫、請負った親方、検視をした医師、静子の母親の四人を喚問して調べ、同日被告支倉の第二回訊問を行っている。
証人調には読者諸君も倦きられたであろうが、今暫く辛抱して裁判所の綿密なる調査に敬意を表し、支倉の奇々怪々な返答振りを待って貰いたい。

 井戸掘人夫島田某は死体発見当時の有様を古我判事にこう答えた。
「上大崎所在の古井戸は山谷親方から頼まれまして六人で浚いましたが中へ這入ったのは私一人でした。井戸の大きさは直径三尺五、六寸で水面までは三丈位で、中へ行く程広くなり底の所は直径二、三間ありました。水の深さは七尺位だったでしょうか。井戸の囲《まわ》りには樹が四、五本ありまして、井戸の所は草が茫々と生えていました。
 私は中へ這入りまして水を汲み上げるのに邪魔な樹の切れ端などを取除き、玄蕃桶で水を汲み初めますと、暫くして桶に当るものがあります。見ると大きた切株ですから引上げようとしますと菰が手に触りました。で、その菰を取除こうとしますとニュッと人間の足が出たのです。私は吃驚しましたが、気を落着けてよく見ますと、紛う方なき死体ですから私は声も上げる事が出来ず忽ち逃げ上りました。それから品川警察署に届けまして警官方の御出張を乞いました。死体取上げには昨年死にました私の父が中へ這入ったのです。
 死体は頭には毛は少しもなく、眼耳鼻なども腐り落ちて、手首足首もありませんでした。身体に帯と襟とが附いて居りましたので女と分りましたが年の所はハッキリ致しません。
 死体についていた帯は巾の狭い黒繻子でした。襟も帯と同じく黒繻子でした。
 只今お示しの布片の黒い方は死体に附いていたものと同じだと思います。メリンスの方は一向存じませんです」
 井戸浚渫を請負った山谷某は古我判事に次のように答えた。
「仰せの通り島田父子でその死体を引上げました。死体は両手を延ばし両足を投げ出し十の字になって殆ど裸でした。只襟の所に襦袢と着物の襟が附いて居りまして、腰の辺に巾七八寸位の帯が巻きついていました。
 帯はメリンスに繻子の腹合せと思われ、襦袢の襟は赤らしく、着物の襟は繻子でした。襟の内にくけてあった布片から見ますと、矢絣の瓦斯地の着物を着ていた事と思います。其時に立会った人々は十八、九乃至二十位の女だと云って居りました。
 お示しの布片は井戸から出た当時はこんなに切れないでもっと繋がって居ました。それにこんなに泥はついていませんでしたけれども、色はこれ位でした。赤い方は襦袢の襟で青い方は帯の裏になっていたと思います。
 支倉さんは当時確に見に来ていました。然し口は利きませんでした」
 井戸から上った死体の検視をした吉川医師が古我判事に答えた所は次の如くである。
「推定年齢を二十乃至二十五としたのは身長及一般の体格から推測したので、骨格の構造と乳線から女子と断定したのです。異例を考えれば十六歳位とも見られない事はありますまいが、私は検案書の如く推定いたしました。死後経過は六ヵ月乃至一年と見ました。自殺か他殺かと云う事はとても判別出来ませんでした。只今お示しの布片の内海老褐色のものは多分当時の物と存じます。其の他の布片については何とも申し上げられません。尚頭蓋骨は何分年数が経って居りますので確《しか》と申上げられませんが、当時のものより心持ち小さい様に思われます」
 以上の証人の言から略※[#二の字点、1-2-22]古井戸より上った死体が行方不明になった小林貞である事が確実になったので、古我判事には漸く朧げながら事件の真相が掴めたように思われた。
 彼は更に四月六日静子の母を参考人として放火事件の取調を行い同日広島県下から召喚した貞の父を調べたが、いずれも今までに判明した事実を裏書きしたに過ぎなかった。
 事件に稍自信を得て来た古我判事は翌四月七日、去月二十日一回の訊問をしたきり打ち棄てゝ置いた支倉の第二回の訊問を行った。
 所が支倉の態度はガラリと変っていた。

 支倉喜平は予審判事の第一回の取調べの三月二十日から第二回の取調べの四月七日まで凡そ二十日間東京監獄に監禁せられている間に何を考えたのであろうか。その二十日間に古我予審判事は或いは家宅捜索をなし、或いは実地検証をなし、十指に余る証人を召喚し、中には遙々《はる/″\》広島県下から呼び寄せたものさえあるが、苦心肝胆を砕いて漸く核心に触れる事が出来たので、今日第二回の訊問をなすべく支倉を予審廷に呼び出したのであるが、支倉は前回の悄然として面さえも挙げ得なかった態度に比し、今日はその特徴のある真黒な顔をすっくと上げて、大きな眼玉をギロリと光らして、平然として判事に対したのだった。
 古我判事はジロリと支倉の意外な態度に注意の眼を向けながら徐ろに口を切った。
 問 被告の所に此離婚証書があったが、それはいつ作ったものか。
 答 知りませぬ。離婚する話があったか否も忘れました。
 問 然らば此の建物譲渡証書は如何。
 答 私は存じませぬ。誰が作ったか知りませぬ。家内に建物を譲る話をしてあったか否か分りませぬ。
 問 定次郎より百円の受取証を取ったか。
 答 取った様にもあり、又取らぬ様にもあります。
 問 神戸より右金を定次郎に授受の際被告は立会わなかったか。
 答 分りませぬ。
 問 授受は大正二年九月二十六日の夜であったか、又は其翌日であったか。
 答 晩であったか、朝であったか分りませぬ。神戸より話を受けたか否やは覚えませぬ。
 問 兎に角二十六日の晩被告は神戸方に行き小林兄弟に会ったか。
 答 警察に於ても皆が会ったと云うから会ったごとく申述べましたが、如何であったかわかりませぬ。
 問 何故分らぬ。
 答 どう云う訳か分りませぬ。
 支倉喜平は徹頭徹尾否認を続けた。然しながら最後の答えの如きは、神戸牧師小林兄弟が口を揃えて同日神戸方で支倉に会った事を証言しているのであるから、支倉の否認は理由なきものと云わねばならぬ。支倉は二十日間未決監に前途の暗澹たる運命を嘆いているうちに、ふと一切を否定しようと云う事に考えついたのではあるまいか。彼にしてこゝでもう少し理性を働かして、否認すべきは否認し、肯定すべきものは肯定する態度に出たら、何とか判官の心証を動かして、事件を容易に片づける事が出来たかも知れぬ。彼の不敵の魂は一旦こうと決心したら容易に動かぬのである。彼の善心と云おうか仏性と云おうか、兎に角彼の心境のうちにある良心は神楽坂署の署長室の自白に一旦眼覚めかけたのであるが、昼尚暗い独房のうちに二十日間押し込められているうちに、再び彼の悪心が跳梁を初め、遂に完全に支倉の肉体を征服して終って、こゝに彼は再び昔日の支倉喜平に帰ったのであるまいか。何にしても徹頭徹尾否認の態度に出たのは不可思議千万である。
 問 被告は小林定次郎に貞を意思に反して姦したる旨の詫状を入れてはないか。
 答 どうであったか分りませぬ。
 問 無理に犯したことは相違ないか。
 答 どうであったか、宜しき様願います。
 問 被告は貞を赤坂の順天堂病院に診せる考えを抱いたのか。
 答 左様な事は警察の人が云わせた事で私は分りませぬ。
 問 然らば前回被告が述べたごとく貞を井戸に入れた点はどうじゃ。
 古我判事は鋭き一問を発した。

 古我判事から貞を井戸に投じたと云う自白はどうだと、鋭く突っ込まれた支倉は恐れる色もなく答えた。
 答 入れませぬ。警察に於て徹夜せしめ、入れたろうと云われたのを、其通りと申立をなし、又当予審に来てもその通り申すよう警察で云われた為井戸に入れたと申しましたが、実際は入れません。
 問 然らば前回被告の述べた其余の事実は如何。
 答 皆嘘です。
 高輪の私の宅に私が放火した事もなく土方に放《つ》けさせた事もありませぬ。何処から火が出たかも存じませぬ。私は屡※[#二の字点、1-2-22]《しば/\》火事に遭いましたけれども嘗《かつ》て放火はいたしませぬ。
 問 被告は今回逃走中|密《ひそか》に妻に会い、写真を破棄せしめたか。
 答 私は破棄せしめませぬ。浅田が破棄した方が宜しいと云ったのです。
 第二回の訊問は否認を以て始まり、否認を持って終った。この終始一貫した犯罪事実の否認は古我判事にどう響いたであろうか。
 古我氏は既に今までの取調べに於て、朧ながらにも或る結論を脳中に画いていた。けれども裁判官が特定の先入観に捕われる事は危険であるので、勉めて慎重の態度を取っていたのであるから、今日計らずも支倉の徹底的犯罪事実の否認にあってもさして狼狽はしなかった。そうして彼の否認中に多くの矛盾のある事を見逃しはしなかった。
 然しこゝに於て、古我氏は以前に数倍した慎重な態度を取らねばならなかった。支倉の第三回の訊問の五月二十三日まで凡そ四、五十日間に、彼は既に一度召喚した神戸牧師、小林定次郎を初めとして新に写真師浅田其他合計三十五名の証人を喚問した。その上に静子の母、中田かまを参考人として一回都合三十六回に渡って訊問を行なった。之らの調書を一々挙げるのは余りに煩わしいから省くけれども、概して支倉に不利なるものが多かった。
 法治国に於ては法律の適用が頗る重大な結果を来すので、殊に刑法に於ては個人の利害に関する事多く、その為法官も出来るだけ慎重審議する。その結果罪の決定を見るまでには多大の時日を要する。断罪の遅延する事は屡※[#二の字点、1-2-22]問題となり、既にシェークスピアの戯曲中のハムレット皇子が厭世観に捕われて、自殺せんかと思いつめた時に、厭世観を誘う一つの原因のうちに法の遅滞と云う事を数えている。
 然し今こゝに古我判事の周到なる訊問振りに直面すると、法の遅延などと云う事に不平は洩らせなくなる。もとより古我氏のみならず、すべての判官はいずれも古我氏に優り劣りのない取調べをした上でなければ断罪に至らないに違いないのだ。
 余談は置いて、五月二十三日喜平第三回の訊問に取りかゝろう。
 この時は支倉は第二回の訊問の時程白々しい態度は執っていなかった。之を以て考えると、第二回の時は彼は自白後の内的反動で興奮していたのかも知れない。訊問は聖書の窃盗より徐※[#二の字点、1-2-22]に放火事件に及んで最後に殺人事件になっている。尤も興味のある殺人の所を例によって少し抜書して見よう。
 問 被告は神戸牧師に貞を無理に犯したと自白したか。
 答 犯したと云ったけれども無理とは云いません。
 問 九月二十六日貞に会った事は相違ないか。
 答 其日は丸切り会いません。
 清正公《せいしようこう》坂で待受けた事はありません。清正公坂より赤坂に電車で行ったと警察で述べたが、其頃同所に電車はない筈です。ない電車には乗れません。
 古我判事は支倉のこの返答に思わずはっと顔色を変えた。

 古我判事はその頃清正公前に電車はなかった筈だと云う支倉の言葉にはっと驚いた。
 読者諸君よ。
 支倉が今古我判事に訊問されているのは、大正六年五月の事である。(不思議にも今から丁度十年前に当る)所が問題になっている殺人事件は大正二年九月に起った事だ。即ち殆ど四年を経過している。誰だって満四年に垂《なんな》んとする昔に果して清正公前に電車が開通していたかどうかと云う事は、電車線が恰度その時分に新しく敷かれたのだから確に記憶していよう筈がない。所でもし電車が開通していなかったとしたらどうか。
 諸君よ。裁判と云うものは極微細な事から分れるものである。鳥渡した矛盾でも全判決を覆えす事が出来る。もし当時清正公前に電車が開通していなかったなら、そこから乗車したと云う支倉の自白は全然価値を失って終《しま》うではないか。従って神楽坂署の聴取書は根本から権威を失って終う。問題は微々たるようで実は頗る重大なのである。
 古我判事は支倉が人を嘗めたような調子で、
「その頃そこには電車はない筈です」
 と述べた時に、忽ちピタリと予審を閉じて終った。彼の云うような事実があるとすると、予審を根本的に遣り直さねばならぬ事になるかも知れぬ、至急に事実を確かめなければならぬと思ったからである。
 古我氏は直に市電気局に当時既に電車が開通していたか否かの問合状を発するよう書記に命じた。
 所が流石に支倉はさる者だ。彼は早くも古我判事の狼狽の色を見て取ったと見えて、機乗ずべしとなし、獄中より上願書と題して半紙二枚に細々《こま/″\》と認めたものを差出して古我判事を動かそうとした。
 当時支倉は神楽坂署で自白をしたと云う事を深く後悔していた。彼は周囲の事情が刻々に自分に不利に展開し、剰《あまつさ》え立派な自白と云うものがあるので、最早云い逃れられぬ羽目に陥っていた。彼はこの儘では絞首台上の露と消える外はないと自覚したので、どうかして一方に血路を開いて、この不利な形勢から逃れようと急《あせ》っていた所へ、今日ふと投げて見た一石が案外、波紋を描きそうになったので、隙かさず哀訴を試みたのである。
 彼の上願書と云うのはざっと次のようなものである。
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判官閣下
被告は只今聞くだに恐ろしき罪名の下に拘禁されて居りますものゝ、神楽坂署にて申立ての事柄は事実無根にて、被告の犯し居ります罪に非ざれば、真の申立を為す能わず、就いては被告は前科あります事とて、此後いかに身の濡衣たる事を弁明なすも、中々容易に言い解く詮もなきことゝ思われます。被告は無罪出獄を夢みても居りませねば、豊多摩監獄に送られ、あのいやしき苦役をつとむる考えもありません。そうだからとて冤罪のために絞首台に上るも快よしとせざる者であります。此まゝ長く予審にお繋ぎ置きを願います。此後はキリスト教書籍を多く読み、陰に陽に一人なりとも主に導きたく存じます。精神の修養につとめとう存じます。ついさきごろ迄はたゞ被告は放火殺人という冤罪の下に在る事を被告の死にて証明せんものと思い、縊首を企てお上に余計な御手数を煩わし実に申訳ありません。英邁賢明なる判官閣下、被告喜平伏して此如く及御願候也。
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 この上願書を読んで感ずる事は支倉の冤罪の訴え方が如何にも弱々しい事で、判官の心中に鳥渡した疑惑が生じたのを機会に、只管《ひたすら》哀訴嘆願して判官の心証を動かそうとする所が見える。この態度が後にだん/\硬化して行く所が注目に値するのである。
 古我氏はこの上願書を受取って鳥渡眉をひそめた。いつまでも予審廷に置いて呉れと云う彼の申出の真意が分らないのだった。

 支倉が古我判事の所へ上願書を送って、無罪にもなろうと思わぬが、冤罪で死刑になるのは嫌だ、願わくばいつまでも未決に繋いで置いて呉れと云ったのはどう云う訳か。
 彼が事実犯した覚えがないのなら、余りに女々しい泣事だ。何故強く冤罪を主張しないのか。どうも覚えのある罪を少しでも軽くしようと思って、判官の憐れみを乞うているように思える。が、一方から考えると、四囲の形勢が切迫しているので、とても冤罪だと主張して見た所で通りそうもないので、一時逃れに曖昧な事を述べて判官の心中に一片疑惑の念を起さしめ、徐々に形勢の挽回を計ろうと思ったのかも知れない。けれども事柄が事柄である。
 殺人放火と云う罪名で死刑になろうかとしている時だから、もし真に冤罪ならこんな悠長な事は云っていられぬ筈だ。が、考えようによっては自暴自棄的な、アイロニカルな意味でいつまでも予審に繋いで置いて呉れと云ったのかも知れぬ。
 古我判事は電車問題を余程重要だと考えたと見えて、僅々三、四十日間に三十六回の証人喚問を行なって、熱心に調べた彼が、支倉の第三回訊問、即ち電車が開通していなかったと申立てた二十三日の日から、電気局の回答が来て、六月一日第四回の支倉の訊問をするまで一週間のうち只一回参考人として洋服裁縫職の丹下銀之助と云う男を召喚した切り、少しも予審を開かなかった。
 丹下銀之助は窃盗罪で東京監獄にいるうちに、一時支倉と同監した男で、支倉が自殺を企てようとした事につき訊問されたのだった。
「私は窃盗罪で区裁判所で三年六ヵ月の言渡しを受け当裁判所へ控訴いたしました」
 丹下はおず/\と述べた。
「そして東京監獄に居るうち本月一日から十五日まで支倉と同監いたしました。同監いたしましてから間もなく支倉の申しますには、自分は耶蘇教の牧師であるが、こう云う辱めを受けては再び社会に顔向けが出来ない、この上は自殺するよりないから、どうか見逃して呉れと云いました。私はそれは困る、自分の寝ている時にでも自殺して知らないのなら格別、自分の面前で自殺を企てられて黙っている訳に行かないと答えまして其場はすみました。所が其後も再三その事を申しまして、十日頃でしたか、どうか後の事を引受けて呉れと頼みますので、そんな事をして此上罪が増えては大変だからと断りますと、支倉は自分には一万円とか二万円とか財産があるから、其四分の一を上げるから承知して呉れと申しまして、多分筆記場で書いたのだと存じますが、遺言状と委任状を書いて私に寄越しました。それを十五日の朝看守に発見せられたのです。
 支倉は口癖のように窃盗は実際やったのだが、放火殺人は少しも覚えのない事だ。警察署長に瞞されたのだ。口惜しいと申して居りました。同人は絶えず煩悶しているようで、何かと云うと直ぐに死ぬと云いますので同監いたして居りまして薄気味が悪くてなりませんでした。然し口では死ぬ/\と申していますものゝ、実際やる積もりだかどうだか分りませんでした。どっちかと云うと信用出来ないと思って居りました」
 この自殺を企てた事については支倉は先に上願書のうちに申訳ありませんと詫《あやま》っていた事は書いたが、その後に尚次のような文句があるのだ。
「その際の遺言状一通、委任状一通何れも根も葉もなきことにて、被告は悪き事とは知りながら、兎角囚人なる者は欲深きものでありますれば、被告は先方に花を持たせ自己の目的を達せんとしたのであります。今になり考えますれば誠にすみません申訳ありません」
 さて、五月三十日に古我判事の待ちに待っていた市電気局からの回答が来た。

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本月二十八日付支倉喜平刑事事件審理上必要の趣を以て御照会に相成候電車開通日時左記の通りに有之候此段及御回答候也
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   大正六年五月三十日[#地から2字上げ]東京市電気局
   東京地方裁判所予審判事 古我 清殿
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(左記)
自《より》四の橋|至《いたる》一の橋 明治四十一年十二月二十九日開通
自《より》一ノ橋|至《いたる》赤羽橋 明治四十二年六月二十二日開通
自《より》古川橋|至《いたる》目黒停車場前 大正二年九月十八日開通
備考 所在明示の為め別紙電車運転系統図を添付す
 以上
[#ここで字下げ終わり]
 之が古我判事の手許に届いた電気局回答の全文だった。之で見ると電気局でも余程大事件だと思ったと見え、殆ど即日と云って好い位に迅速に調査をなし、尚電車運転系統図まで添えている。裁判所からの照会は支倉の第三回訊問後彼の自殺を企てようとした事件の為参考人銀之助を取調べた直後出したものらしい。
 又古我判事はこの回答を受取ると直ちに第四回の支倉審問を開いた所を見ると、之亦余程この回答を待ちかねていたのだと思われる。
 だが、まあこの回答は何と云う皮肉だ!
 支倉が窮余の極、漸く一方に遁路《にげみち》を開いた苦肉の策だった電車未開通説は物の美事に打ちのめされたのだ。即ち支倉が貞子を連れ出したと云う日は大正二年九月二十六日で、電車の開通は同年同月十八日! 僅に八日以前に開通しているのだ。之が皮肉でなくてなんであろうか。
 仮令《たとえ》八日でも既に電車が通じていたからには、支倉が電車はなかった筈だと嘯《うそぶ》いたのは全然無効だ。いやそればかりでなく反て判官の心証に悪い影響を与えたかも知れぬ。
 六月一日の第四回審問に古我判事はこう云って支倉を極めつけている。
 問 電気局に問合すと古川橋より目黒停車場間の電車は大正二年九月十八日開通と云う回答があったがどうじゃ。
 この問には支倉も甚だ苦しい答弁をしている。
 答 それでは仕方がありません。私は電車に乗らないのですから、電車は開通していないと思いました。
 支倉はこの事が余程意外だったと見え、越えて六月四日に差出した、半紙五枚に細々と書き連らねた第二回の上願書の冒頭にこう書いている。
「其の当時開通しあらざりし電車其の日自分乗車せざりし電車、開通しあるとは意外、まるで夢のようです。(中略)電車は自分に取っての致命傷にや」
 兎に角、この電車問題では支倉の策戦が破れて、一敗地に塗《まみ》れたものと云わねばならぬ。
 だが、支倉も子供ではない、いや/\それどころか人並以上に奸智に長けた男である。電気局に問合せれば立どころに分るような問題を、どうして、当時未だ電車が無かった筈だと申立てたのか。殊更に分り切った事を申立てゝ、あわよくば判官を瞞着し、拙く行っても審理を遅延させる事が出来ると考えたのか。
 いかに彼でもこんな子供|誑《だま》しのような事を企てはしまい。思うに彼が電車未開通の事を云い出したのは、突発的に口から出委《でまか》せに云ったのではなくて、どうかして神楽坂署に於ける自白の効力を失わしめようと思って、数日獄窓裡に沈思黙考して、考え出したものであろう。
 彼はあれこれと思い巡らした末、ふと当時電車は未だ開通していなかったのではないかと思い当ったのだ。

 人は何か重大な出来事のなかった限り四年前の、而も実際の日とものゝ十日も違わぬ日に、電車が開通したかしなかったかと云うような事は思い出せるものではない。然らば支倉が当時電車がなかったように思ったのも無理はないだろう。だが、彼はその日に実に重大な殺人と云う罪を犯しているのだ。尤もまだこれには疑問の余地がないでもないが、仮りにもこんな大罪を犯したとしたら、その日の事を、記憶喪失病でない限り覚えていない筈はない。支倉は記憶喪失どころか、博覧強記で極く些細なことでもよく記憶している。とすると、どうしても知っていなければならないが、みす/\電車があった事を知っていた、なかった筈などゝ強弁するのは愚の骨頂で、支倉はそんなヘマな事をする人間じゃない。
 で、筆者は結論として支倉は当時電車があったかなかったか、記憶が曖昧模糊としていたのではないかと思う。支倉は獄中で沈吟して、どうも当時電車はなかったらしいと思ううちに、だんだんない方に自信が出て来て、しめたと膝を打ったに違いない。何故ならこの矛盾から神楽坂署に於ける自白を覆す事が出来るからだ。
 だが、殺人罪を犯した日の事を何故覚えていない? やはり彼の自白は出鱈目で、乗りもしない電車に乗ったように云ったのか、当日貞を連れ出した事は嘘か。
 こゝでそう急き込まないで、一寸探偵眼を働かして見る必要がある。
 現在乗った覚えのある電車を、当時開通していなかったと云って見た所で、直ぐ分る事だから、支倉が電車がなかった筈だと云い立てた事は、全く記憶を喪失していたと見るのが妥当で、同時に殺人罪を犯した日の出来事を記憶していない筈はないと云うのも当を得た議論だ。とするとこの矛盾をどう解決するかと云うと、殺人罪は犯したかも知れんが、清正公《せいしょうこう》前から電車に乗ったのは嘘ではないかと思える。
 一体犯人は大体罪を隠そうと思っているのだから、突っ込まれると苦しまぎれにいろ/\の答弁をする。もと/\嘘で固めたのだから、前後撞着矛盾を生じるから、益※[#二の字点、1-2-22]突っ込まれる。終に恐れ入るのだが、この際根本の犯罪は自白しても、そこまでに行く道程のうちの或る部分には嘘がそのまゝ残っている事が充分あり得る。
 支倉の場合はこれでつまり貞を殺した日にどう云う風に彼女を引廻したかと云う事を追求されて、苦しまぎれに述べ立てた事が、いよ/\殺人を自白した後に、そのまゝ訂正せられずに残ったのではなかろうか。
 もし支倉が真の殺人罪を犯していないのなら、こんな曖昧な事でなくもっと有力な反証が挙げられそうなもので、電車があったとかなかったとか云う事で小股を掬う必要もなく、又電車があったからと云って、忽ち致命傷がペシャンコになる筈もない。実際電車に乗らないものなら、もっと堂々と争うが好い。
 所が支倉の論じようとしているのは、当日|清正公《せいしょうこう》前から電車に乗ったか乗らぬと云う問題でなく、人を殺したか殺さぬかと云う問題である。即ち彼は当日電車に乗らなかったと云う事で殺人を否定しようとしている。之はいけない。電車に乗らなくても、つまり電車に乗ったと云う自白が嘘であっても、殺人をやらないと云う直接証拠がなければ、電車問題は要するに枝葉末節だ。彼はこんな枝葉末節からかゝってはいけない。人は能く根本の議論で勝てないと思うと、枝葉末節の方をほじり出して、対手を陥れようとする。
 支倉の思いつきもそんな所らしいが、これは確かに彼の失敗だった。けれどもどうも電車に乗らなかったと云う支倉の申立ては本当らしいと思えるのだ。
 電車問題で敗れると、支倉はいよ/\本性を現わした。

 予審判事の鋭い訊問に尽く窮地に陥った支倉はいよ/\本性を現わした。それは彼の第三の上願書を読めばよく分る。
 順序として第二の上願書の事から始めよう。
 第二の上願書は鳥渡述べた通り半紙五枚に細々認めたもので、先に引用したように、
「――電車開通しありとは意外、まるで夢のようです」
 と言う言葉から始まっている。彼の筆蹟は中々達者なもので、誤字脱字等は甚だ稀で、書消した跡も殆どないのは、彼の教養の程度が伺われる。
[#ここから2字下げ]
「――神楽坂署で七日七夜刑事交代苛酷なる責折檻に遇い、殺害し居らざるものを殺害したと虚偽の事さえも真実らしく申立、裁判所へ送られ虎口を逃れ一安心と思いしは一生の誤り、電車は自分に取って致命傷にや。それもこれも尾島氏に余り面倒見て貰い過ぎ、聖書会社へ迷惑を掛けました神より自分に降した相当の責罰には、自分は今度冤罪の下に斃れなければならぬ道行《みちゆき》となりましたものと思います。然し其日は実際電車に清正公前より乗っておりません。赤坂へも行っていません。新宿の川安《かわやす》に行き天どんも喰べて居りません。自分は実際殺害しては居りません。自分は殺害する位なら自分の軒場下とも云うべき近所へ連れ出し殺害するような事はいたしません。其日自分は仮りに新宿に行きしとしまするや、殺害する位なら新宿にも川や井戸は沢山あります。なんのために自分は同人を殺害しなければならぬ理由ありましょうか。神戸牧師仲介の労を取り事済みとなりましたものを、自分は常に六法全書を膝元へ備えて居りました。死刑又は無期そのような大罪を犯すような事は、いたしません。京都監獄放免後八年間在京いたし荊妻《けいさい》と三越にも松屋にも行きました。盗みや万引した事はありません。聖書会社から聖書を持出したのは日本人支配人尾島氏の許容を得たものですから引出したと云う訳、今こんな身に成ると思いますなら引出すのではありませんでした。自分は前科四犯もあることですから、常に高輪警察署より注意人物として目されてある事も自分は承知して居りました。罹災の際には二度も同署に呼出され、其当時の状況始末書を取られて居ります。其当時身に一寸も暗い事はありませんから、警察から呼出されましても平気で出頭したものであります。身に殺人犯放火犯の覚えがあるなら呼出状に接しましても出頭して居りません。
 恐入りますが赤坂順天堂病院へも高町病院へも同日は訪ねて居りません。よく御取調べを願いとう存じます。神楽坂署にて申立てた件は第一の聴取書をのぞく外満足なのは少しもありません。同日は明治学院より三一神学校を経浅草へ行き花屋敷に入り、米久《よねきゅう》牛肉店にて夕飯を食し、帰宅したのであります。
 神戸牧師仲介の下に事済みとなりしものを、自分にして病院へ伴れ行くいわれありません。仲介者が俗に云うゴロツキならいざ知らず、立派な牧師が立会い事済みとなりしものを、誰が考えましても後から又金をゆすられる心配ありましょうか、ありません、荊妻もその一切を承知して居るものに自分は荊妻に申訳ないからとて同人を殺す、そのような事を気狂いならいざ知らず、自分はいたしません、自分には出来ないのであります。
 人生無常年齢十代で死す者もありますれば、二十代で逝く者もあります。自分は五十を余すこと六ツ、命を惜しみはいたしません、然し冤罪の下に悪名を帯び斃れる事を嘆くものであります。神楽坂署で申立ての土方を頼み放火させた覚えありません。自分も又放火した覚えもありません。
 英邁賢明なる判官閣下、事件の前後に付き御判断なし下され自分の犯してあらざる事、御証明いただき度し」
[#ここで字下げ終わり]
 以上が上願書の論文である。

 六月四日に古我判事の手許に差出した支倉の上願書は昨日掲げた通り、頗る哀調に充ちて、所謂哀訴嘆願と云う風であるが、越えて六月十七日及追加として十九日に出した上願書なるものはガラリと態度が変って、こゝに初めて彼は神楽坂署の拷問を訴え出した。事がならないと見るとガラリ/\と態度を変えるのが支倉の悪い癖だ。その為に通るべき筋道の事でも通らなくなる恐れを生じるのは彼の為に惜むべき事だ。例えばこゝに持出した拷問事件でも、彼が予審廷に引出されると同時に申立てれば好かったものを、古我判事が苦心調査に当って、正に二ヵ月を経過した今日に俄然そんな事を云い出しても既に遅い。のみならず、その二ヵ月の間に於ても度々申立てを変更したり、電車はなかった筈だなどと云った。自白の事実を否認しようかとかゝって失敗したりした後だから、いよ/\彼に不利なのだ。
 けれどもこの拷問云々の上願書は今後彼が大正十三年六月十九日第二審の判決に先だって、獄中に庄司署長に対して恐ろしい呪いの言葉を吐きかけながら縊死を遂げるまで、約八年の長きに亘って、繰り返し述べ立てた所で、長き獄中生活と、その孤独地獄の苦艱から逃れる為に五体のあらゆる部分から、必死の力を絞り出し、苦痛は呪いを生み、呪いは悪を生み、悪は更に悪を呼んで、生きながら悪の権化と化し、世を呪い人を罵り蒼白な顔に爛々たる眼を輝かし、大声疾呼して見る人をして慄然たらしめたと云う、世にも稀な世にも恐ろしい彼の半生の出発点ともなったものであるから、こゝにその概略を掲出して、断罪の項を終ろうと思う。
 この上願書は半紙に凡そ二十二枚、いと細々《こま/″\》と認めたもので、彼の精力と記憶力の旺盛な事と、底の知れない執拗さとを歴然として示している。
 表紙に一枚別の半紙がついていて、それには筆太に、「上願書」と書し、その傍に稍細い字で「一名殺人犯としてその名目に座する弁明書」と書き、最後に「被告人支倉喜平」と書かれている。
[#ここから2字下げ]
「判官閣下
聖代仁慈の大正の今日警察内に拷問なきものと思い居りしに、そうではない、今尚神楽坂警察署内に旧幕時代の面影を存しているのであります。実になげかわしき至りであります。
 被告喜平はその拷問に遇い虚偽の申立てなし殺さぬ者を殺したとして今裁判所に移されている者であります。
 今を過ぎぬる四年前小生家宅近在の井中より浮上りしあれなる死体骸骨はまさしく小林貞に相違ありませんでしょうか、小林さだ子としたなら他殺でしょうか自殺でしょうか。それとも何時どうして死に至りしものなのか。私は小林さだ子とは思われんのです。小林さだ子としたならば最少《もすこ》し小さくなければならんのです。神楽坂署にてあれなる死体につき色々に説明を聞きましたなれど、未だ今尚私は疑惑の波に漂うて居るのであります。
 神楽坂署石子刑事の云分。
 お前は小林さだ子を殺害して居るではないか。知りません、殺害して居りません。うそつけ、之れなる骸骨は小林さだ子だよ、お前の妻は立証しているのだ。あの時の下駄を見たろう。見ました、なれども誰れのかわかりません。わからんことはない、小林さだ子の下駄だとお前の妻は云うているのだ。
 そしてお前が殺害したものであると云う事までも云うて居るのだ。白状しろ。どう妻が云うて居りましても私は一向存じません。存ぜん事はない、分らんでは通らん、通させぬのである。この野郎並大抵では中々容易に白状せん、拷問に懸けてやれ」
[#ここで字下げ終わり]
 支倉の上願書は縷々として続くのである。

「それからと云うものは毎日々々刑事室に引出され、各刑事交代に徹夜にて長の責折檻、鉄拳制裁を受けたのであります」
 支倉の上願書はこう云う風に訴えている。
[#ここから2字下げ]
「右からも左からも前からも拳骨雨の降る如く、あの二月の寒空に単衣一枚として硝子戸を明けはなして、それだけならまだしものこと、誰ともわけの判らぬ頭蓋骨を持出して、之はさだ子だ、接吻しろ。頭をなめろ。一度や二度なら兎も角数知れず接吻させられたのであります。そしてお前は白状をせぬうちはこれから拘留の蒸し返しだ幾度となく拘留して、野郎殺してやるからそう思え。明日は裏の撃剣所に連れて行き、縄にて引縛って頭から水をぶっかけてやるからそう思え。そればかしではない、明日早朝お前の家に行き、お前の妻を引張って来て二十日の拘留に処してお前同様責めてやるからそう思え。(妻は度々其前に呼び出され、責められ、その泣き声を聞くのは私には実に辛かったのであります)妻は可愛くないか。罪ないあの子供は可愛くないか。お前は畜生か、此野郎、禽獣にも劣る奴だ。妻の可愛いのも子供の可愛いのも知らんのである。仕方ない奴だ。それ接吻しろ。又も骸骨との接吻数々。喜平もこゝに心身共に疲れ、こんなに責められるなら、いっその事死んだ方がましだと、それから二度目の自殺を謀ったのであります。看守厳重になり到底死ぬ訳に行かず。罪の私は兎もあれ、罪なき妻子を明日から苦しめると云う事は実に忍びない事だ。からとて殺さんものを殺したと云う訳にも行かず、此上は致し方なし、なんぞ嘘言の申立てをなし、此場を一日も早く、骸骨の責め、虎口より逃れ妻子を救わんとしたのであります。かねて根岸、石子両刑事からのたのみもあることですから、こゝに第二の聴取書中の助《すけ》と云う無形の土工を呼び起してさも真実らしく申立てたのです。なれども事中々には承知して下さらんのです。お前は殺したにせなければいかん。人にならってはいかん、と云われ、私が予審々々と幾度願っても、ヨシンに廻して下さらんのです。益※[#二の字点、1-2-22]辛く酷く責められるのであります。徹夜にての骸骨との接吻の連続数々、此上は仕方がない、自分の身を絞首台に上せる外途はない。自身を殺して妻子を助けてやろうと、それから大決心をして茲《こゝ》に私は殺さぬ者を殺したとして大胆にも叫んだのであります。署長殿の前に嘘自白をしたのであります。私も男です、自白いたします代りに妻子を助けて下さい。ヨロシイお前が男を立てたなら俺も男だ、職権を捨てゝまでもお前の妻子を助けてやろう。あの家だっても聖書会社より差押えられんようにしてやる、妻子の所有としてやる、安心せよ。それについては何か言い置く事はないか。言い置く事あるなら明日誰なり呼び出してやる。それなら妻を呼出していたゞきたい。それから府下中野町のウイリヤムソン師に神戸《かんべ》牧師を呼んでいただきたい。(冤罪の為今は覚悟して死に行くべき身の心の苦しさ)よろしいそれなら明日呼んでやろうと云うので、こゝに生れたのは第三の聴取書なのであります。之なる聴取書だとて並大抵ではありません。自分は殺して居らんものを殺したとして立つのですから、当惑しどう答えてよきやら、先方委せ、先方の云わるゝ儘になったのであります。然し根岸刑事なり署長さんがあゝまで云われたからとて、あとを見なければ中々に安心は出来んと思い起しました。
 妻子を助けたき山々なれど、吾は如何せん冤罪の下にオメ/\と絞首台に上がらなければならんのか、あゝ、世は無常々々、人生は夢だ/\断念《あきら》めた。今更女々しき根性は出すまじ我もヤソ信者として妻子を助ける為に潔く絞首台に乗らなん」
[#ここで字下げ終わり]

 支倉は委曲を尽して神楽坂署に置ける拷問の事実を挙げた。もしそれが事実なら無論許すべからざる事であるが、一体拷問せられた為に自白した事は裁判上無効か有効かは知らないが、拷問による自白だから虚偽であると云う事は直ちに云えないと思う。寧ろ苦痛の余り真実を述べると云う方が割合が多いのではなかろうか。
 支倉は今神楽坂署に於ける自白は拷問によるものだから虚偽だと云う事を訴えているけれども、彼の自白が真実か虚偽かと云う事は拷問の有無と切放して考えられないだろうか。即ち拷問の有無は神楽坂署の責任問題として残るだろうけれども、犯罪事実の有無はそれを外にして依然として判官の心証に残るであろう。要するに支倉の自白が真《まこと》か嘘か。彼の自白の場面を見るとどうも心からしたものと思われるし、殊に拷問については神楽坂署で然る事実なしと簡単に片づけているのだから、支倉にとっては甚だ不利だ。
 それに彼はこう云う訴えをする時期を失している。彼は予審廷へ出た当初述べれば好いものを、どうかして罪を逃れようと思って、あれこれと小策を弄し、最後に窮余の極こんな事を持出したのではないかと云われる所がある。且自白をした原因として罪なき妻子を助けたいと、くど/\書いてあるがもとより支倉は文筆の士ではなく、獄中匆卒の間に一気筆を呵したのだから、意余って筆尽さざる恨みは十分にあり、妻子を助けたいと云う意味は早く安心がさせたいと云う意味かも知れないが、真に妻子を助けたい為に冤罪を甘んじて受けたとすると、余りに常識のない話で、それこそ大正の聖代に罪が何も知らない妻子に及ぶ筈がなく、神楽坂署員もそんな非常識な事を云って彼を威かす筈もないのである。支倉の上願書は尚続く。
[#ここから2字下げ]
「さわれ絞首台に上がらずして、なんとかして妻子を助ける工夫はなきかと暫し考えたのであります。考えつきました。あります/\。我兎に角此後署長さんなり根岸、石子両刑事の処置を見ばやと吾は謀られまじ吾反って先を謀らん。謀《はかりごと》若し中途にして破れなば吾は絞首台に上らず自分から自害して男を見せん。夫れまでは吾は監獄に行き大福餠々々と精神病となり精神病者として取扱いを向う或期間受けん。自分所有の家屋妻子の所有とたりたらば、妻子はよもや今日々々の糊口には困るまじ(我死にて妻子を生かさん)精神病癒えなば死なずして吾又生きん。謀《はかりごと》破れなばよろこんで自分は自ら死をとらん、自害せんと第三の聴取書作成に稍一夜を費しました」
[#ここで字下げ終わり]
 こゝの所はどうも意味がよく通じないが、要するに妻子が今日の糊口に差支ぬように、どうかして財産を完全に譲りたい、それについてはこゝで佯狂《ようきょう》となり大福餠々々と連呼して一先ず辛い責苦から逃れ、妻子に完全に財産が移るまで審理を延ばしていよう。もし事がならなければ自殺する許りだと云う意味らしく、彼は事実気狂を装うて掛官を手古摺らしたのだが、又以て彼がいかに妻子の身の上を思うていたかを察しる事が出来る。彼が妻子を思う念の切なのを利用して彼を白状させようとしたのが、神楽坂署員の云わば気転で、同時に深く支倉から恨まれた点であろう。
 妻子の身の上を思う余り、虚偽の自白をする事は往々ある事であるが、それは多くの場合妻子が罪を犯している場合で、それを庇うべく自ら罪人となり名乗るのであろう。支倉の場合には妻子は何等罪を犯していないのだから、少しも庇う必要はない。警察で少し位苛酷な調べ方をせられたからと云って、又は単に財産を譲渡して後顧の憂いなきようにする為に、仮にも犯した覚えなき殺人の罪を自白するとは受取れぬ。
 署員が支倉の妻子を思う情を旨く利用して彼に自白を迫ったのだと思う。それは上願書の続きを見るとよく分る。

 支倉の上願書の次ぎにはこう書いてある。
[#ここから2字下げ]
「A、根岸刑事より小生に依頼の件、
 お前は小林貞を殺したと云うて立ってくれ、背負ってくれ、お前が背負ってくれなければ私は署長さんへ対して顔向けが出来ん。どうか背負って行ってくれ、私を助けたと思ってたのむ/\。お前も男だろう。背負って行ってくれたなら俺も男だ。お前が今所有している家屋は聖書会社より差押えられないようにしてやる。そしてあれなる家屋を三千円にて売払い二千円にて小坂に田畑を求め、残り一千円を子供の養育金として銀行に貯蓄して、其利子で行くようにしてやる。妻子を助けてやる。お前はどうせ無罪では出獄できぬ身体、お前は死んで罪なき妻子を助けてやれと幾度となく諭されたのまれたのであります。又こんな事も云われています。俺はお前の為には随分なっているではないか。此間もお前の家の台所の煙突が破れた、修繕するのに金がないと云うからお前には話さなかったが、お前の所持金の内より十円お前の家内に下げてやっているのだ。それからお前の家に此間或者がお前から頼まれたと云って広告料印刷代として十一円を詐取しようとして来た者があったのだ。その時だってお前の家内を俺が助けてやって居るのだ。是程までに俺は御前の為に尽してやっているではないか。お前も男だろう背負って立てよ。お前も男だろう、宗教家だろう、背負って立てよ、背負って立ったなら、あれなるあの家屋をお前の妻子の所有にして此後共助けてやるからと呉々にも云われ、たのまれたのであります。
B、石子刑事より小生への依頼の件、
 お前の宅へ行って俺が同行を求めた際に、お前が何と云う事なしに来ればよかったのに、お前の為に私は随分なっている筈だ。あの時だってお前の人格を私は思うたが為、殊更私はお前の家に私用名刺を通じていたではないか。それにも拘わらずお前が逃げたために、私は署長さんの前に顔向けが出来んのである。免職せなければならんように成っているのだ。お前は殺さずとも殺したとして立ってくれ。立ってくれゝばよいのだ。立ってくれさえすれば私が免職せずに済むのだ。お前は男だろう。宗教家だろう。私を助けてくれ、殺したと云うて背負って行って呉れと幾度となくたのまれたのであります」
[#ここで字下げ終わり]
 以上は上願書中にある一断片だが、根岸、石子両刑事の方を質してみなくては分らぬ事だが、支倉の云う所は或る程度まで事実に違いない。両刑事は彼をどうかして自白させようと、或いは脅し、或いは誑《だま》し賺《す》かして妻子を枷《かせ》に彼を釣ったかも知れない。尤も之は聞く方のトリックで、場合によっては随分好くない事もあろうが、こんなトリックに乗ってうかと白状する方も、実は身に覚えがあって、どうかしてそれから逃れようと思っていればこそで、向うが隠すのだからトリックを弄するのも止むを得まい。合監に諜者を忍び込まして味方らしく持ち込んで、向うの信頼に乗じて秘密を喋らしたりするのよりは、面と向っているだけ罪が軽いと云える。
 所で、支倉が云うように両刑事がペコ/\頭を下げて、どうか自分達を助けると思って罪を背負って呉れと繰返し頼んだかどうか疑問だが、どうもこの様子では両刑事が、お前は男だろうとか宗教家だろうとか煽《おだ》て上げ、自分達を助けると思って白状して呉れと哀れみを乞うように云ったかも知れない。
 尤も両刑事の云っているのは真実の告白の事だが、支倉にはどう響いたか。この上願書の書き振りでは支倉も男だとグッと反り身になったかも知れない。そうなると、支倉に対する考えを鳥渡変えねばならぬかと思われる。

 支倉とはどんな性格の男か。
 つく/″\彼の言行を見るに、悪事にかけては中々抜目のない男で、それに犯罪性のあるものゝ通有性として、甚だ気が変り易い。気が変り易い一面には梃でも動かぬ執拗な所がある。対手がいつの間にか忘れていて、何の為に恨まれているのか分らぬ位なのに、まだ恨みつゞける。つまり目標を失した行動をやる。くど/\と一つの事を繰返す。こう云う人間は非常に大胆不敵の悪人に見えるが、飜然と悟ると涙を流したりする。支倉はそんな人間ではなかろうか。
 上願書でくど/\と一つ事を繰返して、哀訴嘆願しているが一向にしめくゝりがない。筆蹟や文字を見ると中々しっかりしているようだが、文章となると要領を得ない所がある。読んでいるうちにふと煽てに乗り易い、所謂イージーな(容易な)男ではないかと云うような気がする。
 殊に上願書の次の件の警吏との問答を読んで見ると、頗る飄逸な所があって、之が今死刑になるかならぬか、冤罪か有罪かと云う大切な瀬戸際を争っているものとは思えない。一面から云うと彼の容貌が頗る悪相なのと相俟って、裁判所を茶化すような大胆不敵の徒と見られるが、一面から見ると頭脳《あたま》のどこかに欠陥がありはしないかと思われる。支倉を大胆不敵の痴者と見るか、案外お人好しの煽てに乗り易い男と見るかは、彼の自白の虚実を確かめる上に重大な影響を及ぼすから、彼を全然知らない筆者には軽々しく云えないが、読者諸君は宜しく彼の上願書の全文を通読して、公平な判断を下して貰いたい。
「私は殺人罪を犯して居るものではありません。犯して居らぬものを犯している者と無理矢鱈に警察にては云え白状せよと注文せらるゝのですから、その虚実の申立てをなすにも誠に骨が折れました。先き様の問わるゝ儘に応答したのであります。
 警 お前は小林貞が病院へ行く所を何処で待ち受けたか。
 答 知りません。
 警 知らん筈はない、清正公《せいしょうこう》前あたりか。
 答 そうですね。清正公前の所、坂下で待受けました。
 警 何時間待ったか。
 答 そうですね。
 警 一時間位も待ったか。
 答 そうですね、約一時間程待受けました。
 警 そうか、その時小林さだは如何なる着物を着て居ったか。
 答 そうですね。能く気付きませんでした。
 警 気付かん筈はない、シマかカスリか。
 答 そうですね。シマだと思いました。
 警 シマではあるまい、カスリだったろう。
 答 そうかも知れません。
 警 そのカスリはどんな模様だったか。
 答 そのガラをよく気付きませんでした。
(逢わぬのですから知ろう筈はありません)
 警 よし、それからどこへ連れて行ったか。
(当惑)
 私の心では其時まだ清正公前に電車は通じて居らんものと思い、こゝに裁判へ廻りましてからの立証の道を見出し、乗らぬ電車に乗ったとしたのであります。豈図らんや、それは其折通じてあったとの事驚一驚。
 答 電車に乗りました。
 警 何処へ連れて行ったか。
 答 赤坂の順天堂へ連れて行きました。
 大正二年九月二十二日神戸氏に一百円を渡しやり、二十五日夕神戸氏宅にて証書取交せ、示談事ずみとなったのであります。それに支倉は何とて小林貞を病院へ連れて行く筈がない。こゝに裁判所へ廻ってからの立証道を見出したのであります。
 警 それから病院を辞して何処へ行ったか。
 答 一と当惑、暫し思案の結果新宿へ行ったと申し立てゝあります。

 支倉の上願書は原稿紙四百字詰に直して、約四十四、五枚、之を半紙へ筆で書いたのだから、その手数さえ一通りではない。それが首尾一貫して字体から行の配りまでキチンとしている。前に述べた通り誤字脱字は殆どない。未決監に閉じ籠められて、暇に飽かして書いたと云い条、その根気には驚かざるを得ない。加うるに神楽坂署に於ける取調の模様を逐一暗記しているのは驚く外はない。
 以下上願書の続きである。
 警 新宿に行って何処で昼食を食べたか。
 答 新宿二丁目の或そばやで二十銭の天丼を食べたと申立てゝあります。
 現にそんなそばやはありません。神楽坂署より直ぐ調べられましたが、わからんのです。殊にその当時病気にかゝっているものが、天丼を食う筈はないのです。脂気のものは淋病には大敵なのであります。
 警 それからどうした。
 答 川安に連れて行ったと申立てようと思いましたが、川安に行っていると申して、直ぐ探偵の結果連れて行き居らぬと云うことが分ると、頭蓋骨との接吻々々。これは困るので一と思案の結果新宿停車場へ連れて行ったと申立たのであります。
 警 そうか、停車場に連れて行きどうしたのか。家に帰るには未だ早いではないか。
 答 そうです。停車場へ待たせておきまして、自分は用達を致しました。
 殺すとしたら大切な玉を、一人停車場に待たせおく筈はない筈です。
 警 それからどうした。
 答 停車場へ戻って来て目黒行き山手電車に乗りました。そうして宅《うち》へ戻りました。
 警 小林貞は何処で殺害する気になったか。
 答 電車の中で殺意を生じました。
 子供ではなし電車で突飛にそんな何ほど鬼だからとて人を殺すなんか恐ろしい心は誰が考えたからとて分ります、起る筈のものではないのです。こゝらの申立ては随分幼稚に出来ているのです。虚偽の申立は先ずこんなものであります。
 警 どうして殺す気になったか。
 答 当惑々々、暫し思案の結果そうですね、荊妻の前があるから宅《うち》へ連れ帰る訳には行かず、それだからとて小林方へ戻す訳にも行かずと申立てゝある筈です。
 荊妻の手前など今更何も憚ることはないのです。荊妻はその一切を承知して居るのですから、又連れ出したからとて小林方へその事情をしか/″\と訴え連れ帰られん訳もないのです。二十五日夕景示談事済みになったものを、何とて連れ出すものですか。
 警 石をつけて入れたのか。薬をのませてコモに包んで入れたのか。
 答 知りません。
 警 知らん筈はない。木の株を入れたろう。
 答 知りません。
 警 そんな事はない、木の株を二つ入れてあるではないか。
 私は入れたのでありませんから知ろう筈はありません。木の株とやら少しも知らんのであります。
 答 入れたのでないけれど、入れたとしましょう。
 警 よし、木の株を何の為に入れたか。死体の浮き上がらぬよう入れたのか。
 答 どうも困りますね。仕方ありません。そうしましょう。
 警察での問答は原稿用紙にして凡そ十一枚、面白く可笑しく書いてある。返答に困った所々は当惑々々と云う文字を挟み、或いは頭蓋骨との接吻、単に接吻々々などと読む人をして思わず失笑せしめる位に軽妙に書いてある。
 余裕|綽々《しゃく/\》と云おうか、捨鉢と云おうか、云い逃れるに道なき殺人の罪に問われている人とは思われない。

 支倉は大正六年六月十九日附で全精力を傾倒して、半紙に細々と認めた長々しい上願書を古我予審判事に提出して、神楽坂署の拷問を訴え、繰返し貞子を殺した覚えの更にない事を哀訴したのは前掲の通りである。(こゝで鳥渡奇異の思いのするのは、後に支倉が獄中で悶々遂に縊死を遂げたのが、大正十三年六月十九日で、即ちこの上願書提出の日と月日共に一致する事である)上願書中には全然排斥して終う事の出来ない節があり、判事も無下《むげ》に退ける事が出来ないかと思われたが、彼が未決監で大福餠々々と連呼して気狂いを装うた事や、合監の者に五千円を与えると云う証書を与えて、殺して呉れと頼んだり、その事が又自殺の宣伝のように取れたり、或いはクルリ/\と陳述を変えて見たり、何一つとして予審判事に好感を与えていないので、予審の結果は最早望み少きものになった。
 それに彼は上願書で繰り返し訴えて、大正二年九月二十五日示談事ずみとなりその以後、小林兄弟には絶対に会わないと云っていたのに、上願書提出の八日後小塚検事に証拠をつきつけられて詰められると、忽ち恐れ入って、
「私が今まで金百円の授受は九月二十五日と主張して居った事は誤解に基いて居るもので、事実は九月二十六日の夜であったに相違ありませぬ」
 と述べた。その結果、小林貞の行方不明になった九月二十六日の日の行動を第二の上願書にいと明細に「同日は明治学院より三一神学校を経《へ》、浅草に行き花屋敷へ入り米久牛肉店にて夕飯を食し、帰宅したのであります」
 と述べたてゝいるのを、忽ち訂正しなければならぬようになった。即ち小塚検事に次の如く答えている。
「私は金銭授受の日を二十五日に繰上げて、故意に弁解の材料にした訳ではありません。私は二十六日には前晩貞の件が済んだので、安心して浅草へ行ったりして終日遊んで帰宅したように申しましたが、それも事実と相違して来るようになりますが、故意に偽りを申しましたのではありません。私はそう誤解して、間違いを申立てたのです」
 即ち支倉は彼が小林貞子を殺害したと一旦自白して置きながら、後に之を飜して、自白が全然虚構であると云う証明の為に申立てた重要な三点、当日清正公前に電車が開通していなかったと云う事、貞の事件の解決は九月二十五日であって、その以後小林兄弟に会っていないと云う点、二十六日は浅草で終日遊んだと云う申立の三つは尽く再び自ら翻《ひるが》えすに至った。或いは支倉は身に覚えなき大罪が到底振り払う事が出来ない羽目となり、狼狽の極あれこれととりとめのない弁解を試みたのかも知れない。けれども以上の事実は決して判官に好い心証を与えるものではない。
 小塚検事は最後に神戸牧師を喚問して、支倉の自白当時の事を聞き質した。
「私は支倉が当局へ送られる前、神楽坂署に呼び出されまして」
 神戸牧師は答えた。
「支倉に面会いたしましたが、同人は真実悔い改めた様子で私に後事を宜しく頼むと申しました。私は心さえ改めれば宜しいから、潔く罪に服せよ、後事は他に託する人がなければ自分が責任を負うて世話してやると申しました所、同人は落涙して感謝して居りました」
 最後の取調を終って、小塚検事の決意は少しも変らなかった。彼は古我予審判事に対し、
「予審決定に付意見書」
 と題し放火殺人以下八罪につき東京地方裁判所の公判に附するの決定相成しものと思料する旨、理由書と共に提出した。
 大正六年七月二日、支倉喜平は有罪と決し、こゝに予審は終結した。
 殺人放火の大罪でありながら、本人の自白以外の物的証拠は乏しい。而も本人は自白を否認しようとしている。支倉は果して有罪か。公判はいかに展開するのであろう。

          宿業

 支倉の妻静子はスヤ/\と寝入っている我子の寝顔を打守りながら、じっと物思いに沈んでいた。涙は夙《つと》に流し尽したので、涸き切った両方の瞼は醜く腫れ上っているのだった。今宵は特に薄暗く感ぜられる電燈がガランとした部屋の天井から、彼女の寂しい姿を照し出して、薄汚れた畳に影法師を吸いつかせていた。
 蒸し暑い宵だった。
 彼女が心の休む暇もなく、涙に暮れているうちに、世はいつの間にかもう夏めいていたのだった。一枚だけ明け放した雨戸の隙から型ばかりに吊ってある檐《のき》の古簾の目を通して、梅雨明けのカラリと晴れ上った空に一つ二つ星がキラめいているのが見えていた。
 今年の二月計らずも刑事に踏込まれてから、凡そ半年足らずの間に何と不幸の数々が続いた事であろうか。彼女はその僅《わずか》ばかりの間に十年も年を取って終ったような気がするのです。
 喜平との七年の結婚生活は夢のようだった。十九の年に双親《ふたおや》の勧めるまゝに、処女の純潔を彼に捧げてから今まで、必ずしも幸福に充ちてはいなかったけれども、彼女は夫に愛を持ちながら信仰の生活を続ける事が出来た。それに夫が彼女に対する愛情は、時に執拗、時に空虚に感じる事はあったけれども、並々ならぬものであった。総括的に云うと、彼女は結婚後間もなく儲けた一子を中にして、夫と共に可成幸福な道を歩む事が出来たのだった。
 それが長い七年の後、思いがけなくも一朝にして潰《つい》えて終《しま》ったのだった。
 夫が彼女と結婚する以前に既に前科を四犯も重ねていようとは夢にも思っていない事だった。基督《キリスト》教の信者であると云うので、深い調査もしなかったのではあるが、又仮令前科があっても悔改めた上は立派な人格に再生する事は十分出来る事ではあるけれども、神楽坂署で夫の前科を云い立てられた時には、彼女は自分の身体を裸にして曝《さら》されたよりも、浅間しく感ぜられたのだった。
 彼女は結婚後夫の品行が必ずしも正しくないと云う事は直ぐ悟った。勉学の都合から暫く別居していた時や、又彼女が郷里に帰っていた時などに、一、二の女と兎かくの噂のあった事を聞いていた。殊に夫が忌わしい病気に罹った上、それを年端も行かない女中の小林貞に感染させた事を知った時には、よしそれが女中の叔父の云うように手籠めにしたのではないとしても、どんなに情なく感じた事か。然し彼女はこうした夫の不始末にも、彼女が一部の責任を連帯しなければならぬ事を忘れなかった。彼女は夫を寛容すると共に、世間にこの事の洩れないように、数々の苦心をしたのだった。
 が、何事ぞ。夫は貞子を連れ出して古井戸に沈めて殺したと云うではないか。
 神楽坂署で鬼のような刑事達に責め問われて、苦しい思いをしたけれども、そして夫に対していろ/\な悪評を聞いたけれども、彼女は尚夫を信ずる事を止めなかった。真逆そんな大罪を犯していようとは思えなかった。
 署長の口から喜平がすっかり自白したと云う事を聞いた時に、彼女の総身の血汐は忽ち凝結して終った。危く倒れようとするのを踏み堪えた彼女の努力は殆ど超人的だった。
 然し、彼女は署長から夫の自白を聞かされて、彼に面会を許されるまでに、すっかり冷静を取戻す事が出来た。彼女はすっかり覚悟を極めた。夫との間には既に一子がある。夫がいかに大悪人であっても、信仰の道に這入っている自分が今更に取乱すのは恥かしい、夫を慰め励まして後顧の憂えのないようにしよう。こう彼女は決心した。そうして彼女は懺悔の涙に濡れている夫の姿を、心静かに見上げる事が出来たのだった。

 静子は作りつけの人形のように微動だにしないで考え続けていた。
 夫が未決に繋がれてからの彼女の辛苦は一通りではなかった。予審廷へも度々呼び出されて、判事から辛辣な訊問をせられるし、附近の人々には嘲笑の眼で見られるし、それに弱味につけ込んで、親切ごかしに騙《かた》りに来る者や、強請《ゆすり》に来る者があった。親類縁者も誰一人助けて呉れるものはなく、稀にそんなのがあっても物質上の援助の出来るものはなかった。只写真師の浅田は時折訪ねては慰めて呉れるけれども、以前の事もあり何か胸に一物ありげで、打解けて心から彼を迎える事は出来なかった。
 そんな訳で彼女の一番苦しんだのは金の調達だった。其日々々の暮しには何程の事もいらないとしても、未決監にいる夫への差入、代書人や弁護士に支払う高と云うものは少からぬものだった。それを女手で、ましてや今は世間から指弾されて、近づく人もない時にどうして生み出す事が出来よう。身の廻りのものを一つ売り二つ売りして支えるより仕方がなかった。
 彼女の何よりの頼みは今住んでいる家だった。之を売れば纏まった金が手に這入り、有力な弁護士に依頼する事も出来ると考えたので、内々周旋屋に相談して見ると千五百円なら買手があると云う事だった。それで彼女は夫に面会の折にその事を話して見た。
「あの、家の事ですけれども、千五百円なら買手がありますので、売って終ってあなたの弁護料なり弁当代にしたいと思いますがどうでしょう」
「家を売る事は少しも差支ないがね」
 支倉は大きな眼をグル/\させながら答えた。
「あの家は根岸刑事が三千円で売ってやろうと確く請合って呉れたのだ。で、わしはその金を自分の事に使う積りはない。その金を資本にして、お前が一生困らないだけの収入を得て、子供を育て上げて呉れゝば好いのだ。兎に角千五百円と云うのは余り安い。いくらなんでも二千円には売れるだろう。浅田に相談して見て呉れ」
 浅田に相談することは気が進まなかったが、静子は逆らわないようにと、
「はい、それではそういたしましょう」
 そう云って面会所を出たのだったが、それから二、三日経つうちに思いがけない大変が起った。それは東洋火災保険会社が家を仮差押えしてしまったのだった。
 支倉が起訴されて予審が有罪と決すると、その刑事記録を証拠として、支倉を対手取り二つの私訴が提起された。
 一つは例の聖書会社からで盗まれた聖書価格約七千円の損害賠償で、もう一つは今云う保険会社からで、詐取された保険額約三千円の損害賠償だった。保険会社の方は兎に角聖書会社は博愛主義の基督教の宝典たる聖書の販売元だから、罪を憎んで人を憎まずと、損害賠償の私訴などを起して、今更支倉を苦しめなくても好さそうなものだが、矢張りそうは行かぬと見えて、忽ち訴訟を起した。所が流石は聖書会社で物件の差押えまではやらなかったが、そこは機敏な保険会社が直仮差押えを申請したのだった。
 この家屋は浅田の奔走で静子の名義になっていた筈であるが、手続が完了していなかったか、それとも外に仮差押えをする途があったか、兎に角、家はもうどうする事も出来なくなったのだった。
 唯一の望みだった家が差押えられて終《しま》ったので、静子は茫然として終った。次の面会の時に彼女は悄然として夫にその事を語った。
「家を売ろうと思いましたが、保険会社に差押えられて終いました。もう駄目です」
「なにっ、差押えられた?」
 支倉の相好は忽ち変った。彼のいかつい眉が釣上り、眼は爛々と輝いて、無念そうな有様は、流石の静子もタジ/\とする程だった。
「そ、それは本当かっ!」

 家を差押えられたと聞いて、支倉の憤怒は一通の事ではなかった。静子はその権幕におじたけれども今更隠す事も出来なかった。
「はい、一昨日差押えられました」
「うむ」
 支倉の眼は怪しく光った。
「騙《だま》されたのだ。署長に一杯|嵌《は》められたのだ」
 静子は夫の興奮があまりに激しいので、宥《なだ》めようとしたが、さっきからこの異様な光景に気づいていた看守は、忽ち二人の間を隔てゝ終ったので、面会はそれ切りになり、静子は夫に一言の慰めをも与える事が出来なかった。
 保険会社の方から云えば詐取せられた金だから、何とかして取返さねばなるまいが、この支倉が唯一の頼みにしていた彼の財産を差押えた事は、確に彼を悪化させる一つの原因だった。彼はこの事を上願書に次のように書いている。
「その翌々日荊妻が亦私に面会を求めて来ました。此時は荊妻はしおれた顔をして、さも心配そうにもう駄目です。家屋は東洋火災保険会社より仮差押えされましたと云って、しお/\と帰りました。あゝ我れは虚偽の申立をなし、殺さぬものを殺したとして、妻子を救う考えなりしに、救う事出来ず、我れは謀られたのであったか、我れも是までなり、残念至極、無念々々、謀られて我は冤罪の下に絞首台に上るか」
 支倉が自白を否認したり、狂気を装うたりし出したのはこの事があってから後らしく、それで見ると、家を差押えられた事が自白否認の大きな原因ではないかと思われるが、後に第二審公判の折、裁判長より何故に予審廷で一旦自白して置きながら、直ちに自白を飜えしたかと訊問されて、一旦は妻子を助けん為、虚偽の自白をしたがいつか一度は真実の事を述べて置かないと、後の裁判に不利で、遂に冤罪を逃れる機を逸すると思って、虚偽の自白である事を申立てたと述べている。別に家を差押えられて、神楽坂署で騙された事が始めて分り、その為虚偽の自白である事を暴露したとは云っていない所を見ると、さして大問題でなかったのかも知れぬ。
 然し、当面の問題として最も苦しんだのは静子だった。頼みに思う夫は未決監に繋《つな》がれ、身には一銭の貯えもなく、唯一の財産である家屋は尽く差押えられて了った。前にも云った通り当座は身についたものを一つ売り二つ売りして凌《しの》いだが、今はその売代《うりしろ》さえ尽きた。夫の公判の期日は迫っている。愈※[#二の字点、1-2-22]公判となれば正式に弁護士を依頼しなければならない。然し今は弁護士を依頼するどころか、明日の糧さえないのだ。その上近くこの家も立退かなければならない。そうすると差当り雨露を凌ぐ道にさえ差支《さしつかえ》るのだ。
 それからそれへと静子の物思いは尽きない。無心でスヤ/\と寝入っている子供の寝顔を見るにつけ、涸き切ってもう流れ出る源もあるまいと思われた涙が、又新たに浸み出して来る。血の涙と云うのはこの事であろう。
 あゝ、明日をどうしよう。子供をどうして育てよう。それよりも近々公判に廻る夫の身をどうして救けよう。夫は呉々も無実の罪と云っている。神楽坂署で立派に白状した時の様子は嘘らしく思えなかったが、今の夫も嘘を云っているとは思えぬ。どうかして有力な弁護士を頼んで、夫をあの苦しみから救い出したい。
 静子の心は千々に乱れたが、昼よりの疲れに、今は身心ともに困憊《こんぱい》して、そのまゝ子供の枕許へウト/\と寝崩れて終《しま》った。
 ふと、冷たい風が身に触れたので眼を醒ますと、何刻経ったか、夜は深々と更けたようで、雨戸の一枚明け放しになった所から外を見ると、いつの間にか空は真黒に掻き曇っていた。静子はあわてゝ、起き上って雨戸を閉めようとすると庭の奥に朦朧《もうろう》と人影が現われた。

 庭先に怪しい人影を見た静子は、
「あっ」
 と叫んでそのまゝ立|竦《すく》んで終った。
 人影はふら/\と彼女に近づいて来た。
「まあ、あなたは」
 静子は再び驚きの声を上げた。
 怪しい人影と思ったのは夫の喜平だった。彼は黙ってのそ/\と家の中へ這入った。平常通りの姿で、割に元気が好かった。静子は監獄にいる筈の夫がどうして今頃我家へ帰って来たのだろうと鳥渡不審の眉をひそめたが、別に深く怪しみもせず、彼を迎え入れた。
「よく帰って来られましたね」
「うん、酷い目にあったよ」
 彼は気軽に口を利いた。
「お前も気の毒だったねえ」
「いゝえ、私なんかなんでもありませんわ」
「でも、神楽坂署では随分いじめられたろう」
「えゝ、ちっとばかし」
「ちっとばかしじゃない。俺はよく知っているんだ。俺は何べんかお前の泣声を聞いたのだ」
 支倉はきっとなって云ったが、やがて調子を落して、
「俺もなあ、ひどい目に遭わされたよ。刑事が交る/″\徹夜で調べるんだ。そうして得体も知れない骸骨に接吻をさせるのだ」
「えゝっ」
 静子は脅えるような眼で夫を見上げた。
「どんな事があっても、身に覚えのない事は白状しない積りだったが、お前の泣声を聞くのは身を切られるより辛かったし、徹夜の訊問にはヘト/\になって終った。まゝよ、犠牲になってやれ、この家を売って妻子は困らないようにしてやるからと署長も云ったし、後の心配もないと思って、つい嘘の白状をしたのが一生の誤りだった。俺はすっかり署長に誑《だま》されたのだ。今となっては云い解く術がない」
「あなたは本当に身に覚えがないのですか」
 静子は探るような目で夫を見た。
「ない。本当に少しも覚えがないのだ」
「そ、そんなら」
 静子は耐らなくなって啜り上げた。
「な、なぜ、あんな白状をなすったのですか」
「それは今云う通り――」
「いえ、いえ」
 静子は激しく遮切った。
「どんな訳があったって、殺しもしないものを殺したなんて、馬鹿げています。あなたは、あなたは」
 静子は口が利けなかった。
「俺が悪かったんだ。だから俺は絞首台に上るものと覚悟している」
「いえ、いえ、そんな必要はありません。誠覚えのない事なら、裁判で無罪になります」
「所が俺はもう云い解く事は出来ないのだ。俺は署長に嵌められて手も足も出ないようになっている。俺は冤罪で罰せられるより一そ一思いに死んで終おうと何度自殺を計ったかも知れない。然しいつでも失敗だ。一度は合監の洋服屋に頼んで殺して貰おうと思ったが、それも駄目だった。俺は死ねないんだ。どうしても死ねないのだ。だから俺は決心した。どうしても死ぬまいと」
 喋っているうちに支倉の形相は次第に物凄くなって来た。彼は拳を握りしめ、歯をバリ/\と噛んだ。
「あ、あなた」
 静子は情なくなって来たので夫に犇《ひし》と縋ろうとした。
 支倉はそれを振放して怒号し続けた。
「俺は死なゝい。断じて死なゝい。俺は呪ってやるのだ。俺を苦しめたあらゆる奴を呪ってやるのだ。俺は今日限り俺の魂を悪魔にやって終うのだ。天地の間に充ちている悪鬼妖精、其他もろもろの邪悪の徒は聞け。支倉は今日只今より悪以外の事は何事もしない事を誓う。俺はそれによって、今日まで俺を苦しめたこの忌わしい社会、権謀と術数と、姦詐と陥穽に充ちた人世に一大復讐を遂げてやるのだ」
 支倉のかっと見開いた眼は見る/\吊上り、口は耳まで裂け、真紅の舌からは血汐が滴るかと見えた。静子は恐怖に顫えながらガバとつっぷした。

 悪鬼の姿に変じた支倉は尚も怒号を続けた。
「俺は死なゝい。断じて死なゝい。生きながら悪魔に化すのだ。俺を苦しめた奴等を片っ端から、呪って/\呪い抜くのだ!」
「あ、あなた」
 静子は必死の声を絞って叫んだ。
「そ、そんな恐ろしい事は止めて下さいまし。身に覚えのない事ならいつかはきっと晴れます。冤罪で死んだ者は安らかに何の苦痛なしに主の御許に行く事が出来ます。どうぞ、どうぞ悪魔の味方になる事は止めて下さいまし」
「ならぬ、ならぬ、俺は呪うのだ。己れ、庄司、神戸、神楽坂署の刑事ども、俺の呪をきっと受けて見よ。静子、お前との夫婦の対面も之限りだ」
 そう云いすてゝ支倉は忽ち身を飜えしていずくともなく立去ろうとした。静子は一生懸命に夫に縋りつきながら、
「まあ待って下さい。もう一度考え直して下さい。坊やをどうするのです。それ、そこにスヤスヤ寝ている坊やをどうするのです」
「なに、坊や、うん、俺も昔は恩愛の絆に縛られて、女々しい気にもなった。もう今の支倉にはそんなものは用はない。そうだ、今日生きながら悪魔になろうと誓った首途《かどで》の犠牲に、そいつを踏み潰してやろう」
 怒髪天を衝き眼は爛々として輝き、かっと大口を開いた支倉は忽ち足を飛ばして寝ている子供を蹴飛ばそうとした。静子は驚いてその足に縋りついて、大声に叫んだ。
「あれ! 誰か来て下さいっ!」
 然しどうしたのか声が思うように出なかった。一生懸命に夫を押えている手も女の悲しさ、次第に力が弱って、今にも子供諸共踏み躙《にじ》られそうになった。彼女は身を悶えながら只微に、
「あれ――」
 と呻くばかりだった。

「もし/\、奥さん。どうしたんです」
 耳許に聞き覚えのある太い声が聞えたので、ハッと眼を開くと、のっそり浅田が立っていた。静子は今まで転《うた》た寝の夢を見ていたのだった。
 吃驚した彼女は飛起きると、浅間しい寝乱れ姿を繕《つくろ》った。
「どうなすったんです。大そううなされていましたぜ。玄関で大分呼んだのですけれども、返事がないので上って来たのですが」
 浅田はニヤ/\しながら云った。
「いろ/\思い案じているうちに昼間の疲れでつい転た寝をしたと見えます。そして恐ろしい夢を見たものですから」
 居ずまいを直した静子は襟元にゾク/\と寒気を催しながら答えた。この程から一方ならぬ世話になっている浅田に対しては、断りなく居間まで這入って来た無礼をむげに咎める事が出来ないのだった。
「そうでしたか」
 浅田はうなずきながら、
「此頃のように気を使っては尤もな事ですよ。そう云えば支倉さんもいよ/\公判に廻るそうですね」
「はい、近々そう云う都合になるそうです」
「予審で免訴と云う訳に行きませんでしたかなあ」
「はい、矢張り有罪と極りました。それに」
 静子は恨めしそうに浅田を見上げながら、
「保険会社から私訴とやらが出まして、この家を仮差押えされて終いました」
「えっ、仮差押え?」
 浅田は驚駭の色を現わしながら、
「そ、そんな筈はありませんが」
「でも、いたし方ございません。一昨日すっかり差押えられて終いました」
「はてね」
 浅田はじっと天井の隅を睨み上げながら、
「そんな事が出来る筈はないと思いますが、早速調て見ましょう。この家を押えられては困るでしょう。支倉さんも家を非常に頼みにして居られて、一日も早く無事にあなたの手に移るようにと、そればかりを気にして居られたのですからね」
「はい」
 静子はうなだれた。
「この家が自由になりませんと、弁護士を頼む事も出来ません」
「ほんにそうですね」
 静子の言葉に浅田は始めて気がついたように、
「公判に廻るとすれば一時も早く弁護士を頼まなければなりません。宜しゅうございます。私がその方をお引受けしましょう」
「何から何まであなたにして頂いては私の心がすみませぬ」
 その親切が恐ろしいと静子は溺れた者の藁でも掴むと云うその心で、外に頼る所もない身の浅田の申出に飛つきたいのを、じっと仰えて静かに断りの言葉を述べた。
「そんな遠慮はいりませんよ。奥さん、今更そんな事を云うのは水臭いじゃありませんか」
 ニヤリと笑った浅田の顔は常よりも一層卑しげに見えた。なろう事ならこの人の世話は断りたいのであるけれども、この人を外にして夫の世話をして呉れる人があろうとも思えぬ。思い悩んだ静子は黙って頭を垂れた。
「弁護士は能勢《のせ》さんが好いでしょう」
 浅田は一向静子の様子を気にせずに喋りつゞけた。
「あの方なら私も少しは知っていますし、こんな事には持って来いの人です。費用の事などは喧《やかま》しく云わないで、いつでも弱い者の肩を持って呉れる人ですよ」
「支倉も能勢さんにお願いしたいような事を云って居りました」
 静子は漸く頭を上げた。
「そうですか。じゃ支倉さんもきっと評判を聞いたのでしょう。では兎に角一人は能勢さんにお願いする事としましょう」
 能勢《のせ》弁護士と云うのは人も知る官権の横暴と云う事に強い反感を持った人で、卑しくも官権が圧迫を加えたと云うような事実に対しては彼一流の粘り強さで徹底的に糾弾《きゅうだん》する。若い裁判官は彼の皮肉な弁護振りに思わず苦い顔をする位で、戦闘意識の強い被虐階級には、有力な味方なのだ。その代りに時に反対せんが為に反対し、一部からは売名の徒と悪く云われる。事実弱者の味方をして有名になったのだから、売名と云われても仕方がないが、今の世の中に名を売る手段として弱者の味方をすると云う事は愚の極だ。むしろブルジョア階級の御出入を勤めて、名利合せて得る方が利口だ。そう云う利口な事の出来ないのは矢張り気質から来るので、能勢弁護士もどこか変った所がある拗者《すねもの》ではないかと思われる。兎に角関係記録を隅から隅まで読んで、よく腹の中に入れて置く事については定評のある人で、この点は流行弁護士が記録の下読をさせて要領だけを聞いたり、汽車の中で匆々の間に記録を走り読みしたりするのと選を異にしているようだ。支倉がそれと知って能勢氏に弁護を希望したかどうか分らぬが、本事件に彼が這入ったと云う事は愈※[#二の字点、1-2-22]本事件を複雑にし有名にしたので、他日支倉が寝返りを打って、その為事件がかく紛糾すると予期していなかった庄司署長や神楽坂署員にとっては厄介千万な事だった。
 静子は一向弁護士の事情などは知らないし、差当り依頼するとすればやはり浅田の助力を受けねばならないので、心が進まぬながらも頭を下げるよりなかった。
「何分宜しくお願いいたします」
「宜しゅうございます。私が引受けますよ」
 浅田は頼もしげに引受けた。
「あの、それで支倉は助かりますでしょうか」
 静子はオズ/\と聞いた。
「さあ」
 浅田は小首を傾けながら、
「どうですか私には分りません。よく弁護士の意見を聞いて見ましょう」
 夫がこのまゝ有罪と決したら、静子はどうしたら好いか。一銭の貯えもない上に子供を抱えて、今は日曜学校の教師を務める事も出来ず、路頭に迷う外はない。悲しい自分の運命を思うと、静子は又新たな涙に誘われてさしうつむいた。
「奥さん、気を落してはいけませんぜ」
 浅田は心配そうに静子ににじり寄った。
 夜は大分更けた。宵の口は静かだったが、いつの程にか風が出たと見え、庭の立木がザワ/\とざわついていた。

          公判

 大正六年九月二十五日、東京地方裁判所刑事部で、支倉喜平の第一回公判が開かれた。
 裁判長は少壮判事宮木鐘太郎氏で、立会検事は小塚氏、弁護人は能勢氏外三名、私訴を提起した二会社の代理人等、所定の席に居流れた。支倉喜平は見るから不敵の面魂で、臆する色もなく被告席に控えていた。当時彼は三十六歳だった。
 裁判長は静かに訊問を始め、法通りに身分職業姓名等を聞き質して、犯罪事実の審理に這入った。
 喜平は既に覚悟を定めたものゝ如く澱みなく裁判長の質問に答えて、片端から犯罪事実を否定して行った。警察署での自白は尽く虚偽なる旨《むね》恐るゝ所なく申述べた。裁判長はうなずきながら微に入り細を穿《うが》って訊問を試み、一先ず閉廷を宣した。それより前能勢弁護人は証拠申請準備の為続行ありたき旨を申請したのだった。
 続行公判は十月四日に開かれた。裁判長以下顔振れには変化はなかった。
 裁判長は支倉と小林貞との関係につき詳細訊問する所があった。能勢弁護人は上大崎空地の古井戸の検証、同共同墓地より掘り出したる頭蓋骨の鑑定、支倉の旧宅出火当時の所轄警察署の調書の取寄せ、神戸牧師以下二十四名の証人の喚問、以上四項の申請をした。裁判長は合議の末頭蓋骨の鑑定、調書の取寄せ、神戸牧師以下八名の証人の喚問等を許可し、他は却下して閉廷した。
 宮木判事は当時少壮有為の司法官だった。本事件審理後彼は長く欧米に遊び、親しくかの地の司法制度を研究して、帰朝後現に司法省内の重要なる椅子を占め、尚外務書記官を兼ねているのでも分る通り英姿颯爽、温容を以て人に接し、辞令企まずして巧で、加うるに頭脳明晰眼光よく紙背に徹する明《めい》のある人だったが、刑事裁判に長たることはこの支倉事件を以て始めとして且つ終りだった。たった一度の裁判に本事件の如き刑事裁判始まって以来の屈指の難事件に当ったのは彼の不幸か将《は》た幸か。加うるに本件の告発者たる神楽坂署長庄司氏は年来の旧知である。審理は慎重の上にも慎重を重ねる必要がある。宮木氏は、実に本件に於て彼の刑事裁判上の智嚢を傾倒して終《しま》ったので、よく本事件を裁断し得たのは、頭脳明晰にして精桿の気溢るゝ如き彼なればこそであろう。庄司署長と云い、宮木裁判長と云い、揃いも揃って、正を踏んで恐れざる斯界勇猛の士に当ったのは、支倉の運の尽きる所だった。
 宮木判事は如何に本件を解決すべきか、日夜沈思した。支倉の罪悪中最も重いのは殺人であるが、之を確認するには先ず被害死体が果して小林貞であるか否かを定めなければならない。被害死体が貞でないとすれば問題は根本から覆《くつがえ》って終う。死体が貞であると決定しても尚自殺か他殺か過失死かいろ/\問題が残るけれども、要するに死体の確認が第一である。予審調書に現われた所では未だ確実と云い難い。こう宮木裁判長は考えた。恰もよし、同じ思いの能勢弁護人より鑑定の申請があったので、忽ち之を許可すると共に、頭蓋骨については一名、着衣の一部である布地については二名の鑑定人を附する事にした。
 十月二十五日続行裁判の劈頭に於て右の鑑定人が呼び出された。
 一人は頭蓋骨の鑑定を命ぜられた斯学に学殖経験深き帝大医科の助手友長医学士で、一人は布地の鑑定を命ぜられた本郷の裁縫女学校長として令名高き田辺氏だった。
 頭蓋骨の鑑定事項は次の如くである。
     鑑定事項
[#ここから2字下げ]
一、大正六年押第二八八号二十八の頭蓋骨につき其者の性、年齢、顔貌の特徴、栄養の程度及び能うべくば死因の鑑定をする事。
特に上顎門上歯が幾分前に出て居りしや否や、下顎犬歯は普通人に比して長きや否や、犬歯の俗称鬼歯と称するものなりや否や。
下顎、犬歯は噛合するとき上顎歯列の前に出ずるや、及び智歯の存否。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]以上

 裁縫女学校長田辺氏に命ぜられた鑑定事項は次のようだった。
     鑑定事項
[#ここから2字下げ]
一、大正六年押第二八八号十五の布地の地質並に地色。
帯に用いられたる布片ありや否や。
帯とせば該布片により見たる帯としての幅如何。
帯とせば腹合帯一片なりや否や。
然りとせば其想像したる原形如何。
毛繻子に折返し其上に片側メリンスを縫付けある(片側全部なりや否やは不明)帯の残片に該当せざるや。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]以上
 鑑定人はいずれも承諾した旨返答をして退廷した。
 尚も一人の鑑定人は高工教授の佐藤氏で、之は四、五日遅れて十月二十九日の公判廷へ呼び出されているのだが、便宜上ここへ併記して置こう。
 この鑑定事項は簡単で
[#ここから2字下げ]
一、大正六年押第二八八号十五の布地の地質、染色、模様等如何。
[#ここで字下げ終わり]
 と云うのだった。
 さて十月二十五日の公判であるが、劈頭呼び出された鑑定人が退廷すると、今度は順次に証人が呼び入れられた。
 第一に入廷したのは例の井戸浚いをした人夫で、裁判長の訊ねるまゝに予審廷に置けると大同小異の返答をした。次に呼び入れられたのは井戸から死体の出た当時、検視した医師である。之も予審廷に於けると同じような陳述をして退廷した。
 次に呼び入れられたのは神戸牧師である。
 神戸牧師は口をへの字に結んで太い眉をきりゝと上げながら、証人席についた。
 彼はこうして公判廷に呼び出されるのを決して愉快には思っていなかった。元より被告と違って、何の罪がある訳ではなく、少しも恥る所はないのであるが、我国の風習では法廷に出ると云う事自身が既に快いものでない。それに裁判長には権柄ずくで訊問されるし、少しでも間誤《まご》つこうものなら厳しく追求せられる。反対の立場にある弁護人から皮肉な質問を浴びせられる事もある。牧師の身としてこんな目に遭う事は一種の侮辱を感ぜざるを得ない。それに証言そのものは支倉の私行上の事に渡り、女を姦したとかそうでないとか云う実に不愉快千万な問題である。
 神戸牧師ほど本事件について甚大な迷惑をした人は他にあるまい。支倉事件では随分いろ/\の人が悩まされたが、そのいずれもは職務上か或は直接事件に関係した人である。神戸牧師に至っては単に貞子の事で支倉と貞子の叔父との間を、それも頼まれて止むを得ず仲裁の労を執っただけなのである。
 所が裁判の上から云うと、彼の証言は実に重大なのだ。井戸から上った死体が貞であると確定しても、次の問題、支倉が果して彼女を井戸に突落して殺したかどうかと云う問題になると、さっぱり動かすべからざる証拠と云うものはない。そこで支倉が果して貞子を殺さねばならぬ切迫した事情があったかどうかと云う事が重大問題になって来るが、この問題になると、支倉対小林の関係を詳細に知っている神戸牧師の証言が非常に有力になって来る。のみならず、彼は支倉の自白の際立会っているのだ。
 神戸牧師にして見れば、証人として立った以上、事実を抂《ま》げて陳述する事は出来ない。又実際彼は殊更に事実を抂げて申述べる事をする人でもなければ出来る人でもない。所が神戸牧師の一言一句は直ちに支倉の運命に重大影響を及ぼすのである。事柄が事柄だし、こんな迷惑な証人は恐らく他にないだろう。
 神戸牧師はゴクンと喉の塊りを呑み込んで、下腹に力を入れながら、裁判長の顔を仰いだ。

 裁判長は型通りの質問をした後きっとなって、証人と被告との関係を尋ねた。
 神戸牧師は予審廷に於ける通り支倉との浅き交友を述べ、貞子の事につき、支倉と小林との間を調停するに至った事を述べた。
「支倉は貞との関係につき始めは中々秘して語りませんでしたが、遂に私の面前で恥且つ悔いながら逐一申述べました」
 こう云って口を閉じると、神戸牧師はそのまゝむっつり黙り込んで終《しま》った。
 裁判長はこゝぞと声を励ました。
「その時被告は証人に貞を暴力を用いて犯した事を自白したか」
 此返辞は重大である。満廷固唾を呑んで牧師の身辺を凝視した。
 支倉は終始一貫と云って好い程暴行凌辱を加えた事を否認している。彼は合意の末通じたものである事を主張しているのである。合意か暴力を用いたか、之は支倉の死命を制する問題だ。後に支倉は神戸牧師の予審廷以来の証言に深き憾《うら》みを抱き、後数年間彼は嘗ては師事し、貞子の事件には一方ならぬ世話になり、彼の上願書にも「立派な牧師の調停により事ずみになった」旨を強調した程、恩義を感じていた神戸牧師に対し、あらゆる罵言を浴びせかけ、偽牧師と罵り、庄司署長と結託して彼を死地に陥れたと怨言を発し、果は恐ろしい呪いの言葉を吐きかけるに至った。
 この支倉が庄司署長と神戸牧師がぐるになって俺を陥れるのだと、呪いの言葉と共に叫び通したのは少しは理由がある。それは署長と牧師とはいずれも北国のある高等学校の出身で、尤も同級と云う程ではなく、神戸氏の方が先輩なのだが、在京同窓会などで、時々顔を合して、二人は満更知らぬ仲ではなかったのだ。
 それを聞き知った支倉は、神戸牧師が庄司署長を庇護する為に彼に不利益な証言をしたと怒号し出したのである。
 卑しくも人一人の生命に係る事を、高が高等学校を同じゅうした位の縁故で、法廷に於ける証言を、殊に牧師の身にある人が抂げると云う理由がない。支倉の僻《ひが》みだろうと思われる。
 所で同じ高等学校の出身と云う事について一寸面白い挿話があるからこゝに書いて置こう。
 支倉事件よりずっと後に、某省の官吏だった山田健と云う男が御用商人を野球用のバットで撲り殺した事件は読者諸君の記憶に尚新なる所だろう。あの山田と云う男が庄司利喜太郎とやはり高等学校を同じゅうした、ずっと後進なのだ。彼は後に身を誤ったが、世話好きな豪傑肌の男だったと見え、よく友人の尻拭などをしてやったもので、或る時友人の一人が酔った余り乱暴を働いて警察に留置され、事が面倒になったので、山田は母校の先輩である当時警視庁の官房主事をしていた庄司氏を訪ねて、援助を乞うた。庄司氏も事柄が高が酔興の失敗位だったので、その際の警察の署長に話してやって、学生を放免させた。
 その後暫くしてから山田は又々真蒼な顔をして、警視庁を訪ね庄司主事に面会を求め、友人が人殺しをして発覚しそうになっている。ついては彼を満洲に逃がしたいから見逃して呉れと必死になって頼み込んだ。
 無論庄司氏は首を振った。
「馬鹿な」
 後に庄司氏は人に語った。
「酔っ払いの放免と人殺しとを一緒にするちゅう奴があるものか、ハヽヽヽ」
 神戸牧師にしてもその通りだろうと思われる。人を殺人罪に陥れるのと、母校を同じゅうしただけの友人を庇護するのとは同日に論じられないではないか。
 裁判長の、被告は暴行を加えた事を申し述べたかどうかと云う問に対して、いずれも息を凝らして返辞を待ったが、神戸牧師はやおら口を切ってきっぱりと云った。
「その事は申上げられません」
 意外な返事である。満廷どよめき渡った。

 公判廷に於て証人が証言を堂々と拒絶するとは未だ聞かざる所である。
 神戸牧師の言葉に意外の感を起した宮木裁判長は直ちに荘重な声を一段大きくして云った。
「それはどう云う理由であるか」
 神戸牧師は臆する色なく答えた。
「支倉は私を牧師と見込んで、彼の秘密を打明けたのです。即ち彼は自白したのではなく、懺悔をしたのです。神に対して告白する所を私を仲介者に置いたのに過ぎないのです。私は神に向って懺悔せられた人の罪を、軽々しく公の席で申し述べる事は出来ませぬ」
「然らば証人は」
 裁判長は牧師の道理ある言葉に少し難渋の色を見せながら、
「法廷に於ける証言を拒絶する意志であるか」
「私は神の僕《しもべ》であると共に」
 牧師は答えた。
「法律の重んずべき事は能く存じて居ります。もし法の命ずる所として強制せられるならば致し方ありませぬ」
「さようか」
 裁判長は一寸首を捻《ひね》ったが、直に休憩を宣して、陪席判事に目配《めくば》せすると大股にゆっくり歩きながら退廷した。
 暫くすると、合議が終ったと見え、裁判長は矢張り前と同じように大股にゆっくりと歩んで現われて来た。
 彼は着席すると直に証人を呼びかけた。
「改めてもう一度聞くが、証人は果して法律上の其の証言を拒む意志であるか」
「いゝえ」
 牧師は答えた。
「必ずしもそうではありませぬ」
「然らば裁判長は職権を以て、証人が支倉より聞知した告白を、当法廷に於て陳述する事を要求する」
 宮木判事はきっと宣告した。
 神戸牧師はきっと唇を噛んで顔色を蒼白にして暫く黙っていたが、漸く決心したものと見えあきらめたように云った。
「それでは致方ありませぬ。支倉は貞を暴力を以て犯した事を明白に私の前で告白いたしました」
「うむ」
 裁判長は意を得たりとうなずきながら、
「それはどう云う告白だったか」
「支倉は彼の二階で妻の不在中、貞に按摩をさせているうちに情慾を起し、遂に貞の意に反して犯したる旨申しました。そうして小林に対して謝罪をする事を承知したのです」
 神戸牧師は額に冷たい汗を滲《にじ》ませて、苦悶の表情を浮べながらこう答えたが、又元のようにむっつり黙って終った。
 神戸牧師は支倉が自分を信じて告白した所の、彼の告白を、無慙にも公判廷で申述べねばならなくなった事を余程心苦しく思ったに相違ない。彼は数年の後当時を回顧して、こう云っている。
[#ここから2字下げ]
「殊に予は予の立脚地として、社会公衆の前に訴うべき一事があるのである。それは裁判法廷に於て、牧師の前に於てなしたる被告の精神上の告白を、証人として其まゝ裁判所が其内容を強要し得るや否やの点である。現に予は第一審に於て、当時の裁判長の前に於て、一旦此証言を拒絶したのであった。然るに、裁判所は合議の結果其権威を以て予に証言を強要し、以って当時被告支倉の姦淫に関する告白を其まゝ法廷の証言として仔細を述べしめたのであった。これ牧師たる予の今に至るまで承服し得ない所である」
[#ここで字下げ終わり]
 右の一文と当時法廷に於ける言葉で分る通り、神戸牧師は強き性格の人である。彼の証言拒否は決して支倉を庇護する為ではなく、牧師としての良心の現われの一つであった。尤も証言拒否が成功すれば、支倉としては秘密に触れられなくてもすむのであるから、大いに利益したに相違ない。牧師も亦積極的に彼を庇護する積りはなくても、云わずにすめば支倉の迷惑は軽減すると考えていたに相違ない。
 けれども結局云わねばならなくなったから、彼の一旦拒否した事は偶※[#二の字点、1-2-22]《たま/\》彼の証言に重きを加える事になって終った。
 被告の利益を代表する能勢弁護士、何条黙すべき。

 神戸牧師の証言重々しく、被告にとって一大事と見た能勢弁護士は直に立って、裁判長に向って証人の質問を試みたき事を要求した。
 裁判長は能勢氏の欲するまゝに証人に対して質問を許した。
「只今証人の言の如く暴行云々と云う事になると、重大間題であるが、これについて被告の謝罪方法はどんな事であったか」
 之は能勢弁護士の第一問である。
「それは」
 牧師は弁護士を尻目にかけながら、
「小林兄弟に対して謝罪状を認める事と、本人の病気を治療する事の二つです」
「証人又は小林兄弟に於て、私通と主張するなら被告を告訴すると云った事があったか」
「私には立派に暴行なる旨自白したのですから」
 牧師は冷かに答えた。
「そんな問題は起りません。然し、被告は小林兄弟に対しては私通なる旨主張していたようでした」
 能勢弁護士はこゝに質問を打切った。長追いは無用である。今の証人の答弁で暴行云々と云う事が小林兄弟に於てさ程問題にされていなかったと云う印象を裁判官に与える事が出来たら、それで成功なのである。
 神戸牧師の訊問は之で終りを告げ、次で小林兄弟、高町医師其他数名の証人が引続き取調べられた。
 最後に裁判長は被告に向って、今までの証人並に参考人の陳述につき、意見、弁明、反証等はないかと聞き質した所、被告支倉はなしと答えたので、その日は閉廷となり続行する事となった。
 十月二十七日には宮木判事は放火の疑いのある旧支倉宅の実地検証を行った。
 十月二十九日十一月八日に夫々続行公判があり、専《もっぱ》ら聖書窃盗に関する証人の訊問が行われた。
 その間中央気象台より貞の行方不明になった大正二年九月二十六日の天候の回答が来ていた。すべ/\した洋紙にペンの走書だが、最後の行に「月明なし」と云う句が冷たく光って見えた。月明があれば少くとも当夜如何に原中でも兇行が行い難いと云う消極的の反証にはなるものを「月明なし」ではとりつく島もない。
 十一月に這入ると、先に下命した鑑定の結果が続々判明して来た。鑑定書はいずれも微に入り細を穿ち、頗る浩瀚《こうかん》なものであるが、こゝには結論を挙げるだけに止《とゞ》めて置こう。布地に関する鑑定は次の如くである。
[#ここから2字下げ]
   鑑定
別封第一 片側は濃き納戸地に茶色の模様ある友禅モスリン地片側は黒色の毛繻子地よりなる昼夜《ちゅうや》女帯の一部
別封第二 別封第一の濃き納戸地に茶色の模様ある友禅モスリン地と等しきものなり
別封第三 肉色又は白茶色の地合に赤若しくは金茶色の花様の模様ある友禅モスリン地
別封第四 桃色地に赤色の模様ある友禅モスリン地よりなる縫紐の一部
別封第五 別封第三の布地と等しきものなり
別封第六 モスリン地及黒色毛繻子の緯糸並に鋏
  大正六年十一月七日
[#ここで字下げ終わり]
 以上は高工教授佐藤氏の鑑定で、田辺裁縫女学校長の分は次の通りである。
[#ここから2字下げ]
   鑑定
 以上詳記せる如くにして、之を要するに黒色繻子に藍鼠鹿子形|捺染《おしぞめ》メリンスの腹合《はらあわせ》帯にて幅九寸内外長さ八、九尺にして、片側は全部黒毛繻子、片側は黒毛繻子を折返し、不足分に接ぎ合せたるメリンスを縫いつけたるものにして、之を黒毛繻子を内側に二つ折にして締め居りたるものと推定す。
   大正六年十一月十日
[#ここで字下げ終わり]

 死後六ヵ月を経て井戸から出た死体を、三年間土中に埋没した後掘り出して、色も褪せボロボロになって原形を止《とゞ》めない着衣の一部の切れ地から、立派に元の状態が推測出来る科学の力は驚く外はない。而もその服装が小林貞子の家出当時の服装とピタリと一致しているのだ。因縁と云うものゝ恐ろしい事は、貞子が普通ありふれた服装をしていたのなら、又見極める事もむずかしかったであろうが、彼女は田辺校長の鑑定で分る通り、誠に特異な帯を締めていたので、僅に残った帯地が彼女を確認する手段となった。
 之も支倉の運の尽きる所であろう。
 彼女が特異な帯を締めていたと云う事は、死体の上った節、検視した品川署の警部が、三年後の今樺太は真岡《まおか》支庁に転任していたが、東京地方裁判所の委嘱により、同地方の判事が取調べたが、彼はこう云っている。
「帯は普通の女帯では勿論なく、又細紐でもなく、若干巾広の女の用うる細帯でした。何分時が経つので、すっかり忘れて終いましたが、帯が普通の女帯でなかった事だけははっきり覚えています」
 友長医学士の鑑定書は越えて十二月十九日に到達した。例により結論だけを挙げる。
[#ここから2字下げ]
   鑑定
前記検査記録説明の理由に拠り鑑定すること左の如し
一、本頭蓋骨は女性とす。
一、本頭蓋骨の年齢は十六歳乃至二十歳と推測す。
一、本頭蓋骨の頭蓋は中型にして高型、顔面は稍長形、鼻は中型、顋《あご》は前反型なりとす。
一、本頭蓋骨はその性年齢に相当して発育せるものとす。
一、本頭蓋骨の死因は不明とす。
一、本頭蓋骨の上顋切歯は幾分前に出て居る観を与えしやも知るべからず。
一、本頭蓋骨の下顋犬歯は普通人と比し長し。
一、本頭蓋骨の下顋犬歯は鬼歯と称し得ず。
一、本頭蓋骨の下顋犬歯は咬合する時、上顋歯列前に出でず。
一、本頭蓋骨の知歯は下顋に於て其歯槽内に於いて存在し、上顋に於ては不明とす。
  大正六年十二月十九日
[#ここで字下げ終わり]

 以上諸家の鑑定により発掘せられた死体は小林貞である事が動かすべからざるものとなった。
 第二の問題は支倉が果して彼女を殺せしか、否か。
 之は専ら彼の警察署に於ける自白の真実性、諸証人の言の綜合の上よりして、裁判官の心証のうちに描き出される事であらねばならない。
 続行裁判、証人の訊問、鑑定人の答申等のうちに、支倉の一身上に多事なりし大正六年は遂に終ったのだった。
 明けて大正七年一月十九日に第六回の公判が開かれた。この時に能勢弁護人は「小林貞と称せられる者の遺骨を埋めた墳墓」の実地検証と遺骨の胴体の鑑定を申請した。彼の考えは神楽坂署で発掘に向った時には最初飛んでもない間違った死体を持返っているから、その間何か被告に有利な弁護の材料はありはしないかと睨んだのである。
 裁判長は直に之を許可し、胴体は再び友長医学士に依って鑑定せられる事になった。
 が、鑑定の結果は四尺二寸より低からざる年齢十六乃至二十歳の女性の正常骨格である事が判明して、先に持返った頭蓋骨の胴体である事が明かになった。
 二月十六日、五月六日、六月十日、同二十五日、同二十六日と続行裁判を重ね、続々として証人の喚問被告の訊問が行われて、検事と弁護士の間に論告があった後、愈※[#二の字点、1-2-22]七月九日に判決が下される事になった。
 そうして下された判決は冷たい「死刑」であった。

          三本の手紙

 真夏の午後、日ざしは少し斜になったとは云いながら、焼けつくような太陽は埃りぽい庭にギラ/\と眩しい光を投げつけていた。神戸牧師は端然と書斎の机の前に坐りながら、書見に倦み疲れた頭をぼんやりと休めていた。
 あるかなきかのそよ風が軒に釣り古した風鈴に忍びやかな音を伝えて、簾越しにスーッと、汗ばんだ単《ひとえ》衣の肌を冷かに撫でて行った。
 神戸牧師はふと今朝程来た裁判所からの召喚状の事を思い出した。彼の眉にはみる/\深い皺が寄った。
 牧師の頭には不愉快な思出がアリ/\と浮かんで来た。
 大正六年の冬、それはもう一昨年の事になるが、初めて神楽坂署に呼出されて、支倉喜平の恐ろしい罪状の数々を聞き、彼の自白に立会ってから、昨年の夏第一審の終結となるまで、何回となく証人として法廷に立たされた、苦しい思い出は終生忘れる事が出来ない。
 去年の夏七月第一審が終結した翌朝、彼の妻は不安とも安心ともつかない浮かない顔をして彼に云った。
「支倉はとうとう死刑になりましたね」
「うん」
 牧師も浮かない顔をして答えた。
「控訴するでしょうか」
「無論するだろう」
「じゃ、又証人に呼び出されるのでしょうか」
「無論、呼び出されるだろう」
 妻は言葉を切って夫の顔を見た。夫は妻の情なさそうな顔を見た。妻は明《あから》さまの溜息を、夫は腹の中で私《ひそ》かに溜息をついたのだった。
 支倉は果して控訴した。審理は又蒸し返しとなった。被告の都合や、弁護人の都合や、裁判所の都合で公判は延期に延期を重ねた。その中に一年は夢のように経って終《しま》ったけれども、裁判は少しも埒《らち》が開かない。
 裁判を遷延さす事はそれが弁護人の策略であるかのように神戸牧師には思えて仕方がなかった。裁判が延びるにつれて、被告の犯罪事実は調書に止《とゞ》まってはいるものゝ、だん/\印象が薄れて来る。証人も倦み疲れ、判官も熱心が欠けて来る。その間に乗じて弁護人が巧に働けば遂には証拠不十分と云う事に漕ぎつける事も出来るだろう。それだけに裁判を延ばされると云う事は、いつも証人として立たなければならない神戸牧師に取っては、苦痛の度が益※[#二の字点、1-2-22]大きくなるのである。
 五年も六年も前の出来事について、而も度々繰返した一つの証言を、又事新しく強いられるのは苦痛でなくてなんであろう。所が神戸牧師の苦痛はそれだけに止まらなかった。
 支倉は控訴後も無論未決監に入れられていたが、彼が獄中から毎日と云って好い程――実際は月に四、五回だったかも知れないが、牧師にはそれが毎日と思えるのだった――彼に当てゝ手紙を送った。それには極って、
「神戸さん、ほんとうの事を云って下さい。庄司とぐるになって私をいじめないで、ほんとうの事を云って下さい」
 と書いてあった。それも初めのうちは嘆願の調子だったが、それがだん/\悪意があるようになり、果は彼を侮蔑し罵るようになった。神戸牧師は努めて彼の手紙を黙殺しようとしたが、執拗な彼の遣方に終いには腹立しさを感じて、手紙を見るといら/\するようになった。
「又来ましたよ」
 彼の妻も手紙が来る度に眼の色を変えて訴えるようになった。
「関わん、抛とけ」
 牧師は尖った声でこう答える事が多くなった。
 いつまで経っても支倉は恨みの手紙を送る事を止めなかった。
 むしろ益※[#二の字点、1-2-22]激しくなるのだった。
 神戸牧師はこんな事を思い浮べながら、茫然と庭を見つめていると、妻が名刺を持って這入って来た。
「この方が支倉の事でお目にかゝりたいのですって」
 彼女は不安そうに夫の顔を覗った。
 名刺には「救世軍大尉 木藤《きふじ》為蔵」とあった。

 救世軍の木藤大尉と云うのは一向知らない人なので、神戸牧師は暫く名刺を見詰めていたが、支倉の事に就てと云われると、会わない訳にも行かないので、兎に角通すように妻に命じた。
 この木藤と云う人は後に分ったのであるが、廃娼運動の急先鋒で、遊廓で廃娼演説をやったり、娼妓の自由廃業を援助したりして、楼主側から非常な圧迫を受けた。然し毫も屈しないで運動を続け、或時は暴力団に包囲されて、鉄拳で乱打されたり、時には無頼漢に匕首《あいくち》を擬して追われたりした、真に死生の間を潜り抜けた勇烈の士だった。
 彼はずんぐりした短躯で、見るから頑丈そうな、士官の制服が窮屈そうに見える人だった。
「やあ、初めまして」
 木藤は座に着くが早いか、元気よく挨拶をした。
「初めまして」
 神戸牧師は丁寧に礼をした。
「中々暑うございますねえ、先生の方の御仕事はいかゞですか。我々の方はこう暑いと骨が折れますよ」
「そうでしょう。あなた方のお仕事は大変でしょう。我々の方は仕事と云っても別に変った事はありません。お恥かしい位です」
 牧師は謙遜した。
「いや、我々の方も一向駄目です、思うように行きません」
 元気な救世軍士官は汗を拭き/\、
「所で今日突然お伺いしましたのは、支倉喜平の事でお願いに出たのですが」
「はあ」
 牧師は暑さで上気した相手の顔を見た。
「私はその、他の用で東京監獄に行きましてね、ふと支倉に呼び留められて、だん/\話を聞いたのですが、あゝ彼の云う事が全部事実だかどうか分りませんが、可哀そうな者だと思われますので、実はお願いに出たのですが、先生一つ何とかして救ってやって頂けませんでしょうか」
「成程そう云う訳でしたか」
 神戸牧師はうなずきながら、
「で、その救ってやると云うのはどうすれば好いのですか」
「そう具体的になると困りますがね」
 木藤大尉は鳥渡《ちょっと》頭を撫でるようにしながら、
「つまり何です。彼を憐んで下すって、彼の利益になるような証言をしてやって頂きたいのです」
「利益な証言と言いますと」
 神戸牧師は飽くまで真面目であった。
「つまり従来のではいけない、彼を庇護する為に事実を曲げろと仰有るのですか」
「いや、それ程までに強い意味ではないのです。先生の証言なるものは要するに心証の問題で、事実は曲げなくても、先生のお考え一つでどうにでも解釈の出来る問題じゃないのでしょうか」
「そうかも知れません」
 牧師はきっぱり云った。
「ですから私は私の解釈を法廷で申述べたのです。尤も私は一旦は拒絶しました。然し既に口外したからには、私の考えとして飽くまで責任を負い、今後変更しようとは思ってはいません」
「ご尤もです。然しもし先生が彼に憐れみを垂れて下されば――」
「鳥渡お待ち下さい」
 神戸牧師は遮《さえ》切った。
「先刻からのお話では、私が何か支倉を憎んでゝもいるように取れますが、もしそう云うお考えだと飛んでもない事で、私は決して彼を憎んでは居りません。十分憐憫の情は持っている積りです。然し宗教家としての私は、法律上の罪人として彼に干渉する事は出来ないと思うのですが。それとも彼は全然冤罪であると云う確証でもお持ちなのでしょうか」
「いや、決してそうじゃないのです。私も彼が悪人であると云う事は十分認めているのです。然し、悪人なればこそ、一層救ってやる必要はないでしょうか」
「悪人を救ってやる事には異議はありませんが、それは宗教の関係している範囲で、法律上の事に及ぼす事は出来ないと思います」
 神戸牧師はいつになく熱して来た。

「然し」
 木藤大尉も屈しなかった。
「法律上の罪人でも救う道はあると思います。例えばユーゴーの小説レ・ミゼラブル中のミリエル僧正がジャン・バル・ジャンを救ったようにですね」
「あなたは何か誤解をして居られませんか」
 神戸牧師は大尉の顔を見ながら云った。
「支倉は獄中から度々私に手紙を寄越して、『神戸さん、あなたは牧師だったら、ホントの事を云って下さい』とか、『私はあなたからホントの事を云って貰って、あなたに救われたなら、あなたの為に出てからどのような事でもする』とか云って居りましたが、多分あなたにもその通り申上げたでしょう。その為にあなたは私が何か嘘でも云っているようにお取りではありませんか。あなたは最近に不意に支倉に会われて、彼の口から冤罪を訴えられたので、すっかり信じてお終いになったかも知れません。私は久しい以前から彼を知っています。現に彼の自白の場面にも立会ました。で、私はあなたが今彼の訴える事を信じられる通り、彼の自白を信じざるを得ません。あなたも今の彼の云う事を信じて、以前に彼の云った事を信じないと云う事は出来ないでしょう」
「ご尤もです。一言ありません」
 木藤はうなずいた。
「私だって彼の冤罪を全然信じている者ではありません。ですから、こゝでは彼の云う事が正しいか正しくないとか云う問題でなく、彼も今となっては悔悟の涙に暮れているのですから、どうでしょう、義侠的に彼を救ってやって下さいませんか」
「成程、あなたのお考えはよく分りました。憐れな囚人や、醜業婦や、貧民窟の貧乏人を救ける位の義侠は宗教家としては持合せていなければならぬ筈です。然しそれも事柄によります。現在のように法律問題となって、法廷の曲直を争っている彼に対して、私が義侠的に救けると云う途はないと思います。法廷に立って私は、権力を以て強られるまゝに、真実私の感じた事を述べるより外はありません」
「先生の御意見はよく分りました。では私として、法廷の証言以外に彼に対して、どうか好意を持ってやって頂きたいとお願いするより致方ありません」
「私は前申上げた通り、彼に対して悪意を持った事はありません。仰せの如く今後出来るだけ好意を持ち続ける事にいたしましょう」
「どうも恐れ入ります。そう願えれば之に越した喜びはありません。それから」
 木藤は鳥渡言葉を改めて、
「お言葉に甘えてお願いがありますが、実は支倉が小林貞の事に関して、当時先生に差上げた書面が数通ある筈だが、それは自分に利益のある書面だと思うから全部お借し下さる事を願って呉れと申したのですが、いかゞでしょう」
「書面ですって」
 神戸牧師の顔にはチラリと不快な影がさした。
「さあ、私も書面は一々保存はして居りませんが、当時支倉の寄越したものは残っていたかと思います。然し、それが果して彼に利益があるでしょうか」
「それは私にも分りませんが、兎に角見たいと申して居りますから貸してやって頂けませんでしょうか」
「貸す事は一向差支ありません。では鳥渡お待ち下さい。探して見ますから」
 神戸牧師は立上って隅の本箱の前に行き、抽斗を開けて暫くゴソ/\と音をさせていたが、やがて一束の手紙を手にして、元の座に戻った。
「当時支倉から来た手紙は之だけ残って居ります」
 神戸牧師は手紙の束を木藤の前に押し遣りながら、
「多分之で全部だと思います。私も後にこんな面倒な事件が起るとは夢にも思いませんでしたから、一々保存をして置かなかったかも知れません。之でお役に立つならどうぞお持ち下さい」
「そうですか。どうも有難うございます。支倉もきっと先生の御好意を喜ぶ事でしょう」
 木藤は手紙の束を無雑作にポケットにつっ込んだ。

 神戸牧師は支倉の希望だと救世軍の木藤大尉の云うがまゝに、支倉が牧師に宛てた古手紙一束を貸し与えた。
 木藤大尉は感謝の言葉を述べて、今後の事を呉々も頼んで辞し去った。
 大尉の去った後で、牧師は軽い懶《だる》さを覚えながら、一点疚しい所のない彼の公明な行動を、どこの隅からか、支倉が恨めしそうな顔で非難しているように思えて、ともすると灰色の不快な雲が頭に蓋い被さるのだった。
 会見の結果を心配して、聞きに出て来た彼の妻にも一言噛んで吐き出すように、
「何でもないさ」
 と云っただけだった。
 流石の神戸牧師もこの手紙を貸し与えた為に、反って非常な迷惑を蒙る事になろうとは気付かないのだった。
 こゝで話は支倉の事に移る。
 支倉は第一審で死刑の宣告を受けて以来、彼の念とする所はいかにして死の手より逃れるかと云う事だった。その為に彼は弁護士初め会う人毎に冤罪を訴えた。裁判長には書面を以て、神楽坂署に於ける拷問によって虚偽の自白を余儀なくせられたことを繰り返し訴えた。一方神楽坂署の庄司署長以下刑事達に対し、物凄い脅迫の手紙を毎日のように送った。それのみで倦き足りないで、各方面に向けて庄司署長の悪声を放った。監督官庁へは毎日庄司署長を免職させろと云うはがきが飛び込んだ。
 当時の支倉の頭は針のように尖って、只いかにして罪を逃れんかと云う事に集中していた。元より愚物|所《どころ》ではない人並勝れて智恵の働く彼の事である。深夜人の寝静まった監房に輾転反側しながら、頭は益※[#二の字点、1-2-22]冴えかえり、種々画策する所があったに相違ない。
 彼は古い記憶を新たにして、あれこれと反証の材料を脳裡に探るうちに、ふと往時神戸牧師に宛てた手紙を思い出した。此手紙のうちには貞の問題に関して、小林兄弟の行動を非難し、自己の立場が縷々として弁明してある筈、之があれば必ず有利な云い開きが出来ると考えた。そこで自分に深甚の同情を持って呉れる木藤救世軍士官に依頼して、首尾よくその手紙を手に入れる事が出来た。
 彼は手紙を手渡された晩、ニヤリと気味の悪い会心の笑を漏らしながら、自分の認めた古手紙を一々調べて見た。が、読んで行くうちに、みる/\彼の微笑は消え、残念そうな表情が浮んで来た。手紙には予期したような有利な言葉を見出す事が出来なかったのだ。
 彼は暫くハッタと薄暗い監房の片隅を睨んでいたが、やがて彼の非常な脳髄の冴えは、神戸牧師の寄越した手紙のうちに自分の書いた覚えのある三本の手紙が欠けている事を発見した。
 彼は眼を大きく見張り、大きな息を弾ませながら、物凄い形相で呻り出した。
「うむ、隠したな」
 こゝに欠けていたと云う三本の手紙は果して彼に取ってそんな有利なものだったろうか。それは疑わしいが、今全精力を挙げて罪を云い解こうとしている異常な念力で手紙の欠けている事を発見した彼には、釣り落した魚が大きく思えるように、いや今の彼はそんな悠長な比喩では現わせない、死か生かと云う之以上重大な事はないと思える事件に当っているのだから、欠けている三本の手紙がいかに大きく彼に響いたか、察するに余りがある。
「おのれ、神戸牧師! 庄司に頼まれて、俺に有利な三本の手紙を隠したなっ」
 支倉は再び忌々しそうに叫んだ。
 翌日、彼は直ちに筆を走らせて神戸牧師にはがきを出した。
「神戸さん、アナタは牧師なら庄司とグルになって、私をいじめないで下さい。私の手紙を隠さないで下さい。三本の手紙を早く出して下さい。でないと私はあなたを告訴します」

 大正八年二月七日に第一回公判を開いた第二審控訴院の審理は、同年五月三十日に既に四回の公判を重ねたが、其時に能勢弁護人より、
「被告支倉喜平は先日以来本件事実の真相を記録いたして居りまして、上巻だけは既に脱稿いたし、中巻は近日脱稿いたす筈で、下巻の脱稿には尚一ヵ月を要する由でありますから、右記録が全部脱稿致します迄、公判の延期を願いたいのであります」
 と云う要求があった。そこで公判はそのまゝ延期となり、九月二十七日には聖書会社が私訴の取下げをした事実があった限《き》りで、その年は暮れて終った。
 大正九年二月二十日第五回公判に於て、能勢弁護士は支倉が獄中で細々と認めた記録上中下三巻六冊を参考書類として差出した。裁判長は列席判検事と一閲の上、追って熟読すべしと云って分厚の書類を請入れたが、之ぞ後に公判のある毎に支倉が風呂敷包みにして出廷の際肌身を離さなかったと云う大部の書類である。
 裁判長はこの時威儀を正して、
「今差出した書冊に記録した事は真実の事で、且つ書洩らしはないかどうじゃ」
「はい、全部偽らざる記録であります。書洩らしもございません」
 支倉は悪びれずに答えた。
 支倉は一方裁判長にかくの如き浩瀚《こうかん》なる書類を出すと共に、一方庄司署長、神戸牧師に恨みの手紙を出す事は少しも怠らなかった。
 その頃神戸牧師の受取った手紙にはこんな事が書いてあった。
「神戸さん、アナタは本統の牧師であったら嘘を言わんで下さい。嘘を言って私を此上困らすと、私は絶食して死んでアナタの子々孫々にかけてタタリますぞ」
「私はなんの為にサダを殺すか? よく考えて下さい。解決済みにならんサキなら尚お殺せんじゃないか。私やアナタにサダはまだ関係のある中になくなったものとしたら、サダの出るまで私やアナタに『サダを出して返せ』と云って要求さるゝではないか」
「神戸さん! 私は当時アナタの所に書き送っとる小林サダと私とのなした行為及高町の所に何時何日に薬価及び入院料を払ってある、強姦でないと云う事が明記されとる所の手紙を裁判所の方に出して下さい。それから自分は二十六日には朝何時に家を出て、何処其処に行って何用を弁じて、何時何十分頃に宅《うち》に帰っとると云う事が詳しく書いてある手紙を裁判所に出して下さい。二十六日に於ける朝から帰宅迄の行動動作に就いては私は当時アナタにも定次郎氏にも詳しく話しもし、又書面にも詳しく認めて両方に上げてある筈ですから、是非一日も早く出して下さい」
 神戸牧師が庄司署長から頼まれて、故意に三本の手紙を隠したと狂気のように喚いた支倉は、後にこの為に遂に神戸牧師を偽証罪で告訴をさえ試みたが、之は神戸牧師に取っては迷惑千万な事だった。元より彼は故意に隠したのでもなんでもなく、木藤大尉が手紙を借りに来た時につい手渡しする事を忘れたので、支倉の追究が余りに激しいので、後に神戸牧師も耐りかね家探しをして幸いに見つける事が出来たので、裁判所へ差出したが、遂に支倉の満足を得る事が出来なかった。
 大正九年は五、六、七、八、九と五回の公判を重ねたが、いずれも既に調べた事実を反復する許りで、新しい事実としては警視庁の写真課の技手に貞子の写真から身長を算出せしめた位のことで暮れて終った。大正十年は僅かに一回の公判で終いとなり、年は明けて大正十一年となった。支倉は一審以来正に満五年間獄に繋がれているのだった。その間筆を呵して冤罪を訴え続け、呪の手紙を書き続けていた彼は哀れな人間と云わねばならぬ。
 が、こゝに愈※[#二の字点、1-2-22]彼を悪化すべき事件が起った。

          呪


「暑中御機嫌を伺う。
君は僕に犬牧師と言われても異議あるまい。異議ないと云う事は君の良心に問うて見れば直ぐ分る。君ア庄司利喜太郎から頼まれ、三本ばかり手紙持って来たて、この喜平は承知するものか、組んで世の中を余り胡魔化すなよ。君は神の前では愧《はず》かしくないか。ホントの牧師であったら慚死するのが正当ならん。私ア庄司利喜太郎が隠しとるものを悉皆出さんことには承知しませんぞ。
 大正十一年八月八日
「庄司利喜太郎と心を協せ書類を皆隠して僕を苦しめるとは実に酷い。鬼か蛇か。心を協せ隠した書類を皆庄司から出させて下さい。
 大正十一年九月二十日
「神戸さん、君庄司利喜太郎から頼まれて三本ばかり手紙を持って来たって、この喜平は承知するものか。君良心に恥じんか。庄司の隠しとるものを悉皆出させて下さい。出さん事にゃ承知せんぞ。
 大正十一年九月二十三日
「秋季御機嫌を伺う。
(この分前掲暑中御機嫌を伺う。以下と全く同文)
 大正十一年十月二十三日
「ニセ牧師
君方小刀細工やらずに、マトモに出ると、此後私ア唖子《おし》になって君方の名誉を保って上げるが、君方ア判官や検事を欺こうと謀っていろ/\ワルサをやるからワシは唖子になる事は出来ません。(以下前同文)
 大正十一年十月二十五日
「前同文大正十一年十月二十七日」
[#ここで字下げ終わり]
 僅に一ヵ月の間に神戸牧師の宅に飛び込んで来た支倉の呪のはがきは六本を算した。彼は苦笑いをしながら眺めるより仕方がなかった。
 が越えて大正十二年一月元旦には支倉からこんな手紙が舞込んで来た。
[#ここから2字下げ]
「恭賀新年
庄司利喜太郎と心を協せ山々の書類を隠し、偽証、喜平を無実の罪に陥いれたる神戸氏の御健康をお祈りいたします。
書類を隠し偽証に出で無実の罪に陥いれられている未決七年
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]冤枉者 喜平」
 このはがきを読んだ時には流石の神戸牧師も、彼の執拗な悪意に悲憤の涙を呑んだ。
 が、何がかくまで支倉を悪化させたか。
 彼は事実彼の主張する如く冤罪者だったか。もし果して然りとせば、云い解くに道なく、六年の長きに亙って、監獄に繋がれていれば世を呪い人を恨み、或いは嘆き或いは憤るのは蓋し当然である。よし事実犯せる罪であっても、六年の長きに亙って、冤罪を怒号し咆哮し続けているうちに、いつか彼は自分が無実であったかのように固く信ずるようになったかも知れぬ。加うるに彼の性質は既に拗《ねじ》け、剛腹《ごうふく》で執拗であるから、長き牢獄生活に次第に兇暴になったのは敢て不思議ではない。
 然し俄然彼の態度に一変を加えたのは、彼の妻静子が彼から背き去った事であった。
 読者諸君は支倉がいかに彼の妻子に対して愛着の念を持っていたかをよく知って居られるであろう。彼の愛は変態と云っても好い程、強い偏った愛だった。すべての囚人は妻子の事のみを案じ暮すと云う。況んや彼支倉の如きは只妻子を思うのみで、只管に死を逃れ、憎い神楽坂署長に恨みの一言を報いようと努力し続けたのである。
 ある朝、此頃静子が次第に自分を訪れる事が疎《うと》くなって来たので不安を感じていた支倉は、能勢弁護士から彼女が仇男《あだしおとこ》を持った事を聞くと、みる/\憤怒の形相となり、ハッタと能勢氏を睨みつけた。流石の能勢氏もタジ/\とした。

 妻の静子が彼に背き去った事を聞いた支倉の形相は実に物凄いものだった。彼の太やかな眉は釣り上り、見開いた眼は悲痛に輝き、きっと結んだ唇をブル/\顫わせて、呻くような太い息を吐いた姿は正に怒れる閻王の如く、気の弱い者なら眼を閉じて怖じ恐れて口を利く事さえ出来なかったであろうと云う。之は後に能勢氏が親しい友に語った所だ。
 静子は何故に彼から背き去ったか。温良貞淑なりし彼女を誘惑し去ったものは何ぞ。筆者はその後の彼女の消息は杳として知らないけれども、誰か起って彼女を責めるものがあろうか。両親の勧むるまゝに前科ある人とは知らで嫁した夫は、一子を儲けると忽ち拘引せられて、忌わしい殺人罪で死刑を宣告せられた。彼は冤罪を叫んで控訴したが、家には一銭の貯えもない、空閨数年いかでか守り卒《お》えるべき。獄中に呻吟する夫を振り捨て、他に頼るべき人を求めたのは、薄情と云わば云え、又止むを得ない事ではなかろうか。筆者は薄幸なりし彼女の半生に一掬《いっきく》の涙を濺《そゝ》ぐに止《とゞ》まって、敢て彼女を責めようとはせぬ。
 さわれ、取残された獄中の支倉は、唯一の頼みの綱を断ち切られて前途に全く希望なき身となった。深夜幾度か獄窓に凭《もた》れて男泣きに泣いた事であろう。
 彼は妻の責め問われるのに忍びずして、遂に神楽坂署で自白した。妻子の将来は心配するなと云った、署員の言葉を深く信じたのだと云う。そうして妻子の生活の資にと思った家屋が差押えられて、彼等が忽ち路頭に迷わねばならぬ事を知った時が、思えば悪化の最初であった。今妻に見放されて、一朝にして恩愛の絆は断たれ、僅に能勢弁護士、木藤大尉の厚き同情があるとは云え、孤立無援、天涯孤客となった。而も自分は捕われの身である。彼は生きながらの呪いの魔となるより途はなかったのだ。
 彼の呪いの目標は何と云っても神楽坂署長庄司だった。彼は物凄い脅迫の手紙を絶え間なしに送った。庄司署長の手許に届いたものだけで前後七十五本を算し、その外いかにして探ったか、署長の親類姻戚関係を辿り、罵詈《ばり》を極め、果は署長の出身小学校、中学校、戸籍役場より、其他関係しているあらゆる会にまで手を延ばし、甚だしきは署長夫人の出身女学校の校長にまで魔手を及ぼした。夫人の実家へ舞い込む頻々たる脅迫状に、当時奉公中の下女が顫え上って暇を乞うて逃げ出したと云う事もあった。
 監獄内からの発信は典獄に於て一々点検して、不穏なものは発信せしめない事になっていたのだが、検閲係りも多い中とて、つい疎漏に流れたと見える。
 然し、支倉の書信は全部許可された訳でなく、可成り発送止めになったのだった。それを以て見ると彼がどんなに多くの手紙を認めたか想像に余りある。彼は検閲に不満を抱きこんな上願書を典獄に出した。
「お願い申すのは甚だ恐れ多い事ですが、私から外へ出す書信を御不許可に遊ばす際にはこの所此の所が悪いから不許、この所を抹消したなら発信を許可してやると云う事に、一寸お印をおつけ頂き、そこを抹消したなら発送を御許可しいたゞけますよう、此所上願書を以て及上願候也」
 大正十一年六月七日第十二回の公判が開かれた。
 支倉は徹頭徹尾犯罪事実を否認し怒号した。
「神楽坂署で庄司署長がお前と義兄弟になって、必ず悪くは計らぬから、俺の顔を立てゝ白状して呉れと泣かん許りに頼みましたから、その気になり全然虚偽の自白をしたのです。あの頭蓋骨は品川の菓子屋の娘ので、貞のではありません。庄司がそう申して居りました」
 この公判の時之まで弁護人から度々申請して許されなかった、神楽坂署の佐藤司法主任石子刑事の二人が次回に証人として呼ばれる事になった。

「東京未決監未決六年、冤枉《えんおう》者支倉喜平」
 之が大正十一年頃支倉がその書信に定って麗々しく書いた署名だった。
 彼は六年の長い間未決監にあって、冤罪を訴え続けていた。彼の主張は神楽坂で拷問を受け心にもない自白をしたと云う一点だった。無罪か死刑か。実に明治大正を通じての一大疑獄たるを失わない。
 支倉の自白に立会った人はその真実を信じるだろうし、収監以後彼の愁訴を聞いた人達は又彼の云う所を信ずるであろう。木藤大尉は彼を哀れんで助けようとし、能勢弁護士は神楽坂署の拷問事件を糺弾しようとする。殊に後者は機会ある毎に新聞に雑誌に講演に、官憲の人権蹂躙を叫んだので、只さえ一大疑獄になろうとしている所へ、被告人支倉が又特別な性格の持主、そこへ能勢氏の宣伝と三拍子揃ったから、世論|囂々《ごう/\》、朝野の視聴を集め、支倉事件は天下の一問題となった。
 能勢弁護士はどうでも神楽坂署員の首の根っ子を押えて、取っちめようと云う考え、之まで度々署長以下の喚問を願ったが、中々許可されなかった。今度も肝心の元署長で今は警視庁の官房主事をしている庄司氏は許可されなかったが、司法主任と、支倉の逮捕には最初から奔走した石子、渡辺両刑事とが喚問せられる事になったから、彼等をあくまで追求して、前後矛盾の答弁でもあったら、直ちに突ッ込んで局面を有利に転回せしめようと手ぐすね引いて待ち構えていた。
 支倉は相変らず諸方へ脅迫状を送り、殊に庄司署長、石子刑事あたりへその主力を傾倒した。
 鳥渡申述べて置くが、支倉が未決数年に亘り、どうして裁判其他の費用を捻出したかと云う問題だ。他の事は分らぬが、相当多額に達したであろうと思われる郵便代などは、諸方へ嫌味な手紙を出してねだったものだ。
 一例を挙げると、神戸牧師夫人の所へなどは度々次のようなはがきが飛び込んで来た。
[#ここから2字下げ]
「甚だ申兼ねた御願いですが、これなるハガキ着次第どうぞ御封筒の中に三銭切手百枚御入れ御送りの上、自分出獄まで御貸与いたゞけますよう御願いいたします。如何折返し何れの御返事を願います」
[#ここで字下げ終わり]
 こう云う風な嫌がらせの手紙で金品を強請された人は外にある事と思われる。
 さて大正十一年六月七日、第十二回公判は裁判長以下成規の判官の下に、能勢氏他二、三の弁護人、特別弁護人として木藤救世軍士官が控えて、物々しく開かれた。この公判には神楽坂署の署員が証人として出廷する事になっているので、支倉の運命を決する重大な裁判と云わねばならぬ。彼は例の自ら筆記した大部の書類を携えて被告席に控えていた。
 第一に出廷したのは石子刑事だった。支倉事件に関係した神楽坂署員のうち大島司法主任は既に支倉の訊問半にして斃れたが、当時老練の誉高く事件に活躍した根岸刑事は先年物故した。石子刑事は署長を除くと唯一の現存主要人物なので、裁判長の訊問も鋭く、殊に能勢弁護人の追究は物凄い程で、石子刑事は殆ど一人で神楽坂署の非難を引受けて終《しま》った形だった。
 彼は能勢氏から支倉拘引の前後の事情、自白に至るまでの経路につき勢い鋭く問い詰められた。石子刑事は白面に些か興奮の色を見せながらテキパキと答えた。死体発掘の模様から、髑髏の件になると能勢氏の面は愈※[#二の字点、1-2-22]熱して来た。
「警察には髑髏が二つあったと云うではないか」
 能勢弁護人は石子刑事を睨めつけるようにして云った。
「そんな事はありません」
 石子は眉をひそめながら答えた。
「いゝや、被告は確に髑髏を二つ見せられたと云っている」
「そんな事はありません」
「被告の妻にも髑髏を見せたではないか」
「私は知りません」
「髑髏を被告に突つけて嘗《なめ》て見ろと云ったではないか」

 髑髏を嘗さしたではないかと云う能勢弁護士の詰問に、証人石子刑事は静かに答えた。
「誰か外の者がそう云う事を遣りましたかどうか知りませんが、私はやりません」
「ふむ、では証人はその骸骨を弄んだ事はないと云うのか」
「鑑定に持出すので、二、三度刑事部屋で弄んだ事はあります」
「それでは証人は被告が警察署で警官の前でいじっているのを見た事があるか」
「ありません」
「証人は被告を警察で打ったり蹴ったりして調べたではないか」
「そんな事は決してありません」
 石子刑事の訊問は従来嘗て見ない程詳細に長時間に亘って試みられた。然し石子刑事は拷問の件は極力否認するし、それに何と云っても大島司法主任、根岸刑事の二人が既に死んでいるのが、支倉に取って不利だった。
 この二人が生きて居れば別々に訊問して、答弁に前後矛盾した所があれば又何とか突っ込む方法もあったかも知れぬが、石子刑事の方でも都合が悪い所は二人のせいにして逃げて終うし、支倉の云い分は少しも通らない事になった。
 石子刑事の次に佐藤司法主任が取調べられた。この取調べも頗る詳細を極めている。ホンの一部を左に抜いて見よう。
 問 被告は余り易々と自白しているようであるが、証拠をつきつけられて、余儀なくせられて自白したか。
 答 井戸から出た死体を小林貞に相違ないと断定し、それは自殺であるか、他殺であるか。他殺とせば何者がしたのであるか、と云う事について、被告を訊問しますと、被告は貞に暴行を加え、淋毒を感染せしめ、先方から告訴をすると談じられて、漸く示談となり貞を引渡す事になりながら、遂に示談が整わなかったと云うような事実が判明しましたので、尚も捜索を続けると、丁度貞の行方不明になった前後に、支倉が貞と一緒に歩いているのを見たと云う者もあり、其人相は支倉に似ていると云うことでありましたから、支倉を訊問した所、兇行直前貞を連れて歩いていた事を自白致しました。
 問 然し三月十八日の聴取書によると、被告は初めから自分のやった事ではない。土工に頼んで大連に売飛ばそうとしたと云っているが、此点はどうじゃ。
 答 そうです。被告は最初には土工を頼み、貞を大連に売飛ばそうとしたと云って居りました。
 問 其の翌日十九日の聴取書によると、自分がやったと云って居るが、その間に何か有力な訊問はなかったか。
 答 別にありませんでした。
 問 被告の自白は虚偽の自白だと云わなかったか。
 答 断じて申しませぬ。
 問 発掘した骸骨を被告の口に当て接吻させ、又消毒してやると称して、被告の頭に石炭酸を掛けた事はないか。被告はそう云う事があったと申して居るぞ。
 答 そんな事はありません。
 問 其の当時被告は聖書会社より損害賠償の恐れあり、自己所有家屋を妻静の名義にして置けば安心である、又取られない様に警察で保護してやるから、貞を殺した事にして呉れと云われ、それを交換条件として、心にもない虚偽の自白をしたと云うが、右の事実はどうじゃ。
 答 断じてそんな事はありませぬ。
 証人佐藤警部補の取調べがすむと、次は渡辺刑事の訊問に移った。
 裁判長は順序正しく逮捕当時の事から訊問を進めて、問題の中心たる拷問の事に及ぶと、渡辺刑事は、即座にきっぱりと否定をした。
 と、突如として、
「馬鹿野郎」
 と云う破鐘《われがね》のような声が満廷にひゞき渡った。

 神聖なるべき法廷で大喝一声馬鹿野郎と叫んだものは誰ぞ。満廷色を失って声のする方を見ると、被告席にいた支倉が満面朱を注ぎ、無念の形相凄じく、両手に自記の書類を打ち振りながら証人席目がけて突進するのだった。
 支倉の大音声は有名なものだった。それに彼は未決監に六年を送ったのにも似ず、どこに彼の精力の根元があるのか、一向衰えた気色もなく、血色も勝れ、どっちかと云うと肥え太っていた。只相好ばかりは昔日の悪相に愈々深刻味を加え、物凄かったと云う。その支倉が憤怒に燃え、阿修羅王の如く大声を振り上げて証人席に突進したのだから、彼の背後に控えていた看守も暫く唖然として、手の下す所を知らなかった。
「此野郎! 拷問はしないなどと白ばくれた事を云うな。俺をひどい目に遭わしたではないか」
 支倉はこう怒号しながら、証人渡辺刑事に打ってかゝった。この時に漸く気力を回復した看守はあわてゝ彼を後から抱き留めた。
 この時の公判記録は次のように書かれた。
「此時被告は附添いの看守をして持参せしめたる自己の謄写に係る十数冊の書類を両手に掴み、着席したる腰掛より立ち証人渡辺に対し、
『知らない、此野郎、白ばくれるな。俺を打《ぶ》って酷い目に遭わしていながら』
 と云い、矢庭に両手に掴みいたる十数冊の書類を振上げ、以て同証人の頭上を打たんとしたるを附添の看守の為制止せられたり。
 此時立会検事は被告は証人に対し暴行を加えんとし、審問を妨ぐるを以て、被告を退廷せしめられたき旨申立てたり。
 裁制長は被告に対し、立会検事より審問を妨ぐる故退廷を求むる旨の申立てあるが、如何。爾後不当の行状をなすに於ては退廷を命ずるが如何。被告は不当の行状はいたしませぬと答えたり。
 裁判長は合議の上、此程度に於て、被告を立会わしめ審問すると宣したり」
 こう云う次第でその日は支倉も再び怒号するような事もなく、大人しく無事にすませたのだったが、其後は癖になったものか、兎もすると法廷で発作的に騒ぎ出すのだった。
 越えて大正十二年四月九日第十五回公判の如きは彼の怒号咆哮する声で、遂に審問を続行する事が出来なかった。彼の怒号の声はさしも広き法廷の外に響き渡って、何事ぞと数多《あまた》の人々が駈けつけたと云う。
 この時の記録にはこう書かれてある。
「被告人は庄司利喜太郎が隠して居る書類を出せ、小塚検事を呼べ、又は通信を不許可にするは不都合なり、損害を賠償せよと怒号し、傲慢不遜の態度を以て裁判長に対し、且つ不敬の言辞を弄して罵詈《ばり》し、怒号止まず。一定の場所に直立すべき事を命ずるも応ぜず」
 支倉は既に此時分に裁判の日に日に自分の不利なのを悟った。彼は如何にしてか死刑を逃れ、神楽坂署長以下に恨みを述べ、懐しき妻子にも会わんものと数年間|果敢《はか》ない努力をし続けた。警察署長や神戸牧師に脅迫状を送ったのも一面には出獄の伝手《つて》にもしようと云う考えだった。所が、第一番に彼は最愛の妻子から背き去られた。裁判は見込がない。彼は最早死刑を逃れる事も出来ず、愛する妻子にさえ会う事は出来なくなった。此世に何の望みが残ろうぞ。こゝに彼の一念は「呪い」の一事に集中して終った。
 彼はどうかして死を一刻でも逃れようとした。彼は呪いの為に生きた。生きて俺をこの窮境に陥れた奴を呪ってやろう、呪って/\、呪い抜いてやろう。あゝ、こゝに彼は正に一個の生きたる悪魔になって終った。
 彼がいかに悪智恵を働かして、周囲の人を呪い苦しめたか。悪魔は悪を喰って生きると云う、彼支倉は日に日に悪を製造し、その悪を喰い、悪に肥っては更に悪を企てた。而も彼の悪は法律上の悪ではなかった。拘禁されている身に法律上の悪はあり得ない。彼の悪は恐ろしい精神上の悪で、これを加えられた人は非常な苦悩を受ける。彼の悪は宗教でさえ救い得ない悪であった。

          保釈願

 支倉は一身を悪魔に捧げ、智嚢を傾けて、一刻たりとも生命を延ばし、恨み重なる周囲の者に一寸でも多く傷をつけてやろうと、あらゆる努力を試みたが、中にも最も執拗に希望したのは、あわれ、今生の思い出に今一度娑婆の様子を一眼たりとも見、自由な明るい空気を一息たりとも吸い、あわ好くば恨めしき者共に一泡吹かせたいと云う果敢《はかな》い望みだった。彼は元より死刑を逃れる道のない事を覚悟していた。そこで彼の考えたのは保釈の一事あるのみで、一方では公判を出来るだけ延ばし、保釈の目的を貫くために必死のみじめな努力をしたのである。彼は幾十通の保釈願いを出した事であろうか。而もいつも極って、不許可と云う情ない決定を下されたのだった。
 彼の最初に出した保釈願は大正十一年十月である。
「一、私は一審で誤判されとるような事、夢さら/\やっていません。やっていないと云う事は庄司利喜太郎氏が後で裁判長の家に持参して皆出すと約しとる元高輪署の勝尾警部の手に成った三調書及保険会社の其当時の書類、次に自分は大正六年二月深川区古石場荒巻方二階に置いてあった孤児院建設趣意書、同絵葉書、尾島と自分とが相往復した手紙並に自分が浅田と松下一郎名義にて相往復した手紙、次に庄司は神戸氏と母校を同じゅうしとると云う事から同人を欺き、同人から取上げとる山々の書類等さえ裁判所に現われますれば事明細に分ります。よく明白にお分りいたゞけます。今になって庄司氏も出す訳に行くまい。自分の一身上に関する事ですから、そこで私が出獄さして頂けば、弁護士初め勝尾警部、神戸牧師、佐藤司法主任、庄司署長、八田警視総監等に会うて甘《うま》く局が結べるようにさせて頂きます。私は此処に繋がれて居りました事では誰も傷つかんように甘くやらせて頂こうと思っても、それが出来ません。過般三崎上席検事殿は保釈願を出して見よと仰せられました。昨日能勢弁護士も誤判にせよ、死の宣告を受けとる者が保釈が許可になったと云う前例がない。又官房主事があらゆる書類を隠して偽証させ、罪なき者を無実に陥れたと云う事も之までにない事だ。そこで都合よく運ぶかも知れん。兎に角三崎検事が初めそう言われたなら、保釈願を出して見るが好い。出して許可になって出て、甘く局が結べるようだったらこれに勝さる事はない。君ア出れば威厳にも威信にも関らず、又君も満足の行く訳だ。そこで兎に角出して見よと言う事でありました。私ア出してさえいたゞければみなに逢うて甘く局が結べるようにさせていたゞきます。私が一日も早く裁判所の方に出させて貰いたいと要求願っとる前述の書類は、死んだ大島警部補か根岸刑事の書類中に底深く秘し蔵してある筈です。秘し蔵してあったものであると云う事は、私と庄司と八田総監とが三人寄って、文珠の智恵、甘く折合をつけ、裁判長の方に出させていたゞきます。出していたゞけば誰の名誉にも関わらぬよう、甘く運ばせていたゞきます。出していたゞくについては裁判所の御都合通り保証人保証金其他なんでも仰有る通りにさせていたゞき、毫も違背するような事はいたしません。御呼出の節は何時でも又即時出頭いたします。就いては何卒々々保釈御許可いたゞけますよう、お願い申上げます」
 最初の保釈願は右のように慇懃を極めたと共に捕捉しようのないものだったが、之が殆ど即日不許可になると、支倉は続いて裁判長に請願を試みた。
「発信不許可の件其他重要の件につき一度御面謁を賜り御伺い御願いさせていたゞき度、恐入ります、一度至急に御呼出の上、御会いいたゞけますよう、伏而《ふして》懇願《こんがん》いたします」
「閣下に至急御目にかゝり、いろ/\陳述させていたゞき、且つ閣下の御意見のおありになる所を詳細御聞かせ頂きたいのであります、就ては恐入った御願いですが、どうぞ至急に御会いいたゞけますよう、此処切に伏而懇願致します」

 二度までも切なる嘆願書を受取って裁判長も弱った。支倉が何事を訴えようとしていたか、それは想像に難くない所で、裁判長にも予《あらかじ》め察しはついていた。それに支倉は公式の法廷では狂態を尽して審問に答えていないのだから、私《ひそ》かに、裁判長に訴えたいと云うのは筋違いである。裁判長は然し流石に人間である。彼の哀れな心を押し計って面晤《めんご》を許したが、もとより彼の望みは叶えるべくもなかった。
 かくて彼支倉は公判のある度に法廷に怒号咆哮し、恨み重なる人々へ、草を分け根を掘って、それからそれへと脅迫の手紙を送りながら、未曾有の東都大震災にも幸か不幸か身を完うし、大正十二年も秋とはなったが、彼は再び根気よくも保釈願を出した。自ら名乗る冤枉者喜平、只一度浮世の空気に触れて見たいと云う、悲惨な突きつめた彼の願も、彼自身の行状と、冷い法規の定むる所に従って、遂に許さるべくもなかったのだ。元より書類を隠した云々の事は根もない事だが、繰返し訴える彼の執拗さと根気は驚く外はない。
「閣下に之迄再三お目にかゝれましたが、其際に閣下は何時でも、『お前の記録としてのものは未だ少しも見ていない。又上願書としてのものも少しも読んでいない。でお前に罪があるか、罪がないかはまだ分らない。お前が云う如く庄司利喜太郎がお前を拷問にかけ、条件付で約束、一時書類を隠し捏造《ねつぞう》したものである、偽造したものであると云う事も何も分らない。で此手紙は出さす訳に行かない、お前の事件についてはこの土用休暇を利用して緩っくら調べて見ようと決心しとる。休み中によく調べて公明無私な裁判をしてやる気で居る……云々』との御言葉で御座いましたが、最早夙うに慰労休暇も過ぎ去り、次回の公判期日も今日明日に迫っとる事でありますれば、もう事件記録としてのものや、上願書というものやら御調べずみになり、庄司利喜太郎は喜平をアリとアラユル拷問に懸け、そして条件付で約し、高輪署から持出しとる其の当時の書類を始めとし、神戸、浅田其他の者から取上げとる多くの書類、その他東洋火災保険会社に永久保存とすべき重要書類を隠し偽造したものであると云う事がよくお分りの事と存じ上げます。
 それが確実にお分りになりますれば、
 一、警察が偽造したものについて、喜平は証拠湮滅とか、逃走すると云うような事は絶対にない。で、どうか特別の御詮議を以て、此際|責付《せきふ》なり保釈なりを御許可頂きたい。此の震災については妻子縁者がどうなっとる事か、其生死さえも分らず、旁※[#二の字点、1-2-22]尋ね合せそれ/″\整理をさせていたゞきたい。喜平は男です。喜平を知る人の為には一命を惜まないのです。で、どうぞ喜平を御見誤りなしに能く御了解下されて、速《すみやか》に保釈なり責付を御許可いたゞけますよう、御許可頂けましたら裁判所の御命令通りいたします。自分事件として疑われている事がスッカリきまりがつくまでは、身を能勢弁護士事務所内に置き、走り使いをして居って、いつ何時でも裁判所から御呼び出しある際には間違いなく即時出頭させていたゞきます。決して裁判所の威厳や警察の威信に係わるような事は毛頭|仕出来《しでか》さない。自分が出れば円満にみなが好いように解決を見る考えでいます。
 一、之までに仮令《たとい》誤判にあれ一審で死の宣告をされとるものが保釈や責付になった前例がない。又官房主事がアラユル書類を隠して偽造、罪ない者を無実の罪に陥れたと云う前例もない。又このたびの震災の如きも控訴院が設けられてからこのかた始めての事、かくも前例のない事でありますれば、よく御勘考の上、好き前例をこゝでお作り、名判官たるのその真価あらば、その真価を宜しく後にまで御発揮いたゞきたいのである」
 真に冤枉者として見れば彼の心事憐れむべきも、事実罪あるものとすると、何と虫の好い保釈願ではないか。

 もとよりこんな虫の好い保釈願が聞き届けられる訳はない。
 忽ち不許可となった。
 支倉は少しも屈しない。大正十二年も押詰った十二月十七日又々保釈願を出した。之は大分書き振りが不穏になっている。
「一、庄司利喜太郎は喜平を長の間神楽坂署に留置《とめお》き、そして長の間喜平をアラユル拷問に合せ、条件を持出し義兄弟になって」と云う書き出しで、例の書類の隠匿の事を相変らずクド/\と書き立てた保釈願を出した。翌日不許可になると、再び同文の、而も筆の運びから字配り、行割りから字と字の間まで寸分違わぬ、よくもかくまで同一に書けたものだと思われる願書を即日提出した。不許可になると又出す。とう/\暮の押し詰まった二十八日迄に四回矢継早に提出した。而もそれには極《きま》って細字に認めた参考書類がついている。それが又一言一句を違えず、文字通り判で押したように、そっくり同じである。根気の好いのには驚かざるを得ない。参考書類と云うのは、支倉が庄司氏の身許につき金沢市長に宛てた、頗る悪意のある愚劣極まるものである。引用する事は関係者を不快にさせるかも知れないが、こゝに一部を書抜いて、支倉がいかに庄司氏に対し悪辣を極めたかを証明する事にしよう。
 之は原文は細字で葉書に認めたものらしい、大正十一年頃の発信で、署名は相変らず東京未決監未決六年冤枉者支倉喜平、宛名は金沢市役所市長殿である。
 前半には例の書類隠匿事件も詳細に書き、後半には、
[#ここから2字下げ]
「君(支倉を指す)は公判から出たらわし(庄司氏を指す)の兄のカナイの父親は、只今金沢新地で南楼と橘平《きっぺい》楼を名乗って芸妓屋と女郎屋をやっている、其処へ伴れて行って芸者を皆引っ張り出してウムと御馳走した上、わしア、オショクを抱きたいんだが、君ア犯さないのを一時犯したとして一時わし共を助けて呉れる事なんだから、そこで君にその御礼として、オショクを譲り、わしア第二の別嬪として、佐藤(警部補)にゃ第三の別嬪を云々、私ア南楼、橘平楼に係る詳細を庄司利喜太郎から聞かされ相約束しとります。其関係上前便封書にて、該家に係る戸籍謄本申請至急御下附を願う。先ずは取急ぎ葉書にて欠礼右御願い迄、以上――」
[#ここで字下げ終わり]
 何と馬鹿げた手紙ではないか。無論支倉の目的は戸籍謄本を取るのにあって、少しでも庄司氏に引っかゝりがあれば例の凄い脅迫状を送って、嫌がらせを試みようと云うのだ。
 金沢市長も無論こんな手紙は取合わなかったゞろうけれども、戸籍謄本の方は誰からでも手数料を添えて請求せられゝば与えない訳には行かない。支倉はこんな手段でそれからそれへと手紙を送ったものと見える。それにしても保釈願はどう云う意味でこんな葉書の写しを添えたのか、支倉の考えが少しも分らぬ。
 かくて大正十二年も終って、愈※[#二の字点、1-2-22]支倉の云う冤枉未決八年の時となった。こゝに一寸書き添えて置かねばならぬのは、十二年には彼に取って心からの同情者だった救世軍の木藤大尉が歿した事で、之は彼にとっては一大打撃だった。
 大正十三年の劈頭一月七日、先年押詰って出した保釈願に対する却下書が配布された。そして二月には保釈|所《どころ》か、
「右の者(支倉を指す)に対する拘留は之を継続するの必要ありと認むるを以て、大正十三年三月一日より其期間を更新す」
 と云う決定が下された。支倉は正に奈落の底に突落されたのである。
 彼は最早保釈の望みはなくなった。然し未だ彼は判決を覆すべき一縷の望みを捨てなかった。
 彼は何を考え出したか、閲覧願と云うものを差出した。之にも前掲の金沢市長宛葉書の写しを附し、彼一流の遣方で三月二十四日から二十七日の僅々四日間に連続四回同文の閲覧願を出した。と同時に有名な大正の佐倉宗五郎事件が起った。

          大正の佐倉宗五郎

「オイ、支倉の所へ変に嵩《かさ》ばった小包が来たぜ」
「ちょっ、困るなあ、奴又何か手数をかけるんじゃないか」
 刑務所の係員が二人、小包を中に置いて眉をひそめた。冤枉《えんおう》八年と大呼して監獄の名が刑務所と改まっても依然として未決監に蟠踞《ばんきょ》して、怒号し続けている支倉は、看守達に取っては好い客ではなかった。
「兎に角開けて見よう」
「宜かろう」
 包みを解いて見ると、中から出たのは一|襲《かさね》の衣類、羽二重の白無垢である。
「うん、之は変ったものだな」
「奴、発心でもしたかな」
 対手が死刑囚だけに白無垢と来ると余り好い気持がしない。二人の看守は薄気味悪そうに顔を見合せた。
「オヤ/\、何か字が書いてあるぜ」
「成程、之は確に字だ」
 羽二重の白無垢を拡げて見ると、襟の所に黒々と、「東京未決監未決八年、冤枉者支倉喜平」左右に割って二行に染めつけてある。
「例の文字だ」
「いかにも、執拗な奴だ」
 二人は暫く襟の所を眺めていたが、やがて一人が裏を返すと驚いた。
「オイ/\背中にも文字があるぞ」
「こいつは大変な事が書いてある」
 背中には大きな字で「大正の佐倉宗五郎」と染め抜いてあった。
「之は一体どう云う意味だ」
「さあ、さっぱり分らないね。第一この着物をどうしようと云うのだろう」
 二人は評定をしたが、もとより分る筈がない。仕方がないので上役の所へ持って行くと、兎に角支倉に聞いて見ろと云う事になった。
「オイ、お前の所へこんなものが来たぞ」
 看守の一人は云いつけられた通り、件《くだん》の白無垢を持って支倉の未決監の前に立った。
「あっ、来ましたか、有難い」
 支倉は一目見ると、ニッと薄気味の悪い笑みを洩らした。
「之はどうするのだね」
「公判の時に着て出るのです」
「なに、公判の時に」
 看守は驚いて終った。
「して、この佐倉宗五郎と云うのはどう云う事なんだね」
「分りませんか」
「分らないね」
「そんな筈はないでしょう」
 支倉は不機嫌になった。
「つまり私の身の上の事ですよ」
「お前の身の上!」
 悟りの悪い看守は狐に魅《つま》まれたよう。
「そうです」
 支倉は恐い顔をして黙り込んで終った。
 支倉が自ら名乗って大正の佐倉宗五郎と云うのは、犠牲になったと云う意味か、それとも妻子を枷に拷問されたと云うのか、何しても自分の姓の支倉と似通った所から思いついたのであろう。つまりこんな事から周囲の人から同情を惹《ひ》こうと試みた事なのであろう。或は彼の一種の宣伝癖から起ったのかも知れない。
 佐倉宗五郎の意味はよく分らないが、支倉が不機嫌に黙り込んで終ったので、看守は少し機嫌を直す積りで、
「之は態※[#二の字点、1-2-22]《わざ/\》注文したのかい」
「そうです。郷里の方へ注文してやったのです」
「いつ着るんだね」
「この次の公判の時からです」
 支倉は之からずっとこの白無垢で通す積りと見える。看守は逐一上役に報告した。
「何、公判の時に着るんだって」
 上役は馬鹿々々しいと云う風に、
「そんな事をされては困る。そいつはいけないと云って呉れ給え」
 看守は又支倉の所へやって来た。
「オイ、この着物は渡せないそうだ」
「何っ!」
 支倉は忽ち声を張り上げて真赤になった。

「大正の佐倉宗五郎」と大書した羽二重の白無垢、渡すことならないと云われて、支倉は激怒した。
「それはどう云う訳かっ!」
「どう云う訳と云う事もない」
 看守は支倉の怒号には馴れているから平気だ。
「こんな不穏な文字を書いたものを着て、公判廷に出す訳には行かぬ」
「何が不穏だ」
「不穏だから不穏だ」
「そ、そんなら何故前に云わぬ」
「馬鹿な事云え。前にそんな事が分るものか」
「だ、黙れ。き、貴様等は俺の出す手紙を一々検閲するではないか。俺の注文書を読まなかったか」
「成程」
「俺は事明細に認めて郷里の紺屋に注文したのだ。それを刑務所の役人は読んでいる筈だ。着て悪いものを注文すると思ったら、何故その時に注意せぬ」
「成程、之は一本参った」
「出来てから取上げるとは、みす/\俺の懐中を痛めるのではないか」
「うむ、お前の云う所は尤もだ。よし/\も一度聞いてやろう」
 気さくな看守で、彼は鳥渡支倉の説に共鳴したと見え、上役の所へ帰って来た。
「支倉は注文する時に止めないで、出来てから取上げるのは不都合だと呶鳴っていますが、どうしましょう」
「どうしましょうたって、これを許して着せる訳には行かん。成程、注文書に気がつかなかったのは我々の手落だが、気がついた所でまさか注文の時に干渉も出来なかったろう。何でも好い不許可にして終え」
「そうです。じゃ、そうしましょう」
 こんな事で折角支倉が楽しんでいた法廷の晴衣も結局着て出られない事になった。
 之は支倉が神聖なるべき公判をどう云う風に見ていたかと云う事が分る一つの面白い挿話だが、要するにあれもこれも彼が死刑から逃れようとする果敢《はか》ない※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》きなのだ。
 支倉は前に述べたように保釈願と云う事に全力を注いで、遮二無二許可になろうと企んだが、遂に事は成らなかった。そこで彼は次の公判にはどうでも犯罪事実を覆えすか、出来なければ例の怒号咆哮で公判を延ばそうと云う考えで、その一着として閲覧願と云うものを提出した。
「来る四月二日出廷の節、其場(公判準備室)に於て、
[#ここから1字下げ]
 大正六年押二八八号ノ四
 小林遠吉より小林定次郎宛、書信三通をどうぞ閲覧させて頂き度、此事前以て呉れ/″\も御願い申して置きます云々」
[#ここで字下げ終わり]
 一寸見て別に変哲もない願書だが、彼は此願書に例の細字で数百字認めた金沢市長宛の葉書の写しを添えて、三月二十四日から二十七日の間に前後四回、全く同文のものを提出している。この事は前に述べたが、彼の押の強いのには舌を巻かざるを得ぬ。
 かくて大正十三年四月二日更新第一回(恐らく震災の為に続行公判を打切り更新したものであろう)の公判が開かれる事となった。彼としては最後の努力を試みるべき所、彼は前記の閲覧願の外に、押収の書信数通の返還を乞うと共に、神戸牧師に宛て巨弾を一発放った。
「前略、僕は破壊主義の男ではない。トコギリ庄司の不正をさらけ出して庄司を免職させなければならんのだが、あなた方の出ように依っては頑張る者ではない。であれば免職するもせないも庄司の心一つにあるのである。アナタは大正六年三月十九日に神楽坂署長室に於て、保証人及尽力者として立って、私とどんな約束をして居るか、まさか忘れはせまい。君も牧師なんだから、牧師なら牧師らしく約束した事を実行するのはアタリマエではないか」

          最後の公判

 大震災に万物一様の破壊を受けて、再生の機会を与えられた更新第一回の公判は、支倉に取って千載の一遇、この機を逸しては好機再び到ろうとは思えない。彼はこゝに最後の努力を試みる事となった。
 獄に投ぜられてより数年冤罪を叫び通し、殊に最近二、三年は公判廷にあってすら咆哮し怒号し、審理の進行を極力妨害した。その有様の猛烈、凄惨を極めた事は当時目撃した人を尽く顫え上らしたものである。神戸牧師をして、
「彼は被告として公判廷に出《い》ずる度に猛烈な兇暴態度を示しながら、且つ其雄弁と剛腹とは全法廷を慴伏《しょうふく》していた」
 と嗟嘆《さたん》せしめた程である。
 或人は疑った、彼は既に狂せるのではないかと。彼が一旦はふり落ちる涙と共に自白した事を翻えしてから後は、遂に自ら深く罪を犯さゞるものと信じて、偏《ひとえ》に周囲の強うる所として憤り悲しんだ点は、一種の強迫観念に基くものかも知れぬ。然し、彼の書信或いは上願書の類を見ると、彼は決して狂気とは思えない。却々《なか/\》計画的な所があり、理路も時に辻棲の合わない事はあるが、多くは整然として乱れていない。庄司氏を罵って姦謀(官房)主事と称《とな》えたなどはその一つの現われで、官憲も狂人としては扱わなかった所以である。
 さて、大正十三年四月二日は公判準備調べに止《とゞ》まり、ほんの小手調べに過ぎなかったが、この時能勢弁護士は、
「被告を検挙した責任者であり、且つ被告と神戸との間の往復文書並びに神戸の提出した書状の行方について知悉《ちしつ》している当時の神楽坂警察署長庄司利喜太郎を喚問して、書状の件並びに被告の自白に至った径路につき御訊問が願いたい」
 と申請した。
 庄司氏を法廷に呼び出して思う存分聞いて見たいと云うのが、支倉年来の望みで、能勢弁護士も亦策戦上之を必要と認めて、従来機会ある毎に彼の喚問を申請したのであるが、庄司氏は署長より後に警視庁に入り、官房主事となり、転じて警務部長の要職を占め、多忙を極めていたので、そう云う事が理由になったのか、それとも実際必要を認めなかったのか、いつも極って却下せられるのだった。が、今は故あって庄司氏は警務部長を辞し野にあったので、機会は好しと能勢氏は同氏の喚問を求めたのだった。四月七日に至って左の如き決定書が下附せられた。
     決定
[#地から4字上げ]支倉 喜平
[#ここから2字下げ]
 右に対する窃盗放火詐欺強姦致傷殺人被告事件に付き大正十三年四月二日公判準備手続に於て被告人及其弁護人より申請したる証拠調べに対し、検事の意見を聞き左の如く決定す。
 右申請中庄司利喜太郎、戸塚新蔵を証人として訊問し其余は却下す。
  大正十三年四月七日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から6字上げ]裁判長以下署名捺印
 支倉はこの決定を受取ると文字通り雀躍《こおどり》して喜んだ。恨み重なる庄司署長、今まではたゞ呪いの手紙通計七十五本で間接射撃をするばかりだったが、今度は彼を眼のあたりに迎えて、思う存分望みを遂げる事が出来る、彼はこう考えたのだった。
 彼は庄司署長の出頭する日を一日千秋の思いで待ち受けたのだったが、それが彼の余命を縮める基になろうとは、夢にも知らなかったのだ。
 かくて五月十四日に第一回公判が開かれたが、この時既に庄司、神戸両氏は証人として出廷していたが、支倉は冒頭に何を考えたか不貞腐《ふてくさ》れて終った。
 裁判記録によると彼は裁判長の訊問に答えなかったのである。
「裁判長は被告人に対し氏名年齢職業住所本籍出生地を問いたるも被告人は黙して答えざるを以て重ねて問いたるも尚答弁せず」
 こゝで裁判長の心証を悪くしてはと能勢弁護人は心配したので、一声高く呼んだ。
「裁判長、被告に一言述べる事をお許し下さい」

 支倉が黙して答えないので、能勢氏は一大事と裁判長の許可を得て、彼に忠告を試みた。
「能勢弁護人は裁判長の許可を得て、被告人に裁判長の訊問に答え弁明する所あらば弁明を為す方が可ならんと忠告したるに、被告人は答弁せざるに非ざるも、本日の公判に間に合うべく書類を熟読し来たらざるにより延期を乞うべく出廷したるなり。されど記憶を喚起し成るべく答弁する旨申立たり」
 之だけの手数を重ねて裁判長は漸く訊問を始める事が出来た。
[#ここから2字下げ]
問 姓名は如何    答 支倉 喜平
  年齢は        四十三年
  職業は        聖書販売業
  生地は        山形県置賜郡
[#ここで字下げ終わり]
 筆者は何故こんな分り切った事をこゝに書くか。読者諸君よ。彼の年齢の項を見て如何《いかん》の感がある。彼が抑※[#二の字点、1-2-22]《そも/\》神楽坂署に捕えられ、次で起訴せられ予審に有罪と決し、第一回の公判に立った時彼は三十六年と答えているではないか。今こゝに四十三と答えているのを見ると、人生の最も実のあるべき三十六より四十三までの長の年月を未決監に送った彼の境涯に対して一掬同情の涙なき能わぬ。もとよりこの足掛け八年、満七年余の牢獄生活は云わば彼が故意に延ばしたのであって、既に第一審に於て死刑に決定したのであるから、順当に行けば彼の生命は数年前に断たれた事であろう。だから彼は好んでその苦痛を延ばしたのであると云う議論もあるかも知れぬ。然しその長い間彼が一途に死刑より逃れよう、後には一度出獄がしたいと云う果敢ない望みから闇黒な牢獄の中に座して、あらゆる痛苦を征服し、世を呪い人を呪って生きつゞけた、忍苦と生存慾とを思うと、その執念の恐ろしさに戦慄を禁じ得ないと共に、一個の人間としての彼の悩みに転《うた》た同情を濺《そゝ》がざるを得ない。
 さて、裁判長の訊問は次で聖書の窃盗から放火の事実に進み、一転して貞子の事件に這入った。
 支倉は裁判長の訊問に連れて、例の如く、貞子には決して暴行を加えたのではなく、合意の上であって、彼女が病院に通う途中に待受け連れ出したる事実はないと断言した。裁判長は更に追究すると、支倉は、
「高輪警察署で書類を隠されて居ますし、神戸に書き送った手紙も出して呉れませんから、分りません」
 と嘯《うそぶ》きながら答えた。
「では」
 裁判長はキッとなって云った。
「その書類がないので弁明出来ないと云うのか」
 裁判長のこの弁明出来ないのかと云う問は支倉に余程応えたと見え、彼は忽ち叫んだ。
「そうではありません。弁明が出来ないと云う訳ではありません。では申上げます」
 公判の劈頭に書類を能く読んでいないからと拗《す》ねて答弁を渋った支倉は、こゝに於て恰《あたか》も堤の切れた洪水の如く、滔々数千言、記憶が薄らいだどころか、微に入り細を穿《うが》ち、満廷唖然とする一大雄弁を以て語り出した。
「之につきましては最初から申上げねばなりません。どうぞ御聴取を願います」
 こう前置して彼は当時の事情を手に取るように委しく述べ立てた。殊に彼と小林兄弟、神戸牧師の三角関係は最も詳細に述べた。
「神戸はどうしても謝罪状を書けと原稿のようなものを出しましたが、私は拒絶いたしまして、それとなく君と僕と定次郎と共に貞の所へ行って、強姦か和姦か聞けば分る事だから、聞きに行こうと、云いましたが、神戸はそれに応じて呉れなかったのであります。私はこの為に随分迷惑いたしました。定次郎は私の不在中酔払って、外から大声を揚げてやって来まして、此家の主人は俺の娘を姦して淋病を感染さして、病院の入院料さえ払わないと大声で怒鳴った事さえあるのです。私は入院料を払わなかった事はありません。生憎定次郎に会った時には領収証をなくしていたのです。それも病院へ行って聞けば分る事です」

 支倉は一度喋り出すと文字通り懸河の弁で、滔々数十分、言葉巧に当時の状況を説き来り説き去り、最後に、
「左様な事実で、貞を強姦したる事もなく、又殺害したる事実もないのであります」
 とつけ加えて、漸く長広舌を終った。
 裁判長は引続き証人の訊問に移ろうとしたが、この時被告人及び弁護人より、今日はこの程度で打切り、続行せられたき旨申請し、検事も同意したので、裁判長は合意の上之を許可し、次回を来る六月十三日午前九時と定めた。各証人はこの日は全く無駄足をしたのだった。
 六月十三日の公判! これこそ支倉にとって最後の公判となった事は後にぞ思い知られたのだった。
 次回の公判には庄司署長が初めて証人として出廷訊問を受ける事になっている。この訊問こそ支倉の万策尽きた今日、残された唯一の頼みの綱で、冤枉八年の叫び空しきか、将又《はたまた》空しからざるか正々この一挙で決するのだ。彼は獄窓裡に或いは喜び、或いは憂え、よもすがら秘策を胸中に練った事であろう。
 彼は当日庄司署長と共に出頭すべき神戸牧師に対して、五月二十八日と六月十一日の二回に亘り、例の恐喝の手紙を送った。
[#ここから2字下げ]
「来る十三日には刑訴第三百五十三条に基き始めからシッカリした訊問をやって貰おうと思っています。
「私は真理の分るまで忌避に弁護解除を続け、断然裁判宣告を受けません。ソウなるとアナタも又呼出される迷惑な話、どうか嘘を云わんで下さい。
「アナタはサダの事や庄司に渡した手紙の事なり、自分の事について木藤氏に打解けた話をしとる事は皆手紙で私の方に木藤氏から書送って来て、一つの証拠となるべきものがあります。何とぞ木藤氏が永眠したのを幸いに庄司から頼まれ偽証するような事はせないで下さい」
[#ここで字下げ終わり]
 六月十一日附の手紙には半紙にペン書きで細々と書いた脅迫状の外に、一枚半紙に毛筆で認めたものがついていた。
[#ここから2字下げ]
「真近に梅雨がやって来ます。
みな様丈夫にて御過ごしのよし、なにより結構であります。アナタは御健康で結構でありまするが、私は身体が日増しに悪くなるのです。此分では近い中に病死するかも知れません」
[#ここで字下げ終わり]
 人と云うものは死期が近づくと、知らず識らず気が滅入るものだろうか。流石の支倉も云う事がどこともなく哀れっぽい。以上に認めた脅迫文句もいつも程凄味がないように思える。
 さていよ/\公判の日が来た。大正十三年六月十三日、梅雨空の陰鬱な日だった。
 裁判長以下各判事検事等は一段高い所に厳めしく居流れ、弁護席はと見れば能勢氏只一人黙然として控えていた。
 被告支倉喜平は別に身体の拘束は受けなかったが、物々しや警部一名、巡査四名、都合五名の警官に取巻かれて所定の席に着いていた。彼は法廷で怒号咆哮する許りでなく、時に証人等に打ってかゝる事があるので、かくは厳重に警戒せられたのである。
 裁判長は咳一咳、之より審理を更新すると告げ、例によって被告の氏名年齢等を順次に問い質し、次で証拠調べに移った。
 記録には次の如く書かれている。
「裁判長は証拠調べに移る旨を告げ、当院第一回公判調書に記載したると同一の各証拠書類及同公判調書記載を読みあげ、押収物件並に検証調書添附図面及記録等を示し、其都度意見弁明を求めたるに、被告はすべて当院第一回公判調書記載と同一の答弁をなせり。
 裁判長は決定に基き証人を訊問すと告げ、召喚に応じ出頭したる庄司利喜太郎を入廷せしめたり」

 六尺豊か鬼とも組まんずと云う庄司氏は威風満廷を圧しながら堂々と入廷した。彼は正に意気軒昂、邪は遂に正に勝たずとの信念何人も動かすべからず、気既にさしもの兇悪なる支倉を呑んでいるようであった。
 彼は支倉と正に咫尺《しせき》の間に着席を命ぜられた。
「僕だからまあ好かったけれども」
 庄司氏は後に人に語った。
「兎に角警官が五人もついていようと云う兇暴な奴のすぐ傍に着席させるちゅうのは、少し不都合だね、人に依っては、思う所を十分云えないかも知れんじゃないか。現に刑事には飛掛っているんだからね」
 支倉は庄司氏の顔を見ると異様な眼でジロッと一睨みしたが、つと横を向いて終った。
 庄司氏は裁判長の訊問の儘に臆する所なく、ズバ/\と信ずる所を披瀝した。
 支倉を検挙するに至った径路、死体其の他動かすべからざる証拠についての弁明、支倉の自白等について、証人は澱みなく答えた。殊に自白の場面のいかに荘重なりしか、彼と神戸牧師及彼の妻との間に交された会話等につき詳細に述べた。
 庄司氏が裁判長の訊問に答えているうちに、支倉はジリ/\と彼の方に詰め寄って、殆ど身体を接する位になった。警戒の巡査は支倉が乱暴を働く様子がないと見たか、別に止めようともせず、只遠巻きに眼を光らしていた。庄司氏はすぐ隣に接して支倉の息遣いを聞きながら、落着き払って裁判長に答弁をしていた。
「庄司さん、どうぞ本当の事を云って下さい」
 突如として支倉は脅迫の手紙の上に於ける傲岸兇悪の態度に似もやらず、いと細き声を出して哀訴した。彼は遂に庄司氏に正面より敵すべからざる事を知ったのであろうか。それとも思い邪《よこ》しまなるものは遂に正しきものに面を向ける事が出来ないのであろうか。
 裁判長は終始厳正の態度を持しつゝ、不動産を売却する事につき尽力したる事ありや、四十通余の文書を隠したる事実ありや、被告に自白を強いるため骸骨を接吻せしめたる事実ありやと畳かけて質問した。
 庄司氏は断乎としてそのいずれをも否定した。書類云々の事は全く虚構の事実で、支倉が放火事件につき高輪署の刑事に贈賄して有利な調書を作製せしめたのだったが、数多き書類の中のそれだけが偶然紛失したので、支倉は恰も自分に有利な書類を尽く隠したように曲言したのであって、該書類は被告の考える如き重要なものでなく、のみならず其他の書類は全部提出してある旨を答えた。
 庄司氏の答弁の間支倉は絶えず哀願するような態度で、
「庄司さん、どうか本当の事を云って下さい」
 と低声で云い続けていた。
 裁判長の訊問が一通り済むと、能勢弁護人は裁判長の許可を得てきっと証人を睨み据えながら、鋭い訊問を投げかけた。
「喜平に対して最初嫌疑をかけたのは窃盗と詐欺と云う事であるが、詐欺とはどう云う事実か」
「窃盗につき調べているうちに詐欺の事実が現われたのである」
「支倉は誰か告訴したものがあったか」
「いや、聞き込みであった」
「二月十九日より三月十八日頃まで一ヵ月に亘っているが、此間被告をどう云う理由で留置したか」
「浮浪罪であったか、虚偽の陳述によったか、警察犯処罰令によったと思う」
「いや、それは処罰する目的でなく被告に対して殺人と云うて留置したのではないか」
「それについては確な記憶はない。仮りに云われる通りであったとしても、答弁の必要を認めない」
 以上が能勢氏の追究に対する庄司氏の答弁の最初の一節であるが、見らるゝ通り殺気立ったものだった。能勢氏の辛辣なる質問に対し庄司氏は明快簡単に之を報いたのだった。
 両氏応答数次、長時間に亘って漸く終ると、裁判長は証人神戸牧師出廷せざるにより、公判を続行し、次回を来たる六月三十日と定めて閉廷を宣した。

          絶望

 公判廷を出て東京刑務所に護送される途すがら、自動車の中で支倉は顔面蒼白、或いは痛恨し、或いは憤懣し、意気頗る上らなかった。彼が最後に一縷の望みをかけていた庄司署長は、彼の脅迫、彼の嘆願に何等顧慮する所なく、正面より堂々の論陣を張り、攻撃的答弁を以て、一々支倉の妄を難じ、嘘言を責め、彼をして殆ど完膚なきに到らしめた。
 支倉が金科玉条と信じ、金城鉄壁と頼み、繰返し強訴した所の書類隠匿事件は、誠に区々たる事実であった。拷問、或いは利益を提供して自白を強られたと云う事も断乎として否認せられると、最早争う余地のない微々たる問題となった。庄司氏の雄弁ならざるも、確乎たる信念の下に押付けるような力強い言葉は、犇々《ひし/\》と支倉の胸に応えた。殊に彼の自白の場面を詳細に述べられると、支倉自身さえも到底否定する事の出来ないような厳粛な気に打たれるのだった。
 監房に帰ってからも支倉は黙々としていた。彼は次第に絶望に沈淪して行った。
 けれども、支倉は流石に今や尽きんとする精力を奮い起して、うんと一つ踏み止《とゞ》まった。
 裁判長がいけないのだ! 裁判長があんな生温《なまぬる》い訊問の仕方をするから何にもならないのだ。もっとグン/\突込んで、恰度警察で被告を調べるように、少しでも前後矛盾する所があれば、声を嗄《か》らし腕を振り上げてゞも問い質して呉れなくてはならない。断じてそんな事はありません。ふむ、そうかと云う調子で、何で庄司が自分に利益の陳述をするものか。恨めしいのは裁判長である。
 支倉の我事ならざる恨みは裁判長に集中して終った。こゝに彼は筆を取って最後の恨みの言葉を裁判長に送った。然し、彼とても之が効果があるとは思わなかった。いや、彼は最早常識で律する事は出来ぬ。彼は半ば夢中で、只感情の逸《はや》るまゝに書いて/\書き抜いたのである。宛然《さながら》老婆の繰言であるが、燈火の消えんとして一時明りの強くなる類で、彼の未決八年冤枉を叫び通した精力が、今や正に尽きんとする時に当って、一時パッと力づいたのであろう。
 支倉は公判直後より筆を起して正に三日を費やして、六月十七日に裁判官忌避を申請したのである。
[#ここから2字下げ]
「私は因藤裁判長殿を忌避いたします」
  忌避の理由
一、只今自分の事件とせられとる事は因藤裁判長が庄司利喜太郎に対し秩序を立てゝ、しかとした御訊問さえ下さりゃ、すべてが明瞭になるのであります。
一、私はそれをして頂きたい事から前以て上願書及庄司利喜太郎に対し斯う云う事を訊問して頂きたいと云う、其の事項を書いて、チャンと裁判所に出してあるのです。それから又弁護士の方にも同一様の庄司利喜太郎に対する訊問事項を書いて、公判期日に間に合うようにチャンと前以って宅下げの手続きしてあるのであります。夫れを因藤裁判長殿の手許に押えて置いて能勢弁護士の手に渡るようにして呉れないのであります。ですから能勢弁護士さんも支倉が庄司に対する何う云う事を求めとると云う事は分らないのであります。(中略)其の証拠品と云う物は私から皆大正十一年中裁判所に提出してあるものであります。其の証拠品は裁判所に一つもないと云って、私の求めるかなめ肝腎の証拠物を出して呉れないのであります。(証拠物略)
 因藤裁判長殿は神楽坂から支倉喜平事件証拠金品目録として送って来てある所の其の書信を庄司に一々示した上、此の書信の前後のものをどこへやったのか。又この家屋譲与に関する書類は何うしたのかと、其の証拠を庄司に突きつけた上、因藤裁判長殿はこの家屋譲与書類(只今裁判所に在り)は証人は喜平に犯さぬものを一時証人はアトで書類を出す日まで、犯したとさせる約定条件から喜平の実印や其他金品と一緒に授与しとるではないか」
[#ここで字下げ終わり]

 支倉の裁判長忌避の理由なるものは尚縷々として尽きないのである。
[#ここから2字下げ]
「証人(庄司)は大正六年三月十九日に神楽坂署長室でウイリヤムソン宣教師と、それから当時来合せた神戸とを立会保証、家屋譲与尽力者に立て、支倉のカナイに授受しとる金晶及書類を小林弁護士は皆よう知っとると云う事だが、其品々は何々で又其品々を証人は誰某から取上げて裁判所に分らんように謀って授受してあるのか、又証人は喜平が事実罪を犯して自白しとるものとしたら、証人は喜平に検事廷と予審廷に行ったら、こう云う事を申立てゝ呉れ、そうせなけりゃ、支倉の妻子の着とる衣物まで皆剥いで聖書会社にやって終う。きみはわし(庄司)に頼まれとる通りに検事廷で言って呉れるか呉れないかを監視させる為に、証人手許の三人の刑事(氏名略)を大正六年三月二十日検事廷と予審廷に付き添えての上、支倉喜平調書と云うものを小塚検事と古我予審判事とに作成させると云う事ではないか。
 喜平は証人に依頼されとる通り申立てないと、付添うている三人の刑事の中の誰ぞ一人から、神楽坂署に電話で知らせがあって、喜平の宅に臨んで当時喜平の妻子に授与しとる金品及証書は勿論の事、喜平の妻子の着とる衣物までも剥取ると、証人は喜平に強要の上依頼しとるとの事ではないか。
 又この頭蓋骨は品川の菓子屋の娘の頭蓋骨であると云う事を証人が喜平に打明かしての上、当時証人はこの頭蓋骨を支倉の自宅に一時預けてあるとの事ではないか? 一時預けた理由は如何? と頭蓋骨を庄司に因藤裁判長殿はつきつけた上、一々庄司から答弁を聞くようにして、事件の真相を明かにして呉れないのであります。
 因藤裁判長は折角庄司を呼んでも庄司の偽証ばかりを言うがまゝに委せ、何等証拠書類を突きつけ訊問を重ね、事件の真相が分るようにして呉れないのであります。事件の真相をこゝに明かにして頂けん事には、この喜平はこのまゝこゝで絶食死すとも、どなたの裁判にあれ、断然受けません。
 因藤裁判長を忌避した理由は以上のようからです。(中略)
 私は返す/″\、庄司利喜太郎から事件の真相を求めて答弁させて、こゝに明かにして頂けん事に於ては私はこのまゝこゝで絶食死すとも断然裁判は受けないのである」
[#ここで字下げ終わり]
 支倉は六月十三日の公判に於て、証人庄司氏の答弁が予期に反して、毫も自己に利益の点がないので、獄中悶々やる方なく、前述の如く裁判長を忌避したが、彼も元より成算があっての事でなく、むしろ自暴自棄的の手段であった。最後の土壇場に来ても尚、跳起きて隙もあらば反噬《はんぜい》しようとする彼の執念には只々舌を巻くの他はない。
 あゝ、在獄七年余、朝に夕に呪い続けて、いかなる手段を尽しても死刑を逃れ、一度浮世に出でんと努力し続けた忍苦執拗、支倉の如き人間が又と世にあろうか。
 因藤裁判長は支倉の忌避の申請を受取ると、直ちに会議を開き合議の上左の決定書を与えた。
[#ここから2字下げ]
  決定
     被告人 支倉 喜平
右の者に対する窃盗放火詐欺強姦致傷及殺人被告事件につき、右被告人より裁判長判事因藤実に対し、偏頗《へんぱ》の裁判を為す虞れありとして、忌避の申立を為したるも、右申立は訴訟の遅延せしむる目的のみを以て、為したる事明白なるを以て、刑事訴訟法第二十九条第一項に依り、決定する事左の如し。
 主文
本件忌避の申立は之を却下す。
 大正十三年六月二十日
[#ここで字下げ終わり]
[#地から4字上げ]裁判長以下署名捺印
 決定書は直に市ヶ谷刑務所在監支倉喜平の許に送達された。支倉はこの送達書を受取って、如何なる行動に出るであろうか。

          大団円

 支倉が最後の手段として試みた忌避の申立は見事に却下されて、即日その決定書が送達されたが、支倉は果してどう云う態度に出たであろうか。
 意外! 送達は左の如き符箋つきで戻って来た。
「受送達者支倉喜平を市ヶ谷刑務所につき取調べたるに別紙符箋之通り死亡せし旨田辺看守長より申出につき送達不能、依って一|先《まず》及返還候|也《なり》」
 続いて市ヶ谷刑務所より控訴院検事長に宛て左の公文が到達した。
[#ここから2字下げ]
 刑事被告人自殺の件通報
窃盗放火詐欺
強姦致傷及殺人
        支倉 喜平
     明治十五年三月生
大正六年三月二十日拘留
大正七年七月九日東京地方裁判所第一審判決
 右者頭書被告事件に付、控訴中の処、本日午前八時より同時十分迄の間に於て、巡警看守の隙を窺《うかゞ》い、居室南側裏窓の硝子戸|框《かまち》(高さ床上より約一丈)に麻縄約一尺(作業用紙袋材料を括りたるものを予《かね》て貯え、居室内に包蔵しいたるものゝ如し)許りを輪形に結びたるものを懸け、更に自己の手拭と官給の手拭とを縄状として、それを結合聯結し置き、空気抜け孔を踏台として用意の手拭を頸部に纏い垂下し、自己の体重に依り窒息自殺を遂げたるものに候条、別紙死体検案書添附此段及通報候
[#ここで字下げ終わり]
 支倉は六月十九日、即ち忌避却下の送達書の来る前一日監房内で縊《くび》れて死んだのであった。彼が何故忌避の結果の判明するのを待たずして自殺したか。それは永久に残る疑問であるけれども、思うに彼は六月十三日の公判の結果について既に死を決していたのではあるまいか。判官忌避の如きはその成否眼中にない程彼は庄司氏の証言に絶望を痛感したのではあるまいか。聞く所によると彼は遺書風のものを認め、それには子々孫々まで庄司氏に崇らずして止むべきかと云う物凄い言葉が聯ねてあったと云う。司法警察官たる正当の職務により、正当なる手段を以て兇行後四年既に土芥に帰せんとしていた殺人事件を発《あば》き、貢献多かった庄司利喜太郎氏は終始一貫支倉の呪いの的となり、支倉の行きがけの駄賃として、あらゆる呪いの声を庄司氏一人で引受けて終ったのだった。
 さわれ、支倉が遂に第二審の判決を受けずして自殺した事は後世に幾多の疑問を残した。筆者はこの点につき、本件に最も関係の深い神戸牧師の言葉を引用して置く。
[#ここから2字下げ]
「六月十九日の夕刊を見て自分は驚いた。支倉喜平は到頭縊死を遂げたと云う記事が出ているではないか。然も二号活字で如何にも大きい標題《みだし》附であった。蓋しそれほど彼の死は社会の好奇心を誘う事件であったからであろう。(中略)
 彼をしてそれほど兇暴な態度に出でしめ、而も其最後迄事実を否認してあらゆる彼の敵に反抗せしめた原因は抑※[#二の字点、1-2-22]いずこにあったか。乃至、彼は其生来獰悪人であったが、事件の内容たりし殺人の真相はいかゞであったか。これらについて其半面の真相を知る者として、証人の一人であった自分亦これを言う権利と義務があろう。従来彼を狂人と云い、猛獣同様に取扱った官憲の非は勿論、同時に彼を曲庇弁護して、完く無罪、冤罪だと言いふれた者の非をも撃たねばなるまい」
[#ここで字下げ終わり]
 筆者は茲に支倉の死と共に筆を擱《お》くに際し、かくの如き至難比類なき疑獄事件に、終始一貫、不屈不撓の精神を以てよく犯罪を剔抉《てっけつ》し得たる庄司署長、快刀乱麻を断つ如く判決し了った宮木裁判長の英断、正道を踏んで恐れざる神戸牧師の勇を称《たゝ》え、尚被告の為めに献身的努力を惜まざりし能勢氏の労を多とすると共に、支倉が苦闘八年遂に第二審の判決に至らしめず、疑いを千古に残して自ら縊《くび》れ、死後尚庄司署長以下の名声を傷つくる挙に出でたる彼の妄執を憐れみ、且つ恐れるものである。
                     (〈読売新聞〉昭和二年発表)
 

底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1984(昭和59)年12月21日初版
   1996(平成8)年8月2日8版
初出:「読売新聞」
   1927(昭和2)年1月15日~6月26日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:松永正敏
2007年7月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

甲賀三郎

血液型殺人事件—— 甲賀三郎

     忍苦一年

 毛沼《けぬま》博士の変死事件は、今でも時々夢に見て、魘《うな》されるほど薄気味の悪い出来事だった。それから僅《わずか》に一月|経《た》たないうちに、父とも仰《あお》ぐ恩師|笠神《かさがみ》博士夫妻が、思いがけない自殺を遂《と》げられた時には、私は驚きを通り越して、魂が抜けたようになって終《しま》い、涙も出ないのだった。漸《ようや》くに気を取直して、博士が私に宛てられた唯一の遺書を読むと、私は忽《たちま》ち奈落の底に突落されたような絶望を感じた。私は直ぐにも博士夫妻の後を追って、この世に暇《いとま》をしようとしたが、辛うじて思い止ったのだった。
 その当時私は警察当局からも、新聞記者諸君からも、どんなに酷《きび》しく遺書の発表を迫られたか分らぬ。然《しか》し、私は堅く博士の遺志を守って、一年経たなければ公表が出来ないと、最後まで頑張り通した。その為に私は世間からどれほどの誤解を受けた事であろう。而《しか》しそれは仕方がなかったのだ。
 こうして、私にとっては辛いとも遣瀬《やるせ》ないとも、悲しいともいら立しいとも、何ともいいようのない忍苦の一年は過ぎた。
 恩師笠神博士夫妻の一周忌を迎えて、ここに公然と博士の遺書を発表することを許され、私は長い間の心の重荷を、せめて一部分だけでも軽くすることが出来て、どんなにホッとしたか分らぬ。
 以下私は博士の遺書を発表するに先立って、順序として、毛沼博士の変死事件から始める事にしよう。

     毛沼博士の変死

 二月十一

     忍苦一年

 毛沼《けぬま》博士の変死事件は、今でも時々夢に見て、魘《うな》されるほど薄気味の悪い出来事だった。それから僅《わずか》に一月|経《た》たないうちに、父とも仰《あお》ぐ恩師|笠神《かさがみ》博士夫妻が、思いがけない自殺を遂《と》げられた時には、私は驚きを通り越して、魂が抜けたようになって終《しま》い、涙も出ないのだった。漸《ようや》くに気を取直して、博士が私に宛てられた唯一の遺書を読むと、私は忽《たちま》ち奈落の底に突落されたような絶望を感じた。私は直ぐにも博士夫妻の後を追って、この世に暇《いとま》をしようとしたが、辛うじて思い止ったのだった。
 その当時私は警察当局からも、新聞記者諸君からも、どんなに酷《きび》しく遺書の発表を迫られたか分らぬ。然《しか》し、私は堅く博士の遺志を守って、一年経たなければ公表が出来ないと、最後まで頑張り通した。その為に私は世間からどれほどの誤解を受けた事であろう。而《しか》しそれは仕方がなかったのだ。
 こうして、私にとっては辛いとも遣瀬《やるせ》ないとも、悲しいともいら立しいとも、何ともいいようのない忍苦の一年は過ぎた。
 恩師笠神博士夫妻の一周忌を迎えて、ここに公然と博士の遺書を発表することを許され、私は長い間の心の重荷を、せめて一部分だけでも軽くすることが出来て、どんなにホッとしたか分らぬ。
 以下私は博士の遺書を発表するに先立って、順序として、毛沼博士の変死事件から始める事にしよう。

     毛沼博士の変死

 二月十一日、即《すなわ》ち紀元節の日だが、この日はひどく寒く、午前六時に零下五度三分という、東京地方には稀《まれ》な低温だった。私は前夜の飲過ぎと、学校が休みなのと、そのひどい寒さと、三拍子揃った原因から、すっぽり頭から蒲団《ふとん》を被って、九時が過ぎるのも知らずにいた。
「鵜澤《うざわ》さん」
 不意に枕許《まくらもと》で呼ぶ声がするので、ひょいと頭を上げると、下宿のおかみが蒼い顔をして、疑り深かそうな眼で、じッとこちらを見詰めている。どうも只ならぬ気色《けしき》なので、私は寒いのも忘れて、むっくり起き上った。
「何か用ですか」
 すると、おかみは返辞の代りに、手に持っていた名刺を差出した。何より前に私の眼を打ったのは、S警察署刑事という肩書だった。
「ど、どうしたんですか」
 私はドキンとして、我ながら恥かしいほどドギマギした。別に警察に呼ばれるような悪い事をした覚えはないのだけれども、腹が出来ていないというのだろうか、私はだらしなくうろたえたものだった。
 おかみは探るような眼付で、もう一度私を見ながら、
「何の用だか分りませんけれども、会いたいんだそうです」
 私は大急ぎで着物を着替えて、乱れた頭髪を掻き上げながら階下に降りた。
 階下にはキチンとした服装をしたモダンボーイのような若い男が立っていた。それがS署の刑事だった。
「鵜澤さんですか。実はね、毛沼博士が死なれましてね――」
「え、え」
 私は飛上った。恰《まる》で夢のような話だ。私は昨夜遅く、毛沼博士を自宅に送って、ちゃんと寝室に寝る所まで見届けて帰って来たのである。私だって、兎《と》に角《かく》もう二月すれば医科の三年になるんだから、危険な兆候があったかなかった位は分る。毛沼博士は酒にこそ酔っていたが、どこにも危険な兆候はなかった。博士は年はもう五十二だが、我々を凌ぐほどの元気で、身体にどこ一つ故障のない素晴らしい健康体なのだ。
 私が飛上ったのを見て、刑事はニヤリと笑いながら、
「あなたは昨夜自宅まで送ったそうですね」
「ええ」
「参考の為にお聞きしたい事があるので、鳥渡《ちょっと》署まで御苦労願いたいのですが」
「まさか、殺されたのじゃないでしょうね」
 病死ということはどうしても考えられないので、ふと頭の中に浮んだ事だったが、頭が未だ命令も何もしないのに、口だけで勝手に動いたように、私はこんな事をいって終った。
 刑事はそのモダンボーイのような服装とはうって変った、鋭い眼でジロリと私を見て、
「署でゆっくりお話しますから、兎に角お出下さい」
 そこで私はそこそこに仕度をして、半ば夢心地で、S署に連れて行かれたのだった。
 私は暫《しばら》く待たされた後、調室に呼ばれた。頭髪を短く刈った、肩の角張ったいかにも警察官らしい人が、粗末な机の向うに座っていた。別に誰とも名乗らなかったが、話のうちに、それが署長であることが分った。
「あなたは昨夜毛沼博士を自宅まで送ったそうですね」
 署長の質問も先刻刑事のいった通りの言葉で始まった。
「はア」
「何時頃でしたか」
「十時過ぎだったと思います」
 と、この時に博士邸の寝室に置いてあった時計を思い出したので、
「そうでした、寝室を出る時に、確か十時三十五分でした」
「そうすると、会場を出たのは」
「円タクで十分位の距離ですから、十時二十五分頃に出た事になります」
「どういう会合だったのですか」
「医科の学生で、M高出身の者の懇親会でした」
「何名位集まりました?」
「学生は十四五名でした。教授が毛沼博士と笠神博士の二人、他に助教授が一人、助手が一人、M高出身がいるのですけれども、差支えで欠席でした」
「会場では変った事はありませんでしたか」
「ええ、別に」
 私はこの時に、会場で毛沼博士と笠神博士とが、いつもとは違って、何となく話合うのを避けていたようだったのを思い出したが、取り立てていうほどの事でもなし、それには言及しなかった。
「毛沼博士は元気だったですか」
「ええ」
「酒は大分呑まれたですか」
「ええ、可成呑まれました」
「どれ位? 正体のなくなるほど?」
「いいえ、それほどではなかったと思います。自宅へ帰っても、ちゃんと御自身で寝衣《ねまき》に着替えて、『有難う、もう君帰って呉れ給え』といって、お寝《やす》みになりましたから」
「君はいつも先生を送って行くのですか」
「いいえ、そういう訳ではありませんけれども。先生の家は私の近所だものですから、みんな送って行けというので」
「毛沼博士と君とが一番先に出たんですね」
「いいえ、笠神博士が一足先でした」
「やはり誰か送って行ったのですか」
「いいえ、笠神博士はお酒をあまりお呑みになりませんので、殆《ほとん》ど酔っていらっしゃいませんでしたから――」
「毛沼博士が家に這入《はい》ってから、寝られるまでの間を、出来るだけ委《くわ》しく話して呉れませんか」
「そうですね。円タクから降りて、大分足許のよろよろしている先生の手を取って、玄関の中に這入ると、先生はペタンとそこへ腰を掛けて終《しま》われました。取次に出た婆やさんが『まア』と顔をしかめて、私に『すみませんけれども、先生を上に挙げて下さい』というので――」
「玄関に出たのは婆やだけでしたか」
「いいえ、女中がいました。女中は下に降りて、先生の靴を脱がせていました」
「書生はいなかったのですね」
「ええ、いつもいる書生が二三日暇を貰って、故郷に帰ったという話で――それで私が頼まれたのですが、私は頭の方を持ち、婆やと女中が足の方を持って、引摺《ひきず》るようにして、洋間の寝室へ連れて行きました」
「その時に寝室には瓦斯《ガス》ストーブがついていましたか」
「いいえ、ついていませんでした。婆やがストーブに火をつけますと、先生は縺《もつ》れた舌で、『もっと以前《まえ》からつけて置かなくちゃ、寒くていかんじゃないか』といいながら、よろよろと手足を躍るように動かして、洋服を脱ぎ始められました」
「そして寝衣に着替えて、寝られたんですね」
「ええ」
 とうなずいて、いおうかいうまいかと鳥渡ためらったが、やはりいった方がいいと思って、
「その時に、先生はひょろひょろしながら、上衣やズボンのポケットから、いろいろのものを掴み出して、傍の机の上に置かれましたが、一品だけ、ポケットの中で手に触ると、ハッとしたように、一瞬間身体のよろめくのを止めて緊張されましたが、その品を私達に見せないようにしながら、手早く取出すと、寝台の枕の下に押し込まれました」
「何でしたか、それは」
「小型の自動拳銃でした」
「ふん」署長は私が何事も隠さないのを賞讃するようにうなずいて、「先生は以前からそんなものを持っておられましたか」
「存じません。見たのが昨夜初めてですから」
「その他に変った事はありませんでしたか」
「ええ、他にはありません。先生は寝衣に着替えると、直ぐ寝台に潜り込まれました。そうして、帰って呉れ給えといわれたのです」
「それですぐ帰ったのですね」
「ええ」と又ためらいながら、「先生の寝室へ這入ったのは初めてですから、鳥渡好奇心を起しまして、暫く、といってもホンの一二分ですが、室内を眺めました」
「眺めただけですか」
「珍らしい原書や、学界の雑誌が机の上に積んでありましたので、鳥渡触りました」
「本だけですか」
「ええ、他のものは絶対に触りません」
「それから部屋を出たのですね」
「ええ、その間に婆やと女中とが先生の脱ぎ棄てた洋服をザッと片付けて、それぞれ手に持っていました。私が出て、続いて婆やと女中とが出ました」
「瓦斯ストーブはつけたままでしたね」
「ええ、そうです」
「君が出た時に、先生はとうに眠っていましたか」
「半分眠って居られたようです。ムニャムニャ何かいいながら、枕に押しつけた頭を左右に振っておられました」
「直ぐ立上って、扉《ドア》に鍵をかけられた様子はありませんでしたか」
「ええ、気がつきませんでした。――鍵がかかっていたんですか」
 署長は然し、私の質問には答えなかった。
「電灯は婆やが消したんですね」
「ええ、扉に近い内側の壁にスイッチがありまして、それを出がけに婆やが押して消しました」
「お蔭でよく分りました。もう一つお訊きしますが、君は先刻迎えに行った刑事に、『先生は殺されたのじゃないか』といったそうですが――」
 私はドキンとした。余計な事をいわなければよかったと後悔した。然し、署長は私の心の中などはお構いなし、どんどん言葉を続けていた。
「どういう訳で、そういう事をいったのですか。理由《わけ》もないのに、そんな事をいわれる筈がないと思いますがね」

     勝利者と惨敗者

 私が毛沼博士が死んだという事を聞いた時に、殺されたのではないかと思ったのは、別に深い根底がある訳ではなかったのだ。
 前にもいった通り、毛沼博士の死が病死とは考えられなかったし、といって博士が自殺するという事は、それ以上に考えられない事だし、過失死という事も鳥渡思い浮ばなかったので、つい殺されたのではないかと口を滑らしたのだが、といって、全然理由がなかった訳でもない。先《ま》ず第一は毛沼博士が自動拳銃を持っていたということ、それから第二には博士が最近二三月何となく物を恐れる風があった事だった。
 一体毛沼博士は、外科の教授に在勝《ありがち》な豪放磊落《ごうほうらいらく》な所があって、酒豪ではあるし、講義もキビキビしていて、五十二歳とは思えない元気溌剌《げんきはつらつ》たる人で、小事には拘泥しないという性質《たち》だった。所が、この二三月はそんなに目立つ程ではないが、何となく意気消沈したような所があり、鳥渡した物音にもギクッとしたり、講義中に詰らない間違いをしたり、いつも進んでする手術を、態《わざ》と若い助教授に譲ったり、些細な事ながら、少し平素と変った所があったのだ。
 私は署長の顔色を覘《うかが》いながら、
「別に深い理由はないのですが、先生は近頃何となく様子が変だったし、それにピストルなんか持っておられたものですから」
 と、私の考えを述べた。
 署長はうなずいて、
「もう一つ訊きますがね、君は毛沼博士が何故一生独身でいたか、その理由について何か知っている事はありませんか」
 私は又ハッとした。私がひそかに恐れていた事に突当ったような気がしたのだ。私は然しすぐに答えた。
「存じません」
 知らないと答えた事は決して嘘ではなかった。知っているといえば、なるほど知っている、然し、それはみんな噂が基で、それに私自身の憶測が加ったに過ぎないのだ。確実に知っていると答えられる範囲のものではない。
 噂によると、毛沼博士は若い時に失恋をしたという事だ。而もその相手の女性は笠神博士夫人なのである。毛沼博士と笠神博士とは郷里も隣村同士で、同じ県立中学に机を並べ、一番二番の席次を争いながら、同じM高に入学し、ここでも成績を争いながら、帝大の医科に入学した。ここでは、毛沼博士は外科、笠神博士は法医と別れたが、それも卒業してからの事で、在学中はやはり競争を続けていた。考え方によると、両博士は実に不幸な人達で、恰《まる》で互に競争する為に生れて来たようなものである。而も、その争いは武器を取って雌雄《しゆう》を決《けっ》する闘争ではなく、暗黙のうちに郷里の評判や、学科の点数や、席次や、社会的地位を争うのだから、そこに不純な名誉心や嫉妬心や猜疑心が介在して来るから、本人達に取っては、非常に苦しいものだったに違いないと思う。
 噂をして誤りなく、又私の推察が正しければ、この二人は、場合によっては名誉も権勢も生命も弊履《へいり》のように棄てようという恋を争ったというのだから、実に悲惨である。三角関係にどんな経緯《いきさつ》があったか知らないが、兎に角、笠神博士が恋の勝利者となり、毛沼博士が惨敗者となって、遂に一生を独身に送ることになったのだ。私はM高出身ではあるけれども、東京で生れ東京で育った人間なので、帝大に這入って初めて両博士に接し、そういう噂話を耳にしたのだが、爾来《じらい》三年間に、親しく両先生の教えを受け、殊《こと》に笠神博士には一層近づいて、家族へも出入したので、今いった噂話が一片の噂でなく、事実に近いものであることは、十分推察せられていたのだった。
 然し、両先生の口や、笠神博士夫人の口から直接聞き出した事ではなし、何の証拠もない事であるから、私は署長の質問に対して知らないと答えたのである。
 署長は暫く私の顔を見つめていたが、その事については、もう追及しようとせず、質問の鉾先《ほこさき》を一転したのだった。
「君は笠神博士の所へ、よく出入するそうですね」
「は」
 いよいよ来たなと思った。私がひそかに恐れていたのはそれだった。全く私は笠神博士の所へは繁々《しげしげ》出入した。今では私は博士を啻《ただ》に恩師としてでなく、慈父のように慕っているのだ。静かに考えて見ると、私は別にその為に恐れる所はないのだ。よし笠神博士と毛沼博士とが、恋の三角関係があったにせよ、それはもう二十数年も以前の事なのだ。その当時こそ互にどんな感情を持ったか分らないが、爾来二人は同じ学校に講堂を持って、何事もなく年月を送り、今はもう互に五十の年を越えている。今更二人の間にどうという事があろう筈がない、従って毛沼博士が自宅の一室で変死を遂げたにせよ、それが笠神博士に関係がありそうな事はないのだ。
 然し、今こうやって、署長から事新しく毛沼博士が独身生活をしている理由や、私が笠神博士と親しくしている事などを訊かれるとそれは私の杞憂《きゆう》に過ぎないだろうけれども、何となく気味が悪いのだ。何といっても、私が毛沼博士を自宅の寝室まで送り届けたのだし、恐らく私が生きている毛沼博士を見た最後の人間だろうから、それを笠神博士と親しくしている事に結びつけて、変な眼で見られると、油断のならない結果を招くかも知れない。全く世の中に誤解ほど恐ろしく、且《か》つ弁解し悪《にく》いものはないのだ。
 私は蛇足だと思いながらも、言いわけがましく、つけ加える事を止められなかった。
「僕は将来法医の方をやる積りなので、笠神博士に一番接近している訳なんです」
「ふん」
 署長は私が恐れているほど、私と笠神博士との関係を重要視していないらしく、軽くうなずいて、
「笠神博士という人は、大へん変った人だそうですね」
「ええ、少し」
「夫人は大へん美しい方だそうですね」
「ええ、でも、もう四十を越えておられますから」
「然し、実際の年より余ほど若く見えるようじゃありませんか」
「ええ、人によっては三十そこそこに見られるそうです」
「笠神博士は家庭を少しも顧みられないそうですね」
「ええ」
 私は肯定せざるを得なかった。全く博士は学問の研究にばかり没頭して、美しい夫人などは全く眼中にないようなのだ。昔は知らず今は之《これ》が激しい恋愛をした間なのかと疑われる位である。
「笠神博士は学問以外に何にもない、博士の恋人は学問だといわれているそうですね」
「ええ」
「それで夫人にはいろいろの噂があるそうじゃありませんか」
「そんな事はありません」
 私は少しむっ[#「むっ」に傍点]としながら答えた。博士夫人は博士からそうした冷い取扱いを受けながら、実に貞淑に仕えた、何一つ非難される所のない人なのだ。
 署長は探るような眼つきで私を見ながら、
「そうかな。夫が仕事に没頭して家庭を顧みない。勢い妻は勝手な事をする、なんて事は世間に在勝《ありがち》の事だからな」
「他の家庭は知りませんが、笠神博士の夫人は絶対にそんな事はありません」
「然し、君のような若い色男が出入するんだからね」
 何たる侮辱だ! 私は唇をブルブル顫《ふる》わせた。
「な、なんといわれるのです。ぼ、僕は笠神博士を敬慕のあまり、お宅に度々《たびたび》お伺いするのです。い、一体あなたは何を調べようと仰有《おっしゃ》るのですか」
 私の剣幕が激しかった為か、署長はニヤニヤしていた笑顔を急に引込めて、
「そうむき[#「むき」に傍点]になっちゃいかん。僕はそういう事実があるかないかという事について、調べているんだからね」
「事柄によります。第一、そんな事を、何の必要があって調べるんですか」
「必要があるとかないとかという事について、君の指図は受けない」
 署長は鳥渡|気色《けしき》ばんだが、直ぐ元の調子になって、
「この話は打切としよう。君は法医の方に興味があるそうだが、之を一つ鑑定して呉れませんか」
 署長は机の抽斗《ひきだし》を開けて、紙片のようなものを取出した。

     血液型の研究

 私はここで少し傍路に這入るけれども、私と笠神博士の奇妙な因縁について、述べて置きたいと思う。
 笠神博士も毛沼博士も、前に述べたように、M高の先輩ではあるけれども、そうして無論M高在学中に、どこの学校にもあるように先輩についての自慢話に、医科には先輩の錚々たる教授が二人まであることは、よく聞かされていたが、親しく接するようになったのは、大学に這入ってからの事であった。
 両先生の教授を受けるようになってから、誰でも経験するように、私は直ぐに毛沼博士が好きになって、笠神博士はどっちかというと嫌いだった。毛沼博士は磊落で朗かであるのに、笠神博士は蒼白い顔をして、陰気だったから、誰でも前者を好いて、後者には親しまなかったのだった。
 全く、両博士のように、故郷を同くし、中学から大学まで同じ級で、同じ道を進み、卒業後も肩を並べて、同じ学校の教授の席を占めているという事も珍らしいが、その性格が全く正反対なのも珍らしいと思う。
 毛沼博士は表面豪放で磊落で、酒も呑めば、独身の関係もあるが、カフェ歩きやダンスホール通いもするし、談論風発で非常に社交的である。だから、誰でも直ぐ眩惑《げんわく》されて、敬愛するようになるが、よく観察すると、内面的には小心で、中々意地の悪い所があり、且つ狡猾《ずる》い所がある。自分の名声については、汲々《きゅうきゅう》として、それを保つ為には時に巧妙な卑劣な方法を取る事を辞さない。勝れた学識と、外科手術の手腕を持つ助教授が、栄転という美名の許に、地方の大学の教授に巧みに敬遠せられた例が二三あるし、弟子に研究させて、それを誇らしげに自分の研究として、学界に報告した事も、私は知っている。何しろ口が旨いから、空疎な講義の内容も、十分|胡麻化《ごまか》されるし、学者仲間には兎も角、世間に対しては、いかにも学殖のある篤学の士のように見せかける事は、易々《いい》たる事である。そんな訳で、先生の颯爽《さっそう》たる講義に接した最初は、どの学生でもみんな眩惑されて終う、そうして、多数は最後まで引摺られて行くのだ。
 所が、之に反して笠神博士は表面誠に陰気で、無愛想で口下手だ。酒も呑まないし、変に固苦しくて、誰だって親しめるものではない。然し、よく観察すると、内面的には実に親切な人で、慈悲深く、意地の悪い所や狡猾い所は微塵もなく、学問に忠実で、公平無私だ。弟子は少いけれども、非常によく可愛がって、自分の功績を惜しげもなく譲って終う。毛沼博士は自分に都合のいい人間は、よく可愛がるが、都合の悪い人間は排斥するし、昨日までよくても、今日はもう悪くなるという風だが、笠神博士は自分の悪口をいうような人間でも、学問の上で見所があれば、どこまでも親切に面倒を見る。交際《つきあ》えば交際うほど、親しくすればするほど、味の出て来る人である。
 私はN大学のA教授のように、血液型で人の性質が定るものだとは考えない。然し、毛沼博士と笠神博士との血液型が、全く異っているのは、興味のある事だと思う。即ち毛沼博士はB型で、笠神博士はA型なのだ。而もこの血液型の相違が、後に傷《いたま》しい悲劇の重大要素となり、この物語の骨子ともなるのだから、軽々しく見逃すことは出来ないのだ。
 人間の血液型については、今日では殆ど常識的になっているから、ここに改めて諄々《くどくど》しく述べる必要はないが、後にこの物語に重大な関係を持って来るし、私を笠神博士に結びつけたのも、血液型の問題が重要な役目をしているので、ここで鳥渡触れたいと思う。
 笠神博士が法医学が専門であることは既に述べたが、先生は血液型については、最も深く研究せられて、その第一の権威者なのである。人間の血液が、そのうちに含まれている血球と血清の性質によって、A、B、O、ABの四型に分類されることは、最早動かすべからざる事であり、その分類も比較的容易に出来るから、法医学に於て重要視するのは、寧《むし》ろその応用にあるのだ。中でも一番重要なのは血液型による親子の決定である。
 抑々《そもそも》忠孝といい、仁義といい、礼智信といい、人倫の根本となるべきものは親子である。所が、文化の非常に進んだ今日、未だ科学的に確実に親子を決定すべき方法がないのは、悲しむべき事であるが、事実であるのは致し方がない。然し、血液型の研究によって、相当の程度まで、親子に非ずという決定は出来る。即ち、両親のどちらにもA型がない場合に、子には決してA型は現われないし、双方にB型のない場合は、子には決してB型は現われない。父がA型であり、母がO型である場合に、子がB型、或《ある》いはAB型であればその父なり、母なり、或いは双方なりが否定されなければならない。母が確実であれば、無論父は他にあるのである。然しながら、父がA型、母がO型で、子がA或いはO型の場合、その両親は否定されないけれども、積極的に肯定することは出来ない。何故ならO型の母は、他のA型の男子によって、A或いはO型の子を、いくらでも生むことが出来るからだ。
 所で、AB型に関係して来ると、学説が二つに別れる。即ち二対対等形質説に従えば、四遺伝単位説となって、両親のどちらかにAB型があれば、子供には各型のものが生れる事になっている。も一つの三遺伝単位説に従えば、O型とAB型との間からは、A型又はB型が生れ、AとAB型、BとAB型、AB型同士からは、A、B、AB型が生れて、決してO型は生れない。要するに、AB型からは決してO型は生れず、O型の親には決してAB型はないという事になるのだ。
 この両説は久しい論争の後に、後説が正しい事が、実験的に決定したといっていい。笠神博士は熱心な三遺伝単位説の支持者で、その為に涙ぐましいような努力を払われている。私は医科に入学後、だんだん法医学に興味を持つようになり、殊《こと》に血液型とその応用について、最も興味を覚えたので、勢い笠神博士に近づかざるを得なかったのだが、始めにもいった通り、博士は非社交的で、堅苦しくて容易に親しめなかった。友人の中には私が法医学に進もうとするのを、嘲笑して、
「笠神さんなんて、意味ないぜ」
 といった者さえあった。
 然し、少し宛《ずつ》接近して行くうちに、博士には陰気の裏には誠意があり、堅苦しい反面には慈愛があり、無愛想の一面には公平無私のあることが、だんだん分って来たので、私は敬愛の度を次第に増して行った。所が一年ばかり以前に次のような出来事があって、先生が、
「自宅へ遊びに来ませんか」
 という二十余年の教授生活に、未だかつてどの学生にもいわれた事がないという言葉を貰い、私達の親交は急速に進展したのだった。
 血液型に興味を持った私は、無論自分の血液型を計って、A型であることを知ったが、更に両親や兄弟の血液型を調べて、統計上の助けにしようと思って、先生の指導を仰いだ。
 その時分には、先生も私を熱心な研究生と認めて、大分厚意を示しておられたので、快よく血液型決定の方法《メトード》を教えて呉れて、それに必要な血清を分与されたのだった。
 私は早速父母を始め弟妹の血液型を調べたが、思いがけない結果が現われたのである。
 即ち、私の父はB型、母はO型で、弟妹共にO型なのだ。所が私一人だけA型である。而《しか》も血液型の定説に従えば、B型とO型の両親からは、絶対にA型は生れない事になっている。といって、私が両親を疑わなければならない理由は全然ないのだ。
 私はこの事を先生に報告して、
「例外じゃないのでしょうか」
 というと、先生はじっと私の顔を眺めて、
「測定の間違いはないでしょうね」
 といわれた。先生はいつも口癖のように、血液型の決定は一見非常に容易のようで、素人でも一回教われば、直ぐその次から出来るように思える。又事実出来もするのであるが、決して馬鹿にしたものでなく、十分の経験と周到な用意を持ってしないと、往々にして他の原因で凝集するのを見誤る場合があるから、経験の足りないものの測定は危険性があるという事を、強調しておられたのだった。
「大丈夫だと思うのですけれども」
 と答えると、先生は暫く考えて、
「もう一度やってごらんなさい」
 といわれた。
 それで、もう一回やって見たのだが、結果はやはり同様だった。
 先生は、
「君の手腕を疑う理由《わけ》ではないんですが、一度採血して持って来ませんか」
 そこで私は又かと嫌がる両親弟妹から、それぞれ少量の血を採って、先生の所へ持って行った。
 それから二三日して、先生は結果については少しも触れないで、
「君は今の家で生れたんですか」
 と訊《き》かれた。
「いいえ、今の家は移《こ》してから、未だ五六年にしかなりません。僕は病院で生れたのだそうですよ」
「病院で」
「ええ、初産ですし、大事をとって、四谷のK病院でお産をしたんだそうです」
「病院で」
 先生は吃驚《びっくり》したようにいわれたが、直ぐにいつもの冷静な調子で、
「ああ、そうですか」
 といって、それっきり何事もいわれなかった。
 それから一週間ほど経つと、先生が不意に、
「君、自宅へ遊びに来ませんか」
 といわれたのだった。
 私は無論喜んで、先生の厚意ある言葉に従った。それから私は足繁く出入するようになった。
 私が訪問すると、先生は直ぐに書斎に入れて、いろいろ有益な話をしたり、珍らしい原書を示したり、私の家の事を訊いたり、平生《へいぜい》無口な非社交的な先生としては、それがどれほどの努力であるかという事が、はっきり感ぜられるほど、一生懸命に私をもてなして呉れるのだった。それによって、私は先生の内面に充ち溢れる親切と、慈愛とを初めて知ることが出来たのだった。
 博士夫人にも度々お目にかかった。夫人は前にもいった通り、実際の年よりも十も若く見えるほど美しい人で、殆ど白粉気のない顔ながら、白く艶々しく、飾気のない服装ながら、いかにも清楚な感じのする人だった。只、意外なのは、夫婦の間が何となく他人行儀で、よそよそしい事だった。博士は私に対しては、努めていろいろの話をされるにも関《かかわ》らず、夫人に対しては、必要な言葉以外には殆ど話しかけられず、稀々《たまたま》話しかけられる言葉も、いつでもせいぜい四五文字にしかならない短いものだった。私は二人の結婚が激しい恋愛の後に成立したと聞いていたので、この冷い仲を見て、どうも合点《がてん》が行かなかった。然し、考え方によると、こうした他人行儀的態度は、博士の性格に基くもので、学問に没頭して、それ以外の何の趣味もなく、何の興味もない博士の事であるから、必ずしも冷いというものではないかも知れないのだ。
 夫人は飽くまで温良貞淑だった。少しも博士の意に逆おうとせず、自分を出そうとせず、控え目にして、書斎の出入には足音さえ立てないという風だった。私に対しても、控え目な然し十分な厚意を示された。決して一部で憶測しているような、博士は博士、夫人は夫人といったような離れ放れの夫婦ではなかった。噂によると、博士と夫人がこういう外観的の冷い仲になったのは、十年ばかり以前に夫婦の間の一粒種だった男の子が、十いくつかで死んでからだともいい、又、それは結婚すると間もなく始まったともいう。私にはどっちが正しいのか、それとも両方とも間違っているのか分らない。
 話が大分傍路に這入ったが、之で私が血液型の研究から、博士と非常に親しくなった経緯は分って貰えたと思う。
 話を本筋に戻そう。

     脅迫状

 署長は机の抽斗から、紙片を取り出して、私に示した。紙片は薄いケント紙を長方形に切ったもので、葉書よりやや大きいかと思われるものだった。それに丸味書体《ルンド・シュリフト》という製図家の使う一種の書体で、次のような文字と、記号が書かれていた。

Erinnern Sie sich zweiundzwanzigjahrevor !
Warum O×A → B ?


「ドイツ語ですね」私はいった。「二十二年|以前《まえ》を思い出せ、と書いてありますね。それから何故《ワルーム》、というのですが、この記号は――」
 私は首を捻った。
 兎角人は物事を、自分の一番よく知っている知識で解決しようとするものだ。例えば患者が激しい腹痛を訴えた時、外科医は直ぐ盲腸炎だと考え、内科医は直ぐ胆石病だと考える、というような事がいわれている。そこで、私はこの記号を、直ぐ血液型ではないかと考えた(そしてこれは間違ではなかったのだが)。
「えーと、之は血液型の事をいったのじゃないでしょうか」
「どういう事ですか」
「つまり、何故ですね、何故、O型とA型から、B型が生れるか」
「何の事です。それは」
「そういう事ですね。O型とA型の両親からB型が生れるのは何故か、という事なんでしょう」
「それと前の言葉とどういう関係があるんですか」
「分りません」
「ふん」
 署長は仕方がないという風にうなずいた。
 私は訊いた。
「一体なんです。之は」
「毛沼博士の寝室で発見されたんです」
「へえ」
 意外だったが、意外というだけで、それ以上の考えは出なかった。それよりも、今まで肝腎の事を少しも分らせないで、散々尋問された事に気がついたのだった。私は最早猶予が出来なかった。
「毛沼博士はどうして死んだんですか」
「瓦斯の中毒ですよ。ストーブ管がどうしてか外れたんですね。部屋中に瓦斯が充満していてね、今朝八時頃に漸く発見されたのです」
「過失ですか。博士の」
「まあ、そうでしょうね。部屋の扉が内側から鍵がかかっていましたからね」
「じゃ、博士が管を蹴飛ばしでもしたんでしょうか。私が出た時には、確かについていましたから」
「そうです。博士が少くても一度起きたという事は確かですから。鍵を掛ける時にですね」
「八時までも気がつかなかったのはどういうものでしょう」
「休日ですからね。それに前夜遅かったし、グッスリ寝ていたんでしょう」
 説明を聞くと、十分あり得ることだ。現に知名の士で、ストーブの瓦斯|漏洩《もれ》から、死んだ人も一二ある。だが、私には毛沼博士の死が、どことなく不合理な点があるような気がするのだった。
「じゃ、過失と定ったのですか」
「ええ」
 署長はジロリと私の顔を眺めて、
「大体決定しています。然し、相当知名の方ですから、念を入れなくてはね。それで、態々《わざわざ》来て貰ったのですが、御足労|序《ついで》に一度現場へ来て呉れませんか。現場についてお訊きしたい事もあるし、それに君は法医の方が委しいから、何か有益な忠告がして貰えるかも知れない」
「忠告なんて出来る気遣いはありませんけれども、喜んでお伴しますよ」
 私達は直ぐ自動車を駆って、毛沼博士邸へ行った。もう十時を少し過ぎていて、曇り勝な空から薄日が射していたが、外は依然として寒く、街路に撒《ま》かれた水は、未だカンカンに凍っていた。邸前に見張をしていた制服巡査は寒そうに肩をすぼめていたが、署長を見ると、急に直立して、恭々《うやうや》しく敬礼した。
 寝室は死骸もそのまま、少しも手がつけてないで保たれていた。昨夜あんなに元気だった博士は、もうすっかり血の気を失って、半眼を見開き、口を歪めて、蒲団から上半身を現わしながら、強直して縡切《ことき》れていた。
 私は鳥渡不審を起した。
 死体の強直の様子から見ると、少くとも死後十時間は経過しているように思われる。そうすると、博士の死は夜半の十二時後になり私達が部屋を出てから一時間半後には、絶命した事になる。仮りに私達が部屋を出た直後、博士が起きて、扉の鍵をかけ、その時に誤って、ストーブの管を抜いたとしても、絶命までには瓦斯の漏洩は一時間半である。僅かに一時間半の漏洩で、健康体が完全に死ぬものだろうか。
 私は部屋を見廻した。部屋は十二畳位の広さで、天井も可成高い。今はすっかり窓が開け放たれているけれども、仮りにすっかり締められたとしても、天井の隅には金網を張った通風孔が、二ヶ所も開けてある。私には瓦斯がどれ位の毒性のあるものか、正確な知識はないが、この部屋にこのガス管から一時間半噴出したとして、或いは知覚を失うとか、半死の状態にあるとか、仮死の状態になるとかいう事はあり得るかも知れないが、その時間内に絶命するという事はどうかと思われるのだ。
 私がキョロキョロ室内を見廻したので、署長は直ぐに訊いた。
「昨夜と何か変った所がありますか」
「いいえ」
 と答えたが、署長の言葉に刺戟されて、ふと昨夜興味を持った雑誌の事を思い出して、机の上を見ると、私は確かにちゃんと揃えて置いたのに、少し乱雑になっているようである。
(夜中に博士が触ったのだろうか)
 と思いながら、傍に寄って、一番上の雑誌を取上げて、鳥渡頁を繰って見たが、私は思わずアッと声を出す所だった。然し、辛うじて堪《こら》えて、そっと署長の方を盗み見たが、幸いに床の上にしゃがんで、頻《しき》りに何か調べている所だったので、少しも気づかれないようだった。
 何が私をそんなに驚かしたのか。私は昨夜ここへ毛沼博士を送って、ふと机の上の雑誌を見て、興味を持ったのは、それがかねて、私が、というよりは笠神博士の為に、熱心に探し求めていた雑誌だったからである。それは一二年以前にドイツで発刊された医学雑誌であるが、その中には法医学上貴重な参考になるべき、特種な縊死体の写真版が載っていたのだった。この雑誌は日本に来ているのは極く少数である許《ばか》りでなく、ドイツ本国でも発行部数が少ないので、どうしても手に這入らなかったものだった。昨夜ふとこの雑誌を見つけた時に、毛沼博士は笠神博士が之を欲しがっている事を知っている筈だし、毛沼博士にとっては専門違いのもので、さして惜しくもないものだから、快く進呈すればいいのに、持っていながら黙って隠している意地悪さに、鳥渡義憤を感じたのだったが、今開いてみると、どうだろう、その写真版だけが、引ちぎってあるのだ。而もそれが非常に急いだものらしく、写真の隅の一部が残っているほど、乱暴に引ちぎってあるのだ。
(毛沼博士が引ちぎったのだろうか)
 博士は寝台の上で半眠の状態にいて、私がこの雑誌を見た事を知って、私が部屋を出ると、すぐに起上って、急いで引ちぎったのだろうか。博士はそれ程の事をしかねない人である。然しながら、それをそんなに急いでしなければならないだろうか。私が再び部屋に帰って来て、それを持って行く事を恐れたのだろうか。それなら、写真版だけ引ちぎらなくても、防ぐ事は出来るではないか。まさか私が夜中にそっと盗みに来ると思った訳でもないだろう。何とも合点の行かない事である。私は出来るなら、机の抽斗その他を探して、引ちぎった写真版の行方を尋ねたいと思ったが、そんな自由は許される筈がなかった。
 私は雑誌をそっと元の所に置いた。署長の方を見ると、まだ床の上にしゃがんで何かしている。私は静かに傍に寄って覗《のぞ》き込んだ。
 署長は頻に床の上の厚い絨氈《じゅうたん》を擦《さす》っていた。見ると、厚ぼったい絨氈が直径一寸ばかりの円形に、すっかり色が変っているのだ。そして、手で擦ると恰で焼け焦げのように、ボロボロになるのだった。といって、普通の焼け焦げでない事は一見して分るのだ。
 署長は私が傍によった為か、口の中でブツブツ何か呟きながら、急に立上った。そうして、手を洗う為に、部屋の隅の洗場《ウォッシュ・スタンド》に歩み寄って、水道の栓を捻ったが、水は少しも出て来なかった。
 署長は舌打をした。
「チョッ、損じているのか」
 すると、扉の外にいた婆やが、その声を聞きつけたと見えて、
「今朝の寒さで凍ったのでございましょう」
 といった。
 署長はそれには返辞をせず、手を洗うのを諦めて、部屋の中央へ戻って来た。
 その時に、一人の刑事が何か発見をしたらしく、西洋封筒様のものを掴みながら、急ぎ足で部屋に這入って来た。
「署長、これが書斎の机の抽斗の中にありました」
 署長は封筒様のものを受取って、中から四角い紙片を取り出したが、
「又ドイツ語か」
 といって、私の方を向いて、
「君、もう一度読んで下さい」
 それは先刻見せられたものと、全く同じ紙質の、同じ大きさのもので、やはり丸味書体で書かれていた。
 私は読んで行くうちに、サッと顔色を変えた。なんと、その紙片にはドイツ語でこう書いてあるではないか。
 千九百二十二年四月二十四日を思い出せ。
 ああ、そうして、之れはなんと私の生年月日なのだ!
「ど、どうしたんだ。君」
 私の啻ならない様子を見て、署長は詰問するように叫んだ。
「千九百二十二年四月二十四日を思い出せと書いてあるのです。それは私の生れた日なんです」
「ふむ」
 署長は疑わしそうに私を見つめながら、
「その他に何も書いてないか」
「ええ」
 私は先刻警察署で同じような紙片を見せられた時には、少しも見当がつかなかったが、今はハッキリと分った。この紙片は、何者かが毛沼博士に送った脅迫状なのだ。その紙片には単に二十二年前を思い出せと書かれていたが、後の紙片にはちゃんと年月日が書かれている。而もそれが私の生年月日なのだ。前の紙片に書き加えられていた血液型のような記号は何を意味するのか。もし、私の事を暗示するのなら、
 O×B→A
でなければならないのだ。何故なら私はO型の母とB型の父から生れたA型なんだから。
 私は何が何だか分らなくなって来た。然し、たった一つ、毛沼博士の変死事件の渦中に私が引摺り込まれようとしている事は確かなのだ!

     三つの疑問

 正午《ひる》近くなって、私は漸く帰宅することを許されたので、ズキンズキン痛む頭を押えながら、毛沼博士邸を出た。すると、私は忽《たちま》ち待構えていた新聞記者の包囲を受けた。
「君は誰ですか」
「毛沼博士は自殺したんですか」
「博士には何か女の関係はなかったですか」
 彼等は鉛筆をなめながら、めいめい勝手な無遠慮な質問を浴せかけるのだった。
 辛うじてそこを切抜けて下宿へ帰ると、そこにも記者が待受けていた。それから入れ代り立ち代り、各社の記者の訪問を受けた。私は終いには大声を挙げて泣きたくなった。
 二時頃になって、やっと解放されたけれども、私は何を考える気力もなかった。すぐに蒲団を敷いて、その中に潜り込んだ。然し、頭が非常に疲れていながら、ちっとも眠れない。といって、纏った事は少しも考えられない。今まで経験したり、書物で読んだりした事のうちで、気味の悪い恐ろしい事ばかりが、次々に頭の中に浮んで来る。ウトウトとしては、直ぐにハッと目を覚ます。そんな状態で夕方を迎えた。
 夕方に私は起上った。そうして外に出ると、重なる新聞の夕刊をすっかり買い込んで帰って来た。誰でも経験することだろうが、自分が少しでも関係した事の新聞記事というものは、実に読みたいものだ。況《いわん》や、よく分らないながらも、重大な関係のあるらしい事件なのだから、私は貪るようにして、読み耽《ふけ》ったのだった。
 自分が実際に関係して、警察署に呼ばれ、訊問をされ、現場まで見ていながら、事件の委しい内容については、全然触れる事が出来ないで、反《かえ》って新聞記事から教えられるという事は、いかにも皮肉な事であるけれども、その通りなのだから、どうも仕方がない。
 新聞の記事はいずれも大同小異だった。その中から拾い集めた事実を総合すると、毛沼博士の変死事件は次のようだった。
 毛沼博士は今朝八時、寝室の寝台の上に、冷くなって死んでいるのが発見された。部屋の中にはガスが充満して、ストーブに連結された螺線管は、ガス管から抜離され、ガス管からは現に猛烈な勢いでガスが噴出していた。屍体は死後七八時間を経過し、外傷等は全然なく、全くガス中毒によるものと判明した。
 博士は前夜、M高校出身の医科学生の会合に出席して、非常に酩酊して、学生の一人に送られて、十時半頃家に帰って寝についたのだが、一旦寝台に横《よこたわ》ってから、一度起上って扉に内側から鍵をかけた形跡が歴然としていたので、その際誤ってガス管を足に引かけ、抜け去ったのを知らないで、寝た為にこの惨事を起したものと見られている。
 然し、一方では、博士が最近に脅迫状らしきものを受取り、不安を感じていたらしく、護身用の自動拳銃《オートマチック》を携帯していた事実があり、且つ、泥酔していながらも、扉に鍵をかける事を忘れなかった点、及び扉に鍵をかける気力のあるものが、ストーブを蹴飛して、ガスの放出するのに気づかないのは可笑しいという説も生じ、当局では一層精査を遂げる由である。
 屍体は現場に於ける警察医の検視で、ガス中毒なることは明かであるが、前述の理由によって、大学に送って解剖に付することになった。法医学の権威笠神博士が執刀される筈だったが、都合で宮内《みやうち》助教授がそれに当ることになった。

 新聞で見ると、当局も毛沼博士の死因については一抹《いちまつ》の疑惑を持っているらしいのだ。毛沼博士の死は、警察医の推定では死後七八時間とあるが、之は午前八時頃の診断だから、やはり博士の死は、前夜の十二時前後となり、私が帰ってから二時間以内の出来事である事は確からしい。あの瓦斯ストーブから僅々《きんきん》二時間足らずのガスの漏洩で、果して死ぬものだろうか。新聞にはこの事には少しも触れていないけれども、私は第一の大きな疑問だと思うのだ。
 第二に、之は私以外の誰も知らない事であるが、例の雑誌の写真版が破りとってあった事で、私が出てから毛沼博士が起き上って、破りとったのでなければ、誰かが這入ったものと見なければならない。然し、その者はどういう方法で忍び込んだのだろうか。扉には内側から鍵がかかっていたというから、博士の許可を得て這入ったものと考えざるを得ない。それとも、博士が未だ鍵をかけないうちに、そっと部屋に忍び込んで、写真版を破りとり、又そっと出て行ったその後で、博士はふと眼を覚まして、起き上って扉に鍵を下したのだろうか。それにしても、学術上以外になんの価値もない、うす気味の悪い縊死の写真などを、一体誰が欲しがろうというのだ! そうすると、写真はやはり毛沼博士自身が破ったのかも知れない。いずれにしても、写真版の行方は相当重要な問題である。
 第三にはあの奇怪な脅迫状だ。私の生年月日が書いてあったが、あれは偶然の暗合だろうか。偶然の暗合にしては、あまりピタリと合いすぎるけれども、仮りにそうとして、一体何事を意味するのか。考えれば考えるほど分らない事ばかりだ。
 私はふと思いついて、本箱の奥の方に突込んであった無機化学の教科書を引張り出して、一酸化炭素の所を調べて見た。我々が燃料に使っているガスは石炭ガスと水成ガスの混合で、約 [#「 」に「ママ」の注記]%の一酸化炭素を含んでいる。この一酸化炭素は猛毒性のもので、燃料ガスに中毒するというのは、つまりこの一酸化炭素にやられるのである。
 教科書の一酸化炭素の項には次のように書いてあった。

 無色無臭の気体で、極めて激しい毒性がある。空気一〇〇、○○○容中に一容を含むと、呼吸者は既に中毒の徴候を現わし、八○○容中に一容を含むものであると、三〇分位、一%を含むものでは僅々二分間で死を致すという。一酸化炭素が吸収せられると、血液中のヘモグロビンと結合し、ヘモグロビンの機能(酸素の運搬)を失わしめる。

 私は鉛筆と紙を出して、ザッと計算して見た。毛沼博士の寝室は大体十二畳位だったから、十二尺に十八尺とし、天井の高さを十尺とすると、部屋の容積は約二千二百立方尺になる。瓦斯ストーブの噴出量はハッキリ分らないが、あれ位のものでは、私が経験した所によると、最大一分五|立《リットル》を出ないと思う。すると一時間に三〇〇立になり、約十立方尺である。仮りに毛沼博士の死が夜中の一時に起ったとしても、噴出時間は最大二時間半で、二十五立方尺である。ガスの一酸化炭素含有量を八%とすると、二千二百立方尺の空気に対し○・一%以下となる。これが二時間半後に達する最大濃度であるから、ここでは未だ死が起き得ないと断言出来ると思う。尤《もっと》も博士の絶命時間については未だ正確に分らないから、解剖の結果を待たないと、結論は早計であるかも知れないが、之を見ると、博士の死は変な事になるのだ。
 といって、私には博士が他のどんな原因で死んだかという事については、少しも見当がつかない。外傷もなにもなく、明かに一酸化炭素の中毒で死んでいたものなら、ガス中毒と見るより以外にないのだ。
 私の頭は又割れるように痛くなって来た。私は鉛筆と紙を抛《ほう》り出して、畳の上にゴロリと横になった。

     ちぎった写真版

 翌日学校へ出るのが、何となく後めたいような気持だった。むろん、何にも疾《やま》し

     忍苦一年

 毛沼《けぬま》博士の変死事件は、今でも時々夢に見て、魘《うな》されるほど薄気味の悪い出来事だった。それから僅《わずか》に一月|経《た》たないうちに、父とも仰《あお》ぐ恩師|笠神《かさがみ》博士夫妻が、思いがけない自殺を遂《と》げられた時には、私は驚きを通り越して、魂が抜けたようになって終《しま》い、涙も出ないのだった。漸《ようや》くに気を取直して、博士が私に宛てられた唯一の遺書を読むと、私は忽《たちま》ち奈落の底に突落されたような絶望を感じた。私は直ぐにも博士夫妻の後を追って、この世に暇《いとま》をしようとしたが、辛うじて思い止ったのだった。
 その当時私は警察当局からも、新聞記者諸君からも、どんなに酷《きび》しく遺書の発表を迫られたか分らぬ。然《しか》し、私は堅く博士の遺志を守って、一年経たなければ公表が出来ないと、最後まで頑張り通した。その為に私は世間からどれほどの誤解を受けた事であろう。而《しか》しそれは仕方がなかったのだ。
 こうして、私にとっては辛いとも遣瀬《やるせ》ないとも、悲しいともいら立しいとも、何ともいいようのない忍苦の一年は過ぎた。
 恩師笠神博士夫妻の一周忌を迎えて、ここに公然と博士の遺書を発表することを許され、私は長い間の心の重荷を、せめて一部分だけでも軽くすることが出来て、どんなにホッとしたか分らぬ。
 以下私は博士の遺書を発表するに先立って、順序として、毛沼博士の変死事件から始める事にしよう。

     毛沼博士の変死

 二月十一日、即《すなわ》ち紀元節の日だが、この日はひどく寒く、午前六時に零下五度三分という、東京地方には稀《まれ》な低温だった。私は前夜の飲過ぎと、学校が休みなのと、そのひどい寒さと、三拍子揃った原因から、すっぽり頭から蒲団《ふとん》を被って、九時が過ぎるのも知らずにいた。
「鵜澤《う

     忍苦一年

 毛沼《けぬま》博士の変死事件は、今でも時々夢に見て、魘《うな》されるほど薄気味の悪い出来事だった。それから僅《わずか》に一月|経《た》たないうちに、父とも仰《あお》ぐ恩師|笠神《かさがみ》博士夫妻が、思いがけない自殺を遂《と》げられた時には、私は驚きを通り越して、魂が抜けたようになって終《しま》い、涙も出ないのだった。漸《ようや》くに気を取直して、博士が私に宛てられた唯一の遺書を読むと、私は忽《たちま》ち奈落の底に突落されたような絶望を感じた。私は直ぐにも博士夫妻の後を追って、この世に暇《いとま》をしようとしたが、辛うじて思い止ったのだった。
 その当時私は警察当局からも、新聞記者諸君からも、どんなに酷《きび》しく遺書の発表を迫られたか分らぬ。然《しか》し、私は堅く博士の遺志を守って、一年経たなければ公表が出来ないと、最後まで頑張り通した。その為に私は世間からどれほどの誤解を受けた事であろう。而《しか》しそれは仕方がなかったのだ。
 こうして、私にとっては辛いとも遣瀬《やるせ》ないとも、悲しいともいら立しいとも、何ともいいようのない忍苦の一年は過ぎた。
 恩師笠神博士夫妻の一周忌を迎えて、ここに公然と博士の遺書を発表することを許され、私は長い間の心の重荷を、せめて一部分だけでも軽くすることが出来て、どんなにホッとしたか分らぬ。
 以下私は博士の遺書を発表するに先立って、順序として、毛沼博士の変死事件から始める事にしよう。

     毛沼博士の変死

 二月十一日、即《すなわ》ち紀元節の日だが、この日はひどく寒く、午前六時に零下五度三分という、東京地方には稀《まれ》な低温だった。私は前夜の飲過ぎと、学校が休みなのと、そのひどい寒さと、三拍子揃った原因から、すっぽり頭から蒲団《ふとん》を被って、九時が過ぎるのも知らずにいた。
「鵜澤《うざわ》さん」
 不意に枕許《まくらもと》で呼ぶ声がするので、ひょいと頭を上げると、下宿のおかみが蒼い顔をして、疑り深かそうな眼で、じッとこちらを見詰めている。どうも只ならぬ気色《けしき》なので、私は寒いのも忘れて、むっくり起き上った。
「何か用ですか」
 すると、おかみは返辞の代りに、手に持っていた名刺を差出した。何より前に私の眼を打ったのは、S警察署刑事という肩書だった。
「ど、どうしたんですか」
 私はドキンとして、我ながら恥かしいほどドギマギした。別に警察に呼ばれるような悪い事をした覚えはないのだけれども、腹が出来ていないというのだろうか、私はだらしなくうろたえたものだった。
 おかみは探るような眼付で、もう一度私を見ながら、
「何の用だか分りませんけれども、会いたいんだそうです」
 私は大急ぎで着物を着替えて、乱れた頭髪を掻き上げながら階下に降りた。
 階下にはキチンとした服装をしたモダンボーイのような若い男が立っていた。それがS署の刑事だった。
「鵜澤さんですか。実はね、毛沼博士が死なれましてね――」
「え、え」
 私は飛上った。恰《まる》で夢のような話だ。私は昨夜遅く、毛沼博士を自宅に送って、ちゃんと寝室に寝る所まで見届けて帰って来たのである。私だって、兎《と》に角《かく》もう二月すれば医科の三年になるんだから、危険な兆候があったかなかった位は分る。毛沼博士は酒にこそ酔っていたが、どこにも危険な兆候はなかった。博士は年はもう五十二だが、我々を凌ぐほどの元気で、身体にどこ一つ故障のない素晴らしい健康体なのだ。
 私が飛上ったのを見て、刑事はニヤリと笑いながら、
「あなたは昨夜自宅まで送ったそうですね」
「ええ」
「参考の為にお聞きしたい事があるので、鳥渡《ちょっと》署まで御苦労願いたいのですが」
「まさか、殺されたのじゃないでしょうね」
 病死ということはどうしても考えられないので、ふと頭の中に浮んだ事だったが、頭が未だ命令も何もしないのに、口だけで勝手に動いたように、私はこんな事をいって終った。
 刑事はそのモダンボーイのような服装とはうって変った、鋭い眼でジロリと私を見て、
「署でゆっくりお話しますから、兎に角お出下さい」
 そこで私はそこそこに仕度をして、半ば夢心地で、S署に連れて行かれたのだった。
 私は暫《しばら》く待たされた後、調室に呼ばれた。頭髪を短く刈った、肩の角張ったいかにも警察官らしい人が、粗末な机の向うに座っていた。別に誰とも名乗らなかったが、話のうちに、それが署長であることが分った。
「あなたは昨夜毛沼博士を自宅まで送ったそうですね」
 署長の質問も先刻刑事のいった通りの言葉で始まった。
「はア」
「何時頃でしたか」
「十時過ぎだったと思います」
 と、この時に博士邸の寝室に置いてあった時計を思い出したので、
「そうでした、寝室を出る時に、確か十時三十五分でした」
「そうすると、会場を出たのは」
「円タクで十分位の距離ですから、十時二十五分頃に出た事になります」
「どういう会合だったのですか」
「医科の学生で、M高出身の者の懇親会でした」
「何名位集まりました?」
「学生は十四五名でした。教授が毛沼博士と笠神博士の二人、他に助教授が一人、助手が一人、M高出身がいるのですけれども、差支えで欠席でした」
「会場では変った事はありませんでしたか」
「ええ、別に」
 私はこの時に、会場で毛沼博士と笠神博士とが、いつもとは違って、何となく話合うのを避けていたようだったのを思い出したが、取り立てていうほどの事でもなし、それには言及しなかった。
「毛沼博士は元気だったですか」
「ええ」
「酒は大分呑まれたですか」
「ええ、可成呑まれました」
「どれ位? 正体のなくなるほど?」
「いいえ、それほどではなかったと思います。自宅へ帰っても、ちゃんと御自身で寝衣《ねまき》に着替えて、『有難う、もう君帰って呉れ給え』といって、お寝《やす》みになりましたから」
「君はいつも先生を送って行くのですか」
「いいえ、そういう訳ではありませんけれども。先生の家は私の近所だものですから、みんな送って行けというので」
「毛沼博士と君とが一番先に出たんですね」
「いいえ、笠神博士が一足先でした」
「やはり誰か送って行ったのですか」
「いいえ、笠神博士はお酒をあまりお呑みになりませんので、殆《ほとん》ど酔っていらっしゃいませんでしたから――」
「毛沼博士が家に這入《はい》ってから、寝られるまでの間を、出来るだけ委《くわ》しく話して呉れませんか」
「そうですね。円タクから降りて、大分足許のよろよろしている先生の手を取って、玄関の中に這入ると、先生はペタンとそこへ腰を掛けて終《しま》われました。取次に出た婆やさんが『まア』と顔をしかめて、私に『すみませんけれども、先生を上に挙げて下さい』というので――」
「玄関に出たのは婆やだけでしたか」
「いいえ、女中がいました。女中は下に降りて、先生の靴を脱がせていました」
「書生はいなかったのですね」
「ええ、いつもいる書生が二三日暇を貰って、故郷に帰ったという話で――それで私が頼まれたのですが、私は頭の方を持ち、婆やと女中が足の方を持って、引摺《ひきず》るようにして、洋間の寝室へ連れて行きました」
「その時に寝室には瓦斯《ガス》ストーブがついていましたか」
「いいえ、ついていませんでした。婆やがストーブに火をつけますと、先生は縺《もつ》れた舌で、『もっと以前《まえ》からつけて置かなくちゃ、寒くていかんじゃないか』といいながら、よろよろと手足を躍るように動かして、洋服を脱ぎ始められました」
「そして寝衣に着替えて、寝られたんですね」
「ええ」
 とうなずいて、いおうかいうまいかと鳥渡ためらったが、やはりいった方がいいと思って、
「その時に、先生はひょろひょろしながら、上衣やズボンのポケットから、いろいろのものを掴み出して、傍の机の上に置かれましたが、一品だけ、ポケットの中で手に触ると、ハッとしたように、一瞬間身体のよろめくのを止めて緊張されましたが、その品を私達に見せないようにしながら、手早く取出すと、寝台の枕の下に押し込まれました」
「何でしたか、それは」
「小型の自動拳銃でした」
「ふん」署長は私が何事も隠さないのを賞讃するようにうなずいて、「先生は以前からそんなものを持っておられましたか」
「存じません。見たのが昨夜初めてですから」
「その他に変った事はありませんでしたか」
「ええ、他にはありません。先生は寝衣に着替えると、直ぐ寝台に潜り込まれました。そうして、帰って呉れ給えといわれたのです」
「それですぐ帰ったのですね」
「ええ」と又ためらいながら、「先生の寝室へ這入ったのは初めてですから、鳥渡好奇心を起しまして、暫く、といってもホンの一二分ですが、室内を眺めました」
「眺めただけですか」
「珍らしい原書や、学界の雑誌が机の上に積んでありましたので、鳥渡触りました」
「本だけですか」
「ええ、他のものは絶対に触りません」
「それから部屋を出たのですね」
「ええ、その間に婆やと女中とが先生の脱ぎ棄てた洋服をザッと片付けて、それぞれ手に持っていました。私が出て、続いて婆やと女中とが出ました」
「瓦斯ストーブはつけたままでしたね」
「ええ、そうです」
「君が出た時に、先生はとうに眠っていましたか」
「半分眠って居られたようです。ムニャムニャ何かいいながら、枕に押しつけた頭を左右に振っておられました」
「直ぐ立上って、扉《ドア》に鍵をかけられた様子はありませんでしたか」
「ええ、気がつきませんでした。――鍵がかかっていたんですか」
 署長は然し、私の質問には答えなかった。
「電灯は婆やが消したんですね」
「ええ、扉に近い内側の壁にスイッチがありまして、それを出がけに婆やが押して消しました」
「お蔭でよく分りました。もう一つお訊きしますが、君は先刻迎えに行った刑事に、『先生は殺されたのじゃないか』といったそうですが――」
 私はドキンとした。余計な事をいわなければよかったと後悔した。然し、署長は私の心の中などはお構いなし、どんどん言葉を続けていた。
「どういう訳で、そういう事をいったのですか。理由《わけ》もないのに、そんな事をいわれる筈がないと思いますがね」

     勝利者と惨敗者

 私が毛沼博士が死んだという事を聞いた時に、殺されたのではないかと思ったのは、別に深い根底がある訳ではなかったのだ。
 前にもいった通り、毛沼博士の死が病死とは考えられなかったし、といって博士が自殺するという事は、それ以上に考えられない事だし、過失死という事も鳥渡思い浮ばなかったので、つい殺されたのではないかと口を滑らしたのだが、といって、全然理由がなかった訳でもない。先《ま》ず第一は毛沼博士が自動拳銃を持っていたということ、それから第二には博士が最近二三月何となく物を恐れる風があった事だった。
 一体毛沼博士は、外科の教授に在勝《ありがち》な豪放磊落《ごうほうらいらく》な所があって、酒豪ではあるし、講義もキビキビしていて、五十二歳とは思えない元気溌剌《げんきはつらつ》たる人で、小事には拘泥しないという性質《たち》だった。所が、この二三月はそんなに目立つ程ではないが、何となく意気消沈したような所があり、鳥渡した物音にもギクッとしたり、講義中に詰らない間違いをしたり、いつも進んでする手術を、態《わざ》と若い助教授に譲ったり、些細な事ながら、少し平素と変った所があったのだ。
 私は署長の顔色を覘《うかが》いながら、
「別に深い理由はないのですが、先生は近頃何となく様子が変だったし、それにピストルなんか持っておられたものですから」
 と、私の考えを述べた。
 署長はうなずいて、
「もう一つ訊きますがね、君は毛沼博士が何故一生独身でいたか、その理由について何か知っている事はありませんか」
 私は又ハッとした。私がひそかに恐れていた事に突当ったような気がしたのだ。私は然しすぐに答えた。
「存じません」
 知らないと答えた事は決して嘘ではなかった。知っているといえば、なるほど知っている、然し、それはみんな噂が基で、それに私自身の憶測が加ったに過ぎないのだ。確実に知っていると答えられる範囲のものではない。
 噂によると、毛沼博士は若い時に失恋をしたという事だ。而もその相手の女性は笠神博士夫人なのである。毛沼博士と笠神博士とは郷里も隣村同士で、同じ県立中学に机を並べ、一番二番の席次を争いながら、同じM高に入学し、ここでも成績を争いながら、帝大の医科に入学した。ここでは、毛沼博士は外科、笠神博士は法医と別れたが、それも卒業してからの事で、在学中はやはり競争を続けていた。考え方によると、両博士は実に不幸な人達で、恰《まる》で互に競争する為に生れて来たようなものである。而も、その争いは武器を取って雌雄《しゆう》を決《けっ》する闘争ではなく、暗黙のうちに郷里の評判や、学科の点数や、席次や、社会的地位を争うのだから、そこに不純な名誉心や嫉妬心や猜疑心が介在して来るから、本人達に取っては、非常に苦しいものだったに違いないと思う。
 噂をして誤りなく、又私の推察が正しければ、この二人は、場合によっては名誉も権勢も生命も弊履《へいり》のように棄てようという恋を争ったというのだから、実に悲惨である。三角関係にどんな経緯《いきさつ》があったか知らないが、兎に角、笠神博士が恋の勝利者となり、毛沼博士が惨敗者となって、遂に一生を独身に送ることになったのだ。私はM高出身ではあるけれども、東京で生れ東京で育った人間なので、帝大に這入って初めて両博士に接し、そういう噂話を耳にしたのだが、爾来《じらい》三年間に、親しく両先生の教えを受け、殊《こと》に笠神博士には一層近づいて、家族へも出入したので、今いった噂話が一片の噂でなく、事実に近いものであることは、十分推察せられていたのだった。
 然し、両先生の口や、笠神博士夫人の口から直接聞き出した事ではなし、何の証拠もない事であるから、私は署長の質問に対して知らないと答えたのである。
 署長は暫く私の顔を見つめていたが、その事については、もう追及しようとせず、質問の鉾先《ほこさき》を一転したのだった。
「君は笠神博士の所へ、よく出入するそうですね」
「は」
 いよいよ来たなと思った。私がひそかに恐れていたのはそれだった。全く私は笠神博士の所へは繁々《しげしげ》出入した。今では私は博士を啻《ただ》に恩師としてでなく、慈父のように慕っているのだ。静かに考えて見ると、私は別にその為に恐れる所はないのだ。よし笠神博士と毛沼博士とが、恋の三角関係があったにせよ、それはもう二十数年も以前の事なのだ。その当時こそ互にどんな感情を持ったか分らないが、爾来二人は同じ学校に講堂を持って、何事もなく年月を送り、今はもう互に五十の年を越えている。今更二人の間にどうという事があろう筈がない、従って毛沼博士が自宅の一室で変死を遂げたにせよ、それが笠神博士に関係がありそうな事はないのだ。
 然し、今こうやって、署長から事新しく毛沼博士が独身生活をしている理由や、私が笠神博士と親しくしている事などを訊かれるとそれは私の杞憂《きゆう》に過ぎないだろうけれども、何となく気味が悪いのだ。何といっても、私が毛沼博士を自宅の寝室まで送り届けたのだし、恐らく私が生きている毛沼博士を見た最後の人間だろうから、それを笠神博士と親しくしている事に結びつけて、変な眼で見られると、油断のならない結果を招くかも知れない。全く世の中に誤解ほど恐ろしく、且《か》つ弁解し悪《にく》いものはないのだ。
 私は蛇足だと思いながらも、言いわけがましく、つけ加える事を止められなかった。
「僕は将来法医の方をやる積りなので、笠神博士に一番接近している訳なんです」
「ふん」
 署長は私が恐れているほど、私と笠神博士との関係を重要視していないらしく、軽くうなずいて、
「笠神博士という人は、大へん変った人だそうですね」
「ええ、少し」
「夫人は大へん美しい方だそうですね」
「ええ、でも、もう四十を越えておられますから」
「然し、実際の年より余ほど若く見えるようじゃありませんか」
「ええ、人によっては三十そこそこに見られるそうです」
「笠神博士は家庭を少しも顧みられないそうですね」
「ええ」
 私は肯定せざるを得なかった。全く博士は学問の研究にばかり没頭して、美しい夫人などは全く眼中にないようなのだ。昔は知らず今は之《これ》が激しい恋愛をした間なのかと疑われる位である。
「笠神博士は学問以外に何にもない、博士の恋人は学問だといわれているそうですね」
「ええ」
「それで夫人にはいろいろの噂があるそうじゃありませんか」
「そんな事はありません」
 私は少しむっ[#「むっ」に傍点]としながら答えた。博士夫人は博士からそうした冷い取扱いを受けながら、実に貞淑に仕えた、何一つ非難される所のない人なのだ。
 署長は探るような眼つきで私を見ながら、
「そうかな。夫が仕事に没頭して家庭を顧みない。勢い妻は勝手な事をする、なんて事は世間に在勝《ありがち》の事だからな」
「他の家庭は知りませんが、笠神博士の夫人は絶対にそんな事はありません」
「然し、君のような若い色男が出入するんだからね」
 何たる侮辱だ! 私は唇をブルブル顫《ふる》わせた。
「な、なんといわれるのです。ぼ、僕は笠神博士を敬慕のあまり、お宅に度々《たびたび》お伺いするのです。い、一体あなたは何を調べようと仰有《おっしゃ》るのですか」
 私の剣幕が激しかった為か、署長はニヤニヤしていた笑顔を急に引込めて、
「そうむき[#「むき」に傍点]になっちゃいかん。僕はそういう事実があるかないかという事について、調べているんだからね」
「事柄によります。第一、そんな事を、何の必要があって調べるんですか」
「必要があるとかないとかという事について、君の指図は受けない」
 署長は鳥渡|気色《けしき》ばんだが、直ぐ元の調子になって、
「この話は打切としよう。君は法医の方に興味があるそうだが、之を一つ鑑定して呉れませんか」
 署長は机の抽斗《ひきだし》を開けて、紙片のようなものを取出した。

     血液型の研究

 私はここで少し傍路に這入るけれども、私と笠神博士の奇妙な因縁について、述べて置きたいと思う。
 笠神博士も毛沼博士も、前に述べたように、M高の先輩ではあるけれども、そうして無論M高在学中に、どこの学校にもあるように先輩についての自慢話に、医科には先輩の錚々たる教授が二人まであることは、よく聞かされていたが、親しく接するようになったのは、大学に這入ってからの事であった。
 両先生の教授を受けるようになってから、誰でも経験するように、私は直ぐに毛沼博士が好きになって、笠神博士はどっちかというと嫌いだった。毛沼博士は磊落で朗かであるのに、笠神博士は蒼白い顔をして、陰気だったから、誰でも前者を好いて、後者には親しまなかったのだった。
 全く、両博士のように、故郷を同くし、中学から大学まで同じ級で、同じ道を進み、卒業後も肩を並べて、同じ学校の教授の席を占めているという事も珍らしいが、その性格が全く正反対なのも珍らしいと思う。
 毛沼博士は表面豪放で磊落で、酒も呑めば、独身の関係もあるが、カフェ歩きやダンスホール通いもするし、談論風発で非常に社交的である。だから、誰でも直ぐ眩惑《げんわく》されて、敬愛するようになるが、よく観察すると、内面的には小心で、中々意地の悪い所があり、且つ狡猾《ずる》い所がある。自分の名声については、汲々《きゅうきゅう》として、それを保つ為には時に巧妙な卑劣な方法を取る事を辞さない。勝れた学識と、外科手術の手腕を持つ助教授が、栄転という美名の許に、地方の大学の教授に巧みに敬遠せられた例が二三あるし、弟子に研究させて、それを誇らしげに自分の研究として、学界に報告した事も、私は知っている。何しろ口が旨いから、空疎な講義の内容も、十分|胡麻化《ごまか》されるし、学者仲間には兎も角、世間に対しては、いかにも学殖のある篤学の士のように見せかける事は、易々《いい》たる事である。そんな訳で、先生の颯爽《さっそう》たる講義に接した最初は、どの学生でもみんな眩惑されて終う、そうして、多数は最後まで引摺られて行くのだ。
 所が、之に反して笠神博士は表面誠に陰気で、無愛想で口下手だ。酒も呑まないし、変に固苦しくて、誰だって親しめるものではない。然し、よく観察すると、内面的には実に親切な人で、慈悲深く、意地の悪い所や狡猾い所は微塵もなく、学問に忠実で、公平無私だ。弟子は少いけれども、非常によく可愛がって、自分の功績を惜しげもなく譲って終う。毛沼博士は自分に都合のいい人間は、よく可愛がるが、都合の悪い人間は排斥するし、昨日までよくても、今日はもう悪くなるという風だが、笠神博士は自分の悪口をいうような人間でも、学問の上で見所があれば、どこまでも親切に面倒を見る。交際《つきあ》えば交際うほど、親しくすればするほど、味の出て来る人である。
 私はN大学のA教授のように、血液型で人の性質が定るものだとは考えない。然し、毛沼博士と笠神博士との血液型が、全く異っているのは、興味のある事だと思う。即ち毛沼博士はB型で、笠神博士はA型なのだ。而もこの血液型の相違が、後に傷《いたま》しい悲劇の重大要素となり、この物語の骨子ともなるのだから、軽々しく見逃すことは出来ないのだ。
 人間の血液型については、今日では殆ど常識的になっているから、ここに改めて諄々《くどくど》しく述べる必要はないが、後にこの物語に重大な関係を持って来るし、私を笠神博士に結びつけたのも、血液型の問題が重要な役目をしているので、ここで鳥渡触れたいと思う。
 笠神博士が法医学が専門であることは既に述べたが、先生は血液型については、最も深く研究せられて、その第一の権威者なのである。人間の血液が、そのうちに含まれている血球と血清の性質によって、A、B、O、ABの四型に分類されることは、最早動かすべからざる事であり、その分類も比較的容易に出来るから、法医学に於て重要視するのは、寧《むし》ろその応用にあるのだ。中でも一番重要なのは血液型による親子の決定である。
 抑々《そもそも》忠孝といい、仁義といい、礼智信といい、人倫の根本となるべきものは親子である。所が、文化の非常に進んだ今日、未だ科学的に確実に親子を決定すべき方法がないのは、悲しむべき事であるが、事実であるのは致し方がない。然し、血液型の研究によって、相当の程度まで、親子に非ずという決定は出来る。即ち、両親のどちらにもA型がない場合に、子には決してA型は現われないし、双方にB型のない場合は、子には決してB型は現われない。父がA型であり、母がO型である場合に、子がB型、或《ある》いはAB型であればその父なり、母なり、或いは双方なりが否定されなければならない。母が確実であれば、無論父は他にあるのである。然しながら、父がA型、母がO型で、子がA或いはO型の場合、その両親は否定されないけれども、積極的に肯定することは出来ない。何故ならO型の母は、他のA型の男子によって、A或いはO型の子を、いくらでも生むことが出来るからだ。
 所で、AB型に関係して来ると、学説が二つに別れる。即ち二対対等形質説に従えば、四遺伝単位説となって、両親のどちらかにAB型があれば、子供には各型のものが生れる事になっている。も一つの三遺伝単位説に従えば、O型とAB型との間からは、A型又はB型が生れ、AとAB型、BとAB型、AB型同士からは、A、B、AB型が生れて、決してO型は生れない。要するに、AB型からは決してO型は生れず、O型の親には決してAB型はないという事になるのだ。
 この両説は久しい論争の後に、後説が正しい事が、実験的に決定したといっていい。笠神博士は熱心な三遺伝単位説の支持者で、その為に涙ぐましいような努力を払われている。私は医科に入学後、だんだん法医学に興味を持つようになり、殊《こと》に血液型とその応用について、最も興味を覚えたので、勢い笠神博士に近づかざるを得なかったのだが、始めにもいった通り、博士は非社交的で、堅苦しくて容易に親しめなかった。友人の中には私が法医学に進もうとするのを、嘲笑して、
「笠神さんなんて、意味ないぜ」
 といった者さえあった。
 然し、少し宛《ずつ》接近して行くうちに、博士には陰気の裏には誠意があり、堅苦しい反面には慈愛があり、無愛想の一面には公平無私のあることが、だんだん分って来たので、私は敬愛の度を次第に増して行った。所が一年ばかり以前に次のような出来事があって、先生が、
「自宅へ遊びに来ませんか」
 という二十余年の教授生活に、未だかつてどの学生にもいわれた事がないという言葉を貰い、私達の親交は急速に進展したのだった。
 血液型に興味を持った私は、無論自分の血液型を計って、A型であることを知ったが、更に両親や兄弟の血液型を調べて、統計上の助けにしようと思って、先生の指導を仰いだ。
 その時分には、先生も私を熱心な研究生と認めて、大分厚意を示しておられたので、快よく血液型決定の方法《メトード》を教えて呉れて、それに必要な血清を分与されたのだった。
 私は早速父母を始め弟妹の血液型を調べたが、思いがけない結果が現われたのである。
 即ち、私の父はB型、母はO型で、弟妹共にO型なのだ。所が私一人だけA型である。而《しか》も血液型の定説に従えば、B型とO型の両親からは、絶対にA型は生れない事になっている。といって、私が両親を疑わなければならない理由は全然ないのだ。
 私はこの事を先生に報告して、
「例外じゃないのでしょうか」
 というと、先生はじっと私の顔を眺めて、
「測定の間違いはないでしょうね」
 といわれた。先生はいつも口癖のように、血液型の決定は一見非常に容易のようで、素人でも一回教われば、直ぐその次から出来るように思える。又事実出来もするのであるが、決して馬鹿にしたものでなく、十分の経験と周到な用意を持ってしないと、往々にして他の原因で凝集するのを見誤る場合があるから、経験の足りないものの測定は危険性があるという事を、強調しておられたのだった。
「大丈夫だと思うのですけれども」
 と答えると、先生は暫く考えて、
「もう一度やってごらんなさい」
 といわれた。
 それで、もう一回やって見たのだが、結果はやはり同様だった。
 先生は、
「君の手腕を疑う理由《わけ》ではないんですが、一度採血して持って来ませんか」
 そこで私は又かと嫌がる両親弟妹から、それぞれ少量の血を採って、先生の所へ持って行った。
 それから二三日して、先生は結果については少しも触れないで、
「君は今の家で生れたんですか」
 と訊《き》かれた。
「いいえ、今の家は移《こ》してから、未だ五六年にしかなりません。僕は病院で生れたのだそうですよ」
「病院で」
「ええ、初産ですし、大事をとって、四谷のK病院でお産をしたんだそうです」
「病院で」
 先生は吃驚《びっくり》したようにいわれたが、直ぐにいつもの冷静な調子で、
「ああ、そうですか」
 といって、それっきり何事もいわれなかった。
 それから一週間ほど経つと、先生が不意に、
「君、自宅へ遊びに来ませんか」
 といわれたのだった。
 私は無論喜んで、先生の厚意ある言葉に従った。それから私は足繁く出入するようになった。
 私が訪問すると、先生は直ぐに書斎に入れて、いろいろ有益な話をしたり、珍らしい原書を示したり、私の家の事を訊いたり、平生《へいぜい》無口な非社交的な先生としては、それがどれほどの努力であるかという事が、はっきり感ぜられるほど、一生懸命に私をもてなして呉れるのだった。それによって、私は先生の内面に充ち溢れる親切と、慈愛とを初めて知ることが出来たのだった。
 博士夫人にも度々お目にかかった。夫人は前にもいった通り、実際の年よりも十も若く見えるほど美しい人で、殆ど白粉気のない顔ながら、白く艶々しく、飾気のない服装ながら、いかにも清楚な感じのする人だった。只、意外なのは、夫婦の間が何となく他人行儀で、よそよそしい事だった。博士は私に対しては、努めていろいろの話をされるにも関《かかわ》らず、夫人に対しては、必要な言葉以外には殆ど話しかけられず、稀々《たまたま》話しかけられる言葉も、いつでもせいぜい四五文字にしかならない短いものだった。私は二人の結婚が激しい恋愛の後に成立したと聞いていたので、この冷い仲を見て、どうも合点《がてん》が行かなかった。然し、考え方によると、こうした他人行儀的態度は、博士の性格に基くもので、学問に没頭して、それ以外の何の趣味もなく、何の興味もない博士の事であるから、必ずしも冷いというものではないかも知れないのだ。
 夫人は飽くまで温良貞淑だった。少しも博士の意に逆おうとせず、自分を出そうとせず、控え目にして、書斎の出入には足音さえ立てないという風だった。私に対しても、控え目な然し十分な厚意を示された。決して一部で憶測しているような、博士は博士、夫人は夫人といったような離れ放れの夫婦ではなかった。噂によると、博士と夫人がこういう外観的の冷い仲になったのは、十年ばかり以前に夫婦の間の一粒種だった男の子が、十いくつかで死んでからだともいい、又、それは結婚すると間もなく始まったともいう。私にはどっちが正しいのか、それとも両方とも間違っているのか分らない。
 話が大分傍路に這入ったが、之で私が血液型の研究から、博士と非常に親しくなった経緯は分って貰えたと思う。
 話を本筋に戻そう。

     脅迫状

 署長は机の抽斗から、紙片を取り出して、私に示した。紙片は薄いケント紙を長方形に切ったもので、葉書よりやや大きいかと思われるものだった。それに丸味書体《ルンド・シュリフト》という製図家の使う一種の書体で、次のような文字と、記号が書かれていた。

[#ここから12字下げ]
Erinnern Sie sich zweiundzwanzigjahrevor !
Warum O×A → B ?
[#ここで字下げ終わり]

「ドイツ語ですね」私はいった。「二十二年|以前《まえ》を思い出せ、と書いてありますね。それから何故《ワルーム》、というのですが、この記号は――」
 私は首を捻った。
 兎角人は物事を、自分の一番よく知っている知識で解決しようとするものだ。例えば患者が激しい腹痛を訴えた時、外科医は直ぐ盲腸炎だと考え、内科医は直ぐ胆石病だと考える、というような事がいわれている。そこで、私はこの記号を、直ぐ血液型ではないかと考えた(そしてこれは間違ではなかったのだが)。
「えーと、之は血液型の事をいったのじゃないでしょうか」
「どういう事ですか」
「つまり、何故ですね、何故、O型とA型から、B型が生れるか」
「何の事です。それは」
「そういう事ですね。O型とA型の両親からB型が生れるのは何故か、という事なんでしょう」
「それと前の言葉とどういう関係があるんですか」
「分りません」
「ふん」
 署長は仕方がないという風にうなずいた。
 私は訊いた。
「一体なんです。之は」
「毛沼博士の寝室で発見されたんです」
「へえ」
 意外だったが、意外というだけで、それ以上の考えは出なかった。それよりも、今まで肝腎の事を少しも分らせないで、散々尋問された事に気がついたのだった。私は最早猶予が出来なかった。
「毛沼博士はどうして死んだんですか」
「瓦斯の中毒ですよ。ストーブ管がどうしてか外れたんですね。部屋中に瓦斯が充満していてね、今朝八時頃に漸く発見されたのです」
「過失ですか。博士の」
「まあ、そうでしょうね。部屋の扉が内側から鍵がかかっていましたからね」
「じゃ、博士が管を蹴飛ばしでもしたんでしょうか。私が出た時には、確かについていましたから」
「そうです。博士が少くても一度起きたという事は確かですから。鍵を掛ける時にですね」
「八時までも気がつかなかったのはどういうものでしょう」
「休日ですからね。それに前夜遅かったし、グッスリ寝ていたんでしょう」
 説明を聞くと、十分あり得ることだ。現に知名の士で、ストーブの瓦斯|漏洩《もれ》から、死んだ人も一二ある。だが、私には毛沼博士の死が、どことなく不合理な点があるような気がするのだった。
「じゃ、過失と定ったのですか」
「ええ」
 署長はジロリと私の顔を眺めて、
「大体決定しています。然し、相当知名の方ですから、念を入れなくてはね。それで、態々《わざわざ》来て貰ったのですが、御足労|序《ついで》に一度現場へ来て呉れませんか。現場についてお訊きしたい事もあるし、それに君は法医の方が委しいから、何か有益な忠告がして貰えるかも知れない」
「忠告なんて出来る気遣いはありませんけれども、喜んでお伴しますよ」
 私達は直ぐ自動車を駆って、毛沼博士邸へ行った。もう十時を少し過ぎていて、曇り勝な空から薄日が射していたが、外は依然として寒く、街路に撒《ま》かれた水は、未だカンカンに凍っていた。邸前に見張をしていた制服巡査は寒そうに肩をすぼめていたが、署長を見ると、急に直立して、恭々《うやうや》しく敬礼した。
 寝室は死骸もそのまま、少しも手がつけてないで保たれていた。昨夜あんなに元気だった博士は、もうすっかり血の気を失って、半眼を見開き、口を歪めて、蒲団から上半身を現わしながら、強直して縡切《ことき》れていた。
 私は鳥渡不審を起した。
 死体の強直の様子から見ると、少くとも死後十時間は経過しているように思われる。そうすると、博士の死は夜半の十二時後になり私達が部屋を出てから一時間半後には、絶命した事になる。仮りに私達が部屋を出た直後、博士が起きて、扉の鍵をかけ、その時に誤って、ストーブの管を抜いたとしても、絶命までには瓦斯の漏洩は一時間半である。僅かに一時間半の漏洩で、健康体が完全に死ぬものだろうか。
 私は部屋を見廻した。部屋は十二畳位の広さで、天井も可成高い。今はすっかり窓が開け放たれているけれども、仮りにすっかり締められたとしても、天井の隅には金網を張った通風孔が、二ヶ所も開けてある。私には瓦斯がどれ位の毒性のあるものか、正確な知識はないが、この部屋にこのガス管から一時間半噴出したとして、或いは知覚を失うとか、半死の状態にあるとか、仮死の状態になるとかいう事はあり得るかも知れないが、その時間内に絶命するという事はどうかと思われるのだ。
 私がキョロキョロ室内を見廻したので、署長は直ぐに訊いた。
「昨夜と何か変った所がありますか」
「いいえ」
 と答えたが、署長の言葉に刺戟されて、ふと昨夜興味を持った雑誌の事を思い出して、机の上を見ると、私は確かにちゃんと揃えて置いたのに、少し乱雑になっているようである。
(夜中に博士が触ったのだろうか)
 と思いながら、傍に寄って、一番上の雑誌を取上げて、鳥渡頁を繰って見たが、私は思わずアッと声を出す所だった。然し、辛うじて堪《こら》えて、そっと署長の方を盗み見たが、幸いに床の上にしゃがんで、頻《しき》りに何か調べている所だったので、少しも気づかれないようだった。
 何が私をそんなに驚かしたのか。私は昨夜ここへ毛沼博士を送って、ふと机の上の雑誌を見て、興味を持ったのは、それがかねて、私が、というよりは笠神博士の為に、熱心に探し求めていた雑誌だったからである。それは一二年以前にドイツで発刊された医学雑誌であるが、その中には法医学上貴重な参考になるべき、特種な縊死体の写真版が載っていたのだった。この雑誌は日本に来ているのは極く少数である許《ばか》りでなく、ドイツ本国でも発行部数が少ないので、どうしても手に這入らなかったものだった。昨夜ふとこの雑誌を見つけた時に、毛沼博士は笠神博士が之を欲しがっている事を知っている筈だし、毛沼博士にとっては専門違いのもので、さして惜しくもないものだから、快く進呈すればいいのに、持っていながら黙って隠している意地悪さに、鳥渡義憤を感じたのだったが、今開いてみると、どうだろう、その写真版だけが、引ちぎってあるのだ。而もそれが非常に急いだものらしく、写真の隅の一部が残っているほど、乱暴に引ちぎってあるのだ。
(毛沼博士が引ちぎったのだろうか)
 博士は寝台の上で半眠の状態にいて、私がこの雑誌を見た事を知って、私が部屋を出ると、すぐに起上って、急いで引ちぎったのだろうか。博士はそれ程の事をしかねない人である。然しながら、それをそんなに急いでしなければならないだろうか。私が再び部屋に帰って来て、それを持って行く事を恐れたのだろうか。それなら、写真版だけ引ちぎらなくても、防ぐ事は出来るではないか。まさか私が夜中にそっと盗みに来ると思った訳でもないだろう。何とも合点の行かない事である。私は出来るなら、机の抽斗その他を探して、引ちぎった写真版の行方を尋ねたいと思ったが、そんな自由は許される筈がなかった。
 私は雑誌をそっと元の所に置いた。署長の方を見ると、まだ床の上にしゃがんで何かしている。私は静かに傍に寄って覗《のぞ》き込んだ。
 署長は頻に床の上の厚い絨氈《じゅうたん》を擦《さす》っていた。見ると、厚ぼったい絨氈が直径一寸ばかりの円形に、すっかり色が変っているのだ。そして、手で擦ると恰で焼け焦げのように、ボロボロになるのだった。といって、普通の焼け焦げでない事は一見して分るのだ。
 署長は私が傍によった為か、口の中でブツブツ何か呟きながら、急に立上った。そうして、手を洗う為に、部屋の隅の洗場《ウォッシュ・スタンド》に歩み寄って、水道の栓を捻ったが、水は少しも出て来なかった。
 署長は舌打をした。
「チョッ、損じているのか」
 すると、扉の外にいた婆やが、その声を聞きつけたと見えて、
「今朝の寒さで凍ったのでございましょう」
 といった。
 署長はそれには返辞をせず、手を洗うのを諦めて、部屋の中央へ戻って来た。
 その時に、一人の刑事が何か発見をしたらしく、西洋封筒様のものを掴みながら、急ぎ足で部屋に這入って来た。
「署長、これが書斎の机の抽斗の中にありました」
 署長は封筒様のものを受取って、中から四角い紙片を取り出したが、
「又ドイツ語か」
 といって、私の方を向いて、
「君、もう一度読んで下さい」
 それは先刻見せられたものと、全く同じ紙質の、同じ大きさのもので、やはり丸味書体で書かれていた。
 私は読んで行くうちに、サッと顔色を変えた。なんと、その紙片にはドイツ語でこう書いてあるではないか。
 千九百二十二年四月二十四日を思い出せ。
 ああ、そうして、之れはなんと私の生年月日なのだ!
「ど、どうしたんだ。君」
 私の啻ならない様子を見て、署長は詰問するように叫んだ。
「千九百二十二年四月二十四日を思い出せと書いてあるのです。それは私の生れた日なんです」
「ふむ」
 署長は疑わしそうに私を見つめながら、
「その他に何も書いてないか」
「ええ」
 私は先刻警察署で同じような紙片を見せられた時には、少しも見当がつかなかったが、今はハッキリと分った。この紙片は、何者かが毛沼博士に送った脅迫状なのだ。その紙片には単に二十二年前を思い出せと書かれていたが、後の紙片にはちゃんと年月日が書かれている。而もそれが私の生年月日なのだ。前の紙片に書き加えられていた血液型のような記号は何を意味するのか。もし、私の事を暗示するのなら、
 O×B→A
でなければならないのだ。何故なら私はO型の母とB型の父から生れたA型なんだから。
 私は何が何だか分らなくなって来た。然し、たった一つ、毛沼博士の変死事件の渦中に私が引摺り込まれようとしている事は確かなのだ!

     三つの疑問

 正午《ひる》近くなって、私は漸く帰宅することを許されたので、ズキンズキン痛む頭を押えながら、毛沼博士邸を出た。すると、私は忽《たちま》ち待構えていた新聞記者の包囲を受けた。
「君は誰ですか」
「毛沼博士は自殺したんですか」
「博士には何か女の関係はなかったですか」
 彼等は鉛筆をなめながら、めいめい勝手な無遠慮な質問を浴せかけるのだった。
 辛うじてそこを切抜けて下宿へ帰ると、そこにも記者が待受けていた。それから入れ代り立ち代り、各社の記者の訪問を受けた。私は終いには大声を挙げて泣きたくなった。
 二時頃になって、やっと解放されたけれども、私は何を考える気力もなかった。すぐに蒲団を敷いて、その中に潜り込んだ。然し、頭が非常に疲れていながら、ちっとも眠れない。といって、纏った事は少しも考えられない。今まで経験したり、書物で読んだりした事のうちで、気味の悪い恐ろしい事ばかりが、次々に頭の中に浮んで来る。ウトウトとしては、直ぐにハッと目を覚ます。そんな状態で夕方を迎えた。
 夕方に私は起上った。そうして外に出ると、重なる新聞の夕刊をすっかり買い込んで帰って来た。誰でも経験することだろうが、自分が少しでも関係した事の新聞記事というものは、実に読みたいものだ。況《いわん》や、よく分らないながらも、重大な関係のあるらしい事件なのだから、私は貪るようにして、読み耽《ふけ》ったのだった。
 自分が実際に関係して、警察署に呼ばれ、訊問をされ、現場まで見ていながら、事件の委しい内容については、全然触れる事が出来ないで、反《かえ》って新聞記事から教えられるという事は、いかにも皮肉な事であるけれども、その通りなのだから、どうも仕方がない。
 新聞の記事はいずれも大同小異だった。その中から拾い集めた事実を総合すると、毛沼博士の変死事件は次のようだった。
 毛沼博士は今朝八時、寝室の寝台の上に、冷くなって死んでいるのが発見された。部屋の中にはガスが充満して、ストーブに連結された螺線管は、ガス管から抜離され、ガス管からは現に猛烈な勢いでガスが噴出していた。屍体は死後七八時間を経過し、外傷等は全然なく、全くガス中毒によるものと判明した。
 博士は前夜、M高校出身の医科学生の会合に出席して、非常に酩酊して、学生の一人に送られて、十時半頃家に帰って寝についたのだが、一旦寝台に横《よこたわ》ってから、一度起上って扉に内側から鍵をかけた形跡が歴然としていたので、その際誤ってガス管を足に引かけ、抜け去ったのを知らないで、寝た為にこの惨事を起したものと見られている。
 然し、一方では、博士が最近に脅迫状らしきものを受取り、不安を感じていたらしく、護身用の自動拳銃《オートマチック》を携帯していた事実があり、且つ、泥酔していながらも、扉に鍵をかける事を忘れなかった点、及び扉に鍵をかける気力のあるものが、ストーブを蹴飛して、ガスの放出するのに気づかないのは可笑しいという説も生じ、当局では一層精査を遂げる由である。
 屍体は現場に於ける警察医の検視で、ガス中毒なることは明かであるが、前述の理由によって、大学に送って解剖に付することになった。法医学の権威笠神博士が執刀される筈だったが、都合で宮内《みやうち》助教授がそれに当ることになった。

 新聞で見ると、当局も毛沼博士の死因については一抹《いちまつ》の疑惑を持っているらしいのだ。毛沼博士の死は、警察医の推定では死後七八時間とあるが、之は午前八時頃の診断だから、やはり博士の死は、前夜の十二時前後となり、私が帰ってから二時間以内の出来事である事は確からしい。あの瓦斯ストーブから僅々《きんきん》二時間足らずのガスの漏洩で、果して死ぬものだろうか。新聞にはこの事には少しも触れていないけれども、私は第一の大きな疑問だと思うのだ。
 第二に、之は私以外の誰も知らない事であるが、例の雑誌の写真版が破りとってあった事で、私が出てから毛沼博士が起き上って、破りとったのでなければ、誰かが這入ったものと見なければならない。然し、その者はどういう方法で忍び込んだのだろうか。扉には内側から鍵がかかっていたというから、博士の許可を得て這入ったものと考えざるを得ない。それとも、博士が未だ鍵をかけないうちに、そっと部屋に忍び込んで、写真版を破りとり、又そっと出て行ったその後で、博士はふと眼を覚まして、起き上って扉に鍵を下したのだろうか。それにしても、学術上以外になんの価値もない、うす気味の悪い縊死の写真などを、一体誰が欲しがろうというのだ! そうすると、写真はやはり毛沼博士自身が破ったのかも知れない。いずれにしても、写真版の行方は相当重要な問題である。
 第三にはあの奇怪な脅迫状だ。私の生年月日が書いてあったが、あれは偶然の暗合だろうか。偶然の暗合にしては、あまりピタリと合いすぎるけれども、仮りにそうとして、一体何事を意味するのか。考えれば考えるほど分らない事ばかりだ。
 私はふと思いついて、本箱の奥の方に突込んであった無機化学の教科書を引張り出して、一酸化炭素の所を調べて見た。我々が燃料に使っているガスは石炭ガスと水成ガスの混合で、約 [#「 」に「ママ」の注記]%の一酸化炭素を含んでいる。この一酸化炭素は猛毒性のもので、燃料ガスに中毒するというのは、つまりこの一酸化炭素にやられるのである。
 教科書の一酸化炭素の項には次のように書いてあった。

 無色無臭の気体で、極めて激しい毒性がある。空気一〇〇、○○○容中に一容を含むと、呼吸者は既に中毒の徴候を現わし、八○○容中に一容を含むものであると、三〇分位、一%を含むものでは僅々二分間で死を致すという。一酸化炭素が吸収せられると、血液中のヘモグロビンと結合し、ヘモグロビンの機能(酸素の運搬)を失わしめる。

 私は鉛筆と紙を出して、ザッと計算して見た。毛沼博士の寝室は大体十二畳位だったから、十二尺に十八尺とし、天井の高さを十尺とすると、部屋の容積は約二千二百立方尺になる。瓦斯ストーブの噴出量はハッキリ分らないが、あれ位のものでは、私が経験した所によると、最大一分五|立《リットル》を出ないと思う。すると一時間に三〇〇立になり、約十立方尺である。仮りに毛沼博士の死が夜中の一時に起ったとしても、噴出時間は最大二時間半で、二十五立方尺である。ガスの一酸化炭素含有量を八%とすると、二千二百立方尺の空気に対し○・一%以下となる。これが二時間半後に達する最大濃度であるから、ここでは未だ死が起き得ないと断言出来ると思う。尤《もっと》も博士の絶命時間については未だ正確に分らないから、解剖の結果を待たないと、結論は早計であるかも知れないが、之を見ると、博士の死は変な事になるのだ。
 といって、私には博士が他のどんな原因で死んだかという事については、少しも見当がつかない。外傷もなにもなく、明かに一酸化炭素の中毒で死んでいたものなら、ガス中毒と見るより以外にないのだ。
 私の頭は又割れるように痛くなって来た。私は鉛筆と紙を抛《ほう》り出して、畳の上にゴロリと横になった。

     ちぎった写真版

 翌日学校へ出るのが、何となく後めたいような気持だった。むろん、何にも疾《やま》しい事はないのだが、顔を見られるのが不愉快なような気がした。みんなは毛沼博士の死のことを盛に噂し合った。新聞記者ほどではないが、私に無遠慮な質問をするものが少くなかった。この日、笠神博士の講義があったが、先生は最初に毛沼博士の不慮の死を哀悼するといって、すぐいつもの通り講義を始めようとされた。すると、級の一人が、
「先生、毛沼先生の死因はガス中毒ですか」
 と訊いた。
 笠神博士はジロリとその学生を眺めて、
「多分そうだと思います。実は死因を確める為に、私が解剖を命ぜられたのですけれども、思う所があって辞退して、宮内君にやって貰う事にしました。先刻|鳥渡《ちょっと》訊きましたら、やはり一酸化炭素の中毒に相違ないということでした」
 いつの場合でもそうだが、今日の先生はいつもより一層謹厳な態度だったので、弥次《やじ》学生もそれ以上弥次質問をする事が出来ず、黙って終った。私はふと絶命の時間について訊いて見ようと思ったが、時間中でなくとも、いつでも訊けると思い直して、口を開かなかった。
 先生は講義を始められた。思いなしか、いつもほど元気がないようだった。同僚の不慮の死にあって、心を痛めておられるのだろうと、私はひそかに思った。
 放課後、私は先生の教室に行った。
「毛沼先生が大へんな事になりまして」
「ええ、大へんな事でした。然し、あなたは大分迷惑しましたね」
「いいえ、そんな事は問題じゃありません。先生、毛沼博士は十二時前後に死なれたのじゃないかと思うんですが、どうでしょうか」
「宮内君の鑑定では十一時|乃至《ないし》一時という事です」
「十一時? そうすると、私が出てから三十分足らずの間ですね」
「死亡時間の推定は正確に一点を指すことは出来ませんから、通常相当の間隔をとるものです。一時の方に近いのでしょうね」
「仮りに一時としても、私が先生を最後に見てから、二時間半ですけれども、その間放出したガス量で中毒死が起りましょうか」
「起りましょうね」
 といって、鳥渡言葉を切って考えて、
「少くとも仮死の状態にはなりましょう」
「そうすると、真の死はそれ以後に起る訳ですね」
「そういう事になりましょうね」
「すると、死亡時刻は――」
 といいかけるのを、先生は軽く遮って、
「それはむずかしい問題です。殊にガス中毒の場合は一層むずかしいでしょう」
「そうなんですか」
 私は少し変だと思ったが、法医学の権威がいわれるのだから、承服せざるを得なかった。
「それはそうとして」
 先生は意味ありげな眼で、じっと私を眺めながら、
「少し話したい事があるんですが、今日でも宅へ来て呉れませんか」
「ええ、お伺いいたしましょう」
 何の話だか見当はつかなかったけれども、私は即座に承知した。先生の宅へ行って、いろいろ話を聞くという事は、その頃の一番楽しいものの一つだったのである。
 その日の夕刊には、もう毛沼博士の事は数行しか出ていなかった。死体解剖の結果一酸化炭素中毒による死であることが判明して、当局は前後の事情から、過失によるガス中毒と決定したという事だった。
 その夜私は笠神博士を訪ねた。博士は大へん喜んで私を迎えて、いつもの通り書斎でいろいろ有益な話をして呉れたが、今日の昼何となく意味ありげにいわれた「話」については、少しも触れなかった。尤も、こっちの思いなしかも知れないが、時々先生は話を始めかけようとしては、直ぐ思い返しては、学問上の話に戻られるのだった。そんな事が二三回あったが、先生はとうとう何にもいわれなかった。後で考えると、この時に、先生は私にもっと重要な話がしたかったらしいのだ。然し、どうしてもそれをいい出すことが出来ないで、そっと溜息をついては、他の学問の話を続けておられたのだ。私がもう少し早くその事に気がつけば、こちらから積極的に尋ねかけて、委しい話を聞いたものを、私がぼんやりしていた許りに、引続いて起る悲劇を防ぐ事の出来なかったのは、実に遺憾極ることではあった。
 毛沼博士の葬式は、笠神博士が葬儀委員長になって、頗《すこぶ》る盛大に行われた。何しろ頗る社交的な先生で、実社会の各方面に友人があったから、会葬者も二千名を超え、知名の士だけでも数百名を算した。然し、それは恰度《ちょうど》線香花火のようなもので、葬式がすんで終うと、妻もなく子もない先生の後は、文字通り火の消えたように淋しくなった。交際が派手だっただけ、それだけ後までもシンミリ見ようという友人は殆どないのだった。
 一週間経ち二週間経つ時分には、もう多くの人は毛沼博士の事などは忘れて終った。学校も学生も、友人も世間の誰もが、もう毛沼博士の存在を忘れて終っていた。もし誰かが毛沼博士の事を訊いたら、「え、毛沼博士、そうそう、そんな人がいましたね」と返辞をしたに違いない。もし、毛沼博士の死を未だ覚えているものがあるとしたら、恐らくそれは私一人だったろう。
 私がひそかに抱いていた三つの疑問は、日が経っても中々消えなかった。殊《こと》に、例の脅迫状の文句は、日が経つにつれて、反って益々私の脳裏にその鮮明の度を増して行くのだった。二十二年前を想起せよ。それから私の生年月日! それが私に全然無関係のものとはどうしても考えられないのだ。
 然し、もし私が次の出来事に遭遇しなかったなら、私も結局はやはり世間一般の人と同様、毛沼博士の事は忘れるともなく忘れて終ったろう。然し、運命はそれを許さなかった。私は一層苦しまなければならないようになったのだ。
 毛沼博士の死後半月ばかりだったと思う。私はいつもの通り笠神博士の宅を訪ねた。
 前にも述べた通り、私達二人の親密の度は一回毎に加速度を以て増して行った。それはむしろ先生の方から積極的に近づいて来られるのだった。無論私も親しくすればするほど、先生の慈愛深い点や、正直一方の所や、いろいろの美点を認めて、敬愛の念を深めて行ったけれども、終いには先生が教えるというよりは、恰《まる》で親身のようになって、而も私がもし離れでもしたら大変だというようにして、自ら屈してまで機嫌をとられるのが、はっきり分るほどになった。それが毛沼博士の死以来益々激しくなって、それは恰で恋人に対するような態度だった。私は内心うす気味悪くさえ感じたのだった。
 さて、その日はいつもの通り、いろいろ話合った末、晩餐の御馳走にまでなったが――この時は夫人も一緒だった。之も一つの不思議で、世間に噂を立てられたほど、夫人によそよそしかった先生が、この頃では次第に態度を変えられて、夫人にも大へん優しく親切にされるようになっていた。それが、やはり毛沼博士の死を境にして、急角度に転向して、流石《さすが》に言葉に出して、ちやほやはされなかったが、普通一般の夫よりも、もっと夫人に対し忠実になられたのだった。夫人の方ではそれを喜びながらも、反ってあまり激しい変化に、幾分の恐れを抱いておられたようだった。今までに、食卓を共にするなどということは絶対になかったのだが、この時は私と三人で快く会食せられたのである――会食後、夫人は後片付けに台所へ退られ、先生も鳥渡中座されたので、私は何心なく机の上に置いてあった先生の著書を取上げて、バラバラと頁を繰っているうに[#「うに」はママ]、その間からパラリと畳の上に落ちたものがあった。
 私は急いで、それを拾い上げたが、見るとそれは先生が大へん欲しがっておられた例の雑誌の写真版だった。いつの間に手に入れられたのか知らんと思って、じっと眺めると、私はハッと顔色を変えた。写真版の隅の方が欠けているではないか。切口も大へんギザギザしている。明かに鋏《はさみ》なぞで切取ったのではなく、手で引ちぎったものだ。而もその欠けている隅が、私にはハッキリ見覚えがある。確かに毛沼博士の所にあった雑誌に、その欠けた隅が残っている筈だ。もし、その写真版をあの雑誌に残っている切端に合せたら、寸分の狂いなくピタリと一致するに相違ない。
 私は余りに意外な出来事に、茫然とその写真版を見つめていた。それで、いつの間にか、先生が帰って来て、私の背後にじっと立っておられるのを知らなかった。
 私がふと振り向くと、先生は蒼い顔をして、佇《たたず》んでおられたが、ハッとしたように、
「ああ、君にいうのを忘れていたが、その写真を見つけましたよ」
 と何気なくいって、そのまま元の座につかれたが、その声が怪しくかすれているのを、私は聞き逃さなかった。私は然し何事もないように答えた。
「そうでしたか。私も一生懸命探していたのですが、とうとう見つかりませんでした」
「出入の古本屋が見つけて来てね。他の記事は別に欲しい人があるというので、私は写真版だけあればいいのだから、後は持たしてやったのです」
 私には博士が明かに嘘をついていることが分った。もし古本屋が雑誌を持って来て、切取ったものなら、こんな乱暴な取り方はしない筈である。いっそ嘘をいうのなら、始めから古本屋が写真版だけを取って持って来たといえばいいのに。平素正直な博士は突然にそんな旨い嘘はいえなかったのだ。
 博士は尚弁解を続けられた。
「君に頼んであったのだから、見つかった事を話すべきでしたね。ついうっかりしていて、すみませんでしたね」
「どういたしまして」
 私は写真版を元の通り本の間に挟んで、机の上に戻すと、直ぐに話題を他に転じた。先生もそれを喜ばれるように、二度と写真版の事については話されなかった。
 私はともすると心が暗くなるのを禁ずることが出来なかった。先生には努めてそれを隠しながら、そこそこに私は帰り仕度をしたのだった。

     盗んだ者は?

 写真版の発見は私の心に、ひどい重荷を背負せた。
 笠神博士の所にあった写真版が、毛沼博士の寝室にあった雑誌から取り去られたものであることは、疑いを挟《はさ》む余地がない。あの雑誌は数が大へん少なくて、笠神博士と私が出来るだけの手を尽しても、手に入らなかったものである。それも、笠神博士の所にあるものが、完全な切抜だったら問題はないが、隅の方が欠けていて、乱暴に引ちぎった形跡が歴然としているのだ。もう一冊あの雑誌があって、それからむりやりに写真版を引ちぎり、恰度同じように片隅が雑誌の方に残ったとしたら別問題だが、そんな筈はありようがない。第一雑誌そのものの数が非常に少ないのだし、写真版は大へん貴重なものだし、そんな乱暴な切取り方は普通の場合では、誰もしないだろう。仮りに破り損ったとしても、破片は破片で別に切取り、裏うちでもして、完全なものにする筈だ。
 写真版は毛沼博士の寝室にあった雑誌から引ちぎられたものに相違ないとして、さて、何人《なんぴと》がそれをやったか。もし、全然関係のない第三者がそれをやったとして、それが笠神博士の手に這入ったものなら、博士はその経路について嘘をいわれる必要は少しもない。恐らく手に這入った日に、私だけにはニコニコして、「君、とうとうあの写真が手に入りましたよ」といわれるべきである。博士が写真版を手に入れた事を私に隠して、偶然私が見つけると、嘘をいわれた所を見ると、博士が写真版を手に入れた手段については、次の二つより他には考えられない。即《すなわ》ち、
 一、博士自らが不正な手段で、写真版を入手されたか。
 二、第三者が不正の手段で入手し、その事情を博士がよく知って買いとられたか。

 一、二のいずれにしても、誰かが毛沼博士がガス中毒で死んだ夜、私が部屋を出てから、室内に忍び込んで、写真版を盗んだものに相違ないのだ。
 仮りに第三者がそれをやったとすると、その場合には次の二つが起り得る。即ち、
 一、博士に頼まれて盗みに這入ったか。
 二、他の目的で忍び込み、偶然写真版を見つけて、情を明かして、博士に売りつけたか。

 一の場合は私は否定したい。何故なら笠神博士は毛沼博士の所に目的の雑誌があるという事については、全然知られなかった。もし知っておられたら、私にその話がある筈だと思う。仮りにその事を知っておられたとしても、博士は欲しければ直接毛沼博士に頼んだであろう。そんな話も私は全然聞いていない。仮りに毛沼博士が拒絶した所で、笠神博士は人に頼んで盗ませるような事をする人では絶対にない。写真版そのものも、貴重なものには違いないが、そんな冒険《リスク》に値するほどのものではない。
 二の場合であるが、笠神博士がそんな不正な事情のあるのを承知で、買入れられるかどうか疑わしい。一の所で述べた通り、それほど値打のあるものではないのだ。情を知らないで買われたものなら、私が見つけた時に、即座に、「ああ、それは誰それが持って来て呉れましてね」とか「誰から買いましたよ」とかいわれる筈だ。
 こういう風に考えると、一、二とも起り得ないと思う。
 すると、前に戻って、第三者が手に入れてそれを博士に渡したという考えは成立しないから、勢い博士自らが直接入手せられたという結論に到達する。
 私は当夜の博士の行動を思い浮べて見た。笠神博士は毛沼博士より一足先に帰られた。そのまま真すぐに家に帰られたかどうか、それが問題だ。
 仮りに笠神博士に何か目的があるとして、一足先に会場を出て、毛沼博士の家に先廻りしているとする。毛沼博士はグデングデンに酔って、玄関にへたばり、婆やと女中と私の三人で、大騒ぎをして、寝室に担ぎ込んだので、その間玄関は明け放しになっていたし、そっと忍び込んで、どこかの部屋に隠れていることは、大した困難もなく出来ることである。
 私が帰って婆やと女中が、毛沼博士の脱いだものを始末しながら、ベチャベチャ喋っている隙に、笠神博士はそっと寝室に滑り込むことが出来る。そして、雑誌から写真版を引ちぎって、部屋を出て抜き足さし足で、外に出る。婆やと女中は少しも気がつかない。毛沼博士はその後でふと眼を覚まし、扉の鍵をかけて、又元通り寝る。以上の事には十分可能性がある。
 然し、私はもう一度ここで同じ事をいわねばならぬ。仮りに笠神博士が毛沼博士の寝室に忍び込んだりしても、それはあの一枚の写真版の為でないことは分り切っている。あの写真版が毛沼博士の所にあることは、笠神博士は知らなかったと思われるし、もし知っていても、あの写真版はそんな冒険に値するものではない。
 では笠神博士の目的は?
 私はここで思わずぞっとした。笠神博士が毛沼博士を殺さなくてはならない原因については、何一つ心当りはないが、もし笠神博士が毛沼博士の寝室に忍び込んだとしたら、その深夜の冒険は、毛沼博士を殺す為ではあるまいか。
 そっと寝室に忍び込んで、ガス管を抜き放して、逃げ出て来る――可能だ。
 然し、そうなると、内側から掛けられた鍵は、どう説明されるべきであろう。毛沼博士が眼を覚まして鍵をかけたとすると、その時にシュッシュッという音を発して、異様な臭気を発散しているガスの漏洩《ろうえい》に気がつかないであろうか。鍵を下すだけの頭の働きを持っている人がガスの激しい漏洩に気がつかない筈はないと思われる。然し、そうなると、鍵をかけようとした時に、ガス管を蹴飛ばして、ガスの洩れるのも知らないで寝て終うという事も、同じように考え悪《にく》い事になる。一体、酒に泥酔している絶頂では、知覚神経の麻痺によって、少し位の刺戟には無感覚のことはあり得る。あの場合、毛沼博士が寝室に独りで飛び込み、ストーブを蹴飛ばして、ゴム管を外《はず》し、それを知らないで、そのまま寝台に潜り込んで終うという事は起り得ないことはあるまい。
 然し、一定時間睡眠をとれば、それが仮令《たとい》三十分|乃至《ないし》一時間の短時間であっても、余ほど知覚神経の麻痺は回復するものだ。むしろ知覚神経の麻痺の回復によって、眼が覚めるという方が本当かも知れない。毛沼博士が一旦寝台に横《よこたわ》ってから、暫くして眼を覚ましたものとすると、もう余ほど酔が覚めているだろうから、ガス管を蹴飛ばしたり、ガスの漏洩に気がつかないという事はない筈だ。それに博士はそれほど泥酔はしておられなかった。現に洋服を脱いで寝衣に着かえるだけの気力があったのだし、私に「帰って呉れ給え」とちゃんといわれたのだから、人事不省とまでは行っていない。第一、それほどの泥酔だったら、朝までグッスリ寝込んで、眼は覚めない筈である。遅くとも一時までに一回起きて、寝室の扉に鍵を下されたということが、酔いが比較的浅かった事を示しているではないか。
 考えても、考えても、考え切れぬ事である。循環小数のように、結局は元の振出しに戻って来るのだ。
 ああ、私は早くこんな問題を忘れて終いたい!

     ユーレカ!

 だが、私は忘れることが出来なかった。呪わしい写真版よ、私はあんなものを見なければよかったのだ!
 無論私は笠神博士をどうしようというのではない。それどころか、私は博士を師とも仰ぎ親とも頼み、心から尊敬し、心から愛着しているのだ。もし、博士を疑うものがあったら、私はどんな犠牲を払っても弁護したであろう。次第によったら生命だって投げ出していたかも知れぬ。それでいながら、私は博士に対する一抹の疑惑をどうすることも出来ないのだ。
 私は疑惑というものが、どんなに執拗なものか、どんなに宿命的のものであるかを、つくづく嘆ぜざるを得なかった。よし笠神博士が実際に毛沼博士の寝室に忍び込まれたとしても、どんな恐ろしい目的を抱いておられた事が分ったとしても、私は笠神博士を告発しようなどという考えは毛頭ないのだ。仮りに博士がそういう場合に遭遇されたら、私は身代りにさえなりたいと思う。それでいながら、疑いはどうしても疑いとして消すことが出来ないのだった。私は知りたかった。どうかして、笠神博士の秘密が知りたかった。博士が毛沼博士の寝室へ忍び込まれた理由と、それからあの奇怪な脅迫状の秘密が知りたかった。
 私は最早あの脅迫状が、笠神博士から毛沼博士に送られたものであることを疑わなかった。ドイツ語で書かれていた点といい、血液型を暗示するような記号が書かれていた点といい、笠神博士が毛沼博士の寝室から紛失した写真版を持っておられる点といい、笠神博士を除いては、あの脅迫状の送手はないと思うのだ。
 両博士の間にはきっと何か秘密があるに違いない。それは恐らく、夫人との三角関係に基くものではないだろうか。そんな三角関係などは二十余年も以前の事で、上面《うわべ》は夙《と》うに清算されているようだが、きっと何か残っていたに違いないのだ。
 恐ろしい疑惑! 私はどうかして忘れたいと、必死に努力したけれども、反って逆に益々気になって行くのだった。今は寝ても醒めても、そればかり考えるのだった。このままでは病気になって終うのではないかとさえ思うのだった。
 私は今はもう私自身の力でどうかして、この恐ろしい疑惑を解かなければ、いら立つばかりで、何事も手につかないのだ。
 敬愛している笠神博士の秘密を探るなぞという事は、考えて見ただけで不愉快な事であったが、私はそれをせずにはいられなかった。私は博士に気づかれるのを極力恐れながら、何気ない風で博士に問いかけたり、夫人にいろいろ話かけたりした。又、博士の過去の事を知っていそうな人に、それとなく探りを入れたりした。然し、私は殆ど得る所はなかった。
 私は又、毛沼博士の変死の起った当夜の秘密をどうかして解こうと努力した。何といっても、根本的な不可解は、寝室の扉《ドア》が内側から鍵がかかっていたという点にあるのだ。私は無論新聞記事だけで満足している訳には行かぬ。私は度々毛沼博士邸にいた婆やに会って、その真実性を確かめた。婆やが確《かた》く証言する所によると、扉は間違いなく内側から鍵がかかっていたのだった。窓も勿論みんな内側から締りがしてあった。鍵は錠にちゃんと差し込んだままだったという。私は探偵小説に出て来るトリックを思い出した。外側から内側の鍵をかけるという事については、外国の探偵作家が、一生懸命に脳漿を絞って、二三の考案をしている。然し、それは可成実際に遠いもので、私が覚えている毛沼博士の扉について、更に委しく婆やの説明を聞くと、それらの作家の考案は決して当嵌《あてはま》らないのだった。毛沼博士が閉された密室で斃れていた事は、蔽うべからざる事実だった。警察当局が、ガス漏出による過失死と断じたのは、当然すぎる事だった。
 だが、ガス管はいかにして外れたか。又、毛沼博士はどうしてそれに気づかなかったか。それから、ああ、あの忌わしい写真版はどうして笠神博士の手にあったか。
 もし、このままの状態で進めば、私は全く気違いになるか、自殺するより他はなかったかも知れぬ。だが、私は幸運にもふとした発見によって、そうなることを免かれたのだった。
 それは写真版を発見してから五日ばかり、つまり事件が起ってから二十日ばかり経った時だった。私は下宿に帰って、足がひどく汚れていたので、いつもと違って、台所の方から上った。その時に眼にふれたのは、普通にメートルと称しているガス計量器だった。赤く塗った箱形の乾式計量器であるが、之には大きなコックがついている。このコックを締めればどの部屋のガスも止って終うのだ。ガスストーブなんか使用していないこの下宿では、おかみさんが女中に喧《やかま》しくいって、毎夜寝る時に必ずこのコックを締めさせている。そうして置けば、過失によるガス漏洩なんかない訳で、安心していられるのだ。
 然し、終夜ガスストーブを使用している場合には、このメートルのコックを締める訳には行かない。仮りに締めたとしたら、ストーブは消えて終う。
 ここまで考えた時に、私は飛上った。黄金の王冠の真偽を鑑定すべく命ぜられたアルキメデスが、思案に余って湯に入った時に、ザッと湯の溢れるのを見て、ハッと思いついて、「ユーレカ、ユーレカ」と叫んで、湯から飛出したという故事は聞いていたが、今の私は確かにこの「ユーレカ」だった。
 仮りにストーブに火がついている時に、メートルのコックを捻れば、火は消えるではないか、もう一度捻れば、ガスがドンドン噴出するではないか。頗る簡単な事だ。
 笠神博士――には限らない。或る人間は、私や婆や達が毛沼博士の寝室にいる間に、そっと家の中に忍び込んで、息を凝らしている。私達が部屋を引上げるのを見すますと、先ず台所のガスメートルのコックを締める。それから寝室に這入る。それからガスストーブの管を抜く、その時には無論ガスの漏出は起らない。毛沼博士は何かの理由で眼が醒めて、起き上って扉に鍵を下す。その時にはストーブに火はついていないが、ガスも洩れていないから、博士は何にも気がつかずに、再び寝台に横になる。博士が再び眠りに落ちた時に或る人間は台所のメートルのコックを、元戻りに開ける。そうすれば、寝室内には盛んにガスが漏れるではないか。
 この説明のうちに、やや不完全と思われるのは、博士が起き上って、扉に鍵を下すであろう事を、或る人間がどうして予期することが出来たか、又どうしてそれがなされた事を知ったかという事と、二度目に寝についた博士が、やがて起ったガスの漏出をどうして気がつかなかったかという事である。更に以前から残っている大きな疑問として、博士の死が何故僅々二時間足らずの間に起ったかという事があるが、この事実と今の後段の疑問とを結びつけて見ると、毛沼博士は恐らく、二度目に寝台に横わると、間もなく死亡し、その後でメートルのコックが開けられたものではないかと思える。瓦斯がいかにシューシュー音を立てて漏れても、既にその時に死んでいれば、気がつく筈がない。
 そんな博士の死はどうして起ったか。それは簡単である。博士の死は一酸化炭素の中毒で起った事が、権威者によって、ちゃんと証明されている。だから、むろん一酸化炭素の中毒で死んだのに違いないのだ。だが、博士の死の起った時には、ガスの漏出は恐らく未だ始まっていなかったろうと考えられるし、よし始まっていたとしても、その総量に含まれる一酸化炭素の量は、致死量には遥かに不足していた。とすれば、二から一を引いて一になるように、一酸化炭素が別の方法で送られた事は、明白極ることである。
 毛沼博士の死は密室に一酸化炭素を送ることによって遂げられたのだ。ガスストーブの管が外れ、ガスが漏出していたのは、博士の死が燃料ガス中の一酸化炭素によって遂げられたように誤解させるトリックなのだ。
 所で、猛毒気体の一酸化炭素はどうして室内に送り込まれたか。ここで私は又重大な発見をした。それは当時ホンの僅かに脳裏を掠めた事に過ぎなかったのだが、その事実はふと適時に脳膜上に閃めいたのだ。
 一酸化炭素の発生法はそんなにむずかしくはない。然し、それには装置が必要だし、硫酸のような劇薬も必要なら、加熱もしなければならない。他人の家へ忍び込んで、発生させる事は容易ではない。仮りにそれらの装置や薬品類を持込んだとして、密閉された部屋へ送ることは困難だ。少量で有効にする為には、犠牲者の近く、出来るなら鼻の辺に送らなければならないが、それには室外からゴム管を附けなくてはならない。天井裏に潜り込んでも、通風孔には細い目の金網が張ってあるから、ゴム管を垂らす余裕がない。それに空気より幾分軽い気体だから、上部から送るのでは、効果が薄い。
 ガスを普通にボンベ或いはバムといわれる、鉄製の加圧容器に圧縮して入れて置けば、圧力が加っているから、室外から室内に送ることは可能だが、これとても、管を室内に入れているのでなくては、旨く目的は達せられぬ。その上に容器は厚い鉄で作ってあるから、非常に重くて、それを一人で持って、他人の家に忍び込むことは、先ず不可能である。
 残る所は液化ガスだ。之ならばデュアー壜、俗に魔法壜というのに入れて行けば、持運びは頗る簡単だ。そうして、之なら天井の通風孔から垂らせば、床の上に落ちて、或いは落ちないうちに気化して、十分目的を達することが出来る。
 只一酸化炭素の液化は非常に低温に於てのみ行われるので、(臨界温度零下一三九度沸点零下一九〇度である。)二酸化炭素と違って、普通には見られないのである。二酸化炭素即ち炭酸ガスと呼ばれている気体は、容易に液化出来るから、(臨界温度三一度、昇華点零下七九度である。)サイフォンといわれている家庭用炭酸水製造器に、拇指よりも小さいボンベに液状となって使用されている。けれども一酸化炭素も液化出来ない事はない。空気中一%を含んでも二分間で死ぬというのだから、純粋なものだったら、殆ど即座に死ぬだろう。
 所で私が液化一酸化炭素に着眼したのは何故かというのに、事件の起った時に、警察署長と現場へ行ったが、そこで、署長とそれから私も、現場の寝台附近にあった絨氈《じゅうたん》が、直径一寸ばかりボロボロになった穴が開いていたのを認めた。それは一見焼け焦げのようで、それとは違っていた。液体空気の実験を見た者は誰でも知っている通り、液体空気の甚しい低温はそれに触れたものから急速に熱を奪い去るから、皮膚に触れれば火傷《やけど》のような現象を起し、ゴム毬《まり》などは陶器のように堅くなって、叩きつけるとコナゴナになって終う。
 液化一酸化炭素はその低温の度は液体空気と大差ないから、仮りに絨氈の上に溢れたら、そこは必ずボロボロになるに違いない。当時はちっとも気がつかなかったが、ボロボロになった箇所は寝台の頭部に近く、天井の隅の通風孔の真下ではないが、極く近い下にあった。
 それからもう一つ、当日|手洗場《ウォッシュ・スタンド》の水が凍りついていたが、その朝は東京地方は稀な極寒だったので、その為に凍ったのだと、婆やが説明し、誰もその説明で満足したが、考えて見ると、その時は既に十時だったし、気温は可成上昇していたから、あの時まで凍結していたのは可笑しいのだ。手洗場は寝台の頭上の延長上にあり、通風孔は寝台の頭上と手洗場の中間に開いていたから、非常に低温な液化ガスが、気化するに際して、周囲から急激な熱を奪った為に、水が凍結したのだろうと考えられる。この場合は凍結の度が広範囲に及ぶから、潜熱の発散の為に、容易に元の状態に返らないだろう事は、十分考えられると思う。
 以上の説明で不完全ながらも、犯行の方法は分ったと思う。
 然し、犯人は何者か、犯罪の動機は、脅迫状の意味は、それから、犯人が寝室に這入って来てから、被害者が自ら立って、扉に鍵を下すまでの行動は? そんな事は少しも分っていないのだ。解決したというのは、ホンの部分的なもので、疑問はそれからそれへと、いくらでもあるのだ。
 私はやっぱり未だ苦しまなくてはならないのだ!

     笠神博士の遺書

 私は前に述べた発見をしてから、尚一週間ばかり苦しみ続けた。そうして、突如として笠神夫妻の自殺という、譬《たと》えようのない恐ろしい事実にぶつかって終ったのだ!
 私はこの報せを聞いた時には全く一時失神状態になって終った。
 笠神博士の遺書は公開のもの一通と、別に私に当てたものが一通あった。公開のものには、故あって夫妻で自殺するということと、遺産はすべて私に譲り、その代りに葬式其他死後の事は、一切私に依頼するということが書いてあった。
 私に宛てたものは、一年間は絶対に公表してはならぬものであり、この話の冒頭に述べた通り、私は之を読んだ時に、直ぐさま博士夫妻の後を追うて、自殺しようと思ったのだった。然し、辛うじてそれを思い止り、博士夫妻の亡き跡を回向《えこう》しながら、苦しい一年間を送った。今や私はそれを発表しようとしている。この遺書が発表されたら、どんな影響を社会に与えるだろうか。私は再び新聞記者の群に取巻かれる事だろう。又私の両親はどう考えるだろう。それが私は恐ろしい。私は次に博士の遺書を掲げて、この物語を終ると共に、そっと誰にも知らさないで、どこかへ旅立つつもりだ。然し、私は博士の教えを堅く守って、決して、自殺などはしないだろう。

鵜澤憲一様 笠神静郎

 あなたとは短い交際でしたけれども、心から親しむことが出来て、私はどんなに幸福だったでしょう、この点だけは、私は深く神に謝しております。さて、私は之から次に述べるような理由で、妻と一緒にあの世に旅立ちます。あなたはきっと悲しむでしょう。どんなに悲しむでしょうか。私はそれを一番恐れています。然し、あなたは前途有為の青年で、あなたの両親に対し、又私達夫妻に対し、国に対し、社会に対し、大きな責任を持っていることを自覚して下さい。私達夫妻は忌わしい運命の許に死を急がなければならないようになりましたが、私達はあなたが此の世に生残って呉れる事を、唯一の慰み、唯一の希望として死んで行くのです。くれぐれもお願いいたします。決して、無分別な考えを起してはなりません。私達夫妻の願いです。どうぞ、この点だけは堅く守って下さい。あなたが立派な人になって、私達夫妻の跡を弔って下されば、それこそ聖僧の何万巻の有難い読経《どきょう》にも勝るものです。
 さて、何から話していいでしょうか。あなたは私と毛沼博士との奇《く》しき因縁については、あら方御存じだと思います。二人はごく近い所に生れ、大学を卒業し教授となるまで、全く同じ道を通って来ました。あらゆる点に競争|対手《あいて》だった事は、やがてお互の身を亡す原因になったのです。然し、之はお互いに運命づけられて来た事ですから、今更悔んでも仕方がありません。
 大学を出てから私達は一人の女性を中に置いて、必死の恋を争わなければなりませんでした。その女性が私の妻であることは、御存じの事だと思います。
 御承知の通り毛沼博士は非常に朗かで社交的で話上手です。私はあらゆる点で毛沼博士とは正反対です。恋を争う上に、私はどんなに不利であるか、お察し下さい。妻も一時は全く毛沼博士に眩惑されました。妻はその処女《おとめ》時代に、毛沼博士とは親しい友人のように、自由に交際していました。私は羨望と、嫉妬に身を顫わしながら、それをうち眺めているより仕方がなかったのです。が、やがて彼女は毛沼博士が必ずしも表面上に現われているような人物でないことを悟り始めました。毛沼博士は陰険な卑劣な頗る利己的な人間だったのです。妻は漸く彼から離れようとしました。そして或日危く重大な侮辱を受けそうになり、辛うじてそれから逃れて、もう再び毛沼博士に近づきませんでした。そうして、私達は間もなく結婚式を挙げました。
 毛沼博士は表面上私達の結婚を喜んで呉れまして、贈物もするし、披露の席上では祝辞を述べて呉れました。私達は当時は彼がそんなに恐ろしい悪人とも思いませんでしたから、最早私達の事には、蟠《わだかま》りを持っていないものと考えていましたが、それは私達がお人好すぎるのでした。毛沼博士は私達の背後で爛々たる執念の眼を輝やかして、復讐の機会を覘《うかが》っていたのです。
 そんな事を夢にも知らない私達は、大へん幸福でした。妻は直ぐに妊娠して、結婚後一年経たないうちに、私達は可愛いい男児の親になっていました。
 私達の不幸はそれから三年経たないうちにやって来ました。御承知の通り私はその頃から血液型の研究を始めました。そして、恰度あなたがせられたように、私自身妻、子供の血液型を調べました。所が、私自身はA、妻はOであるのに、子供はBなのです。何度調べて見ても、その通りなのです。
 学問の上ではA型とO型からは絶対にB型が生じない事になっています。もし之に例外があるならば、すべての血液型に関する研究は無価値になり、最初からやり直さなければならないのです。所が、私の妻は他のどんな貞淑な妻よりも、更に貞淑であって、妻を疑うべき点は毛頭ありません。然し、私を父とし妻を母とするB型の子供は科学が許さないのです。
 私は悲しい哉、科学者でした。妻の見かけ上の貞淑を以って、科学の断案を覆すことは出来ませんでした。尤《もっと》も血液型の研究には未完成の所があり、絶対性があるとはいえないかも知れませんが、そうなると妻の貞淑にも絶対性はありません。譬《たと》えば妻の処女時代、又私が不在時、或いは外出時、それらのものに科学以上の絶対の信頼の置けないことは、自明の理であります。
 私は煩悶しました。科学を信ずべきか、妻を信ずべきか。私は日に日に憂鬱になり、元から無口だった私は、一層無口になりました。私のなすべき事は唯一つです。それは血液型のより以上の研究です。もしその結果従来の定説を覆すことが出来れば、同時に妻の貞淑が消極的に立証される訳です。従来の定説が破れなければ、妻は不貞の烙印を押されるのです。毛沼博士との処女時代の深い交際、危く免かれた危難、早すぎる妊娠、そうして、ああ、毛沼博士の血液型はB型なのです。
 私はいかに努力しても、妻に対して日に日によそよそしくなるのを禁ずることが出来ませんでした。私は唯気違い馬のように、只管《ひたすら》研究に没頭するばかりです。妻には無論血液型の事については一言も申しませんでした。妻は私がよそよそしくなったのは、私の本来の性格と、研究に熱心なる為と解していたと思います。彼女は私の冷い態度に反して、益々貞淑に仕えて呉れるのです。ああ、私は妻の貞淑が証明されるまで、次の子供を設けようとさえしませんでしたのに。
 生れた子供は幸か不幸か十一の年に死にました。私はその不幸の子の為に、今こそ潸々《さんさん》と涙を注ぎます。可哀そうな子供、父の愛を少しも味わないで、淋しく死んで行った子。本当に哀れな子でした。
 私の研究は進みました。然し、それは妻の貞淑を否定する材料ばかりです。ああ、二十年の永い間、夫婦でありながら夫婦でない夫婦、夫からは冷い眼で見られ、疑られながら、貞淑を尽し通した妻、何という可哀そうな女でしょう。だが、私も何と可哀そうな夫ではありませんか。
 私達はこうして、尚十年も二十年も生きて行かなければならなかったのです、然し、天もいつまでも私達に無情ではありません。学生のうちにあなたが交っていたということは、私は只の偶然だとは思いません。もし只の偶然なら、あなたは他の学生と同じように、決して私に近づこうとしなかったでしょう。又血液型の研究を始めようと思ったり、自分自身や父母弟妹の血液型を定めようとはしなかったでしょう。すべては天意です。決して偶然ではありません。
 ああ、忘れもしません。私の最初の驚愕、それはあなたが血液型を測定して、あなたのお父さんがB型でお母さんがO型、それにあなた自身がA型だという事を聞いた時です。私は念の為自分で測定して見ましたが、やはりその通りでした。
 ですが、それにも増して驚いたのは、あなたがK病院の産室で生れたという事を聞いた時でした。そして、あなたの生年月日を調べた時の私の驚き、よくあの時に気が狂わなかった事だと思っています。
 ここまで書けば最早お気づきでしょう。私の死んだ子供もK病院の産室で生れたのです。そうして、生年月日は全くあなたと同じです。私の死んだ子とあなたとは、同じ日に同じ所で生れたのです。
 生れ立ての赤ン坊は性別以外に著しい特徴はありません。病院の産室では、往々取扱うものの不注意や思い違いから、取違えないとも限らないのです。それ故、病院では、着物に糸で印をつけたり、或いは番号を付したりしています。アメリカの大都市の産院ではこの間違いを防ぐ為に、初生児の指紋は取り悪《にく》いから、蹠紋を取ることにしています。そういう訳で、K病院でも、無闇に生れた子供を取違える訳はありません。そんな不注意や過失はないと思います。ですが故意にやることは防げません。
 私達の子供を故意に取替えたもの、それはいわずと知れた毛沼博士です。それは何という無慈悲な惨酷な復讐でしょう。
 私はあなたの血液型の事を聞き、K病院で生れた事、生年月日を知って、及ぶ限りの綿密な調査をしました。その結果確かに毛沼博士の憎むべき奸計《かんけい》であることが分ったのです。K病院では整形外科の手術室のすぐ前に産室があります。当時毛沼博士は整形外科の医員に友人があり、旨《うま》く頼み込んで、妻が出産をする前夜に、始終整形外科に出入していることが判明しました。それに私の死んだ児とあなたが元通りになれば、その結果は学問上の断案と何等矛盾しないようになるのです。
 復讐の手段に事を欠いて、何という不徳な破倫な方法でしょう。それによって、私達夫妻はどんな苦しみを受けた事でしょう。そうして場合によっては、死ぬまでその苦しみを続けなければならなかったのです。彼に酬《むくい》るもの死以外には何ものもないではありませんか。
 然し、漫然と彼を殺すことは意味のないことです。彼に何によって死を与えられるかということを十分知らさなければなりません。私は彼に私達の子供の生れた時を思い出さしめ、且つ血液型を暗示するような記号を書いた書面を送りました。それは確かに手答えがありました。彼はひどくうろたえ始め、護身用のピストルを携帯したり、部屋に鍵を下したりするようになりました。彼は無言のうちに、非道の所為《しょい》を告白したのです。
 あの夜私は彼の家の中に潜んでいて、あなたが帰られると、入れ違いに彼の部屋に這入って、或るトリックを瓦斯ストーブに加えました。その時にふと机の上の雑誌に眼がつき、その中の写真版を引ちぎったのは、浅墓《あさはか》な所為でした。その為に後であなたから疑われる結果になったのです。
 ストーブにトリックを加えた後、私は徐《おもむ》ろに毛沼を揺り起しました。彼が眼を覚《さ》まして、ドキンとしながら、あわててピストルを取り上げようとした手を押えて、かつての日の彼の奸計を責め、近く復讐を遂げるぞと宣言し、彼がキョロキョロしている暇に忽ち部屋の外に出ました。彼は予期した通り声を上げて家人を呼ぶような事はなく、すぐに起上って、内部から鍵をかけました。之で私の思う壺です。彼が再び寝台に横たわるのを待ち、ある方法で毒ガスを送り、ストーブから燃料ガスを放出させました。委《くわ》しい殺害方法は書きたくありません。よろしく御推察下さい。私のトリックは成功しました。あなた以外誰一人とて死因を疑ったものはありません。過失によるガス中毒死という事になったのです。
 私は最初、毛沼博士が暗黙のうちに卑劣な方法で私達を苦しめたのですから、暗黙のうちに復讐を加えて、知らぬ顔をしていようと思っていました。然し、やはり良心が許しませんでした。それに、あなたが気づいたらしい事が、大へん恐ろしかったのです。私はやはり自決することにしました。薄命な妻は私の話を聞いて、一緒に死にたいといいました。私は遂にそれを許しました。
 私達夫妻の願いとして、生前一言あなたが私達の真の子供であると名乗りたかったのです。そして何回かそれをいいかけましたが、やはりいえませんでした。何故なら、私は縁あって私の子になったものに、あまりに冷かったのです。而《しか》もそれを亡くなして終いました。今あなたを私の子だなどといっては、あなたの御両親に相すみません。あなたの御両親はあなたを真の子供だと思って、慈しみお育てになったのです。私の見た所では、あなたは御両親にも、又弟妹の方達にもあまり似てはおられません。それにも関らず何の疑いもなく、愛育されたのです。私が疑い通し、悩み通したのと、どれほどの相違でしょうか。死んだ子供に対しつれなかっただけ、私はあなたの御両親に合わせる顔がありません。又、あなたを私達の子だといい張る勇気もないのです。
 ではさようなら、最初にお願いして置いた事を呉々も忘れないように。立派なそうして正しい人間になって、幸福に暮して下さい。
(一九三四年六、七月号)

底本:「「ぷろふいる」傑作選 幻の探偵雑誌1」ミステリー文学資料館・編、光文社文庫、光文社
   2000(平成12)年3月20日初版1刷発行
初出:「ぷろふいる」
   1934(昭和9)年6、7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:大野 晋
2004年11月4日作成
2005年12月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

甲賀三郎

計略二重戦 少年密偵—– 甲賀三郎

   隠れた助力者

 道雄少年のお父さんは仁科猛雄《にしなたけお》と云って、陸軍少佐です。しかし、仁科少佐は滅多《めった》に軍服を着ません。なぜなら少佐は特別の任務についているからです。特別の任務と云うのは、外国から入り込んで、隙《すき》があったら、日本帝国の軍機の秘密を盗もうとしている、恐るべき密偵を監視し警戒する役目なのです。こう云う恐るべき敵に対しては、仁科少佐を初めとして、何人もの人が日夜油断なく見張っていますが、相手も一生懸命ですから、時折は、残念ながら秘密書類を盗まれたりする事があります。仁科少佐はそう云う悲しむべき事が起った時に、いつでも、あらゆる方法を尽して、必ず敵から盗まれた書類をとり返して、我が国の危機を救っています。けれども、仁科少佐がそう云うむずかしい、且《か》つ危険な仕事に、間一髪《かんいっぱつ》と云う所で成功するには、いつも隠れた助力者があるのです。仁科少佐を助けて、敵の間諜《かんちょう》や密偵と闘って、いつも最後の勝利を獲得せしめている人は誰でしょうか。次の物語を読んで頂けば、きっと皆さんにお分りになって貰《もら》えると思います。

   重大な命令

 昭和×年も押詰《おしつま》った十二月の或日《あるひ》、仁科少佐は参諜本部の秘密会議室に呼ばれました。秘密室には参諜総長以下各部長各課長等|重《おも》だった人達がズラリと並んでいました。そうして、いずれも云い合したように、眉《まゆ》に深い皺《しわ》を寄せて、憂《うるわ》しげな様子を示していました。何とも云えない重苦しい空気が、部屋全体に漲《みなぎ》っているのでした。
 仁科少佐は先《ま》ず直立不動の姿勢で参謀総長に敬礼して、続いて他の上官達に敬礼を一巡させました。
 参謀総長は厳粛《げんしゅく》そのもののような顔をして、少佐をじっと見詰めながら重々しく云いました。
「本官は貴官に重大な命令を与える。事の成否は帝国の安危《あんき》に係《かか》っている。仁科少佐は、天皇陛下並に日本帝国の為、万難を排し、身命を抛《なげう》って任務を遂行《すいこう》する事を欲する」
「ハッ」
 仁科少佐はいつもと違った総長の厳《おごそ》かな態度に、身体を硬《こわ》ばらしながら答えました。
「帝国陸軍の最も重要な秘密書類が、×国間謀の手に入った。貴官は速《すみや》かにその書類を奪回せよ。これが本官の命令である。尚《なお》、委《くわ》しい事情は情報課長から説明するじゃろう」
「ハッ」
 仁科少佐は恭《うやうや》しく礼をしました。総長はホッとして、幾分顔を和《やわら》げながら、
「仁科少佐、これは実にむずかしい且つ危険な任務じゃ。命令は命令として、俺《わし》は一個人として君に頼む。君以外にこの任務の果せるものはないのじゃ。しっかり頼むぞ」
 総長の情《なさけ》の籠《こも》った信頼の言葉に、仁科少佐の身体は益々《ますます》固くなるのでした。
 情報課長の谷山大佐は、参謀総長の言葉をついで、どんな事があっても、三日以内には取返さなければならないと云う事と、書類の形や内容を話した後に、つけ加えました。
「書類を盗ませて、現に手に入れているのは、明《あきら》かに、例の麹町六番町《こうじまちろくばんちょう》に住んでいるウイラード・シムソンなのだ」
「えッ、シムソン! あいつ[#「あいつ」に傍点]ですか」
 仁科少佐は叫びました。ウイラード・シムソン、彼こそはかねて某国の軍事探偵であると睨《にら》まれていた強《したた》か者でした。少佐は心のうちで、「これは強敵だぞ。だが、身命を賭《と》してかかれば何事かならざんやだ」と云ったのでした。
 皆さんは敵方の間諜をなぜ捕えもせず、又本国へ追い返しもしないで、そっとして置くのかと、お疑いになるでしょう。尤《もっと》もな疑問ですが、たとえ間謀である疑いが十分であっても、これと云う確かな証拠がなければ、どうする事も出来ません。ましてや、相手は外国人ですから、下手な事をすれば直《す》ぐねじ込まれて、国際間に面倒な事が起るのです。
 でも、と皆さんは云われるでしょう、そのシムソンと云う男が、秘密書類を奪《と》った事が確かなら、なぜ家宅捜査をするのと一緒に、縛《しば》ってしまわないかと。
 それも尤もなご質問です。けれども、皆さん、考えて見て下さい。卑《いや》しくも間謀を務めている者、しかもシムソンのように一筋縄《ひとすじなわ》で行かない強か者が、盗んだ書類を身の廻りに置いているでしょうか。もし、縛ったり、家宅捜査をしたりして、書類が出て来なかったら、シムソンは何と云うでしょう。それこそ、どんな逆捻《さかね》じを食っても仕方がないではありませんか。
 つまり、問題は盗まれた秘密書類がどこに隠されているかと云う事です。シムソンを縛って調べた所で、易々《やすやす》と云う気遣《きづか》いはありません。仁科少佐の任務はシムソンを縛る事よりも、どこに書類があるかと云う事を見つけて、一刻も早くそれを取り返す事にあるのです。
「シムソンは無論どこか安全な場所に書類を隠しているに相違ないのだ」谷山大佐は云いました。「彼は我々がきっととり返しに来ると思って、暫《しばら》くは様子を覗《うかが》っているに違いない。しかし、ぐずぐずしていると、彼は書類を隠し場所から取り出して、本国へ送るだろう。そうなっては大変だ。だから我々は出来るだけ速《すみや》かに隠し場所を発見して、取り戻さなければならないのだ」
「承知しました。誓って速かにとり返します」
 仁科少佐は決心の色を現わして、きっぱり云いました。谷山大佐は満足そうにうなずきながら、
「ぜひ成功してくれ給え。いや、君なら必ず成功すると思っているのだ。しかし、気をつけ給えよ。シムソンはどうしてなかなかの奴なんだから。殊《こと》に彼の邸《やしき》はすっかり電気仕掛の盗難予防器が張り廻してあって、ちょっとでも手が触れると、家中に鳴り響くと云う事だから、余程用心しなくてはいかんぞ」
「御注意有難う存じます。では、閣下、仁科は重要書類を奪回して参ります」
 少佐は参謀総長以下|並居《なみい》る上官に一渡り敬礼して、元気よく部屋を出ました。

   猫と鼠

 夜は深々《しんしん》と更けて、麹町《こうじまち》六番町のウイラード・シムソンの邸《やしき》のあたりは、まるで山奥のように静まり返っています。時折ヒュウヒュウという梢《こずえ》を吹く木枯しの音が、反《かえ》ってあたりの静かさを増しています。この夜更《よふけ》に、この寒さに、こんな所を通る人はあるまいと思うのに、折しもコツコツと歩道を踏んで来る人影がありました。
 彼はシムソンの家の前に来ると、立止って、暫くあたりの様子を覗《うかが》っていました。門の前の電灯に照し出された男は、外套《がいとう》の襟《えり》を立てて、帽子を眉深《まぶか》にかぶっていますが、疑いもなく仁科猛雄でした。
 仁科少佐はやがてヒラリと鉄柵を越えて、シムソンの邸の中に躍り込みました。鉄柵と云うのは、ホンの腰位の高さの煉瓦《れんが》の柱の間に、やはり同じ位の高さで張《は》り巡《めぐ》らしてあるので、飛越えるには大した造作はないのです。しかし、用心堅固の邸の中へ入るのは容易な事ではありません。仁科少佐にはどんな成算があるのでしょうか。
 仁科少佐はツカツカと宏壮な洋館の傍《そば》に近づきました。そうして、ああ、何たる乱暴! 手に持っていた太いステッキで、窓にピタリと締っている鎧戸《よろいど》を力任せに叩きました。
 メリメリと鎧戸は壊れました。少佐はその壊れ目にステッキを突込んで、梃《てこ》のようにして、とうとう鎧戸をこじり開けました。次に彼は窓の硝子《ガラス》を叩き破りました。ああ、鎧戸や窓硝子を壊した音は兎《と》に角《かく》として、電気仕掛の報知器はシムソンの部屋のあたりで鳴り響いているでしょうに。仁科少佐は谷山大佐からぐれぐれも注意して貰った事を忘れたのでしょうか。もし、忘れていないとしたら、何たる大胆不敵ぞ、いや、寧《むし》ろ無謀な事ではありませんか。
 窓硝子を叩き破《わ》った仁科少佐は、破れ目から手を入れて、窓を開けました。そうして、そこからヒラリと家の中に飛込みました。部屋の中は真暗です。少佐は扉《ドア》を開けて廊下に出ました。廊下も真暗です。少佐は爪先探《つまさきさぐ》りに進んで行きました。すると、不意に横から少佐目がけて、パッと懐中電灯が照《てら》されました。そうして同時に、固いものが少佐の脇腹《わきばら》に当りました。少佐はハッと驚いて両手を上げました。ピストルの筒口が横腹に突きつけられたのです。ああ少佐はとうとう敵に捕《つかま》ったのです。
「ハハハハ、よくお出になりました。私が案内いたします。さあ、お歩きなさい」
 嘲《あざけ》るように云ったのはシムソンでした。さすがに間謀を勤めるだけあって、アクセントは少し変ですが、日本語はうまいものです。
 仁科少佐はピストルを突きつけられて、両手を挙げたまま、前の方に押し進められました。
 やがて、少佐はシムソンの居間らしい部屋の中に追い入れられました。シムソンは少佐のポケットを調べて、持っていたピストルを取り上げました。
「まあ、おかけなさい」
 シムソンは前にあった椅子を指しました。仁科少佐は残念そうな顔をしましたが、云われるままに椅子にかけました。
 シムソンは少佐の前の肘付椅子《ひじつきいす》にドッカリ腰を下しました。そうして、油断なくピストルを突きつけながら、
「あなた軍人ですね。何しに来ましたか」
「――――」
 少佐は歯を食いしばって答えません。
「答えなくても、私には分っています。あなた、秘密書類|奪《と》りに来たのでしょう」
「――――」
「あなた、口惜《くや》しそうな顔をしていますね。けれども、あなたのやり方は乱暴です。私の邸には電気仕掛の報知器がついています。盗みに入る事はなかなか出来ません。でも、あなたはさすがに日本軍人、勇敢ですね。たった一人でここへ来るとは」
「やかましい」少佐はうるさそうに云いました。「僕は失敗したんだ。何も云う事もないし、聞く事もない。早く好きなようにしろ」
「ハハハハ、日本軍人、勇敢だけではありません。負け惜しみが強いです。ハハハハ」
 シムソンは相手が何も出来ないと見て、まるで猫が捕えた鼠を弄《もてあそ》ぶように云うのでした。
「私、あなたを殺しません。殺すと、後の仕事に差支えます。けれども逃がす事は出来ません。窮屈《きゅうくつ》でも二三日この家にいて下さい。二三日すると、盗んだ書類は無事に仲間に渡せます。仲間のものが国へ持って行きます。ハハハハ」
 シムソンはそう云いながら、机の上の呼鈴《よびりん》を押しました。やがて、扉《ドア》をノックして入って来たのは、背の高い、見るから獰猛《どうもう》な面構《つらがま》えをした外国人でした。
「ソーントン。お客さんを地下室に御案内なさい」
 シムソンは外国語で命令しました。ソーントンと云う部下は黙ってうなずいて、ポケットから大型のピストルを取り出して、仁科少佐に突きつけながら、
「どうぞ、こちらへ」と下手な日本語で云いました。
 少佐は覚悟をきめたと云う風に、悪びれずに立上りました。そうして、ソーントンに送られて、部屋の戸口に歩み寄りますと、シムソンは何と思ったか、急に呼び留《と》めました。
「軍人さん、ちょっとお待ちなさい。あなた折角ここへ来て、直ぐ地下室へ入れられるのは、余り残念でしょう。ここへ来られたお礼です。秘密書類がどこにあるか、教えて上げましょう。お国の大事の大事の書類は、麹町郵便局に留置《とめおき》郵便にして置いてあります。あなた、いい土産話でしょう。感謝しませんか」
 仁科少佐はきっと唇を噛みました。ああ、何たる卑劣漢! 少佐が袋の鼠で、どんな事があっても逃げ出せないと知って、わざと弄《なぶ》る為に、秘密書類のありかを毒々しく云うのです。
「有難う。シムソンさん」少佐は眼を怒りに燃えながらも、言葉は優しく云いました。「それを聞けば私も安心して地下室の牢に行けます。あなたはそんな事を口走ったのを、きっと後悔する時が来るでしょう」
「後悔する? アハハハハ、それはあなたの負惜しみです。あなた、その事を誰に伝えられますか。ハハハハハ。私、決して後悔する事ありません」
 ソーントンは二人の会話がよく分らないらしく、シムソンの言葉が終ると、直ぐピストルを少佐に押しつけて、グイグイと部屋の外に押出しました。

   恐ろしい仕掛

 ソーントンが仁科少佐を地下の牢に連れて行くのを見送っていたシムソンは、暫くすると、急に思い出したようにぎょッとしながら、部屋を出て、仁科少佐が破って飛込んだ窓の傍に行きました。そして、キョロキョロとあたりを眺めて、ホッと安心したように彼の国の言葉で呟《つぶや》きました。
「やはり、あの男一人だ。他には来ないらしい」
 彼はガタガタと音を立てて、どうにか壊れた鎧戸を無理に締める事が出来ました。彼は又元の部屋に戻りました。そうして、肘付椅子の上に腰を下して、机の上の葉巻を取上げて、悠然とくゆらし始めましたが、どう云うものか、何となく気が落着かないのです。盗んだ秘密書類は安全な所に隠してあるし、今飛込んで来た大胆な男は地下の牢に入れたし、別に気にかかる事がある筈《はず》がないのですが、どうも、何事か起りそうな気がして、変に不安なのです。シムソンはキョロキョロと部屋の中を見廻しました。と、彼はアッと云う叫び声を上げて、顔色を変えました。部屋の隅には、いつの間に忍込《しのびこ》んだのか、一人の少年が立っていて、ピストルをじっと向けているではありませんか。
「手を挙げろ」
 少年は叫びました。シムソンは口惜しそうに両手を高く挙げました。少年はシムソンの傍に寄って、彼のポケットからピストルを取上げました。
「貴様はお父さんのはかりごとにかかったんだ。お父さんはわざと知れるように窓を破って、ここへ入ったのだ。貴様達がお父さんに気をとられている暇に、僕はこっそり後から入ったのだ。貴様は今頃になって気がついて、破れた窓を調べに行ったが、もう遅い。さあ、お父さんを出せ」
「君は先刻《さっき》来た男の子供か。なるほど、そう云えばよく似ている」
 シムソンは両手を高く挙げながら云いました。彼は何かしゃべっているうちに、少年が少しでも油断して隙を見せたら、飛《とび》かかってピストルを奪い取ろうという考えなのです。しかし、少年はその手には乗りません。
「そうだ。僕は仁科少佐の子供で道雄と云うのだ。さあ、ぐずぐず云わないで、お父さんを出せ。云う通りしないと射《う》つぞ」
「ハハハハ、日本人だけあって、子供でもなかなか勇敢だ。父を救けだそうとするのは頼もしい。アハハハハ」
「な、何を笑うのだ」少年はきっと眉《まゆ》を上げました。「よしッ。こうなれば貴様を射ち殺してから、お父さんを助け出すッ」
 道雄少年は将《まさ》に猛然とピストルの引金を引こうとしました。シムソンはうろたえながら叫びました。
「ま、待て。そ、そんな乱暴な事してはいけない。私を殺しては、君のお父さんを助け出す事も、それから秘密書類をとり返す事も出来ないぞ」
「えッ」
 急所をつかれたので、さすがの道雄少年も、ぎょッとして、引金にかけた手をゆるめました。その隙を見たシムソンは、急に一歩前に出て、机の上の釦《ボタン》に手をかけました。
「射つな」シムソンは急いで叫びました。「射ったら、私はこの釦を押す。この釦を押したら、君のお父さんは最後だ」
「えッ、何だって」
「この釦を押すと、電気仕掛で地下室へはドウドウと水が出るのだ。地下室は見る見る水で一杯になってしまう。地下室は鉄筋コンクリートで、窓は一つもない。君のお父さんはおぼれ死んでしまうのだ」
「えッ」
 道雄少年はサッと顔色を変えました。彼のピストルを持った手は、ワナワナとふるえ出しました。
「フフン」シムソンは勝誇ったようにあざ笑いました。「どうだ。この私に手向いしようとしても無駄な事が分っただろう。さあ、そのピストルをこちらへよこせ。よこさないと、この釦を押すぞ」
「嘘だ。嘘だ」道雄少年は必死に叫びました。「そ、そんな事は貴様の出鱈目《でたらめ》だ。そんなおどかしには乗らないぞ」
「出鱈目? よろしい。そう云うなら、出鱈目か出鱈目でないか見せてやる」
 シムソンは机の上の釦を押しました。
「さあ、耳を澄まして聞いてごらん。地下室に水の流れ出す音が聞えるから」
 道雄少年は耳を澄ましました。なるほど、家のどこからか、ジャージャーと云う水の流れ出す音が聞えて来ました。確かに、それは地下室から洩《も》れ聞えて来るのです。その上にジャージャーと云う激しい水の音に交《まじ》って、う、う、と云う悲鳴のような声が聞えるのです。
「と、止めてくれ。水を止めてくれ」道雄少年は血の気のなくなった唇を噛みしめながら叫びました。「早く、止めてくれ」
「ハハハハ」シムソンは憎々しげに笑いました。「漸《ようや》く本当だと言う事が分ったか。だが、あわてる事はない。地下室へ水が一杯になるには、二時間位かかる。足から脛《すね》、脛から膝、膝から腹と、だんだん水につかって行く気持は、余りよくないだろうけれども、水がいよいよ天井につかえるまでは、呼吸《いき》は出来るから死にはしない。それまでは、君とゆっくり話をきめる事にしよう。先《ま》ず第一に、君の持っているピストルを机の上におき給え」
 道雄少年は憎悪に燃えた眼で、きっとシムソンを睨《にら》みつけました。しかし、どうにも仕方がありません。がっかりしたように、机の上にピストルをおきました。
 シムソンは急いで、少年のおいたピストルを手許《てもと》に引き寄せました。
「危い、危い。子供がこんなものを玩具《おもちゃ》にしては危険千万だ。先ず、これで一安心だ」
「早く水を止めて下さい」
「そう急がなくても、地下室一杯になるにはたっぷり二時間かかるのだ。今頃はもう踝《くるぶし》の所まで来たろう。君のお父さんはさぞかし、生きた空がなくて、冷々《ひやひや》しているだろうて。だが、そう急ぐ事はないて」
「悪漢! 人殺し! 間諜《スパイ》!」
 道雄少年は土のように顔を蒼白《あおじろ》くしながら、ののしりました。
「ハハハハ、間諜だけは本当だ。けれども、私は人殺しでも悪漢でもない。君達が父子《おやこ》で私を諜計《はかりごと》にかけようとするから、そう云う目に会っただけの話だ。所で、聞くが、ここへ来たのは君達二人だけだろうね」
「そうです」
 道雄少年はもう相手の云いなりになるより仕方がないと云う風に、おとなしくうなずいた。
「では、三日の間、君もお父さんと一緒の部屋に居て貰うことにしよう」
 シムソンはそう云いながら、机の上の呼鈴の釦を押しました。所が、どうしたのか、なかなかソーントンが出て来ないので、シムソンはいらいらしながら何度も釦を押し直しました。
 道雄少年は蒼白い顔をしながらも、クックッと笑い出しました。
「呼鈴の線は僕が切っておいたから、鳴りっこないさ」
「な、なんだって。電線を切るとはけしからん」
「ついでに、地下室の水を出す仕掛の電線も切っておけばよかったのです。つい、気がつかなかったものだから、残念な事をしましたよ。」
「馬鹿な事を云え。地下室の方の電線はうまく隠してあるから、君なんかに気はつかないよ。ソーントンが来なければ仕方がない。私が連れて行く。さあ立て、立って地下室へ来い」
「地下室に連れて行ってどうするのですか。お父さんと一緒に水攻めにして殺そうと云うのですか」
「殺しはしない。水は間もなく止めるよ。私は人を殺すのは嫌いだ。けれども、君達二人は私の邪魔をするから、二三日地下室の牢へ入れておくのだ。二三日のうちには、秘密書類は無事に仲間の手から本国へ送り出される筈だから」
「その為なら、私達を地下室へ監禁する事は無駄です」
 道雄少年はきっぱり云い放ちました。シムソンは不審そうに、少年の顔を穴の開くほどみつめていましたが、
「それはどう云う事かね」
「書類は今頃はもう取り返された筈です。先刻《さっき》あなたはお父さんに、麹町郵便局に留置《とめおき》にしてあると云いました。僕はそれを部屋の外で聞いていましたから、あなたが窓の所を見に行った時に、この部屋に入って、その卓上電話で報告しておきました」
 思いがけない道雄少年の言葉に、シムソンは顔を真蒼《まっさお》にして、のけ反《ぞ》るように驚くだろうと思いましたが、意外、彼はカラカラと笑い出しました。
「アハハハハ、ハハハハ」

   電話の計略

「何を笑うのです」
 道雄少年は突然笑い出したシムソンの顔を、呆《あき》れたように見守りながらとがめました。
「アハハハハ」シムソンはなおも笑いながら、
「君は私が先刻《さっき》本当の事を云ったと思っているのかね。麹町郵便局に留置《とめおき》にしてあると云うのは、出鱈目《でたらめ》なのだ。アハハハハ。君が本気にしたのは気の毒だったねえ」
「なあんだ」道雄少年はがっかりしながら云いました。「出鱈目だったのか」
「ハハハハ、大そう力を落したね」シムソンは、なぶるような口調で、「では、君にだけ本当の事を教えてやろうか。先刻はつい君が聞いている事を知らなかったので、もし本当の事を云えば大へんな事になる所だった。けれども、今は私は家の中を調べた上に、破れた窓も締りをしたし、大丈夫もう盗み聴きをしている者はない。君が少年の癖に、なかなか勇敢で父思いなのに免じて、本当の事を云ってやろう。秘密書類は、君、警視庁にちゃんと保管してあるんだぜ」
「警視庁に? そ、そんな馬鹿な事が」
「ハハハハ、警視庁に保管してあると云うと、信ぜられない馬鹿げた事だと思うだろう。けれども、それは間違いのない本当なんだ。私の部下は秘密書類を盗み出した時に、直ぐ私の所へ持って来ては、とり返しに来られる恐れがあると思って、二重底の鞄《かばん》に入れたまま、わざとタクシーの中に忘れたのだ。無論、運転手は何も知らずに警視庁へ届けたさ。それで、君達が血眼《ちまなこ》になって探している秘密書類は、今は警視庁の遺失物係りの所に、ちゃんと保管されているんだ。つまらない商品見本の入った鞄としてね。二三日うちに、私の部下が取りに行く事になっている。どうだ、私の智恵は。警官や憲兵が夢中になって探している書類が、所もあろうに警察の本尊の警視庁にちゃんと保管されていようとは、芝居のせりふ[#「せりふ」に傍点]じゃないが、お釈迦《しゃか》さまでも知らないだろう。アハハハハハ」
 相手を袋の鼠の、しかも子供と侮《あなど》ってか、シムソンは彼の企《たくら》みを、さも自慢らしく述べ立てました。何という狡獪《こうかい》さ。盗んだものを、警視庁に置いて平然としているとは、実に驚くべき悪智恵ではありませんか。道雄少年は旨々《うまうま》とシムソンの秘密を知る事が出来ました。しかし、直ぐに地下室に連れて行かれるのです。折角聞き出しても、何の役に立ちましょうか。
 シムソンはふと思い出したように、
「どうもおしゃべりが過ぎたようだ。地下室の水は大方腰の辺《あた》りまでになったろう。さあ、君を入れて、水を止めなければならん」
 シムソンがこう云った時に、机の上の電話器がコツコツジージーという微《かす》かな変な音を立てました。道雄少年は急に生々《いきいき》とした顔になって、受話器に手をかけて、取上げようとしました。
「こらッ、触《さわ》ってはいけない」
 シムソンは大声に叱りつけて、急いで自分で受話器を取り上げました。
「うむ」
 受話器を耳に当てたシムソンは、忽《たちま》ち真蒼な顔をして、パタリと受話器を落しました。そうして、道雄少年の顔を睨《にら》みつけながら、机の上のピストルに手をかけようとしました。すると、不意にうしろから、
「シムソン、動くな」と云う声がしました。
 シムソンはハッと振り向くと、そこには思いがけなく、仁科少佐が悠然と立って、ピストルの筒口を向けていました。
「アッ」
 シムソンは口惜《くや》しそうに、唇をブルブル顫《ふる》わせながら叫びました。
 道雄少年は急に笑いだしました。
「ハハハハ。シムソン、馬鹿だぞ、貴様は。この卓上電話は見た所はどうもないが、僕は貴様が窓の所に行った隙《すき》に、この受話器を掛ける所に、ちょっとした木片《きぎれ》をかっておいたのだ。だから、この掛ける所は上に上って、受話器を外してあるのと同じ事になっていたのだ。その証拠には今電話が掛って来た時に、リンリンと鈴《ベル》が鳴らないで、ジージーコツコツと小さい音がしたのだ。電話の受話器が外してあったらどうなると思う。この部屋で話す事は、交換局へ筒抜けではないか。交換局はどこへでも好きな所へつなぐ事が出来る。貴様は自慢らしく、書類を警視庁に保管してあると云って、智恵を誇ったが、この電話が警視庁につないであって、貴様の云った事が、そのまま向うへ聞えたのに気がつかないのだ。僕は貴様が先刻《さっき》云った隠し場所は出鱈目《でたらめ》だった事を知ったから、本当の事を云わそうと思って謀計《はかりごと》にかけたのだ。お父さんは地下室の牢に入ってなんかいやしない。ソーントンがお父さんを連れて行く途中で、待ち伏せていた僕は、ソーントンにピストルを突《つき》つけて、お父さんを救《たす》けて、代りにソーントンを地下室に入れておいたのだ。水で驚いて悲鳴をあげていたのは、貴様の部下のソーントンなのだ。僕はお父さんに云いつけられた通りしたのだ。僕達二人が貴様に捕ったのは、みんな計略なんだ。貴様がここでベラベラしゃべった隠し場所が本当だったら、直ぐ警視庁から合図の電話がかかる事になっていたんだ。僕は貴様に、合図があるまでしゃべらせればよかったんだ。今、警視庁から何と云って電話がかかったか、云って見ようか。書類は貴様の云った所に、ちゃんとあったと云って来たんだろう。アハハハハハ」
 道雄少年の言葉を聞いているうちに、次第次第に蒼《あお》ざめて来たシムソンは、この時、「うむ」と一声|唸《うな》って、パッタリ床の上に倒れました。

底本:「少年小説大系 第7巻 少年探偵小説集」三一書房
   1986(昭和61)年6月30日第1版第1刷発行
※底本では、作品冒頭の記載は「少年密偵 計略二重戦」となっていますが、目次の記載は「計略二重戦」のみであること、「少年密偵」が、やや小さめの文字で記載されていること、作品名として一般的であると思われることなどから、「計略二重戦」を作品名とし、「少年密偵」を副題としました。
入力:阿部良子
校正:大野 晋
2004年11月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

甲賀三郎

黄鳥の嘆き ――二川家殺人事件 —–甲賀三郎

          一

 秘密の上にも秘密にやった事だったが、新聞記者にかゝっちゃ敵《かな》わない、すぐ嗅ぎつけられて終《しま》った。
 子爵《ししゃく》二川重明《ふたがわしげあき》が、乗鞍岳《のりくらたけ》の飛騨側の頂上近い数百町歩の土地を買占めただけなら兎《と》に角《かく》、そこの大雪渓《だいせっけい》を人夫数十人を使って掘り始めたというのだからニュース・ヴァリュ百パーセントである。
 二川家は子爵の肩書が示している通り、大名としては六七万石の小さい方だったが、旧幕時代には裕福《ゆうふく》だった上に、明治になってからも貨殖《かしょく》の途《みち》が巧みだったと見えて、今では華族中でも屈指の富豪だった。然《しか》し、当主の重明は未《いま》だやっと二十八歳の青年で、事業などにはてんで興味がなく、帝大の文科を出てからは、殆《ほとん》ど家の中にばかり閉じ籠っているような、どっちかというと偏屈者だったが、それが何と思ったか、三千メートル近い高山の雪渓の発掘を始めたのだから、新聞が面白|可笑《おか》しく書き立てたのは無理のないことである。
 二川重明の唯一の友人といっていゝ野村儀作は重明と同年に帝大の法科を出て、父の業を継いで弁護士になり、今は或る先輩の事務所で見習い中だが、この頃学校時代の悪友達に会うと、直《す》ぐ二川重明の事でひやかされるのには閉口した。
 野村の悪友達は、二川の事を野村にいう場合には、極って、「お前《めえ》の華族の友達」といった。この言葉は、親しい友達の間で行われる、相手を嫌がらせて喜ぶ皮肉たっぷりのユーモアでもあるが、同時に、彼等が「華族」というものに対する或る解釈――恐らくは羨望と軽侮との交錯――を表明しているのでもあることを、野村はよく知っていた。
 それで、野村は悪友達から二川の事をいわれるのを余《あま》り好《この》まなかった。野村は別に二川を友達に持っていることを、誇《ほこ》りとも、恥とも思っていないし、二川を格別尊敬も軽蔑もしていないのだが、それを変に歪めて考えられることは、少し不愉快だった。
 それに、野村と二川とは性格が正反対といっていゝほどで野村は極《ご》く陽気な性質《たち》だったし、二川は煮え切らない引込思案の男だった。この二人が親しくしていたのは、性格の相違とか、地位の相違とかを超越した歴史によったものだった。
 というのは、二川重明の亡父|重行《しげゆき》は、やはりもう故人になった野村儀作の父|儀造《ぎぞう》と、幼《ちいさ》い時からの学校友達であり、後年儀造は二川家の顧問弁護士でもあった。そんな関係で、野村と二川は極《ご》く幼い時から親しくし、小学校は学習院で、同級だったし、中学では別れたが、後に帝大で科は違うが、又顔を合せたりして、学校の違う間も互に往来《ゆきゝ》はしていたのでいわば親譲りの友人だった。卒業後は野村もあまり暇がないので、そう繁々《しげ/\》と二川を訪問することは出来なかったが、二川には野村が唯一人といっていゝ友人だったので、既に父も母も失っている彼は淋しがって、電話や手紙でよく来訪を求めた。野村も二川の友人の少いのを知っているので、三度に一度は彼の要求に応じて、訪ねて行く事にしていた。
 大体そういった交友関係だったが、二川が突然変った事を始めたので、野村は悪友達の半ば嘲笑的な質問攻めに会わなければならなくなったのだった。
「オイ、お前《めえ》の華族の友達あ、日本アルプスの地ならしを始めたていじゃねえか」
「一体《いってえ》、雪を掘って、何にする気だい」
「お前《めえ》の華族の友達あ、気が違ったんじゃねえか」
 こういった質問が代表的のものだった。
 この三つの代表的質問のうち、第一は、意味のない単なるひやかしに過ぎないので、野村はたゞ苦笑を以って、報いるだけだった。
 第二の質問には、やゝ意義があった。それはひやかしのうちに、幾分の好奇心を交えて、雪渓発掘の目的を訊いているのだった。
 雪渓発掘の目的については、当の二川ははっきりした事をいわないので、憶測を交えた噂がいろ/\と伝えられた。或者《あるもの》は、鉱脈を掘り当てる為だといい、或者は温泉を掘る為だといい、或者は登山鉄道でも敷くつもりではないかといった。然し、野村はそんな浮説《ふせつ》を全然信用しなかった。というのは、二川重明は鉄道とか温泉とか鉱山とかいう企業などには、少しも興味を持たない人間なのだ。又、登山などには、全然趣味がなく、恐らく五百メートル以上の山に登った事さえないだろうと思われるのだ。然し、野村にも、そんな男が何故急に日本アルプスの雪渓を掘り始めたかという理由は全然分らなかった。
 だから、第二の質問には、単に分らないと答えるだけだった。
 第三の質問は一番不愉快だった。この質問を受けると、野村はハッとせざるを得なかった。
 何故なら、野村も実は二川が発狂したのではないかと、私《ひそ》かに危懼《きぐ》の念を抱いていたからだった。
 二川は以前から痩せた方で、変に懐疑的なオド/\した人物ではあったが、色白の細面にはどこか貴族的な品位があり疑り深そうな大きな眼のうちには、同時に考え深そうな哲学者の閃めきがあり、時に物怯《ものお》じのする態度のうちにもどことなく悠揚迫らざるものがあったが、この二三年来、それらのものが全く一変して終《しま》った。
 猛烈な不眠症に陥ったのが原因らしいが、頬はゲッソリとこけて、頭ばかりが大きくなり、眼は落着なくギョロ/\と動いて、一種異様な光を発し、絶えず何者かに怯やかされているようにビク/\しているのだ。
 これらの症状は明かにひどい神経衰弱で、その行為にも言葉にも、別に甚《はなはだ》しい矛盾は現われなかったので、野村は幾分安心していたのだったが、乗鞍岳の雪渓を買占めて、発掘し出したという事になると、どうも発狂したのではないかと思わざるを得ないのだ。
 真夏になっても消え残っている広さ数十町歩、深さ幾丈だか分らないような大雪渓を掘るという事は想像以上の難事業で、到底人間業では出来ることではないのだ。我国には正しい意味での万年雪というのはないそうであるが恐らくその辺の雪は数世紀間溶ける事を知らないでいるのだろう。千古《せんこ》の雪の下の神秘を探るという事は、人間に許されない事ではなかろうか。又、二川は神秘の扉を開いて、そこに何を見出そうとするのだろうか。
 家人の反対も断乎として退け、唯一の友達の野村にさえその目的を洩らさないで、この無謀の挙を敢行する二川は、発狂したとしか野村には考えられないのだった。
 第三の質問には、野村はこう答えた。
「うん、気違いじみているよ。だが、何か目的があるんだろうよ」
 この後の半分の言葉は、質問者に答えているよりは、むしろ彼自身に安心の為にいって聞かせているのだった。

          

 七月の午後五時は未だカン/\日が照っていた。野村は休日の昼寝から眼が覚めて、籐椅子に長くなったまゝ夕刊を見た。そうして二川重明の自殺を知った。
 自殺の記事が眼に這入《はい》った瞬間に、野村はとうとうやったなと思った。次の瞬間には、頭ばかり大きくなって、眼をギョロ/\させている妖気に充ちた重明の顔が間近の中空に浮んで見えるような気がした。
 野村は実にいやあな気がした。それは友人の死を悼《いた》むとか悲しむとかいうはっきりした感情ではなくて、自分自身が真暗な墓穴の中に引込まれるような、一種の恐怖に似た不快さだった。
 野村は鉛のような重い灰色の空気に押し被《かぶ》された気持で、暫くは呼吸《いき》をするのさえ忘れたかのようだった。
 が、やがて深い溜息と共に、友を悼む気持が、急にこみ上げて来たのだった。
 二川は乗鞍岳の雪渓の発掘を始めてから、以前にも増して、容態が悪くなった。極度の不眠と食欲の減退で、痩せ方が更に甚《はなはだ》しく、その焦燥した態度は正視に堪えないほどだった。いよいよ発狂か、それでなければ自殺、二つのうち一つではないかと、野村は恐れていたのだ。
 それが、雪渓発掘に着手してから、十三日目に自殺になって現われたのだ。
 野村は唯一人の友人として、二川の自殺を阻止することの出来なかった事に、自責の念を感じた。彼が二川を愛することの足りなかった事が、犇々《ひし/\》と彼の心を責めた。
 と同時に彼はふと可成《かなり》重大な事に気がついた。それは彼が二川家から重明の自殺の報知を受けない事だった。
 野村はもう一度夕刊を見直した。


 ――乗鞍岳の大雪渓の発掘を始めて、問題を惹《ひ》き起していた二川子爵は、極度の神経衰 弱で苦しんでいたが、今朝十時寝室で冷くなって死んでいるのが発見された。死亡の原因は多量の催眠剤を呑んだ為らしく、それが自殺の目的で呑まれたのか、過失によるものか不明であるが、恐らく前者であろうと見られている。尚《なお》子爵家では自殺説を否認し、喪を隠している。

 流石《さすが》に華族たる身分に遠慮してか、余り煽情的な書方をせず、極《ご》く簡単にすませてあるが、死んでいるのを発見された時間は、午前十時と明記してある。今までに野村の所へ通知が来ないのは可笑《おか》しいのだ。
 尤も、子爵家では喪を隠しているというから、発表をさし控えているのだろうが、それにしても、生前の唯一の友人である野村に知らして来ないのは変だ。過失死でなく、自殺とすれば、恐らく野村に宛《あ》てた遺書がありそうなものである。
 野村は重明の叔父の二川重武がでっぷりした身体で、家の者を指図している姿を思い浮べた。両親もなく、妻を娶《めと》らずむろん子供のない重明には、叔父の重武が唯一人の肉親だった。重武は重明の祖父重和の妾腹の子で、父の重行には異母弟に当っていた。重行とは年が十ばかり違って、従って重明とは鳥渡《ちょっと》しか違わなかった。今年五十二三歳であるが、重明とは似《にて》もつかない、でっぷり肥った赤ら顔の、前額《まえびたい》が少し禿げ上って、見るから好色そうな男だった。
 重明はこの叔父をひどく嫌っていた。野村もむろん重武は好かなかった。若い時にひどく放蕩をしたというだけあって華族の出に似合わず、世馴れていて、中々愛想がよく、人を外《そ》らさないが、野村にはそれがひどく狡猾に見えて不愉快だった。
 重武には二川家で度々会っているし、野村と重明との関係を知らない筈はないのだが、野村は重明の死んだ事を知らして来ないのは、この叔父の指金のような気がするのだった。野村の方で好感情を持っていなかったので、重武の方でも、表面は兎に角、腹では余り野村を喜んでいないらしいのだ。そんな事で態《わざ》と通知しないに違いない。
(二川家も、今後はあの叔父に自由にされるのかな)
 と思うと、野村は一層淋しい気持になった。重明にもっと力になってやらなかった事が、益々後悔されるのだった。
 通知は貰わなくても、夕刊の記事を見た上は黙っている訳には行かなかった。叔父がもし自分を邪魔にしているのなら押しかけて行くのは気が進まなかったが、といって知らん顔はしていられないので、野村は支度を始めた。
 そこへ恰度《ちょうど》外出中だった母が帰って来たので、夕刊を見せると、母は、
「まア」といって吃驚《びっくり》しながら、「でも、知らせて来ないのは変ね」
 といって、首を傾けた。

 家を出て円タクを呼留めて、車中の人になると、野村の頭には、之という理由《わけ》もなく、幼《ちいさ》い時の事が思い浮んで来た。
 最初に二川の丸いクル/\とした色白の幼《おさ》な顔が浮び上って来た。それは母の朝子《あさこ》には似ないが、父の重行にそっくりだといわれていた。
 それは後から聞いた話によって、記憶を強化したのだろうが、父子爵が眼の中に入れても痛くないという風に、じっと眼尻を下げて、重明がヨチ/\歩くのを見入っている姿が、朧《おぼ》ろに野村の脳底に映じた。
 次は重行の葬式の当日の思出だった。
 重行の死は実に急だった。確か重明が五つの年で、重行は三十九だった。彼はどっちかというと肥った方で、その点は弟の重武に似ていたが、年に似合ず先天的に心臓が悪かったらしく、心臓の故障で急死したのだった。
 お葬式の日、重明の母が真白な着物を着て、その着物より白いかと思われるような蒼ざめた顔をして、必死に悲しみを耐《こら》えながら――この事は後に察したのだが――端然と坐っていた凄愴《せいそう》な姿が浮び上って来た。母の朝子は大へん綺麗《きれい》な優しい人だった。然し、病身でいつも蒼い顔をしていた。が、葬式の日は、一層蒼く美しかった。野村は子供心に大へん凄く思った。それから暫く彼は朝子未亡人の傍に行くのが恐かったほどだった。
 追憶の場面は一転して、葬式の前日か前々日あたりの、二川家の取り混みの最中の出来事に移った。
 重明も野村も未《いま》だ死という事がよく呑み込めなかったので家の中の騒ぎも他所《よそ》に、二人は庭で遊んでいた。そうしたら乳母にひどく叱られた。
 乳母というのは、姓は何といったか覚えていないが、二川はお清さんと呼んでいた。朝子が病身で二川を育てる事が出来なかったので、二川が生れ落ちるときから来ている乳母だが恰度朝子と同い年位で、器量も負けない位美しく、大へん優しいいゝ乳母だった。野村もよく可愛がられた事を覚えている。
 この乳母がその時は実に恐かった。
「坊ちゃん、そんな所で遊んでいてはいけません。早く家の中へお這入《はい》りなさい」
 と激しく叱責《しっせき》されたが、その時に乳母が眼を真赤に脹《は》らして、オイ/\泣声を上げたので、野村は之は大へんな事が起ったのだなと思った。
 その乳母は重明が十か十一の年にお暇を貰って行った。その時に彼女は野村に、
「うちの坊ちゃんと、いつまでも仲好くして下さいね。大《おおき》くなったら互いに力になって頂戴。うちの坊ちゃんはお友達が少いのですから、本当にいつまでも変らないでね」
 と、しんみりとしていった。子供心にも、野村は何だか変な気持になった。
(あの乳母はどうしているだろう。本当に優しいいゝ人だった)
 と、追憶すると共に、今までそれを思い出すこともなく、大して二川の力になれなかった事を、もう一度大へん済まないように思った。

 二川家は大へん混雑していた。新聞記者らしい者が二三人詰めかけていた。流石《さすが》に家柄だけに、縁辺の人や旧藩の人達が多勢来ていた。
 野村はむろん直ぐ通された。
 彼が想像した通り、叔父の重武が万事采配を振っていた。
 野村が通知されなかった事についていうと、重武は例の人を外らさない調子で、
「通知はどちらへもしませんでした。今見えている方は、みんな夕刊を見てお出《いで》になったのです。実は新聞の方も極力運動したんですが、どうも防ぎきれませんでした――」
 そこで野村は委《くわ》しい話を聞く事が出来た。
 今朝十時頃、いつもより眼覚めるのが遅いので、小間使の千鶴《ちず》が寝室を覗いて見ると、重明は半身を床《とこ》の外に乗り出して、両手を大の字なりに延ばしていた。どうも様子が変なので、
「御前さま、御前さま」
 と二三回呼んで見たが、一向返辞がない。
 それで、恐々《こわ/″\》側に寄って見ると、彼女は退《の》け反《ぞ》るように驚いた。重明は死んでいたのだった。
 それから大騒ぎになった。
 早速《さっそく》、かゝりつけの太田医学博士が駆けつけて来たが、死後既に十二時間位経過して、昨夜の十時前後にもう縡切《ことき》れているので、いかんとも仕方がなかった。十時前後といえば、恰度重明が寝に這入《はい》った頃で、彼は寝室に這入ると、直ぐ催眠剤を取る習慣になっているので、昨夜も確かにその通りにした形跡があった。
 催眠剤は太田博士が調製するので、博士は用心して、二日分|宛《ずつ》しか渡さなかった。重明は二年以上不眠症に悩んで、催眠剤を呑み続けていたので、今は次第に激しい薬剤を多量に取るようになって、普通の人なら、一回分でも危険な位の程度になっていた。然し、重明ならば二回分一時に呑んでも、生命に危険を及ぼす事はない筈だった。もし数回分を一時に呑めば危険だが、重明は太田医師から貰う催眠剤を溜めている様子は少しもなかった。一日置きに小間使の千鶴が太田医院に行って、貰って来る二日分を、きちんと二回に呑んでいたのだった。
 だから、重明の死因は太田医師の与えた催眠剤でない事は明白だった。然し、催眠薬は確かに呑んだ形跡があるから、恐らく、それと同時に取った他の毒薬の為に死んだものに違いないのだった。(無論自然死ではないのだ)二川家では過失で多量の催眠剤を呑んだ為かも知れないと、新聞記者に話したが、それは一つの体裁《ていさい》であって、過失という事は全然あり得ないのだった。覚悟の自殺という他はないのである。
「どういう毒物を呑んだのか、分りませんので、太田さんは解剖して見たらといっておられますがね、どうかと思っています」
 と、重武はつけ加えた。(之は後に警察側からの要求で、解剖される事になった)
「遺書はなかったのでしょうか」
 野村が訊くと、重武は眉をひそめて、
「えゝ、遺書らしいものは少しも見当らないんですよ」
「それは変ですね」
「全く。頭がどうかしていたんじゃないかと思われるんですが」
 野村はふと思いついて、
「そういえば、例の雪渓の発掘ですね。あれはどういう目的だったか、あなたはご存じありませんか」
「分りません。私はやっぱり頭が変になった所為《せい》じゃないかと思っているんですが――」
「でも、何か目的があったんでしょうね」
「本人にはあったのでしょうね。然し、どうも正気の考えじゃありませんな」
「雪の中に何か埋《うずも》れてゞもいるような事を考えたのでしょうか」
 重武はチラリと探るように野村の顔を見て、
「さあ」
「何か妄想を抱いたのでしょうね」
「えゝ、それに違いありません」
「乗鞍岳なんて、どこから考えついたのでしょう。むろん二川君は行った事はないと思いますが」
「地図を拡げて思いついたのでしょうよ。あれ[#「あれ」に傍点]は山と名のついた所へ行った事はありませんよ」
「そういえば」野村は又ふと思いついて、「あなたは若い頃旅行家だったそうですね」
「えゝ、旅行家というほどじゃありません。放浪ですな」
「中々登山をなすったそうじゃありませんか。アルプス方面では開拓者《パイオニア》だという事ですが」
「飛んでもない。物好きで、未《ま》だ他人《ひと》のあまり行かない時分に、登った事はありますが、パイオニアだなんて、そんな大したものではありません――鳥渡《ちょっと》失礼します」
 恰度他の弔問客が来たので、重武はそこで話を切上げて、その方に行った。
 野村は屍体の安置してある部屋に行って、線香を上げたり蝋燭をつけたりして、お通夜を勤めることにした。

          三

 野村は翌朝家に帰ると、ひどく疲れていたので、何を考える暇もなく、グッスリ寝込んで終《しま》った。
 正午《ひる》少し以前《まえ》に眼を覚して、食事をすませて、もう一度二川家へ行こうか、それとも鳥渡《ちょっと》事務所の方へ顔出ししようか、いっそ今日は休んで終《しま》おうかと迷っている所へ、母が這入って来た。
 母はいつにない厳粛な顔をしていた。
「鳥渡《ちょっと》話したい事がありますがね」
 野村は母の様子が余り真剣なので、思わず坐り直した。
「何ですか、お母さん」
「亡くなったお父さんのおいゝつけなんですが、もし二川家に何か変った事が起るか、それとも重明さんが亡くなった時に、儀作に之を渡すようにといって、書遺して置かれたものですが――」
 といって、母は手に持っていた大きな厚ぼったい書類袋を差出した。
 それには父の儀造の筆跡で、

二川家に関する書類

 と書いてあって別に朱で「厳秘」と書き添えてあった。
 野村は驚いてそれを受取った。
 母は多少その内容について知っているらしく、
「悠《ゆっく》りお読みなさい。今日は事務所へ出なくてもいゝでしょう」
「えゝ」
 野村の行っている法律事務所は、父が面倒を見たいわばお弟子の経営で、彼は無給で見習いをしているのだから、可成《かなり》勝手が出来るのだった。
「今日は休みますよ」
「そうなさい」
 といって、母は部屋を出て行った。
 野村は変に昂奮を覚えながら、書類袋を開《あ》けた。
 中には父の日記の断片と思われるものや、二川重行から来た書状や、告訴状の写し見たいなものや、報告書見たいなものが這入っていた。
 野村は一通り眼を通した後に、大略年代順に並べて見た。
 一番最初のものは、今から凡《およ》そ三十年以前のもので、重明や儀作の生れる二年ほど前の父の手記だった。

 今日、二川重行が事務所に訪ねて来た。鳥渡待たしたといって、ひどく機嫌が悪かった。華族で金持で我まゝ育ちだから、実に始末が悪い。先代の重和という人も、気短かな喧《やか》ましい人だった。どうも二川家の遺伝らしい。
 用件はというと、例の如く相続者の問題だ。
 僕も鳥渡癪に障ったから、
「一体君はいくつか」
 と訊いてやった。
「君と同じ年だ」
「じゃ、やっと、三十二じゃないか、奥さんは確か二十七だろう。未だ子供を諦める年じゃない。相続人、相続人といって騒ぐのは早い」
 すると、二川は妙に萎《しお》れていうのだった。
「いや、朝子は身体が弱いから、到底子供は望めない。それに僕は心臓に故障があるから、いつ死ぬか分らんし――」
「心細いことをいうな、大丈夫だよ」
「駄目だ」
「大丈夫だ」
 すると、二川は急に威丈高になって、
「君は何だ。僕の顧問弁護士じゃないか、相続の問題については、真面目に僕のいう事を聞く義務がある。君がそんな態度を執るなら、今日限り顧問弁護士を断って、他へ相談に行く」
 そういわれては仕方がないので、
「よし、じゃ聞こう」
「僕が死ぬと、誰が二川家を相続するのだ」
「いつもいう通り、奥さんに相続権があるが、それでは二川家は絶えて終う。重武君が相続する順になるだろう」
「それが僕は堪えられないんだ。あの放蕩無頼の重武に、二川家を相続させる事は、いかなる理由があっても嫌だ。卑《いや》しい女を母親に持って、居所も定めず放浪している人間なんかに、二川家を継がしてなるものか。そんな事をしたら、奴は朝子をどんな眼に会せるか分らない」
「その事は度々聞いた。或る程度まで僕は同感だ。それなら養子をするより仕方がない。尤も君が死んだ後に、奥さんが養子することも出来るが」
「僕は血の続きのない他人に、二川家を譲りたくない」
「そんな事をいっても無理だ。華族は法律上の親族か、或いは同族以外からは養子を迎える事が出来ない」
「あゝ」
 二川は落胆したように溜息をついた。
 二川家は代々子供の少い家で、重行の父の重和は一人子だし、祖父の重正には弟が一人あるきりだった。御維新後この弟の後はどうなったかはっきりしないが、仮りにその孫があるとして、重行の再従兄弟《またいとこ》になって法律上の親族であるが、養子にするにはその子でなければ年が釣合わないが、そうなるともう親族でなくなって終うのだ。
 それで、養子をするとすれば、全然血の続きがなくなり、それを嫌えば、重武に譲るより途はないのだ。
「あゝ」と、二川は又深い溜息をついて、「顧問弁護士として、何かいゝ方法を考えて呉れ」
「それは無理というものだ。重武君以外の血続きなら、君の祖父さんの弟の孫を探し出して、後を譲るより仕方がない」
 二川は暫く考えていたが、
「同族以外から養子をするには、仮令《たとえ》血続きでも、法律上の親族でなければいけないのだね」
「その通りだ」
「じゃ、君こういう方法はどうだ」と、二川は急に眼を異様に光らして、「祖父さんの弟の孫の子を、朝子の子にして届けるのだ。そうすれば血統を絶やさないで済む」
「戸籍法違反だ」
「然し、それ以外に方法がない」
「僕は顧問弁護士として、犯罪になることに加担は出来ん」
「然し、僕は法律というものは人情を無視して成立するものではないと思う。僕が二川家の血統を絶やしたくないと思うのも、無頼の重武如きに家を譲りたくないのも、無理のない人情じゃないか」
「――」
「華族でなければ、今いった子供をいつでも養子に出来るのだ。たゞ、法律上の親族でない為に――」
「僕は同意出来んよ。君がそうしたいという事には同感もし、同情するが、その事は中々難事業だよ。第一、相手の夫婦の承諾を要するし、産婆とか看護婦とか、乃至《ないし》医師にも口留めをしなければならんし、それに奥さんが承知されるかどうか、それも疑問だ」
「朝子は僕のいう通りになるよ。僕はあれ[#「あれ」に傍点]を幸福にしてやりたいと思ってするんだから」
「そういう事が幸福になるかどうか分らんよ。大抵はむしろ不幸に終るものだ」
 こゝまでいった時に、僕は二川の顔色が次第に険悪になって、唇をブル/\と顫わせているのに気がついた。僕は了《しま》ったと思って、幾分|宥《なだ》めるつもりで、
「然し――」
 といいかけたが、時既に遅かった。
 二川の癇癪は猛然破烈したのだった。
「よしッ、君などはもう頼まぬ。今日限り絶交だッ」
 僕はこうなっては負けていなかった。
「犯罪に加担しないといって、絶交されるのなら、むしろ光栄だッ」
 二川は憤怒で口が利けなかった。(後で考えたのだが、よくこの時に心臓の故障が起らなかったと思う。あんなに怒らすのではなかった)
 彼は猛然として、外へ飛出して行った。
 彼が去った後、暫く気持が悪かった。
 本当に之で絶交になれば、大へん淋しい事だと思った。

 之で、この時の手記は終っていた。
 次は一年半ばかり経った時の日記で、恰度野村達の生れる前後のものである。之で見ると、野村の父は前の事件以後一年ばかりは、重行と絶交状態らしかった。
 今日久し振りで二川を訪ねた。
 変な羽目で喧嘩別れをしてから、一年ばかりは全く絶交状態だった。その間にも、時々懐しくなったり、済まないような気になったりした。こっちから頭を下げて行くのは業腹《ごうはら》だから、じっと辛抱していた。後で聞いて見ると、向うでもやっぱり同じような気持だったらしい。
 その後半年ばかりの間に、集会の席で二三度会った。別に睨み合っていたという訳ではないが、それでも打解けなかった。
 今日はとうとう耐らなくなって、彼の家を訪ねたのである。
 最初は何となく気拙《きまず》かったが、暫く話しをしているうちに、やはり古い馴染というものは有難いものだ。いつの間にか障壁がとれて、もう昔の通り、君僕の会話になっていた。
 二川は顔色が少し悪く、健康状態はよくないらしかったが、予想以上に元気だった。朝子さんの姿が見えないので、
「奥さんは?」と訊くと、
「京都の里へ養生に行っているよ」
 朝子さんの里は京都の或る公家《くげ》なのだ。
「どう悪いんだい」
「なに、大した事じゃないんだ」
 と、二川、僕の視線を眩《まぶ》しそうに避けて、話したくない様子なのだ。仲直りをして早々《そう/\》、又気持を悪くさせてもいけないと思って、僕は直ぐ話題を変えた。
「弟はどうしている?」
「重武か」と、二川は吐き出すようにいって、「奴は相変らずだ。住所も定めずにうろつき廻っているが、感心に金だけはキチンと要求して来るよ」
「山登りを始めたというじゃないか」
「ウン、二三年来、日本アルプスとかいって、信州や飛騨の山を歩いているらしい。東京にいて女狂いや詐欺みたいな事をされるより勝《ま》しだと思っているんだ」
「そうとも、重武君もそうやって、登山なんか始めた所を見ると、性根が直ったのじゃないかね」
「駄目だよ。あの腐った性根は死ぬまで直りっこないよ。遇《たま》に神妙にしていると思えば、きっと何か企んでいるんだからね。僕はあれ[#「あれ」に傍点]が谷にでも落ちて死んで終《しま》えばいゝと思っているよ」
 重武の話で、彼は又そろ/\不機嫌になって来たので、再び話題を転じて、毒にも薬にもならない世間話をしていゝ加減の所で切上げて来た。
 帰りがけに彼は機嫌よく、
「又、ちょい/\来て呉れ給え。それから顧問弁護士の方も頼むよ」
 といった。
 顧問弁護士の方は兎も角、仲直りが出来て大へんよかったと思った

 次はそれから二三ヶ月経った頃の日記だった。
 今日二川の事をよく知っている男から、二川の細君は妊娠して、その養生の為京都の里に行っているという事を聞いた。
 僕は鳥渡意外に思った。といって、細君が妊娠した事を意外に思ったのではない。結婚後十数年経って、初めて子供の出来た例は乏しくないのだから、少しも不思議はない所《どころ》か、大変|目出度《めでた》いと思うのだが、何故二川がその事を僕に隠したのか、鳥渡解せないのだ。先年あんな事で喧嘩別れになったので、いい悪《にく》かったのか、それともその時になって発表して驚かそうというのか、どっちかだろう。道理で中々元気があると思った。
 此間会った時に、その事をいって呉れゝば、恰度僕の所も家内が妊娠中で、僕の所は初産ではないけれども、上は亡くなしているから、まア初めて見たいなもので、共に祝い合う事が出来たのに、一体どっちが先に生れるのだろう。

 年を繰って見ると、野村が生れた年は父は三十三歳だった。日記にも書いてある通り、上の子が夭折《ようせつ》したので、生れて来る子供に対して、父が大へん喜んでいる有様がよく分るので野村は思わず微笑んだ。
 次の手記はいよ/\二川重明が生れた時の事で、之で見ると、重行が子供を得た喜びが、野村の父のそれより遙かに勝っていた事が分るのだった。重明の生れたのが、野村より一月ばかり早かった事は、既に野村のよく知っている事だった。


 二川の子供が生れた。僕の方は一月ほど後らしい。
 子供が生れたという報を受取って、京都へ飛んで行き、やがて帰って来た時の、彼の歓喜雀躍ぶりは到底筆紙に尽せる所ではなかった。
 僕が喜びに行くと、彼は僕に抱きつかんばかりにして、
「君、君、男の子だよ。ぼ、僕にそっくりなんで。そりァとてもよく似ているぜ。君は信じないだろうけれども」
「え、僕が信じないって、そりァ、どういう意味だ」
 僕は彼が変な事をいうので、急いで訊き返したが、彼はもう夢中で、
「いやさ、君が信じようが信じまいが、僕の子供は僕にそっくりなんだぜ、丸々と肥った色の白い、とてもいゝ子なんだ」
「二川家も之で万々歳だね」
「そうだとも。もう大丈夫だ。重武なんかに指一本指させる事はない。朝子もどんなに仕合せだか分りやしない」
「奥さんも喜んだろうね」
「僕が躍り上って喜ぶのを見て、泣いていたよ」
「所でだがね」
 僕は重武の名が出たので、ふと思いついて、
「もう君も後継が出来たから安心だし、重武君もこの頃は大分身持も直ったようだし、目出度い事のあったのを幸いに、勘当を許して、東京に住むようにして上げたらどうだ」
 僕は多分二川は嫌な顔をするだろうと思ったが、案外しんみりとして、
「うん、朝子もそういうのだ。僕アもう五年ばかり会わんからなア」
 重武は重行の父重和が芸者を妾にして生ませた子で、それだから、重行がひどく嫌うのだが、元からそう悪い人間ではなかった。重武は十一の年に認知されて、二川家に引取られたが、父の重和は間もなく死ぬし、引取られた時には重行はもう二十一で、始めから反感を持っていたし、重武の方にも僻《ひが》みがあったし、それに何といっても行儀などは出来ていないので、召使までが蔭口をいうような有様で、重武を不良にしたのは、重行始め周囲のものの責任ともいえるのだ。
 重武は十八の年にはもう女と酒を知って、身を持崩し、二川家を飛出して、それから兄の名を騙《かた》って、方々で金を借り倒し、危く刑法に触れる事まで仕出かして、二十の年に放浪の旅に出て、爾来三年間、時々兄に無心を吹きかけては、旅を続けているのだった。
 重行はいい続けた。
「もうあれ[#「あれ」に傍点]に勝手な事をされる心配もないし、許してやってもいゝとは思っているんだが、まア考えて置こう」
 僕はそれ以上追及せずに帰って来た

 次の日記はそれから二三ヶ月経ったもので、野村は既に生れていたのである。


 どうも二川の溺愛ぶりには恐れ入った。僕もむろん生れた子を可愛いとは思うが、二川の真似は出来ない。彼は恰《まる》で外の事を忘れている。明けても暮れても、赤ン坊の顔ばかり眺めているのだ。あの若さで、子爵の御前が、不器用な手つきで赤ン坊を抱いて、あやしている姿は天下の珍景だ。
 然し、僕は二川が新たに生れた子供に対する態度を通じて、彼がどんなに妻を熱愛しているかを知る事が出来る。全く彼が子供を得た喜びの半分は、彼の亡き後に妻が頼って行くものが出来たという事にあるのだ。彼は飽くまで自分を短命なものと信じている。
 朝子さんの献身的態度にも敬服する他はない。流石《さすが》は公家の出である。病弱の身体で、あの気紛れな――今は大へんよくなったが――癇癪持ちの夫に仕えて、些《いさゝか》の不満も現わさず、唯々諾々として忠実を守っている姿は涙ぐましいものがある。兎に角、立派な夫婦だ、それに子供は出来たし、もう重武などを少しも恐れる所はないだろう。そういえば、重武は近々上京するという手紙を寄越したそうだが、仮令《たとえ》彼が東京で住む事になっても、二川家には大した波瀾は起らないだろうと思う。

 それから暫くは、二川家は泰平だったらしい。重明が歩き出すようになり、片言を喋るようになる時分に、野村はその遊び相手として、度々二川家に行った訳である。その時の事はむろん野村の記憶にはないが、時々はひどく掴み合ったそうで、成人してからは逆になったが、当時は二川の方が肥っていて力が強く、野村の方が分《ぶ》が悪かったらしい。掴み合いが始まると、むろん乳母はあわてゝ仲裁したに違いない。
 重武が上京したかどうかについては記録はないが、重行の葬式当日重武がいた記憶が野村にはないから、上京しなかったか、上京しても直ぐ又旅に出たものと思われるのだ。
 かくして、四五年の平和が続いた後に重行の急死となったのだった。
 野村はホッと一息した。そうして、次の書類を取上げたがそれは重行が野村に送った遺書だった。

          四

 二川重行の遺書は彼の死後、直ぐに野村の父に送られたものらしく、読んで行くうちに、それが思いがけなく重大な告白だったので、野村は次第に昂奮を覚えて来た。


 親愛なる野村儀造君
 君も知られる通り、僕は心臓に故障があるから、いつ死ぬか分らぬ。実は死ぬまでにこの告白を君にだけして置くべきであるが、僕にはそれが出来なかった。本当の事をいえば、僕は死んだ後も、君にこの事を知られたくはないのだ。然し、どうかすると重武が薄々感づいたかも知れぬ。仮令《たとえ》今は感づかなくても、あゝいう奴だから、いつ感づくか知れない。それも僕が生きていれば、大して恐れはしないが、死んだ後になって、どんな難題を朝子に吹きかけるか知れぬ。その時に朝子の力になって呉れるのは君一人だ。だから君にはどうしても隠すことは出来ない。この遺書は或る人に託して、僕が死ねば直ぐ君の手許に届くようにして置く。生きているうちに告白の出来なかった僕の卑怯を許して呉れ給え。
 野村君、実は重明は朝子の子ではないのだ。むろん僕の子でもない。全く他人の子なんだ。
 他人の子といっても、血は続いている。いつか君と口論をしたのを覚えているだろう。あの時に話に出た僕の祖父の弟の曾孫《そうそん》なんだ。
 祖父の弟は分家して二川姓を名乗り二男二女があった。僕は出来得る限り男系を辿って行ったのだが、長男は二川家を継いだが、その子供は女ばかしで、僕などと違って、二川家に執着はなかったと見えて、みんな他家に縁づけて終《しま》った。従って、二川家は絶えたわけである。
 二男の方は京都でも有数の旧家で、当時大きな呉服店だった高本という家に養子に行った。そこで彼は一男三女を挙げた。どうも二川の血統には男が少いのは奇妙である。その男が高本安蔵《たかもとやすぞう》といって、当時は未だ生きていた。この男は僕の再従兄弟《またいとこ》に当って、法律上の親族ではあるが、戸主であるし、僕より年長で、養子にすることは出来ない。又しようとも思わない。
 高本家は祖父の弟が養子に行った当時は、頗《すこぶ》る盛大だったが、その後間もなく家産が傾き始め、長男の代にはもういけなくなった。然し、未だ旧家の余勢で、その子の安蔵の所へは、公家の某家から片づいている。然し、家の方は僕が発見した時にはもう身代限りをして跡かたもなく、陋巷《ろうこう》に窮迫しているという有様だった。而《しか》も、安蔵は病の床に伏し、妻の清子は身重だった。
 二人はだから、僕の願いを直ぐ聞入れて呉れた。
 他には別に面倒はなかった。
 先ず朝子を妊娠と称して、京都にやり、高本の子供の生れるのを待っていた。
 幸か不幸か、安蔵は間もなく死んだので、この事を知っているのは、僕達夫妻と、お清と、たった一人の産婆だけである。産婆も然し、僕達の届出については全然関知しない。それに、今や、君を加えた訳である。
 お清は既にお察しの事と思うが、重明についていた乳母である。重明は生みの親に育てられたともいえるのだ。血続きとはいいながら、重明は僕にそっくりだった。その事が僕をどんなに喜ばしたか、君はよく知って呉れている筈だ。
 お清は余り長くつけて置いては悪いと思って、適当な時機に暇を与え、一生を楽に暮せるようにしてやろうと思っている。もしそれまでに僕が死ねば、朝子がそうするだろう。
 この遺書の事は朝子に全然いっていない。だから、大へん勝手な願いであるけれども、何か事が起って、君の力を借りなければならなくなるまで、君はこの事は知らないふりをしていて呉れ給え。むろん、そういう事をする君ではないと思うが、僕は重明の夢を破りたくない。彼は朝子を母と信じているのだ。朝子も本当に我子のように思っている。
 出来るならば、この秘密は永久に葬って終《しま》いたいと思う。今までの関係者以外に洩れないで、関係者達もそのまゝ墓場へ持って行けるように、僕は心の底から祈っているのだ。
 万々一、何か起った時に、頼みにするのは君一人だ。その時こそ、どうか朝子の力になって、世間に洩れないように処理して呉れ給え。
 生前は我まゝばかりいって済まなかった。死後も尚君の友情に頼らなくてはならない僕を哀れに思って、許して呉れ給え。
二川重行拝

 二川重行の告白書を読み終った時に、野村は恰度重明の自殺の報を見た時と同じような、いい現わすことの出来ない焦燥を感じた。
 初め母親から父の遺書を渡された時に、それが何か二川家の秘密に関するものであることは直ぐ察せられたし、年代順に読んで行って、それが重明に関するものであることも大体は推察された。然し、重明が父の重行によく似ていた点や、重行が溺愛していた点から、重行の子である事は疑わなかったのだったが、何ぞ図らん、彼は全然他人の子であった。而《しか》も、乳母として、お清さんと呼び、確か重明が十か十一の年までまめ/\しく仕えていた所の女が、彼の実母であったのだ!
 野村の脳裡には、蒼醒めた顔をして、言葉少なに、然し、重明を、十分愛していた母の朝子の姿と、健康そうな生々《いき/\》とした、然し、大へん優しくて、重明に対して忠実だったお清の姿とが、重なり合い、混り合った。
(重明はこの事を知っていたのだろうか)
 この事が十分の秘密を保たれていた事は疑うまでもない。重明はむろん関係者の口から秘密を語られた気遣いはないであろう。然し、重明は感じはしなかったろうか。
 幼少の時ならば知らず、相当の年齢に達した時には、母と仰《あお》いでいる人が、自分の生みの母親でない場合、その事は、何となく察せられるものではなかろうか。少くとも、重明はそんな疑いを持って、悶えていたのではなかろうか。
 然し、重明は真逆《まさか》父を疑ってはいなかったであろう。重行の子と信じていたに違いない。又、乳母のお清を真実の母だなんて、夢にも考えていなかったろう。むろん、彼は十か十一の時まで彼の側にいた乳母を忘れはしなかったろう。時々は思出したに違いない。そうして過去の甘酸ぱい思出に耽った事であろう。然し、恐らく一回だって、真実の母として考えた事はないだろう。
 野村は暫く先の方を読むのを忘れて、感慨に耽った。それはよく世間にある例だった。二川家の場合は、それが華族という約束に縛られて、表向き養子にすることが出来ず止むなくやった事であるが、世間では表向き養子に出来るにも係らず、子供が成長してから可哀想だという意味で、貰い子を自分達の真の子のように入籍して終うのだ。然し、それが果して真の子供を愛する所以であるかどうかは疑問だ。子供が教えられたり、悟ったりして、真実を知った場合は、今まで隠していたゞけ、反《かえ》って悪い影響が残るし、そうはっきりしない場合、子供が疑念を持ち、それに悩まされ続けるような事があったら、それは子供を終生苦しめるものではないか。然し、或場合には、子供は何の悟る事なしに、何の疑うことなしに、真の両親と信じて幸福であり得るかも知れぬ。世の多くの人達は、そういう幾パーセントかの幸福であり得る場合に望みをかけて、戸籍法違反を敢《あえ》てするのかも知れない。
 世間に、より多い例は、両親のうち片親が――大抵は父親であるが――真実の親であって、一方の親はそうでないにも係らず、その両親の真の子として届ける事である。この場合は、前の場合よりも、より複雑な関係があり、そうしなければならない事情は、より切実であるといえる。然し、そうしたからくり[#「からくり」に傍点]は子供の将来に悲劇を齎《もた》らさないとは断言出来ないであろう。

 ふと気がつくと、午後の日ざしは大分傾いて、割に涼しい風が吹いていたにも係らず、野村の身体は、恰《まる》で雨にうたれたかのように、汗でグッショリだった。然し、彼はそれを拭おうともせず、次の方に読み進んだ。

 二川子爵の告白書の次は、父の手記と、告訴状や抗告書などの写しとの錯綜だった。
 之で見ると、二川家では早くも悲劇が訪れたらしい。
 重行が死んで、五歳の重明が家督相続届を出した時に、突然、関西方面を放浪していた叔父の重武が上京して来た。そうして、彼は先ず未亡人朝子に難題を吹きかけたらしい。それが拒絶されると、彼は矢継早やに地方裁判所や区裁判所や戸籍役場に訴えを起したのだった。
 彼は重明の出生届を虚偽の届出であるとして、朝子に妊娠の能力なき事、妊娠分娩を証明すべきものなきこと、重明の真の父母は、高本安蔵とお清なること、等々を書並べて、区裁判所に、二川家の戸籍法違反の告発をなし、一方戸籍役場には、法律上許すべからざる記載として、戸籍簿の訂正を申請した。他方には又、地方裁判所に、重明の相続無効の訴訟を提起したのだった。
 野村の父は、重行の死後の依頼を余りにも早く果さなければならなかったのだった。


 重行の告白書を読み終った時に、余りの意外さに、暫くは唖然とした。彼は巧みに僕を欺いていたのだ。僕は鳥渡《ちょっと》立腹した。然し、直ぐに彼に同情した。善悪は兎に角、そうしなければならなかった彼の心情を憐む他はないのだ。
 然し、余りにも早く彼の恐れていたものが来たのには、之亦《これまた》驚くの他はなかった。

 当時の事を野村の父はこう書いていた。
 野村の父が何よりも苦心したのは、この事を絶対秘密裏に処理することだった。それがどんなにむずかしい事であったろうかは、察するに余りあることだ、そうして彼はそれに十分成功したらしい。今から二十四五年以前の事で、新聞紙も今ほど機敏ではなかったろうが、一方にはこんな事を喜んで書き立てる赤新聞もあったろうに、嗅ぎつけられもせず、よし嗅ぎつけられたとしても、それを紙上に出させなかったのは、確かに特筆すべき野村の父の功績といっていゝ、全くこの事は少しも世間に洩れないで済んだらしいのだ。
 一方には又、お清の文字通りの献身的な努力もあったらしい。彼女は重武と刺違って死のうとさえいい、又実行しかねない勢だった。この事を野村の父は「真に烈女というべし」といって感嘆している。今日の言葉でいえば所謂母性愛の発露であろうが、二川家の存亡に関することでもあり、朝子未亡人には重大な影響のあることでもあり、お清は猛然奮い起《た》ったものらしい。

 僕は何とかして重武の訴訟その他の抗告申請を取消させようと試みた。然し、彼は頑として応じない。彼にして見れば、この事にして成功せんか、一躍子爵の栄誉と巨万の富を得る事も不可能ではないのだから、強腰《つよごし》たらざるを得ないのだ。それに重行には圧迫された恨みも手伝っているし、生中《なまなか》な事でウンといわないのも無理もないのだ。
 僕の最も恐れたのは、事が長びくと外部に洩れる可能性が大きくなることだった。幸いに重武は単独で秘密を察したので、彼以外には未だ知るものはないのだ。
 僕はもう万策尽きた。到底取下げさせるという事は出来ないから、重武も別に動かすべからざる証拠を持っている訳ではなし、この上は最早法廷で争って、勝つより仕方がないとまで腹を決めた、その時に、この問題では誰よりも必死になっていたお清さんが、「|以[#レ]毒《どくをもって》|制[#レ]毒《どくをせいす》」の方法を考えついたのだった。つまり、重武はあゝいう生活をしていたのだから、きっと何か悪いことをしているに違いない。それを探り出して、首の根っ子を押えて、交換条件にして、取下げさせようというのだ。
 この方法は紳士的でない。僕の主義として、賛成出来ないのだが、背に腹は変えられぬ。殊に相手が非紳士的なのだから、止むを得ない所もあるのだ。そこで、僕はとうとう同意して、至急に重武の旧悪を探偵させる事にした。

 野村の父は遂いに窮余の策として、お清の提案たる「以[#レ]毒制[#レ]毒」の方法に同意したのだ。
 二川重武は多く関西方面にいたから、大阪の有名な私立探偵社の社長砂山二郎が、その為に選ばれることになった。
 所がこの謀計《はかりごと》は正に図に当ったらしいのだ。というのは、それから間もなく、重武はあっさりすぐこの訴訟抗告を取下げているのだ。検事の方でも、元々一家内の事だし、原告側にも確証はない、裁判にでもなると大へん面倒な事なので、原告が取下げたのを幸いに、不問にしたらしいのだ。
 書類の中に、砂山秘密探偵社の大きな封筒があって、「二川重武の調査報告」と書かれていたので、野村はやゝ胸をときめかしながら、それを開けたが、失望した事には中味は空だった。父の日記の方を見ると、
[#ここから2字下げ]
重武に関する調査報告書は本日重武に交付せり。
[#ここで字下げ終わり]
 と書いてあった。思うに重武は交換条件の一つとして、その調査書の原本も複製も残らず、彼の手に収める事にしたのだろう。そうしてそれは恐らく焼却して終ったのに違いない。探偵社の方へも、むろん少なからぬ金が、報酬の名義で送られたに相違ないのだ。
 重武の秘密というのは、いずれ詐欺とか横領とか、相当重い罪で、二川家の方で問題にすれば、きっと危なかったものに違いないと、野村は思った。
 然し、交換条件そのものは、可成重武に有利なものだったらしい。というのは、重武はその後東京に引移り、二川家から相当額の支給を受けて、大きな顔をしてブラリ/\と懐手《ふところで》で暮していたらしいのである。
 尤も、彼はお清は苦手らしかった。だから彼女が二川家にいる時分はやゝ遠退いていたが、彼女が去ると、次第に二川家に出入するようになって、今から約十年以前に未亡人朝子が死に、続《つゞい》て間もなく野村の父が死ぬと、もう恐ろしいものがないので、大びらに二川家に這入り込んで、我もの顔に振舞っていたのだった。未亡人の亡くなる前後から以来《このかた》の事は野村にも確乎《しっかり》した記憶があるのだ。

 書類を残らず読み終った時には、夏の日ももう暮れかゝっていた。
 野村は夕暗《ゆうやみ》の迫って来る、庭をじっと見つめながら、父がこの書類を殊更に遺して行った意味を考えた。
 母の言葉では、重明が死んだ時か、又は二川家に変った事が起った時に、開けて見よというのであるから、父は恐らく未だ重武に対して警戒をゆるめず、万一、何か野心を逞うして事件を起した時に、それを阻止するように野村に命じたものであろうか、重明が死んだ時にという方は、彼が死んで終《しま》えば、すべては解消するから、最早秘密はないというつもりなんだろう。重明が自殺を遂げたという事は、単に重明が死んだ場合のうちに入るのだろうか、それとも、二川家に変事の起ったうちに入るのだろうか――
 野村が思い惑っている時に、静かに襖が開いて、母が這入って来た。母の顔はひどく緊張していた。
「二川重明さんから、何か書いたものを送って来ましたよ」
「えッ、二川から」
 野村は吃驚《びっくり》した。母はうなずいて、
「えゝ、遺書らしいですよ。大へん部厚なもので、速達の書留で送って来ました」
 野村は半ば夢心地で受取った。
 野村の父儀造は、二川重明の父重行が急死すると、直ぐ彼の遺書を受取った。今又野村は重明が変死を遂げる途端に、彼から遺書を送られた。父子二代、こういう事が繰り返されるとは、何と奇《く》しき事ではないか。
 書留の書類には添え手紙があった。それは宮野得次という全く未知の弁護士から送られたもので、それにはかねて二川子爵から依頼を受けていたもので、絶対に秘密に保管して、子爵が死んだ時に、直ちに遅滞なく貴下宛に送るべく命ぜられていたもので、今やその命令通り実行するものである事が認《したゝ》められていた。母親は彼女の夫に先代子爵の遺書の送られた事をよく覚えているので、不安そうに、
「やっぱり遺書でしょう」
「えゝ、どうもそうらしいです」
 野村は封を切った。母親は暫く坐っていたが、
「ゆっくり読みなさい」
 野村はそれを見送って、電灯をパチンと捻《ひね》って、送られた遺書を読み始めた。(前篇終り)

          

 重明から送られた遺書は、一、二、三と三部に分《わか》たれて、それ/″\番号が附してあった。
 野村は順序に従って、先ず第一の番号のつけてあるものを取上げた。日付は書かれていなかったが、内容と前後の関係から推して、重明が雪渓の発掘を始める少し以前らしく、六月の終りか、七月の初めの頃と思われた。

 六月の雨は中世紀の僧院のように、暗くて静かだ。適《たま》に晴間を見せて、薄日が射すと、反《かえ》ってあたりは醜くなる。太陽の輝く都会は僕にとっては余りにど強《ぎつ》い。
 野村君、とこう親しく呼びかけても、或いはこの文章は君の眼に触れないかも知れない。実は僕はその方を望んでいるのだ。然し、兎に角、僕は梅雨に濡れた庭を眺めながら、之を書いている。
 野村君、考えて見ると、僕の人生は六月の雨のそれだった。暗くて静かだった。滅多に太陽を見ることが出来なかった。
 けれども、僕にとっては、却ってその方が気易かった。すべてが白日下に曝《さら》け出されることは、むしろ恐ろしいのだ。
 けれども、僕はいつまでも都合のいゝ世界で、安逸を貪っていることは許されなかった。僕はいつまでも卑怯である訳には行かなかったのだ。
 僕は物心のつく時分から、疑惑の世界に追込まれていた。僕は不幸だった。僕は悲しかった。然し、一面には僕は恵まれていた。考えさえしなければ、妥協さえしていれば、幸福だったのだ。実際にも、そうした状態で長い年月を送って来たのだった。
 然し、僕の身体に巣食っていた疑惑の病菌は、僕の意志の如何《いかん》に係らず、悠《ゆる》りと、然し確実に僕の全身に拡がりつゝあったのだ。そうして、それが一年ほど以前に、俄然爆発したのだった。恐ろしい病気が現われた時に病気が発生したのではなくて、発生そのものは遠い以前にあって、適々《たま/\》何かの誘因で、それが突然現われるものであることは、多くの人の知っていることだが、僕のは全くそれなのだ。而《しか》も、それは恐ろしい業病《ごうびょう》なのだ。
 僕の業病が何であるか、又何の為に君にこんな事を書き残そうとしたかを語る以前に、次の印刷物を読んで呉れ給え。之は或る社交倶楽部でなされた趣味講演の速記を印刷したもので、一般に販売されたものではない。僕は全く偶然に一年ほど以前に手に入れたものだが、あゝ、之こそ、僕の疑惑を固く包んだ結核を押し潰《つぶ》して、ドロ/\の血膿《ちうみ》を胸の中に氾濫させたものなのだ。
 野村君、必ず順序を狂わせないで、読んで呉れ給え。先ず次の切抜の印刷物を読み、それから第三と番号のうってある僕の遺書の続きを読んで呉れ給え。

 もし野村が突然この重明の遺書に接したのだったら、彼は恐らく重明がいよ/\発狂したのだと思ったであろう。然し、野村は幸いに父の遺書の方を先に読んでいたので、重明のいう疑惑という言葉に、大体の当りがついていたので、彼(重明)はやはり彼自身の秘密を多少察していたのだな、と今更ながら、彼(重明)の背負されていた重荷について、同情したのだった。
 野村は第二と番号をつけた印刷物を取り上げた。
 お歴々方の前でお話しするなんて、光栄の至りでございますが、馴れないことで、さっぱり上って終《しま》って、旨《うま》いことお喋りがでけ[#「でけ」に傍点]ない次第で、後でお叱りのないようにお願いいたします。只今御紹介下さいましたように、私は大体大阪のもんで、大阪の警察に永いこと勤めまして、辞《や》めてから、砂山探偵事務所に這入りまして、俗にいう私立探偵ちゅう奴で、名探偵などとは飛んでもない。全く見かけ倒しで、お話するような手柄話などはございまへ[#「へ」に傍点]ん。が、まア、取扱いました事件の中で、鳥渡《ちょっと》風変りな、奇妙な事件が一つありますンで、それを話させて頂きます。
 恰度私が砂山さんの所へ這入ったばかりの頃で、今からいうと、二十二三年以前の事でございます。関係者の中で現在生存している方もあるかも知れまへ[#「へ」に傍点]んので、全部仮名にさして頂きますが、三山《みやま》という華族さんの家に起った事件でございまして、闇から闇に葬られましたものの、当時之が発表されていましたら、相馬事件以上に問題になったこっちゃろうと思うとります。
 今申す二十二三年以前の秋だした。死んだ砂山さんが私を呼んで、「どうや、之一つやって見んか」ちゅう話です。「どいう事だンね」と訊きますと、「絶対秘密やが、三山子爵家が相続の事で揉めてるのや」ちゅうのです。私は吃驚《びっくり》しました。何しろ三山子爵ちゅうたら、華族仲間でも有名な金持だすからなア。砂山さんは「費用は何ぼでも出すし、成功したら一万円呉れる約束や」ちゅうて、ニヤ/\笑わはるのです。私はこいつア、余程むずかしい事やなと直感しました。
 段々話を訊いて見ると、先代の和行ちゅう人が、心臓病でポッコリと亡くなって、後に和秋《かずあき》ちゅう五つになる子供がある。之が当然相続人なんだすが、和行の腹|異《ちが》いの弟に和武ちゅう人があって、この人が訴えを起した。何ちゅうて訴えを起したかちゅうと、和秋は和行の本当の子やない、戸籍では本当の子になっとるが、実は貰子《もらいご》を実子のようにして、戸籍に入れたんや、それにはこれ/\の証拠があるちゅう訳なんだす。名門の事やから、検事局でも絶対秘密にするし、子爵家の方ではちゃんと新聞の方に、手を廻していますから、一行だって出やしまへん。世間では誰も知らんが、子爵家ではどうも弱ったらしい。というのが、貰子というのが本当らしいのだンな。貰子いうても、チャンと血統《ちすじ》を引いているのだすが、華族さんには喧《やかま》しい規則があって、親類でも無闇に養子に貰えん、ちゅうのでまあ実子に仕立てたのだンな。
 一つにはこの訴訟を起した和武ちゅうのが、和行のお父さんが芸者かなんかに生ました子で、腹異いの弟になっているが、和行はこの弟が大嫌いで、之に跡が譲りとうない、子供がないと、嫌でもその方に行くちゅうので、そういうからくりをした訳だす。
 和行ちゅう人がこの腹変りの弟を嫌うたのも訳のあることで、和武ちゅう人はでけ損いで、十八の年にはもう酒を呑み、女を拵えて、子爵家を出奔したちゅう、今の言葉でいうと、どえらい不良少年だす。尤も、だん/\探って見ると、気の毒な所もあるので、この人は十一二の年まで母親の所に育ち、それから子爵家に這入ったので、傍《はた》からは始終冷い眼で見られているちゅう訳で、グレ出したのも無理はないと思われる所もあります。
 そこで子爵家では、和武に飽くまで譲りとうないので、どうぞして訴訟を取下げさそうと思ったが、旨く行きまへん。そこで、和武の行状を洗って、どうせ叩けば埃の出る奴じゃから、何か弱点を握って、とっちめてやろいうので、考えて見れば卑怯な事だすが、自衛上止むを得んちゅうので、和武がずっと関西方面にいたので、砂山さんの所へ、素行調査を頼んで来た訳だす。なるほど之なら費用は何ぼでも出す。何か弱点を探り出せば、一万円の報酬というのは、まア当前《あたりまえ》だす。
 私は砂山さんに見込まれたんで、宜《よろ》しおま、と引受けましたが、何でもないと思うたが、之が中々難物だした。というのは、和武は十八の年に子爵家を出て、それから二三年はあちこちと放浪し続けて、めちゃくちゃな生活を送ったらしいが、二十《はたち》頃から急に身持が改って、山登りを始めた。山登りちゅうても、日本アルプスちゅう奴ですな。今こそ日本アルプスちゅうと、女でも子供でも行きますが、その頃は中々どうして、登る人も少く、道が悪いから人夫も仰山連れて行かなならんし、金持の坊ちゃんの道楽みたいなもんだした。道楽ちゅうても、女狂いから見たら、余程上等です。そこで和武も山登りを始めてから、すっかり身が固うなっています。
 一体、十八九で狂い出した者は、眼が覚めるちゅうても、中々二十代ではむずかしいもンで、三十四十になって、やっと改まるのがせい/″\だすが、この和武ちゅう人は、たった二三年の狂いで、二十になるともう素行が改まっています。之はどうも珍らしい事で、私の考えでは、事によるとこの人は心《しん》は固いのやろと思います。子爵家を飛び出す為に、態《わざ》と無茶をやったのか、そうでなかったら、子爵家のやり方が悪いので、一時的に自暴《やけ》見たいになったのか、どっちかやろうと思います。
 尤も子爵家でもその事は悟ったと見えて、和明ちゅう子供が生れた時に、一ぺん勘当を許して、上京せいというて来ています。その時は和武は二十三か四だしたが、一旦は喜んで上京するちゅう手紙を出して置きながら、とうとう行かなかったちゅう事実があります。之が誠に可笑しいので、後にそうやったのかと思い当ることがあるのだす。
 さて、私が調査を依頼された時は、和武は二十八か九やったと思いますが、今いう通り、すっかり固くなっているらしいので、どうも子爵家の注文のように運ばンので、弱りました。けンど、漸《ようや》くのことで、南の新地で時々遊ぶらしい事を嗅ぎ出して、馴染の妓《こ》を尋ね当てゝ、客になってちょい/\呼びました。
 和武の馴染の妓ちゅうのは、浜勇《はまゆう》ちゅうてその頃はあまり流行らない顔だしたが、まン丸い愛嬌の滴《したゝ》るような可愛い妓だしてな、まア、役徳ちゅう奴で、中々私等の身分で新地で散財するちゅうような事はでけ[#「でけ」に傍点]る事《こ》っちゃおまへんが、費用はなんぼでも出るので、お大尽さんになって、茶屋遊びだす。けンど、根が私立探偵で、遊びが主でのうて、何か探り出そうちゅうのだすから、素性を悟られへんかと思うて、ヒヤ/\しながら遊んでるので、身にも何にもつかしまへん。一ぺん、本まに仕事を離れて、あんな遊びをして見たいと思うてます。
 余談は置きまして、この浜勇ちゅう妓が、又中々口が固い。「あんた、えゝ人があるちゅうやないか」と探りを入れると、「あほらしい。そんなもん、あらへんし」と赤い顔もしまへん。「華族さんのお客さんがあるやろ」と訊くと、「ほら、うちかて芸者だす。適《たま》には華族はんも呼んで呉れはります」ちゅう返事で、一向|埓《らち》が開きまへん。けンど、こゝで根掘り問うたら、けったいな人やと警戒されますから、辛抱せんならん、中々辛い事だす。
 それでも暫く通ってますうちに、少しは様子が分って来ました。浜勇はどうも和武を嫌っているらしいのだすな。
「華族はんて、あんなもんだっかいな。いやらしいね」と或時吐き出すようにいいました。だん/\探って見ると、とても執拗《しつこ》いンやそうです。浜勇のいう話によりますと、和武ちゅう人は、口前《くちまえ》が上手で、ケチで下品で、とても華族ちゅう肩書の他には、とンと取柄がないちゅう結果になります。そうすると、改心したちゅうても、やっぱり心《しん》は下卑ていて、私の観測が違ったかいな、そうやったら、何ぞ弱い尻が掴めそうなもンやと、悲観して見たり、喜んだり、ちゅう訳です。
 所が、そのうちにふと浜勇の口から、和武が以前北の新地で散々遊んで、そこに深い馴染の妓があって、末は夫婦とまで約束したちゅう話を聞きました。
 それから私は北の新地へ行きましたな。何しろ、費用はなんぼでも出るし、こんな機会に遊んどかんと、又とでけ[#「でけ」に傍点]るこっちゃおまへんからな。所が、和武が北の新地で遊んだちゅうのは、四五年ももっと以前の話で、若い妓は一向知りまへなんだが、年増芸者は直ぐにうなずいて、「花江はんが可哀そうやわ」ちゅうほど、当時はこの世界で有名な事やったらしいのです。
 その花江ちゅう妓は、一旦引いて、二度の勤めで、照奴《てるやっこ》いうてました。もう二十四五で、年増盛りという所、早速呼びましたが、この妓の綺麗なンには驚きました。全く絵に書いた美人そっくりですな。面長で色が白うて、木目が細こうて、何ともいえん品があって、どこに一つの非のうち所がおまへん、之なら華族さんの奥さんいうても、誰でも承知するやろと思われるような女子《おなご》だした。
 この女子が又、顔で分るように芸者に似合ぬ人格者だしてな、中々昔の話をしまへん。けンど私も根気ようかゝりましてな、傍《はた》から聞いたり、本人の口からボツ/\探り出したりして、和武との関係を大体の所察することがでけました。
 和武は東京を飛び出して、関西に来ると間もなく、花江と馴染になったらしいのだす。和武はやっと二十で、花江は未だ十五か十六、むろん舞妓の時代だす。その時分の事をよう知っている者に聞きますと、当時の二人は恰《まる》でお雛さま見たいやったそうだす。私の観測はやっぱり当ってましたンやな。和武ちゅう人は流石に華族の坊ちゃんらしく、大人しゅうて品があって、口数も至って少なかったそうです。全く、一時の迷いでグレたんだすな。きっと悪い奴があって、不良の仲間に引込んだンだすやろ。子爵家で思っているほど、ひどい事をしたンやなかろうと思います。よし、したにせよ、それは本人の意志ではのうて、取巻連のした事やないかと思います。花江との間は、全く客と芸者と離れた本まの恋仲らしかったのだす。花江の方はそれこそ、処女の純情を捧げていたのだすな。
 その時の事を述懐して、花江の照奴はつく/″\いいました。「ホンマに考えて見ると夢のようだす。あたいも阿呆やったんだす。思うことの半分は愚か、十分の一もよういわんと、いわば雲の上の花でも見てるように、うっとりと眺めていたンだすわ」
 こうして、二人の関係は五年間続いたのだす。その間に花江は一本になり、いつか二人は互に許すようになって、末は夫婦と固く誓うたのでした。
 和武の二十三か四の年に、前にいったように、子爵家に和明ちゅう子供が生れて、子爵家でも和武の固うなったのを認めたと見えて、東京へ帰って来いといって来たのです。その時に和武は大へん喜んだそうで。照奴はその時のことをこういうて話しました。
「かーはんはえらい喜びようで、花江、とうとう僕も東京に帰れるようになった。僕は妾《めかけ》の子で、その為にどれだけ苦労したか知れないから、お前を日蔭者にはしとうない。といって、東京の兄さんは固い一方で、芸者なんて、頭から汚れたものだと思ってる。僕は何とかして君を引かそう。そうして、一年なり二年なり、堅気で暮して、然るべき人に口を利いて貰って、兄の許しを得て晴れて夫婦になろう。ね、そうしようね、とこういやはりました。うちも嬉しゅうて、本まにその時は泣きましたわ。うちは今でも、かーはんがその時に嘘をいやはったとは、どうしても思われまへん。その時に恰度山の方へ行く事に定《きま》っていましたんで、かーはんは兎に角山に行って来る。帰って来たら、すぐ東京に行って、今いった通り運ぶよって、いうて山へ行かはりました。それきり鼬《いたち》の道だす。山から帰ったとも、東京へ行ったとも、一言もいうて来ず、むろん姿は見せはりやしまへん。それからもう五年経ちますわ。うちは一辺引きましたけンど、河育ちはやっぱり河で死ぬちゅうてな、二度の勤めだす。諦めてンのかって、諦めるよりしようがないやおまへンか。ホヽヽヽ」と、照奴は淋しく笑いましたが、この頃の言葉でいいますと、一抹の悲哀ちゅいますか、何ともいえん悲しい顔付きをしましたので、私は思わずゾッとしたのを、今でもはっきり覚えとります。
 と、この話を聞いた時に、私は之は何か訳があるなと、ピンと来ました。刑事根性といいますかな。どうも物事を真直ぐにとらなくていかんのだすが、殊《こと》にこの時は、何か持ち出そう、と、一生懸命になっている時だすから、尚更ピンと来ました。
 それほど喜んでいながら、上京しない、それほど可愛がって、夫婦とまで約束した女子《おなご》の所へ、一辺に寄りつかなくなる。之は何かあるぞと思いました。
 それからは暫く、南と北の新地にちゃんぽんに通いました。私の一生のうちで一番|華《はなや》かな時だすな。尤も、賄《まかない》は向う持ちで、仕事の為なんだすからあきまへんけンど。
 すると、和武が南の新地に通い出したのは、この二三年のことで、山から帰ってから二三年ばかりは、先生はどこにどうしていたのか、さっぱり分りまへン。あれほど好きだった山登りもふっつり止めてることも発見しました。つまり、和武は山から帰ってから二三年ばかり、全然行方を晦《くら》ましているのだす。
 私はその秘密を探り出そう思うて、浜勇と照奴の間をせっせと往来しましたが、一番変に思われて来たンは、浜勇時代の和武と照奴の花江時代の和武とは、ころッと人が違うているのだす。というても顔や形が違うてる訳やないが、性質がえらい違うてます。花江の話では、和武は会うても口数の少い品のいゝ坊ちゃんやったのが、浜勇の所では、口前のえゝ、世馴れた旦那になっています。尤もその間に五年ほど経っていますさかい、年齢の関係でそう変ったのかも知れまへんが、もう一つ可笑しいのは、浜勇は執拗《しつこ》いいやらしい人やと眉をひそめてるのに、花江の話では、そういう事には、さっぱり冷淡やったいうのです。之も年齢の関係やいうたらそれまでだすが、私はどうも変や思いました。が、私がこいつは十分調べて見る価値があると思うたのは、深い馴染の女でのうては知れん身体の特徴の事で、花江と浜勇との話に、大きな食い違いがあることだした。どうも極《きわ》どい話で恐縮だすが、こんな所まで研究せんならん探偵ちゅう商売の辛い所と、苦心せんならん所を、お認め願いたい思います。
 そこで、私は和武が山から帰ってから二三年の間どこにどうしていたのか、そこに秘密があるに違いないと思うて、一生懸命に調べましたけンど、こいつが一向に分りまへん。結局山に登った前後の事まで突つめんならンようになって来ました。
 和武が二十三四の時に登った山ちゅうのは、乗鞍岳だした。いよ/\こゝへ行きかけた時に、私は泣きとうなりましたな。御承知の通り乗鞍岳は御嶽さんの南にある山だして、御嶽さんよりは鳥渡低いが、三千メートル上あります。北アルプスでは一番南よりの山で、割に登りよいのだそうだすが、どうして、年中雪のある山で、えらいこと、お話しになりまへん。何しろ、今から三十年も以前の話だすさかい、道は悪いし、途中に泊る小屋はなし、私は何の因果で、探偵になったのかいな思いました。南と北の新地で浮かれていた時とは、えらい違いだす。
 和武の登った路は、島々ちゅう所から、梓川《あずさがわ》ちゅう川に沿うて、野麦街道から奈川渡《なかわど》に出て、そこから、大野川に行って、山にかゝり、降りる時は、飛騨側の北平《きたゞいら》の雪渓を渡って、平湯鉱山から平湯に出て、それから高山へ出たらしいのだす。私もその通り行くことにしました。
 登り路は只《たゞ》えらいだけで、別にお話しはございまへん。えゝ景色やなアと思う所もおましたが、辛い方が主で、私は仕事で登りますのやさかい、仕方がありまへんが、こんな所へ楽しみで登らはるとは、一体どういう気やろと、つく/″\思いました。
 和武の登ったのは、もう四五年も以前の事だしたけれども、当時は滅多に人の行く所ではありまへんから、人夫達はよう覚えておりました。けンど、今いいました通り格別の話もなく、無事に頂上につきました。それからいよ/\降《くだ》りだすが、この雪渓渡りちゅうのが、大へんにも何にも、全く生命がけだす。今考えて見てもゾッとするほどで、一ぺん渡ったらどこまで行くか分らず、所々に、クレバスちゅうて、積った雪と雪の間に、大きな亀裂《ひゞ》がおまして、そこへ落ちたら、お終いだす。それに恰度|雪崩《なだれ》の心配のおます時で、えらい時期が悪いのやそうです。そんな事を知らんと、むちゃくちゃに来たような訳で、飛騨の方へ降りる時は、全く何べん生命はないものと思うたかしれまへん。
 飛騨へ降りる時には予《あらかじ》めうち合せて置いて、飛騨の人夫に変った訳だしたが、この人夫の口から、和武の事について、新しい事実を聞き出す事がでけ[#「でけ」に傍点]ました。それは何やいうと、こゝで和武の一行は遭難したんだンな。
 和武の一行は頂上近くで、突然吹雪交りの雨に会うて、動けなくなったのだす。頂上から北平の雪渓の方へ鳥渡降りた所に、小屋がおましたので、一行はそこへ避難しました。すると、間もなく飛騨の方から人夫も連れずに、たった一人で登って来た男がありまして、小屋に飛び込んで来たそうだす。
 一体野麦峠ちゅうのは、信州と飛騨との往還になっておりまして、当時は一日に二人や三人の旅人は通《かよ》ったもンだそうだす。で、そういう旅人は登山家とは違うて、別に人夫を連れたり、特別仕立の服を着たりしまへン。さて、晴れた日に野麦峠を通りますと、そこから乗鞍へは五時間ほどで行けますので、誰でも鳥渡頂上へ行って見たくなる。今いう旅人もそれで、野麦峠からふと乗鞍に登りたくなってやって来た。所が急に雨に会うて、生命から/″\小屋に逃げ込んで来たちゅう訳やったそうだす。
 この雨が中々晴れまへン。四五日籠城していますうちに食糧が心配になって来ました。そこで、晴間を見て、馴れた人夫が平湯まで食糧を取りにおりました。その留守の事だすが、茲《こゝ》に逃げ込んで来た旅人が、クレバスの中に落ちて、行方が分らなくなった椿事《ちんじ》が持ち上りました。
 この時の事を私は何とかして委《くわ》しゅう調べよ思うて、随分苦心しましたけンど、恰度その当時居合した人夫が、死んだり、他所《よそ》へ行ったりして、一人もおりまへん。平湯へ食糧を取りにおりた人夫はおりましたけンど、之は現場に居合さんのやよって、はっきりした事はいえまへん。歯痒《はがゆ》うてしようがおまへなンだが、結局、名前も住んでる所も何も分らん男が一人、雪と雪との間の亀裂《ひゞ》に落ちて死んだちゅう事だけで、委しい事は一向分りまへなンだ。
 で、つまる所、私が態々《わざ/\》乗鞍岳へ登って、得て来たちゅうものは、この一つだけだすが、之が、可成大きな発見だす。以前にも申しました通り、和武はこの時に山から帰ってから、二三年消息を晦《くら》まし、再び現われた時にはころッと性質が変っています。あれほど好きだった山登りもふっつり止めるし、惚れ抜いていた女子の所へも、ふっつり寄りつかなくなるし、喜んでいた上京も止めています。山で何事も起らんで帰って来たンなら兎に角、得体の知れぬ人間が途中で飛び込んで来て、四五日一緒にいて、忽《たちま》ち消えてなくなっております。鳥渡変な事が考えられるやおまへンか。
 そうなると、その変な旅人の人相が問題だすが、之が又はっきり覚えとる人夫があらへンのだす。和武と似ていたかちゅうて訊くと、なンやよう似ていたような気がするちゅう返事で間違えるほど似ていたかちゅうと、それほどでもないと答えるかと思うと、四五日の籠城の時に、一ぺん間違ったことがあるちゅうし、何をいうても山男見たいな人間のいうことで、さっぱり、はっきりした事がいえまへンので、どうにもならんのだす。
 けンど、所謂《いわゆる》情況証拠ちゅう奴が、大分揃うていますさかい、私はえらい大胆な判断やけど、ひょっとしたら、今の和武は偽者やないかしらんちゅう事を砂山さんに報告しました。
 砂山さんは、「ふーん」ちゅうて五分間ほど感心していましたが、「一つ首実験をして見よやないか」といいました。首実験ちゅうても、子爵家の人は十八の年から会わンのやよって、あきまへん。一番適任者は花江の照奴だす。所で、照奴に何ちゅうて和武の首実験をさしたらえゝか、大分苦心しました。結局旨く胡麻化して隙見《すきみ》をさせましたが一ぺンに違うといいまへン。よう似てるが、違う所もあるちゅうような事だす。いっそ、会うて話さしたら思うて、その事をいいましたが、之は照奴は何というても諾《き》きまへン。長うなりますから、省きますけンど、和武の鑑定の事につきましては、砂山さんと二人で、どんだけ苦労したやら知れまへン。
 で、結局、之という動かせない証拠は掴めまへンだしたが、こういう疑いが可成濃厚や、ちゅう事を子爵家に報告しました。
 すると、子爵家に男勝《おとこまさ》りの乳母がいましてな。おせいちゅうんだすが、この人が表向き和明ちゅう子の乳母になっておりますが、実は生みの親だンね、子爵家の縁故のもんで、子爵家の在亡に係る事だすし、現在の生みの子の一大事だすさかい、一生懸命だしてな、私もあれからこっち、あんな激しい気性の女子《おなご》を見た事がおまへン。このおせいさんが、和武に会うて、偽者やったらとっちめてやるちゅうて、諾《き》かはりまへン。子爵家の人もとうとう折れて、和武に会わしたンだす。
 この会見の内容はちょっとも分りまへン。が、その結果、和武は訴訟をすっかり取下げました。それと同時に、和武は東京に永住することになって、子爵家に大手を振って出入するようになりまして、子爵家の事にあれこれと口出しをするようになりましたンや。
 何や、狐に魅《つま》まれたようなお話で、お聞き下さいましたみなさんは、物足らんように思われますやろが、私も実はけったい[#「けったい」に傍点]な気がしました。けンど、私は雇われたンで、成功したちゅうて、ちゃんと報酬も貰いましたし、訴訟も片づき、万事丸う治まったンで、もう之以上何ともしようがありまへン。
 話ちゅうのは之だけで、何や解決したようなせんような、歯痒《はがゆ》い事だすけンど、小説と違うて実話だすさかい、どうもしよがおまへン。けれども、鳥渡毛色の異《ちが》った、面白味のある事件やと思いましたンで、お話し申上げたような訳でござります。

 読み終って、野村は又もやドシンと頭を殴りつけられたような気がした。父の遺書を読んで以来、幾度か驚き、幾度か意外の感に打たれたが、数多い書類を読み進むほど、事件は益々奥深くなり、神秘性を増して、底止《ていし》する所を知らないのだ。
 談話速記には尽《こと/″\》く仮名が使ってあるが、それが二川子爵家の出来事である事は、関係者にとっては余りにも明白だ。三十年も以前の事だと思って、不用意に述べられた談話は、どれだけ重明に打撃を与えたか、想像に余りあることだ。犯罪実話の語手《かたりて》の無責任な態度には、野村は少なからぬ義憤を感じた。
 が、重武が唾棄《だき》すべき詐欺漢《イムポースター》であるとは! 無論確証はない。然し、野村には、そうであることが確かに感ぜられるのだ。さて、この談話速記によって、二川重明はどんな事を感じ、どんな事をしようとしたゞろうか。野村は第三と番号のつけてある、重明の遺書を取上げた。
 野村君、順序通り読んで呉れたと思う。そうして、君はまさか速記の切抜が、僕の家に関係した事であることを否定しはしまい。実はこの速記を手に入れた時に、直ぐ君に相談しようと思ったけれども、君が頭から二川家に無関係であることを主張しやしないかと思って止めたのだ。僕はむろん速記を読み終るのと同時に、この談話の語手である刑事を探した。所が、なんと皮肉に出来ているではないか、彼は僕が探し当てた数日前に、脳溢血で死んでいるのだ! 最早僕にはこの話について、確めるべき人間は一人も残されていないのだ!
 僕が両親の実子でないこと、お清さんと呼んでいた乳母が実母であった事は、それほど僕を驚かさなかった。やっぱりそうだったかと、深い溜息をついただけだった。
 僕は物心のついた頃から、この疑惑に悩まされ続けていたのだ。それは、そういう事を経験した人でなければ、到底想像する事の出来ない苦しみだと思う。父母はどんなにか僕を熱愛して呉れたか。父は早く死んだけれども、母は長く僕を愛し慈《いつくし》んで呉れた。にも係らず、僕は絶えず他に父母を求めているのだ。この事については、最早長くは書くまい。
 叔父重武に関する秘密は、文字通り僕を驚倒させた。本当に僕は一時気が遠くなったほどだった。
 僕は以前から叔父に――といっても叔父その人ではなく、その立場に大へん同情していたのだ。何故なら、彼は妾腹に生れたばかりに、不愉快な生活を余儀なくされて――殊に十一二の年から十八までの二川家の生活は、どんなにか味気ないものだったろうと思う。父に別れてからは周囲は他人ばかりで、唯一の肉親である兄が却って白眼《はくがん》で見るのだ。只一人の同情者も持たない彼が、童心を苛《さい》なまれ、蝕ばまれて行った事がはっきり分るのだ。
 だが、僕は叔父その人には同情が持てなかった。何故なら彼は余りに俗的で、厚顔で金銭慾の強い、凡《およ》そ僕とは対蹠的な人間だったからだった。もし、彼がもっと典雅で、慎しみ深くて、無慾|恬淡《てんたん》だったら、僕は夙《と》うに彼に二川家を譲っていたかも知れぬ。何故なら彼こそ、二川家の正当の相続人なのだ。疑惑に止っていた間でも、僕はそう思っていたのだから、今や僕が二川家に対して、その権利を抛棄すべきであることが、はっきりした場合、一層そうしなければならない筈なのだ。
 けれども、僕はどうしても叔父が好きになれないのだ。そして、なんと、彼は汚らわしい詐欺漢《イムポースター》だというのではないか。むろん、それは確実ではない――けれども、僕はそれが確実のように思えてならないのだ。わが二川家の血統のうちに、あんな俗物が、あんな厚顔強慾の人間が出そうな筈はないと思うのだ。
 と同時に、僕は三十年前の相好と少しも変らないで、大雪渓の下に彫像のように眠っているであろう所の叔父重武が、無限に可憐《いと》しく、いじらしくなって来た!
 もし、今の叔父が偽者《イムポースター》であるならば、真の叔父は何という数奇な可憐な運命を背負った事であろう。刑事某の談話の如く、叔父は純情の持主だったのだ! 恋を語り、山を愛したこと、みな彼の純情のさせた事ではないか。彼はわが二川家の相続人として、十分の資格を備えていたのだ。それが童心を傷けられ、家を出て放浪の旅に登り、漸《ようや》く傷けられた胸を少女の捧ぐる愛と、高山の霊気に癒した時に、彼は恐るべき兇漢の為に、死の深淵に突き落されたのだ!
 が、然し、野村君、果して今の叔父は偽者《イムポースター》だろうか。僕は母以下が僕の素性の暴露するのを恐れて、叔父に関する事件をうやむやに葬り去った事を、心から憎む、鶯《うぐいす》は時鳥《ほととぎす》の卵を育てゝ孵《か》えすというが、その事は彼等の世界には、何等の悲劇も齎《もた》らさないのだろうか。人間の世界では、それは断じて許すべからざることだ。それはすべての関係者を、責め苛み、地獄に落すものだ!
 野村君、僕は一体どうしたらいゝのだろうか。叔父が確かに叔父その人に相違ないのなら、その人物の好悪《よしあし》に関係なく、僕は二川家を譲りたいと思う。何故なら彼が正当の相続者なのだから。けれども、もし彼が偽者《イムポースター》だったら。だが、どうしてそれを区別することが出来るのだ!
 もし真《まこと》の叔父が、大雪渓の下に眠っているのなら――あゝ、野村君、僕はあの呪われた速記を読んだ時以来、夜となく昼となく、この妄念につき纒《まと》われたのだ。
 僕は、仮令《たとえ》それが気違いじみていても、いや、気違いそのものの行為であっても、僕は乗鞍岳の雪渓を発掘せずにはいられなかったのだ。むろん、僕はその前に、乳母であり、僕の実母であった高本清《たかもときよ》を探した。然し、生きている筈なんだが、彼女をどうしても尋ね出すことが出来ないのだ。僕に残された方法は、たった一つだったのだ。
 野村君、僕が雪渓発掘の準備にかゝると、叔父重武は表面は何の動揺も示さなかったが、それ以来は、彼の見えざる看視《かんし》が、見えざる触手が、僕の周囲で犇《ひし》めいている事を僕ははっきり感ずるのだ。決して、それは僕の神経衰弱や、強迫観念のさせる事ではないのだ。
 野村君、僕はどんな困難と闘っても、やり遂げて見せるつもりだ。雪渓の発掘が失敗に終ったら、又別な方法を考えるつもりだ。一生かゝっても、無一文となっても。気違いと嘲けられても、馬鹿と罵られても、叔父が真の叔父か、偽者《イムポースター》であるか、きっと区別をつけるつもりだ。
 野村君、然し、叔父の眼は光っている。彼は僕よりも遙かに狡猾で、冷血で、そして、僕よりも、より絶望的《デスペレート》である筈だ。僕はそれを恐れているのだ。
 野村君、僕が生前僕の心境、僕の決意を、|打明けて《フランクリー》に話さなかった罪を許して呉れ給え。僕自身はこれが遺書になって、君の眼に触れる場合のない事を望んでいるのだ。然し、君は未知の弁護士から、これを僕の遺書として受取るかも知れぬ。その時こそ、僕が尋常の死に方をした時ではない筈だ。
 仮令《たとえ》僕が尋常でない死に方をしたといっても、僕は君にどうして呉れとは要求出来ないし、又要求もしない。どうか、君の思う通りにして呉れ給え。
 それから特につけ加えて置くが、僕は近頃不眠症が嵩じて、毎夜催眠剤を執っている。然し、断じて自殺などはしないから、自殺どころではない、重武との勝負がすむまで、うっかり病死も出来ないのだ。その点はしっかり考慮に入れて置いて呉れ給え。

          

 父の遺書から二川重明の遺書へと読み続けた野村は、昂奮から昂奮への緊張で、すっかり疲労して終った。
 重明が何故乗鞍岳の飛騨側の雪渓の発掘などと途方もない事を企てたのか、はっきり知る事が出来た。彼の行為そのものは気違いじみていたけれども、それは健全な頭から考え出されたものだった。彼は決して発狂したのではなかった。又、自殺を企てるような精神|耗弱者《もうじゃくしゃ》ではなかった。それ所ではない。彼はその遺書で、堅く自殺を否定しているのだ!
 然らば彼の死は?
 野村は今までに何度となく感じた所の、重明に対する友情の足らなかった事を、又もや強く感じるのだった。生前もっと相談相手になればよかった。こちらがもっと親身にすれば、彼の方だって、きっともっと打明けた態度になったであろう。生前にこの事実を知ったら、何か旨い忠告が試みられたかも知れない――が、すべては後の祭りだった。
 野村は、彼を信頼して、死後遺書を送って来た重明に対して、どうしたらいゝだろうか。
 すべては翌日の問題として、その夜は眠られぬまゝに明かした。

 警察或いは検事局に告発するという事が、翌朝野村の頭に浮んだ最初のものだったが、彼は少し躊躇した。そうした官署へ告発すべく、内容が余りに怪奇で、曖昧で、確証が少しもないのだ。私立探偵を、と考えたが、之は適当な人も思い浮ばなかったし、効果もどうかと思ったので、直ぐその考えを止めた。
 で、結局、野村自身が探偵に従事することにした。

 野村は二川邸に向った。一度聞いた事ではあるが、もう一度委しく重明の屍体発見当時の事を聞かなくてはならないのだ。
 昨日解剖の為に屍体が大学へ持って行かれたので、予定が一日延びて、いよ/\今夜最後の通夜をして、明日は荼毘《だび》に附する事になっていた。
 重武は葬儀委員長という格で、相変らず何くれと采配を振っていた。野村を見ると、
「やア」
 と、愛想よく挨拶《あいさつ》したが、思いなしか、野村にはそれが、態《わざ》とらしく聞えた。何だかジロリと探るような眼つきで見られたような気がした。そんな事は野村の邪推であるとしても、重武が何となく嬉しそうで、それを隠そうとして隠し切れず、変にソワ/\している事だけは、間違いはなかった。
 野村は重明の棺の安置した部屋で焼香をすませると、ソッと立って、廊下の所で小間使の千鶴を呼留めて、廊下の傍の洋室へ彼女を招き入れた。
「鳥渡《ちょっと》聞きたい事があるのだけれども」
 野村は何気なくいった積りだったが、やはりどことなく緊張していたと見えて、千鶴は、急に顔の筋を引締めて、
「は」
 と言葉少なに答えた。
「確か、あんたが最初に重明さんの死んでいるのを発見したんだったね」
「は」
「十時頃だったね」
「は、十時に二三分過ぎていましたと思います。時計を見ますと、そんな時刻でしたから、鳥渡御様子を見に参りました」
「その前に誰も部屋に這入らなかった?」
「はい、御前さまの部屋へは、私以外の方は出入しないことになっております」
「然し、もしかしたら、誰かゞ――」
「私が起きましてからは、お部屋に注意いたしておりましたから、決してそんな筈はございません」
「では、前の晩は」
「九時半頃、寝室にお這入りになりました。そして、私が持って参りましたコップの水で、お薬をお呑みになりまして、『お寝《やす》み』と仰有《おっしゃ》いましたので、私はお部屋を出ました。それっきり今朝まで、私はお部屋に這入りませんでした」
「部屋は中から締りが出来るのかね」
「いゝえ、誰でも出入が出来ます」
「じゃ、昨夜十時すぎから今朝までのうち、誰でも出入出来る訳だね」
「はい――でもどなたも出入などなさらなかったと思います。本当に御前様がお自殺遊ばさるなんて、夢のようでございます」
 千鶴はもう涙ぐんでいた。
「前の日、誰か客はなかったかね」
「どなたもお出《いで》になりませんでした」
「重武さんは、昨日より以前に、一番近く、いつ頃来られた?」
 野村は重武がどこかの隅から、彼をじっと見詰めているような気がした。事によると、実際に、廊下の外から扉《ドア》に耳を当てゝいるかも知れないのだ。
 千鶴はちょっと考えて、
「暫くお見えになりませんでした」
「そう」
 と、野村は直ぐに話題を転じて、
「重明さんの呑んだ薬というのは、いつも呑んでいた催眠薬に違いなかった?」
「えゝ、太田さまから頂く薬でございました」
「薬は誰が貰いに行くの」
「私が隔日に頂きに参ります。恰度その日の朝頂いて来たばかりでございました」
「他に薬はなかった?」
「えゝ、他に召し上るような薬はございませんでした」
「むろん、他に何か呑んだような形跡はなかったんだね」
「はい、別に見当りませんでした」
「有難う」
 野村は部屋を出た。

 重武は二川邸に暫く立寄らなかったという。彼が催眠剤を恐しい毒薬にスリ替えたとは思われない。重武からどんな薬を貰ったとしても、重明がそれを呑む気遣いはないのだ。子爵家の雇人は千鶴を始め、すべて信頼の置けるものばかりだ。殊に千鶴は情のある淑やかな娘で、身許も確かだし、女学校も出ているし、重明が安心して、身の廻り万端の世話をさしているので、重武に買収されて、医師の薬を毒薬にスリ替えるような大それた事は、絶対にするとは思えない。
 初めの野村の考えでは、当日重武が何食わぬ顔をして、ブラリと遊びに来て、巧みにスリ替えて行ったのではないかと思ったが、重武は当日は愚か、暫く二川家に立寄っていないのだ。当日は別に客はなかったというし、家の者には疑いを掛けるようなものは全然見当らないのだ。
 やはり自殺したのか。それとも過失死か?
 遺書には断じて自殺などしないと書いてあったけれども、人間の頭はどんな事で狂うかも知れぬ。突発的の発作で、自殺しないとも限らぬ。他殺だと考えられる点が全然ないではないか。
 過失死とすると――そうだ、太田医師の投薬の誤りかも知れない。野村はぎょっとした。医師が自分の過失を隠す。之はあり得る事だ。
 野村は口実を作って、二川邸を出た。そして、そこから余り遠くない太田医院に急いだ。

 太田医師というのは、丸顔のでっぷりした体格の、信頼出来そうなタイプの人だった。医院も大きくて堂々としていた。
「可成ひどい不眠症のようでして」と、太田医師は極めて気軽に話して呉れるのだった。「普通の人ならどうかと思われる位の量でしたが、あの方なら二回分一|時《どき》に呑んでも大丈夫です。何しろ、ひどい神経衰弱ですから、危いと思って、二回分しか渡さず、それだけの用心をして置いたのです。決して調剤の間違いじゃありません。私の方には専門の薬剤師が置いてありまして、責任を持って調製いたしておりますから、絶対に間違いはありません。殊にですな、解剖の結果、益々当方の過ちでない事が証明されましたよ。というのは、二川子爵は全然私達の薬局に備えつけてないような猛毒性のアルカロイドを摂取しておられるんですよ」
「解剖の結果、分ったのですか」
「えゝ」
 と、この時に野村は重大な事を思い出した。今までどうして気がつかなかったのだろうと思いながら、
「こちらで頂いた催眠剤は二回分あった訳ですな」
「そうです」太田医師は直ぐうなずいて、「当日取りに来たのでしたから、二回分あった筈です」
「すると、残りの一回はどうなったのでしょうか」
「二回分一緒にやっちゃったのですよ」
「二回分?」
「えゝ、今までに例のないことで、二川子爵は私を信頼して呉れましたし、中々よく医師のいいつけを守る患者で、之まで二回分を一度に呑むなんて事はなかったのでしたが、死を一層確実にしようと考えられたのでしょうかね。二度分を一|時《どき》に呑まれましたよ」
「然し――」
 そういう猛毒性の立どころに死ぬような毒薬を煽《あお》った者が、今更一回分の催眠剤を追加して見た所で仕方のない事ではないか。小間使の千鶴の前では確か一回分しか呑まなかった筈だ。これは小間使を安心させて、自殺することを悟られない為の用心と見られるが、小間使が出て行ってから、毒薬と一緒に残ったもう一回分の催眠剤を取ったのは可怪《おか》しいではないか。
 野村はこの事をいおうと思ったが、別に必要もない事だと思って直ぐ止めた。そして、
「どうもいろ/\有難うございました」
 といって、太田医院を出た。

 彼は再び二川邸に行った。
 そうして、もう一度千鶴を別室に呼んだ。
 重武が異様な眼で彼の行動を見守っているであろう事は、十分察せられたが、今は、そんな事を考慮に入れていられなかった。
「度々《たび/\》だけれども」野村は千鶴の利発らしい顔をじっと見つめながら、「前の晩、君が水を持って行った時に、重明さんは催眠剤を呑んだというが、むろん一回分だったろうね」
「はい、一度分でございました。一服だけ召し上って、もういゝからあっちへお出《いで》、おやすみと仰有《おっしゃ》いました」
「すると、もう一服残っていたね」
「はい」
「それで、翌日の朝部屋に行った時に、その残りの一服はどうなっていた?」
「覚えておりません」
 千鶴は始めて気がついたように、ぎょッとしながら、
「本当にうっかりしておりました。御前様が床の中から半分身体を出して、両手を拡げて死んでいらっしゃいましたので、つい、その方に気を取られまして、お薬の方は少しも気がつきませんでした。どうなったのでございましょうか」
「御前様が死んでおられるのを発見した時に、君は、どうしたの?」
「御前さまが大へんですッといって大声を上げました。そしたら、直ぐに市ヶ谷さまが飛んでお出になりました――」
「なにッ、市ヶ谷さまだって」
 野村は吃驚《びっくり》した。重武は市ヶ谷に住んでいたので、二川子爵家の雇人達は市ヶ谷さまと呼んでいたのだった。
 千鶴は野村の剣幕が激しいので、呆気にとられながら、
「はい」
「だって、君は重武さんは暫く見えなかったといったじゃないか」
「それは前の日までの事のように伺いましたから。当日の朝九時頃に参られましたのでございます」
「九時頃に」
「はい、御前さまは未だお寝み中です、と申し上げましたら、格別急ぐ用でもないから、待っていようと仰有いましたので――」
「そうか。それで君は十時頃部屋へ様子を見に行ったのだね」
「はい、それもございましたけれども、いつも朝早く一度お眼覚めになります習慣でしたので、少し心配になりまして見に行きましたのでございます」
「重武さんが見に行けといったのではなかったんだね」
「はい、市ヶ谷さまは何とも仰有いませんでした」
「それで、君が大声を上げると真先に重武さんが飛んで来られたのだね」
「はい」
「それからどうした?」
「市ヶ谷さまが、之は大変だ、直ぐ警察へ電話を掛けろ。誰も触っちゃいかんぞ、と仰有いました」
「警察へ――ふん、医者を呼べとはいわれなかったか」
「はい、その時は仰有いませんでした。後に太田さんを呼べと仰有いましたけれども」
 重武は何故重明が死んでいるのを見て、医師より先に警察を呼べといったか。秘密にする必要があるとはいえ、親しいものにも通知をしなかった点、又、真先に部屋に飛び込んだ点など、疑えばいくらでも疑える事ではないか。
 仮りに重武が薬をスリ替えたのだとすると、彼は残りの一服をどうかしなければならないのだ。それには太田医院の薬局にもないような新しく発見された猛毒が這入っているのだから、到底太田医院の調剤の過ちという事には出来ないのだ。彼は恐らく残った一服の内容をどこかへ明けて終《しま》って、重明が呑んで終ったように見せかけたのに違いない。何故なら太田医師は二服とも重明が呑んだものと信じているから、彼が駆けつけた時には、そうした状態になっていたのに相違ないのだ。
 だが、重武は一体いつ、どうして薬をスリ替える事が出来たろうか。

 野村は余り長く千鶴と対談していては、重武に益々怪しまれると思って、部屋を出て何気ない顔をして、棺の飾ってある部屋に行って、そこに坐った。
 けれども、彼の頭はどういう経路で、催眠剤が毒薬に変ったか、そればかり考えていた。
 太田医院の薬剤師を買収する、そんな事は考えられない。重武がそっと太田医院の薬局に忍び込んで、催眠剤の這入っている瓶の中味を、毒薬に変える、そんな事も出来そうにないのだ。第一後ですぐ発見される恐れがあるし、太田医院は整然としていて、無闇に薬局に這入ることは出来ないし、それに重武にそれだけの薬学の知識があろうはずがないのだ。
 薬局でスリ変えられたのでもなければ、二川家の邸内でスリ変えられたものでもないとすれば、医院から家へ持って帰る途中でスリ替えられたと考えるより他に仕方がないのだ。
 野村はハッと思いついて、部屋を出て、三度《みたび》千鶴を別室に連れ込んだ。
「君、最後に太田医院から薬を貰って来た時に、何か変った事が起りはしなかったか」
「いゝえ、別に」
「例えば、人に突当られたとか、何か貰ったとか、話かけられたとか――」
「いゝえ、そんな事はございません」
「では、途中でどこかに寄りはしなかったか」
「鳥渡買物に寄りました」
「なにッ、買物に。そこで君は薬包をどこかへ置きはしなかったか」
「いゝえ」
「ひょっと落して、人が拾って渡したようなことはなかったか」
「いゝえ」
「では、初めからずっと持ち続けていたんだね」
「はい」
「薬包はむき出しに持っていたのかね」
「いゝえ、松屋の風呂敷に包んで持っていました」
「松屋の風呂敷というと、あそこでお得意先にお使いものにしているものだね」
「はい、錦紗《きんしゃ》の風呂敷で松に鶴の模様がついております」
「ふうむ」
 野村はじっと考え込んだ。
 千鶴は漸く野村の考えている事が分って来たので、心配そうに野村の顔を見上げて、やはり何事か考えていたが、
「野村さま。アノ日には何事もございませんでしたが、その前には時々変な事がございました」
「え? ど、どんな事が――」
「二日目毎にお薬を頂戴に参りますのですけれども、この頃何だか変な人が始終私をつけているような気がいたしました」
「つけている?」
「はい、といっても、確かにそうだとはいえないんでございますけれども、行き帰りには何となくつけられているようなんですの」
「どんな人間に?」
「それがはっきり分らないのでございますよ。若い人のようだったり、年寄のようだったり、この人といい切れませんの」
「じゃ、つまり薬を貰いに行く往き帰りに、君をつけている人がある。然し、その都度違った人間だというんだね」
「えゝ、一度こんな事がありました。ずっと以前なんですけれども、お薬を貰って帰りがけに、買物に寄りまして、その店へ鳥渡薬を入れた風呂敷を置きましたの。そうしたら、鳥渡横向いている間に、それを取り上げた人がありますの。私|吃驚《びっくり》いたしまして、あゝ、それは私のでございますといいますと、その人は、之は失礼、風呂敷が同じだったもので間違いました、といって、私に渡しながら、でも大切なものはこんな所に置かない方がようございますね、と申しました」
「うむ」
「黒眼鏡を掛けた方で、黒眼鏡の他には之といって変った所はないのですけれども、私はどうしたものかとても嫌な気持になりまして、頭から水を浴せられたようにゾッといたしました。それ以来、薬包は絶対に手放さないようにして、帰りにも、なるべく寄り道をしないようにいたしておりました」
「うむ」
 野村にはすっかり分ったような気がした。重武は変装して千鶴につき纒って、絶えず薬包を狙っていたのだ! 隙さえあれば毒薬とスリ替えようとしているのだ。彼は予《あらかじ》め太田医院の薬袋紙《やくたいし》と外袋とを手に入れ、それには一見区別の出来ないように、それ/″\記入をして、その包紙の中には毒薬を入れ、千鶴の持っているのと同じ風呂敷を用意して、機会を待ち構えているのだった。
 だが、問題の日に千鶴は、買物には立寄ったけれども、薬を入れた包は一時も手から放さなかったという。では、いつどうしてスリ替える事が出来たろうか。
 何か千鶴が思い違いをしているのではなかろうか。買物をした時に、鳥渡どこかへ置いたものではなかろうか。
「一昨日《おとゝい》薬を貰って帰る時、本当に薬包を手放した事はないかね」
 野村はもう一度念を押した。
「決して手から放しません。絶対に間違いございません」
 千鶴はきっぱりと答えた。

 野村は座に居たゝまらなかった。
 彼は再び口実を設けて外に出た。
(うぬッ、重武なんかに負けて耐《たま》るものか。そやつの考え出した事が、俺に考えつかないなんて、そんな法があるものか)
 野村は必死になって考え続けながら、その辺を歩き廻った。
 ふと、気がつくと、彼は太田医院の前を歩いていた。正午近い時だったが、玄関には薬を貰う人達が群れていた。
 野村は立止った。
 今しも調剤した薬が、薬局の狭い口から出されて、看護婦が「誰々さん」と呼んだ。薬瓶と薬袋とは暫く、窓口の前の小さな台の上に乗っていた。やがて、女中らしい恰好した者がそれに進み出た。と、それと前後して、一人の中年の男が窓口に近づいた。
 野村はハッと気がついた。彼は躍り上った。そうして、医院の中にツカ/\と這入って、太田医師に頼んで、薬局係りの看護婦に会せて貰った。
 野村の呼吸《いき》は弾んでいた。
「一昨日ですね、二川さんから薬を取りに来た時の事を思い出して下さい。あなたが窓から出しましたか」
「はい、二川さんと呼んで、台の上に置きました」
「その時にですね、窓の側《そば》に誰かいませんでしたか」
「さア」と看護婦は鳥渡考えて、「一昨日の事ですから、よく覚えていませんけれども」
「思い出して下さいませんか」
「どなたかおられたかも知れません。然し、どうもよく覚えておりません」
「そうですか」野村はがっかりして、「では、昨日か今日薬取りに来なければならん人が、来ないという事はありませんか」
「あア、調べて見なければ分りませんけれども――一人ありますわ。一昨日初めて来られた方で、今日お出にならない方が」
「何という人ですか」
「えゝと、確か野村儀造と仰有いました」
「えッ」野村は飛上った。
 もう疑う余地はないのだ。重武は変装して、人もあろうに野村の父の名を騙って、太田医院で診察を受け、薬を貰う風をして、薬局の窓口にいて、二川さんといって看護婦が差出して台の上に置いた薬を、素早く毒薬とスリ替えて終《しま》ったのだ!
 だが――野村は帰り途で、低く頭を垂れながら考えるのだった。――太田医師と看護婦は果して、野村儀造と名乗った男を二川重武に違いないと証明するだろうか。重武はむろん否定するだろう。又仮りにそれが認められたとして、窓口で薬をスリ替えた事実が認められるだろうか。むろん重武は絶対に否認するに極っているのだ。偽名して診察を受けた事は不利ではあるが、それが何か恥かしい病気であれば、大して非難も出来ない事ではないか。それに彼が今日診察を受けに来ないのは、当然なのだ。彼は二川家で忙《せわ》しく采配を振っているのだ。
 検事局は告発は受理して呉れるとしても、果して検挙するだろうか。検挙しても起訴出来るだろうか。
 野村には重武の罪が明々白々のように思われた。然し、彼を罰せしむべく、十分の自信がないのだ。
 多くの事は時が解決して呉れる。然し、この事件に限り、時が経てば経つほど駄目になるのだ。赤いうちに打たねばならぬ鉄なのだ。
 野村はいら/\しながら、当度《あてど》もなく歩き廻っていた。

          

 翌日午後二時、青山斎場で二川重明の神式による葬儀がしめやかに行われた。
 斎主は二川家の相続者たる重武だった。
 重武は真白な喪服をつけて、玉串《たまぐし》を捧げて多数の会葬者の見守る中を、しず/\と祭壇に近づいた。
 と、突然、会葬者の中から脱兎の如く飛出して、重武に飛びついた者があった。
 それが中年の婦人であること、重武の純白の式服がみる/\真赤になって、彼がバッタリと斃れたこと。加害者たる中年の婦人が、返す刃《やいば》で咽喉を掻き切って、その上に折り重なったこと、それは全く瞬間的に、会葬者の眼に映じた事だった。彼等は恰《あたか》も悪夢を見るように暫くは呆然としていた。
 加害者の婦人は五十五六の品のいゝ老婆だった。即座に縡切《ことき》れたので、むろん、姓名も住所も分らなかった。
 野村儀作にだけ、この加害者婦人が、何という名で、何の目的で重武を斃したのか、はっきり分っていた。
 然し、彼は誰にもその事をいわなかった。
 こうして、由緒ある二川家は遂に断絶したのだった。
(〈新青年〉昭和十年八、九月号連載)

底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1984(昭和59)年12月21日初版
   1996(平成8)年8月2日8版
初出:「新青年」
   1935(昭和10)年8、9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:小林繁雄
2005年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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甲賀三郎

愛の為めに—— 甲賀三郎

夫の手記

 私はさっきから自動車を待つ人混みの中で、一人の婦人に眼を惹かれていた。
 年の頃は私と同じ位、そう二十五六にもなるだろうか。年よりは地味造りで縺毛《ほつれげ》一筋ない、つやつやした髷に結って、薄紫の地に銀糸の縫をした半襟、葡萄の肌を思わせるようなすべすべした金紗《きんしゃ》の羽織、帯や着物など委《くわ》しい事は私に分らないけれども、それらのものが、健康を思わせる血色、撫でたような然し肉付の好い肩つき、楚々とした姿にすっかり調和して、ほんとうに私の好きな若奥さん型なのだ。もっと気に入った事は、抱いている赤ン坊が、生れて半年位かしら、女の子らしいが、頬べたが落ちそうに肥って、文字通り林檎のようで、自分の身体の三倍位の大きさの、眼の醒めるような派手な柄の友禅に包《くる》まっているのが、なんと愛らしい事だ。女中なんか伴に連れないで、お母さんの手で抱いているのが耐らなく好い。
 でも、自動車を待っている多くの人達は、この奥さんの事などは考えていないらしかった。その人達はちっとでも早く乗ろうと思って、前へ前へと出て行くのだった。自動車が人々の前へ止った時には、奥さんはいつの間にか後の方になって、未だその後から押して来る人達との間に揉み込まれて終《しま》った。
 私はほんとうにしようのない人達だと思って、犇《ひし》めき合う群集を見ていた(この東京駅の前から出る呉服店行の自動車は店の人がついていて世話をしている時は、みんな渋々一列に並ぶけれども、誰もいないとすぐこれだ!)。
 私は別にあわてて乗ろうとはしなかった。実を云うと私は、呉服店などに用のある人間じゃあないのだ。毎日毎日疲れた足を引摺《ひきず》って、減った腹を抱えて、就職口を探している哀れな青年なんだ。父親と衝突さえしなければ、今年あたりは学校を卒業して、親の光で、苦労もせず相当な地位が得られたんだろうが、そんな事を今更悔んだ所で仕方がない。今も丸ビルの五階の或る会社へ出かけて、体よく断られて出て来た所で、もう今日は中途半端になって、どこと云って行く当もないし、裏長屋の一間で淋しく待っている妻の所へ帰ろうかと思ったが、ふと眼の前を走って来た赤く塗った、呉服店の自動車を見て、久し振りでそこへ行って見ようと云う気を起したのだった。
 あまり混雑するので、乗ろうか乗るまいかと決し兼ねている中に、又一台自動車がやって来た。群集の半分は忽ちその車の前へ集って中の人が降り切らないうちから犇めき出した。私は人波に押されて運よくその新しく来た車の前の方へ出る事が出来た。ふと見るとさっきの奥さんが、之も人に揉まれて、赤ン坊をつぶされまいと一生懸命に庇いながら、直ぐ私の傍へよろめいて来た。私は直ぐ自動車に乗る事に決めた。そうしてデッキに片足をかけて、奥さんに、
「赤ちゃんを抱っこしましょう」
 と声をかけて、奥さんの返辞を聞かないうちに、もう赤ン坊を受取って、中へ飛び込んだ。
 未だ初めの方だったから、私はずっと奥の方へ席を占めた。続いてドヤドヤ乗り込んで来たので、忽ち車は一杯になり私の前へは背を曲げて窮屈そうに二三人の人が立並んだ。車は直ぐ動き出した。
 車が動き出すと、間もなく心配になり出した事は、どうも奥さんの姿が見えない事だ。何しろ一杯に混んでいるから、両隣りの人でさえ、どんな人だか分らない位で、無論入口の方に乗っている人などはてんで見えないのだが、どうも奥さんが乗っているらしい様子が感じないのだ。私はだんだん心配になって来た。
 やがて自動車は、呉服店の前で止った。
 私は気が急いたけれども、中々降りる番が廻って来ない。漸くの事で片足が地面についた時に、それでも私はニコやかに迎える若い奥さんの姿を予期していた。が、どこにもその姿は見えなかった。
 私は情けない気持で次の自動車を待った。故障でもあったのか、自動車は中々来なかった。私はなき出したくなった。やがてブルブルと音を立てて自動車が眼の前へ止った時はああ助ったと思ったが、どうしたと云う事だ! 奥さんの姿は見えないのだ!
 私はあわてた。一生懸命にあやしても、兎もすると泣き出そうとする赤ン坊を抱えて居ては気が気じゃない。それに往来の人がジロジロと見るような気がする。考えて見ると――今まで何と云う迂闊《うかつ》な事だったろう――私はこんな人眼につく所にウロウロしている訳には行かないのだ。知ってる人にでも見つかればどんなにか困る事だ。私は横丁へ曲った。そうして時折大通の方へ見に出た。角の交番の巡査が何となく恐かった。
 自動車は引続いて二三台来たけれども、奥さんは来ない。もしや横丁に引込んでいる間に来たのじゃないかと、私は思い切って内部へ這入った。そうしてよくこんなに這入ったものだと思われる大勢のお客の間を縫って、一階二階と順に上へ昇ったけれども、考えて見ると随分無理な話だ。こんな雑踏した所で、両方で探し合った日にはどうして出遭う事じゃない、でも私はもう夢中だった。何階だかも分らなかった。赤ン坊を揺り動かしながら昇ったり降りたりして探し廻った。終いには腹立しさと情けなさとで涙がにじみ出た。美麗に着飾った夫人や令嬢が怪訝《けげん》な顔で私を見送った。
 何べん目かで一番下へ降りた時に、私はふと入口の所に後向きに立っている一人の紳士に眼がついた。横顔を見ると驚いた。父なんだ。足かけ三年遭わない内に、気のせいだかいくらか窶《やつ》れたようだが、いかつい肩、利かん気の太い眉、骨の高い頬の皺まで、三年前そのままだ。父はじっと入口の方を睨んでいた。でもいつこっちを振り向くか分らない。私は大急ぎで出口の方に向った。そうして夢中で下足をとって外へ出た。もう大通りの方へ出る勇気はなかった。私は大通りと反対の方へ歩んだ。堀端へ出ると、銀行の前から橋の方へブラブラ歩き出した。
 幸な事には赤ン坊は時々渋面は作ったが、まだ泣き出しはしなかった。だが、私はどうしたら好いんだろう。父がいる間は呉服店へ行く事は出来ない。呉服店の男衆に訳を話して預けようかと思ったが、容易には預ってくれまい。何しろ赤ン坊なんだから。角の交番へ行けば無論その女が来るまで待てと云うだろう。それに人目を忍んでいる私には警察が苦手なのだ。と云ってその中に赤ン坊が泣き出したらどうしよう。あのお母さんは半狂乱で私を探しているに違いない。私は、呉服店の前で待っているべきだ。だが、父が居るのをどうしよう。私は三年前父の前で、お世話にならなくても、一人前の人間になって見せますと放言したのだ。このみすぼらしい身装を、しかも他人の赤ン坊を抱いて、どうして曝す事が出来よう。
 私は思案に余った末、一度宅へ帰る事にした。妻はきっと驚くだろう。けれども訳を話せば納得するに違いない。妻なら赤ン坊の世話も出来るし、泣き出せば近所のおかみさんが乳を呉れるだろう。赤ン坊を妻に預けて置いて私は直ぐ、呉服店に引き返えそう。今は三時だから呉服店の閉る五時までには充分本所まで往復する時間はある。その時分には父は帰っているだろうし、あの奥さんは自分の子供の事だ、余計に心配をかけるのは気の毒だが、きっと待っているだろう。そう決心して私は電車に乗った。
 妻は私が赤ン坊を連れて帰ったのを見ると、丸い眼をはち切れるように瞶《みは》って吃驚した。
 私が手短に事情を話すとまあと云って赤ン坊を受取った。そうして、
「なんて可愛い赤ちゃん」と云った。
 誰だって、この赤ン坊を見たならばこう云わないで居られるものか。赤ン坊もやっぱり妻に抱かれる方が気持が好いのだろう。ニコニコと笑った。
 妻は父に見つけられはしないかと、ひどく恐れたけれども、私は云い宥《なだ》めて、すぐ呉服店に引返えした。
 恐々内部へ這入ったが、父の姿はもう見えなかった。そうして何とした事だ、赤ン坊のお母さんの姿もどこにも見えないのだ。
 私は呉服店が閉るまで、内部をうろつき廻った。閉っても未だ暫く外に立っていた。けれどもとうとう奥さんの姿は見えなかった。
 重い足を引摺って暗い気持に浸りながら、再び私は宅へ帰った、赤ン坊はスヤスヤと寝て居た。留守中に一度激しく泣いたそうだけれども、二三軒先のおかみさんに乳を貰うと、そのまま寝ついたのだった。
 私は妻と顔を見合せてホッと溜息をついた。
 私達二人でさえ、もち扱っているのだ、こんな天使のような悪戯者が飛び込んで来て、どうすることが出来ると云うのだ。
 二人はいろいろ相談した。
 何と云っても、警察へ届けるのが一番だけれども、それは出来なかった。父は警察へ私の捜索を依頼しているに違いないから、第一父に見つけられる事が恐かったし(之は妻が特別に恐れた。何故ならもし私が見つかればきっと二人の仲を裂かれると思っていたから)、私達が偽名して今の所に住んでいるのが、ひょっと知れるのも恐かった。
 私は三年前今の妻と恋に陥ちた。妻は当時あるカフェの女給をしていた。彼女はほんとうに真菰《まこも》の中に咲く菖蒲《あやめ》だった。その顔があどけなく愛くるしいように、気質《きだて》も優しくて、貞淑だった。けれども頑固な父は女給であると云う事だけで私達の結婚をどうしても許さなかった。父にして見れば早く妻に別れて、男手一つで育て上げた一人息子は掌中の珠より可惜《いと》しかった。その大事な息子の魂が、父の見解に従うと売女としか思えない女給風情に盗み去られると云う事は、耐らないことであったのだ。
 或日とうとう最後の時が来た。私は父に袂別の辞を述べて家を出たのだ。それから人目を避ける為めに偽名をして、この路次の奥のささやかな家に世帯を持っているのだ。
 それから三年越し私達は随分苦労した。私は妻とした上は女給をさせて置く事は出来なかったから、僅か許り持出した金を頼みに、内職をしたり、ホンの僅な給料で勤めたりして、細々と生計を立てて来た。それが、何と云う不幸だろう。三月程前からすっかり職に離れて終ったのだ。一生懸命に倹約《つつま》しくして、やっと手つかずに残して置いたいくらかの貯えも、もうあと二月とは保たないのだった。それで私は毎日就職口を探して歩いていたのである。でも父に詫びると云う事はどうしても私の意地が許さなかった。こんな情けない有様を父に見られるのは死ぬより辛い。こんな事情で警察へ訴える事は、どうしても出来なかった。
 と云って同じような理由《わけ》で、新聞広告も出来なかった。私立探偵となると、費用はよし後に先方で出して呉れるとした所で、いつ先方の知れる事が当がなかった。
 私達は可愛い赤ン坊を間に置いて当惑した。
 どうしよう、どうしようと云いながら二三日経ってしまった。いろいろのものを赤ン坊の為めに買い調えねばならなかった。親の方では随分探しているだろうと思って、新聞社の前へ行ったり、隣のを借りたりして、新聞の広告には残らず眼を通したが、それらしいものはなかった。もしやと思って、呉服店の前へも二三度行って見たが、駄目だった。
 でも赤ン坊は障りなく育って行った。もう大分馴れて、私達の顔を見るとニコニコ笑う。それにつけてもほんとうの親達の心はどんなだろうと思うと、じっとしていられなかった。
 妻はお襁褓《むつ》をこしらえたり、それを取り替えたり洗ったり、それに世帯の苦労が加わりながらも、始終機嫌の好い顔をして、赤ン坊の世話をした。妻は真から赤ン坊を可愛っているようだった。三日目の朝こんな事を云った。
「あなた、この赤ン坊宅の子にしましょうか」
「馬鹿を云え」私は答えるのだ。「そんな事が出来るものか。第一親が承知しやしないよ」
「でも親が、今だに何ともしないのは可笑しいわ。きっと何か事情があって、棄子にでもしたんじゃないでしょうか」
「何を云うんだ。真昼間大勢の中で、棄子をする奴があるもんか。それに撰りに撰って、貧乏書生なんかに渡す奴はないよ」
 とは云いながら私にも実は不思議でならないのだ。新聞に広告さえも出さないで、子供の行衛を尋ねようとしない親の心が分らないのだ。
 妻は黙って終った。私には妻の心がよく分るのだ。私が自分の不注意から、こんな厄介物を背負込んで来た事を、苦に病んでいる事をよく知っているものだから、妻は自分の気苦労を押し隠して、私を慰めるように、ああ云うのだ。ほんとうに可愛そうな妻よ。私はどうしたら好いのだろう。
 所が、天は何と無情なんだろう、それとも親に背いた罰なのか、この窮境の時に、私はふと風邪を引いて終った。然し風邪を引いたと云って、じっとはしていられないのだ。就職口と赤ン坊の親とを探し出さねばならぬのだ。私は無理に外を歩いた。
 二三日すると私はどっと床についた。四十度の熱が出た。我慢にも起きられない。肺炎になったのだ。貯えの尽きようとしている時に、他人の赤ン坊を背負込んでいる時に、私は動けなくなったのだ。泣き叫ぶ赤ン坊と、高熱に浮かされる夫の間で、甲斐甲斐しく働く妻を見ると思わず熱い涙がハラハラと溢れるのだ。でも、私はもう筆をとる事さえ出来なくなった……。

        妻の手記

 夫が寝てから一週間になる。四十度の大熱が続いて、今が一番危険な時だとお医者さんが仰有った。肺炎には手当が肝心だと云うので、氷で冷したり、湿布をしたり、吸入をしたり、私は夜も寝ずに介抱した。でも未だ先が見えない。私はどうしたら好いだろう。
 夫も心配だけれども、赤ン坊にも伝染《うつ》りはしないかと随分心配だわ。だって赤ン坊は他所の子ですもの。夫が思いもかけぬ大病になって、その中で赤ン坊を馴れぬ手に育てる。それもあり余るお金でもあれば別だけれども、こんな貧しい中で、明日にもなくなるお金の事を思うと、ほんとうに情けなくなる。然し之もみんな神様がお試しなさる事だ。夫がこのまま治って呉れれば、赤ン坊が育ってさえ呉れれば、今までの苦労は何でもない事だわ。けれども、夫が寝込んだ為めに赤ちゃんのお母さんを探す事が出来なくて困って終う。ほんとうにお母さんはどうしていなさるんでしょう。
 夫が始めて赤ちゃんを連れて帰った時に、私は随分驚いたけれども、夫の話に真実偽りがあろうとは思いません。ほんとうに親の身になったら、どんなにか辛い事だろう。一時も早くお返えし申したいと思ったわ。
 けれども、その翌日、ふと赤ちゃんが夫によく似ている事を発見《みつ》けた時に、私はどんなに驚いたろう。横顔がそっくりなんですもの。私、疑っては済まないのだけれ共、夫が他所で生ました子で、何かの訳で連れて来たのだと思いました。でも余り夫の話が奇妙なんですもの。
 私、随分考えたわ。夫に限ってそんな筈はないと思うのだけれども、もしやと思うと、そりゃ情けなかった。けれども赤ちゃんはほんとうに可愛くて仕方がない。これが夫の子なら、この子のお母さんさえ承知なら私は喜んで育てるわ。私は心から夫を愛しています。私の為めにお父さんと喧嘩して、その為めにこんな悲惨な暮をなすっているんですもの。夫の子だと思えば私自分の子のように愛せるわ。私何遍か夫にその事を云おうと思った。だって、余りよく似ているんだもの。でも流石にそうとは云い兼ねて、一度冗談のように、宅の子にしようかと云ったら、すぐ馬鹿と叱られて終った。でも女と云うものはしようのないもの、私はまだ迷っていたわ。
 間もなく夫の病気、大熱が続いたので、お父さんの事や、私の事や、随分いろいろと囈言《うわごと》見たいな事を云った。私は心配でおろおろしながらも、それでももしや夫が赤ン坊の秘密でも云いはしないかと、ほんとうに我ながら気の狭いのにあきれる、聞耳を立た事だった。けれども赤ン坊の事は気が確な時に二度許り、早く親の手に返えしたいと云った切り。人と云うものはこんな時に嘘の云えるものじゃない。自分の子なら心配してなんとか云うに違いない。私ほんとに疑るなんて済まない事をした。赤ちゃんは夫の子でもなんでもありゃしない。他の赤ちゃんなんだ。
 こう分ると、何だか張りつめた気がガッカリした。赤ン坊は可愛くて可愛くて、それに私によく馴染んで、離すのは嫌だけれども、いつまでもこうしてはいられない。早く親の手に返さなければならないし、夫は病気だし、どうしたら好いだろう。
 ああ又隣で子供が騒ぐ。隣の人達はみんな好い人で、それにお母さん一人で大勢の子供を抱えているのだから、無理のない事だけれども、安静が第一だと云う夫の病気に障ったらどうしよう。こんな日当りの悪い六畳に三畳切のバラックで病みついている夫が気の毒で仕方がない。私と云うものさえなければ何不自由なく暮して行ける身分なのに、このまま熱が下らなかったらどうしよう。それよりももう一週間も病気が続いたら、薬を上げる事も出来ない。ああ涙で何にも分りゃしない。この意気地なし奴。
 どうぞ一日も早く夫の病気が治り、そして赤ン坊の親が知れますように、神様お願いです。

        私立探偵の手記

 私は未だかつて取扱った事のない奇妙な事件を依頼せられた。依頼人は若い婦人であったが、その夫が東京駅前である未知の婦人から、その婦人が呉服店行の自動車に乗るのを助ける目的で、その婦人の子供と思われる赤ン坊を受取ったままはぐれて終って、その赤ン坊を宅へ連れ帰り、種々の事情からそのまま預り育てていると云うので、夫が大患に罹った為め、妻たるその婦人が私の事務所を訪ねて、秘密裡に母親を尋ね出す事を依頼したのである。
 これは誠に奇妙な事件だ。
 預った方が警察に届けなかったのは、まあ理由があるとして、預けた方が之を秘密裡に葬ったのは合点の行かぬ事だ。私は直ぐに都下の各警察署、並に同業各私立探偵社を調査したけれども、赤ン坊の捜索願と云うのは一件もなかった。
 前後の事情から考えると棄子とは思われない。赤ン坊も赤ン坊の母親と思われる婦人も共に相当の身装をしていた点から察しても、生活に困るものと思われない。それに警察を憚るとはどう云う訳だろうか。普通の常識から考えると、母親たるものは自分の子供を失って平然として居られるものではない。況やその子はどんな他人が見ても愛せずには居られない可愛らしい子だと云うではないか。
 警察に訴えて出ないのは何か後めたい事がある為めとしか考えられないが、一体どんな事を恐れるのだろうか。
 第一に考えられる事は母親か或は父親か、それとも一家の中の誰かが、警察のお尋ね者になっている事だ。けれども母親の様子は犯罪者に関係があるようには見えない。のみならず、母子の情愛は些々《ささ》たる刑罰位には替えられぬ筈だ。
 第二は母親が子供を手渡した後、直ぐに何かの事情で外部との交通を断れた事である。例えば万引其他の犯罪で検挙せられたか、或は誘拐せられたとか云う如きである。然し私の調べた所では検挙せられた様子もなく、家出人の届出にも似よりのものはなかった。
 第三は、之は甚だ薄弱な理由だけれども、この外には最早考えるべき所は残っていない。即ちその子が正当な子でない事で、私生児、姦夫の子、或は犯罪人の子などで、父親なり母親なりの身許を警察に知られたくない場合であるが、然しこんな事はよし訴え出た所で、充分隠せる事だし、又警察でも一身上の秘密を曝露するような事はしない。だからこんな事は、自分の子を失った母親を引止める障害となろうとは思えない。その外|継子《ままこ》、貰子、拾子等実子でない場合が数えられるけれども、いかに実子でないと云っても、他人に手渡して行衛が分らなくなったのを、そのままにして置く気遣いはない。
 そこでふと思いついたのは、その婦人は何かの理由で、赤ン坊を受取った青年を見知っていたのではないか、と云う事である。何故なら以上論じ尽した理由によると、どうしても見ず知らずの他人の手に赤ン坊を渡して、母親が晏如《あんじょ》としている筈がないからである。どう云う理由でかは分らぬが、その婦人が青年を知っていたとすると、その婦人は赤ン坊が無事にいつかは我手に戻る事が信ぜられるから、幾分落着いていられる訳である。こう考えると、その婦人が訴えて出ない事にも幾分解釈がつく。即ちその婦人は青年が世を忍ぶ身である事を知って、彼に同情して訴え出ないのだ。
 この考えの許に、私は依頼人の知人関係を調べる事にした。何しろ依頼人自身が身許を隠しているので、この調査は頗る困難であったが、三四日の後判明した事は、依頼人の夫たる青年は某銀行家の一人息子で、結婚問題から一昨年家出したものであった。銀行家からは警察は勿論我々同業へも捜索の依頼がしてあった。皮肉な事には私の所へもちゃんと依頼が来ていた。その銀行家は一時の激昂の余り一人息子と義絶した事を後悔しているらしく、殊に二年に余る行衛不明はだんだん年をとって行く身に犇々とこたえると見えて、最近に一層猛烈にその行衛を尋ね出したのであった。
 親の方の関係、それから青年の友人関係と辿って見たが、最近赤ン坊をなくして悲嘆に暮れている家は見当らなかった。私の見込ははずれたのだろうか。
 私は母親の身になって考えて見た。よし自分の赤ン坊が知人の手にある事が分って、その知人が人目を避けているので急に遭えないと云う事が分っても、じっとして居られるものだろうか。彼女は青年が何かの手段で赤ン坊を返えしに来て呉れる事を予期しているに違いない。だが青年は彼女の名も所も知らないのだ。ではどこへ返えしに行く。それは彼等が共通に知っている所でなければならぬ。ではどこ? 東京駅前だ。呉服店だ。現に青年も健康でさえあれば、そこへ出かけた筈ではないか。
 時刻は? 矢張り始めに別れた時刻だ。
 そう思って私は依頼を受けてから五日目、午後二時過ぎ、東京駅前に行った。
 駅頭は相変らず混雑していた。呉服店行の自動車には群集が犇めいていた。私は思わず微笑んだ。
 二三台の自動車を見送っているうちに、ふと私はそこから少し離れた所に一人の婦人が佇《たたず》んでいるのを発見した。
 年の頃は二十五六、少し面窶《おもやつ》れはしているが、丸髷に結った奥さん風のすっきりとした美しい婦人である。
 じっと観察していると、彼女は自動車の発着の度に、眼を輝して忙しく乗降の人を探し求めている。自動車の姿が消えると、そのぱっちりとした眼は急に悲しそうになる。
 私は思った。この婦人だ。この婦人に違いない。私は思い切って傍へ行って言葉をかけようとした。その時に予期しない邪魔者が這入った。私が近寄らないうちに、私と反対の方から、一人の憂鬱な皺を額に刻んだ頑丈そうな六十近い年頃の紳士が太いステッキを振り振り婦人の傍へツカツカと寄って、一言二言囁いたと思うと、一緒にさっさと歩き出したのである。
 私は機会を失して茫然とその後姿がだんだん小さくなるのを見送っていた。
 だが、私は幸されていた。その夜、思いがけなく、赤ン坊を人に預けたまま、行衛を見失った母親が、その赤ン坊の捜索を私に頼む為めに私を訪ねて来た。美しい丸髷の婦人で、今日東京駅前で見たその人であった。

        再び妻の手記

 流元《ながしもと》で氷を砕いて立上ろうとすると、くらくらとして急にあたりが暗くなって終った。それからどれ位経ったか、赤ン坊の泣声に気がつくと、私は台所の板敷につっ伏《ぷ》していた。永い間の寝不足で瞼がひとりでに塞って、気が遠くなるのを一生懸命に堪えて、部屋に這入ると、寝ている夫の頭にそっと氷嚢を載せた。それからそっと三畳に寝ている赤ン坊を覗き込んだ。
 夫は一時下りかけた熱がブリ返えして、高い熱が又一週間続いている。赤ン坊は幸せと丈夫だったけれども、病気の夫を抱えて、馴れない赤ン坊の世話だもの。気苦労ばかりで、思うように行かない。今にも動けなくなる時が来そうな気がする。
 それに、薬代とか、氷代、炭代、赤ン坊の牛乳代など、倹約にしていれば二月位あるだろうと夫と話していた貯えは、二週間のうちに費《つか》い果して終った。明日からはどうしよう。
 隣近所のおかみさん達はほんとによくお世話下さる。でもみんなそれぞれ自分達の子供や仕事があるのだ。況《ま》してお金の事など、どうして頼む事が出来よう。意気地のない私はお金を儲ける事などは無論のこと、借りに行く所さえないのだ。
 お父さんをお訪ねして、事情を申上げれば、可愛い息子さんの事ですもの、私は憎いかも知れないけれども(そうなれば私は身を引くばかりだ。意気地なしめ、涙なんか流す奴があるものか)、きっと何とかして下さるだろうと思った事は一度や二度じゃないけれども、もしや明日にも熱が下るかと空頼みをして、それにあれ程堅い決心をしていなさる夫に後で叱られる辛さに、今日までは歯を喰い縛って辛抱して来た。
 赤ン坊の親達はどうしていなさるだろう。一週間前に私立探偵社へ頼みに行ったんだけれども、今だに分らない。今更愚痴な事だけれども、せめてこの赤ン坊さえ預らなければ夫の世話も届くんだったのに。ああ思うまい。思うまい。みんな神様の覚召なんだ。
 でも、明日からどうしよう。お金がなくてどうして夫の病気を治す事が出来よう。赤ン坊を育てて行く事が出来よう。夫にもしもの事があれば私はお父さんに合す顔がない。どうしよう。
 私は泣いて泣いて、流す涙も尽きて終った。精も根も尽き果てて終った。畳の上へどうとつっぷして終った。
 その時に思いがけなくガラリと格子が開いた。はっと起き上ると、案内もなしに一人の年とった紳士がぬっと這入って来たので、私は吃驚した。よく見ると、それが一度お目にかかった事のある夫のお父さんだったので、驚くまい事か、私は恥しさと恐しさとで、忽ち畳に頭を摺りつけて終った。
 お父さんは、ズカズカと夫の傍へ寄って、じっと痩せ衰えた顔と激しい息遣いを見て居られたが、お眼に涙が光っていた。
「えらい苦労をかけたのう。もう大丈夫じゃ。安心おし」
 思いがけなく、優しい言葉をかけられたので、私は耐らなくなって、わあと声を上げて泣いて終った。
「赤ン坊はここかな」
 こう仰有って、三畳の間の襖をガラリとおあけになって、部屋へ這入ると、お父さんはいきなり赤ン坊を抱き上げた。
「おお達者でいたか」とあやしながら私の方を向いて、「お前さんのお蔭じゃ。厚くお礼申しますぞ」と云われた。
 私は何が何やらさっぱり分らない。
 赤ン坊は抱かれながら円々《まるまる》と肥った顔をニコニコさせていた。
 ふと気がつくと格子の外に丸髷姿の奥さんが立っていた。私は恥しくって声をかける事が出来なかった。夫が助かったと云う喜びと、赤ちゃんの親が知れた安心とで、夢を見るような心地でただウロウロしていた。

        再び夫の手記

 この頃の幸福な生活を思うと夢のようだ。去年の今頃は私は死生の間を彷徨していたのだ。裏長屋のジメジメした一室で大熱に悩んでいたのだ。妻は大病の私と、私が奇妙な出来事から抱いて帰って来た赤ン坊(其の赤ン坊は今はもう歩くようになって、現に今之を書いている私の傍で、せっせと悪戯をしている)との間に立って、あらゆる辛酸を嘗めていた。そこへ父が飛び込んで来たのだった。
 妻は父が這入って来た時にはひどく驚いたそうだ。父が赤ン坊を抱き上げてあやした時には何が何だか分らなかったそうだ。
 赤ン坊は父の子だったんだ。私の妹だったんだ。
 父は私が家出した後に奉公に来た小間使と恋に陥ちた。独身生活を永くやった上、たった一人の息子に背かれた父は五十を越した身で始めてほんとうの恋を味った。
 その女は間もなく子供を生んだ。それが私の見た赤ン坊のお母さんだった。赤ン坊のお母さんは以前に一度私の宅へ奉公に来た事があるそうで、私をよく見知っていた。あの日自動車に乗り悩んでいた時に、親切に赤ン坊を取って呉れた青年を一眼見ると、それが私だったので、あっと思ううちに自動車に乗り損って終った。次の自動車が中々来なかったのが間違いの元だった。彼女は気が気でないので、電車に乗った。その電車が故障を起したので、乗替場所まで歩いたりしていたので、大へん暇取った。そのうちに私は父を見つけて(父は彼女と赤ン坊を待っていたのだった。彼女とは別居していたので、時折打合して買物などを一緒にした)、外へ出て終ったので、彼女の来た頃には私は居なかった。父と彼女は私を探したけれども、無論見つからなかった。
 父は赤ン坊が他人ならぬ私の手に渡ったので、いくらかは安心していた。そして父はこの赤ン坊の事件を警察の手に出す事を好まなかった。父は久しい以前から、もう私を許しているのだった。父は私が帰りさえすれば、いつでも抱き迎えたのだった。それで充分手を尽して私の行衛を探していたのだったが。今度は同時に赤ン坊の行衛も突留める事が出来るのだから、赤ン坊の事は隠して、私の捜索のみを、事新しく警察に願い出たり、私立探偵社を煩わしたりして、一生懸命に手を尽したのであった。
 然し十数日の捜索が無効に終ったので、父はとうとう、母親をある探偵社にやって、赤ン坊の事を依頼さした。それが偶然私の妻が頼みに行った所だった為めに、すぐ解決する事が出来た。父は私の窮状と私の妻の貞節を聞いて涙を流した。そうして私達の隠家たる裏長屋に飛び込んで来たのだった。
 それから、父も私も妻も赤ン坊も赤ン坊の母親もみんな幸福だった。赤ン坊は私達を幸福に導いて呉れた天使だった。
 妹はみんなから可愛がられている。可愛がらずに居られるものか。でも、お前は私に似ているので嫂さんを心配さしたんだよ。
(「探偵文藝」一九二六年四月号)

底本:「幻の探偵雑誌5 「探偵文藝」傑作選」光文社文庫、光文社
   2001(平成13)年2月20日初版1刷発行
初出:「探偵文藝 第2巻第4号」奎運社
   1926(大正15)年4月号
入力:川山隆
校正:土屋隆
2006年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

甲賀三郎

ニッケルの文鎮—– 甲賀三郎

ええ、お話しするわ、あたしどうせお喋りだわ。だけど、あんたほんとに誰にも話さないで頂戴《ちょうだい》。だってあたし、あの人に悪いんですもの。
 もう一年になるわね。去年のちょうど今頃、そうセルがそろそろ膚《はだ》寒くなってコレラ騒ぎが大分下火になった時分よ。去年といえば、随分嫌な年で、新聞には毎日のように、自殺だの人殺しだの発狂だのって、薄気味の悪い事ばかし、それにあんた知ってるでしょう。妙な泥坊の事、ね、そら希代《きたい》に大きな宅《うち》ばかり狙って、どこから入ってどこから出たのやらちっとも分からないのに、いつの間にか金目のものがなくなっていたり、用心すればする程面白がって、思いがけない方法で忍び込んだりして、どこからでも入るからまるでラジオの様だというので、新聞に無電《ラジオ》小僧なんて書かれて随分騒ぎだったでしょう。それにとうとうしまいには御恩《ごおん》になった先生があの死に様《よう》でしょう。あたしほんとに悲観しちゃったわ。
 無電小僧といえば、あんたあの話知ってる? 去年の春だったか牛込《うしごめ》のある邸《やしき》の郵便受けの中に銀行の通帳と印形《いんぎょう》が入れてあって、昔借り放しにしていたのをお返しするって丁寧な添え手紙がしてあったという話。新聞に出てたでしょう。あそこの主人は清水ってお爺《じい》さんで、何とか議員をして上面《うわべ》は立派な紳士なんだけれども、実は卑しい身分から成り上がった成金で、慈悲《じひ》も人情もない高利貸しなのよ。今じゃもう警察のご厄介《やっかい》になって、おまけに呆《ぼ》けちまって、誰も見向きもしないけれども、ほんとにひどい奴で、先生の亡くなられたのも、つまりあの業突張《ごうつくば》りの為だわ。そんな欲張り爺《じじい》だから、手前んとこの郵便函に、聞いた事もない人の通帳が入れてあったのを、普通の人なら気味悪がって届けるものを、昔貸し倒れになったのを返して来たんだろうなんてノコノコ銀行に出かけたんだわ。ところが銀行では盗難の届けの出ていた所だから、たちまち爺さんは警察へ突き出されちゃったの。何べんもいうようだけれど、爺さんは欲張りで、倹約《けんやく》だなんて大金持ちの癖に、いつでも薄汚い身装《なり》をしているもんだから、何とか議員だって警察には通じやしないわ。それでとうとう一晩|拘留《こうりゅう》させられたのよ。痛快じゃないこと、ところが泣きっ面に蜂というのは爺さんが警察に宿《とま》っている晩に、無電小僧に入られたのよ。この事は新聞に出なかったんだけれども、訳があってあたしは知ってるの。郵便受けの中へ銀行の通帳を入れたのも無電小僧の策略だったんだわ。ほんとにいい気味ったらありゃしない。
 あたしはほんとにこの爺が嫌いで仕方がなかったんだけれども、月のうちに一、二度はきっと宅《うち》へやって来るのよ。そうしちゃ診察所の帳面を調べたり、書生さん達やあたしに用をいいつけたり、そりゃ横柄なの。先生はあんな優しい方でしょう。黙って平気で見ていらっしゃるんでしょう。あたし歯掻《はが》ゆくって仕方がなかったわ。あたし馬鹿ね。一年もご奉公しながら、なんで清水の業突張りがこんな事をするのか分からなかったの。男はやはり賢いわ。着物の柄を見る事なんか駄目だけれどもね。下村さんや内野さんは、――書生さんの名よ、――二人ともあたしより後から来たんだけれども、ちゃんと分かったと見えて、教えてくれたわ。何でも先生がご研究のお金に困って、清水からお金を借りなすったんだって、それがひどい仕組みで、どうしても返し切れないようになっていて、利に利が嵩《かさ》んで、とても大変なお金になったんですって。それでお宅の方も診察所の方もすっかり抵当に取られて、月々の収入も大方は清水に取られてしまって、先生の方へはホンのポッチリしか入らないんですって。会計の方は一切清水が握っていて、いわば先生は清水の懐《ふところ》を肥やす為に、毎日働いていなすったんだわ。先生はいろいろご本をお書きになって、世界に知られた方だったし、ご診察の方も名人だったんですから、名誉を思えばこそ、清水にそんなひどい事をされても黙っていなすったんだわ。それに奥様は永いご病気でずっと床に着き通しですものね。あたしこの頃になって先生のお心持ちを察するとほんとに自然《ひとりで》に涙が出て来るわ。
 普通の人間だったら、どうせいくら稼《かせ》いだって、他人の懐を肥やすだけですもの、働くのもいい加減嫌になるはずだけれども、先生は患者さんにはそれはご親切だし、前いったように、診察は名人だったから、なかなか流行《はや》ったわ。でもね、亡くなりなすった少し前から一層研究の方にお凝りになったので、自然患者さんも前程ではなかったようだったわ。ですから奉公人の数も、あたしの来た当座とは少し減ったの。診察所の方は薬剤師が一人と会計の爺さんとで、この二人は通い、その外に先刻《さっき》いった下村さんと内野さんの書生が二人。外に看護婦が二人。これは随分顔ぶれが変わったわ。しかし看護婦なんてものは起きてるうちは病人を豚の子かなんぞのように扱って、寝てしまえば自分が肥った豚みたいにグウグウ鼾《いびき》を掻いて、それこそ蹴飛ばしたって眼を醒ましやしないんだから、誰だって構やしない事よ。
 奥の方はご飯たきが一人、奥様付きが一人、それにあたしが先生付き。ええあたしは旦那様とはいわずに先生っていってたの。ご飯たきはもういい加減の婆さんで、台所ばかりに居たし、奥様付きはお米さんといって、いっぺん嫁《かたづ》いた人であたしよりは十位年上でしょう。おとなしい人で、それに寝た切りの奥様に付いているのですもの。沁々《しみじみ》話す暇もなかったわ。ええ、お子さんはなかったの。そういう訳で、診察所の方の人達と口を利くのはあたしだけといってよい位だったわ。そりゃああたしがお侠《きゃん》だからだけれども、先生の小間使いですもの、そりゃどうしたって診察所との交渉が多いわよ。ええ、こりゃ漢語よ。
 それで書生さんの下村さんと内野さんとがとても素敵なの。そりゃいい男なのよ。あら、そんな事いうなら、もう話を止《よ》すわよ。
 二人とも二十四、五だったわ。内野さんがなんでも三月か四月に来て、それから一月程して下村さんが来たの。二人とも江戸っ子だったわ。無論お互いに前は知りっこなし。よく旨く揃ったものだわね。どっちもいい体格でね。肉体美っていうのね、デッブリ肥っているんでなしに、スラリとしているんだけれども、肉が締まっているんだわ。下村さんの方は色が白くてニコニコすると、そりゃ愛嬌があるんだけれども、眼許に少し険があってね、どっちかというと考え深そうな顔でした。内野さんは少し浅黒い方で、ハイカラな言葉でいうと、そりゃ明るい顔なの、だからまあ、下村さんの前では打ち解けて話しても心の隅にはどっかこう四角張った所が残っているような気がするのが、内野さんの前では心底《しんそこ》から打ち解けて気が許せるという位の違いはあるの。ええ、そりゃまあどっちかといえば、内野さんの方が好きだったけれども、下村さんだって好きだし、あたし困るわ。あたしだけじゃなくてよ。誰でもきっと困ると思うわ。学問の事はあたしには判らないけれども、二人とも何でもよく知っているらしいのよ、頭脳《あたま》だって両方大したもんよ。むずかしい事をいってよく議論するの。昼間ならまだよいけれど、夜遅くまで書生部屋でやるんでしょう。あたし寝られなくって困った事があったわ。あたしにはよく分からないけれども二人ともちっとばかし、ほら、あの社会主義とかいうんでないかと思ったわ。
 先生はあとから考えて見ると、あの頃少し変だったわ。先の短い人のように、一分一秒を惜しんでせっせと暇さえあれば書斎に籠《こも》って書き物ばかししてらっしたし、それにこうなんとなく打ち沈んで元気がなかったし、あたしなんだか近い内に変わった事が起こりそうで仕方がなかったわ。
 あの晩ね。宵《よい》の内《うち》に内野さんと下村さんの二人でそりゃ大議論をしたのよ。先生は書斎でいつも通りご勉強でしょう。あたしお次室《つぎ》に坐っていると、書生部屋で二人が大声でいい争っているのがよく聞こえるのでしょう。あたし喧嘩になりやしないかと思って心配して、止めに行こうかと思っているうちに、先生がお呼びでしょう。ハーイってお部屋へゆくと、下村と内野を呼んで来いってんでしょう。あたしきっと叱られるんだろうと思ってヒヤリとしたわ。二人が入ってしまうと、あたし次室で聞き耳を立てて居たんだけれども、大分しんみりした話と見えて、ちっとも聞こえないの。そのうちにお手が鳴って紅茶を持っておいでというのでしょう。様子を見ると叱られている風でもないので、あたし安心したわ。
 紅茶を上げてから、そう十一時頃でしょう。二人は書生部屋へ帰って寝ちゃったの。先生はまだご研究に起きていらしったようでしたが、もう寝てもよいとおっしゃったので、部屋へ下がって寝たのよ。あたしウトウトとして、フト眼を覚ますと、書斎の方で何だか変な物音がするのよ。先生がまだ起きていらっしゃるのだろうと思って、寝返りを打とうと思って、廊下の方を見ると真っ暗でしょう。書斎に灯《あかり》がついていれば、それが差して、障子が白く闇に浮かぶはずなんですもの。ハッと思うと、眼がすっかり覚めてしまったの。念のため手探りで障子を開けて見ると真っ暗でしょう。その途端に確かに書斎から人の出て来るような気配がしたの。あたし震え上がっちゃったわ。床の中へ潜《もぐ》り込んで蒲団を被《かぶ》っていたの。しばらくすると辺りはしーんとして、もう物音も何も聞こえないでしょう。あたし恐々《こわごわ》起きて、電灯を点けて見たの。それからまたしばらく息を凝らしていたけれども別に何の変わった事もないので、少し元気が出て来て、廊下伝いに書生部屋へ出て、廊下の外から、下村さん内野さんと呼んだの。二人とも平常《ふだん》はそりゃ目覚《めざと》いんだけれども、その時に限ってグウグウ鼾を掻いているので、とても駄目だと思って、部屋へ帰って寝てしまったの。とても書斎の方へ行く元気はなかったわ。
 なかなか寝つかれなくて、それでも明け方にトロトロとしたでしょう。外が少し白んで来たと思うともう起き上がって、気になっていたもんだから先生のお寝みになる部屋を第一番に覗いて見ると、前の晩にあたしが取って置いた通り、床がチャンとして、先生のお休みになった様子がないじゃありませんか。あたしはハッと思って、急いで書斎へ行って、扉《ドア》をコツコツ叩《たた》いて見ても返事がないでしょう。胸をドキンドキンさせながら、恐々扉を開けてみたの。そうすると先生は背向《うしろむ》きに椅子にかけて正面の大きな書き物机にもたれて、ガックリとこう転《うた》た寝でも遊ばしているような恰好なんでしょう。先生、先生と呼んで見たけれどもちっとも返辞がありません。あたしもう耐《たま》らなく不安になって、書生部屋へ駈けつけて、二人を起こしたの。内野さんも下村さんもなかなか起きないんですものね。随分困ったわ。やっと眼を醒ました二人に先生が変だというと、二人はまるで弦《つる》から放れた矢のように部屋を飛び出したわ。あたしが後から追い駈けてゆくと、扉の所で二人が話しているの。
『君、ちょっと待ちたまえ』下村さんの声、『手袋をはめて入ろうじゃないか。誰かこの部屋を荒らしたようだから、指紋を消してしまうといけない』
 内野さんも異議がなかったと見えて、二人とも書生部屋に引き返して、手袋をはめて書斎へ入ったの。変に丁寧な事をすると思ったわ。あたしもあとからそっと部屋に入ると驚いたわ。本箱の中の本は残らずといっていい位外へ出して、開け放しのままや、閉じたままに積み重ねてあるし、抽斗《ひきだし》は残らず引き抜いて、そりゃもう部屋中はめちゃくちゃに引っ掻き回してあるの。先生は相変わらずじっとしていらっしゃるでしょう。つかつかと先生のお傍へ寄って行ってね。肩へ手をかけて起こそうと思ってふと頸《くび》の所を見ると真っ黒なものがベットリついているの。よく見るとそれが血なんでしょう。あたし内野さんが抱き留めてくれなきゃ、きっとあそこへ引っくり返ったに違いないわ。
『これでやったんだな』下村さんがそういって先生の側《そば》へしゃがんだので、見ると血のついた文鎮が足許の所に落ちていたわ。この文鎮というのは先生がフルスカップって、そら大きな西洋の罫紙《けいし》ね、あれを広げたまま押さえる為に特別にお拵《こしら》えになったので、長さ一尺以上あるでしょう。ニッケルなんですって。あたし掃除をする時によく持ったけれども、そりゃ重いもんよ。いつだったか先生が冗談に『八重《やえ》、これで力一杯ぶたれると一思いだよ』と仰しゃった事があったけれども、ほんとにこれでぶたれてしまいなすったんだわ。
 下村さんも内野さんも妙な人よ。あたしに何も触っちゃいけないといって、二人で一生懸命に、手袋をはめた手でそこいら中引っ掻き回して、といっても、そりゃ丁寧なのよ。ちゃんと元の通りにして置くんですものね。口なんか少しも利かないの。窓の様子を調べたり、床の上を這い回ったり、壁を叩いて見たり、あたしこう思ったわ。きっと二人共近頃|流行《はやり》の探偵小説にかぶれて、名探偵気取りで、犯人を探そうと思って競争しているんだと。二人はよく競争するんですものね。え、あたしが居るからだって。冗談でしょう。二人ともなかなかそんな人じゃなくてよ。それであたし二人が余り探し回るから、ちょっとからかおうかと思ったけれども、場合が場合でしょう。それに二人が余り真剣なんですものね。手持ち無沙汰でもあり、気味悪くもあり部屋を出ようとすると、内野さんが、『八重ちゃん。まだ外《ほか》の人には知らさない方がいいよ』といったので、あたしは自分の部屋へ帰ったけれどもどうしてよいのやら、いても立っても耐《たま》らなかったわ。
 そのうちに下村さんが警察へ電話をかけたらしいの。八時頃だったでしょう。自動車でドヤドヤと大勢お役人さんが来たの、あたし達みんな順繰りに調べられたわ。お役人さんて妙ね、髭をはやした立派な身装《みな》りをした人が、痩せこけたみすぼらしいお爺さん見たいな人にヘイヘイするんですものねえ。あのお爺さんがきっと判事さんとか検事さんとかいうのよ。まあ検事さんにしとくわ。あたしは知ってる通りいったわ。指紋とかをとられたわ。外の人達もみんな簡単にすんだらしいけれども、下村さんと内野さんは随分調べられたようだったの。しまいには二人一緒に調べられたようよ。つまりね、二人とも何も知らないでグッスリ寝ていたのが可笑《おか》しいというのでしょう。それに物奪《ものと》りだか、遺恨《いこん》だかとにかく先生を殺した奴は診察所の窓から入って、書生部屋の前を通り、書斎へ入って、背後《うしろ》から先生を文鎮で一打ちに殺して置いて、悠々《ゆうゆう》とそこいら中を探し回って裏口から逃げたというのが警察の見込みで、それに診察所の窓は一つだけ、中からかけ金がはずしてあったらしいというので、一層二人が疑われたんだわ。文鎮はどこに置いてあったかって。あんたも検事さん見たいな事をいうのね。あたしそれを聞かれるとちょっと困ったわ。妙なもので、毎日見ているものでも、だしぬけに部屋のどの辺にあったかと聞かれると、ちょっとまごつくわね。あたし多分先生の書き物机の左方にある別の机の上に置いてあったと思ったわ。え? ええ、先生の死骸は何でも死後何時間とかいうので、兇行は前の晩の二時頃と定《き》まったんです。
 内野さんと下村さんは訊問が済んで、書生部屋へ帰ると、何かコソコソ話し出したの。紅茶という声が聞こえたので、あたしは思わず聞き耳を立てると、
『君、どうして検事に先生の前で紅茶を飲んだ事をいわなかったのだい』内野さんの声、
『君こそどうして隠したんだい』下村さんの声。
『僕は先生に迷惑がかかりはせぬかと思ったのでいわなかったよ』
『僕もまあ君と同じ理由《わけ》だが、も一つは君が迷惑しないかと思ってね』
『何、僕が』内野さんは驚いたようだったわ。『どういう訳だい』
『君はグッスリ寝ていて何も知らなかったというのはほんとかい』
『残念ながらほんとだよ、君が何をしても知らなかったさ』
『妙な物のいい方だね』下村さんは案外落ち着いているわ。『僕こそ君が何をしても知らなかったのだよ』
 二人で疑りっこしているのだわ。あたし二人ともよく寝ていた事は知っているのだから、喧嘩になるようなら、そういってあげようかと思っていると、いい塩梅《あんばい》にそれっきり話がしまいになったらしいの。
 そうこうしているうちに大変な事が持ち上がったの。奥さんはほら前にいった通り瀕死《ひんし》の病人でしょう、先生の事なんかお耳に入れるとどんな事になるか分からないので、お役人も考えていたらしいのですけれども、聞かなきゃならない事もあるし、話さずに置く訳に行かなくなったので、まあお米さんが引き受けて、遠回しに話し出すと、奥さんは案外平気なんですって、気丈な方ね。そうしてお米さんに、『旦那さんはかねがねもしもの事があったら、書斎の西北の隅の腰羽目《こしばめ》の板を少しズラすと鍵穴があるから、そこを開けると遺言が入っているから開けて見るように』と仰しゃっていたからといって、奥さんは預かってあった鍵をお出しになったのよ。
 お役人なんてやっぱりあわてるのね。お米さんが自分が持って行くのは嫌なものだから、鍵をあたしに頼んだんでしょう。あたし仕方がないから書斎に持って行ったの。そうすると検事さんでしょう、痩せこけた上役らしい人がしかつめらしい顔で受け取ってあたしに『西北はどっちですか』と聞くでしょう。あたし達いつでも右左っていってるんですもの。突然《だしぬけ》に西だの東だのったって、容易に分かりゃしないわ、考え込んでいると、丸顔の肥《ふと》ったもう一人のお役人が磁石を出しかけたの。ところがそれがズボンの帯革に鎖がからまってなかなかはずれないの。肥っているから自分の腰の所がよく見られないのでしょう。あわてるから反《かえ》ってなかなかとれないの。検事さんは少しイライラしていたようだわ。やっと鎖が外れると、ほらあの金で出来た磁石によく蓋《ふた》がついているでしょう。あれなのよ。それでなかなか蓋が開かないの。検事さんはとうとう癇癪《かんしゃく》を起こして、下村さんか内野さんかを呼ぶつもりでしょう。壁に取りつけたポッチを一生懸命に押し出したの。呼び鈴のつもりなんでしょうけれども、あれは電灯のスイッチなんですもの。誰も来る気遣いはないわ。年寄りの癖に新式のスイッチを知らないんでしょうかね。あたし教えて上げようかと思っているうちに、やっと磁石の蓋が開いたの。
『えーとこっちが北で、こっちが西と、この隅です』と机の置いてある真後ろの隅を指したの。お爺さんはやっと壁の手を放して、その隅へ大急ぎで行ったわ。それから二人で一つ一つ羽目板を揺すぶったけれどもビクともしやしないわ。とうとう諦めて私に書生を呼んでくれといったの。あたしが内野さんと下村さんを連れて帰って来ると、検事さんが『君、西北というのはこの隅ですね』と今まで探していた隅を指したの。二人は、――やっぱり男は偉いわね、――すぐに『いいえこの隅です』と机とちょうど反対の隅を指したわ。
『君は一体何を見たんだ』と検事さんが怒鳴ったの。
『磁石を見たのです』若い方も少し怒りながらいったわ。
『見せて見たまえ』年寄りの方が引ったくるように磁石を受け取ってしばらく見てたっけ。
『馬鹿な。君はどうかしているこっちが北だから、君のいう方は東北じゃないか』
『そんなはずはありません』若い方はむっとしながら、磁石を受け取ったの。それから頓狂《とんきょう》な声を出したわ。
『オヤ、変だ。さっき見た時と針の指し方が違う』
『馬鹿な事をいっちゃいけない。磁石の針が五分や十分の間に狂うものか』
『――』腑《ふ》に落ちないのでしょう。若い人は黙ってじっと磁石を見つめていたわ。
 議論はともかく、遺言を出さねばならないでしょう。西北の隅というのは大きな本箱のある所ですものね。総がかりで本箱を動かしてね。検事さんが調べるとね。じきに板のズレる所が分かって、鍵穴があったの。鍵は無論合うし、訳なく遺言状が出たわ。奥さんでなければ開けられないので、あたしが枕頭《まくらもと》に持って行って開けたの。中にはいろいろ細かい事が書いてあったけれども、別に一枚の紙があって、思いがけない大変なことが書いてあったの。余程興奮してお書きになったと見えて、ブルブル震えて、字の大きさや行なども不揃いだったわ。あたし読んでいるうちに蒼くなっちゃったわ。
『私はきっと清水に殺されるに違いない。
 私はほんの僅かな借金が原因《もと》で、清水に長い年月|苛《さい》なまれて来た。私はただ彼の奴隷として生き永らえたのだ。私は涙を呑んで堪え忍んだ。私は研究が可愛かったのである。私はただ研究が完成したかったのだ。ところが清水は私のその大切な研究を金になりさえすればというので、密かに窺《うかが》っているのだ。彼は一方に私の復讐を恐れるのと、一方にこの研究を手に入れたい為に私を邪魔にしているのだ。私はきっと清水に殺されるに相違ない。もし私が変死をすれば、それは清水の手にかかったのだ――』
 よく覚えていないけれども文章はまあこんな風だったと思うわ。奥さんのいいつけでこの遺書を持って検事さんの所へ行くと、流石《さすが》のお爺さんも驚いたようだったわ。それから一時間程して、清水の業突張《ごうつくば》りが書斎へ連れられて来たの。まるで死人のような真っ蒼な顔をしていたわ。何しろ文鎮には立派に清水の指紋がついていた事が判ったのでしょう。前夜遅くまで家に帰らなかった弁解《いいわけ》は出来ないし、先生との関係がどんな風だか[#「どんな風だか」は底本では「どんな風だが」]、下村さん達がいったし、それに先生の書き置きでしょう。とても逃れる所はないんですものね、蒼い顔をして悄然《しょうぜん》としているのを見ると、あたしはほんとにいい気味だったわ。こいつが先生を殺したんだと思うと随分憎らしくもあったわ。
 あたしそう思ったわ。清水の奴、文鎮で先生を殺して置いて、ええ、傷口はピッタリ文鎮と合ったのよ。これで打った事は疑いの余地はないの。そして自分の事を書いてある遺書《かきおき》のあるのをどうかして知っていて、それを奪《と》ろうと部屋中探したに違いないとね。何てずうずうしいんでしょう。あたし達三人また検事さんの前に呼ばれて清水の事で調べられたわ。
『お前は被害者が清水宛てに手紙を出した事を知ってるか』って聞かれたわ。
 あたしそんな事知らなかったの。下村さん達も知らなかったわ。先生の手紙は大抵あたしが出しに行くのですから、あたしならまあ知っている訳だわ。
 清水がこういうんですって。昨日の昼先生から秘密の用談があるから、今晩遅くに来てくれという手紙を貰《もら》ったのですって、それで夜出かけたけれども、先《せん》に一度銀行の通帳の事で一杯喰わされた事があるので、何となく気が進まず、宅《うち》の前まで来てそのまま帰っちゃったんですって。だって可笑しいでしょう。先生の手紙が通帳の一件とは何の関係もないし、それに先生の手紙は破いてくれとあったのでその通り破いたのですって、怪しいわね。それに研究の事をいうと真っ蒼になったんですもの。何ていったって、清水のした事に違いないじゃありませんか。だけどどうしても白状しないのよ。
『甚《はなは》だ差し出がましいようですが』下村さんがだしぬけに検事さんにいったの、『本件には一、二矛盾した所があるように思います。第一には兇器たる文鎮には歴然と指紋があって、犯人が部屋中を捜索したと認められるにもかかわらず、他に同様の指紋が現れない事で、兇行後手袋をはめるという事はちょっと常識では考えられませぬ。つまり犯人が二人いたか、あるいは指紋が兇行前既についていたか――』
『そんな事はないわよ』あたし思わず下村さんにいったの。『だって先生はあの文鎮が錆《さ》びるのが心配で始終拭いてらしったし、あたしも毎朝一度はきっと拭くんですもの』
『私も下村君の説に賛成です』内野さんがいったの。『この本箱を探した男は明らかに余程背の低い男です。ご覧の通り下から出した本を積み重ねて踏み台にしています。清水さんなら、無論踏み台なしで届きましょう』
 あたしは何だか二人で清水の加勢をしているようで憎らしかったわ。二人は清水の回し者かしらと思ったわ。だって清水はあんなに先生を苦しめた奴じゃありませんか。何も弁護するに当たらないと思うわ、清水はひっつった死面《デスマスク》のような顔を二人の方に向けて、眼で拝んでいるようだったわ。
『文鎮の長さはどれ位でしょう』下村さんがあたしの思慮《おもわく》などお構いなしに聞いたわ。
『約一尺という事じゃが』検事さんの答え。
『もっと委《くわ》しく知りたいのです』
 刑事ってんでしょうか、清水の傍にくっついていた人は渋々巻き尺を出して計ったわ。
『十一インチ四分の三』
『えっ、間違いはありませんか。大丈夫ですか――内野君』内野さんの方を向いて『君とほら、二、三日前にあの文鎮の長さの賭けをしたろう、君は長さを覚えているかい』
『十一インチ八分の七』内野さんがきっぱり答えたわ。
 各自《めいめい》考えていたんでしょう。しばらく誰も口を利くものがなかったわ。あたしも考えて見たんだけれども何の事かちっとも分からなかったわ。下村さんは沈思黙考《ちんしもくこう》という形、内野さんはゴソゴソ本箱の辺で何やら調べ始めたようでした。
『文鎮を削って見て下さい』下村さんが突然叫び出したのであたし吃驚《びっくり》したわ。
 下村さんのいう事がもっともらしいので、お役人もいう通りに削って見たけれども、やっぱり中までニッケルだったの。下村さんの考えは鍍金《めっき》じゃないかと思ったのでしょう。
『中までニッケルですか』がっかりしたようにいってまた腕を組んで考え出したわ。
 そうすると今度は内野さんが怒鳴り出したの。
『あいつだ。そうだあいつだ』
 皆|吃驚《びっくり》して内野さんの方を見たわ。
『皆さん、ご承知でしょう。ドイツ語教師古田正五郎を、あいつです。ここへ忍び込んで来たのは』
 あたし二度吃驚したわ。だってこの古田の話はやっぱりあの無電《ラジオ》小僧と関係して、つい先頃新聞に喧《やかま》しく出された不思議な事件ですものね。今でこそもう覚えている人は余りありますまいが、当時は知らない人ってなかったでしょう。古田というのはね、どっか私立学校のドイツ語の先生で、片手間に翻訳なんかしている人なの。新聞に写真が出てたっけが、クシャクシャとした顔で、まるで狆《ちん》ね、それでいて頭が割合に大きくて背が人並はずれて低いっていうのですから、お化けに近いかも知れない。でも頭脳《あたま》が大変よくて、翻訳なんか上手なんですって。この人が突然行方不明になったんですわ。おかみさんが心配して、このおかみさんの写真も出ていましたがそりゃ別嬪《べっぴん》よ。あたし位かって、冗談いいっこなしよ。そのおかみさんが方々探しても見つからないので警察へ届けたの。そうすると何でも家出してから四、五日目におかみさん宛てに手紙が来て、余儀ない事情で二、三週間家に帰らないが、決して心配する事はない、愉快に暮らしているからって、手紙の中にはお金が入っていたのですって、警察でもうっちゃっといたらしいの。そうすると手紙通り三週間目かにブラリと元気のいい顔をして帰って来たのよ。警察でもいろいろ聞いたらしいけれども、ハッキリした事はいわなかったんですって。その時はそれでよかったんですけれども、一カ月経つとまた家出をしたの。二、三週で帰ってくると置き手紙がしてあったので、今度はおかみさんも騒がないでいると、二週間程すると今度は蒼い顔をして帰って来たんですって。三度目が大変なの、例によって二、三日留守にしたと思うと清水の爺さんの宅《うち》で切り傷を拵《こしら》えて気絶していたの。その時は何でも爺さんに翻訳の頼まれものをしていたらしいのですが、その晩に強盗が入ったの、人の宅だから黙ってりゃよいのに抵抗したんでしょう。切られた上に打《ぶ》たれて気絶しちゃったの。傷は浅かったんだけれども、ひどくぶたれたんですね。警察でも随分調べたけれども、手掛かりがちっともないの。それに清水の爺さんは盗人《ぬすっと》が恐いから随分用心しているので、そう容易には入れないはずだし、それに先にそら銀行の通帳の[#「通帳の」は底本では「通帳」]一件があったりして、てっきり例の無電小僧の仕業となったのよ。新聞でもそう書き立てたの。そしたらそりゃ[#「そりゃ」は底本では「そりぁ」]無電小僧が怒ってね、新聞に投書したのよ。大胆な泥坊じゃないこと。俺は無電小僧なんて名乗った事はないが、人がそういうのは多分俺の事と思うが、そういってくれる通りどこから入ったか、どこから出たか分からぬように立ち働くのが俺の腕の勝《すぐ》れた所で、俺は人に姿を見られた事はない。況《いわん》や切れ物を振り回したり、傷を負わした事があるものか。少し不可解な事件が起こると、自分の無能を隠す為に、あれも無電小僧これも無電小僧と俺に責任を負わせるのはご免|蒙《こうむ》ると偉い剣幕なの。警察では躍起となって探したけれども、とうとう捕まんなかったわ。それからしばらくするとまた二晩程古田がいなくなったんですって。おかみさんも仕方がないから抛《ほう》って置くと、二晩目の夜中に、押入れの中でうんうん唸るような声が聞こえるのですって、気丈なおかみさんと見えて押入れを開けると、長持ちの中で人が唸っているようなので家政婦と二人で恐々開けると、現在のご亭主が後手に縛られて猿ぐつわをはめられていたんだって、可哀相に二昼夜程自分の家の長持ちに入っていたんだわ。半死半生になっていたのですって。可哀相に、何でも突然《いきなり》、後ろから来て縛られちゃったので、どんな奴にやられたのか少しも分からないというのです。今度こそ正真|贋《まが》いなしの無電小僧にやられたんだわ。これはほんとうでしょう。今度は無電小僧も新聞に投書しなかったから。それにしてもそれだけの事を家の人に気づかれないでよくやったものねぇ。
 その古田がここへ来たというのでしょう。皆びっくりするのは当然《あたりまえ》だわ。
『ご覧なさい』内野さんはあっけに取られている皆の顔を見ながらいったの。『こうして開けてある本がみんな大形のドイツ語の本でしょう。抽斗《ひきだし》でもなんでも大きなものばかり抜いてあるでしょう。私はかねがね先生から聞いていましたが、先生のご研究を盗もうという奴があるのです。それで先生は書き上げると、秘密の場所に隠されるのです。先生のご研究は机の上を見ても分かる通り、みんなフルスカップに書いてあります。だから隠すにしても大形の本か大きい抽斗でなければならないのです。古田はドイツ語が読めます。だから彼はきっと先生のドイツ語で書かれた研究を盗み出そうという一味の一人に相違ないのです。彼は背が低い。そして何よりも動かすべからざる証拠はここに挟んである紙片です。彼は多くの本を調べて行くのにマゴつかないように、すんだ分には小さい紙片を挟んだのです。白紙のつもりであったのが、彼の翻訳の原稿の書き損ないでも入っていたと見えて、この反故《ほご》に彼の手蹟があります。私は実は古田にドイツ語を習った事があるので、彼の手蹟はよく知っています』
 歯切れのいい口調で、まるで朗読しているような朗《ほが》らかな声で堂々というのでしょう。あたしすっかり聞き惚れちゃったわ。外の人もみんなそうだったの。ところがね。下村さんだけがね。この人はさっきから腕組みして考え込んでいたのですが、この時ちょっと内野さんの喋っている顔を見てニヤニヤと笑ったわ。でもすぐ元の顔になったから、気がついたのはきっとあたしだけだったでしょう。
 検事さんも、古田の事は知っていたと見えて、内野さんの渡した紙片《かみきれ》を見ると、すぐ古田を捕まえに刑事をやったわ。清水の爺は相変わらず顔をゆがめて化石したように突っ立っていたわ。
『もう一本の文鎮を探す必要があるね』しばらくすると内野さんが下村さんにいったの。
『うん、確かに二本あるに相違ない。たとえわずかでも寸法が違うからね。しかしもう一本が鉄に鍍金《めっき》したものであるとしても、どうしてスリ替える事が出来るか。今落ちているのが鉄でなければ説明がつかない』下村さんは独り言のようにいったの。
『そうかッ』内野さんがそりゃ大きな声を出したわ。あたし飛び上がっちゃったわ。『君の考えは素敵だ。君、ニッケルでいいんだよ[#「ニッケルでいいんだよ」に傍点]。恐ろしい計画だったなあ。さあ天井裏だ』
 こういうかと思うと、内野さんはたちまち窓にスルスルと昇って、庇《ひさし》に手をかけ洋館の屋根に上がって、あの汽車の日よけ窓のようなシャッターのはまっている小さい窓をはずし出したわ。下村さんもすぐ後から登ったわ。しばらくすると内野さんが天井裏へ入り込んだので、続いて下村さんも入ろうとすると、中から内野さんが何か渡したらしいの。しばらくすると二人で何だか重そうな電気の機械みたいなものを抱えて下りて来たわ。
『これがコイル、これがマグネットです。コイルに強力な電流を通じると、マグネットに強力な磁力が生じます。ちょっとやって見ましょう』内野さんは机の下を探し回って、太い電線を見つけてつないで、それから先刻《さっき》の壁のスイッチを押して、ニッケルの文鎮を傍へ持って行くと、パチッと音がして吸いついちゃった。あたし吃驚したわ。
『文鎮が鉄だったら、恐らく下村君は一時間も前に謎を解いたでしょう。純粋のニッケルが磁石に吸引せられる事はちょっと人の知らぬ事です。先生は天井裏にこれを仕掛けて、電流を通じて文鎮を天井に吸いつかせ、次に電流を切ってそれを自分の頸の上へ落としたのです。自殺です。さっきほらあの方の磁石が狂ったでしょう。あの時は偶然検事さんがこのスイッチを押して居られたので、磁石が机の方を指したのです。文鎮は二つ拵《こしら》えてあってかねて清水さんの指紋を取ってあった方を使ったのです。嫌疑が清水さんにかかるように仕組んであったのは十分なる理由《わけ》があるように思います。この機械の傍にこの通りもう一本のニッケルの文鎮と、そしてもう一通の先生の遺書がありました』
 この遺書《かきおき》は警察宛てだったので、すぐ開けられたの。あたしは検事さんが読んでいる内にハラハラと熱い口惜《くや》し涙を流したわ。
『親愛なる警察官諸君。私はこの第二の遺書が私の死後幾日にして開かれるかを知らない。私が改めていうまでもなく、この遺書の見出される日はすなわち私の死が自殺である事が明らかになる日で、清水に対する嫌疑の晴れる日である。私はこの遺書の発見せられる時期が、彼清水が私に加えた暴戻《ぼうれい》に対する復讐に必要にして十分なる程度に、長からずかつ短からざるを祈る』
 短過ぎたわ。先生が生きて復讐する事が出来ないで、死んで仇《あだ》をとろうとあれだけの苦心《くしん》をなすったのに、こうむざむざと見つけられるとは。あの業突張りに何故もっと大きな天罰が与えられないのでしょう。あたし涙が止めどなく出て仕方がなかったわ。皆の思いも同じでしょう。暗い顔をしてしばらくは誰も口を利くものがありません。
 でも、後はもう古田の問題だけでしょう。殺人でなかったので検事さん達はホッとして帰り支度を始めたわ。清水は嬉しいんだか何だか気抜けしたようにポカンとしていましたっけ。
 そうすると突然内野さんが検事さんを呼びかけたのです。
『検事さん。まだ少し事件が残っています。私は清水氏を古田と共謀して先生の研究を盗み出した人として告発したいと思います。それからこの下村君も無罪ではありません。彼は診察室の窓を開けて置いて、古田の忍び込むのに便宜《べんぎ》を与えました』
 まあ。下村さんがそんな事をしたのかしら。じゃ下村さんは清水の手先だったのかしら。けれども何か内野さんの思い違いじゃないかしら。もし思い違いなら、随分ひどいわ。それとも平常《ふだん》の議論の仇討《あだう》ちかしら。そんならなおひどいわ。こんな場合にそんな事をいわれちゃどんなに迷惑するか知れやしない。けれども内野さんがそんな卑怯な事をする気遣いはなし、あたし随分思い迷っちゃったわ。でも下村さんは割合に平気だったわよ。
 こういわれると検事さんだって、うやむやにする訳にも行かないでしょう。内野さんのいう事を聞き出したの。あたしは外へ出されちゃったわ。それからどうしたものか、下村さんと清水さんは警察に連れて行かれちゃったわ。
 悪い事は続くもの。その晩とうとう奥さんも亡くなっちゃったの。内野さんが万事取り締って、一日置いて淋しいお葬《とむらい》を出してね、奉公人はそれぞれ暇を取って帰ったのですが、あたし内野さんと変になっちゃってね、下村さんを警察へやっちゃったと思うと、なんだか内野さんが頼もしくない人のように思えて、どうも前のようにはならなかったわ。それでも別れる時に、『八重ちゃん、さようなら、ご縁があったらまた逢いましょう』といわれた時には何だか心細くて涙が出たわ。
 その後の事はあんたも新聞で知っているでしょう。清水と古田は先生の研究を盗もうとした罪で刑務所へ入れられたわ。清水はあの日殺人の嫌疑が逃れられぬと思った為に、すっかり驚いてしまって、その後頭脳が呆けてまるで駄目になっちゃったそうだわ。矢張《やっぱ》り天罰ね。先生のご研究というのは何でも戦争に役に立つ事なんですって。これは無事に陸軍だか海軍だか知らないが、ちゃんとその方へ納まったんですって。ただ思いがけなかったのは下村さんが警察へ行く途中で逃げちゃった事だわ。あたしまさかそんな事する人とは思わなかったんですけれどもね。人って分からないものと思っていたの。そうしたらなんでも二、三カ月経って、清水や古田の事がすっかり落着《らくちゃく》した時分よ、あたしのこちらへ上がっている事をどこで知ったのか、内野さんと下村さんとから、しかも妙じゃない事、同じ日に手紙が来たの。あたし、下村さんの方から読んだのです。
『親愛なる八重子さん。
 ご無事にお暮らしで結構です。蔭ながら喜んでいます。私もお蔭で無事です。
 あの日警察へ行く途中で、私が逃げたので驚いたでしょう。私もあの日はかなり骨を折りましたよ。何しろ相手が内野君という豪《ごう》の者ですからね。あなたにもいろいろ分からない事があるでしょう。だからあなただけにそっと知らせてあげますよ。
 事の起こりはね。清水が先生のご研究を横取りした事なんです。先生のご研究というのは戦争に使う毒ガスなので非常に秘密にしておられたのです。それを清水が嗅ぎつけて何の研究だか[#「研究だか」は底本では「研究だが」]知らなかったんですが、とにかく金にさえなればというので、借金の返済を楯に、否応なしに取り上げたのです。もっともまだ完成していなかったのですが、大部分は清水の手に渡ったのです。ところがドイツ語で書いてあるので、清水は自分は少しも読めないから、誰かに翻訳を頼まねばならなかったのですが、迂闊《うかつ》には手が出せないので、古田を秘密に呼び寄せて、割のよい報酬で訳させたのです。ところが古田が無断で家を出たものだから、留守宅で騒ぎ出すし、いろいろ物騒な話のあった頃で、世間も喧しくなりそうだったので、途中で一度帰したのです。二度目に古田が清水の宅で翻訳をしている時に、無電小僧――本人はこの名を大変嫌がっているのですが――という例の盗人が清水をねらって、例の銀行の通帳でおびき出して、留守宅へ入ると、思いがけなく古田が翻訳をやっていたので、ちょいとその原稿を失敬したのです。無論一部分でした。清水も用心して古田に少しずつ渡していたのです。そこで無電先生宅へ帰って読んでみると、なかなか面白いもので、次第によったら金になりそうなのです。それで様子を窺っていると、三度目に清水に呼ばれた時、古田の奴、狂言強盗で入りもしない泥坊に、ホンのちょっと掠《かす》り傷を負わされて、ひどい目に遭わされたように見せかけ、残りの原稿をすっかり自分の懐へ入れちゃったのです。新聞で無電小僧の仕業と書き立てたでしょう。そこで無電小僧が怒って、古田の宅へ侵入して彼を縛りつけて探したけれども、ちょっと原稿の在処《ありか》が分からなかったのです。これがまああの古田の身の上に四度まで起こった怪事件の真相です。その後無電小僧は原稿の出所を先生の所と悟りました。つまりこうして研究の原稿が古田と無電小僧と先生――最後の方ですね――との三人に別れてしまったという訳です。そこで無電小僧は虎穴《こけつ》に飛び込んだのです。先生の所にいれば、隙があれば先生の持っている分を引きさらはうし、計事《はかりごと》で古田を誘《おび》き寄せて、彼を脅して原稿を出させる事も出来ます。
 で、ある日、無電小僧は古田に清水の偽手紙を書いて、先生の書斎の本箱の中に最後の分が隠してあるから、奪って来いといったのです。そうして置いて彼はそっと診察所の窓を開くようにして置いたのです。古田が来れば捕らえて、脅して原稿を吐き出させるつもりだったのです。ところが幸か不幸か、その晩ある人の術策によって、紅茶の中に麻酔剤を入れられて、前後不覚に寝かされてしまったのです。
 先生はあの晩に清水を誘き寄せて、話の最中に、電灯のスイッチを切って、部屋を真っ暗にすると共に、例の清水の指紋のついている文鎮を自分の頸に落として自殺を遂げる。清水があわてて逃げ出す拍子に私達に捕まる。とこういう計画だったらしいのです。ところが清水は来なかったのですから、無電小僧が起きてマゴマゴしようものなら、反《かえ》ってひどい眼にあったかも知れなかったのです。紅茶を飲んだのはあるいは幸いだったかも知れません。
 先生は古田が忍び込んで来たのをご存じだったのでしょう、思う存分探させて置いて、彼が出て行くのを見届けてからあの巧妙な自殺を遂げられたのです。私はあの日、内野君の頭脳には感服しました。内野君がいなかったら、私にはあの日に解決がつけられなかったかも知れません。それから内野君が脱兎《だっと》の如く天井裏へ駈け込んだ鋭さ。彼は先生の研究の最後の結果が天井裏の電気仕掛けと共に隠されている事を咄嗟《とっさ》に見破ったのです。それから驚いたのは診察室の窓の事で先手を打った事です。あれは内野君が開けて置いたのです。それを私にかぶせたのは一つには先手を打って私にいい出す機会を失わせ、一つには私を遠のけて、天井裏のどこかへ一時隠した原稿をゆるゆる取り出すつもりです。私はわざとその手に乗って、警察へ行く途中から逃げ出したように見せ、刑事と共に古田の家へ行きました。これは大変好結果でした。古田は証拠を消す為に、先生から奪《と》った原稿を焼こうとしている所でしたから、もう一足遅いと先生の研究は永久に葬られた訳です。内野君は古田は人の目につかぬ所に原稿を隠しているから、彼を刑務所へやってから探すつもりだったらしいが、彼が焼き棄てようとは思わなかったのでしょう。もうお気づきでしょうが、内野君は即ち無電小僧です[#「内野君は即ち無電小僧です」に傍点]。私は[#「私は」に傍点]? 私は私立探偵[#「私は私立探偵」に傍点]です。先生に身辺を保護すべく頼まれたのでしたが、今考えて見ると、先生は私に清水を捕らえさすつもりだったらしい。紅茶に酔わされた為に、先生の目的も私の目的も達せられなかったのでした。多分親切からでしょうが、紅茶に催眠剤を入れた方は飛んだ罪作りの方です。
 ではさようなら、お身体を大切に』
 私読んでいるうちにほんとにびっくりしちゃったわ。なんだか内野さんの方の手紙を見るのが恐いようだったけれども思い切って開けて見たの。
『私の好きな八重ちゃん。
 ご機嫌よう。相変わらずじれったいんでしょう。
 私もお蔭で達者です。
 私の事ももうそろそろ分かった時分でしょう。あの日は全く苦戦でしたよ。何しろ相手が下村君、実は木村清君という豪の者ですものね。ただあの場を切りぬけるだけなら訳はなかったのですが、先生のご研究をそっくり頂戴したいと思いましてね。古田の忍び込んで来たのは、元々、私が誘き寄せたのですから、証拠がなくたって、私にはちゃんと分かっている訳です。実は彼をその場で押さえて、原稿の在処《ありか》をいわせるつもりでしたが、紅茶に酔わされて駄目。そこでそれを逆用して、古田の事をいい立てて、検事の信用を博すると共に、古田を刑務所に送ろうとしたのです。無論留守中に彼の宅から原稿を盗み出すつもりです。
 それで、かねて古田の手から奪い取った彼の翻訳の原稿の切れ端を、手早く書物の間に挟んで、それを証拠に古田の来た事をいいたてたのですが、検事始め余人は騙せましたが、たちまち木村君に看破《みやぶ》られたらしいのです。私はもういけないと思いました。先生の仕掛けに気がついて天井裏に潜り込んだ時に、予期した通り最後の研究の原稿は見つかりましたが運び出す事が出来ません。多分診察所の窓を開けて置いた事も、木村君は気付いているだろうと思って先手を打ったのでしたが、思えば危ない事でした。
 とにかくこうして先生の原稿の頭と尻尾《しっぽ》は手に入ったのですが、胴中を思いがけなく古田の手から、木村君にしてやられました。木村君がお互いに国の為でもあり、先生の為でもあり、一つにして陸軍省へ出そうじゃないか。その代わり、君の事も確たる証拠は何一つないのだから、何にもいわぬというので、私も潔《いさぎよ》く原稿を差し出しました。
 紅茶のご馳走どうも有り難う。あれは私には幸いでもあり、不幸でもありました。それからいつか貰った写真ね。あれは私の身許が分かっては、あんたも嫌でしょうからお返しします』
 返さなくたってよいのに、私思わず声を出していったわ。最後にパラリと封筒から出た台紙のない手札の半身姿の自分の写真を、ビリッと破っちゃったわ。どうという訳もなかったの。それにしても二人とも偉いわね。あたしが紅茶の中へカルモチンを入れた事を看破ったわよ。あれはそら、あの晩二人が大議論したでしょう。それから先生に呼ばれたでしょう。あとであの続きをやられては叶《かな》わんでしょう。それに喧嘩にでもなってはいけないと思って、二人に飲ましたんだわ。そしたら夜中にあんな事が起こってしまって、ほんとに困ったわ。二人をああして寝かさなければ、先生は助かったのでしょうか。まさかそんな事ないわね。だって先生は覚悟の自殺ですもの。それとも清水にもっと疑いがかかって、あの機械仕掛けの事が、ああ早く分からなかったかしら。それとも内野さんなんかが疑われて、もっとこんがらがったでしょうか。何にしても先生に対して悪かったんでしょうかね。そうだとするとあたし悲観してしまうわ。

底本:「本格推理展覧会 第三巻 凶器の蒐集家」青樹社文庫、青樹社
   1996(平成8)年3月10日第1刷発行
入力:大野晋
校正:kazuishi
2000年11月14日公開
2005年12月7日修正
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甲賀三郎

ドイルを宗とす—– 甲賀三郎

私が探偵小説を書いて見ようという気を起したのは疑いもなくコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物語の示唆である。中学生だった私には、ホームズの推理は驚異であった。最初に読んだのは佐川春水氏が「銀行盗賊」と改題して訳述した「赤髪組合」か、それでなければ訳者を失念したが、太陽か又は太陽と同型の雑誌に発表された「青い宝石」で、どっちが先だったか確かな記憶はない。次いで「ナポレオン偶像」「バスコムベリイの惨劇」「黄色い顔」「斑らの紐」等を、或いは原文で講義を聞き、邦訳対照のものを読み、或いは未熟の力で直接原文を読んだりした。そのいずれもが次々に異った驚異と昂奮とを与えて呉れたのだった。上述の諸作に現われたトリックや推理の過程は、私の初期の作品より引続き随所にアダプトされている。
 学校を出て勤めの身になってから、甚しく私の興味を刺戟したのは、森下雨村君訳の「月長石」と、小酒井不木君訳の「夜の冒険」の二長篇だった。就中《なかんずく》後者は探偵小説構成の定石本として深い感銘を受けたものであった。この二長篇が発表されて間もなく私が探偵小説を書いたという事は偶然でないような気がする。保篠龍緒君訳する所の「虎の牙」も私には大きな驚異だった。多少の影響を受けているかも知れぬ。
 探偵小説以外の小説の影響を受けている事は甚だ僅少だと思う。それは、探偵小説はコンストラクションの文学であって、他の小説と全く別箇の存在であるという私の持論の結果であるというよりも、反《かえ》ってそういう事実が、私の結論を導き出したのであるといえる。
 最近では新青年に訳載された「鼻欠け三重殺人」で、作そのものより作者のいっている言葉「解決は只《たゞ》一つあり、而《しか》してそれのみが可能なり」という一節に敬服した。この一事こそ探偵小説の精髄であり、卑しくも探偵作家を以って任ずるものの、起稿第一に考えなければならない事だと思う。
(昭和十二年、〈新青年〉特別増刊探偵小説傑作集に発表)

底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1984(昭和59)年12月21日初版
   1996(平成8)年8月2日8版
入力:網迫、土屋隆
校正:大野 晋
2004年11月6日作成
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甲賀三郎

キビキビした青年紳士–甲賀三郎

帝大土木科出身の少壮技術者の創設にかかるものでN・K・倶楽部というのがある。この倶楽部に多分大正十年頃だったと思うが、科学技術者が大挙して入会することとなり、私は準備委員といったわけで、丸の内の同倶楽部へ時々顔を出したことがある。その時分に倶楽部の仕事も段々多くなるし、会員の大部分は昼間他の職業に従事していて、充分に会務を見ることが出来ないから、専任の人を迎えることになった、もっとも庶務担当者として有給の書記が一人二人いたのであるが、今度迎えるのはそれらの上に立つ人で何でも書記長と呼んでいたかと思う。
 新たに書記長に迎えられた人は最近まで大阪で新聞の経済記者を勤めていた人で、中々の手腕家であるということを推薦者から聞いていた。私は恰度彼の就任挨拶のときに居合わしたが、いかにも新聞記者らしいキビキビした青年紳士でアクセントのハッキリした歯切れの好い調子で別にそうやっているのではないが、ちょっと肩を聳やかしてものをいうという風《ふう》で中々頼もしげに見えた。
 その後も無論倶楽部に行く度にはチョイチョイ顔を見合わせるし、個人的に親しく口は利かなかったが、会議の時の議論などは中々しっかりしていて、私の意見にもかなり一致する所が多かったので、これは遣り手だぞと思ったことを記憶している。私は、然し、本来不精なのと、中々意見が多くて、そして自分の意見通り行われないと面白くないという性質なので、先輩の多いその倶楽部では自然黙って聞いていることが多くなり、いつとはなく遠のいて行った。そのうちに書記長に迎えられた人もやはり意見が行われない為かだんだん初めの意気込みがなくなって行くらしいことを耳にした。やがて一年経たないうちに辞めて終ったという話だった。
 N・K・倶楽部の部員で私と同じ科を出たOという男がいたが、それが森下雨村君の親友だった。そんな関係で、以前から探偵小説が好きで、当時も盛んに新趣味などを読み耽った私は、同時に熱心な新青年の愛読者となった。私にも書いて見ないかという話があったが、とても僕などにはと尻込みをしているうちに、乱歩君の「二銭銅貨」が現われ、次いで、「D坂の殺人事件」「一枚の切符」などの名篇が陸続として現われた。
 当時これ等の名篇は創作探偵小説界に於ける空谷の跫音として、何人も一読三嘆したものだが、O君の伝える所によると、作者は相当の年配いやむしろ老人だということだった。当時雨村君にも未だ作者の正体がよく分っていなかったらしい。
 そのうちに私も驥尾《きび》に附して一二篇新青年誌上へ発表するに至ったが、その自分に前述のO君が或る日のこと私に向って、
「おい、君、江戸川乱歩というのは平井太郎だぜ。」
 といった。
「えっ、平井君だって?」
 私は意外に思った。平井君というのは即ちN・K・倶楽部の書記長だった青年紳士である。江戸川乱歩としての平井君には後に森下君と一緒のときに初対面をしたが、乱歩君も君が甲賀君だったかという訳で甚だ奇遇だった。今でも議論に熱して来れば、例の肩を聳やかすような口調で歯切れよく喋る。読売講堂の探偵趣味の会で巡査に扮して出た時などは、茶気といわんよりは頗る熱心で、殊に最後の挨拶などの堂々としていたことは居合わした人は皆認めると思う。一面にはキビキビした江戸前の所を見せながら、一面にいかにも不得要領な急所の分らない贅六《ぜいろく》式なところのある彼乱歩は正に一種の怪物である。

底本:「江戸川乱歩 日本探偵小説事典」河出書房新社
   1996(平成8)年10月25日初版発行
初出:「大衆文藝」
   1927(昭和2)年6月
入力:sogo
校正:noriko saito
2008年5月18日作成
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甲賀三郎

「黒死館殺人事件」序—– 甲賀三郎

 探偵小説界の怪物《モンスター》江戸川乱歩が出現して満十年、同じく怪物《モンスター》小栗虫太郎が出現した。この満十年という年月はどうも偶然でないような気がする。小栗君が現われた時に、私は江戸川君を誘って、満十年にして新人出で、探偵小説壇によき後継者を得たお祝いをしようと思ったが、つい果さなかった。今でもそれを残念に思っている。
 江戸川君の怪物ぶりと小栗君の怪物ぶりとは自ら違う。然し、両君ともに、その前身が何となく曖昧模糊としていて、文壇にデビュウするまでに、相当忍苦の年月があり、文学的に相当年期を入れている点が相似ている。そうしてこの点が私や大下君とハッキリ区別されているところが面白い。
 一体人は怪物呼ばわりされて決して愉快なものでなく、又無暗に人を怪物と呼ぶのは非礼千万であるが、その非礼を敢てしても、どうも江戸川君と小栗君はやはり怪物《モンスター》である。江戸川君の妖異と小栗君の妖異にはハッキリ区別があり、江戸川君が一流の粘り気のある名文で妖異の世界に引込んで行くのに反し、小栗君はむしろ晦渋と思われる一流の迫力のある文章で、妖異の世界に引込んで行く。江戸川君のものを江戸時代の草双紙とすれば、小栗君のものは中欧中世紀の草双紙である。
 兎に角、小栗虫太郎は不思議な作家である。彼の書くものには、一種異様な陰影がある。底知れない該博な知識には圧倒される。江戸川乱歩は、昼間も部屋を暗くして、蝋燭をつけて小説を書くという噂が立ったが、この筆法で行けば、小栗虫太郎はレトルトや坩堝の並んでいる机の上で、鵞ペンを持って、羊皮紙の上に小説を書いているに違いない。
 小栗虫太郎は近き将来に探偵小説作家に分類されなくなるような予感がする。「黒死館殺人事件」一篇も彼が探偵小説を書くつもりで書いたのではないかも知れない。むろん彼は通俗小説プラストリックの探偵小説は書かないだろうし、書けそうにもないと思うが、何か異ったものを書くだろうという期待は持てる。
「黒死館殺人事件」を最初の長篇として、文壇に出た小栗虫太郎は今後どんな発展をして、その怪物ぶりを発揮するだろうか。読者諸君と共に、私はそれを楽しみにしている。
  昭和十年三月尽日
[#地から8字上げ]堂島河畔の旅舎にて
[#地から2字上げ]甲賀三郎

底本:「日本探偵小説全集6 小栗虫太郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1987(昭和62)年11月27日初版
   2003(平成15)年7月11日14版
底本の親本:「黒死館殺人事件」新潮社
   1935(昭和10)年5月
初出:「黒死館殺人事件」新潮社
   1935(昭和10)年5月
※底本における表題「序」に、底本名を補い、作品名を「「黒死館殺人事件」序」としました。
入力:川山隆
校正:富田倫生
2012年2月8日作成
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甲賀三郎

琥珀のパイプ—— 甲賀三郎

 私は今でもあの夜の光景《ありさま》を思い出すとゾットする。それは東京に大地震があって間もない頃であった。
 その日の午後十時過ぎになると、果して空模様が怪しくなって来て、颱風《たいふう》の音と共にポツリポツリと大粒の雨が落ちて来た。其の朝私は新聞に「今夜半颱風帝都に襲来せん」とあるのを見たので役所にいても終日気に病んでいたのだが、不幸にも気象台の観測は見事に適中したのであった。気に病んでいたと云うのは其の夜十二時から二時まで夜警を勤めねばならなかったからで、暴風雨中の夜警と云うものは、どうも有難いものではない。一体この夜警という奴は、つい一月|許《ばか》り前の東都の大震災から始まったもので、あの当時あらゆる交通機関が杜絶《とぜつ》して、いろ/\の風説が起った時に、焼け残った山ノ手の人々が手に手に獲物を持って、所謂《いわゆる》自警団なるものを組織したのが始まりである。
 白状するが、私はこの渋谷町の高台から遙《はるか》に下町の空に、炎々と漲《みな》ぎる白煙を見、足許には道玄坂を上へ上へと逃れて来る足袋はだしに、泥々の衣物を着た避難者の群を見た時には、実際この世はどうなる事かと思った。そうしていろ/\の恐しい噂に驚かされて、白昼に伝家の一刀を横《よこた》えて、家の周囲《まわり》を歩き廻った一人である。
 さてこの自警団は幾日か経ってゆく内に、漸《ようや》く人心も落ち着いて来て、何時《いつ》か兇器を持つ事を禁ぜられ、やがて昼間の警戒も廃せられたが、さて夜の警戒と云うものは中々止めにならないのである。つまり自警団がいつか夜警団となった訳で幾軒かのグループで各戸から一人|宛《ずつ》の男を出し、一晩何人と云う定《き》めで、順番にそのグループの家々の周囲を警戒するので、後には警視庁の方でも廃止を賛成し、団員のうちでも随分反対者があったのであるが、投票の結果は何時も多数で存続と定まるものである。私の如きも××省の書記を勤め、もうやがて恩給もつこうと云う四十幾つの身で、家内のほかに男とてもなし、頗《すこぶ》る迷惑を感じながら、凡《およ》そ一週間に一度は夜中に拍子木を叩かねばならないのであった。
 さてその夜の話である。十二時の交替頃から暴風雨《あらし》はいよ/\本物になって来た。私は交替時間に少し遅れて出て行くともう前の番の人は帰った後で、退役陸軍大佐の青木進也と、新聞記者と自称する松本順三と云う青年との二人が、不完全な番小屋に外套を着たまゝ腰をかけて待っていた。この青木と云うのは云わばこの夜警団の団長と云う人で、記者は――多分探訪記者であろう――私の家の二三軒さきの家へ下町から避難して来ている人であった。夜警団の唯一の利益と云うべきものは、山ノ手の所謂知識階級と称する、介殻《かいがら》――大きいのは栄螺《さゞえ》位、小さいのは蛤《はまぐり》位の――見たいな家に猫の額《ひたい》よりまだ狭い庭を垣根で仕切って、隣の庭がみえても見えない振りをしながら、隣同志でも話をした事のないと云う階級の、習慣を破って兎に角一区画内の主人同志が知り合いになったと云う事と、それに各方面から避難して来ている人々も加わって来るので、いろ/\の職業に従事している人々から、いろ/\の知識が得られると云う事であろう、――然しこの知識はあまり正確なものではないので後には「あゝ夜警話か」と云ったような程度で片付けられるようになったが。
 青木は年輩は私より少し上かと思われる人だが、熱心な夜警団の支持者で、兼ねて軍備拡張論者である。松本は若い丈《だ》けに夜警団廃止の急先鋒、軍備縮小論者と云うのであるから、耐《たま》らない。三十分置きに拍子木を叩いて廻る合間にピュウ/\と吹き荒《すさ》んでいる嵐にも負けないような勢《いきおい》で議論を闘わすのであった。
「いや御尤もじゃが」青木大佐は云った。「兎に角あの震災の最中にじゃ、竹槍や抜刀を持った自警団の百人は、五人の武装した兵隊に如《し》かなかったのじゃ」
「それだから軍隊が必要だとは云えますまい」新聞記者は云った。「つまり今迄の陸軍はあまりに精兵主義で、軍隊だけが訓練があればよいと思っていたのです。我々民衆は余りに訓練がなかった。殊に山ノ手の知識階級などは、口ばかり発達していてお互に人の下につく事を嫌がり、全《まる》で団体行動など出来やしない。自警団が役に立たないと云う事と、軍隊が必要であると云う事は別問題です」
「然し、いくら君でも、地震後軍隊の働いた事は認めるじゃろう」
「そりゃ認めますとも」青年は云った。「けれども、その為に軍備縮少は考えものだなんて云う議論は駄目ですよ。一体今度の震災で物質文明が脆《もろ》くも自然に負かされたと云う議論があるようだが、以っての外の事です。吾人の持っている文化は今度の地震位で破壊せられるものじゃありませんよ。現にビクともしないで残っている建物があるじゃありませんか、吾人の持っている科学を完全に適用さえすれば、或程度まで自然の暴虐に堪える事が出来るのです。吾人は本当の文化を帝都に布《し》かなかったのです。恐らく日露戦役後に費やされた軍備費の半《なかば》が、帝都の文化施設に費《つか》われていたら、帝都も今回のような惨害は受けなかったでしょう。もうこの上は軍備縮小あるのみですよ」
 私は青年のこの大議論を、うと/\と暴風雨の音とチャンポンに聞きながら、居眠りをしていた。所が突然青木の大きな声が聞えたのでスッカリ眼を醒《さ》まされた。
「いや、どうあっても夜警団を廃する事は出来ない。殊にじゃ善悪《よしあし》は兎に角、どの家でも犠牲を払って夜警を勤めているのに、福島と云う奴は怪《け》しからん奴じゃ。あんな奴の家は焼き払って仕舞うがよい」
 大佐は夜警問題で又松本にやり込められたのであろう。その余沫《とばちり》を、いつも彼の嘲罵の的になっている福島と云う青木の家と丁度背中合せで、近頃新築した可成り大きい家の主人に向けたものらしかった。
 私は吃驚《びっくり》して、喧嘩にでもなれば仲裁に出ようかと思っていると、松本の方で黙って仕舞ったので何事も起らなかった。
 そして一時三十五分過ぎ、二人は私を小屋に残して最後の巡回に出かけた。暴風雨は正に絶頂に達したかと思われた。
 一時五十分――なぜこんなに精確に時間を覚えているかと云うと、小屋には時計があって、外に仕事がないので何かあるときっと時計をみるからである――拍子木を叩きながら松本一人が小屋に帰って来た。聞けば青木は一寸家に寄って来ると云うので、彼の家の前で別れたそうであった。二時に青木が帰って来た。間もなく次の番の人達がやって来たので、暫く話してから私と松本は番小屋から左へ、青木は右へと別れたのである。私達が丁度自宅の前辺り迄来た時に、遙かに吹き荒ぶ嵐の中から人の叫声《きょうせい》を聞いたと思った。
 二人は走り出した。番小屋の人も走り出した。見ると青木大佐が夢中で火事だ※[#感嘆符二つ、1-8-75] と叫んでいる。私はふと砂糖の焦げるような臭を嗅《か》いだ。砂糖が燃えたなと思った。我々は近所から駆けつけた人々と共に、予《かね》て備えつけてあるバケツに水を汲んで嵐の中を消火に力《つと》めた。
 大勢の力で火は大事に至らずして消し止めたが、焼けたのは問題の福島の家であった。台所から発火したものらしく、台所と茶の間、女中部屋を焼き、座敷居間の方には全然火は及ばなかったのである。
 働き疲れた人々は大事に至らなかった事を祝福しながら、安心の息をついていた。私は家内があまり静かなので、変に思って懐中電燈を照しながら、座敷の方へ這入って行くと、丁度居間との境とも思われる辺に、暗黒な塊《かたまり》が横《よこた》わっていた。
 電燈を照すと確かに一人の男であると云う事が判った。私は次の瞬間に思わずアッ! と声を挙げて二足三足|後退《あとずさり》したのである。死体だ! 畳は滴《したゝ》る血汐《ちしお》でドス黒くなっている。
 私の叫び声に、漸く火を消し止めてホットしていた人々がドヤ/\と這入って来た。
 人々の提灯《ちょうちん》によって、確《たしか》にそれが惨殺せられた死体である事が明らかになった。誰一人近づくものはない。その中《うち》、誰かゞ高く掲げた提灯の光りで奥の間をみると、そこには既に寝床が設けられてあったが、一人の女と小さな小供が床の外へ這い出したような恰好《かっこう》で、倒れているのが見えた。間もなくそこに集った人々の口から、死者はこの家の留守番の夫婦と、その子供である事が判った。福島の一家は全部郷里の方へ避難して仕舞い、主人だけは残っていたのであったが、それも何でも今日の夕方に郷里の方へ帰ったそうである。
 私は斯《こ》う云う人々のさゝやきに聞き耳を立てながら、ふと[#「ふと」に傍点]死体の方を見ると、驚いた事には、いつの間にか松本がやって来て、まるで死体を抱きかゝえるようにして調べているのであった。その調子が探訪記者として、馴れ切っていると云う風であった。
 彼は懐中電燈を照しながら、奥の間へ這入り、尚も詳しく調べていた。私はその大胆さには全く敬服して仕舞った。
 その中《うち》に夜も白々と明けて来た。
 やがて松本は死体の方の調査がすんだと見えて、奥の間から出て来たが、私が側に居るのに目も呉れず、今度は居間の方を見廻した。私も彼の目を追いながら、いくらか明るくなって来た窓を見廻すと、気のついた事は隅の方の畳が一枚上げられ、床板《ゆかいた》が上げられていた。松本は飛鳥《ひちょう》の様にそこへ飛んで行った。私も思わず彼の後を追った。
 みると床板を上げた辺に一枚の紙片《かみきれ》が落ちて居た。目敏《めばや》くその紙片を見つけた松本は、一寸驚いた様子で、一度拾おうとしたが、急に止めて今度はポケットから手帳を出した。私はそっと彼の横から床の上の紙片を覗《のぞ》き込むと、何だか訳の判らない符号みたいなものが書いてあった。それに彼の手帳を見ると、もう紙片と同じ符号がそこに写されているではないか。

「やあ、あなたでしたか?」私の覗いているのに気のついた松本は、急いで帳面を閉じながら云った。「どうです。火事の方を調べてみようじゃありませんか?」
 私は黙って彼について焼けた方へ歩いた。半焼けの器物が無惨に散らばって、黒焦《くろこげ》の木はプスプスと白い蒸気《いき》を吹いていた。火元は確に台所らしく、放火の跡と思われる様な変った品物は一つも見当らなかった。
「どうです、やはり砂糖が焦げていますね」松本の示したものは、大きな硝子《ガラス》製の壷の上部がとれた底ばかしのもので、底には黒い色をした板状のものが、コビリついていた。私は内心にあの青木の叫び声を聞いて駆けつけた時、「砂糖が焦げたのだなあ」と独言《ひとりごと》を云ったのを、ちゃんと聞いていたこの青年の機敏さに、驚きながら、壷の中のものは砂糖の焦げたのに相違ない事を肯定する外はなかった。
 彼はあたりを綿密に調べ出した。その中に、ポケットから刷毛《はけ》を出して、手帳を裂いた紙の上へ何か床の上から掃き寄せていたが、大事そうにそれを取上げて私に示した。それは紙の上をコロ/\ころがっている数個の白い小さな玉であった。
「水銀ですね」私は云った。
「そうです。多分この中に入っていたのでしょう」彼はそう答えながら、直径二|分《ぶ》位の硝子の管の破片を見せた。
「寒暖計がこわれたのじゃないのですか」私は彼にある優越を感じながら云った。「それとも火の出たのと何か関係があるのですか?」
「寒暖計位で、こんなに水銀は残りませんよ」彼は答えた。「火事に関係があるのかどうかは判りません」
 そうだ、分る筈がないのだ。私はあまりのこの青年の活動に、ついこの人が秘密の鍵を見出したかの様に思ったのだ。
 表の方が騒々しくなって来た。大勢の人がドヤ/\と這入って来た。検事と警官の一行である。
 私と青年記者とは、警官の一人に、当夜の夜警であって、火事の最初の発見者たる青木の叫声で駆けつけたものであると答えた。二人は暫く待って居る様に云われた。
 男の方は年齢四十歳位で、余程格闘したらしい形跡がある。鋭利な刃物――それは現場に遺棄せられた皮|剥《む》き用の小形庖丁に相違なかった。――で左肺を只《たゞ》一突にやられている。女の方は三十二三で床《とこ》から乗り出して子供を抱えようとした所を後方《うしろ》からグサッと一|刺《さし》に之も左肺を貫かれて死んでいる。茶の間と座敷――三人の寝て居た部屋――の境の襖は包丁で滅茶滅茶に切りきざまれていた。枕許の机の上に菓子折と盆があった。盆の中に、寝がけに喰べたらしい林檎《りんご》の皮があった。
 その外に変ったものは例の床《ゆか》の板が上げられている事と、怪しい紙片《かみきれ》が残されている事である。
 訊問が始まった。真先には青木である。
「夜警で交替してからさよう二時を二十分も過ぎていましたかな、宅の方へ帰りますに」青木は云った。「表を廻れば少し遠くなりますから、福島の庭を脱けて私の裏口から入ろうとしますと、台所の天井から赤い火が見えましたのじゃ。それで大声を挙げたのです」
「庭の木戸は開いていたのですか」検事は訊いた。
「夜警の時に、時々庭の中へ入りますでな、木戸は開けてある様にしてあるのです」
「火を見付ける前に見廻りをしたのは何時頃ですか?」
「二時少し前でしたかな、松本君」青木は松本を振り返った。
「そうですね。見廻りがすんで、小屋に帰った時が五分前ですから、この家の前であなたに別れたのは十分前位でしょう」
「この家の前で別れたと云うのはどう云う訳です?」
「いや一緒に見廻りましてな、この前で私は一寸宅へ寄りましたので、松本さんだけが、小屋に帰られたのです」
「矢張庭をぬけましたか?」
「そうです」
「その時は異状なかったのですね?」
「ありませんでした」
「何の用で帰ったのですか?」
「大した用ではありません」
 その時に警官が検事の前に来た。検死の結果殺害が凡そ午後十時頃行われた事が判ったのである。小児《こども》の死体は外部に何の異状もないので解剖に附せられる事となった。同時に菓子折も鑑定課に廻わされた。
 時間の関係から、殺人と火事とが連絡があるかないかと云う事が刑事間の論点になったらしい。
 兎に角、ある兇漢が男の方と格闘の上、枕許にあった皮むき庖丁で刺殺し、子供を連れて逃げ様とする女を後《うしろ》から殺した。それから死体を隠蔽《いんべい》しようと思って床板を上げたが果さなかった。襖を切ったのは、薪《まき》にして死体を燃す積ではなかったろうか。
「然し、厳重に夜警をしている中を、どうしてやって来て、どうして逃げたかなあ?」刑事の一人が云った。
「そりゃ訳もない事です」松本が口を出した。「夜警を始めるのは十時からですから、それ以前に忍び込めるし、火事の騒ぎの時に大勢に紛れて逃げる事も出来ましょうし、或は巡回と次の巡回の間にだって逃げられます」
「君は一体なんだね?」刑事は癪《しゃく》に触ったらしく、「大そう知ったか振りをするが、何か加害者の逃亡する所でもみたのかね?」
「見りゃ捕えますよ」松本は答えた。
「ふん」刑事は益々癪に触ったらしく、「生意気な事を云わずに引込んでろ」
「引込んでいる訳には行きませんよ」松本は平然として答えた。「まだ検事さんに申上げなければならん事がありますから」
「わしに云う事とは何かね?」検事が口を出した。
「刑事さん達は少し誤解してなさるようです。私には子供の方の事は判りませんが、あとの二人は同一の人間に殺されたのではありませんよ。女を殺したものと、男を殺した奴とは違いますよ」
「何だと?」検事は声を大きくした。「どうだって?」
「二人を殺した奴は別だと云うのです。二人とも同じ兇器でやられています。そうして二人とも確に左肺をやられています。然し一人は前からで、一人は後《うしろ》からです。後《うしろ》から左肺を刺すのは普通では一寸むずかしいじゃありませんか。それに襖の切口をごらんなさい。どれも一文字に引いてあるのは、左から右に通っています。一体刃物を突き込んだ所は大きく穴が穿《あ》き、引くに従って薄くなりますから、よく分る筈です。それからあなた方は」刑事の方を向いて、「林檎の皮を御覧でしたか、皮は可成りつながっていましたが、左巻きですよ。林檎を剥いたのが左利き、襖を突いたのが左利き、女を刺したのが左利き、然し男を殺したのは右利きです」
 検事も刑事も私も、いや満座の人が、半ば茫然として、この青年がさして得意らしくもなく、説きたてるのに傾聴した。
「成程」やがて沈黙は検事によって破られた。
「つまり女はそこに死んでいる男に刺されたのだね?」
「そうです」青年は簡単に答えた。
「所で男の方は自分の持っている武器で、何者かに刺されたと云う訳だね?」
「何者かと云うよりは」青年は云った。「多分あの男と云った方が好いでしょう」
 満座はまた驚かされた。誰もが黙って青年を見詰めた。
「警部さん、あなたはその紙片《かみきれ》に見覚えはありませんか?」
「そうだ」警部は、暫《しば》し考えていてから、呻《うな》るように云った。「そうだ、そう云われて思い出した。之は確にあの男の事件の時に……」
「そうです」青年は云った。「私も当時つまらない探訪記者として、事件に関係していましたが、この紙片はあの『謎の男の万引事件』として知られている、岩見慶二の室で見た事があります」
 岩見と聞くと私も驚いた。岩見! 岩見! あの男がまたこの事件に関係しているのか。私も当時仰々しい表題で書き立てられた岩見事件には少からず興味を覚えて熟読したものである。成る程、それで松本は先刻《さっき》手帳に控えた符号と引較べていたのだ!
 私は当時の新聞に掲げられた話|其儘《そのまゝ》を読者にお伝えしよう。
 この会社員岩見慶二と名乗る謎の青年の語る所は恁《こ》うであった。
 昨年の六月末の或る晴れた日の午後である。彼《かの》岩見は、白の縞ズボンに、黒のアルパカの上衣、麦藁《むぎわら》帽に白靴、ネクタイは無論蝶結びのそれで、丁度当時のどの若い会社員もした様な一分の隙もない服装で、揚々としてふくらんだ胸、そこには本月分の俸給の袋と、もう一封それは今年の夏は多分駄目とあきらめていた思いがけないボーナスの入った袋をしっかり収めて、別に待つ人もない独り者の気易さは、洋服屋の月賦、下宿の女将《おかみ》の立替とを差引いて、尚残るであろう所の金を勘定して、実際は買わないが買いたい処のものを思い浮べながら、一足々々をしっかり踏んで銀座街の飾窓《ショーウィンド》から飾窓へと歩いていたのである。
 一体散歩に金はいらぬ筈である。然し懐《ふところ》に費《つか》っても差支えのない金を持って、決して買いはしないが、買いたいものゝ飾窓を覗き込む「よさは一寸経験のない人には判らない事である。岩見も今この「よさ[#「よさ」に傍点]」に浸って居るのであった。
 彼はとある洋品店の前に足を止めた。その時にもし彼を機敏に観察して居るものがあったら、彼が上衣の袖をそっと引張ったのに気がついたであろう。それは彼がこの窓の中に同僚の誰彼が持っていて、かね/″\欲しいと思っていた、黄金製カフス釦《ボタン》を見入った時に、思わず自分の貧弱なカフス釦が恥しくなって、無意識にかくしたのである。
 思い切ってその窓を離れた彼は、更に新橋の方へ歩みを進めて、今度は大きな時計店の前に佇《たゝず》んだ。彼は又金側時計が欲しいと思った。然し無論買うのではない。それから彼は稍《やゝ》足を早めて、途々《みち/\》「買わない買物」の事を考えながら、新橋を渡り玉木屋の角から右に曲って二丁|許《ばか》り行くと、とある横町を左に入ったのであった。その時、彼はふと[#「ふと」に傍点]右手を上衣のポケットに入れた。何《どう》やら覚えのない小さなものが手に触れたので、ハテナと思いながら取り出してみると、小さな紙包である。急いで開けると、あ! 先刻《さっき》欲しいと思った黄金製カフス釦《ボタン》じゃないか。彼は眼をこすった。その途端左のポケットにも何《どう》やら重味を感じた。左のポケットから出たのは、金側時計であった。彼は何が何やら判らなくなった。恰度《ちょうど》お伽噺《とぎばなし》の中にある様に、魔法使いのお蔭で何でも欲しいと思うものが、立所《たちどころ》に湧いて出ると云うような趣だった。然し彼はいつまでも茫然としていられなかった。彼の時計を持って居る手は、後から出て来た頑丈な手にしっかり握られた。彼の後には大きな見知らぬ男が立っていたのである。彼はこの見知らぬ男と共に先刻《さっき》の洋品店に行くべく余儀なくせられた。彼が何が何やらさっぱり判らない中に、店の番頭達はこの方に相違ありませんが、別に何も紛失したものはないと答えた。次に時計店に連れて行かれた時分に、岩見も漸く少し宛《ずつ》判って来た様な気がした。時計店の番頭は彼をみるや否や、この野郎に違いありませんと云った。刑事――この大男は無論刑事であった。――は早速岩見の身体検査をはじめて、腰のポケットから一つの指輪を取り出した。それは実に見事に光っていた。
「余り見かけない奴だが」刑事は岩見に向って云った。「素人《しろうと》じゃあるまい」
「冗談云っちゃいけません」これは大変になって来たと岩見は懸命に云い出した。「何が何だかさっぱり判りません。一体どうしたのです」
「オイ/\、好い加減にしないか」刑事は云った。「お前はカフス釦を買ったり、時計を買ったり、それはいゝさ、ついでにダイヤ入指輪を一寸失敬したのは困るね、然しいゝ腕だなあ」
「私は時計も指輪も買った覚えはありません」彼は弁解した。「第一金を調べて下されば判ります」
 彼が自分の潔白を証明しようとして、内ポケットから月給の袋とボーナスの袋を出したが、彼は顔色を変えた。封が切れていた。
 様子をみて居た刑事は、少し判らなくなって来たので声を和《やわら》げて、
「兎に角庁まで来給え」と云った。
 警視庁へゆくと岩見は悪びれずに自分に覚えのない事を述べた。青年の語る所を聞き終って、警部は頭《かしら》を傾けた。青年の言《げん》が事実とすれば、実に妙な事件である。この時ふと警部の頭に浮んだ事があった。それは岩見青年が××ビルディング内東洋宝石商会の社員であると云うのを聞いて、端《はし》なくも二三ヶ月|前《ぜん》の白昼強盗事件が思い出されたのである。早速岩見を訊問してみると、驚いた事には彼は事件に最も関係の深い一人であることが判った。
 白昼強盗事件と云うのはこう云う事件であった。
 花ももう二三日で見頃と云う四月の初旬《はじめ》であった。どんよりと曇った日の正午、××ビルディング十階の東洋宝石商会の支配人室で、支配人は当日支店から到着したダイヤモンド数|顆《か》をしまおうとして、金庫を開けにかゝった。支配人室と云うのは、社員の全部が事務をとっている長方形の大きな室《へや》の一部が凹間《アルコープ》になっていて、その室に通ずる方にしか入口はないのであった。そして入口の近くに書記の岩見が控えているのである。支配人が金庫の方へ向う途端に、何だか物音を聞いた様なので、振りかえると、覆面の男がピストルを突きつけて立って居た。足許には一人の男が倒れている。棒の様になった支配人を睨《にら》みながら、曲者は次第に近寄って、机の上の宝石を掴もうとした瞬間|背後《うしろ》で異様な叫声がした。それは倒れていた男岩見書記――の口から洩れたのであった。その時、曲者はつと入口の方へ退却した。次の瞬間に室に居た社員がドヤ/\と支配人室の入口に駆けつけた。其時、中から「支配人がやられた! 医者だっ!」と云いながら岩見が飛び出して来たのである。そして社員達は、室へ這入ろうとする途端、真蒼な顔をした支配人と鉢合せをした。
「曲者はどうした」支配人は叫んだ。何が何だか判らないのは社員達である。岩見は支配人がやられたといって飛び出して来る。次には支配人が曲者はどうしたと飛び出して来る。兎に角も中へ入った所の社員達は三度|吃驚《びっくり》した。と云うのは、そこには呼吸《いき》も絶え/″\になった岩見が倒れて居たのである。
 漸く判明した事情は、岩見に酷似した又は岩見に変装した兇漢が、正午で人気《ひとけ》少くなった社員室の間を岩見のような顔をして通りぬけ、覆面をした後、機会を待って居たのであった。そして支配人が金庫を開けるべく背をみせた瞬間、岩見に躍りかゝって、短銃《ピストル》の台尻で彼に一撃を喰わせ、次いで支配人に迫ったが、倒れた筈の岩見が呻《うめ》き声を挙げたので、遂に曲者は目的を果さずに逃げたのであった。
 支配人は曲者が逃げ出すと、急いで助かった宝石を金庫の中へ投入れて、金庫を閉めるや否や、曲者を追ったのである。
 多くの社員が駆付た時には、兇漢は岩見の風を装い、支配人が負傷でもしたような事を叫びながら、部屋を飛び出したので、社員一同まんまと欺《あざむ》かれ、室内に這入って再び岩見をみるや唖然《あぜん》とした次第である。曲者は遂に見失ってしまった。然し支配人は兎に角宝石に間違《まちがい》のなかったのを喜んで、騒ぎ立てる社員を一先ず制して、自分の部屋に帰り、念の為再び金庫を開いて調べてみると、支配人が大急ぎで金庫に投げ入れた宝石の一つ、時価数万円のダイヤモンドが一|顆《か》不足していた。機敏な曲者は支配人が金庫へ入れる前に、既に盗み去ったと見える。
 急報に接して出張した係官も一寸|如何《どう》して宜《よ》いのか分らなかった。支配人と岩見とは厳重に調べられたが、支配人の言は全く信用するに足るもので、岩見も当時殆ど人事不省の状態にあったのであるから、これ亦|疑《うたがい》をかける余地がなかったのである。
 銀座街に於ける万引嫌疑者岩見がこの白昼強盗事件の関係者である事を知った警部は、一層厳重に訊問したが、彼は何処《どこ》までも買物等をした覚えは一切ないと抗弁するのであった。しかし兎に角、現に賍品《ぞうひん》を懐《ふところ》にしていたのであるから、拘留処分に附せられる事となり、留置場に下げられた。
 所が又々一事件が起った。夜半《よなか》の一時頃、留置場の番人が見廻りの際、特に奇怪なる青年として充分注意する様に云い渡されていたので、注意すると、驚くべし、岩見はいつの間にか留置場から姿を消していた。
 警視庁は大騒ぎとなった。重大犯人を逃がしてはと直ちに非常線が張られた。然しその儘其夜は明けた。そうして午前十時頃|彼《かの》岩見は彼の下宿で難なく捕えられた。
 刑事は無駄とは思いながらも彼の下宿に張り込んでいると、十時頃彼はボンヤリした顔をしながら帰って来たのであった。
 彼の答弁は又々係官の意表に出たものであった。十一時近く、巡査が留置場に来て、一寸来いと云って連れ出し、嫌疑が晴れたから放免すると云って外へ出してくれた。夜も更けた事ではあるし、幸い懐に金もあり、且《かつ》はあまりの馬鹿々々しさに、一騒ぎ騒ごうと思って、彼はそのまゝ電車に乗って品川に至り、某楼に登《あが》って、今朝方帰って来たのだと云う。
「一体あなた方は」彼は不足そうに云った。「私を逃がしたり、捕えたり、全《まる》で私を玩具《おもちゃ》になさるじゃありませんか」
 ××巡査はすぐに呼び出されたが青年はこの方ですと云ったけれど、巡査の方では全然知らないと答えた。一方品川の某楼も取調べられたが、時間もすべての点も青年の云う通りであった。知能犯掛りも強力《ごうりき》犯掛りも、額を集めて協議した。その結果今回も以前の強盗事件のように、何者かゞ何にも知らない岩見を操っているのではなかろうかと云うことになって、岩見は無罪ではないかと云う説も多数になった。
 然しこの不幸な青年は遂に放免せられなかった。と云うのは××巡査が自分が変装した悪漢の為めに、利用せられたのを憤り、且は自己の潔白を証明するために、岩見の下宿を調べた所、一つの奇怪な符号を書いた紙片を発見したのである。そして宝石事件は証拠不充分で無罪になったが、窃盗《せっとう》事件は、兎に角現品を所持し、店の番頭達も岩見をみて当人である事を証明したのであるから、遂に起訴せられ禁錮二ヶ月に処せられたのであった。

       *   *   *

「私は当時一探訪記者として」松本は云った。「この事件に深く興味を持ちまして、岩見の下宿を一度調べた事がありますが、この奇怪な符号は今でも覚えて居ります。この紙片の指紋をお取りになったら一層確でしょう」
 検事は彼の意見に従った。検事と警官が打合せをしている所へ、表から一人の巡査に伴われて、でっぷり肥った野卑な顔をした五十近い紳士が這入って来た。これがこの家の主人福島であった。
 彼はそこに倒れている死体をみると、青くなってふるえ出した。検事は俄《にわか》に緊張して訊問を始めた。
「さようです、留守番に置いた夫婦に相違ありません」漸く気をとり直しながら彼は答えた。「それは坂田音吉と申しまして、以前私方へ出入して居りました大工です。浅草の橋場の者ですが、弟子の二三人も置き、左利きの音吉と申しまして、少しは仲間に知られていた様です。仕事は身を入れますし、誠に穏やかな男でした。所が今度の震災で、十を頭《かしら》に四人あった子供のうち、上三人が行方不明となり、一番下の二つになる児だけは母親がしっかり抱いて逃げたので助かったのです。本人の落胆は気の毒な程でした。私の方では家族一同を一旦郷里の方へ避難いたさせましたので、――尤も私だけ取引上の事でそう行き切りと云う訳に参りませんから、こちらに残り時々郷里の方へ参りました。――丁度幸いこの夫婦を留守番に入れたのです。私は昨日は夕刻から郷里の方へ出掛けまして、今朝程又出て来たのです」
「昨日二人は、別に変った様子はありませんでしたか?」
「別に変った様子はありませんでした」
「近頃坂田の所へ客があったような事はなかったですか?」
「ありません」
「あなたは何か人から恨みを受けている様な事はありませんか?」
「恨《うらみ》を受けているような事はないと存じます」こう云いながら、彼は側に立っていた青木を見つけて、「いや実は近頃この町内の方からは可成り憎まれて居ります、それは私が町内の夜警に出ないと云う事からで、そこに御出でになる青木さんなどは、最も御立腹で私の宅などは焼き払うがよいとまで申されましたそうです」
 検事はチラと青木の方を向いた。
「怪《け》しからぬ」青木はもう真赤になって口|籠《ごも》りながら、「わ、我輩が放火《つけび》でもしたと云われるのか」
「いやそう云う訳じゃないのです」彼は冷然と答えた。「只《たゞ》あなたがそんな事を云われたと申上げた迄です」
「青木さん、あなたはそういう事を云われましたか?」
「えゝ、それは一時の激昂で云った事はあります」
「あなたが火事を発見なすったのは何時でしたかね」
「それはさっき申上げた通り、二時十分|過《すぎ》位です」
「火の廻り具合では、どうしても発火後二三十分経過したものらしい。所があなたはその前に二時十分前に、この家の庭を通って居られる、そうでしたね」
「その通りです」青木は不安らしく答えた。「然し真逆《まさか》私が――」
「いや今は事実の調査をしているのです」検事は厳として云った。今度は福島に向って、「火災保険につけてありますか」
「はい、家屋が一万五千円、動産が七千円、合計二万二千円契約があります」
「家財はそのまゝ置いてありましたか」
「貨車の便がありませんから、ほんの身の廻りのものだけを郷里に持ち帰り、あとは皆置いてありました」
「殺人について、何も心当りはありませんか?」
「さあ、何も覚えがありません」
 その時一人の刑事が、検事のそばへきて何か囁《さゝや》いた。
「松本さん」検事は青年記者を呼んだ。「死体解剖其の他の結果が判ったそうです。これは係官以外に知らすべき事ではないが、あなたの先刻《さっき》からの有益なる御助力を謝する意味に於て御話ししますから一寸こちらへ御出下さい」
 検事と松本は室の隅の方へ行って、低声《ひくごえ》で話し出した。私は最も近くに席を占めて居たので、途切れ途切れにその話を聞いた。
「え! 塩酸加里の中毒、はてな」松本が云うのが聞えた。
 話の様子では机の上にあった菓子折の中には最中《もなか》が入って居り、その中には少量のモルヒネを含んでいたのである。菓子折は当日午後二時頃渋谷道玄坂の青木堂と云う菓子屋で求めたもので、買った人間の風采は岩見に酷似していた。然し最中は手をつけて居ないで、子供は塩酸加里の中毒で倒れているのであった。
 やがて検事は元の席に戻って再び訊問を始めた。
「青木さんあなたが、夜警の交替時間に間もないのに、家に帰られた理由が承りたい」
「いやそれは」青木は答えた。「別に何でもない事でとりたてゝ云う程の理由はないのです」
「いや、その理由を申されないと、あなたにとって不利になりますぞ」
 大佐は黙って答えない。私は心配でならなかった。
「先刻の御話では」福島が云った。「青木さんは火事の時刻に私の宅《たく》に御出になったのですか?」
「そんな事は貴下《あなた》が聞かんでもよろしい」検事が代って答えた。この時、松本が隣室から何か大部の書物を抱えて出て来た。
「やあ、福島さん、あなたは以前薬学をおやりになったそうで、結構な本をお持ちですな、私も以前少しその道をやりましたが、山下さんの薬局法註解は好い本ですな。私はもう殆ど忘れていましたが、この本をみて思い出しましたよ。それも塩剥《えんぼつ》の中毒と云うのは珍らしいと思いまして」松本は余り唐突《だしぬけ》なので些《いさゝ》か面喰っている検事に向って云った。「山下さんの薬局法註解を見たのですが、塩剥の註解の所に量多きときは死を致すと書いてありましたから、小児《こども》の事ではあり中毒したのでしょう。所が」彼は書物を開いたまゝ検事に示しながら「こう云う発見をしましたよ」
「何ですか之は?」検事は不審そうに指《ゆびさ》された個所に目をやるとそこには、「クロール酸カリウム。二酸化マンガン、酸化銅等ノ如キ酸化金属ヲ混ジテ熱スレバ已《スデ》ニ二百六十度|乃至《ナイシ》二百七十度ニ在リテ酸素ヲ放出ス、是《コレ》本品ノ高温ニ於テ最モ強劇ノ酸化薬タル所以《ユエン》ナリ………………又本品ニ二倍量[#「二倍量」に傍点]ノ庶糖ヲ混和シ此ノ混和物ニ強硫酸ノ一滴ヲ点ズルトキハ已ニ発火ス云々」と書かれてあった。
「私達が最初に火を発見した時、砂糖の焦げる臭を嗅だのです。所で現場を調べてみると、大きな硝子製の砂糖壷があって壊《こわ》れた底に真黒に炭がついている。つまり私の考えでは、この塩酸加里が硫酸によって分解せられて、過酸化塩素を生ずる性質を利用したのではないかと思うのです」
「成程」検事は初めてうなずいた。「それでは加害者が放火の目的で砂糖と塩酸加里を混合し、硫酸を滴加したのですね」
「いや、私は多分加害者ではないと思うのです。何故なら殺人と放火の間には可成りの時間の距離がありますし、それにこの薬品の調合は恐らく余程以前、多分夕刻位になされたものと思われます」
「と云うと?」
「つまり小児《こども》が死んだのは、母親が多分牛乳か何かに、砂糖を入れた。所がその砂糖の中には既に塩酸加里が入って居たのでしょう。その為めに小児は中毒したのです」
「ふむ」検事はうなずいた。
「これで私は本事件がやゝ解決できたと思います。小児が中毒で苦しみ出してとうとう死んだとします。それを見た父親は先に震災で三児と家を失い、今又最後の一児を失ったので、多分逆上したのでしょう。突如発狂して母親を背後《うしろ》から刺し殺し、畳|襖《ふすま》の嫌いなく切り廻って暴れた。処へ丁度問題の岩見が何の為にか忍び込んでいたので之に斬りつけたのでしょう。そこで格闘となり、遂に岩見のため刺し殺されたのではないかと思います。放火が岩見でない事は、彼には恐らく薬品上の知識はないでしょうし、又その際、別にそんな廻りくどい方法をとらなくてもよいでしょう」
「すると放火の犯人は?」
「恐らくこの家の焼ける事を欲する者でしょう。可成り保険もあったそうですから」
「失敬な事を云うな!」今まで黙って聞いて居た福島が怒号し出した。「何の証拠もないのに、全《まる》で保険金目的で放火したような事を云うのは怪しからん。第一当夜僕は家に居ないじゃないか」
「家に居て放火するなら、塩剥《えんぼつ》にも及びますまい」
「未だそんな事をぬかすか。検事さんの前でも只《たゞ》は置かぬぞ」
 検事もこの青年記者の落着き払った態度に敬意を表したものか、別段止めようともしなかった。
「君がそう云うなら、僕が代って検事さんに説明しよう。いや君の考案の巧妙なのには僕も感嘆したよ。
 僕は現場で硝子《ガラス》管の破片と、少し許《ばか》りの水銀を拾った。つい今まで之から何者をも探り出す事は出来なかったが、子供が塩剥の中毒で死んだと云うことを聞いて、薬局法註解を調べて始めて真相が判ったのさ。検事さん」彼は検事の方を向いて、言葉をついだ。「塩酸加里と砂糖の混合物には一滴の硫酸、そうです、たった一滴の硫酸を注げば、凄じい勢で発火するのです。一滴の硫酸、それを適当の時期に自動的に注ぐ工夫はないでしょうか。水銀柱を利用したのは驚くべき考案です。直径一|糎《センチメートル》の硝子管、丁度この破片位の硝子管をU字形にまげて、一端を閉じ、傾けながら他の一端から徐々に水銀を入れて、閉じた方の管全部を水銀で充たします。そうして再びU字管をもとの位置に戻しますと、水銀柱は少しく下ります。もし両端とも開いておれば水銀柱は左右相等しい高さで静止する訳ですが、一端が閉じられておるため、空気の圧力によって、水銀柱は一定の高さを保ち、左右の差が約七百六十|粍《ミリ》あります。即ち之が大気の圧力です。ですからもし大気の圧力が減ずれば水銀柱の高さは下るのは自明の理です。昨夜《ゆうべ》の二時頃は東京は正に低気圧の中心に入ったので、気象台の調べによれば、午後五時頃は気圧七百五十粍、午前二時は七百三十粍です。即ち二十粍の差が出来た訳です。即ち一方の水銀柱は十粍下り一方の開いた方の水銀柱は十粍上りました。そこで開いた方の口の水銀の上へ少し許りの硫酸を充《みた》して置けばどうでしょう。当然硫酸は溢《あふ》れる訳です。福島さん」松本は青くなって一言も発しない福島を振り返り、「あなたはあなたが僅《わずか》に数万円の金を詐取しようとする心得違いから、先ず第一に留守番の子供を殺し、次にその母親を殺し、遂には父親までを殺しました。そうしてあなたはあなたの恐るべき罪を青木さんにかけようとしている。余りに罪に罪を重ねるものではありませんか。どうです真直《まっすぐ》に白状しては」
 福島は一耐《ひとたま》りもなく恐れ入って仕舞った。
 検事は青年記者の明快なる判断に舌を巻きながら、
「いや、松本さん、あなたは恐るべき方じゃ、あなたのような方が我が警察界に入って下されば実に幸いですがなあ。……それでどうでしょう、岩見が忍び込んだ理由、毒薬の入った菓子折を持って来た理由《わけ》はどうでしょう」
「その点は実は私も判り兼ねています」
 青年記者松本はきっぱりした口調で答えた。

       *   *   *

  それから二三日して新聞は岩見の捕縛を報じた。彼の白状した所は松本の言と符節を合す如くであった。しかし彼もまた福島の家に忍び込んだ理由については一言も口を開かなかった。
 其の後、私は松本に会う機会がなかった。私はまたもとの生活に復《かえ》り毎日々々戦場のように雑踏する渋谷駅を昇降して、役所に通うのであった。或日、例の如くコツ/\と坂を登って行くと、呼び留められた。見ると松本であった。彼はニコ/\しながら、一寸お聞きしたい事があるから、そこまでつき合って呉れと云うので、伴われて、玉川電車の楼上の食堂に入った。
「岩見が捕まったそうですね」私は口を開いた。
「とうとう捕まったそうですよ」彼は答えた。
「あなたの推定した通りじゃありませんか」私は彼を賞めるように云った。
「まぐれ当りですよ」彼は事もなげに答えた。「ときにお聞きしたいと云うのは、あの福島の宅《うち》ですね、あれはいつ頃建てたもんですか」
「あれですか、えーと、たしか今年の五月頃から始まって、地震の一寸前位に出来上ったのですよ」
「それ迄は更地《さらち》だったんですか?」
「えゝ、随分久しく空地でした。尤も崖はちゃんと石垣で築いて、石の階段などはちゃんと出来ていましたが」
「あゝそうですか」
「何か事件に関係があるのですか」
「いや。なに、一寸参考にしたい事がありましてね」
 それから彼はもう岩見事件には少しも触れず、彼の記者としてのいろ/\の経験を面白く話して呉れた。そうしてポケットから琥珀《こはく》に金の環《わ》をはめた見事なパイプを出して煙草をふかしながら、自慢そうに私にみせて呉れたりした。
 彼と別れて宅へ帰り、着物を着かえようとして、ふとポケットに手をやると小さい固いものが触ったので出してみると、先刻《さっき》の松本のパイプであった。いろ/\と考えてみたが、これが私のポケットへ入り得べき場合を考えることが出来なかった。
 私は当惑した、何といって松本に返そうかと思った。それから幾日か松本に返そう/\と思いながら、遂にその機がなくそのまゝ過ぎ去った。
  或日一通の厚い封書が届いた。裏を返すと差出人は松本であった。急いで封を切って読み下した私は、思わずあっ! と声を上げたのである。
 手紙の内容は次の如くであった。

底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1984(昭和59)年12月21日初版
   1996(平成8)年8月2日8版
初出:「新青年」
   1924(大正13)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「軍備縮小」と「軍備縮少」の混在は、底本通りです。
入力:網迫、土屋隆
校正:小林繁雄
2005年10月31日作成
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