永井荷風

猥褻独問答—– 永井荷風

○猥褻なる文学絵画の世を害する事元より論なし。書生猥褻なる小説を手にすれば学問をそつちのけにして下女の尻を追ふべく、親爺猥褻《おそ》れざるべけんや。
○然らば何を以てか猥褻なる文学絵画といふや。人をして淫慾を興《おこ》さしむるものをいふなり。人とは如何なる人を指せるや。社会一般を指すなり、十人が十人の事をいふなり。然らばここに一冊子あり。これを読みて十中五人はあぢな気を興し五人は一向平気ならば如何《いかん》となす。十中の五人をして気を悪くせしむるものはこれ明《あきらか》に猥褻のものなり。然らば十中の一人独り春情を催したりとせば如何。これ猥褻の嫌ひあるものなり。猥褻の嫌ひあるもの果して全く猥褻なるや否や。凡そ徳を尚《たっと》ぶものは悪の大小を問はざる也。凡て不善に近きものを遠ざく。何ぞ猥褻の真偽を究《きわ》むるの要あらんや。
○文学美術にして猥褻の嫌ひあるもの甚だ多し。恋愛を描ける小説、婦女の裸体を描ける絵画の類、悉《ことごと》くこれを排《しりぞ》くべき歟《か》。悉くこれを排けて可なり。善を喜ぶのあまり時に悪を憎む事甚しきに過ぐると、悪を憐みて遂に悪に染むと、その弊《へい》いづれか大なるや。猥褻に近きものを排くるは人をして危《あやう》きに近よらしめざるなり。
○危きに近よらざるは好し。然れども危きを恐れて常に遠ざかる事の甚しきに過ぎんか。一度誤つて近けば忽《たちまち》陥つて復《また》救ふべからざるに至るの虞《おそれ》なからんか。厳に過ぐるの弊寛に流るるの弊に比して決して小なりといふを得んや。
○およそ事の利害にして相伴はざるは稀なり。倹約は吝嗇《りんしょく》に傾きやすく文華は淫肆《いんし》に陥りやすく尚武はとかくお釜《かま》をねらひたがるなり。尚武の人は言ふおかまは武士道の弊の一端なり。白璧《はくへき》の微瑕《びか》なり。一の弊あるも九の徳あらばその弊何ぞ言ふに足らんや。風流の人は言ふ風流人の淫行は人間の淫行にして野獣の淫に非《あ》らず、人情の美を基《もとい》とするを忘れざるなり。文明の人は淫するも時あれば必ず悟《さと》る。悟れば再びその愚を反復する事なし。武骨一片の野暮一度淫すれば必ず溺《おぼ》る。溺れて後大に憤《いきどお》つて治郎左衛門をきめるなり。淫事の恐るべきは武骨一片の野暮なるが故にして淫の淫たるが故に非らざる也と。それ果していづれか是《ぜ》なる。
○世界中猥褻の恐れられたる我国の如く甚しきは稀なるべし。公設展覧会出品の裸体画は絵葉書とする事を禁ぜられ、心中《しんじゅう》情死の文字ある狂言の外題《げだい》は劇場に出す事を許さず。当路の有司《ゆうし》衆庶《しゅうしょ》のこれがために春情を催す事を慮《おもんばか》るが故なり。然ればかくの如きの禁令は日本国民の世界中|最《もっとも》助兵衛なる事を証するものならずや。忠君愛国は久しく日本国民の特徴なり茲《ここ》にまた助兵衛の特徴を加へんか余りに特徴の多きに堪《た》えざるの観あり。
○市中電車の雑沓と動揺に乗じ女客に対して種々なる戯《たわむれ》をなすものあるは人の知る処なり。釣皮にぶらさがる女の袖口《そでぐち》より脇の下をそつと覗いて独り悦《えつ》に入《い》るものあり。隣の女の肩にわざと憑《よ》り掛りあるいは窃《ひそか》に肩の後または尻の方へ手を廻して抱くとも抱かぬともつかぬ変な事をするものあり。女の前に立ちて両足の間に女の膝を入れて時々締めにかかる奴あり。これらの例数ふるに遑《いとま》あらず。これ助兵衛の致す処か。飢ゑたるの致す処か。助兵衛は飽きてなほ欲するものをいふなり。飢ゑたるものは食を選ばず唯無暗にがつがつするなり。飽けば案外おとなしくなるなり。
○縁日《えんにち》の夜、摺違《すれちが》ひに若き女のお尻を抓《つね》つたりなんぞしてからかふ者あり。これからかふ[#「からかふ」に傍点]にして何もその女を姦せんと欲するがために非ず。さういふ男は女郎屋なぞに上ればかへつてさつぱりしたものなり。江戸児《えどっこ》の職人なぞにこの類多し。助兵衛にあらず飢ゑたるにもあらずして女をからかふは何の故ぞや。唯面白ければなり。猥褻 は上下万民に了解せらるる興味なり。かくの如く平民的平等的なる興味また他に求むべからず。救世軍の日本に来るやまづ吉原の娼妓によつて事をなす。天下|普《あまね》く喜んでその事の是非を論ぜり。当路の官吏しばしば治績を世に示さんとするや必ず文学美術演劇の取締を厳にし加ふるに淫売狩を以てす。皆策の得たるものといふべきなり。
○人猥褻を好まば宜しく猥褻の戒むべき事を論ずべし。これを奨励するとこれを禁圧するとけだしその結果や一たり。共にその事を口にして常にその事に親しむ事を得ればなり。改良といひ矯正と称し進化と号するは当今の流行なり。欠点を挙げ弊害を論ずる事を好むはまたこれ日本人の特徴なり。猥褻の害は論じやすし。論ずれば聴くもの必ず悦《よろこ》んで堵《と》をなす。誰か強いてその利を論ずるの愚をなさんや。然れども害あるものもし用ゆる事宜しければ転じて利となる事無きに非らず。煙草にも徳あり酒にも功あり。
○猥褻を転じて滑稽となせしは天明の狂歌なり。寄筍恋下女恋《きじゅんれんげじょれん》等の題目について看《み》るべし。猥褻をして一味いひがたき哀愁の美たらしめしは為永《ためなが》一派の人情本なり。猥褻を基礎として人生と社会を達観したるは川柳『末摘花《すえつむはな》』なり。我国《わがくに》木版術の精巧は春画を措《お》きて他に看るべからず。毛刻《けぼ》りは鼠の歯を以てなすものなりといふ。されど記者いまだ真偽を確めしにあらず。かかる事は確めざるをよしとす。

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月8日作成
2011年11月27日修正
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永井荷風

霊廟—– 永井荷風

〔Il suffit que tes eaux e’gales et sans fe^te〕
〔Reposent dans leur ordre et tranquillite’,〕
〔Sans que demeure rien en leur noble de’faite〕
〔De ce qui fut jadis un spectacle enchante’.〕

わが歩みヴェルサイユを訪《と》ひわが眼《まなこ》ヴェルサイユを観《み》んと欲するは
そが壮麗と光栄のためならず。
数知れぬ神となされて路易《ルイ》大王はなほも世にあり。然《さ》れば
われ何ぞ史伝の階段を極め昇るに及ばんや。

荒廃のいとも気高き眺めの中《うち》には、
美しき昔のさまの影もあはれや、
遊楽|後《あと》を絶ちて唯だ変りなきその池水《いけみず》のみ、
昔《いにしえ》の秩序と静寧の中《うち》に息《いこ》ひたるこそ嬉しけれ。
[#ここで字下げ終わり]
という句がある。
 自分が頻《しきり》に芝山内《しばさんない》の霊廟《れいびょう》を崇拝して止まないのも全くこの心に等しい。しかしレニエエは既に世界の大詩人である。彼と我と、その思想その詩才においては、いうまでもなく天地雲泥の相違があろう。しかし同じく生れて詩人となるやその滅びたる芸術を回顧する美的感奮の真情に至っては、さして多くの差別があろうとも思われぬ。
 否々《いないな》。自分は彼れレニエエが「われはヴェルサイユの最後の噴泉そが噴泉の都の面《おもて》に慟哭《どうこく》するを聴く。」と歌った懐古の情の悲しさに比較すれば、自分が芝の霊廟に対して傾注する感激の底には、かえって一層の痛切一層の悲惨が潜んでいなければならぬはずだと思うのである。
 ポンペイの古都は火山の灰の下にもなお昔のままなる姿を保存していた実例がある。仏蘭西の地層から切出した石材のヴェルサイユは火事と暴風《あらし》と白蟻との災禍を恐るる必要なく、時間の無限中《むげんちゅう》に今ある如く不朽に残されるであろう。けれども我が木造の霊廟は已にこの間《あいだ》も隣接する増上寺《ぞうじょうじ》の焔に脅《おびや》かされた。凡《すべ》ての物を滅して行く恐しい「時間」の力に思い及ぶ時、この哀れなる朱と金箔《きんぱく》と漆《うるし》の宮殿は、その命の今日か明日《あす》かと危ぶまれる美しい姫君のやつれきった面影にも等しいではないか。
 そもそも最初自分がこの古蹟を眼にしたのは何年ほど前の事であったろう。まだ小学校へも行かない時分ではなかったか。桜のさく或日の午後《ひるすぎ》小石川《こいしかわ》の家《いえ》から父と母とに連れられてここまで来るには車の上ながらも非常に遠かった。東京の中《うち》ではないような気がした。綺麗な金ピカなお堂がいくつもあって、その階《きざはし》の前で自分は浅草の観音さまのように鳩の群に餌を撒《ま》いてやったが何故《なぜ》このお堂の近所には仲見世《なかみせ》のような、賑やかでお土産を沢山買うような処がないのかと、むしろ不平であった事なぞがおぼろに思い返される。
 少年時代の幾年間は過ぎた。今から丁度十年ほど前、自分は木曜会の葵山《きざん》渚山《しょざん》湖山《こざん》なぞいう文学者と共に、やはり桜の花のさく或日の午後《ひるすぎ》、あの五重の塔の下あたりの掛茶屋《かけぢゃや》に休んだ。しかしその時には自分を始め誰一人霊廟を訪《と》おうというものはなく、桜餅に渋茶を啜《すす》りながらの会話は如何にすれば、紅葉派《こうようは》全盛の文壇に対抗することが出来るだろうか。最少《もすこ》し具体的にいえばどうしたら『新小説』と『文芸倶楽部《ぶんげいクラブ》』の編輯者《へんしゅうしゃ》がわれわれの原稿を買うだろうかとの問題ばかりであった。われわれはあまりにトルストイの思想とゾラの法則を論ずるに忙しかった。それから三年ならずして意外なる運命は自分の身を遠い処へ運び去って、また四年五年の月日は過ぎた。再び帰って来たとき時勢は如何に著しく昨日《きのう》と今日との間を隔離させていたであろう。
 久しく別れた人たちに会おうとて、自分は高輪《たかなわ》なる小波《さざなみ》先生の文学会に赴くため始めて市中の電車に乗った。夕靄《ゆうもや》の中《うち》に暮れて行く外濠《そとぼり》の景色を見尽して、内幸町《うちさいわいちょう》から別の電車に乗換えた後《のち》も絶えず窓の外に眼を注いでいた。特徴のないしかも乱雑な人家つづきの街が突然尽きて、あたりが真暗になったかと思うと、自分は直様《すぐさま》窓の外に縦横に入り乱れて立っている太い樹木を見た。蒼白《あおじろ》いガスの灯《ひ》と澄み渡った夜の空との光の中に、樹木の幹は如何に勢よく、屈曲自在なる太い線の美を誇っていたであろう。アメリカの曠野に立つ樫《かし》フランスの街道に並ぶ白楊樹《はくようじゅ》地中海の岸辺に見られる橄欖《かんらん》の樹が、それぞれの姿によってそれぞれの国土に特種の風景美を与えているように、これは世界の人が広重《ひろしげ》の名所絵においてのみ見知っている常磐木《ときわぎ》の松である。
 自分は三門前《さんもんまえ》と呼ぶ車掌の声と共に電車を降りた。そして前後左右に匍匐《ほふく》する松の幹の間に立ってその姿に見とれた時、幾年間全く忘れ果ててしまった霊廟の屋根と門とに心付いたのである。しかしその折にはまだ裏手の通用門から拝観の手続きをなすべき案内をも知らなかったので、自分は秋の夜の静寂の中《うち》に畳々《じょうじょう》として波の如く次第に奥深く重なって行くその屋根と、海のように平かな敷地の片隅に立ち並ぶ石燈籠《いしどうろう》の影をば、廻《めぐ》らされた柵の間から恐る恐る覗いたばかりであった。
 翌日《あくるひ》自分は昨夜《ゆうべ》降りた三門前で再び電車を乗りすて、先ず順次に一番|端《はず》れなる七代将軍の霊廟から、中央にある六代将軍、最後に増上寺を隔てて東照宮《とうしょうぐう》に隣りする二代将軍の霊廟を参拝したのである。この事は巳に『冷笑』と題する小説中|紅雨《こうう》という人物を借りて自分はつぶさにこれを記述した事がある。
[#ここから2字下げ]
「紅雨の最も感動したのは、かの説明者が一々に勿体《もったい》つける欄間《らんま》の彫刻や襖《ふすま》の絵画や金箔《きんぱく》の張天井《はりてんじょう》の如き部分的の装飾ではなくて、霊廟と名付けられた建築とそれを廻《めぐ》る平地全体の構造配置の法式であった。
先ず彎曲《わんきょく》した屋根を戴き、装飾の多い扉の左右に威嚇的《いかくてき》の偶像を安置した門を這入《はい》ると真直な敷石道が第二の門の階段に達している。敷石道の左右は驚くほど平かであって、珠《たま》の如く滑《なめら》かな粒の揃った小石を敷き、正方形に玉垣を以て限られた隅々に銅《あかがね》の燈籠を数えきれぬほど整列さしてある。第二の門内に這入ると地盤が一段高くしてあって第一と同じ形式の唯《た》だ少しく狭い平地は直様《すぐさま》霊廟を戴く更に高い第三の乃《すなわ》ち最後の区劃に接しているのである。此処《ここ》にはそれを廻《めぐ》る玉垣の内側が他のものとは違って、悉《ことごと》く廻廊の体《てい》をなし、霊廟の方から見下《みおろ》すとその間に釣燈籠を下げた漆塗の柱の数《かず》がいかにも粛々《しゅくしゅく》として整列している。霊廟そのものもまた平地と等しくその床《ゆか》に二段の高低がつけてあるので、もしこれを第三の門際《もんぎわ》よりして望んだならば、内殿の深さは周囲の装飾と薄暗い光線のために測り知るべくもない。
この建築全体の法式はつまり人間の有する敬虔崇拝の感情を出来得べき限りの最高度まで興奮させようと企てたものでしかも立派にその目的に成功した大《だい》なる美術的傑作品である。
紅雨は生涯忘れない美的感激の極度を経験したと信ずる巴里《パリー》の有名なる建築物に対した時の心持に思い較《くら》べて、芝の霊廟はそれに優るとも決して劣らぬ感激を与えてくれた事を感謝した。そればかりでなく、彼はまた曲線的なるゴチック式の建築が能《よ》くかの民族の性質を伝《つたえ》るように、この方形的なる霊廟の構造と濃厚なる彩色とは甚だよく東洋固有の寂しく、驕慢に、隔離した貴族思想を説明してくれる事を喜んだ。なおそれのみに止《とど》まらず、紅雨は門と玉垣によって作られた二段三段の区劃を眺めてメエテルリンクやレニエエなどが宮殿の数ある柱や扉によって用いたような象徴芸術の真髄を会得《えとく》したようにも感じた。」
[#ここで字下げ終わり]
 実際この二世紀以前の建築は自分に対して明治と称する過渡期の芸術家に対して、数え尽されぬほどいかに有益なる教訓と意外なる驚嘆の情とを与えてくれたか分らない。
 自分はもしかの形式美の詩人テオフィル・ゴオチエエが凡そ美しき宇宙の現象にして文辞を以ていい現わせないものはないといったように、詞藻《しそう》の豊富に対して驚くべき自信を持っていたなら、自分は余す処なく霊廟の柱や扉の彫刻と天井や襖《ふすま》の絵画の一ツ一ツを茲《ここ》に写生し、そしてまた七代と六代将軍と互に相隣りせる霊廟の構造の全く同一でありながら、単に装飾の細節《さいせつ》において相違する点をもつぶさに書き分けていまだ霊廟を見ない人に向って誇り顔にこれを紹介したことであろう。
 しかし自分の画版《カンバス》はあまりに狭く自分の目の前にひろがっている世界はあまりに荘重美麗である。自分はただ断片的なる感想を断片的に記述する事を以て足れりとせねばならぬ。
 われわれ過渡期の芸術家が一度《ひとた》びこの霊廟の内部に進入って感ずるのは、玉垣の外なる明治時代の乱雑と玉垣の内なる秩序の世界の相違である。先ず案内の僧侶に導かれるまま、手摺《てず》れた古い漆塗りの廻廊を過ぎ、階段を後《うしろ》にして拝殿の堅い畳の上に坐って、正面の奥|遥《はるか》には、金光燦爛《きんこうさんらん》たる神壇、近く前方の右と左には金地《きんじ》に唐獅子《からしし》の壁画、四方の欄間には百種百様の花鳥と波浪の彫刻を望み、金箔の円柱に支えられた網代形《あじろがた》の高い天井を仰ぎ見よ。そして広大なるこの別天地の幽邃《ゆうすい》なる光線と暗然たる色彩と冷静なる空気とに何か知ら心の奥深く、騒《さわが》しい他の場所には決して味われぬ或る感情を誘い出される時、この霊廟の来歴を説明する僧侶のあたかも読経《どきょう》するような低い無表情の声を聞け。――昔は十万石以上の大名がこの殿上に居並《いなら》び、十万石以下の大名は外なる廻廊に参列して礼拝《らいはい》の式をなした。かく説明する僧侶の音声は(言語の意味からではない。)如何によく過去の時代の壮麗なる式場の光景を眼前に髣髴《ほうふつ》たらしめるであろうか。
 自分は厳《おごそ》かなる唐獅子の壁画に添うて、幾個《いくつ》となく並べられた古い経机《きょうづくえ》を見ると共に、金襴《きんらん》の袈裟《けさ》をかがやかす僧侶の列をありありと目に浮《うか》べる。拝殿の畳の上に据え置かれた太鼓と鐘と鼓とからは宗教的音楽の重々しく響出《ひびきで》るのを聞き得るようにも思う。また振返って階段の下なる敷石を隔てて網目のように透彫《すきぼり》のしてある朱塗の玉垣と整列した柱の形を望めば、ここに居並んだ諸国の大名の威儀ある服装と、秀麗なる貴族的容貌とを想像する。そして自分は比較する気もなく、不体裁《ふていさい》なる洋服を着た貴族院議員が日比谷の議場に集合する光景に思い至らねばならぬ。
 これにつけてもわれわれはかのアングロサキソン人種が齎《もたら》した散文的実利的な文明に基《もとづ》いて、没趣味なる薩長人の経営した明治の新時代に対して、幾度《いくたび》幾年間、時勢の変遷と称する余儀ない事情を繰返し繰返して嘆いていなければならぬのであろう。
 われわれは已《すで》に今日となっては、いかに美しいからとて、昔の夢をそのままわれらの目の前に呼返そうと思ってはおらぬ。しかしながら文学美術工芸よりして日常一般の風俗流行に至るまで、新しき時代が促《うなが》しつくらしめる凡《すべ》てのものが過去に比較して劣るとも優っておらぬかぎり、われわれは丁度かの沈滞せる英国の画界を覚醒したロセッチ一派の如く、理想の目標を遠い過去に求める必要がありはせまいか。
 自分は次第に激しく、自分の生きつつある時代に対して絶望と憤怒《ふんぬ》とを感ずるに従って、ますます深く松の木蔭《こかげ》に声もなく居眠っている過去の殿堂を崇拝せねばならぬ。
 欄間や柱の彫刻、天井や壁の絵画を一ツ一ツに眺めよう。
 自分はここにわれらの祖先が数限りなく創造した東洋固有の芸術に逢着する。松、竹、梅、桜、蓮、牡丹《ぼたん》の如き植物と、鶴、亀、鳩、獅子、犬、象、竜の如き動物と、渦巻く雲、逆巻く波の如き自然の現象とは、いずれも一種不思議な意匠によって勇ましくも写実の規定から超越して巧みに模様化せられ、理想化せられてある。われわれは今日《こんにち》春の日の麗《うるわ》しい自然美を歌おうとするに、どういう訳で殊更《ことさら》ダリヤと菫《すみれ》の花とを手折《たお》って来なければならなかったのであろう。
 朱塗の玉垣のほとりには敷石に添うて幾株の松や梅が植えられてある。これらの植物の曲って地に垂れたその枝振りと、岩のようにごつごつして苔に蔽われた古い幹との形は、日本画にのみ見出される線の筆力を想像せしめる。並んだ石燈籠の蔭や敷石の上にまるで造花《つくりばな》としか見えぬ椿の花の落ち散っている有様は、極めて写実的ならざる光琳派《こうりんは》の色彩を思わしめる。互いに異なる風土からは互いに異なる芸術が発生するのは当然の事であろう。そして、この風土|特種《とくしゅ》の感情を遺憾なく発揮する処に、凡《すべ》ての大《だい》なる芸術の尽きない生命が含まれるのではあるまいか。
 雪の降る最中、自分はいつものように霊廟を訪《たず》ねた事があった。屋根に積った真白な雪の間から、軒裏《のきうら》を飾る彫刻の色彩の驚くばかり美しく浮上っていた事と、漆塗の黒い門の扉を後《うしろ》にして落花のように柔かく雪の降って来る有様と、それらは一面の絵として、自分には如何なる外国の傑作品をも聯想《れんそう》せしめない、全く特種の美しい空想を湧起《ゆうき》せしめた事を記憶している。強《し》いて何かの聯想を思い出させれば、やはり名所の雪を描いた古い錦絵か、然らずば、芝居の舞台で見る「吉野山《よしのやま》」か「水滸伝《すいこでん》」の如き場面であろう。けれども、それらの錦絵も芝居の書割《かきわり》も決して完全にこの珍らしい貴重なる東洋固有の風景を写しているとは思えない。
 寒月《かんげつ》の隈《くま》なく照り輝いた風のない静な晩、その蒼白い光と澄み渡る深い空の色とが、何というわけなく、われらの国土にノスタルジックな南方的情趣を帯びさせる夜《よる》、自分は公園の裏手なる池のほとりから、深い樹木に蔽われた丘の上に攀《よ》じ登って、二代将軍の墳墓に近い朱塗の橋を渡り、その辺《へん》の小高い処から、木の根に腰をかけて、目の下一面に、二代将軍の霊廟全体を見下《みおろ》した事がある。
 底光りのする空を縫った老樹の梢《こずえ》には折々|梟《ふくろ》が啼いている。月の光は幾重《いくえ》にも重《かさか》った霊廟の屋根を銀盤のように、その軒裏の彩色を不知火《しらぬい》のように輝《かがやか》していた。屋根を越しては、廟の前なる平地が湖水の面《おもて》のように何ともいえぬほど平かに静に見えた。二重にも三重にも建て廻《めぐ》らされた正方形なる玉垣の姿と、並んだ石燈籠の直立した形と左右に相対して立つ御手洗《みたらし》の石の柱の整列とは、いずれも幽暗なる月の光の中に、浮立つばかりその輪郭を鋭くさせていたので、もし誇張していえば、自分は凡て目に見る線のシンメトリイからは一所《いっしょ》になって、或る音響が発するようにも思うのであった。しかしこの音楽はワグネルの組織ともドビュッシイの法式とも全く異ってその土地に生れたものの心にのみ、その土地の形象が秘密に伝える特種の芸術の囁《ささや》きともいうべきであったろう。
 已に半世紀近き以前一種の政治的革命が東叡山《とうえいざん》の大伽藍《だいがらん》を灰燼《かいじん》となしてしまった。それ以来新しくこの都に建設せられた新しい文明は、汽車と電車と製造揚《せいぞうば》を造った代り、建築と称する大なる国民的芸術を全く滅してしまった。そして一刻一刻、時間の進むごとに、われらの祖国をしてアングロサキソン人種の殖民地であるような外観を呈せしめる。古くして美しきものは見る見る滅びて行き新しくして好きものはいまだその芽を吹くに至らない。丁度焼跡の荒地《あれち》に建つ仮小屋の間を彷徨《さまよ》うような、明治の都市の一隅において、われわれがただ僅か、壮麗なる過去の面影に接し得るのは、この霊廟、この廃址《はいし》ばかりではないか。
 過去を重んぜよ。過去は常に未来を生む神秘の泉である。迷える現在の道を照す燈火《とうか》である。われらをして、まずこの神聖なる過去の霊場より、不体裁《ふていさい》なる種々の記念碑、醜悪なる銅像等凡て新しき時代が建設したる劣等にして不真面目なる美術を駆逐し、そしてわれらをして永久に祖先の残した偉大なる芸術にのみ恍惚《こうこつ》たらしめよ。自分は断言する。われらの将来はわれらの過去を除いて何処《いずこ》に頼るべき途《みち》があろう。
[#地から2字上げ]明治四十三年六月

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年4月15日作成
2010年11月5日修正
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永井荷風

里の今昔—– 永井荷風

昭和二年の冬、酉《とり》の市《いち》へ行った時、山谷堀《さんやぼり》は既に埋められ、日本堤《にほんづつみ》は丁度取崩しの工事中であった。堤から下りて大音寺前《だいおんじまえ》の方へ行く曲輪外《くるわそと》の道もまた取広げられていたが、一面に石塊《いしころ》が敷いてあって歩くことができなかった。吉原を通りぬけて鷲神社《おおとりじんじゃ》の境内《けいだい》に出ると、鳥居前の新道路は既に完成していて、平日は三輪行《みのわゆき》の電車や乗合自動車の往復する事をも、わたくしはその日初めて聞き知ったのである。
 吉原の遊里は今年昭和|甲戌《こうじゅつ》の秋、公娼廃止《こうしょうはいし》の令の出づるを待たず、既に数年前、早く滅亡していたようなものである。その旧習とその情趣とを失えば、この古き名所はあってもないのと同じである。
 江戸のむかし、吉原の曲輪《くるわ》がその全盛の面影を留《とど》めたのは山東京伝《さんとうきょうでん》の著作と浮世絵とであった。明治時代の吉原とその附近の町との情景は、一葉《いちよう》女史の『たけくらべ』、広津柳浪《ひろつりゅうろう》の『今戸心中《いまどしんじゅう》』、泉鏡花《いずみきょうか》の『註文帳』の如き小説に、滅び行く最後の面影を残した。
 わたくしが弱冠《じゃっかん》の頃、初めて吉原の遊里を見に行ったのは明治三十年の春であった。『たけくらべ』が『文芸|倶楽部《クラブ》』第二巻第四号に、『今戸心中』が同じく第二巻の第八号に掲載せられたその翌年である。
 当時遊里の周囲は、浅草公園に向う南側|千束町《せんぞくまち》三丁目を除いて、その他の三方にはむかしのままの水田《みずだ》や竹藪や古池などが残っていたので、わたくしは二番目狂言の舞台で見馴れた書割《かきわり》、または「はや悲し吉原いでゝ麦ばたけ。」とか、「吉原へ矢先そろへて案山子《かかし》かな。」などいう江戸座の発句《ほっく》を、そのままの実景として眺めることができたのである。
 浄瑠璃と草双紙《くさぞうし》とに最初の文学的熱情を誘い出されたわれわれには、曲輪外のさびしい町と田圃《たんぼ》の景色とが、いかに豊富なる魅力を示したであろう。
 その頃、見返柳《みかえりやなぎ》の立っていた大門《おおもん》外の堤に佇立《たたず》んで、東の方《かた》を見渡すと、地方今戸町《じかたいまどまち》の低い人家の屋根を越して、田圃のかなたに小塚《こづか》ッ原《ぱら》の女郎屋の裏手が見え、堤の直ぐ下には屠牛場や元結《もとゆい》の製造場などがあって、山谷堀へつづく一条《ひとすじ》の溝渠が横わっていた。毒だみの花や、赤のままの花の咲いていた岸には、猫柳のような灌木が繁っていて、髪洗橋《かみあらいばし》などいう腐った木の橋が幾筋もかかっていた。
 見返柳を後にして堤の上を半町ばかり行くと、左手へ降《おり》る細い道があった。これが竜泉寺町《りゅうせんじまち》の通で、『たけくらべ』第一回の書初めに見る叙景の文は即ちこの処であった。道の片側は鉄漿溝《おはぐろどぶ》に沿うて、廓者《くるわもの》の住んでいる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町一丁目と揚屋町《あげやまち》との非常門を望み、また女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋の刎橋《はねばし》が見えた。道は少し北へ曲って、長屋の間を行くこと半町ばかりにして火《ひ》の見《み》梯子《ばしご》の立っている四辻に出る。このあたりを大音寺前と称《とな》えたのは、四辻の西南《にしみなみ》の角に大音寺という浄土宗の寺があったからである。辻を北に取れば竜泉寺の門前を過ぎて千束稲荷の方へ抜け、また真直に西の方へ行けば、三島神社《みしまじんじゃ》の石垣について阪本通《さかもとどおり》へ出るので、毎夜吉原通いの人力車《じんりきしゃ》がこの道を引きもきらず、提灯《ちょうちん》を振りながら走り過るのを、『たけくらべ』の作者は「十分間に七十五輌」と数えたのであった。
 長屋は追々まばらになって、道もややひろく、その両側を流れる溝《どぶ》の水に石橋をわたし、生茂る竹むらをそのままの垣にした閑雅な門構の家がつづき出す。わたくしはかつてそれらの中の一構《ひとかまえ》が、有名な料理屋田川屋の跡だとかいうはなしを聞いたことがあった。『たけくらべ』に描かれている竜華寺《りゅうげじ》という寺。またおしゃま[#「おしゃま」に傍点]な娘|美登里《みどり》の住んでいた大黒屋の寮なども大方このあたりのすたれた寺や、風雅な潜門《くぐりもん》の家を、そのまま資料にしたものであろうと、通るごとにわたくしは門の内をのぞかずにはいられなかった。江戸時代に楓《もみじ》の名所といわれた正燈寺《しょうとうじ》もまた大音寺前にあったが、庭内の楓樹は久しき以前、既に枯れつくして、わたくしが散歩した頃には、門内の一樹がわずかに昔の名残を留めているに過ぎなかった。
 大音寺は昭和の今日でも、お酉様《とりさま》の鳥居と筋向いになって、もとの処に仮普請《かりぶしん》の堂を留《とど》めているが、しかし周囲の光景があまりに甚しく変ってしまったので、これを尋ねて見ても、同じ場処ではないような気がするほどである。明治三十年頃、わたくしが『たけくらべ』や『今戸心中』をよんで歩き廻った時分のことを思い返すと、大音寺の門は現在電車通りに石の柱の立っている処ではなくして、別の処にあってその向きもまたちがっていたようである。現在の門は東向きであるが、昔は北に向い、道端からはずっと奥深い処にあったように思われるが、しかしこの記憶も今は甚だおぼろである。その頃お酉様の鳥居前へ出るには、大音寺前の辻を南に曲って行ったような気がする。辻を曲ると、道の片側には小家のつづいた屋根のうしろに吉原の病院が見え、片側は見渡すかぎり水田のつづいた彼方《かなた》に太郎稲荷の森が見えた。吉原田圃はこの処をいったのである。裏田圃とも、また浅草田圃ともいった。単に反歩《たんぼ》ともいったようである。
 吉原田圃の全景を眺めるには廓内京町《かくないきょうまち》一、二丁目の西側、お歯黒溝《はぐろどぶ》に接した娼楼《しょうろう》の裏窓が最もその処《ところ》を得ていた。この眺望は幸にして『今戸心中』の篇中に委《くわ》しく描き出されている。即ち次の如くである。
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忍《しのぶ》ヶ|岡《おか》と太郎稲荷の森の梢には朝陽《あさひ》が際立ッて映《あた》ッている。入谷《いりや》はなお半分|靄《もや》に包まれ、吉原田甫《よしわらたんぼ》は一面の霜である。空には一群《ひとむれ》一群の小鳥が輪を作ッて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏《からす》が噪《さわ》ぎ始めた。大鷲神社《おおとりじんじゃ》の傍《そば》の田甫の白鷺が、一羽起ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉の市の売場に新らしく掛けた小屋から二、三|個《にん》の人が見《あら》われた。鉄漿溝《おはぐろどぶ》は泡立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の烟は風に狂いながら流れている。一声の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見る中《うち》に岡の裾を繞《めぐ》ッて、根岸《ねぎし》に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。
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 この文を読んで、現在はセメントの新道路が松竹座の前から三《み》ノ輪《わ》に達し、また東西には二筋の大道路が隅田川の岸から上野谷中の方面に走っているさまを目撃すると、かつて三十年前に白鷺の飛んでいたところだとは思われない。わたくしがこの文についてここに註釈を試みたくなったのも、滄桑《そうそう》の感に堪えない余りである。
「忍《しのぶ》ヶ|岡《おか》」は上野谷中の高台である。「太郎稲荷」はむかし柳河《やながわ》藩主立花氏の下屋敷《しもやしき》にあって、文化のころから流行《はや》りはじめた。屋敷の取払われた後、社殿とその周囲の森とが浅草光月町《あさくさこうげつちょう》に残っていたが、わたくしが初めて尋ねて見た頃には、その社殿さえわずかに形《かた》ばかりの小祠になっていた。「大音寺前の温泉」とは普通の風呂屋ではなく、料理屋を兼ねた旅館ではないかと思われる。その名前や何かはこれを詳《つまびらか》にしない。当時入谷には「松源《まつげん》」、根岸に「塩原《しおばら》」、根津《ねづ》に「紫明館《しめいかん》」、向島に「植半《うえはん》」、秋葉に「有馬温泉」などいう温泉宿があって、芸妓《げいぎ》をつれて泊りに行くものも尠《すくな》くなかった。
『今戸心中』はその発表せられたころ、世の噂によると、京町二丁目の中米楼《なかごめろう》にあった情死を材料にしたものだという。しかし中米楼は重《おも》に茶屋受の客を迎えていたのに、『今戸心中』の叙事には引手茶屋のことが見えていない。その頃裏田圃が見えて、そして刎橋《はねばし》のあった娼家で、中米楼についでやや格式のあったものは、わたくしの記憶する所では京二の松大黒《まつだいこく》と、京一の稲弁《いなべん》との二軒だけで、その他は皆|小格子《こごうし》であった。
『今戸心中』が明治文壇の傑作として永く記憶せられているのは、篇中の人物の性格と情緒とが余す所なく精細に叙述せられているのみならず、また妓楼全体の生活が渾然《こんぜん》として一幅の風俗画をなしているからである。篇中の事件は酉《とり》の市《いち》の前後から説き起されて、年末の煤払《すすはら》いに終っている。吉原の風俗と共に情死の事を説くには最も適切な時節を択《えら》んだところに作者の用意と苦心とが窺われる。わたくしはここに最終の一節を摘録しよう。
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小万《こまん》は涙ながら写真と遺書《かきおき》とを持ったまま、同じ二階の吉里《よしざと》の室《へや》へ走ッて行ッて見ると、素《もと》より吉里のおろうはずがなく、お熊《くま》を始め書記《かきやく》の男と他《ほか》に二人ばかり騒いでいた。小万は上《かみ》の間《ま》に行ッて窓から覗いたが、太郎稲荷、入谷《いりや》、金杉《かなすぎ》あたりの人家の燈火《ともしび》が散見《ちらつ》き、遠く上野の電気燈が鬼火《ひとだま》のように見えているばかりである。
次の日の午時頃《ひるごろ》、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りの或|露地《ろじ》の中に、吉里が着て行ッたお熊の半天《はんてん》が脱捨《ぬぎすて》てあり、同じ露地の隅田川の岸には娼妓《じょろう》の用いる上草履《うわぞうり》と男物の麻裏草履とが脱捨ててあッた事が知れた。(略)お熊は泣々《なくなく》箕輪《みのわ》の無縁寺《むえんでら》に葬むり、小万はお梅を遣《や》ッては、七日七日の香華《こうげ》を手向《たむ》けさせた。
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 箕輪の無縁寺は日本堤の尽きようとする処から、右手に降りて、畠道を行く事一、二町の処にあった浄閑寺《じょうかんじ》をいうのである。明治三十一、二年の頃、わたくしが掃墓に赴いた時には、堂宇は朽廃し墓地も荒れ果てていた。この寺はむかしから遊女の病死したもの、または情死して引取手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供養塔《くようとう》が目に立つばかり。その他《ほか》の石は皆小さく蔦《つた》かつらに蔽《おお》われていた。その頃年少のわたくしがこの寺の所在を知ったのは宮戸座の役者たちが新|比翼塚《ひよくづか》なるものに香華を手向けた話をきいた事からであった。新比翼塚は明治十二、三年のころ品川楼で情死をした遊女|盛糸《せいし》と内務省の小吏谷豊栄|二人《ににん》の追善に建てられたのである。(因《ちなみ》にいう。竜泉寺町《りゅうせんじまち》の大音寺もまた遊女の骨を埋めた処で、むかし蜀山人が碑の全文を里言葉でつくった遊女なにがしの墓のある事を故老から聞き伝えて、わたくしは両三度これを尋ねたが遂に尋ね得なかった事がある。)
 日本堤を行き尽して浄閑寺に至るあたりの風景は、三、四十年後の今日、これを追想すると、恍《こう》として前世を悟る思いがある。堤の上は大門近くとはちがって、小屋掛けの飲食店もなく、車夫もいず、人通りもなく、榎か何かの大木が立っていて、その幹の間から、堤の下に竹垣を囲《めぐら》し池を穿《うが》った閑雅な住宅の庭が見下された。左右ともに水田のつづいた彼方《かなた》には鉄道線路の高い土手が眼界を遮《さえぎ》っていた。そして遥か東の方に小塚《こづか》ッ原《ぱら》の大きな石地蔵《いしじぞう》の後向きになった背が望まれたのである。わたくしはもし当時の遊記や日誌を失わずに持っていたならば、読者の倦《う》むをも顧《かえりみ》ずこれを採録せずにはいなかったであろう。
 わたくしは遊廓をめぐる附近の町の光景を説いて、今余すところは南側の浅草の方面ばかりとなった。吉原から浅草に至る通路の重なるものは二筋あった。その一筋は大門を出て堤を右手に行くこと二、三町、むかしは土手の平松《ひらまつ》とかいった料理屋の跡を、そのままの牛肉屋|常磐《ときわ》の門前から斜に堤を下り、やがて真直《まっすぐ》に浅草公園の十二階下に出る千束町《せんぞくまち》二、三丁目の通りである。他の一筋は堤の尽きるところ、道哲《どうてつ》の寺のあるあたりから田町《たまち》へ下りて馬道《うまみち》へつづく大通である。電車のないその時分、廓《くるわ》へ通う人の最も繁く往復したのは、千束町二、三丁目の道であった。
 この道は、堤を下《おり》ると左側には曲輪《くるわ》の側面、また非常門の見えたりする横町が幾筋もあって、車夫や廓者《くるわもの》などの住んでいた長屋のつづいていた光景は、『たけくらべ』に描かれた大音寺前《だいおんじまえ》の通りと変りがない。やがて小流れに石の橋がかかっていて、片側に交番、片側に平野という料理屋があった。それから公園に近くなるにつれて商店や飲食店が次第に増えて、賑《にぎやか》な町になるのであった。
 震災の時まで、市川猿之助《いちかわえんのすけ》君が多年住んでいた家はこの通の西側にあった。酉《とり》の市《いち》の晩には夜通し家を開け放ちにして通りがかりの来客に酒肴《さけさかな》を出すのを吉例としていたそうである。明治三十年頃には庭の裏手は一面の田圃であったという話を聞いたことがあった。さればそれより以前には、浅草から吉原へ行く道は馬道の他《ほか》は、皆|田間《でんかん》の畦道《あぜみち》であった事が、地図を見るに及ばずして推察せられる。
『たけくらべ』や『今戸心中』のつくられた頃、東京の町にはまだ市区改正の工事も起らず、従って電車もなく、また電話もなかったらしい。『今戸心中』をよんでも娼妓が電話を使用するところが見えない。東京の町々はその場処場処によって、各《おのおの》固有の面目を失わずにいた。例えば永代橋辺と両国辺とは、土地の商業をはじめ万事が同じではなかったように、吉原の遊里もまたどうやらこうやら伝来の風習と格式とを持続して行く事ができたのである。
 泉鏡花の小説『註文帳』が雑誌『新小説』に出たのは明治三十四年で、一葉柳浪二家の作におくれること五、六年である。二六新報の計画した娼妓自由廃業の運動はこの時既に世人の話柄《わへい》となっていたが、遊里の風俗はなお依然として変る所のなかった事は、『註文帳』の中に現れ来る人物や事件によっても窺い知ることが出来る。
『註文帳』は廓外の寮に住んでいる娼家の娘が剃刀《かみそり》の祟《たたり》でその恋人を刺す話を述べたもので、お歯黒溝《はぐろどぶ》に沿うた陰欝な路地裏の光景と、ここに棲息して娼妓の日用品を作ったり取扱ったりして暮しを立てている人たちの生活が描かれている。研屋《とぎや》の店先とその親爺との描写はこの作者にして初めて為《な》し得べき名文である。わたくしは『今戸心中』がその時節を年の暮に取り、『たけくらべ』が残暑の秋を時節にして、各《おのおの》その創作に特別の風趣を添えているのと同じく、『註文帳』の作者が篇中その事件を述ぶるに当って雪の夜を択んだことを最も巧妙なる手段だと思っている。一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》の板画について、雪に埋れた日本堤や大門外の風景をよろこぶ鑑賞家は、鏡花子の筆致のこれに匹如《ひつじょ》たることを認めるであろう。
 鉄道馬車が廃せられて電車に替えられたのは、たしか明治三十六年である。世態人情の変化は漸く急激となったが、しかし吉原の別天地はなお旧習を保持するだけの余裕があったものと見え、毎夜の張見世《はりみせ》はなお廃止せられず、時節が来れば桜や仁和賀《にわか》の催しもまたつづけられていた。
 わたくしはこの年から五、六年、図《はか》らずも※[#「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38]旅《きりょ》の人となったが、明治四十一年の秋、重ねて来り見るに及んで、転《うた》た前度《ぜんど》の劉郎《りゅうろう》たる思いをなさねばならなかった。仲《なか》の町《ちょう》にはビーヤホールが出来て、「秋信|先《まず》通ず両行の燈影」というような町の眺めの調和が破られ、張店《はりみせ》がなくなって五丁町《ごちょうまち》は薄暗く、土手に人力車の数の少くなった事が際立って目についた。明治四十三年八月の水害と、翌年《あくるとし》四月の大火とは遊里とその周囲の町の光景とを変じて、次第に今日の如き特徴なき陋巷《ろうこう》に化せしむる階梯《かいてい》をつくった。世の文学雑誌を見るも遊里を描いた小説にして、当年の傑作に匹疇《ひっちゅう》すべきものは全くその跡を断つに至った。
 遊里の光景と風俗とは、明治四十二、三年以後にあっては最早やその時代の作家をして創作の感興を催さしむるには適しなくなったのである。何が故に然りというや。わたくしは一葉柳浪鏡花等の作中に現れ来《きた》る人物の境遇と情緒とは、江戸浄瑠璃中のものに彷彿《ほうふつ》としている事を言わねばならない。そしてまた、それらの人物は作家の趣味から作り出されたものでなく、皆実在のものをモデルにしていた事も一言して置かねばならない。ここにおいてわたくしは三、四十年以前の東京にあっては、作者の情緒と現実の生活との間に今日では想像のできない美妙なる調和があった。この調和が即ちかくの如き諸篇を成さしめた所以《ゆえん》である事を感じるのである。
 明治三十年代の吉原には江戸浄瑠璃に見るが如き叙事詩的の一面がなお実在していた。『今戸心中』、『たけくらべ』、『註文帳』の如き諸作はこの叙事詩的の一面を捉え来って描写の功を成したのである。『たけくらべ』第十回の一節はわたくしの所感を証明するに足りるであろう。
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春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊《たまぎく》が燈籠の頃、つづいて秋の新仁和賀《しんにわか》には十分間に車の飛ぶことこの通りのみにて七十五|輌《りょう》と数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉《あかとんぼう》田圃に乱るれば、横堀に鶉《うずら》なく頃も近《ちかづ》きぬ。朝夕の秋風身にしみわたりて、上清《じょうせい》が店の蚊遣香《かやりこう》懐炉灰《かいろばい》に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老《かどえび》が時計の響きもそぞろ哀れの音《ね》を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里《にっぽり》の火の光りもあれが人を焼く烟《けぶり》かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細道に落ちかかるやうな三味の音を仰いで聞けば、仲之町《なかのちょう》芸者が冴《さ》えたる腕に、君が情の仮寐の床にと何ならぬ一ふしあはれも深く、この時節より通ひ初《そ》むるは浮かれ浮かるる遊客《ゆうかく》ならで、身にしみじみと実《じつ》のあるお方のよし、遊女《つとめ》あがりのさる人が申しき。
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 一葉が文の情調は柳浪の作中について見るも更に異る所がない。二家の作は全くその形式を異にしているのであるが、その情調の叙事詩的なることは同一である。『今戸心中』第一回の数行を見よ。
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太空《そら》は一片の雲も宿《とど》めないが黒味わたッて、廿四日の月は未だ上《のぼ》らず、霊あるが如き星のきらめきは、仰げば身も冽《しま》るほどである。不夜城を誇顔《ほこりがお》の電気燈は、軒《のき》より下の物の影を往来へ投げておれど、霜枯三月《しもがれみつき》の淋しさは免《まぬか》れず、大門から水道尻まで、茶屋の二階に甲走《かんばし》ッた声のさざめきも聞えぬ。
明後日が初酉の十一月八日、今年はやや温暖《あたたか》く小袖を三枚《みッつ》重襲《かさね》るほどにもないが、夜が深《ふ》けてはさすがに初冬の寒気《さむさ》が感じられる。
少時前《いまのさき》報《う》ッたのは、角海老《かどえび》の大時計の十二時である。京町には素見客《ひやかし》の影も跡を絶ち、角町《すみちょう》には夜《よ》を警《いまし》めの鉄棒《かなぼう》の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にもやや雑談《はなし》の途断《とぎ》れる時分となッた。
廊下には上草履《うわぞうり》の音がさびれ、台の物の遺骸を今|室《へや》の外へ出している所もある。遥かの三階からは甲走ッた声で、喜助どん喜助どんと床番《とこばん》を呼んでいる。
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 遊里の光景とその生活とには、浄瑠璃を聴くに異らぬ一種の哀調が漲《みなぎ》っていた。この哀調は、小説家がその趣味から作り出した技巧の結果ではなかった。独り遊里のみには限らない。この哀調は過去の東京にあっては繁華な下町にも、静な山の手の町にも、折に触れ時につれて、切々として人の官覚を動す力があった。しかし歳月の過《すぐ》るに従い、繁激なる近世的都市の騒音と燈光とは全くこの哀調を滅してしまったのである。生活の音調が変化したのである。わたくしは三十年前の東京には江戸時代の生活の音調と同じきものが残っていた。そして、その最後の余韻が吉原の遊里において殊に著しく聴取せられた事をここに語ればよいのである。
 遊里の存亡と公娼の興廃の如きはこれを論ずるに及ばない。ギリシャ古典の芸術を尊むがために、誰か今日、時代の復古を夢見るものがあろう。
[#地から2字上げ]甲戌《こうじゅつ》十二月記

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年5月28日作成
2011年4月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

永井荷風

裸体談義—– 永井荷風

 戦争後に流行しだしたものの中には、わたくしのかつて予想していなかったものが少くはない。殺人|姦淫《かんいん》等の事件を、拙劣下賤な文字で主として記載する小新聞《こしんぶん》の流行、またジャズ舞踊の劇場で婦女の裸体を展覧させる事なども、わたくしの予想していなかったものである。殺人姦淫事件は戦争前平和な世の中にも常にあった事であるから、この事だけでは特種な新聞を発行する資料にはなるまいと思われていたからである。およそ世の読者に興味のあるような残忍の事件はそう毎日毎日、紙上を埋めるほど頻々《ひんぴん》として連続するものではない。例えば、日大の学生がその母と妹とに殺された事件、玉の井の溝からばらばらに切り放された死人の腕や脚が出た事などは今だに人の記憶しているくらいで、そう毎日起る事件ではない。目下いずこの停車場《ていしゃじょう》の新聞売場にも並べられている小新聞を見ると、拙劣鄙褻《せつれつひせつ》な挿絵とその表題とが、読者の目を牽《ひ》くだけで買って読んで見ると案外つまらない事ばかりである。わたくしは時代の流行として、そういう時代にはそうした物が流行したという事を記憶して置きたいと思っている。そのためには『実話新聞』だの何だのという印刷物も一通りは風俗資料として保存して置きたいと心掛けている。
 戦争前、カフェー汁粉屋その他の飲食店で、広告がわりに各店で各意匠を凝《こら》したマッチを配布したことがある。これを取り集めて丁寧に画帖に貼り込んだものを見たことがあった。当時の世の中を回顧するにはよい材料である。戦後文学また娯楽雑誌が挿絵といえば女の裸体でなければならないように一様に歩調を揃えているのも、後の世になったらむしろ滑稽に思われるであろう。
 舞台で女の裸体を見せるようになった事をわたくしが初めて人から聞伝えたのは、一昨年(昭和廿二年)の秋頃、利根川|汎濫《はんらん》の噂のあった頃である。新宿の帝都座で、モデルの女を雇い大きな額ぶちの後に立ったり臥《ふせ》たりさせ、予《あらかじ》め別の女が西洋名画の筆者と画題とを書いたものを看客に見せた後幕を明けるのだという話であった。しかしわたくしが事実目撃したのは去年(昭和廿三年)になってからであった。
 戦争前からわたくしは浅草公園の興行界には知合の人が少くなかった。浅草の興行街は幸に空襲の災難を免《まぬか》れていたので映画の外に芝居やレビューも追々《おいおい》興行されるようになったから、是非にも遊びに来るようにと手紙をもらうことも度々になったので、去年の正月も七草《ななくさ》を過ぎたころ、見物に出かけた、その時|木馬館《もくばかん》の後あたりに小屋掛をして、裸体の女の大勢足をあげて踊っている看板と、エロス祭と大書した札を出しているのがあった。入場料は拾円で、蓄音機にしかけた口上が立止る人々の好奇心を挑発させていた。しかし入口からぽつぽつ出て来る人たちの評判を立聞きすると、「腰巻なんぞ締《し》めていやがる。面白くもねえ。」というのである。小屋掛の様子からどうしてもむかし縁日《えんにち》に出たロクロ首の見世物も同じらしく思われたので、わたくしは入らずにしまった。このエロス祭とよく似ていたのは日本館の隣の空地《あきち》でやっていた見世物である。黒眼鏡をかけた女がその首だけを台の上に載せ、その身体は見えないようにしてある。呼込みの男が医学と衛生に関する講演をやって好加減《いいかげん》入場者が集まる頃合を見計い表の幕を下す。入場料はたしか五拾円であった。これも、わたくしは入って見てもいいと思いながら講演が長たらしいのに閉口して、這入《はい》らずにしまった。エロス祭と女の首の見世物とは半歳近くつづいて、その年の秋にはなくなっていた。
 ジャズ舞踊と演劇とを見せる劇場は公園の興行街には常盤座《ときわざ》、ロック座、大都劇場の三座である。踊子の大勢出るレヴューをこの土地ではショーとかヴァライエチーとか呼んでいる。西洋の名画にちなんだ姿態を取らせて、モデルの裸体を見せるのはジャズ舞踊の間にはさんでやるのである。見てしまえば別に何処《どこ》が面白かったと言えないくらいなもので、洗湯《せんとう》へ行って女湯の透見《すきみ》をするのと大差はない。興味は表看板の極端な絵を見て好奇心に駆られている間だけだと言えばいいのであろう。われわれ傍観者には戦争前にはなくて戦敗後に現れて一代の人気に投じたという処に観察の興味があるのだ。
 ジャズを踊る踊子は戦争前には腰と乳房とを隠していたのであるが、モデルが出るようになってから、それも出来得るかぎり隠す部分の少いように仕立てたものを附けるので、後や横を向いた時には真裸体《まっぱだか》のように見えることがある。昨年正月から二月を過ぎ三、四月頃まで、この裸体と裸体に近い女たちの舞踊は全盛を極めた。入場料はその時分から六拾円であるが、日曜日でない平日でも看客は札売場《ふだうりば》の前に長い列をなし一時間近くたって入替りになるのを我慢よく待っていたものだ。しかし四、五月頃から浅草ではモデルの名画振りは禁止となり、踊子の腰のまわりには薄物や何かが次第に多く附けまとわれるようになった。そして時節もだんだん暑くなるにつれ看客の木戸前に行列するような事も少くなって来た。
 一座の中で裸体になる女の給金は、そうでない女たちよりも多額である。それなら誰も彼も裸体になるといいそうなものであるが、そんな競争は見られない。普通の踊子が裸体を勤める女に対して影口をきくこともなく、各《おのおの》その分を守っているとでもいうように、両者の間には何の反目もない。楽屋はいつも平穏無事のようである。
 踊子の踊の間々に楽屋の人たちがスケッチとか称している短い滑稽な対話が挿入される。その中には人の意表に出たものが時々見られるのだ。靴磨が女の靴をみがきながら、片足を揚げた短いスカートの下から女の股間《こかん》を窺《のぞ》くために、足台をだんだん高くさせたり、また、男と女とがカルタの勝負を試み、負ける度びに着ているものを一枚ずつぬいで行き、負けつづけた女が裸体になって、遂に危く腰のものまで取る段になって、舞台は突然暗転して別の場面になる。これらはその一例に過ぎない。いずれも戦争前のレヴューにはなくて、戦敗後の今日において初て見られるものである。世の諺にも話が下掛《しもがか》ってくるともう御仕舞《おしま》いだという。十返舎一九《じっぺんしゃいっく》の『膝栗毛』も篇を重ねて行くに従い、滑稽の趣向も人まちがいや、夜這《よば》いが多くなり、遂に土瓶の中に垂れ流した小便を出がらしの茶とまちがえて飲むような事になる。戦後の演芸が下《しも》がかってくるのも是非がない。
 浅草の劇場では以上述べたようなジャズ舞踊の外に必ず一幕物が演ぜられている。
 戦争後に流行した茶番じみた滑稽物は漸くすたって、闇の女の葛藤《かっとう》、脱走した犯罪者の末路、女を中心とする無頼漢の闘争というが如きメロドラマが流行し、いずこの舞台にもピストルの発射されないことはないようになった。
 戦争前の茶番がかった芝居には、それでも浅草という特種な雰囲気が漂っているものもたまには見られない事もなかったが、今ではそういう写実風の妙味は次第に失われて、脚色の波瀾と人物の活動とを主とする傾《かたむき》が早くも一つの類型をなしているようになった。劇場前に掲げ出される絵看板は、舞台の技芸よりも更に一層奇怪、残忍、淫褻《いんせつ》になった。絵看板と同じく脚本の名題《なだい》もまたそれに劣らぬ文字が案出されている。レヴューの名題には肉体とか絢爛《けんらん》とか誘惑とかいう文字が羅列され、演劇には姦淫、豺狼《さいろう》、貪乱といったような文字が選び出されている。
 浅草の興行街には久しく剣劇といいチャンバラといわれた闘争の劇の流行していたことは人の記憶している所である。博徒無頼漢の喧噪を主とした芝居で、その絵看板の殺伐残忍なことは、往々顔を外向《そむ》けたいくらいなものがあった。チャンバラ芝居は戦争後殆どその跡を断ったので殺伐残忍の画風は転じて現代劇に移ったものとも見られるであろう。
 西洋近代の演劇は写実の芸風を専一にしているが、人が殺されたり撲《ぶ》たれたりするところは決して写実風ではない。また女を殺す場面は避けて用いないようにしてある。然るに戦後に流行する浅草のメロドラマを見ると、女の虐待される場面のないものは甚《はなはだ》少いらしい。立廻《たちまわり》の間に帯が解け襦袢《じゅばん》一枚になった女を押えつけてナイフで乳をえぐったり、咽喉《のど》を絞《し》めたりするところは最も必要な見世場《みせば》とされているらしい。歌舞伎劇にも女の殺される処は珍しくないがその洗練された芸風と伴奏の音楽とが、巧みに実感を起させないようにしている。ここに芸術の妙味が認められる。
 しかしわたくしは浅草の芝居の絵看板またその舞台を見て、戦争後の人心の残忍になった反映だとは考えていない。西洋の芝居で見るように西洋人は決して女を撲《なぐ》らないとも考えていない。わたくしは戦争後に現れた世間的事相に対する興味からこんな事を論述するのに過ぎない。流行演劇の残忍は娯楽雑誌に満載せられる大衆小説家の小説と、またその挿絵とに関係している事は勿論である。もし芸術上これを非とするならばその罪は大衆小説家の負うべき所だといっても差閊《さしつかえ》はないであろう。
 女の裸体ダンスを見せる事について思出したことがあるから、ここに補って置く。それは大正十年頃、東京市中にダンス場ができ始めた頃である。新橋赤坂辺の茶屋の座敷で、レコードの伴奏で裸体ダンスを見せる女があった。一時評判になって前の日から口を掛けて置かなければ呼んでも来られないというほどの景気であった。裸体を見せる女は芸者ではないが、商売上名義だけ芸者ということになっていたので、見たいと思うお客は馴染《なじみ》の茶屋から口をかけて呼んでもらうのである。一座敷時間は十分間ぐらいで、報酬は拾五円が普通、それ以上御好みのきわどい[#「きわどい」に傍点]芸をさせるには二、三十円であった。その当時、最初はこの女一人であったがほどなく新橋|南地《なんち》の新布袋家《しんほていや》という芸者家からも、同じようなダンスを見せる女が現れた。間もなく震災があって、東京の市街は大方《おおかた》焼けてしまったので、裸体ダンスの噂もなくなったが、昭和になってから向島、平井町、五反田あたり新開町の花柳界には以前新橋赤坂で流行したようなダンスを見せる芸者が続々として現れるようになったという話をきいた。浅草の興行街で西洋風のレヴューがはやり初めたのも昭和になってからの事で、震災頃までは安木節《やすぎぶし》の踊や泥鰌《どじょう》すくいが人気を集めていたのであるが、一変して今見るような西洋風のダンスになったのである。(震災前後金龍館で興行していたオペラがあったがその一座はレヴューの流行する前に解散された。)
 裸体の流行は以上の如く戦争後に始めて起った事であるが、西洋ではむかしからあったものであろう。私が西洋にいたのは今から四十年前の事だが、裸体なぞはどこへ行っても見られるから別に珍しいとも思わなかった。女郎屋へ上って広い応接間に案内されると、二、三十人裸体になった女が一列になって出て来る。シャンパンを抜いてチップをやると、女たちは足を揃えて踊って見せるのだ。巴里《パリー》のムーランルージュという劇場は廊下で食事もできる。酒も飲める。食事をしながら舞台の踊を見ることができるようになっていた。また廊下から地下室へ下りて行くと、狭い舞台があって、ここでは裸体の女の芸を見せる。しかしこういう場所の話は公然人前ではしないことになっている。下宿屋の食堂なんぞでもそんな話をするものはない。オペラやクラシック音楽の話はするけれども、普通のレヴューや寄席《よせ》の話さえ食事のテーブルなどで、殊に婦人の前などでは口にしてはならない。これが西洋の習慣なのである。日本ではあることないこと何でも構わずに素《す》ッ破《ぱ》ぬく事は悪いことでも耻ずべき事でもないとされている。私はこれも習慣の相違として軽い興味を持ってこれを見ている。舞台で裸体を見せる事も、西洋文化の模倣とも感化とも見て差閊《さしつかえ》はないであろう。八十年むかしに日本の政治や学術は突如として西洋化した。それに後《おく》れること殆ど一世紀にして裸体の見世物が戦敗後の世人の興味を引きのばしたのだ。時代と風俗の変遷を観察するほど興味の深いものはない。
[#地から2字上げ]昭和廿四年正月

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月9日作成
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永井荷風

羊羹 ——永井荷風

 新太郎はもみぢといふ銀座裏の小料理屋に雇はれて料理方の見習をしてゐる中、徴兵にとられ二年たつて歸つて來た。然し統制後の世の中一帶、銀座|界隈《かいわい》の景況はすつかり變つてゐた。
 仕込にする物が足りないため、東京中の飮食店で毎日滯りなく客を迎へることのできる家は一軒もない。もみぢでは表向休業といふ札を下げ、ない/\で顏馴染のお客とその紹介で來る人だけを迎へることにしてゐたが、それでも十日に一遍は休みにして、肴や野菜、酒や炭薪の買あさりをしなければならない。このまゝ戰爭が長びけば一度の休みは二度となり三度となり、やがて商賣はできなくなるものと、おかみさんを初めお客樣も諦《あきら》めをつけてゐるやうな有樣になつてゐた。
 新太郎は近處の樣子や世間の噂から、ぐづ/\してゐると、もう一度召集されて戰地へ送られるか、さうでなければ工場の職工にされるだらう。幸に此のまゝこゝに働いてゐて、一人前の料理番になつたところで、日頃思つてゐたやうに行末店一軒出せさうな見込はない。いつそ今の中一か八かで、此方《こつち》から進んで占領地へ踏出したら、案外新しい生活の道を見つけることができるかも知れない。さう決心して昭和十七年の暮に手蔓を求め軍屬になつて滿洲へ行き、以前入營中にならひ覺えた自動車の運轉手になり四年の年月《としつき》を送つた。
 停戰になつて歸つて來ると、東京は見渡すかぎり、どこもかしこも燒原で、もみぢの店のおかみさんや料理番の行衞も其時にはさがしたいにも搜しやうがなかつた。生家《せいか》は船橋の町から二里あまり北の方へ行つた田舍の百姓家なので、一まづそこに身を寄せ、市役所の紹介で小岩町のある運送會社に雇はれた。
 一二ヶ月たつか、たゝない中、新太郎は金には不自由しない身になつた。いくら使ひ放題つかつても、ポケツトにはいつも千圓内外の札束《さつたば》が押込んであつた。そこで先《まづ》洋服から靴まで、日頃ほしいと思つてゐたものを買ひ揃へて身なりをつくり、毎日働きに行つた先々《さき/″\》の闇市をあさつて、食べたいものを食べ放題、酒を飮んで見ることもあつた。
 夜は仲間のもの五六人と田圃の中に建てた小屋に寐る。時たま仕事の暇を見て、船橋在の親《おや》の家へ歸る時には、闇市で一|串《くし》拾圓の鰻の蒲燒を幾串も買つて土産《みやげ》にしたり、一本壹圓の飴を近處の子供にやつたり、また現金を母親にやつたりした。
 新太郎は金に窮《こま》らない事、働きのある事を、親兄弟や近處のものに見せてやりたいのだ。むかし自分を叱つたり怒りつけたりした年上の者供に、現在その身の力量を見せて驚かしてやるのが、何より嬉しく思はれてならないのであつた。
 やがて田舍の者だけでは滿足してゐられなくなつた。新太郎は以前もみぢの料理場で手つだひをさせながら、けんつくを食《くは》した上田といふ料理番にも、おかみさんや旦那にも、また毎晩飮みに來たお客。煙草を買ひに出させる度毎に剩錢《つりせん》を祝儀にくれたお客にも會つて見たくなつた。進駐軍の兵卒と同じやうな上等の羅紗地の洋服に、靴は戰爭中士官がはいてゐたやうな本皮の長靴をはき、鍔なしの帽子を横手にかぶり、日避《ひよ》けの色眼鏡をかけた若きプロレタリヤの姿が見てもらひたくなつて、仕事に行く道すがらも怠りなく心あたりを尋ね合してゐた。
 板前の家はもと下谷の入谷であつたので、その方面へ行つた時わざ/\區役所へ立寄つて立退先をきいて見たが能くわからなかつた。もみぢのおかみさんは元《もと》赤坂で藝者家をしてゐた人で、その頃二十四五になつてゐたから、今は三十を越してゐる筈だ。旦那は木場の材木問屋だと聞いてゐたから、統制後、財産封鎖の今となつては何をしてゐるのだらう。事によつたら隨分お氣の毒な身の上になつてゐないとも限らない。と思ふと、猶更新太郎は是非とも行先を尋ねて、むかし世話になつた禮を言ひたいと云ふ心持になる。あの時分景氣のよかつた藝者やお客の姿が目に浮ぶ。おかみさんの友達で待合や藝者家を出してゐた姉さん達も數へれば五人や六人はあつた筈だ。その中どこかで、その一人くらいには逢ひさうなものだと、新太郎はトラツクを走らせる間も、折々行きかふ人に氣をつけてゐた。
 或日のこと。東京の中野から小田原へ轉宅する人の荷物を積み載せて、東海道を走つて行く途中、藤澤あたりの道端で一休みしたついでに松の木蔭で辨當を食つてゐた時、垢拔けのした奧樣らしい人がポペラニヤ種の小犬をつれて歩いて來るのを見た。犬にもチヤンと見覺えがあるが、然しその名は奧樣の名と共に思出せさうで出せない。新太郎は辨當箱を片手に立上りながら、「もし、もみぢのお客樣。」と呼びかけ、「わたしです。この邊にいらつしやるんですか。」
「あら。」と云つたまゝ奧樣も新太郎の名を忘れてゐたと見え、一寸言葉を淀《よど》ませ、「いつ歸つて來たの。」
「この春かへりました。もみぢのおかみさんはどうしましたらう。尋ねて上げたいと思つて町會できいて見たんですがわからないんです。」
「もみぢさんは燒けない中に強制疎開で取拂ひになつたんだよ。」
「ぢや、御無事ですね。」
「暫くたよりがないけれど、今でも疎開先に御いでだらうよ。」
「どちらへ疎開なすつたんです。」
「千葉縣八幡。番地は家に書いたものがある筈だよ。お前さんの處をかいておくれよ。家へ歸つたら葉書で知らして上げやう。」
「八幡ですか。そんなら譯はありません。わたしは小岩の運送屋に働いてゐますから。」
 新太郎は卷煙草の紙箱をちぎつて居處をかいて渡した。奧樣はそれを讀みながら、
「新ちやんだつたね。すつかり商賣替だね。景氣はいゝの。」
「とても能《い》いんです。働かうと思つたら身體がいくつあつても足りません。皆さんにもどうぞ宜しく。」
 新太郎は助手と共に身輕く車に飛び乘つた。
   *         *         *
        *         *         *
 その日の仕事が暗くならない中に濟んだ日を待ち、新太郎は所番地をたよりにもみぢの疎開先を尋ねに行つた。
 省線の驛から國道へ出る角の巡査派出所できくと、鳥居前を京成電車が通つてゐる八幡神社の松林を拔けて、溝川に沿うた道を四五町行つたあたりだと教へられた。然し行く道は平家の住宅、別莊らしい門構、茅葺の農家、畠と松林のあひだを勝手次第に曲るたび/\又も同じやうな岐路《わかれみち》へ入《はい》るので忽ち方角もわからなくなる。初秋の日はいつか暮れかけ、玉蜀黍をゆする風の音につれて道端に鳴く蟲の音が俄に耳立つて來るので、此の上いか程尋ね歩いても、門札の讀み分けられる中には到底行き當りさうにも思はれないやうな氣がし出した。念の爲、もう一度きいて見て、それでも分らなかつたら今日《けふ》は諦《あきら》めてかへらうと思ひながら、竿を持つた蜻蜒釣りの子供が二三人遊んでゐるのを見て、呼留めると、子供の一人が、
「それはすぐそこの家だよ。」
 別の子供が、「そこに松の木が立つてるだらう。その家だよ。」
「さうか。ありがたう。」
 新太郎は教へられた潜門の家を見て、あの家なら氣がつかずに初め一度通り過ぎたやうな氣もした。
 兩側ともに柾木《まさき》の生垣が續いてゐて、同じやうな潜門が立つてゐる。表札と松の木とを見定めて内へ入ると新しい二階建の家の、奧深い格子戸の前まで一面に玉蜀黍と茄子とが植ゑられてゐる。
 新太郎は家の軒下を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて勝手口から聲をかけやうとすると、女中らしい洋裝の女が硝子戸の外へ焜爐を持出して鍋をかけてゐる。見れば銀座の店で御燗番をしてゐたお近といふ女であつた。
「お近さん。」
「あら。新ちやん。生きてゐたの。」
「この通り。足は二本ちやんとありますよ。新太郎が來たつて、おかみさんにさう言つて下さい。」
 聲をきゝつけてお近の取次《とりつ》ぐのを待たず、臺所へ出て來たのは年の頃三十前後、髮は縮らしてゐるが、東京でも下町の女でなければ善惡《よしあし》のわからないやうな、中形の浴衣に仕立直しの半帶をきちんと締めたおかみさんである。
「御機嫌よう。赤坂の姐《ねえ》さんにお目にかゝつて、こちらの番地を伺ひました。」
「さうかい。よく來ておくれだ。旦那もいらつしやるよ。」と奧の方へ向いて、「あなた。新太郎が來ましたよ。」
「さうか。庭の方へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて貰へ。」と云ふ聲がする。
 女中が新太郎を庭先へ案内すると、秋草の咲き亂れた縁先に五十あまりのでつぷりした赤ら顏の旦那が腰をかけてゐた。
「よくわかつたな。この邊は番地がとび/\だから、きいてもわかる處ぢやないよ。まアお上り。」
「はい。」と新太郎は縁側に腰をかけ、「この春、歸つて來たんですが、どこを御尋ねしていゝのか分《わか》らなかつたもんで、御無沙汰してしまひました。」
「今どこに居る。」
「小岩に居ります。トラツクの仕事をしてゐます。忙《いそが》しくツて仕樣がありません。」
「それア何よりだね。丁度いゝ時分だ。夕飯でも食《く》つて、ゆつくり話をきかう。」
「上田さんはどうしましたらう。」と新太郎は靴をぬぎながら、料理番上田のことをきく。
「上田は家が岐阜だから、便《たより》はないが、大方疎開してゐるだらう。疎開のおかげで、此方《こつち》もまアかうして居られるわけだ。何一ツ燒きやアしないよ。」と、旦那はおかみさんを呼び、「飯は後《あと》にして、お早くビールをお願ひしたいね。」
「はい。唯今。」
 新太郎は土産にするつもりで、ポケツトに亞米利加の卷烟草を二箱ばかり入れて來たのであるが、旦那は袂から同じやうな紙袋を出し一本を拔取ると共に、袋のまゝに新太郎に勸めるので、新太郎は土産物を出しおくれて、手をポケツトに突込んだまゝ、
「もうどうぞ。」
「配給の煙草ばかりは呑めないな。くらべ物にならない。戰爭に負けるのは煙草を見てもわかるよ。」
 おかみさんが茶ぶ臺を座敷へ持ち出し、
「新ちやん。さアもつと此方《こつち》へおいで。何もないんだよ。」
 茶ぶ臺には胡瓜もみとえぶし鮭、コツプが二ツ、おかみさんはビールの罎を取上げ、
「井戸の水だから冷《つめた》くないかも知れません。」
「まア、旦那から。」と新太郎は主人が一口飮むのを待つてからコツプを取上げた。
 ビールは二本しかないさうで、後は日本酒になつたが新太郎は二三杯しか飮まなかつた。問はれるまゝに、休戰後滿洲から歸つて來るまでの話をしてゐる中、女中が飯櫃《おはち》を持出す。おかみさんが茶ぶ臺の上に並べるものを見ると、鰺《あぢ》の鹽燒。茗荷に落し玉子の吸物。茄子の煮付に香の物は白瓜の印籠漬らしく、食器も皆揃つたもので、飯は白米であつた。
 飮食物の闇相場の話やら、第二封鎖の話やら、何やら彼やら、世間の誰《たれ》もが寄ればきまつて語り合ふ話が暫くつゞいてゐる中夕食がすんだ。庭はもう眞暗になつて、空の星が目に立ち松風の音が聞えて、時々灯取蟲が座敷の灯を見付けてばたり/\と襖にぶつかる。垣隣りの家では風呂でも沸《わか》すと見えて、焚付の火のちら/\閃くのが植込の間から見える。新太郎は腕時計を見ながら、
「突然伺ひまして。御馳走さまでした。」
「また話においで。」
「おかみさん。いろ/\ありがたう御在ました。何か御用がありましたら、どうぞ葉書《はがき》でも。」
 新太郎は幾度も頭を下げて潜門《くゞりもん》を出た。外は庭と同じく眞暗であるが、人家の窓から漏れる燈影《ほかげ》をたよりに歩いて行くと、來た時よりはわけもなく、すぐに京成電車の線路に行當つた。新太郎はもとの主人の饗應してくれた事を何故《なぜ》もつと心の底から嬉しく思ふことが出來なかつたのだらう。無論嬉しいとは思ひながら、何故、當《あて》のはづれたやうな、失望したやうな、つまらない氣がしたのであらうと、自分ながら其心持を怪しまなければならなかつた。
 ポケツトに出し忘れた土産物の卷烟草があつたのに手が觸《さは》つた。新太郎は手荒く紙包をつかみ出し、拔き出す一本にライターの火をつけながら、主人は財産封鎖の今日になつてもあゝして毎晩麥酒や日本酒を飮んでゐるだけの餘裕が在るのを見ると、思つたほど生活には窮してゐない。戰後の世の中は新聞や雜誌の論説や報道で見るほど窮迫してはゐないのだ。ブルジヨワの階級はまだ全く破滅の瀬戸際まで追込められてしまつたのではない。古い社會の古い組織は少しも破壞されてはゐないのだ。以前樂にくらしてゐた人達は今でもやつぱり困らずに樂にくらしてゐるのだ、と思ふと、新太郎は自分の現在がそれほど得意がるにも及ばないもののやうな氣がして來て、自分ながら譯の分らない不滿な心持が次第に烈しくなつて來る。
 國道へ出たので、あたりを見ると、來た時見覺えた藥屋の看板が目についた。新太郎は急に一杯飮み直したくなつて、八幡の驛前に、まだ店をたゝまずにゐる露店を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。然し酒を賣る店は一軒もない。喫茶店のやうな店構の家に、明い灯《ひ》が輝いてゐて、窓の中に正札をつけた羊羹や菓子が並べられてあるのを、通る人が立止つて、値段の高いのを見て、驚いたやうな顏をしてゐる。中には馬鹿々々しいと腹立しげに言捨てゝ行くものもある。新太郎はつと入《はい》つて荒々しく椅子に腰をかけ、壁に貼《は》つてある品書の中で、最も高價なものを見やり、
「林檎の一番いゝやつを貰はうや。それから羊羹は甘いか。うむ。甘ければ二三本包んでくれ。近處の子供にやるからな。」
[#地から1字上げ](昭和廿一年十一月草)

底本:「葛飾こよみ」毎日新聞社
   1956(昭和31)年8月25日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:米田
2010年9月5日作成
2011年3月9日修正
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永井荷風

洋服論———- 永井荷風

○日本人そもそも洋服の着始めは旧幕府|仏蘭西《フランス》式歩兵の制服にやあらん。その頃膝取マンテルなぞと呼びたる由なり。維新の後岩倉公西洋諸国を漫遊し文武官の礼服を定められ、上等の役人は文官も洋服を着て馬に乗ることとなりぬ。日本にて洋服は役人と軍人との表向きに着用するものたる事今においてなほ然り。
○予が父は初め新銭座《しんせんざ》の福沢塾にて洋学を修め明治四年|亜墨利加《アメリカ》に留学し帰朝の後官員となりし人にて、一時はなかなかの西洋崇拝家なりけり。予の生れし頃(明治十二年なり)先考《せんこう》は十畳の居間に椅子《いす》卓子《テーブル》を据《す》ゑ、冬はストオブに石炭を焚《た》きてをられたり。役所より帰宅の後は洋服の上衣《うわぎ》を脱ぎ海老茶色のスモーキングヂャケットに着換へ、英国風の大きなるパイプを啣《くわ》へて読書してをられたり。雨中は靴の上に更に大きなる木製の底つけたる長靴をはきて出勤せられたり。予をさな心に父上は不思議なる物あまた所持せらるる事よと思ひしことも数《しばしば》なりき。
○予が家にてはその頃既にテーブルの上に白き布をかけ、家庭風の西洋料理を食しゐたり。或年の夏先考に伴はれ入谷《いりや》の里に朝顔見ての帰り道、始めて上野の精養軒に入りしに西洋料理を出したるを見て、世間にてもわが家と同じく西洋料理を作るものあるにやと、かへつて奇異の思をなしたる事もありけり。
○予六歳にして始めてお茶の水の幼稚園に行きける頃は、世間一般に西洋崇拝の風|甚《はなはだ》熾《さかん》にして、かの丸の内|鹿鳴館《ろくめいかん》にては夜会の催しあり。女も洋服着て踊りたるほどなり。されば予も幼稚園には洋服着せられて通はされたり。これ予の始めて洋服なるもの着たる時なれど、如何なる形のものなりしや能《よ》くは記憶せず。小学校へ赴《おもむ》く頃には海軍服に半ズボンはきたる事は家にありし写真にて覚えたり。襟《えり》より後は肩を蔽《おお》ふほどに広く折返したるカラーをつけ幅広きリボンを胸元にて蝶結びにしたり。帽子は広き鍔《つば》ありて鉢巻のリボンを後に垂らしたり。ズボンは中学校に入り十五、六歳にいたるまで必《かならず》半ズボンなりき。その頃予の通学せし一橋《ひとつばし》の中学校にては夙《つと》に制服の規定ありしかば、上衣だけは立襟《たちえり》のものを着たれど長ズボンは小児の穿《うが》つべきものならずとて、予はいつも半ズボンなりしかば、この事一校の評判になりて大勢《おおぜい》のものより常に冷笑せられたり。頭髪も予は十二、三歳頃までは西洋人の小児の如く長目に刈りていたり。さればこれも学校にては人々の目につきやすく異人の児《こ》よとて笑はれたりしなり。
○つい愚にもつかぬ回旧談にのみ耽《ふけ》りて申訳なし。さて当今大正年間諸人の洋服姿を拝見して聊《いささ》か愚論を陳《の》ぶべし。
○日露戦争この方十年来|到処《いたるところ》予の目につくは軍人ともつかず学生ともつかぬ一種の制服姿なり。市中電車の雇人《やといにん》、鉄道院の役人、軍人の馬丁。銀行会社の小使《こづかい》なぞ、これらの者殆ど学生と混同して一々その帽子またはボタンの徽章《きしょう》にでも注意せざれば、何が何やら区別しがたき有様なり。以前は立襟の制服は学生とのみ、きまりてゐたりし故、敝衣《へいい》も更に賤《いや》しからず、かへつて物に頓着せぬ心掛殊勝に見えしが、今日にては塵にまみれし制服着て電車に乗れば車掌としか見受けられず。学生の奢侈《しゃし》となりしも道理なり。
○到る処金ボタン立襟の制服目につくは世を挙げて、陸軍かぶれのした証拠なり。何となく独逸《ドイツ》国にゐるやうな心地にてわれらには甚《はなはだ》閉口なる世のさまといふべし。
○夏となればまた制服ならぬ一種の制服目につくなり。銀行会社は重役|頭取《とうどり》より下は薄給の臨時雇のものに至るまで申合せたるやうに白き立襟の洋服を着《き》手に扇子《せんす》をパチクリさせるなり。保険会社の勧誘員新聞記者また広告取なぞもこれに傚《なら》ふ。日比谷辺より銀座丸内一帯は上海《シャンハイ》香港《ホンコン》の如き植民地のやうになるなり。
○日本人は洋服着ながら扇子を携へ持ち、人と対談中も絶間なくパチクリ音をさせる。但しこれを見て別に怪しむ者もなきが如し。これ日本当代特異の風習なり。西洋にては男子は寒暄《かんけん》にかかはらず扇子を手にすることなし。扇子は婦人の形容に携ふるものたる事なほ男子の杖におけるが如し。されば婦人にても人の面前にては扇を開きてあふぐ事なし。半開になして半面を蔽ふなぞ形容に用るのみなり。然るに我国当世のさまを見るに、新聞記者の輩《やから》は例の立襟の白服にて人の家に来り口に煙草を啣《くわ》へ肱《ひじ》を張つてパタパタ扇子を使ふが中には胸のボタンをはづし肌着メリヤスのシャツを見せながら平然として話し込むも珍しからず。
○我国にては扇は昔より男子の携持《たずさえも》ちたるものなれど、人の面前にて妄《みだり》に涼を取るものにはあらず、形容をつくらんがため手に持つのみにて開閉すべきものにはあらざるべし。
○メリヤスの肌着は当今の日本人上下一般に用ふる所なり。日本人はメリヤスの肌着をホワイトシャーツと同じもののやうに心得てゐるが如くなれどこれ甚しき誤なり。ホワイトシャーツは譬《たと》へば婦人の長襦袢《ながじゅばん》の如し。長襦袢には半襟をつける。ホワイトシャーツにはカラアをつける。婦女子が長襦袢は衣服の袖口または裾より現れ見ゆるも妨げなきものなり。ホワイトシャーツもまたその如し。然れどもメリヤスの肌着に至つては犢鼻褌《ふんどし》も同様にて、西洋にては如何なる場合にも決して人の目に触れしむべきものにあらず。米国人は酷暑の時節には上衣を脱しホワイトシャーツ一枚になつてをる事もあれど、この場合にてもメリヤスの肌着は見えぬやうに注意するなり。ホワイトシャーツの袖口高く巻上げ腕を露出せしむる時にもメリヤスの肌着は見せぬやうにするなり。米国にて男子扇子を携ふること決してなし。
○暑中銀行会社なぞにて事務を取る者は米国にては上衣を脱する事を許さるるなり。されどこの場合ズボン釣はせぬ方よしとせらる。ズボンは皮帯にて締めボタンを隠すなり。
○暑中用ふるホワイトシャーツには胸の所軟く袖口も糊《のり》ばらぬものあり。従つて色も白とはかぎらず、変り縞《じま》多し。皆米国の流行にして礼式のものならずと知るべし。
○米国は市俄古《シカゴ》紐育《ニューヨーク》いづこも暑気非常なる故|龍動《ロンドン》または巴里《パリー》の如く品《ひん》好《よ》き風俗は堪難《たえがた》し。我国夏季の気侯は、温度は米国に比すれば遥に低けれど、湿気あつて汗多く出るをもて洋服には甚不便なり。日々洋服きて役所会社に出勤する人々の苦しみさぞかしと思へど規則とあれば是非なし。むかしは武士のカラ脛《ずね》、奴《やっこ》の尻の寒晒《かんざら》し。今の世には勤人《つとめにん》が暑中の洋服。いつの世にも勤はつらいものなり。
○近年堅きカラーの代りにシャツと同色《ともいろ》の軟きカラーを用ゆるものあり。これまた米国の風にして欧洲にては多く見ざる所なり。米国にても若き人|専《もっぱら》これを用ひ老人はあまり用ひず。
○パナマ帽は欧洲にても大陸の流行にて英国にては用る者少し。米国もまた然り。英米人の夏帽子には麦藁《むぎわら》多しと、五、六年前帰朝者の語る所なり今は知らず。
○ハンケチは晒麻《さらしあさ》の白きを上等とす。繍取《ぬいとり》または替り色は婦人のものなり。男子これを用る時は気障《きざ》の限りなるべし。米国にてはきざな男折々ハンケチを上衣《うわぎ》胸のかくしよりちよつと見せる風あり。英国人は袖口へハンケチを丸めて入れ込む風あり。
○米国人は雨中といへども傘を携へず。いはんや晴天の日傘《ひがさ》をや。細巻の洋傘ステッキの如くに細工したるものは旅行用なり。熱帯の植民地は一日に二、三回|必《かならず》驟雨《しゅうう》来るが故に外出の折西洋人は傘を携ふ。日本の気候四季共に雨多し。植民地の風をまなびて傘を携ふべきことけだしやむをえざるなり。ヘルメット帽は驟雨に逢ふ時は笠の代用をなし炎天には空気抜より風通ひて凉しく、熱帯には適したるもの。英国人の工風《くふう》に創《はじ》まるといふ。
○半靴は米国にては人々酷暑の折これを用ゆ。欧洲にては寒暑共に半靴を穿《うが》つものなし。赤皮の靴は米国欧洲ともに夏にかぎりて用ゆるも礼式には避くべきなり。然るに日本にてはフロックコートに赤皮の半靴はきたる人折々あり。これ紋付羽織袴《もんつきはおりはかま》にて足袋《たび》をはかざるが如きものなり。
○洋服はその名の示すが如く洋人の衣服なれば万事本場の西洋を手本にすべきは言ふを俟《ま》たざる所なり。然れども色地縞柄なぞはその人々の勝手なる故、日本人洋服をきる場合には黄《きいろ》き顔色に似合ふべきものを択ぶ事肝要なるべし。色白き洋人には能《よ》く似合ふものも日本人には似合はぬ事多し。黒、紺《こん》、鼠なぞの地色は何人にも似合ひて無事なり。英国人は折々狐色の外套を着たり。よく似合ふものなり。日本人には似合はず。縞柄あらきものは下品に見ゆ。霜降り地最も無事なるべし。
○洋服の形は皆様|御存《ごぞんじ》の通り、背広、モオニングコート、フロックコート、燕尾服《えんびふく》の類なり。背広は不断着《ふだんぎ》のものにて日本服の着流しに同じ。モオニングコートも儀式のものにはあらず。欧洲にては背広の代りにモオニングをきてゐる人多し。背広にては商店の手代《てだい》に見まがふ故なるべし。日本人は身丈《みたけ》高からざる故モオニングは似合はず。かつまたその仕立形むづかしきもの故、日本にてはやはり背広が無事なり。
○米国にては上下を通じて大抵の人皆背広を用ふ。米国の仕立は欧洲のものに比してズボンも上衣も共にゆつたりとしてだぶだぶするほどなり。欧洲にても英国風は少しゆるやかなる方なれど、仏蘭西風はキチンと身体に合ふやうにし袖《そで》の付根《つけね》なぞ狭くして苦しきほどなり。日本人には米国風の仕立方適するが如し。されど男物は英国風を以て随一となすことあたかも女物の巴里《パリー》におけるにひとし。これ世界の定論なり。
○欧米の官吏は日々フロックコートを着るなり。されば紐育《ニューヨーク》市俄古《シカゴ》なぞよべる商業地には官庁なく従つて官吏なきを以て、宣教師の外には見すぼらしきフロックコートの人を目にすること稀なり。これに反して華盛頓《ワシントン》府を始め各州の首都に至ればフロックコートきたる人多し。フロックコートに用る帽子は必《かならず》シルクハットなるべし。欧洲にてはモーニングコートに高帽子を冠るもの尠《すくな》からず。品よく見えてよきものなり。
○午後の集会茶談会、または訪問の折には欧米共に必フロックコートを着し点燈の頃より燕尾服に着換ふるなり。西洋にて紳士風の生活をなすには一日の中に三度衣服と帽子とを換へざるべからず。これ東洋|豪傑肌《ごうけつはだ》の人の堪へ得べき所にあらざるべし。
○手袋は寒暑ともに穿つものなり。これもまた日本人には煩瑣《はんさ》に堪へざる所ならん。
○杖は日本人もこれを携《たずさう》るもの多し。されどよく見るに杖の携方を心得たるは稀なり。西洋の杖はわが国の老人または盲者の杖とは異るものにて形容に過ぎず。歩行を扶《たす》けんがために地面に突くべきものには非らざるなり。杖の先に土の附きたるは甚見苦しきものなり。杖は客間にも帽子と共に携へ入りて差つかへなきものなればその先には土の附かぬやうにすべきなり。西洋にては美術館、図書館、劇場等到処杖を持ちたるままにて出入し得るなり。日本にては杖は下駄同様に取上げらるるが故銀細工|象牙《ぞうげ》細工なぞしたるものは忽《たちまち》疵物《きずもの》になさるる虞《おそれ》あり。東京市中電車雑沓の中にて泥の附きたる杖傘の先をば平然として人の鼻先へ突付ける紳士もあり。洋風を模していまだ至る事|能《あた》はざる大正の世の中|洵《まこと》に笑ふべきこと多し。
○帽子は既に述べしが如く洋服の形に従つて各《おのおの》戴くべきものあり。背広に鳥打帽を冠るは適《ふさわ》しからず。鳥打帽はその名の如く銃猟、旅行航海等の折にのみ用るものにて、平生都会にてこれを戴くもの巴里あたりにては職工か新聞売子なぞなるべし。欧米ともに黒の山高帽は普通一般に用ひらるるものなり。殊に米国東部の都市にては晴雨共に風甚しきが故、中折帽は吹飛ばされて不便なり。かつまた山高帽は丈夫にて雨にあたりても形崩れず、甚経済なるものなり。夏の炎天にても黒山高帽にてすこしも可笑《おか》しきことなし。中折帽は春より夏にかけて年々の流行あり。されば中折帽を冠るほどなれば洋服もこれに準じて流行の形に従はざれば釣合はずと知るべし。日本人は一般に中折帽を好む。然れども市中の電車にて見るが如き形の崩れたる古き中折帽は西洋にては土工の戴けるものの外《ほか》見ることなし。米国にては上下の階級なき故日曜日には職工も新しき黒の山高帽を戴き女房の手を引きて教会へ説教聞きに行くなり。
○洋服の仕立は日本人よりも支那人の方遥に上手なり。東京にては帝国ホテル前の支那人洋服店評判よし。燕尾服もこの店なれば仕立て得べし。銀座の山崎なぞは暴利を貪るのみにて、縫目《ぬいめ》あるいはボタンのつけ方|健固《けんご》ならず。これ糸を惜しむ故にして、日本人の商人ほど信用を置きがたきはなし。
○仏蘭西にて画工詩人音楽家俳優等は方外の者と見なされ、礼儀に拘捉《こうそく》せざるもこれを咎《とが》むるものなし。さればこの仲間の弟子には自ら特別の風俗あり、頭髪を長くのばし衣服は天鵞絨《ビロード》の仕事服にて、襟かざりの長きを風になびかし、帽子は大黒頭巾の如きを冠る。中折帽に似てその鍔《つば》広く大なるを冠るもあり。これを芸人帽子(シャッポーダルチスト)と呼ぶなり。冬も外套を着ず。マントオを身にまとふ。眉目清秀《びもくせいしゅう》なる青年にてその姿やや見すぼらしきが雪の降る夕なぞ胡弓入れたる革鞄《かわかばん》を携へ公園の樹陰を急ぎ行く姿なぞ見れば、何となく哀れにまた末頼《すえたのも》しき心地せらるるなり。かかる風俗巴里ならでは見られぬなり。
○都見物左衛門先生が『時勢粧《いまようすがた》』あまりの面白さに、己れもまけじと洋服論書きて見たれど、どうやら種も尽きたれば自然これにて完結とはなりけらし。                                                              大正五年八月

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月8日作成
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永井荷風

矢立のちび筆—– 永井荷風

 或人《あるひと》に答ふる文《ぶん》

 思へば千九百七、八年の頃のことなり。われ多年の宿望を遂げ得て初めて巴里《パリー》を見し時は、明《あ》くる日を待たで死すとも更に怨《うら》む処なしと思ひき。泰西諸詩星《たいせいしょしせい》の呼吸する同じき都の空気をばわれも今は同じく吸ふなり。同じき街の敷石をば響も同じくわれも今は踏むなり。世界の美妓名媛《びぎめいえん》の摘む花われもまた野に行かば同じくこれを摘むことを得ん。われはヴェルレエヌの如くにカッフェーの盃《さかずき》をあげレニエーの如くに古城を歩み、ドーデの如くにセーヌの水を眺め、コッペエの如くに舞蹈場《ぶとうじょう》に入り、ゴーチエーの如くに画廊を徘徊しミュッセの如くにしばしば泣きけり。かくてわれは世に最も幸福なる詩人となりぬ。如何《いかん》となればわれは崇《あが》め祭るべき偶像あまた持つ事を得たればなり。十七世紀以降二十世紀に至る仏蘭西《フランス》文芸史上にその名を掲げられしものは悉《ことごと》くわが神なりけり。然れどもわれは仏蘭西語にて物書く事能はざりしかばやむなく日本語を以てわが感想を述べ綴《つづ》りき。この弱点は忽《たちま》ち怪我《けが》の功名《こうみょう》となりぬ。もしわれにして恣《ほしいまま》に仏蘭西文をものし得たらんには、軽々しくジャン・モレアスを学びて外人にして仏蘭西文壇に出《いづ》るも豈《あに》難《かた》からんやなど、法外の野望を起したらんも知るべからず。然れども幸《さいわい》なる哉《かな》、わが西洋崇拝の詩作は尽《ことごと》く日本文となりて日本の文壇に出づるや、当時文壇の風潮と合致する処ありければ忽《たちま》ち虚名を贏《か》ち得たりき。けだし偶然の事なり。
 歳月|匆々《そうそう》十歳《じっさい》に近し。われ今当時の事を顧《かえりみ》れば茫《ぼう》として夢の如しといはんのみ。如何《いかん》となればわれまた当時の如き感情を以て物を見る事能はざればなり。物あるひは同じかるべきも心は全く然《しか》らず。われは当初日本の風景及び社会に対しても勉《つと》めてピエール・ロッチの如き放浪詩人の心を以てこれを観《み》る事を得たりしが、気候、風土、衣服、食品、住居の類は先づわが肉体を冒《おか》して漸次《ぜんじ》にわが感覚を日本化せしむると共に、当代の政治|並《ならび》に社会の状態は事あるごとに宛然《えんぜん》われをして封建時代にあるの思《おもい》あらしめき。もし封建の語を忌《い》まば封建の美点を去りてその悪弊をのみ保存せし劣等なる平民時代といはんこそ更に妥当なるべけれ。
 空想は漸次に破壊せられぬ。われは或一派の詩人の如く銀座通《ぎんざどおり》の燈火《とうか》を以て直ちにブウルヴァールの賑《にぎわい》に比し帝国劇場を以てオペラになぞらへ日比谷《ひびや》の公園を取りてルュキザンブルに擬《ぎ》するが如き誇張と仮設を喜ぶ事|能《あた》はずなりぬ。そは江戸時代の漢学者が文字《もんじ》の快感よりしてお茶の水を茗渓《めいけい》と呼び新宿《しんじゅく》を甲駅《こうえき》または峡駅《きょうえき》と書したるよりも更に意味なき事たるべし。われは舶来の葡萄酒《ぶどうしゅ》と葉巻の甚《はなはだ》高価なるを知ると共に、蓄音機《ちくおんき》のワグネルと写真板のゴオガンのみにては、到底西洋の新芸術を論ずる事能はざるに心付きぬ。日本の文学者の事業は舶来新着の雑誌新聞に出でたる小説評論を読む事のみには限らざるべし。
 われは西洋の小説を読みその作家の生活を想像し飜《ひるがえ》つてわが日本の現在を目撃する時常に不可思議の思なくんばあらず。露西亜《ロシア》の小説家ゴルキイは貧しくして家《いえ》なきものなりといふ。然るになほ妻を伴ひて久しく伊太利亜《イタリア》に遊べり。日本人にして家族と共に伊太利亜に遊び得るもの果して幾人かある。ピエール・ロッチは仏国《ふつこく》海軍の士官たり。長崎に泊《はく》して妓女《ぎじょ》に親しみ、この事を小説につづりて文名を世界に馳《は》せしめき。もしロッチをして日本帝国の軍人たらしめんか風紀間題は忽ち彼をして軍職を去らしむるに終りしならん。われかつて『ウィルヘルム・テル』の劇を見たりし時、虐《しいた》げられしといふ瑞西《スィツル》の土民、その暴主と問答する態度の豪気ある事、決してわが佐倉宗五郎《さくらそうごろう》の如き戦々兢々たるの比に非《あら》ざる事を知れり。ハムレットはその叔父を刺す事につきては多く煩悶《はんもん》せざりしに似たり。泰西《たいせい》文学は古今の別なく全く西洋的にして二千年来の因習を負へるわが現在の生活感情に関係なき事あたかも鵬程《ほうてい》九万里の遠きに異《こと》ならず。
 わが身常に健《すこやか》ならず。寒暑共に苦しみ多し。かつて病褥《びょうじょく》にありてダンヌンチオの著作を読むや紙面に横溢する作家の意気甚だ豪壮なるを感じ、もし余にして彼の如き名篇を出さんとせば、芸術の信念を涵養《かんよう》するに先立ちてまづ猛烈なる精力を作り、暁明《ぎょうめい》駿馬《しゅんめ》に鞭打つて山野を跋渉《ばっしょう》するの意気なくんばあらずと思ひ、続いて厩《うまや》に駿馬を養ふ資力と、走るべき広漠たる平野なからざるべからざる事に心付きたり。これよりしてダンヌンチオの著作は余に取りてあたかも炎天の太陽を望むが如くになりぬ。
 西洋近世の芸術は文学はいふも更なり、絵画彫刻音楽に至るまでまた昔日《せきじつ》の如く広漠たる高遠の理想を云々《うんぬん》せず概念の理論を排してひたすら活《い》ける生命《せいめい》の泉を汲まんとす。信仰の動揺より来《きた》りし厭世《えんせい》懐疑の世は過ぎて、生命の力の発揮する処|爰《ここ》に深甚の歓喜と悲痛を求む。われ元より世界の思想に抗せんと欲するものに非ずといへども、わが現在の生活を以てしては彼《か》のヴェルハアレンの詩に現れしが如き生命の力は時として余りに猛烈荘厳に過ぐるを如何にせん。西洋近代思潮は昔日の如くわれを昂奮刺※[#「卓+戈」、179-12]せしむるに先立ちて徒《いたずら》に現在のわれを嫌悪《けんお》せしめ絶望せしむ。われは決して華々《はなばな》しく猛進奮闘する人を忌《い》むに非《あ》らず。われは唯|自《みずか》らおのれを省みて心ならずも暗く淋しき日を送りつつしかも騒《さわが》し気《げ》に嘆《なげ》かず憤《いきどお》らず悠々として天分に安んぜんとする支那の隠者の如きを崇拝すといふのみ。ここにおいて江戸時代とまた支那の文学美術とは無限の慰安を感ぜしむるに至れり。これらの事われ既に幾度《いくたび》かわが浮世絵論の中《うち》に述ぶる所ありき。
 我は今、わが体質とわが境遇とわが感情とに最も親密なるべき芸術を求めんとしつつあり。現代日本の政治並びに社会一般の事象を度外視したる世界に遊ばん事を欲せり。社会の表面に活動せざる無業《むぎょう》の人、または公人《こうじん》としての義務を終《お》へて隠退せる老人等の生活に興味を移さんとす。墻壁《しょうへき》によりて車馬往来の街路と隔離したる庭園の花鳥《かちょう》を見て憂苦の情を忘れんとす。人生は常に二面を有すること天に日月あり時に昼夜あるが如し。活動と進歩の外に静安と休息もまた人生の一面ならずや。われは主張の芸術を捨てて趣味の芸術に赴《おもむ》かんとす。われは現時文壇の趨勢を顧慮せず、国の東西を問はず時の古今《ここん》を論ぜず唯最もわれに近きものを求めてここに安《やすん》ぜんと欲するものなり。伊太利亜未来派の詩人マリネッチが著述は両三年|前《ぜん》われも既にその声名を伝聞《つたえき》きて一読したる事ありき。然れどもその説く所の人生|驀進《ばくしん》の意気余りに豪壮に過ぐるを以てわれは忽ちこれを捨てて顧みざりき。われは戦場に功名の死をなす勇者の覚悟よりも、家《いえ》に残りて孤児を養育する老母と淋しき暖炉の火を焚く老爺《ろうや》の心をば、更に哀れと思へばなり。世を罵《ののし》りて憤死するものよりも、心ならず世に従ひ行くものの胸中に一層の同情なくんばあらず。
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世に立つは苦しかりけり腰屏風《こしびょうぶ》
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まがりなりには折りかがめども
[#ここで字下げ終わり]
 われ京伝《きょうでん》が描ける『狂歌五十人一首』の中《うち》に掲げられしこの一首を見しより、始めて狂歌捨てがたしと思へり。
 されど我は人に向つて狂歌を吟ぜよ浮世絵を描け三味線を聴けと主張するものに非らず。われは唯西洋の文芸美術にあらざるもなほ時としてわが情懐《じょうかい》を託するに足るものあるべきを思ひ、故国の文芸中よりわが現在の詩情を動《うごか》し得るものを発見せんと勉《つと》むるのみ。文学者の事業は強《し》ひて文壇一般の風潮と一致する事を要せず。元《もと》これ営利の商業に非らざればなり。一代の流行西洋を迎ふるの時に当り、文学美術もまた師範を西洋に則《のっと》れば世人に喜ばるる事火を見るより明かなり。然れども余はさほどに自由を欲せざるになほ革命を称《とな》へ、さほどに幽玄の空想なきに頻《しきり》に泰西の音楽を説き、さほどに知識の要求を感ぜざるに漫《みだ》りに西洋哲学の新論を主張し、あるひはまたさほどに生命の活力なきに徒《いたずら》に未来派の美術を迎ふるが如き軽挙を恥づ。いはんや無用なる新用語を作り、文芸の批評を以て宛《さなが》ら新聞紙の言論が殊更問題を提出して人気を博するが如き機敏をのみ事とするにおいてをや。
 われは今|自《みずか》ら退《しりぞ》きて進取の気運に遠ざからんとす。幸ひにわが戯作者気質《げさくしゃかたぎ》をしていはゆる現代文壇の急進者より排斥嫌悪せらるる事を得ば本懐の至りなり。因《よ》つて茲《ここ》にこの一文を草す。
[#地から2字上げ]大正三年甲寅初春

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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永井荷風

矢はずぐさ—– 永井荷風

(例)寒夜客来[#(テ)]茶当[#(ツ)][#レ]酒[#(ニ)]

『矢筈草《やはずぐさ》』と題しておもひ出《いづ》るままにおのが身の古疵《ふるきず》かたり出《い》でて筆とる家業《なりわい》の責《せめ》ふさがばや。

 さる頃も或人の戯《たわむれ》にわれを捉へて詰《なじ》りたまひけるは今の世に小説家といふものほど仕合《しあわ》せなるはなし。昼の日中《ひなか》も誰《たれ》憚《はばか》るおそれもなく茶屋小屋《ちゃやこや》に出入りして女に戯れ遊ぶこと、これのみにても堅気《かたぎ》の若きものの目には羨《うらやま》しきかぎりなるべきに、世の常のものなれば強《し》ひても包みかくすべき身の恥身の不始末、乱行狼藉《らんぎょうろうぜき》勝手次第のたはけをば尾に鰭《ひれ》添へて大袈裟《おおげさ》にかき立つれば世の人これを読みて打興《うちきょう》じ遂にはほめたたへて先生と敬《うやま》ふ。実《げ》にや人倫五常の道に背《そむ》きてかへつて世に迎へられ人に敬はるる卿《けい》らが渡世《たつき》こそ目出度《めでた》けれ。かく戯れたまひし人もし深き心ありてのことならんか。この『矢筈草』目にせば遂にはまことに憤《いきどお》りたまふべし。『矢筈草』とは過《すぎ》つる年わが大久保《おおくぼ》の家《いえ》にありける八重《やえ》といふ妓《ぎ》の事を記《しる》すものなれば。
 八重その頃は家《いえ》の妻となり朝餉《あさげ》夕餉《ゆうげ》の仕度はおろか、聊《いささ》かの暇《いとま》あればわが心付《こころづ》かざる中《うち》に机の塵《ちり》を払ひ硯《すずり》を清め筆を洗ひ、あるいは蘭の鉢物《はちもの》の虫を取り、あるいは古書の綴糸《とじいと》の切れしをつくろふなど、余所《よそ》の見る目もいと殊勝《しゅしょう》に立働《たちはたら》きてゐたりしが、故《ゆえ》あつて再び身を新橋《しんばし》の教坊《きょうぼう》に置き藤間某《ふじまなにがし》と名乗りて児女《じじょ》に歌舞《かぶ》を教《おし》ゆ。浄瑠璃《じょうるり》の言葉に琴三味線の指南《しなん》して「後家《ごげ》の操《みさお》も立つ月日」と。八重かくてその身の晩節《ばんせつ》を全《まっと》うせんとするの心か。|我不[#レ]知《われしらず》。

 そもそも小説家のおのれが身の上にかかはる事どもそのままに書綴《かきつづ》りて一篇の物語となすこと西洋にては十九世紀の始《はじめ》つ方《かた》より漸《ようや》く世に行はれ、ロマンペルソネルなどと称《とな》へられて今にすたれず。即ちゲーテが作『若きウェルテルの愁《うれい》』、シャトオブリヤンが作『ルネエ』の類《たぐい》なり。わが国にては紅葉山人《こうようさんじん》が『青葡萄《あおぶどう》』なぞをやその権輿《けんよ》とすべきか。近き頃|森田草平《もりたそうへい》が『煤煙《ばいえん》』小粟風葉《おぐりふうよう》が『耽溺《たんでき》』なぞ殊の外世に迎へられしよりこの体《てい》を取れる名篇|佳什《かじゅう》漸く数ふるに遑《いとま》なからんとす。わけても最近の『文芸倶楽部《ぶんげいクラブ》』[#割り注]大正四年十一月号[#割り注終わり]に出でし江見水蔭《えみすいいん》が『水さび[#「水さび」に傍点]』と題せし一篇の如き我身には取分けて興《きょう》深し。されば我今更となりて八重にかかはる我身のことを種《たね》として長き一篇の小説を編《あ》み出《いだ》さん事かへつてたやすき業《わざ》ならず。小説を綴らんには是非にも篇中人物の性格を究《きわ》め物語の筋道もあらかじめは定め置く要あり。かかる苦心は近頃|病《やまい》多く気力乏しきわが身の堪《た》ふる処ならねば、むしろ随筆の気儘なる体裁《ていさい》をかるに如《し》かじとてかくは取留《とりと》めもなく書出《かきいだ》したり。小説たるも随筆たるも旨《むね》とする処は男女《だんじょ》の仲のいきさつを写すなり。客と芸者の悶着を語るなり。亭主と女房の喧嘩犬も喰《く》はぬ話をするなり。犬は喰はねど煩悩《ぼんのう》の何とやら血気《けっき》の方々これを読みたまひてその人もし殿方《とのがた》ならばお客となりて芸者を見ん時、その人もし芸者衆《げいしゃしゅ》ならばお座敷かかりてお客の前に出《い》でん時、前車《ぜんしゃ》の覆轍《ふくてつ》以てそれぞれ身の用心ともなしたまはばこの一篇の『矢筈草』豈《あに》徒《いたずら》に男女の痴情《ちじょう》を種とする売文とのみ蔑《さげす》むを得んや。

 矢筈草は俗に現《げん》の証拠《しょうこ》といふ薬草なること、江戸の人|山崎美成《やまざきよししげ》が『海録《かいろく》』といふ随筆第五巻目に見えたり。曰く、「矢筈草俗に現の証拠といふこの草をとりみそ汁にて食する時は痢病《りびょう》に甚《はなはだ》妙なり又|瘧病《おこり》及び疫病等《えきびょうなど》にも甚|効《こう》あり云々《うんぬん》」。
 この草また御輿草《みこしぐさ》と呼ぶ。萩《はぎ》の家《や》先生が辞典『[#傍点]ことばのいづみ[#傍点終わり]』を見るに、「げんのしようこ※[#「特のへん+尨」、U+727B、116-2]牛児《ぼうぎゅうじ》。植物。草の名。野生《やせい》にして葉は五つに分れ鋸歯《のこぎりば》の如き刻《きざ》みありて長さ一|寸《すん》ばかり、対生《たいせい》す。夏のころ梅の如き淡紅《たんこう》の花を開き後《のち》莢《み》をむすび熟するときは裂《さ》けて御輿《みこし》のわらびでの如く巻きあがる。茎も葉も痢病の妙薬なりといふ。みこしぐさ。」とあり。我《われ》この草のことをば八重より聞きて始めて知りしなり。八重その頃[#割り注]明治四十三、四年[#割り注終わり]新橋《しんばし》の旗亭花月《きていかげつ》の裏手に巴家《ともえや》といふ看板かかげて左褄《ひだりづま》とりてゐたり。好まぬ酒も家業なれば是非もなく呑過して腹いたむる折々日本橋通一丁目|反魂丹《はんごんたん》売る老舗《しにせ》[#割り注]その名失念したり[#割り注終わり]に人を遣《つかわ》して矢筈草|購《あがな》はせ土瓶《どびん》に煎《せん》じて茶の代りに呑みゐたりき。われ生来多病なりしかどその頃は腹痛む事稀なりしかば八重が頻《しきり》にかの草の効験《ききめ》あること語出《かたりい》でても更に心に留《と》むる事もなくて打過《うちす》ぎぬ。然《しか》るをそれより三、四年にして一夜《いちや》激しき痢病に襲はれ一時《いちじ》は快《こころよ》くなりしかど春より夏秋より冬にと時候の変り目に雨多く降る頃ともなれば必ず腹痛み出《い》で鬱《ふさ》ぎがちとはなりにけり。かつては寒夜客来[#(テ)]茶当[#(ツ)][#レ]酒[#(ニ)]竹※[#「缶+盧」、第4水準2-84-71]湯沸[#(テ)]火初[#(メテ)]紅[#(ナリ)]〔寒夜《かんや》に客《きゃく》来《きた》りて茶を酒に当《あ》つ 竹※[#「缶+盧」、第4水準2-84-71]《ちくろ》に湯《ゆ》沸《わ》きて火《ひ》初《はじめ》て紅《くれない》なり〕といへる杜小山《としょうざん》が絶句《ぜっく》なぞ口ずさみて殊更|煎茶《せんちゃ》のにがきを好みし朱泥《しゅでい》の茶※[#「缶+并」、第4水準2-84-68]《さへい》、今は矢筈草押込みて煎じつめ夜《よ》ごと眠《ねむり》につく時|持薬《じやく》にする身とはなり果てけり。
 八重近頃は身もいとすこやかになりしと聞く。さらば今は矢筈草も用なきこそ目出度けれ。

 およそ人の一生血気の盛《さかり》を過ぎて、その身はさまざまの病《やまい》に冒《おか》されその心はくさぐさの思《おもい》に悩みて今日は咋日にまして日一日と老い衰へ行くを、時折物にふれては身にしみじみと思知るほど情なきはなし。
 宿昔青雲ノ志、蹉ス白髪ノ年、誰カ知ル明鏡裏、形影自ラ相憐ム宿昔《しゅくせき》 青雲《せいうん》の志《こころざし》。蹉さたす 白髪《はくはつ》の年《とし》。誰か知る明鏡《めいきょう》の裏《うち》。形影《けいえい》自《みずか》ら相《あい》憐《あわれ》む〕とはこれ人口に膾炙《かいしゃ》する唐詩なり。鏡に照して白髪に驚くさまは仏蘭西《フランス》の小説家モオパサンが『終局《フィニイ》』といふ短篇にも書綴《かきつづ》られたり。
 われ髪《はつ》いまだ白からず。しかも既にわれながら老いたりと感ずること昨日今日のことにはあらず。父を喪《うしな》ひてその一週忌も過ぎける翌年《よくねん》の夏の初、突然烈しき痢病《りびょう》に冒され半月あまり枕につきぬ。元来酒を嗜《たしな》まざれば従つて日頃|悪食《あくじき》せし覚えもなし。強《し》ひて罪を他に負はしむれば慶応義塾《けいおうぎじゅく》にて取寄する弁当の洋食にあてられしがためともいはんか。そも三田《みた》の校内にては奢侈《しゃし》の風をいましめんとて校内に取寄すべき弁当にはいづれもきびしく代価を制限したり。されば料理の材料おのづから粗悪となりてこれを食《くら》へば終日《ひねもす》胸苦《むなぐる》しきを覚ゆ。紅がらにて染めたるジャム鬢付《びんつけ》のやうなるバタなんぞ見る折々いつも気味わるしと思ひながら雨降る日なぞはつい門外の三田通《みたどおり》まで出《い》で行くに懶《ものう》く、その日も何心《なにごころ》なく一皿の中《うち》少しばかり食べしがやがて二日目の暁方《あけがた》突然|腸《はらわた》搾《しぼ》らるるが如き痛《いたみ》に目ざむるや、それよりは夜《よ》の明放《あけはな》るるころまで幾度《いくたび》となく廁《かわや》に走りき。
 その頃わが住める家《いえ》はいと広かりき。われは二階なる南の六畳に机を置き北の八畳を客間、梯子段《はしごだん》に臨《のぞ》む西向の三畳を寝間《ねま》と定《さだ》めければ、幾度となき昇降《あがりお》りに疲れ果て両手にて痛む下腹《したはら》押へながらもいつしかうとうととまどろみぬ。目覚《めさむ》れば早《は》や午《ご》に近し。召使ふものの知らせにて離れの一間《ひとま》に住み給ひける母上捨て置きてはよろしからずと直様《すぐさま》医師を呼迎《よびむか》へられけり。われは心|窃《ひそか》に赤痢《せきり》に感染せしなるべしと思ひ付くや人の話にてこの病の苦しさを知り心は戦々兢々《せんせんきょうきょう》たり。幸にして医師の診断によればわが病はかかる恐しきものにてはなかりしかど、昼夜《ちゅうや》絶《たゆ》る間《ひま》なく蒟蒻《こんにゃく》にて腹をあたためよ。肉汁《ソップ》とおも湯の外《ほか》は何物も食《くら》ふべからず。毎朝《まいちょう》不浄《ふじょう》のもの検査すべければ薬局に送り届けよなぞ、医師はおごそかにいひ置きて帰り行きぬ。わが家《や》には父いませし頃より二十年あまりも召使ふ老婆あり。このもの医師の命ぜし如く早速蒟蒻あたためて持来《もちきた》りしかばそれをば下腹におし当てて再びうとうとと眠りき。
 南向の小窓に雀の子の母鳥呼ぶ声|頻《しきり》なり。梯子段に誰《た》れやら昇り来《きた》る足音聞付け目覚《めさ》むれば老婆の蒟蒻取換へに来《きた》りしにはあらで、唐桟縞《とうざんじま》のお召《めし》の半纏《はんてん》に襟付《えりつき》の袷《あわせ》前掛《まえかけ》締めたる八重なりけり。根下《ねさが》りの丸髷《まるまげ》思ふさま髱後《たぼうしろ》に突出《つきいだ》し前髪《まえがみ》を短く切りて額《ひたい》の上に垂《た》らしたり。こは過《すぐ》る日八重わが書斎に来《きた》りける折書棚の草双紙《くさぞうし》絵本《えほん》の類《たぐい》取卸《とりおろ》して見せける中《なか》に豊国《とよくに》が絵本『時勢粧《いまようすがた》』に「それ者《しゃ》」とことわり書したる女の前髪切りて黄楊《つげ》の横櫛《よこぐし》さしたる姿の仇《あだ》なる、今時の芸者もかうありたしとわれの戯《たわむ》れにいひけるを、何事も気早《きばや》の八重、机の上にありける西洋鋏《せいようばさみ》手に取るより早く前髪ぷツつり切落し、鏡よ鏡よとて喜びさわぎしその名残《なご》りなりかし。
 八重その年二月の頃よりリウマチスにかかりて舞ふ事|叶《かな》はずなりしかば一時《ひとしきり》山下町《やましたちょう》の妓家《ぎか》をたたみ心静に養生せんとて殊更山の手の辺鄙《へんぴ》を選び四谷荒木町《よつやあらきちょう》に隠れ住みけるなり。わが家《や》とは市《いち》ヶ|谷《や》谷町《たにまち》の窪地《くぼち》を隔てしのみなれば日ごと二階なるわが書斎に来りてそこらに積載《つみの》せたる新古の小説雑書のたぐひ何くれとなく読みあさりぬ。彼女|元《もと》北地《ほくち》の産。年十三にして既に名をその地の教坊《きょうぼう》に留《とど》めき。生来|文墨《ぶんぼく》の戯を愛しよく風流を解せり。読書《とくしょ》に倦《う》めば後庭《こうてい》に出《い》で菜圃《さいほ》を歩み、花を摘《つ》みて我机上《わがきじょう》を飾る。今わが家蔵《かぞう》の古書|法帖《ほうじょう》のたぐひその破れし表紙切れし綴糸《とじいと》の大方《おおかた》は見事に取つぐなはれたる、皆その頃八重が心づくしの形見ぞかし。八重かくの如く日ごとわが家《や》に来りて夕暮近くなる時は、われと共に連れ立ちて芝口《しばぐち》の哥沢芝加津《うたざわしばかつ》といふ師匠の許《もと》まで端唄《はうた》ならひに行くを常としたり。
 前の夜《よ》も哥沢節の稽古に出でて初夜《しょや》過《すぐ》る頃四ツ谷|宇《う》の丸《まる》横町《よこちょう》の角《かど》にて別れたり。さればわが病臥《やみふ》すとは夢にも知らず、八重は襖《ふすま》引明《ひきあ》けて始めて打驚《うちおどろ》きたるさまなり。

 八重申しけるはわが身かつて伊香保《いかほ》に遊びし頃谷間の小流《こながれ》掬《く》み取りて山道の渇《かわ》きをいやせし故《ゆえ》か図《はか》らず痢病《りびょう》に襲はれて命も危《あやう》き目に逢《あ》ひたる事あり。その後《ご》は幾年月《いくとしつき》人の酒興《しゅきょう》を助くる家業《なりわい》の哀れはかなき、その身の害とは知りながら客の勧むる盃《さかずき》はいなまれず、家《いえ》に帰らば今宵《こよい》もまた苦しみ明《あか》すべしと心に泣きつつも酒呑みてくらせし故腹の病《やまい》はよく知りたり。養生の法とても、わが身かへつて医師にまさりて明《あきらか》ならん。医のととのへ勧むる薬は元より怠《おこた》り給ふな。さりながら古老の昔よりいひ伝ふるものには何事に限らず霊験《れいげん》ある事あり。わが身いまだ妓籍《ぎせき》を脱せざりし頃絶えず用ひたるかの矢筈草今も四谷の家《いえ》にあり。煎じて参らすべければ聊《いささ》かその匂ひの悪しきを忍びたまへとて、直《ただち》に人を走《は》せて矢筈草取寄せ煎じけり。
 われ生れて煎薬《せんやく》といふもの呑みたるはこれが始めてなり。この薬たしかに効能あるやうに覚えければその後は風邪心地《かざごこち》の折とてもアンチフェブリンよりは葛根湯《かっこんとう》妙振出《みょうふりだ》しなぞあがなひて煎じる事となしぬ。例へば雪みぞれの廂《ひさし》を打つ時なぞ田村屋好《たむらやごの》みの唐桟《とうざん》の褞袍《どてら》に辛《から》くも身の悪寒《おかん》を凌《しの》ぎつつ消えかかりたる炭火《すみび》吹起し孤燈《ことう》の下《もと》に煎薬煮立つれば、夜気《やき》沈々たる書斎の中《うち》に薬烟《やくえん》漲《みなぎ》り渡りて深《ふ》けし夜《よ》のさらにも深け渡りしが如き心地、何となく我身ながらも涙ぐまるるやうにてよし。

 八重が心づくしにて病はほどもなく癒《い》えけり。芍薬《しゃくやく》の花散りて世は早くも夏となりぬ。梅雨《つゆ》のあくるを待ち兼ねてその年の土用《どよう》に入《い》るやわれは朝な朝な八重に誘《いざな》はれて其処《そこ》此処《ここ》と草ある処に赴《おもむ》きかの薬草|摘《つ》むにいそがしかりけり。
 矢筈草はちよつと見たる時その葉|蓬《よもぎ》に似たり。覆盆子《いちご》の如くその茎《くき》蔓《つる》のやうに延びてはびこる。四谷見附《よつやみつけ》より赤坂喰違《あかさかくいちがい》の土手に沢山あり。青山《あおやま》兵営の裏手より千駄《せんだ》ヶ|谷《や》へ下《くだ》る道のほとりにも露草《つゆくさ》車前草《おおばこ》なぞと打交《うちまじ》りて多く生ず。採《と》り来《きた》りてよく土を洗ひ茎もろともにほどよく刻《きざ》みて影干《かげぼし》にするなり。
 われは東京市中の閑地《あきち》追々《おいおい》土木工事のために伐《き》り開かるべきことを憂ひて止まざるものなれば、やがては矢筈草生ずる土手もなくなるべしと思ひ、その一束《ひとたば》をわが家《や》の庭に移し植ゑぬ。われその年の秋母の許《ゆるし》を得て始めて八重を迎へ家《いえ》を修めしめしが、それとても僅《わずか》半歳《はんさい》の夢なりけり。その人去りて庭の籬《まがき》には摘むものもなくて矢筈草|徒《いたずら》に生《お》ひはびこりぬ。万事傷心の種《たね》ならざるはなし。その翌年《よくねん》草の芽再び萌出《もえいづ》る頃なるを、われも一夜《いちや》大久保を去りて築地《つきじ》に独棲《どくせい》しければかの矢筈草もその後《のち》はいかがなりけん。近頃|新《あらた》に住む人ありと聞けば廃園の雑草と共に大方は刈除《かりのぞ》かれしや知るべからず。

 事新らしく自然主義の理論説き出づるにも及ぶまじ。この世をよしと言ひあしと観る十人|十色《といろ》の考その人々によりて異り行くも、一つにはその人々の健康によることなり。われその身の衰行《おとろえゆ》くを知るにつけて世をいとふの念押へがたく日に日に弥増《いやま》さり行くこそ是非なけれ。
 わが知れる人々の中《うち》にはいかにもして我国の演劇を改良なし意味ある芸術を起さんものをと家人《かじん》の誤解世上の誹謗《ひぼう》もものかは、今になほ十年の宿志《しゅくし》をまげざるものあり。聞くだに涙こぼるる美談ぞかし。然るにわれは早くも心《こころ》挫《くじ》けてひたすら隠栖《いんせい》の安きを求めんとす。しかもそは取立てていふべきほどの絶望あるにもあらず将《はた》悲憤慷慨のためにもあらず。唯劇場の燈火《とうか》あまりにあかるく目を射るに堪《た》へざるが如き心地したるがためのみ。それに引換へて父の世より住古《すみふる》せし我家の内の薄暗く書斎の青燈《せいとう》影もおぼろに床《とこ》の花を照すさま何事にもかへがたく覚初《おぼえそ》めたるがためのみ。茶屋といふものなくなりて、劇場内の食堂の料理何となく気味わるき心地せられしがためのみ。雨の降る夜《よ》なぞとぼとぼと遠道《とおみち》を帰り行くことの苦しくなりしがためのみ。これらのことその身すこやかなれば元《もと》よりいふにも足らぬことなれど、寒さを恐れて春も彼岸《ひがん》近くまで外出《そとで》の折には必ず懐炉《かいろ》入れ歩くほどの果敢《はか》なき身には、以上の事皆観劇のために払ふべき大《だい》なる犠牲の如くに感ぜらる。新聞屋の種取《たねと》りにと尋来《たずねきた》るに逢ひてもその身丈夫にて人の顔さへ見れば臆面《おくめん》なく大風呂敷《おおぶろしき》ひろぐる勇気あらば願うてもなき自慢話の相手たるべきに、しからざる身には唯々うるさく辛《つら》きものとなるなり。世上の文学雑誌にわが身のことども口ぎたなく悪しざまに書立つるを見てさへ反駁《はんばく》の筆|執《と》るに懶《ものう》きほどなれば、見当違ひの議論する人ありとて何事もただ首肯《うなず》くのみにてその非をあぐる勇気もなし。いはんやその誤を正さん親切気《しんせつぎ》においてをや。時折|遠国《えんごく》の見知らぬ人よりこまごまと我が拙《つたな》き著作の面白き節々《ふしぶし》書きこさるるに逢ひてもこれまたそのままに打過して厚き志《こころざし》を無にすること度々《たびたび》なり。
 心地すぐれざるも打臥《うちふ》すほどにもあらねば病《や》めりとはいひがたし。病《やまい》なくして病あるが如き身のさまこそいぶかしけれ。下谷《したや》の外祖父《がいそふ》毅堂《きどう》先生の詩に小病無クレ名怯ル暮寒ヲ小病《しょうびょう》に名《な》無《な》く 暮寒《ぼかん》を怯《おそ》る〕といはれしもかくの如き心地にや。老杜《ろうと》が登高《とうこう》の七律《しちりつ》にも万里ノ悲秋常ニ作《ナル》レ客ト百年ノ多病独登ルレ台ニ万里《ばんり》の悲秋《ひしゅう》 常に客と作《な》る、百年の多病 独り台《だい》に登る〕の句あり。
 正月二月の寒風に吹かれて家《いえ》に入《い》れば、眼くるめくばかり頭痛を催し、八月の炎天を歩み汗を拭はんとて物かげに憩《いこ》ひ風を迎ふれば凉しと思ふ間もなく、忽《たちま》ち肌ひやひやとして気味わるき寒さを覚ゆ。冬の日はわれ人《ひと》共に寒きものなればさして悲しとも思はねど夏はつくづく情なき事のみなり。夕方の行水《ぎょうずい》にも湯ざめを恐れ、咽喉《のど》の渇《かわ》きも冷きものは口に入るること能《あた》はざれば、これのみにても人並の交りは出来ぬなり。人にさそはれ夕凉《ゆうすずみ》に出《いづ》る時もわれのみは予《あらかじ》め夜露の肌を冒《おか》さん事を慮《おもんばか》りて気のきかぬメリヤスの襯衣《シャツ》を着込み常に足袋《たび》をはく。酒楼《しゅろう》に上《のぼ》りても夜《よる》少しく深《ふ》けかかると見れば欄干《らんかん》に近き座を離れて我のみ一人|葭戸《よしど》のかげに露持つ風を避けんとす。をちこちに夜番《よばん》の拍子木《ひょうしぎ》聞えて空には銀河の流《ながれ》漸く鮮《あざやか》ならんとするになほもあつしあつしと打叫《うちさけ》びて電気扇《でんきせん》正面《まとも》に置据ゑ貸浴衣《かしゆかた》の襟《えり》ひきはだけて胸毛を吹きなびかせ麦酒《ビール》の盃に投入るるブツカキの氷ばりばりと石を割るやうに噛砕《かみくだ》く当代紳士の豪興《ごうきょう》、われこれを以て野蛮なる哉《かな》や没趣味なる哉やと嘆息するも誠はわが虚弱の妬《ねた》みに過ぎず。何事に限らずわが言ふ処|生《き》まじめの議論と思給はば飛《とん》でもなき買冠《かいかぶり》なるべし。

 慶応義塾のつとめもかくては日に日に退儀《たいぎ》となりぬ。朝早く出掛《でかけ》間際《まぎわ》に腹痛み出《いづ》ることも度々《たびたび》にて、それ懐中の湯婆子《ゆたんぽ》よ懐炉《かいろ》よ温石《おんじゃく》よと立騒ぐほどに、大久保より札《ふだ》の辻《つじ》までの遠道《とおみち》とかくに出勤の時間おくれがちとはなるなり。時雨《しぐれ》そぼふる午下《ひるすぎ》火の気《け》乏しき西洋間の教授会議または編輯《へんしゅう》会議も唯々わけなくつらきものの中《うち》に数へられぬ。何時《いつ》の幾日《いくか》には遊びに行かんと親しき友より軽き約束|申出《もうしい》でられてももしやその日に腹痛まば如何《いか》にせん、雨降らば出《で》にくからんなぞ取越苦労のみ重れば折角の興《きょう》もとく消えがちなるこそ悲しけれ。
 心柄《こころがら》とはいひながら強《し》ひて自《みずか》ら世をせばめ人の交《まじわり》を断ち、家《いえ》にのみ引籠《ひきこも》れば気随気儘《きずいきまま》の空想も門外世上の声に妨げ覚《さ》まさるる事なければ、いつとしもなくわれは誠に背も円《まる》く前にかがみ頭《かしら》に霜置く翁《おきな》となりけるやうの心とはなりにけり。
 八重も女の身の既に三十路《みそじ》を越えたり。始めのほどはリウマチスの病《やまい》さへ癒《い》えて舞ふに苦しからずなりなば再び新橋にや帰らん新に柳橋にや出でんあるひは地を選びて師匠の札《ふだ》をや掲げんなぞ思ひ企《くわだ》つる処さまざまなりしかども、いつか我が懶惰《らんだ》の習ひにや馴れ染めけん、かつは日頃親しく尋来《たずねきた》る向島の隠居|金子《かねこ》翁といふ老人のすすめもありてや、浮世の夢をよそに、思出多き一生を大久保の里に埋《うず》め、早衰のわが身が朝夕《あさゆう》の世話する事とはなりぬ。そは甲寅《きのえとら》の年も早や秋立ち初《そ》めし八月末の日なりけり。目出度き相談まとまりて金子翁を八重が仮の親元に市川左団次《いちかわさだんじ》夫妻を仲人《なこうど》にたのみ山谷《さんや》の八百屋《やおや》にて形《かた》ばかりの盃事《さかずきごと》いたしけり。[#割り注]金子翁名元助天保御趣意の前年江戸和蘭陀屋敷御同心の家に生るといふ清元の三絃をよくしまた宇治の太夫となりて金紫と号す瓦解の後商となり横浜に出で産を起し※[#「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25]上に有馬温泉を建つ二子あり坂東秀調はその長子藤間金之助はその次子なり[#割り注終わり]八百屋|善四郎《ぜんしろう》が家《いえ》はその時庭の地揚《じあ》げ土台の根つぎなぞ致すため客をことわりてゐたりしかど金子翁かつて八百屋が先代の主人とは懇意なりける由にて事の次第を咄《はな》して頼みければ今の若き主人心よく承知して池に臨《のぞ》む下座敷《したざしき》を清め床の間の軸も光琳《こうりん》が松竹梅の三幅対《さんぷくつい》をかけその日のみわれらがために一日《いちにち》商売《あきない》の面倒をいとはざりけり。
 この日残暑の夕陽《せきよう》烈しきに山谷の遠路《えんろ》をいとはずしてわが母上も席に連《つらな》り給ひぬ。母は既に父|在《いま》せし頃よりわが身の八重といふ妓《ぎ》に狎《な》れそめける事を知り玉ひき。去歳《さるとし》わが病伏《やみふ》しける折|日々《にちにち》看護に来《きた》りしより追々に言葉もかけ給ふやうになりて窃《ひそか》にその立居《たちい》振舞を見たまひけるが、癇癖《かんぺき》強く我儘なるわれに事《つか》へて何事も意にさからはぬ心立《こころだて》の殊勝なるに加へて、殊に或日わが居間の軸を掛替《かけか》ゆる折|滬上《こじょう》当今《とうこん》の書家|高※[#「巛/邑」、第3水準1-92-59]《こうよう》といふ人の書きける小杜《しょうと》が茶煙禅榻《さえんぜんとう》の七絶《しちぜつ》すらすらと読下《よみくだ》しける才識に母上このもの全く世の常の女にあらじと感じたまひてこの度《たび》の婚儀につきては深くその身元のあしよしを問ひたまはざりき。
 八重|竹柏園《ちくはくえん》に遊びて和歌を学びしは久しき以前の事なり。近頃四谷に移住《うつりす》みてよりはふと東坡《とうば》が酔余の手跡《しゅせき》を見その飄逸《ひょういつ》豪邁《ごうまい》の筆勢を憬慕《けいぼ》し法帖《ほうじょう》多く購求《あがないもと》めて手習《てならい》致しける故|唐人《とうじん》が行草《ぎょうそう》の書体訳もなく読得《よみえ》しなり。何事も日頃の心掛によるぞかし。

 八重|家《いえ》に来《きた》りてよりわれはこの世の清福|限無《かぎりな》き身とはなりにけり。人は老《おい》を嘆ずるが常なり。然るにわれは俄《にわか》に老の楽《たのしみ》の新なるを誇らんとす。人生の哀楽唯その人の心一ツによる。木枯《こがらし》さけぶ夜《よ》すがら手摺《てず》れし火桶《ひおけ》かこみて影もおぼろなる燈火《とうか》の下《もと》に煮る茶の味《あじわい》は紅楼《こうろう》の緑酒《りょくしゅ》にのみ酔ふものの知らざる所なり。寝屋《ねや》の屏風|太鼓張《たいこばり》の襖《ふすま》なぞ破れたるを、妻と二人して今までは互に秘置《ひめお》きける古き文《ふみ》反古《ほご》取出《とりいだ》して読返しながら張りつくろふ楽しみもまた大厦高楼《たいかこうろう》を家とする富貴《ふうき》の人の窺知《うかがいし》るべからざる所なるべし。菊植ゆる籬《まがき》または廁《かわや》の窓の竹格子《たけごうし》なぞの損じたるを自《みずか》ら庭の竹藪より竹|切来《きりきた》りて結びつくろふ戯《たわむれ》もまた家を外《そと》なる白馬銀鞍《はくばぎんあん》の公子《こうし》たちが知る所にあらざるべし。わが物書くべき草稿の罫紙《けいし》は日頃|暇《いとま》ある折々われ自らバレン持ちて板木《はんぎ》にて摺《す》りてゐたりしが、八重今は襷《たすき》がけの手先墨にまみるるをも厭《いと》はず幾帖《いくじょう》となくこれを摺る。かかる楽しみも近頃西洋紙に万年筆走らせて議論する文士の知らざる所とやいはん。
 わが家《や》には亡父《なきちち》の遺《のこ》し給ひし書籍盆栽文房の器具|尠《すくな》からず。八重はわれを助けて家《いえ》を修めんがため『林園月令《りんえんげつれい》』、『雅遊漫録《がゆうまんろく》』、『草木育種《そうもくいくしゅ》』、『庭造秘伝鈔《にわつくりひでんしょう》』、『日本家居秘用《にほんかきょひよう》』なぞいふ類《たぐい》の和漢の書取出して読みあさり、硯《すずり》の海の底深う巌《いわ》のやうにこびりつきたる墨のかす洗ひ落すには如何《いか》にすればよき。蒔絵《まきえ》の金銀のくもりを拭清《ふききよ》むるには如何にせばよきや。堆朱《ついしゅ》の盆|香合《こうごう》などその彫《ほり》の間の塵を取るには如何にすべきや。盆栽の梅は土用《どよう》の中《うち》に肥料《こやし》やらねば来春花多からず。山百合《やまゆり》は花終らば根を掘りて乾ける砂の中《なか》に入れ置けかし。あれはかくせよ。これはかうせよと終日《ひねもす》襷《たすき》はづす暇《いとま》だになかりけり。
 わが父はこの上なく物堅き人なりき。然れども生前自ら選みたまひしその詩稿『来青閣集《らいせいかくしゅう》』といふを見れば

  良辰佳会古難並 〔良《よ》き辰《とき》と佳《よ》き会《かい》は古《いにしえ》より並び難し
  玉手酒幾巡  玉手《ぎょくしゅ》《さんさん》として酒《さけ》幾たびか巡《めぐ》る
  休道詩人無艶分  道《い》う休《なか》れ詩人《しじん》に艶分《えんぶん》無《な》しと
  先従花国賦迎春  先《ま》ず花国《かこく》従《よ》り賦《ふ》して春を迎えん
   新歳竹枝            新歳《しんさい》 竹枝《ちくし》〕

春鳥無心喚友啼 〔春鳥《しゅんちょう》は無心《むしん》に友を喚びて啼《な》き
蘭舟繋在水祠西  蘭舟《らんしゅう》は繋《つな》がれて水祠《すいし》の西《にし》に在《あ》り
暖波一面花三面  暖波《だんぱ》は一面《いちめん》 花《はな》は三面《さんめん》
真個温柔郷此堤  真個《しんこ》の温柔郷《おんじゅうきょう》なり 此《こ》の堤《つつみ》
   看花七絶            看花《かんか》 七絶《しちぜつ》〕

の如き艶体《えんたい》の詩を誦《しょう》し得るなり。またかつて中国に遊び給ひける時|姑蘇《こそ》城外を過ぎて妓《ぎ》に贈り給ひし作多きが中《なか》に

  麗質嬌姿本絶羣 〔麗質《れいしつ》 嬌姿《きょうし》 本《もと》より羣《ぐん》を絶《ぜっ》す
   蘭房別占四時春  蘭房《らんぼう》は別《わけ》ても占《し》む四時《しじ》の春
  相逢無語翻多恨  相《あ》い逢《あ》いて語《ことば》無《な》く翻《かえ》って多恨《なごりお》し
  桃葉桃根画裏人  桃葉《とうよう》 桃根《とうこん》 画裏《がり》の人《ひと》

  如在 香亭北看 〔沈香亭《じんこうてい》の北《きた》に在《あ》りて看《み》るが如《ごと》く
  妖姿冶態正春闌  妖姿《ようし》 冶態《やたい》 正《まさ》に春《はる》闌《たけなわ》なり
  多情卿是傾城種  多情《たじょう》の卿《きみ》は是《こ》れ傾城《けいじょう》の種《しゅ》
  不信小名呼墨蘭  信ぜず 小名《しょうみょう》に墨蘭《ぼくらん》と呼べるを〕

の如き能《よ》くわが記憶する所なり。現に城南新橋《じょうなんしんきょう》の畔《ほとり》南鍋街《なんこがい》の一|旗亭《きてい》にも銀屏《ぎんぺい》に酔余の筆を残したまへるがあり。
 われ家《いえ》を継ぎいくばくもなくして妓を妻とす。家名を辱《はずか》しむるの罪元より軽《かろ》きにあらざれど、如何にせんこの妓心ざま素直《すなお》にて唯我に事《つか》へて過ちあらんことをのみ憂《うれ》ふるを。何事も宿世《しゅくせ》の因縁なりかし。初手《しょて》は唯かりそめの契《ちぎり》も年《とし》経《へ》ぬれば人にいはれぬ深きわけ重なりてまことの涙さそはるる事も出《い》で来《き》ぬるなり。これらをや迷の夢と悟りし人はいふなるべし。世の誚《そしり》人の蔑《さげすみ》も迷へるものは顧《かえりみ》ず。われは唯この迷ありしがためにいはゆる当世の教育なるもの受けし女学生|上《あが》りの新夫人を迎ふる災厄を免《まぬか》れたり。盃《さかずき》持つ妓女《ぎじょ》が繊手《せんしゅ》は女学生が体操仕込の腕力なければ、朝夕《あさゆう》の掃除に主人が愛玩《あいがん》の什器《じゅうき》を損《そこな》はず、縁先《えんさき》の盆栽も裾袂《すそたもと》に枝|引折《ひきお》らるる虞《おそれ》なかりき。世の中|一度《いちど》に二つよき事はなし。

十一

 親しき友にも八重との婚儀は改めて披露《ひろう》せず。祝儀《しゅうぎ》の心配なぞかけまじとてなり。物堅き親戚一同へはわれら両人《ふたり》が身分を省《かえり》みて無論披露は遠慮致しけり。人のいやがる小説家と世の卑しむ妓女《ぎじょ》との野合《やごう》、事々しく通知致されなば親類の奥様や御嬢様方かへつて御迷惑なるべしと察したればなり。然れども世は情知らぬ人のみにはあらず。我らがこの度《たび》の事目出度しとて物祝ひ賜はる向《むき》も尠《すくな》からざりしかば、八重は口やかましき我が身が世話の手すきを見計《みはか》らひて諸処方々返礼に出歩きけり。秋も忽《たちまち》過ぎ去りぬ。菊の花|萎《しお》るる籬《まがき》には石蕗花《つわぶき》咲き出で落葉《らくよう》の梢に百舌鳥《もず》の声早や珍しからず。裏庭の井《い》のほとりに栗|熟《みの》りて落ち縁先《えんさき》には南天《なんてん》の実、石燈籠《いしどうろう》のかげには梅疑《うめもどき》色づき初《そ》めぬ。
 初冬《はつふゆ》の山の手ほどわが家《や》の庭なつかしく思はるる折はなし。人は樹木《じゅもく》多ければ山の手は夏のさかりにしくはなけんなど思ふべけれど、藪蚊《やぶか》の苦しみなき町中《まちなか》の住居《すまい》こそ夏はかへつて物干台《ものほしだい》の夜凉《よすずみ》縁日《えんにち》のそぞろ歩きなぞ興《きょう》多けれ。簾《すだれ》捲上《まきあ》げし二階の窓に夕栄《ゆうばえ》の鱗雲《うろこぐも》打眺め夕河岸《ゆうがし》の小鰺《こあじ》売行く声聞きつけて俄《にわか》に夕餉《ゆうげ》の仕度|待兼《まちかぬ》る心地するも町中なればこそ。翻《ひるがえ》つて冬となりぬる町の住居を思へば建込む家《いえ》にさらでも短き日脚《ひあし》の更に短く長火鉢置く茶の間は不断の宵闇《よいやみ》なるべきに、山の手の庭は木々の葉落尽すが故に夏よりも明《あかる》く晴々しく、書斎の丸窓も芭蕉《ばしょう》朽ちて穏《おだやか》なる日の光|終日《ひねもす》斜にさすなり。露時雨《つゆしぐれ》夜ごとにしげくなり行くほどに落葉朽ち腐るる植込《うえごみ》のかげよりは絶えず土の香《か》薫《くん》じて、鶺鴒《せきれい》四十雀《しじゅうから》藪鶯《やぶうぐいす》なぞ小鳥の声は春にもまして賑《にぎわ》し。げに山の手は十一月十二月かけての折ほど忘れがたく住心地《すみごこち》よき時はなきぞかし。
 八重諸処への礼歩きもすまして今は家《いえ》にのみあり。障子《しょうじ》は皆新しう張替へられたり。家の柱|縁側《えんがわ》なぞ時代つきて飴色《あめいろ》に黒みて輝《ひか》りたるに障子の紙のいと白く糊《のり》の匂も失せざるほどに新しきは何となくよきものなり。座敷も常よりは明くなりたるやうにて庭樹《にわき》の影小鳥の飛ぶ影の穏かなる夕日に映りたるもまた常よりは鮮《あざやか》なる心地す。夕風裏窓の竹を鳴して日暮るれば、新しき障子の紙に燈火《とうか》の光もまた清く澄みて見ゆ。冬となりてここにまた何よりも嬉しき心地せらるるは桐の火桶《ひおけ》、炉《ろ》、置炬燵《おきごたつ》、枕屏風《まくらびょうぶ》なぞ春より冬にかけて久しく見ざりし家具に再び遇ふ事なり。去年の冬より今年も春なほ寒き折までは毎朝つやぶきん掛けてよく拭き込みたる火鉢、夏の中《うち》仕舞ひ込みたる押入の塵《ちり》に大分|光沢《つや》うせながら然《しか》も見馴れたる昔のままの形して去年ありける同じき処に置据《おきす》ゑられたる宛《さなが》ら旧知の友に逢ふが如し。君もすこやかなりしか。我もまた幸《さいわい》に余生を保ちぬと言葉もかけたき心地なり。寔《まこと》に初冬《はつふゆ》の朝初めて火鉢見るほど、何ともつかず思出多き心地するものはなし。わが友|江戸庵《えどあん》が句に
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冬来るやまたなつかしき古火桶
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 これ聊《いささ》かも巧《たく》む所なくして然もその意を尽したる名吟《めいぎん》ならずや。去歳《こぞ》の冬江戸庵主人|画帖《がじょう》一折《ひとおり》携《たずさ》へ来《きた》られ是非にも何か絵をかき句を題せよとせめ給ひければ我止む事を得ず机の側にありける桐の丸火鉢《まるひばち》を見てその形を写しけるが、俳想乏しくて即興の句出でざる苦しさに、何やら訳もわからぬ文句左の如く書流したる事あり。
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折《おり》かがむ背中もやがて円火鉢《まるひばち》
  かどのとれたる老を待つかな
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 それはさて置き、八重わが家《や》に来りてよりはわが稚《おさな》き時より見覚えたるさまざまの手道具《てどうぐ》皆手入よく綺麗にふき清められて、昨日まではとかく家を外《そと》なる楽しみのみ追ひ究めんとしける放蕩の児《じ》も此《ここ》に漸く家居《かきょ》の楽《たのしみ》を知り父なき後《のち》の家を守る身となりしこそうれしけれ。

十二

 おほよその人は詩を賦《ふ》し絵をかく事をのみ芸術なりとす。われも今まではかく思ひゐたり。わが芸術を愛する心は小説を作り劇を評し声楽を聴くことを以て足れりとなしき。然れども人間の欲情もと極《きわま》る処なし。我は遂に棲《す》むべき家《いえ》着るべき衣服|食《くら》ふべき料理までをも芸術の中《うち》に数へずば止まざらんとす。進んで我《わが》生涯をも一個の製作品として取扱はん事を欲す。然らざればわが心遂にまことの満足を感ずる事|能《あた》はざるに至れり。我が生涯を芸術品として見んとする時妻はその最も大切なる製作の一要件なるべし。
 人はかかる言草《いいぐさ》を耳にせば直《ただち》に栄耀《えいよう》の餅の皮といひ捨《す》つべし。されど芸術を味ひ楽しむ心はもと貧富の別に関せず。深刻の情致《じょうち》は何事によらずかへつて富者の知らざる処なり。わが衣食住とわが生涯を以て活《い》きたる詩活きたる芸術の作品となすに何の費《ついえ》をか要せん。裏路地《うらろじ》の佗住居《わびずまい》も自《みずか》ら安《やすん》ずる処あらばまた全く画興詩情なしといふべからず、金殿玉楼も心なくんば春花秋月なほ瓦礫《がれき》に均《ひと》しかるべし。
 わが家《いえ》山の手のはづれにあり。三月|春泥《しゅんでい》容易に乾かず。五月早くも蚊に襲はる。市《いち》ヶ|谷《や》の喇叭《らっぱ》は入相《いりあい》の鐘の余韻を乱し往来の軍馬は門前の草を食《は》み塀を蹴破る。昔は貧乏|御家人《ごけにん》の跋扈《ばっこ》せし処今は田舎《いなか》紳士の奥様でこでこ丸髷《まるまげ》を聳《そびや》かすの地《ち》、元より何の風情《ふぜい》あらんや。然れどもわが書庫に蜀山人《しょくさんじん》が文集あり『山手《やまのて》閑居《かんきょ》の記《き》』はよくわれを慰む。わが庭広からず然れども屋後《おくご》なほ数歩の菜圃《さいほ》を余《あま》さしむ。款冬《ふき》、芹《せり》、蓼《たで》、葱《ねぎ》、苺《いちご》、薑荷《しょうが》、独活《うど》、芋、百合、紫蘇《しそ》、山椒《さんしょ》、枸杞《くこ》の類《たぐい》時に従つて皆|厨房《ちゅうぼう》の料《りょう》となすに足る。八重|日々《にちにち》菜園に出で繊手《せんしゅ》よくこれを摘《つ》み調味してわが日頃好みて集めたる器《うつわ》に盛りぬ。
 つらつら按《おも》ふに我国の料理ほど野菜に富めるはなかるべし。西洋にては巴里《パリー》に赴きて初めて菜蔬《さいそ》の味《あじわい》称美すべきものに遇《あ》ふといへどもその種類なほ我国の多きに比すべくもあらず。支那には果実の珍しきもの多けれど菜蔬に至つては白菜《はくさい》菱角《りょうかく》藕子《ぐうし》嫩筍《どんじゅん》等の外《ほか》われまた多くその他を知らず、菜蔬と魚介《ぎょかい》の味《あじわい》美なるもの多きはこれ日本料理の特色ならずとせんや。
 食器の清洒《せいしゃ》風雅なるまた大《おおい》に誇るに足るべし。西洋支那の食器金銀珠玉を以てこれを製するあり、その質堅牢にしてその形の壮麗なる元より我国の及ぶ処ならず。洋人銀の肉叉《にくさ》を用ひ漢人|翡翠《ひすい》の箸《はし》を把《と》る。しかして我俗《わがぞく》杉の丸箸を以て最上の礼式とす。万事皆かくの如し。また思ふに西洋支那の食卓共に華麗荘厳の趣あれども四時《しじ》を通じてその模様大抵同じきが如く、その料理とこれを盛る食器との調和対照に意を用ゆる事我国の如く甚しからざるに似たり。我国の膳部《ぜんぶ》におけるや食器の質とその色彩|紋様《もんよう》の如何《いかん》によりてその趣全く変化す。夏には夏冬には冬らしき盃盤《はいばん》を要す。誰《たれ》か鮪《まぐろ》の刺身を赤き九谷《くたに》の皿に盛り新漬《しんづけ》の香物《こうのもの》を蒔絵《まきえ》の椀に盛るものあらんや。日本料理は器物の選択を最も緊要となす。ここにおいてその法全く特殊の芸術たり。盃盤の選択は酒楼にあつては直《ただち》に主人が風懐《ふうかい》の如何《いかん》を窺《うかが》はしめ一家にあつては主婦が心掛の如何を推知せしむ。八重多年|教坊《きょうぼう》にあり都下の酒楼旗亭にして知らざるものなし。加《くわう》るに骨董《こっとう》の鑑識浅しとせず。わが晩餐の膳をして常に詩趣俳味に富ましめたる敢て喋々《ちょうちょう》の弁を要せず。いつも痒いところに手が届きけり。されば八重去つてよりわれ復《また》肴饌《こうせん》のことを云々《うんぬん》せず。机上の花瓶《かへい》永《とこしな》へにまた花なし。

十三

 八重何が故に我家《わがや》を去れるや。われまた何が故にその後を追はざりしや。『矢筈草』の一篇もとこの事を書綴りて愛読者諸君のお慰みにせんと欲せしなり。新聞紙三面の記事は世人《せじん》の喜ぶ所なり。実録とさへ銘打《めいう》てば下手な小説もよく売れるなり。作者くだらぬ長談義にのみ耽りて容易に本題に入らざる所以《ゆえん》のものそれ果して何ぞ。

十四

 目出度き甲寅《きのえとら》の年は暮れて新しき年もいつか鶯の初音《はつね》待つ頃とはなりけり。一日《いちにち》われ芝辺《しばへん》に所用あつて朝早くより家《いえ》を出で帰途築地の庭後庵《ていごあん》をおとづれしにいつもながら四方山《よもやま》の話にそのまま夜《よ》をふかし車を頂戴して帰りけり。門《かど》の戸あく音に主人の帰りを待つ飼犬の裾《すそ》にまつはる事のみ常に変らざりしが家《いえ》の内|何《なに》となく寂然《せきぜん》として、召使ふ子女《こおんな》一人《いちにん》のみ残りて八重は既に家にはあらざりき。八畳の茶の間に燈火《とうか》煌々《こうこう》と輝きて、二人が日頃食卓に用ひし紫檀《したん》の大きなる唐机《とうづくえ》の上に、箪笥《たんす》の鍵を添へて一通の手紙置きてあり。初め小婢《しょうひ》のわが帰るを見るや御新造《ごしんぞ》様は御風呂めして九時頃お出掛になりやがて何処《いずこ》よりとも知らず電話にて今夜はおそくなる故帰らぬ由《よし》申越されぬと告げけるが、その折にはわれさまでは驚かず、大方新橋あたりの妓家《ぎか》ならずば藤間《ふじま》が弟子のもとに遊べるならんと思ひしに、唐机の上の封書開くに及び初めて事の容易ならぬを知りけり。

十五

『矢筈草』いよいよこれより本題に入《い》らざるべからざる所となりぬ。然るに作者|俄《にわか》に惑《まど》うて思案|投首《なげくび》煙管《キセル》銜《くわ》へて腕こまねくのみ。
 その年の桜咲く頃八重は五年振りにて再び舞扇《まいおうぎ》取つて立つ身とはなれるなり。好奇の粋客《すいきゃく》もしわが『矢筈草』の後篇を知らんことを望み玉はば喜楽《きらく》可《か》なり香雪軒《こうせつけん》可なり緑屋《みどりや》またあしからざるべし随処の旗亭《きてい》に八重を聘《へい》して親しく問ひ玉へかし。八重唯舞ふ事を能《よ》くするのみにあらず哥沢節《うたざわぶし》は既に名取《なとり》なり近頃また河東《かとう》を修むと聞く。彼女もし問ふものに向つてあらはに事の仔細を語る事を欲せずとせんか、代るに低唱微吟《ていしょうびぎん》以てその所思《しょし》を託せしむべき歌曲に乏しからざるべし。凡そ人その思ふ所を伝へんとするや必ずしも田舎議員の如く怒号する事を要せざるべし。何ぞまた新しき女に傚《なら》つてやたらに告白しむやみに懺悔《ざんげ》するに及ばんや。われ近頃人より小唄《こうた》なるものを教へらる。
 ※[#歌記号、1-3-28]三ツの車に法《のり》の道ソウラ出た……悋気《りんき》と金貸《かねかし》や罪なもの
また以てわが一時《いちじ》の情懐を託するに足りき。

十六

 昨日《きのう》となれば何事もただなつかし。何ぞ事の是非を究《きわ》めて彼我《ひが》の過《あやまち》を明《あきらか》にするの要あらんや。青春まことに一夢《いちむ》。老の寝覚《ねざ》めに思出の種一つにても多からんこそせめての慰めなるべけれ。活《い》きがひありしといふべけれ。石橋《いしばし》をたたいて五十年無事に世を渡り得しものは誠に結構と申すの外なし。一度《ひとたび》足踏みすべらせて橋下《きょうか》の激流に陥《おちい》れば渾身《こんしん》の力尽して泳がんのみ。彼岸《ひがん》に達せんとすれども流《ながれ》急なれば速《すみやか》に横断すべくもあらず。あるひは流に従つて漂ひあるひは巌角《がんかく》に攀《よ》ぢて憩《いこ》ひ、徐《おもむろ》にその道を求めざるべからず。ここにおいてか無事石橋を歩むものの知らざる処を知る。話の種多く持つ身とはなるなり。

十七

 芸者その朋輩《ほうばい》の丸髷《まるまげ》結《ゆ》ふを見ればわたしもどうぞ一度はと茶断《ちゃだち》塩断《しおだち》神かけて念ずるが多し。芸者も女なり。いやな旦那をつとめて好きな役者狂ひの口直《くちなお》しにも少し飽きが来れば、定《さだ》まる男|一人《ひとり》にかしづいて見たい殊勝の願ひを起す。これ波瀾より平坦に入《い》るものけだし自然の人情なるべし、決して咎《とが》むべきにあらず。さればそんじよそこらの姐《ねえ》さんたちそれぞれよい客見付けて足を洗ひ、中には鳥子餅《とりのこもち》くばるもあれど、その噂朋輩の口よりまだ消えもやらぬに、早くもああくさくさしちまつたよと、泣いたり笑つたりした揚句の果は復《また》旧《もと》の古巣に還るもの甚《はなはだ》頻々《ひんぴん》。去就出没常ならず。さればお上《かみ》にては一度《ひとたび》芸者の鑑札返上致せしものには半歳《はんとし》を経ざれば再びこれを下《さ》げ渡さざるの制を設くといふ。けだし役人衆の繁忙を防がんがためなるべし。
 そんな事はどうでもよいとして、芸者何が故にかくは出たり引込んだり致すぞや。通人いふ。一度《いちど》商売したものは辛抱の置き処が違ふ故当人いかほど殊勝の覚悟ありても素人《しろうと》のやうには行《ゆ》かぬなり。これを巧《たく》みに使つて身を落ちつかせてやるは亭主となつた男の思遣《おもいや》り一ツによる事なり。年増盛《としまざかり》を過ぎて一度商売を止《や》めた女、また二度出るは気の毒なものと察してやるが訳知つた人の情《なさけ》なり。男の顔に泥塗るやうな事さへせぬかぎり大抵のことは大目に見てやるがよし。漢学者のやうに子《し》曰《のたまわ》くで何か事あれば直ぐに七去《しちきょ》の教《おしえ》楯《たて》に取るやうな野暮な心ならば初めから芸者引かせて女房にするなぞは大きな間違ならんと。
 駁《ばく》するものは言ふ。芸者したものは酸《す》いも甘《あま》いも知つてゐるはずなり。栄耀栄華《えいようえいが》の味を知つたもの故芝居も着物もさして珍らしくは思はぬはずなり。何があつても素人のやうには立騒がずともすむ咄《はなし》なり。万事さばけて呑込み早かるべきはずなり。亭主の癇癪《かんしゃく》も巧《たくみ》にそらして気嫌を直さすべきはずなり。素人では気のつかぬ処に気がつく故にそれ者《しゃ》はそれ者たる値打があるなり。もしそれ持参金つきの箱入娘貰つたやうに万事遠慮我慢して連添《つれそ》ふ位ならば何も世間親類に後指《うしろゆび》さされてまでそれ者《しゃ》を家《うち》に入るるの要あらんや。
 いやに済《す》ました人おつに咳払《せきばら》ひして進み出でて曰く両君の宣《のたま》ふ所|各《おのおの》理あり。皆その人とその場合とに因つてこれを施して可なるべし。素人も芸者も元これ女なり。生れて女となる。女の身を全うするの道古来唯従ふの一語のみ。従はざれば今の処日本にては女の身は立ちがたし。芸者気随気儘勝手次第にその日を送り得るやうに見ゆれどもさにあらず。元これ愛嬌商売なれば第一に世間に従つて行かねばならぬなり。お客に従はねばならぬなり。出先《でさき》の茶屋の女中に従はねばならぬなり。足を洗つて素人となる。則《すなわち》旦那に従はねばならぬなり。その家《いえ》に従はねばならぬなり。同じく皆従ふなり。一人《ひとり》に従ふと諸人《しょにん》に従ふとの相違のみ。そのいづれかを選ぶべきやはこれその人の任意なり。素人となれば素人の苦楽共にあり商売に出れば商売の苦楽また共に生ず。無事平坦を望まば素人たるべし。変化を欲せば芸者たるべし。これまたその人とその場合によつて論ずべきなり。孔明《こうめい》兵を祁山《きざん》に出《いだ》す事|七度《ななたび》なり。匹婦《ひっぷ》の七現七退《しちげんしちたい》何ぞ改めて怪しむに及ばんや。唯その身の事よりして人に累《るい》を及《およぼ》しために後生《ごしょう》の障《さわり》となる事なくんばよし。皆時の運なり。素人とならばその日その日の金銭|出入帳《でいりちょう》書く事怠らぬがよし。商売に出でなば勤めべき処よく勤むべし。朝起きた時奥歯に物のはさまつたやうな心持する事なくその日その日を送り得ば妓《ぎ》となるも妻となるも何ぞ選ばん。あれも一生これも一生ぞかし。いづれにしても柔和は女徳《にょとく》の第一なり。加ふるに悋気《りんき》を慎《つつし》まば妓となるとも人に愛され立てられて身を全うし得べし。いはんや正路《せいろ》の妻となるにおいてをや。
 おつにすました人|弁出《べんじいだ》して尽くる所を知らず。これでは作者よりも皆様が御迷惑とここに横槍を入れ                                                           大正五丙辰暮春稿

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。
入力:門田裕志
校正:米田
2010年9月5日作成
2011年4月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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永井荷風

壥東綺譚—–永井荷風

 わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。
 おぼろ気な記憶をたどれば、明治三十年頃でもあろう。神田|錦町《にしきちょう》に在った貸席錦輝館で、サンフランシスコ市街の光景を写したものを見たことがあった。活動写真という言葉のできたのも恐らくはその時分からであろう。それから四十余年を過ぎた今日《こんにち》では、活動という語《ことば》は既にすたれて他のものに代《かえ》られているらしいが、初めて耳にしたものの方が口馴れて言いやすいから、わたくしは依然としてむかしの廃語をここに用いる。
 震災の後《のち》、わたくしの家に遊びに来た青年作家の一人が、時勢におくれるからと言って、無理やりにわたくしを赤坂|溜池《ためいけ》の活動小屋に連れて行ったことがある。何でも其《その》頃非常に評判の好いものであったというが、見ればモオパッサンの短篇小説を脚色したものであったので、わたくしはあれなら写真を看るにも及ばない。原作をよめばいい。その方がもっと面白いと言ったことがあった。
 然し活動写真は老弱《ろうにゃく》の別《わかち》なく、今の人の喜んでこれを見て、日常の話柄《わへい》にしているものであるから、せめてわたくしも、人が何の話をしているのかと云うくらいの事は分るようにして置きたいと思って、活動小屋の前を通りかかる時には看板の画と名題とには勉《つと》めて目を向けるように心がけている。看板を一|瞥《べつ》すれば写真を見ずとも脚色の梗概も想像がつくし、どういう場面が喜ばれているかと云う事も会得せられる。
 活動写真の看板を一度に最《もっとも》多く一瞥する事のできるのは浅草公園である。ここへ来ればあらゆる種類のものを一ト目に眺めて、おのずから其巧拙をも比較することができる。わたくしは下谷《したや》浅草の方面へ出掛ける時には必ず思出して公園に入り杖《つえ》を池の縁《ふち》に曳《ひ》く。
 夕風も追々寒くなくなって来た或日のことである。一軒々々入口の看板を見尽して公園のはずれから千束町《せんぞくまち》へ出たので。右の方は言問橋《ことといばし》左の方は入谷町《いりやまち》、いずれの方へ行こうかと思案しながら歩いて行くと、四十前後の古洋服を着た男がいきなり横合から現れ出て、
「檀那《だんな》、御紹介しましょう。いかがです。」と言う。
「イヤありがとう。」と云って、わたくしは少し歩調を早めると、
「絶好のチャンスですぜ。猟奇的ですぜ。檀那。」と云って尾《つ》いて来る。
「いらない。吉原へ行くんだ。」
 ぽん引《びき》と云うのか、源氏というのかよく知らぬが、とにかく怪し気な勧誘者を追払うために、わたくしは口から出まかせに吉原へ行くと言ったのであるが、行先の定《さだま》らない散歩の方向は、却《かえっ》てこれがために決定せられた。歩いて行く中《うち》わたくしは土手下の裏町に古本屋を一軒知っていることを思出した。
 古本屋の店は、山谷堀《さんやぼり》の流が地下の暗渠《あんきょ》に接続するあたりから、大門前《おおもんまえ》日本堤橋《にほんづつみばし》のたもとへ出ようとする薄暗い裏通に在る。裏通は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、此方《こなた》は土管、地瓦《ちがわら》、川土、材木などの問屋が人家の間に稍《やや》広い店口を示しているが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気《まずしげ》な小家《こいえ》がちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋《しょうほうじばし》、山谷橋《さんやばし》、地方橋《じかたばし》、髪洗橋《かみあらいばし》などいう橋の灯《ひ》がわずかに道を照すばかり。堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。この辺で夜も割合におそくまで灯《あかり》をつけている家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらいのものであろう。
 わたくしは古本屋の名は知らないが、店に積んである品物は大抵知っている。創刊当時の文芸|倶楽部《クラブ》か古いやまと新聞の講談附録でもあれば、意外の掘出物だと思わなければならない。然しわたくしがわざわざ廻り道までして、この店をたずねるのは古本の為《ため》ではなく、古本を鬻《ひさ》ぐ亭主の人柄と、廓外《くるわそと》の裏町という情味との為である。
 主人《あるじ》は頭を綺麗に剃《そ》った小柄の老人。年は無論六十を越している。その顔立、物腰、言葉使から着物の着様に至るまで、東京の下町|生粋《きっすい》の風俗を、そのまま崩さずに残しているのが、わたくしの眼には稀覯《きこう》の古書よりも寧《むし》ろ尊くまた懐しく見える。震災のころまでは芝居や寄席《よせ》の楽屋に行くと一人や二人、こういう江戸下町の年寄に逢うことができた――たとえば音羽《おとわ》屋の男衆《おとこしゅ》の留爺《とめじい》やだの、高嶋屋の使っていた市蔵などいう年寄達であるが、今はいずれもあの世へ行ってしまった。
 古本屋の亭主は、わたくしが店先の硝子《ガラス》戸をあける時には、いつでもきまって、中仕切《なかじきり》の障子|際《ぎわ》にきちんと坐り、円い背を少し斜に外の方へ向け、鼻の先へ落ちかかる眼鏡をたよりに、何か読んでいる。わたくしの来る時間も大抵夜の七八時ときまっているが、その度毎に見る老人《としより》の坐り場所も其の形も殆どきまっている。戸の明く音に、折かがんだまま、首だけひょいと此方《こなた》へ向け、「おや、入らっしゃいまし。」と眼鏡をはずし、中腰になって坐布団の塵《ちり》をぽんと叩《たた》き、匐《は》うような腰付で、それを敷きのべながら、さて丁寧に挨拶をする。其言葉も様子もまた型通りに変りがない。
「相変らず何も御在《ござい》ません。お目にかけるようなものは。そうそうたしか芳譚《ほうたん》雑誌がありました。揃《そろ》っちゃ居りませんが。」
「為永春江《ためながしゅんこう》の雑誌だろう。」
「へえ。初号がついて居りますから、まアお目にかけられます。おや、どこへ置いたかな。」と壁際に積重ねた古本の間から合本《がっぽん》五六冊を取出し、両手でぱたぱた塵をはたいて差出すのを、わたくしは受取って、
「明治十二年御届としてあるね。この時分の雑誌をよむと、生命《いのち》が延《のび》るような気がするね。魯《ろ》文珍報も全部揃ったのがあったら欲しいと思っているんだが。」
「時々出るにゃ出ますが、大抵ばらばらで御在ましてな。檀那、花月新誌はお持合せでいらっしゃいますか。」
「持っています。」
 硝子戸の明く音がしたので、わたくしは亭主と共に見返ると、これも六十あまり。頬のこけた禿頭《はげあたま》の貧相な男が汚れた縞《しま》の風呂敷包を店先に並べた古本の上へ卸しながら、
「つくづく自動車はいやだ。今日はすんでの事に殺されるところさ。」
「便利で安くってそれで間違いがないなんて、そんなものは滅多にないよ。それでも、お前さん。怪我アしなさらなかったか。」
「お守《まもり》が割れたおかげで無事だった。衝突したなア先へ行くバスと円タクだが、思出してもぞっとするね。実は今日|鳩《はと》ヶ|谷《や》の市《いち》へ行ったんだがね、妙な物を買った。昔の物はいいね。さし当り捌口《はけくち》はないんだが見るとつい道楽がしたくなる奴さ。」
 禿頭は風呂敷包を解き、女物らしい小紋の単衣《ひとえ》と胴抜《どうぬき》の長|襦袢《じゅばん》を出して見せた。小紋は鼠地の小浜ちりめん、胴抜の袖《そで》にした友禅染も一寸《ちょっと》変ったものではあるが、いずれも維新前後のものらしく特に古代という程の品ではない。
 然し浮世絵肉筆物の表装とか、近頃はやる手文庫の中張《うちば》りとか、又|草双紙《くさぞうし》の帙《ちつ》などに用いたら案外いいかも知れないと思ったので、其場の出来心からわたくしは古雑誌の勘定をするついでに胴抜の長襦袢一枚を買取り、坊主頭の亭主が芳譚雑誌の合本と共に紙包にしてくれるのを抱えて外へ出た。
 日本堤を往復する乗合自動車に乗るつもりで、わたくしは暫く大門前の停留場に立っていたが、流しの円タクに声をかけられるのが煩《うるさ》いので、もと来た裏通へ曲り、電車と円タクの通らない薄暗い横町を択《えら》み択み歩いて行くと、忽ち樹の間から言問橋の灯《あかり》が見えるあたりへ出た。川端の公園は物騒だと聞いていたので、川の岸までは行かず、電燈の明るい小径《こみち》に沿うて、鎖の引廻してある其上に腰をかけた。
 実は此方《こっち》への来がけに、途中で食麺麭《しょくパン》と鑵詰《かんづめ》とを買い、風呂敷へ包んでいたので、わたくしは古雑誌と古着とを一つに包み直して見たが、風呂敷がすこし小さいばかりか、堅い物と柔いものとはどうも一緒にはうまく包めない。結局鑵詰だけは外套《がいとう》のかくしに収め、残の物を一つにした方が持ちよいかと考えて、芝生の上に風呂敷を平《たいら》にひろげ、頻《しきり》に塩梅《あんばい》を見ていると、いきなり後《うしろ》の木蔭から、「おい、何をしているんだ。」と云いさま、サアベルの音と共に、巡査が現れ、猿臂《えんぴ》を伸してわたくしの肩を押えた。
 わたくしは返事をせず、静に風呂敷の結目《むすびめ》を直して立上ると、それさえ待どしいと云わぬばかり、巡査は後からわたくしの肱《ひじ》を突き、「其方《そっち》へ行け。」
 公園の小径をすぐさま言問橋の際《きわ》に出ると、巡査は広い道路の向側に在る派出所へ連れて行き立番の巡査にわたくしを引渡したまま、急《いそが》しそうにまた何処《どこ》へか行ってしまった。
 派出所の巡査は入口に立ったまま、「今時分、何処から来たんだ。」と尋問に取りかかった。
「向《むこう》の方から来た。」
「向の方とは何方《どっち》の方だ。」
「堀の方からだ。」
「堀とはどこだ。」
「真土山《まつちやま》の麓《ふもと》の山谷堀という川だ。」
「名は何と云う。」
「大江匡《おおえただす》。」と答えた時、巡査は手帳を出したので、「匡《ただす》は匚《はこ》に王の字をかきます。一タビ天下ヲ匡スと論語にある字です。」
 巡査はだまれと言わぬばかり、わたくしの顔を睨《にら》み、手を伸していきなりわたくしの外套の釦《ぼたん》をはずし、裏を返して見て、
「記号《しるし》はついていないな。」つづいて上着の裏を見ようとする。
「記章《しるし》とはどう云う記章です。」とわたくしは風呂敷包を下に置いて、上着と胴着《チョッキ》の胸を一度にひろげて見せた。
「住所は。」
「麻布区|御箪笥町《おたんすまち》一丁目六番地。」
「職業は。」
「何《なん》にもしていません。」
「無職業か。年はいくつだ。」
「己《つちのと》の卯《う》です。」
「いくつだよ。」
「明治十二年己の卯の年。」それきり黙っていようかと思ったが、後《あと》がこわいので、「五十八。」
「いやに若いな。」
「へへへへ。」
「名前は何と云ったね。」
「今言いましたよ。大江匡。」
「家族はいくたりだ。」
「三人。」と答えた。実は独身であるが、今日《こんにち》までの経験で、事実を云うと、いよいよ怪しまれる傾《かたむき》があるので、三人と答えたのである。
「三人と云うのは奥さんと誰だ。」巡査の方がいい様に解釈してくれる。
「嚊《かか》アとばばア。」
「奥さんはいくつだ。」
 一寸|窮《こま》ったが、四五年前まで姑《しばら》く関係のあった女の事を思出して、「三十一。明治三十九年七月十四日生|丙午《ひのえうま》……。」
 若《も》し名前をきかれたら、自作の小説中にある女の名を言おうと思ったが、巡査は何《なん》にも云わず、外套や背広のかくしを上から押え、
「これは何だ。」
「パイプに眼鏡。」
「うむ。これは。」
「鑵詰。」
「これは、紙入だね。鳥渡《ちょっと》出して見せたまえ。」
「金がはいって居ますよ。」
「いくら這入《はい》っている。」
「サア二三十円もありましょうかな。」
 巡査は紙入を抜き出したが中は改めずに電話機の下に据えた卓子《テイブル》の上に置き、「その包は何だ。こっちへ這入ってほどいて見せたまえ。」
 風呂敷包を解くと紙につつんだ麺麭と古雑誌まではよかったが、胴抜の艶《なまめか》しい長襦袢の片袖がだらりと下るや否や、巡査の態度と語調とは忽《たちまち》一変して、
「おい、妙なものを持っているな。」
「いや、ははははは。」とわたくしは笑い出した。
「これア女のきるもんだな。」巡査は長襦袢を指先に摘《つま》み上げて、燈火にかざしながら、わたくしの顔を睨み返して、「どこから持って来た。」
「古着屋から持って来た。」
「どうして持って来た。」
「金を出して買った。」
「それはどこだ。」
「吉原の大門前。」
「いくらで買った。」
「三円七十銭。」
 巡査は長襦袢を卓子の上に投捨てたなり黙ってわたくしの顔を見ているので、大方警察署へ連れて行って豚箱へ投込むのだろうと、初《はじめ》のようにからかう勇気がなくなり、此方《こっち》も巡査の様子を見詰めていると、巡査はやはりだまったままわたくしの紙入を調べ出した。紙入には入れ忘れたまま折目の破れた火災保険の仮証書と、何かの時に入用であった戸籍抄本に印鑑証明書と実印とが這入っていたのを、巡査は一枚々々静にのべひろげ、それから実印を取って篆刻《てんこく》した文字を燈火《あかり》にかざして見たりしている。大分暇がかかるので、わたくしは入口に立ったまま道路の方へ目を移した。
 道路は交番の前で斜に二筋に分れ、その一筋は南千住、一筋は白髯橋《しらひげばし》の方へ走り、それと交叉して浅草公園裏の大通が言問橋を渡るので、交通は夜になってもなかなか頻繁《ひんぱん》であるが、どういうことか、わたくしの尋問されるのを怪しんで立止る通行人は一人もない。向側の角のシャツ屋では女房らしい女と小僧とがこっちを見ていながら更に怪しむ様子もなく、そろそろ店をしまいかけた。
「おい。もういいからしまいたまえ。」
「別に入用なものでもありませんから……。」呟《つぶや》きながらわたくしは紙入をしまい風呂敷包をもとのように結んだ。
「もう用はありませんか。」
「ない。」
「御苦労さまでしたな。」わたくしは巻煙草も金口のウエストミンスターにマッチの火をつけ、薫《かおり》だけでもかいで置けと云わぬばかり、烟《けむり》を交番の中へ吹き散して足の向くまま言問橋の方へ歩いて行った。後で考えると、戸籍抄本と印鑑証明書とがなかったなら、大方その夜は豚箱へ入れられたに相違ない。一体古着は気味のわるいものだ。古着の長襦袢が祟《たた》りそこねたのである。

「失踪《しっそう》」と題する小説の腹案ができた。書き上げることができたなら、この小説はわれながら、さほど拙劣なものでもあるまいと、幾分か自信を持っているのである。
 小説中の重要な人物を、種田順平《たねだじゅんぺい》という。年五十余歳、私立中学校の英語の教師である。
 種田は初婚の恋女房に先立たれてから三四年にして、継妻《けいさい》光子《みつこ》を迎えた。
 光子は知名の政治家|某《なにがし》の家に雇われ、夫人付の小間使となったが、主人に欺かれて身重になった。主家では其《その》執事遠藤某をして後の始末をつけさせた。其条件は光子が無事に産をしたなら二十個年子供の養育費として毎月五拾円を送る。其代り子供の戸籍については主家では全然|与《あずか》り知らない。又光子が他へ嫁《か》する場合には相当の持参金を贈ると云うような事であった。
 光子は執事遠藤の家へ引取られ男の児を産んで六十日たつか経たぬ中《うち》やはり遠藤の媒介《なかだち》で中学校の英語教師種田順平なるものの後妻となった。時に光子は十九、種田は三十歳であった。
 種田は初めの恋女房を失ってから、薄給な生活の前途に何の希望をも見ず、中年に近《ちかづ》くに従って元気のない影のような人間になっていたが、旧友の遠藤に説きすすめられ、光子|母子《おやこ》の金にふと心が迷って再婚をした。其時子供は生れたばかりで戸籍の手続もせずにあったので、遠藤は光子母子の籍を一緒に種田の家に移した。それ故|後《のち》になって戸籍を見ると、種田夫婦は久しく内縁の関係をつづけていた後、長男が生れた為、初めて結婚入籍の手続をしたもののように思われる。
 二年たって女の児が生れ、つづいて又男の児が生れた。
 表向は長男で、実は光子の連子《つれこ》になる為年《ためとし》が丁年になった時、多年秘密の父から光子の手許《てもと》に送られていた教育費が途絶えた。約束の年限が終ったばかりではない。実父は先年病死し、其夫人もまたつづいて世を去った故である。
 長女芳子と季児《すえこ》為秋《ためあき》の成長するに従って生活費は年々多くなり、種田は二三軒夜学校を掛持ちして歩かねばならない。
 長男為年は私立大学に在学中、スポーツマンとなって洋行する。妹芳子は女学校を卒業するや否や活動女優の花形となった。
 継妻光子は結婚当時は愛くるしい円顔であったのがいつか肥満した婆《ばば》となり、日蓮宗に凝りかたまって、信徒の団体の委員に挙げられている。
 種田の家は或時は宛《さなが》ら講中の寄合所、或時は女優の遊び場、或時はスポーツの練習場もよろしくと云う有様。その騒《さわが》しさには台所にも鼠が出ないくらいである。
 種田はもともと気の弱い交際嫌いな男なので、年を取るにつれて家内の喧騒には堪えられなくなる。妻子の好むものは悉《ことごと》く種田の好まぬものである。種田は家族の事については勉めて心を留めないようにした。おのれの妻子を冷眼に視るのが、気の弱い父親のせめてもの復讐《ふくしゅう》であった。
 五十一歳の春、種田は教師の職を罷《や》められた。退職手当を受取った其日、種田は家にかえらず、跡をくらましてしまった。
 是《これ》より先、種田は嘗《かつ》て其家に下女奉公に来た女すみ子と偶然電車の中で邂逅《かいこう》し、其女が浅草駒形町《あさくさこまがたまち》のカフエーに働いている事を知り、一二度おとずれてビールの酔を買った事がある。
 退職手当の金をふところにした其夜である。種田は初て女給すみ子の部屋借をしているアパートに行き、事情を打明けて一晩泊めてもらった……。

        *        *        *

 それから先どういう風に物語の結末をつけたらいいものか、わたくしはまだ定案を得ない。
 家族が捜索願を出す。種田が刑事に捕えられて説諭せられる。中年後に覚えた道楽は、むかしから七ツ下りの雨に譬《たと》えられているから、種田の末路はわけなくどんなにでも悲惨にすることが出来るのだ。
 わたくしはいろいろに種田の堕落して行く道筋と、其折々の感情とを考えつづけている。刑事につかまって拘引《こういん》されて行く時の心持、妻子に引渡された時の当惑と面目なさ。其身になったらどんなものだろう。わたくしは山谷の裏町で女の古着を買った帰り道、巡査につかまり、路端の交番で厳しく身元を調べられた。この経験は種田の心理を描写するには最も都合の好い資料である。
 小説をつくる時、わたくしの最も興を催すのは、作中人物の生活及び事件が開展する場所の選択と、その描写とである。わたくしは屡《しばしば》人物の性格よりも背景の描写に重きを置き過るような誤《あやまち》に陥ったこともあった。
 わたくしは東京市中、古来名勝の地にして、震災の後新しき町が建てられて全く旧観を失った、其状況を描写したいが為に、種田先生の潜伏する場所を、本所か深川か、もしくは浅草のはずれ。さなくば、それに接した旧郡部の陋巷《ろうこう》に持って行くことにした。
 これまで折々の散策に、砂町や亀井戸や、小松川、寺島町《てらじままち》あたりの景況には大略通じているつもりであったが、いざ筆を着けようとすると、俄《にわか》に観察の至らない気がして来る。曾《かつ》て、(明治三十五六年の頃)わたくしは深川|洲崎遊廓《すさきゆうかく》の娼妓を主題にして小説をつくった事があるが、その時これを読んだ友人から、「洲崎遊廓の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨や海嘯《つなみ》のことを写さないのは杜撰《ずさん》の甚《はなはだ》しいものだ。作者先生のお通いなすった甲子楼《きのえねろう》の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなかろう。」と言われた。背景の描写を精細にするには季節と天候とにも注意しなければならない。例えばラフカジオ、ハーン先生の名著チタ或はユーマの如くに。
 六月末の或夕方である。梅雨《ばいう》はまだ明けてはいないが、朝から好く晴れた空は、日の長いころの事で、夕飯をすましても、まだたそがれようともしない。わたくしは箸《はし》を擱《お》くと共にすぐさま門を出《い》で、遠く千住《せんじゅ》なり亀井戸なり、足の向く方へ行って見るつもりで、一先《ひとまず》電車で雷門《かみなりもん》まで往《ゆ》くと、丁度折好く来合せたのは寺島玉の井としてある乗合自動車である。
 吾妻橋《あづまばし》をわたり、広い道を左に折れて源森橋《げんもりばし》をわたり、真直に秋葉神社の前を過ぎて、また姑《しばら》く行くと車は線路の踏切でとまった。踏切の両側には柵《さく》を前にして円タクや自転車が幾輛となく、貸物列車のゆるゆる通り過るのを待っていたが、歩く人は案外少く、貧家の子供が幾組となく群《むれ》をなして遊んでいる。降りて見ると、白髯橋から亀井戸の方へ走る広い道が十文字に交錯している。ところどころ草の生えた空地《あきち》があるのと、家並《やなみ》が低いのとで、どの道も見分《みわけ》のつかぬほど同じように見え、行先はどこへ続くのやら、何となく物淋しい気がする。
 わたくしは種田先生が家族を棄てて世を忍ぶ処を、この辺の裏町にして置いたら、玉の井の盛場《さかりば》も程近いので、結末の趣向をつけるにも都合がよかろうと考え、一町ほど歩いて狭い横道へ曲って見た。自転車も小脇に荷物をつけたものは、摺《す》れちがう事が出来ないくらいな狭い道で、五六歩行くごとに曲っているが、両側とも割合に小綺麗な耳門《くぐりもん》のある借家が並んでいて、勤先からの帰りとも見える洋服の男や女が一人二人ずつ前後して歩いて行く。遊んでいる犬を見ても首環に鑑札がつけてあって、左程|汚《きたな》らしくもない。忽《たちまち》にして東武鉄道玉の井停車場の横手に出た。
 線路の左右に樹木の鬱然と生茂《おいしげ》った広大な別荘らしいものがある。吾妻橋からここに来るまで、このように老樹の茂林《もりん》をなした処は一箇所もない。いずれも久しく手入をしないと見えて、匐《は》いのぼる蔓草《つるくさ》の重さに、竹藪《たけやぶ》の竹の低くしなっているさまや、溝際《どぶぎわ》の生垣に夕顔の咲いたのが、いかにも風雅に思われてわたくしの歩みを引止《ひきとど》めた。
 むかし白髯さまのあたりが寺島村だという話をきくと、われわれはすぐに五代目菊五郎の別荘を思出したものであるが、今日《こんにち》たまたまこの処にこのような庭園が残ったのを目にすると、そぞろに過ぎ去った時代の文雅を思起さずには居られない。
 線路に沿うて売貸地の札を立てた広い草原が鉄橋のかかった土手際に達している。去年頃まで京成《けいせい》電車の往復していた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽《おお》われて、此方《こなた》から見ると城址《しろあと》のような趣をなしている。
 わたくしは夏草をわけて土手に登って見た。眼の下には遮《さえぎ》るものもなく、今歩いて来た道と空地と新開の町とが低く見渡されるが、土手の向側は、トタン葺《ぶき》の陋屋《ろうおく》が秩序もなく、端《はて》しもなく、ごたごたに建て込んだ間から湯屋の烟突《えんとつ》が屹立《きつりつ》して、その頂きに七八日《ななようか》頃の夕日が懸っている。空の一方には夕栄《ゆうばえ》の色が薄く残っていながら、月の色には早くも夜らしい輝きができ、トタン葺の屋根の間々からはネオンサインの光と共にラディオの響が聞え初める。
 わたくしは脚下《あしもと》の暗くなるまで石の上に腰をかけていたが、土手下の窓々にも灯がついて、むさくるしい二階の内《なか》がすっかり見下されるようになったので、草の間に残った人の足跡を辿《たど》って土手を降りた。すると意外にも、其処はもう玉の井の盛場を斜に貫く繁華な横町の半程《なかほど》で、ごたごた建て連った商店の間の路地口には「ぬけられます」とか、「安全通路」とか、「京成バス近道」とか、或は「オトメ街」或は「賑本通《にぎわいほんどおり》」など書いた灯がついている。
 大分その辺を歩いた後、わたくしは郵便箱の立っている路地口の煙草屋で、煙草を買い、五円札の剰銭《つり》を待っていた時である。突然、「降ってくるよ。」と叫びながら、白い上ッ張を着た男が向側のおでん屋らしい暖簾《のれん》のかげに馳《か》け込むのを見た。つづいて割烹着《かっぽうぎ》の女や通りがかりの人がばたばた馳け出す。あたりが俄に物気立《ものけだ》つかと見る間もなく、吹落る疾風に葭簀《よしず》や何かの倒れる音がして、紙屑と塵芥《ごみ》とが物の怪《け》のように道の上を走って行く。やがて稲妻が鋭く閃《ひらめ》き、ゆるやかな雷《らい》の響につれて、ポツリポツリと大きな雨の粒が落ちて来た。あれほど好く晴れていた夕方の天気は、いつの間にか変ってしまったのである。
 わたくしは多年の習慣で、傘《かさ》を持たずに門を出ることは滅多にない。いくら晴れていても入梅中のことなので、其日も無論傘と風呂敷とだけは手にしていたから、さして驚きもせず、静にひろげる傘の下から空と町のさまとを見ながら歩きかけると、いきなり後方《うしろ》から、「檀那、そこまで入れてってよ。」といいさま、傘の下に真白な首を突込んだ女がある。油の匂《におい》で結ったばかりと知られる大きな潰島田《つぶし》には長目に切った銀糸《ぎんし》をかけている。わたくしは今方通りがかりに硝子《ガラス》戸を明け放した女|髪結《かみゆい》の店のあった事を思出した。
 吹き荒れる風と雨とに、結立《ゆいたて》の髷《まげ》にかけた銀糸の乱れるのが、いたいたしく見えたので、わたくしは傘をさし出して、「おれは洋服だからかまわない。」
 実は店つづきの明い燈火に、さすがのわたくしも相合傘《あいあいがさ》には少しく恐縮したのである。
「じゃ、よくって。すぐ、そこ。」と女は傘の柄につかまり、片手に浴衣《ゆかた》の裾《すそ》を思うさままくり上げた。

 稲妻がまたぴかりと閃き、雷がごろごろと鳴ると、女はわざとらしく「あら」と叫び、一歩《ひとあし》後《おく》れて歩こうとするわたくしの手を取り、「早くさ。あなた。」ともう馴れ馴れしい調子である。
「いいから先へお出で。ついて行くから。」
 路地へ這入ると、女は曲るたび毎に、迷わぬようにわたくしの方に振返りながら、やがて溝《どぶ》にかかった小橋をわたり、軒並一帯に葭簀《よしず》の日蔽《ひおい》をかけた家の前に立留った。
「あら、あなた。大変に濡れちまったわ。」と傘をつぼめ、自分のものよりも先に掌《てのひら》でわたくしの上着の雫《しずく》を払う。
「ここがお前の家《うち》か。」
「拭《ふ》いて上げるから、寄っていらっしゃい。」
「洋服だからいいよ。」
「拭いて上げるっていうのにさ。わたしだってお礼がしたいわよ。」
「どんなお礼だ。」
「だから、まアお這入んなさい。」
 雷《かみなり》の音は少し遠くなったが、雨は却て礫《つぶて》を打つように一層激しく降りそそいで来た。軒先に掛けた日蔽の下に居ても跳上《はねあが》る飛沫《しぶき》の烈しさに、わたくしはとやかく言う暇《いとま》もなく内へ這入った。
 荒い大阪格子を立てた中仕切へ、鈴のついたリボンの簾《すだれ》が下げてある。其下の上框《あがりがまち》に腰をかけて靴を脱ぐ中《うち》に女は雑巾《ぞうきん》で足をふき、端折《はしょ》った裾もおろさず下座敷の電燈をひねり、
「誰もいないから、お上んなさい。」
「お前一人か。」
「ええ。昨夜《ゆうべ》まで、もう一人居たのよ。住替《すみかえ》に行ったのよ。」
「お前さんが御主人かい。」
「いいえ。御主人は別の家《うち》よ。玉の井館ッて云う寄席《よせ》があるでしょう。その裏に住宅《すまい》があるのよ。毎晩十二時になると帳面を見にくるわ。」
「じゃアのん気だね。」わたくしはすすめられるがまま長火鉢の側《そば》に坐り、立膝《たてひざ》して茶を入れる女の様子を見やった。
 年は二十四五にはなっているであろう。なかなかいい容貌《きりょう》である。鼻筋の通った円顔は白粉焼《おしろいやけ》がしているが、結立《ゆいたて》の島田の生際《はえぎわ》もまだ抜上《ぬけあが》ってはいない。黒目勝の眼の中も曇っていず唇や歯ぐきの血色を見ても、其健康はまださして破壊されても居ないように思われた。
「この辺は井戸か水道か。」とわたくしは茶を飲む前に何気なく尋ねた。井戸の水だと答えたら、茶は飲む振りをして置く用意である。
 わたくしは花柳病よりも寧《むしろ》チブスのような伝染病を恐れている。肉体的よりも夙《はや》くから精神的廢人になったわたくしの身には、花柳病の如き病勢の緩慢なものは、老後の今日、さして気にはならない。
「顔でも洗うの。水道なら其処《そこ》にあるわ。」と女の調子は極めて気軽である。
「うむ。後でいい。」
「上着だけおぬぎなさい。ほんとに随分濡れたわね。」
「ひどく降ってるな。」
「わたし雷さまより光るのがいやなの。これじゃお湯にも行けやしない。あなた。まだいいでしょう。わたし顔だけ洗って御化粧《おしまい》してしまうから。」
 女は口をゆがめて、懐紙《ふところがみ》で生際の油をふきながら、中仕切の外の壁に取りつけた洗面器の前に立った。リボンの簾越しに、両肌《もろはだ》をぬぎ、折りかがんで顔を洗う姿が見える。肌は顔よりもずっと色が白く、乳房の形で、まだ子供を持った事はないらしい。
「何だか檀那になったようだな。こうしていると。箪笥《たんす》はあるし、茶棚はあるし……。」
「あけて御覧なさい。お芋か何かある筈よ。」
「よく片づいているな。感心だ。火鉢の中なんぞ。」
「毎朝、掃除だけはちゃんとしますもの。わたし、こんな処にいるけれど、世帯持は上手なのよ。」
「長くいるのかい。」
「まだ一年と、ちょっと……。」
「この土地が初めてじゃないんだろう。芸者でもしていたのかい。」
 汲《く》みかえる水の音に、わたくしの言うことが聞えなかったのか、又は聞えない振りをしたのか、女は何とも答えず、肌ぬぎのまま、鏡台の前に坐り毛筋棒《けすき》で鬢《びん》を上げ、肩の方から白粉をつけ初める。
「どこに出ていたんだ。こればかりは隠せるものじゃない。」
「そう……でも東京じゃないわ。」
「東京のいまわりか。」
「いいえ。ずっと遠く……。」
「じゃ、満洲……。」
「宇都の宮にいたの。着物もみんなその時分のよ。これで沢山だわねえ。」と言いながら立上って、衣紋竹《えもんだけ》に掛けた裾模様の単衣物《ひとえ》に着かえ、赤い弁慶縞の伊達締《だてじめ》を大きく前で結ぶ様子は、少し大き過る潰島田の銀糸とつりあって、わたくしの目にはどうやら明治年間の娼妓のように見えた。女は衣紋を直しながらわたくしの側に坐り、茶ぶ台の上からバットを取り、
「縁起だから御|祝儀《しゅうぎ》だけつけて下さいね。」と火をつけた一本を差出す。
 わたくしは此の土地の遊び方をまんざら知らないのでもなかったので、
「五十銭だね。おぶ代《だい》は。」
「ええ。それはおきまりの御規則通りだわ。」と笑いながら出した手の平を引込まさず、そのまま差伸している。
「じゃ、一時間ときめよう。」
「すみませんね。ほんとうに。」
「その代り。」と差出した手を取って引寄せ、耳元に囁《ささや》くと、
「知らないわよ。」と女は目を見張って睨《にらみ》返し、「馬鹿。」と言いさまわたくしの肩を撲《う》った。

 為永春水《ためながしゅんすい》の小説を読んだ人は、作者が叙事のところどころに自家弁護の文を挾《さしはさ》んでいることを知っているであろう。初恋の娘が恥しさを忘れて思う男に寄添うような情景を書いた時には、その後で、読者はこの娘がこの場合の様子や言葉使のみを見て、淫奔娘《いたずらもの》だと断定してはならない。深窓の女《じょ》も意中を打明ける場合には芸者も及ばぬ艶《なまめか》しい様子になることがある。また、既に里馴れた遊女が偶然|幼馴染《おさななじみ》の男にめぐり会うところを写した時には、商売人《くろと》でも斯《こ》う云う時には娘のようにもじもじするもので、これはこの道の経験に富んだ人達の皆承知しているところで、作者の観察の至らないわけではないのだから、そのつもりでお読みなさいと云うような事が書添えられている。
 わたくしは春水に倣《なら》って、ここに剰語を加える。読者は初めて路傍で逢った此女《このおんな》が、わたくしを遇する態度の馴々し過るのを怪しむかも知れない。然しこれは実地の遭遇を潤色せずに、そのまま記述したのに過ぎない。何の作意も無いのである。驟雨《しゅうう》雷鳴から事件の起ったのを見て、これまた作者|常套《じょうとう》の筆法だと笑う人もあるだろうが、わたくしは之を慮《おもんばか》るがために、わざわざ事を他に設けることを欲しない。夕立が手引をした此夜の出来事が、全く伝統的に、お誂《あつらい》通りであったのを、わたくしは却て面白く思い、実はそれが書いて見たいために、この一篇に筆を執り初めたわけである。
 一体、この盛場の女は七八百人と数えられているそうであるが、その中に、島田や丸髷に結っているものは、十人に一人くらい。大体は女給まがいの日本風と、ダンサア好みの洋装とである。雨宿《あまやどり》をした家の女が極く少数の旧風に属していた事も、どうやら陳腐の筆法に適当しているような心持がして、わたくしは事実の描写を傷《きずつ》けるに忍びなかった。
 雨は歇《や》まない。
 初め家《うち》へ上った時には、少し声を高くしなければ話が聞きとれない程の降り方であったが、今では戸口へ吹きつける風の音も雷《かみなり》の響も歇んで、亜鉛葺《とたんぶき》の屋根を撲つ雨の音と、雨だれの落ちる声ばかりになっている。路地には久しく人の声も跫音《あしおと》も途絶えていたが、突然、
「アラアラ大変だ。きいちゃん。鰌《どじょう》が泳いでるよ。」という黄いろい声につれて下駄の音がしだした。
 女はつと立ってリボンの間から土間の方を覗《のぞ》き、「家《うち》は大丈夫だ。溝《どぶ》があふれると、此方《こっち》まで水が流れてくるんですよ。」
「少しは小降りになったようだな。」
「宵の口に降るとお天気になっても駄目なのよ。だから、ゆっくりしていらっしゃい。わたし、今の中《うち》に御飯たべてしまうから。」
 女は茶棚の中から沢庵漬《たくあんづけ》を山盛りにした小皿と、茶漬茶碗と、それからアルミの小鍋を出して、鳥渡《ちょっと》蓋《ふた》をあけて匂をかぎ、長火鉢の上に載せるのを、何かと見れば薩摩芋《さつまいも》の煮たのである。
「忘れていた。いいものがある。」とわたくしは京橋で乗換の電車を待っていた時、浅草|海苔《のり》を買ったことを思い出して、それを出した。
「奥さんのお土産《みやげ》。」
「おれは一人なんだよ。食べるものは自分で買わなけれア。」
「アパートで彼女と御一緒。ほほほほほ。」
「それなら、今時分うろついちゃア居られない。雨でも雷でも、かまわず帰るさ。」
「そうねえ。」と女はいかにも尤《もっとも》だと云うような顔をして暖くなりかけたお鍋の蓋を取り、「一緒にどう。」
「もう食べて来た。」
「じゃア、あなたは向《むこう》をむいていらっしゃい。」
「御飯は自分で炊くのかい。」
「住宅《すまい》の方から、お昼と夜の十二時に持って来てくれるのよ。」
「お茶を入れ直そうかね。お湯がぬるい。」
「あら。はばかりさま。ねえ。あなた。話をしながら御飯をたべるのは楽しみなものね。」
「一人ッきりの、すっぽり飯はいやだな。」
「全くよ。じゃア、ほんとにお一人。かわいそうねえ。」
「察しておくれだろう。」
「いいの、さがして上げるわ。」
 女は茶漬を二杯ばかり。何やらはしゃ[#「はしゃ」に傍点]いだ調子で、ちゃらちゃらと茶碗の中で箸をゆすぎ、さも急《いそが》しそうに皿小鉢を手早く茶棚にしまいながらも、顎《おとがい》を動して込上げる沢庵漬のおくびを押えつけている。
 戸外《そと》には人の足音と共に「ちょいとちょいと」と呼ぶ声が聞え出した。
「歇んだようだ。また近い中に出て来よう。」
「きっと入《い》らっしゃいね。昼間でも居ます。」
 女はわたくしが上着をきかけるのを見て、後へ廻り襟《えり》を折返しながら肩越しに頬を摺付《すりつ》けて、「きっとよ。」
「何て云う家《うち》だ。ここは。」
「今、名刺あげるわ。」
 靴をはいている間《あいだ》に、女は小窓の下に置いた物の中から三味線のバチの形に切った名刺を出してくれた。見ると寺島町七丁目六十一番地(二部)安藤まさ方雪子。
「さよなら。」
「まっすぐにお帰んなさい。」

     小説「失踪」の一節
 吾妻橋のまん中ごろと覚しい欄干に身を倚《よ》せ、種田順平は松屋の時計を眺めては来かかる人影に気をつけている。女給のすみ子が店をしまってからわざわざ廻り道をして来るのを待合《まちあわ》しているのである。
 橋の上には円タクの外《ほか》電車もバスももう通っていなかったが、二三日前から俄《にわか》の暑さに、シャツ一枚で涼んでいるものもあり、包をかかえて帰りをいそぐ女給らしい女の往き来もまだ途絶えずにいる。種田は今夜すみ子の泊っているアパートに行き、それからゆっくり行末の目当を定めるつもりなので、行った先で、女がどうなるものやら、そんな事は更に考えもせず、又考える余裕もない。唯|今日《こんにち》まで二十年の間家族のために一生を犠牲にしてしまった事が、いかにもにがにがしく、腹が立ってならないのであった。
「お待ちどうさま。」思ったより早くすみ子は小走りにかけて来た。「いつでも、駒形橋《こまがたばし》をわたって行くんですよ。だけれど、兼子さんと一緒だから。あの子、口がうるさいからね。」
「もう電車はなくなったようだぜ。」
「歩いたって、停留場三つぐらいだわ。その辺から円タクに乗りましょう。」
「明いた部屋があればいいが。」
「無かったら今夜一晩ぐらい、わたしのとこへお泊んなさい。」
「いいのか、大丈夫か。」
「何がさ。」
「いつか新聞に出ていたじゃないか。アパートでつかまった話が……。」
「場所によるんだわ。きっと。わたしの処なんか自由なもんよ。お隣も向側もみんな女給さんかお妾《めかけ》さんよ。お隣りなんか、いろいろな人が来るらしいわ。」
 橋を渡り終らぬ中に流しの円タクが秋葉神社の前まで三十銭で行く事を承知した。
「すっかり変ってしまったな。電車はどこまで行くんだ。」
「向嶋の終点。秋葉さまの前よ。バスなら真直に玉の井まで行くわ。」
「玉の井――こんな方角だったかね。」
「御存じ。」
「たった一度見物に行った。五六年前だ。」
「賑《にぎやか》よ。毎晩夜店が出るし、原っぱに見世物もかかるわ。」
「そうか。」
 種田は通過《とおりすぎ》る道の両側を眺めている中、自動車は早くも秋葉神社の前に来た。すみ子は戸の引手を動しながら、
「ここでいいわ。はい。」と賃銭をわたし、「そこから曲りましょう。あっちは交番があるから。」
 神社の石垣について曲ると片側は花柳界の灯《あかり》がつづいている横町の突当り。俄に暗い空地の一隅に、吾妻アパートという灯が、セメント造りの四角な家の前面を照している。すみ子は引戸をあけて内《なか》に入り、室の番号をしるした下駄箱に草履をしまうので、種田も同じように履物を取り上げると、
「二階へ持って行きます。目につくから。」とすみ子は自分のスリッパーを男にはかせ、その下駄を手にさげて正面の階段を先に立って上る。
 外側の壁や窓は西洋風に見えるが、内《なか》は柱の細い日本造りで、ぎしぎし音のする階段を上りきった廊下の角に炊事場があって、シュミイズ一枚の女が、断髪を振乱したまま薬鑵《やかん》に湯をわかしていた。
「今晩。」とすみ子は軽く挨拶をして右側のはずれから二番目の扉を鍵《かぎ》であけた。
 畳のよごれた六畳ほどの部屋で、一方は押入、一方の壁際には箪笥《たんす》、他の壁には浴衣《ゆかた》やボイルの寝間着がぶら下げてある。すみ子は窓を明けて、「ここが涼しいわ。」と腰巻や足袋《たび》の下っている窓の下に座布団を敷いた。
「一人でこうしていれば全く気楽だな。結婚なんか全く馬鹿らしくなるわけだな。」
「家《うち》ではしょっちゅう帰って来いッて云うのよ。だけれど、もう駄目ねえ。」
「僕ももう少し早く覚醒《かくせい》すればよかったのだ。今じゃもう晩《おそ》い。」と種田は腰巻の干してある窓越しに空の方を眺めたが、思出したように、「明間《あきま》があるか、きいてくれないか。」
 すみ子は茶を入れるつもりと見えて、湯わかしを持ち、廊下へ出て何やら女同士で話をしていたが、すぐ戻って来て、
「向《むこう》の突当りが明いているそうです。だけれど今夜は事務所のおばさんが居ないんですとさ。」
「じゃ、借りるわけには行かないな。今夜は。」
「一晩や二晩、ここでもいいじゃないの。あんたさえ構わなければ。」
「おれはいいが。あんたはどうする。」と種田は眼を円くした。
「わたし。此処《ここ》に寝るわ。お隣りの君ちゃんのとこへ行ってもいいのよ。彼氏が来ていなければ。」
「あんたの処《とこ》は誰も来ないのか。」
「ええ。今のところ。だから構わないのよ。だけれど、先生を誘惑してもわるいでしょう。」
 種田は笑いたいような、情ないような一種妙な顔をしたまま何とも言わない。
「立派な奥さんもお嬢さんもいらっしゃるんだし……。」
「いや、あんなもの。晩蒔《おそまき》でもこれから新生涯に入るんだ。」
「別居なさるの。」
「うむ。別居。むしろ離別さ。」
「だって、そうはいかないでしょう。なかなか。」
「だから、考えているんだ。乱暴でも何でもかまわない。一時姿を晦《くらま》すんだな。そうすれば決裂の糸口がつくだろうと思うんだ。すみ子さん。明部屋のはなしが付かなければ、迷惑をかけても済まないから、僕は今夜だけ何処《どこ》かで泊ろう。玉の井でも見物しよう。」
「先生。わたしもお話したいことがあるのよ。どうしようかと思って困ってる事があるのよ。今夜は寝ないで話をして下さらない。」
「この頃はじき夜があけるからね。」
「このあいだ横浜までドライブしたら、帰り道には明くなったわ。」
「あんたの身上話は、初めッから聞いたら、女中で僕の家《いえ》へ来るまででも大変なものだろう。それから女給になってから、まだ先があるんだからな。」
「一晩じゃ足りないかも知れないわね。」
「全く……ははははは。」
 一時《ひとしきり》寂《しん》としていた二階のどこやらから、男女の話声が聞え出した。炊事場では又しても水の音がしている。すみ子は真実夜通し話をするつもりと見えて、帯だけ解いて丁寧に畳み、足袋を其上に載せて押入にしまい、それから茶ぶ台の上を拭直《ふきなお》して茶を入れながら、
「わたしのこうなった訳、先生は何だと思って。」
「さア、やっぱり都会のあこがれだと思うんだが、そうじゃないのか。」
「それも無論そうだけれど、それよりか、わたし父の商売が、とてもいやだったの。」
「何だね。」
「親分とか侠客《きょうかく》とかいうんでしょう。とにかく暴力団……。」とすみ子は声を低くした。

 梅雨《つゆ》があけて暑中になると、近鄰の家の戸障子が一斉に明け放されるせいでもあるか、他の時節には聞えなかった物音が俄に耳立ってきこえて来る。物音の中で最もわたくしを苦しめるものは、板塀《いたべい》一枚を隔てた鄰家のラディオである。
 夕方少し涼しくなるのを待ち、燈下の机に向おうとすると、丁度その頃から亀裂《ひび》の入《い》ったような鋭い物音が湧起《わきおこ》って、九時過ぎてからでなくては歇まない。此の物音の中でも、殊に甚《はなはだ》しくわたくしを苦しめるものは九州弁の政談、浪花節《なにわぶし》、それから学生の演劇に類似した朗読に洋楽を取り交ぜたものである。ラディオばかりでは物足らないと見えて、昼夜時間をかまわず蓄音機で流行唄《はやりうた》を鳴《なら》し立てる家もある。ラディオの物音を避けるために、わたくしは毎年夏になると夕飯《ゆうめし》もそこそこに、或時は夕飯も外で食うように、六時を合図にして家を出ることにしている。ラディオは家を出れば聞えないというわけではない。道端の人家や商店からは一段烈しい響が放たれているのであるが、電車や自動車の響と混淆《こんこう》して、市街一般の騒音となって聞えるので、書斎に孤坐している時にくらべると、歩いている時の方が却て気にならず、余程楽である。
「失踪」の草稿は梅雨があけると共にラディオに妨げられ、中絶してからもう十日あまりになった。どうやら其《その》まま感興も消え失せてしまいそうである。
 今年の夏も、昨年また一昨年と同じように、毎日まだ日の没しない中《うち》から家を出るが、実は行くべきところ、歩むべきところが無い。神代帚葉翁《こうじろそうようおう》が生きていた頃には毎夜欠かさぬ銀座の夜涼みも、一夜《いちや》ごとに興味の加《くわわ》るほどであったのが、其人も既に世を去り、街頭の夜色にも、わたくしはもう飽果《あきは》てたような心持になっている。之に加えて、其後銀座通にはうっかり行かれないような事が起った。それは震災|前《ぜん》新橋の芸者家に出入していたと云う車夫が今は一見して人殺しでもしたことのありそうな、人相と風体《ふうてい》の悪い破落戸《ならずもの》になって、折節《おりふし》尾張町辺を徘徊《はいかい》し、むかし見覚えのあるお客の通るのを見ると無心難題を言いかける事である。
 最初《はじめ》黒沢商店の角で五拾銭銀貨を恵んだのが却て悪い例となり、恵まれぬ時は悪声を放つので、人だかりのするのが厭《いや》さにまた五拾銭やるようになってしまう。此男に酒手《さかて》の無心をされるのはわたくしばかりではあるまいと思って、或晩欺いて四辻の派出所へ連れて行くと、立番の巡査とはとうに馴染になっていて、巡査は面倒臭さに取り合ってくれる様子をも見せなかった。出雲町《いずもちょう》……イヤ七丁目の交番でも、或日巡査と笑いながら話をしているのを見た。巡査の眼にはわたくしなどより此男の方が却て素姓が知れているのかも知れない。
 わたくしは散策の方面を隅田河の東に替え、溝際《どぶぎわ》の家に住んでいるお雪という女をたずねて憩《やす》むことにした。
 四五日つづけて同じ道を往復すると、麻布《あざぶ》からの遠道も初めに比べると、だんだん苦にならないようになる。京橋と雷門《かみなりもん》との乗替も、習慣になると意識よりも身体《からだ》の方が先に動いてくれるので、さほど煩《わずらわ》しいとも思わないようになる。乗客の雑沓《ざっとう》する時間や線路が、日によって違うことも明《あきらか》になるので、之を避けさえすれば、遠道だけにゆっくり本を読みながら行くことも出来るようになる。
 電車の内《なか》での読書は、大正九年の頃老眼鏡を掛けるようになってから全く廃せられていたが、雷門までの遠道を往復するようになって再び之を行うことにした。然し新聞も雑誌も新刊書も、手にする習慣がないので、わたくしは初めての出掛けには、手に触れるがまま依田学海《よだがくかい》の墨水二十四景を携えて行った。

 長堤蜿蜒。彎状。至長命寺。一折為桜樹最多処。寛永中徳川大猷公放鷹於此。会腹痛。飲寺井而癒。曰。是長命水也。因名其井。並及寺号。後有芭蕉居士賞雪佳句。鱠炙人口。嗚呼公絶代豪傑。其名震世宜矣居士不過一布衣。同伝於後。蓋人在所樹立何如耳。

 先儒の文は目前の景に対して幾分の興を添えるだろうと思ったからである。
 わたくしは三日目ぐらいには散歩の途すがら食料品を買わねばならない。わたくしは其ついでに、女に贈る土産物をも買った。此事が往訪すること僅に四五回にして、二重の効果を収めた。
 いつも鑵詰《かんづめ》ばかり買うのみならず、シャツや上着もボタンの取れたのを着ているのを見て、女はいよいよわたくしをアパート住いの独者《ひとりもの》と推定したのである。独身ならば毎夜のように遊びに行っても一向不審はないと云う事になる。ラディオのために家に居られないと思う筈もなかろうし、又芝居や活動を見ないので、時間を空費するところがない。行く処がないので来る人だとも思う筈がない。この事は言訳をせずとも自然にうまく行ったが、金の出処《でどころ》について疑いをかけられはせぬかと、場所柄だけに、わたくしはそれとなく質問した。すると女は其晩払うものさえ払ってくれれば、他《ほか》の事はてんで考えてもいないと云う様子で、
「こんな処《とこ》でも、遣《つか》う人は随分遣うわよ。まる一ト月居続けしたお客があったわ。」
「へえ。」とわたくしは驚き、「警察へ届けなくってもいいのか。吉原なんかだとじき届けると云う話じゃないか。」
「この土地でも、家《うち》によっちゃアするかも知れないわ。」
「居続したお客は何だった。泥棒か。」
「呉服屋さんだったわ。とうとう店の檀那《だんな》が来て連れて行ったわ。」
「勘定の持逃げだね。」
「そうでしょう。」
「おれは大丈夫だよ。其方《そのほう》は。」と言ったが、女はどちらでも構わないという顔をして聞返しもしなかった。
 然しわたくしの職業については、女の方ではとうから勝手に取りきめているらしい事がわかって来た。
 二階の襖《ふすま》に半紙四ツ切程の大きさに複刻した浮世絵の美人画が張交《はりまぜ》にしてある。その中には歌麻呂の鮑《あわび》取り、豊信《とよのぶ》の入浴美女など、曾《かつ》てわたくしが雑誌|此花《このはな》の挿絵《さしえ》で見覚えているものもあった。北斎の三冊本、福徳和合人の中から、男の姿を取り去り、女の方ばかりを残したものもあったので、わたくしは委《くわ》しくこの書の説明をした。それから又、お雪がお客と共に二階へ上っている間、わたくしは下の一ト間で手帳へ何か書いていたのを、ちらと見て、てっきり秘密の出版を業とする男だと思ったらしく、こん度来る時そういう本を一冊持って来てくれと言出した。
 家には二三十年前に集めたものの残りがあったので、請われるまま三四冊一度に持って行った。ここに至って、わたくしの職業は言わず語らず、それと決められたのみならず、悪銭の出処《でどころ》もおのずから明瞭になったらしい。すると女の態度は一層打解けて、全く客扱いをしないようになった。
 日蔭に住む女達が世を忍ぶ後暗い男に対する時、恐れもせず嫌いもせず、必ず親密と愛憐との心を起す事は、夥多《かた》の実例に徴して深く説明するにも及ぶまい。鴨川《かもがわ》の芸妓は幕吏に追われる志士を救い、寒駅の酌婦は関所破りの博徒に旅費を恵むことを辞さなかった。トスカは逃竄《とうざん》の貧士に食を与え、三千歳《みちとせ》は無頼漢に恋愛の真情を捧げて悔いなかった。
 此《ここ》に於てわたくしの憂慮するところは、この町の附近、若《も》しくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。この他《た》の人達には何処で会おうと、後をつけられようと、一向に差閊《さしつかえ》はない。謹厳な人達からは年少の頃から見限られた身である。親類の子供もわたくしの家には寄りつかないようになっているから、今では結局|憚《はばか》るものはない。ただ独《ひとり》恐る可《べ》きは操觚《そうこ》の士である。十余年前銀座の表通に頻《しきり》にカフエーが出来はじめた頃、此に酔を買った事から、新聞と云う新聞は挙《こぞ》ってわたくしを筆誅《ひっちゅう》した。昭和四年の四月「文藝春秋」という雑誌は、世に「生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。其文中には「処女誘拐」というが如き文字をも使用した所を見るとわたくしを陥れて犯法の罪人たらしめようとしたものかも知れない。彼等はわたくしが夜|竊《ひそか》に墨水をわたって東に遊ぶ事を探知したなら、更に何事を企図するか測りがたい。これ真に恐る可きである。
 毎夜電車の乗降りのみならず、この里へ入込んでからも、夜店の賑《にぎわ》う表通は言うまでもない。路地の小径《こみち》も人の多い時には、前後左右に気を配って歩かなければならない。この心持は「失踪《しっそう》」の主人公種田順平が世をしのぶ境遇を描写するには必須《ひっしゅ》の実験であろう。

 わたくしの忍んで通う溝際《どぶぎわ》の家が寺島町七丁目六十何番地に在ることは既に識《しる》した。この番地のあたりはこの盛場では西北の隅《すみ》に寄ったところで、目貫《めぬき》の場所ではない。仮に之を北里に譬《たと》えて見たら、京町一丁目も西|河岸《がし》に近いはずれとでも言うべきものであろう。聞いたばかりの話だから、鳥渡《ちょっと》通《つう》めかして此盛場の沿革を述べようか。大正七八年の頃、浅草観音堂裏手の境内が狭《せば》められ、広い道路が開かれるに際して、むかしから其辺に櫛比《しっぴ》していた楊弓場《ようきゅうば》銘酒屋のたぐいが悉《ことごと》く取払いを命ぜられ、現在《いま》でも京成バスの往復している大正道路の両側に処定めず店を移した。つづいて伝法院の横手や江川《えがわ》玉乗りの裏あたりからも追われて来るものが引きも切らず、大正道路は殆《ほとんど》軒並銘酒屋になってしまい、通行人は白昼でも袖《そで》を引かれ帽子を奪われるようになったので、警察署の取締りが厳しくなり、車の通る表通から路地の内へと引込ませられた。浅草の旧地では凌雲閣《りょううんかく》の裏手から公園の北側千束町の路地に在ったものが、手を尽して居残りの策を講じていたが、それも大正十二年の震災のために中絶し、一時悉くこの方面へ逃げて来た。市街再建の後|西見番《にしけんばん》と称する芸者家組合をつくり転業したものもあったが、この土地の繁栄はますます盛になり遂に今日の如き半ば永久的な状況を呈するに至った。初め市中との交通は白髯橋《しらひげばし》の方面一筋だけであったので、去年京成電車が運転を廃止する頃までは其停留場に近いところが一番|賑《にぎやか》であった。
 然るに昭和五年の春都市復興祭の執行せられた頃、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路が開かれ、市内電車は秋葉神社前まで、市営バスの往復は更に延長して寺島町七丁目のはずれに車庫を設けるようになった。それと共に東武鉄道会社が盛場の西南に玉の井駅を設け、夜も十二時まで雷門から六銭で人を載せて来るに及び、町の形勢は裏と表と、全く一変するようになった。今まで一番わかりにくかった路地が、一番入り易くなった代り、以前目貫といわれた処が、今では端《はず》れになったのであるがそれでも銀行、郵便局、湯屋、寄席《よせ》、活動写真館、玉の井|稲荷《いなり》の如きは、いずれも以前のまま大正道路に残っていて、俚俗《りぞく》広小路、又は改正道路と呼ばれる新しい道には、円タクの輻湊《ふくそう》と、夜店の賑いとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。このような辺鄙《へんぴ》な新開町に在ってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。況《いわん》や人の一生に於いてをや。

 わたくしがふと心易くなった溝際の家……お雪という女の住む家が、この土地では大正開拓期の盛時を想起《おもいおこ》させる一隅に在ったのも、わたくしの如き時運に取り残された身には、何やら深い因縁があったように思われる。其家は大正道路から唯《と》ある路地に入り、汚れた幟《のぼり》の立っている伏見稲荷の前を過ぎ、溝に沿うて、猶《なお》奥深く入り込んだ処に在るので、表通のラディオや蓄音機の響も素見客《ひやかし》の足音に消されてよくは聞えない。夏の夜、わたくしがラディオのひびきを避けるにはこれほど適した安息処は他にはあるまい。
 一体この盛場では、組合の規則で女が窓に坐る午後四時から蓄音機やラディオを禁じ、また三味線をも弾《ひ》かせないと云う事で。雨のしとしとと降る晩など、ふけるにつれて、ちょいとちょいとの声も途絶えがちになると、家の内外《うちそと》に群《むらが》り鳴く蚊の声が耳立って、いかにも場末の裏町らしい侘《わび》しさが感じられて来る。それも昭和現代の陋巷《ろうこう》ではなくして、鶴屋南北の狂言などから感じられる過去の世の裏淋しい情味である。
 いつも島田か丸髷《まるまげ》にしか結っていないお雪の姿と、溝の汚さと、蚊の鳴声《なくこえ》とはわたくしの感覚を著しく刺戟《しげき》し、三四十年むかしに消え去った過去の幻影を再現させてくれるのである。わたくしはこのはかなくも怪し気なる幻影の紹介者に対して出来得ることならあからさまに感謝の言葉を述べたい。お雪さんは南北の狂言を演じる俳優よりも、蘭蝶《らんちょう》を語る鶴賀なにがしよりも、過去を呼返す力に於ては一層巧妙なる無言の芸術家であった。
 わたくしはお雪さんが飯櫃《おはち》を抱きかかえるようにして飯をよそい、さらさら音を立てて茶漬《ちゃづけ》を掻込《かっこ》む姿を、あまり明くない電燈の光と、絶えざる溝蚊《どぶか》の声の中にじっと眺めやる時、青春のころ狎《な》れ※[#「日+匿」、第4水準2-14-16]《した》しんだ女達の姿やその住居《すまい》のさまをありありと目の前に思浮べる。わたくしのものばかりでない。友達の女の事までが思出されて来るのである。そのころには男を「彼氏」といい、女を「彼女」とよび、二人の侘住居を「愛の巣」などと云う言葉はまだ作り出されていなかった。馴染《なじみ》の女は「君」でも、「あんた」でもなく、ただ「お前」といえばよかった。亭主は女房を「おッかア」女房は亭主を「ちゃん」と呼ぶものもあった。
 溝の蚊の唸《うな》る声は今日《こんにち》に在っても隅田川を東に渡って行けば、どうやら三十年前のむかしと変りなく、場末の町のわびしさを歌っているのに、東京の言葉はこの十年の間に変れば実に変ったものである。


  そのあたり片づけて吊る蚊帳《かちょう》哉《かな》
  さらぬだに暑くるしきを木綿蚊帳《もめんがや》
   家中《いえじゅう》は秋の西日や溝《どぶ》のふち
  わび住みや団扇《うちわ》も折れて秋暑し
   蚊帳の穴むすびむすびて九月哉
  屑籠《くづかご》の中からも出て鳴く蚊かな
  残る蚊をかぞへる壁や雨のしみ
  この蚊帳も酒とやならむ暮の秋

 これはお雪が住む家の茶の間に、或夜蚊帳が吊ってあったのを見て、ふと思出した旧作の句である。半《なかば》は亡友|唖々《ああ》君が深川長慶寺裏の長屋に親の許さぬ恋人と隠れ住んでいたのを、其折々尋ねて行った時よんだもので、明治四十三四年のころであったろう。
 その夜お雪さんは急に歯が痛くなって、今しがた窓際から引込んで寝たばかりのところだと言いながら蚊帳から這《は》い出したが、坐る場処がないので、わたくしと並んで上框《あがりがまち》へ腰をかけた。
「いつもより晩《おそ》いじゃないのさ。あんまり、待たせるもんじゃないよ。」
 女の言葉遣いはその態度と共に、わたくしの商売が世間を憚るものと推定せられてから、狎昵《こうじつ》の境《さかい》を越えて寧《むしろ》放濫《ほうらん》に走る嫌いがあった。
「それはすまなかった。虫歯か。」
「急に痛くなったの。目がまわりそうだったわ。腫《は》れてるだろう。」と横顔を見せ、「あなた。留守番していて下さいな。わたし今の中《うち》歯医者へ行って来るから。」
「この近処か。」
「検査場《けんさば》のすぐ手前よ。」
「それじゃ公設市場の方だろう。」
「あなた。方々歩くと見えて、よく知ってるんだねえ。浮気者。」
「痛い。そう邪慳《じゃけん》にするもんじゃない。出世前の身体《からだ》だよ。」
「じゃ頼むわよ。あんまり待たせるようだったら帰って来るわ。」
「お前待ち待ち蚊帳の外……と云うわけか。仕様がない。」
 わたくしは女の言葉遣いがぞんざいになるに従って、それに適応した調子を取るようにしている。これは身分を隠そうが為の手段ではない。処と人とを問わず、わたくしは現代の人と応接する時には、あたかも外国に行って外国語を操《あやつ》るように、相手と同じ言葉を遣う事にしているからである。「おらが国」と向の人が言ったら此方《こっち》も「おら」を「わたくし」の代りに使う。説話《はなし》は少し余事にわたるが、現代人と交際する時、口語を学ぶことは容易であるが文書の往復になると頗《すこぶる》困難を感じる。殊に女の手紙に返書を裁する時「わたし」を「あたし」となし、「けれども」を「けど」となし、又何事につけても、「必然性」だの「重大性」だのと、性の字をつけて見るのも、冗談半分口先で真似をしている時とはちがって、之を筆にする段になると、実に堪難い嫌悪《けんお》の情を感じなければならない。恋しきは何事につけても還らぬむかしで、あたかもその日、わたくしは虫干をしていた物の中に、柳橋《やなぎばし》の妓にして、向嶋小梅の里に囲われていた女の古い手紙を見た。手紙には必ず候文《そうろうぶん》を用いなければならなかった時代なので、その頃の女は、硯《すずり》を引寄せ筆を秉《と》れば、文字を知らなくとも、おのずから候可く候の調子を思出したものらしい。わたくしは人の嗤笑《ししょう》を顧ず、これをここに録したい。

  一筆《ふで》申上まいらせ候。その後は御ぶさた致し候て、何とも申わけ無之《これなく》御免下されたく候。私事これまでの住居《すまい》誠に手ぜまに付この中《じゅう》右のところへしき移り候まま御《おん》知らせ申上候。まことにまことに申上かね候え共、少々お目もじの上申上たき事御ざ候間、何卒《なにとぞ》御都合なし下されて、あなた様のよろしき折御立より下されたく幾重にも御《おん》待申上候。一日も早く御越しのほど、先《まず》は御めもじの上にてあらあらかしく。  ◯◯より
  竹屋の渡しの下にみやこ湯と申す湯屋あり。八百屋《やおや》でお聞下さい。天気がよろしく候故御都合にて唖々《ああ》さんもお誘い合され堀切《ほりきり》へ参りたくと存候間御しる[#「しる」に白丸傍点]前からいかがに候や。御たずね申上候。尤《もっとも》この御返事御無用にて候。
 

 文中「ひき移り」を「しき移り」となし、「ひる前」を「しる前」に書き誤っているのは東京下町言葉の訛《なま》りである。竹屋の渡しも今は枕橋《まくらばし》の渡《わたし》と共に廃せられて其跡《そのあと》もない。我青春の名残《なごり》を弔《とむら》うに今は之を那辺《なへん》に探るべきか。

 わたくしはお雪の出て行った後《あと》、半《なかば》おろした古蚊帳の裾《すそ》に坐って、一人蚊を追いながら、時には長火鉢に埋めた炭火と湯わかしとに気をつけた。いかに暑さの烈しい晩でも、この土地では、お客の上った合図に下から茶を持って行く習慣なので、どの家でも火と湯とを絶《たや》した事がない。
「おい。おい。」と小声に呼んで窓を叩《たた》くものがある。
 わたくしは大方馴染の客であろうと思い、出ようか出まいかと、様子を窺《うかが》っていると、外の男は窓口から手を差入れ、猿をはずして扉《と》をあけて内《なか》へ入った。白っぽい浴衣《ゆかた》に兵児《へこ》帯をしめ、田舎臭い円顔に口髯《くちひげ》を生《はや》した年は五十ばかり。手には風呂敷に包んだものを持っている。わたくしは其様子と其顔立とで、直様《すぐさま》お雪の抱主《かかえぬし》だろうと推察したので、向から言うのを待たず、
「お雪さんは何だか、お医者へ行くって、今おもてで逢いました。」
 抱主らしい男は既にその事を知っていたらしく、「もう帰るでしょう。待っていなさい。」と云って、わたくしの居たのを怪しむ風もなく、風呂敷包を解いて、アルミの小鍋を出し茶棚の中へ入れた。夜食の惣菜《そうざい》を持って来たのを見れば、抱主に相違はない。
「お雪さんは、いつも忙しくって結構ですねえ。」
 わたくしは挨拶のかわりに何かお世辞を言わなければならないと思って、そう言った。
「何ですか。どうも。」と抱主の方でも返事に困ると云ったような、意味のない事を言って、火鉢の火や湯の加減を見るばかり。面と向ってわたくしの顔さえ見ない。寧《むし》ろ対談を避けるというように横を向いているので、わたくしも其まま黙っていた。
 こういう家の亭主と遊客との対面は、両方とも甚《はなはだ》気まずいものである。貸座敷、待合茶屋、芸者家などの亭主と客との間もまた同じことで、此両者の対談する場合は、必ず女を中心にして甚気まずい紛擾《ごたごた》の起った時で、然らざる限り対談の必要が全くないからでもあろう。
 いつもお雪が店口で焚《た》く蚊遣香《かやりこう》も、今夜は一度もともされなかったと見え、家中《いえじゅう》にわめく蚊の群は顔を刺すのみならず、口の中へも飛込もうとするのに、土地馴れている筈の主人も、暫く坐っている中《うち》我慢がしきれなくなって、中仕切の敷居際に置いた扇風機の引手を捻《ねじ》ったが破《こわ》れていると見えて廻らない。火鉢の抽斗《ひきだし》から漸《ようや》く蚊遣香の破片《かけら》を見出した時、二人は思わず安心したように顔を見合せたので、わたくしは之を機会に、
「今年はどこもひどい蚊ですよ。暑さも格別ですがね。」と言うと、
「そうですか。ここはもともと埋地で、碌《ろく》に地揚《じあげ》もしないんだから。」と主人もしぶしぶ口をきき初めた。
「それでも道がよくなりましたね。第一便利になりましたね。」
「その代り、何かにつけて規則がやかましくなった。」
「そう。二三年前にゃ、通ると帽子なんぞ持って行ったものですね。」
「あれにゃ、わたし達この中の者も困ったんだよ。用があっても通れないからね。女達にそう言っても、そう一々見張りをしても居られないし、仕方がないから罰金を取るようにしたんだ。店の外へ出てお客をつかまえる処を見つかると四十二円の罰金だ。それから公園あたりへ客引を出すのも規則違反にしたんだ。」
「それも罰金ですか。」
「うむ。」
「それは幾何《いくら》ですか。」
 遠廻しに土地の事情を聞出そうと思った時、「安藤さん」と男の声で、何やら紙片《かみきれ》を窓に差入れて行った者がある。同時にお雪が帰って来て、その紙を取上げ、猫板の上に置いたのを、偸見《ぬすみみ》すると、謄写摺《とうしゃずり》にした強盗犯人捜索の回状である。
 お雪はそんなものには目も触れず、「お父さん、あした抜かなくっちゃいけないって云うのよ。この歯。」と言って、主人の方へ開《あ》いた口を向ける。
「じゃア、今夜は食べる物はいらなかったな。」と主人は立ちかけたが、わたくしはわざと見えるように金を出してお雪にわたし、一人先へ立って二階に上った。
 二階は窓のある三畳の間に茶ぶ台を置き、次が六畳と四畳半位の二間しかない。一体この家はもと一軒であったのを、表と裏と二軒に仕切ったらしく、下は茶の間の一室きりで台所も裏口もなく、二階は梯子《はしご》の降口《おりくち》からつづいて四畳半の壁も紙を張った薄い板一枚なので、裏どなりの物音や話声が手に取るようによく聞える。わたくしは能《よ》く耳を押つけて笑う事があった。
「また、そんなとこ。暑いのにさ。」
 上って来たお雪はすぐ窓のある三畳の方へ行って、染模様の剥《は》げたカーテンを片寄せ、「此方《こっち》へおいでよ。いい風だ。アラまた光ってる。」
「さっきより幾らか涼しくなったな、成程いい風だ。」
 窓のすぐ下は日蔽《ひおい》の葭簀《よしず》に遮《さえぎ》られているが、溝の向側に並んだ家の二階と、窓口に坐っている女の顔、往ったり来たりする人影、路地一帯の光景は案外遠くの方まで見通すことができる。屋根の上の空は鉛色に重く垂下って、星も見えず、表通のネオンサインに半空《なかぞら》までも薄赤く染められているのが、蒸暑い夜を一層蒸暑くしている。お雪は座布団を取って窓の敷居に載せ、その上に腰をかけて、暫く空の方を見ていたが、「ねえ、あなた」と突然わたくしの手を握り、「わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない。」
「おれ見たようなもの。仕様がないじゃないか。」
「ハスになる資格がないって云うの。」
「食べさせることができなかったら資格がないね。」
 お雪は何とも言わず、路地のはずれに聞え出したヴィヨロンの唄につれて、鼻唄をうたいかけたので、わたくしは見るともなく顔を見ようとすると、お雪はそれを避けるように急に立上り、片手を伸して柱につかまり、乗り出すように半身を外へ突出した。
「もう十年わかけれア……。」わたくしは茶ぶ台の前に坐って巻煙草に火をつけた。
「あなた。一体いくつなの。」
 此方《こなた》へ振向いたお雪の顔を見|上《あげ》ると、いつものように片靨《かたえくぼ》を寄せているので、わたくしは何とも知れず安心したような心持になって、
「もうじき六十さ。」
「お父さん。六十なの。まだ御丈夫。」
 お雪はしげしげとわたくしの顔を見て、「あなた。まだ四十にゃならないね。三十七か八かしら。」
「おれはお妾《めかけ》さんに出来た子だから、ほんとの年はわからない。」
「四十にしても若いね。髪の毛なんぞそうは思えないわ。」
「明治三十一年|生《うまれ》だね。四十だと。」
「わたしはいくつ位に見えて。」
「二十一二に見えるが、四ぐらいかな。」
「あなた。口がうまいから駄目。二十六だわ。」
「雪ちゃん、お前、宇都の宮で芸者をしていたって言ったね。」
「ええ。」
「どうして、ここへ来たんだ。よくこの土地の事を知っていたね。」
「暫く東京にいたもの。」
「お金のいることがあったのか。」
「そうでもなけれア……。檀那は病気で死んだし、それに少し……。」
「馴れない中は驚いたろう。芸者とはやり方がちがうから。」
「そうでもないわ。初めッから承知で来たんだもの。芸者は掛りまけがして、借金の抜ける時がないもの。それに……身を落すなら稼《かせ》ぎいい方が結句《けっく》徳だもの。」
「そこまで考えたのは、全くえらい。一人でそう考えたのか。」
「芸者の時分、お茶屋の姐《ねえ》さんで知ってる人が、この土地で商売していたから、話をきいたのよ。」
「それにしても、えらいよ。年《ねん》があけたら少し自前《じまえ》で稼いで、残せるだけ残すんだね。」
「わたしの年は水商売には向くんだとさ。だけれど行先の事はわからないわ。ネエ。」
 じっと顔を見詰められたので、わたくしは再び妙に不安な心持がした。まさかとは思うものの、何だか奥歯に物の挾《はさ》まっているような心持がして、此度《こんど》はわたくしの方が空の方へでも顔を外向《そむ》けたくなった。
 表通りのネオンサインが反映する空のはずれには、先程から折々稲妻が閃《ひらめ》いていたが、この時急に鋭い光が人の目を射た。然し雷の音らしいものは聞えず、風がぱったり歇《や》んで日の暮の暑さが又むし返されて来たようである。
「いまに夕立が来そうだな。」
「あなた。髪結さんの帰り……もう三月《みつき》になるわネエ。」
 わたくしの耳にはこの「三月になるわネエ。」と少し引延ばしたネエの声が何やら遠いむかしを思返すとでも云うように無限の情《じょう》を含んだように聞きなされた。「三月になります。」とか「なるわよ。」とか言切ったら平常《つね》の談話に聞えたのであろうが、ネエと長く引いた声は咏嘆《えいたん》の音《おん》というよりも、寧《むしろ》それとなくわたくしの返事を促す為に遣われたもののようにも思われたので、わたくしは「そう……。」と答えかけた言葉さえ飲み込んでしまって、唯|目容《まなざし》で応答をした。
 お雪は毎夜路地へ入込む数知れぬ男に応接する身でありながら、どういう訳で初めてわたくしと逢った日の事を忘れずにいるのか、それがわたくしには有り得べからざる事のように考えられた。初ての日を思返すのは、その時の事を心に嬉しく思うが為と見なければならない。然しわたくしはこの土地の女がわたくしのような老人《としより》に対して、尤《もっと》も先方ではわたくしの年を四十歳位に見ているが、それにしても好いたの惚《ほ》れたのというような若《もし》くはそれに似た柔く温《あたたか》な感情を起し得るものとは、夢にも思って居なかった。
 わたくしが殆ど毎夜のように足繁く通って来るのは、既に幾度か記述したように、種々《いろいろ》な理由があったからである。創作「失踪」の実地観察。ラディオからの逃走。銀座丸ノ内のような首都枢要の市街に対する嫌悪。其他の理由もあるが、いずれも女に向って語り得べき事ではない。わたくしはお雪の家を夜の散歩の休憩所にしていたに過ぎないのであるが、そうする為には方便として口から出まかせの虚言《うそ》もついた。故意に欺くつもりではないが、最初女の誤り認めた事を訂正もせず、寧ろ興にまかせてその誤認を猶《なお》深くするような挙動や話をして、身分を晦《くらま》した。この責だけは免れないかも知れない。
 わたくしはこの東京のみならず、西洋に在っても、売笑の巷《ちまた》の外、殆《ほとんど》その他の社会を知らないと云ってもよい。其由来はここに述べたくもなく、又述べる必要もあるまい。若しわたくしなる一人物の何者たるかを知りたいと云うような酔興な人があったなら、わたくしが中年のころにつくった対話「昼すぎ」漫筆「妾宅《しょうたく》」小説「見果てぬ夢」の如き悪文を一読せられたなら思い半《なかば》に過るものがあろう。とは言うものの、それも文章が拙《つたな》く、くどくどしくて、全篇をよむには面倒であろうから、ここに「見果てぬ夢」の一節を抜摘しよう。「彼が十年一日の如く花柳界に出入する元気のあったのは、つまり花柳界が不正暗黒の巷である事を熟知していたからで。されば若し世間が放蕩者《ほうとうしゃ》を以て忠臣孝子の如く称賛するものであったなら、彼は邸宅を人手に渡してまでも、其称賛の声を聞こうとはしなかったであろう。正当な妻女の偽善的虚栄心、公明なる社会の詐欺的活動に対する義憤は、彼をして最初から不正暗黒として知られた他の一方に馳《は》せ赴《おもむ》かしめた唯一の力であった。つまり彼は真白だと称する壁の上に汚い種々《さまざま》な汚点《しみ》を見出すよりも、投捨てられた襤褸《らんる》の片《きれ》にも美しい縫取りの残りを発見して喜ぶのだ。正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞《ふん》が落ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香《かんば》しい涙の果実が却《かえっ》て沢山に摘み集められる。」
 これを読む人は、わたくしが溝の臭気と、蚊の声との中に生活する女達を深く恐れもせず、醜いともせず、むしろ見ぬ前から親しみを覚えていた事だけは推察せられるであろう。
 わたくしは彼女達《かのおんなたち》と懇意になるには――少くとも彼女達から敬して遠ざけられないためには、現在の身分はかくしている方がよいと思った。彼女達から、こんな処《ところ》へ来ずともよい身分の人だのに、と思われるのは、わたくしに取ってはいかにも辛い。彼女達の薄倖《はっこう》な生活を芝居でも見るように、上から見下《みおろ》してよろこぶのだと誤解せられるような事は、出来得るかぎり之を避けたいと思った。それには身分を秘するより外はない。
 こんな処へ来る人ではないと言われた事については既に実例がある。或夜、改正道路のはずれ、市営バス車庫の辺《ほとり》で、わたくしは巡査に呼止められて尋問せられたことがある。わたくしは文学者だの著述業だのと自分から名乗りを揚げるのも厭《いや》であるし、人からそう思われるのは猶更嫌いであるから、巡査の問に対しては例の如く無職の遊民と答えた。巡査はわたくしの上着を剥《はぎ》取って所持品を改める段になると、平素《ふだん》夜行の際、不審尋問に遇う時の用心に、印鑑と印鑑証明書と戸籍抄本とが嚢中《のうちゅう》に入れてある。それから紙入には翌日の朝大工と植木屋と古本屋とに払いがあったので、三四百円の現金が入れてあった。巡査は驚いたらしく、俄《にわか》にわたくしの事を資産家とよび、「こんな処は君見たような資産家の来るところじゃない。早く帰りたまえ、間違いがあるといかんから、来るなら出直して来たまえ。」と云って、わたくしが猶愚図々々しているのを見て、手を挙げて円タクを呼止め、わざわざ戸を明けてくれた。
 わたくしは已《や》むことを得ず自動車に乗り改正道路から環状線とかいう道を廻った。つまり迷宮《ラビラント》の外廓を一周して、伏見稲荷の路地口に近いところで降りた事があった。それ以来、わたくしは地図を買って道を調べ、深夜は交番の前を通らないようにした。
 わたくしは今、お雪さんが初めて逢った日の事を咏嘆的な調子で言出したのに対して、答うべき言葉を見付けかね、煙草の烟《けむり》の中にせめて顔だけでもかくしたい気がしてまたもや巻煙草を取出した。お雪は黒目がちの目でじっと此方《こなた》を見詰めながら、
「あなた。ほんとに能く肖《に》ているわ。あの晩、あたし後姿を見た時、はっと思ったくらい……。」
「そうか。他人のそら肖って、よくある奴さ。」わたくしはまア好かったと云う心持を一生懸命に押隠した。そして、「誰に。死んだ檀那に似ているのか。」
「いいえ。芸者になったばかりの時分……。一緒になれなかったら死のうと思ったの。」
「逆上《のぼ》せきると、誰しも一時はそんな気を起す……。」
「あなたも。あなたなんぞ、そんな気にゃアならないでしょう。」
「冷静かね。然し人は見掛によらないもんだからね。そう見くびったもんでもないよ。」
 お雪は片靨《かたえくぼ》を寄せて笑顔をつくったばかりで、何とも言わなかった。少し下唇の出た口尻の右側に、おのずと深く穿《うが》たれる片えくぼは、いつもお雪の顔立を娘のようにあどけなくするのであるが、其夜にかぎって、いかにも無理に寄せた靨のように、言い知れず淋しく見えた。わたくしは其場をまぎらす為に、
「また歯がいたくなったのか。」
「いいえ。さっき注射したから、もう何ともない。」
 それなり、また話が途絶えた時、幸にも馴染《なじみ》の客らしいものが店口の戸を叩いてくれた。お雪はつと立って窓の外に半身を出し、目かくしの板越しに下を覗《のぞ》き、
「アラ竹さん。お上んなさい。」
 馳《か》け降りる後《あと》からわたくしも続いて下り、暫く便所の中に姿をかくし客の上ってしまうのを待って、音のしないように外へ出た。

[#8字下げ]八[#「八」は中見出し]

 来そうに思われた夕立も来る様子はなく、火種を絶さぬ茶の間の蒸暑さと蚊の群とを恐れて、わたくしは一時外へ出たのであるが、帰るにはまだ少し早いらしいので、溝づたいに路地を抜け、ここにも板橋のかかっている表の横町に出た。両側に縁日|商人《あきゅうど》が店を並べているので、もともと自動車の通らない道幅は猶更狭くなって、出さかる人は押合いながら歩いている。板橋の右手はすぐ角に馬肉屋のある四辻《よつつじ》で。辻の向側には曹洞宗東清寺と刻《しる》した石碑と、玉の井稲荷の鳥居と公衆電話とが立っている。わたくしはお雪の話からこの稲荷の縁日は月の二日と二十日の両日である事や、縁日の晩は外ばかり賑《にぎやか》で、路地の中は却て客足が少いところから、窓の女達は貧乏稲荷と呼んでいる事などを思出し、人込みに交って、まだ一度も参詣《さんけい》したことのない祠《やしろ》の方へ行って見た。
 今まで書くことを忘れていたが、わたくしは毎夜この盛場へ出掛けるように、心持にも身体にも共々に習慣がつくようになってから、この辺《あたり》の夜店を見歩いている人達の風俗に倣《なら》って、出がけには服装《みなり》を変《かえ》ることにしていたのである。これは別に手数のかかる事ではない。襟《えり》の返る縞のホワイトシャツの襟元のぼたんをはずして襟飾をつけない事、洋服の上着は手に提げて着ない事、帽子はかぶらぬ事、髪の毛は櫛《くし》を入れた事もないように掻乱《かきみだ》して置く事、ズボンは成るべく膝や尻の摺《す》り切れたくらいな古いものに穿替《はきかえ》る事。靴は穿かず、古下駄も踵《かかと》の方が台まで摺りへっているのを捜して穿く事、煙草は必《かならず》バットに限る事、エトセトラエトセトラである。だから訳はない。つまり書斎に居る時、また来客を迎える時の衣服をぬいで、庭掃除や煤払《すすはらい》の時のものに着替え、下女の古下駄を貰ってはけばよいのだ。
 古ズボンに古下駄をはき、それに古手拭をさがし出して鉢巻の巻方も至極|不意気《ぶいき》にすれば、南は砂町、北は千住から葛西金町辺《かさいかなまちあたり》まで行こうとも、道行く人から振返って顔を見られる気遣いはない。其町に住んでいるものが買物にでも出たように見えるので、安心して路地へでも横町へでも勝手に入り込むことができる。この不様《ぶざま》な身なりは、「じだらくに居れば涼しき二階かな。」で、東京の気候の殊に暑さの甚しい季節には最《もっとも》適合している。朦朧《もうろう》円タクの運転手と同じようなこの風をしていれば、道の上と云わず電車の中といわず何処《どこ》でも好きな処へ啖唾《たんつば》も吐けるし、煙草の吸殻、マッチの燃残り、紙屑、バナナの皮も捨てられる。公園と見ればベンチや芝生へ大の字なりに寝転んで鼾《いびき》をかこうが浪花節《なにわぶし》を唸《うな》ろうが是《これ》また勝手次第なので、啻《ただ》に気候のみならず、東京中の建築物とも調和して、いかにも復興都市の住民らしい心持になることが出来る。
 女子がアッパッパと称する下着一枚で戸外に出歩く奇風については、友人佐藤|慵斎《ようさい》君の文集に載っている其《その》論に譲って、ここには言うまい。
 わたくしは素足に穿き馴れぬ古下駄を突掛《つッか》けているので、物に躓《つまず》いたり、人に足を踏まれたりして、怪我をしないように気をつけながら、人ごみの中を歩いて向側の路地の突当りにある稲荷に参詣《さんけい》した。ここにも夜店がつづき、祠《ほこら》の横手の稍《やや》広い空地は、植木屋が一面に並べた薔薇《ばら》や百合《ゆり》夏菊などの鉢物に時ならぬ花壇をつくっている。東清寺本堂|建立《こんりゅう》の資金寄附者の姓名が空地の一隅に板塀の如くかけ並べてあるのを見ると、この寺は焼けたのでなければ、玉の井稲荷と同じく他所《よそ》から移されたものかも知れない。
 わたくしは常夏《とこなつ》の花一鉢を購《あがな》い、別の路地を抜けて、もと来た大正道路へ出た。すこし行くと右側に交番がある。今夜はこの辺《あたり》の人達と同じような服装《みなり》をして、植木鉢をも手にしているから大丈夫とは思ったが、避けるに若《し》くはないと、後戻りして、角に酒屋と水菓子屋のある道に曲った。
 この道の片側に並んだ商店の後《うしろ》一帯の路地は所謂《いわゆる》第一部と名付けられたラビラントで。お雪の家の在る第二部を貫くかの溝は、突然第一部のはずれの道端に現われて、中島湯という暖簾《のれん》を下げた洗湯《せんとう》の前を流れ、許可地|外《そと》の真暗な裏長屋の間に行先を没している。わたくしはむかし北廓を取巻いていた鉄漿溝《おはぐろどぶ》より一層不潔に見える此溝も、寺島町がまだ田園であった頃には、水草《みずくさ》の花に蜻蛉《とんぼ》のとまっていたような清い小流《こながれ》であったのであろうと、老人《としより》にも似合わない感傷的な心持にならざるを得なかった。縁日の露店はこの通には出ていない。九州亭というネオンサインを高く輝《かがやか》している支那飯屋の前まで来ると、改正道路を走る自動車の灯《ひ》が見え蓄音機の音が聞える。
 植木鉢がなかなか重いので、改正道路の方へは行かず、九州亭の四ツ角から右手に曲ると、この通は右側にはラビラントの一部と二部、左側には三部の一区劃が伏在している最も繁華な最も狭い道で、呉服屋もあり、婦人用の洋服屋もあり、洋食屋もある。ポストも立っている。お雪が髪結の帰り夕立に遇《あ》って、わたくしの傘の下に駈込んだのは、たしかこのポストの前あたりであった。
 わたくしの胸底《むなそこ》には先刻お雪が半《なかば》冗談らしく感情の一端をほのめかした時、わたくしの覚えた不安がまだ消え去らずにいるらしい……わたくしはお雪の履歴については殆ど知るところがない。どこやらで芸者をしていたと言っているが、長唄も清元も知らないらしいので、それも確かだとは思えない。最初の印象で、わたくしは何の拠《よ》るところもなく、吉原か洲崎あたりの左程わるくない家にいた女らしい気がしたのが、却て当っているのではなかろうか。
 言葉には少しも地方の訛《なま》りがないが、其顔立と全身の皮膚の綺麗なことは、東京もしくは東京近在の女でない事を証明しているので、わたくしは遠い地方から東京に移住した人達の間に生れた娘と見ている。性質は快活で、現在の境涯をも深く悲しんではいない。寧《むしろ》この境遇から得た経験を資本《もとで》にして、どうにか身の振方をつけようと考えているだけの元気もあれば才智もあるらしい。男に対する感情も、わたくしの口から出まかせに言う事すら、其まま疑わずに聴き取るところを見ても、まだ全く荒《すさ》みきってしまわない事は確かである。わたくしをして、然《そ》う思わせるだけでも、銀座や上野|辺《あたり》の広いカフエーに長年働いている女給などに比較したなら、お雪の如きは正直とも醇朴《じゅんぼく》とも言える。まだまだ真面目な処があるとも言えるであろう。
 端無《はしな》くも銀座あたりの女給と窓の女とを比較して、わたくしは後者の猶《なお》愛すべく、そして猶共に人情を語る事ができるもののように感じたが、街路の光景についても、わたくしはまた両方を見くらべて、後者の方が浅薄に外観の美を誇らず、見掛倒しでない事から不快の念を覚えさせる事が遙《はるか》に少ない。路傍《みちばた》には同じように屋台店が並んでいるが、ここでは酔漢の三々五々隊をなして歩むこともなく、彼処《かしこ》では珍しからぬ血まみれ喧嘩《げんか》もここでは殆ど見られない。洋服の身なりだけは相応にして居ながら其職業の推察しかねる人相の悪い中年者が、世を憚《はばか》らず肩で風を切り、杖を振り、歌をうたい、通行の女子を罵《ののし》りつつ歩くのは、銀座の外《ほか》他の町には見られぬ光景であろう。然るに一たび古下駄に古ズボンをはいて此の場末に来れば、いかなる雑沓《ざっとう》の夜《よ》でも、銀座の裏通りを行くよりも危険のおそれがなく、あちこちと道を譲る煩《わずらわ》しさもまた少いのである。
 ポストの立っている賑な小道も呉服屋のあるあたりを明い絶頂にして、それから先は次第にさむしく、米屋、八百屋、蒲鉾《かまぼこ》屋などが目に立って、遂に材木屋の材木が立掛けてあるあたりまで来ると、幾度《いくたび》となく来馴れたわたくしの歩みは、意識を待たず、すぐさま自転車預り所《どころ》と金物屋との間の路地口に向けられるのである。
 この路地の中にはすぐ伏見稲荷の汚れた幟《のぼり》が見えるが、素見《すけん》ぞめきの客は気がつかないらしく、人の出入は他の路地口に比べると至って少ない。これを幸に、わたくしはいつも此路地口から忍び入り、表通の家の裏手に無花果《いちじく》の茂っているのと、溝際《どぶぎわ》の柵《さく》に葡萄《ぶどう》のからんでいるのを、あたりに似合わぬ風景と見返りながら、お雪の家の窓口を覗く事にしているのである。
 二階にはまだ客があると見えて、カーテンに灯影《ほかげ》が映り、下の窓はあけたままであった。表のラディオも今しがた歇《や》んだようなので、わたくしは縁日の植木鉢をそっと窓から中に入れて、其夜はそのまま白髯橋《しらひげばし》の方へ歩みを運んだ。後《うしろ》の方から浅草行の京成バスが走って来たが、わたくしは停留場のある処をよく知らないので、それを求めながら歩きつづけると、幾程もなく行先に橋の燈火のきらめくのを見た。

        *        *        *

 わたくしはこの夏のはじめに稿を起した小説「失踪」の一篇を今日《こんにち》に至るまでまだ書き上げずにいるのである。今夜お雪が「三月《みつき》になるわねえ。」と言ったことから思合せると、起稿の日はそれよりも猶以前であった。草稿の末節は種田順平が貸間の暑さに或夜同宿の女給すみ子を連れ、白髯橋の上で涼みながら、行末の事を語り合うところで終っているので、わたくしは堤を曲らず、まっすぐに橋をわたって欄干に身を倚《よ》せて見た。
 最初「失踪」の布局を定める時、わたくしはその年二十四になる女給すみ子と、其年五十一になる種田の二人が手軽く情交を結ぶことにしたのであるが、筆を進めるにつれて、何やら不自然であるような気がし出したため、折からの炎暑と共に、それなり中休みをしていたのである。
 然るに今、わたくしは橋の欄干に凭《もた》れ、下流《かわしも》の公園から音頭踊《おんどおどり》の音楽と歌声との響いて来るのを聞きながら、先程お雪が二階の窓にもたれて「三月になるわネエ。」といった時の語調や様子を思返すと、すみ子と種田との情交は決して不自然ではない。作者が都合の好いように作り出した脚色として拆《しりぞ》けるにも及ばない。最初の立案を中途で変える方が却てよからぬ結果を齎《もたら》すかも知れないと云う心持にもなって来る。
 雷門から円タクを傭《やと》って家に帰ると、いつものように顔を洗い髪を掻直した後、すぐさま硯《すずり》の傍《そば》の香炉《こうろ》に香を焚いた。そして中絶した草稿の末節をよみ返して見る。

「あすこに見えるのは、あれは何だ。工場《こうば》か。」
「瓦斯《ガス》会社か何《なん》かだわ。あの辺はむかし景色のいいところだったんですってね。小説でよんだわ。」
「歩いて見ようか。まだそんなに晩《おそ》かアない。」
「向へわたると、すぐ交番があってよ。」
「そうか。それじゃ後《あと》へ戻ろう。まるで、悪い事をして世を忍んでいるようだ。」
「あなた。大きな声……およしなさい。」
「…………」
「どんな人が聞いていないとも限らないし……。」
「そうだね。然し世を忍んで暮すのは、初めて経験したんだが、何ともいえない、何となく忘れられない心持がするもんだね。」
「浮世離れてッて云う歌があるじゃないの。……奥山ずまい。」
「すみちゃん。おれは昨夜《ゆうべ》から急に何だか若くなったような気がしているんだ。昨夜だけでも活《いき》がいがあったような気がしているんだ。」
「人間は気の持ちようだわ。悲観しちまっちゃ駄目よ。」
「全くだね。然し僕は、何にしてももう若くないからな。じきに捨てられるだろう。」
「また。そんな事、考える必要なんかないっていうのに。わたしだって、もうすぐ三十じゃないのさ。それにもう、為《し》たい事はしちまったし、これからはすこし真面目になって稼《かせ》いで見たいわ。」
「じゃ、ほんとにおでん屋をやるつもりか。」
「あしたの朝、照ちゃんが来るから手金だけ渡すつもりなの。だから、あなたのお金は当分遣わずに置いて下さい。ね。昨夜も御話したように、それがいいの。」
「然し、それじゃア……。」
「いいえ。それがいいのよ。あんたの方に貯金があれば、後が安心だから、わたしの方は持ってるだけのお金をみんな出して、一時払いにして、権利も何も彼も買ってしまおうと思っているのよ。どの道やるなら其方が徳だから。」
「照ちゃんて云うのは確な人かい。とにかくお金の話だからね。」
「それは大丈夫。あの子はお金持だもの。何しろ玉の井御殿の檀那《だんな》って云うのがパトロンだから。」
「それは一体何だ。」
「玉の井で幾軒も店や家を持ってる人よ。もう七十位だわ。精力家よ。それア。時々カフエーへ来るお客だったの。」
「ふーむ。」
「わたしにもおでん屋よりか、やるなら一層《いっそう》の事、あの方の店をやれって云うのよ。店も玉も照ちゃんが檀那にそう言って、いいのを紹介するって云うのよ。だけれど、其時にはわたし一人きりで、相談する人もないし、わたしが自分でやるわけにも行かないしするから、それでおでん屋かスタンドのような、一人でやれるものの方がいいと思ったのよ。」
「そうか、それであの土地を択《えら》んだんだね。」
「照ちゃんは母さんにお金貸をさせているわ。」
「事業家だな。」
「ちゃっかりしてるけれども、人をだましたりなんかしないから。」
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 九月も半《なかば》ちかくなったが残暑はすこしも退《しりぞ》かぬばかりか、八月中よりも却て烈しくなったように思われた。簾《すだれ》を撲《う》つ風ばかり時にはいかにも秋らしい響を立てながら、それも毎日のように夕方になるとぱったり凪《な》いでしまって、夜《よ》はさながら関西の町に在るが如く、深《ふ》けるにつれてますます蒸暑くなるような日が幾日もつづく。
 草稿をつくるのと、蔵書を曝《さら》すのとで、案外いそがしく、わたくしは三日ばかり外へ出なかった。
 残暑の日盛り蔵書を曝すのと、風のない初冬《はつふゆ》の午後《ひるすぎ》庭の落葉を焚《た》く事とは、わたくしが独居の生涯の最も娯《たの》しみとしている処である。曝書《ばくしょ》は久しく高閣に束ねた書物を眺めやって、初め熟読した時分の事を回想し時勢と趣味との変遷を思い知る機会をつくるからである。落葉を焚く楽みは其身の市井《しせい》に在ることをしばしなりとも忘れさせるが故である。
 古本の虫干だけはやっと済んだので、其日|夕飯《ゆうめし》を終るが否やいつものように破れたズボンに古下駄をはいて外へ出ると、門の柱にはもう灯《ひ》がついていた。夕凪《ゆうなぎ》の暑さに係《かかわ》らず、日はいつか驚くばかり短くなっているのである。
 わずか三日ばかりであるが、外へ出て見ると、わけもなく久しい間、行かねばならない処へ行かずにいたような心持がしてわたくしは幾分なりと途中の時間まで短くしようと、京橋の電車の乗換場から地下鉄道に乗った。若い時から遊び馴れた身でありながら、女を尋ねるのに、こんな気ぜわしい心持になったのは三十年来絶えて久しく覚えた事がないと言っても、それは決して誇張ではない。雷門からはまた円タクを走らせ、やがていつもの路地口。いつもの伏見稲荷。ふと見れば汚れきった奉納の幟《のぼり》が四五本とも皆新しくなって、赤いのはなくなり、白いものばかりになっていた。いつもの溝際に、いつもの無花果と、いつもの葡萄、然しその葉の茂りはすこし薄くなって、いくら暑くとも、いくら世間から見捨てられた此路地にも、秋は知らず知らず夜毎に深くなって行く事を知らせていた。
 いつもの窓に見えるお雪の顔も、今夜はいつもの潰島田《つぶし》ではなく、銀杏《いちょう》返しに手柄をかけたような、牡丹《ぼたん》とかよぶ髷《まげ》に変っていたので、わたくしは此方《こなた》から眺めて顔ちがいのしたのを怪しみながら歩み寄ると、お雪はいかにもじれったそうに扉をあけながら、「あなた。」と一言強く呼んだ後、急に調子を低くして、「心配したのよ。それでも、まア、よかったねえ。」
 わたくしは初め其意を解しかねて、下駄もぬがず上口《あがりぐち》へ腰をかけた。
「新聞に出ていたよ。少し違うようだから、そうじゃあるまいと思ったんだけれど、随分心配したわ。」
「そうか。」やっと当《あて》がついたので、わたくしも俄に声をひそめ、「おれはそんなドジなまねはしない。始終気をつけているもの。」
「一体、どうしたの。顔を見れば別に何でもないんだけれど、来る人が来ないと、何だか妙にさびしいものよ。」
「でも、雪ちゃんは相変らずいそがしいんだろう。」
「暑い中《うち》は知れたものよ。いくらいそがしいたって。」
「今年はいつまでも、ほんとに暑いな。」と云った時お雪は「鳥渡《ちょいと》しずかに。」と云いながらわたくしの額にとまった蚊を掌《てのひら》でおさえた。
 家の内の蚊は前よりも一層多くなったようで、人を刺す其針も鋭く太くなったらしい。お雪は懐紙《ふところがみ》でわたくしの額と自分の手についた血をふき、「こら。こんな。」と云って其紙を見せて円める。
「この蚊がなくなれば年の暮だろう。」
「そう。去年お酉《とり》様の時分にはまだ居たかも知れない。」
「やっぱり反歩《たんぽ》か。」ときいたが、時代の違っている事に気がついて、「この辺でも吉原の裏へ行くのか。」
「ええ。」と云いながらお雪はチリンチリンと鳴る鈴の音《ね》を聞きつけ、立って窓口へ出た。
「兼ちゃん。ここだよ。何ボヤボヤしているのさ。氷|白玉《しらたま》二つ……それから、ついでに蚊遣香を買って来ておくれ。いい児だ。」
 そのまま窓に坐って、通り過る素見客《ひやかし》にからかわれたり、又|此方《こっち》からもからかったりしている。其間々には中仕切の大阪格子を隔てて、わたくしの方へも話をしかける。氷屋の男がお待遠うと云って誂《あつら》えたものを持って来た。
「あなた。白玉なら食べるんでしょう。今日はわたしがおごるわ。」
「よく覚えているなア。そんな事……。」
「覚えてるわよ。実《じつ》があるでしょう。だからもう、そこら中浮気するの、お止《よ》しなさい。」
「此処《ここ》へ来ないと、どこか、他《わき》の家《うち》へ行くと思ってるのか。仕様がない。」
「男は大概そうだもの。」
「白玉が咽喉《のど》へつかえるよ。食べる中《うち》だけ仲好くしようや。」
「知らない。」とお雪はわざと荒々しく匙《さじ》の音をさせて山盛にした氷を突崩《つきくず》した。
 窓口を覗《のぞ》いた素見客が、「よう、姉さん、御馳走さま。」
「一つあげよう。口をおあき。」
「青酸加里か。命が惜しいや。」
「文無しのくせに、聞いてあきれらア。」
「何|云《いっ》てやんでい。溝ッ蚊女郎。」と捨台詞《すてぜりふ》で行き過るのを此方も負けて居ず、
「へッ。芥溜《ごみため》野郎。」
「はははは。」と後《あと》から来る素見客がまた笑って通り過ぎた。
 お雪は氷を一匙口へ入れては外を見ながら、無意識に、「ちょっと、ちょっと、だーんな。」と節をつけて呼んでいる中、立止って窓を覗くものがあると、甘えたような声をして、「お一人、じゃ上ってよ。まだ口あけなんだから。さア、よう。」と言って見たり、また人によっては、いかにも殊勝らしく、「ええ。構いません。お上りになってから、お気に召さなかったら、お帰りになっても構いませんよ。」と暫くの間話をして、その挙句《あげく》これも上らずに行ってしまっても、お雪は別につまらないという風さえもせず、思出したように、解けた氷の中から残った白玉をすくい出して、むしゃむしゃ食べたり、煙草をのんだりしている。
 わたくしは既にお雪の性質を記述した時、快活な女であるとも言い、また其境涯をさほど悲しんでもいないと言った。それは、わたくしが茶の間の片隅に坐って、破団扇《やれうちわ》の音も成るべくしないように蚊を追いながら、お雪が店先に坐っている時の、こういう様子を納簾《のれん》の間から透《すか》し見て、それから推察したものに外ならない。この推察は極く皮相に止《とどま》っているかも知れない。為人《ひととなり》の一面を見たに過ぎぬかも知れない。
 然しここにわたくしの観察の決して誤らざる事を断言し得る事がある。それはお雪の性質の如何《いかん》に係らず、窓の外の人通りと、窓の内のお雪との間には、互に融和すべき一|縷《る》の糸の繋《つな》がれていることである。お雪が快活の女で、其境涯を左程悲しんでいないように見えたのが、若《も》しわたくしの誤りであったなら、其誤はこの融和から生じたものだと、わたくしは弁解したい。窓の外は大衆である。即《すなわ》ち世間である。窓の内は一個人である。そしてこの両者の間には著しく相反目している何物もない。これは何《なん》に因るのであろう。お雪はまだ年が若い。まだ世間一般の感情を失わないからである。お雪は窓に坐っている間はその身を卑しいものとなして、別に隠している人格を胸の底に持っている。窓の外を通る人は其歩みを此路地に入るるや仮面をぬぎ矜負《きょうふ》を去るからである。
 わたくしは若い時から脂粉の巷《ちまた》に入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉《とら》われて、彼女達《かのおんなたち》の望むがまま家に納《い》れて箕帚《きそう》を把《と》らせたこともあったが、然しそれは皆失敗に終った。彼女達は一たび其境遇を替え、其身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教う可からざる懶婦《らんぷ》となるか、然らざれば制御しがたい悍婦《かんぷ》になってしまうからであった。
 お雪はいつとはなく、わたくしの力に依って、境遇を一変させようと云う心を起している。懶婦か悍婦かになろうとしている。お雪の後半生をして懶婦たらしめず、悍婦たらしめず、真に幸福なる家庭の人たらしめるものは、失敗の経験にのみ富んでいるわたくしではなくして、前途に猶多くの歳月を持っている人でなければならない。然し今、これを説いてもお雪には決して分ろう筈がない。お雪はわたくしの二重人格の一面だけしか見ていない。わたくしはお雪の窺《うかが》い知らぬ他の一面を曝露して、其非を知らしめるのは容易である。それを承知しながら、わたくしが猶|躊躇《ちゅうちょ》しているのは心に忍びないところがあったからだ。これはわたくしを庇《かば》うのではない。お雪が自らその誤解を覚《さと》った時、甚しく失望し、甚しく悲しみはしまいかと云うことをわたくしは恐れて居たからである。
 お雪は倦《う》みつかれたわたくしの心に、偶然過去の世のなつかしい幻影を彷彿《ほうふつ》たらしめたミューズである。久しく机の上に置いてあった一篇の草稿は若しお雪の心がわたくしの方に向けられなかったなら、――少くとも然《そ》う云う気がしなかったなら、既に裂き棄てられていたに違いない。お雪は今の世から見捨てられた一老作家の、他分そが最終の作とも思われる草稿を完成させた不可思議な激励者である。わたくしは其顔を見るたび心から礼を言いたいと思っている。其結果から論じたら、わたくしは処世の経験に乏しい彼の女《おんな》を欺き、其|身体《しんたい》のみならず其の真情をも弄《もてあそ》んだ事になるであろう。わたくしは此の許され難い罪の詫《わ》びをしたいと心ではそう思いながら、そうする事の出来ない事情を悲しんでいる。
 その夜、お雪が窓口で言った言葉から、わたくしの切ない心持はいよいよ切なくなった。今はこれを避けるためには、重ねてその顔を見ないに越したことはない。まだ、今の中ならば、それほど深い悲しみと失望とをお雪の胸に与えずとも済むであろう。お雪はまだ其本名をも其|生立《おいたち》をも、問われないままに、打明《うちあけ》る機会に遇わなかった。今夜あたりがそれとなく別れを告げる瀬戸際で、もし之を越したなら、取返しのつかない悲しみを見なければなるまいと云うような心持が、夜のふけかけるにつれて、わけもなく激しくなって来る。
 物に追われるような此心持は、折から急に吹出した風が表通から路地に流れ込み、あち等こち等へ突当った末、小さな窓から家の内《なか》まで入って来て、鈴のついた納簾《のれん》の紐《ひも》をゆする。其音につれて一しお深くなったように思われた。其音は風鈴売が※[#「木+靈」、第3水準1-86-29]子窓《れんじまど》の外を通る時ともちがって、此別天地より外には決して聞かれないものであろう。夏の末から秋になっても、打続く毎夜のあつさに今まで全く気のつかなかっただけ、その響は秋の夜もいよいよまったくの夜長らしく深《ふ》けそめて来た事を、しみじみと思い知らせるのである。気のせいか通る人の跫音《あしおと》も静に冴《さ》え、そこ等の窓でくしゃみをする女の声も聞える。
 お雪は窓から立ち、茶の間へ来て煙草へ火をつけながら、思出したように、
「あなた。あした早く来てくれない。」と云った。
「早くって、夕方か。」
「もっと早くさ。あしたは火曜日だから診察日なんだよ。十一時にしまうから、一緒に浅草へ行かない。四時頃までに帰って来ればいいんだから。」
 わたくしは行ってもいいと思った。それとなく別盃《べっぱい》を酌《く》むために行きたい気はしたが、新聞記者と文学者とに見られて又もや筆誅《ひっちゅう》せられる事を恐れもするので、
「公園は具合のわるいことがあるんだよ。何か買うものでもあるのか。」
「時計も買いたいし、もうすぐ袷《あわせ》だから。」
「あついあついと言ってる中、ほんとにもうじきお彼岸だね。袷はどのくらいするんだ。店で着るのか。」
「そう。どうしても三十円はかかるでしょう。」
「そのくらいなら、ここに持っているよ。一人で行って誂《あつら》えておいでな。」と紙入を出した。
「あなた。ほんと。」
「気味がわるいのか。心配するなよ。」
 わたくしは、お雪が意外のよろこびに眼を見張った其顔を、永く忘れないようにじっと見詰めながら、紙入の中の紙幣《さつ》を出して茶ぶ台の上に置いた。
 戸を叩《たた》く音と共に主人の声がしたので、お雪は何か言いかけたのも、それなり黙って、伊達締《だてじめ》の間に紙幣《さつ》を隠す。わたくしは突《つ》と立って主人《あるじ》と入れちがいに外へ出た。
 伏見稲荷の前まで来ると、風は路地の奥とはちがって、表通から真向《まっこう》に突き入りいきなりわたくしの髪を吹乱した。わたくしは此処へ来る時の外はいつも帽子をかぶり馴れているので、風に吹きつけられたと思うと同時に、片手を挙げて見て始て帽子のないのに心づき、覚えず苦笑を浮べた。奉納の幟《のぼり》は竿《さお》も折れるばかり、路地口に屋台を据えたおでん屋の納簾と共にちぎれて飛びそうに閃《ひらめ》き翻《ひるがえ》っている。溝の角の無花果《いちじく》と葡萄《ぶどう》の葉は、廃屋のかげになった闇の中にがさがさと、既に枯れたような響を立てている。表通りへ出ると、俄に広く打仰がれる空には銀河の影のみならず、星という星の光のいかにも森然として冴渡《さえわた》っているのが、言知れぬさびしさを思わせる折も折、人家のうしろを走り過る電車の音と警笛の響とが烈風にかすれて、更にこの寂しさを深くさせる。わたくしは帰りの道筋を、白髯橋の方に取る時には、いつも隅田町郵便局の在るあたりか、又は向島劇場という活動小屋のあたりから勝手に横道に入り、陋巷《ろうこう》の間を迂曲《うきょく》する小道を辿《たど》り辿って、結局白髯明神の裏手へ出るのである。八月の末から九月の初めにかけては、時々夜になって驟雨《ゆうだち》の霽《は》れた後《あと》、澄みわたった空には明月が出て、道も明く、むかしの景色も思出されるので、知らず知らず言問《こととい》の岡あたりまで歩いてしまうことが多かったが、今夜はもう月もない。吹き通す川風も忽ち肌寒くなって来るので、わたくしは地蔵坂の停留場に行きつくが否や、待合所の板バメと地蔵尊との間に身をちぢめて風をよけた。

 四五日たつと、あの夜をかぎりもう行かないつもりで、秋袷の代まで置いて来たのにも係らず、何やらもう一度行って見たい気がして来た。お雪はどうしたかしら。相変らず窓に坐っている事はわかりきっていながら、それとなく顔だけ見に行きたくて堪らない。お雪には気がつかないように、そっと顔だけ、様子だけ覗いて来よう。あの辺を一巡《ひとまわ》りして帰って来れば隣のラディオも止む時分になるのであろうと、罪をラディオに塗付けて、わたくしはまたもや墨田川を渡って東の方へ歩いた。
 路地に入る前、顔をかくす為、鳥打帽を買い、素見客《ひやかし》が五六人来合すのを待って、その人達の蔭に姿をかくし、溝の此方《こなた》からお雪の家を窺《のぞ》いて見ると、お雪は新形の髷を元のつぶしに結い直し、いつものように窓に坐っていた。と見れば、同じ軒の下の右側の窓はこれまで閉めきってあったのが、今夜は明くなって、燈影《ほかげ》の中に丸髷の顔が動いている。新しい抱《かかえ》――この土地では出方《でかた》さんとかいうものが来たのである。遠くからで能《よ》くはわからないが、お雪よりは年もとっているらしく容貌《きりょう》もよくはないようである。わたくしは人通りに交って別の路地へ曲った。
 その夜はいつもと同じように日が暮れてから急に風が凪《な》いで蒸暑くなった為《た》めか、路地の中の人出もまた夏の夜のように夥《おびただ》しく、曲る角々は身を斜めにしなければ通れぬ程で、流れる汗と、息苦しさとに堪えかね、わたくしは出口を求めて自動車の走《は》せちがう広小路へ出た。そして夜店の並んでいない方の舗道を歩み、実はそのまま帰るつもりで七丁目の停留場に佇立《たたず》んで額の汗を拭った。車庫からわずか一二町のところなので、人の乗っていない市営バスがあたかもわたくしを迎えるように来て停った。わたくしは舗道から一歩《ひとあし》踏み出そうとして、何やら急にわけもわからず名残《なごり》惜しい気がして、又ぶらぶら歩き出すと、間もなく酒屋の前の曲角《まがりかど》にポストの立っている六丁目の停留場である。ここには五六人の人が車を待っていた。わたくしはこの停留場でも空《むな》しく三四台の車を行き過《すご》させ、唯|茫然《ぼうぜん》として、白楊樹《ポプラ》の立ちならぶ表通と、横町の角に沿うた広い空地の方を眺めた。
 この空地には夏から秋にかけて、ついこの間まで、初めは曲馬、次には猿芝居、その次には幽霊の見世物小屋が、毎夜さわがしく蓄音機を鳴《なら》し立てていたのであるが、いつの間にか、もとのようになって、あたりの薄暗い灯影《ほかげ》が水溜《みずたまり》の面《おもて》に反映しているばかりである。わたくしはとにかくもう一度お雪をたずねて、旅行をするからとか何とか言って別れよう。其の方が鼬《いたち》の道を切ったような事をするよりは、どうせ行かないものなら、お雪の方でも後々《あとあと》の心持がわるくないであろう。出来ることなら、真《まこと》の事情を打明けてしまいたい。わたくしは散歩したいにも其処《そのところ》がない。尋ねたいと思う人は皆先に死んでしまった。風流絃歌の巷も今では音楽家と舞踊家との名を争う処で、年寄が茶を啜《すす》ってむかしを語る処ではない。わたくしは図らずも此のラビラントの一隅に於いて浮世半日《ふせいはんじつ》の閑を偸《ぬす》む事を知った。そのつもりで邪魔でもあろうけれど折々遊びに来る時は快く上げてくれと、晩蒔《おそまき》ながら、わかるように説明したい……。わたくしは再び路地へ入ってお雪の家の窓に立寄った。
「さア、お上んなさい。」とお雪は来る筈の人が来たという心持を、其様子と調子とに現したが、いつものように下の茶の間には通さず、先に立って梯子《はしご》を上るので、わたくしも様子を察して、
「親方が居るのか。」
「ええ。おかみさんも一緒……。」
「新奇のが来たね。」
「御飯|焚《たき》のばアやも来たわ。」
「そうか。急に賑かになったんだな。」
「暫く独りでいたら、大勢だと全くうるさいわね。」急に思出したらしく、「この間はありがとう。」
「好《い》いのがあったか。」
「ええ。明日《あした》あたり出来てくる筈よ。伊達締《だてじめ》も一本買ったわ。これはもうこんなだもの。後で下へ行って持ってくるわ。」
 お雪は下へ降りて茶を運んで来た。姑《しばら》く窓に腰をかけて何ともつかぬ話をしていたが、主人《あるじ》夫婦は帰りそうな様子もない。その中《うち》梯子の降口《おりくち》につけた呼鈴が鳴る。馴染の客が来た知らせである。
 家《うち》の様子が今までお雪一人の時とは全くちがって、長くは居られぬようになり、お雪の方でもまた主人の手前を気兼しているらしいので、わたくしは言おうと思った事もそのまま、半時間とはたたぬ中《うち》戸口を出た。
 四五日過ると季節は彼岸に入った。空模様は俄《にわか》に変って、南風《なんぷう》に追われる暗雲の低く空を行き過る時、大粒の雨は礫《つぶて》を打つように降りそそいでは忽《たちま》ち歇《や》む。夜を徹して小息《おや》みもなく降りつづくこともあった。わたくしが庭の葉※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]頭は根もとから倒れた。萩の花は葉と共に振り落され、既に実を結んだ秋海堂《しゅうかいどう》の紅い茎は大きな葉を剥《は》がれて、痛ましく色が褪《あ》せてしまった。濡れた木《こ》の葉《は》と枯枝とに狼藉《ろうぜき》としている庭のさまを生き残った法師蝉《ほうしぜみ》と蟋蟀《こおろぎ》とが雨の霽《は》れま霽れまに嘆き弔《とむら》うばかり。わたくしは年々秋風秋雨に襲われた後《のち》の庭を見るたびたび紅楼夢《こうろうむ》の中にある秋窓風雨夕《しゅうそうふううのゆうべ》と題された一篇の古詩を思起す。

  秋花ハ惨淡とシテ秋草ハ黄ナリ。
  耿耿タル秋燈秋夜ハ長[シ。
   已ニ賞ス秋窓ニ秋ノ不尽キザルヲ。
  那イカンゾ堪ンヤ風雨ノ助クルヲ凄涼ヲ。
  助クルノ秋ヲ風雨ハ来ルコト何ゾ速ナルヤ。
  驚破ス秋窓秋夢ノ緑ナルヲ。
………………………
 そして、わたくしは毎年同じように、とても出来ぬとは知りながら、何とかうまく翻訳して見たいと思い煩《わずら》うのである。
 風雨の中に彼岸は過ぎ、天気がからりと晴れると、九月の月も残り少く、やがて其年の十五夜になった。
 前の夜もふけそめてから月が好かったが、十五夜の当夜には早くから一層曇りのない明月を見た。
 わたくしがお雪の病んで入院していることを知ったのは其夜である。雇婆から窓口で聞いただけなので、病の何であるのかも知る由がなかった。
 十月になると例年よりも寒さが早く来た。既に十五夜の晩にも玉の井|稲荷《いなり》の前通の商店に、「皆さん、障子《しょうじ》張りかえの時が来ました。サービスに上等の糊を進呈。」とかいた紙が下っていたではないか。もはや素足に古下駄を引摺《ひきず》り帽子もかぶらず夜歩きをする時節ではない。隣家《となり》のラディオも閉めた雨戸に遮《さえぎ》られて、それほどわたくしを苦しめないようになったので、わたくしは家に居てもどうやら燈火に親しむことができるようになった。

        *        *        *

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東綺譚《ぼくとうきたん》はここに筆を擱《お》くべきであろう。然しながら若しここに古風な小説的結末をつけようと欲するならば、半年或は一年の後、わたくしが偶然思いがけない処で、既に素人《しろと》になっているお雪に廻《めぐ》り逢う一節を書添えればよいであろう。猶又、この偶然の邂逅《かいこう》をして更に感傷的ならしめようと思ったなら、摺れちがう自動車とか或は列車の窓から、互に顔を見合しながら、言葉を交したいにも交すことの出来ない場面を設ければよいであろう。楓葉荻花《ふうようてきか》秋は瑟々《しつしつ》たる刀禰河《とねがわ》あたりの渡船《わたしぶね》で摺れちがう処などは、殊に妙であろう。
 わたくしとお雪とは、互に其本名も其住所をも知らずにしまった。唯壥東の裏町、蚊のわめく溝際《どぶぎわ》の家で狎《な》れしたしんだばかり。一たび別れてしまえば生涯相逢うべき機会も手段もない間柄である。軽い恋愛の遊戯とは云いながら、再会の望みなき事を初めから知りぬいていた別離の情は、強《し》いて之《これ》を語ろうとすれば誇張に陥り、之を軽々《けいけい》に叙し去れば情を尽さぬ憾《うら》みがある。ピエールロッチの名著|阿菊《おきく》さんの末段は、能《よ》く這般《しゃはん》の情緒を描き尽し、人をして暗涙を催さしむる力があった。わたくしが
東綺譚の一篇に小説的色彩を添加しようとしても、それは徒《いたずら》にロッチの筆を学んで至らざるの笑を招くに過ぎぬかも知れない。
 わたくしはお雪が永く溝際の家にいて、極めて廉価《れんか》に其|媚《こび》を売るものでない事は、何のいわれもなく早くから之を予想していた。若い頃、わたくしは遊里の消息に通暁した老人から、こんな話をきかされたことがあった。これほど気に入った女はない。早く話をつけないと、外のお客に身受けをされてしまいはせぬかと思うような気がすると、其女はきっと病気で死ぬか、そうでなければ突然|厭《いや》な男に身受をされて遠い国へ行ってしまう。何の訳もない気病みというものは不思議に当るものだと云う話である。
 お雪はあの土地の女には似合わしからぬ容色と才智とを持っていた。群《けいぐん》の一鶴《いっかく》であった。然し昔と今とは時代がちがうから、病むとも死ぬような事はあるまい。義理にからまれて思わぬ人に一生を寄せる事もあるまい……。
 建込んだ汚《きたな》らしい家の屋根つづき、風雨《あらし》の来る前の重苦しい空に映る燈影《ほかげ》を望みながら、お雪とわたくしとは真暗な二階の窓に倚《よ》って、互に汗ばむ手を取りながら、唯それともなく謎《なぞ》のような事を言って語り合った時、突然閃き落ちる稲妻に照らされたその横顔。それは今も猶ありありと目に残って消去らずにいる。わたくしは二十《はたち》の頃から恋愛の遊戯に耽《ふけ》ったが、然し此の老境に至って、このような癡夢《ちむ》を語らねばならないような心持になろうとは。運命の人を揶揄《やゆ》することもまた甚しいではないか。草稿の裏には猶数行の余白がある。筆の行くまま、詩だか散文だか訳のわからぬものを書《しる》して此夜の愁《うれい》を慰めよう。


  残る蚊に額さされしわが血汐。
   ふところ紙に
  君は拭いて捨てし庭の隅。
  葉※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]頭の一茎《ひとくき》立ちぬ。
  夜ごとの霜のさむければ、
  夕暮の風をも待たで、
  倒れ死すべき定めも知らず、
   錦なす葉の萎《しお》れながらに
  色増す姿ぞいたましき。
  病める蝶ありて
   傷《きずつ》きし翼によろめき、
   返《かえり》咲く花とうたがう※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]頭の
  倒れ死すべきその葉かげ。
   宿かる夢も
  結ぶにひまなき晩秋《おそあき》の
  たそがれ迫る庭の隅。
  君とわかれしわが身ひとり、
  倒れ死すべき頭の一茎と
  ならびて立てる心はいかに。

  丙子《ひのえね》十月三十日脱稿

作後|贅言《ぜいげん》

 向島寺島町に在る遊里の見聞記《けんもんき》をつくって、わたくしは之を]壥東綺譚と命名した。
 壥の字は林述斎が墨田川を言現《いいあらわ》すために濫《みだり》に作ったもので、その詩集には漁謡と題せられたものがある。文化年代のことである。
 幕府瓦解の際、成島柳北が下谷|和泉橋通《いずみばしどおり》の賜邸《してい》を引払い、向島|須崎村《すさきむら》の別荘を家となしてから其詩文には多く壥の字が用い出された。それから壥字が再び汎《あまね》く文人|墨客《ぼっかく》の間に用いられるようになったが、柳北の死後に至って、いつともなく見馴れぬ字となった。
 物徂徠は墨田川を澄江となしていたように思っている。天明の頃には墨田堤を葛坡《かつは》となした詩人もあった。明治の初年詩文の流行を極めた頃、小野湖山は向島の文字を雅馴《がじゅん》ならずとなし、其音によって夢香洲《むこうしゅう》の三字を考出したが、これも久しからずして忘れられてしまった。現時向島の妓街に夢香荘とよぶ連込宿がある。小野湖山の風流を襲《つ》ぐ心であるのかどうか、未《いま》だ詳《つまびらか》にするを得ない。
 寺島町五丁目から六七丁目にわたった狭斜の地は、白髯橋《しらひげばし》の東方四五町のところに在る。即ち墨田堤の東北に在るので、上となすには少し遠すぎるような気がした。依《よ》ってわたくしはこれを壥東と呼ぶことにしたのである。壥東綺譚はその初め稿を脱した時、直《ただち》に地名を取って「玉の井|雙紙《ぞうし》」と題したのであるが、後に聊《いささ》か思うところがあって、今の世には縁遠い字を用いて、殊更に風雅をよそおわせたのである。
 小説の命題などについても、わたくしは十余年前|井上唖々子《いのうえああし》を失い、去年の春|神代帚葉翁《こうじろそうようおう》の訃《ふ》を聞いてから、爾来《じらい》全く意見を問うべき人がなく、又それ等について諧語《かいご》する相手もなくなってしまった。※[#「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25]東綺譚は若し帚葉翁が世に在るの日であったなら、わたくしは稿を脱するや否や、直に走って、翁を千駄木町《せんだぎまち》の寓居《ぐうきょ》に訪《おとな》い其閲読を煩《わずらわ》さねばならぬものであった。何故《なにゆえ》かというに翁はわたくしなどより、ずっと早くからかのラビラントの事情に通暁し、好んで之を人に語っていたからである。翁は坐中の談話がたまたまその地の事に及べば、まず傍人より万年筆を借り、バットの箱の中身を抜き出し、其裏面に市中より迷宮に至る道路の地図を描き、ついで路地の出入口を記《き》し、その分れて那辺に至り又那辺に合するかを説明すること、掌《たなごころ》を指《さ》すが如くであった。
 そのころ、わたくしは大抵毎晩のように銀座尾張町の四ツ角で翁に出逢った。翁は人を待合すのにカフエーや喫茶店を利用しない。待設けた人が来てから後、話をする時になって初めて飲食店の椅子に坐るのである。それまでは康衢《こうく》の一隅に立ち、時間を測って、逢うべき人の来るのを待っているのであるが、その予測に反して空しく時を費すことがあっても、翁は決して怒りもせず悲しみもしない。翁の街頭に佇立《たたず》むのは約束した人の来るのを待つためばかりではない。寧《むしろ》これを利用して街上の光景を眺めることを喜んでいたからである。翁が生前|屡《しばしば》わたくしに示した其手帳には、某年某月某日の条下に、某処に於いて見る所、何時より何時までの間、通行の女|凡《およ》そ何人の中《うち》洋装をなすもの幾人。女給らしきものにして檀那《だんな》らしきものと連立って歩むもの幾人。物貰い門附《かどづけ》幾人などと記してあったが、これ等は町の角や、カフエーの前の樹の下などに立たずんで人を待っている間に鉛筆を走《はしら》したものである。
 今年残暑の殊に甚《はなはだ》しかった或夜、わたくしは玉の井稲荷前の横町を歩いていた時、おでん屋か何かの暖簾《のれん》の間から、三味線を抱えて出て来た十七八の一寸《ちょっと》顔立のいい門附から、「おじさん。」と親しげに呼びかけられた事があった。
「おじさん、こっちへも遊びに来るのかい。」
 初めは全く見忘れていたが、門附の女の糸切歯を出して笑う口元から、わたくしは忽《たちま》ち四五年前、銀座の裏町で帚葉翁と共にこの娘とはなしをした事があったのを思出した。翁は銀座から駒込の家に帰る時、いつも最終の電車を尾張町の四辻か銀座三丁目の松屋前で待っている間、同じ停留場に立っている花売、辻占売《つじうらうり》、門附などと話をする。車に乗ってからも相手が避けないかぎり話をしつづけるので、この門附の娘とは余程前から顔を知り合っていたのであった。
 門附の娘はわたくしが銀座の裏通りで折々見掛けた時分には、まだ肩揚《かたあげ》をして三味線を持たず、左右の手に四竹《よつだけ》を握っていた。髪は桃割《ももわれ》に結い、黒|襟《えり》をかけた袂《たもと》の長い着物に、赤い半襟。赤い帯をしめ、黒塗の下駄の鼻緒も赤いのをかけた様子は、女義太夫の弟子でなければ、場末の色町の半玉のようにも見られた。細面《ほそおもて》のませた顔立から、首や肩のほっそりした身体《からだ》つきもまたそういう人達に能《よ》く見られる典型的なものであった。その生立や性質の型通りであるらしいことも、また恐らくは問うに及ばぬことであろう。
「すっかり、姉《ねえ》さんになっちまったな。まるで芸者衆《げいしゃしゅ》だよ。」
「ほほほほほ、おかしか無い。」と言いながら娘は平打《ひらうち》の簪《かんざし》を島田の根元にさし直した。
「おかしいものか。お前も銀座仕込じゃないか。」
「でも、あたい、もう彼方《あっち》へは行かないんだよ。」
「こっちの方がいいか。」
「此方《こっち》だって、何処だって、いいことはないよ。だけれど、銀座はあぶれると歩いちゃ帰れないし、仕様がないからね。」
「お前、あの時分は柳島へ帰るのだったね。」
「ああ、今は請地《うけじ》へ越したよ。」
「お腹《なか》がすいてるか。」
「いいえ、まだ宵《よい》の口だもの。」
 銀座では電車賃をやった事もあったので、其夜は祝儀五十銭を与えて別れた。その後一ト月ばかりたって、また路端《みちばた》で出逢ったことがあるが、間もなく夜露も追々肌寒くなって来たので、わたくしはこの町へ散歩に来ることも次第に稀になった。しかしこの町の最も繁昌するのは、夜風の身に沁《し》むようになってからだと云うから、あの娘もこの頃は毎夜かかさずふけ渡る町を歩いているのであろう。

        *        *        *

 帚葉翁《そうようおう》とわたくしとが、銀座の夜深《よふけ》に、初めてあの娘の姿を見た頃と、今年図らず寺島町の路端でめぐり逢った時とを思合せると、歳月は早くも五年を過ぎている。この間に時勢の変ったことは、半玉のような此娘の着物の肩揚がとれ、桃割が結綿《ゆいわた》をかけた島田になった其変りかたとは、同じ見方を以て見るべきものではあるまい。四竹を鳴して説経を唱《うた》っていた娘が、三味線をひいて流行唄《はやりうた》を歌う姉さんになったのは、《ぼうふり》が蚊になり、オボコがイナになり、イナがボラになったと同じで、これは自然の進化である。マルクスを論じていた人が朱子学を奉ずるようになったのは、進化ではなくして別の物に変ったのである。前の者は空《くう》となり、後の者は忽然《こつぜん》として出現したのである。やどり蟹《がに》の殻の中に、蟹ではない別の生物が住んだようなものである。
 われわれ東京の庶民が満洲の野《や》に風雲の起った事を知ったのは其の前の年、昭和五六年の間であった。たしかその年の秋の頃、わたくしは招魂社境内の銀杏《いちょう》の樹に三日ほどつづいて雀合戦のあった事をきいて、その最終の朝|麹町《こうじまち》の女達と共に之を見に行ったことがあった。その又前の年の夏には、赤坂見附の濠《ほり》に、深更人の定《さだま》った後、大きな蝦蟇《がま》が現れ悲痛な声を揚げて泣くという噂が立ち、或新聞の如きは蝦蟇を捕えた人に金参百円の賞を贈ると云う広告を出した。それが為め雨の降る夜などには却《かえっ》て人出が多くなったが、賞金を得た人の噂も遂に聞かず、いつの間にかこの話は烟《けむり》のように消えてしまった。
 雀合戦を見た其年も忽ち暮に迫った或日の午後、わたくしは葛西村《かさいむら》の海辺《うみべ》を歩いて道に迷い、日が暮れてから燈火を目当にして漸く船堀橋《ふなぼりばし》の所在を知り、二三度電車を乗りかえた後、洲崎の市電終点から日本橋の四辻に来たことがあった。深川の暗い町を通り過ぎた電車から、白木屋《しろきや》百貨店の横手に降りると、燈火の明るさと年の暮の雑沓《ざっとう》と、ラディオの軍歌とが一団になって、今日の半日も夜になるまで、人跡《じんせき》の絶えた枯蘆《かれあし》の岸ばかりさまよっていたわたくしの眼には、忽然《こつぜん》異様なる印象を与えた。またしても乗換の車を待つため、白木屋の店頭に佇立《たたず》むと、店の窓には、黄色の荒原の処々《ところどころ》に火の手の上っている背景を飾り、毛衣《けごろも》で包んだ兵士の人形を幾個《いくつ》となく立て並べてあったのが、これ又わたくしの眼を驚した。わたくしは直《ただち》に、街上に押合う群集の様子に眼を移したが、それは毎年《まいとし》の歳暮に見るものと何の変りもなく、殊更に立止って野営の人形を眺めるものはないらしいようであった。
 銀座通に柳の苗木が植えつけられ、両側の歩道に朱骨《しゅぼね》の雪洞《ぼんぼり》が造り花の間に連ねともされ、銀座の町が宛《さなが》ら田舎芝居の仲《なか》の町《ちょう》の場と云うような光景を呈し出したのは、次の年の四月ごろであった。わたくしは銀座に立てられた朱骨のぼんぼりと、赤坂|溜池《ためいけ》の牛肉屋の欄干が朱で塗られているのを目にして、都人《とじん》の趣味のいかに低下し来《きた》ったかを知った。霞ヶ関の義挙が世を震動させたのは柳まつりの翌月《あくるつき》であった。わたくしは丁度其|夕《ゆう》、銀座通を歩いていたので、この事を報道する号外の中では読売新聞のものが最も早く、朝日新聞がこれについだことを目撃した。時候がよく、日曜日に当っていたので、其夕銀座通はおびただしい人出であったが電信柱に貼付《はりつ》けられた号外を見ても群集は何等特別の表情を其面上に現さぬばかりか、一語のこれについて談話をするものもなく、唯露店の商人が休みもなく兵器の玩具に螺旋《ぜんまい》をかけ、水出しのピストルを乱射しているばかりであった。
 帚葉翁が古帽子をかぶり日光下駄をはいて毎夜かかさず尾張町の三越前に立ち現れたのはその頃からであった。銀座通の裏表に処を択《えら》ばず蔓衍《まんえん》したカフエーが最も繁昌し、又最も淫卑《いんぴ》に流れたのは、今日《こんにち》から回顧すると、この年昭和七年の夏から翌年にかけてのことであった。いずこのカフエーでも女給を二三人店口に立たせて通行の人を呼び込ませる。裏通のバアに働いている女達は必ず二人ずつ一組になって、表通を歩み、散歩の人の袖を引いたり目まぜで誘《いざな》ったりする。商店の飾付《かざりつけ》を見る振りをして立留り、男一人の客と見れば呼びかけて寄添い、一緒にお茶を飲みに行こうと云う怪し気な女もあった。百貨店でも売子の外に大勢の女を雇入れ、海水浴衣を着せて、女の肌身を衆人の目前に曝《さら》させるようにしたのも、たしかこの年から初まったのである。裏通の角々にはヨウヨウとか呼ぶ玩具を売る小娘の姿を見ぬ事はなかった。わたくしは若い女達が、其の雇主の命令に従って、其の顔と其の姿とを、或は店先、或は街上に曝すことを恥とも思わず、中には往々得意らしいのを見て、公娼の張店《はりみせ》が復興したような思をなした。そして、いつの世になっても、女を使役するには変らない一定の方法がある事を知ったような気がした。
 地下鉄道は既に京橋の北詰まで開鑿《かいさく》せられ、銀座通には昼夜の別なく地中に鉄棒を打込む機械の音がひびきわたり、土工は商店の軒下に処嫌わず昼寝をしていた。
 月島小学校の女教師《おんなきょうし》が夜になると銀座一丁目裏のラバサンと云うカフエーに女給となって現れ、売春の傍《かたわら》枕さがしをして捕えられた事が新聞の紙上を賑《にぎわ》した。それはやはりこの年昭和七年の冬であった。

        *        *        *

 わたくしが初て帚葉翁と交《まじわり》を訂《ただ》したのは、大正十年の頃であろう。その前から古本の市《いち》へ行くごとに出逢っていたところから、いつともなく話をするようになっていたのである。然し其後も会うところは相変らず古本屋の店先で、談話は古書に関することばかりであったので、昭和七年の夏、偶然銀座通で邂逅《かいこう》した際には、わたくしは意外の地で意外な人を見たような気がした為、其夜は立談《たちばなし》をしたまま別れたくらいであった。
 わたくしは昭和二三年のころから丁度其時分まで一時全く銀座からは遠のいていたのであったが、夜眠られない病気が年と共に烈しくなった事や、自炊に便利な食料品を買う事や、また夏中は隣家《となり》のラディオを聞かないようにする事や、それ等のためにまたしても銀座へ出かけはじめたのであるが、新聞と雑誌との筆誅《ひっちゅう》を恐れて、裏通を歩くにも人目を忍び、向《むこう》の方から頭髪を振乱した男が折革包《おりかばん》をぶら下げたり新聞雑誌を抱えたりして歩いて来るのを見ると、横町へ曲ったり電柱のかげにかくれたりしていた。
 帚葉翁はいつも白|足袋《たび》に日光下駄をはいていた。其|風采《ふうさい》を一見しても直《ただち》に現代人でない事が知られる。それ故、わたくしが現代文士を忌み恐れている理由をも説くに及ばずして翁は能く之を察していた。わたくしが表通のカフエーに行くことを避けている事情をも、翁はこれを知っていた。一夜《いちや》翁がわたくしを案内して、西銀座の裏通にあって、殆ど客の居ない万茶亭《ばんさてい》という喫茶店へつれて行き、当分その処を会合処にしようと言ったのも、わたくしの事情を知っていた故であった。
 わたくしは炎暑の時節いかに渇《かっ》する時と雖《いえども》、氷を入れた淡水の外冷いものは一切口にしない。冷水も成るべく之を避け夏も冬と変りなく熱い茶か珈琲《コーヒー》を飲む。アイスクリームの如きは帰朝以来今日まで一度も口にした事がないので、若《も》し銀座を歩く人の中で銀座のアイスクリームを知らない人があるとしたなら、それは恐らくわたくし一人《いちにん》のみであろう。翁がわたくしを万茶亭に案内したのもまたこれが為であった。
 銀座通のカフエーで夏になって熱い茶と珈琲とをつくる店は殆ど無い。西洋料理店の中でも熱い珈琲をつくらない店さえある。紅茶と珈琲とはその味《あじわい》の半《なかば》は香気に在るので、若し氷で冷却すれば香気は全く消失《きえう》せてしまう。然るに現代の東京人は冷却して香気のないものでなければ之を口にしない。わたくしの如き旧弊人《きゅうへいじん》にはこれが甚だ奇風に思われる。この奇風は大正の初にはまだ一般には行きわたっていなかった。
 紅茶も珈琲も共に洋人の持ち来ったもので、洋人は今日《こんにち》と雖その冷却せられたものを飲まない。これを以て見れば紅茶珈琲の本来の特性は暖きにあるや明《あきらか》である。今之を邦俗に従って冷却するのは本来の特性を破損するもので、それはあたかも外国の小説演劇を邦語に訳す時土地人物の名を邦化するものと相似ている。わたくしは何事によらず物の本性《ほんせい》を傷《きずつ》けることを悲しむ傾があるから、外国の文学は外国のものとして之を鑑賞したいと思うように、其飲食物の如きもまた邦人の手によって塩梅《あんばい》せられたものを好まないのである。
 万茶亭は多年南米の殖民地に働いていた九州人が珈琲を売るために開いた店だという事で、夏でも暖い珈琲を売っていた。然し其|主人《あるじ》は帚葉翁と前後して世を去り、其店もまた閉《とざ》されて、今はない。
 わたくしは帚葉翁と共に万茶亭に往く時は、狭い店の中のあつさと蠅《はえ》の多いのとを恐れて、店先の並木の下に出してある椅子に腰をかけ、夜も十二時になって店の灯の消える時迄じっとしている。家《うち》へ帰って枕についても眠られない事を知っているので十二時を過ぎても猶《なお》行くべきところがあれば誘われるままに行くことを辞さなかった。翁はわたくしと相対して並木の下に腰をかけている間に、万茶亭と隣接したラインゴルト、向側のサイセリヤ、スカール、オデッサなどいう酒場に出入する客の人数《にんず》を数えて手帳にかきとめる。円タクの運転手や門附と近づきになって話をする。それにも飽きると、表通へ物を買いに行ったり路地を歩いたりして、戻って来ると其の見て来た事をわたくしに報告する。今、どこの路地で無頼漢が神祇《じんぎ》の礼を交していたとか、或は向の川岸で怪し気な女に袖《そで》を牽《ひ》かれたとか、曾《かつ》てどこそこの店にいた女給が今はどこそこの女主人《おんなあるじ》になっているとか云う類《たぐい》のはなしである。寺島町の横町でわたくしを呼止めた門附の娘も、初めて顔を見知ったのはこの並木の下であったに違いはない。
 わたくしは翁の談話によって、銀座の町がわずか三四年見ない間にすっかり変った、其景況の大略を知ることができた。震災|前《ぜん》表通に在った商店で、もとの処に同じ業をつづけているものは数えるほどで、今は悉《ことごと》く関西もしくは九州から来た人の経営に任《ゆだ》ねられた。裏通の到る処に海豚汁《ふぐじる》や関西料理の看板がかけられ、横町の角々に屋台店の多くなったのも怪しむには当らない。地方の人が多くなって、外で物を食う人が増加したことは、いずこの飲食店も皆繁昌している事がこれを明にしている。地方の人は東京の習慣を知らない。最初停車場構内の飲食店、また百貨店の食堂で見覚えた事は悉く東京の習慣だと思込んでいるので、汁粉屋の看板を掛けた店へ来て支那|蕎麦《そば》があるかときき、蕎麦屋に入って天麩羅《てんぷら》を誂《あつら》え断られて訝《いぶか》し気な顔をするものも少くない。飲食店の硝子《ガラス》窓に飲食物の模型を並べ、之に価格をつけて置くようになったのも、蓋《けだ》し已《や》むことを得ざる結果で、これまた其《その》範《はん》を大阪に則《と》ったものだという事である。
 街に灯《ひ》がつき蓄音機の響が聞え初めると、酒気を帯びた男が四五人ずつ一組になり、互に其腕を肩にかけ合い、腰を抱き合いして、表通といわず裏通といわず銀座中をひょろひょろさまよい歩く。これも昭和になってから新《あらた》に見る所の景況で、震災後|頻《しきり》にカフエーの出来はじめた頃にはまだ見られぬものであった。わたくしは此不体裁にして甚だ無遠慮《ぶえんりょ》な行動の原因するところを詳《つまびらか》にしないのであるが、其実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生及三田出身の紳士が野球見物の帰り群《ぐん》をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。彼等は酔《えい》に乗じて夜店の商品を踏み壊し、カフエーに乱入して店内の器具のみならず家屋にも多大の損害を与え、制御の任に当る警吏と相争うに至った。そして毎年二度ずつ、この暴行は繰返されて今日に及んでいる。わたくしは世の父兄にして未《いまだ》一人《いちにん》の深く之を憤り其子弟をして退学せしめたもののある事を聞かない。世は挙《こぞ》って書生の暴行を以て是《ぜ》となすものらしい。曾てわたくしも明治大正の交、乏《ぼう》を承《う》けて三田に教鞭《きょうべん》を把《と》った事もあったが、早く辞して去ったのは幸であった。そのころ、わたくしは経営者中の一人《いちにん》から、三田の文学も稲門《とうもん》に負けないように尽力していただきたいと言われて、その愚劣なるに眉を顰《ひそ》めたこともあった。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視ていたのであった。
 わたくしは元来その習癖よりして党を結び群をなし、其威を借りて事をなすことを欲しない。むしろ之を怯《きょう》となして排《しりぞ》けている。治国の事はこれを避けて論外に措《お》く。わたくしは芸林に遊ぶものの往々社を結び党を立てて、己《おのれ》に与《くみ》するを揚げ与せざるを抑えようとするものを見て、之を怯となし、陋《ろう》となすのである。その一例を挙ぐれば、曾て文藝春秋社の徒が、築地小劇場の舞台にその党の作品の上演せられなかった事を含み、小山内薫《おさないかおる》の抱ける劇文学の解釈を以て誤れるものとなした事の如きを言うのである。
 鴻雁《こうがん》は空を行く時列をつくっておのれを護ることに努めているが、鶯《うぐいす》は幽谷を出《い》でて喬木《きょうぼく》に遷《うつ》らんとする時、群《ぐん》をもなさず列をもつくらない。然も猶鴻雁は猟者《りょうしゃ》の砲火を逃《のが》るることができないではないか。結社は必ずしも身を守る道とは言えない。
 婦女子の媚《こび》を売るものに就《つ》いて見るも、また団結を以て安全となすものと、孤影|悄然《しょうぜん》として猶且つ悲しまざるが如きものもある。銀座の表通に燈火を輝すカフエーを城郭となし、赤組と云い白組と称する団体を組織し、客の纒頭《てんとう》を貪《むさぼ》るものは女給の群《むれ》である。風呂敷包をかかえ、時には雨傘を携え、夜店の人ごみにまぎれて窃《ひそか》に行人《こうじん》の袖を引くものは独立の街娼である。この両者は其外見|頗《すこぶる》異る所があるが、その一たび警吏に追跡せらるるや、危難のその身に達することには何の差別もないのであろう。

        *        *        *

 今年昭和十一年の秋、わたくしは寺島町へ行く道すがら、浅草橋辺で花電車を見ようとする人達が路傍《みちばた》に堵《かき》をなしているのに出逢った。気がつくと手にした乗車切符がいつもよりは大形になって、市電二十五周年記念とかしてあった。何か事のある毎に、東京の街路には花電車というものが練り出される。今より五年前帚葉翁と西銀座万茶亭に夜をふかし馴れた頃、秋も既に彼岸を過ぎていたかも知れない。給仕人から今しがた花電車が銀座を通ったことを聞いた。そして、其夜の花電車は東京府下の町々が市内に編入せられたことを祝うためであった事をも見て来た人から聞き伝えたのであった。是《これ》より先、まだ残暑のさり切らぬころ、日比谷の公園に東京音頭と称する公開の舞踏会が挙行せられたことをも、わたくしはやはり見て来た人から聞いたことがあった。
 東京音頭は郡部の地が市内に合併し、東京市が広くなったのを祝するために行われたように言われていたが、内情は日比谷の角にある百貨店の広告に過ぎず、其店で揃《そろ》いの浴衣《ゆかた》を買わなければ入場の切符を手に入れることができないとの事であった。それはとにかく、東京市内の公園で若い男女の舞踏をなすことは、これまで一たびも許可せられた前例がない。地方農村の盆踊さえたしか明治の末頃には県知事の命令で禁止せられた事もあった。東京では江戸のむかし山の手の屋敷町に限って、田舎から出て来た奉公人が盆踊をする事を許されていたが、町民一般は氏神の祭礼に狂奔《きょうほん》するばかりで盆に踊る習慣はなかったのである。
 わたくしは震災|前《ぜん》、毎夜帝国ホテルに舞踏の行われた時、愛国の志士が日本刀を振《ふる》って場内に乱入した為、其後舞踏の催しは中止となった事を聞いていたので、日比谷公園に公開せられた東京音頭の会場にも何か騒ぎが起りはせぬかと、内心それを期待していたが、何事も無く音頭の踊は一週間の公開を終った。
「どうも、意外な事だね。」とわたくしは帚葉翁を顧て言った。翁は薄鬚《うすひげ》を生《はや》した口元に笑を含ませ、
「音頭とダンスとはちがうからでしょう。」
「しかし男と女とが大勢一緒になって踊るのだから、同じ事じゃないですか。」
「それは同じだが、音頭の方は男も女も洋服を着ていない。浴衣をきているからいいのでしょう。肉体を露出しないからいいのでしょう。」
「そうかね、しかし肉体を露出する事から見れば、浴衣の方があぶないじゃないですか。女の洋装は胸の方が露出されているが腰から下は大丈夫だ。浴衣は之とは反対なものですぜ。」
「いや、先生のように、そう理窟詰めにされてはどうにもならない。震災の時分、夜警団の男が洋装の女の通りかかるのを尋問した。其時何か癪《しゃく》にさわる事を言ったと云うので、女の洋服を剥《は》ぎ取って、身体検査をしたとか、しないとか大騒ぎな事があったです。夜警団の男も洋服を着ていた。それで女の洋装するのが癪にさわると云うんだから理窟にはならない。」
「そういえば女の洋服は震災時分にはまだ珍らしい方だったね。今では、こうして往来を見ていると、通る女の半分は洋服になったね。カフエー、タイガーの女給も二三年前から夏は洋服が多くなったようですね。」
「武断政治の世になったら、女の洋装はどうなるでしょう。」
「踊も浴衣ならいいと云う流儀なら、洋装ははやらなくなるかも知れませんね。然し今の女は洋装をよしたからと云って、日本服を着こなすようにはならないと思いますよ。一度崩れてしまったら、二度好くなることはないですからね。芝居でも遊芸でもそうでしょう。文章だってそうじゃないですか。勝手次第にくずしてしまったら、直そうと思ったって、もう直りはしないですよ。」
「言文一致でも鴎外先生のものだけは、朗吟する事ができますね。」帚葉翁は眼鏡をはずし両眼を閉じて、伊沢蘭軒が伝の末節を唱えた。「わたくしは学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。天下は常識に富める人の多きに堪えない。」

        *        *        *

 こんな話をしていると、夜は案外早くふけわたって、服部の時計台から十二時を打つ鐘の声が、其頃は何となく耳新しく聞きなされた。
 考証癖の強い翁は鐘の音《ね》をきくと、震災|前《ぜん》まで八官町に在った小林時計店の鐘の音《ね》が、明治のはじめには新橋八景の中にも数えられていた事などを語り出す。わたくしは明治四十四五年の頃には毎夜妓家の二階で女の帰って来るのを待ちながら、かの大時計の音《おと》に耳を澄した事などを思出すのであった。三木愛花の著した小説芸者節用などのはなしも、わたくし達二人の間には屡《しばしば》語り出される事があった。
 万茶亭の前の道路にはこの時間になると、女給や酔客の帰りを当込んで円タクが集って来る。この附近の酒場でわたくしが其名を記憶しているのは、万茶亭の向側にはオデッサ、スカール、サイセリヤ、此方《こなた》の側にはムウランルージュ、シルバースリッパ、ラインゴルトなど。また万茶亭と素人屋《しもたや》との間の路地裏にはルパン、スリイシスタ、シラムレンなど名づけられたものがあった。今も猶在るかも知れない。
 服部の鐘の音を合図に、それ等の酒場やカフエーが一斉に表の灯《ひ》を消すので、街路《まち》は俄《にわか》に薄暗く、集って来る円タクは客を載せても徒《いたずら》に喇叭《らっぱ》を鳴すばかりで、動けない程込み合う中《うち》、運転手の喧嘩がはじまる。かと思うと、巡査の姿が見えるが早いか、一輛残らず逃げ失せてしまうが、暫くして又もとのように、その辺一帯をガソリン臭くしてしまうのである。
 帚葉翁はいつも路地を抜け、裏通から尾張町の四ツ角に出《い》で、既に一群をなして赤電車を待っている女給と共に路傍に立ち、顔|馴染《なじみ》のものがいると先方の迷惑をも顧ず、大きな声で話をしかける。翁は毎夜の見聞によって、電車のどの線には女給が最も多く乗るか、又その行先は場末のどの方面が最も多いかという事を能く知っていた。自慢らしく其話に耽《ふけ》って、赤電車にも乗りそこなう事がたびたびであったが、然しそういう場合にも、翁は敢て驚く様子もなく、却て之を幸とするらしく、「先生、少しお歩きになりませんか。その辺までお送りしましょう。」と言う。
 わたくしは翁の不遇なる生涯を思返して、それはあたかも、待っていた赤電車を眼前に逸しながら、狼狽《ろうばい》の色を示さなかった態度によく似ていたような心持がした。翁は郷里の師範学校を出て、中年にして東京に来り、海軍省文書課、慶応義塾図書館、書肆《しょし》一誠堂|編輯《へんしゅう》部其他に勤務したが、永く其職に居ず、晩年は専《もっぱ》ら鉛槧《えんざん》に従事したが、これさえ多くは失敗に終った。けれども翁は深く悲しむ様子もなく、閑散の生涯を利用して、震災後|市井《しせい》の風俗を観察して自ら娯《たの》しみとしていた。翁と交るものは其悠々たる様子を見て、郷里には資産があるものと思っていたが、昭和十年の春俄に世を去った時、其家には古書と甲冑《かっちゅう》と盆裁との外、一銭の蓄《たくわえ》もなかった事を知った。
 この年銀座の表通は地下鉄道の工事最中で、夜店がなくなる頃から、凄じい物音が起り、工夫の恐しい姿が見え初めるので、翁とわたくしとの漫歩は、一たび尾張町の角まで運び出されても、すぐさま裏通に移され、おのずから芝口の方へと導かれるのであった。土橋《どばし》か難波橋《なにわばし》かをわたって省線のガードをくぐると、暗い壁の面《おもて》に、血盟団を釈放せよなど、不穏な語をつらねたいろいろの紙が貼ってあった。其下にはいつも乞食が寝ている。ガードの下を出ると歩道の片側に、「栄養の王座」など書いた看板を出し、四角な水槽《みずおけ》に鰻《うなぎ》を泳がせ釣針を売る露店が、幾軒となく桜田本郷町の四ツ角ちかくまで続いて、カフエー帰りの女給や、近所の遊人らしい男が大勢集っている。
 裏通へ曲ると、停車場の改札口と向い合った一条《ひとすじ》の路地があって、其両側に鮓《すし》屋と小料理屋が並んでいる。その中には一軒わたくしの知っている店もある。暖簾《のれん》に焼鳥金兵衛としるした家で、その女主人《おんなあるじ》は二十余年のむかし、わたくしが宗十郎町の芸者家に起臥していた頃、向側の家にいた名妓なにがしというものである。金兵衛の開店したのはたしか其年の春頃であるが、年々に繁昌して今は屋内を改築して見違えるようになっている。
 この路地には震災後も待合や芸者家が軒をつらねていたが、銀座通にカフエーの流行《はや》り始めた頃から、次第に飲食店が多くなって、夜半過に省線電車に乗る人と、カフエー帰りの男女とを目当に、大抵暁の二時ごろまで灯《あかり》を消さずにいる。鮨《すし》屋の店が多いので、鮨屋横町とよぶ人もある。
 わたくしは東京の人が夜半過ぎまで飲み歩くようになった其状況を眺める時、この新しい風習がいつ頃から起ったかを考えなければならない。
 吉原|遊廓《ゆうかく》の近くを除いて、震災|前《ぜん》東京の町中《まちじゅう》で夜半過ぎて灯を消さない飲食店は、蕎麦《そば》屋より外はなかった。
 帚葉翁はわたくしの質問に答えて、現代人が深夜飲食の楽しみを覚えたのは、省線電車が運転時間を暁一時過ぎまで延長したことと、市内一円の札を掲げた辻自動車が五十銭から三十銭まで値下げをした事とに基くのだと言って、いつものように眼鏡を取って、その細い眼を瞬《しばたた》きながら、「この有様を見たら、一部の道徳家は大に慨嘆するでしょうな。わたくしは酒を飲まないし、腥臭《なまぐさ》いものが嫌いですから、どうでも構いませんが、もし現代の風俗を矯正《きょうせい》しようと思うなら、交通を不便にして明治時代のようにすればいいのだと思います。そうでなければ夜半過ぎてから円タクの賃銭をグット高くすればいいでしょう。ところが夜おそくなればなるほど、円タクは昼間の半分よりも安くなるのですからね。」
「然し今の世の中のことは、これまでの道徳や何かで律するわけに行かない。何もかも精力発展の一現象だと思えば、暗殺も姦淫《かんいん》も、何があろうとさほど眉を顰《しか》めるにも及ばないでしょう。精力の発展と云ったのは慾望を追求する熱情と云う意味なんです。スポーツの流行、ダンスの流行、旅行登山の流行、競馬其他|博奕《ばくえき》の流行、みんな慾望の発展する現象だ。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている慾望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。」
 円タクが喇叭を吹鳴《ふきなら》している路端《みちばた》に立って、長い議論もしていられないので、翁とわたくしとは丁度三四人の女給が客らしい男と連立ち、向側の鮓屋に入ったのを見て、その後《あと》につづいて暖簾をくぐった。現代人がいかなる処、いかなる場合にもいかに甚しく優越を争おうとしているかは、路地裏の鮓屋に於いても直《ただち》に之を見ることができる。
 彼等は店の内《なか》が込んでいると見るや、忽《たちま》ち鋭い眼付になって、空席を見出すと共に人込みを押分けて驀進《ばくしん》する。物をあつらえるにも人に先《さきん》じようとして大声を揚げ、卓子《たくし》を叩き、杖で床を突いて、給仕人を呼ぶ。中にはそれさえ待ち切れず立って料理場を窺《のぞ》き、直接料理人に命令するものもある。日曜日に物見|遊山《ゆさん》に出掛け汽車の中の空席を奪取《うばいと》ろうがためには、プラットフ※[#小書き片仮名ホ、1-6-87]ームから女子供を突落す事を辞さないのも、こういう人達である。戦場に於て一番槍の手柄をなすのもこういう人達である。乗客の少い電車の中でも、こういう人達は五月人形のように股《また》を八の字に開いて腰をかけ、取れるだけ場所を取ろうとしている。
 何事をなすにも訓練が必要である。彼等はわれわれの如く徒歩して通学した者とはちがって、小学校へ通う時から雑沓《ざっとう》する電車に飛乗り、雑沓する百貨店や活動小屋の階段を上下して先を争うことに能《よ》く馴《な》らされている。自分の名を売るためには、自ら進んで全級の生徒を代表し、時の大臣や顕官に手紙を送る事を少しも恐れていない。自分から子供は無邪気だから何をしてもよい、何をしても咎《とが》められる理由はないものと解釈している。こういう子供が成長すれば人より先に学位を得んとし、人より先に職を求めんとし、人より先に富をつくろうとする。此努力が彼等の一生で、其外には何物もない。
 円タクの運転手もまた現代人の中《うち》の一人《いちにん》である。それ故わたくしは赤電車がなくなって、家に帰るため円タクに乗ろうとするに臨んでは、漠然たる恐怖を感じないわけには行かない。成るべく現代的優越の感を抱いていないように見える運転手を捜さなければならない。必要もないのに、先へ行く車を追越そうとする意気込の無さそうに見える運転手を捜さなければならない。若しこれを怠るならばわたくしの名は忽《たちまち》翌日の新聞紙上に交通禍の犠牲者として書立てられるであろう。

        *        *        *

 窓の外に聞える人の話声と箒《ほうき》の音とに、わたくしはいつもより朝早く眼をさました。臥床《ねどこ》の中から手を伸して枕もとに近い窓の幕を片よせると、朝日の光が軒を蔽《おお》う椎《しい》の茂みにさしこみ、垣根際に立っている柿の木の、取残された柿の実を一層《ひとしお》色濃く照している。箒の音と人の声とは隣の女中とわたくしの家の女中とが垣根越しに話をしながら、それぞれ庭の落葉を掃いているのであった。乾いた木《こ》の葉の※[#「くさかんむり/(嗽-口)」、第4水準2-86-69]々《そうそう》としてひびきを立てる音が、いつもより耳元ちかく聞えたのは、両方の庭を埋《うず》めた落葉が、両方ともに一度に掃き寄せられるためであった。
 わたくしは毎年冬の寝覚《ねざめ》に、落葉を掃く同じようなこの響をきくと、やはり毎年同じように、「老愁ハ葉ノ如ク掃《ハラ》ヘドモ尽キズ※[#「くさかんむり/(嗽-口)」、第4水準2-86-69]※[#「くさかんむり/(嗽-口)」、第4水準2-86-69]タル声中又秋ヲ送ル。」と言った館柳湾《たちりゅうわん》の句を心頭に思浮べる。その日の朝も、わたくしは此句を黙誦《もくしょう》しながら、寝間着のまま起《た》って窓に倚《よ》ると、崖の榎《えのき》の黄ばんだ其葉も大方散ってしまった梢《こずえ》から、鋭い百舌《もず》の声がきこえ、庭の隅に咲いた石蕗花《つわぶき》の黄《きいろ》い花に赤|蜻蛉《とんぼ》がとまっていた。赤蜻蛉は数知れず透明な其翼をきらきらさせながら青々と澄渡った空にも高く飛んでいる。
 曇りがちであった十一月の天気も二三日前の雨と風とにすっかり定《さだま》って、いよいよ「一年ノ好景君記取セヨ」と東坡《とうば》の言ったような小春の好時節になったのである。今まで、どうかすると、一筋二筋と糸のように残って聞えた虫の音も全く絶えてしまった。耳にひびく物音は悉《ことごと》く昨日《きのう》のものとは変って、今年の秋は名残りもなく過ぎ去ってしまったのだと思うと、寝苦しかった残暑の夜の夢も涼しい月の夜に眺めた景色も、何やら遠いむかしの事であったような気がして来る……年々見るところの景物に変りはない。年々変らない景物に対して、心に思うところの感懐もまた変りはないのである。花の散るが如く、葉の落《おつ》るが如く、わたくしには親しかった彼《か》の人々は一人一人相ついで逝《い》ってしまった。わたくしもまた彼の人々と同じように、その後を追うべき時の既に甚しくおそくない事を知っている。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃《はら》いに行こう。落葉はわたくしの庭と同じように、かの人々の墓をも埋めつくしているのであろう。
            昭和十一年|丙子《ひのえね》十一月脱稿

底本:「※[#「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25]東綺譚」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年12月25日発行
   1978(昭和53)年4月10日40刷改版
   2007(平成19)年1月15日79刷
入力:米田
校正:阿部哲也
2011年1月26日作成
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永井荷風

放水路—– 永井荷風

隅田川《すみだがわ》の両岸は、千住《せんじゅ》から永代《えいたい》の橋畔《きょうはん》に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川《あらかわ》放水路の堤《つつみ》に求めて、折々杖を曳くのである。
 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があったため、初めて計画せられたものであろう。しかしその工事がいつ頃起され、またいつ頃終ったか、わたくしはこれを詳《つまびらか》にしない。
 大正三年秋の彼岸《ひがん》に、わたくしは久しく廃《よ》していた六阿弥陀詣《ろくあみだもうで》を試みたことがあった。わたくしは千住の大橋をわたり、西北に連る長堤を行くこと二里あまり、南足立郡沼田村にある六阿弥陀第二番の恵明寺《えみょうじ》に至ろうとする途中、休茶屋《やすみぢゃや》の老婆が来年は春になっても荒川の桜はもう見られませんよと言って、悵然《ちょうぜん》として人に語っているのを聞いた。
 わたくしはこれに因《よ》って、初めて放水路|開鑿《かいさく》の大工事が、既に荒川の上流において着手せられていることを知ったのである。そしてその年を最後にして、再び彼岸になっても六阿弥陀に詣でることを止めた。わたくしは江戸時代から幾年となく、多くの人々の歩み馴れた田舎道の新しく改修せられる有様を見たくなかったのみならず、古い寺までが、事によると他処《よそ》に移されはしまいかと思ったからである。それに加えて、わたくしは俄《にわか》に腸を病み、疇昔《きのう》のごとく散行の興を恣《ほしいまま》にすることのできない身となった。またかつて吟行の伴侶であった親友某君が突然病んで死んだ。それらのために、わたくしは今年昭和十一年の春、たまたま放水路に架せられた江北橋《こうほくばし》を渡るその日まで、指を屈すると実に二十有二年、一たびも曾遊《そうゆう》の地を訪《おとな》う機会がなかった。

        *

 大正九年の秋であった。一日《いちじつ》深川の高橋から行徳《ぎょうとく》へ通う小さな汚い乗合《のりあい》のモーター船に乗って、浦安《うらやす》の海村に遊んだことがある。小舷《こべり》を打つ水の音が俄に耳立ち、船もまた動揺し出したので、船窓から外を見たが、窓際の席には人がいるのみならず、その硝子板《ガラスいた》は汚れきって磨《すり》硝子のように曇っている。わたくしは立って出入《でいり》の戸口へ顔を出した。
 船はいつか小名木川《おなぎがわ》の堀割を出《い》で、渺茫《びょうぼう》たる大河の上に泛《うか》んでいる。対岸は土地がいかにも低いらしく、生茂《おいしげ》る蘆《あし》より外には、樹木も屋根も電柱も見えない。此方《こなた》の岸から水の真中へかけて、草も木もない黄色の禿山《はげやま》が、曇った空に聳《そび》えて眺望を遮《さえぎ》っている。今まで荷船《にぶね》の輻湊《ふくそう》した狭い堀割の光景に馴らされていた眼には、突然濁った黄いろの河水が、岸の見えない低地の蘆をしたしつつ、満々として四方にひろがっているのを見ると、どうやら水害の惨状を望むが如く、俄に荒凉の気味が身に迫るのを覚えた。わたくしは東京の附近にこんな人跡の絶えた処があるのかと怪しみながら、乗合いの蜆売《しじみうり》に問うてここに始めて放水路の水が中川の旧流を合せ、近く海に入ることを説き聞かされた。しかしその時には船堀《ふなぼり》や葛西村《かさいむら》の長橋もまだ目にとまらなかった。
 わたくしの頽廃した健康と、日々の雑務とは、その後《ご》十余年、重ねてこの水郷《すいごう》に遊ぶことを妨げていたが、昭和改元の後、五年の冬さえまた早く尽きようとするころであった。或日、深川の町はずれを処定めず、やがて扇橋《おうぎばし》のあたりから釜屋堀《かまやぼり》の岸づたいに歩みを運ぶ中《うち》、わたくしはふと路傍の朽廃《きゅうはい》した小祠《しょうし》の前に一片の断碑を見た。碑には女木塚《おなぎづか》として、その下に、
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秋に添《そう》て行《ゆか》ばや末は小松川《こまつがわ》    芭蕉翁
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と刻してあった。わたくしはこれを読むと共に、俄にその言うがごとく、秋のながれに添うて小松川まで歩いて見ようと思い、堀割の岸づたいに、道の行くがまま歩みつづけると、忽ち崩れかかった倉庫の立並ぶ空地の一隅に、中川大橋となした木の橋のかかっているのに出会った。
 わたくしは小名木川の堀割が中川らしい河の流れに合するのを知ったが、それと共に、対岸には高い堤防が立っていて、城塞のような石造の水門が築かれ、その扉はいかにも堅固な鉄板を以って造られ、太い鎖の垂れ下っているのを見た。乗合の汽船と、荷船や釣舟は皆この水門をくぐって堤の外に出て行く。わたくしは十余年前に浦安に赴く途上、初めて放水路をわたった時の荒凉たる風景を憶い浮べ、その眺望の全く一変したのに驚いて、再び眼を見張った。
 堤防には船堀橋という長い橋がかけられている。その長さは永代橋《えいたいばし》の二倍ぐらいあるように思われる。橋は対岸の堤に達して、ここにまた船堀小橋という橋につづき、更に向《むこう》の堤に達している。長い橋の中ほどに立って眺望を恣《ほしいまま》にすると、対岸にも同じような水門があって、その重い扉を支える石造の塔が、折から立籠《たちこ》める夕靄《ゆうもや》の空にさびしく聳《そび》えている。その形と蘆荻《ろてき》の茂りとは、偶然わたくしの眼には仏蘭西《フランス》の南部を流れるロオン河の急流に、古代の水道《アクワデク》の断礎の立っている風景を憶い起させた。
 来路《らいろ》を顧ると、大島町《おおじままち》から砂町《すなまち》へつづく工場の建物と、人家の屋根とは、堤防と夕靄とに隠され、唯林立する煙突ばかりが、瓦斯《ガス》タンクと共に、今しも燦爛《さんらん》として燃え立つ夕陽の空高く、怪異なる暮雲を背景にして、見渡す薄暮の全景に悲壮の気味を帯びさせている。夕陽は堤防の上下一面の枯草や枯蘆の深みへ差込み、いささかなる溜水《たまりみず》の所在《ありか》をも明《あきらか》に照し出すのみか、橋をわたる車と人と欄干の影とを、橋板の面に描き出す。風は沈静して、高い枯草の間から小禽《ことり》の群が鋭い声を放ちながら、礫《つぶて》を打つようにぱっと散っては消える。曳舟の機械の響が両岸に反響しながら、次第に遠くなって行く。
 わたくしは年もまさに尽きようとする十二月の薄暮。さながら晩秋に異らぬ烈しい夕栄《ゆうばえ》の空の下、一望際限なく、唯黄いろく枯れ果てた草と蘆とのひろがりを眺めていると、何か知ら異様なる感覚の刺戟を受け、一歩一歩夜の進み来るにもかかわらず、堤の上を歩みつづけた。そして遥か河下《かわしも》の彼方に、葛西橋の燈影のちらつくのを認めて、更にまた歩みつづけた。

        

 葛西橋は荒川放水路に架せられた長橋の中で、その最も海に近く、その最も南の端《はず》れにあるものである。
 しかしそれを知ったのは、家《いえ》に帰って燈下に地図をひらき見てから後のことで。その夕、船堀橋から堤づたいに、葛西橋の灯を望んだ際には、橋の名も知らず、またそこから僅《わずか》四、五町にして放水路の堤防が、靴の先のような形をなして海の中に没していることなどは、勿論知ろうはずがなかった。
 夜は忽ち暗黒の中に眺望を遮るのみか、橋際に立てた掲示板《けいしいた》の文字さえ顔を近づけねば読まれぬほどにしていた。掲示は通行の妨害になるから橋の上で釣をすることを禁ずるというのである。しかしわたくしは橋の欄干に身を倚《よ》せ、見えぬながらも水の流れを見ようとした時、風というよりも頬《ほほ》に触《ふ》れる空気の動揺と、磯臭い匂と、また前方には一点の燈影《とうえい》も見えない事、それらによって、陸地は近くに尽きて海になっているらしい事を感じたのである。
 探険の興は勃然として湧起ってきたが、工場地の常として暗夜に起る不慮の禍《わざわい》を思い、わたくしは他日を期して、その夜は空しく帰路《きろ》を求めて、城東電車の境川停留場《さかいがわていりゅうじょう》に辿《たど》りついた。
 葛西橋の欄干には昭和三年一月|竣工《しゅんこう》としてある。もしこれより以前に橋がなかったとすれば、両岸の風景は今日よりも更に一層|寂寥《せきりょう》であったに相違ない。
 晴れた日に砂町の岸から向を望むと、蒹葭《けんか》茫々たる浮洲《うきす》が、鰐《わに》の尾のように長く水の上に横たわり、それを隔ててなお遥に、一列《いちれつ》の老松が、いずれもその幹と茂りとを同じように一方に傾けている。蘆荻《ろてき》と松の並木との間には海水が深く侵入していると見えて、漁船の帆が蘆《あし》の彼方《かなた》に動いて行く。かくの如き好景は三、四十年前までは、浅草橋場の岸あたりでも常に能《よ》く眺められたものであろう。
 わたくしは或日蔵書を整理しながら、露伴先生の『※[#「言+闌」、第4水準2-88-83]言《らんげん》』中に収められた釣魚《ちょうぎょ》の紀行をよみ、また三島政行《みしままさゆき》の『葛西志』を繙《ひもと》いた。これによって、わたくしはむかし小名木川の一支流が砂村を横断して、中川の下流に合していた事を知った。この支流は初め隠坊堀《おんぼうぼり》とよばれ、下流に至って境川、また砂村川と称せられたことをも知り得た。露伴先生の紀行によると、明治三十年頃、境川の両岸には樹木が欝蒼として繁茂していた事が思い知られるのであるが、今日そのあたりには埋立地に雑草のはびこる外《ほか》、一叢《ひとむら》の灌莽《かんもう》もない。境川は既に埋められてその跡は乗合自動車の往復する広い道になっている。
 昭和五年、わたくしが初めて葛西橋のほとりに杖を曳いた時、堤の下には枯蓮の残った水田や、葱《ねぎ》を植えた畠や、草の生えた空地の間に釣舟屋が散在しているばかりであったが、その後散歩するごとに、貸家らしい人家が建てられ、風呂屋の烟突が立ち、橋だもとにはテント張りの休茶屋《やすみぢゃや》が出来、堤防の傾斜面にはいつも紙屑や新聞紙が捨ててあるようになった。乗合自動車は境川の停留場から葛西橋をわたって、一方は江戸川堤、一方は浦安の方へ往復するようになった。そして車の中には桜と汐干狩《しおひがり》の時節には、弁当付往復賃銭の割引広告が貼り出される。

        

 放水路の眺望が限りもなくわたくしを喜ばせるのは、蘆荻《ろてき》と雑草と空との外、何物をも見ぬことである。殆ど人に逢わぬことである。平素|市中《しちゅう》の百貨店や停車場《ていしゃじょう》などで、疲れもせず我先きにと先を争っている喧騒な優越人種に逢わぬことである。夏になると、水泳場また貸ボート屋が建てられる処もあるが、しかしそれは橋のかかっているあたりに限られ、橋に遠い堤防には祭日の午後といえども、滅多《めった》に散歩の人影なく、唯名も知れぬ野禽《やきん》の声を聞くばかりである。
 堤防は四ツ木の辺から下流になると、両岸に各一条、中間にまた一条、合せて三条ある。わたくしはいつもこの中間の堤防を歩く。
 中間の堤防はその左右ともに水が流れていて、遠く両岸の町や工場もかくれて見えず、橋の影も日の暮れかかるころには朦朧《もうろう》とした水蒸気に包まれてしまうので、ここに杖を曳く時、わたくしは見る見る薄く消えて行く自分の影を見、一歩一歩風に吹き消される自分の跫音《あしおと》を聞くばかり。いかにも世の中から捨てられた成れの果《はて》だというような心持になる。
 四、五年来、わたくしが郊外を散行するのは、かつて『日和下駄《ひよりげた》』の一書を著《あらわ》した時のように、市街河川の美観を論述するのでもなく、また寺社墳墓を尋ねるためでもない。自分から造出す果敢《はかな》い空想に身を打沈めたいためである。平生《へいぜい》胸底に往来している感想に能《よ》く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉《いしゃ》にしたいためである。その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない。唯おりおり寂寞を追求して止まない一種の慾情を禁じ得ないのだというより外はない。
 この目的のためには市中において放水路の無人境ほど適当した処はない。絶間なき秩父《ちちぶ》おろしに草も木も一方に傾き倒れている戸田橋《とだばし》の両岸の如きは、放水路の風景の中その最《もっとも》荒凉たるものであろう。
 戸田橋から水流に従って北方の堤を行くと、一、二里にして新荒川橋に達する。堤の下の河原に朱塗の寺院が欝然たる松林の間に、青い銅瓦《どうがわら》の屋根を聳《そびや》かしている。この処は、北は川口町《かわぐちまち》、南は赤羽《あかばね》の町が近いので、橋上には自転車と自動車の往復が烈しく、わたくしの散策には適していない。放水路の水と荒川の本流とは新荒川橋下の水門を境《さかい》にして、各堤防を異にし、あるいは遠くなりあるいは近くなりして共に東に向って流れ、江北橋の南に至って再び接近している。
 堤の南は尾久《おぐ》から田端《たばた》につづく陋巷《ろうこう》であるが、北岸の堤に沿うては隴畝《ろうほ》と水田が残っていて、茅葺《かやぶき》の農家や、生垣《いけがき》のうつくしい古寺が、竹藪や雑木林《ぞうきばやし》の間に散在している。梅や桃の花がいかにも田舎らしい趣を失わず、能くあたりの風景に調和して見えるのはこのあたりである。小笹に蔽われた道端に、幹の裂けた桜の老樹が二、三株ずつ離れ離れに立っている。わたくしが或日偶然六阿弥陀詣の旧道の一部に行当って、たしかにそれと心付いたのは、この枯れかかった桜の樹齢を考えた後、静に曾遊《そうゆう》の記憶を呼返した故であった。
 江北橋の北詰には川口と北千住の間を往復する乗合自動車と、また西新井《にしあらい》の大師《だいし》と王子《おうじ》の間を往復する乗合自動車とが互に行き交《ちが》っている。六阿弥陀と大師堂へ行く道しるべの古い石が残っている。葭簀張《よしずば》りの休茶屋もある。千住へ行く乗合自動車は北側の堤防の二段になった下なる道を走って行く。道は時々低く堤を下って、用水の流に沿い、また農家の垣外を過ぎて旧道に合している。ところどころ桜の若木が植え付けられている。やがて西新井橋に近づくに従って、旧道は再び放水路堤防の道と合し、橋際に至って全くその所在を失ってしまう。
 西新井橋の人通りは早くも千住大橋の雑沓を予想させる。放水路の流れはこの橋の南で、荒川の本流と相接した後、忽ち方向を異にし、少しく北の方にまがり、千住新橋の下から東南に転じて堀切橋《ほりきりばし》に出る。橋の欄干に昭和六年九月としてあるので、それより以前には橋がなかったのであろうか。あるいは掛替えられたのであろうか。ここに水門が築かれて、放水路の水は、短い堀割によって隅田川に通じている。
 わたくしはこの堀割が綾瀬川《あやせがわ》の名残りではないかと思っている。堀切橋の東岸には菖蒲園《しょうぶえん》の広告が立っているからである。下流には近く四木《よつぎ》の橋が見え、荷車や自動車の往復は橋ごとに烈しくなる。四木橋からその下流にかけられた小松川橋に至る間に、中川の旧流が二分せられ、その一は放水路に入り、更に西岸の堤防から外に出ているが、その一は堤を異にして放水路と並行して南下しているのに出逢う。
 市川の町へ行く汽車の鉄橋を越すと、小松川の橋は目の前に横たわっている。小松川の橋に来て、その欄干に倚《よ》ると、船堀の橋と行徳川の水門の塔が見える。この水門の景は既にこれをしるした。水門から最終の葛西橋までその距離は一里を越えてはいないであろう。
[#地から2字上げ]昭和十一年四月

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年4月15日作成
2010年11月2日修正
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永井荷風

買出し—– 永井荷風

 船橋と野田との間を往復してゐる総武鉄道の支線電車は、米や薩摩芋の買出しをする人より外にはあまり乗るものがないので、誰言ふとなく買出電車と呼ばれてゐる。車は大抵二三輛つながれてゐるが、窓には一枚の硝子もなく出入口の戸には古板が打付けてあるばかりなので、朽廃した貨車のやうにも見られる。板張の腰掛もあたり前の身なりをしてゐては腰のかけやうもないほど壊れたり汚れたりしてゐる。一日にわづか三四回。昼の中しか運転されないので、いつも雑沓する車内の光景は曇つた暗い日など、どれが荷物で、どれが人だか見分けのつかないほど暗淡としてゐる。
 この間中《あひだぢゆう》、利根川の汎濫したゝめ埼玉栃木の方面のみならず、東京市川の間さへ二三日交通が途絶えてゐたので、線路の修復と共に、この買出電車の雑沓はいつもより亦一層激しくなつてゐた或日の朝も十時頃である。列車が間もなく船橋の駅へ着かうといふ二ツ三ツ手前の駅へ来かゝるころ、誰が言出したともなく船橋の駅には巡査や刑事が張込んでゐて、持ち物を調べるといふ警告が電光の如く買出し連中の間に伝へられた。
 いづれも今朝方、夜明の一番列車で出て来て、思ひ/\に知合ひの農家をたづね歩き、買出した物を背負つて、昼頃には逸早《いちはや》く東京へ戻り、其日の商ひをしやうといふ連中である。どこでもいゝから車が駐り次第、次の駅で降りて様子を窺ひ、無事さうならそのまゝ乗り直すし、悪さうなら船橋まで歩いて京成電車へ乗つて帰るがいゝと言ふものもある。乗つて来た道を逆に柏の方へ戻つて上野へ出たらばどうだらうと言ふものもある。やがて其中の一人が下におろしたズツクの袋を背負ひ直すのを見ると、乗客の大半は臆病風に襲はれた兵卒も同様、男も女も仕度を仕直し、車が駐るのをおそしと先を争つて駅のプラツトフオームへ降りた。
「どこだと思つたら、此処か。」と駅の名を見て地理を知つてゐるものは、すた/\改札口から街道へと出て行くと、案内知らぬ連中はぞろ/\その後へついて行く。
「いつだつたか一度来たことがあつたやうだな。」
「この辺の百姓は人の足元を見やがるんで買ひにくい処だ。」
「その時分はお金ばつかりぢや売つてくれねえから、買出しに来るたんび足袋だの手拭だの持つて来てやつたもんだ。」
「もう少し行くとたしか中山へ行くバスがある筈だよ。」
 こんな話が重い荷を背負つて歩いて行く人達の口から聞かれる。
 十月初、雲一ツなく晴れわたつた小春日和。田圃の稲はもう刈取られて畦道《あぜみち》に掛けられ、畠には京菜と大根の葉が毛氈でも敷いたやうにひかつてゐる。百舌《もず》の鳴きわたる木々の梢は薄く色づき、菊や山茶花のそろ/\咲き初めた農家の庭には柿が真赤に熟してゐる。歩くには好い時節である。買出電車から降りた人達はおのづと列をなして、田舎道を思ひ/\目ざす方へと前かゞまりに重い物を負ひながら歩いて行く。その身なりを見ると言合せたやうに、男は襤褸《ぼろ》同然のスヱータか国民服に黄色の古帽子、破れた半靴。また草履ばき。年は大方四十がらみ。女もその年頃のものが多く、汚れた古手拭の頬冠り、つぎはぎのモンペに足袋はだしもある。中には能くあんな重いものが背負へると思はれるやうな皺だらけの婆《ばア》さんも交つてゐた。
 やがて小半時も歩きつゞけてゐる中、行列は次第々々にとぎれて、歩き馴れたものがどん/\先になり、足の弱いものが三人四人と取り残されて行く。その中には早くも路傍の草の上に重荷をおろして休むものも出て来るので、同じやうな身なりをして同じやうな荷を背負つてゐても、暫くの中に買出電車から降りた人だか、または近処の者だか見分けがつかないやうになつた。
 道しるべの古びた石の立つてゐる榎の木蔭。曼珠沙華の真赤に咲いてゐる道のとある曲角に、最前から荷をおろして休んでゐた一人の婆さんがある。婆さんは後から来て休みもせずどん/\先へと歩いて行く人達の後姿をぼんやり見送つてゐたが、すぐには立上らうともしなかつた。
 するとまた後から歩いて来た、それは四十あまりのかみさんが、電車の中での知合らしく、婆さんの顔を見て、
「おや、おばさん、大抵ぢやないね。わたしも一休みしやうか。」
「もう何時だらうね。」と婆さんは眩しさうに秋晴の日脚を眺めた。
「追ツつけもうお午《ひる》でせう。わるくするとこの塩梅ぢや、今日はあふれだね。」
「線路づたひに船橋へ行つた方がよかつたかも知れないね。」
「わたしやさつぱり道がわからないんだよ。おばさんは知つてゐなさるのかね。」
「知つてゐるやうな気もするんだよ。知つてゐたつて、たつた一度隣組の人と一緒に来たんだから、どこがどうだか、かいもく分りやアしない。久しい前のことさ。戦争にやなつてゐたが、まだ空襲にやならなかつた時分さ。」
「戦争になつてから、もう十年だね。戦争が終つてもこの様子ぢや、行先はどうなるんだらう。買出しも今日みたやうな目にあふと全く楽ぢやないからね。」
「全くさ。お前さんなんぞがそんな事を言つてたら、わたしなんぞ此年になつちや、どうしていゝか分りやアしない。」
「おばさん、いくつになんなさる。」
「六十八さ。もう駄目だよ。ついこの間まで六貫や七貫平気で背負《しよ》へたんだがね。年にや勝てない。」
「さうですか。えらいね。わたしなんぞ今からこれぢや先が思ひやられます。」
「その時にや若いものがどうにかしてくれるよ。息子さんや娘さんが黙つちやアゐないから。」
「それなら有り難いが、今時の伜や娘ぢや当にやなりません。道端で愚痴をこぼしてゐても仕様がない。大分休んだから、そろ/\出かけませうか。」
 かみさんらしい女がズツクの袋を背負ひ直したので、婆さんも萌葱《もえぎ》の大風呂敷に包んだ米の袋を背負ひ、不案内な田舎道を二人つれ立つて歩きはじめた。
「おばさん。東京はどこです。本所ですか。」
「箱崎ですよ。」
「箱崎は焼けなかつたさうですね。能《よ》うございましたね。わたしは錦糸町でしたからね。生命《いのち》からがら、何一ツ持ち出せなかつたんですよ。」
「わたしもさうですよ。佐賀町で奉公してゐましたから。着のみ着のまゝですよ。上の橋の側に丸角さんて云ふ瀬戸物の問屋さんがあります。そのお店の賄《まかな》ひをしてゐたんですがね。旦那も大旦那もなくなつたんですよ。わたし見たやうな、どうでもいゝものが焼《やけ》ど一ツしないで助《たすか》つて、ねえ、お前さん、何一ツ不自由のない旦那方があの始末だからね。人の身の上ほどわからないものはないと、つく/″\さう思ふんだよ。」
「おや、正午《おひる》ぢやないかね。あのサイレンは。」とおかみさんはさして遠くもないらしいサイレンが異つた方角から一度に鳴出すのを聞きつけた。婆さんは一向頓着しない様子で、頬冠の手拭を取つて額の汗をふきながら、見れば一歩《ひとあし》二歩《ふたあし》おくれながら歩いてゐる。
「そこいらで仕度をしやうかね。いくら急いだつて歩けるだけしきや歩けないからね。」
 おかみさんは道端に茂つてゐる椿の大木の下に破《こは》れた小さな辻堂の立つてゐるのを見て、その砌《きざはし》に背中の物をおろした。あちこちで頻に鶏が鳴いてゐる。婆さんもその傍に風呂敷包をおろしたが、何もせず、かみさんが握飯の包を解くのを見ながら黙つてゐる。
「おばさん、どうした。」
「わたしはまだいゝよ。」
「さう。それアわるかつたね。わたしや食ひしんばうだからね。」
「かまはずにおやんなさい。わたしや休んでるから。」
 おかみさんは弁当の包を解き大きな握飯を両手に持ち側目《わきめ》もふらず貪り初めたが、婆さんは身を折曲げ蹲踞《しやが》んだ膝を両手に抱込んだまゝ黙つてゐるのに気がつき、
「おばさん、どうかしたのかい。気分でもわりいかい。」
 一向返事をしないので、耳でも遠いのか、それとも話をするのが面倒なのかも知れないと、おかみさんは一ツ残した握飯をせつせと口の中へ入れてしまひ、沢庵漬をばり/\、指の先を嘗めて拭きながら、見れば婆さんはのめるやうに両膝の間に顔を突込み、大きな鼾をかいてゐるので、年寄と子供ほど呑気《のんき》なものはない。処嫌はず高鼾で昼寐をするとでも思つたらしく、
「おばさん。起きなよ。出かけるよ。」と言つたが一向起きる様子もないので、袋を背負ひ直して、もう一度、「ぢや先へ行きますよ。」
 その時、婆さんの身体が前の方へのめつたので、おかみさんは初て様子のをかしいのに心づき、後《うしろ》から抱き起すと、婆さんはもう目をつぶつて口から泡を吹いてゐる。
「おばさん。どうしたの。どうしたの。しつかりおし。」
 婆《ばア》さんの肩へ手をかけて揺ぶりながら耳に口をつけて呼んで見たが、返事はなく、手を放せばたわいなく倒れてしまふらしい。
 あたりを見まはしても、目のとゞくかぎり続いてゐる葱と大根と菠薐草《はうれんそう》の畠には、小春の日かげの際限なくきらめき渡つてゐるばかりで人影はなく、農家の屋根も見えない。馬力《ばりき》が一台来かゝつたが二人の様子には見向きもせずに行つてしまつた。おかみさんはふとこの間《あひだ》、隣に住んでゐる年寄が洗湯からかへつて来て話をしてゐる中にころりと死んでしまつた其場の事を思出した。
「やつぱりお陀仏だ。」
 暫くあたりを見廻してゐたが、忽ち何か思ひついたらしく背負ひ直したズツクの袋をまたもや地におろし、婆さんの包と共に辻堂の縁先まで引摺つて行き、買出して来た薩摩芋と婆さんの白米とを手早く入れかへてしまつた。その頃薩摩芋は一貫目六七十円、白米は一升百七八十円まで騰貴してゐたのである。
 おかみさんは古手拭の頬冠を結び直し、日向《ひなた》の一本道を振返りもせずに、すた/\歩み去つた。
 道はやがて低くなつたかと思ふとまた爪先上りになつた其行先を、遥《はるか》向《むか》うの岡の上に茂つた松林の間に没してゐる。その辺から牛の鳴く声がきこえる。おかみさんは息を切らさぬばかり、追はれるやうに無暗と歩きつゞけたので、総身から湧き出る汗。拭いても拭いても額から流れる汗が目に入るので、どうしても一休みしなければならない。今からあんまり無理をすると此方《こつち》も途中でへたばりはしまいかと思ひながら、それでも構はず、時には轍《わだち》の跡につまづきよろめきながらも、向に見える松林を越すまでは死んでも休むまいと思つた。おかみさんは振返つて自分の来た道が一目に見通される範囲に、その身を置くことが一歩々々恐しく思はれてならなくなつたのだ。倒れたら四ツ這ひになつて這はうとも、一まづ向に見える松林の彼方《かなた》まで行つてしまひたくてならない。
 彼処《あすこ》まで行つてしまひさへすれば、松林一ツ越してさへしまへば、何の訳もなく境がちがつて、死人の物を横取りして来た場所からは関係なく遠ざかつたやうな気がするだらうと思つたのだ。行き合ふ人や後から来る人に顔を見られても、彼処《あすこ》まで行つてしまへば何処から来たのだか分るまいと云ふやうな気がするのである。
 この心持は間違つてはゐなかつた。やつとの事、肩で息をしながら坂道を登りきつて、松林に入り小笹と幹との間から行先を見ると、全く別の処へ来たやうにあたりの景色も、木立の様子も、気のせいかすつかり変つてゐる。畠の作物もその種類がちがつてゐる。茅葺の農家のみならず、瓦葺の二階建に硝子戸を引き廻した門構の家も交つてゐる。松林の中は日蔭になつて吹き通ふ風の涼しさ。おかみさんはほつと息をついて蹲踞《しやが》みかけると、背負つた米の重さで後に倒れ、暫くは起きられなかつた。
 その時自転車に乗つた中年の男が同じ坂道を上つて来て、おかみさんの身近に車を駐めて汗を拭き巻煙草に火をつけた。おかみさんはそれとなく其男の様子を見ると、これから買出しに行くものらしく、車の後には畳んだズツクの袋らしいものを縛りつけてゐる。おかみさんは恐る/\、
「旦那、何かお買物ですか。」と話しかけた。
「駄目だよ。こちとらの手にやおへないよ。」
「売惜しみをしますからね。容易なこツちやありません。」
「全くさね。それにお米ときたらとても駄目だ。いゝなり放題お金の外に何かやらなけれア出しさうもないよ。」
「わたしもさんざ好きなことを言はれたんですよ。それでもやつと少しばかり分けて貰ひました。」
「この掛合は男よりも女の方がいゝやうだね。一升弐百円だつて言ふぢやないか。うそ見たやうだ。」
「東京へ持込めば、旦那、処によるともつと値上りしますよ。御相談次第で、何なら、お譲りしてもいゝんですよ。」
「さうか。それア有りがたい。何升持つてゐる。」
「一斗五升あります。持ち重りがするんでね、すこし風邪は引いてますし、買つておくんなさるなら、願つたり叶つたりです。」
「ぢや、おかみさん。一升百八十円でどうだ。」
「その相場で買つて来たんですから、旦那、五円づゝ儲けさして下さいよ。」
 男はおかみさんの袋を両手に持上げて重みを計り、あたりに一寸《ちよつと》気を配りながら自転車の後に縛りつけた袋と、棒のついた秤《はかり》とを取りおろした。
 取引はすぐに済んだ。
 おかみさんは身軽になつた懐中に男の支払つた札束をしまひ、米を載せて走り去る男の後姿を見送りながら松林を出た。林の中には小鳥が囀り草むらには虫が鳴いてゐる。

底本:「ふるさと文学館 第一三巻 【千葉】」ぎょうせい
   1994(平成6)年11月15日初版発行
入力:H.YAM
校正:米田
2011年1月29日作成
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永井荷風

梅雨晴—– 永井荷風

 森先生の渋江抽斎《しぶえちゅうさい》の伝を読んで、抽斎の一子|優善《やすよし》なるものがその友と相謀《あいはか》って父の蔵書を持ち出し、酒色の資となす記事に及んだ時、わたしは自らわが過去を顧みて慚悔《ざんかい》の念に堪《た》えなかった。
 天保の世に抽斎の子のなした所は、明治の末にわたしの為したところとよく似ていた。抽斎の子は飛蝶《ひちょう》と名乗り寄席《よせ》の高座に上って身振|声色《こわいろ》をつかい、また大川に舟を浮べて影絵芝居を演じた。わたしは朝寝坊夢楽という落語家の弟子となり夢之助と名乗って前座《ぜんざ》をつとめ、毎月師匠の持席《もちせき》の変るごとに、引幕を萌黄《もえぎ》の大風呂敷《おおぶろしき》に包んで背負って歩いた。明治三十一、二年の頃のことなので、まだ電車はなかった。
 当時のわたしを知っているものは井上唖々《いのうえああ》子ばかりである。唖々子は今年六月のはじめ突然病に伏して、七月十一日の朝四十六歳を以て世を謝した。
 二十年前わたしの唖々子における関係は、あたかも抽斎の子のその友某におけると同じであった。
 六月下旬の或日、めずらしく晴れた梅雨の空には、風も凉しく吹き通っていたのを幸《さいわい》、わたしは唖々子の病を東大久保|西向天神《にしむきてんじん》の傍なるその※[#「にんべん+就」、第3水準1-14-40]居《しゅうきょ》に問うた。枕元に有朋堂《ゆうほうどう》文庫本の『先哲叢談』が投げ出されてあった。唖々子は英語の外に独逸語《ドイツご》にも通じていたが、晩年には専《もっぱら》漢文の書にのみ親しみ、現時文壇の新作等には見向きだもせず、常にその言文一致の陋《ろう》なることを憤《いきどお》っていた。
 わたしは抽斎伝の興味を説き、伝中に現れ来る蕩子《とうし》のわれらがむかしに似ていることを語った。唖々子は既に形容《けいよう》枯槁《ここう》して一カ月前に見た時とは別人のようになっていたが、しかし談話はなお平生《へいぜい》と変りがなかったので、夏の夕陽《ゆうひ》の枕元にさし込んで来る頃まで倶《とも》に旧事を談じ合った。内子《ないし》はわれわれの談話の奇怪に渉《わた》るのを知ってか後堂にかくれて姿を見せない。庭に飼ってある鶏が一羽|縁先《えんさき》から病室へ上って来て菓子鉢の中の菓子を啄《ついば》みかけたが、二人はそんな事にはかまわず話をつづけた。
 わたしが昼間は外国語学校で支那語を学び、夜はないしょで寄席へ通う頃、唖々子は第一高等学校の第一部第二年生で、既に初の一カ年を校内の寄宿舎に送った後、飯田町《いいだまち》三丁目|黐《もち》の木|坂《ざか》下《した》向側の先考|如苞翁《じょほうおう》の家から毎日のように一番町なるわたしの家へ遊びに来た。ある晩、寄席が休みであったことから考えると、月の晦日《みそか》であったに相違ない。わたしは夕飯をすましてから唖々子を訪《と》おうと九段《くだん》の坂を燈明台《とうみょうだい》の下あたりまで降りて行くと、下から大きなものを背負って息を切らして上って来る一人の男がある。電車の通らない頃の九段坂は今よりも嶮《けわ》しく、暗かったが、片側の人家の灯で、大きなものを背負っている男の唖々子であることは、頤《あご》の突出たのと肩の聳《そび》えたのと、眼鏡をかけているのとで、すぐに見定められた。
「おい、君、何を背負っているんだ。」と声をかけると、唖々子は即座に口をきく事のできなかったほどうろたえた。横町《よこちょう》か路地でもあったら背負った物を置き捨てに逃げ出したかも知れない。
「君、引越しでもするのか。」
 この声の誰であるかを聞きわけて、唖々子は初めて安心したらしく、砂利の上に荷物を下したが、忽《たちまち》命令するような調子で、
「手伝いたまえ。ばかに重い。」
「何だ。」
「質屋だ。盗み出した。」
「そうか。えらい。」とわたしは手を拍《う》った。唖々子は高等学校に入ってから夙《はや》くも強酒を誇っていたが、しかしわたしともう一人島田という旧友との勧める悪事にはなかなか加担しなかった。然るにその夜突然この快挙に出でたのを見て、わたしは覚えず称揚の声を禁じ得なかったのだ。
「何の本だ。」ときくと、
「『通鑑《つがん》』だ。」と唖々子は答えた。
「『通鑑』は『綱目』だろう。」
「そうさ。『綱目』でもやっとだ。『資治通鑑《しじつがん》』が一人でかつげると思うか。」
「たいして貸しそうもないぜ。『通鑑』も『※[#「覽」の「見」に代えて「手」、第4水準2-13-56]要《らんよう》』の方がいいのだろう。」
「これでも一晩位あそべるだろう。」
 路傍にしゃがんで休みながらこんな話をした。その頃われわれが漢籍の種別とその価格とについて少しく知る所のあったのは、わたしと倶《とも》に支那語を学んでいた島田のおかげである。ここに少しく彼について言わなければならない。島田、名は翰《かん》、自ら元章と字《あざな》していた。世に知られた宿儒|篁村《こうそん》先生の次男で、われわれとは小学校からの友である。翰は一時神童といわれていた。われわれが漢文の教科書として『文章軌範』を読んでいた頃、翰は夙《つと》に唐宋諸家の中でも殊に王荊公《おうけいこう》の文を諳《そらん》じていたが、性質|驕悍《きょうかん》にして校則を守らず、漢文の外他の学課は悉く棄てて顧《かえりみ》ないので、試業の度ごとに落第をした結果、遂に学校でも持てあまして卒業証書を授与した。強面《こわもて》に中学校を出たのは翰とわたしだけであろう。わたしの事はここに言わない。翰は平生手紙をかくにも、むずかしい漢文を用いて、同輩を困らせては喜んでいたが、それは他日|大《おおい》にわたしを裨益《ひえき》する所となった。わたしは西洋文学の研究に倦《う》んだ折々、目を支那文学に移し、殊に清初詩家の随筆|書牘《しょとく》なぞを読もうとした時、さほどに苦しまずしてその意を解することを得たのは今は既に世になき翰の賚《たまもの》であると言わねばならない。
 唖々子が『通鑑綱目』を持出した頃、翰もまたその家から折々書物を持出した。しかし翰の持出したものは、唖々子の持出した『通鑑』や『名所図会《めいしょずえ》』、またわたしの持出した『群書類従』、『史記評林』、山陽の『外史』『政記』のたぐいとは異って、皆珍書であったそうである。先哲諸家の手写した抄本の中には容易に得がたいものもあったとやら。後に聞けば島田家では蔵書の紛失に心づいてから市中の書肆《しょし》へ手を廻し絶えず買戻しをしていたというはなしである。
 森先生の渋江抽斎の伝に、その子優善が持出した蔵書の一部が後年島田篁村翁の書庫に収められていた事が記されてある。もし翰が持出した珍書の中にむかし弘前《ひろさき》医官渋江氏旧蔵のものが交《まじ》っていたなら、世の中の事は都《すべ》て廻り持であると言わなければならない。
 明治四十一年わたしは海外より還《かえ》って再び島田を見た時、島田は既に『古文旧書考』四巻の著者として、支那日本両国の学界に重ぜられていた。一日《いちじつ》島田はかつて爾汝《じじょ》の友であった唖々子とわたしとを新橋の一旗亭に招き、俳人にして集書家なる洒竹大野《しゃちくおおの》氏をわれわれに紹介した。その時島田と大野氏とは北品川に住んでいる渋江氏が子孫の家には、なお珍書の存している事を語り、日を期してわたしにも同行を勧めた。されば渋江氏の蔵書家であった事だけを知ったのは、わたしの方が森先生よりも時を早くしていたわけである。唖々子は二子と共に同行を約したが、その時のわたしには新刊の洋書より外には見たいものはなかったので辞して行かなかった。後三年を経ずして、わたしが少しく古文書について知らん事を欲した時、古書に精通した島田はそのために身を誤り既にこの世にはいなかったのであった。
 話は後へ戻る。その夜唖々子が運出《はこびだ》した『通鑑綱目』五十幾巻は、わたしも共に手伝って、富士見町《ふじみちょう》の大通から左へと一番町へ曲る角から二、三軒目に、篠田という軒燈《けんとう》を出した質屋の店先へかつぎ込まれた。
 わたしがこの質屋の顧客となった来歴は家へ出入する車屋の女房に頼んで内所《ないしょ》でその通帳を貸してもらったからで。それから唖々子と島田とがつづいて暖簾《のれん》をくぐるようになったのである。
 もうそろそろ夜風の寒くなりかけた頃の晦日《みそか》であったが、日が暮れたばかりのせいか、格子戸内の土間《どま》には客は一人もいず、鉄の棒で境をした畳の上には、いつも見馴れた三十前後の顔色のわるい病身らしい番頭が小僧に衣類をたたませていた。われわれは一先《ひとまず》土間へ下した書物の包をば、よいしょと覚えず声を掛けて畳の方へと引摺《ひきず》り上げるまで番頭はだまって知らぬ顔をしている。引摺り上げる時風呂敷の間から、その結目《むすびめ》を解くにも及ばず、書物が五、六冊畳の上へくずれ出したので、わたしは無造作《むぞうさ》に、
「君、拾円貸したまえ。」
 番頭は例の如くわれわれをあくまで仕様のない坊ちゃんだというように、にやにや笑いながら、「駄目ですよ。いくらにもなりませんよ。」
「まあ、君、何冊あるか調べてから値をつけたまえ。」
「揃っていても駄目ですよ。全くのはなし、他のお客様ならお断りするんですが……。」
「一体いくらだよ。そんな意地の悪いことを言わないで。」
「そうですね。まア弐円がせいぜいという処でしょう。」
 わたしと唖々子とは、最初拾円と大きく切出して置けば結局半分より安くなることはあるまいと思っていたので、暫く顔を見合せたまま何とも言う事ができなかった。殊に唖々子はこの夜この事を敢てするに至るまでの良心の苦痛と、途中人目を憚《はばか》りつつ背負って来たその労力とが、合せて僅《わずか》弐円にしかならないと聞いては、がっかりするのも無理はない。口に啣《くわ》えた巻煙草のパイレートに火をつけることも忘れていたが、良久《やや》あって、
「おい。お願だからもうすこし貸してくれ。」
「この次、きっと入れ合せをするよ。」とわたしもともども歎願した。
 しかし『通鑑綱目』は二人がそれから半時間あまりも口を揃えて番頭を攻めつけたにかかわらず、結局わずか五拾銭値上げをされたに過ぎなかった。
「これっぱかりじゃ、どうにもならない。」
「これじゃ新宿へ行っても駄目だ。」
 質屋の店を出て、二人は嘆息しながら表通を招魂社《しょうこんしゃ》の鳥居の方へと歩いて行った。万源という料理屋の二階から酔客の放歌が聞える。二人は何というわけとも知らず、その方へと歩み寄ったが、その時わたしはふと気がついて唖々子の袖を引いた。万源の向側なる芸者家新道の曲角《まがりかど》に煙草屋がある。主人は近辺の差配で金も貸しているという。わたしの家をよく知っているから、五円や拾円貸さないことはあるまい。しかし何と言って借りたらいいものだろう。
 すると唖々子は暫く黙考していたが、「友達が吉原から馬を引いて来た。友達がかわいそうだから、急場のところ、何とか都合をしてくれと頼んで見たまえ。」
「そうか。やって見よう。」とわたしは唖々子をその場に待たせて、まず冠っていた鳥打帽《とりうちぼう》を懐中にかくし、いかにも狼狽した風で、煙草屋の店先へ駈付けるが否や、
「今晩は。急に御願いがあるんですが。」
 帽子をかくしたのは友達がわたしの家へ馬をつれて来たので、わたしは家人《かじん》の手前を憚り、取るものも取り敢ず救を求めに来た如く見せかけようとしたのである。
 事は直に成った。二人は意気揚々として九段坂を下り車を北廓に飛した。
 腕車《わんしゃ》と肩輿《けんよ》と物は既に異っているが、昔も今も、放蕩の子のなすところに変りはない。蕩子のその醜行を蔽うに詩文の美を借来らん事を欲するのも古今また相同じである。揚州十年の痴夢《ちむ》より一覚する時、贏《か》ち得るものは青楼《せいろう》薄倖の名より他には何物もない。病床の談話はたまたま樊川《はんせん》の詩を言うに及んでここに尽きた。
 縁側から上って来た鶏は人の追わざるに再び庭に下りて頻《しきり》に友を呼んでいる。日暮の餌をあさる鶏には、菓子鉢の菓子は甘すぎたのであろう。
 唖々子は既にこの世にいない。その俳句文章には誦《しょう》すべきものが尠《すくな》くない。子は別に不願醒客と号した。白氏の自ら酔吟先生といったのに倣《なら》ったのであろうか。子の著『猿論語』、『酒行脚《さけあんぎゃ》』、『裏店《うらだな》列伝』、『烏牙庵漫筆《うがあんまんぴつ》』、皆酔中に筆を駆《か》ったものである。
 わたしは子の遺稿を再読して世にこれを紹介する機会のあらんことを望んでいる。
   大正十二年七月稿

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月9日作成
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永井荷風

日和下駄 一名 東京散策記—–永井荷風

東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。『日和下駄』は大正三年夏のはじめころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌『三田文学』に連載したりしを、この度|米刃堂《へいじんどう》主人のもとめにより改竄《かいざん》して一巻とはなせしなり。ここにかく起稿の年月を明《あきらか》にしたるはこの書|板《はん》成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして、既に破壊せられて跡方もなきところ尠《すくな》からざらん事を思へばなり。見ずや木造の今戸橋《いまどばし》は蚤《はや》くも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんとにかためられて再び露草《つゆくさ》の花を見ず。桜田御門外《さくらだごもんそと》また芝赤羽橋|向《むこう》の閑地《あきち》には土木の工事今まさに興《おこ》らんとするにあらずや。昨日の淵《ふち》今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、拙《つたな》きこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。
  乙卯《いつぼう》の年晩秋
荷風小史

第一 日和下駄

 人並はずれて丈《せい》が高い上にわたしはいつも日和下駄《ひよりげた》をはき蝙蝠傘《こうもりがさ》を持って歩く。いかに好《よ》く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中|湿気《しっけ》の多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に秋の空、それにお上《かみ》の御政事《おせいじ》とばかり極《きま》ったものではない。春の花見頃|午前《ひるまえ》の晴天は午後《ひるすぎ》の二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。梅雨《つゆ》の中《うち》は申すに及ばず。土用《どよう》に入《い》ればいついかなる時|驟雨《しゅうう》沛然《はいぜん》として来《きた》らぬとも計《はか》りがたい。尤《もっと》もこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人が割《わり》なき契《ちぎり》を結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむ幌《ほろ》の中《うち》、しっぽり何処《どこ》ぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。閑話休題《それはさておき》日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返《こねかえ》す霜解《しもどけ》も何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通《おおどおり》、やたらに溝《どぶ》の水を撒《ま》きちらす泥濘《ぬかるみ》とて一向驚くには及ぶまい。
 私《わたし》はかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。
 市中《しちゅう》の散歩は子供の時から好きであった。十三、四の頃私の家《うち》は一時|小石川《こいしかわ》から麹町永田町《こうじまちながたちょう》の官舎へ引移《ひきうつ》った事があった。勿論《もちろん》電車のない時分である。私は神田錦町《かんだにしきちょう》の私立英語学校へ通《かよ》っていたので、半蔵御門《はんぞうごもん》を這入《はい》って吹上御苑《ふきあげぎょえん》の裏手なる老松《ろうしょう》鬱々たる代官町《だいかんちょう》の通《とおり》をばやがて片側に二の丸三の丸の高い石垣と深い堀とを望みながら竹橋《たけばし》を渡って平川口《ひらかわぐち》の御城門《ごじょうもん》を向うに昔の御搗屋《おつきや》今の文部省に沿うて一《ひと》ツ橋《ばし》へ出る。この道程《みちのり》もさほど遠いとも思わず初めの中《うち》は物珍しいのでかえって楽しかった。宮内省《くないしょう》裏門の筋向《すじむこう》なる兵営に沿うた土手の中腹に大きな榎《えのき》があった。その頃その木蔭《こかげ》なる土手下の路傍《みちばた》に井戸があって夏冬ともに甘酒《あまざけ》大福餅《だいふくもち》稲荷鮓《いなりずし》飴湯《あめゆ》なんぞ売るものがめいめい荷を卸《おろ》して往来《ゆきき》の人の休むのを待っていた。車力《しゃりき》や馬方《うまかた》が多い時には五人も六人も休んで飯をくっている事もあった。これは竹橋の方から這入って来ると御城内《ごじょうない》代官町の通は歩くものにはそれほどに気がつかないが車を曳《ひ》くものには限りも知れぬ長い坂になっていて、丁度この辺《へん》がその中途に当っているからである。東京の地勢はかくの如く漸次《ぜんじ》に麹町|四谷《よつや》の方へと高くなっているのである。夏の炎天には私も学校の帰途《かえりみち》井戸の水で車力や馬方と共に手拭《てぬぐい》を絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木蔭に休んだ。土手にはその時分から既に「昇ルベカラズ」の立札《たてふだ》が付物《つきもの》になっていたが構わず登れば堀を隔てて遠く町が見える。かくの如き眺望は敢《あえ》てここのみならず、外濠《そとぼり》の松蔭《まつかげ》から牛込《うしごめ》小石川の高台を望むと同じく先ず東京|中《ちゅう》での絶景であろう。
 私は錦町からの帰途|桜田御門《さくらだごもん》の方へ廻ったり九段《くだん》の方へ出たりいろいろ遠廻りをして目新しい町を通って見るのが面白くてならなかった。しかし一年ばかりの後《のち》途中の光景にも少し飽《あ》きて来た頃私の家は再び小石川の旧宅に立戻《たちもど》る事になった。その夏始めて両国《りょうごく》の水練場《すいれんば》へ通いだしたので、今度は繁華の下町《したまち》と大川筋《おおかわすじ》との光景に一方《ひとかた》ならぬ興《きょう》を催すこととなった。
 今日《こんにち》東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿《たど》るに外ならない。これに加うるに日々《にちにち》昔ながらの名所古蹟を破却《はきゃく》して行く時勢の変遷は市中の散歩に無常悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味《あじわ》おうとしたら埃及《エジプト》伊太利《イタリー》に赴《おもむ》かずとも現在の東京を歩むほど無残にも傷《いた》ましい思《おもい》をさせる処はあるまい。今日《きょう》看《み》て過ぎた寺の門、昨日《きのう》休んだ路傍《ろぼう》の大樹もこの次再び来る時には必《かならず》貸家か製造場《せいぞうば》になっているに違いないと思えば、それほど由緒《ゆかり》のない建築もまたはそれほど年経《としへ》ぬ樹木とても何とはなく奥床《おくゆか》しくまた悲しく打仰《うちあお》がれるのである。
 一体江戸名所には昔からそれほど誇るに足るべき風景も建築もある訳ではない。既に宝晋斎其角《ほうしんさいきかく》が『類柑子《るいこうじ》』にも「隅田川絶えず名に流れたれど加茂《かも》桂《かつら》よりは賤《いや》しくして肩落《かたおち》したり。山並《やまなみ》もあらばと願はし。目黒《めぐろ》は物ふり山坂《やまさか》おもしろけれど果てしなくて水遠し、嵯峨《さが》に似てさみしからぬ風情《ふぜい》なり。王子《おうじ》は宇治《うじ》の柴舟《しばぶね》のしばし目を流すべき島山《しまやま》もなく護国寺《ごこくじ》は吉野《よしの》に似て一目《ひとめ》千本の雪の曙《あけぼの》思ひやらるゝにや爰《ここ》も流《ながれ》なくて口惜《くちお》し。住吉《すみよし》を移奉《うつしまつ》る佃島《つくだじま》も岸の姫松の少《すくな》きに反橋《そりばし》のたゆみをかしからず宰府《さいふ》は崇《あが》め奉《たてまつ》る名のみにして染川《そめかわ》の色に合羽《かっぱ》ほしわたし思河《おもいかわ》のよるべに芥《あくた》を埋《うず》む。都府楼観音寺唐絵《とふろうかんのんじからえ》と云はんに四ツ目の鐘の裸《はだか》なる、報恩寺《ほうおんじ》の甍《いらか》[#「甍」は底本では「薨」]の白地《しらじ》なるぞ屏風《びょうぶ》立てしやうなり。木立《こだち》薄く梅紅葉《うめもみじ》せず、三月の末藤にすがりて回廊に筵《むしろ》を設くるばかり野には心もとまらず……云々《うんぬん》。」そして其角は江戸名所の中《うち》唯ひとつ無疵《むきず》の名作は快晴の富士ばかりだとなした。これ恐らくは江戸の風景に対する最も公平なる批評であろう。江戸の風景堂宇には一として京都奈良に及ぶべきものはない。それにもかかわらずこの都会の風景はこの都会に生れたるものに対して必ず特別の興趣を催させた。それは昔から江戸名所に関する案内記狂歌集絵本の類《たぐい》の夥《おびただ》しく出板《しゅっぱん》されたのを見ても容易に推量する事が出来る。太平の世の武士町人は物見遊山《ものみゆさん》を好んだ。花を愛し、風景を眺め、古蹟を訪《と》う事は即ち風流な最も上品な嗜《たしな》みとして尊ばれていたので、実際にはそれほどの興味を持たないものも、時にはこれを衒《てら》ったに相違ない。江戸の人が最も盛に江戸名所を尋ね歩いたのは私の見る処やはり狂歌全盛の天明《てんめい》以後であったらしい。江戸名所に興味を持つには是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩を進むれば戯作者気質《げさくしゃかたぎ》でなければならぬ。
 この頃《ごろ》私が日和下駄をカラカラ鳴《なら》して再び市中《しちゅう》の散歩を試み初めたのは無論江戸軽文学の感化である事を拒《こば》まない。しかし私の趣味の中《うち》には自《おのずか》らまた近世ヂレッタンチズムの影響も混《まじ》っていよう。千九百五年|巴里《パリー》のアンドレエ・アレエという一新聞記者が社会百般の現象をば芝居でも見る気になってこれを見物して歩いた記事と、また仏国各州の都市古蹟を歩廻《あるきまわ》った印象記とを合せて En《アン》 Flanant《フラアナン》 と題するものを公《おおやけ》にした。その時アンリイ・ボルドオという批評家がこれを機会としてヂレッタンチズムの何たるかを解剖批判した事があった。茲《ここ》にそれを紹介する必要はない。私は唯《ただ》西洋にも市内の散歩を試み、近世的世相と並んで過去の遺物に興味を持った同じような傾向の人がいた事を断《ことわ》って置けばよいのである。アレエは西洋人の事故《ことゆえ》その態度は無論私ほど社会に対して無関心でもなくまた肥遯的《ひとんてき》でもない。これはその本国の事情が異っているからであろう。彼は別に為すべき仕事がないからやむをえず散歩したのではない。自《みずか》ら進んで観察しようと企《くわだ》てたのだ。しかるに私は別にこれといってなすべき義務も責任も何にもないいわば隠居同様の身の上である。その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気《のんき》にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。
 仏蘭西《フランス》の小説を読むと零落《おちぶ》れた貴族の家《いえ》に生れたものが、僅少《わずか》の遺産に自分の身だけはどうやらこうやら日常の衣食には事欠かぬ代り、浮世の楽《たのしみ》を余所《よそ》に人交《ひとまじわ》りもできず、一生涯を果敢《はか》なく淋しく無為無能に送るさまを描いたものが沢山ある。こういう人たちは何か世間に名をなすような専門の研究をして見たいにもそれだけの資力がなし職業を求めて働きたいにも働く口がない。せん方なく素人画《しろうとえ》をかいたり釣をしたり墓地を歩いたりしてなりたけ金のいらないようなその日の送方《おくりかた》を考えている。私の境遇はそれとは全く違う。しかしその行為とその感慨とはやや同じであろう。日本《にほん》の現在は文化の爛熟してしまった西洋大陸の社会とはちがって資本の有無《うむ》にかかわらず自分さえやる気になれば為すべき事業は沢山ある。男女|烏合《うごう》の徒《と》を集めて芝居をしてさえもし芸術のためというような名前を付けさえすればそれ相応に看客《かんきゃく》が来る。田舎の中学生の虚栄心を誘出《さそいだ》して投書を募《つの》れば文学雑誌の経営もまた容易である。慈善と教育との美名の下《もと》に弱い家業の芸人をおどしつけて安く出演させ、切符の押売りで興行をすれば濡手《ぬれて》で粟《あわ》の大儲《おおもうけ》も出来る。富豪の人身攻撃から段々に強面《こわもて》の名前を売り出し懐中《ふところ》の暖くなった汐時《しおどき》を見計《みはから》って妙に紳士らしく上品に構えれば、やがて国会議員にもなれる世の中。現在の日本ほど為すべき事の多くしてしかも容易な国は恐らくあるまい。しかしそういう風な世渡りを潔《いさぎよ》しとしないものは宜《よろ》しく自ら譲って退《しりぞ》くより外《ほか》はない。市中の電車に乗って行先《ゆくさき》を急ごうというには乗換場《のりかえば》を過《すぎ》る度《たび》ごとに見得《みえ》も体裁《ていさい》もかまわず人を突き退《の》け我武者羅《がむしゃら》に飛乗る蛮勇《ばんゆう》がなくてはならぬ。自らその蛮勇なしと省《かえり》みたならば徒《いたずら》に空《す》いた電車を待つよりも、泥亀《どろがめ》の歩み遅々《ちち》たれども、自動車の通らない横町《よこちょう》あるいは市区改正の破壊を免《まぬか》れた旧道をてくてくと歩くに如《し》くはない。市中の道を行くには必《かならず》しも市設の電車に乗らねばならぬと極《きま》ったものではない。いささかの遅延を忍べばまだまだ悠々として濶歩《かっぽ》すべき道はいくらもある。それと同じように現代の生活は亜米利加風《アメリカふう》の努力主義を以てせざれば食えないと極ったものでもない。髯《ひげ》を生《はや》し洋服を着てコケを脅《おど》そうという田舎紳士風の野心さえ起さなければ、よしや身に一銭の蓄《たくわえ》なく、友人と称する共謀者、先輩もしくは親分と称する阿諛《あゆ》の目的物なぞ一切|皆無《かいむ》たりとも、なお優游《ゆうゆう》自適の生活を営《いとな》む方法は尠《すくな》くはあるまい。同じ露店の大道商人となるとも自分は髭を生し洋服を着て演舌口調に医学の説明でいかさまの薬を売ろうよりむしろ黙して裏町の縁日《えんにち》にボッタラ焼《やき》をやくか粉細工《しんこざいく》でもこねるであろう。苦学生に扮装したこの頃の行商人が横風《おうふう》に靴音高くがらりと人の家《うち》の格子戸《こうしど》を明け田舎訛《いなかかま》りの高声《たかごえ》に奥様はおいでかなぞと、ややともすれば強請《ゆすり》がましい凄味《すごみ》な態度を示すに引き比べて昔ながらの脚半《きゃはん》草鞋《わらじ》に菅笠《すげがさ》をかぶり孫太郎虫《まごたろうむし》や水蝋《いぼた》の虫《むし》箱根山《はこねやま》山椒《さんしょ》の魚《うお》、または越中富山《えっちゅうとやま》の千金丹《せんきんたん》と呼ぶ声。秋の夕《ゆうべ》や冬の朝《あした》なぞこの声を聞けば何《なに》とも知れず悲しく淋しい気がするではないか。
 されば私のてくてく歩きは東京という新しい都会の壮観を称美してその審美的価値を論じようというのでもなく、さればとて熱心に江戸なる旧都の古蹟を探《さぐ》りこれが保存を主張しようという訳でもない。如何《いかん》となれば現代人の古美術保存という奴がそもそも古美術の風趣を害する原因で、古社寺の周囲に鉄の鎖を張りペンキ塗《ぬり》の立札《たてふだ》に例の何々スベカラズをやる位ならまだしも結構。古社寺保存を名とする修繕の請負工事などと来ては、これ全く破壊の暴挙に類する事は改めてここに実例を挙げるまでもない。それ故私は唯目的なくぶらぶら歩いて好勝手《すきかって》なことを書いていればよいのだ。家《うち》にいて女房《にょうぼ》のヒステリイ面《づら》に浮世をはかなみ、あるいは新聞雑誌の訪問記者に襲われて折角掃除した火鉢《ひばち》を敷島《しきしま》の吸殻だらけにされるより、暇があったら歩くにしくはない。歩け歩けと思って、私はてくてくぶらぶらのそのそといろいろに歩き廻るのである。
 元来がかくの如く目的のない私の散歩にもし幾分でも目的らしい事があるとすれば、それは何という事なく蝙蝠傘《こうもりがさ》に日和下駄《ひよりげた》を曳摺《ひきず》って行く中《うち》、電車通の裏手なぞにたまたま残っている市区改正以前の旧道に出たり、あるいは寺の多い山の手の横町《よこちょう》の木立《こだち》を仰ぎ、溝《どぶ》や堀割の上にかけてある名も知れぬ小橋を見る時なぞ、何となくそのさびれ果てた周囲の光景が私の感情に調和して少時《しばし》我にもあらず立去りがたいような心持をさせる。そういう無用な感慨に打たれるのが何より嬉しいからである。
 同じ荒廃した光景でも名高い宮殿や城郭《じょうかく》ならば三体詩《さんたいし》なぞで人も知っているように、「太掖勾陳処処[#(ニ)]疑[#(フ)]。薄暮[#(ノ)]毀垣春雨[#(ノ)]裏。〔太掖《たいえき》か勾陳《こうちん》か処処《しょしょ》に疑《うたが》う。薄暮《はくぼ》の毀垣《きえん》 春雨《しゅんう》の裏《うち》。〕」あるいはまた、「煬帝[#(ノ)]春游古城在。壊宮芳草満[#(ツ)][#二]人家[#(ニ)][#一]。〔煬帝《ようだい》の春游《しゅんゆう》せる古城《こじょう》在《あ》り。壊宮《かいきゅう》の芳草《ほうそう》 人家《じんか》に満《み》つ。〕」などと詩にも歌にもして伝えることができよう。
 しかし私の好んで日和下駄を曳摺る東京市中の廃址《はいし》は唯私一個人にのみ興趣を催させるばかりで容易にその特徴を説明することの出来ない平凡な景色である。譬《たと》えば砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の煉瓦塀《れんがべい》にその片側を限られた小石川の富坂《とみざか》をばもう降尽《おりつく》そうという左側に一筋の溝川《みぞかわ》がある。その流れに沿うて蒟蒻閻魔《こんにゃくえんま》の方へと曲って行く横町なぞ即《すなわち》その一例である。両側の家並《やなみ》は低く道は勝手次第に迂《うね》っていて、ペンキ塗の看板や模造西洋造りの硝子戸《ガラスど》なぞは一軒も見当らぬ処から、折々氷屋の旗なぞの閃《ひらめ》く外《ほか》には横町の眺望に色彩というものは一ツもなく、仕立屋《したてや》芋屋|駄菓子屋《だがしや》挑灯屋《ちょうちんや》なぞ昔ながらの職業《なりわい》にその日の暮しを立てている家《うち》ばかりである。私は新開町《しんかいまち》の借家《しゃくや》の門口《かどぐち》によく何々商会だの何々事務所なぞという木札《きふだ》のれいれいしく下げてあるのを見ると、何という事もなく新時代のかかる企業に対して不安の念を起すと共に、その主謀者の人物についても甚しく危険を感ずるのである。それに引《ひき》かえてこういう貧しい裏町に昔ながらの貧しい渡世《とせい》をしている年寄を見ると同情と悲哀とに加えてまた尊敬の念を禁じ得ない。同時にこういう家《うち》の一人娘は今頃|周旋屋《しゅうせんや》の餌《えば》になってどこぞで芸者でもしていはせぬかと、そんな事に思到《おもいいた》ると相も変らず日本固有の忠孝の思想と人身売買の習慣との関係やら、つづいてその結果の現代社会に及ぼす影響なぞについていろいろ込み入った考えに沈められる。
 ついこの間も麻布網代町辺《あざぶあみしろちょうへん》の裏町を通った時、私は活動写真や国技館や寄席《よせ》なぞのビラが崖地《がけち》の上から吹いて来る夏の風に飜《ひるがえ》っている氷屋の店先《みせさき》、表から一目に見通される奥の間で十五、六になる娘が清元《きよもと》をさらっているのを見て、いつものようにそっと歩《あゆみ》を止《と》めた。私は不健全な江戸の音曲《おんぎょく》というものが、今日の世にその命脈を保っている事を訝《いぶか》しく思うのみならず、今もってその哀調がどうしてかくも私の心を刺するかを不思議に感じなければならなかった。何気なく裏町を通りかかって小娘の弾《ひ》く三味線《しゃみせん》に感動するようでは、私は到底世界の新しい思想を迎える事は出来まい。それと共にまたこの江戸の音曲をばれいれいしく電気燈の下《した》で演奏せしめる世俗一般の風潮にも伴《ともな》って行く事は出来まい。私の感覚と趣味とまた思想とは、私の境遇に一大打撃を与える何物かの来《きた》らざる限り、次第に私をして固陋偏狭《ころうへんきょう》ならしめ、遂には全く世の中から除外されたものにしてしまうであろう。私は折々反省しようと力《つと》めても見る。同時に心柄《こころがら》なる身の末は一体どんなになってしまうものかと、いっそ放擲《ほうてき》して自分の身をば他人のようにその果敢《はか》ない行末《ゆくすえ》に対して皮肉な一種の好奇心を感じる事すらある。自分で己れの身を抓《つね》ってこの位《くらい》力を入れればなるほどこの位痛いものだと独りでいじめて独りで涙ぐんでいるようなものである。或時は表面に恬淡洒脱《てんたんしゃだつ》を粧《よそお》っているが心の底には絶えず果敢いあきらめを宿している。これがために「涙でよごす白粉《おしろい》のその顔かくす無理な酒」というような珍しくもない唄《うた》が、聞く度ごとに私の心には一種特別な刺※[#「卓+戈」、U+39B8、19-4]を与える。私は後《うしろ》から勢《いきおい》よく襲い過ぎる自動車の響に狼狽して、表通《おもてどおり》から日の当らない裏道へと逃げ込み、そして人に後《おく》れてよろよろ歩み行く処に、わが一家《いっか》の興味と共に苦しみ、また得意と共に悲哀を見るのである。

第二 淫祠

 裏町を行こう、横道を歩もう。かくの如く私が好んで日和下駄《ひよりげた》をカラカラ鳴《なら》して行く裏通《うらどおり》にはきまって淫祠《いんし》がある。淫祠は昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない。目こぼしでそのままに打捨てて置かれれば結構、ややともすれば取払われべきものである。それにもかかわらず淫祠は今なお東京市中数え尽されぬほど沢山ある。私は淫祠を好む。裏町の風景に或《ある》趣《おもむき》を添える上からいって淫祠は遥《はるか》に銅像以上の審美的価値があるからである。本所深川《ほんじょふかがわ》の堀割の橋際《はしぎわ》、麻布芝辺《あざぶしばへん》の極めて急な坂の下、あるいは繁華な町の倉の間、または寺の多い裏町の角なぞに立っている小さな祠《ほこら》やまた雨《あま》ざらしのままなる石地蔵《いしじぞう》には今もって必ず願掛《がんがけ》の絵馬《えま》や奉納の手拭《てぬぐい》、或時は線香なぞが上げてある。現代の教育はいかほど日本人を新しく狡猾《こうかつ》にしようと力《つと》めても今だに一部の愚昧《ぐまい》なる民の心を奪う事が出来ないのであった。路傍《ろぼう》の淫祠に祈願を籠《こ》め欠《か》けたお地蔵様の頸《くび》に涎掛《よだれかけ》をかけてあげる人たちは娘を芸者に売るかも知れぬ。義賊になるかも知れぬ。無尽《むじん》や富籤《とみくじ》の僥倖《ぎょうこう》のみを夢見ているかも知れぬ。しかし彼らは他人の私行を新聞に投書して復讐を企《くわだ》てたり、正義人道を名として金をゆすったり人を迫害したりするような文明の武器の使用法を知らない。
 淫祠は大抵その縁起《えんぎ》とまたはその効験《こうけん》のあまりに荒唐無稽《こうとうむけい》な事から、何となく滑稽の趣を伴わすものである。
 聖天様《しょうでんさま》には油揚《あぶらあげ》のお饅頭《まんじゅう》をあげ、大黒様《だいこくさま》には二股大根《ふたまただいこん》、お稲荷様《いなりさま》には油揚を献《あ》げるのは誰も皆知っている処である。芝日蔭町《しばひかげちょう》に鯖《さば》をあげるお稲荷様があるかと思えば駒込《こまごめ》には炮烙《ほうろく》をあげる炮烙地蔵というのがある。頭痛を祈ってそれが癒《なお》れば御礼として炮烙をお地蔵様の頭の上に載せるのである。御厩河岸《おうまやがし》の榧寺《かやでら》には虫歯に効験《しるし》のある飴嘗《あめなめ》地蔵があり、金竜山《きんりゅうざん》の境内《けいだい》には塩をあげる塩地蔵というのがある。小石川富坂《こいしかわとみざか》の源覚寺《げんかくじ》にあるお閻魔様《えんまさま》には蒟蒻《こんにゃく》をあげ、大久保百人町《おおくぼひゃくにんまち》の鬼王様《きおうさま》には湿瘡《しつ》のお礼に豆腐《とうふ》をあげる、向島《むこうじま》の弘福寺《こうふくじ》にある「石《いし》の媼様《ばあさま》」には子供の百日咳《ひゃくにちぜき》を祈って煎豆《いりまめ》を供《そな》えるとか聞いている。
 無邪気でそしてまたいかにも下賤《げす》ばったこれら愚民の習慣は、馬鹿囃子《ばかばやし》にひょっとこの踊または判《はん》じ物《もの》見たような奉納の絵馬の拙《つたな》い絵を見るのと同じようにいつも限りなく私の心を慰める。単に可笑《おか》しいというばかりではない。理窟にも議論にもならぬ馬鹿馬鹿しい処に、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持のする処があるからである。
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第三 樹

 目に青葉|山《やま》時鳥《ほととぎす》初鰹《はつがつお》。江戸なる過去の都会の最も美しい時節における情趣は簡単なるこの十七字にいい尽《つく》されている。北斎《ほくさい》及び広重《ひろしげ》らの江戸|名所絵《めいしょえ》に描《えが》かれた所、これを文字《もんじ》に代えたならば、即ちこの一句に尽きてしまうであろう。
 東京はその市内のみならず周囲の近郊まで日々《にちにち》開けて行くばかりであるが、しかし幸にも社寺の境内、私人《しじん》の邸宅、また崖地《がけち》や路《みち》のほとりに、まだまだ夥《おびただ》しく樹木を残している。今や工揚《こうじょう》の煤烟《ばいえん》と電車の響とに日本晴《にほんばれ》の空にも鳶《とんび》ヒョロヒョロの声|稀《まれ》に、雨あがりのふけた夜に月は出ても蜀魂《ほととぎす》はもう啼《な》かなくなった。初鰹の味《あじわい》とてもまた汽車と氷との便あるがために昔のようにさほど珍しくもなくなった。しかし目に見る青葉のみに至っては、毎年《まいねん》花ちる後《のち》の新暦五月となれば、下町《したまち》の川のほとりにも、山の手の坂の上にも、市中《しちゅう》到る処その色の美しさにわれらは東京なる都市に対して始めて江戸伝来の固有なる快感を催し得るのである。
 東京に住む人、試《こころみ》に初めて袷《あわせ》を着たその日の朝といわず、昼といわず、また夕暮といわず、外出《そとで》の折の道すがら、九段《くだん》の坂上、神田《かんだ》の明神《みょうじん》、湯島《ゆしま》の天神《てんじん》、または芝の愛宕山《あたごやま》なぞ、随処の高台に登って市中を見渡したまえ。輝く初夏《しょか》の空の下《した》、際限なくつづく瓦屋根の間々《あいだあいだ》に、あるいは銀杏《いちょう》、あるいは椎《しい》、樫《かし》、柳なぞ、いずれも新緑の色|鮮《あざやか》なる梢《こずえ》に、日の光の麗《うるわ》しく照添《てりそ》うさまを見たならば、東京の都市は模倣の西洋|造《づくり》と電線と銅像とのためにいかほど醜くされても、まだまだ全く捨てたものでもない。東京にはどこといって口にはいえぬが、やはり何となく東京らしい固有な趣があるような気がするであろう。
 もし今日の東京に果して都会美なるものがあり得るとすれば、私はその第一の要素をば樹木と水流に俟《ま》つものと断言する。山の手を蔽《おお》う老樹と、下町を流れる河とは東京市の有する最も尊い宝である。巴里《パリー》の巴里たる体裁《ていさい》は寺院宮殿劇場等の建築があれば縦《たと》え樹と水なくとも足りるであろう。しかるにわが東京においてはもし鬱然《うつぜん》たる樹木なくんばかの壮麗なる芝山内《しばさんない》の霊廟《れいびょう》とても完全にその美とその威儀とを保つ事は出来まい。
 庭を作るに樹と水の必要なるはいうまでもない。都会の美観を作るにもまたこの二つを除くわけには行《ゆ》かない。幸にも東京の地には昔から夥《おびただ》しく樹木があった。今なお芝田村町《しばたむらちょう》に残っている公孫樹《いちょう》の如く徳川氏|入国《にゅうごく》以前からの古木だといい伝えられているものも少くはない。小石川久堅町《こいしかわひさかたまち》なる光円寺《こうえんじ》の大銀杏《おおいちょう》、また麻布善福寺《あざぶぜんぷくじ》にある親鸞上人《しんらんしょうにん》手植《てうえ》の銀杏と称せられるものの如き、いずれも数百年の老樹である。浅草観音堂《あさくさかんのんどう》のほとりにも名高い銀杏の樹は二株《ふたかぶ》もある。小石川植物園内の大銀杏は維新後|危《あやう》く伐《き》り倒されようとした斧《おの》の跡が残っているために今ではかえって老樹を愛重《あいちょう》する人の多く知る処となっている。東京市中にはもしそれほどの故事来歴を有せざる銀杏の大木を探り歩いたならまだなかなか数多いことであろう。小石川|水道端《すいどうばた》なる往来《おうらい》の真中に立っている第六天《だいろくてん》の祠《ほこら》の側《そば》、また柳原通《やなぎわらどおり》の汚《きたな》い古着屋《ふるぎや》の屋根の上にも大きな銀杏が立っている。神田|小川町《おがわまち》の通にも私が一橋《ひとつばし》の中学校へ通う頃には大きな銀杏が煙草屋《たばこや》の屋根を貫《つらぬ》いて電信柱よりも高く聳《そび》えていた。麹町《こうじまち》の番町辺《ばんちょうへん》牛込御徒町《うしごめおかちまち》辺を通れば昔は旗本の屋敷らしい邸内の其処此処《そこここ》に銀杏の大樹の立っているのを見る。
 銀杏は黄葉《こうよう》の頃神社仏閣の粉壁朱欄《ふんぺきしゅらん》と相対して眺むる時、最も日本らしい山水を作《な》す。ここにおいて浅草観音堂の銀杏はけだし東都の公孫樹《こうそんじゅ》中の冠《かん》たるものといわねばならぬ。明和《めいわ》のむかし、この樹下に楊枝店柳屋《ようじみせやなぎや》あり。その美女お藤《ふじ》の姿は今に鈴木春信一筆斎文調《すずきはるのぶいっぴつさいぶんちょう》らの錦絵《にしきえ》に残されてある。

 銀杏に比すれば松は更によく神社仏閣と調和して、あくまで日本らしくまた支那らしい風景をつくる。江戸の武士はその邸宅に花ある木を植えず、常磐木《ときわぎ》の中にても殊に松を尊《たっと》び愛した故に、元《もと》武家の屋敷のあった処には今もなお緑の色かえぬ松の姿にそぞろ昔を思わせる処が少くない。市《いち》ヶ|谷《や》の堀端《ほりばた》に高力松《こうりきまつ》、高田老松町《たかたおいまつちょう》に鶴亀松《つるかめまつ》がある。広重《ひろしげ》の絵本『江戸土産《えどみやげ》』によって、江戸の都人士《とじんし》が遍《あまね》く名高い松として眺め賞したるものを挙ぐれば小名木川《おなぎがわ》の五本松、八景坂《はっけいざか》の鎧掛松《よろいかけまつ》、麻布《あざぶ》の一本松、寺島村蓮華寺《てらじまむられんげじ》の末広松《すえひろまつ》、青山竜巌寺《あおやまりゅうがんじ》の笠松《かさまつ》、亀井戸普門院《かめいどふもんいん》の御腰掛松《おこしかけまつ》、柳島妙見堂《やなぎしまみょうけんどう》の松、根岸《ねぎし》の御行《おぎょう》の松《まつ》、隅田川《すみだがわ》の首尾《しゅび》の松《まつ》なぞその他なおいくらもあろう。しかし大正三年の今日幸に枯死《こし》せざるものいくばくぞや。
 青山竜巌寺の松は北斎の錦絵『富嶽卅六景《ふがくさんじゅうろっけい》』中にも描かれてある。私は大久保の佗住居《わびずまい》より遠くもあらぬ青山を目がけ昔の江戸図をたよりにしてその寺を捜しに行った事がある。寺は青山|練兵場《れんぺいじょう》を横切って兵営の裏手なる千駄《せんだ》ヶ|谷《や》の一隅に残っていたが、堂宇は見るかげもなく改築せられ、境内狭しと建てられた貸家《かしや》に、松は愚か庭らしい閑地《あきち》さえ見当らなかった。この近くに山の手の新日暮里《しんにっぽり》といわれて、日暮里の花見寺《はなみでら》に比較せられた仙寿院《せんじゅいん》の名園ある事は、これも『江戸名所図絵《えどめいしょずえ》』で知っている処から、日和下駄《ひよりげた》の歩きついでに尋《たず》ねあてて見れば、古びた惣門《そうもん》を潜《くぐ》って登る石段の両側に茶の木の美しく刈込まれたるに辛《から》くも昔を忍ぶのみ。庭は跡方《あとかた》もなく伐開《きりひら》かれ本堂の横手の墓地も申訳らしく僅《わずか》な地坪《じつぼ》を残すばかりであった。
 今日《こんにち》上野博物館の構内に残っている松は寛永寺《かんえいじ》の旭《あさひ》の松《まつ》または稚児《ちご》の松《まつ》とも称せられたものとやら。首尾の松は既に跡なけれど根岸にはなお御行の松の健《すこやか》なるあり。麻布|本村町《ほんむらちょう》の曹渓寺《そうけいじ》には絶江《ぜっこう》の松《まつ》、二本榎高野山《にほんえのきこうやさん》には独鈷《どっこ》の松《まつ》と称せられるものがある。その形《かたち》古き絵に比べ見て同じようなればいずれも昔のままのものであろう。

 柳は桜と共に春来ればこきまぜて都の錦を織成《おりな》すもの故、市中《しちゅう》の樹木を愛するもの決してこれを閑却《かんきゃく》する訳には行《ゆ》くまい。桜には上野の秋色桜《しゅうしきざくら》、平川天神《ひらかわてんじん》の鬱金《うこん》の桜《さくら》、麻布|笄町長谷寺《こうがいちょうちょうこくじ》の右衛門桜《うえもんざくら》、青山|梅窓院《ばいそういん》の拾桜《ひろいざくら》、また今日はありやなしや知らねど名所絵にて名高き渋谷の金王桜《こんのうざくら》、柏木《かしわぎ》の右衛門桜、あるいはまた駒込吉祥寺《こまごめきちじょうじ》の並木《なみき》の桜《さくら》の如く、来歴あるものを捜《もと》むれば数多《あまた》あろうが、柳に至ってはこれといって名前のあるものは殆どないようである。
 隨の煬帝《ようだい》長安《ちょうあん》に顕仁宮《けんじんきゅう》を営《いとな》むや河南《かなん》に済渠《さいきょ》を開き堤《つつみ》に柳を植うる事一千三百里という。金殿玉楼《きんでんぎょくろう》その影を緑波《りょくは》に流す処|春風《しゅんぷう》に柳絮《りゅうじょ》は雪と飛び黄葉《こうよう》は秋風《しゅうふう》に菲々《ひひ》として舞うさまを想見《おもいみ》れば宛《さなが》ら青貝の屏風《びょうぶ》七宝《しっぽう》の古陶器を見る如き色彩の眩惑を覚ゆる。けだし水の流に柳の糸のなびきゆらめくほど心地よきはない。東都|柳原《やなぎわら》の土手には神田川の流に臨んで、筋違《すじかい》の見附《みつけ》から浅草《あさくさ》見附に至るまで※[#「參+毛」、第3水準1-86-45]々《さんさん》として柳が生茂《おいしげ》っていたが、東京に改められると間もなく堤は取崩されて今見る如き赤煉瓦の長屋に変ってしまった。[#割り注]土手を取崩したのは『武江年表』によれば明治四年四月またここに供長家を立てたのは明治十二、三年頃である。[#割り注終わり]
 柳橋《やなぎばし》に柳なきは既に柳北《りゅうほく》先生『柳橋新誌《りゅうきょうしんし》』に「橋以[#レ]柳為[#レ]名而不[#レ]植[#二]一株之柳[#一]〔橋《はし》は柳《やなぎ》を以《もっ》て名《な》と為《な》すに、一株《いっしゅ》の柳《やなぎ》も植《う》えず〕」とある。しかして両国橋《りょうごくばし》よりやや川下の溝《みぞ》に小橋あって元柳橋《もとやなぎばし》といわれここに一樹の老柳《ろうりゅう》ありしは柳北先生の同書にも見えまた小林清親翁《こばやしきよちかおう》が東京名所絵にも描かれてある。図を見るに川面《かわづら》籠《こむ》る朝霧に両国橋|薄墨《うすずみ》にかすみ渡りたる此方《こなた》の岸に、幹太き一樹の柳少しく斜《ななめ》になりて立つ。その木蔭《こかげ》に縞《しま》の着流《きながし》の男一人手拭を肩にし後向《うしろむ》きに水の流れを眺めている。閑雅《かんが》の趣|自《おのずか》ら画面に溢れ何となく猪牙舟《ちょきぶね》の艪声《ろせい》と鴎《かもめ》の鳴く音《ね》さえ聞き得るような心地《ここち》がする。かの柳はいつの頃枯れ朽ちたのであろう。今は河岸《かし》の様子も変り小流《こながれ》も埋立てられてしまったので元柳橋の跡も尋ねにくい。
 半蔵御門《はんぞうごもん》より外桜田《そとさくらだ》の堀あるいはまた日比谷馬場先和田倉御門外《ひびやばばさきわだくらごもんそと》へかけての堀端《ほりばた》には一斉に柳が植《うわ》っていて処々に水撒《みずまき》の車が片寄せてある。この柳は恐らく明治になってから植えたものであろう。広重が東都名勝の錦絵の中《うち》外桜田の景を看《み》ても堀端の往来際《おうらいぎわ》には一本の柳とても描かれてはいない。土手を下りた水際《みずぎわ》の柳の井戸の所に唯|一株《ひとかぶ》の柳があるばかりである。余の卑見《ひけん》を以てすれば、水を隔《へだ》てて対岸なる古城の石垣と老松を望まんには、此方の堤に柳あるは眺望を遮《さえぎ》りまた眼界を狭くするの嫌《きらい》あるが故にむしろなきに如《し》くはない。いわんやかかる処に西洋風の楓《かえで》の如きを植うるにおいてをや。
 東京市は頻《しきり》に西洋都市の外観に倣《なら》わんと欲して近頃この種の楓または橡《とち》の類《たぐい》を各区の路傍に植付けたが、その最も不調和なるは赤坂《あかさか》紀《き》の国坂《くにざか》の往来に越す処はあるまい。赤坂離宮のいかにも御所らしく京都らしく見える筋塀《すじべい》に対して異国種《いこくだね》の楓の並木は何たる突飛《とっぴ》ぞや。山の手の殊に堀近き処の往来には並木の用は更にない。並木の緑なくとも山の手一帯には何処という事なく樹木が目につく。並木は繁華の下町において最も効能がある。銀座駒形人形町通《ぎんざこまがたにんぎょうちょうどおり》の柳の木《こ》かげに夏の夜《よ》の露店|賑《にぎわ》う有様は、煽風器《せんぷうき》なくとも天然の凉風自在に吹通《ふきかよ》う星の下《した》なる一大|勧工場《かんこうば》にひとしいではないか。
 都下の樹木にして以上の外《ほか》なお有名なるは青山練兵場内のナンジャモンジャの木、本郷西片町《ほんごうにしかたまち》阿部伯爵家の椎《しい》、同区|弓町《ゆみちょう》の大樟《おおくすのき》、芝三田《しばみた》蜂須賀《はちすか》侯爵邸の椎なぞがある。煩《わずらわ》しければ一々述べず。
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第四 

 蝙蝠傘《こうもりがさ》を杖に日和下駄《ひよりげた》を曳摺《ひきず》りながら市中《しちゅう》を歩む時、私はいつも携帯に便なる嘉永板《かえいばん》の江戸切図《えどきりず》を懐中《ふところ》にする。これは何も今時出版する石版摺《せきばんずり》の東京地図を嫌って殊更《ことさら》昔の木版絵図を慕うというわけではない。日和下駄曳摺りながら歩いて行く現代の街路をば、歩きながらに昔の地図に引合せて行けば、おのずから労せずして江戸の昔と東京の今とを目《ま》のあたり比較対照する事ができるからである。
 例えば牛込弁天町辺《うしごめべんてんちょうへん》は道路取りひろげのため近頃全く面目を異《こと》にしたが、その裏通《うらどおり》なる小流《こながれ》に今なおその名を残す根来橋《ねごろばし》という名前なぞから、これを江戸切図に引合せて、私は歩きながらこの辺《へん》に根来組同心《ねごろぐみどうしん》の屋敷のあった事を知る時なぞ、歴史上の大発見でもしたように訳もなくむやみと嬉しくなるのである。かような馬鹿馬鹿しい無益な興味の外《ほか》に、また一ツ昔の地図の便利な事は雪月花《せつげつか》の名所や神社仏閣の位置をば殊更目につきやすいように色摺《いろずり》にしてあるのみならず時としては案内記のようにこの処より何々まで凡幾町《およそいくちょう》植木屋多しなぞと説明が加えてある事である。凡そ東京の地図にして精密正確なるは陸地測量部の地図に優《まさ》るものはなかろう。しかしこれを眺めても何らの興味も起らず、風景の如何《いかん》をも更に想像する事が出来ない。土地の高低を示す蚰蜒《げじげじ》の足のような符号と、何万分の一とか何とかいう尺度一点張《ものさしいってんばり》の正確と精密とはかえって当意即妙の自由を失い見る人をして唯《ただ》煩雑の思をなさしめるばかりである。見よ不正確なる江戸絵図は上野の如く桜咲く処には自由に桜の花を描き柳原《やなぎわら》の如く柳ある処には柳の糸を添え得るのみならず、また飛鳥山《あすかやま》より遠く日光《にっこう》筑波《つくば》の山々を見ることを得れば直《ただち》にこれを雲の彼方《かなた》に描示《えがきしめ》すが如く、臨機応変に全く相反せる製図の方式態度を併用して興味|津々《しんしん》よく平易にその要領を会得せしめている。この点よりして不正確なる江戸絵図は正確なる東京の新地図よりも遥《はるか》に直感的また印象的の方法に出でたものと見ねばならぬ。現代西洋風の制度は政治法律教育万般のこと尽《ことごと》くこれに等しい。現代の裁判制度は東京地図の煩雑なるが如く大岡越前守《おおおかえちぜんのかみ》の眼力《がんりき》は江戸絵図の如し。更に語《ご》を換《か》ゆれば東京地図は幾何学の如く江戸絵図は模様のようである。
 江戸絵図はかくて日和下駄蝙蝠傘と共に私の散歩には是非ともなくてはならぬ伴侶《はんりょ》となった。江戸絵図によって見知らぬ裏町を歩《あゆ》み行けば身は自《おのずか》らその時代にあるが如き心持となる。実際現在の東京|中《じゅう》には何処《いずこ》に行くとも心より恍惚として去るに忍びざるほど美麗なもしくは荘厳な風景建築に出遇《であ》わぬかぎり、いろいろと無理な方法を取りこれによって纔《わずか》に幾分の興味を作出《つくりだ》さねばならぬ。然《しか》らざれば如何に無聊《ぶりょう》なる閑人《かんじん》の身にも現今の束京は全く散歩に堪《た》えざる都会ではないか。西洋文学から得た輸入思想を便《たよ》りにして、例えば銀座の角《かど》のライオンを以て直ちに巴里《パリー》のカッフェーに擬《ぎ》し帝国劇場を以てオペラになぞらえるなぞ、むやみやたらに東京中を西洋風に空想するのも或人にはあるいは有益にして興味ある方法かも知れぬ。しかし現代日本の西洋式|偽文明《ぎぶんめい》が森永の西洋菓子の如く女優のダンスの如く無味拙劣なるものと感じられる輩《ともがら》に対しては、東京なる都会の興味は勢《いきおい》尚古的《しょうこてき》退歩的たらざるを得ない。われわれは市《いち》ヶ|谷《や》外濠《そとぼり》の埋立工事を見て、いかにするとも将来の新美観を予測することの出来ない限り、愛惜《あいせき》の情《じょう》は自ら人をしてこの堀に藕花《ぐうか》の馥郁《ふくいく》とした昔を思わしめる。
 私は四谷見附《よつやみつけ》を出てから迂曲《うきょく》した外濠の堤《つつみ》の、丁度その曲角《まがりかど》になっている本村町《ほんむらちょう》の坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込《うしごめ》を経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷|八幡《はちまん》の桜早くも散って、茶《ちゃ》の木《き》稲荷《いなり》の茶の木の生垣《いけがき》伸び茂る頃、濠端《ほりばた》づたいの道すがら、行手《ゆくて》に望む牛込小石川の高台かけて、緑《みどり》滴《したた》る新樹の梢《こずえ》に、ゆらゆらと初夏《しょか》の雲凉し気《げ》に動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこの辺《あたり》を中心にして江戸の狂歌が勃興した天明《てんめい》時代の風流を思起《おもいおこ》すのである。『狂歌|才蔵集《さいぞうしゅう》』夏の巻《まき》にいわずや、

 首夏《しゅか》 馬場金埒《ばばきんらち》

 花はみなおろし大根《だいこ》となりぬらし鰹《かつお》に似たる今朝《けさ》の横雲    新樹 紀躬鹿《きのみじか》

 花の山にほひ袋の春過ぎて青葉ばかりとなりにけるかな

 更衣《ころもがえ》    地形方丸《じぎょうかたまる》

 夏たちて布子《ぬのこ》の綿はぬきながらたもとにのこる春のはな帋《がみ》

 江戸の東京と改称せられた当時の東京絵図もまた江戸絵図と同じく、わが日和下駄の散歩に興味を添えしむるものである。
 私は小石川なる父の家の門札《もんふだ》に、第四|大区《だいく》第何小区何町何番地と所書《ところがき》のしてあったのを記憶している。東京府が今日の如く十五区六郡に区劃されたのは、丁度私の生れた頃のこと。それまでは十一の大区に分たれていたのである。私は柳北《りゅうほく》の随筆、芳幾《よしいく》の綿絵《にしきえ》、清親《きよちか》の名所絵、これに東京絵図を合せ照してしばしば明治初年の渾沌《こんとん》たる新時代の感覚に触るる事を楽しみとする。
 市中《しちゅう》を散歩しつつこの年代の東京絵図を開き見れば諸処《しょしょ》の重立《おもだ》った大名屋敷は大抵海陸軍の御用地となっている。下谷佐竹《したやさたけ》の屋敷は調練場《ちょうれんば》となり、市ヶ谷と戸塚村《とつかむら》なる尾州侯《びしゅうこう》の藩邸、小石川なる水戸の館第《かんてい》も今日われわれの見る如く陸軍の所轄《しょかつ》となり名高き庭苑も追々に踏み荒されて行く。鉄砲洲《てっぽうず》なる白河楽翁公《しらかわらくおうこう》が御下屋敷《おしもやしき》の浴恩園《よくおんえん》は小石川の後楽園《こうらくえん》と並んで江戸名苑の一に数えられたものであるが、今は海軍省の軍人ががやがや寄集《よりあつま》って酒を呑む倶楽部《クラブ》のようなものになってしまった。江戸絵図より目を転じて東京絵図を見れば誰しも仏蘭西《フランス》革命史を読むが如き感に打たれるであろう。われわれはそれよりも時としては更に深い感慨に沈められるといってもよい。何故《なにゆえ》なれば、仏蘭西の市民《シトワイヤン》は政変のために軽々しくヴェルサイユの如きルウブルの如き大なる国民的美術的建築物を壊《こぼ》ちはしなかったからである。現代官僚の教育は常に孔孟《こうもう》の教を尊び忠孝仁義の道を説くと聞いているが、お茶の水を過《すぎ》る度々「仰高《ぎょうこう》」の二字を掲げた大成殿《たいせいでん》の表門を仰げば、瓦は落ちたるままに雑草も除かず風雨の破壊するがままに任せてある。しかして世人の更にこれを怪しまざるが如きに至っては、われらは唯|唖然《あぜん》たるより外《ほか》はない。

第五 寺

 杖《つえ》のかわりの蝙蝠傘《こうもりがさ》と共に私が市中《しちゅう》散歩の道しるべとなる昔の江戸切絵図《えどきりえず》を開き見れば江戸中には東西南北到る処に夥《おびただ》しく寺院神社の散在していた事がわかる。江戸の都会より諸侯の館邸と武家《ぶけ》の屋敷と神社仏閣を除いたなら残る処の面積は殆どない位《くらい》であろう。明治初年神仏の区別を分明《ぶんめい》にして以来殊には近年に至って市区改正のため仏寺の取払いとなったものは尠《すくな》くない。それにもかかわらず寺院は今なお市中|何処《いずこ》という限りもなく、あるいは坂の上|崖《がけ》の下、川のほとり橋の際《きわ》、到る処にその門と堂の屋根を聳《そびやか》している。一箇所大きい寺のあるあたりには塔中《たっちゅう》また寺中《じちゅう》と呼ばれて小さい寺が幾軒も続いている。そして町の名さえ寺町《てらまち》といわれた処は下谷《したや》浅草《あさくさ》牛込《うしごめ》四谷《よつや》芝《しば》を始め各区に渡ってこれを見出すことが出来る。私は目的《めあて》なく散歩する中《うち》おのずからこの寺の多い町の方へとのみ日和下駄《ひよりげた》を曳摺《ひきず》って行く。
 上野寛永寺《うえのかんえいじ》の楼閣は早く兵火に罹《かか》り芝増上寺《しばぞうじょうじ》の本堂も祝融《しゅくゆう》の災《わざわい》に遭《あ》う事再三。谷中天王寺《やなかてんのうじ》は僅《わずか》に傾ける五重塔に往時《おうじ》の名残《なごり》を留《とど》むるばかり。本所羅漢寺《ほんじょらかんじ》の螺堂《さざえどう》も既に頽廃し内《なか》なる五百の羅漢のみ幸に移されてその大半を今や郊外|目黒《めぐろ》の一寺院に見る。かくては今日東京市中の寺院にして輪奐《りんかん》の美|人目《じんもく》を眩惑せしむるものは僅に浅草の観音堂《かんのんどう》音羽護国寺《おとわごこくじ》の山門《さんもん》その他《た》二、三に過ぎない。歴史また美術の上よりして東京市中の寺院がさしたる興味を牽《ひ》かないのは当然の事である。私は秩序を立てて東京中の寺院を歴訪しようという訳でもなく、また強《し》いて人の知らない寺院をさがし出そうと企《くわだ》てている訳でもない。私は唯《ただ》古びた貧しい小家《こいえ》つづきの横町《よこちょう》なぞを通り過《すぎ》る時、ふと路のほとりに半ば崩れかかった寺の門を見付けてああこんな処にこんなお寺があったのかと思いながら、そっとその門口《もんぐち》から境内《けいだい》を窺《うかが》い、青々とした苔と古池に茂った水草の花を見るのが何となく嬉しいというに過ぎない。京都鎌倉あたりの名高い寺々を見物するのとは異《ことな》って、東京市中に散在したつまらない寺にはまた別種の興味がある。これは単独に寺の建築やその歴史から感ずる興味ではなく、いわば小説の叙景もしくは芝居の道具立《どうぐだて》を見るような興味に似ている。私は本所深川辺《ほんじょふかがわへん》の堀割を散歩する折|夕汐《ゆうしお》の水が低い岸から往来まで溢れかかって、荷船《にぶね》や肥料船《こえぶね》の笘《とま》が貧家の屋根よりもかえって高く見える間からふと彼方《かなた》に巍然《ぎぜん》として聳《そび》ゆる寺院の屋根を望み見る時、しばしば黙阿弥《もくあみ》劇中の背景を想い起すのである。
 かくの如き溝泥臭《どぶどろくさ》い堀割と腐《くさ》った木の橋と肥料船や芥船《ごみぶね》や棟割長屋《むねわりながや》なぞから成立つ陰惨な光景中に寺院の屋根を望み木魚《もくぎょ》と鐘とを聞く情趣《おもむき》は、本所と深川のみならず浅草|下谷辺《したやへん》においてもまた変る処がない。私は今近世の社会問題からは全く隔離して仮に単独な絵画的詩興の上からのみかかる貧しい町の光景を見る時、東京の貧民窟には竜動《ロンドン》や紐育《ニューヨーク》において見るが如き西洋の貧民窟に比較して、同じ悲惨な中《うち》にも何処《どこ》となくいうべからざる静寂の気が潜《ひそ》んでいるように思われる。尤《もっと》も深川小名木川《ふかがわおなぎがわ》から猿江《さるえ》あたりの工場町《こうじょうまち》は、工場の建築と無数の煙筒《えんとう》から吐く煤烟と絶間なき機械の震動とによりて、やや西洋風なる余裕なき悲惨なる光景を呈し来《きた》ったが、今|然《しか》らざる他《た》の場所の貧しい町を窺うに、場末の路地や裏長屋には仏教的迷信を背景にして江戸時代から伝襲し来《きた》ったそのままなる日蔭の生活がある。怠惰にして無責任なる愚民の疲労せる物哀れな忍従の生活がある。近来一部の政治家と新聞記者とは各自党派の勢力を張らんがために、これらの裏長屋にまで人権問題の福音《ふくいん》を強《し》いようと急《あせ》り立っている。さればやがて数年の後《のち》には法華《ほっけ》の団扇太鼓《うちわだいこ》や百万遍《ひゃくまんべん》の声全く歇《や》み路地裏の水道|共用栓《きょうようせん》の周囲《まわり》からは人権問題と労働問題の喧《かしま》しい演説が聞かれるに違いない。しかし幸か不幸かいまだ全く文明化せられざる今日においてはかかる裏長屋の路地内《ろじうち》には時として巫女《いちこ》が梓弓《あずさゆみ》の歌も聞かれる。清元《きよもと》も聞かれる。盂蘭盆《うらぼん》の燈籠《とうろう》や果敢《はか》ない迎火《むかいび》の烟《けむり》も見られる。彼らが江戸の専制時代から遺伝し来ったかくの如き果敢《はか》ない裏淋しい諦《あきら》めの精神修養が漸次《ぜんじ》新時代の教育その他のために消滅し、徒《いたずら》に覚醒と反抗の新空気に触れるに至ったならば、私はその時こそ真に下層社会の悲惨な生活が開始せられるのだ。そして政治家と新聞記者とが十分に私欲を満す時が来るのだと信じている。いつの世にか弱いものの利を得た時代があろう。弱い者が自《みずか》らその弱い事を忘れ軽々しく浮薄なる時代の声に誘惑されようとするのは、誠に外《よそ》の見る目も痛ましい限りといわねばならぬ。
 私は敢て自分一家の趣味ばかりのために、古寺《ふるでら》と荒れた墓場とその附近なる裏屋の貧しい光景とを喜ぶのではない。江戸専制時代の迷信と無智とを伝承した彼らが生活の外形に接して直ちにこれを我が精神修養の一助になさんと欲するのである。実際私は下谷浅草本所深川あたりの古寺の多い溝際《どぶぎわ》の町を通る度々、見るもの聞くものから幾多の教訓と感慨とを授《さず》けられるか知れない。私は日進月歩する近世医学の効験《こうけん》を信じないのでは決してない。電気治療もラヂウム鉱泉の力をもあながち信用しないのではない。しかし私はここに不衛生なる裏町に住んでいる果敢ない人たちが今なお迷信と煎薬《せんじぐすり》とにその生命《せいめい》を托しこの世を夢と簡単にあきらめをつけている事を思えば、私は医学の進歩しなかった時代の人々の病苦災難に対する態度の泰然たると、その生活の簡易なるとに対して深く敬慕の念なきを得ない。およそ近世人の喜び迎えて「便利」と呼ぶものほど意味なきものはない。東京の書生がアメリカ人の如く万年筆を便利として使用し始めて以来文学に科学にどれほどの進歩が見られたであろう。電車と自動車とは東京市民をして能《よ》く時間の節倹を実施させているのであろうか。
 私はかように好んで下町《したまち》の寺とその附近の裏町を尋ねて歩くと共にまた山の手の坂道に臨んだ寺をも決して閑却しない。山の手の坂道はしばしばその麓《ふもと》に聳え立つ寺院の屋根樹木と相俟《あいま》って一幅の好画図《こうがと》をつくることがある。私は寺の屋根を眺めるほど愉快なことはない。怪異なる鬼瓦《おにがわら》を起点として奔流の如く傾斜する寺院の瓦屋根はこれを下から打仰《うちあお》ぐ時も、あるいはこれを上から見下《みおろ》す時も共に言うべからざる爽快の感を催《もよお》させる。近来日本人は土木の工《こう》を起すごとに力《つと》めて欧米各国の建築を模倣せんとしているが、私の目にはいまだ一ツとして寺観の屋根を仰ぐが如き雄大なる美感を起させたものはない。新時代の建築に対するわれわれの失望は啻《ただ》に建築の様式のみに留まらず、建築と周囲の風景樹木等の不調和なる事である。現代人の好んで用ゆる煉瓦の赤色《あかいろ》と松杉の如き植物の濃く強き緑色《りょくしょく》と、光線の烈しき日本固有の藍色《らんしょく》の空とは何たる永遠の不調和であろう。日本の自然は尽《ことごと》く強い色彩を持っている。これにペンキあるいは煉瓦《れんが》の色彩を対時せしめるのは余りに無謀といわねばならぬ。試《こころみ》に寺院の屋根と廂《ひさし》と廻廊を見よ。日本寺院の建築は山に河に村に都に、いかなる処においても、必ずその周囲の風景と樹木と、また空の色とに調和して、ここに特色ある日本固有の風景美を組織している。日本の風景と寺院の建築とは両々《りょうりょう》相俟《あいま》って全く引離すことが出来ないほどに混和している。京都|宇治《うじ》奈良|宮島《みやじま》日光等の神社仏閣とその風景との関係は、暫らくこれを日本旅行者の研究に任せて、私はここにそれほど誇るに足らざる我が東京市中のものについてこれを観《み》よう。
 不忍《しのばず》の池《いけ》に泛《うか》ぶ弁天堂とその前の石橋《いしばし》とは、上野の山を蔽《おお》う杉と松とに対して、または池一面に咲く蓮花《はすのはな》に対して最もよく調和したものではないか。これらの草木《そうもく》とこの風景とを眼前に置きながら、殊更《ことさら》に西洋風の建築または橋梁を作って、その上から蓮の花や緋鯉《ひごい》や亀の子などを平気で見ている現代人の心理は到底私には解釈し得られぬ処である。浅草観音堂とその境内《けいだい》に立つ銀杏《いちょう》の老樹、上野の清水堂《きよみずどう》と春の桜秋の紅葉《もみじ》の対照もまた日本固有の植物と建築との調和を示す一例である。
 建築は元《もと》より人工のものなれば風土気侯の如何《いかん》によらず亜細亜《アジヤ》の土上《どじょう》に欧羅巴《ヨウロッパ》の塔を建《たつ》るも容易であるが、天然の植物に至っては人意のままに猥《みだり》にこれを移し植えることは出来ない。無情の植物はこの点において最大の芸術家哲学者よりも遥《はるか》によく己れを知っている。私は日本人が日本の国土に生ずる特有の植物に対して最少《もすこ》し深厚なる愛情を持っていたなら、たとえ西洋文明を模倣するにしても今日の如く故国の風景と建築とを毀損《きそん》せずに済んだであろうと思っている。電線を引くに不便なりとて遠慮|会釈《えしゃく》もなく路傍《ろぼう》の木を伐《き》り、または昔からなる名所《めいしょ》の眺望や由緒《ゆいしょ》のある老樹にも構わずむやみやたらに赤煉瓦の高い家を建てる現代の状態は、実に根柢《こんてい》より自国の特色と伝来の文明とを破却《はきゃく》した暴挙といわねばならぬ。この暴挙あるがために始めて日本は二十世紀の強国になったというならば、外観上の強国たらんがために日本はその尊き内容を全く犠牲にしてしまったものである。
 私は上野博物館の門内に入《い》る時、表慶館《ひょうけいかん》の傍《かたわら》に今なお不思議にも余命を保っている老松の形と赤煉瓦の建築とを対照して、これが日本固有の貴重なる古美術を収めた宝庫かと誠に奇異なる感に打たれる。日本橋《にほんばし》の大通《おおどおり》を歩いて三井三越を始めこの辺《へん》に競うて立つアメリカ風の高い商店を望むごとに、私はもし東京市の実業家が真に日本橋といい駿河町《するがちょう》と呼ぶ名称の何たるかを知りこれに対する伝説の興味を感じていたなら、繁華な市中《しちゅう》からも日本晴《にほんばれ》の青空遠く富士山を望み得たという昔の眺望の幾分を保存させたであろうと愚《ぐ》にもつかぬ事を考え出す。私は外濠《そとぼり》の土手に残った松の木をば雪の朝《あした》月の夕《ゆうべ》、折々の季節につれて、現今の市中第一の風景として悦《よろこ》ぶにつけて、近頃|四谷見附内《よつやみつけうち》に新築された大きな赤い耶蘇《やそ》の学校の建築をば心の底から憎まねばならぬ。日常かかる不調和な市街の光景に接した目を転じて、一度《ひとたび》市内に残された寺院神社を訪《と》えばいかにつまらぬ堂宇もまたいかに狭い境内《けいだい》も私の心には無限の慰藉《いしゃ》を与えずにはいない。
 私は市中の寺院や神社をたずね歩いて最も幽邃《ゆうすい》の感を与えられるのは、境内に進入《すすみい》って近く本堂の建築を打仰ぐよりも、路傍に立つ惣門《そうもん》を潜《くぐ》り、彼方《かなた》なる境内の樹木と本堂鐘楼|等《とう》の屋根を背景にして、その前に聳《そび》える中門《ちゅうもん》または山門をば、長い敷石道の此方《こなた》から遠く静に眺め渡す時である。浅草の観音堂について論ずれば雷門《かみなりもん》は既に焼失《やけう》せてしまったが今なお残る二王門《におうもん》をば仲店《なかみせ》の敷石道から望み見るが如き光景である。あるいはまた麻布広尾橋《あざぶひろおばし》の袂《たもと》より一本道の端《はず》れに祥雲寺《しょううんじ》の門を見る如き、あるいは芝大門《しばだいもん》の辺《へん》より道の両側に塔中《たっちゅう》の寺々|甍《いらか》[#「甍」は底本では「薨」]を連ぬるその端れに当って遥に朱塗《しゅぬり》の楼門を望むが如き光景である。私はかくの如き日本建築の遠景についてこれをば西洋で見た巴里《パリー》の凱旋門《がいせんもん》その他《た》の眺望に比較すると、気候と光線の関係故か、唯《ただ》何とはなしに日本の遠景は平たく見えるような心持がする。この点において歌川豊春《うたがわとよはる》らの描いた浮絵《うきえ》の遠景木板画にはどうかすると真《しん》によくこの日本的感情を示したものがある。
 私は適度の距離から寺の門を見る眺望と共にまた近寄って扉の開かれた寺の門をそのままの額縁《がくぶち》にして境内を窺《うかが》い、あるいはまた進み入って境内よりその門外を顧《かえりみ》る光景に一段の画趣を覚える。既に『大窪《おおくぼ》だより』その他の拙著において私は寺の門口《もんぐち》からその内外を見る景色の最も面白きは浅草の二王門及び随身門《ずいじんもん》である事を語った。然《さ》れば今更ここにその興味を繰返して述べる必要はない。
 寺の門はかくの如く本堂の建築とは必ず適度の距離に置かれ、境内に入るものをしてその眺望よりして自《おのずか》ら敬虔《けいけん》の心を起さしめるように造られてある。寺の門は宛《さなが》ら西洋管絃楽の序曲《プレリュード》の如きものである。最初に惣門《そうもん》ありその次に中門《ちゅうもん》あり然る後幽邃なる境内あってここに始めて本堂が建てられるのである。神社について見るもまず鳥居《とりい》あり次に楼門あり、これを過ぎて始めて本殿に到る。皆相応の距離が設けられてある。この距離あって始めて日本の寺院と神社の威厳が保たれるのである。されば寺院神社の建築を美術として研究せんと欲するものは、単独にその建築を観《み》るに先立って、広く境内の敷地全体の設計並びにその地勢から観察して行かねばならぬ。これ既にゴンスやミジヨンの如き日本美術の研究者また旅行者の論ずるが如く、日本寺院の西洋と異《こと》なる所以《ゆえん》である。西洋の寺院は大抵単独に路傍《ろぼう》に屹立《きつりつ》しているのみであるが、日本の寺院に至っては如何なる小さな寺といえども皆《みな》門を控えている。芝増上寺《しばぞうじょうじ》の楼門《ろうもん》をしてかくの如く立派に見せようがためにはその門前なる広い松原が是非とも必要になって来るであろう。麹町日枝神社《こうじまちひえじんじゃ》の山門《さんもん》の甚だ幽邃《ゆうすい》なる理由を知らんには、その周囲なる杉の木立のみならず、前に控えた高い石段の有無《うむ》をも考えねばなるまい。日本の神社と寺院とはその建築と地勢と樹木との寔《まこと》に複雑なる綜合美術である。されば境内の老樹にしてもしその一株《いっしゅ》を枯死《こし》せしむれば、全体より見て容易に修繕しがたき破損を来《きた》さしめた訳である。私はこの論法により更に一歩を進めて京都奈良の如き市街は、その貴重なる古社寺の美術的効果に対して広く市街全体をもその境内に同じきものとして取扱わねばならぬと思っている。即ちかかる市街の停車《ていしゃば》場旅館|官衙《かんが》学校|等《とう》は、その建築の体裁も出来得る限りその市街の生命たる古社寺の風致と歴史とを傷《きずつ》けぬよう、常に慎重なる注意を払うべき必要があった。しかるに近年見る所の京都の道路家屋|並《ならび》に橋梁の改築工事の如きは全く吾人《ごじん》の意表に出《い》でたものである。日本いかに貧国たりとも京都奈良の二旧都をそのままに保存せしめたりとて、もしそれだけの埋合せとして新領土の開拓に努むる処あらば、一国全体の商工業より見て、さしたる損害を来す訳でもあるまい。眼前の利にのみ齷齪《あくせく》して世界に二つとない自国の宝の値踏《ねぶみ》をする暇《いとま》さえないとは、あまりに小国人《しょうこくじん》の面目を活躍させ過ぎた話である。思わず畠違いへ例の口癖とはいいながら愚痴が廻り過ぎた。世の中はどうでも勝手に棕梠箒《しゅろぼうき》。私は自分勝手に唯一人|日和下駄《ひよりげた》を曳《ひ》きずりながら黙って裏町を歩いていればよかったのだ。議論はよそう。皆様が御退屈だから。

第六 水 附渡船

 仏蘭西人《フランスじん》エミル・マンユの著書『都市美論』の興味ある事は既にわが随筆『大窪《おおくぼ》だより』の中《うち》に述べて置いた。エミル・マンユは都市に対する水の美を論ずる一章において、広く世界各国の都市とその河流及び江湾の審美的関係より、更に進んで運河|沼沢《しょうたく》噴水|橋梁《きょうりょう》等の細節《さいせつ》にわたってこれを説き、なおその足らざる処を補わんがために水流に映ずる市街燈火の美を論じている。
 今|試《こころみ》に東京の市街と水との審美的関係を考うるに、水は江戸時代より継続して今日《こんにち》においても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となっている。陸路運輸の便《べん》を欠いていた江戸時代にあっては、天然の河流たる隅田川《すみだがわ》とこれに通ずる幾筋の運河とは、いうまでもなく江戸商業の生命であったが、それと共に都会の住民に対しては春秋四季の娯楽を与え、時に不朽の価値ある詩歌《しいか》絵画をつくらしめた。しかるに東京の今日市内の水流は単に運輸のためのみとなり、全く伝来の審美的価値を失うに至った。隅田川はいうに及ばず神田のお茶の水|本所《ほんじょ》の竪川《たてかわ》を始め市中《しちゅう》の水流は、最早《もは》や現代のわれわれには昔の人が船宿《ふなやど》の桟橋《さんばし》から猪牙船《ちょきぶね》に乗って山谷《さんや》に通い柳島《やなぎしま》に遊び深川《ふかがわ》に戯《たわむ》れたような風流を許さず、また釣や網の娯楽をも与えなくなった。今日の隅田川は巴里《パリー》におけるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育《ニューヨーク》のホドソン、倫敦《ロンドン》のテエムスに対するが如く偉大なる富国《ふこく》の壮観をも想像させない。東京市の河流はその江湾なる品川《しながわ》の入海《いりうみ》と共に、さして美しくもなく大きくもなくまたさほどに繁華でもなく、誠に何方《どっち》つかずの極めてつまらない景色をなすに過ぎない。しかしそれにもかかわらず東京市中の散歩において、今日なお比較的興味あるものはやはり水流れ船動き橋かかる処の景色である。
 東京の水を論ずるに当ってまずこれを区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川|中川《なかがわ》六郷川《ろくごうがわ》の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川《おとなしがわ》の如き細流《さいりゅう》、第四は本所深川日本橋|京橋《きょうばし》下谷《したや》浅草《あさくさ》等市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川《さくらがわ》、根津《ねず》の藍染川《あいそめがわ》、麻布の古川《ふるかわ》、下谷の忍川《しのぶがわ》の如きその名のみ美しき溝渠《こうきょ》、もしくは下水、第六は江戸城を取巻く幾重《いくえ》の濠《ほり》、第七は不忍池《しのばずのいけ》、角筈十二社《つのはずじゅうにそう》の如き池である。井戸は江戸時代にあっては三宅坂側《みやけざかそば》の桜《さくら》ヶ|井《い》、清水谷《しみずだに》の柳《やなぎ》の井《い》、湯島《ゆしま》の天神《てんじん》の御福《おふく》の井《い》の如き、古来江戸名所の中《うち》に数えられたものが多かったが、東京になってから全く世人に忘れられ所在の地さえ大抵は不明となった。
 東京市はかくの如く海と河と堀と溝《みぞ》と、仔細《しさい》に観察し来《きた》ればそれら幾種類の水――即ち流れ動く水と淀《よど》んで動かぬ死したる水とを有する頗《すこぶる》変化に富んだ都会である。まず品川の入海《いりうみ》を眺めんにここは目下なお築港の大工事中であれば、将来如何なる光景を呈し来《きた》るや今より予想する事はできない。今日までわれわれが年久しく見馴れて来た品川の海は僅《わずか》に房州通《ぼうしゅうがよい》の蒸汽船と円《まる》ッこい達磨船《だるません》を曳動《ひきうごか》す曳船の往来する外《ほか》、東京なる大都会の繁栄とは直接にさしたる関係もない泥海《どろうみ》である。潮《しお》の引く時|泥土《でいど》は目のとどく限り引続いて、岸近くには古下駄に炭俵《すみだわら》、さては皿小鉢や椀のかけらに船虫《ふなむし》のうようよと這寄《はいよ》るばかり。この汚い溝《どぶ》のような沼地を掘返しながら折々は沙蚕《ごかい》取りが手桶《ておけ》を下げて沙蚕を取っている事がある。遠くの沖には彼方《かなた》此方《こなた》に澪《みお》や粗朶《そだ》が突立《つった》っているが、これさえ岸より眺むれば塵芥《ちりあくた》かと思われ、その間《あいだ》に泛《うか》ぶ牡蠣舟《かきぶね》や苔取《のりとり》の小舟《こぶね》も今は唯|強《し》いて江戸の昔を追回《ついかい》しようとする人の眼にのみ聊《いささ》かの風趣を覚えさせるばかりである。かく現代の首府に対しては実用にも装飾にも何にもならぬこの無用なる品川湾の眺望は、彼《か》の八《や》ツ山《やま》の沖《おき》に並んで泛ぶこれも無用なる御台場《おだいば》と相俟《あいま》って、いかにも過去った時代の遺物らしく放棄された悲しい趣を示している。天気のよい時|白帆《しらほ》や浮雲《うきぐも》と共に望み得られる安房《あわ》上総《かずさ》の山影《さんえい》とても、最早《もは》や今日の都会人には彼《か》の花川戸助六《はたかわどすけろく》が台詞《せりふ》にも読込まれているような爽快な心持を起させはしない。品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く湮滅《いんめつ》してしまったにかかわらず、その代りとして興るべき新しい風景に対する興味は今日においてはいまだ成立たずにいるのである。
 芝浦《しばうら》の月見も高輪《たかなわ》の二十六夜待《にじゅうろくやまち》も既になき世の語草《かたりぐさ》である。南品《なんぴん》の風流を伝えた楼台《ろうだい》も今は唯《ただ》不潔なる娼家《しょうか》に過ぎぬ。明治二十七、八年頃|江見水蔭子《えみすいいんし》がこの地の娼婦を材料として描いた小説『泥水清水《どろみずしみず》』の一篇は当時|硯友社《けんゆうしゃ》の文壇に傑作として批評されたものであったが、今よりして回想すれば、これすら既に遠い世のさまを描いた物語のような気がしてならぬ。
 かく品川の景色の見捨てられてしまったのに反して、荷船の帆柱と工場の煙筒の叢《むらが》り立った大川口《おおかわぐち》の光景は、折々西洋の漫画に見るような一種の趣味に照して、この後《ご》とも案外長く或《ある》一派の詩人を悦《よろこ》ばす事が出来るかも知れぬ。木下杢太郎《きのしたもくたろう》北原白秋《きたはらはくしゅう》諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋《つきしまえいたいばし》あたりの生活及びその風景によって感興を発したらしく思われるものが尠《すくな》くなかった。全く石川島《いしかわじま》の工場を後《うしろ》にして幾艘となく帆柱を連ねて碇泊《ていはく》するさまざまな日本風の荷船や西洋形の帆前船《ほまえせん》を見ればおのずと特種の詩情が催《もよお》される。私は永代橋を渡る時活動するこの河口《かわぐち》の光景に接するやドオデエがセエン河を往復する荷船の生活を描いた可憐《かれん》なる彼《か》の『ラ・ニベルネエズ』の一小篇を思出すのである。今日の永代橋には最早や辰巳《たつみ》の昔を回想せしむべき何物もない。さるが故に、私は永代橋の鉄橋をばかえってかの吾妻橋《あずまばし》や両国橋《りょうごくばし》の如くに醜《みに》くいとは思わない。新しい鉄の橋はよく新しい河口《かこう》の風景に一致している。

 私が十五、六歳の頃であった。永代橋の河下《かわしも》には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の練習船として立腐《たちぐさ》れのままに繋がれていた時分、同級の中学生といつものように浅草橋《あさくさばし》の船宿から小舟《こぶね》を借りてこの辺《へん》を漕《こ》ぎ廻り、河中《かわなか》に碇泊している帆前船を見物して、こわい顔した船長から椰子《やし》の実を沢山貰って帰って来た事がある。その折私たちは船長がこの小さな帆前船を操《あやつ》って遠く南洋まで航海するのだという話を聞き、全くロビンソンの冒険談を読むような感に打たれ、将来自分たちもどうにかしてあのような勇猛なる航海者になりたいと思った事があった。
 やはりその時分の話である。築地《つきじ》の河岸《かし》の船宿から四挺艪《しちょうろ》のボオトを借りて遠く千住《せんじゅ》の方まで漕ぎ上《のぼ》った帰り引汐《ひきしお》につれて佃島《つくだじま》の手前まで下《くだ》って来た時、突然|向《むこう》から帆を上げて進んで来る大きな高瀬船《たかせぶね》に衝突し、幸いに一人も怪我《けが》はしなかったけれど、借りたボオトの小舷《こべり》をば散々に破《こわ》してしまった上に櫂《かい》を一本折ってしまった。一同は皆親がかりのものばかり、船遊びをする事も家《うち》へは秘密にしていた位なので、私たちは船宿へ帰って万一破損の弁償金を請求されたらどうしようかとその善後策を講ずるために、佃島の砂の上にボオトを引上げ浸水をかい出しながら相談をした。その結果夜暗くなってから船宿の桟橋へ船を着け、宿の亭主が舷《ふなべり》の大破損に気のつかない中《うち》一同|一目散《いちもくさん》に逃げ出すがよかろうという事になった。一同はお浜御殿《はまごてん》の石垣下まで漕入《こぎい》ってから空腹を我慢しつつ水の上の全く暗くなるのを待ち船宿の桟橋へ上《あが》るが否や、店に預けて置いた手荷物を奪うように引掴《ひっつか》み、めいめい後《あと》をも見ず、ひた走りに銀座の大通りまで走って、漸《やっ》と息をついた事があった。その頃には東京府府立の中学校が築地にあったのでその辺《へん》の船宿では釣船の外にボオトをも貸したのである。今日築地の河岸を散歩しても私ははっきりとその船宿の何処《いずこ》にあったかを確めることが出来ない。わずか二十年|前《ぜん》なる我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化はむしろ驚くの外《ほか》はない。

 大川筋《おおかわすじ》一帯の風景について、その最も興味ある部分は今述べたように永代橋河口《えいたいばしかこう》の眺望を第一とする。吾妻橋《あずまばし》両国橋《りょうごくばし》等の眺望は今日の処あまりに不整頓にして永代橋におけるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。これを例するに浅野《あさの》セメント会社の工場と新大橋《しんおおはし》の向《むこう》に残る古い火見櫓《ひのみやぐら》の如き、あるいは浅草蔵前《あさくさくらまえ》の電燈会社と駒形堂《こまがたどう》の如き、国技館《こくぎかん》と回向院《えこういん》の如き、あるいは橋場《はしば》の瓦斯《ガス》タンクと真崎稲荷《まっさきいなり》の老樹の如き、それら工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺蹟とは、いずれも個々別々に私の感想を錯乱させるばかりである。されば私はかくの如く過去と現在、即ち廃頽と進歩との現象のあまりに甚しく混雑している今日の大川筋よりも、深川小名木川《ふかがわおなぎがわ》より猿江裏《さるえうら》の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残《なごり》も容易《たやす》くは尋ねられぬほどになった処を選ぶ。大川筋は千住《せんじゅ》より両国に至るまで今日においてはまだまだ工業の侵略が緩漫《かんまん》に過ぎている。本所小梅《ほんじょこうめ》から押上辺《おしあげへん》に至る辺《あたり》も同じ事、新しい工場町《こうじょうまち》としてこれを眺めようとする時、今となってはかえって柳島《やなぎしま》の妙見堂《みょうけんどう》と料理屋の橋本《はしもと》とが目ざわりである。

 運河の眺望は深川の小名木川辺に限らず、いずこにおいても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまった感興を起させる。一例を挙ぐれば中洲《なかず》と箱崎町《はこざきちょう》の出端《でばな》との間に深く突入《つきい》っている堀割はこれを箱崎町の永久橋《えいきゅうばし》または菖蒲河岸《しょうぶがし》の女橋《おんなばし》から眺めやるに水はあたかも入江の如く無数の荷船は部落の観をなし薄暮風収まる時|競《きそ》って炊烟《すいえん》を棚曳《たなび》かすさま正《まさ》に江南沢国《こうなんたくこく》の趣をなす。凡《すべ》て溝渠《こうきょ》運河の眺望の最も変化に富みかつ活気を帯びる処は、この中洲の水のように彼方《かなた》此方《こなた》から幾筋の細い流れがやや広い堀割を中心にして一個所に落合って来る処、もしくは深川の扇橋《おうぎばし》の如く、長い堀割が互に交叉して十字形をなす処である。本所|柳原《やなぎわら》の新辻橋《しんつじばし》、京橋八丁堀《きょうばしはっちょうぼり》の白魚橋《しらうおばし》、霊岸島《れいがんじま》の霊岸橋《れいがんばし》あたりの眺望は堀割の水のあるいは分れあるいは合《がっ》する処、橋は橋に接し、流れは流れと相激《あいげき》し、ややともすれば船は船に突当ろうとしている。私はかかる風景の中《うち》日本橋を背にして江戸橋の上より菱形《ひしがた》をなした広い水の片側《かたかわ》には荒布橋《あらめばし》つづいて思案橋《しあんばし》、片側には鎧橋《よろいばし》を見る眺望をば、その沿岸の商家倉庫及び街上|橋頭《きょうとう》の繁華|雑沓《ざっとう》と合せて、東京市内の堀割の中《うち》にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に歳暮《さいぼ》の夜景の如き橋上《きょうじょう》を往来する車の灯《ひ》は沿岸の燈火と相乱れて徹宵《てっしょう》水の上に揺《ゆらめ》き動く有様銀座街頭の燈火より遥《はるか》に美麗である。
 堀割の岸には処々《しょしょ》に物揚場《ものあげば》がある。市中《しちゅう》の生活に興味を持つものには物揚場の光景もまたしばし杖を留《とど》むるに足りる。夏の炎天|神田《かんだ》の鎌倉河岸《かまくらがし》、牛込揚場《うしごめあげば》の河岸などを通れば、荷車の馬は馬方《うまかた》と共につかれて、河添《かわぞい》の大きな柳の木の下《した》に居眠りをしている。砂利《じゃり》や瓦や川土《かわつち》を積み上げた物蔭にはきまって牛飯《ぎゅうめし》やすいとん[#「すいとん」に傍点]の露店が出ている。時には氷屋も荷を卸《おろ》している。荷車の後押しをする車力《しゃりき》の女房は男と同じような身仕度をして立ち働き、その赤児《あかご》をば捨児《すてご》のように砂の上に投出していると、その辺《へん》には痩《や》せた鶏が落ちこぼれた餌をも※[#「求/(餮-殄)」、第4水準2-92-54]《あさ》りつくして、馬の尻から馬糞《ばふん》の落ちるのを待っている。私はこれらの光景に接すると、必《かならず》北斎あるいはミレエを連想して深刻なる絵画的写実の感興を誘《いざな》い出され、自《みずか》ら絵事《かいじ》の心得なき事を悲しむのである。

 以上|河流《かりゅう》と運河の外なお東京の水の美に関しては処々の下水が落合って次第に川の如き流をなす溝川《みぞかわ》の光景を尋ねて見なければならない。東京の溝川には折々|可笑《おか》しいほど事実と相違した美しい名がつけられてある。例えば芝愛宕下《しばあたごした》なる青松寺《せいしょうじ》の前を流れる下水を昔から桜川《さくらがわ》と呼びまた今日では全く埋尽《うずめつく》された神田|鍛冶町《かじちょう》の下水を逢初川《あいそめがわ》、橋場総泉寺《はしばそうせんじ》の裏手から真崎《まっさき》へ出る溝川を思川《おもいがわ》、また小石川金剛寺坂下《こいしかわこんごうじざかした》の下水を人参川《にんじんがわ》と呼ぶ類《たぐい》である。江戸時代にあってはこれらの溝川も寺院の門前や大名屋敷の塀外《へいそと》なぞ、幾分か人の目につく場所を流れていたような事から、土地の人にはその名の示すが如き特殊の感情を与えたものかも知れない。しかし今日の東京になっては下水を呼んで川となすことすら既に滑稽なほど大袈裟《おおげさ》である。かくの如くその名とその実との相伴《あいともな》わざる事は独り下水の流れのみには留まらない。江戸時代とまたその以前からの伝説を継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には千仭《せんじん》の幽谷を見るように地獄谷《じごくだに》[#割り注]麹町にあり[#割り注終わり]千日谷《せんにちだに》[#割り注]四谷鮫ヶ橋にあり[#割り注終わり]我善坊《がぜんぼう》ヶ|谷《だに》[#割り注]麻布にあり[#割り注終わり]なぞいう名がつけられ、また少しく小高《こだか》い処は直ちに峨々《がが》たる山岳の如く、愛宕山《あたごやま》道灌山《どうかんやま》待乳山《まつちやま》なぞと呼ばれている。島なき場所も柳島《やなぎしま》三河島《みかわしま》向島《むこうじま》なぞと呼ばれ、森なき処にも烏森《からすもり》、鷺《さぎ》の森《もり》の如き名称が残されてある。始めて東京へ出て来た地方の人は、電車の乗換場《のりかえば》を間違えたり市中の道に迷ったりした腹立《はらだち》まぎれ、かかる地名の虚偽を以てこれまた都会の憎むべき悪風として観察するかも知れない。

 溝川は元より下水に過ぎない。『紫《むらさき》の一本《ひともと》』にも芝の宇田川《うだがわ》を説く条《くだり》に、「溜池《ためいけ》の屋舗《やしき》の下水落ちて愛宕《あたご》の下《した》より増上寺《ぞうじょうじ》の裏門を流れて爰《ここ》に落《おつ》る。愛宕の下、屋敷々々の下水も落ち込む故|宇田川橋《うだがわばし》にては少しの川のやうに見ゆれども水上《みなかみ》はかくの如し。」とある通り、昔から江戸の市中には下水の落合って川をなすものが少くなかった。下水の落合って川となった流れは道に沿い坂の麓《ふもと》を廻《めぐ》り流れ流れて行く中《うち》に段々広くなって、天然の河流または海に落込むあたりになるとどうやらこうやら伝馬船《てんません》を通わせる位になる。麻布《あざぶ》の古川《ふるかわ》は芝山内《しばさんない》の裏手近くその名も赤羽川《あかばねがわ》と名付けられるようになると、山内の樹木と五重塔《ごじゅうのとう》の聳《そび》ゆる麓を巡って舟楫《しゅうしゅう》の便を与うるのみか、紅葉《こうよう》の頃は四条派《しじょうは》の絵にあるような景色を見せる。王子《おうじ》の音無川《おとなしがわ》も三河島《みかわしま》の野を潤《うるお》したその末は山谷堀《さんやぼり》となって同じく船を泛《うか》べる。
 下水と溝川はその上に架《かか》った汚い木橋《きばし》や、崩れた寺の塀、枯れかかった生垣《いけがき》、または貧しい人家の様《さま》と相対して、しばしば憂鬱なる裏町の光景を組織する。即ち小石川柳町《こいしかわやなぎちょう》の小流《こながれ》の如き、本郷《ほんごう》なる本妙寺坂下《ほんみょじざかした》の溝川の如き、団子坂下《だんござかした》から根津《ねづ》に通ずる藍染川《あいそめがわ》の如き、かかる溝川流るる裏町は大雨《たいう》の降る折といえば必ず雨潦《うりょう》の氾濫に災害を被《こうむ》る処である。溝川が貧民窟に調和する光景の中《うち》、その最も悲惨なる一例を挙げれば麻布の古川橋から三之橋《さんのはし》に至る間の川筋であろう。ぶりき板の破片や腐った屋根板で葺《ふ》いたあばら[#「あばら」に傍点]家《や》は数町に渡って、左右から濁水《だくすい》を挟《さしはさ》んで互にその傾いた廂《ひさし》を向い合せている。春秋《はるあき》時候の変り目に降りつづく大雨の度《たび》ごとに、芝《しば》と麻布の高台から滝のように落ちて来る濁水は忽ち両岸に氾濫して、あばら家の腐った土台からやがては破れた畳《たたみ》までを浸《ひた》してしまう。雨が霽《は》れると水に濡れた家具や夜具《やぐ》蒲団《ふとん》を初め、何とも知れぬ汚《きたな》らしい襤褸《ぼろ》の数々は旗か幟《のぼり》のように両岸の屋根や窓の上に曝《さら》し出される。そして真黒な裸体の男や、腰巻一つの汚い女房や、または子供を背負った児娘《こむすめ》までが笊《ざる》や籠や桶《おけ》を持って濁流の中《うち》に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れて来る雑魚《ざこ》を捕えようと急《あせ》っている有様、通りがかりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の下《もと》に、或時はかえって一種の壮観を呈している事がある。かかる揚合に看取せられる壮観は、丁度軍隊の整列もしくは舞台における並大名《ならびだいみょう》を見る時と同様で一つ一つに離して見れば極めて平凡なものも集合して一団をなす時には、此処《ここ》に思いがけない美麗と威厳とが形造られる。古川橋《ふるかわばし》から眺める大雨の後《あと》の貧家の光景の如きもやはりこの一例であろう。

 江戸城の濠《ほり》はけだし水の美の冠たるもの。しかしこの事は叙述の筆を以てするよりもむしろ絵画の技《ぎ》を以てするに如《し》くはない。それ故私は唯|代官町《だいかんちょう》の蓮池御門《はすいけごもん》、三宅坂下《みやけざかした》の桜田御門《さくらだごもん》、九段坂下《くだんざかした》の牛《うし》ヶ|淵《ふち》等古来人の称美する場所の名を挙げるに留《とど》めて置く。
 池には古来より不忍池《しのばずのいけ》の勝景ある事これも今更説く必要がない。私は毎年の秋|竹《たけ》の台《だい》に開かれる絵画展覧会を見ての帰り道、いつも市気《しき》満々たる出品の絵画よりも、向《むこう》ヶ|岡《おか》の夕陽《せきよう》敗荷《はいか》の池に反映する天然の絵画に対して杖を留《とど》むるを常とした。そして現代美術の品評よりも独り離れて自然の画趣に恍惚とする方が遥《はるか》に平和幸福である事を知るのである。
 不忍池は今日市中に残された池の中《うち》の最後のものである。江戸の名所に数えられた鏡《かがみ》ヶ|池《いけ》や姥《うば》ヶ|池《いけ》は今更|尋《たずね》る由《よし》もない。浅草寺境内《せんそうじけいだい》の弁天山《べんてんやま》の池も既に町家《まちや》となり、また赤坂の溜池《ためいけ》も跡方《あとかた》なく埋《うず》めつくされた。それによって私は将来不忍池もまた同様の運命に陥りはせぬかと危《あやぶ》むのである。老樹鬱蒼として生茂《おいしげ》る山王《さんのう》の勝地《しょうち》は、その翠緑《すいりょく》を反映せしむべき麓の溜池あって初めて完全なる山水の妙趣を示すのである。もし上野の山より不忍池の水を奪ってしまったなら、それはあたかも両腕をもぎ取られた人形に等しいものとなるであろう。都会は繁華となるに従って益々自然の地勢から生ずる風景の美を大切に保護せねばならぬ。都会における自然の風景はその都市に対して金力を以て造《つく》る事の出来ぬ威厳と品格とを帯《おび》させるものである。巴里《パリー》にも倫敦《ロンドン》にもあんな大きな、そしてあのように香《かんば》しい蓮《はす》の花の咲く池は見られまい。

 都会の水に関して最後に渡船《わたしぶね》の事を一言《いちごん》したい。渡船は東京の都市が漸次《ぜんじ》整理されて行くにつれて、即ち橋梁の便宜を得るに従ってやがては廃絶すべきものであろう。江戸時代に溯《さかのぼ》ってこれを見れば元禄九年に永代橋《えいたいばし》が懸《かか》って、大渡《おおわた》しと呼ばれた大川口《おおかわぐち》の渡場《わたしば》は『江戸鹿子《えどかのこ》』や『江戸爵《えどすずめ》』などの古書にその跡を残すばかりとなった。それと同じように御厩河岸《おうまやがし》の渡《わた》し鎧《よろい》の渡《わたし》を始めとして市中諸所の渡場は、明治の初年架橋工事の竣成《しゅんせい》と共にいずれも跡を絶ち今はただ浮世絵によって当時の光景を窺《うかが》うばかりである。
 しかし渡場はいまだ悉《ことごと》く東京市中からその跡を絶った訳ではない。両国橋を間にしてその川上に富士見《ふじみ》の渡《わたし》、その川下に安宅《あたけ》の渡が残っている。月島《つきしま》の埋立工事が出来上ると共に、築地《つきじ》の海岸からは新に曳船《ひきふね》の渡しが出来た。向島《むこうじま》には人の知る竹屋《たけや》の渡しがあり、橋場《はしば》には橋場の渡しがある。本所《ほんじょ》の竪川《たてかわ》、深川《ふかがわ》の小名木川辺《おなぎがわへん》の川筋には荷足船《にたりぶね》で人を渡す小さな渡場が幾個所もある。
 鉄道の便宜は近世に生れたわれわれの感情から全く羈旅《きりょ》とよぶ純朴なる悲哀の詩情を奪去《うばいさ》った如く、橋梁はまた遠からず近世の都市より渡船なる古めかしい緩《ゆるや》かな情趣を取除いてしまうであろう。今日世界の都会中渡船なる古雅の趣を保存している処は日本の東京のみではあるまいか。米国の都市には汽車を渡す大仕掛けの渡船があるけれど、竹屋の渡しの如く、河水《かわみず》に洗出《あらいだ》された木目《もくめ》の美しい木造《きづく》りの船、樫《かし》の艪《ろ》、竹の棹《さお》を以てする絵の如き渡船はない。私は向島の三囲《みめぐり》や白髭《しらひげ》に新しく橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない。私は唯両国橋の有無《ゆうむ》にかかわらずその上下《かみしも》に今なお渡場が残されてある如く隅田川その他の川筋にいつまでも昔のままの渡船のあらん事を希《こいねが》うのである。
 橋を渡る時|欄干《らんかん》の左右からひろびろした水の流れを見る事を喜ぶものは、更に岸を下《くだ》って水上に浮び鴎《かもめ》と共にゆるやかな波に揺《ゆ》られつつ向《むこう》の岸に達する渡船の愉快を容易に了解する事が出来るであろう。都会の大道には橋梁の便あって、自由に車を通ずるにかかわらず、殊更《ことさら》岸に立って渡船を待つ心は、丁度表通に立派なアスファルト敷《じき》の道路あるにかかわらず、好んで横町や路地の間道《かんどう》を抜けて見る面白さとやや似たものであろう。渡船は自動車や電車に乗って馳《は》せ廻る東京市民の公生涯《こうしょうがい》とは多くの関係を持たない。しかし渡船は時間の消費をいとわず重い風呂敷包《ふろしきづつ》みなぞ背負《せお》ってテクテクと市中《しちゅう》を歩いている者どもには大《だい》なる休息を与え、またわれらの如き閑散なる遊歩者に向っては近代の生活に味《あじわ》われない官覚の慰安を覚えさせる。
 木で造った渡船と年老いた船頭とは現在並びに将来の東京に対して最も尊い骨董《こっとう》の一つである。古樹と寺院と城壁と同じくあくまで保存せしむべき都市の宝物《ほうもつ》である。都市は個人の住宅と同じくその時代の生活に適当せしむべく常に改築の要あるは勿論のことである。しかしわれわれは人の家を訪《と》うた時、座敷の床《とこ》の間《ま》にその家伝来の書画を見れば何となく奥床《おくゆか》しく自《おのずか》ら主人に対して敬意を深くする。都会もその活動的ならざる他《た》の一面において極力伝来の古蹟を保存し以てその品位を保《たも》たしめねばならぬ。この点よりして渡船の如きは独《ひと》りわれら一個の偏狭なる退歩趣味からのみこれを論ずべきものではあるまい。
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[#5字下げ]第七 路地[#「第七 路地」は中見出し]

 鉄橋と渡船《わたしぶね》との比較からここに思起《おもいおこ》されるのは立派な表通《おもてどおり》の街路に対してその間々に隠れている路地《ろじ》の興味である。擬造西洋館の商店並び立つ表通は丁度電車の往来する鉄橋の趣に等しい。それに反して日陰の薄暗い路地はあたかも渡船の物哀《ものあわれ》にして情味の深きに似ている。式亭三馬《しきていさんば》が戯作《げさく》『浮世床《うきよどこ》』の挿絵に歌川国直《うたがわくになお》が路地口《ろじぐち》のさまを描いた図がある。歌川|豊国《とよくに》はその時代[#割り注]享和二年[#割り注終わり]のあらゆる階級の女の風俗を描いた絵本『時勢粧《いまようかがみ》』の中《うち》に路地の有様を写している。路地はそれらの浮世絵に見る如く今も昔と変りなく細民《さいみん》の棲息する処、日の当った表通からは見る事の出来ない種々《さまざま》なる生活が潜《ひそ》みかくれている。佗住居《わびずまい》の果敢《はかな》さもある。隠棲の平和もある。失敗と挫折と窮迫との最終の報酬なる怠惰と無責任との楽境《らくきょう》もある。すいた同士の新世帯《しんしょたい》もあれば命掛けなる密通の冒険もある。されば路地は細く短しといえども趣味と変化に富むことあたかも長編の小説の如しといわれるであろう。
 今日東京の表通は銀座より日本橋通《にほんばしどおり》は勿論上野の広小路《ひろこうじ》浅草の駒形通《こまがたどおり》を始めとして到処《いたるところ》西洋まがいの建築物とペンキ塗の看板|痩《や》せ衰《おとろ》えた並樹《なみき》さては処嫌わず無遠慮に突立っている電信柱とまた目まぐるしい電線の網目のために、いうまでもなく静寂の美を保っていた江戸市街の整頓を失い、しかもなおいまだ音律的なる活動の美を有する西洋市街の列に加わる事も出来ない。さればこの中途半端の市街に対しては、風雨雪月夕陽《ふううせつげつせきよう》等の助けを借《か》るにあらずんば到底芸術的感興を催す事ができない。表通を歩いて絶えず感ずるこの不快と嫌悪の情とは一層《ひとしお》私をしてその陰にかくれた路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである。
 路地はどうかすると横町同様|人力車《くるま》の通れるほど広いものもあれば、土蔵《どぞう》または人家の狭間《ひあわい》になって人一人やっと通れるかどうかと危《あやぶ》まれるものもある。勿論その住民の階級職業によって路地は種々異った体裁《ていさい》をなしている。日本橋際《にほんばしぎわ》の木原店《きはらだな》は軒並《のきなみ》飲食店の行燈《あんどう》が出ている処から今だに食傷新道《しょくしょうじんみち》の名がついている。吾妻橋《あずまばし》の手前|東橋亭《とうきょうてい》とよぶ寄席《よせ》の角《かど》から花川戸《はなかわど》の路地に這入《はい》れば、ここは芸人や芝居者《しばいもの》また遊芸の師匠なぞの多い処から何となく猿若町《さるわかまち》の新道《しんみち》の昔もかくやと推量せられる。いつも夜店の賑《にぎわ》う八丁堀北島町《はっちょうぼりきたじまちょう》の路地には片側に講釈の定席《じょうせき》、片側には娘義太夫《むすめぎだゆう》の定席が向合っているので、堂摺連《どうするれん》の手拍子《てびょうし》は毎夜|張扇《はりおうぎ》の響に打交《うちまじわ》る。両国《りょうごく》の広小路《ひろこうじ》に沿うて石を敷いた小路には小間物屋|袋物屋《ふくろものや》煎餅屋《せんべいや》など種々《しゅじゅ》なる小売店《こうりみせ》の賑う有様、正《まさ》しく屋根のない勧工場《かんこうば》の廊下と見られる。横山町辺《よこやまちょうへん》のとある路地の中《なか》にはやはり立派に石を敷詰めた両側ともに長門筒袋物《ながとつつふくろもの》また筆なぞ製している問屋《とんや》ばかりが続いているので、路地一帯が倉庫のように思われる処があった。芸者家《げいしゃや》の許可された町の路地はいうまでもなく艶《なまめか》しい限りであるが、私はこの種類の中《うち》では新橋柳橋《しんばしやなぎばし》の路地よりも新富座裏《しんとみざうら》の一角をばそのあたりの堀割の夜景とまた芝居小屋の背面を見る様子とから最も趣のあるように思っている。路地の最も長くまた最も錯雑して、あたかも迷宮の観あるは葭町《よしちょう》の芸者家町であろう。路地の内に蔵造《くらづくり》の質屋もあれば有徳《うとく》な人の隠宅《いんたく》らしい板塀も見える。わが拙作《せっさく》小説『すみだ川』の篇中にはかかる路地の或場所をばその頃見たままに写生して置いた。
 路地の光景が常に私をしてかくの如く興味を催さしむるは西洋銅版画に見るが如きあるいはわが浮世絵に味うが如き平民的画趣ともいうべき一種の芸術的感興に基《もとづ》くものである。路地を通り抜ける時|試《こころみ》に立止って向うを見れば、此方《こなた》は差迫る両側の建物に日を遮《さえぎ》られて湿《しめ》っぽく薄暗くなっている間から、彼方《かなた》遥に表通の一部分だけが路地の幅だけにくっきり限られて、いかにも明るそうに賑《にぎや》かそうに見えるであろう。殊に表通りの向側に日の光が照渡っている時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、往来《ゆきき》の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度燈火に照された演劇の舞台を見るような思いがする。夜になって此方は真暗な路地裏から表通の燈火を見るが如きはいわずともまた別様《べつよう》の興趣がある。川添いの町の路地は折々|忍返《しのびがえ》しをつけたその出口から遥に河岸通《かしどおり》のみならず、併せて橋の欄干や過行く荷船の帆の一部分を望み得させる事がある。かくの如き光景はけだし逸品中の逸品である。
 路地はいかに精密なる東京市の地図にも決して明《あきらか》には描き出されていない。どこから這入《はい》って何処へ抜けられるか、あるいは何処へも抜けられず行止《ゆきどま》りになっているものか否か、それはけだしその路地に住んで始めて判然するので、一度や二度通り抜けた位では容易に判明すべきものではない。路地には往々江戸時代から伝承し来《きた》った古い名称がある。即ち中橋《なかばし》の狩野新道《かのうじんみち》というが如き歴史的|由緒《ゆいしょ》あるものも尠《すくな》くない。しかしそれとてもその土地に住古《すみふる》したものの間にのみ通用されべき名前であって、東京市の市政が認めて以て公《おおやけ》の町名となしたものは恐らくは一つもあるまい。路地は即ちあくまで平民の間にのみ存在し了解されているのである。犬や猫が垣の破れや塀の隙間を見出して自然とその種属ばかりに限られた通路を作ると同じように、表通りに門戸《もんこ》を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に自《おのずか》ら彼らの棲息に適当した路地を作ったのだ。路地は公然市政によって経営されたものではない。都市の面目《めんぼく》体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の地響《じひびき》に午睡《ごすい》の夢を驚かさるる恐れなく、夏の夕《ゆうべ》は格子戸《こうしど》の外に裸体で凉む自由があり、冬の夜《よ》は置炬燵《おきごたつ》に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買わずとも世間の噂は金棒引《かなぼうひき》の女房によって仔細に伝えられ、喘息持《ぜんそくもち》の隠居が咳嗽《せき》は頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種いいがたき生活の悲哀の中《うち》に自からまた深刻なる滑稽の情趣を伴わせた小説的世界である。しかして凡《すべ》てこの世界のあくまで下世話《げせわ》なる感情と生活とはまたこの世界を構成する格子戸《こうしど》、溝板《どぶいた》、物干台《ものほしだい》、木戸口《きどぐち》、忍返《しのびがえし》なぞいう道具立《どうぐだて》と一致している。この点よりして路地はまた渾然《こんぜん》たる芸術的調和の世界といわねばならぬ。


第八 閑地

 市中《しちゅう》の散歩に際して丁度前章に述べた路地と同じような興味を感ぜしむるものが最《も》う一つある。それは閑地《あきち》である。市中繁華なる街路の間に夕顔|昼顔《ひるがお》露草|車前草《おおばこ》なぞいう雑草の花を見る閑地である。
 閑地は元よりその時と場所とを限らず偶然に出来るもの故われわれは市内の如何なる処に如何なる閑地があるかは地面師《じめんし》ならぬ限り予《あらかじ》めこれを知る事が出来ない。唯《ただ》その場に通りかかって始めてこれを見るのみである。しかし閑地は強《し》いて捜し歩かずとも市中|到《いた》るところにある。今まで久しく草の生えていた閑地が地ならしされてやがて普請《ふしん》が始まるかと思えば、いつの間にかその隣の家《うち》が取払われて、或《ある》場合には火事で焼けたりして爰《ここ》に別の閑地ができる。そして一雨《ひとあめ》降ればすぐに雑草が芽を吹きやがて花を咲かせ、忽ちにして蝶々《ちょうちょう》蜻蛉《とんぼ》やきりぎりすの飛んだり躍《は》ねたりする野原になってしまうと、外囲《そとがこい》はあってもないと同然、通り抜ける人たちの下駄の歯に小径《こみち》は縦横に踏開かれ、昼は子供の遊場《あそびば》、夜は男女が密会の場所となる。夏の夜に処の若い者が素人相撲《しろうとずもう》を催すのも閑地があるためである。
 市中繁華な町の倉と倉との間、または荷船の込合《こみあ》う堀割近くにある閑地には、今も昔と変りなく折々|紺屋《こうや》の干場《ほしば》または元結《もとゆい》の糸繰場《いとくりば》なぞになっている処がある。それらの光景は私の眼には直《ただち》に北斎《ほくさい》の画題を思起《おもいおこ》させる。いつぞや芝白金《しばしろかね》の瑞聖寺《ずいしょうじ》という名高い黄檗宗《おうばくしゅう》の禅寺を見に行った時その門前の閑地に一人の男が頻《しきり》と元結の車を繰っていた。この景色は荒れた寺の門とその辺《へん》の貧しい人家などに対照して、私は俳人|其角《きかく》が茅場町薬師堂《かやばちょうやくしどう》のほとりなる草庵の裏手、蓼《たで》の花穂《はなほ》に出でたる閑地に、文七《ぶんしち》というものが元結こぐ車の響をば昼も蜩《ひぐらし》に聞きまじえてまた殊更の心地し、

   文七にふまるな庭のかたつむり
   元結のぬる間はかなし虫の声
   大絃《たいげん》はさらすもとひに落《おつ》る雁《かり》

なぞと吟《ぎん》じたる風流の故事を思浮《おもいうか》べたのであった。この事は晋子《しんし》が俳文集『類柑子《るいこうじ》』の中《うち》北の窓と題された一章に書かれてある。『類柑子』は私の愛読する書物の中の一冊である。

 私がまだ中学校へ通っている頃までは東京中には広い閑地が諸処方々にあった。神田三崎町《かんだみさきちょう》の調練場跡《ちょうれんばあと》は人殺《ひとごろし》や首縊《くびくくり》の噂で夕暮からは誰一人通るものもない恐しい処であった。小石川富坂《こいしかわとみざか》の片側は砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の火避地《ひよけち》で、樹木の茂った間の凹地《くぼち》には溝《みぞ》が小川のように美しく流れていた。下谷《したや》の佐竹《さたけ》ヶ|原《はら》、芝《しば》の薩摩原《さつまつばら》の如き旧諸侯の屋敷跡はすっかり町になってしまった後でも今だに原の名が残されている。
 銀座通に鉄道馬車が通って、数寄屋橋《すきやばし》から幸橋《さいわいばし》を経て虎《とら》の門《もん》に至る間の外濠《そとぼり》には、まだ昔の石垣がそのままに保存されていた時分、今日の日比谷《ひびや》公園は見通しきれぬほど広々した閑地で、冬枯の雑草に夕陽《ゆうひ》のさす景色は目《ま》のあたり武蔵野《むさしの》を見るようであった。その時分に比すれば大名小路《だいみょうこうじ》の跡なる丸《まる》の内《うち》の三菱《みつびし》ヶ|原《はら》も今は大方|赤煉瓦《あかれんが》の会社になってしまったが、それでもまだ処々に閑地を残している。私は鍛冶橋《かじばし》を渡って丸の内へ這入《はい》る時、いつでも東京府庁の前側にひろがっている閑地を眺めやるのである。何故《なぜ》というにこの閑地には繁茂した雑草の間に池のような広い水潦《みずたまり》が幾個所もあって夕陽の色や青空の雲の影が美しく漂《ただよ》うからである。私は何となくこういう風に打捨てられた荒地をばかつて南支那|辺《へん》にある植民地の市街の裏手、または米国西海岸の新開地の街なぞで幾度《いくど》も見た事があるような気がする。
 桜田見附《さくらだみつけ》の外にも久しく兵営の跡が閑地のままに残されている。参謀本部下の堀端《ほりばた》を通りながら眺めると、閑地のやや小高《こだか》くなっている処に、雑草や野蔦《のづた》に蔽《おお》われたまま崩れた石垣の残っているのが見える。その石の古びた色とまた石垣の積み方とはおのずと大名屋敷の立っていた昔を思起させるが、それと共に私はまた霞《かすみ》ヶ|関《せき》の坂に面した一方に今だに一棟《ひとむね》か二棟ほど荒れたまま立っている平家《ひらや》の煉瓦造を望むと、御老中御奉行《ごろうじゅうごぶぎょう》などいう代りに新しく参議だの開拓使などいう官名が行われた明治初年の時代に対して、今となってはかえって淡く寂しい一種の興味を呼出されるのである。
 明治十年頃|小林清親翁《こばやしきよちかおう》が新しい東京の風景を写生した水彩画をば、そのまま木板摺《もくはんずり》にした東京名所の図の中《うち》に外《そと》桜田遠景と題して、遠く樹木の間にこの兵営の正面を望んだ処が描かれている。当時都下の平民が新に皇城《こうじょう》の門外に建てられたこの西洋造を仰ぎ見て、いかなる新奇の念とまた崇拝の情に打れたか。それらの感情は新しい画工のいわば稚気《ちき》を帯びた新画風と古めかしい木板摺の技術と相俟《あいま》って遺憾なく紙面に躍如としている。一時代の感情を表現し得たる点において小林翁の風景版画は甚だ価値ある美術といわねばならぬ。既に去歳《きょさい》木下杢太郎《きのしたもくたろう》氏は『芸術』第二号において小林翁の風景版画に関する新研究の一端《いったん》を漏らされたが、氏は進んで翁の経歴をたずねその芸術について更に詳細なる研究を試みられるとの事である。
 小林翁の東京風景画は古河黙阿弥《ふるかわもくあみ》の世話狂言「筆屋幸兵衛《ふでやこうべえ》」「明石島蔵《あかしのしまぞう》」などと並んで、明治初年の東京を窺《うかが》い知るべき無上の資料である。維新の当時より下《くだ》って憲法発布に至らんとする明治二十年頃までの時代は、今日の吾人よりしてこれを回顧すれば東京の市街とその風景の変化、風俗人情流行の推移等あらゆる方面にわたって甚《はなは》だ興味あるものである。されば滑稽なるわが日和下駄《ひよりげた》の散歩は江戸の遺跡と合せてしばしばこの明治初年の東京を尋ねる事に勉《つと》めている。しかし小林翁の版物《はんもの》に描かれた新しい当時の東京も、僅か二、三十年とは経《た》たぬ中《うち》、更に更に新しい第二の東京なるものの発達するに従って、漸次《ぜんじ》跡方《あとかた》もなく消滅して行きつつある。明治六年|筋違見附《すじかいみつけ》を取壊してその石材を以て造った彼《か》の眼鏡橋《めがねばし》はそれと同じような形の浅草橋《あさくさばし》と共に、今日は皆鉄橋に架《か》け替えられてしまった。大川端《おおかわばた》なる元柳橋《もとやなぎばし》は水際に立つ柳と諸共《もろとも》全く跡方なく取り払われ、百本杭《ひゃっぽんぐい》はつまらない石垣に改められた。今日東京市中において小林翁の東京名所絵と参照して僅にその当時の光景を保つものを求めたならば、虎の門に残っている旧工学寮の煉瓦造、九段坂上の燈明台《とうみょうだい》、日本銀行前なる常盤橋《ときわばし》その他《た》数箇所に過ぎまい。官衙《かんが》の建築物の如きも明治当初のままなるものは、桜田外《さくらだそと》の参謀本部、神田橋内《かんだばしうち》の印刷局、江戸橋際《えどばしぎわ》の駅逓局《えきていきょく》なぞ指折り数えるほどであろう。
 閑地のことからまたしても話が妙な方面へそれてしまった。
 しかし閑地と古い都会の追想とはさして無関係のものではない。芝赤羽根《しばあかばね》の海軍造兵廠《かいぐんぞうへいしょう》の跡は現在何万坪という広い閑地になっている。これは誰も知っている通り有馬侯《ありまこう》の屋舗跡《やしきあと》で、現在|蠣殻町《かきがらちょう》にある水天宮《すいてんぐう》は元この邸内にあったのである。一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》の『東都名勝』の中《うち》赤羽根の図を見ると柳の生茂《おいしげ》った淋しい赤羽根川《あかばねがわ》の堤《つつみ》に沿うて大名屋敷の長屋が遠く立続《たちつづ》いている。その屋根の上から水天宮へ寄進の幟《のぼり》が幾筋となく閃《ひらめ》いている様が描かれている。この図中に見る海鼠壁《なまこかべ》の長屋と朱塗《しゅぬり》の御守殿門《ごしゅでんもん》とは去年の春頃までは半《なか》ば崩れかかったままながらなお当時の面影《おもかげ》を留《とど》めていたが、本年になって内部に立つ造兵廠の煉瓦造が取払われると共に、今は跡方もなくなってしまった。
 その時分――今年の五月頃の事である。友人|久米《くめ》君から突然有馬の屋敷跡には名高い猫騒動の古塚《ふるづか》が今だに残っているという事だから尋ねて見たらばと注意されて、私は慶応義塾《けいおうぎじゅく》の帰りがけ始めて久米君とこの閑地へ日和下駄を踏入《ふみい》れた。猫塚の噂《うわさ》は造兵廠が取払いになって閑地の中にはそろそろ通抜ける人たちの下駄の歯が縦横に小径《こみち》をつけ始める頃から誰いうとなくいい伝えられ、既にその事は二、三の新聞紙にも記載されていたという事であった。
 私たち二人は三田通《みたどおり》に沿う外囲《そとがこい》の溝《どぶ》の縁《ふち》に立止《たちどま》って何処か這入《はい》りいい処を見付けようと思ったが、板塀には少しも破目《やぶれめ》がなく溝はまた広くてなかなか飛越せそうにも思われない。見す見す閑地の外を迂廻《うかい》して赤羽根の川端まで出て見るのも業腹《ごうはら》だし、そうかといって通過ぎた酒屋の角まで立戻って坂を登り閑地の裏手へ廻って見るのも退儀《たいぎ》である。そう思うほどこの閑地は広々としているのである。私たちはやむをえず閑地の一角に恩賜《おんし》財団|済生会《さいせいかい》とやらいう札を下げた門口《もんぐち》を見付けて、用事あり気に其処《そこ》から構内《かまえうち》へ這入って見た。構内は往来から見たと同じように寂《しん》として、更に番人のいる様子も見えない。私たちは安心してずんずんと赤煉瓦の本家《おもや》について迂廻しながらその裏手へ出てみると、僅か上下二筋《うえしたふたすじ》の鉄条綱《てつじょうこう》が引張ってあるばかりで、広々した閑地は正面に鬱々として老樹の生茂った辺《あたり》から一帯に丘陵をなし、その麓《ふもと》には大きな池があって、男や子供が大勢釣竿を持ってわいわい騒いでいる意外な景気に興味百倍して、久米君は手早く夏羽織《なつばおり》の裾《すそ》と袂《たもと》をからげるや否や身軽く鉄条綱の間をくぐって向《むこう》へ出てしまった。私は生憎《あいにく》その日は学校の図書館から借出した重い書物の包を抱えていた上に、片手には例の蝙蝠傘《こうもりがさ》を持っていた。そればかりでない。私の穿《は》いていた藍縞仙台平《あいじませんだいひら》の夏袴《なつばかま》は死んだ父親の形見でいかほど胸高《むなだか》に締《し》めてもとかくずるずると尻下《しりさが》りに引摺《ひきず》って来る。久米君は見兼《みか》ねて鉄条綱の向から重い書物の包と蝙蝠傘とを受取ってくれたので、私は日和下駄の鼻緒《はなお》を踏〆《ふみし》め、紬《つむぎ》の一重羽織《ひとえばおり》の裾を高く巻上げ、きっと夏袴の股立《もちだち》を取ると、図抜けて丈《せい》の高い身の有難さ、何の苦もなく鉄条綱をば上から一跨《ひとまた》ぎに跨いでしまった。
 二人は早速|閑地《あきち》の草原を横切って、大勢《おおぜい》釣する人の集っている古池の渚《なぎさ》へと急いだ。池はその後に聳《そび》ゆる崖の高さと、また水面に枝を垂した老樹や岩石の配置から考えて、その昔ここに久留米《くるめ》二十余万石の城主の館《やかた》が築かれていた時分には、現在水の漂《ただよ》っている面積よりも確にその二、三倍広かったらしく、また崖の中腹からは見事な滝が落ちていたらしく思われる。私は今まで書物や絵で見ていた江戸時代の数ある名園の有様をば朧気《おぼろげ》ながら心の中《うち》に描出《えがきだ》した。それと共に、われわれの生れ出た明治時代の文明なるものは、実にこれらの美術をば惜気《おしげ》もなく破壊して兵営や兵器の製造場《せいぞうば》にしてしまったような英断壮挙の結果によって成ったものである事を、今更《いまさら》の如くつくづくと思知るのであった。
 池のまわりは浅草公園の釣堀も及ばぬ賑《にぎやか》さである。鰌《どじょう》と鮒《ふな》と時には大きな鰻《うなぎ》が釣れるという事だ。私たちは水際《みずぎわ》を廻って崖の方へ通ずる小径《こみち》を攀登《よじのぼ》って行くと、大木の根方《ねがた》に爺《じじい》が一人腰をかけて釣道具に駄菓子やパンなどを売っている。機を見るに敏なるこの親爺《おやじ》の商法にさすがのわれわれも聊《いささ》か敬服して、その前に立止ったついで、猫塚の所在《ありか》を尋ねると、爺さんは既に案内者然たる調子で、崖の彼方《かなた》なる森蔭の小径を教え、なお猫塚といっても今は僅にかけた石の台を残すばかりだという事まで委《くわ》しく話してくれた。
 名所古蹟は何処《いずく》に限らず行って見れば大抵こんなものかと思うようなつまらぬものである。唯《ただ》その処まで尋ね到る間の道筋や周囲の光景及びそれに附随する感情等によって他日話の種となすに足るべき興味が繋《つな》がれるのである。有馬の猫塚は釣道具を売っている爺さんが話したよりも、来て見れば更につまらない石のかけらに過ぎなかった。果してそれが猫塚の台石《だいいし》であったか否かも甚だ不明な位であった。私たちは旧造兵廠の建物の一部をば眼下に低く見下《みおろ》す崖地《がけち》の一角に、昼なお暗く天を蔽うた老樹の根方《ねがた》と、また深く雑草に埋《うず》められた崖の中腹に一ツ二ツ落ち転《ころ》げている石を見つけたばかりである。しかしここに来《きた》るまでの崖の小径と周囲の光景とは遺憾なく私ら二人を喜ばしめた。私は実際今日の東京市中にかくも幽邃《ゆうすい》なる森林が残されていようとは夢にも思い及ばなかった。柳|椎《しい》樫《かし》杉椿なぞの大木に交《まじ》って扇骨木《かなめ》八《や》ツ手《で》なぞの庭木さえ多年手入をせぬ処から今は全く野生の林同様|七重八重《ななえやえ》にその枝と幹とを入れちがえている。時節は丁度初夏の五月の事とて、これらの樹木はいずれもその枝の撓《たわ》むほど、重々しく青葉に蔽われている上に、気味の悪い名の知れぬ寄生木《やどりぎ》が大樹の瘤《こぶ》や幹の股から髪の毛のような長い葉を垂らしていた。遠い電車の響やまた近く崖下で釣する人の立騒ぐ声にも恐れず勢よく囀《さえず》る小鳥の声が鋭く梢《こずえ》から梢に反響する。私たち二人は雑草の露に袴《はかま》の裾《すそ》を潤《うるお》しながら、この森蔭の小暗《おぐら》い片隅から青葉の枝と幹との間を透《すか》して、彼方《かなた》遥かに広々した閑地の周囲の処々《しょしょ》に残っている練塀《ねりべい》の崩れに、夏の日光の殊更明く照渡っているのを打眺め、何という訳もなく唯|惆恨《ちゅうちょう》として去るに忍びざるが如くいつまでも彳《たたず》んでいた。私たちは既に破壊されてしまった有馬の旧苑に対して痛嘆するのではない。一度《ひとたび》破壊されたその跡がここに年を経て折角|荒蕪《こうぶ》の詩趣に蔽われた閑地になっている処をば、更に何らかの新しい計画が近い中にこの森とこの雑草とを取払ってしまうであろう。私たちはその事を予想して前以《まえもっ》て深く嘆息したのである。

 私は雑草が好きだ。菫《すみれ》蒲公英《たんぽぽ》のような春草《はるくさ》、桔梗《ききょう》女郎花《おみなえし》のような秋草にも劣らず私は雑草を好む。閑地《あきち》に繁る雑草、屋根に生ずる雑草、道路のほとり溝《どぶ》の縁《ふち》に生ずる雑草を愛する。閑地は即ち雑草の花園である。「蚊帳釣草《かやつりぐさ》」の穂の練絹《ねりぎぬ》の如くに細く美しき、「猫じゃらし」の穂の毛よりも柔き、さては「赤《あか》の飯《まま》」の花の暖そうに薄赤き、「車前草《おおばこ》」の花の爽《さわやか》に蒼白《あおじろ》き、《はこべ》」の花の砂よりも小くして真白《ましろ》なる、一ツ一ツに見来《みきた》れば雑草にもなかなかに捨てがたき可憐《かれん》なる風情《ふぜい》があるではないか。しかしそれらの雑草は和歌にも咏《うた》われず、宗達《そうだつ》光琳《こうりん》の絵にも描かれなかった。独り江戸平民の文学なる俳諧と狂歌あって始めて雑草が文学の上に取扱われるようになった。私は喜多川歌麿《きたがわうたまろ》の描いた『絵本|虫撰《むしえらび》』を愛して止《や》まざる理由は、この浮世絵師が南宗《なんそう》の画家も四条派《しじょうは》の画家も決して描いた事のない極めて卑俗な草花《そうか》と昆虫とを写生しているがためである。この一例を以てしても、俳諧と狂歌と浮世絵とは古来わが貴族趣味の芸術が全く閑却していた一方面を拾取《ひろいと》って、自由にこれを芸術化せしめた大《だい》なる功績を担《にな》うものである。
 私は近頃|数寄屋橋外《すきやばしそと》に、虎の門|金毘羅《こんぴら》の社前に、神田|聖堂《せいどう》の裏手に、その他諸処に新設される、公園の樹木を見るよりも、通りがかりの閑地に咲く雑草の花に対して遥にいい知れぬ興味と情趣を覚えるのである。

   目白《めじろ》の奥から巣鴨《すがも》滝《たき》の川《がわ》へかけての平野は、さらに広い武蔵野《むさしの》の趣を残したものであろう。しかしその平野は凡《すべ》て耒耜《らいし》が加えられている。立派に耕作された畠地《はたち》である。従って田園の趣はあるが野趣に至っては乏しい。しかるに戸山の原は、原とは言えども多少の高低があり、立樹《たちき》が沢山にある。大きくはないが喬木《きょうぼく》が立ち籠《こ》めて叢林《そうりん》を為した処もある。そしてその地には少しも人工が加わっていない。全く自然のままである。もし当初の武蔵野の趣を知りたいと願うものは此処《ここ》にそれを求むべきであろう。高低のある広い地は一面に雑草を以て蔽《おお》われていて、春は摘草《つみくさ》に児女《じじょ》の自由に遊ぶに適し、秋は雅人《がじん》の擅《ほしいまま》に散歩するに任《まか》す。四季の何時《いつ》と言わず、絵画の学生が此処《ここ》其処《そこ》にカンヴァスを携《たずさ》えて、この自然を写しているのが絶えぬ。まことに自然の一大公園である。最も健全なる遊覧地である。その自然と野趣とは全く郊外の他《た》の場所に求むべからざるものである。凡《およ》そ今日の勢、いやしくも余地あれば其処に建築を起す、然らずともこれに耒耜を加うるに躊躇《ちゅうちょ》しない。然るに如何《いか》にして大久保の辺《ほとり》に、かかる殆んど自然そのままの原野が残っているのであるか。不思議な事にはこれが実に俗中の俗なる陸軍の賜《たまもの》である。戸山の原は陸軍の用地である。その一部分は戸山学校の射的場《しゃてきじょう》で、一部分は練兵場として用いられている。しかしその大部分は殆んど不用の地であるかの如く、市民もしくは村民の蹂躙《じゅうりん》するに任してある。騎馬の兵士が大久保|柏木《かしわぎ》の小路《こみち》を隊をなして駆《は》せ廻るのは、甚《はなは》だ五月蠅《うるさ》いものである。否《いな》五月蠅いではない癪《しゃく》にさわる。天下の公道をわがもの顔に横領して、意気|頗《すこぶ》る昂《あが》る如き風《ふう》あるは、われら平民の甚だ不快とする処である。しかしこの不快を与うるその大機関は、また古《いにしえ》の武蔵野をこの戸山の原に、余らのために保存してくれるものである。思えば世の中は不思議に相贖《あいあがな》うものである。一利一害、今さらながら応報の説が殊に深く感ぜられる。

 秋骨君が言う処|大《おおい》にわが意を得たものである。こは直《ただち》に移して代々木《よよぎ》青山《あおやま》の練兵場または高田《たかた》の馬場《ばば》等に応用する事が出来る。晩秋の夕陽《ゆうひ》を浴びつつ高田の馬場なる黄葉《こうよう》の林に彷徨《さまよ》い、あるいは晴れたる冬の朝青山の原頭《げんとう》に雪の富士を望むが如きは、これ皆俗中の俗たる陸軍の賜物《たまもの》ではないか。
 私は慶応義塾に通う電車の道すがら、信濃町権田原《しなのまちごんだわら》を経《へ》、青山の大通を横切って三聯隊裏《さんれんたいうら》と記《しる》した赤い棒の立っている辺《あた》りまで、その沿道の大きな建物は尽《ことごと》く陸軍に属するもの、また電車の乗客街上の通行人は兵卒ならざれば士官ばかりという有様に、私はいつも世を挙《あげ》て悉く陸軍たるが如き感を深くする。それと共に権田原の林に初夏の新緑を望み、三聯隊裏と青山墓地との間の土手や草原に春は若草、秋は芒《すすき》の穂を眺めて、秋骨君のいわゆる応報の説に同感するのである。
 四谷《よつや》鮫《さめ》ヶ|橋《ばし》と赤坂離宮《あかさかりきゅう》との間に甲武鉄道《こうぶてつどう》の線路を堺《さかい》にして荒草《こうそう》萋々《せいせい》たる火避地《ひよけち》がある。初夏の夕暮私は四谷通の髪結床《かみゆいどこ》へ行った帰途《かえりみち》または買物にでも出た時、法蔵寺横町《ほうぞうじよこちょう》だとかあるいは西念寺横町《さいねんじよこちょう》だとか呼ばれた寺の多い横町へ曲って、車の通れぬ急な坂をば鮫ヶ橋|谷町《たにまち》へ下《お》り貧家の間を貫く一本道をば足の行くがままに自然《おのず》とかの火避地に出で、ここに若葉と雑草と夕栄《ゆうばえ》とを眺めるのである。
 この散歩は道程《みちのり》の短い割に頗《すこぶ》る変化に富むが上に、また偏狭なる我が画興に適する処が尠《すくな》くない。第一は鮫ヶ橋なる貧民窟の地勢である。四谷と赤坂両区の高地に挟まれたこの谷底の貧民窟は、堀割と肥料船《こえぶね》と製造場《せいぞうば》とを背景にする水場《みずば》の貧家に対照して、坂と崖と樹木とを背景にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。四谷の方の坂から見ると、貧家のブリキ屋根は木立《こだち》の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の崖下にごたごたと重り合ってその間から折々汚らしい洗濯物をば風に閃《ひらめか》している。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした芽が萌《も》え出《い》で四辺《あたり》の木立に若葉の緑が滴《したた》る頃には、眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は一層《ひとしお》汚らしくこうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ与《あずか》れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。また冬の雨降り濺《そそ》ぐ夕暮なぞには破れた障子《しょうじ》にうつる燈火の影、鴉《からす》鳴く墓場の枯木と共に遺憾なく色あせた冬の景色を造り出す。
 この暗鬱な一隅から僅に鉄道線路の土手一筋を越えると、その向《むこう》にはひろびろした火避地を前に控えて、赤坂御所の土塀《どべい》が乾《いぬい》の御門というのを中央《なか》にして長い坂道をば遠く青山の方へ攀登《よじのぼ》っている。日頃|人通《ひとどおり》の少ない処とて古風な練塀《ねりべい》とそれを蔽《おお》う樹木とは殊に気高《けだか》く望まれる。私は火避地のやや御所の方に近く猫柳が四、五本乱れ生じているあたりに、或年の夏の夕暮雨のような水音を聞付け、毒虫をも恐れず草を踏み分けながらその方へ歩寄《あゆみよ》った時、柳の蔭には山の手の高台には思いも掛けない蘆《あし》の茂りが夕風にそよいでいて、井戸のように深くなった凹味《くぼみ》の底へと、大方《おおかた》御所から落ちて来るらしい水の流が大きな堰《せき》にせかれて滝をなしているのを見た。夜になったらきっと蛍《ほたる》が飛ぶにちがいない。私はこの夕《ゆうべ》ばかり夏の黄昏《たそがれ》の長くつづく上にも夕月の光ある事を憾《うら》みながら、もと来た鮫ヶ橋の方へと踵《きびす》を返した。
 鮫ヶ橋の貧民窟は一時|代々木《よよぎ》の原《はら》に万国博覧会が開かれるとかいう話のあった頃、もしそうなった暁《あかつき》四谷代々木間の電車の窓から西洋人がこの汚い貧民窟を見下《みおろ》しでもすると国家の恥辱《ちじょく》になるから東京市はこれを取払ってしまうとやらいう噂があった。しかし万国博覧会も例の日本人の空景気《からげいき》で金がない処からおじゃんになり、従って鮫ヶ橋も今日なお取払われず、西念寺《さいねんじ》の急な坂下に依然として剥《はげ》ちょろのブリキ屋根を並べている。貧民窟は元より都会の美観を増すものではない。しかし万国博覧会を見物に来る西洋人に見られたからとて何もそれほどに気まりを悪るがるには及ぶまい。当路《とうろ》の役人ほど馬鹿な事を考える人間はない。東京なる都市の体裁、日本なる国家の体面に関するものを挙げたなら貧民窟の取払いよりも先ず市中諸処に立つ銅像の取除《とりのけ》を急ぐが至当であろう。

 戸川秋骨《とがわしゅうこつ》君が『そのままの記』に霜の戸山《とやま》ヶ|原《はら》という一章がある。戸山ヶ原は旧|尾州侯御下屋舗《びしゅうこうおしもやしき》のあった処、その名高い庭園は荒されて陸軍戸山学校と変じ、附近は広漠たる射的場《しゃてきば》となっている。この辺《あたり》豊多摩郡《とよたまごおり》に属し近き頃まで杜鵑花《つつじ》の名所であったが、年々人家|稠密《ちゅうみつ》していわゆる郊外の新開町《しんかいまち》となったにかかわらず、射的場のみは今なお依然として原のままである。秋骨君|曰《いわ》く

   戸山の原は東京の近郊に珍らしい広開《こうかい》した地《ち》である。

 現在私の知っている東京の閑地《あきち》は大抵以上のようなものである。わが住む家の門外にもこの両三年市ヶ谷監獄署|後《あと》の閑地がひろがっていたが、今年の春頃から死刑台の跡《あと》に観音ができあたりは日々《にちにち》町になって行く、遠からず芸者家《げいしゃや》が許可されるとかいう噂さえある。
 芝浦《しばうら》の埋立地《うめたてち》も目下家屋の建たない間は同じく閑地として見るべきものであろう。現在東京市内の閑地の中でこれほど広々とした眺望をなす処は他《た》にあるまい。夏の夕《ゆうべ》、海の上に月の昇る頃はひろびろした閑地の雑草は一望煙の如くかすみ渡って、彼方《かなた》此方《こなた》に通ずる堀割から荷船《にぶね》の帆柱が見える景色なぞまんざら捨てたものではない。
 東京市の土木工事は手をかえ品をかえ、孜々《しし》として東京市の風景を毀損《きそん》する事に勉めているが、幸にも雑草なるものあって焼野の如く木一本もない閑地にも緑柔き毛氈《もうせん》を延《の》べ、月の光あってその上に露の珠《たま》の刺繍《ぬいとり》をする。われら薄倖《はくこう》の詩人は田園においてよりも黄塵《こうじん》の都市において更に深く「自然」の恵みに感謝せねばならぬ。
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第九 崖

 数ある江戸名所案内記中その最も古い方に属する『紫《むらさき》の一本《ひともと》』や『江戸惣鹿子大全《えどそうがのこたいぜん》』なぞを見ると、坂、山、窪《くぼ》、堀、池、橋なぞいう分類の下《もと》に江戸の地理古蹟名所の説明をしている。しかしその分類は例えば谷という処に日比谷《ひびや》、谷中《やなか》、渋谷《しぶや》、雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》なぞを編入したように、地理よりも実は地名の文字《もんじ》から来る遊戯的興味に基《もとづ》いた処が尠《すくな》くない。かくの如きはけだし江戸軽文学のいかなるものにも必ず発見せられるその特徴である。
 私は既に期せずして東京の水と路地《ろじ》と、つづいて閑地《あきち》に対する興味をばやや分類的に記述したので、ここにもう一つ崖なる文章を付加えて見よう。
 崖は閑地や路地と同じようにわが日和下駄《ひよりげた》の散歩に尠からぬ興味を添えしめるものである。何故《なぜ》というに崖には野笹や芒《すすき》に交《まじ》って薊《あざみ》、藪枯《やぶから》しを始めありとあらゆる雑草の繁茂した間から場所によると清水が湧いたり、下水《したみず》が谷川のように潺々《せんせん》と音して流れたりしている処がある。また落掛るように斜《ななめ》に生《は》えた樹木の幹と枝と殊に根の形なぞに絵画的興趣を覚えさせることが多いからである。もし樹木も雑草も何も生えていないとすれば、東京市中の崖は切立った赤土の夕日を浴びる時なぞ宛然《えんぜん》堡塁《ほうるい》を望むが如き悲壮の観を示す。
 昔から市内の崖には別にこれという名前のついた処は一つもなかったようである。『紫の一本』その他の書にも、窪、谷なぞいう分類はあるが崖という一章は設けられていない。しかし高低の甚しい東京の地勢から考えて、崖は昔も今も変りなく市中の諸処に聳《そび》えていたに相違ない。
 上野から道灌山《どうかんやま》飛鳥山《あすかやま》へかけての高地の側面は崖の中《うち》で最も偉大なものであろう。神田川を限るお茶の水の絶壁は元より小赤壁《しょうせきへき》の名がある位で、崖の最も絵画的なる実例とすべきものである。
 小石川春日町《こいしかわかすがまち》から柳町《やなぎちょう》指《さす》ヶ|谷《や》町《ちょう》へかけての低地から、本郷《ほんごう》の高台《たかだい》を見る処々《ところどころ》には、電車の開通しない以前、即ち東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃には、樹《き》や草の生茂《おいしげ》った崖が現れていた。根津《ねづ》の低地から弥生《やよい》ヶ|岡《おか》と千駄木《せんだぎ》の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂《いただき》に添うて、根津|権現《ごんげん》の方から団子坂《だんござか》の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中《うち》で、この道ほど興味ある処はないと思っている。片側《かたかわ》は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危《あやぶ》まれるばかり、足下《あしもと》を覗《のぞ》くと崖の中腹に生えた樹木の梢《こずえ》を透《すか》して谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。されば向《むこう》は一面に遮《さえぎ》るものなき大空かぎりもなく広々として、自由に浮雲の定めなき行衛《ゆくえ》をも見極められる。左手には上野谷中《うえのやなか》に連る森黒く、右手には神田下谷浅草へかけての市街が一目に見晴され其処《そこ》より起る雑然たる巷《ちまた》の物音が距離のために柔げられて、かのヴェルレエヌが詩に、
[#ここから2字下げ]
かの平和なる物のひびきは
街《まち》より来る……
[#ここで字下げ終わり]
といったような心持を起させる。
 当代の碩学《せきがく》森鴎外《もりおうがい》先生の居邸《きょてい》はこの道のほとり、団子坂《だんござか》の頂《いただき》に出ようとする処にある。二階の欄干《らんかん》に彳《たたず》むと市中の屋根を越して遥に海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を観潮楼《かんちょうろう》と名付けられたのだと私は聞伝えている。[#割り注]団子坂をば汐見坂という由後に人より聞きたり。[#割り注終わり]度々私はこの観潮楼に親しく先生に見《まみ》ゆるの光栄に接しているが多くは夜になってからの事なので、惜しいかな一度《ひとたび》もまだ潮《うしお》を観《み》る機会がないのである。その代り、私は忘れられぬほど音色《ねいろ》の深い上野の鐘を聴いた事があった。日中はまだ残暑の去りやらぬ初秋《しょしゅう》の夕暮であった。先生は大方御食事中でもあったのか、私は取次の人に案内されたまま暫《しばら》くの間唯一人この観潮楼の上に取残された。楼はたしか八畳に六畳の二間《ふたま》かと記憶している。一間《いっけん》の床《とこ》には何かいわれのあるらしい雷《らい》という一字を石摺《いしずり》にした大幅《たいふく》がかけてあって、その下には古い支那の陶器と想像せられる大きな六角の花瓶《かへい》が、花一輪さしてないために、かえってこの上もなく厳格にまた冷静に見えた。座敷中にはこの床の間の軸と花瓶の外《ほか》は全く何一つ置いてないのである。額もなければ置物もない。おそるおそる四枚立の襖《ふすま》の明放《あけはな》してある次の間《ま》を窺《うかが》うと、中央《まんなか》に机が一脚置いてあったが、それさえいわば台のようなもので、一枚の板と四本の脚があるばかり、抽出《ひきだし》もなければ彫刻のかざりも何もない机で、その上には硯《すずり》もインキ壺も紙も筆も置いてはない。しかしその後《うしろ》に立てた六枚屏風《ろくまいびょうぶ》の裾《すそ》からは、紐《ひも》で束《たば》ねた西洋の新聞か雑誌のようなものの片端《かたはし》が見えたので、私はそっと首を延して差覗《さしのぞ》くと、いずれも大部のものと思われる種々なる洋書が座敷の壁際《かべぎわ》に高く積重ねてあるらしい様子であった。世間には往々読まざる書物をれいれいと殊更《ことさら》人の見る処に飾立《かざりた》てて置く人さえあるのに、これはまた何という一風変った癇癖《かんぺき》であろう。私は『柵草紙《しがらみぞうし》』以来の先生の文学とその性行について、何とはなく沈重《ちんちょう》に考え始めようとした。あたかもその時である。一際《ひときわ》高く漂《ただよ》い来る木犀《もくせい》の匂と共に、上野の鐘声《しょうせい》は残暑を払う凉しい夕風に吹き送られ、明放した観潮楼上に唯一人、主人を待つ間《ま》の私を驚かしたのである。
 私は振返って音のする方を眺めた。千駄木《せんだぎ》の崖上《がけうえ》から見る彼《か》の広漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる暮靄《ぼあい》に包まれ一面に煙り渡った底から、数知れぬ燈火《とうか》を輝《かがやか》し、雲の如き上野谷中の森の上には淡い黄昏《たそがれ》の微光をば夢のように残していた。私はシャワンの描《えが》いた聖女ジェネヴィエーブが静に巴里《パリー》の夜景を見下《みおろ》している、かのパンテオンの壁画の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。
 鐘の音《ね》は長い余韻の後を追掛け追掛け撞《つ》き出されるのである。その度《たび》ごとにその響の湧出《わきいづ》る森の影は暗くなり低い市中の燈火は次第に光を増して来ると車馬の声は嵐のようにかえって高く、やがて鐘の音の最後の余韻を消してしまった。私は茫然として再びがらんとして何物も置いてない観潮楼の内部を見廻した。そして、この何物もない楼上から、この市中の燈火を見下し、この鐘声とこの車馬の響をかわるがわるに聴澄《ききす》ましながら、わが鴎外先生は静に書を読みまた筆を執られるのかと思うと、実にこの時ほど私は先生の風貌をば、シャワンが壁画中の人物同様神秘に感じた事はなかった。
 ところが、「ヤア大変お待たせした。失敬失敬。」といって、先生は書生のように二階の梯子段《はしごだん》を上《あが》って来られたのである。金巾《かなきん》の白い襯衣《シャツ》一枚、その下には赤い筋のはいった軍服のヅボンを穿《は》いておられたので、何の事はない、鴎外先生は日曜貸間の二階か何かでごろごろしている兵隊さんのように見えた。
「暑い時はこれに限る。一番凉しい。」といいながら先生は女中の持運ぶ銀の皿を私の方に押出して葉巻をすすめられた。先生は陸軍省の医務局長室で私に対談せられる時にもきまって葉巻を勧《すす》められる。もし先生の生涯に些《いささ》かたりとも贅沢らしい事があるとするならば、それはこの葉巻だけであろう。
 この夕《ゆうべ》、私は親しくオイケンの哲学に関する先生の感想を伺《うかが》って、夜《よ》も九時過再び千駄木の崖道をば根津権現《ねづごんげん》の方へ下《お》り、不忍池《しのばずのいけ》の後《うしろ》を廻ると、ここにも聳《そび》え立つ東照宮《とうしょうぐう》の裏手一面の崖に、木《こ》の間《ま》の星を数えながらやがて広小路《ひろこうじ》の電車に乗った。

 私の生れた小石川《こいしかわ》には崖が沢山あった。第一に思出すのは茗荷谷《みょうがだに》の小径《こみち》から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さえ気味の悪い切支丹坂《きりしたんざか》が斜《ななめ》に開けそれと向い合っては名前を忘れてしまったが山道のような細い坂が小日向台町《こびなただいまち》の裏へと攀登《よじのぼ》っている。今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹藪も樹木も伐払《きりはら》われて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった。
 まだ私が七、八ツの頃かと記憶している。切支丹坂に添う崖の中腹に、大雨《たいう》か何かのために突然|真四角《まっしかく》な大きな横穴が現われ、何処《どこ》まで深くつづいているのか行先が分らぬというので、近所のものは大方切支丹屋敷のあった頃掘抜いた地中の抜道ではないかなぞと評判した。
 この茗荷谷を小日向|水道町《すいどうちょう》の方へ出ると、今も往来の真中に銀杏《いちょう》の大木が立っていて、草鞋《わらじ》と炮烙《ほうろく》が沢山奉納してある小さなお宮がある。一体この水道端《すいどうばた》の通は片側に寺が幾軒となくつづいて、種々《いろいろ》の形をした棟門《むねもん》を並べている処から、今も折々私の喜んで散歩する処である。この通を行尽すと音羽《おとわ》へ曲ろうとする角に大塚火薬庫のある高い崖が聳え、その頂《いただき》にちらばらと喬木《きょうぼく》が立っている。崖の草枯れ黄《きば》み、この喬木の冬枯《ふゆがれ》した梢《こずえ》に烏が群《むれ》をなして棲《とま》る時なぞは、宛然《さながら》文人画を見る趣がある。これと対して牛込《うしごめ》の方を眺めると赤城《あかぎ》の高地があり、正面の行手には目白の山の側面がまた崖をなしている。目白の眺望は既に蜀山人《しょくさんじん》の東豊山《とうほうざん》十五景の狂歌にもある通り昔からの名所である。蜀山人の記に曰く


   東豊山|新長谷寺目白不動尊《しんちょうこくじめじろふどうそん》のたゝせ玉へる山は宝永の頃|再昌院法印《さいしょういんほういん》のすめる関口《せきぐち》の疏儀荘《そぎしょう》よりちかければ西南《せいなん》にかたぶく日影に杖をたてゝ時しらぬ富士の白雪《しらゆき》をながめ千町《せんちょう》の田面《たのも》のみどりになびく風に凉みてしばらくいきをのぶとぞ聞えし又|物部《もののべ》の翁《おきな》の牛込《うしごめ》にいませし頃にやありけん南郭《なんかく》春台《しゅんだい》蘭亭《らんてい》をはじめとしてこのほとりの十五景をわかちてからうたに物せし一巻《いっかん》をもみたりし事あればわが生れたる牛込の里ちかきあたりのけしきもなつかしくこゝにその題をうつして夷歌《いか》によみつゞけぬるもそのかみ大黒屋《だいこくや》ときこえし高《たか》どのには母の六十の賀の莚《むしろ》をひらきし事ありしも又|天明《てんめい》のむかしなればせき口《ぐち》の紙の漉《すき》かへし目白の滝のいとのくりことになんありける

     鶉山桜花
    昔みし田鼠《むぐら》うづらの山ざくら化《け》しての後《のち》は花もちらほら

     城門緑樹
   《しゃちほこ》の魚《うお》木にのぼる青葉山わたりやぐらの牛込《うしごめ》の門《もん》

     渓辺流蛍
   何がしの大あたまにも似たるかなかまくら道《みち》に出戸《でと》の蛍《ほたる》は
  しら露のむすべる霜のをくてよりわせ田《だ》にはやく落《おつ》る月影

      平田香稲
   平《たいら》かな水田《みずた》もことし代《よ》がよくてふねのほにほがさくかとぞみる

     寺前紅楓
   てらまへて酒のませんともみぢ見《み》の地口《じぐち》まじりの顔の夕《ゆう》ばへ

      月中望嶽
   八葉《はちよう》の芙蓉《ふよう》の花を一りんのかつらの枝《えだ》にさかせてぞみる

      江村飛雪
   酒かひにゆきの中里《なかざと》ひとすぢにおもひ入江《いりえ》の江戸川《えどがわ》の末《すえ》

      長谷梵宇
   明王《みょうおう》のふるきをもつてあたらしきにゐはせ寺《でら》の法師《ほうし》たるべし

      赤城霞色
    朝夕《あさゆう》のかすみのいろも赤城《あかぎ》やまそなたのかたにむかでしらるゝ

     高田叢祠
みあかしの高田《たかた》のかたにひかりまち穴八幡《あなはちまん》か水《みず》いなりかも

     済松鐘磬
    済松寺《さいしょうじ》祖心《そしん》の尼《あま》の若かりしむかしつけたるかねの声々《こえごえ》

     田間一路
    横にゆく蟹川《かにがわ》こえて真直《まっすぐ》に通る門田《かどた》の中《なか》ぜきの道

     巌畔酒
   杉のはのたてる門辺《かどべ》に目白おし羽觴《うしょう》を飛《とば》す岸の上《へ》の茶《ちゃ》や

      堰口水碓
    水車《みずぐるま》くる/\めぐりあふことは人目つゝみのせき口《ぐち》もなし


 去年の暮|巌谷四六《いわやしろく》君[#割り注]小波先生令弟[#割り注終わり]と図《はか》らず木曜会忘年会の席上に邂逅《かいこう》した時談話はたまたまわが『日和下駄《ひよりげた》』の事に及んだ。四六君は麹町《こうじまち》平川町《ひらかわちょう》から永田町《ながたちょう》の裏通へと上《のぼ》る処に以前は実に幽邃《ゆうすい》な崖があったと話された。小波《さざなみ》先生も四六君も共々《ともども》その頃は永田町なる故|一六《いちろく》先生の邸宅にまだ部屋住《へやずみ》の身であったのだ。丁度その時分私も一時父の住まった官舎がこの近くにあったので、憲法発布当時の淋しい麹町の昔をいろいろと追想する事ができる。一年ほど父の住《すま》っておられた某省の官宅もその庭先がやはり急な崖になっていて、物凄いばかりの竹藪《たけやぶ》であった。この竹藪には蟾蜍《ひきがえる》のいた事これまた気味悪いほどで、夏の夕《ゆうべ》まだ夜にならない中から、何十匹となく這《は》い出して来る蟾蜍に庭先は一面|大《おおき》な転太石《ごろたいし》でも敷詰めたような有様になる。この庭先の崖と相対しては、一筋の細い裏通を隔てて独逸《ドイツ》公使館の立っている高台の背後《うしろ》がやはり樹木の茂った崖になっていた。私は寒い冬の夜《よ》なぞ、日本伝来の迷信に養われた子供心に、われにもあらず幽霊や何かの事を考え出して一生懸命に痩我慢《やせがまん》しつつ真暗《まっくら》な廊下を独り厠《かわや》へ行く時、その破れた窓の障子から向《むこう》の崖なる木立《こだち》の奥深く、巍然《ぎぜん》たる西洋館の窓々に燈火の煌々《こうこう》と輝くのを見、同時にピアノの音《ね》の漏《も》るるを聞きつけて、私は西洋人の生活をば限りもなく不思議に思ったことがあった。

 近頃日和下駄を曳摺《ひきず》って散歩する中《うち》、私の目についた崖は芝二本榎《しばにほんえのき》なる高野山《こうやさん》の裏手または伊皿子台《いさらごだい》から海を見るあたり一帯の崖である。二本榎高野山の向側《むこうがわ》なる上行寺《じょうぎょうじ》は、其角《きかく》の墓ある故に人の知る処である。私は本堂の立っている崖の上から摺鉢《すりばち》の底のようなこの上行寺の墓地全体を覗《のぞ》き見る有様をば、其角の墓|諸共《もろとも》に忘れがたく思っている。白金《しろかね》の古刹《こさつ》瑞聖寺《ずいしょうじ》の裏手も私には幾度《いくたび》か杖を曳くに足るべき頗《すこぶ》る幽邃《ゆうすい》なる崖をなしている。
 麻布赤坂《あざぶあかさか》にも芝同様崖が沢山ある。山の手に生れて山の手に育った私は、常にかの軽快|瀟洒《しょうしゃ》なる船と橋と河岸《かし》の眺《ながめ》を専有する下町《したまち》を羨むの余り、この崖と坂との佶倔《きっくつ》なる風景を以て、大《おおい》に山の手の誇とするのである。『隅田川両岸一覧』に川筋の風景をのみ描き出した北斎《ほくさい》も、更に足曳《あしびき》の山の手のために、『山復山《やままたやま》』三巻を描いたではないか。

第十 坂

 前回記する処の崖といささか重複《ちょうふく》する嫌いがあるが、市中《しちゅう》の坂について少しく述べたい。坂は即ち平地《へいち》に生じた波瀾である。平坦なる大通《おおどおり》は歩いて滑らず躓《つまず》かず、車を走らせて安全無事、荷物を運ばせて賃銀安しといえども、無聊《ぶりょう》に苦しむ閑人《かんじん》の散歩には余りに単調に過《すぎ》る。けだし東京市中における眺望の一直線をなす美観は、橋あり舟ある運河の岸においてのみこれを看得《みう》るが、銀座日本橋の大通の如き平坦なる街路の眺望に至っては、われら不幸にしていまだ泰西《たいせい》の都市において経験したような感興を催さない。西洋の都市においても私は紐育《ニューヨーク》の平坦なる Fifth Avenue よりコロンビヤの高台に上る石級《せききゅう》を好み、巴里《パリー》の大通《ブールヴァール》よりも遥《はるか》にモンマルトルの高台を愛した。里昂《リオン》にあってはクロワルッスの坂道から、手摺《てず》れた古い石の欄干を越えて眼下にソオンの河岸通《かしどおり》を見下《みおろ》しながら歩いた夏の黄昏《たそがれ》をば今だに忘れ得ない。あの景色を思浮べる度々、私は仏蘭西《フランス》の都会は何処へ行ってもどうしてあのように美しいのであろう。どうしてあのように軟く人の空想を刺※[#「卓+戈」、U+39B8、91-14]するように出来ているのであろうと、相も変らず遣瀬《やるせ》なき追憶の夢にのみ打沈められるのである。
 その頃私は年なお三十に至らず、孤身|飄然《ひょうぜん》、異郷にあって更に孤客となるの怨《うらみ》なく、到る処の青山《せいざん》これ墳墓地《ふんぼのち》ともいいたいほど意気|頗《すこぶる》豪なるところがあったが今その十年の昔と、鬢髪《びんぱつ》いまだ幸《さいわい》にして霜を戴かざれど精魂漸く衰え聖代の世に男一匹の身を持てあぐみ為す事もなき苦しさに、江戸絵図を懐中《ふところ》に日和下駄《ひよりげた》曳摺《ひきず》って、既に狂歌俳句に読古《よみふる》された江戸名所の跡を弔《とむら》い歩む感慨とを比較すれば、全くわれながら一滴の涙なきを得ない。さりながら、かの端唄《はうた》の文句にも、色気ないとて苦にせまい賤《しず》が伏家《ふせや》に月もさす。徒《いたずら》に悲み憤《いきどお》って身を破るが如きはけだし賢人のなさざる処。われらが住む東京の都市いかに醜く汚しというとも、ここに住みここに朝夕《ちょうせき》を送るかぎり、醜き中《うち》にも幾分の美を捜り汚き中にもまた何かの趣を見出し、以て気は心とやら、無理やりにも少しは居心地住心地のよいように自《みずか》ら思いなす処がなければならぬ。これ元来が主意というものなき我が日和下駄の散歩の聊《いささ》か以て主意とする処ではないか。
 そもそも東京市はその面積と人口においては既に世界屈指の大都《だいと》である。この盛況は銀座日本橋の如き繁華の街路を歩むよりも、山の手の坂に立って遥《はるか》に市中を眺望する時、誰《た》が目にも容易《たやす》く感じ得らるる処である。この都に生れ育ちて四時の風物何一つ珍しい事もないまでに馴れ過ぎてしまったわれらさえ、折あって九段坂《くだんざか》、三田聖坂《みたひじりざか》、あるいは霞《かすみ》ヶ|関《せき》を昇降する時には覚えずその眺望の大なるに歩みを留《とど》めるではないか。東京市は坂の上の眺望によって最もよくその偉大を示すというべきである。古来その眺望よりして最も名高きは赤坂霊南坂上《あかさかれいなんざかうえ》より芝|西《にし》の久保《くぼ》へ下りる江戸見坂《えどみざか》である。愛宕山《あたごやま》を前にして日本橋京橋から丸の内を一目《ひとめ》に望む事が出来る。芝|伊皿子台上《いさらごだいうえ》の汐見坂《しおみざか》も、天然の地形と距離との宜《よろ》しきがために品川の御台場《おだいば》依然として昔の名所絵に見る通り道行く人の鼻先に浮べる有様、これに因《よ》ってこれを観《み》れば古来江戸名所に数えらるる地点|悉《ことごと》く名ばかりの名所でない事を証するに足りる。
 今市中の坂にして眺望の佳《か》なるものを挙げんか。神田お茶の水の昌平坂《しょうへいざか》は駿河台岩崎邸門前《するがだいいわさきていもんぜん》の坂と同じく万世橋《まんせいばし》を眼の下に神田川《かんだがわ》を眺むるによろしく、皀角坂《さいかちざか》[#割り注]水道橋内駿河台西方[#割り注終わり]は牛込麹町の高台並びに富嶽《ふがく》を望ましめ、飯田町《いいだまち》の二合半坂《にごうはんざか》は外濠《そとぼり》を越え江戸川の流を隔てて小石川|牛天神《うしてんじん》の森を眺めさせる。丁度この見晴しと相対するものは則《すなわ》ち小石川|伝通院《でんづういん》前の安藤坂《あんどうざか》で、それと並行する金剛寺坂《こんごうじざか》荒木坂《あらきざか》服部坂《はっとりざか》大日坂《だいにちざか》などは皆|斉《ひと》しく小石川より牛込|赤城番町辺《あかぎばんちょうへん》を見渡すによい。しかしてこれらの坂の眺望にして最も絵画的なるは紺色なす秋の夕靄《ゆうもや》の中《うち》より人家の灯《ひ》のちらつく頃、または高台の樹木の一斉に新緑に粧《よそ》わるる初夏《しょか》晴天の日である。もしそれ明月|皎々《こうこう》たる夜、牛込神楽坂《うしごめかぐらざか》浄瑠璃坂《じょうるりざか》左内坂《さないざか》また逢坂《おうさか》なぞのほとりに佇《たたず》んで御濠《おほり》の土手のつづく限り老松の婆娑《ばさ》たる影静なる水に映ずるさまを眺めなば、誰しも東京中にかくの如き絶景あるかと驚かざるを得まい。
 坂はかくの如く眺望によりて一段の趣を添うといえども、さりとて全く眺望なきものも強《あなが》ち捨て去るには及ばない。心あってこれを捜《さぐ》らんと欲すれば画趣詩情は到る処に見出し得られる。例えば四谷愛住町《よつやあいずみちょう》の暗闇坂《くらやみざか》、麻布二之橋向《あざぶにのはしむこう》の日向坂《ひゅうがざか》の如きを見よ。といった処でこれらの坂はその近所に住む人の外はちょっとその名さえ知らぬほどな極めて平々凡々たるものである。しかし暗闇坂は車の上《のぼ》らぬほど急な曲った坂でその片側は全長寺《ぜんちょうじ》の墓地の樹木鬱蒼として日の光を遮《さえぎ》り、乱塔婆《らんとうば》に雑草|生茂《おいしげ》る有様何となく物凄い坂である。二の橋の日向坂はその麓を流れる新堀川《しんほりかわ》の濁水《だくすい》とそれに架《かか》った小橋《こばし》と、斜《ななめ》に坂を蔽う一株《ひとかぶ》の榎《えのき》との配合が自《おのずか》ら絵になるように甚だ面白く出来ている。振袖火事《ふりそでかじ》で有名な本郷本妙寺《ほんごうほんみょうじ》向側の坂もまたその麓を流るる下水と小橋とのために私の記憶する処である。赤坂喰違《あかさかくいちがい》より麹町清水谷《こうじまちしみずだに》へ下《くだ》る急な坂、また上二番町辺樹木谷《かみにばんちょうへんじゅもくだに》へ下《おり》る坂の如きは下弦の月鎌の如く樹頭に懸る冬の夜《よ》、広大なるこの辺《へん》の屋敷屋敷の犬の遠吠え聞ゆる折なぞ市中とは思えぬほどのさびしさである。坂はまた土地の傾斜に添うて立つ家屋塀樹木等の見通しによって大《おおい》に眼界を美ならしむる。則ち旧|加州侯《かしゅうこう》の練塀《ねりべい》立ちつづく本郷の暗闇坂の如き、麻布長伝寺《あざぶちょうでんじ》の練塀と赤門見ゆる一本松の坂の如きはその実例である。
 私はまた坂の中《うち》で神田明神《かんだみょうじん》の裏手なる本郷の妻恋坂《つまごいざか》、湯島天神裏花園町《ゆしまてんじんうらはなぞのちょう》の坂、また少しく辺鄙《へんぴ》なるを厭《いと》わずば白金清正公《しろかねせいしょうこう》のほとりの坂、さては牛込築土明神裏手《うしごめつくどみょうじんうらて》の坂、赤城《あかぎ》明神裏門より小石川|改代町《かいたいまち》へ下りる急な坂の如く神社の裏手にある坂をば何となく特徴あるように思い、通る度《たび》ごとに物珍らしくその辺《へん》を眺めるのである。坂になった土地の傾斜は境内《けいだい》の鳥居や銀杏《いちょう》の大木や拝殿の屋根、玉垣なぞをば、或時は人家の屋根の上、或時は路地の突当りなぞ思いも掛けぬ物の間からいろいろに変化さして見せる。私はまたこういう静な坂の中途に小じんまりした貸家を見付ると用もないのに必ず立止っては仔細《しさい》らしく貼札《はりふだ》を読む。何故《なぜ》というに神社の境内に近く佗住居《わびずまい》して読書に倦《う》み苦作につかれた折|窃《そっ》と着のみ着のまま羽織《はおり》も引掛《ひっか》けず我が家《や》の庭のように静な裏手から人なき境内に歩入《あゆみい》って、鳩の飛ぶのを眺めたり額堂《がくどう》の絵馬《えま》を見たりしたならば、何思うともなく唯茫然として、容易《たやす》くこの堪えがたき時間を消費する事が出来はせまいかと考えるからである。
 東京の坂の中《うち》にはまた坂と坂とが谷をなす窪地《くぼち》を間にして向合《むかいあわせ》に突立っている処がある。前章市内の閑地《あきち》を記したる条《じょう》に述べた鮫《さめ》ヶ|橋《はし》の如き、即ちその前後には寺町《てらまち》と須賀町《すがちょう》の坂が向合いになっている。また小石川|茗荷谷《みょうがだに》にも両方の高地《こうち》が坂になっている。小石川|柳町《やなぎちょう》には一方に本郷より下《おり》る坂あり、一方には小石川より下る坂があって、互に対時《たいじ》している。こういう処は地勢が切迫して坂と坂との差向いが急激に接近していれば、景色はいよいよ面白く、市中に偶然|温泉場《おんせんば》の街が出来たのかと思わせるような処さえある。
 市《いち》ヶ|谷《や》谷町《たにまち》から仲之町《なかのちょう》へ上《のぼ》る間道に古びた石段の坂がある。念仏坂《ねんぶつざか》という。麻布飯倉《あざぶいいくら》のほとりにも同じような石段の坂が立っている。雁木坂《がんぎざか》と呼ぶ。これらの石級《せききゅう》磴道《とうどう》はどうかすると私には長崎の町を想い起すよすがともなり得るので、日和下駄の歩みも危《あやう》くコツコツと角の磨滅した石段を踏むごとに、どうか東京市の土木工事が通行の便利な普通の坂に地ならししてしまわないようにと私は心|窃《ひそか》に念じているのである。
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第十一 夕陽 附富士眺望

 東都の西郊|目黒《めぐろ》に夕日《ゆうひ》ヶ|岡《おか》というがあり、大久保《おおくぼ》に西向天神《にしむきてんじん》というがある。倶《とも》に夕日の美しきを見るがために人の知る所となった。これ元より江戸時代の事にして、今日わざわざかかる辺鄙《へんぴ》の岡に杖を留《とど》めて夕陽《ゆうひ》を見るが如き愚をなすものはあるまい。しかし私は日頃|頻《しきり》に東京の風景をさぐり歩くに当って、この都会の美観と夕陽《せきよう》との関係甚だ浅からざる事を知った。
 立派な二重橋の眺望も城壁の上なる松の木立《こだち》を越えて、西の空一帯に夕日の燃立《もえた》つ時最も偉大なる壮観を呈する。暗緑色の松と、晩霞《ばんか》の濃い紫と、この夕日の空の紅色《こうしょく》とは独り東京のみならず日本の風土特有の色彩である。
 夕焼《ゆうやけ》の空は堀割に臨む白い土蔵《どぞう》の壁に反射し、あるいは夕風を孕《はら》んで進む荷船《にぶね》の帆を染めて、ここにもまた意外なる美観をつくる。けれども夕日と東京の美的関係を論ぜんには、四谷《よつや》麹町《こうじまち》青山《あおやま》白金《しろかね》の大通《おおどおり》の如く、西向きになっている一本筋の長い街路について見るのが一番便宜である。神田川《かんだがわ》や八丁堀《はっちょうぼり》なぞいう川筋、また隅田川《すみだがわ》沿岸の如きは夕陽《せきよう》の美を俟《ま》たざるも、それぞれ他の趣味によって、それ相応の特徴を附する事が出来る。これに反して麹町から四谷を過ぎて新宿に及ぶ大通、芝白金から目黒行人坂《めぐろぎょうにんざか》に至る街路の如きは、以前からいやに駄々広《だだっぴろ》いばかりで、何一ツ人の目を惹《ひ》くに足るべきものもなく全く場末《ばすえ》の汚い往来に過ぎない。雪にも月にも何の風情《ふぜい》を増しはせぬ。風が吹けば砂烟《すなけむり》に行手は見えず、雨が降れば泥濘《でいねい》人の踵《きびす》を没せんばかりとなる。かかる無味殺風景の山の手の大通をば幾分たりとも美しいとか何とか思わせるのは、全く夕陽《ゆうひ》の関係あるがためのみである。
 これらの大通は四谷青山白金|巣鴨《すがも》なぞと処は変れど、街の様子は何となく似通《にかよ》っている。昔四谷通は新宿より甲州《こうしゅう》街道また青梅《おうめ》街道となり、青山は大山《おおやま》街道、巣鴨は板橋を経て中仙道《なかせんどう》につづく事江戸絵図を見るまでもなく人の知る所である。それがためか、電車開通して街路の面目一新したにかかわらず、今以て何処《どこ》となく駅路の臭味《しゅうみ》が去りやらぬような心持がする。殊に広い一本道のはずれに淋しい冬の落日を望み、西北《にしきた》の寒風《かんぷう》に吹付けられながら歩いて行くと、何ともなく遠い行先の急がれるような心持がして、電車自転車のベルの音《ね》をば駅路の鈴に見立てたくなるのも満更《まんざら》無理ではあるまい。
 東京における夕陽《せきよう》の美は若葉の五、六月と、晩秋の十月十一月の間を以て第一とする。山の手は庭に垣根に到る処|新樹《しんじゅ》の緑|滴《したた》らんとするその木立《こだち》の間よりタ陽の空|紅《くれない》に染出《そめいだ》されたる美しさは、下町の河添《かわぞい》には見られぬ景色である。山の手のその中《なか》でも殊に木立深く鬱蒼とした処といえば、自《おのずか》ら神社仏閣の境内を択ばなければならぬ。雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》の鬼子母神《きしもじん》、高田《たかた》の馬場《ばば》の雑木林《ぞうきばやし》、目黒の不動、角筈《つのはず》の十二社《じゅうにそう》なぞ、かかる処は空を蔽う若葉の間より夕陽を見るによいと同時に、また晩秋の黄葉《こうよう》を賞するに適している。夕陽影裏落葉を踏んで歩めば、江湖淪落《ごうこりんらく》の詩人ならざるもまた多少の感慨なきを得まい。
 ここに夕陽《せきよう》の美と共に合せて語るべきは、市中より見る富士山の遠景である。夕日に対する西向きの街からは大抵富士山のみならずその麓に連《つらな》る箱根《はこね》大山《おおやま》秩父《ちちぶ》の山脈までを望み得る。青山一帯の街は今なお最もよくこの眺望に適した処で、その他|九段坂上《くだんざかうえ》の富士見町通《ふじみちょうどおり》、神田駿河台《かんだするがだい》、牛込寺町辺《うしごめてらまちへん》も同様である。
 関西の都会からは見たくも富士は見えない。ここにおいて江戸児《えどっこ》は水道の水と合せて富士の眺望を東都の誇《ほこり》となした。西に富士ヶ根東に筑波《つくば》の一語は誠によく武蔵野の風景をいい尽したものである。文政年間|葛飾北斎《かつしかほくさい》『富嶽三十六景』の錦絵《にしきえ》を描《えが》くや、その中《うち》江戸市中より富士を望み得る処の景色《けいしょく》凡《およ》そ十数個所を択んだ。曰《いわ》く佃島《つくだじま》、深川万年橋《ふかがわまんねんばし》、本所竪川《ほんじょたてかわ》、同じく本所|五《いつ》ツ目《め》羅漢寺《らかんじ》、千住《せんじゅ》、目黒、青山竜巌寺《あおやまりゅうがんじ》、青山|穏田水車《おんでんすいしゃ》、神田駿河台《かんだするがだい》、日本橋橋上《にほんばしきょうじょう》、駿河町越後屋店頭《するがちょうえちごやてんとう》、浅草本願寺《あさくさほんがんじ》、品川御殿山《しながわごてんやま》、及び小石川の雪中《せっちゅう》である。私はまだこれらの錦絵をば一々実景に照し合した事はない。それ故例えば深川万年橋あるいは本所竪川辺より江戸時代においても果して富士を望み得たか否かを知る事が出来ない。しかし北斎及びその門人|昇亭北寿《しょうていほくじゅ》また一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》らの古版画は今日なお東京と富士山との絵画的関係を尋ぬるものに取っては絶好の案内たるやいうを俟《ま》たない。北寿が和蘭陀風《オランダふう》の遠近法を用いて描いたお茶の水の錦絵はわれら今日|目《ま》のあたり見る景色と変りはない。神田聖堂《かんだせいどう》の門前を過ぎてお茶の水に臨む往来の最も高き処に佇《たたず》んで西の方《かた》を望めば、左には対岸の土手を越して九段の高台、右には造兵廠《ぞうへいしょう》の樹木と並んで牛込《うしごめ》市《いち》ヶ|谷《や》辺《へん》の木立を見る。その間を流れる神田川は水道橋より牛込|揚場辺《あげばへん》の河岸《かし》まで、遠いその眺望のはずれに、われらは常に富嶽とその麓の連山を見る光景、全く名所絵と異る所がない。しかして富嶽の眺望の最も美しきはやはり浮世絵の色彩に似て、初夏晩秋の夕陽《せきよう》に照されて雲と霞は五色《ごしき》に輝き山は紫に空は紅《くれない》に染め尽される折である。
 当世人《とうせいじん》の趣味は大抵日比谷公園の老樹に電気燈を点じて奇麗奇麗と叫ぶ類《たぐい》のもので、清夜《せいや》に月光を賞し、春風《しゅんぷう》に梅花を愛するが如く、風土固有の自然美を敬愛する風雅の習慣今は全く地を払ってしまった。されば東京の都市に夕日が射《さ》そうが射すまいが、富士の山が見えようが見えまいがそんな事に頓着するものは一人もない。もしわれらの如き文学者にしてかくの如き事を口にせば文壇は挙《こぞ》って気障《きざ》な宗匠《そうしょう》か何ぞのように手厳《てひど》く擯斥《ひんせき》するにちがいない。しかしつらつら思えば伊太利亜《イタリヤ》ミラノの都はアルプの山影《さんえい》あって更に美しく、ナポリの都はヴェズウブ火山の烟《けむり》あるがために一際《ひときわ》旅するものの心に記憶されるのではないか。東京の東京らしきは富士を望み得る所にある。われらは徒《いたずら》に議員選挙に奔走する事を以てのみ国民の義務とは思わない。われらの意味する愛国主義は、郷土の美を永遠に保護し、国語の純化洗練に力《つと》むる事を以て第一の義務なりと考うるのである。今や東京市の風景全く破壊せられんとしつつあるの時、われらは世人のこの首都と富嶽との関係を軽視せざらん事を希《こいねご》うて止《や》まない。安永頃の俳書『名所方角集《めいしょほうがくしゅう》』に富士眺望と題して

   名月や富士見ゆるかと駿河町《するがちょう》  素竜
   半分は江戸のものなり不尽《ふじ》の雪  立志《りゅうし》
   富士を見て忘れんとしたり大晦日《おおみそか》  宝馬

 十余年|前《ぜん》楽天居《らくてんきょ》小波山人《さざなみさんじん》の許《もと》に集まるわれら木曜会の会員に羅臥雲《らがうん》と呼ぶ眉目《びもく》秀麗なる清客《しんきゃく》があった。日本語を善《よ》くする事邦人に異らず、蘇山人《そさんじん》と戯号《ぎごう》して俳句を吟じ小説をつづりては常にわれらを後《しりえ》に瞠若《どうじゃく》たらしめた才人である。故山《こざん》に還《かえ》る時一句を残して曰く

   行春《ゆくはる》の富士も拝まんわかれかな

 蘇山人湖南の官衙《かんが》にあること歳余《さいよ》病《やまい》を得て再び日本に来遊し幾何《いくばく》もなくして赤坂《あかさか》一《ひと》ツ木《ぎ》の寓居に歿した。わたしは富士の眺望よりしてたまたま蘇山人が留別の一句を想い惆悵《ちゅうちょう》としてその人を憶《おも》うて止《や》まない。

   君は今鶴にや乗らん富士の雪  荷風

  大正四年四月

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2009年12月3日作成
2012年4月5日修正
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永井荷風

伝通院—–永井荷風

われわれはいかにするともおのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来まい。
 もしそれが賑《にぎやか》な都会の中央であったならば、われわれは無限の光栄に包まれ感謝の涙にその眼を曇らして、一国の繁華を代表する偉大の背景を打目戍《うちまも》るであろう。もしまたそれが見る影もない痩村《やせむら》の端《はず》れであったなら、われわれはかえって底知れぬ懐《なつか》しさと同時に悲しさ愛らしさを感ずるであろう。
 進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。私《わたし》は都会の北方を限る小石川《こいしかわ》の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す。
 十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。その頃の私には知る由《よし》もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って飯田町《いいだまち》に家を借り、それから丁度|日清《にっしん》戦争の始まる頃には更に一番町《いちばんちょう》へ引移った。今の大久保《おおくぼ》に地面を買われたのはずっと後《のち》の事である。
 私は飯田町や一番町やまたは新しい大久保の家《いえ》から、何かの用事で小石川の高台を通り過る折にはまだ二十歳《はたち》にもならぬ学生の裏若《うらわか》い心の底にも、何《なに》とはなく、いわば興亡常なき支那の歴代史を通読した時のような淋しく物哀れに夢見る如き心持を覚えるのであった。殊に自分が呱々《ここ》の声を上げた旧宅の門前を過ぎ、その細密《こまか》い枝振りの一条《ひとすじ》一条にまでちゃん[#「ちゃん」に傍点]と見覚えのある植込《うえごみ》の梢《こずえ》を越して屋敷の屋根を窺い見る時、私は父の名札《なふだ》の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に進入《すすみい》る事ができなくなったのかと思うと、なお更にもう一度あの悪戯書《いたずらがき》で塗り尽された部屋の壁、その窓下へ掘った金魚の池なぞあらゆる稚時《おさなどき》の古跡が尋ねて見たく、現在|其処《そこ》に住んでいる新しい主人の事を心憎く思わねばならなかった。
 私の住んでいる時分から家は随分古かった。それ故、間もなく新しい主人は門の塀まで改築してしまった事を私は知っている。乃《すなわ》ち私の稚時の古跡はもう影も形もなくこの浮世からは湮滅《いんめつ》してしまったのだ……

        *

 寺院と称する大きな美術の製作は偉大な力を以てその所在の土地に動しがたい或る特色を生ぜしめる。巴里《パリー》にノオトル・ダアムがある。浅草《あさくさ》に観音堂《かんのんどう》がある。それと同じように、私の生れた小石川をば(少くとも私の心だけには)あくまで小石川らしく思わせ、他の町からこの一区域を差別させるものはあの伝通院《でんずういん》である。滅びた江戸時代には芝の増上寺《ぞうじょうじ》、上野の寛永寺《かんえいじ》と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの伝通院である。
 伝通院の古刹《こさつ》は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。小石川の高台はその源を関口の滝に発する江戸川に南側の麓を洗わせ、水道端《すいどうばた》から登る幾筋の急な坂によって次第次第に伝通院の方へと高くなっている。東の方は本郷《ほんごう》と相対して富坂《とみざか》をひかえ、北は氷川《ひかわ》の森を望んで極楽水《ごくらくみず》へと下《くだ》って行き、西は丘陵の延長が鐘の音《ね》で名高い目白台《めじろだい》から、『忠臣蔵』で知らぬものはない高田《たかた》の馬場《ばば》へと続いている。
 この地勢と同じように、私の幼い時の幸福なる記憶もこの伝通院の古刹を中心として、常にその周囲を離れぬのである。
 諸君は私が伝通院の焼失を聞いていかなる絶望に沈められたかを想像せらるるであろう。外国から帰って来てまだ間もない頃の事確か十一月の曇った寒い日であった。ふと小石川の事を思出して、午後《ひるすぎ》に一人幾年間見なかった伝通院を尋《たずね》た事があった。近所の町は見違えるほど変っていたが古寺《ふるでら》の境内《けいだい》ばかりは昔のままに残されていた。私は所定めず切貼《きりばり》した本堂の古障子《ふるしょうじ》が欄干《らんかん》の腐った廊下に添うて、凡そ幾十枚と知れず淋しげに立連《たちつらな》った有様を今もってありありと眼に浮べる。何という不思議な縁であろう、本堂はその日の夜、私が追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中《うち》に、すっかり灰になってしまったのだ。
 芝の増上寺の焼けたのもやはりその頃の事だと私は記憶している。
 半年《はんとし》ほど過ぎてから、あるいは一年ほど過ぎていたかも知れぬ。私はその頃日記をつけていなかったので確な事は覚えていない。或日再び小石川を散歩した。雨気《あまけ》を含んで重苦しい夕風が焼跡の石の間に生えた雑草の葉を吹きひるがえしているのを見た。
 何しろあれだけ大きな建物がなくなってしまった事とて境内は荒野《あれの》のように広々として重苦しい夕風は真実無常を誘う風の如く処《ところ》を得顔《えがお》に勢づいて吹き廻っているように思われた。今までは本堂に遮《さえぎ》られて見えなかった裏手の墳墓が黒焦げになったまま立っている杉の枯木の間から一目に見通される。家康公《いえやすこう》の母君の墓もあれば、何とやらいう名高い上人《しょうにん》の墓もある……と小さい時私は年寄から幾度となく語り聞かされた……それらの名高い尊い墳墓も今は荒れるがままに荒れ果て、土塀の崩れた土から生えた灌木や芒《すすき》の茂りまたは倒れた石の門に這いまつわる野蔦《のづた》の葉が無常を誘う夕風にそよぎつつ折々軽い響を立てるのが何ともいえぬほど物寂しく聞
きなされた。
 伝説によれば水戸黄門《みとこうもん》が犬を斬ったという寺の門だけは、幸にして火災を逃れたが、遠く後方に立つ本堂の背景がなくなってしまったので、美しく彎曲した彫刻の多いその屋根ばかりが、独りしょんぼりと曇った空の下に取り残されて立つ有様かえって殉死《じゅんし》の運命に遇わなかったのを憾《うら》み悲しむように見られた。門の前には竹矢来《たけやらい》が立てられて、本堂|再建《さいこん》の寄附金を書連《かきつら》ねた生々しい木札が並べられてあった。本堂は間もなく寄附金によって、基督《キリスト》新教の会堂の如く半分西洋風に新築されるという話……ああ何たる進歩であろう。
 私は記憶している。まだ六ツか七ツの時分、芝の増上寺から移ってこの伝通院の住職になった老僧が、紫の紐をつけた長柄《ながえ》の駕籠《かご》に乗り、随喜の涙に咽《むせ》ぶ群集の善男善女《ぜんなんぜんにょ》と幾多の僧侶の行列に送られて、あの門の下を潜《くぐ》って行った目覚しい光景に接した事があった。今や 〔De’mocratie〕《デモクラシイ》 と Positivisme《ポジチビズム》 の時勢は日一日に最後の美しい歴史的色彩を抹殺して、時代に後《おく》れた詩人の夢を覚さねば止むまいとしている。

        *

 安藤坂《あんどうざか》は平かに地ならしされた。富坂《とみざか》の火避地《ひよけち》には借家《しゃくや》が建てられて当時の名残《なごり》の樹木二、三本を残すに過ぎない。水戸藩邸《みとはんてい》の最後の面影《おもかげ》を止《とど》めた砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の大きな赤い裏門は何処へやら取除《とりの》けられ、古びた練塀《ねりべい》は赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであったあの水門《すいもん》はもう影も形もない。
 表町《おもてまち》の通りに並ぶ商家も大抵は目新しいものばかり。以前この辺の町には決して見られなかった西洋小間物屋、西洋菓子屋、西洋料理屋、西洋文具店、雑誌店の類《たぐい》が驚くほど沢山出来た。同じ糸屋や呉服屋の店先にもその品物はすっかり変っている。
 かつては六尺町《ろくしゃくまち》の横町から流派《りゅうは》の紋所《もんどころ》をつけた柿色の包みを抱えて出て来た稽古通いの娘の姿を今は何処《いずこ》に求めようか。久堅町《ひさかたまち》から編笠《あみがさ》を冠《かぶ》って出て来る鳥追《とりおい》の三味線を何処に聞こうか。時代は変ったのだ。洗髪《あらいがみ》に黄楊《つげ》の櫛《くし》をさした若い職人の女房が松の湯とか小町湯とか書いた銭湯《せんとう》の暖簾《のれん》を掻分けて出た町の角には、でくでく[#「でくでく」に傍点]した女学生の群《むれ》が地方|訛《なま》りの嘆賞の声を放って活動写真の広告隊を見送っている。
 今になって、誰一人この辺鄙《へんぴ》な小石川の高台にもかつては一般の住民が踊の名人|坂東美津江《ばんどうみつえ》のいた事を土地の誇となしまた寄席《よせ》で曲弾《きょくびき》をしたため家元から破門された三味線の名人|常磐津金蔵《ときわずきんぞう》が同じく小石川の人であった事を尽きない語草《かたりぐさ》にしたような時代のあった事を知るものがあろう。現代の或批評家は私が芸術を愛するのは巴里《パリー》を見て来たためだと思っているかも知れぬ。しかしそもそも私が巴里の芸術を愛し得たその Passion その Enthousiasme の根本の力を私に授《さず》けてくれたものは、仏蘭西《フランス》人が Sarah Bernhardt に対し伊太利亜《イタリヤ》人が Eleonora Duse に対するように、坂東美津江や常磐津金蔵を崇拝した当時の若衆《わかいしゅう》の溢れ漲《みなぎ》る熱情の感化に外ならない。哥沢節《うたざわぶし》を産んだ江戸衰亡期の唯美主義《ゆいびしゅぎ》は私をして二十世紀の象徴主義を味わしむるに余りある芸術的素質をつくってくれたのである。

        *

 夕暮よりも薄暗い入梅の午後|牛天神《うしてんじん》の森蔭に紫陽花《あじさい》の咲出《さきいづ》る頃、または旅烏《たびがらす》の啼《な》き騒ぐ秋の夕方|沢蔵稲荷《たくぞういなり》の大榎《おおえのき》の止む間もなく落葉《おちば》する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天《だいこくてん》の階《きざはし》に休めさせる。その度に堂内に安置された昔のままなる賓頭盧尊者《びんずるそんじゃ》の像を撫《な》ぜ、幼い頃この小石川の故里《ふるさと》で私が見馴れ聞馴れたいろいろな人たちは今頃どうしてしまったろうと、そぞろ当時の事を思い返さずにはいられない。
 そもそも私に向って、母親と乳母《うば》とが話す桃太郎や花咲爺《はなさかじじい》の物語の外に、最初のロマンチズムを伝えてくれたものは、この大黒様の縁日《えんにち》に欠かさず出て来たカラクリの見世物《みせもの》と辻講釈《つじこうしゃく》の爺さんとであった。
 二人は何処から出て来るのか無論私は知らない。しかし私がこの世に生れて初めて縁日というものを知ってから、その後《ご》小石川を去る時分までも二人の爺は油烟《ゆえん》の灯《あかり》の中に幾年たっても変らないその顔を見せていた。それ故あるいは今でも同じ甲子《きのえね》の夜《よ》には同じ場所に出て来るかも知れない。
 カラクリの爺は眼のくさった元気のない男で、盲目の歌うような物悲しい声で、「本郷駒込吉祥寺八百屋《ほんごうこまごめきちじょうじやおや》のお七はお小姓の吉三《きちざ》に惚れて……。」と節をつけて歌いながら、カラクリの絵板《えいた》につけた綱を引張っていたが、辻講釈の方は歯こそ抜けておれ眼付のこわい人の悪るそうな爺であった。よほど遠くから出て来るものと見え、いつでも鞋《わらじ》に脚半掛《きゃはんが》け尻端打《しりはしおり》という出立《いでたち》で、帰りの夜道の用心と思われる弓張提灯《ゆみはりちょうちん》を腰低く前で結んだ真田《さなだ》の三尺帯の尻《しり》ッぺたに差していた。縁日の人出が三人四人と次第にその周囲に集ると、爺さんは煙管《きせる》を啣《くわ》えて路傍《みちばた》に蹲踞《しゃが》んでいた腰を起し、カンテラに火をつけ、集る人々の顔をずいと見廻しながら、扇子《せんす》をパチリパチリと音させて、二、三度つづけ様に鼻から吸い込む啖唾《たんつば》を音高く地面へ吐く。すると始めは極く低い皺嗄《しわが》れた声が次第次第に専門的な雄弁に代って行く。
「……あれえッという女の悲鳴。こなたは三本木《さんぼんぎ》の松五郎《まつごろう》、賭場《とば》の帰りの一杯機嫌、真暗な松並木をぶらぶらとやって参ります……」
 話が興味の中心に近《ちかづ》いて来ると、いつでも爺さんは突然調子を変え、思いもかけない無用なチャリを入れてそれをば聞手の群集から金を集める前提にするのであるが、物馴れた敏捷な聞手は早くも気勢を洞察して、半開《はんびら》きにした爺さんの扇子がその鼻先へと差出されぬ中《うち》にばらばら逃げてしまう。すると爺さんは逃げ後《おく》れたまま立っている人たちへ面当《つらあて》がましく、「彼奴《あいつ》らア人間はお飯《まんま》喰わねえでも生きてるもんだと思っていやがらア。昼鳶《ひるとんび》の持逃《もちにげ》野郎奴。」なぞと当意即妙の毒舌を振って人々を笑わせるかと思うと罪のない子供が知らず知らずに前の方へ押出て来るのを、また何とかいって叱りつけ自分も可笑《おかし》そうに笑っては例の啖唾を吐くのであった。
 縁日の事からもう一人私の記憶に浮び出《いづ》るものは、富坂下《とみざかした》の菎蒻閻魔《こんにゃくえんま》の近所に住んでいたとかいう瞽女《ごぜ》である。物乞《ものごい》をするために急に三味線を弾《ひ》き初めたものと見えて、年は十五、六にもなるらしい大きな身体《ずうたい》をしながら、カンテラを点《とも》した薦《ござ》の上に坐って調子もカン処《どこ》も合わない「一ツとや」を一晩中休みなしに弾いていた。その様子が可笑しいというので、縁日を歩く人は大抵立止っては銭を投げてやった。二年三年とたつ中《うち》に瞽女は立派な専門の門附《かどづけ》になって「春雨」や「梅にも春」などを弾き出したがする中《うち》いつか姿を見せなくなった。私は家《うち》の女中が何処から聞いて来たものか、あの瞽女は目も見えないくせに男と密通《くっつ》いて子を孕《はら》んだのだと噂しているのを聞いた事がある。
 これも同じ縁日の夜《よ》に、一人相撲《ひとりずもう》というものを取って銭を乞う男があった。西、両国《りょうごく》、東、小柳《こやなぎ》と呼ぶ呼出し奴《やっこ》から行司《ぎょうじ》までを皆一人で勤め、それから西東の相撲の手を代り代りに使い分け、果《はて》は真裸体《まっぱだか》のままでズドンと土《どろ》の上に転《ころが》る。しかしこれは間もなく警察から裸体《はだか》になる事を禁じられて、それなり縁日には来なくなったらしい
明治四十三年七月

 金剛寺坂《こんごうじざか》の笛熊《ふえくま》さんというのは、女髪結《おんなかみゆい》の亭主で大工の本職を放擲《うっちゃ》って馬鹿囃子《ばかばやし》の笛ばかり吹いている男であった。按摩《あんま》の休斎《きゅうさい》は盲目ではないが生付いての鳥目《とりめ》であった。三味線弾きになろうとしたが非常に癇《かん》が悪い。落話家《はなしか》の前座になって見たがやはり見込がないので、遂に按摩になったという経歴から、ちょっと踊もやる落話《おとしばなし》もする愛嬌者《あいきょうもの》であった。
 般若《はんにゃ》の留《とめ》さんというのは背中一面に般若の文身《ほりもの》をしている若い大工の職人で、大タブサに結った髷《まげ》の月代《さかやき》をいつでも真青《まっさお》に剃っている凄いような美男子であった。その頃にはまだ髷に結っている人も大分残ってはいたが、しかし大方は四十を越した老人《としより》ばかりなので、あの般若の留さんは音羽屋《おとわや》のやった六三《ろくさ》や佐七《さしち》のようなイキなイナセな昔の職人の最後の面影をば、私の眼に残してくれた忘れられない恩人である。
 昔は水戸様から御扶持《ごふち》を頂いていた家柄だとかいう棟梁《とうりょう》の忰《せがれ》に思込まれて、浮名《うきな》を近所に唄《うた》われた風呂屋の女の何とやらいうのは、白浪物《しらなみもの》にでも出て来そうな旧時代の淫婦であった。江戸時代の遺風としてその当時の風呂屋には二階があって白粉《おしろい》を塗った女が入浴の男を捉えて戯《たわむ》れた。かくの如き江戸衰亡期の妖艶なる時代の色彩を想像すると、よく西洋の絵にかかれた美女の群《むれ》の戯れ遊ぶ浴殿《よくでん》の歓楽さえさして羨むには当るまい。

        *

 小石川は東京全市の発達と共に数年ならずしてすっかり見違えるようになってしまうであろう。
 始めて六尺横町《ろくしゃくよこちょう》の貸本屋から昔のままなる木版刷《もくはんずり》の『八犬伝《はっけんでん》』を借りて読んだ当時、子供心の私には何ともいえない神秘の趣を示した氷川《ひかわ》の流れと大塚の森も取払われるに間もあるまい。私が最後に茗荷谷《みょうがだに》のほとりなる曲亭馬琴《きょくていばきん》の墓を尋ねてから、もう十四、五年の月日は早くも去っている……。

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年4月15日作成
2010年11月8日修正
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永井荷風

虫干—–永井荷風

毎年《まいねん》一度の虫干《むしぼし》の日ほど、なつかしいものはない。
 家中《うちぢゆう》で一番広い客座敷の縁先には、亡《なくな》つた人達の小袖《こそで》や、年寄つた母上の若い時分の長襦袢などが、幾枚となくつり下げられ、其のかげになつて薄暗く妙に涼しい座敷の畳の上には歩く隙間もないほどに、古い蔵書や書画帖などが並べられる。
 色のさめた古い衣裳の仕立方《したてかた》と、紋の大きさ、縞柄、染模様などは、鋭い樟脳の匂ひと共に、自分に取つては年毎にいよ/\なつかしく、過ぎ去つた時代の風俗と流行とを語つて聞《きか》せる。古い蔵書のさま/″\な種類は、其の折々の自分の趣味思想によつて、自分の家《うち》にもこんな面白いものがあつたのかと、忘れてゐた自分の眼を驚かす。
 近頃になつて父が頻《しきり》と買込まれる支那や朝鮮の珍本は、自分の趣味知識とは余りに懸隔が烈し過ぎる。古い英語の経済学や万国史はさして珍しくもない。今年の虫干の昼過ぎ、一番自分の眼を驚かし喜ばしたものは、明治初年の頃に出版された草双紙や綿絵や又は漢文体の雑書であつた。
 明治《めいぢ》初年の出版物は自分が此の世に生れ落ちた当時の人情世態を語る尊い記録《ドキユウマン》である。自分の身の上ばかりではない。自分を生んだ頃の父と母との若い華やかな時代をも語るものである。苔と落葉と土とに埋《うづも》れてしまつた古い石碑の面《おもて》を恐る/\洗ひ清めながら、磨滅した文字《もんじ》の一ツ一ツを捜《さぐ》り出して行くやうな心持で、自分は先づ第一に、「東京新繁昌記《とうきやうしんはんじやうき》」と言ふ漢文体の書籍を拾ひ読みした。
 今日《こんにち》では最早《もは》やかう云ふ文章を書くものは一人《いちにん》もあるまい。「東京新繁昌記」は自分が茲《ここ》に説明するまでもなく、寺門静軒《てらかどせいけん》の「江戸繁昌記」成島柳北《なるしまりうほく》の「柳橋新誌《りうけうしんし》」に倣《なら》つて、正確な漢文をば、故意に破壊して日本化した結果、其の文章は無論支那人にも分らず、又漢文の素養なき日本人にも読めない。所謂|鵺《ぬえ》のやうな一種変妙な形式を作り出してゐる。この変妙な文体は今日の吾々に対しては著作の内容よりも一層多大の興味を覚えさせる。何故《なぜ》なれば、其れは正確純粋な漢文の形式が漸次《ぜんじ》時代と共に日本化して来るに従ひ、若し漢文によつて浮世床《うきよどこ》や縁日や夕涼《ゆふすずみ》の如き市井の生活の実写を試みや[#「や」に「ママ」の注記]うとすれば、どうしても支那の史実を記録するやうな完全固有の形式を保たしめる事が出来なかつた事を証明したものと見られる。又江戸以来勃興した戯作[#「戯作」に傍点]といふ日本語の写実文学の感化が邪道に陥つた末世《まつせ》の漢文家を侵した一例と見ても差支へがないからである。
「東京新繁昌記」の奇妙な文体は厳格なる学者を憤慨させる間違つた処に、その時代を再現させる価値が含まれてゐるのである。此《かく》の如き漢文はやがて吾々が小学校で習つた仮名交《かなまじ》りの紀行文に終りを止《とど》めて、其の後は全く廃滅に帰してしまつた。時勢が然らしめたのである。漢文趣味と戯作趣味とは共に西洋趣味の代るところとなつた。自分は今日近代的文章と云はれる新しい日本文が恰《あたか》も三十年昔に、「東京新繁昌記」に試みられた奇態な文体と同様な、不純混乱を示してゐはせぬかと思ふのである。かの「スバル」一派を以て、其の代表的実例となした或る批評の老大家には、青年作家の文章が丁度西洋人の日本語を口真似する手品使ひの口上《こうじやう》のやうに思はれ、又日本文を読み得る或外国人には矢張り現代の青年作家が日本文の間々《あひだ/\》に挿入する外国語の意味が、余りに日本化して使はれてゐる為め、折々《おり/\》は諒解されない事があるとか云ふ話も聞いた。大きにさうかも知れない。然しこの間違つた、滑稽な、鵺《ぬえ》のやうな、故意《こい》になした奇妙の形式は、寧《む》しろ言現《いひあらは》された叙事よりも、内容の思想を尚《なほ》能く窺ひ知らしめるのである。
 新繁昌記第五編中、妾宅[#「妾宅」に傍点]と云ふ一節の書始めに次のやうな文章がある。

と云ふ詩なぞを掲《かか》げてゐるが、此れ等は何処となく、黙阿弥劇中に散見する台詞《せりふ》「今宵《こよひ》の事を知つたのは、お月様と乃公《おれ》ばかり。」また、「人間わづか五十年、一人殺すも千人殺すも、とられる首はたつた一ツ、とても悪事を仕出《しだ》したからは、これから夜盗、家尻切《やじりき》り……。」の如きを思ひ出させるではないか。
 ボオドレエルを始め西洋のデカダンスには必ず神秘的宗教的色彩が強く、また死に対する恐しい幻覚が現はれてゐるが、此れ等は初めから諦めのいゝ人種だけに、江戸思想中には皆無《かいむ》である。其の代《かはり》に残忍|極《きはま》る殺戮《さつりく》の描写は、他人種の芸術に類例を見ざる特徴であつて、所謂《いはゆる》「殺しの場」として黙阿弥劇中興味の大部分を占めてゐる事は、今更らしく論じ出すにも及ぶまい。
 毒婦と盗人《ぬすびと》と人殺しと道行《みちゆき》とを仕組んだ黙阿弥劇は、丁度|羅馬《ロオマ》末代《まつだい》の貴族が猛獣と人間の格闘を見て喜んだやうに、尋常平凡の事件には興味を感ずる事の出来なくなつた鎖国の文明人が、仕度三昧《したいざんまい》の贅沢の揚句に案出した極端な凡ての娯楽的芸術を最も能く総括的に代表したものである。即ちあらゆる江戸文明の究極点は、此の劇的綜合芸術中に集注されてゐるのである。講談に於ける「怪談」の戦慄、人情本から味《あぢは》はれべき「濡《ぬ》れ場《ば》」の肉感的衝動の如き、悉《ことごと》く此れを黙阿弥劇の中《うち》に求むる事が出来る。三味線音楽が亦《また》この劇中に於て、如何に複雑に且つ効果鋭く応用されてゐるかは、已に自分が其の折々の劇評に論じた処である。「殺しの場」のやうな血腥《ちなまぐさ》き場面が、屡《しばしば》その伴奏音楽として用ひられる独吟と、如何に不思議なる詩的調和を示せるかを聞け。

 以上は黙阿弥劇に現はれたロマンチックの半面であるが、其の写実的半面は狂言の本筋に関係のない仕出しの台詞《せりふ》や、其の折々の流行の洒落《しやれ》、又は狂言全体の時代と類型的人物の境遇等に於て窺ひ知られるのである。維新後零落した旗本の家庭、親の為めに身を売る娘、新しい法律を楯にして悪事を働く代言人、暴悪な高利貸、傲慢な官吏、淫鄙な権妻《ごんさい》、狡獪《かうくわい》な髪結《かみゆひ》等いづれも生々《いきいき》とした新しい興味を以て写し出されてゐる。黙阿弥の著作は幕末から維新以後に於ける東京下層社会の生活を研究するに最も適当な資料であらう。本所《ほんじよ》深川《ふかがは》浅草辺《あさくさへん》の路地裏には今もつて三四十年|前《まへ》黙阿弥劇に見るまゝの陰惨不潔無智なる生活が残存《ざんぞん》して居る。
 虫干の縁先には尚《なほ》いろ/\の面白いものがあつた。大川筋《おおかはすぢ》の料理屋の変遷を知るに足るべき「開化三十六会席《かいくわさんじふろくくわいせき》」と題した芳幾《よしいく》の綿絵には、当時名を知られた芸者の姿を中心にして河筋の景色が描《ゑが》かれてある。自分は春信《はるのぶ》や歌麿《うたまろ》や春章《しゆんしやう》や其れより下《くだ》つて国貞《くにさだ》芳年《よしとし》の絵などを見るにつけ、それ等と今日の清方《きよかた》や夢二《ゆめじ》などの絵を比較するに、時代の推移は人間の生活と思想とを変化させるのみならず、生理的に人間の容貌と体格をも変化させて行くらしい。吾々は今日の新橋《しんばし》に「堀《ほり》の小万《こまん》」や「柳橋《やなぎばし》の小悦《こえつ》」のやうな姿を見る事が出来ないとすれば、其れと同じやうに、二代目の左団次《さだんじ》と六代目の菊五郎《きくごらう》に向つて、鋳掛松《いかけまつ》や髪結新三《かみゆひしんざ》の原型的な風采を求めるわけには行かない。古池に飛び込む蛙《かはづ》は昔のまゝの蛙であらう。中に玉章《たまづさ》忍ばせた萩《はぎ》と桔梗《ききやう》は幾代《いくだい》たつても同じ形同じ色の萩桔梗であらう。然し人間と呼ばれる種族間に於ては、親から子に譲らるべき其儘《そのまま》の同じものとては一ツもない。
 自分は時代の空気の人体に及ぼす生理的作用の如何を論じたい……。然し夏の日足は已に傾きかゝつて来た。涼しい風が頻《しきり》と植込の木《こ》の葉《は》をゆすつてゐる。縁先の鳳仙花は炎天に萎《しを》れた其《その》葉をば早くも真直に立て直した。古い小袖を元のやうに古い葛籠《つづら》にしまひ終つた家人は片隅から一冊|宛《づつ》古い書物を倉の中《なか》へと運んでゐる。自分は又来年の虫干を待たう。来年の虫干には自分の趣味はいかなる書物をあさらせる事であらう。

底本:「日本の名随筆36 読」作品社
   1985(昭和60)年10月25日第1刷発行
   1996(平成8)年4月20日第15刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一三巻」岩波書店
   1963(昭和38)年3月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月4日作成
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永井荷風

蟲の聲—–永井荷風

東京の町に生れて、そして幾十年といふ長い月日をこゝに送つた………。
 今日まで日々の生活について、何のめづらしさをも懷しさをも感じさせなかつた物の音や物の色が、月日の過ぎゆくうちにいつともなく一ツ一ツ消去つて、遂に二度とふたゝび見ることも聞くこともできないと云ふことが、はつきり意識せられる時が來る。すると、こゝに初めて綿々として盡きない情緒が湧起つて來る――別れて後むかしの戀を思返すやうな心持である。
 ふけそめる夏の夜に橋板を踏む下駄の音。油紙で張つた雨傘に門《かど》の時雨《しぐれ》のはら/\と降りかゝる響。夕月をかすめて啼過る雁の聲。短夜の夢にふと聞く時鳥《ほとゝぎす》の聲。雨の夕方渡場の船を呼ぶ人の聲。夜網を投込む水音。荷船の舵の響。それ等の音響とそれに伴ふ情景とが吾々の記憶から跡方もなく消え去つてから、歳月は既に何十年過ぎてゐるであらう。
 季節のかはり行くごとに、その季節に必要な品物を賣りに來た行商人の聲が、東京といふ此都會の生活に固有の情趣を帶びさせたのも、今は老朽ちた人々の語草に殘されてゐるばかりである。
 時代は過ぎ思想は代り風俗は一變してしまつた今日、この都會に生れ、この都會に老行くものどもが、これから先、その死に至る時まで、むかしに變らぬ情趣を味ひ得るものをさがし求めたなら、果して能く何を得るのであらう。
 樹木の多い郊外の庭にも、鶯はもう稀に來て鳴くのみである。雀の軒近く囀るのを喧《かしま》しく思ふやうな日も一日一日と少くなつて行くではないか。わたくしは何の爲に突然こんな事を書きはじめたのか。それは梵鐘の聲さへ二三年前から聞き得なくなつた事を、ふと思返して、一年は一年より更に烈しく、わたくしは蝉と蟋蟀《こほろぎ》の庭に鳴くのを待ちわびるやうになつた。――何故に待ちわびるやうになつたか、其理由をこゝに言ひたいと思つたからである。昭和といふ年も數へて早くも十八年になつた今日、東京の生活からむかしのまゝなる懷しい音響を、われ/\の耳に傳へてくれるものは、かのオシイツク/\と蟋蟀の鳴く聲ばかりであらう。蝉も蟋蟀も、事によつては雁や時鳥と同じやうに、やがて遠からず前の世の形見になつてしまふのかも知れない。
 或年淺草公園の或劇場の稽古に夜を明しての歸りみち、わたくしは昨夜のまゝに寐靜つた仲店を歩み過ぎた時、敷石を踏む跫音さへ打消すほど、あたり一面に鳴きしきる蟋蟀の聲をきいて、路に落ちた寶石を拾つたよりも嬉しく思つたことがあつた。それも數へればもう七八年むかしである。
 毎年東京の町に秋のおとづれるのは八月の七八日頃である。今年もいよ/\秋になつたと知るが否や、わたくしは今日か明日かと、夜毎に蟋蟀の初音《はつね》を待つのが例である。然しこの年頃の經驗によると、蟋蟀の聲の人の耳に達するのは、夕日の梢に初めてオシイツク/\の聲をきいてから、遲い時には十日十五日くらゐ待たねばならない。オシイツク/\も初の中はさほどに心細く、さほどにせはしなく鳴きしきりはしない。彼方の木の梢で一聲短く鳴いたなり、默つてしまふと、やがて此方《こなた》の梢から樣子でも窺ふやうに、挨拶でもしあふやうに、別の蝉がゆるやかに鳴くのである。
 この時分には秋になつたといつても、夕日の烈しさは昨日となつた夏にかはらず、日の短さも目にはたゝない。凌霄花《のうぜんかづら》はますます赤く咲きみだれ、夾竹桃の蕾は後から後からと綻びては散つて行く。百日紅は依然として盛りの最中《もなか》である。そして夕風のぱつたり凪ぐやうな晩には、暑さは却て眞夏よりも烈しく、夜ふけの空にばかり、稍目立つて見え出す銀河の影を仰いでも、往々にして眠りがたい蒸暑《むしあつさ》に襲はれることがある。然し日は一日一日と過ぎて行つて、或日|驟雨《ゆふだち》が晴れそこなつたまゝ、夜になつても降りつゞくやうな事でもあると、今まで逞しく立ちそびえてゐた向日葵《ひまわり》の下葉が、忽ち黄ばみ、いかにも重さうな其花が俯向いてしまつたまゝ、起き直らうともしない。糸瓜や南瓜の舒び放題に舒びた蔓の先に咲く花が、一ッ一ツ小さくなり、その數もめつきり少くなるのが目につきはじめる。それと共に、一雨過ぎた後、霽れわたる空の青さは昨日とは全くちがつて、濃く深く澄みわたり、時には大空をなかば蔽ひかくす程な雲の一團が、風のない日にも折重つて移動して行くのを見るであらう。それに伴ひ玉蜀黍の茂つた葉の先やら、熟した其實を包む髯が絶えず動き戰《そよ》いでゐて、大きな蜻※[#「虫+廷」、第4水準2-87-52]《とんぼ》がそれにとまるかと見ればとまりかねて、飛んで行つたり飛んできたりしてゐる。一時《ひとしきり》夏のさかりには影をかくした蝶が再びひら/\ととびめぐる。蟷螂《かまきり》が母指《おやゆび》ほどの大きさになり、人の跫音をきゝつけ、逃るどころか、却て刃向ふやうな姿勢を取るのも、この時節である。
 夏の中毎夜夕涼に出あるいてゐた癖がついてゐるので、この時節になつても、夕飯をすますときまつて外へ出る。知る人の家をたづね、久しく會はなかつた舊友に出會つたりして、思ひの外に夜をふかすやうな事がある。すると、其のかへり道、夜ふけの風がいつともなく涼しくなつてゐて、帽子をかぶつた額際も汗ばまず、おのづと歩みも輕くなるのに心づき、いよ/\今年の秋もふけかけて來たことを思知つて、音もせぬ風の音をきかうとするであらう。
 わが家に辿りついて、机の上の燈火をつけると、その火影《ほかげ》もまた昨夜《ゆうべ》とは違ひ、俄に清く澄んでゐるやうな心持がする。夏の夜とは全くちがつた官覺のしめやかさに驚かされ、何といふわけもなく火影とその周圍《まわり》の物の影とが見詰められる。わたくしがその年の秋に初めて鳴出す蟋蟀の聲をききつけるのは、大抵かういふ思ひがけない瞬間からである。
 けれども、初めて聞く蟋蟀の鳴音はオシイツク/\と同じやうに、初めは直樣途切れて、そのまま翌日《あくるひ》の夜になつても聞かれないことがある。そして蟲の聲を待つ宵は三日四日と空しく過ぎて行く。夕暮はもう驚くばかり短くなつてゐる。オシイツク/\の聲は日にまし騷がしく忙《せは》しなく、あたりが全く暗くなつてしまふまで、後から後からと追ひかけるやうに鳴きつゞけてゐる。
 月が出る。月の光は夕日の反映が西の空から消え去らぬ中、早くも深夜に異らぬ光を放ち、どこからともなく漂つてくる木犀の薫が、柔《やはらか》で冷い絹のやうに人の肌を撫る。このしめやかな、云ふに云はれぬ肉と心との官覺は、目にも見えず耳にも聞えないものにまで、明かに秋らしい色調を帶びさせて來る。いつぞや初音を試みたなり默つてしまつた蟋蟀は、さう云ふ晩から再び鳴きはじめて、いよ/\自分達の時節が來たと云はぬばかり、夜ごと夜ごとに其聲を強くし其調子を高めて行く。
 二百十日が近くなつて、雨が多くなると、一雨ごとに蟲の聲は多くなる。ワグネルの音樂のやうに入り亂れて湧立つ如く鳴きしきる。
 やがて時節は彼岸になる。十五夜の月見が年によつて彼岸の中日と同じになることもある。晝夜等分の頃が蟋蟀の合奏の最も調子が高く最も力のつよい其絶頂であらう。
 山の手では人の往來《ゆきゝ》のかなり激しい道のはたにも暗くならぬ中から、下町では路地の芥箱から夜通し微妙な秋の曲が放送せられる。道端や芥箱のみではない。蟋蟀の鳴音はやがて格子戸の内、風呂場や臺所のすみ/″\からも聞えて來るやうになるのである。朝夕の寒さに蟋蟀もまた夜遊びに馴れた放蕩兒の如く、身にしむ露時雨《つゆしぐれ》のつめたさに、家の内が戀しくなるのであらう。
 何といふわけもなく、いろ/\の事が胸の底から浮んで來る時節である。冬ぢかい秋の日の、どんよりと曇つたまゝ、雨にもならず風もそよがず、盡きない黄昏のやうに沈靜する晝過ほど、追憶と瞑想とに適した時はあるまい。日頃は忘れてゐるボードレールやヴヱルレーヌの詩篇が身を刺すやうにはつきり思返されて來る。萎《しを》れかけた草の葉かげから聞える晝間の蟲の聲は、正しく「秋のヰヨロンのすゝり泣する調《しらべ》」であらう。
 枕に就いてからも眠られぬ夜はまた更に、蟋蟀の鳴く音を、戀人のさゝやきよりも懷しくいとしく思はなければなるまい。それは眠られぬ人に向つて、いかほど啼いたからとて、身にあまる生命の切なさと悲しさとが消去るものではない。蟋蟀は啼くために生れて來たその生命《いのち》のかなしさを、唯わけも知らず歎いてゐるのだと、知れざる言葉を以て、生命《せいめい》の苦惱と悲哀とを訴へるやうに思はれるからだ。
 十三夜の月は次第に缺けて闇の夜がつゞく。人は既に袷をきてゐる。雨の夜には火鉢に火をおこす者もある。もう冬である。
 それまでも生き殘つてゐた蟋蟀が、いよ/\その年の最終の歌をうたひ納める時、西の方から吹きつけて來る風が木の葉をちらす。菊よりも早く石蕗《つは》の花がさき、茶の花が匂ふ………。

底本:「日本の名随筆19 虫」作品社
   1984(昭和59)年5月25日第1刷発行
   1997(平成9)年5月20日第18刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一七巻」岩波書店
   1964(昭和39)年7月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年4月15日作成
2010年11月5日修正
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永井荷風

男ごゝろ—–永井荷風

大方帳場の柱に掛けてある古時計であらう。間の抜けた力のない音でボンボンと鳴り出すのを聞きつけ、友田は寐てゐる夜具の中から手を伸して枕元の懐中時計を引寄せながら、
「民子さん。あれア九時でせう。まだいゝんですか。」と抱寐した女の横顔に頤を載せた。
「あら。もうそんな時間。」と言つたが、女も男と同じやうに着るものもなく寐てゐたので、夜具の上に膝を揃へて起き直りながら、
「浴衣《ゆかた》どこへやつたらう。これぢや廊下へも憚《はゞか》りへも行けませんよ。」
「かまふもんですか。廊下にや誰もゐやしません。」
「でも、あなた。話声がするわ。お客さまぢや無いか知ら。」
「われ/\と同じやうな連中でせう。」
「憚りも二階でしたわね。」
「洗面所の突当りでせう。構ふもんですか。」
「でも、これぢやアあんまりですわ。」
 女は夜具の側《わき》にぬぎ捨てた旅館の浴衣を身にまとひながら、障子をあけて廊下へ出た。
 男は枕元の銀時計を見直しながら、夜具の上に起直つて手近にぬぎ捨てゝあるメリヤスとワイシヤツを引寄せる。
 洗面所の水の音が止つて、男がワイシヤツの片袖に手を入れかけた時、縮髪《ちゞらしがみ》を両手で撫でながら女が戻つて来た。
「時間の立つのは全く早いですね。」
「ほんとうねえ。会社を出た時は五時打つたばかりでしたわね。」
「誰もまだ気がつきはしないでせうな。知れるとまづいですからね。」
「注意に注意してるから大丈夫だと思ひますわ。誰しも若い中は仕方がありませんわ。活きてゐるんですもの。ねえ、あなた。」と女は両足を投出し丸めた靴足袋《くつした》を取上げながら、「公然結婚の約束をしてしまへば誰が何と言はうと構ふことは無いんですからね、わたし、ほんとに早くさうなりたいと思ひますよ。ねえ。あなた。」
 男は何も言はず、片足を立てゝ靴足袋をはく女の様子を眺めながら、静にシヤツの襟のネクタイを結び初めた。

 二人は西銀座裏の堀端。土端の近くに立つてゐる建物の三階の一室を借りて営業してゐる或商事会社の雇用人で。男の方は名を友田信三。年は三十四五、社長の親戚に当るばかりか、社員の中でも古顔の一人であるが、女の方は半年ほど前に新聞の広告を見て志願書を出して雇つて貰つたばかり。年は二十四五。戦災前長年人形町の表通に雑貨店を出してゐた商家の娘で、災後の現在は新小岩へ移転し女学校を出た後、日本橋通の或商店に雇はれ売子になつてゐた事があつた。人並よりは小柄な身に簡易な洋装をした姿。年よりはずツと若く見えるが上に町育ちの言葉使ひやら愛嬌やら、どこか男の目を牽く艶かしさが見えるので、初めて見た其時から友田は何とかしてやりたいやうな気になつてゐた。
 女は会社がひけると毎日歩いて土橋を渡り新橋の駅から国鉄の電車に乗り、秋葉原で総武線に乗り替へて行く道順をも、友田は人知れず其後をつけ、或日にはその住んでゐる親の店の近くまで行つたこともあつた。其間にも折があつたら手でも握つてやらうと思ひながら空しく一ト月あまりを過した或日曜日の午後である。友田は偶然浅草公園映画町の人中で、これも唯一人歩いてゐる彼女に出会つた。
 二人は互にアラと言つたなり驚いて其場に佇立《たゝず》んだ。やがて言訳らしく女が何か言出さうとするのを、友田は聞えぬ振で、映画館の入場券を売る傍の窓口へ歩み寄り、手早く切符を買ひ取り、「民子さん。鳥渡見て行きませう。どんな写真だか分りませんが、これ、あなたの切符。」
「まアどうも、すみません。」とこの場合厭とも言へず、女は切符を受取り男と並んで内へ這入ると、天気の好い日曜日の事で、場内は大入満員の好景気。出入の戸口から場内左右の壁際まで、席のあくのを待つ看客が押合ふやうに立込んでゐるため、正面舞台の映画は人の頭に遮られて能くは見えない。
「どうです。見えますか。もつと此方へお寄んなさい。」と友田は女の手を取らぬばかり寄り添つて人中へ割込むと、絶えず後方《うしろ》から押して来る人波に押出されて、男よりも先に女の方から男の洋服の袖口につかまる始末。二人は互に寄りかゝるやうに身を寄せ合ひ、知らず知らず呼吸《いき》の触れ合ふ程顔を近づけてしまつたが、する中映画が変つたと見えて、場内が明くなり、彼方此方《あちこち》の椅子から立つ人が出来たので、二人は思ひがけなく近いところに空いた席を見つけてその後《あと》に腰をおろした。物売の小娘が映画の変り目をねらつて、アイスクリームやら菓子煎餅やらを呼びながら売り歩くのを、友田は早くも呼び留めて、蜜柑を買ひ、「どうです一ツ。」と云つて、膝の上に手を組んでゐる女に渡した。

 映画館を出ると短い秋の日はもう夕方近くになり、あたりの電灯は一際《ひときは》明く輝き渡るにつれて、往来《ゆきき》の人の賑ひもまた一層激しくなるやうに思はれた。
「どうです。お茶でも飲みませんか。」
「えゝ、有難うございますけど、今日はだまつて出て参りましたから。」
「さうですか。それぢやまた此の次の日曜日に。約束して下さい。いゝでせう。」
「はい。」
「お宅は新小岩でしたね。」
「はい。」
「それぢや国鉄でお帰りですね。」
「はい。」
「浅草橋でお乗りなら、私はお茶の水の方ですから、そこまでお送りしませう。」
 あくる日会社で顔を見合したが、友田は黙つて知らぬ顔をしてゐると、女の方もそれと察したらしく何知らぬ風をしてゐる中、いつか会社のひける時間になつた。
 友田は大急ぎで一歩《ひとあし》先に外へ出て電車に乗り秋葉原の乗替場《のりかへば》で後から女の来るのを待ち受け、其姿を見るや否や、いきなり近寄つて、
「民子さん。」と声をかけた。
「あら、友田さん。」と女は驚いて其場に立止つた。
「会社ぢや話ができませんからね、僕こゝでお待ちしてゐたんです。是非きいて頂きたい話があるのです。民子さん。きいて下さい。」
「どんな事でございます。」と民子は眼を見張つたが、あたりの人目を憚る様子で、立つたまゝ静に友田の顔を見返した。
 友田は一歩進み寄り、わざとらしく声をひそめて、「僕あなたが初めて会社へお出でになつた時から、一目見て好きになつたのです。驚いちやいけませんよ。僕どうしても思ひ切れないんです。僕の言ふこと聞いて下さい。」
 言ひながらいきなり友田はハンドバックを持つてゐる民子の手を握つた。
 あたりには電車の来るのを待つ人達が並んで立つてゐる。一人の者もあれば三四人連立つて話をしたり笑つたりしてゐるものもあるので、それ等の人目を避けるためか、女は握られた手を振放さうともせず、その儘だまつて其の場に立つてゐた。
 電車が来て駐《とま》ると共に其戸の明くのを遅しと、あたりの人達は争つて乗込むので、乗車場《プラツトフオーム》は俄にがらりとなる。友田は握つた女の手を放さず、後の壁際に作り付けた腰掛の方へと歩み寄りながら、
「初めてお目にかゝつた其時からです。僕はあなたが好きで好きでたまらなくなつてしまつたのです。きのふ浅草でお目にかゝつた時は夢ぢやないかと思ひました。僕どうしても思つてる事をすつかりあなたに打明けてしまはなければ居られなくなつたのです。民子さん、御迷惑でも聞いて下さい。」と先へ腰をおろし引き据るやうに其傍に女を坐らせた。女は何とも言はず手を握られたまゝきちんと腰をかけ揃へた足先に視線を移した。
 一《ひ》トしきり静になつたあたりは絶えず下から上つて来る乗客で、見る見る中もとのやうに込み合つて来るばかりか、二人しか居ない腰掛のすいてゐるのを見て、二三人の男が大声で話をしながら腰をかけるが否や其一人が口に啣《くは》へた巻煙草にマツチの火をつけた。友田は握つた女の手を離すと共に、言ひかけた言葉を杜絶《とだや》した時、またしても電車が来て駐ると共にあたりの人達はざわめき立つて其方へと走り寄る。女も立上つて、
「では明日。またお目にかゝります。」
「では。左様なら。気をつけておいでなさい。」
 友田は後から静に立上り、構内の時計と電車の動き出すのを眺めながら、自分の乗るべき車の来る向側の乗車場《のりば》へと歩いて行つた。
 次の日は午後から小雨が降り出したのみならず、友田は毎日同じやうな行動を取るのもどうかと考へ、会社を出ると一人ぶら/\銀座を歩き其辺のバーで一杯飲んで空しく貸間に帰つたが、眠られない夜《よ》の更《ふ》けるにつれて、これまでの経過を思返して見ると、手を握つて口説《くど》いたからは、乗りかけた船も同様、是が非にも行くところまで行かなければならない。それにはどう云ふ方法を取りどういふ場所を択ぶがよからうと、心ひそかに思案をしてゐる中、日は過ぎて明日《あす》は又もや日曜日といふ其の前の日になつた。
 友田は会社の廊下で、女の出て来るのを待ち受け、
「あしたは浅草で会ふ日です。僕は浅草橋の駅外《えきそと》で待つてゐます。時間は午後……一時ですか、二時ですか。」
「二時。」と言つたなり、女は事務の書類を手にして昇降機《エレベータ》の方へ小走りに行つてしまつた。

 その日友田は会社がひけてから、夜《よる》になるのを待つて、一人浅草公園に出かけて、明日《あした》の午後映画を見てから後《あと》の帰り道、いよ/\彼《か》の女《をんな》をつれ込む場所をさがして置かうと、あまり人の歩いてゐない静な横町をあちこちと歩き廻つた。
 さうした横町には幾軒も宿屋が目につく。いづれも表の店口に家名《いへな》と並べて、御一泊|御一人《おひとり》さまお食事付幾百円。御休息一時間何百円などゝ書き出してあるが、どうもさう云ふ処へは、男の身の自分さへ一寸這入りにくい気がするので、誘つても彼女はきつと厭だと云ふであらう。それなら食物屋《たべものや》で座敷のあるやうな静な家《うち》はないものかと歩き廻つてゐる中、いつか松竹座前の大通へ出てしまつたので、後戻りして別の方面へ出て見やうと、彼は知らず/\田原町近くの電車通に立止つてあたりを見廻してゐた。すると往来《ゆきき》の人の中からこそ/\と彼の傍に寄つて来た四十がらみの和服を来た男が、
「旦那。いかゞです。面白い処へ御案内しませう。旦那。」と話をしかけた。
「うむ。君。鳥渡《ちよつと》きゝたい事があるんだよ。」
「へえ、旦那。何でございます。」
「宿屋でなくッて、その、何だよ。食もの屋か何かで、具合のいゝ家《うち》さ。」
「へえ。」
「這入りいゝ家で……二人きりで話のできるやうな、静な家を知らないかね。」
「旦那。わかりました。御婦人とお二人づれ……。」
「さうだよ。今夜ぢやない。明日《あした》の午後《ひるすぎ》でいゝんだがね。」
「旦那。承知しました。お連込ならお誂向きと云ふ処が御在ます。」
「さうか。」
「お好焼《このみやき》をする家《うち》で御在ます。お婆さんと十二三になる小娘が一人、外には誰も居りません。」
「さうか。」
「三畳敷のお座敷が二間か三間ございますが、二階へお上りになると、床の間つきで、蒲団ぐらい敷かれるお座敷があります。」
「うむ。さうか。此処から遠いかね。」
「直ぐそこで御在ます。よろしければ御案内いたしませう。」
「何といふ家だか、名前も教へてくれないか。」と友田はそれとなくあたりに気を配りながら、百円札一枚を外套のかくしから取出して男に手渡しをした。
「旦那。すみません。表の店口は硝子戸を明けて這入るんで御在ますが、裏へ廻ると路次ですから誰にも知れッこは御在ません。」と小声に説明しながら、其男は先に立つて大通を向側へ越し、並んでゐる商店の間の小道に案内した。

 翌日《あくるひ》の日曜日、友田は約束した時間に浅草橋駅の改札口まで出かけ、半《なかば》はどうかと危ぶみながら待つてゐると、さして多くもない乗客の後《あと》から、今日は和服にシヨールを纏つた彼女の下りて来る姿を見て、此の調子なら今日はいよ/\大丈夫だと思つた。
 都電で雷門まで行き、此の前とは異《ちが》つた別の映画館に這入つて、矢張其日と同じ頃に外へ出るが否や、友田は「何か一口食べて行きませう。」と女の手をつかまへ、昨日調べて置いたお好焼の二階へ上り、女中代りの小娘が盆に載せた茶を置いて行くのを呼び留め親子丼を誂へた後、茶ぶ台の傍に坐つてゐる女の身近に寄添ふが否や、「民子さん。」と言ひさま抱き締めて否応言はさず接吻してしまつた。
「あら。あなた。」と女は驚いて立上らうとするのを、友田はかまはず力一ぱい抱きすくめて、
「許して下さい。いゝでせう。今日は。今日は。」と言ひながら身悶えする女を其場に押倒した。
 かうなつてはどうする事もできないと見え、女は乱れた裾前もそのまゝ、
「あなた、乱暴ね。ひどいわ、ひどいわ。」それも小声で言ふばかり。
 暫くして、女は肩から落ちさうになつた羽織の紐を結び直さうとした時、わざとらしく梯子段に足音をさせて、女中代りの小娘が親子丼を二ツ運んで来て、茶ぶ台の上に置き、「お茶只今。」と言ひながら下りて行つた。
「民子さん。僕今日は気が狂《ちが》つてるかも知れません。許して下さい。どうぞ許して下さい。」とまたしても抱き寄せやうとする始末。女も遂に覚悟をしたものか、そのまゝ寄り添つたなり静に割箸を取つて男に渡した。
 小娘が茶を入れた小形の湯呑を二ツ持つて来る。
「静だけど下にはお客様があるのかね。」
「いゝえ。内のお客様は晩《おそ》う御在ますから、まだどなたもお見えになりません。」
「さうかね。」
「どうぞ御ゆるりなさつて。御用が御在ましたら、どうぞお手を。」
「ぢやもう暫く御邪魔するよ。」
「はい。どうぞ。」と小娘は何事も心得て居るらしく、わざとお客の顔を見ぬやうにして下りて行つた。
 友田が手を鳴して再び小娘を呼び上げ、席料と食べ物の代価を払つたのは、かれこれ一時間近くも過ぎてからであつた。
 この日を手始めに、友田は日曜日毎に民子をつれて来るやうになつたが、四五回目で丁度其の月も変る頃からぱつたり姿を見せぬやうになつた。

 友田は突然会社の横浜支店に転任を命ぜられ、本郷の貸間を引揚げて其町へ移転した。
 浅草で逢ひつゞけてゐる中から、彼は早くも民子には倦きてゐた。同じ処で同じ女に逢ふのが、つまらなくて成らなくなつたものゝ今更さうとも云へないので、二三度処を変へてパン/\の出入する烏森あたりの旅館へ連込んだ事もあつたが、矢張同じ事。女の言ふこと、為すことはきまり切つてしまつて、初の中催したやうな刺戟も昂奮をも感じさせないので、遂には連込の席料を払ふことさへ次第に惜しくなるばかり。何とか口実をつけて逃げたいと思ふ矢先、突然横浜転任の命令を受けたのは、彼の身に取つては全く天の佑《たすけ》であつた。
 月日は忽ち半年あまりを過ぎた。或日友田は東京にゐた時分の昔を思出し、同じやうな日曜の休日、久しぶりに銀座通や浅草公園を歩いて見やうと、横浜の駅から電車に乗ると、偶然車の中で以前机を並べて仕事をしてゐた同僚の一人に出会つた。
「やア、君。」
「やア、友田君。」
「今日は親類の者に頼まれて税関まで出て来たんですが、休日で駄目でした。」
「さうでしたか。東京の本店では皆さんお変りもありませんか。」
「みんな無事にやつて居ます。変りはありません。」
「女の人達も先の通りですか。」
「さう云へばあの人……君の机の筋向にゐた貝原民子さん。」
「うむ。民子さん。小柄の人でしたね。どうかしましたか。」
「近々結婚するさうです。」
「あの人が結婚をする……」
「会社へ来る前働いてゐた商店の人と、急に話がきまつて結婚するんださうです。」
「さうですか。さうですか。それは目出たい話ですな。」
 友田は載せた雑誌の落るのもかまはず片手で其膝を叩き、さも可笑しさうに声まで出して大きく笑つた。[#地から1字上げ]昭和卅一年三月

底本:「日本の名随筆 別巻83 男心」作品社
   1998(平成10)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一一巻」岩波書店
   1964(昭和39)年11月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
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永井荷風

草紅葉——永井荷風

東葛飾《ひがしかつしか》の草深いあたりに仮住《かりずま》いしてから、風のたよりに時折東京の事を耳にすることもあるようになった。
 わたくしの知っていた人たちの中で兵火のために命を失ったものは大抵浅草の町中に住み公園の興行ものに関与《たずさわ》っていた人ばかりである。
 大正十二年の震災にも焼けなかった観世音《かんぜおん》の御堂《みどう》さえこの度はわけもなく灰になってしまったほどであるから、火勢の猛烈であったことは、三月九日の夜は同じでも、わたくしの家の焼けた山の手の麻布あたりとは比較にならなかったものらしい。その夜わたくしは、前々から諦めはつけていた事でもあり、随分悠然として自分の家と蔵書の焼け失《う》せるのを見定めてから、なお夜の明け放れるまで近隣の人たちと共に話をしていたくらいで、眉も焦さず焼けど一ツせずに済んだ。言わば余裕|頗《すこぶ》る綽々《しゃくしゃく》としたそういう幸福な遭難者には、浅草で死んだ人たちの最期《さいご》は話して聞かされても、はっきり会得《えとく》することができない位である。しかし事実は事実として受取らなければならない。その夜を限りその姿形《すがたかたち》が、生残った人たちの目から消え去ったまま、一年あまりの月日が過ぎても、二度と現れて来ないとなれば、その人たちの最早やこの世にいないことだけは確だと思わなければなるまい。
 その頃、幾年となく、黒衣《くろご》の帯に金槌《かなづち》をさし、オペラ館の舞台に背景の飾附をしていた年の頃は五十前後の親方がいた。眼の細い、身丈《せい》の低くからぬ、丈夫そうな爺さんであった。浅草という土地がら、大道具という職業がらには似もつかず、物事が手荒でなく、口のききようも至極穏かであったので、舞台の仕事がすんで、黒い仕事着を渋い好みの着物に着かえ、夏は鼠色の半コート、冬は角袖《かくそで》茶色のコートを襲《かさ》ねたりすると、実直な商人としか見えなかった。大分禿げ上った頭には帽子《ぼうし》を冠《かぶ》らず、下駄《げた》はいつも鼻緒《はなお》のゆるんでいないらしいのを突掛《つっか》けたのは、江戸ッ子特有の嗜《たしな》みであろう。仲間の職人より先に一人すたすたと千束町《せんぞくまち》の住家へ帰って行く。その様子合《ようすあい》から酒も飲まなかったらしい。
 この爺さんには娘が二人いた。妹の方は家《うち》で母親と共にお好み焼を商《あきな》い、姉の方はその頃年はもう二十二、三。芸名を栄子といって、毎日父の飾りつける道具の前で、幾年間|大勢《おおぜい》と一緒に揃って踊っていた踊子の中の一人であった。
 わたくしが栄子と心易《こころやす》くなったのは、昭和十三年の夏、作曲家S氏と共に、この劇場の演芸にたずさわった時からであった。初日の幕のあこうとする刻限、楽屋に行くと、その日は三社権現《さんじゃごんげん》御祭礼の当日だったそうで、栄子はわたくしが二階の踊子部屋へ入るのを待ち、風呂敷に包んで持って来た強飯《こわめし》を竹の皮のまま、わたくしの前にひろげて、家《うち》のおっかさんが先生に上げてくれッていいましたとの事であった。
 舞台の稽古が前の夜に済んで、初日にはわたくしの来ることが前々から知れていたからでもあろう。母親は日頃娘がひいきになるその返礼という心持ばかりでなく、むかしからの習慣で、お祭の景気とその喜びとを他所《よそ》から来る人にも頒《わか》ちたいというような下町気質《したまちかたぎ》を見せたのであろう。日頃何につけても、時代と人情との変遷について感動しやすいわたくしには、母親のこの厚意が何とも言えない嬉しさを覚えさせた。竹の皮を別にして包んだ蓮根《れんこん》の煮附《につけ》と、刻《きざ》み鯣《するめ》とに、少々|甘《あま》すぎるほど砂糖の入れられていたのも、わたくしには下町育ちの人の好む味《あじわ》いのように思われて、一層うれしい心持がしたのである。わたくしはジャズ模倣の踊をする踊子の楽屋で、三社祭《さんじゃまつり》の強飯の馳走に与《あず》かろうとは、全くその時まで夢にも予想していなかったのだ。
 踊子の栄子と大道具の頭《かしら》の家族が住んでいた家は、商店の賑かにつづいた、いつも昼夜の別なくレコードの流行歌が騒々しく聞える千束町を真直《まっすぐ》に北へ行き、横町の端《はず》れに忽然《こつぜん》吉原遊廓の家と灯とが鼻先に見えるあたりの路地裏にあった。或晩舞台で稽古に夜をふかしての帰り道、わたくしは何か口ざむしい気がして、夜半過ぎまで起きている食物屋を栄子にきいた事があった。栄子は近所に住んでいる踊子仲間の二、三人をもさそってくれて、わたくしを吉原の角町《すみちょう》、稲本屋の向側の路地にある「すみれ」という茶漬飯屋まで案内してくれたことがあった。水道尻の方から寝静った廓《くるわ》へ入ったので、角町へ曲るまでに仲《なか》の町《ちょう》を歩みすぎた時、引手茶屋《ひきてぢゃや》のくぐり戸から出て来た二人の芸者とすれちがいになった。芸者の一人と踊子の栄子とは互に顔を見て軽く目で会釈《えしゃく》をしたなり行きすぎた。その様子が双方とも何となく気まりが悪いというように、また話がしたいが何か遠慮することがあるとでもいうように見受けられた。角町の角をまがりかけた時、芸者の事をきくと、栄子は富士前小学校の同級生で、引手茶屋何々|家《や》の娘だと答えたが、その言葉の中に栄子は芸者を芸者|衆《しゅ》といい、踊子の自分よりも芸者衆の方が一だん女としての地位が上であるような言方をした。これに依って、わたくしは栄子が遊廓に接近した陋巷《ろうこう》に生れ育った事を知り、また廓内の女たちがその周囲のものから一種の尊敬を以て見られていた江戸時代からの古い伝統が、昭和十三、四年のその日までまだ滅びずに残っていた事を確めた。意外の発見である。殆ど思議すべからざる事実に逢着し得たのである。しかしこの伝統もまた三月九日の夜を名残りとして今は全く湮滅《いんめつ》してしまったのであろう。

        ○

 この夜吉原の深夜に見聞した事の中には、今なお忘れ得ぬものが少くなかった。
 すみれという店は土間を間にしてその左右に畳が敷いてあるので、坐れもすれば腰をかけたままでも飲み食いができるようにしてあった。栄子たちが志留粉《しるこ》だの雑煮《ぞうに》だの饂飩《うどん》なんどを幾杯となくお代りをしている間に、たしか暖簾《のれん》の下げてあった入口から這入《はい》って来て、腰をかけて酒肴《さけさかな》をいいつけた一人の客があった。大柄の男で年は五十余りとも見える。頭を綺麗に剃《そ》り小紋《こもん》の羽織に小紋の小袖《こそで》の裾《すそ》を端折《はしお》り、紺地羽二重《こんじはぶたえ》の股引《ももひき》、白足袋《しろたび》に雪駄《せった》をはき、襟《えり》の合せ目をゆるやかに、ふくらました懐《ふところ》から大きな紙入《かみいれ》の端を見せた着物の着こなし、現代にはもう何処へ行っても容易には見られない風采である。歌舞伎芝居の楽屋などにも、こういう着物の着こなしをするものは、明治の時代の末あたりから既に見られなくなっていた。わたくしは仲の町の芸人にはあまり知合いがないが、察するところ、この土地にはその名を知られた師匠株の幇間《ほうかん》であろうと思った。
 この男は見て見ぬように踊子たちの姿と、物食う様子とを、楽し気に見やりながら静かに手酌《てじゃく》の盃《さかずき》を傾けていた。踊子の洋装と化粧の仕方を見ても、更に嫌悪を催す様子もなく、かえって老年のわたくしがいつも感じているような興味を、同じように感じているものらしく、それとなくわたくしと顔を見合せるたびたび、微笑を漏したいのを互に強いて耐《こら》えるような風にも見られるのであった。思うにこの老幇間もわたくしと同じく、時世と風俗との変遷に対して、都会の人の誰もが抱いているような好奇心と哀愁とを、その胸中に秘していたのだろう。
 暖簾外の女郎屋は表口の燈火を消しているので、妓夫《ぎゆう》の声も女の声も、歩み過る客の足音と共に途絶《とだ》えたまま、廓中は寝静ってタキシの響も聞えない。引過《ひけすぎ》のこの静けさを幸いといわぬばかり、近くの横町で、新内語《しんないかた》りが何やら語りはじめたのが、幾とし月聞き馴れたものながら、時代を超越してあたりを昔の世に引き戻した。頭を剃ったパッチばきの幇間の態度がいかにもその処を得たように見えはじめた。わたくしは旧習に晏如《あんじょ》としている人たちに対する軽い羨望《せんぼう》嫉妬《しっと》をさえ感じないわけには行かなかった。
 三月九日の火は、事によるとこの昔めいた坊主頭の年寄をも、廓と共に灰にしてしまったかも知れない。
 栄子と共にその夜すみれの店で物を食べた踊子の中の一人はほどなく浅草を去って名古屋に、一人は札幌に行った話をきいた。栄子はその後万才なにがしの女房になって、廓外《くるわそと》の路地にはいないような噂を耳にした。わたくしは栄子が父母と共にあの世へ行かず、娑婆《しゃば》に居残っている事を心から祈っている。
 大道具の頭《かしら》の外に、浅草では作曲家S氏とわたくしの作った歌劇『葛飾情話』演奏の際、ピアノをひいていた人も死んだそうである。その家は公園から田原町《たわらまち》の方へ抜ける狭い横町であったがためだという話である。観客から贔屓《ひいき》の芸人に贈る薬玉《くすだま》や花環《はなわ》をつくる造花師が入谷《いりや》に住んでいた。この人も三月九日の夜に死んだ。初め女房や娘と共に大通りへ逃げたが家の焼けるまでにはまだ間があろうと、取残した荷物を一ツなりとも多く持出そうと立戻ったなり返って来なかったという。
 浅草公園はいつになったら昔の繁華にかえることができるのであろう。観音堂が一立斎広重《いちりゅうさいひろしげ》の名所絵に見るような旧観に復する日は恐《おそら》くもう来ないのかも知れない。
 昭和十二年、わたくしが初めてオペラ館や常盤座《ときわざ》の人たちと心易くなった時、既に震災前の公園や凌雲閣《りょううんかく》の事を知っている人は数えるほどしかいなかった。昭和の世の人たちには大正時代の公園はもう忘れられていた。その頃オペラ館の舞台で観客から喝采《かっさい》せられていた人たちの大半は震災後に東京へ出て来て成功した地方の人のみであった。しかしこの時代も今はまた忽《たちま》ちにしてむかしとなったのである。平和の克復したこの後の時代にジャズ模倣の名手として迎えらるべき芸人の花形は朱塗《しゅぬり》の観音堂を見たことのないものばかりになるのである。時代は水の流れるように断え間なく変って行く。人はその生命の終らぬ中《うち》から早く忘れられて行く。その事に思い至れば、生もまたその淋しい事において、甚しく死と変りがないのであろう。

        

 オペラ館の楽屋口に久しく風呂番《ふろばん》をしていた爺さんがいた。三月九日の夜に死んだか、無事であったか、その後興行町の話が出ても、誰一人この風呂番の事を口にするものがない。彼の存在は既に生きている時から誰にも認められていなかったのだ。
 その時分、踊子たちの話によると、家もあった、おかみさんもあった。家は馬道《うまみち》辺で二階を人に貸して家賃の足しにしていた。おかみさんはまだ婆さんというほどではなく、案外|垢抜《あかぬ》けのした小柄の女で、上野|広小路《ひろこうじ》にあった映画館の案内人をしているとの事であった。爺さんはいつでも手拭を後鉢巻《うしろはちまき》に結んでいるので、禿頭《はげあたま》か白髪頭《しらがあたま》か、それも楽屋中知るものはない。腰も曲ってはいなかったが、手足は痩せ細り、眼鏡をかけた皺の多い肉の落ちた顔ばかりを見ると、もう六十を越していたようにも思われた。夏冬ともシャツにズボンをはいているばかり。何をしていたものの成れの果やら、知ろうとする人も、聞こうとする人も無論なかったが、さして品のわるい顔立ではなかったので、ごろつきでも遊び人でもなく、案外堅気の商人であったのかも知れない。
 オペラ館の風呂場は楽屋口のすぐ側にあった。楽屋口には出入する人たちがいつも立談《たちばなし》をしていた。他の芝居へ出ているものや、地方興行から帰って来た人たちが、内のものを呼び出して、出入口の戸や壁に倚《よ》りかかって話をしている事もあるし、時侯が暑くなると舞台で使う腰掛を持出して、夜昼となく大勢|交《かわ》る交《がわ》るに腰をかけて、笑い興じていることもあったが、しかし爺さんがその仲間に入って話をしている事は滅多になかった。この腰掛で若い者が踊子と戯れ騒ぐのさえ、爺さんは見馴れているせいか、何が面白いのだと言わぬばかりの顔附で見向きもしなかった。
 寒くなると、爺さんは下駄棚のかげになった狭い通路の壁際で股火《またび》をしながら居睡《いねむり》をしているので、外からも、内からも、殆ど人の目につかない事さえあった。
 或年花の咲く頃であったろう。わたくしは爺さんが何処から持って来たものか、そぎ竹を丹念に細く削って鳥籠をつくっているのを見たことがあった。よく見る町の理髪師が水鉢に金魚を飼ったり、提燈屋《ちょうちんや》が箱庭をつくって店先へ飾ったりするような趣味を、この爺さんも持っていたらしい。爺さんはその言葉遣いや様子合《ようすあい》から下町に生れ育ったことを知らしていた。それにしても、わたくしは一度もこの爺さんの笑った顔を見たことがなかった。人は落魄《らくはく》して、窮困の中に年をとって行くと、まず先に笑うことから忘れて行くものかも知れない。
 戦争が長びいて、瓦斯《ガス》もコークスも使えなくなって、楽屋の風呂が用をなさなくなると、ほどもなく、爺さんは解雇されたと見えて、楽屋口から影の薄い姿を消し、掃除は先の切れた箒《ほうき》で、新顔の婆さんがするようになった。

        


 昭和廿一年十月草

 戦後に逢う二度目の秋も忽ち末近くなって来た。去年の秋はこれを岡山の西郊に迎え、その尽るのを熱海に送った。今年|下総葛飾《しもうさかつしか》の田園にわたくしは日ごとに烈しくなる風の響をききつつ光陰の早く去るのに驚いている。岡山にいたのは、その時には長いように思われていたが、実は百日に満たなかった。熱海の小春日和《こはるびより》は明るい昼の夢のようであった。
 一たび家を失ってより、さすらい行く先々の風景は、胸裏に深く思出の種を蒔《ま》かずにはいなかった。その地を去る時、いつもわたくしは「きぬぎぬの別れ」に似た悲しみを覚えた。もう一度必ず来て見たいと期待しながら、去って他の地へ行くのである。しかしながら期待の実行は偶然の機会を待つより外はない。
 八幡《やわた》の町の梨畠に梨は取り尽され、葡萄棚《ぶどうだな》からは明るく日がさすようになった。玉蜀黍《とうもろこし》の茎は倒れて見通す稲田の眺望は軟かに黄ばんで来た。いつの日にか、わたくしは再び妙林寺の松山に鳶《とんび》の鳴声をきき得るのであろう。今ごろ備中総社《びっちゅうそうじゃ》の町の人たちは裏山の茸狩《きのこがり》に、秋晴の日の短きを歎《なげ》いているにちがいない。三門《みかど》の町を流れる溝川《みぞがわ》の水も物洗うには、もう冷たくなり過ぎているであろう。
 待つ心は日を重ね月を経るに従って、郷愁に等しき哀愁を醸《かも》す。郷愁ほど情緒の美しきものはない。長くわたくしが巴里《パリー》の空を忘れ得ぬのもこの情緒のなすところであろう。
 巴里は再度兵乱に遭《あ》ったが依然として恙《つつが》なく存在している。春ともなればリラの花も薫《かお》るであろう。しかしわが東京、わが生れた孤島の都市は全く滅びて灰となった。郷愁は在《あ》るものを思慕する情をいうのである。再び見るべからざるものを見ようとする心は、これを名づけてそも何と言うべき歟《か》。

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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永井荷風

雪の日—–永井荷風

曇って風もないのに、寒さは富士おろしの烈しく吹きあれる日よりもなお更身にしみ、火燵《こたつ》にあたっていながらも、下腹《したはら》がしくしく痛むというような日が、一日も二日もつづくと、きまってその日の夕方近くから、待設けていた小雪が、目にもつかず音もせずに降ってくる。すると路地のどぶ板を踏む下駄の音が小走りになって、ふって来たよと叫ぶ女の声が聞え、表通を呼びあるく豆腐屋の太い声が気のせいか俄《にわか》に遠くかすかになる……。
 わたくしは雪が降り初めると、今だに明治時代、電車も自動車もなかった頃の東京の町を思起すのである。東京の町に降る雪には、日本の中でも他処《よそ》に見られぬ固有のものがあった。されば言うまでもなく、巴里《パリー》や倫敦《ロンドン》の町に降る雪とは全くちがった趣があった。巴里の町にふる雪はプッチニイが『ボエーム』の曲を思出させる。哥沢節《うたざわぶし》に誰もが知っている『羽織《はおり》かくして』という曲がある。
[#ここから2字下げ]
羽織かくして、  袖ひきとめて、  どうでもけふは行かんすかと、
言ひつつ立つて櫺子窓《れんじまど》、  障子ほそめに引きあけて、
あれ見やしやんせ、  この雪に。
[#ここで字下げ終わり]
 わたくしはこの忘れられた前の世の小唄《こうた》を、雪のふる日には、必ず思出して低唱《ていしょう》したいような心持になるのである。この歌詞には一語の無駄もない。その場の切迫した光景と、その時の綿々とした情緒とが、洗練された言語の巧妙なる用法によって、画《え》よりも鮮明に活写されている。どうでも今日は行かんすかの一句と、歌麿《うたまろ》が『青楼年中行事』の一画面とを対照するものは、容易にわたくしの解説に左袒《さたん》するであろう。
 わたくしはまた更に為永春水《ためながしゅんすい》の小説『辰巳園《たつみのその》』に、丹次郎《たんじろう》が久しく別れていたその情婦|仇吉《あだきち》を深川のかくれ家《が》にたずね、旧歓をかたり合う中、日はくれて雪がふり出し、帰ろうにも帰られなくなるという、情緒|纏綿《てんめん》とした、その一章を思出す。同じ作者の『湊《みなと》の花』には、思う人に捨てられた女が堀割に沿うた貧家の一間に世をしのび、雪のふる日にも炭がなく、唯涙にくれている時、見知り顔の船頭が猪牙舟《ちょきぶね》を漕《こ》いで通るのを、窓の障子の破れ目から見て、それを呼留め、炭を貰うというようなところがあった。過ぎし世の町に降る雪には必ず三味線の音色《ねいろ》が伝えるような哀愁と哀憐とが感じられた。
 小説『すみだ川』を書いていた時分だから、明治四十一、二年の頃であったろう。井上唖々《いのうえああ》さんという竹馬《ちくば》の友と二人、梅にはまだすこし早いが、と言いながら向島を歩み、百花園《ひゃっかえん》に一休みした後、言問《こととい》まで戻って来ると、川づら一帯早くも立ちまよう夕靄《ゆうもや》の中から、対岸の灯がちらつき、まだ暮れきらぬ空から音もせずに雪がふって来た。
 今日もとうとう雪になったか。と思うと、わけもなく二番目狂言に出て来る人物になったような心持になる。浄瑠璃を聞くような軟い情味が胸一ぱいに湧いて来て、二人とも言合《いいあわ》したようにそのまま立留って、見る見る暗くなって行く川の流を眺めた。突然耳元ちかく女の声がしたので、その方を見ると、長命寺《ちょうめいじ》の門前にある掛茶屋のおかみさんが軒下《のきした》の床几《しょうぎ》に置いた煙草盆などを片づけているのである。土間《どま》があって、家の内の座敷にはもうランプがついている。
 友達がおかみさんを呼んで、一杯いただきたいが、晩《おそ》くて迷惑なら壜詰《びんづめ》を下さいと言うと、おかみさんは姉様《あねさま》かぶりにした手拭を取りながら、お上《あが》んなさいまし。何も御在ませんがと言って、座敷へ座布団を出して敷いてくれた。三十ぢかい小づくりの垢抜《あかぬけ》のした女であった。
 焼海苔に銚子《ちょうし》を運んだ後、おかみさんはお寒いじゃ御在ませんかと親し気な調子で、置火燵《おきごたつ》を持出してくれた。親切で、いや味がなく、機転のきいている、こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたきものである。物一たび去れば遂にかえっては来ない。短夜《みじかよ》の夢ばかりではない。
 友達が手酌《てじゃく》の一杯を口のはたに持って行きながら、
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雪の日や飲まぬお方のふところ手
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と言って、わたくしの顔を見たので、わたくしも、

 酒飲まぬ人は案山子《かかし》の雪見|哉《かな》

と返して、その時銚子のかわりを持って来たおかみさんに舟のことをきくと、渡しはもうありませんが、蒸汽は七時まで御在ますと言うのに、やや腰を据え、

舟なくば雪見がへりのころぶまで
舟足を借りておちつく雪見かな

 その頃、何や彼《か》や書きつけて置いた手帳は、その後いろいろな反古《ほご》と共に、一たばねにして大川へ流してしまったので、今になっては雪が降っても、その夜のことは、唯人情のゆるやかであった時代と共に、早く世を去った友達の面影がぼんやり記憶に浮んで来るばかりである。

        ○

 雪もよいの寒い日になると、今でも大久保の家の庭に、一羽黒い山鳩の来た日を思出すのである。
 父は既に世を去って、母とわたくしと二人ぎり広い家にいた頃である。母は霜柱の昼過までも解けない寂しい冬の庭に、折々山鳩がたった一羽どこからともなく飛んで来るのを見ると、あの鳩が来たからまた雪が降るでしょうと言われた。果して雪がふったか、どうであったか、もう能《よ》くは覚えていないが、その後も冬になると折々山鳩の庭に来たことだけは、どういうわけか、永くわたくしの記憶に刻みつけられている。雪もよいの冬の日、暮方ちかくなる時の、つかれて沈みきった寂しい心持。その日その日に忘られて行くわけもない物思わしい心持が、年を経て、またわけもなく追憶の悲しさを呼ぶがためかも知れない。
 その後三、四年にしてわたくしは牛込の家を売り、そこ此処《ここ》と市中の借家に移り住んだ後、麻布に来て三十年に近い月日をすごした。無論母をはじめとして、わたくしには親しかった人たちの、今は一人としてこの世に生残っていようはずはない。世の中は知らない人たちの解しがたい議論、聞馴れない言葉、聞馴れない物音ばかりになった。しかしそのむかし牛込の庭に山鳩のさまよって来た時のような、寒い雪もよいの空は、今になっても、毎年冬になれば折々わたくしが寐ている部屋の硝子窓《ガラスまど》を灰色にくもらせる事がある。
 すると、忽《たちまち》あの鳩はどうしたろう。あの鳩はむかしと同じように、今頃はあの古庭の苔の上を歩いているかも知れない……と月日の隔てを忘れて、その日のことがありありと思返されてくる。鳩が来たから雪がふりましょうと言われた母の声までが、どこからともなく、かすかに聞えてくるような気がしてくる。
 回想は現実の身を夢の世界につれて行き、渡ることのできない彼岸を望む時の絶望と悔恨との淵に人の身を投込む……。回想は歓喜と愁歎との両面を持っている謎の女神であろう。

        ○

 七十になる日もだんだん近くなって来た。七十という醜い老人になるまで、わたくしは生きていなければならないのか知ら。そんな年まで生きていたくない。といって、今夜眼をつぶって眠れば、それがこの世の終だとなったなら、定めしわたくしは驚くだろう。悲しむだろう。
 生きていたくもなければ、死にたくもない。この思いが毎日毎夜、わたくしの心の中に出没している雲の影である。わたくしの心は暗くもならず明《あかる》くもならず、唯しんみりと黄昏《たそが》れて行く雪の日の空に似ている。
 日は必ず沈み、日は必ず尽きる。死はやがて晩《おそ》かれ早かれ来ねばならぬ。
 生きている中《うち》、わたくしの身に懐《なつか》しかったものはさびしさであった。さびしさのあったばかりにわたくしの生涯には薄いながらにも色彩があった。死んだなら、死んでから後にも薄いながらに、わたくしは色彩がほしい。そう思うと、生きていた時、その時、その場の恋をした女たち、わかれた後忘れてしまった女たちに、また逢うことの出来るのは瞑《くら》いあの世のさむしい河のほとりであるような気がしてくる。
 ああ、わたくしは死んでから後までも、生きていた時のように、逢えば別れる、わかれのさびしさに泣かねばならぬ人なのであろう……。

        ○

 薬研堀《やげんぼり》がまだそのまま昔の江戸絵図にかいてあるように、両国橋の川しも、旧米沢町《もとよねざわちょう》の河岸まで通じていた時分である。東京名物の一銭蒸汽の桟橋につらなって、浦安《うらやす》通いの大きな外輪《そとわ》の汽船が、時には二|艘《そう》も三艘も、別の桟橋につながれていた時分の事である。
 わたくしは朝寐坊むらくという噺家《はなしか》の弟子になって一年あまり、毎夜市中諸処の寄席《よせ》に通っていた事があった。その年正月の下半月《しもはんつき》、師匠の取席《とりせき》になったのは、深川高橋の近くにあった、常磐町《ときわちょう》の常磐亭であった。
 毎日午後に、下谷御徒町《したやおかちまち》にいた師匠むらくの家に行き、何やかやと、その家の用事を手つだい、おそくも四時過には寄席の楽屋に行っていなければならない。その刻限になると、前座《ぜんざ》の坊主が楽屋に来るが否や、どこどんどんと楽屋の太鼓《たいこ》を叩きはじめる。表口では下足番《げそくばん》の男がその前から通りがかりの人を見て、入《い》らっしゃい、入らっしゃいと、腹の中から押出すような太い声を出して呼びかけている。わたくしは帳場《ちょうば》から火種を貰って来て、楽屋と高座の火鉢に炭火をおこして、出勤する芸人の一人一人楽屋入するのを待つのであった。
 下谷から深川までの間に、その頃乗るものといっては、柳原を通う赤馬車と、大川筋の一銭蒸汽があったばかり。正月は一年中で日の最も短い寒《かん》の中《うち》の事で、両国から船に乗り新大橋で上り、六間堀《ろっけんぼり》の横町へ来かかる頃には、立迷う夕靄《ゆうもや》に水辺の町はわけても日の暮れやすく、道端の小家には灯がつき、路地の中からは干物の匂が湧き出で、木橋をわたる人の下駄《げた》の音が、場末の町のさびしさを伝えている。
 忘れもしない、その夜の大雪は、既にその日の夕方、両国の桟橋で一銭蒸汽を待っていた時、ぷいと横面《よこつら》を吹く川風に、灰のような細《こまか》い霰《あられ》がまじっていたくらいで、順番に楽屋入をする芸人たちの帽子や外套には、宵《よい》の口から白いものがついていた。九時半に打出し、車でかえる師匠を見送り、表通へ出た時には、あたりはもう真白で、人ッ子ひとり通りはしない。
 太鼓を叩く前座の坊主とは帰り道がちがうので、わたくしは毎夜|下座《げざ》の三味線をひく十六、七の娘――名は忘れてしまったが、立花家橘之助《たちばなやきつのすけ》の弟子で、家は佐竹ッ原だという――いつもこの娘と連立って安宅蔵《あたけぐら》の通を一ツ目に出て、両国橋をわたり、和泉橋際《いずみばしきわ》で別れ、わたくしはそれから一人とぼとぼ柳原から神田を通り過ぎて番町《ばんちょう》の親の家へ、音のしないように裏門から忍び込むのであった。
 毎夜連れ立って、ふけそめる本所《ほんじょ》の町、寺と倉庫の多い寂しい道を行く時、案外暖く、月のいい晩もあった。溝川の小橋をわたりながら、鳴き過る雁の影を見送ることもあった。犬に吠えられたり、怪しげな男に後をつけられて、二人ともども息を切って走ったこともあった。道端に荷をおろしている食物売《たべものうり》の灯《あかり》を見つけ、汁粉《しるこ》、鍋焼饂飩《なべやきうどん》に空腹をいやし、大福餅や焼芋に懐手をあたためながら、両国橋をわたるのは殆《ほとんど》毎夜のことであった。しかしわたくしたち二人、二十一、二の男に十六、七の娘が更《ふ》け渡る夜の寒さと寂しさとに、おのずから身を摺《す》り寄せながら行くにもかかわらず、唯の一度も巡査に見咎《みとが》められたことがなかった。今日、その事を思返すだけでも、明治時代と大正以後の世の中との相違が知られる。その頃の世の中には猜疑《さいぎ》と羨怨《せんえん》の眼が今日ほど鋭くひかり輝いていなかったのである。
 その夜、わたくしと娘とはいつものように、いつもの道を行こうとしたが、二足三足踏み出すが早いか、雪は忽《たちま》ち下駄《げた》の歯にはさまる。風は傘を奪おうとし、吹雪《ふぶき》は顔と着物を濡らす。しかし若い男や女が、二重廻《にじゅうまわし》やコートや手袋《てぶくろ》襟巻《えりまき》に身を粧《よそお》うことは、まだ許されていない時代である。貧家に育てられたらしい娘は、わたくしよりも悪い天気や時侯には馴れていて、手早く裾《すそ》をまくり上げ足駄《あしだ》を片手に足袋《たび》はだしになった。傘は一本さすのも二本さすのも、濡れることは同じだからと言って、相合傘《あいあいがさ》の竹の柄元《えもと》を二人で握りながら、人家の軒下をつたわり、つたわって、やがて彼方《かなた》に伊予橋、此方《こなた》に大橋を見渡すあたりまで来た時である。娘は突然つまずいて、膝をついたなり、わたくしが扶《たす》け起そうとしても容易には立上れなくなった。やっとの事立上ったかと思うと、またよろよろと転びそうになる。足袋はだしの両脚とも凍りきって、しびれてしまったらしい。
 途法《とほう》にくれてあたりを見る時、吹雪の中にぼんやり蕎麦屋《そばや》の灯が見えた嬉しさ。湯気の立つ饂飩の一杯に、娘は直様《すぐさま》元気づき、再び雪の中を歩きつづけたが、わたくしはその時、ふだん飲まない燗酒《かんざけ》を寒さしのぎに、一人で一合あまり飲んでしまったので、歩くと共におそろしく酔が廻って来る。さらでも歩きにくい雪の夜道の足元が、いよいよ危くなり、娘の手を握る手先がいつかその肩に廻される。のぞき込む顔が接近して互の頬がすれ合うようになる。あたりは高座《こうざ》で噺家がしゃべる通り、ぐるぐるぐるぐる廻っていて、本所だか、深川だか、処は更に分らぬが、わたくしはとかくする中《うち》、何かにつまずきどしんと横倒れに転び、やっとの事娘に抱き起された。見ればおあつらい通りに下駄の鼻緒《はなお》が切れている。道端に竹と材木が林の如く立っているのに心付き、その陰に立寄ると、ここは雪も吹込まず風も来ず、雪あかりに照された道路も遮《さえぎ》られて見えない別天地である。いつも継母に叱られると言って、帰りをいそぐ娘もほっと息をついて、雪にぬらされた銀杏返《いちょうがえし》の鬢《びん》を撫《な》でたり、袂《たもと》をしぼったりしている。わたくしはいよいよ前後の思慮なく、唯酔の廻って来るのを知るばかりである。二人の間に忽ち人情本の場面がそのまま演じ出されるに至ったのも、怪しむには当らない。
 あくる日、町の角々に雪達磨《ゆきだるま》ができ、掃寄せられた雪が山をなしたが、間もなく、その雪だるまも、その山も、次第に解けて次第に小さく、遂に跡かたもなく、道はすっかり乾いて、もとのように砂ほこりが川風に立迷うようになった。正月は早くも去って、初午《はつうま》の二月になり、師匠むらくの持席《もちせき》は、常磐亭から小石川|指ヶ谷町《さすがやちょう》の寄席にかわった。そしてかの娘はその月から下座をやめて高座へ出るようになって、小石川の席へは来なくなった。帰りの夜道をつれ立って歩くような機会は再び二人の身には廻《めぐ》っては来なかった。
 娘の本名はもとより知らず、家も佐竹とばかりで番地もわからない。雪の夜の名残は消えやすい雪のきえると共に、痕《あと》もなく消去ってしまったのである。
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巷《ちまた》に雨のふるやうに
わが心にも雨のふる
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という名高いヴェルレーヌの詩に傚《なら》って、もしもわたくしがその国の言葉の操《あやつ》り方《かた》を知っていたなら、
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巷に雪のつもるやう
憂《うれ》ひはつもるわが胸に
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あるいはまた
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巷に雪の消ゆるやう
思出は消ゆ痕《あと》もなく
………………………
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とでも吟じたことであろう。

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年4月15日作成
2010年11月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

永井荷風

西瓜——永井荷風


 持てあます西瓜《すいか》ひとつやひとり者

 これはわたくしの駄句である。郊外に隠棲している友人が或年の夏小包郵便に托して大きな西瓜を一個《ひとつ》饋《おく》ってくれたことがあった。その仕末《しまつ》にこまって、わたくしはこれを眺めながら覚えず口ずさんだのである。
 わたくしは子供のころ、西瓜や真桑瓜《まくわうり》のたぐいを食《くら》うことを堅く禁じられていたので、大方そのせいでもあるか、成人の後に至っても瓜の匂を好まないため、漬物にしても白瓜《しろうり》はたべるが、胡瓜《きゅうり》は口にしない。西瓜は奈良漬《ならづけ》にした鶏卵《たまご》くらいの大きさのものを味うばかりである。奈良漬にすると瓜特有の青くさい匂がなくなるからである。
 明治十二、三年のころ、虎列拉病《コレラびょう》が両三度にわたって東京の町のすみずみまで蔓衍《まんえん》したことがあった。路頭に斃《たお》れ死するものの少くなかった話を聞いた事がある。しかしわたくしが西瓜や真桑瓜を食うことを禁じられていたのは、恐るべき伝染病のためばかりではない。わたくしの家では瓜類の中《うち》で、かの二種を下賤な食物としてこれを禁じていたのである。魚類では鯖《さば》、青刀魚《さんま》、鰯《いわし》の如き青ざかな、菓子のたぐいでは殊に心太《ところてん》を嫌って子供には食べさせなかった。
 思返すと五十年むかしの話である。むかし目に見馴れた橢円形《だえんけい》の黄いろい真桑瓜は、今日《こんにち》ではいずこの水菓子屋にも殆ど見られないものとなった。黄いろい皮の面《おもて》に薄緑の筋が六、七本ついているその形は、浮世絵師の描いた狂歌の摺物《すりもの》にその痕《あと》を留《とど》めるばかり。西瓜もそのころには暗碧《あんぺき》の皮の黒びかりしたまん円《まる》なもののみで、西洋種の細長いものはあまり見かけなかった。
 これは余談である。わたくしは折角西瓜を人から饋《おく》られて、何故こまったかを語るべきはずであったのだ。わたくしが口にすることを好まなければ、下女に与えてもよいはずである。然るにわたくしの家には、折々下女さえいない時がある。下女がいなければ、隣家へ饋ればよいという人があるかも知れぬが、下女さえさびしさに堪兼《たえか》ねて逃去るような家では、近隣とは交際がない。啻《ただ》にそれのみではない。わたくしは人の趣味と嗜性《しせい》との如何を問わず濫《みだり》に物を饋ることを心なきわざだと考えている。

        ○

 わたくしはこれまでたびたび、どういうわけで妻帯をしないのかと問われた。わたくしは生涯独身でくらそうと決心したのでもなく、そうかといって、人を煩《わずらわ》してまで配偶者を探す気にもならなかった。来るものがあったら拒《こば》むまいと思いながら年を送る中《うち》、いつか四十を過ぎ、五十の坂を越して忽ち六十も目睫《もくしょう》の間《かん》に迫ってくるようになった。世には六十を越してから合※[#「丞/犯のつくり」、第4水準2-3-54]《ごうきん》の式を挙げる人もままあると聞いているから、わたくしの将来については、わたくし自身にも明言することはできない。
 しずかに過去を顧《かえりみ》るに、わたくしは独身の生活を悲しんでいなかった。それと共に男女同棲の生活をも決して嫌っていたのではない。今日になってこれを憶《おも》えば、そのいずれにも懐しい記憶が残っている。わたくしはそのいずれを思返しても決して慚愧《ざんき》と悔恨《かいこん》とを感ずるようなことはない。さびしいのも好かったし、賑《にぎやか》なのもまたわるくはなかった。涙の夜も忘れがたく、笑の日もまた忘れがたいのである。
 大久保に住んでいたころである。その頃|家《うち》にいたお房という女とつれ立って、四谷通《よつやどおり》へ買物に出かける。市ヶ谷|饅頭谷《まんじゅうだに》の貧しい町を通ると、三月の節句に近いころで、幾軒となく立ちつづく古道具屋の店先には、雛人形が並べてあったのを、お房が見てわたくしの袂《たもと》を引いた。ほしければ買ってやろうというと、お房はもう娘ではあるまいし、ほしくはないと言ったので、そのまま歩み過ぎ、表通《おもてどおり》の八百屋で明日《あした》たべるものを買い、二人で交《かわ》る交る坊主持《ぼうずもち》をして家にかえったことがある。何故《なにゆえ》とも分らず、この晩の事が別れた後まで永くわたくしの心に残っていた。
 冬の夜はしんしんとふけ渡って、窓の外には庭の樹《き》を動すゆるやかな風の音が聞えるばかり。犬の声もせず鼠の音もしない。襖《ふすま》のあく音に、わたくしは筆を手にしたままその方を見ると、その頃|家《うち》にいた八重という女が茶と菓子とを好みの器《うつわ》に入れて持ち運んで来たのである。何やかやとはなしをしている中に、鐘の音が聞える。遠い目白台の鐘である。わたくしはその辺にちらかした古本を片付ける。八重は夜具を敷く前、塵を掃出すために縁側《えんがわ》の雨戸を一枚あけると、皎々《こうこう》と照りわたる月の光に、樹の影が障子《しょうじ》へうつる。八重はあしたの晩、哥沢節《うたざわぶし》のさらいに、二上《にあが》りの『月夜烏《つきよがらす》』でも唱《うた》おうかという時、植込の方で烏らしい鳥の声がしたので、二人は思わず顔を見合せて笑った。その時分にはダンスはまだ流行していなかったのだ。
 麻布に廬《いおり》を結び独り棲《す》むようになってからの事である。深夜ふと眼をさますと、枕元の硝子窓《ガラスまど》に幽暗な光がさしているので、夜があけたのかと思って、よくよく見定めると、宵の中には寒月が照渡っていたのに、いつの間にか降出した雪が庭の樹と隣の家の屋根とに積っていたのである。再び瓦斯《ガス》ストーブに火をつけ、読み残した枕頭《ちんとう》の書を取ってよみつづけると、興趣の加わるに従って、燈火は※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61]々《けいけい》として更にあかるくなったように思われ、柔に身を包む毛布はいよいよ暖に、そして降る雪のさらさらと音する響は静な夜を一層静にする。やがて夜も明け放れてから知らず知らずまた眠に堕《お》ち、サイレンの声を聞いて初て起き出る。このような気儘な一夜を送ることのできるのも、家の中《うち》に気がねをしたり、または遠慮をしなければならぬ者のいないがためである。妻子や門生《もんせい》のいないがためである。
 午後《ひるすぎ》も三時過ぎてから、ふらりと郊外へ散歩に出る。行先さだめず歩みつづけて、いつか名も知らず方角もわからぬ町のはずれや、寂しい川のほとりで日が暮れる。遠くにちらつく燈火を目当に夜道を歩み、空腹に堪えかねて、見あたり次第、酒売る家に入り、怪しげな飯盛《めしもり》の女に給仕をさせて夕飯を食《く》う。電燈の薄暗さ。出入《ではいり》する客の野趣を帯びた様子などに、どうやら『膝栗毛』の世界に這入《はい》ったような、いかにも現代らしくない心持になる。これもわが家に妻孥《さいど》なく、夕飯の膳に人の帰るのを待つもののいないがためである。

        ○

 そもそもわたくしは索居独棲《さくきょどくせい》の言いがたき詩味を那辺《なへん》より学び来《きた》ったのであろう。わたくしはこれを十九世紀の西洋文学から学び得たようにも思い、また江戸時代の詩文より味い来ったもののような気もする。わたくしはたとえ西洋の都市に青春の幾年かを送った経歴がなかったとしても、わたくしの生涯はやはり今日あるが如きものとなってしまうより外には、道がなかったように思われる。わたくしの健康、性癖、境遇、それらのものを思返して見ると、わたくしの身は世間一般の人のように、善良なる家庭の父となり得られるはずはないようである。
 多病の親から多病ならざる子孫の生れいづる事はまず稀であろう。病患は人生最大の不幸であるとすれば、この不幸はその起らざる以前に妨止せねばならない。わたくしは自ら制しがたい獣慾と情緒とのために、幾度《いくたび》となく婦女と同棲したことがあったが、避姙の法を実行する事については寸毫《すんごう》も怠る所がなかった。
 わが亡友の中に帚葉山人《そうようさんじん》と号する畸人《きじん》があった。帚葉山人はわざわざわたくしのために、わたくしが頼みもせぬのに、その心やすい名医|何某《なにがし》博士を訪《と》い、今日普通に行われている避姙の方法につき、その実行が間断なく二、三十年の久しきに渉《わた》っても、男子の健康に障害を来すような事がないものか否かを質問し、その返答を伝えてくれたことがあった。山人は誠に畸人であって、わたくしの方から是非にといって頼むことは一向してくれないが、頼みもしない事を、時々心配して世話をやく妙な癖があった。或日わたくしに向って、何やら仔細《しさい》らしく、真実子供がないのかと質問するので、わたくしは、出来るはずがないから確にないと答えると、「それはあなたの方で一人でそう思っていられるのじゃないですか。あなた自身も知らないというような落胤《おとしだね》があって、世に生存していたらおかしなものですな。」と言う。
「むかしの小説や芝居なら知らないこと、そんな事はあり得ないはなしだ。」とわたくしは重ねて否定したが、しかし人生には意表に出る事件がないとも限らぬから、わたくしは帚葉山人が言った謎のような言葉を、そのまま茲《ここ》に識《しる》して置くのである。

        ○

 繁殖を欲しなければ繁殖の行為をなさざるに若《し》くはない。女子を近づけなければ子供のできる心配はない。女子を近づけながら、しかも繁殖を欲しないのは天理に反《そむ》いている。わたくしはかつて婦女を後堂《こうどう》に蓄《たくわ》えていたころ、絶えずこの事を考えていた。今日にあっても、たまたま蘭燈《らんとう》の影暗きところに身を置くような時には、やはりこの事を考える。
 繁殖を望まずしてその行為をなすは男子の弱点である。無用の徒事である。悪事である。しかし世に徒事の多きは啻《ただ》にこの事のみではない。酒を買って酔を催すのも徒事である。酔うて人を罵るに至っては悪事である。烟草を喫するのもまた徒事。書を購《あがな》って読まざるもまた徒事である。読んで後記憶せざればこれもまた徒事にひとしい。しかしながら為政者のなす所を見るに、酒と烟草とには税を課してこれを人に買わせている。法律は無益の行動を禁じていない。繁殖を目的とせざる繁殖の行為には徴税がない。人生徒事の多きが中に、避姙と読書との二事は、飲酒と喫烟とに比して頗《すこぶる》廉価《れんか》である。避姙は宛《さなが》ら選挙権の放棄と同じようなもので、法律はこれを個人の意志に任せている。
 選挙にはむずかしい規定がある。一たびこれに触れると、忽《たちまち》縲紲《るいせつ》の辱《はずかしめ》を受けねばならない。触《さわ》らぬ神に祟《たたり》なき諺《ことわざ》のある事を思えば、選挙権はこれを棄てるに若《し》くはない。

        ○

 女子を近づけ繁殖の行為をなさんとするに当っては、生れ出づべき子供の将来について考慮を費さなければならない。子供が成長して後、その身を過ち盗賊となれば世に害を貽《のこ》す。子供が将来何者になるかは未知の事に属する。これを憂慮すれば子供はつくらぬに若《し》くはない。
 わたくしは既に中年のころから子供のない事を一生涯の幸福と信じていたが、老後に及んでますますこの感を深くしつつある。これは戯語でもなく諷刺でもない。窃《ひそか》に思うにわたくしの父と母とはわたくしを産んだことを後悔《こうかい》しておられたであろう。後悔しなければならないはずである。わたくしの如き子がいなかったなら、父母の晩年はなお一層幸福であったのであろう。
 父と母とは自分たちのつくったものが、望むようなものに成らなければ、これを憎むと共に、また自分たちの薫陶《くんとう》の力の足りなかったことを悲しむであろう。猫が犬よりも人に愛せられないのは、犬のように柔順でないからである。わたくしの父はわたくしが文学を修めたことについて、いかに痛嘆しておられたかは、その手紙の外には書いたものが残っていないので、今これを詳《つまびらか》にすることができない。しかし平生《へいぜい》儒学を奉じておられた事から推量しても、わたくしが年少のころに作った『夢の女』のような小説をよんで、喜ばれるはずがない事は明《あきらか》である。
 父は二十余年のむかしに世を去られた。そして、わたくしは今やまさに父が逝《ゆ》かれた時の年齢に達せむとしている。わたくしはこの時に当って、わたくしの身に猫のような陰忍な児《こ》のないことを思えば、父の生涯に比して遥に多幸であるとしか思えない。もしもわたくしに児があって、それが検事となり警官となって、人の罪をあばいて世に名を揚げるような事があったとしたら、わたくしはどんな心持になるであろう。わたくしは老後に児孫《じそん》のない事を以て、しみじみつくづく多幸であると思わなければならない。

        ○

 文学者を嫌うのも、検事を憎むのも、それは各人の嗜性《しせい》に因《よ》る。父の好むところのものは必しも児のよろこぶものではない。嗜性は情に基くもので理を以て論ずべきではない。父と子と、二人の趣味が相異るに至るのは運命の戯《たわむれ》で、人の力の及びがたきものである。
 大正十二年の秋東京の半《なかば》を灰にした震災の惨状と、また昭和以降の世態人情とは、わたくしのような東京に生れたものの心に、釈氏《しゃくし》のいわゆる諸行無常の感を抱かせるに力のあった事は決して僅少ではない。わたくしは人間の世の未来については何事をも考えたくない。考えることはできない。考える事は徒労であるような気がしている。わたくしは老後の余生を偸《ぬす》むについては、唯世の風潮に従って、その日その日を送りすごして行けばよい。雷同し謳歌して行くより外には安全なる処世の道はないように考えられている。この場合わが身一つの外に、三界《さんがい》の首枷《くびかせ》というもののないことは、誠にこの上もない幸福だと思わなければならない。

        ○

 わたくしの身にとって妻帯の生活の適しない理由は、二、三に留《とど》まらない。今その最も甚しきものを挙ぐれば、配偶者の趣味性行よりもむしろ配偶者の父母兄妹との交際についてである。姻戚《いんせき》の家に冠婚葬祭の事ある場合、これに参与するくらいの事は浮世の義理と心得て、わたくしもその煩累《はんるい》を忍ぶであろうが、然らざる場合の交際は大抵|厭《いと》うべきものばかりである。
 行きたくない劇場に誘《さそ》い出されて、看《み》たくない演劇を看たり、行きたくない別荘に招待せられて、食べたくない料理をたべさせられた挙句《あげく》、これに対して謝意を陳《の》べて退出するに至っては、苦痛の上の苦痛である。今の世を見るに、世人は飲食物を初めとして学術文芸に至るまで、各人個有の趣味と見解とを持っていることを認めない。十人|十色《といろ》の諺のあることは知っているらしいが、各自の趣味と見識とはその場合場合に臨んでは、忍んでこれを棄てべきものと思っているらしい。さして深甚の苦痛を感ぜずに捨てることができるものと思っているらしい。飲めない酒もそういう場合には忍んで快く飲むのが、免《まぬか》れがたき人間の義務となしているらしい。ここにおいてか、結婚は社交の苦痛を忍び得る人にして初めてこれを為し得るのである。社交を厭うものは妻帯をしないに越したことはない。わたくしは今日まで、幸にしておのれの好まざる俳優の演技を見ず、おのれの好まざる飲食物を口にせずしてすんだ。知人の婚礼にも葬式にも行かないので、歯の浮くような祝辞や弔辞《ちょうじ》を傾聴する苦痛を知らない。雅叙園《がじょえん》に行ったこともなければ洋楽入の長唄《ながうた》を耳にしたこともない。これは偏《ひとえ》に鰥居《かんきょ》の賜《たまもの》だといわなければならない。

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 森鴎外先生が『礼儀小言』に死して墓をつくらなかった学者のことが説かれている。今わたくしがこれに倣《なら》って、死後に葬式も墓碣《ぼけつ》もいらないと言ったなら、生前自ら誇って学者となしていたと、誤解せられるかも知れない。それ故わたくしは先哲の異例に倣うとは言わない。唯死んでも葬式と墓とは無用だと言っておこう。
 自動車の使用が盛になってから、今日では旧式の棺桶《かんおけ》もなく、またこれを運ぶ駕籠《かご》もなくなった。そして絵巻物に見る牛車《ぎっしゃ》と祭礼の神輿《みこし》とに似ている新形の柩車《きゅうしゃ》になった。わたくしは趣味の上から、いやにぴかぴかひかっている今日の柩車を甚しく悪《にく》んでいる。外見ばかりを安物で飾っている現代の建築物や、人絹《じんけん》の美服などとその趣を同じくしているが故である。わたくしはまた紙でつくった花環《はなわ》に銀紙の糸を下げたり、張子《はりこ》の鳩をとまらせたりしているのを見るごとに、わたくしは死んでもあんな無細工《ぶさいく》なものは欲しくないと思っている。白い鳩は基督教《キリストきょう》の信徒には意義があるかも知れないが、然らざるものの葬儀にこれを贈るのは何のためであろう。
 元来わたくしの身には遵奉《じゅんぽう》すべき宗旨《しゅうし》がなかった。西洋人をして言わしめたら、無神論者とか、リーブル・パンサウールとか称するものであろう。毎年十二月になると東京の町々には耶蘇降誕祭《ヤソこうたんさい》の贈物を売る商品の広告が目につく。基督教の洗礼をだに受けたことのないものが、この贈物を購《あがな》い、その宗旨の何たるかを問わずして、これを人に贈る。これが今の世の習慣である。宗教を軽視し、信仰を侮辱することもまた甚しいと言わなければならない。
 わたくしは齠齔《ちょうしん》のころ、その時代の習慣によって、夙《はや》く既に『大学』の素読《そどく》を教えられた。成人の後は儒者の文と詩とを誦《しょう》することを娯《たの》しみとなした。されば日常の道徳も不知不識《しらずしらず》の間に儒教に依《よ》って指導せられることが少くない。
 儒教は政治と道徳とを説くに止《とどま》って、人間死後のことには言及んでいない。儒教はそれ故宗教の域に到達していないものかも知れない。しかしこの問題については、わたくしは確乎とした考を持っていない。今日に至るまでこれを思考することができなかったとすれば、恐《おそら》くは死に至るまで、わたくしは依然として呉下《ごか》の旧阿蒙《きゅうあもう》たるに過ぎぬであろう。
 わたくしは思想と感情とにおいても、両《ふたつ》ながら江戸時代の学者と民衆とのつくった伝統に安んじて、この一生を終る人である。一たび伝統の外に出たいと願ったこともあったが、中途にしてその不可能であることを知った。わたくしをして過去の感化を一掃することの不可能たるを悟《さと》らしめたものは、学理ではなくして、風土気候の力と過去の芸術との二ツであった。この経験については既に小説『冷笑』と『父の恩』との中に細叙してあるから、ここに贅《ぜい》せない。
 毎年冬も十二月になってから、青々と晴れわたる空の色と、燈火のような黄いろい夕日の影とを見ると、わたくしは西洋の詩文には見ることを得ない特種の感情をおぼえる。クリスマスの夜の空に明月を仰ぎ、雪の降る庭に紅梅の花を見、水仙の花の香をかぐ時には、何よりも先に宗達《そうたつ》や光琳《こうりん》の筆致と色彩とを思起す。秋冬の交《こう》、深夜夢の中に疎雨|斑々《はんぱん》として窓を撲《う》つ音を聞き、忽然《こつぜん》目をさまして燈火の消えた部屋の中を見廻す時の心持は、木でつくった日本の家に住んで初て知られる風土固有の寂寥《せきりょう》と恐怖の思である。孟宗竹《もうそうちく》の生茂《おいしげ》った藪の奥に晩秋の夕陽《ゆうひ》の烈しくさし込み、小鳥の声の何やら物急《ものせわ》しく聞きなされる薄暮の心持は、何に譬《たと》えよう。
 深夜天井裏を鼠の走り廻るおそろしい物音に驚かされ、立って窓の戸を明けると、外は昼のような月夜で、庭の上には樹の影が濃くかさなり、あたり一面見渡すかぎり虫が鳴きしきっている。これらの光景とその時の情趣とは、ピエール・ロッチがその著『お菊さん』の中に委《くわ》しく記述している。雨の小息《こや》みもなく降りしきる響を、狭苦しい人力車の幌《ほろ》の中に聞きすましながら、咫尺《しせき》を弁ぜぬ暗夜の道を行く時の情懐を述べた一章も、また『お菊さん』の書中最も誦《しょう》すべきものであろう。
 わたくしは今日でも折々ロッチの文をよむ。そして読むごとに、わたくしが日本の風土気候について感ずる所は悉《ことごと》くロッチの書中に記載せられている事を知るのである。ロッチが初て日本に来遊したのは、そが日光山の記に、上野停車場を発した汽車が宇都宮までしか達していない事が記されているので、明治十六、七年のころであったらしい。当時ロッチの見た日本の風景と生活にして今は既に湮滅《いんめつ》して跡を留めざるものも少くはない。ロッチの著作はわたくしが幼年のころに見覚えた過去の時代の懐《なつか》しき紀念である。長煙管《ながギセル》で灰吹《はいふき》の筒を叩く音、団扇《うちわ》で蚊を追う響、木の橋をわたる下駄の音、これらの物音はわれわれが子供の時日々耳にきき馴れたもので、そして今は永遠に返り来ることなく、日本の国土からは消去ってしまったものである。
 英国人サー・アーノルドの漫遊記、また英国公使フレザー夫人の著書の如きは、共に明治廿二、三年のころの日本の面影を窺《うかが》わしめる。
 わたくしはラフカヂオ・ハーンが『怪談』の中に、赤坂紀の国坂の暗夜のさま、また市ヶ谷|瘤寺《こぶでら》の墓場に藪蚊《やぶか》の多かった事を記した短篇のあることを忘れない。それらはいずれも東京のむかしを思起させるからである。

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 わたくしはつらつら過去の生涯を回顧して見ると、この六十年の間、わたくしの思想と生活との方向を指導し来《きた》ったものは、支那人と西洋人との思想であった。支那の思想は老荘と仏教とを混和した宋以後のものである。西洋の思想は十九世紀のロマンチズムとそれ以後の個人主義的芸術至上主義とである。わたくしの一生涯には独特固有の跡を印するに足るべきものは、何一つありはしなかった。
 日本の歴史は少年のころよりわたくしに対しては隠棲といい、退嬰《たいえい》と称するが如き消極的処世の道を教えた。源平時代の史乗《しじょう》と伝奇とは平氏の運命の美なること落花の如くなることを知らしめた。『太平記』の繙読《はんどく》は藤原藤房《ふじわらのふじふさ》の生涯について景仰《けいこう》の念を起させたに過ぎない。わたくしはそもそもかくの如き観念をいずこから学び得たのであろうか。その由《よ》って来るところを尋ねる時、少年のころ親しく見聞した社会一般の情勢を回顧しなければならない。即ち明治十年から二十二、三年に至る間の世のありさまである。この時代にあって、社会の上層に立っていたものは官吏である。官吏の中その勲功を誇っていたものは薩長の士族である。薩長の士族に随従することを屑《いさぎよ》しとしなかったものは、悉く失意の淵に沈んだ。失意の人々の中には董狐《とうこ》の筆を振って縲紲《るいせつ》の辱《はずかしめ》に会うものもあり、また淵明《えんめい》の態度を学んで、東籬《とうり》に菊を見る道を求めたものもあった。わたくしが人より教えられざるに、夙《はや》く学生のころから『帰去来《ききょらい》の賦《ふ》』を誦し、また『楚辞』をよまむことを冀《こいねが》ったのは、明治時代の裏面を流れていた或思潮の為すところであろう。栗本鋤雲《くりもとじょうん》が、

 門巷蕭条夜色悲 〔門巷《もんこう》は蕭条《しょうじょう》として夜色《やしょく》悲しく
※《きゅうりゅう》の声《こえ》は月前《げつぜん》の枝《えだ》に在《あ》り
誰憐孤帳寒檠下  誰か憐《あわれ》まん孤帳《こちょう》の寒檠《かんけい》の下《もと》に
白髪遺臣読楚辞  白髪《はくはつ》の遺臣《いしん》の楚辞《そじ》を読《よ》めるを〕

といった絶句の如きは今なお牢記《ろうき》して忘れぬものである。

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 欧洲の乱が平定し仏蘭西《フランス》の国土が独逸人《ドイツじん》の侵略から僅《わずか》に免れ得た時、わたくしは年まさに強仕《きょうし》に達しようとしていた。それより今日に至るまで葛裘《かっきゅう》を変《かえ》ること二十たびである。この間にわたくしは西洋に移り住もうと思立って、一たびは旅行免状をも受取り、汽船会社へも乗込の申込までしたことがあった。その頃は欧洲行の乗客が多いために三カ月位前から船室を取る申込をして置かねばならなかったのだ。わたくしは果してよくケーベル先生やハーン先生のように一生涯他郷に住み晏如《あんじょ》としてその国の土になることができるであろうか。中途で帰りたくなりはしまいか。瀕死の境に至っておめおめ帰りたくなるような事が起るくらいならば、移住を思立つにも及ぶまい。どうにか我慢して余生を東京の町の路地裏に送った方がよいであろう。さまざま思悩んだ果《はて》は、去るとも留《とどま》るとも、いずれとも決心することができず、遂に今日に至った。洋行も口にはいいやすいが、いざこれを実行する段になると、多年住みふるした家屋の仕末《しまつ》をはじめ、日々手に触れた家具や、嗜読《しどく》の書をも売払わなければならない。それらの事は友人にでも託すればよいという人もあろうが、一生|還《かえ》って来ないつもりで出掛けるのに迷惑と面倒とを人にかけるのは心やましいわけである。出発の間際に起る繁雑な事情とその予想とがいつも実行を妨げてしまうのであった。人間も渡鳥のように、時節が来るや否や、わけもなく旧巣《ふるす》を捨てて飛去ることができたなら、いかに幸であったろう 
昭和十二年丁丑四月稿

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年5月28日作成
2010年11月2日修正
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