原田義人

流刑地で IN DER STRAFKOLONIE      フランツ・カフカ Franz Kafka ——-原田義人訳

「奇妙な装置なのです」と、将校は調査旅行者に向っていって、いくらか驚嘆しているようなまなざしで、自分ではよく知っているはずの装置をながめた。旅行者はただ儀礼から司令官のすすめに従ったらしかった。司令官は、命令不服従と上官侮辱とのために宣告を下された一人の兵士の刑の執行に立ち会うようにとすすめたのだった。この刑執行に対する関心は、流刑地《るけいち》でもたいして大きくはないらしかった。少なくとも木のない山腹に取り囲まれた深くて小さい砂地のこの谷間には、将校と旅行者とのほかには、頭髪も顔の髯《ひげ》ものび放題の、頭の鈍い大口の受刑者と、兵士が一人いるだけだった。その兵士は重い鎖をもっており、それから小さないくつかの鎖が出ていて、それで受刑者の足首や手首や首もしばられていた。またそれらの小さな鎖はつなぎの鎖でつなぎ合わされている。ところで、受刑者は犬のように従順に見えるので、まるで自由に四方の山腹をかけ廻らせておくことができ、執行の直前にただ笛を鳴らしさえすればもどってくるような様子に見受けられた。
 旅行者はそんな装置にはほとんど興味がなく、受刑者の背後でほとんど無関心そうにいったりきたりしていた。一方、将校のほうは最後の準備をととのえているところで、あるいは地中深くにすえつけた装置の下をはったり、あるいは上の部分を調べるために梯子《はしご》を登ったりしていた。ほんとうは機械係にまかせておけるような仕事だったが、彼がこの装置の特別な讃美者なのであれ、何かほかの理由からこの仕事をほかの者にまかせることができないのであれ、いずれにしてもひどく熱心にその仕事を実行していた。
「これですっかりすんだ!」と、ついに将校は叫んで、梯子を下りてきた。ひどく疲れていて、口を大きく開けて息をしており、二枚の薄い婦人用ハンカチを軍服のカラーのうしろに押しこんでいた。
「そういう軍服では熱帯では重たすぎますね」と、旅行者は将校が予想していたように装置のことをたずねるかわりに、そういった。
「まったくです」と、将校はいって、油脂で汚れた両手を用意されてあるバケツで洗った。
「でも、この軍服は故国を意味するものです。われわれは故国を失いたくありません。――ところで、この装置をごらん下さい」と、彼はすぐに言葉をつけ加え、両手を布でふき、同時に装置をさし示した。「今まではまだ手でやる仕事が必要でしたが、これからは装置がまったくひとりで働きます」
 旅行者はうなずいて、将校のあとにつづいた。将校はどんな突発事故に対しても言いのがれをつけておこうとして、やがていった。
「むろん、いろいろ故障が起こります。きょうは故障は起こらないとは思いますが、ともかくその覚悟だけはしておかなければなりません。この装置は実際、十二時間もぶっつづけに動くんです。でも、たとい故障が起っても、ほんの小さな故障ですむはずです。すぐなおるでしょう」
「おかけになりませんか」と、将校は最後にいって、籐椅子《とういす》の山から一つ引き出してきて、旅行者にすすめた。旅行者はことわるわけにはいかなかった。そこで、穴のふちで腰を下ろした。そして、その穴にちょっと視線を投げた。穴はそれほど深かった。穴の片側には掘り出された土が土手のように積み重ねられ、もう一方には装置が置かれていた。
「司令官があなたにこの装置を説明したかどうかわかりませんが」と、将校はいった。旅行者ははっきりしない手のしぐさで否定した。将校もそれ以上のことを要求しているわけではなかった。というのは、それなら自分自身で装置のことを説明することができるわけだ。「この装置は」と、彼はいってL字形のハンドルをつかみ、それで身体を支えた。「われわれの旧司令官の発明です。これに関するいちばん最初の実験が行われるようになったとき、私はすぐ協力し、完成までのあらゆる仕事に関係してきました。とはいっても、この発明の功績はあのかただけのものではありますが。あなたはわれわれの旧司令官のことをお聞きになりましたか。お聞きにならないのですね? ところで、この流刑地全体のしくみがあのかたの仕事だと私がいっても、それは言いすぎではありません。われわれ、あのかたの味方である者たちは、あのかたが亡くなったときすでに、流刑地のしくみがすっかりまとまったものなので、後任者は、たといたくさんの新しい計画を頭に描いていようと、少なくとも何年かのあいだは前のしくみを全然改めることができないだろう、ということを知っていました。われわれの予想は実際に的中もしたのです。新任の司令官はそれをみとめないわけにはいきませんでした。あなたが旧司令官をご存じなかったのは、残念なことです!――でも」ここで将校は言葉を中断した。「どうもおしゃべりしてしまって。で、あのかたの装置が今ここにわれわれの眼の前に立っています。ごらんのように、三つの部分から成っています。時がたつうちにこれらの部分のそれぞれにいわば俗称ができ上がりました。下部はベッドと言い、上部は図引きと呼ばれ、この中央のぶら下がっている部分はエッゲ(馬鍬《まぐわ》)と呼ばれています」
「エッゲですって?」と、旅行者はたずねた。彼はそれほど熱心には耳を傾けていなかった。太陽はこの影のない谷間に囚《とら》われたようで、あまりにも強烈に照りつけていた。考えを集中することはむずかしかった。それだけに、この将校は彼には驚嘆すべきものに思われるのだった。将校は、重そうな肩章をつけ、金モールを下げた窮屈そうな礼装の軍服に身を固めて、ひどく熱心にこの件を説明している。おまけに、話しながらも、ねじ廻しであちこちとねじをいじっているのだ。そこにいる兵士も旅行者と似たような気分に陥っているらしかった。兵士は両手の手首に受刑者の鎖を巻きつけ、片手を銃の上にのせ、頭をうなじのところで垂れ下げ、何ごとにも気を使ってはいなかった。旅行者はそれをいぶかしくは思わなかった。というのは、将校がフランス語でしゃべっているからだ。フランス語は兵士にも受刑者にもわかるはずがない。とはいえ、受刑者が将校の説明についていこうと努力していることが、それだけにいっそう目立った。一種の眠そうな頑固さで、いつでも将校がちょうど指さしているほうへ視線を向け、将校の話が今も旅行者の問いによって中断されたとき、将校とまったく同じように旅行者のほうをじっと見つめた。
「そうです、エッゲです」と、将校はいった。「この名前はぴったりです。針がエッゲのように並べられているし、全体がエッゲのように動くのです。もっともただ一つの場所だけで動くわけで、また働きがずっと精巧ではあります。ともかく、これからすぐおわかりになるでしょう。このベッドの上に受刑者が寝かされます。――つまり、私はまず装置の説明をしておいて、それからはじめて、動きかたそのものに実演させるつもりです。そうすれば、この装置の動きにいっそうよくついていくことができるでしょう。また、図引きのなかの歯車の一つがひどく磨滅しています。で、動き出すと、すごくぎいぎい鳴るのです。そうなると、言葉がほとんど聞き取れなくなります。部品はここでは残念なことにひどく手に入れることが困難なのです。――で、私が申しましたように、ここにベッドがあります。これは重ねた綿ですっかり張られています。その目的がなんなのかは、これからごらんになるでしょう。この綿の上に受刑者は腹ばいに寝かされます。むろん裸でです。ここが両手の、ここが両足の、ここが首の、それぞれ身体をしばりつけるための革ひもです。ここのところ、ベッドの頭のほうのはじに、私が申しましたように受刑者がまず顔を下向けにして寝るわけですが、ここにこの小さなフェルトの出ばりがあります。これは、受刑者のちょうど口のなかに入るようにたやすく調節することができます。このフェルトの用途は、叫んだり、舌をかみ切ったりすることを防ぐということです。むろん受刑者はフェルトを口に入れなければなりません。そうでないと、首の革ひもによって首が折られてしまいますから」
「それが綿ですか」と、旅行者はたずねて、身体をこごめた。
「そうです」と、将校は微笑しながらいった。
「ご自分でさわってごらんなさい」彼は旅行者の手を取って、ベッドの上をなで廻らせた。
「特別に調達された綿です。ですから、まったく外見は見わけがつきません。あとでこの綿の用途をお話しすることになるでしょう」
 旅行者はすでに少しばかりこの装置に気を取られるようになっていた。日射しをよけるため片手を眼の上に挙げ、装置を仰ぎ見た。大きな構造をもっていた。ベッドと図引きとは同じ大きさをもち、まるで二つの暗い長持のような外見をしている。図引きはベッドのおよそ二メートルほど上に取りつけられている。両者とも四隅は四つの真鍮棒《しんちゅうぼう》で接続されており、それらの棒は太陽の光でほとんど光を放射せんばかりだ。この二つの長持のあいだに一本の鋼鉄ひもでエッゲがぶら下げられてある。
 将校は旅行者のさきほどの冷淡さにはほとんど気づかなかったのだが、相手の今や湧《わ》き始めた関心には感づいたようである。そこで、旅行者がじゃまされずにながめるひまを与えてやろうとして、自分の説明を中断した。受刑者は旅行者を真似ている。しかし、手を両眼の上にかざすことができないので、裸の眼を細めて上を見上げるのだった。
「で、受刑者が寝かされるのですね」と、旅行者はいって、椅子にもたれ、両脚を組んだ。
「そうです」と、将校はいって、少し軍帽をうしろへずらし、手で熱い顔の上をなでた。「で、よろしいですか。ベッドも図引きもそれぞれ附属の電池をもっています。ベッドはその電池を自分のために使うのであり、図引きはエッゲのために使うのです。受刑者がしっかりしばりつけられると、ベッドが運動させられます。こまかに、ひどく速く震動し、左右にも上下にも同時に動くのです。あなたはこれと似た装置を病院でごらんになったことがあるでしょう。ただ、われわれのベッドではすべての運動が正確に計算されているのです。つまり、ベッドの運動はぴったりとエッゲの運動と合わされていなければなりません。ところで、このエッゲのほうに別のほんとうの遂行がゆだねられているのです」
「いったい、判決はどういうことになっているんです」と、旅行者がたずねた。
「ご存じでないんですか」と、将校は驚いていって、唇をかんだ。「あるいは私の説明が順序立っていないのであれば、お許し下さい。どうかお許しねがいます。つまり、以前には司令官が説明するのがつねであったものですから。ところが、新任の司令官は、こうした名誉ある職責を捨ててしまったのです。司令官がこのようなごりっぱな訪問客に」――旅行者はその敬意をこめた言い廻しを両手で拒もうとしたが、将校はその言い廻しにこだわった。「このようなりっぱな訪問客に、われわれの判決の形式について少しも知識をお授けしていないということは、これまた一つの改革でして、それは――」将校は呪いの言葉を唇まで出しかかっていたが、自分を抑えて、ただこういった。「私はそのことを知らされなかったのです。で、私に罪はありません。ところで、そうは申しましても私こそわれわれの判決法をもっともよく説明することができる人間ではありますが。というのは、私はここに」――彼はここで胸ポケットをたたいた――「旧司令官のこの装置に関する図面をもっております」
「司令官みずからの図面ですか」と、旅行者はたずねた。「いったい、そのかたはすべてを一身に集めておられたのですか。軍人であり、裁判官であり、建築技師であり、化学者であり、製図家だったのですか」
「そうですとも」と、将校はうなずきながら、じっと見つめる考えこんだようなまなざしをしていった。それから、自分の両手を調べるようにじっと見た。自分の手が、その図面類をつかむにしては十分に清潔でないように思われたのだ。そこで、バケツのところへいき、もう一度手を洗った。それから小さな革の紙入れを取り出して、いった。「われわれの判決はけっしてきびしいようには聞こえません。刑の宣告を受けた者の身体に、彼の犯した掟《おきて》がこのエッゲで書かれるのです。たとえばこの受刑者の身体には」――将校はその男を指さした――「『汝の上官をうやまえ』と書かれるでしょう」
 旅行者はちらっとその男のほうを見た。男は、将校が指さしたとき、頭を垂れ、何かを聞こうとして、聴力をことごとく緊張させていた。ところが、厚ぼったく結び合わされた唇の動きは、どうも彼が何もわかっていないということを示しているようであった。旅行者はいろいろたずねたかったが、男をながめながらただこうたずねただけだった。
「あの男は判決を知っているんですか?」
「いや」と、将校はいって、すぐ説明をつづけようとしたが、旅行者がそれをさえぎった。
「自分自身の判決を知らないのですかね?」
「いや」と、将校はふたたびいって、それからちょっとのあいだつまってしまった。まるで旅行者からその質問のもっとくわしい理由を求めているような様子だった。それから、こういった。「教えてやっても意味はないでしょう。なにしろ自分の身体で思い知るわけですから」
 旅行者はもう黙っていようと思った。受刑者が視線を自分に向けていたからだった。その視線は今語られた刑執行の手順を正しいと思うか、とたずねているように見えた。そこで、すでに椅子にもたれかかっていた旅行者は、また身体を前にかがめて、さらにたずねてみた。
「でも、あの男が刑を宣告されたということは、知っているんでしょうね?」
「それも知らないのです」と、将校はいって、相手からさらにいくらかの奇妙な発言を期待するかのように、旅行者に向ってほほえみかけた。
「それも知らないんですか」と、旅行者はいって、額の上をなでながら、「それでは、あの男は今でもまだ、自分の弁明がどういうふうに受け入れられたか知らないわけですね?」
「弁明する機会はもたなかったのです」と、将校はいって、わきへ眼をそらした。まるでひとりごとをいうような調子であり、自分にとってはわかりきっているこんなことを話して相手に恥かしい思いをさせまいとするかのようだ。
「だって弁明する機会はもったはずですが」と、旅行者はいって、椅子から立ち上がった。
 将校は、装置の説明に長いこと手間取る危険があることを知った。そこで旅行者のほうへ歩みよって、彼の腕にすがり、片手で受刑者を指さした。受刑者は注意が自分に向けられているらしいので、今度は直立不動の姿勢を取った。――兵士のほうも鎖をぐいと引っ張った。将校はいった。
「事情はこうなんです。私はこの流刑地で裁判官を命じられています。年が若いのにそうなんです。というのは、旧司令官のときにもあらゆる刑事事件のお手伝いをし、また装置についてもいちばんよく知っているのです。私が裁決するときの原則は、罪はいつでも疑いの余地がない、ということです。ほかの裁判所はこんな原則を守ることができません。というのは、そういう裁判所は多人数で行われ、その上にはさらに上級の裁判所があります。ここではそうではないのです。あるいは、少なくとも旧司令官のときにはそうではありませんでした。新司令官もたしかに私の裁判に介入したいという気持も見せはしましたが、これまでのところ私はうまく司令官の介入を拒むことができています。また、これからもやはりうまくそうなることでしょう。――あなたはこの事件の説明を聞こうと望まれました。けれど、この件もあらゆる事件と同様にまったく簡単なものです。ある中隊長がけさ告発してきたのですが、その内容は、その中隊長の当番兵として配属され、彼の戸口の前で眠ることになっていたこの男が、寝過ごして勤務をおこたってしまったのです。つまり、この男は、時計が時を打つごとに起立して、中隊長の戸口の前で敬礼する義務があるのです。これはけっしてむずかしい義務ではありませんし、どうしても必要な義務です。というのは、見張りにでも使役《しえき》にでもいつでも活溌な態度で用意ができていなくてはならないのです。その中隊長は、ゆうべ、当番兵が義務を果たしているかどうか、調べようと思いました。彼は二時が打ったときにドアを開けてみると、この男がうずくまって眠っているのを発見しました。中隊長は乗馬用の鞭をもってきて、この男の顔を打ちました。すると、起立して許しを乞うかわりに、あの男は上官の両足をつかみ、彼の身体をゆすって叫びました。『鞭を捨てろ、さもないと食い殺すぞ』――これが真相なのです。中隊長は一時間前に私のところへきました。私は中隊長の申し立てを書き取り、すぐそれにつづいて判決を書き取りました。それからあの男に鎖をつけさせました。これはすべて簡明です。もし私がまずあの男を召喚して訊問《じんもん》などしていたら、ただ混乱を生じただけでしょう。、あの男はうそをついたことでしょうし、もし私がそのうそを否定することに成功したなら、そのうそのかわりに新しいうそをつくというふうに、いつまでもつづいたことでしょう。しかし、今では私はあの男をつかまえていて、もう放しません。――これで万事の説明がおわかりですか。しかし、どんどん時間がたっていきます。ほんとうは刑の執行がもう始っていなければならないところですし、私は装置の説明をまだ終っていません」
 将校は旅行者を無理に椅子に坐らせると、ふたたび装置のほうへ歩みより、語り始めた。
「ごらんのように、エッゲは人間の体格にぴったり合っています。ここが上体にあたるエッゲ、ここが両脚にあたるエッゲです。頭にはこの小さいのみ[#「のみ」に傍点]だけを使うことになっています。おわかりですか」将校はいよいよ全般的な説明に入る気構えで、親しげに旅行者のほうへ身体をこごめてきた。
 旅行者は額にしわをよせてエッゲなるものをじっとながめた。裁判手続きについての教示は彼を満足させていなかった。それにしても、ここは流刑地のことであり、ここでは特別な処置が必要であって、すみずみにいたるまで軍隊式に進められなければならないのだ、と自分に言い聞かせないわけにはいかなかった。しかし、その上に新任司令官にいくらかの期待をかけていた。この司令官は、たしかにゆっくりとではあるが、この将校のかたくなな頭には入らないような新しい手続きを採用しようと意図したもののようだった。こんなことを順を追って考えたので、旅行者はたずねてみた。
「司令官は刑の執行に立ち会われますか」
「どうもわかりませんね」と、将校はこの突然の質問にひどく気を悪くして、いった。そして、彼の親しそうだった顔つきはゆがんでしまった。
「それだからこそ、われわれは急がなければならないのです。残念なことに、私の説明を省略さえしなければならないでしょう。しかし、私はあしたにでも、この装置がまたきれいになったら――これがひどく汚れてしまうことが、この装置のただ一つの欠点なのです――もっとくわしい説明を補うこともできましょう。そこで、今はただどうしても必要なことだけを申し上げることにしておきます。――で、男がベッドの上に寝て、ベッドが震動させられると、エッゲが身体の上へ下げられます。エッゲは各尖端がほんの少しだけ身体にふれるように、自然に調整されます。調整がすむと、すぐにこの鋼鉄のひもがぴんと張って棒のようになります。それからいよいよ活動が始まるわけです。素人《しろうと》は外見上では刑罰のちがいに気づきません。エッゲは一様に活動しているように見えます。エッゲは震動しながら各尖端を身体に突き刺します。身体のほうはその上にベッドによって震動しているわけです。そこでだれにでも判決の実行を検査することができるように、エッゲはガラス製にされました。針をガラスのなかに固定するということはいくつかの技術的困難をひき起こしましたが、いろいろと実験をやったあとで成功しました。われわれはそのためにはどんな努力もいといませんでした。というわけで、身体のなかに掟の文句が書きこまれていくのをだれでもガラスを通して見ることができるわけです。どうです、もっと近づいてこられて、針をごらんになりませんか?」
 旅行者はゆっくりと立ち上がり、そこへいって、エッゲの上に身体をこごめてながめた。
「どうです」と、将校がいった。「二種類の針が何列にも並んでいるでしょう。長い針はわきに短い針をもっています。つまり、長い針が書いて、短い針は水を噴き出し、血を洗い落して、文字をつねにはっきりさせておきます。血のまじった水はつぎに小さい樋《とい》に流しこまれ、最後にはこの大きな樋に流れ入り、この大きな樋の流出管は穴へと通じています」将校は血のまじった水が通っていく水路を指でくわしく示した。その水をできるだけ明白に見せるため、流水管の出口に両手をあててまぎれもなく水をすくう様子をしたとき、旅行者は頭を上げ、片手で身体のうしろを手探りしながら椅子へもどっていこうとした。そのとき、驚いたことに、受刑者も彼と同じようにエッゲの仕組みをもっと近くでながめるようにという将校のすすめに従わされているのを見た。受刑者はうつらうつらしている兵士を鎖のまま少し前へ引っ張り、自分でもガラスの上に身体をのり出していた。将校と旅行者との二人がちょうど見学したものを受刑者もおぼつかない眼で見てはいるが、説明を受けていないので、どうもよくわかるわけにはいかない様子が、見て取れた。受刑者はあちらこちらと身体をまげてのぞきこんでいた。何度もくり返して眼でそのガラスをながめわたしていた。旅行者は受刑者を追い返そうとした。というのは、この男がやっていることはさらに罰を受けそうに思われるのだった。ところが、将校は旅行者を片手でしっかと押しとどめ、もう片方の手で土手から土くれを取り上げ、それを兵士めがけて投げた。兵士はぎくりとして眼を上げ、受刑者がやっていたことに気づいて、銃を捨てると、靴のかかとで地面に踏ん張り、受刑者を引きもどした。そのため、受刑者はすぐ倒れてしまった。すると兵士は、受刑者が身をよじって、鎖をがちゃがちゃ鳴らしているのを、見下ろした。
「立たせろ!」と、将校は叫んだ。というのは、彼は旅行者が受刑者によってあまりにも気をそらされてしまったことに気づいたのだった。旅行者はエッゲなどにはおかまいなしに、エッゲの上をむこうまで身体を乗り出し、受刑者がどうなっているのかをたしかめようとした。
「受刑者を用心して扱え!」と、将校はふたたび叫んだ。将校は装置のまわりを走って廻り、自分で受刑者の肩の下をつかみ、何度か足をすべらせている受刑者を兵士の助けを借りながら立ち上がらせた。
「もうみんなわかりました」と、将校がまた自分のところへもどってきたときに、旅行者はいった。
「いちばん重要なことはまだですよ」と、将校はいって、旅行者の腕をつかんで、高いところを指さした。
「あの図引きのなかに歯車が入っていて、それがエッゲの運動を規定するのです。そしてこの歯車は判決が示している図面に従って調整されています。私は今でも旧司令官の図面を使っています。ここにそれがあります」――そういうと、例の革の紙入れから二、三枚の紙片を取り出した――「だが、残念なことにあなたの手にお渡しすることはできません。これは私がもっているもののうちもっとも貴重なものなのです。おかけ下さい。このくらいの距離をおいてお見せしますが、そうすればすべてよくごらんになれるでしょう」将校は最初に紙片を見せた。旅行者は何かほめ言葉を言いたかったが、ただ迷路のような何重にもたがいに交叉し合っている線が見えるだけで、しかもその線がすっかり紙面を埋めているので、骨折ってやっと白いすきまが見わけられるくらいだった。
「読んでごらんなさい」と、将校はいった。
「読めませんね」と、旅行者はいった。
「でも、はっきりしているじゃありませんか」と、将校がいった。
「ひどく精巧なものですが」と、旅行者は相手の言葉を避けるようにいった。「でも、私には解読できません」
「できますよ」と、将校はいうと、笑って紙入れをまたポケットにしまった。「学校の生徒に教える清書の字ではありません。長いことかかって読まなければなりません。あなたも最後にはきっとおわかりになるでしょう。これはむろん簡単な文字であってはならないのです。すぐに殺すのではなくて、平均して十二時間ほどの時間をかけてやっと殺すようなものでなければなりません。そして、六時間目に転機がくるように見積られています。そこで、じつにたくさんの飾りが本来の文字のまわりにつけられているのです。ほんとうの文字は一つの細い帯のような形で身体を取り巻くだけです。そのほかの身体の部分には飾りをつけることになっています。これで、エッゲおよび全装置の働きを十分に評価することがおできになるでしょうね?」将校は梯子の上に飛びのって、一つの歯車を回転させ、下へ向って叫んだ。「気をつけて下さい、わきへどいて!」そして、装置全体が動き出した。歯車がきしる音を立てなかったならば、きっとすばらしかったことだろう。将校はこのうるさい歯車の音に驚いて、拳《こぶし》で歯車をおどかすような身振りをすると、詫びをいうように旅行者のほうへ両腕をのばし、装置の動き工合を下から見るため、急いで梯子を下りた。まだ何かうまくいかないところがあるのだろうが、それは将校だけにしかわからない。将校はふたたび梯子をのぼって、両手を図引きの内部に突っこみ、それから早く下りるために、梯子を利用するかわりに一本の棒に伝わって下り、このうるさい音がするなかで相手に自分の言葉をわからせるため、極度の緊張をもって旅行者の耳もとで叫んだ。
「手順がわかりますか? エッゲが書き始めます。エッゲがあの男の背中に文字の最初の書写を終わると、あの重ねた綿が廻って、エッゲが新しいところに書けるように身体をゆっくりと反転させます。そうしているうちに皮膚を切って文字を書きつけた部分が綿の上にあたることになり、綿は特別なしかけで出血をすぐにとめ、文字の新しい彫りこみの用意がされます。このエッゲのへりのぎざぎざは、身体が反転させられていくうちに、傷口から綿をはがして、穴のなかへ投げ捨てます。そして、エッゲはまた仕事をつづけます。こうして、エッゲは十二時間にわたっていよいよ深く文字を刻んでいきます。最初の六時間には受刑者はほとんど以前と同じように生きています。ただ痛みに苦しめられるだけです。それから二時間後にフェルトが除かれます。というのは、受刑者はもう叫ぶこともできないのです。それから、ここの頭のほうにある電熱加温の鉢《はち》のなかに温かい米がゆが入れられます。受刑者は食べたければ、その鉢から舌でぺろぺろなめてかゆを食べることができます。だれ一人としてこのチャンスを逃がす者はいません。しかも、私の経験した処刑の数は多いのです。六時間目になると、やっと食べる楽しみが失われます。すると私は普通はここにひざまずいて、その様子を観察します。受刑者はこの最後の食物をのみこむことはまれで、ただ口のなかで動かしているだけで、それを穴のなかへ吐き出してしまいます。そのときには私は身体をかがめなければなりません。そうしないと、私の顔にかかってしまいます。だが、この六時間目には受刑者はなんとおとなしくなることでしょう! どんなぐずなやつにも分別がひらけてきます。まず両眼のところからそれが始まります。そして、眼からほかへ拡がっていきます。その有様をながめていると、自分でもエッゲの下に寝てみたいという気にさせられるくらいです。ところで、それ以上のことは起こりません。受刑者はただ文字を解読し始めるだけです。まるで耳を傾けているように、口をとがらせています。あなたはごらんになりましたが、文字を眼で解読することだってやさしいことではありません。ところが、われわれの受刑者は膚《はだ》に切りこまれたもので解読するわけです。もとより骨の折れる仕事ではあります。それを終えるのには六時間かかります。で、そのあとでエッゲが完全に受刑者の身体全体に刺さって、穴のなかへ投げこみます。穴のなかで死体は血のまじった水や綿の上にぴしゃりと音を立てて落ちます。それで裁判は終わります。そして、われわれ、つまり私と兵士とは死体を穴に埋めます」
 旅行者はそれまで将校のほうに耳を傾けて聞いていたが、両手を上衣のポケットに突っこんで、機械の仕事ぶりをながめやった。受刑者もそれをながめていたが、なんのことやらわかってはいない。少し身体をこごめて、ゆれ動いている針を眼で追っていたが、そのとき兵士が将校の合図によってナイフでうしろからシャツとズボンとを切り裂いたので、衣類が受刑者の身体から落ちてしまった。自分の裸身を隠すために、落ちていく衣類をつかもうとしたのだが、兵士が彼の身体をぐいと引き起こし、最後のぼろきれまで身体からふるい落してしまった。将校は機械を停止させた。そして、今やあたりを支配し始めた静けさのなかで受刑者がエッゲの下に寝かされた。鎖がとかれ、それのかわりに革ひもがしめられた。それは受刑者にとって最初の瞬間にはほとんどいましめをゆるめられたように感じられたらしかった。それから、エッゲがもう少し低く下げられた。やせた男だったのだ。エッゲの尖端がふれたとき、受刑者の皮膚の上を戦慄《せんりつ》が走った。兵士が受刑者の右手をしばりつけているあいだに、受刑者はどこへということもなく左手をのばした。ところが、それは旅行者が立っている方角だった。将校はたえずわきから旅行者をながめていた。まるで旅行者の顔から、自分が少なくとも表面的な説明をしてやったこの刑執行が与えた印象を読み取ろうとしているようであった。
 手首をしばることになっている革ひもが、切れてしまった。兵士が強くしめすぎたらしかった。将校に助けてもらおうと、兵士は切れた革ひもの切れはじを将校に見せた。将校も兵士のところへよっていき、旅行者のほうへ顔を向けていった。
「機械はとてもこまかく組み立てられていますので、ときどきどこかの部品が切れたり、折れたりしないわけにはいきません。しかし、そんなことによって判決全体に狂いを生じさせるようなことがあってはならないのです。ところで革ひもには補充品が用意されてあります。鎖の一つを使いましょう。とはいっても、右腕の振動の微妙さはそれによってそこなわれはしますが」そして、鎖をつけながら、なおもいった。「機械の維持のための予算も今ではひどく制限されています。旧司令官の下では私が自由に使える会計がこの目的だけのためにありました。ここには倉庫があって、そこにはありとあらゆる補充品が貯えられていたのです。告白しますと、私はそれをほとんどぜいたくに使いました。それも以前のことで、新しい司令官の主張するように現在のことではありません。新司令官にとっては、あらゆることがただ古い制度を打破するための口実に役立つのです。今では司令官がこの機械に関する会計を自分の管理に置いています。そして、新しい革ひもをもらいに人をやりますと、切れたのを証拠に出せと要求するのです。新しいのは一週間もたってやっととどき、しかも悪い品質のもので、たいして役に立ちません。ところが、私はそのあいだ革ひもなしでどうやって機械を運転したらよいのか、そのことに気を使ってくれる者はだれ一人としていないのです」
 旅行者のほうは考えこんでいた。外国の事情に決定的に介入することは、いつでも問題がある。彼は流刑地の住民でもなければ、この流刑地が属する国の国民でもない。もし刑執行に断罪を下したり、あるいはそれを阻止しようと思うなら、人からこういわれるだろう。お前は外国人だ。黙っていろ。それに対して少しでも答えられる言葉はなくて、ただつぎのようにつけ加えていうことができるだけだろう。自分はこの件についてはさっぱりわからない。なにしろ自分はただ見物しようという目的だけで旅行しているのであって、たとえば外国の裁判制度を変えようなどという目的なんかで旅行しているのではけっしてない、と。とはいうものの、この土地ではいろいろな事柄がひどくこちらの気をそそるものがある。裁判手続きの不公正なことと刑執行の非人間的なこととは疑う余地がない。それをだれだって旅行者の何か利己的な気持と受け取ることができないのだ。というのは、受刑者は彼にとっては縁のない者であり、同国人でもなければ、同情は全然そそらないような人間だ。旅行者は上級の役所のいろいろな紹介状をもっていて、この土地ではたいへん鄭重《ていちょう》に迎えられたのだった。そして、彼がこの刑執行に招待されたことは、この裁判についての彼の判断を要求していることを暗示するもののようにさえ思われた。今、あまりにもはっきり聞いたように、司令官はこの裁判手続きの賛成者ではなく、この将校に対してほとんど敵意ある態度を取っているだけに、いっそうそんなふうに思われるのだった。
 そのとき、旅行者は将校の怒った叫び声を聞いた。将校はちょうど、骨を折らないわけにはいかなかったのだが、受刑者の口にフェルトの出ばりを押し入れたところだった。すると、受刑者は我慢できない吐き気のうちに両眼を閉じ、嘔吐《おうと》した。将校は急いで受刑者をフェルトの出ばりから起こして、頭を穴へ向けようとした。ところがもう遅くて、汚れものがすでに機械を伝わって流れ落ちた。
「みんな司令官の罪だ!」と、将校は叫んで、思慮を失ってしまったようになって前の真鍮棒をゆすぶった。「私の機械はまるで馬小屋のように汚されてしまった」彼はふるえる両手で、起ったことを示した。「刑執行の一日前には食事を与えてはならない、ということを私が何時間ものあいだ司令官にわからせようとしないとなると、すぐこの有様ですからね。ところが、司令官の流儀の新しいおだやかな方針は私のとは別な考えかたをしています。司令官の取巻きのご婦人がたは、受刑者がつれてこられる前に、首のところまで砂糖菓子をつめこんでやる始末です。一生のあいだ悪臭が鼻をつくような魚を食って生きてきたのに、今度は砂糖菓子を食わなければならない、というわけです! でも、それもまあよろしいでしょう。私は何も異論は申しますまい。しかし、私が三カ月も前から請求している新しいフェルトをなぜ調達してくれぬのでしょう。どうして受刑者が吐き気をもよおさずにこのフェルトを口に入れることができるでしょうか。なにしろ、百人以上の者が臨終のときに吸ったり、かんだりしたのですからね」
 受刑者は頭を伏せてしまっていて、落ちついたように見えた。兵士は受刑者のシャツで機械を磨くことにかかりきりになっていた。将校が旅行者のほうへ近づいていったが、旅行者は何かを予感して一歩うしろへ退いた。ところが、将校は彼の手をつかまえて、わきへ引っ張っていった。
「ちょっとばかり内密にあなたとお話ししたいのですが」と、彼はいった。「よろしいでしょうか」
「結構ですとも」と、旅行者はいって、眼を伏せたまま、相手のいうことに耳を傾けた。
「この手続き、この処刑は、今あなたが驚嘆のうちに見学される機会をもたれているわけですが、現在われわれの流刑地ではもう公然たる支持者を一人ももっていません。私がそのただ一人の擁護者であり、同時に旧司令官の遺産のただ一人の擁護者でもあります。この手続きの拡大建設などということは、私はもう考えていません。私は現存するものの維持のために全力を費しているのです。旧司令官の存命中は、流刑地は彼の支持者であふれていました。旧司令官の説得力は私も一部分はもっているのですが、あのかたのもっておられた権力は私にはまったく欠けています。そのために支持者どもはこそこそ隠れてしまいました。まだ多くの支持者がいるのですが、だれ一人としてそのことを告白しません。もしあなたが、きょう、つまり処刑が行われる日ですが、茶店へいらっしゃって、いろいろ聞き廻られるならば、あなたはおそらくただあいまいな意見だけを聞かれることでしょう。それはどれも支持者ばかりなのです。しかし、現司令官の下で現司令官のさまざまな考えかたに動かされるとなると、そういう連中も私のためにはなんの役にも立ちません。ところで私はあなたにおたずねしたいのですが、この司令官のために、また彼に入れ知恵している司令官の側近の婦人どものために、このような生涯《しょうがい》の仕事が」――彼は機械を指さした――「消滅しなければならないものでしょうか。そんなことを許しておいてよいのでしょうか。ただ外国人として一日二日この島にいるだけとしても、そんなことを許しておいてよいでしょうか。しかし、ほんのしばらくでもぐずぐずしてはいられないのです。私の裁判権を奪おうとして何か準備されています。すでに司令部では何回も会議が行われています。それらの会議に私は招かれません。あなたの今日のご来訪も、私には全体の情勢を示すもののように思われます。連中は臆病なものですから、外国人であるあなたをまずよこしたのです。――以前には刑の執行はこんな有様とはどんなにちがっていたことでしょう! 処刑の前日には早くも谷間全体が人でいっぱいでした。みんな、ただ見るためにやってきたのです。朝早く司令官がご婦人がたをつれてこられました。ラッパの音が高らかに鳴って、この野営地全体を目ざませます。私は、いっさいの準備ができていると報告しました。ご一行は――身分の高い役人たちは欠席してはならなかったのです――機械のまわりに並びました。この籐椅子《とういす》の山はあの時代をわずかにしのばせるみすぼらしい残骸なのです。機械は磨かれてぴかぴか光っていましたし、死刑執行があるたびに新しい部品を受け取りました。何百人という人びとの前で――むこうの山腹まで、全観客が爪立ちしてながめていました――受刑者が司令官自身の手でエッゲの下に寝かされました。今日では下等な兵士がやることになっている仕事が、当時は裁判長である私の仕事であり、大いに名誉なことでした。さて、刑執行が始まりました! 騒音によって機械の働きがじゃまされるようなことはありませんでした。多くの観客はもう全然見物していないで、両眼を閉じて砂のなかに寝ていました。今、正義が行われているのだ、ということをみんなが知っていました。静けさのなかで聞こえるものはフェルトによって抑えられた受刑者のうめく声でした。今日では、フェルトが殺してしまうよりももっと強いうめき声を受刑者からしぼり出すことは、もうこの機械にはできません。ところがあのころには、文字を刻む針が腐蝕《ふしょく》させる液体をしたたらせていました。その液体は今ではもう使用してはいけないことになっているのです。さてやがて例の六時間目がくるのです! 近くで見物したいというみんなの希望を許すことはできないくらいでした。司令官はご自分の考えからだれよりもまず子供たちのことを考えてやれと命令されました。私はもちろん私の職務柄、いつでもそばにいてもよかったわけですが。で、私は小さな子供を左右の腕に一人ずつ抱いて、機械のところで何度もかがみこんだのでした。われわれみなは虐《さいな》まれている受刑者の顔から御光が射し始めたような表情をどんなふうに受け取ったことでしたろう。このついに達成された、そして早くも消え失せていく正義の光のなかで、われわれは自分たちの頬をどんなふうに輝かしていたことでしたろう! ねえ、君、なんとすばらしい時代だったろうねえ!」将校は、今自分の前に立っているのがだれなのか、忘れてしまったらしかった。彼は旅行者を抱いて、頭を旅行者の肩の上に置いた。旅行者はひどく当惑してしまい、いらいらしながら将校の身体を越えてむこうを見やった。兵士は機械掃除の仕事を終え、今度は飯盒《はんごう》から米がゆを鉢に入れた。もうすっかり元気を回復したように見える受刑者はこれに気づくやいなや、舌でかゆをぺろぺろなめ始めた。兵士は何度もくり返して受刑者を押しのけた。というのは、かゆはもっとあとで食べさせることになっているのだ。ところが、兵士が汚ない両手を突っこんで、がつがつしている受刑者の前でそのかゆを食べているのは、ともかくけしからぬことではあった。
 将校はすぐに正気を取りもどした。
「あなたの心を動かすつもりではなかったのです」と、彼はいった。「あのころのことを今わかっていただくことは不可能だ、ということは私もよく知っています。それに機械はまだ動いていますし、ひとりで働きます。機械はこの谷間にひとりぼっちになっていても、ひとりで働きます。そして、あのころのように何百という見物人がまるで蝿みたいに穴のまわりに集っていなくとも、死体は結局は今でもまだおだやかに飛んで穴のなかへ落ちていきます。あのころには、われわれは丈夫な手すりを穴のまわりにつけなければなりませんでしたが、それもずっと前に取り除かれてしまいました」
 旅行者は顔を将校からそむけようと思って、あてもなくあたりを見廻した。将校は、相手が谷間の荒涼とした風景をながめているのだ、と思った。そこで旅行者の両手をつかみ、相手の視線をとらえようとしてそちらへ身体を廻し、そしてたずねた。
「この不面目な有様にお気づきなのですか?」
 だが、旅行者はだまっていた。将校はほんのちょっとのあいだ、相手にかまうことをやめた。そして、両脚を開いたまま、両手を腰にあてて、無言で立ち、地面を見ていた。それからはげますように旅行者にほほえみかけて、いった。
「きのう、司令官があなたをここへ招待したとき、私はあなたのすぐ近くにおりました。私はその招待の言葉を聞きました。私は司令官をよく知っています。司令官がこの招待で何を狙っているのか、私にはわかりました。司令官の権力はこの私を処分するに十分なほど大きいにもかかわらず、まだ思いきってそうしようとしません。でも、きっとあなたという声望ある外国人のかたの判断にさらしてやろうというつもりなのです。司令官の計算は念入りなものです。あなたはこの島にこられてまだ二日目ですし、旧司令官とあのかたの考えかたというものをご存じなかったわけです。あなたはヨーロッパ的な考えかたにとらわれておられる。おそらくあなたは死刑一般の原則的な反対者であり、ことにこのような機械による処刑の原則的な反対者でしょう。その上、処刑が公衆の関心を集めることもなくさびしげに、すでにいくらか破損した機械によって進められる、ということをごらんになりました。――で、こういうことをすべて併せるならば(そう司令官は考えているのです)、あなたが私の手続きを正しくないとお考えになるのは、ひどくありそうなことではないでしょうか。そして、もしあなたが私のやりかたを正しくないとお考えならば、あなたはこのことを(私は相変らず司令官の考えているままの意味でお話ししているわけですが)黙ってはおられないでしょう。というのは、あなたはきっと、いろいろおためしになった確信に信頼をおいていらっしゃるはずです。あなたはたしかに多くの民族のたくさんの特性をごらんになったし、それらを尊重することをお学びにもなってはおられます。それゆえ、おそらくお国においてなされるように全力をふるってこのやりかたに反対を唱えられないかもしれません。しかし、そんなことは司令官も全然求めてはいないのです。ほんのかりそめの、ただ不用意な言葉だけで十分なのです。その言葉がただ司令官の望みに外見上だけでもかないさえすれば、何もあなたの確信とぴったり一致しなくともいいのです。司令官がずるさの限りをつくしてあなたから聞き出すだろうということは、私は確信しています。そして、司令官の取巻きのご婦人たちは車座をつくって坐り、耳をそば立てて聞くことでしょう。そして、あなたはたとえば『われわれの国では裁判手続きはちがっています』とか、『われわれの国では被告は判決の前に訊問を受けます』とか、『われわれの国には死刑以外の刑があります』とか、『われわれの国に拷問《ごうもん》があったのは、中世においてだけでした』とか、おっしゃるでしょう。それらは、正しくもあれば、あなたには自明に思われもする言葉です。しかし、私のやりかたには少しもさしさわりのない無邪気な言葉です。しかし、司令官はそれらの言葉をどう受け取るでしょうか。あの司令官がすぐ椅子をわきへ押しやり、バルコニーのほうへ急いでいく様子が、私には眼に見えるようです。取巻きのご婦人たちが司令官のあとをなだれを打って追いかけていく様子が、眼に見えるようです。司令官の声が――ご婦人たちはあの人の声を雷の声と呼んでいます――聞こえるようです。ところで、司令官はこんなことをいうでしょう。『各国の裁判手続きを調査するよう使命を帯びておられるあるヨーロッパの大学者は、古い慣例によるわれわれの手続きは非人間的なものである、といわれた。このようなかたのこのご判定をうかがったあとでは、この手続きを許しておくことはむろん私にはできない。そこで本日から私は指令するが――とかなんとか』司令官が告げたようなことは、あなたはおっしゃらなかった。私のやりかたを非人間的などと呼ばれなかった。それどころか反対に、あなたの深いご洞察《どうさつ》に相応して、それをもっとも人間的で、もっとも人間にふさわしいものと思っておられる。あなたはまたこの機械装置を感嘆しておられる。こんなふうにあなたは異議を申されるでしょう。しかし、それも手遅れです。すでにご婦人がたでいっぱいのバルコニーに、あなたは全然出てはいけないでしょう。あなたはご自分にみんなの注意をひこうとされるでしょう。叫ぼうとされるでしょう。でも、ご婦人の一人の手があなたの口をふさいでしまいます。――そして、私と前司令官との仕事も破滅してしまうのです」
 旅行者は微笑を抑えないでいられなかった。それでは、彼がひどく困難と考えていた課題は、ひどくやさしいものだったわけだ。彼は相手の言葉をかわしながらいった。
「あなたは私の影響力を買いかぶっておられるのですよ。司令官は私がもってきた紹介状を読みましたが、私が裁判手続きの専門家なんかではないということを知っています。もし私が意見を述べるならば、それは一個の私人の意見であって、ほかの任意のだれかの意見よりも少しだって重要というわけのものではありません。ともかく、私が知っていると思われる限りではこの流刑地でひどく広汎《こうはん》な権限をもっている司令官の意見に比べたらずっと意味がないものです。もしこの手続きについての司令官の意見が、あなたのお考えになっているほどきっぱりときまっているものならば、私のささやかな助力なんか必要としないで、おそらくはもうこの手続きの終りがきているはずですが」
 将校はもうわかったのだろうか。いや、まだわかっていなかった。彼は勢いよく頭を振り、ちょっと受刑者と兵士とのほうを振り返った。この二人はぎくりとして、米がゆを食べるのをやめた。将校は旅行者の近くまで近づいていき、彼の顔は見ないで、上衣のどこかを漠然《ばくぜん》とながめながら、さっきよりも低い声でいうのだった。
「あなたは司令官をご存じありません。あなたは司令官にとっても、またわれわれのすべてにとっても――どうかこんないいかたをお許し下さい――いわば無害な立場におられます。それで、私のいうことを信じていただきたいのですが、あなたの影響力はいくら高く評価しても評価しすぎることはできないのです。あなたがおひとりで刑の執行に立ち会われると聞いたとき、私はほんとうにうれしく思いました。司令官のこの指示が私を目当てにしているというならば、今度は私がそれを自分に有利なようにしむけてやるだけの話です。まちがった耳打ちとか軽蔑的なまなざしとかにまどわされることなく――そうしたものは刑の執行に相当大きな関心を抱いている場合には避けられないものでしょうが――あなたは私の説明を聞いて下さり、機械もごらん下すって、今度は刑執行を見学しようとされています。あなたのご判断はきっともうきまっているはずです。まだちょっとしたはっきりしない諸点が残っているとしても、刑執行をごらんになればそんなものは片づいてしまうでしょう。ところで、あなたにお願いしておきます。どうか司令官に対抗できるように私を助けていただきたいのです」
 旅行者はそれ以上将校に語らせておかなかった。
「どうしてそんなことができるでしょう」と、彼は叫んだ。「そんなことはまったく不可能です。あなたのお役に立つことも、あなたに害を加えることも、どっちだってできません」
「あなたはおできになります」と、将校はいった。旅行者は、将校が両手の拳を固めているのを、いくらか恐れをこめて見てとった。「あなたはおできになります」と、将校はいっそう迫ってくるようにくり返していった。「成功するにちがいない計画を一つもっています。あなたの影響力は十分でない、とあなたは信じておられます。ところが、それが十分である、ということを私は知っております。しかし、あなたのお考えがもっともだとみとめたとしても、この手続きを維持するためにあらゆること、そしておそらくはあまり十分とはいえないことでさえもやってみることが必要なのではないでしょうか。そこで、まあ私の計画を聞いて下さい。それを実行するためには、何よりもまず、あなたがきょうのところはこの流刑地で私のやりかたに関するあなたのご判断をできるだけさしひかえて下さることが必要です。もしあなたがざっくばらんにたずねられないときには、あなたはけっしてご自分の考えを表明されてはなりません。つまり、あなたのご発言は手短かで漠然としたものでなければならないのです。それについて語ることはあなたにはむずかしいことになるということ、あなたが不快に感じていらっしゃるということ、もし率直に話さなければならないとしたら、まったく呪いの言葉を爆発させないわけにいかないということを、人びとに気づかせなければなりません。私は何もあなたにうそをつけなどと求めはしません。けっしてそんなことはありません。あなたはただ手短かに答えていただきたいのです。たとえば、『ええ、私は刑の執行を見ました』とか、『ええ、私はあらゆる説明をうかがいました』とかいう調子にです。それだけのことで、それ以上のことをお願いしているわけではありません。あなたが感じていらっしゃると人びとに気づかせる不快な感情というものには、実際、十分な動機があります。たとい司令官の考えているような意味でではなくとも、そういう動機はたしかにあります。司令官はむろんそれを完全に誤解して、あの人の考えている意味で解釈することでしょう。私の計画もその点に根拠をおいているわけです。あす、司令部で司令官の主宰の下に上級行政官全員の大きな会議が行われます。司令官はむろん、こうした会議で見世物をつくり出すこつを心得てしまったのです。そのために回廊がつくられ、傍聴者でいつもいっぱいです。私はよんどころなくそうした相談会に加わらなければなりませんが、不快な気持で身ぶるいするほどです。ところで、あなたはどうあっても今度の会議に招待されるにきまっています。もしあなたがきょう、私の計画にふさわしい態度をとって下さるならば、この招待は私にとってどうしても願わしいものとなるでしょう。でも、もし何らかの理由からあなたがまだ招待されていらっしゃらなければ、招待してもらうように要求なさっていただきたいのですが。そうすれば招待を受けられることは、疑いありません。そこで、あなたはあす、ご婦人がたとともに、司令官のさじきに坐られるということになります。司令官は何度も上眼を使って、あなたがおいでになることをたしかめるでしょう。いろいろなどうでもいいような、滑稽な、ただ傍聴者をあてこんだだけの議題が論じられたあとで――たいていは築港のことです。いつもいつも築港のことです――裁判手続きのことも議題にのぼるでしょう。司令官の側からこれが出なかったり、あるいは十分早いうちに出ないような場合には、それが話に出るように私が計らいます。私は立ち上がって、きょうの刑執行の報告をしましょう。このような報告はその会談では慣例のものではありませんが、私はそれでもやってやります。司令官は、いつものように親しげな微笑を浮かべて私に礼をいうでしょう。そして、それからもう自分を抑えることができなくなり、この絶好の機会をつかむでしょう。『ただいま』とかなんとか彼はしゃべることでしょう。『刑執行の報告が行われました。この報告に私からつけ加えたいことはほかでもありません。まさにこの刑執行には、みなさんがご承知のようにわが流刑地にとって非常な名誉である訪問をたまわった偉大な学者のかたがお立ち会い下さいました。それにわれわれの今日の会議もこのかたのご出席によっていちだんとその意義を深めたわけであります。で、この偉大な学者のかたに向って、古い慣例による刑執行とそれに先立つ裁判手続きとをどう思われるか、おたずねしてみようではありませんか』むろん、満場の拍手、全員一致の賛成ということになります。私はいちばん大きく拍手します。司令官はあなたの前でお辞儀して、こういうでしょう。『それでは、全員を代表いたしまして、私からおたずねします』そこで、あなたは手すりのところへ歩み出られます。どうか両手を全員に見えるようにお置きになって下さい。そうでないと、ご婦人がたに手をつかまれ、指でもてあそばれますからね。――そして今やついにあなたのお話が行われるわけです。どうやってそれまでの何時間かの緊張を耐えていくか、私にはわからないくらいです。あなたは演説においてけっして限界などを置かれる必要はありません。真実を述べてさわぎ立てて下さい。手すりの上に身体をのり出して、がなり立てて下さい。そうです、司令官に向ってあなたのご意見、あなたのゆるぎないご意見をがなり立てて下さい。でも、おそらくあなたはそんなことはなさりたくないでしょう。そんなことはあなたのお人柄にはふさわしくないでしょうし、あなたのお国では、おそらくこういう場合には別な態度をおとりになるものでしょう。それももっともで、それでもまったく十分なのです。立ち上がったりなさらないでもいいのです。ただ一こと二ことおっしやるだけでいいのです。あなたの下にいる役人どもに聞こえるようにただささやくような調子でその言葉をおっしゃっていただくだけで結構です。それで十分です。あなたは何もご自分で刑執行に対して関心が欠けているとか、歯車がきしるとか、革ひもが切れたとか、フェルトがじつにたまらないほどむかつく、などということをお話しになる必要は全然ありません。いいえ、あとのことはみんな私が引き受けます。そして、私の申し上げることを信じていただきたいが、もし私の演説が司令官をあのホールから追い出さなければ、そのかわりに司令官をひざまずかせて、『旧司令官よ、君の前に私は頭を下げる』と、告白させてやるばかりです。――これが私の計画です。この計画の実行で私をお助け下さいますか。でも、むろんお助け下さるものと思います。それどころか、あなたはそうしなければならないのです」そして、将校は旅行者の両腕をとらえ、重い息をつきながら彼の顔を見た。最後の言葉はまるで叫ぶようにいったので、兵士と受刑者さえもそれに注意を向けていた。この二人は何もわからなかったにもかかわらず、食うことをやめて、口のなかでもぐもぐかみながら旅行者のほうを見やっていた。
 旅行者にとっては、自分が与えるべき返事ははじめから疑う余地がなかった。彼はこれまでの人生においてあまりにも多くの経験を積んでいたので、今の場合に動揺などしているわけがなかった。彼は根本において正直な人間であり、恐れなどというものを知らなかった。それにもかかわらず、今、兵士と受刑者とをながめて、ちょっとのあいだためらった。だが、ついにいわないではおられないままに、「いや、できません」と、いった。将校は何度かまばたきしたが、視線を旅行者から放さなかった。
「その説明をお聞きになりたいのですか」と、旅行者はたずねた。将校は無言のままうなずいた。「私はこんなやりかたに反対する者です」と、旅行者はいった。「まだあなたが私を信頼して打ち明けられないうちから――このご信頼を私はむろんどんなことがあっても悪用はいたしませんが――私がこのやりかたに介入することが正しいかどうか、また私の介入が少しでも成功の見込みがあるものかどうか、すでにいろいろ考えていました。その場合、私がだれを相手にすべきかは、はっきりわかっていました。むろん、司令官に向って申し上げるのです。あなたはその点を私にいっそうはっきり教えて下さいました。とはいっても、たとえば私の決心をそれではじめて固めさせて下すったわけではありませんが。反対に、あなたの正直な確信は、私の判断をまよわせはしないにしても、私の心を大いに打ちました」
 将校は無言のままでいたが、機械のほうを振り向くと、真鍮棒の一本をつかみ、つぎに少しばかり身体をうしろにそらせて、図引きを見上げた。すべてうまくいっているか、調べているような恰好だ。兵士と受刑者とはたがいに仲がよくなったらしい。受刑者は、固くしばりつけられているためやるのがむずかしいのに、兵士に向って合図をした。受刑者が兵士に何かをささやくと、兵士はうなずいて見せた。
 旅行者は将校のあとを追っていって、こういった。
「あなたは、私が何をしようとしているのか、まだおわかりになっていません。私はこのやりかたについての私の考えを司令官に話しはするでしょうが、会議なんかで話すわけではなく、二人だけで話すのです。それに、何かの会議に呼ばれるほど長くご当地にとどまりもしないでしょう。あすの朝に出発しているか、あるいは少なくとももう乗船していることでしょう」
 将校がその言葉に耳を傾けているようには見えなかった。
「では、このやりかたはあなたに納得してはいただけなかったわけです」と、将校はひとりごとをいって、微笑した。ちょうど、老人が子供のばかげたことを微笑し、その微笑の背後に自分のほんとうの考えをおさめておくような様子だった。
「では、もう時間だ」と、ついに将校はいって、突然、何かをうながすような、何か協力を求めて呼びかけているような気持のこもった明るいまなざしをして、旅行者をじっと見つめた。
「何をやる時間なのです」と、旅行者は落ちつかないような様子でたずねたが、返事はなかった。「お前は釈放だ」と、将校は受刑者に向ってその国語でいった。受刑者ははじめのうちは将校のいうことが信じられなかった。「さあ、お前は釈放だ」と、将校はいった。はじめて受刑者の顔はほんとうの生気を取りもどした。それはほんとうのことなのだろうか。ただ将校の気まぐれにすぎず、そんなものはいつまた変わるかもしれないのではなかろうか。外国人の旅行者が自分のために恩赦《おんしゃ》を受けさせてくれたのだろうか。どうしたというのだろう。受刑者の顔はそんなふうにたずねているようだった。しかし、長いことではなかった。たといどうであろうと、もし自由になれるものなら、ほんとうに自由になりたかったのだ。そこで、エッゲが許す限り、身体をゆすり始めた。
「革ひもを切ってしまうじゃないか」と、将校は叫んだ。「おとなしくしろ! すぐほどいてやる」そして、将校は兵士に合図して、兵士といっしょに仕事に取りかかった。受刑者は声を立てずに低くひとり笑った。顔をあるいは左側の将校へ、あるいは右側の兵士へと向け、旅行者のことも忘れなかった。
「そいつを引っ張り出せ」と、将校は兵士に命じた。その場合、エッゲがあるため、いくらか用心しなければならなかった。受刑者はあせったため、もう背中にいくつかの小さなかすり傷をつけてしまっていた。
 ところが、そのときから将校はもう受刑者のことはほとんどかまわなかった。彼は旅行者のほうへ歩みよって、また例の小さな革の紙入れをポケットから取り出し、それをめくっていたが、ついに探していた紙片を見つけ出して、こういった。
「読んでごらんなさい」
「私には読めません」と、旅行者はいった。
「そんな紙片は私には読めないと、さっき申し上げたじゃありませんか」
「どうか、とっくりとこの紙片をごらん下さい」と、将校はいって、旅行者といっしょに読むために彼の、わきに立った。それもなんの役にも立たなかったとき、まるで紙片にはどんなことがあってもさわってはならないかのように、かなり高く上げた小指で紙の上をたどってみせた。こういうふうにして、旅行者が読むことをやさしくしようというのだった。旅行者は、少なくともこの点で将校の気に入るようにやってやろうと努めてはみたが、彼には読むことはできなかった。すると、将校はその文句を一つ一つの文字でくぎりながらたどり始め、つぎにもう一度、それをまとめて読み上げた。
「『正しくあれ』というのです」と、将校はいった。「今度はあなたにもお読みになれるでしょう」
 旅行者はあまり紙の上に近くかがみこんだので、将校はさわられるのではないかという心配から、紙をさらに遠ざけた。そこで、旅行者はもう何もいわなかったけれども、彼が相変らず読めないことは明らかであった。
「『正しくあれ』というのです」と、将校はもう一度いった。
「そうかもしれません」と、旅行者はいった。「そこにそう書いてあるように思いますが」
「では、よいのです」と、将校は少なくともいくらかは満足していった。それから、紙片をもったまま梯子をのぼった。彼はひどく慎重に図引きにはめこみ、歯車じかけをすっかり切りかえているらしかった。それはひどく骨の折れる仕事にちがいなく、まったく小さな歯車が問題になっているにちがいなかった。ときどき、将校の頭は完全に図引きのなかに隠れてしまった。それほど精密に歯車じかけを調べなければならなかったのだった。
 旅行者は上からこの仕事ぶりをたえず眼で追いつづけていた。彼の首は固くなってしまい、両眼は太陽の光がふり注ぐ空によって痛くなった。兵士と受刑者とはただおたがい同士のことに夢中になっていた。すでに穴のなかに横たわっていた受刑者のシャツとズボンとは、兵士の手で銃剣の先にひっかけて拾い出された。シャツはひどく汚れていた。受刑者はそれをバケツで洗った。それからシャツとズボンとを身につけたときに、兵士も受刑者自身も大きな声で笑わないではいられなかった。というのは、衣類はうしろが二つに裂かれていたのだった。おそらく受刑者は、兵士を楽しませる義務があるものと思ったようで、裂き切られた服を着たままの姿で兵士の前で輪を描いてぐるりと身体を廻して見せた。兵士のほうは、地面にあぐらをかいて、笑いながら膝をたたいている。それでも、ともかく彼らはやはり偉い人たちがこの場にいることを考えないわけにはいかなかった。
 将校は上のほうでついに仕事をすませると、微笑しながらもう一度全体をすみずみまでながめわたし、今度はそれまで開いていた図引きの蓋を閉めて、下りてきた。そして、穴のなかをのぞき、つぎに受刑者を見て、受刑者が自分の衣類を穴から取り出したことを満足そうに見て取った。それから両手を洗うためにバケツのところへいったが、もう遅くて気持が悪いほど汚れているのをみとめた。両手を洗うことができないのを残念がりながら、とうとう手を砂のなかへ突っこんだ――この代用品は彼を満足はさせなかったのだが、それで我慢しないわけにいかなかったのだ。――それから立ち上がると、軍服の上衣のボタンをはずし始めた。そのとき、襟のうしろへ押しこんでおいた二枚の婦人もちハンカチがまず落ちてきた。
「さあ、ここにお前のハンカチがあるぞ」と、将校はいって、二枚を受刑者に投げてやった。そして、旅行者に向って、説明しながらいった。
「ご婦人がたの贈物です」
 彼は軍服の上衣を脱ぎ、それから完全に裸になるまでは、急いでいたらしかったにもかかわらず、一つ一つの衣料をひどく念入りに扱い、軍服についている銀モールは指で特別になで、ふさを振ってなおすのだった。こうした入念さにはほとんどそぐわなかったのだが、何か一つを扱い終わると、ただちに気に入らなそうに穴のなかへ投げ捨ててしまうのだ。彼に残された最後のものは、吊り帯のついた短剣だった。将校は剣のさやを払うと、剣を折ってしまい、折れた剣もさやも革ひももみんないっしょにつかんで、それらをひどく激しく投げ捨てたので、穴の下のほうでたがいにぶつかり合う音が聞こえたほどだった。
 今や将校は裸で立っていた。旅行者は唇をかみ、何もいわなかった。これからどういうことになるのか、彼にはわかったが、将校が何かやることを妨げる権利は彼にはなかった。将校がすがりついていた裁判手続きが、ほんとうに今にも廃止されようとしているのであれば――おそらくは旅行者の介入のためだ。旅行者のほうでは介入する義務があると感じているのだった――将校は今や完全に正しくふるまっているわけだ。旅行者も、彼の立場にあったならば、それとちがった行動をとらなかったことだろう。
 兵士と受刑者とは最初はなんのことやらわからず、はじめのうちは一度もこちらを見ようとしなかった。受刑者は二枚のハンカチを返してもらったことをひどくよろこんでいたが、いつまでもハンカチのことをよろこんでいるわけにはいかなかった。というのは、兵士が思いがけなくも素早く取り上げてしまった。すると今度は受刑者のほうが、兵士が挟んでおいた帯革からそれらのハンカチを引き抜こうとした。ところが兵士のほうはゆだんがなかった。そうやって二人は半ばふざけて争っていた。将校が完全に裸になったときにやっと、二人は気がついた。ことに受刑者は、何か大きな変化が起こるかもしれないという予感に打たれているようだった。自分に起ったことが、今や将校に起っているのだ。おそらく極端なところまでいくことだろう。どうも外国人の旅行者がそうするように命令を下したらしい。それでは、これは復讐《ふくしゅう》なのだ。自分では最後までの苦しみはなめなかったが、最後まで復讐はとげられるのだ。すると、彼の顔には満面の声のない笑いが現われ、もはや消えることがなかった。
 ところが、将校はすでに機械のほうに向っていた。将校がこの機械のことをよく知っていることは前もってわかっていたのではあるが、将校がその機械を扱い、また機械が彼のいうなりになる有様は、ほとんど人をびっくりさせるほどのものがあった。将校が手をエッゲに近づけただけで、エッゲは何度も上がったり下がったりして、最後に将校を受け入れるのに正しい位置に到達したのだった。ベッドのはじをつかんだだけで、ベッドは早くも震動し始めていた。フェルトの出ばりは彼の口に向ってきた。将校がその出ばりだけはほんとうは口に入れたくないことは、見てもわかった。しかし、ためらいはほんの一瞬つづいただけで、彼はすぐにおとなしくそれを口に入れた。すべては用意された。ただ例の革ひもだけはまだベッドのわきに垂れ下がっていたが、それは不必要らしかった。将校はしばりつけられる必要はなかった。そのとき、受刑者はそのゆるんだ革ひもに気づいたのだった。彼の考えによれば、革ひもが固くしめられていなくては、刑の執行は完全とはいえなかった。受刑者は熱心に兵士に合図し、二人は将校をしばりつけるためにかけつけていった。将校は、図引きを動かすハンドルを押そうとして、すでに片足をのばしていた。そのとき、二人がやってくるのを見た。そこで足を引っこめて、黙ってしばられている。とはいっても、今ではハンドルにもうとどくことができない。兵士も受刑者もそれを見つけ出すことはできないだろう。旅行者は身体を動かすまいと決心していた。その必要はなかった。革ひもがつけられるやいなや、機械もたちまち動き出した。ベッドが震動し、針が皮膚の上で踊り、エッゲは上下に振れている。旅行者はしばらくじっとながめているうちに、図引きのなかの歯車の一つがきしるはずだ、ということを思い出した。ところが、すべて静かで、ほんのわずかなうなり声さえも聞かれなかった。
 この静かな仕事ぶりのため、機械は明らかに人びとの注意からはずれてしまった。旅行者は兵士と受刑者とのほうをながめた。受刑者はみんなのなかでいちばん元気がよかった。機械のすべてが彼の興味をひくらしく、あるいはかがんだり、あるいは身体をのばしたりして、たえず人差指をのばしては、兵士に何かを示そうとしていた。旅行者にはその様子が耐えがたかった。彼はこの場に最後までとどまっていようと決心していたが、兵士と受刑者との二人をながめることは、そんなに長くは我慢できなかった。
「お前たち、帰りたまえ」と、彼はいった。兵士はおそらくそのつもりであったのだろうが、受刑者はその命令をほかならぬ罰と受け取ったのだった。彼は哀願するように両手を合わせ、この場にのこしておいてくれ、と頼んだ。そして、旅行者が頭を振って聞き入れようとしないでいると、ひざまずきさえした。旅行者は、いろいろ命令したところで今の場合にはなんの役にも立たないと見て取り、二人のそばへいって、二人を追っ払おうとした。そのとき、上の図引きのなかで物音がするのを聞いた。彼は見上げた。やっぱり歯車が故障なのだろうか。しかし、そうではなかった。図引きの蓋《ふた》がゆっくりともち上がって、やがてばたんと音を立てながら完全に開いた。歯車の一つのぎざぎざが現われ、上がっていき、やがてその歯車の全体が姿を現わした。まるで何か大きな力が図引きを圧しつけたために、この歯車にはおさまっている場所がもうなくなってしまったようだった。歯車は図引きのはじまで廻っていき、それからばたりと下へ落ち、砂の上を少しばかり立ったままころがっていったが、やがて横に倒れた。ところが、上では別な一つの歯車が早くも上へ現われていた。それにつづいて、大きいのや、小さいのや、ほとんど区別できないようなたくさんの歯車がつぎつぎに現われた。どれについても同じようなことになった。今度こそ図引きがどうあっても空になったにちがいない、といつも思われるのだが、そうすると特別数が多い別な歯車群が現われ、上まで上がっていき、下に落ち、砂の上をころがって、最後に横に倒れるのだった。このできごとのために受刑者は旅行者の命令をすっかり忘れてしまっていた。歯車が彼をまったく夢中にしてしまったのだ。たえず歯車の一つをつかもうとして、同時に兵士に向って自分を助けるようにけしかけていた。だが、びっくりして手を引っこめてしまう。というのは、すぐに別な歯車が現われ、少なくともころがってくるときにはぎょっとさせられるのだった。
 それに反して、旅行者はひどく心が落ちつかなかった。機械は瓦壊していくようであった。それが静かに動いたように見えたのは、眼の迷いだったのだ。将校がもう自分自身の心配ができなくなっているので、今は将校の身を引き受けてやらねばならない、というような気が旅行者にはしてきた。ところが、歯車がつぎつぎに落ちてくることが彼の注意全体をひいているあいだに、機械のほかの部分を監視することを忘れていた。しかし、今、最後の歯車が図引きから離れてしまったあとで、エッゲの上にのり出してのぞいてみると、新しいもっとひどい驚きに襲われた。エッゲは書きつけてはいないで、ただ突き刺しているだけだ。ベッドは身体を反転させはしないで、ただ震動しながら身体を針のところへ上げているだけなのだ。旅行者は手を出してやろうと思った。できるならば、機械の働きをとめてしまいたかった。これでは、将校がやろうとしていた拷問《ごうもん》というものどころのさわぎでなく、直接の殺害だ。旅行者は両手をのばした。ところがそのときにはもう、エッゲは普通なら十二時間目にはじめてやるように、突き刺された身体ごとわきへ廻っていた。血が何百というすじを引いて流れ、水ともまじらず、また小さな樋《とい》も今回はどうにもならなかった。そして今度は、さらに最後のことまでがうまくいかなかった。身体は長い針から離れようとせず、血をどくどく流しているが、穴の上に引っかかったまま、下へ落ちようとしない。エッゲはもうもとの位置へもどろうとするのだが、まるで自分が重荷から解放されていないことに自分で気づいているように、穴の上にじっととまっていた。
「手を貸してくれたまえ!」と、旅行者は兵士と受刑者とに向って叫び、自分で将校の両足をつかんだ。彼はここで身体を将校の両足に押しつけようとした。兵士と受刑者との二人には、向う側で将校の頭をつかませる。そうすれば、将校はだんだんと針から抜き取られるはずだ。ところが、二人はやってくる決心がつかないでいる。受刑者はまったくよそを向いている。旅行者は二人のほうへ出向いていき、二人を力ずくで将校の頭のところへつれてこなければならなかった。このときに旅行者はほとんど意に反して死体の顔を見た。まだ生きていたときとそっくりそのままだった。あのかならず表われるといっていた解脱《げだつ》の表情の徴候は発見されなかった。ほかのすべての者がこの機械に寝かされて見出したものを、将校は見出さなかったのだった。唇は固くつぐまれていた。眼は開いたままで、生きているような表情を浮かべ、まなざしはおだやかで、確信にみちていた。額には大きな鉄のみ[#「のみ」に傍点]の尖端が突きささっていた。
 旅行者が兵士と受刑者とを従えて流刑地のはずれにある何軒かの家のところにきたとき、兵士はその一軒を指さして、いった。
「これが茶店です」
 一軒の建物の階下は、奥行が深く、天井が低くて、四方の壁も天井もすすけきっている洞窟《どうくつ》のような部屋だった。その部屋は、街道に面して間口が開け放しになっている。この茶店は、司令部の宮殿風の豪華な建物を除いてみなひどく荒廃しているこの流刑地の普通の家とほとんど区別がないにもかかわらず、それでも旅行者に歴史的記念物という印象を与えた。そして、彼は以前の栄えた時代の権勢を感じたのだった。彼は近よっていき、二人の同伴者を従えたまま、茶店の前の街道に並んでいる人のいないテーブルのあいだを通っていった。建物の内部から吹いてくる冷たくてかびくさい空気を吸った。
「あの旧司令官はここに埋められているんです」と、兵士がいった。「基地の埋め場所は坊さんによって拒まれました。しばらくのあいだ、きまらなかったのですが、とうとうここに埋葬されました。そのことについては将校はきっとあなたに何もお話ししなかったでしょう。なにしろ、あの人はむろんそのことをいちばん恥じていましたからね。あの人は何度か、夜なかにあの旧司令官の死体を掘り出そうとしましたが、そのたびに追い払われたんです」
「その墓はどこにあるんだ?」と、兵士のいうことを信じることができなかった旅行者は、たずねてみた。すぐに、兵士と受刑者との二人は旅行者の前を走っていき、両手をさしのべながら墓のあるはずの方角を示した。二人は旅行者を奥の壁のところへつれていった。そこには、二、三のテーブルに客が坐っていた。港の人足たちらしく、顔いちめんにしっとりと黒い短かな髯を生やし、強そうな男たちだった。みんな上衣は着ていず、シャツはぼろぼろである。貧しくていやしい連中であった。旅行者が近づいていったとき、何人かの者は立ち上がり、壁に身体を押しつけ、彼のほうを見ていた。
「外国人だ」と、旅行者のまわりでささやく声がした。「墓を見ようっていうんだよ」
 人足たちはテーブルの一つをわきへ押しやった。そのテーブルの下にはほんとうに墓石があった。粗末な石で、テーブルの下に隠されることができるほど低い。ひどく小さい文字で書かれた墓銘がついている。旅行者はそれを読むためにひざまずかなければならなかった。それにはこう書いてあった。
「ここに旧司令官が眠る。今、姓名を記すことのできぬ彼の一派の者たちは、彼のために墓を掘り、石を置いた。ある年数のあとに、司令官はよみがえり、この家から一派の者たちをひきいて流刑地を奪還する、という予言がある。信じて、待て」
 旅行者がそれを読み終わり、立ち上がったとき、自分のまわりに男たちが立ち、ほほえんでいるのを見た。自分たちもお前といっしょに墓銘を読んだが、滑稽なものだと思ったし、お前も自分たちの意見に賛成するようにすすめる、といわんばかりだ。旅行者はそれに気づかぬようによそおって、何枚かの貨幣を男たちにわけ与え、さらにテーブルが墓の上に押しもどされるまで待ったあとで、茶店を出て、港へいった。
 兵士と受刑者とは茶店で知合いの者たちを見つけ、彼らに引きとめられた。だが、すぐ彼らから別れてきたにちがいない。というのは、旅行者がボートに通じる長い階段のなかほどまで下りていったときには、二人は彼のあとを追って走ってきたのだった。二人は最後の瞬間に旅行者に頼みこんで、無理にも自分たちをつれていかせるつもりらしい。旅行者が階段の下で一人の船頭と汽船への渡し舟の交渉をしているあいだに、二人はすごい勢いで階段をかけ下りてきた。無言のままだった。彼らはあえて叫ぼうとはしなかった。ところが、二人が階段の下に着いたときには、旅行者はもうボートに乗り、船頭がちょうど岸からボートを離したところだった。二人はまだボートへ跳び移ることができたかもしれない。ところが、旅行者は結び目のある重い一本のロープを舟底から取り上げ、それで追ってくる二人をおどかし、それによって二人が跳び移るのをはばんだのだった。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
入力:kompass
校正:青空文庫
2010年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

原田義人

変身 DIE VERWANDLUNG フランツ・カフカ Franz Kafka ——-原田義人訳

1

 ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。彼は甲殻のように固い背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓形のすじにわかれてこんもりと盛り上がっている自分の茶色の腹が見えた。腹の盛り上がりの上には、かけぶとんがすっかりずり落ちそうになって、まだやっともちこたえていた。ふだんの大きさに比べると情けないくらいかぼそいたくさんの足が自分の眼の前にしょんぼりと光っていた。
「おれはどうしたのだろう?」と、彼は思った。夢ではなかった。自分の部屋、少し小さすぎるがまともな部屋が、よく知っている四つの壁のあいだにあった。テーブルの上には布地の見本が包みをといて拡げられていたが――ザムザは旅廻りのセールスマンだった――、そのテーブルの上方の壁には写真がかかっている。それは彼がついさきごろあるグラフ雑誌から切り取り、きれいな金ぶちの額に入れたものだった。写っているのは一人の婦人で、毛皮の帽子と毛皮のえり巻とをつけ、身体をきちんと起こし、肘《ひじ》まですっぽり隠れてしまう重そうな毛皮のマフを、見る者のほうに向ってかかげていた。
 グレゴールの視線はつぎに窓へ向けられた。陰鬱《いんうつ》な天気は――雨だれが窓わくのブリキを打っている音が聞こえた――彼をすっかり憂鬱にした。「もう少し眠りつづけて、ばかばかしいことはみんな忘れてしまったら、どうだろう」と、考えたが、全然そうはいかなかった。というのは、彼は右下で眠る習慣だったが、この今の状態ではそういう姿勢を取ることはできない。いくら力をこめて右下になろうとしても、いつでも仰向《あおむ》けの姿勢にもどってしまうのだ。百回もそれを試み、両眼を閉じて自分のもぞもぞ動いているたくさんの脚を見ないでもすむようにしていたが、わき腹にこれまでまだ感じたことのないような軽い鈍痛を感じ始めたときに、やっとそんなことをやるのはやめた。
「ああ、なんという骨の折れる職業をおれは選んでしまったんだろう」と、彼は思った。「毎日、毎日、旅に出ているのだ。自分の土地での本来の商売におけるよりも、商売上の神経の疲れはずっと大きいし、その上、旅の苦労というものがかかっている。汽車の乗換え連絡、不規則で粗末な食事、たえず相手が変って長つづきせず、けっして心からうちとけ合うようなことのない人づき合い。まったくいまいましいことだ!」彼は腹の上に軽いかゆみを感じ、頭をもっとよくもたげることができるように仰向けのまま身体をゆっくりとベッドの柱のほうへずらせ、身体のかゆい場所を見つけた。その場所は小さな白い斑点だけに被《おお》われていて、その斑点が何であるのか判断を下すことはできなかった。そこで、一本の脚でその場所にさわろうとしたが、すぐに脚を引っこめた。さわったら、身体に寒気がしたのだ。
 彼はまた以前の姿勢にもどった。「この早起きというのは」と、彼は思った、「人間をまったく薄ばかにしてしまうのだ。人間は眠りをもたなければならない。ほかのセールスマンたちはまるでハレムの女たちのような生活をしている。たとえばおれがまだ午前中に宿へもどってきて、取ってきた注文を書きとめようとすると、やっとあの連中は朝食のテーブルについているところだ。そんなことをやったらおれの店主がなんていうか、見たいものだ。おれはすぐさまくびになってしまうだろう。ところで、そんなことをやるのがおれにとってあんまりいいことでないかどうか、だれにだってわかりはしない。両親のためにそんなことをひかえているのでなければ、もうとっくに辞職してしまっているだろう。店主の前に歩み出て、思うことを腹の底からぶちまけてやったことだろう。そうしたら店主は驚いて机から落っこちてしまうにちがいなかったのだ! 机の上に腰かけて、高いところから店員と話をするというのも、奇妙なやりかただ。おまけに店員のほうは、店主の耳が遠いときているので近くによっていかなければならないのだ。まあ、希望はまだすっかり捨てられてしまったわけではない。両親の借金をすっかり店主に払うだけの金を集めたら――まだ五、六年はかかるだろうが――きっとそれをやってみせる。とはいっても、今のところはまず起きなければならない。おれの汽車は五時に出るのだ」
 そして、たんすの上でカチカチ鳴っている目ざまし時計のほうに眼をやった。「しまった!」と、彼は思った。もう六時半で、針は落ちつき払って進んでいく。半もすぎて、もう四十五分に近づいている。目ざましが鳴らなかったのだろうか。ベッドから見ても、きちんと四時に合わせてあったことがわかった。きっと鳴ったのだ。だが、あの部屋の家具をゆさぶるようなベルの音を安らかに聞きのがして眠っていたなんていうことがありうるだろうか。いや、けっして安らかに眠っていたわけではないが、おそらくそれだけにいっそうぐっすり眠っていたのだ。だが、今はどうしたらいいのだろう。つぎの汽車は七時に出る。その汽車に間に合うためには、気ちがいのように急がなければならないだろう。そして、商品見本はまだ包装してないし、彼自身がそれほど気分がすぐれないし、活溌な感じもしないのだ。そして、たとい汽車に間に合ったとしてさえ、店主の雷《かみなり》は避けることができないのだ。というのは、店の小使は五時の汽車に彼が乗るものと思って待っていて、彼が遅れたことをとっくに報告してしまっているはずだ。あの男は店主の手先で、背骨もなければ分別もない。ところで、病気だといって届け出たらどうだろうか。だが、そんなことをしたら、ひどく面倒になるし、疑いもかかるだろう。なにしろ、グレゴールは五年間の勤めのあいだにまだ一度だって病気になったことがないのだ。きっと店主は健康保険医をつれてやってきて、両親に向ってなまけ者の息子のことを非難し、どんなに異論を申し立てても、保険医を引合いに出してそれをさえぎってしまうことだろう。その医師にとっては、およそまったく健康なくせに仕事の嫌いな人間たちというものしかいないのだ。それに、今の場合、医者の考えもそれほどまちがっているだろうか。事実、グレゴールは、長く眠ったのにほんとうに眠気が残っていることを別にすれば、まったく身体の調子がいい気がするし、とくに強い空腹さえ感じているのだった。
 ベッドを離れる決心をすることができないままに、そうしたすべてのことをひどく急いで考えていると――ちょうど目ざまし時計が六時四十分を打った――、彼のベッドの頭のほうにあるドアをノックする音がした。
「グレゴール」と、その声は叫んだ――母親だった――「六時四十五分よ。出かけるつもりじゃないのかい?」
 ああ、あのやさしい声! グレゴールは返事をする自分の声を聞いたとき、ぎくりとした。それはたしかにまぎれもなく彼の以前の声であったが、そのなかに下のほうから、抑えることのできない苦しそうなぴいぴいいう音がまじっていた。その音は、明らかにただ最初の瞬間においてだけは言葉の明瞭さを保たせておくのだが、その余韻《よいん》をすっかり破壊してしまって、正しく聞き取ったかどうかわからないようにするほどだった。グレゴールはくわしく返事して、すべてを説明しようと思っていたのだったが、こうした事情では、「ええ、わかりましたよ、ありがとう、お母さん、もう起きますよ」と、いうにとどめた。木のドアが距てているため、グレゴールの声の変化は外ではきっと気づかれなかったのだろう。というのは、母親はこの説明で満足して、足をひきずって立ち去った。ところが、このちょっとした対話によって、グレゴールが期待に反してまだ家にいるのだ、ということが家族のほかの者たちの注意をひいてしまった。そして、早くも父親がわきのドアを、軽くではあるが拳《こぶし》でノックした。
「グレゴール、グレゴール」と、父は叫んだ。「いったい、どうしたのだ?」そして、ちょっとたってから、もっと低い声でもう一度注意するのだった。「グレゴール! グレゴール!」
 もう一つのわきのドアでは、妹が低い声で嘆くようにいった。
「グレゴール、どうしたの? かげんが悪いの? 何か欲しいものはないの?」
 グレゴールは両方に向っていった。
「もうすんだよ」
 そして、発音に大いに気を使い、一つ一つの言葉のあいだに長い間《ま》をはさむことによっていっさいの目立つ点を取り除こうと努めた。父親はそれを聞いて朝食へもどっていったが、妹はささやくのだった。
「グレゴール、開けてちょうだいな。ね、お願い」
 だが、グレゴールはドアを開けることなど考えてもみず、旅に出る習慣から身につけるようになった家でもすべてのドアに夜のあいだ鍵《かぎ》をかけておくという用心をよかったと思った。
 はじめは、落ちつき払って、だれにもじゃまされずに起き上がり、服を着て、まず何よりさきに朝食を取ろう、それから、はじめてそれからのことを考えようと思ったのだった。というのは、ベッドのなかにいたのでは、あれこれ考えたところで理にかなった結論に到達することはあるまい、とはっきりと気づいたのだった。これまでしょっちゅうベッドのなかで、おそらくはまずい寝かたをしたためだろうが、そのために起った軽い痛みを感じた、ということを彼は思い出した。その痛みは、やがて起き上がってみるとまったくの空想だとわかったのだった。そして、自分のきょうのさまざまな考えごともだんだん消え去ることだろう、と大いに期待した。声の変化は旅廻りのセールスマンの職業病であるひどい風邪の前ぶれにすぎないのだ、ということを彼は少しも疑わなかった。
 かけぶとんをはねのけるのは、まったく簡単だった。ただちょっと腹をふくらませるだけで、ふとんは自然とずり落ちた。だが、そのあとが面倒なことになった。その理由はことに彼の身体の幅がひどく広かったからだ。身体を起こすためには、手足を使うはずだった。ところが、人間の手足のかわりにたくさんの小さな脚がついていて、それがたえずひどくちがった動きかたをして、おまけにそれらを思うように動かすことができない。やっと一本の脚を曲げようとすると、最初に起こることは、自分の身体がのびてしまうことだった。やっとその脚で自分の思うようにすることに成功したかと思うと、そのあいだにほかのすべての脚がまるで解放されたかのように、なんとも工合の悪い大さわぎをやるのだった。
「ともかくベッドのなかに意味もなくとどまっていないことだ」と、グレゴールは自分に言い聞かせた。
 まず彼は身体の下の部分を動かしてベッドから出ようとしたが、まだ自分で見てもいないし、正しい想像をめぐらすこともできないでいるこの下半身の部分は、ひどく動かすことがむずかしいとわかった。動作はのろのろ進むだけだった。とうとう、まるで半狂乱になって、力をこめ、むちゃくちゃに身体を前へ突き出したが、方角を誤ってしまい、足のほうのベッド柱にはげしくぶつかり、そのとき感じた痛みで、まさに自分の身体の下の部分が今のところいちばん敏感な部分なのだ、ということがわかった。
 そこで、まず最初に上体をベッドの外に出そうと試み、用心深く頭をベッドのへりのほうに向けた。これは思ったとおりうまくいき、身体の幅が広く、体重も重いにもかかわらず、ついに身体全体が頭の転回にのろのろとついて廻った。だが、頭をとうとうベッドの外の宙に浮かべてみると、このやりかたでさらに前へ乗り出していくことが不安になった。というのは、こうやって最後に身体を下へ落してしまうと、頭を傷つけまいとするならば奇蹟でも起こらなければできるものではない。そして、とくに今はどんなことがあっても正気を失うわけにはいかないのだ。そこで、むしろベッドにとどまっていようと心にきめた。
 だが、また同じように骨を折って、溜息をもらしながら、さっきのように身体を横たえ、またもや自分のたくさんの小さな脚がおそらくさっきよりもいっそうひどく争い合っているのをながめ、この勝手な争いに静けさと秩序とをもちこむことが不可能だとわかったときに、もうベッドのなかにとどまっていることはできない、たといベッドから出られるという希望がほんのちょっとしかないにしても、いっさいを犠牲にして出ようと試みるのがいちばん賢明なやりかたなのだ、とまた自分に言い聞かせた、だが同時に、やけになって決心するよりも冷静に、きわめて冷静に思いめぐらすほうがずっといいのだ、とときどき思い出すことを忘れなかった。そんなことを考えている瞬間に、眼をできるだけ鋭く窓のほうへ向けたが、狭い通りのむこう側さえ見えなくしている朝もや[#「もや」に傍点]をながめていても、残念ながらほとんど確信も元気も取りもどすわけにはいかなかった。
「もう七時だ」と、目ざましが新たに打つのを聞いて、彼は自分に言い聞かせた。「もう七時だというのに、まだこんな霧だ」
 そして、完全に静かにしていればおそらくほんとうのあたりまえの状態がもどってくるのではないかといわんばかりに、しばらくのあいだ、静かに、微かな息づかいをしながら、横たわっていた。
 だが、やがて自分に言い聞かせた。「七時十五分を打つ前に、おれはどうあってもベッドを完全に離れてしまっていなければならないぞ。それにまた、それまでには店からおれのことをききにだれかがやってくるだろう。店は七時前に開けられるんだから」そして、今度は、身体全体を完全にむらなく横へゆすってベッドから出る動作に取りかかった。もしこんなふうにしてベッドから落ちるならば、頭は落ちるときにぐっと起こしておこうと思うから、傷つかないですむ見込みがある。背中は固いようだ。だから、絨毯《じゅうたん》の上に落ちたときに、背中にけがをすることはきっとないだろう。落ちるときに立てるにちがいない大きな物音のことを考えると、それがいちばん気にかかった。その音は、どのドアのむこうでも、驚きとまではいかないにしても、心配をひき起こすことだろう。だが、思いきってやらなければならないのだ。
 グレゴールがすでに半分ベッドから乗り出したとき――この新しいやりかたは、骨の折れる仕事というよりもむしろ遊びのようなもので、いつまでもただ断続的に身体をゆすってさえいればよかった――、自分を助けにやってきてくれる者がいれば万事はどんなに簡単にすむだろう、という考えがふと頭に浮かんだ。力の強い者が二人いれば――彼は父親と女中とのことを考えた――それだけで完全に十分なのだ。その二人がただ腕を彼の円味をおびた背中の下にさし入れ、そうやって彼をベッドからはぎ取るように離し、この荷物をもったまま身体をこごめ、つぎに彼が床の上で寝返りを打つのを用心深く待っていてくれさえすればよいのだ。床の上でならおそらくこれらのたくさんの脚も存在意義があることになるだろう。ところで、すべてのドアに鍵がかかっていることはまったく別問題としても、ほんとうに助けを求めるべきだろうか。まったく苦境にあるにもかかわらず、彼はこう考えると微笑を抑えることができなかった。
 この作業は進行して、もっと強く身体をゆすればもうほとんど身体の均衡が保てないというところにまできていた。もうすぐ最後の決断をしなければならない。というのは、あと五分で七時十五分になる。――そのとき、玄関でベルが鳴った。「店からだれかがきたんだ」と、彼は自分に言い聞かせ、ほとんど身体がこわばる思いがした。一方、小さな脚のほうはただそれだけせわしげにばたばたするのだった。一瞬、あたりはしんとしていた。「ドアを開けないのだな」と、グレゴールは何かばかげた期待にとらわれながら思った。だが、むろんすぐいつものように女中がしっかりした足取りでドアへ出ていき、ドアを開けた。グレゴールはただ訪問者の最初の挨拶を聞いただけで、それがだれか、早くもわかった。――それは支配人自身だった。なぜグレゴールだけが、ほんのちょっと遅刻しただけですぐ最大の疑いをかけるような商会に勤めるように運命づけられたのだろうか。いったい使用人のすべてが一人の除外もなくやくざなのだろうか。たとい朝のたった一、二時間は仕事のために使わなかったにせよ、良心の苛責《かしゃく》のために気ちがいじみた有様になって、まさにそのためにベッドを離れられないような忠実で誠実な人間が、使用人たちのあいだにはいないというのだろうか。小僧にききにこさせるだけでほんとうに十分ではないだろうか――そもそもこうやって様子をたずねることが必要だとしてのことだが――。支配人が自身でやってこなければならないのだろうか。そして、支配人がやってくることによって、この疑わしい件の調査はただ支配人の分別にだけしかまかせられないのだ、ということを罪のない家族全体に見せつけられなくてはならないのか。ほんとうに決心がついたためというよりも、むしろこうしたもの思いによって置かれた興奮のために、グレゴールは力いっぱいにベッドから跳《と》び下りた。どすんと大きな音がしたが、それほどひどい物音ではなかった。絨毯がしいてあるため、墜落の力は少しは弱められたし、背中もグレゴールが考えていたよりは弾力があった。そこでそう際立って大きな鈍い物音はしなかった。ただ、頭は十分用心してしっかりともたげていなかったので打ちつけてしまった。彼は怒りと痛みとのあまり頭を廻して、絨毯にこすった。
「あの部屋のなかで何か落ちる音がしましたね」と左側の隣室で支配人がいった。グレゴールは、けさ自分に起ったようなことがいつか支配人にも起こらないだろうか、と想像しようとした。そんなことが起こる可能性はみとめないわけにはいかないのだ。だが、まるでグレゴールのこんな問いに乱暴に答えるかのように、隣室の支配人は今度は一、二歩しっかりした足取りで歩いて、彼のエナメル靴をきゅうきゅう鳴らした。グレゴールに知らせるため、右側の隣室からは妹のささやく声がした。
「グレゴール、支配人がきているのよ」
「わかっているよ」と、グレゴールはつぶやいた。しかし、妹が聞くことができるほどにあえて声を高めようとはしなかった。
「グレゴール」と、今度は父親が左側の隣室からいった。「支配人さんがおいでになって、お前はなぜ朝の汽車でたたなかったか、ときいておられる。なんと申し上げたらいいのか、わしらにはわからん。それに、支配人さんはお前とじかに話したいといっておられるよ。だから、ドアを開けてくれ。部屋が取り散らしてあることはお許し下さるさ」
「おはよう、ザムザ君」と、父親の言葉にはさんで支配人は親しげに叫んだ。
「あの子は身体の工合がよくないんです」と、母親は父親がまだドアのところでしゃべっているあいだに支配人に向っていった。「あの子は身体の工合がよくないんです。ほんとうなんです、支配人さん。そうでなければどうしてグレゴールが汽車に乗り遅れたりするでしょう! あの子は仕事のこと以外は頭にないんですもの。夜分にちっとも外へ出かけないことを、わたしはすでに腹を立てているくらいなんです。これで一週間も町にいるのに、あれは毎晩家にこもりきりでした。わたしたちのテーブルに坐って、静かに新聞を読むとか、汽車の時間表を調べるとかしているんです。糸のこ細工でもやっていれば、あの子にはもう気ばらしなんですからね。たとえばこのあいだも二晩か三晩かかって小さな額ぶちをつくりました。どんなにうまくできたか、ごらんになれば驚かれるでしょうよ。あの部屋にかけてあります。グレゴールがドアを開けましたら、すぐごらんになりますよ。ともかく、あなたがおいで下すって、ほんとによかったとわたしは思っております、支配人さん。わたしたちだけではグレゴールにドアを開けさせるわけにはいかなかったでしょう。あの子はとても頑固者でしてねえ。でも、朝にはなんでもないと申しておりましたが、あの子はきっと工合が悪いのですよ」
「すぐいきますよ」と、グレゴールはゆっくりと用心深くいったが、むこうの対話をひとことでも聞きもらすまいとして、身動きをしなかった。
「奥さん、私にもそれ以外には考えようがありませんね」と、支配人はいった。「たいしたことでないといいんですが。とはいえ、一面では、われわれ商売人というものは、幸か不幸かはどちらでもいいのですが、少しぐらいかげんが悪いなんていうのは、商売のことを考えるとあっさり切り抜けてしまわなければならぬことがしょっちゅうありましてね」
「では、支配人さんに入っていただいてかまわないね」と、いらいらした父親がたずね、ふたたびドアをノックした。
「いけません」と、グレゴールはいった。左側の隣室では気まずい沈黙がおとずれた。右側の隣室では妹がしくしく泣き始めた。
 なぜ妹はほかの連中のところへいかないのだろう。きっと今やっとベッドから出たばかりで、まだ服を着始めていなかったのだろう。それに、いったいなぜ泣くのだろう。おれが起きず、支配人を部屋へ入れないからか。おれが地位を失う危険があり、そうなると店主が古い借金のことをもち出して、またもや両親を追求するからだろうか。しかし、そんなことは今のところは不必要な心配というものだ。まだグレゴールはここにいて、自分の家族を見捨てようなどとは、ほんの少しだって考えてはいないのだ。今のところ絨毯の上にのうのうと寝ているし、彼の状態を知った者ならばだれだって本気で支配人を部屋に入れろなどと要求するはずはないのだ。だが、あとになれば適当な口実がたやすく見つかるはずのこんなちょっとした無礼なふるまいのために、グレゴールがすぐに店から追い払われるなどということはありえない。そして、泣いたり説得しようとしたりして支配人の気を悪くさせるよりは、今は彼をそっとしておくほうがずっと賢明なやりかただ、というようにグレゴールには思われた。だが、ほかの人びとを当惑させ、彼らのふるまいがむりもないと思わせたのは、まさにこのグレゴールの決心のつかない態度だった。
「ザムザ君」と、支配人は今度は声を高めて叫んだ。「いったい、どうしたんだね? 君は自分の部屋にバリケードを築いて閉じこもり、ただ、イエスとかノーとだけしか返事をしない。ご両親にいらぬ大変なご心配をかけ、――これはただついでにいうんだが――君の商売上の義務をまったくあきれはてたやりかたでおこたっている。君のご両親と社長とにかわって話しているんだが、どうかまじめになってすぐはっきりした説明をしてもらいたい。私は驚いているよ、まったく。君という人は冷静な分別ある人間だと思っていたが、急に奇妙な気まぐれを見せつけてやろうと思い始めたようだね。社長はけさ、君の欠勤の理由はあれだろうとほのめかして聞かせてくれはしたが――つまり最近君にまかせた回収金のことだ――、私はこの説明が当っているはずはない、とほんとうにほとんど誓いを立てんばかりにして取りなしておいた。ところが、こうやって君の理解しがたい頑固さを見せつけられては、ほんの少しでも君の味方をする気にはまったくなれないよ。それに、君の地位はけっしてそれほど安定したものじゃない。ほんとうは君にこうしたことを二人きりでいうつもりだったが、君がこうやって無益に私に手間取らせるんだから、ご両親にも聞かれていけないとは思われなくなった。つまり君の最近の成績はひどく不満足なものだった。今はかくべつ商売がうまくいく季節ではない、ということはわれわれもみとめる。しかし、全然商売ができんなんていう季節はあるものではないよ。ザムザ君、そんなものはあるはずがないよ」
「でも、支配人さん」と、グレゴールはわれを忘れて叫び、興奮のあまりほかのすべては忘れてしまった。「すぐ、今すぐ開けますよ。ちょっと身体の工合が悪いんです。目まいがしたんです。それで起きることができませんでした。今もまだベッドに寝ているんです。でも、もうすっかりさっぱりしました。今、ベッドから降りるところです。ちょっとご辛抱下さい! まだ思ったほど調子がよくありません。でも、もうなおりました。病気というものはなんて急に人間を襲ってくるものでしょう! ゆうべはまだまったく調子がよかったんです。両親がよく知っています。でも、もっと正確にいうと、ゆうべすでにちょっとした予感があったんです。人が見れば、きっと私のそんな様子に気がついたはずです。なぜ店に知らせておかなかったんでしょう! でも、病気なんて家で寝なくたってなおるだろう、といつでも思っているものですから。支配人さん! 両親をいたわってやって下さい! あなたが今、私におっしゃっている非難は、みんないわれがありません。これまでにそんなことは一ことだっていわれたことはありません。あなたはおそらく、私がお送りした最近の注文書類をまだ読んではおられないのでしょう。ともあれ、これから八時の汽車で商用の旅に出かけます。一、二時間休んだので、元気になりました。どうかお引き取り下さい、支配人さん。私はすぐ自分で店へいきます。そして、すみませんがどうか社長にこのことを申し上げて下さい」
 そして、グレゴールはこうしたことを急いでしゃべりまくり、自分が何をいっているのかほとんどわからなかったが、きっとベッドですでに習いおぼえた練習のおかげだろうか、たやすくたんすへ近づいて、それにすがって起き上がろうとした。ほんとうにドアを開け、ほんとうに姿を見せて、支配人と話そうと思ったのだった。今こんなに自分に会いたがっている人たちが、自分を見てなんというか、彼はそれを知りたくてたまらなかった。もし彼らがびっくりしたならば、もうグレゴールには責任がないわけで、落ちついていることができる。ところで、もしみんなが平気でいるならば、彼としても興奮する理由はないし、急げば八時にはほんとうに駅へいけるはずだ。最初、彼は二、三回すべすべしたたんすから滑り落ちたが、ついに最後の一跳びをやって立ち上がった。下半身の痛みは燃えるように痛んだが、もう全然気にもかけなかった。今度は、近くにあった椅子のもたれに身体を倒し、小さな脚を使ってそのへりにしがみついた。それによって自分を抑えることができたので、しゃべることもやめた。というのは、今では支配人のいうことに耳を傾けることができるようになっていた。
「息子さんのいわれることが一ことでもわかりましたか」と、支配人は両親にたずねた。「われわれをばかにしているんじゃないでしょうね?」
「とんでもないことです」と、母親はもう泣きながら叫んだ。「あの子はきっと大病なんです。それなのにわたしたちはあの子を苦しめたりして。グレーテ! グレーテ!」と、母親は大声でいった。
「なあに?」と、妹が別な側から叫んだ。両方はグレゴールの部屋越しに言葉を交わしていたのだ。
「すぐお医者様のところへいっておくれ。グレゴールが病気なんだよ。グレゴールが今しゃべったのを聞いたかい?」
「ありゃあ、まるでけものの声だった」と、支配人がいったが、その言葉は母親の叫び声に比べると目立って低かった。
「アンナ! アンナ!」と、父親は玄関の間越しに台所へ向って叫び、手をたたいた。「すぐ鍵屋を呼んできてくれ!」
 すぐさま、二人の娘はスカートの音を立てながら玄関の間をかけ抜けていった――いったい妹はどうやってあんなに早く服を着たのだろう――。そして、玄関のドアをさっと開けた。ドアの閉じる音は全然聞こえなかった。二人はきっとドアを開け放しにしていったのだ。大きな不幸が起った家ではそうしたことはよくあるものだ。
 だが、グレゴールはずっと平静になっていた。それでは、人びとはもう彼が何をいっているのかわからなかったのだ。自分の言葉ははっきりと、さっきよりもはっきりとしているように思えたのだが、おそらくそれは耳が慣れたためなのだろう。それにしても、ともかく今はもう、彼の様子が普通でないということはみんなも信じており、彼を助けるつもりでいるのだ。最初の処置がとられたときの確信と冷静さとが、彼の気持をよくした。彼はまた人間の仲間に入れられたと感じ、医師と鍵屋とをきちんと区別することなしに、この両者からすばらしく驚くべき成果を期待した。さし迫っている決定的な話合いのためにできるだけはっきりした声を準備しておこうと思って、少し咳払いしたが、とはいえすっかり音を抑えてやるように努力はした。おそらくこの物音も人間の咳払いとはちがったふうに響くだろうと思われたからだった。彼自身、それを判断できるという自信はもうなくなっていた。そのあいだに、隣室はすっかり静まり返っていた。おそらく両親は支配人といっしょにテーブルのところに坐り、ひそひそ話しているのだろう。それとも、みんなドアに身をよせて、聞き耳を立てているのかもしれない。
 グレゴールは椅子といっしょにゆっくりとドアへ近づいていき、そこで椅子を放し、ドアに身体をぶつけて、それにすがってまっすぐに立ち上がった――小さな足の裏のふくらみには少しねばるものがついていたからだ。――そして、そこで一瞬のあいだ、これまで骨の折れた動作の休憩をした。それから、鍵穴にはまっている鍵を口で廻す仕事に取りかかった。残念なことに、歯らしいものがないようだった――なんですぐ鍵をつかんだらいいのだろうか――。ところが、そのかわり顎《あご》はむろんひどく頑丈《がんじょう》で、その助けを借りて実際に鍵を動かすことができたが、疑いもなく身体のどこかを傷つけてしまったことには気づかなかった。傷ついたというのは、褐色の液体が口から流れ出し、鍵の上を流れて床へしたたり落ちたのだった。
「さあ、あの音が聞こえませんか」と、隣室の支配人がいった。「鍵を廻していますよ」
 その言葉は、グレゴールにとっては大いに元気づけになった。だが、みんなが彼に声援してくれたっていいはずなのだ。父親も母親もそうだ。「グレゴール、しっかり。頑張って! 鍵にしっかりとつかまれよ」と、両親も叫んでくれたっていいはずだ。そして、みんなが自分の努力を緊張して見守っているのだ、と思い描きながら、できるだけの力を振りしぼって気が遠くなるほど鍵にかみついた。鍵の回転が進行するにつれ、彼は鍵穴のまわりを踊るようにして廻っていった。今はただ口だけで身体をまっすぐに立てていた。そして、必要に応じて鍵にぶらさがったり、つぎにまた自分の身体の重みを全部かけてそれを押し下げたりした。とうとう開いた鍵のぱちりという澄んだ音が、夢中だったグレゴールをはっきり目ざませた。ほっと息をつきながら、彼は自分に言い聞かせた。
「これなら鍵屋はいらなかったわけだ」
 そして、ドアをすっかり開けようとして、ドアの取手の上に頭をのせた。
 彼はこんなふうにしてドアを開けなければならなかったので、ほんとうはドアがもうかなり開いたのに、彼自身の姿はまだ外からは見えなかった。まずゆっくりとドア板のまわりを伝わって廻っていかなければならなかった。しかも、部屋へ入る前にどさりと仰向けに落ちまいと思うならば、用心してやらなければならなかった。彼はまだその困難な動作にかかりきりになっていて、ほかのことに注意を向けるひまがなかったが、そのとき早くも支配人が声高く「おお!」と叫ぶのを聞いた――まるで風がさわぐときのように響いた――。そこで支配人の姿も見たが、ドアのいちばん近くにいた支配人はぽかりと開けた口に手をあてて、まるで目に見えない一定の強さを保った力に追い払われるように、ゆっくりとあとしざりしていった。母親は――支配人がいるにもかかわらず、ゆうべからといてある逆立った髪のままでそこに立っていたが――まず両手を合わせて父親を見つめ、つぎにグレゴールのほうに二歩進み、身体のまわりにぱっと拡がったスカートのまんなかにへなへなと坐りこんでしまった。顔は胸へ向ってうなだれており、まったく見えなかった。父親は敵意をこめた表情で拳《こぶし》を固め、まるでグレゴールを彼の部屋へ突きもどそうとするようだった。そして、落ちつかぬ様子で居間を見廻し、つぎに両手で眼をおおうと、泣き出した。そこで父親の頑強そうな大きな胸がうちふるえるのだった。
 グレゴールはむこうの部屋へは入っていかず、しっかりかけ金をかけてあるドア板に内側からよりかかっていたので、彼の身体は半分しか見えず、その上にのっている斜めにかしげた頭が見えるのだった。彼はその頭でほかの人びとのほうをのぞいていた。そのあいだに、あたりは前よりもずっと明るくなっていた。通りのむこう側には、向かい合って立っている限りなく長い黒灰色の建物の一部分が、はっきりと見えていた――病院なのだ――。その建物の前面は規則正しく並んだ窓によってぽかりぽかりと孔《あな》をあけられていた。雨はまだ降っていたが、一つ一つ見わけることのできるほどの大きな雨粒で、地上に落ちるしずくも一つ一つはっきりと見えた。テーブルの上には朝食用の食器がひどくたくさんのっていた。というのは、父親にとっては朝食は一日のいちばん大切な食事で、いろいろな新聞を読みながら何時間でも引き延ばすのだった。ちょうどまむかいの壁には、軍隊時代のグレゴールの写真がかかっている。中尉の服装をして、サーベルに手をかけ、のんきな微笑を浮かべながら、自分の姿勢と軍服とに対して見る者の敬意を要求しているようだ。玄関の間へ通じるドアは開いており、玄関のドアも開いているので、ドアの前のたたきと建物の下へ通じる階段の上のほうとが見えた。
「それでは」と、グレゴールはいったが、自分が冷静さを保っているただ一人の人間なのだということをはっきりと意識していた。「すぐ服を着て、商品見本を荷造りし、出かけることにします。あなたがたは、私を出かけさせるつもりでしょうね? ところで、支配人さん、ごらんのとおり、私は頑固じゃありませんし、仕事は好きなんです。商用旅行は楽じゃありませんが、旅行しないでは生きることはできないでしょうよ。ところで、支配人さん、どちらへいらっしゃいますか? 店へですか? 万事をありのままに伝えて下さるでしょうね? だれだって、ちょっとのあいだ働くことができなくなることがありますが、そういうときこそ、それまでの成績を思い出して、そのあとで障害が除かれればきっとそれだけ勤勉に、それだけ精神を集中して働くだろう、ということを考えるべき時なのです。私は実際、社長さんをとてもありがたいと思っています。それはあなたもよくご存じのはずです。一方、両親と妹とのことも心配しています。私は板ばさみになっているわけですが、きっとまた切り抜けるでしょう。今でもむずかしいことになっているのに、もうこれ以上私の立場をむずかしくはしないで下さい。店でも私の味方になって下さいませんか。旅廻りのセールスマンなんて好かれません。それは私にもよくわかっています。セールスマンはしこたまもうけて、それでいい暮しをやっている、と考えられているんです。そして、現実の姿もこうした偏見を改めるようにうながすものではないことも、私にはわかっています。でも、支配人さん、あなたはほかの店員たちよりも事情をよく見抜いておられます。いや、それどころか、ないしょの話ですが、社長自身よりもよく見抜いておられるんです。社長は事業主としての立場があるため、判断を下す場合に一人の使用人にとって不利なまちがいを犯すものなんです。あなたもよくご存じのように、ほとんど一年じゅう店の外にいる旅廻りのセールスマンは、かげ口や偶然やいわれのない苦情の犠牲になりやすく、そうしたものを防ぐことはまったくできないんです。というのも、そういうことの多くは全然耳に入ってこず、ただ疲れはてて旅を終えて帰宅したときにだけ、原因なんかもうわからないような悪い結果を自分の身体に感じることができるんですからね。支配人さん、どうかお帰りになる前には、少なくとも私の申し上げたほんの一部分だけでももっともだ、と思って下すっていることを見せて下さるような言葉を一ことおっしゃって下さい」
 だが支配人は、グレゴールの最初の言葉を聞くと早くも身体をそむけ、ただぴくぴく動く肩越しに、唇をそっくり返らしてグレゴールのほうを見返るだけだった。そして、グレゴールがしゃべっているあいだじゅう、一瞬のあいだもじっと立ってはいず、グレゴールから眼をはなさずにドアのほうへ遠ざかっていくのだった。とはいっても、まるでこの部屋を出ていってはならないという秘密の命令でもあるかのように、急がずにじわじわと離れていく。彼はついに玄関の間までいった。そして、彼が最後の一足を居間から引き抜いたすばやい動作を見たならば、この人はそのときかかとにやけどをしたのだ、と思いかねないほどだった。で、玄関の間では、右手をぐっと階段のほうにのばし、まるで階段ではこの世のものではない救いが自分を待ってくれているのだ、というような恰好だった。
 支配人をどんなことがあってもこんな気分で立ち去らせてはならない。そんなことをやったら店における自分の地位はきっとぎりぎりまであぶなくなるにちがいない、とグレゴールは見て取った。両親にはそうしたことが彼ほどにはわかっていないのだ。両親は永年のうちに、グレゴールはこの店で一生心配がないのだ、という確信を築き上げてしまっているし、おまけに今は当面の心配ごとにあんまりかかりきりになっているので、先のことなど念頭にはない始末だった。だが、グレゴールはこの先のことを心配したのだ。支配人を引きとめ、なだめ、確信させ、最後には味方にしなければならない。グレゴールと家族との未来はなんといってもそのことにかかっているのだ! ああ、妹がこの場にいてくれたらいいのに! 妹はりこう者だ。さっきも、グレゴールが落ちつき払って仰向けに寝ていたとき、泣いていた。それに、女には甘いあの支配人も、妹にくどかれれば意見を変えるだろう。妹なら玄関のドアを閉め、玄関の間で支配人の驚きを何とかなだめたことだろう。ところが、妹はちょうど居合わせず、グレゴール自身がやらなければならないのだ。そこで、身体を動かす自分の現在の能力がどのくらいあるかもまだ全然わからないということを忘れ、また自分の話はおそらくは今度もきっと相手に聞き取ってはもらえないだろうということも忘れて、ドア板から離れ、開いている戸口を通って身体をずらしていき、支配人のところへいこうとした。支配人はもう玄関の前のたたきにある手すりに滑稽な恰好で両手でしがみついていたのだった。ところが、グレゴールはたちまち、何かつかまるものを求めながら小さな叫びを上げて、たくさんの小さな脚を下にしたままばたりと落ちた。そうなるかならぬときに、彼はこの朝はじめて身体が楽になるのを感じた。たくさんの小さな脚はしっかと床を踏まえていた。それらの脚は完全に思うままに動くのだ。それに気づくと、うれしかった。それらの脚は、彼がいこうとするほうへ彼を運んでいこうとさえするのだった。そこで彼は早くも、いっさいの悩みはもうこれですっかり解消するばかりになったぞ、と思った。だが、その瞬間、抑えた動きのために身体をぶらぶらゆすりながら、母親からいくらも離れていないところで母親とちょうど向かい合って床の上に横たわったときに、まったく放心状態にあるように見えた母親ががばと高く跳《と》び上がり、両腕を大きく拡げ、手の指をみんな開いて、叫んだのだった。
「助けて! どうか助けて!」
 まるでグレゴールをよく見ようとするかのように、頭を下に向けていたのだが、その恰好とは逆に思わず知らずうしろへすたすたと歩いていった。自分のうしろには食事の用意がしてあるテーブルがあることを忘れてしまっていた。そして、テーブルのところへいきつくと、放心したようになって急いでそれに腰を下ろし、自分のすぐそばでひっくり返った大きなコーヒー・ポットからだくだくコーヒーが絨毯《じゅうたん》の上へこぼれ落ちるのにも全然気づかない様子だった。
「お母さん、お母さん」と、グレゴールは低い声で言い、母親のほうを見上げた。一瞬、支配人のことはまったく彼の念頭から去っていた。そのかわり、流れるコーヒーをながめて、何度か顎をぱくぱく動かさないではいられなかった。それを見て母親は改めて大きな叫び声を上げ、テーブルから逃げ出し、かけていった父親の両腕のなかに倒れてしまった。しかし、今はグレゴールには両親をかまっているひまがなかった。支配人はもう玄関の外の階段の上にいた。手すりの上に顎をのせ、最後にこちらのほうへ振り返っている。グレゴールはできるだけ確実に追いつこうとして、スタートを切った。支配人は何か勘づいたにちがいなかった。というのは、彼は何段も一足跳びに降りると、姿を消してしまったのだった。逃げていきながらも、「ひゃあ!」と叫んだ。その叫び声が建物の階段部じゅうに響いた。まずいことに、支配人のこの逃亡は、それまで比較的落ちついていた父親をも混乱させたようだった。父親は自分でも支配人のあとを追っていくとか、あるいは少なくとも支配人のあとを追おうとするグレゴールのじゃまをしないとかいうのではなくて、支配人が帽子とオーバーといっしょに椅子の一つの上に置き忘れていったステッキを右手でつかみ、左手では大きな新聞をテーブルから取って、足を踏み鳴らしながら、ステッキと新聞とを振ってグレゴールを彼の部屋へ追い返すことに取りかかった。グレゴールがいくら頼んでもだめだし、いくら頼んでも父親には聞き入れてもらえなかった。どんなにへりくだって頭を廻してみても、父親はただいよいよ強く足を踏み鳴らすだけだ。むこうでは母親が、寒い天候にもかかわらず窓を一つ開け放ち、身体をのり出して顔を窓からずっと外に出したまま、両手のなかに埋めている。通りと階段部とのあいだには強く吹き抜ける風が立って、窓のカーテンは吹きまくられ、テーブルの上の新聞はがさがさいうし、何枚かの新聞はばらばらになって床の上へ飛ばされた。父親は容赦《ようしゃ》なく追い立て、野蛮人のようにしっしっというのだった。ところで、グレゴールはまだあとしざりの練習は全然していなかったし、また実際、ひどくのろのろとしか進めなかった。グレゴールが向きを変えることさえできたら、すぐにも自分の部屋へいけたことだろうが、手間のかかる方向転換をやって父親をいらいらさせることを恐れたのだった。それに、いつ父親の手ににぎられたステッキで背中か頭かに致命的な一撃をくらうかわからなかった。だが、結局のところ、向きを変えることのほかに残された手だてはなかった。というのは、びっくりしたことに、あとしざりしていくのではけっして方向をきちんと保つことができないとわかったのだった。そこで彼は、たえず不安げに父親のほうに横眼を使いながら、できるだけすばやく向きを変え始めた。しかし、実のところその動作はひどくのろのろとしかできなかった。おそらく父親も彼の善意に気づいたのだろう。というのは、彼の動きのじゃまはしないで、ときどき遠くのほうからステッキの尖端でその方向転換の動作の指揮を取るような恰好をするのだった。父親のあの耐えがたいしっしっという追い立ての声さえなかったら、どんなによかったろう! それを聞くと、グレゴールはまったく度を失ってしまう。もうほとんど向きを変え終ったというのに、いつでもこのしっしっという声に気を取られて、おろおろしてしまい、またもや少しばかりもとの方向へもどってしまうのだ。だが、とうとううまい工合に頭がドアの口まで達したが、ところが彼の身体の幅が広すぎて、すぐには通り抜けられないということがわかった。グレゴールが通るのに十分な通り路をつくるために、もう一方のドア板を開けてやるなどということは、今のような心の状態にある父親にはむろんのことまったく思いつくはずがなかった。父親の思いこんでいることは、ただもうグレゴールをできるだけ早く部屋へいかせるということだけだった。グレゴールはまず立ち上がって、おそらくその恰好でドアを通り抜けることができるのだろうが、そのためにグレゴールがしなければならない廻りくどい準備も、父親はけっして許そうとはしないだろう。おそらく、まるで障害などはないかのように、今は格別にさわぎ立ててグレゴールを追い立てているのだ。グレゴールのうしろで聞こえているのは、もうこの世でただ一人の父親の声のようには響かなかった。そして、ほんとうのところ、もう冗談ごとではなかった。そこでグレゴールは、どうとでもなれという気持になって、ドアに身体を押しこんだ。身体の片側がもち上がり、彼はドア口に斜めに取りついてしまった。一方のわき腹がすっかりすりむけ、白色のドアにいやらしいしみがのこった。やがて彼はすっかりはさまってしまい、ひとりではもう動くこともできなかった。身体の一方の側の脚はみな宙に浮かび上がってしまい、もう一方の側の脚は痛いほど床に押しつけられている。――そのとき、父親がうしろから今はほんとうに助かる強い一突きを彼の身体にくれた。そこで彼は、はげしく血を流しながら、部屋のなかの遠くのほうまですっ飛んでいった。そこでドアがステッキでばたんと閉じられ、やがて、ついにあたりは静かになった。

2

 夕ぐれの薄明りのなかでグレゴールはやっと重苦しい失心したような眠りから目ざめた。きっと、別に妨げがなくともそれほど遅く目ざめるというようなことはなかったろう。というのは、十分に休んだし、眠りたりた感じであった。しかし、すばやい足音と玄関の間に通じるドアを用心深く閉める物音とで目をさまされたように思えるのだった。電気の街燈の光が蒼白く天井と家具の上部とに映っていたが、下にいるグレゴールのまわりは暗かった。今やっとありがたみがわかった。触角でまだ不器用げに探りながら、身体をのろのろとドアのほうへずらしていって、そこで起ったことを見ようとした。身体の左側はただ一本の長い不愉快に引きつる傷口のように思えたが、両側に並んでいる小さな脚で本格的なびっこを引かなければならなかった。それに一本の脚は午前の事件のあいだに重傷を負っていた――ただ一本しか負傷していないことは、ほとんど奇蹟だった――。そして、その脚は死んでうしろへひきずられていた。
 ドアのところでやっと、なんでそこまでおびきよせられていったのか、わかった。それは何か食べものの匂いだった。というのは、そこには甘いミルクを容れた鉢《はち》があり、ミルクのなかには白パンの小さな一切れが浮かんでいた。彼はよろこびのあまりほとんど笑い出すところだった。朝よりも空腹はひどく、すぐ眼の上まで頭をミルクのなかに突っこんだ。だが、間もなく失望して頭を引っこめた。扱いにくい身体の左側のために食べることがむずかしいばかりでなく――そして、身体全体がふうふういいながら協力してやっと食べることができたのだ――、その上、ふだんは彼の好物の飲みものであり、きっと妹がそのために置いてくれたのだろうが、ミルクが全然うまくない。それどころか、ほとんど厭気をおぼえて鉢から身体をそむけ、部屋の中央へはってもどっていった。
 グレゴールがドアのすきまから見ると、居間にはガス燈がともっていた。ふだんはこの時刻には父親が午後に出た新聞を母親に、そしてときどきは妹にも声を張り上げて読んで聞かせるのをつねにしていたのだが、今はまったく物音が聞こえなかった。妹がいつも彼に語ったり、手紙に書いたりしていたこの朗読は、おそらく最近ではおよそすたれてしまっていたようだった。だが、たしかに家は空ではないはずなのに、あたりもすっかり静まり返っていた。「家族はなんと静かな生活を送っているんだろう」と、グレゴールは自分に言い聞かせ、暗闇のなかをじっと見つめながら、自分が両親と妹とにこんなりっぱな住居でこんな生活をさせることができることに大きな誇りをおぼえた。だが、もし今、あらゆる安静や幸福や満足が恐怖で終りを告げることになったらどうだろうか。こんな考えに迷いこんでしまわないように、グレゴールはむしろ動き出し、部屋のなかをあちこちはい廻った。
 長い夜のあいだに、一度は一方の側のドアが、一度はもう一方のが、ちょっとだけ開き、すぐにまた閉められた。だれかがきっと部屋のなかへ入る用事があったにちがいないのだが、それにしろためらいもあまりに大きかったのだ。そこでグレゴールは居間へ通じるドアのすぐそばにとまっていて、ためらっている訪問者を部屋のなかへ入れるか、あるいは少なくともその訪問者がだれかを知ろうと決心していた。ところが、ドアはもう二度と開かれず、グレゴールが待っていたこともむなしかった。ドアがみな閉ざされていた朝には、みんなが彼の部屋へ入ろうとしたのだったが、彼が一つのドアを開け、ほかのドアも昼のあいだに開けられたようなのに、今となってはだれもやってはこず、鍵も外側からさしこまれていた。
 夜遅くなってからやっと、居間の明りが消された。それで、両親と妹とがそんなに長いあいだ起きていたことが、たやすくわかった。というのは、はっきり聞き取ることができたのだが、そのとき三人全部が爪先で歩いて遠ざかっていったのだった。それでは朝までもうだれもグレゴールの部屋へは入ってこないというわけだ。だから、自分の生活をここでどういうふうに設計すべきか、じゃまされずにとっくり考える時間がたっぷりとあるわけだ。だが、彼が今べったり床にへばりつくようにしいられている天井の高いひろびろとした部屋は、なぜか理由を見出すことはできなかったけれども、彼の心を不安にした。なにしろ五年来彼が住んでいた部屋なので、どうしてそんな気になるのかわからなかった。――そして、半ば無意識に身体の向きを変え、ちょっと恥かしい気持がないわけではなかったが、急いでソファの下にもぐりこんだ。そこでは、背中が少し抑えつけられるし、頭をもうもたげることができないにもかかわらず、すぐひどく居心地がよいように思われた。ただ、身体の幅が広すぎて、ソファの下にすっぽり入ることができないのが残念だった。
 そこに彼は一晩じゅういた。その夜は、あるいは空腹のためにたえず目をさまさせられながらもうとうとしたり、あるいは心配やはっきりしない希望に思いふけったりしなから、過ごしたのだった。そんな心配や希望を思っても結論は同じで、さしあたりは平静な態度を守り、忍耐と細心な遠慮とによって家族の者たちにさまざまな不快を耐えられるようにしてやらねばならぬという結論だった。そうした不快なことを彼の現在の状態においてはいつかは家族の者たちに与えないわけにはいかないのだ。
 つぎの朝早く、まだほとんど夜のうちだったが、グレゴールは早くも固めたばかりの決心をためしてみる機会をもった。というのは、玄関の間のほうからほとんど完全に身づくろいした妹がドアを開け、緊張した様子でなかをのぞいたのだった。妹はすぐには彼の姿を見つけなかったが、彼がソファの下にいるのをみとめると――どこかにいるにきまっているではないか。飛んで逃げることなんかできなかったのだ――ひどく驚いたので、度を失ってしまって外側からふたたびドアをぴしゃりと閉めてしまった。だが、自分の態度を後悔してでもいるかのように、すぐまたドアを開け、重病人か見知らぬ人間かのところにいるような恰好で爪先で歩いて部屋のなかへ入ってきた。グレゴールは頭をソファのへりのすぐ近くまでのばして、妹をながめた。ミルクをほったらかしにしたのに気づくだろうか。しかもけっして食欲がないからではなかったのだ。また、彼の口にもっと合うような別な食べものをもってくるのだろうか。妹が自分でそうしてくれないだろうか。妹にそのことを注意するくらいなら、飢え死したほうがましだ。それにもかかわらず、ほんとうはソファの下から跳び出して、妹の足もとに身を投げ、何かうまいものをくれといいたくてたまらないのだった。ところが、妹はまだいっぱい入っているミルクの鉢にすぐ気づいて、不思議そうな顔をした。鉢からは少しばかりのミルクがまわりにこぼれているだけだった。妹はすぐ鉢を取り上げたが、それも素手ではなくて、ぼろ切れでやるのだった。そして、鉢をもって出ていった。グレゴールは、妹がかわりに何をもってくるだろうかとひどく好奇心に駆られ、それについてじつにさまざまなことを考えてみた。しかし、妹が親切心から実際にもってきたものを、考えただけではあてることはできなかったにちがいない。彼の嗜好《しこう》をためすため、いろいろなものを選んできて、それを全部、古い新聞紙の上に拡げたのだった。半分腐った古い野菜、固まってしまった白ソースにくるまった夕食の食べ残りの骨、一粒二粒の乾ぶどうとアーモンド、グレゴールが二日前にまずくて食えないといったチーズ、何もぬってはないパン、バターをぬったパン、バターをぬり、塩味をつけたパン。なおそのほかに、おそらく永久にグレゴール専用ときめたらしい鉢を置いた。それには水がつがれてあった。そして、グレゴールが自分の前では食べないだろうということを妹は知っているので、思いやりから急いで部屋を出ていき、さらに鍵さえかけてしまった。それというのも、好きなように気楽にして食べてもいいのだ、とグレゴールにわからせるためなのだ。そこで食事に取りかかると、グレゴールのたくさんの小さな脚はがさがさいった。どうも傷はみなすでに完全に癒ったにちがいなかった。もう支障は感じなかった。彼はそのことに驚き、一月以上も前にナイフでほんの少しばかり指を切ったが、その傷がおとといもまだかなり痛んだ、ということを考えた。「今では敏感さが減ったのかな」と、彼は思い、早くもチーズをがつがつ食べ始めた。ほかのどの食べものよりも、このチーズが、たちまち、彼を強くひきつけたのだった。つぎつぎと勢いきって、また満足のあまり眼に涙を浮かべながら、彼はチーズ、野菜、ソースと食べていった。ところが新鮮な食べものはうまくなかった。その匂いがまったく我慢できず、そのために食べようと思う品を少しばかりわきへ引きずっていったほどだった。もうとっくにすべてを平らげてしまい、その場でのうのうと横になっていたとき、妹は彼に引き下がるようにと合図するため、ゆっくりと鍵を廻した。彼はもうほとんどうとうとしていたのにもかかわらず、その音でたちまち驚かされてしまった。彼はまたソファの下へ急いでもぐった。だが、妹が部屋にいるほんの短い時間であっても、ソファの下にとどまっているのには、ひどい自制が必要だった。というのは、たっぷり食事をしたため、身体が少しふくらんで、ソファの下の狭い場所ではほとんど呼吸することができなかった。何度か微かに息がつまりそうになりながら、いくらか涙が出てくる眼で彼はながめたのだが、何も気づいていない妹は箒《ほうき》で残りものを掃き集めるばかりでなく、グレゴールが全然手をつけなかった食べものまで、まるでもう使えないのだというように掃き集めた。そして、そうしたものを全部、バケツのなかへ捨て、木の蓋をして、それからいっさいのものを部屋の外へ運び出していった。妹が向きを変えるか変えないかのうちに、グレゴールは早くもソファの下からはい出て、身体をのばし、息を入れた。
 こういうふうにして毎日グレゴールは食事を与えられた。一回は朝、両親と女中とがまだ眠っているときで、二回目はみんなの昼食が終ったあとだ。というのは、食事後、両親はしばらく昼寝をし、女中は妹から何か用事を言いつけられて使いに出される。たしかにみんなはグレゴールを飢え死させようとはしなかったが、おそらく彼の食事についてはただ妹の口から伝え聞くという以上の我慢はできなかったのだろう。またきっと妹も、なにしろほんとうに両親は十分苦しんでいるのだから、おそらくほんのわずかな悲しみだけであってもはぶいてやろうとしているのだろう。
 あの最初の朝、どんな口実によって医者と鍵屋とを家から追い返したのか、グレゴールは全然知ることができなかった。というのは、彼のいうことは相手には聞き取れないので、だれ一人として、そして妹までも、彼のほうでは他人のいうことがわかる、とは思わなかったのだ。そこで、妹が自分の部屋にいるときにも、ただときどき妹が溜息をもらしたり、聖人たちの名前を唱えるのを聞くだけで満足しなければならなかった。のちになって妹が少しはすべてのことに慣れるようになったときにはじめて、――完全に慣れるというようなことはむろんけっして問題とはならなかった――グレゴールは親しさをこめた言葉とか、あるいはそう解釈される言葉とかをときどき小耳にはさむことができた。グレゴールが食事をさかんに片づけたときには、「ああ、きょうはおいしかったのね」と、妹は言い、しだいに数しげくくり返されるようになったそれと反対に手をつけていない場合には、ほとんど悲しげにこういうのがつねだった。
「またみんな手をつけないであるわ」
 ところで、グレゴールは直接にはニュースを聞くことができなかったけれども、隣室の話し声をいろいろ聞き取るのだった。人声が聞こえると、彼はすぐそれに近いドアのところへ急いでいき、身体全体をドアに圧しつける。ことにはじめのうちは、たといただこそこそ話にしろ、何か彼についてのことでないような話はなかった。二日のあいだ、三度三度の食事に、どうしたらいいのだろう、という相談をやっているのが聞かれた。ところで、食事と食事とのあいだの時間にも、同じ話題が語られるのだった。というのは、だれ一人としてひとりだけ留守をしようとしなかったし、またどんなことがあっても住居をすっかり空にすることはできなかったので、いつでも家には少なくとも家族のうちの二人が残っているのだ。女中も最初の日に――女中がこのできごとについて何を知っているのか、またどのくらい知っているのかは、あまり明らかではなかったが――すぐにひまをくれるようにと膝をついて母親に頼み、その十五分後に家を出ていくときには、涙ながらにひまを出してもらったことの礼をいった。まるでこの家で示してもらった最大の恩恵だとでもいうような調子だった。そして、だれも彼女に求めたわけでもないのに、ほんの少しでも人にはもらしませんから、などとひどく本気で誓うのだった。
 女中がひまを取ったので、今では妹が母親といっしょに料理もしなければならなかった。とはいっても、それはたいして骨が折れなかった。なにしろほとんど何も食べなかったのだ。グレゴールはくり返し聞いたのだが、だれかがほかの者に向って食べるようにとうながしてもむだで、出てくる返事といえばただ「いや、たくさん」とかいうような言葉だけにきまっていた。酒類もおそらく全然飲まないようだった。しょっちゅう妹は父親に、ビールを飲みたくないかとたずね、自分で取りにいくから、と心から申し出るのだが、それでも父親が黙っていると、父が世間態をはばかって心配している気持を取り除こうとして、門番のおかみさんにビールを取りにいってもらってもいいのだ、というのだった。ところが父親は最後に大きな声で「いらない」と、いう。そして、それでもう二度とビールのことは話されなかった。
 最初の日のうちに、父親は早くも母親と妹とに向って財産状態とこれからの見通しとについてすっかり話して聞かせた。ときどきテーブルから立ち上がって、五年前に自分の店が破産したときに救い出した小さな金庫から何か書きつけや帳簿をもってくるのだった。手のこんだ鍵を開け、つぎに探しているものを取り出したあとで鍵を閉める音が聞こえてきた。父親のそのときの説明は、一面では、グレゴールが監禁生活をするようになって以来はじめてうれしく思ったことだった。グレゴールはそれまで、あの店から父親の手に残されたものは全然ないのだ、と考えていた。少なくとも父親はグレゴールに対してその反対のことは全然いわなかった。もっともグレゴールもそのことについて父親にたずねたことはなかったのではあった。グレゴールがそのころ気を使っていたことは、家族全員を完全な絶望へ追いこんだ商売上の不幸をできるだけ早く家族の者たちに忘れさせるために全力をつくすということだった。そこであの当時彼は特別に熱心に働き始め、はとんど一夜にしてつまらぬ店員から旅廻りのセールスマンとなった。セールスマンにはむろん金もうけのチャンスがいろいろあり、仕事の成果はすぐさま歩合の形で現金に変わり、それを家にもち帰って、驚きよろこぶ家族の眼の前のテーブルの上にならべて見せることができた。あれはすばらしい時期だった。グレゴールはあとになってからも、家族全体の経費をまかなうことができ、また、事実まかなっただけの金をもうけはしたが、あのはじめのころのすばらしい時期は、少なくとも、あのころの輝かしさで二度くり返されることはなかった。家人もグレゴールもそのことに慣れ、家人は感謝して金を受け取り、彼もよろこんで金を出すのだったが、特別な気持の温かさというものはもう起こらなかった。ただ妹だけはグレゴールに対してまだ近い関係をもちつづけていた。グレゴールとはちがって音楽が大好きで、感動的なほどにヴァイオリンを弾くことができる妹を、来年になったら音楽学校へ入れてやろう、というのが彼のひそかな計画だった。そうなるとひどく金がかかるが、そんなことは考慮しないし、またその金もなんとかしてつくることができるだろう。グレゴールが町に帰ってきてちょっと滞在するあいだには、しょっちゅう妹との会話に音楽学校の話が出てくるのだったが、いつでもただ美しい夢物語にすぎず、その実現は考えられなかった。そして、両親もけっしてこんな無邪気な話を聞くのをよろこびはしなかった。だが、グレゴールはきわめてはっきりとそのことを考えていたのであり、クリスマスの前夜にはそのことをおごそかに宣言するつもりだった。
 ドアにへばりついて身体をまっすぐに起こし、聞き耳を立てているあいだにも、今の自分の状態にはまったく無益なこうした考えが、彼の頭を通り過ぎるのだった。ときどき、全身の疲れのためにもう全然聞いていることができなくなり、うっかりして頭をドアにぶつけ、すぐにまたきちんと立てるのだった。というのは、そんなふうにして彼が立てるどんな小さな物音でも、隣室に聞こえ、みんなの口をつぐませてしまうのだ。「また何をやっているんだろう」などと、しばらくして父親がいう。どうもドアのほうに向きなおっているらしい。それからやっと、中断された会話がふたたびだんだんと始められていく。
 グレゴールは十分に聞き取ったのだが――というのは、父親は説明をする場合に何度もくり返すのがつねだった。その理由は一つには彼自身がすでに長いあいだこうしたことに気を使わなくなっていたからであり、もう一つには母親が一回聞いただけでは万事をすぐのみこめなかったからだ――、すべての不幸にもかかわらず、なるほどまったくわずかばかりのものではあるけれども昔の財産がまだ残っていて、手をつけないでおいた利子もそのあいだに少しばかり増えた、ということであった。その上、グレゴールが毎月家に入れていた金も――彼は自分ではほんの一グルデンか二グルデンしか取らなかった――すっかり費われてしまったわけではなく、貯えられてちょっとした金額になっていた。グレゴールはドアの背後で熱心にうなずき、この思いがけなかった用心と倹約とをよろこんだ。ほんとうはこの余分な金で社長に対する父親の負債をもっと減らすことができ、この地位から離れることができる日もずっと近くなったことだろうが、今では父親の計らいは疑いもなくいっそうよかったわけだ。
 ところで、こんな金では家族の者が利息で生活していけるなどというのにはまったくたりない。おそらく家族を一年か、せいぜいのところ二年ぐらい支えていくのに十分なだけだろう。それ以上のものではなかった。つまり、ほんとうは手をつけてはならない、そしてまさかのときの用意に取っておかなければならない程度の金額にすぎなかった。生活費はかせがなければならない。ところで、父親は健康だがなにしろ老人で、もう五年間も全然仕事をせず、いずれにしてもあまり働けるという自信はない。骨は折れたが成果のあがらなかった生涯の最初の休暇であったこの五年のあいだに、すっかりふとってしまって、そのために身体も自由に動かなくなっていた。そこで母親が働かなければならないのだろうが、これが喘息《ぜんそく》もちで、家のなかを歩くのにさえ骨が折れる始末であって、一日おきに呼吸困難に陥り、開いた窓の前のソファの上で過ごさなければならない。すると妹がかせがなければならないというわけだが、これはまだ十七歳の子供であり、これまでの生活ではひどく恵まれて育ってきたのだった。きれいな服を着て、たっぷりと眠り、家事の手伝いをし、ささやかな気ばらしにときどき加わり、何よりもヴァイオリンを弾く、という生活のしかただった。どうしてこんな妹がかせぐことができるだろうか。家族の話が金をかせがなければならないというこのことになると、はじめのうちはグレゴールはいつもドアを離れて、ドアのそばにある冷たい革のソファに身を投げるのだった。というのは、恥辱と悲しみのあまり身体がかっと熱くなるのだった。
 しばしば彼はそのソファの上で長い夜をあかし、一瞬も眠らず、ただ何時間でも革をむしっているのだった。あるいは、大変な労苦もいとわず、椅子を一つ窓ぎわへ押していき、それから窓の手すりにはい上がって、椅子で身体を支えたまま窓によりかかっていた。以前窓からながめているときに感じた解放されるような気持でも思い出しているらしかった。というのは、実際、少し離れた事物も一日一日とだんだんぼんやり見えるようになっていっていた。以前はしょっちゅう見えていまいましくてたまらなかった向う側の病院も、もう全然見えなくなっていた。静かな、しかしまったく都会的であるシャルロッテ街に自分が住んでいるのだということをよく知っていなかったならば、彼の窓から見えるのは、灰色の空と灰色の大地とが見わけられないくらいにつながっている荒野なのだ、と思いかねない有様だった。注意深い妹は二度だけ椅子が窓ぎわにあるのに気づいたにちがいなかったが、それからは部屋の掃除をしたあとでいつでも椅子をきちんと窓べに押してやり、おまけにそのときからは内側の窓も開け放しておいた。
 もしグレゴールが妹と話すことができ、彼女が自分のためにしなければならないこうしたすべてのことに対して礼をいうことができるのであったら、彼女の奉仕をもっと気軽に受けることができただろう。ところが、彼はそれが苦しくてたまらなかった。妹はむろん、いっさいのことのつらい思いをぬぐい去ろうと努めていたし、時がたつにつれてむろんだんだんそれがうまくいくようになったのだが、グレゴールも時間がたつとともにいっさいをはじめのころよりもずっと正確に見て取るようになった。妹が部屋へ足を踏み入れるだけで、彼には恐ろしくてならなかった。ふだんはグレゴールの部屋をだれにも見せまいと気をくばっているのだが、部屋に入ってくるやいなや、ドアを閉める手間さえかけようとせず、まっすぐに窓へと走りよって、まるで息がつまりそうだといわんばかりの恰好であわただしく両手で窓を開き、まだいくら寒くてもしばらく窓ぎわに立ったままでいて、深呼吸する。こうやって走ってさわがしい音を立てることで、グレゴールを日に二度びっくりさせるのだ。そのあいだじゅう、彼はソファの下でふるえていた。だが彼にはよくわかるのだが、もしグレゴールがいる部屋で窓を閉め切っていることができるものならば、きっとこんなことはやりたくはないのだ。
 あるとき、グレゴールの変身が起ってから早くも一月がたっていたし、妹ももうグレゴールの姿を見てびっくりしてしまうかくべつの理由などはなくなっていたのだが、妹はいつもよりも少し早くやってきて、グレゴールが身動きもしないで、ほんとうにおどかすような恰好で身体を立てたまま、窓から外をながめている場面にぶつかった。妹が部屋に入ってこなかったとしても、グレゴールにとっては意外ではなかったろう。なにしろそういう姿勢を取っていることで、すぐに窓を開けるじゃまをしていたわけだからだ。ところが、妹はなかへ入ってこないばかりか、うしろへ飛びのいて、ドアを閉めてしまった。見知らぬ者ならば、グレゴールが妹のくるのを待ちうかがっていて、妹にかみつこうとしているのだ、と思ったことだろう。グレゴールはむろんすぐソファの下に身を隠したが、妹がまたやってくるまでには正午まで待たねばならなかった。そのことから、自分の姿を見ることは妹にはまだ我慢がならないのだし、これからも妹にはずっと我慢できないにちがいない、ソファの下から出ているほんのわずかな身体の部分を見ただけでも逃げ出したいくらいで、逃げ出していかないのはよほど自分を抑えているにちがいないのだ、と彼ははっきり知った。妹に自分の姿を見せないために、彼はある日、背中に麻布をのせてソファの上まで運んでいった。――この仕事には四時間もかかった――そして、自分の身体がすっかり隠れてしまうように、また妹がかがみこんでも見えないようにした。もしこの麻布は不必要だと妹が思うならば、妹はそれを取り払ってしまうこともできるだろう。というのは、身体をこんなふうにすっかり閉じこめてしまうことは、グレゴールにとってなぐさみごとなんかではないからだ。ところが、妹は麻布をそのままにしておいた。おまけにグレゴールが一度頭で麻布を用心深く少しばかり上げて、妹がこの新しいしかけをどう思っているのか見ようとしたとき、妹の眼に感謝の色さえ見て取ったように思ったのだった。
 最初の二週間には、両親はどうしても彼の部屋に入ってくることができなかった。これまで両親は妹を役立たずの娘と思っていたのでしばしば腹を立てていたが、今の妹の仕事ぶりを完全にみとめていることを、グレゴールはしばしば聞いた。ところが両親はしばしば、妹がグレゴールの部屋で掃除しているあいだ、二人で彼の部屋の前に待ちかまえていて、妹が出てくるやいなや、部屋のなかがどんな様子であるか、グレゴールが何を食べたか、そのとき彼がどんな態度を取ったか、きっとちょっと快方へ向いているのが見られたのでないか、などと語って聞かせなければならなかった。ところで母親のほうは比較的早くグレゴールを訪ねてみようと思ったのだったが、父親と妹とがまずいろいろ理にかなった理由を挙げて母親を押しとどめた。それらの理由をグレゴールはきわめて注意深く聞いていたが、いずれもまったく正しいと思った。ところが、あとになると母親を力ずくでとどめなければならなかった。そして、とめられた母親が「グレゴールのところへいかせて! あの子はわたしのかわいそうな息子なんだから! わたしがあの子のところへいかないではいられないということが、あんたたちにはわからないの?」と叫ぶときには、むろん毎日ではないがおそらく週に一度は母親が入ってきたほうがいいのではないか、とグレゴールは思った。なんといっても母親のほうが妹よりは万事をよく心得ているのだ。妹はいくらけなげとはいってもまだ子供で、結局は子供らしい軽率さからこんなにむずかしい任務を引き受けているのだ。
 母親に会いたいというグレゴールの願いは、まもなくかなえられた。昼のあいだは両親のことを考えて窓ぎわにはいくまい、とグレゴールは考えていたが、一、二メートル四方の床の上ではたいしてはい廻るわけにいかなかったし、床の上にじっとしていることは夜なかであっても我慢することがむずかしく、食べものもやがてもう少しも楽しみではなくなっていたので、気ばらしのために壁の上や天井を縦横十文字にはい廻る習慣を身につけていた。とくに上の天井にぶら下がっているのが好きだった。床の上にじっとしているのとはまったくちがう。息がいっそう自由につけるし、軽い振動が身体のなかを伝わっていく。そして、グレゴールが天井にぶら下がってほとんど幸福な放心状態にあるとき、脚を放して床の上へどすんと落ちて自分でも驚くことがあった。だが、今ではむろん以前とはちがって自分の身体を自由にすることができ、こんな大きな墜落のときでさえけがをすることはなかった。妹は、グレゴールが自分で考え出したこの新しいなぐさみにすぐ気づき――実際、彼ははい廻るときに身体から出る粘液《ねんえき》の跡をところどころに残すのだった、――グレゴールがはい廻るのを最大の規模で可能にさせてやろうということを考え、そのじゃまになる家具、ことに何よりもたんすと机とを取り払おうとした。ところが、その仕事はひとりではやれなかった。父親の助けを借りようとは思わなかったし、女中もきっとそれほど役には立たないだろう。というのは、この十六歳ばかりの少女は、前の料理女がひまを取ってからけなげに我慢していたが、台所の鍵はたえずかけておいて、ただ特別に呼ばれたときだけ開けるだけでよいということにしてくれ、と願い出て、許されていたのだった。そこで妹としては、父親がいないときを見計らって母親をつれていくよりほかに方法がなかった。興奮したよろこびの声を挙げて母親はやってきたが、グレゴールの部屋のドアの前で黙りこんでしまった。はじめはむろん妹が部屋のなかが万事ちゃんとしているかどうかを検分したが、つぎにやっと母親を入らせた。グレゴールは大急ぎで麻布をいっそう深く、またいつもよりしわをたくさんつくってひっかぶった。全体は実際にただ偶然ソファの上に投げられた麻布のように見えるだけだった。グレゴールは今度も、麻布の下でこっそり様子をうかがうことをやめなかった。今回すぐ母親を見ることは断念した。ただ、母親がやってきたことだけをよろこんだ。「いらっしゃいな、見えないわよ」と、妹がいった。母親の手を引っ張っているらしかった。二人のかよわい女が相当重い古たんすを置き場所から動かし、無理をするのでないかと恐れる母親のいましめの言葉を聞こうとしないで妹がたえず仕事の大部分を自分の身に引き受けている様子を、グレゴールは聞いていた。ひどく時間がかかった。十五分もかかった仕事のあとで、母親はたんすはやっぱりこの部屋に置いておくほうがいいのでないか、と言い出した。第一に、重すぎて、二人で父親の帰ってくるまでに片づけることはできないだろう。それで部屋のまんなかにたんすが残ることになったら、グレゴールの動き廻るのにじゃまになるだろう。第二に、家具を取り片づけたらグレゴールがどう思うことかわかったものではない。自分は今のままにしておくほうがいいように思う。何もない裸の壁をながめると、胸がしめつけられるような気がする。そして、どうしてグレゴールだってそんな気持がしないはずがあろうか。あの子はずっと部屋の家具に慣れ親しんできたのだから、がらんとした部屋では見捨てられてしまったような気がするだろう。「それに、こんなことをしたら」と、最後に母親は声を低めた。それまでも、ほとんどささやくようにものをいって、グレゴールがどこにいるのかはっきり知らないままに、声の響きさえもグレゴールに聞かれることを避けたいと思っているようであった。グレゴールが人の言葉を聞きわけることはできない、と母親は確信しているのだ。「それに、こんなことをしたら、まるで家具を片づけることによって、わたしたちがあの子のよくなることをまったくあきらめてしまい、あの子のことをかまわずにほったらかしにしているということを見せつけるようなものじゃないかい? わたしたちが部屋をすっかり以前のままにしておくように努め、グレゴールがまたわたしたちのところへもどってきたときに、なんにも変っていないことを見て、それだけたやすくそれまでのことが忘れられるようにしておくことがいちばんいい、とわたしは思うよ」
 母親のこうした言葉を聞いて、直接の人間的な話しかけが自分に欠けていることが、家族のあいだの単調な生活と結びついて、この二カ月のあいだにすっかり自分の頭を混乱させてしまったにちがいない、とグレゴールは知った。というのは、自分の部屋がすっかり空っぽにされたほうがいいなどとまじめに思うようでは、そうとでも考えなければほかに説明のしようがなかった。彼はほんとうに、先祖伝来の家具をいかにも気持よく置いているこの暖かい部屋を洞窟《どうくつ》に変えるつもりなのだろうか。がらんどうになればむろんあらゆる方向に障害なくはい廻ることができるだろうが、しかし自分の人間的な過去を同時にたちまちすっかり忘れてしまうのではなかろうか。今はすでにすっかり忘れようとしているのではないだろうか。そして、長いあいだ聞かなかった母親の声だけがやっと彼の心を正気にもどしたのではあるまいか。何一つ取りのけてはならない。みんなもとのままに残されていなければならない。家具が自分の状態の上に及ぼすいい影響というものがなくてはならない。そして、たとい家具が意味もなくはい廻るじゃまになっても、それは損害ではなくて、大きな利益なのだ。
 ところが、妹の考えは残念なことにちがっていた。妹はグレゴールに関する件の話合いでは両親に対して特別事情に明るい人間としての態度を取ることに慣れていたし、それもまんざら不当とはいえなかった。そこで今の場合にも、母親の忠告は妹にとって、彼女がひとりではじめ動かそうと考えていたたんすと机とを片づけるだけではなく、どうしてもなくてはならないソファは例外として、家具全体を片づけようと固執する十分な理由であった。妹がこうした要求をもち出すようになったのは、むろんただ子供らしい反抗心と、最近思いがけなくも、そして苦労してやっと手に入れた自信とのためばかりではなかった。実際、妹はグレゴールがはい廻るのには広い場所が必要で、それに反して家具はだれも見て取ることができるようにほんの少しでも役に立つわけではない、ということを見て取っていたのだった。だが、おそらくは彼女の年ごろの少女らしい熱中もそれに加わったのだろう。そういう熱中しやすい心は、どんな機会にも満足を見出そうと努めているのであって、今はこのグレーテという少女を通じて、グレゴールの状態をもっと恐ろしいものにして、つぎに今まで以上にグレゴールのために働きたいという誘惑にかられているのだ。というのは、がらんとした四方の壁をグレゴールがまったくひとりで支配しているような部屋には、グレーテ以外のどんな人間でもけっしてあえて入ってこようとはしないだろう。
 そこで妹は母親の忠告によって自分の決心をひるがえさせられたりしてはいなかった。母親はこの部屋でももっぱら不安のためにおろおろしているように見えたが、まもなく黙ってしまい、たんすを運び出すことで力の限り妹を手伝っていた。ところで、たんすはやむをえないとあればグレゴールとしてもなしですませることができたが、机のほうはどうしても残さなければならない。二人の女がはあはあ言いながらたんすを押して部屋を出ていくやいなや、グレゴールはソファの下から頭を突き出し、どうやったら用心深く、できるだけおだやかにこの取り片づけに干渉できるかを見ようとした。だが、あいにく、はじめにもどってきたのは母親だった。グレーテのほうは隣室でたんすにしがみつき、それをひとりであちこちとゆすっていたが、むろんたんすの位置を動かすことはできなかった。だが、母親はグレゴールの姿を見ることに慣れていない。姿を見せたら、母親を病気にしてしまうかもしれない。そこでグレゴールは驚いてあとしざりしてソファの別なはしまで急いでいった。だが、麻布の前が少しばかり動くことを妨げることはもうできなかった。それだけで母親の注意をひくのには十分だった。母親はぴたりと足をとめ、一瞬じっと立っていたが、つぎにグレーテのところへもどっていった。
 実のところ何も異常なことが起っているわけではない、ただ一つ二つの家具が置き変えられるだけだ、とグレゴールは何度か自分に言い聞かせたにもかかわらず、彼はまもなくみとめないわけにはいかなくなったのだが、この女たちの出たり入ったり、彼女らの小さなかけ声、床の上で家具のきしむ音、それらはまるで四方から数を増していく大群集のように彼に働きかけ、頭と脚とをしっかとちぢめて身体を床にぴったりとつけていたけれども、おれはもうこうしたことのすべてを我慢できなくなるだろう、とどうしても自分に言い聞かせないではいられなくなった。女たちは彼の部屋を片づけているのだ。彼にとって親しかったいっさいのものを取り上げるのだ。糸のこ[#「のこ」に傍点]やそのほかの道具類が入っているたんすは、二人の手でもう運び出されてしまった。今度は、床にしっかとめりこんでいる机をぐらぐら動かしている。彼は商科大学の学生として、中学校の生徒として、いやそればかりでなく小学校の生徒として、あの机の上で宿題をやったものだった。――もう実際、二人の女たちの善意の意図をためしているひまなんかないのだ。それに彼は二人がいることなどはほとんど忘れていた。というのは、二人は疲れてしまったためにもう無言で立ち働いていて、彼女たちのどたばたいう重い足音だけしか聞こえなかった。
 そこで彼ははい出ていき――女たちはちょうど隣室で少しばかり息を入れようとして机によりかかっているところだった――進む方向を四度変えたが、まず何を救うべきか、ほんとうにわからなかった。そのとき、ほかはすっかりがらんとしてしまった壁に、すぐ目立つように例の毛皮ずくめの貴婦人の写真がかかっているのを見た。そこで、急いではい上がっていき、額のガラスにぴたりと身体を押しつけた。ガラスはしっかりと彼の身体をささえ、彼の熱い腹に快感を与えた。少なくとも、グレゴールが今こうやってすっかり被い隠しているこの写真だけはきっとだれももち去りはすまい。彼は女たちがもどってくるのを見ようとして、居間のドアのほうへ頭を向けた。
 母と妹とはそれほど休息を取ってはいないで、早くももどってきた。グレーテは母親の身体に片腕を廻し、ほとんど抱き運ぶような恰好だった。
「それじゃ、今度は何をもっていきましょう」と、グレーテはいって、あたりを見廻した。そのとき、彼女のまなざしと壁の上にいるグレゴールのまなざしとが交叉した。きっとただ母親がこの場にいるというだけの理由で度を失わないように気を取りなおしたのだろう。母親があたりを見廻さないように、妹は顔を母親のほうに曲げて、つぎのようにいった。とはいっても、ふるえながら、よく考えてもみないでいった言葉だった。
「いらっしゃい、ちょっと居間にもどらない?」グレーテの意図はグレゴールには明らかであった。母親を安全なところへつれ出し、それから彼を壁から追い払おうというのだ。だが、そんなことをやってみるがいい! 彼は写真の上に坐りこんで、渡しはしない。それどころか、グレーテの顔めがけて飛びつこうという身構えだ。
 ところが、グレーテがそんなことをいったことが母親をますます不安にしてしまった。母親はわきへよって、花模様の壁紙の上に大きな褐色の一つの斑点をみとめた。そして、自分の見たものがグレゴールだとほんとうに意識するより前に、あらあらしい叫び声で「ああ、ああ!」というなり、まるでいっさいを放棄するかのように両腕を拡げてソファの上に倒れてしまい、身動きもしなくなった。
「グレゴールったら!」と、妹は拳を振り上げ、はげしい眼つきで叫んだ。これは変身以来、妹が彼に向って直接いった最初の言葉だった。妹は母親を気絶から目ざめさせるための気つけ薬を何か取りに隣室へかけていった。グレゴールも手伝いたかった。――写真を救うにはまだ余裕があった――だが、彼はガラスにしっかとへばりついていて、身体を引き離すためには無理しなければならなかった。それから自分も隣室へ入っていった。まるで以前のように妹に何か忠告を与えてやれると、いわんばかりであった。だが、何もやれないでむなしく妹のうしろに立っていなければならなかった。いろいろ小壜をひっかき廻していた妹は、振り返ってみて、またびっくりした。壜が床の上に落ちて、くだけた。一つの破片がグレゴールの顔を傷つけた。何か腐蝕性の薬品が彼の身体のまわりに流れた。グレーテは長いことそこにとどまってはいないで、手にもてるだけ多くの小壜をもって、母親のところへかけていった。ドアは足でぴしゃりと閉めた。グレゴールは今は母親から遮断《しゃだん》されてしまった。その母親は彼の罪によっておそらくほとんど死にそうになっているのだ。ドアを開けてはならなかった。自分が入っていくことによって、母親のそばにいなければならない妹を追い立てたくはなかった。今は待っているよりほかになんの手だてもなかった。そして、自責と心配とに駆り立てられて、はい廻り始め、すべてのものの上をはっていった。壁の上も家具や天井の上もはって歩き、とうとう絶望のうちに、彼のまわりの部屋全体がぐるぐる廻り始めたときに、大きなテーブルの上にどたりと落ちた。
 ちょっとばかり時が流れた。グレゴールは疲れ果ててそこに横たわっていた。あたりは静まり返っている。きっといいしるしなのだろう。そのとき、玄関のベルが鳴った。女中はむろん台所に閉じこめられているので、グレーテが開けなければならなかった。父親が帰ってきたのだった。「何が起ったんだ?」というのが彼の最初の言葉だった。グレーテの様子がきっとすべてを物語っているにちがいなかった。グレーテは息苦しそうな声で答えていたが、きっと顔を父親の胸にあてているらしい。
「お母さんが気絶したの。でももうよくなったわ。グレゴールがはい出したの」
「そうなるだろうと思っていた」と、父親がいった。「わしはいつもお前たちにいったのに、お前たち女はいうことを聞こうとしないからだ」
 父親がグレーテのあまりに手短かな報告を悪く解釈して、グレゴールが何か手荒なことをやったものと受け取ったことは、グレゴールには明らかであった。そのために、グレゴールは今度は父親をなだめようとしなければならなかった。というのは、彼には父親に説明して聞かせるひまもなければ、またそんなことができるはずもないのだ。そこで自分の部屋のドアのところへのがれていき、それにぴったりへばりついた。これで、父親は玄関の間からこちらへ入ってくるときに、グレゴールは自分の部屋へすぐもどろうというきわめて善良な意図をもっているということ、だから彼を追いもどす必要はなく、ただドアを開けてやりさえすればすぐに消えていなくなるだろうということを、ただちに見て取ることができるはずだ。
 しかし、父親はこうした微妙なことに気づくような気分にはなっていなかった。入ってくるなり、まるで怒ってもいればよろこんでもいるというような調子で「ああ!」と叫んだ。グレゴールは頭をドアから引っこめて、父親のほうに頭をもたげた。父親が今突っ立っているような姿をこれまでに想像してみたことはほんとうになかった。とはいっても、最近では彼は新しいやりかたのはい廻る動作にばかり気を取られて、以前のように家のなかのほかのできごとに気を使うことをおこたっていたのであり、ほんとうは前とはちがってしまった家の事情にぶつかっても驚かないだけの覚悟ができていなければならないところだった。それはそうとしても、これがまだ彼の父親なのだろうか。以前グレゴールが商売の旅に出かけていくとき、疲れたようにベッドに埋まって寝ていた父、彼が帰ってきた晩には寝巻のままの姿で安楽椅子にもたれて彼を迎えた父、起き上がることはまったくできずに、よろこびを示すのにただ両腕を上げるだけだった父、年に一、二度の日曜日や大きな祭日にまれにいっしょに散歩に出かけるときには、もともとゆっくりと歩く母親とグレゴールとのあいだに立って、この二人よりももっとのろのろと歩き、古い外套にくるまり、いつでも用心深く身体に当てた撞木杖《しゅもくづえ》をたよりに難儀しながら歩いていき、何かいおうとするときには、ほとんどいつでも立ちどまって、つれの者たちを自分の身のまわりに集めた父、あの老いこんだ父親とこの眼の前の人物とは同じ人間なのだろうか。以前とちがって、今ではきちんと身体を起こして立っている。銀行の小使たちが着るような、金ボタンのついたぴったり身体に合った紺色の制服を着ている。上衣の高くてぴんと張った襟の上には、力強い二重顎が拡がっている。毛深い眉《まゆ》の下では黒い両眼の視線が元気そうに注意深く射し出ている。ふだんはぼさぼさだった白髪はひどくきちんとてかてかな髪形になでつけている。この父親はおそらく銀行のものだと思われる金モールの文字をつけた制帽を部屋いっぱいに弧を描かせてソファの上に投げ、長い制服の上衣のすそをはねのけ、両手をズボンのポケットに突っこんで、にがにがしい顔でグレゴールのほうへ歩んできた。何をしようというのか、きっと自分でもわからないのだ。ともかく、両足をふだんとはちがうくらい高く上げた。グレゴールは彼の靴のかかとがひどく大きいことにびっくりしてしまった。だが、びっくりしたままではいられなかった。父親が自分に対してはただ最大のきびしさこそふさわしいのだと見なしているということを、彼は新しい生活が始った最初の日からよく知っていた。そこで父親から逃げ出して、父親が立ちどまると自分もとまり、父親が動くとまた急いで前へ逃がれていった。こうして二人は何度か部屋をぐるぐる廻ったが、何も決定的なことは起こらないし、その上、そうした動作の全体がゆっくりしたテンポで行われるので追跡しているような様子は少しもなかった。そこでグレゴールも今のところは床の上にいた。とくに彼は、壁や天井へ逃げたら父親がかくべつの悪意を受け取るだろう、と恐れたのだった。とはいえ、こうやって走り廻ることも長くはつづかないだろう、と自分にいって聞かせないではいられなかった。というのは、父親が一歩で進むところを、彼は数限りない動作で進んでいかなければならないのだ。息切れが早くもはっきりと表われ始めた。以前にもそれほど信頼の置ける肺をもっていたわけではなかった。こうして全力をふるって走ろうとしてよろよろはい廻って、両眼もほとんど開けていなかった。愚かにも走る以外に逃げられる方法は全然考えなかった。四方の壁が自分には自由に歩けるのだということも、もうほとんど忘れてしまっていた。とはいっても、壁はぎざぎざやとがったところがたくさんある念入りに彫刻された家具でさえぎられていた。――そのとき、彼のすぐそばに、何かがやんわりと投げられて落ちてきて、ごろごろところがった。それはリンゴだった。すぐ第二のが彼のほうに飛んできた。グレゴールは驚きのあまり立ちどまってしまった。これ以上走ることは無益だった。というのは、父親は彼を爆撃する決心をしたのだった。食器台の上の果物皿からリンゴを取ってポケットにいっぱいつめ、今のところはそうきちんと狙《ねら》いをつけずにリンゴをつぎつぎに投げてくる。これらの小さな赤いリンゴは、まるで電気にかけられたように床の上をころげ廻り、ぶつかり合った。やわらかに投げられた一つのリンゴがグレゴールの背中をかすめたが、別に彼の身体を傷つけもしないで滑り落ちた。ところが、すぐそのあとから飛んできたのがまさにグレゴールの背中にめりこんだ。突然の信じられない痛みは場所を変えることで消えるだろうとでもいうように、グレゴールは身体を前へひきずっていこうとしたが、まるで釘づけにされたように感じられ、五感が完全に混乱してのびてしまった。だんだんかすんでいく最後の視線で、自分の部屋が開き、叫んでいる妹の前に母親が走り出てきた。下着姿だった。妹が、気絶している母親に呼吸を楽にしてやろうとして、服を脱がせたのだった。母親は父親をめがけて走りよった。その途中、とめ金をはずしたスカートなどがつぎつぎに床にすべり落ちた。そのスカートなどにつまずきながら父親のところへかけよって、父親に抱きつき、父親とぴったり一つになって――そこでグレゴールの視力はもう失われてしまった――両手を父の後頭部に置き、グレゴールの命を助けてくれるようにと頼むのだった。

3

 グレゴールが一月以上も苦しんだこの重傷は――例のリンゴは、だれもそれをあえて取り除こうとしなかったので、眼に見える記念として肉のなかに残されたままになった――父親にさえ、グレゴールはその現在の悲しむべき、またいとわしい姿にもかかわらず、家族の一員であって、そんな彼を敵のように扱うべきではなく彼に対しては嫌悪をじっとのみこんで我慢すること、ただ我慢することだけが家族の義務の命じるところなのだ、ということを思い起こさせたらしかった。
 ところで、たとい今グレゴールがその傷のために身体を動かすことがおそらく永久にできなくなってしまって、今のところは部屋のなかを横切ってはい歩くためにまるで年老いた傷病兵のようにとても長い時間がかかるといっても――高いところをはい廻るなどということはとても考えることができなかった――、自分の状態がこんなふうに悪化したかわりに、彼の考えによればつぎの点で十分につぐなわれるのだ。つまり、彼がつい一、二時間前にはいつでもじっと見守っていた居間のドアが開けられ、そのために彼は自分の部屋の暗がりのなかに横たわったまま、居間のほうからは姿が見えず、自分のほうからは明りをつけたテーブルのまわりに集っている家族全員を見たり、またいわば公認されて彼らの話を以前とはまったくちがったふうに聞いたりしてもよいということになったのだった。
 むろん、聞こえてくるのはもはや以前のようなにぎやかな会話ではなかった。グレゴールは以前は小さなホテルの部屋で、疲れきってしめっぽい寝具のなかに身体を投げなければならないときには、いつもいくらかの渇望をもってそうした会話のことを考えたものだった。ところが今では、たいていはひどく静かに行われるだけだ。父親は夕食のあとすぐに彼の安楽椅子のなかで眠りこんでしまう。母親と妹とはたがいにいましめ合って静かにしている。母親は明りの下にずっと身体をのり出して流行品を扱う洋品店のためのしゃれた下着類をぬっている。売場女店員の地位を得た妹は、晩には速記とフランス語との勉強をしている。おそらくあとになったらもっといい地位にありつくためなのだろう。ときどき父親が目をさます。そして、自分が眠っていたことを知らないかのように、「今晩もずいぶん長いこと裁縫をしているね!」といって、たちまちまた眠りこむ。すると、母親と妹とはたがいに疲れた微笑を交わす。
 父親は一種の強情さで、家でも自分の小使の制服を脱ぐことを拒んでいた。そして、寝巻は役に立たずに衣裳かぎにぶら下がっているが、父親はまるでいつでも勤務の用意ができているかのように、また家でも上役の声を待ちかまえているかのように、すっかり制服を着たままで自分の席でうたた寝している。そのため、はじめから新しくはなかったこの制服は、母親と妹とがいくら手入れをしても清潔さを失ってしまった。グレゴールはしばしば一晩じゅう、いつも磨かれている金ボタンで光ってはいるが、いたるところにしみがあるこの制服をながめていた。そんな服を着たまま、この老人はひどく窮屈に、しかし安らかに眠っているのだった。
 時計が十時を打つやいなや、母親は低い声で父親を起こし、それからベッドにいくように説得しようと努める。というのは、ここでやるのはほんとうの眠りではなく、六時に勤めにいかなければならない父親にはほんとうの眠りがぜひとも必要なのだ。しかし、小使になってから彼に取りついてしまった強情さで、いつでももっと長くテーブルのそばにいるのだと言い張るのだが、そのくせきまって眠りこんでしまう。その上、大骨を折ってやっと父親に椅子とベッドとを交換させることができるのだった。すると母親と妹とがいくら短ないましめの言葉でせっついても、十五分ぐらいはゆっくりと頭を振り、眼をつぶったままで、立ち上がろうとしない。母親は父親の袖《そで》を引っ張り、なだめるような言葉を彼の耳にささやき、妹は勉強を捨てて母を助けようとするのだが、それも父親にはききめがない。彼はいよいよ深く椅子に沈みこんでいく。女たちが彼のわきの下に手を入れるとやっと、眼を開け、母親と妹とをこもごもながめて、いつでもいうのだ。
「これが一生さ。これがおれの晩年の安らぎさ」
 そして、二人の女に支えられて、まるで自分の身体が自分自身にとって最大の重荷でもあるかのようにものものしい様子で立ち上がり、女たちにドアのところまでつれていってもらい、そこでもういいという合図をし、それからやっと今度は自分で歩いていく。一方、母親は針仕事の道具を、妹はペンを大急ぎで投げ出し、父親のあとを追っていき、さらに父親の世話をするのだ。
 この働きすぎて疲れきった家庭で、だれがどうしても必要やむをえないこと以上にグレゴールなんかに気を使うひまをもっているだろうか。家政はいよいよ切りつめられていった。女中ももうひまを出されていた。頭のまわりにぼさぼさの白髪をなびかせている骨ばった大女が、朝と晩とにやってきて、いちばんむずかしい仕事をやるようになった。ほかのことはすべて、母親がたくさんの針仕事のかたわら片づけていた。その上、以前には母親と妹とが遊びごとや祝いがあると有頂天になって身につけていたさまざまな家宝の装飾品も、晩にみんなが集って売値の相談をしているのをグレゴールが聞いたところによると、売られてしまった。だが、最大の嘆きはいつでも、現在の事情にとっては広すぎるこの住居を立ち退くことができないということであった。なぜなら、グレゴールをどうやって引っ越させたものか、考えつくことができないからだった。しかしグレゴールは、引越しを妨げているものはただ自分に対する顧慮だけではないのだ、ということをよく見抜いていた。というのは、彼のことなら、一つ二つ空気|孔《あな》のついた適当な箱に入れてたやすく運ぶことができるはずだった。この家族の移転を主として妨げているのは、むしろ完全な絶望感であり、親威《しんせき》や知人の仲間のだれ一人として経験しなかったほどに自分たちが不幸に打ちのめされているという思いであった。世間が貧しい人びとから要求しているものを、家族の者たちは極限までやりつくした。父親はつまらぬ銀行員たちに朝食をもっていってやるし、母親は見知らぬ人たちの下着のために身を犠牲にしているし、妹はお客たちの命令のままに売台のうしろであちこちかけ廻っている。しかし、家族の力はもう限度まできているのだ。そして、母親と妹とが、父親をベッドへつれていったあとでもどってきて、仕事の手を休めてたがいに身体をよせ合い、頬と頬とがふれんばかりに坐っているとき、また、今度は母親がグレゴールの部屋を指さして「グレーテ、ドアを閉めてちょうだい」というとき、そして二人の女が隣室でよせた頬の涙をまぜ合ったり、あるいはもう涙も出ないでテーブルをじっと見つめているあいだ、グレゴールのほうは、ふたたび暗闇のなかにいて、その背中の傷は今はじめて受けたもののように痛み始めるのだった。
 夜も昼もグレゴールはほとんど一睡もしないで過ごした。ときどき彼は、このつぎドアが開いたら家族のいっさいのことはまったく以前のようにまた自分の手に引き受けてやろう、と考えた。彼の頭のなかには、久しぶりにまた社長や支配人、店員たちや見習たち、ひどく頭の鈍い小使、別な店の二、三の友人たち、田舎《いなか》のあるホテルの客室づき女中、楽しいかりそめの思い出、彼がまじめに、しかしあまりにのんびり求婚したある帽子店のレジスター係の女の子、そんなものがつぎつぎに現われた。――そうしたすべてが見知らぬ人びとやもう忘れてしまった人びとのあいだにまぎれて現われてくる。しかし、彼と彼の家族とを助けてはくれないで、みんな近づきがたい人びとであり、彼らが姿を消すと、グレゴールはうれしく思うのだった。ところが、つぎに家族のことなんか心配する気分になれなくなる。ただ彼らの世話のいたらなさに対する怒りだけが彼の心をみたしてしまう。何が食べたいのかも全然考えられないにもかかわらず、少しも腹は空いていなくとも自分にふさわしいものをなんであろうと取るために、どうやったら台所へいくことができるか、などといろいろ計画を立ててみる。今はもう何をやったらグレゴールにかくべつ気に入るだろうかというようなことは考えもしないで、妹は朝と正午に店へ出かけていく前に、何かあり合せの食べものを大急ぎでグレゴールの部屋へ足で押しこむ。夕方には、その食べものがおそらくほんの少し味わわれたか、あるいは――そういう場合がいちばん多かったが――まったく手をつけてないか、ということにはおかまいなしで、箒で一掃きして部屋の外へ出してしまう。部屋の掃除は、今ではいつも妹が夕方にやるのだが、もうこれ以上早くはすませられないというほど粗末にやるのだ。汚れたすじが四方の壁に沿って引かれてあるし、そこかしこにはごみと汚れものとのかたまりが横たわっている始末だ。はじめのうちは、妹がやってくると、グレゴールはそうしたとくに汚れの目立つ片隅の場所に坐りこんで、そうした姿勢でいわば妹を非難してやろうとした。しかし、きっと何週間もそこにいてみたところで、妹があらためるということはないだろう。妹も彼とまったく同じくらいに汚れを見ているのだが、妹はそれをほっておこうと決心したのだ。その場合に妹は、およそ家族全員をとらえてしまった、これまでの彼女には見られなかったような敏感さで、グレゴールの部屋の掃除は今でも自分の仕事であるという点を監視するのだった。あるとき、母親がグレゴールの部屋の大掃除を企てた。母親はただ二、三杯のバケツの水を使うことだけでその掃除をやり終えることができた。――とはいっても、部屋がびしょぬれになってグレゴールは機嫌をそこねてしまい、ソファの上にどっかと、腹立たしげに身動きもしないで構えていた――ところが、母親にその罰が訪れないではいなかった。というのは、夕方、妹がグレゴールの部屋の変化に気づくやいなや、彼女はひどく侮辱されたと感じて居間にかけこみ、母親が両手を高く上げて嘆願するにもかかわらず、身をふるわせて泣き始めた。両親は――父親はむろん安楽椅子からびっくりして跳ね起きたのだった――はじめはそれにびっくりして、途方にくれてながめていたが、ついに二人も動き出した。右側では父親が、グレゴールの部屋の掃除は妹にまかせておかなかったというので母親を責めるし、左側では妹のほうが、もう二度とグレゴールの部屋の掃除はしてやらないとわめく。母親は、興奮してわれを忘れている父親を寝室へひきずっていこうとする。妹は泣きじゃくって身体をふるわせながら、小さな拳でテーブルをどんどんたたく。そしてグレゴールは、ドアを閉めて、自分にこんな光景とさわぎとを見せないようにしようとだれも思いつかないことに腹を立てて、大きな音を出してしっしっというのだった。
 しかし、たとい妹が勤めで疲れきってしまい、以前のようにグレゴールの世話をすることにあきあきしてしまっても、母親はけっして妹のかわりをする必要はないし、グレゴールもほったらかしにされる心配はなかったろう。というのは、今では例の手伝い婆さんがいたのだ。長い一生をそのたくましい骨太の身体の助けで切り抜けてきたように見えるこの後家婆さんは、グレゴールをそれほど嫌わなかった。あるとき、別に好奇心に駆られたというのでもなく、偶然、グレゴールの部屋のドアを開け、だれも追い立てるわけでもないのにひどく驚いてしまったグレゴールがあちこちとはい廻り始めたのをながめると、両手を腹の上に合わせてぽかんと立ちどまっているのだった。それ以来、つねに朝晩ちょっとのあいだドアを少しばかり開けて、グレゴールのほうをのぞきこむことを忘れなかった。はじめのうちは、グレゴールを自分のほうに呼ぼうとするのだった。それには、「こっちへおいで、かぶと虫のじいさん!」とか、「ちょっとあのかぶと虫のじいさんをごらんよ」とか、おそらく婆さんが親しげなものと考えているらしい言葉をかけてくるのだ。こうした呼びかけに対してグレゴールは全然返事をせずに、ドアがまったく開けられなかったかのように、自分の居場所から動かなかった。この手伝い婆さんに気まぐれで役にも立たぬじゃまなんかさせていないで、むしろ彼の部屋を毎日掃除するように命じたほうがよかったろうに――ある早朝のこと――はげしい雨がガラス窓を打っていた。おそらくすでに春が近いしるしだろう――手伝い婆さんがまた例の呼びかけを始めたとき、グレゴールはすっかり腹を立てたので、たしかにのろのろとおぼつかなげにではあったが、婆さんに向って攻撃の身構えを見せた。ところが、手伝い婆さんは恐れもせずに、ただドアのすぐ近くにあった椅子を高く振り上げた。大きく口を開けて立ちはだかっている様子を見ると、手にした椅子がグレゴールの背中に振り下ろされたらはじめて口をふさぐつもりなのだ、ということを明らかに示していた。「それじゃあ、それっきりなのかい」と、グレゴールがまた向きなおるのを見て言い、椅子をおとなしく部屋の片隅にもどした。
 グレゴールは今ではもうほとんど何も食べなくなっていた。ただ、用意された食べもののそばを偶然通り過ぎるときにだけ、遊び半分に一かけ口のなかに入れるが、何時間でも口のなかに入れておいて、それからたいていは吐き出すのだ。はじめは、彼に食事をさせなくしているのは、この部屋の状態を悲しむ気持からだ、と考えていたが、部屋がいろいろ変わることにはすぐに慣れてしまった。ほかのところには置くことができない品物はこの部屋に置くという習慣になってしまっていたが、そうした品物はたくさんあった。住居の一室を三人の男の下宿人に貸したからだった。このきまじめな人たちは――グレゴールがあるときドアのすきまから確認したところによると、三人とも顔じゅう髯を生やしていた――ひどく整頓が好きで、ただ自分たちの部屋ばかりではなく、ひとたびこの家に間借りするようになったからには、家全体について、ことに台所での整頓のことに気をくばった。不必要なものや汚ないがらくたには我慢できなかった。その上、彼らは調度品の大部分は自分たちのものをもってきていた。そのために多くの品物は不要となったが、それらは売るわけにもいかないし、さりとて捨ててしまいたくもないのだった。そうした品物がみなグレゴールの部屋に移されてきた。そんなふうにして、灰捨て箱とくず箱とが台所からやってきた。およそ今のところ不要なものは、いつでもひどくせっかちな手伝い婆さんが簡単にグレゴールの部屋へ投げ入れてしまう。ありがたいことに、グレゴールにはたいていは運ばれてくる品物とそれをもっている手としか見えなかった。手伝い婆さんはおそらく、いつか機会を見てそれらの品物をまた取りにくるか、あるいは全部を一まとめにして投げ捨てるかするつもりだったのだろうが、実際にはそれらを最初投げ入れた場所にほうりぱなしにしておいた。しかし、グレゴールはがらくたがじゃまになって、まがりくねって歩かなければならなかったので、それを動かすことがあった。はじめはそうしないとはい廻る場所がなくなるのでしかたなしにやったのだが、のちにはだんだんそれが面白くなったのだった。そうはいうものの、そんなふうにはい廻ったあとでは死ぬほど疲れてしまって悲しくなり、またもや何時間も動かないでいるのだった。
 下宿人たちはときどき夕食も家で共同の居間で取るのだった。そのため居間のドアは多くの晩に閉ざされたままだ。だが、グレゴールはドアを開けるということをまったく気軽にあきらめた。ドアが開いている多くの晩でさえも、それを十分に利用しないでいて、家族には気づかれずに自分の部屋のいちばん暗い片隅に横たわっていた。ところが、あるとき、手伝い婆さんが居間へ通じるドアを少しばかり開け放しにした。下宿人たちが晩方入ってきて、明りをつけたときにも、ドアは開いたままだった。三人はテーブルのかみ手に坐った。以前は父親と母親とグレゴールとが坐った場所だ。そして三人はナプキンを拡げ、ナイフとフォークとを手に取った。すぐにドアのところに肉の皿をもった母親が現われ、彼女のすぐあとから妹が山盛りのじゃがいもの皿をもって現われた。食べものはもうもうと湯気を立てていた。下宿人たちは食べる前に調べようとするかのように、自分たちの眼の前に置かれた皿の上へ身をかがめた。そして実際、まんなかに坐っていて、ほかの二人には権威をもっているように見える男が、皿の上で一片の肉を切った。それが十分柔かいかどうか、台所へ突っ返さなくてもよいかどうか、たしかめようとしているらしかった。しかし、その男が満足したので、緊張してながめていた母親と妹とは、ほっと息をついて微笑し始めた。
 家族の者たち自身は台所で食事をした。それでも父親は台所へいく前にこの部屋へ入っていき、一回だけお辞儀をすると、制帽を手にもち、テーブルのまわりをぐるりと廻る。下宿人たちはみんな立ち上がって、髯のなかで何かをつぶやく。つぎに彼らだけになると、ほとんど完全な沈黙のうちに食事をする。食事中のあらゆる物音からたえずものをかむ歯の音が聞こえてくることが、グレゴールには奇妙に思われた。まるで食べるためには歯が必要であり、いくらりっぱでも歯のない顎《あご》ではどうすることもできないということをグレゴールに示そうとするかのようだった。グレゴールは心配そうに自分に言い聞かせた。
「おれは食欲があるが、あんなものはいやだ。あの人たちはものを食べて栄養を取っているのに、おれは死ぬのだ!」
 まさにその夜のことだったが――あれからずっと、グレゴールはヴァイオリンの音を聞いたおぼえがなかった――ヴァイオリンの音が台所から聞こえてきた。下宿人たちはもう夕食を終え、まんなかの男が新聞を引っ張り出し、ほかの二人に一枚ずつ渡した。そして、三人とも椅子にもたれて読み、煙草をふかしていた。ヴァイオリンが鳴り始めると、三人はそれに気づき、立ち上がって、爪立ちで歩いて玄関の間へいき、そこで身体をよせたまま立ちつづけていた。台所にいても彼らの物音が聞こえたらしい。父親がこう叫んだ。
「みなさんにはヴァイオリンの音がお気にさわるんではありませんか。なんならすぐやめさせますが」
「どうしまして」と、まんなかの男がいった。
「お嬢さんはわれわれのところにこられて、この部屋で弾かれたらどうです? こちらのほうがずっといいし、気持もいいですよ」
「それでは、そう願いますか」と、父親はまるで自分がヴァイオリンを弾いているかのように答えた。三人は部屋にもどって待っていた。まもなく父親は譜面台をもち、母親は楽譜を、妹はヴァイオリンをもってやってきた。妹は落ちついて演奏の準備をすっかりすませた。両親はこれまで一度も間貸しをしたことがなく、そのために下宿人たちに対する礼儀の度を超していたが、自分たちの椅子に坐ろうとはけっしてしなかった。父親はドアにもたれ、きちんとボタンをかけた制服の上衣のボタン二つのあいだに右手をさし入れていた。母親のほうは下宿人の一人に椅子をすすめられ、その人が偶然すすめた椅子が部屋のわきのほうの片隅にあったので、そこに坐りつづけていた。
 妹は弾き始めた。父親と母親とはそれぞれ自分のいる位置から注意深く妹の両手の動きを目で追っていた。グレゴールは演奏にひきつけられて少しばかり前へのり出し、もう頭を居間へ突っこんでいた。最初は自分が他人のことをもう顧慮しなくなっていることが、彼にはほとんどふしぎに思われなかった。以前には、この他人への顧慮ということが彼の誇りだった。しかも、彼は今こそいっそう自分の身を隠していい理由をもっていた。というのは、部屋のなかのいたるところに横たわっているごみが、ちょっとでも身体を動かすと舞い上がり、そのごみをすっかり身体にかぶっていた。糸くずとか髪の毛とか食べものの残りかすを背中やわき腹にくっつけてひきずって歩いているのだ。あらゆることに対する彼の無関心はあまりに大きいので、以前のように一日に何度も仰向けになって、絨毯に身体をこすりつけることもしなくなっていた。こんな状態であるにもかかわらず、少しも気おくれを感じないで、非の打ちどころのないほど掃除のゆきとどいている居間の床の上へ少しばかり乗り出していった。
 とはいえ、ほかの人たちのほうも彼に気づく者はいなかった。家族の者はすっかりヴァイオリンの演奏に気を取られていた。それに反して、下宿人たちははじめは両手をポケットに突っこんで、妹の譜面台のすぐ近くに席を占めていた。あまりに近いので三人とも楽譜をのぞきこめるくらいだった。そんなことをやったら、妹のじゃまになったことだろう。ところが、やがて低い声で話し合いながら、頭を垂れたまま窓のほうへ退いていった。父親が心配そうに見守るうちに、彼らはその窓ぎわにとどまっていた。すばらしい、あるいは楽しいヴァイオリン演奏を聞くつもりなのが失望させられ、演奏全体にあきあきして、ただ儀礼から我慢しておとなしくしているのだということは、実際見ただけではっきりわかることだった。ことに、三人が鼻と口とから葉巻の煙を高く吹き出しているやりかたは、ひどくいらいらしているのだということを推量させた。しかし、妹はとても美しく弾いていた。彼女の顔は少しわきに傾けられており、視線は調べるように、また悲しげに楽譜の行を追っている。グレゴールはさらに少しばかり前へはい出し、頭を床にぴったりつけて、できるなら彼女の視線とぶつかってやろうとした。音楽にこんなに心を奪われていても、彼は動物なのだろうか。彼にはあこがれていた未知の心の糧《かて》への道が示されているように思えた。妹のところまで進み出て、彼女のスカートを引っ張って、それによってヴァイオリンをもって自分の部屋へきてもらいたいとほのめかそう、と決心した。というのは、ここにいるだれ一人として、彼がしたいと思っているほど彼女の音楽に応《こた》える者はいないのだ。彼はもう妹を自分の部屋から出したくなかった。少なくとも自分が生きているあいだは、出したくなかった。彼の恐ろしい姿ははじめて彼の役に立つだろうと思われた。自分の部屋のどのドアも同時に見張っていて、侵入してくる者たちにほえついてやるつもりだ。だが、妹はしいられてではなく、自由意志で自分のところにとどまらなければならない。ソファの上で彼のわきに坐り、耳を彼のほうに傾けてくれるのだ。そこで彼は妹に、自分は妹を音楽学校に入れることにはっきり心をきめていたのであり、もしそのあいだにこんな事故が起こらなかったならば、去年のクリスマスに――クリスマスはやっぱりもう過ぎてしまったのだろうか――どんな反対も意に介することなくみんなにいっていたことだろう、と打ち明けてやる。こう説明してやれば、妹は感動の涙でわっと泣き出すことだろう。そこでグレゴールは彼女の肩のところまでのび上がって、首に接吻してやるのだ。店へいくようになってからは、妹はリボンもカラーもつけないで首を丸出しにしているのだった。
「ザムザさん!」と、まんなかの男が父親に向って叫び、それ以上は何もいわずに、人差指でゆっくりと前進してくるグレゴールをさし示した。ヴァイオリンの音がやみ、まんなかの下宿人ははじめは頭を振って二人の友人ににやりと笑って見せたが、つぎにふたたびグレゴールを見やった。父親は、グレゴールを追い払うかわりに、まず下宿人たちをなだめることのほうがいっそう必要だと考えているようであった。とはいっても、三人は全然興奮なんかしていないし、グレゴールのほうがヴァイオリンの演奏よりも彼らを面白がらせているように見えた。父親は三人のほうに急いでいき、両腕を拡げて彼らの部屋へ押しもどそうとし、同時に、自分の身体でグレゴールの姿が見えなくなるようにしようとした。今度は三人がほんとうに少しばかり気を悪くした。父親の態度に気を悪くしたのか、グレゴールのような隣室の住人がいるものとは知らなかったのに、今やっとそれがわかってきたことに気を悪くしたのか、それはもうなんともいえなかった。三人は父親に説明を求め、三人のほうで腕を振り上げ、落ちつかなげに髯を引っ張り、ほんのゆっくりした歩みで自分たちの部屋のほうへ退いていった。そうしているあいだに、突然演奏をやめて放心状態でいた妹はやっと正気を取りもどし、しばらくのあいだだらりと垂れた両手にヴァイオリンと弓とをもって、まだ演奏しているかのように楽譜をながめつづけていたが、突然身を起こすと、はげしい肺の活動をともなう呼吸困難に陥ってまだ自分の椅子に坐っていた母親の膝の上に楽器を置き、隣室へとかけこんでいった。三人の下宿人たちは、父親に押しまくられてすでにさっきよりは早い足取りでその部屋へ近づいていた。妹が慣れた手つきでベッドのふとんや枕を高く飛ばしながら寝具の用意を整えるのが見えた。三人が部屋へたどりつくよりも前に、妹はベッドの用意をすませてしまい、ひらりと部屋から脱け出ていた。父親はまたもや気ままな性分にすっかりとらえられてしまったらしく、ともかく下宿人に対して払わなければならないはずの敬意を忘れてしまった。彼は三人をただ押しまくっていったが、最後に部屋のドアのところでまんなかの人が足を踏み鳴らしたので、父親はやっととまった。
「私はここにはっきりというが」と、その人は片手を挙げ、眼で母親と妹とを探した。「この住居および家族のうちに支配しているいとわしい事情を考えて」――ここでとっさの決心をして床につばを吐いた――「私の部屋をただちに出ていくことを通告します。むろん、これまでの間借料も全然支払いません。それに反して、きわめて容易に理由づけることができるはずのなんらかの損害賠償要求をもって――いいですかな――あなたを告訴すべきものかどうか、考えてみるつもりです」彼は沈黙して、まるで何かを待ちかまえているかのように自分の前を見つめていた。
「われわれもただちに出ていきます」と、はたして彼の二人の友人もすぐさま口を出した。まんなかの男はドアの取手をつかみ、ばたんと音を立ててドアを閉めた。
 父親は手探りで自分の椅子までよろめいていき、どかりと腰を下ろした。まるでいつものように晩の居眠りをするために手足をのばしたように見えた。だが、ぐらぐらする頭が強くうなずいていることで、彼が全然眠っていないことがわかった。グレゴールはこうしたことが行われるあいだじゅう、下宿人たちが彼を見つけた場所にじっととどまっていた。自分の計画の失敗に対する失望と、またおそらくはあまりに空腹をつづけたことから起った衰弱とのために、身体を動かすことができなかった。彼はつぎの瞬間にはどっといろいろなものが墜落してくるだろう、と早くもある確信をもって恐れ、それを待ちかまえていた。ヴァイオリンが母親のふるえる指のあいだをすべって膝から床へと落ち、がたんと響きを立てたことも、彼をびっくりさせて動き出させることは全然なかった。
「お父さん、お母さん」と、妹はいって、話に入る前に手でテーブルを打った。「もうこれまでだわ。あなたがたはおそらくわからないのでしょうが、わたしにはわかります。こんな怪物の前で兄さんの名前なんかいいたくはないわ。だから、わたしたちはこいつから離れようとしなければならない、とだけいうわ。こいつの世話をし、我慢するために、人間としてできるだけのことをやろうとしてきたじゃないの。だれだって少しでもわたしたちを非難することはできないと思うわ」
「これのいうのはまったくもっともだ」と、父親はつぶやいた。まだ十分に息をつけないでいる母親は、狂ったような目つきをして、口に手を当てて低い音を立てながら咳をし始めた。
 妹は母親のところへ急いでいき、彼女の額を支えてやった。父親は妹の言葉を聞いて、何か考えがきまったように見えた。身体をまっすぐにして坐ると、下宿人たちの夕食からまだテーブルの上に置き放しになっている皿のあいだで小使の制帽をもてあそんでいたが、ときどきじっとしているグレゴールの上に視線を投げている。
「わたしたちはこいつから離れなければならないのよ」と、妹はもっぱら父親に向っていった。母親のほうは咳《せ》きこんで何も聞こえないのだ。
「こいつはお父さんとお母さんとを殺してしまうわ。そうなることがわたしにはわかっています。わたしたちみんなのように、こんなに苦労して働かなければならないときには、その上に、家でもこんな永久につづく悩みなんか辛抱できないわ。わたしももう辛抱できないわ」そして、彼女ははげしく泣き始めたので、涙が母親の顔の上にかかった。妹は機械的に手を動かしてその涙をぬぐってやった。
「お前」と、父親は同情をこめ、まったくそのとおりだというような調子でいった。「でも、どうしたらいいんだろうな?」
 妹は、途方にくれていることを示すために肩をすぼめた。泣いているあいだに、さっきの断固とした態度とは反対に、どうしていいのかわからなくなっていたのだった。
「あいつがわれわれのことをわかってくれたら」と、父親は半ばたずねるようにいった。妹は泣きながらはげしく手を振った。そんなことは考えられない、ということを示すものだった。
「あいつがわれわれのことをわかってくれたら」と、父親はくり返して、眼を閉じ、そんなことはありえないという妹の確信を自分でも受け容れていた。「そうしたらおそらくあいつと話をつけることができるんだろうが。だが、こんなふうじゃあねえ――」
「あいつはいなくならなければならないのよ」と、妹は叫んだ。「それがただ一つの手段よ。あいつがグレゴールだなんていう考えから離れようとしさえすればいいんだわ。そんなことをこんなに長いあいだ信じていたことが、わたしたちのほんとうの不幸だったんだわ。でも、あいつがグレゴールだなんていうことがどうしてありうるでしょう。もしあいつがグレゴールだったら、人間たちがこんな動物といっしょに暮らすことは不可能だって、とっくに見抜いていたでしょうし、自分から進んで出ていってしまったことでしょう。そうなったら、わたしたちにはお兄さんがいなくなったでしょうけれど、わたしたちは生き延びていくことができ、お兄さんの思い出を大切にしまっておくことができたでしょう。ところが、この動物はわたしたちを追いかけ、下宿人たちを追い出すのだわ。きっと住居全体を占領し、わたしたちに通りで夜を明かさせるつもりなのよ。ちょっとみてごらんなさい、お父さん」と、妹は突然叫んだ。「またやり出したわよ!」
 そして、グレゴールにもまったくわからないような恐怖に襲われて、妹は母親さえも離れ、まるで、グレゴールのそばにいるよりは母親を犠牲にしたほうがましだといわんばかりに、どう見ても母親を椅子から突きとばしてしまい、父親のうしろへ急いで逃げていった。父親もただ娘の態度を見ただけで興奮してしまい、自分でも立ち上がると、妹をかばおうとするかのように両腕を彼女の前に半ば挙げた。
 しかし、グレゴールは、だれかを、まして妹を不安に陥れようなどとは考えてもみなかった。彼はただ、自分の部屋へもどっていこうとして、身体の向きを変え始めていただけだった。そうはいっても、その動作がひどく目立った。今の苦しい状態のために、困難な回転をやる場合に頭の助けを借りなければならなかったからだ。そこで頭を何度ももたげては、床に打ちつけた。彼はじっととまって、あたりを見廻した。彼の善意はみとめられたようだった。人びとはただ一瞬ぎょっとしただけだった。そこでみんなは、沈黙したまま、悲しげに彼をじっと見つめた。母親は両脚をぴったりつけたまま前へのばして、椅子に坐っていた。疲労のあまり、眼がほとんど自然に閉じそうだった。父親と妹とは並んで坐り、妹は片手を父親の首に廻していた。
「これでもう向きを変えてもいいだろう」と、グレゴールは考えて、彼の仕事にまた取りかかった。骨が折れるために息がはあはあいうのを抑えることはできなかった。そこで、ときどき休まないではいられなかった。ところで、彼を追い立てる者はいなかった。万事は彼自身のやるがままにまかせられた。回転をやり終えると、すぐにまっすぐにはいもどり始めた。自分と自分の部屋とを距てている距離が大きいことにびっくりした。そして、身体が衰弱しているのにどうしてついさっきはこの同じ道を、こんなに遠いとはほとんど気づかないではっていけたのか、理解できなかった。しょっちゅうただ早くはっていくことだけを考えて、家族の者が言葉や叫び声をかけて彼をじゃますることはない、というのには気づかなかった。もうドアのところにまで達したときになってやっと、頭を振り返らせてみた。完全に振り返ったのではない。というのは、首がこわばっているのを感じたのだった。ともあれ、自分の背後では何一つ変化が起っていないことを見て取った。ただ妹だけが立ち上がっていた。彼の最後の視線が母親の上をかすめた。母親はもう完全に眠りこけていた。
 自分の部屋へ入るやいなや、ドアが大急ぎで閉められ、しっかりととめ金がかけられ、閉鎖された。背後に突然起った大きな物音にグレゴールはひどくびっくりしたので、小さな脚ががくりとした。あんなに急いだのは妹だった。もう立ち上がって待っていて、つぎにさっと飛んできたのだった。グレゴールには妹がやってくる足音は全然聞こえなかった。ドアの鍵を廻しながら、「とうとうこれで!」と、妹は叫んだ。
「さて、これで?」と、グレゴールは自分にたずね、暗闇《くらやみ》のなかであたりを見廻した。まもなく、自分がもうまったく動くことができなくなっていることを発見した。それもふしぎには思わなかった。むしろ、自分がこれまで実際にこのかぼそい脚で身体をひきずってこられたことが不自然に思われた。ともかく割合に身体の工合はいいように感じられた。なるほど身体全体に痛みがあったが、それもだんだん弱くなっていき、最後にはすっかり消えるだろう、と思われた。柔かいほこりにすっかり被われている背中の腐ったリンゴと炎症を起こしている部分とは、ほとんど感じられなかった。感動と愛情とをこめて家族のことを考えた。自分が消えてしまわなければならないのだという彼の考えは、おそらく妹の意見よりももっと決定的なものだった。こんなふうに空虚なみちたりたもの思いの状態をつづけていたが、ついに塔の時計が朝の三時を打った。窓の外ではあたりが明るくなり始めたのを彼はまだ感じた。それから、頭が意に反してすっかりがくりと沈んだ。彼の鼻孔《びこう》からは最後の息がもれて出た。
 朝早く手伝い婆さんがやってきたとき――いくらそんなことをやらないでくれと頼んでも、力いっぱいに大急ぎでどのドアもばたんばたんと閉めるので、この女がやってくると、家じゅうの者はもう静かに眠っていることはできなかった――いつものようにちょっとグレゴールの部屋をのぞいたが、はじめは別に異常をみとめなかった。グレゴールはわざとそんなふうに身動きもしないで横たわって、ふてくされて見せているのだ、と手伝い婆さんは思った。彼女はグレゴールがありとあらゆる分別をもっているものと思っていた。たまたま長い箒を手にもっていたので、ドアのところからそれでグレゴールをくすぐろうとした。ところがなんのききめも現われないので、怒ってしまい、グレゴールの身体を少しつついた。彼がなんの抵抗も示さずに寝ているところからずるずると押しやられていったときになってはじめて、女はおかしいな、と思った。まもなく真相を知ると眼を丸くし、思わず口笛のような音を出したが、たいしてそこにとどまってはいず、寝室のドアをさっと開いて、大きな声で暗闇に向って叫んだ。
「ちょっとごらんなさいよ。のびていますよ。ねていますよ。すっかりのびてしまっていますよ!」
 ザムザ夫妻はダブル・ベッドの上にまっすぐに身体を起こし、手伝い婆さんのいうことがわかるより前に、まずこの女にびっくりさせられた気持をしずめなければならなかった。だが、事情がのみこめると夫婦はそれぞれ自分の寝ていた側から急いでベッドを下りた。ザムザ氏は毛布を肩にかけ、ザムザ夫人はただ寝巻のままの姿で出てきた。二人はそんな恰好でグレゴールの部屋へ入っていった。そのあいだに、下宿人がやってきて以来グレーテが寝るようになった居間のドアも開けられた。グレーテは全然眠らなかったように、完全な身支度をしていた。彼女の蒼い顔も、眠っていないことを証明しているように思われた。
「死んだの?」と、ザムザ夫人はいって、たずねるように手伝い婆さんを見上げた。とはいっても自分で調べることができるし、また調べなくともわかることだった。
「そうだと思いますね」と、手伝い婆さんはいって、それを証明するためにグレゴールの死骸を箒でかなりの距離押してやった。ザムザ夫人は、箒を押しとめようとするような動作をちょっと見せたが、実際にはそうはしなかった。
「これで」と、ザムザ氏がいった。「神様に感謝できる」
 彼は十字をきった。三人の女たちも彼のやるとおり見ならった。死骸から眼を放さないでいたグレーテがいった。
「ごらんなさいな。なんてやせていたんでしょう。もう長いこと全然食べなかったんですものね。食べものは入れてやったときのままで出てきたんですもの」
 事実、グレゴールの身体はまったくぺしゃんこでひからびていて、もう小さな脚では身体がもち上げられなくなり、そのほかの点でも人の注意をそらすようなものがまったくなくなってしまった今になってやっと、そのことがわかるのだった。
「グレーテ、ちょっとわたしたちの部屋へおいで」と、ザムザ夫人は悲しげな微笑を浮かべていった。グレーテは死骸のほうを振り返らないではいられなかったが、両親につづいて寝室へ入っていった。手伝い婆さんはドアを閉め、窓をすっかり開けた。朝が早いにもかかわらず、すがすがしい空気にはすでにいくらかなま暖かさがまじっていた。もう三月の末だった。
 三人の下宿人が自分たちの部屋から出てきて、びっくりしたように自分たちの朝食を探してあたりをきょろきょろ見廻した。朝食の用意は忘れられていた。
「朝食はどこにあるんだ?」と、まんなかの人がぶつぶつ言いながら手伝い婆さんにたずねた。ところが婆さんは口に指をあてて、黙ったまま急いで、グレゴールの部屋へいってみるように、という合図をしてみせた。三人はいわれたとおりに部屋へいき、いくらかくたびれた上衣のポケットに両手を突っこんだまま、今ではもう明るくなった部屋のなかでグレゴールの死骸のまわりに立った。
 そのとき寝室のドアが開いて、制服姿のザムザ氏が現われ、一方の腕で妻を抱き、もう一方の腕で娘を抱いていた。みんな少し泣いたあとだった。グレーテはときどき顔を父親の腕に押しつけた。
「すぐ私の家を出ていっていただきましょう!」と、ザムザ氏はいって、二人の女を身体から離さないでドアを指さした。
「それはどういう意味なんです?」と、まんなかの人は少し驚きながらいって、やさしそうな微笑をもらした。ほかの二人は両手を背中に廻して、たえずこすっている。まるで自分たちに有利な結果に終わるにきまっている大きな争いをうれしがって待ちかまえているようだった。
「今申しているとおりの意味です」と、ザムザ氏は答え、二人の女と一直線に並んで下宿人たちのほうへ近づいていった。例の人ははじめのうちはじっと立ったまま、事柄を頭のなかでまとめて新しく整理しようとするかのように、床を見つめていた。
「それでは出ていきましょう」と、いったが、ザムザ氏を見上げた。まるで突然襲われたへりくだった気持でこの決心にさえ新しい許可を求めているかのようだった。ザムザ氏は大きな眼をしてただ何度かうなずいて見せるだけだった。それからその人はほんとうにすぐ大股で玄関の間へと歩いていった。二人の友人はしばらく両手の動きをすっかりとめたまま聞き耳を立てていたが、例の人のあとを追って飛んでいった。まるでザムザ氏が自分たちより前に玄関の間に入って、自分たちの指導者である例の人との連絡をじゃまするかもしれないと不安に思っているようであった。玄関の間で三人はそろって衣裳かけから帽子を取り、ステッキ立てからステッキを抜き出し、無言のままお辞儀をして、住居を出ていった。すぐわかったがまったくいわれのない不信の念を抱きながら、ザムザ氏は二人の女をつれて玄関口のたたきまで出ていった。そして、三人がゆっくりとではあるが、しかししっかりとした足取りで長い階段を降りていき、一階ごとに階段部の一定の曲り角へくると姿が消え、そしてまたすぐに現われてくるのを、手すりにもたれてながめていた。下へ降りていくにつれて、それだけザムザ家の関心は薄らいでいった。この三人に向って、そしてつぎには三人の頭上高く一人の肉屋の小僧が頭の上に荷をのせて誇らしげな態度でのぼってきたとき、ザムザ氏は女たちをつれて手すりから離れ、まるで気が軽くなったような様子で自分たちの住居へもどっていった。
 彼らは今日という日は休息と散歩とに使おうと決心した。こういうふうに仕事を中断するには十分な理由があったばかりでなく、またそうすることがどうしても必要だった。そこでテーブルに坐って三通の欠勤届を書いた。ザムザ氏は銀行の重役宛に、ザムザ夫人は内職の注文をしてくれる人宛に、そしてグレーテは店主宛に書いた。書いているあいだに手伝い婆さんが入ってきた。もう帰ると言いにきたのだった。というのは、朝の仕事は終っていた。届を書いていた三人ははじめはただうなずいてみせるだけで眼を上げなかったが、手伝い婆さんがまだその場を離れようとしないので、やっと怒ったように見上げた。
「何か用かね?」と、ザムザ氏がたずねた。手伝い婆さんは微笑しながらドアのところに立っていたが、家族の者たちに大きな幸福について知らせてやることがあるのだが、徹底的にたずねてくれなければ知らせてはやらない、といわんばかりであった。帽子の上にほとんどまっすぐに立っている小さな駝鳥《だちょう》の羽根飾りは、彼女が勤めるようになってからザムザ氏が腹を立てていたものだが、それが緩やかに四方へゆれている。
「で、いったいどんな用なの?」と、ザムザ夫人がたずねた。手伝い婆さんはそれでもこの夫人をいちばん尊敬していた。
「はい」と、手伝い婆さんは答えたが、親しげな笑いのためにすぐには話せないでいる。「隣りのものを取り片づけることについては、心配する必要はありません。もう片づいています」
 ザムザ夫人とグレーテとはまた書きつづけようとするかのように手紙にかがみこんだ。ザムザ氏は、手伝い婆さんがいっさいをくわしく説明し始めようとしているのに気づいて、手をのばして断固として拒絶するということを示した。女は話すことが許されなかったので、自分がひどく急がなければならないことを思い出し、侮辱されたように感じたらしく「さよなら、みなさん」と叫ぶと、乱暴に向きなおって、ひどい音を立ててドアを閉め、住居を出ていった。
「夕方、あの女にひまをやろう」と、ザムザ氏はいったが、妻からも娘からも返事をもらわなかった。というのは、手伝い婆さんがこの二人のやっと得たばかりの落ちつきをまたかき乱してしまったらしかった。二人は立ち上がって、窓のところへいき、抱き合って立っていた。ザムザ氏は彼の椅子に腰かけたまま二人のほうを振り返って、しばらくじっと二人を見ていた。それから叫んだ。
「さあ、こっちへこいよ。もう古いことは捨て去るのだ。そして、少しはおれのことも心配してくれよ」
 すぐ二人の女は彼のいうことを聞き、彼のところへもどって、彼を愛撫《あいぶ》し、急いで欠勤届を書いた。
 それから三人はそろって住居を出た。もう何カ月もなかったことだ。それから電車で郊外へ出た。彼ら三人しか客が乗っていない電車には、暖かい陽がふり注いでいた。三人は座席にゆっくりともたれながら、未来の見込みをあれこれと相談し合った。そして、これから先のこともよく考えてみるとけっして悪くはないということがわかった。というのは、三人の仕事は、ほんとうはそれらについておたがいにたずね合ったことは全然なかったのだが、まったく恵まれたものであり、ことにこれからあと大いに有望なものだった。状態をさしあたりもっとも大幅に改善することは、むろん住居を変えることによってできるにちがいなかった。彼らは、グレゴールが探し出した現在の住居よりももっと狭くて家賃の安い、しかしもっといい場所にある、そしてもっと実用的な住居をもとうと思った。こんな話をしているあいだに、ザムザ夫妻はだんだんと元気になっていく娘をながめながら、頬の色も蒼《あお》ざめたほどのあらゆる心労にもかかわらず、彼女が最近ではめっきりと美しくふくよかな娘になっていた、ということにほとんど同時に気づいたのだった。いよいよ無口になりながら、そしてほとんど無意識のうちに視線でたがいに相手の気持をわかり合いながら、りっぱなおむこさんを彼女のために探してやることを考えていた。目的地の停留場で娘がまっさきに立ち上がって、その若々しい身体をぐっとのばしたとき、老夫妻にはそれが自分たちの新しい夢と善意とを裏書きするもののように思われた。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
入力:kompass
校正:青空文庫
2010年11月28日作成
2012年7月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

原田義人

判決    DAS URTEIL  フランツ・カフカ Franz Kafka ——-原田義人訳

 すばらしく美しい春の、ある日曜日の午前のことだった。若い商人のゲオルク・ベンデマンは二階にある彼の私室に坐っていた。その家は、ほとんど高さと壁の色とだけしかちがわず、川に沿って長い列をつくって立ち並んでいる、屋根の低い、簡単なつくりの家々のうちの一軒である。彼はちょうど、外国にいる幼な友達に宛てた手紙を書き終えたばかりで、遊び半分のようにゆっくりと封筒の封をし、それから机に肘《ひじ》をついたまま、窓越しに川をながめ、橋と、浅緑に色づいている対岸の小高い丘とをながめた。
 この友達というのが、故郷での暮しに満足できず、すでに何年か前にロシアへ本格的に逃げ去っていったことを、彼は考えていた。今、その友人はペテルスブルクで商売をやっているが、最初はとても有望のようであったその商売も、ずっと前からすでにゆきづまっている様子で、こちらへ帰ってくることもだんだんとまれになってきているが、いつでもそれをこぼしていた。異国の空の下でむだにあくせく働いたわけで、顎や頬《ほお》いちめんの異様な髯《ひげ》が、子供のころから見慣《みな》れた顔をなんともぶざまにおおっていた。黄色な顔の皮膚の色は進行しつつある病気を暗示しているようであった。彼の語るところによれば、かの地における同郷仲間ともしっくりいかないで、かといってロシア人の家庭ともほとんどつき合いをしているわけでもなく、覚悟をきめた独身生活を固めているということだった。
 どうやら道に迷ってしまったらしいこんな男、気の毒とは思うが助けてやることのできないこんな男に、なにを書いてやろうというのか。また故郷へ帰り、生活をこちらへ移し、昔の友人関係とよりをもどして――そのためには実際、障害は全然ないのだ――、さらには友人たちの助力を信頼するように、などと忠告すべきだろうか。だが、そんなことは同時に、いたわって書けば書くほどむこうの心を傷つける結果となり、君のこれまでのすべての試みは失敗したのだ、もうそんなものから手を引くべきだ、帰ってきて、もう去ることのない帰郷者としてすべての人びとに驚きの眼を見はらせて甘んじていなければならないのだ、友人たちだけはいくらか理解してくれよう、君は年とった子供なのだ、こちらにとどまって成功している友人たちに黙ってついていかなければならないのだ、といってやるのに等しい。ところで彼に加えられるにちがいないそうしたいっさいの苦しみは、はたしてほんとうになんかの役に立つものだろうか。たぶん、彼を帰郷させるなどということは、けっしてできない相談なのだ。――おれにはもう故郷の事情はさっぱりわからない、と彼自身がいったではないか。――それで彼はどうあろうと異郷にとどまることだろう、友人たちの忠告に不愉快な思いをし、友人たちといっそう疎遠になって。ところで、もしほんとうに忠告に従って帰郷し、郷里で――もちろんこれはわざとそうするわけではないが、さまざまな事実によって――抑圧され、友人たちのなかにあっても、また友人たちがいなくてもしっくりした気持にはなれず、恥辱の思いに悩み、今度はほんとうに故郷も友人もいないということにでもなれば、今のまま異郷にとどまるほうが彼のためにずっとよいのではなかろうか。こうした事情の下では、彼が故郷でほんとうに身を立てるなどと、いったい考えることができるであろうか。
 こうした理由から、たとい手紙のつながりをなおもきちんとつづけようと思っても、どんなに離れている知人たちにもはばかることなく書き送るようなほんとうの意味の通信をすることはできなかった。その友人はすでにこれで三年以上も故郷へきたことはなく、帰らないのはロシアの政治情勢の不安定のためにどうしてもやむをえぬことだ、と説明していた。そこでの政情不安は、十万にも及ぶロシア人が平気で世界を歩き廻っているのに、つまらない一商人のほんのしばらくの外国旅行さえも許さないということであった。ところでこの三年のあいだには、まさにゲオルクにとって多くの変化が起っていた。およそ二年前にゲオルクの母の死去ということがあり、それ以来ゲオルクは父と共同生活をしていたが、そのことは友人もたしかに聞かされて、一通の手紙にそっけない表現でくやみを述べてきたが、そんな調子で書いた理由はおそらく、こんなできごとの悲しみは異郷にあってはまったく想像しがたいものだ、というところにあったのであろう。ところでゲオルクは、そのとき以来、ほかのすべてのことと同じように、自分の商売にもかなりな決意をもって立ち向っていた。おそらく母の生前は、父が商売において自分の考えを通そうとして、ゲオルクのほんとうの独自の活動を妨げていたのであった。おそらく父は母の死後、相変らず商売で働いてはいたものの、前よりはひかえ目になり、またおそらくは――きわめてありうべきことであったが――さまざまな幸運な偶然がもっと重大な役割を演じたのだった。ともかく商売は、この二年間のあいだに、まったく思いもかけぬくらいに発展していた。社員の数は二倍にしないでいられなかったし、売上げは五倍にもなり、今後いっそうの発展も疑いなく予想できるのだった。
 ところが例の友人は、こうした変化を全然知らなかった。前に、おそらくいちばん近くは例のくやみ状においてであったが、ゲオルクにロシアへ移住するように説き伏せようとし、ほかならぬゲオルクの商店の支店がペテルスブルクにあるとしたときの見通しをこまごまと述べてきた。彼の述べている数字は、ゲオルクの商売がそのころ占めていた規模に比べると、まったく影の薄いようなわずかのものだった。しかしゲオルクは、自分の商売の成果について友人に書いてやる気にはなれなかった。そんなことを書けば、あとになった今では、ほんとうに奇妙なふうに見えたことであろう。
 そこでゲオルクは、友人にはいつもただ意味のないできごとだけを書いてやるにとどめていた。静かな日曜日に思いめぐらすと、記憶のうちにとりとめなく積み重なっていくようなできごとだけを書いてやったのだった。彼はただ、友人が長い間隔を置いて故郷の町についてきっと思い描いているにちがいないような、そしてそれで満足しているにちがいないような想像を乱さないでおこうと努めた。それでゲオルクがやったことといえば、一人のなんでもない男と一人の同じようになんでもない娘との婚約を、友人にかなり間を置いた手紙で三度知らせてやったことであるが、つまらない話といってもやがて友人は、ゲオルクの意図にはまったく反して、この出来ごとに興味を抱き始めたのだった。
 だがゲオルクは、自分が一カ月前にフリーダ・ブランデンフェルトという金持の家庭の娘と婚約したということを打ち明けるよりも、以上のようなつまらない話を書くほうがずっとよかった。彼は婚約者としばしばこの友人のことを話し、また自分とこの友人とのあいだに交わされている特別な文通関係についても話した。
「それじゃあ、そのかたは私たちの結婚式にとても来ては下さらないわね」と、彼女はいった。「でも私は、あなたのお友だちのだれともお知合いになる権利はあるんだけれど」
「ぼくはあの男の迷惑になりたくないんだ」と、ゲオルクは答えた。「ぼくのいうことをよくわかってくれたまえ。あの男は、いってやればきっとくるさ。少なくともぼくはそう信じている。でも、もしそんなことをいってやれば、あれは無理じいされ、傷つけられた感じがするだろう。おそらくぼくのことをうらやましいと思い、きっと不満を感じ、しかもその不満をけっして消し去ることもできないままに、ひとりぽっちでロシアへ帰っていくことになるだろう。ひとりぽっち――それがどんなことか、君にはわかるかい?」
「ええ、わかるわ。それなら、ほかの方法で私たちの結婚のことを知ってもらえないかしら?」
「そういうやりかたがいけないとは、ぼくもいわないよ。でも、あの男の生きかたからいうと、とてもできそうにもないな」
「ゲオルク、あなたにそんなお友だちがいらっしゃるなら、あなたは婚約なんかなさらなければよかったんだわ」
「そうだ。婚約したのはぼくたち二人の責任だ。でも、今となっては、もう婚約を解消する気はないな」そして、彼の接吻を浴びながら、女が息をはずませて、
「でもほんとうからいうと私、その人のことが気になってしかたがないわ」といったとき、友人にいっさいを知らせてやることはそれほどあぶなかしいことでもない、とほんとうに考えた。
「彼はありのままのぼくをそのまま受け入れてくれなければいけないのだ。今のぼくよりもおそらくは彼との友情にふさわしいかもしれない人間を、ぼくは自分のなかから切り捨てることはできない」と、自分にいって聞かせた。
 そして事実、彼はこの日曜日の午前に書いた長い手紙のなかで、成立した婚約のことをつぎのような言葉で知らせてやることにした。
「最大のニュースのことをぼくは最後まで取っておいた。ぼくはフリーダ・ブランデンフェルトという娘と婚約した。この人は金持の家庭の娘だ。その家庭は、君がここから去ってからずっとあとになって当地に住むことになったのだ。だから、君はこの家のことはほとんど知っていないはずだ。ぼくの婚約者についてもっとくわしいことを知らせる機会はあるだろう。きょうのところは、ぼくがほんとうに幸福であり、ぼくたち同士の間柄では、君がぼくのうちに今ではごくありふれた友人を持つばかりでなく、幸福な友人を持つことになるというだけのちがいしかないのだ、ということで満足してくれたまえ。さらに君は、ぼくの婚約者のうちに、一人の誠実な女友だちを持つことになるのだ。それは君のような独身者にとっては、けっして無意味なことではない。彼女は君に心からよろしくといっているし、近く君に手紙を書くだろう。君がぼくたちを訪ねてくれることにいろいろ妨げがあることは、ぼくも知っている。しかし、ぼくの結婚式は、あらゆる障害を一気に打ち破る絶好のチャンスではないだろうか。だが、それはどうあろうとも、どんな顧慮もなく、ただ君の本心に従って行動してくれたまえ」
 この手紙を手にして、ゲオルクは顔を窓に向けたまま、長いあいだ机に坐っていた。通りすがりに横町から会釈《えしゃく》した一人の知人に対しても彼は放心したような微笑でやっと答えただけだった。
 やがて彼はその手紙をポケットに入れ、部屋を出ると、小さな廊下を通って父の部屋へいった。もう何カ月かのあいだ、彼はその部屋へいったことがなかった。また、その必要も全然なかったのだった。というのは、彼は父とはいつでも店で出会っていたのだ。二人はある食堂で昼食を同時にとるのだった。晩は、二人とも好きなような行動をするのではあったが、そのあとではなおしばらく共同の居間に坐って、めいめいが新聞を読んで過ごした。もっとも、ゲオルクが友人たちといっしょにいることや、このごろでは婚約者が彼を訪ねることが、いちばん多いのではあった。
 こんな晴れわたった午前でさえ、父の部屋がまっ暗であることに、ゲオルクは驚いた。狭い中庭の向うにそびえている壁は、それほどの影を投げていた。父は、亡くなった母のさまざまな思い出の品に飾られている部屋の片隅の窓辺に坐り、いくらか衰えてしまった視力の弱さを補おうとして、新聞を目の前に斜めに構えて、読んでいた。机の上には朝食の残りがのっていたが、その朝食はたいして手がつけられていないように見えた。
「ああ、ゲオルクか!」と、父はいって、すぐ彼のほうに歩み寄ってきた。重たげな寝衣が、歩くときにはだけて、すそがひらひらした。――「おやじは相変らず大男だな」と、ゲオルクは思った。
「ここはまったくかなわないほど暗いですね」と、彼はいった。
「そうだ、もう暗くなった」と、父は答えた。
「窓も閉めてしまったんですね?」
「わしはそのほうがいいんだ」
「そとはほんとうに暖かですよ」と、ゲオルクは前の言葉につけたすようにいって、椅子に坐った。
 父は朝食の食器を片づけ、それを箱の上にのせた。
「じつはお父さんにお話があるんです」と、老父の動きをぼんやりと目で追いながらゲオルクは言葉をつづけた。「やはりペテルスブルクへぼくの婚約のことを知らせてやることにしました」彼は手紙をポケットから少し引き出したが、またポケットへ落した。
「ペテルスブルクへだって?」と、父がきいた。
「ぼくの友人へです」と、ゲオルクは言い、父の目をうかがった。――「おやじは店ではこんなじゃないんだが。ここではどっしり坐って両腕を胸の上で組んだりしている」と、ゲオルクは思った。
「ふん、お前の友人へね」と、父は言葉に力をこめていった。
「お父さんもご存じのように、ぼくは婚約のことをはじめは黙っていようと思ったのです。心づかいからで、そのほかの理由なんかありません。ご存じでしょう、あの男は気むずかしい人間ですから。あの男の孤独な生きかたからいってほとんどありそうもないことではありますが、ほかのところからぼくの婚約のことを知るかもしれない、とぼくは考えました。――それはぼくにはどうにもなりませんもの。――でも、ぼく自身からはあの男にけっして知らせまい、と思ったのです」
「それで、今はまた考えを変えたというのか」と、父はきき、大きな新聞を窓べりに置き、その上に眼鏡を置くと、片手でそれをおおった。
「そうです。今はまた考えが変ったのです。あの男がぼくの親友なら、ぼくの幸福な婚約はあの男にとっても幸福であるはずだ、とぼくは思いました。それでぼくは、知らせてやることをもうためらわなくなりました。でも、その手紙をポストへ入れる前に、お父さんにいっておこうと思ったのです」
「ゲオルク」と、父はいって、歯のない口を平たくした。「いいか。お前はこのことでわしに相談するために、わしのところへきた。それはたしかにいいことだ。だが、今わしにほんとうのことを洗いざらい言わないなら、なんにもなりゃしない。なんにもならぬというよりもっといけないことだ。わしは今の問題に関係ないことをむし返すつもりはない。だが、お母さんが死んでから、いろいろといやなことが起った。おそらくそういうことが起こる時がきたのかもしれないし、わしらが考えているのよりも早くその時がきているのかもしれない。商売でもいろいろなことがわしにはわからないままになっている。おそらくわしに隠してあるのではあるまい。――わしに隠してあるなんて、わしは全然思いたくないからな。――わしはもう元気がなくなったんだろう。記憶力も衰えたからな。わしはもうたくさんのことを全部見ている力がない。一つには年という自然の結果だし、もう一つにはお母さんの死んだことがお前よりもわしに強い打撃を与えたからだ。――それはともかく、今の問題、つまりその手紙のことだが、ゲオルク、わしをだまさないでくれ。ほんのちょっとしたことだし、息をつくほどのことでもないじゃないか。だから、わしをだまさないでくれ。いったい、そのペテルスブルクの友だちというのは、ほんとうにいるのかね?」
 ゲオルクは当惑して立ち上がった。
「ぼくの友人たちのことなんか、ほっておきましょうよ。千人の友人だって、お父さんにはかえられません。ぼくの信じていることが、お父さんにはわかりますか? お父さんは自分の身体をいたわらなすぎます。でも、年をとれば、身体をいたわる権利があるというものです。お父さんはぼくの商売に欠かすことのできない人です。それはお父さんだってよくご存じのはずですね。でも、もし商売がお父さんの健康をそこねるというのなら、商売なんかあしたにでも永久にやめますよ。そんなことはいけません。それなら、お父さんのために別な生きかたを始めましょう。でも、根本からちがった生きかたをするのです。お父さんはこんな暗いところに坐っていらっしゃる。ところが居間にいらっしゃれば、明るい光を浴びることができるじゃありませんか。きちんと食事をあがって身体に力をつけるかわりに、朝食もちょっぴりあがるだけです。窓を閉めきっていらっしゃるけれど、そとの空気が身体にいいにきまっているじゃありませんか。いけません、お父さん! お医者をつれてきて、その指図に従おうじゃありませんか。部屋も取り変えましょう。お父さんが表の部屋へいき、ぼくがこっちへきます。お父さんには少しも模様変えなんかありません。みんなむこうへ持っていきます。でも、そうしたことをみんなやるまでにはまだ間があります。今は少しベッドに寝て下さい。お父さんには絶対に休息が必要です。さあ、着物を脱ぐのを手伝いましょう。いいですか、ぼくにもそんなことはできますとも。それともすぐ表の部屋へいきますか。それならしばらくぼくのベッドに寝て下さい。ともかくそれがりこうなやりかたというものでしょう」
 ゲオルクは父のすぐそばに立った。父はもつれた白髪の頭を深くうなだれていた。
「ゲオルク」と、父は低い声で、感動もなくいった。
 ゲオルクはすぐ父と並んでひざまずいた。彼は、父の疲れた顔のなかで、瞳孔《どうこう》が大きくみひらかれ目尻から自分に向けられているのを見た。
「お前にはペテルスブルクの友だちなんかいないんだ。お前はいつもふざけてばかりいたが、わしに対しても悪ふざけをひかえたことがなかった。お前がペテルスブルクなんかに友だちをもっているわけがあるものか! そんなことは全然信じられないぞ」
「もう一度よく考えて下さい、お父さん」と、ゲオルクはいって、父を椅子から起こし、父がまったく力なく立ち上がったとき、寝衣を脱がせた。
「これでまもなく三年になりますが、ぼくの友人はうちを訪ねてきたのですよ。お父さんがあの男をあまり好いていなかったことは、まだおぼえています。少なくとも二度、ぼくはあの男のきていることをお父さんに隠しました。じつはあの男がぼくの部屋にいたのでしたが。ぼくにはお父さんがあの男を嫌う気持がよくわかりました。あの男にはいろいろ妙なところがありますからね。でも、やがてお父さんは彼とまったくうちとけて話し合っていました。お父さんがあの男のいうことに耳を傾け、うなずいたり、質問したりしていることを、ぼくはとても誇りにしたのでした。よく考えてみれば、思い出すはずです。あの男は、そのときロシア革命の途方もない話をしました。たとえば、キエフへ商用旅行でいったとき、騒動のさなかに一人の神父がバルコンに立っているのを見たということ。その神父は、てのひらを切って大きな血の十字架を書き、その手を上げて、群集に呼びかけていた、というじゃありませんか。お父さん自身が、この話をあちこちでくり返し聞かせていましたよ」
 こうしているうちに、ゲオルクはうまく父をまた椅子に坐らせ、リンネルのパンツの上にはいているトリコットのズボン下も、靴下も、注意深く脱がせた。あまりきれいではない下着をながめて、彼は父のことをかまわないでおいた自分をとがめた。たしかに、父の下着の着換えに気をくばることも、彼の義務であったろう。父の将来をどうしようとするのか、彼は婚約者とまだはっきり話し合ったことはなかった。しかし、彼らは暗黙のうちに、父はもとの住居《すまい》にひとり残るものときめていたのだった。だが今は、父を自分の未来の家庭へ引き取ろうと、はっきりと急に決心した。よく考えてみれば、新しい家庭に父を引き取り世話するという考えは、あまりに遅く思い浮かんだようにさえ思われるのだった。
 両腕で父を抱えてベッドへ運んだ。ベッドへ二、三歩向かいながら、父が胸の上の時計の鎖をもてあそんでいるのをみとめたとき、恐ろしい感じが襲ってきた。彼は父をすぐベッドへ寝かすことができなかった。それほどしっかりと父はこの時計の鎖をつかんでいるのだった。
 しかし、父がベッドに寝るやいなや、万事うまく片づいたように思われた。父は自分でふとんにくるまり、かけぶとんだけをさらに肩のずっと上までかけた。父はそれほど無愛想そうにでもなく、彼を仰ぎ見た。
「ねえ、もうあの友人のことを思い出したでしょう?」と、ゲオルクはきき、父に向って元気づけるようにうなずいて見せた。
「よくふとんがかかっているかね?」と、父はきいた。両脚に十分かかっているかどうか、自分では見ることができないようであった。
「ベッドに入ったら、もうよい気分でしょう?」と、ゲオルクは言い、父にかかっているふとんをなおしてやった。
「うまくかかっているかね?」父はもう一度きいて、返事に特別気をつかっているようであった。
「静かになさい、うまくかかっていますよ」
「うそだ!」と、自分の問いに対する返事が終わるか終わらないうちに、父は叫び、力いっぱいふとんをはねのけたので、ふとんは一瞬飛びながらぱっと拡がった。父はベッドの上にまっすぐに立った。ただ片手だけは軽く天井にあてていた。「お前はわしにふとんをかけようとした。いいか、そんなことはわしにはわかっているんだぞ。だが、わしはまだふとんなんかかけてもらっていないぞ。これがわしのぎりぎりの力だとしても、お前なんか相手には十分だ。お前には十分すぎるくらいだ。お前の友だちのことはよく知っている。あの男はわしの心にかなった息子といえるくらいだ。だからお前はあの男も長年だましてきたのだ。そのほかにどんな理由がある? わしが彼のために泣いたことはないとでも、お前は思うのか? だからお前は自分の事務室に閉じこもったりするのだ。だれも入ってはいけない、社長は仕事中、というわけだ。――それもただ、お前がロシア宛ての偽手紙を書くことができるためなのだ。だが、ありがたいことに、だれも息子の量見を見抜きなさいなどとは父親に向って言いはしない。今ではお前は、わしを押えつけたと思っている。完全に押えつけたので、父親を尻の下にしくことができるし、父親は動けない、と思っている。それでお前さんは結婚する決心をしたのだ!」
 ゲオルクは父の恐ろしい姿を見上げた。父が突然よく知っているといったペテルスブルクの友人のことが、今までにないほど彼の心を打った。彼はその友人が広いロシアで痛手を受けている様子を思い浮かべた。掠奪《りゃくだつ》された空っぽの店の戸口に立っているのを見た。商品棚の残骸のあいだ、めちゃめちゃにされた品物のあいだ、垂れ下がったガス燈の腕木のあいだに、友人はまだたたずんでいる。なんだってそんなに遠くまで去っていかなければならなかったのだろう!
「わしをよく見ろ!」と、父は叫んだ。ゲオルクは、ほとんど呆然《ぼうぜん》としたまま、あらゆるものをつかむためベッドへ走っていこうとした。だが、途中で足がとまってしまった。
「あのいやらしい娘がスカートを上げたからだ」と父は、ひゅうひゅう音がもれる声でしゃべり始めた。「あいつがスカートをこうやって上げたからだ」そして、その様子をやって見せようとして、下着をたくし上げたので、父の太股には戦争のときに受けた傷あとが見えた。
「あいつがスカートをこうやって、こうやって上げたからだ。それでお前はあいつに引きよせられてしまったのだ。あの女と水入らずで楽しむために、お前はお母さんの思い出を傷つけ、友だちを裏切り、父親を身動きできぬようにベッドへ押しこんだのだ。だが、わしが動けるか、動けないか、さあ、どうだ」
 父は完全に自由に立ち、脚をばたばたさせた。自分の目が高いことを誇って、顔を輝かせていた。
 ゲオルクは、父からできるだけ離れて、部屋の片隅に立っていた。ずっと前に、廻り道などして背後や上から襲われるようなことがないように、すべてを完全にはっきり見きわめようと固く決心していたのだった。今やふたたび、ずっと前から忘れていたその決心を思い出したが、短い糸を針穴に通すようにまた忘れてしまった。
「だが、お前の友だちはお前に裏切られたわけではないぞ!」と、父は叫び、人差指を左右に動かしてそれを強調した。「わしはこの町での彼の代理人だったのだ」
「喜劇役者!」と、ゲオルクは叫ばないではいられなかったが、すぐにその損なことをさとって、もう遅すぎたが――両眼をじっとすえたまま――舌をかんだ。それで彼は痛みのために身体が曲がるほどだった。
「そうだ、もちろんわしは喜劇を演じたのさ! 喜劇! いい言葉だ! ほかにどんな慰めが、わしという年老いた男やもめの父親にあるだろうか? いってくれ――お前が答える瞬間だけはお前はまだわしの生きている息子というわけだ――、奥の部屋に閉じこめられ、不実な使用人どもに追い払われ、骨まで老いぼれたこのおれに、何が残されているというのだ? 息子のほうは歓声を上げながら世のなかを渡り、わしがこれまでに仕上げた店をやめてしまい、面白がって笑いこけ、紳士ぶった無口な顔つきをして父親から逃げ去ってしまうというのだ! わしがお前を愛さなかったと思うのか、お前の実の父親であるこのわしが」
「今度はおやじは身体を前にかがめてしまうだろう」と、ゲオルクは思った。「もしおやじが倒れ、くだけてしまったら!」この言葉が彼の頭のなかをかすめ過ぎた。
 父は身体を前にかがめたが、倒れはしなかった。ゲオルクは父が期待したように近づかなかったので、父はまた身体を起こした。
「そのままそこにいるがいい。わしはお前なんかいらないさ! お前にはまだここまでやってくる力があると、お前は思っているんだ。それだのにお前はよってもこない。そうしたいと思うからだ。思いちがいしないでくれよ! わしはまだまだお前よりずっと強いんだぞ。だが、おそらくおれのほうがお前に譲歩すべきだったのかもしれない。ところがお母さんが自分の力をわしに与えてくれたのだ。お前の友だちとおれは心から結ばれているし、お前の顧客《とくい》の名前はこのポケットのなかに入っているんだぞ!」
「シャツにさえポケットをつけている」と、ゲオルクは自分に言い聞かせた。それを言いふらしたら、おやじを世間に顔向けできぬようにしてやることができるんだ、と彼は思った。そう思ったのも、ほんの一瞬だった。というのは、彼はあとからあとからなんでも忘れてしまうのだった。
「お前の婚約者にしがみついていればいい。さあ、わしに立ち向ってみろ! わしはあの女をお前のそばから払いのけてやるぞ。どうやって払いのけるのか、お前にはわかるまい!」
 ゲオルクは、そんなことは信じないというように、しかめ面をした。父は自分のいうことがほんとうだと誓うように、ゲオルクがいる部屋の隅のほうにうなずいてみせた。
「きょうも、お前がやってきて、お前の友だちに婚約のことを書いてやったものだろうかと聞いたとき、わしは愉快だったよ。あの男はなんでも知っているんだ、ばかめ、なんでも知っているんだぞ! お前がわしから筆記具を取り上げることを忘れたものだから、わしがあの男に手紙を書いてやったんだ。だからお前の友だちは何年も前からこっちへこないのだ。お前自身よりあの男のほうがなんでも百倍もよく知っているんだ。お前の手紙は読まないで左手のなかでくちゃくちゃにしてしまい、わしの手紙のほうは右手にもって読むために目の前に拡げるというくらいだ!」
 父は激したあまり腕を頭上で振った。「あの男はなんでも千倍もよく知っているんだぞ!」と、彼は叫んだ。
「万倍もでしょうよ!」と、ゲオルクは父を嘲《あざ》けるためにいった。しかし、まだ口のなかにあるうちにその言葉はひどく真剣な響きをおびた。
「何年も前から、お前がこの疑問をたずさえてやってくるのを、わしはじっと待ち構えていたのだ! わしが何かほかのことに心をわずらわしていたとでも思うのか? わしが新聞を読んでいるとでも思っているのか? それ、見てみろ!」そういって、ゲオルクに新聞を投げてよこした。父はその新聞をどうやってかベッドのなかにまでもち運んでいたのだった。古新聞で、ゲオルクが全然知らない社名のものだった。
「お前は、一人前になるまでになんて長いあいだぐずぐずしていたんだろう! お母さんは死ぬことになって、よろこびの日を味わうことができなかった。お前の友だちはロシアで身を滅ぼし、三年も前にすっかり零落し果ててしまった。そしてこのわしは――わしがどういう有様かは、お前にも見えるはずだ。そのために目があるはずだ!」
「お父さんはぼくのすきを狙《ねら》っていたんですね!」と、ゲオルクは叫んだ。
 同情をこめたように父はつぶやいた。
「それをお前はおそらくもっと前に言いたかったんだろう。でも今ではもうどうにも遅いよ」
 それから父は声を高めた。
「これでお前にも、お前のほかに何があるのかわかったろう。これまではお前は自分のことしか知らなかったのだ! お前はほんとうは無邪気な子どもだったが、それよりも正体は悪魔のような人間だったのだ!――だから、わしのいうことを聞け。わしは今、お前に溺死《できし》するように宣告する!」
 ゲオルクは部屋から追い出されるように感じた。彼の背後で父がベッドの上にばたりと倒れる音が、走り去る彼の耳に聞こえつづけていた。階段をまるで斜面をすべるようにかけ下りていったが、部屋を夜の支度のために片づけようとして階段を上がってくる女中にぶつかった。
「まあ、なんていうことを!」と、女中は叫び、エプロンで顔を隠した。しかし、彼はもう走り去っていた。門から飛び出し、線路を越えて河のほうへひきよせられていった。まるで飢えた人間が食物をしっかとつかむように、彼は橋の欄干《らんかん》をしっかとにぎっていた。彼はひらりと身をひるがえした。彼はすぐれた体操選手で、少年時代には両親の自慢の種になっていた。だんだん力が抜けていく手でまだ欄干をしっかりにぎって、欄干の鉄棒のあいだからバスをうかがっていた。バスは彼が落ちる物音を容易に消してくれるだろう。それから低い声でいった。
「お父さん、お母さん、ぼくはあなたがたを愛していたんですよ」そして、手を離して落ちていった。
 その瞬間に、橋の上をほんとうに限りない車の列が通り過ぎていった。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
入力:kompass
校正:青空文庫
2010年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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原田義人

断食芸人               EIN HUNGERKUNSTLER フランツ・カフカ Franz Kafka ——原田義人訳

 この何十年かのあいだに、断食芸人たちに対する関心はひどく下落してしまった。以前には一本立てでこの種の大きな興行を催すことがいいもうけになったのだが、今ではそんなことは不可能だ。あのころは時代がちがっていたのだ。あのころには町全体が断食芸人に夢中になった。断食日から断食日へと見物人の数は増えていった。だれもが少なくとも日に一度は断食芸人を見ようとした。興行の終りごろには予約の見物人たちがいて、何日ものあいだ小さな格子檻《こうしおり》の前に坐りつづけていた。夜間にも観覧が行われ、効果を高めるためにたいまつの光で照らされた。晴れた日には檻が戸外へ運び出される。すると、断食芸人を見せる相手はとくに子供たちだった。大人たちにとってはしばしばなぐさみにすぎず[#「なぐさみにすぎず」は底本では「なぐさみにすぎす」]、ただ流行だというので見るだけだが、子供たちはびっくりして口を開けたまま、安全のためにたがいに手を取り合って断食芸人の様子をながめるのだった。断食芸人は、顔|蒼《あお》ざめ、黒のトリコット製のタイツをはき、あばら骨がひどく出ており、椅子さえはねつけて、まき散らしたわらの上に坐り、一度ていねいにうなずいてから無理に微笑をつくって観客の質問に答え、また格子を通して腕をさし出し、自分のやせ加減を観客にさわらせ、やがてふたたびすっかりもの思いにふけるような恰好となり、もうだれのことも気にかけず、檻のなかのただ一つの家具である時計の、彼にとってきわめて大切な時を打つ音もまったく気にかけず、ただほとんど閉じた両眼で前をぼんやり見つめ、唇をぬらすためにときどき小さなコップから水をすするのだった。
 入れ変わる見物人のほかに、観客たちに選ばれた常任の見張りがいて、これが奇妙にもたいていは肉屋で、いつでも三人が同時に見張る。彼らの役目は、断食芸人が何か人に気づかれないようなやりかたで食べものをとるようなことのないように、昼も夜も彼を見守るということだった。だが、それはただ大衆を安心させるために取り入れられた形式にすぎなかった。というのは、事情に通じた人びとは、断食芸人はどんなことがあっても、いくら強制されても、断食期間にはけっしてほんの少しでもものを食べなかった、ということをよく知っていた。この術の名誉がそういうことを禁じていたのだ。むろん、見張りがみなそういうことを理解しているわけではなかった。ときどきは見張りをひどくいい加減にやるようなグループがあった。彼らはわざと離れた片隅に坐り、そこでトランプ遊びにふけるのだった。それは、彼らの考えによれば断食芸人が何かひそかに同意してある品物から取り出すことができるはずのちょっとした飲食物をとるのを見逃がしてやっていい、というつもりらしかった。こんな見張りたちほどに断食芸人に苦痛を与えるものはなかった。この連中は彼を悲しませた。断食をひどく困難にした。ときどき彼は自分の衰弱をじっとこらえて、この連中がどんなに不当な嫌疑を自分にかけているのかということを示すため、こんな見張りがついているあいだじゅう、我慢できる限り歌を歌ってみせた。しかし、それもほとんど役に立たなかった。そうすると連中はただ、歌を歌っているあいだにもものが食べられるという器用さに感心するだけだった。芸人にとっては、格子のすぐ前に坐り、ホールのぼんやりした夜間照明では満足しないで、興行主が自由に使うようにと渡した懐中電燈で自分を照らすような見張りたちのほうがずっと好ましかった。そのまばゆい光は彼にはまったく平気だった。眠ることはおよそできないが、少しばかりまどろむことは、どんな照明の下でも、どんな時間にでも、また超満員のさわがしいホールにおいてでも、できたのだ。彼にとっては、こうした見張り番たちといっしょに一睡もしないで夜を過ごすことは好むところだった。こうした連中と冗談を言い合ったり、自分の放浪生活のいろいろな話を物語ったり、つぎに今度はむこうの物語を聞いたりする用意があった。そうしたことはすべて、ただ彼らを目ざませておき、自分が何一つ食べものを檻のなかにもってはいないということ、彼らのうちのだれだってできないほど自分が断食をつづけているということを、彼らにくり返し見せてやることができるからだった。しかし、彼がいちばん幸福なのは、やがて朝がきて、彼のほうの費用もちで見張り番たちにたっぷり朝食が運ばれ、骨の折れる徹夜のあとの健康な男たちらしい食欲で彼らがその朝食にかぶりつくときだった。この朝食を出すことのうちに見張り番たちに不当な影響を与える買収行為を見ようとする連中さえいることはいたが、しかしそんなことはゆきすぎだった。そういう連中が、それならただ監視ということだけのために朝食なしで夜警の仕事を引き受けるつもりがあるかとたずねられれば、彼らも返事はためらうのだった。それにもかかわらずこの連中からは嫌疑は去らなかった。
 とはいえ、これは断食というものとおよそ切り離すことのできない嫌疑の一つではあった。実際、だれも連日連夜たえず断食芸人のそばで見張りとして過ごすことはできなかった。したがって、だれも自分自身の眼でながめたことから、ほんとうに引きつづきまちがいなしに断食が実行されたかどうか、知ることはできなかった。ただ断食芸人自身だけがそれを知ることができた。だから彼だけが同時に、自分の断食に完全に満足している見物人であることができるのだった。だが、彼はまた別な理由からけっして満足していなかった。おそらく彼は断食によっては人びとの多くが彼を見るにしのびないというのであわれみの気持からこの実演を敬遠しないでいられないほどもやせ衰えているのではなくて、ただ自分自身に対する不満足からそんなにもやせ衰えているのだった。つまり、彼だけが、ほかの事情に明るい人も一人としてこのことを知らないのだが、断食がどんなにやさしいか、ということを知っていた。それはこの世でいちばんやさしいことだった。彼はそのことを秘密にしておいたわけではなかったが、人びとは彼のいうことを信じなかった。よくいってせいぜい人は彼のことを謙遜《けんそん》だと考えるのだが、たいていは宣伝屋だとか、インチキ師だとか考えるのだった。このインチキ師は、断食をやさしくすることを心得ているために断食はやさしいというわけだし、また厚かましくもそれを半ば白状さえするのだ、というわけだ。こうしたすべてを彼は甘受しなければならなかった。長い年月のあいだにはそんなことに慣《な》れたけれども、心のうちではこの不満がいつも彼をむしばんでいた。そして、まだ一度でも、断食期間が終ったあとで――その証明書が彼に交付されることになっていたが――みずから進んで檻を離れたことはなかった。断食の最大期間を興行主は四十日間ときめていて、それ以上は一度も断食させなかったし、大都会でもさせなかった。しかももっともな理由からだった。およそ四十日ぐらいのあいだは、経験からいうとだんだんと高まっていく宣伝によって一つの町の関心をいよいよそそることができたが、それからは観衆も受けつけなくなり、客の数がぐんと減るということがはっきりみとめられるのだった。むろんこの点では町と田舎《いなか》とではわずかなちがいはあったが、通常は四十日が最大期間であるという相場だった。そこで四十日目には、花でまわりを飾られた檻の戸が開かれ、熱狂した観客が円形劇場を埋め、軍楽隊が演奏し、断食芸人に必要な検査を行うために二人の医師が檻のなかへ入る。メガフォンによってその検査の結果が場内に知らされる。最後に二人の若い婦人が、ほかならぬ自分たちがくじ[#「くじ」に傍点]で選ばれたことをよろこびながらやってきて、断食芸人を檻から一、二段下へ手を引いて下ろそうとする。そこには小さなテーブルの上に念入りに選ばれた病人食が用意されているのだ。そして、この瞬間、断食芸人はいつでもさからおうとするのだった。なるほど彼は自分の骨の出た両腕を自分のほうへかがんだご婦人がたの助けてくれようとしてさし出された手に進んでのせはするのだが、立ち上がろうとはしないのだ。なぜ、まさに今、四十日後にやめるのか。もっと長く、際限もなく長くもちこたえただろうに。なぜ、まさに今、彼が最上の断食状態にあるところで、いや、まだけっして最上の断食状態にまでいっていないところでやめるのか。なぜ人びとは、もっと断食するという名誉、ただあらゆる時代を通じての最大の断食芸人であるばかりでなく(まったく、彼はもう最大の断食芸人にちがいないのだ)、自分自身を限りないところまで超えるという名誉を、彼から奪おうとするのか。断食する自分の能力にとって彼はどんな限界も感じていないのだった。なぜ彼をこんなにも感嘆していると称するこの群集がこんなにわずかしか辛抱しないのか。彼がこれ以上断食することに耐えるのなら、なぜ群集のほうでも耐えないのか。彼は疲れてはいたが、わらのなかでちゃんと坐っていた。今度はきちんと長いあいだ身体を起こし、食事のあるところへ行かなければならない。食事は、ただ考えただけで胸がむかついてきたが、それを口に出すことは助けてくれているご婦人たちへの遠慮からやっとこらえた。そして、見たところはひどく親切そうだが、ほんとうはひどく残酷なご婦人がたの眼を仰ぎ見て、弱い首の上でいよいよ重くなっている頭を振るのだった。だが、それからはいつでも起こることが起こるだけだ。興行主がやってきて、無言のまま――音楽が演説を不可能にしていた――両腕を断食芸人の頭上に上げる。まるで、天に向って、ここのわらの上にいる天の創造物、このあわれむべき殉難者《じゅんなんしゃ》をどうか見て下さい、とさそうかのようだ。たしかに断食芸人は殉難者ではあったが、ただまったく別な意味でなのだ。それから興行主は断食芸人の細い胴を抱く。その場合、誇張した慎重《しんちょう》さで、自分は今こわれやすいようなものを扱わなければならないのだ、と見る人に信じさせようとする。それから彼は――こっそり芸人の身体を少しゆするので、芸人は足と上体とを支えることができないため、あちこちとゆれる――そのあいだに死人のように顔が蒼ざめてしまったご婦人がたの手に芸人を渡す。もう断食芸人はすべてを我慢していた。頭は胸の上に垂れ下がり、まるで頭がころがっていき、胸の上でどうしてかわからないがとまっているかのようだった。身体は空っぽになっていた。両脚は自己保存の本能によって膝のところでぴったり合わさっていたが、地面をまるでほんとうの地面ではないというような様子でこするのだった。ほんとうの地面を両脚はまず最初に探しているのだった。そして、身体全体の重みが、とはいってもごくわずかなものではあったが、二人のご婦人の一方にかかった。その婦人は、助けを求め、あえぎながら――彼女はこの名誉な役目をこんな恐ろしいものとは考えていなかったのだ――まず首をできるだけのばして、少なくとも顔を断食芸人とふれないようにしようとしたが、これが彼女にはうまくいかず、運のいい同役の婦人が自分を助けにきてはくれないで、ふるえながら小さな骨の束のような断食芸人の手をおしいただくような恰好で運んでいくことで満足しているので、場内の熱狂した笑い声の下でわっと泣き出し、ずっと前から待ちかまえさせられていた小使と交代しなければならなかった。つぎが食事であった。興行主は断食芸人が失心したようにうとうとしているあいだにその口に少しばかり流しこんだ。断食芸人のこんな状態から人びとの注意をそらそうとして、陽気なおしゃべりをしながら、それをやるのだった。つぎに観客に対して乾杯の言葉がいわれたが、これは芸人が興行主にささやいたものを興行主から観客に伝えるということになっていた。オーケストラがにぎやかな演奏によってそうしたすべてを景気づけ、人びとはそれぞれ帰っていく。だれも見物したものに不満をいう権利はなかった。だれもそんな権利はなかった。ただ断食芸人だけが不満だった。いつでも彼だけがそうだった。
 こうやって彼は定期的なわずかな休息期間を挟みながら、多年のあいだ生きてきた。外見上ははなばなしく、世間からもてはやされながら、そうやって生きてきた。だが、それにもかかわらずたいていはうち沈んだ気分のうちにいた。そうした気分は、だれ一人としてそれをまじめに受け取ることを知らないために、いよいようち沈んでいった。どうやって彼をなぐさめたらよいのだろうか。彼にはどんな不満が残っていたのだろうか。そして、ときに彼をあわれんで、君の悲哀はおそらく断食からきているのだ、と彼に向って説明しようとする者があると、とくに断食期間が進んでいる場合には、彼が怒りの発作でそれに答え、けもののように檻の格子をゆすってみんなをびっくりさせることが起こりかねないのだった。ところが、こうした状態に対して興行主は一つの処罰の手段をもっていて、好んでそれを使った。彼は集った観客の前で断食芸人のこうしたふるまいのわびをいって、満腹している人びとにはすぐにはわからないが、ただ断食によって生じる怒りっぽさというものだけによって断食芸人のこんなふるまいが無理からぬものと思っていただけるはずだ、などとみとめるのだ。つぎにそれと関連して、断食芸人が今断食しているよりももっとずっと長く断食できると主張していることも、それと同じような理由で説明がつく、と話すにいたる。そして、たしかにこうした断食芸人の主張のうちに含まれていると興行主がいう、高い努力、善意、偉大な自己否定などをほめそやす。ところが、つぎに写真を示して(これは売りもするのだが)、ごくあっさりと断食芸人の主張を否定しようとする。というのは、その写真の上に見られるのは、断食四十日目の芸人で、ベッドに寝ていて、衰弱のあまり消え入らんばかりの様子なのだ。真実をこうしてねじまげる興行主のやりかたは、断食芸人がよく知っているものだったが、いつでもあらためて彼の元気をそぎ、あんまり度がすぎるものと思われた。断食をあまりに早くうち切ることの結果なのが、今ここでは原因として述べられているわけだ! この愚劣さ、こうした愚劣さの世界と闘うことは、不可能だった。彼はまだ何度でも格子のそばで興行主の話をむさぼるように聞いていたいのだが、写真が現われるといつでも格子から離れ、溜息をつきながらわらのなかへどうとくずれてしまう。そして安心した観客はまた近づいてきて、彼をながめることができた。
 こうした情景の目撃者たちは、一、二年あとになってそのことを振り返って考えると、しばしば自分がわからなくなるのだった。というのは、そのあいだにあの前に述べた激変が起ったのだった。それは、ほとんど突然起った。いろいろと深いわけがあるのだろうが、そんなものを探し出す気にだれがなったろうか。いずれにしろ、ある日のこと、ちやほやされていた断食芸人は自分が楽しみを求める群集から見捨てられたのを知った。群集は断食芸人よりもほかの見世物のほうへ流れていくのだった。興行主はもう一度彼をつれてヨーロッパ半分を巡業して廻り、まだあちらこちらで昔のような関心がよみがえっているのではないか、と見ようとした。すべてむなしかった。こっそり申し合わせたようにどこでも断食の見世物を嫌う傾向がつくられてしまっていた。むろん、ほんとうは突然そういうことになったのではない。今おくればせながら、以前は成功の陶酔のなかで十分には気づかなかったが、しかし十分に抑えきれなかったいくつもの前兆のことが思い出された。しかし、今それに抗するために何かを企てるといっても、すでに遅すぎた。いつかは断食の全盛時代がふたたびくるだろう、ということは確実だったが、今生きている人びとにとってはそんなことはなんのなぐさめにもならなかった。そこで、断食芸人は何をやったらいいのだろうか。何千という観客の歓声に取り巻かれていた者が、けちな歳《とし》の市にかかる見世物小屋へ現われるわけにはいかない。ほかの職業につくためには、断食芸人は年をとりすぎていただけでなく、何よりもまず断食にあまりにも熱狂的に没頭していた。そこで彼は人生の比類ない同伴者であった興行主と別れ、ある大きなサーカスに雇われた。自分の神経の過敏さを傷つけないため、彼は契約書の条項は全然見なかった。
 いつでも員数の出入りが平均し、補充がついていく無数の人間や動物や道具類をもつ大きなサーカスは、だれをも、またどんなときにでも、使うことができる。断食芸人もそうだ。むろん、それ相応にひかえ目な注文しかつけはしない。それに、この特殊な場合にあっては、雇われたのは断食芸人その人ばかりではなく、彼の古くからの有名な名前もそうなのであり、実際、年をとっていくのに衰えないこの芸の特性を思うと、もはや技能の全盛期にはいない老朽の芸人が落ちついたサーカスの地位に逃げこもうとしているのだ、などとはけっしていえなかった。それどころか、断食芸人は(まったく信じるに価することだったが)以前と同じように断食できる、と断言した。そればかりでなく、もし自分の意志にまかせてくれるなら(そして、そのことはすぐに約束してくれたが)、今こそはじめて正当に人を驚かせるだろう、とさえ主張した。とはいえ、この主張は、断食芸人が熱中のあまり容易に忘れてしまっていた時代の風潮というものを考えあわせてみるならば、サーカスの専門家たちのあいだではただ薄笑いを招くだけではあった。
 だが、根本においては断食芸人はほんとうの事情を見抜く眼を失ってしまったわけではなく、檻つきの彼を主要番組としてサーカスの舞台のまんなかには置かずに、外の動物小屋に近い、ともかく人のまったく近づきやすい場所に置いたことを、自明なこととして受け入れたのだった。色とりどりに書かれた大きな文句が檻のまわりをふち取り、そこに見られるものを告げていた。観客が上演の休憩時間に動物たちを見ようとして動物小屋に押しよせてくるとき、ほとんど避けられないことだが、人のむれは断食芸人のそばを通りすぎていきながら、ほんのちょっとそこに立ちどまるだけであった。狭い通路にあとからあとからつめかける人びとが、いこうと思っている動物小屋への途中でなぜこうやって立ちどまるのかわからないまま、落ちついてもっと長くながめることを不可能にするのでなかったならば、おそらく人びとは断食芸人のところでもっと長くとまっていたことだろう。このことがまた、彼が自分の人生目的としてむろんくることを願っている見物時間のことを考えると、どうしても身ぶるいが出てくる理由でもあった。はじめのころは休憩時間をほとんど待ちきれないくらいだった。魅せられたようになって彼はつめかけてくる群集をながめていた。ところがついに、あまりにも早く――どんなに頑強に、ほとんど意識的に自分をあざむこうとしても、こうした実際の経験には勝てなかった――たいていはそのほんとうの目的からいうと、いつでも、例外なく、ただ動物小屋へいく人びとだけなのだ、ということを確信しないわけにはいかなかった。しかし、遠くから見るこうした光景は、やはりまだきわめてすばらしいものであった。というのは、人びとが彼のところへやってくると、彼はたちまち、たえず変っていく二種類の人びとの叫び声やののしりの言葉のすさまじいさわぎに取り巻かれるのだった。一方の人びとは――この連中のほうがやがて断食芸人にはいっそう耐えがたくなったのだが――彼をゆっくり見ようとする人たちだった。だが、それもよくわかってのことではなく、気まぐれとつむじ曲りとからだ。もう一方の人びとは、まず何よりも動物小屋へいこうとする人たちだった。大群が通り過ぎていくと、のろまな連中が遅れてやってくる。この連中は、ただその気さえあれば、もう立ちどまることができないわけではないのに、大股でさっさと歩き、わき眼もふらずに通り過ぎていき、遅くならぬうちに動物たちのところへいこうとするのだった。そして、それほどしょっちゅうあるわけではないが、運のいい場合には、父親が子供づれでやってきて、指で断食芸人をさし示し、これがどういうものなのかをくわしく説明し、昔のことを語り聞かせ、この断食芸人はこれと似てはいるが比較にならぬほど大じかけな実演に出ていたのだ、というのだった。すると子供たちは、学校と日常生活とから得ている予備知識が十分でないため、いつでもなんのことやらわからぬままではあったが――子供たちにとって断食はなんだというのだろう――、それでも子供たちの探るような眼の輝きのなかには、新しい、未来の、もっと恵まれた時代の何かあるものがちらついていた。すると断食芸人はときどき、もし自分の居場所がこんなにも動物小屋に近くなかったならば、万事はもう少しよかったろうに、と自分に言い聞かせるのだった。動物小屋の臭気の発散、夜間における動物たちのざわめき、猛獣たちにやるため眼の前を運ばれていく生肉、餌をやるときのけものの叫び声、こうしたものが芸人をひどく傷つけ、たえず彼の心を押しつけるということは別としても、サーカスの連中は芸人をこんなに動物小屋の近くに置くことによって、場所の選択をあまりに手軽にやってしまったのだ。しかし、サーカスの幹部にその事情をよく説明するということは、芸人はあえてやろうとしなかった。ともかく、動物たちのおかげで彼もこんなにたくさんの見物人をもっているわけだ。その見物人のあいだには、ときどきはもっぱら彼を見ようという人も見出すことができるというものだ。そして、もし彼が自分の存在を人びとに思い出させようとするなら、そしてそれによってまた自分が正確にいえばただ動物小屋へいく道の上にある障害にすぎないということを思い出させようとするなら、どこへ彼を押しこんでしまうものかわかったものではなかった。
 とはいっても、小さな障害にすぎないのだ。しかも、いよいよ小さくなっていく障害なのだ。この今日において断食芸人に対する注目を集めようという風変りな趣向にも、人びとはもう慣れてしまい、この慣れによって芸人に関する判断も下されるのだ。彼はおよそできるだけ断食をしたいだけだ。そして、それをやりもした。しかし、もう何ごとも彼を救うことはできず、人びとは彼のそばを通り過ぎていくだけだ。だれかに断食の術のことを説明しようとしてみるがよい! 感じない人間には、わからせることはできないのだ。檻にめぐらされた美しい客よせ文句の文字はよごれ、読めなくなってしまった。そこで、それは引きはがされ、だれ一人としてそのかわりをつくろうということに思いつく者はいなかった。やりとげた断食日数を示す数字を書いた小さな黒板は、最初のうちは念入りに毎日書きあらためられていたのだったが、もうずっと前からいつでも同じものになっていた。というのは、最初の一週間が過ぎると係員自身がこのつまらぬ仕事にあきてしまった。そこで、断食芸人は以前夢見たように断食をつづけていき、苦もなくあの当時に予言したようにそれをうまくやりとげることができはしたのだが、だれも日数を数える者がなく、だれ一人として、また断食芸人自身も、もうどのくらいの成績を上げたものか、わからなかった。そこで、彼の心はいよいよ重くなっていった。そのころにいつかひまな人間が立ちどまり、古ぼけた数字をからかい、インチキ師というようなことをいったが、それはこういう意味ではたしかに、冷淡さと生まれつきの性悪さとが発見するもっとも愚かしいいつわりであった。というのは、断食芸人はあざむいたりせず、正直に働いていたのだが、世間のほうが彼をあざむいて彼の当然もらうべき報酬《ほうしゅう》を奪ってしまったのだった。

 だが、それからふたたび多くの日々が流れ過ぎて、それもついに終りになった。あるとき、この檻が一人の監督の眼にとまって、なぜこの十分使える檻を、腐ったわらをなかにいれたまま、こんなところに利用もしないでほっておくのか、と小使たちにたずねた。だれもその理由がわからなかったが、とうとうそのうちの一人が数字板の助けによって断食芸人のことを思い出した。人びとが棒でわらをかき廻し、そのなかに断食芸人を発見した。
「君はまだ断食をやっているのかね?」と、その監督はたずねた。「いったい、いつになったらやめるつもりだね?」
「諸君、許してくれ」と、断食芸人はささやくような声でいった。耳を格子にあてていた監督だけが、芸人のいうことがわかった。
「いいとも」と、監督はいって、指を額に当て、それによって断食芸人の状態を係員たちにほのめかした。少し頭にきている、というしぐさだ。「許してやるともさ」
「いつもおれは、みんながおれの断食に感心することを望んでいたんだ」と、断食芸人はいった。
「みんな、感心しているよ」と、監督は芸人の意を迎えるような調子でいった。
「でも、みんなは感心してはいけないんだ」と、断食芸人はいった。
「そうか、それなら感心しないよ」と、監督はいった。「なぜ感心してはいけないんだね?」
「おれは断食しないではいられないだけの話だからだ。ほかのことはおれにはできないのだ」
「まあ、そういうなよ」と、監督はいった。「なぜほかのことはできないのだね?」
「それはな、おれが」と、断食芸人はいって、小さな頭を少しばかりもたげ、まるで接吻するように唇をとがらして、ひとことでももれてしまわないように監督のすぐ耳もとでささやいた。「うまいと思う食べものを見つけることができなかったからだ。うまいと思うものを見つけていたら、きっと、世間の評判になんかならないで、きっとあんたやほかの人たちみたいに腹いっぱい食っていたことだろうよ」
 これが最後の言葉だったが、まだ彼のかすんだ眼には、おれはもっと断食しつづけるぞ、というもう誇らしげではないにしろ固い確信の色が見えた。
「それじゃあ、片づけるんだ!」と、監督はいった。断食芸人はわらといっしょに埋められた。例の檻には一頭の若い豹《ひょう》が入れられた。あんなに長いこと荒れ果てていた檻のなかにこの野獣が跳《と》び廻っているのをながめることは、どんなに鈍感な人間にとってもはっきり感じられる気ばらしであった。豹には何一つ不自由なものはなかった。豹がうまいと思う食べものは、番人たちがたいして考えずにどんどん運んでいった。豹は自由がないことを全然残念がってはいないように見えた。あらゆる必要なものをほとんど破裂せんばかりに身にそなえたこの高貴な身体は、自由さえも身につけて歩き廻っているように見えた。歯なみのどこかに自由が隠れているように見えるのだった。生きるよろこびが豹の喉もとからひどく強烈な炎熱をもって吐き出されてくるので、見物人たちがそれに耐えることは容易ではないほどだった。だが、見物人たちはそれにじっと耐えて、檻のまわりにひしめきより、全然そこを立ち去ろうとはしなかった。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
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原田義人

審判   DER PROZESS  フランツ・カフカ Franz Kafka ——-原田義人訳



第一章 逮捕・グルゥバッハ夫人との
    対話・次にビュルストナー嬢

 誰かがヨーゼフ・Kを誹謗《ひぼう》したにちがいなかった。なぜなら、何もわるいことをしなかったのに、ある朝、逮捕されたからである。彼の部屋主グルゥバッハ夫人の料理女は、毎日、朝の八時ごろに朝食を運んでくるのだったが、この日に限ってやってはこなかった。そういうことはこれまであったためしがなかった。Kはなおしばらく待ち、枕《まくら》についたまま、向う側の家に住んでいる老婆がいつもとまったくちがった好奇の眼で自分を観察しているのをながめていたが、やがていぶかしくもあれば腹がすいてきもしたので、呼鈴を鳴らした。すぐにノックの音が聞え、この家についぞ見かけたことのない一人の男がはいってきた。すんなりとはしているが、頑丈《がんじょう》な身体《からだ》のつくりで、しっくりした黒服を着ていた。その服は、旅行服に似ていて、たくさんの襞《ひだ》やポケットや留め金やボタンがつき、バンドもついており、そのため、何の用をするのかはっきりはわからぬが、格別実用的に見受けられた。
「どなたですか?」と、Kはききただし、すぐ半分ほどベッドに身を起した。
 ところが男は、まるで自分の出現を文句なしに受入れろと言わんばかりに、彼の質問をやりすごし、逆にただこう言うのだった。
「ベルを鳴らしましたね?」
「アンナに朝食を持ってきてもらいたいのです」と、Kは言い、まず黙ったままで、いったいこの男が何者であるか、注意と熟考とによってはっきり見定めようと試みた。
 ところがこの男はあまり長くは彼の視線を受けてはいないで、扉《とびら》のほうを向き、それを少しあけて、明らかに扉のすぐ背後に立っていた誰かに言った。
「アンナに朝食を持ってきてもらいたいのだそうだよ」
 隣室でちょっとした笑い声が聞えたが、その響きからいって、数人の人々がそれに加わっているのかどうか、はっきりしなかった。見知らぬ男はそれによってこれまで以上に何もわかったはずがなかったが、Kに対して通告するような調子で言った。
「だめだ」
「そりゃあ変だ」と、Kは言って、ベッドから飛びおり、急いでズボンをはいた。
「ともかく、隣の部屋にどんな人たちがいるのかを見て、グルゥバッハ夫人がこの私に対する邪魔の責任をどうとるのか知りたいのです」
 こんなことをはっきり言うべきではなかったし、こんなことを言えば、いわばその男の監督権を認めたことになるということにすぐ気づきはしたが、それも今はたいしたこととは思われなかった。見知らぬ男もずっとそう考えていたらしい。男がこう言ったからである。
「ここにいたほうがよくはないですか?」
「いたくもありませんし、あなたが身分を明らかにしないうちは、あなたに口をきいていただきたくもないんです」
「好意でやったんですよ」と、見知らぬ男は言い、今度は進んで扉をあけた。
 Kがはいろうと思ってゆっくり隣室へはいってゆくと、部屋はちょっと見たところ、前の晩とほとんどまったくちがったところがなかった。それはグルゥバッハ夫人の住居で、おそらくこの家具や敷物や花瓶《かびん》や写真やでいっぱいの部屋は、今日はいつもよりいくらかゆとりがあった。そのことはすぐには気づかなかったが、おもな変化は一人の男がいるという点にあっただけに、なおさらそうであった。男は開いた窓のそばで一冊の本を読みながらすわっていたが、ふと本から眼を上げた。
「君は部屋にいなければいけなかったのだ! いったいフランツは君にそう言わなかったか?」
「で、どうしようというんです?」と、Kは言い、この新しく知った人物から眼を転じて、戸口のところに立ち止っているフランツと呼ばれる男のほうを見、次にまた視線をもどした。
 開いた窓越しにまた例の老婆が見えたが、彼女はいかにも老人らしい好奇の眼で、今ちょうど、向い合った窓のところへ歩み寄って、その後の成行きを一部始終見届けようとしていた。
「グルゥバッハ夫人にちょっと――」と、Kは言い、彼から遠く離れて立っている二人の男から身を引離そうとするようなしぐさを見せて、歩みを進めようとした。
「いけない」と、窓ぎわの男が言い、本を小さな机の上に投げて、立ち上がった。「行っちゃいけない。君は逮捕されたんだぞ」
「どうもそうらしいですね」と、Kは言い、次にたずねた。「ところで、いったいどうしてなんです?」
「君にそんなことを言うように言いつかっちゃいない。部屋にはいって、待っていたまえ。訴訟手続きはもう始まったんだから、時が来れば万事わかるようになるだろう。君にこんなに親切に話すことは命令の範囲を出ているんだ。けれど、おそらくフランツ以外に聞いている者は誰もいないだろうし、あれからして規則に違反して君に親切なんだからね。これからさきも、君の監視者がきまったときのように幸運に恵まれるなら、安心できるわけだよ」
 Kはすわろうと思ったが、さて、部屋じゅうどこにも窓ぎわの椅子のほかにすわるところがないことに気づいた。
「まあ今に、万事がしごくもっともだということがわかるさ」と、フランツが言い、もう一人の男といっしょに彼のほうに歩み寄ってきた。特に後者はKよりもひどく背が高く、何度も彼の肩をたたいた。二人ともKの寝巻をためつすがめつして、君はこれからもっとわるいシャツを着なければならぬようになるだろうが、このシャツもほかの下着類といっしょに保管しておいてやろう、そして事が有利に解決したら、君にまた返してやろう、と言うのだった。
「そういうものを倉庫に入れるくらいなら、おれたちに渡したほうがましだ」と、彼らは言った。「倉庫ではしばしば横領されることがあるし、そのうえ、ある期間が過ぎると、その手続きが終ろうが終るまいがおかまいなく、何でもかでも売り払ってしまうからね。それに、こんな訴訟はなんて手間取ることだろう、ことに近頃はねえ! もちろん、最後には倉庫から売上金をもらうだろうが、第一に、売却の場合言い値の金高できまるものじゃなく、賄賂《わいろ》の金高が物を言うんだから、この売上金というやつからして少ないものだし、そのうえこんな売上金は、手から手へと長年かかって渡っているうちには、減ってゆくのが普通だよ」
 Kはこんな話にほとんど注意をはらっていなかった。自分の持物に対する所有権というものはおそらくまだあるはずだが、彼はそんなものをあまり重んじていなかったし、自分の置かれた状態をはっきり知ることのほうが、いっそう大切だった。しかし、この連中のいる前では、少しもゆっくり考えてみることができず、二番目の監視人――まったくのところただの監視人にすぎないはずだが――の腹がしょっちゅう、明らかになれなれしげに彼にぶつかり、彼が眼を上げると、頑丈そうな、わきへねじれた鼻をした、このでっぷりした図体とはおよそ似つかわしからぬ干からびて骨ばった顔が見え、この顔が彼の頭越しにもう一方の監視人と話し合っていた。いったいこいつは何者だろう? 何をしゃべっているのだろう? どんな役所の者なのだろう? おれは法治国に住んでいるのだし、国じゅうに平和が支配しているし、すべての法律は厳として存在しているのに、何者がおれの住居においておれを襲うということをあえてしたのだろうか? 彼はつねに、万事をできるだけ気安く考え、最悪のことはそれがほんとうに始まってから信じ、たといいっさいの危険が迫っても、将来のことは取越し苦労しない、という傾向であった。ところが今の場合、それは正しくないように思われた。すべてを悪戯《いたずら》と見なすことができようし、何かわからぬ理由から、おそらく今日は彼の三十歳の誕生日だからというのだろうが、銀行の同僚が計画した性《たち》のよくない悪戯と見なすことができよう。それはもちろんありうることだし、おそらくなんらかのやりかたで監視人たちに面と向って笑ってやりさえすれば事はすむのであって、そうすれば彼らもいっしょに笑いだすことだろう。おそらくこの連中は町角の使い走りの男たちなのだ。そう言えば、彼らに似ていないこともない。――それにもかかわらず、彼は今度の場合、この監視人のフランツという男を最初に見たまさにそのときから、彼がおそらくこの連中に対して持っている最小の利点さえも放棄はすまい、と決心したのであった。自分が冗談を解しなかったのだ、と後になって言われるだろうという点では、Kはほんの少しでも危険を覚えなかったが、確かに彼は――経験に徴して考えるなどというのは普通彼の習慣ではなかったのだが――二、三の、それ自体は取るに足らない出来事のことを、思い出していた。それらの場合に、意識的な友人たちとはちがって、ありうべき結果を少しも予想しなかったため、慎重でない態度をとり、そのため、その結果によってひどい目にあわされたのであった。あんなことは二度と繰返してはならないし、少なくとも今回はやってはならない。もし喜劇ならば、自分もいっしょになってやってやろう、そう彼は考えたのだった。
 彼はまだ自由であった。
「失礼します」と、彼は言って、急いで二人の監視人のあいだを通って自分の部屋へ行った。
「やつは物がわかるらしいな」と、背後で言うのが聞えた。
 部屋にはいった彼は、すぐ机の引出しをあけた。そこは万事がきちんと片づいていたが、捜した身分証明書だけは、興奮しているためか、すぐには見つからなかった。とうとう自動車証明書を見つけだし、それを持って監視人たちのほうへ行こうとしたが、この書類はあまり役にたたぬように思えたので、もっと捜したうえ、ついに出生証明を見つけだした。彼がまた隣室にもどったとき、ちょうど向い合った扉が開き、グルゥバッハ夫人がそこへ足を入れようとした。彼女はほんの一瞬間姿を見せただけで、Kを認めたとたん、明らかに当惑した様子を見せ、ごめんなさいと言って、引っこみ、きわめて慎重に扉をしめた。
「どうぞおはいりなさい」と、Kは今ならまだ言うこともできた。
 だが彼は、書類を持って部屋の真ん中に立ち、まだ扉をじっと見ていたが、扉は二度とは開かず、やがて監視人たちに声をかけられてびっくりした。二人の男は開いた窓ぎわの机にすわっており、Kが気づいたときには、彼の朝飯を食っていた。
「なぜあの人ははいらなかったんです?」と、彼はきいた。
「はいっちゃいけないんだよ」と、大きいほうの監視人が言った。「君は逮捕されているんだからな」
「いったいどうして逮捕なんかされているんです? しかもこんなやりかたで?」
「ああ、また始まったね」と、その監視人は言い、バタパンを蜜《みつ》の壺《つぼ》に浸した。「そんな質問には返答しないよ」
「答えてもらわなくちゃなりません」と、Kは言った。「これが私の身分証明書です、今度はあなたがたのを見せてください、それに何よりもまず逮捕状をね」
「冗談言うな!」と、監視人は言った。「君は君の立場に往生《おうじょう》できず、今君のすべての仲間の中でも明らかにいちばん身近にいるおれたちを無益に怒らせるつもりだったらしいな」
「そうだ、君も観念したほうがいいぜ」と、フランツが言い、手にしていたコーヒー茶碗《ぢゃわん》を口もとへは持ってゆかずに、長々と、いかにも意味ありげな、しかしどういうつもりなのかわからぬ眼差《まなざし》で、Kをじっと見つめた。
 Kは思わず知らず、フランツと視線で渡り合っていたが、やがて書類をたたいて、こう言った。
「これが私の身分証明書です」
「そんなものがなんだというんだ」と、大男の監視人がすぐさま叫んだ。「子供より行儀がわるいぞ。いったいどうしようっていうんだ? われわれ監視人と身分証明書だとか逮捕状だとかのことで議論すれば、君のたいへんな、厄介きわまる訴訟がたちまち片づくとでも思っているのか? われわれは下《した》っ端《ぱ》なんで、身分証明書なんか知ったことじゃないし、君を毎日十時間ずつ見張ってその報酬をもらうということ以外、何も君とは関係がないんだからね。これがおれたちの身分に関するすべてだ。それでもおれたちには、おれたちが仕えている偉い役所は、こんな逮捕をやる前には、逮捕の事由や逮捕人の身柄を非常に詳しく調べあげている、ということはわかるんだ。それに誤りなんかありやしない。われわれの役所は、おれの知るかぎりでは、もっともおれはいちばん下の連中だけしか知らないが、何か住民のうちに罪を捜すんじゃなくて、法律にもあるとおり、罪のほうに引きつけられ、そしておれたち監視人をよこさざるをえないんだ。それが法律というもんだ。どこに誤りがあるんだ?」
「そんな法律って知りませんね」と、Kは言った。
「それだからなお困るんだよ」と、監視人が言った。
「ただあなたがたの頭にだけある法律なんですよ」と、Kは言い、なんとかして監視人の考えていることのなかにはいりこみ、それを彼の都合のよいほうに向けるか、あるいはそれにもぐりこんで同化しようと思った。ところが監視人はただ突き放すように言うのだった。
「今にわかるようになるよ」
 フランツが嘴《くちばし》を入れ、
「おい、ウィレム、あいつは、法律を知らないって白状し、同時に、自分は無罪だって言い張っているぜ」
「まったくお前の言うとおりだが、あいつには全然わからせることはできやしないよ」と、もう一方の男が言った。
 Kはもう返事をしなかった。こんな下っ端の連中――彼ら自身が、そうだ、と白状している――のおしゃべりでこれ以上頭を混乱させられる必要なんかあろうか、と彼は思った。連中は、自分自身でもまったくわからないことを言っているのだ。落着きはらっているのは、阿呆《あほう》だからこそのことだ。自分と対等の人間とほんの少しでも言葉を交《か》わせば、万事は、こんな連中と長々しゃべっているよりも比較にならぬほど明瞭《めいりょう》になるだろう。Kは二、三度、部屋の中のあいている場所を行ったり来たりしたが、窓の向うに、例の老婆が一人のもっと老いぼれた老人を窓ぎわに引っ張ってきて、抱きかかえるようにしているのが見えた。Kはこんな見世物になっているのに我慢してはいられなかった。
「あなたがたの上役のところへ連れていってくれませんか」と、彼は言った。
「あちらが、そうしろ、と言われるならばね。それまではだめだ」と、ウィレムと呼ばれた男が言った。
「で、君に言っておくが」と、彼は言い足した。「部屋に帰っておとなしくしていて君についての指示が来るのを待ったがいいね。つまらぬ考えでぼんやりしてないで、落着いているがいいぜ。そのうち大きな命令が君に下るよ。君はおれたちを、おれたちの親切にふさわしいようには扱わなかったね。おれたちは相も変らぬつまらぬ連中かもしれないが、少なくとも今は君に対しては自由な人間だ、ということを君は忘れているんだ。これはけっして少しばかりの優越じゃないんだぜ。それでも、君が金を持っているなら、あの喫茶店から軽い朝飯ぐらいは取ってきてやるつもりはあるよ」
 この申し出には答えずに、Kはしばらくじっと立ち止っていた。隣の部屋の扉、あるいは控えの間の扉をあけてさえも、おそらく二人はあえて彼を阻止しないだろうし、極端にまでやってみることがおそらく最も簡単な、事の解決法であろう。けれど二人は彼につかみかかってくるかもしれないし、一度たたき倒されたならば、現在彼らに対してある点ではまだ持ち続けている優越的地位をすべて失ってしまうのだ。それゆえ彼は、事の自然な成行きがもたらすはずの解決の安全ということのほうを選び、部屋にもどったが、彼のほうからも監視人のほうからも、もう一言も発せられなかった。
 彼はベッドに身を投げ、洗面台から見事な林檎《りんご》を取った。昨晩、朝食のためにとっておいたものである。今のところこの林檎だけが彼の朝飯だが、一口大きくかじって確かめたところでは、ともかく、監視人たちのお情けで手に入れることができるかもしれない、きたならしい喫茶店の朝飯よりはずっとましだった。気分がよくなり、前途に期待が持てる気がした。この午前中は銀行の仕事を休むことになるが、それも、彼が銀行で占めているかなり高い地位からいえば、なんとでも言い訳がたつことだった。ほんとうの言い訳を述べるべきだろうか? 彼はそうしよう、と思った。その場合に大いにありうることだが、もし人が彼の言うことを信じないならば、グルゥバッハ夫人、あるいはあちらの二人の老人を証人にすることもできる。ところでこの二人の老人は、確かに今、向い合った窓ぎわに歩みを進めているのだった。監視の連中が彼を部屋に追いやって、いくらも自殺する可能性のあるここにただひとり放っておくということは、Kには不思議に思えたし、少なくとも監視人たちの考えそうな筋道から言って不思議であった。もちろん同時に、今度は自分の考える筋道からして、自殺するというどんな理由があるのか、と自問してみた。あの二人が隣室にすわっており、自分の朝飯を平らげてしまったから、とでもいうのか? 自殺しようなどというのはばかげたことであるから、たといしようとしても、そのばかばかしさのために実行はできなかったであろう。もし監視人たちの頭の足りなさがあんなにひどくないのであったら、連中もまた、おれと同じ確信から、おれをひとりで放っておくということに危険を認めなかったのだ、と考えることもできたのだが。連中は今、もし見ようと思うのなら、彼が、上等のブランデーを納めてある小さな戸棚《とだな》のところへ来て、まず一杯目を朝飯がわりに乾《ほ》し二杯目のほうは元気をつけるためだときめている様子を、ながめていることだろうが、二杯目のほうはただ、実際にそんな必要があるというおよそありそうもない場合に備えてやっているのだった。
 そのとき、隣室からの呼び声が彼をひどく驚かしたので、彼は歯をコップにぶつけた。
「監督が呼んでおられる!」と、いうことだった。彼を驚かしたのは、ただその叫び声だけだった。この短い、断ち切られたような、軍隊式の叫び声は、監視人のフランツのものとはまったく思えないものだった。ところで命令そのものは、彼にはきわめて好ましかった。
「とうとう来ましたね!」と、彼は叫び返し、戸棚をしめ、すぐ隣室へ急いで行った。そこには二人の監視人が立っていて、当然だといわんばかりに、彼をまた部屋へ追い返した。
「冗談じゃないぞ、え?」と、彼らは叫んだ。
「シャツを着たまま監督の前に出ようっていうのか? そんなことをしたら、あの人は君をさんざんにたたきのめさせるぞ、それにおれたちも巻き添えだ!」
「ちぇ、放っておいてくれたまえ!」と、もう洋服|箪笥《だんす》のところまで押しもどされていたKは、叫んだ。「寝込みを襲っておいて、礼装して来いもあるもんか」
「なんと言おうとだめだ」と、監視人たちは言ったが、Kが大声で叫ぶと、まったくおとなしく、いやほとんど悲しげにさえなり、そのため、彼を当惑させ、あるいはいわば正気に返らせるのだった。
「ばかばかしい仰山さだ!」と、なおもぶつぶつ言ったが、すでに上着を椅子から取上げ、しばらく両手で持ったまま、監視人たちの指図《さしず》を求めているような格好になった。二人は頭を振った。
「黒の上着じゃなくちゃいけない」と、彼らは言った。
 Kはすぐさま上着を床に投げ、言った。――彼自身、どんなつもりでこう言ったのか、わからなかった。
「だってまだ本審理じゃないんだ」
 監視人たちはにやりとしたが、主張はまげなかった。
「黒の上着じゃなくちゃいけない」
「そうすれば事が早くすむのなら、それでもかまいませんよ」と、Kは言い、自分で洋服箪笥をあけ、長いことたくさんの服をひっかきまわし、いちばんいい黒の服を選んだ。腰まわりの出来がよいので知人たちのあいだでほとんど大評判となった背広である。
 そして、別なシャツも引出して、念入りに着はじめた。風呂にはいれ、と無理|強《じ》いすることを監視人たちが忘れたので、万事を早めることができたのだ、と心ひそかに思った。しかし二人がおそらくそのことを思い出すのではないかと様子をうかがっていたが、もちろん彼らにはそのことは思いつかなかった。そのかわり、Kは着替えしております、という報告を携えてフランツを監督のところへやることを、ウィレムは忘れはしなかった。
 着物を完全に着てしまうと、ウィレムのすぐ前を通って、空《から》の隣室を抜け、次の部屋に行かねばならなかった。扉は両側ともすでに開かれていた。この部屋には、Kもよく知っているとおり、少し前からタイピストのビュルストナー嬢が住んでいるが、彼女は非常に早く仕事に出てゆくのがならわしであり、帰りも遅いので、Kとは挨拶《あいさつ》以上にたいして言葉を交わしたこともなかった。ところが夜間用の小さな机がベッドのそばから部屋の真ん中に引っ張り出されて審理用の机にされ、その向うに監督がすわっていた。脚《あし》を組んで、片腕を椅子の背にかけていた。
 部屋の隅《すみ》には三人の若い男がいて、壁にかかったマットに留めてあるビュルストナー嬢のさまざまな写真をながめていた。開いた窓の把手《とって》には、一枚の白いブラウスがかかっていた。向いの窓にはまた例の二人の老人がいたが、仲間がふえていた。というのは、彼らの背後に、ずっと背丈《せたけ》の高い一人の男が、胸のはだけたシャツ姿で立っており、赤みがかった髯《ひげ》を指でおしたり、ひねったりしていたからである。
「ヨーゼフ・Kだね?」と、監督はきいたが、おそらくはただ、Kのきょろきょろした眼差を自分に向けさせるためであった。Kはうなずいた。
「今朝《けさ》の出来事できっと非常に驚いただろうな?」と、監督はたずね、そう言いながら両手で、蝋燭《ろうそく》とマッチ、本と針床といった、まるで審理に必要な物ででもあるかのように夜間用の小さな机の上にのっている数少ない品物を、わきへ押しやるのだった。
「そうですね」と、Kは言ったが、ついに物のわかる人間に向い合って、自分のことに関して話ができるのだ、という快い感情が彼をとらえた。
「確かに驚きはしましたが、けっして非常に驚いたというわけでもありません」
「非常に驚いたわけでもない?」と、監督はきき、机の真ん中に蝋燭を立てて、そのまわりにはほかの品々を並べたてた。
「どうも申上げた意味を誤解しておられるらしいですが」と、Kは急いで述べたてようとした。
「つまり」――ここで彼は言葉を切り、椅子はないだろうかと、あたりを見まわした。
「すわってもかまいませんか?」と、彼はきいた。
「それはできないことになっている」と、監督は答えた。
「つまり」と、Kはこれ以上|間《ま》をおかずにしゃべりはじめた。「もちろん非常に驚きはしましたが、人間三十にもなると、そして、私がそういう運命にあったように、孤軍奮闘しなければならなかったとすると、驚きなんていうものには鍛えあげられ、たいして苦にもしなくなります。ことに今日の出来事のようなのにはそうです」
「なぜ、ことに今日の出来事のようなのにはそうなんだ?」
「事のすべてを冗談だと見ている、と言うんじゃないのです。冗談にしては、やられた道具だてがおおげさすぎますからね。アパートの住人みな、そしてあなたがたも、事に加担しておられるようですし、こうなると冗談の範囲を超《こ》えていますからね。だから、冗談なんだ、と言うつもりはありません」
「まったくそうだ」と、監督は言い、何本マッチがマッチ箱のなかにあるのか、数えていた。
「しかし一面、この事件はたいして重要性を持ってはいません。そう推論できるのは、私は告発されてはいるものの、私が告発されるような罪は、少しも見つけだせないからです。しかし、それも二の次です。問題は、誰に告発されたのか、ということです。どの役所が手続きをやっているのか? あなた方は役人なのか? どなたも制服は着ておられないし、あなた方の服は」――ここで彼はフランツのほうを向いた――「制服とは申せませんからね。どうみても、むしろ旅行服といったものです。こうした疑問に明瞭なご返事を願いたいと思います。これがはっきりすれば、お互いにきわめて気持よくお別れできる、と確信します」
 監督はマッチ箱を机の上に置いて、言った。
「君はたいへん間違っている。ここにおられる方々も私も、君の事件についてはまったく枝葉の存在なんだ。実のところ、それについてはほとんど何ひとつ知ってはいやしない。われわれは規則どおりの制服を着ることもできようが、それで君の事件がどうなろうというものじゃない。君が告発されているなどということは、私はまったく言えないし、あるいはむしろ、いったい君が告発されているのかどうかさえ、知ってはいないのだ。君が逮捕された、ということは確かだ。それ以上は知ったことじゃない。おそらく監視人たちが何かよけいなことをしゃべったかもしれないが、それならそれはただのおしゃべりだ。君の質問にはお答えしないが、われわれのことや、君にこれから起るかもしれないことやにはあまり頭を使わないで、それよりか君自身のことを考えるほうがよい、と忠告しよう。自分は潔白だという気持でこんな騒ぎをやらないことだな。君がほかのことでは与えているさしてわるからぬ印象を、ぶちこわしてしまうからね。それにまた、およそ口をもっと慎むことだ。君がこれまでしゃべったことはほとんどみな、ただほんの二言三言にとどめておいても、君の態度からしてわかったことだろうし、そのうえ、君にとって格別有利なものでもなかったからね」
 Kはじっと監督を見た。見かけたところ年下らしい男から、ここで杓子定規《しゃくしじょうぎ》の説教をされるのか? 公明正大に言ったおかげで、訓戒されるわけか? そして、逮捕理由についても命令の出し主についても、何も聞かされないのか? 彼は一種の興奮状態に陥って、あちこちと歩くのだったが、誰もその邪魔をする者はなく、彼はカフスを引っこめたり、胸のあたりにさわったり、頭髪をなで直したりし、三人の男の前を通りながら、言った。
「まったくばかげたことだ」
 これを聞いて三人は彼のほうを向き、言うことは聞いてやるがという様子だが、真剣な顔つきで、彼をじっと見た。Kは最後にまた監督の前で立ち止った。
「ハステラー検事は私の親友なんですが」と、彼は言った。「電話をかけてかまいませんか?」
「よろしい」と、監督は言った。「だが、電話をかけることにどんな意味があるのかは私にはわからないが、まあ、個人的な用事で検事と話さねばならないんだろうな」
「どんな意味かわからないですって?」と、Kは腹をたてたというよりは唖然《あぜん》として叫んだ。
「あなたはいったい何者です? 意味などと言っているくせに、およそありうるかぎり無意味なことをやっているじゃないですか? かわいそうなくらいばかげたことじゃありませんか? この方々がまず私を襲ったのに、今はこの部屋であちらこちらに立ったりすわったりしていて、あなたの面前で私に高等馬術をやらせているんです。私は明らかに逮捕されているらしいが、検事に電話することがどんな意味を持っているか、と言われるんですか? よろしい、電話はかけますまい」
「だがまあそう言わずに」と、監督は言って、電話のある控えの間のほうに手を伸ばし、「どうぞ、電話をかけたまえ」
「いや、もう結構です」と、Kは言い、窓ぎわへ行った。
 向うでは連中がまだ窓ぎわにいたが、今やっと、Kが窓ぎわへ寄ったので、静かにながめていることを少しばかり邪魔された様子だった。二人の老人は身体《からだ》を起そうとしたが、彼らの後ろの男が制していた。
「向うには向うで、あんな見物がいるんです」と、Kは大声で監督に向って叫び、人差指で外を示した。
「そこからどけ!」と、彼は窓向うにどなった。
 三人のほうもすぐ二、三歩退き、そのうえ、二人の老人は男の後ろにまわったが、男は二人の老人をその幅広い身体でおおい隠し、その口の動きから判断するのに、遠くてよくはわからないが何か言っているらしかった。しかし、彼らはすっかり見えなくなってしまったのではなく、そっとまた窓ぎわに近づくことのできる瞬間をねらっているらしかった。
「あつかましい、遠慮のないやつらだ!」と、部屋のほうに振返りながら、Kは言った。Kが横眼で見取ったところでは、監督もおそらく彼の言うことに同感だったらしかった。しかしまた、全然彼の言うことに耳をかしていないようにも思えた。というのは、片方の手をしっかりと机の上に押しつけ、指の長さをそれぞれ比べてみている様子だったからである。二人の監視人は飾り布でおおったトランクに腰をかけ、膝《ひざ》をこすっていた。三人の若い男が手を腰にあてて、ぼんやりとあたりを見ていた。どこか忘れられた事務室でのように静かであった。
「さて、みなさん!」と、Kは叫んだが、一瞬のあいだ、三人全部を肩に背負っているように思えた。「あなたがたのご様子では、私についての用件は終ったものと考えてよさそうですが。私の意見では、あなたがたの行動が正しかったか、正しくなかったか、というようなことをもうこれ以上考えずに、互いに握手し合って事を円満に決着することがいちばんよいように思われます。あなたがたも私と同意見でいらっしゃるなら、どうか――」
 そう言って彼は、監督の机に歩み寄って、手を差出した。監督は眼を上げ、唇《くちびる》を噛《か》んでKが差出した手を見ていた。監督は応じてくれるものと、Kはまだ思いこんでいた。ところが監督は立ち上がると、ビュルストナー嬢のベッドの上に置かれた、硬《かた》くて円い帽子を取上げ、新しい帽子をためすときやるように、両手で念入りにかぶりながら、「君は万事をなんて単純に考えているんだろう!」と、Kに言った。「円満に事を決着する、と言うのかね? いや、いや、ほんとうにそうはいかないよ。もっともそうかといって、君を絶望させるつもりは少しもない。いや、そんなことをどうしてしよう? ただ君は逮捕された、それだけの話だ。そのことを君に知らさねばならなかったので、そうしたまでだし、君がそれを受入れたということも見てとった。それで今日のところは十分だし、お別れもできる。もちろんしばらくのことだがね。きっと君は、もう銀行に行きたいところだろうね?」
「銀行ですって?」と、Kは言った。「私は逮捕されたんだ、と思っていましたよ」
 Kはちょっと居丈高《いたけだか》になってきいた。というのは、彼の申出た握手は受入れられなかったけれども、ことに監督が立ち上がってからは、この連中のすべてからいよいよ拘束されていない立場にある自分を感じたからである。彼はこの連中と戯れるのだった。彼らが立ち去るときになったら、玄関まで追っかけてゆき、私は逮捕されているのですが、と言ってやる下心だった。そこで彼はまた繰返した。
「逮捕されたんですから、どうして銀行へ行けましょう」
「ああ、そのことか」と、すでに戸口にいた監督は言った。「それは君の考え違いだよ。君は逮捕された、確かにそうだが、それは君が職業をやってゆくことを妨げはしないんだ。今までどおりの暮しかたをしても、ちっともかまわないんだ」
「それじゃあ逮捕されるのも、たいしてわるいことじゃありませんね」と、Kは言い、監督のそばに近づいた。
「初めからそう言っているはずだ」と、監督は言った。
「しかしそれなら、逮捕通知もたいして必要でなかったようですが」と、Kは言って、さらに近くへ寄っていった。ほかの連中も近寄ってきた。皆が狭い部屋の扉のところへ集まった。
「それは私の義務だったのだ」と、監督が言った。
「ばからしい義務ですね」と、Kは負けてはいずに言った。
「そうかもしれない」と、監督が答えた。「だが、こんな話で時間をつぶしたくない。君が銀行に行くものとばかり私はきめこんでいた。君はあらゆる言葉を気にしているので言っておくが、銀行に行くように君を強制するつもりはないんで、君が行きたいと思っているときめこんだだけのことだ。そして、君が気軽に出かけられ、銀行に出てもできるだけ目だたぬようにするため、君の同僚の三人の方々を君のためにここへお連れしてきてある」
「なんですって?」と、Kは叫び、三人をまじまじとながめた。このなんの特徴もない、貧血の若い男たちは、写真を撮《と》ったときの仲間としてだけ今も記憶に残っているのだが、事実彼の銀行の行員だが、同僚というわけでなく、同僚などというのはおおげさな話で、監督の全知全能ぶりにはすき[#「すき」に傍点]があることを示しているのだったが、ともかく彼らは銀行の下っ端の行員にはちがいなかった。どうしてKは彼らに気づかなかったのだろうか? この三人に気づかなかったなんて、なんと監督や監視人たちに気をとられていたことだろう! 身体つきのぎごちない、両手をぶらぶら振っているラーベンシュタイナー、金壺眼《かなつぼまなこ》のブロンドのクリヒ、慢性の筋肉引きつりのため気味の悪い薄笑いを浮べているカミナー。
「お早う」と、Kはしばらくして言い、きちんと頭を下げる三人に手を差伸べた。
「僕は君たちにちっとも気がつかなかった。それじゃ、仕事に出かけようか?」
 三人は笑いながら、ずっとそれを待ちもうけてでもいたかのように気を入れてうなずき、ただKが帽子を部屋に取残して手にしていないのに気づくと、彼らは皆相次いで取りに走っていったが、その様子からは、ともかくある種の当惑ぶりというものが想像されるのであった。Kは黙って立ったまま、二つの開いた扉を通ってゆく後ろ姿を見ていたが、いちばん後《あと》は、もちろん、気のはいっていないラーベンシュタイナーで、彼は格好のよい早足をやってみせるだけだった。カミナーが帽子を渡したが、Kは自分に、これはともかく銀行でもしばしばせざるをえないことだったが、カミナーの薄笑いはそうしようと思ってやっているのではない、いやおよそ彼は、自分でやろうと思って薄笑いなど浮べることはできないのだ、と言って聞かせた。次に控えの間でグルゥバッハ夫人が一同に玄関の扉をあけたが、彼女はまったくたいして責任を感じてはいないように見受けられた。そしてKは、いつもと同じように、不必要に深く彼女の大きな図体《ずうたい》に食いこんでいるエプロンの紐《ひも》を、見下ろした。表でKは、時計を片手にして、もう半時間にもなる遅刻をこれ以上不必要に延ばさないように、自動車に乗ろうと決心した。カミナーは、車を呼ぶために角まで走ってゆき、ほかの二人は明らかに、Kの気をまぎらそうと努めるのだったが、突然クリヒが筋向いの家の戸口を示した。そこにはちょうど、例のブロンドの髯《ひげ》の大男が姿を見せ、図体をすっかり見せてしまったことに最初の瞬間は少し当惑して、壁のところまで引っこみ、そこにもたれていた。二人の老人はまだ階段を降りてくるところだった。自分がすでに先刻見つけ、そのうえ現われるだろうと期待さえしていた例の男をクリヒが指さしたことに、Kは立腹してしまった。
「あんなところを見るんじゃない!」と、大声で叫んでしまい、一人前の男たちに対してこんな物の言いかたをすることがどんなに目だつことかに、気づくことさえなかった。だが弁解の必要もなかった。ちょうど自動車が来たからである。彼らは車に乗り、走りだした。そのときKは、監督と監視人たちとが帰ってゆくのに全然気づかなかったことを思い出した。監督に気を取られて三人の行員を見そこない、今度はまた行員たちに気を取られて監督を見失ったのだった。こんなことではあまり気を配っているとは言えないし、この点でもっと精密に観察しよう、とKは決心した。しかし、彼は思わず知らずのうちに振向き、自動車の背のクッションの上へ身体を曲げ、できればまだ監督と監視人たちが見えないか、とうかがってみた。しかし、すぐにまた向き直り、ゆったりと車の片隅《かたすみ》によりかかって、誰か相手を求めようとする試みさえもしはしなかった。今のところ話しかける必要がある様子もなかったが、三人の行員たちは疲れているようであり、ラーベンシュタイナーは右側、クリヒは左側で、車の外をながめ、ただカミナーだけが例のごとくにやにやして、なんでもいたしますという面持だった。こんなのをからかうことは、残念ながら人情としてできないことだった。

 この春Kは、できれば――というのはいつもたいてい九時までは事務室にすわっていたからだが――仕事のあと、ひとりでかあるいは行員たちといっしょに、ちょっとした散歩をし、そのあとであるビヤホールに行き、年配の紳士が多い常連のテーブルの仲間にはいって、普通、十一時まですわるというふうにして、夜分を過す習慣だった。しかし、たとえばKの仕事の力倆《りきりょう》と信頼できる点とを非常に評価している支店長にドライヴに誘われたり、あるいはその別荘での晩餐《ばんさん》に招かれたりするときには、こんな時間の割り振りにも例外があった。そのほかにKは、一週に一度、エルザという女のところへ行くが、夜じゅう通して朝も遅くまで或《あ》る酒場に勤めている女で、日中に訪《たず》ねると、きまってベッドにいて迎えるのだった。
 しかしこの夜は――日中は仕事に追われ、また丁重で親しげな誕生日の祝いを言われながらたちまち過ぎ去ってしまったが――Kはすぐ家に帰ろうと思った。昼間の仕事のちょっとした合間に、彼はそのことを考えていた。いったいなぜこんなことを考えるのかはっきりとはわからなかったが、今朝の出来事のためにグルゥバッハ夫人の家全体に大きな混乱が引起され、秩序を回復するためにはまさに自分が必要なように思われるのだった。しかし、この秩序が一度回復されれば、あの出来事のあらゆる痕跡《こんせき》は消えてなくなり、万事は元どおりになることだろう。ことに例の三人の行員については何も恐れる必要はなく、彼らはまた銀行の大勢の勤め人仲間のうちに埋もれてしまい、彼らにはなんらの変化も認められなかった。Kはときどき彼らを、一人あるいは三人いっしょにというふうに、自分の事務室に呼んでみたが、彼らの様子をうかがう以外の目あて[#「あて」に傍点]もなかったのだった。ところが、いつでも安心してかえすことができた。
 夜の九時半に、住んでいる家の前に来ると、入口で一人の若い男に出会った。その男はそこで足を踏んばって立っており、パイプをふかしていた。
「どなたです?」と、Kはすぐたずね、顔をその若い男に近づけたが、玄関の薄暗がりのなかではよくは見えなかった。
「門番の息子です、旦那《だんな》」と、若者は答え、パイプを口から放して、わきへどいた。
「門番の息子だって?」と、Kはきき、ステッキでいらいらしたように床をたたいた。
「旦那、ご用でしょうか? 親爺《おやじ》を呼んできましょうか?」
「いや、いいよ」と、Kは言ったが、その声のなかには、この男がある悪事をやったのだが自分はゆるしてやるのだ、というような何かゆるすような調子が含まれていた。
「もういいよ」と、彼は言い、歩みを進めたが、階段を登る前に、もう一度振向いた。
 まっすぐ自分の部屋へ行ってもよかったが、グルゥバッハ夫人と話したくなって、すぐ彼女の部屋の扉をたたいた。夫人は靴下を編みながら机のそばにすわり、机の上にはさらに一山の古靴下がのっていた。Kはどぎまぎして、こんなに遅くお邪魔してすみません、と申し訳をしたが、グルゥバッハ夫人は非常に愛想よく、そんな申し訳は聞きたくないというふうで、あなたならいつでも、お話ししてよい、私があなたを間借人のうちいちばんよい、いちばんりっぱな方だと思っていることはよくご存じでしょう、と言うのだった。Kは部屋を見まわしたが、また完全に元どおりになっていて、朝には窓ぎわの小さな机の上にのっていた朝飯の道具も、すでに片づけられてあった。
「女の手というやつは、こっそりと多くのものを片づけるものだ」と、思った。自分ならおそらく道具を即座にたたき割ってしまって、部屋から運び出すことなどはきっとできるものではなかったろう。彼はグルゥバッハ夫人を感謝めいた気持でじっと見つめた。
「なぜこんなに遅くまでお仕事をなさるんです?」と、彼はたずねた。
 二人とも机にすわり、Kはときどき手を靴下のなかへ突っこんだ。
「仕事が多うござんしてね」と、彼女は言った。「昼間は間借人の方々にかかりきりですし、自分の仕事を片づけておこうとすると、どうしても夜分だけしかありません」
「今日はさだめしよけいな仕事をおさせしましたろう?」
「どうしてですの?」と、夫人はたずね、いくらか真顔になって仕事の手を膝《ひざ》に休めた。
「今朝ここにいた連中のことです」
「ああ、あのこと」と、彼女は言い、また平静にかえって、「たいして手のかかることではありませんでしたわ」
 Kは黙って、靴下編みをまた始めた夫人をながめた。あのことを言ったので、彼女は不審に思っているようだ、あのことを言ったのを変なふうにとっているらしい、と思った。それだけに、あのことを言うことが大切なのだ。年配の婦人とだけあのことを話すことができる。
「いや、きっとお手数をおかけしました」と、彼は言った。「しかし、あんなことはもう二度と起りますまい」
「ええ、あんなことは二度と起りませんよ」と、励ますように言い、ほとんど悲しげに彼に微笑《ほほえ》みかけた。
「ほんとうにそうお思いですか?」と、Kはたずねた。
「そうですとも」と、彼女は低い声で言った。「けれど何より、あのことをあまりむずかしくお考えになってはいけませんわ。この世の中では何が起るかわかったものじゃありませんもの! Kさん、あなたがうちとけて私とお話しくださるので、私もつつまずに申しますが、私は扉の後ろでちょっと盗み聞きしましたし、二人の監視人たちも私にいくらか話してくれましたの。なにしろあなたのご運に関することですし、ほんとうに私の気にかかることですもの。そりゃあ、私には出すぎたことでしょうよ、なにしろ私は下宿の女将《おかみ》にすぎませんからねえ。ところで、少し監視人から聞いたと申しましたが、何かとりたててわるいことがあったとは、申せません。そんなことはありませんでした。逮捕されたと言いましても、泥棒なんかで逮捕されるのとはちがいますものねえ。泥棒のように逮捕されるんなら、わるいことですが、あなたの逮捕は――。そう、何か学問めいた感じですわ。もし何かばかげたことを申上げたなら、おゆるしください。私には何か学問めいた感じですわ、もちろん私にはよくわかりませんし、誰もわかるはずがないんですけれど」
「おっしゃったことはばかげたことじゃありませんよ、グルゥバッハさん。少なくとも私も部分的にはあなたと同じ考えです。だが私はこのことをあなたよりも鋭く判断しますから、私は簡単にそれを何か学問めいたことなどとは少しも考えないで、およそ無意味なことだと考えるんです。私は急に襲われたっていうわけです。もし眼がさめたらすぐ、アンナが来ないことなどに惑わされずに起き上がり、邪魔にはいる人間なんかに眼もくれずにあなたのところへ行き、今朝は番外に台所ででも朝飯を食べ、着物はあなたに私の部屋から持ってきていただいたなら、つまり理性的に振舞っていたなら、それ以上のことは何も起らず、起るはずのいっさいのことが防がれたことでしょう。でも心構えが全然できていなかったんです。たとえば銀行でなら心構えもできており、こんなことは起りようもないんです。自分の小使がいるし、外線と社内との電話が眼の前の机の上にあるし、顧客や行員がひっきりなしにやってきます。そのうえ、何よりも肝心なことですが、銀行ではいつも仕事とつながりがあり、そのためいつも頭が働いていて、こんな仕事の相手をさせられることは、まったく楽しみみたいなもんです。だが、事はすんだのですし、私もまったくこれ以上あんなことについてお話ししたくはありません。ただ、あなたのご判断、物わかりのよい女の方の判断というものをお聞きしたいと思ったのです。私たちの意見が一致したことをよろこんでいます。では私に手をお出しください、こんなに意見が一致したからは、手を握り合ってその気持を強めなくてはなりますまい」
 夫人は手を差出すだろうか? 監督のやつは手を差出さなかったが、とKは考え、夫人を前とは変って探るようにじっと見つめた。彼が立ち上がったので、彼女も立ち上がったが、Kが言ったことが全部はのみこめなかったので、少しこだわっている様子だった。このこだわりのため、彼女は、自分で少しも言おうとは思わなかった、そしてその場にまったくそぐわぬようなことを、口走ってしまった。
「どうかそうむずかしくお考えにならないでください、Kさん」と、彼女は言い、泣き声になって、もちろん握手などは忘れていた。
「私は何もむずかしくなぞ考えてはいないと思いますが」と、Kは言い、突然疲れを感じ、この夫人の同意などは意味がないということをさとったのだった。
 扉のところで彼はさらにたずねた。
「ビュルストナーさんはおりますか?」
「いらっしゃいません」と、グルゥバッハ夫人は言い、この素っ気ない返事に気づいて、おくればせながら物のわかったような気持をこめて、微笑んでみせた。
「あの方はお芝居ですわ。何かご用ですか? 私からお伝えしておきましょうか?」
「いや、ちょっとあの人とお話ししようと思っただけです」
「残念ですが、いつお帰りかわかりませんわ。芝居にいらっしゃると、いつもお帰りが遅いんでね」
「いや、どうでもいいんです」と、Kは言い、頭を垂《た》れて扉のほうにくるりと向き、出ようとした。「あの人の部屋を今日使ったことをおわびしようと思っただけです」
「それにはおよびません、Kさん、あなたは気を使いすぎますわ。あの人は何もご存じありませんし、朝早くから出かけているうちに、もうすっかり片づきました。ご自分でごらんになってください」
 そして、彼女はビュルストナー嬢の部屋の扉をあけた。
「結構です、よくわかっています」と、Kは言ったが、開いた扉のところまで行っていた。
 月が静かに真っ暗な部屋のなかにさしこんでいた。見たところでは、実際、万事元のままで、ブラウスももう窓の把手《とって》にはかかっていなかった。ベッドの布団《ふとん》が目だって盛り上がっていて、一部分が月光を浴びていた。
「あの人はよく夜遅く帰ってきますね」と、Kは言い、その責任はあなたにある、というようにグルゥバッハ夫人を見つめた。
「どうしても若い人たちはそうですわ!」と、グルゥバッハ夫人は言い訳をするように言った。
「確かにそうですね」と、Kは言った。「でも極端になりがちですよ」
「そうですね」と、グルゥバッハ夫人は言った。「あなたのおっしゃるとおりです、Kさん。おそらくこの人の場合もそうでしょう。ビュルストナーさんのことをわるく言うつもりはほんとうにありません。あの人はよい、かわいい娘さんですし、親切で、きちんとし、時間もしまりがあり、よく働きますから、万事たいへん感心しているんですが、もっと自分に誇りを持ち、慎みがなくてはならないということだけはほんとうですわ。今月になってもう二度も、場末の通りを男を変えて歩いているのを見ました。Kさん、あなただけに申しますが、私はほんとうにいやな気持がしました。けれど、そのうちあの人に面と向ってこのことを言うことに、どうしてもなるでしょう。それに、私にあの人のことを疑わせるのは、何もこのことだけではありませんわ」
「それはまったく見当ちがいですよ」と、怒って、ほとんどそれを隠すのを忘れて、Kは言った。「それにあなたは、私があの人のことについて言ったことを明らかに誤解なすったようですね。そんなつもりで言ったんじゃないんです。はっきり言っておきますが、あの人に何かそんなことを言っちゃいけませんよ。あなたは全然間違っておられる。私はあの人のことをよく知っていますが、あなたが言われたことはまったく嘘《うそ》です。まあ、どうもこれは言いすぎたかもしれません。何もあなたの邪魔をするわけじゃないんですから、なんなりとあの人におっしゃったらいいでしょう。おやすみなさい」
「Kさん」と、グルゥバッハ夫人は嘆願するように言って、彼がもうあけている扉のところまで、急いで追いかけてきた。「ほんとうのところまだあの人に話を持ち出そうとは思っていません。もちろん、その前にもっとよくあの人のことを見ようと思うんですけれど、私の知っていることをあなたにだけお打明けしたんです。結局のところ、こう考えるのは、自分の下宿をきれいにしておきたいと思う家主の誰でもの気持にちがいありません。そして私のつもりもそれとは少しもちがわないんですわ」
「きれいにだって!」と、Kは扉の隙間《すきま》から叫んだ。「もし下宿をきれいにしておこうと思われるなら、まずこの私に立ちのきを言わなくちゃならないでしょう」
 そして彼は扉をぴしゃりとしめ、低いノックの音にはもうおかまいなしでいた。
 だが、全然眠たくないので、まだ起きていて、ビュルストナー嬢が何時に帰ってくるかをこの機会に確かめよう、と決心した。それからまた、あまりよいことではないが、またあの女と一言二言話すことも、おそらくできるだろう。窓ぎわで横になって、疲れた眼を押えると、グルゥバッハ夫人を罰してやろう、ビュルストナー嬢を説き伏せて、いっしょにこの家を出てやろう、ということさえ一瞬頭に浮ぶのだった。しかしすぐに、そんなことをするのはおそろしくやりすぎだと思われたし、今朝の出来事のために住居を変える気になった自分というものに対して、疑念さえも覚えた。これよりも無意味で、ことに無益でばからしいことは、何もないだろう、と思うのだった。
 人けのない通りをながめることに飽きたとき、この家にはいってくる者がすぐソファから見えるように、控えの間の扉を少しあけてから、ソファの上に身を横たえた。およそ十一時まで、葉巻を一本ふかしながら、ソファの上に静かに横になっていた。それからあとは、もうそこにじっと待ってはいられなくなり、少し控えの間にはいった。こうすれば、ビュルストナー嬢の帰宅を早めることができるように思われたのだった。特に彼女を求める気持はなかったし、どんな格好の女だったかけっして詳しく思い出せもしなかったが、今は彼女と話がしたく、帰りが遅いため今日という日の終らぬうちに不安と混乱とを彼女がもたらしたことが、彼をいらつかせた。今晩の食事を食べもしないで、今晩に予定していたエルザを訪ねることもやめてしまったについては、彼女にも責任があるのだ。もちろん、今からでもエルザの勤めている酒場へ行けば、この二つのことは取返しがつく。それはもっと後《あと》で、ビュルストナー嬢と話が終ってからにしよう、と思った。
 十一時半を過ぎたとき、誰かの足音が階段のところで聞えた。考えに没頭し、自分の部屋ででもあるかのように足音高く控えの間をあちこち歩いていたKは、自分の部屋の扉の背後に逃げた。やってきたのは、ビュルストナー嬢だった。寒気を覚えながら、扉をしめるとき、絹のショールを細い肩に締めつけた。この機を失すれば、彼女は自分の部屋にはいってしまい、真夜中なので、きっとKはそこへ押し入ることもできないだろう。そこで今こそ声をかけるべきときだったが、自分の部屋の電燈をつけておくことを運わるく忘れていたので、暗闇《くらやみ》から出てゆくことは、まるで襲いでもするような格好になり、少なくとも相手を非常に驚かすことになったにちがいなかった。途方にくれ、また一刻の猶予もならなかったので、彼は扉の隙間から小声で呼んだ。
「ビュルストナーさん」
 それは呼びかけているのではなく、嘆願の調子だった。
「どなたかいらっしゃるの?」と、ビュルストナー嬢はたずね、大きな眼をしてあたりを見まわした。
「私です」と、Kは言って、姿を現わした。
「ああ、Kさんでしたの!」と、ビュルストナー嬢は微笑《ほほえ》みながら言った。
「今晩は」と、彼女はKに手を差出した。
「あなたにちょっとお話ししたいことがあるんです、今でよろしいでしょうか?」
「今ですの?」と、ビュルストナー嬢はたずねた。「今じゃなくちゃいけませんの? 少し変じゃありません?」
「九時からお待ちしていたんです」
「でも、私は芝居に行っていましたの。あなたがお待ちだなんて少しも存じませんでしたわ」
「お話ししようということの動機になっているのは、今日初めて起ったことなんです」
「それじゃ、倒れるほど疲れてはいますけれど、それ以外にはどうしてもお断わりする理由もありませんから、ほんの少しだけ私の部屋に来ていただきましょう。こんなところでは絶対にお話もできませんし、みなさんをお起ししてしまうでしょう。そうなったらほかの人たちのためというより、私たちのため不愉快なことになりますわ。私の部屋の明りをつけますから、それまでここでお待ちになってちょうだい。それからここの明りを消してくださいね」
 Kは言われるままにしたが、なおしばらく、ビュルストナー嬢が彼女の部屋からもう一度小声で、はいるようにと求めるまで待っていた。
「おかけください」と、彼女は言い、安楽椅子を示したが、彼女自身は、疲れていると言ったくせに、ベッドの枠柱《わくばしら》のところへ立ったままであった。小さいが花をいっぱい飾ってある帽子も、けっして脱がない。
「で、どんなご用ですの? ほんとうにお伺いしたいですわ」
 彼女は軽く脚を組んだ。
「あなたはおそらく」と、Kは言い始めた。「事柄は今お話しせねばならぬほど差迫ったことでないとお思いかもしれませんが、しかし――」
「前置きなどはいつも聞きすごしますわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「それなら私のほうも気が楽です」と、Kが言った。「あなたのお部屋が今朝《けさ》、いわば私の責任なんですが、少しかきまわされたんです。私の知らない連中の手で私の意に逆らってやられたことですが、申上げたように、私のためにやられたのです。それでおわびを申上げようと思ったのでした」
「私の部屋がですって?」と、ビュルストナー嬢は言い、部屋を見るかわりに、Kをまじまじとながめた。
「そうなんです」と、Kは言って、二人はここで初めて互いに視線を交《か》わした。「どういうふうにしてそれが行われたか、ということは全然申上げる価値がありません」
「でもそれがほんとうに伺いたいことですわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「いや」と、Kは言った。
「それじゃあ」と、ビュルストナー嬢は言った。「私は別に秘密に立ち入りたいとも思いませんし、おもしろくないとおっしゃるなら、何も異議は申上げません。あなたが求めていらっしゃるゆるしというのは、よろこんで差上げますわ、別にかきまわした様子も全然見受けられませんもの」
 平手を腰の辺へぴったり当てたまま、彼女は部屋のなかを一まわりした。写真のあるマットのところで立ち止った。
「まあごらんなさい!」と、彼女は叫んだ。「私の写真がほんとうにごちゃごちゃですわ。いやですこと。それじゃあやっぱり、誰かが私の部屋にはいりましたのね。失礼ですわ」
 Kはうなずいてみせ、単調で無意味なはしゃぎかたをどうしても抑《おさ》えられないでいるあの行員のカミナーのことを、心ひそかに呪《のろ》った。
「変なことですわ」と、ビュルストナー嬢が言った。「留守のあいだに私の部屋にはいってはいけないなんて、あなたご自身がよくおわかりでしょうに、私から申上げねばならないなんて」
「いや、つまり私が申上げたのは」と、Kは言い、自分も写真のところへ行った。「あなたのお写真に手をかけたのは、私じゃなかったということです。あなたはお信じにならないでしょうから申上げますが、審理委員会が三人の銀行員を引っ張ってきたんです。そのうちの一人は、近い機会に銀行から追い出してやろうと思っていますが、そいつが写真を実際手に取ったのです。そうです、審理委員会がここで開かれました」と、女が物問いたげな眼差《まなざし》で彼を見つめたので、彼は付け加えたのだった。
「あなたのためにですの?」と、女がたずねた。
「そうです」と、Kが答えた。
「そんなことありませんわ」と、女は叫んで、笑い声をあげた。
「でも」と、Kは言った。「それじゃあ私が無罪だと信じてくださるんですか?」
「さあ、無罪って……」と、女は言った。「たぶんゆゆしい判断をそうすぐには申せませんわ、それに私もあなたのことはよく存じておりませんけれど、すぐに審理委員会に押しかけられるなんていうだけでも、重罪人にきまっています。でもあなたは自由でいらっしゃるんですから――少なくともあなたの落着いたご様子を拝見して、あなたは牢獄《ろうごく》から逃げてきたんではないって判断できますけれど――そんな犯罪をおやりになるはずはありませんわ」
「そうです」と、Kは言った。「でも審理委員会は、私が無罪だ、あるいは考えられたほど罪はないのだ、とさとったかもしれません」
「きっとそうですわ」と、ビュルストナー嬢はきわめて慎重に言った。
「ねえ」と、Kは言った。「あなたは裁判|沙汰《ざた》のことはたいしてご存じじゃありませんね」
「ええ、存じません」と、ビュルストナー嬢は言った。「そしてこれまでもしばしば残念に思っていましたわ。なぜって、私はなんでも知っておきたいんですし、裁判のことなんかは特に興味があるんですもの。裁判というのは独特の魅力がありますわね? でもこの方面で私の知識はきっと完全なものになりますわ、来月になれば事務員としてある弁護士事務所にはいりますから」
「そりゃあ、たいへん結構です」と、Kは言った。「そうなればあなたに少しは私の審理にお力添えいただけましょう」
「もちろん、できますわ」と、ビュルストナー嬢が言った。「なぜできないということがありましょう? よろこんで私の知っていることをご用だてます」
「まじめで申上げているんですよ」と、Kは言った。「あるいは少なくとも、あなたがおっしゃっているのと同じ程度に半ばまじめで言っているんですよ。弁護士を引っ張ってくるには、事は少々小さすぎますが、できれば忠告者をよく利用しなければなりません」
「そうですね、けれど私に忠告者になってくれとおっしゃるんでしたら、問題は、いったい何なのかを知らなければなりません」
「それがまさにむずかしいんです」と、Kは言った。「私自身がわからないんです」
「ああ、それじゃ私をからかっていらっしゃったのね」と、ひどく失望した様子でビュルストナー嬢が言った。「そんなことのためにこんな夜遅くを選ぶなんて、あんまりばかげていますわ」
 そして、それまでずっと二人いっしょに立っていた写真のところから離れてしまった。
「いや、そうじゃありません」と、Kは言った。「ふざけてなんかいるんじゃありませんよ。私の言うことをお信じにならないっておっしゃるんですか! 私にわかっていることは、すでにあなたに申上げました。いや、私にわかっている以上にです。というのは、審理委員会なんていうものじゃなかったのですが、ただ私がそう勝手に名づけたのです。どうもどう言ってよいのかわからなかったものですから。審理などは全然行われませんでした、私はただ逮捕されただけなんです、けれどある委員会の手で行われたことだけは確かです」
 ビュルストナー嬢は安楽椅子にすわっていたが、笑い声をたてた。
「で、逮捕はどんなふうにして行われましたの?」と、彼女はきいた。
「恐ろしいことでした」と、Kは言ったが、今はそんなことなどは考えていないで、ビュルストナー嬢の様子にすっかり心を奪われていた。彼女は片手で顔をささえ、――肘《ひじ》は安楽椅子のクッションにのせていた――もう一方の手がゆるやかに腰をなでているのだった。
「それじゃああんまり月並みで、なんのことやらわかりませんわ」と、ビュルストナー嬢が言った。
「何が月並みすぎるとおっしゃるんです?」と、Kはたずねたが、すぐに思い出して、たずねた。「あのときどういう有様だったか、あなたに申上げろとおっしゃるんですね?」
 彼は動こうとしたが、立ち去ろうとはしなかった。
「もう疲れてしまいましたわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「お帰りが遅いんですよ」と、Kが言った。
「とうとうあげくの果てが、お叱《しか》りを受けるということになりましたのね。でも自業自得ですわ、なにせこんな時間にはあなたに来ていただくべきではなかったんですから。それに、これまでにもうわかったように、来ていただく必要もなかったんですわ」
「必要だったのです。それはすぐわかっていただけると思います」と、Kは言った。
「夜間用の机をベッドのところからこっちへ持ってきてもよろしいですか?」
「なんということをお思いつきになったのです?」と、ビュルストナー嬢は言った。「もちろんそんなことをしていただいては困ります!」
「それじゃあ、あなたにお見せできないじゃありませんか」と、その言葉によって測り知れない損害をこうむったように興奮しながら、Kは言った。
「そうね、もし説明してくださるのに必要なら、机をほんのそっと動かしてください」と、ビュルストナー嬢は言い、しばらくしてからかなり弱々しい声で付け加えた。「疲れていたので、つい度を越したことをさせてしまったわ」
 Kは机を部屋の真っ只中《ただなか》に置き、その後ろにすわった。
「人物の配置を正しくのみこんでいただきます。それはたいへんおもしろいんです。私が監督とします。そこのトランクの上には二人の監視人が腰かけており、写真のところには三人の若い男が立っています。窓の把手には、私はただついでに言っておくのですが、一枚の白いブラウスがかかっています。そして今や、審理が始まります。ああ、私は自分のことを忘れていました。最も重要な人物、つまりこの私は、ここの机の前に立っています。監督は脚を組み、腕を椅子の背にこうやってだらりと下げ、ひどくのんびりとすわっている。無類の不作法者です。そして今や、ほんとうに審理が始まります。監督は、まるで私の眼をさまさなくてはならないというように大声をあげ、真っ向からどなりつけます。あなたにおわかりねがうためには、恐縮ですが私もここでどなってみなければなりません。ところで、彼がこうやってどなるのは、ただ私の名前だけなんです」
 笑いながら耳を傾けていたビュルストナー嬢は、Kがどなるのをさえぎるために、人差指を口もとにあてたが、時すでに遅かった。Kはすっかり役柄に没頭していて、ゆっくりと叫んだ。
「ヨーゼフ・K!」
 それでも彼がおどかしたほどは大声ではなかったけれども、その叫び声は、突然口をついて吐き出されると、ゆっくりと部屋のなかでひろがってゆくように思われた。
 そのとき、二、三度隣室の扉をたたく音がした。力強く、短かな、規則正しいノックだった。ビュルストナー嬢は蒼《あお》くなり、手を胸にあてた。Kはなおしばらくのあいだ、今朝の出来事と彼がそれを演じてみせている相手のこの女と以外のことを何も考えることができなかっただけに、特にひどく驚いたのであった。気が落着くやいなや、ビュルストナー嬢のところへ飛んでゆき、彼女の手を取った。
「何もこわがることはありません」と、彼はささやいた。「万事は私にまかせておきなさい。人がいるはずはありませんよ。この隣は空部屋で、誰も寝てはいませんよ」
「でも」と、ビュルストナー嬢はKの耳もとでささやいた。「昨日《きのう》からあそこにはグルゥバッハさんの甥《おい》の大尉の人が寝ていますわ。ちょうどどの部屋もあいてはいませんのよ。私も忘れていました。それなのにあんなにどなったりなさって! そのため私は具合がわるいことになりますわ」
「そんなことは全然ありませんよ」と、Kは言い、彼女がクッションに倒れかかると、その額に接吻《せっぷん》した。
「どいて、どいて」と、彼女は言い、急いでまた身を起した。「帰ってください、お帰りになって。どうしようというおつもりですの、あの人は扉のところで聞き耳をたてていますわ、すっかり聞えますわ。なんて私に面倒をおかけになるの!」
「私は帰りませんよ」と、Kは言った。「あなたがもう少し落着かれるまでは。部屋の向うの隅《すみ》に行ってください、あすこなら私たちの話すことが聞えませんから」
 彼女はそこまで連れてゆかれるままになっていた。彼は言った。
「なるほどあなたにとって不都合なことではありましょうが、全然危険というようなことじゃない、ということをあなたはよく考えてくださらなくちゃいけません。ご存じのように、このことの鍵《かぎ》を握っているグルゥバッハさんは、そして特に大尉があの人の甥でありますからなおさらそうなるわけですが、あの人はたいへん私を尊敬し、私の言うことはなんでも無条件に信じているのです。あの人はそうでなくとも私の厄介になっています。かなりの金を私から借りたことがあるからです。私たちが同室したことに対する釈明については、少しでも辻褄《つじつま》が合うことならどんなことでも、あなたの申し出をお引受けしましょう。そして、グルゥバッハさんを動かして、ただ人々に対する釈明を信じさせるばかりでなく、ほんとうに心からそれを信じさせることができるのです。その場合あなたは、私をけっしていたわってはなりません。私があなたを襲ったのだ、という噂《うわさ》を広めてしまいたいとお思いなら、グルゥバッハさんをそういうふうに教えこむことはわけはありませんし、そう信じこんでも私に対する信頼を失いっこはありません。それほどあの人は私に傾倒しているんです」
 ビュルストナー嬢は、黙って、少し崩《くず》れた姿勢で、じっと床を見ていた。
「私があなたを襲ったのだ、とグルゥバッハさんが信じたってかまわないじゃありませんか?」と、Kは言葉を継いだ。
 すぐ眼の前に、彼女の髪毛《かみのけ》、分けられ、少しふくらみをつけ、しっかりとくくった、赤みがかった髪毛が、見えた。彼女が自分に眼差《まなざし》を向けるものと彼は思ったが、彼女は姿勢を変えないで言った。
「ごめんなさい、突然ノックが聞えたためすっかり驚いてしまったので、大尉がいることから起るかもしれない結果を恐れたわけじゃないの。あなたがどなられたあとたいへん静かになったのに、そこへノックの音が聞えたものですから、あんなに驚いてしまいました。また私は扉の近くにすわっていたものですから、ほとんどすぐそばにノックの音が聞えたの。あなたのお申し出はありがとうございますが、私は結構ですわ。私の部屋で起ったことはすべて、私が責任を持ちます。しかも誰が何を言ってきましてもそうしますわ。もちろん、あなたのご好意はよくわかりますが、それと並んで、どんな私に対する侮辱があなたのお申し出のなかに含まれているかをお気づきにならないなんて、ほんとうに不思議ですわ。でも、もうお帰りになって、私をひとりにしておいてください。今はさっき以上にひとりでいることが必要ですの。ほんの二、三分とおっしゃったのが、もう三十分かそれ以上にもなりましたわ」
 Kは彼女の手をとらえ、次に手首をつかんだ。
「お気をわるくしたんじゃありませんか?」と、彼は言った。彼女はその手をはずして、答えた。
「いいえ、どういたしまして。私はいつでも、どなたに対してでも、気なんかわるくはいたしませんわ」
 彼はふたたび彼女の手首をつかんだが、今度ははずしもせずに、そのまま彼を扉のところまで連れていった。Kは、帰ろうとしっかと心をきめていた。ところが、扉の前まで来ると、こんなところに扉があるなんて思いもしなかったというような顔で止ってしまい、ビュルストナー嬢はこの瞬間を利用してKから逃れ、扉をあけ、控えの間に滑《すべ》りこみ、そこからKに小声で言った。
「ねえ、ちょっとこっちに来てちょうだい。ごらんになって」――彼女は大尉の扉を示したが、扉の下からは明りがもれていた――「あの人は明りをつけて、私たちの様子をおもしろがって聞いていたんだわ」
「どれ」と、Kは言い、飛びこみ、女をひっとらえて、口に接吻し、それから顔じゅうに接吻したが、まるで渇《かわ》いた獣が、とうとう見つけだした泉の水に舌で飛びかかるような有様だった。ついに彼は、喉《のど》のあるあたりの頸《くび》に接吻し、そこに唇を長いあいだ押しあてていた。大尉の部屋から物音が聞えたので、彼は眼を上げた。
「もう帰ります」と、彼は言い、ビュルストナー嬢の洗礼名を呼ぼうとしたが、知らなかった。彼女は物憂げにうなずき、すでに半分ほど身体をそむけ、彼が手に接吻するままに呆然《ぼうぜん》としてまかせていたが、次に身体をかがめて部屋へ帰っていった。間もなくKはベッドの中に横たわった。すぐ眠りこんでしまったが、眠りにはいる前に、ほんのしばらく自分の振舞いを考え、満足を感じたが、もっと満足していないことが不思議だった。大尉がいるため、彼はビュルストナー嬢のことを真剣に心配したのだった。

第二章 最初の審理

 Kは電話で、次の日曜日に彼の件についてちょっとした審理が行われる、ということを伝えられた。この審理は、おそらく毎日曜日ではないが、次々に再三規則正しく行われるだろう、と彼の注意が喚起された。一方では、審理をすみやかに終えることは誰もの利益ではあるが、他方、審理はあらゆる点で徹底的でなければならず、といってそれと結びついている努力を考えると、けっしてあまり長すぎてもいけない。それゆえ、次々に続くが、それぞれは短い審理をやるという逃げ道を選んだ。審理日を日曜日にきめたのは、Kの職業上の仕事の邪魔をしないためである。貴君も同意されたものと仮定するが、もしほかの日をお望みなら、できるだけそれにそうようにはする。審理はたとえば夜でもよろしいが、夜ではきっと貴君の頭が十分|冴《さ》えていないだろう。ともかく、貴君に異存がないかぎり、日曜日ということにしておく。むろんのこと、かならず出頭してもらわなければならない、この点はきっと念を押す必要もなかろう、ということだった。出頭すべき家の番地が教えられたが、それは、Kがまだ一度も行ったことのない、離れた郊外の通りであった。
 この通知を受取って、Kは返事もせずに、受話器をかけた。彼はすぐさま、日曜日に出かけることにきめた。行くことはどうしても必要で、審理が始まったし、自分のほうもそれに対抗しなければならぬ。この審理でもう最初の最後にしてしまわなければならぬ。彼はまだ考えこんで電話のところに立っていたが、そのとき背後で支店長代理の声がした。電話をかけようとしたのだが、Kが通路をふさいでいたのだった。
「よくない知らせですか?」と、支店長代理は軽く言ったが、別に何かを聞き取ろうというためではなく、Kを電話から退《の》かせるためであった。支店長代理は受話器を取ると、電話が通じるのを待ちながら、受話器越しに言った。
「ちょっと、K君、日曜の朝、私のヨットでのパーティーにいらっしゃってくれませんか? かなりの集りになるはずで、きっと君のお知合いもそのなかにはいるでしょう。特にハステラー検事ね。来てくださいますか? どうかいらっしゃってください!」
 Kは、支店長代理の言うことに注意をはらおうとした。それは彼にとってつまらぬことではなかった。というのは、彼とけっしてよい関係にはなかった支店長代理のこの招待は、相手のほうからの宥和《ゆうわ》策を意味するものであったし、彼が銀行でどんなに重んじられるようになったか、彼の友情、あるいは少なくとも彼の公平さが銀行で二番目に偉い人間にどんなに重んずべきことに思われているか、を示す事実であった。この招待は、ただ電話のつながるのを待つあいだ受話器越しに言われたのではあったが、支店長代理の謙譲にほかならなかった。だがKは、第二の謙譲をもってそれに報いなければならなかったのだ。彼は言った。
「ありがとうございます! でも残念ですが、日曜日は時間がありません、先約がありますので」
「残念です」と、支店長代理は言い、向き直って、ちょうど通じた電話でしゃべりはじめた。
 短かな話ではなかったが、Kはぼんやりしてそのあいだじゅう電話のそばに立ち続けていた。支店長代理が受話器を下ろしたときになって初めて、彼はぎくりとし、必要もないのに立っていたことを少し言い訳するため、言った。
「今電話がかかってきて、どこそこまで来いということだったのですが、時間を言うのを先方が忘れたものですから」
「もう一度かけてきいたらどうですか」と、支店長代理は言った。
「たいしたことじゃないんです」と、Kは言ったが、それによって前の、それだけでもすでに態《てい》をなしていない言い訳をいよいよまずいものにした。支店長代理は、歩きながらなおほかのことをしゃべり、Kは無理に答えようとしたが、平日には裁判はすべて九時に始まるのだから、日曜日は午前九時に行くのがいちばんよろしいだろう、そんなことをおもに考えていた。
 日曜日は陰鬱《いんうつ》な天気だった。Kは前の晩遅くまで常連と飲んだり騒いだりで例の酒場にいたので、ひどく疲れており、ほとんど寝すごすところだった。じっくり考え、この一週間のあいだ考え抜いたさまざまなプランをまとめあげる時間もなく、取急いだまま、着物を着て、朝飯を食べずに、指定された郊外へ急いだ。奇妙なことに、あたりを見まわす余裕などはなかったのに、彼の事件に関係した銀行員のラーベンシュタイナー、クリヒ、カミナーと出会った。この前の二人は、電車に乗って、Kの行く道を横切ったのだが、カミナーはあるカフェのテラスにすわっていて、Kが通り過ぎると、物珍しそうに手すりの上に身体《からだ》を乗り出した。三人とも彼の後ろ姿をじっと見送り、自分らの上役が急いでゆくことをいぶかっていた。Kが車に乗ることをやめたのは、ある種の依怙地《いこじ》さというものだった。この自分の件で他人の助けを借りることは、たといどんな小さなのであってもいやだったし、誰をも求めたくはないし、そうすることによってどんな些細《ささい》な点までをもきれいにしておきたかったのである。しかし結局のところ、あまりに厳格に時間を励行することで審理委員会に対してへりくだろうというつもりは、全然なかった。ともかく彼は、今は、けっして一定の時間を指定されたわけではなかったが、できるだけ九時に到着したいと思って、急ぎ足で行ったのだった。
 建物は、自分でもはっきりと想像してみることはできないがともかくなんらかの特徴で遠くからでもわかるだろうし、あるいは入口の特別な人の動きで離れていても見分けがつくだろう、と考えていた。ところが、彼が行くことになっていたユリウス通りは、Kがそのとっつきのところで一瞬立ち止ってながめると、両側ともほとんどまったく一様な家々、高い、灰色の、貧しい人々の住む貸家ばかりが並んでいた。日曜日の朝なので、たいていの窓には人がいて、腕まくりの男たちがそこによりかかり、煙草をふかしたり、小さな子供を窓ぎわに用心深く、やさしくささえたりしていた。ほかの窓々には寝具がいっぱいつまっていて、その上にときどき女のもじゃもじゃな頭が現われた。人々は互いに街路を隔てて呼び合い、そんな呼び声がちょうどKの頭上で大きな笑い声を引起した。長い通りには一定の間隔をおいて、道路の高さよりも低いところにあって二、三段降りると行き着く、さまざまな日用品を売る店が並んでいた。それらの店へ女たちが出入りをしたり、階段の上に腰かけてしゃべったりしていた。品物を窓に向って差出している果物屋《くだものや》がいたが、その男もKもついうっかりして、それの手押車でKは危うく押し倒されるところだった。ちょうどそのとき、もっと豊かな住居街で使い古した蓄音器が、ひどく鳴りはじめた。
 Kは、ここまで来れば時間は十分ある、予審判事がどこかの窓から自分を見ていて、したがって自分が現われたのを知っている、というような格好で、ゆっくりと街路を奥へと進んでいった。九時少し過ぎであった。建物はかなり遠くにあり、ほとんど尋常でないくらいに間口がのびていて、特に入口は高くて幅が広かった。それは明らかにそれぞれの商品倉庫所属のトラックを通すためであり、それらの倉庫はこの時間ではまだしまっており、大きな中庭を取囲んでいて、さまざまな商会のマークをつけていたが、そのいくつかはKも銀行の業務上知っていた。いつもの習慣とはちがって、こういうような様子をすべて詳しく胸に畳んでおこうと、なおもしばらく中庭の入口のところに立ち止っていた。近くの箱の上に一人の裸足《はだし》の男がすわり、新聞を読んでいた。一台の手押車を二人の子供が揺すっていた。ポンプの前に、寝巻ジャケツ姿の、弱々しそうな若い娘がたたずんで、水がバケツに落ちるあいだ、Kのほうをながめていた。中庭の隅《すみ》では、二つの窓のあいだに一本の綱が張られ、洗濯物がもう干してあった。一人の男がその下に立ち、一言二言声をかけては仕事を指図《さしず》していた。
 審理室に行こうとして、Kは階段のほうに向ったが、またじっと立ち止ってしまった。この階段のほかに中庭にはまだ三つの別な階段の登り口があり、そのうえ中庭の奥の小さな通路は次の中庭へ通じているように見えたからである。部屋の位置をもっとよく教えてくれなかったことに立腹したが、自分を取扱うやりかたが特別怠慢で投げやりであるし、このことは大いに声を大にしてはっきり言ってやろうと腹をきめた。しかし結局は階段を登っていったが、裁判は罪によって引寄せられるのだ、と言った監視人のウィレムの言葉を思い出し、心のなかでその言葉を考えてみたけれども、それなら結局、審理室はKが偶然選ぶ階段の上にあるにちがいない、ということになるはずだった。
 登ってゆきながら、階段で遊んでいるたくさんの子供たちの邪魔をする結果になったが、子供たちは、Kが彼らの列をかきわけてゆくと、悪意のある眼でじっと見るのだった。
「この次またこの階段を登ることになったら」と、彼は心ひそかに思った。「連中を買収する菓子を持ってくるか、連中をなぐるステッキを持ってくるかのどちらかにしなければなるまい」
 もうすぐ二階というとき、ボールが行ききってしまうまで、しばらくたたずんで待ちさえしなければならなかった。大人のルンペンのようないやな顔つきをした二人の小さな子供が、そうやっている彼のズボンにつかまった。それを振切ろうとでもしようものなら、彼らを痛めつけないともかぎらず、また大声をあげられるのではないかと思って、やめにした。
 二階に来て、いよいよほんとうの部屋捜しが始まった。審理委員会はどこですか、ときくわけにもいかないので、指物師《さしものし》のランツという名前を考えだし、――この名前を思いついたのは、グルゥバッハ夫人の甥の大尉がそういう名前だったからだが――ここに指物師のランツという人が住んでいませんか、とどの部屋にもきいてまわり、部屋のなかをのぞきこむことができるようにしようと思った。しかし、それはたいてい造作なくできることがわかった。ほとんどすべての扉が開いていて、子供たちがはいったり、出たりしていたからである。どれもきまって、小さな、窓がひとつしかない部屋で、そこで炊事もするのだった。幾人かの女たちは腕に乳飲児《ちのみご》をかかえ、あいたほうの手でかまど[#「かまど」に傍点]の上で仕事をしていた。年端《としは》のゆかぬ、見たところエプロンだけしかつけていない娘たちが、非常に忙しげにあちこちと走りまわっていた。どの部屋でもベッドがまだふさがっていて、そこには病人やまだ眠っている人々が横になっていたり、あるいは着物のまま身体を伸ばしている人々がいた。扉がしまっている部屋では、Kはノックをして、ここに指物師のランツさんが住んではいませんか、とたずねた。たいてい女が扉《とびら》をあけ、用件を聞くと、部屋の中のベッドから身体を起す誰かに向って言うのだった。
「指物師のランツっていう人がここにいませんかって」
「指物師のランツ?」と、ベッドの人がきく。
「そうです」と、Kは言うが、そこには疑いもなく審理委員会はないのだから、彼の用件はもうすんでいるのだった。多くの人々は、Kが指物師のランツにどうしても会わなければならないのだと思いこんで、長いあいだ考えては、指物師の名を言うが、それがランツというのとほんの少しばかり似ている名前であったり、隣の人にきいてくれたり、あるいはずっと離れた部屋まで連れていってくれたが、彼らの考えでは、そういう人がおそらく又貸しで住んでいるかもしれないし、また自分たちよりも事情に明るい人がいる、というわけであった。ついにはKはもはやほとんど自分でたずねる必要がなくなり、こんなふうにして各階を引っ張りまわされると、初めは非常に実際的に思われていた自分の計画も、残念に思えてきた。六階に登るところで、もう捜すのをやめようと決心し、彼をさらに上へ連れてゆこうとする親切な若い男と別れて、降りていった。ところがすぐ、こういうふうにやってみたことがむだだったことに腹がたち、もう一度引返して、六階のとっつきの扉をノックした。その小さな部屋で彼の見た最初のものは、すでに十時を示している大きな壁時計だった。
「指物師のランツさんはこちらにいらっしゃいましょうか?」と、彼はたずねた。
「どうぞ」と、黒い輝く眼をした一人の若い女が言ったが、彼女はちょうど盥《たらい》で子供の下着を洗濯しており、ぬれた手で隣室の開いた扉を示した。
 Kは、何かの集りにはいったのだ、と思った。おびただしい、色とりどりの服を着た人々が――一人としてはいってきた彼に注意する者はなかった――窓が二つある中くらいの部屋にいっぱいで、部屋は、ほとんど天井の近くで回廊に取巻かれており、その回廊がまた同じように完全に満員で、人々はただ身をかがめてやっと立つことができ、頭と背中とを天井にぶつけていた。空気があまり淀《よど》んでいるように感じたKは、また出てゆき、おそらく彼の言葉を勘違いしたらしい例の女に言った。
「指物師のランツさんと申したのですが?」
「ええ」と、女は言った。「どうぞお通りになってください」
 もし女が彼のそばまで寄ってきて、扉の把手《とって》をとり、「あなたがおはいりになったら、しめなければなりません。もう誰もはいれません」と、言わなかったならば、Kはおそらく女の後《あと》には続かなかったであろう。
「それがいいですよ」と、Kは言った。「しかし、もう超満員ですよ」
 それでも彼はまた中へはいった。
 扉のすぐ近くのところで話していた二人の男のあいだを通り抜けると、――その一人は、大きくひろげた両手で金を勘定する動作をやっており、もう一方の男は彼の眼を鋭くのぞくのだった――ひとつの手がKをつかんだ。それは、小柄な、頬《ほお》の赤い若者だった。
「こちらです、こちらですよ」と、彼は言った。Kは男に引かれるままになって行ったが、ごちゃごちゃで沸きかえっている雑踏のなかにも狭い通路があいており、おそらくその通路で二つのグループに分れているらしい、ということがわかった。このことは、Kには左右の最前列にはほとんど一人として自分のほうに向いている顔が見あたらず、話と身振りとを自分のグループの連中にだけ向ってやっている人々の背中ばかりが見える、ということでもはっきりとした。たいていは黒服を着ており、古びた、長い、だらりと垂《た》れ下がった礼服姿であった。この服装だけが確かにKを戸惑いさせたが、そのほかの点では、彼にはすべてが政治的な地区集会のように見える、と思った。
 Kが連れてゆかれた広間の向うの奥には、やはり人でいっぱいの非常に背の低い演壇の上に、横向きに置かれてひとつの机が立っており、その背後、演壇の端に、一人の小柄な、肥《ふと》った、ふうふう鼻息をついている男がすわっていた。彼はちょうど、彼の背後に立っている一人の男と――このほうは肘《ひじ》を椅子の背につき、脚を組んでいたが――高笑いしながら話していた。何回となく腕を宙に振っているのは、誰かを野次ってまねているらしかった。Kを連れていった男は、報告するのに骨折った。爪立《つまだ》ちながら、すでに二度ほど何かを言おうとしたが、上にいる男には気づかれなかった。演壇の上のほかの連中の一人がその若者のことを注意すると、その男はやっと彼のほうを振向き、身体をかがめてその低声の報告を聞きとった。それから時計を引っ張り出し、ちらりとKのほうを見た。
「一時間と五分前に来なければいけなかったのだ」と、彼は言った。
 Kは何か返答しようと思ったが、その余裕がなかった。男がそう言うやいなや、広間の右側の半分でどっと不平のつぶやきが起ったからである。
「一時間と五分前に来なければならなかったのだ」と、男は声をあげて繰返し、また素早く広間を見下ろした。すぐに不平の声も高まったが、男がそれ以上何も言わなかったので、それもやっと次第に消えていった。今では広間は、Kがはいってきたときよりはずっと静かになっていた。ただ回廊にいる連中だけが、口々に、何かしゃべることをやめなかった。上のほうの薄暗がりと煙と塵《ちり》とのなかで見分けがつくかぎりでは、連中は下の人々よりは服装もわるかった。多くの連中は布団《ふとん》を持ってきて、すりむかないために、それを頭と部屋の天井とのあいだにおいていた。
 Kは、話をするよりも観察してやろう、と腹をきめたので、表向きの遅刻の申し訳をすることをやめて、ただこう言った。
「遅すぎたかはしれませんが、ともかく今は来たわけです」
 喝采《かっさい》の音が、また右側の半分から起った。御しやすい連中だな、とKは思ったが、ただ左側の半分が黙っているのが気になった。左側のほうはちょうど彼の背面になっており、そちらからはただきわめてまばらな拍手の音が起っただけだった。全員を一度に、もしそれができない相談なら、少なくとも暫時左側の連中をも味方にするには、どう言ったらよかろうか、と考えてみた。
「なるほどね」と、男が言った。「しかし、私は今となってはもう君を尋問する義務はないのだ」――また不平のつぶやきが起ったが、今度は誤解らしかった。というのは、男は人々を手で制しておいて続けたからである――「しかし、今日のところは例外として、尋問しようと思う。こんな遅刻は二度と繰返してはいけない。では、前に出たまえ!」
 誰かが演壇からとび降りたので、Kに余地ができ、彼は上へ登った。彼は机にぎゅうぎゅう押しつけられて立っていたが、背後の群衆が非常に大勢なので、予審判事の机とおそらくは判事その人さえも演壇から突き落すまいと思うなら、群衆に抵抗しなければならないほどであった。
 しかし予審判事はそんなことはいっこうおかまいなしで、いかにもゆったりと肘掛椅子にすわり、背後の男に何か終りの言葉を言うと、彼の机の上にある唯一の品物である小さなノートをつかんだ。それは学校ノートのようで、古びて、あんまりめくりすぎたらしく、すっかり形がくずれていた。
「では」と、予審判事は言い、ノートをめくり、確かめる調子でKに向って言った。「室内画家だったね?」
「ちがいます」と、Kは言った。「ある大きな銀行の業務主任です」
 こう答えると、下の右側のグループから笑い声がひとつ起り、それがあまりおかしそうだったので、Kもつりこまれて笑わないではいられなかった。人々は両手を膝《ひざ》の上に突っ張り、ひどい咳《せき》の発作のときのように身体をゆするのだった。回廊の上にいる何人かさえ笑った。すっかり気をわるくした予審判事は、下にいる連中に対しては権限が及ばぬらしく、回廊のほうでその償いをしようとして、とび上がり、回廊の連中をおどしつけるのだったが、これまでほとんど目だたなかった眉毛《まゆげ》が、眼の上で、ふさふさと、黒く、大きく寄り合った。
 ところが、広間の左半分はまだ依然として静かであり、そこでは人々が列をつくって並び、顔を演壇のほうに向け、壇上で交《か》わされる言葉にも、片方のグループの喧騒《けんそう》にも、同じように平静に耳を傾け、自分たちの列からちらほら人が立って別なグループとあちらこちらでいっしょに相談することをさえ、じっと見ている。左側のグループは、だいいち人数が少なかったが、結局のところ右側のグループと同じようにたいしたものでないらしいのだけれども、その態度の平静さがいっそう意味ありげに見えさせるのであった。Kがしゃべりはじめると、確かに自分は左グループの心持でしゃべっているのだ、というような気がした。
「予審判事さん、私が室内画家かというお尋ねは――むしろ、あなたはきかれたのではなくて、頭ごなしに私に言われたのですが――私に対してなされている手続きの全貌《ぜんぼう》の特色を示すものであります。もともと手続きじゃないと異議を申されるかもしれませんが、そのあなたの異議はまったく正しいと言えます。なぜならば、私がそれを認めるときにだけ手続きだと言えるからです。だが、今はしばらくそう認めてもおきましょう。そうするのは、いわば同情からです。およそこんな手続きを重んじようと思うときには、同情をもって以外に対すべき道がありません。私はだらしない手続きだとは申しませんが、この言葉をあなたの自己認識のために申上げたわけです」
 Kは語るのをやめて、広間を見下ろした。彼が言ったことは、鋭かったし、彼の意図以上に鋭くはあったが、しかし正しかった。喝采があちこちで起らなければならぬところだったが、全員黙ったままであり、人々は明らかに緊張して次に来るべきものを待っている面持で、おそらくはその静けさのうちには爆発が用意されているのであって、それは万事にけり[#「けり」に傍点]をつけるにちがいなかった。ちょうど広間の入口の扉が開き、仕事を終えたらしい例の若い洗濯の女がはいってきて、十分気をつかっているらしいのだが幾人かの人々の視線を自分のほうに引きつけているのは、眼ざわりなことだった。ただ予審判事だけがKを直接よろこばせたが、それは、Kの言ったことにすぐさま図星を当てられたらしいように見えたからであった。Kの発言に驚かされたからであるが、判事はそれまで、回廊に向って突っ立ちながら、そのままの姿勢で聞いていた。ところが今は、静かな間が生じたので、気づかれまいとするように、次第に腰をおろした。顔つきを抑えるためだろうが、ふたたび例のノートを取上げた。
「そんなことをしたって何の役にもたちませんよ」と、Kは続けた。「予審判事さん、あなたのそのノートも、私が言うことを裏づけています」
 自分の平静な言葉だけがこの見知らぬ集りのうちに響いていることにすっかり満足して、Kはそのうえ、ノートを無造作に予審判事から引ったくり、きたないものにさわりでもするかのように指先で中ほどの一枚をつまみ上げたので、ぎっしり文字のつまった、しみ[#「しみ」に傍点]だらけの、縁の黄色くなったページが、両側にだらりと下がった。
「これが予審判事の文書です」と、彼は言って、ノートを机の上に落した。
「予審判事さん、どうかごゆっくりと先をお読みください。こんな学校ノートなんか私は少しも恐《こわ》くはありませんよ。もっとも、私は二本の指でやっとつまめるだけで、手には取ろうとは思いませんから、中身は私にさっぱりわかりませんが」
 予審判事は机の上に落ちたノートを取上げ、少し整理してから、またそれを読もうとしたが、このことは、深い屈従のしるし[#「しるし」に傍点]でしかありえず、あるいは少なくともそう考えられるべきことであった。
 最前列の人々の顔は非常に緊張してKに向けられたので、彼はしばらく彼らのほうを見下ろした。いずれもが相当な年配の人々で、幾人かは白髯《はくぜん》であった。おそらく彼らこそ、予審判事の屈従によっても、Kが話しはじめてから保っていたその落着きを失わされなかったこの集り全体に、影響を与えうる鍵《かぎ》を握っている人物なのであろうか?
「私に起ったことは」と、Kは続けたが、今度は前よりもいくらか低目であり、絶えず最前列の顔をうかがっているため、話にいくらか落着かぬ表情を与えた。「私に起ったことは、まったくのところ個人的な事件にすぎず、私はそれをたいして深刻なものとは受取っていませんので、それ自体としてはさして重大ではありませんが、それは、多くの人々に対してなされている手続きのよい例であります。これらの人々のためにこそ私はこうやって立っているのであり、自分一個のためではありません」
 彼は思わず声を高めた。どこかで誰かが両手を高く上げて拍手をし、叫んだ。
「異議なし! そうだぞ。異議なし! もう一度言うぞ、異議なし」
 最前列の連中はあちこちで髯《ひげ》をしごいており、誰もその叫び声のほうに振向く者はなかった。Kもその叫び声を問題にはしていなかったが、それでも元気づけられた。満場の同意の喝采が起ることなどは今はもうまったく必要とは思っておらず、全員がこのことについて反省しはじめ、ただときどき誰かがこの説得に同意してくれれば十分であった。
「私はうまく話すなどということは望みません」と、Kはこうした確信から言った。「また私はとうていそんなことはやれません。予審判事さんのほうがおそらくずっと上手に話されましょう。それがご商売だからです。私が望んでいるのはただ、ある公然たる不正を公にしゃべろうということです。どうか聞いてください。私は約十日ばかり前から逮捕されています。逮捕という事実そのものがばかばかしいのですが、しかしそれは今ここで申上げるべきではありません。私は、朝、寝込みを襲われましたが、おそらくは――これは判事の言われたことからして否定できませんが――私と同様に無実な画家の誰かを逮捕せよ、という命令を受けたらしいのですが、この私が選ばれたのでした。隣室は二人の不作法な監視人に占領されました。たとい私が危険な強盗であったとしても、これ以上の用心はできなかったでしょう。そのうえ、この監視人たちがけしからぬやつらで、つまらぬことを私の耳にしゃべり散らし、賄賂《わいろ》をもらおうとし、いろんな口実をつかって下着や洋服を巻きあげようと思い、私の眼の前で私自身の朝飯を恥知らずにも平らげてから、私に朝飯を取ってきてやるからと称して金を求めました。それだけではありません。私は第三の部屋の監督の前に引出されました。それは、私がたいへん尊敬しているある婦人の部屋ですが、その部屋が、私のためとは言うものの、私には罪もないのに、監視人と監督とがいたためかなり荒されているのを見なければならなかったのです。自分を抑えることは容易ではありませんでした。でもどうやらできましたので、監督にきわめて平静に――もし彼がここにいるなら、そのことを保証してくれるはずです――なぜ私は逮捕されたのか、とたずねました。さてこの監督は、ただいま申しましたご婦人の椅子にこの上なく愚劣な傲慢《ごうまん》さを示しながらふんぞりかえっていたその有様が今も私の眼前に彷彿《ほうふつ》としているくらいですが、この男はなんと答えたでしょうか? 諸君、彼は結局のところ何も返答しませんでしたし、おそらくほんとうはまったく何も知らなかったのでしょうし、彼は私を逮捕して、それで我が事終れりという顔つきでした。この男はそのほかのことさえやりました。例の婦人の部屋に私の銀行の下級行員を連れてきておりましたが、この連中はその婦人の写真や持物に触れたり、ひっかきまわすのに一生懸命でした。これらの行員がいたことはもちろんほかにある目的があったのでして、私の部屋主や女中と同じように、私の逮捕のニュースを広め、私の公の名誉を毀損《きそん》し、特に銀行で私の地位をぐらつかせることになっていたのです。ところがそれはほんの少しでも成功しませんでした。私の部屋主はまったく淳朴《じゅんぼく》な人で――私はここで彼女の名前を尊敬をこめて申上げておきますが、彼女はグルゥバッハ夫人と言うのです――このグルゥバッハ夫人さえも、こんな逮捕は躾《しつけ》の十分でない子供が路地でやるわるさを出ないものだ、ということを見て取るだけの分別を備えておりました。繰返して申しますが、この出来事のすべては私に対してただ不快としばしの腹だちとをいだかせただけですが、またいっそうわるい結果を生ずることもありえたのではないでしょうか?」
 彼がここまで話して言葉を切り、黙りこんでいる予審判事のほうをうかがい見ると、この男がちょうど群衆のなかの誰かと眼で合図をしているのを認めたように思えた。Kは微笑して、言った。
「ちょうど今、この私のそばで予審判事さんは諸君の中の誰かとそっと合図をされたようです。これによって見ると、諸君の中には、この演壇上から指図されている人がいるようです。今の合図が舌を鳴らして野次れというのか、喝采しろというのか、私にはわかりませんが、事が一足先に露見したからには、万事のみこんだうえで、合図の意味など知ろうとは思いません。それは私にはどうでもよいのであって、私は公然と予審判事さんに、こそこそした合図のかわりに、はっきりと口に出して、『今、舌打ちしろ!』とか、次には『今、手をたたけ!』とかいうように命令していただいて結構だ、と申上げます」
 当惑したのか、それともいらいらしてきたのか、予審判事は椅子の上であちこちと身動きした。すでにさっき彼と話していた背後の男は、また彼のほうに身をかがめたが、ただ普通に励ますためなのか、それとも彼に特別な策を授けるためなのか、であろう。下のほうでは人々が、低声でだがさかんにしゃべり合っていた。これまでは対立する意見を持っていたように見受けられた二つのグループがまじり合って、ある者は指でKをさし、ほかの者は予審判事を指さすのだった。室内の霧のような塵《ちり》がひどく耐えがたく、遠くのほうに立っている連中をよくながめることを妨げた。特に回廊の客たちにはこれが邪魔であるにちがいなく、もちろんはばかりながら予審判事の顔色をうかがい、情勢を詳しく知るために、集会のメンバーたちにこっそりたずねないではいられなかった。返答するほうも、口に手をあてて、同じように小声でするのだった。
「もうじき終ります」と、Kは言い、打鈴《だれい》がなかったので、拳《こぶし》で机をたたいた。それに驚いて、予審判事とその黒幕との頭が左右に分れた。
「万事は私とは縁が薄いことですから、私は平静に判断を下しますが、この名目上の裁判に諸君が関心がおありとして、もし私の申すことをお聞きくだされば、大いに有益だと思います。私が申上げることに対して諸君がお互いにお話し合いになることは、後のことにしていただきたいのです。時間がありませんし、私はもうすぐ帰りますから」
 すぐに静かになったが、Kはすでに、そんなにもこの集会をリードしていた。もう初めのころのように叫ぶ者もなく、賛成の拍手をする者もなかったが、すでにKに納得されているか、あるいはもうほとんどそうなっているかのように見受けられた。
「疑いもなく」と、Kはきわめて小声で言った。集まった全員が緊張して耳を傾けていることが彼をよろこばせ、この静けさのうちにひとつのどよめきが生れ、それは最も熱狂的な拍手よりも心をそそったからである。
「疑いもなく、この法廷のあらゆる言動の背後には、したがって私の場合で言えば逮捕と今日の審理との背後には、ひとつの大きな組織があるのです。この組織は、買収のきく監視人や蒙昧《もうまい》な監督、最もうまくいって謙遜《けんそん》な予審判事を使っているばかりでなく、さらに、ともかく上級および最高の裁判官連をかかえ、それとともに、無数の広範な、廷丁《ていてい》、書記、憲兵、その他の雇いたち、それにおそらくは、私はこう言うことをはばかりませんが、首斬《くびき》り人の群れさえも従えております。そして、諸君、この大きな組織の意味はなんでしょうか? それは、無実の人々が逮捕され、彼らに対して無意味な、そしてたいていは私の場合のように得《う》るところのない訴訟手続きが行われる、という点にあるのです。万事がこのように無意味なのですから、役人連の極度の腐敗はどうして避けられましょうか? それはできない相談であり、最高の裁判官も独力ではなしとげることはけっしてできないでしょう。それだからこそ、監視人は逮捕された者たちから着物をはぎ取ろうとしますし、それだからこそ、監督は他人の住居に侵入しますし、それだからこそ、無実の人間が、尋問されるというよりはむしろ、集会の全員の前で侮辱されねばならないのです。監視人たちは、逮捕者たちの所有物が持ってゆかれる倉庫のことばかりしゃべっておりましたが、私は一度これらの倉庫を見たいと思います。その中で、逮捕者たちの苦労して稼《かせ》ぎ取った財産は、泥棒に等しい倉庫役人たちに盗まれるのでなければ、むなしく朽ちてゆくのです」
 Kは広間の隅《すみ》の金切り声に話を中断され、そちらを見ることができるように、眼の上に手をかざした。曇った日の光が塵煙《じんえん》を白っぽくし、眼をちかちかさせるからであった。それは洗濯していた例の女だが、現われたときすぐにKには、これこそまったくの邪魔物だ、という気がしたのだった。今しがた音をたてた罪があるのはこの女か、この女ではないかは、わからなかった。Kはただ、一人の男がこの女を扉のところの隅へ引っ張ってゆき、そこで抱きしめているのを、見た。しかし、金切り声をたてたのは女ではなく、男のほうであり、口を大きくあけて天井をながめていた。二人のまわりには小さな人の輪ができ、その近くの回廊の客たちも、Kによってこの集会に持ちこまれた真剣味がこうして中断されたことに、歓喜している様子だった。Kは最初の感じですぐに駆け寄ろうとし、また、そこの秩序を取戻し、少なくともその二人を広間から追い出すことがすべての人々の関心事にちがいない、と思ったのだったが、彼の前の最前列は頑《がん》としたままで、誰一人身動きもせず、誰もKを通らせなかった。むしろ彼を妨害する始末で、老人たちは腕を前に出し、誰かの手が――彼は振向く暇もなかった――背後から襟首《えりくび》をつかんだ。Kはもうまったく例の二人のことは考えず、自分の自由が拘束されたのだ、人々は逮捕をまじめになってやっているのだ、という気持になり、前後を忘れて演壇からとび降りた。こうして彼は、群衆とぴたりと向い合った。人々のことを正しく判断しなかったのではないか? 自分の話の効果を過信したのではないか? 自分がしゃべっているあいだは人々は取繕っていたのであるが、結論に達した今となっては、その仮装に飽いてしまったのだろうか? 彼を取囲んでいるのは、なんという顔どもなのだろう! 小さな黒い眼があちこちと視線を配り、頬《ほお》は酔いどれたちのようにだらりと垂れ、長い髯は剛《こわ》くてまばらで、それに手を突っこむと、髯に手を突っこんだのではなく、ただ爪で引っかかれるような感じだった。ところが髯の下には――そしてこれがほんとうの発見だったが――さまざまな大きさと色をした徽章《きしょう》が上着の襟《えり》についていた。見られるかぎり、すべての人々がこの徽章をつけていた。見せかけの左右両グループはみんな同類だったのだ。そして彼が突然振向くと、両手を膝に置いて静かに見下ろしている予審判事の襟元にも、その同じ徽章を見た。
「ああ」と、彼は叫び、両手を高く上げたが、突然いっさいが氷解したという思いがそうさせたのだった。
「君たちは実はみな役人なんだな、君たちはまったく、私が攻撃したあの腐敗した徒党なんだ。聴衆と探偵とになってここにつめかけ、見せかけだけのグループに分れて、私をためすために一方が喝采したのだ。罪のない人間をどうやって引っ張りこむかを研究しようとしたのだ! さて、おそらく諸君はここに来てむだではなかった。ある男が無実の罪の弁護を君たちに期待した、ということを大いに慰みにしたか、あるいは――寄ってくるな、さもないとなぐるぞ」と、Kは特に自分のほうへにじり寄ってきた、震えている一人の老人に言った――「あるいはほんとうに何かを勉強したはずだ。そこで君たちの商売に対してお祝いを言ってやろう」
 机の端にあった自分の帽子を素早くつかんで、ともかく完全な驚きで等しく黙りこくってしまった静寂の中を、出口へと殺到していった。ところが予審判事のほうがKよりも早かったらしく、扉のところで待ち受けていた。
「ちょっと待ちたまえ」と、彼は言った。
 Kは立ち止ったが、予審判事のほうは見ないで、彼がすでに把手に手をかけていた扉を見ていた。
「断わっておくが」と、予審判事は言った。「君は今日――君にはまだよくわかっていないらしいが――尋問というものが逮捕された者にいつでも与える利益を、放棄してしまったのだ」
 Kは扉に向って笑った。
「ルンペンどもめ」と、彼は叫んだ。「尋問なんかいっさい返上するよ」
 そして扉をあけ、階段を駆け降りた。背後では、またにぎやかになって集りの騒音が沸き上がったが、この出来事をおそらく研究者の態度で討議しはじめたのだった。


第三章 人けのない法廷で・
    学生・裁判所事務局

 Kは次の週のあいだ、改めて和解してくるのを毎日待っていた。尋問を拒絶すると言ったことを言葉どおりに取られたとは、信じられなかった。ところが期待した和解の申し出が、実際、土曜日まで来なかったので、何も言ってはこないが暗黙のうちにあの同じ家に同じ時間に来いというのだろう、と考えた。それで日曜日にまた出かけていったが、今度はまっすぐ階段と廊下とを通り抜けた。彼のことを覚えていた何人かの人々は戸口で彼に挨拶《あいさつ》したが、もう誰にもきく必要はなく、間もなく目ざす扉《とびら》に来た。ノックの音で扉が開かれ、扉のところに立ち止っている例の顔見知りの女にはもう眼もくれずに、そのまま隣室にはいろうとした。
「今日は法廷は開かれません」と、女が言った。
「なぜ開かれないんです?」と、彼は言い、信じようとはしなかった。ところが、女が隣室の扉をあけたので、彼も納得がいった。部屋はほんとうにからっぽで、からっぽなだけにこの前の日曜日よりもいっそうけちくさく見えた。相変らず演壇の上に立っている机には、二、三冊の書物がのっていた。
「あの本を見てもいいですか?」と、Kはたずねたが、特に興味があってのことではなく、この部屋にやってきてまったくむなしい結果に終りたくないためだった。
「いけません」と、女は言って、また扉をしめた。「それは許されていません。あれは予審判事さんの本です」
「ああ、そうですか」と、Kは言い、うなずいた。「きっと法律書だが、罪がないだけでなく何も知らぬうちに判決を下されてしまうというのが、この裁判所のやりかたなんだ」
「そうかもしれませんわ」と女は言ったが、彼の言うことがよくはわかっていないらしかった。
「それじゃあ、もう行こう」と、Kは言った。
「何か予審判事さんにお伝えすることがありますか?」と、女が言った。
「あの人をご存じですか?」と、Kはたずねた。
「もちろんですとも」と、女は言った。「主人が廷丁ですから」
 そう言われてはじめてKは、この前来たときは洗濯桶《せんたくおけ》だけがあったこの部屋が、今ではすっかり整った居間になっていることに、気づいた。女は彼が驚くのを認めて、言った。
「この部屋をただで借りているんですけれど、開廷日には部屋をあけなければなりません。主人の身分ではいろいろと不便もありますわ」
「部屋のことではたいして驚いてもいませんが」と、Kは言い、渋い顔で女を見つめた。「むしろご主人がおありだというのに驚いているんです」
「私があなたのお話を邪魔してしまったこのあいだの裁判のことをあてこすっていらっしゃるんですか?」と、女がきいた。
「もちろんですよ」と、Kは言った。「今日ではもう過ぎたことだし、ほとんど忘れてしまったが、あのときはほんとうに腹がたちました。それがどうです、ご主人があると自分で言われるんですからね」
「お話が折られたことは、あなたのためにわるいことではなかったのよ。みなさんはあとで、あなたについてずいぶんわるい判断を下していました」
「そうでしょうが」と、Kは話をそらしながら言った。「でもそれでは言い訳にはなりませんよ」
「私を知っていてくれる人なら、誰でも私を許してくれますわ」と、女は言った。「あのとき私に抱きついた人は、ずっと前から私を追っかけていたんです。私、普通は男の人をひきつけなんかしないんでしょうが、あの人にはそうなんです。このことは隠れもないことで、主人ももうのみこんでいるんですわ。でも主人は地位を維持しようと思うなら、我慢しなきゃならないんです。あの人は学生さんで、これから偉くなるんですもの。あの人はいつも私をつけまわして、あなたがいらっしゃるほんの少し前に帰っていったところですわ」
「ほかの連中もみんなそんなものですよ」と、Kは言った。「別に驚きませんよ」
「あなたはきっと、ここで何かを改善しようと思っているのね?」と、女はゆっくりと、探るように言ったが、自分にもKにも危ないことを何か言っているような様子だった。
「それはあなたのお話からわかっていましたわ。お話は私にはたいへん気に入りましたの。もちろんほんの一部分だけを伺ったのですけれど。初めのところは聞けませんでしたし、終りのところではあの学生といっしょに床の上にころがっていましたから。――ここはまったくいやですわ」と、しばらく間《ま》をおいて女は言い、Kの手を握った。「改善することができるとあなたは思っていらっしゃるの?」
 Kは微笑し、手を女の柔らかな両手の中で少し動かした。
「もともと」と、彼は言った。「あなたの言うようにここを改善するなんていうことは、僕にできる立場じゃないし、たとえばあなたがそんなことを予審判事に言おうものなら、きっと笑われるか、罰せられるかしますよ。事実僕は、自ら好んでこんなことに首を突っこむはずじゃなかったし、ここの裁判組織を改善する必要があっても、何も僕の眠りを妨げられるはずはないのです。ところが、僕が表向き逮捕されたということによって、――つまり僕は逮捕されたのです――ここに首を突っこまざるをえなくなったのですが、それも僕自身のためにですよ。それでもあなたに何かのお役にたつならば、もちろん大いによろこんでやりはします。ただ隣人愛からといったようなことじゃなくて、あなたのほうも僕を助けてくださることができるということがあるためです」
「いったいどうすればお助けできますの?」と、女がきいた。
「たとえばあの机の上の本を見せてくれればですよ」
「お安いご用ですわ」と、女は叫び、彼を急いで引っ張っていった。どれも古びた、すり切れた本で、厚表紙は真ん中でほとんどちぎれ、ただ紐《ひも》だけでやっとくっついていた。
「ここのものはなんでもなんてよごれているんだろう」と、Kは頭を振りながら言い、女は、Kが本を手にする前に、エプロンで少なくとも表面だけは塵《ちり》をぬぐいさった。
 Kはいちばん上の本を開いたが、いかがわしい絵が出てきた。一組の男女が裸でソファにすわっており、画家の卑俗な意図がはっきりうかがえたが、そのまずさ加減があまりにひどいので、結局は男と女とだけしか眼にははいらず、それがあまりに立体的に絵から浮び出て、ひどく固くなってすわっており、遠近法が間違っているため、やっとこさ互いに向い合っていることがわかる始末だった。Kはそれ以上めくるのをやめ、ただ二冊目の本の扉をあけると、『グレーテが夫のハンスよりこうむらねばならなかった苦しみ』という題名の小説だった。
「これが、ここで研究されている法律書か」と、Kは言った。「こんな人間たちに裁《さば》かれるなんて」
「あなたの援助をしますわ」と、女は言った。「よくって?」
「ほんとうにできるんですか、あなた自身、危なくならないで? あなたのご主人はなんでも上役の言うとおりだ、とさっきあなたはおっしゃったが」
「それでも私はあなたをお助けしますわ」と、女は言った。「こちらにいらっしゃい。私たちは相談しなければなりません。私の危険のことなんかもうおっしゃらないで。危険なんて、自分で恐《こわ》がろうとするときにだけ恐いんですわ。さあ、こちらにいらっしゃい」
 女は演壇を指さし、彼女といっしょに階段に腰かけるようにすすめた。
「きれいな黒い眼をしているのね」と、二人がすわると、女は言って、下からKの顔を見上げた。
「私もきれいな眼をしているって言われますわ。でもあなたのほうがずっときれいよ。あなたが初めてここにはいっていらっしゃったときすぐに、気がつきました。それだからこそまた、後《あと》からこの集会部屋にはいってきたんだわ。いつもはそんなことはしないし、いわば禁じられてもいるんですけれど」
 ははあ、こういうわけなんだな、とKは思った、彼女は身体《からだ》をおれに差出している、この女もここのまわりにあるあらゆるものと同様堕落しているんだ、まったく当然のことだが裁判所の役人には飽きてしまい、それだものだから気に入る他人に、眼がきれいだ、などとお世辞を言うのだ。Kは黙って立ち上がったが、自分の思っていることをはっきりと言ってやり、それによって女に自分の態度を明らかにしてやろう、という気構えだった。
「あなたが僕を助けられるとは思いませんね」と、彼は言った。「僕をほんとうに助けてくれるためには、偉い役人たちとの関係が必要だ。ところがあなたはただ、ここで大勢うようよしている下《した》っ端《ぱ》の連中だけを知っているんだ。こんな連中のことはきっとよくご存じだろうし、連中に頼んでまたさまざまなことをやってもらえましょう。それは、僕も疑いませんが、あの連中に頼んでやってもらうことなんかはどんなに大きくたって、訴訟の最後の結末にはまったくたいしたことではないでしょう。ところがあなたは、そのために二、三人の友達を取逃がすかもしれない。そうなることを僕は望みませんね。まああなたは、連中に対するこれまでの関係をお続けになることですね。つまり、それはあなたには欠かせぬことだ、と僕には思われるんですよ。こんなことを言うのは残念でないこともないのです。あなたのお世辞に何かお返しするとして、あなたも僕に気に入ったんですからね。特に、あなたが今のようにそうやって、別に理由もないのに僕のことを悲しそうに見つめているときにはね。あなたは、僕が戦わなければならない仲間の人だ。ところがあなたはそれにすっかり安住して、学生なんかを愛している。愛してはいないとしても、少なくともご主人よりは好きなのだ。そのことはあなたの話からすぐわかりますよ」
「いいえ」と、女は叫び、すわったままでKの手をとらえようとしたが、彼はその手を十分素早く引っこめることができなかった。
「今すぐ行かないで。私に間違った判断を下しておいて行ってはいけません! ほんとうにもうお帰りになるつもり? ほんの少しここにいてくださるご親切をお持ちになれないくらい私ってつまらぬ女ですの?」
「あなたは誤解しているんですよ」と、Kは言って腰をおろした。「僕がここにいることがほんとうにあなたに望ましいのなら、よろこんでいますよ。暇はあるんだが、今日は審理が行われると思って来たのでした。これまで言ったことで僕は、僕の訴訟について何も僕のためにやっていただきたくはない、ということをお願いしたのです。けれども、訴訟の結果なんか僕にはどうでもよいのだし、有罪の判決だってただ笑ってやるつもりでいるのだ、ということをあなたがお考えになるなら、援助をお断わりしたこともあなたの気をわるくすることはないはずです。これも、およそ裁判がほんとうに終るものと仮定してのことで、どうなるものかはなはだあやしいと思います。むしろ僕は、役人たちが怠慢なためか、忘れっぽいためか、あるいは怖気《おじけ》を振ったためかで、手続きはもう中止になったか、次のときには中止になるかするものと考えます。もちろんまた、何か相当な賄賂《わいろ》でも期待して訴訟を見かけだけ続行するということも、ありうることはありうるが、今から言っておきますが、まったくむだですね。僕は誰にも賄賂なんかやらないんだから。あなたが予審判事か、あるいは重要なニュースを好んで言いふらして歩く誰かかに、僕という人間には、どんなことがあっても、またあの連中がいろいろ知っているどんな術策によっても、賄賂なんか出させることはできないだろう、と言ってくださるならば、ともかくそれは、あなたが僕にやってくだされるご好意というものです。それはまったく見込みがないだろうということを、あなたはあの連中にはっきり言ってくだすって結構です。そうでなくとも連中もおそらく自分ですでにこのことに気づいているでしょうし、気づいてはいなくても、今すぐ知ってもらう必要なんかたいして僕にはないのです。そりゃあ知っていてもらえば、あの連中はむだな仕事をしないですむし、もちろん僕も不愉快な思いをいくらかしないですみますが、それだって、もしそれが同時に他の連中に打撃を与えるとわかったなら、よろこんで引受けますよ。そして、そうなることを、わざとやってみようと思うくらいです。ほんとうに予審判事をご存じなんですか?」
「もちろんですとも」と、女は言った。「あなたをお助けしようと言ったとき、まず第一にあの人のことを考えさえしたのですもの。あの人がただの身分の低い役人かどうかは知りませんでしたが、あなたがそうおっしゃるんですから、おそらくそうなのでしょう。それでも、あの人が上へ提出する報告はいつもいくらか有力なものだ、と信じています。そしてずいぶん報告を書きますわ。役人たちは怠け者だ、とあなたはおっしゃいましたが、きっとみんなそうではないし、あの予審判事さんは特にそんなことありませんわ。あの人はたくさん書きますのよ。たとえばこの前の日曜日には、裁判が夕方ごろまで続きました。みなさんが帰ってしまっても、予審判事さんは広間に残って、私はランプを持ってゆかねばなりませんでしたわ。家には小さな台所ランプしかなかったのですが、それで満足してすぐ書き物を始めました。そうしているうち、あの日曜日にちょうど休暇を取っていた主人も帰ってき、二人で家具を運びこみ、部屋を整え直しましたが、次にまた隣の人たちが来て、蝋燭《ろうそく》一本で話をしました。で結局、予審判事さんのことは忘れて、寝てしまいましたの。突然夜中に、もう夜ふけだったにちがいないんですが、私が眼をさますと、ベッドのそばに予審判事さんが立っていて、主人に光がこぼれぬように、ランプを手でさえぎっていました。それは要《い》らぬ心配でしたわ、主人はいつも、光がさしても起されぬくらい眠りこけているんですから。私はとても驚いたものですから、ほとんど声をあげようとしましたが、予審判事さんはたいへんやさしくて、私に気をつけるように戒め、今まで書き物をしていました、今あなたのところのランプをお返しに来たのです、あなたが寝ているところを見た有様はけっして忘れないでしょう、とささやきましたの。こんなことをお知らせしたのも、ただあなたに、予審判事さんはほんとうにたくさんの報告を書きますし、特にあなたについては書いているってことを言いたかったんですわ。なぜって、あなたの尋問が確かにあの日曜日の裁判のおもな仕事のひとつでしたもの。ところでこんな長い報告書がまったく意味のないものであるはずがありませんわ。でもそのほかに、この出来事からあなたは、予審判事さんが私に想いをかけていること、あの人はおよそ今初めて私のことを気にしだしたにちがいありませんが、この今という最初のときにこそ、私はあの人に大きな力を及ぼすことができるのだということ、をおわかりになれますわね。あの人がたいへん私のことを気にかけているということには、今ではほかの証拠もありますの。あの人は昨日《きのう》私に、あの人がたいへん信頼して協力者にしている例の学生を通じて、絹の靴下を贈り物にしてくれました。私が法廷を掃除してくれるという名目なんですけれど、それはただ口実にすぎませんわ。だってこの仕事は私の義務にすぎませんし、そのために主人は俸給をもらっているのですもの。きれいな靴下ですわ、ごらんなさい」――彼女は脚を伸ばして、スカートを膝《ひざ》まで引っ張り上げ、自分でも靴下をじっと見ていた、――「きれいな靴下ですわ、でもほんとうにあまりりっぱすぎて私には向かないわ」
 突然女は話を折って、Kを落着かせようとでもするように、彼の手の上に自分の手を置き、ささやいた。
「静かに、ベルトルトが私たちのほうを見ていますわ」
 Kはゆっくりと眼を上げた。法廷の扉のところに一人の若い男が立っていたが、小柄で、脚が少し曲っており、短く、薄い、赤みがかった髯《ひげ》で威厳をつけようとしているのだが、その髯の中に指を突っこんで絶えずひねくりまわしていた。Kは物珍しげにその男をながめたが、これは実に、彼がいわば実物でお目にかかった最初の、法律学という得体の知れぬものを学んでいる学生であり、おそらくはいつか高い官職につくだろうと思われる男だった。ところが学生のほうは、見たところまったくKなどは問題にしていないようであり、一瞬髯から抜いた指で女に合図だけしておいて、窓のところへ行ったが、女はKのほうに身体を曲げて、言った。
「気をわるくしないでちょうだい。いいえ、むしろ、私のことをわるい女だとは思わないようにお願いしますわ。あの人のところに行かなければなりませんの。いやな男ですわ、ちょっとあの曲った脚を見てちょうだい。でもすぐ戻ってくるわ、そしたら、もしあなたが連れていってくださるなら、あなたと行くわね、どこへでもあなたのお望みのところへ行きますわ、私を好きなようにしてちょうだい、私はここからできるだけ長く離れられたら、幸福でしょうし、もちろん、永久に離れられるのなら、いちばんいいわ」
 女はなおもKの手をさすっていたが、とび上がって、窓べに駆けていった。思わず知らずKは女の手を求めて空《くう》をつかんだ。女はほんとうに彼の心をそそった。自分がなぜ女の誘惑にまいってはいけないのかいろいろ考えてみたけれども、はっきりとした理由は見あたらなかった。女は裁判所のためにおれのことをとらえているのだ、という浅薄な理由を、彼は苦もなく払いのけた。どうして女はおれをとらえることなどできようか? おれはまだ依然として、少なくとも自分に関するかぎりは、裁判所のいっさいをぶちこわしてしまえるだけ自由ではないか? それに、援助しようという彼女の申し出も、誠実な響きがあったし、おそらくは価値のないものではなかった。そしておそらく、この女をやつらから奪い取って自分のものにしてしまうことよりもよい、予審判事とその一味とに対する復讐《ふくしゅう》はなかった。そうなれば、予審判事がKに関する嘘《うそ》っぱちの報告を苦心|惨憺《さんたん》してでっちあげた末、深夜に来てみると女のベッドが空《から》であるというような場面も、いつか起りうるわけである。そして女のベッドが空なのは、女がおれのものであり、窓ぎわのあの女、粗《あら》くて重い布地の黒ずんだ着物を着た、あの豊満でしなやかで温《あたた》かい肉体が、まったくただおれのものであるからなのだ。
 こうやって女に対するさまざまな思いに打勝ってから、窓ぎわでの低声の会話が彼には長すぎるように思われ、演壇を指の関節で、次には拳《こぶし》でさえたたいた。学生はちょっと女の肩越しにKのほうを見たが、いっこうおかまいなしで、女にぐいと身体を押しつけさえして、女を抱いた。女は、彼の言うことを熱心に聞いているかのように深く頭を垂《た》れ、学生は、女がかがむと、話のほうは中断もせずに首筋へ音をたてながら接吻《せっぷん》した。Kはこのような有様をながめて、女が訴えたところによると学生が女に及ぼしているという横暴ぶりが裏づけられているのを見てとり、立ち上がって、部屋をあちこちと歩いた。学生の様子を盗み見しながら、どうやったらいちばん早く追い払うことができるかを考えていたが、それだけに、すでにときどきどしんどしんと大きな音をたてていた彼のぶらぶら歩きに明らかに邪魔された学生が、次のように言ったとき、Kにはまんざら歓迎すべきことでないわけでもなかった。
「我慢ができなかったら、帰ったらいいだろう。ずっと前に帰っていたってよかったんだ、君がいなくたって誰も気にはかけないからね。いや、それどころか帰らなきゃいけなかったんだ、つまり僕がはいってきたときにさ、そしてできるだけ早くね」
 こう言ううちにはすべての怒りが爆発しているのだったろうが、同時にその言葉のうちには、気に入らない被告に話しかける未来の法官の傲慢《ごうまん》さが含まれていた。Kは学生のすぐ近くに立ったままで、薄笑いを浮べながら言った。
「我慢ができないというのはほんとうだが、このいらいらした気持は、君がわれわれを置いて帰ってくだされば、いちばん簡単に片づくんだ。だがもし君が法律の研究のためにここへ来ているとでもいうのなら――君が学生だっていうことは聞いたよ――よろこんで場所を明け渡し、その女の人と出てゆこう。ともかく君は、裁判官になる前にはもっともっと勉強しなくちゃなるまいからね。君の研究している司法制度のことはまだよくは知らないが、確かにもう臆面《おくめん》もなくりっぱにやってのけることを心得ていなさるような乱暴な演説とは、関係がないものと考えていますよ」
「こんな男を自由にうろつかせておくべきじゃなかったんだ」と、Kの侮辱的な言葉に対する釈明を女に対してやりたいらしく、学生は言った。「それは手落ちだった。予審判事には言ったんだが、尋問中は少なくとも部屋にとどめておくべきだった。予審判事はときどき合点《がてん》のゆかぬことをやるからな」
「くだらぬおしゃべりですよ」と、Kは言い、手を女のほうに伸ばした。「こっちへいらっしゃい」
「おいでなすったね」と、学生が言った。「いや、いや、この人は君には渡さないよ」
 そして、思いがけない力で女を片腕で抱き上げ、女をいとしそうにながめながら、背中を曲げて扉のほうに走っていった。そのあいだもKに対する恐れは見逃《みのが》すことができなかったが、それにもかかわらず、あいた手で女をさすったり押えたりして、さらにKの気持を高ぶらせようとするのだった。Kは、つかみかかろう、事の次第では首を絞めてやろうという気構えで、学生と並んで二、三歩走ったが、女は言った。
「むだだからおよしなさいな。予審判事が私を呼びによこしたの。私、あなたといっしょに行けないわ。このちっぽけないやらしい人が」と、言いながら、手で学生の顔をなでまわしながら、「このちっぽけないやらしい人が私を放さないのよ」
「で君は、放されたくないんだろう!」と、Kは叫び、片手を学生の肩にかけたが、学生は歯でぱくりと食いつこうとした。
「いけないわ!」と、女はわめき、Kの両手を払いのけた。「いけない、いけないわ、そんなことしないで、なんということなさるの! そんなことしたら私の身の破滅よ。放してあげて、ねえ、放してあげて。この人はほんとうにただ予審判事さんの命令どおりやっているんで、私を判事さんのところへ連れてゆくのよ」
「それじゃあ行ってもいいよ、そして君にはもう二度と会いたくないね」と、Kは幻滅を感じさせられ憤激しながら言い、学生の背中に一撃を与えたので、学生はすこしよろめいたが、すぐに倒れてしまわなかったことをよろこんで、女をかかえていっそう高くとびはねた。Kはゆっくり彼らの後《あと》からついていったが、これがこの連中からこうむった最初の文句なしの敗北だ、ということを見て取ったのだった。それだからといって、恐れる理由はもちろんなかった。戦うことを求めたればこそ敗北も喫したのだ。家にとどまっていて、あたりまえの生活をやっていれば、こんな連中の誰にでも優越し、一|蹴《け》りで自分の進路から放り出してしまえるのだ。そこで彼はきわめてばかげた光景を思い浮べてみるのだが、それはたとえば、この憐《あわ》れむべき学生、この空《から》威張りの坊や、脚の曲った髯の男が、エルザのベッドの前にひざまずき、手を合わせて許しを乞《こ》うている情景だった。この想像はKの気に入ったので、そうする機会がもしありさえしたら、学生を一度エルザのところへ連れていってやろう、と決心した。
 好奇心からKはさらに扉のところまで急いで行った。女がどこへ連れてゆかれるかを見ようとしたのだったが、学生がまさかたとえば女を腕にかかえて街路を行くはずはなかろう、と思った。道は思ったよりはるかに近いということがわかった。この居間のすぐ真向いに、狭い木造りの階段がおそらく屋根裏まで通じているらしく、それは曲っているので、終りまでは見えなかった。この階段を登って学生は女を運んでいったが、これまで走ったために弱ってしまい、すでにきわめてゆっくりと、あえぎながら登っていた。女は手で下のKに合図をし、肩を上げ下げして、自分はこの誘拐《ゆうかい》に何も罪がないのだ、ということを示そうとするのだが、この身振りにはたいして残念そうな気持も含まれてはいなかった。Kは女を、赤の他人のように無表情にながめていたが、自分が幻滅を感じたことも、幻滅をたやすく克服できるということをも、表面に出したくはなかったのだった。
 二人はすでに消えたが、Kはまだ戸口に立ち続けていた。女が自分を裏切ったばかりでなく、予審判事のところへ連れてゆかれるなどと言いたてて、自分をだましてもいるのだ、ということを認めざるをえなかった。予審判事が屋根裏にすわって待っている、などということはありえようはずがないではないか。木の階段をいつまでながめていても、何もわかりはしなかった。そのときKは登り口に小さな札を見つけたので、近寄ってゆくと、子供じみた、下手《へた》な文字で、「裁判所事務局昇降口」と書いてあった。それではこのアパートの屋根裏に裁判所事務局があったのか? それは多くの尊敬をかちうる施設とはいえないが、それ自体初めから最も貧しい人々に属するこのアパートの住人たちがその不用ながらくた[#「がらくた」に傍点]を投げこむような場所に事務局を持っているとするなら、この裁判所もさだめし金が思うようにはならないのだろう、と考えてみることは、被告にとっては気の軽くなることであった。もちろん、金はたっぷりあるのだが、裁判上の目的に使う前に役人連が着服してしまうのだ、ということもありえぬことではなかった。それはこれまでのKの経験に徴しても非常にありそうなことでさえあって、そうだとすれば裁判所のこうした堕落は被告にとっては品位を傷つけられることではあったが、結局のところは、裁判所が貧乏である場合よりも気楽ではあった。そこでまた、最初の尋問のときに被告を屋根裏に召喚することを恥じ、被告の住居を襲って悩ますことのほうを選んだのだ、ということはKにも理解できた。Kは裁判官に対してなんという位置にいることだろう! 裁判官は屋根裏にすわっているが、K自身は銀行で控えの間付きの大きな部屋を持ち、大きな窓ガラスを通して往来のはげしい町の広場を見下ろすことができるのだ。もちろん彼には、賄賂や横領による副収入はなく、小使に女を抱かせて事務室まで運ばせることはできなかった。しかしKは、少なくとも現在の生活にあっては、そんなことはよろこんであきらめきりたい気持だった。
 Kがまだ貼札《はりふだ》の前に立っていると、一人の男が階段を登ってきて、開いた扉から居間をのぞきこんだが、そこからは法廷も見えるのだった。男は最後にKに、少し前にここで女を見かけなかったか、とたずねた。
「君は廷丁さんですね、そうでしょう?」と、Kはたずねた。
「そうです」と、男は言った。「ああそう、あなたは被告のKさんですね、やっと気がつきました、ようこそおいでで」
 そして男はKに手を差出したが、Kはまったく予期しなかったことで驚いた。
「でも今日は法廷はお休みなんです」と、Kが黙っているのに、廷丁は言った。
「わかっています」と、Kは言い、廷丁の私服をながめたが、役目の唯一のしるしとして、普通のボタン二、三個のほかに、将校の古外套《ふるがいとう》から取ったらしい二個の金ボタンを見せていた。
「ほんの少し前に君の細君と話していたんだが、もういませんよ。学生が予審判事のところへ連れていったんです」
「ごらんのように」と、廷丁は言った。「家内はいつでも連れてゆかれます。今日は日曜日なんで、私は仕事をしなくてもいいんですが、私をここから追い払うために、どう見たって不用な用事で外にやられました。しかもあまり遠くまでやられたわけじゃないんで、大急ぎで行きさえすれば、まだ遅れないでもどれる見込みがあったんです。だからできるだけ速く走って、使いに出されたお役人に、伝言を扉の隙間《すきま》から相手には何を言っているのかわからぬくらい息もつかずにどなって、また走ってもどってきたんですが、学生のほうが私よりもっと急いでやってきたっていうわけです。もちろんあいつは道がずっと近くて、ただ屋根裏の階段を降りてきさえすればいいんですからねえ。私がもっと自由でさえあったら、あの学生のやつをここの壁のところへ押えつけ、ぶっつぶしてやりますよ。ここの貼札のところへね。しょっちゅうそのことを夢で見るんです。ここんところへ、少し床から持ち上げられてしっかと押えつけられ、腕を伸ばし、指をひろげ、曲った脚を丸くひねって、まわりには血しぶきがいっぱい。でもこれまでそれはただの夢なんです」
「ほかのやりかたがありませんか?」と、Kは微笑しながらきいた。
「どうもありませんや」と、廷丁は言った。「今ではもっといやなことになってきているんです。これまではただあいつが家内を自分のところへ引っ張っていっただけですが、今ではもう、どうせそうなるものとずっと前から思ってはいたんですが、予審判事のところへまで連れてゆくんです」
「ところで君の細君のほうには罪はないのかね?」と、Kは言ったが、こうたずねないではいられなくなったのであり、それほど彼も嫉妬《しっと》を覚えていたのであった。
「どういたしまして」と、廷丁は言った。「あれにいちばん罪があるくらいでさあ。家内はあいつに惚《ほ》れてるんです。あの男と言えば、女と見れば誰でも追いかけます。この家でだけでももう、あいつが忍びこんだ五軒からおっぽり出されたんです。家内はもちろんこの家じゅうでいちばんの別嬪《べっぴん》というわけですから、まさに私はどう防ぎようもないんです」
「そういうこととなると、もちろんどうしようもないね」と、Kは言った。
「どうしてどうしようもないんです?」と、廷丁はきいた。「あの学生は臆病者なんですから、家内にさわろうとしたら、一度、もう二度とはそんなことをやろうとはしなくなるようにぶちのめしてやらなきゃなりません。でも私にはできないことですし。ほかの人も私のためにやってはくれません、誰でもあの男の権勢を恐れているんでね。ただあなたのような人だけができるんですよ」
「いったいどうして僕が?」と、Kは驚いて言った。
「でもあなたは告訴されていましたね」と、廷丁は言った。
「そうなんだ」と、Kは言った。「それに、あの男はおそらく訴訟の結末を左右する力は持たないとしても、予審にはそいつができそうなだけに、心配しなくちゃいけないんです」
「そうですねえ」と、Kの意見はまったく自分自身のと同じように正しいものといわんばかりに、廷丁は言った。「でもここでは原則として、見込みのない訴訟はやられないことになっているんですが」
「僕の意見はあなたのとはちがいますね」と、Kは言った。「でもそれは別として、時にあの学生のやつを料理してやる必要はあると思いますね」
「あなたには大いに感謝しますよ」と、廷丁はいくらか儀礼的に言ったが、ほんとうは彼の最高の望みが実現できないものと信じこんでいるらしかった。
「おそらくまた」と、Kは言葉を続けた。「君の上役のほかの連中も、一人残らず同じように料理してやるに値しますね」
「そうですとも」と、何か自明のことだというかのように廷丁は言った。それから、これまでは非常に親しげにしてはいたが見せなかった、信じきったような眼差《まなざし》をして、Kを見て、言葉を付け加えた。
「あいつらはしょっちゅう陰謀をやっているんです」
 しかし、こういう話が彼には少し不快になったらしかった。話を折って、こう言ったからである。
「さて事務局に行かなくちゃなりません。いっしょにいらっしゃいませんか?」
「何も用事はないんだけれどね」と、Kは言った。
「事務局をごらんになれますよ。誰もあなたのことを気にはかけますまい」
「見る値打ちがありますかね?」と、Kは躊躇《ちゅうちょ》しながらきいたが、いっしょに行ってみたいという欲望を大いに感じていた。
「そりゃあ」と、廷丁は言った。「きっとおもしろいですよ」
「よし」と、Kはついに言った。「いっしょに行きましょう」
 そして、彼は廷丁よりも足早に階段を駆け登った。
 そこに踏み入ると、すんでのことで倒れそうになった。扉の後ろにもうひとつ階段があったからである。
「公衆のためには気をつかっていないようですね」と、彼は言った。
「およそ少しでも気なんかつかっていませんよ」と、廷丁は言った。「ごらんなさい、ここが待合室です」
 それは長い廊下で、そこから、立てつけのわるい扉をいくつか通って、屋根裏のそれぞれの小部屋に通じているのだった。
 直接光のはいる口がなかったけれども、真っ暗ではなかった。多くの小部屋は廊下に面して、一面の板仕切りのかわりに、むきだしだがともかく天井まで届いている木格子《きごうし》があり、それを通して光がさしこみ、またそれから、机にすわって書き物をしたり、ちょうど格子のところに立って隙間越しに廊下の人々をながめている幾人かの役人が見えるのだった。おそらくは日曜日であるため、廊下にはほんの少ししか人影がなかった。彼らはきわめて慎み深いという印象を与えた。ほとんど規則正しい距離をおいて、廊下の両側に置かれた二列の長い木製ベンチに腰をおろしていた。みなかまわぬ身なりであったが、たいていの人々は、顔の表情、物腰、髯のつくり、そのほか多くのほとんどはっきりとは言えない細かい点から言って、豊かな階級に属する人々であった。洋服掛けがないので、誰かしらの例にならっているらしく、彼らは帽子をベンチの下に置いていた。扉のすぐ近くにすわっていた人々がKと廷丁との姿を見ると、挨拶《あいさつ》のため立ち上がるのだったが、そうすると次の人々もそれを見て、自分たちもやはり挨拶しなければいけないと思い、そこですべての人々が、二人の通ってゆくとき立ち上がった。誰も完全にまっすぐ立ち上がる者はなく、背中は曲っており、膝もかがんで、往来の乞食《こじき》のような有様で立っていた。Kは自分よりも少し遅れて歩いている廷丁を待って、言った。
「あの人たちはどんなにか卑下しているんですね」
「そうです」と、廷丁は言った。「あれは被告です、ここでごらんになるのはみな被告なんです」
「そうですか!」と、Kは言った。「それじゃあ僕の仲間っていうわけですね」
 そして彼は、次の大柄で痩形《やせがた》な、すでにほとんど白毛《しらが》まじりになった頭髪をした男に向って言った。
「ここで何をお待ちですか?」と、Kは慇懃《いんぎん》にたずねた。
 ところがこんなふうに思いがけなく話しかけられて、その男はすっかり取乱してしまったが、それが明らかに、ほかのところでなら確かに自分も制御できるし、多くの人々に対してかちえた優越感を容易には捨てさってはいないような、世故に長《た》けた人であるだけに、その狼狽《ろうばい》ぶりは非常に痛ましく見えるのだった。ところでこの場所では、こんな単純な質問にも答えることができず、ほかの人々のほうを見て、自分を助けてくれる義務があるし、そうやって助けてくれなければ誰も自分に返答を要求することはできない、というような有様だった。すると廷丁は歩み寄って、その男を落着かせ、元気づけるために、言った。
「この方はまったくただ、何をお待ちですか、とおたずねになっただけなんですよ。どうぞお答えになってください」
 男は廷丁の声を聞きなれているらしく、そのためKがきくよりも効果があった。
「私が待っていますのは――」と、彼はしゃべりはじめたが、すぐつかえてしまった。明らかに彼は、質問にできるだけ詳しく答えるためにこう切り出すことを選んだのだったが、その先が続かなくなった。待っている人たちの何人かが近づいてきて、この三人のグループを取巻いたので、廷丁は彼らに言った。
「どいた、どいた、通路はあけなくちゃいけない」
 人々は少し退《の》いたが、元いた場所へはもどらなかった、そのうちに問われた男は気を落着かせ、ちょっと微笑《ほほえ》みさえもらしながら、答えた。
「一カ月前に、私の事件の証拠申請をしましてね、片づくのを待っているんです」
「まったくたいへんなお骨折りのようにお見受けできますね」と、Kが言った。
「ええ」と、男は言った。「なにせ自分のことですからね」
「誰もがあなたのように考えるとはきまっていませんよ」と、Kは言った。「たとえば私も告訴されているんですが、ほんとうに心からうまくゆくようにと願ってはいますものの、証拠申請だとか、あるいはそのほかの何かそういった類《たぐ》いのことを企てたことがありません。いったいあなたはそういうことを必要だとお考えですか?」
「私には詳しいことはわかりませんが」と、男はまたすっかりあやふやな態度になって言った。すなわち彼は明らかに、Kが自分をからかっているのだ、と思ったのであり、そのため、何かまた失敗をやるのではないかという心配から、前の答えをそのまま繰返すのがいちばんよいと考えたらしかったが、Kのいらいらしたような眼差を前にしてただこう言うのだった。
「私としては、証拠申請をしたのです」
「私が告訴されているとは、きっと思ってはいらっしゃらないのですね」と、Kはきいた。
「どういたしまして、そう思っております」と、男は言い、少しわきへ退いたが、返答の中には信頼ではなくて不安だけが現われていた。
「それじゃ、あなたは私の言うことを信じないんですね?」と、Kは言い、その男の屈従的態度に思わず知らず刺激され、どうしても信じさせてやろうというように男の腕をとらえた。しかし何も苦痛を与えてやろうとしたわけではないので、ほんの軽くとらえただけだったが、それでも男は、Kに二本の指ではなく、真っ赤な火ばさみでつかまれたように、悲鳴をあげた。このばかばかしい悲鳴でKは男に厭気《いやき》がさした。自分が告訴されていることを信じないのなら、ますます結構だ。おそらく自分のことを裁判官だとさえ思っているのだろう。そこで今度は別れの挨拶に本気で手をしっかと握り、ベンチに突きもどして、歩みを進めた。
「たいていの被告はああいうように神経質になっているんです」と、廷丁が言った。
 彼らの背後では、もう悲鳴をあげることをやめた例の男のまわりに、ほとんどすべての待ち合せている人たちが集まり、この思わぬ出来事について詳しくききただしているらしかった。そこへ、Kに向って監視人がやってきたが、おもにそのサーベルでそれとわかったのだけれども、少なくとも色から見るのに鞘《さや》はアルミニウムでできているらしかった。Kはそれに驚いて、手を出して握ってさえみた。悲鳴を聞きつけてやってきた監視人は、何が起ったのか、とたずねた。廷丁は二言三言言って彼を納得させようとしたが、監視人は、どうしても自分で調べる必要がある、と言いきって、会釈をし、非常に早くはあるがきわめて小刻みな、痛風《つうふう》のために堅苦しくなっているらしい足取りで、出向いて行った。
 Kは監視人や廊下の仲間のことを長くは気にかけていなかったが、およそ廊下の中ほどまで来ると、扉がなくてあいた場所になっており、右手に曲れそうになっているのに気づいたので、彼らのことをもうすっかり忘れてしまった。こちらに行っていいのか、と廷丁にきいてみると、廷丁はうなずいたので、Kはそこでほんとうに右手へ曲った。しょっちゅう一、二歩廷丁の先を歩かねばならぬことがわずらわしく、少なくともこの場所では、まるで自分が逮捕されて引きたてられてゆくような格好に見えることもありえた。それでしばしば廷丁の追いつくのを待ったが、廷丁はすぐにまたおくれてしまうのだった。ついにKは、自分の不快さにけり[#「けり」に傍点]をつけるため、言った。
「ここがどんなところか見てしまったから、もう帰ろうと思います」
「まだ全部ごらんじゃありませんよ」と、廷丁は少しも動じないで言うのだった。
「全部が全部見たくもありませんね」と、ほんとうに疲れを感じてさえいるKは言った。「もう帰りますよ、出口はどっちですか?」
「もうわからなくなっちまったんですか?」と、廷丁は驚いて言った。「この端まで行って、廊下を右へいらっしゃればまっすぐ戸口に出ます」
「いっしょに来てください」と、Kは言った。「道を教えてくれませんか、どうも間違いそうだ、ここにはたくさん道があるんでね」
「ひとつきりの道ですよ」と、もうとがめるような口調になって廷丁は言った。「あなたとまたもどってゆくわけにはいきませんね、報告しにゆかねばなりませんし、そうでなくともあなたのためにだいぶ時間をつぶしましたからね」
「いっしょに来なさい!」と、Kはとうとう廷丁の不実さを突きとめたというように、鋭い口調で繰返した。
「そんなにどならないでください」と、廷丁はささやいた。「ここはどこも事務室ですから。ひとりでお帰りになりたくないなら、もう少し私といっしょに行くか、あるいは、報告をすませてくるまでここで待ってくださいませんか。そうすればよろこんでごいっしょに帰りますよ」
「だめだ、だめだ」と、Kは言った。「待てはしないし、今いっしょに来たまえ」
 Kはまだ、自分がいる場所をよく見まわしていなかったが、その辺にぐるりとあるたくさんの木の扉のひとつが開いたときになって初めて、眼をそちらに向けた。Kの大声を聞きつけたらしい一人の娘が現われて、たずねた。
「何かご用ですか?」
 その背後に遠く、薄暗がりの中をさらに一人の男が近づいてくるのが見えた。Kは廷丁の顔をじっと見た。この男は、誰もあなたのことなど気にはかけない、と言ったのではなかったか。ところがもうすでに二人がやってきて、ほんの小人数でもたくさんだというわけだが、役人連が彼のことに注意を払うようになったし、なぜここに来たのか、という釈明をきこうとするだろう。唯一の筋の通った、認められうる釈明というのは、自分は被告であり、次の尋問の予定日をきこうと思ったのだ、というのであるが、彼としてはまさにこんな釈明こそしたくはない。特にこれは真実でもないからであるが、偽りだというわけは、彼はただ好奇心で来たのであり、あるいは、釈明としてはやはり通りにくいのだが、この裁判制度の内部もその外部と同じようにいやなものだ、ということを確かめようとする要求からやってきたのだからである。そしてまったく、自分のこういう臆測《おくそく》は正しいと思われたので、これ以上はいりこむつもりはなく、これまで見たことですっかり胸苦しくなっており、今この瞬間には、どの扉からもひょっこり現われてくるかもしれない高い地位の役人に対応するだけの心構えになってもいないので、廷丁といっしょか、あるいはやむをえなければひとりででも帰りたかった。
 ところが、彼が黙って立っていることが奇妙に思われたらしく、実際、娘も廷丁も、次の瞬間にはなんらかの大きな変化が彼に起るにちがいないし、それを見ないでおきたくはない、とでもいうようにKを見つめるのだった。そして戸口には、Kがさっき遠くから認めた男が立って、丈《たけ》の低い鴨居《かもい》にしっかりと身をささえて、気短かげな観客のように、爪立《つまだ》ちながら少し身体を揺すっていた。しかし娘はまず、Kのこんな態度は少し気分がわるいことに原因があるのだと気づき、椅子を持ってきて、きいた。
「おかけになりません?」
 Kはすぐすわり、もっとよい姿勢をとろうとして、肘《ひじ》を椅子の背にささえた。
「少しめまいがなさるんでしょう?」と、女は彼にきいた。娘の顔が彼のすぐ眼の前にあったが、多くの女がその女盛りに持っているような強烈な表情を浮べていた。
「心配なさらないほうがいいですわ」と、娘は言った。「ここでは珍しいことではありません。初めてここへ来ると、ほとんど誰でもこんな発作を起すのよ。ここは初めてですの? そうね、それなら珍しいことじゃないわ。太陽がここの屋根板を照りつけますし、熱くなった木が空気をうっとうしく、重苦しくするんです。ですからこの場所は事務室にはあまり向かないんです、もちろんそのほかの点ではいろいろ大きな利益があるにはあるんですけれど。でも空気の点では、訴訟当事者が大勢行き来する日には、そしてそういうのはほとんど毎日ですけれど、ほとんど息もつけないくらいなんです。それから、ここにはまたいろいろ洗濯物が干しにかけられるということをお考えになれば、――それを下宿人に全部が全部断わるわけにもいきませんものね――少しぐらい気分がおわるくなられても不思議でないとお思いでしょう。でも、しまいにはこの空気にすっかり慣れます。二度目か――あるいは三度目にいらっしゃるときには、ここでもう胸を押しつけるようなものをもうお感じにならなくなることでしょう。もうおよろしくはありません?」
 Kは答えなかった。こうして突然身体の具合がわるくなってここの連中の手のうちにはいったようになっていることがあまりにもつらいことだったし、そのうえ、今自分の不調の原因を聞いたばっかりに、よくはならないで、むしろ少しわるくなったのであった。娘はそれにすぐ気づいて、Kの元気を回復させるために、壁に立てかけてあった鉤《かぎ》付きの竿《さお》をとり、ちょうどKの頭上に備えつけられた、戸外に通じる小さな通風窓をつついてあけた。だが煤《すす》がひどくたくさん落ちてきたので、娘はその通風窓をすぐまた引っ張ってしめ、ハンカチでKの両手の煤をはらわなければならなかった。Kはあまりに疲れていて、それを自分で始末できなかったからである。歩いてゆけるのに十分なだけ元気を回復するまでここにゆっくりとすわっていたかったが、人々が彼のことなど気にかけることも少なければ少ないほど、なるたけ早く行かなければならなかった。ところがそのうえ、娘が言った。
「ここにはいらっしゃれませんわ、通行の邪魔になりますもの――」Kは、どんな通行の邪魔になるのか、と視線できいた――「よろしかったら、病室へお連れしましょう。あなた、手を貸してちょうだい」と、娘は戸口の男に言ったが、男もすぐ近寄ってきた。
 しかし、Kは病室へは行きたくなく、これ以上引きまわされることはまっぴらだったし、行けば行くほど腹がたつにちがいなかった。そこで、
「もう歩けます」と、言い、立ち上がったが、気持よくすわっていだだけに耐えられず、身体が震えるのだった。ところが身体をまっすぐに立てることもできなかった。
「どうもだめです」と、頭を振りながら言い、溜息《ためいき》をもらしながらまた腰をおろした。廷丁のことを思い出し、あの男ならそれでも簡単に連れ出してくれるだろうと思ったが、とっくにいなくなってしまったらしく、自分の前に立っている娘と男とのあいだを透かし見するのだが、廷丁は見あたらなかった。
「私が思うのに」と、男が言ったが、ところで男は身だしなみがよく、特にその、二つの長いとがった端に終っている灰白のチョッキで、目だった。「この人が気持わるくなったのはここの空気のせいだよ。だから、まず病室に連れてゆきなどしないで事務局から出てもらうのが、いちばんいいし、この人にもいちばん気持がいいんじゃないかな」
「そうですよ」と、Kは叫び、無性によろこんでほとんど男の話の中に割ってはいった、「きっとすぐよくなるでしょうし、そんなに弱っているわけじゃなく、ただ少し腋《わき》の下をささえてもらえばいいんです。たいしてお骨折りはかけませんし、道もそう遠くはありません。扉のところまで連れていっていただけば、少し階段の上で休んで、すぐなおります。つまりこんな発作を起すことなんかないことで、自分でも驚いているんです。私も勤め人ですし、事務室の空気には慣れているんですが、ここは、あなたのおっしゃるように、少し空気がわるすぎるようですね。ですから、少し連れていってはいただけませんか。どうもめまいがして、ひとりで立ち上がると、気持がわるくなるのです」
 そして、二人が彼の腕の下をとらえやすくするため、肩を上げた。
 ところが男は求めに応じないで、両手を知らん顔でポケットに突っこんだまま、大声をあげて笑った。
「ごらん」と、男は娘に言った。「やっぱり私の言ったとおりじゃないか。この人はどこででも気分がわるくなるんじゃなくて、この部屋に限ってわるくなるんだ」
 娘も微笑んだが、男があえてKをあまりひどく弄《なぶ》っているとでもいうように、男の腕を軽く指先でたたいた。
「だって君、どうだっていうんだ」と、男はなおも笑いながら言った。「そりゃあ、この人を連れてはゆくさ」
「それならいいわ」と、格好のいい頭をしばらくかしげながら、娘は言った。
「この人が笑っていることをあまり気にされなくていいんですのよ」と、娘はKに言ったが、Kはまた憂鬱《ゆううつ》になっていて、ぼんやり前を見つめ、釈明などいらない、というふうだった。「この人は――ご紹介してもいいでしょう? (男は手振りで許しを与えた)――この人は案内係なんです。待っている訴訟当事者に求められる案内をなんでもするんですが、この裁判所のことは人々のあいだであまり知られていませんから、いろいろ案内が求められます。この人はどんな質問にも応じられますから、もし気がお進みでしたら、それをためしてごらんなさいな。でもそれはこの人のただひとつの特色ではなくて、第二の特色はあのスマートな身なりなんです。私たち、つまり役人は、しょっちゅう、しかも第一番目に訴訟当事者たちと接触する案内係は、第一印象をよくするために、身なりもスマートでなければならない、と同じように思っています。私たちほかの者は、私をごらんになればすぐおわかりと思いますが、残念ながらたいへん粗末で古風な身なりをしています。着物にお金をかけることなんか、たいして意味もありませんわ、だって私たちはほとんどいつも事務局にいて、ここに寝泊りまでするんですもの。でも、申上げたとおり、案内係はりっぱな着物がいる、と私たちは等しく思っています。ところがその着物は、この点でいくらか変なんですが、お役所からは支給されませんので、私たちはお金を集め――訴訟当事者にも寄付していただき――この人にこんなきれいな着物やまたほかのやを買ったんですわ。今では万事が整って、よい印象を与えることもできるのに、この人ったら笑ってはまた台なしにしてしまい、人を驚かすんですのよ」
「そりゃあそうだが」と、男はあざけるように言った。「君、なぜこの人にわれわれの内幕を洗いざらいしゃべるのか、あるいは全然聞きたくもないのに無理に聞かせるのか、私にはわからないね。いいかい、この人は明らかに自分の用件があってここに来ているんだからね」
 Kは抗弁する気が全然なかった。娘の意図は親切なものらしいし、おそらくKの気をまぎらせ、あるいは気分をまとめる機会を彼に与えるためのものだったのだが、手段が間違っていたのだった。
「この人にあなたの笑ったわけを説明してあげなければいけなかったんだわ」と、娘は言った。「ほんとに人を侮辱するものだったわ」
「最後に連れていってあげれば、もっとわるい侮辱だってこの人は許しなさる、と私は思うね」
 Kは何も言わず、一度も顔を上げないで、二人が自分についてまるで事件についてのように論じ合っているのを、我慢していた。それが彼にはいちばん好ましかった。ところが突然、一方の腕に案内係の手、他方のに娘の手を感じた。
「じゃあ立ちなさい、お弱いお方」と、案内係は言った。
「お二人とも、ほんとうにすみません」と、よろこび驚きながらKは言い、ゆっくり立ち上がり、ささえをいちばん必要とする場所に自分のほうから他人の手を持っていった。
「私にはこう思われるんですけど」と、彼らが廊下に近づいたとき、娘は小声でKの耳にささやいた。「この案内係さんのことをよく思っていただくようにすることが、とりわけ、私の責任なんじゃないかしら。信じていただいて結構なんですけれど、私はほんとうのことを言おうと思います。あの人は冷たい人じゃないのよ。病気の訴訟当事者を連れ出すなんて、あの人の役目じゃありませんのに、ごらんのように、あの人はしますのよ。きっと私たちの誰もが冷たくなんかないし、きっとみなよろこんで人を助けたいんですわ。それでも裁判所の役人なものですから、私たちは冷たいし、誰も助けようなどとは思っていない、っていうように見えがちなんです。ほんとうにつらいわ」
「ここでちょっと休みませんか」と、案内係が言ったが、もう廊下に出て、Kがさっき話しかけた被告のちょうど前に来た。Kは、ほとんど自分を恥じていた。さっきはこの男の前にちゃんと立っていたのだが、今は二人がささえねばならず、帽子は案内係がひろげた指の上にのせており、髪形は乱れ、髪毛《かみのけ》は汗ばんだ額の上に垂れていた。ところが被告はそんなことには気づかぬ模様で、自分を越えてあらぬ方をながめている案内人の前にうやうやしげに立ち、ただ自分がここにいることを弁解しようとするのだった。
「今日はまだ」と、彼は言った。「私の申請が片づきはしない、ということをよく存じています。けれど、ここで待たしていただけるだろう、今日は日曜日だし、時間があるし、ここでお邪魔にはならない、と思ってまいりました」
「そんなに言い訳をおっしゃらなくたってよろしいですよ」と、案内係は言った。「そんなに気をつかっていただくのはまったく恐縮です。あなたはここで余計な場所ふさぎをしておられるが、私の面倒にならないかぎりは、あなたの事件の進行を逐一たどられるのを妨げはしませんよ。自分の義務をおろそかにしている人たちばかり見ていると、あなたのような人たちのことは我慢するようになります。どうぞおかけください」
「訴訟当事者を相手にすることをなんて心得ていることでしょう」と、娘は言い、Kもうなずいたが、すぐ、案内人が彼にまたきいたので、とび上がった。
「ここで腰かけませんか?」
「いや」と、Kは言った。「休みたくはありません」
 できるだけきっぱりとそう言ったのだが、実際は、腰かけることが彼には気持よかったにちがいなかった。まるで船酔いのようだった。難航中の船に乗っているように思われた。水が板壁の上に落ちかかり、廊下の奥からはかぶさる水のような轟々《ごうごう》という音が聞え、廊下は横ざまに振れ、両側に待っている訴訟当事者たちは下がったり、上がったりしているように思われるのだった。それだけに、自分を連れてゆく娘と男との落着きはらった様子がわからなかった。自分は彼らに引渡されたのであり、彼らが自分を手放すなら、木片のように倒れるにちがいなかった。二人の小さな眼からは、鋭い視線があちこちと走り、彼らの規則正しい足取りをKは感じるのだったが、ほとんど一歩一歩彼らに運ばれている有様なので、それに合わせることはできなかった。ふと、二人が自分に何か言っていることに気づいたが、何を言っているのかはわからず、ただ騒音だけが聞えてきた。その騒音はあたりにいっぱいで、それを貫いて|海の魔女《サイレン》のような変化のない高い調子が響くのが聞えた。
「もっと大きな声で」と彼は頭を垂れたままささやいてから、恥じた。自分には聞き取れないけれど十分大きな声で言われたのだ、ということを知っていたからである。そのときとうとう、眼の前の壁に穴があいたように、さわやかな風が吹きつけてきた。そしてそばで言う言葉を聞いた。
「初めは行きたがるが、ここが出口だ、と何回でも言ってやればいい。そうすれば動かなくなるよ」
 Kは、娘があけた出口の扉の前に立っていることに気づいた。身体じゅうの力が一時に戻ってきたような気がし、自由の身の前味を味わうのだった。すぐに階段に一段足をかけ、そこから、自分のほうに身体をかがめている二人の道づれに別れを告げた。
「どうもありがとう」と、彼はまた言い、繰返し二人の手を握ったが、二人が事務局の空気に慣れていて、階段からやってくる比較的さわやかな空気にも耐えがたそうなのを見てとって、初めて立ち去った。二人はほとんど返事もせず、もしKがきわめて素早く扉をしめてやらなかったならば、娘はおそらく倒れたであろう。Kはしばらくじっと立ち止っていたが、懐中鏡で髪を直し、次の踊り場にころがっている帽子を拾い上げ、――案内係がきっとそれを投げ出したのだった――階段を降りていったが、気持があまりにさっぱりし、あまりに大股《おおまた》で歩けたので、この変りかたにほとんど不安を覚えたくらいだった。こんな驚きは、これまでのまったくしっかりした健康状態のときにもまだ感じたことはなかった。肉体が革命を起そうとし、彼がこれまで古い肉体の働きに耐えてきたので、新しい働きを用意しようとしているのだろうか? できるだけ早い機会に医者のところへ行こうという考えをしりぞけはしなかったが、いずれにせよ彼は、――そのことを彼は決心できたが――これからの日曜日の午前はいつでも今日よりはよく使おう、と思うのだった。

第四章 ビュルストナー嬢の女友達

 最近Kは、ビュルストナー嬢とほんの少しでも話すことができなかった。きわめてさまざまなやりかたをしてみて、彼女に近づこうとしたが、彼女はいつでもそれを逃《のが》れることを心得ていた。事務室からすぐ家に帰り、明りもつけずに部屋にこもり、長椅子の上にすわって、控えの間をながめること以外に何もしなかった。たとえば女中が通り過ぎ、人のいないらしいその部屋の扉《とびら》をしめてゆくと、彼はしばらくしてから立ち上がり、それをまたあけてみるのだった。朝はいつもより一時間ばかり早く起きたが、おそらくビュルストナー嬢が勤め先に出てゆくとき、彼女とだけ出会うためだった。ところがこんな試みがどれもうまくゆかなかった。そこで、彼女に勤め先にも部屋あてにも手紙を書き、その中でもう一度自分の態度を弁明しようとし、どんな償いにも応じる旨を申し出、彼女が置こうと思うどんな限界もけっして踏み越えないことを約束し、一度会う機会を与えてほしいということだけを懇願し、あなたと相談しないうちはグルゥバッハ夫人ともどうしようもないのだから、特にそうしてほしい、と言ってやり、最後には、次の日曜日には一日じゅう部屋にいて、自分の懇請を聞きとどけてくださることを約束するような、あるいは少なくとも、何であってもあなたのおっしゃることに応ずると約束しているのになぜ私の懇願をかなえていただけないのかを説明するような、なんらかの合図をお待ちしている、と言ってやった。手紙はどれももどってはこなかったが、返事もまた来なかった。ところが日曜日にひとつの徴候が見られ、そのはっきりし加減は十分なほどだった。その朝は早くから、鍵穴《かぎあな》を通してKは、控えの間に特別な動きがあることを認めていたが、やがてそのわけがわかった。フランス語の女教師、彼女はドイツ人でモンタークといい、弱々しく、顔色の蒼《あお》い、少し跛《びっこ》の女で、これまで自分の部屋をとって住んでいたが、ビュルストナー嬢の部屋に引っ越したのだった。何時間も、彼女が控えの間を通って足を引きずるのが見られた。しょっちゅう、下着類とかカバーとか本とかを忘れて、そのために取りにゆき、新しい部屋に運ばねばならないのだった。
 グルゥバッハ夫人がKに朝飯を持ってきたとき――Kをひどく怒らせて以来、夫人はどんな小さなことも女中にはまかせなかった――Kは、五日ぶりに初めて彼女に話しかけないでいられなくなった。
「いったい今日は、なぜ控えの間がこう騒がしいんですか?」と、コーヒーを注《つ》ぎながらKはたずねた。「やめさせるわけにはいきませんか? 日曜日にわざわざ片づけなけりゃあいけないんですか?」
 Kはグルゥバッハ夫人のほうを見なかったが、彼女がほっとしたように息をつくのがわかった。Kのこのようなきびしい質問さえも、夫人は、許しあるいは許しの始まり、と考えたのだった。
「片づけているんじゃありません、Kさん」と、夫人は言った。「モンタークさんがビュルストナーさんのところへ移るだけのことでして、荷物を運んでいるんですわ」
 夫人はこれ以上は言わず、Kがどうそれをとり、話し続けることを許すかどうか、待ちかまえていた。だがKは夫人をためしたのだったので、考えこんだように匙《さじ》でコーヒーをかきまわし、黙っていた。それから彼女のほうに顔を上げて言った。
「ビュルストナーさんのことについてのあなたの前の疑いを、もう捨て去ってしまったでしょうね?」
「Kさん」と、この質問だけを待ちかまえていたグルゥバッハ夫人は叫び、彼女の重ねた手をKのほうに差出した。
「あなたは、このあいだの何気ない話をむずかしくおとりになったのですわ。私はちっとも、あなたなりほかのどなたかなりを傷つけようなどとは思いませんでした。Kさん、あなたはもう私とは長年のお付合いですから、そのことを信じていただけるはずですわ。私がこの数日どんなに思い悩んだか、あなたにはおわかりになれませんわ! 私が間借人の方の悪口を言うなんて! そしてあなたは、Kさん、そう思っていらっしゃるんです! そして、あなたのことを追い出すんだなんておっしゃったんだわ! あなたのことを追い出すなんて!」
 最後の言葉はもう涙でつまってしまい、エプロンを顔にあてて、声をあげてすすり泣きするのだった。
「泣かないでください、グルゥバッハさん」と、Kは言い、窓から外を見たが、ただビュルストナー嬢だけのことを考え、そして、彼女が見知らぬ娘を自分の部屋に迎え入れたことを考えていたのだった。
「泣かないでください」と、もう一度言ったが、振向くとグルゥバッハ夫人はまだ泣いていた。
「実際あのときは私もそうわるい意味で言ったんじゃありません。お互いに誤解していたんです。そういうことは旧友でも起りうることですよ」
 グルゥバッハ夫人はエプロンを眼の下までずらせて、Kがほんとうに仲直りしたのかを見た。
「ねえ、そういうわけだったんですよ」と、Kは言い、グルゥバッハ夫人の態度から判断するのに、例の大尉が何も暴露してはいないらしかったので、あえてさらに言葉を足した。「よその娘のことで私があなたと仲たがいするなんて、ほんとにそうお思いですか?」
「ほんとにそうですわね、Kさん」と、グルゥバッハ夫人は言ったが、いくらか安心したように思って早速まずいことを言ったのは、彼女の運のつきだった。「しょっちゅう自分にきいてばかりいるんですのよ。なぜKさんはあんなにビュルストナーさんのことばかり気にしているんだろう? あの方から何かいやな言葉を聞いたら私は眠れないっていうことをよくご存じなのに、あの人のことでなぜ私といさかいなんかなされるんだろう、って。あの人については、ほんとに自分の眼で見たことだけを申上げたんだわ」
 Kはそれに対して何も言わなかった。最後の言葉で夫人を部屋から放り出してやらねばならない、と思ったが、そうはせずにおいた。コーヒーを飲み、グルゥバッハ夫人におしゃべりがすぎるということを気づかせてやるのにとどめた。室外ではまた、モンターク嬢の、控えの間いっぱいを横切ってゆく引きずるような足音が聞えた。
「聞えますか?」と、Kはきき、手で扉のほうをさした。
「ええ」と、グルゥバッハ夫人は言い、溜息《ためいき》をついた。「私も手伝い、女中をやってお手伝いさせようとも思ったんですけれど、あの人は片意地な人で、なんでも自分で片づけようと思っているんです。ビュルストナーさんもビュルストナーさんですわ。モンタークさんに部屋を貸しているだけでもいやになることがあるのに、自分の部屋に呼びまでするんですからねえ」
「そんなことはあなたの知ったことじゃないですよ」と、Kは言い、茶碗の中の砂糖の残りをつぶした。「いったいそれで何かあなたの損害になるんですか?」
「いいえ」と、グルゥバッハ夫人は言った。「そのこと自体は私にはほんとに願ったりですわ。それで部屋がひとつあき、そこへ私の甥《おい》の大尉を入れることができるんですもの。最近あれをあなたのおそばの部屋に住ませておいたので、お邪魔じゃなかったか、とずっと前から心配していましたわ。あれはあんまり気のつくほうじゃないものですから」
「なんていうことを考えられるんです!」と、Kは言い、立ち上がった。「そんなつもりじゃ全然ありませんよ。あのモンタークさんが歩いているのを――ああ、またもどってきましたね――我慢できないからといって、あなたは私のことをどうも神経過敏とお考えのようですね」
 グルゥバッハ夫人は、まったく自分には手の施しようもないように思った。
「Kさん、引っ越しの残りを延ばすように申しましょうか? もしお望みなら、すぐそうしますけれど」
「いや、ビュルストナーさんのところへ移らせてやりなさい!」と、Kは言った。
「ええ」と、グルゥバッハ夫人は言ったが、Kの言うことを理解しきってはいないようだった。
「それじゃあ」と、Kは言った。「あの人の荷物を運ばなくちゃいけない」
 グルゥバッハ夫人はただうなずいた。この口もきけないで当惑している有様は、表面上はただ傲慢《ごうまん》さのように思えて、Kをいっそういらつかせるのだった。彼は、部屋の中を窓ぎわから扉まであちこちと歩きはじめ、それによってグルゥバッハ夫人の引下がる機会を奪ってしまったが、彼女はそういうことがなければきっと引下がっていたことであろう。
 ちょうどKがまた扉のところまで来たとき扉をたたく音がした。それは女中で、モンターク嬢がKさんと少しお話ししたいことがあり、それゆえ食堂でお待ちしているから、おいでくださるようお願いします、ということを伝えた。Kは女中の言うことを考えこんだようにじっと聞いていたが、ほとんど嘲笑《ちょうしょう》的な眼差《まなざし》をして、驚いているグルゥバッハ夫人のほうに振返った。この眼差はKがすでにずっと前からモンターク嬢の招きを予想していたのだし、それはまた、この日曜日の午前にグルゥバッハ夫人の下宿人たちによって味わわされねばならなかったわずらわしいことと大いに似合いのことだ、と言っているように見えた。すぐまいります、という伝言を持って女中を帰らせ、上着を換えるため洋服|箪笥《だんす》のところへ行き、面倒な人だとぶつぶつこぼしているグルゥバッハ夫人に対する返答として、朝食の道具をもう持っていってもらいたい、と頼んだだけだった。
「ほとんどなんにも手をおつけになっていませんわ」と、グルゥバッハ夫人は言った。
「ああ、いいんですから持っていってください!」と、Kは叫んだが、すべてのものにモンターク嬢が浸みこんでいるようであり、いやな気持だった。
 控えの間を通り抜けるとき、ビュルストナー嬢のしめきった扉をながめた。けれど、この部屋へ招かれたのではなく、食堂へだった。彼は食堂の扉を、ノックもせずにあけた。
 食堂は、奥行はきわめてあるのだが、間口は狭い、窓がひとつしかない部屋だった。その部屋には場所が大いにあるにはあるので、扉側の片隅《かたすみ》に戸棚《とだな》を二つ斜めに置くことができていたが、ほかの場所は長い食卓ですっかり占められ、食卓は扉の近くから始まって、大きな窓のすぐ近くまで達しており、そのため窓にはほとんど行かれないようになっていた。
 もう食事の支度《したく》ができていて、しかも、日曜日にはほとんどすべての下宿人がここで中食をとるので、多人数の支度であった。
 Kが部屋にはいると、モンターク嬢は窓ぎわから食卓のそばに沿ってKのほうにやってきた。二人は互いに、黙ったまま会釈《えしゃく》をした。次に、いつもと同じように頭をひどくもたげたモンターク嬢が言った。
「私のことをご存じかどうか知りませんが」
 Kは、眼を狭《せば》めながら女を見つめた。
「よく存じています」と、彼は言った。「だってもうかなり長くグルゥバッハ夫人のところにお住いじゃありませんか」
「でも、私がお見かけしたところでは、下宿のことはあまり気にかけていらっしゃらないようですが」と、モンターク嬢は言った。
「そんなことはありません」と、Kは言った。
「おかけになりませんか?」と、モンターク嬢は言った。二人は、黙ったまま、食卓の一番端にある椅子を二つ引出し、互いに向い合って腰をおろした。しかし、モンターク嬢はすぐまた立ち上がった。ハンドバッグを窓敷居に置き忘れ、それを取りにいったからである。部屋じゅうを擦《す》るように歩いていった。手提《てさ》げを軽く振りながらもどってくると、彼女は言った。
「私はただ友達に頼まれて、ちょっとお話ししたいのです。あの人は、自分で来ようと思ったのですが、今日は少し気分がわるいものですから。どうかあしからずお思いになって、あの人のかわりに私の申上げることをお聞きくださいまし。あの人も、私があなたに申上げる以外のことは申上げられませんでしょう。反対に私は、あの人よりも申上げられるものと思いますわ、私は比較的局外の立場にありますから。あなたもそうお思いでございましょう?」
「いったい、おっしゃることってなんですか?」と、Kは言葉を返したが、モンターク嬢の眼が絶えず自分の唇《くちびる》に注がれているのを見ているのに、疲れた。相手はそれによって、彼がまず言おうとすることに対する支配力を我が物としようとするのだった。
「私はビュルストナーさんご自身でお会いくださるようお願いいたしたのですが、それはご承知願えぬわけですね」
「そうです」と、モンターク嬢は言った。「あるいはむしろ、そうではありません、と申上げるべきかもしれません。あなたは妙にきっぱりとした物の言いかたをなさいますわね。一般に言って、お話しすることをお引受けしたわけでもなければ、またその反対にお断わりしたわけでもありません。でも、お話しすることを不必要と考える場合だってありうるわけでして、ちょうど今の場合がそうなんです。おっしゃることを伺って、今は私、はっきりとお話しできますわ。あなたは私のお友達に、手紙か口頭でお話しすることをお求めになりました。でもあの人は、これは私も少なくともそう考えなければならないのですが、このお話し合いがなんについてなのか知っております。そして、そのため、私にはわからない理由から、たといほんとうにお目にかかることになっても、それは誰のためにもならない、と確信しておりますのよ。そしてあの人は昨日になってやっと私にそのことを話してくれましたが、ほんのちょっとだけでした。そしてそのとき言ったことは、お会いすることはたぶんKさんにもたいしたことじゃないのでしょう、なぜならKさんもほんの偶然によってそんなことをお考えになったのであり、ご自分でもきっと、特別お話しいたさなくとも、たとい今すぐではなくてもほんのすぐあとで、そんなことがみな無意味だということにお気づきになるでしょうから、ということでした。それに対して私は、それはそうだがKさんにはっきりしたご返事をしてさしあげたほうが、事を完全にはっきりさせるためには有益なことだと思う、と答えました。私はこの役目を引受けることを申出ましたが、少しためらってから、あの人は私の言うことを承知しました。おそらく私はあなたのお望みのようにも振舞ったことと思いますが。なぜなら、どんなつまらぬ事柄においてでも、少しでもはっきりしないことがあれば心を悩ますものですし、今の場合のようにたやすく片づけることができるものなら、すぐしてしまったほうがよろしいですからね」
「どうもありがとうございます」と、Kはすぐ言い、ゆっくりと立ち上がり、モンターク嬢を見つめ、それから食卓の上、次に窓の外をながめ、――向う側の家は陽《ひ》を浴びていた――そして、扉のほうに行った。モンターク嬢は、彼の真意は全部が全部はわからないというように、二、三歩彼の後《あと》を追っていった。ところが、扉の前で二人は後に退《の》かねばならなかった。扉が開き、ランツ大尉がはいってきたからである。Kはこの男を初めて間近に見たのだった。大柄な、およそ四十ばかりの男で、褐色《かっしょく》に日焼けした、肉づきのいい顔をしていた。彼はちょっと会釈をし、それはKにも向けられたのだが、次にモンターク嬢のところへ行き、うやうやしげに手に接吻《せっぷん》した。その動作はなかなか物なれていた。彼のモンターク嬢に対する慇懃《いんぎん》さは、Kの彼女に対する取扱いぶりとは目だって著しい対照をなすものだった。それでもモンターク嬢は、別にKに対して気をわるくはしていないらしかった。なぜなら、Kには彼女がそういう素振りを見せたように思えたが、自分を大尉に紹介しようとしたからである。しかしKは、紹介してもらいたくはなく、大尉にもモンターク嬢にも少しでもうちとけることはできないように思えたし、あの手へ接吻する有様を見ていると、Kには、この女がきわめて純真で無私であると見せながら、その実、自分をビュルストナー嬢から引離そうとする一味と結託しているように思われるのだった。けれどもKは、そのことを見抜いたと信じたばかりでなく、モンターク嬢がひとつの巧妙な、確かに両刃《もろは》とも言うべき手段を選んだことを、見抜いた。この女はビュルストナー嬢と自分との関係の意味をおおげさに述べたて、特に頼まれた伝言の意味をおおげさに言って、同時にそれを、万事を極端に考えるのは自分だ、というふうに持ってゆこうと試みているのだ。そうはうまくゆかぬぞ、自分は何もおおげさに考えようとなんかしていないし、ビュルストナー嬢なんかは高が知れたタイピストであり、自分には長くは抵抗できたものじゃない、ということはわかっているんだ、と考えた。その際彼は、グルゥバッハ夫人からビュルストナー嬢について聞いたことは故意に計算には入れなかった。彼はこんなことを考えながら、ほとんど挨拶もしないで部屋を立ち去った。すぐ自分の部屋へ行こうと思ったが、背後の食堂から聞えるモンターク嬢の低い笑い声は、おそらく自分は大尉とモンターク嬢との二人を驚かしてやってもいいはずだ、という考えを彼にいだかせた。あたりを見まわし、まわりの部屋部屋のどれかから邪魔がはいることが考えられるかもしれないと聞き耳をたてたが、どこも静かであり、ただ食堂の話し声が聞かれるだけで、それと、台所に通じる廊下からはグルゥバッハ夫人の声が聞えてくるだけだった。機会は絶好のように思われた。Kはビュルストナー嬢の部屋の扉へ行き、低くノックした。いっこうに物の気配がしないので、もう一度ノックしたが、依然として返事がなかった。眠っているのだろうか? あるいはほんとうに気分がわるいのだろうか? あるいはまた、こんなに低くノックするのはKにちがいないと気づいて、ただその理由から居留守をつかっているのだろうか? Kは、彼女が居留守をつかっているのだ、と考え、いっそう強くノックし、ノックに返事がないので、ついに扉を慎重に、何か正しくない、そのうえ無益なことをやっているのだ、という感情がしないでもなかったが、あけてみた。部屋の中には誰もいなかった。そのうえ、Kが知っていた部屋の面影はほとんどなかった。壁ぎわに二つのベッドが並んで置かれ、扉の近くの三脚の椅子には着物や下着類がうず高く積まれ、戸棚がひとつあけっ放しになっていた。モンターク嬢が食堂でKと話しこんでいるうちにビュルストナー嬢は出かけてしまったらしかった。それによってKはたいして驚きもせず、ビュルストナー嬢にそんなにたやすく会えるものとはもうほとんど期待してはいなかったのであり、こんなことをやってみたのも、ほとんどただモンターク嬢に対する反抗の気持からであった。しかしそれだけに、扉をふたたびしめながら、食堂のあいた扉のところでモンターク嬢と大尉とが互いに話し合っているのを見たとき、彼にはつらい思いがしたのであった。Kが扉をあけたときから、二人はおそらくそこに立っていたのであり、Kをながめているなどという様子は少しも見せないようにし、低声で話し合いながら、話のあいだにぼんやりあたりを見まわしているときのような格好で、視線でKの動作を追っているだけだった。しかし、この視線はKに重苦しくかぶさってきて、彼は急いで壁に沿って自分の部屋へ帰っていった。

第五章 笞刑吏《ちけいり》

 最近のある夕方、事務室と中央階段とを隔てる廊下をKが通ると、――その晩は彼がほとんどいちばん後《あと》から家に帰ることになり、ただ発送室にだけまだ二人の小使が電燈ひとつの照らす光の下で働いていたが――まだ一度も自分で見たことはなかったが物置部屋があるだけだとこれまで思っていた扉《とびら》の後ろで、うめき声をあげているのが聞えてきた。驚いて立ち止り、聞き違いではないか確かめるため、もう一度聞き耳をたてた。――一瞬静かになったが、次にまたうめき声が聞えた。――おそらく立会いが要《い》ることだろうから、小使の一人を呼ぼうと思ったが、抑《おさ》えがたい好奇心に駆られたため、扉をノックしたうえであけてみた。想像していたとおり、物置部屋だった。戸口の後ろには、不用な古印刷物や投げ散らされた空《から》の陶製のインク瓶《びん》が、ごろごろしていた。ところが部屋の中には三人の男が立ち、この天井の低い部屋の中で背をかがめていた。棚《たな》の上につけた蝋燭《ろうそく》が彼らに光を投げていた。
「ここで何をやっているんだ?」と、興奮のためせきこんで、しかし高声でではなく、Kはきいた。明らかにほかの二人を牛耳《ぎゅうじ》っているらしい一人の男がまず彼の眼をひいたが、一種の濃い色の革服を着て、頸《くび》から胸元深くまでと両腕全体とをむきだしにしていた。この男は黙っていた。ところが別の二人が叫んだ。
「あなたが予審判事にわれわれのことで苦情を言ったものだから、われわれは笞《むち》で打たれなけりゃあならないんです」
 そう言われてやっとKが気がつくと、それはフランツとウィレムとであり、第三の男が、彼らを打つため、手に笞を持っていた。
「ところが」と、Kは言い、男たちを見つめた。「何も苦情を言ったわけじゃありませんよ。ただ、私の住居で起ったことを言っただけだ。そして君たちのほうも、けっして非の打ちどころのないように行動したわけじゃないからね」
「でも」と、ウィレムが言ったが、一方フランツはその背後に隠れて、明らかに身を守ろうとしているのだった。「われわれのサラリーがどんなにわるいかご存じなら、われわれについてもっとよい判断を下してもらえるはずですよ。私は家族を養わなけりゃなりませんし、このフランツは結婚しようと思っているんです。よくあることですが、もっと金が楽になるようにとするんだけれど、ただ働くだけでは、どんなに一生懸命やってみても、うまくゆきはしない。そこであんたのりっぱな下着類がわれわれを誘惑したわけで、もちろん、そんなことをするのは監視人には禁じられているし、不正にはちがいないんだけれど、下着は監視人のもの、というのはしきたり[#「しきたり」に傍点]で、これまではいつもそうだったんですよ、ほんとうに。それにまた、逮捕されるくらい運のわるい人間にそんな物が何の役にたつかも、わかりきったことじゃありませんか? もちろん、そんなことをあからさまに言い出されたんじゃ、罰が来るにきまっていますよ」
「君が今言ったことは、私も知らなかったし、またけっして君たちを罰するように要求したわけじゃないんだけれど、根本的なことを問題にしたんですよ」
「おいフランツ」と、ウィレムは別な監視人のほうを向いた。「この人はおれたちの処罰なんか要求しなかった、とおれが言ったろう? 今お前も聞いたとおり、この人はおれたちが罰せられなくちゃならないってことは知らなかったって言うんだ」
「こんな話に乗せられちゃだめだ」と、第三の男がKに言った、「罰は正当でもあるし、逃げられもしないものなんだ」
「そいつの言うことを聞いちゃいけません」と、ウィレムは言い、笞でぴしゃりとやられた手を素早く口に持ってゆくときにだけ、話をとぎらしたが、「われわれが罰せられるのは、ただあんたが密告したためなんですよ。そうでなければ、われわれのやったことを聞かれたって、なんにも起りはしなかったはずです。罰が正当だなんて言えるものですかね? われわれ二人、ことに私のほうは、監視人として長いあいだりっぱにやってきたんです。――あなただって、われわれが、役所の立場から言えば、よく監視したっていうことは、白状しなけりゃあならんはずだ。――われわれは、出世する見込みがあったんだ。きっと間もなくこの人みたいに笞刑吏になれたんだ。この人ときたら誰からも密告されないっていういい身分なんですよ。なぜってこんな密告なんてほんとうにほんのまれにしか起りませんからね。ところが今では万事おしまいです。われわれの出世も止ったし、監視人の役よりはずっと下の仕事をやらなきゃならないでしょうし、そのうえ、今はこんな恐ろしく痛い笞を食う始末ですからね」
「笞はそんなに痛いんですか?」と、Kはきき、笞刑吏が彼の前で振っている笞をよく見た。
「すっかり脱がされて裸にならなくちゃなりませんからね」と、ウィレムは言った。
「そうなんですか」と、Kは言い、笞刑吏をよくながめたが、水夫のように褐色《かっしょく》に日焼けして、野生的で元気のみなぎった顔をしていた。
「二人の笞を助けてやる見込みはありませんか」と、彼は男にきいた。
「だめだね」と、笞刑吏は言い、にやにやしながら頭を振った。
「着物を脱ぐんだ!」と、男は監視人たちに命令した。そしてまた、Kに言った。
「あいつらの言うことを全部信用しちゃいけませんぜ。なにせ笞が恐《こわ》くて少し頭が変になっているんだから。たとえば、ここのこの男が」――と、彼はウィレムのことを指さした――「自分の出世のことをしゃべったが、あれなんかはまったくばかげていまさあ。どうです、やつはなんて肥っているんだろう――笞で打っても最初は脂肪《あぶら》のなかに消えてしまいそうだ――なんでこの男があんなに肥っているかわかるかね? 逮捕者の朝飯を平らげちゃう癖があるからなんだ。あんたの朝飯を平らげちゃわなかったですかい? ね、おれの言ったとおりだ。ところでこんな腹をした男は、こんりんざい笞刑吏にはなれっこない、まったくなれっこありませんや」
「こういう腹の笞刑吏だっていますよ」と、ちょうどバンドをゆるめていたウィレムが言い張った。
「こら」と、笞刑吏は言い、笞で頸の上に一撃を加えたので、身体《からだ》をぴくぴく震わせた。「人の話なんか聞いていないで、着物を脱ぐんだ」
「この人たちを逃がしてくれたら、お礼はたっぷりしますよ」と、Kは言い、もう笞刑吏の顔は見ないで――こういう取引はお互いに眼を伏せたまますませるのがいちばんいいのだ――紙入れを取出した。
「きっとお次は、おれのことも密告し」と、笞刑吏は言った。「そしておれにも笞を食わせようっていうんだろう。だめだ、だめだよ!」
「よく考えてごらんなさい」と、Kは言った。「この二人が罰せられることを望んだのなら、いまさら金を出して助けてやるはずがないじゃないですか。ただこの戸をしめて、これ以上見たり聞いたりしたくないっていうんで家に帰れば、それでもすむんですよ。ところがそうはしない。むしろ、この人たちを逃がしてやりたいって真剣に考えているんです。二人が罰せられなきゃあならない、いやただ罰せられるかもしれない、とわかったなら、この二人の名前は言わなかったでしょう。私はこの二人に罪があるとは全然思いませんね。罪があるのは組織なんだ、上の役人たちなんだ」
「そのとおりですよ!」と、監視人たちは叫んだが、すぐ一撃をすでに着物を脱いだ背中に食った。
「もしここで君の笞の下に高位の裁判官がいるのなら」と、Kは言って、そう言いながらすでに振上げられていた笞を押えて下げさせた、「君がなぐることをほんとうに邪魔はしませんよ。反対に、君がそういういいことをやってくれるのを元気づけるために、金をやってもいいくらいだ」
「あんたが言うことは、もっともらしく聞えるが」と、笞刑吏は言った。「おれは賄賂《わいろ》なんかでだまされないぜ。おれの役目は笞でなぐることだから、なぐるまでだ」
 監視人のフランツは、おそらくKが割りこんできてよい結果になるものと期待しながらこれまでかなり控え目な態度でいたが、このとき、まだズボンだけははいたままで扉のところへ現われ、ひざまずいてKの腕に取りすがり、ささやいた。
「われわれ二人を助けていただけないなら、少なくとも私だけでも逃がす算段をやってみてください。ウィレムは私より年上で、あらゆる点で感じが鈍いですし、二年ばかり前に一度軽い笞刑を受けたことがあるんですが、私はまだそんな恥を受けたことはないし、ただウィレムに教えられたとおりにやっているだけなんです。あいつがよいにつけわるいにつけ、私の先生株でしてね。階下《した》の、銀行の前では、私の許婚《いいなずけ》が事の成行きを待っているんです。まったく恥ずかしくてたまらないくらいです」
 彼はKの上着で、涙でびしょぬれの顔をふいた。
「もう待ってはやらないぞ」と、笞刑吏は言い、両手で笞をつかみ、フランツに打下ろしたが、一方ウィレムは、隅にうずくまって、頭を動かそうともしないで、こっそり様子をうかがっていた。そのとき悲鳴があがったが、それはフランツのもらしたもので、とぎれず、変化のない叫びであり、まるで人間からではなく、拷問される機械からほとばしったように思われるものだった。廊下じゅうがその叫びで鳴りわたり、家全体がそれを聞いたにちがいなかった。
「わめいちゃいけない」と、Kは叫んだが、自分を抑えることができなかったのだった。そして、小使がやってくるにちがいない方角を緊張して見つめながら、フランツを突くと、それはたいして強かったわけではないが、それだけでもこの思慮を失った男は倒れ、痙攣《けいれん》しながら両手で床をかきむしるのだった。それでも殴打をのがれることはできず、笞は床の上にまで彼をつけまわし、彼が笞の下でころがっているあいだ、笞の先端は規則正しく上へ下へと飛んだ。そうしているうちにも遠くに小使が一人現われ、その二、三歩|後《あと》にはもう一人が現われた。Kは急いで扉をしめ、中庭に面した窓のひとつに歩み寄って、それをあけた。叫び声はすっかりやんだ。小使を近づけないために、彼は叫んだ。
「私だよ!」
「今晩は、主任さん」と、返事が叫んだ。「どうかしたんですか?」
「いや、なに」と、Kは答えた。「中庭で犬がほえているだけなんだ」
 それでも小使が動こうとはしないので、彼は言葉を足した。
「君たちは仕事をしていていいんだよ」
 小使たちと話をしなければならなくなる羽目にならぬように、窓から身体を乗り出した。しばらくしてまた廊下を見ると、小使たちはもう立ち去っていた。しかしKは窓ぎわにとどまっていて、物置部屋にはいろうともせず、家にもどりたくもなかった。見下ろすと、小さな四角の中庭で、そのまわりはぐるりと事務室が取囲み、窓はもうみな暗くなっていたが、最上階の窓だけが月光の反射を受けていた。Kは視線をこらして、二、三台の手押車をごちゃごちゃ集めてある木材置場の片隅の暗闇《くらやみ》のあたりを透かして見ようとした。笞刑を阻止することに成功しなかったことが彼の心を苦しめるのだったが、それがうまくゆかなかったのは彼の責任ではなく、もしフランツがわめかなかったら――確かにそれはひどく痛かったにはちがいないが、決定的なせつなには自分を抑えなくてはならぬものだ――もし彼がわめかなかったら、Kはまだ笞刑吏を説き伏せる手段を見つけだしたことだろうし、少なくともそれはきわめてありうべきことだった。最下級の役人どもがみな無頼漢なら、最も非人間的な役目を受持っている笞刑吏などはどうして例外であるはずがあろう。それにKは、あの男が紙幣を見て眼を輝かすさまをよく観察したし、男は明らかにただ賄賂《わいろ》の金額をせり[#「せり」に傍点]上げるために、大まじめで笞を振るう気配を見せたのだった。そしてKは金を惜しまなかったろう。監視人を逃がしてやることがほんとうに彼の関心事だった。この裁判組織の腐敗と戦うことを始めた以上、この方面からも手をつけるということは、当然なことだった。ところがフランツがわめき始めた瞬間に、もちろん万事はおしまいになってしまった。小使たちや、おそらくはここにいるあらゆる人々がやってきて、彼が物置部屋で連中と掛け合っている場面を襲われることは、Kにも我慢ができかねた。こんな犠牲はほんとうになにびとも自分に要求することはできないのだ。もし彼がやる気があるのだったら、自分自身で着物を脱ぎ、笞刑吏に自分が監視人の身代りになると申出たほうが、実際事はほとんどいっそう簡単であった。ところで笞刑吏はこの身代りをきっと受入れはしなかっただろう。なぜなら、そんなことをすれば、少しも利益にはならぬばかりか、彼の義務をひどくそこなうことになり、Kが訴訟手続中であるかぎり、裁判所のあらゆるメンバーに対してKに手をかけることが禁じられているにちがいないから、おそらくは二重に義務をそこなうことになったろう。もちろん、この場合には特別な規定が通用したかもしれない。いずれにもせよ、Kは扉をしめる以外にできることもなく、だからといってそれでKにとってあらゆる危険がまったく除かれるというわけのものでなかった。最後にフランツを突いたことは残念だが、興奮していたということだけで申し訳がたつというものだ。
 遠くで小使たちの足音が聞えた。彼らに目だたぬように、窓をしめ、中央階段のほうに行った。物置部屋の扉のところでしばらく立ち止り、聞き耳をたてた。まったく静まりかえっていた。あの男が監視人たちをなぐり殺してしまったのかもしれない。実際、彼らはまったく男の手中に納まったのだった。Kは把手《とって》に手を伸ばしかけたが、また引っこめた。もう誰も助けることはできないし、小使たちがすぐやってくるにちがいなかった。しかし、この事件をなお持ち出し、ほんとうの罪人、つまり自分の前に誰も姿を見せようとはしない高位の役人たちを、自分の力のかぎり、それ相応に罰してやろう、と心に誓った。銀行の表階段を降りながら、念入りに通行人たちを見たが、誰かを待っているような娘などはかなり広い範囲にわたって見受けられなかった。許婚《いいなずけ》が待っていると言ったフランツの言葉は、大いに同情をひこうという目的のためだけであるような、もちろん許してやるべき偽りであったことがわかった。
 次の日もまだ、監視人のことがKの念頭を離れなかった。仕事をしていても気が散って、無理にやってしまおうと思ったので、前日よりもなお少し長く事務室に居残らなければならなかった。帰りがけにまた物置部屋の前を通りかかり、習慣になっているかのように扉をあけてみた。真っ暗なはずと思っていたのに現実に見たものは、とうてい理解できなかった。万事が、昨晩扉をあけたとき見たままで、少しも変っていなかった。すぐ敷居の後ろまで来ている印刷物とインク瓶、笞を手にした笞刑吏、相変らずすっかり裸の監視人たち、棚の上の蝋燭、そして監視人たちは訴え、叫びはじめるのだった。
「ああ、あんた!」
 すぐKは扉をしめ、しっかとしめでもするかのように、拳《こぶし》で扉をたたいた。ほとんど泣きださんばかりに小使たちのところへ走ってゆくと、彼らはのんびりと謄写版の仕事をしていたが、驚いて仕事の手を休めた。
「物置部屋を片づけちまってくれないか!」と、彼は叫んだ。「まったく塵《ちり》の中に埋まっちまうよ!」
 小使たちは、明日掃除をするつもりでいた、と言ったので、Kはうなずき、もう夜も遅くなった今、自分が考えたとおり仕事を無理にさせるわけにもゆかなかった。小使をしばらく身近におこうと思って、しばらく腰をおろし、二、三枚の謄写をひっかきまわし、それで自分が謄写を調べているように見せかけることができたと思い、自分といっしょに小使たちが帰ろうとはしていないのを見てとったので、疲れきって、ぼんやりと、家へ帰っていった。

第六章 叔父《おじ》・レーニ

 ある日の午後――ちょうど郵便締切日の前なのでKは非常に忙しかったが、書類を持ってはいってくる二人の小使のあいだを押し分けて、田舎《いなか》の小地主であるKの叔父のカールが部屋にはいってきた。彼が叔父の姿を見かけてもたいして驚かなかったのは、それよりかなり前に、叔父がやってくるという知らせを受けてすっかり驚いていたからだった。叔父がやってくるということは、すでに約一カ月も前からKにはわかっていたことだった。すでにそのとき、叔父が少し前かがみになり、左手にぺしゃんこになったパナマ帽を持ち、右手を遠くのほうから自分に差出し、邪魔になるあらゆるものにぶつかりながら、あたりかまわぬ急ぎかたで机越しに手を握る有様が、Kには眼に見えるようだった。叔父は絶えずせかせかしていたが、いつもただ一日しか滞京しないのに、そのあいだに計画してきたことをみんな片づけなければならない、そのうえ、たまたま生じた面会や用談や楽しみなども何ひとつ逃すまい、という面倒な気持に追い立てられているからだった。そういう場合にKは、昔自分の後見人になってもらったこともあり恩があるので、あらゆる事柄で世話もせねばならず、そのうえ、自分のところに泊めなくてはならなかった。「田舎から来る幽霊」と、Kは日ごろ叔父のことを呼んでいた。
 挨拶《あいさつ》をすませるとすぐ、――肘掛椅子《ひじかけいす》にすわるようKはすすめたが、叔父はその余裕すらなかった――二人だけで少し話したいことがある、とKに頼んだ。
「どうしても人払いが必要なんだ」と、叔父は苦しげに唾《つば》をのみこみながら言った。「わしの安心のためには必要なんだ」
 Kはすぐさま、誰も部屋に入れてはいけないと命じて、小使たちを部屋から出した。
「いったいなんということをやったのだ、ヨーゼフ?」と、二人きりになったとき叔父は叫び、机の上にすわり、すわり心地をよくするためさまざまな書類を見境もなく尻《しり》の下に詰めこんだ。Kは黙っていた。なんの話かわかってはいたが、夢中になっていた仕事の緊張を突然解かれたので、まず心地よい疲労に身をまかせ、窓越しに向う側の通りをながめていた。彼の席からは、ただ小さな三角形の部分、二つの陳列窓のあいだの何もない壁の部分が見えるだけだった。
「窓の外なんか見ている!」と、叔父は腕をあげて叫んだ。「後生だから答えてくれ、ヨーゼフ! ほんとうなのか、いったいあんなことがほんとうにありうることかね?」
「叔父さん」と、Kは言って、ぼんやりしていた気持を振切った、「なんのことやらさっぱりわかりませんが」
「ヨーゼフ」と、叔父はたしなめるように言った。「わしの知るかぎり、お前はいつもほんとうのことを言ってきた。ところがお前の今の言葉を聞くと、どうもそれをわるいしるしととらなきゃならんようだね?」
「ああ、叔父さんの用件がわかりましたよ」と、Kは素直に言った、「きっと私の訴訟のことをお聞きになったんですね」
「そうだよ」と、ゆっくりうなずきながら、叔父は答えた。「お前の訴訟のことを聞いたんだ」
「いったい誰からですか?」と、Kはきいた。
「エルナが手紙で言ってよこしたんだ」と、叔父は言った。「あれはお前とは全然交渉がないし、残念ながらお前はたいしてあれのことを気にかけていない。それでもあれはそのことを聞いたんだぞ。今日あれの手紙をもらって、もちろんすぐここへやってきたんだ。別にほかの理由はなかったが、これだけでも十分理由になるように思われるな。お前に関する手紙の個所を読んでやるぞ」
 彼は紙入れから手紙を取出した。
「ここにある。こう書いてあるぞ。『ヨーゼフにはもうずっと会っておりません。先週一度銀行へまいりましたが、ヨーゼフはたいへん忙しく面会してもらえませんでした。ほとんど一時間ほども待ちましたが、ピアノのお稽古《けいこ》がありますので、家へ帰りました。あの人とお話ししたく思っておりますが、近く機会があることと思います。私の名付日にはあの人から大箱のチョコレートを贈ってもらいました。とてもかわいらしく、人目につきました。そのときお知らせすることを忘れておりましたが、お尋ねがあったので今やっと、思い出しました。チョコレートは、寄宿舎ではすぐなくなってしまいますのよ。チョコレートを贈ってもらったんだということを思い出すか出さないうちに、もうどこかへ行っていますわ。でもヨーゼフのことでは、もう少しお知らせしておきます。今書きましたとおり、銀行では、ちょうどどなたかとお話ししているというので、面会できませんでした。しばらくじっと待ってから、お話はまだ続きましょうか、と小使さんにきいてみましたの。そうしたら、きっとそうなるだろう、主任さんに対して起されている訴訟のことらしいから、という話でした。どんな訴訟なんですか、お間違いではないんですか、って私はききました。すると、いや間違いじゃない、訴訟だし、しかも重要な訴訟だ、けれどこれ以上のことは自分にはわからない、ということでした。自分も主任さんをよろこんでお助けしたい、あの人はいい、正しい人だから、でもどうやって始めたらいいのかわからない、ただ有力な人たちがあの人のことを取上げてくれるのを祈っているだけだ。きっとそうなるだろうし、結局はうまい決着がつくだろうけれど、主任さんの機嫌《きげん》から察するのに、さしあたりはどうもあまりうまくはいっていないらしい、ということでした。この話はもちろんたいして重要なものではないと思いましたし、単純そうな小使さんを慰めようと思って、ほかの人々に向ってそのことをしゃべらぬように言いましたが、みんなおしゃべりにすぎないと考えております。でも、お父様、今度こちらにおいでの節に、よくお調べになるなら、きっとためになることでしょうし、詳しいことをきき、またほんとうに必要ならば、お父様の大勢の有力なお知合いの方々の手を借りて事件に口をきくことは、お父様にはやさしいことでしょう。でも、そういうことが必要でないとしても、――そして必要でない場合がほんとうにいちばんありそうなことだと思われるのですけれど――少なくともあなたの娘にお父様を抱く機会を与えてくださるでしょうし、そうしたらうれしいと思います』――いい子だ」と、叔父は朗読をやめると、言って、二、三滴の涙を眼からぬぐうのだった。
 Kはうなずいたが、最近のさまざまなごたごたのためすっかりエルナのことを忘れ、彼女の誕生日のことも忘れていたので、チョコレートの話は明らかにただ、自分のことを叔父と叔母とに対してよく思わせてくれようとする心づかいから考えだしたものだった。それは非常にいじらしく、これからはきちんきちんと送ってやろうと思った芝居の切符ではきっと十分に償いきれないものだったけれども、寄宿舎を訪《たず》ね、ちっぽけな十八歳の女学生と話をするなどという気には今はなれなかった。
「で、どうだね?」と、叔父はきいたが、手紙ですっかり、急いでいたこと、興奮していたこと、を忘れてしまい、もう一度手紙を読んでいるらしかった。
「ええ、叔父さん」と、Kは言った。「ほんとうにそうなんです」
「ほんとうだって?」と、叔父は叫んだ。「ほんとうってどういうことなんだ? そんなことがほんとうだなんて、ありうることかい? どんな訴訟なんだ? でも刑事訴訟じゃあるまいな?」
「刑事訴訟なんです」と、Kは答えた。
「で、お前はここに落着きはらってすわっていながら、刑事訴訟を背負いこんでいるのか?」と、叔父は叫んだが、声がいよいよ大きくなっていった。
「落着いていればいるほど、結果はいいんです」と、Kは疲れたように言った。「心配しないでください」
「そんなことじゃ、わしのほうは安心できん!」と、叔父は叫んだ。「ヨーゼフ、なあヨーゼフ、自分のこと、親戚《しんせき》のこと、わしたちの家名のことを考えてごらん! お前はこれまで一門の名誉だったし、これからも一門の恥となってはいけないぞ。お前の態度は」と、彼は頭を斜めにかしげてKをじっと見つめた。「わしの気に入らん。まだ元気いっぱいでいる潔白な被告の態度じゃないぞ。さあ早く言いなさい、何に関したことなんだ、わしはお前を助けてやるから。もちろん、銀行に関したことなんだろう?」
「ちがいますよ」と、Kは言い、立ち上がった。「叔父さんの声は大きすぎますよ。きっと小使が扉のところに立って、聞いています。それは不愉快ですからね。むしろ外に行きませんか。外に出たら、何なりと叔父さんの質問にお答えしますよ。身内の人たちにも弁明しなけりゃならないとは、重々わかっていますからね」
「そうだ!」と、叔父は叫んだ。「まったく言うとおりだ、さあ急ぐんだ、ヨーゼフ、急ぐんだ!」
「まだ少し言いつけておかねばならないことがありますから」と、Kは言い、電話で代理を呼んだが、代理はすぐやってきた。興奮している叔父は、わざわざやらなくたってきまりきったことなのに、あなたを呼んだのはこの男だ、と代理に手でKのことをさしたりするのだった。Kは机の前に立ち、低い声でいろいろな書類を取上げながら、自分がいないあいだ今日のうちに片づけねばならないことをその若い男に説明したが、相手は冷やかな、しかし注意深い態度で聞いていた。叔父は、もちろん話を聞いているわけではないが、まず眼を丸くし、神経質そうに唇《くちびる》を噛《か》みながらそばに立って邪魔になっていたが、この様子だけでもすでに十分邪魔になるのだった。しかし次に、部屋のなかをあちこちと歩きまわり、窓の前とか絵の前とかに立ち止っては、しょっちゅう、「わしにはまったくわからん」とか、「いったいこれからどういうことになるのか言ってみなさい」とかいうように、いろいろ叫び声をあげるのだった。若い男はそれが全然気にならぬようで、Kの頼むことを終りまで落着いて聞き、いくらかメモをとって、Kと叔父とに一礼してから、出ていったが、叔父はちょうど男に背を向け、窓から外をながめ、両手を伸ばしてカーテンを皺《しわ》くちゃにしていた。扉がしまるかしまらぬうちに、叔父は叫んだ。
「とうとう操《あやつ》り人形が出ていった。今度はわしらが出てゆく番だ。さあ、これで出てゆける!」
 ホールには二、三人の行員や小使があちこちに立っており、またちょうど支店長代理が横切ってゆくところだったが、都合がわるいことに、訴訟についての質問をやめさせる手段がなかった。
「で、ヨーゼフ」と、叔父はそのあたりに立っている人々の挨拶に軽い会釈で答えながら、言い始めた。「もうはっきりと言ってくれ、どんな訴訟なんだ」
 Kは何か口ごもりながら、少し笑いもし、階段のところへ来てからやっと、人がいるところではおおっぴらに話したくないのです、と叔父に説明した。
「ほんとうにそうだ」と、叔父は言った。「だがもう話してもいいだろう」
 頭をかしげて、葉巻を短く、せわしげにぷかぷかふかしながら、叔父は一心に聞いていた。
「叔父さん、まずお断わりしておきますが」と、Kは言った。「普通裁判所の訴訟じゃないんです」
「それはいかん」と、叔父は言った。
「どうしてですか」と、Kは言い、叔父をじっと見つめた。
「それはいかん、って言うのだ」と、叔父は繰返した。
 二人は通りに通じる表階段の上にいた。門衛が聞き耳をたてているようなので、Kは叔父を引っ張りおろした。街路のにぎやかな往来が二人を迎えた。Kの腕にすがった叔父は、もうあまりせきこんで訴訟のことをきかなくなり、しばらくは黙りさえして歩みを進めた。
「だがどういうことが起ったのだ?」と、ついに叔父がきいたが、突然立ち止ってしまったので、その後ろを歩いていた人々は驚いて避けた。
「こんなことは突然起るものじゃなし、ずっと前からじっくり起ってくるのだから、その徴候もあったにちがいないのに、なぜ手紙でそれを言ってよこさなかったんだ? お前も知っているとおり、わしはお前のためになんでもやってきているし、今でもいわば後見人と言えるくらいで、わしは今日までそれを誇りにしてきた。もちろん今でもお前を助けてやるつもりだが、訴訟がもう始まっているとすると、どうもむずかしいぞ。ともかく、ここで少し休暇を取り、田舎のわしらのところへ来るのがいちばんいいだろう。それにお前は少し痩《や》せたぞ、どうもそう見える。田舎でお前は元気になるだろうし、そうなればよいことだ。なにしろこれから先も、きっといろいろと骨が折れようからな。それに、田舎へ行けば裁判所からもある程度逃げられる。ここではいろいろな権力手段があって、それをかならず自動的にお前にも適用するだろう。ところが田舎では、まずいろいろな機関を派遣するとか、ただ手紙や電報や電話でお前に働きかけようとするくらいのものだ。それならもちろん、効果が減るし、お前を解放はしないにしても、息がつけるだろう」
「ここを離れることは禁じるかもしれませんよ」と、叔父の話に少し釣りこまれたKは言った。
「そんなことをするとは、わしは思わん」と、叔父は考えこんだように言った。「お前が旅行に出たために役所の権力が減る面は、そんなに大きくはあるまい」
「叔父さんは」と、Kは言い、叔父を立ち止らせておかないように腕を取った、「私ほどこの事件に重きをおかないものと思っていましたが、ご自身でどうもむずかしく考えておられるようですね」
「ヨーゼフ」と、叔父は大声をあげ、立ち止ることができるようにKから逃れようとしたが、Kがそうはさせなかった。「お前は変ったな。お前はいつも非常に考える力がしっかりしていたのに、今はどうもどこかへ置き忘れたようだぞ? 訴訟に敗《ま》けてもいいのか? そうなったらどうなるのか、知っているか? そうなったら、お前は簡単に抹殺《まっさつ》されちゃうんだぞ。親戚全体が巻きこまれるか、少なくとも徹底的に辱《はずか》しめられるんだぞ。ヨーゼフ、しっかりしておくれ。お前のどうでもいいというような態度は、わしから正気を奪ってしまうほどだ。お前の様子を見ていると、『こんな訴訟があるからは、もう敗けたも同然だ』っていう諺《ことわざ》をほとんど信じたくなるくらいだ」
「叔父さん」と、Kは言った。「興奮は無用です。興奮しているのは叔父さんのほうだし、また私のほうもそうかもしれません。興奮したんでは訴訟に勝てませんからね。叔父さんのご経験は少々私を驚かせますが、いつも、そして今でも大いに尊敬しているんですから、私の実地の経験も少しは認めてください。身内の者まで訴訟によってわずらわされるって叔父さんがおっしゃられるんですから、――このことは私としてはまったく理解できませんが、まあそれは別なことだからやめましょう――よろこんでなんでもおっしゃることに従うつもりです。ただ田舎に滞在するということだけは、叔父さんのお考えの意味ででも利益になるとは思われませんね。そんなことをすりゃあ、逃げたことになるし、罪を自覚していることになりますからね。それに、ここにいるといよいよ追いまわされはするものの、また自分でもっと事を動かすこともできるんです」
「もっともだよ」と、叔父は、今はやっと互いに歩み寄りができた、というような調子で言った。「わしがそういうことを言いだしたのはただ、お前がここにいると、事がお前の無関心な態度で危なくなるように思えたし、わしがお前のかわりに事をやればいっそうよいと考えたからだ。だがもしお前が全力をあげて自分でやろうというのなら、もちろんはるかによいことだ」
「それじゃこの点で私たちは一致したわけです」と、Kは言った。「そこで、私がまずやらなきゃあならないことについて、何かお考えがありますか?」
「もちろん事柄をもっと考えてみなくちゃならん」と、叔父は言った。「お前もわかってくれるだろうが、わしはもうこれで二十年もほとんど田舎に居きりなので、こういう方面の勘が鈍ってしまったよ。こっちにいておそらく事情に明るい人たちとの、さまざまな肝心なつながりも、自然とゆるんでしまった。お前もよく知っているとおり、わしは田舎で少し見捨てられていたんだ。ほんとうにこんな事件にぶつかってみて初めて、自分でもそれがわかる。奇妙なことにエルナの手紙を読んだだけでそういうことがいくらかわかったし、今日もお前の顔を見ただけで、ほとんどはっきりわかったんだが、お前のこの事件は少々意外だったな。だがそんなことはどうでもよろしい、今いちばん大切なのは、時を失わないということだ」
 こう話しているうちにもう、爪立《つまだ》ちながら一台の自動車に合図して、運転手に行先をどなってやりながら、Kを後ろ手で自動車に引っ張りこんだ。
「これからフルト弁護士のところへ行こう」と、彼は言った。「あの男はわしの同窓生だった。お前も名前は知っているだろう? 知らないか? だが変だね。貧乏人の保護者で弁護士として、たいへん名声の高い人だ。だがわしは、人間としてのあの男に大いに信頼をおいている」
「叔父さんのやられることは、なんでも私には結構ですよ」と、叔父が用件を取扱ういかにもせっかちな、押しつけがましいやりかたに不快を覚えさせられたが、Kは言った。被告として貧民相手の弁護士のところへ行くことは、あまり愉快なことではなかった。
「こんな事件にも弁護士を頼めるものとは知りませんでした」と、彼は言った。
「もちろんだよ」と、叔父は言った。「わかりきったことじゃないか。どうして頼めないなんていうことがある? ところで、事件を詳しく知っておくため、わしにこれまで起ったことを話してくれないか」
 Kはすぐ話し始めたが、何も隠しだてはしなかった。完全にぶちまけるということが、訴訟は大きな恥辱だ、という叔父の意見に対してあえてやれる唯一の抗議だった。ビュルストナー嬢の名前はただ一度だけ、ほんのついでに口に出しただけだったが、それは何も公明正大になんでも言うという態度を傷つけるものではなかった。ビュルストナー嬢は訴訟とは何も関係がなかったからである。話しながら窓越しにながめ、自分たちがちょうど裁判所事務局のあった例の郊外に近づいているのを見てとり、叔父にそのことを注意したが、叔父はその偶然の一致をさして驚くべきこととは思わなかった。車は一軒の暗い家の前に止った。叔父は、すぐ一階のとっつきの部屋の扉のベルを鳴らした。待ちながら、にやにやして大きな歯をむきだし、ささやいた。
「八時だ。訴訟のことで行くのには尋常じゃない時間だな。しかしフルトはわしのことをわるくは思うまい」
 扉ののぞき窓に、二つの大きな黒い眼が現われ、しばらく二人の客をじっと見つめて、消えた。ところが扉はあかなかった。叔父とKとは互いに、二つの眼を見たという事実を確かめ合った。
「新しい女中で、見知らぬ人間を恐がっているんだろう」と、叔父は言い、もう一度ノックした。また眼が現われ、今度はほとんど悲しげに見えるのだったが、おそらくはただ、二人の頭のすぐ上で強くじいじい音をたてて燃えてはいるがほとんど光を出してはいない裸ガス燈の生みだした錯覚だったかもしれなかった。
「あけてくれ」と、叔父は叫んで、拳《こぶし》で扉をたたいた。「弁護士さんの友達なんだ!」
「弁護士さんは病気ですよ」と、彼らの後ろでささやく声がした。小さな廊下の向うの隅《すみ》の扉に寝巻姿の紳士が立ち、きわめて低い声でこう知らせたのだった。すでに長く待たされて腹のたっていた叔父は、ぐいと振向いて、叫んだ。
「病気? あの男が病気だっておっしゃるんですね?」そして、その紳士が病気そのものででもあるかのように、ほとんど挑《いど》みかかるような様子で男のほうに近づいていった。
「扉をもうあけましたよ」と、その紳士は言い、弁護士の扉を指さし、寝巻をかき合せて、消えた。扉はほんとうに開かれており、一人の若い娘が――黒い、少し飛び出た、あの眼をKはふたたび認めた――長い白エプロン姿で控えの間に立ち、蝋燭《ろうそく》を一本手にしていた。
「この次はもっと早くあけてください!」と、叔父は挨拶《あいさつ》するかわりに言ったが、娘のほうは少し膝《ひざ》をかがめて挨拶をした。
「おいで、ヨーゼフ」と、ゆっくりと娘のそばを通り過ぎるKに叔父は言った。
「弁護士さんはご病気です」と、叔父は止っていないでどんどん扉のほうに行くので、娘は言った。
 Kはまだぽかんと娘をながめていたが、娘のほうはすでに向き直って、入口の扉をまたしめにいった。人形のような格好の丸い顔で、蒼《あお》ざめた頬《ほお》と顎《あご》とが丸みを帯びているばかりでなく、こめかみも額ぎわも丸みを帯びていた。
「ヨーゼフ!」と、叔父はまた叫び、娘にきいた。
「心臓病かね?」
「きっとそうだと思います」と、娘は言い、蝋燭を携えて先に立ち、部屋の扉をあける暇をとらえた。蝋燭の光がまだ届かない部屋の隅のベッドで、長い髯《ひげ》の顔が身を起した。
「レーニ、誰が来たんだ?」と、蝋燭に眼がくらんで客の見分けがつかない弁護士がきいた。
「アルバート、君の旧友だよ」と、叔父は言った。
「ああ、アルバートか」と、弁護士は言い、この訪問客には何も取繕うことは要《い》らないというように、布団の上にぐったりと倒れた。
「ほんとうにそんなにわるいのかい?」と、叔父は言い、ベッドの縁に腰をおろした。「わしはそうは思わんぞ。いつもの心臓病の発作だよ。いつもと同じようにすぐ直るよ」
「そうかもしれないが」と、弁護士は低い声で言った。「でも今度はこれまでよりもわるいんだ。呼吸が苦しく、全然眠れないし、日ましに弱ってゆくんだ」
「そうか」と、叔父は言い、大きな手でパナマ帽をしっかと膝に押しつけた。
「そいつはわるい知らせだな。ところでちゃんと養生しているのか? それにここはどうも陰気で、暗いな。この前ここに来てからもうだいぶになるが、あのときはもっと親しみがあるように思えたぞ。ここにいるお前の小娘もあまり陽気じゃなさそうだし、どうもとりすましているな」
 娘はまだ蝋燭を手にして、扉の近くに立っていた。どうもはっきりしない彼女の眼差《まなざし》から推しはかるのに、叔父が今自分のことを話しているのだからそのほうを見たらよさそうなものなのに、叔父よりもむしろKを見ていた。Kは、娘の近くまでずらしていった椅子にもたれていた。
「おれのように病気だと」と、弁護士は言った。「安静にしなければならん。おれには別に陰気じゃないよ」そして少し間を置いてから、言葉を足した。「それにレーニはよくおれを看病してくれるよ。いい娘だ」
 しかし、その言葉に叔父は承服できず、明らかに看護婦に偏見をいだいているらしく、病人には何も言わなかったが、看護婦がベッドのところへ行き、蝋燭を夜間用の小さな机の上に置き、病人の上に身をかがめて、布団を整えながら病人と小声で話すのを、きびしい眼つきで追っていた。ほとんど病人への心づかいなどは忘れてしまい、立ち上がって看護婦の後《あと》にあちこちとついてまわり、たとい叔父が娘の首筋をとらえてベッドから引離したとしても、Kには不思議ではないように思われるのだった。K自身は万事を冷静にながめていたし、弁護士の病気はまったくあつらえむきでないわけでもなかった。叔父が自分の事件のためにやってくれている熱心さには逆らうこともできなかったので、別段自分が手を加えもしないでその熱心さがこういうふうにそらされることを、Kはよろこんで迎えたのだった。そのとき叔父が言ったが、おそらくただ看護婦を傷つけてやろうというつもりだけの言葉だった。
「看護婦さん、しばらく二人だけにしてくれないかね。友達と個人的な用件で話さねばならぬことがあるんだ」
 まだ病人の上にずっと身体《からだ》をかがめて、ちょうど壁ぎわの掛布団を伸ばしていた看護婦は、頭だけを向けて非常に落着いて言ったが、それは、怒りのためにつまってしまうかと思うとまた流れ出る叔父の話と、著しい対照をなしていた。
「ごらんのとおりたいへん病気が重いのですから、どんな用件もお話しはできません」
 看護婦は叔父の言葉をおそらくはただ億劫《おっくう》がって繰返したにすぎなかったのであろうが、ともかくそれは第三者から見てさえ嘲笑《ちょうしょう》しているもののようにとられ、叔父はもちろん、ちくりとやられた者のように飛び上がった。
「こん畜生」と、興奮のため喉《のど》を鳴らしはじめながら、まだ明瞭《めいりょう》に聞き取れはしない調子で言ったが、どうせそんなことになるだろうと予期していたKも仰天し、両手で口を押えてやろうというはっきりとした意図をもって叔父のところへ走り寄っていった。しかし好都合なことに、娘の後ろで病人が身体をもたげ、叔父は、何かいやなものをのみこんだような苦い顔をしたが、次に少し落着いて言った。
「もちろん、お互いに理性を失ってしまったわけじゃない。わしの要求することができない相談なら、わしも無理には要求すまい。だがもう出ていってくれないか!」
 看護婦はベッドのそばにしっかと立ち、完全に叔父のほうを向き、Kにはそれが見られたように思えたのだが、片手で弁護士の手をさすっていた。
「レーニの前ならなんでも言えるよ」と、疑いもなく切に願うような調子で、病人は言った。
「わしのことじゃないんだ」と、叔父は言った。「わしの秘密じゃないんだ」
 そして彼は向き直ってしまい、もう言い合いをやっているつもりはないが、まあちょっと考える余裕を与えてやろう、という様子だった。
「いったい誰のことなんだ?」と、消え入るような声で弁護士はきき、また身体を横にした。
「わしの甥《おい》なんだよ」と、叔父は言った。「いっしょに連れてきたよ」そして、紹介した。「業務主任ヨーゼフ・K」
「おお」と、病人はずっと元気になって言い、Kに手を差伸べた。「ごめんなさい、あなたには全然気がつきませんでした。レーニ、あっちへ行きなさい」と、看護婦に言ったが、娘のほうも全然逆らわず、病人はまるで長い別れででもあるかのように彼女に手を差伸べた。
「それじゃ君は」と、病人はついに叔父に言ったが、叔父も気持が解け、彼のほうに近寄った。
「見舞いに来てくれたんじゃなくて、用事で来たんだね」
 病気見舞いという考えがこれまで弁護士をうんざりさせていたかのようで、そこで今は元気づいたように見え、かなり骨の折れることであるのにちがいないのに、絶えず一方の肘で身体をささえたままの姿勢をとり、髯の真ん中あたりの一束をしょっちゅう引っ張っていた。
「あの阿魔《あま》が出ていってから」と、叔父は言った。「君はすっかり元気になったようだぞ」
 ここで言葉を切り、ささやいた。
「請け合うが、あの女め立ち聞きしている!」
 そして扉に飛びついて行った。しかし、扉の背後には誰もいなかったので、叔父はもどってきたが、彼女が立ち聞きしていないことは叔父にはいっそう陰険なことに思われたので、少しも失望してはいなかったけれども、確かに気をわるくしてはいた。
「君はあれを誤解しているよ」と、弁護士は言ったが、それ以上看護婦のことをかばおうとはしなかった。おそらくそれで、あの娘はかばう必要がないのだ、ということを言い表わそうとしたのであろう。しかし、ずっと熱心な調子で彼は言葉を続けた。
「君の甥御さんのことだが、もしこのきわめてむずかしい問題にぶつかれる元気がわしにあるなら、もちろんわしもたいへん幸《しあわ》せだと思っている。ただそれだけの元気があるかどうか大いに心配なんだが、ともかくなんであろうとやってみないで投げたくはないからね。もしわしで十分ではないなら、誰かほかの人を頼むこともできる。正直に言って、この事件にはたいへん興味があるんで、思いきってそれを手がけることをあきらめる気にはとうていなれない。もしわしの心臓がそれに耐えられないというのなら、少なくともここで、弁護士商売なんか完全に思いきる絶好の機会が見つかるというものだ」
 Kは、この話がさっぱりわからぬように思えて、説明を求めようとして叔父の顔を見つめたが、叔父のほうは蝋燭を手にして夜間用の机のそばにすわり、早速机から薬瓶《くすりびん》を絨毯《じゅうたん》の上にころがし落してみせ、弁護士の言うことのなんにでもうなずき、なんにでも同意しては、ときどきKにも同じような同意を促して彼の顔をうかがうのだった。おそらく叔父はすでに前もって弁護士に訴訟のことを言っておいたのだろうか? しかし、そんなことはありうるはずがなく、これまでここで起ったことはすべて、そんなことがないということを物語っているのだった。それゆえ、彼は言った。
「私にはおっしゃることがわかりませんが――」
「ほう、あなたのことを誤解しているとでも言われるんですかな?」と、弁護士のほうもKと同じように驚き、かつ当惑してたずねた。
「おそらく先走りしすぎたんでしょう。いったいなんのことで私と相談なさろうと言われるんですか? あなたの訴訟のことだとばかり思っていました」
「もちろんだよ」と、叔父は言い、次にKにたずねた。「いったい、どうしようっていうんだ?」
「そうなんですが、いったい私のことや訴訟のことをどこからお聞きになったんです?」と、Kはきいた。
「ああ、そのことですか」と、弁護士は微笑しながら言った。「わしは弁護士ですからね。裁判所の人たちと付合いもあるし、いろいろな訴訟、目だつ訴訟について話も出るわけだし、ことに友人の甥御さんのことともなれば、覚えてもいますよ。それに不思議はないわけです」
「いったいどうしようっていうんだ?」と、叔父はもう一度きいた。「お前はどうも落着きがないよ」
「あなたは裁判所の人たちと付き合っているんですね?」と、Kがきいた。
「そうですよ」と、弁護士が言った。
「お前は子供のようなことをきくね?」と、叔父は言った。
「自分の専門の人たちと付き合うんじゃなければ、いったい誰と付き合うんでしょう?」と、弁護士が言い足した。
 その言葉の響きは抗しがたいものがあったので、Kは全然返事をしなかった。
「でもあなたは大審院なんかの裁判で仕事をするんで、屋根裏なんかでするんじゃないでしょう」と、彼は言おうと思ったが、でも思いきってそれを実際言いだすことはできなかった。
「あなたもよくわかっていてもらいたいが」と、何かわかりきったことをついでにくどくど説明するような調子で、弁護士は言葉を続けた。「あなたもよくわかっていてもらいたいが、こういう付合いから弁護依頼人にとってのさまざまな大きな利益を引出せるんでね。しかもいろいろな点でだ。もっともそのことは伏せておいてくださらぬと困るがね。もちろんわしは今、病気のために少し思うようにゆかぬ点があるが、それでも裁判所のいい友達に見舞いに来てもらい、少しは耳に入れているんです。おそらく、ぴんぴんして一日じゅう裁判所で暮している多くの人たちよりもよけいに聞いていますよ。たとえばちょうど今もありがたい訪問客に来てもらっているんですよ」そうして暗い部屋の隅を指さした。
「いったいどこに?」と、驚いてしまったKは荒々しくきいた。彼はおろおろとあたりを見まわした。小さな蝋燭の光は向う側の壁まではとうてい届かなかった。ところがほんとうにその片隅に、何かが動きはじめた。そのとき叔父が高々と上げた蝋燭の光を浴びて、そこの小さな机のそばに一人の中年の紳士がすわっていた。その人物はきっと全然呼吸をしなかったので、そんなに長いあいだ気づかれなかったのだったろう。自分に注意が向けられたことに明らかに不満らしく、その人物は大仰に立ち上がった。短い翼のように両手を動かして、紹介や挨拶はいっさいお断わりと言おうとするかのようであり、どんなことがあっても自分が居合すことによって他人の邪魔をしたくはない、どうかまた暗がりに置いて自分がいることなど忘れてもらいたい、と願っているようであった。しかしこうなってはもうそんなわけにもゆかなかった。
「あなたには驚かされましたよ」と、弁護士は説明じみた調子で言い、同時にその紳士には促すようにこっちにいらっしゃいと合図をしたが、この人物はゆっくりと、ためらうようにあたりを見まわしながら、しかし一種の品位をもって近づいてきた。
「事務局長さん、――ああ、そうだ、ごめんください、ご紹介しませんでしたな、――こちらは友人のアルバート・K、こちらは甥御さんの業務主任ヨーゼフ・K、そしてこちらは事務局長さん。――で、事務局長さんはご親切にもおいでくださったのだ。こんなご訪問の価値というものは、ほんとうはただ、事務局長さんがどんなに仕事でお忙しいかという消息に通じているものだけがわかるんだよ。さて、それにもかかわらずこの方はおいでくださったので、もちろん、弱っているわしに許されるかぎり、いろいろお話ししていたんだ。訪問客があったらお断わりしろ、とレーニには命じてはなかったが、わしらだけで話そうという考えだったのだ。ところが君が扉を拳《こぶし》でたたいたわけだ、アルバート、そこで事務局長さんは椅子と机とを持って隅に引っこまれた。だがこうなると、できるだけ、つまりもしそうしようとする希望があるのなら、共通の用件について相談し合わなければならないし、うまく歩み寄りもできるということは、わかりきったことだ。――では事務局長さん」と、弁護士は頭をかしげ、卑屈な薄笑いを浮べて言い、ベッドの近くの安楽椅子を示した。
「残念ながらもうほんの少ししかお邪魔しておられません」と、事務局長は親しげに言い、ゆったりと安楽椅子にすわり、時計を見るのだった。「用事に追われていてね。だがいずれにせよ、私の友人のお友達とお知合いになる機会は取逃がしたくはありませんからね」
 彼は頭を軽く叔父のほうに曲げたが、叔父はこの新しい近づきに大いに満足しているように見えるものの、いつもの癖で敬意の心持を表現することができず、事務局長の言葉に対して、当惑したような、しかし大きな笑い声で調子を合わせるのだった。なんとも見苦しい光景だった! Kは落着いて皆を観察できた。誰も彼をかまう者はなかったからである。事務局長は、どうもこれは彼のならわしらしかったが、一度引っ張り出された以上、座談を進んで牛耳《ぎゅうじ》ったし、弁護士は弁護士で、初め身体が弱っていると言ったのはどうも新しい訪問客を追っ払うためのものだったらしく、手を耳にあてて注意深く聞いていた。叔父は蝋燭持ちの役を勤め、――彼は蝋燭のバランスを膝の上でとり、弁護士はときどき心配そうにそれをちらちら見るのだった――すぐに当惑の気持を忘れて、事務局長の話しぶりや、それに伴うしなやかな波を描くような手のこなしにすっかりよろこびきっていた。ベッドの柱によりかかっていたKは、事務局長によってどうも故意にまったく無視されてしまったらしく、ただ老紳士たちの聞き役にまわっていた。ところで、いったいなんの話なのか、ほとんどわからず、あるいは例の看護婦と彼女が叔父からこうむったひどい仕打ちとのことを考えたり、あるいは、この事務局長なる人物を一度見たことがなかったか、どうもあの最初の審理の集りのときじゃなかったかと考えたりしていた。あるいは見そこないかもしれないが、この事務局長はあの最前列の会衆、あのまばらな髯をした老人たちのあいだにりっぱに仲間入りしていたにちがいないと思われた。
 そのとき、陶器の割れるような騒音が控えの間から聞え、皆が聞き耳をたてた。
「どうしたのか、私が行ってみましょう」と、Kは言い、ほかの連中に自分を引止める機会を与えるかのように、ゆっくりと出ていった。控えの間にはいり、暗闇の中で見当をつけようとするかしないかのうちに、彼が扉にまだしっかと置いている手に、Kの手よりもずっと小さい手が置かれ、扉を静かにしめた。ここで待ちかまえていたのは、例の看護婦だった。
「なんでもなかったのよ」と、彼女はささやいた。「お皿を一枚、壁に投げただけなのよ、あなたをこっちに呼ぼうと思って」
 少しおどおどしながらKは言った。
「僕もあなただと思いましたよ」
「それじゃ、いっそういいわ」と、看護婦は言った。「こっちへいらっしゃい」
 二、三歩で曇りガラスの扉のところへ来たが、それを看護婦はKの前であけた。
「どうぞおはいりなさいな」と、女は言った。
 おそらく弁護士の仕事部屋であった。三つの大きな窓のそれぞれに面した床に小さな四角形を映してさしこんでいる月光を頼りにながめたかぎりでは、どっしりした古い家具類を並べた部屋だった。
「こっちよ」と、看護婦は言い、木彫りのもたれのついた、黒ずんだ長持を示した。腰をおろしながらKは部屋を見まわしたが、天井の高い大きな部屋で、貧民相手のこの弁護士の依頼人たちは、この部屋に入れられては面くらってしまうにちがいなかった。客が堂々たる机の前に進み出てゆく小刻みの歩みが、Kには眼に見えるような気がした。だがもうこんなことも忘れてしまい、ぴったりと彼に寄り添って彼をほとんど長持の横のもたれに押しつけている看護婦だけに、眼を奪われていた。
「あたしは思っていたのよ」と、女は言った。「あたしが呼ばなくたって、あなたのほうから自分で来るだろうって。でも変だったわ。部屋にはいるなりずっとあたしを見つめて、それからあたしを待たせたりなんかして。あたしのことレーニって呼んでね」と、早口でずばりと付け足したが、一瞬たりともこの会話をむなしくしてはならないとでもいうようだった。
「いいですよ」と、Kは言った。「だが、僕が変だったということだが、レーニ、それはたやすく説明のつくことですよ。第一には、お年寄りたちのおしゃべりを聞かねばならなかったんで、理由もなしに出てはこられなかったし、二番目には、僕は厚かましくはなく、むしろ臆病《おくびょう》なほうだし、君だって、レーニ、一思いにこっちのものになってくれそうにはほんとうに見えなかったからね」
「そうじゃないわ」と、レーニは言い、腕を長持のもたれにかけ、Kを見つめた。「あたしなんかあなたのお気に召さなかったんだし、今でもきっとお気に召してはいないのよ」
「お気に召すって、そりゃあたいしたことはないけれどね」と、Kは逃げを打ちながら言った。
「まあ!」と、女は微笑《ほほえ》みながら言い、Kの言葉とこの小さな叫び声とである種の優越をかちえたのだった。それゆえ、Kはしばらく黙っていた。部屋の暗さにもすでに慣れたので、調度のさまざまな細かい点も見分けがつくようになった。特に、扉の右側にかかっている一枚の大きな絵が彼の眼をひいたので、それをよく見るため、かがんだ。それは法服姿の一人の男を描いていた。丈《たけ》の高いいかめしい椅子にすわっているが、その椅子の金色が、いろいろな点でその絵から浮び上がっていた。変っているのは、この裁判官が落着きと威厳とをもってそこにすわっているのではなく、左腕をしっかと椅子の背と横のもたれとに押しつけ、右腕のほうはまったく自由にして、ただ手先で横のもたれを握っており、次の瞬間には、激しい、おそらくは憤りの身振りで飛び上がり、何か決定的なことを言うか、あるいは判決さえも下そうとしているかに見える、という点だった。被告はきっと階段の下のところにいるものと思われたが、階段のいちばん上の、黄色の絨毯《じゅうたん》を敷いた一段目までは絵の上に出ていた。
「きっとこれは僕の裁判官だね」と、Kは言い、指でその絵をさした。
「その人は知ってますわ」と、レーニは言い、やはり絵を見上げた。「しょっちゅう、ここへ来るのよ。この絵は若いときのだっていうんだけれど、あの人はこの絵に似ていたはずがないわ。だってあの人はほとんどちんちくりん[#「ちんちくりん」に傍点]なんですもの。それでも、ここのみんなと同じように、ひとりでいい気になって見栄坊《みえぼう》なもんですから、絵では寸法を引延ばして描《か》かせたのだわ。でもあたしも見栄坊だから、あなたのお気に召さないっていうんで、とても不満なのよ」
 女のこの言葉に返事をするかわり、Kはただレーニを抱き、ぐいと引寄せたが、女はじっと頭をKの肩にもたせかけていた。しかし、彼は付け加えて言った。
「どんな身分の人なの?」
「予審判事よ」と、女は言い、自分を抱いているKの手をつかみ、指をもてあそんだ。
「また予審判事なのか」と、Kは失望して言った。「身分の高い役人たちは隠れているんだ。でも、この人はいかめしい椅子にすわっているじゃないの」
「みんな作りごとよ」と、顔をKの手の上にかがめて、レーニは言った。
「ほんとうは、台所椅子の上に古い馬の鞍覆《くらおお》いをかけて、その上にすわっているのよ。でも、あなたはしょっちゅう訴訟のことばかり考えていなきゃならないの?」と、女はゆっくり言い足した。
「ちがうよ、けっしてそんなことはないんだ」と、Kは言った。「どうもあんまり考えなさすぎるくらいなんだ」
「そのことがあなたのやってる誤りじゃないのよ」と、レーニは言った。「あなたはあんまり強情すぎるっていう話だけれど」
「誰が言ったの?」と、Kはきいたが、女の身体を胸に感じ、その豊かな、黒い、しっかと巻いた髪毛を見下ろしていた。
「それを言ったら、おしゃべりしすぎるわ」と、レーニは言った。「名前はきかないでちょうだい。でも、あなたの間違っていることは捨てて、もうあんまり強情にしないことよ。この裁判所には逆らうことはできなくて、結局白状しなければならないのよ。どうかこの次のときには白状してちょうだい。そうしたら初めて、逃げる見込みができるのよ、そうしてから後のことよ。けれどそれだって人の助けなしではできないけれど、この助力のことで心配しちゃだめ、あたしが自分でしてあげるわ」
「君はこの裁判所のことと、そこで必要な嘘《うそ》のこととを、よく知っているね」と、Kは言い、あまりに激しく迫ってくる女を膝の上に抱き上げた。
「これでいいわ」と、女は言い、スカートの皺《しわ》を伸ばし、ブラウスを取繕いながら、膝の上で居ずまいを直した。それから両手で彼の頸《くび》にぶら下がり、身体をのけぞらせて、長いあいだ彼を見つめた。
「で、もし僕が白状しなければ、君は僕を助けられないの?」と、Kはためすようにきいた。どうもおれには女の助力者が集まるな、と彼はほとんど不思議にさえ感じながら思った。まずビュルストナー嬢、次は廷丁の細君で、最後はこの小さな看護婦だが、この女はおれに得体の知れない欲望をいだいているようだ。おれの膝の上にのっているこの様子はどうだ、まるでここがこの女の唯一の所を得た場所とでもいうみたいだ!
「だめよ」と、レーニは答え、ゆっくりと頭を振った、「そしたらあたしはあなたを助けられないわ。でも、あなたはあたしの援助なんてほしくはないし、どうでもいいんでしょう、あなたは身勝手で、人の言うことなんか聞かないんだから」
「好きな人がいるのね?」と、しばらくして女が言った。
「とんでもないよ」と、Kは言った。
「おっしゃいよ」と、女が言った。
「そうだね、まあ」と、Kは言った。「いいかい、もう切れてしまったんだ。けれど写真まで肌身につけているってわけさ」
 女にせがまれてエルザの写真を見せると、女は膝の上で丸くなって、写真をしげしげと見た。それはスナップ写真で、エルザがいつも酒場でよく踊る円舞のあとで、彼女を撮《と》ったものだった。スカートはまだ旋回中の襞取《ひだと》りのままひろがっており、しまった腰に両手をあて、頸をぐっと起し、笑いながら横を向いていた。誰に笑いかけているのかは、この写真ではわからなかった。
「コルセットの紐《ひも》をきつく締めているのね」と、レーニは言い、彼女の考えによるとそう見える個所を示した。
「こんな女、きらいだわ。不器用で荒っぽいわ。でも、あなたには優しくて親切でしょう、それは写真で見てわかるわ。こんなに大柄でがっしりした女って、優しくて親切な以外に取柄のないものよ。でも、あなたのために身を投げ出すことできるかしら?」
「できないね」と、Kは言った。「優しくて親切でもないし、僕のために身を投げ出すこともできないだろう。僕もまたこれまで、そのどっちだって求めたことはなかったさ。だが、僕は君ほどこの写真をよく見たことはなかったよ」
「じゃ、この人のことたいして問題にしてはいないのね」と、レーニは言った。「じゃ、あなたの恋人じゃないわけだわ」
「でも」と、Kは言った。「僕の言ったことを撤回はしないね」
「それじゃ、あなたの恋人でもいいわ。でも、この人を失ったり、誰かほかの人、たとえばあたしと取替えても、たいして恋しがりはしないわけね」
「確かに」と、Kは微笑しながら言った。「そういうことも考えられるが、この人は君に比べて大きな長所があるんだ。僕の訴訟のことを何も知らないってことさ。そして、たとい知っていても、そんなことを考えはしないだろうね。僕に折れて出るようになんてすすめはしないだろうよ」
「そんなこと長所じゃないわよ」と、レーニは言った。「ほかの長所がないんなら、あたしは勇気をなくさないわよ。何か身体に片輪のところあるの?」
「片輪のところ?」と、Kはきいた。
「そうよ」と、レーニは言った。「あたしにはこんなちょっとした片輪のところがあるのよ、見てごらんなさい」
 女は右手の中指と薬指とをひろげると、そのあいだには皮膜が、短い指のほとんど一番上の関節にまで達していた。Kは暗がりの中で、女の見せようとするものがすぐにはわからなかったが、そのため女は、Kがさわるように、彼の手を持っていった。
「なんという自然の戯れだ」と、Kは言い、手全体をすっかり見てしまってから、言葉を足した。「なんというかわいらしい距《けづめ》だ!」
 レーニは一種の誇らしさをもって、Kが讃嘆《さんたん》しながら自分の二本の指を何度も何度もあけたりすぼめたりする様子をながめていたが、最後にKはその指にさっと接吻《せっぷん》して、放した。
「まあ!」と、女はすぐに叫んだ。「あなたはあたしに接吻したのね!」
 口をあいたまま、素早く、女は膝頭《ひざがしら》で彼の膝の上ににじり登った。Kはほとんど呆然《ぼうぜん》として女の顔を見上げていたが、女がこうまで身近に来ると、胡椒《こしょう》のような、苦い、刺激的な香《かお》りが女から発散するのだった。女は彼の頭をかかえ頭越しに身をかがめて、彼の頸を噛《か》み、接吻し、髪毛《かみのけ》の中まで噛んだ。
「あんたはあたしに取替えたんだわ!」と、女はときどき叫んだ。「ごらんなさい、もうあたしに取替えたんだわ!」
 そのとき女の膝がすべり、短い叫び声をあげてほとんど絨毯の上に倒れかかった。Kは女をささえようとして抱いたが、女に引下ろされた。
「もうあんたはあたしのものよ」と、女が言った。

「これ家の鍵《かぎ》よ、いつでも好きなときに来てちょうだい」というのが、女の最後の言葉だった。そして、帰りかけている彼の背中に、なんとはなしの接吻がされた。玄関から出ると、雨がぱらぱら落ちてきた。たぶんレーニをまだ窓ぎわに見ることができようと、街路の真ん中へ行こうとしたとき、Kはぼんやりして全然気がつかなかったが、家の前に止っていた一台の自動車から、叔父が飛び出し、彼の腕をつかんで、玄関の扉へ彼を押しつけ、まるでそこへ釘《くぎ》づけにしようとでもいうかのような剣幕だった。
「こら」と、彼は叫んだ。「なんだってあんなことをやるんだ! せっかくうまくゆきそうだったお前の用件をめちゃめちゃにしちゃったじゃないか。ちっぽけなきたならしい女と、どろんをきめこんだりなんかして。そのうえ、あいつは明らかに弁護士の情婦じゃないか。そして一時間ぐらいも帰ってこないとは。言い訳をするでもなし、隠そうとするでもなし、公然と女のところへ走り、女にくっついているんだ。そうやっているあいだ、お前のために骨折っているこの叔父、お前のために味方にしておかねばならない弁護士、それにまず、今のところならお前の事件をまったく牛耳れるあのりっぱな事務局長、こうしてわしらは集まったんだ。どうやったらお前を助けられるか相談しようとし、わしは弁護士を慎重に扱わなければならん、弁護士は弁護士で事務局長をというわけだ。そこでお前には、少なくともわしを応援してくれる十分な理由があったんだぞ。ところがそうもしないで、お前は消えていなくなっているという始末だ。とうとう隠しきれなかったが、あの人たちは慇懃《いんぎん》な世なれた人たちだもんだから、そのことはしゃべらず、わしをかばってくれた。ところがとうとうあの人たちももう我慢ができなくなり、事件のことが話せないもんだから、黙りこくってしまった。わしらは何分か黙ってすわって、お前がもう帰ってこないかと、聞き耳をたてていたんだ。万事むだだった。とうとう初めの予定よりもずっと長く居残っていた事務局長が立ち上がり、別れの挨拶をし、わしを助けることができないで残念だ、とはっきり言われ、なんとも言えないご親切さでなおしばらく扉のところで待たれたうえ、帰ってゆかれた。あの人が帰っていったんで、わしはもちろんほっとした。わしはもう息がつまりそうだったからな。病人の弁護士には万事がもっとひどくこたえた。わしが別れを告げたときは、あのいいやつはもう全然口がきけなくなっていた。お前は確かにあの男の完全な破滅に手を貸し、お前が頼るよりほかない人間の死期を早めたんだぞ。そして、叔父のこのわしをこうやって雨の中に――さわってごらん、ずぶぬれだ――何時間も待たせておき、心配で苦しみ抜かせているんだ」

第七章 弁護士・工場主・画家

 冬のある午前のこと――戸外では陰鬱《いんうつ》な光の中に雪が落ちていた――まだ時間も早いのだがすでに疲れきってしまったKは、事務室にすわっていた。少なくとも下役の連中を寄せつけないように、大事な仕事をやっているのだから誰も入れてはならない、と小使に命じた。だが、仕事をするかわりに、椅子にすわったままぐるりと向きを変え、ゆっくりと机の上の二、三の物をどかしてしまうと、思わず知らず腕を伸ばして机の上に置き、頭を垂れてじっとすわり続けていた。
 訴訟のことが彼の頭を離れなかった。弁護文書を作成して裁判所に提出することがよくはないかと、すでに何度となく考えたのだった。その中で短い経歴を書き、比較的重要な事件のひとつひとつについて、どういう理由で自分はそういう行動をとったのか、そのような行動のしかたは現在判断してみるのに非難すべきか、是認すべきか、そして正しくなかった、あるいは正しかったとしてどんな理由をあげることができるのか、説明しようとした。どうも文句がないわけではないあの弁護士なんかの単なる弁護に比べて、このような弁護文書の利点は疑いもなかった。Kはまったくのところ、あの弁護士が何を企てているのか、全然知らなかった。いずれにせよたいしたことではなさそうだった。もう一カ月も自分を呼んでくれたことはないし、それより前に話したときにも、この男は自分のために多くのことをやってくれる能力があるのだ、という印象を受けたことは一度もなかった。何よりもまず、ほとんどまったくKに問い合せをしたことがなかった。ところが今の場合には質問すべきことがたくさんあったのだ。質問こそおもな事柄であるはずだった。自分自身で今の場合に必要な質問を並べたてることができる、という感じをKは持ったくらいだった。ところが弁護士は、質問するかわりに、自分のほうでおしゃべりをするか、黙って彼に向い合ってすわるかして、きっと耳が遠いからだろうが、少し机の上に前かがみになり、髯《ひげ》の中の一握りの束をしごき、絨毯《じゅうたん》の上に眼差《まなざし》を投げていたが、どうもちょうどKがレーニといっしょにころがった場所らしかった。ときどきKに、子供に与えるような二、三の訓戒を与えるのだった。役にもたたねば退屈でもあるおしゃべりで、Kは決着のついたときの謝礼では一文も払おうと思わなかったようなものだった。弁護士は彼を十分へこたれさせたと思うと、今度はきまって少し彼を元気づけようとしはじめた。自分はこれと似た多くの訴訟に、全面的にかあるいは部分的にでも勝ってきた、と言うのだった。それらの訴訟は、ほんとうはきっとこの訴訟ほどむずかしくはなかったのだろうが、外見上ではもっと絶望的なものだった。これらの訴訟の記録はこの引出しのなかにしまってある、――こう言いながら机の引出しのどれかをたたいてみせた――残念ながら、これらの文書は職業上の秘密に関することなので、お見せできない。しかしながら、今はもちろん、これらのすべての訴訟によって自分の獲得した豊富な経験はあなたのために役だつのだ。自分はもちろんすぐに仕事を始めたし、最初の願書はすでにほとんどできあがっている。弁護側の与える第一印象はしばしば訴訟手続きの方向をすべて決定してしまうものであるから、この書類はきわめて重要なものだ。遺憾ながら、もちろんあなたは、最初の願書類が裁判所に全然読んでもらえないこともしばしばあるのだ、ということに注意してほしい。役所はそれらを単に書類のうちに加えるだけであって、まず被告を尋問し観察することのほうがあらゆる書いたものよりも重要だ、ということを教えてくれる。そして、申請人がしつっこく願うと、役所は、あらゆる資料が蒐集《しゅうしゅう》されるやいなや、決定の前に、もちろん全体との連関において、すべての書類、したがってこの最初の願書も仔細《しさい》に検討されるのだと付け加える。しかし遺憾ながら、これもたいていはほんとうでなく、最初の願書は普通は置き忘れられるか、あるいはほとんど失われてしまうかして、たとい最後まで保存されたにしても、これは弁護士がもちろんただ噂《うわさ》に聞いたことではあるが、読んではもらえない。こういうことはすべて悲しむべきことではあるが、まったく正当な理由がないわけではない。あなたはどうか、手続きは公開さるべきものではなく、裁判所が必要と考えたときにだけ公開されうるのであるが、法律は別に公開すべきことを命じているわけではない、ということを忘れないでほしい。それゆえ、裁判所側の文書、ことに起訴状は被告および弁護人にはうかがいえないものであり、したがって一般には、何をねらって最初の願書を書くべきかということは全然わからないか、あるいは少なくともはっきりとはわからないし、そのため、事件に対して重要性のあることを何か含めるということは、本来ただまぐれあたりにしかできないことだ。真に有効で論証力に富む願書というのは、後に被告の尋問をやっているうち個々の公訴事実とその理由とがはっきりと浮び上がるか、あるいは推測できるようになったときに初めて、作成できる。こういう事情の下にあって、もちろん弁護人はきわめて不利で困難な立場にある。しかし、このこともあらかじめ定められている仕組みなのだ。すなわち、弁護人は本来法律では認められておらず、ただ黙認の形なのであって、当該の法律条文から少なくとも黙認ということが解釈できるかどうか、という点に関してさえ、論争されているくらいだ。したがって、厳密に言うと、裁判所によって公認された弁護士というものはいないのであり、この法廷の前に弁護士として現われるのは、すべて実は三百代言にすぎない。このことはもちろん、全然弁護士に対してきわめて不名誉な影響を与えているのであり、あなたがこのつぎ裁判所事務局に行ったときには、一度このことを見ておくために、弁護士控室をごらんになるとよろしい。そこにとぐろを巻いている連中に、あなたはおそらく一驚されるだろう。彼らにあてがわれた狭い、天井の低い部屋からして、裁判所がこれらの人々に対していだいている軽蔑《けいべつ》の念を示している。部屋はただ小さな天窓からだけ光を入れているが、この窓たるや非常に高いところにあるので、もし外を見ようと思うと背中に乗せてくれる仲間をまず捜さなくてはならず、おまけにそこではすぐ眼の前にある煙突の煙が鼻にはいってきて、顔を真っ黒にしてしまう始末だ。この部屋の床には――もうひとつだけこういう状態の実例をあげるが――一年以上も前から穴がひとつあって、人間が落ちこむほど大きくはないが、片足をすっぽり入れてしまうには十分なほどの大きさがある。弁護士控室は屋根裏の二階にある。そこで誰かがはまりこむと、脚は屋根裏一階にぶら下がり、しかも訴訟当事者たちが待っている廊下へちょうど垂れることになる。弁護士連がこういう状態を不名誉きわまることだと言っても、言いすぎではないのだ。当局へ苦情を持ち出しても少しも効果はないし、部屋の中の何かを自費で変えることは、弁護士にはまったく厳重に禁じられている。しかし、このような弁護士に対する待遇にも理由があるのだ。弁護人をできるだけ排除しようとしているのであり、すべてが被告自身の手でやられなくてはならないのだ。根本においてはわるい考えかたではないのだけれども、このことから、この裁判所においては弁護士は被告にとって不必要だ、ということを結論することよりも間違ったことはないだろう。反対に、この裁判所におけるほどに弁護士を必要とするところはほかにはないのだ。すなわち、手続きは一般に、ただ公衆に対して秘密にされているばかりではなく、被告に対しても秘密にされている。もちろん、秘密にすることができるかぎりのことでしかないが、しかしきわめて広い範囲にわたって秘密にすることはできるのだ。すなわち、被告も裁判所の文書にはさっぱり通じておらず、尋問からそれの根拠となっている文書のことを結論的に推察することはきわめてむずかしいし、ことに、当惑しきってもいれば、気を散らされるありとあらゆる心配も持っている被告にとっては、とりわけむずかしい。そこでここに弁護のはいりこむ余地があるわけだ。普通は尋問には弁護人は立ち会えないのだから、尋問のすんだ後《あと》で、しかもできたらまだ予審室の扉のところで待ち受け、被告から尋問のことを聞き取り、しばしばすでにきわめてぼやけているこうした報告から弁護に役だつことを取出さなくてはならない。しかし、これがいちばん大切なことなのではない。なぜなら、もちろんこういうやりかたでも有能な人間はほかの人たちよりは多くのものを聞きつけはするが、普通の場合、たいして物にすることができないからである。それでも、最も大切なものは弁護士の個人的なつながりであり、この点に弁護のおもな値打ちというものがあるのだ。ところできっとあなたは自分の経験からわかったことだろうが、裁判所の最下層の組織は完璧《かんぺき》とはゆかず、義務を忘れ買収されやすい役人を生んでいるので、そのため裁判所の厳重な箝口令《かんこうれい》にも穴があくのだ。そこでこの点に大多数の弁護士がつけこみ、買収をやったり、聞き込みをやったり、また少なくとも以前には、書類を盗み出す場合さえも起った。このようにして暫時のところは被告にとって驚くほど有利な結果が獲られるということは否定できないし、これらの小弁護士たちはそれを得意になって触れまわり、新しい顧客を誘うのだが、訴訟の先々の経過には全然役にたたないか、あるいはよい結果とはならない。ところでほんとうの値打ちがあるのは、正々堂々とした個人的なつながり、しかも高位の役人たちとのつながりだけである。もちろんこれは、高位の役人の中でも比較的低い地位の人たちのことを言っているのだ。ただこのようなつながりによってのみ、訴訟の進みに、初めはただ目だたぬくらいだが、後には次第にはっきりと、影響を及ぼすことができる。もちろん、そういうことができるのはほんの少数の弁護士に限られており、この点であなたの選択はきわめて有利だったのだ。このわし、フルト博士のようなつながりを持っているのは、おそらくただ一人か二人の弁護士だけだろう。こういう弁護士になると、もちろん弁護士控室の仲間などは問題とせず、またなんらの関係もない。しかし、それだけに裁判所の役人との結びつきは固いわけだ。このわし、フルト博士は、裁判所へ行き、予審判事控室で判事が偶然現われるのを待ち、彼らの機嫌《きげん》次第でたいていはただ見せかけだけの成果をあげたり、あるいはそれすら手に入れられない、などという目にあう必要はない。そんな必要は全然ないのであって、あなた自身も見たように、役人たち、その中にはほんとうに高位にある人々もいるが、こうした役人のほうが自分でやってき、はっきりとした、あるいは少なくとも容易に真相が解けるような情報を進んで与えてくれ、訴訟の今後の運びについても話し合い、そのうえ、個々の場合について人の言うことを納得し、よろこんでこちらの意見も受入れてくれるのだ。もちろん、この後《あと》の点ではあまり信用しすぎてはならないのであって、きわめて断固として彼らの新しい、弁護にとって有利な意見を発言してはくれても、おそらくまっすぐ事務局に帰って、次の日には、まさしく昨日とは反対のことを含み、彼らがもうすっかり脱却したと主張した最初の見解よりは被告にとっておそらくずっときびしいような裁判上の決定を、発表することがある。もちろんこういうことは防ぐことはできない。なぜなら、二人だけのあいだで言ったことは結局ただ二人だけのあいだで言われたことにすぎず、弁護側がほかに努力のしかたがない場合であっても、裁判所の人々の恩恵にあずかるということは、公の結論を下す場合に許されないことである。他面また、裁判所の人々が何かただ人間愛とか友情の気持とかいったものから弁護側、もちろん事情に通暁した弁護側、と結びついているのではない、ということも真実であって、彼らはむしろある点では弁護側を頼りにしているのである。この点にまさしく、当初からすでに秘密裁判所を規定している裁判組織の欠陥が現われているのだ。役人たちには民衆とのつながりが欠けており、普通の中くらいの訴訟に対しては十分構えができていて、こういう訴訟はおのずから軌道の上をころんでゆくし、ただときおり衝撃を与えるだけでよいのであるが、まったく単純な事件に対しては、特にむずかしい事件に対するのと同様、しばしば途方にくれてしまうのであって、昼も夜も絶えず法律に拘束されきっているため、人間的なつながりというものに対する正しい感覚を持たず、こういう場合にはそのことに大いに不自由を感ずるのだ。そこで彼らは助言を求めて弁護士を訪れ、その後からは小使が一人、たいていは非常に秘密にされている書類を持ってついてくるというわけだ。そこでこの窓ぎわには、まったく思いがけなかったような多くの人々が現われたというわけで、彼らはまったく茫然《ぼうぜん》として街路を見ており、一方弁護士のほうは、それに適切な助言を与えるため、机にすがって書類を研究したのだ。そのうえ、まさにこういう機会にこそ、裁判所の人々が彼らの職務をどんなに真剣に考えているか、彼らの性格上どうしても克服できない障害についてどんなに大きな絶望に陥っているか、ということを見ることができるのだ。役人の立場もけっして楽なものではなく、彼らを不当に評価して、彼らの立場が楽なものだなどと考えてはならないのだ。裁判所の身分の順序とか昇進とかいうものは無限であって、事情に明るい者にすらすっかり見通すことはできない。ところが法廷の手続きは一般には下層の役人にとっても秘密であり、そのため自分たちの関係している事件の先々の成行きについて完全に追求することは、ほとんどいつもできないし、したがって裁判事件というものは、どこからやってくるのかわからぬうちに彼らの視野に現われ、しばしばどこへ行くのかを知らぬままで進んでゆくのだ。それゆえ、個々の訴訟の段階、最後の決定、その理由などを研究して汲《く》み取りうる教訓というものは、これらの役人の手にははいることがない。彼らはただ法律によって彼らに規定されている訴訟の各部分にだけ携わるのであり、それ以上のこと、したがって彼らの仕事の成果については、概してほとんど訴訟の最後まで被告との結びつきを持っている弁護側ほどには知っていないのが通常の例である。それゆえ、この点においても、彼らは弁護側から多くの価値あることを聞くことができるのだ。こういうことをすべて念頭に置いたうえで、しばしば訴訟当事者たちに対して――誰でもこういう経験をするものだが――侮蔑《ぶべつ》的なやりかたで示される役人たちの怒りっぽさというものを、あなたは不思議と思わなければならない。あらゆる役人は、平静らしく見えるときでさえもいらいらしているのだ。もちろん、小弁護士たちは特に、こうした怒りっぽさに大いに悩まされなければならない。たとえば次のような話があるが、大いにありうるように思われることだ。ある老役人が、善良で物静かな人物だったが、特に弁護士の願書でこんがらかった裁判事件をまる一日一晩休みもなしに研究したのだった、――こんな役人たちは実際、よそでは見られぬくらい勤勉なのだ。――さて朝になり、二十四時間の、おそらくはたいして収穫もあがらなかった仕事の後、入口の扉のところへ行って、そこに隠れ、はいろうとする弁護士たちを階段へ突き落したのだった。弁護士たちは下の踊り場に集まり、どうしたらよいか相談した。一面から言うと、入れてもらうことを要求する権利がないのだから、その役人に対して合法的に何かを企てることはほとんどできないし、すでに言ったように、役人連を敵にまわすことは気をつけなければならない。しかし他の一面、裁判所で過すのでなければその日はむだになってしまうので、そこへはいりこむことが肝心でもあった。とうとう、この老人を疲れさせてやろう、ということに話がきまった。後《あと》から後から弁護士を繰出し、階段を登ってゆき、できるだけの、もちろん消極的抵抗をやって投げ落されると、そこで仲間に受止めてもらった。これがおよそ一時間ばかり続き、まったくのところ徹夜仕事ですでに弱っていたその老人は、すっかり疲れきって、事務局へ引下がってしまった。下の連中は初めはほんとうに引下がったものとは全然信じないで、まず一人をやってみて、ほんとうに人がいないかどうかを扉の陰で偵察させた。それからやっと皆が繰りこんだが、おそらくは誰一人ぶつぶつ言おうとする者もいなかった。というのは、弁護士にとっては、――最も微々たる者でもこういう事情は少なくとも一部分はわかっているのだが――裁判所に何か改善を持ちこむなり、それをやってみようとすることなどはまったく話の外のことだからである。ところが――これはきわめて特徴のあることだが――被告は誰でも、まったく単純な連中さえ、訴訟に足を突っこむなりすぐに改善の提案などを考えはじめ、それでしばしば、ほかのことをやればもっとずっとよく使えるものを、時間と労力とを空費するのだ。唯一の正しい道は、現状に満足するということだ。個々の細かな点は改善することができる場合でも、――だがこれがばかげた迷信なのだ――せいぜい未来のために少しは役だたせることはできようが、そのためしょっちゅう復讐《ふくしゅう》を求めている役人連の特別な注意をひいてしまうことになって、測り知れぬくらい損害をこうむってしまうのだ。ただ注意をひかぬようにすることだ! いくら意にそむくようになっても、落着いた態度でいることだ。この巨大な裁判組織はいわば永遠に浮動し続けるのであり、そのうえで独自な立場で何かを変革しても、足下の地面を踏みはずして自分が墜落するだけのことであり、その大きな有機体のほうはちょっとした妨害に対しては容易にほかの場所で――いっさいが結びついているからだが――補いをつけ、たといそれが、これが実はありそうなことでさえあるのだが、いっそう固く結合し、いっそう注意深く、いっそうきびしく、いっそう悪意を持つようにならないとしても、少なくとも不変の状態を続けるのだ、ということをよく見抜こうと努めることだ。とにかく仕事は、それをかき乱したりせずに、弁護士にまかせることだ。いくらとがめだてをしたところでたいして役にたつものではなく、ことにその理由をすっかり理解することができないでいるときにはそうなのだが、それでも、あなたが事務局長に対する態度で自分の事件についてどんなに損をしているか、ということは言っておかなければならない。この有力な人物はもう、あなたのために何かやってもらおうとする人たちのリストからはほとんど抹殺《まっさつ》されなくてはならなくなってしまったのだ。この訴訟についてのほんのちょっとした話でも、彼はわざとそれを聞き逃すようにすることだろう。まったく役人というのは、多くの点でまるで子供みたいなものだ。彼らはどんな他愛《たわい》もないこと、といってもちろんKの態度は残念ながらその部類にははいらないものだったが、そういうものによってもひどく傷つけられ、親友とも話さなくなり、出会ってもそっぽを向き、ありとあらゆることにおいて邪魔をするようになるものだ。ところがやがて、格別の理由もなく不意に、万事がどうも見込み薄に思われるというだけの理由でやけっぱちでこちらが試みるちょっとした冗談で、笑いだし、すっかり機嫌《きげん》を直してしまうことがある。彼らと付き合うのは、むずかしくもあればやさしくもあり、それに対する根本方針などというのはどだいないのだ。こういう世界で相当の成功を収めながら仕事をやってゆくことを心得るぐらいのことには、何もこみいったことは要《い》らないのであって、ほんの平凡な生活で十分なのだ、ということにはしばしば驚かされるほどである。もちろん、誰にでもあるように、気のふさぐときもやってはくる。そうなると、ほんの少しでもうまくいったことはないように思いこむし、初めからよい結果を生むときまっていた訴訟がうまくいったにすぎないし、別に手をかさなくてもそうなっただろう、と思われるのだ。ところが一方ほかの訴訟はすべて、いろいろ奔走し骨を折ったにもかかわらず、そしてちょっとした見かけの成功に大よろこびしたにもかかわらず、ことごとく失敗しているという目に会ってしまう。こうなるともちろん、もう確信が持てず、その本質から言ってうまく運んでいる訴訟をまさによけいな手出しをすることで横道にそらしてしまった、ときめつけられても、少しも否定する気持にはなれないだろう。これもまったく一種の自信ではあろうが、こうなったときわずかに残された唯一の気の持ちかたというにすぎない。こういう発作は――これはもちろんただの発作にすぎないものであって、それ以上ではないのだ――特に、十分に事を進めて満足のゆくようにやってきた訴訟が突然自分の手から奪われてしまうときに、弁護士に起るものだ。これがきっと、弁護士たる者に起りうるいちばん不快な事柄だろう。およそ被告によって弁護士から訴訟が奪われるというようなことはなく、そういうことはけっして起るものではないのであって、一度一定の弁護士を選んだ被告は、何事が起ろうとその弁護士を離れてはいけない。一度助けを求めた以上、およそひとりでやってゆくことなどどうしてできるものだろうか? それゆえ、そういうことは起らないのだが、確かにときどき、訴訟がどうもまずい方向をとり、弁護士がそれについてゆけないということは起る。訴訟も被告もいっさいが、弁護士から簡単に奪われてしまう。そうなると、役人との最もいいつながりももう役にはたちえない。役人たち自身が何も知らないからなのだ。こうなると訴訟はまさしくひとつの段階にはいったのであり、そこではもういかなる助力もやれるものではなく、訴訟をやっているのは余人の近づきえない法廷であり、被告も弁護士の手には届かなくなってしまうのだ。そして、ある日、家に帰ってみると、机の上には、あらゆる努力とこの事件に対するきわめて明るい希望とをもってつくった多くの願書がすっかりのっている。それらは、訴訟の新段階には持ちこむことが許されぬという理由で、差戻されたのであり、値打ちのない反古《ほご》なのだ。それでも訴訟はまだ敗《ま》けときまったわけではない。けっしてそんなことはなく、少なくとも訴訟が敗けたと認める決定的な理由はないのであって、ただ、もう訴訟のことは全然わからないし、これからももうそれについて何もわかることはなかろう、というだけのことなのだ。ところでこういうような場合というのは幸いに例外的なことであって、たといあなたの訴訟がこういう場合のひとつであっても、今のところはこういう段階からはまだはるかに遠い。ここではまだ弁護士が腕を振うに十分な機会があるし、こちらも存分にそういう機会を利用するつもりだということは、あなたも安心してよろしい。すでに言ったように、願書はまだ提出してないが、それは急いではいけないのであって、有力な役人たちと折衝を始めることのほうがずっと重要であり、そのことはすでにすませたのだ。はっきり申上げておかねばならないが、さまざまな成果があがっている。あらかじめ逐一打明けておかぬほうがよろしかろう。それによってあなたはただよからぬ影響を受けるだろうし、あまり有頂天にされるか、あまりに不安にされるかするだろうからだ。ただ、ある人々は非常に有利だと言ってくれたし、また援助してくれる意志が大いにある旨を言ってくれたが、一方、他の人々はそれほど有利だとは言わなかったが、けっして援助は拒みはしなかった、ということだけは申上げておく。したがって、成果は全体としてはきわめて上首尾ではあるが、予備折衝というのはすべてこういうようにして始まり、後日の発展を待って初めてこの予備折衝の値打ちというものがわかるのであるから、今上首尾だということから特別の結論を引出してはいけない。ともあれ、まだけっして失敗したわけではなく、いろいろのことがあったにせよ、例の事務局長を味方に引入れることに成功するならば、――このためにすでにいろいろなことを始めているが――全体はいわゆる――外科医が言うところの――きれいな傷というやつであって、安心して来《きた》るべきものを期待できるというものである。
 こんなような話で、弁護士は尽きるところを知らなかった。訪《たず》ねると、いつでもこういう話が繰返された。いつでも進展していると言うのだが、この進展というのがどういう種類のものか教えられることはなかった。いつでも最初の願書の仕事をやっているのだが、それはできあがってはおらず、たいてい、この次いらっしゃるときにはそれは大きな利点を明らかにしていることだろう、なにぶんにもこの前のときには、どうも見通しがつかなかったのだけれども、提出するのにはなはだ都合がわるかったもので、などということであった。こういう話にすっかり疲れきってしまったKは、しばしば、いろいろ事情がむずかしいとはしても、事の運びがあまりにゆっくりしすぎている、と言うのだったが、けっしてゆっくりしているわけではない、もっとももしあなたが時機を失せず弁護士に依頼していたら、すでにずっと事は運んでいたろうが、という返事だった。ところが遺憾なことにあなたはそれを怠ったのであり、こういう怠慢はさらにさまざまな不利をもたらすだろう、それは単に時間的な不利益ばかりではない、というのである。
 こうした訪問をありがたいことに中断してくれる唯一のものは、レーニであった。彼女はいつも心得ていてくれて、Kがいるとき弁護士に茶を運んでくるのだった。そうするとKの背後に立ち、弁護士が一種のがっつきかたで茶碗《ちゃわん》に深くかがみこみ、茶を注《つ》ぎ、飲むのをながめていると見せかけて、そっと手をKに握らせた。完全な沈黙が支配していた。弁護士は飲んでいた。Kはレーニの手を握り、レーニはしばしば、Kの髪毛《かみのけ》をやさしくなでるようなことをやってのけた。
「お前まだいたのかい?」と、茶をすませると、弁護士はきいた。
「茶道具を下げようと思ったのですの」と、レーニは言い、最後にKの手をもう一度握ると、弁護士のほうは口をぬぐって、元気を新たにしてKに説教しはじめるのだった。
 弁護士が手に入れようとしているのは、慰めだったのか、絶望だったのか? Kにはそれがわからなかったが、自分の弁護がどうもあまり結構な人間の手中にあるのでないということは確かだ、と思った。弁護士ができるだけ自分を前面に立てようとしていること、彼の言い草だとKの訴訟は大きなものだということだが、こんな大きな訴訟をやったことはこれまでに一度もないということ、それは歴然としたことだったけれども、Kは、弁護士の言うことはみなほんとうだろう、と考えた。ただ、彼が絶えず揚言する役人たちに対する個人的関係というのは、いつまでもうさんくさかった。いったいそういう連中がもっぱらKの利益のために利用し尽されるはずがあろうか? ただ身分の低い役人たちのことであって、したがって訴訟のある転回がおそらく昇進に重要な意味を持っているようなきわめて従属的な地位にある役人たちなのだ、ということを弁護士はけっして言い忘れはしなかった。おそらく彼らは弁護士を利用して、こういう、被告にとってはもちろん不利にきまっている転回をねらっているのではなかろうか? おそらく彼らはこういうことをどの訴訟ででもやるのではないのであって、確かに、そうしたことはありそうもないことだ。弁護士の名声を傷つけないようにしておくことが役人たちにとっても大いに大切であるため、訴訟の進行中に弁護士の仕事のために利益を譲歩するような訴訟の場合だって確かにあるのだ。だが、ほんとうにそういう事情だとすれば、どういうふうにして彼らはKの訴訟、弁護士も言明したようにきわめてむずかしく、したがって重要な訴訟であり、始まるとすぐ裁判所に大きな注意をひいたこの訴訟に、関与するつもりだろうか? 彼らがやろうとすることは、たいして疑問の余地がありえなかった。その徴候は実に、訴訟がすでに幾月も続いているのに最初の願書がまだ受理されていない点や、弁護士の申立てによると万事がやっと始まったばかりの状態にあるという点に、すでに認められるのだった。これはもちろん、被告を眠らせて無援の状態にしておき、次に突然決定を被告に突きつけるか、あるいは少なくとも被告の不利に終った予審を上級官庁に送局するという知らせを突きつけるかするのに格好なことだった。
 Kが自分で乗り出すことが、絶対に必要だった。いっさいがそうしようというつもりもなく彼の頭のなかを過ぎてゆくこの冬の日の午後のような、ひどい疲れの状態の真《ま》っ只中《ただなか》で、こうした確信は避けられなかった。これまで訴訟に対していだいていた軽蔑《けいべつ》は、もう通用しなかった。もし自分だけがこの世にいるのであったら、訴訟などは苦もなく無視できたであろうに、と思われたが、そうなれば訴訟などはおよそ成立しなかったであろうということも、もちろん確かなことだった。だが今では、叔父が彼をすでに弁護士のところへ引っ張っていったので、身内のことを考えてやることも問題であった。彼の立場はもう訴訟の経過から完全に離れきってはおらず、彼自身軽率にも一種の説明のつかない満足をもって知人たちに訴訟のことを言ったし、他の人々は、どうしてかわからぬが、訴訟のことを聞き知っており、ビュルストナー嬢との関係も訴訟に対応して動揺しているように見えた。――要するに、彼はもはや訴訟を受入れるか拒むかという選択権を持たず、その真っ只中に立ち、身を防がねばならなかった。疲れれば、わるいにきまっていた。
 もちろん、さしあたってのところはあまりに心配しすぎる理由はなかった。銀行では比較的短時日に現在の高い地位に登り、すべての人に認められてこの地位を守ることもできたのだから、今はただ、こういうことを可能ならしめた能力を少し訴訟に利用すればよいのであって、うまくゆくことは疑いがなかった。何よりもまず、何か成功をなしとげるためには、自分に罪があるかもしれないという考えをすべて払いのける必要があった。罪などはないのだ。訴訟は大きな仕事以外のものではなく、そういうものを彼はしばしば銀行のためにやって利益をあげてきたのであるが、その内部にはきまってさまざまな危険がひそみ、まずそれを防がなければならないような仕事なのである。このためにはもちろん、何か罪があるなどという考えをもてあそんでいてはならず、自分の利益に関しての考えをできるだけしっかりと保持していなければならない。この見地からすると、弁護士をできるだけ早く、できれば今晩のうちに断わって、自分の弁護をやめてもらうことも、避けられないことだった。弁護士の話によるとそういうことは前代|未聞《みもん》のことであり、おそらくは非常に侮辱的なことでもあろうが、訴訟における自分の骨折りが、どうも自分自身の弁護士に原因するらしい妨害に出会うということは、Kには我慢がならなかった。それで、弁護士を一度振切ってしまったら、願書をすぐ提出し、できれば毎日、裁判所がそれを考慮してくれるように催促せねばならないと思った。このためにはもちろん、Kがほかの被告のように廊下にすわり、帽子をベンチの下に突っこんでいるだけでは十分でなかった。K自身か女たちか、あるいは別な使いの者たちが毎日毎日役人をうるさく襲い、格子越しに廊下をながめてなどいないで自分たちの机にすわり、Kの願書を検討するようせきたてねばならなかった。こうした努力を捨ててはならないが、万事が組織化され監視されているにちがいないから、裁判所はきっと、自分の権利を守ることを心得ている被告にぶつかってくるにちがいなかった。
 だが、Kはこうしたことをすべてやりとげるだけの勇気はあったが、願書を書くことのむずかしさは圧倒的であった。前にも、つまり一週間ほども前には、こういう願書を自分でつくる必要に迫られた場合のことを、はじらいの感情をもって想像できるだけだったが、これがまたむずかしいものでもあるということは、全然考えてもみなかった。Kは思い出したが、ある午前のこと、ちょうど仕事で忙殺されていたとき、突然書類をみなわきへ押しのけて、用箋綴《ようせんつづ》りを取上げ、試みにあの願書まがいの書きかたをして、それをあの鈍重な弁護士に見せてでもやろうと思ったが、ちょうどこの瞬間に支店長室の扉があき、支店長代理が高笑いをしながらはいってきた。支店長代理はもちろん願書のことを知らぬのだから、それを笑ったのではなく、ちょうど今聞いたばかりの洒落《しゃれ》を笑ったのだったが、Kはそのとき非常に不快な思いをした。その洒落は、のみこむためには図解が必要だったので、支店長代理はKの机にすわりこみ、Kの手から取上げた鉛筆で、願書を書くことにきめていた用箋綴りの上にその絵を描きあげた。
 今日ではKはもう恥のことは忘れ、願書はどうしてもつくりあげてしまわねばならない、と思った。事務室ではそういう時間が見つからないとすれば、そしてそれはきわめてありそうなことであるが、そうなれば家で毎夜やらなければならない。夜でも十分でなければ、休暇をとらなければならない。ただ中途半端なところにとどまっていないことである。それは仕事でばかりでなく、いつでも、またどんな場合でもいちばんばかげたことだ。もとより願書というのはほとんど際限のない仕事であった。たいして心配性の人間ではなくとも、願書をいつか仕上げるというようなことはできない相談だ、というふうに思いこみやすかった。弁護士の書類完成を妨げているような怠慢とか術策とかのためではなく、現在の告訴状もそれの今後の増補もわからぬままに、きわめて細かな行動や出来事にいたるまで全生活を記憶に呼びもどし、書き表わし、あらゆる角度から検討しなければならなかったからである。そのうえ、こんな仕事はなんと憂鬱《ゆううつ》だったことだろう。それはおそらく、恩給をもらって退職した後《あと》で耄碌《もうろく》した精神を働かせ、長い毎日を暇つぶしする助けとしてやるのには格好の仕事だった。だが今は、Kは思考をすべて仕事に集中し、まだ昇進中で、すでに支店長代理にとって脅威となっており、一刻一刻がきわめてすみやかに流れてゆき、また短い夜を若い人間として享楽もしたいのに、この今こうした願書を書くことを始めなければならないのだ。彼の思いはまた嘆きに走るのだった。ほとんど無意識に、ただこうした思いを片づけるために、彼は控えの間に通じている電鈴のボタンに指でさわった。それを押しながら、時計を見上げた。十一時だった。二時間、長い、貴重な時を彼はむなしく費やし、もちろん、前よりもいっそう疲れていた。だが、値打ちのある決心をしたわけだから、時を失ったわけでもなかった。小使たちが、さまざまな郵便物のほかに二枚の名刺を持ってき、この方々はすでにかなり前からお待ちしています、と伝えてきた。それはまさしく銀行のきわめて大切な顧客で、ほんとうはどんなことがあっても待たせなどしてはならなかったのだった。なぜ彼らはこんなに都合のわるいときにやってきたのだろうか、またなぜ――客のほうもまた閉じた扉の向うでそうきいているように思われた――勤勉なKとしたことが、私用でいちばん大切な執務時間を空費したのだろうか? これまでのことに疲れ、また疲れきって来《きた》るべきものを期待しながら、第一の客を迎えるためKは立ち上がった。
 それは、小柄で元気のよい紳士で、Kがよく知っているある工場主だった。工場主は、Kの大切な仕事を邪魔したことをわび、Kのほうは、工場主をこんなに長く待たせたことをわびた。だが、このわびからして非常に機械的な調子、またはほとんど作りものの感じのする調子で言ったので、工場主がすっかり用件で夢中になっていなかったならば、それに気がついたにちがいなかった。男は気づきもしないで、急いで計算書や表をありとあらゆるポケットから引出すと、Kの前にひろげ、いろいろな項目を説明し、こうやって、ざっと見渡してさえ気がついたちょっとした計算の誤りを訂正し、一年ほども前にKと結んだ同じような仕事のことをKに思い出させ、ついでに、今度は別な銀行が莫大《ばくだい》な犠牲を払ってもこの仕事を申込んでいる、と言い、最後に黙って、Kの意見を聞こうとした。Kもまた事実、初めのうちは工場主の話をよくたどり、次に重要な仕事だという考えが彼の心をとらえもしたのだったが、ただ残念なことに長続きがせず、間もなく話に耳を傾けることから気がそれてしまい、それでもしばらくは工場主の騒々しい叫び声に頭でうなずいてみせていたが、とうとうそれもやめ、ただ、禿《は》げた、書類にかがみこんだ相手の頭をながめ、自分の話がすべて無益だと、いつ工場主が気づくだろうかと自問してみることだけにした。工場主が黙ってしまったときに、Kはまず、自分はお話を伺うことができないと白状する機会を与えてくれるために相手が黙ったのだ、とほんとうに思いこんだのだった。だが、明らかにあらゆる反対に身構えしている工場主の緊張した眼差《まなざし》を見て、用談を続けなければならないのだ、と気づいたときは、ただ残念に思われるだけだった。それで命令を受けるときのように頭を垂れ、鉛筆で書類の上をゆっくりとあちこちなでまわし、ときどき休んでは数字をじっと見つめた。工場主はKに異論があるのだと思い、おそらくは数字がまったくはっきりとはしていないためか、おそらくは決定的なものでないためか、いずれにせよ工場主は手で書類を覆《おお》い、Kにぴったり寄り添って、改めて仕事の一般的な説明を始めるのだった。
「むずかしいですね」と、Kは言い、口もとに皺《しわ》を寄せ、唯一のつかみどころである書類が覆われているので、ぐったりと椅子の肘掛《ひじかけ》に崩《くず》れかかった。すっかり元気がなくなりさえして眼を上げると、ちょうど支店長室の扉があいて、ガーゼの幕の後ろにでもいるようにぼんやりと支店長代理の姿が、そこに現われた。Kはそれ以上支店長代理が現われたことを考えてはいないで、彼が現われたために生じた、自分にとってきわめてよろこばしい直接の効果だけを追い求めるのだった。というのは、たちまち工場主は椅子からとび上がり、支店長代理のほうへ急ぎ足で飛んでいったからである。だがKは、支店長代理がまた消えてしまうのでないかと心配だったので、工場主を十倍も足早に歩かせてやりたいくらいだった。しかしそれは要《い》らぬ心配で、二人はぶつかり、互いに握手を交《か》わし、いっしょにKの机のところへやってきた。工場主は、業務主任にはどうも仕事に対する熱意が見られない、と苦情を言い、支店長代理の視線の下で改めて書類の上にかがみこんだKを、指さした。それから二人が机にもたれ、工場主は今度は支店長代理を自分の手中に収めようと懸命になると、Kには、恐ろしく大きいように思われるこの二人が頭の上で自分自身のことを相談しているような気がした。慎重に上眼をつかいながらゆっくりと、頭上で起っていることを見ようとし、書類の一枚を見もしないで机から取上げ、それを掌《てのひら》にのせて、自分自身も立ち上がりながら、その書類をそろそろと二人のほうに持ち上げた。こうしながら、格別どうしようということを考えたのではなく、自分からまったく面倒を除いてくれるあの大仕掛けな願書を仕上げたときには、きっとこういう態度をとるにちがいない、という気持で振舞っただけだった。すべての注意を注いで話に夢中だった支店長代理は、ただちらりと書類を見ると、そうやって差出されたものを全然読みもしなかった。業務主任に大切なものも、彼にはなんでもないものだったからである。そしてそれをKの手から取上げると、言った。
「ありがとう、もうみんな承知しています」
 そして、またそれを机にもどした。Kはむっとして彼を横から見つめた。だが支店長代理は全然気がつかないか、気がついたにしてもかえってそれに元気づけられるかして、しばしば高笑いし、一度ぬかりのない受けこたえで工場主を明らかに当惑させ、しかしすぐ自分自身の言ったことに異論をはさんでみせて相手を当惑から解きほぐしてやり、最後に彼の事務室に来るように誘い、そこでなら用件を終りまでやれるだろう、と言った。
「これはたいへんむずかしい用件です」と、工場主に言った。「それはすっかりわかっていますから。そして業務主任さんには」――こう言いながらもほんとうはただ工場主にだけ向って話しかけるのだった――「われわれだけで片づけるほうがお気に召すでしょう。この用件は冷静に考えることが必要ですからね。ところがこの方は今日はとても忙しいらしく、もう一時間以上も幾人かの人が控室で待っていますよ」
 Kはまだ、支店長代理から向き直り、愛想よさそうではあるがこわばった微笑を工場主に対してしてみせるだけの落着きを辛うじて持っていたが、そのほかのことには全然手を下すことができず、少し前かがみになって両手で机の上に身体をささえ、ちょうど机の後ろにいる売り子のような格好になり、二人が話を続けながら机から書類を取上げ、支店長室に消えてゆくのをながめていた。扉のところでなお工場主は振向き、これでお別れするのではなく、もちろん話の結果について業務主任さんにも報告するし、自分個人としてもまだほかにちょっとお話しすることがある、と言った。
 やっとKはひとりになった。誰か別な客を迎えようとは全然考えず、部屋の外の人々は自分がまだ工場主と折衝中だと思いこみ、このために誰も、そして小使さえも、自分のところへはいってこないのは、なんと気持のよいことだろう、という考えが、ただ漠然と彼の意識に上ってくるのだった。窓ぎわへ行き、手すりに腰をおろして、片手を把手《とって》にかけて身体《からだ》をささえ、広場を見やった。雪はまだ降っており、全然晴れあがってはいなかった。
 いったい何が自分を心配させるのかもわからぬまま、彼は長いあいだそうして腰かけていた。ただときどき少しぎくりとして肩越しに控室のほうを見たが、空耳だが物音を聞いたように思ったからであった。だが誰も来ないのでいくらか落着き、洗面台に行って冷たい水で洗うと、さわやかな頭になって窓べの場所にもどってきた。弁護を自分の手で引受けようという決心が、初めに思ったよりもいっそう重要に思えた。弁護を弁護士にまかせていたうちは、まだ根本的には訴訟にほとんど関係していなかったも同然で、ただ遠くからながめていたのであって、直接それから得《う》るところはほとんどなかったが、欲するなら自分の事件がどうなっているかを見ることができたし、また望むならば頭を向け直すこともできたのだった。それに反して、今や弁護を自分でやることになれば、――少なくともしばらくは――すっかり裁判所に身をさらさなくてはならなくなり、その結果は、後になれば自分の身を完全に、また最後的に解放することになるはずではあるが、これをうまくやるためには、どうしてもしばらくはこれまでよりも大きな危険を冒してゆかねばならなかった。この点については彼は疑わしく思っていたが、支店長代理と工場主と今日同席したことで十分確信させられたにちがいなかった。自分を弁護するというはっきりした決心をすっかりきめたのに、どうしてそこにすわっていたのか? だが、これから先どうなることだろうか? 自分の前にはどんな日々が立ちはだかっていることだろうか! 万事を切り抜けて好ましい結果に通じる道を発見するだろうか? きわめて慎重な弁護をやろうというのなら――そしてそれ以外のことはいっさい無意味なのだ――きわめて慎重な弁護をやろうというのなら、それには同時に、ほかのいっさいのことを除外してしまうことがどうしても必要ではないか? うまくやりおおせられるだろうか? そして、これをやりぬくことは銀行にありながらどうやって成功するだろうか? まったくのところ単に願書の問題ではなくて、訴訟全体に関することなので、願書ならば、たとい休暇を願い出ることは今さしあたってはたいへん思いきったことではあっても、休暇を取ればきっと十分だろうが、この訴訟となるとどれほど続くかさっぱり見通しがきかぬのだ。なんという障害が突然おれの経歴に投げこまれたことだろうか!
 そして今でも、銀行のために働かねばならぬのだろうか?――彼は机の上を見やった。――今でも客を招き入れ、彼らと折衝をせねばならぬのだろうか? 訴訟が進行し、あの屋根裏部屋では裁判所の役人たちがこの訴訟の文書をめぐって集まっているのに、銀行の仕事にかまっていなければならないのだろうか? 仕事はまるで、裁判所によって公認され、訴訟と関連してそれにつきまとっている拷問のようなものではないか? およそ銀行の中にあって、自分の仕事を評価するとともに、この特殊な状態を考慮してくれる人がいるだろうか? そんなことをしてくれる人は全然ない。誰がどれくらいそれについて知っているのかはまだまったくはっきりとはしていないが、訴訟のことは全然知られていないわけではなかった。だが支店長代理のところまでは噂はまだおそらく届いてはいないらしく、もしそうでなければ、この男がきっと同僚のよしみも人情もあったものではなくそれを利用しつくす有様を、すでにはっきりと見なければならなかったことだろう。そして支店長はどうだろう? 確かに彼はおれに好意を持っており、訴訟のことを聞けば、おそらくすぐにできるだけおれのために事を容易にしてやろうとしてくれるだろうが、きっとそういう態度を貫くことはできまい。なぜならば、おれがこれまで形成していたバランスが弱まりはじめるにつれて、支店長はいよいよ代理の影響に押されることとなり、代理はそのうえ支店長の苦しい立場を自分の勢力の増強のために利用しつくしているようなやつだからだ。それゆえ、おれは何を望むべきか? おそらくこんなふうに考えることによって抵抗力を弱めることになるだろうが、自分自身を欺かず、万事を現在としてできるだけはっきりと見ることもまた必要なことだ。
 格別の理由もなかったが、ただしばらくはまだ机に帰りたくはなかったので、窓をあけた。窓はなかなかあかず、両手で把手をまわさねばならなかった。やっとあけると、窓の幅と高さとだけ、煤《すす》の混じった霧が部屋に流れこみ、かすかな焦げる匂《にお》いで部屋をいっぱいにした。雪片もいくらか吹きこんできた。
「いやな秋ですね」と、Kの背後で工場主が言ったが、支店長代理のところからもどって、気づかれずに部屋にはいってきていたのだった。Kはうなずき、不安げに工場主の書類入れを見つめた。その中から彼は今にも書類を引っ張り出し、支店長代理との交渉の結果をKに話しそうだった。だが工場主はKの視線を追い、書類入れをたたき、それをあけないで言った。
「どういうことになったか、お聞きになりたいでしょう。書類入れの中にはもう契約書がはいっているのも同然です。支店長代理さんは魅力のある人ですね。だがまったく危険のない人じゃないですが」
 彼は笑ってKの手を握り、彼のことも笑わせようとした。ところがKには、工場主が書類を見せようとしないことがまたまたあやしく思われたので、工場主の言葉が少しもおかしくはなかった。
「きっと天気病みでいらっしゃるんですね? 今日はたいへんふさいでいらっしゃるようにお見受けしますが」
「そうです」と、Kは言い、両手でこめかみを押えた。「頭痛と家庭の心配です」
「まったくです」と、せわしげな人間で、人の言うことは落着いて聞けない工場主は、言った。「誰でも十字架を負わなければならんのです」
 工場主を送り出そうとするかのように、Kは思わず知らず扉のほうへ一歩進んだが、工場主は言った。
「業務主任さん、あなたにもう少しお話しすることがあります。こんな日に申上げてあなたをわずらわすことはたいへん恐縮ですが、最近二度もあなたのところへまいって、いつも忘れてしまっていたものですから。でもこれ以上延ばしますとおそらく完全に役にたたなくなりましょうからね。そうなると残念ですからねえ。なぜって私の話は根本においておそらく値打ちのないものではありませんからね」
 Kが答える余裕もないうちに、工場主は彼のそばに歩み寄り、指の関節で彼の胸をたたき、低い声で言った。
「あなたは訴訟にかかりあっていらっしゃるんですってね?」
 Kは後《あと》ずさりして、すぐさま叫んだ。
「支店長代理があなたにお話ししたんですね!」
「いや、そうじゃありません」と、工場主は言った。「支店長代理が知っているわけがないでしょう?」
「ではあなたは?」と、Kはずっと落着きを取戻して言った。
「あちらこちらで裁判所のことは何かと聞きますんでね」と、工場主は言った。「お話ししようと思うことも、まさにそのことなんです」
「たくさんな人が裁判所と関係を持っているんですね!」と、Kは頭を垂《た》れて言い、工場主を机のところへ連れていった。彼らは先ほどと同じようにすわったが、工場主は言った。
「お伝えすることのできることがたいして詳しくはなくて残念です。しかし、こういう事柄ではほんの少しでもおろそかにしてはなりませんからね。それに、私の尽力はささやかなものでありましょうが、あなたをなんとかしてお助けいたしたい気持に駆られておりますので。私たちはこれまで仕事の上のよい友達でしたからねえ。ところで――」
 Kは今日の相談のときの自分の態度のことでわびようとしたが、工場主は黙って話を中断させてはおらず、自分は急いでいるのだということを示すために書類入れを腋《わき》の下に高く押しこみ、言葉を続けた。
「あなたの訴訟のことは、ティトレリという男から知りました。画家でして、ティトレリというのはただその男の雅号ですが、ほんとうの名前は全然知りません。この男は、数年来ときどき私の事務所にやってきて、小さな絵を持ってくるんですが、――まるで乞食《こじき》みたいなもんですよ――私はいつでも一種の喜捨をやっています。ともかく好ましい絵でして、荒野の風景とかそういったものなんです。このやりとりが――二人とももう慣れてしまったんですが――まったくスムーズにいっていました。ところが、一度、こうやってやってくるのがあんまり頻繁《ひんぱん》に繰返されるので、私は文句を言ってやったところ、いろいろな話になり、ただ絵を描くことだけでどうやって暮してゆけるのか、私も興味を覚えたんですが、驚いたことに彼のおもな収入源が肖像画だということを聞きました。『裁判所の仕事をしています』と言うんです。『どんな裁判所だね』と、私がききました。すると裁判所のことを話してくれました。どんなにこの話で私が驚いたことか、あなたはいちばんよくわかってくださるでしょう。それ以来私は、この男が訪《たず》ねてくるたびごとに裁判所のニュースを何かと聞き、次第次第にそのことに関するある種の理解ができるようになりました。もとよりティトレリはおしゃべりでして、私はしょっちゅう追い払わなければなりませんが、それはこの男が嘘《うそ》をつくからばかりでなく、何よりも、私のような商売人は自分の仕事の心配だけでもほとんどぶっつぶれそうで、関係のない物事にはあまり気をつかっていられないためなんです。だがこれはただついでに申上げたわけです。おそらくこれで――私は思うんですが――あなたはティトレリのことが少しはおわかりのことと思いますが、この男は大勢の裁判官を知っていて、自分ではたいして力がないにしても、どうやったらさまざまな有力者に近づけるかという助言はできましょう。そして、たといこういった助言がそれ自体としては決定的なものでないにしても、私の考えるところでは、あなたがお持ちになればたいへん有益でありましょう。あなたはまったく弁護士みたいな方ですからね。私はいつも言っているんですよ。業務主任のKさんは弁護士みたいな人だってね。いや、私は何もあなたの訴訟のことで心配なんかしちゃおりません。ですが、ティトレリのところにおいでになりませんか? 私がご紹介すれば、あの男はきっと、彼にできることをなんでもやるでしょう。あなたは行くべきだと私はほんとうに思いますね。もちろん今日でなくとも結構でして、いつかおついでのときでいいんです。もちろん、――これは申上げておきたいと思いますが――私がこうおすすめしたからといって、ほんとうにティトレリのところにどうしても行かねばならぬということは少しもありません。いや、もしティトレリなんかいなくたってやってゆけるとお思いでしたら、確かに、あの男をまったく無視されることがいっそうよろしいでしょう。きっとあなたはとっくに詳しいプランをお持ちでしょうし、それならティトレリなんかはそれの邪魔をするばかりかもしれません。いや、それならもちろん、けっしていらっしゃらなくて結構なんです! それにきっと、こんな男から助言をもらうとなると我慢も要《い》りますからね。まあ、お気に召すようにしてください。これが紹介状、これが住所です」
 がっかりしてKはその手紙を受取り、それをポケットに押しこんだ。いちばんうまくいった場合でも、この紹介状のもたらす利益などは、工場主が自分の訴訟について知っており、画家がそのニュースをひろめてまわる、ということに含まれている損害に比べれば、比較にならぬくらい小さなことだった。もう扉のほうへ行きかけている工場主に一言二言礼を言うことも、ほとんどやる気にはなれなかった。
「行ってみますよ」と、扉のところで工場主と別れるとき、Kは言った。「あるいは、今は非常に忙しいので、一度私の事務室のほうへ来てもらいたいと書くかもしれません」
「あなたがいちばんいい策《て》を発見されるだろうということは、わかっていました」と、工場主は言った。「もちろん私は、訴訟について話すためにこのティトレリのような人物を銀行へ呼ぶなどということは、あなたがむしろ避けたいと思っていらっしゃるものとばかり思っていました。それに、手紙をこんな連中の手に渡すということは利益になるとばかりはかぎりませんからね。でもあなたはさだめし万事を考え抜かれたことでしょうし、どうやったらよいかは十分おわかりのことと思います」
 Kはうなずき、さらに控室を通って工場主について行った。だが、表面では平静を装っているものの、自分の言ったことに非常に驚いていた。ティトレリに手紙を書くだろうと言ったのは、もとよりただ工場主に対してなんとかして、紹介状はありがたく思っている、ティトレリと会う機会のことはすぐ考える、ということを示そうと思って言ったことにすぎないのだが、もしティトレリの味方が値打ちがあるものと見てとれば、ほんとうに手紙を書くことも躊躇《ちゅうちょ》はしなかっただろう。ところが、その結果として起るかもしれない危険のことは、工場主の言葉で初めて気がついたのだった。自分の悟性に対してほんとうにこんなにも信用できなくなったのだろうか? はっきりした手紙でうさんくさい男を銀行にまで呼び出し、支店長代理とは扉ひとつしか隔たっていない場所で自分の訴訟についての助言を求めるというようなことがありうるなら、もっとほかの危険も見逃《みのが》しているし、そんな危険のなかに飛びこむこともありうることだし、大いにありそうなことでさえなかろうか? 自分に警告してくれる人間がいつも自分のそばにいるものとばかりはかぎらない。そしてまさに今、全力を集中して歩み出なくてはならないときに、自分の用心深さに対するこれまで知らなかったようなこんな疑惑が現われるとは? 事務をやっているとき感じたあの困難が、今や訴訟においても始まったのだろうか? もちろん今ではもう、ティトレリに手紙を書き銀行に来てもらおうなどと思ったことがどうして可能だったのか、彼にはわからなかった。
 そのことを考えてまだ頭を振っていると、小使がそばにやってきて、この控室のベンチに腰かけていた三人の客に注意を向けさせた。彼らはすでに長いあいだKのところへ招かれるのを待っていた。小使がKと話すなり、立ち上がって、好機をとらえて誰よりも先にKの前に行こうとした。銀行側が無礼にもこの待合室で時間を空費させたもので、彼らのほうももう遠慮をしようとはしなかった。
「業務主任さん」と、早速一人が言った。だがKは小使に外套《がいとう》を持ってこさせ、小使の手を借りて着ながら、三人全部に向って言った。
「みなさんごめんなさい、今ちょうどお会いする時間がないんです。はなはだ恐縮ですがさし迫った外での用事を片づけなければなりませんので、すぐ出かけなければなりません。ごらんのとおり、今たいへん長く引留められておりましたので。明日でも、あるいはいつなり改めておいでねがえませんか。なんなら用件を電話でお話しすることにしませんか? または今手短かに何のご用件か伺っておいて、のちほど詳しく書面でお答えいたしましょう。もちろん、この次来ていただくのがいちばんよろしいのですけれど」
 このKの提案は、完全にむなしく待たされたことになった三人の客を非常に驚かせたので、黙って顔を見合すばかりだった。
「それじゃあ、そうきまりましたね?」と、帽子を持ってきた小使のほうを振向いたKは、たずねた。Kの部屋のあけっ放しの扉からは、戸外で雪がたいへんひどくなったのが見えた。そこでKは外套の襟《えり》を立てて、頸《くび》のすぐ下にボタンをかけた。
 ちょうどそのとき、隣室から支店長代理が出てきて、外套を着たKが客たちと言い合っているのを微笑しながらながめ、こうきいた。
「もうお帰りですか、業務主任さん?」
「そうです」と、Kは言い、身体を正した。「用件で出かけなければなりませんので」
 しかし支店長代理は、すでに客たちのほうを向いていた。
「で、この方々はどうなんです?」と、きいた。「もうかなりお待ちのように思うんですが」
「もう話がきまったんです」と、Kは言った。だが客たちはもう我慢ができなくなり、Kを取囲んで、用件が重要なものでなければ、一時間も待ちはしなかったろう、そして今すぐ、それもとっくりと個人的に、話し合ってもらいたい、と述べたてた。支店長代理は彼らの言うことをしばらく聞いていたが、帽子を手に持ち、あちこち塵《ちり》を払っているKのこともながめたうえで、言った。
「みなさん、たいへん簡単な策《て》があります。もし私でおよろしかったら、業務主任さんにかわってよろこんでお話を伺いましょう。みなさんのご用件はもちろんすぐお話ししてしまわなければなりません。私たちもみなさんのように商売人ですから、商売人の時間の大切なことはよくわかっております。こちらにいらっしゃいませんか?」
 そして、自分の事務室に通じる扉をあけた。
 Kが今やむなく放棄せねばならなかったものを、支店長代理はすべて我が物としてしまうことをなんと心得ていたことか! しかしKは、絶対的に必要である以上のものを放棄しなかったろうか? 不確かな、きわめて乏しいということを認めざるをえないような希望をいだきながら未知の画家のところへ行っているあいだに、銀行のほうでは彼の声望は取返しのつかぬような損害をこうむるのだった。外套をまた脱いで、まだ顔をそろえて待たされている二人の客だけでも取戻すほうが、ずっと賢明であったろう。彼の本立てで我が物顔に何か捜している支店長代理をそのとき見つけなかったなら、Kはおそらくそうしたかもしれない。Kが憤慨して扉に近づいたとき、支店長代理が叫んだ。
「ああ、まだ出かけなかったんですね」
 Kのほうに顔を向け、すぐまた捜し始めるのだったが、その顔の数多くの鋭い皺《しわ》は、老齢ではなくて、充実した気力を示しているように見えた。
「契約書を捜しているんですよ」と、彼は言った。「あの商会の社長さんが、君のところにあるはずだ、と言われるんだが。捜してくれませんか?」
 Kが一歩近づくと、支店長代理は言った。
「いや、ありました」
 そして、契約書だけではなく、きっとほかのものもたくさん入れているにちがいない大束の書類を持って、また自分の部屋にもどっていった。
「今のところはあいつは手には負えないが、おれの個人的な悶着《もんちゃく》が片づいたら、きっといちばん先に痛い目にあわせてやるぞ、しかもできるだけひどくだ」こう考えて少し気を落着けたKは、ずっと前から廊下に出る扉をあけて待っていた小使に、用件で外出したと折を見て支店長に伝えてくれと頼み、しばらくは自分の用事に完全に没頭できることにほとんど幸福を覚えながら、銀行を出た。
 すぐ画家のところへ行った。画家は郊外に住んでいるのだったが、裁判所事務局のある例のところとは全然反対の方面であった。もっとみすぼらしい界隈《かいわい》で、家々はもっと陰気くさく、小路は雪解けの上をゆっくりと漂っている汚物でいっぱいだった。画家の住む家では、大きな門の片方の扉だけがあいており、もう一方は下のほうの壁に穴があき、Kが近づいたとたん、気持のわるい黄色の臭《にお》う液体がこぼれてきて、それを避けようとして鼠《ねずみ》が一匹近くの溝《みぞ》へ逃げこんだ。階段の下では子供が一人地面に腹ばいになって泣いていたが、門の向う側のブリキ屋の仕事場から聞えてくる騒音がいっさいの物音を打消してしまうので、子供の泣き声はほとんど聞えぬくらいだった。仕事場の戸はあけっ放しで、何か仕事を囲んで半円形に三人の職人が立ち、ハンマーでその上をたたいていた。壁にかかった大きな一枚のブリキ板が蒼白《あおじろ》い光を投げ、それが二人の職人のあいだを透《とお》して、彼らの顔と仕事用の前掛けとを照らしていた。Kはこうしたすべてを軽く一瞥《いちべつ》しただけだった。できるだけ早く用事をすまし、ほんの少し画家から話を聞いただけですぐ銀行にもどろうと思った。もしここでほんのわずかでも成果をあげたならば、それは銀行での今日の仕事にもよい影響を及ぼすにちがいなかった。四階では歩度をゆるめなければならなかった。すっかり息切れがし、階段も各階も桁《けた》はずれに高かったが、画家はまったくてっぺんの屋根裏部屋に住んでいるということだった。空気もきわめてうっとうしく、踊り場がなく、狭い階段が両側の壁にはさまれており、その壁にはほんのところどころおそろしく上のほうに小さな窓がついていた。Kが少し立ち止ったとき、ちょうど二、三人ほどの少女がある部屋から飛び出し、笑いながら階段を駆け上がっていった。Kはその後《あと》をゆっくりとつけ、つまずいてほかの子たちに取残された一人の少女に追いつき、並んで登りながらきいてみた。
「絵描きのティトレリっていう人いる?」
 十三になるかならぬかのいくらか佝僂《せむし》のその少女は、きかれると片肘《かたひじ》でKを突き、そばから彼の顔をじっと見た。その子の幼さも不具も、この子がすでにすっかり堕落してしまっているという事実を否定できるものではなかった。少女はにこりともしないで、鋭いうかがうような眼差《まなざし》でむきになってKを見つめた。Kはその態度に気づかなかったように装って、きいた。
「絵描きのティトレリさんって知っている?」
 少女はうなずくと、今度は彼女のほうからたずねた。
「あの人になんの用事なの?」
 Kには、あらかじめ少しティトレリについて知っておくことが有益に思われた。
「おじさんのことを描いてもらおうと思うんだよ」と、彼は言った。
「描いてもらうの?」と、少女はきき、やたらに大きく口をあけ、Kが何か非常に驚くべきことかまずいことかを言ったのでもあるかのように手で軽く彼をたたき、そうでなくとも短かすぎるスカートを両手でつまみ上げると、高いところで叫び声がもう聞き取れぬくらいになっているほかの子供たちの後を追って、できるだけ早く駆け上がっていった。だが階段のその次の折り返しのところで、Kはまた少女たち全部といっしょになった。明らかに佝僂の子にKの意図を教えられて、彼を待っていたのだった。階段の両側に立ち、Kがうまく通るように壁に身体を押しつけ、手でエプロンの皺《しわ》を伸ばしていた。どの顔つきといい、またこんな人垣をつくることといい、子供らしさと堕落の味わいとの混じり合いを示していた。Kの後ろに笑いながら集まった少女たちの先頭に立ったのは、案内を引受けた例の佝僂だった。Kはすぐ正しい道筋がわかったのも、その子のおかげだった。すなわち、まっすぐ登ってゆこうとしたのだが、ティトレリのところへ行くには分れた階段を選ばなくてはならぬということを、その子は教えてくれた。画家のところへ行く階段は特に狭く、きわめて長く、曲ってはいないのですっかり見通しがきき、登りつめると直接ティトレリの扉の前で終っていた。扉の斜め上にはまった小さな天窓によってほかの階段とはちがって比較的明るく照らし出されているこの扉は、上塗りのしてない角材で組み上げられ、その上にはティトレリという名前が赤い色で肉太の筆描きをもって書かれていた。子供たちを従えたKが階段の真ん中まで来るやいなや、明らかに大勢の足音に促されたからであろうが、上の扉が少しあけられ、寝巻一枚を着ているらしい一人の男が扉の隙間《すきま》に現われた。
「おお!」と、一行がやってくるのを見て、男は叫んだ。佝僂の少女はよろこんで手をたたき、ほかの少女たちは、Kをもっと早く追いたてようとして、彼の後ろから押すのだった。
 まだ登りつめないうちに、上では画家が扉を大きく開き、深く身体をかがめて、Kにはいるようにすすめた。少女たちのほうは追い払い、子供がどんなに頼んでも、また彼の許しがなければ無理にでも押し入ろうとどんなにやってみても、一人でも入れようとはしなかった。ただ佝僂の子だけが画家の伸ばした腕の下をくぐり抜けることに成功したが、彼はその子の後を追い、スカートをつかむと自分のまわりでぐるぐると引きまわし、扉の前のほかの子たちのところへ置いた。子供たちは、画家がそうして持場を離れているあいだ、それでも敷居を越してやろうとはしなかった。Kはこういう有様をどう判断すればいいのかわからなかった。すなわち、万事がまるで仲よく馴《な》れ合いで行われているように見受けられるのだった。扉の子供たちは次々と頸《くび》を伸ばし、Kにはわからないさまざまなふざけた言葉を叫びかけ、画家もまた、彼の手中の佝僂の子がほとんど飛ぶように逃げてゆくあいだ、笑っていた。次に扉をしめ、もう一度Kに会釈《えしゃく》すると、手を差出し、名乗りながら言った。
「画家ティトレリです」
 Kは、背後で少女たちがささやいている扉を指さして言った。
「この家ではたいへん人気がおありのようですね」
「ああ、腕白《わんぱく》たちでして」と、画家は言い、寝巻の頸のボタンをかけようとするのだがだめだった。ところで画家は裸足《はだし》で、だぶだぶの黄ばんだズボンをはいているだけだが、ズボンは紐《ひも》で締められ、その長い端がぶらぶら揺れていた。
「この腕白たちにはほんとうに困っています」と、言葉を続けながら、いちばん上のボタンがちょうどちぎれてしまった寝巻から手を出し、椅子をひとつ持ってきて、Kにかけるようにすすめた。
「前に、あの連中の一人を――その子は今日はいなかったですが――描《か》いてやったことがありましたが、それからというもの、みな私の後を追いかけるんです。私がここにおりますと、いいと言うときだけはいってきますが、一度出かけようものなら、いつでも少なくとも一人ははいりこんでいます。私の部屋の鍵《かぎ》をつくらせて、互いに貸し合っているんですよ。いやわずらわしいったら、人様にはほとんど想像もつきますまい。たとえば、私が描くことになっているご婦人と帰ってきて、鍵で戸をあけると、筆で唇《くちびる》を真っ赤に塗った佝僂の子がそこの机のところに立ち、その子がお守《も》りをしなきゃならない小さな妹たちは暴《あば》れまわって、部屋の隅々《すみずみ》までよごしているというような有様なんです。また、つい昨日《きのう》起ったことですが、夜遅く帰ってきて、――どうかそのことをお考えくだすって、私のこんな格好や部屋の乱雑なことはお許しねがいます――で、夜遅く帰ってきて、ベッドにはいろうとすると、誰か私の脚をつねるやつがある。私はベッドの下をのぞいて、一人引っ張り出すっていうようなわけです。どうして私のところにこう押しかけるのか、私にはわかりませんが、私のほうから誘いをかけたのでないことは、あなたも今ちょうどごらんになったとおりです。もちろんこれには仕事の邪魔もされるというものです。このアトリエが無料で借りられるのでなければ、とっくに引っ越していたでしょう」
 そのときちょうど、扉の向うでやさしい、おどおどしたような声が叫んだ。
「ティトレリさん、もうはいってもいい?」
「いけないよ」と、画家は答えた。
「あたしだけでもいけない?」と、声がまたきいた。
「いけないね」と、画家は言い、扉のところへ行き鍵をかけた。
 Kはそのあいだに部屋を見まわした。このひどい小さな部屋がアトリエと呼ばれるかどうかは、言われなければひとりで思いつくものではなかった。奥行、間口ともにここでは、大股《おおまた》で二歩以上は、歩けそうもなかった。床、壁、天井、みな木造で、角材のあいだには細い隙間が見られた。Kの反対側の壁ぎわにベッドが置かれ、色とりどりの寝具が積み上げられていた。部屋の真ん中の画架には一枚の絵がのり、シャツがかぶせてあって、その袖《そで》が床までぶらさがっていた。Kの後ろには窓があり、窓からは霧を透して雪で覆《おお》われた隣家の屋根が見えるだけだった。
 鍵をまわしてしめる音は、Kに、すぐ帰るつもりだったことを思い出させた。そこで工場主の手紙をポケットから取出し、画家に渡して言った。
「あなたのお知合いのこの方からあなたのことを伺い、そのおすすめでまいったのです」
 画家はさっと手紙を通読し、それをベッドの上に投げた。もし工場主がきわめてきっぱりと、ティトレリは自分の知合いで、自分の喜捨に頼ってきた貧しい人間だ、と言ったのでなかったら、この有様を見ては、ティトレリが工場主のことを知らないか、あるいは少なくとも彼のことを思い出すことができないのだ、とほんとうに考えることもできたろう。そのうえ、画家はこうきくのだった。
「絵をお買いになりたいんですか、それとも肖像を描けとおっしゃるんですか?」
 Kはびっくりして画家を見つめた。いったい手紙には何が書いてあるんだろう? 自分がここに来たのはほかならない訴訟について問い合せようと思うからだ、と工場主が手紙で画家に告げているものだとばかりKは考えていた。あんまりあわてすぎ、よくも考えてみないで駆けつけたようだ! だが、こうなってはなんとか画家に答えなければならないので、画架に一瞥《いちべつ》を投げながら言った。
「ちょうど絵のお仕事ですね?」
「そうです」と、画家は言い、画架の上にかかっていたシャツを、ベッドの手紙のほうに投げた。
「肖像画です。いい仕事ですが、まだすっかりできあがってはいません」
 偶然がKに幸いし、裁判所のことを話すきっかけが、はっきりと彼に与えられたのだった。というのは、それは明らかに裁判官の肖像だったからである。ところでそれは、弁護士の事務室の絵にひどく似ていた。もちろんこれは全然別な裁判官であって、頬《ほお》の側にまで達している黒いもじゃもじゃの一面の髯《ひげ》を生《は》やした肥《ふと》った男だったし、あの絵は油絵だったが、これはパステルでさっとぼかしてあった。だがそのほかの点では似ていた。この絵でもやはり、ちょうど裁判官が肘掛けをしっかと握って、いかめしい椅子から威嚇《いかく》的な態度で立ち上がろうとしていたからである。
「裁判官ですね」と、Kはすぐ言おうとしたが、しばらくはまだ控えて、細部をよく見ようとするかのように絵に近づいた。椅子の背の真ん中にある大きな像がなんであるか彼にはわからなかったので、画家にそれをきいてみた。これはもう少し手を加えなくちゃならないんです、と画家は答え、小さな机からパステルを一本持ってくると、それで少しその像の輪郭をなすったが、そうしてもKにははっきりとはわからなかった。
「正義の女神《めがみ》なんです」と、画家は最後に言った。
「もうわかりましたよ」と、Kは言った。「ここに眼隠しの布があるし、ここに秤《はかり》がある。だが、踵《かかと》に翼が生えていて、飛んでいるんじゃありませんか?」
「そうなんです」と、画家は言った。「頼まれてこう描かなくちゃならなかったんですが、ほんとうは正義の女神と勝利の女神とをひとつにしたんです」
「どうもあまりうまい取合せじゃありませんね」と、Kは微笑しながら言った。「正義はじっとしていなくちゃいけませんね。そうでないと秤が揺れて、正しい判決ができませんからね」
「その点は依頼主の注文に従ったんです」と、画家は言った。
「きっとそうでしょうね」と、自分の言葉で誰も傷つけまいとしたKは、言った。
「この像は、ほんとうに椅子にすわっているままを描かれたんですね」
「いや」と、画家は言った。「私はその像も椅子も見ませんでした。いっさい考案ですが、描くべきものは注文をつけてもらいました」
「えっ、なんですって?」と、画家の言うことがよくわからないというようにわざと装いながら、Kは言った。「でもこれは、裁判官の椅子にすわっている裁判官でしょう?」
「そうですが」と、画家は言った。「でも高い地位の裁判官じゃなくて、こんなりっぱな椅子にすわったことなんかないんです」
「それなのにこんないかめしい物腰で描いてもらうんですか? まるで裁判所の長官のようにすわっていますね」
「そうです、この人たちは虚栄心が強いんですよ」と、画家は言った。「だが、こういうふうにして描いてもらっていいという、上のほうの許可を受けているんです。誰もが、どう描いてもらっていいのかきめられているんですよ。ただこの絵では服装や椅子の細部が見分けられませんね。パステルはこういう表現には不向きです」
「そう」と、Kは言った。「パステルで描かれているのは変ですね」
「裁判官がそう望まれたんです」と、画家は言った。「これはあるご婦人にあげることになっています」
 絵をながめていることが、彼に仕事をしようとする欲求を起させたらしく、シャツの袖をたくし上げ、二、三本パステルを手に取った。そしてKは、そのパステルの震える尖端《せんたん》の下で、裁判官の頭にしっくりとはまりながら赤みを帯びた陰影ができあがり、それが画面の縁に向って放射線状に消えてゆくのを、ながめていた。この陰影の戯れは次第に、飾りか高い名誉のしるし[#「しるし」に傍点]かでもあるように、頭を取巻いた。だが正義の女神の姿のまわりでは、ほとんど気づかれないような色調を除いて色が明るく、この明るさのうちに姿がことに浮び上がってくるように思われ、もうほとんど正義の女神も、勝利の女神をも思い出させず、今ではむしろ、すっかり狩猟の女神のように見えた。画家の仕事は、思ったよりもKをひきつけた。しかしついに、自分はもうこんなにここにいるのに、根本において自分自身のことをまだやっていなかった、と気づいて我が身をとがめるのだった。
「この裁判官はなんという人ですか?」と、彼は突然きいた。
「それは言えません」と、画家は答え、絵に深くかがみこんで、初めはあんなにも敬意をこめて迎えた客を明らかに無視するのだった。Kはそれを気まぐれと考え、それに腹をたてたが、こんなことで時間をむだにしたからであった。
「あなたはきっと裁判所とご懇意なんですね」と、彼はきいた。
 画家はすぐパステルをそばに置き、身体を起し、両手をこすって、にやにやしながらKを見つめた。
「いつも、すぐに真相を言えとばかりおっしゃるんですね」と、彼は言った、「紹介状にも書いてありますが、あなたは裁判所のことが聞きたいのに、私の気をひこうとしてまず私の絵のことを話されたのですね。だが、私はそれをわるくはとりませんが、そんなことは私の場合適当じゃないってことをご存じなかったんです。いや、結構ですよ!」と、Kが何か異議をさしはさもうとすると、画家は鋭くさえぎりながら言った。そして次にこう言葉を続けた。
「ところでおっしゃったことは完全に正しいのでして、私は裁判所に信用が厚いのです」
 Kにこの事実で満足する時間を与えようとするかのように、画家はちょっと間《ま》を置いた。また扉の向うで少女たちの声が聞えた。彼らは鍵穴のまわりにひしめいているらしく、おそらく隙間からでも部屋の中がのぞけるらしかった。Kはなんとかわびを言うのはやめにした。画家の気持をそらしたくはなかったが、画家があまりに高いところへ上ってしまい、こんなふうにしていわば人の手の及ばぬところに身を置いてしまうことを、確かに好まなかったからであった。それゆえ、彼はきいてみた。
「それは公に認められた地位なんですか?」
「いや」と、Kの言葉で先の話が腰を折られたように、画家は手短かに言った。しかしKは、相手を黙らせてしまうことを望まず、言った。
「で、そういうような認められていない地位のほうが認められているのよりも有力なことが、往々ありますね」
「それはまさしく私の場合がそうですね」と、画家は額に皺《しわ》を寄せてうなずいた。
「私は昨日工場主とあなたの事件について話しましたが、あの方が私に、あなたのことをお助けする気はあるか、とききましたので、『その方は一度私のところへ来ていただくといいんですが』と、お答えしました。で、あなたがこんなに早く来てくだすって、うれしいことです。事柄はあなたをたいへん悲しませているようですが、それについては私ももちろん不思議とは思いません。まず外套でもお脱ぎになったらどうですか?」
 Kはただほんの少しだけここにとどまるつもりだったが、画家のこのすすめは大いにありがたかった。部屋の空気が彼には次第にうっとうしくなってきたが、もうこれまでに何回か不思議に思いながら、部屋の隅《すみ》にある小さな、疑いもなく火のはいっていない鉄ストーヴを見ていたので、部屋の中のこの蒸し暑さは解《げ》しかねた。Kが外套を脱ぎ、上着のボタンもはずしていると、画家は弁解しながら言った。
「私は暖かくなけりゃいけないんです。だがここはたいへん気持がよろしいでしょう? 部屋はこの点、実に場所がいいんです」
 それに対してKは何も言わなかったが、彼を不快にしたのはほんとうは暖かさではなく、むしろこもった、息苦しくさせられるような空気のためであり、部屋はずっと前から換気されていないにちがいなかった。Kのこの気分のわるさは、画家が自分ではこの部屋で唯一の椅子にすわって画架の前に構えていながら、Kにはベッドの上にすわるようすすめたので、いよいよ強まったのだった。そればかりではなく、Kがベッドのほんの端にすわっている理由を画家は誤解したらしく、かえってKに、どうかお楽にしてくださいとすすめ、Kが躊躇《ちゅうちょ》しているので自分で出かけ、Kをベッドと布団のほうに深く押しこんだ。それからまた自分の椅子にもどり、ついに最初の具体的な質問を切り出したが、それはKにはほかのすべてのことを忘れさせたのだった。
「あなたは潔白ですか?」と、彼はきいた。
「そうです」と、Kは言った。
 この質問への返事はKを心からよろこばせた。ことにそれが、一人の私人に対して、したがってなんらの責任もなく言えたためであった。まだ誰も彼にこんなにあけすけにたずねたものはなかった。このよろこびを味わいつくすために、彼は言葉を足した。
「私はまったく潔白なのです」
「そうですか」と、画家は言い、頭を垂れて、考えこむ面持だった。突然また頭をもたげると、言った。
「もし潔白なら、事はきわめて簡単です」
 Kの眼差は曇った。この裁判所に信用が厚いと称する男は、無邪気な子供みたいなことを言う、と思った。
「私が潔白だからといって、事は簡単にはならないでしょう」と、Kは言った。それでも微笑せずにはおられず、ゆっくりと頭を振った。「裁判所が没頭しているたくさんの細かいことと関係がありますからね。ところで結局、本来は全然何もなかったはずなのに、どこからか大きな罪が出てくるのですよ」
「そう、そう、確かに」と、まるでKが自分の考えていることに要《い》らぬ邪魔をするとでもいうように、画家は言った。
「でもあなたは潔白ですね?」
「そりゃそうですよ」と、Kが言った。
「それがいちばん大切なことですからね」と、画家が言った。
 反駁《はんばく》などには影響される男でなかった。ただ、いかにも断固としてはいるものの、確信からそう言うのか、あるいはただ冷淡な気持から言うのかが、どうもはっきりとしなかった。Kはまずそのことを確かめようとし、そのため言った。
「あなたは確かに裁判所のことを私よりずっとよくご存じですし、私は、もちろんさまざまな人からですが、それについて聞いたこと以上にはほとんど知っていません。だがすべての人々の言うことは、軽率な告訴などは提起されないし、裁判所は一度告訴したとなると、被告の罪について固く確信し、この確信を取除くことは容易でない、ということではみな一致していますよ」
「容易でないですって?」と、画家はきき返し、片手を高く振った。
「いやけっして裁判所はそういう確信を取除かれませんね。この部屋で一枚のカンバスの上にすべての裁判官を並べて描き、あなたがそのカンバスの前で自分を弁護されたほうが、現実の裁判所でよりもずっと効果をあげられますよ」
「そうでしょう」と、Kはつぶやき、自分は画家をただちょっと探ってみようとしたのだったということを忘れていた。
 扉の向うでは、また一人の少女がききはじめた。
「ティトレリさん、お客さんはすぐ帰らないの?」
「みんな黙っていな!」と、画家は扉のほうに向って叫んだ。「お客さんとお話中だっていうことがわからないのか?」
 しかし、少女はこの返事では満足せず、またきいた。
「おじさん、その人のこと描《か》くの?」そして画家が答えなかったので、さらに言った。「ねえ、描かないでよ、そんないやなやつ」
 それに続いて、はっきりとはしない、賛成するような叫びが入り乱れて聞えた。画家は扉に飛んでゆき、ほんの少しだけ隙間《すきま》をあけると――嘆願するように差出された、合わさった少女たちの手が見えた――言った。
「静かにしないと、みんな階段から投げおろしてやるぞ。この階段にすわって、おとなしくしていなさい」
 おそらく子供たちはすぐには聞かなかったようで、画家は命令しなければならなかった。
「階段にすわるんだ!」
 するとやっと、静かになった。
「ごめんなさい」と、Kのところへまたもどってくると、画家は言った。
 Kは扉のほうにはほとんど向かず、相手が自分を守ろうと思っているのか、またどうやって守るつもりなのか、完全に画家にまかせていた。彼は今度もほとんど身動きせずにいたが、画家が彼のほうに身をかがめ、室外には聞かれないようにして彼の耳にささやいた。
「この女の子たちも裁判所に属しているんです」
「なんですって?」と、Kはきき、頭をわきに退《の》けて、画家をじっと見つめた。ところが画家のほうはまた椅子にすわり、半ば冗談、半ば説明のために、言った。
「まったくすべてが裁判所に属していますからねえ」
「そいつはまだ気がつきませんでした」と、Kは手短かに言った。画家の一般的な言いかたは、少女たちについてのヒントから不安な点をいっさい取除いていた。それでもKはしばらく扉のほうを見ていたが、その向うでは子供たちは今度は静かにして階段にすわっていた。ただ一人だけが、角材のあいだの裂目から一本の藁《わら》を突き出して、ゆっくりと上下に動かしていた。
「裁判所についての大要をまだご存じないようですね」と、画家は言い、両脚を大きくひろげ、爪先で床の上をぱちっと打った。「でもあなたは潔白なんだから、そんなものは必要としないでしょう。私ひとりであなたを助け出しますよ」
「どうやろうとおっしゃるんですか?」と、Kがきいた。「どんな論拠も裁判所にはむだだ、とほんの少し前ご自分で言われたばかりじゃありませんか」
「裁判所に持ち出されるような論拠だけがだめなんですよ」と、画家は言い、Kが微妙なある相違に気づいていないというように、人差指を上げた。「でも、この点について公の裁判所の背後、したがって評議室や廊下や、あるいはたとえばこのアトリエで試みることは、それとは事情が別なんです」
 画家の今言ったことは、Kにはもはやそれほど信じられぬことのようには思われず、それはむしろ、Kがほかの人々からも聞いたことと多くの一致を示していた。まったく、大いに有望でさえあった。裁判官がほんとうに、弁護士が言ったように容易に個人的な関係によって動かされるものならば、虚栄心の強い裁判官たちに対する画家の関係は特に重要であり、いずれにせよ過小に評価はできなかった。それからこの画家は、Kが次第に自分の身のまわりに集めた一群の援助者のうちでも、大いに板についていた。一度銀行で彼の組織力がほめられたことがあったが、まったくひとりになって自分だけに頼《たよ》らなければならない今では、それを極度にためしてみる絶好の機会を示すものだった。画家は、自分の説明がKに与えた効果を観察していたが、やがて少し不安らしい様子で言った。
「私がほとんど法律家のようにお話しすることを変にお思いじゃありませんか? 私がこんなに影響を受けているのは、裁判所の方々としょっちゅうお付合いをしているからなんです。もちろん、その利益もたくさんありますが、芸術的高揚は大部分消えてしまいますね」
「いったいどうやって初めて裁判官たちと結びつくようになられたのです?」と、Kは言ったが、画家をすっかり自分の仕事で使う前に、まずその信用を獲得しようと思ったのだった。
「非常に簡単なんですよ」と、画家は言った。「この結びつきは親譲りなんです。私の父がすでに裁判所の画家でした。それは、代から代へと伝えられてゆく地位なんです。このために新しい人間は使うことができません。すなわち、さまざまな役人の階級を描くためには、非常に多種多様な、そして何よりもまず秘密な規則が立てられているため、それらの規則はおよそある一定の家以外にはわかっていないのです。たとえば、あそこの引出しの中に父の手記がありますが、私は誰にも見せません。ところがそれを知っている者だけが、裁判官を描くことができるのです。けれど、私がこの手記をなくしても、私だけが自分の頭に畳んでいるたくさんの規則がありますので、誰も私の地位を私と争うことはできやしません。どんな裁判官も、昔の偉大な裁判官が描かれているように描かれたいのでして、それができるのは私だけです」
「それは羨《うらや》ましいかぎりですね」と、自分の銀行における地位を考えたKは、言った。「ではあなたの地位は微動もしないのですね?」
「そうです、微動もしません」と、画家は言い、誇らしげに肩をそびやかした。「それだからこそ、訴訟にひっかかっている哀れな男をそこここで助けてやろうという気にもなれるんですよ」
「で、どうやってそれができるんですか?」と、画家が今哀れな男と言ったのは自分ではないかのように、Kは言った。しかし画家は、話を脇道にそらさせてはいないで、言った。
「たとえばあなたの場合なら、あなたは完全に潔白なんだから、次のようなことをやってみようと思います」
 自分が潔白であることを繰返して言われることが、Kにはすっかりわずらわしくなっていた。こんなことを言って画家は訴訟がうまく片づくことを自分の援助の前提にしているが、もちろんそんなことでは援助も崩《くず》れてしまうだろうと、Kにはときどき思われるのだった。しかしこういう疑念があるにもかかわらず、Kは自分を抑《おさ》えて、画家の話すのをさえぎらなかった。画家の援助をはねつけるつもりはなく、援助してもらうことに決心していたのだったが、またこの援助のほうが弁護士のよりも危なげが少ないように思われた。このほうが悪気[#「悪気」に傍点]がなく、あけすけであるだけに、はるかに好ましかった。
 画家は椅子をベッドに近寄せて、声を低めて語り続けた。
「どんな種類の釈放を望まれるのか、まずお聞きしておくのをすっかり忘れていました。三つの可能性があって、ほんとうの無罪、外見上の無罪、それから引延ばし、となっています。もちろん、ほんとうの無罪がいちばんいいわけですが、ただ私にはこの種の解決をやれる力は少しもないのです。私の考えでは、ほんとうの無罪に持ってゆける力のある人は、およそ一人もいないと思います。この場合に決定力を持っているのはおそらく被告が潔白なことでしょう。あなたは潔白なのですから、おひとりであなたの潔白なことを頼りにすることも、実際できるわけです。それならあなたは私も要《い》らなければ、ほかのなんらの援助も要らないことになりますね」
 この整然たる言いかたは、初めはKを唖然《あぜん》とさせたが、次に彼は画家と同様声を低めて言った。
「あなたは矛盾に陥っておられる、と思いますね」
「なぜですか?」と、画家は我慢強くきき、にやにやしながら椅子にもたれかかった。この薄笑いがKに、画家の言葉の中にではなく、裁判手続きそのものの中に矛盾を見いだすことに今や取りかかっているのだ、という感情をいだかせた。それでもたじろいではおらずに、言った。
「あなたは初めには、裁判所にはどんな論拠も歯がたたないと言われ、次に、ただしこれは公開の裁判の場合だけのことで裏には裏があるのだ、と言われたが、今度は、潔白な者は裁判所に対してなんらの援助も要らない、とさえ言われるのです。この中にすでに矛盾があります。そのうえ、裁判官には個人的に働きかけることができる、と前には言われたのに、今度は前言を否定して、あなたの言われるほんとうの無罪はとうてい個人的な働きかけで手に入れることができないものだ、と言っておられる。その点に第二の矛盾があります」
「そんな矛盾はたやすく説明できますよ」と、画家が言った。「ここでは二つのちがった事柄が話に出ているので、法律に書いてあることと、私が個人的に経験したことと、それを混同しちゃいけませんよ。法律には、もっとも私は読んだことはありませんが、もちろん一面では、罪のないものは無罪とされる、と書いてあるが、他面、裁判官は手を使えば動かせる、とは書いてないでしょう。ところが私はその全然反対を経験したのでした。ほんとうの無罪宣告なんかひとつも知らないが、裁判官を動かした例はたくさん知っています。もちろん、私の知っている事件には無罪の場合がなかったのだ、ということもありえます。でもそんなことはありそうもないことじゃありませんか? あんなにたくさんの事件にただのひとつの無罪もないものでしょうか? すでに子供のときに、父親が家で訴訟のことを話すのを聞きましたし、父のアトリエにやってくる裁判官たちも、裁判のことを話したものです。私たちのサークルでは、およそほかのことなんか話さないのです。自分で裁判所に行く機会があるようになるとすぐ、私はそういう機会をいつも利用しつくし、無数の訴訟を重要な段階で傍聴し、眼で見ることのできるかぎりはそれを追っかけてきました。それなのに――私は告白しなければなりませんが――ほんとうの無罪宣告なんか出会ったためしがないのです」
「ただの一度も無罪宣告に出会ったことがないというわけですね」と、自分自身と自分の希望とに言い聞かすように、Kは言った。「ですがそのことは、裁判所について私がすでにいだいていた考えを裏書きするものです。ですから裁判所は、この面からも無用なわけですね。ただ一人の首斬《くびき》り人がいれば裁判所全体のかわりをすることでしょうよ」
「そう一般的な言いかたをしちゃいけません」と、画家は不満げに言った。「私はただ自分の経験のことを言ったんですから」
「でもそれで十分ですよ」と、Kは言った。「それとも以前に無罪宣告があったことを聞かれたことがあるんですか?」
「そういう無罪宣告は」と、画家は答えた。「もちろんあったはずです。ただ、それを確かめることがむずかしいだけです。裁判所の終局の決定は公開されませんし、それは裁判官にも近づきがたいものなので、そのため昔の判例についてはただ伝説が残っているだけなんです。こうした伝説はもちろんほんとうの無罪宣告を多数含んでさえいて、信じることはできましょうが、証明することはできないのです。それでも全然無視することはできないのでして、ある種の真実は確かに含んでいますし、またたいへん美しいので、私自身も、このような伝説を内容としているいくつかの絵を描いたようなわけです」
「単なる伝説じゃ私の意見を変えられませんね」と、Kは言った。「きっと裁判所の前に出たら、こういう伝説を引合いに出すわけにもいきますまいしね?」
 画家は笑った。
「そう、それはできませんね」と、彼は言った。
「それじゃ、そんなことについてしゃべるのも無益なわけです」と、Kは言い、画家の意見がありそうもないことだと思われ、またほかの意見と矛盾している場合でも、まずしばらくはみな受入れておこうと思った。画家が言ったことすべてを真相かどうか確かめたり、あるいは全然|反駁《はんばく》し去る時間は彼にはなかったし、たとい決定的ではないにせよなんらかのしかたで自分を援助するように画家を動かしたことで、上々のことだった。そこで彼は言った。
「それじゃほんとうの無罪宣告のことは除外するとして、もう二つの別な可能性のことを話すとしましょう」
「外見上の無罪宣告と引延ばし作戦とです。それだけが問題になりますね」と、画家は言った。「だが、その話をする前に、上着をお脱ぎになりませんか? きっとお暑いでしょう」
「そうですね」と、Kは言ったが、これまでは画家の説明だけにしか気を配っていなかったのに、今は暑さを思い出さされたため、ひどい汗が額の上ににじみ出てきた。「ほとんど耐えられませんね」
 画家は、いかにもKの不快がよくわかるというようにうなずいた。
「窓をあけてはいけませんか」と、Kがきいた。
「だめです」と、画家が言った。「ただガラス板をしっかりはめてあるだけですから、あけられないのです」
 Kはそこでやっと、画家か自分が突然窓ぎわに行き、窓をあけ放つという場合のことを今までずっと期待していたのだ、ということに気がついた。実は、霧でも口いっぱいに吸いこもうと待ちかまえていたのだった。この部屋で空気から完全に遮断《しゃだん》されているという気持が、彼に眩暈《めまい》を覚えさせた。自分のそばの羽根布団の上を軽く手でたたき、弱々しそうな声で言った。
「これじゃまったく気分もわるいし、健康にもわるいでしょうね」
「いや、そんなことはありません」と、画家は自分の窓を弁護するために言った。「窓があかないため、ただのガラス一枚だけなんですが、この部屋では二重窓よりもよく暖かさが保たれます。たいして必要じゃないんですが、換気をしようと思えば、材木の隙間のどこからでも空気がはいってきますんで、扉をひとつか、あるいは両方でもあければいいんです」
 Kはこの説明で少し安心させられ、画家の言う第二の扉はどこにあるかと、あたりを見まわした。画家はその有様に気づき、言った。
「扉はあなたの後ろにありますが、ベッドでふさがなけりゃならなかったんです」
 今やっとKは壁の小さな扉を見た。
「この部屋ではすべてがアトリエにしちゃあんまり小さすぎるんです」と、Kの非難に先まわりしようとするように、画家が言った。
「できるだけうまく配置をしなけりゃならなかったんです。扉の前にベッドじゃ、もちろんたいへんまずい場所にあるわけです。たとえば、私が今|描《か》いている裁判官なども、いつもベッドのそばの扉からはいってきます。そしてこの扉の鍵も渡してありますので、私が家にいなくとも、このアトリエにはいって私を待てるわけです。ところが彼は、たいてい私がまだ寝ているうちに朝早くやってくるんです。ベッドのそばの扉があけば、もちろんぐっすり寝込んでいても起されてしまいますよ。朝早く私のベッドに乗る裁判官を迎えるときの私の悪口|三昧《ざんまい》をお聞きになれば、あなたは裁判官に対する畏敬《いけい》の念などなくしてしまうことでしょう。もちろん鍵を取上げることはできましょうが、そうすりゃいっそう不快な目にあうだけです。なにしろこの部屋じゃ、どんな扉もほんの少し手を下すだけでわけなく蝶番《ちょうつがい》からはずせますからね」
 この話のあいだじゅう、上着を脱ぐべきかどうか、Kは考えていたが、もしそうしなければ、この部屋にこれ以上とどまることはできない、ととうとう見てとったので、上着を脱いだが、用談が終ったらまた着ることができるように、膝《ひざ》の上にのせた。上着を脱ぐやいなや、少女たちの一人が叫んだ。
「上着を脱いじゃったわよ!」そして、この見ものを自分でも見ようとして、子供たちはみな隙間にひしめき集まった。
「子供たちはつまり」と、画家が言った。「私があなたのことを描くので、あなたが上着を脱がれたのだ、と思いこんでいるんです」
「そうですか」と、Kは言ったが、腕まくりになってすわっているものの、前よりたいして気持がよくならないので、相手の言葉をほとんどおもしろいとも思わなかった。まるでぶつぶつ言うように、彼は言った。
「ほかの二つの可能性というのはなんでしたっけね?」
 その言いかたをまたもう忘れていたのだった。
「外見上の無罪宣告と引延ばし作戦とです」と、画家は言った。「どちらを選ぶかは、あなた次第です。いずれにせよ私が援助すればできることですが、もちろん骨が折れぬわけじゃありません。この点のちがいというのは、外見上の無罪宣告のほうは一時に集中した努力が必要ですし、引延ばしのほうはずっと少ないが、長く続く努力が必要だ、というところにあります。そこでまず外見上の無罪宣告のほうです。あなたがこれをお望みと言われるなら、私は全紙一枚にあなたの潔白なるゆえんの証明書をあげます。こういう証明書の型は父から伝えられていて、全然文句をつけられないものです。ところでこの証明書を持って、私の知っている裁判官のところをまわり歩くんです。そこでたとえば、今描いている裁判官が今晩モデルになりにここへ来たときに、その証明書を見せてやる、ということから始めるんです。私は彼にその証明書を見せ、あなたが無罪だということを言明し、あなたの無罪を保証してやります。だがそいつは、単に外面的ではなくて、ほんとうの、拘束力のある保証なんですよ」
 画家の眼つきの中には、Kが自分にこんな保証をするという重荷を負わせようとしているのだ、と言わんばかりの非難めいたものが浮んでいた。
「まったく大いにありがたいことです」と、Kは言った。「で、裁判官があなたを信じても、私にはほんとうの無罪を宣告してくれないんじゃありませんか?」
「すでに申しましたように」と、画家は答えた。「もとより、どの裁判官も私を信じてくれるかどうかはまったく確実なわけでなく、たとえば多くの裁判官は、あなたご自身をお連れすることを要求するでしょう。そうしたらあなたには一度ごいっしょに行っていただかなければなりません。もちろんこうなれば事はすでに半ばはうまくいったようなものです。ことに私はもちろん、問題の裁判官のところでどう振舞わなけりゃならないかっていうようなことは、前もって詳しくお教えしておきますからね。それよりまずいのは、――これも起るかもしれないんですが――私のことを初めから受けつけてくれない裁判官たちの場合です。こういう連中は、もちろん私はいろいろやってはみますが、あきらめることで、なに、そうやっても大丈夫なんです。なにしろ個々の裁判官が事を決定するわけじゃありませんからね。さてこの証明書に十分な数の裁判官の署名をもらったら、この証明書を携えて、まさにあなたの訴訟をやっている裁判官のところへ行きます。おそらくその署名ももらえましょうが、そうなれば万事はそれまでより少しは早く運んでゆくというものです。だがこうなればもう一般にはたいして妨害もなく、被告たちにとっていちばん確信の持てる時期なんです。変ではありますがほんとうのところ、人々はこの時期のほうが無罪宣告の後《あと》よりもいっそう確信が持てるものです。今やもう特別の骨折りなんか要りません。裁判官は証明書に相当数の裁判官たちの保証を得たわけですし、心配なくあなたに無罪を宣告できますし、もちろんさまざまな形式を踏んでからのことですが、私やほかの知人たちにもありがたいことに、疑いもなく無罪宣告をすることでしょう。ところであなたは裁判所を出て、自由というわけです」
「そうなれば自由というわけですね」と、Kは躊躇《ちゅうちょ》しながら言った。
「そうです」と、画家は言った。「しかしただ外見上だけ自由、あるいはいっそううまく言えば、しばらくのあいだの自由なんです。つまり、私の知人であるいちばん下のほうの裁判官たちは、最後的に無罪を宣告する権限がなく、そういう権限はただいちばん上の、あなたにも私にも、私たちすべてにとってまったく手の届かない裁判所だけが握っているのです。そこがどういうものかは、私たちにはわかりませんし、ついでに申しておけば、知ろうとも思わないんです。そこで、告訴から解放する大きな権限は私たちの裁判官も持っていませんが、彼らは確かに、告訴からゆるめる権限は持っているんです。すなわち、あなたがこういうふうにして無罪を宣告されると、あなたは一時告訴から離れますが、告訴はその後もあなたの上に漂っていて、上からの命令があり次第、すぐに効力を発生するんです。私は裁判所と非常に深い結びつきにありますから、またあなたに申上げられますが、裁判所事務局に対する規定中には、ほんとうの無罪宣告と外見上のとの区別は、純粋に外面的に示されているだけです。ほんとうの無罪宣告の場合には、訴訟文書は完全に廃棄され、手続きからすっかり姿を消し、告訴だけでなく、訴訟も、無罪宣告も取消され、いっさいが取消されるのです。外見上の無罪宣告となるのと別です。文書について言うと、無罪の証明、無罪の宣告、そして無罪宣告の理由についていよいよ文書がふえるという以外の変化は起らないのです。ところで文書は依然として手続き中ですから、裁判所事務局間の絶え間のない交渉によって要求されるままに上級各裁判所に送りこまれ、下級裁判所に差戻しになり、大小の振れ、長短の滞りによって上下に揺れるわけです。これらの道程は予測がつきません。外側から見ると、ときどきは、いっさいがずっと前から忘れられ、文書は紛失し、無罪宣告は完全なもののように見えます。だが、事情に明るい人間ならば、そんなことは信じません。文書は紛失したわけでなく、裁判所が忘れることなどありえません、いつか――誰もそれを期待しないわけですが――裁判官の誰かが文書を注意深く手に取り、この事件においては告訴がまだ生きていることを認め、即時逮捕を手配します。ここで私は、外見上の無罪宣告と新しい逮捕とのあいだには長時間が経過するということを認めたわけでして、それはありうることで、私もそういう場合をいろいろ知ってはおりますが、無罪を宣告された者が裁判所から家に帰ってみると、彼をまた逮捕するという命令を受けた人間が家で待っている、ということも同じようにありうることなんです。こうなればもちろん、自由な生活は終りです」
「そして訴訟は改めて始まるんですか?」と、Kはほとんど信じられないできいた。
「もちろん」と、画家は言った。「訴訟は改めて始まるんですが、また前と同様に外見上の無罪宣告を受ける可能性があるわけです。また全力を集中すべきで、けっして降参してはいけません」
 最後の言葉を画家が言ったのは、おそらく、少しげっそりしてしまったKが彼に与えた印象を考慮に入れてのことであった。
「ですが」と、画家が何か暴露することに先まわりするかのように、Kはきいた。「第二の無罪宣告を受けることは、最初の場合のよりもむずかしいんじゃありませんか?」
「この点では」と、画家が答えた。「なんともはっきりしたことは言えません。あなたはきっと、裁判官たちが第二の逮捕というんで、被告のために判決でなんらかの影響を受けるのではないか、とおっしゃるんでしょう? そういうことはありません。裁判官たちはすでに最初の無罪宣告の際にこの逮捕を予見していたのです。ですからこういう状態はほとんど影響力を持つことはありません。しかし、そのほかの無数の理由から、裁判官たちの気持や事件に対する法律的判断が別になっている場合もありますし、第二の無罪宣告のための努力は、変化した情況に適合させられなければなりませんし、一般的に言って、最初の無罪宣告の前と同じように力を尽してやられなくてはなりません」
「でも、この第二の無罪宣告もまた、終りというわけじゃないんでしょうね」と、Kは言い、それを拒むかのように頭をめぐらした。
「もちろんそうじゃありません」と、画家は言った。「第二の無罪宣告には第三の逮捕が続き、第三の無罪宣告の次には第四の逮捕と続いてゆきます。そのことは外見上の無罪宣告という言葉の中に含まれているわけです」
 Kは黙っていた。
「外見上の無罪宣告は、あなたには明らかに有利でないように見えますね」と、画家が言った。「おそらくあなたには引延ばしのほうがいっそうよくあてはまるでしょう。引延ばしなるものの本質を説明してさしあげましょうか?」
 Kはうなずいた。画家はゆったりと椅子によりかかり、寝巻のシャツをはだけ、片手をその中に差しこんで、それで胸と脇腹《わきばら》とをなでていた。
「引延ばしというのは」と、画家は言い、完全に適切な説明を捜しているようにしばらく前方を見つめるのだった。「引延ばしというのは、訴訟が引続いていちばん低い訴訟段階に引留められることを言うのです。これをうまくやるには、被告と援助者、特に援助者のほうが、裁判所と絶えず個人的な接触を保つことが必要です。繰返して申上げますが、この場合には外見上の無罪宣告を受けるときのような労力は必要ではありませんが、もっとずっと注意力が必要です。訴訟を絶えず眼から離さぬようにし、担当裁判官のところへ規則的に時間を隔て、またさらに特別なことのあるときには出向き、こういうふうにして親しみを持たせるように努めなければなりません。裁判官と個人的に知り合っていなければ、知合いの裁判官を通じて圧力をかけてやるとともに、そうだからといって直接の話し合いをあきらめてしまわないことです。この点を怠らなければ、訴訟は最初の段階を超《こ》えて進むことはないということを、十分確実に認めることができます。訴訟は終るわけでありませんが、被告は自由な場合とほとんど同じように有罪判決を受ける心配がありません。外見上の無罪宣告に比べて、引延ばしには、被告の将来がずっと安定しているという長所があります。つまり突然の逮捕に驚かされるというようなことがなく、ほかの形勢がきわめて不利のような場合であっても、外見上の無罪宣告を受ける場合につきもののさまざまな努力や焦慮を引受けねばならないと心配する必要はありません。もちろん引延ばしも被告にとって過小には考えられないところのある種の短所を持っています。こう言っても、被告がけっして自由にならないということを考えているのではありません。それは外見上の無罪宣告の場合にもほんとうのところでは同じだからです。私の言うのは、別な短所なのです。少なくとも外見的な理由がなければ、訴訟は停滞することはできません。それゆえ、訴訟において外面に向って何事かが起らなくてはなりません。それでときどきさまざまな指令が発せられなくてはなりませんし、被告が尋問され、審理が行われるとか、そのほかのことがなされなければならないんです。そこで訴訟はしょっちゅう、人為的に閉じこめられた小さな範囲で引きまわされなければなりません。これはもちろん、被告にある不快を伴うものではありますが、それもまたあなたはあまり思いすごしされてはいけません。実のところ万事はただ外面的なものでして、たとえば尋問もまったく簡単なものにすぎず、出かけてゆく暇や気持がなければ、断わることもできますし、ある裁判官たちの場合には、長い時期にわたってのさまざまな指示をあらかじめ相談してきめることもでき、本質的にはただ、被告なんだからときどき裁判官のところへ出向かなければならない、というだけのことです」
 最後の言葉がまだ語られているうちに、Kは上着を腕にかけて、立ち上がった。
「立っちゃったわよ!」と、すぐさま扉の外で叫び声がした。
「もうお帰りですか?」と、自分も立ち上がった画家が言った。「きっと空気のせいで部屋にはいたたまれなくなられたんでしょう。たいへん残念なことです。まだたくさんお話しせねばならなかったのに。もっと手短かに申上げねばならないところでした。でも、おそらくおわかりになっていただけたものと思います」
「ええ、そうですとも」と、Kは言ったが、聞くために無理にしていた努力で、頭が痛かった。こう保証してやったのに、画家は、帰路のKに慰めを与えてやろうとするように、これまで言ったことをみなもう一度取りまとめるため、言うのだった。
「二つの方法には、被告の有罪判決を妨げるという共通点があります」
「しかし、ほんとうの無罪宣告というものも妨げてしまいますね」と、自分がそれに気づいたことを恥じるように、Kは低い声で言った。
「あなたは事の核心を握られました」と、画家は早口に言った。
 Kは外套《がいとう》に手をかけたが、着る決心がつきかねていた。みんな引っつかんで、新鮮な空気の中へ駆けてゆくことがいちばんしたく思われた。子供は早まって、あのおじさんが着物を着る、と互いに叫び合っていたけれども、Kに着物を着させるにはいたらなかった。Kの気持をなんとか解釈することが画家には大切だったので、言った。
「私の提案についてまだ決心されていらっしゃらないようにお見受けします。それはごもっともだと思います。私も、すぐ決心することはなさらぬようにとさえ、おすすめしたのですからね。長所と短所とが紙一重なんです。万事詳しく見積ってみなければなりません。もちろんあまり時間を失うことはできませんが」
「またすぐまいります」と、Kは言い、急に決心して上着を着、外套を肩の上にひっかけ、扉のほうに急いだが、扉の後ろでは子供たちが叫びはじめた。Kには、叫んでいる少女たちが扉を通して見えるような気がした。
「だがお約束は守っていただきます」と、Kを送ってついては来なかったが、画家は言った。「でないと、自分から伺いに銀行に行きますよ」
「どうか扉をあけてください」と、Kは言い、把手《とって》を引っ張ったが、手ごたえを感じたので、少女たちが外でしっかと押えているのがわかった。
「子供たちがうるさいですが、いいですか?」と、画家はきいた。「むしろこの出口をお使いになったらどうですか」と、ベッドの後ろの扉を示した。
 Kは合点とばかりベッドまで飛んでもどってきた。ところがそこの扉をあけもしないで、画家はベッドの下にもぐりこみ、下からきいた。
「もうちょっとお待ちください。絵をひとつ見ていただけませんか? なんならあなたにお譲りしてもいいですよ」
 Kは、無愛想にもできない、と思った。なにしろ画家は自分のことを引受けてくれ、今後も援助すると約束もしてくれたのだが、自分が忘れっぽいため援助に対する報酬のことをも全然言ってはなかったし、無下《むげ》には断われなかった。そこで、アトリエから出ようと落着かずにうずうずしてはいたが、絵を見せてもらうことにした。画家はベッドの下から一束の額縁のない絵を取出したが、ひどく埃《ほこり》が積っていて、画家がいちばん上の絵から埃を吹き払おうとすると、しばらくは埃が眼の前にもうもうと立って息もつけなかった。
「荒野の風景です」と、画家は言い、Kにその絵を手渡した。二本の弱々しげな樹が描かれていて、はるかな距離をおいて黒ずんだ草の中に立っていた。背景は多彩な日没の光景だった。
「いいですね」と、Kは言った。「いただきましょう」
 Kは考えもなしにひどく手短かに言ったが、画家がその言葉を別にわるくもとらず、二番目の絵を床から取上げたので、ほっとしたのだった。
「これはその絵とは反対傾向の作品です」と、画家が言った。反対傾向の作品のつもりだったのだろうが、最初の絵に比べて少しのちがいも認められず、ここには樹々があり、ここには草があり、そこには日没がある、というようなものだった。だがKにはそんなことはどうでもよかった。
「美しい風景ですね」と、彼は言った。「両方いただき、事務室にかけましょう」
「モチーフが気に入られたようですね」と、画家は言い、第三の絵を持ち出し、「幸いなことに、ここにも同じような絵があります」
 ところが同じようなどころでなく、むしろ完全に同じ荒野の風景だった。画家は、古い絵を売るこの機会を存分に利用したのだった。
「これもいただきましょう」と、Kは言った。「三枚でいかほどでしょう?」
「ま、その話はこの次にしましょう」と、画家は言った。「お急ぎのようですし、私たちはどうせ連絡があるわけですからね。ともかく、絵が気に入られてうれしいことです。ここの下にある絵をみな差上げましょう。みな荒野の風景ばかりですが、もうこれまでにたくさんの荒野の風景を描きました。多くの人は、陰鬱《いんうつ》なのでこんな絵はいやだ、と拒まれますが、でもほかの人々には、あなたもその一人ですが、その陰鬱なのをこそ好かれます」
 しかし、Kは乞食画家の職業体験などには全然興味がなかった。
「みんな包んでください!」と、画家の話をさえぎって、彼は叫んだ。「明日小使が来て、持っていきますから」
「いや、それにはおよびません」と、画家が言った。「おそらく、すぐあなたと行ってくれる運び手をご用だてできるでしょう」
 そしてついにベッドの上に身をかがめると、扉をあけた。
「ご遠慮なくベッドの上にお乗りください」と、画家は言った。「ここに来る人は誰でもそうするんですから」
 こうすすめられなくともKも遠慮をするつもりはなく、片足を羽根布団の真ん中に置いていたが、あいた扉を通して向うを見て、足をまた引っこめた。
「あれはなんです?」と、彼は画家にきいた。
「何を驚いておられるんです?」と、画家のほうもKの有様に驚いて、きいた。「あれは裁判所事務局ですよ。ここに裁判所事務局があることをご存じなかったんですか? 裁判所事務局はほとんどどの屋根裏にもありますから、どうしてここにだけあってはならないということがありましょう? 私のアトリエもほんとうは裁判所事務局のものなんですが、裁判所が私に用だててくれているんです」
 ここに裁判所事務局を見つけたことにKはたいして驚きはしなかったが、主として自分自身、自分の迂闊《うかつ》さに驚いたのだった。しょっちゅう心構えをしていて、けっして驚かされたりしないで、左手には裁判官が自分のすぐそばに立っているのに、ぼんやり右手をながめたりしないというのが、被告の態度の根本原則だ、と彼は思っていたが、――まさにこの根本原則にしょっちゅう抵触するのだった。彼の前には長い廊下が延びており、そこから風が吹いてくるが、それに比べるとアトリエの空気のほうがまだしもさわやかに思われた。ベンチが廊下の両側に置かれ、Kの関係している事務局の待合室とそっくりそのまま同じだった。事務局の配置には細かな規定があるように思われた。今のところここでは、訴訟当事者たちの往来はたいしてしげくはなかった。一人の男がベンチの上で半ば横になり、顔をベンチの上に置いた両腕に埋め、眠っているらしかった。もう一人の男が廊下の奥の薄暗がりの中に立っていた。Kはベッドを乗り越えたが、画家は絵を持って彼に続いた。間もなく一人の廷丁《ていてい》に出会ったが、――Kは今では、私服の普通のボタンに混じってついている金ボタンですぐどんな廷丁でもそれとわかるのだった。――画家はその男に、絵を持ってこの方にお供するように、と頼んだ。歩いてゆくと、Kは次第に頭がぐらぐらしてきて、ハンカチを口に押し当てていた。出口のすぐそばまで来たとき、少女たちが彼らに向って殺到してきたが、これで見るとこの連中にかかってはやはりKも免れることができなかったのだった。子供たちは明らかにアトリエの第二の扉があけられたのを見て、こちら側からはいりこもうとしてまわり道をしたのだった。
「もうお供できませんよ!」と、子供たちに押しつけられて笑いながら、画家が叫んだ。
「さようなら! あまり長く考えこんでいないようにしてください!」
 Kは二度と画家のほうを振向かなかった。
 小路に出て、出会った最初の馬車に乗った。廷丁を追い払うことが彼には問題だった。普通ならばおそらく誰にも目だつような男ではないが、廷丁の金ボタンが絶えず眼にはいってたまらなかった。いかにも職務大事といわんばかりに、廷丁は御者台にすわろうとした。だがKは彼を追い払っておろした。Kが銀行の前に着いたときは、正午はもうとっくに過ぎていた。絵は車の中にほっぽらかしにしたかったが、いつかの機会に画家に向って、この絵を持って帰れと言う必要に迫られることがあろうか、と思った。そこでそれを事務室に持ちこませ、少なくともここ数日は支店長代理の眼を逃れることができるように、机の一番下の引出しに鍵をかけて入れた。

第八章 商人ブロック・弁護士の解約

 ついにKは、弁護士に自分の代理をさせることをやめる決心をした。こういうふうに振舞うことが果して正しいだろうか、という疑念は根絶できなかったが、それが必要であるという確信が勝ちを占めた。弁護士のところへ行こうという日になって、その決心は彼から仕事する能力を大いに奪い、ことに遅い仕事の運びのため、きわめて遅くまで事務室に居残らなければならず、やっと弁護士の扉《とびら》の前に立ったときは、もう十時を過ぎていた。ベルを鳴らす前に、電報か手紙で解約するほうがよくはないか、面談するとなるときっと非常につらいだろう、と考えてみた。それでもKはついに面談をやめようとは思わなかった。ほかの形で解約すれば、それはただ黙ってか、あるいはごくわずかな形式的な言葉で受入れられるだろうし、レーニにいくらかでも探ってもらわなければ、弁護士がどうやってこの解約を受取ったか、またまんざらつまらぬものでもない弁護士の意見によれば、この解約がどんな結果を生じるか、知りようがなかったからである。ところが弁護士がKに向い合ってすわって解約を不意に聞くとなれば、たとい弁護士がたいして心中を打明けなくとも、その顔つきや態度から自分の欲するすべてのことを容易に推量することができるだろう。さらに、弁護士に弁護をまかせ、自分の解約を引下げるほうがよいと確信させられる場合もないとは言えなかった。
 弁護士の扉のベルを鳴らしても、最初は例のごとくむなしかった。
「レーニのやつ、もっと早くできようものを」と、Kは考えた。それでも、寝巻姿の男かあるいはほかの誰かが自分をわずらわすことになるのであれ、いつものようにほかの依頼人がはいりこむのでなければ、それだけでもまだましだった。Kは二度目にボタンを押しながらもうひとつの扉を振向いてみると、今日はこれもしまったままだった。ついに弁護士の扉ののぞき窓に二つの眼が現われたが、レーニの眼ではなかった。誰かが扉をあけたが、しばらくはまだ扉を押えていて、居間のほうに向って叫んだ。
「あの人だよ!」
 そして、それからやっと完全にあけた。Kは、その背後のほかの居間の扉で鍵《かぎ》があわててしめられるのを聞きつけたので、扉にぶつかっていった。そこで扉がついにあくと、まっすぐに控室に飛びこみ、部屋のあいだに通じている廊下をレーニが下着姿で逃げてゆく有様を見た。扉をあけた男の警告が向けられたのは、彼女にだったのだ。しばらくその後ろ姿を見ていたが、やがて戸をあけた男のほうに向き直った。顎《あご》も頬《ほお》もひげ一面の小柄な痩《や》せた男で、手に蝋燭《ろうそく》を持っていた。
「ここに雇われているんですか?」と、Kはきいた。
「いや」と、男は答えた。「この家の者ではありません。弁護士さんは私の代理人でして、ある法律問題のためにここに来ているんです」
「上着も着ておられませんが?」と、Kはきき、手振りでその男のしどけない身なりを指さした。
「ああ、お許しください!」と、男は言い、彼自身初めて自分の格好をながめるように、蝋燭で自分を照らした。
「レーニはあなたの恋人ですか?」と、Kは手短かにきいた。両脚を少し開き、帽子を持った両手を背後で組んでいた。頑丈《がんじょう》な外套《がいとう》を着ているだけで、この痩せた小男には大いに優越しているように感じられた。
「とんでもないことです」と、相手は言い、驚いて身を守るように手を顔の前にあげた。「どうして、どうして、いったい何を考えておられるんですか?」
「まあ信用しておきましょう」と、Kはにやにやしながら言った。「それはそうとして――いらっしゃい」
 彼は帽子で男に合図をし、先に立ってゆかせた。
「なんというお名前ですか?」と、歩きながらKはきいた。
「ブロック、商人のブロックです」と、小男は言い、こう名乗りながらKのほうに向き直ったが、Kは相手を立ち止らせてはおかなかった。
「ほんとうのお名前ですか?」と、Kはきいた。
「そうですとも」というのが返事だった。「どうしてお疑《うたぐ》りになるんですか?」
「お名前をお隠しになる理由がおありだろうと思いましたんでね」と、Kは言った。
 彼はきわめて自由な気分だったが、こんなふうになれるのは、普通ならばただ、見知らぬ土地で卑しい連中と話していて、自分自身に関することはいっさい自分の胸に納めておき、ただ落着きはらって他人の利害のことをしゃべり、それによって相手をおだて上げたり、また思いのままに突き落すことができるときにだけやれることである。弁護士の事務室の扉のところでは立ち止り、扉をあけ、おとなしくついてきた商人に向って叫んだ。
「そんなに急がないでください! ここを照らしてくれませんか?」
 Kは、レーニがこの部屋に隠れていまいかと思い、商人に隅々《すみずみ》まで捜させたが、部屋はからっぽだった。裁判官の絵の前でKは、商人の後ろからズボンつりをつかんで押しとどめた。
「あれを知っていますか?」と、彼はきき、人差指で高いところを示した。
 商人は蝋燭を掲げ、眼をぱちくりさせながら見上げて、言った。
「裁判官です」
「位の高い裁判官ですか?」と、Kはきき、その絵が商人に与えた印象を観察するため、商人の側にまわった。商人は感嘆しながら見上げていた。
「位の高い裁判官ですね」と、彼は言った。
「あなたもたいして眼がきかないですね」と、Kは言った。「位の低い予審判事のうちでもいちばん低いやつですよ」
「ああ、思い出しました」と、商人は言い、蝋燭を下げ、「私もそんなことを聞きましたっけ」
「そりゃあもちろんね」と、Kは叫んだ。「すっかり忘れていました、もちろんあなたもお聞きになっているにちがいありませんね」
「だが、なぜもちろんなんですか、いったいなぜ?」と、Kに両手で追い立てられて扉のところまで動いてゆきながら、商人はきいた。廊下に出て、Kは言った。
「どこにレーニが隠れているかご存じでしょう?」
「隠れているですって?」と商人は言った。「そんなことはわかりませんが、台所に行って、弁護士さんにスープをつくっているのでしょう」
「なぜすぐおっしゃってくださらないのです?」と、Kがきいた。
「あなたをお連れしようと思ったのに、私のことを呼びもどされたものですから」と、矛盾する命令に混乱させられてしまったように商人は答えた。
「きっとうまくやったと思っているんでしょう」と、Kは言った。「とにかく連れていってください!」
 台所にKは行ったことはなかったが、驚くほど大きく、設備が整っていた。炉だけでも普通の炉の三倍も大きかったが、入口のところにかかっている小さなランプだけで台所が照らされているので、ほかのものは細かなところがわからなかった。炉のそばにレーニは例のごとく白いエプロン姿で立ち、アルコールランプの上にかかっている鍋《なべ》に卵を流しこんでいた。
「今晩は、ヨーゼフ」と、横眼を使いながら彼女は言った。
「今晩は」と、Kは言い、片手でわきにある椅子を示し、商人にすわるように合図をすると、彼は言われるままにすわった。だがKはレーニのすぐ後ろに行き、肩の上に身をかがめ、きいた。「あの男は誰なの?」
 レーニは片手でKを抱き、もう片方の手でスープをかきまぜながら、彼を引きつけて、言った。
「ブロックっていう、かわいそうな人で、貧弱な商人なのよ。まああの人を見てごらんなさい」
 二人は振返った。商人はKに示された椅子にすわり、もう要《い》らなくなった蝋燭の光を吹き消し、煙を防ごうと指で燈心を押えていた。
「君は下着姿だったぜ」と、Kは言い、手で女の頭をまた炉のほうに向けた。女は黙っていた。
「恋人なのかい?」と、Kがきいた。女はスープ鍋をつかもうとしたが、Kはその両手を取って、言った。
「返事をするんだ!」
「事務室へいらっしゃいよ、みんなお話ししてあげるわ」と、女は言った。
「いや」と、Kは言った。「ここで話してもらいたいね」
 女は彼にしがみつき、接吻《せっぷん》しようとした。だがKはそれを払いのけると、言った。
「今、接吻なんかしてもらいたくはない」
「ヨーゼフ」と、レーニは言い、懇願するようにだが真っ向からKの眼を見た。「ブロックにやきもち[#「やきもち」に傍点]なんか焼いちゃいけないわ。――ルーディ」と、商人のほうを向いて言うのだった、「あたしを助けてちょうだい。ねえ、あたし疑られているのよ、蝋燭なんか置いて」
 商人は気をつけていなかったと思われるのだったが、まったくよく事情をのみこんでいた。
「なぜあなたがやきもちなんか焼くのか、私にもわかりませんね」と、ほとんど刃向う様子もなく言った。
「私にもほんとうはわかりませんよ」と、Kは言い、微笑しながら商人を見つめた。
 レーニは高笑いして、Kが気がつかないでいるのを利用して、彼の腕の中にはいりこみ、ささやいた。
「もうあんな人放っておきなさいな。どんな人かごらんになったでしょう。あたしが少しあの人の面倒をみるのは、弁護士の大顧客《おおとくい》だからで、ほかの理由なんかないわ。ところであなたは? 今日弁護士さんとお話しになるつもり? 今日はたいへんおわるいんだけれど、もし会いたいというんなら、取次ぎますわ。でも今晩はずっとあたしのところにいてよ、ねえいいでしょう。もうずっとここにはいらっしゃらないんだもの。弁護士さんさえあなたのことをきいたわ。訴訟のことを粗末にしちゃだめよ。あたしも、聞いたことをいろいろお話しするわよ。でもまず最初に外套《がいとう》をお脱ぎなさいってば!」
 彼が外套を脱ぐのを助け、彼から帽子を取上げ、それを持って控室に駆けてゆき、駆けてくると、スープを見た。
「あなたのことを先に取次ごうかしら、それとも先にスープを弁護士さんのところへ持ってゆこうかしら?」
「まず取次いでくれたまえ」と、Kは言った。
 彼は腹をたてていた。ほんとうは、自分のこと、ことに疑問がある解約のことをレーニと詳しく相談しようと思っていたのだったが、商人がいるのでそんなことをする気がなくなってしまった。しかし、こんな微々たる商人にすっかり邪魔にはいられるにはあまりに自分の問題は重要なように思われたので、もう廊下に出ていたレーニを呼びもどした。
「やっぱりまずスープを持っていってくれたまえ」と、彼は言った。「僕と話すためにも元気をつけておかなきゃいけないし、きっとほしいんだろう」
「あなたも弁護士さんの依頼人でいらっしゃるんですね」と、確かめるように商人は部屋の隅から小声で言った、だが、それはKによくは取られなかった。
「あなたとなんの関係があるんです?」と、Kが言うと、レーニも言った。
「あんたは黙っていらっしゃい。――じゃ、最初にスープを持ってゆくわ」と、レーニはKに言い、スープを皿に注《つ》いだ。「でも心配だわ、すぐ眠ってしまうのよ。食事がすむと、すぐ眠ってしまうの」
「僕があの人に言うことを聞いてくれれば、眠りはしないさ」と、Kは言い、何か重大なことを弁護士と折衝するつもりであることを見抜かせようとし、いったい何なのか、レーニにたずねさせ、そこで初めて彼女の助言を求めようと思った。ところが女は、ただ言われた命令をきちんと果しただけだった。盆を持って彼のそばを通り過ぎるとき、故意に軽く彼にぶつかり、ささやいた。
「スープを飲み終ったら、できるだけ早くあなたを取返せるように、あなたのことを取次ぐわ」
「行きたまえ」と、Kは言った。「行きたまえ」
「もっと親切にするものよ」と、女は言い、盆を持ったまま扉のところでもう一度、すっかりこちらを向いた。
 Kは女の後ろ姿を見送った。弁護士を断わるという決心が、今は最後的にきまった。あらかじめレーニとそれについて話すことがもうできなかったことも、きっとかえってよかっただろう。女には事柄の全体に対する十分な見通しがほとんどついていないので、きっとやめるようにすすめたことだろうし、おそらくはKも今回はほんとうに解約を思いとどまったことだろう。そして依然として疑惑と不安とにとどまることになり、しかもこの決心はあまりに動かせないものなので、結局はしばらくしてこの決心を実行することになっただろう。しかし、決心が実行されるのが早ければ早いほど、損害は避けられるわけだった。ところで商人もおそらくそれについて何か意見があるかもしれない。
 Kは振返ったが、商人はそれに気づくやいなや、すぐ立ち上がろうとした。
「どうかそのままにしてください」と、Kは言い、椅子をひとつ商人のそばに置いた。
「ずっと前から弁護士さんに依頼なすっていらっしゃるんですか?」と、Kはきいた。
「そうです」と、商人は言った。「古くからの依頼人です」
「何年ぐらい、あの人に弁護をやってもらっているんです?」と、Kはきいた。
「どういう意味かわかりかねますが」と、商人は言った。「商売上の法律事件では――私は穀物商をやっていますんで――あの弁護士さんに、商売を始めたときから弁護をやってもらっています。それでおよそ二十年来のことですが、私自身の訴訟のほうは、あなたはきっとこちらのことをおっしゃっているんでしょうが、やっぱり初めからのことで、もう五年以上にもなります。そうです、五年はたっぷり越えました」
 そして古い紙入れを取出して、言葉を続けた。
「ここに全部書きつけてあります。お望みなら、はっきりした日付を申上げましょう。全部が全部覚えていることはむずかしいですからね。私の訴訟はどうももっと前から続いています。妻が死んですぐ始まったのですからね。で、もう五年以上にもなります」
 Kは商人のほうに寄っていった。
「それじゃあ、弁護士さんは普通の法律事件も引受けるんですか?」と、彼はきいた。裁判所と法律学とがこういうふうに結びついているということは、Kには非常に安心に思われた。
「こういう法律事件でのほうがほかの事件でよりも有能だとさえ言われています」しかし、言ったことを後悔しているらしく、片手をKの肩に置いて、言った。
「どうか私の言ったことは内密にお願いします」
 Kは安心させるように男の腿《もも》をたたいて、言った。
「いや、私は裏切り者じゃないですから大丈夫ですよ」
「つまりあの人は執念深いもんですからねえ」と、商人は言った。
「でも、あなたのような忠実な依頼人には、あの人もきっと変なまねはしないでしょう」と、Kは言った。
「とんでもない」と、商人は言った。「興奮すると見境がありませんし、それに私もほんとうはあの人に忠実なわけでもないんでしてね」
「どうしてなんですか?」と、Kはきいた。
「そのことをあなたにお話ししなくちゃいけませんか?」と、商人は思い惑うように言った。
「してくださってもかまわないでしょう」と、Kは言った。
「それでは」と、商人は言った。「一部だけ申上げますが、私たち二人が弁護士に対して何も言わないという約束をしっかりと守るように、あなたも私に秘密なことを打明けてくださるんですよ」
「あなたはたいへん用心深いな」と、Kは言った。「だが、あなたを完全に安心させるにちがいない秘密をひとつ申上げましょう。ところで、弁護士に対するあなたの不実というのはいったいどういうことです?」
「実は」と、商人はためらいながら、何か面目ないことを白状するような調子で言った。「あの人のほかにほかの弁護士たちもいるんです」
「そんなことなら、たいしてわるいことじゃありませんよ」と、少しがっかりして、Kは言った。
「ところがここじゃあ」と、白状しはじめてから苦しそうな息をついた商人は、Kの言葉でいっそううちとけて、言った。「それが許されないんです。そして、いわゆる弁護士のほかに三百代言を頼むことはことに許されていません。ところがまさにそのことを私はやっているんで、三百代言が五人いるんです」
「五人ですか!」と、Kは叫んだが、まずこの数に驚かされたのだった、「このほかに弁護士を五人もですか?」
 商人はうなずいた。
「今ちょうど六人目と交渉中なんです」
「だが、どうしてそんなにたくさん弁護士が要《い》るんです?」と、Kはきいた。
「みな要るんです」と、商人は言った。
「そのわけを説明してくれませんか?」と、Kがきいた。
「いいですとも」と、商人は言った。「まず、訴訟に敗《ま》けたくないからです。これはむろんのことです、そのためには、利用できるものはなんでも見逃すわけにはゆきません。ある場合、役にたつ見込みがまったく少ないときでも、投げてしまうわけにはゆきません。それゆえ私は、自分の持っているものをみな訴訟につかってしまいました。たとえば、商売から金を全部|注《つ》ぎ込みましたし、前には私の店の事務室はある建物のほとんど一階全部にまたがっていたのですが、今では裏のほうの小さな部屋ひとつで十分で、そこで小僧と二人きりで働いているようなわけです。こうさびれた原因となったものは、もちろん、金の蕩尽《とうじん》ばかりでなく、むしろ仕事の精力の蕩尽なのです。訴訟のために何かをやろうとすれば、ほかのことには、ほんの少ししかかかわってはいられませんからね」
「それじゃあなたご自身も裁判所で仕事をやられるんですか?」と、Kはきいた。「まさにそのことについて伺いたいものです」
「その点については、ほとんどお話しすることがありません」と、商人は言った。「初めのうちは確かにそうもしようとしたのですが、すぐやめにしてしまいました。あまりに疲れて、たいして効果がないんです。裁判所で自分で仕事をやり、交渉をやることは、少なくとも私には全然できないことだとわかりました。そこではただすわって待つことだけで、たいへんな骨折り仕事です。あなたご自身も、事務局のあの重苦しい空気はご存じのはずですね」
「僕が事務局に行ったということを、どうして知っているんですか?」と、Kはきいた。
「あなたが通ってゆかれたとき、ちょうど待合室にいたんです」
「なんという偶然でしょう!」と、すっかり夢中になり、これまでの商人の滑稽《こっけい》さも忘れて、Kは叫んだ。「それじゃあ私をごらんになったわけだ! 私が通っていったとき、あなたは待合室におられたのですね。そう、一度通ったことが確かにあります」
「たいした偶然じゃありませんよ」と、商人は言った。「私はほとんど毎日のようにあそこにいるんですから」
「私もこれからおそらくしばしば行かなきゃなりませんが」と、Kは言った。「きっともうあのときほどうやうやしく迎えられることはないでしょうね。みなが起立しましたからねえ。きっと、私のことを裁判官だと思ったのでしょう」
「いや」と、商人は言った。「あのときは廷丁に挨拶《あいさつ》したのですよ。あなたが被告だということは、私たちは知っていました。こんな噂《うわさ》はすぐ広まりますからね」
「じゃあ知っていたんですね。だがそうなると、私の態度はきっと傲慢《ごうまん》に見えたことでしたろう。そのことをとやかく言ってはいませんでしたか?」
「いや」と、商人は言った。「それどころか。でもつまらぬことですよ」
「つまらぬことって、どんなことです?」と、Kがきいた。
「なぜそんなことをおききになるんですか?」と、商人は腹立たしげに言った。「あなたはあそこの連中のことをよくはご存じでないらしく、おそらく事情を誤解していらっしゃるのでしょう。あなたはよくお考えにならなけりゃなりませんが、この手続きではしょっちゅういろいろな事柄が口の端《は》に上りますが、そんなことはもう常識で間に合うものではなく、誰もがただ疲れ果て、いろんなことに気をそらされていて、その穴埋めに迷信に没頭することになるんですよ。他人のことを言っているわけですが、私自身だってたいしてまとも[#「まとも」に傍点]じゃありません。こんな迷信のひとつは、たとえば、多くの人たちが被告の顔、ことに唇《くちびる》の格好から、訴訟の成行きを読み取ろうとすることです。そこでこの連中は、あなたの唇の格好から判断すると、きっとすぐにあなたに有罪の判決が下されるだろう、と主張していました。繰返して申上げますが、ばかばかしい迷信でして、たいていの場合は事実とも完全に相反するのですが、あんな仲間の中にいると、こんな考えからなかなか脱けられないのです。まあ思ってもごらんなさい、こうした迷信は激しい力を持っているのですよ。あなたはあそこで一人の男に言葉をおかけになりましたね? ところがその男はあなたにはほとんど一言も答えられなかった。そりゃあ、あそこでは頭が混乱するたくさんの理由がありますが、ひとつにはあなたの唇を見たこともそれなんです。あの男が後《あと》で話してくれたところでは、あなたの口の上にあの男自身の有罪判決を見たように思ったということです」
「私の唇ですか?」と、Kはきき、懐中鏡を取出して、じっと見た。「私の唇に別に変ったところは見えませんけれどね。で、あなたはどうですか?」
「私もそう思いますね」と、商人は言った。「全然そんなことはありませんよ」
「あの連中はなんて迷信深いんでしょう!」と、Kは叫んだ。
「だからそう申上げたでしょう?」と、商人がきいた。
「いったいあの人たちはそんなに行き来をし、意見を交換し合っているんですか?」と、Kは言った。「私はこれまで全然仲間からはずれていましたよ」
「一般には互いに行き来してはいません」と、商人は言った、「それはできないでしょう、なにしろ人数が多いですからね。それに共通の利害もほとんどないんです。ときどきはあるグループで共通の利害という信念が浮び出ることもあるんですが、すぐに間違いだということがわかってしまいます。裁判所に対して共同でやられることなど、何もありません。各事件も単独に調べられ、まったく慎重きわまる裁判所というものですよ。それで共同で何もやることはできないんです。ただ個人が何かこっそりうまくやったことはときどきあります。それが成功したときにやっとほかの人々が聞くというわけですから、どういうふうにしてやられたか誰にもわかりません。それで共同一致ということはなく、待合室のあちこちで寄り合うことがあっても、そこで相談はほとんどされていません。迷信深い考えというのは昔からあって、確かにおのずとふえています」
「あの待合室に待っている人たちを見ましたが」と、Kは言った。「まったく無益なことに思われましたよ」
「待つことは無益じゃありません」と、商人は言った。「無益なのは自分だけで手出しをすることです。すでに申上げたように、私は今、この弁護士のほかに五人頼んでいます。彼らに事を完全にまかせることができるだろうと、人は思うでしょう。私自身からして初めはそう思いました。しかし、それはまったく間違っているんです。ただ一人に頼んでいるときよりもまかしておけないくらいです。このことはおわかりでないでしょう?」
「ええ」と、Kは言い、商人があまり早くしゃべるのを妨げるために、なだめるように自分の手を相手の手の上に置いた。「どうかもっとゆっくりお話ししてください。どれもみな私にとって大切な事柄ですが、どうもあなたのお話についてゆけません」
「それをおっしゃってくだすって結構でした」と、商人は言った。「で、あなたはまだ新米で、末輩です。あなたの訴訟は半年ばかりでしたね? そう、そのことは伺いました。そんなに新しい訴訟だなんて! ところが私はこうした事柄をもう数限りなく考え抜いてきましたので、世の中でいちばんわかりきったことなんですよ」
「あなたの訴訟がもうそんなに進んでいるのを、きっとよろこんでおられるでしょう?」と、Kはきいたが、商人の事件がどういう状態にあるのかあけすけにたずねようとは思わなかった。ところが相手からも、はっきりした返事は得られなかった。
「そうです、訴訟は五年間もころがしてきました」と、商人は言い、頭を垂れた。「簡単な仕事じゃありませんよ」
 それからしばらく黙った。Kは、レーニがもう来ないか、と耳を澄ました。一面では、彼女が来なければと思った。まだまだ聞きたいことはあるし、商人とこうしてうちとけて話しているときレーニに邪魔されたくはなかったからである。だがその反面、自分が来ているのにこんなに長く弁護士のところにいることに腹をたて、スープを持ってゆくだけならこんなに長くかかるわけはない、と思った。
「私は今でもまだ」と、商人がまたしゃべりはじめたので、Kはすぐ注意を集中した。「私の訴訟が今のあなたのと同じように新しかったときのことを覚えています。あのときはここの弁護士さんだけでしたが、大いに安心していたわけじゃなかったんです」
 これでなんでも聞きこめるぞ、とKは考え、勢いよくうなずいたが、それによって商人をけしかけて、知る値打ちのあることをなんでも言わせることができる、というような様子だった。
「私の訴訟は」と、商人は続けた。「さっぱり進みませんでした。それでも審理は行われ、私もそのたびごとに出向き、材料を集め、帳簿を全部裁判所に提出しましたが、これは後で聞いたところによると、全然必要じゃなかったそうです。しょっちゅう弁護士さんのところへ行き、弁護士さんもいろいろな願書を出してくれました――」
「いろいろな願書ですって?」と、Kはきいた。
「そうです」と、商人が言った。
「それは私には大切なことです」と、Kは言った。「私の事件の場合、あの人は今でもまだ最初の願書を書いてばかりいるんです。まだ何もやってはいません。これでわかりましたが、あの人は破廉恥にも私のことを無視しているんだ」
「願書がまだ完成しないということは、きっといろいろ理由があるんでしょう」と、商人は言った。「ところで、私の願書がまったく値打ちのないものだということが、後になってわかりました。ある裁判所の役人の親切でそのひとつを自分で読んだことさえあります。それは大いに学者ぶったものでしたが、ほんとうは中身がからっぽでした。まず、私にはわからないひどくたくさんのラテン語、次に数ページにわたる裁判所に対する一般的な嘆願、それから、はっきり名前はあげてはないが事情に通じた者ならかならずわかるにちがいない一人一人の役人に対するお世辞文句、それから次に、まさしく犬のように裁判所にへりくだっている調子の弁護士の自賛、そして最後に、私のと似てるという以前の法律事件の吟味、というわけです。これらの吟味は、もちろん、私がたどれたかぎりでは、きわめて慎重にできていました。こうしたことで弁護士の仕事に判断を下そうとは思いませんし、私が読んだ願書もたくさんのもののうちのひとつでしかなかったわけですが、ともかく当時訴訟になんらの発展が見られなかったということだけは、今申上げておきたいと思います」
「それじゃ、どんな発展を望まれたんですか?」と、Kはきいた。
「おたずねはごもっともです」と、商人は微笑しながら言った。「この手続きでは発展はほんのまれにしか望めないんです。ところがその当時はこのことが私にはわかっていませんでした。私は商人ですが、当時は今よりもっとずっと商人でしたので、はっきりとした発展というものがほしくて、全体が結末に近づくとか、あるいは少なくとも規則正しく上昇の経過をたどるとかしてもらいたかったのです。ところがそうはゆかずに、あるものはただ、たいてい同じ内容を持つ尋問ばかりでした。返答はもうまるで連祷《れんとう》の文句みたいに覚えこんでしまいました。週に何回も裁判所の使いが、店や、住居や、そのほか私に出会えるどこにでもやってきます。それはもちろんわずらわしいことでした。(今では少なくともこの点、ずっとよくなりました。電話の呼び出しですからずっと面倒がありませんのでね)そして、私の商売仲間や特に親戚《しんせき》のあいだでは私の訴訟の噂《うわさ》が広まりはじめますし、そのためあらゆる方面からの中傷が起りましたが、最初の審理が近く行われるだろうという徴候さえもさっぱり見えません。そこで弁護士さんのところへ行き、苦情を言いました。すると長々と言い訳を聞かせてくれはしたのですが、私の思うようなことを何かやるということはきっぱりと拒絶し、審理日の確定を左右する力はなにびとも持たない、願書でそのことをしつっこく迫るのは――私はそれを要求したわけですが――まったく前代|未聞《みもん》のことだし、そんなことをしたら私もあの人も破滅してしまうだろう、と言うのでした。この弁護士がしようとしないのか、あるいはできないのかのいずれかで、ほかの人ならしてくれる気にもなろうし、またできもしよう、と考えました。そこでほかの弁護士を物色してみました。ところが、私は少し先まわりして申上げますが、それからの弁護士は一人として本審理の日限の確定を要求しませんし、やってもくれませんでした。それはもちろん、これから申上げようと思いますが、ある条件のためにできないことです。それゆえ、この点についてはここの弁護士さんの言うことはまんざら嘘《うそ》じゃなかったわけです。ところで、ほかの弁護士たちに頼んだことは、私は少しも残念に思うことはありませんでした。あなたもきっとフルト博士からとっくに三百代言についてさまざまなことをお聞きでしょうし、たぶん彼らのことを非常に軽蔑《けいべつ》して言ったことでしょうが、それは確かにほんとうのことです。もっとも、博士が三百代言たちのことを語って自分や自分の同僚たちのことを彼らと比較するときはいつでも、ある誤謬《ごびゅう》がはいりこむんでして、ついでにこのことをあなたにご注意申上げておこうと思います。つまり博士はそういうときに、しょっちゅう自分の仲間の弁護士を区別するため、『大弁護士』と呼びます。これが間違いで、もちろん誰でも気に入るなら自分を『大』と称することはできますが、この場合に決定力を持っているのはただ裁判所の慣習だけのはずです。それによると、三百代言のほかにさらに大小の弁護士があるんです。しかし、ここの弁護士さんとその仲間の人たちは小弁護士にすぎず、大弁護士というのは私はただ噂に聞いただけで一度も見たことがありませんが、小弁護士があの軽蔑されている三百代言たちの上にあるのと比較にならないくらい、小弁護士よりも高いところにいるんです」
「大弁護士ですね?」と、Kはきいた。「いったいどういう人たちなんですか? どうしたら会えるんですか?」
「ははあ、あなたはまだ彼らのことをお聞きになっていないんですね」と、商人は言った。「彼らのことを聞かされたあとで、しばらく彼らのことを夢に見ないような被告というのは一人もありません。だがあなたは、むしろそんな誘惑にかかってはなりません。大弁護士が何者かは、私は知りませんし、彼らのところへ近づくことはきっと誰にもできないのです。彼らが手がけたとはっきり言えるような事件を、私は知りません。かなりの被告を弁護はするんですが、被告の意志ではどうにもならないし、彼らが弁護しようと思う者たちだけを弁護するんです。だが、彼らが引受ける事件というのは、きっと下級裁判所を超《こ》えたものにちがいありません。ともかく、彼らのことを考えないほうがよいでしょう。そうでないとほかの弁護士との話や彼らの忠告や尽力というものがきわめていとわしく、無益なものと思われるからです。いっさい投げ出してしまって、家でベッドに寝ころび、何も聞かないでいるのがいちばんいいと思うようになるっていうことは、私自身経験ずみです。しかし、これもまたもちろんばかげたことでして、ベッドに寝ていていつまでも安閑とできるもんじゃありません」
「それじゃあ、あなたはその当時大弁護士のことは考えなかったんですか?」と、Kはきいた。
「長くは考えませんでしたが」と、商人は言い、また薄笑いした。「残念ながらすっかり忘れることはできませんし、ことに夜にはこんな考えがとかく浮んできましてね。しかし、当時私は即効をあげることを望みましたんで、三百代言のところへ行ったんです」
「まあ、こんなところにくっついてすわって!」と、盆を手にしてもどってきて、扉のところに立ったレーニが、言った。
 確かに二人はひどくくっついてすわり、少し身体《からだ》の向きを変えても頭をぶっつけ合ったにちがいなく、もともと小柄なところへもってきて背中を曲げている商人は、Kにも、すべてを聞き取ろうとすると、身体を深くかがめさせるのだった。
「もう少し待って!」と、Kはレーニに拒むように叫び返したが、まだ依然として商人の手の上に置いていた手を、いらだたしそうにぴくぴくさせた。
「この方が私の訴訟の話を聞こうとおっしゃるんだよ」と、商人はレーニに言った。
「さあお話しなさい、お話しなさい」と、女は言った。女は商人と愛情をこめて話すが、また見下げた様子が見られ、これがKの気にさわった。今ではわかったのだが、この男はやはりある値打ちがあるし、少なくも経験を持ち合せており、それをうまく話すことができるのだ。レーニはどうもこの男を不当に判断している、そう思った。彼は、商人が長いあいだしっかと持っていた蝋燭《ろうそく》をレーニが商人の手から取上げ、エプロンで手をふいてやり、蝋燭からズボンに垂《た》れたいくらかの蝋をかき取ってやるため商人のそばにひざまずくさまを、腹だたしげに見ていた。
「三百代言のことをおっしゃってくださろうとしたところでしたね」と、Kは言い、それ以上何も言わずに、レーニの手を押しやった。
「何をするのよ?」と、レーニはきき、軽くKをたたき、蝋を落す仕事を続けた。
「そうです、三百代言のことでした」と、商人は言い、考えこむように額に手をやった。Kは助け舟を出そうとして、言った。
「あなたは即効をあげようと思われ、三百代言のところへ行かれたのです」
「そう、そのとおりでしたね」と、商人は言ったが、話を続けなかった。
「きっとレーニの前ではそのことを言いたくないんだな」と、Kは思って、先をすぐ今聞きたいといういらだたしさを抑《おさ》え、もうこれ以上催促はしなかった。
「僕のことは通じてくれた?」と、彼はレーニに言った。
「もちろんよ」と、女は言った。「あなたのことをお待ちかねよ。もうブロックはやめにしなさいな。ブロックはまだここにいますから後《あと》でもお話できてよ」
 彼はまだ躊躇《ちゅうちょ》した。
「ここにいらっしゃいますか?」と、商人にきいたが、商人自身の返事が聞きたく、レーニが商人のことをまるでいない者のように言うのが気に入らず、今日はレーニに対して心ひそかに大いに腹をたてていた。ところがまた、レーニが返答しただけだった。
「この人はここによく泊るのよ」
「ここに泊るって?」と、Kは叫んだ。商人には自分が弁護士との話を手早く片づけるあいだだけ待ってもらうが、すんだらいっしょに出かけて、すべてを徹底的に、誰にも邪魔されずに語り合うつもりだった。
「そうよ」と、レーニは言った。「誰でもあなたみたいに好きなときにやってきて、弁護士さんに会わせてもらえはしないわ、ヨーゼフ。弁護士さんが病気なのに、夜の十一時にもなって会ってくださるのを、あなたってば全然ありがたいとも思っていないようね。あなたのためにお友達がやってくれることを、まるで当り前のことだぐらいにしか考えていないのね。でもあなたのお友達、少なくともあたしは、よろこんでやってあげてよ。なんにもお礼なんか要らないわ、ただあたしをかわいがってくれればそれでいいの」
「お前をかわいがるって?」と、Kは最初の瞬間に考えたが、それから次に頭の中をかすめる考えがあった。「そうだ、実際おれはこの女を愛しているのだ」それにもかかわらず、彼はほかのことをいっさい無視して、言った。
「私は依頼人だから、会ってくれるのは当り前さ。もし会ってもらうためにも他人の助力が必要だというなら、一歩行くごとにしょっちゅう乞食《こじき》のように頼んだり、ありがとうを言ったりしなくちゃならないだろうよ」
「この人ったら今日はなんて機嫌《きげん》がわるいんでしょう、ねえ?」と、レーニは商人にきいた。
「今度はおれがいないも同然だ」と、Kは思い、商人がレーニの不躾《ぶしつけ》を引取って次のように言ったとき、ほとんど商人に対してさえ気をわるくしていた。
「弁護士さんがこの方を迎えるのにはほかのいろいろな理由があるんだよ。つまり、この方の事件は私のよりも興味があるんだ。そのうえ、この方の訴訟は始まったばかりで、したがって手続きもたいして進行はしていないらしいから、弁護士さんはまだよろこんでこの方のことにかかりあっているんだ。けれども後ではきっと変ってくるよ」
「そう、そうね」と、レーニは言い、高笑いしながら商人を見た。「この人はなんておしゃべりなんでしょう! あなたはこの人のことなんか」と、ここで女はKに向った。「少しでも信用しちゃだめよ。いい人なんだけれど、おしゃべりなの。おそらくそのために弁護士さんもこの人のこと我慢ができないのよ。ともかく、気が向かなければこの人なんかに会わないわ。そんなことやめさせようって、あたしもずいぶん骨を折ったけれど、できないのよ。いい、何度もブロックが来たってお伝えするのに、三日目になってやっと会うような始末なの。でも呼ばれたちょうどそのときにブロックがその場にいないと、みんなだめになり、また改めてお伝えしなけりゃならないのよ。それであたしはブロックにここに泊ることを許してあげたの。弁護士さんが夜中でもこの人のことを呼ぼうとベルを鳴らすことも、これまでにあったことだわ。それで今ではブロックは夜中でも用意しているの。もちろん今度はまたブロックがいるってことがわかると、弁護士さんはこの方をお通ししてくれって頼んだことをときどきやめにしてしまうこともあるわ」
 Kは、問いかけるように商人のほうを見た。商人はうなずき、さっきKと話し合っていたのと同じように率直に言ったが、羞恥《しゅうち》のためにおそらく混乱しているのだった。
「そう、あなたもそのうち弁護士さんの言うことをよく聞くようになりますよ」
「この人はただ見せかけに苦情を言っているのよ」と、レーニは言った。「ここに泊るのはうれしいって、あたしにもう何べんも白状したわ」
 彼女は小さな扉のところへ行き、それを押しあけた。
「あなたこの人の寝室をごらんになる?」と、女はきいた。
 Kはそちらへ出かけ、敷居のところから、幅の狭いベッド一つでいっぱいになっている天井の低い、窓のない部屋をのぞきこんだ。このベッドに乗るにはベッドの枠柱《わくばしら》を越えなくてはならないはずだった。ベッドの枕もとには壁の中にくぼみがあって、そこには、一本の蝋燭、インク壺《つぼ》、ペンおよび訴訟文書らしい一束の紙が、ひどくきちんと置いてあった。
「女中部屋でお休みになるんですね?」と、Kはきき、商人のほうを振返った。
「レーニが空《あ》けてくれたんですよ」と、商人が答えた。「とても便利ですよ」
 Kは長く商人の顔を見つめていた。彼が商人から受けた第一印象は、おそらく正しかったのだ。訴訟がもう長いあいだ続いたので、経験を持っているにはちがいないが、これらの経験に高価な代償を払ったのだった。突然Kは商人のこの有様に耐えられなくなった。
「この人をベッドに連れてゆきたまえ!」と、彼はレーニに叫んだが、女は彼の言うことが全然わからないらしかった。だがおれ自身は弁護士のところへ行こう、解約を通告して、ただ弁護士からばかりでなくレーニと商人とからも縁を切ろう、と思った。ところが扉のところまで行くか行かないかのうちに、商人が低い声で言葉をかけた。
「業務主任さん」
 Kは機嫌のわるそうな顔つきで振返った。
「あなたは約束をお忘れになりましたね」と、商人は言い、椅子から懇願するように身体を伸ばした。「私にも秘密をおっしゃってくださるということでしたが」
「そうでした」と、Kは言い、自分をまじまじと見つめるレーニにも一瞥《いちべつ》を投げた。「それじゃ聞いてください。もちろんほとんど秘密というほどのものじゃないんです。これから弁護士のところへ行って、解約するんですよ」
「この人は弁護士を解約するんだ!」と、商人は叫び、椅子から飛び上がって、腕を振上げて台所じゅうを走りまわった。何度も繰返して叫ぶのだった。「この人は弁護士を解約するんだ!」
 レーニはすぐKに飛びかかっていったが、商人が邪魔にはいると、両手の拳《こぶし》で一撃を加えた。なおも拳を握ってKの背後を追いかけたが、Kのほうはかなり逃げていた。もう弁護士の部屋に足を入れていたが、そこでレーニが追いついた。扉をほとんどしめたが、足で扉を食い止めたレーニは、彼の腕をつかみ、引戻そうとした。ところが女の手首を強く圧《お》したので、女はうめき声をあげて手を放さねばならなかった。女はこれ以上部屋の中に踏みこむことはしなかったが、Kは扉に鍵《かぎ》をかけた。
「たいへんお待ちしていましたよ」と、弁護士はベッドから言い、蝋燭の光で読んでいた文書を夜間用の机の上に置き、眼鏡をかけると、Kを鋭く見つめた。Kはわびもせずに、言った。
「すぐに帰りますから」
 わびではなかったので、弁護士はKのこの言葉を相手にせずにやりすごし、言った。
「この次はもうこんな遅くはお会いしませんからね」
「それは願ったりです」と、Kは言った。
 弁護士は、いぶかしげにKの顔を見た。
「まあおかけください」と、言った。
「ではお言葉どおり」と、Kは言い、椅子を夜間用の机のそばに引寄せ、すわった。
「扉の鍵をおかけになったようですな」と、弁護士は言った。
「そうです」と、Kは言った。「レーニのためでした」
 彼は、誰でも容赦するつもりはなかった。ところが弁護士はきいた。
「あれがまたしつっこいことをしましたか?」
「しつっこいですって?」と、Kはきいた。
「そうです」と、弁護士は言って笑ったが、咳《せき》の発作を起し、それが止ると、また笑いはじめた。
「きっとあれのしつっこいことをごらんになったでしょうね?」と、きき、Kがぼんやりと夜間用の机の上についていた手をたたいたので、Kは素早くその手を引っこめた。
「あなたはそのことをたいして問題にしておられぬようだが」と、Kが黙っているので弁護士は言った。「そのほうがよろしい。さもないとわしがおそらくあなたにおわびしなければなりませんからな。それがレーニの奇妙なところでしてね。わしは前からそれを大目に見ていますし、あなたがたった今扉をおしめにならなかったら、お話もいたさなかったでしょう。この奇妙なところというのは、もちろんあなたにご説明するまでもないんですが、あなたは私のことを驚いてごらんになるので申上げておきますけれど、それは、レーニがたいていの被告の人々を美しいと思いこむことなんですよ。あれは誰にでもくっつき、誰にでもほれますし、もちろん誰からも愛されもします。その後で、私がよいと言えば、わしを興がらせるため、ときどきそれについて話してくれます。お見かけしたところだいぶ驚いていらっしゃるようですが、わしはこのことにたいして驚きはしませんね。見分ける眼力がありさえすれば、被告の人々はほんとうに美しいと見えることがしょっちゅうあるものですよ。これは確かに、奇妙な、いわば自然科学的と言える現象なんです。もちろん、告訴の結果何かはっきりとした、詳細に規定できるような容貌《ようぼう》上の変化が起るわけじゃありません。ほかの裁判事件の場合とはちがって、たいていの被告は普通の生活を続け、事件の世話をしてくれるいい弁護士がついていさえすれば、訴訟に少しもわずらわされません。それにもかかわらず、経験のある人々は、大勢の人々の中から被告を一人一人見分けることができます。どういう点でか、とあなたはおたずねになるでしょう。わしの返事はあなたを満足させるわけにゆかぬかもしれません。つまり、被告の人々はまさしくいちばん美しいんです。彼らを美しくするものは罪ではありません。なぜなら――わしは少なくとも弁護士としてこう申上げなくてはなりませんが――すべての被告が罪があるとはかぎらないのですからね。また、彼らを今から美しくしているのは、正しい処罰というものでもありません。被告はみな処罰されるとはかぎっていないからです。それゆえ、なんらかの形で彼らにつきまとっている、彼らに対して提起された訴訟手続きというものにあるにちがいありません。もちろん、美しい人たちのうちにも特に美しい人というのはあります。でもみな美しいことは確かであって、あのみじめな虫けらのようなブロックでさえ美しいんです」
 Kは、弁護士が語り終えたとき、すっかり気を落着け、最後の言葉には目だつほどにうなずきさえしたが、そうすることによって前々からの自分の見解にみずからの裏打ちを与えるのであった。その見解によるとこの弁護士は、いつも、そして今度も、事の本質には触れていない一般的なことばかり伝えては自分の気をそらし、いったい自分のために実際に仕事をして何かをやってくれたか、という根本問題は、避けよう避けようとばかりしているように思われるのだった。弁護士は確かに、Kがこれまでよりも自分に対して抵抗していることに気づいたらしかった。というのは、弁護士は黙ってしまい、Kのほうが話しだす機会を与えたからである。ところが、Kがいつまでも黙っているので、きいた。
「今晩は何かきまったご意図を持っていらっしゃったのですか?」
「そうです」と、Kは言い、弁護士をもっとよく見るため、片手で少し蝋燭の光をさえぎった。「今日をかぎりあなたには私の弁護をやめていただきたい、と申上げようと思います」
「なんですと」と、弁護士は言い、ベッドの中で半身をもたげ、片手で布団《ふとん》の上に身体をささえた。
「おわかりいただけたと思います」と、Kは身体をこわばらせてきちっと立ち、相手の出方に身構えするようにすわっていた。
「では、そのプランについてお話しすることもできますね」と、しばらくの後、弁護士は言った。
「もうプランなんていうものじゃありませんよ」と、Kが言った。
「そりゃあそうかもしれませんが」と、弁護士は言った。「でもわしらは何事もあわてすぎたくはありませんね」
 弁護士は「わしら」という言葉を使って、Kを手放す気は毛頭ないし、たとい代理人ではありえなくとも、少なくとも引続いて忠告者ではありたいというような素振りだった。
「あわてているわけじゃありません」と、Kは言い、ゆっくりと立ち上がり、自分の椅子の後ろに行った。「十分に考えましたし、おそらくあまり長く考えさえしたようです。決心はもうきまっています」
「それではもう少し言わせてください」と、弁護士は言い、羽根布団を退《の》け、ベッドの縁に腰かけた。むきだしの白毛《しらが》の脚は、寒さで震えていた。彼はKに、長椅子から毛布を取ってくれ、と頼んだ。Kは毛布を持ってきて、言った。
「そんなに冷えるようなことをなさる必要は全然ありませんよ」
「事はなかなか重大です」と、弁護士は言いながら、羽根布団で上半身を包み、それから両脚を毛布に突っこんだ。「あなたの叔父《おじ》さんはわしの友人だし、あなたもまた時のたつにつれわしにとって親しいものとなった。そのことを率直に申上げます。こう申上げても恥じる必要はないと思います」
 老人のこういう感傷的な話は、Kにはきわめてありがたくなかった。というのは、避けたいようなくだくだしい説明にどうしてもなったし、そのうえ、もちろん彼の決心をけっして翻すことはできなかったが、率直に白状するとそれをいろいろと迷わしたからである。
「ご親切にご心配いただいてありがとうございます」と、彼は言った、「あなたが私の事件をできるだけ、そして私にとって有利だとお考えのかぎりお引受けくだすったということも、よく存じております。しかし、最近、それは十分でないという確信を持つにいたりました。もちろん私は、あなたのようなたいへん年長で経験に富んだ方に、私の考えに従っていただくようにしようとはけっして思いません。もし私がときどき思わず知らずにそんなことをしようといたしましたなら、どうかお許しねがわなければなりませんが、事はあなたご自身のおっしゃられるようになかなか重大ですし、私の確信によりますと、訴訟に対してこれまでやった以上に強力に手を出すことが必要だと思われます」
「よくわかりましたが」と、弁護士は言った、「あなたは短気ですね」
「私は短気なんじゃありません」と、Kは少し興奮して言い、もうたいして自分の言葉に気を使わないことにした。「私が叔父といっしょにあなたのところへ初めて伺ったとき、私には訴訟なんかたいして問題ではなかったということは、あなたもご存じでしょうし、いわば力ずくで思い出させられるのでなかったなら、私は訴訟のことは完全に忘れていたのでした。ところが叔父が、あなたに弁護をお願いしろと言い張るものですから、叔父の気を損じないためにそうしました。それで、弁護士に弁護をおまかせするのは訴訟の重荷を少しでも避けるためなんだから、これで私の訴訟も前よりは気軽になるものとばかり思っていたわけです。ところが事実はまったく反対です。それまでは、あなたにお願いしてからほど訴訟のために心配させられるということは、なかったのです。私ひとりのときには、自分の事件については何も手を出しませんでしたが、それを心配することもほとんどなかったのでした。ところが今では、代理人もおられるし、何事が起っても万端の用意が整えられていて、ひっきりなしに緊張してあなたが手を下してくださるのを待っていたわけですが、さっぱりでした。もちろん、おそらくはほかの人からはもらえそうにもないさまざまな裁判所についての情報を、あなたからいただきはしました。しかし、訴訟が確かに私の気づかぬうちにだんだんと身に迫ってきている今となっては、それでは十分ではなくなったのです」
 Kは椅子を突きのけて、両手を上着のポケットに突っこんだまま立ち上がった。
「訴訟をやっているうちの、ある時期には」と、弁護士は低い声で落着いて言った。「本質的に新たな事態というものが起らなくなるのです。あなたと同じような訴訟の段階にある大勢の依頼人の方々が、これまでもわしの前に立って、あなたと同じようなことを言ったものですよ!」
「そうだとすると」と、Kは言った。「そういう同じような依頼人たちは、私と同じように当然な理由があったのです。それだからそんなことは全然私に対する反駁《はんばく》にはなりやしない」
「何もあなたに反駁しようとは思いません」と、弁護士は言った。「だがわしが申上げておきたいと思うのは、あなたにはほかの人々よりも判断力というものを期待していたということです。ことにあなたには、ほかの依頼人に対してやる以上に、裁判組織とわしの仕事とについて詳しくお教えしておいたんですからね。ところが今は、こんなにしてさしあげているのにあなたはわしを十分ご信用にならない、ということを見なければならないというわけです。あまりわしのことを軽く考えてくだすっては困りますね」
 弁護士はKに対してなんと卑屈な態度をとったことか! 確かに今においてこそいちばん感じやすくなっているにちがいない自分の身分に関する体面というものを全然忘れてしまっているのだ。なぜこういう態度をとるのか? 見かけたところ仕事の多い弁護士で、そのうえ金もあるらしいし、もうけがなくなることも一人ぐらいの依頼人を失うことももともとたいしたことではないはずだ。そのうえ、病身だし、仕事を減らすことを自分でも考えたほうがよいのだ。それにもかかわらずKのことをこんなに引きとらえているなどとは! なぜだろうか? 叔父に対する個人的な友誼《ゆうぎ》なのだろうか、あるいはKの訴訟をきわめて風変りなものと認めて、Kに対してか、あるいは――こういう可能性もけっしてなきにしもあらずだが――裁判所の友人たちに対して、自分の腕を見せようと望んでいるのだろうか? 遠慮なくKはためつすがめつして弁護士の顔を見るのだったが、相手そのものには何も変ったところが認められなかった。わざと無口のような顔つきをして自分の言葉の効果を待っているのだ、とほとんど考えることができる有様だった。しかし、彼は明らかにKの沈黙を自分にとってきわめて好意的に解釈したことが、次のように言葉を続けたことでわかった。
「いずれおわかりのことと思いますが、わしは大きな事務室を持ってはいますが、助手は一人も使ってはいません。以前はそれとちがい、二、三人の若い法律家がわしのために働いてくれていたときもあったのですが、今ではわしひとりでやっています。その理由は、わしが自分の専門を変え、だんだんあなたのケースのような法律事件だけをやるようにしたためでもありますが、また一部はこの種の法律事件によっていよいよ認識を深めたためです。わしの依頼人の方々や、わしが引受けた課題というものに対して罪を犯したくないと思うならば、こういう仕事は誰にもまかせられない、ということをさとったのです。しかし、仕事も全部自分でやろうと決心したについては、それ相応の結果を生じました。すなわち弁護の依頼をほとんどすべてお断わりせねばなりませんでしたし、わしと特に親しい人々の言うことだけしかきけませんでした。――ところで、わしが投げ捨てた屑《くず》のひとつひとつに飛びつくやつらもたくさんいますし、しかもほんの身近にさえいる始末です。そしてそのうえ、わしは過労で病気になってしまいました。けれども、わしは自分の決心を後悔はしていませんが、わしが実際にやったよりももっと弁護の仕事をお断わりすべきだったのかもしれません。しかし、お引受けした仕事にすっかり没頭するということは、絶対に必要であるということがわかりもしましたし、またよい結果で報いられもしました。わしはかつてある書き物の中で、普通の法律事件の弁護とこういう法律事件の弁護とのあいだの相違がきわめて巧みに表現されているのを見たことがあります。そこにはこう書いてありました。つまり、普通の弁護士は依頼人を細い糸で判決にまで導くが、別の弁護士は依頼人をすぐ肩にかついで、それをおろしたりしないで、判決まで、さらにはそれを超《こ》えたかなたにまで連れてゆく、というのです。そのとおりですね。ですが、わしがこんな大仕事で全然後悔していないなんて言えば、一から十まで正しいとは言えませんね。たとえばあなたの場合のように、わしの仕事が完全に誤解されるとなると、わしもほとんど後悔しますよ」
 Kはこんな談義で、納得させられるというよりは、むしろいらいらしてきた。弁護士の口調からなんとはなしに、自分を待っているものがなんであるか聞き取れるような気がした。いま譲るとなると、また例の慰め文句が始まるのだろう。願書が進捗《しんちょく》しているということ、裁判所の役人たちの機嫌がよくなったこと、だが仕事にはさまざまな大きな困難が直面していること、要するにそうしたいやになるほど知っているいっさいのことが持ち出され、またもや自分にはっきりとしない希望をいだかせたり、はっきりしない脅威で自分を苦しめたりしようとするのだ。そんなことはもう最終的に食い止めなくてはならない、と思ったので、彼は言った。
「弁護をお続けになる場合、私の事件について何をやってくださろうというのですか?」
 弁護士はこの侮辱的な質問にさえ乗ってきて、答えるのだった。
「あなたのためにすでにやってまいったことを、続行するんです」
「そのことならまったくわかっています」と、Kは言った。「ですが今はもうそれ以上おっしゃるにはおよびません」
「もう一回やってみようと思うんです」と、Kを興奮させた事柄はKに関係があるのではなくて自分に関係あることなのだ、とでもいうかのように弁護士は言った。
「つまりわしはこう思うんだが、あなたはわしの法律顧問としての地位を間違って判断されているばかりではなく、そのほかにも妙な態度をとられているが、そんな態度をとられるのは、あなたが被告であるのにあまりにいい待遇を受けていられる、あるいはもっと正しく言って、どうでもいいというふうに、少なくとも外見上どうでもいいというふうに取扱われている、ということのわるい結果ですね。このどうでもいいというふうに取扱っているということにも理由があるんですよ。つまり、自由であるよりも鎖につながれているほうがいいということもしばしばあるもんでしてね。だが、ほかの被告がどういうふうに取扱われているかということをあなたにお教えしたいと思いますが、そうすればおそらくあなたはそれから教訓を引出すこともできますよ。そこでこれからブロックを呼びますから、扉をあけてここの夜間用の机のそばにおかけになってください!」
「かしこまりました」と、Kは言い、弁護士が要求したとおりにした。いつでも学ぼうという心構えであった。しかし、どんな場合に対しても安全な処置をとっておこうと思って、彼はきいた。
「ですが、私があなたの弁護はお断わりしているということは、わかっていただけましたね?」
「わかりました」と、弁護士は言った。「しかし今晩のうちにも後戻《あともど》りされることがありえますね」
 彼はまたベッドに横になり、羽根布団を顎《あご》まで引寄せ、壁のほうに向き直った。それからベルを鳴らした。
 ベルの合図とほとんど同時にレーニが現われた。素早くあたりを見て、何が起ったのかを知ろうとした。ところがKが落着いて弁護士のベッドのそばにすわっていたので、ほっとした様子だった。自分をじっと見つめているKに、微笑《ほほえ》みながらうなずいてみせた。
「ブロックを連れておいで」と、弁護士は言った。ところが彼女は、ブロックを連れてくるかわりに、ただ扉の前まで出て、叫んだ。
「ブロック! 弁護士さんのところへいらっしゃいって!」
 それから、弁護士が壁のほうを向いたままで何も問題にしてはいないからであろうが、Kの椅子の後ろにこっそりとまわりこんだ。そうしてから、椅子のもたれの上に身体を曲げてきたり、もちろんきわめてやさしげに、また注意深げにだが、両手を彼の髪毛《かみのけ》の中に入れたり、頬をなでたりして、彼をうるさがらせるのだった。最後にKは、女の手をつかんでそんなことをさせまいとした。女はしばらく逆らったが、やがて手を彼にまかせた。
 ブロックは呼ばれてすぐやってきたが、扉の前で立ち止り、はいったものかどうかと考えている様子だった。眉毛《まゆげ》をつり上げ、弁護士のところに来いという命令が繰返されまいかと聞き耳を立てているかのように、頭をかしげていた。Kははいるように彼を勇気づけてもよかったが、ただ弁護士とばかりでなく、この家にあるいっさいのものと最後的に手を切ることに心をきめていたので、じっとしていた。レーニも黙っていた。少なくとも自分を追い払う者は誰もないとブロックは見てとり、顔を緊張させ、後ろにまわした両手を痙攣《けいれん》させながら、爪立《つまだ》ちではいってきた。扉は、退却してゆく場合のことを考えて、あけ放しにしておいた。Kは彼の顔を全然見ずに、うず高い羽根布団を依然として見ていたが、弁護士はその布団にくるまって壁ぎわまで身体を寄せていたので、姿が全然見えなかった。しかし、その声だけは聞えた。
「ブロックは来たかね?」と、彼がきいた。この問いは、すでにかなりな距離に進んでいたブロックの胸に明らかに一撃を与え、次にまた一撃を背中に与えたので、彼はよろめき、背中を深く曲げて立ち止って、言った。
「おります」
「なんだと言うのだね?」と、弁護士は言った。「都合のわるいときに来るんだね」
「お呼びではありませんでしたか?」と、ブロックは弁護士にというよりは自分自身にきいてみて、身を防ぐように両手を前に出し、逃げてゆく身構えをした。
「呼びはしたんだが」と、弁護士は言った。「都合のわるいときに来るんだね」
 そしてしばらく間《ま》をおいて、言葉を足した。
「君はいつも都合のわるいときにばかり来るね」
 弁護士がしゃべってからは、ブロックはもうベッドのほうを見ず、むしろ部屋の隅《すみ》のどこかを見つめ、話し手の視線があまりまぶしすぎて耐えられないというように、ただ耳を傾けるだけだった。だが、弁護士は壁に向ってしゃべり、しかも声が低く口早なので、聞き取ることもむずかしかった。
「帰ったほうがよろしいでしょうか?」と、ブロックがきいた。
「もう来ちゃったんだから」と、弁護士は言った。「いなさい!」
 弁護士はブロックの望みをかなえてやったのではなくて、笞《むち》で打つぞとでもいうようにおどしたのだ、と思えそうだった。今やブロックがほんとうに震えはじめたからである。
「昨日《きのう》わしは」と、弁護士が言った。「友人の第三席裁判官のところに行ったんだが、話がだんだん君のことになった。彼が言ったことを聞きたいかね?」
「ぜひどうぞ!」と、ブロックが言った。
 弁護士がすぐには返事をせぬので、ブロックはもう一度懇願を繰返し、ほとんどひざまずかんばかりに身体をかがめた。ところがそのとき、Kが彼に噛《か》みついていった。
「君はなんていうことをするんだ?」と、Kは叫んだ。
 レーニが彼の叫ぶのを妨げようとしたので、彼は女のもう一方の手もつかんだ。彼が女をしっかとつかんでいるものは、愛情の握りかたではなかったし、女も繰返し溜息《ためいき》をして、両手をもぎ取ろうとした。ところが、Kが叫んだおかげでブロックが罰を食った。弁護士がこうきいたからである。
「君の弁護士はいったい誰かね?」
「あなたです」と、ブロックは言った。
「で、わしのほかには?」と、弁護士がきいた。
「あなたのほかには誰もいません」と、ブロックが言った。
「それじゃ、ほかの人の言うこともきかないことだね」と、弁護士は言った。
 ブロックは弁護士の言うことをすっかりのみこみ、悪意のこもった眼差《まなざし》でKをじろじろながめ、彼に対して激しく頭を振った。この動作を言葉に翻訳すれば、乱暴な罵倒《ばとう》だったにちがいない。こんな連中とKは親しげに自分の事柄を語り合うつもりでいたのだ!
「もう邪魔はしませんよ」と、Kは椅子にもたれて言った。「ひざまずいたり、四つばいになったり、なんでも好きなようになさい」
 ところがブロックにも、少なくともKに対しては見栄《みえ》というものがあった。というのは、拳を振りまわしながらKに迫ってきて、弁護士の威をかりてその身近でだけやれるような大声で叫んだからである。
「あなたは私に対してそんなふうな口をきいてはいけません。それはよろしくありませんよ。なぜ私を侮辱なさるんです? しかもこの弁護士さんの前で、なぜなさるんです? ここでは、あなたと私との二人は、ただお慈悲で我慢していただいているんですよ。あなただって告訴されていて訴訟にかかりあっているんですから、私よりましな方というわけじゃありません。それでもあなたが紳士だというなら、あなたよりりっぱなというわけじゃないけれども、私もあなたと同様紳士ですよ。そして、ことにあなたからは紳士として口をきいていただきたいですね。あなたはここで腰をかけ、落着いて話を聞いているのに、私のほうはあなたの言いかただと四つばいになっているというので、あなたは優越感を持っていらっしゃるのなら、私は昔の判例のことを申しましょう。それは、容疑者にとっては静かにしているよりも動くほうがよろしい、なぜなら静かにしている者は、知らぬ間に秤《はかり》の上に乗り、罪を量られることにいつでもなるからだ、というんです」
 Kは何も言わずに、ただこの混乱した男をまじろぎもせずにじっと見つめていた。ほんのこの数秒のうちになんという変化が起ったのであろう! この男をあちらこちらと投げ出し、敵も味方も区別できなくさせているのは、訴訟なのだろうか? 弁護士はわざとこの男を侮辱し、今はただKの前で自分の権力を見せつけ、それによっておそらくはKのことも服従させようということだけをもくろんでいることが、この男にはわからないのだろうか? だがブロックがそういうことをさとることができず、あるいはさとっていても弁護士を非常に恐れているので何の役にもたたないのだとしても、それではどうして、弁護士をだまして、彼のほかになおほかの弁護士にやってもらっているということを隠しているほど、狡猾《こうかつ》で大胆なのだろうか? またどうして、Kがすぐにも自分の秘密を暴露できるというのに、Kに食ってかかるというようなことをあえてやるのか? ところが男はそれ以上のことをあえてやるのだった。弁護士のところへ行き、今度はそこでもKの苦情を言いはじめたのだった。
「弁護士さん」と、彼は言った。「この男が私に口をきくのをお聞きになりましたか? まだこの男の訴訟なんていうものは時間で数えることができるくらいなのに、五年も訴訟をやっている私のような者に、いいことを教えてやろうって言うんです。そのうえ私をののしりさえします。何も知らぬくせに、作法や義務や裁判所の慣習が要求するところを微力ながらできるだけ詳しく勉強してきた私というものを、ののしったりするんです」
「人のことなんか心配するんじゃないよ」と、弁護士が言った。「そして、君が正しいと思うことをやるんだ」
「おっしゃるとおりです」と、自分自身を勇気づけるように言い、ちらと横眼を使いながらベッドのすぐそばにひざまずいた。
「このとおりひざまずいています、弁護士さん」と、彼は言った。
 だが弁護士は黙っていた。ブロックは片手で控え目に羽根布団をなでた。この場を支配している静けさの中で、レーニはKの両手から離れると、言った。
「痛いわよ。放してちょうだい。あたしはブロックのところへ行くわ」
 女はそちちへ行き、ベッドの縁に腰をおろした。ブロックは女が来たことを大いによろこんで、すぐさまさかんな、しかし言葉には出さないしぐさで、弁護士に自分のことを取りなしてくれと頼むのだった。彼は明らかに弁護士の知らせを切に求めていたが、おそらくはただ、そうした知らせをほかの弁護士たちに利用しつくさせるという目的だけのためだった。レーニは、どうやったら弁護士に取入れるかを、詳しく知っているようだった。弁護士の手を示して、接吻《せっぷん》するように唇《くちびる》をとがらせてみせた。すぐブロックは手への接吻をやってのけ、レーニのすすめるままに、さらに二度もそれを繰返した。ところが弁護士はまだ依然として黙りこくっていた。するとレーニは弁護士の上にしなだれかかったが、このように身体を伸ばすと、彼女の美しく発育した身体がはっきりと見えるのだった。そして、弁護士の顔のほうに深くかがみこんで、その長い、白毛の髪毛をなでた。これで彼は返事を一言言わざるをえなくなった。
「どうもそれをこの男に話すことは躊躇《ちゅうちょ》するんだが」と、弁護士は言い、頭を少し振るのが見られたが、おそらくそれはレーニの手の感触にもっとあずかるためにちがいなかった。ブロックは、まるでこうやって聞くことは命《めい》を犯すことででもあるかのように、頭をうなだれて聞いていた。
「なぜ躊躇なさるんですの?」と、レーニはきいた。
 Kは、すでにしばしば繰返された、そしてこれからもしばしば繰返されるにちがいない、ただブロックにとってだけ新鮮味を失わないような、よく覚えこまれた会話を聞くような気がした。
「あの男は今日はどんなふうだった?」と、弁護士は答えるかわりに、きいた。レーニはそれについて述べる前に、ブロックのほうを見下し、この男が両手を彼女のほうにあげて懇願しながらすり合せる有様をしばらくながめていた。最後に彼女は真顔でうなずき、弁護士のほうに向き直り、言った。
「おとなしくして一生懸命でしたわ」
 長い髯を生やした老商人が、若い娘に有利な証言を嘆願するのだった。その場合に何か下心があるとしても、同じような立場にある一人の人間の眼にとって、是認されることは何ひとつなかった。弁護士がこんな見世場をやって自分を手に入れようなどとどうして考えることができるのか、Kには全然気持がわからなかった。自分をこれまでは追い払いはしなかったけれども、こんな場面を見せつけては今度こそ自分を離れさせることになるだろうに。弁護士はこの場に居合す者をほとんど侮辱しているのだった。それゆえ、弁護士のやり口というのは、幸いにもKはたいして長いあいだそれの思いどおりにならなくてもすんだのだが、依頼人がついに世の中のことをすべて忘れ、ただ訴訟の終るまでこのような迷いの道の上に身体を引きずってゆくことを望むというようにさせるものだった。もう依頼人ではなく、弁護士の犬だった。もし弁護士が、まるで犬小屋の中にはい入るようにベッドの下にはい入って、そこからほえてみろ、と命じたならば、この男はきっとよろこんでそうしたにちがいなかった。ここで語られているすべてを詳細に自分の胸に納めておいて、上級の場所でそのことを訴え、報告することを任務とするもののように、Kは確かめ考えこむようにじっと聞いていた。
「一日じゅうあの男は何をやっていたのかね?」と、弁護士はきいた。
「あたしはあの人のことを」と、レーニは言った。「あたしの仕事の邪魔をされないように、いつもいる女中部屋の中に閉じこめておきましたわ。隙間《すきま》越しに、何をやっているかときどき見ることができましたの。いつもベッドの上にひざまずいて、あなたがお貸しになった書類を羽根布団の上に開き、それを読んでいました。それはあたしにいい印象を与えましたわ。だって窓は通風孔に続いているだけで、光なんてささないんですもの。それなのにブロックが読んでいるなんて、なんて従順な人だろう、と思いましたわ」
「そう聞いて、うれしいよ」と、弁護士は言った。「だがちゃんとわかって読んでいたのかね」
 こんな会話が交《か》わされるあいだ、ブロックは絶えず唇を動かしていたが、明らかにレーニに言ってもらいたい返事をつぶやいてみているのだった。
「もちろんそんなことは」と、レーニは言った。「はっきりとはお答えできませんわ。とにかくあたしは、この人が徹底的に読んでいるのを見ましたの。一日じゅう同じページを読んでいて、読みながら指で一行一行たどっていましたわ。この人のほうをのぞきこむといつでも、読むことがひどく苦労なように溜息をついていました。この人にお貸しになった書類は、きっとわかりにくいものなんですのね」
「そうだよ」と、弁護士は言った。「それはもちろんむずかしいよ。わしはこの男にそれがいくらかでもわかったとは思わないね。あの書類はただ、わしがこの男の弁護のためにやっている闘いがどんなにむずかしいか、少しでも感じ取らせてやればよいのだ。そしてこのむずかしい闘いを、わしはいったい誰のためにやっているんだ? それは――言うのもばかばかしいが――ブロックのためなんだ。これが何を意味するかも、わしはこの男にわからせてやるよ。ひっきりなしに勉強していたかね?」
「ほとんどひっきりなしでしたわ」と、レーニは答えた。「ただ一度だけ水が飲みたいってあたしに頼みましたの。それで通風窓からコップ一杯渡してやりましたわ。それから八時にこの人を出してやって、食物をあげました」
 今ここでほめられているのは自分のことなのだ、そしてそれはKには印象を与えただろう、とブロックは横眼でちらとKを見た。今は大いに有望と思っているらしく、身のこなしもいっそう伸び伸びとし、膝《ひざ》であちこちと動いていた。それだけに、弁護士に次のように言われて凝然としてしまったのも、はっきりと見てとれるのであった。
「お前はこの男をほめているね」と、弁護士が言った。「しかし、そんなことをやると、まさにそのためにわしは話しにくくなるんだよ。つまり裁判官は、ブロックという男についても、それの訴訟についても、あまりよくは言わなかったんだよ」
「よくは言わなかったんですって?」と、レーニはきいた。「どうしてそんなことがあるんですの?」
 ブロックは、今はとっくに言われてしまった裁判官の言葉を自分の都合のいいように曲げる力をこの女が持っていると信じているかのように、緊張した眼つきで女を見つめた。
「よくはなかったね」と、弁護士は言った。「わしがブロックのことを話しはじめたら、不快そうになった。『ブロックのことはやめたまえ』と、言ったよ。そこで、『私の依頼人です』と、わしは言った。『あなたはいいように使われているんだ』と、彼が言う。そこでわしは、『彼の事件はまだだめにはなっていないと思います』と、言った。『あなたはいいように使われているんだ』と、相手が繰返した。『そうは思いませんが』と、わしは言ってやった。『ブロックは訴訟に熱心で、いつも自分の事件を追いかけています。私の家に住み込みも同然になって、いつでも情報に通じていようとしているのです。こんな熱心さは珍しいですよ。確かに個人的には愉快なやつではないし、作法はなっていなくて、きたならしいけれど、訴訟の点では非の打ちどころがありません』とな。わしも非の打ちどころなくしゃべったんだが、わざと誇張してやったんだ。そしたら彼はこう言うんだ。『ブロックはずるいだけだ。あの男はたくさんの聞き込みをかき集めて、訴訟を引延ばすことを知っている。けれどあれの無知のほうがずるさよりもずっと大きいくらいだ。あれの訴訟なんか全然始まっていないということを聞いたら、そして、訴訟開始の鐘の合図も全然鳴らされたことがないと言ってやったら、それに対してどう言うだろうか』ブロック、おとなしくするんだ」と、弁護士は言った。ブロックがよろよろする膝で立ち上がり、明らかに説明を求めようとする気配を示したからである。
 弁護士がはっきりした言葉でずばりとブロックに向って言ってのけたのは、これが初めてだった。疲れた眼で半ばはどこともなく、半ばはブロックのほうを見下したが、ブロックはこの眼差を見て、またへなへなとひざまずいてしまった。
「裁判官のこんな言葉は、君には全然意味を持たないんだよ」と、弁護士は言った。「どうか一言ごとに驚かないでもらいたいね。そんなことが繰返されると、もう全然打明けられないよ。一言話しはじめると、今こそ最終判決が下されるのだというような顔つきで見つめられるんだからねえ。ここにはわしの依頼人もいらっしゃるんだから、少しは恥を知ってもらいたい! この方がわしにおいてくださっている信用というものも台なしにしてしまうよ。いったい、どうしてくれっていうんだい? まだ君は生きているし、まだわしの後楯《うしろだて》っていうものがあるんだ。つまらぬ心配というものだよ! 最終判決は多くの場合、思いがけずに、任意の人の口から任意な時に下される、ということを君はどこかで読んだはずだ。いろいろな留保条件はあるが、それはもちろんほんとうだ。だが、君の心配はわしに不愉快だし、わしはその中にわしに対する必要な信頼の欠如というものを見る、ということもほんとうだ。いったいわしが何を言ったかね? ある裁判官の言ったことをそのまま伝えただけだよ。君も知っているとおり、さまざまな見方が手続きの周囲に積み重なって、見通すことができないほどになっているんだ。たとえばこの裁判官は手続きの始まりというものをわしとは別な時期において考えているんだよ。見解の相違というもので、何もそれ以上のものじゃないよ。訴訟のある段階において、昔からのしきたりで鐘が鳴らされる。この裁判官の見方によると、それで訴訟が始まるというんだ。それとちがう意見を今全部君に言って聞かせることはできないし、聞いたところで君はそうしたものをわかりはしないだろうが、それとちがう意見はたくさんあるというだけで君には十分だ」
 ブロックは当惑して下にうずくまり、ベッドの前に敷いてある小|絨毯《じゅうたん》の毛を指でさすっていた。裁判官の言ったことが気がかりで、弁護士に対する自分の従順さもしばらくは忘れてしまい、ただ自分のことだけを考え、裁判官の言葉をあらゆる方向にこねまわしていた。
「ブロック」と、レーニはたしなめる調子で言い、上着の襟《えり》を引っとらえて少し上へ引っ張った。
「もう毛なんかなでるのをやめて、弁護士さんのおっしゃることを聞きなさいな」
[#地から2字上げ](編集者マックス・ブロート注 本章未完)

第九章 伽藍《がらん》で

 Kは、銀行にとってたいへん大切な、そして初めてこの町に滞在したあるイタリア人の顧客にいくつかの芸術上の旧跡を見せるように、という命を受けた。この命令は、ほかのときならばきっと名誉に感じたでもあろうが、今では、大いに努力してやっと銀行での信用を保てるという有様なので渋々引受けた。事務室から引離される一刻一刻が、彼を心配させた。事務室にいる時間はとっくにもう以前のように利用できなくなっていたし、多くの時間はただほんとうに仕事をしているようにやっと見せかけて過すのだったが、それだけに、事務室にいないと心配が大きかった。出かけるとなると、しょっちゅう自分をうかがっていた支店長代理がときどき自分の事務室にやってきて、自分の机にすわり、書類をくまなく探り、多年この自分とほとんど友達同然になっている顧客に応接し、自分と疎隔させ、そればかりでなくさまざまな失策さえも暴露する有様が、眼に見えるように思えてしかたがなかった。そういう失策にはKは今では仕事をしているあいだしょっちゅう四方八方から脅やかされていることがわかっていたが、もう避けることができなくなっていた。そのため、こんな晴れがましい場合であっても、商用外出やちょっとした出張旅行を命じられると――またこんな命令が最近たまたまたび重なったのだが――しばらく自分を事務室から遠ざけて自分の仕事を調べあげるつもりなのだろうとか、あるいは少なくとも、自分は事務室ではいなくてもちっとも困らぬと思われているのだ、という想像をいつも持ちやすかった。こういう命令の多くは苦もなく断われるのであったが、あえて断わる気にはなれなかった。たとい恐れはほとんどまったく根拠がないものであるにせよ、命令を断わることは自分の不安な心持を告白することになるからであった。こうした理由から、このような命令を見かけはさりげなく受け、骨の折れる二日がかりの出張をしなければならなかったときも、よくない風邪《かぜ》のことを黙ってさえいた。このごろの雨模様の秋の時候を引合いに出されて出張をとめられる危険にさらされたくはない、というだけのためにだった。この出張から激しい頭痛をこらえて帰ってきたとき、次の日にはイタリア人の顧客のお供をするようきめられている、ということを聞き知った。少なくともこの一回だけは断わろうという誘惑は非常に大きかったし、何よりも、この場合自身に命じられることになっていることは、直接商売とは関係のない仕事だし、顧客に対してこういう社交的な義務を果すことはそれだけでは疑いもなく十分大切なことなのだが、Kにとっては大切なことではなかった。彼は、仕事の成果によって自分の地位を保ってゆけるのであって、それがうまくゆかなければ、このイタリア人を思いがけずほれこませることになってもまったく価値はないのだ、ということをよく知っていたのである。彼は一日でも職場から追い出されたくなかった。もうもどしてはもらえないのではあるまいかという恐怖があまりに大きかったからであるが、その恐怖は、思いすごしだと非常によくわかっていたが、彼の心をしめつけるものだった。もちろんこの場合には、うまい口実を設けることはほとんど不可能だった。Kのイタリア語の知識はたいして多くなかったが、ともかく役にたつ程度だった。しかし決定的なことは、Kが前からいくらか美術史の知識を持っているということだった。そのことは、Kがしばらく、もっともただ商売上の理由からだけだったのだが、この町の美術遺跡保存会のメンバーであったために、きわめて誇大に銀行に知れわたっていたのだった。ところがさて、噂《うわさ》に聞くとそのイタリア人は美術愛好家だということであり、それゆえ、Kがその案内役に選ばれたのは当然のことであった。
 雨の激しい、荒れ模様の朝だったけれども、Kはこれから控えている一日のことに腹をたてながら、七時にはすでに事務室に行ったが、イタリア人の訪問にかかりきりにさせられるまえに少なくともいくらかの仕事を片づけるためであった。少し準備しておこうとして、半夜をイタリア語の文法の勉強に過したので、非常に疲れていた。最近ではあまり頻繁《ひんぱん》に窓ぎわにすわりすぎる慣習になっていたが、その窓のほうが今朝《けさ》も机よりも彼をいっそう誘うのだったけれども、そんな気持に抗して仕事するために腰をおろした。ところが残念なことにちょうど小使がはいってきて、業務主任さんはもういらっしていないか見てくるように、支店長さんが自分をよこしたのだ、と言った。もしいらっしゃるなら、恐縮だが応接室に来ていただきたい、イタリア人の方はもう来ておられる、ということだった。
「すぐ行くよ」と、Kは言い、小さな辞書をポケットに入れ、外国人のために用意されている町の名所のアルバムを腕にかかえ、支店長代理の事務室を抜けて支店長室にはいっていった。誰もきっとまじめには期待していなかったはずだが、こんなに早く事務室にやってきて、すぐに求めに応じられることを彼はよろこんでいた。支店長代理の部屋はもちろんまだ深夜のようにがらんとしており、きっと小使は代理のことも呼ぶように命じられたのであろうが、それは果せなかったのだった。Kが応接室にはいってゆくと、二人の紳士は深い肘掛椅子《ひじかけいす》から身体《からだ》を起した。支店長は親しげに微笑し、Kが来たことを大いによろこんでいて、すぐに紹介の労をとったが、イタリア人はKの手を力強く握り、微笑しながら誰かのことを早起きだと言うのだった。Kは誰のことを言っているのかはっきりはわからず、そのうえそれは特別な言葉だったので、その意味はしばらくしてやっとわかった始末だった。彼は二、三のお世辞文句で応対したが、それをイタリア人はまた大きく笑いながら受取り、同時に何回か神経質そうな手で灰青色のもじゃもじゃな鬚《ひげ》をなでていた。この鬚は明らかに香水が振ってあり、近づいて嗅《か》ぎたいという誘惑を感じさせられた。三人が腰をおろし、ちょっとした前口上が始まったとき、Kは、イタリア人の言うことは自分には切れ切れにしかわからないと気づいて、大いに不快になった。まったくゆっくりと話してくれればほとんど完全にわかったが、そんなことはただまれな例外の場合であって、たいていはこの男の口から話がわき出てきて、それを興がるように頭を振るのだった。ところがこんな話をしているうちに周期的にどこかの方言に巻きこまれ、それはKにはもう全然イタリア語とは思えなかったが、支店長はそれがわかるばかりでなく、しゃべりさえした。それは、そのイタリア人が支店長も二、三年いたことのある南イタリア出身だったので、Kももちろん予想できることだった。ともかくKは、自分からはイタリア人と理解し合う可能性が大部分奪われてしまったことを、思い知ったのだった。この男のフランス語もまったくわかりにくく、唇の動きを見ればおそらく理解に役だったことだろうが、それも鬚に隠れて見えなかったからである。Kは、いろいろ不都合なことがこれから起ることを予想しはじめ、イタリア人の言うことをわかろうとすることはあらかじめあきらめてしまい、――相手の言うことがきわめて容易にわかる支店長の前では、そんなことは無益な努力と思われた――不快げにイタリア人の様子を観察するだけにきめた。イタリア人は、深々と、しかし気楽げに肘掛椅子におさまり、短い、きりっとした仕立ての上着を何回となく引っ張り、一度は腕を上げ、関節でぐらぐら動く両手で何かを描いてみせようとするのだった。Kは、前に乗り出してその両手を眼から離さなかったけれども、そのジェスチャーの意味はわからなかった。話のやりとりを機械的に視線で追うだけで、そのほかはまったく手持ちぶさたなKに、ついには前からの疲れが力を振いはじめ、ぼんやりしてまさに立ち上がり、向き直って立ち去ろうとするところで、はっと気づき、びっくりしたが、幸いにもまだ間に合った。とうとうイタリア人は時計を見て、とび上がった。支店長に別れを告げてから、Kのそばに押しかけてきたが、しかもあまりに身近にまでやってきたので、Kは身動きするためには自分の肘掛椅子を後ろへずらさなければならなかった。支店長は、Kの眼を見てこのイタリア語にぶつかってすっかり困り抜いているのをきっとさとったのであろうか、二人の対話に割りこんできたが、しかもそれがきわめて聡明《そうめい》で繊細なしかたであったので、外見上はただちょっとした助言を添えているように見えながら、実は、疲れることなく彼の言葉をさえぎってしゃべりかけるイタリア人の言うことを、きわめて手短かにKにわからせてくれるのだった。支店長からKが聞いたところによると、イタリア人はまだいくらかの仕事をあらかじめやらなければならないし、また残念なことに全体を通じてきわめてわずかしか時間がない、また自分としても急いで名所を全部駆けまわって見ようというつもりは全然なく、むしろ――といってもちろん、Kが賛成してくれるかぎりにおいてであって、その決定はただKの意見にだけかかっているが――ただ伽藍《がらん》だけを、しかしこれは徹底的に見物することに決心した。こんな学問もあり親切でもある方に――それはKのことを言っているのだが、Kはただイタリア人の言うことを聞きもらして、支店長の言葉を素早くつかみ取ることだけしかやってはいないのだった――ご案内いただいてこの見物を企てることを非常によろこんでいるが、もし時間がおよろしければ、二時間後、およそ十時に伽藍のほうにどうかお出ましねがいたい。自分はそのときにはかならずそこに行けると思う、ということだった。Kは適当なことをいくらか答えたが、イタリア人はまず支店長と握手し、次にKと握手し、もう一度支店長の手を握って、二人に見送られながら、半分だけ彼らに身体を向けるだけだが、おしゃべりは依然としてやめずに、扉《とびら》のほうに行った。その後、Kはなおしばらく支店長といっしょだったが、支店長は今日は特に傷心の様子だった。Kになんとかわびねばならぬと思いこんでいるらしく、――二人は親しげに身体を寄せていっしょに立っていた――初めは自分でイタリア人のお供をするつもりだったが、次に――詳しい理由は言って聞かせなかった――むしろKに行ってもらおうと決心した、と言った。イタリア人の言うことが初めからすぐわからなくても、それに呆然《ぼうぜん》としてしまう必要はないのだ、ほんのすぐにわかるようになるし、またたといたいしてわからないとしても、そんなにわるいことではない、なぜならイタリア人にとっては相手にわかってもらうことはそうたいして重要なことではないのだから。ところであなたのイタリア語は驚くほど上手だし、きっと用事を見事にすますことだろう、と言うのだった。
 それでKは支店長と別れた。まだ残っている時間は、伽藍への案内に必要な、日常語ではない言葉を辞書から書き抜いて過した。これはきわめて厄介な仕事だった。小使たちが郵便物を持ってくるし、行員がいろいろ問い合せに来て、Kが仕事をしているのを見て、扉のところで立ち止るが、Kが聞いてやるまでは立ち去ろうとしなかった。支店長代理はKの邪魔をしないではおらず、たびたびはいってきては彼から辞書を取上げ、明らかに全然意味もないのにそれをめくって見るのだった。扉があくと、控室の薄暗がりの中には顧客たちさえ浮び上がり、躊躇《ちゅうちょ》しながら会釈をして見せた――彼らはKの注意をひこうとするのだが、見てもらっているかどうか自信がないのだった。――こういうことのいっさいが、Kを中心としてのように彼のまわりで動いており、彼その人のほうは必要な言葉を組み立ててみて、次には辞書で言葉を捜し、書き抜き、また発音をやってみたり、最後には暗記しようと試みるのだった。ところが彼の昔のよい記憶力はすっかり彼を見捨てたらしく、自分にこんな骨折りをかけるイタリア人には何度も非常な憤りを覚えたので、もう準備などはすまいと固く心をきめて辞書を書類の中に埋めたが、次には、イタリア人と連れ立って伽藍の中で美術品の前を黙りこくってあちこちと歩くわけにもゆくまいとさとって、いよいよ憤慨しながら辞書をまた取出すのだった。
 ちょうど九時半に、彼が出かけようとすると、電話の呼び出しがあって、レーニがお早うを言い、どうしているかときいてきたので、Kは急いでありがとうと言い、伽藍へ行かねばならないので、今は話しているわけにはゆかないと言った。
「伽藍にですって?」と、レーニはきいた。
「そうだよ、伽藍に行くんだ」
「なぜ伽藍になんか行くの?」と、レーニは言った。
 Kは手短かに説明しようとしたが、それを始めるか始めないかのうちに、レーニが突然言った。
「あなたは追い立てられているのよ」
 自分が求めもせず、期待もしていなかったこんな同情は、Kには我慢がならず、たった二言三言ばかりで別れの挨拶《あいさつ》をしたが、受話器をその場所にかけながら、半ばは自分自身に、半ばはもう聞いてはいない遠くの娘に言うのだった。
「そうだ、おれは追い立てられているのだ」
 だがもう遅くなってしまい、約束の時間に間に合うように到着できないという危険がすでにあった。自動車で行ったが、出かけるまぎわにアルバムのことを思い出し、さっきそれを渡す機会がなかったので、今度持ってゆくことにした。膝《ひざ》の上にのせ、車中ずっと落着きなくその上をたたいていた。雨は弱まったが、湿っぽく、寒くて暗かったので、伽藍の中はほとんど見られないだろうが、きっとそこで、冷たい敷石の上に長いあいだ立たねばならないため、自分の風邪はきわめて悪化するだろう、と思われた。伽藍の前の広場は全然人けがなく、小さな子供のときすでに、この狭い広場の家々はいつもほとんどすべての窓掛けがおりているということが眼についたものだったのを、思い出した。今日のような天気の場合には、それはもちろん、平生よりは理解できることだった。伽藍の中も人けがないらしかったが、こんなときにやってこようという気に誰もならないのは当り前のことだった。両側の内陣を通ったが、暖かい布にくるまってマリアの像の前にひざまずき、それを見上げている老婆ただ一人に出会っただけだった。次に、もう一人の跛《びっこ》の寺男が壁の扉に消えてゆくのを遠くから見た。Kは時間きっかりに来て、ちょうどはいったとき十時が打ったのだったが、イタリア人はまだ来ていなかった。Kは正面口にもどって、決心がつきかねてそこにしばらく立っていたが、イタリア人がきっとどこかの横手の入口のところで待っているのではないか見ようとして、雨の中を伽藍のまわりを一まわりした。相手はどこにも見あたらなかった。支店長が時間の約束を取違えたのだろうか? だがおよそ誰であってもあんな人間の言うことを正しく理解できるものだろうか? だがそれはどうあろうと、ともかくKは少なくとも半時間は彼のことを待たねばならなかった。疲れていたので、すわろうと思い、また伽藍にはいってゆき、階段の上に小さな絨毯《じゅうたん》の端切れのようなものを見つけて、爪先でそれを近くの長椅子まで引っ張ってゆき、外套《がいとう》にしっかりとくるまって襟《えり》を高く立て、すわった。気晴しのためアルバムを開き、少しめくってみたが、非常に暗くて、眼を上げても身近の内陣の中の細かなところがほとんどひとつとして見分けることもできないくらいなので、すぐやめなければならなかった。
 はるかかなたの主祭壇の上には、大きな三角形を形づくった蝋燭《ろうそく》の火が燃えていた。さっきすでにそれを見たかどうかは、Kははっきりと断言はできなかった。おそらく今初めてつけられたものらしかった。寺男たちは商売柄忍び歩きの名人で、人に気づかれないものだ。Kが偶然振向くと、自分の背後の程遠からぬところで、背の高い、太い、柱に取りつけの蝋燭が同じように燃えているのを見た。これはきれいだったが、多く側祭壇の暗がりの中にかかっている祭壇画を照らすにはまったく不十分であり、むしろ暗さを増しているようなものだった。イタリア人がやってこなかったのは、無礼でもあるがしかし道理にかなった振舞いでもあったわけで、たといやってきたところで何も見られなかっただろうし、Kの懐中電燈で二、三の絵を一インチぐらいずつ探って見ることで満足せねばならなかったことだろう。そうやってどのくらいのことができるものかためそうとして、Kは近くの側礼拝堂へ行き、低い大理石の手すりまで、二、三段の階段を登り、それから身体を乗り出して、懐中電燈で祭壇の絵を照らした。万年燈が眼前にちらついて邪魔になった。Kが見て、一部分何だかわかった最初のものは、絵のいちばん端に描かれている、大柄な、甲冑《かっちゅう》を着けた騎士であった。――眼前の裸の地面に――ただ二、三本の草の茎がそこここに生《は》えているだけだった――突き立てた剣に、身体《からだ》をささえていた。眼前に演じられている事件を注意深く観察している様子だった。そうやって立ち止り、近づいてゆかないのは、不思議だった。おそらく、見張りをするよう命じられているのであろう。すでに久しく絵を見ていなかったKは、懐中電燈の青い光が耐えられないので、しょっちゅうまたたきをしなければならなかったが、その騎士の像をかなり長いあいだ見ていた。次に光を絵のほかの部分の上にかすめさせると、ありふれた解釈に基づいたキリスト埋葬図であり、そのうえそれは、比較的新しい絵であった。彼は懐中電燈をしまって、また元の場所へ帰った。
 イタリア人を待つことは今はもう不必要と思われたが、外は豪雨にちがいないし、この場所もKが予期したほど寒くはなかったので、しばらくここにいることに決心した。すぐ身近なところに大きな説教壇があり、その小さな、円《まる》い天蓋《てんがい》には、半ば横になって二つの黄金の素《す》の十字架がつけられてあり、そのいちばん尖端《せんたん》で相交わっていた。手すりの外側の壁と、それが支柱へつながる部分とは、緑の葉形模様でつくられていて、小さな天使たちがあるいは元気よく、あるいは静かに憩《いこ》いながら、その葉をつかんでいた。Kは説教壇の前に歩み寄って、八方から観察してみると、石の細工はきわめて念入りであり、葉形模様のあいだとその背後とには深い暗黒が、まるではめこまれ取りつけられたように見え、Kはこうした隙間《すきま》のひとつに手を置き、次に石に用心深くさわってみたが、この説教壇の存在はこれまで知らなかったのだった。そのとき、すぐ近くの椅子の並びの後ろに、一人の寺男が偶然見えた。だらりとした、襞《ひだ》の多い、真っ黒な上着を着て、左手には嗅《か》ぎ煙草入れを持ち、Kをじっとながめていた。あの男はどうしようというのだろう、とKは思った。おれはあの男にうさんくさく見えるのだろうか? 酒代《さかて》でももらいたいのか? ところが、寺男はKに見られているのに気がつくと、右手で、その二本の指にはまだ一つまみの煙草を押えていたが、どこか漠然《ばくぜん》とした方向をさした。その挙動はほとんど不可解なので、Kはなおしばらく待ってみたが、寺男は手で何かを示すことをやめず、そのうえうなずいてそれを裏づけるのだった。
「いったいどうしろというのだろう?」と、Kは低い声で言ったが、ここで叫ぶことはやらなかった。次に財布を取出し、いちばん近くのベンチを通り抜けてその男のところへ行った。ところが男はすぐ手で拒絶の動作を示し、肩をすくめると、跛《びっこ》で逃げだした。Kは子供のとき、この急ぎ足の跛と同じような歩きかたをしては、馬に乗る格好をまねようとしたものだった。
「子供みたいなやつだ」と、Kは考えた。「あの馬の頭では寺男の役目でも十分には勤まるまい。あの男はなんという格好で、おれが立ち止ると自分も立ち止り、おれが行こうとすると、様子をうかがっているんだろう」
 微笑しながらKはその老人に続き、内陣をすっかり通り抜けて祭壇の上にまで登っていったが、老人は何かを指さすことをやめず、Kは、その合図は自分を老人の足跡からそらそうという以外の目的がないと思われるので、わざと振向かなかった。ついにはほんとうに追いかけることをやめたが、相手をあまり恐ろしがらせたくはなかったし、イタリア人が万一来た場合のために、この化け物をすっかり追っ払ってしまいたくはなかったからだった。
 アルバムを置き忘れた場所を捜しに内陣の中央にはいってゆくと、祭壇合唱隊用のベンチにほとんどくっついているひとつの柱に、きわめて簡単に、飾りけのない蒼《あお》ざめた石でできた小さな副説教壇を見つけた。それは非常に小さいので、遠くからは聖人像を納めることになっている空《から》の壁龕《へきがん》のように見えた。説教者は手すりからまる[#「まる」に傍点]一歩とさがれないにちがいなかった。そのうえ、説教壇の石の円天井は異常に低いところから始まり、装飾は全然ついてはいないがきわめて彎曲《わんきょく》して上へ昇っているため、中くらいの男でもそこにはまっすぐには立てず、しょっちゅう手すりの前に身体を乗り出していなければならないほどだった。すべてがまるで説教者を苦しめるためにつくったようなもので、ほかに大きな、りっぱに飾った説教壇が使えるのだから、この壇をなんのために必要とするのかわからなかった。
 説教の直前に用意することになっているランプが上のほうについていなかったなら、Kはこの小さな説教壇にもきっと気づかなかったことだろう。これで見ると今から説教でも行われるのだろうか? こんなからっぽの教会でやるのか? Kは階段を見下ろしたが、それは柱にからみつきながら説教壇へと続いており、非常に狭いので、人間が通るためではなく、ただ柱の装飾に使われているようだった。ところが説教壇の下のほうに、ほんとうに僧が立っていたので、Kは驚いて薄笑いしてしまったが、僧は登壇する身構えで手すりに手をかけ、Kのほうを見ていた。それから軽く頭でうなずいたので、Kは十字を切り、身体をかがめたが、そんなことはもっと前にやらなければならなかったのだ。僧はちょっととび上がって、短い、足早な歩みで説教壇を登っていった。ほんとうに説教が始まるのだろうか? きっと寺男は思ったほど頭がないわけではなく、Kを説教者のところへ狩り出そうとしたのだろうか? これはもちろん、からっぽの教会ではきわめて必要なことだったわけだ。さらにどこかのマリアの像の前に老婆がいたから、それも来なければならぬだろう。そして、ほんとうに説教だというなら、オルガンの序奏がなくてよいだろうか? しかしオルガンは静まりかえって、その見上げるように高い暗闇の中から、ただぼんやりとのぞいているだけだった。
 今のうちできるだけ早く出てしまうべきではないか、とKは考えた。今そうしなければ、説教のあいだに出てゆける見込みはなかったし、そうなると説教の続くかぎり居残らねばならない。イタリア人を待つために事務室でもかなりの時間を失ったし、もうとっくに自分の義務はないはずだ。時計を見ると、十一時だった。だがいったい、ほんとうに説教がやられるものだろうか? Kだけが聴衆となるわけだろうか? もし自分がただ教会を見物しようとするだけの外国人だったら、どうなのだろうか? 根本的には自分もそれと大差はないのだ。今は十一時で、ウイークデー、こんなすさまじい天気だというのに、説教があろうなどと考えることはばかげていた。僧は――疑いもなく僧だったが、平べったい、陰鬱《いんうつ》な顔をした若い男だった――誤ってつけられたランプを消そうとして登壇したにすぎぬことは明らかだ、と思われた。
 ところがそうではなく、僧はむしろランプを調べて、さらに燈心を少しねじり上げ、ゆっくりと手すりのほうに向き直って、角ばった前方の縁を両手で握った。そうやってしばらく立ち、頭は動かさずにあたりを見まわした。Kは相当の距離とびすさって、肘《ひじ》で一番前列の礼拝席ベンチに身をささえた。不安定な眼差《まなざし》で、場所をはっきりと見定めることはできないがどこかに例の寺男が、背を曲げ、もちろん仕事を終えたとでもいうような格好で、かがんでいるのを見た。なんという静けさが今の伽藍の中には支配していることだろう! しかし、Kはその静けさをかき乱さねばならなかった。ここに居続けようというつもりがなかったからである。きまった時間には、状況などはいっさいおかまいなしに説教するのが僧の義務であるならば、そうすればよいのだし、Kの助力などがなくてもりっぱにできるはずで、またKがいるからといって格別効果が高まるはずのものでもなかった。それゆえ、Kは歩きだし、爪立ちでベンチに沿って手探りで行き、広い中央通路まで来て、そこでも全然邪魔されずに歩いていったが、ただどんなに足音を殺してみても石造の床が響き、円天井は、かすかに、しかし絶え間なく、積み重なってゆく規則正しい歩みに合わせて、こだまするのだった。おそらく僧に見守られ、人けのないベンチのあいだをただひとり通り抜けてゆくとき、Kは少し見捨てられたような感じを味わい、また彼には、伽藍の大きさがまさしく人間にとってまだ耐えうるものの限界にあるように思われた。さっきの場所に来ると、それ以上とどまることもせずに、まっしぐらにそこにあったアルバムにつかみかかり、それを取上げた。彼がベンチのあたりを離れ、それと出口とのあいだにある空《あ》いた場所に近づくか近づかないかのうちに、初めて僧の声を聞いた。力強い、磨《みが》きのかかった声である。その声は、それを受取る用意のできた伽藍になんと響き渡ったことだろうか! ところが僧が呼びかけたのは聴衆ではなく、それはまったくはっきりとしていて、もう逃げ道は全然なかった。彼は叫んだのだった。
「ヨーゼフ・K!」
 Kはぴたりと立ち止り、眼前の床を見つめた。まだしばらくは自由であり、まだ歩み続け、彼のところから程遠からぬ三つの小さな黒ずんだ木の扉のどれかを通って逃げることもできた。そうすれば、それはまさに、自分には言うことがわからなかった、あるいは言うことは聞き取ったがそんなことを問題にはしたくない、という意味を表わすことになっただろう。しかし、もし振返ったならば、言うことはよくわかったし、自分はほんとうに呼びかけられた本人であって、言うことに従う、ということを告白したことになるのだから、しっかりとつかまれてしまう。僧がもう一度叫んだなら、Kはきっと立ち去ってしまっただろうが、Kが待っているのにいっさいが静かなままなので、僧が今何をやっているのかを見ようとして、少し頭を向けた。僧はさっきと同じように落着いて説教壇上に立っていたが、Kの頭の動きを認めたことははっきりとわかった。こうなってはKが完全に振向いてしまわないと、子供じみた隠れん坊遊びになってしまうだろう。Kは振返ると、僧に指の合図で、近くに来るよう呼び寄せられた。もはやいっさいは公然となったので、Kは――そうしたのは好奇心からでもあり、また用事を手短かにすませるためだったが――大股《おおまた》で飛ぶように説教壇に向って駆け寄った。最前列のベンチのところで立ち止ったが、僧には距離がまだ遠すぎるように思われるらしく、手を伸ばし、人差指を鋭く下に曲げて説教壇のすぐ前の場所を示した。Kもそのとおりにしたが、この場所では、僧を見るためには頭をよほど後ろへ曲げねばならなかった。
「君はヨーゼフ・Kだね」と、僧は言い、片手を漠然たる動作で手すりに上げた。
「そうです」と、Kは言ったが、以前にはいつも自分の名前をなんと公然と言えたことだろうかと思った。最近ではこの名前が重荷であって、今では初めて出会う人々さえも自分の名前を知っている。まず自己紹介をし、それから初めて知合いとなるのは、なんといいことだろう、と考えるのだった。
「君は告訴されているね」と、僧はことさら低い声で言った。
「そうです」と、Kは言った。「そう言われました」
「それじゃ、君が私の捜していた人だ」と、僧が言った。「私は教誨師《きょうかいし》だ」
「ああ、そうですか」と、Kは言った。
「君と話すために」と、僧が言った。「君をここまで呼ばせたのだ」
「それは知りませんでした」と、Kは言った。「私がここへ来たのは、あるイタリア人に伽藍を案内するためです」
「よけいなことは言わぬように」と、僧は言った。「手に持っているのはなんだ? 祈祷書《きとうしょ》かね?」
「いいえ」と、Kは答えた。「町の名所アルバムです」
「手から離しなさい」と、僧が言った。
 Kはアルバムを非常に激しく投げ捨てたので、それはぱらぱらと開き、ページがくしゃくしゃになって床の上を少しすべった。
「君の訴訟は旗色がわるいが、知っているかね?」と、僧はきいた。
「私にもそう思われます」と、Kは言った。「できるだけの努力をしてきましたが、これまでは効果がありません。確かに、願書をまだ仕上げておりません」
「結局どうなると思うかね?」と、僧がきいた。
「前にはきっとうまく片づくだろうと思っていましたが」と、Kは言った。「今ではときどき自分でもどうかと思います。どうなるかはさっぱりわかりません。あなたはおわかりですか?」
「いや」と、僧は言った。「しかし、おそらくうまくはゆくまい。人は君のことを罪があると考えているぞ。君の訴訟はおそらく下級裁判所を全然脱しえまい。人は、少なくともしばらくは、君の罪は立証されたものと考えているぞ」
「でも私には罪はないのです」と、Kは言った。「それは間違いです。いったいどうして、およそ一人の人間が有罪だなんてことがありえましょうか? ここにいる私たちは、あなただって私だって、みんな人間です」
「それはそうだが」と、僧は言った。「罪のある連中はいつでもそういうふうに言うものだ」
「あなたもまた私に対して偏見を持っているんですか?」と、Kがたずねた。
「偏見なんか持ってはいない」と、僧は言った。
「それはありがたいですが」と、Kは言った。「手続きに関係している人々はみな、私に対して偏見を持っているんです。彼らはまたそれを関係のない人々にも吹きこむんです。私の立場はいよいよむずかしくなるばかりです」
「君は事実を見誤っているんだ」と、僧は言った。「判決は一時に下るものではなく、手続きがだんだんに判決に移り変ってゆくんだ」
「それじゃ、そうですかね」と、Kは言い、頭を垂れた。
「さしあたって君の事件についてどうしようと思うのかね?」
「もっと助けを捜そうと思います」と、Kは言い、僧がそれをどう判断するか見ようとして、頭を上げた。「私が利用しつくしていないある種の可能性がまだあるんです」
「君はあまり他人の援助を求めすぎる」と、僧は不機嫌《ふきげん》そうに言った。「そして特に女にだ。いったい、そんなのはあてにならぬ援助だということがわからないのかね?」
「ときどきは、いやしばしば、あなたのおっしゃるとおりです」と、Kは言った。「しかし、いつもそうだとは申せません。女たちは大きな力を持っています。もし私が、自分の知っている二、三人の女たちを動かして、協力して私のために働かせたら、私は間違いなくやり抜くことでしょう。ことにこの裁判所ではそうです。ほとんど女の尻《しり》を追いかけまわす連中ばかりから成り立っているんですからね。予審判事に女を一人遠くから見せようものなら、ただもううまく追いつこうとして、机も被告も突き倒してゆきますよ」
 僧は頭を手すりのほうに曲げたが、今やっと説教壇の天蓋が彼を押えつけはじめたようだった。外はどんな荒天だろうか? もう陰鬱な日中ではなく、すでに夜もふけていた。いくつもの大窓のガラス絵は、暗い壁にほんの一筋の淡い光でも投げかけることはできなかった。そしてちょうど今、寺男は主祭壇の蝋燭をひとつひとつ消しはじめた。
「気をわるくされたんですか?」と、Kは僧にきいた。
 返事がなかった。
「どんな裁判所に勤めているか、あなたは知らないのです」と、Kは言った。
 上ではなお依然として森閑としていた。
「私はあなたを侮辱するつもりはないんです」と、Kが言った。
 そのとき、僧が下のKに向ってどなった。
「いったい君は二歩前方が見えないか?」
 怒りでどなったが、同時にまた、誰かが倒れるのを見た人が、自分も驚いてしまったので、不用意に、われ知らず叫んだようでもあった。
 二人は長いあいだ黙っていた。僧は下のほうを支配している暗闇の中でKをはっきりとは見られなかったらしいが、Kのほうは僧を小さなランプの光の中にはっきりと見た。なぜ僧は降りてこなかったのか? 彼は説教はせずに、Kに二、三のことを述べただけだったが、よく考えてみると、Kのためになるよりは害になるようなものに思われた。しかし、確かにKには僧の善意は疑いないように思われ、もし降りてきたら、意気投合することも不可能ではなく、またたとえば、どうやって訴訟は左右されるかというようなことではないが、どうやって訴訟から逃《のが》れるか、どうやってそれを避けるか、どうやって訴訟の外に生活できるか、ということを示すような決定的で承認できる忠告をもらうことも不可能ではなかった。こういう可能性はあるにちがいなく、Kは最近何回となくそのことを考えたのだった。しかし、僧がもしこういう可能性のひとつを知っているなら、彼自身裁判所の人間であるし、Kが裁判所を攻撃したときは、優しい本性を抑《おさ》えつけてKをどなりつけはしたけれども、頼めばきっと明かしてもらえるはずだ。
「降りてきませんか?」と、Kは言った。「説教をなさるわけでもないでしょう。降りていらっしゃい」
「もう降りてもいい」と、僧は言ったが、おそらくどなったことを後悔しているらしかった。ランプを鉤《かぎ》からはずしながら、彼は言った。
「初めは離れて君と話さなければならなかったんだ。そうでないとあまりに人に左右されやすくなって、役目を忘れてしまうんでね」
 Kは階段の下で僧を待った。僧は降りてきながら階段の上のほうからもうKに手を差出した。
「私と話してくださる時間が少しありませんか?」と、Kはきいた。
「要《い》るだけいくらでも」と、僧は言い、Kに持ってもらうため、小さなランプを渡した。近くにあっても、一種のいかめしさが彼の身体から消え去らなかった。
「たいへんご親切なことです」と、Kは言い、二人は並んで、暗い内陣の中をあちこちと歩いた。
「裁判所の人たち全部のうちで、あなただけは例外だ。たくさんの人を知っていますが、あなたをほかの誰よりも信頼しますね。あなたとなら打明けて話ができる」
「早まっちゃいけない」と、僧が言った。
「早まるってどういう点でですか?」と、Kがきいた。
「裁判所のことだよ」と、僧が言った。「法律の入門書には、君のような惑いについてこう書いてある。――
 掟《おきて》の前に一人の門番が立っていた。この門番のところへ一人の田舎《いなか》の男がやってきて、掟の中へ入れてくれと願った。しかし門番は、今ははいることを許せない、と言った。男は考えていたが、それでは後《あと》でならはいっていいのか、ときいた。『それはできる』と、門番は言った、『だが今はだめだ』掟へはいる扉はいつものようにあけっ放しだし、門番は脇《わき》へ行ったので、男は身体をかがめて、門越しに中をのぞこうとした。門番はそれを見て、笑って言った。『そんなにはいりたいなら、わしの禁止にそむいて中へはいろうとしてみるがいい。だがいいか。わしは力を持っている。それでもいちばん下《した》っ端《ぱ》の門番にすぎない。広間から広間へと門番が立っていて、だんだん力が大きくなるばかりだ。三番目の門番の顔を見ることだけでもわしにはもう我慢ができない』こんな困難は田舎の男の予期しなかったことだが、掟というのは誰にでもいつでも近寄れるはずだ、と考えた。しかし、毛皮の外套を着た門番、その大きな尖《とが》り鼻、長くて薄い、真っ黒な韃靼人《だったんじん》風の髯《ひげ》をよくよく見ているうち、はいる許可がもらえるまでむしろ待とうと決心した。門番は男に床几《しょうぎ》を与え、扉の脇ですわらせた。そこで何日も、何年も男はすわっていた。男は、入れてもらおうとさまざまな試みをし、うるさく頼んで門番をうんざりさせた。門番はときどき男をちょっと尋問し、男の故郷のことやそのほかさまざまなことをきいたが、いずれもお偉方のやるような無関心な質問で、最後にはいつもきまって、まだ入れることはできない、と言うのだった。旅のためにたくさん準備を整えてきた男は、門番を買収しようと思い、どんなに貴重なものであろうとすべてつかい果した。門番のほうはなんでももらうにはもらうが、『何か手を尽さなかったと君が思わないように、もらっておこう』と言うのだった。長年のあいだ、男はほとんど絶え間もなく門番を観察し続けた。ほかの門番のことなど忘れてしまい、この最初の門番こそ掟にはいる唯一の障害だと思うようになった。初めの頃は声を大にして不運な偶然を呪《のろ》っていたが、後に年をとってゆくと、ぶつぶつつぶやくだけであった。子供のようになってしまい、長年にわたって門番を観察していた結果、その毛皮の襟《えり》に蚤《のみ》たちがいることを知り、自分を助けてくれるように、そして門番を説き伏せてくれるように、と蚤たちに頼んだりした。ついに視力が弱まり、自分の周《まわ》りがほんとうに暗くなったのか、それとも自分の眼が錯覚を起しているのか、わからなくなった。しかし今や暗黒を通して、掟の幾重もの扉から消えることなくさし出てくる輝きをはっきりと認めた。もう長くは生きまい。死の前にあって、彼の脳中には全生涯のあらゆる経験が相集まって、これまで門番に投じたことのないひとつの質問となった。硬直しつつある身体をもう起すこともできないので、門番に目くばせの合図をした。門番は深く身体をかがめなければならなかった。なぜなら、背丈《せたけ》のちがいは、男のほうがずっと不利なように変ってしまっていたからである。『いったい、いまさら何を知りたいんだ』と、門番はきいた、『お前はよく飽きもしないな』『誰でもみな掟を求めているのに』と、男は言った、『私のほか誰も入れてくれと求める者がいなかったというようなことに、どうしてなったのですか?』門番は、男がすでに臨終にあるのを知り、薄らいでゆく聴力に届くように、大声でわめいた。『ここではほかの誰もが入れてもらえなかったのさ。なぜなら、この入口はただお前のためときまっていたからだ。どれ、わしも出かけよう。そして門をしめよう』」
「それじゃあ、門番は男をだましたんですね」と、その話に非常に強くひきつけられたKは、すぐ言った。
「先走っちゃいけない」と、僧が言った。「他人の意見を吟味しないで受取るもんじゃない。わしは君に、この話を本に書いてあるとおりに話したんだ。だますとかいうようなことについては全然書いてない」
「でもそれは明瞭《めいりょう》ですよ」と、Kは言った。「そしてあなたの最初の解釈がまったく正しかったんです。門番は解決の言葉を、それがもう男には役にたたなくなって初めて言い聞かせたんです」
「門番はその前にはきかれなかったんだ」と、僧は言った。「またよく考えてもらいたいが、彼は門番にすぎないんだし、門番としては義務を果したわけだ」
「義務を果したって、なぜそう思われるんですか?」と、Kはきいた。「果しはしませんね。彼の義務はおそらく、縁のない者はすべて追い払うということであったのでしょうが、その入口をはいることにきまっているその男は、入れてやるべきだったのでしょう」
「君はこの書物に十分敬意をはらっておらず、話をつくり変えているんだ」と、僧は言った。「この話は掟にはいるのを許すことについて、二つの重要な門番の言明を含んでいる。ひとつは冒頭、ひとつは結末にあるんだ。そのひとつの個所には、男に今ははいることを許せないと書いてあり、もう一個所には、この入口はお前だけのものだ、とある。この二つの言明のあいだに矛盾があれば、君の言うことが正しいのであって、門番は男をだましたことになろう。ところが全然矛盾がないんだ。反対に、第一の言明は第二のを暗示さえしている。門番は、男に将来ははいることを許す可能性があるという見込みを与えることによって、義務を逸脱したのだ、とほとんど言うことができよう。そのころには男を追い払うというだけが彼の義務であったらしく、事実この書物の多くの注釈者も、門番が厳密さというものを愛するように見え、厳格に自分の役目を守っているのに、およそそんな暗示をほのめかしたことについて、不思議に思っている。多年のあいだ自分の持場を離れず、まったく最後というときになって初めて門をしめるし、自分の役目の重大さというものをきわめて自覚しているんだ。なぜなら、『わしには力がある』と言うからだ。上役に対する尊敬というものを知っている。『わしはただいちばん低い門番だ』と言うからだ。多年のあいだ、この本に書いてあるように『無関心な質問』を投げるだけだったのだから、おしゃべりでもないし、贈り物については『何か手を尽さなかったと君が思わないように、もらっておこう』と言うのだから、賄賂《わいろ》のきくような男でもない。義務の遂行に関しては、動かされたり、泣き落しにかかったりはしない。なぜなら、この男について、『うるさく頼んで門番をうんざりさせた』と書いてあるからだ。最後に彼の外貌《がいぼう》もそのペダンチックな性格を暗示している。大きな尖り鼻、長くて薄い、真っ黒な韃靼人風の髯とある。これより義務に忠実な門番はまたとあるだろうか? さてところで、この門番にはさらに別の特徴もあって、それははいることを求める人間にきわめて好都合なものであり、ああいうように将来の可能性などをほのめかして自分の義務をいくらか逸脱したということも、それによればともかくうなずけるというものだ。つまり、この男は少し単純であり、またそれと関連して少し己惚《うぬぼ》れが強い、ということは否定できない。自分の力、ほかの門番たちの力、それからそういう門番たちを見ると彼には我慢できないということ、そういうことについての彼の言い分は――わしは思うんだが、これらの言い分はみなそれ自体として正しくはあるが、彼がこういうことを持ち出すやりかたは、彼のとらえかたが単純さと思い上がりとによって曇らされているということを示すものだ。注釈者たちはこの点に関して、『ある事柄の正しい把握《はあく》と同じ事柄の間違った解釈とは互いに完全に排除し合うものではない』と言っている。ともかく、あの単純さと思い上がりとは、おそらく微々たる現われかたしかしていないのであれ、入口を守るという仕事を損じていることは認めないわけにはゆかず、それが門番の性格にある隙《すき》なのだ。そのうえさらに、この門番は生れつき親切らしいということがある。彼はまったくのところいつも役人になりきっていたとは言えないのだ。男に対してはっきりと断固たる禁止をしているにもかかわらず、はいることをすすめてみるような冗談を、初めのころにやっているし、次に男を追い払うようなことをやらないで、この本の書いているところだと、床几を与え、扉の脇にすわらせている。多年を通じて男の懇願を我慢強く聞いてやった忍耐、ちょっとした尋問の数々、贈り物を受取ったこと、ここに門番を配置した不運な偶然を男が自分のそばで大声で呪うのを許していた高貴さ――こういうものはすべて、同情を働かしたものと結論できる。どんな門番でもこんなふうに振舞うとはかぎらぬはずだ。そして最後にまだ男の合図を見て深く彼のほうに身体をかがめ、最後の質問の機会を与えてやるのだ。ただちょっとしたいらだたしさが――門番は実に、万事がおしまいだということを知っているのだ――『お前はよく飽きもしないな』という言葉に現われているだけだ。多くの人はこの解釈のしかたをさらに押し進めさえして、『お前はよく飽きもしないな』という言葉は、一種の親しみを含めた感嘆を表わすものであるとしているが、もちろんこの感嘆は卑下の気持が全然ないわけではないとしている。いずれにせよ、門番の全貌は君が思いこんでいるのとは、全然ちがうように結論されるわけだ」
「そりゃあ、あなたはこの話を私より詳しく知っているし、またずっと前から知っているんですからね」と、Kは言った。
 二人はしばらく黙っていた。やがてKが言った。
「それじゃああなたは、男はだまされたんじゃない、と思うんですか?」
「私の言うことを誤解しちゃいけない」と、僧が言った。「わしは君にただ、この話について行われているいろいろな意見を教えているだけだ。君はいろいろな意見をあまり尊重してはいけない。書物は不変であって、いろいろな意見などはしばしばそれに対する絶望の表現にすぎないのだ。この場合についても、だまされたのはまさに門番のほうだ、とするような意見さえあるくらいだ」
「それは極端な意見ですね」と、Kは言った。「どういう根拠に基づいているんですか?」
「根拠は」と、僧は答えた。「門番の単純さというものから出ている。門番は掟の内部を知らないのであって、ただ道だけを知っているのだが、その道も入口の前でいつもやめなくてはならない、というのだ。彼が内部について持っているイメージは、子供らしいものと考えられるし、男を恐れさせようとするものを自分でも恐れているのだ、と認められる。まったく、彼のほうが男よりもそれを恐れているのだ。なぜならば、男は内部にいる恐ろしい門番たちの話を聞いてさえもただはいることだけを望んだのに、門番のほうははいろうとは思わず、少なくともそれについては何事もわかっていないからである。ほかの注釈者は、掟に仕えるよう採用されたのであるし、こういうことはかならず内部でだけ行われるはずであるから、門番は内部にいたことがあるにちがいない、と言ってはいる。それに対して答えられることは、内部からの呼び声で門番に命じられたのかもしれないが、三番目の門番を見てもう我慢ができないくらいだから、少なくとも内部の奥深くまで行ったことはありえないはずだ、ということだ。ところでそのうえ、多年のあいだに門番たちについて述べているほかに何か内部について語ったということが、書いてもない。それは禁じられていたのかもしれないが、その禁止についても語ってはいない。そういうことから結論されているのは、内部の有様や意味について何も知らないし、それについて錯覚している、ということだ。しかしまた、田舎《いなか》の男に対しても錯覚していたにちがいない。なぜなら、この男に対して下位にありながら、それを知らないからである。男を自分よりも下位の人間として取扱ったことは、君もまだ覚えているだろうが、多くの点からわかることだ。ところが、門番のほうが実は下位にあるということは、この論者の意見によると、同じようにはっきりと推論されるというのだ。何よりもまず、自由な人間というものは束縛された者よりも上位にあるものだ。さて、男のほうは事実自由であり、どこへでも行きたいところへ行けるし、ただ掟への入口だけが、彼には通行禁止になっているだけだが、そのうえ、門番というただ一人によって禁じられているにすぎない。門の脇の床几に腰をかけて、そこに一生涯とどまっていたのも、自由意志でやったことであり、この話はなんら強制ということを語ってはいない。それに反して門番はその役目によって持場に縛られており、外に離れることもならず、どうもいくら欲しても内へも行くこともならぬらしいのだ。そのうえ、掟に仕えているとはいえ、ただこの入口のために仕えているのであり、したがってただこの入口ばかりからはいれることになっているこの男だけのために仕えているわけだ。この理由からも門番は男の下位にある。彼は多年にわたって、壮年時代を通じてある意味ではただむなしい役目を果していたにすぎないと言いうる。なぜなら、一人の男がやってきたと書いてあるのだから、壮年の何者かが来たわけであり、したがって門番はその目的が果されるまで長いあいだ待たねばならず、しかも自由意志でやってきたその男の気の向きよう次第で待たねばならなかったからだ。ところがこの役目の終りもその男の生涯の終りに規定されていて、したがって最後まで男の下位に居続けるわけだ。そして、門番はそういうことについて何も知ってはいないようだ、ということが繰返し強調されている。しかしその点に関してなんら著しく着目すべきことは見られない。なぜなら、この見解によると門番はもっとずっと重い錯覚にいたのであって、その錯覚は役目に関することなのだからである。すなわち最後に入口のことをしゃべり、『わしも出かけよう。そして門をしめよう』と言っているが、冒頭には、掟への門はいつものように開いているとあり、もしいつも開いているのなら、いつもというのはこの門からはいってゆくべき男の生涯には関係ないという意味だから、門番もその門をしめることはできぬわけだ。門番が門をしめようと言って、ただ返答をしておこうというだけのものなのか、あるいは役目の義務を強調しようとしたのか、それともその男を最後の瞬間においても後悔と悲しみとにおとしいれようとしたのか、その点に関しては諸家の意見はいろいろに分れている。しかし、彼は門をしめることができないはずだ、という点では多くの人々は一致した意見である。これらの人々は、男が掟の入口からさしてくる輝きを見たのに、門番その人はきっと入口を背にして立っており、何か変化を認めたという素振りを全然示さなかったのであるから、少なくとも最後のときにおいては、その知においても門番は男の下位にあったのだ、とさえ信じている」
「りっぱに理由がつきましたね」と、僧の説明のところどころの個所を低声につぶやきながら繰返していたKは、言った。「りっぱに理由がつきましたね。そして私も今では門番がだまされたものと信じます。けれど、そうだからといって私の以前の意見をやめてしまったわけではありません。というのは、二つの意見は互いに部分的に重なり合うからです。門番がはっきり見ていたのか、あるいはだまされたのか、ということははっきりきまらないと思います。男はだまされた、と私は言いました。もし門番がはっきりと見ているのなら、それを疑ってみることもできましょうが、門番がだまされたのだとすれば、その錯覚は必然的に男へ移ってゆかねばなりません。そうなると門番は欺瞞者《ぎまんしゃ》ではないけれども、非常に単純なのですぐに役目からおはらい箱にされなければならぬでしょう。門番の陥っている錯覚は彼を少しも害しはしなかったが、男には千倍も害を与えたということを、あなたはよく考えるべきです」
「それにはこういう反対説があるんだ」と、僧は言った。「つまり多くの人々は、この話は誰にも門番について批判を下す権利を与えていない、と言うんだ。門番がわれわれにとってどう見えようとも、彼は掟に仕える者であり、したがって掟に属し、したがってまた人間の批判を超《こ》える。また、門番は男の下位にある、ということも信じてはならない。役目によってただ掟の入口に縛られているということは、自由に世間で生活するよりも比較にならぬくらいよいことだ。男は初め掟のところへ来るのだが、門番はすでにそこにいる、彼は掟によって役目につけられているのであり、その威厳を疑うことは、掟を疑うことを意味する」
「そんな意見に私は賛成しかねますね」と、Kは頭を振りながら言った。「なぜなら、もしこの意見に賛成するならば、門番の言ったことをすべて真実と考えなくてはなりません。ところが、そういうことはありえないということを、あなたご自身詳しく理由づけたんですからね」
「いや」と、僧は言った。「すべてを真実だなどと考えてはいけない、ただそれを必然だと考えなくてはならないのだ」
「憂鬱な意見ですね」と、Kは言った。「虚偽が世界秩序にされているわけだ」
 Kは結論的にそう言ったが、彼の終局の判断ではなかった。あまりに疲れていて、その話のあらゆる結論をことごとく見渡すことができなかったし、その話が彼を導いていったのは不慣れな思考法でもあった。彼にというよりも裁判所の役人の一味の論議にふさわしいような、非現実的な事柄だった。単純な話が形のゆがんだものとなってしまい、そんなものを自分から振落してしまいたかったが、今は大いに思いやりを見せるようになった僧は、それを見逃《みのが》してくれ、自分の意見とKの言葉とは確かに一致しないのだが、それを黙って受入れるのだった。
 二人はしばらく黙ったまま歩み続け、どこにいるのかわからないまま、僧のすぐそばにくっついていた。Kの手にしているランプはとっくに消えてしまっていた。一度、ちょうど彼の眼の前で聖人の銀の立像がただ銀の輝きだけできらめき、すぐまた暗闇へと消えていった。すっかり僧に頼《たよ》りきりになっているわけにもゆかないので、Kはきいた。
「もう正面入口の近くじゃありませんか?」
「いや」と、僧は言った。「まだだいぶ遠い。もう帰りたいのか?」
 Kはちょうどそのとき帰ることを考えていたわけではなかったが、すぐ言った。
「そうです、帰らなければなりません。私はある銀行の業務主任で、銀行では私を待っています。私がここにやってきたのはただ、外国人の顧客に伽藍を案内するためです」
「それじゃあ」と、僧は言い、Kに手を差出した。「行きたまえ」
「でも真っ暗でひとりでは見当がつきかねるのですが」と、Kは言った。
「左の壁のほうに行き」と、僧は言った。「それから壁に沿って壁を見失わないようにして行けば、出口が見つかるよ」
 僧が二、三歩離れるか離れないかのうちに、Kはきわめて大声で叫んだ。
「どうか待ってください!」
「待つよ」と、僧が言った。
「まだ何か私に用はありませんか?」と、Kがきいた。
「ない」と、僧が言った。
「前はたいへん親切にしてくれ」と、Kは言った。「私に万事を説明してくれたのに、今はもう私のことなんかどうでもいいというように私を見捨ててしまうんですね」
「だが、君は帰らねばならないんだろう」と、僧は言った。
「そうですが」と、Kは言った。「今言ったことをよく考えてください」
「まず君は、わしが誰かをよく考えることだ」と、僧は言った。
「教誨師です」と、Kは言い、僧のほうに近づいた。すぐ銀行に帰るということは、彼が言ったほど必要なことではなく、ここにとどまっていてもいっこうにさしつかえなかった。
「それだから私は裁判所の人間だ」と、僧は言った。「そうだとしたらなぜ君に用事があろう。裁判所は君に何も求めはしない。君が来れば迎え、行くなら去らせるまでだ」

第十章 終末

 Kの三十一歳の誕生日の前夜――夜の九時頃で、街の静かになるときだった――二人の紳士が彼の住居にやってきた。フロックコート姿で、蒼白《あおじろ》く、身体《からだ》は肥って、びくともしないようなシルクハットをかぶっていた。初めての来訪なので家の玄関でちょっと儀礼じみたことをやった後、Kの部屋の前では、同じ儀礼じみた動作をもっと大仕掛けに繰返した。来訪は告げられていなかったが、Kは同じように黒の服装で、扉《とびら》の近くの椅子にすわり、指にぴったりと合う新しい手袋をゆっくりとはめていたが、まるで客を待っているような態度だった。すぐ立ち上がって、紳士たちを物珍しげに見つめた。
「私のところに来るようにきまっていたのはあなた方でしたか?」と、彼はきいた。
 紳士たちはうなずき、一人は手にしたシルクハットでもう一人のほうを示した。Kは、自分は別な訪問客を待っていたのだ、と思った。窓ぎわへ行き、もう一度暗い通りをながめた。通りの向う側の窓々もほとんど全部もう暗くなっていて、多くの窓にはカーテンがおろされていた。二階の明りのついたひとつの窓では、格子《こうし》の後ろで小さな子供たちが遊んでいたが、まだ自分の場所から動くことができないで、小さな手で互いにさわり合っていた。
「老いぼれた、下《した》っ端《ぱ》の役者をおれのところへよこしやがった」と、Kはつぶやき、もう一度そのことを確かめるために、振向いた。「手軽なやりかたで、おれのことを片づけようとしているんだ」
 Kは突然、彼らのほうを向き、きいた。
「どこの劇場でやっておられるんですか?」
「劇場?」と、一人は口もとをぴくぴくさせながら、もう一人のほうに意見を求めた。もう一人のほうは、全然手の下しようのない生物体と闘っている唖《おし》のような身振りであった。
「質問される心構えができていないようだ」と、Kはつぶやき、帽子を取りにいった。
 階段の上で早速、二人はKの腕を取ろうとしたが、Kは言った。
「通りに出てからにしてください。私は病気じゃないんだから」
 ところが門の前に来るとすぐ、Kがこれまで人と歩いたことのないようなやりかたで、Kの腕を取った。二人は肩を彼の肩のすぐ後ろにくっつけ、腕を曲げないで、むしろそれを利用してまっすぐのままKの腕にからませ、下のほうでは、訓練の行き届いた、慣れた、反抗できぬようなつかみかたで、Kの両手をとらえた。Kは身体をこわばらせて二人のあいだにはさまれて歩いていったが、今では三人が統一を形づくっているので、一人が倒されれば、全部がめちゃめちゃにされてしまうほどだった。ほとんどただ無生物だけが形づくりうるような統一だった。
 街燈の下で、Kはしばしば、こんなにくっついているのでやるのはむずかしかったが、自分の部屋の薄暗がりではできなかったほどはっきりと、二人の連れを観察しようとした。
「きっとテノール歌手なんだろう」と、Kは二人の重々しい二重|顎《あご》をながめて思った。彼らの顔の清潔さが、Kをむかつかせた。眼尻《めじり》をなで、上唇《うわくちびる》をこすり、顎の皺《しわ》をかくきれいな手も、はっきりと見えた。
 Kがそれに気づいて立ち止ると、そのためにほかの二人も立ち止った。広々とした、人けのない、さまざまな施設で飾られた広場にいた。
「どうしてあんた方みたいな人をよこしたんだろう!」と、きくというよりも叫んだ。
 二人はどう返事をしていいかわからぬらしく、病人が休もうとするときの看護人のように、腕を垂《た》れ、遊ばせたまま、待っていた。
「もう歩かない」と、Kはためしに言ってみた。二人はそんなことに返答する必要はなく、つかみかたをゆるめず、Kをその場から連れ去ろうとすれば十分だったが、Kは抵抗した。
「もう大いに力を振うというどころでなく、根限りの力をつかってみよう」と、彼は考えた。脚を引っ張られながら、蠅取紙《はえとりがみ》から逃げようともがく蠅たちのことが思い出された。
「この連中もたいへんな仕事をやらずばなるまい」
 そのとき彼らの眼前に、低くなっている小路から小さな階段を伝わってビュルストナー嬢が広場へと登ってきた。その女がそうだということはまったく確かではなかったが、もちろん似ていることは大いに似ていた。だが、それが確かにビュルストナー嬢であるかどうかはKにもたいした問題ではなく、ただ自分の抵抗の無意味さがすぐ彼の意識にのぼってくるのだった。抵抗し、今二人を大いにてこずらせ、拒みながらも生の最後の輝きを味わおうと試みても、それはなんら英雄的なことではなかった。彼は歩きだし、それによって二人をよろこばせたことが、いくらか自分自身に報いられる結果になった。Kが道をどの方角にとっても二人は黙っているので、彼は女が彼らの前で歩いてゆく道についてゆくことにきめた。何か女に追いつこうとか、できるだけ長く女を見ていたいとかいうためではなく、ただ女が彼にとって意味する警告を忘れないためだった。
「おれが今なしうる唯一のことは」と、彼はつぶやいたが、自分の歩みと二人の歩みとがぴったり合っていることが彼の考えを裏づけるように思われた。「おれが今なしうる唯一のことは、冷静に処理してゆく理性を最後まで保つことだ。おれはいつも二十本もの手を持って世の中にとびこもうとしたのだったが、そのうえあまり適当でない目的のためにだったのだ。それは間違っていた。一年間の訴訟がおれに全然教えるところがなかったということを、おれは見せるべきだろうか? 物わかりの鈍い人間として退場すべきだろうか? 訴訟の初めにはそれを終えようと願ったのに、その大詰になった今ではまた始めたいと思っているなどと陰口を言われてよいものだろうか? そんなことを言われたくない。この道中、おれに対してこんな半分|唖《おし》のような、物のわからぬ連中を付き添わせてくれたこと、そして勝手|気儘《きまま》に必要なことをつぶやくままにさせておいてくれたこと、これはありがたいことだ」
 そうしているうち、女は横町に曲ってしまったが、Kはもう女には用はなく、同伴者たちにまかせきりになっていた。今や三人全部が完全にわかり合って月光の中のある橋を渡った。Kが示すどんな小さな身動きにも、男たちは今はよろこんで従い、Kが少し欄干のほうに向うと、彼らもすっかりそちらを向いた。月光の中に輝き震えている水は、ひとつの小さな島で分れ、その島の上には、一まとめにされたように樹や灌木《かんぼく》の葉簇《はむら》が盛り上がっていた。それらの葉簇の下には今は見えないが、快適なベンチのある砂利道《じゃりみち》が通っていて、それらのベンチにKは幾夏も身体を伸ばしたりしたものだった。
「立ち止るつもりは全然なかったんです」と、Kは同伴者たちに言い、彼らがいかにも自分の意のままにしてくれるのを恥ずかしく思った。一人はもう一方の男に、Kの背後で、間違って立ち止ったことについて軽くとがめているようだった。それから彼らはまた歩いていった。
 登り坂の小さな道をいくつか行ったが、そこにはあちらこちらに警官たちが立ち止ったり、歩いたりしていた。あるいは遠くのほうに、あるいはすぐ近くにいるのだった。もじゃもじゃの鬚《ひげ》を生やした一人の警官が、サーベルの柄に手をかけ、何かいわくありげに、まったくうさんくさくないとは言いきれぬこの一行に近づいてきた。二人の男は立ち止り、警官が今にも口を開きそうに見えたとき、Kはぐいと二人を前へ引っ張っていった。警官がついてきはしないか、と彼は幾度も振返ってみた。ところが彼らと警官とのあいだに少し距離が開いたとき、Kが走り始めたので、二人の男たちも息をはずませながらいっしょに走らなければならなかった。
 こうして彼らは大急ぎで町から出た。町はこの方角では、ほとんど変り目というものがなく、すぐ野原に続いていた。まだまったく町らしい趣をとどめている一軒の家のそばに、小さな石切場が、見捨てられ、荒涼として、横たわっていた。この場所が初めから彼らの目的地だったのか、あるいはあまり疲れてもうこれ以上走れなくなったからか、ここで二人は立ち止った。そして、黙ったまま待ちかまえているKを手放し、シルクハットを脱ぎ、石切場を見まわしながら、額の汗をハンカチでぬぐった。あたり一面に、ほかの光にはないような自然らしさと落着きとをもって、月光がふり注いでいた。
 さて次の仕事はどちらがやらねばならぬのかという点についていくらか慇懃《いんぎん》な応酬を交《か》わして後――二人は分担をきめることなく任務を受けてきたらしかった――一人がKに歩み寄り、彼から上着、チョッキ、さてはシャツまでもはぎ取った。Kは思わず知らず身震いすると、その男は軽く、なだめるようにKの背中をたたいた。それからそれらの着物を、今すぐではないが要《い》ることもあるという品物のように、丁寧に取りまとめた。Kがじっとしていて冷たい夜気にさらされ放しにならないように、男はKの腕を取り、あちこちと少しばかり歩いたが、もう一人の男は石切場でどこか適当な場所を捜していた。それを見つけると合図をし、もう一人がKをそこへ連れていった。採掘石壁の近くで、そこには切られた石があった。二人はKを地上に置き、その石にもたれさせ、頭を上向きに寝かせた。彼らがいろいろ努力したにもかかわらず、またKが彼らの意にかなうことをいろいろとやってみせたにもかかわらず、Kの姿勢はきわめて窮屈で、信じられないようなものだった。そこで一方の男は、Kを寝かすことをしばらく自分だけにまかせるようにと頼んだが、そうやってみてもよくはならなかった。とうとうKをひとつの姿勢に置いたのだったが、けっしていちばん具合のよい準備完了の姿勢ではなかった。次に一方の男がフロックコートを開き、チョッキのまわりに締めた帯にかかっている鞘《さや》から、長くて薄い両刃の肉切|庖丁《ぼうちょう》を取出し、高くかざして、月の光で刃を調べた。また例の不愉快な慇懃さが始まり、一方がKの頭越しに小刀をもう一人に渡し、その男はまたそれをKの頭越しにもどした。Kは今やはっきりと、小刀が手から手へと自分の頭上で行き来しているとき、自らそれをつかみ、自分の身体をえぐるのが義務だろうということを、知ったのだった。しかし、彼はそうはしないで、まだ自由な頸《くび》を動かして、あたりを見まわした。完全に身のあかしをたてることはできず、役所からあらゆる仕事を取除くこともできなかったが、この最後の失策に対する責任は、それに必要な力の残りをおれから拒んだやつが負うのだ。彼の眼差《まなざし》は石切場に接した家のいちばん上の階に注がれた。明りがつくと、ひとつの窓の扉が開き、はるかに高いところにいるので弱々しく、痩《や》せて見える一人の男が、ぐっと前に身体を乗り出し、腕をいっそう広くひろげた。いったい誰だ? 友人か? いい人間か? 関係している人間か? 助けてくれようとする者か? 一人だけなのだろうか? たくさんの人間がいるのだろうか? まだ助かる見込みはあるのか? 忘れられていた異議があるのか? きっとそんな異議があるはずだ。論理は揺るがしがたいが、生きようと欲する人間には、その論理も対抗することはできない。おれが見なかった裁判官はどこにいるんだ? おれがそこまでは行きつけなかった上級裁判所はどこにあるのだ? 彼は両手を上げ、指をことごとくひろげた。
 しかし、Kの喉《のど》には一人の男の両手が置かれ、もう一方の男のほうは小刀を彼の心臓深く突き刺し、二度そこをえぐった。見えなくなってゆく眼で、Kはなおも、二人の男が頬《ほお》と頬とを寄せ合って自分の顔の前で決着をながめている有様を見た。
「まるで犬だ!」と、彼は言ったが、恥辱が生き残ってゆくように思われた。
[#改丁]
 ≪付録≫

断章六編

エルザのもとで

 ある日、Kが出かけようとしていた直前、電話で呼び出され、すぐ裁判所事務局に来るよう求められた。これに従わぬことのないように念をおされた。彼が述べた前代|未聞《みもん》の言葉、すなわち尋問は無益であって、なんの効果もないし、またなんの効果もあげることはできないということ、もうけっして出頭はしないということ、電話や文書で召喚されてもそんなものは問題にしないし、使いの者は扉《とびら》から放り出してやるということ、そういうことはすべて記録としてとってあるし、すでにKにとってきわめて不利なものになった。なぜ命令に服したくないのか? 時間と金とを惜しまずに、裁判所は君のこみいった事件を解決しようと努力してきたのでなかったか? 君はそれに気儘《きまま》勝手に水をさし、裁判所がこれまで君に対して猶予してきた強制処置をとらせようとするのか? 今日の召喚は最後の試みである。君はどうであろうと好きなようにしてよろしいが、高級裁判所は嘲弄《ちょうろう》されて黙ってはいないということをよく胸に畳んでおくべきだ、というのだった。
 ところでKは、その晩、エルザを訪問するように言ってあったので、この理由からだけでも裁判所には行けなかった。それによって裁判所に出頭しないことを理由づけることができることを彼はよろこんだが、もちろんこんな理由を使う気は全然なかったし、この晩にほかの前約が全然なかったとしても裁判所には行かないということはきわめてありうることだった。ともかく、自分にはりっぱな権利があると思いながら、もし行かなかったらどうなるか、と電話できいてみた。
「君をかならず見つけ出せるだろう」というのが返事だった。
「で、進んでゆかなかったというので、罰せられることはあるんですか?」と、Kはきき、きっと言うにちがいないと思われる言葉を予想しながら微笑した。
「そんなことはない」という返事だった。
「それは結構です」と、Kは言った。「ですがそれなら、今日の召喚に従わなければならないどんな理由があるというんです?」
「わざわざ裁判所に強制手段をとらせるようなことはしないものだ」と、だんだん弱くなって最後に消えてゆく声が言った。
「そんなことをしたら、非常に軽率というものだ」と、Kは出てゆきながら考えた。「しかし強制手段というのはどういうものか、一度お目にかかる必要がある」
 ためらうことなく、エルザのところへ出かけた。くつろいで車の隅《すみ》によりかかり、両手を外套《がいとう》のポケットに突っこみ、――すでに寒くなりはじめていた――彼は往来の頻繁《ひんぱん》な通りをながめた。もし裁判所がほんとうに活動しているなら、少なからぬ面倒を裁判所に与えてやったはずだ、と彼はある種の満足をもって考えた。裁判所に行くとも、行かぬとも、はっきりと言ってはやらなかった。したがって裁判官は待っているだろうし、おそらくは相当の人数の連中さえも待っていることだろうが、自分だけは現われずに、傍聴席をことに失望させることだろう。裁判所に迷わされずに、自分の好きなところへ行くのだ。ところで、ふざけて御者に裁判所の番地を言わなかっただろうか、とちょっと不安になったので、大声でエルザの番地を叫んでやった。御者はうなずいたが、さっきも別にそれとちがう番地を言ったわけではなかった。そのときからKは次第に裁判所のことを忘れ、銀行についてのさまざまな考えが、以前と同じようにまた彼の心を満たしはじめた。

母のもとへの旅行

 昼食のとき、突然、母をたずねようと思いついた。今はもう新年もほとんど終りかけているから、母にこの前会ってから足かけ三年になる。母はあのとき、お前の誕生日には来るようにと頼んだので、彼もいろいろ支障はあったがその頼みに応じ、誕生日のたびごとに母のもとで過すよう約束さえしたのだったが、この約束は確かにもう二度も破ったのだ。しかしそのかわりに今度は、誕生日はもう二週間ばかり後のことだが、それまでは待たずにすぐ行こうと思った。ちょうど今行かねばならぬ特別な理由は何もない、と自分に言い聞かせはした。それどころか、故郷の小さな町に一軒の商店を持っており、Kが母に送る金を管理してくれている一人の従兄《いとこ》から、一月おきにきちんきちんと受けている知らせは、これまでのいつよりも安堵《あんど》できるものだった。母の視力は消えようとしているが、そのことは医者たちの言うところからすでに何年も前から予期していた。その反面、ほかの点での健康状態はいっそうよくなり、老齢のさまざまな不快は強まるどころか少なくなり、少なくともこぼすようなことはいっそう少なくなった。従兄の意見によると、それはおそらく、ここ数年来――Kは、この前訪れたときすでにそれの軽い徴候を認めてほとんど不快を覚えたのだったが――桁《けた》はずれに信心深くなったことと関係がある、ということだった。以前にはやっとの思いで身体《からだ》を引きずっていったこの老婆が、今では、日曜日に教会へ連れてゆくときには、自分の腕にすがって実にしっかりと歩いてゆく、と従兄はある手紙でまるで手にとるように書いてよこした。そしてKは従兄の言うことが十分信じられた。なぜならば、心配性の従兄はいつもは報告中によいことよりもむしろわるいことを誇張するのがつねだったからである。
 しかし、そんなことはどうあろうとも、Kは今は行くことに心をきめた。彼は最近では別な不快さのために一種の愚痴っぽさを身につけてしまった。自分のしたいと思うことになんにでも敗《ま》けてしまうという、ほとんど定見というもののない傾向である。――さて、今の場合にはこの悪徳は少なくともひとつのよい目的に役だつわけだった。
 考えを少しまとめるために窓ぎわに行ったが、すぐに食事を片づけさせ、小使をグルゥバッハ夫人のところへやって、旅行に出る旨を知らせ、必要と思うものを夫人につめてもらって手提鞄《てさげかばん》を持ってくるように命じた。次に、キューネ氏に対して自分が不在のあいだの二、三の商売上の用件を頼んだが、すでにならわしとなった不躾《ぶしつけ》な態度でキューネ氏が、自分はしなければならぬことはよくわきまえている、こんな命令はただ儀礼上聞いてやっているのだ、というようにそっぽを向きながら聞いていることにも、今度だけはほとんど腹がたたなかった。そして最後に支店長のところへ行った。母のところへ行かねばならぬので二日ほど休暇をいただきたい、と支店長に頼むと、もちろん支店長は、あなたのお母さんは病気がわるいのか、ときいた。
「いいえ」と、Kは言ったが、それ以上の説明はしなかった。
 両手を背後に組み、部屋の真ん中に突っ立っていた。眉《まゆ》をひそめて考えこんだ。どうも出発の準備を急ぎすぎたのではなかったか? ここにこのままいたほうがよかったのではないか? 故郷に帰ってどうしようというのだ? 感傷などから行こうと思うのだろうか? そして感傷から、おそらくここで何か重大なこと、たとえば訴訟に手をかけるチャンスを逸してしまうのではなかろうか? そういうチャンスは、訴訟がこれでもう何週間も落着いてしまったように見え、ほとんど何ひとつはっきりした知らせがやってこなくなって以来、いつなんどきやってくるかわからなかった。そしてそのうえ、老いた母を驚かすことにならないか? もちろんそんなつもりはないのだが、今では自分の意志に反してさまざまなことが持ち上がる始末なのだから、意に反してそうなることはきわめてありそうなことだった。それに母は、自分に来いとは全然言ってきてはいなかった。以前には、従兄の手紙には母の切なる招きがきまって繰返されていたのに、今はもうかなりのあいだ、そういうことがなかった。それゆえ母のために行くのではないことは、明瞭《めいりょう》だった。しかし、もし自分のなんらかの期待から行くのだとしたら、自分は完全に馬鹿者だし、きっと故郷では、窮極の絶望のうちに、自分のばかさ加減の報いを受けることになるだろう。だが、こうした疑惑のすべては自分のものではなく、他人たちが自分にもたらそうとしているものだ、とでもいうように、はっきりとした自覚を持ちながら、Kは行くという決心を変えなかった。こんなことを考えているあいだ、支店長は、偶然なのか、それともこのほうがほんとうらしいが、Kに対する格別な思いやりからか、新聞の上にかがみこんでいたが、やがて眼を上げ、立ち上がりながらKに手を差出し、それ以上は何もきかずに、元気で旅行されるように、と言った。
 Kはそれからしばらく、事務室の中をあちこち歩きながら小使を待っていたが、Kが旅行に出る理由を聞こうとして何回もやってくる支店長代理には、ほとんど口もきかずに肘鉄砲《ひじでっぽう》を食わせ、ついに手提鞄が着くと、すでに前もって命じておいた車へと急いで降りていった。彼が階段に行くやいなや、最後の瞬間に上のほうに行員のクリヒが現われ、書きかけの手紙を手にしていたが、明らかにKからそれについての指示を仰ごうとするものらしかった。Kは相手に手で断わりの合図をしたのだったが、このブロンドの大頭の男は物わかりがわるいので、その合図を間違って取り、便箋《びんせん》を振りながら危なかしいほどのとびかたでKの後《あと》を追ってきた。Kはそれに非常に怒ったので、クリヒが表階段で彼に追いつくと、その手紙を彼の手から奪い、引裂いた。次にKが車の中で振返ると、自分の失策がまだわからないらしいクリヒは同じ場所に立って、走り去って行く車を見送っていたが、彼に並んで門番が、改まって帽子を目深《まぶか》にかぶり直していた。それではおれはまだ銀行の高級職員の一人なのだ。いくらおれがそれを否定しようとしても、門番がきっと反駁《はんばく》したことであろう。そして母は、いくらそうでないと説き聞かせても、おれのことを銀行の支店長だと思っており、しかもそれが数年来のことなのだ。そのほかのことでいくらおれの声望が傷つけられても、母の考えではおれの価値が下落することはないだろう。ちょうど出発の前に、裁判所とつながりさえある行員の手から手紙を奪い取り、挨拶《あいさつ》もなしに破っても、自分の両手が焼けもしないというくらいの力をまだ依然として持っているのだ、と確信したことは、おそらくいいしるし[#「しるし」に傍点]にちがいなかった。

 ……もちろん、彼がいちばんやりたかったことはやれなかった。つまり、クリヒの蒼白《あおじろ》い、丸い頬《ほお》を二つばかり大きな音をたててなぐりつけることだ。一面から言うと、それはもちろん、大いによいことなのだ。なぜなら、Kはクリヒをきらい、クリヒばかりではなく、ラーベンシュタイナーとカミナーとをもきらっているからである。Kは、ずっと前から彼らをきらっていた、と思っている。ビュルストナー嬢の部屋に彼らが現われたことは、彼をして初めてこの男たちに注意をはらわせたのだったが、彼の嫌悪《けんお》はもっと前からのものである。そして最近では、Kはほとんどこの嫌悪に苦しめられている。この嫌悪を晴らすことができないからである。いずれも、まったく取るに足りないいちばん下っ端の行員なので、彼らに近づくことはきわめてむずかしい。年功の力以外によっては彼らは昇進できないだろうし、この点でさえほかの誰よりも手間取っているので、彼らの出世の邪魔をすることはほとんど不可能に近い。他人の手によって加えられるどんな妨害も、クリヒの愚かさとラーベンシュタイナーの怠惰とカミナーのいやらしいはいつくばるような卑屈さとほどには、大きいはずがない。彼らに対して企てうる唯一のことは、彼らを免職するように手をまわすことだろうし、それはきわめて容易に実現できることでさえあって、支店長に対してKがほんの二言三言言えば事は足りるのだが、Kはそうすることをはばかっている。公然もしくは秘密にKのきらうことならなんでもやろうとする支店長代理が三人の味方になるならば、Kはおそらくそうするだろうが、奇妙なことに今度は支店長代理が例外的な態度を示し、Kの欲することを同じように望んでいるのである。

検事

 長年の銀行勤めで、Kは人を見る眼や世故に長《た》けてはいたが、自分と同じ常連仲間は非常に尊敬すべきものに思われたし、このような仲間の一員であるのは自分にとって大きな名誉だということを、自分自身に対してけっして否定したことはなかった。ほとんどもっぱら裁判官、検事、弁護士から成る仲間で、二、三人のきわめて若い役人や弁護士見習も仲間入りを認められていたが、これらの若者たちはまったく末席にすわっていて、特別な質問が向けられたときにだけ論争に加わることが許されるのだった。しかし、こうした質問はたいてい、ただ仲間を興がらすだけの目的を持つものであり、いつもKの隣にすわるハステラー検事が特に、こうしたやりかたで若い人々を赤面させることが好きであった。彼が大きな、毛のもじゃもじゃ生《は》えている手を机の真ん中でひろげ、末席のほうを向くと、もうみなが聞き耳をたてるのだった。そして、それから末席で誰かが質問を受けたものの、それをどうも解けないとか、あるいはじっと考えこんでビールを見つめるとか、あるいは口をきくかわりにただ顎《あご》でぱくつくとか、あるいは――これがいちばんみじめだが――止めどもない熱弁をふるって間違った意見か確認されない意見かをもらすとかすると、年配の紳士たちは微笑しながら自分たちの席に向き直り、やっと快適になったという様子を見せるのだった。ほんとうにまじめな、専門的な話というのは、ただ彼らだけの仲間に取っておきであった。
 Kは、銀行の法律顧問であるある弁護士によってこの仲間に連れこまれた。ひところKはこの弁護士と銀行で夜遅くまで長い打合せをやらねばならぬときがあって、そこでおのずと弁護士といっしょにその常連席で夕食をとり、仲間づきあいを大いに楽しむ、ということになったのだった。ここで見られるのは、ただ学問のある、声望の高い、ある意味では権力のある紳士たちばかりであって、彼らの気晴らしというのは、むずかしい、人生とは関連の薄い問題を解こうと努め、この点で疲れるほどやるということにあった。K自身はもちろん、介入できることはほとんどなかったが、遅かれ早かれ銀行でも役にたつようなたくさんのことを聞く機会を手に入れた。そしてそのうえ、いつでも役にたつような個人的な関係を裁判所と結ぶことができた。だがその仲間の人々も、彼のことをよろこんで迎えるように見えた。間もなく実業の専門家として認められ、こういう事柄についての彼の意見は――その場合に事が全然皮肉などなしに運ぶということはなかったが――何か反駁《はんばく》できないものとして通っていた。商法上の法律問題においてちがった判断を持っている二人の人物が、そういう事実についてのKの意見を求め、次にKの名前があらゆる話のやりとりにしょっちゅう現われ、ついにはもうとっくにKにはついてゆけないようなきわめて抽象的な検討に引っ張りこまれることもまれではなかった。もちろん彼には多くのことがわかってきた。ことに、ハステラー検事がそばについていてよい忠告者となってくれたからである。そしてこの人物はまたKと親しい近づきとなったのだった。しばしば夜分に家までついてくることさえあった。しかし、自分のことを釣鐘マントの中に全然目だたぬように隠してしまうことのできるような大男のそばを手に手をとって歩いてゆくことには、長いあいだなじめぬことだった。
 ところが時のたつにつれ、二人は非常にうま[#「うま」に傍点]が合うようになったので、教養や職業や年齢のちがいがすべて消えてしまうほどだった。彼らは互いに交際したが、ずっと以前から互いに釣り合った相手同士のようであり、その関係においてときどきは外見上一方がすぐれているように見えるときがあると、それはハステラーではなくてKのほうだった。なぜならば、Kの実際的経験は裁判所の机の上ではけっしてありえぬほど直接的に手に入れられたものなので、たいていはそれが物を言ったからである。
 この友情はもちろん、その常連たちのあいだに間もなく広く知れ渡り、誰がKを仲間に連れこんだのかということは半分忘れられてしまい、Kと合うのはともかくハステラーだということになった。Kがこの仲間にはいっている権利があるかどうかということが疑わしくなると、彼は十分の権利をもってハステラーのことを引合いに出すことができるのだった。しかし、Kはそれによってひとつの格別有利な立場を獲得した。なぜなら、ハステラーは声望も高かったが、恐れられてもいたからである。彼の法律的な頭の力や巧みさというものはきわめて驚嘆すべきものではあったが、この点では多くの人々が少なくとも彼と同等であった。だがしかし、彼が自説を守る荒々しさにはなにびとも匹敵できなかった。ハステラーは相手を説き伏せることができないと、少なくとも相手を恐怖におとしいれるのだ、という印象をKは受けたが、彼が人差指を立てるだけで多くの人々は尻込《しりご》みするのだった。相手の人は、自分が善良な知人や同僚たちの仲間に加わっているのだということ、ただ理論的な問題だけに関することであり、実際にはけっして何事も起るものではない、ということを忘れてしまうようであって、――まったく口をつぐみ、頭を振って否定の気配を見せるだけでもすでに勇気の要《い》ることだった。相手が遠く離れてすわっているので、こんな距離では意見の一致はできるものでない、とハステラーが考え、食事の皿か何かを押しやって立ち上がり、相手その人のところへ出かけてゆくのは、実にすさまじい光景であった。近くにいる人々は頭をそらせて、検事の顔を見ようとした。もちろん、そういうことは比較的まれにしか起らない偶然的な事件であって、何よりもまず彼を興奮におとしいれるのはただ法律的問題、しかも主として、彼自身が前にやったか、あるいは現在やっているかする訴訟に関する問題、についてだけであった。事がこんな問題でなければ、彼はうちとけ、落着いており、彼の高笑いは愛想があり、彼の情熱はもっぱら飲み食いに向けられていた。一同の会話には全然加わらず、Kのほうに向きっきりになり、Kの椅子の背に腕をかけ、小声で彼に銀行のことをきき、自分でも自身の仕事のことをしゃべったり、裁判と同じくらい悩まされる女出入りのことも語ったりすることさえあった。仲間のほかの誰とも彼がそんなふうに話しているのは見られなかったし、事実またしばしば、ハステラーに折り入って頼みたいことがあると、人々はまずKのところへ行き、彼に仲介を頼むし、彼のほうもいつもよろこんで気軽にやってやるのだった。Kは、この点について自分とハステラーとの関係をうまく利用するというようなことではなく、およそすべての人々に対してきわめて慇懃《いんぎん》で謙遜《けんそん》であり、謙遜とか慇懃とかよりはいっそう大切なものだが、紳士たちの身分のちがいを正しく区別し、各人をその身分に応じて扱うということを心得ていた。もちろん、この点ではハステラーはしょっちゅうKに教えてくれた。これこそ、ハステラーがいくら興奮して論争しているときでも侵すことのない唯一の規則だった。そこで彼は、まだほとんどまったく身分などは持っていない末席の若い人々に対しても、いつもただ一般的な話を持ちかけるのだったが、相手は個々の人々ではなく、単に寄せ集められた群衆ででもあるかのような態度であった。ところがこの若い人々こそが、彼に対して最高の尊敬を示すのだった。そして十一時ごろ彼が帰宅しようと立ち上がると、すぐ一人は彼がどっしりした外套《がいとう》を着るのを助け、もう一人は大きく敬礼をして彼のために扉をあけ、ハステラーの後からKが部屋を出てゆくと、もちろんそれまで扉を押えているのだった。
 初めのうちはKがハステラーに、あるいはまた検事のほうがKに、帰路を途中まで同伴してゆくのだったが、後にはこんな夜々はきまって、ハステラーがKに、自分といっしょに家まで来てしばらく自分のところにいてくれるようにと誘うことで終った。そうすると二人はなお一時間も、ブランデーを飲んだり、葉巻をふかしたりして過すのだった。こうした晩はハステラーにとっては非常に楽しいものだったので、二、三週間ヘレーネという名の一人の婦人を彼のもとに住まわせていたときにも、こうしてKと過す夜々を捨てようとはしなかった。肥った、かなりな年配の婦人で、黄ばんだ膚をし、額のあたりに巻いている真っ黒な巻毛を持っていた。Kが初め彼女を見たときは、きまってベッドにはいっており、いつもそこにまったく恥ずかしげもなく横になり、分冊の小説本を読むのをつねとしていて、検事とKとの談話などは気にもかけなかった。夜も遅くなると、やっと身体を伸ばし、あくびをし、また、別なやりかたで注意を自分に向けることができないときには、読んでいる小説の一冊をハステラーに向って投げた。すると検事はにやにやしながら立ち上がり、Kに別れを告げるのだった。もちろん後には、ハステラーがヘレーネに飽き始めると、女は男二人が会うことを手きびしく邪魔した。そうなると彼女はいつも、完全に服装を整えて二人を待つのだったが、しかもそれがきまってあるひとつの服であって、それを女はきわめて高価な、似合うものと考えているらしかったが、実は古ぼけた、けばけばしい舞踏服で、飾りに垂《た》らしている二、三列の長い総《ふさ》によって特に不快な印象を強く与えるものだった。Kはこの着物を見ることをいわば拒んで、何時間でも眼を伏せてすわっていたので、この着物の詳しい格好は知らなかった。ところが女は、身体をゆすりながら部屋を通って歩いたり、Kの身近にすわったり、後に彼女の立場がいよいよ危なかしくなると、苦しまぎれにKの寵愛《ちょうあい》を得てハステラーに嫉妬《しっと》させようと試みる始末だった。丸みを帯びた肥った背中をむきだしにして机によりかかり、顔をKに近づけ、そうやってKに無理に眼を上げさせようとするのは、悪気ではなくて、ただ苦しまぎれのことだった。女がこんなことをやって手に入れたことと言えばただ、Kがその後ハステラーのところへ行くことを拒んだということだけであり、彼がしばらくしてまたそこへ行ったときには、ヘレーネはついに追い出されていた。Kはそのことを当然なこととして受取った。彼ら二人はその晩はことに長時間同席し、ハステラーの発議で友愛を祝し、Kは帰路煙草と酒とで少し気が遠くなってしまっていたくらいだった。
 ちょうど次の朝、銀行で支店長は商売上の話のついでに、昨晩Kを見かけたように思う、と言った。もし私の錯覚でなければ、あなたはハステラー検事と腕を取合って歩いていた、ということだった。支店長はこのことを非常に奇妙に感じているらしく、――もちろんこれはまたいつもの彼の几帳面《きちょうめん》さにふさわしいことだったが――教会の名をあげ、その泉の近くで二人に出会った、というのである。自分は蜃気楼《しんきろう》のことを話そうとしているのかもしれないが、自分の言うことに間違いはないのだ、と言った。そこでKは支店長に、検事は自分の友人であり、実際、昨晩自分たち二人は教会のそばを通った、ということを説明した。支店長は驚いたように微笑し、Kにすわるように求めた。それは、そのために、Kが支店長に非常な愛情を覚えた瞬間、この弱々しい、病身の、喘息《ぜんそく》持ちの、きわめて責任ある仕事をいっぱい負わされた人物から、Kの幸福と未来についてのある憂慮が、はっきりと現われてきた瞬間、そういった瞬間のひとつであった。そういう憂慮というのは、支店長において同じようなことを体験したほかの行員たちの言い草ならば、もちろん冷たく外面的なものだとも言いうるだろうし、二分間ばかりを犠牲にして有能な行員を多年自分にひきつけておくいい手段以外の何ものでもないはずだが――それはどうあろうとも、Kはこうした瞬間には支店長に冑《かぶと》を脱ぐのだった。おそらく支店長も、ほかの人たちとは少し別なようにKと話すようだった。すなわち、こんなふうにしてKと対等に話すために、自分の地位が上にあるということを忘れるようなことはなかったが――そういうことはむしろきまって普通の仕事の上の交渉でやるのだった――今の場合はまったくKの地位を忘れてしまったらしく、まるで子供とでも話すように、あるいはまた、初めてある地位を志願してなんらかのわからない理由から支店長の好意を呼び起した経験に乏しい若い人間とでも話すように、Kと話をするのだった。もしこのような支店長のしてくれる心配がKには真実味のこもったものと思われなかったならば、あるいは少なくとも、このような瞬間に現われるこういう心配のもっともである点に完全に魅了されてしまったのでなければ、ほかの誰かのにせよ支店長その人のにせよ、こんな話しかたはKにはきっと我慢がならなかったことであろう。Kは自分の弱点をはっきりと知った。おそらく彼の弱点の根本というのは、こういう点については彼には何か子供じみたところがある、ということにあるのだった。父がきわめて若くして死んでしまって、自分の父親から心配されるということを経験したことがないし、やがて家をとび出し、母、半分|盲《めし》いてまだあの変化のない小さな町に生き、彼もおよそ二年前に訪ねたきりの母の愛情というものを、いつも呼び起そうとするよりはむしろしりぞけてきたからである。
「そういうお付合いをしているとは私は全然知らなかった」と、支店長は言ったが、弱々しい、親しげな微笑だけがこの言葉のきびしい調子を和らげているのだった。
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(編者注 この断章は本文第七章に直接つながるものだったのであろう。これの冒頭は、第七章の最後の章句の写しを収めているのと同じ紙片に書かれている)
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その家

 初めは特別の意図をいだいてやったわけではなかったが、Kはさまざまな機会に、彼の事件の最初の告発を行なった役所の所在地を聞きこもうと努めた。彼は苦もなくそれを聞いた。ティトレリもヴォールファールトも、初めてきかれたときにすぐに、その家の詳しい番地を言った。その後《あと》でティトレリは、よく検討するように求められはしなかった秘密の計画に対して待ちかまえているような薄笑いを浮べながら、番地を教えたことに補って、そんな役所なんかは少しも意味を持つものではなく、ただ託された事柄を代弁しているにすぎず、大検事局そのものの末端の機関であり、その大検事局なるものはもちろん訴訟当事者の近づきえぬところである、と主張した。それゆえ、検事局に何かを求める場合には、――もちろんいつでも願望はたくさんあろうが、それを口に出して言うのは賢明だとはかぎらない――もとより今言った下級の役所を相手にしなければならないのだが、そうしたからといって自らほんとうの検事局にはいりこむこともできないし、自分の願望をけっしてそこまで達することはできないだろう、と言うのだった。
 Kはすでに画家の本性をよく知っていたので、別に反対もせず、それ以上たずねることはしないで、ただうなずいて言われたことを知識としてただ受取った。最近すでにしばしばそうであったように今度もまた、わずらわしさにかけてはティトレリが弁護士のかわりを十分するように思われた。ちがいというのはただ、Kはティトレリのことを弁護士のように捨てはしなかったこと、もししたいと思いさえするなら、造作なく振捨てることができるだろうということ、さらにティトレリはひどく腹蔵のないこと、そればかりでなく、今は以前ほどではないがおしゃべりなこと、そして最後にKのほうでもティトレリを大いに苦しめることができるということ、それぐらいであった。
 そしてこの件についてもKは同じように相手を悩ませたが、ティトレリにその家のことを話すときにはしばしば、お前にはあることを隠しているのだ、自分はあの役所とはいろいろな関係を結んだ、しかしその関係はまだそうたいして進んではいないので人に知られると危険がある、というような調子で言うのだった。ところがティトレリが彼にもっと詳しく言わせようとすると、Kは突然話をそらし、長いあいだ二度とその話をしないのだった。彼はこういうちょっとした成功を楽しんだ。今では裁判所をめぐるこうした連中のことは前よりもずっとよく知っているし、今ではもうこの連中と戯れることもできるし、ほとんど自分でも彼らの中にはいりこんでいて、彼らが身を置いている裁判所の第一段階というものがある程度可能としている相当な見通しを少なくともしばらくは手に入れているのだ、と思いこんだ。自分の地位をこんな下《した》っ端《ぱ》のあいだでついに失わねばならぬとしたら、いったいどうなるだろうか? そうなってもまだそこには救いの機会はあるのであって、ただこの連中の列の中にはいりこみさえすればよく、そうすれば、この連中の身分が低いとかあるいはほかの理由によって、自分の訴訟で援助してくれることはできないとしても、自分を迎え入れ、かくまうことはできるし、そればかりではなく、自分が万事を十分考えて秘密にやってゆくなら、彼らはこういうふうにして自分の役にたつことを拒めはしないはずだ、ことにティトレリは、今では自分は彼の身近の知人でパトロンとなったのだから、拒めはしないはずだ。
 こんなふうな希望をKは毎日のように心にいだいて暮していたわけではなく、一般にはきっぱりと見境をつけ、なんらかの困難を見逃《みのが》したり、あるいは飛び越えたりしないように注意をしていた。しかしときどきは――それはたいてい仕事の後の夜分の完全な疲労状態でであったが――きわめてささやかな、そのうえきわめて漠然《ばくぜん》としたその日のさまざまな出来事から気休めの種を引出すのだった。そういうときはいつも事務室の長椅子の上に横になり――一時間ばかり長椅子で休んで元気を回復しなくては事務室を去れなかった――頭の中で見たことと見たこととを結び合せてみるのだった。裁判所と関係のある人々に厳密に限られるわけではなく、ここで半睡《うたたね》の状態でいると、あらゆる人々がこんがらかり、裁判所の大きな仕事を忘れてしまい、自分だけが唯一の被告であり、ほかの人々はみな裁判所の建物の廊下を歩く役人や法律家のように歩いており、最も愚鈍な連中でも顎《あご》を胸に埋め、唇《くちびる》をそり返し、責任ある考えに沈みながらじっと眼を凝らしているように思われるのだった。次にはしょっちゅう、グルゥバッハ夫人の間借人たちが自分たちだけのグループをつくって現われ、まるで苦情の合唱隊のように口をあけて頭と頭とを寄せ合せて立っていた。その中には多くの知らぬ人々がいた。なぜなら、Kはすでにずっと以前から下宿のことは全然気に留めていなかったからである。知らぬ人々が多いため、そのグループといっそう緊密にかかりあうことは彼には不快だったが、その中にビュルストナー嬢を捜し出そうとすると、ときどきはかかりあわなければならなかった。たとえばそのグループを飛び越してゆくと、突然、二つの全然見なれない眼が彼のほうに向ってき、彼を引留める。そこでビュルストナー嬢を見つけ出せないのだが、次にどんなあやまちをもすまいとしてもう一度捜してみると、彼女はちょうどグループの真ん中におり、両側に立っている二人の男に両腕を託していた。それでもそれは、ほとんどなんらの印象をも彼に与えなかった。ことに、この情景がなんら目新しいものではなく、彼が一度ビュルストナー嬢の部屋で見た海水浴場での写真の思い出が消えないで残っていたのにほかならなかったからである。ともかくこの光景はKをそのグループから離れさせ、Kはなお何回かそちらを振返りはしたが、大股《おおまた》で裁判所の建物を横切って急いだ。あらゆる部屋のどれにでも都合よく通じていて、まだ見ることのできなかった迷路の廊下は、ずっと前から自分の住居であるかのように親しげに見え、細かなことが逐一ひどくはっきりと彼の頭にはいるのだった。たとえば、一人の外国人が玄関のホールをぶらぶら歩いており、闘牛士のようないでたちで、腰のあたりはまるで小刀で切られたように刻まれ、非常に短かな、ぴったり身体《からだ》についている小さな上着は、黄色の粗糸《あらいと》のレースからできていて、この男は、そのそぞろ歩きを一瞬たりとも休まずに、絶えずKに驚きの眼を見張らせるのだった。身体をかがめKはその男に忍び寄り、眼を大きく見張りながらじっと見つめた。レースのあらゆる模様、へんてこな総《ふさ》、上着のあらゆる曲線を彼はよく知ってはいたが、見飽きることがなかった。あるいはむしろ、もうとっくに見飽きているのか、あるいはもっと正確に言えば、けっしてそれを見たくはなかったのかもしれないが、それができなかった。外国というのはなんという仮装舞踏会をやるんだろう、そう彼は考え、両眼をもっとはっきり見開いた。そして、長椅子の上で向きを変えて顔を革に押しつけるまで、この男の面影を追い続けた。

 そうやってかなり長いあいだ横になっていたが、とうとうほんとうに休んでしまった。今でもいろいろ考えてはいるが、暗闇《くらやみ》の中で邪魔もなかった。ティトレリのことを考えるのがいちばんよかった。ティトレリは椅子に腰をかけ、Kは彼の前にひざまずき、その両腕をなでて、いろいろなことをして機嫌《きげん》をとった。ティトレリは、Kが何を求めているのか、よく知っていたが、何くわぬ様子で、そんな素振りによってKを少し苦しめるのだった。だがKのほうでも、万事は結局うまく切り抜けるだろう、ということを知っていた。なぜなら、ティトレリは軽率な、きびしい義務感のない、容易に手に入れられる人間であるからだ。それにしても、裁判所がこんな男とかかりあっていることが理解できなかった。Kははっきり知った、もしどこかがあるとすれば、ここでこそ、突破が可能だ、と。ティトレリが頭をもたげて虚空に向けている恥知らずな薄笑いに惑わされてはいないで、懇願をあくまでも続け、ついには両手でティトレリの両頬をなでるにまでいたった。たいして懸命になっているわけではなく、ほとんど投げやりな態度だったが、戯れる気持からそんな動作を長引かせ、成功を確信していた。裁判所の策略なんてなんと簡単なんだろう! まるで自然の法則に服従するかのように、ティトレリはついに彼のほうに身体をかがめ、いかにもうちとけたようにゆっくりと眼を閉じて、その願いをかなえてやるつもりがある、ということを見せ、Kに手を渡してしっかと握った。Kは立ち上がり、もちろん彼は少し荘重な気持がしていたが、ティトレリはもう荘重さなどは我慢がならず、Kを抱きかかえ、駆け足で彼を引っ張っていった。間もなく裁判所の建物まで来て、急いで階段に出たが、ただ登るだけではなく、登ったり降りたりして、水の上の軽やかなボートのように身軽に、少しも労力の消耗がなかった。そして、Kが自分の足をながめ、この身のこなしの美しいかたちは自分のこれまでの卑しい生活とはもはや縁がないという結論に達したちょうどそのとき、彼のうなだれた頭の上に、変化が起ったのだった。これまで背後から投げかけてきていた光は、向きが変って、突如前からまばゆいばかりにさしてきた。Kが眼が[#「眼が」はママ]上げると、ティトレリは彼にうなずいてみせ、向きを変えた。Kはまた裁判所の建物の廊下にいたが、すべては前よりも静かで、単純に見えた。これといって目だつ点はなく、Kは一瞥《いちべつ》ですべてを見渡したが、ティトレリから離れ、自分の道を行った。Kは今日は、新しい、長い、黒っぽい着物を着ていたが、その着物は気持よく温《あたた》かく、どっしりとしていた。自分がどうなったのか、彼はよくわかっていたが、それに大いに幸福を感じていたので、彼はそれを認めたくはなかった。廊下の一方の壁には大きな窓がいくつも開いていたが、その片隅に束になって以前の服があるのを見つけた。黒の上着、はっきりした縞《しま》のズボン、その上にはすり切れかかった袖《そで》のシャツがひろがっていた。

支店長代理との闘い

 ある朝、Kはいつもよりずっと気分がさわやかで、闘志にあふれていた。裁判所のことはほとんど考えなかった。裁判所を思い出しても、このまったく全貌《ぜんぼう》をつかみがたい大きな組織は、なんらかの、もちろん秘密の、暗闇《くらやみ》で初めて手がけることのできる手段で容易にとらえられ、つぶされ、粉砕されるもののように思われた。Kの異常な状態は彼の心を駆って、支店長代理に誘いをかけ、その事務室に行き、すでにかなり前から迫っている事務上の用件についていっしょに相談させさえしたのだった。こんな場合にはいつも支店長代理は、彼のKに対する関係が最近数カ月に少しも変っていないように振舞った。絶えずKと競っては、以前と同じように落着いてやってきて、落着いてKの詳しい説明を聞き、ちょっとした親しげな、否、同僚らしくさえある言葉で関心を示すのだった。Kを面くらわすことといえばただ、もちろんこの点になんら特別の下心を見るべきではなかったが、何事によっても事務上の主要問題からはそらされることがなく、明らかに本心の真底までこの問題を受入れる心構えでいることだけだった。一方Kの思いは、このような義務遂行の模範を前にして、すぐ激しく四方八方に働きはじめ、問題そのものはほとんどなんらの抵抗なしに支店長代理にまかせざるをえなくさせた。一度はそれがあまりひどかったので、Kはついにただ、支店長代理が突然立ち上がり、黙って事務室にもどってゆくのを見ただけだった。Kはどういうことが起ったのか、わからなかった。協議が本式にきまったのかもしれなかったが、Kがそれと知らぬうちに支店長代理の気をわるくしたか、あるいはKがばかげたことをしゃべったか、あるいはまた、Kが聞いていないこと、ほかのことばかり考えていることが明白になったので、支店長代理が協議を中断したのかもしれなかった。だが、Kが滑稽《こっけい》な決定を行なったのか、あるいは支店長代理がKを誘ってそういう決定をさせ、こうなればKの損害を実現してやろうとして急いで出ていったのか、そういうことさえありうることだった。ところで、この件はもう蒸し返されないで、Kはそれを思い出したくはなかったし、支店長代理は部屋にはいりきりになっていた。もちろんしばらくのあいだは、その後もなんら眼に見えるような結果を生じなかった。しかしいずれにせよ、Kはその出来事で驚かされはしなかった。適当なチャンスが生じさえするなら、そしてKに少し勇気がありさえするなら、支店長代理の部屋の扉の前に立ち、彼のほうに行くか、あるいは彼を自分のほうに誘うかするだけだった。前にしていたように、支店長代理に対して隠れているときでは、もはやなかった。自分を一挙にあらゆる心配から解放してくれ、おのずから支店長代理に対する昔の関係を調整してくれるような、すみやかで決定的な成果などというものは、Kはもう期待していなかった。やめることは許されない、とKは見てとった。おそらくはさまざまな事実から言って必要なのかもしれないが、もしそのように後《あと》に退《ひ》いたならば、たぶん、もうけっして昇進できない、という危険が生れるのだった。支店長代理に、おれのことはもう片づいたのだ、などと思われてたまるものか。そんなふうに思いこんであいつの事務室にのうのうとすわっておられてたまるか。あいつは不安を覚えさせられなくてはならないのだ。あいつはできるだけしょっちゅう、このおれが生きているのだ、今のところは全然危険がないように見えるかもしれないが、あらゆる生きている人間と同じように、いつか新しい能力をもって驚かすことがあるかもしれないのだ、ということを思い知らなくてはいけない。ときどきKは、自分がこうした方法によってほかならぬ自分の名誉だけのために闘っているのだ、と自分に言い聞かせはした。なぜなら、こんな自分の弱点を持ったままでいくら支店長代理に対抗しようとも、ほんとうは何の役にたつわけのものでもなく、相手の権力感を強めるだけであり、よく観察をし、刻々の情勢に的確に従って処置をとるチャンスを相手に与えるだけだったからである。そうはわかっているものの、Kは自分の態度を全然変えることができないように思い、自己|欺瞞《ぎまん》に陥り、ときどきはっきりと、自分は今こそなんら心配することなく支店長代理と争ってよいのだ、と信じるのだった。いくら不幸な経験にあっても、彼は利口にはならなかった。十回の試みでうまくゆかぬことは、万事はいつもまったくおきまりに自分の不都合なようになってゆくにもかかわらず、十一回目にはやりとげることができるものと思いこんだ。こんな出会いの後、疲れきって、汗を流しながら、からっぽの頭で残っていると、自分を支店長代理に手向わせたのは希望だったのか、それとも絶望だったのか、彼にはわからなかったが、次のときにはまた、支店長代理の扉のほうに急いでゆくとき彼がいだいているものは、まったく明らかだが、ただ希望だけであった。

 この朝は、こうした希望がことに正しいもののように思えた。支店長代理はゆっくりと部屋にはいってきて、手を額に当て、頭痛がすると訴えた。Kはまずこの言葉に返答しようと思ったが、じっと考え、支店長代理の頭痛にはなんら容赦しないで、すぐ事務上の詳しい説明に取りかかった。ところがそうすると、この頭痛がたいしてひどいものでなかったためか、あるいは問題に対する関心が痛みをしばらく追いやったのか、ともかくも支店長代理は話しているうちに手を額から取って、いつもと同じく、まるで解答を携えて質問に向ってゆく模範生のように、即座に、ほとんど熟考もせずに、答えるのだった。Kは今度こそ相手に立ち向い、相手を何回でもはね返すことができるはずだったのだが、支店長代理の頭痛という考えが、あたかもそれが支店長代理の不利ではなくて、利点ででもあるかのように、絶えずKの邪魔をした。相手がこんな痛みを耐え、克服しているのは、なんと驚嘆すべきことだろうか! ときどき相手は、自分の言うことに基づいてというわけではないが微笑し、自分が頭痛を持っているのに、考えることにかけてはそのために少しも妨げられてはいない、ということを得意がっているように見受けられた。全然別なことが語られていたのだが、同時に無言の対話が行われ、その中で支店長代理は、自分の頭痛の激しさを口に出して言いこそしないにせよ、しょっちゅう、自分のはただ危なくはない苦痛であって、したがってKがいつも苦しんでいるようなのとは全然ちがうものだ、ということをほのめかしもした。そしてKがいくら対抗しても、支店長代理が苦痛を片づけてしまうやりかたは、彼に反駁《はんばく》するのだった。しかしそれは同時に、彼にひとつの実例を示した。おれも、おれの職業には関係のないあらゆる心配をふさぐことができるはずだ。これまで以上に仕事に専念して、銀行で新しい制度をやりとげ、それの保持のために引続いて従事し、事務の世界に対する自分の少しゆるんだ関係を訪問や出張旅行によって固め、もっと頻繁《ひんぱん》に支店長に報告をし、支店長から特別な命令を受けるように努めることが、まったく必要だった。
 今日もまたそんな具合だった。支店長代理はすぐはいってきて、扉の近くに立ち止り、新たに始めた習慣に従って鼻眼鏡を磨《みが》き、まずKを見て、次にはあまり目だつようにKにばかり気を取られている素振りを見せまいと、部屋全体のほうもいっそうよくながめていた。自分の眼の視力をためす機会を利用しているような様子だった。Kはその視線に抗し、少し微笑さえして、支店長代理にすわるようにすすめた。自分自身は肘掛椅子《ひじかけいす》に身を投げ、椅子をできるだけ近く支店長代理のほうに寄せ、すぐ必要な書類を机から取って、報告を始めた。支店長代理は、初めはほとんど聞いてはいないようだった。Kの机の表面は、背の低い、彫刻を施してある手すりに取巻かれていた。その机全体がすぐれた細工で、手すりも木製でしっかりしていた。ところが支店長代理は、ちょうど今そこにゆるんだ個所を認めたような素振りで、人差指で手すりを押すことによって具合のわるい点を取除こうとした。Kはそのために報告を中断しようとしたが、支店長代理は、すべてをよく聞いているし、みなよく理解している、と言って、そうさせなかった。ところが、Kがしばらく何も具体的な言葉を代理から聞き出すことができないでいるうちに、手すりには特別の処置が必要らしく、支店長代理は今度はナイフを取出し、梃子《てこ》としてKの定規《じょうぎ》を取り、手すりを持ち上げようとしたが、おそらくはそうすればもっと容易にそれだけ深く手すりを押しこめることができるからだった。Kは報告の中にまったく新しい類《たぐ》いの提案をはさんだが、これはきっと支店長代理に特別な効果があるものと思った。そして、今やこの提案に達したとき、非常に自分の仕事に夢中になっていたので、あるいはむしろ、このごろではこういう意識はいよいよまれになってゆくばかりなのだが、自分がこの銀行にあってまだなんらかの意味を持ち、自分の考えは自分を正当化する力を持っているのだ、という意識に非常なよろこびを感じたので、もうやめることができなかった。おそらくはそのうえ、自己を守るこうしたやりかたは、ただ銀行においてばかりではなく訴訟においても最良のものであって、自分がすでに試みるか計画するかしたあらゆる防御よりもずっとよいものであるにちがいなかった。話を急いでいたので、支店長代理をはっきりと手すりの仕事から引戻す余裕は、Kには全然なかった。ただ二、三度、書類を読み上げながら、空《あ》いたほうの手でなだめるように手すりの上をなでたが、そうすることによって、自分ではほとんどはっきりと意識しなかったけれども、手すりには何も具合のわるいところはないし、たとい一個所ぐらいあったとしても、今のところは自分の言うことを聞いているほうがもっと大切だし、またどんな修繕を加えるよりも真剣なことだ、ということを支店長代理に示すためであった。ところが支店長代理は、活溌《かっぱつ》な、ただ精神上活動的な人間にしばしばあることだが、この手工じみた仕事に夢中になってしまい、ついに手すりの一部は実際引上げられ、今度はその小さな柱をまた適当な穴にはめこむことが問題であった。それはこれまでのどの仕事よりもむずかしかった。支店長代理は立ち上がり、両手で手すりを机の表面に押しつけようとせねばならなかった。ところが、いくら力を使ってみても、うまくゆきそうもなかった。Kは読みあげているあいだに――もっとも勝手な話をたくさん混じえたのだったが――ただ漠然と、支店長代理が立ち上がるのを認めただけだった。支店長代理のその内職ぶりをほとんど一度でもすっかり眼から離したことはなかったけれども、支店長代理の動きは自分の演説にもなんらかの関係があるように考えたので、彼も立ち上がり、数字のひとつの下を指で押えながら、支店長代理に一枚の書類を差出した。ところが支店長代理はそのあいだに、両手の圧力ではまだ十分でないと見てとって、たちまち意を決して体重全体を手すりにかけた。もちろん、今度はうまくゆき、柱はめりめりと穴にはいりこんだが、柱のひとつが急いだあまり曲ってしまい、どこかでそのやわな上部の桟が、真っ二つに割れた。
「わるい木だ」と、腹だたしげに支店長代理は言った。

断片

 彼らが劇場から出たとき、雨が少し降っていた。Kはすでに、その脚本とひどい上演とにうんざりしていたが、叔父《おじ》を自分のところへ泊めなければならぬという考えが、彼をすっかり打ちのめしていた。ちょうど今日は、どうしてもF・B・(ビュルストナー嬢)と話そうと思っており、おそらく彼女と出会うチャンスが見つかったことであろう。ところが叔父の接待がそれをまったくだめにしてしまった。もちろんまだ、叔父が乗ってゆける夜行は出るのだが、叔父はKの訴訟にひどく心をつかっているので、今晩のうちに出発するような気にさせるということは、まったく見込みがないように思われた。それでもKは、たいして期待もせずに、ためしてみた。
「叔父さん、どうも」と、彼は言った。「近々あなたのご援助をほんとうに必要とすることと思いますが。どういう方面でかはまだはっきりわかってはいませんけれど、ともかくも必要になるでしょう」
「お前はわしをあてにしていいさ」と、叔父は言った。「わしは実際、どうしたらお前を助けられるかということばかり考えているんだ」
「叔父さんは相変らずですね」と、Kは言った。「ただ私は、叔父さんにまたこの町に来ていただくようにお願いしなければならなくなると、叔母さんが気をわるくなさるんじゃないかと、それが心配です」
「お前の事件のほうがそんなふうな不愉快なことよりよっぽど大切なんだ」
「おっしゃることには同意できませんが」と、Kは言った。「しかしそれはどうあろうと、必要もないのに叔父さんを叔母さんからお預かりしていたくはありません。ごく最近に叔父さんに来ていただかなくてはならぬことは前もってわかっているのですから、しばらくはお帰りになりませんか?」
「あしたかい?」
「そうです、明日にでも」と、Kは言った。「あるいは今これから夜行ででも、そうしたらいちばんいいと思うんですが」

底本:「審判」新潮文庫、新潮社
   1971(昭和46)年7月30日第1刷発行
   1990(平成2)年9月5日第37刷発行
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
※編集注にある「以下三三三ページ十六行まで」は、「この朝は、こうした希望が……まったく必要だった。」の段落をさします。
入力:kompass
校正:米田
2010年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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原田義人

城    DAS SCHLOSS      フランツ・カフカ Franz Kafka  —–原田義人訳

第一章

 Kが到着したのは、晩遅くであった。村は深い雪のなかに横たわっていた。城の山は全然見えず、霧と闇《やみ》とが山を取り巻いていて、大きな城のありかを示すほんの微かな光さえも射していなかった。Kは長いあいだ、国道から村へ通じる木橋の上にたたずみ、うつろに見える高みを見上げていた。
 それから彼は、宿を探して歩いた。旅館ではまだ人びとがおきていて、亭主は泊める部屋をもってはいなかったが、この遅い客に見舞われてあわててしまい、Kを食堂の藁《わら》ぶとんの上に寝かせようとした。Kはそれを承知した。二、三人の農夫がまだビールを飲んでいたが、Kはだれとも話したくなかったので、自分で屋根裏から藁ぶとんをもってきて、ストーブのそばで横になった。部屋は暖かく、農夫たちは静かだった。Kは疲れた眼で彼らの様子をうかがっていたが、やがて眠りこんだ。
 だが、それからすぐ起こされてしまった。町方の身なりをした俳優のような顔の、眼が細く眉《まゆ》の濃い一人の若い男が、亭主とともにKのそばに立っていた。農夫たちもまだ残っていて、二、三の者はもっとよくながめて話を聞こうと、椅子をめぐらしている。若い男は、Kを起こしたことをひどくていねいにわびて、自分は城の執事の息子だと名のり、それからいうのだった。
「この村は城の領地です。ここに住んだり泊ったりする者は、いわば城に住んだり泊ったりすることになります。だれでも、伯爵の許可なしにはそういうことは許されません。ところが、あなたはそういう許可をおもちでない。あるいは少なくともその許可をお見せになりませんでした」
 Kは身体を半分起こして、髪の毛をきちんと整え、その人びとを下から見上げて、いった。
「どういう村に私は迷いこんだのですか? いったい、ここは城なんですか?」
「そうですとも」と、若い男はゆっくりいったが、そこここにKをいぶかって頭を振る者もいた。「ウェストウェスト伯爵様の城なのです」
「それで、宿泊の許可がいるというのですね?」と、Kはたずねたが、相手のさきほどの通告がひょっとすると夢であったのではないか、とたしかめでもするかのようであった。
「許可がなければいけません」という答えだった。若い男が腕をのばし、亭主と客たちとに次のようにたずねているのには、Kに対するひどい嘲笑が含まれていた。
「それとも、許可はいらないとでもいうのかな?」
「それなら、私も許可をもらってこなければならないのでしょうね」と、Kはあくびをしながらいって、起き上がろうとするかのように、かけぶとんを押しやった。
「それでいったいだれの許可をもらおうというんですか?」と、若い男がきく。
「伯爵様のですよ」と、Kはいった。「ほかにはもらいようがないでしょう」
「こんな真夜中に伯爵様の許可をもらってくるんですって?」と、若い男は叫び、一歩あとしざりした。
「できないというのですか?」と、Kは平静にたずねた。「それでは、なぜ私を起こしたんです?」
 ところが今度は、若い男はひどくおこってしまった。
「まるで浮浪人の態度だ!」と、彼は叫んだ。「伯爵の役所に対する敬意を要求します! あなたを起こしたのは、今すぐ伯爵の領地を立ち退かなければならないのだ、ということをお知らせするためです」
「道化《どうけ》芝居はたくさんです」と、Kはきわだって低い声でいい、ごろりと横になり、ふとんをかぶった。
「お若いかた、あなたは少しばかり度を越していますよ。あすになったらあなたの無礼についてお話しすることにしましょう。ご亭主とそこの人たちとが証人です。証人なんかが必要としてですがね。だがついでに、私は伯爵が招かれた土地測量技師だということは、よく聞いておいていただこう。器材をたずさえた私の助手たちは、あす車でやってくるのです。私は雪でここにくるのを手間取りたくなかったのだが、残念ながら何度か道に迷ってしまい、そのためにこんなに遅くなってやっと着いたのです。城に出頭するにはもう遅すぎるということは、あなたに教えられないうちから、自分でもとっくに知っていましたよ。だから私はここのこんな宿屋で満足もしたのです。それなのにあなたは、そのじゃまをするという――これはおだやかないいかただが――失敬なことをやられた。これで私のいうことは終りました。おやすみなさい、みなさん」そしてKは、ストーブのほうへぐるりと向きなおった。
「測量技師だって?」と、背後でためらうようにたずねる声が聞こえたが、やがてみんなが黙った。ところが若い男は、まもなく気を取りもどし、Kの眠りに気を使ってはいるといえる抑えた調子ではあるが、彼にも聞き取れるほどには高い声で、いった。
「電話で問い合わせてみよう」
 なに、この田舎宿には電話まであるのか。すばらしい設備をしているものだ。この点ではKは驚いたが、全体としてはもちろん予期したとおりだった。電話はほとんど彼の頭の真上に備えつけられているとわかったが、寝ぼけまなこで見のがしていたのだ。その若い男が電話をかけなければならないとすると、どんなに気を使ったとしてもKの眠りを妨げないわけにはいかないわけで、問題はただKが男に電話をかけさせておくかどうかということだけである。Kはかけさせることに決心した。しかし、そうなるともちろん、眠っているふうをよそおうことは無意味なので、彼は仰向《あおむ》けの姿勢へもどった。農夫たちがびくびくしながら身体をよせ、話し合っているのが見えた。土地測量技師の到着という事件はつまらぬことではなかった。台所のドアが開き、ドアいっぱいにおかみのたくましい姿が立ちはだかった。亭主が彼女に報告するために爪先で歩いて近づいていった。それからいよいよ通話が始まった。執事は眠っていたが、執事の下役の一人のフリッツ氏が電話に出たのだ。例の若い男はシュワルツァーと名のったが、Kを見つけたことを語った。問題の人物は三十代の男で、ひどいぼろを着ており、藁ぶとんの上でゆっくりと眠っていた。ちっぽけなリュックサックを[#「リュックサックを」は底本では「リュックサツクを」]枕にし、ふしのついたステッキを手のとどくあたりに置いている。もちろん、この男は自分にはあやしい人物と思われた。宿の亭主が義務をおこたったらしいので、事を徹底的に調べることが、自分、つまりシュワルツァーの義務と考えた。起こしたことも、訊問《じんもん》をしたことも、伯爵領から追放するといって職務上の戒告を行なったことも、Kのほうはひどく不機嫌な態度で受け取った。それも、最後にわかったことだが、おそらくもっともなことであったらしい。というのは、この男は伯爵様に呼ばれた測量技師だと主張しているのだから。もちろん、そんな主張をもっと検討してみることは、少なくとも形式上の義務ではある。そこで自分シュワルツァーとしてはフリッツ氏にお願いするのだが、こんな測量技師がほんとうにくることになっているものかどうか、本部事務局へきき合わせ、その返事をすぐ電話してもらいたい、ということであった。
 それから静かになった。フリッツがむこうで問い合わせしており、こちらでは返事を待っているわけだった。Kは今までどおりにしていて、一度も振り向いたりせず、好奇心なんか全然ないふうで、ぼんやり前を見ていた。悪意と慎重さとのまじったシュワルツァーの話のしかたは、いわば外交的な儀礼を身につけているといった感じを彼に与えたが、城ではシュワルツァーのような下っぱの者でもそうした儀礼を手軽に使っているのだ。また城の連中は勤勉さにも事欠かなかった。本部事務局は夜勤もやっていた。それですぐさま返事をよこしたらしかった。それというのは、早くもフリッツが電話をかけてきたのだ。とはいえ、この知らせはきわめて短いもののようだった。シュワルツァーが腹を立てて受話器を投げ出したのだ。
「ほら、いったとおりだ」と、彼は叫んだ。「測量技師なんていう話は全然あるものか。卑しい嘘つきの浮浪人なんだ。おそらくもっと悪いやつなんだろう」
 一瞬Kは、シュワルツァーも農夫たちも亭主もおかみも、みんなが自分めがけて押しよせてくるのではないか、と思った。少なくとも最初の襲撃を避けようとして、すっかりふとんの下にもぐりこんだ。そのとき、電話がもう一度鳴った。しかも、とくに強く鳴ったようにKには思われるのだった。彼はゆっくりと頭をもたげた。またもやKについての電話だということはありそうにもなかったのだが、みんなは立ちすくんでしまい、シュワルツァーは電話機のところへもどっていった。彼はそこでかなり長い説明を聞き取っていたが、やがて低い声でいった。
「それじゃあ、まちがいだというんですね? そいつはまったく面白くない話ですよ。局長自身が電話をかけられたんですか? 変だ、変ですね。測量技師さんに私からなんて説明したらいいんです?」
 Kはじっと聞いていた。それでは城は彼を土地測量技師に任命したのだ。それは一面、彼にとってまずいことだった。というのは、そうだとすると城では彼について必要なことをいっさい知っており、いろいろな力関係をすべて計算ずみで、微笑をたたえながら闘いを迎えた、ということになる。だが、他面、好都合でもあった。というのは、それは彼の考えによると、彼が過少に評価されており、そのためにはじめから望みうる以上に自由をもつ、ということを立証するものであった。そして、もしこうやって彼の土地測量技師としての身分を承認して、自分たちがたしかに精神的に上位にいることを示し、それによって長く彼に恐怖の気持を抱かせておくことができる、と思っているのなら、それは思いちがいというものだ。少しばかりぞっとさせられはしたが、それだけの話だ。
 おどおど近づいてくるシュワルツァーにKは合図して、立ち去らせた。亭主の部屋へ移るようにみんなにせき立てられたが、彼はことわって、ただ亭主からは寝酒を、おかみからは石鹸と手拭といっしょに洗面器を受け取った。広間から出ていってくれと要求する必要は全然なかった。あしたになってKにおぼえておられることのないようにと、みんな顔をそむけてどやどやと出ていってしまったのだった。ランプが消され、彼はやっと休むことができた。ほんの一度か二度、走りすぎる鼠《ねずみ》の音にちょっと妨げられただけで、翌朝までぐっすり眠った。
 朝食のあとで――その朝食の費用も、Kのすべての食事同様に、亭主の申し出によって城が支払うということであったが――彼はすぐ村へいこうとした。きのうのふるまいを思い出して亭主とはどうしても必要なことしかしゃべらないでいたのだったが、亭主が無言の哀願をこめていつまでも彼のまわりをうろつき廻っているので、ついかわいそうになり、しばらく身近かに腰をかけさせてやった。
「私はまだ伯爵を知らないが」と、Kはいった。「いい仕事をすればいい金を払ってくれるということだけれど、ほんとうかね? 私のように妻子から遠く離れて旅をすると、帰るときにはいくらかはもち帰りたいものだよ」
「その点なら心配ご無用です。支払いの悪いという苦情は別に聞かれませんから」
「そうかい」と、Kはいった。「私は臆病者の仲間ではないし、伯爵にだって自分の考えをいうことができる。しかし、おだやかに城の人たちと話がつくなら、むろんそのほうがずっとよいからね」
 亭主はKと向かい合って窓ぎわの台に坐り、もっと楽に腰をかけようとはしなかった。そして、大きな褐色の不安げな眼でKをずっとながめつづけていた。はじめは彼のほうからKのところへ押しかけてきたのだったが、今では逃げ去りたいというような様子だった。伯爵のことをきかれるのがこわいのだろうか? Kのことも偉い人と思っているのだが、その「偉い人」たちの信用できないところがこわいのだろうか?
 Kは亭主の気をそらさなければならなかった。彼は時計を見て、いった。
「もうまもなく私の助手たちがくるだろうが、彼らを君のところへ泊めてくれることができるかね?」
「それはもう、旦那」と、彼はいった。「でも、その人たちもあなたといっしょにお城に住むんじゃありませんか?」
 亭主はこんなにあっさりと客たち、ことにKという客を棄ててしまおうとしているのだろうか? Kに対してどうしても城へいけといっているようなものではないか。
「それはまだきまっていないんだ」と、Kはいった。「まず、どんな仕事をさせようとしているのかを知らなければならない。たとえばこの辺で仕事をするというのなら、この辺に住むのがりこうだろう。それにおそらく、上の城のなかで暮らすことは私の性には合わないだろう。私はいつでも自由でいたいよ」
「あなたは城のことを知らないんですよ」と、亭主は低い声でいった。
「そりゃあ、そうさ」と、Kはいった。「早まって判断してはならない。今のところ私が城について知っていることといえば、ただ城の人たちはちゃんとした土地測量技師を見つけ出すことをわきまえているということだけだ。おそらく城にはそのほかにもいろいろすぐれたところがあるだろうがね」そして彼は立ち上がり、落ちつかない様子で唇をかんでいる亭主を自分のところから解放してやろうとした。この男の信頼を得ることはやさしいことではなかった。
 部屋を出ようとして、壁の上の黒い額ぶちにはまった暗い肖像画がKの目にとまった。寝床のなかにいるときから気がついていたのだが、遠くからでは細部がはっきりわからず、ほんとうの絵は額ぶちから取り去られてしまったのであって、黒い裏打ちの布だけが見えているのだ、と思っていた。ところがそれは、今わかってみると、ほんとうに絵であった。およそ五十歳ばかりの男の半身像だ。頭を深く胸の上に垂れているので、ほとんど眼は見えないが、頭を垂れているために重たげな広い額とがっちりした鉤鼻《かぎばな》とがくっきりと目立つ。頭のポーズのために顎《あご》に押しつけられている顔一面の髯は、ずっと下まで突き出ている。左手は、指を拡げてふさふさした頭髪のなかに入れられているが、もう頭をもち上げる力はないという風情《ふぜい》だ。
「あれはだれだい?」と、Kはきいてみた。「伯爵かい?」Kはその絵の前に立ち、亭主のほうは全然振り向かなかった。
「いいえ、執事です」と、亭主がいった。
「城にはりっぱな執事がいるんだね。ほんとうだよ」と、Kはいった。「あんなできそこないの息子をもっているのは残念だけれど」
「いや」と、亭主はいって、Kを少し自分のほうに引きよせて、彼の耳にささやいた。「シュワルツァーはゆうべは大げさなことをいったんですよ。あの男のおやじさんはほんの下級の執事なんです。しかもいちばん下っぱの一人です」この瞬間、Kには亭主がまるで子供のように思われた。
「あん畜生!」と、Kは笑いながらいったが、亭主はそれに合わせて笑おうともせず、こういった。
「あの男のおやじだって力はあるんです」
「くだらない! 君はだれでも力があると思うんだ。私のことなんかもそうだろう?」
「旦那は力があるとは思いません」と、彼はおどおどしながら、しかしまじめくさっていった。
「それなら君は、ちゃんと見る目があるというわけだ」と、Kはいった。「つまり、打ち明けていうと、私にはほんとうに力はないんだよ。そこで力のある人たちにはおそらく君にも劣らず尊敬の気持をもっているのだが、ただ君ほど正直ではないから、いつでもそんなことを口に出していってしまおうとはしないわけさ」
 そしてKは、亭主を慰めてやり、自分にもっと好意をもたせるようにしてやろうとして、亭主の頬を軽くたたいた。すると亭主もやっと少しばかり微笑した。亭主はほんとうに、ほとんど髯のない柔和《にゅうわ》な顔をした若者だった。どうしてこの男があのふとった老《ふ》けたような細君といっしょになんかなったんだろう? その細君といえば、そのときのぞき窓のむこうの台所で、両肘を身体のわきにぐっと突っ張ってせわしく立ち働いているのが見えた。Kは今はもう亭主にやかましいことをいいたくはなかった。やっと手に入れた相手の微笑を追い払いたくはなかったのだった。そこで、ドアを開けるように亭主に合図だけすると、晴れ渡った冬の朝景色のなかへ出ていった。
 今やKは、城が澄んだ空気のなかで上のほうにはっきりと浮かび上がっているのを見た。あらゆるものの形をなぞりながらあたり一面に薄い層をつくって積っている雪のなかで、城はいっそうくっきりと浮かんでいた。ところで上の山のあたりは、この村のなかよりもずっと雪が少ないように見えた。ここの村のほうでは、きのう国道を歩いたときに劣らず、歩くのに骨が折れた。村では雪が小屋の窓までとどいていて、低い屋根の上にも重くのしかかっていたが、上の山のほうではすべてのものがのびのびと軽やかにそびえていた。少なくともここからはそう見えた。
 城は、遠く離れたここから見える限りでは、Kの予期していたところにだいたい合っていた。古びた騎士の山城でもなく、新しい飾り立てた館《やかた》でもなく、横にのびた構えで、少数の三階の建物と、ごちゃごちゃ立てこんだ低いたくさんの建物とからできていた。これが城だとわかっていなければ、小さな町だと思えたかもしれない。ただ一つの塔をKは見たが、それが住宅の建物の一部なのか、それとも教会の一部なのかは、見わけがつかなかった。鴉《からす》のむれがその塔のまわりに輪を描いて飛んでいた。
 Kは城に眼を向けたまま、歩みつづけた。ほかには彼の気にかかるものは何もなかった。ところが、近づくにつれ、城は彼を失望させた。それはほんとうにみじめな小さな町にすぎず、田舎家が集ってつくられていて、ただおそらくどの家も石でつくられているということによってきわだって見えるだけだった。だが、家々の上塗りもずっと前にはげ落ち、石はぼろぼろとくずれ落ちそうに見えた。Kはふと、自分の故郷の町を思い出した。故郷の町も、このいわゆる城なるものにほとんど劣ってはいなかった。Kにとって城を視察するだけが問題であったのなら、この長旅はもったいない話で、それくらいならもう長いあいだいったことのない昔の故郷をもう一度訪ねたほうがりこうというものだったろう。そして彼は、故郷の教会の塔とかなたにそびえる塔とを頭のなかで比べてみた。きっぱりした恰好で、尖端がためらうこともなく上空をめざしていて、屋根は広く、赤瓦につながっているあの故郷の教会の塔。それはたしかに地上の建物だが、――それ以外のものをどうしてわれわれは建てられるだろうか――低い家屋のむれよりはずっと高い目標をもち、陰鬱《いんうつ》な日常の日々がもっているよりはずっと明るい表情をもっていた。ここで上のほうに見える塔は、――それは眼に見えるただ一つの塔だった――今わかってみると、住居の塔、おそらくは城の母屋《おもや》の塔であり、単調な円い建物で、その一部はきづた[#「きづた」に傍点]によってうまく被われていた。小さな窓がいくつかついていて、それが今、太陽の光のなかで輝いていた。――その光景には何か気ちがいめいた趣きがあった――さらに塔の尖端はバルコニー風になっていて、その胸壁が、まるでおどおどした子供の手か投げやりな子供の手で描かれたように、不確かな様子で、不規則に、ぼろぼろに、青空のうちにぎざぎざの輪郭を浮かび上がらせていた。それは、何か正当の理由で家のなかのいちばん離れた建物に閉じこめられねばならなかった悲しい家の住人の一人が、わが身を世間に示そうとして、屋根を突き破り、ぐっと身体を起こしたような恰好だった。
 Kは、立ちどまっているといっそう判断力がもてるというかのように、また立ちどまった。だが、そうはいかなかった。彼が立ちどまっていたそばにある村の教会の裏手に、――それはじつは礼拝堂にすぎなかったが、信者団を容れることができるように、納屋《なや》をつけたような恰好で拡張されたものだった――学校があった。ほんの一時的なものだという性格と、きわめて古いという性格とを奇妙に兼ねている低くて長い建物が、柵《さく》をめぐらした校庭のうしろに立っていた。その校庭は、今は雪野原になっていた。ちょうど子供たちが教師とともに出てきた。子供たちは密集して教師を取り囲み、みんなの眼が教師に向けられて、四方八方から口々に絶え間もなくしゃべり立てていたが、Kには子供たちの早口の言葉が全然聞き取れなかった。教師は、小柄で肩幅の狭い若い男だが、別に滑稽に見えるでもなく身体をひどくきちんと立て、すでに遠くからKを眼のうちに捉えていた。といっても、この教師の一団のほかには、Kがこのあたりにいるただ一人の人間だったのだ。よそ者であるKは、このひどく高圧的な小男に向って、自分のほうから挨拶した。
「こんにちは、先生」と、彼はいった。たちまち子供たちは黙った。この突然の静けさが自分の言葉を迎えるための準備となったので、教師の気に入ったようであった。
「城を見ていらっしゃるんですか?」と、教師はKが予期していたよりはものやわらかにたずねた。だが、Kがそんなことをやっているのに賛成できない、という調子だった。
「そうです」と、Kはいった。「私はよそからきたんです。ゆうべここにきたばかりです」
「城はお気に入らぬでしょう?」と、教師は早口でたずねた。
「なんですって?」と、Kは少しびっくりしてきき返し、それからもっとおだやかな形で問いをくり返した。「城が気に入ったかとおっしゃるんですか? 気に入らないなんて、どうしてお考えになるのです?」
「よその人には気に入らないのです」と、教師がいった。ここで相手に逆らうようなことはいうまいとして、Kは話を変え、きいてみた。
「あなたは伯爵をご存じでしょうね?」
「いや」と、教師はいい、身を転じようとした。だが、Kは追いすがって、もう一度たずねた。
「なんですって? 伯爵をご存じないとおっしゃるんですか?」
「どうして私が伯爵を知っているなんてお思いですか?」と、教師は低い声でいい、フランス語で声高《こわだか》につけたした。
「罪のない子供たちがいることを頭に入れておいてください」Kはその言葉をいいたねにして、たずねた。
「先生、一度あなたをお訪ねしてよろしいでしょうか? 私はしばらくこの土地にいるのですが、もう今から少し心細い気がするんです。私は農夫の仲間でもないし、城の人間でもないんです」
「農夫と城とのあいだには、たいしてちがいはありませんよ」と、教師はいった。
「そうかもしれません」と、Kはいった。「でも、それは私の状態を変えはしません。一度お訪ねしてよろしいですか?」
「私はスワン街にある肉屋に住んでいます」
 これは招待するというよりは、住所をいったまでのことだったが、それでもKはいった。
「わかりました。伺います」
 教師はうなずき、またもや叫び声を上げ始めた子供たちのむれといっしょに、立ち去っていった。彼らはまもなく急な坂になっている小路のうちに消えた。
 Kのほうはぼんやりしてしまい、今の対話で気分をそこねていた。到着以来はじめて、ほんとうの疲労というものを感じた。ここにくるまでの遠い道が彼を疲れさせたなどとは思われなかった。どんなに何日ものあいだ、冷静に一歩一歩とさすらいつづけてきたことか!――ところが今や、過度の緊張の結果が現われたのだった。もちろん、はなはだまずいときにである。新しい知合いを探そうという気持が、逆らいがたく彼の心をひいていた。しかし、新しい知合いのできるごとに、疲労は強まっていく。きょうの状態では、少なくとも城の入口まで無理に散歩の足をのばそうとすれば、もう手にあまるほどの骨折り仕事だった。
 こうして彼は歩みをつづけていった。しかし、長い道であった。つまり、村の大通りであるこの通りは、城のある山へは通じてはいなかった。通りはそこの近くへ通じているだけであり、次にまるでわざと曲がるように曲がってしまっていた。そして、城から遠ざかるわけではないのだが、近づきもしなかった。これでやっと通りは城のほうへ入っていくにちがいない、とKはいつでも期待するのだった。そして、そう期待すればこそ、歩みをつづけていた。疲労のために、この道をいくのをやめることをためらっているようであった。どこまでいっても終ろうとしないこの村の長さに彼は驚いてもいた。次から次へと小さな家々と凍《い》てついた窓ガラスと雪とがつづき、人気《ひとけ》はさっぱりなかった。――とうとうこのしつっこい通りから身体を引きちぎるようにして離れ、狭い小路へと入っていった。そこは雪がいよいよ深く、沈んでいく足を抜き出すことはむずかしい仕事で、汗がどっとふき出てきた。彼は突然立ちどまり、もうこれ以上は歩みをつづけられなくなった。
 といって、彼はただひとり見捨てられてしまったわけではなかった。右にも左にも農家が立っていた。彼は雪の玉をつくって、とある窓へ投げつけた。すぐにドアが開き、――これは村の道を歩いているあいだに最初に開いたドアであった――褐色の毛皮の上衣を着た老人の農夫が、頭をわきにかしげて、親しげに、またよわよわしい様子で、そこに立っていた。
「少しあなたのところへよらせて下さいませんか」と、Kはいった。「とても疲れているんです」
 彼は老人のいうことを全然聞いていなかったが、板が自分のほうにさし出されたのをありがたく受けた。板はすぐに彼を雪から救い出してくれた。二、三歩で彼は部屋のなかに立った。
 薄暗い光のなかにある大きな部屋だった。戸外から入ってくる者には、はじめは何も見えなかった。Kは洗濯バケツにぶつかってよろめいた。女の手が彼の身体を押しとどめた。片隅からやかましい子供たちの叫び声がきこえてきた。もう一方の隅から煙が巻き上がり、薄明りをほんとうの暗がりに変えていた。Kはまるで雲のなかに立っているようだった。
「酔っ払っているんだ」と、だれかがいった。
「あんた、だれだね?」と、偉そうな声が叫んだが、老人に向けられたらしかった。「なぜその男をつれこんだんだ? 小路をのろのろ歩いているやつは、みんなつれこんでいいのか?」
「私は伯爵の土地測量技師です」と、Kはいって、なおも姿の見えない者に向って言いわけしようとした。
「ああ、測量技師なのね」と、一人の女の声がいい、それから完全な沈黙がつづいた。
「あなたがたは私をご存じなんですね?」と、Kはたずねた。
「知っていますとも」と、短く同じ声がいった。Kを知っているということは、そうかといってKに対して好感をもたせてはいないようだった。
 やっと煙が少し消え、Kはおもむろに様子がわかってきた。いっせいに洗濯する日らしかった。ドアの近くでは下着の洗濯をやっていた。ところが煙はもう一方の隅からきていて、その隅ではKがこれまでに見たこともないような大きな木のたらいのなかで――そのたらいはおよそベッド二つ分ほども大きかった――湯気を立てている湯に二人の男が入浴していた。しかし、もっと驚くべきものは、どういう点が驚くべきかははっきりとはわからなかったのだが、右手の隅であった。そこでは部屋の裏壁にあるただ一つの大きな隙間《すきま》を通して、おそらく内庭からくるのだろうが、青白い雪明りが射しこんできて、部屋の隅の奥深くの背の高い肘掛椅子に疲れはてて横にならんばかりに坐っている一人の女の衣服に、絹のつやのような光を与えていた。女は乳呑児《ちのみご》を胸に抱いている。女のまわりには、見ただけで農夫の子供たちとわかるような二、三人の子供たちが遊んでいた。しかし、女はこの子供たちの母親とは見えなかった。もちろん、病気と疲労とは農夫をさえも繊細らしく見せるものだ。
「かけなさい」と、男たちの一人がいった。それは顔一面に髯《ひげ》を生やし、その上、口髭《くちひげ》までつけた男で、その口髭の下で荒い息をしながらいつでも口を開けたままにしているのだが、この男がおどけてみせようとして、たらいの縁ごしに手で長持を示しながら、湯をKの顔いっぱいにはねかけた。長持にはすでに、ぼんやり考えこんだようにして、Kをつれこんだ老人が腰をかけていた。Kは、やっと腰をかけてよいといわれたのがありがたかった。もうだれ一人として彼のことを気にかける者はいなかった。洗濯バケツのそばの女は、髪はブロンドで、若々しくぴちぴちしていたが、仕事をしながら低い声で歌っている。入浴している二人の男は、足を踏みならしたり、身体を向き変えたりしており、子供たちはこの男たちに近づこうとするが、Kにもとばっちりがこないではいない勢いのいいしぶきで追い払われた。肘掛椅子の女は死んだように身体を横たえ、胸の子供を少しも見ようともしないで、漠然と空《くう》をながめていた。
 Kはおそらく、この変化しない美しい悲しげな女の姿を長いあいだ見つめていたのだったろうが、やがて眠りこんでしまったにちがいなかった。というのは、高い声に呼ばれてはっと眼をさましたときに、彼の頭は隣りに坐っている老人の肩の上にのっていたのだった。男たちは入浴を終えた。湯のなかでは、ブロンドの女に世話されながら、今度は子供たちがあばれ廻っていた。湯から上がった男たちは、衣服を着てKの前に立った。わめき立てる髯面《ひげづら》の男は、二人のうちでつまらぬほうの男であるとわかった。つまり、もう一方の男は髯面の男よりも大きいわけでなく、ずっと髯は少なかったが、もの静かな、ゆっくりとものを考える男で、身体つきがゆったりとし、顔の幅も広く、頭を垂れたままでいた。
「測量技師さん」と、男がいった。「あなたはここにいるわけにはいきません。ご無礼はお許しください」
「私もとどまるつもりはなかったのです」と、Kはいった。「ただちょっと休ませていただこうと思ったのでした。もうすみましたから、出かけましょう」
「おそらくこんなひどいおもてなしに驚いておられるでしょうね」と、男はいった。「しかし、お客をもてなすということは、私どものこの土地では慣《なら》わしではないので。私どもはお客はいらないのです」
 眠ったことでいくらか元気を回復し、前よりか少し耳もはっきり聞こえるようになったKは、この率直な言葉を悦《よろこ》んだ。彼はずっと自由に身体を動かし、ステッキをあるいはここ、あるいはあそこというふうにつきながら、肘掛椅子の女のほうに近づいていった。それにKは、身体からいってもこの部屋ではいちばん大きかった。
「そうですとも」と、Kはいった。「どうしてあなたがたは客がいりましょう。でもときどきは客も必要ですよ、たとえばこの私のような土地測量技師をね」
「そんなことは知りませんよ」と、男はゆっくりといった。「あなたを呼んだのなら、おそらくあなたが必要なんでしょうよ。それはきっと例外なんです。しかし、私たち身分の低い者たちは、規則をきちんと守ります。その点は悪く思ってもらっては困ります」
「いや」と、Kはいった。「私はあなたやここのみなさんにお礼をいわなければならないくらいです」そして、だれにとっても思いがけないことだったが、Kはあざやかに身をひるがえし、女の前に立った。疲れた青い眼で女はKを見つめた。絹の透明な頭巾《ずきん》が額のまんなかまで垂れ下がり、乳呑児が胸のなかで眠っていた。
「君はだれです?」と、Kはきいた。
 さげすむように――その侮蔑《ぶべつ》がKに向けられたのか、それとも自分自身の答えに向けられたのか、それははっきりはしなかったが――彼女はいった。
「城の娘ですわ」
 これがほんの一瞬のことであった。早くもKの左右には例の男のそれぞれが立ち、まるでこのほかにわからせる手段はないとでもいうかのように、黙ったまま、しかし力いっぱいにKをドアのところへ引っ張っていった。何がおかしいのか、老人がそのとき大悦びで、手をたたいた。洗濯女も、突然気がちがったようにさわぎ立てている子供たちのわきに立って、笑った。
 しかし、Kはまもなく小路に立っていた。男たちは戸口のところからKを監視している。また雪が降ってきた。それでも少しは明るくなったように思われた。髯面の顔がいらいらして叫んだ。
「どこへいこうっていうのかい? こっちは城へいくんだし、こっちは村へいくんだ」
 Kはその男には返事をしなかった。で、この男よりはまさってはいるけれども、もったいぶっているやつだとKには思われるほうの男に向って、こういった。
「あなたはなんというかたで? 休ませていただいたお礼はどなたに申し上げたらいいんです」
「なめし革屋のラーゼマンです」という返事だった。「でも、あなたはだれにも礼などいう必要はありませんよ」
「そうですか」と、Kはいった。「おそらくまたお会いできるでしょう」
「できないと思いますね」と、男はいった。
 この瞬間、髯面のほうが手を上げて叫んだ。
「こんにちは、アルトゥール! こんにちは、イェレミーアス!」
 Kは振り返った。それではこの村の小路にもやはり人間が現われるのだ! 城の方角から二人の中背の若者がやってきた。二人ともひどく痩せていて、ぴったりした服を着ており、顔もひどく似ていた。顔の色は暗褐色だが、とがった髯がかくべつ黒いのできわ立っていた。二人は、通りがこんな有様なのに驚くほど足早に歩き、歩調をとりながら細い足を動かしていた。
「どうしたんだい?」と、髯面の男が叫んだ。叫ばなければ二人には話が通じなかったのだ。それほど足早に歩いており、立ちどまりもしなかった。
「仕事さ!」と、二人は笑いながら叫び返してきた。
「どこでだい?」
「宿屋でさ」
「私もそこへいくんだ!」と、Kは突然ほかのだれよりも大声で叫んだ。二人につれていってもらいたい、とひどく望んだのだった。この男たちと知合いになることはたいして有利だとも思われなかったのだが、元気をつけてくれるよい道づれであるようには思えた。二人はKの言葉を聞いたが、ただうなずいただけで、いき過ぎてしまった。
 Kはなおも雪のなかに立っていた。雪から足を上げ、次にまた少し前の深い雪へその足を沈める気にはほとんどなれなかった。なめし革屋とその仲間とは、Kをさっぱりと追い払ったことに満足して、たえずKのほうを振り返りながら、ほんの少しばかり開いているドアを通って家のなかへゆっくりと身体を押しこんだ。そして、Kは身を包んでいく雪のなかにただひとりになっていた。
「もしおれがただ偶然、そしてこうしようというつもりでなくここに立っているのなら、ちょっとばかり絶望するところだな」と、そんなことが彼の頭に思い浮かんだ。
 そのとき、左手の小屋でちっぽけな窓が開いた。閉まっているときは、それは濃い青色に見えていた。おそらく雪の反射を受けていたからだろう。あんまりちっぽけなので、開かれた今となると、のぞいている者の顔の全体は見えず、眼だけが見えた。老人の褐色の眼だった。
「あそこに立っているよ」と、ふるえるような女の声がいうのをKは聞いた。
「あれは測量技師だよ」と、男の声がいった。それから男のほうが窓のそばに出てきて、それほどぶっきらぼうにではなくKに問いかけてきたが、自分の家の前の通りで起こることは万事きちんとしていることが大切だ、というような調子だった。
「だれを待っているのかね?」
「乗せてくれるそりを待っているんだ」と、Kはいった。
「ここにはそりはきませんよ」と、男はいった。「ここには乗りものは通りませんよ」
「だって、これは城へ通じる道じゃないか」と、Kは異論を挾んだ。
「なに、それでも」と、男はある頑固さをもっていった。「ここには乗りものは通りませんよ」
 それから二人は沈黙した。だが、男は何か考えているらしかった。というのは、煙の流れ出てくる窓をまだ開け放しのままにしているのだった。
「ひどい道だ」と、Kは男に助け舟を出すようにいった。しかし、男はただこういうだけだった。
「むろんそうでさあ」
 だが、しばらくして男はいった。
「お望みならば、わしがあんたをわしのそり[#「そり」に傍点]でつれていってあげるがね」
「どうかそうしてくれないか」と、Kは悦んでいった。「いくらくれろというんだね」
「一文もいらないよ」と、男がいう。
 Kはひどく不思議に思った。
「なにしろあんたは測量技師だからな」と、男は説明するようにいった。「で、お城の人というわけさ。ところで、どこへいきなさるのかね?」
「城へだよ」と、Kはすぐに答えた。
「それじゃあ、いかないよ」と、男はすぐさまいった。
「でも、私は城の者だよ」と、Kは男自身の言葉をくり返していった。
「そうかもしれないが」と、男は拒絶するようにいった。
「それじゃあ、宿屋へつれていってくれないか」と、Kはいった。
「いいとも」と、男がいった。「すぐそり[#「そり」に傍点]をもってくるよ」
 こうしたすべては、かくべつ親切だという印象を与えるものではなく、むしろ、Kをこの家の前の広場から追っ払ってしまおうという、一種のひどく利己的で小心な、そしてほとんどひどくこだわっているような努力をしているのだ、という印象を与えるものであった。
 庭の門が開き、弱そうな小馬に引かれた、座席などはない、まっ平らな、軽い荷物用の小さなそり[#「そり」に傍点]が出てきた。そのあとから男が出てきたが、腰をかがめ、よわよわしそうで、びっこをひき、痩せた、赤い、鼻風邪をひいたような顔をしていた。その顔は、頭のまわりにしっかと巻いた毛のショールのために、かくべつ小さく見えた。男は明らかに病気で、ただKを追い払うことができるようにというので、出てきたのだった。Kはそんな見当のことをいってみたが、男は手を振って押しとどめた。この男が馭者《ぎょしゃ》のゲルステッカーという者であり、この乗り心持の悪いそり[#「そり」に傍点]をもってきたのは、ちょうどこれが用意されていたからで、ほかのそり[#「そり」に傍点]を引き出すのならばあまりに時間がかかっただろう、ということだけをKは聞かされた。
「おかけなさい」と、男はいって、鞭でうしろのそり[#「そり」に傍点]を示した。
「君と並んで坐ろう」と、Kはいった。
「わしは歩くよ」と、ゲルステッカーがいった。
「いったいなぜだい?」と、Kはたずねた。
「わしは歩くよ」と、ゲルステッカーはまた同じ言葉をいい、咳の発作《ほっさ》を起こした。発作のために身体がひどくふるえるので、足を雪のなかにふん張り、両手でそり[#「そり」に傍点]のへりにつかまらないでいられなかった。Kはそれ以上一こともいわないで、うしろのそり[#「そり」に傍点]に腰を下ろした。咳はおもむろに鎮まり、二人は出かけた。
 Kが今日のうちにいけると思ったあの上のほうの城は、すでに奇妙に暗くなっていたが、またもや遠ざかっていった。しばしの別れのためにKに合図をしなければならぬとでもいうかのように、城では鐘の音が、悦ばしげに羽ばたくような調子で鳴りわたった。胸が漠然《ばくぜん》と慕っているものの実現するのが近そうなことを告げるかのように、――というのは、その響きは胸に痛みをおぼえさせるのだった――少なくとも一瞬のあいだは胸をゆするような鐘の音であった。しかし、まもなくこの大きな鐘の音も沈黙して、別な弱い単調な小さな鐘の音にとってかわられた。その鐘の音は、おそらくやはり上のほうからくるのだろうが、おそらくもう村に入ったあたりで鳴っているのであった。もちろん、この鐘の響きのほうが、のろのろしたそり[#「そり」に傍点]の歩みと、見すぼらしいが頑固でもあるこの馭者とに、いっそうぴったりするものだった。
「君」と、Kは突然叫んだ。――彼らはもう教会のそばまできていて、宿屋へいく道ももはや遠くはなかったので、Kは今は何かいってみることもできるのだった――「君が自分の責任であえて私を乗せてくれるとは、どうも驚いたことだね。そんなことをやっていいのかね?」
 ゲルステッカーは、その言葉を気にもとめずに、小馬と並んで静かに歩みつづけていった。
「おい!」と、Kはそり[#「そり」に傍点]の上でいくらかの雪を丸め、それをゲルステッカーの耳へ命中させた。すると相手は立ちどまり、振り向いた。だが、Kは男をこう身近かにながめると――そり[#「そり」に傍点]は少しばかり前方へ進んでいたからだ――この腰のかがんだ、いわば虐待されている姿、赤い、疲れた、痩せこけた顔、一方は平らで、一方は落ちくぼんだ、なんとなく不ぞろいな両頬、二、三本のまばらな歯だけが残っている、もの問いたげにぽかんと開けた口、そうしたすべてを身近かにながめると、Kはさっきは悪意からいったことを、今度は同情の気持からくり返さないではいられなかった。つまり、Kを運んだことで、ゲルステッカーが罰せられることがないだろうか、ときかないでいられなかったのだ。
「なんだっていうんです?」と、ゲルステッカーはわけもわからずにきいたが、それ以上Kの説明は期待しないで小馬に声をかけた。そして、彼ら二人は先へ進んでいった。

第二章

 二人がほとんど宿屋の近くまでやってきたとき、――Kには道の曲り角でそれとわかった――Kが驚いたことには、もうすっかり暗くなっていた。そんなに長いあいだ出かけていたのだろうか? 彼の計算ではほんの一、二時間ぐらいのはずだった。それに、出かけたのは朝だったし、ものが食べたいという気も全然しなかった。ほんの少し前まではずっと変わらぬ日中の明るさだったのに、今は急に暗くなっている。「日が短いんだ、日が短いんだ!」と、彼は自分にいって聞かせ、そりからするりと降りて、宿屋のほうへ歩いていった。
 都合よく、亭主が宿の小さな正面階段の上に立っており、ランタンをかかげて彼のほうを照らしていた。ふと馭者のことを思い出して、Kは立ちどまった。どこか暗闇《くらやみ》のなかで咳の音がした。それが馭者だ。そうだ、近いうちにまた会うことだろう。かしこまってお辞儀をする亭主のところへ上がっていったとき、ドアの両側にそれぞれ一人ずつの男が立っているのに気づいた。彼は亭主の手からランタンを取ると、二人の男を照らした。さっき出会った例の男たちで、アルトゥールとイェレミーアスと呼ばれていた者たちだった。二人は今度は軍隊式の敬礼をした。自分の軍隊時代という幸福な時代のことを思い出しながら、Kは笑った。
「君たちは何者なんだい?」と、彼はたずね、一人からもう一人のほうへと眼をやった。
「あなたの助手です」と、二人が答えた。
「これは助手さんたちですよ」と、亭主が低い声で裏づけをするようにいった。
「なんだって?」と、Kはきいた。「君たちが、くるようにいいつけておいた、あの私が待っている古くからの助手だって?」
 二人はそうだという。
「それはいい」と、ほんの少したってからKはいった。「君たちがきたのはありがたい」
「ところで」と、Kはさらに少し間をおいてからいった。「君たちはひどく遅れてやってきた。君たちはひどくずぼらだな」
「道が遠かったんです」と、一人がいった。
「道が遠かったって?」と、Kはくり返した。
「でも私は、君たちが城からやってくるのに出会ったじゃないか」
「そうです」と、二人はそれ以上の説明はつけないでいった。
「器材はどこにあるんだい?」と、Kがきいた。
「何ももっていません」と、二人がいった。
「私が君たちにまかせた器械だよ」と、Kはいった。
「何ももっていません」と、二人はくり返した。
「ああ、なんていう連中なんだ!」と、Kはいった。「土地の測量についていくらか知っているのかい?」
「いいえ」と、二人はいう。
「でも、君たちが私の昔からの助手なら、知っているはずだよ」と、Kはいった。二人は黙っている。
「まあ、入れよ」と、Kはいって、二人をうしろから押して、家のなかへ入れた。
 それから彼らは三人そろって、かなり無口のまま食堂の小さなテーブルでビールを飲んだが、Kがまんなか、左右にその助手たちが坐った。彼ら三人のほかには、ゆうべと同じようにただ一つのテーブルが農夫たちに占められているだけだった。
「君たちとつき合うのはむずかしいね」と、Kはいって、これまで何度もやったように二人の男を見くらべた。「どうやって君たちを区別したらいいんだろう? 君たちがちがっているのは名前だけで、そのほかはまるで似ている、まるで……」と、いいかけたが、つまってしまい、思わずこうつづけた。「そのほかはまるで似ている、まるで二匹の蛇みたいだよ」
 二人はにやりとした。
「でも、普通は私たちをよく見わけてくれますよ」と、彼らは弁解していった。
「それはそうだろう」と、Kはいった。「私自身がそれを目撃したのだからね。しかし、私は自分の眼でものを見ているわけだ。ところがその眼が君たちを見わけられないのだよ。だから私は君たちをただ一人の人間のように扱い、二人ともアルトゥールと呼ぶことにしよう。たしか君たちの片方がそういう名前のはずだね。君のほうだろう」と、Kは片方の男にきいてみた。
「ちがいます」と、その男はいった。「イェレミーアスっていいます」
「どっちだっていいさ」と、Kはいって、「私は君たち二人をアルトゥールと呼ぶよ。私がアルトゥールをどこかへやるといったら、君たち二人がいくのだ。アルトゥールに何か仕事を与えたら、君たち二人がそれをやるのだ。君たちをちがった仕事に使うことができないというのは、なるほど私にとってはひどく不便だが、そのかわり、私が君たちに頼むすべてのことに、区別なしでいっしょに責任を負ってもらうという利点がある。君たちがどういうふうに仕事の割り振りをするかということは、私にはどうでもいい。ただ、おたがいに言いのがれをいってはいけないよ。君たちは私にとっては一人の人間なのだから」
 二人はいわれたことを考えていたが、こういった。
「それは私たちにはほんとに不愉快ですが」
「そのはずだよ」と、Kはいった。「もちろん君たちには不愉快にちがいないが、そうすることにきめたんだ」
 すでに少し前からKは、一人の農夫がテーブルのまわりを忍び歩きしているのを見ていたが、その男はついに決心して片方の助手のほうへ近づき、何かささやこうとした。
「ちょっと失敬」と、Kはいって、手でテーブルの上をたたき、立ち上がった。
「これは私の助手たちです。今、われわれは話をしているところです。だれもじゃまをする権利はないはずですよ」
「これは、これは、失礼」と、農夫はおどおどしながらいい、後しざりして自分の仲間のほうへもどっていった。
「このことは君たちに何よりもまず注意してもらいたいが」と、Kは腰を下ろしながらいった。「君たちは私の許可なしでだれとも口をきいてはいけない。私はここではよそ者だ。そして、君たちが私の昔からの助手だというのなら、君たちもよそ者のはずだ。だからわれわれ三人のよそ者は、団結しなければならない。さあ、君たちの手を渡したまえ」
 あまりにも素直に二人はKに手をさし出した。
「そんな手はひっこめたまえ」と、Kはいった。「約束の握手はしないが、私の命令はいったとおりだよ。私はもう寝るが、君たちもそうするようにすすめておく。きょうは一日仕事をさぼってしまったから、あすは仕事を朝早く始めなければならない。君たちは城へ乗っていくそり[#「そり」に傍点]を用意し、六時にここの家の前にそり[#「そり」に傍点]をもってきておかなければいけないよ」
「わかりました」と、一方の男がいった。ところが、もう一方が言葉をはさんできた。
「お前、わかりましたっていうが、できないっていうことはわかっているじゃないか」
「黙っていろ」と、Kはいった。「君たちはもう、たがいに別な人間になりたがっているんだね」
 ところが、最初の男が早くもいうのだった。
「こいつのいうことはもっともです。できませんねえ。許可なしではよそ者は城へは入れません」
「どこにその許可を願い出なければならないんだい?」
「知りませんが、おそらく執事のところでしょう」
「それなら、そこへ電話をかけて願い出ることにしようじゃないか。すぐ執事に電話をかけること。二人でだ!」
 二人は電話機のところへかけていき、電話をつないだ。――なんという恰好で二人は電話のところで押し合いをやっていることだろう! 外見は二人とも滑稽なくらい従順だった――そして、Kが自分たちといっしょにあした城へいってもいいか、ときいた。「いけない!」という返事がテーブルにいるKのところまで聞こえてきた。ところが、返事はもっとくわしいもので、次のようにいっていた。
「あすも、ほかのときも、いけない」
「私が自分で電話してみよう」と、Kはいって、立ち上がった。Kとその二人の助手とは、これまでは例の一人の農夫が演じた一幕を除くと、ほとんど人びとから注意を向けられていなかったのだが、Kのその最後の言葉はみんなの注意をひいたのだった。みんながKとともに立ち上がり、亭主が彼らを押しもどそうと努めたのにもかかわらず、電話機のところでKを取り巻いて小さな半円をつくった。彼らのあいだでは、Kが全然返事をもらえないのだろうという意見が優勢であった。Kは、自分はなにも君たちの意見を聞くことを要求しているのではないのだから、静かにしてくれ、と頼まないではいられなかった。
 受話器からはぶんぶんいう音が聞こえてきた。Kはこれまでに電話でこんな音を聞いたことがなかった。まるで無数の子供の声のざわめきから――しかし、このざわめきもじつはざわめきではなく、遠い、遠い声が歌っている歌声のようだったが――このざわめきから、まったくありえないようなやりかたでただ一つの高くて強い声がつくり上げられるようであり、耳を打つその声は、ただ貧弱な聴覚よりももっと奥深くにしみとおることを要求するかのようであった。Kは、電話もかけないでその声をじっと聞いていた。左腕を電話台に託したまま、耳を傾けていた。
 どれくらいのあいだそうしていたのか、Kにはわからなかった。亭主が上衣を引っ張って、彼に使いの者がきた、というまで、そうしていた。
「じゃまだ!」と、Kは思わず叫んだが、おそらく電話へどなってしまったらしかった。というのは、だれかが電話に出たのだった。そして、次のような対話の運びとなった。
「こちらはオスワルトですが、そちらはどなた?」と、その声が叫んだ。きびしそうな、高慢な声で、ちょっとした言葉の誤りがあるようにKには思われた。その声は、きびしそうな調子をさらに加えることによって、そうした言葉の誤りを打ち消してしまおうとしていた。Kは、自分の名前をいうことをためらった。電話に対しては彼は無防備であり、相手は大きな声で彼をおどしつけることもできるし、受話器を投げ出すこともできるのだった。そうすれば、Kはおそらく、まんざらつまらないものでもない自分の進路をみずから遮断《しゃだん》してしまうことになるだろう。Kのためらいが相手の男をいらいらさせた。
「そちらはどなたです?」と、相手はくり返し、こうつけ加えた。「そちらからあんまり電話をかけてよこさないと、私にはありがたいのですが。ついさっきも電話がかかってきましたよ」
 Kはこの言葉にはおかまいなしに、突然決心してこういった。
「こちらは測量技師さんの助手です」
「どの助手ですか? だれですか? どの測量技師ですか?」
 Kはきのうの電話の対話を思い出した。
「フリッツにきいて下さい」と、Kはぶっきらぼうにいった。彼自身驚いたのだが、これがよかった。だが、それがよかったこと以上に、城の事務が一貫していることに驚いてしまった。返事はこうであった。
「もう知っています。永遠の測量技師ですね。そう、そう。で、それから? なんという助手です?」
「ヨーゼフです」と、Kはいった。彼の背後で農夫たちのつぶやく声が少しばかりじゃまになった。彼らは、Kがほんとうの名前をいわなかったことに承知できないらしかった。しかし、Kはその連中などに気を使っている暇はまったくなかった。というのは、電話の話が彼の緊張をひどく要求するのだった。
「ヨーゼフ?」と、きき返してきた。「助手たちは」――ちょっと間があった。その名前をだれかにきいているらしかった――「アルトゥールとイェレミーアスというはずだ」
「それは新しい助手たちです」と、Kはいった。
「ちがう。昔からのだ」
「新しい助手です。私は昔からの助手で、測量技師さんのあとを追ってきょうついたんです」
「ちがう!」と、相手は叫んだ。
「では、私はだれなんです?」と、Kは今までのように落ちついてたずねた。すると、間をおいてから、同じ声が同じような言葉の誤りをしながらいうのだった。しかし、まるで別なもっと深い、もっとおごそかな声であった。
「君は昔からの助手だ」
 Kはその声の響きに聞き入っていて、次のような問いをほとんど聞きもらしてしまった。「用件は?」という問いだった。なんとかして受話器を投げ出してしまいたかった。もうこんな対話に何も期待はしていなかった。ただ、せっぱつまって、早口でこういった。
「私の主人はいつ城へいったらいいのでしょうか?」
「いつでもだめだ」という返事だった。
「わかりました」と、Kはいって、受話器をかけた。
 彼のうしろの農夫たちはもう彼のすぐ近くまで押しよせてきていた。二人の助手は、しきりと彼のほうを横目でうかがいながら、農夫たちをKから遠ざけようと懸命になっていた。しかし、それはただの喜劇にすぎないように見えたし、農夫たちも電話の対話の結果に満足して、のろのろと退いていった。そのとき、農夫たちのむれはうしろから足早にやってくる一人の男にかきわけられた。その男はKの前でお辞儀をして、一通の手紙を渡した。Kはその手紙を手に取ったまま、その男をじっと見つめた。その男は、その瞬間、ほかの連中よりも重要そうな人間に見えたのであった。男と二人の助手とのあいだには大きな類似があった。二人と同じようにほっそりしていて、同じようにきちんとした服を着ており、また同じようにしなやかで敏捷《びんしょう》であった。だが、まったくちがってもいた。この男を助手にできたらいいんだがなあ、とKは思った。男はKに、なめし革職人のところで見た、乳呑児を抱いていた女のことを少しばかり思い出させた。ほとんど白ずくめの身なりをしており、衣服はきっと絹でつくったものではなく、ほかの連中のと同じように冬服だが、まるで絹の服のようなしなやかさとはなやかさとをもっていた。男の顔は明るくてわだかまりもなさそうであり、眼がひどく大きかった。彼の微笑はなみなみでなく人の心を明るくさせるものがあった。まるでこの微笑を追い払おうとするかのように、手で顔の上をなでたが、微笑を消すことはその男にはうまくできなかった。
「君はだれかね?」と、Kはきいた。
「バルナバスといいます」と、男はいった。「使いの者です」
 男の唇は、ものをいうとき、男らしくではあるがものやわらかに、開いたり、閉じたりした。
「ここの様子は気にいったかね?」とKはきき、農夫たちを指さした。その農夫たちにとってKはまだ関心のまとでなくなってはいなかったのだが、彼らは明らかに苦しげな顔つきで――頭蓋骨はてっぺんを平たくたたきつぶされたように見えたし、顔の表情がたたかれる苦痛のうちにできあがったようであった――厚ぼったい唇とぽかんと開けた口とを見せながら、Kのほうを見ていた。しかしまた、彼のほうを見てはいないのでもあった。というのは、彼らの視線はときどきあらぬかたへと向けられ、もとへもどる前に、何かどうでもいい対象にじっととどまっているのだった。それからKは、助手たちのほうも指さしたが、二人はたがいに抱き合って、頬と頬とをよせ、従順なのか嘲笑的なのかわからなかったが、薄笑いを浮かべていた。Kはこれらの連中みんなを、まるで特別の事情で自分に押しつけられた従者を紹介するような調子で男に示し、このバルナバスが自分とこの連中とをはっきり区別するだろう、と期待した。そのなかにはこの男に対する親しさが含まれていたが、その親しさの気持こそKにとっては大切なものであった。ところがバルナバスは――もちろん、これはひどく無邪気なものであり、それははっきりとわかったが――この問いかけをまったく取り上げず、まるで良いしつけを受けた召使が、主人のただうわべだけは命じたように見える言葉をやりすごすような調子で受け流し、ただ問いかけに答えるようなそぶりであたりを見廻して、農夫たちのあいだの知人に手ぶりで挨拶し、二人の助手とは一、二の言葉を交わした。これらの態度はすべて自由で自主的であり、この連中のなかにとけこむことはなかった。Kは――はねつけられたが、恥かしい思いはさせられずに――手にした手紙へ注意をもどし、それを開いた。手紙の文句は次のようだった。
「拝啓。すでにご存じのように、あなたは領主の仕事に採用されました。あなたのすぐ上に立つ上役はこの村の村長で、この人があなたの仕事と報酬条件とについていっさいのくわしいことをお知らせするでしょう。また、あなたはこの村長に報告の義務を負います。しかし、私もやはりあなたを眼から放さないでしょう。この手紙を伝達するバルナバスは、ときどきあなたの希望を聞くためにあなたのところへいき、それを私に伝えるでしょう。私はできるだけあなたの意に添う用意があるものとご承知下さい。働く者が満足しているということこそ、私の関心事であります」
 署名は読めなかったが、署名のそばに「X官房長」と印刷されていた。
「待ってくれ」と、Kはお辞儀をしているバルナバスにいい、自分に部屋を見せるように、宿の亭主にいいつけた。この手紙のことを考えるためにしばらくひとりになりたかったのだった。ところで、バルナバスは彼にひどく気に入ってはいたが、ただの使いにすぎないのだ、ということを思い出し、この男にビールをやるように命じた。男がビールをどんなふうに受け取るだろうか、とKは注意して見ていたが、彼は明らかにひどく悦んでそれを受け取り、すぐに飲んでしまった。それからKは亭主といっしょに出ていった。この小さな家にはKのためといってもただ小さな屋根裏部屋が用意できるだけであり、それさえもいろいろな困難があった。というのは、それまでその部屋に寝ていた二人の女中をほかへ住まわせなければならなかったのだ。実をいうと、ただ二人の女中を追い払っただけの話で、そのほかには部屋は少しも変わらず、たった一つのベッドにシーツ一枚あるわけでなし、ただ一、二枚のクッションと馬の鞍被《くらおお》い一枚とが、ゆうべ置き去りにされたままの状態で残されているだけであった。壁には一、二枚の聖人の絵と兵隊の写真とがかかっていた。風を入れた形跡もなかった。どうも新しい客が長くはいないと思っていたらしく、客を引きとめるために何一つやってはなかった。しかし、Kは万事承知して、毛布で身体をくるみ、机に腰を下ろして、一本の蝋燭《ろうそく》をたよりに手紙を読み始めた。
 手紙はまとまりがなく、自由意志をみとめられた自由な人間に話すようにKに語りかけている個所があった。上書きがそうで、彼の希望に関する個所がそうだった。ところが一方、あけっ放しにか遠廻しにか、彼が例の官房長の地位からはほとんど目にとまらぬちっぽけな一労働者として扱われている個所があった。官房長は「彼を目から離さない」よう努める、というのだが、彼の上役は村長にすぎず、しかもこの村長に報告の義務を負わされているのだった。彼のただ一人の同僚は村の警官ぐらいなのだろう。これは疑いもなく矛盾《むじゅん》であり、矛盾はわざとつくられたにちがいないほど歴然としていた。こんな矛盾をさらけ出しているのは役所のあいまいな態度のせいにちがいないと考えるのは、こういう役所に関してはばかげた考えというもので、そんな考えはほとんどKの頭を掠《かす》めなかった。むしろ彼はその矛盾のうちに、公然とさし出された選択の自由を見たのであった。彼がこの手紙の指示から何をしようと思うのか、城とのあいだにともかくもほかの連中とはちがってはいるがただ見かけだけにすぎない関係をもつような村の労働者であろうとするのか、あるいは、ほんとうは自分の仕事関係のいっさいをバルナバスの通知によってきめさせる見かけだけの村の労働者であろうとするのか、この選択が彼にはまかせられているのだった。Kは選ぶのにためらわなかった。たといこれまでにしたような経験がなかったとしても、ためらいはしなかったろう。ただ、できるだけ城の偉い人たちから遠く離れて、村の労働者として働くときにだけ、城の何ものかに到達できるのだ。彼にとってまだ不信の念を抱いている村の連中も、もし彼がたとい彼らの友人ではなくとも彼らの仲間となったときに、やっと話し始めるだろう。そして、もし彼がひとたびゲルステッカーやラーゼマンと区別されなくなれば、――大至急そうならなければならない。それにすべてはかかっているのだ――彼にはきっとあらゆる道が一挙に開けてくるのだ。それらの道は、ただ上の城の偉い人たちと彼らの思召《おぼしめ》しとにまかせているだけであれば、永久に閉ざされているばかりか、目に見えないままでいるにちがいないのだが。もちろん一つの危険はあるのであって、その危険は手紙のなかにも十分に強調されており、まるでのがれることができないものであるかのように、一種の悦びをもって書き表わされている。危険というのは、労働者であることだ。勤務、上役、仕事、報酬条件、報告、働く者、そんなことが手紙にいっぱい書かれている。そして、別なこと、もっと個人的なことがいわれていても、それはそうした観点から述べられているのだ。Kがもし働く者であろうとすれば、それになれるのだが、そうすればひどく深刻な話で、ほかのものになる見込みはまったくないのだ。Kは、ほんとうの強制におびやかされているのではない、ということを知ってはいた。そんなものを恐れてなんかいなかったし、少なくとも今の場合そんなものを恐れはしなかった。しかし、気力を失わせるような環境、幻滅に慣《な》れてしまうこと、またそれぞれの瞬間の気づかない影響力、そうしたことのもつ大きな力を彼は恐れていた。だが、そうした危険とこそ彼は闘わなければならないのだ。手紙はまた、もし闘いを生じるようになったなら、Kのほうが不敵にも闘いを始めたのだ、ということもあからさまに書いていた。それは微妙に表現されていて、安らかでない良心だけが――それは安らかでないだけで、けっしてやましいわけではないのだ――気づくことができるものであった。つまり、彼を勤務に採用することに関して「ご存じのように」と書いてある言葉がそれである。Kはすでに到着を報告したが、それ以来、手紙が表現しているように、自分が採用されたのだ、ということを知っていたのであった。
 Kは絵の一枚を壁からはずして、手紙をそのくぎにかけた。この部屋に住むことになろうから、ここに手紙をかけておこう、と思ったのだ。
 それから彼は下の店へ降りていった。バルナバスは助手たちとともに小さなテーブルに坐っていた。
「ああ、君はここにいたんだね」と、Kはただバルナバスを見てうれしかったので、何とはなしにいった。バルナバスはすぐ飛び上がった。Kが部屋に入るやいなや、農夫たちは彼のところへ近づこうとして腰を上げた。いつでも彼のあとを追いかけることが、すでにこの男たちの習慣となっていた。
「いったい君たちはいつも私に何の用があるというのかね?」と、Kは叫んだ。彼らはKのこの言葉を悪くは取らずに、のろのろと自分の席へもどっていった。彼らの一人が、立ち去りながら説明するようにいった。
「いつでも何か新しいことが聞けるんでね」
 その調子は軽率で、あいまいな薄笑いを浮かべていたが、ほかの何人かもそんな笑いかたをしていた。そして、いい出した男は、まるでその新しいことというのがご馳走でもあるかのように、唇をなめるのだった。Kは相手の意を迎えるようなことは何もいわなかった。それで連中が彼に対して敬意をもつようになれば、そのほうがよいのだ。ところが、彼がバルナバスのそばに腰を下ろすやいなや、たちまち一人の農夫の息を首すじに感じた。その男のいうところによれば、塩入れを取りにやってきたということだったが、Kが怒りのあまり足を踏みならしたため、その農夫は塩入れをもたずに逃げ去った。Kに手出しをすることはほんとうにたやすく、たとえばただ農夫たちを彼に向ってけしかけさえすればよかった。彼らのしつっこい関心は、Kにはほかの者たちのうちとけぬ態度よりもたちが悪いもののように思えたし、その上、それはうちとけぬ態度でもあった。というのは、もしKが彼らのテーブルに腰を下ろしたならば、彼らはそこに坐ったままでいなかったろう。ただバルナバスがいるため、Kはひとさわぎ起こすことを思いとどまった。しかし、彼はそれでもなおおびやかすように彼らのほうに向きなおった。彼らもまた彼のほうを向いていた。しかし、彼らがめいめい自分の席に坐り、たがいに話もせず、はっきりとしたつながりももたぬまま、ただみんなが彼をじっと見つめているということだけでたがいにつながりあっているのを見ると、彼らがKを追いかけている動機もけっして悪意なのではないように思われた。おそらく彼らはほんとうに何かを彼に望んでいながら、ただそれを口に出してはいえないのであろう。そして、もしそうでなければ、それはおそらくただ子供っぽさなのだろう。その子供っぽさというのは、ここではごくあたりまえのことのように見えた。亭主も子供っぽくないだろうか。亭主は、客のだれかのところへもっていくはずの一杯のビールを両手で支え、立ちどまり、Kのほうを見ていて、台所の小窓から身体を乗り出しているおかみの呼びかける言葉を聞きのがしている有様だった。
 いくらか落ちついて、Kはバルナバスのほうへ向きなおった。助手たちを遠ざけたかったのだが、口実が見つからなかった。ところで助手たちのほうは、じっとしてビールをながめていた。
「手紙は読んだよ」と、Kは語り始めた。「君は内容を知っているかい?」
「いいえ」と、バルナバスがいった。彼のまなざしは言葉よりもたくさんのものを語っているように思われた。おそらくKは、農夫たちについて悪意ということで思いちがいしたように、この男については善意ということで思いちがいしたのであった。しかし、この男が眼の前にいることが気持よいという点では、変りがなかった。
「手紙には君のことも書いてあるよ。つまり君はときどき私と官房長とのあいだの通知を伝えるということだ。それで私は、君が手紙の内容を知っているものと思ったのだよ」
「私が受けている命令は」と、バルナバスがいった。「ただ手紙をお渡しし、それを読まれるまで待って、もしあなたに必要と思われるときには、口頭か文面で返事をもちかえるということだけです」
「わかった」と、Kはいった。「手紙の必要はない。お伝えしてくれ、官房長に。――ところで、なんという名前なのかね? 署名が読めなかったんだ」
「クラムです」と、バルナバスがいった。
「では、クラムさんに、ご採用くだすったこと、また特別にご親切なことに感謝している、とお伝えしてくれ。ここではまだ全然身のあかしを立てていない人間として、私はそのご親切をありがたく思っているってね。私は完全にその人の考えているとおりにふるまうよ。今日のところ、特別な願いはないよ」
 バルナバスは、じっと耳を傾けていたが、伝えるようにいわれた言葉をKの前でくり返させてくれ、と頼んだ。Kがそれを許すと、バルナバスは全部一字一句そのままくり返した。そして、別れを告げるため、立ち上がった。
 さっきからずっとKは彼の顔を探るように見ていたが、今度は最後にまたその顔をそっと見た。バルナバスはおよそKと同じ背の高さだが、それでもKに対しては伏し眼づかいのように見えた。だが、その様子がほとんど謙虚なほどなので、この男がだれかに恥かしい思いをさせるようなことはありえなかった。もちろん、この男はただの使者であり、自分が運ぶように命じられた手紙の内容を知らなかったが、彼のまなざし、微笑、歩きかたは、自分の使者という身分について何も知らなくとも、いかにも使者らしい様子であった。そして、Kが彼に手をさし出すと、彼はそれに驚いたらしかった。というのは、彼はただお辞儀だけしようと思ったのであった。
 彼が立ち去ったすぐあと、――ドアが開く前に、Kはなお少し肩でドアによりかかり、もはやだれにということもないまなざしで部屋じゅうを見わたしていたのだ――Kは二人の助手にいった。
「部屋から私の書きものをもってくる。それからさしあたって仕事のことを話そう」
 二人はいっしょにいこうとした。
「ここにいろ!」と、Kはいった。それでもなお二人はいっしょにいこうとした。Kはもっときびしくその命令をくり返さなければならなかった。玄関口にはバルナバスはもういなかった。しかし、彼はちょうど今、出かけていったばかりであった。しかし、家の前にも――また雪が降っていた――バルナバスは見つからなかった。Kは叫んだ。
「バルナバス!」
 答えはなかった。まだ家のなかにいるのだろうか。ほかの可能性はないように思われた。それでもKはなお、力の限り名前を叫んだ。その名前を呼ぶ声が夜を通して高々と響いた。すると、遠くから微かな返事が聞こえてきた。こうやってみると、バルナバスはあんなに遠くへいっているのだ。Kは彼にもどってこいと叫び、自分のほうからも同時に彼のほうへ歩いていった。二人が出会ったところでは、二人の姿は宿屋からはもう見えなくなっていた。
「バルナバス」と、Kはいった。声のふるえを抑えることができなかった。「まだ君にいいたいことがあったんだよ。私が城に何か用事があるとき、ただ君が偶然やってくるのにたよっているだけでは、どうもまずい、と気がついたんだよ。もし今、偶然、君に追いついていなかったなら――君はまるで飛ぶようだね。まだ家にいると思ったんだが――君がこのつぎ現われるまで、どれほど長いあいだ待たねばならなかったことだろう」
「そうそう」と、バルナバスはいった。「あなたがきめたきまった時期に私がやってくるように、官房長に頼んだらいいですよ」
「それでもまだ十分じゃないだろう」と、Kはいった。「おそらく一年ぐらい私は何もいってやりたくないんだ。ところが、君が出かけてから十五分もたつと、何か延ばせない急用が起こるだろうよ」
「それでは、私を通じるほかに、官房長とあなたとのあいだにもう一つ別な連絡方法をつくるように、官房長へお伝えしましょうか?」
「ちがうんだ、ちがうんだ」と、Kはいった。「全然そうじゃない。このことはただついでにいっただけなんだよ。今日は君に運よく会えたからね」
「宿屋へもどりましょうか?」と、バルナバスはいった。「そこであなたが私に用事をいいつけて下さることができますから」彼は早くも宿屋のほうへ一歩進んでいた。
「バルナバス」と、Kはいった。「その必要はないよ。君と少しばかりいっしょに歩こう」
「なぜ宿屋へいらっしゃりたくないんですか」と、バルナバスがたずねた。
「あそこの連中がうるさくてね」と、Kはいった。「農夫たちの厚かましさを君も自分で見たろう」
「私たち二人だけで、あなたのお部屋へいくことができます」と、バルナバスはいう。
「あれは女中たちの部屋だ」と、Kはいった。「汚なくて、うっとうしい。あんなところにいなくてすむように、君といっしょに少し歩きたいんだ。ただ、頼むが」と、Kはためらいをきっぱり捨て去るために、つけ加えていった。「君と腕を組ませてくれたまえ。なにしろ君のほうが歩きかたがしっかりしているからね」そして、Kは相手の腕にすがった。すっかり暗くなっていて、Kには相手の顔がまったく見えず、その姿もおぼろげであった。Kはその少し前に、相手の腕を探ってつかもうとしたのだった。
 バルナバスはKのいうなりになり、二人は宿屋から遠ざかっていった。もちろんKは感じていた。どんなに努めたところでバルナバスと同じ歩きかたをしていくことができないし、この男の自由な動きを妨げるだけなのだ。普通の場合ならこんなつまらぬことだけのためにいっさいがだめになってしまうのだ。どんな裏通りでだってそうだろう。けさもあの裏通りで雪のなかに埋まってしまったではないか。バルナバスに助けられてこそやっと抜け出すことができるのだ。そう感じたものの、Kはこうした心配を今は捨て去った。また、バルナバスが黙っていることが、彼の気持を楽にした。つまり、二人が黙ったまま歩いていくなら、バルナバスにとっても歩みつづけること自体が、二人のいっしょにいることの目的となっているはずだ。
 二人は歩いていったが、どこへいくのかはKにはわからなかった。何一つ、Kには見わけがつかなかった。二人がもう教会のそばを通り過ぎてしまったのかどうかも、Kにはまったくわからなかった。ただ歩いていくことだけのために起こる大儀さによって、彼は自分の考えをまとめられないようになっていた。彼のさまざまな考えは、はっきりした目標に向ったままでいないで、さまざまに混乱した。たえず故郷のことが頭に浮かび、故郷の思い出が彼の心をみたした。故郷の町でも、広場に教会があり、その教会は一部分古い墓地に囲まれ、その墓地には高い塀《へい》がめぐらされていた。きわめて少数の子供たちだけがこの塀によじ登ることができたのであり、Kもまだできないでいた。好奇心が子供たちを駆ってこんなことをさせたのではない。墓地は子供たちには秘密などはまったくなかった。小さな格子戸を通って、子供たちはすでにしばしば墓地のなかに入っていた。ただ、高い塀を征服したかったのだった。ある朝――静かな、人気のない広場には光があふれていた。Kはそれ以前にもそれからも、そんな広場をいつ見たであろうか?――Kはその塀を驚くほどたやすくよじ登ることができた。それまで何度もはねつけられていた場所で、彼は小旗を歯のあいだに挾んで、その塀を一気によじ登ったのであった。まだ砂利が彼の足もとにざらざら落ちているうちに、もうてっぺんに登っていた。彼が旗を打ち立てると、風がその布をふくらませた。彼は見下ろし、ぐるりと見廻し、また肩越しにも見て、地面に沈んでいる十字架をながめた。そのとき、そこでは、彼自身よりも偉大な者はだれ一人いなかった。すると、たまたま先生が通りかかって、怒った目つきでKを降りさせた。飛び降りるとき、Kは膝を傷つけ、やっとの思いで家へ帰った。それでも、彼は塀の上に登ったのであった。そのとき、この勝利の感情は長い生涯《しょうがい》のあいだ一つの拠りどころを与えてくれるように彼には思われたが、それもまったくばかげたことではなかった。というのは、何年もたって雪の夜にバルナバスの腕にすがっている今も、その感情は彼の助けとなったのであった。
 彼はいよいよしっかりと相手の腕にすがり、バルナバスのほうはほとんど彼を引きずっていった。沈黙は破られなかった。道について彼の知っていることといえば、通りの状態から推測するのに、自分たちがまだわき道へ曲がってはいないのだ、ということだけだった。道にどんなに困難があろうと、あるいは帰り道についての心配があろうと、歩みをつづけることをやめたりなんかしないぞ、と心に誓った。結局のところ、相手に引きずられていくのだから、彼の体力でも十分だろう。それに、道が無限だなどということはありえようか。昼間見ると、城はたやすくいきつくことができる目標のように眼前に横たわっているし、このバルナバスという使者はきっといちばんよく近道を知っているはずであった。
 ふと、バルナバスは立ちどまった。自分たちはどこにいるのだろうか。バルナバスはKと別れるのだろうか。そんなことはうまくできないだろう。Kはバルナバスの腕をしっかとつかんでいたので、ほとんど自分の身体が痛いほどだった。それとも、信じられないことが起って、二人はもう城のなかか、城の門の前まできているのだろうか。しかし、Kの知る限りでは、彼らは登り道をやってきたのではなかった。それともバルナバスは、気づかぬうちに登っていく坂道を案内してきたのだろうか。
「ここはどこかね?」と、Kは低い声で、相手によりもむしろ自分に向ってきくような調子でいった。
「うちですよ」と、バルナバスは同じような調子でいった。
「うちだって?」
「滑らないように注意してください。下り坂ですから」
「下り坂だって?」
「もうほんの二、三歩です」と、相手はつけ加えたが、もう一軒の家のドアをノックしていた。
 一人の娘がドアを開けた。二人は大きな部屋の入口に立ったが、その部屋はほとんどまっ暗だった。というのは、左手の奥の机の上に小さな石油ランプが一つかかっているだけだった。
「だれといっしょなの、バルナバス」と、その娘がきいた。
「測量技師さんだよ」と、彼がいった。
「測量技師さんですって」と、娘はテーブルに向ってもっと大きな声でくり返していった。すると、テーブルのところで老夫婦と、さらに一人の娘とが立ち上がった。みんなはKに挨拶した。バルナバスはみんなをKに紹介した。それは彼の両親と姉のオルガと妹のアマーリアとであった。Kは彼らをほとんど見なかった。家の者が、ストーブで乾かすために、Kのぬれた上衣を脱がせた。Kはされるままにしていた。
 これでは二人とも家にいるわけではない。バルナバスだけが家にいるのだ。でも、この人たちはどうしてここにいるのだろう。Kはバルナバスをわきへ呼んで、きいてみた。
「なぜ君は家へきたんだい? それとも、君たちは城の構内に住んでいるわけかい?」
「城の構内にですって?」と、バルナバスはまるでKのいうことがわからぬように、きき返した。
「バルナバス、だって君は宿屋から城へいこうとしたんだろう?」と、Kはいった。
「いいえ」と、バルナバスはいう。「私は家へいこうと思ったんです。城には朝早くいくんで、城に泊まることはありません」
「そうかい」と、Kはいった。「君は城へいこうとしたんじゃなくて、ただここへ来ようとしたんだね」――バルナバスの微笑は彼には前よりも弱々しく見えたし、バルナバスという人間そのものも前よりは見ばえがしないように見えた――「なぜ、そのことを私にいわなかったんだね」
「おたずねにならなかったものですから」と、バルナバスはいった。「あなたはしきりに用事をいいつけようとされましたが、食堂でもあなたの部屋でもしたくないようでしたので、私はこう思ったんです。この私の両親のところでならじゃまもなく私に用事をいいつけることができるだろう、って。ご命令とあれば、みんなはすぐに座をはずします。また、私どものところがお気に入りましたら、ここに泊って下すっていいのです。これでよかったのではないでしょうか」
 Kは返事ができなかった。それでは誤解だったのだ。ばかばかしい、つまらない誤解だったのだ。そして、Kはその誤解にすっかり身をまかせてしまったのだった。バルナバスのぴったりした、絹のように光沢のある上衣に心を奪われていたが、この男は今ではその上衣のボタンをはずしていて、上衣の下からは、下僕らしいたくましい角張った胸の上に、粗末な、汚れて灰色になった、つぎだらけのシャツが見えていた。そして、まわりのすべてがそのシャツにぴったり合っているばかりでなく、それを上廻ってさえいた。老いた、痛風を病んでいる父親。それは、ゆっくりと押し出すこわばった脚の力よりも、むしろ探るような手の助けで前へ歩いている。母親は、胸の上で手を組み、あまりふとりすぎてほんのちょっぴりしか歩くことができない。この父と母との二人は、Kがはいってきたとき以来、坐っていた部屋の片隅から彼のほうへ歩いているのだが、まだとても彼のところまではこられないでいる。二人の姉妹《きょうだい》はブロンドで、姉妹同士似ており、バルナバスにも似ているが、バルナバスよりもきつい顔つきをして、大柄でじょうぶそうであった。この二人が、やってきたKとバルナバスとを取り囲み、Kから何か挨拶の言葉を待っていた。しかし、Kは何一つ、いえなかった。この村ではだれもが自分にとって意味があるのだ、と彼は信じていたし、また実際にそうでもあったが、この家の人たちは全然彼の気にかからなかった。もしひとりで宿屋へいく道をいけるものなら、彼はすぐに出かけたことだろう。朝早くバルナバスといっしょに城へいけるという可能性は、彼の心をまったくひかなかった。今、この夜なかに、人目にもつかず、バルナバスの案内で城へ入っていきたかった。しかし、そのバルナバスは、これまでKに思われていたように、ここで出会っただれよりもKに近く、同時にまた、外見に表われている身分よりもはるかに城と関係が深いのだ、と信じていたようなバルナバスでなければならない。しかし、この家族の息子と――バルナバスは完全にこの家族の一員で、家族といっしょにすでにテーブルに坐っていた――つまり、注目すべきことだが、けっして城に泊ってはならない一人の男といっしょに、その腕にすがって真昼に城へいくということは不可能であり、滑稽なくらい望みのない試みなのだった。
 Kは、やはりここで夜を過ごそう、しかし、泊めてもらう以外にはこの家族に何一つサービスしてもらうまい、と決心して、窓辺の台へ腰を下ろした。彼を追い払ったり、あるいは彼を恐れていた村の連中は、彼にはこれよりも危険が少ないもののように思われた。というのは、村の連中は、根本において自分自身だけにたよるように彼に教えたのであり、彼が力を集中しておくように助けてくれたのだった。ところが、こんな見かけの援助者たち、つまり、彼を城へ案内するかわりに、けちな仮装芝居を打って自分たちの家庭へつれてくるような人たちは、欲すると欲しないとにかかわらず、彼を目的からそらしてしまい、彼の気力を破壊することに一役買っているのだ。家族のテーブルから、こちらへどうぞ、という誘いの呼び声がかけられたが、それを彼はまったく無視し、頭を垂れたまま、窓辺の台に残っていた。
 すると、オルガが立ち上がった。これは姉妹の優しいほうの娘で、また娘らしい当惑の色を示してもいたが、Kのほうにやってきて、食事にきてください、と頼んだ。パンとベーコンとが用意してあります、ビールももってきましょう、ということだった。
「どこからです?」と、Kがたずねた。
「宿屋からです」と、彼女がいう。
 それはKにとってありがたかった。そこで彼は、ビールはもってこないで下さい、そのかわり宿屋まで私についていって下さい、宿屋にまだ重要な仕事が残っていますから、と彼女に頼んだ。ところが、彼女はそんなに遠くの彼の宿屋までいくのではなく、ずっと近い紳士荘へいこうとしているのだ、ということがわかった。それでもKは、彼女につれていくように頼んだ。おそらくそこに泊まることができるだろう、その寝場所がどんなものであろうと、この家のいちばんましなベッドよりもましだろう、と考えたのだった。オルガはすぐには返事をせず、テーブルのほうを振り返った。そこでは弟がもう立ち上がっていて、承知したようにうなずき、いうのだった。
「このかたがお望みなら、そうしなよ」
 この同意の言葉はほとんどKに、彼の頼みを撤回しようというという気持にさせるくらいだった。この男ときたら、ただつまらぬことにだけ同意できるのだ。ところが、Kを宿屋へいかせたものだろうか、という問題が相談され、全部の者がそれはまずいというとなると、Kはいっしょにいきたい、と強情にせがんだ。しかし、自分の頼みに対する納得のいくような理由を考え出す努力はしなかった。この家族の一同は、あるがままの彼を受け入れて、そのいうことをきかなければならないのだ。彼はいわばこの家族に対して少しも羞恥感《しゅうちかん》を抱いていないのだ。ただアマーリアだけが、彼女のまじめで、率直で、動じない、おそらくはまたいくらか鈍感でもあるようなまなざしで、彼を少しばかり、とまどいさせた。
 宿屋へいく短い道のりのあいだに――Kはオルガの腕にすがって、さっき弟にされたようにほとんど引きずられていった。そのほかにはどうもしようがなかったのだ。――この宿屋はほんとうは城の偉い人たちだけのためのもので、その人たちは、何か村に用事があるときにはそこで食事をしたり、ときどきは泊ったりするのだ、ということを聞いた。オルガは、低い声で、まるで親しみをこめるようにしてKと話した。彼女といっしょに歩くことは、ほとんど弟といっしょに歩くのと同じように気持がよかった。Kはこんな快感を抑えようとしたが、それには勝てなかった。
 宿屋は外見上、Kが泊っている宿屋とひどく似ていた。およそこの村には、外見上に大きなちがいはないのだが、それでも小さなちがいはすぐにみとめられた。入口へ通じる前階段には手すりがあり、戸口の上には美しい角燈がつけられていた。二人がなかへ入っていったとき、頭の上で布がぱたぱた鳴ったが、それは伯爵家の紋章を染めぬいた旗であった。玄関ですぐに亭主に出会った。監視のために見廻っていたらしい。彼は通り過ぎながら、探るような、また眠たげでもある小さな眼で、Kを見て、いった。
「測量技師さんは酒場までしかいけません」
「わかっていてよ」と、オルガはすぐにKのかわりに返事を引き受けて、いった。「このかたは、ただ私についてこられただけなのよ」
 ところが、Kは彼女の取りなしをありがたいとも思わずに、オルガから離れて、亭主をわきへ呼んだ。オルガはそのあいだ、我慢強く玄関の隅のところで待っていた。
「ここに泊まりたいんだが」と、Kはいった。
「残念ですが、それはできません」と、亭主がいう。「あなたはまだご存じではないようですね。ここは城のかたたちのための宿ときまっているんです」
「それはそういう規則かもしれないが」と、Kはいった。「でも、どこか片隅に私を寝かせてくれるぐらいのことは、きっとできるはずだね」
「ご希望をかなえてあげたいんですが」と、亭主がいった。「あなたが今、他国者のやりかたで口にされたその規則というのがきびしいことは別としても、それはとてもできない相談です。なにしろ、城のかたたちはひどく神経質なもんでしてね。私は確信しているんですが、あのかたたちは、少なくとも不意には、他国者を見ることに我慢できないんです。そこで、もし私があなたをここにお泊めし、あなたが偶然――そして、偶然というのはいつでも城のかたたちのほうに味方しているんですからね――見つけられでもしようものなら、私がひどい目にあうばかりでなく、あなた自身もそうなりますよ。ばかげたように聞こえるかもしれませんが、ほんとうなんです」
 この背の高い、きちんとボタンをかけた亭主は、片手を壁に突っ張らせ、もう一方の手を腰に当てて、両手を交叉させ、少しばかりKのほうに身をかがめ、親しげに彼に話しかけた。彼の黒い服はただ農民の祭りのときに着るもののように見えるのだが、ほとんどこの村の者のようには見えなかった。
「あなたのいうことはそっくりそのまま信じますよ」と、Kはいった。「どうも言いかたがまずかったかもしれないけれど、規則の重要さを軽んじているわけでは全然ないのです。ただ、一つのことだけあなたに聞いていただきたい。私は城にいろいろ重要な関係者たちをもっているし、これからももっと重要な関係者たちをもつようになるでしょう。そういう人たちが、私がここに泊ったために起こるかもしれない危険からあなたを守ってくれるでしょうし、また、ちょっとしたご好意に対しても十分のお礼をすることができるのだ、ということを保証してくれるでしょう」
「わかっています」と、亭主はいい、もう一度、くり返した。「わかっています」
 ここで、Kは彼の要求をもっと強く出すことができたでもあろう。しかし、まさに亭主のこの返事が彼の気をそいでしまったので、彼はただこういった。
「今晩は、城の多くのかたたちがここに泊っていらっしゃるんですか?」
「その点では、今晩は好都合です」と、亭主はほとんど誘いかけるようにいった。「ただお一人のかただけがここにお泊まりです」
 まだKは押して頼むことができないでいたが、もうほとんど頼みが聞き入れられたものと期待した。そこでその人の名前だけをたずねてみた。
「クラムです」と、亭主はさりげなくいい、細君のほうを振り返った。細君は、ひだや折り目がいっぱいついている、珍妙なくらい着古した古風な服だが、それでも上品で都会風なのを着て、衣《きぬ》ずれの音を立てながらやってくるところだった。亭主を迎えにきたのだが、官房長様がなにかご用がおありなのだ、ということだった。ところが、亭主はむこうへいく前に、まるでもはや彼自身ではなくてKが泊まるかどうかをきめなければならないのだとでもいうかのように、なおKのほうに顔を向けた。しかし、Kは何もいえなかった。ことに、まさに彼の上役がここにいるという事情が、彼を面くらわせた。自分自身でもよく説明はつかないのだが、クラムに対しては、そのほかの城の人たちに対するように自由な気持ではいられなかった。ここで彼につかまるということは、なるほどKにとっては亭主のいった意味での恐れとはならないだろうが、ひどくまずいことにはちがいないだろう。いってみれば、彼が感謝しなければならない人に、軽率にも何かある苦痛を与えるようなものである。それとともに、彼は憂鬱《ゆううつ》な気分になってしまった。こうした懸念《けねん》のうちには、下僚の身分であること、労働者であることの、恐れていたような結果をはっきり示しているのだ、そして、そうした結果がはっきりと表われてきているここで、それに打ち勝つことができないのだ、と見て取ったからであった。そこで彼は立ちすくんだまま、唇をかみしめ、何もいわずにいた。亭主はドアへ消えていく前に、もう一度Kのほうを振り向いた。Kは亭主の後姿を見送って、その場を去らずにいたが、オルガがやってきて、彼を引っ張っていった。
「亭主になんのご用がありましたの?」と、オルガがきいた。
「ここに泊まろうとしたんだ」と、Kはいった。
「あなたはうちに泊まればいいのよ」と、オルガはいぶかるような調子でいった。
「そうだね、ほんとうだ」と、Kはいって、その言葉の意味をどう取るかは彼女にまかせた。

第三章

 酒場はまんなかが完全にがらんとしている大きな部屋で、壁ぎわのいくつかの樽《たる》のそばや樽の上には、何人かの農夫たちが坐っていた。だが、ここの連中は、Kの泊っている宿屋の連中とはちがっているように見えた。灰色がかった黄色のあらい生地の服を着て、もっと清潔で、もっと一様な身なりをしていた。上衣はだぶだぶで、ズボンはぴったりしている。ちょっと見たところ、たがいにひどく似ている小柄な男たちで、平べったく、骨ばってはいるが、頬がまるまるしている顔をしていた。みんな静かにしていて、ほとんど動かない。ただ眼だけで部屋に入ってきた二人を追うのだが、それもゆっくりしていて、どうでもいいようなふうに見受けられた。それにもかかわらず、人数がひどく多く、またひどく静かなので、彼らはKにある影響を及ぼした。Kはまたオルガの腕を取ったが、それによって自分がここにいることを人びとに説明しようとしたのだった。片隅で一人の男が立ち上がった。オルガの知人で、彼女のほうに歩みよろうとしたが、Kはしがみついていた腕でオルガの身体を別な方向へ向けなおしてしまった。彼女以外のだれもそれに気づかなかったが、彼女は微笑を浮かべた横眼を使いながら、されるままになっていた。
 ビールの給仕をしたのは若い娘で、フリーダという名前だった。人眼につかぬような小柄なブロンドの娘で、悲しげな眼をし、痩せこけた頬をしていた。ところが、この娘はそのまなざし、独特なすぐれた性格をおびたまなざしで、人を驚かした。このまなざしがKに注がれたとき、このまなざしがすでに彼に関することを片づけてしまってくれたように、Kには思われた。そうした問題の存在を彼自身はまだ全然知らないが、そのまなざしがそうしたことの存在をKに確信させるのだった。フリーダがオルガと話しているときにも、Kはフリーダを横からじっと見ることをやめなかった。オルガとフリーダとは友だち同士であるようには見えなかった。二人はほんの一こと二こと、冷たい言葉を交わしただけだった。Kは二人のあいだを取りもってやろうと思ったので、突然、たずねてみた。
「あなたがたはクラムさんをご存じですか?」
 オルガが高笑いした。
「なぜ笑うんです」と、Kは怒ってきいた。
「笑っているんではありません」と、彼女はいったが、なおも笑いつづけた。
「オルガはまだほんとうに子供らしい娘なんだ」と、Kはいい、もう一度フリーダのまなざしをしっかりと自分に引きつけようとして、身体をかがめてスタンドの上に乗り出した。ところが、彼女は視線を伏せたままでいて、低い声でいった。
「クラムさんにお会いになりたいんですか?」
 Kは会いたいと頼んだ。彼女はすぐ自分の左わきのドアを指さした。
「ここに小さなのぞき孔《あな》があります。ここからのぞいて見ることができますよ」
「で、ここにいる人たちは?」と、Kはたずねた。
 彼女は下唇をそらせて、ひどく柔かい手でKをドアのところへつれていった。観察するためにあけられたらしい小さなのぞき孔を通して、彼はほとんど隣室全体を見渡すことができた。部屋のまんなかの机に向かい、心持よげな丸い安楽椅子に坐って、自分の前にたれ下がっている白熱燈にまばゆく照らされながら、クラム氏がいた。中背の、ふとった、鈍重そうな紳士であった。顔はまだつやつやしているが、頬はすでに年齢の重みで少しばかり垂れ下がっている。黒い髭《ひげ》がながながと引かれている。斜めにかけた、きらきら反射する鼻眼鏡が、両眼を被っていた。クラム氏が完全に机に向って坐っていたのであれば、Kはただ彼の横顔を見ただけであろう。ところが、クラムは彼のほうへまともに向っていたので、まともに顔をながめることができた。クラムは左の肘を机の上に置き、ヴァージニア葉巻をもった右手は膝の上にのっていた。机の上にはビールのグラスが置かれてあった。机のふち飾りが高いので、その上に何か書類がのっているのかどうか、Kははっきりとは見られなかったが、机には何ものっていないように彼には思われた。念のために、孔からのぞいて、見た結果を知らせてくれるようにと、フリーダに頼んだ。だが、彼女はほんの少し前までその部屋にいたので、すぐさまKに、そこには書類はのってはいない、と保証した。Kはフリーダに、自分はもうここから離れなければならないのだろうか、ときいたが、したいだけのぞいていてかまわない、と彼女がいった。Kはそのときフリーダと二人だけになっていた。彼がすばやくたしかめたところでは、オルガはあの顔見知りの男のところへいっており、樽の上に坐って、足で樽をばたばたとたたいていた。
「フリーダ」と、Kはささやいていった。「あなたはクラムさんをよく知っているんですか」
「ええ、とてもよく」と、彼女はいった。彼女はKと並んでもたれ、今やっとKが気づいたのだが、彼女の襟《えり》ぐりの広い、軽やかなクリーム色のブラウスを、もてあそぶような調子で整えていた。そのブラウスは彼女の貧弱な身体に、まるで似つかわしくないようについていた。それから彼女はいった。
「オルガの笑ったのをおぼえていなくて?」
「おぼえているよ。不作法な女だ」と、Kはいった。
「でも」と、彼女はとりなすようにいった。「笑ったのには理由があったのよ。わたしがクラムを知っているか、とあなたはおたずねでしたけれど、わたしは……」――ここで、彼女が思わず知らず身体を少しばかり起こすと、ここで話されていることとは全然かかわりのないような、勝ちほこったような視線が、またKの上をかすめるのだった――「だって、あの人の恋人なんですもの」
「クラムの恋人だって?」と、Kがいった。
 女はうなずいた。
「それじゃ、あなたは」と、二人のあいだがあまりに気まずくならないように、微笑していった。「私にとっては尊敬すべき人というわけですね」
「あなたにとってじゃないのよ」と、フリーダは親しげに、しかし彼の微笑を取りあげることなしに、いった。Kは彼女の傲慢《ごうまん》さに対抗する手段を知っていたので、それを利用した。
「これまでに城にいったことがあるの?」
 ところが、これが効果がなかった。彼女はこう答えたのだった。
「いいえ。でも、わたしがこの酒場にいることで十分じゃありません?」
 彼女の気ぐらいはどうもばかげているようだったが、まさにKに対して、その気ぐらいを満足させたがっているように思われるのだった。
「もちろん、この酒場では、あなたは亭主の仕事をよくやられるわけですね」
「そうです」と、彼女はいった。「私は〈橋亭〉旅館の馬小屋下女から振り出したんですわ」
「そんなしなやかな手で」と、Kは半分たずねるようにいったが、自分がただお世辞をいっているのか、それともほんとうに彼女に魅惑されてそんなことをいったのか、自分でもわからなかった。彼女の両手は、小さくてしなやかではあったが、弱々しくてつまらぬ手ということもできた。
「あのころは、だれもそんなことを考えなかったわ」と、彼女はいった。「そして、今でさえ――」
 Kは、問いかけるように彼女をじっと見つめた。彼女は頭を振り、それ以上、話を進めようとはしなかった。
「あなたはもちろん」と、Kはいった。「秘密もあるでしょうし、たった三十分のあいだ知っているだけであり、ほんとうは自分はどういう事情にあるのかをあなたにお話しする機会もないようなどんな人間にも、その秘密をお話しになることはないでしょう」
 ところが、すぐにわかったように、これは適当でない言葉だった。まるでKは、自分にとって都合のよいまどろみからフリーダを眼ざめさせてしまったようなものだ。彼女は、帯に下げている革袋から小さな木を取り出し、それでのぞき孔をふさぎ、自分の気持が変ってしまったことを彼に少しもけどられないように、眼に見えて自分を抑えながら、Kにいった。
「あなたのことに関しては、なんでも知っていますわ。あなたは測量技師ですね」
 それから次のようにつけ加えた。
「でも、もう仕事にかからなくちゃ」
 そして、スタンドのうしろの自分の場所にもどった。そのあいだに、人びとのうちのだれかがあちこちで立ち上がり、空のコップを彼女にみたしてもらおうとするのだった。Kはもう一度、人眼につかないで彼女と話そうと思い、棚から空のコップを取って、彼女のほうに歩みよった。
「フリーダさん、もう一つだけ」と、彼はいった。「馬小屋の下女から酒場の女給にまでなるというのは、普通でないことですし、そのためには人並すぐれた力が必要です。でも、それで、こんなすぐれた人間が最終の目的に到達した、といえるでしょうか。ばかげた疑問です。私を笑わないでもらいたいけれど、フリーダさん、あなたの眼からは、過去の闘いよりも未来の闘いがものをいっています。けれども、世間の抵抗というものは大きいもので、目標が大きくなればなるほど、抵抗も大きくなっていきます。それで、なんの影響力ももってはいないつまらぬ人間だが、それでもあなたと同じように闘っている一人の人間の援助を手にしっかとにぎっておくということは、けっして恥ではありません。おそらく、私たちはいつか落ちついてお話しし合うことがあるでしょう、こんなに多くの人びとの眼にまじまじと見られることなしにね」
「何をお求めなのか、わたしにはわかりませんわ」と、彼女がいったが、その言葉の調子のなかには、今度は彼女の意志に反して、彼女の生活の勝利ではなく、限りない幻滅が鳴り響いているようであった。
「あなたは私をクラムから引き離したいのですの? ああ、なんていうことを!」と、彼女はいって、両手をぱちりと打ち合わせた。
「私の本心を見抜きましたね」と、Kはそんなにも不信を向けられていることに疲れてしまったように、いった。「まさにそれが私の心の奥底の意図だったのです。あなたはクラムを捨てて、私の恋人になるべきだ、というわけです。これだけいえば、もう出ていけます、オルガ!」と、Kは叫んだ。「家へ帰りましょう」
 従順にオルガは樽からすべり下りたが、すぐには彼女を取り巻いている友人たちから離れてこなかった。するとフリーダが、おびやかすようにKを見ながら、低い声でいった。
「いつあなたとお話しできるの?」
「私はここに泊まれますか」と、Kがたずねた。
「ええ」と、フリーダはいった。
「このままここにいていいんですか」
「オルガといっしょに出ていって下さい。わたしがここにいる人たちを追い払うことができますから。それからすぐにここにもどってきていいのよ」
「わかった」と、Kはいい、落ちつかない様子でオルガを待っていた。ところが、農夫たちは彼女を手離さなかった。彼らは一種のダンスを考え出していたのだった。その中心はオルガだった。輪をつくって踊り廻り、たえずいっせいに叫び声をあげて、だれか一人が彼女のところへ歩みより、片手で彼女の腰のあたりをしっかと捉え、彼女を二、三度ぐるぐると廻すのである。輪舞はいよいよ速くなり、飢えたようなごろごろいう叫び声が次第にほとんどただ一つの叫びとなっていった。さっきまで笑いながら輪を突き抜けようとしていたオルガは、今では髪を振り乱して、男から男へとよろけていくだけだった。
「あんな人たちを私のところへこさせるのよ」と、フリーダはいい、怒りをこめて彼女の薄い唇をかんだ。
「どういう人なんです?」と、Kはきいた。
「クラムの使っている連中なのよ」と、フリーダはいった。「いつでもあの人はこんな連中をつれてくるの。あの人たちがいると、私の気持はめちゃめちゃにされるわ。測量技師さん、今日あなたと何をお話ししたのか、わたしにほとんどわかりませんわ。何かお気を悪くさせることがありましたなら、許して下さいね。あの連中がいるせいなの。あの人たちったら、わたしが知っているうちでもいちばん軽蔑すべき、いやな連中ですわ。それなのに、あの人たちのコップにビールを注いでやらなければならないの。あの人たちを城に残してくるようにって、これまでに何度クラムに頼んだかわからないわ。もしわたしがほかのかたたちの使っている人たちのことも我慢しなければならないのなら、あの人もわたしのことを考えてくれたかもわかりませんけど、どんなに頼んでもだめなの。あの人がやってくる一時間前には、いつでもあの連中が、まるで小屋へなだれこむ家畜のように押しよせてくるの。でも今はもう、あの人たちにふさわしい家畜小屋へほんとうにいかなければならないわ。あなたがここにいらっしゃらなければ、わたしがドアを引き開け、クラムも自分であの連中を追い出してくれるはずですのよ」
「あの連中の踊りさわいでいるのが、クラムには聞こえないんですか?」と、Kがきいた。
「そうなの。あの人、眠っているのよ」と、フリーダがいった。
「なんですって!」と、Kは叫んだ。「眠っているんだって? 私が部屋をのぞいて見たときには、まだ起きていて、机のところに坐っていたのに」
「いつでもそんなふうにして坐っているのよ」と、フリーダはいった。「そうでなければ、あなたにのぞかせたりなんかするものですか。あれがあの人の眠っている姿勢なの。城のかたたちはとてもよく眠り、ほとんど想像もできないくらいだわ。それに、あの人がそんなにたくさん眠らなかったら、この連中のことをどうして我慢できるでしょう? ところで、もうわたしが自分であの連中を追い出さなければならないわ」
 彼女は片隅にあった鞭《むち》を取り出し、たとえば小羊が跳《と》ぶようなふうに、いくらかあぶなげだが高く一跳びして、踊っている連中のところへ飛び下りた。はじめは彼らは、新しい踊り手が舞いこんだとでもいうふうに、彼女のほうを振り向いたのだった。事実、一瞬のあいだは、フリーダが鞭を落してしまいそうに見えたが、つぎに彼女は鞭をふたたび振り上げた。
「クラムのかわりにいうんだけれど、小屋へいくのよ! みんな小屋へいくのよ!」
 今や連中は、事がまじめなのだと見て取った。そして、Kには理解できないような不安を感じながら、ひしめくようにしてうしろのほうへ退き始めた。最初に退いていった何人かがドアに突きあたって、ドアが開き、夜気がさっと流れこんできた。みなはフリーダといっしょに消えてしまった。彼女は庭を横切って小屋まで連中を追い立てていったようであった。
 今、突然生じた静けさのなかで、Kは玄関からやってくる足音を聞いた。何とか身構えするため、Kはスタンドのうしろへ飛びこんだが、スタンドの下だけが身を隠すことのできるただ一つの場所だった。彼が酒場にいるということは禁じられているわけではなかったものの、ここに泊まろうと思ったので、今のうちに見つけられることを避けなければならなかったのだ。そこで彼は、ドアがほんとうに開いたときスタンドの下にすべりこんだ。そんなところで見つけられることもむろん危険がないわけではなかったが、ともかくそんな場合には、荒れ出した農夫たちを避けて身を隠したのだ、という言いわけが信じられないものでもなかった。入ってきたのは亭主だった。
「フリーダ」と、亭主は叫んで、二、三度、部屋のなかをあちこちと歩き廻っていた。
 幸いなことにフリーダがすぐもどってきて、Kのことにはふれずに、ただ農夫たちのことをこぼし、Kを探そうとしてスタンドのうしろへやってきた。台の下でKは彼女の足にさわることができ、もうこれで安全だと感じた。フリーダがKのことにふれないので、とうとう亭主がいい出さないではいられなかった。
「ところで、測量技師さんはどこへいったのだろうね?」と、彼はきいた。
 この亭主はおよそ、はるかに高い身分の人たちと長いあいだかなり自由につき合っていて、そのため上品なしつけを身につけ、礼儀正しい男ではあったが、フリーダとはとくに敬意をこめたやりかたで話すのだった。そんな様子が目立つのはなによりも、この男が話をしながら、使っている女に対する雇い主という態度をやめないのに、それでもその相手がほんとうにふてぶてしいような女であるためであった。
「測量技師さんのことはすっかり忘れていたわ」と、フリーダはいって、Kの胸に彼女の小さな足をのせた。「きっと、ずっと前に出ていったのよ」
「でも、あの人を見かけなかったんですよ」と、亭主がいう。「私はほとんどずうっと玄関にいたんですがね」
「だって、ここにはいないわよ」と、フリーダは冷たくいった。
「おそらくあの人は隠れているんですよ」と、亭主がいった。「あの人から受けた印象では、いろいろなことをやりかねないようですからね」
「そんな大胆さはあの人にはないようじゃないの」と、フリーダはいい、Kの胸に足をいっそう強く押しつけた。彼女の人柄にはある快活さ、自由さがあった。それはKがそれまでは気づかなかったものだった。ところが、それがまったくありえないほどに拡がっていった。そして、突然、笑いながら、
「たぶん、この下に隠れているんだわ」と、いったかと思うと、Kのほうに身体をかがめ、彼にさっと接吻し、つぎにまた飛び上がって、顔を曇らせながらいった。
「いいえ、ここにはいないわ」
 ところが、亭主も驚きのたねになるようなことをいうのだった。
「あの人が出ていったかどうか、はっきりとわからないということは、私にはとても不愉快なことです。ただクラムさんにかかわる問題だけではなく、規則にかかわることだからです。その規則は、フリーダさん、私と同様、あなたにもあてはまるべきものなのですよ。酒場のほうのことは万事あなたの責任ですよ。ここ以外のところは私が探してみることにします。おやすみなさい! ごきげんよう!」
 亭主が部屋を出るか出ないかのうちに、フリーダは電燈を消してしまい、台の下のKのわきに身体を置いた。
「わたしの恋人! いとしい恋人!」と、彼女はささやいたが、Kには全然さわらない。恋しさのあまり気が遠くなってしまったように仰向けに寝て、両腕を拡げていた。時間は彼女の幸福な愛の前に無限であり、歌うというよりは溜息をもらすような調子で何か小さな歌をつぶやいていた。ところが、Kがもの思いにふけりながらじっと静かにしているので、彼女は驚いたように飛び起き、まるで今度は子供のように彼を引っ張り始めた。
「さあ、いらっしゃいな、こんな下では息がつまってしまうわ!」
 二人はたがいに抱き合った。小さな身体がKの両腕のなかで燃えていた。二人は一種の失神状態でころげ廻った。Kはそんな状態から脱け出そうとたえず努めるのだが、だめだった。二、三歩の距離をころげて、クラムの部屋のドアにどすんとぶつかり、それから床の上にこぼれたビールと、床を被っているそのほかの汚れもののうちに身体を横たえた。そこで何時間も流れ過ぎた。かよい合う呼吸、かよい合う胸の鼓動の何時間かであった。そのあいだKは、たえずこんな感情を抱いていた。自分は道に迷っているのだ。あるいは自分より前にはだれもきたことのないような遠い異郷へきてしまったのだ。この異郷では空気さえも故郷の空気とは成分がまったくちがい、そこでは見知らぬという感情のために息がつまってしまわないではいず、しかもその異郷のばかげた誘惑にとらえられて、さらに歩みつづけ、さらに迷いつづける以外にできることはないのだ、という感情であった。そこで、クラムの部屋から、おもおもしい命令調の冷たい声でフリーダを呼ぶのが聞こえたとき、それは少なくともはじめには彼にとって驚きではなく、むしろ心を慰めてくれるほのぼのした感じであった。
「フリーダ」と、Kはフリーダの耳にささやき、人が呼んでいることを伝えてやった。まったく生まれつきの従順さのままに、フリーダは飛び起きようとしたが、次に自分がどこにいるのかを考え、身体をのばし、静かに笑って、いった。
「でも、わたしはいったりなんかしないわ。けっしてあの人のところにはいかないわ」
 Kはそれに反対しようとし、せき立ててクラムのところへいかせようとして、ブラウスの裂け落ちた布切れを集め始めたが、一言もいうことはできなかった。フリーダを両腕に抱いて、彼はあまりにも幸福だった。不安になるほど幸福であった。というのは、もしフリーダが自分を捨てるようなことがあるなら、自分のもっているいっさいのものが失われてしまうのだ、と彼には思えるのだった。そして、フリーダもKの同意によって元気づけられたかのように、こぶしを固めると、そのこぶしでドアをたたいて、叫んだ。
「あたし、測量技師さんのところにいるのよ! 測量技師さんのところにいるのよ!」
 それで、クラムは黙るには黙った。しかし、Kは身を起こし、フリーダのわきにひざまずくと、薄暗い夜明けの光のなかであたりを見廻した。何が起ったのだろうか。自分の希望はどこへいったのだろうか。いっさいが暴露してしまった今となって、何をフリーダから期待できるだろうか。敵と目標との大きさにふさわしく、慎重に前へ進んでいくかわりに、一晩じゅうここのこぼれたビールのなかでころげていたのだ。そのこぼれたビールのにおいは、今は頭をぼんやりさせるのだった。
「お前は何をやったのだ?」と、彼はつぶやいた。「私たち二人はもうだめだ」
「そんなことないわ」と、フリーダはいった。「あたしだけがだめになったのよ。でも、あたしはあなたという人を自分のものにしたんだわ。落ちついていなさい。でも、ごらんなさい、あの二人が笑っているわ」
「だれがだい?」と、Kはいい、振り返った。スタンドの上には、彼の二人の助手が、少し寝不足で疲れてはいるがはればれした面持《おももち》で坐っていた。義務を忠実に果たしたことが生み出す明るい顔つきであった。
「ここになんの用があるんだ!」と、まるでいっさいの責任はこの二人にあるとでもいうかのように、Kは叫んだ。フリーダがゆうべ手にしていた鞭を身のまわりに探した。
「私たちはあなたを探さなければならなかったんです」と、助手たちがいった。「あなたがたが食堂の私たちのところへ降りてこなかったんで、あなたをバルナバスのところで探し、最後にここで見つけたんです。ここに一晩じゅう坐っていましたよ。勤めもほんとに楽じゃありません」
「君たちが必要なのは昼間で、夜ではないんだ。出ていきたまえ」と、Kがいった。
「もう昼間ですよ」と、二人はいって、動かない。実際、もう昼であり、内庭へ出るドアが開かれており、農夫たちがオルガといっしょにどやどやと入ってきた。Kはオルガのことをすっかり忘れていた。彼女の服や髪毛はひどく乱れていたが、ゆうべ同様いきいきとしていて、ドアのところで早くも彼女の眼はKの姿を探していた。
「なぜわたしといっしょに家にいらっしゃらなかったの?」と、オルガはいって、ほとんど涙ぐんでいた。
「こんな女のために!」と、いい、その言葉を二度も三度もくり返した。ほんのわずかのあいだ姿を消していたフリーダが、小さな下着の包みをもってもどってきた。オルガは悲しげにわきへのいた。
「さあ、いきましょうよ」と、フリーダがいった。彼女がいくことになっている〈橋亭〉のことをいっているのは明らかであった。Kはフリーダといっしょに歩き、そのあとに二人の助手がつづくという一行だった。農夫たちはフリーダに対して大いに軽蔑の色を見せたが、それもあたりまえだった。これまでは彼女がその連中を牛耳っていたからだ。農夫の一人は、杖をとり、その杖を飛び越さなければいかせないぞ、というそぶりまで見せた。だが、彼女が視線を投げただけで、その男を追い払うのに十分であった。戸外の雪のなかで、Kは少し息をついた。戸外にいるという幸福感がひどく大きかったので、今度は歩いていく道の難儀も我慢できた。もしひとりであったなら、もっとよく歩くこともできたろう。宿に着くと、すぐに自分の部屋へいき、ベッドの上に横になった。フリーダはそのわきの床の上に寝床をつくった。助手たちはいっしょに入りこんできて追い出されたが、すると、今度は窓から入ってきた。Kはすっかり疲れていて、彼らをまた追い出す元気もなかった。おかみが、フリーダに挨拶するため、わざわざ上がってきた。フリーダに〈小母さん〉と呼ばれていた。接吻をしたり、長いあいだ抱き合ったりして、不可解なほど親しげな挨拶が交わされるのだった。その小さな部屋ではおよそ静けさがほとんどなかった。女中たちも、男物の長靴をはいてばたばた音を立てながら、何かをもってきたり、もち去ったりするためにしょっちゅうやってくるのだった。いろいろなものでつまっているベッドから何かが必要となると、遠慮もなくKの寝ている下から引き出していく。フリーダには同輩扱いの挨拶のしようである。こんなさわがしさにもかかわらず、Kは一日じゅう、また一晩じゅう、ベッドに入っていた。ちょっとした彼の世話はフリーダがした。つぎの朝、きわめて元気になってついに起き上がったが、すでにこの村に滞在するようになってから四日目であった。

第四章

 彼はフリーダとうちとけて話したかったが、助手たちが厚かましくも目の前にいるというだけで、じゃまされた。ところでフリーダは、この二人とときどきふざけたり、笑ったりするのだった。なるほど二人の助手は別に要求が多いわけではなかった。片隅の床の上に二枚の古いスカートを敷き、その上で寝起きしていた。二人がしばしばフリーダと話し合っていたように、測量技師さんのじゃまをしないで、できるだけ少ない場所しかとらぬということが、彼らのせいぜいの望みであった。このために、とはいってももちろんいつでもささやいたり、くすくす笑ったりしながらではあったが、いろいろな試みをやるのだった。腕と脚とを組み合わせたり、いっしょにうずくまったりした。薄暗がりのなかで、彼らのいる片隅はただ大きな糸玉ぐらいにしか見えなかった。ところが、残念ながら昼間のいろいろな経験からわかっていたのだが、この糸玉がきわめて注意深い観察者であり、いつでもKのほうをじっと見ているのだ。この二人が、子供らしい戯れにふけっているように見せながらたとえば両手で望遠鏡の形をつくったり、そんなふうなほかのばかげたことをやったり、あるいはこちらに目くばせしたり、主として自分たちの髭の手入れに夢中になっているように見えたりするのであっても、じつはKのほうをじっと見ているのだ。ところでその髭だが、彼ら二人にはそれがすこぶる大切であり、何度でもその長さや濃さをたがいに比べ合い、フリーダにどちらのほうがりっぱか判定してもらうのだった。Kはしばしば、ベッドからこの三人のやることをまったく冷淡にながめていた。
 これでもうベッドを離れるのに十分なだけ元気が出たと彼が感じたとき、三人は彼の世話をしようとして急いでやってきた。ところがKはまだ、彼らの手伝いを払いのけるほどには元気になっていなかった。こんな手伝いを受けることで、この三人にある種のたよりかたをすることになり、そんなたよりかたはいろいろ悪い結果を生むかもしれないのだ、と彼は気づきはしたのだが、どうもされるままになっているよりほかにしかたがなかった。それに、テーブルについて、フリーダが運んできてあるよいコーヒーを飲み、フリーダが燃やしたストーヴにあたり、熱心だが不器用な助手たちに階段を十ぺんも昇降させて洗面の水や石鹸やくしや鏡をもってこさせ、おまけに、Kが低い声でそれとわかる希望をいったからだが、小さなグラス一杯のラム酒を運ばせることは、それほど不愉快なことではなかった。
 こんなふうに命令したりサービスしてもらったりしているうちに、ある成果を期待してというよりはむしろくつろいだ気分から、Kはこういった。
「さあ、君たち二人はむこうへいってくれ。今のところもう何もいらないよ。フリーダさんとだけで話したいんだ」
 そして、二人の顔に別に反抗の気配《けはい》も見られなかったので、二人にそんなことをいった埋合せをするつもりで、さらにいった。
「私たち三人は、あとで村長のところへいくから、下の部屋で私を待っていてくれ」
 めずらしく二人はいうことをきいたが、ただ部屋を去る前にいうのだった。
「私たちもここでお待ちできるといいんですが」
 そこでKは答えた。
「わかっているよ。でも、そうしてはもらいたくないんだ」
 フリーダは、助手たちが立ち去るとすぐにKの膝の上に坐って、いった。
「あなた、あの助手たちのどこが気に入らないの? あたしたちはあの人たちに秘密なんかもってはいけないわ。あの人たちは忠実なんですもの」
 この言葉を聞いたとき、Kには腹立たしくはあったが、またある意味では好都合でもあった。
「え、忠実だって?」と、Kはいった。「あいつらは私をたえずうかがっている。ばかげたことだが、いまいましい」
「あなたのいうこと、よくわかると思うわ」と、彼女はいって、彼の首にすがりつき、なお何かいおうとしたが、それ以上しゃべることはできなかった。Kたちが坐っていた椅子はベッドのすぐわきにあったので、二人はベッドのほうへぐらついて、その上に倒れた。二人はそこへ横たわっていたが、先夜のように身をまかせ切りになってはいられなかった。彼女は何かを求め、彼も何かを求めていた。荒れ狂い、顔をしかめ、たがいに頭を相手の胸に強く押しつけながら、彼らは求めていた。そして、二人の抱擁《ほうよう》、二人の投げかけ合っている肉体は、求めるという義務を彼らに忘れさせはしないで、むしろそれを思い出させるのだった。犬たちが絶望して大地をかきむしるように、二人はたがいに肉体をかきむしり合った。そして、なお最後の幸福をつくり出すことは絶望し、幻滅して、彼らの舌はときどき相手の顔じゅうをなめ廻すのだった。疲れがやっと彼らを鎮まらせ、たがいに相手に感謝させた。やがて女中が上がってきた。
「まあ、二人はなんていう恰好でここに寝ているんでしょう」と、女中の一人がいって、同情の気持から彼らの上に一枚の布を投げかけた。
 しばらくしてKがその布を押しのけ、あたりを見廻すと、――別に彼は驚かなかったが――助手たちがまた例の片隅にきていて、指でKをさしながら、たがいにまじめになるようにといましめ合い、敬礼をするのだった。ところが、二人の助手のほかに、ベッドのすぐわきに宿のおかみが坐って、靴下を編んでいた。こんな小さな手仕事は、部屋をほとんど暗くしてしまうほどの巨人のような彼女の身体にはぴったりしなかった。
「ずいぶん長いあいだ待っていたんですよ」と、彼女はいって、だだっぴろくて老いのしわがたくさん刻まれてはいるが、全体からいうとまだ色つやがよく、おそらくかつては美しかったにちがいない顔を、ふっと上げた。彼女の言葉は非難のように、それも見当ちがいの非難のように、ひびいた。というのは、Kはじつのところ、彼女にきてくれなどと頼まなかったのだ。そこで彼は、ただうなずいて彼女の言葉がわかったというそぶりを見せた。フリーダも起き上がったが、Kを離れて、おかみの椅子にもたれた。
「おかみさん」と、Kは放心したようにいった。「あなたが私にいおうとしていることは、私が村長のところからもどってきてからにしてくれませんか。私は村長のところで重要な話合いをしなければならないのです」
「こっちのほうが重要ですよ。いいですか、測量技師さん」と、おかみはいった。「村長さんのところではおそらくただ仕事のことだけが問題なんでしょうが、ここでは一人の人間のこと、私のかわいい女中のフリーダのことが問題なんですよ」
「なるほど」と、Kはいった。「だがしかし、なぜこの問題を、私たち二人にまかせておいてくれないのか、どうもわかりませんね」
「愛情のためです。心配からです」と、おかみはいい、フリーダの頭を自分の身体に引きよせた。フリーダは立っているのに、坐っているおかみの肩のところまでしかとどかない。Kはいった。
「フリーダがあなたをそんなに信頼しているのだから、私もほかにしようがありません。それに、フリーダがついさっき、私の助手たちは忠実だといったのですから、私たちはたがいに友人同士なわけです。それから私は、おかみさん、あなたにいえるんですが、フリーダと私とが結婚すれば、しかもすぐにもすれば、それがいちばんいいんだ、と私は考えているんです。残念しごくなことですが、結婚しても、フリーダが私によって失ってしまうもの、つまり紳士荘の地位とかクラムとのなじみとかをつぐなってやれないでしょうけれど」
 フリーダが顔を上げたが、眼は涙でいっぱいだった。眼には勝利感などはまったく浮かんでいなかった。
「なぜわたしなの? なぜ、ほかならぬこのわたしがそのために選ばれたの?」
「なに?」と、Kとおかみとが同時にたずねた。
「この子は気が変になっているんだわ、かわいそうに」と、おかみがいった。「あまりの幸福と不幸とがいっしょになったので、気が変になっているんだわ」
 すると、まるでこの言葉を裏書きするように、フリーダは今度はKの上に身を投げかけ、ほかにはだれも部屋にいないかのようにあらあらしく彼に接吻し、次に泣きながら、なお彼を抱きしめたまま、彼の前にひざまずいた。Kは両手でフリーダの髪をなでながら、おかみにたずねた。
「あなたは私のいうことがもっともと思われるでしょうね」
「あなたはりっぱなかたですわ」と、おかみはいったが、彼女も涙声で、いくらかがっくりしてしまったように見え、苦しげな息をついていた。それにもかかわらず、彼女はまだ次のようにいう元気があった。
「今度はただ、あなたがフリーダに与えなければならない何かの保証をいろいろと考えてみましょう。なぜなら、わたしのあなたに対する尊敬がどんなに大きくとも、あなたはやっぱりよその人ですからね。だれも証人にすることはできないし、あなたの家庭の事情もここではわかっていませんもの。だから、保証がどうしても必要です。それはよくおわかりですね、測量技師さん。だって、あなたご自身が、フリーダはあなたと結びついたために今後どんなに多くのものを失うか、ということを指摘なすったんですもの」
「そうですとも。保証、それはもちろんです」と、Kはいった。「保証は祭壇の前でするのがきっといちばんいいでしょう。だが、おそらくほかの伯爵領の役所が介入してくることでしょう。それに私は結婚式の前にどうしても片づけておかねばならぬことがあります。クラムと話さなければなりません」
「それはだめよ」と、フリーダはいって、少し身体をもたげ、Kに身体を押しつけてきた。「なんていうことを考えるの!」
「どうしてもしなければならないんだ」と、Kはいった。「もし私になしとげられないのなら、君がしなければならない」
「わたしにはできないわ、K、できないわ」と、フリーダがいった。「クラムはけっしてあなたと話なんかしないでしょう。クラムがあなたと話すなんて、どうしてそんなことを信じられるでしょう!」
「君となら話すかい?」と、Kはきいた。
「わたしもだめよ」と、フリーダがいう。「あなたもだめよ、わたしもだめよ。まったくできないことなのよ」
 彼女は両腕を拡げておかみに向った。
「ごらんなさいな、おかみさん、なんていうことをこの人は求めているんでしょう」
「あなたは変っていますね、測量技師さん」と、おかみはいった。今度は身体をまっすぐに立て、両脚を組み合わせ、薄手のスカートを通してがっちりした膝を浮き出させている彼女の様子は、恐るべきものであった。「あなたはできないことを求めているんですよ」
「なぜできないんですか?」と、Kはたずねた。
「それは説明しましょう」と、まるでこの説明は最後の好意ではなくて、すでに彼女がくだす最初の罰なのだ、というような調子で、彼女はいった。「よろこんで説明しましょう。わたしはお城の人間ではなく、ただの女、ただこの最下等の宿のおかみにすぎませんわ。――この宿は最下等じゃないかもしれませんけど、でもそれよりあまりましじゃありません。――ですから、あなたはわたしの説明にあまり重きを置かないかもしれませんが、わたしだってこれまで二つの眼をちゃんと開けて生きてきたのですし、たくさんの人とも出会い、商売の重荷もすべてひとりで背負ってきました。というのは、主人はなるほどいい人間だけれど、どうも宿の亭主じゃありませんからね。責任というものがどんなものか、ということはあの人にはけっしてわからないでしょうよ。たとえば、あなたがこの村にいらっしゃるのも、またここでベッドの上に安らかに気楽に坐っていらっしゃるのも、ただあの人の投げやりな態度のおかげなんですよ。――わたしはあの晩はもう疲れ切って、倒れそうだったんです」
「どうしてです?」と、Kは腹立ちよりもむしろ好奇心に刺戟されて、ある種の放心状態から目ざめながら、いった。
「みんなあの人の投げやりな態度のおかげなんですよ!」とおかみはKに人差指を向けながら、もう一度叫んだ。フリーダがおかみをなだめようとした。
「なんだっていうのさ」と、おかみは身体全体を急に向けなおして、いった。「測量技師さんがおたずねだから、わたしはお答えしなけりゃならないんだよ。わたしがいわなければ、このかたにどうしておわかりになるのさ、わたしたちにはわかりきっていることを、クラムさんはけっしてこのかたとは話さないだろう、っていうことをさ。いいえ、わたしとしたことが、〈話さないだろう〉なんていって。このかたと話ができないんだよ。聞いて下さい、測量技師さん! クラムさんはお城の人ですよ。それだけのことでもう、クラムのほかの地位なんかは別としても、とても身分が高いということなんですよ。ところであなたはなんだというんです、わたしたちがここでこんなにへりくだってあなたの結婚の同意を得ようとしていたって! あなたはお城のかたではないし、村の出ではないし、あなたは何者でもないんですよ。でも残念ながらあなたは何者かではありますよ。よそ者、余計者でどこでだってじゃまになる人間なんです。その人のためにいつだって他人に迷惑がかかるような人、その人のために女中たちを別なところへどかせなければならないような人、どんなつもりでいるのかわからないような人、わたしたちのかわいいフリーダを誘惑してしまった人、残念なことにフリーダを妻としてあげなければならない人なんです。でも、根本からいうと、そんなすべてのことのためにあなたを非難しているわけじゃありませんよ。あなたは、ありのままのあなたですからね。わたしはこれまでの生涯ですでにいろいろなことを見てきましたから、こんな有様が我慢できないなんていうことはありませんよ。でも、あなたがじつはどんなことを求めていらっしゃるのか、ということを考えてもごらんなさいな。クラムみたいな人があなたと話すなんて! フリーダがあなたにのぞき孔《あな》を通してお見せしたということを、わたしはつらい気持で聞きました。この子がそんなことをしたとき、すでにこの子はあなたに誘惑されていたんです。あなたがどうやっておよそクラムの姿を平気で見ていられたのか、いって下さいな。いえ、いう必要はありません、わたしにはわかっています。あなたはあの人の姿を全然平気で見ていられたんです。でも、クラムにほんとうに会うなんていうことは、あなたにはできっこありません。これはなにもわたしの思い上りなんかじゃありません。というのは、わたし自身だってできないんですもの。あなたがクラムと話したいですって? クラムはけっして村の人とは話さないんです。あの人自身、村のだれかと話したことなんか、一度だってないんです。まったくフリーダの大きな名誉なんです、わたしが死ぬまでわたしの誇りとなるような名誉なんですよ、あの人が少なくともいつもフリーダの名前を呼んでいたこと、フリーダが好きなときにあの人と話ができたこと、そしてのぞき孔から見ることを許されていたことは。でも、あの人はこの子とも一度だって話したことがないんです。そして、あの人がときどきフリーダを呼んだということには、人が好んでつけたがるような意味はまったくないはずです。あの人はただ、〈フリーダ〉という名前を呼んだだけなんです。――あの人の考えていることをだれがわかるものですか。――フリーダはもちろん急いでいきましたが、それはこの子だけのことですし、この子が反対も受けずにあの人の部屋に入ることを許されたのは、クラムの好意なんです。でも、あの人がこの子をたしかに呼んだのだ、とはいい張るわけにはいきません。もちろん、今では、あったことも永久に過ぎ去ってしまいました。おそらくクラムはなお〈フリーダ〉という名前を呼ぶかもしれません。それはありうることです。でも、この子はもうきっとあの人の部屋へ入ることは許されないでしょう。あなたと関係してしまった娘なんですからね。で、ただ一つだけ、ただ一つだけ、わたしのあわれな頭ではわからないんですけれど、クラムの恋人――わたしはこれは誇張した呼びかただと考えていますがね――そういわれていたような娘が、どうしてあなたに心を動かされたりしたのでしょうねえ」
「まったく。それは変ですね」と、Kはいって、頭を垂れてではあるがすぐ応じてきたフリーダを、自分の膝の上にのせた。「でも、そのことが証明しているのは、ほかのこともなにからなにまでまったくあなたの信じているとおりではないのだ、ということでしょうね。たとえばたしかに、私がクラムに対しては何者でもない、とあなたがおっしゃるのは、もっともな話です。また、私が今でもクラムと話したいと望んでいて、しかもあなたの説明によって少しもその要求を捨てていなくとも、それで、へだてのドアなしでクラムの姿を平気で見ていられるのだ、ということにはなりませんし、あの人が部屋から出てくるときに逃げ出してしまうかもしれませんね。でも、こんな心配はたとい正しくとも、まだ私にとってはそれをやってみようとしない理由にはなりませんよ。ところで、もし私があの人に対して平気でいることができるなら、あの人が私と話すなんていうことはまったく必要じゃないんです。私の言葉があの人に与える印象を見とどけるならば、私にはもう十分です。そして、もし私の言葉があの人に少しも印象を与えず、あの人がそれを全然聞いていないにしても、一人の権力者の前で自由にものがいえたのだ、という勝利をおさめたことになります。でも、おかみさん、あなたは人生や人間のことをよく知っているといわれるし、きのうまではクラムの恋人だった――この言葉を避ける理由は私にはありませんよ――フリーダであってみれば、あなたがた二人はきっと、クラムと話す機会を私のためにたやすくつくってくれることができるはずです。ほかのやりかたではできないのなら、まさに紳士荘でね。おそらくあの人は今日もまだそこにいるでしょうからね」
「それはできませんよ」と、おかみがいった。「それに、わたしにはわかっているのですけれど、あなたにはそのことがわかる能力が欠けているのです。ところで、ひとつ教えてくれませんか、いったいクラムとどんなことについて話そうっていうんです?」
「もちろん、フリーダのことについてですよ」と、Kはいった。
「フリーダのこと?」と、おかみはわけがわからぬようにききただし、フリーダに向って、いった。「聞いたかい、フリーダ。この人はね、この人はあんたのことについてクラムと話したいんだってさ、クラムとだってさ」
「いや、どうも」と、Kはいった。「あなたは、おかみさん、とても賢い、尊敬の気持を起こさせるかたなのに、どんな小さなことにも驚くんですねえ。ところで、私はフリーダのことについてあの人と話そうと思うんだが、これはそう途方もないことじゃなく、むしろあたりまえのことですよ。というのは、たしかにあなたの思いちがいですね、私が登場した瞬間からフリーダはクラムに対して意味のないものになってしまったのだ、と思うのなら。そんなことを信じているのなら、あの人を軽く見すぎていますよ。この点であなたに教えようとするなんて生意気なことだ、とはよくわかっていますが、やはりそうしないではいられません。クラムのフリーダに対する関係で私が入りこんだために変ってしまったところなんか、少しだってありません。この二人のあいだには、つぎのような二つの場合があるだけです。一つは、本質的な関係なんかなかったという場合で――こういっているのは、元来は、フリーダから恋人という敬称を取り去っている人たちです――それなら、今でも関係はないわけです。しかし、もう一つの場合として、もし関係があったとすれば、あなたが正しくもいわれたようにクラムの眼にとって何者でもないこの私によって、その関係が乱されるというようなことが、どうしてありましょうか。そんなばかげたことは、驚いたときに最初の一瞬間だけ人が信じるものです。少しでも考えなおしてみさえすれば、そんなことは訂正されてしまいますよ。ところで、フリーダにこれについての意見をきいてみようではありませんか」
 遠くのほうに漂っているようなまなざしを見せながら、頬をKの胸に埋めて、フリーダがいった。
「それはおばさんのいったとおりよ。クラムはもうわたしのことなんか何も知りたがっていません。でも、もちろん、あなたがきたからなんかじゃないの。そんなことであの人は少しも動じたりしないわ。きっと、あたしたちがあのスタンドの下で出会ったのもあの人のしわざなんだ、と思うわ。どうぞあの出会いが祝福されていますように。呪《のろ》われてはいませんように」
「もしそうなら」と、Kはゆっくりといった。フリーダの言葉が甘かったのだ。彼は二、三秒のあいだ眼を閉じ、その言葉を身体全体にしみとおらせようとした。「もしそうなら、クラムと話すことを恐れる理由はもっと少ないわけだ」
「ほんとに」と、おかみはいって、Kを高いところから見下した。「あなたって人は、ときどきわたしの主人のことを思い出させますね。あの人と同じように、あなたも反抗的で子供のようなんだわ。あなたはここへきてまだ二、三日にしかならないのに、もうなんでもこの土地の者たちよりもよく知りたがるのね、わたしのようなお婆さんよりも、また紳士荘でいろいろ見たり聞いたりしてきたフリーダよりも。きまりやしきたりにまったく反していつか何かをうまくやりとげるなんていうことはありえないことだ、とはいいません。わたしはこれまでにそんなことを体験したことはないけれど、どうもそういう例はあるようね。そうかもしれないわ。でも、そんなことがあるとすれば、きっとあなたのやるようなやりかたでではないでしょう。いつでも『ちがう、ちがう』といって、自分の頭だけでうけ合い、どんな好意ある忠告さえも聞きのがす、なんて。いったいあなたは、私の心配があなたのためなんだ、とでも思っているんですか。あなたがひとりだったあいだは、あなたのことなんかにわたしが気をかけていましたかね。たしかにそうしておいたほうがよかったでしょうし、いろいろな面倒が避けられもしたでしょうけれど。あのとき、わたしがあなたについて亭主にいったただ一つのことといえば、『あの人を避けるんですよ』ということだけでしたよ。もしフリーダが今ではあなたの運命に巻き添えをくっているのでなければ、この言葉は今でもまだわたしの気持というものでしょう。あなたの気に入ろうと、気に入るまいと、わたしの心づかいも、そればかりかわたしがしたてに出ているのだって、みんなこの子のおかげなんですよ。そして、あなたはこのわたしをさっぱりとのけ者にするわけにはいきません。なぜなら、かわいいフリーダの身の上を母親のような心配で見守っているただ一人の女であるこのわたしに対して、あなたは重い責任がありますからね。フリーダのいうことが正しくて、起ったことはみなクラムの意志のままなのだ、ということはありうることです。でも、クラムについてはわたしは今でも何一つ知らないのです。これからもけっしてあの人と話すことはないでしょうし、あの人はわたしにとっては手のとどかない人なんです。ところが、あなたはここに坐って、わたしのフリーダをつかまえ、――このことをなぜ隠しておく必要があるでしょう?――じつはこのわたしにつかまえられているのです。そうです、わたしにつかまえられているんですよ。なぜなら、もしわたしがあなたをこの家から追い出したら、犬小屋だろうとなんだろうと、村のどこかで泊まる場所を見つけてごらんなさいな」
「ありがとう」と、Kはいった。「それは率直な言葉ですね。あなたのいわれることはそのまま信じますよ。それでは、私の立場も、またそれと関連してフリーダの立場も、すこぶる不安定なものなのですね」
「ちがいます!」と、おかみはKの言葉をさえぎるようにして、あらあらしく叫んだ。「フリーダの立場は、この点については、あなたの立場と全然関係がありませんよ。フリーダはうちの者ですし、だれだって、この子の立場がここで不安定だなんていう権利はありませんよ」
「わかった、わかりましたよ」と、Kはいった。「その点でもあなたが正しいとみとめるとしましょう。その理由はとくに、フリーダがなぜか知らないけれど、あなたのことをひどくこわがっているようで、この話に加わろうとしないからです。そこで、さしあたっては、話を私のことだけに限りましょう。私の立場がきわめて不安定であるということ、これはあなたも否定なさらないし、むしろそのことを証明しようと一生懸命になっておられる。あなたのおっしゃるすべてのことと同様、これは大部分は正しいのですが、完全に正しいわけではありません。たとえば、私はいつでも泊まれるなかなかいい宿屋を知っていますよ」
「いったい、どこですか?」と、フリーダとおかみとが叫んだ。まるで、こうきくのには同じ動機があるかのように、時を同じくして、ひどく好奇心たっぷりなききかただった。
「バルナバスのところです」と、Kがいった。
「あのごろつきたち!」と、おかみが叫んだ。「あのずるいごろつきたち! バルナバスのところだってさ! お聞きよ――」そういうと、彼女は部屋の隅のほうに向きなおったが、助手たちはもうずっと前から進み出ていて、腕を組み合っておかみのうしろに立っていた。おかみは、まるで身体を支えてくれるのが必要であるような様子で、助手の一人の手をつかんだ。「お聞きよ、この旦那がどこをうろつき廻っているのか。バルナバスの家なんだよ! もちろん、あそこなら泊まれるさ。ああ、紳士荘よりもむしろあそこに泊ってくれていたら、どんなによかったかしれない。ところで、あんたたちはどこで待っているの?」
「おかみさん」と、Kはまだ二人の助手たちが答えぬうちに、いった。「この二人は私の助手ですよ。それなのにあなたは、まるで二人があなたの助手で、しかも私の見張り人であるかのように扱っておられる。ほかのことでならどんなことでも、きわめて鄭重《ていちょう》にあなたのご意見について少なくとも議論はするつもりでいますが、私の助手についてはそんなことはできません。というのは、その点では事はあまりにはっきりしていますからね。そこで、お願いしますが、どうか私の助手とは話をしないで下さい。もし私のこのお願いが十分でないなら、私の助手に、あなたにお答えすることを禁じます」
「それでは、私はあなたたちと話してはいけないわけね」と、おかみがいって、三人そろって笑った。おかみの笑いは嘲笑的であったが、Kが期待したよりもずっとおだやかではあった。助手たちのは、いつもの、いろいろ意味ありげだがまたなんの意味もないような、どんな責任も回避しているような笑いかたであった。
「ね、怒らないで」と、フリーダがいう。「わたしたちが興奮していることをよくわかって下さらなければいけないわ。いってみれば、わたしたちが今深い仲になっているのは、ただバルナバスのおかげだわ。あなたをはじめて酒場で見たとき、――あなたはオルガの腕にすがって入ってきたわね――わたしはあなたについていくらかのことをもう知っていたわ。でも、要するにあなたはわたしにとってはまったくどうでもよい人だったのよ。いえ、あなただけがどうでもよかったばかりでなく、ほとんどすべてのことが、ほとんど全部が全部、どうでもよかったの。あのとき、わたしはたくさんのことに不満だったし、いろいろなことに腹を立てていたの。でも、なんという不満だったのでしょう、なんという腹立ちだったのでしょう! たとえば、酒場のお客の一人がわたしを侮辱しました。あの人たちはいつでもわたしのあとをつけ廻していたんです。――あなた、あそこにいた連中を見たでしょう。ところが、もっとひどい連中がきたのよ。クラムが使っている人たちがいちばんひどい連中というわけではなかったんだわ。――そういうわけで、一人がわたしを侮辱したんです。それがわたしにどうだったというのでしょう。わたしには、それが何年も前に起ったように思われました。全然起こらなかったようにも思われました。ただそんな話を聞いただけのことのようにも思われ、わたし自身がそれをとっくに忘れてしまっていたようにも思われました。でも、わたしはそれを述べることができないし、もうけっして思い浮かべることができないの。クラムがわたしを捨ててしまってからは、そんなにすべてのことが変ってしまったんだわ」
 フリーダは話を中断した。悲しげに頭を垂れ、両手は組んで膝の上に置いていた。
「ごらんなさい」と、おかみは叫んだが、まるで自分でしゃべっているのではなく、ただフリーダに自分の声を貸しているとでもいうふうだった。彼女は身体をずっと近づけて、フリーダのすぐそばに坐った。「ごらんなさいな、測量技師さん、あなたの行いの結果をね。そして、あなたの助手さんたちも、わたしはこの人たちと話してはいけないそうだけれど、勉強のために見ておくことだわね。あなたはフリーダを、これまでこの子が与えられていたもっとも幸福な状態から引き離してしまったのよ。そして、あなたがそのことに成功した理由は、何よりもまず、フリーダが子供らしいいきすぎた同情から、あなたがオルガの腕にすがっていて、そんなふうにしてバルナバスの一家のものになってしまっていることに、我慢できなかったからなんですよ。この子があなたを救って、そのために自分を犠牲にしたんです。そして、こうしたことが起ってしまい、フリーダが自分のもっているすべてのものと引き換えに、あなたの膝の上に坐るという幸福を選んだ今となって、あなたがやってきて、自分は一度バルナバスの家に泊まる可能性をもったのだ、などということを最後の切り札として出しているわけです。そんなことをいって、きっと、あなたはわたしにたよったりなんかしなくていいんだ、ということを証明したいんでしょう。たしかに、もしあなたがほんとうにバルナバスのところに泊ったのならば、あなたはたしかに私なんかたよりにしなくたっていいでしょうよ。そして、たちまち、しかもすぐ今からわたしの家を出ていかねばならないでしょうよ」
「私はバルナバス一家の罪なんか知りません」と、Kはいった。そして一方、まるで死んだようになっているフリーダを注意深く抱き上げ、ゆっくりとベッドの上に坐らせ、自分は立ち上がった。「おそらくその点であなたのいわれることは正しいんでしょう。しかし、フリーダと私とのことは私たち二人にまかせておいてくれ、と私があなたにお頼みしたとき、たしかにわたしの言いぶんが正しかったはずです。そのときにあなたは愛情とか心配とかいうことを何かいわれたけれど、それについてはそれ以上たいして私の眼につかないで、それだけに憎しみとか嘲笑とか家から追い出すということとかについては余計に眼についています。もしあなたが、フリーダを私からか、あるいは私をフリーダからか、引き離そうという狙《ねら》いであったのなら、まったくうまくやられたわけです。でも、そんなことはあなたには成功しない、と思いますよ。もしそんなことが成功するならば、あなたはそれを――私にも一度、気味の悪いおどしをいわせて下さい――ひどく後悔なさるでしょうよ。あなたが私に貸して下すっている部屋についていえば、――部屋といったって、あなたにはこのいやらしい穴ぐらのことぐらいしか考えられないんですが――この部屋を自分自身の意志で貸して下すっているのかどうか、まったく疑わしいものです。むしろこのことについては伯爵の役所の命令があるように思われますね。私は今、この宿から出るようにいわれた、ということをその役所に伝えてやりましょう。もし私に別な住居が示されるなら、あなたはきっとほっとして息をつかれることでしょうね。でも、私のほうはもっとほっとしますよ。ところで、私はあれやこれやの用事で村長のところへいきます。どうか、少なくともフリーダの面倒を見てやって下さい。あなたはこの子を、あなたのいわゆる母親らしい話ですっかりひどい目にあわせてしまったんです」
 それから彼は、助手たちのほうに向きなおった。
「きたまえ!」と、彼はいって、クラムの手紙をかけ金から取り、出ていこうとした。おかみは黙って彼の動きを見ていたが、彼がすでにドアのハンドルに手をふれたときにはじめて、いった。
「測量技師さん、わたしはまだあなたにはなむけにあげるものがありますよ。というのは、あなたがどんな演説をなさろうと、またわたしというお婆さんをどんなに侮辱しようとなさろうと、あなたはフリーダの未来の旦那さんなんですからねえ。ただそのためにあなたにいうのですが、あなたはここの事情に関してひどく無知でいらっしゃる。あなたのいうことを聞いていたら、そして、あなたのいったり考えたりすることを頭のなかで実際の状態と比較するなら、頭がこんがらがってしまいますよ。こんな無知をなおすことは急にはできないし、おそらく全然できないでしょう。でも、もしあなたが少しでもわたしを信じて下すって、この無知をいつも念頭におかれているなら、たくさんのことがもっとよくなるのです。そうすれば、あなたはたとえばわたしに対してただちにもっと公正な態度を取り、わたしがどんな驚きを味わったか、ということを気づき始めるでしょう。――その驚きの結果は今でもつづいているんですよ。――つまり、わたしのいちばんかわいい子がいわば鷲《わし》を離れて足なしとかげ[#「とかげ」に傍点]といっしょになったのだ、とわたしが知ったときの驚きのことです。でも、ほんとうの事情はそれよりもっとずっと悪いんですからねえ。わたしはつねにそのことを忘れようと努めなければならないでしょう。そうでないと、わたしはあなたと一ことでもおだやかな言葉なんか交わせないでしょう。ああ、あなたはまた怒りましたね。いいえ、まだいかないで下さい。このお願いだけは聞いて下さい。どこへいこうと、あなたはここではいちばん無知な人間なのだということを、はっきり意識していて下さいよ。そして、気をつけて下さいな。フリーダがいるためにあなたが無事でいられたこの家で、あなたは心を開いておしゃべりしてかまいませんし、またたとえば、あなたがどんなふうにクラムと話すつもりでいるのかを、わたしたちに打ち明けることもできます。ただほんとうに話すということ、ほんとうにクラムと話すということ、そればっかりは、どうか、どうか、しないで下さい」
 おかみは興奮のあまり少しよろよろしながら立ち上がり、彼の手を取ると、懇願するように彼をじっと見つめた。
「おかみさん」と、Kはいった。「あなたがなぜこんなことのためにへりくだって私に頼まれるのか、私にはわかりません。もしあなたのおっしゃるように、クラムと話すことが私にはできないものなら、私に頼もうが頼むまいが、それは私にはとてもできない相談というわけです。だが、もしそれができるものなら、どうして私がそれをしていけないのでしょう。その理由はとくに、もし私にできるのなら、あなたが反対される根本理由がなくなってしまうとともに、それ以外のあなたのさまざまな心配もきわめて疑わしいものとなるからです。もちろん、私は無知です。この事実はどうしても残りますし、それは私にとってとても悲しいことではあります。でも、それにはまた、無知な者はかえって多くのことをやってのける、という利点もあります。そのために私は、自分の無知とそのたしかに悪い結果とをよろこんで力の及ぶ限りもうしばらくは引きずっていこう、と思うのです。そうしたさまざまな結果は、本質的にはただ私だけに関するものです。それゆえ、何よりもまず、なぜあなたが懇願されるのか、私にはわからないのです。フリーダのためにはあなたはきっといつでも心配して下さることと思います。そして、もし私がフリーダの視界からすっかり消えるとしても、それはあなたの意味ではただ幸運を意味するだけのはずですからね。それなら、あなたは何を恐れているのですか。それなのにあなたが恐れているのは、もしや――無知な者にはどんなこともありうるように見えるんですが」と、Kはいって、すでにドアを開けていた。「あなたが恐れているのは、もしやクラムのためにではないでしょうね?」
 おかみは黙ったまま、彼が階段を急いで降り、助手たちが彼のあとを追っていくのを、見送っていた。

第五章

 村長との話合いは、ほとんどK自身が不思議に思ったくらいだが、彼にはほとんど気にかからなかった。彼はその点を、これまでの経験によると伯爵の役所との職務上の交渉がきわめて単純なものであったのだから、今度もたいしたことはないと思われるのだろう、ということで自分に説明してみた。それは一つには、彼の件の取扱いに関しては、外見上は彼にきわめて好都合な一定の原則がもうこれっきりと思われるほど決定的に出されてしまったためであり、もう一方では、役所には賞讃すべき統一性が保たれているためであった。その統一性は、ちょっと見ると統一性がないようなところにおいてとくに完璧《かんぺき》なもののように感じられるのであった。Kはときどきこうしたことばかり考えるのだったが、そういうときにも、自分の置かれている状態が満足すべきものと思うことからほど遠いわけではけっしてなかった。もっとも、こうした満足の快感に襲われたあとでは、たちまち自分に、これには危険がひそんでいるのだぞ、といい聞かせるのだった。
 役所との直接交渉は、実際そうむずかしいものではなかった。というのは、役所はどんなによく組織されているにせよ、いつでもただ遠く離れた眼に見えぬ城の人びとの名において、遠く離れた眼に見えぬ事柄を擁護しなければならないのであった。ところが、Kのほうは、何かきわめていきいきした身近かなことのため、自分自身のために闘っているわけだ。その上、少なくともいちばん最初のころには、Kは自分自身の意志によって闘っていたのである。というのは、彼は攻撃者であったのだ。そして、彼はただ自分のために闘うばかりではなく、そのほかに、彼にはわからないが、役所の処置から察すると存在していると思われるほかの勢力も闘ってくれるようであった。ところが今や、本質的でないような事柄では――それ以上のことはこれまでは問題とはならなかった――役所は最初から大いにKの意を迎えてくれ、それによって役所は彼から小さなやさしい勝利の可能性を奪ってしまった。そして、この可能性といっしょに、それにともなう満足と、それから出てくる十分理由のあるような、今後のもっと大きな闘いに対する自信とを奪ってしまった。そのかわり、役所はKに、もちろん村の内部だけではあったが、どこであろうといたるところを歩き廻らせ、それによって彼を甘やかし、彼の気力を弱め、ここではおよそどんな闘いをも排除してしまい、そのかわり彼を職務外の、完全に見通しのきかぬ、陰鬱で奇異な生活のなかへ移してしまった。こうして、彼がいつでも用心していなかったら、とんだ結果になりかねないのだった。つまり、役所がどんなに親切にしてくれたところで、また極端にやさしい職務上のあらゆる義務を完全に果たしたところで、彼に示される見せかけの好意にあざむかれてしまって、いつの日にか彼の職務以外の生活をひどく不注意に営むことになったろう。その結果は、彼はこの土地で挫折してしまい、役所はなおもおだやかに親切に、いわば役所の意志に反してというように、しかし彼の知らない何らかの公的な秩序の名において、彼を追い払うということにならないではいないのだった。そして、その職務以外の生活というのは、ここではいったいどんなものなのだろうか。Kは、役所と生活とがこの土地でほどもつれ合っているのをどんなところでもまだ見たことがなかった。役所と生活とがその場所をかえているのではないか、と思われるほど、この両者はもつれ合っていた。たとえば、これまでのところはただ形式的にすぎない、クラムがKの勤務の上に及ぼしている力は、クラムがKの寝室において実際にもっている力に比べてみて、いったいどんな意味があろうか。そこで、ここでは、いくらか軽率なやり方、ある種の緊張弛緩といったものが許されるのは、ただ役所に直接立ち向かうときだけであって、そのほかの場合にはいつでも大きな用心、つまり一歩踏み出す前に四方八方を見廻すということが必要だ、ということになるのだった。
 Kはまず村長のところで、ここの役所に対する自分の見解が裏書きされるのを見た。村長は、親切げな、ふとった、髭をきれいにそった男だが、病気で、ひどい痛風の発作にかかっており、ベッドに寝たままでKを迎えた。
「これはこれは、われわれの測量技師さんがおいでというわけですな」と、村長はいって、挨拶のために起き上がろうとしたが、それができないで、詑びながら両脚を指さして、またふとんのなかに身を投げた。部屋は窓が小さく、おまけにカーテンがかかっているためいっそう暗くなっていたが、その薄暗がりのなかで影のように見えるもの静かな一人の女が、Kのために椅子をもってきて、それをベッドのそばに置いた。
「おかけ下さい、おかけ下さい、測量技師さん」と、村長がいった。「で、どうかあなたのご希望をおっしゃって下さい」
 Kはクラムの手紙を読みあげ、それにいくつかの言葉をつけ加えた。ふたたび彼は、役所との交渉が非常にやさしいものなのだという感情をもった。役所は明らかにどんな重荷でも担ってくれているのであり、いっさいを役所に背負わせることができ、自分ではそんなものに関係しないで、自由でいられるのだ。村長もそのことを彼なりに感じているかのように、不快そうにベッドのなかで寝返った。ついに村長がいった。
「測量技師さん、あなたもお気づきのように、私はこの件をすべて知っていました。私自身がまだ何も手をつけていない理由は、まず第一に私が病気であるためで、その次にはあなたがこんなにも長いあいだおいでにならなかったからですよ。私はもう、あなたがこのことにけりをつけてしまわれたのだ、と思いました。ところが、あなたはご親切にもご自分で私を訪ねて下すったのですから、私としてもむろん、不愉快ではあってもほんとうのところをみんな申し上げなければなりません。あなたのおっしゃるように、あなたは測量技師に採用されました。しかし、残念なことに、われわれは測量技師はいらないのです。測量技師のやる仕事なんか少しもないでしょう。われわれの小さな管理地域の境界は杭で標識をつけてあり、いっさいがきちんと登記されてあります。所有者の変動はほとんど起こらないし、小さい境界争いなどは自分たちで片づけます。そうだとしたら、測量技師なんかわれわれにとってなんだというんです?」
 Kは、むろんその前にそんなことを思いめぐらしていたわけでなかったが、それに類した言葉を予期していたのだ、と心の奥底では確信していた。それだからこそ、彼はすぐいうことができた。
「それはひどく驚きました。これで私の計算はすっかりひっくり返ってしまいました。ただおそらく誤解があるのではないでしょうか」
「残念ながら、誤解ではありません」と、村長がいう。「私が申し上げているとおりです」
「でも、どうしてそんなことが!」と、Kは叫んだ。「私がこんな果てしのないような長旅をしたのは、これでまた追い返されるためではないんですよ!」
「それは別問題です」と、村長はいった。「私が決定できることではありませんが。だが、どうしてそういう誤解がありえたのかということは、私からあなたに説明して上げることができます。伯爵の役所のような大きな役所では起こりうることですが、一つの課がこのことをきめ、別な課があのことをきめるというふうで、どちらもほかの課のことは知らないのです。上の監督はなるほどひどく正確ではあるけれど、その性質からいってあとになってから下の役所へとどくのです。それでいつでも小さな混乱が起こりうるのです。むろん、それはほんの小さな取るにたらぬことで、たとえばあなたの場合のようなものです。大きな事柄ではまだ私が知っているまちがいなんかあったためしがありません。しかし、こまかなことがしばしばひどく面倒なものです。ところで、あなたの場合ですが、私はあなたに対して公務上の秘密なんかなしで――私はそれほどの役人ではないんですよ。私は農夫でして、今もそのことには変りがないのです――事の経過を打ち明けてお話ししましょう。ずっと前、私はそのころ村長になってまだ二、三カ月でしたが、一つの命令が私のところへきました。もうどの課から出たものかおぼえていませんが、その命令のなかで、役所の偉い人たち独特の断言的なやりかたで、測量技師が呼ばれることになっている、といい、村に対して、技師の仕事に必要な図面や書類を用意しておくように、と命令が下されたのでした。この命令はもちろんあなたに関することであったはずがありません。というのは、もう何年も前のことですからね。私も、今こうやって病気になり、寝床のなかでばかばかしい事柄をいろいろと考える暇がなかったら、そんなことを思い出さなかったことでしょうよ」そして、突然、言葉を中断して、細君に向って「ミッツィ」といった。細君はまだわけのわからぬほどせわしげな様子で部屋のなかを通り過ぎていくところだった。「そこの戸棚のなかを見てくれないか。たぶん命令書が見つかるだろう」
「それがつまり」と、村長はKに説明していった。「私が村長になったころのもので、あのころは私もまだあらゆる書類をしまっておいたんです」
 細君がすぐに戸棚を開けた。Kと村長とはそれをながめていた。戸棚は書類がいっぱいつまっていた。開けたときに、二つの大きな書類束がころがり出た。よく薪《まき》を束ねるときにやるように丸くくくってあった。細君は驚いてわきへ飛びのいた。
「下にあるかもしれない、下だ」と、村長はベッドから指揮するようにいった。細君はおとなしく、両腕で書類を抱えてあらゆるものを戸棚から投げ出し、下の書類を見つけ出そうとした。書類がたちまち部屋の半分を埋めてしまった。
「大変な仕事になってしまったな」と、村長はうなずきながらいった。「で、これはほんの小部分にすぎないのです。主な部分は納屋《なや》にしまったのですが、大部分はなくなってしまいました。だれが全部をまとめてしまってなんかおけるものですか。でも、納屋にはまだきわめてたくさんの書類があります」
「おい、命令書を見つけられるかね?」と、彼はふたたび細君のほうを振り向いた。「上に〈測量技師〉って文字に青くアンダーラインしてあるのを探すんだよ」
「ここは暗すぎるのよ」と、細君がいった。「蝋燭《ろうそく》をもってきましょう」彼女は散らばった書類の上をまたいで部屋を出ていった。
「女房はこういうむずかしい公務上の仕事にはとても役に立つんです」と、村長がいった。「でも、そんな仕事はただ片手間にやらねばならないのですがね。書きものの仕事には、助手がいます。学校の先生ですが、それでも片づきません。いつでも、片づかない仕事が残っていて、それがあの箱のなかに集められているんです」そして、もう一つの戸棚を指さした。「それに、私が今は病気なものですから、増えていくばっかりでしてね」と、いうと、疲れてはいるが、得意そうにまた身体を横たえた。
 細君が蝋燭をもってもどり、箱の前にひざまずいて命令書を探しているときに、Kはいった。
「奥さんが探されるのをお手伝いしましょうか?」
 村長は微笑しながら頭を振った。
「すでに申し上げたように、あなたに対しては職務上の秘密なんてありません。でも、あなたにご自分で書類を探していただくなんて、そんなことまではとても」
 今は部屋のなかは静まり返っていた。ただ書類が立てるかさかさいう音だけが聞こえていた。村長はおそらく少し居眠りしているようであった。ドアを軽くノックする音が、Kを振り返らせた。それはむろん二人の助手であった。これまでに少しはしつけられていたので、すぐ部屋のなかへ押しよせてはこないで、まず少しばかり開かれたドアを通してささやくのだった。
「外は寒すぎるんです」
「だれだね?」と、村長は驚いてきいた。
「私の助手たちですよ」と、Kはいった。「どこに待たせたらいいのか、私にはわからないんです。外では寒すぎますし、ここではじゃまになりますしね」
「私はかまいません」と、村長は親切にいった。「入れてやりなさいよ。それに、あの人たちは知っていますし。昔からの知人ですよ」
「でも、私にはじゃまなんです」と、Kは率直にいった。眼を助手たちから村長へと向け、また助手たちのほうへ走らせたが、三人とも、区別ができないほど同じように薄笑いを浮かべているのを見て取った。そこで彼は、ためしにいってみた。
「君たちはもう部屋へ入ってきたんだね。それなら、ここにいて、奥さんが書類を探すのを手伝いたまえ。その書類の上には〈測量技師〉という字に青くアンダーラインがしてあるんだよ」
 村長は反対しなかった。Kがしてはならないことを、助手たちはしてもよいというわけだ。二人はすぐ書類へ飛びかかっていったが、探すというよりもむしろ紙の山をほじくり返しているのだった。そして、一人がまだ表紙の文字を一字一字読みあげているうちに、きまって早くも一人がそれを相手の手から奪い取るのだった。それに反して細君は空《から》になった箱の前にひざまずいて、もう全然探してはいないようだった。ともかく蝋燭は彼女からずっと遠いところに立っていた。
「それでは、助手さんたちはあなたのじゃまになるんですね。でもあなた自身の助手なのに」村長は満足げな微笑を浮かべながらそういった。まるでいっさいのことは自分の指図によって行われているのだが、だれもそれを察することさえできないでいる、とでもいうようであった。
「いや」と、Kは冷やかにいった。「あの二人は私がこの土地にきてからはじめて、私のところへ押しかけてきたのです」
「なんですって! 押しかけてきたなんて。割り当てられてきた、といわれるんでしょう」と、村長がいう。
「それなら、割り当てられてきたということにします」と、Kはいった。「でも、まるで天から降ってきたようなものなんです。この割当てはひどく思慮を欠いたものです」
「思慮を欠いたことなんか、ここでは一つだって起こりませんよ」と、村長はいったが、足の痛みさえ忘れてしまって、身体をまっすぐに起こした。
「一つだって、ですか」と、Kはいった。「それでは、わたしの招聘《しょうへい》のことはどうなっているんです?」
「あなたの招聘の件も十分に検討されてあるんですよ」と、村長はいった。「ただ附帯的な事情がごたごた入りこんできているのです。そのことを書類によって立証して上げましょう」
「書類は見つからないようですね」と、Kはいった。
「見つからない?」と、村長は叫んだ。「ミッツィ、どうかもう少し急いでくれ! でも、さしあたり書類なしでもあなたに話はして上げられます。さきほどお話ししたあの命令書に対してわれわれは、ありがたいが測量技師はいらない、と返事をしました。ところが、この返事は、本来の課――それをAと呼んでおきましょう――にはもどっていかないで、まちがって別なB課へいってしまったのです。そこで、A課は返事を受け取らなかったし、残念なことにB課もわれわれの返事の全部は受け取らなかったのです。書類の中身がわれわれのところに残ってしまったのであれ、途中で紛失してしまったのであれ、――課のなかでなくなったのではありません。それは保証します――ともかくB課でも書類の封筒だけしかとどきませんでした。その封筒の上には、そのなかに封入してあるはずの、しかし残念なことにほんとうはなくなっている書類は、測量技師の招聘に関するものである、ということ以外には書かれていません。そうしているうち、A課はわれわれの返事を待っていました。A課はこの件についての記録をもってはいましたが、こういうことはたしかによく起こり、万事の決済に正確を期しても起こりがちなことですが、照会係は、われわれが返事するのを当てにし、それによって測量技師を呼ぶことにするか、または必要に応じてさらにこの件に関してわれわれと文書を交わすことにするか、どちらかにしよう、と考えていたのです。そのために照会係はメモをとっておくことをおこたって、そこでいっさいが忘れられてしまったのです。ところが、B課ではその書類の封筒が、良心的なことで有名なある照会係の手に入りました。その男はソルディーニという名前でイタリア人です。事情に通じている私のような者にも、彼ほどの能力をもつ男がどうしてほとんど下僚同然の地位にほっておかれるのか、わかりません。ところで、このソルディーニが、むろん中身を入れて送れ、といって空の封筒を送り返してきました。ところが、A課の最初の文書以来、何年とはいわないにしても、何カ月かはたっていました。よく理解できることですが、規定どおり書類が正しい道を経てくるならば、おそくも一日のうちに相手の課にとどき、その日のうちに片づけられてしまいます。だが、一度道に迷ったとなると、――役所の組織が優秀であるだけにいよいよそのまちがった道を熱心に探さなければならないのですが――そうなると、もちろんひどく長い時間がかかります。そこで、われわれがソルディーニの覚え書を受け取ったときには、その一件をただまったく漠然《ばくぜん》としか思い出せませんでした。そのころはまだわれわれ二人だけ、つまりミッツィと私とだけで仕事をしていました。学校の先生はまだ私のところへ割り当てられてきてはいませんでした。で、書類の写しは重要な件だけについてしか保管しておかなかったんです。要するに、われわれはそんな招聘のことは全然知らないし、また測量技師の必要なんか全然ない、ときわめて漠然とした返事しかできませんでした」
「でも」と、村長はここで話を中断した。まるで話に熱中しすぎて度を超《こ》した、あるいは少なくとも、自分が度を超したということはありうることだ、といわんばかりであった。「こんな話はあなたにはご退屈でしょうな」
「いや」と、Kはいった。「なかなか面白いです」
 すると、村長がいった。
「なにもおなぐさみに話をしているわけではありませんよ」
「面白いというのは、事情によっては一人の人間の生活を決定するようなばかばかしいもつれかたがあるものだ、ということをさとらせられるからなんです」
「あなたはまださとってなんかいませんよ」と、村長はまじめにいった。「で、さらに話をつづけましょう。われわれの返事では、もちろんソルディーニのような男は満足しませんでした。あの男ときたら私にとっては頭痛のたねですが、私はあの男に感心しています。つまり、あの男はだれのいうことも信用しないのです。たとえばだれかと何回となく機会を重ねて知り合い、信用のできる者だとわかっても、次の機会にはもうまるで全然知らないかのように、あるいはもっと正確にいうと、その人間がやくざなことはわかっているとでもいうかのように、信用しないのです。これは正しいことだと思いますね。役人はそういうふうにやるべきです。残念ながら、私は性分でこの原則に従うことができないのです。ごらんのように、他国者のあなたにも、すべて打ち明けてしゃべってしまいます。私にはこういうふうにしかできないのです。ところがソルディーニときたら、われわれの返事に対してただちに不信を向けました。そこで大変な文書往復が始ったのでした。どうして突然、測量技師は呼ばなくてもよい、という気になったのだ、とソルディーニはたずねてきました。私はミッツィのすばらしい記憶の助けを借りて、最初の発議は役所の職務上から出ているのだ、と答えてやりました。発議をしたのは別な課なのだということは、われわれはもちろんずっと前から忘れてしまっていました。それに対してソルディーニは、なぜこの役所の書簡のことを今になってやっといい出したのか、といってきました。私はふたたび、今になってやっとそのことを思い出したからだ、と答えてやりました。ソルディーニが、それはきわめて変だ、といいます。私は、こんなに長びいている件についてはちっとも変なことではない、と応酬しました。ソルディーニ――それでも変だ。というのは、お前が思い出したという書類は存在していないじゃないか。私――もちろん存在はしていない。なぜなら、書類全体が紛失したのだから。ソルディーニ――それでも、その最初の書簡に関して何かメモが取ってあるはずだ。ところが、そんなものはないではないか。そこで私は返答につまってしまいました。というのは、ソルディーニの課にまちがいがあったなどとは、私もあえて主張できないし、またそんなことは信じられなかったのです。測量技師さん、あなたはおそらく頭のなかでソルディーニを非難していらっしゃるんでしょう、私のいうところを考慮して、少なくとも別な課にその件を照会してみる気になってもよかったはずだ、とね。だが、そんな非難こそ正しくないでしょう。たといあなたの頭のなかだけにしろ、この男のことで一つの汚点が残ることを、私は欲しません。まちがいがありうるなどということはおよそ計算には入れないというのが、役所の仕事の原則なのです。この原則は、全体の優秀な組織によって正当なものとされますし、事の処理が極度に速やかになされなければならないときには、どうしても必要なのです。そこで、ソルディーニはほかの課に照会することはまったく許されていなかったのです。それに、ほかの課にしても全然返事はしなかったことでしょう。なにせ、これはまちがいがあったのではないかと調べようとしているのだ、とすぐに気づいたことでしょうからね」
「村長さん、お話の途中なのに失礼ですが、ちょっとおたずねしたいのですが」と、Kはいった。「さきほどあなたは監督の役所のことをいわれませんでしたか? 役所の仕事は、あなたのお話からいうと、統制がない場合のことを考えただけでも気持が悪くなるほど正確なものであるはずですね」
「あなたはなかなか厳密でいらっしゃる」と、村長はいった。「しかし、あなたがその厳密さを千倍にしても、役所が自分自身に対して課している厳密さに比べるなら、まだまだなんでもないものです。まったく事情に暗い人だけがあなたの問いのようなのを出せるのです。監督の役所があるかっていうんですか? およそあるのは監督の役所だけなんです。もちろん、普通ありふれた意味でのまちがいを見つけ出すためにそれらの役所があるのではありません。というのは、まちがいなんか起こらないのです。そして、たといあなたの場合のようにまちがいが起ったとしても、いったいだれがそれをまちがいだと決定的にいえますかね」
「それはまったく耳新しいお考えですね」と、Kは叫んだ。
「いや、私にとってはまったくありふれたことです」と村長はいった。「私も、まちがいが起ったのだ、と確信している点では、あなた自身とたいして変わらないのです。ソルディーニはそれに絶望するあまり、重い病気にかかってしまいました。われわれのためにまちがいの根源を明らかにしてくれる第一のいろいろな役所も、この件でまちがいをみとめているのです。しかし、第二の監督の役所も同じような判断を下すし、第三の役所やさらにそのほかの役所も同じような判断を下すとは、だれがいえるでしょうか」
「そうかもしれません」と、Kはいった。「私はむしろ首を突っこんでそんなことを考えたりしたくはないのです。そういう監督の役所のことなど聞くのははじめてですし、まだそれらのことがわかってはいないのですから。ただ、ここでは二つのことを区別しなければならない、と思います。つまり、第一はいろいろな役所の内部で起っていることです。それはまた、お役所式にあれやこれやと考えられるわけです。第二は、私という現にいる人間のことで、その私は役所の外にいて、いろいろな役所から害をこうむろうとしているのですが、その害があんまりばかげているものですから、私はまだ今でもその危険の深刻さというものを信ずることができないでいるのです。第一のほうにあたるのはおそらく、村長さん、あなたがあきれるほどの途方もない知識を傾けて私に話して下さったことなのでしょう。でも次に、私は自分のことについても一言お聞きしたいと思います」
「そのことも申しましょう」と、村長はいった。「だが、あらかじめもう少し説明しませんと、あなたにはおわかりにならないでしょう。私が今、監督の役所についていったことさえ、どうも早すぎたんでしてね。そこで、ソルディーニとのくいちがいのことに話をもどしましょう。すでに申しあげたとおり、私の防戦はだんだん勢いが弱くなりました。ところで、ソルディーニがたといどんなに小さな利点でも両手に握ったとなると、もう彼の勝ちなのです。というのは、そうなると彼の注意力、エネルギー、精神の落ちつきというものまで増すのです。そして、彼という人間をながめることは、彼から攻撃される者にとっては、おそろしいものであり、彼に攻撃される者の敵にとってはすばらしいものなのです。別な機会にこの後者の例を私は体験しましたが、今こうやって彼のことをお話しできるのも、まったくそのためです。ところで、私はまだ彼をこの眼で見ることはできないでいます。彼は城から下りてくることができないんです。仕事にあまりに忙殺されているんです。人の話によると、彼の部屋はこんなふうだということです。どの壁面も積み重ねられた柱のような大きな書類束で被われており、しかもそれがソルディーニのちょうど取りかかっている仕事分の書類だけだというのです。そして、いつでもその束のなかから書類が引き出されたり、またそれにさしこまれたりされ、しかもすべて大変な速さでやられるので、その柱のような書類の山がいつもくずれてしまい、まさにこのたえまのない、あとからあとからつづく物音が、ソルディーニの執務室の特徴となってしまった、ということです。まったく、ソルディーニは仕事屋で、どんな小さな用件に対しても、きわめて重大な用件に対するのと同じくらいの慎重さを向けるのですからね」
「村長さん、あなたは」と、Kはいった。「私の件を依然としてきわめてつまらぬものの一つと呼んでおられますが、それでもこの件はたくさんのお役人にとっての大変な仕事となったのです。そして、この件はおそらく最初のうちはきわめて小さなものだったのでしょうが、ソルディーニ氏のようなお役人たちの熱心さによって、大きなものとなってしまいました。残念なことですし、まったく私の意に反することです。というのは、私の野心は、私に関する大きな書類の柱をできあがらせ、音を立ててそれをくずれさせるということではなくて、ささやかな土地測量技師として小さな製図机の前に静かに坐って仕事をするということなのです」
「いや」と、村長がいった。「けっして重大な件なんかではありません。この点であなたは苦情をいう理由はありません。つまらぬ件のうちでもいちばんつまらぬものの一つなのです。仕事の量によって、用件の重要度がきまるのではないのです。そんなことを信じられるなら、あなたはまだまだ役所のことがわかるのにはほど遠いのです。だが、たとい仕事の量が問題だとするにしても、あなたの件などはいちばん小さなものの一つです。さまざまな普通の件、つまりいわゆるまちがいのない用件のことですが、それらのほうがもっとずっと大変な仕事になります。もちろん、このほうはずっと実のある仕事ですがね。ともかく、あなたはあなたの件がひき起こしたほんとうの仕事について、全然ご存じないのです。そのことについて、これからお話ししましょう。はじめソルディーニは私に構いつけないでいたのですが、彼の部下がやってきて、毎日、村の有力者たちの喚問が紳士荘で行われ、調書を取っていきました。たいていは私の味方で、ただ、何人かが頑固な態度を見せました。測量の問題は農夫にも痛切なので、その頑固な役人たちは何か秘密の申し合せとか不正とかでもあるのではないかとかぎ廻り、その上、一人の指導者を見つけ出したのでした。そして、ソルディーニは、彼らの報告からこういう確信を得たのにちがいありません。つまり、もし私がこの問題を村会へ提出したならば、みんながみんな測量技師の召聘に反対ではなかったのではなかろうか、と。そこで、わかりきったことが――つまり、測量技師なんか必要ではないということですが――ともかく少なくとも疑問の余地あることとされてしまったのです。その際、ブルンスウィックという男がとくに目立ちました。――この男のことはあなたはご存じありますまい。――この男はおそらく悪い人間ではないのですが、ばかで空想的なのです。ラーゼマンの義理の兄弟ですがね」
「あのなめし革屋のですか?」と、Kはたずね、ラーゼマンのところで会ったあの鬚面の男のことをいって聞かせた。
「そうです。その男ですよ」と、村長はいった。
「私は彼の細君のことも知っています」と、Kは少し当てずっぽうにいってみた。
「それはありうることです」と、村長はいって、口をつぐんだ。
「きれいな人ですね」と、Kはいった。「でも、ちょっと顔色が悪く、病身ですね。城の出なのでしょうね?」これは半分、たずねるようにいった言葉だった。
 村長は時計を見て、薬をさじの上にあけ、それを呑みこんだ。
「あなたはきっと城のなかの事務組織のことだけしかご存じでないのでしょう?」と、Kはぶしつけにたずねた。
「そうです」と、村長は皮肉げな、しかしありがたいというような微笑を浮かべて、いった。「その組織がまたいちばん重要なものなのです。ところで、ブルンスウィックについていうと、あの男を村から追い払うことができたら、われわれはほとんどみんながうれしいんですがね。ラーゼマンだってうれしくないわけじゃないはずです。ところが、そのころ、ブルンスウィックはちょっとした勢力を得ました。雄弁家でないけれど、大声でわめく男で、それで多くの人たちには十分だったのです。そこで私はこの件を村会に提出せざるをえないというはめになったのですが、これはともかくはじめのうちはブルンスウィックのただ一つの成功でした。というのは、もちろん村会は大多数が測量技師のことなど別に問題にしていなかったのです。それに、この件はすでに何年も前から起っていたのですが、今にいたるまでずっと決着しなかったのでした。それは一部分はソルディーニの良心的なやりかたからきたことであり、彼は多数派の根拠も反対派の根拠もきわめて注意深い調査によって探り出そうとしたのでした。それから一部分はブルンスウィックの愚かさと名誉心とからきたのです。この男は役所といろいろな個人的なつながりがあって、彼の空想力によってたえず新しいことを考え出しては、そうした役所とのつながりを動かしていました。もとよりソルディーニはブルンスウィックにだまされたりなどはしませんでした。どうしてブルンスウィックがソルディーニをだますことなんかできるでしょう。――けれども、まさにだまされないためには、新しいいろいろな調査が必要で、それがまだ終らないうちに、ブルンスウィックは早くもまた何か新しいことを考え出しているのでした。まったくあの男は活動的なやつで、それも彼の愚かさからくるのです。ところで、われわれの役所の組織の特別な性格についてお話しするときになりましたね。その組織の正確さというものに対応して、それはきわめて敏感なのです。一つの件がきわめて長いあいだ吟味《ぎんみ》されていると、その吟味がまだ終ってしまってはいないのに、突然、電光石火の勢い、思いもかけなかったようなところ、またあとからではもう見出すことができないようなところに、一つの解決が生まれるということがあるものです。その解決は、用件をたいていはきわめて正しく、しかしともかく気まま勝手に片づけてしまうのです。まるで、役所の組織が、おそらくは取るにたらぬような一つの問題に何年ものあいだ駆り立てられ、緊張していることにもはや我慢できなくなり、役人の助けを借りないでみずから決定を下してしまうようなものです。もちろん何も奇蹟が起ったわけではなく、きっと役人のだれかがそうした処理を書いたのか、あるいは書かないで決定を下したのか、どちらかにちがいありません。ところが、いずれにしろ、少なくともわれわれのところからは、つまりここからは、いや、そればかりでなく役所からも、どの役人がこの件で決定を下したのか、そしてどういう理由から決定を下したのか、ということははっきりとさせられないのです。監督の役所がそのことをずっとあとになってやっとはっきりさせるのです。しかし、われわれにはもうその結果はわかりません。それに、そのころにはそれはほとんどだれにももう興味はありませんからね。ところで、すでに申し上げたように、まさにこうした決定はたいていの場合すばらしいものですが、ただそうした決定で困ることは、普通は次のようなことになるんですが、こうした決定についてわかるのは遅くなりすぎてからのことで、そのため決定がわかるまで、ほんとうはとっくに決定されてしまっている事柄について依然として熱心に論議している、ということになるのです。あなたの件でこうした決定が行われたかどうかは私にはわかりません。――いろいろな点でそうだといえますし、またいろいろな点でそうではないといえます――しかし、もし決定が下されたのであれば、招聘状があなた宛に送られ、あなたがここまで長い旅をしてこられたわけで、その場合に長い時間が経ち、ソルディーニはそのあいだ依然としてここで同じ問題にたずさわって、へとへとになるまで仕事をし、ブルンスウィックは策動をつづけ、私はこの二人に悩まされていたわけです。そういう可能性は今私がただ仄《ほの》めかしているだけのことですが、次のことは私もはっきり知っています。つまり、ある監督の役所がそのあいだに、A課から何年も前に村に宛てて測量技師についての照会が行われているのに、これまでその返事がきていない、ということを発見したのです。最近、私のところへ照会がきて、それでもちろん事の全貌《ぜんぼう》が明らかにされました。A課は、測量技師は必要でないという私の回答に満足し、ソルディーニは、自分がこの件については係ではなかったということ、そしてむろん自分の責任ではないのだが、こんなにたくさんの不必要な気骨の折れる仕事をやってきたのだということを、みとめないわけにいかなかったのです。もし新しい仕事がいつものように四方から殺到してきていなかったら、そしてもしあなたの件がただきわめて小さな件にすぎないのでなかったならば、――あなたの件は、小さな件のうちでももっとも小さなものといってもいいくらいです――われわれはきっとみなほっと息をついたことでしょう。ソルディーニ自身さえも息をついたことだろう、と思います。ただブルンスウィックだけがぶつぶついったのですが、それもほんのお笑い草にすぎませんでした。ところで、測量技師さん、私の失望を考えてもみて下さい。事が全部うまく片づいたあと――そして、それからもすでにまた長い時が流れ過ぎたのですが――突然、あなたが現われ、またこの件がはじめからやりなおしという模様なんですからね。この件は私に関する限りどうしてもみとめまい、と私は固く決心していますが、そのことはきっとわかっていただけましょうね」
「わかりますとも」と、Kはいった。「だが、もっとよくわかることは、この土地では私についておそろしく不法な扱い方をしているということです。おそらくは法律についてもです。私としてもそれを防ぐことができるでしょう」
「どうやってそれを防ぐおつもりですか?」と、村長がきく。
「それは打ち明けてしまうわけにはいきません」と、Kはいった。
「無理にとはいいませんがね」と、村長はいう。「ただ、あなたにお考えいただきたいのですが、あなたにとっては私は――なにも友人だなどとはいいません。というのは、われわれはまったくの他人ですからね――だが、いわば仕事の上の友だちなのです。ただ、あなたが測量技師として迎えられることは、私はみとめるわけにいきません。そのほかのことでは、いつでも信頼して私に相談して下すってかまいませんよ。もちろん、たいしたものではない私の権限の範囲内でのことですが」
「あなたはいつも、私が測量技師として採用されるべきかどうか、ということについてお話しになりますが、私はすでに採用されたのですよ。ここにクラムの手紙があります」
「クラムの手紙ね」と、村長はいった。「それはクラムの署名があることで貴重で名誉なものです。それにその署名はほんもののようです。しかし、そのほかの点では――まあ、自分ひとりだけでそれについて意見はあえて申しますまい。――ミッツィ!」こう叫んで、次にいった。「ところで、お前たちはいったい何をしているのかね?」
 長いあいだ無視されていた助手たちとミッツィとは、探している書類を見つけ出さなかったようだった。そこで、いっさいのものをまた戸棚のなかへしまおうと思ったが、書類がきちんとまとめられていなかったので、うまくしまうことができないでいた。そこで、おそらく助手たちが思いついて、それを実行しているところだったが、二人は戸棚を床の上に寝かせ、すべての書類をそのなかにつめこみ、次にミッツィといっしょになって戸棚の扉の上に坐って、扉をじわじわと押えつけようとしていた。
「それではあの書類は見つからなかったのだね」と、村長がいった。「残念ですね。だが、その話はもうおわかりですね。ほんとうはもう書類なんかいらなくなったのです。ともかく書類はまだ見つかるでしょうが。おそらく学校の先生のところにあるのでしょう。あの人のところにはまだ非常にたくさんの書類があります。だが、ミッツィ、蝋燭をもってここへきてくれ。そして、この手紙を私といっしょに読んでくれ」
 ミッツィがやってきたが、彼女がベッドのはしに坐り、頑強で元気あふれる夫に身体を押しつけると、彼女はいっそう色あせ、みすぼらしく見えた。夫は彼女を抱いたままでいた。彼女の小さな顔だけは、今や蝋燭の光のなかできわ立って見えたが、その顔の輪郭はきびしく、ただ老年の衰えによってだけいくらかやわらげられていた。手紙に視線を投げるやいなや、彼女は軽く両手を合わせた。
「クラムのだわ」と、彼女はいった。
 次に二人はいっしょに手紙を読み、少しばかりささやきを交わしていた。一方、助手たちはちょうど「万歳!」と叫んだところだった。とうとう戸棚の扉を押えて閉めたのだ。ミッツィは静かに感謝の面持で彼らのほうを見やった。最後に村長がいった。
「ミッツィが完全に私と同意見なので、このことをあえて申し上げてよいと思います。この手紙はおよそ役所の公文書ではなくて、私簡です。それは〈拝啓〉という書き出しによってもすでにはっきりとわかります。その上、この手紙のなかでは、あなたが測量技師として採用された、ということは一こともいわれていません。むしろ一般的に領主に仕える勤務のことが問題となっていて、それも強制的にいっているわけではなく、ただ〈ご存じのように〉という条件つきであなたは採用されているのです。つまり、あなたが採用されたことの立証責任があなたに課せられているという意味です。最後に、職務上のことに関してはもっぱら村長であるこの私を直属の上役として相談しろ、と命令されています。この私がいっさいのこまかいことをあなたにお知らせするはずだ、とね。ところで、そのことは大部分はすでにお話ししてしまったわけです。公文書を読むことを心得ており、したがって公文でない手紙などはもっとよく読める者にとっては、こうしたことはすべてあまりにもわかり切ったことです。よそ者であるあなたがそのことをおわかりにならないのは、私には別に不思議ではありません。全体としてこの手紙の意味しているところはただ、あなたが領主に仕える勤務に採用された場合に、クラムが個人的にあなたのことを心配するつもりだ、というだけのことです」
「村長さん、あなたはあんまりうまくこの手紙を解釈されたので」と、Kはいった。「結局のところ一枚の白紙の上の署名しか残らなくなってしまいましたね。それによって、あなたが尊敬するとおっしゃったクラムの名前をおとしめておられるのだ、ということにお気づきにならないのですか」
「それは誤解です」と、村長がいった。「わたしはこの手紙の意味を見そこなってはいません。私の勝手な解釈でそれを軽んじたりなんかしていませんよ。その逆です。クラムの私簡は公文書よりもずっと意味をもっています。ただ、あなたがそれにつけ加えているような意味はもってはいないのです」
「シュワルツァーをご存じですか」と、Kがたずねた。
「いや、知りません」と、村長はいった。「お前ならたぶん知っているね、ミッツィ? お前も知らないのか。いや、私たち二人は知りません」
「それは変ですね」と、Kがいった。「彼は下級の執事の息子ですから」
「測量技師さん」と、村長はいった。「どうして私が、すべての下級の執事の息子まで全部知っていなければならないんです?」
「よろしい」と、Kがいった。「それなら、彼がそういう男だということを信じて下さい。私はこのシュワルツァーと、私が到着した日のうちに早くも腹が立つ一幕を演じたのです。そのとき、この男が電話でフリッツという下級の執事のところへ照会し、私が土地測量技師として採用されたという知らせをもらったのです。村長さん、あなたはこのことをどう説明されますか」
「きわめて簡単です」と、村長がいった。「だとすると、あなたはまだ一度もほんとうにわれわれの役所と接触されたことがないわけです。こうした接触はすべて見せかけのものにすぎないのに、あなたは事情をご存じないものですから、それをほんとうの接触と思っておいでです。それに、電話についていえば、ごらん下さい、ほんとうに役所とは十分連絡の仕事があるはずのこの私のところに、電話がありません。食堂とかそういったところでは、電話は大いに役に立つかもしれません。たとえば自動ピアノなんかのようにね。でもそれ以上のものではありません。あなたはこの土地でいつか電話をおかけになったことがありますか、え? それなら、おそらく私のいうことがおわかりでしょう。城では電話はすばらしく役に立っているらしいです。人びとの話では、城ではたえず電話をしているようで、それはもちろん仕事を非常にはかどらせています。このたえまのない電話をかける音が、この村の電話にざわめきや歌声のように聞こえるのですが、それはあなたもお聞きになったでしょう。ところで、このざわめきとこの歌声とが、われわれにここの電話が伝えてくれるただ一つの正しいことであり、信用に価することであって、そのほかのものはまやかしです。城との一定の電話連絡というものはないし、われわれがかける電話をつないでくれる本局というものもないのです。ここから城のだれかに電話をかけると、むこうではいちばん下級のあらゆる課の電話機のベルが鳴ります。いや、むしろ城のすべての電話が鳴ることでしょう、もし私がはっきり知っているように、ほとんどすべてのこの電鈴装置が切られてなければね。だが、ときどき、疲れ切った役人たちが少しばかり気晴しをやりたい要求をもちます。とくに夕方や夜です。そこで電鈴装置にスイッチを入れるのです。すると、われわれは返事をもらうのですが、そうはいってもただの冗談にすぎない返事ですよ。これもきわめて納得できることです。個人的なつまらぬ用事のために、きわめて重要な、いつでもすさまじい勢いで進行している仕事のまっただなかに電話のベルを鳴らして面倒をかけるなどということが、だれに許されるでしょうか。また、私にはわからないのですが、たといよそからきた人であっても、たとえばソルディーニに電話をかけて、自分に返事をしているのがほんとうにソルディーニなのだなどと、どうして信じることができるのでしょうかね。それはむしろ、おそらくはまったく別な課の下っぱの記録係なのでしょう。反対に、もし時間を選んでかけるならば、下っぱの記録係に電話をかけたのに、ソルディーニ自身が返事をする、ということが起こりえますがね。そういう場合には、もちろん、最初の声が聞かれるより前に、電話から逃げ出したほうがいいですよ」
「たしかにそんなことは考えませんでしたが」と、Kはいった。「そういうこまかいことは私にはわかりませんでした。でも、私はこの電話の話というものをたいして信用していませんでしたし、まさに城のなかで経験したり獲得したりすることだけがほんとうの意味をもつのだ、といつでも考えていました」
「いや」と、村長はKのその一言に固執しながら、いった。「そういう電話の返事にはほんとうの意味があるんですよ。どうして、ないなどといえますか? 城の役人が与える知らせが、どうして無意味なはずがあります? クラムの手紙についてお話ししたときに、そのことはもう申しましたね。つまりこうした言葉はみんな公務上の意味はもってはいません。もしあなたがそうした言葉に公務上の意味があるとお考えなら、あなたはまちがってしまいます。それに反して、その個人的な意味は、好意的な意味においてであれ、悪意をもった意味においてであれ、とても大きなものなのです。たいていは、公務上の意味よりも大きなものなのです」
「わかりました」と、Kはいった。「万事がそういう事情にあるとするなら、私は城にかなりな数の良い友だちをもっているわけですね。よく考えてみると、あの何年も前に例の課が、測量技師を呼ぶかもしれないと思いついたのは、私に対する好意の行為だったのですね。そして、それにつづいてずっとこの好意の行為が重なっていき、最後には、なるほどひどい結末ではありますが、私がおびきよせられ、そして私を追っ払うぞとおどしているわけですね」
「あなたの考えかたにはある真実な点があります」と、村長がいった。「城のいうことを言葉どおりに取ってはいけないという点では、あなたのいわれることはもっともです。しかし、用心はどこでも必要であって、ここだけのことではありません。そして、問題となっている発言が重要であればあるほど、それだけ用心が必要なのです。ところで、あなたが〈おびきよせる〉とおっしゃるのは、私には納得できません。もしあなたが私の説明をもっとよくたどっておられたら、あなたをここに招くという問題はあまりにもむずかしく、われわれがここでちょっとした談話をしているうちにとても答えられるようなものではない、ということを知られているにちがいないでしょうが」
「それでは、このお話の成果は」と、Kはいった。「私が追い払われるまで、万事がひどく不明瞭で、解決のつかぬままでいるのだ、ということなのですね」
「測量技師さん、だれがあえてあなたを追い払おうなんて思っているでしょうか」と、村長はいった。「いろいろな予備的問題が不明瞭だということこそ、あなたにもっとも鄭重な待遇を保証しているのです。ただ、あなたはお見かけしたところ、あまりにも神経質でいらっしゃる。ここではだれもあなたを引きとめないでしょうが、それはまたけっしてあなたを追っ払うということではありません」
「おお、村長さん」と、Kがいった。「多くのことをあまりにもあっさり見すぎていらっしゃるのは、またしてもあなたなのです。私をこの土地にとどめているいくつかのものを、あなたに数え上げてお聞かせしましょう。故郷の家から出てくるために私がもたらした犠牲、つらかった長い旅、ここで採用されるために思い描いたさまざまなちゃんとした理由のある希望、完全な無一物、今また家へ帰って別な適当な仕事を見つけ出すことの不可能なこと、そして最後にはこの土地の女である婚約者です」
「ああ、フリーダですね」と、村長は少しも驚かないで、いった。「知っています。でも、フリーダはあなたのいかれるところへどこへでもついていくでしょう。もちろん、そのほかのことに関しては、ここでいろいろお考えになることがたしかに必要ではあります。それについては城に報告しておきます。城の決定がくるにしろ、あるいはその前にもう一度あなたにいろいろおたずねすることが必要であるにしろ、あなたをお呼びしに人をやります。それはご承知下さいますね?」
「いや、承知できません」と、Kはいった。「私は城の施しものなどを望んでいるのではなく、当然の権利を欲しているのです」
「ミッツィ」と、村長は細君に向っていった。細君はまだ夫に身体を押しつけて坐っており、まるで夢のなかに没頭しているような様子で、クラムの手紙を手でもてあそんでいた。その手紙で彼女は小さな舟をつくっていた。Kは驚いてその手紙を彼女の手から奪い取った。「ミッツィ、脚がまたひどく痛み始めたよ。湿布を換えなければならないね」
 Kは立ち上がって、いった。
「それでは、おいとましましょう」
「はい」と、ミッツィは村長にいって、早くも塗り薬を準備していた。「すきま風がひどく入ってくるんですわ」
 Kは振り向いた。二人の助手が、いつものぎごちない職務熱心な態度で、Kの言葉を聞くとすぐ、観音開きのドアの両方を開けてしまっていた。Kはひどく侵入してくる寒気からこの病室を守るために、村長の前ですばやくお辞儀をするのがせいぜいだった。それから彼は、二人の助手を引っ張るようにしながら部屋から出て、急いでドアを閉めた。

第六章

 宿屋の前では亭主が彼を待ちかまえていた。こちらからたずねなければ、あえて話そうとはしない様子だったので、Kは、どんな用だ、ときいた。
「新しい宿を見つけましたか」と、亭主は地面を見ながら、いった。
「おかみさんに頼まれて、きいているんですね」と、Kはいった。「あんたはきっとおかみさんにたよりっきりなんだね」
「いえ」と、亭主はいった。「あれに頼まれてうかがっているわけではありません。でも、あれはあなたのためにひどく興奮し、悲しがっています。仕事ができず、ベッドに入ったきりで、たえず溜息をついたり、嘆いたりしているんです」
「おかみさんのところへいこうか?」と、Kはきいた。
「どうか、そうして下さい」と、亭主はいう。「村長のところからおつれしようとして、あそこの戸口で聞き耳を立てていたんですが、あなたがたはお話をしておられて、おじゃまをしたくなかったし、女房のことが心配にもなったので、急いで帰ってきたのでした。ところが、あれは私をよせつけませんので、あなたをお待ちするよりほかにしかたがなかったのです」
「それなら、急いでついてきたまえ」と、Kはいった。「すぐおかみさんをなだめてやるよ」
「そううまくいきさえすれば、いいんですが」と、亭主がいった。
 二人は明るい台所を通っていった。そこでは、三、四人の女中がたがいに離れたままで、たまたま何かの仕事をやっていたが、Kの姿を見ると、まったく立ちすくんでしまった。台所にいてさえ、おかみの溜息をもらす声が聞こえてきた。おかみは、薄い板壁で台所と隔てられた、窓のない仕切り部屋に横になっていた。そこには、大きなダブルベッドと戸棚一つとを置くだけの余地しかなかった。ベッドは、そこから台所全体が見わたせて、仕事を監督できるように置かれてあった。それに反して、台所からは仕切り部屋のなかのほとんど何も見られなかった。そこはまったく暗くて、ただ薄桃色の寝具だけが少しばかりぼんやり浮かび出ていた。部屋のなかへ入って、両眼が慣れるとやっと、こまかなところが見わけられるのだった。
「やっときて下すったのね」と、おかみは弱々しい声でいった。彼女は手足をのばして仰向けに寝ていたが、呼吸をするのが苦しい様子で、羽根ぶとんをうしろへはねのけていた。ベッドに寝ていると、服を着ているときよりもずっと若く見えたが、かぶっているレースで織った薄いナイトキャップ(それが小さすぎて、髪の上でずれ落ちそうに動いているのだが)のため、顔のやつれを見せていて、見るからにあわれをもよおさせるのだった。
「私がきてもよろしかったのですか?」と、Kはやさしくたずねた。「あなたは私をお呼びにはならなかったんですのに」
「こんなに長いあいだ私を待たせてはいけなかったのよ」と、おかみは病人特有のわがままさでいった。「おかけなさいな」と、彼女はいって、ベッドのはしを示した。「でも、ほかの者は出ていってちょうだい!」そのあいだに助手たちのほかに、女中までが入りこんでいたのだった。
「おれも出ていくよ、ガルディーナ」と、亭主がいった。Kははじめておかみの名前を聞いたのだった。
「もちろんですとも」と、彼女はゆっくりといったが、何か別な考えにふけっているらしく、うわの空でつけ加えた。「どうしてお前さんなんかがここに残るっていうの?」
 だが、みんな台所へ引き下ってしまったときにも、――助手たちも今度はすぐそのあとについていった。とはいっても、一人の女中の尻を追っていったのだった――ガルディーナはそれでも注意深くて、ここで話すことは台所にまる聞こえだと見て取った。というのは、この仕切り部屋にはドアがなかったのだ。それで彼女は、全員に台所からも立ち去るように命じた。すぐ彼女のいうとおりになった。
「測量技師さん」と、ガルディーナが次にいった。「戸棚のなかのすぐ手前にショールがかかっています。それを取って下さいな。それを身体にかけたいんです。羽根ぶとんは我慢できないわ。息苦しくて」そして、Kがそのショールをもっていくと、いった。「ごらんなさいな、このショールはきれいでしょう?」
 それはKにはありふれた毛織の布のように見えた。ただお世辞だけのために一度さわってみたが、一言もいわなかった。
「そうよ、これはきれいなショールだわ」と、ガルディーナはいって、それにくるまった。今度は落ちついたように身体を横たえていた。すべての苦悩が彼女から取り去られたように見えた。それに、横になっていたために乱れてしまった頭髪にまで気がついて、ちょっとのあいだ身体を起こし、ナイトキャップからはみ出た髪形をなおしていた。豊かな髪だった。
 Kはじりじりしてきて、いった。
「おかみさん、あなたは私がもう別な宿を見つけたかって、私にきくようにいいましたね?」
「きくようにいったですって?」と、おかみはいった。「いいえ、それはまちがいです」
「でもご主人がたった今、そのことを私にきかれましたよ」
「きっとそうでしょうね」と、おかみはいった。「わたしはあの人とやり合っているんですよ。わたしがあなたをここに泊めたくないと思ったときには、あの人はあなたを引きとめましたし、今、あなたがここに泊っていらっしゃることをわたしがうれしく思っていると、あの人はあなたを追い出そうとします。あの人はいつでもこんな調子なんですよ」
「それではあなたは」と、Kはいった。「私についてのお考えをそんなに変えてしまわれたのですね? 一時間か二時間のうちにですか?」
「わたしの考えを変えたわけじゃありませんわ」と、また弱々しげにおかみはいった。「手を渡してちょうだい。そう。それじゃあ、なんでも正直にいうって私に約束して下さいね。わたしもあなたに対しては正直にいうことにします」
「いいです」と、Kはいった。「でも、どちらから始めるんです?」
「わたしからよ」と、おかみがいった。Kの機嫌を取ろうとしていっているようには見えず、自分のほうからしゃべりたがっているように見えるのだった。
 おかみはふとんの下から一枚の写真を取り出し、それをKに手渡した。
「この写真をよくごらんなさい」と、彼女は頼まんばかりにいった。それをもっとよく見ようとして、Kは台所へ一歩ふみ入れたが、それでも写真の上に何かを見わけることは容易ではなかった。というのは、写真は古くなったために色があせてしまい、いくつも破れ目が入っていて、くちゃくちゃになり、しみがついていた。
「どうもあまりいい状態にはないようですね」と、Kはいった。
「残念ですわ、残念ですわ」と、おかみがいった。「何年も肌身につけていつももち運んでいると、そんなふうになるのよ。でも、よくごらんになると、なんでも見わけられますわ。きっとそうよ。それに、わたしがお手伝いしてあげるわ。何が見えるか、おっしゃって下さい。写真のことを聞くのは、とてもうれしいんです。何が見えるの?」
「若い男ですね」と、Kはいった。
「そうよ」と、おかみがいった。「で、何をしていると思う?」
「板の上に寝て、身体をのばし、あくびをしているのだと思うな」おかみは笑った。
「全然ちがうわ」と、彼女はいった。
「でも、ここに板があって、ここに男が寝ていますよ」と、Kは自分の見かたに固執した。
「もっとよくごらんなさい」と、おかみは怒ったようにいった。「ほんとうに寝ている?」
「いや」と、今度はKはいった。「寝ているんじゃない。空中に漂っています。そうだ、これは全然板なんかじゃなくて、おそらく紐《ひも》ですね。この若い男は高跳《たかと》びをやっているんですね」
「そうよ」と、おかみはよろこんでいった。「跳んでいるのよ。所長のお使いはこんなふうにして練習するんです。あなたにわかるものと、私は思っていました。顔も見えて?」
「顔のことはほんの少ししかわからないけれど」と、Kはいった。「ひどく骨を折ってやっているらしいですね。口は開いているし、眼をつぶり、髪をなびかせています」
「よくわかったわね」と、おかみは賞めるようにいった。「この人を直接見たのでない者には、それ以上はわからないわ。でも、すてきな若者だったのよ。ほんの一度ちらりと見ただけですけれど、あの人のことはけっして忘れないでしょう」
「いったいだれなんです?」と、Kはたずねた。
「これはね」と、おかみはいった。「使いの人です。この人をよこして、クラムがはじめて自分のところへこいって私にいってきたんです」
 Kは相手の言葉をはっきりと聞いていることができなかった。窓ガラスのがたがたいう音に注意をそらされたのだった。彼はすぐ、このじゃまの原因を見とどけた。二人の助手が外の内庭に立ち、雪のなかで片足ずつ跳んでいた。Kにまた会えてうれしいというように、よろこびのあまりたがいにKを指さしては、たえず台所の窓をこつこつとたたくのだった。Kのおどかすようなしぐさですぐにそれもやめ、たがいに相手をうしろへのけようとするのだが、すぐ相手の妨害をかわして、また窓のところへやってくる。Kは急いで仕切り部屋へもどった。そこならば、助手たちが外から彼を見ることができず、彼のほうも二人を見ないですんだ。ところが、窓ガラスをたたく、低い哀願するような物音は、そこでもなお長いあいだ彼を追いかけてくるのだった。
「また助手たちなんです」と、彼は言いわけのためにおかみにいって、外を指さした。だが、おかみはKには注意を向けていなかった。写真を彼から取り上げ、それをじっとながめ、手でしわをのばし、またふとんの下に押し入れていた。彼女のしぐさは前より緩慢になっていたが、疲れのためではなく、思い出の重荷にあえいでいるためであった。Kに話そうとしたのだが、話をしているうちにKのことを忘れてしまっていた。ショールのへり飾りをもてあそんでいた。ちょっとの間をおいてからやっと眼を上げ、手で眼の上をこすり、いった。
「ああ、このショールもクラムからもらったのよ。それからナイトキャップも。写真とショールとキャップ、この三つはわたしがもっているクラムの記念の品なの。わたしはフリーダのように若くないし、あの子のように野心がないし、またあの子のように気がやさしくはないわ。あの子はとても気がやさしいのよ。つまり、わたしは生活に順応することを知っているのね。でも、このことを白状しなきゃならないけれど、この三つの品物がなければ、わたしはここでこんなに長いあいだ我慢できなかったことでしょう。いいえ、おそらく一日だって我慢できなかったことでしょうよ。この三つの記念の品は、あなたにはおそらくつまらぬもののように思われるでしょうけれど、ごらんなさいな。あんなに長くクラムとつき合っていたフリーダだって、記念の品なんて全然もっていないじゃないの。わたしはあの子にきいてみたんだけれど、あの子はあまりに夢想しすぎるし、あまりに満足を知らなすぎるのよ。ところがわたしのほうは、たった三度しかクラムのところにいかなかったのに、――あとではあの人はもうわたしを呼びに人をよこさなかったの、どうしてかわからないのだけれど――まるであの人とわたしとの関係が短いことを予感していたように、これらの記念の品をもってきたのよ。もちろん、自分からそのつもりにならなければならないのよ。クラムが自分でものをくれることなんてないわ。でも、クラムのところで気にいるものがあるのを見たら、くれってせがむことはできるのよ」
 いくら自分に関係のあることでも、Kはこんな話を聞かされていて、不愉快に感じた。
「いったい、そういったことはどれくらい前のことなんです?」と、彼は溜息をもらしながらきいた。
「二十年以上も前のことよ」と、おかみがいった。「二十年よりずっと前の話よ」
「そんなに長いあいだクラムに対して変わらぬ愛の心を守っているんですね」と、Kはいった。「でも、おかみさん、私が自分の将来の結婚のことを考えると、あなたはこんな告白で私に大きな心配のたねを与えているんだっていうことを、気づいておられますか?」
 おかみは、Kが自分のことをもち出して今の話に口を挾もうとしたのを無礼と思い、怒ってわきからKをじっと見た。
「そんなに気を悪くしないで下さい、おかみさん」と、Kはいった。「私はクラムにかれこれいうのではありません。しかし、私はさまざまなできごとの力でクラムとはある関係ができてしまったのです。それはいくらクラムの最大のファンだって否定はできないはずです。そうなんですよ。そこで私はクラムの話になると、いつでも自分のことを考えないではいられません。これはどうしようもないのです。それに、おかみさん――」――ここでKは彼女のためらう手をつかんだ――「考えても下さい、さっきの私たちの話合いはなんてまずい終りかたをしたことでしょう。今度は仲よく別れましょう」
「おっしゃることはもっともです」と、おかみはいって、頭を下げた。「でも、わたしのことも気の毒だと思って下さいよ。わたしはほかの人たちみたいに感じやすくはありません。それに反して、みんなはいろいろな泣きどころをもっているけれど、わたしはただこのクラムという泣きどころをもっているだけなのよ」
「残念ながら、それが同時に私のでもあってね」と、Kはいった。「でも、私はきっと自分を抑えるでしょう。ところで、おかみさん、私にいって聞かせて下さいませんか。結婚してから、クラムに対するこんなおそろしいほどの変わらぬ愛情をどうやって私は我慢したらいいのですか。フリーダもこの点であなたと似ているとしての話ですけれど」
「おそろしいほどの変わらぬ愛情ですって!」と、おかみはぶつぶついいながら、Kの言葉をくり返した。「これが変わらぬ愛情なんていうものですか? わたしは夫に対して操《みさお》を立てています。クラムにですって? クラムは一度わたしを恋人にしましたよ。わたしがいつかこの資格を失うことがあるんですかね? で、あなたはフリーダの場合にそれをどうやって我慢したらいいかですって? ああ、測量技師さん、そんなことをきくなんて、あなたはいったいなんという人なんです?」
「おかみさん」と、Kは相手をたしなめるようにいった。
「いいすぎましたわ」と、おかみはすなおにいった。「けれど、わたしの夫はそんな問いはしませんでした。あのころのわたしと今のフリーダと、どちらが不幸といえるのか、わたしにはわかりませんわ。気まぐれにクラムを捨てたフリーダでしょうか、それとも、クラムがもう呼びに人をよこさなくなった私のほうでしょうか。けれど、おそらくはフリーダのほうだわ。あの子にはまだそれがすっかりはわかっていないようだけれど。でも、あのころわたしの不幸はわたしの頭を今よりももっと占めていたのよ。というのは、いつでも自分自身に次のようにきかないではいられなかったし、ほんとうのところ今でもまだ自分にきくことをやめていないのよ。『どうしてこんなことになったのだろう? 三度クラムはお前を呼びに人をよこしたが、四度目はもうよこさない、四度目はもうけっしてよこさないなんて!』って。あのころ、このこと以上に何がわたしの心を占めていたでしょうか? そのすぐあとで結婚した夫と、このこと以外の何について話すことができたでしょうか? 昼のあいだは時間がありませんでした。わたしたちはこの宿屋をひどい状態で譲り受けたのですし、それをりっぱに繁昌させなければなりませんでした。でも、夜はどうでしたろう? 何年ものあいだ、わたしたちの夜の話は、ただクラムとあの人の心変りの理由とだけをめぐって行われました。そして、夫がこの話をしているうちに眠りこんでしまうと、わたしは夫を起こして、また話しつづけたものですわ」
「で、もしお許し下さるなら」と、Kはいった、「大変ぶしつけな質問をしたいのですが」
 おかみは黙っていた。
「それでは、きいてはならないわけですね」と、Kはいった。「それでも十分です」
「もちろんですとも」と、おかみはいった。「それでも十分でしょうね。それがとくに十分でしょうね。あなたはなんでも誤解なさるのね。黙っていることもね。あなたには誤解するほかにできることってないのよ。わたしは、どうぞきいてくださいっていうつもりよ」
「私はなんでも誤解するのなら」と、Kはいった。「おそらくわたしの質問も誤解しているのでしょう。おそらく少しもぶしつけな質問なんかじゃないのでしょう。ただ、あなたがどうやってご主人を知るようになったかということと、どうしてこの宿屋があなたたちのものになったかということとを、知りたいだけなんです」
 おかみは額にしわをよせたが、平静にいった。
「それはとても簡単な話ですわ。わたしの父が鍛冶屋で、わたしの今の夫のハンスはある豪農の馬丁で、しょっちゅう父のところへきたのです。そのころ、クラムと最後に会ったあとで、わたしはひどく不幸でした。けれども、ほんとうは不幸になんかなってはいけなかったのでしょう。というのは、万事は正確に進んでいたのです。そして、わたしがもうクラムのところへいっていけなかったのは、まさしくクラムがきめたことで、それだから正確だったはずです。ただ、そうなった理由だけがあいまいで、それは探ってもよかったのです。でも、わたしは不幸になんかなってはいけなかったのでしょう。ところで、それでもわたしは不幸で、仕事も手につかず、うちの前庭に一日じゅう腰を下ろしていました。そこでハンスがわたしを見て、ときどきわたしのそばへやってきては腰を下ろすのでした。わたしはあの人に自分の悩みを訴えませんでしたが、あの人はそれが何についての悩みなのかを知っていました。そして、あの人は善良な若者だったので、わたしといっしょに泣いてくれるという場面になったのです。あのころの宿の主人はおかみさんが死んで、そのために商売をやめなければならなかったのですが、――それにその人はもう老人でしたから――あるとき、うちのその小さな庭の前を通りかかって、そこでわたしたち二人が坐っているのを見ると、立ちどまり、むぞうさにこの宿屋を賃貸ししてやろうと申し出てくれました。わたしたちを信用してくれていたので、内金を取ろうとはしないで、賃貸料も大変安くしてくれました。わたしは父にだけは面倒をかけまいと思っていましたが、そのほかのことはみんなどうでもよかったのです。そこで、宿屋のことや、おそらくは少しは悩みを忘れさせてくれる新しい仕事のことを考えて、ハンスの結婚申込みに応じました。そういう話なんですよ」
 しばらく二人は黙っていたが、やがてKがいった。
「その宿屋の主人のやりかたはたしかにりっぱだったのですが、軽率でしたね。それとも、その人にはあなたたちを信頼する特別の理由でもあったのですか?」
「その人はハンスをよく知っていました」と、おかみはいった。「ハンスの伯父《おじ》さんでしたから」
「それなら、むろんのことですね」と、Kはいった。「では、ハンスの家族はきっとあなたとの縁組を大いに問題にしていたのですね」
「きっとそうでしょう」と、おかみはいう。「わたしにはわかりません。そんなことに気を使ったことはありませんから」
「でも、きっとそうだったにちがいありませんね」と、Kはいった。「家族の人たちがこんな犠牲を払って、宿屋を担保もなしで簡単にあなたたちの手に渡す気になったんですからね」
「あとになってわかったように、それは軽率なやりかたではありませんでしたよ」と、おかみはいった。「わたしは仕事に没頭しました。鍛冶屋の娘のわたしは身体がじょうぶで、女中や下男もいりませんでした。食堂でも、台所でも、馬小屋でも、内庭でも、どこででも働きました。料理が上手なので、紳士荘のお客さえ取ってしまったほどです。あなたはまだ昼食に食堂へいらっしゃっていないので、うちの昼食のお客さんがたをご存じないのです。あのころはもっと多かったんです。あれからもうお客がだいぶ減ってしまいましたのでね。で、その結果は、わたしたちは賃貸料をきちんと払ったばかりでなく、二、三年ののちにはそっくり買い受け、今ではほとんど借金もなくなっています。ところが、それ以外の結果としては、もちろん、そのために私は身体をこわしてしまい、心臓が悪くなり、今ではお婆さんになってしまった、ということをあげなければなりません。おそらくあなたは、わたしのほうがハンスよりもずっと年上だとお思いでしょうけれども[#「お思いでしょうけれども」は底本では「お思いでしようけれども」]、ほんとうはあの人は私より二つか三つ若いだけなんです。そして、あの人はさだめしこれからもけっして年をとらないことでしょう。というのは、あの人のような仕事をしていては、――パイプをふかしたり、お客さんがたの話に耳を傾けたり、それからパイプをたたいて灰を出したり、ときどき一杯のビールをお客にもっていったりするぐらいなんですから――とても年なんかとるものではありませんよ」
「あなたのお手柄はすばらしいものです」と、Kはいった。「そのことは疑いありません。けれども、あなたはあなたの結婚以前のときのことをお話しになりましたが、そのころには、ハンスの家族が入るべき金を犠牲にし、あるいは少なくとも宿屋の譲り渡しというような大きな危険にあまんじて、あなたがたの結婚をうながし、しかもその場合にまだ全然わかっていなかったあなたの仕事の腕前と、ないということはよく知っていたにちがいないハンスの仕事の腕前と以外には少しも見込みというものをもたなかったとすると、どうも奇妙なことになりますね」
「まあ、まあ」と、おかみは疲れたようにいった。「あなたが見当をつけていること、しかもそれがまちがっていることは、よくわかりますよ。クラムについてはこうしたすべてのことはまったくかかわりもないことですわ。なぜクラムがこのわたしのために心配してくれたり、あるいはもっと正確にいって、このわたしのために心配してくれることができたりしたでしょうか? あの人はじつのところ、わたしのことなんか、もう全然知らなかったのです。あの人がもうわたしを呼びによこさなかったということは、わたしのことを忘れてしまったというしるしなんですわ。自分がだれを呼びにやらないのかは、完全に忘れているのですよ。こんなことはフリーダの前では申したくありません。ところで、それは忘れるということだけではなく、それ以上のことなんです。忘れてしまった者のことは、ふたたび知るということがありえます。ところが、クラムの場合には、そんなことはありえないんです。クラムがもう呼びに人をよこさない者のことは、その者の過去について完全に忘れてしまったばかりでなく、すっかりその者の未来についても忘れてしまったということなんです。わたしだって骨を折って考えれば、あなたの考えていらっしゃることぐらい察しはつきますわ。あなたの故郷であるよその土地ではたぶん通用しているのでしょうが、ここではばかばかしいような考えのことをいっているんですよ。おそらくあなたは、クラムが将来いつかわたしを呼ぶとき、わたしがあの人のところへいくじゃまにならないようにというので、ハンスのような男をわたしの夫にしたのだ、というようなばかげたことまで考えていらっしゃるんでしょう。ところで、ばかばかしいにもほどがあるというものです。もしわたしにクラムが合図したなら、わたしがクラムのところへ駆けつけるのを妨げることができるような夫なんて、いるものですか。ばかばかしい、ほんとにばかばかしいことですわ。こんなばかげた考えをもてあそんでいたら、頭が変になりますわ」
「いや」と、Kはいった。「おたがいに頭が変なんかになりたくありませんね。私も、あなたの考えておられるほどに私の想像をたくましくしたわけではありませんよ。もっとも、ほんとうをいうと、そんなことを考えかけていたんですけれどね。ただ、さしあたって不思議と思ったのは、親戚の人たちがこの結婚に大いに期待をかけ、しかもそうした期待が実際に実現されたということなんです。実現されたといっても、あなたの心臓と健康と引き換えということでしたがね。こうした事実とクラムとのあいだにある関連があるらしいという考えは、たしかにお話をうかがっていて私の頭に浮かんではきましたが、あなたがおっしゃったほど失礼なものではありませんでした。あるいは、まだそこまではいっていなかったといえます。あなたがあんなことをおっしゃったのは、あなたに面白いものだから、私をどやしつけようというだけの目的でなさったようですね。まあ、勝手に面白がって下さい。ところが、私が考えたのは、何よりもまずクラムが結婚のきっかけらしい、ということなんです。クラムというものがいなかったら、あなたは不幸にはならなかったでしょうし、仕事に手がつかぬようになって前庭に坐りこんでいることもなかったでしょう。クラムがいなかったら、あなたはハンスと前庭で会わなかったことでしょうし、あなたの悲しみというものがなかったら、気の小さいハンスはあなたにけっして話しかけようなどとしなかったことでしょう。クラムがいなかったら、あなたはけっしてハンスといっしょに涙を流したりしなかったでしょう。クラムがいなかったら、あの年とった善良な伯父さんの宿のご亭主も、けっしてハンスとあなたとが前庭でなごやかにいっしょにいるのを見はしなかったでしょう。クラムがいなかったら、あなたは人生に対してどうでもいいというようなふうにはならず、したがってハンスと結婚なんかしなかったでしょう。で、こうしたすべてにすでに十分にクラムが関係があるのだ、といわないわけにはいきません。ところが、もっと先があります。クラムがいなければ、あなたは過去を忘れようとはしなかったでしょうし、きっとそんなに考えなしに身体をいじめつけて仕事をしなかったでしょうし、また商売をこんなに栄えさせはしなかったでしょう。だから、その点でもクラムが関係しているわけです。ところで、クラムはまた、そうしたことは別としても、あなたの病気の原因でもあります。というのは、あなたの心臓は結婚の前にすでにかなわぬ恋の情熱に疲れ切っていたのですからね。で、なお残っている問題は、ハンスの親戚たちはなんであなたがたの結婚にそんなに乗り気になったのか、ということだけです。さっき、ご自分でいわれましたが、クラムの恋人であるということは、身分が上がることで、それはいつまでも消えるものではないってね。ところで、そのことがあなたの心をひきつけたのかもしれませんね。だが、そのほかに、こういう期待があったんだと思います。つまり、あなたをクラムのところへつれていったのはいい星のめぐり合せであり、――いい星だと仮定しての話ですが、あなたはそうなんだっておしゃっていますね――その星があなたのものであって、そしてあなたのところにいつまでもとどまるだろう、そして、クラムがやったようにあんなに早く、あんなに突然、あなたを見捨てることはないだろう、っていう期待です」
「そんなことをみんな本気で考えていらっしゃるんですか」と、おかみがきいた。
「本気ですとも」と、Kは口早にいった。「ただ私が思うのは、ハンスの親戚たちはそうした期待の点で正しかったのでもなければ、まったくまちがっていたのでもない、ということです。そして、その人たちがやったまちがいが私にはわかるように思います。たしかに外面的には万事がうまくいったように見えます。ハンスは暮しの心配がなくてすみますし、すばらしい奥さんをもち、人には尊敬され、家計は借金なしときています。でも、ほんとうは万事うまくいったわけではありません。ハンスは、自分をりっぱな初恋の人と見てくれた普通の娘といっしょになったほうが、きっとずっと幸福だったことでしょう。あの人が、あなたの非難されるように、ときどき食堂でまるで放心したように立っているなら、それはあの人がほんとうに自分はだめだと感じているからなんです。――といって、そのことで不幸にはなっていませんけれど。きっとそうです。私もそのくらいはあの人のことがわかっています。――でも、それと同じようにたしかなのは、このりっぱな、ものわかりのいい若者は、別な女の人といっしょになったら、もっと幸福だったろう、ということです。という意味は、それと同時に、もっと自主的になり、もっと勤勉に、もっと男らしくなったろうということなんです。そして、あなたご自身もきっと幸福ではないはずです。おっしゃったように、あの三つの記念の品がなければ、あなたは生きていく気が全然しないことでしょうし、また心臓をわずらってもいらっしゃるんですからね。それでは、ハンスの親戚たちは彼らの期待した点でまちがっていたのでしょうか。そうとは思いません。祝福はあなたの上にあったのですが、だれもその祝福を自分たちのところへ下ろすことを心得ていなかったのです」
「いったい何を取り逃がしてしまったっていうんですか」と、おかみはきいた。おかみは手足をのばして仰向けになり、天井を見上げていた。
「クラムにきいてごらんなさい」と、Kはいった。
「それでは、あたしたちはまたあなたのことにもどるのですね」と、おかみがいった。
「あるいは、あなたのことにね」と、Kはいった。「私たち二人のことはすぐ隣り合っているようなものですからね」
「それでは、あなたはクラムにどんなことを望んでいらっしゃるんです」と、おかみがきいた。彼女は身体をまっすぐにし、枕を振ってなおし、坐ったままでよりかかることができるようにした。Kの両眼をまともに見ていた。「わたしはあなたに、わたしのことを打ち明けてお話ししましたわ。あなたはこの話からいくらかのことを学べたはずですよ。今度はあなたが、クラムに望んでいることを打ち明けておっしゃって下さいな。フリーダに自分の部屋へ上がっていき、そこにいるようにって、わたしはやっとあの子を説得したんですよ。あなたは、あの子がいると、どうも十分に打ち明けて話して下さらないんじゃないか、と思ったものですから」
「隠すことなんか、何もありませんよ」と、Kはいった。「でも、まずあなたにご注意申し上げることがあります。クラムはすぐ忘れてしまう、ってあなたはおっしゃいました。ところでまず第一に、そのことが私にはとてもありえないことのように思われるんです。第二には、それは証明できないことです。クラムにかわいがられていた女の子たちが考え出した単なる伝説にすぎないように思われます。あなたがそんな明白なつくりごとを信じていらっしゃることが、私には不思議ですよ」
「伝説なんかじゃありませんよ」と、おかみはいった。「それはむしろみんなの経験から出ているんですわ」
「それなら、新しい経験によってそれを否定することもできるわけですね」と、Kはいった。「それに、あなたの場合とフリーダの場合とでは、ちがいがあります。クラムがフリーダをもう呼ばなくなったなどということは、いわば全然なっていないんです。むしろ、あの男があの子を呼んだのに、あの子はそれに従わなかったのですよ。クラムがまだあの子を待っているということだって、ありえますよ」
 おかみは黙ってしまい、ただただ探るように視線をときどきKの上に走らせるのだった。やがていった。
「あなたのおっしゃりたいことはなんでもおとなしくうかがいましょう。わたしの気を悪くしないようになんて気づかわれるよりは、ざっくばらんにお話し下さい。ただ、一つだけお願いしておきます。クラムの名前を出さないで下さいな。〈あの人〉とかなんとかいって下さいね。でも名前を直接口にはしないで下さい」
「いいですとも」と、Kはいった。「でも、あの人に私が望んでいることは、いうのがむずかしいんです。まず、あの人を身近かに見たい、次にあの人の声を聞きたい、それからあの人が私たちの結婚にどんな態度をとるのか知りたいんです。それからたぶんそのほかにも頼みたいことは、話合いのなりゆきにかかっています。おそらくいろいろなことが話に出るでしょうが、私にとっていちばん大切なことは、あの人と面と向って会うことです。つまり、私はまだほんとうの役人と直接話をしたことがないんです。それは、私の考えていたよりむずかしいことのように思われます。ところで私としては、個人としてのあの人と話をする義務があります。そして、これは私の考えによると、ずっと実行がやさしいはずです。役人としてのあの人には、ただあの人の事務室で話ができるのですが、その事務室へはどうやら近づきがたいようです。それが城のなかにあるのか、紳士荘にあるのかが、すでに問題ですしね。でも、個人としてなら、あの人に会うことのできるどこでも、家のなかでも、路上でも、話ができるはずです。その場合に、ついでに役人としてのあの人と向かい合うことになっても、私にはいっこうかまいません。でも、それは私の第一の目的というわけではありません」
「わかりましたよ」と、おかみはいい、自分が何か恥知らずなことをいっているかのように、顔を枕に埋めた。「もしわたしがこちらの関係によって、お話がしたいのだというあなたの願いをクラムに伝えたときには、返事がくるまではあなたが何も独断ではやらない、ということを約束してくださいね」
「それはお約束できません」と、Kはいった。「あなたの頼みというか、あなたの気まぐれというか、それをかなえてあげたいのですけれどね。つまり、事は火急なんです。ことに、村長との話合いの結果が思わしくはないもんですからね」
「そんな異議はだめですわ」と、おかみはいった。「村長はまったく取るにたらぬ人物なんです。それにお気づきにはなりませんでしたか。なんでもやっているあの人の奥さんがいなければ、ただの一日だって村長の地位にとどまってはいられないのよ」
「ミッツィですか」と、Kはきいた。おかみはうなずく。「あの人は居合わせましたよ」と、Kはいった。
「あの人、何かいいましたか」と、おかみがきく。
「いや」と、Kはいった。「あの人がそんなことができるっていうような印象は、全然受けませんでしたよ」
「まあ、まあ」と、おかみはいった。「あなたはこの土地ではすべてをまちがって見ているのよ。ともかく、村長があなたについてやったことなんて、なんの意味もありませんわ。機会を見て、奥さんと話してあげましょう。そして、あなたにさらに、クラムの返事は遅くとも一週間以内にくるだろう、とお約束するのですから、わたしのいうことに従わないという理由はないはずですよ」
「そんなことでは、まだ決定的というわけではありません。私の決心は固くきまっていて、ことわりの返事がきたって、私は自分の決心をやりとげようと試みるでしょうよ。はじめからこんなつもりでいるとすれば、人を通じてあらかじめ話合いのことを頼んでもらうわけにはいきません。頼まないでやったのなら、大胆ではあっても悪気はないやりかたですむものが、ことわりの返事を受け取ってからやるならば、公然たる反抗になってしまうことでしょう。そのほうが、むろん、ずっと悪いでしょう」
「もっと悪いですって?」と、おかみはいった。「どっちにしたって、反抗ですよ。まあ、好きなようになさいな。スカートを取ってちょうだい」
 Kがいることなどおかまいなしに、おかみはスカートをはき、台所へ急いでいった。かなり前から、食堂からはさわがしい音が聞こえていた。のぞき窓をたたく音もした。助手たちがその窓を突き開けて、腹がすいた、となかへどなった。次に、ほかの者たちの顔もそこから現われた。小さい声でだが、高低いろいろまじった合唱の歌さえ、聞こえてきた。
 もちろん、Kがおかみと話していたため、昼食の料理がひどく遅くなっていた。まだ支度ができ上がらないのに、お客たちが集っていた。ところが、だれ一人としておかみの禁止に逆らって台所へ足を踏み入れようとする者はいなかった。ところが、のぞき窓の連中が、おかみさんがきたぞ、といったので、女中たちはすぐ台所へかけこんでしまった。Kが台所へ足を入れてみると、驚くほどたくさんの人たちが、男と女とで二十人以上もいるのだろうか、田舎風ではあるが農夫ではないようなみなりをして、今まで集っていたのぞき窓から、食卓へとなだれこみ、自分の席を確保しようとするのだった。それより前に坐っていたのは、片隅のテーブルにいる、二、三人の子供づれの一組の夫婦だった。夫は、親切そうな青い眼をした男で、灰色のもじゃもじゃな髪と髯とをしていて、子供たちのほうに身体をかがめて立ち、ナイフで子供たちの歌の拍子をとっていたが、たえずその歌声を抑えようと努めていた。おそらく歌で子供たちの空腹を忘れさせようとしているのだった。おかみはみんなの前で、二こと三こと、投げやりな言葉で詑《わ》びをいったが、だれもおかみに文句はいわなかった。おかみは亭主がいないかとあたりを見廻したが、亭主は事態がむずかしいのを見て、とっくの昔に逃げ出していた。それから、おかみはゆっくりと台所へいった。Kは自分の部屋にいるフリーダのところへと急いでいったが、おかみは彼に対してもはや目もくれなかった。

第七章

 階上でKは教師に出会った。部屋はありがたいことに、見ちがえるほどになっていた。フリーダがそんなにも精出して働いたのだ。十分に空気を通し、ストーブにはたっぷり火が入っており、床はぞうきんがけがしてあって、ベッドは整えられ、女中たちの品物というあのいとわしい汚れものは、彼女らの写真を含めて、みんな消えていた。テーブルはさっきは、どちらを向いても汚らしいパン屑のちらばっているその上の光景がまるで人の眼から去らないような有様だったが、今は白い編んだテーブル・クロスで被われていた。もうお客を迎えることもできる。フリーダが朝のうちに洗っておいたらしいKのこまごました洗濯物が、乾かすためにストーブのそばにかけられていたが、それもたいして目ざわりではなかった。教師とフリーダとはテーブルのところに坐っていたが、Kが入っていくと、二人は立ち上がった。フリーダはKに挨拶の接吻をし、教師は少し身体をかがめて挨拶した。Kはおかみとの対談でぼんやりし、まだ気持が乱れていたが、これまでまだ教師を訪ねることができなかったことを詑び始めた。まるで、Kが訪ねていかないために教師のほうが待ちきれなくなって、自分のほうから訪問してきたのだ、とみとめているような詑びかただった。ところが、教師のほうは、落ちついたやりかたで、今やっと、いつだったか自分とKとのあいだには一種の訪問の約束がされていたのだ、ということをおもむろに思い出している様子だった。
「あなたは、そう、測量技師さんでしたね」と、彼はゆっくりといった。「二、三日前に教会前の広場でお話ししたあのよそのかたでしたね」
「そうです」と、Kは手短かにいった。あのときは一人ぽっちであったために我慢していたのだが、こんな言葉をこの自分の部屋で黙って聞いている必要はないのだ。彼はフリーダのほうを向き、これからすぐしなければならない大切な訪問があるのだが、それにはできるだけよい身なりをしていかなければならない、と、彼女に相談をもちかけた。フリーダはKにそれ以上たずねもしないで、ちょうど新しいテーブル・クロスを夢中になって調べている二人の助手たちにすぐ声をかけ、Kがすぐ脱ぎ始めた服と靴とに下の内庭で念入りにブラシをかけるように、と命じた。彼女自身は一枚のシャツをかかっている紐から取って、それにアイロンをかけるために下の台所へ急いで降りていった。
 そこでKは、ふたたび無言のままテーブルに腰を下ろしている教師と、二人きりになった。もう少しお待ち下さい、といって、シャツを脱いで、洗面台で顔を洗い始めた。そこでやっと、教師に背を向けたまま、なんのご用でいらっしゃったのですか、ときいてみた。
「村長さんに頼まれてきました」と、教師はいった。Kはその用件をきくつもりだった。ところが、Kの言葉が水の音で聞き取りにくかったので、教師は近づいてこなければならなかった。そして、Kのそばの壁にもたれた。Kは、こうやって顔を洗ったり、そわそわしているのは、これからいくつもの訪問がさし迫ったためだからだ、と詑びた。教師はそんなことは聞き流しておいて、いった。
「あなたは村長さんに対して失礼だったようですね、あんなに年とった、功労のある、経験豊かな、尊敬すべき人なのに」
「私が失礼だったかどうかは、知りません」と、Kは顔をふきながらいった。「でも、上品なふるまいなどとは全然ちがったことを私が考えていたということは、ほんとうです。というのは、私にとっては生きるか死ぬかの問題だったんですからね。私の生存は恥知らずな役所の仕事ぶりであぶなくなっていたのです。そのこまかなことは、ご自身でこの役所で働いておられるあなたには申し上げる必要はありますまい。村長がわたしについて文句でもいったのですか」
「だれに向ってあの人が文句なんかいえるでしょうか」と、教師はいった。「だれか文句をいう相手がいるとしても、いったいあの人が文句なんかいってこぼすでしょうか。私は村長さんの口授であなたがたの話合いに関してちょっとした調書をつくっただけですが、それによって、村長さんの親切さとあなたの返事のしかたとについて十分に知ったのです」
 フリーダがどこかへしまったにちがいないくしを探しながら、Kはいった。
「なんですって? 調書ですって? 話合いのときに全然いなかった者が、あとになって私のいないところで調書なんか取ったんですか。それも悪いことではありません。が、いったいなぜそれは調書なんです? では、あれはおおやけの話合いだったのですか」
「いや」と、教師がいう。「ただ半分おおやけのものです。調書もただ半分だけおおやけのものにすぎません。それをつくったのは、われわれのところではすべてに厳密な秩序がなければならないからです。ともかく、あなたの調書はあるのだし、あなたにとって名誉となるものではありませんよ」
 ベッドのなかにすべりこんでいたくしをやっと見つけたKは、前よりは落ちついていった。
「そんな調書があるのなら、それでもかまいません。あなたは、そのことをいいに私のところへいらっしゃったのですね」
「いや」と、教師はいった。「でも、私だって機械じゃないんだから、自分の意見をいわないではいられなかったのです。ところで、私の依頼されてきた用件は、村長さんが親切であることをもっとよく証明するものです。私は強調しておきますが、こんな親切さというものは私には理解できないものであり、私がこの依頼を果たしているのは、ただ立場の上からどうしてもそうしなければならないからであり、また村長さんを尊敬しているからなのです」
 顔を洗い、くしを使っていたKは、今度はシャツと服とがくるのを待って、テーブルのところに坐った。教師が伝えてきたことにはほとんど興味がなかった。彼はまた、おかみが村長について抱いている軽蔑的な意見に影響されてもいた。
「もうお昼を過ぎたことでしょうね」と、彼はこれからいくつもりの道のことを考えながらいったが、次にそれをいいなおした。「あなたは村長からいいつかった何かの用事を私におっしゃるんでしたね」
「そうですとも」と、教師はまるで自分のどんな責任をも身体から振い落すかのように、肩をすぼめて、いった。「村長さんが恐れていられるのは、あなたの件の決定があまりに長びくときに、あなたが何か軽はずみなことを独断でやるのではないか、ということです。私としては、村長さんがなぜそんなことを心配されるのか、わかりません。私の考えでは、あなたはしたいことをなさればいちばんいい、と思います。われわれは何もあなたの守り神ではないのだし、あなたのいくさきざきまで追いかけていく義務なんかありません。まあ、それはいいとしましょう。ところが村長さんときたら、それとはちがうご意見なのです。伯爵の役所がやるべき決定そのものは、もちろんあの人は早めるわけにはいきません。でも、あの人は自分の力の及ぶ範囲のうちで、ほんとうに寛大な仮の決定をしようというのですよ。それを受け入れるかどうかは、ただあなただけにかかっています。つまり、あの人はあなたにさしあたって学校の小使の地位を提供されているのです」
 自分に提供されていることなどについては、Kははじめのうちほとんど気にはかけなかったけれども、何かが自分に提供されているのだという事実は、彼には無意味ではないように思われた。それは、彼という人間は、村長の考えによれば、自分の身を守るためにはどんなことでもできるのだ、そんなことを防ぐためには、村自身がある程度の金を使ったってかまわないのだ、ということを暗示するものであった。ああ、こんなことをなんて重大に考えているのだろう。ここですでに長いあいだ待ったし、なおその前に調書を取ったという教師は、まったく村長によって駆り立てられてやってきたものにちがいない。自分のいうことがKを考えこませてしまったのを見て取ると、教師は言葉をつづけた。
「私は異論を申し立てました。これまで学校の小使なんかいらなかった、ということを私は指摘しました。教会の小使の細君がときどき掃除をするし、女の先生のギーザ嬢がそれを監督します。私は子供たちの面倒でもううんざりしていますから、この上小使のことなんかで怒ったりしたくはありません。すると、村長は、でも学校のなかはひどく汚いじゃないか、といわれるんです。私は、ほんとうのことなんですが、そんなにひどくはありません、と答えました。それから、私はつけ加えました。われわれがその男を学校の小使に雇ったら、もっとよくなるでしょうか。そんなことは全然あるはずがないですよ。その男がそんな仕事のことを全然知らないことは別としても、学校の建物には控室なしの二つの大きな教室があるだけです。そこで、小使は家族の者とともにその一つの教室に住みこんで、寝たり、煮たきまでもしなければならないでしょう。そんなことではもちろん清潔さを増したりできません。ところが、村長さんは、この地位はあなたにとっては苦しいときの救い主になるだろうし、そのためにあなたもその仕事をよく果たすために全力を振りしぼって努力するだろう、とおっしゃいます。さらに、村長さんがおっしゃるには、あなたを雇えば、あなたといっしょにあなたの奥さんや助手さんたちの力も手に入れるわけで、そのため学校ばかりではなく、校庭も模範的にきちんと片づけておくことができるだろう、というのでした。そうしたことはすべて、私は苦もなく反駁《はんばく》しました。とうとう村長さんはあなたのためにもう全然何も提案することができなくなり、笑って、あなたは測量技師なんだから、校庭の花壇をとくに美しく設計することができるだろう、とだけいいました。で、冗談に対しては異論を述べてもしかたがありません。それで私は村長さんのその頼みをもってあなたのところへきたのです」
「あなたはむだな心配をしておられますね、先生」と、Kはいった。「その職を引き受けるなんていうことは、私には思いもよりませんね」
「りっぱなものです」と、教師はいった。「りっぱなものですよ、まったくなんの留保もなしにおことわりになるのですからね」そして、帽子を取ると、出ていった。
 そのすぐあと、フリーダが困った顔をして上がってきた。シャツはアイロンをかけないままでもってきていた。いろいろきいても、返事もしない。気晴ししてやろうとして、Kは教師のことと例の申し出とのことを語って聞かせた。それを聞くやいなや、フリーダはシャツをベッドの上に投げ出し、急いでまた出ていった。まもなくもどってきたが、教師をつれてきていた。教師は不機嫌そうな面持で、全然挨拶もしない。フリーダは彼に、少しばかり我慢してくれるようにと頼むのだった。――どうもここへくるまでのあいだにすでに何度か頼んだものらしい。――それから、Kを引っ張り、これまでKが全然知らなかったわきのドアを通って隣りの屋根裏部屋へとつれていき、そこでとうとう、興奮して息を切らせながら彼女に起ったことを語って聞かせた。おかみは、Kにいろいろと告白させられ、その上もっと悪いことには、クラムがKと話し合うということについても折れてKのいうままに従ったのに、それで手に入れたものといえば、彼女のいうところによるならただ冷たくて、しかも率直でないことわりばかりだったので、それにすっかり腹を立ててしまい、もう自分の家にはKは置いてやらないと決心したということだった。もしKが城と関係があるなら、それを早くぞんぶんに利用したらいいでしょう。そして今日のうちにでも、たった今でも家を出ていってもらいたい。また直接役所の命令を受けてやむをえないのでもなければ、もう自分は二度とKをこの家に泊まらせはしない。といっても、おそらく役所の命令で泊めなければならなくなることもないだろう。というのは、自分だって城とかかわりがあり、それを生かすことだってできる。それに、彼はだいたい亭主のだらしなさのためにこの宿に入るようになったので、家を出たって全然困りはしないのだ。だって、けさも自分のために支度されている寝場所のことを自慢したんだもの。そんなことをいったという。フリーダはここにいてもらいたい。もしフリーダがKといっしょに引っ越しでもするなら、おかみはとても不幸になることだろう。今も下の台所でそのことを考えただけで泣きながらかまどの前にくずおれてしまった。かわいそうな心臓の悪いあの人が! でもおかみとしてはそれ以外にどんなふるまいができるだろう。今では、少なくとも彼女の頭のなかでは、まさしくクラムの思い出の品の名誉に関することなんだから。で、おかみのほうはこんな有様だ。フリーダとしては、Kがどこへいこうと、雪のなかだろうと氷のなかだろうと、もちろん、Kのいくところへついていくだろう。そのことについてはもちろんこれ以上くどくどいう必要はない。でも、自分たち二人の状態はいずれにしてもよくはないのだから、自分は村長の申し出を大悦びで歓迎した。それはKにとってはふさわしくない地位であろうと、それでもそれは、はっきり強調しているようにただ一時的なものではないか。これで当分のあいだ時間がかせげるし、たとい最終的な決定が都合悪いように下ろうとも、ほかの口がたやすく見つかるだろう。こんなことをフリーダはいったが、もうKの首にかじりついて、最後に叫ぶのだった。
「どうしてもしかたがない場合には、ここから出ていきましょうよ。なんでこの村にいなければならないの? でも、今のところは、ねえ、あなた、この申し出を聞くことにしようじゃありませんか。わたしは先生をつれもどしてきてあるんだし、〈承知しました〉といえば、それだけでいいんです。そして、わたしたち、学校へ引っ越していくのよ」
「それはまずいね」と、Kはいったが、まったく本気でいったのではなかった。というのは、住居のことなどは彼の気にはかからなかったし、それに下着だけの彼はこの屋根裏部屋でもひどく寒い思いをしていた。この屋根裏では、二方が壁も窓もなくて、寒い風が身を切らんばかりに吹き抜けていくのだった。「君が部屋をこんなにきれいにこしらえてくれたのに、もう出ていかなければならないなんて! どうもそんな地位なんか承知したくないんだ。あんなつまらぬ教師に一瞬間でも頭を下げていることさえ、私にとってはたまらないことだし、それに今度は私の上役にさえなっているんだからね。もう少しのあいだだけここにいられるならば、おそらくきょうの午後にでももう私の状態は変わるだろう。少なくとも君がここにとどまるなら、そうなるのを待っていられるし、教師にははっきりしない返事をしておけるんだ。私のことなら、いつだって寝場所ぐらい見つかるさ。もし探さねばならぬとしたらね。実際、バル――」
 フリーダは手で彼の口をふさいだ。
「それはだめ」と、彼女は不安げにいった。「どうか、それは二度といわないでちょうだい。ほかのことならなんでもあなたのいうことをきくわ。もしあなたが望むのなら、いくらわたしは悲しくても、ここにひとりで残りますわ。あなたが望むなら、この申し出もことわってしまいましょう。ことわることは、わたしの考えではとてもまちがっていると思われるんですけれど。だって、そうじゃない、あなたがきょうの午後にでも別な口を見つけるなら、わたしたちが学校の職を捨てるのは当然よ。だれだってそのじゃまをする者はいないわ。そして、先生に頭を下げるということについていうなら、わたしにそのことをまかせておいて。そんなことにならないようにするから。わたし、あの人と自分で話すわ。あなたはただ黙ってそばに立ってさえいればいいのよ。そして、あとになったって同じだわ。もしあなたがしたくないなら、一度だってあの人と話す必要なんかないのよ。ほんとうはあたしだけがあの人の部下になるわけでしょうが、けっしてわたしは部下なんかにはならないわ。だって、あたしはあの人の弱味を知っているんですもの。だから、もしあの職を引き受けるなら、何も損はしないんだけれど、もしそれをことわればとても損をするのよ。何よりもまず、もしあなたがきょうのうちにでも城から何かを手に入れないなら、ほんとうにあなた一人のためにだって村ではけっして寝場所なんか見つかりっこないわ。つまり、あなたの将来の妻であるわたしが恥かしい思いをしないでもいいような寝場所のことよ。そして、もしあなたが寝場所を見つけることができなければ、あなたが夜の寒さのなかをさまよっているってわかっているのに、この暖かい部屋で自分だけで寝ていろ、とわたしに求めようとしているようなものよ」
 少しばかりあたたまろうとして、そのあいだじゅう両腕を胸の上で組み、手で背中をたたいていたKは、いった。
「それじゃあ、承知するよりほかに手はないわけだ。おいで」
 部屋へいくと、彼はすぐストーブのところへ急いだ。教師のことなどはかまってはいなかった。ところで教師のほうは、テーブルのところに坐っていて、時計を取り出すと、いった。
「遅くなりましたね」
「そのかわり、わたしたちは今は完全に意見が一致しましたの、先生」と、フリーダがいった。「わたしたちはその職をお受けしますわ」
「わかりました」と、教師はいった。「でも、この職は測量技師さんに申し出たものです。この人が自分でおっしゃらなければなりません」フリーダはKに助け舟を出した。
「もちろん」と、彼女はいった。「この人は職をお引き受けしますわ。ねえ、K?」
 そこで、Kは自分の確答を簡単に「ああ、そうだ」というだけに限ることができたが、これはけっして教師に向けた返事ではなく、フリーダに向けたものだった。
「それでは」と、教師はいった。「私にまだ残っていることは、あなたに勤務上の義務について申し上げることだけです。この点でいつでも私たちの意見が一致しているためにです。測量技師さん、あなたは毎日、二つの教室を掃除し、火をもやし、学校内の、さらに学校用具や体操用具の、ちょっとした修理をやり、校庭に通じている道を除雪し、私と女の先生とのために使い走りをし、暖かい季節には庭仕事を全部やらなければなりません。そのかわり、あなたは二つの教室のうち一方を選んで住む権利があります。しかしあなたは、二つの教室で同時に授業が行われているのでなく、授業が行われるほうの部屋にあなたがたが住んでいるのであれば、むろん別な教室へ移らなければなりません。学校では炊事してはいけません。そのかわり、あなたとあなたのご家族は、村の費用によってこの宿でまかないをしてもらえます。学校の品位にふさわしいように行動しなければならないこと、とくに子供たちには、授業中であればなおさらですが、けっしてあなたの家庭生活の好ましくない光景などを見せないようにしなければならないこと、これはほんのついでに申し上げておきます。教養ある人として、こんなことはおわかりのはずですからね。このことと関連してさらに申し上げておきますが、われわれとしてはあなたがフリーダ嬢との関係をできるだけ早く法律上のものとするように主張しなければなりません。こうしたすべてのこと、またさらに若干の小さなことについては、雇傭契約をつくることになりますが、あなたが学校に移られたら、すぐそれに署名しなければなりません」
 Kにはこんなことはすべて大したことではないように思われた。まるで自分のことではなく、少なくとも自分を縛るものではないように思われるのだった。ただ教師の大げさな態度が彼をいら立たせた。そこで彼はぞんざいにいった。
「そうですか、ごく普通の契約事項ですね」
 このとげのある言葉を少しはやわらげようとして、フリーダが給料のことをたずねた。
「給料を払うかどうかは」と、教師はいった、「一カ月間の見習期間がすんでから考えることになります」
「でも、それではわたしたちにとってひどいことですわ」と、フリーダがいった。「わたしたちは無一文で結婚しなければならないし、家計を無からつくり上げなければならないのです。先生、村に願書を出して、すぐに少しばかり給料を下さるようにお願いできないものかしら? どうお考えになります?」
「いや」と、教師はいったが、彼は自分の言葉をいつでもKに向けていうのだった。「そうした願書は、私が推薦《すいせん》をするなら、なんとか聞き入れられることでしょうが、私はそんなことはしませんよ。職を与えることがそもそもあなたに対する好意なんですが、おおやけの責任をいつでも意識しているためには、好意もあまりいきすぎないようにしなければなりません」
 ところがここで、Kはほとんど意志に反して口を挾んでしまった。
「好意ということについていえば、先生」と、彼はいった。「あなたはまちがっていらっしゃると思いますよ。その好意というのはおそらくむしろ私のほうにあることですよ」
「いや」と、教師は微笑しながらいった。これでKを話さないではいられないようにしむけたわけだ。
「そのことは私もよく知っております。でも、われわれとしては学校の小使も測量技師も必要の程度では同じくらいのものなんです。小使も測量技師も、われわれには重荷なんですよ。これにかかる支出について村に対してどういうふうに理由をつけていってやるかということは、これから私がいろいろ考えなければならないことでしょう。その要求をただ机の上に投げ出して、理由など述べないのが、いちばんいいし、またいちばん正直なことでしょうよ」
「私もそう思いますね」と、Kはいった。「あなたの意に反して、あなたは私を採用しなければならないわけです。そのためあなたにむずかしいもの思いのたねが出てくるにしても、あなたは私を採用しなければなりません。ところで、だれかが別な人間を採用する必要に迫られ、その人間が採用されることを承知するのであれば、好意的なのはその人間のほうですよ」
「奇妙な考えですね」と、教師はいった。「あなたを採用するようにと、何がわれわれに強制しているのですか。村長さんの善良な、底抜けに善良な心がわれわれに強制しているのですよ。測量技師さん、私にはよくわかっていますが、あなたはものの用に立つ小使になる前に、いろいろな空想を捨ててかからなければなりません。そして、万一給料をみとめることになるとしても、あなたのそんな言葉はそのためにはほとんどいい感じを与えませんね。また残念ながら私はみとめるのですが、あなたの態度は私にとってこれから大いに面倒なことになるでしょう。さっきからずっと――私はそれをずっと見ていながらも、ほとんど信じられないくらいなんですが――あなたはシャツとズボン下という恰好で私と話合いをしている始末ですからねえ」
「そうでした」と、Kは笑いながら叫び、手をたたいた。「ひどい助手たちだ! いったいどこにいるのだろう」
 フリーダは急いでドアのところへいった。もうKは自分と話さないだろうと見て取った教師は、フリーダに向って、いつ学校へ移ってくるか、ときいた。
「きょういきます」と、フリーダはいった。
「それでは、あすの朝、検閲にいきます」と、教師はいって、手を振って挨拶して、フリーダが自分で出ていくために開けたドアを通って出ていこうとしたが、女中たちとぶつかってしまった。女中たちは、またこの部屋に住みこむために、彼女たちの品物をもってやってきたのだった。教師は、だれに対してもあとにはひくまいという気配《けはい》を見せている女中たちのあいだを、くぐり抜けていかなければならなかった。フリーダがそのあとにつづいていった。
「君たちは急ぐんだね」と、Kはいった。彼は今度は女中たちにとても愛想がよかった。「私たちがまだここにいるというのに、君たちときたら入りこんでくるんだね」
 彼女たちは返事はしないで、ただあわてて自分たちの包みを廻すのだった。包みから見慣れた汚いぼろ類がぶら下っているのをKは見た。
「君たちはまだ一度も君たちの品物を洗濯してないんだね」と、Kはいった。悪意ではなく、ある種の愛情をもってそういったのだ。女中たちもそれに気づき、同時に固い口を開き、きれいでじょうぶな動物のような歯を見せて、声にはならぬ笑いをもらした。
「さあ、きたまえ」と、Kはいった。「使いなさい。君たちの部屋なんだからね」
 二人の女中がまだためらっていると――自分たちの部屋があまりにも変ってしまったように見えるのだろう――Kは一人の腕を取って、もっと引っ張ろうとした。だが、彼はすぐその女中を離した。そんなにも二人のまなざしは驚きの色を浮かべているのだった。二人は、たがいに短くわかり合ったというように視線を交わしたあと、もうその視線をKから放さず、じっと彼を見つめているのだった。
「もう十分私の顔は見ただろう」と、Kは何か不快な感情を払いのけようとしながらいった。そして、ちょうどフリーダがもってきた服と靴とを受け取り、それを身につけた。フリーダのあとからは、おどおどした様子で二人の助手がついてきていた。フリーダが助手たちのことを我慢していられるのが、前からずっとKには理解できなかったが、今度もまたそうであった。彼女は、内庭で服にブラシをかけているはずの助手たちをかなり長いあいだ探したすえ、下の食堂でのんびり昼食のテーブルについているのを見つけ出したのだった。まだブラシをかけてない服は丸めて膝の上に置いてあった。そこでフリーダは自分で服や靴にブラシをかけなければならなかった。それでも、下層の連中をうまく扱うことを心得ている彼女は、彼らとがみがみいい合いなどはしなかった。そればかりか、彼らのいる前で、このたいしたなまけぶりについてちょっとした冗談でもあるかのように話し、まるで媚《こ》びるように、一人の助手の頬を軽くたたくようなことまでするのだった。Kは近いうちにそのことで彼女をとがめてやろうと思った。だが、今はもう出かけていかねばならぬ時間だった。
「助手たちはここに残る。引越しのときに君の手伝いをするためだ」と、Kはいった。とはいえ、二人はそんなことを承知はしなかった。腹がいっぱいになり、気分が朗らかだったので、少し運動したいのだ。
「そうよ、あなたたちはここに残るのよ」と、フリーダがいったとき、やっと二人は承知した。
「私がどこへいくのか、君知っているかい?」と、Kはきいた。
「ええ」と、フリーダはいう。
「それで、君はもう私のことを引きとめないのかい?」と、Kはきいた。
「いろいろな面倒におあいになるわ」と、彼女はいった。「でも、わたしが何をいったって、なんにもならないわ」
 彼女はKに別れの接吻をし、Kが昼食を食べていなかったので、下から彼のために運んできていたパンとソーセージとの小さな包みを彼に渡した。そして、あとではもうここへではなく、まっすぐ学校へいくように、と彼に念を押し、彼の肩に手を置いて、ドアの前まで彼についてきた。

第八章

 まずKは、あの暖かい部屋のなかに女中や助手がつめかけていたところを抜け出てきたことで、気分が楽になっていた。それに道はいくらか凍って、雪も前よりは固くなり、歩くのが楽だった。ただ、もちろんすでに暗くなり始めていた。そこで彼は歩みを早めた。
 城は、その輪郭がすでにぼんやりとなり始めていたが、いつものように静かに横たわっていた。Kはまだ一度も、城に人が住んでいるほんのわずかな徴候でも見たことはなかった。こんなに遠いところから何かを見わけることは、おそらく全然できないだろう。それでも両眼はそれを求めており、その静けさを黙って受け入れようとはしないのだ。Kは城を見つめていると、落ちついて坐り、ぼんやり前をながめているだれかを見ているような気持が、ときどきするのだった。その人間は、もの思いにふけって、そのためにいっさいのものに対して自分を閉ざしてしまっているのではなくて、自由に、ものにこだわらずに、まるで自分一人だけがいて、だれも自分を見てなんかいないのだというような様子である。ところが、その人間は、自分が見られているということに気づいているにちがいないのだ。だが、それもその人間の落ちつきを少しも妨げはしない。そして、ほんとうに――それが原因なのか結果なのかはわからぬのだが――見ているこちらの視線はそこにじっととまっていることができないで、すべり落ちてしまう。こうした印象は、きょうは早くも暗くなり始めたあたりの気配によっていっそう強められた。長くながめていればいるほど、いよいよ見わけがつかなくなり、いっさいがいよいよ深く黄昏《たそがれ》のうちに沈んでいくのだった。
 ちょうどKが、まだ明りのともっていない紳士荘のところまできたとき、二階の窓の一つが開いて、毛皮の上衣を着た一人の若い、ふとった、髭をさっぱりとそった男が、窓から身体を乗り出し、それから窓辺に立ちどまっていた。Kの挨拶に対して、ほんの軽いうなずきで答えることもしない様子だった。玄関口でも酒場でも、Kはだれとも出会わなかった。変質してしまったビールのにおいは、この前よりひどかったが、こんなことはきっと〈橋亭〉では起こらない。Kはすぐさま、この前のときクラムをのぞき見したドアのところへいき、用心深くハンドルを廻したが、ドアには鍵がかかっていた。それから彼は、のぞき孔《あな》があった場所を手探りしようとしたが、木の栓《せん》がとてもうまくはまっているらしく、その場所をこんなやりかたでは発見できなかった。そこでマッチをつけてみた。すると、叫び声にびっくりさせられた。ドアと配膳台とのあいだの片隅の、ストーブの近くに、一人の娘がうずくまって、マッチの光に照らされ、やっと見開いたねぼけ眼で彼を見つめていた。それはフリーダのあとにきた女の子らしかった。娘はすぐ落ちつきを取りもどし、電燈をつけた。娘の表情は、Kだとわかったときにも、まだ怒ったようだった。
「ああ、測量技師さんね」と、微笑しながらいって、彼に手をさし出し、自己紹介した。「あたし、ペーピーっていうんです」
 娘は小柄で、赤い顔色をしていて、健康そうで、赤味がかったブロンドの豊かな髪は、きりっとお下げに編んであり、その上、顔のまわりにちぢれていた。ねずみ色のつやのある生地でつくった、ほとんど似合わない、なめらかに垂れ下っている服を着ていたが、下のほうは一つ目で終っている絹リボンによって子供らしく不器用にしめつけているため、きゅうくつそうだった。娘はフリーダのことをたずね、彼女はすぐにもどってこないだろうか、ときいた。これは、ほとんど悪意と境を接しているような質問だった。それから、いった。
「あたし、フリーダが出ていくとすぐ、急いでここにくるように呼ばれたのよ。だれでもいいからここで使うというわけにはいかないのですものね。それまでは客室つきの女中だったんですが、ここへきたことはあまり変りばえがしないのよ。ここでは晩から夜へかけての仕事がたくさんあって、とても疲れるわ。ほとんど我慢できないことでしょう。フリーダがここの仕事を捨てたことは、あたしにはちっとも不思議じゃないわ」
「フリーダはここでとても満足していましたよ」と、Kはいった。それはペーピーに、この子とフリーダとのあいだにあるのにこの子がないがしろにしているちがいをようやく気づかせてやろうとしたのだった。
「あの人のいうことを信じてはだめよ」と、ペーピーはいった。「フリーダは、だれだってたやすくはできないほど自分を抑えることができるのよ。打ち明けまいと思うことは、どうしても打ち明けないの。それでいて、あの人に打ち明けることがあるなんて、だれも全然気づかないのよ。あたしはこれでもう二、三年のあいだあの人といっしょにここで働いているんですし、いつでもあたしたちは同じベッドに寝ていたんだけれど、あの人とはうちとけていないのよ。きっとあの人は今ではもうあたしのことなんか思っていないわ。あの人のたった一人の友だちといえば、たぶん、橋亭の年とったおかみさんでしょう。それがまたいかにもあの人らしいわ」
「フリーダは私の婚約者ですよ」と、Kはいって、ついでにドアののぞき孔を探ってみた。
「知っていますわ」と、ペーピーはいった。「だからこんなことをお話しするんです。そうでなければ、あなたにとってはなんの意味もないでしょう」
「わかりましたよ」と、Kはいった。「あんな心を他人に打ち明けることのない女の子を私が手に入れたことは、私の自慢にしていい、というんですね」
「そうよ」と、娘はいって、フリーダのことについて自分とKとのあいだに秘密の同意を得たかのように、満足げに笑うのだった。
 だが、Kの心をとらえ、少しばかりのぞき孔を探すことから彼の気をそらしたものは、ほんとうは彼女の言葉ではなく、彼女の姿恰好であり、この場所に彼女がいるということだった。もちろん、この娘はフリーダよりもずっと若くて、まだほとんど子供らしかった。彼女の服は滑稽だった。彼女が酒場の女給仕ということの意味について抱いている誇張された観念に合わせて、そんな身なりをしているのだ。そして、この観念は、彼女なりにもっともなのだ。というのは、彼女にまだ全然ぴったりしないこの地位は、きっと思いがけず、また不当にも、そしてほんの一時的に彼女に与えられたものにちがいなかった。フリーダがいつも帯に下げていた革の財布も、彼女にはまかされてはいないのだった。そして、彼女がこの地位に満足していないと称しているのは、思い上りにほかならなかった。けれども、子供っぽく分別を欠いてはいるが、彼女もおそらく城と関係をもっているのだろう。もし彼女のいうことが嘘でないなら、客室つきの女中だったというが、自分のもっているこの特権に気づかないで、ここで昼間を眠って過ごしているのだ。だが、この小柄でふとった、少しばかり丸い背中をした身体を抱くなら、彼女がもつ特権を奪うことはできないにしても、彼の心をゆすり、これからの困難な道を歩む元気をつけてくれるにちがいない。それなら、おそらくフリーダの場合とちがわないのではないか。いや、ちがうのだ。そのことを理解するためには、ただフリーダのまなざしのことを考えればいいのだ。Kはけっしてペーピーの身体にふれることはなかったろう。それでも彼は今やしばらく眼をおおわないではいられなかった。そんなに欲情をこめて彼女を見つめていたのだった。
「明りなんかつけておくことはないわ」と、ペーピーはいって、光をふたたび消した。「ただあなたがあんまり驚いたので、電燈をつけただけなのよ。ところでここにどんな用があるの? フリーダが何か忘れたの?」
「ええ」と、Kはいって、ドアを指さした。「この隣りの部屋に白い編んだテーブル・クロスを忘れたんです」
「ああ、あの人のテーブル・クロスね」と、ペーピーはいった。「思い出したわ。りっぱな細工ものね。それをつくるときあたしも手伝ったわ。でもこの部屋にはきっとないわよ」
「フリーダがあるはずだと思っているんですよ。いったいここにはだれがいるんです?」
「だれもいないわ」と、ペーピーがいう。「ここは城の人たちの部屋で、ここで城の人たちが飲み食いするのよ。つまり、そういうことのためにきめられているんです。でも、たいていの人たちは上の部屋にこもりきりでいるんです」
「もし」と、Kはいった。「今、隣りにだれもいないとわかっているなら、入っていって、テーブル・クロスを探したいんですがね。でも、それはたしかじゃない。たとえばクラムはしょっちゅうそこに坐っているね」
「クラムは今はそこにはいないはずよ」と、ペーピーはいった。「あの人はすぐに出かけていくんです。そり[#「そり」に傍点]がもう内庭で待っていたわ」
 すぐさま、一こともことわりをいわないで、Kは酒場を出て、玄関で出口のほうへはいかずに、建物の内部へ向って入っていき、何歩と歩かないうちに内庭に達した。ここはなんと静かで、きれいだろう! 四角の内庭で、三方は建物に接し、通りに面しては――Kの知らない通りであった――大きな重そうな、今開いている門のついた高い白塀に接していた。内庭の側のここでは、建物は前面より高いように見えた。少なくとも二階は総二階につくられていて、前面よりもりっぱな外観をもっている。というのは、二階は目の高さの小さなすきまを除いては、木製の回廊がぐるりと取り巻いているのだった。Kの斜め前には、まだ中央の棟《むね》にはあるのだが、向う側にある翼の棟がつながる角になっているところに、建物の入口があって、ドアもなく、開いたままになっていた。その前には黒い、ドアを閉めた二頭立てのそり[#「そり」に傍点]があった。今この黄昏《たそがれ》のなかでKが離れた場所から見て馭者《ぎょしゃ》だろうと想像したのだが、その馭者を除いて、だれ一人見うけられる人影はなかった。
 両手をポケットに突っこみ、注意深くあたりを見廻しながら、塀に沿って内庭の二つの側を通り、最後にそり[#「そり」に傍点]のところへいった。馭者はこの前酒場にいたあの農夫たちの一人で、毛皮のなかに埋まって、無関心げに彼が近よっていくのをながめていた。ちょうど猫の歩いている跡を追うようであった。Kが自分のすぐそばに立って挨拶し、二頭の馬が暗がりから浮かび上がってきた人間に驚いて少しさわぎ始めたときにも、馭者はまったく素知らぬ顔をしつづけていた。Kにとってはむしろありがたいことだった。塀によりかかって弁当の包みを開き、自分のためにこんなに心配してくれたフリーダのことを感謝をこめて思うのだったが、そうしながら建物の内部をうかがった。直角に曲がっている階段が下へ通じ、天井は低いが奥行のありそうな廊下と下で交叉している。いっさいが清潔で、白く塗られ、輪郭が鋭くまっすぐである。
 そこで待つことは、Kが思っていたよりも長くつづいた。もうずっと前に弁当を食べ終っていた。寒さがこたえた。今までの黄昏がすでに完全な暗闇《くらやみ》と変っていたが、クラムはまだやってこなかった。
「まだだいぶ長くかかるかもしれない」と、突然、Kのすぐそばでしわがれた声がしたので、Kはぎくりとした。声の主は馭者で、ちょうど眼がさめたばかりのようにのびをし、大きなあくびをした。
「何が長くかかるのかね」と、Kはきいた。じゃまされたので迷惑しているのではなかった。というのは、長くつづいた静けさと緊張とがもういやでたまらなくなっていたのだ。
「あんたが立ち去るまでにだよ」と、馭者がいう。Kには相手の言葉の意味がわからなかったが、それ以上はきかなかった。そうしていることがこの高慢な男にものをいわせるのにいちばんいい方法だと思ったのだった。ここの暗闇のなかで返事をしないということは、ほとんど相手をけしかけるようなものだ。そして実際、馭者はちょっとたってから思わくどおりきいてきた。
「コニャックを飲みませんかね」
「うん」と、Kはこの申し出にひどく心を誘われて、考えもせずにいった。というのは、寒さにふるえていたところだった。
「それじゃあ、そり[#「そり」に傍点]のドアを開けなさるがいい」と、馭者がいう。「ドアのポケットに二、三|壜《びん》入っているからね。一壜取って、飲んだらあっしに渡してくんなさい。毛皮を着てるんで、下りていくのが難儀なんでさあ」
 こんなふうに手を貸してやるのはいまいましかったが、もうこの馭者とかかわりをもってしまったので、Kはそり[#「そり」に傍点]のそばでクラムに不意打ちされる危険まで冒《おか》して、馭者のいうことをきいた。幅の広いドアを開け、ドアの内側につけられているポケットから壜を取り出すことができるはずであったが、そり[#「そり」に傍点]のなかへ入りたいという気持に駆られ、その気持に逆らうことができない。ちょっとのあいだ、そのなかに坐ってみようと思った。さっとなかへ飛びこんだ。そり[#「そり」に傍点]のなかの暖かさは非常なもので、Kが閉めようとしなかったのでドアが開けっ放しになっているにもかかわらず、暖かさは変わらなかった。長い腰かけに坐っているのかどうか、全然わからなかった。それほどすっかり膝かけやクッションや毛皮に埋もれていた。どの方向にも身体を廻したり、のびをしたりでき、柔かく暖かく、いよいよそのなかへ身体が沈んでいく。両腕を拡げ、頭はいつでも待ちかまえているようなクッションにもたれかけ、Kはそりのなかから暗い建物のなかをながめた。クラムが降りてくるまでに、なぜこんなに時間がかかるんだろう? 雪のなかに長くたたずんでいたあとなので暖かさで身体が麻痺したようになりながら、Kはクラムがついにやってくることを願った。今のままの状態でクラムに見られないほうがいいという考えは、微かな障害のようにぼんやりと意識に上ってくるだけだった。こんな放心状態のなかにいるのは、馭者の態度に助けられているためであった。馭者は、Kがそり[#「そり」に傍点]のなかに入っているのを知っているはずなのだが、彼をそこにほっておき、コニャックをくれといいさえしなかった。これは思いやりある態度だったが、Kは馭者にサービスしてやろうと思った。けだるげに、姿勢を変えないで、ドアのポケットのほうへ手をのばしたが、離れすぎている開いたほうのドアへでなく、自分のうしろの閉まっているドアのほうへであった。ところで、それはどちらでもよかった。そちらにも壜がいくつかあったのだ。一壜取り出して、栓を廻して開け、匂いをかいでみた。思わず微笑しないではいられなかった。匂いは甘美で、媚《こ》びるようであった。まるで、大好きな人から賞め言葉や親切な言葉を聞かされて、なんのことなのかよくはわからず、またわかろうともせず、そういう言葉を語ってくれるのが自分の大好きな人なのだということを意識しているだけで幸福感を味わうようなものであった。
「これはコニャックかな?」と、Kは疑いながら自問して、好奇心からためしてみた。ところが、驚いたことにやっぱりコニャックであり、身体が燃え、暖まった。これがどうして、ほとんどただ甘美な香りをもつだけのものから、飲んだ場合には馭者にうってつけの飲み物に変わるのだろう!「こんなことがありうるのだろうか?」と、Kはまるで自分自身を非難するように自問し、もう一度飲んだ。
 そのとき――Kはちょうどぐうっとあおっているところだった――あたりが明るくなった。建物のなかの階段や廊下や玄関にも、屋外の入口の上にも、電燈があかあかとついたのだ。階段を降りてくる足音が聞こえた。壜がKの手からすべり落ち、コニャックが一枚の毛皮の上に流れた。Kはそり[#「そり」に傍点]から跳び出した。ドアを閉めると、大きな音がしたが、やっと閉めたとたんに、建物から一人の紳士がゆっくりと出てきた。それがクラムではなかったことがせめてもの慰めであるように思われた。それとも、それは残念に思うべきことだったのだろうか。その紳士は、Kがさっき二階の窓辺に見た人物だった。若い紳士で、色白で顔が赤く、見たところ健康そうであったが、ひどくまじめくさっていた。Kもその男を陰気そうに見つめたが、この眼つきで自分自身を見ているのだった。むしろ助手たちをここへよこしたほうがよかった、と思った。こんなふうに自分がやったようにふるまうことは、あの二人も心得ていたろう。彼と向かい合っても、その男はまだ黙っていた。このひどく胸幅の広い胸のなかにも、いうべきことをいうのに十分な息はないかのようであった。
「これはまったく驚いた」と、男はやがていって、帽子を少しばかり額からずらした。
 え? この人はおそらく自分がそりのなかにいたことを全然知らないのに、何か驚くようなことを見出したのだろうか。自分が内庭のなかへ入りこんだことでもいっているんだろうか。
「いったい、どうしてここへこられたのです」と、早くも紳士は声を低めてたずねたが、もう息を吐いていて、動かしがたいことをじっとこらえているようだった。
 なんという問いだろう! なんと返事したらいいのだろう! あんなに期待をこめて踏み出した道がだめだったのだ、ということをこの人にもはっきりと裏書きしてみせるべきだろうか。Kは答えるかわりに、のほうへ向きなおり、ドアを開いて、そのなかに置き忘れていた帽子を取り出した。コニャックが踏段の上にこぼれているのを不快な気持でながめた。
 それからまた紳士のほうを向いた。自分がそりのなかへ入ったのをこの男に知らせることに、もうためらう気持はなかった。それもたいしてまずいことではないのだ。もしきかれたら、といってきかれたときにだけだが、馭者自身が少なくともそりのドアを開けるきっかけをつくったのだ、ということを隠してはおくまい、と思った。だが、ほんとうにまずかったのは、この人に不意を突かれ、身を隠すだけの余裕がもうなく、そこでじゃまされずにクラムを待つことができない点、あるいはそりのなかにとどまり、ドアを閉め、なかで毛皮の上に坐ったままクラムを待つだけの、あるいは少なくともこの人が近くにいるあいだはそり[#「そり」に傍点]のなかへとどまっているだけの心の落ちつきがなかった点である。もちろん、たぶんクラム自身が今にもやってこないものかどうかは、彼にはわからなかったのだ。その場合にはむろん、そりの外でクラムを迎えたほうがずっとよかったろう。まったく、今の場合にはいろいろ考えるべきことがあったのだ。しかし、今となってはもう考えることなんか全然ない。もういっさいが終ったのだ。
「私といっしょにいらっしゃい」と、紳士はいった。ほんとうは命令の調子ではなかったのだが、命令は言葉のなかに含まれているのでなく、そういいながら示した、わざと冷淡そうに短く手を振ったそのそぶりに含まれていた。
「ここで人を待っているんです」と、Kはいったが、もう何らかの結果を期待しているのではなく、ただ原則的なことをいったまでだった。
「いらっしゃい」と、その男は少しもためらわずにまたいった。Kが人を待っているということはけっして疑ってはいなかったのだ、と示そうとするような調子だった。
「でも、いってしまったら、待っている人と会えないことになります」と、Kはいって、身体をぴくっと動かした。起ったいっさいのことにもかかわらず、自分がこれまでに手に入れたものは一種の所有物のようなものであり、なるほどまた見かけだけ確保しているにすぎないけれども、それでもいいかげんな命令なんかで手放すことはないのだ、という感情をKはもった。
「ここでお待ちになろうと、いかれようと、どっちみちその人には会えませんよ」と、その人がいう。なるほど自分の意見はきびしく守っているが、Kの考えかたには明らかに譲歩しているのだった。
「それなら、むしろここで待っていて会えないほうがいいです」と、Kは反抗的にいった。この若い紳士の言葉だけではきっとここから黙って追い立てられはしないぞといわんばかりの様子だ。
 それを聞いて紳士のほうは、のけぞらせた顔にふんというような表情を浮かべ、ちょっとのあいだ眼を閉じた。まるで、Kのものわかりの悪さから自分の理性へもどろうとするかのような調子だ。そして、人差指で少し開けた口の唇のまわりをなでていたが、次に馭者に向っていった。
「馬をはずしてくれ」
 馭者は、紳士のいうことは従順に聞くのだが、Kには意地の悪い横眼づかいをしながら、今度は毛皮にくるまったまま馭者台を降りなければならなかった。そして、まるで紳士からは命令の変更は期待しないが、Kが考えを変えることを期待しているかのように、ひどくためらいながら、そり[#「そり」に傍点]のついている馬をうしろの翼になっている棟《むね》の近くまでつれていき始めた。その棟の大きな門のうしろに、馬小屋と車置場とがあるらしかった。Kは自分だけが取り残されていることに気づいた。一方の側ではそり[#「そり」に傍点]が遠ざかっていった。もう一方の側の、Kがやってきた道では、若い紳士のほうが遠ざかっていった。といっても両方ともひどくゆっくりと去っていくので、まるでKに対して、まだ自分たちを引きもどす力がお前にはあるのだ、ということを見せつけようとしているようであった。
 おそらくKは相手を引きもどす力をもってはいた。だが、その力もなんの役にも立ちはしなかったろう。そりを引きもどすことは、自分をこの場から追い払うことを意味していた。そこで彼は、この場所の権利を主張するただ一人の人間として、静かにそこにとどまっていた。しかし、それはちっとも悦びの気持を起こさせない勝利だった。彼は紳士と馭者との後姿をかわるがわる見送っていた。紳士のほうは、Kがまず内庭に入ってくるときに通ったドアのところまでいったが、もう一度振り返った。Kには、自分がこんなに強情なのでその男が頭を振っているように思えた。それから男は、きっぱりした、すばやい、これでもうおしまいだというような動作で向きなおり、玄関に足を踏み入れ、すぐそのなかへ消えていった。馭者のほうはもっと長く内庭にとどまっていた。そり[#「そり」に傍点]を片づけるのに手間がかかるのだった。重い馬小屋の門を開け、そり[#「そり」に傍点]をバックさせて置場へ運び、二頭の馬をはずし、まぐさ槽《おけ》までつれていかなければならなかった。そうしたいっさいを馭者はまじめに、一心不乱にやっており、またすぐそりを出すことはまったく期待していないようだ。Kのほうへわき眼を投げることもなしに黙ったままやっているこの仕事ぶりは、紳士の態度よりもずっときびしい非難のようにKには思われた。そして、馬小屋での仕事を終えると、馭者はゆっくりした、身体をゆするような歩きかたで内庭を横切っていき、大きな門を閉め、それからもどってきた。すべて、ゆっくりした動作で、明らかにただ雪のなかの自分自身の足跡をながめているようだった。それから馬小屋のなかへ入った。すると、電燈がみな消えた。――だれのためにつけておかねばならぬというのだ?――上の木造回廊のすきまだけはまだ明るいままで、さまようまなざしをいくらか引きとめるのだった。そのとき、Kには自分とのいっさいのつながりがこれで絶ち切られ、今は自分がむろんかつてなかったほど自由であり、普通なら自分に禁止されているこの場所で、待ちたいだけ待っていいような気がするのだった。自分はこの自由を闘い取ったのであり、ほかの人間なんかにはそんなことはほとんどできないはずだ。だれも自分に手を触れたり、自分を追い払ったりしてはいけないのだ。そればかりか、話しかけてもいけないのだ。そんな気がした。だが――この確信は少なくともそれと同じくらい強いものだったが――それと同時に、この自由、こうやって待っていること、こういうふうに他人から傷つけられないでいること、それくらい無意味で絶望的なことはないようにも思われるのだった。

第九章

 そこで彼は思いきってその場を去り、建物のなかへもどった。今度は塀沿いにではなく、内庭のまんなかの雪のなかをいった。玄関で亭主に出会った。亭主は無言のまま会釈《えしゃく》し、酒場のドアを指さした。その合図に従った。寒さに凍《こご》えていたし、人間に会いたかったからだ。ところが、ひどく落胆した。というのは、酒場では特別に置かれた小さなテーブル(ふだんはそこでは樽《たる》で間に合わせているのだ)のところに、さっきの若い紳士が坐り、彼の前には――Kにとっては気のめいる光景だった――橋亭のおかみが立っているのを見たからだった。ペーピーが、誇らしげに、頭をのけぞらせ、いつでも変わらない微笑を浮かべ、自分の品位を抗《あら》がいがたく意識し、身体の向きを変えるたびにお下げを振りながら、あちこちと早足で歩き廻り、ビールをもってきて、つぎにインクとペンとをもってきた。というのは、例の紳士が書類を前に拡げ、その書類の日付を見、次にまたテーブルのもう一方のはしにある書類の日付を見て、両者を比べ合わせ、それから何か書こうとしたのだった。おかみは高いところから、少し唇をそっくり返し、身体を休めているような態度で、静かに紳士と書類とを見下ろしていたが、もう必要なことは全部いってしまい、それがうまく受け入れられたとでもいうような様子だった。
「測量技師さんだ、とうとう」と、紳士はKが入ってきたとき、ちょっと眼を上げていったが、すぐまた書類に没頭してしまった。おかみもまた、全然驚いた様子もない冷淡な視線でKをちらりと見ただけだった。ところでペーピーは、Kがスタンドに歩みより、コニャックを一杯注文したときになって、はじめてKに気づいたようだった。
 Kはスタンドにもたれ、両眼を手で抑え、何事にもかまわなかった。それから、コニャックをちびりと飲み、まずくて飲めないというふうにそれを押しもどした。
「みなさんがそれを飲むのよ」と、ペーピーは手短かにいって、その残りをあけ、グラスを洗って棚のなかに置いた。
「みなさんはもっといいのももっているよ」と、Kはいった。
「そうかもしれないわね」と、ペーピーはいった。「でも、わたしにはそんないいのはありません」
 これでKのことは片づけ、また紳士の用をたしにいった。ところが、紳士のほうは何も用はないので、ただそのうしろを弧《こ》を描きながらたえずいったりきたりして、彼の肩越しに書類をちらりとのぞこうとしておそるおそるのぞき見するのだった。しかし、それはつまらぬ好奇心と大げさな身振りとだけだったが、おかみも眉をひそめてそれをとがめていた。
 ところが、突然、おかみは聞き耳を立て、耳を傾けることにすっかり没頭したまま、空《くう》をじっと見つめた。Kは振り返ったが、何も特別な物音は聞こえず、ほかの連中にも何一つ聞こえないようだった。ところが、おかみは爪立ちの大股で内庭に通じているうしろ側のドアへいき、鍵穴《かぎあな》からのぞき、次に眼を見開き、顔をほてらせながらみんなのほうへ振り向いて、自分のところへくるように指で合図するので、みんなはそこへいってかわるがわるのぞくのだった。おかみがやはりいちばん多くのぞいていたが、ペーピーもなかなか念入りにのぞき、紳士はなかでいちばん気乗りしないようだった。ペーピーと紳士とはすぐもどったが、おかみだけはなお緊張した様子で、身体をかがめ、ほとんどひざまずくようになって、のぞいていた。まるで自分を通してくれと鍵穴に願ってでもいるかのような印象を与えるのだった。というのは、もうずっと前から見るものなんかなくなっていたはずだ。次にようやく身を起こし、両手で顔をなで、髪の毛を整え、深く息をつき、これでまた両眼を部屋とここにいる人たちとに慣らせなければならなくなり、いやいやそうしたとき、Kは自分の知っていることをたしかめるためではなく、彼がほとんど恐れているおかみの攻撃に先廻りするために、つぎのようにいった。彼は今ではそれほど傷つきやすくなっていた。
「では、クラムはもういってしまったのですか」
 おかみは無言のまま彼のそばを通り過ぎていったが、紳士が小さなテーブルのところからこちらへ向っていった。
「そうですとも。あなたが見張り番をやめたので、クラムは出ていくことができました。でも、あの人の神経質なことは驚くべきものです。おかみさん、クラムがどんなに不安そうにあたりを見廻していたか、気がつきましたか」
 おかみはそれに気づかなかったようだが、紳士は言葉をつづけた。
「それでは、ありがたいことにもう何も見られなかったのだな。馭者も雪のなかの足跡を掃《は》きならしてしまっていたし」
「おかみは何も気づかなかったんです」とKはいったが、それをいったのは何か思わくがあったわけではなく、ひどく断定的で異論を許さないような調子のその紳士の主張に刺戟されただけのことだった。
「おそらくちょうど鍵穴のところにいたときなんでしょう」と、おかみはまず紳士を弁護するためにいった。次に、クラムがやったことももっともだといおうとして、言葉をつけたした。「といっても、わたしはクラムがそんなに神経質だとは思いませんわ。わたしたちはたしかにあの人のことを心配し、あの人を守ろうとはしています。そこで、クラムが極端に神経質だということにして、その前提から出発するのです。それはいいことですし、クラムもそれをきっと望んでいます。でも、ほんとうはどうなのか、わたしたちにはわかりません。たしかに、クラムは自分が話したくない人間とは、けっして話さないでしょう。そんな人間がいくら骨を折って、我慢できないほど出しゃばったところで、そうよ。でも、クラムはそんな人とけっして話さないし、けっしてそんな人を自分の面前にこさせないというこの事実だけで十分だわ。でも、なぜあの人はほんとうにだれかを見るのもいやというのでしょうねえ。少なくともそのことは証明できないわ。だって、これはけっしてためしてみるわけにいかないんですもの」
 紳士は本気でうなずいた。
「それはもちろん、根本において私の意見でもあります」と、彼はいった。「ちょっとばかり別なふうにいったのですが、それは測量技師さんにわかってもらうためにいったことです。でも、クラムが外へ出たとき、何度かあたりを見廻したということは、ほんとうなんですよ」
「きっと私のことを探していたんでしょう」と、Kはいった。
「そうかもしれません」と、紳士がいった。「そこまでは気がつきませんでしたが」
 みんなが笑った。話の前後がほとんどわかっていないペーピーが、いちばん大きな声で笑った。
「今はわれわれはこんなに朗らかな気分で集っているんだから」と、次に紳士がいった。「測量技師さん、どうかいくらか陳述していただいて、私の書類を補って下さるようにお願いしたいんですが」
「それにはずいぶん書いてありますね」と、Kはいって、遠くから書類のほうを見た。
「ええ、悪い習慣です」と、紳士はいって笑った。「でも、あなたは私が何者か、まだご存じないでしょう。私はクラムの駐在秘書モームスです」
 この言葉のあとでは、部屋じゅうがまじめになった。おかみとペーピーとはもちろんこの人を知ってはいたのだが、こうして名前といかめしい肩書が口にされると、すっかり驚いてしまったようだった。そして、紳士自身、自分の資格以上のことをいいすぎてしまったかのように、また少なくとも自分の言葉に含まれている、あとあとまで残るようなものものしさから逃がれたいというかのように、書類に没頭し、書きものをし始めたので、部屋のなかではペンの音以外には何も聞こえなかった。
「いったいなんなんです、村の駐在秘書っていうのは?」と、Kはちょっとたってからいった。今は、自己紹介をすませてしまったのだから、そんな説明を自分でやるのはもうふさわしくない、と考えているモームスにかわって、おかみがいった。
「モームスさんは、クラムのほかの秘書たちと同じように、クラムの秘書なんです。けれどもこの人の勤務の場所と、またもしわたしの思いちがいでなければ、勤務の性質とは――」そのとき、書きものをしていたモームスが勢いよく頭を上げた。で、おかみはいいなおした。「では、村に限られているのは、勤務の場所だけのことで、勤務の性質のことではないんです。モームスさんは、この村で必要になるクラムの書類上の仕事をいろいろやっているのでして、村から起こるクラム宛の請願はみんなこの人がまっさきに受け取るんです」Kがまだほとんどこうしたことに心を動かされずに、うつろな眼をしておかみをじっと見つめているので、彼女は半ば当惑してしまって、つけ加えた。「こういうふうになっているんですの。城のかたたちにはみんな、村に置いている駐在秘書っていうものがあるんです」
 Kよりもずっと注意ぶかく耳を傾けていたモームスが、今の言葉を補うようにおかみにいった。
「たいていの駐在秘書っていうのは、ただ一人の城のかたのために仕事をするんだが、私はクラムとヴァラベーネと二人のかたのために仕事をしているんだよ」
「そうでしたね」と、おかみはそういわれて自分でも思い出しながら、いった。そして、Kのほうを向いた。
「モームスさんはクラムとヴァラベーネと二人のかたのために仕事をしているんですのよ。だから兼任の駐在秘書っていうわけです」
「兼任のねえ」と、Kがいうと、モームスに向ってうなずいてみせた。モームスは今ではほとんど身体を前に乗り出して、Kのほうをまともに見上げていたが、Kのそのうなずきかたは、眼の前でほめられている子供に向ってうなずいて[#「うなずいて」は底本では「うなずい」]みせるようなやりかたであった。そのなかにはある種の軽蔑がこもっていたが、二人は気がつかなかったか、それともまたむしろ軽蔑を望んでいるかであった。ほんの偶然にであってもクラムに会ってもらえるだけの値打をもってはいないKの面前で、クラムのすぐ側近にいる一人の男のいろいろな功績がことこまかに述べられるのだが、それはKに一目置かせ、賞めさせようという、見えすいた意図をもってやられるのだった。けれどもKにはそんなものがよく通じない。全力をあげてクラムを見ようと努めていたKではあるが、たとえばクラムの眼の前で暮らすことが許されているモームスのような男の地位でも、そう高くは評価していないし、いわんや感嘆や嫉妬といった気持からは遠かった。というのは、クラムの身近かにいるということが彼にとって骨折りがいのあることなのではなくて、ほかならぬKという自分だけがほかならぬこの自分の願望をもってクラムに近づくということこそ、骨折りがいのあることなのだ。しかもそれは、クラムのところに落ちつくためではなく、彼のところを通りすぎてさらに城へいくためなのだ。
 で、彼は時計を見て、いった。
「ところで、もう家へ帰らなければならない」
 たちまち事情が転じてモームスのほうが有利になった。
「むろん、そうですとも」と、この男はいう。「小使の仕事があなたを待っていますからね。でも、ほんのしばらく、私のために時間をさいていただきたい。ほんの二つ三つだけ質問があるので」
「そんなことはしてもらいたくありませんね」と、Kはいって、ドアのほうへいこうとした。モームスは書類の一つを机にたたきつけて、立ち上がった。
「クラムの名において、私の質問に答えるよう要求します」
「クラムの名において、ですって!」と、Kは相手の言葉をくり返していった。「いったいあの人は私のことなんかに気を使っているんですか?」
「そんなことは」と、モームスはいう。「私には判断できません。だが、あなたは私よりももっとずっと判断できないんですよ。判断を下すことは、私たち二人は安心してクラムにまかせておきましょう。だが、クラムからあずかっている私の地位において、私はあなたがここにとどまり、答えることを要求します」
「測量技師さん」と、おかみが口をはさんだ。「わたしはこれ以上あなたに忠告はしないようにします。これまでいろいろな忠告をし、しかもおよそありうる好意的な忠告をいろいろとしてあげたのに、それは法外なやりかたであなたに拒絶されてしまいました。そして、この秘書のかたのところへわたしがやってきたというのも――わたしは隠さなければならないことなんかちっともありませんけれど――ただ役所にあなたの振舞いともくろみとを相応にお知らせし、あなたが改めてわたしのところへ泊まるように命じられるなんてことがけっしてないようにするためだったのです。わたしたちのあいだはこんなふうになりましたし、この関係はもう全然変わらないでしょう。で、わたしが今、意見を申し上げるのは、なにもあなたをお助けするためではなくて、秘書のかたのむずかしい任務、つまりあなたのような人と交渉するという仕事を、少しばかりやさしくしてさしあげるためなんです。でも、わたしという人間は完全に公明正大なんですから、――わたしはあなたとは公明正大にしかおつき合いできないのです。わたしの意志に反してもそういうふうになるんです――もしあなたがやろうとお思いになりさえすれば、わたしのいうことをご自分のために利用できるはずです。そこで、今の場合、あなたにとってクラムへ通じているただ一本の道はこの秘書のかたの調書を通っていっているのだ、ということをご注意申し上げておきましょう。でもわたしは誇張したくないので申し上げますが、おそらくその道はクラムのところまで通じているのではなく、おそらくクラムのところへ達するずっと手前で終っているのですよ。そのことについて決定するのは、この秘書のかたのお考えによるものなのですよ。でも、いずれにせよ、これがクラムの方向へ通じているたった一つの道なんです。それなのに、あなたはこのただ一つの道を諦めようと思うんですか。それもただ反抗したいという以外にはなんの理由もないのに」
「ああ、おかみさん」と、Kはいった。「それはただ一つの道でもなければ、ほかの道よりも価値がある道でもないんです。ところで、秘書のかた、私がここでいうことをクラムまで伝えたほうがいいかどうかを、あなたが決定するんですか」
「そりゃあそうですよ」と、モームスはいって、誇らしげに眼を伏せて左右を見たが、見るものなんかは全然なかった。「そうじゃなかったら、私はいったい何のため秘書になっているのでしょう」
「それ、ごらんなさい、おかみさん」と、Kはいった。「クラムのところへいく道が必要なのではなく、まずこの秘書のかたのところへいく道が必要なわけです」
「その秘書のかたのところへいく道というのを、わたしはあなたに開いてさしあげようと思ったんですよ」と、おかみはいった。「あなたの頼みをクラムに通じてあげましょうか、とわたしは午前にあなたに申し出てあげませんでしたか。これはこの秘書のかたを通じてやられるはずだったんですよ。ところが、あなたはそれをおことわりになりましたが、あなたには今ではこの道だけしか残されてはいないんですよ。むろん、あなたのきょうのようなふるまいのあと、つまり、クラムを不意に襲おうなんていう試みのあとでは、成功する見込みはいよいよ減ってしまったのです。でも、この最後のちっぽけな消えかかっている期待、ほんとうは全然存在してなんかいない期待というものが、あなたのもちうるただ一つの期待なんですわ」
「おかみさん、どうしてなんです」と、Kはいった、「あなたは最初、私がクラムの前に出ようとするのをあんなにもとめようとしたくせに、今では私の願いをそんなにまじめに取って、私の計画が失敗する場合、私のことをいわばもうだめなんだと考えていらっしゃるらしいのは? およそクラムに会おうなどと努めることを本心からとめることができたのなら、今同じ人が同じように本心から、クラムへ通じている道を、たといそれが全然クラムまでは通じてはいないにしても、まるで前へ前へとけしかけるようなことが、いったいどうしてありうるのですか」
「わたしがあなたを前へ前へなんてけしかけているとおっしゃるんですか?」と、おかみはいった。「あなたのやることには望みがない、とわたしがいえば、それは前へ前へとけしかけるということになるんですか。そんなことは――もしあなたがそんなふうにご自分の責任をわたしに転嫁しようとされるのならば、ほんとうに極端な厚かましさというものでしょうよ。あなたがそんなことをする気になるのは、おそらくこの秘書のかたがいらっしゃるからでしょうね? いいえ、測量技師さん、わたしはあなたをどんなことにもそそのかしたりしてはいません。ただ一つだけ打ち明けていえることは、わたしがあなたに最初に会ったとき、あなたをおそらく少しばかし買いかぶりすぎたということですわ。あなたがすばやくフリーダを征服したことは、わたしを驚かせましたし、あなたがこの上さらに何をやるものか、わたしにはわかりませんでした。そこで、それ以上の禍いを未然に防ごうと思い、それには頼んだりおどしたりしてあなたの心を動かすこと以外には手がないのだ、と思ったのです。そのうち、わたしは全体をもっと落ちついて考えられるようになりました。お好きなようにすればいいわ。あなたのやることって、おそらく外の雪のなかに深い足跡を残すぐらいのもので、それ以上ではないんですわ」
「どうも矛盾《むじゅん》がすっかり説明しつくされたようには思えませんね」と、Kはいった。「でも、その矛盾にご注意してあげたことで満足することにしましょう。ところで秘書のかた、おかみさんのいわれることが正しいのかどうか、つまり、あなたが私について取ろうと思っておられる調書ができれば、私はクラムのところへ出ることが許されるのだ、というおかみの意見が正しいのかどうか、どうぞ私におっしゃって下さいませんか。もしそうなら、私はすぐどんなご質問にでもお答えするつもりですよ」
「いや」と、モームスはいう。「そんなつながりはありませんね。ただ問題は、クラムの村務記録のためにきょうの午後の記録をくわしく取っておくということなんです。記載はもうすみましたので、ただ二つ三つの穴を整理のために埋めておくだけなんです。ほかの目的なんかありませんし、またあったとしても、そんな目的なんていうものは達しられませんよ」
 Kは黙ったまま、おかみを見つめた。
「なぜわたしを見つめるんです?」と、おかみがきく。「何かそれとちがったことをわたしがいいましたか。この人ったらいつでもこうなんです、秘書のかた、この人ったらいつでもこうなんですよ。人が伝えたいろいろな情報をみんなつくり変え、そうしておいて、まちがった情報を聞かされた、なんていい張るんですからね。クラムに迎えられる見込みなんか、ちょっとでもないのだ、ということは前からいっておきましたし、今でもいつだってそういっているんですよ。ところで、そうした見込みが全然ないとするなら、その調書によったって見込みなんか手に入るわけはありません。これよりはっきりしていることがあるでしょうか。さらにいえば、その調書だけが、この人のクラムとのあいだにもちうるただ一つのほんとうの公務上のつながりなんです。これも十分にはっきりしたことで、疑いの余地なんかありません。ところが、この人はわたしのいうことを信じないで、いつでも――なぜなのか、またなんのためなのか、わたしにはわかりませんが――クラムのところへ出ていくことができるかもしれないと期待しているとすれば、この人の考えかたのとおり考えてあげるとしてのことですが、この人がクラムとのあいだにもっているただ一つの公務上のつながり、つまりその調書というものが、あるだけなんです。このことだけをわたしはこの人に申しました。何か別なことをいい張る人は悪意でわたしの言葉をねじ曲げているんですわ」
「おかみさん、そういう事情でしたら」と、Kはいった、「あなたにお許しをお願いします。それなら、私があなたのおっしゃることを誤解していたんです。つまり、今はっきりしたことですが、私はまちがって、あなたがさっきおっしゃった言葉から、何かほんのわずかばかりの希望が私にはあるのだ、とお聞きできたと思ったんです」
「そうですよ」と、おかみはいった。「それはなるほどわたしの考えなんですが、あなたはまたわたしの言葉をねじ曲げていらっしゃるのよ。ただ、今度は反対の方向にですけれど。あなたにとってのそういう希望は、わたしの考えによれば、あるんです。とはいっても、その希望はただその調書に根拠を置いているだけなんですわ。けれども、あなたは『もし私がそういう質問に答えたら、クラムのところへいけるのですか』なんていう質問で、簡単にこの秘書のかたを襲うことができる、というような事情ではないんですよ。子供がそんなことをきくのなら、人は笑うだけですが、大人がそんなことをやれば、それは役所を侮辱するものです。この秘書のかたはただうまくお答えになってお情けでその役所に対する侮辱を隠して下すっているんですよ。ところで、わたしがここでいう希望っていうのは、あなたが調書を通じてクラムと一種のつながり、おそらく一種のつながりをもつということのうちにあります。これはりっぱな希望というものじゃありませんか。こんな希望を与えられるに価するだけの功績があなたにあるかってきかれたなら、あなたはほんのちょっとだって示すことができますか。もちろん、この希望についてくわしいことは申せませんし、ことに秘書のかたは職務の性質上、それについてほんのわずかでもほのめかすことはできないでしょう。このかたがおっしゃったように、このかたにとって問題なのは、きょうの午後のことを整理のために記録することだけなんです。たといあなたがわたしの言葉と関係づけて、今そのことをきいてみたところで、このかたはそれ以上のことをおっしゃらないでしょう」
「秘書のかた、いったいクラムはこの調書を読むんですか」と、Kはたずねた。
「いや」と、モームスはいった。「なぜかっていわれるんですか。クラムはとても全部の調書を読むことなんかできません。それに、あの人はおよそものを読まないんです。『君たちの調書はよこさないでくれ』と、あの人はいつでもいっていますよ」
「測量技師さん」と、おかみはこぼした。「あなたはそんな質問でわたしをうんざりさせます。クラムがこの調書を読んで、あなたの生活のこまごましたことを一つ一つ知るなんていうことが、必要なんですか。あるいは、必要とまでいかなくとも、望ましいことなんですか。それよりもむしろつつましやかに、その調書をクラムに対して隠してくれるようにとお願いしようとしないんですか。ところで、その願いも、前のと同じようにばかげた願いですけれどね。――というのは、だれだってクラムに対して何かを隠すというようなことができるものですか。――でも、その願いは前のよりも同情できるたちのものではありますけれどもね。ところでそれは、あなたがご自分の希望と呼ばれているものにとって、必要なんですか。あなたご自身、クラムがあなたに会い、あなたのいうことを聞いてくれなくたって、あの人の前で話す機会さえ得られるならば満足だって、おっしゃったじゃありませんか。ところがあなたは、その調書によって少なくともそのことは、いや、おそらくはもっとずっと多くのことができるじゃありませんか」
「もっとずっと多くのことですって?」と、Kはたずねた。「どうやってです?」
「あなたはいつでも」と、おかみが叫んだ。「子供のように、なんでもみんなすぐ食べられるようにしてさし出してもらいたがらないではいられないんですか! だれがそんな質問に答えられますか? 調書はクラムの村務記録に入れられるのです。そのことはお聞きになりましたね。そのことについてこれ以上のことははっきりとはいえません。でも、あなたは調書やこの秘書のかたや村務記録の意味をみんな知っているのですか? この秘書のかたがあなたから聴取するということは、どういうことなのか、あなたはご存じですか? おそらくこのかた自身知らないんですよ。あるいは、知らないように思っていらっしゃるんですよ。このかたは、ここに坐っておっしゃったように、整理のためにご自身の義務を果たしていらっしゃるんです。でも、考えてもごらんなさいな、クラムがこのかたを任命したんですし、このかたはクラムの名の下に仕事をしていらっしゃるんです。また、このかたのなさることは、たといけっしてクラムのところまではとどかないにしても、あらかじめクラムの同意を得ているんです。そして、クラムの精神にあふれていないようなことが、どうしてクラムの同意なんか得られるでしょう。こんなことをいって、へたなやりかたでこの秘書のかたにおもねろうなどと思っているんでは全然ありませんよ。そんなことは、このかたご自身、全然してもらいたくないとおっしゃることでしょう。でもわたしはこのかたの独立した人格のお話をしているんじゃなくて、今の場合のようにクラムの同意を得ているときのこの人のありのままの姿のことを申しているんですわ。こういう場合には、このかたは、クラムの手がのっている道具なんです。そして、このかたに従わない人は、だれでもひどい目にあいますよ」
 Kはおかみのおどかしを恐れはしなかったし、彼を捉えようとしておかみが口にする希望というものにもうんざりしていた。クラムは遠くにいるのだった。さっきはおかみはクラムを鷲《わし》と比較したが、それはKには滑稽に思われた。ところが、今はもうそうではなかった。彼はクラムの遠さ、攻め取ることのできないこの男の住居、まだKが一度も聞いたことのないような叫び声によってだけおそらく中断される彼の沈黙、見下すような彼の視線のことを思ってみた。その見下すような視線は、けっして確認もされないし、そうかといってまたけっして否定もできないものだ。そしてまた、クラムが理解できがたい法則に従って、空に輪を描いて飛ぶ鷲のように上のほうで引いている、そしてKのいる低いところからとうてい打ち破ることのできない輪形のことを思ってみた。こうしたすべてがクラムと鷲との共通点だった。だが、きっとこの調書はそんなこととは全然関係がないのだ。その調書の上では、モームスはちょうど今、塩ビスケットを割っていた。それはビールのさかなにしているもので、彼はすべての書類の上にそのビスケットにかかっている塩とういきょう[#「ういきょう」に傍点]とをこぼしていた。
「おやすみなさい」と、Kはいった。「事情聴取なんていうのはどうもにがてでね」そして、今度はほんとうにドアのほうへいった。
「ではあの人はいくんだよ」と、モームスはほとんど不安げにおかみにいった。
「ほんとうに帰ったりなんかしないでしょうよ」と、おかみはいった。それ以上のことはKは聞かなかった。彼はすでに玄関に出ていた。外は寒く、強い風が吹いていた。向う側のドアから亭主がやってきた。そのドアののぞき孔のうしろで、玄関を見張っていたものらしい。上衣のすそを身体へ抑えつけなければならなかった。この玄関のなかでさえ、風が上衣のすそをそんなにもまくり上げるのだった。
「測量技師さん、もうお帰りですか」と、彼はいった。
「それを変だと思うんですか」と、Kはたずねた。
「ええ」と、亭主はいった。「いったい、あなたは事情聴取を受けないんですか」
「そうだよ」と、Kはいった。「聴取なんか黙って受けていなかったよ」
「なぜ受けないんですか」と、亭主がたずねた。
「私にはわからないんだ」と、Kはいった。「なぜ私が黙って事情聴取なんか受けなければならないのか、またなぜ冗談とか、あるいは役所の気まぐれなんかに従わなければならないのかがね。おそらく別なときになら、冗談か気まぐれかに事情聴取をしてもらうかもしれないけれど、きょうはだめだよ」
「そりゃあ、そうですとも」と、亭主はいったが、それはただ儀礼の上の同意で、けっして確信のある同意ではなかった。「もう、あの人に使われている連中を酒場に入れてやらなければなりません」と、つぎに彼はいった。「もうとっくにその時間です。ただ事情聴取のじゃまをすまいと思っただけなんです」
「そんなに重要なことと思っているのかい?」と、Kはたずねた。
「ええ、そうですとも」と、亭主はいった。「それじゃあ、ことわってはいけなかったんだね」と、Kはいった。
「いけなかったんですよ」と、亭主がいう。「そんなことはしてはいけなかったんですよ」
 Kが黙っているんで、Kを慰めようとしてか、それとも早くこの場を去らせようとしてか、ともかく亭主はつけ加えていった。
「でもまあ、そのためにすぐ天から硫黄《いおう》が降ってくるわけでもありませんやね」
「そんなことはないさ」と、Kはいった。「そんな天気にも見えないからね」
 そして、二人は笑いながら別れた。

第十章

 はげしく風が吹きつけるおもての階段に出て、Kは暗闇のなかを見た。ひどく悪い天気だった。何かそれと関連して、おかみが彼におとなしく調書を取らせようと骨折ったこと、だが自分がそれをはねつけたことが、ふと彼の頭に浮かんだ。あれはもちろんわだかまりのない骨折りなんかではなくて、おかみはひそかに彼を同時に調書から引き離そうとしたのだった。結局、自分がはねつけたのか、それとも服従したのか、わからなかった。なかなかしたたかなやつで、けっして正体がつかめない遠くの見知らぬ者たちに命じられていながら、見かけはまるで風のように無心そうに働いているのだ。
 国道を二、三歩いくやいなや、彼は遠くのほうに二つのゆらめく燈火を見た。この生命のしるしは彼をよろこばせた。彼はそのほうへ急いだが、その燈火のほうも彼のほうへ向って漂うように近づいてきた。それが二人の助手だと見わけがついたとき、なぜそんなに落胆したのか、彼にはわからなかった。だが、二人はおそらくフリーダに送り出されて、彼を迎えにやってきたのだ。まわりから彼に向ってさわがしく迫ってくるものがある暗闇から彼を解放してくれるこの二つの火は、たしかに彼の所有物にはちがいなかった。それにもかかわらず、彼は落胆した。彼は見知らぬ人間たちを期待したのであり、彼にとって重荷であるこんな古い顔なじみなんかを期待したのではなかった。だが、それは助手たちばかりではなくて、この二人のあいだの暗闇からバルナバスが現われた。
「バルナバス!」と、Kは叫んで、彼のほうに手をさしのべた。「君は私のところへきたのか?」再会の驚きは、バルナバスがかつてひき起こしたいっさいの怒りをまず忘れさせたのだった。
「あなたのところへです」と、バルナバスは前と変わらず親しげにいった。「クラムからの手紙をもってきました」
「クラムからの手紙だって!」と、Kは頭をのけぞらせながらいって、急いでバルナバスの手からその手紙を取った。
「照らしてくれたまえ」と、彼は助手たちにいった。彼らは左右からぴったり彼に身体をくっつけてきて、ランタンを高く上げた。手紙を風から守るために、Kは大きな便箋を読むためにごく小さく折りたたまなければならなかった。それから、彼は読んだ。
「橋亭宿泊中の測量技師殿。あなたがこれまでに実施された測量の仕事は、小生の多とするところであります。助手たちの仕事も賞讃すべきものであり、あなたは彼らをよく仕事にとどめておくことを心得ておられる。あなたの熱意のさめないことを! 仕事をよき成果に導くように! 中断するようなことがあれば、小生は怒るでしょう。ところで安心していただきたいが、解雇の際の報酬という問題は、近く決定されるでしょう。小生はつねにあなたに注目しているものです」
 Kよりもずっとゆっくり読んでいた助手がよい知らせを祝って「万歳!」を三度高らかに叫び、ランタンを振ったときになって、Kはやっと手紙から眼を上げた。
「静かにしたまえ」と、彼はいって、バルナバスに向っては「これは誤解だ」と、いった。バルナバスは彼のいうことを理解しなかった。
「これは誤解だ」と、Kはくり返した。午後の疲れがまたもどってきた。学校へいく道はまだ遠いように思われた。バルナバスのうしろに彼の家族全体が浮かび出た。助手たちがまだ身体を押しつけてくるので、Kは二人を肘で追い払った。この二人はフリーダのところにとどまるように、とKが命令したのに、どうしてフリーダは彼らをKのところへよこしたのだろうか。帰り道はひとりでもわかっただろう。そして、ひとりのほうがこの一行といっしょよりも楽だったろう。ところで、その上、一人はマフラーを首に巻きつけていて、そのはじが風ではためき、二、三度Kの頬を打った。もう一方の助手はいつもすぐそのマフラーを、たえず動いている長い尖《とが》った指でKの顔から払いのけはしたのだが、事はよくはならなかった。二人はこうやっていききすることが気に入ったらしく、また風と夜の不安とが彼を興奮させているのだった。
「消えろ!」と、Kは叫んだ。「せっかくやってきたのに、なぜステッキをもってこなかったんだ? いったい何を振って君たちを家へ追いもどしたらいいのだ?」
 二人はバルナバスのうしろに隠れたが、それほど心配そうでもなく、自分たちを守ってくれるバルナバスの左右の肩の上にランタンを置いた。むろんバルナバスはそれをすぐ振り落した。
「バルナバス」と、Kはいった。バルナバスが明らかに自分を理解していないことが、彼の心を重くした。また、無事なときには彼の上衣はあんなにきれいに輝いているのに、事態が深刻になると、なんの助けにもならず、ただ黙って反抗しているように見えることも、そうだった。そんな反抗にはくってかかるわけにもいかないのだ。というのは、彼自身は無抵抗なのだが、ただ彼の微笑だけが輝いているのだ。ところがそれも、天上の星がこの地上の嵐をどうにもできないように、なんの役にも立たないのだ。
「見たまえ。クラムが私に書いてよこしたのだ」と、Kはいって、手紙を彼の顔の前にもっていった。「あの人はまちがった知らせを受けているんだよ。私はまだ土地の測量の仕事なんかやっていなかったし、二人の助手がどのくらいの値打があるものかは、君自身が見るとおりだ。そして、やっていない仕事は、私もむろん中断なんかできるはずがないし、けっしてあの人の怒りなんかひき起こすこともできない。どうしてこの人に多としてもらうことなんかあるだろう。そして、安心してなんかいられるはずがないよ」
「私がそのことを伝えてさしあげましょう」と、バルナバスがいった。彼はKのしゃべっているあいだじゅう、手紙に眼を走らせていたが、そうかといって彼はその手紙を全然読めるはずがなかった。というのは、手紙を顔のすぐ前にもってきているのだった。
「ああ」と、Kはいった。「君は、それを伝えると私に約束するけれど、ほんとうに君のいうことを信じられるのかね? 私は信用できる使いの者をとてもほしいんだ。今はこれまで以上にそうなんだ」Kはいらいらして唇をかんだ。
「旦那」と、バルナバスは首を柔かに曲げていった。――Kはほとんどまたそのしぐさに誘われて、バルナバスのいうことを信じるところだった。――「私はたしかにそのことを伝えてさしあげますよ。あなたがこの前私にいいつけられたことも、きっと伝えますよ」
「なんだって!」と、Kは叫んだ。「いったい君はそのことをまだ伝えなかったのか。あの次の日、城へいかなかったのか」
「いきませんでした」と、バルナバスがいった。「私のおやじは、ごらんになったように年よりでしてね。また、ちょうどたくさん仕事があったものですから、おやじの手伝いをしなければならなかったのです。でも、近いうちにまた一度城へいくでしょう」
「君は何をやっているんだい、おかしな人だ」と、Kは叫んで、自分の額をたたいた。「クラムの用件はほかのどんなことよりも大切じゃないか。君は使いという高い職務をもちながら、その仕事をそんなに恥かしいやりかたでやるのか。君のお父さんの仕事なんてだれがかまうものか。クラムは報告を待っているのだ。君は、走りながらとんぼ返りをやるかわりに、馬小屋から馬糞を取り出すことを先にやるんだ」
「おやじは靴屋です」と、バルナバスはためらわずにいった。「おやじはブルンスウィックの注文を受けていました。で、私はおやじの職人でしてね」
「靴屋――注文――ブルンスウィック」と、Kは一つ一つの言葉を永久に使えなくしてしまうように、不機嫌そうに叫んだ。「そして、いつも人が全然通らないこの道で、だれが靴なんかいるのかね? そして、この靴商売なんか私となんのかかわりがあろう。使いの仕事を君にまかせたのは、君がその仕事を靴台の上に置き忘れ、めちゃめちゃにしてしまうためではなく、すぐそれをクラムのところへとどけるためなんだ」
 ここでKは、クラムがおそらくずっと城にではなく紳士荘にいたのだ、と思いつき、少しばかり気持を休めた。だが、バルナバスが最初のKの報告をよくおぼえていることを示すため、それを暗誦《あんしょう》し始めたので、またKを怒らせてしまった。
「たくさんだ、私はなんにも知りたくはないよ」と、Kはいった。
「私に対してお気を悪くしないで下さい、旦那」と、バルナバスはいって、無意識にKを罰しようとするかのように彼から視線をそらせ、両眼を伏せてしまった。しかし、それはKが叫んだことに驚いたためにちがいなかった。
「私は気を悪くなんかしていないよ」と、Kはいったが、彼の心の乱れが今は自分自身に向ってくるのだった。「君にじゃないんだ。でも、大切な用件にこんな使いしかもたないことは、私にとって大変まずいことなんだ」
「いいですか」と、バルナバスはいって、使いとしての自分の名誉を守るために、許されている以上のことをいおうとしているように見えた。「クラムは報告なんか待ってはいません。あの人は、私がいくと、腹を立てさえするんです。『また新しい報告か』と、あるときはいいましたし、私がくるのを遠くから見ると、たいていは立ち上がり、隣室へいってしまい、私に会いません。また、私が知らせをもっていつでもすぐいくというふうにはきめられていないのです。もしそうきめられているなら、私はもちろんすぐいきます。でもそんなことは全然きめられてはいないんです。で、私が一度もいかなくたって、そのことをとがめられることはないんです。私が使いの用件をもっていくのは、自由意志でやることなんです」
「そうか」と、Kはバルナバスを見、助手たちから故意に眼をそらしながら、いった。二人の助手はバルナバスのうしろでかわるがわる、まるで沈んでいた底のほうから浮かび上がるようにそろそろと首を出すが、Kを見てびっくりしたように、風の音を真似たような軽いぴゅうという口笛の音を鳴らし、またたちまち姿を消してしまう。そんなふうにして二人は長いあいだ楽しんでいた。
「クラムのところでどうなっているのか、私は知らない。君がそこで万事をくわしく知ることができるということは、私は疑わしく思うよ。そして、たとい君がそんなことをできるとしても、私たちはこうした事柄を好転させることはできないだろう。でも、使いの用件をもっていくということは、君にもできるんだから、それを君に頼むよ。ほんの短い使いだ。あしたすぐその伝言をもっていき、その日のうちに私に返事ももってこられるかね? いや、少なくとも、君がどんなふうにクラムに迎えられたか、伝えてくれることができるかね? それができるかい? で、それをやる気があるかい? そうしてもらえれば、私にはとてもありがたいんだよ。それにおそらく、君にそれ相応のお礼をする機会があるだろう。それとも今もう、私が君のためにやってあげられる希望をもっているかね」
「きっとご用件を実行します」と、バルナバスはいった。
「それじゃあ、それをできるだけよく実行するようにやってみようというんだね。クラム自身にそのことを伝え、クラム自身から返事をもらってこようっていうんだね。すぐ、万事すぐ、あしたのうちに、いや午前中にやるっていうんだね」
「最善をつくします」と、バルナバスはいった。「でも、いつでもそうしているんです」
「もうそんなことをいい争うのはやめよう」と、Kはいった。「用件はこうだ。土地測量技師Kは官房長殿に対して、直接お話しすることを許されたいと願っている。このような許可と結びついているようなどんな条件でも、あらかじめ承知するつもりだ。こうしたお願いをしないでいられなくなったのは、これまですべての仲介者が完全に役に立たなかったからだ。その証拠としてあげることは、自分はこれまでほんの少しでも測量の仕事をやっていないのであり、村長のいうところによると今後もけっして実行されないだろう、ということだ。そこで官房長殿の最近の手紙を絶望的な恥らいの気持で読んだ。官房長のところへ直接出頭することだけが今の場合に役立つだろう。測量技師は、このお願いがどんなに度を超《こ》えたものかをよく知ってはいるが、官房長殿におじゃまはできるだけしないように極力努めるつもりでいる。どんな時間の制限にも従うし、会話のときに使われる言葉の数をきめることを必要とみとめられるならば、それにも従う。わずか十語でもすますことができると信じている。深い尊敬をもって、また極度に落ちつかぬ気持をもって、ご決定をお待ちする」
 まるでクラムのドアの前に立ち、守衛と話しているかのように、Kはわれを忘れてしゃべった。
「思ったよりも長くなってしまったな」と、やがて彼はいった。「でも、君はこれをどうか口頭で伝えてもらいたい。手紙は書きたくないんだ。手紙はまた限りない書類の道をたどることになるだろうからね」
 そこでKは、ただバルナバスの心おぼえのために、一枚の紙を一人の助手の背中に当てて走り書きしていた。そのあいだ、もう一人のほうはランタンで照らしていた。ところがKはもうバルナバスの口授によってその文句を書きつけることができるほどだった。バルナバスはみんなおぼえてしまって、まるで学校の生徒のように正確に暗誦し、助手たちのまちがった口出しなんかは気にもかけなかった。
「君の記憶力はなみなみでないね」と、Kはいって、バルナバスに紙を渡した。「だが、どうかほかのことでもなみなみでないことを見せてくれたまえ。で、君の望みは? 何もないのかい? はっきりいうが、君が何か望みをいってくれるならば、私の伝言の運命について少しばかり安心できるのだが」
 はじめバルナバスは黙っていたが、やがていった。
「わたしの姉妹《きょうだい》たちがよろしくといっていました」
「君の姉妹たちだって?」と、Kはいった。「ああ、大柄でじょうぶな娘さんたちだね」
「二人ともよろしくといっていました。でもとくにアマーリアがそうです」と、バルナバスがいった。「アマーリアがきょうもこの手紙をあなたのために城からもってきたんです」
 何よりもまずこの知らせにしっかりしがみついて、Kはたずねた。「アマーリアは私の伝言も城までもっていけないのかね? あるいは君たち二人がいって、めいめいうまくいくようにやってみてくれることができないかね?」
「アマーリアは事務局へ入ることができないんです」と、バルナバスがいった。「そうでなければ、あれはよろこんでやるでしょうが」
「私はおそらくあした君たちの家へいくよ」と、Kはいった。「君がまず返事をもってきてくれたまえ。学校で君のことを待っているよ。また、君の姉妹がたによろしくいってくれたまえ」
 Kの約束はバルナバスをひどくよろこばせたようだった。別れの握手のあとで、彼はちょっとKの肩にさわりまでした。バルナバスが最初に輝くばかりの姿で食堂の農夫たちのところへ現われたときと、そっくりそのままの様子だった。Kは彼がそうやって肩にさわったことを、微笑をもってではあったが、何か特別のしるしと受け取った。気分がなごやかになったので、彼は帰り道には助手たちにしたいままにさせておいた。

第十一章

 彼はすっかり凍《こご》えて家へ帰った。どこもまっ暗で、ランタンのなかの蝋燭は燃えつきていた。勝手を知っている助手たちに導かれて、彼は手探りで教室へ入っていった。
「君たちのはじめてのほめるのに価する仕事だね」と、彼はクラムの手紙のことを思い出しながら、いった。まだ半分眠ったままで、フリーダが片隅から叫んだ。
「Kを眠らせておいてちょうだい! この人のじゃまをしないで!」
 彼女は眠気に負けて、Kの帰りを待てなかったにしても、Kのことが彼女の頭を占めていたのだ。明りがつけられた。といっても、ランプのしんはあまり大きく出せなかった。というのは、石油がほんのわずかしかなかったのだ。この新世帯には、まださまざまな欠点があった。火が燃やされてはいたが、体操にも使われていたこの大きな部屋は――体操用具がまわりに置かれてあり、天井からも下がっていた――貯えられている薪《まき》はすでに全部使い果たしてしまった。みながKにいうところによると、さっきはとても気持よく暖かだったが、残念なことにまたすっかり冷えてしまったということだった。薪の貯えが小屋にたくさんあるのだが、この小屋は閉じられていて、鍵は教師がもっており、授業時間に火を焚《た》く以外には薪を取り出すことを許さないのだ。それでもベッドがあって、そのなかに逃げこむことができるなら、まだしも我慢できただろう。ところが、寝るという点からいうと、ただ一つの藁《わら》ぶとんしかなかった。それにはフリーダの毛のショールでみごとなくらい清潔に被いがかけられていた。だが、羽根ぶとんはなく、粗末なごわごわした二枚の毛布だけで、それはほとんど身体を暖めてくれない。ところが、このみすぼらしい藁ぶとんさえ、助手たちはうらやましそうにじっと見ている。だが、その上にいつか寝ることができるという希望は、彼らはもちろんもてないのだ。フリーダは不安げにKをじっと見た。彼女はどんなにみじめな部屋であっても住めるように整えることを心得ているということは、橋亭で証明したのだったが、ここではもう何もやることができなかった。彼女はまったく金をもたなかったからだ。
「わたしたちのただ一つの部屋飾りは、体操用具なのよ」と、彼女は涙ぐみながらも無理に笑顔をつくって、いった。しかし、いちばん欠けているもの、つまり不十分な寝場所と暖房とについては、彼女はきっぱりと、あしたにもなんとか策を講じることを約束して、それまではどうか我慢してくれとKに頼んだ。どんな言葉も、どんなほのめかしも、またどんな顔の表情も、彼女がKに対して少しでもにがい気持を抱いているということを推察などさせなかった。じつをいえば、彼は自分にいい聞かせないでいられなかったが、彼女を紳士荘から、また今度は橋亭から無理にここへつれてきたのは、彼にほかならないのだ。そのため、Kは万事を我慢できるものと見ようと努力したが、それは彼にとっては全然むずかしいことではなかった。なぜかというと、頭のなかでバルナバスとつれ立って歩きながら、自分の伝言を一語一語くり返しているさまを思い描いたからだった。だが、その伝言はバルナバスに授けてやったようにではなく、その伝言がバルナバスの口からクラムの前で述べられるときにこんなふうだろうと思われるように思い描いていた。それとともに、彼のためにフリーダがアルコールランプの上でわかしているコーヒーのことは、たしかに心からよろこんだのだった。そして、冷えていくストーブによりかかったまま、彼女が教壇の机の上にとっておきの白いテーブル・クロスをかけ、花模様のついたコーヒー茶碗を置き、そのそばにパンとベーコンと、いわしの罐詰まで並べるさまを、眼で追っていた。今や万事ができ上がった。フリーダもまだ食事をすませてはいず、Kの帰りを待っていたのだった。椅子が二つあるので、机のそばでKとフリーダとはそれに腰かけ、助手たちは二人の足もとの教壇の上に坐った。だが、二人はじっとしていず、食事中も二人のじゃまをするのだった。助手たちはどれもたっぷりもらい、まだまだ食べ終ってはいないのに、ときどき立ち上がっては、まだ机の上にたくさん残っているかどうか、まだ自分たちにいくらかもらえそうかどうか、たしかめようとするのだった。Kはこの二人のことは気にとめてはいなかった。フリーダが笑ったので、はじめてこの二人に気がついたのだった。彼は机の上にある彼女の手の上に媚《こ》びるようにして自分の手をかさね、なぜこの連中のことをそんなに大目に見て、彼らの不作法さえも好意的にみとめてやるのか、と低い声でたずねた。こんなやりかたではやつらをけっして追い払えないよ。ところが、いわば手荒な、彼らのふるまいに実際にふさわしくもあるような取扱いをしてやれば、彼らを制御することができるか、あるいは(このほうがいっそうありうることだし、またいっそういいだろうが)彼らがこの地位にいや気がさし、そこでついに逃げ去ってしまうかするだろうよ。どうもこの学校ではあまり快適な滞在になりそうもないように思われるね。だが、ここに住むことも長くはつづかないだろう。それでも、助手たちが去ってしまい、二人だけが静かな家にいることになれば、すべての欠点にもほとんど気づかないようになるだろうよ。君は、助手たちが日ましに厚かましくなっていくのに気がつかないのかね? まるで、彼らをつけ上がらせるのは、ほんとうは君がいるためであり、また私が君の前ではほかの場合にならばやるかもしれないようにしっかと彼らにつかみかからないだろうという期待のためであるように見えるよ。さらにおそらく、彼らをすぐ面倒なしに追い払うすこぶる簡単な手段があるかもしれないね。それはきっと君だって知っているだろう。君はなにしろこの土地の事情にくわしいんだからね。そして、もし助手たちをなんとかして追い出すなら、やつらのためにもおそらくは一つの親切をしてやることになるだけなんだ。というのは、彼らがここで送る生活もそういいものじゃないし、彼らがこれまで楽しんできた怠惰な生活も、ここでは少なくともその一部分はやめなければならないんだから。というのは、君はこのところ二、三日つづいたさまざまな興奮のあとで自分の身体をいたわらなければならないし、また私としても、私たちの苦しい境遇からの逃げ道を見出そうとして一生懸命にならなければならないのだから、やつらはどうしても仕事を命じられてやらなければならないことになる。しかし、助手たちが出ていくことになれば、それで大いに気持が軽くなり、そこで小使の仕事もそのほかのこともみんなたやすくやることができるだろうよ。
 こんなKの言葉に注意深く耳を傾けていたフリーダは、ゆっくりとKの腕をなでて、次のようにいうのだった。それはみんなわたしの考えでもありますわ。でもあなたはおそらく助手たちの不作法を大げさに考えすぎているんだわ。この人たちは陽気でいくらか単純な若者たちであって、きびしい城のしつけのために追い出されてしまい、はじめて見知らぬ人に仕えることになったのよ。だからいつも少しばかり興奮していて、びっくりしているのよ。こんな状態のなかでこの二人たちはときどきばかなことをしでかすわけで、それに腹を立てるのは自然だけれど、笑ってすますほうがもっと賢いやりかたなんだわ。わたしもときどき、笑わないでいられなくなるのよ。でも、この連中を追い払って、二人だけになるのがいちばんいいことだ、という点ではあなたと意見が一致しているわ。こういって、彼女はKに身体をよせて、顔を彼の肩に埋めた。そして、そのままの姿勢で何かいったが、いかにも聞き取りにくく、Kは彼女のほうに身体を曲げなければならなかった。彼女がいうには、助手たちに対する手段は何も知らないけれど、おそらくKが提案したことはみんなだめだろう。自分の知っている限り、K自身がこの二人を要求したのであって、今この二人を自分のところにおいているのだし、これからもおくことになるだろう。いちばんよいことは、二人を気軽におっちょこちょいとして扱うことだ。彼らは実際そうなんで、そういうふうに扱えば、いちばんよく我慢ができる。
 Kはこの返事に満足しなかった。半ば冗談、半ばまじめに、彼はこういった。君はやつらとぐるになっているのか、あるいは少なくとも彼らに対して大きな愛情をもっているように思えるね。ところで、彼らはかわいい若僧たちだが、いくらか好意をもっていても追い払えない人間なんて、いないのだよ。このことをこの助手たちにおいて君に見せてあげよう。
 フリーダはいった。もしあなたにそれができるならば、あなたにとても感謝するわ。ところで、わたしは今後、もうこの人たちのことを笑ったり、二人と不必要な言葉を交わしたりしないわ。もうこの人たちにおかしいことなんか見ませんし、それに二人の男にいつも観察されているなんて、ほんとうにつまらないことなんかじゃないわ。この二人をあなたの眼でながめることを、わたしは習ったわ。そして、今、助手たちがまた立ち上がったとき、彼女は言葉のとおり少し身体をぴくっとさせただけだった。二人は一つには食物の残りを検査するため、一つにはKたち二人がたえずささやき合っているのを見きわめるため、立ち上がったのだった。
 Kはそれを利用して、フリーダに助手たちを嫌わせるようにしようとした。フリーダを自分のほうに引きよせ、ぴたりとより添って食事をすませた。もう寝にいくべきときだろう。みんなひどく疲れていた。助手の一人は食事しながら眠りこんでしまった。それがもう一人をひどく面白がらせ、Kたち二人にその眠っている男の間抜けた顔を見るようにうながそうとしたが、それはうまくいかなかった。Kとフリーダとは、それをはねつけて、高いところに坐っていた。寒さが耐えがたくなっていくうちに、二人は自分たちも寝にいくことをためらっていた。とうとうKが、もう少し火を焚《た》かなければならない、そうでないと眠ることはできない、といった。彼は斧《おの》でもないかと探したが、助手たちは一つのありかを知っていて、それをもってきた。そこで、薪小屋へ出かけていった。すぐ薄いドアは破られた。助手たちは、こんなすばらしいことはまだ体験したことがないかのように歓喜し、たがいに追いかけ合ったり、身体をつつき合ったりしながら、薪を教室へ運び始めた。まもなくそこには大きな薪の山ができた。火が焚かれて、みんなはストーブのまわりに横になった。助手たちは毛布をもらってそれにくるまろうとした。彼らにはそれで十分だった。というのは、いつも一人が起きていて、火を絶やさぬように、と取りきめができたのだった。やがてストーブのそばはひどく暖かくなり、もう毛布などはいらなかった。ランプが消され、Kとフリーダとは暖かさと静けさとにすっかり満足して、眠るために身体をのばした。
 Kが夜中に何か物音で眼がさめ、さめぎわのはっきりとしない動作でフリーダのほうを手探りしたとき、フリーダのかわりに助手の一人が自分のそばに寝ているのに気づいた。おそらく神経過敏になっているためであり、またそのために突然眼がさめることになったのだが、それはこれまでこの村で体験した最大の驚きだった。叫びとともに半ば身体を起こし、考えるまもなくその助手に拳《こぶし》の一撃をくらわせたので、助手は泣き始めた。ところでこの事情はすべてすぐにわかった。フリーダが起こされてしまったのは――少なくとも彼女にはこう思われたのだが――何か大きな動物、おそらくは一匹の猫が彼女の胸の上に跳び上がって、すぐまた逃げていったためだった。彼女は起き上がり、一本の蝋燭に火をつけて、大きな部屋全体にその動物を探した。その機会を助手の一人が利用し、しばらく藁ぶとんの味を楽しもうとして、今、ひどくその罰を受けたところだった。ところが、フリーダは何も発見できなかった。おそらく錯覚《さっかく》だったのだ。彼女はKのところへもどってきたが、その途中、まるでゆうべの話合いを忘れてしまったかのように、うずくまって泣きじゃくっている助手の髪を慰めるようになでてやるのだった。Kはそれに対して何もいわなかった。ただ助手たちに、火を焚くのをやめるように命じた。というのは、集めた薪をほとんど全部焚きつくして、すでに暑くてたまらぬほどになっていたのだった。

第十二章

 朝、みんながやっと眼をさましたときには、最初に登校した生徒たちがもうきていて、もの珍しげに寝床を取り巻いているのだった。これは愉快なことではなかった。というのは、ゆうべあまり暑かったため、今、明けがたになるとまた身にしみるほど冷えてきていたのだが、みんな下着まで脱いでいた。そして、ちょうど彼らが服を着始めたとき、女教師のギーザがドアのところへ現われたのだった。これは、金髪で、大柄の、美しいけれど、少し固い感じの娘だ。彼女は明らかに新しい小使のことを予期していて、たぶん例の教師からどういう態度を取るべきかを教えられているにちがいなかった。というのは、ドアのところで早くもこういったのだった。
「とても我慢できません。なんて結構な有様でしょう。あなたがたはただ教室で寝る許可を受けているだけで、わたしはあなたがたの寝室で授業する義務なんかありません。朝遅くまでベッドにごろごろしている小使の一家なんて。なんていうこと!」
 ところで、これに対してはいくらかいってやらねばならないだろう、ことに一家とかベッドとかいうことについてはそうだ、とKは思った。一方、彼はフリーダといっしょに――助手たちはこの仕事に使うことはできなかった。二人の助手は床の上に横たわったまま、びっくりしたように女教師と子供たちとを見つめていた――大急ぎで平行棒と跳び箱とを押し出してきて、その両方に毛布をかけ、小さな空間をつくり、そこで子供たちの眼を避けて少なくとも服を着られるようにした。といって一瞬も落ちついてはいられなかった。まず女教師ががみがみいった。洗面器にきれいな水がなかったからだ。ちょうどKは、自分とフリーダとのために洗面器をもってこようと考えていたが、女教師をあまり刺戟しないように、この考えはまず捨てた。ところが、それをやめたことはなんの役にも立たなかった。というのは、すぐそのあとで大きながちゃがちゃいう音がした。つまり、運悪く晩飯の残りを教壇から片づけることを怠っていたので、女教師が定規でみんな払いのけてしまったのだ。いっさいのものが床の上へ飛んだ。いわしの油とコーヒーの残りとが流れ出し、コーヒーわかしがこなごなにくだけた。女教師はそんなことを気にかける必要はない、小使がすぐ片づけるだろう、といわんばかりだった。まだ服をすっかり着てはいなかったが、Kとフリーダとは平行棒にもたれて、自分たちのわずかばかりの所有物がめちゃめちゃになるのをながめていた。助手たちは服を着ようとは全然考えないらしく、下の毛布のあいだから様子をうかがっていて、その変な恰好が子供たちを大いに面白がらせていた。フリーダにとっていちばん痛手だったのは、もちろんコーヒーわかしを台なしにされたことだ。Kが彼女を慰めようとして、すぐ村長のところへいき、かわりを要求してもらってくる、といったとき、彼女はすっかり気を取りなおしたので、下着とスリップとだけの姿で囲いから飛び出し、少なくともテーブル・クロスだけはもってきて、これ以上汚されるのを防ごうとした。女教師はフリーダをおどかすため、定規で神経をかき廻すようにたえず机の上をたたいているのだったが、フリーダはうまくテーブル・クロスをもってくることができた。Kとフリーダとは服を着終わると、つぎつぎと起こることにすっかり呆然《ぼうぜん》としてしまっている助手たちに、命令したりつついたりして服を着させるように促さなければならなかったばかりでなく、自分たちも彼らに服を着せてやらなければならなかった。みんなすむと、Kは次にやるべき仕事を割り当てた。助手たちは薪をもってきて火を焚くように、だがまずもう一つのほうの教室から始めるように。ところで、その教室のほうにも大きな危険があった。――というのは、そちらにもおそらく例の教師がもうきているだろう。フリーダは床を掃除するように。K自身は水を運んできて、そのほかの整頓をするだろう。朝食のことはさし当っては考えなかった。だが、およそ女教師の機嫌がどうか見るために、Kはまっさきに囲いから出ていこうとした。ほかの者たちは、彼が呼んだら出ていけばよい。Kがこういう手順をきめたのは、一つには助手たちの愚かなふるまいで状況をはじめから悪化させまいと思ったからであり、もう一つにはフリーダをできるだけいたわってやろうと思ったからだ。というのは、彼女は名誉心をもっているが、自分はもっていない。彼女は神経質だが、自分はそうではない。彼女は眼の前の小さないやらしいことばかり考えているが、自分はバルナバスと未来とのことを考えているのだ。フリーダは彼のすべての指図に忠実に従い、Kからほとんど眼を離さなかった。彼が囲いから出ていくやいなや、女教師は子供たちがげらげら笑うなかで、「おや、よく眠りましたか?」と、いった。子供たちの笑いはそのときからやむことがなかった。女教師の言葉はけっしてほんとうの質問というものではなかったので。Kがそれを気にもかけずにまっしぐらに洗面盤のところへいくと、女教師がまたたずねた。
「あなたがた、わたしのミーツェに何をしたんです?」
 一匹の大きな肉づきのよい猫が、四肢を拡げて机の上にものうげに寝そべっている。女教師は猫の少しけがをしているらしい脚を調べた。それでは、フリーダがいったことは正しかったのだ。この猫は彼女の身体に跳びのったのではなかった。というのは、この老いぼれ猫にはもう跳ぶことなんかできなかった。しかし、彼女の身体の上をはって越えていったのだ。ふだん人気のないこの建物のなかに人間たちがいることにびっくりして、急いで隠れたのだが、こうやってやりつけていない急ぎかたをしてけがをしてしまったのだ。Kはこのことをおだやかに女教師に説明しようと思ったが、女教師のほうは結果だけを取りあげて、いうのだった。
「まあ、なんてこと! あんたたちは猫にけがをさせたのね。これがここへやってきたご挨拶というわけね。見てごらん!」そして、Kを教壇の上に呼びつけ、彼に猫の脚を見せた。あっというまに、彼女は猫の爪でKの手の甲にかき傷をつくってしまった。爪はもう鈍くなっていたが、女教師が今度は猫のことを考えもしないでその爪をしっかと押しつけたので、引っかいたあとに血がにじんで、みみずばれになった。
「これで、仕事にかかるのよ」と、彼女はいらいらしながらいい、また猫のほうに身体を曲げた。助手たちといっしょに平行棒のうしろでこの様子をながめていたフリーダは、Kの手の血を見て、叫び声をあげた。Kは自分の手を子供たちに見せて、いった。
「ごらん、悪いいたずら猫が私にこんなことをやったんだよ」彼はもちろんこの言葉を子供たちに聞かせるためにいったのではなかった。子供たちの叫び声と笑いとはもうほかのこととはかかわりのないものになってしまっていたので、もうこれ以上のきっかけをつくったり、そそのかしたりする必要はなく、どんな言葉も子供たちの身にしみたり、彼らに影響を与えることはできなかった。女教師もこのKの侮辱《ぶじょく》に対してただちょっと横眼で答えただけで、そのほかは猫にかまいつづけていた。つまり、最初の怒りはKの手に血を流させるという仕置きでおさまったようだ。で、Kはフリーダと助手たちを呼び、仕事が始った。
 Kが汚れ水の入ったバケツをもち去り、きれいな水を運んできて、今度は教室の塵を掃《は》き出し始めたとき、およそ十二歳ばかりの少年が長椅子から立ってやってきて、Kの手にさわって、この大さわぎのなかで何のことやらまったくわからぬことをいうのだった。そのとき、いっさいのさわぎがぴたりとやんだので、Kは振り返った。朝からずっと恐れていたことが起ったのだった。ドアのところに例の教師が立ち、この小柄な男はそれぞれの手で一人ずつの助手の襟首をつかんでいた。彼はおそらく助手たちが薪をもち出しているところをつかまえたのであった。というのは、力強い声で次のように叫び、一語一語に間をおいて区切っていうのだった。
「だれが薪小屋へ入りこもうなどとしたのだ? そいつはどこにいるんだ? ひねりつぶしてやる!」
 そのとき、フリーダは女教師の足もとで懸命に床にぞうきんがけをやっていたが、ふと立ち上がってKのほうを見た。まるでKから力を授けられたというふうであった。そして、次のようにいったが、そういいながらも彼女の以前からの落ちつき払った様子がまなざしと態度とに表われていた。
「わたしがしたんです、先生。ほかにどうしたらよいのか、わからなかったんです。朝早く教室に火を焚くようにということだったので、小屋を開けなければならなかったんです。夜分、鍵をあなたのところからいただいてくることはできなかったし、私の婚約者は紳士荘へいっていて、夜はそこにずっといることになるかもしれなかったのです。で、わたしはひとりでどうするかきめなければなりませんでした。もしまちがったことをやったのなら、わたしが不慣れで未熟なためとお許し下さい。婚約者がわたしのやったことを見たとき、わたしはもうさんざどなりつけられたんです。それどころか、あの人は朝早く火を焚くことをわたしに禁じました。それは、あなたが小屋を閉めておくことで、あなたご自身がやってくるまでは火を焚いてもらいたくないということをお示しになろうとしているのだ、とあの人は思ったからです。そこで、火を焚いてないのはあの人のせいですが、小屋をぶち開けたのはわたしのせいですわ」
「だれがドアをぶち開けたのだ?」と、教師は助手たちにたずねた。助手たちはまだ教師のつかんでいる手を振りほどこうとむだな試みをつづけていた。
「あの人です」と、二人はいって、疑いの余地のないように、Kを指さした。フリーダは笑ったが、この笑いは彼女の言葉よりもいっそう事実を証明しているように見えた。次に彼女は、床をふいていたぞうきんをバケツのなかでしぼり始めた。まるで、この彼女の説明でこの突発事が終わり、助手たちのいうことはあとからつけた冗談ごとにすぎない、とでもいうようであった。仕事をつづける構えになって、ふたたび床に膝をついたときになってやっと、彼女はいった。
「わたしたちの助手は、いい年をしているくせに、まだここの生徒さんたちの長椅子に坐ったらいいような子供なんですのよ。つまり、わたしはきのうの夕方、ひとりでドアを斧で開けたんですの。とても簡単でしたわ。助手なんかそのためにはいらなかったし、手伝わせたって、どうせじゃまになっただけでしょう。それから夜になって婚約者がやってきて、小屋の損害をよく見て、できるなら修理しようとして、出ていきますと、助手たちもいっしょに走っていきました。おそらくここに自分たちだけ残っているのが恐ろしかったんでしょう。そして、わたしの婚約者が破り開けたドアのところで修理の仕事をしているのを見たんですわ。そこであの人たちは今、あんなことをいっているんです。――まあ、子供なんですわ」
 助手たちはフリーダの説明のあいだじゅう、たえず頭を振って否定する様子を見せ、Kを指さしつづけ、無言のまま顔の表情によってフリーダに意見を変えさせようと努めてはいた。ところがそれが自分たちにうまくいかないとわかると、とうとう折れてしまい、フリーダの言葉を命令と受け取って、教師の新しい問いに対してはもう答えなかった。
「そうか」と、教師はいった。「では、君たちは嘘をいったのだね? あるいは少なくとも軽はずみに小使に罪をなすりつけているんだね?」
 二人はまだ黙っていたが、彼らが身体をふるわせ、不安げなまなざしをしていることは、罪の意識を示すもののように見えた。
「それじゃあ、君たちをすぐ鞭でぞんぶんにたたいてやろう」と、教師はいい、一人の子供を別な部屋にやって籐《とう》の棒をもってこさせた。次に彼がその棒を振り上げたとき、フリーダが叫んだ。
「助手たちはほんとうのことをいったんです」そして、絶望してぞうきんをバケツのなかへ投げこんだので、水が高く跳ね返った。彼女は平行棒のうしろへ駆けこむと、そこに身を隠してしまった。
「嘘《うそ》つきの人たちねえ」と、猫の脚の繃帯《ほうたい》をちょうどし終えて、猫を膝の上に抱き上げていた女教師は、いった。彼女の膝には猫はほとんど大きすぎるくらいだった。
「それじゃあ、小使さんはここに残ること」と、教師がいった。そして、助手たちを押しのけると、Kのほうに向きなおった。Kはそのあいだじゅう、箒《ほうき》で身体を支えたまま、彼らの話に耳を傾けていたのだった。「この小使さんは卑怯なため、事実を曲げて他人に自分自身の卑劣行為がなすりつけられるのを、平気でながめているわけだね」
「まあ」と、Kはいったが、フリーダがあいだに入ったことで教師の最初のとめどもない怒りがやわらげられたのを、見て取っていた。「助手たちが少しぐらい鞭で打たれたところで、私には心苦しくなんかなかったことでしょうよ。十回も当然なぐられていい動機を見逃がしてもらったんだから、一回ぐらい正当でない動機でその罪ほろぼしになぐられたっていいんですよ。でも、そうでなくとも、先生、あなたと私とのあいだの直接の衝突が避けられたとすれば、それはおそらくあなたにとっても好ましいことにちがいありませんからね。ところで、フリーダが助手たちを救おうとして私を犠牲にしたんですから――」ここでKはちょっと間をおいた。あたりの静けさのなかに、囲いの毛布のうしろでフリーダがすすり泣く声が聞こえた。「もちろん、今は事に決着をつけなければならないわけです」
「なんていうことを!」と、女教師がいった。
「私も完全にあなたと同じ考えですよ、ギーザ先生」と、教師がいった。「小使さん、あんたはむろんこの恥ずべき職務怠慢のためにこの場ですぐ解雇です。まだこれにつづくべき罰は保留しておきます。だが、今はすぐあなたの品物をみんなもってここから出ていってもらいます。これで私たちはほんとうに気が軽くなるというものですよ。授業もとうとう始められますしね。さあ、急いでくれたまえ!」
「私はここから動きませんよ」と、Kはいった。「あなたは私の上役ではあるけれど、私にこの地位を与えた人じゃありません。この地位を与えてくれたのは村長さんで、ただ彼の解雇通知だけを私は受け入れます。ところで村長さんは、私がここで私の妻や助手たちといっしょに凍えるために、この地位を私に与えたのではなくて、――あなたご自身がいわれたように――私が絶望のあまり考えのないことをしでかすことを防ぐためだったんです。だから、今、突然、私をくびにすれば、村長さんの意図にも反しますよ。これと反対のことを村長さん自身の口から聞かない限りは、あなたのいうことなんか信じません。それに、あなたの軽率な解雇通知に従わなければ、おそらくあなたにとっての大きな利益となることでしょう」
「それじゃあ、いうことをきかないというんですね」と、教師はたずねた。Kは頭を振って、そのとおりだと示した。
「よく考えてみることですね」と、教師はいった。「あなたの決定は、いつも最善のものだとはきまっていません。たとえば、あなたが事情聴取を受けることをことわったきのうの午後のことを考えてみたまえ」
「なぜあなたは、今、そんなことをいうんです?」と、Kはたずねた。
「いいたいからいうんだ」と、教師がいった。「で、私は最後にもう一度いうが、出ていきたまえ!」
 ところが、これも全然効果がなかったので、教師は教壇のほうへ歩みよって、女教師と低い声で話し合っていた。彼女は警察というようなことをいったが、教師はそれをことわった。とうとう意見が一致して、教師は子供たちに、先生の教室へ移りなさい、そこでむこうの子供たちといっしょに授業をするから、と命じた。子供たちはみんなこの変換を悦んで、すぐ笑ったり叫んだりしながら、部屋を空《から》にした。教師と女教師とがしんがりで子供たちのあとを追って出ていった。女教師はクラス名簿と、その上にのせられたまるまると肥った何くわぬような顔をしている猫とを運んでいった。教師は猫をここに残していきたかったが、それについてのほのめかしの言葉を、Kが残忍だから置いていけないといって女教師はきっぱりとこばんだ。そこで、Kはひどく腹を立てながらも、猫を教師に背負わせてやったのだった。これは、教師がドアのところでKに向っていった次のような最後の言葉にも影響したものらしい。
「女の先生は子供たちといっしょにやむなくこの部屋を出ていきましたよ。あなたが強情に私の解雇通知に従わないし、また若いお嬢さんのあの先生に向って、あなたがたの汚らしい世帯のまっただなかで授業をやるように、などとだれだって求めることはできないからです。それじゃあ、あなたがただけがここに残りなさい。まともな見物衆たちの反感にじゃまされずに、好きなだけここにのさばっていることができますよ。しかし、長くはつづきませんよ。それは保証します」
 そういうと、彼はドアをぴしゃりと閉めた。

第十三章

 みんなが立ち去るやいなや、Kは助手たちにいった。
「出ていきたまえ!」
 この思いがけない命令に呆然として、二人はKのいうままになった。だが、Kが彼らの出ていったあとのドアを閉めてしまうと、もどってこようとして、ドアの外で泣きわめき、ドアをたたくのだった。
「君たちはくびだ!」と、Kは叫んだ。「二度と君たちなんか使わないぞ」
 もちろん、二人はそんなことを承知しようとはしなかった。そして、手と足とでドアをどんどん打った。
「あなたのところへもどりたいんです、旦那?」と、彼らは叫んだが、まるでKこそ乾いた土地であり、自分たちは今にも洪水《こうずい》のなかに溺《おぼ》れようとしているとでもいうかのようだった。だが、Kは同情はせず、この我慢できないさわぎで教師がやむなく介入しないではいられなくなるのを、落ちつかぬ気持で待っていた。まもなく、予想したとおりになった。
「いまいましいこの助手たちを入れてやりたまえ!」と、教師が叫んだ。
「この連中はくびにしたんですよ!」と、Kはどなり返した。
 この言葉は欲しなかった副作用をもたらした。つまり、ただ解雇通告を出すだけでなく、それを実行するだけの力をもっているならば、その結果がどうなるか、ということを示したのだ。今度は教師は助手たちをやさしくなだめようとし、ここでおとなしく待っているように、しまいにはKが君たちをまた入れてくれるだろう、というのだった。そして、彼はいってしまった。もしKが助手たちに向って、君たちはこれで最後的にくびにしたのだ、また使うなんていう望みはほんのちょっとでもないぞ、などと叫び始めなければ、きっとそのまま静かになっていたことだったろう。Kの言葉を聞いて、二人はまたさっきのようにさわぎ始めた。また教師がやってきたが、今度はもう助手たちと交渉なんかしないで、おそらくは恐ろしい籐《とう》の棒をふるって、彼らを建物から追い出してしまった。
 まもなく二人は体操場の窓の前に現われ、窓ガラスをたたいて、叫ぶのだった。だが、その言葉はもう聞き取れなかった。けれども、二人もそこに長いあいだはとどまっていなかった。この深い雪のなかでは、彼らの不安な気持が求めるままに跳び廻ることはできなかったのだ。そこで彼らは校庭の格子塀《こうしべい》のところへ急いでいき、そこの石造の土台の上に跳びのった。そこでは、ただ遠くからだけではあるが、部屋のなかを前よりもよくのぞくことができた。二人は格子塀にしっかとつかまりながら、石の土台の上をあちこちとかけ廻り、次にまた立ちどまって、哀願するように両手を合わせてKのほうへのばすのだった。自分たちの努力の無益なことを考えようともせずに、彼らはそんなことを長いあいだやっていた。まるで眼がくらんでしまったようだ。彼らを見ないでもすむようにと思って、Kが窓のカーテンを下ろしたときにも、二人はまだそれをやめなかった。
 今は薄暗くなった部屋のなかで、Kはフリーダを見るため、平行棒のところへいった。Kの視線の下で彼女は立ち上がり、髪を整え、顔をふくと、黙ったままコーヒーをわかし始めた。彼女はいっさいのことを知ってはいたが、Kははっきりと、助手たちを追い出してしまったことを彼女に知らせた。彼女はうなずくだけだった。Kは生徒用の長椅子の一つに腰かけて、彼女のものうげな動作を見守っていた。彼女のつまらぬ肉体を美しくしていたものは、いつでもあの新鮮さときっぱりした態度とであった。ところが今は、この美しさも消えてしまっていた。Kといっしょの生活をしたわずか何日かが、そんなふうな変化を起こすのに十分だったのだ。酒場での仕事はたやすくはなかったが、おそらくそのほうがぴったりしていたのだろう。それとも、クラムと離れたことが、彼女のやつれのほんとうの原因なのだろうか。クラムの近くにいることが彼女をあのようにばかげたほど魅力的にし、この魅力のなかで彼女はKを自分にひきつけたのだが、彼の腕のなかでしおれてしまったのだ。
「フリーダ」と、Kはいった。彼女はすぐコーヒーひきを手放して、Kのいる長椅子のところへやってきた。
「わたしのことを怒っているの?」と、彼女はたずねた。
「いや」と、Kはいった。「君はほかにしようがないのだと思うよ。君は紳士荘で満足して暮らしていた。私は君をあそこにあのままにしておくべきだったのだ」
「ええ」と、フリーダはいって、悲しげにぼんやりと前を見ている。「あなたはあたしをあそこにあのままにしておくべきだったんだわ。わたしには、あなたと暮らす資格はないのよ。わたしから解放されれば、あなたはおそらく望むことをなんでもできるのよ。わたしのことを考えて、あなたはあの横暴な教師に屈伏し、こんなみじめな地位を引き受け、苦労してクラムと一度話をしようと望んでいるんだわ。みんなわたしのためなのに、わたしのほうはそれに何もむくいることができないのよ」
「いや」と、Kはいって、慰めるように片腕を彼女の身体のまわりに廻した。「そんなことはみんなつまらぬことで、私はちっとも悲しんでなんかいないさ。それに、クラムのところへいきたいのは、何も君のためばかりではないんだ。そして、君は私のためになんでもやってくれたね! 君を知る前には、私はこの土地でまったく途方にくれていたんだ。だれも私を迎え入れてはくれないし、私のほうから無理に押しかけていくと、そちらではたちまち私にさよならをいうという始末だった。そして、だれかのところで安息を見出せるとするなら、それは私のほうでまた逃げ出してしまうような人びとだった。たとえばバルナバスの一家の――」
「あなたはあの人たちのところから逃げ出したの? ええ? あなた!」と、フリーダは力をこめてKの言葉を中断するように叫んだが、Kがためらいながら「そうだ」というと、また彼女のものうげな姿勢へと沈んでいった。だが、Kとしてももはや、フリーダとのつながりが彼のために万事を好転させた、ということを説明してやるだけのきっぱりした態度はもち合わせていなかった。彼はゆっくりと腕を彼女から離し、二人はしばらくのあいだ無言のまま坐っていた。やがてフリーダは、Kの腕が彼女に暖かみを与えてくれ、それは今ではもう自分には欠かせぬものであるとでもいうかのように、こういった。
「わたし、ここのこんな生活に我慢できないわ。もしあなたがわたしをつかまえておこうと思うなら、わたしたちはどこかへ移住しなければならないわ、南フランスか、スペインへでも」
「移住はできないよ」と、Kはいった。「私がここにきたのは、ここにとどまるためなんだ。私はここにとどまるよ」そして、矛盾をさらけ出しながら(彼はその矛盾を少しも説明しようとはしなかった)、ひとりごとのようにつけ加えていった。「ここにとどまりたいという要求のほかに、何が私をこのさびしい土地に誘うことができただろう?」つぎにまた、こういった。「でも、君だってここにとどまっていたいんだろうね、ここは君の故郷の土地なんだもの。ただクラムが君にいなくなったものだから、それが君を絶望的な考えに引き入れるんだよ」
「クラムがわたしにいなくなった、ですって?」と、フリーダはいった。「クラムなんかここにはあり余るほどいるのよ。クラムがいすぎるくらいよ。あの人から逃がれるために、わたしはここを去りたいのよ。クラムではなくて、あなたがわたしにとってはいないのよ。あなたのためにわたしはここを去りたいの。ここではみんながわたしを無理に引っ張って、そのためあなたをあきるほど愛することができないからなのよ。わたしが静かにあなたのところで暮らせるように、きれいな仮面がわたしからはぎ取られ、わたしの身体がみじめになればいい、と思うくらいなのよ」
 Kはこの言葉からただ一つのことだけしか聞き取らなかった。
「クラムは今でもまだ君と連絡があるのかい?」と、彼はすぐたずねてみた。「君を呼ぶの?」
「クラムのことは何も知らないわ」と、フリーダはいった。「わたしは今、別な人たちのことをいっているのよ。たとえばあの助手たちよ」
「ああ、あの助手たち!」と、Kは驚いていった。「あいつらが君を追いかけているのかい?」
「いったい、そのことに気づかなかったの?」と、フリーダのほうでたずねた。
「気づかなかった」と、Kはいって、こまかいことをいろいろと思い浮かべようとしたが、だめだった。「たしかに厚かましくて好色なやつらだが、あいつらが君に近づこうなんてしていたとは、気がつかなかったよ」
「ほんと?」と、フリーダはいった。「あの人たちが橋亭のわたしたちの部屋から追い出せなかったこと、わたしたちの関係を嫉妬深く見張っていたこと、一人がゆうべ藁ぶとんの上のわたしの場所に寝たこと、またたった今も、あなたを追い出し、あなたを破滅させ、わたしとだけになろうとして、あなたに不利な発言をしたこと。こんなすべてのことに気づかなかったの?」
 Kは返事をしないで、フリーダを見つめた。助手たちに対するこの告発はたしかに正しくはあったのだが、それらはみな、あの二人のまったく滑稽で、子供じみて、移り気で、自制のきかないたちからいうと、もっとずっと罪がないもののように解釈されるのだった。そして、彼ら二人がどこへでもKといっしょにいこうとして、フリーダのところにとどまろうとはしなかったことが、この告発に対する反証ではなかったろうか? Kはそんなこともいってみた。
「そんなふりをしているのよ」と、フリーダはいう。「それをあなたは見抜かなかったの? それなら、この理由でなかったなら、なぜあなたはあの人たちを追い出してしまったの?」
 そして、彼女は窓のところへいき、カーテンを少しわきにどけて、外をながめ、次にKを自分のところへ呼んだ。まだ助手たちは外の格子塀のところにいて、すでに見る眼にも明らかなほどすっかり疲れていたが、それでもときどき、全力を振りしぼって、両腕を哀願するように学校のほうにさしのばしていた。一人のほうは、いつも塀にしがみついていなくてもいいように、上衣をうしろの格子の棒に突きさしていた。
「かわいそうな人たち! かわいそうな人たち!」と、フリーダがいった。
「なぜ私があいつらを追い払ったって?」と、Kはきいた。「その直接の動機は君だったんだよ」
「わたしですって?」と、フリーダは視線を窓の外から転じないままで、たずねた。
「君の助手に対するあまりになれなれしい扱いかた」とKはいった。「あいつらの不作法を許してやること、あいつらのことを笑うこと、あいつらの髪をなでること、いつでもあいつらに同情すること。『かわいそうな人たち、かわいそうな人たち』って、君はまたいっているね。それに最後はさっきの事件だ。君にとっては、助手たちを鞭でなぐられることから救い出すためには、私なんかどうなったってよかったんだからね」
「それなのよ」と、フリーダはいった。「わたしがさっきからいっていることは。わたしを不幸にし、わたしをあなたから引き離しているのは、それなの。いつも、中断されることなく、終わることもなくあなたのところにいるよりも大きな幸福なんて知らないわ。でもわたしは、この地上にはわたしたちの愛のための落ちついた場所なんかないんだ、村にもほかのどこかにもそんなところはないんだ、って気がするのよ。そのために、私は深く狭い墓のことを想像するの。そこではわたしたちはピンセットで挾まれたようにしっかと抱き合い、わたしはわたしの顔をあなたの身体に埋め、あなたはあなたの顔をわたしの身体に埋めて、だれもわたしたちをもうけっして見ないでしょう。でも、ここでは――助手たちをごらんなさいな! あの人たちが両手を合わせているのは、あなたに向ってではなくて、わたしに向ってなのよ」
「そして、私ではなくて、君があいつらをじっと見ているんだよ」と、Kはいった。
「そうよ、わたしですわ」と、フリーダはほとんど怒ったようにいった。「そのことをさっきからいっているのよ。そうでなければ、助手たちがわたしのあとを追い廻すということがどうして問題なんでしょう。あの人たちがたといクラムから派遣された者たちであってもね――」
「クラムから派遣された者たちね」と、Kはいった。この肩書は彼にはすぐ自然なものに思えたが、それでも驚いてしまった。
「そうよ、クラムから派遣された者たちなのよ」と、フリーダはいう。「あの人たちがそうだとしても、それでもあの人たちは同時に子供じみた若者たちで、あの人たちを教育するためにはやはり鞭がいるのよ。なんていやらしい、きたない若者たちなんでしょう! 大人か、ほとんど大学生かにさえ思えるあの人たちの顔つきと、子供っぽくてばかげたあの人たちのふるまいと、そのあいだのくいちがいはなんていやらしいんでしょう! わたしにそれがわからないとでも、あなたは思っているの? あの人たちのことをわたしは恥かしいと思っているのよ。でも、それはこういうことなんだけれど、あの人たちがわたしに反撥《はんぱつ》を感じさせるのでなくて、わたしがあの人たちを恥かしいと思うんです。いつでもあの人たちのほうを見ないではいられないのよ。人があの人たちに腹を立てるときには、わたしは笑わないでいられないの。人があの人たちをぶとうとするときには、あの人たちの髪をなでてやらないでいられないのよ。そして、夜なかにあなたのそばに寝ていると、眠ることができないの。あなたの身体越しに、一人がしっかと毛布にくるまって眠り、もう一人のほうは開けたストーブの焚《た》き口の前にひざまずいて、火を焚いている、なんていうことを見ないでいられないのよ。わたしは身体を曲げなければならず、ほとんどあなたを起こしてしまうの。それで、ゆうべも猫がわたしを驚かしたのではなくて、――ああ、わたし猫たちのことなんかよく知っているし、酒場での落ちつかない、たえずじゃまされるまどろみのことも知っているわ――猫がわたしを驚かしたんじゃなくて、わたしが自分を驚かしたんです。そして、私がぎくりとするためにはこの猫なんていう怪物は全然必要じゃなくて、どんな小さな物音でもわたしはぎくっとしてしまうの。一つには、あなたが眼をさまして、万事がおしまいになってはいけないと思うんだけれど、次には跳び起きて蝋燭に火をつけ、あなたが早く眼をさまし、わたしを守って下さることができるようにするのよ」
「そんなことは、全然知らなかったよ」と、Kはいった。「ただ、そんなことを予感したものだから、あいつらを追い払ったんだ。でも、今はあいつらはいなくなったから、もうおそらく万事がうまくいったわけだ」
「そうね、とうとうあの人たちいってしまったのね」と、フリーダはいったが、彼女の顔は苦しそうで、ちっともうれしそうでなかった。「ただ、わたしたちはあの二人が何者なのか、知らないわね。クラムの派遣した者、ってわたしが呼んだのは、ただ頭のなかで、冗談にそう呼んだんだけれど、でもおそらくあの二人はほんとうにそうなのね。あの二人の眼、あの単純そうだけれど光っている眼は、わたしになぜかクラムの眼を思い出させるの。そうよ、ほんとうにそうなの。あの人たちの眼からときどきわたしの身体のなかをさっと貫いていくのは、クラムの視線なの。ですから、わたしがあの人たちのことを恥かしく思っているなんていうなら、それは正しくはないんだわ。そんなふうであることを、ほんとは願っているの。ほかのところでほかの人たちの場合なら、同じふるまいが愚かしくて不快だろう、ということはわたしも知ってはいるんだけれど、あの人たちの場合にはそうでないの。尊敬と感嘆との気持でわたしはあの人たちの愚かしいふるまいを見ているんです。でも、あの二人がクラムの派遣した者なら、だれがわたしたちをあの二人から解放してくれるでしょう? そして、もしそうなら、あの人たちから解放されるっていうことは、そもそもいいことなんでしょうか。それならむしろ、早くあの人たちを呼び入れて、あの人たちがきたら幸福だと思わなければならないんじゃないの?」
「君は私があの二人をまたここに入れてやることを望んでいるんだね?」と、Kはたずねた。
「いいえ、そうじゃないの」と、フリーダはいった。「そんなことはちっとも望んでいないわ。あの人たちが今どやどや入ってくる有様、わたしとまた会うあの人たちの悦び、子供たちのように跳んだりはねたりする有様、男の人たちのやる腕をさし出す動作、そんなことはすべて、おそらくわたしには全然我慢ができないでしょう。でも次に、あなたがあの人たちに対してきびしい態度をつづけ、そのために、おそらくクラム自身があなたへ歩みよってくることをあなたがこばんでしまうことを考えると、わたしはあらゆる手段であなたをそんなことの結果から守ってあげようと思うの。そこでわたしは、あなたがあの人たちを入れてあげることを望むのよ。だから、K、早くあの人たちを入れておあげなさいな! わたしのことなんか考えないで! わたしなんかどうだというの! わたし、できるだけ、自分の身を守るわ。でも、身の破滅を招かなければならないときは、わたしはそれを招くことでしょう。でも、そうなるときは、これもまたあなたのためになったことだ、とはっきり意識してやることなのよ」
「君はただ助手たちについての私の判断の点で、私の確信を強めているだけなんだ」と、Kはいった。「けっしてあいつらは私の意志でここへ入ってはこないよ。私がやつらを追い出したということは、事情によってはあいつらを牛耳ることができるということを証明するものだし、さらにまた、やつらが何一つ本質的なことでクラムとは関係がないということを証明しているものだ。ゆうべになってやっと、クラムから一通の手紙をもらったが、その手紙からわかるのは、クラムが助手たちについてまったくまちがった情報を受けているということだ。そのことからもまた、やつらがクラムにとって完全にどうでもいい存在だということが結論されなければならないのだよ。というのは、もしそうでなければ、クラムはきっとあいつらについての正確な報告を手に入れることができたはずだ。ところで、君がやつらのうちにクラムを見るというのは、なんの証明にもならないさ。というのは、残念ながら君はまだおかみの影響を受けていて、どこにでもクラムを見るんだ。まだ君はクラムの恋人で、まだまだ私の妻になっていないんだよ。ときどき、そうしたすべてが私の心を暗くする。そんなとき、まるですべてを失ったように思えるんだ。そんなときには、やっと今、村へやってきたような感じがするんだ。でも、私がやってきたときほんとうにそうであったように希望にあふれながらでなく、私を待ち受けているのはただ失望だけであり、それをつぎつぎに最後の垢《あか》まで味わいつくさねばならないのだ、という意識をもってなのだよ。でも、それもときどきのことだよ」と、フリーダが彼の言葉を聞いてくずおれてしまったのを見たとき、Kは微笑しながらつけ加えていった。「でも君は根本においていいことを証明してくれているんだ。つまり、君が私にとってなんであるか、ということを証明してくれているんだ。もし君が今、君と助手たちとのどちらかを選べ、と私に要求するなら、それでもう助手たちの負けだよ。君と助手たちとのどちらかを選ぶなんて、なんていう考えだ! もう私はあの連中とは決定的に縁を切ろう、言葉においても頭のなかにおいてもね。それはそうとして、私たち二人を襲った弱気は、私たちがまだ朝飯を食べていないところからきているんじゃないかね?」
「そうかもしれないわ」と、フリーダは疲れたように微笑しながらいって、仕事に取りかかった。Kもまた箒をつかんだ。
 しばらくして低くノックする音が聞こえた。
「バルナバスだ!」と、Kは叫んで、箒を投げ出し、二跳びか三跳びでドアのところへいった。ほかのことよりもその名前にびっくりして、フリーダはKをじっと見つめた。手が不確かで、Kは古いドア鍵をすぐには開けられなかった。「すぐ開けるよ」と、彼はたえずくり返したが、ほんとうはだれがノックしているのか、たずねなかった。そして次に、広く開かれたドアから入ってきたのは、バルナバスではなくて、さっきから一度Kに話しかけようとした小さな男の子だ、ということを見なければならなかった。しかし、Kはその子のことを思い出してみようという気はなかった。
「いったいここになんの用があるのかい?」と、Kはいった。「授業は隣りの部屋だよ」
「ぼく、そこからきたんです」と、少年はいって、その大きな青い眼で静かにKを見上げ、身体をまっすぐにし、両腕をぴったり身体につけたまま、いった。
「で、なんの用だい? 早くいいなさい!」と、Kはいって、少し身体を曲げた。というのは、その少年は低い声でものをいうのだ。
「お手伝いすることがありませんか」と、少年がたずねる。
「この子は私たちの手伝いをしたいんだってさ」と、Kはフリーダに向っていい、次に少年にこういった。「いったいなんていう名前だい?」
「ハンス・ブルンスウィックです」と、少年がいう。「第四学年の生徒で、マドレーヌ街の靴屋オットー・ブルンスウィックの子供です」
「そうか、ブルンスウィックっていうんだね」と、Kはいって、今度はその子に対して前より親しげな態度になった。ハンスは、女教師がKの手にひっかいてつけた血のにじむみみずばれを見て、ひどく心を動かされたので、そのときKの味方になろうと決心したのだ、ということがわかった。少年は今やみずから進んで、大きな罰を受ける危険を冒しながら、脱走兵のように隣りの教室から抜け出してきたのだった。彼の頭を支配しているのは、何よりもこうした少年らしい想像であるらしかった。彼がやるすべてのことが物語っている真剣さも、そうした想像に相応していた。はじめのうちは、はにかみに妨げられていたが、まもなくKとフリーダとに慣れ、次に熱いよいコーヒーを飲むようにと出されたときには、活溌でうちとけたふうになって、いろいろな質問をするのだが、それが熱心でしつっこく、できるだけ早くいちばん重要なことを聞いて、Kとフリーダとのために自分で決心をできるようにしたい、と思っているようだった。この子の態度のうちには何か命令的なものもあった。だが、それは子供らしい無邪気さとすっかりまじっているので、二人は半ばまじめに、半ばふざけながら、この子のいうことに服した。ともかく少年はあらゆる注意を自分に向けるように要求するので、すべての仕事が中断されてしまい、朝食はひどくのびのびになってしまった。この子は生徒用の長椅子に、Kは上の教壇に、フリーダはその隣りの肘掛椅子に坐っていたのだが、このハンスが教師であり、試験をして、返答に判定を下しているように見えた。少年の柔かな口もとに浮かぶわずかな微笑は、今問題になっているのは遊びにすぎないのだとよく知っていることをほのめかすようであり、それだけに少年はいっそうまじめにこの問題に没頭していた。唇のあたりに漂うものは、おそらく全然微笑などというものではなくて、少年時代の幸福だった。彼は目立って時間がたってからやっと、自分がラーゼマンのところへ立ちよって以来、Kのことを知っていたのだ、と告げた。Kはそれを大いによろこんだ。
「君はあのとき、おかみさんの足もとで遊んでいたのだったね」と、Kはたずねた。
「ええ」と、ハンスはいった。「あれは、ぼくのお母さんなんです」
 そこで少年は母のことを語らねばならなかったが、ためらいながら、何度もうながされて、やっと語るのだった。だが今は、この子がまだほんの子供なのだということがわかった。だが、ときどき、とくに彼の質問においては、おそらく未来の予感だろうが、あるいはただ不安げに緊張している聞き手二人の錯覚のためだろうが、ほとんど一人前の精力的で、賢明で、見通しがきく男が話しているように思われるのだった。ところが、すぐそのあとでは、一足跳びにただの小学校生徒になってしまって、いろいろな質問が全然わからず、そのほかの質問も誤解してしまって、しばしば注意されるにもかかわらず、子供らしくおかまいなしに低い声で話したり、ついにはいろいろしつっこくたずねられることに対して、まるで反抗しているようにまったく黙りこくってしまうのだ。しかも、大人にはけっしてできないだろうと思われるように、少しも困ってはいないのだった。およそ、彼の考えによれば自分だけに質問が許されているのであり、他人が自分にたずねることはなんらかの規則を破るに等しいことであり、時間の浪費だ、といわんばかりだ。人が質問するときには、身体をまっすぐに起こし、頭を垂れ、下唇をそらして、長いあいだじっと坐っていた。これがとてもフリーダの気に入ったので、彼女は少年にしばしば問いかけ、こうやって少年を黙らせようと望んでいるのだった。それがまたときどきうまくいくのだが、Kはそれに腹を立てた。全体として少年から聞けることはほとんどなかった。母は少し病身であるが、どんな病気なのかはあいまいなままで、ブルンスウィックの細君が膝の上に抱いていた子供は、このハンスの妹で、フリーダという名前だ。(自分にうるさく問いかける婦人と妹が同じ名前であることを、少年は不快そうにみとめた。)この一家はみんな村に住んでいるのだが、ラーゼマンのところにではなく、彼らがラーゼマンのところへいっていたのは水浴するためだった。ラーゼマンのところには大きなたらいがあって、そのなかで水を浴びたり、追いかけっこをすることは、子供たちにとって大きな楽しみなのだ。もっともハンスは子供なんかの仲間に入らない。ハンスは父親については畏敬《いけい》の念をこめて、あるいは不安の気持を見せながら話すのだが、それもただ母親のことが同時に話に出ないときのことであって、母親に比べると父親の価値は小さいらしく、さらに家庭生活についてのすべての質問には、いくら話をそっちへもっていこうとしても、全然答えなかった。父親の職業については、この土地のいちばん大きな靴屋で、だれも彼にはかなわない、ということで、ほかにどんな質問がされても、このことだけをしょっちゅうくり返すのだった。父はほかの靴屋たち、たとえばバルナバスのおやじにも仕事をやるのだ。だがバルナバスのおやじに仕事をやることはただ特別の好意からで、少なくともハンスが誇らしげに頭を廻している恰好はこのことを暗示していた。ハンスが頭をそんなふうに廻すのを見て、フリーダは教壇から跳び下り、この少年に接吻しないでいられなくなった。君はこれまでに城へいったことがあるかいという問いに対しては、何度も質問をくり返されてやっと答えたが、しかもその返事は「いいえ」というだけだった。お母さんはどうか、という問いに対しては、全然答えない。とうとうKはあきてきた。彼自身にもこんな質問は無用に思えたし、その点で少年の態度ももっともだと思った。無邪気な子供にしゃべらせるという廻り道によって家庭の秘密を聞き出そうとするのは恥かしいことであったし、その上、何も聞き出せないということはたしかに二重に恥かしいことであった。そして、最後にけりをつけようとして、君はどんなことで手伝いしてくれようというのか、とKがたずねたとき、自分がここで仕事を手伝おうと思うのは、ただ先生と女の先生とがこれ以上Kのことをがみがみいわないためになのだ、とハンスは答えた。その答えを聞いてもKは別に驚きもしなかった。Kはハンスにこう説明した。そんな手伝いは必要ではない。がみがみいうのは教師の本性であって、いくら正確に仕事をしてもがみがみいわれないようにすることはほとんどできないものだ。仕事そのものはむずかしくはないのだが、ただ偶然起った事情によって自分は仕事をとどこおらせている。それにこんながみがみいわれることも、自分には生徒にほどはひびかない。自分はそんなものを払い落してしまう。そんなものは自分にはほとんどどうでもいいことだ。またもうすぐあんな教師の手から完全にのがれることのできる見込みがある。そこで問題は教師に対抗することを助けてくれるということにあるのだから、自分はそれに何よりも感謝するが、君はまた教室に帰ってよいのだ。おそらく今のうちならまだ罰せられることもあるまい。自分は教師に対抗するための助力だけは少しも必要でないのだ、ということをKは全然強調したのではなく、ただ思わず知らずにほのめかしただけであり、他方、ほかの助力についての問題にはふれないでいたが、ハンスはそれをはっきりと聞き取って、Kはおそらくほかの助力を必要とするのではないか、とたずねた。ぼくはよろこんでお手伝いをします。もしぼくにできないときには、母にそのことを頼んでみるし、そうすればきっとうまくいくでしょう。父に心配ごとがあるときも、母に頼むんです。母もまたいつだったかKさんのことをたずねました。母自身はほとんど家から出ないのですが、あのときはただ例外的にラーゼマンのところへいったのです。でもぼくはしょっちゅうあの家へいって、ラーゼマンの子供たちと遊ぶので、そこで母は一度、もしやまた測量技師さんがラーゼマンのところへこなかったか、ときいたんです。母はとても身体が弱く、疲れているので、無用に興奮させてはいけないのです。それでぼくはただ、測量技師さんにあの家で会わなかった、とだけいっておきましたし、ぼくと母とはそのことについてそれ以上話しませんでした。でも、今度この学校で測量技師さんに会ったので、母に報告することができるように、測量技師さんに話しかけないではいられなかったんです。というのは、はっきり母から命令されていないのに母の望みをかなえてやると、母はいちばん悦ぶからです。それを聞いて、Kは少し考えてから次のようにいった。――自分は助力を必要としない。必要なものはなんでももっている。だが、君が助けようといってくれることはとても親切なことで、その親切な志には感謝する。ところで、いつか何かを必要とするということはありそうなことであり、そのときには君にお願いすることになるだろう。君の住所はわかっている。そのかわり、おそらく自分のほうも今度は少しお手伝いできるだろう。君のお母さんが病弱で、しかもこの土地でその病気についてよくわかる者がいないらしいのは、残念なことだ。こんなふうに病気をほっておくと、しばしば本来は軽い病気が悪化して重い病気となることがある。ところで自分はいくらか医学の知識があるし、もっと貴重なことは、病人を扱う経験をもっていることだ。医者たちにうまくいかないいろいろなことが、自分にはこれまでうまく成功した。故郷では自分が病気を癒す力をもっているので、「にがい薬草」と呼ばれていた。ともかく君のお母さんと会って、お話ししたいと思う。おそらくいい忠告をしてあげることができるだろう。君のためにもよろこんでそうしたい。この申し出を聞いて、ハンスの眼は輝いた。そこでKは、勢いにのっていっそう熱心になったが、その結果は満足のいくものでなかった。というのは、ハンスはさまざまな質問に対して、けっしてそれほど悲しそうな様子も見せずに、母はひどくいたわってやる必要があるのだから、母のところへ見知らぬ者が訪ねてはいけないのだ、といった。あなたはあのときほとんど母と話をしなかったけれども、母はそのあと二、三日ベッドに寝ついていた。むろんこれはしばしばあることだ。父はあのときあなたのことにひどく腹を立てました。そこできっと、あなたが母のところへくることをけっして許さないでしょう。それどころか、父はあのときあなたを探し出し、あなたのふるまいについてあなたをとがめようとしたのですが、母がやっとそれをとめたのです。何よりもまず母自身が一般にだれとも話したがりません。母があなたのことをたずねたのは、けっしてそういうしきたりの例外ではないのです。それどころか反対に、あなたのことを口にしたおりに、あなたに会いたいという希望をはっきりいい出せたはずです。ところが母はそうはしませんでした。黙っていることではっきり自分の意志を示したわけです。母はただあなたのことを聞きたがっただけで、あなたと話すことを望んでいるのではありません。それに、母が苦しんでいるのはけっしてほんとうの病気ではないのです。母もとてもよく自分の身体の調子が悪いことの原因を知っていて、ときどきそれをほのめかします。母がたえられないのは、おそらくこの土地の空気なのでしょう。でも、母は父とぼくたち子供のために、この土地を離れようとはしません。それにもう、以前よりは身体の工合もよいのです。Kが聞いたのは、およそ以上のようなことだった。ハンスのものを考える力は、母をKから守らなければならないときに、目立って大きくなるのだった。Kのために彼は手伝いをしたいといっておきながら、そうなのだ。Kを母に会わせまいとするよい目的のために、彼は多くの点で自分自身のさきほどの発言とも矛盾するようなことさえもいうのだった。たとえば病気についてもそうだ。それにもかかわらず、Kは今になってもやはり、ハンスがまだ自分に対して好意を抱いていることをみとめた。ただ彼は母のことにかまけて、すべてを忘れてしまうのだ。だれがハンスの母の敵役《かたきやく》に置かれようと、その人間はすぐに悪者にされてしまう。今はそれがKだった。だが、たとえば父親もそうなっていいのだ。Kはこの父親の場合をためしてみようとして、こういってみた。お父さんがお母さんをどんなことにもじゃまされないように守っているのは、たしかにとても賢明なことだね。自分もあのときそういうことに気づきさえしたら、きっとお母さんに話しかけようなどとはしなかっただろう。今、遅ればせながら家へ帰ったらどうかお許しを願うようにいってもらいたい。それに対して、自分にどうもわからないのは、病気の原因がそんなにはっきりしているのなら、お父さんはなぜお母さんが転地保養をすることをとめるのだろうか、ということだ。お父さんがお母さんをとめているとしかいいようがない。というのは、お母さんはただ子供たちとお父さんとのためにこの土地を離れないんだからね。けれども、子供たちはいっしょにつれていけるんだし、お母さんだって長いあいだよそへいく必要はないのだ。またそんなに遠くまで出かける必要もない。城の山でだって空気はまったくちがうのだ。こうした転地の費用のことはお父さんは全然心配する必要はないはずだね。なにせお父さんはこの土地でいちばん大きい靴屋だし、きっと城にはお母さんをよろこんで迎えてくれるお父さんかお母さんの親戚や知人がいるだろう。どうしてお父さんはお母さんを手放さないのだろう? お父さんがこんな病気を軽く見ているはずはなかろう。自分はお母さんをほんのちょっと見ただけだが、お母さんの目立った顔色の悪さと衰弱とが気にかかって、お母さんと話す気になったのだ。あのときすでに自分は、お父さんがあの共同の風呂場兼洗濯場の悪い空気のなかに病気のお母さんを放っておき、声高《こわだか》にしゃべりながら少しも遠慮しようとしないのに驚いたのだった。お父さんは、病気がどんな工合なのか、きっと知らないのだ。病気は最近ではおそらくよくなったかもしれないが、こうした病気は気まぐれなもので、もしそれと闘って征服してしまわないと、ついには勢いが強くなってしまって、そうなるともうどんなことも役には立たなくなるよ。自分はお母さんとはお話しできないにしても、お父さんとお話しして、こういうことすべてを注意してあげたら、おそらくよいと思うよ。
 ハンスは緊張して耳を傾け、大体のところを理解したが、残りの理解できないことはおどかしとして強く感じ取ったのだった。それにもかかわらず、ハンスはいった。あなたは父とも話せません。父はあなたを嫌っています。で、父はおそらくあの学校の先生のようにあなたを扱うことでしょう。ハンスはKのことを語るときには、微笑しながらおどおどしていい、父のことをいうときには、不機嫌そうに悲しげにいうのだった。けれども彼はつけ加えて、Kはおそらく母と話すことができるだろうが、ただ父にないしょでだ、といった。それからハンスは、何か禁じられていることをやろうとし、罰せられないでそれを実行できる可能性を探している女のように、じっと動かぬまなざしでしばらくのあいだ考えにふけっていたが、やがていった。おそらくあさってならできるでしょう。父は晩に紳士荘へいきます。そこで人と話合いがあるのです。そこで、ぼくは晩にやってきて、あなたを母のところへつれていきましょう。とはいっても、母がそれに同意するとしてのことですよ。でも、これはとてもありそうには思えないけれど。何よりもまず、母はなんでも父の意に反してはやらないで、どんなことにでも父の意に従うのです。ぼくにでも理に合わないとはっきりわかることにおいてもそうなんです。ほんとうのところは、今やハンスは、父親に対抗するための自分の助力をKに求めているのだ。まるでハンスは自分をあざむいているようなものだった。なぜならば、彼はKを助けようとしているのだ、と思っていたのに、ほんとうは、古くから身のまわりにいるだれも自分を助けてくれることができないので、この突然現われた、今では母も話題に出してさえいるこのKという見知らぬ男が自分を助けることができるのではないか、と探り出そうとしたからだ。この少年は、無意識のうちにまるで本音を隠していて、ほとんど陰険といえるほどではないか。そのことは、これまで少年の姿恰好やその言葉からはほとんど推察することができなかった。今になってやっと、偶然この子がしゃべってしまった告白とか、Kがしゃべらせようとして引き出した告白とかによって、それがわかったのだ。ところで、少年はKと長い対話を交わしているうちに、どんな困難を克服しなければならないのか、ということに思いついたのだった。ハンスがいくら考えてみても、ほとんど克服しがたい困難がいろいろあった。すっかりもの思いにふけりながら、しかし助けを求めるように、彼は不安げなまたたく眼でKをたえず見つめていた。父が家を出る前には、母に何もいうわけにいかない。そうでないと、父がそれを聞き知って、万事が不可能になってしまう。だが、父が家を出てからも、母のことを考えると、突然、急いで話すのでなく、ゆっくりと、しかも適当なチャンスを見つけて話さなければならない。そうしてはじめて母から同意が得られるのであり、そうしてやっとKをつれてくることができるのだ。だが、それではもう遅すぎるのではなかろうか。もう父の帰宅が迫っているのではなかろうか? いや、これは不可能だ。Kはそれに対して、それは不可能でないということを証明した。時間が十分にないということは、恐れる必要はないよ。ちょっと話し、ちょっと会えば十分だし、君は自分を迎えにくる必要はない。自分は君の家の近くのどこかに隠れて待ち、ハンスの合図があったらすぐいこう。それはだめです、とハンスがいう。あなたは家のそばで待ってはいけません。――またもや、彼の頭をいっぱいにしているのは、母を気づかう敏感さであった――母が知らないのにあなたが出かけてはいけません。こんな母にないしょの取りきめをぼくはあなたと結ぶわけにいきません。ぼくはあなたを学校からつれていかなければならないのです。しかも、母がそれを知って、許すまではいけません。いいよ、とKはいった。そうなるとほんとうに危険で、お父さんに家でつかまってしまうこともあるかもしれない。そんなことにはならなくとも、お母さんがそのことを恐れて、およそ自分をよせつけないだろうし、そうすれば万事はお父さんのために挫折してしまうだろう。それに対してまたハンスが反対し、その議論があれこれと進められていった。
 ずっと前からKはハンスを生徒用の長椅子から教壇へ呼び、膝のあいだに引きよせて、ときどきなだめながらなでてやっていた。こうして二人が近づいたことは、ハンスがときどき反対したにもかかわらず、ある一致を見出すことに役立った。ついに次のように意見がまとまった。ハンスがまず母親にほんとうのことをすっかり話す。けれども、母親の同意を得ることをやさしくするために、Kがブルンスウィック自身とも話したいと思っている、といってもそれは母親のためでなく、K自身の用事のためだ、とつけ加えることにする。この申し合せはまた正しくもあった。話をしているうちにKは思いついたのだった。ブルンスウィックはふだんは危険で悪い人間であるかもしれないが、もうほんとうは自分の敵ではありえない。少なくとも村長が語ったところによれば、ブルンスウィックはたとい政治的な理由からにもせよ、測量技師を招くことを要求した人びとの指導者であった。だから自分が村へやってきたことは、ブルンスウィックにとって歓迎すべきことにちがいないのだ。とすると、どうも最初の日の怒ったような挨拶のしかたと、ハンスがいっているような嫌悪はほとんど理解しがたいものではあった。だが、おそらくブルンスウィックが気を悪くしたのは、自分がまず彼に助けを求めていかなかったからなのだ。おそらくそのほかの誤解もあるのかもしれない。だが、そんな誤解も一こと二こと話せば解くことができるはずだ。ところで、もしこういうことであったのなら、自分はブルンスウィックによって、ほんとうに教師に対して、そればかりでなく村長に対しても、いいうしろだてを手に入れることになるのだ。役所のあらゆるまやかし――いったい、まやかし以外のなんだろう――、つまり、村長と教師とが自分を城の役所にいかせないようにし、無理に小使の職につけてしまったまやかしが、暴露されるはずだ。もし自分をめぐって改めてブルンスウィックと村長とのあいだに争いが起こることになれば、ブルンスウィックは自分を彼の味方にするにちがいない。そうすれば、自分はブルンスウィックの家の客になるだろう。ブルンスウィックがもっているさまざまな権力手段は、村長に対抗して、自分のために使われることになるだろう。それによって自分がどういうことになるかはわかったものではないが、ともかくしょっちゅう細君の近くにいることになるだろう。――こんなふうに彼はいろいろと夢想をもてあそび、また夢想のほうも彼をもてあそぶのだった。一方、ハンスはただ母のことだけを考えて、Kが黙っているのを心配そうにながめていた。まるでむずかしい病気の治療方法を見つけ出そうと考えにふけっている医者に対しているようなものだった。土地測量技師の地位についてブルンスウィックと話し合いたいというKの提案にハンスは同意したが、そうはいってもその理由はただ、それによって自分の母親を父親に対して守ってやれるし、その上それは、おそらくは起こるまいと期待されるまさかの場合のことだからだった。少年はなお、Kが夜遅く訪問したことを父親にどう説明するのか、とたずねたが、我慢のならない小使の地位と教師による侮辱的な取扱いとが突然の絶望のなかで自分にいっさいの顧慮を忘れさせたのだ、ということにするというKの説明に、少し顔を曇らせはしたが、満足した。
 今やこうして、いっさいのことが気のつく限りあらかじめ考えられ、成功の望みが少なくとももう全然ないわけでないということになったとき、ハンスはあれこれ考えめぐらすという重荷から解放されて、前よりも朗らかになり、はじめはKと、次にフリーダとも、しばらくのあいだ子供らしくしゃべっていた。フリーダは長いあいだ別なもの思いにふけっているようにそこに坐っていたが、やがてようやくまたこの対話に加わり始めた。ことに、あなたはなんになりたいの、とハンスにたずねた。少年はたいして考えもしないで、Kのような人になりたい、と答えた。次にその理由をたずねられると、彼はむろん答えることができなかった。小使のようなものになりたいのか、という問いに対しては、はっきりとそうではないといった。さらにいろいろたずねていってはじめて、どういう廻り道をたどってこの少年がそんな望みをもつことになったか、ということがわかった。現在のKの状態はけっしてうらやむにたるものではなくて、悲しい、軽蔑すべきものだ、ということはハンスもよく見ていて、それを知るためには何もほかの人びとを観察する必要はなかった。ハンス自身、Kが母親に会ったり、母親に話したりすることをどうか避けたい、と思っているのだ。それにもかかわらず、ハンスはKのところへやってきて、彼に助力を頼み、Kがそれに同意してくれたとき、うれしく思った。ほかの人びとにおいてだってKと似たところが見られるように思ったのだが、何よりもまず母親自身がKのことを口にしたのだ。こんな矛盾から、ハンスの心のなかには次のような信念が生まれたのだった。つまり、なるほど今はKはまだ身分が低くひどい状態にあるが、ほとんど想像もつかないような遠い未来のことではあるとしても、ゆくゆくはほかのすべての人をしのぐようになるだろう、というのである。そして、まさにこのまったくばかげたような遠い未来のことと、その未来に通じるはずの誇らしい発展とが、ハンスの心をそそったのだった。この未来の値打のために彼は現在のみすぼらしいKさえも買おうと思ったのだ。この願いのとくに子供らしくてしかも大人っぽい点は、ハンスはKをまるで年下の者のように見おろし、この年下の者の未来が小さな子供である自分の未来よりもはるかに先があるように思っている、というところにあった。そして、フリーダの質問につぎつぎに答えることをしいられながらこうしたことを語るハンスの調子には、ほとんど打ち沈んだようなまじめさがこもっていた。Kが次のようにいったとき、やっとまたハンスは朗らかさを取りもどした。君がなぜ私のことをうらやむのか、知っているよ。ふしのついた私の美しいステッキのためだ。(そのステッキは机の上にのっており、ハンスは話をしながらぼんやりとそれをいじっていた。)ところで、こんなステッキなんか、自分はつくりかたを知っている。もしわれわれの計画がうまくいったら、君のためにもっと美しいのをつくってあげよう。今はもう、ハンスがほんとうにただステッキのことだけしか考えていたのではないかどうか、あまりはっきりしなくなっていた。それほど少年はKの約束をよろこび、うれしそうに「さよなら」をいったが、Kの手を固くにぎって、「では、あさってね」と、いうのだった。
 ハンスが出ていったのは、まさに潮時《しおどき》だった。というのは、すぐそのあとで教師がドアをさっと開け、Kとフリーダとが落ちつきはらって机のそばに坐っているのを見ると、叫んだ。
「おじゃまで失礼! だが、いつになったらこの部屋が片づくことになるのか、いってくれたまえ! われわれはむこうの部屋でぎっしりつめられて坐っているし、授業もろくにできないんだ。ところが君たちときたら、この大きな体操場で、のうのうと手足をのばしている始末だ。そして、この上もっと場所を取ろうとして、助手たちまで追い出してしまったんだ! だが、今は少なくとも立ち上がって、動いてくれたまえ!」そして、Kだけに向っていった。「君は今すぐ私のために橋亭から中食をもってきてくれたまえ!」
 こんな言葉はみなひどく怒って叫ばれたのだったが、言葉は比較的おだやかで、それ自体ぞんざいなはずの「君」という言葉さえ、そうだった。Kはすぐいうことをきくつもりだったが、ただ教師の本音を探り出そうとして、いった。
「でも、私は解雇通告を受けているんですが」
「解雇通告を受けていようと、受けていまいと、中食をもってきてくれたまえ」と、教師はいう。
「解雇通告を受けているのか、受けていないのか、私が知りたいのはまさにその点なんですがね」と、Kはいった。
「何をぐちゃぐちゃいっているんだ?」と、教師がいった。「君は解雇通告を受け取らなかったじゃないか」
「あの通告を無効にするためには、それだけの理由で十分なのですか?」と、Kはたずねた。
「私には十分じゃないね」と、教師はいった。「私のほうは十分でないのだと思ってもらっていいが、村長には十分だそうだ。どうもわからない話だが。だが、急いでいってくれたまえ。そうでなければ、ほんとうにここから飛び出してくれたまえ」
 Kは満足だった。それでは教師はあのあいだに村長と話したわけだ。あるいは、おそらくまったく話したわけではなく、ただ村長のいいそうな意見を解釈してみただけでそれがこちらの都合がいいようになっているのだ。そこで、Kはすぐ中食を取りに急いでいこうとしたが、まだ動き出したばかりのところを、教師が呼びもどした。教師は、この特別な命令を下すことによってKのサービス精神をためし、今後の目安としようとしたのであれ、それともまた新しく命令したい気になって、Kを急いでいかせながら、次に自分の命令でまるでボーイのように急いでもどってこさせることを楽しんでいたのであれ、いずれにせよKを呼びもどしたのだった。Kのほうは、あまりいうなりになっていると教師の奴隷か身がわりの犠牲者かになるだろう、ということを知ってはいたが、今はある限度までは教師の気まぐれを我慢強く受け入れるつもりだった。というのは、これまでにわかったように、教師は正式に彼をくびにすることはできないが、彼の地位を耐えがたいまで苦しいものにすることはきっとできるのだ。ところで、この地位こそ、今ではKにとっては以前よりももっと大切なものだった。ハンスとの対話は、根拠のない、ありそうもないものだとしても、もはや忘れることのできない新しい希望をKに抱かせた。この希望はほとんどバルナバスさえも忘れさせてしまった。Kはこの希望を追いかけ、ほかにどうすることもできないとすれば、全力をそれに集中し、そのほかのことには、食事のことも住居のことも村役場のことも、そればかりでなくフリーダのことも全然気にかけぬようにしなければならなかった。そして、根本においては問題はただフリーダのことだけだった。というのは、ほかのすべてはただフリーダと関係があるときにだけ気にかかるのだった。それゆえ、フリーダにいくらか安定を与える今の地位を彼は保つように努めなければならなかった。そこでこの目的のためには、ほかの場合ならば思いきって我慢したかもしれない以上に教師のことを我慢しているのだが、それを後悔などしてはならなかった。こうしたすべてはそれほど苦痛ではなかった。こうしたことは一連のたえず起こる小さな生活の苦しみの一つであって、Kが求めているものに比べれば、なんでもなかった。そして、彼がこの土地へやってきたのは、体面を保った平和な生活を送るためではなかったはずだ。
 そこで彼は、命令を受けてすぐ宿屋まで一走りしようとしたように、今度はちがった命令を受けてもすぐ、まず教室を片づけ、女教師がいっしょに移ってこられるようにするつもりだった。ところが、きわめて早く取り片づけをしなければならなかった。というのは、そのあとでKはやっぱり中食を取ってこなければならない。教師はすでにひどく腹をすかし、喉《のど》がかわいていたのだ。Kは、万事お望みどおりにする、とうけ合った。ちょっとのあいだ教師は、Kが急いで立ち働き、寝床を片づけ、体操用具をもとの場所に押しもどし、すばやく床を掃くのをながめていた。一方、フリーダは教壇をぞうきんがけしたり、こすったりしていた。その熱心さは教師を満足させているようだった。教師はさらに、焚く薪の山をドアの前に準備するようにと注意し、――Kを小屋にはもういかせたくなかったのだ――次にまもなくまたやってきて仕事ぶりを見るからとおどかすと、子供たちのほうへもどっていった。
 しばらく無言のまま仕事をしていたが、やがてフリーダが、なぜあなたは今度は教師のいうことをそんなに従順にきくのか、とたずねた。これはたしかに同情のこもった、心づかいにあふれた質問であったが、フリーダが本来の約束どおり彼を教師の命令と乱暴なふるまいとから守ることにほとんど成功しなかったということを考えていたKは、ただ簡単に、自分はいったん小使となった以上、その任務を果たさなければならないのだ、といった。それからふたたび無言の状態がつづいたが、ついにKは――今の対話で、フリーダが長いあいだ心配そうなもの思いにふけっていたようだったこと、ことに自分がハンスと話しているあいだじゅうほとんどそんなふうであったことを思い出したのだった――薪を運びながら、彼女にはっきりとそのことをたずねてみた。彼女は彼のほうにゆっくりと眼を上げながら、それはこれといってはっきりしたわけがあるのではない、と答えた。自分はただおかみのこととおかみの言葉の多くが真実だったこととを考えているだけだ、というのだ。Kがうながすと、やっと、何度か拒んだあとで彼女はもっとくわしい返事をしたが、そのときも仕事の手を休めなかった。その仕事もけっして熱心にやっているわけではないのだ。というのは、そのあいだに仕事がはかどっているのではなく、ただKの顔を見なければならないように追いこまれないためなのだ。で、今度は彼女はこんなことを語るのだった。自分はKとハンスとの対話をはじめは平静な気持で聞いていた。次にKの二、三の言葉によってびっくりし、それらの言葉の意味をもっとはっきりと捉えようとしはじめた。それからはもう、Kの言葉のうちにおかみから聞かせてもらったいましめの裏書きされているのを聞き取ることをやめなかった。そのおかみのいましめの正しさはそれまではけっして信じようとしなかったのだ。Kはこんな一般的な言い廻しに腹を立て、涙ぐんだ訴えるような彼女の声にも感動させられるというよりはいらいらさせられて、――その理由は何よりも、おかみが今やまた自分の生活に入りこんできたからだ。少なくとも回想によって入りこんできているのだ。なぜなら、おかみその人は、これまではほとんどKの生活に入りこむということでは成果を上げてはいなかったからだ――両腕に抱えていた薪を床の上に投げ出し、その上に坐って、今度はまじめな言葉で、そのことを完全にはっきりいってくれ、と要求した。
「これまでにしょっちゅう」と、フリーダは語り始めた。「ほんのはじめのときから、おかみさんはあなたのことを信用させまいと骨を折りました。おかみさんは、あなたが嘘をついているなんて主張はしませんでした。反対に、おかみさんはこんなことをいったんです。あなたは子供のように包み隠しのない人だ。でもあなたの人柄はわたしたちのとはまるでちがっているんだから、たといあなたが率直にものをいっていても、あなたのいうことを信じるわけにはなかなかいかない。よい女友だちでもわたしたちを早く救ってくれなければ、にがい経験を味わわされたあげくにやっとあなたの言葉を信じることに慣れなければならないでしょう。人を見る鋭い眼をもっているおかみさんでさえ、どうもほとんどそういう結果になったんだから、って。でも橋亭でのあなたとのこの前の対話のあとでは、――わたし、ただおかみさんの悪意の言葉をくり返すだけなんですが――あなたの計略を見破ったそうです。たといあなたが意図を隠そうと努力したところで、もうおかみさんをだますことなんかできないのだ、といいました。でも、あなたは何も隠してなんかいないんだ、とおかみさんはしょっちゅういうのでした。それからこんなこともいいました。いつでも[#「いつでも」は底本では「いっでも」]任意な機会にあの人のいうことをほんとうに聞こうと努めてごらん。ただ上っつらだけでなく、ほんとうに聞くようにね、って。おかみさんはそれ以上のことは何もしなかったけれど、そうしながらわたしのことに関係して次のようなことをあなたから聞き出したっていうんです。あなたがわたしにいいよった理由は――おかみさんはこんな恥かしい言葉を使ったのよ――わたしが偶然あなたの眼にとまり、まんざら気に入らぬこともなかったからで、それにあなたはひどく思いちがいをして、酒場の女給というものは手をさしのべてくるどんなお客にでも犠牲になるにきまっているものなのだ、と考えているからだ、っていうのよ。その上、おかみさんが紳士荘のご亭主から聞き出したところでは、あなたはあのとき何かの理由で紳士荘に泊まろうと思ったけれど、そうはいってもそれはわたしを通じてしかできなかったんですって。こうしたすべては、あの夜あなたをわたしの恋人にするのに十分な動機だった、けれどもこの関係がもっと深いものになるためには、もっとほかのものが必要で、そのほかのものっていうのがクラムだったのだ、というんです。おかみさんは、あなたがクラムに求めていることを知っているとは主張していません。おかみさんが主張しているのは、ただ、あなたはわたしを知る前にも、知ってからあとと同じように熱心にクラムに会いたがっていた、ということです。ただそのちがいは、あなたはわたしを知るまでは絶望的であったが、わたしを知るようになった今では、ほんとうに、間もなく、優位さえもってクラムの前に出る手段をもっていると思っている点にあるんだそうです。あなたがきょう、わたしを知る前には、この土地で途方にくれていたといったとき、わたしはどんなにびっくりしたことでしょう。驚いたのもほんのちょっとのあいだで、それほど深い理由もなかったんですけれど。これはおそらく、おかみさんが使ったのと同じ言葉です。おかみさんはまた、あなたはわたしを知るようになって以来、目標を意識するようになった、っていっています。どうしてそういうことになったかというと、わたしを手に入れることでクラムの恋人を征服したのだし、それによってただ最高の値段だけによってつぐなえるようないい持ち駒をもっている、と思っているからだ。その値段についてクラムとかけ合うことがあなたの努力のただ一つの目的なのだ。あなたにとってはわたしなんかどうでもよいので、万事は値段のほうにかかっているのだから、わたしについてはどんなことでも相手の意を迎える用意があるが、値段については頑固だ。こういうんです。だから、あなたにとっては、わたしが紳士荘の職を失ったこともどうでもいいことだし、わたしが橋亭からも出たこともどうでもよく、わたしがつらい小使の仕事をやらなければならないということもどうでもいいんです。あなたはやさしい愛情というものをもたず、それどころかもう少しもわたしのためにさいて下さる時間をもっていません。わたしを二人の助手にまかせて、嫉妬ももたないのです。あなたにとってのわたしのただ一つの価値といえば、わたしがクラムの恋人だったということだけで、あなたは何も知らないままにわたしにクラムのことを忘れさせまいと努力し、決定的な瞬間がきたときにわたしがあまり強く逆らわないようにしておこうとするんです。それなのにあなたはおかみさんとも争うのですわ。わたしをあなたの手から奪うことができるのはおかみさんだけだと信じて、そのためにおかみさんとのいさかいをとことんまでもっていって、とうとうわたしといっしょに橋亭を出なければならないようにしてしまったんですわ。わたしに関する限り、どんな事情の下でもあなたのものである、っていうことはあなたは疑ってもみません。クラムとの話合いは、現金での取引きだと思っているんだわ。あなたはあらゆる可能性を計算に入れているのね。もしあなたの望む高い値段を手に入れることができるとなったら、どんなことでもやるつもりなんだわ。クラムがわたしを欲しいといえば、わたしをあの人にやるでしょうし、あなたがわたしのところにとどまるようにとクラムが望めば、あなたはわたしのところにとどまるでしょう。わたしを捨ててしまえとクラムが望めば、わたしを捨てるでしょう。でも、お芝居を演じる用意さえあるんだわ。有利だとなれば、わたしを愛しているようなふりをするし、あの人が平気な顔をしていれば、あなたのつまらなさをさらけ出して、あなたがあの人にかわってわたしの愛人になったという事実によってあの人を恥じ入らせることで、あの人のそんな態度に打ち勝とうとすることでしょう。あるいは、あの人についてのわたしの愛の告白を――わたしはほんとうにそれをしたわけだけれど――あの人に伝えて、わたしをまた迎えてくれ、もちろん望みの値段は払ってはもらいたいが、と頼んで、あの人の平気な態度に打ち勝とうとするでしょう。そして、ほかのどんなことも役に立たないとなれば、K夫婦という名前でこじきのようなまねさえすることでしょう。でも、そうなって、おかみさんが結論を下しているように、あなたの推測も、あなたの希望も、クラムについてのあなたの想像も、クラムのわたしに対する関係も、みんな思いちがいしていたのだとわかるようになれば、そのときわたしの地獄が始まるでしょう。というのは、そのときわたしはいよいよあなたのただ一つの所有物となるんですわ。あなたはその所有物をたよりにするわけですが、それは同時に価値のないものとわかった所有物なのですから、あなたはそれにふさわしい扱いかたをするでしょう。なぜって、あなたはわたしに対して所有主という感情以外にどんな感情ももってはいけないんですから」
 緊張し、口をぐっとひきしめて、Kはその言葉に耳を傾けていた。彼が腰かけていた薪がごろごろと転がり出し、彼はあやうく床の上に滑りそうになったが、そんなことは気にもかけなかった。やっと彼は立ち上がって、教壇に腰を下ろし、フリーダの手を取った。その手は弱々しく彼から逃がれようとした。Kはいった。
「君の話のなかで、君の考えとおかみさんの考えとどうも区別ができないところがあったよ」
「あれはみんなおかみさんの考えだったのよ」と、フリーダはいった。「わたしはなんでもよく聞いていました。おかみさんを尊敬しているんですもの。わたしがおかみさんの考えをすっかりはねつけたのは、あのときがまったく最初のことだったんです。おかみさんのいうことすべてがあんまりみじめに思えたし、わたしたち二人のあいだがどうなっているかということについてあんまりわかっていないように思えたのでした。むしろわたしには、おかみさんのいうことのまったく正反対のことが正しいように思われました。わたしは、わたしたちの最初の夜のあとのあの暗い気持だった朝のことを考えました。あなたがまるですべてだめになったようなまなざしでわたしのそばにひざまずいていた有様を思ってみたのです。そして、わたしがどんなに努力してみても、あなたを助けることにはならないで、実際あなたのじゃまをすることになってしまったことを考えたのでした。わたしのためにおかみさんはあなたの敵、しかも強力な敵となったのです、あなたはまだ軽視していますけれど。あなたがこんなにも心配をして下すっているわたしのために、あなたはあなたの地位を求めて闘わなければならず、村長に対しては不利な立場に立って、また先生のいうこともきかねばならなくなり、助手たちの手中に収められてしまったのです。けれどいちばん悪いことは、わたしのためにあなたはおそらくクラムに対して不正を働いてしまったのだわ。あなたが今たえずクラムのところへいこうとするのは、あの人をなんとかなだめようとする無力な努力にすぎなかったのです。そして、わたしは自分にいって聞かせたの。おかみさんはこうしたすべてをたしかにわたしよりずっとよく知っていたので、わたしに入れ知恵して、わたしがあまりにひどく自分を責めないようにしてくれようとしたのだ、って。善意ではあるけれど、余計な心配だわ。あなたに対するわたしの愛は、あらゆることをのり越えるようにわたしを助けてくれ、それはまたあなたをもついには前進させるでしょう、この村においてでなければ、どこか別なところでね。この愛はその力をもう証明したのです。つまり、それはバルナバスの一家からあなたを救ったんですわ」
「では、それがあのころおかみさんの考えに反対する君の考えだったんだね」と、Kはいった。「で、それからどう変ったんだい?」
「わかりませんわ」と、フリーダはいって、自分の手を取っているKの手を見た。「おそらく何も変っていないわ。あなたがわたしのこんなに身近かにいらっしゃって、そんなに落ちついておたずねになると、何も変わらなかったんだと思われてくるわ。でも、ほんとうは」――彼女はKから手を振り離し、身体をまっすぐにして彼と向き合って坐り、顔も被わないで泣いた。その涙にぬれた顔をまともに彼に向けていたが、自分自身のことを泣いているのではないのだ、だから何も隠すことはない、自分はKの裏切りを泣いているのだ、だから自分の泣いている姿のみじめさは彼にうってつけのものなのだ、といわんばかりだ。――「でも、ほんとうは、あなたがあの子と話しているのを聞いてから、すべてが変ってしまったのだわ。あなたはいかにも無邪気そうに話を始め、家庭の事情をたずねたり、そのほかあれこれとたずねました。まるであなたがなれなれしく率直な態度で酒場に入ってきて、子供らしく熱心にわたしのまなざしを求めているような気がしました。あのわたしたちが最初に出会ったときとちがいはありません。そして、わたしはただ、おかみさんがここに居合わせて、あなたの言葉を聞き、それでなお自分の意見に固執しようとするのだったら、と望みました。ところが次に、突然、どうしてそんなことになったのかわかりませんが、あなたがどんなつもりであの子と話しているのか、ということに気がつきました。思いやりのあるような言葉によって、あなたはなかなか手に入れられないあの子の信用を得てしまいました。それは、次にじゃまされないであなたの目標へ向って突進するためなのです。その目標というのはわたしにはだんだんわかってきました。それはブルンスウィックの奥さんだったのです。あの人のために心配しているように見えるあなたの話からは、あなたはただ自分の仕事だけしか考えていないのだということが、まったくあからさまに表われていました。あなたはあの人を手に入れるより前に、あの人をあざむいたのです。わたしはあなたの言葉から、わたしの過去ばかりでなく、わたしの未来も聞き取りました。まるでおかみさんがわたしのそばに坐っていて、わたしにすべてを説明しているような気がしました。そして、わたしは全力をふるっておかみさんを振り払ってしまおうとするけれど、こうした努力の見込みがないことをはっきりと見て取っているのです。そして、その場合に、あざむかれたのはじつはもうわたしではなく――これまでもわたしはけっしてあざむかれたりしませんでしたわ――知らない女の人だったのです。それから、わたしがなお元気をふるい起こして、ハンスに何になりたいのかとたずね、あの子があなたのような人になりたい、といい、従ってもう完全にあなたのものとなったときに、ここで利用されたあの善良な少年のハンスと、あのとき酒場にいたわたしと、いったいどれほど大きなちがいがあったでしょうか」
「君のいうことはすべて」と、Kはいったが、非難されることに慣《な》れて、自分を取りもどしていた。「ある意味では正しいよ。それはまちがってはいないのだけれど、ただ敵意を含んだものだね。それは君自身の考えだと君が思っても、私の敵であるあのおかみの考えなのさ。そのことは私をなぐさめてくれるね。でも、そうした考えには教えられるところが多いし、まだいろいろおかみから学ぶことができるよ。おかみはそのほかのことでは私に容赦《ようしゃ》しなかったけれど、私自身にはそのことはいわなかった。おかみがこんな武器を君にゆだねたのは、君がこの武器を私にとってとくに困る時期か、決定的な時期かに使うということを期待してのことだったらしいね。もし私が君を利用しているなら、おかみも君を同じように利用しているんだ。ところで、フリーダ、よく考えてごらん。もしすべてがおかみのいうとおりそのままだとしても、それがひどく悪質なのは、ただ一つの場合だけのことじゃないかね。つまり、君が私を愛していないという場合だ。そのときには、そのときにだけは、私が君を所有して暴利をむさぼるために、打算と術策とによって君を手に入れたのだ、ということにほんとうになるだろう。そうだとすると、私があのとき、君の同情を呼び起こすために、オルガと腕を組んで君の前に現われたということからして、おそらく私の計画のうちに入ることになるだろうよ。おかみはただ、このことを私の罪を数え上げるときにいい忘れただけなんだろう。でも、もしこれがそんな悪質な話ではなく、またずるい猛獣があのとき君を奪い去ったというのでなくて、君が私に向ってやってきたのであり、私も君に向って歩みよっていったのであって、私たち二人が自分を忘れてたがいに見出し合ったのだったとすれば、どうだい、フリーダ、そのときにはいったいどうなるんだね? そのときには、私は自分のことも君のことも同時にやることになるんだ。この場合には君と私との区別なんかなくて、ただ敵であるおかみがあるだけだ。これはすべてのことにあてはまるんだ。ハンスについてもそうだよ。私のハンスとの対話を判断するとき、ともかく君は感じやすいものだから、とても誇張して考えているんだよ。というのは、ハンスと私との意図は完全には一致しないにしても、この二つのあいだに対立関係といったものが生まれるまでにはいっていないよ。その上、ハンスには私たち夫婦の意見のくいちがいがわからずにいなかったのだよ。もし君がハンスはそれに気づかずにいたのだと思うなら、君はあの注意深い子供のことをひどく過小評価していることになるだろう。そして、万事がハンスにわからぬままであったとしても、そのために困る人間はだれ一人いないと私は思うんだけれど」
「ものをちゃんと見さだめるということはとてもむずかしいものね、K」と、フリーダはいって、溜息をもらした。「わたしはたしかにあなたに対して不信なんか抱いたことはなかったわ。そして、もし何かそういったものがおかみさんからわたしにのり移ってきているのであれば、わたしはそんなものをよろこんで投げ捨ててしまいましょう。また、ひざまずいてあなたの許しを願いましょう。わたしがなおそんな悪いことをいうとしても、ほんとうはいつでもあなたの前にひざまずいて許しを願っているのですわ。でも、あなたがたくさんのことをわたしに対して秘密にしているということは、やはりほんとうなんだわ。あなたは帰ってきて、また出かける。けれど、わたしにはどこから帰ってきて、どこへいくのかはわからないんです。さっき、ハンスがノックしたとき、あなたは〈バルナバス〉という名前を叫びさえしました。あのときわたしにはわからない理由からこのいやらしい名前を呼んだのと同じように、あなたがわたしの名前もそんな愛情をこめて呼んで下すったらいいのだが、とわたしは思うの。あなたがわたしを信用して下さらないとき、どうしてわたしのほうでも不信の気持が起きてはいけないのです? わたしを信用なさらないなら、わたしはすっかりおかみさんの手にまかされたことになるじゃありませんか。あなたの態度はおかみさんのいったことを裏書きしているように思えます。すべてがそうだ、なんて申しません。あなたがすべてにおいておかみさんのいうことを裏書きしているのだ、なんてわたしはいい張ろうとは思いません。だって、あなたはともかくわたしのために助手たちを追い払って下すったじゃありません? ああ、あなたにわかってもらえたら! わたしがあなたのやったりいったりするすべてのことのうちに、たといそれがわたしの心を苦しめるものであっても、わたしにとって好ましい核心をどんなに求めているかということを!」
「何よりもまず、フリーダ」と、Kはいった、「私は君にちょっとだって隠しごとなんかしてはいないよ。おかみのやつ、どんなに私を憎み、君を私から奪い去ろうとどんなに努力しているんだろう! そして、なんていう軽蔑すべき手段でおかみはそのことをやり、君はなんておかみのいうままになっているんだろう、フリーダ! いってくれたまえ、私が君にどんなことを隠し立てなんかしているんだい? 私がクラムのところにいきたがっているということは、君も知っている。彼に会うことで君が私を助けてくれることができないで、そこで私が自分の力でそれをやらなければならないということも、君は知っている。これまで私は彼に会うことができないでいるということは、君にはわかっている。この無益な試みはそれだけですでにほんとうにひどく私の心を傷つけているのに、そんなことを話して二重に私の心を傷つけなければならないのだろうか。クラムのそり[#「そり」に傍点]のドアのところで凍《こご》えながら、長い午後をむなしく待ったというようなことを、得意げに話さなければならないのかい? もうそんなことを考えなくてもよいのだと幸福感を味わいながら、私は君のところへ急いで帰ってくるんだ。ところが、君という人の口からそうしたすべてのことが私をおびやかすようにふたたびもち出されるのだ。そして、バルナバスだって? 私はなるほどあの男を待っている。あの男はクラムの使いの者だ。私があの男をそんな役にしたんじゃないんだ」
「またバルナバスなの!」と、フリーダは叫んだ。「あの男がよい使いの者だなんて、わたしには信じられないわ」
「それはおそらく君のいうとおりだろう」と、Kはいった。「だが、あの男は、私に送られてくるただ一人の使いの者なんだよ」
「それだけにいよいよ悪いのよ」と、フリーダはいう。「それだけにあなたはあの男のことをいよいよ用心しなければならないのよ」
「残念ながら、あの男はこれまでに一つもそのためのきっかけをつくらなかったよ」と、Kは微笑しながらいった。「あの男はまれにしかやってこない。そして、あの男のもってくることは、つまらぬことばかりだ。ただそれがクラムから直接に出ているということだけが、それを価値のあるものにしているんだ」
「でも、いい」と、フリーダはいった。「もうけっしてクラムがあなたの目標なんじゃないわ。おそらくそれがわたしをいちばん不安にするのよ。あなたがいつでもわたしをそっちのけにしてクラムに会おうと迫っていたことは、よくないことだったわ。それは、おかみさんがけっして予想しなかったことです。おかみさんの言葉によると、わたしの幸福、どうだかあやしいけれど、ほんとうの幸福は、クラムに対するあなたの期待が空しかったと決定的にさとった日に終わるんですって。ところが、あなたはもうけっしてそんな日のことを待ってはいないんです。突然、一人の小さな男の子が入ってくると、その子の母親を手に入れようとしてその子と争い始めるのです。まるで命をつなぐ空気を求めて闘っているという調子だわ」
「君はハンスとの私の対話を正しく理解したね」と、Kはいった。「ほんとうにそのとおりだったんだよ。でも、君のこれまでの生活がすっかり忘却の底に沈んでしまって(もちろんおかみは除いての話だ。あれはむざむざ突き落されるような女じゃないさ)、そのために、前へ進むためには闘いを行わなければならないのだということ、ことに下のほうからのぼっていくときにはそうだということが、君にはわからないんじゃないかい? なんらかの希望を与えることはなんでも利用しなければならないんじゃないかね? そして、あの細君は城の出なんだよ。私が到着した最初の日にラーゼマンの家に迷いこんだときに、あの人自身がそう私にいったんだ。あの人に助言か、あるいは助力さえ頼むということよりもわかりきったことがあったろうか? おかみが、クラムから引き離すあらゆる妨害だけをくわしく知っているとすれば、この細君はクラムのところへいく道をほんとうに知っているんだ。あの人は自分でその道を下りてきたんだからね」
「クラムのところへいく道ですって?」と、フリーダはたずねた。
「そうだよ、クラムのところへいく道だ。そのほかにどこへいくというんだ」と、Kはいった。それから彼は跳び上がった。「ところで、中食を取ってくるぎりぎりの時間だ」
 フリーダはこのきっかけをはるかに超《こ》えて、ここにいてくれとしきりとKに頼むのだった。まるで、彼がここにいてくれてこそ、彼が彼女にいったすべてのなぐさめの言葉がはじめて裏書きされるのだ、といわんばかりであった。だが、Kは彼女に教師のことを思い出させ、いつでも雷のような音を立てて引き開けられかねないドアを指さした。そして、すぐ帰ってくると約束し、君はけっして火を焚《た》く必要はない、自分がその心配をするから、といった。とうとうフリーダもKのいうことに黙って従った。彼が外へ出て、雪のなかを踏みしめていったとき、――ほんとうはもうとっくに道の雪かきがすんでいなければならないところだったが、奇妙なことに、その仕事はなんとゆっくり進められていたのだろう――彼は格子塀のところに助手の一人が死んだように疲れ切ってしがみついているのを見た。一人だけしかいない。もう一人のほうはどこにいるのだろう? それではKは少なくとも一人のほうの忍耐力を打ち破ったわけか? むろん残ったほうの男はまだほんとうに真剣だった。そのことはその様子からも読み取れた。この男は、Kの姿を見て元気づき、すぐにあらあらしく両腕をさしのばし、こがれるように眼を大きく見開き始めた。
「あの男の強情さは模範的だ」と、Kはひとりごとをいったが、とはいってもこうつけ加えないでいられなかった。「そんな強情をつづけていると、格子のところで凍死してしまうぞ」
 だが、Kは外見上はその助手に対してただ拳でおびやかし、近づくことをこばんでみせただけだった。はたして助手は不安げにかなりの距離をうしろへ退いていった。ちょうどそのとき、フリーダが窓の一つを開けた。Kと相談したように、火を焚く前に換気するためだった。すぐに助手はKをほっぽり出して、逆らいがたくひきつけられるように、窓のほうへ歩みよっていった。フリーダの顔は、助手に対しては親しみのために、Kに対しては訴えるような当惑のために、ゆがんだ。彼女は上の窓から少し手を振った。――それが追い払おうとするのか、挨拶しようとするのか、けっしてはっきりしなかった――助手はその動作によって窓へ近づくことをためらったりなどしてはいなかった。そのとき、フリーダは急いで外側の窓を閉めた。だが、そのうしろで、手を窓の取手に置き、頭を横に傾け、大きく眼を見開き、こわばったような微笑を浮かべて、たたずんでいた。そんな動作をすれば助手をおどかすよりはむしろ誘うようなものだ、ということを彼女は知っているのだろうか? しかし、Kはもう振り返らなかった。彼はむしろできるだけ急いでいって、すぐに帰ってこようと思ったのだった。

第十四章

 とうとう――もう暗くなっていた。午後も遅かったのだ――Kは校庭の道の雪かきをすませた。道の両側に雪を高く積み上げ、それを打ち固めた。これで一日の仕事をしとげたのだ。校庭の門のところに立ったが、あたりをずっと見廻しても、彼だけしかいなかった。例の助手は何時間も前にもう追い払ってしまった。かなりな距離を追い立てていったのだ。すると助手は小さな庭と小屋とのあいだのどこかに身を隠してしまい、もう見つけられなくなったし、それからも二度と姿を見せなかった。フリーダは建物のなかにいて、もう洗濯物を洗うか、あるいはまだギーザの猫の身体を洗うかしていた。ギーザがフリーダにこの仕事をまかせたことは、ギーザのほうからの大きな信頼のしるしであった。とはいっても不潔でかんばしからぬ仕事ではあった。いろいろ職務をなまけてしまったあととなってみれば、ギーザに感謝させることのできるあらゆる機会を利用することが大いに有利であるのでなかったならば、こんな仕事を引き受けることはKにはおそらく我慢できなかっただろう。ギーザは、Kが屋根裏部屋から子供用の小さなたらいをもってきて、湯がわかされ、最後に用心深く猫をたらいのなかに入れるさまを、満足そうにながめていた。それから、ギーザは猫をすっかりフリーダにまかせさえしたのだった。というのは、最初の晩にKが見知ったシュワルツァーがやってきて、あの晩から尾をひいている恐れの気持と、小使ふぜいに対するにはふさわしいといわんばかりの度を超えた軽蔑《けいべつ》の気持とがまじった態度でKに挨拶し、それからギーザといっしょに別な教室のほうへいってしまったのだった。この二人はまだその教室にいた。橋亭で人が話していたところによると、シュワルツァーは執事の息子であるのに、ギーザに対する愛からすでに長いあいだ村に住み、彼がもついろいろな縁故関係の力で村の人びとから助教員と呼ばれるような地位を手に入れていた。だが、彼はこの職務を主として次のようなやりかたで実行しているのだった。つまり、ギーザの授業時間にはほとんど欠かさず出てきて、子供たちのあいだにまじって児童用の長椅子に坐るか、あるいはむしろ好んでギーザの足もとの教壇に坐るかするのだ。これはもう少しも授業のじゃまにならなくなっていた。子供たちはすでにずっと前からそれに慣れてしまったのだ。これがいっそうたやすくいったのは、おそらく次の理由からだ。つまり、シュワルツァーは子供たちに愛情も理解ももっていないで、ほとんど子供たちとは口をきかず、ただギーザの体操の授業だけを引き受け、そのほかはギーザの身近かで、彼女の身辺の空気と彼女の身体の暖かみとのなかで暮らすことに満足しているからだ。彼の最大の楽しみは、ギーザのわきに立って、練習帳の点検をすることだった。きょうも二人はその仕事をやっていた。シュワルツァーは山のような帳面の束をもってきていた。例の男の教師はいつでもこの二人に自分の分の仕事までやらせているのだ。そして、まだ明るいうちは、この二人が窓ぎわの一つの小さな机のそばで頭と頭とをよせて仕事をするのがKには見えたが、今ではそこで二本の蝋燭がちらちらしているのが見えるだけだった。この二人を結びつけているのは、まじめで無口な恋だった。この恋愛を牛耳っているのはギーザのほうだった。彼女の重苦しい人柄はときどき荒れて、あらゆるけじめを破るのだったが、彼女もほかの人たちがほかの場合に自分と同じようなことをするのであったら、けっして我慢はしなかっただろう。そこで元気のよいシュワルツァーのほうも彼女に調子を合わせて、のろのろと歩き、ゆっくりとしゃべり、黙りがちにしていなければならなかった。だが、彼にとっては――これは人眼にも明らかだが――ただギーザが黙って眼の前にいるというだけで、いっさいのことがむくいられるのだ。ところでギーザはおそらく彼を全然愛していないのかもしれない。いずれにせよ、彼女の円い、灰色の、まるっきりまばたきしない、むしろ瞳孔《どうこう》のなかが廻っているように見える両眼は、そのような問いかけには何の返答も与えないのだ。彼女が異論もいわないでシュワルツァーを我慢している、ということだけは見て取れた。だが、執事の息子に愛されるという名誉は、彼女がきっと評価できないものなのだ。そして、シュワルツァーが視線で自分を追っていようといなかろうと、いつも変わらずに落ちついて彼女のまるまるした豊満な身体を運んでいく。それに対してシュワルツァーのほうは、いつも村にとどまっているという不断の犠牲を彼女に捧げているのだ。彼をつれもどすためにしばしばやってくる父親の使者を、ひどく腹を立てて追い払うのだが、彼らによってちょっとでも城のことや子としての義務のことを思い出させられるのは、自分の幸福を取り返しのつかないほどひどく妨げられることだ、といわんばかりであった。それでも彼にはほんとうは自由な時間がたっぷりあった。というのは、ギーザはふだん、ただ授業時間中と練習帳の点検のときにだけ、彼に姿を見せるのだ。これはむろん打算からやっていることではなく、彼女はのびのびした生活が好きで、それゆえひとりでいることが何よりも好きであり、おそらく家にいて完全な自由を味わいながら長椅子の上に身体をのばすことができるときがいちばん幸福なのだった。そんなとき、彼女のそばには猫がいるが、これがもうほとんど動けないので、別にじゃまにもならない。そこでシュワルツァーは一日の大部分を仕事もしないでぶらぶら過ごすのだが、これがまた彼には好ましいのだ。というのは、そういうときにはいつでも次のような機会があるわけで、彼はそんな機会を十分に利用もする。つまり、そんなときにはギーザが住む獅子街へ出かけていき、屋根裏の彼女の小さな部屋まで上がっていって、いつでも鍵がかかっているドアのところで聞き耳を立て、部屋のなかが例外なくなぜかわからぬほど完全に静まり返っているのをたしかめると、また急いでそこを立ち去っていく。ともかく、それでも彼においてもこうした暮しかたの結果がときどき現われた。――だが、けっしてギーザの面前ではそんなことはなかった――それが現われるのは、ほんのちょっとのあいだ目ざめる役所一流の尊大さを滑稽に爆発させるときだけである。その役所一流の尊大さというのは、むろん彼の現在の地位にはすこぶるぴったりしないものだ。とはいえ、そんなときにはたいていはあまりかんばしくない結果になるのだった。そのことはKも体験していた。
 ただ驚くべきことは、人びとが少なくとも橋亭では、尊敬すべきことというよりは滑稽であるようなことに関する場合であってさえ、ある種の尊敬をこめてシュワルツァーのことを話すという点であった。ギーザまでこの尊敬の余徳にあずかっていた。それにもかかわらず、助教員であるシュワルツァーがKよりも途方もなく優越した地位にいるのだと信じていることは、正しくなかった。そんな優越性などはないのだ。学校小使は教師たちにとって、ましてやシュワルツァーのたぐいの教師にとっては、なかなか重要な人物であり、それを軽蔑するようなことがあれば、その返報を受けないではすまない。そういう人物に対して軽蔑的な態度を取ることを身分の上からどうしても捨てかねるというのであれば、少なくともそれに対応するような返礼によってその人物にそんな軽蔑を耐えうるようにしてやらねばならぬのだ。Kはときどきそのことを考えようとした。それにまたシュワルツァーはあの最初の晩以来、こちらに対して借りがあるわけだ。あの晩以後のなりゆきからいうと、シュワルツァーの自分に対する応対のしかたはほんとうはもっともだったといえ、それによってこの男の自分に対する借りは小さくはなっていないのだ。というのは、その場合、あの応対のしかたがおそらくはそれにつづくいっさいのことにとっての方向を決定してしまったのだ、ということは忘れてはならない。シュワルツァーによって、まったくばかばかしいことだが、この村に着いた最初のときからただちに役所の注意が完全に自分の上に注がれるようになってしまったのだ。そのとき彼はまだこの村で完全に不案内で、知る人も逃がれ場所もなく、旅のために疲れきって、まったく途方にくれてあの藁ぶとんの上に寝て、役所のどんな干渉にも身をまかせきりになっていたのだった。たった一晩遅く着いていたら、万事はちがって、おだやかに、半ば人知れずに行われたことだろう。いずれにせよ、だれも自分のことなんか知らず、少しも嫌疑などはもたないで、少なくとも旅の若者として一日ぐらい自分の家に泊めてくれることをためらいはしなかったろう。役に立ち信用がおけるということを見て取ったでもあろうし、そのうわさが近所にも拡まって、おそらくすぐどこかに下僕として住むことになったろうと思われる。もちろん、そんななりゆきは城の役所の眼を逃がれることはなかったろう。だが、夜中に自分のために中央事務局か、あるいはそのほかの電話のそばにいた者がゆすり起こされ、その場ですぐ決定を下すように迫られ、しかも表面は謙虚そうだが、じつはうるさいくらいしつっこく要求され、その上その相手が上の人びとからはおそらく嫌われているシュワルツァーであった、というのと、それともこんな手順とはちがって自分が翌日になってから執務時間中に村長をたずね、自分はよそからきた旅の若者だが、これこれの村の住人のところにすでに泊っていて、おそらくあすはまた出発していくだろうと申し出るのとでは、その二つの場合に大きなちがいがあったのだ。ただし、そうやって申し出たとしても、まったくありそうもない事態になってしまい、自分がこの土地で仕事にありつくというようなことがなかったとしての話だ。もっとも、仕事にありつくといっても、もちろんほんの二、三日のことだったろう。というのは、自分はそれ以上はけっしてこんなところにとどまりたくはないからだ。もしシュワルツァーさえいなかったら、そんなふうなことになっただろう。それでも役所はやはりこの件をいろいろと取り扱ったことだろうが、落ちついて役所風に、おそらく役所がとくに嫌っている相手方のあせりなどには妨げられずにやったことだろう。そこで、じつはKにはいっさいのことに責任がなく、罪はシュワルツァーにあるのだ。だが、シュワルツァーは執事の息子であって、外見上は彼のふるまいは正しかったので、そのためKだけにつぐないをさせることができたのだ。そして、こういうすべてのばかげた結果を生んだ動機はなんだったのだろう? おそらくあの日のギーザの不機嫌な気分なのだ。そのためにシュワルツァーは夜分眠れぬままにうろつきまわり、つぎにKに自分の悩みの埋め合せをさせたのだ。むろん、別な面からいえば、Kはシュワルツァーのこんなふるまいに多くのものを負うているともいえる。ただそのことによってだけ、Kがひとりではけっしてできず、またけっしてしようとはしなかったと思えること、そして役所の側としてもほとんどみとめなかっただろうと思えること、つまりこんなことが役所においておよそ可能だとしての話だが、彼がはじめからてくだを使わず公然と面と向って役所に立ち向かうということが可能となったのだ。しかし、それは悪い贈物であった。なるほどそのためにKはいろいろないつわりや偽善をしないでもすんだが、それはまた彼をほとんど無防備の状態に陥れ、いずれにもせよ闘いにおいて彼を不利にさせたのだ。そして、もし彼が自分自身に向って、役所と自分とのあいだの力のちがいは途方もないくらい大きなものなので、自分にできる嘘とか術策とはその段ちがいの力の差異を本質的に自分に有利なように抑えつけておくことはできなかったのだ、といい聞かせなかったならば、彼は役所との闘いについて絶望させられてしまったことだろう。しかし、これはKがみずからなぐさめるための頭のなかだけの考えごとにすぎなかった。それにもかかわらず、シュワルツァーは今でも彼に借りがあるのだ。あのときKに損害を与えたのであれば、おそらく近いうちに彼を助けることだってできるはずだ。Kはこれからも、きわめて小さなことにおいてさえ、つまりいちばんはじめの予備的な条件においても、助力を必要とするだろう。たとえばバルナバスもやはりそういう点では役に立ちそうには思われなかった。
 フリーダのために、Kは一日じゅう、バルナバスの家に様子を探りに行くことをためらっていた。フリーダの前でバルナバスを迎えねばならぬようなことがないように、彼は仕事を屋外でやり、仕事のあとでもバルナバスを待ちながらそこにとどまっていた。だがバルナバスはやってはこなかった。今では、バルナルバスの姉妹のところへいく以外にてだてはなかった。ただほんのちょっとのあいだだけ、ただほんの戸口のところからだけたずねてみようと思った。それならすぐもどってこられるだろう。そして、彼はシャベルを雪のなかにさしこんで、走っていった。息もつかずにバルナバスの家に着くと、ちょっとノックしたあとでドアを引き開け、部屋のなかがどんなふうかということには目もくれずに、たずねてみた。
「バルナバスはまだ帰ってきませんか」
 そこではじめて気づいたのだが、オルガはいず、老人夫婦が遠くのほうに離れた机のそばにぼんやりした状態で坐っていて、ドアのところで何が起ったかまだはっきり呑みこめないで、ゆっくりと顔をKのほうに向けた。それから最後に気づいたのだが、アマーリアが毛布をかぶってストーブのそばの長椅子に寝ていて、Kが現われたことにびっくりして飛び起き、心をしずめようとして手を額にあてた。オルガがここにいてくれたら、彼女がすぐ返答してくれ、Kはすぐ帰れたであろうが、彼女がいないのでKは少なくとも二、三歩アマーリアのほうに歩みよって、手をさし出さなければならなかった。アマーリアはその手を取って無言のまま握手した。Kはまた、驚きでかり立てられた両親が歩き廻ったりしないようにしてくれ、と彼女に頼まなければならなかった。すると彼女は二こと三こと何かいってそのとおりにした。Kが聞いたところによると、オルガは内庭で薪を割っていて、アマーリアはすっかり疲れたので――彼女は理由はいわなかった――ちょっと前に横にならないでいられなかった。そして、バルナバスはまだ帰ってこないけれど、すぐ帰ってくるにちがいない。というのは、彼は城にはけっして泊まらない、ということだった。Kはいろいろ教えてもらったことに礼をいって、もう帰ることができたのだが、アマーリアがオルガのもどるのを待たないかとたずねた。だが、残念なことに自分はそのひまがない、といった。するとアマーリアは、きょうはもうオルガとお話しになったのか、とたずねた。彼は驚いて話してないといって、オルガが自分に何か特別なことを知らせようと思っているのか、とたずねた。アマーリアは少し怒ったように口をゆがめ、黙ったままKにうなずいてみせた。それは明らかに別れを告げる挨拶だった――そして、また身体を横たえた。寝たままKの様子をじろじろながめていたが、まるで彼がまだそこにいるのをいぶかしく思っているようであった。彼女のまなざしは、いつものように冷たく、澄んでいて、動かなかった。そのまなざしは彼女がながめているものにまともに向けられているのではなくて、――これはいかにもわずらわしかったが――ほとんど気づかぬくらい少しだが、疑いなくそれをとおり過ぎて遠くのほうへいっているのだった。その原因となっているのは、気の弱さとか当惑とか嘘いつわりといったものではなく、ほかのあらゆる感情をしのぐような孤独を求めるたえることのない欲求であるらしかったが、その欲求はただこんなふうにしてはじめて彼女自身に意識されてくるのであった。Kはそういえば思いあたるような気がしたが、彼がここにきた最初の晩にもこのまなざしが彼の心を捉え、そればかりかこの一家がたちまち彼の心に与えたいとわしい印象のすべてはこのまなざしからきていたのだった。そのまなざしはそれ自体としていとわしいものではなくて、誇らかで、その心を打ち明けようとしない点で正直なものであった。
「あなたはいつでもとても悲しそうですね、アマーリア」と、Kはいった。「なにか悩みがあるんですか? 私はまだあなたのような田舎《いなか》の娘さんを見たことがありません。ほんとうは、きょうはじめて、つまり今やっと、私はそれに気づいたのです。あなたはこの村の出なんですか。ここで生まれたのですか」
 アマーリアは、この最初の問いのほうだけが自分に向けられたのだというように、そうだといって、次にいった。
「それではあなたはオルガをお待ちになるのね?」
「なぜあなたはいつでも同じことをおたずねになるのか、私にはわかりませんね」と、Kはいった。「もうこれ以上ここにいるわけにはいかないんです。家で婚約者が待っていますんでね」
 アマーリアはむっくと起きて肘で身体を支えた。婚約者のことは知らなかったのだ。Kはフリーダの名前をいったが、アマーリアは彼女を知らなかった。アマーリアは、オルガがその婚約のことを知っているのか、とたずねた。Kは、きっと知っていると思う、オルガは自分がフリーダといっしょにいるのを見たし、村ではこんなうわさはすぐ拡がるものだ、といった。だがアマーリアは、オルガはそれを知らない、それを聞いたら彼女は悲しむだろう、というのは彼女はKを愛しているらしいのだ、と保証した。そして、こんなことをいうのだった。オルガはそのことをあからさまにはいわなかった。というのは、オルガはとてもひかえ目なのだ。でも、愛というものはほんとうに思わず知らずおもてに出るものだ、と。それに対してKは、アマーリアは思いちがいしていると確信する、といった。アマーリアは微笑したが、この微笑は悲しげであったが、暗くしかめていた顔を明るくさせ、よそよそしさをうちとけた態度へと変え、秘密を捨て去り、また取りもどすことができるかもしれないが、しかしけっしてもうそのままそっくりは取りもどすことのできない、これまで守ってきた秘密という自分のもちものを捨て去るものであった。アマーリアは、自分はほんとに思いちがいなんかしていない、それどころかもっと知っていることがある、Kのほうでもオルガに愛情を抱いていて、Kが訪ねてくることも、何かバルナバスのたよりを口実にしているが、ほんとうはただオルガが目あてなのだということを知っている、という。でも今では、アマーリアがなんでも知っているんだから、もうあまり固苦しく考える必要はないし、しばしばやってきていいのだ。このことを自分はあなたにいおうと思っていた、といった。Kは頭を振って、自分の婚約のことを思い出させた。アマーリアはこの婚約のことをあまり考えようとはしていないようだった。ただひとりで自分の前に立っているKの直接の印象が彼女にとっては決定的だったのだ。彼女はただ、いつその娘を知るようになったのか、だってあなたはほんの数日前に村へやってきたのではないか、とたずねた。Kは紳士荘でのあの晩のことを語った。それに対してアマーリアはただ簡単に、あなたを紳士荘へつれていくことに自分はとても反対だった、といった。彼女はその言葉の証人としてちょうど入ってきたオルガにも呼びかけた。オルガは片腕にいっぱい薪を抱えて家のなかへ入ってくるところだった。冷たい風に吹かれて新鮮な感じになり、頬を赤くして、元気よく、力強い様子だった。この前のとき部屋のなかに重苦しく立っていたのに対して、仕事によってすっかり様子が変ったように見えた。オルガは薪を投げ出し、こだわりもなくKに挨拶し、すぐフリーダのことをたずねた。Kはそれこのとおりだといわんばかりにアマーリアに目くばせして見せたが、彼女は自分の意見を否定されたものとは思っていないらしかった。Kはそれを見て少しやっきとなって、そういうことがなければやらなかったと思われるほどくわしくフリーダのことを語った。どんなにむずかしい事情の下でフリーダが学校でともかく一種の家政の切り盛りをやっているか、ということをくわしく語って聞かせたが、あんまり急いで話をしているうちに――彼はすぐ家へ帰ろうと思っていたのだ――思わず知らず別れの挨拶の形で二人の姉妹に、一度自分のところへいらして下さい、と招待さえしてしまった。とはいえ、そういってすぐに彼は気がついてびっくりし、言葉をつまらせてしまった。一方、アマーリアは、彼にそれ以上ものをいう余裕を与えず、すぐさま、その招待をお受けする、ときっぱりといった。そこでオルガもそれに合わせなければならなくなって、同じようにお受けするといった。だがKは、急いで別れなければならないという考えにたえず攻め立てられ、またアマーリアの視線の下で不安をおぼえながら、ほかに言葉を飾るようなことは抜きにして白状することをためらわなかった。この招待はよく考えた上のことではまったくなくて、ただ自分の個人的な感情から申し出たものであり、自分は残念ながらそれを固く主張することはできない、その理由は、自分にはまったくわからないのではあるが何か大きな敵意がフリーダとバルナバスの一家とのあいだに存在しているからだ、といった。
「それは敵意ではありませんわ」と、アマーリアはいって、長椅子から立ち上がり、毛布を跳ねのけた。「そんなに大げさなことじゃないんです。それはただ村の人びとの考えの受売りなんですよ。さあ、もうお帰りなさい、婚約者のところへお帰りなさい。あなたが急いでいらっしゃることはわかります。また、わたしたちがうかがうなんていうご心配には及びません。わたしがうかがうってはじめにさっそくいったのは、冗談といたずら半分の気持とからですわ。でも、あなたはしばしばうちへいらっしゃってかまいませんのよ。あなたがいらっしゃるのに対してならきっとさしさわりなんかないでしょうから。あなたはいつだってバルナバスの使いのことを口実にできるはずですからね。なお、あなたがいらっしゃるのをやさしくするため、このことをいっておきましょう。バルナバスは城からの使いをあなたのためにもってくるけれど、もう二度とそれをお伝えするために学校へいくことはできないんです。兄はかわいそうにそんなにほうぼうかけ廻ることはできませんわ。お勤めでくたくたになっているんです。あなたはご自分で知らせを取りにいらっしゃらなければならないでしょう」
 アマーリアがそんなにたくさんのことを話の関連をつけながら話すのは、Kはまだ聞いたことがなかった。彼女の話はまたふだんとはちがった響きをもっていた。一種の威厳がそのなかには含まれていた。それはKが感じたばかりでなく、アマーリアには慣れている姉のオルガもそれを感じているらしかった。オルガは、少し離れて、両手を前に置き、ふたたびいつものように足を開いて、少し前こごみになって立っていた。眼をアマーリアに向けていたが、アマーリアのほうはただKをじっと見ていた。
「まちがいですよ」と、Kはいった。「大きなまちがいですよ、もし私がバルナバスを待っているのはまじめな話ではないなんて思われるなら。役所とのあいだの私のいろいろな用件を解決することは、私のいちばん大きな、ほんとうはただ一つの願望なんです。そして、バルナバスにはそのことで私を助けてもらわなければならないんです。私の期待の多くはバルナバスにかかっています。あの人はすでに一度私をひどく落胆させはしましたが、それはあの人の罪というよりはむしろ私のほうの罪なんです。ここに着いたばかりで頭が混乱しているときのことでした。あのとき私はちょっとした夕方の散歩ぐらいで万事を片づけられるものと思っていました。そして、不可能なことが不可能だと明らかになったことを、私はあの人のせいにしたんです。あなたがたの家族やあなたがたについての判断においてさえも、そのことが影響したのでした。それももうすんだことです。今ではあなたがたのことをもっとよく知っていると信じます。あなたがたはそれに」と、Kはうまい言葉を探してみたが、すぐには見つけられないので、附随的な言葉をいうだけにとどめた。「あなたがたはおそらく、村の人びとのだれよりも気持がやさしいんです、私がこれまで知っている限りの人たちのなかで。でも、アマーリア、あなたは兄さんの勤めは軽視していないにしても、兄さんが私に対してもっている意味は軽視していて、それによって私の頭をまたまどわしているんですよ。おそらくあなたはバルナバスの仕事のことを知っていないんでしょう。それならいいんで、これ以上そのことを追求しようとは思いません。でもおそらくあなたは知っているんでしょう。――むしろそういう印象を私はもっているんだけれど――そうなると、悪いですね。というのは、それはお兄さんが私をだましているということになりますからね」
「落ちついて下さい」と、アマーリアはいった。「わたしは知らないわ。そんなことを知ろうという気をわたしに起こさせるものは何一つありません。何一つそんな気を起こさせるものはありませんわ。あなたのことを考えてあげることだってね。そのためにはわたしはいろんなことをよろこんでしてあげるでしょうけれど。というのは、あなたのおっしゃったように、わたしたちは気持がやさしいんですもの。でも、兄のことは兄のことなんだわ。わたしが兄のことで知っていることといえば、聞こうとも思わないのに偶然ときたま聞くことだけなんです。それとはちがって、オルガのほうはあなたに洗いざらい教えてあげることができます。というのは、オルガは兄が信頼している相手なんですもの」
 そして、アマーリアはまず両親のところへいき、この二人と何かささやいていたが、それから台所へいってしまった。彼女はKに別れの挨拶もしないでいってしまったのだった。まるで、Kがまだ長いあいだここにいるだろうということを知っていて、別れの挨拶なんか不要だ、といわんばかりの態度だった。

第十五章

 Kはいくらか驚いた顔つきをしてあとに残っていたが、オルガが彼のことを笑って、彼をストーブのそばの長椅子へ引っ張っていった。オルガは、今やっとKと二人きりでここに坐っていることができるのをほんとうに幸福に思っているように見えた。だが、それは静かな幸福であり、嫉妬に曇らせられたものではなかった。そして、まさにこの嫉妬から遠いということ、それゆえどんなきびしさも含まないことが、Kには気持がよかった。彼はオルガの、人の心をそそるようでも威圧的でもなく、内気そうに安らい、いつまでも内気そうにしている青い眼を心楽しく見ていた。まるで、フリーダとおかみとの警告の言葉が彼をこうしたすべてに対していっそう敏感にさせたわけではないが、彼をいっそう注意深く、いっそう明敏にしたかのようであった。そして、オルガが、なぜあなたはアマーリアのことを気持がやさしいなどといったのか、アマーリアにはいろいろなところがあるけれど、ただ気持がやさしいなどとはとてもいえないのに、と不思議そうにたずねたとき、Kはオルガといっしょに笑った。それに対してKは、そのほめ言葉はむろん君、オルガにあてはまるものだったのだけれども、アマーリアはあんまり威圧的なものだから、自分の面前で話されるすべてのものを自分のものとしてしまうばかりでなく、彼女の相手になる人間は自分のほうから進んですべてのものを彼女にわけてやることになるのだ、と説明した。
「それはほんとうね」と、オルガは少しまじめになりながらいった。「あなたが考えていらっしゃるよりももっとほんとうよ。アマーリアはわたしよりも若いし、バルナバスよりも若いけれど、家のなかで事をきめるのはよかれ悪しかれあの人なんです。むろん、妹にはよいところも悪いところもみんなより多いんだわ」
 Kはそれを誇張だと思う、といった。彼女はたとえば兄のことは気にかけていない、それに反してオルガは兄のことについてなんでも知っているといったではないか。
「そのことをどう説明したらいいのかしら」と、オルガはいった。「アマーリアはバルナバスのことも、わたしのことも気にはかけていません。妹はほんとうは両親以外のだれのことも気にはかけていないのです。両親の世話は昼も夜もするんです。今もまた両親の希望をたずねて、両親のために台所へ料理しにいったんですのよ。両親のために無理して起き上がってしまったんですわ。だって、妹はお昼から病気で、ここの長椅子に寝ていたんですもの。妹はわたしたち兄姉のことを気にはかけないけれど、私たちはまるで妹がいちばんの年上でもあるかのように妹にたよりっきりなんですわ。妹がわたしたちのことについて忠告するときには、わたしたちはきっと妹のいうとおりに従うでしょう。でも、妹はそんな忠告なんかしませんし、わたしたちは妹にとって他人のようなものなんだわ。でもあなたは人間についての経験をもっていらっしゃるし、よそからきた人です。それで、うかがいたいけれど、妹はとくに頭がいいように見えないこと?」
「とくに不幸そうに見えますね」と、Kはいった。「でも、あなたがたがあの人を尊敬していることと、たとえばバルナバスがアマーリアの気に入らない、おそらくは軽蔑さえしているような使者の勤務をしていることとは、どうして矛盾しないんです?」
「ほかにやることを知っていたら、バルナバスは自分が全然満足していない使者の勤めなんかすぐやめてしまうでしょうよ」
「弟さんは腕のいい靴屋じゃないんですか」
「そうなのよ」と、オルガはいった。「本職のほかにブルンスウィックの仕事もやっているんです。もし弟がやろうとすれば、昼も夜も仕事があって、たっぷり収入があるんです」
「それなら」と、Kはいった。「使者の勤めの補いがつくわけですね」
「使者の勤めのですって?」と、オルガは驚いてたずねた。「いったい弟がお金をもうけるためにあの勤めを引き受けたとおっしゃるの?」
「そうでしょうね」と、Kはいった。「だってあなたは、あの仕事はあの人を満足させていない、といったじゃありませんか」
「あの勤めは弟を満足させてはいないんです。そして、さまざまな理由からです」と、オルガはいった。「でも、あれは城の勤めですわ。ともかく一種の城の勤めです。少なくともそう思えます」
「なんですって」と、Kはいった。「その点でもあなたがたは疑いをもっているんですか?」
「そう」と、オルガはいった。「ほんとうはそうじゃないんです。バルナバスは事務局へいき、小使たちと仲間づき合いしていますし、遠くのほうから何人かのお役人たちも見ています。かなり大切な手紙もあずかり、口頭で伝える使いもまかされます。それはなかなかたいしたことで、弟があの若さでどんなに多くのものを手に入れたか、わたしたちはそれを誇りにしてもいいはずですわ」
 Kはうなずいた。家へ帰ることはもう考えていなかった。
「あの人は自分のお仕着せももっていますしね?」と、Kはたずねた。
「あの上衣のことをいっていらっしゃるの?」と、オルガはいった。「いいえ、あれはアマーリアがつくってやったんです、まだ使者になる前に。でも、あなたは痛いところへふれてきましたわ。弟はもうずっと前に、城にはないお仕着せじゃなく、役所の制服をもらっていいはずです。そう確約もしてもらったのです。ところが、この点では城の人たちはとてもゆっくりしているんです。そして悪いことは、このゆっくりしていることがどんな意味をもっているのか、だれにもわからないんですの。それは、事がお役所式に進められていることを意味するのかもしれません。でもまた、お役所式の仕事がまだ全然始っていないこと、つまりたとえばバルナバスを今もまだためしに使おうとしていることを意味するのかもしれないのです。そして最後に、お役所式の仕事がすでに終ってしまっていること、何かの理由からあの確約を取り下げてしまったのであり、バルナバスはもう制服をけっして手に入れないということを意味するのかもしれません。それについてこれ以上くわしいことは知ることができませんし、知るとしてもずっとあとになってからなんです。この土地にはこんな言い廻しがあるんですの。おそらくあなたはご存じですわね。役所の決定は小娘のように内気だ、って」
「それはよい観察ですね」と、Kはいった。彼はその言葉をオルガよりもまじめに受け取っていた。「それはよい観察だ。役所の決定はほかの特徴においても娘と共通な点をもっているかもしれませんね」
「おそらくそうでしょうね」と、オルガはいった。「むろん、あなたがどんな意味でそれをいっているのか、わたしにはわからないけれど。おそらくほめるつもりでいっていらっしゃるんでしょうね。でも、役所の制服についていうと、これはまさにバルナバスの心配の一つなんです。そして、わたしたち姉弟は心配をともにしていますから、わたしの心配でもあるんです。なぜ弟が役所の制服をもらえないのかって、わたしたちはおたがいに話し合うんですけれど、わかりはしません。ところで、このことはすべてそう簡単じゃないんですわ。たとえば役人たちはおよそ役所の制服なんかもっていないらしいんですもの。この土地でわたしたちが知っている限り、そしてバルナバスが話してくれている限りでは、美しくはあるけれどあたりまえの服を着て歩き廻っているんですわ。それに、あなたはクラムをごらんになったのね。ところで、バルナバスはもちろん役人なんかじゃなく、いちばん下の階級の役人でさえもありません。またそんなものになろうなんて思い上がってもいません。でも、上級の従僕たちも、むろんこの人たちはこの村でもおよそ見られないんですけれど、バルナバスのいうところによると役所の制服はもってはいないそうです。それはお前たちにとって一種のなぐさめになるんじゃないか、とすぐ人は思うかもしれません。でも、それは嘘ですわ。だって、バルナバスは上級の従僕でしょうか。いいえ、いくら弟がそう思いたがっても、そんなことはいえませんわ。上級の従僕なんかじゃありません。弟が村へやってくるということ、それどころかこの村に住んでいるということからして、弟が上級の従僕なんかじゃないという証拠ですわ。上級の従僕たちは、役人たちよりももっとひかえ目なんです。おそらくそれももっともで、おそらくあの人たちは多くの役人よりも地位が高いんです。二、三のことがそれを物語っています。あの人たちは仕事をすることが少なく、バルナバスのいうところによると、このぬきんでて身体の大きい、頑丈そうな人たちがゆっくりと廊下を通っていくところを見るのは、すばらしい光景だっていうことです。要するに、バルナバスが上級の従僕だなんていうことは、問題にならない話です。そこで、弟がせめて下級の従僕の一人であってくれればいいんですが、ところがまさにこの下級の従僕の人たちこそ役所の制服をもっているんです。少なくとも、あの人たちが村へ下りてくるときにはそうですわ。それはほんとうのお仕着せなんかじゃなく、いろいろちがいがあるんですけれど、それでもともかく服を見ただけで城からやってきた従僕だって見わけがつくんです。あなたはそういう人たちを紳士荘でごらんになりましたね。その服でいちばん目立つ点は、それがたいていぴったり身体についているということです。農夫とか職人でしたらこんな服を着ることはできないでしょう。ところで、そういう服をああしてバルナバスはもっていないんです。それは何か恥かしいとか面目を失うとかいうことだけでじゃなくて(そんなことなら我慢もできるでしょうが)、とくに憂鬱なときには――ときどき、けっしてめずらしいことじゃないんですが、わたしたち二人、つまりバルナバスとわたしとはそんな気持になるんですの――それがあらゆることを疑わさせるんです。バルナバスがやっているのは、およそ城の勤めなんだろうか、とそういうときにわたしたちはたずねてみます。たしかに、弟は事務局へいきます。しかし、事務局はほんとうの城なんでしょうか。そして、たとい事務局が城の一部だとしても、バルナバスが入ることを許されているのは事務局なんでしょうか。弟は事務局へ入っていきます。でも、そこは事務局の全体からいったらほんの一部分にすぎません。次に柵《さく》があって、柵のうしろにはさらに別な事務局がいくつもあるんです。その先へいくことを弟は禁じられてはいませんけれど、弟が上役の人びとをすでに見つけてしまって、その人たちが弟の用事をすませてしまい、弟にもう帰るようにというときに、どうして弟はそれ以上奥へいくことができるでしょう。その上、あそこでは人はいつでも見張られているんです。少なくともみんなそう信じていますわ。そして、たとい弟が先までいったとしても、そこで何もおおやけの用事があるわけでなく、一人の侵入者にすぎないとしたら、入っていったことがなんの役に立つでしょう? この柵をあなたは一定の境界なのだと考えてはいけません。バルナバスもわたしにそのことをくり返して注意しますわ。柵は弟が入っていく事務局にもあるんです。弟が通り抜けていく柵もあるんです。その柵は弟がまだ越えたことのない柵と別にちがっているようには見えません。そのためにも、これらのうしろのほうの柵の背後にはバルナバスが入った事務局とは本質的にちがった事務局があるとは、すぐには考えられません。ところが、あの憂鬱な気分に襲われるときには、そう思いこんでしまうんです。すると疑いが大きくなっていき、それにはもうまったく逆らうことができません。バルナバスは役人と会い、使いの命令を受けます。それはどんな使いなんでしょう。現在、弟は自分でいっているようにクラムのところに配属されて、クラム自身から命令を受け取ります。ところが、これがとてもたいしたことで、上級の従僕たちだってそんなところまではいきつくことはできません。それはほとんど過分だといっていいくらいで、そのことがわたしたちを不安にさせるんですわ。直接クラムに配属され、あの人と口から口へ話をするということを、考えてみても下さい。でも、このとおりなのでしょうか? そうです、このとおりなんです。でもなぜバルナバスは、あそこでクラムと呼ばれている役人がほんとうにクラムなのだろうか、なんて疑っているんでしょう?」
「オルガ」と、Kはいった。「冗談をいおうなんてしちゃいけませんよ。クラムの外見についてどうして疑いなんか生まれる余地があるだろう。だって、あの人がどんな外見をしているか、人びとがよく知っているじゃありませんか。私自身もあの人を見たことがあるんだ」
「とんでもないわ、K」と、オルガはいった。「それは冗談なんかじゃなくて、わたしのいちばんまじめな心配なんです。でも、このことをお話しするのは、なにもわたしの心を軽くして、あなたの心を重くしようなんていうためじゃないの。そうじゃなくて、あなたがバルナバスのことをたずねていらっしゃるし、アマーリアもあなたに話すようわたしに頼んだからですわ。そして、くわしいことを知るのはあなたにも役に立つと思うからなの。またバルナバスのためにもこうやってお話ししているんです。あなたが弟にあまりに大きすぎる期待をかけないように、また弟があなたを失望させたり、次にあなたの失望で弟が悩んだりしないためになのよ。弟はとても神経質なんです。たとえばゆうべも眠らなかったんですよ、あなたがゆうべ弟に不満だったからですわ。あなたがバルナバスのような使いの者しかもっていないのは、あなたにとってひどくまずいことだって、あなたはいったということですね。この言葉が弟を眠れなくしてしまったんです。あなた自身はきっと弟の興奮に、たいして気づかなかったでしょうけれど。城の使者っていうものはとても自分を抑えなければならないんです。でも、弟にとってはそれはやさしいことじゃないんですわ。あなたの相手になるときだって、やさしいことではないんです。あなたはなるほどあなたのつもりでは弟に過大なことを要求しているわけじゃないんでしょう。あなたは使者の勤めについての一定の考えをもっていらっしゃるんだし、それによってあなたの要求を計っていらっしゃるんです。でも、城では人びとは使者の勤めについてあなたとはちがった考えをもっているんですの。その考えはあなたのとは一致するはずがありませんわ。バルナバスが勤めのために身を犠牲にしたとしても、だめでしょう。ところで、弟は困ったことにときどき身を犠牲にする用意があるように見えます。もっとも、バルナバスのやっていることがほんとうに使者の勤めなのだろうか、という疑問さえなかったら、弟のやることに従わないわけにいかないだろうし、それに対して何もいってはいけないでしょう。もちろん、あなたに向ってはそのことについての疑いを口にしてはいけないんです。そんなことをするなら、弟にとっては弟自身の生存の基盤を掘り返してしまうことを意味するでしょうし、自分がまだ従っていると信じているいろいろな掟《おきて》を乱暴に傷つけることになるでしょう。そして、わたしに対してさえも弟は打ち明けてはくれないんです。お世辞をいったり、接吻をしてやったりして、わたしは弟の口からそうした疑いを聞き取らなければなりません。そして、弟は話してしまってからも、その疑いが疑いであることをみとめまいとして抵抗するんです。弟は何かアマーリアと共通なものを血のなかにもっているんですわ。わたしこそ弟の信頼しているただ一人の人間ですけれど、弟はわたしにみんな打ち明けて話すわけじゃありません。でも、わたしたち二人はクラムについてはときどき話します。わたしはまだクラムを見たことはありません。――あなたもご存じのように、フリーダはわたしがあまり好きじゃありませんし、クラムの姿を一度ものぞかせてはくれなかったんです――でも、もちろん、クラムの外見は村ではよく知られていますわ。何人かの人びとはあの人を見ましたし、みんながあの人について聞いています。そして、実際に見たところやうわさや、それにまたいろいろな底意から出ているにせものの評判や、そうしたことをまぜ合わせてクラムのイメージがつくり上げられてしまったんです。それはきっと根本的な特徴についてはほんものと一致しているんですわ。でも、ただ根本的な特徴についてだけなんです。そのほかはいろいろ変わるんですが、おそらくけっしてクラムのほんものの外見ほどには変わらないでしょう。あの人が村にやってくるときと、村を出ていくときとではちがうし、ビールを飲む前と飲んだあととではちがうし、起きているときと眠っているときともちがい、ひとりでいるときと人と話をしているときともちがうんです。そして、このことからわかることは、上の城ではほとんど根本的にちがっているにちがいないっていうことです。そして、村のなかだけでもかなり大きなちがいがあって、そのことが人に知らされています。身長、態度、肥りかた、髯なんかのちがいです。ただ服装については知られていることが幸い一致しています。あの人はいつも同じ服を着ています。長いすそをした黒の上衣です。ところで、もちろんこうしたちがいはけっして魔術なんかのために起こることじゃなくて、とてもわかりきったことですけれど、ただ見る人が置かれている瞬間的な気分、興奮の程度、希望とか絶望とかの無数の段階から生まれるんですわ。それに見る人だって、たいていはほんの一瞬間だけしか見ることが許されないんですもの。こういうことはみんな、バルナバスがしばしばわたしに説明してくれたことをそっくりそのままあなたにお話ししているんですわ。そして一般には、もし個人的に直接こうしたことにかかわりをもっているのでなければ、これで安心できるはずです。けれども、わたしたちは安心ができません。バルナバスにとっては、自分がほんとうにクラムと話しているのか、そうでないか、ということは死活の問題ですもの」
「私にとってもそれに劣らぬくらいの問題ですね」と、Kはいった。そして二人はストーブのそばの長椅子の上で前よりも身体をよせ合った。
 オルガのかんばしくないさまざまなニュースによって、Kは当惑してしまったが、それでも一つだけ埋合せになる点を見つけた。その埋合せになるというのは大部分は次の点にあった。つまり、少なくとも外面的に自分自身ととてもよく似た事情にある人間をここで見出したということ、つまり彼が仲間入りできるような人間、フリーダとのあいだのようにただ大部分の点でというのではなくて、多くの点でわかり合えるような人間をここに見出したということであった。なるほどKはバルナバスの使いの成功についての期待を次第に失ってしまっていたが、バルナバスの事情が上の城で悪くなればなるほど、それだけこの下の村では彼自身に近づくのだ。バルナバスとその妹のアマーリアとのようなこんな不幸な努力がこの村そのものから生まれ出ようなどということを、Kはこれまで一度も思ってもみなかったであろう。もちろんまだ事情はとても十分には説明されていないし、しまいにはまったく逆のほうへ向ってしまうかもしれなかった。オルガのある種の無邪気な人柄にすぐ誘惑されてしまって、バルナバスの誠実さのことも信じてしまうようなことがあってはならないのだ。
「クラムの外見についての話は」と、オルガは言葉をつづけた。「バルナバスはほんとうによく知っています。たくさんの話を集めたり、比べてみたりしました。おそらく多すぎるくらいですわ。また一度は自分でクラムの姿を村で馬車の窓越しに見ました。あるいは、見たと信じているんです。だから、あの人を見わける準備は十分にできているんですわ。ところが――あなたはこのことをどう説明なさるかしら?――バルナバスがある事務局へ入っていき、何人かの役人たちのうちの一人を示され、これがクラムなのだ、といわれたとき、クラムだと見わけることができなかったんです。そして、そののちも長いこと、その人がクラムだということになじむことができませんでした。で、今、あなたがバルナバスに、人びとがクラムについて抱いている普通の観念とあの人のほんとうの姿とがどの点でちがっているかとたずねても、弟は答えることはできません。それともむしろ、あなたに答えて、城でのあの役人のことをいろいろいうかもしれませんけれど、その弟がいうところとわたしたちの知っているクラムの姿とは、すっかり同じものになってしまうのです。『それなら、バルナバス』と、わたしはいうんです、『なぜ疑うの、なぜ自分を苦しめるの?』って。するとそれに対して、弟は眼に見えて苦しそうな様子で、城でのあの役人の特徴を数え上げ始めるんです。でも、弟はそうした特徴をありのままに話しているというよりは頭のなかで考え出しているように見えます。その上、そうした特徴はひどく取るにたらぬものなので――たとえば頭でうなずく特別なしぐさとか、あるいはただボタンをはずしたチョッキのこととかなんですわ――そんなものをまじめに受け取るわけにはいきません。わたしにもっと重要だと思われるのは、クラムがバルナバスと会うやりかたです。バルナバスはそのことをわたしにしばしば話してくれましたし、絵に描いて見せてくれさえもしました。普通、バルナバスは大きな事務室へつれていかれます。でも、それはクラムの事務局じゃありませんし、一人一人の役人の事務局なんかじゃないんです。その部屋は奥行きいっぱいに、壁から壁までとどいているたった一つの立ち机によって二分されています。その片方の狭いほうの部分は、二人の人間がやっとすれちがって歩けるくらいの広さですが、それが役人たちの部屋なんです。広いほうは、陳情者や見物人や従僕や使者などの部屋です。机の上にはページを開いて、大きな本が並んでのっています。たいていの本のところには役人たちが立って、それを読んでいるんです。けれども、いつまでも同じ本のところに立ちどまっているのではないのですが、本を交換するわけじゃなくて、場所を交換するんです。バルナバスにとっていちばんびっくりすることは、こうした場所の交換のときに、部屋が狭いため、役人たちがたがいに身体を押しつけ合ってすれちがっていかなければならないことだそうです。その大きな立ち机のすぐ前に低い小さな机があって、そこに書記たちが坐っていて、彼らは役人たちが望むときに口授によって書くのです。その有様にもバルナバスはいつでも驚いています。役人たちのはっきりした命令が下されるわけでもなく、また高い声で口授されるのでもないんです。口授が行われているなんてほとんど気がつかないくらいで、むしろ役人は前と同じように本を読んでいるように見えるんですが、ただその場合に、役人がそれでも何かささやいて、書記がそれを聞いているというわけです。しばしば役人があんまり低い声で口授するものですから、書記は坐っていてはそれを全然聞き取ることができないので、そこでいつでも跳び上がっては相手が口授していることを聞き取ろうとし、つぎに急いで坐ってそれを書き取り、今度はまた跳び上がる、というふうにつづくんです。なんて奇妙なんでしょう! ほとんどわけがわからぬくらいですわ。むろんバルナバスにはこうしたいっさいをながめている時間があります。というのは、弟はクラムの眼にとまるまで、そこの見物人の部屋に何時間でも、ときどきは何日でも立っているんです。そして、クラムがすでに弟を見て、バルナバスが気をつけの姿勢に身体を正しても、まだ何も決定が下されたわけじゃないんです。というのは、クラムはまた弟から本へと眼を転じ、弟のことを忘れてしまうかもしれないんですわ。そういうことはしょっちゅうあるそうですの。でも、そんなに重要でない使者の勤めなんてどんなものなんでしょうね? バルナバスが朝早く、これから城へいくんだ、っていうと、わたしは悲しくなります。このおそらくはまったく無益と思われる道、このおそらくはむだに失われる一日、このおそらくはむなしい期待。そんなすべてはいったいどんなものなんでしょう? そして、家には靴屋としての仕事がたまっているんですわ。それはだれもやるものがなくて、それをやるようにってブルンスウィックにせき立てられるんです」
「なるほどね」と、Kはいった。「バルナバスは、命令をもらうまで、長いあいだ待たなければならないんですね。それはよくわかることだ。ここでは使用人があり余っているようだからね。だれもが毎日、何か命令をもらうわけにはいかないんだから、それについてあなたたちは嘆く必要はないですよ。きっとだれでもそうなんだから。でも、しまいにはバルナバスも命令をもらうでしょうよ。私自身のところへ弟さんはもう二通の手紙をもってきましたよ」
「ほんとうにそうかもしれませんわ」と、オルガはいった。「わたしたちが嘆くのはまちがっているのかもしれないんだわ。とくに私はそうね。わたしったら、すべてをただ耳で聞いて知っているだけなんだし、また女の身ではそれをバルナバスのようによく理解できませんもの。それに弟はまだたくさんのことをわたしにはいってないんですものね。ところで、手紙のことがどうなっているか、たとえばあなた宛の手紙がどうなっているのか、ということをまあ聞いて下さいな。そうした手紙は直接クラムからもらうんじゃなくて、書記からもらうんです。任意の日、任意の時間に――そのために使者の勤めは、どんなにやさしく見えても、とても疲れるんですわ。だってバルナバスはいつでも注意していなければならないんですもの――書記がバルナバスのことを思い出して、弟に合図をするんです。クラムがそのことを命令したのでは全然ないらしいんですの。クラムは静かに本を読んでいます。もっとも、ときどきは(でも、これはふだんでもしばしばやるんですけれど)、クラムはバルナバスが入っていくとちょうど鼻眼鏡をふいています。眼鏡をふきながら、おそらくバルナバスをじっと見ます。もっとも、クラムが鼻眼鏡なしでものが見えるとしてのことですが。バルナバスは鼻眼鏡なしでは見えないんじゃなかろうか、って疑っていますわ。クラムは眼鏡をはずしているときは、両眼をほとんど閉じて、眠っているように見えるし、ただ夢のなかで鼻眼鏡をふいているように見えるんですもの。で、そうしているうちに書記が机の下にあるたくさんの書類や書簡類から、あなたに宛てた一通の手紙を取り出します。ですから、それは書記がちょうど今書き終った手紙なんかじゃなくて、むしろ封筒の外見からいうと、すでに長いあいだそこで眠っていたとても古い手紙なんですわ。でも、古い手紙なら、なぜバルナバスをそんなに長いこと待たせるんでしょうね? それからあなたもね? そして、もう一つ、その手紙もね。というのは、手紙は今ではもう古びてしまっているんですもの。そして、そのためにバルナバスは、かんばしくないのろのろした使者だっていう悪評を立てられてしまいました。といって書記にとっては仕事は簡単で、バルナバスに手紙を渡し、『クラムからK宛だ』といいます。それでバルナバスは追い出されるわけです。ところで、それからバルナバスは息もつかずに、やっと手に入れた手紙をシャツの下の肌にじかにつけて、家へ帰ってきます。それからこの長椅子にわたしたち二人は今みたいに坐り、弟が話して聞かせ、わたしたちはいっさいのことを一つ一つ検討し、弟がなしとげたことの価値を計るんです。そして結局は、それがとてもちっぽけなことで、しかもそのちっぽけなことさえもどうもあやしいものだということがわかります。そこでバルナバスは手紙を投げ出してしまい、それを配達する気にもなれず、かといって寝にいく気にもなれないので、靴屋の仕事にとりかかって、一晩じゅうあの小さな椅子に坐ったまま夜を過ごすのです。K、こんなふうなんですわ。そして、これがわたしの秘密なんです。おそらくあなたはもう、アマーリアがわたしの秘密のことなどあきらめていることを、何も不思議とは思わないでしょう」
「で、手紙は?」と、Kがたずねた。
「手紙ですって?」と、オルガはいう。「そう、しばらくして、わたしがバルナバスをせき立てると(そのあいだに何日も何週間もたってしまうことがあるんですよ)、弟はやっと手紙を取り上げて、それを配達しに出ていきます。こうした外面的なたいしたことではない点については、弟はとてもわたしのいうままになるんですの。つまり、わたしは弟の話の最初の印象に打ち勝ってしまうと、また気を落ちつけることができるんです。弟はおそらくわたし以上に知っていることがあるため、気を落ちつけるということができないんですわ。そこでそうなるとわたしは、くり返してこんなことをいえるんですわ。『バルナバス、いったいあんたはどんなことを望んでいるっていうの? どんな経歴、どんな目標のことを夢見ているの? あんたはわたしたち、いやこのわたしをすっかり見捨てなければならないようなことにまでなることを望んでいるんでしょう? それがあんたの目標じゃないの? わたしはそう思わないわけにはいかないじゃないの。だって、そうじゃなければ、なぜあんたがこれまでになしとげたことにそんなに不満なのか、わけがわからないじゃないの。ねえ、まわりを見廻してごらんなさいな。わたしたちの隣人のあいだでだれがあんたほどまでになったっていうの? もちろん、あの人たちの状態はわたしたちのとはちがうし、あの人たちは自分たちの暮しから抜け出ようと努力するいわれなんかありません。でも、そんな比較なんかしなくとも、あんたの場合がいちばんうまくいっているんだって、見ないわけにはいきませんよ。いろいろな障害があることはあります。いろいろな疑わしいことやいろいろな幻滅もあります。しかし、それはただ、わたしたちがもう前から知っていたこと、つまり、あんたは人から何一つもらったりはできないのだということ、あんたはどんな小さなことでも一つ一つ自分で闘い取らねばならないのだということを意味するだけなのよ。けれどそれはむしろ誇っていい理由であって、打ちひしがれてしまう理由じゃないわ。そして、あんたはわたしたちのためにも闘っているのじゃないの? それはあんたにとっては全然意味がないの? あんたにはそのことで新しい力が少しも湧《わ》いてはこないの? そして、こんな弟をもっていることをわたしが幸福に思い、ほとんど得意にさえ思っていることは、あんたにはなんの確信も与えないの? ほんとうに、あんたが城でなしとげたことではなくて、わたしがあんたのそばでなしとげたことで、あんたはわたしを失望させるんだわ。あんたは城のなかへ入っていいのだし、事務局をいつでも訪ねていけるし、一日じゅうクラムと同じ部屋で過ごすし、公認の使者であって、役所の制服を請求することができるし、大切な書簡類をまかされてだっているわ。そういうすべてをあんたはやっているし、そういうすべてをあんたは許されているんです。ところが、この村に下りてくると、わたしたちは幸福のあまり泣いて抱き合うことをしないで、わたしを見るとあんたからはすべての勇気が抜けてしまうように見えるんだわ。あらゆることをあんたは疑い、靴屋の仕事だけがあんたの心をそそるというわけね。そして、わたしたちの未来を保証してくれる手紙のことはほっぽり放しにしておくんだわ』こんなふうにわたしは弟にいってやるんです。そして、わたしがこんなことを何日もくり返したあとで、弟は溜息をもらしながら手紙を取り上げて出ていくんです。でもそれはおそらく私の言葉がそうさせるわけでは全然なくて、ただ駆り立てられるように城へひきつけられていくんですわ。命令されたことをやりとげないでは、城へいく気にはとてもなれないでしょうからね」
「でも、あなたが弟さんにいうことは、みんなもっともじゃありませんか」と、Kはいった。「あなたはみごとに正確にいっさいのことを要約しましたね。あなたの考えかたはなんて驚くほど[#「驚くほど」は底本では「驚くど」]明晰《めいせき》なんでしょう!」
「いいえ」と、オルガはいった。「あなたは思いちがいしているのよ。そしておそらくわたしは弟にもそんなふうに思いちがいさせているんです。いったい弟は何をなしとげたというんです。事務局に入ることが許されるけれど、それはけっして事務局のように見えないで、むしろ事務局の控室、いえ、控室でさえないんです。そして、そこには、ほんとうの事務局に入ることが許されないすべての人たちが引きとめられるんです。弟はクラムと話をします。けれど、その相手がクラムなのでしょうか。それはむしろ、クラムに少しばかり似ているほかの人なのではないでしょうか。おそらく秘書で、クラムに少しばかり似ていて、クラムにもっと似るようにと努力しており、クラムがやるように寝ぼけたような夢見ているような様子をしてもったいぶっている人なんでしょう。クラムの人柄のうちのこんな部分はいちばんまねしやすくて、まねしてみようとする人がたくさんいます。クラムの人柄そのほかの点については、そういう人びともむろん用心して指をふれないようにしています。そして、クラムのようにみんながあこがれていて、それでもまれにしか会えない人は、人びとの想像のなかではたやすくいろいろな姿を取るものです。たとえばクラムはこの村でモームスという駐在秘書を使っています。そう? あなたはあの人を知っていらっしゃるの? この人もとてもひかえ目にしています。わたしはこれまでに二、三度あの人を見ましたけれど。若い強そうな人です。そうでしょう? だからおそらくクラムには全然似ていません。それでも村には、モームスはクラムなのだ、クラム以外のだれでもない、と誓っている人たちだっているんです。こうして人びとは、自分の頭のなかの混乱をいよいよひどくしていっているのですわ。そして、城のなかでだってこれとちがうでしょうか。だれかがバルナバスに、あの役人がクラムなのだといいます。すると、ほんとうにその役人とクラムとの二人のあいだには似た点ができ上がるんです。でもその似た点はバルナバスがいつも疑っているものです。そして、すべてが弟の疑いを証明しているんです。クラムがこの一般の部屋でほかの役人たちのあいだに立ちまじって、鉛筆を耳に挾んで、もみ合いをやっているなんてはずがあるでしょうか。そんなことは全然ありそうもありません。バルナバスは、少し子供らしく、ときどき――でも、これは信頼できる気分なんです――いうのをつねとしています。あの役人はまったくクラムそっくりだ。もしあの人が自分の事務局で自分自身の机に坐って、その部屋のドアには彼の名前が書かれているならば、おれはもう疑いなんかもたないんだけれど、って。とはいっても、もしバルナバスが上の城にいるとき、すぐ何人かの人びとにほんとうの事情はどうなっているんだとたずねたなら、そのほうがずっと分別があることになるんですけれど。弟のいうところによると部屋のなかには十分たくさんの人がいるんですもの。そうすれば、その人たちのいうことは、何もきかれないのにバルナバスにあれがクラムだと教えた人のいうところよりはずっと信頼できるものでないにしても、少なくともその人たちがいっているさまざまなことからなんらかの拠《よ》りどころか折り合えるところかが出てくるにちがいありませんわ。これはわたしの思いつきでなく、バルナバスの思いつきなんですが、弟はそれを思いきって実行することができません。自分の知らない規則をどうかして思わずも犯してしまって、自分の地位を失うのではないか、という恐れからだれにも思いきって話しかけられないんです。それほど自分の地位が不安定だと感じているんですわ。このほんとうはみじめな不安定さが、どんな言葉よりもはっきりと弟の立場をわたしにさとらせるんです。こんな無邪気な質問のために思いきって口を開けないでいるときには、城でのすべては弟にとってどんなに疑わしく、おびやかすように見えることでしょう。わたしはそのことを考えてみると、わたしが弟をあの見知らぬ部屋部屋にほっておくのはお前に責任があるのだって自分を責めるんです。あそこでの事の進みかたののろさは、臆病というよりはむしろ無鉄砲な弟でさえおそらくふるえるくらいのものなんです」
「ここであなたはとうとう決定的な点まできたようですね」と、Kはいった。「つまりこうなのです。あなたが語ったすべてによると、今でははっきり私にもわかるように思います。バルナバスはこの任務のためには若すぎるんです。弟さんが語ることは何一つ、そのまままじめに取ることはできませんよ。上の城では弟さんは恐れのために消えてなくなるようなので、あそこではよく観察することができません。そして、それなのに城から下りてきて、ここで話すよう無理にいうと、混乱したおとぎばなしを聞かされるということになってしまうんですよ。私はこれをちっとも不思議とは思いません。役所に対する畏敬というものは、この村のあなたがたには生まれついたときから身についたもので、さらに生涯にわたって、さまざまなやりかたで、またあらゆる側からふきこまれるし、あなたがた自身もできる限りそれに調子を合わせているんです。でも私は根本においてはそれに何も反対しません。もしある役所がいいものなら、なぜそれに畏敬の気持をもってわるいということがあるでしょうか。ただ、そうだとしても、バルナバスのような村の範囲から出たことがない経験の浅い若者を突然城へやり、彼からありのままの知らせを要求しようとしたり、彼の言葉の一つ一つを啓示の言葉のように受け取って調べたり、その言葉の解釈に自分自身の生活の幸福をゆだねたりしてはならないんです。むろん私もあなたと同じように、弟さんのことを思いあやまって、あんまり期待をかけたものだから、弟さんに幻滅を味わわされることになったのです。どちらにしたって、ただ彼の言葉に根拠を置いたのです。つまりほとんど根拠をもたなかったわけです」
 オルガは黙っていた。Kはつづけていった。
「私にとっては、弟さんに対する信頼という点であなたをぐらつかせることはやさしいことではありません。なぜかっていうと、あなたが弟さんをどんなに愛し、あの人のことをどんなに期待しているか、ということがよくわかるからです。でも、あなたの弟さんに対する確信をゆるがさなければなりません。あなたの愛と期待のためになおさらそうなんです。というのは、考えてもごらんなさい。いつまでもあなたの背後には何かがあって――それがなんであるかは、私にはわかりませんが――バルナバスが[#「バルナバスが」は底本では「バルバナス」]なしとげたものではなくて、あの人に恵まれたものを完全に見わけることを妨げているじゃありませんか。あの人は事務局へ、あるいはお望みなら控室へ入っていくことが許されています。ところで、それは控室としますが、もっと先へ通じるドアがあって、もし才覚があれば乗り越えていくことができる柵もあります。たとえば私にとっては、この控室は少なくとも今のところは完全に近よりがたい場所です。バルナバスがどんな人とそこで話しているのかは、私にはわかりません。おそらく例の書記はいちばん下級の従僕なんでしょう。でも、彼がいちばん下の従僕であっても、彼はすぐ上の者のところへつれていくことができます。そこへつれていけないにしても、少なくともその人の名前をいうことができます。その名前をいうことができないにしても、自分が名前をいうことのできるだれかを教えることができます。そのクラムなる人物はほんとうのクラムとはほんのわずかでも共通なものをもってはいません。似ているというのは、興奮のためにめくらになったバルナバスの眼にだけそう見えるんでしょう。その男は役人たちのうちでいちばん下級の者かもしれないし、それどころか全然役人なんかじゃないのかもしれません。でもそんな男でもなんらかの仕事を机の下にもっていて、大きな本を開いて何かを読んでおり、何かを書記にささやき、長いあいだには彼のまなざしがバルナバスの上に落ちるときに、何かを考えているんです。そして、こうしたすべてがほんとうではなく、その男とその男の行為とが全然なんの意味ももたないとしても、それでもだれかがその男をその地位にすえたのであって、そんなことをやったのは何か意図をもっていてのことにちがいありません。こうしたすべてによって、何かがそこにあり、何かがバルナバスにさし出されているのだ、少なくとも何かがそうなのだ、といいたいと思います。そこで、バルナバスがその何かによってただ疑惑や不安や絶望以外に何も手に入れられないとするなら、それはただ弟さん自身の罪なんですよ。そして、こう考えてきたのは、まだやはりとてもありえないと思われるようないちばん不利な場合から出発しての話ですよ。というのは、私たちは手紙を手に入れているんですからね。その手紙を私はなるほどたいして信用してはいないけれど、それでもバルナバスの言葉よりもずっと信用していますよ。それが無価値な古い手紙で、まったくそれと同じように無価値な手紙の山のなかから手あたり次第に引き抜かれたもので、任意の一人の男の運勢を山のようなおみくじのなかからついばんで引き出すために、歳《とし》の市でカナリヤを使うぐらいにしか頭を使わないで、手あたり次第に引き抜かれた手紙であるとしても、これらの手紙は少なくとも私の仕事とかかわりをもっているんです。おそらくは私の利益のために宛てられてきたものでなくとも、明らかに私に宛てられたものなのです。それに村長とその奥さんとがうけ合ったところによると、クラム自身の手でつくり上げられたもので、ふたたび村長の言葉によると、私的でほとんどはっきりしない意味ではあるけれど、ともかく大きな意味をもっているものなんです」
「村長がそういったんですか?」と、オルガがたずねた。
「そうですとも。村長がそういったんです」と、Kが答えた。
「そのことをバルナバスに話してやりましょう」と、オルガは早口にいった。「それは弟をとても元気づけるでしょう」
「あの人は元気づけてなんかもらう必要はありませんよ」と、Kはいった。「弟さんを元気づけるということは、あの人のいうことは正しいのだ、ただ今までのやりかたを貫いて前進していくべきだ、とあの人にいうようなものです。だが、まさにこのやりかたでは弟さんはけっして何かをなしとげることはできないでしょう。両眼に繃帯《ほうたい》した人に向って、繃帯を通して眼をじっとこらすようにといくら元気づけたところで、その人はけっして何かを見ることはできませんからね。繃帯を取り除いてはじめてその人はものを見ることができるんです。バルナバスに必要なのは助力であって、元気づけることじゃないんです。まあ考えてもごらんなさい。あの上の城にはからみ合って解きほどすことのできない大きな役所があります。――私はここへくるまでは、その役所について大体の観念をもっていると思っていたんですが、そんなものはみんな、なんて子供らしいことだったんでしょう――つまりあそこには役所があって、バルナバスはそれへ向って歩んでいくのです。そのほかにはだれもいず、あの人だけで、かわいそうなくらいひとりぽっちです。もし一生のあいだ姿を消して、事務局の暗い片隅にうずくまりつづけるというようなことにならなければ、それだけでもあの人の身に余る名誉なんですよ」
「K、あなたは」と、オルガはいった。「わたしたちがバルナバスの引き受けた任務のむずかしさを過小に評価していると思わないで下さい。役所に対する畏敬では、わたしたちに欠けるところはありません。それはあなた自身がおっしゃったことだわ」
「でも、それは迷わされた畏敬というものですよ」と、Kはいった。「おかどちがいの畏敬です。そうした畏敬は対象の品位を傷つけるものですね。バルナバスがあの部屋へ入る許可を濫用して、あそこで何もしないで毎日を過ごすとか、あるいは村へ下りてきて、今まで身体をふるわせながら向っていた人たちを疑ったり、けなしたりするとか、また弟さんが絶望のためか、それとも疲労のためか、手紙をすぐ配達しないで、自分にまかされた任務をすぐ果たさないとかいうのは、それでもまだ畏敬といえるでしょうか? それはおそらくもう畏敬などというものではないでしょう。ところで、この非難はもっと先まで、つまり、オルガ、あなたにまで及ぶんですよ。あなたを非難しないでおくわけにはいきません。あなたは役所に対して畏敬の気持をもっていると信じているのに、まだまだ若くて弱々しいバルナバスを、ただひとりほうり出して城へいかせた、少なくとも引きとめなかったんですからね」
「あなたがわたしに向ける非難は」と、オルガはいった。「自分でもとっくにわかっていますわ。とはいっても、わたしがバルナバスを城へやったということは、わたしには非難できないはずです。わたしが弟をやったのではなく、弟が自分でいったんです。でも、わたしはおそらくあらゆる手段で、力ずくでも、あるいは何かたくらみをやっても、または説得してでも、弟を引きとめるべきだった、とおっしゃるんでしょうね。わたしは弟を引きとめるべきだったのかもしれません。でも、もしきょうがあの決定的な日であって、わたしがバルナバスの困難、わたしたち家族の困難をあの日と同じように感じているとして、きょう、バルナバスがまたあらゆる責任と危険とをはっきりと意識して、微笑しながら静かにわたしのところから離れて出ていくなら、わたしはそのあいだにしたあらゆる経験があったってやはり弟を引きとめはしないでしょう。あなただって、もしわたしの立場にあったら、ほかにはしかたがないだろう、と思いますわ。あなたはわたしたちの困難をご存じないんです。そのために、あなたはわたしたち、ことにバルナバスに対して不当な扱いをされるんですわ。あのころはわたしたち、今よりも希望をもっていました。でも、あのころでも、わたしたちの希望はけっして大きなものではなかったんです。大きかったものはわたしたちの困難だけで、それは今もそのままつづいているんです。いったいフリーダはわたしたちについてなんにもいわなかったんですか?」
「ただほのめかしただけでしたよ」と、Kはいった。「はっきりしたことは何もいいませんでしたよ。でも、あなたの名前を聞いただけであれは興奮しますね」
「おかみさんも何も話しませんでしたか?」
「いや、何も」
「そのほかのだれも?」
「だれもなんともいわなかったですよ」
「もちろんそうですわ。だれだってどうして話せるものですか。だれでもわたしたちについて何かを知っています。ほんとうのことが人びとの耳に入るとしてのことですが、ほんとうのことか、少なくとも何か人から聞いたうわさか、あるいはたいていは自分で考え出した評判か、そんなものを知っています。そして、だれでも必要以上にわたしたちのことを考えています。でも、だれもそれを話したりはしないでしょう。そうしたことを口に出すことを遠慮するんです。そして、それももっともなんですわ。このことをお話しするのは、K、あなたに向ってでも、むずかしいことなんです。それに、あなたはこれを聞いてしまうと、よそへいき、それがどんなにあなたに関係がないように思われるにしろ、わたしたちについてもう何も知ろうなんて思わなくなるんじゃないでしょうか。そうなればわたしたちはあなたを失ってしまうわけです。あなたは今ではわたしにとっては、わたし告白するけれど、バルナバスのこれまでの城の勤めよりもほとんど大切なくらいなんですよ。それでも――この矛盾はすでに一晩じゅうわたしを苦しめているんですが――これをあなたに聞いていただかなければなりません。というのは、そうでないとあなたはわたしたちの置かれている状態がさっぱりわからなくて、いつまでもバルナバスに対して不当な態度を取ることでしょう。そして、それがとりわけわたしにはつらいことなんですわ。もしあなたがそれをご存じないとなると、わたしたちは必要な完全な一致をえられないでしょうし、あなたがわたしたちを助けて下さることも、わたしたちのほうからのなみなみでない助力をあなたが受けて下さることも、できないでしょう。でもまだ一つの問いが残っています。それは『いったいあなたはそれをお知りになりたいのですか』という問いです」
「なぜそんなことをきくんですか」と、Kはいった。「それが必要なことなら、それを知りたいと思いますよ。でも、なぜそんなことをきくんですか」
「迷信からですわ」と、オルガがいった。「あなたはわたしたちの事件に引きこまれてしまうでしょう、なんの罪もなしに、バルナバスよりもずっと罪があるわけでもないのに」
「早く話して下さい」と、Kはいった。「私はこわくなんかありません。それに、あなたは女らしい不安のために事態を実際よりもずっと悪く考えているんですよ」

アマーリアの秘密

「自分で判断して下さい」と、オルガはいった。「それに、それはとても簡単なように聞こえるんです。それが大きな意味をもちうるなんて、すぐにはわかりません。城には偉い役人でソルティーニという人がいます」
「その人のことはすでに聞きました」と、Kはいった。「その人は私の招聘《しょうへい》にかかわりがあったんです」
「そんなはずありませんわ」と、オルガがいった。「ソルティーニは大衆の面前にはほとんど現われないんです。ソルディーニとまちがえているんじゃないの、dと書く?」
「そのとおりです」と、Kはいった。「ソルディーニでした」
「そうです」と、オルガはいった。「ソルディーニはとても知られています。いちばん勤勉な役人の一人で、あの人のことはいろいろ話されています。それとはちがってソルティーニのほうはひどく引っこんでいて、たいていの人には知られていないんです。三年以上も前にわたしはあの人を見ましたが、それが最初の最後でした。七月三日の消防隊組合のお祭りのときでした。城もこれに参加して、新しい消防ポンプを一台寄贈してくれたんです。ソルティーニは仕事の一部として消防隊の件を扱っているということですが(でも、おそらくあの人はただ代表であそこに出ていたんだわ。たいてい役人たちはたがいに代表し合っていて、そのためにこの役人、あの役人というふうにそれぞれの管轄《かんかつ》を見わけることはむずかしいんです)、ポンプの引渡しに立ち会っていました。もちろんそのほかの人たちも城からきていました。役人とか従僕とかです。ソルティーニは、いかにもあの人の性格にふさわしく、すっかりうしろのほうに引っこんでいました。小柄で弱々しそうで、もの思いにふけっているようなかたなんです。この人に気がついたすべての人の眼にとまったことは、額にしわがよっているそのしわのよりかたなんです。すべてのしわが――あの人はきっと四十を越しているはずがないのに、大変な数のしわでした――つまり、扇形に額を越えて鼻のつけ根までのびていました。わたしはあんなのをまだ見たことがありませんでしたわ。ところで、そのお祭りでした。アマーリアとわたしとは、すでに何週間も前からそれを楽しみにしていました。晴着も一部分は新しくなおしておきました。アマーリアの服はきれいで、白いブラウスはレースの列をつぎつぎに重ねて、前のほうがふくらんでいました。母がそのために自分のレースをみんな貸してくれたんです。わたしはそのときそれがうらやましくて、お祭りの前の晩に夜の半分は泣いて明かしました。朝になって橋亭のおかみさんがわたしたちを見にやってきたときにはじめて――」
「橋亭のおかみですって?」と、Kがたずねた。
「そうです」と、オルガはいった。「あの人はわたしたちととても親しくしていたんです。で、あの人がやってきて、アマーリアのほうが得をしているとみとめないわけにいかなかったので、わたしをなだめるために、ボヘミヤざくろ石でつくった[#「つくった」は底本では「つくつた」]自分の首飾りをわたして貸してくれました。ところが、わたしたちが出かける支度をすっかりすませ、アマーリアがわたしの前に立ち、わたしたちがみんなアマーリアの姿を感心して見て、父も『私のいうことをおぼえておきなさい、きょうはアマーリアはおむこさんを手に入れるぞ』といったとき、わたしは自分が誇りにしていた例の首飾りをはずし、それをアマーリアの首にかけてやりました。もう全然うらやましくなんかありませんでした。わたしはあの子の勝利の前に頭を下げたんです。そして、だれでもあの子の前には頭を下げないではいられないだろう、と思いました。おそらく、あの子がふだんとはちがって見えたことが、そのときわたしたちを驚かしたんです。というのは、あの子はほんとうは美しくなんかないのですが、あのとき以来ずっともちつづけているあの子のあの暗いまなざしがわたしたちの頭上高くを超えていくので、わたしたちはほとんどほんとうに、思わず知らず彼女の前に頭を下げないではいられないのでした。みんなそれに気づきました。わたしたちを迎えにきたラーゼマンの夫婦もです」
「ラーゼマンですって?」と、Kはたずねた。
「そうよ、ラーゼマンよ」と、オルガはいった。「わたしたちはとてももてはやされました。たとえばお祭りもわたしたちがいなければうまく始まらなかったことでしょう。というのは、父は消防隊の第三指揮者だったんです」
「お父さんはまだそんなに元気だったんですか」と、Kはたずねた。
「父ですか?」と、オルガはKのいうことがよくわからないかのように、いった。「三年前はまだいわば若者といってもいいくらいでした。たとえば紳士荘の火事のときなど、身体の重いガーラターを背中に負って担ぎ出しましたわ。わたし自身あそこにいましたが、ほんとうは火事の危険なんかなかったんです。ただストーブのそばの薪が煙を出し始めただけでした。ところがガーラターがこわがって、窓から救いを求めて叫んだんです。そこで消防隊がきました。そして父は、もう火が消えていたのに、あの人を担ぎ出さなければならなかったんですわ。ところで、ガーラターは身動きがよくできない人ですから、こうした場合には用心しなければならなかったんです。わたしがこんなお話をするのはただ父のためになんですわ。あれから三年ぐらいしかたっていないのに、ごらんなさいな、父があそこに坐っている恰好を」
 そのときKはやっと、アマーリアがまた部屋にもどっているのに気づいた。しかし、彼女は遠く離れて両親のテーブルのところにいて、リューマチのため両腕を動かすことのできない母親にものを食べさせながら、父親に向っては、もう少し食事をしんぼうして下さい、すぐお父さんのところへいって食べさせてあげますから、というのだった。しかし、彼女がたしなめても効果はなかった。というのは、父は自分のスープにありつこうとひどくがつがつして、自分の身体の弱さに打ち勝ち、あるいはスープをスプーンですすろうとしたり、あるいは皿から直接飲もうとしたりして、どちらもうまくいかないので不機嫌そうにうなっていた。スプーンは口のところへくるずっと前から空《から》になり、口までとどくためしがない。ただいつでもたれ下がっている髯《ひげ》がスープにひたって、スープのしずくが四方へたれたり、飛び散ったりして、口のなかへだけはどうしても入らない。
「三年の年月がお父さんをあんなにしてしまったんですか」と、Kはたずねた。しかし、彼はなお老夫婦とそこの片隅の家族のテーブルにくりひろげられている情景とに対して少しも同情はもたず、ただ嫌悪だけをおぼえるのだった。
「三年の年月なんです」と、オルガはゆっくりいった。「あるいは、もっと正確にいうと、あのときのお祭りの二、三時間なんです。お祭りは村はずれの牧場の小川のほとりでやられました。わたしたちがついたときには、もう大変な人ごみでした。近くの村からもたくさんの人がやってきました。さわぎでみんな頭がぼーっとなっていました。もちろんわたしたちはまず、父につれられて消防ポンプのところへいきました。父はそれを見ると、よろこびのあまり笑いました。新しいポンプが父をすっかりよろこばせたのです。父はポンプにさわって、わたしたちに説明し始めました。ほかの人たちが反対したりとめようとしても、父はいうことをききません。ポンプの下に何か見るべきものがあると、わたしたちはみんなしゃがんで、ほとんどポンプの下へはいこむくらいでした。そのときこばんだバルナバスは、そのためになぐられました。ただアマーリアだけはポンプには眼もくれず、あの子のきれいな服にくるまってまっすぐ立っていました。だれ一人、あの子に何かいおうとする者もいません。わたしはときどきあの子のところへ走っていき、腕を取るのですが、あの子は黙っていました。わたしはどうしてそんなことになったのか今でもまだわからないのですが、長いことポンプの前にいて、父がポンプから離れたときになってはじめてソルティーニに気づきました。あの人はすでに長いことポンプのうしろでポンプのてこ[#「てこ」に傍点]にもたれていたらしいのでした。そのころには、むろんおそろしいさわぎで、普通のお祭りのさわぎだけではなかったんです。つまり、城は消防隊に何本かのトランペットも寄贈してくれたのでした。これがまた、ちょっと力を入れて吹いただけで(子供でもできたでしょう)、ひどくすさまじい音を出すことができる楽器でした。それを聞くと、トルコ軍がすぐそこまできているのだ、と思われるくらいでした。そして、そんな音にみんな慣れることができず、新しく吹くたびに身体をちぢみ上がらせていました。新しいトランペットだったために、みんながためしに吹こうとしましたし、民衆のお祭りなもんですから、それも許されたのでした。ちょうどわたしたちのまわりには、おそらくアマーリアがその人たちをひきよせたのでしょうが、そういう吹き手が何人かいました。こんなところで気持を落ちつけているのはむずかしいことでした。そして、父の命令によって注意をポンプに向けていなければならないのでしたから、およそ人がなしうる極限の状態でした。そのため、異常なくらい長いあいだ、ソルティーニはわたしたちの眼にとまらなかったんです。それに、わたしたちはそれまでにあの人に全然会ったことがなかったんです。『あそこにソルティーニがいる』と、とうとうラーゼマンが父にささやきました。――わたしはそのそばに立っていたんですの――父は深くお辞儀をし、興奮してわたしたちにもお辞儀をするように合図をしました。父はそれまでソルティーニを知りませんでしたが、ずっと前からソルティーニを消防隊の件の専門家として尊敬しており、家でもしょっちゅうこの人のことを話していました。それで、今ソルティーニを実際に見るということは、わたしたちにとっては大変な驚きであり、また意味の大きいことだったわけです。ところが、ソルティーニはわたしたちのことなんか、気にもかけませんでした。――これはソルティーニの特別な性質なんかじゃなく、たいていの役人は人なかではそんなふうに無関心に見えるんです――それに、あの人は疲れてもいました。ただ職務上の義務があの人をこの下の村に引きとめていたわけです。こうした役所を代表する義務をとくに気が重いものと感じるのは、むしろいい役人なんですわ。ほかの役人や従僕たちは、もうここへきてしまったものですから、大衆のあいだにまじっていました。ところが、ソルティーニはポンプのそばにとどまって、何か頼みごとかお世辞をいってあの人に近づこうとする人たちにただ沈黙で答えて、追い払っていました。そんなふうにして、あの人はわたしたちがあの人に気づいたあとになって、わたしたちに気づいたのでした。わたしたちがうやうやしくお辞儀をし、父がわたしたちのことを詑びようとしたときになって、はじめてあの人はわたしたちのほうをながめ、疲れたような様子でわたしたちをつぎつぎと見ていきました。あの人はわたしたちがつぎつぎと並んでいるのを見て、溜息をもらしたようでしたが、最後にアマーリアのところまでくると、視線がとまりました。アマーリアを仰ぎ見なければなりませんでしたのよ。というのは、アマーリアのほうがあの人よりもずっと大きかったんですもの。すると、あの人はびっくりして、アマーリアへ近づこうとしてかじ棒を跳び越えました。わたしたちははじめその動作を誤解して、父に引きつれられてみんなであの人に近づこうとしました。ところが、あの人は手を上げてわたしたちを押しとどめ、それから、そこを立ち去るように合図しました。それだけの話でした。それから、わたしたちは、あんたはほんとうにおむこさんを見つけたんじゃないの、といってとてもアマーリアをからかいました。無分別のために、わたしたちはその午後のあいだじゅうとても愉快にさわぎました。ところが、アマーリアは前よりも無言でした。『あの子はすっかりソルティーニに惚《ほ》れてしまったんだ』と、ブルンスウィックがいいました。あの人はいつでも少し粗野で、アマーリアのような性質の人間に対しては理解する力をもっていないんです。ところが、そのときはあの人のいうことがほとんど正しいように思われました。そもそもわたしたちはあの日、はめをはずしていたんですわ。そして、真夜中すぎに家に帰ったときには、アマーリアを除いて、みんな甘い城のお酒で身体が麻痺してしまったようになっていました」
「それでソルティーニは?」と、Kはたずねた。
「そう、ソルティーニね」と、オルガはいった。「わたしはお祭りのあいだに通りすがりに何度もソルティーニを見ました。あの人はかじ棒に腰かけて、胸の上で腕を組み、城の馬車が迎えにくるまでそのままの恰好でいました。消防演習を見には一度もいきませんでした。そのとき父は消防演習で、まさにソルティーニに見られているという期待で、同じ年齢の男の人たちよりも目立っていました」
「それで、あなたがたはもうソルティーニのことを聞かなかったんですか」と、Kはたずねた。「あなたはソルティーニに対して大きな尊敬を抱いているように見えますね」
「そう、尊敬だわ」と、オルガはいう。「そうですわ。わたしたちはあの人のことをもっと聞きました。次の朝、わたしたちはお酒のあとの眠りから、アマーリアの叫び声で眼をさまされました。ほかの者はすぐまたベッドへもぐりこみましたが、わたしはすっかり眼がさめてしまって、アマーリアのところへかけつけました。あの子は窓のところに立って、一通の手紙を手にしているんです。その手紙はちょうど今一人の男が窓越しに手渡したところだったのです。その男はまだ返事を待っています。アマーリアはその手紙を――それは短かったんです――もう読み終えて、だらりと下げた手のなかにつかんでいました。あの子がこんなふうに疲れきったような様子でいるときは、いつでもわたしにはどんなにあの子をかわいいと思ったことでしょう。わたしはあの子のそばにひざまずいて、そのままの恰好で手紙を読みました。わたしが読み終えるやいなや、アマーリアはわたしをちらりと見たあとで、その手紙をまた取り上げましたが、それをもう読む気になどはならないで、引き裂いてしまい、その紙切れを窓の外の男の顔めがけて投げつけ、窓を閉めてしまいました。これがあの決定的な朝のことだったんです。わたしはあの朝のことを決定的といいましたが、じつは前の日の午後のどの瞬間も同じように決定的だったんです」
「で、手紙にはなんと書いてあったんです?」と、Kがたずねた。
「そうね、それをまだお話ししませんでしたわね」と、オルガはいった。「手紙はソルティーニからきたもので、ざくろ石の首飾りをつけた少女へ、という宛名になっていました。その内容はもうそのままいうことはできませんわ。それは、紳士荘の彼のところへくるようにという要求でした。しかも、アマーリアはすぐくるように、というのはソルティーニは半時間以内に出かけなければならないのだ、ということでした。手紙は、わたしが聞いたこともないような下品な表現で書いてあり、ただ全体の関連から半分ほど推量できただけでした。アマーリアのことを知らないで、ただこの手紙だけを読んだ人は、だれかがこんなふうに書く気になった娘ならば堕落した女にちがいない、ときっと考えることでしょう。ほんとうはその子がまったく純潔であったとしてもですよ。そして、あの手紙は恋文なんかではなかったのです。それにはくすぐるような言葉なんか書かれていませんでした。ソルティーニはむしろ、アマーリアを見たことがあの人の心を捉えてしまい、あの人を仕事から離してしまったというので、怒っているらしかったんです。わたしたちはあとになってこの手紙を次のように解釈したんです。ソルティーニはおそらく夕方すぐ城へ帰ろうと思ったんですが、ただアマーリアのために村に残ってしまい、次の朝になって、その夜アマーリアのことを忘れることができなかったことを大いに怒りながら、あの手紙を書いたらしいんです。あの手紙に対しては、どんな冷血漢でもはじめは腹を立てたにちがいありません。でも、そのあとでは、アマーリア以外の者の場合なら、おそらくあの手紙の悪意あるおびやかすような調子に対して、不安な気持のほうが強くなったにちがいありません。ところがアマーリアの場合には、腹立ちだけがつづきました。あの子は、自分のためにも、他人のためにも、不安なんて知らないんですわ。そして、わたしはまたベッドにもぐりこみ、『それゆえ君はすぐくるように、そうでないと――!』という中断された結びの言葉をくり返していましたが、アマーリアは窓ぎわの腰かけ台に坐ったままでいて、まるであとの使いの者がやってくるのを待ち、やってくるどんな使いもはじめの使いと同じように扱ってやるつもりでいるというように、窓の外をながめていました」
「それが役人たちというものですよ」と、Kはためらいながらいった。「こんなお手本みたいなやつがあいつらのあいだにはいるんです。で、お父さんはどうなされたんですか? もし紳士荘へ押しかけて、手っ取り早くてもっと確実な手段のほうを選ばなかったとすれば、おそらく当局へ出頭して強力にソルティーニについて文句をいってやったことでしょうね。この事件でいちばん憎むべきことは、アマーリアに対する侮辱なんかじゃないんです。そんなものは簡単につぐなえますからね。なぜあなたがそんなことを過大に考えているのか、私にはわかりませんよ。どうしてソルティーニがそんな一通の手紙でアマーリアを永久に危険にさらしてしまったなどということがあるでしょう。あなたの話を聞いていると、そんなことを信じるかもしれませんからね。しかし、そんなことはありえませんよ。アマーリアにとっては名誉回復はたやすくできたはずですし、二、三日経てばその事件も忘れられたでしょう。ソルティーニはアマーリアを危険にさらしたのではなく、自分自身を危険にさらしたんです。そこで、私が恐れを感じているのは、ソルティーニと、権力のこうした濫用がありうるという可能性とに対してなんです。この場合には失敗したが、それは事がおそろしくあけすけにいわれ、完全に見えすいていて、アマーリアといううわ手の相手にぶつかったためで、同じような無数の場合、これよりも少しまずい場合には、こうしたことがうまうまと成功して、どんな他人の眼もごまかすことができるかもしれませんからね」
「静かに」と、オルガはいった。「アマーリアがこっちを見ているわ」
 アマーリアは両親に食事を与え終って、今度は母親の服を脱がせることにかかっていた。ちょうど母親のスカートをゆるめてやったところで、母親の両腕を自分の首のまわりにかけさせ、その身体を少しもち上げ、スカートをすべり落し、それから、ふたたびそっと椅子の上にのせてやった。父親のほうは、母親の世話が自分より先にやられるのが――これはただ、母親のほうが父親よりもどうにもならない状態にあるという理由だけでやられるらしかった――いつも不満で、おそらくまた、彼にはぐずだと思われる娘の仕事ぶりにあてつけてやろうとしてだろうが、自分で服を脱ごうとしていた。ところが、ただ足にぶかぶかにはまっているだけの屋内靴を脱ぐといういちばん不必要でいちばんやさしいことから始めたのに、どうしてもそれを脱ぐことがうまくいかない。そこで、喉をぜいぜいいわせながらそれをすぐやめ、また身体をこわばらせて自分の椅子によりかかった。
「あなたはいちばん決定的なことがわからないんですわ」と、オルガはいった。「すべてのことについてあなたのおっしゃるのはもっともかもしれないわ。でも、いちばん決定的なことは、アマーリアが紳士荘へいかなかったことです。あの子が使いの者をどんなふうに扱ったか、それはまだしもそのことだけとしてはなんとかなったかもしれません。それはもみ消されたことでしょう。けれども、あの子がいかなかったということによって、呪《のろ》いがわたしたちの一家にいい渡されてしまったんです。そして、そうなればもとより使いの者の扱いかただって許しがたいこととなってしまいました。そればかりか事が世間の前面に押し出されてしまったんです」
「なんですって!」と、Kは叫んだが、またすぐ声を落した。オルガが頼むように両手を上げたからだった。「姉さんであるあなたが、アマーリアはソルティーニのいうことをきいて、紳士荘へいくべきだった、なんていうんじゃありますまいね?」
「いいえ」と、オルガはいった。「そんな嫌疑はかけてもらいたくありませんわ。あなたはどうしてそんなことを考えることができるんでしょう? アマーリアのように、やることがみんなまったく正しいような人間は、わたしは一人だって知りませんわ。あの子が紳士荘へいったとしても、わたしはむろんあの子が正しかったのだとみとめたことでしょう。でもいかなかったことは、英雄的な行いだったんですわ。わたしについていえば、あなたに正直に申しますけど、こんな手紙をもらったら、いったことでしょう。わたしはそれから起こることに対する恐れに我慢できなかったことでしょう。そんなことができたのはアマーリアだからこそですわ。たしかにいろいろな逃げ道がありました。ほかの女ならたとえばほんとにきれいに身を飾っていき、そんなことでしばらくの時間が過ぎたことでしょう。それから紳士荘へいってみて、ソルティーニは出発した、おそらく使いの者を送り出したすぐあとで、自分も出発したのだ、というようなことを聞くことになったかもしれません。それも大いにありそうなことですわ。だって城のかたたちの気分というのはとても変わりやすいんですもの。でもアマーリアはそんなことも、それと似たようなこともしませんでした。あの子はあまりに深く感情を害し、少しも保留なしできっぱり答えました。なんとか表面だけでもいうことをきいて、紳士荘の敷居をあのときまたいでいたら、こんな禍いは避けられたでしょう。この村にはとても頭のいい弁護士たちがいます。この人たちは人のおよそ望むことをなんでも無からつくり出すことを心得ていますが、この事件においては、そういう有利な無というものもけっして存在しなかったんです。反対に、あったことというと、ソルティーニの手紙を冒涜《ぼうとく》したということと、使者を侮辱したということなんですの」
「いったい、どんな禍いなんです」と、Kはいった。「どんな弁護士たちなんです? ソルティーニの犯罪といっていい行状のためにアマーリアを告訴したり、あるいは罰しまでするなんてできるはずがないじゃありませんか?」
「ところが」と、オルガはいった。「それができたんです。むろん法にのっとった訴訟によってではなく、またあの子は直接罰せられたわけでもありませんが、別な方法であの子もわたしたち一家全体も罰せられました。そして、この罰がどんなに重いかということは、あなたもきっと今やっとわかりかけてきたことでしょうね。あなたにはその罰が不当で途方もないように思われるんでしょうけれど、それは村では完全に孤立した意見なんですわ。あなたの考えはわたしたちにとっても好意的で、わたしたちを慰めるはずのものかもしれません。また、もしそれが明らかにいろいろなまちがいからきているのでなかったら、ほんとにそうしてくれたことでしょうに。わたしはあなたにこのことをたやすく説明できますわ。その場合にフリーダのことをいっても、許して下さいね。でも、フリーダとクラムとのあいだには――最後にどうなったかということを除けば――アマーリアとソルティーニとのあいだとまったく似たようなことが起ったんですわ。ところがあなたは、はじめのうちはびっくりしたかもしれませんが、今ではそれを正しいと思っているじゃありませんか。それは慣れなんかじゃないんです。単純な判断が問題なとき、人は慣れなんかによってはそんなに感覚をにぶくされることはありません。それはただいろいろなあやまりを取り除いただけの話なんです」
「そうじゃない、オルガ」と、Kはいった。「なぜあなたがフリーダをこのことにもち出すのか、私にはわからない。場合がまったくちがうはずだ。そんなに根本からちがうことを混同したりなんかしないで、もっと先を話してくれたまえ」
「どうか」と、オルガはいった。「まだこの比較をやるのだとわたしがいっても、悪くは取らないで下さい。あなたがあの人のことを比較なんかされないように弁護してやらねばならないと思うなら、フリーダのことについてもまだあやまりが残っているんですわ。あの人は弁護なんかされる必要は全然なくて、ただほめられるはずなんですから。わたしがこの二人の場合を比較するといっても、その二つの場合が同じだなんていうんじゃありませんわ。それはたがいに白と黒とのようにちがっていて、白がフリーダなんです。いちばん悪くとも、フリーダについては人は笑うことができるだけです。ちょうどわたしが不作法にも――わたし、あのことをあとでとても後悔したわ――酒場でやったようにね。でも、この場合笑う者でさえ、すでに悪意をもっているか、嫉妬しているかなんです。いずれにしろ、人は笑うことができます。ところが、アマーリアは、もし人があの子と血でつながっていなければ、ただ軽蔑することができるだけです。それだから、あなたのいったように、根本からちがった二つの場合なんですが、それでもやはりこの二つは似ているんです」
「似てもいないさ」と、Kはいって、不機嫌そうに頭を振った。「フリーダのことは別にしてくれたまえ。フリーダは、アマーリアがソルティーニから受け取ったようなそんなきたならしい手紙を受け取りはしなかったし、フリーダはほんとうにクラムを愛していたんですよ。疑う者はあれにたずねたらいい。あれは今でもまだクラムを愛しているんですよ」
「でも、それが大きなちがいでしょうか」と、オルガはたずねた。「クラムはフリーダにソルティーニと同じように手紙を書くことはできなかった、なんてあなたは思っているんですか。城のかたたちは机から立ち上がると、そうね、世のなかのことはわからないんです。そこでぼんやりしたまま、ひどく粗野なことをいってしまうんです。みんなそうだというんじゃないけれど、多くのかたがそうなんです。アマーリア宛の手紙だって、ただ頭のなかだけで、ほんとうに書かれたことなんか全然無視してしまって、紙の上に書きなぐられたものかもしれないんです。城のかたたちが頭のなかで考えることなんて、わたしたちは何を知っているでしょうか! クラムがフリーダとどんな調子でつき合っていたのか、あなたは自分で聞くか、だれかから話しているのを聞くかしませんでした? クラムがとても粗野だっていうことは、よく知られています。人のいうところによると、あの人は何時間でも口をきかないかと思うと、突然、人をぞっとさせるようなことをいうそうです。ソルティーニについてはそんなことは知られていません。だってあの人はおよそ人に知られていないんですもの。ほんとうはあの人について人が知っていることといえば、ただあの人の名前がソルディーニと似ているっていうことだけなんです。この名前の類似がなかったならば、おそらくあの人のことは全然わからないでしょう。消防隊の専門家と思っているのだってきっとソルディーニと混同しているんだわ。ソルディーニはほんとうにそのほうの専門家で、名前の似ていることを利用し、ことに役所を代表する義務をソルティーニに背負わせ、じゃまされないで仕事をつづけようとしているんですわ。そこでソルティーニのような世間を知らない男が突然村の小娘に対する恋心に捉われてしまうと、それはもちろんそこいらの指物師の若い者が惚れたのとはちがった形を取るものです。それに、役人と靴屋の娘とのあいだにはなんとかして橋渡しされなければならない大きな距たりがある、っていうことも考えなければなりません。それでソルティーニはあんなやりかたでその橋渡しをしようとしたので、ほかの人なら別なやりかたでやったかもしれません。わたしたちはみんな城に属しているので、距たりなんかないし、何も橋渡しなんかすることはないのだ、といわれていますし、それはおそらく普通の場合にはあてはまるでしょう。でも残念なことに、そのことが問題になると、それが全然そうはいかないのだ、ということを見る機会をわたしたちはこれまでずっともってきました。ともかく、すべてをお聞きになったあとでは、ソルティーニのやりかたがもっと理解できるようになり、前ほど途方もないものとは思えなくなるでしょう。実際、ソルティーニのやりかたは、クラムのと比べると、ずっと理解できるもので、たといまったく身近かにそれと関係をもっても、ずっと我慢できるものなのですわ。クラムがやさしい手紙を書くと、それはソルティーニのいちばん粗野な手紙よりも人を苦しめるものになります。こう申しているわたしの言葉を正しくわかって下さいな。わたしは何も、クラムについて判断を下そうなどとしているんじゃありません。わたしが比較をやっているのは、ただあなたが二つの場合を比較することを拒んでいるからなのです。クラムは女たちの指揮官のようなものですわ。あるいはこの女に自分のところへくるように命令し、あるいは別な女にくるように命令し、どちらにも長つづきはしないで、くるように命じるのと同じように出ていくように命じます。ああ、クラムなら、はじめに手紙を書くというような骨折りは全然しないでしょう。そして、それに比べると、まったく引っこんで暮らしていて、少なくとも婦人関係のことなどまったく知られていないあのソルティーニが、椅子に腰かけ、役所流のきれいな書体で書かれてはいるけれどいやらしい例の手紙を書くということは、やっぱり途方もないことでしょうね。そして、この場合どんなちがいもクラムにとって有利なものでなく、反対にソルティーニにとって有利なものだとしたら、それはフリーダの愛のせいなんでしょうか。女の人たちの役人たちに対する関係は、判断するのがとてもむずかしいか、それともむしろとてもやさしいか、どちらかだとわたしは思うんです。この場合、愛が欠けていることなんかけっしてありません。役人の失恋なんてありません。この点からいうと、一人の娘がただ愛しているために役人に身をまかせたのだ――わたしはここでなにもフリーダだけのことをいっているんじゃありませんわ――といわれることは、けっしてほめ言葉なんかじゃないんです。その娘が役人を愛して身をまかせたというだけの話で、何もほめることなんかありません。でも、アマーリアはソルティーニを愛していなかった、とあなたは異論をおっしゃるでしょう。まあ、あの子はあの人を愛していませんでした。でもあるいは愛していたのかもしれません。だれがそんな区別をすることができるでしょうか。あの子自身だってできませんわ。あの子は、おそらく役人の一人がこれまでけっしてこんなふうにはねつけられたことはあるまいと思われるほど猛烈にあの人をはねつけたけれど、どうして自分はあの人を愛していなかったなんてあの子が思うことができるでしょうか。あの子は今でも、三年前に窓をばたりと閉めたときの心の動揺でふるえることがあるって、バルナバスがいっています。それはほんとうですし、それだからあの子にたずねたりしてはいけないんです。あの子はソルティーニとの関係をたち切ってしまったのであって、そのこと以外は何も知りません。自分があの人を愛しているかどうか、あの子にはわからないのです。でも、女の人たちというものは、役人が一度自分のほうを向くならば、その人を愛することよりほかにできることはないのだ、ということをわたしたちは知っています。それどころか、女の人たちはいくら否定しようとしても、役人たちをすでにはじめから愛しているのです。そして、ソルティーニはただアマーリアのほうを向いただけでなく、アマーリアを見たときにポンプのかじ棒を跳び越えたんですからね。あの人は机に向っての仕事でこわばっているあの脚でかじ棒を跳び越えたんですわ。でも、アマーリアは例外だ、とあなたはおっしゃるんでしょう。そうです、あの子は例外です。そのことは、ソルティーニのところへいくことを拒んだとき、証明しました。それはまったく例外です。でも、その上、アマーリアはソルティーニを愛したことなんかないのだ、というなら、それは例外として度がすぎるでしょう。そんなことはもうわからないのです。わたしたちはたしかにあの午後、眼を曇らせられてはいましたが、でもあのとき、あらゆるもや[#「もや」に傍点]を通してアマーリアの恋心をいくらか見て取れるように思ったのは、それでもいくらか正気を示したというものです。ところで、こうしたいっさいのことを併《あわ》せて考えると、フリーダとアマーリアとのあいだにどんなちがいがあるのでしょうか? ただ一つのちがいは、アマーリアが拒んだことをフリーダはやった、ということではありませんか」
「そうかもしれません」と、Kはいった。「でも私にとっては、主なちがいは、フリーダは私の婚約者だが、アマーリアのほうは、城の使者であるバルナバスの妹であって、あの人の運命はバルナバスの勤めといっしょにより合わされているという限りにおいてしか私とは関係がない、ということです、一人の役人があの人に対して、あなたのお話をうかがっているとはじめは私にもひどいと思われたようなあんな不正を働いたのであれば、私にとって大いに考えるべきこととなったでしょう。でも、それはアマーリアの個人的な悩みとしてよりも、むしろおおやけの問題としてです。ところが、あなたのお話をうかがったあとの今となっては、事件の様相は変ってしまいました。その変わりかたは、私にはどういうふうにして起ったのかどうもはっきりはわからないけれど、話しているのがあなたなんだから、十分信用していいはずですね。そこで私はこの件を完全に無視してしまいたいと思います。私は消防夫じゃなし、ソルティーニなんか私となんの関係がありますか。だがフリーダのことは気にかかります。ところで私に奇妙に思われるのは、あなたが、アマーリアについて話すという廻り道をしてフリーダをたえず攻撃しようとし、私にフリーダについて疑いを抱かせようとしていることです。あなたがわざと、あるいは悪意さえもってそんなことをやっているとは思いません。そうでなかったら、私はとっくにここから去ってしまったことでしょう。あなたは意図をもってわざとやっているわけでなく、いろいろな事情のためにそんなふうな結果になってしまうのです。アマーリアに対する愛情から、あなたはあの人をあらゆる女たちよりも高いところに置こうと思っています。そして、アマーリア自身のうちにこの目的にかなうような十分に賞讃すべきことを発見できないので、ほかの女たちにけちをつけることで自分の考えを立てようとするんです。アマーリアの行為は奇妙だけれど、あなたがこの行為について話せば話すほど、それが偉大だったかちっぽけだったか、賢明だったかばかげていたか、英雄的だったか卑怯だったか、いよいよきめかねるようになります。アマーリアは自分の行動の動機を胸にしまっておくので、だれだって彼女からそれを無理に聞き出すことはできないでしょう。それに反してフリーダはちっとも奇妙なことをやったわけでなく、ただ自分の心持に従ったんです。このことは、善意をもって彼女の心の相手になるようなだれにも、はっきりわかることです。だれにもそのことは確認できるし、うわさなんかする余地はありませんよ。しかし、私はアマーリアをおとしめようとしているのでも、フリーダを弁護しているんでもなく、ただ私がフリーダとどういう関係にあるかということ、フリーダに対するどんな攻撃も同時に私という人間の生存に対する攻撃だということをあなたにはっきりわからせようと思っているんです。私は自分自身の意志でここへやってきて、自分自身の意志でここにひっかかっているんですが、これまで起ったすべてのこと、そして何よりも私の将来の見込みというもの――その見込みはどんなに暗かろうと、ともかくちゃんとあるわけなんです――、そういうすべてを私はフリーダに負うているので、これを議論からのけるわけにはいきません。私はこの土地で測量技師として採用されたけれど、それはただ外見上だけで、私は人びとのおもちゃにされ、どの家からも追い出されました。きょうも私はおもちゃにされているわけです。でも、もっとやっかいなことは、私はいわばかさ[#「かさ」に傍点]を増して大きくなったようなもので、それだけでも相当なものです。私はこんなものがみんなどんなにつまらぬものであるとしても、すでに家も地位も実際の仕事ももち、婚約者ももっていて、この婚約者が、もし私にほかの仕事があるときは私の職務上の仕事をかわりに引き受けてくれます。私はその女と結婚し、村の一員になるでしょう。クラムに対して公的な関係のほかに、むろん今までのところでは利用できないでいるけれど、一種の私的な関係ももっています。これはまさかつまらぬものじゃないでしょう? 私があなたがたのところへくると、あなたがたはいったいだれに対して挨拶するんでしょう? あなたはあなたがたの一家の話をだれに打ち明けるんでしょう? だれからあなたはなんらかの助力の可能性を(それがどんなにちっぽけなありそうもない可能性であっても)期待しているのでしょう? まさかこの私からではありますまい。この私ときたら、たとえばほんの一週間前にラーゼマンとブルンスウィックとが力ずくで家から追い出した測量技師なんですからね。あなたがそんな助力を期待している男は、すでになんらかの力をもっているはずです。そして、私はその力をフリーダに負うているんですよ。フリーダはとても謙遜《けんそん》だから、あなたがそんなことをたずねようとするならば、きっとそんなことは少しも知らないと主張するだろうけれど。そして、あらゆることから考えてみて、あの無邪気なフリーダのほうがあのひどく高ぶっているアマーリアよりも多くのことをなしとげたように見えますね。というのは、いいですか、あなたはアマーリアのために助力を求めているのだ、という印象を私はもっています。そして、だれからですか? ほんとうはほかならぬフリーダからじゃありませんか?」
「わたしはほんとうにフリーダのことをそんなに悪くいったかしら?」と、オルガはいった。「たしかにそんなつもりじゃなかったんだし、またそんなことをしたとは思いませんわ。でも、そうかもしれないわね。わたしたちの状態は、まるで世界じゅうと不和になっているようなものなんです。そして、嘆き始めると、それに引きこまれてしまって、どこまでいくかわからないんですから。あなたのおっしゃることはもっともで、わたしたちとフリーダとのあいだには今では大きなちがいがあります。そして、それを一度強調してみるのはいいことよ。三年前にはわたしたちはちゃんとした市民の娘で、孤児のフリーダは橋亭の下女でした。あの人のそばを通りすぎるときには、あの人に眼もくれなかったものです。たしかにわたしたちは高慢でしたが、わたしたちはそんなふうに教育されていたんです。でも、あなたも紳士荘にお泊りになったあの晩に、現在の状態がよくわかったでしょう。フリーダは手に鞭をもち、わたしは下僕たちのむれのなかにいました。でも、それよりもっと悪いことがあるんですの。フリーダはわたしたちを軽蔑しているかもしれないんだわ。それはあの人の地位にふさわしいことで、実際の事情がそのことをしいるんです。でも、わたしたちのことをどうして軽蔑しない人がいるでしょう! わたしたちを軽蔑することにきめた人は、すぐ最大多数の仲間に入るんです。あなたはフリーダのあとをついだ女の子のことを知っている? ペーピーっていうんですわ。わたしはおとといの晩にはじめてあの子を知りました。それまであの子は客室つきの女中でした。あの子はたしかにわたしを軽蔑する点でフリーダ以上ですわ。わたしがビールを取りにいくのを窓のそばで見ていましたが、ドアのところへ走りよって、ドアを閉めてしまいました。わたし、長いこと頼んで、あの子に開けてもらうためには、自分が髪につけているリボンをあげる約束をしなければなりませんでした。ところが、わたしがそれをあげると、それを片隅へ投げてしまったんです。ところで、あの子がわたしを軽蔑するのも無理はありません。わたしはいくらかはあの子の好意をたよりにしているんですし、あの子は紳士荘の酒場の女給なんです。むろん、あの子はほんの臨時に女給になっているだけですし、あそこで引きつづき使われるに必要な適性というものをたしかにもっていません。あそこのご亭主があの子とどんなふうに話すか、聞いてみればいいわ。また、フリーダと話していたときの様子とそれを比較すればいいわ。でも、ペーピーはそんなことはかまわないで、アマーリアのことも軽蔑しています。アマーリアがちょっとにらみさえすれば、お下げ髪をしてリボンをつけているあのちっぽけなペーピーなんか、すぐ部屋から追い出してしまうでしょう。そして、あの子が自分の太い脚だけにたよっていたんでは、とてもやれないような速さでね。きのうもまた、あの子からアマーリアについて、なんという腹の立つようなおしゃべりを聞かなければならなかったことでしょう。とうとうお客さんたちがわたしを迎えにくるまで、聞かされたんです。お客さんが迎えにくるっていったって、むろん、あなたがごらんになったようなやりかたででしたけれど」
「あなたはなんてこわがりやなんだろう」と、Kはいった。「私はただフリーダを彼女にふさわしい場所に置いただけの話で、あなたが今思っているように、あなたたちのことをさげすもうと思ったわけじゃないんですよ。あなたがたの一家は私にとっても何か特別な意味をもってはいるが、そのことは私も隠しはしなかったはずですよ。でも、その特別な意味がどうして軽蔑のきっかけとなることができるのか、それは私にはわかりませんね」
「ああ、K」と、オルガはいった。「あなたもそれがわかるでしょうよ。それがこわいわ。ソルティーニに対するアマーリアの態度がこの軽蔑の最初のきっかけなのだ、っていうことをあなたはどうしてもわからないんですか?」
「でも、それはあんまり奇妙じゃないですか」と、Kはいった。「そのためにアマーリアをほめたり、けなしたりはできるだろうけれど、どうして軽蔑できるんです? そして、もし人が私にはわからない気持からほんとうにアマーリアを軽蔑しているなら、なぜその軽蔑をあなたたち罪のない一家の人たちにも及ぼすんだろう? たとえばペーピーが君のことを軽蔑しているということは、それはひどいことで、もし私がまた紳士荘にいったら、その仕返しをしてやるつもりですよ」
「もしあなたが、K」と、オルガはいった。「わたしたちを軽蔑している人たち全部の意見を変えようと思うなら、それは大変な仕事ですわ。だって、すべては城からきているんですもの。わたしはまだあの朝の事件につづいた午前のことをくわしくおぼえています。あのころわたしたちのうちで働いていたブルンスウィックが、いつものようにやってきました。父はあの人に仕事を割り当てて、家へ返してやりました。わたしたちはそれから朝食のテーブルにつき、みんな、アマーリアとわたしとまでも含めて、とてもいきいきとしていました。父はたえずお祭りのことを話していました。父は消防隊についていろいろな計画を胸に抱いていましたの。つまり、城には専属の消防隊があって、お祭りには派遣団を送ってきて、その人たちといろいろのことが話し合いされました。あの場にいた城のかたたちは村の消防隊の仕事ぶりを見て、それについてとても好意的な発言をし、城の消防隊の仕事ぶりを村の消防隊のと比較しました。その結果は村の消防隊のほうに有利でした。城の消防隊を再編成する必要について話され、そのためには村から指導員を出すことが必要だ、ということになりました。その役のために、二、三人の人が候補者に上がりはしましたが、父はその人選が自分にきまるだろうという期待をもっていました。父はあのときそのことを話していました。そして、食事のときにはすっかりくつろぐという父が好きないつものやりかたで、両腕でテーブルの半分ほども抱くような恰好で坐っていました。開いた窓から空を見上げるときには、父の顔は若々しく、希望で輝いていました。あんなふうな父を二度と見ないことになってしまったんですわ。そのときアマーリアは、あの子にそんなところがあるとはわたしたちが知らなかったような人を見下すような態度で、城の人たちのそんな話はあんまり信用してはならないのだ、あの人たちはそんなような機会には何か人の気に入るようなことをいいたがるものだが、そんなものはほとんど意味をもたないか、あるいは全然意味をもたないのだ、口に出されるやいなやもう永久に忘れられているのだ、むろん次の機会にはまたあの人たちにだまされてしまう、といいました。母はアマーリアのこんな言葉をとがめました。父はあの子のませくりかえっていることといかにもしったかぶりをいうこととを笑っていましたが、次にびっくりして、何かがなくなっていることを今やっと気づいて探しているように見えました。しかし、何一つなくなったものなんかありませんでした。それから、ブルンスウィックが使者のことや、何か手紙がやぶかれたとかいうことをいっていたが、といって、わたしたちがそのことを知らないか、それはだれのことか、いったいどういうことなのか、とたずねました。わたしたちはだまっていました。あのころはまだ小羊のようだったバルナバスが、何かとびきりばかげたことか無鉄砲なことをいいました。話題がほかのことに移って、そのことは忘れられてしまいました」

アマーリアの罰

「ところが、そのすぐあとで、わたしたちは四方八方から手紙の話について質問を浴びせられました。友人も敵も知人も知らない人もやってきました。けれど、だれも長くはいないんです。いちばん親しい友人たちがいちばん急いで帰っていきます。ふだんはいつもゆっくりしていて威厳のあるラーゼマンも、入ってきてもまるでただ部屋の広さを調べようというような恰好でぐるっと一廻りながめるともう終りでした。ラーゼマンが逃げ出し、父が居合わせたほかの人たちのところから離れ、ラーゼマンのあとを追って急いで家の入口のところまでいき、それからあきらめるという様子は、まるでとんでもない子供の遊びみたいでしたわ。ブルンスウィックがやってきて、父に暇をくれといいました。一本立ちしたいのだ、とあの人はまったく本気でいいました。りこうな人で、好機を利用することを心得ていたんですわ。お顧客《とくい》の人たちがやってきて、父の倉庫で自分の靴を探し出します。修理のためにそこに置いておいた靴です。はじめは父もお客さんたちの考えを変えさせようとしましたが――で、わたしたちもみんなできるだけのことをして父のあと押しをしましたが――あとになると父はそんな努力もやめてしまい、黙ったままその人たちが探すのを手伝うのでした。注文受帳には一行一行と消しの線が引かれていき、お客さんたちがわたしたちの家にあずけておいた革は持ち帰られました。貸しは払ってくれました。万事はほんのちょっとした争いもなく行われ、人びとはわたしたちとの関係を速やかに完全に解消することに成功すれば満足し、その場合に損をしても、そんなことは問題ではないのだというふうでした。そして最後には、これは予想されたことですが、消防隊長のゼーマンが現われました。あの情景が今でも眼の前に浮かぶような気がしますわ。ゼーマンは大柄で力強い人ですが、少し前かがみで、肺病にかかっており、いつもまじめで、全然笑うことができないんです。この人は父を買っていて、打明け話のときには消防隊長代理の地位を父に約束していましたが、そのとき父の前に立っていました。そして、組合が父を免職したこと、証書の返却を求めていることを、父に伝えなければならないのだ、というのです。ちょうど家にいた人びとは、仕事の手を休め、あの二人のまわりにつめかけて輪をつくりました。ゼーマンは何もいうことができず、ただ父の肩をたたくばかりです。まるで、自分がいうべきだが、どういってよいのかわからない言葉を父の身体からたたき出そうとしているようでした。そうしながら、あの人はたえず笑っています。それによって自分自身もほかのすべての人も少しはなだめようとしているようでした。でも、あの人は笑うことができないし、だれもあの人の笑うのを聞いたことがなかったので、それが笑いなのだと信じることはだれにも思いつきませんの。しかし、父はあの日のことでもうあまりにも疲れ、絶望していて、だれかを助けるなんていうことはできません。それどころか、あんまり疲れているものですから、何が問題なのかを考えることもできないくらいでした。わたしたちはみんな同じように絶望していましたが、若かったものですから、こんな完全な破滅があろうとは信じることができず、たくさんの訪問客がつぎつぎにやってくるうちには最後にはだれかがやってきて、もうやめだという命令を出し、万事をまた逆もどりに動き出すようにしむけてくれるんだろう、といつも考えていました。ゼーマンこそとくにそういうことをやってくれるのにぴったりした人だ、と無知だったわたしたちには思われました。この終わることのない笑いから最後にははっきりした言葉が出てくるだろう、とわたしたちは大いに期待して待っていました。わたしたちにふりかかったあの愚かしい不正を笑うのでなければ、いったいあのときに笑うことなんかあったでしょうか。『隊長さん、隊長さん、もうそのことを人びとにいってやって下さい』と、わたしたちは考え、あの人につめよっていきました。ところが、それもあの人に奇妙な工合に身体を廻させただけだったのです。ついにあの人は話し始めました。しかしそれは、わたしたちのひそかな願いをかなえてくれるためなんかではなく、人びとのけしかける叫びか腹を立てた叫びに応じるためだったわけです。わたしたちはまだ希望をもっていました。あの人は父を大いにほめあげることから始めました。父を組合の誉れ、後進の手本、欠かすことのできない組合員と呼び、父の退職は組合をほとんど破滅させてしまうだろう、といいました。みんなとてもすばらしい言葉でした。ここまでで終りにしてくれていたらよかったんですが! ところが、あの人は話しつづけました。それにもかかわらず、組合は父に、ただ一時的にではあるが、退職を求める決定をしたのであるから、組合がこうしなければならなくした理由の重大さは、みなさんにもわかっていただけるだろう。おそらくは父の輝かしい業績がなかったならば、きのうの祭りにおいても、あれほどまでに成功することはまったくできなかったにちがいない。だが、まさにこの業績が役所の注意をとくに喚起したのだ。組合は今はすべての人びとに公然とながめられているのであるから、組合の純潔についてこれまで以上に細心でなければならない。ところで今や使者侮辱事件が起ってしまった。そこで組合としてはほかの逃げ道を見出すことができなかったのであり、自分、ゼーマンがこのことを通達するというむずかしい任務を引き受けたのだ。父が自分にこの任務をこれ以上むずかしいものとしないことを望む。これを語り終えて、ゼーマンはうれしそうでした。この演説の成功を確信したので、あの人はもうけっして度を越して遠慮なんかしていませんでした。壁にかかっている証書を指さして、あれをもってくるように、と指で合図しました。父はうなずいて、それを取りにいきましたが、両手がふるえてかぎからはずすことができません。わたしは椅子にのって、父を助けました。そして、この瞬間からいっさいが終ってしまったのです。父はもう証書を額ぶちから取り出してなんかいないで、額に入ったまま全部をゼーマンに渡しました。それから、片隅に坐ると、もう身動きもしなければ、人と話すこともしません。わたしたちは自分たちだけで、できるだけうまくお客さんたちと用件の話をしなければなりませんでした」
「それで、あなたはその話のなかでどの点に城の影響をみとめるんです?」と、Kはたずねた。「今までのところ城はまだ干渉を加えていなかったように思われますね。あなたがこれまで語ったことは、ただ人びとの思慮を欠いた不安とか隣人の不幸を見てよろこぶ気持とか、たよりにならない友情とか、要するにどこででもぶつかるはずのことばかりですよ。とはいってもお父さんの側にも――少なくとも私にはそう思われるのですが――ある種の気持の小ささというものがありましたね。というのは、その証書だって、いったいなんだというんです? お父さんの能力の証明ですが、それはお父さんがまだもっていたものじゃありませんか。そうした能力がお父さんを組合に欠くことのできない人にしていたのであれば、いよいよいいわけで、隊長にそれ以上一こともいわせないでそんな証書を彼の足もとに投げつけてやることだけによって、隊長にとってこの件をほんとうにむずかしくしてやったことでしょうに。ところで、あなたがアマーリアのことに全然ふれなかったのがとくに特徴的なことのように思われました。アマーリアは、いっさいの罪があの人にあるのに、どうも落ちつき払ってうしろのほうに立ち、一家の荒廃をながめていたらしいですね」
「いいえ」と、オルガはいった。「だれのことも非難はできませんわ。だれもあれ以外にやりようがなかったんですもの。すべてがすでに城の影響だったんです」
「城の影響です」と、アマーリアがオルガの言葉をくり返した。気づかぬうちに内庭から入ってきていたのだった。両親はずっと前からベッドに入っていた。「城のことを話しているの? あなたたち、まだいっしょに坐っているの? K、あなたはすぐ帰るとおっしゃったじゃありませんか。ところで、もう十時になりますよ。いったいこんな話があなたの気にかかるんですか? この村には、こうした話で自分の心を養っているような人びとがいて、あなたがた二人がここに坐っているようにいっしょに坐り、うわさ話でおたがいにおごり合っているんです。でも、あなたはそんな人たちの仲間のようにはわたしには思われないけれど」
「ところが」と、Kはいった、「私はまさにそんな人たちの仲間ですよ。それに反して、こうした話を気にもかけずに、ただほかの話ばかり気にかけているような人たちは、私の心をそれほどひきませんね」
「そりゃあ、そうね」と、アマーリアはいった。「でも、人びとの関心というものはとてもさまざまなものだわ。わたしはいつだったか、昼も夜も城のことばかり考えている若い男のことを聞きましたが、その男はほかのあらゆることをほっぽり放しにしてしまったということです。人びとは、その男の頭がすっかり上の城のところへいっているものですから、その男にあたりまえの分別がないのではないかと心配しました。ところが、しまいに、その男はほんとうは城のことではなく、ただ事務局にいるある皿洗い女の娘のことを思っていたのだ、ということがわかり、そこでむろんその娘を手に入れることができ、それからまた万事うまくいった、ということですわ」
「その男は私の気に入りそうに思えますね」と、Kはいった。
「あなたにその男が気に入るだろうということは」と、アマーリアはいった。「わたしは疑わしく思うけれど、でもおそらくその奥さんはね。ところで、どうぞご勝手に。わたしはもうやすみます。それから、明りを消さなければならないわ、両親のためなんです。両親はすぐぐっすり眠りますが、一時間もするともうほんとうの眠りは終ってしまい、ちょっとした明りでもじゃまになるのよ。おやすみなさい」
 そして、ほんとうにすぐ暗くなった。アマーリアは両親のベッドのそばで床の上のどこかに寝床をこしらえたのだった。
「アマーリアが話したその若い男っていうのは、だれなんですか」と、Kはたずねた。
「知らないわ」と、オルガがいう。「おそらくブルンスウィックなんでしょう。あの人としては話がぴったり合うわけじゃありませんけど。おそらく別なだれかかもしれません。妹のいうことを正確に理解することはやさしいことではないのよ。あの子が皮肉でいっているのか、まじめにいっているのか、わからないことが多いんですもの。たいていはまじめなんですが、皮肉に響くんです」
「説明なんかやめて下さい!」と、Kはいった。「どうして妹さんにそんなにひどくたよるようになったんです? 大きな不幸が起こる前からすでにそうだったんですか。それとも、そのあとからですか。そして、あなたはあの人にたよらないようになろうという願いをもったことがあるんですか。そして、いったいこのたよりかたには何か理にかなった理由でもあるというんですか。あの人は末娘ですし、末娘として服従すべきです。罪があろうとなかろうと、あの人が一家に不幸をもたらしたんじゃありませんか。ところが、毎日あなたがたの一人一人にそのことを許してくれと頼むかわりに、だれよりも頭を高くして、やっとお情けで両親の心配をしているほかには何一つ気にはかけず、あの人が自分でいったように、どんなことも知ろうとは思わないで、やっとあなたがたと口をきくかと思うと、たいていはまじめだが、皮肉に響くというんですからね。それともあの人はたとえばあなたがたびたびいっている美しさというものによって一家を支配しているんですか。ところで、あなたがたきょうだいはみんな似ているけれど、妹さんがあなたがた二人とちがっているところは、まったくあの人にとってよくない点なんです。私があの人をはじめて見たとき、すでにあの人の無感覚で愛情のないまなざしに驚きましたよ。それから、あの人は末娘だけれど、そのことはあの人の外見では少しもわかりません。ほとんど年を取らないけれど、かつてほとんど一度も若かったことがないというような女の人たちの年齢のない外見をしています。あなたは毎日妹さんを見ているので、あの人の顔の固さには気づいていないんです。だから私は、よく考えてみると、ソルティーニの愛情というのもけっしてひどくまじめだったとは考えられません。おそらく彼は例の手紙で妹さんを罰しようと思ったんで、呼ぼうと思ったんじゃないんでしょうよ」
「ソルティーニのことは話したくありません」と、オルガはいう。「城のかたたちには、どんなことでも可能なんですわ、きわめて美しい娘のことであろうと、きわめて醜い娘のことであろうと。でも、そのほかはアマーリアのことであなたは完全にまちがっているんですわ。いいですか、わたしは何もアマーリアのためにあなたを味方にしなければならないという理由なんかないじゃありませんか。それなのにそうしようとし、また実際にやってもいるのは、みんなあなたのためなのですわ。アマーリアはとにかくわたしたちの不幸の原因でした。それはたしかです。けれど、この不幸でいちばんひどい目にあった父さえ、そしてものをいうときけっしてうまく自制はできず、家ではことにそんなことができなかった父でさえ、いちばんひどい境遇にあったときにもアマーリアに対して一ことでも非難めいたことなんかいいませんでした。そして、それは父がアマーリアのやりかたを正しいとみとめたためなんかじゃないんです。ソルティーニの崇拝者である父がどうしてアマーリアのやりかたを正しいとみとめることなんかできたでしょう。父は少しでもそれが理解できなかったのです。自分の身も、自分のもっているすべても、父はソルティーニのためなら犠牲にしたことでしょう。とはいっても、ソルティーニがきっと怒ってしまったためにあれから実際になってしまったようなこんなふうな犠牲の払いかたではないでしょうが。ソルティーニがきっと怒ってしまった、つていったのは、わたしたちはあれからソルティーニのことを全然聞いていないのですもの。あのときまでは引きこもっていたのだとすると、あれからはまるであの人というものが全然いないようなことになりました。ところで、あのころのアマーリアをあなたに見ていただきたかったわ。はっきりした罰なんかくることはないだろう、ということはわたしたちみんなが知っていました。人びとがただわたしたちから遠のいていってしまったんです。この村の人たちも城の人たちもですわ。村の人たちが遠のいていくことは、むろんわたしたちも気づきましたが、城のことは全然わかりませんでした。わたしたちは以前は城の配慮なんかには少しも気づいていなかったので、どうしてあのとき、急な変化なんかに気づくことができたでしょう。この静かな様子がいちばん悪かったのです。これに比べると、村の人たちが遠のいていったなんていうことは、たいしたことではありませんでした。あの人たちは何か確信があってそうしたわけではないのだし、おそらくわたしたちを本気で嫌ってなんかいるのでは全然なかったのでしょう。今日のような軽蔑はまだ生じていませんでしたし、ただ不安の気持からやっただけなんです。そして今度は、これからどうなるか、と待ちかまえていたんです。また生活の困難もまだ全然恐れる必要はありませんでした。借金のある人たちはみんな払ってくれますし、決算は有利でした。食べものでないものがあると、親戚の人たちがこっそり助けてくれました。収穫期でしたから、それはやさしかったんです。とはいえ、うちには畑はありませんし、どこの家でも手伝いをさせてはくれませんでした。わたしたちは生涯ではじめて、ほとんどのらくらして暮らすがいい、という刑の宣告を受けたのでした。そこで、わたしたちは七月、八月の暑さのなかを、窓を閉めきってみんないっしょに坐りつづけていました。出頭命令も、通告も、報告も、訪問客も、なにもなかったんです」
「それなら」と、Kはいった。「何ごとも起こらなかったし、はっきりした罰も受けそうもなかったのに、あなたがたは何を恐れていたんです?」
「そのことをあなたにどう説明したらいいでしょうね?」と、オルガはいった。「わたしたちはやってくるものを何も恐れてはいませんでした。わたしたちはすでに眼の前にあるもののことで苦しんでいました。わたしたちは罰のまんなかにいたんですわ。村の人たちはただ、わたしたちが自分たちのところへくることを待ち、父がふたたび仕事場を開くことを待ち、とてもきれいな服をぬうことを心得ていた――とはいっても、ただ身分のきわめて高い人たちだけのためにやったのでしたが――アマーリアが、また注文を取りにくることを待っていました。実際、すべての人は、自分たちがやってしまったことで困っていました。村で名望ある一家が突然すっかり閉め出しをくってしまうと、だれもが何かしら損害をこうむるものです。あの人たちは、わたしたちから離れていったとき、ただ自分たちの義務を果たすのだ、と信じたのでした。わたしたちだって、あの人たちの立場にいたら、きっとそれとちがったことはしなかったでしょう。ほんとうのところ、あの人たちは問題がどういうところにあるのか、くわしくは知らなかったのです。ただ使いの者が手にいっぱいの裂かれた紙切れをもって紳士荘へもどってきた、というだけの話だったんです。フリーダがその使いを見て、つぎにまたその使いがもどってくるのを見ました。その男と一こと二こと言葉を交わし、そしてあの人が知ったことが、すぐに村じゅうへ拡がったのですわ。しかし、これもやはり全然わたしたちに対する敵意からやったことでなく、ただ義務からやったのです。同じ場合に出会ったなら、ほかのどんな人でもそうするのが義務であったことでしょう。そこで、村の人たちにとっては、すでにわたしが申しましたように、事の全体がうまく解決することがいちばん好ましかったことでしょう。そこでもしわたしたちが突然訪ねていき、もう万事は解決したのだ、たとえば、ただ一種の誤解があっただけで、その誤解はこれまでに完全に明らかにされた、あるいはたしかにあやまちはあったが、それも行為によってつぐなわれたのだ、――これだけだって村の人びとには十分でしたろうが――わたしたちの城とのつながりによって事をもみ消すことに成功した、というようなことを知らせてやったとします。そうすれば、あの人たちはきっとまたわたしたちを両手を拡げて迎え、接吻し合ったり抱き合ったりして、お祭りみたいな気分になったことでしょう。わたしはほかの人たちの場合に、そんなことを二、三度体験したことがあります。でも、そんなことを知らせてやることも全然必要じゃなかったことでしょう。ただわたしたちがこだわりから解放されて出かけていき、こちらから申し出て、昔からの関係をもとのとおりに始め、ただ例の手紙の話について一こともしゃべらぬようにしたならば、それで十分だったでしょう。みんなよろこんであの件のことを口にすることなんかやめてしまったことでしょう。ほんとうに、不安というものと並んで、何よりもあの件がうるさいために、人びとはわたしたちから縁を切ってしまったのでした。ただ、あの件について何も聞かず、何も語らず、何も考えず、けっしてそれにふれられないですむために、村の人たちはわたしたちから離れていったのでした。フリーダがこの件のことをもらしたのは、それを楽しむためにやったことじゃなくて、自分とあらゆる人とをこの件から守るために、そして、みんながきわめて用心深く避けていなければならぬ何ごとかが起ったのだ、ということに村の人びとの注意を呼びさますためにやったことでした。この場合に、わたしたちは家族として人びとの問題にされたのではなく、ただ事件が問題にされたのであり、ただわたしたちが巻きこまれたこの事件のためにだけわたしたちが問題にされたのでした。そこでもしわたしたちが、ただまた姿を見せ、過ぎ去ったことはそのままそっとしておき、どんなやりかたであってもかまわないから、事件をもう乗り超えたのだということをわたしたちの態度によって示してやったら、そして世間の人びとが、あの件はどんな性質のものであったにもしろ、もう二度と話に出ることはあるまい、という確信をもったならば、万事はうまくいったことでしょう。いたるところでわたしたちは昔ながらの好意的な助力を見出したことでしょうし、たといわたしたちがあの件を完全に忘れてしまっていなかったとしても、人びとはそれをわかってくれて、それを完全に忘れるようにわたしたちの力になってくれたことでしょう。ところが、そんなことをするかわりに、わたしたちは家で坐っていただけでした。わたしたちが何を待っていたのかは、わたしにはわかりません。きっとアマーリアが決定を下すことを待っていたのでしょう。あの子はあの例の朝に家族の指導権を自分の手に奪ってからは、それをしっかとにぎっていました。特別のことをやるでもなく、命令するでもなく、頼むでもなく、ほとんどただ沈黙によって、そういうことになったのでした。アマーリアを除いたわたしたちにはむろん相談すべきことがたくさんありました。朝から晩まで、たえまなくささやき合っていたのです。ときどき父は突然不安に駆られてわたしを自分のところに呼びつけ、わたしは父のベッドのふちで夜の半分も過ごしました。あるいはわたしたち、バルナバスとわたしとの二人は、ときどきいっしょにうずくまっていました。弟はまだやっと事の全体をほんのわずかのみこめるだけで、たえずすっかり逆上したようになって、説明を求めるのでした。いつも同じことなんです。自分の年ごろのほかの者たちが期待しているような心配の影というもののない歳月が自分にはもう存在しないのだ、ということを弟はよく知っていました。そうやってわたしたちはいっしょに坐っていました。――K、今わたしたちが坐っているのとまったく同じようにでしたわ――そして、夜になり、また朝がくるのも、忘れていたんです。母はわたしたちのうちでいちばん弱っていました。きっと、わたしたちに共通の悩みばかりでなく、めいめいの悩みを一つずついっしょに悩んでいたためです。そんなふうにして、母の身にいろいろな変化をみとめてわたしたちは驚きました。わたしたちが予感したように、母の変化はわたしたちの一家全部の前にあったのでした。母の気に入りの場所は長椅子の片隅でした。――もうずっと前からその長椅子はありません。今はブルンスウィックの家の大きな部屋に置かれています――母はそこに坐って、――どうしたことなのか、はっきりわかりませんでしたが――うとうとまどろんだり、あるいは、唇が動くことでそうだろうと想像されたのですが、長たらしいひとりごとをいっていました。わたしたちがいつでも手紙の件をいろいろ話し合い、確実なこまかい一つ一つのことやありとあらゆる不確実な可能性もあれやこれやと話し合ったのは、きわめて当然なことでした。また、うまい解決のためのさまざまな手紙を考え出そうとして自分たちの力以上のことをやっていたというのも、当然なことで、やむをえないことでした。だが、それはよくなかったのです。実際、そのためにわたしたちは、逃がれ出ようと思っているもののなかにいよいよ深入りしていくことになったのです。そして、こうしたすばらしいさまざまな思いつきも、いったい実際にはなんの役に立ったでしょうか。どんな思いつきもアマーリアを抜きにしてでは実行できません。すべてはただの下相談であり、そうした相談の結果が全然アマーリアの耳までとどかなかったことで、無意味なものだったのです。そして、たといあの子の耳に入ったところで、沈黙以外のどんなものにも出会わなかったことでしょう。ところで、ありがたいことに、わたしは今ではアマーリアをあのころよりもよく理解しています。あの子はわたしたちのだれよりもたくさんの重荷を担っていたのでした。あの子がそれに耐えたこと、そして今でもわたしたちのあいだで暮らしつづけていることは、考えられないほどのことですわ。母はおそらくわたしたちみんなの悩みを担っていたのでした。自分の上にふりかかってきたので、母はそれを担ったのです。しかし、長いあいだはとてもそれを担っていられませんでした。母が今でもまだともかくもその重荷を担っているということはできません。すでにあのころ、母の心は狂っていたのでした。ところが、アマーリアはその重荷を担っただけではなく、それを見抜くだけの頭ももっていたのです。わたしたちはただ結果だけを見ていたのに、あの子は原因まで見抜いていました。わたしたちは何かちっぽけな手段を望んでいたのに、あの子はすべてがもう決定されてしまっているのだ、ということを知っていました。わたしたちはこそこそと相談しなければならないのでしたが、あの子はただ沈黙していなければなりませんでした。真実と面と向かい合って立ち、生き、そしてそうした生活を今と同じようにあのころにも耐えていました。わたしたちはひどい困苦のなかにいたとはいえ、あの子よりもずっとよかったのです。むろん、わたしたちは家を出なければなりませんでした。ブルンスウィックがわたしたちの家に越してきて、わたしたちにはこの小屋があてがわれたのです。一台の手押車を使って、わたしたちは家財道具を二、三回で運んできました。バルナバスとわたしとが車を引き、父とアマーリアとがあとを押しました。母は最初にすぐここへつれてきていましたが、箱の一つに坐って、わたしたちが着くたびにいつでも低い声で嘆きながら、わたしたちを迎えました。でも、わたしは今もおぼえていますが、わたしたちはそうして苦労しながら車を引いてくるあいだも――それはまたとても恥かしいことでした。というのは、わたしたちはしょっちゅう刈入れの車に出会いましたが、そんな車についている人たちはわたしたちの前で黙ってしまい、視線をそらすのでした――バルナバスとわたしとは、こうして車を引いてくるあいだにも、わたしたちの心配や計画について話すことをやめることができませんでした。そのため、話しながらときどき立ちどまってしまい、父に『おい!』と声をかけられてはじめてわたしたちのしなければならない現在の仕事を思い出すのでした。しかし、あらゆる話合いは引越しのあとでもわたしたちの生活を少しも変えませんでした。ただ変ったことは、わたしたちがそれからようやく貧乏をも感じさせられるようになったということでした。親戚の人たちの補助はやみ、わたしたちの財産はほとんどつきてしまいました。ちょうどそのころに、わたしたちに対するあなたもご存じのあの軽蔑が始ったのでした。わたしたちが手紙の事件から脱け出る力をもっていないことに、人びとは気づいたのでした。そして、そのことでわたしたちに対してとても気を悪くしました。人びとはくわしくは知らなかったのですけれど、わたしたちの運命のむずかしさをみくびってはいませんでした。自分たちもこんな試練にはおそらくわたしたちよりもよくは耐え抜くことができなかっただろう、ということを知っていました。それだけに、わたしたちと縁を切ることが必要だったのです。もしわたしたちがそれに打ち勝っていたら、わたしたちをそれ相応に尊敬してくれたことでしょうが、それがわたしたちには成功しなかったので、それまではただ一時的にやっていたことを、決定的にやるようになったのでした。つまり、わたしたち一家をどんな仲間からも閉め出してしまいました。そうなるとわたしたちのことをもう人並みに話してはくれませんでした。うちの姓はもう人びとの口にはのぼらなくなりました。わたしたちのことを話さなければならなくなると、わたしたちのうちでいちばん罪のないバルナバスの名前で呼ぶのです。この小屋までが排斥されました。そして、あなたもよく考えてごらんになるなら、この家に最初に足を踏み入れたときに、この軽蔑がもっともなことに気づいた、と告白なさるでしょう。あとになって、人びとがときどきまたわたしたちのところへやってくるようになったとき、たとえば小さな石油ランプがあそこのテーブルの上にかかっているというようなまったくつまらぬことについても、鼻にしわをよせてみせるのでした。いったい、テーブルの上のほかのどこにかけたらいいというのでしょうか。ところが、あの人たちには我慢できぬように思われたのです。ところで、もしランプをほかのところへかけたとしても、あの人たちの嫌悪は変わらなかったでしょう。わたしたちという人間も、わたしたちのもっているものも、いっさいが同じように軽蔑を受けたのです」

嘆願廻り

「そのあいだにわたしたちは何をやったのでしょう。わたしたちがおよそできるうちもっとも悪いこと、ほんとうに軽蔑されていたよりももっと軽蔑されるにふさわしいようなこと、をやっていたのです。わたしたちはアマーリアを裏切り、あの子の無言の命令から離れていきました。わたしたちはもうあんなふうな生きかたをつづけることができなかったのです。少しも希望なしには、わたしたちは生きられませんでした。そして、わたしたちはそれぞれのやりかたで、わたしたちを許して下さい、と城に頼んだり、つめよったりしました。何かを回復することはできないのだ、ということをわたしたちは知ってはいました。また、わたしたちが城ともっていたただ一つの望みのあるつながり、つまり、父に対して好意を抱いていてくれた役人のソルティーニは、まさに例の事件によってわたしたちには近づきがたくなったのだ、ということも知っておりました。それにもかかわらず、わたしたちは仕事に取りかかったのでした。父が皮切りに始めました。村長のところ、秘書たちのところ、弁護士たちのところ、書記たちのところへというふうに、意味のない嘆願廻りが始まりました。たいていは迎えてもらえず、たとい何か策略か偶然かによって迎えられたところで――そういう知らせを聞くと、わたくしたちは歓声を上げ、手をこすり合わせて悦んだものでしたわ――すぐに追い払われてしまい、二度と迎えてもらえませんでした。父に返事をすることなんか、あまりにもやさしいことだったんです。城にとっては返事をするなんていうことはいつだってやさしいことなんです。いったい、君はどうしてくれというのだ? 君に何が起ったというんだ? 何を許してくれというのだ? いつ、まただれによって、城が君に指一本でもふれたというのだ? たしかに、君は貧乏になってしまったし、お顧客《とくい》もなくしてしまった、だがそんなことは日常生活において、また商売や取引きにおいて、いくらでも起こることだ。どうして城があらゆることに気を使わなければならないのだ? 城はたしかに実際あらゆることに気を使ってはいるけれども、なりゆきに乱暴に干渉するわけにはいかない。簡単に、ただ個人の利害関係に奉仕するというだけの目的で、干渉なんかするわけにはいかないのだ。城の役人たちを派遣してもらいたいというのか? またその役人たちに君のお顧客のあとを追いかけ、君のところへ無理につれもどしてくれというのか? こんな調子でした。ところが、父はそういうときにこう異論を申し立てました――わたしたちはこうしたことについて、いく前にもいってきたあとでも、うちで片隅に集ってはくわしく話し合っていたのでした。その相談は、まるでアマーリアの眼を逃がれようとするような様子でやったのでした。アマーリアは万事を知ってはいるけれど、なるがままにほっておくのでした。――で、父はこう異論を申し立てたのです。自分は何も貧乏になったことを嘆いているんではありません。自分がこの村で失ったものはたやすく取りもどして見せるつもりです。自分を許してさえいただけたら、そんなものはどうでもいいんです。すると、相手のほうでは答えます。『いったい、君に何を許してあげたらいいんだ?』今までのところ報告はとどいていない。少なくともまだ調書には書かれていない。少なくとも弁護士の仲間の手に入る調書には書かれていないのだ。したがって、確認されている限りでは、君に対して何ごとかが企てられていることもないし、何ごとかが進行しているということもないのだ。君に関して出された役所の指令がどういうものかいうことができるかね? 父はそんなことをいえるはずがありません。それとも役所の機関が干渉を加えたのかね? 父はそんなことを全然知りません。それなら、君は何も知らないし、何ごとも起こらなかったとすれば、いったい君はどうしようというのだ? こちらも何を許してやれるのだ? 許してやるといったって、せいぜいのところ、君が今、まじめな用件もないのに役所に迷惑をかけていることを許してやるぐらいのものだ。だが、それこそまさに許すことができぬものなのだ。こういう調子ですの。父はやめませんでした。あのころはまだとても元気があり、無為をしいられていたものですから、時間はたっぷりありました。『おれはアマーリアの名誉を取りもどしてやるぞ。もうすぐだ!』と、バルナバスとわたしとに向って一日に何回かいいました。でも、ほんの低い声でいうだけでした。というのは、アマーリアにそれを聞かせてはいけなかったんです。それにもかかわらず、それはただアマーリアのためにいわれたのでした。というのは、父はほんとうは名誉の回復なんかのことは考えていず、ただ許してもらうことを考えていたんです。ところが、許しを得るためには、まず罪をはっきりさせねばならず、罪は役所で否定されたのです。そこで父はこんな考えに陥ってしまいました。――そして、このことは父がすでに精神的に弱りきっていたことを示すものでした――自分が十分にお金を払わないために相手は罪のことを隠しているのだ、って。つまり、父はそれまではただきまりの料金しか払っていませんでした。それだって、少なくともわたしたちの境遇からすればとても高くつくお金でした。ところが、父は今度は、もっとたくさん払わなければならないのだ、と信じたのでした。それはきっとまちがいでした。というのは、わたしたちの役所では、事を簡単にして不必要な話なんか避けるために賄賂《わいろ》を取るには取りますけれど、それによって得るところなど何もないんです。しかし、それが父の希望であるとするなら、わたしたちはその点で父のじゃまをしたくはありませんでした。わたしたちは、まだもっているものを売り払いました。――それもほとんど欠くことのできぬものばかりでしたけれど――父がいろいろ調べ歩く費用をつくるためでした。長いこと、わたしたちは毎朝、父が出かけるときに、いつでも少なくともいくらかのお金をポケットのなかでじゃらじゃらいわせることができるようにしてやることで満足をおぼえていたのでした。むろん、わたしたちは一日じゅう飢えていました。こうやってお金をつくることでわたしたちがほんとうに実現することができたことといえば、ただ父がある種の希望を抱いてよろこんでいられるということだけでした。ところが、これがほとんど利益にはならぬことだったのです。こんなふうに歩き廻ることで、父は骨身をけずりました。お金がなければすぐにうまく終ってしまったはずのことが、こうやって永びかされたのでした。相手はこんな過分な支払いに対してほんとうは何も特別なことをやることができないのですから、ある書記はときどき少なくとも見たところ何かやっているようによそおおうとして、調査すると約束したり、ある種の見当はもうついているのだ、それを追いかけるのは何も義務からではなく、ただ父に対する好意からやっているのだ、とほのめかしたりするのでした。父は疑い深くなってもよさそうなものなのに、かえっていよいよ信用するようになりました。こうした無意味な約束をもって、まるでまたもや完全な祝福を家へもちこみでもするかのような様子でもどってくるのでした。父がいつもアマーリアの背後で、ゆがんだ微笑を浮かべ、大きく見開いた眼をアマーリアに向けながら、アマーリアを救うことも(そうなればだれよりもあの子自身がいちばん驚くだろうが)、自分の努力のおかげでごく近いうちにうまくいくことになった、でもこれはすべてまだ秘密で、その秘密を厳重に守らなければいけないのだ、とわたしたちにほのめかそうとする様子をながめることは、いかにも心苦しいことでした。もしわたしたちがついに、父にお金をそれ以上渡すことがどうしても不可能にならなかったならば、きっとこんなことがもっと長いあいだつづいたことでしょう。そのあいだに、バルナバスはさんざ頼みこんでやっとブルンスウィックによって職人として採用されました。とはいっても、それはただ、晩の暗闇にまぎれて注文を取りにいき、また暗闇にまぎれて出来上がった仕事をもっていくというやりかたでした。――ブルンスウィックがこの場合、自分の商売にとってのある種の危険をわたしたちのために引き受けたのだ、ということはみとめるべきですが、そのかわりバルナバスに対してとても少ししかお金を払わず、しかもバルナバスの仕事は欠点がないくらいりっぱなものでした――けれど、こうした仕事の手間賃は、わたしたちが完全に飢え死してしまうことから守るのにやっとたりるだけでした。父を大いにいたわりながら、またいろいろ下相談をやったあとで、わたしたちはもうお金の援助をやめるということを父に告げました。ところが、父はそれをとても落ちついて聞き入れました。父はもう分別によっては、自分のやっているいろいろなことには見込みがないのだ、ということを見抜けなくなっていました。つぎつぎの失望に疲れ切っていたのでした。なるほど、こんなことをいってはいました。――父はもう以前のようにはっきりとはものをいわなくなっていたのです。以前はほとんどはっきりしすぎるくらいにものをいっていたものですが――自分がもう少し金を使いさえしたなら、あしたには、いやきょうのうちにでもなんでも知ることができただろうに。これで万事はむだになってしまった。ただ金のことで挫折してしまったんだ、などというのです。でも、父がそれをいう調子は、そんなことはみんな信じてはいないのだ、ということを示していました。そうかと思うとすぐ、突然、新しいいろいろな計画を抱きさえするのでした。罪をはっきり証明することがうまくできなかったものだから、したがってこれ以上は役所を通じての手段ではなしとげることができなかったのだから、これからはもっぱら嘆願にたよって、役人たちに個人的に近づかなければならない。役人たちのなかにはたしかに親切で同情的な心の持主もいる。そんな人も役所ではそういう気持に負けることはできないけれど、役所のそとで、適当なときに突然訪ねていったら」
 ここで、これまでまったくオルガの話に耳を傾けきっていたKが、つぎのようにたずねてオルガの話を中断した。
「それで、君はそれを正しいと思わないんですか」その返事は話をつづけていくうちに出てくるにきまってはいたのだが、彼はそれをすぐに知りたかったのだ。
「正しいとは思わないわ」と、オルガはいう。「同情とかあるいはほかのそういった気持などは全然問題にはならないのです。わたしたちはどんなに若く、どんなに無経験であったとしても、そんなことは知っていましたし、父もむろんそれを知ってはいたのです。ところが父はたいていのことと同じようにこのことを忘れてしまったんです。父は、役人たちの馬車が通りすぎる国道につっ立って、とにかく通る車があれば、許してくれるように嘆願を申し出る、という計画を立てていました。正直に申しますと、まったく分別を欠いた計画です。たといほんとうは不可能なはずのことが起こり、嘆願がほんとうにある役人の耳に達したとしても、分別を欠いた計画といわなければなりません。いったい、一人一人の役人が許すなんていうことをできるものでしょうか。許すということができるのはせいぜい役所全体のこととしてでしょうが、それだっておそらく許すのではなくて、裁くだけです。でも、一人の役人が車から降りて、かかり合ってきたとしたところで、貧しくて、疲れ切って、老いぼれてしまった父がつぶやくことを聞いて、事の全体の姿を思い描くことがいったいできるものでしょうか。役人たちはとても教養があるのですが、ただひどく片よっていて、自分の専門ならば一こと聞いただけですぐこちらの考えていることを全部見抜きますが、ほかの課のことになると、何時間でも説明して聞かせなければなりません。それで、おそらくはていねいにうなずいて聞いているでしょうが、一ことだってわかってはいないのです。こんなことはみんなあたりまえのことですわね。まあ自分で、自分に関係のある小さな役所仕事を取り出してみてごらんなさい。一人の役人が肩をすぼめるだけで片づけてしまうようなちっぽけなことでいいのです。そして、それを根本から理解しようとしてごらんなさい。そうすれば、一生のあいだそれにかかわらなければならないし、けっして終わるということがないでしょう。ところで、もし父が係の役人にぶつかったとしても、その役人は書類もなしには何一つ片づけることはできません。ことに国道の上なんかではできっこありません。その役人は許すことはできず、ただ職務上片づけることができるだけです。そして、そのためにただ役所の手続きを教えることができるでしょうが、そういう手段で何かを手に入れるということこそ、まさに、父がすでに完全に失敗したことなのです。こんな新しい計画をなんとかやり抜こうなどと、父はなんということまで考えるようになっていたのでしょう! もし何かそんなたぐいの可能性がほんの少しでもあったならば、あそこの国道の上は嘆願者でうようよすることでしょう。でも、そんなことは不可能なことだぐらいは小学校下級の教育でだって教えられていますから、あそこにはだれ一人として立ってなんかいないんですわ。おそらくあそこに人がいないということが、父の希望を強めたのでしょう。父はどんなことにも希望を見出そうとするたちだったのです。また、それがこの場合には必要でもあったのです。まともな分別がある人間はあんな大げさな考えにかかわったりするはずはなく、またいちばん外面的なことを見ただけで不可能なことをはっきりみとめるにちがいありませんでした。役人たちが村へきたり、城へもどったりするのは、遊山《ゆさん》なんかじゃありません。村でも城でも仕事があの人たちを待っています。そのため、あの人たちはきわめて早い速度で車を走らせるのですわ。また、車の窓から外をながめたり、外に請願者を探すなんていうことは、あの人たちには思いつきません。馬車は役人たちが調べる書類でいっぱいつまっているんです」
「でも」と、Kはいった。「役人のそり[#「そり」に傍点]のなかを見たことがあるけれど、そのなかには書類なんかなかったですよ」
 オルガの話を聞いているうちに、彼にはあまりに大きな、ほとんど信じがたい世界が開けてきたので、Kは自分の小さな体験でその世界にふれ、その世界の存在と自分の存在とをいっそうはっきりと確信したいという気持を捨て去ることはできなかったのだ。
「それはありうることです」と、オルガはいった。「でも、そうなるともっと事情は悪いんですわ。そういうときには、役人はとても大切な用件をもっているので、書類があまりに貴重であるか、あまりにかさが大きいかであり、もっていくことができないのです。そういう役人は馬車を早がけで走らせます。ともかく、父のために時間をさいてくれることのできる役人はいません。その上、城へいく馬車道はいくつもあるのです。一つの道がはやるとなると、たいていの役人はそこを走ります。また別な道がはやると、みんながそこへ押しかけます。どういう規則によってこの交代が行われるのかは、まだわかってはいません。あるとき、朝の八時にみんながある道を走るとすると、三十分後には今度はみんな別な道を走り、その十分後には第三の道を走り、その三十分後にはおそらく最初の道を走って、それからは一日じゅうそこを走るということになります。でも、どの瞬間にも、変更が行われる可能性があるのです。村の近くでどの馬車道も一つに合わさりますが、そこではもうあらゆる馬車が疾走しています。城の近くでは速度がもっとおだやかなんですが。それから車の出てくるきかたがそれぞれの道についてまちまちで全体を見通すことができないのと同じように、車の数についてもまちまちなのです。馬車が一台も見られない日がしばしばあるかと思うと、そのあとでは大変な数が走るのです。ところで、こうしたすべての条件を考え併せて、父のことを想像してみて下さい。いちばんいい服を着て――それが父のただ一枚の服なのですが――毎朝、わたしたちの祝福を受けながら、家から出ていきます。ほんとうはもうもっていてはいけないはずの消防隊の徽章《きしょう》をもっていくのです。それを村の外に出るとつけるのです。村のなかではそれが人目にふれることを恐れているんです。ところがじつはそれはあんまり小さいので、二歩も離れるとほとんど見えないくらいなのです。でも、父の考えによると、それは車を走らせて通り過ぎていく役人たちの注意をひきつけるのに適当でさえある、というわけです。城への入口からほど遠くないところに商売のための野菜畑があって、それはベルトゥーフという人のもので、その人が城に野菜をおさめているんですが、その畑の格子塀《こうしべい》の狭い台石の上に父は場所を選びました。ベルトゥーフはそれを黙って許しました。なぜかというと、この人は以前には父と仲がよく、父のいちばんのお顧客《とくい》であったからです。つまり、この人は少し足がちんばで、父だけが自分のためにぴったり合う靴をつくることができるのだ、と思っているのでした。ところで父はくる日もくる日もそこに腰かけていました。うっとうしい雨の降る秋でしたが、天気は父にとってはどうでもいいのでした。朝はきまった時間にドアのハンドルに手をかけ、わたしたちに出かけるという合図をするのです。夕方には――父は日一日と腰が曲っていくように見えました――ぐしょぬれになってもどってきます。そして、部屋の片隅にぐったりと身体を投げるのです。はじめのうちは、父はその日の自分のちょっとした体験をわたしたちに話してくれました。たとえばベルトゥーフが同情と昔からの友情とから格子塀越しに毛布を投げてくれたとか、通り過ぎていく馬車のなかにだれそれの役人をみとめたように思ったとか、あるいは馭者《ぎょしゃ》がときどきむこうから自分に気づいて、ふざけて鞭《むち》の革でさわっていったとかいうことです。ところがあとになると、もうこうしたことを話さなくなりました。父はもうそこで何かを手に入れるという希望をもたなくなったようでした。すでに、あそこへ出かけていき、そこで一日を過ごすことを、自分の義務、自分のあじけない義務と考えているのでした。そのころに父のリューマチの痛みが始まりました。冬が近づいて、いつもより早く雪が降り出しました。このあたりでは冬がとても早く始まるんです。ところで父は、前には雨にぬれた石の上に坐っていたのですが、それと同じように今度は雪のなかに坐っているのでした。夜なかには痛みのためにうんうんうなっていました。朝は、出かけていくべきだろうか、ときめかねていることがよくありました。でも、自分の気持に打ち勝って、出ていくのでした。母は父にすがりついて、いかせまいとするのです。父はもう手足がいうことをきかなくなったためにおそらく気が弱くなっていたのでしょうが、母にいっしょにいくことを許しました。そのために、母までも苦痛にとらえられてしまったのです。わたしたちはしばしば両親のところへいきました。食事を運んだり、あるいはただ訪ねていったり、あるいは家へ帰るようにと説得しようと思ったりしたのでした。どんなにしばしばわたしたちは、両親があそこにくずおれてしまって、自分たちの狭い居場所にたがいにもたれ合い、自分たちの身体をほとんど包んでくれない薄い毛布をかけてうずくまっているのを見たことでしょう。まわりにはただ灰色の雪と霧のほかには何もなく、見渡す限り、そして何日でも、人間一人、車一台通らないのです。なんという光景でしょう、K、なんという光景でしょう! それからついに、ある朝のこと、父はこわばった両脚をもうベッドから運び出すことができなくなってしまいました。まったくみじめなものでした。熱に少しうなされながら、今、上のベルトゥーフのところに一台の馬車がとまるぞ、一人の役人が車を降りるぞ、格子塀のところで自分のことを探しているぞ、それから頭を振りながら、不機嫌そうにまた車のほうにもどっていくぞ、というような光景を眼の前に見ているように想像するのでした。そんな状態のなかで、ここから上にいる役人に向って自分のいることを気づかせ、自分がいないのはどうしてもやむをえない事情によるものなのだということを説明して聞かせようとするかのように、大変な叫び声を上げるのでした。そして、実際に長いあいだあそこにいくことができないということになってしまったのです。父はもうあそこへは全然もどっていきませんでした。何週間もベッドに寝ていなければならなかったのです。アマーリアは食事の世話をしたり、看病したり、手当てをしたり、あらゆる仕事を引き受けました。そして、中休みしたこともありますが、その仕事はじつは今日までつづけているのです。あの子は、痛みをしずめる薬草を知っていますし、ほとんど眠らなくてもすむし、けっしてものに驚くということがなく、どんなものも恐れず、けっしていらいらすることがありません。あらゆる仕事を両親のためにやりました。ところで、わたしたちは何も手助けすることもできずに、落ちつかずにうろうろ歩きまわっていましたが、アマーリアは万事に冷静でした。ところが、やがて病気の最悪状態が終わり、父が用心深く左右を支えられてまたベッドから出ることができるようになると、アマーリアはすぐ引っこんで、父をわたしたちにまかせました」

オルガの計画

 さて次の問題は、父のために父がまだできる何かの仕事をまた見つけるということでした。少なくとも父に、それは一家の罪を払いのけるのに役立つのだという信念を抱かせておくような仕事を何か見つけることでした。そういったものを見つけることはむずかしくはありませんでした。どんなことでも、根本のところではベルトゥーフの野菜畑の前に腰かけて過ごすくらいには有効なものでしたから。でもわたしは、わたしにもいくらかの希望を与えるようなことを見つけました。役所でも、書記たちのところでも、そのほかのどこでも、わたしたちのことが問題になるときは、いつでもソルティーニの使者を侮辱したということだけが語られて、それ以上のことはだれ一人としてあえて突っこもうとはしなかったのでした。そこで、わたしは自分にこういい聞かせたのです。もし一般の意見が、たとい外見上だけであれ、ただ使者の侮辱ということだけしか知らないならば、これもまたただ外見上だけのことであれ、もしその使者をなだめることができれば、万事をふたたびよくすることができるはずだ、って。実際、人びとのいうところでは、まだどんな報告も入ってはいず、したがってどの役所の手にもこの件は入っていないのですから、許すということはそれによって使者自身の自由にまかせられていることであって、それ以上の問題ではありません。そうしたことはすべてじつは少しも決定的な意味をもたず、ただ見せかけだけであって、それ以上の結果は何ももたらしませんが、それでも父をよろこばせることでしょうし、父のことをあんなにも苦しめてきたたくさんの情報屋たちをそれによっておそらく少しは手も足も出ないようにしてやり、父も満足することができるでしょう。そこで、むろんまずあの使者を見つけ出さねばなりませんでした。わたしがこの計画を父に話しますと、父ははじめはとても腹を立てました。つまり、父はとてもわがままになっていたのでした。一つには父はこう思いこんでいるのでした。――病気のあいだに父のこのまちがった思いこみはいよいよひどくなりました――つまり、わたしたちがいつでも父のまさに成功しようとするときにじゃまをした、というのです。まず最初はお金の援助をやめたこと、今度はベッドに寝かせておくことがそれだというわけです。でももう一つには、父はもう他人の考えを完全に受け入れる力がなくなっていただけの話でした。わたしがまだこの計画を終りまで話さぬうちに、早くもその計画は投げ出されてしまいました。父の考えでは、自分はこれからもベルトゥーフの野菜畑のところで待たねばならない、でもきっともう毎日そこまでいくことはできないのだから、わたしたちが父を手押車でつれていくように、というのです。でも、わたしも譲っていませんでした。父がだんだんこの私の考えと折れ合うようになっていきましたが、ただ一つ困ることは、父のこの計画を実行する場合にまったくわたしにたよらなければならない、ということです。というのは、ただわたしだけがあのとき使者を見たのであって、父はその使者を知らなかったんです。むろん、従僕というものは似たりよったりで、わたしがあの男を見わけられるということは、わたしも完全には確信できませんでした。そこでわたしたちは、紳士荘へいき、そこにいる従僕たちのあいだであの男を探すことを始めました。あの男はソルティーニの従僕であり、ソルティーニはあれからもう村へはきませんでしたが、城のかたたちはしょっちゅう従僕を変えますので、ほかのかたの従僕たちのあいだにきっと見つけ出すことができるはずでした。また、おそらくはほかの従僕たちからあの男についての知らせを手に入れることができるかもしれません。とはいえ、このためには毎晩、紳士荘へいかねばなりません。それに、どこへいっても人びとはわたしたちのことをいい顔をしては見ません。ましてあんな場所ではそうです。金を払うお客としてはわたしたちは入っていくことができませんでした。しかし、わたしたちを使うことができる、ということがわかりました。あなたもご存じのように、従僕たちはフリーダにとってなんというわずらわしいものだったことでしょう。でも、根はたいていおとなしい人びとなんですが、あんまりやさしい勤めに甘やかされ、血のめぐりが悪くされているんです。『従僕の暮しのようであるように』と、役人たちの祝福の言葉がいっていますが、事実、暮しのよさについていうと、従僕たちこそ城のほんとうの主人たちといえるくらいで、またあの人たちもそれにふさわしくふるまうことを知っており、城ではあの人たちは城の掟《おきて》の下で行動するわけですが、そこでは静かにして、品位を保っています。――わたしがいろいろ見たところでは、それはたしかです――そして、ここの村でも従僕たちのあいだにまだその残りが見出されます。でも、ただの残りだけですわ。それ以外、大部分は、城の掟が村ではもうあの人たちに完全には通用しないということによって、まるで人が変ったようになります。掟ではなくて自分たちの衝動によって支配される、あらあらしい、服従を知らない一団になってしまうのです。あの人たちの恥知らずは限度というものを知りません。でも、村にとって幸いなことに、あの人たちはただ命令を受けてはじめて紳士荘を立ち去ってよいということになっているんです。でも、紳士荘ではあの人たちと折れ合うように努めないわけにいきません。ところで、フリーダにとってはこれが重荷でした。そこで、従僕たちをしずめるためにわたしを使うことができたのは、フリーダにとってはとても歓迎すべきことでした。二年以上も前から、少なくとも週に二度は、わたしは従僕たちといっしょに馬小屋で夜を過ごしました。以前、まだ父がいっしょに紳士荘へいくことができたときには、酒場になっている部屋のどこかで眠り、そうやってわたしが朝もっていく知らせを待っていました。知らせることなんか、ほとんどありませんでした。探している使者はきょうまでまだ見つけ出していません。うわさによると、あの使者を高く買っているソルティーニにまだ仕えているということで、ソルティーニがさらに離れた事務局へ引っこんだときに、それに従っていったということです。従僕たちもたいていは、わたしたちと同じようにあれからその人と会っていないんです。そして、だれかがそのあいだにあの人のことを見たといい張るときには、それはきっとまちがいなのです。ですから、わたしの計画はほんとうは失敗してしまったのでしょうが、それでもまだ完全に失敗したわけではありません。あの使者はなるほど見つけ出しませんでしたし、父が紳士荘へかよったことや、あそこで夜を明かしたことや、わたしに同情したことは――父がまだ同情する力があったとしてのことですけれども――悲しいことにあとに悪い結果を残すことになり、もうほとんど二年も前から、あなたのごらんになったような状態でいるような始末ですが、それでも父のほうがおそらくまだ母よりも身体の工合がいいのです。母ときたら、毎日もう死ぬのではないかと思われるほどで、ただアマーリアの度を超えた骨折りのおかげだけによってやっと死ぬことが引きのばされているんです。でも、わたしが紳士荘で手に入れたものは、一種の城との結びつきなのです。わたしは自分のやったことを後悔しない、とわたしがいっても、軽蔑しないで下さいな。城とのなんというりっぱなむすびつきだ、とあなたはおそらく思われるでしょう。そして、それももっともです。それはりっぱなむすびつきなんかじゃありません。わたしは今、たくさんの従僕、ここ何年かのあいだに村へきたほとんどすべての城のかたたちの従僕を知っています。そして、もしわたしが城へいくようなことになれば、あそこではよそ者ではないでしょう。あれは村での従僕たちにすぎないので、城ではあの人たちはまったくちがってしまいます。城ではあの人たちにはおそらくもうだれの見わけもつかず、そして、村でつき合っていただれかなら、なおのことそうで、城での再会を楽しみにしている、などと馬小屋のなかで百度も誓ったって、見わけがつかないんです。それにわたしもすでに、こんな約束があの人たちのすべてにとってどんなに無意味なものか、ということを経験しました。しかし、そんなことはそうたいしたことではありません。わたしはただ従僕たちによって城とのつながりをもっているだけではなく、おそらく、そしてわたしの見込みでは、こんなふうな意味でも城とつながっているんですわ。つまり、だれかが上の城からわたしとわたしのやることを見ていて――大ぜいいる従僕たちの管理ということは、むろん役所の仕事のうちでもきわめて大切な骨の折れる部分ですが――、わたしをそんなふうにながめている人が、おそらくわたしに対してほかのかたたちよりも寛大な判断を下してくれることでしょうし、なるほどひどいやりかたではありますけれど、それでもわたしたちの一家のために闘っており、父の努力をつづけているのだ、ということをみとめてくれることでしょう。このことを見たら、わたしが従僕たちからお金を取り、それをうちのために使っていることを、おそらく許してくれるでしょう。そのほかにもわたしがやりとげたことはありますけれど、それはあなたがきっとわたしの受けた罰と思われることでしょう。わたしは下僕たちから、どうやったら廻り道をして、むずかしい、何年もつづくおおやけの採用手続きなしで、城の勤めにつくことができるか、ということをいろいろと聞き知りました。そういう者はおおやけの使用人ではなくて、ひそかに、半分だけみとめられた者というにすぎず、権利も義務ももっていません。義務をもっていないということは、いっそう悪いことですが、一つだけいいことがあります。それでもあらゆる人びとのそばにいられるからです。そこで、都合のいい機会を見つけ、それを利用することができます。使用人ではないけれど、たまたま何かの仕事を見出すことができます。つまり、ちょうど使用人がそばにいないので、人を呼ぶ。そこでかけつけていく。そうすればもう、一瞬間前にはまだそうでなかったものになるのです。つまり、もう使用人なのです。とはいっても、いつそういう機会があるのでしょう? ときどきはすぐに、つまり、入っていくかいかないうちに、またあたりを見廻すか見廻さないうちに、もうその機会が眼の前にきています。もっともだれでも、いわば新米《しんまい》としてそういう機会をつかまえるだけの心の落ちつきをもっているとは限りませんけれど。ところで、こんなに早く機会が訪れる場合でないと、今度はおおやけの採用手続きをするのよりももっと長い年月がかかります。そうなると、こんなふうな半分だけみとめられた者は正規に公式に採用されることはもうありません。そこで、この場合にはよく考えてみる必要が十分にあります。しかし、いくら考えてみたところで、公式の採用の場合には選択がとてもきびしく行われるという事実、また何か悪い評判を立てられている家庭の者ははじめからほうり出されてしまうという事実の前には、黙らないわけにいきません。たとえば悪評のある家庭の者がこの手続きを受けると、その結果が気になって何年でもふるえているということになります。まわりの人びとは驚いて、どうしてそんな見込みのないことをやってみる気になったのだ、なんて最初の日からたずねます。でもご当人は希望をもっているのです。そうでなければ、どうして生きることができるでしょうか。ところが、何年もたってから、おそらく老人になってしまったときに、拒否の返事を聞くのです。万事はだめになった、自分の一生はむだだった、ということを聞くのです。むろん、この場合にも例外はあります。そのために人は簡単にやってみようという気になってしまうんです。ほかでもない悪評高い人びとが最後に採用されるということがあるのです。明らかに自分たちの意に反してこうした獲物のにおいが好きでたまらぬというような役人たちがいて、採用試験のときに鼻でくんくん嗅《か》いでみたり、口をひん曲げたり、白眼をむき出したりします。こうした悪評のある者はそんな役人たちにとっては、いわばひどく食欲をそそる存在のように思われ、それに抵抗するためには、法令集にしっかとかじりついていなければならないほどです。とはいっても、ときどきはそういうことはその男の採用されるのになんの役にも立たず、ただ採用手続きが無限に引きのばされるだけです。そうなると、その手続きはおよそ終わるということがなく、その男が死んだあとでやっと中絶されるだけです。こういうわけで、法にのっとった採用もそのほかの採用もいろいろな表裏両面の困難にみちあふれているんです。で、そんなふうなことに手を出す前には、万事をくわしく考えることが得策です。ところで、バルナバスとわたしとは、そういうことをゆるがせにはしませんでした。わたしが紳士荘から帰ってくると、わたしたち二人はいっしょに坐って、わたしが聞き知ったいちばん新しいことを話し、二人で何日でもそのことを徹底的に話し合いました。そこで、仕事はしばしばバルナバスの手のなかでまずいくらい長く寝ていました。そして、この点ではあなたのおっしゃる意味での罪がわたしにあるのかもしれません。でも、下僕たちの話に信用が置けないということは、わたしは知っていました。わたしは知っていましたが、下僕たちはわたしに城のことをけっして話したがらず、いつでも話をそらし、どんな言葉もさんざ頼んだあげくにやっと話してくれるのでした。ところで、話し始めるとなると、むろん、ののしり合ったり、つまらぬおしゃべりをしたり、ほらを吹いたり、誇張やつくり話をきそったりするのですから、あの暗い馬小屋のなかで入れかわり立ちかわり叫ばれるとめどもない叫び声のなかには、せいぜい一つか二つの、真実をちょっぴり暗示する点があるくらいがせきの山でした。でもわたしは、自分の心にとどめておいたとおりになんでもバルナバスに話してやりました。弟はまだほんとうのことと嘘との区別をする力がなく、また、わたしたちの家庭の状態があんなふうであったために、そういうことを聞きたいという欲求にほとんど渇《かつ》えていたので、すべてを丸呑みにして、なおそれ以上のことを聞きたいという熱意に燃えていました。そして、事実、わたしの新しい計画はバルナバスの手のなかにあったのです。下僕たちのところでは、もう何も手に入れることができませんでした。ソルティーニの使者は見つからず、けっしてこれからも見つからぬだろうと思われました。ソルティーニも、またあの人といっしょに例の使者も、だんだん遠くのほうにいってしまうように思われ、しばしばあの人たちの外見や名前もすでに忘れられてしまい、わたしはしばしば長いことかかってあの人たちの様子をいって聞かせなければなりませんでしたが、それによって得られることといえば、下僕たちがやっとあの二人のことを思い出すだけで、しかもあの人たちについてそれ以上に話してくれることはできないのでした。そして、下僕たちといっしょのわたしの生活についていうと、それが人びとにどう判断されるかということについては、わたしはもちろんそれを左右するなんの力ももちませんでした。ただ、それが実際になされたままに受け取られること、また、そのかわりにわたしたちの家族の罪が少しでも取り除かれるということ、これだけを望むことができたのでした。でも希望がかなえられたという外面的な徴候は手に入れることはできませんでした。それでも、わたしはそれをつづけていました。なぜなら、わたしにとっては城でわたしたちの一家のために何かを実現する可能性はこれよりほかに何一つ見あたらなかったからです。ところが、バルナバスにとってはそういう可能性があるということをわたしは見ました。もしわたしがやる気があれば、そしてその気はわたしには十分ありましたが、下僕たちの話を聞くことができました。で、そういう下僕たちの話から、城の勤務に採用されただれかは、自分の一家のためにとてもたくさんのことをやりとげることができる、ということを聞きました。もちろん、こうした話で信じる値打のあるものはどんなことだったのでしょうか。それをたしかめることは不可能で、ただ、信じる値打のあるものなんかとても少なかったということだけははっきりしていました。というのは、たとえば一人の下僕がわたしにこんなことをいかめしそうに保証しました。(その下僕にわたしは二度と会うことはないでしょうし、またたとい会うようなことになっても、もうほとんど見わけることはないでしょう。)弟に城の何かの地位を世話してやろう。あるいは少なくとも、バルナバスが何かほかのやりかたで城へくるようなことがあれば、弟を助けてやろう、つまり、弟を元気づけてやろう、というのでした。なんでも下僕たちの話によると、地位を得ることを待っている人たちは、待つ時間が長すぎるので、友人たちがそういう人たちの心配をしてくれないと、待っているあいだに卒倒したり、困りきったりしてしまい、つぎにはだめになってしまうようなんです。で、こんなことやそのほかの多くのことを下僕に聞かされると、そういう話はおそらくは正しい警告であったのでしょうが、そういう話につけ加えられた約束というものは完全に空《から》約束だったんです。ところが、バルナバスにとっては、それは空約束ではありませんでした。下僕のいうことを信じないように、とわたしは弟をいましめたのですが、わたしがその約束のことを弟に話しただけで、もう弟の心をわたしの計画にひきつけるのに十分でした。計画を実現するためにわたし自身が挙げたことは、弟の心をほとんどひきつけず、主として下僕たちの話が弟の心をひきつけたのでした。そこで、わたしはほんとうはまったく自分自身をたよりにするだけでした。両親と話が通じる者は、アマーリア以外にはだれもいません。わたしが父の古い計画をわたしのやりかたで実施しようとすればするほど、アマーリアはいよいよわたしから離れていきました。アマーリアはあなたとかほかの人びととかの前ではわたしと口をききますが、自分ひとりだけだと、もうけっして口をきかないんです。紳士荘の下僕たちにとってはわたしはおもちゃで、このおもちゃをこわそうとあの人たちはひどく一生懸命になっているのでした。二年間にわたしはあの人たちのうちのだれかとうちとけた言葉なんか一ことでも話したことはありません。ただ底意のある話とか、嘘の話とか、気ちがいじみた話だけでした。そこでわたしに残されたのはバルナバスだけでしたが、バルナバスはまだとても若すぎました。私はいろいろバルナバスに話してやっているうちに、弟の眼のなかに輝きを見ると(あの輝きはあれ以来弟がもちつづけていますが)、わたしはびっくりしましたが、それでも自分の計画を捨てませんでした。あまりに大きなものが賭《か》けられているようにわたしには思われたのでした。むろん、父のむなしいけれども大きな計画がわたしにあったわけではありません。わたしには男の人たちのこんな決断というものはありませんでした。わたしは使者の侮辱をつぐなうことだけを考えつづけていましたし、さらに、人びとがわたしのこんな謙虚さをほめるに価するものと考えてくれることさえ願っていました。ところが、わたしひとりではできなかったことを、今度はバルナバスによって別なふうに確実になしとげようと思いました。わたしたちは一人の使者を侮辱し、その人をもよりの事務局へ追い払ってしまったのでした。だとしたら、バルナバスという人間で新しい使者を提供し、バルナバスに侮辱された使者の仕事をやらせる以上に自然なことがあるでしょうか。そして、あの侮辱された使者が、いくらでも望むだけの期間、また侮辱を忘れるために必要なだけの期間、静かに遠く離れたところにいられるようにしてやるのです。この計画はひどく謙虚であっても、そのなかには不遜《ふそん》さも含まれており、これではまるでわたしたちが役所に対して、役所は人事問題をどういうふうに解決すべきであるかということを指示しようと思っているような印象をひき起こしかねないことにわたしは気づいてはいました。また、役所は自分の意志で最善の手配をできるし、この点では何かをやることができるはずだなどとわたしたちが考えつくよりも前に、とっくにそんな手配はしてしまっていることを、わたしたちが疑っているような印象を与えかねないことも気づいていました。けれども次にはまた、役所がわたしをそんなふうに誤解するはずはないし、あるいは、誤解するようなことがあっても、わざと誤解するはずはない、つまり、わたしがやるすべてのことが、いっそうくわしく調べもしないではじめから斥《しりぞ》けられるはずはない、と思いました。そこでわたしは自分の計画を捨てず、バルナバスの野望も折れませんでした。この準備期間のあいだに、バルナバスはひどく高慢になり、靴屋の仕事なんか自分にとって、つまり未来の事務局要員にとっては汚なすぎるものだと考えるようになりました。それどころか弟は、アマーリアがまれにですが何か一こと弟にいうと、アマーリアに反対しようとさえしました。しかも、根本的に反対しようとするのです。わたしは弟にこの短いよろこびを心から許してやりました。というのは、弟が城へ入っていった最初の日とともに、そうしたよろこびも高慢さも、たやすく予想されたように、たちまち過ぎ去ってしまったのでした。今や、わたしがすでにお話ししたあの見かけの勤めが始ったのでした。バルナバスが城へ、あるいはもっと正確にいうといわば弟の仕事部屋となったあの事務室へ、なんの苦もなくはじめて入っていったことは、驚くべきことでした。あのとき、この成功はわたしをほとんど気ちがいのようにしました。バルナバスが晩に家へ帰ってきながらこのことをささやいたときに、わたしはアマーリアのところへ走っていき、妹をつかまえ、部屋の片隅へ押えつけ、唇と歯とで妹に接吻しましたので、妹は痛いやら驚いたやらで泣きました。興奮のあまり、わたしは何もいうことができませんでしたが、事実、わたしたちはそれまですでに長いことたがいに話し合うことがなかったのでした。わたしは話すことを何日かあとにまでのばしました。けれども、そのあとの何日かのあいだにはむろんもう話すことなどはありませんでした。それからは、あんなに早くなしとげたところにとまりきりなのです。二年間、バルナバスはこの単調で胸をしめつけるような生活をつづけました。下僕たちはまったく役に立ちませんでした。わたしはバルナバスにちょっとした手紙をもたせてやって、そのなかで下僕たちに対してバルナバスに目をかけてくれるように頼み、同時にあの人たちの約束を思い出させるようにしました。そして、バルナバスは下僕さえ見れば手紙を取り出し、それをその下僕の前にさし出しました。たといバルナバスがときどきはわたしのことを知らない下僕たちに出会ったのであっても、また、わたしを知っている人びとにとってはその手紙を無言のままさし出すやり口が――というのは、弟は上の城では口をきこうとしなかったのです――腹立たしいものであっても、だれも弟を助けてくれなかったことはあんまりでした。それで、ある下僕が、おそらく手紙をもう二、三回も突きつけられた人でしょうが、その手紙を丸めて、紙くず籠へ投げこんだときには、救いでさえありました。そんな救いはむろん、わたしたちが自分の手で、そしてずっと前に、手に入れることができるものでした。わたしにはこう思われたのですが、その人は手紙を捨てるときに、こういうことができたでしょう、『お前たちもいつだって手紙をこんなふうに扱っているじゃないか』って。この時期の全部がそのほかの点ではまったく効果のないものであったとしても、それはバルナバスにいい影響を及ぼしました。弟が早く年をとり、早く一人前の大人になったことを、いいことだといえるとしての話ですが。それどころか、多くの点で弟は大人以上にまじめで見識があるようになりました。弟をじっと見て、今の弟をまだ二年前の少年であったときの弟と比べると、わたしはしばしば悲しい気持になってしまいます。しかも、弟が大人としておそらくわたしに与えてくれることができるはずの慰めや支えというものを、わたしは全然もたないのです。わたしなしでは、弟は城へいくことはほとんどありえなかったでしょうが、城へいくようになってからは、弟はわたしにたよってはいません。わたしは弟のただ一人の信用できる人間ですけれど、弟はそのわたしに自分が心で思っていることのほんの一部分しか語ってくれていないにちがいありません。わたしに城のことをたくさん話してはくれますが、弟の話からは、そして弟が伝えてくれる小さな事実からは、どうしてこれが弟をあんなに変えてしまったか、ということが少しもわかりません。ことにわからないのは、弟が少年のときにはわたしたちすべてを絶望させるくらいであった元気のよさを、どうして今、大人になって、あの上の城ではあんなにすっかり失ってしまったか、ということです。むろん、あのように無益に立ちつづけていること、毎日ただ待ちつづけて、しかもいつもそれをくり返し、変わるという見込みも全然ないことは、人間を疲れ切らせ、懐疑的にし、ついにはああやって絶望して立ちつづけること以外には何もできなくしてしまいます。でも、なぜ弟は以前にも全然抵抗というものをしなかったのでしょうか。ことに弟は、わたしのいったことが正しかったのだ、あそこの城では野心を満足させるようなものを何も得られないのだ、でもおそらくわたしたち一家の状態をよくするためには何か得るものがあるのだ、とまもなくさとったはずですから。というのは、あそこでは――従僕たちの気まぐれというものを除いては――万事がとても謙虚に行われているんです。野心はあそこでは仕事のうちに満足を求めます。そして、その場合に事柄自体が重きをなしますから、野心は消えてしまい、子供らしい願望などの生まれる余地はないのです。けれど、バルナバスがわたしに話したところによると、弟は自分が入ることを許された部屋にいるほんとうにいかがわしい役人たちでさえもどんなに大きな権力と知識とをもっているか、はっきり見とどけたように思ったのでした。どんなふうにしてこれらの人たちが、早口で、半分眼をつぶり、小さく手を動かしながら、口述をやるか。どんなふうにしてあの人たちが、ただ人差指を動かすだけで、一こともものをいわずに、ぶつぶついう従僕たちを遠ざけてしまうか。そして、従僕たちはこんな瞬間には、息を重くしながら、幸福そうにほほえむのです。また、どんなふうにしてあの人たちは、自分たちの本のなかに大切な個所を見つけ、その上を勢いよくたたくか。そして、どんなふうにしてほかの役人たちが、あの狭い場所でできる限り、その本のところへよっていき、首を突っこむか。こんなこととか、それに似たこととかが、バルナバスにこれらの人びとを偉いものだと思わせてしまったのでした。そして、もし自分がこうした人びとの注意をひき、その人びとと一こと二こと話すことができるならば――よその者としてでなく、事務局の同僚として、とはいってもむろん下っぱの種類ですが、ともかく口をきけるなら――わたしたちの一家のために思いがけぬことが手に入るかもしれない、という印象をもったのでした。けれども、まだ今までにはそこまではいっていません。そして、バルナバスは自分をそこまで近づけることができるかもしれないものを、あえてやってみようとはしないのです。もっとも弟は、自分は若いのにもかかわらず、わたしたちの一家のなかでは不幸な事情のために家長の責任ある地位へみずから押し上げられているのだ、ということをよく知ってはいるんです。ところで、ここで最後の話を打ち明けますと、一週間前にあなたがやってきたのです。紳士荘でだれかがそのことをいっているのを聞きましたが、わたしはそれを気にもかけませんでした。土地測量技師がやってきたというけれど、それがどんなことなのかも、わたしにはわかりませんでした。ところが、次の夕方、バルナバスが[#「バルナバスが」は底本では「バルバナスが」]ふだんより早く家へ帰ってきて――わたしはふだんはいつでもきまった時間に途中まで迎えにいくのです――、アマーリアが部屋にいるのを見ると、そのためにわたしを通りへつれ出して、そこで顔をわたしの肩に押しつけ、何分かのあいだ泣いていました。弟はまた前の少年にかえっているのでした。弟の手には負えないようなことが何か起ったのでした。まるで弟の前に突然、まったく新しい世界が開け、こうした新しい世界の幸福や心配に耐えきることができなかったのです。しかも、その場合に起ったことといえば、ただ弟はあなた宛の一通の手紙をまかされたということだけなのです。でも、これは弟がおよそまかせられた最初の手紙で、最初の仕事なんですわ」
 オルガは語り終えた。両親の重苦しい、ときどきごろごろいう呼吸の音のほかは、あたりは静かだった。Kは、まるでオルガの話を補うためというように、ただ軽やかにいった。
「あなたがたは私に対して仮面をかぶっていたんですね。バルナバスは手紙をまるで古くから勤めているとても忙しい使者のような態度でもってきましたし、あなたも、また今度はあなたと一つになっていたアマーリアも、まるで使者の勤めと手紙なんか何か片手間のことのように話しましたよ」
「あなたはわたしたちの区別をしなければならないんですよ」と、オルガはいった。「バルナバスは、自分の仕事についていろいろと疑いを抱いているにもかかわらず、あの二通の手紙でまた幸福な子供にかえってしまったのです。弟の疑いはただ自分とわたしとだけのものなんです。ところが、あなたに対する場合には、弟がほんとうの使者たちというのはこうだと考えているような使者としてあなたの前に現われることに、自分の名誉を求めているんです。そこで、たとえば、わたしは、今では役所の制服がもてるのではないかという弟の期待は強まってはいるのですが、二時間以内に弟のズボンをなおして、役所の制服のぴったり身体についたズボンに似るようにしてやらなければならなかったのです。そして、弟はそのズボンをはいて、こうした服装などの点ではもちろんだましやすいあなたの前に立ち現われることができるというわけです。これがバルナバスです。ところが、アマーリアはほんとうに使者の勤めを軽蔑していますし、弟が少しばかり成功を収めているように見える今は――妹がバルナバスとわたしとを見、わたしたちがいっしょに坐り、こそこそ話し合っているのを見れば、妹にもたやすく見わけられるはずですが――、使者の勤めを以前よりももっと軽蔑しているんです。そこで、あの子はほんとうのことを話しているわけで、あなたはそのことを疑って思いちがいしないで下さい。でも、K、もしわたしがときどき使者の勤めをおとしめていたのであれば、あなたをだまそうという下心からそうなったことではなくて、不安の気持からなのです。バルナバスの手でこれまでにもってこられたその二通の手紙は、三年来、わたしたちの一家が手に入れた、まだ十分疑わしいものではありますけれど、最初の恩寵《おんちょう》のしるしなのです。この転機は、それがほんとうの転機で、けっしてまやかしでないのならば――ほんとうの転機であるよりもまやかしである可能性のほうが大きいのですわ――、それはあなたがここに到着したことと関連していて、わたしたちの運命はある意味であなたの手にゆだねられることになってしまったのです。おそらくこの二通の手紙はほんのはじまりにすぎず、バルナバスの仕事はあなたについての使者の勤めを超えて大きくなっていくことでしょう。――わたしたちに許される限りは、それを望もうと思います――でもさしあたっては、万事はただあなただけを目あてにしています。上の城ではわたしたちは自分たちに割り当てられるもので満足しなければなりませんが、この下の村では自分で何かをすることができるでしょう。つまり、あなたの好意を確保すること、少なくともあなたに嫌われないように努めること、あるいは、いちばん大切なことですが、あなたをわたしたちの力と経験とで守って、あなたが城とのつながりを――そのつながりによってわたしたちはおそらく生きることができるでしょうけれど――失わないようにすることです。ところで、こうしたすべてをどんなことから始めたらいちばんいいのでしょうか。わたしたちがあなたに近づくときに、あなたがわたしたちに対して疑いを抱いたりしないためには、どうしたらいいでしょうか。というのは、あなたはここの事情はご存じでないし、そのためきっとあらゆる方向へ向って疑いを十分にもっていらっしゃるのですから。その疑いももっともなものですけれど。その上、わたしたちは軽蔑されていますし、あなたは村の人たちの意見の影響を受けており、ことにあなたの婚約者によって影響されています。たとえば、わたしたちには全然そんな意図はないんですか、あなたの婚約者と対立して、それであなたの気持を傷つけることなしに、どうやってあなたに近づいたらいいのでしょうか。あなたが受け取る前にわたしがくわしく読んでしまったあの知らせは――バルナバスはそれを読みませんでした。弟は使者としてそんなことはやろうとしませんでした――古びてしまっていて、一見したところたいして重要ではないように見えましたが、それが村長のところへいくようにとあなたに指示していたことで、重要さを増しました。では、この点についてわたしたちはあなたに対してどんな態度を取るべきだったのでしょうか。もしわたしたちがあの手紙の重要さを強調したなら、わたしたちが重要でもないらしいものを過大に評価し、これらの知らせを伝える者としてあなたにその価値をほめちぎり、あなたの目的ではなくてわたしたち自身の目的を追求しているのだ、という疑いをかけられてしまったでしょう。そればかりか、それによってあなたの眼にあの知らせそのものの価値を低く見させ、まったく意に反してあなたをごまかすということになったでしょう。しかし、もしわたしたちはあの手紙にたいして価値をおかなかったとしても、同じように疑いを受けていたことでしょう。というのは、なぜわたしたちはこの重要でない手紙を渡すという仕事に没頭しているのか、なぜわたしたちのやることということとは矛盾しているのか、なぜわたしたちは名宛人であるあなたばかりでなくわたしたちに手紙を頼んだ人もだますのか、こんないろいろな疑いが出てくるはずです。ところで、わたしたちに手紙を頼んだ人は、たしかにわたしたちが名宛人のところでいろいろ説明を加えてあれらの手紙の価値をなくすように、というので手紙をまかせたのではないはずです。そこで、いずれにせよこうしたいきすぎのあいだで中間を保つことは、つまり、手紙を正しく判断することは、ほんとうに不可能なのです。手紙はそれ自身でたえず価値を変えますし、手紙がひき起こすいろいろなもの思いは果てしがなく、そういうもの思いの場合はどこでとまるかということは、ただ偶然によってきめられるだけであり、そこで意見というのも偶然の意見ということになります。そして、さらにあなたに対する不安もそのあいだに入りこんでくるとなると、万事は混乱してしまいます。でも、わたしのこんな言葉をあまりにきびしく判断してはいけませんわ。たとえば、この前起ったように、バルナバスが、あなたは弟の使者としての勤めに不満であって、弟がこれを聞いてびっくりしてしまい、また残念なことに使者特有の神経質さもないわけでなく、自分の勤めをやめてもいいなどと申し出た、というような知らせをもって帰ってくるならば、わたしはむろんその失策をつぐなうためですが、それが役に立つとなったら、あざむくことでも、嘘をいうことでも、だますことでも、なんでもできます。でも、わたしがそんなことをやるのは、少なくともわたしが信じているところでは、あなたのためにもわたしたちのためにもなるんですわ」
 ドアをノックする音がした。オルガはドアのところへ走っていき、鍵《かぎ》を開けた。暗闇《くらやみ》のなかでランタンから一すじの光が床へ落ちていた。深夜の訪問者はささやくような声で何かたずね、やはりささやくような返事をもらっていたが、それで満足しないで部屋へ入りこもうとした。オルガはもうその男を押しとどめられなくなったらしく、そこでアマーリアを呼んだ。アマーリアが、両親の眠りを守るために、この訪問者を遠ざけようとしてあらゆることをやってくれるだろう、と期待しているらしかった。事実、アマーリアは急いでやってきて、オルガをわきへ押しやって、通りへ出ると、ドアを閉めて外に立った。ほんの一瞬たっただけで、彼女はもどってきた。オルガのできなかったことを、そんなに早くやりとげたのだった。
 Kはつぎにオルガから、訪問客は自分を訪ねてきたのだった、ということを聞いた。それは、フリーダに頼まれて彼を探していた、例の助手たちの一人だった。オルガはKを助手の眼にふれないようにしようと思ったのだ。もしKがここを訪ねたことをあとでフリーダに白状しようと思うならば、そうしてもいいだろうが、ここにきたことを助手によって見つけ出されてはいけない、という。Kはそれに賛成した。だが、ここに今夜は泊って、バルナバスを待つようにというオルガの申し出はことわった。その申し出そのものは、Kはおそらく受け入れてもよかったのだろう。というのは、もうすでに夜も遅く、また今では自分が欲しようと欲しまいとこの一家とすっかり結びついているのだから、ここに泊まることはほかの理由からならおそらく耐えがたいだろうが、この結びつきを考えに入れると、この村ではいちばん自然な泊り場所であるように思われたのだった。それにもかかわらず、彼はことわった。助手の訪ねてきたことで彼はびっくりしてしまっていた。彼の気持をよく知っているフリーダが、そして彼を恐れることを思い知らされた助手たちが、ふたたびすっかり一味になってしまい、フリーダが助手を自分のところに送ってくることをはばからず、それに助手は一人だけで、もう一方はきっと彼女のところにとどまっている、ということが彼には理解できないことだった。彼はオルガに、鞭《むち》をもっているか、とたずねた。彼女は鞭はもってはいなかったが、いい柳の枝をもっていて、彼はそれを受け取った。それから、この家にはもう一つの出口があるか、とたずねた。内庭を通っていくそんな出口があったが、ただそこを通るとなると、通りへ出る前に隣りの庭の垣根をよじのぼり、その庭を通っていかなければならなかった。Kはそうしようと思った。オルガが内庭を通って垣根のところへKを導いていくあいだに、Kはオルガの心配を手っ取り早くなだめてやろうとして、自分はあなたが話のあいだにちょっとした術策を使ったということで少しも怒ってはいない、あなたの気持はよくわかっている、といって、彼女が語ってくれるということで証明した自分を信頼してくれている気持に感謝した。そして、バルナバスが帰ってきたらすぐ、夜なかでもいいから、学校へよこしてくれるように、と頼んだ。バルナバスのたよりが自分のただ一つの希望というわけではないし、またそうでなければ自分はひどい状態にあるということになるけれども、自分はけっしてバルナバスのたよりをあきらめはしない。自分はそれを頼みにするし、その場合にオルガのことも忘れない。というのは、自分にとってはオルガ自身、つまり、彼女の勇気、彼女の慎重さ、賢明さ、一家のための献身といったもののほうが大切なくらいだ。もし自分がオルガとアマーリアとのあいだでどちらかを選ばなければならぬとしても、それにはたいして考える必要はない、というようなことをいった。そして、心から彼女の手をにぎったかと思うと、たちまち隣りの庭の垣根に飛び乗っていた。

第十六章

 彼がそれから通りに出たとき、曇った夜を通して見られる限りでは、例の助手がバルナバスの家の前のずっと上のほうでいったりきたりしているのが見えた。助手はときどき立ちどまり、カーテンがかかっている窓を通して部屋のなかをランタンの明りで照らし出そうとしていた。Kはその助手に声をかけた。眼に見えるほどには驚かないで、助手は家の偵察をやめて、Kのほうへやってきた。
「だれを探しているんだね?」と、Kはたずね、脚のももの近くで手にした柳の枝のしなやかさをためしてみた。
「あなたを探していました」と、近づいてきながら助手はいった。
「いったい、君はだれなんだ?」と、Kは突然いった。というのは、相手は助手ではないように思われたのだった。相手は助手よりもふけており、もっと疲れていて、もっとしわが多いように見えたが、顔は助手よりもふっくらしていて、歩きかたも、あの関節に電気のかよっているような身軽な助手たちの歩きかたとはまったくちがっていた。その歩き方は、ゆっくりとしていて、少しびっこを引き、上品に病んでいるように見えるのだった。
「私がおわかりにならないんですか」と、男がたずねた。「あなたの古くからの助手のイェレミーアスですよ」
「そうか」と、Kはいって、すでに背中に隠していた柳の枝を少しだけ引き出した。「でも、君はまったく別人のように見えるね」
「それは、私がひとりっきり[#「ひとりっきり」では底本では「ひとりきりっ」]だからですよ」と、イェレミーアスはいった。
「ひとりでいると、楽しい青春もなくなってしまうんです」
「いったい、アルトゥールはどこにいるんだい?」と、Kはまたたずねた。
「アルトゥールですか?」と、イェレミーアスのほうもたずねてきた。「あのかわいいやつですか? あいつは勤めをやめてしまいました。あなたはわたしたちに対して少しばかり手荒できつかったですからね。気のやさしい者には我慢できなかったんです。あいつは城へ帰って、あなたのことで苦情を申し立てていますよ」
「で、君はどうなんだ?」と、Kはたずねた。
「私は残ることができました」と、イェレミーアスはいった。「アルトゥールが私のかわりにも苦情を申し立てていますんで」
「いったい、君たちはなんについて苦情をいっているんだ?」と、Kがたずねた。
「それは」と、イェレミーアスがいった。「あなたが冗談というものを理解しないということをです。いったい、私たちが何をやったというんです? 少し冗談をいい、少し笑い、少しあなたの婚約者をからかっただけじゃありませんか。そのほかのことは命令でやったんです。ガーラターが私たちをあなたのところへ送ってよこしたとき……」
「ガーラターだって?」と、Kはたずねた。
「そうです、ガーラターです」と、イェレミーアスはいった。「あのころちょうどクラムの代理をしていたんです。あの人が私たちをあなたのところへ送ってよこしたときに、こういいました。――私はその言葉をはっきりおぼえておきました。何しろそれを引合いに出せるくらいですからね――『君たちは測量技師の助手としていくんだ』そこで、私たちはこういいました。『でも、そんな仕事のことはさっぱりわかりません』すると、ガーラターは、『それはたいしたことじゃない。必要となれば、あの男がそれを教えてくれるだろう。ところで、いちばん大切なことは、君たちがあの男を少し朗らかにしてやることだ。私が報告を受けているところによると、あの男は万事をひどくむずかしく取るらしい。あの男は今、村へやってきたのだが、それがたちまちあの男にとっては大きな事件なのだ、実際そんなことは全然なんでもないことなのだが。君たちはそのことをあの男に教えてやらなければいけない』って、いいました」
「で」と、Kはいった。「ガーラターのいうことはもっともだったかね? そして、君たちはその命令を実行したのかね?」
「それはわかりません」と、イェレミーアスがいった。「こんなに短いあいだではできるはずがありませんでしたよ。私が知っていることはただ、あなたがとても乱暴だったということだけで、そのことで私たちは苦情をいっているんです。でも、ただの使用人にすぎず、けっして城の使用人ではないあなたが、こうした勤めがつらい仕事であって、あなたがなさったように勝手気ままに、そしてほとんど子供じみたやりかたで、働く者の仕事をむずかしくすることがどんなに不正なことか、をどうして見抜けないのか、私にはうなずけないんですよ。こんな分別のないやりかたによって、あなたは私たちを格子塀のところで凍《こご》えさせたり、毒を含んだ言葉をたった一ついわれただけで何日でも傷めつけられるような人間であるアルトゥールを、拳でふとんの上にほとんどのしてしまったり、あるいは私をきょうの午後、雪のなかをあちこちと追い廻し、そのために私が息をほっとつくのに一時間もかからなければならないようにしてしまったりするんですからね! 私はもう若くはないんですからねえ!」
「イェレミーアス」と、Kはいった。「そういうことはみんな、君のいうのがもっともだよ。ただ、君はそれをガーラターにもち出すべきなんだよ。あの男は君たちを自分の意志で送ってよこしたんだし、私があの男に頼んで君たちを助手としてもらったわけじゃないんだからね。それに、私は君たちのことを要求したんじゃないから、君たちをまた送り返すことだってできたんだ。私は力ずくなんかよりむしろおだやかにそれをやりとげたかったんだけれど、君たちはどうも力ずくでやられることを望んだようだね。ところで、君たちが私のところへやってきたときに、なぜ今のように率直にものをいわなかったんだね?」
「私は勤務に服していたからですよ」と、イェレミーアスはいった。「それは当然すぎることですよ」
「で、君はもう勤務についていないわけかね?」と、Kはたずねた。
「今はもうついていません」と、イェレミーアスはいった。「アルトゥールは城で勤務をやめたいと申し出たんです。あるいは少なくとも手続きが進行中で、その手続きは私たちを勤務から解放してくれるはずなんです」
「でも、君はまるで今もまだ勤務中のように私のことを探しているじゃないかね」と、Kはいった。
「いえ」と、イェレミーアスはいった。「私があなたを探しているのは、ただフリーダをなだめるためなんです。つまり、あなたがバルナバスのところの娘たちのためにフリーダを置き去りにしたとき、あの子はとても悲しがっていました。あなたを失ったというよりも、あなたの裏切りのためです。とはいってもあの子はすでにずっと前からこうなるだろうということを見抜いていて、前から大いにそのために苦しんでいました。私はちょうどそのときまた学校の窓のところへいって、あなたがおそらくもっと分別ある態度にもどったかどうかを見にいきました。ところが、あなたはあそこにはいないで、フリーダだけが生徒用の長椅子に坐って、泣いていました。そこで私はあの子のところにいき、意気投合したんです。もう万事をやってのけましたよ。私は紳士荘で客室つきのボーイです。少なくとも私の件が城で片づかないうちはこれが私の役目です。そして、フリーダはまた酒場へいっています。あなたの奥さんになるなんていうのは、あの子にとって分別あることじゃありませんでした。あなたも、あの子があなたに払おうとした犠牲を評価することを知らなかったんですからねえ。ところが、あの気のいい子は今でもときどき、あなたに何かひどいことが起こらないだろうか、あなたはおそらくバルナバスの一家のところへいかなかったんじゃないか、なんて心配していますよ。もちろん、あなたがどこにいたかということについては疑いの余地なんか全然ありえなかったんですが、それを今度だけはたしかめるために私はやってきたんです。というのは、いろいろ興奮したあとで、フリーダはもう落ちついて眠るのが当然ですからね。もっとも私だってそうですけれどね。そこで私はやってきたんですが、あなたを見つけたばかりでなく、ついでにまた、あの女たちがまるで紐《ひも》に引かれるようにあなたの言いなりになっているのを見ることができたっていうわけです。ことにあの色の黒い、ほんとうの野良猫といっていいやつが、あなたのために力を入れていましたね。ところで、人にはそれぞれ独特の趣味というものがありますからね。ともかく、あなたが隣りの家の庭を通って廻り道をする必要なんか全然なかったんです。私はあの道を知っていますんでね」
 これで、予想できたこと、しかし妨げることができなかったことが、とうとう起ったわけだった。フリーダは彼を見捨てたのだ。まだ何も決定的なことであるはずはない。そんなに事情が悪いわけじゃないのだ。フリーダは取りもどすことができるのだ。彼女は見知らぬ男たちによっても、こんな助手たちによってさえも、たやすく影響を受けるのだ。こいつらはフリーダの立場を自分たちの置かれた立場と似たものと考えて、自分たちがやめることを申し出た今、フリーダにもそうするようにしむけたのだ。だが、Kはただ彼女の前に歩み出て、自分にとって有利ないっさいのことを彼女に思い出させさえすればいいのだ。そうすれば、彼女はまた後悔して自分のものとなるだろう。ことに、あの娘たちを訪ねたということを、あの娘たちに負うている成功というもので正当化することでもできさえすれば、いよいよそうだ。しかし、こうしたことを考えてフリーダのことで気をしずめようと思っても、彼は心が安まらなかった。ついさっきも、彼はオルガに対してフリーダのことを自慢し、彼女を自分のただ一つの支えと呼んだのだった。ところが、今はこの支えもそれほどしっかりしたものではなく、Kからフリーダを奪うためには、力強い男の干渉などは必要でなく、このたいして食欲をそそりもしない食べもの、ときどきほんとうにいきいきとしてはいないような印象を与える肉の塊りといったやつで十分なのだった。
 イェレミーアスはすでに遠ざかり始めていた。Kは彼を呼びもどした。
「イェレミーアス」と、Kはいった。「私は君に対してまったく率直になろうと思うが、君のほうも正直に一つ答えてくれたまえ。実際、私と君とはもう主従の関係にはないので、君がそのことをよろこんでいるばかりでなく、私もよろこんでいるんだ。だから、私たちはたがいに嘘をいい合う理由なんか一つだってない。君の眼の前のここで、君のために使うことにきまっていたこの鞭を折るよ。というのは、私は君に対する不安の気持から庭を通る道を選んだんじゃなくて、君をおどかし、二、三度、鞭を君にめがけて打ってやろうと思ったためだ。ところで、このことでもう私を悪く取らないでくれたまえ。もう万事はすんでしまったんだからね。もし君が役所から無理に押しつけられた従僕でなく、ただ一人の知合いにすぎないのであったら、私たちはきっとすばらしく仲がよかったことだろう。もっとも君の外見はときどきぼくの気にさわったろうがね。で、私たちがこの点で取り逃がしていたものを、今、遅ればせながら取りもどせるわけだよ」
「そう思いますか」と、助手はいって、あくびをしながら疲れた両眼を押えた。「私はあなたに事情をもっとくわしく説明できるんですが、暇がありませんからね。私はフリーダのところへいかなきゃなりません。あの子は私を待っています。まだ勤めを始めてはいないんです。あそこの亭主は私の説得で――あの子はおそらくすべてを忘れようとしてなんでしょうが、すぐ仕事へ飛びこもうとしましたが――ちょっと休養期間をあの子にくれました。そのあいだは少なくともいっしょに過ごしたいと思うんです。あなたの提案についていうと、何も私はあなたをだますいわれなんかたしかにもっていませんが、かといってあなたを信用するいわれももってはいません。つまり、私とあなたとでは事情がちがうわけです。私があなたに対して仕える関係にあったときには、あなたは私にとってはもちろんとても重要な人物だったわけですが、それは何もあなた自身がもっている性質のためじゃなくて、勤めの命令のためだったんです。あのときには、あなたの欲することをなんでもあなたのためにやったでしょうが、今ではあなたは私にとってどうでもいい人です。鞭を折ったことだって、私の心を動かしたりなんかしませんね。それで思い出すことといえば、ただ、私がなんて乱暴な主人をもっていたか、ということぐらいのもんで、そんなものは私の心をつかむのには適当じゃありませんね」
「君は私に対して」と、Kはいった。「まるで二度ともう私を恐れる必要はない、と確信しているようじゃないか。でも、ほんとうはそうはいかないんだよ。君はおそらくまだ私からそれほど自由じゃないんだ。事の決着というものは、この土地ではそんなに早くはつかないんだ……」
「ときとしては、もっと早くつくことがありますよ」と、イェレミーアスが異論をはさんだ。
「ときどきはね」と、Kはいった。「けれど、今の場合にそうなるなんていうことは、何一つ暗示なんかしていないよ。少なくとも君も私も文書の上の解決をまだ手に入れてはいないんだからな。つまり、手続きはやっと始ったばかりで、私は私のいろいろなつながりを通じてそれに手を出すことはまだしてはいないけれど、これから、そうするだろうよ。もしその結果が君にとって都合が悪いものになれば、君は自分の主人にかわいがられるような準備があまりできてはいないということになるんだ。そして、柳の枝の鞭を折るということも、おそらく余計なことだったんだな。そして、君はフリーダをつれ出して、そのことをひどく得意がっているね。でも、私は君という人間にいくら敬意を抱いていても――敬意は私ももっているよ。どうも君は私に対してはもう敬意なんかもっていないようだけれどね――私がフリーダに一こと二こといってやれば、それで君があの子をひっかけた嘘の皮をはぐのに十分なんだ。そして、嘘だけがフリーダを私から引き離すことができたにちがいないんだ」
「そんなおどかしにはびっくりはしませんよ」と、イェレミーアスがいう。「あなたは私を助手にもちたいなんて全然思っていないんです。あなたは助手としての私を恐れているんです。あなたはおよそ助手というものを恐れているんですよ。ただ恐れからあの善良なアルトゥールのことをぶったんです」
「おそらくそうだろう」と、Kはいった。「それだからといって、痛みが少なくなったのかね? おそらく私はこれからもこんなふうにして君に対する恐れをしょっちゅう見せつけてやることができるだろうよ。君には助手の役目がうれしくないことは、私にもわかっているが、君を無理に助手にしておくことが、あらゆる恐れなんか通り越してまた私にいちばんの楽しみなんだよ。しかも、今度は、アルトゥールなしで、君だけを手に入れることが私の仕事となるわけだ。そうなれば私は君にもっと注意を向けることができようからね」
「あなたは」と、イェレミーアスがいった。「そうしたすべてをほんの少しでも私が恐れていると思うんですかい?」
「思っているとも」と、Kはいった。「君はたしかに少しばかり恐れてはいるけれど、もし君がりこうだったら、大いに恐れることだろうさ。いったい、君はもうフリーダのところへいかないのかね? どうだ、君はあの子が好きなのか?」
「好きか、ですって?」と、イェレミーアスはいった。「あの子は気のいい、りこうな娘ですし、クラムのかつての恋人です。だから、ともかく尊敬すべきものです。そして、もしあの子が、あなたから自由にしてくれるようにって私にたえず頼むときには、どうして私があの子に親切にしてやっていけないんですかね? ことに、私はそのことによってあなたに対しても少しだって苦しみを与えるようなことはないんですからね。あなたはあの呪わしいバルナバスのところの女どもを相手にしてお楽しみだったんですからね」
「その言葉で君の不安がわかるよ」と、Kはいった。「まったくみじめな不安というもんだ。君は嘘をついて私をひっかけようとしているな。フリーダはただ一つのことだけを頼んでいたのだ。さかりのついた犬みたいに狂暴になった助手たちから自分を自由にしてくれということだったんだ。残念なことに、私にはあの子の頼みを完全にかなえてやる暇がなかった。そこで今、私の怠慢の結果がいろいろ現われたんだ」
「測量技師さん、測量技師さん!」と、だれかが通りの上を叫んできた。バルナバスだった。彼は息せききって彼のところまでやってきたが、Kの前でお辞儀をすることを忘れなかった。
「うまくいきました」と、彼はいった。
「何がうまくいったんだい?」と、Kはたずねた。「君は私の請願をクラムにもっていってくれたんだろうね?」
「それはだめでした」と、バルナバスはいった。「とても骨折ってみたんですが、それは私にはできませんでした。私は出しゃばっていき、命じられないのに、机のすぐ近くのところに一日じゅう突っ立っていました。それで、私の影になっていた一人の書記は一度、私のことを押しのけたくらいです。クラムが眼を上げると、こんなことをするのは禁じられているんですが、私は手を挙げて自分のいることを知らせました。私はできるだけ長く事務局に残って、そこで従僕たちとだけになりました。もう一度だけ、クラムがもどってくるのを見てよろこびました。だが、それは私のためにではなく、ただ急いで一冊の本を調べようとしたのでした。そして、すぐまたいってしまいました。私がまだ動こうともしないものですから、ほとんど箒《ほうき》で掃き出すようにして従僕が私をドアから掃き出しました。私がいっさいのことを打ち明けて申し上げるのは、あなたがまた私の仕事ぶりに不満をもたれないようにというためなんです」
「君の勤勉さも私にはなんの役に立つだろう、バルナバス」と、Kはいった。「もし成果が全然ないのならね」
「でも成果があったんです」と、バルナバスがいった。「私が私の事務局から出たとき――私はあの部屋を私の事務局と呼んでいるんです――奥のほうの廊下から一人の紳士がゆっくりと出てきました。そのほかには人影が見えませんでした。もうとても遅くなっていました。私はその人を待とうと決心しました。あそこにまだ残るためのいい機会でした。あなたに悪い報告をもってこなければならぬようなことのないため、私はほんとうはおよそあそこに残っていたくなかったくらいです。でも、そのほかに、その紳士を待ったかいはありました。それはエルランガーでした。あの人をご存じありませんか? あの人はクラムの第一秘書の一人です。弱そうな小柄な人で、少しびっこをひいています。あの人はすぐ私がわかりました。記憶がいいことと人間をよく知っていることとで有名な人で、ただ眉毛をよせるだけで、どんな人間でも見わけがつくのに十分なんです。しばしば、一度も会ったことがなく、ただ何かで読んだり人から聞いたりしただけの人びとでも見わけられるのです。たとえばこの私のこともあの人はほとんど一度だって見たことがないはずです。でも、あの人はどんな人間でもすぐ見わけますけれども、もし確信がもてないとなると、まずたずねます。『君はバルナバスじゃないかね?』と、あの人は私にいいました。それからたずねるのです。『君は土地測量技師を知っているね?』そして、こういいました。『それはいい。私はこれから紳士荘へいく。測量技師にあそこへ私を訪ねてきてもらいたい。私は第十五号室に泊っている。ともかく、あの男は今すぐこなければならない。私はあそこでただいくらか話合いがあるだけで、朝の五時にはまた城へもどるんだから。あの男と話すことは私にはとても重要なんだといってくれたまえ』」
 突然、イェレミーアスが走り出した。興奮のあまりそれまで彼に全然気づかなかったバルナバスが、Kにたずねた。
「いったい、イェレミーアスはどうしようっていうんです?」と、たずねた。
「私よりも先にエルランガーのところへ着こうっていうんだよ」と、Kはいうと、もうイェレミーアスのあとを追いかけ、彼をひっつかまえ、彼の腕にすがって、いった。
「君の心を突然捉えたのは、フリーダに恋いこがれる気持かね? 私だってその気持では君に劣らないよ。だから、足並みをそろえていこうじゃないか」

第十七章

 暗い紳士荘の前には人びとの小さなむれが立っていた。二、三人の者がランタンをもっているので、何人かの顔は見わけがついた。Kは一人だけ顔見知りを見つけた。馭者のゲルステッカーだった。ゲルステッカーは次のようにたずねて、挨拶した。
「あなたはまだ村にいるんですね?」
「そうだよ」と、Kはいった。「私はずっとここにいるためにやってきたんだよ」
「まあ、それはどうでもかまいませんさ」と、ゲルステッカーはいうと、はげしく咳をして、ほかの人びとのほうを向いた。
 みんながエルランガーを待っていることがわかった。エルランガーはもう到着していたが、陳情人たちを迎える前に、まだモームスと話し合っていた。人びとの話は、建物のなかで待つことは許されていなくて、ここの外の雪のなかに立っていなければならないのだ、ということをめぐって行われていた。ひどく寒くはなかった。それでも、この陳情人たちをおそらく何時間も夜のなかを建物の前にほうり出しておくことは、むちゃだった。これはむろんエルランガーの罪ではなかった。彼はむしろ人をよろこんで迎えるほうだった。で、彼はこんな有様をほとんど知らないでいたのであり、そんなことが彼に伝えられでもしたならば、きっとひどく腹を立てたことだろう。これは紳士荘のおかみの罪で、すでに病的にまでなっている上品ぶろうとする気持から、大ぜいの陳情人たちが一度にどっと紳士荘へ入ってくることには我慢ができなかったのだ。
「どうしてもしかたがないし、あの人たちが入ってこなければならないのなら」と、おかみはいつでもいっていた。「そのときは、ごしょうだから、順々に入るのよ」
 そして、おかみが自分の意志を頑張り抜いたので、そのため陳情人たちは(はじめはただ廊下で、のちには階段の上で、つぎには玄関で、最後には酒場で待っていたが)、とうとう通りへ突き出されてしまった。しかし、それでさえ、おかみにまだ満足を与えなかった。おかみがいったように、自分の家をたえず〈包囲されている〉ことは、彼女には耐えられなかった。なんのためにこんな陳情人たちの出入りがあるのか、彼女にはわからなかった。『前の本階段を汚なくするためさ』と、あるとき一人の役人が彼女にいったが、おそらく腹立ちまぎれにいったものだろう。ところが、おかみにはこの言葉がひどくよくわかったので、いつでも好んでこの言葉を引くのだった。彼女は紳士荘の向いに陳情人たちが待つことのできる建物を一つつくり上げるように努力したが、これがすでに陳情人たちの希望とうまく合った。陳情人たちの話合いも事情聴取も紳士荘の外で行われたら、おかみにはいちばんよかったのだろうが、それには役人たちが反対した。そして、役人たちがまじめになって反対するならば、おかみは副次的な問題では彼女のあきることのない、しかも女らしくこまかな熱心さが一種のちょっとした専制支配をやりとげはしたけれども、むろん我《が》を張り通すことはできなかった。ところが、話合いや事情聴取をおかみはどうやらこれからも紳士荘でも我慢しなければならないだろう。というのは、城からくる人たちは、村で公用のために紳士荘を離れることを拒んだのだった。役人たちはいつも急いでおり、ただひどくいやいや村にくるので、どうしてもやむをえない以上にここに滞在する気持は、ほんの少しでももっていず、それゆえ、ただ紳士荘の平和を考えてだけだが、しばらくのあいだ書類いっさいをもって通りを越して向う側のどこか別な建物へ移り、そんなふうにして時間を失わせるなどとは、とても役人に向って要求できることではなかった。実際、役人たちにいちばん好ましいのは、公務を酒場か自室で、できるならば、食事中とかベッドのなかにいて眠る前とかに、または朝、あんまり疲れていて起き上がれないで、もう少しベッドに横になっていたいというときに、片づけてしまうことだった。そこで、役人に移ってもらうことは全然望めなかったが、それに反して、待合所の建物を建てるという問題は、うまい解決に近づきつつあるように見えた。むろんこれはおかみにとっての手痛いお灸《きゅう》だった。――人びとはそのことをちょっとばかり笑ったものだった――つまり、まさにこの待合所の件が無数の相談を必要とし、この建物の廊下がどこもほとんど空《から》にならないのだった。
 こうしたことすべてについて、待っている人びとのあいだでは小声で話し合われていた。不満は十分にあったのだが、エルランガーが陳情人たちを真夜中にやっと呼び入れることに対してだれも異議を申し立てなかったことが、Kには奇妙に思われた。彼はそのことをたずねてみて、そのことに対してエルランガーにむしろ大いに感謝さえしなければならぬのだ、という返事をもらった。エルランガーをそもそも村へくる気にさせるものは、もっぱら彼の善意と、彼が自分の職務に対して抱いている高邁《こうまい》な見解となのだ。もしそうしようと思うなら――このほうが規則にはおそらくいっそうよくかなっているのだが――だれか下っぱの秘書をよこして、それに調書を取らせることだってできるのだ。ところが、エルランガーはたいてい、そんなやりかたをすることを拒んで、自分みずから万事を見、聞こうとする。だが、そうなるとこの目的のために自分の夜を犠牲にしなければならない。というのは、彼の服務計画には村へ出かける時間なんか予定されていないのだ。こんなことをいい聞かされた。Kは、しかしクラムも昼に村へきて、数日間もここへ滞在するではないか、と異論を述べた。いったい、たかが秘書にすぎないエルランガーが、上の城ではクラムよりも欠かせない人物なのだろうか? すると、二、三人の者が人がよさそうに笑い、ほかの者たちは困ったように黙った。そして後者の黙った人びとのほうが優勢を占め、Kにはほとんど返事が与えられなかった。ただ一人だけがためらいながら、むろんクラムは城でも村でも欠かせない人なのだ、といった。
 そのとき、建物正面のドアが開いて、モームスが二人のランプをかかげた従僕のあいだに現われた。
「エルランガー秘書官殿に面接を許される最初の者は」と、彼はいった。「ゲルステッカーとKとだ。両人ともここにいるか?」
 二人は名乗り出たが、彼らよりも先にイェレミーアスが「私はここの客室つきボーイです」といって、微笑しているモームスに挨拶として肩を一つぽんとたたかれると、建物のなかへするりと入ってしまった。
「おれはこれからイェレミーアスにもっと注意しなければならんだろう」と、Kはひとりごとをいったが、そのとき彼は、イェレミーアスは城で彼に対していろいろ画策しているアルトゥールよりもおそらくずっと危険が少ないのだ、ということをはっきりと意識していた。おそらく、助手としての彼らに悩まされているほうが、この二人のいましめをといてそこらじゅうをうろつき廻らせ、どうやらこの二人が格別の素質をそなえているらしい陰謀を思うままにやらせておくよりも、賢明でさえあったのだ。
 Kがモームスのそばを通り過ぎたとき、モームスはまるで今やっと彼のうちに例の土地測量技師をみとめたというようなそぶりを示した。
「ああ、土地測量技師さんですね」と、彼はいった。「あんなに事情聴取を受けることのきらいな人が、聴取に押しかけてきているんですね。あのとき、私に受けたほうがもっと簡単だったでしょうにね。でもむろん、正しい聴取を選ぶことはむずかしいことですからね」
 こう話しかけられ、Kが立ちどまろうとすると、モームスはいった。
「いくんです、いくんですよ! あのときなら私はあなたの返事が必要だったでしょうが、今はいらないんですよ」
 それにもかかわらず、Kはモームスの態度に激してしまって、こういった。
「君たちはただ自分たち自身のことだけ考えているんですね。ただ役所のために私は返事をするんじゃないですよ。あのときだって、きょうだって」
 モームスはいった。
「いったい、われわれはだれのことを考えるべきだというんですかね? いったい、ここにはそのほかにだれがいるんですか? いきなさい!」
 玄関で一人の従僕が二人を迎え、Kがすでに知っている道を内庭を通ってつれていき、つぎに入口をくぐり、天井の低い、少し傾斜している廊下へ導き入れた。上の階にはただ上級の役人たちだけが泊っているらしく、それに反して秘書たちはこの廊下に面した部屋に泊っていた。エルランガーも、秘書のいちばん上の一人ではあるが、やはりここだった。従僕はランタンを吹き消した。というのは、ここには明るい電燈照明があった。ここのいっさいはつくりは小さいが、きれいにつくられていた。空間はできるだけ利用しつくされている。廊下は、直立して通るのにやっとたりた。両側にはドアがつぎつぎに並んでいた。両側の壁は天井まではとどいていないが、これはおそらく換気を考えてのことであろう。というのは、これらの小部屋は、この奥深い地下室のような廊下に面しては窓を一つももっていない。この完全には閉ざされていない両側の壁の欠点は、廊下がさわがしく、また必然的に部屋のなかもさわがしいということだった。多くの部屋はふさがっているようで、たいていの部屋ではまだ人が起きていて、人声やハンマーの音やグラスのかちかちいう音が聞こえた。しかし、とくに陽気らしいという印象は受けない。人の声はみな抑えた調子で、ときどきやっと一ことぐらい聞き取れるだけだった。それはまた、談話をしているのでもないらしく、おそらくだれかが口授しているか、あるいは何かを朗読しているか、そのどちらかのようだった。グラスや皿の響きが聞こえてくる部屋からは、一ことも言葉は聞こえず、ハンマーの音はKにどこかで語り聞かされた次のような話を思い出させた。つまり、多くの役人は、たえまのない精神的緊張から気ばらしをするため、しばらく指物《さしもの》仕事とか精密工学とか、そんなふうなことに没頭するということだった。廊下そのものには人影が見えず、ただ一つのドアの前に、夜の下着をのぞかせている毛皮の外套《がいとう》にくるまった顔の蒼《あお》い大柄の紳士が坐っていた。おそらく部屋のなかは彼にとってあまりにうっとうしくなったので、廊下へ出てきて、そこで新聞をたいして注意も集中しないで読んでいるらしかった。しょっちゅうあくびをしながら、読むことをやめ、廊下づたいに視線を走らせていた。おそらく、彼が呼び出しをかけた、そしてくるのが遅れている相手を待ちわびているのだった。三人がこの男のところを通り過ぎていったとき、従僕がその紳士について、ゲルステッカーに向ってこういった。
「ピンツガウアーさんだよ!」
 ゲルステッカーはうなずいた。
「あのかたはもう長いこと、この下の村にはいらっしゃらなかったね」と、彼はいった。
「もうずいぶん長いこと、いらっしゃらなかった」と、従僕は裏書きするようにいった。
 とうとう彼らは一つのドアの前にきた。そのドアはほかのドアとちがってはいないが、従僕の告げるところによると、そのなかにエルランガーが泊っているのだった。従僕はKに肩の上へのせてもらい、上の開いているすきまから部屋のなかをのぞいた。
「寝ていらっしゃる」と、従僕はKの肩から下りながらいった。「ベッドの上でだ。むろん服のままでだが。でも、わしはあのかたがまどろんでいらっしゃるんだ、と思う。ここの村では、生活のしかたがちがうので、あのかたはときどきあんなふうに疲労に襲われるのだ。われわれは待たねばならんだろう。眼がさめなすったら、ベルを鳴らされるはずだ。とはいっても、あのかたが村にいらっしゃるあいだじゅう眠り過ごしてしまわれて、お目ざめのあと、すぐにまた城へもどっていらっしゃらねばならぬということがあったんだよ。あのかたがここでなさるのは、自由意志でやる仕事なんでね」
「もう今となってはむしろ終りまで眠っていらっしゃったほうがいい」と、ゲルステッカーがいった。「というのは、あのかたは眼がさめたあと、まだ少しばかり仕事をしなければならぬ時間があると、ご自分が眠ってしまったことにひどく不機嫌になられ、万事を急いで片づけてしまおうとなさるんでね。そうすると、こちらはほとんどものをいうことができんからな」
「あなたは建築用の荷の引渡しにきたんですね」
 ゲルステッカーはうなずき、従僕をわきへ引きよせ、彼に何か低い声で話した。ところが従僕のほうはほとんど耳を貸さず、自分の肩までしかないゲルステッカーの頭を越えて向うを眺め、まじめな顔でゆっくりと髪毛をなでていた。

第十八章

 そのときKがあてもなくあたりを見廻していると、ずっと遠くの廊下の曲り角にフリーダの姿が見えた。彼女は、まるでKだと見わけがつかないようなそぶりで、ただじっと彼を見つめた。手には空の食器類ののったぼんをもっていた。Kは従僕に向って、すぐもどるからといって、フリーダのほうへかけよっていった。ところが、従僕は全然Kには注意を向けていなかった――この従僕は話しかけられればかけられるほど、いよいよ放心していくように見えた――。彼女のところにつくと、まるでまた彼女を自分の所有物にするのだといわんばかりに、彼女の両肩をつかまえ、二こと三こと意味のない問いをしかけて、それと同時に調べるように彼女の眼のなかを探った。しかし、彼女のこわばった態度はほとんどほぐれなかった。彼女はぼんやりとぼんの上の食器類を二、三度置き換えようとやってみていたが、こういった。
「いったい、わたしになんの用があるんです? あの人たちのところへいらっしゃいな――そう、あの人たちがなんという名前かはあなたご存じのはずね。あなたはあの人たちのところからきたんでしょう。あなたを見ればすぐわかるわ」
 Kは急いで話を変えた。話をこんなふうに突然切り出されては困る。いちばん悪いことから、自分にとっていちばん都合が悪いことから始めるのは困る。
「君は酒場にいるものと思ったよ」と、Kはいった。フリーダは驚いてKを見つめ、それからあいている片方の手で彼の額と頬とをやさしくなでた。まるで彼の容貌《ようぼう》を忘れてしまい、ふたたびそれを意識へ取りもどそうとしているようだった。彼女の眼も、苦労して思い出そうとしているような、ヴェールのかかったような表情を浮かべていた。
「わたし、また酒場に採用されたの」と、やがて彼女はゆっくりといった。まるで、自分のいうことは大切ではないが、こうした言葉の下でさらにKとの対話をやっているのであって、それのほうが大切なのだ、というかのようだった。
「この客室づき女中の仕事はわたしにはふさわしくないのよ。こんなのはほかのどんな女の子だってやれますもの。寝床を上げたり、あいそのよい顔をしたりできる子ならだれでも、そして、客のわずらわしさをいやがらないで、そういうものを誘い出しさえするような子ならだれでも、そんな女の子ならだれでも客室づき女中になれます。でも、酒場ではいくらか事情はちがいますわ。わたしは今度すぐまた酒場へとられました。あのときはあまり名誉といえない飛び出しかたをしたんですけれど。むろん今度はわたしにはごひいきがありました。ところがご亭主は、わたしにごひいきがついていて、それでわたしをまたとることができたというので大よろこびでしたわ。その上、あの仕事を引き受けるように、とわたしはさんざんすすめられました。なぜすぐ引き受けなかったかというと、酒場がわたしに何を思い出させるかということを考えて下されば、その気持はよくわかるはずよ。最後にはわたし、その仕事を引き受けました。今こっちで働いているのは、臨時の手伝いとしてなんです。ペーピーが、すぐ酒場をやめなければならないようなひどい目にあわせないでくれ、って頼んだんです。わたしたちはあの人に、あの人がともかくよく働いていたし、万事を力の及ぶ限りやっていたので、二十四時間の猶予期間をあげたんです」
「万事すこぶるうまく手配がついているんだね。だが、君はわたしのために一度酒場を出たんだよ。そして、私たちが結婚式をすぐ眼の前にしている今となって、また酒場へもどるのかね?」
「結婚式なんかあるはずがないわ」と、フリーダがいった。
「私が不誠実だったからかい?」と、Kはたずねた。
 フリーダがうなずいた。
「いいかい、フリーダ」と、Kはいった。「このいわゆる不誠実というものについて私たちはもう何度も話し合ったじゃないか。そして、いつだって君は最後には、それはあたっていない疑いなんだって、みとめないわけにいかなかったじゃないか。ところで、あれ以来、私のほうでは何も変っていないんだよ。万事は潔白のままだよ。これまでもそうだったし、これからもそれ以外にはありえないよ。だから、他人がかげ口をささやいたか何かして、君のほうで変ってしまったにちがいないんだ。ともかく、君は私に対してまちがったことをやっているんだよ。というのは、あの二人の娘がどういうことになっているというんだね? 片っ方の色の黒い子は――こんなふうに一つ一つ弁解しなくちゃならないなんて、私はほとんど恥かしいくらいだけれど、君がこんなことをするように要求しているんだからね――で、あの色の黒い子は私にとってもおそらく君にとってと同じくらいにわずらわしい女だ。なんとかしてあの子から離れていられるのなら、私はそうするし、またあの子の人柄からいってそれはやさしいことだよ。あの子ぐらいひかえ目でいられる者はいないからね」
「そうよ」と、フリーダは叫んだが、言葉はまるで彼女の意に逆らうようにして出てきたのだった。Kは、彼女がそんなふうに気持をそらしたのを見て、よろこんだ。彼女は、自分でなりたいと思うのとは別なものになっていた。「あんな人のことをあなたはひかえ目だって考えているのね。あらゆる女のなかでいちばん恥知らずな女をあなたはひかえ目だなんていうのね。そして、まったく信じられないことだけれど、本気でそんなことをいっているんだわ。あなたがいつわっているんじゃないということは、わたしにはわかります。橋亭のおかみさんはあなたについてこういっているわ。『わたしはあの人が我慢できない。でも、あの人を見捨てることはできないわ。まだろくに歩けもしないくせに、遠くまで歩いていこうとする小さな子供をながめるときにも、やはりこちらは自分の気持を押えるわけにはいかないんだもの。手を出さないではいられないのよ』って」
「今度は、おかみの教訓を受け入れるんだね」と、Kは微笑しながらいった。「でも、あの娘は――ひかえ目なのか恥知らずなのかということは、もう別問題にしておいていいだろう――、私はもうあの子のことなんか何一つ知りたくないよ」
「でも、あなたはなぜあの人をひかえ目だなんていうんです」と、フリーダは負けてはいないでたずねた。Kはこうやって自分の話にのってくるのを自分にとって都合がいいしるしだと考えた。「あなたはためしにそういったの、それともそんなことをいって、ほかの女の人たちをさげすもうと思っているの?」
「どちらでもないさ」と、Kはいった。「私があの子のことをそんなふうにいったのは、ありがたいからだよ。あの子のことを気軽に無視できるし、たといしばしば私に誘いかけたって、また出かけていく気にはなれないんだからね。でも、出かけていかないと、私にとって大きな損害になるんだ。というのは、君も知っているように、私たちの共通の未来のために私は出かけていかないわけにはいかないんだよ。そして、そのために私はもう一方の娘とも話さなければならないんだよ。この娘のほうは、その有能さ、慎重さ、無私の態度のために私は買っているんだが、でも、あの娘が男を迷わすなんて、だれだって主張することはできないはずだよ」
「下僕たちはそれとはちがった意見よ」とフリーダはいった。
「この点でも、またほかの多くの点でも」と、Kはいった、「君は下僕たちの欲情をもとにして私が不誠実だという結論を下そうというんだね?」
 フリーダは黙っていた。そして、Kが彼女の手からぼんを取り、それを床の上に置いて、自分の腕を彼女の腕の下にさし入れ、そこの狭い場所を彼女といっしょにあちこちと歩き始めても、されるままになっていた。
「あなたは誠実さというものがどんなものか、ご存じないのよ」と、彼女は彼の身体が近すぎるのを少し避けるようにして、いった。「あなたがあの人たちにどんなふうにふるまおうと、それはいちばん大切な点ではないんです。そもそもあの一家に入りこんで、あの人たちの部屋のにおいを服にしみこませてもどってくるということが、すでにわたしに対する耐えがたい侮辱です。そして、あなたは何もいわずに学校から抜け出していき、夜の半分もあの人たちのところにいたんですわ。そして、あなたのことをたずねていく者がいると、あの子たちによって居留守を使わせる始末です。むきになって、あなたはいない、っていわせるんですわ、しかもあのたぐいまれなひかえ目な女にですわ。あなたが秘密の通り道を伝わってあの家からこっそり出るのは、おそらくあの人たちの評判を心配してやってのことなんでしょう、あの人たちの評判をね! いいえ、もうこんなことを話すのはやめましょう!」
「このことはやめよう」と、Kはいった。「でも、別なことは話さなければならないよ、フリーダ。このことについては何も話さなければならないことはないからね。私がなぜいかなければならないか、君も知っているはずだ。これは私にとってはたやすいことじゃないけれど、私は自分の気持に打ち勝ってやっているんだよ。君はそれを実際以上に私にとってむずかしくしてはいけないはずだ。きょう私が考えたことは、ほんのちょっとのあいだだけあそこへいって、バルナバスがもう帰ったかどうか、聞こうということだけだったんだよ。なにしろ、あの男はある大切な知らせをもうとっくにもってくるはずだったんだからね。あの男は帰ってきていなかった。でも、あの人たちが私にうけ合い、またほんとうにそうだろうと思われたんだが、あの男はすぐ帰ってくるはずだった。あの男に私を訪ねて学校へこさせたくはなかったのだ。あの男が現われることで君を悩ませるようなことのないためにね。何時間かたったが、残念なことにあの男はもどってこない。ところが、私が嫌いな別な男がやってきたんだ。その男にスパイなんかされては面白くないんで、隣りの庭を通っていったが、あの男から身を隠すようなことをしようと思ったわけでもなく、それから国道の上を大手を振ってあの男のほうに近づいていった。正直にいうと、とてもしなやかな柳の枝の鞭を一本もってね。それだけの話だよ。だから、このことについてはもうこれ以上何もいうことはないよ。だが、ほかのことについてはいうことがあるんだ。あの助手たちのことはいったいどうなんだ? 君にとってはあの一家のことを口にするのがいやでたまらぬように、私にはあいつらのことを口にするのはいやでたまらないんだが。君のやつらとの関係を、私があの一家にとっている態度と比較してみたまえ。君のあの一家に対する反感は私にもわかるし、それを君とともにすることもできる。ただ用事のためにだけ私はあの人たちのところへいくんだ。ときどきは、私があの人たちに不正を働いているように、そして、あの人たちをただ利用しているように思われるくらいだ。それに反して、君とあの助手とはどうだ! 君は、やつらが君をつけ廻していることを全然否定しなかったし、君はやつらにひきつけられるということを白状したんだ。私はそのために怒ったりなんかしなかった。ここには君がどうしようもないような力が働いていることを見て取ったんだ。君が少なくとも自分の身を守ろうとしているだけで、もう私は大いによろこんだ。そして、君を守ることを助けてあげた。ところが、ただ私が君の誠実さを信用してほんの一、二時間だけ君を守ることをおろそかにしたというだけで、(とはいっても、学校の建物がぴしんと閉められており、助手たちがもう最後的に敗れ逃げ去ったということを期待してだったが)――どうも私はあいつらのことをまだ見くびりすぎていたようだね――ただ私がほんの一、二時間それをおろそかにし、またあのイェレミーアスが(よく見ると、たいして健康でない、もうかなりな年の小僧だが)窓のところへ歩みよるという厚かましさをもっていただけで、ただそれだけで私は、フリーダ、君を失って、『結婚式なんかあるはずがないわ』なんていうご挨拶を聞かなくちゃならないんだ。私がほんとうは非難していい人間じゃないならば、私は非難はしないよ。いつまでだってしないよ」
 そして、フリーダの気を少しばかりそらしたほうがいい、というふうにKにはふたたび思えたので、何か食べ物をもってきてくれないか、昼から何も食べていないんだから、と彼女に頼んだ。フリーダは、自分でもこの願いごとに気を軽くさせられたらしく、うなずくと、何かを取りに走っていったが、Kが台所があると思ったほうへ向って廊下を走っていくのではなく、わきのほうへ階段を二、三段、降りていった。彼女はまもなく肉切れの一皿と一|壜《びん》のぶどう酒とをもってやってきたが、それはどう見ても食事の残りものにすぎなかった。残りものとわからなくするために、肉切れの一つ一つをざっと並べなおしてあるが、ソーセージの皮さえ置き忘れられているし、壜は四分の三があけられていた。しかし、Kはそのことについて何もいわず、さかんな食欲で食べ始めた。
「台所へいってきたのかい?」と、彼はたずねた。
「いいえ、わたしの部屋ですわ」と、彼女はいった。「この下にわたしは部屋をもっているんです」
「私をそこへつれていってくれるといいんだが」と、Kはいった。「そこへ降りていって、そこでちょっと腰を下ろして食べようかな」
「椅子をもってきましょう」と、フリーダはいって、もう歩き出していた。
「いらないよ」と、Kはいって、彼女を引きとめた。「下へも降りていかないし、もう椅子もいらないよ」
 フリーダはすねたような様子で彼のこんなやりかたを我慢し、頭を深くたれて、唇をかんだ。
「そうよ、あの人が下にいるんですもの」と、彼女はいった。「そうではないとでも思ったの? あの人はわたしのベッドに寝ていますわ。外ですっかり凍えてしまい、寒けがしているんです。ほとんどものも食べなかったわ。みんな根本はあなたの罪よ。もしあなたが助手たちを追い払わなかったなら、そしてあんな人たちのところへかけつけていかなかったなら、わたしたち今ごろは無事に学校で腰を下ろしていられたんですわ。ただあなたがわたしたちの幸福をこわしてしまったのよ。イェレミーアスは、勤めについている限り、わたしを誘惑しようなどと思いはしなかったでしょうに。あなたはそんなことを考えているの? そうだったら、あなたはこの土地の秩序というものをまったく誤解しているんだわ。あの人はわたしのところへこようと望みました。苦しみました。わたしをつけ狙《ねら》っていました。でも、それはほんの戯れで、まるで飢えた犬が戯れながら、それでもテーブルの上に飛びのろうとはしないようなものです。わたしだってそれと同じでしたわ。あの人は子供のときからの遊び友だちでした。――わたしたちは城の山の坂でいっしょに遊びました。楽しかった時代です。あなたは一度だってわたしの過去のことをきいてくれたことはありませんね――でも、そんなことは、イェレミーアスが勤めにしばられている限りは、決定的なことじゃなかったんです。というのは、わたしはほんとうにあなたの未来の妻としての義務をよくわきまえていました。ところが、それからあなたは助手たちを追い出してしまい、まるでそのことによってわたしのために何かやったようにそれを自慢しました。そう、ある意味では、わたしのために何かやったということはほんとうですわ。アルトゥールの場合にはあなたの仕事はうまくいきました。とはいっても、ほんの一時ですけれど。アルトゥールは心持のこまやかな人で、イェレミーアスのようなどんな困難も恐れない情熱はもってはいません。それなのにあなたはあの夜、拳《こぶし》でなぐって――あの一撃はわたしたちの幸福に対しても加えられたのですわ――ほとんどめちゃくちゃにしてしまいました。あの人は苦情をいうために城へのがれていきました。もっとも、もうすぐ帰ってくるかもしれませんけれど、ともかく今のところはここにはいません。しかし、イェレミーアスは残りました。勤めについているあいだはご主人の目の動き一つでも恐れていますが、勤めから離れればあの人は何一つ恐れはしません。あの人はやってきて、わたしをつかまえました。あなたからは見捨てられ、古い友だちのあの人に心をにぎられ、わたしは自分をもちこたえることができませんでした。わたしが学校の玄関口を開けたのじゃなくて、あの人が拳で窓を打ち破って、わたしをつれ出したのです。わたしたちはここへ逃げてきました。ご亭主はあの人のことを買っていますし、お客さんたちにとってもあの人のような客室つきのボーイをもつぐらい歓迎すべきことはありません。そこでわたしたちは採用されたんです。あの人がわたしのところに住んでいるんじゃなくて、わたしたちはいっしょの部屋をもっているんですわ」
「そういうわけだとしたところで」と、Kはいった。「私は助手たちを勤めから追い出したことを後悔なんかしていないよ。もし事情が君のいろいろ話してくれたとおりだったら、つまり、君の誠実さというものがただ助手たちが勤めにしばられているということに制約されていたのだったら、万事が終ったことはよかったわけだ。ただ革の鞭の下でだけおとなしくしている二匹の猛獣のまんなかの結婚生活の幸福なんていうものは、そう大したものじゃなかったろうからね。そうなると私のほうはあの一家にも感謝していいわけだ。あの一家は、わたしたちを別れさせるのにはからずも一役買ったんだからね」
 二人は黙ってしまい、ふたたびあちこちと歩き始めた。今度はどちらがそういう動作を始めたのかは、区別がつかなかった。フリーダはKに身体をよせて、彼がもう抱えてくれないことに腹を立てているように見えた。
「それじゃあ、万事が片づいたわけだね」と、Kは言葉をつづけた。「そして、私たちは別れることができるわけだ。君はご主人のイェレミーアスのところへいくさ。おそらくイェレミーアスは校庭から冷えきって帰ってきたままだろうし、そのことを考えると君はあの男をあまり長いあいだほっぽり放しにしておいたんだからね。私のほうは学校へいくか、それとも、君がいなければあそこで何もすることはないんだから、私を迎えてくれるそのほかのどこかへいくよ。で、それにもかかわらず私がためらっているのは、君が話したことを十分な理由から今でもまだ少し疑っているからだよ。私はイェレミーアスから正反対の印象を受けたんだよ。あの男が勤めについていたあいだは、君のあとを追い廻していたし、勤めがいつまでも、あの男がいつか本気で君に襲いかかることを抑えていた、とは私には思われないんだ。ところが、あの男が勤めはもう終ったと見なしている今となっては、事情は別なんだ。私が自分にこんなふうに説明しているのを許してくれたまえ。それはこうだ。君があの男の主人であるこの私の婚約者ではなくなって以来、君はもうあの男にとっては以前のような誘惑したい対象じゃないんだよ。君はあの男の幼ななじみかもしれないが、あの男は――ほんとうは今晩の短い対話によってしかあの男のことを知らないんだが――私の考えによるとそんな感情上のことには大して価値を置いてはいないんだ。なぜあの男が君には情熱的な性格のように見えるのか、私にはわからない。あの男のものの考えかたは、むしろとくに冷たいように私には思われるよ。あの男は私に関して、おそらく私にはあまり都合のよくないなんらかの命令をガーラターから受け取っていて、これを実行しようとして努めているのにちがいない。私もみとめてやるが、勤めに忠実であろうとする一種の情熱でね――この土地ではそういう情熱はそれほどまれなものじゃないからね――。そこで、あの男が私たちの関係をぶちこわすことが、その命令のなかに含まれているのだ。あの男はおそらくいろいろなやりかたでその命令を実行しようとしてやってみたんだ。その一つは、君をあの男の欲情のあこがれによって誘惑しようとしたことであり、もう一つは――この点でおかみはあの男の手伝いをしたわけだが――私の不誠実というものをでっち上げたことだ。彼のたくらみは成功したし、あの男を取り巻いているクラムをなんとなく思い出させるものが、その助けになったのだろう。あの男は地位を失いはしたが、それもおそらくはまさに地位を必要としなくなった瞬間においてなのだ。今あの男は自分の仕事の成果を刈り入れたわけで、君を学校の窓から引き出したのだ。ところが、これであの男の仕事は終ったわけで、今は勤めの情熱から解放されて、疲れきっている。全然苦情なんかいわないで人にほめられたり、新しい命令を受けたりしてくるアルトゥールに、あの男はむしろ取ってかわりたいのだ。だが、だれかが残って、事の今後のなりゆきを注視していなければならないわけだ。君の世話をすることなんか、あの男にとっては少しばかりわずらわしい義務でしかないんだよ。君に対する愛などというものは全然その形跡がないのだ。あの男は、君がクラムの愛人としてもちろん尊敬すべきものだ、といって、そのことを私にはっきりと告白したんだ。そこで、君の部屋に巣をつくり、自分が小クラムみたいだと感じることは、あの男にとってはきっとひどく気持がいいのだろう。だが、それだけの話さ。君そのものは今ではあの男にとっては何ものでもないんだよ。君をここに泊まるようにさせたのは、あの男の本務のつけたりにすぎないのだ。君を不安にさせないように、あの男は自分でもここにとどまったが、それもほんの一時的な話で、城から新しい知らせを受け取るまでのあいだ、自分がすっかり凍えきっていることを君に癒《いや》してもらうまでのあいだのことだよ」
「あなたはあの人のことをなんて中傷するんでしょう!」と、フリーダはいって、小さな拳を打ち合わせた。
「中傷だって?」と、Kはいった。「いや、私はあの男を中傷するつもりなんかないさ。でも、きっとあの男に対して不正を働いているんだろう。それはむろんありうることだ。あの男について私がいったことは、まったく率直に表面だけの問題じゃない。それは別なふうにも解釈されるだろうさ。でも、中傷だって? 中傷だったら、君のあの男に対する愛と闘うという目的だけをもっているはずだ。もしそういうことが必要であり、中傷が適切な手段であるならば、私はあの男を中傷することをためらいはしないだろう。そして、中傷したって、だれもそのために私に罪を着せることなんかできないだろうよ。なにしろ、あの男は命令を与える人の権威を借りて、私と比べてひどく有利な立場にいるんだから、まったく自分ひとりにたよっているこの私は少しばかり中傷したってかまわないくらいなんだ。中傷なんていうものは、比較的罪のない、結局はやはり無力な、防禦《ぼうぎょ》の手段なんだからね。だから、君の拳はおだやかにおさめてくれたまえ」
 そして、Kはフリーダの手を自分の手に取った。フリーダはその手を彼から引っこめようとしたが、微笑をもらしていたし、それほど力をこめて本気でやろうとしているのではなかった。
「だが、私は中傷なんかしてはいけないんだ」と、Kはいった。「というのは、君はあの男のことなんか愛していないんだ。ただ、愛していると思っているだけで、私が君をそんな迷いから解放してあげたら、君はきっと感謝するにきまっているよ。いいかい、もしだれかが力ずくでなく、またできるだけ慎重な計算によって君を私からつれ去ろうと思うなら、その男はあの二人の助手たちの手を借りてやらなければならないだろう。見たところ善良そうで、子供らしく、陽気で、責任がなく、高いところ、つまり上のあの城からここへ吹き送られてきた若者たちではあるし、それに少しばかり幼時の思い出というものもあるとすれば、条件はそろっているわけで、万事はとても好ましいにきまっている。ことに、この私はそういったすべての逆のようなものであり、そういったもののかわりにいつでもいろいろな仕事のあとを追い廻しているばかりだとあってみれば、なおさらのことだ。しかも、私が追い廻しているいろいろな仕事というのは、君には全然理解できず、君には腹立たしいものであって、しかも君にとって憎悪に価するような人びと、そしてその憎悪のいくらかは私がまったく潔白であっても私にも及んでこさせるような人びと、そんな人びとと私が会わなければならないようにさせる仕事なのだ。事の全体は、ただ、私たち二人の関係の欠陥を悪意をもって、とはいえひどく賢明に利用しただけのことさ。どんな関係にだって欠陥はあるもので、私たち二人の関係だってそうだ。ほんとうに私たち二人はどちらもまったく別な世界から出てきて出会ったんだ。そして、たがいに知り合って以来、私たちのどちらもの生活がまったく新しい道を取ったので、私たち二人はまだ不安定なことを感じているわけだ。なにしろ私たち二人の関係はまだあまりにも新しすぎるんだからね。私は自分のことはいわないよ。これはそれほど重要じゃないからね。君が君の眼をはじめて私に向けて以来、私は根本ではいつだって君から好意を施されていたといっていい。人の好意を受けることに慣れてしまうことは、それほどむずかしいことじゃない。だが、君は、ほかのあらゆることは別問題としても、クラムから引き離されてしまったんだ。それがどんな意味をもつかということは、私には計り知れないのだけれど、それでもそのことの予感はもうだんだんとつくようになっている。人間は、よろめいたり、勝手がわからなくなったりするものだ。そして、私はいつでも君を迎える用意があったにしても、いつでもその場に居合わせたわけじゃない。さて私が居合わせたときには、君の夢想だとか、あのおかみのように夢想なんかよりももっといきいきしたものだとかが君をときどきしっかりつかまえたわけだ。要するに、君が私からよそ見をして、どこかはっきりとしないものにあこがれていた時期があったということだよ、君。そして、ただそういう合い間の時期に君の視線の方角にぴったりした連中が置かれていたのにちがいない。そこで、君はその連中に心を奪われてしまい、ただ瞬間、亡霊、昔の思い出、ほんとうは過ぎ去ってしまったし、ますます過ぎ去っていくかつての生活、こういったものにすぎないものが君のほんとうの現在の生活なのだ、という錯覚《さっかく》に負けてしまったんだよ。フリーダ、それはあやまりだよ。私たち二人の窮極の結合を妨げている、最後の、そして正しく見ればじつは軽蔑すべき困難にほかならないのだよ。ひとつ正気を取りもどしてみたまえ、気を落ちつけたまえ。助手たちはクラムから送られてきているのだ、と君は考えたとしても――それは全然ほんとうのことじゃない。あの二人はガーラターから送られてきているんだよ――、そして、あの二人が君のこの錯覚の力を借りて君の心をすっかり魅惑してしまって、そのために君自身があいつらの汚れとみだらさとのなかにクラムのおもかげを見出すように思ったとしても――これはちょうどだれかが堆肥《たいひ》のなかにいつかなくした宝石を見るように思うのと同じことだよ。たとい宝石がほんとうにそのなかにあったとしても、その人は実際にはその宝石を見出せるはずはないんだ――あの二人は馬小屋の馬丁のたぐいの小僧たちにすぎないんだよ。ただ、あいつらは馬丁のような健康はもっていないで、ちょっとばかりひやっとした空気にあたろうものならすぐに病気になり、ベッドに寝こんでしまう、というだけのちがいさ。とはいっても、あいつらときたら下僕らしいずるさで寝るベッドは探し出すことを心得ているというわけさ」
 フリーダは頭をKの肩にもたれかけ、二人は腕をたがいにからみ合わせながら無言のままあちこちと歩いていた。
「もしわたしたちが」と、フリーダはゆっくりと、おだやかに、ほとんど気持よさそうにいった。まるで、自分にはKの肩で安らうごくわずかな時間しか与えられていない、ということを知っていて、それでもこの短い時間を最後まで味わいつくそうとしているようであった。「もしわたしたちが、あの夜のうちにすぐ村を出ていったならば、わたしたちはどこかで安全な位置にいたことでしょう。いつでもいっしょにいて、あなたの手はいつでも私の手を捉えることができるほど近くにあったことでしょう。わたしはあなたが身近かにいてくれることをどんなに必要としていることでしょう。あなたという人を知って以来、あなたが身近かにいないと、どんなに打ち捨てられたような気持になることでしょう。あなたが身近かにいてくれることは、わたしの夢見るただ一つの夢なんだ、と思うわ。ほかの夢なんか見やしないことよ」
 そのとき、わきの廊下で叫ぶ声がした。それはイェレミーアスだった。彼はそこのいちばん下の階段に立っていた。ただ下着だけ着た恰好だが、フリーダのショールを身体に引っかけていた。髪をくちゃくちゃにし、薄い髭《ひげ》はまるで雨にぬれたようで、嘆願するように、非難をこめたように、眼をやっとの思いで見開き、黒い頬《ほお》をまっ赤にし、だがその頬といったらひどくたるんだ肉でできているようで、素足を寒さのためにふるわせ、そのためにショールの長いふさがいっしょにふるえるほどだが、そんな恰好で立っているのだ。その有様はまるで病院を抜け出してきた病人のようだ。こんな病人と向かい合っては、すぐまたベッドにつれもどす以外のことを考えてはならないのだ。フリーダもそう考え、Kから離れると、すぐ下のイェレミーアスのところへいった。彼女が身近かにいてくれること、ショールをしっかりと身体にかけてくれるいきとどいた彼女のやりかた、彼女が自分を部屋にすぐつれもどそうとして急いでいる様子、こういったことがイェレミーアスを早くも元気づけたらしかった。今やっとKに気づいたようであった。
「ああ、測量技師さんですね」と、彼はいって、もう話なんかさせておくまいとするフリーダの頬をなだめるようになでている。「とんだおじゃまをして申しわけありません。どうもひどく身体の調子が悪いんで、ごかんべん願います。熱があるように思われ、お茶を一杯飲んで、汗を出さなければなりません。校庭のあのいまいましい格子塀、あのことはきっとこれからも思い出さないでいられないでしょうよ。そして、今も、すっかり凍えながら、この夜なかに走り廻ったんです。人は、すぐに気づかずに、ほんとうはそんなことをやる値打のないことのために健康まで犠牲にするものですね。でも、測量技師さん、私にじゃまなんかされていてはいけません。私どもの部屋へお入り下さい。病人の見舞いをやって下すって、ついでにフリーダにはまだおっしゃることをいってやって下さい。たがいに慣れ合った二人が別れるときには、もちろん最後の瞬間にいうべきことがあんまりたくさんあるものですから、第三者はたといベッドに寝ていて、約束してもらったお茶を待っていても、理解できないほどですよ。だが、どうぞお入り下さい。私はほんとに静かにしていますから」
「もうたくさん、たくさんよ」と、フリーダはいって、彼の腕を引っ張った。「この人は熱があって、自分がしゃべっていることがわからないんですわ。でも、K、あなたはいっしょにこないで下さい、どうか。あそこは私の部屋であり、イェレミーアスの部屋でもあります。いや、むしろ私の部屋ですわ。だから、あなたがいっしょに入ることを禁じます。あなたはわたしのあとを追ってくるのね、ああ、K、なぜわたしのあとを追ってくるの。けっして、けっして、わたしはあなたのところへもどりはしません。そんな可能性を考えると、ぞっとします。あなたのあの娘たちのところへいらっしゃい。わたしが聞いたところによると、あの人たちはストーブのそばの長椅子に下着だけの姿で坐っているっていうじゃないの。そして、あなたを迎えにだれかがくると、うなるっていうじゃないの。そんなにあそこにひきつけられるのなら、あなたはきっとあそこで自分の家にいるような気持がするにちがいありません。わたしはあなたをいつもあの家から遠ざけていました。それももう過ぎたことです。あなたは自由ですわ。楽しい生活があなたの前にあるのよ。あのうちの一人のために、あなたはおそらく下僕たちと少しばかり闘わなければならないでしょうが、もう一人のほうについていえば、天にも地にもあの人をあなたに与えたがらない者なんて一人もいないわ。あなたがたの縁ははじめから祝福されていますわよ。文句なんかいわないでちょうだい。そうよ、あなたはあらゆることに反駁《はんばく》することができるんだわ。でも、結局は何一つとして反駁なんかできてはいないのよ。ねえ、イェレミーアス、そうでしょう、この人はあらゆることに反駁したのね」
 二人はうなずいたり、微笑したりして、たがいに気持を通じ合っている。
「でも」と、フリーダは言葉をつづけた。「この人がかりにあらゆることを反駁したとしても、それで何が得られたというの? それがわたしとどんな関係があるの? あの人たちのところでどんなことになろうと、それはあの人たちのことであり、この人のことであって、わたしには関係なんかないわ。わたしのことというのは、あなたを看病することだわ、あなたがまた元気になるまでのあいだ、まだKがわたしのことであなたを苦しめたりしなかったころと同じように元気になるまでね」
「それでは、あなたはほんとうにいっしょにいらっしゃらないんですね、測量技師さん?」と、イェレミーアスはたずねたが、もう全然Kのほうを振り向こうともしないフリーダによって、決定的につれ去られてしまった。下に小さなドアが一つ見えた。ここの廊下にあるドアよりも低く――イェレミーアスばかりでなく、フリーダのほうも入っていくときに身体をこごめなくてはならなかった――部屋のなかは明るく、暖かい様子だった。なお少しのあいだ、ささやく声が聞こえた。おそらく、イェレミーアスをベッドにつれていくため、いろいろあやして説得しているらしかった。それからドアが閉じられた。
 そのときやっと、Kは廊下がどんなに静かになってしまっているかということに気づいた。彼がフリーダといっしょにいた廊下のこの部分は、事務室に附属しているものらしかったが、ここばかりではなく、さっきはあんなににぎやかであった各室についている長い廊下もそうだった。それでは、城の人びともとうとう眠りこんでしまったのだ。Kもひどく疲れていた。おそらく疲れのために、イェレミーアスに対して、ほんとうはやるべきであったほどに自分の身を守らなかったのだった。おそらくイェレミーアスを模範にしたほうがもっと賢明だったのだろう。あの男は明らかに凍えているということを誇張したのだ。――あの男のみじめな様子は身体が凍えていることからきているんではなく、生まれつきのものであり、茶を飲んで養生することなんかでは追い払うことはできないものだ――すっかりイェレミーアスに見ならって、実際ひどく疲れている様子をあの男と同じように表面に出し、ここの廊下に倒れてしまい(これだけでもひどく気持がよかったにちがいないのだ)、少しまどろみ、それからおそらく少しばかり看病してもらったほうが、もっと賢明なやりかたであったろう。ただ、イェレミーアスの場合のように都合のよい結果にはならなかったことだろう。あの男は、同情を求めるこの競争ではきっと、そしておそらく、それももっともなのだが、勝利を収めたことだろうし、さだめしほかのどんな闘いにおいてだって同じ結果になったろう。Kはひどく疲れていたので、たいていは空部屋らしいこれらの部屋の一つに入って、りっぱなベッドのなかで十分に眠るようにやってみないことはできないものか、と考えた。これは彼の考えによると、多くのことの埋め合せとなるかもしれないのだ。寝酒も用意ができていた。フリーダが床の上に置いたままにしていった食器ぼんには、小さなガラス壜一本のラム酒があった。Kはその場所までもどっていく努力をいとわなかった。そして、その小壜を飲みほしてしまった。
 そこでKは、少なくともエルランガーの前に出るだけの元気があるように感じた。エルランガーの部屋のドアを探したが、下僕とゲルステッカーとがもう見あたらず、どのドアも同じなので、見つけ出すことはできなかった。それでも、廊下のどの場所にドアがあったかをおぼえているような気がした。そして、彼の考えではおそらく探していたドアだと思われるドアを、開けてみようと決心した。開けようとしたこの試みはそれほど危険であるはずがなかった。もしそれがエルランガーの部屋だったら、彼が迎えてくれるだろう。もし別人の部屋であったら、詑びをいって、出てくることも可能だろう。客が眠っていたら(これがいちばんありそうなことだが)、自分の訪問は全然気づかれないだろう。まずいのはただ、部屋が空《から》の場合だ。というのは、空だとすると、自分はベッドに寝て、果てしなく眠ろうとする誘惑に勝てないだろう。彼はもう一度、廊下ぞいに左右をながめた。自分に教えてくれ、こんな冒険を不必要にしてくれるような人がだれかいないものか、と見廻したが、廊下は静かで人気がなかった。そこでKはドアのところでなかの様子をうかがってみたが、ここにも客はいなかった。眠っている人がいたら起こすまいとして、彼はそっとノックしたが、それでも何も反響がないので、ひどく用心深くドアを開けた。すると、今度は軽い叫び声が彼を迎えた。
 小さな部屋で、幅の広いベッドによって部屋の半分もふさがっており、ナイト・テーブルの上には電燈がついていて、そのそばには旅行靴が置いてあった。ところが、ベッドのなかには、ふとんにすっかり隠れて、だれか人がごそごそ動いており、ふとんとシーツとのあいだのすきまからささやくのだった。
「だれですか?」
 そこでKは、もうそのまま立ち去るわけにいかなかった。不満そうに彼は、ふかぶかとしているが残念なことに空ではないベッドをながめ、それから相手の質問を思い出して、自分の名前をいった。これがいい効果をもたらしたようで、ベッドの男は少しばかりふとんを顔から引き払ったが、ベッドの外で何か都合が悪いことがあるならば、すぐにまたすっかりもぐってしまおうと不安そうに構えているのだった。だが、つぎにふとんをためらうことなくはね返し、身体をまっすぐに起こした。それはきっとエルランガーではなかった。小柄な、なかなかりっぱそうに見える紳士で、その顔は一種の矛盾を浮かべていた。つまり、頬は子供のようにまるまるとして、眼は子供のようにうれしげだが、ひいでた額、尖《とが》った鼻、唇がほとんど合おうとしない細い口、ほとんど消えてなくなるように見える顎《あご》は、全然子供らしくなく、すぐれた思考の能力を表わしていた。健康な子供時代のこの人の顔に、強い名ごりをとどめさせているものは、その思考力に対する満足と自分自身に対する満足とであるらしかった。
「フリードリヒをご存じですか?」と、その人がたずねた。
 Kは、知らない、といった。
「でも、あの人はあなたを知っていますよ」と、その人は微笑しながらいった。Kはうなずいた。彼のことを知っている人びとには事欠かなかった。このことが彼の進んでいく途上の主な障害の一つだったくらいだ。
「私はそのフリードリヒの秘書です」と、その紳士はいった。「名前はビュルゲルです」
「失礼しました」と、Kはいって、ドアの取手のほうへ手をのばした。「申しわけないことに、あなたのドアをほかの人のと取りちがえてしまいました。つまり、私は秘書のエルランガーのところへ呼ばれているのですが」
「それは残念です」と、ビュルゲルはいった。「あなたがよそへ呼ばれているということではなく、あなたがドアをまちがえられたということです。つまり、私は一度起こされると、もう二度と眠りこむことができないのです。でも、あなたはそんなことをそれほど残念に思われる必要はありません。それは私の個人的な不幸ですからね。なぜここのドアはみんな閉めきりにできないんでしょうね? それにはむろん理由があります。ある古い格言によると、秘書の扉はいつも開かれていなければならない、と申しますからね。もっとも、これも文字どおりに受け取られる必要はないでしょうがね」
 ビュルゲルは、たずねるように、またうれしそうに、Kを見つめた。彼の不幸とは反対にむしろすっかり休息しているように見えた。今のKほどに疲れているということは、このビュルゲルにはおよそなかったにちがいない。
「いったい、あなたはどこへいらっしゃるつもりですか」と、ビュルゲルはたずねた。「四時ですよ。あなたのいこうと思われる人を起こさなければなりませんね。だれでも私のようにじゃまされることに慣れているわけではないでしょうし、だれでも私のように我慢強くじゃまを耐え忍んでくれるわけでもないでしょう。秘書たちは神経質な連中ですから。だからしばらくここにとどまりなさい。ここでは五時ごろに起き始めます。そうすれば、あなたはあなたの呼び出しにいちばんよく応ずることができるでしょう。ですから、どうぞもう手をドアの取手からお放しになって、そこいらにおかけ下さい。むろんここは場所が狭いので、あなたはここのベッドのはじに坐って下さるのがいちばんよろしいでしょう。ここには椅子もテーブルもないので、あなたはびっくりしていらっしゃるんですか? そうなんです、私は幅の狭いホテル用ベッドのある完全な室内設備の部屋を手に入れるか、あるいはこの大きなベッドと洗面台以外には何もない部屋を手に入れるか、どちらかを選ぶことになりましてね。私は大きなベッドのほうを選びましたよ。なにしろ寝室ではベッドがいちばん大切なものですからね! ああ、のびのびと手足をのばし、よく眠れる人だったらねえ。このベッドはよく眠れる人にはほんとうに貴重なものであったにちがいないんですが。でも、眠ることができないでいつでも疲れているこの私にも、これは気持がいいですよ。このなかで一日の大部分を過ごし、このなかであらゆる通信を片づけ、ここで陳情者の事情聴取をやっています。まったく工合がいいですよ。とはいっても陳情人たちには坐る場所はありませんがね。けれど、陳情人たちはそんなことは我慢しますし、それに彼らにとっても、自分たちが立ったままでいて、調書作成者が気持よくしていてくれるほうが、自分たちが安楽に坐って、それでどなりつけられるのよりも気持がいいですからね。それに、私は坐り場所としてベッドのはじのここしかありませんが、これはけっして職務をやる場所じゃありませんからね。そして、ただ夜間の話合いに使うことにきめてあるんです。でも、測量技師さん、あなたはひどく黙りこくっていらっしゃいますな」
「とても疲れているんです」と、Kはいった。彼は相手のすすめに従ってすぐ、乱暴に、遠慮なしにベッドに腰かけ、ベッドの柱によりかかっていた。
「ごもっともです」と、ビュルゲルは笑いながらいった。「ここではだれもが疲れています。たとえば、私がきのう、それにきょうもやったのはけっして小さな仕事じゃありません。私が今、眠りこむなんてまったくできないことなんですが、それでもこのおよそありそうもないことが起って、あなたがここにいらっしゃるあいだに私が眠りこむようなことになったら、どうか静かにして下すって、ドアを開けるようなこともなさらないで下さい。でも、ご心配なく。私はきっと眠りこんだりなんかしないでしょうし、うまくいって眠ったとしても、ほんの一、二分間のことですからな。つまり、おそらく陳情者との交渉にすっかり慣れてしまっているからでしょうが、お客がいてくれると、ともかくいちばん眠りやすい、というわけなんです」
「どうぞ眠って下さい、秘書さん」と、Kは相手がそういうことによろこんで、いった。「あなたが眠られたら、もしおよろしかったら、私も少し眠りましょう」
「いや、いや」と、ビュルゲルはまた笑った。「ただ人にすすめられるだけでは、残念ながら私は眠りこむことはできません。ただ人と話しているあいだにそういう機会が訪れるんです。人と話すことがいちばん早く私を眠りこませるんです。まったくの話、われわれの仕事では神経が疲れますからなあ。たとえば、私は連絡秘書です。それがどんなものか、あなたはご存じないんですか? それなら教えてあげますが、私がいちばんさかんに連絡をやっているんです」――こういいながら思わず知らずうれしそうな顔をして、急いで両手をこすり合わせるのだった――「フリードリヒと村とのあいだでです。私はあの人の城にいる秘書と村の駐在秘書とのあいだの連絡をやっていて、たいていは村にいますが、いつもというわけじゃありません。いつでも、城へ車で登っていくつもりでいなくちゃなりませんでしてね。旅行鞄をごらんでしょう。落ちつかぬ生活でして、だれにでも向くというわけにはまいりませんな。しかし、その一面、私はもうこの種の仕事なしではいられないということも正しいのでして、ほかの仕事は私には貧弱に見えるんです。いったい、あなたの土地測量のお仕事はいかがなもんで?」
「私はそんな仕事をやっていません。私は土地測量技師として使われているんじゃないのです」と、Kはいった。そんなことを彼はほとんど考えてはいなかった。ほんとうはただ、ビュルゲルが眠りこむことだけをじれるほど望んでいるだけだ。しかし、それさえもただ自分自身に対する一種の義務感情からやっているのであって、心のいちばん奥では、ビュルゲルが眠りこむ瞬間はまだ見当もつかぬくらい遠い先のことである、と知っているように思うのだった。
「それは驚くべきことですな」と、ビュルゲルは頭をさかんに振りながらいって、何かメモしておくためにふとんの下からメモ帳を取り出した。「あなたは測量技師でありながら、測量の仕事をもっておられない、というんですね」
 Kは機械的にうなずいた。彼は上のベッドの柱に左腕をのばし、その腕に頭をのせていた。すでにいろいろと身体を楽にしようとしてみたのだったが、この姿勢がいちばん楽だった。そこで今度は、ビュルゲルのいうことに少しはよく注意を向けることができた。
「わたしは」と、ビュルゲルはつづけていった、「この件をさらに追求してみる用意があります。ここのわれわれのところでは、何か専門的な能力が利用されずに放置されているなどというようなことがないようになっています。それに、あなたにとってだって、そんなことはあなたを傷つけるようなものですからね。いったい、あなたはそのことを苦にしてはいないんですか」
「それを苦にしていますよ」と、Kはゆっくりといったが、ひとりで微笑した。というのは、今はそんなことをほんの少しでも苦にはしなかったのだ。また、ビュルゲルの申し出も、彼にはほとんどなんらの印象も与えなかった。それはまったく局外者の道楽半分でやりそうなことであった。Kの招聘が行われた事情について、またこの招聘が村と城とで出会ったさまざまな困難について、Kの当地滞在のあいだにすでに起った、あるいは起こりそうだったさまざまなもつれについて何も知ることなしに、そうしたすべてについて何も知ることなく、そればかりか、これは一人の秘書からただちに考えられるはずのことだが、少なくともそんなことがあるという予感は彼の心に浮かびそうなものなのに、そんな様子も見せないで、ビュルゲルはいきなり小さなメモ帳の助けを借りてこの件を上の城で解決してやろうといい出したのであった。
「あなたはすでにいくつかの失望を経験されたようですな」と、ビュルゲルはいったが、その言葉でいくらか人間についての知識をもっていることを示したものだった。そもそもKは、この部屋に足を踏み入れてから、このビュルゲルを見くびってはならないと、ときどき自分にいい聞かせていたのだ。しかし、彼のこんな状態では、自分自身の疲れ以外の何かについて正しい判断を下すことはむずかしかった。
「いや」と、ビュルゲルはKの考えそうなことに答えるかのように、そして彼をいたわってそれをいい出す苦労をはぶいてやろうとするかのように、いった。「あなたは失望なんぞで驚かされてしまっていてはなりませんぞ。まったくのところ、ここでは多くのことが人を驚かすように仕組まれていますし、新しくここにやってくると、いろいろな障害がまったく取り除くことができないもののように見えます。私はなにもそれがほんとうはどういうことになっているのかということを検討するつもりはありません。おそらく外見が実際上もほんとうのところをぴったり表わしているんでしょう。私のような立場では、そのことをたしかめるのに適当な距りというものが欠けています。しかし、注意していただきたいですが、それでもときどきは全体の状態とほとんど一致しないような機会が生じるものなのです。そういう機会には、ほんの一ことによって、一つのまなざしによって、信頼のほんのわずかなしるしによって、一生のあいだの骨身をけずるような努力によって得られる以上のものが手に入るのです。たしかに、このとおりなのです。むろん、こうした機会は、それがけっして十分に利用されぬ限りは、やはり全体の状態のとおりなのです。しかし、なぜそうした機会が利用されないのだろうか、と私はいつでも自問しているんです」
 Kにはわからなかった。ビュルゲルがいうことはおそらく自分に大いに関係があるのだ、と気づいてはいたが、今は自分に関係のあるいっさいのことに大きな嫌悪感を抱いていた。彼は頭を少しわきにそらした。まるで、そうすることによってビュルゲルの質問に道をあけてやり、その質問にもうふれられないでいられるのだ、といわんばかりだった。
「村での聴取をたいていは夜分に行わなければならないようになっているということは」と、ビュルゲルは言葉をつづけ、両腕をのばしてあくびをしたが、これは彼の言葉のまじめさとはいかにも矛盾していて、とまどわされるようなものだった。「秘書たちのたえずこぼしているところです。だが、彼らはなぜそのことをこぼすんでしょうか。あまりに骨が折れるからでしょうか。夜はむしろ眠るために使いたいからでしょうか。いいえ、彼らはきっとそんなことをこぼしているんじゃないんです。もちろん、秘書のあいだにも勤勉な者とそれほど勤勉でない者とがいます。よそのどんなところとも同じわけです。しかし、彼らのうちだれ一人として骨が折れすぎるといってこぼす者はいません。まして公然とこぼす者なんかいません。それはわれわれのやりかたではないというだけの話です。われわれはこの点では普通の時間と仕事の時間とのあいだに区別を知りません。そうした区別はわれわれには縁のないものです。それでは秘書たちはなんで夜の聴取を好まないのでしょうか。陳情者たちへの思いやりといったものでしょうか。いえ、いえ、それでもありません。陳情者たちに対して秘書たちは思いやりがないんです。とはいっても、自分たち自身に対するよりもいっそう思いやりがないというのではけっしてなく、ただまったくそれと同じように思いやりがないんです。ほんとうはこの思いやりのなさは勤めを鉄のように固く守り、そして遂行するというものにほかならないのであって、これは陳情者たちがおよそ望みうる最大の思いやりというものです。このことはまた根本において――表面だけの観察者はむろん気づきませんが――あらゆる人びとによって完全にみとめられていることです。たしかに、たとえば陳情者たちにとって歓迎すべきものである夜の聴取というものこそこの場合でして、夜の聴取に対する根本的な苦情なんかは提起されることはありません。では、なぜ秘書たちは嫌うのでしょうか」
 それもKにはわからなかった。彼にはほとんど何もわからず、ビュルゲルがまじめに返事を要求しているのか、あるいはただ見せかけで要求しているのか、区別がつかなかった。「もしお前がおれをお前のベッドに寝かせてくれるなら」と、彼は思った、「あすの昼、あるいは夕方のほうがもっといいが、どんな質問にも答えてやろう」しかし、ビュルゲルは彼のことなんかに注意していないらしく、自分に提起した質問にすっかり没頭しきっていた。
「私が知っている限り、また私が自分で経験した限り、秘書たちは夜の聴取に関しておよそ次のような考えをもっているのです。すなわち、夜間には審理の公的な性格を十分に維持することが困難、いや不可能でさえあるため、夜が陳情者たちの審理には不適当である、というわけです。これはさまざまな外的なことにかかっているのではなくて、さまざまな形式は夜でも、欲するならば昼間におけるのと同じようにきびしく守られることができます。だから、このことが問題ではないのですが、それとはちがって公的な判断が夜にはそこなわれるのです。人間は知らず知らずに、夜間にはものごとを個人的な観点からより多く判断する傾向があります。陳情者たちの供述が、それにふさわしい以上の重みをもちます。判断のなかには、陳情者たちのそのほかの状態とか彼らの悩みや心配とかの相応の考慮というものが、全然入ってこないのです。陳情者たちと役人たちとのあいだの柵《さく》が、たとい外面的には非の打ちどころなく存在しているとしても、ゆるんでしまうのです。そして、夜間でなければ、当然あるべきように、ただ質問と返答とがやり取りされるはずのところで、ときどき、奇妙な、まったくふさわしくないような、役柄の交換が行われるように見えるのです。少なくとも秘書たちはそういうふうにいっています。つまり、職務柄そうしたことに対してまったくなみなみでない鋭い感覚に恵まれている人びとではあるわけですが、秘書たちはそういうのです。しかし、彼ら秘書たちでさえ――このことはすでにしばしばわれわれの仲間では話し合われましたが――夜間の事情聴取のあいだにはそうしたまずい作用にほとんど気づかないのです。反対に、彼らはそうしたまずい作用を防ぐようにはじめから努力し、最後にはかくべつよい成果を挙げることができたように思うのです。ところが、のちになって調書を読み返すと、しばしばその明白な欠点に驚くということになります。そして、この点がまちがいであり、しかもいつでも陳情者の半ばは不当なもうけものなのでして、それは少なくともわれわれの規則によれば普通の手短かな手続きではもう修正がきかないのです。かならずやそれらのまちがいは監督の役所によって改善されるでしょうが、しかし、そのことはただ正義に役立つだけであって、もうその陳情者側に損を与えることはないでしょう。こうした事情のもとにあっては、秘書たちのこぼすのもまことにもっともではないでしょうか」
 Kはそれまでほんのちょっとのあいだ半ばうとうとして過ごしていたが、今はふたたび目をさまされた。「こうしたことのすべてはどうしたわけなのだ? どうしたわけなのだ?」と、彼は自問して、重くなったまぶたの下からビュルゲルを、自分とむずかしい疑問について話し合っている一個の役人としてではなく、ただ自分の眠りを妨げ、そのほかの意味は見出すことができない何かあるものとして、ながめた。ところがビュルゲルのほうは、まったく自分の思考の筋道に没頭していて、Kを少しばかりまどわすことにちょうど今成功したのだといわんばかりに微笑するのだった。
「ところで」と、ビュルゲルはいった。「秘書たちがこうしてこぼすことは、そのまますぐまったくもっともだとするわけにもいきません。夜間の事情聴取はなるほどどこにもはっきり規定されてはおりません。そこで、夜間聴取を避けようとしても、どんな規則も犯すことにはなりません。しかし、さまざまな事情、仕事の氾濫《はんらん》、城の役人たちの執務のしかた、彼らのひどい脱線、また陳情者の事情聴取はそのほかの審理の完全な終了後にはじめて行い、しかもただちに完了しなければならない、という規則、こうしたすべてのことやもっとそのほかのことが、夜間聴取を避けがたくやむをえぬ処置としてしまったのです。ところで、それがやむをえぬ処置となってしまったとすると――私はこう申しますが、これはまた、少なくとも間接には、さまざまな規則の生んだ結果であって、夜間聴取という制度をとやかくいうことは、とりもなおさず――もちろん私は少し誇張してはいますが、それゆえ、誇張として私はこのことをいってよいでしょう――規則というものをとやかくいうこととさえなるわけです。
 これに反して、秘書たちが規則の範囲内で夜間聴取とそのおそらくは外見上だけの不利益をできる限り防ごうとすることは、彼らにみとめられているといえるでしょう。実際、彼らはまたそうしてもいます。しかも最大限にです。彼らは、いかなる意味においてもできるだけ心配の少ないような審理の対象だけをみとめ、審理の前には自分の心をよく検討し、その検討の結果が要求するのであれば、最後の瞬間においてでも審理を取り消し、一人の陳情者をほんとうに呼び出す以前にしばしば十回でも召喚して下調べを行うことによって自信を強め、当該の事情の係でなく、それゆえもっとたやすくその事件を扱うことができる同僚たちに好んで代理をしてもらい、審理を少なくとも夜の初めか終りかの時間に置き、その中間の時間は避けるのです。こうした処置はまだたくさんあります。彼らは簡単にはやりこめられたりしません。秘書というのは傷つきやすいのと同時にまた抵抗力に富んでもいるのです」
 Kは眠っていた。ほんとうの眠りというわけではなく、ビュルゲルの言葉をおそらくは以前の疲れきった目ざめのあいだよりはよく聞いていたのだった。一こと一ことが、彼の耳を打ったが、わずらわしい意識は消え去っていた。彼は自由であると感じていた。ビュルゲルはもう彼をつかまえているのでなく、ただ、まだときどきビュルゲルのほうへ手探りするだけだった。彼はまだ眠りの深みにはまりこんではいなかったが、眠りにひたってはいた。だれももはや彼からそれを奪ってはならないのだ。そして、まるで自分がこのことによって大きな勝利を収めたように思われるのだった。すでにこれを祝うための一群の人びとがそこにいる。自分かほかのだれかがこの勝利を祝ってシャンパンのグラスを挙げる。そして、どういうことが問題となっているのかをみんなに知らせるために、もう一度闘いと勝利とがくり返される。あるいは、おそらくくり返されるのなんかじゃなくて、今はじめて行われ、もう前もって祝われているのだ。そしてそれは中止はされない。なぜなら、結果はありがたいことに確実だからだ。ギリシア神のうちのだれかの像にとてもよく似た裸の一人の秘書が、闘っているうちに、Kに押しまくられた。ひどく滑稽で、Kはこんな有様を見て眠りのなかでおだやかに微笑した。その秘書はKの突進によって誇らかに構えた姿勢をとってはいられなくなるようにたえずおびやかされ、高くさしのばした腕と丸めた拳とを自分の裸身を被い隠すために使わなければならないのだが、しかもその動作がのろのろしすぎているのだ。闘いは長くはつづかなかった。一歩一歩、そしてそれがひどく大股であったが、Kは前へ進んでいった。これはそもそも闘いなのだろうか。深刻な妨害などはなく、ただときどき秘書がひいひい泣くだけだ。このギリシアの神は、くすぐられた小娘のようにひいひい泣くのだ。そして、ついに秘書は立ち去った。Kはひとりで広い場所にいた。闘う気構えであたりを見廻し、相手を探した。しかし、もうだれもいなくて、さっきいた人びとも逃げ去ってしまい、ただシャンパンのグラスだけがくだけて地面に横たわっている。Kはそれを完全に踏みくだいた。ところが、破片が突きささって、彼はびくっとして目をさました。起こされた幼な子のように機嫌が悪かった。それにもかかわらず、ビュルゲルのあらわな胸を見て、夢から引きつづいたこんな考えが彼の頭をかすめた。ここにお前のギリシアの神がいるぞ! こいつを羽根ぶとんから引きずり出せ!
「ところが」と、ビュルゲルは、まるで思い出のなかで実例を探しているのだが、それができないかのように、考えこんだまま顔を天井に向けて、いった。「ところが、慎重を期すためのあらゆる処置にもかかわらず、陳情者たちには秘書たちのこの夜間の弱みを――やはり、これが弱みだと仮定してのことですが――自分のために利用する可能性があります。むろん、きわめてまれな、もっと正しくいうならほとんど絶対に起こらないような可能性ですが。で、その可能性は、陳情人が真夜中に予告なしでやってくるというところにあります。あなたはおそらく、そんなことがいかにもありそうなのに、きわめてまれにしか起こらない、ということをいぶかしく思っているんでしょうな。さよう、あなたはわれわれの事情に通じてはおられませんからね。しかし、そんなあなたももう、役所の組織がどんなにすきがないものかということに眼を見張られることでしょう。ところが、こうしてすきがないことからこういうふうなことが起こるんです。つまり、何か役所に対する請願を行おうとしている者とか、そのほかの理由から何かについて事情の聴取をされなければならない者とかは、だれでもすぐ、ためらうことなしに、たいていはまだ自分がその件についてなんの気構えもできていないうちに、いや、それどころか自分でその件について知らないうちに、早くも呼び出しを受けるというわけです。しかし、彼はそのときにはまだ審理されません。たいていはまだ審理されないのです。普通の場合、事がまだ熟してはいないのです。ところが、呼び出し状をもらっているわけで、もう予告なしでくることはできません。せいぜい、適当でない時日にやってくるのですが、そうなるとただ呼び出し状の月日と時間とに注意をうながされるだけです。そして、今度は正しい時日にやってくると、普通は追い返されます。追い返すのはもうむずかしいことではありませんからね。陳情人が手にしている呼び出し状と書類のなかに記入してある文句、それは秘書たちにとってはいつも十分とは限らないが、それでも追い払うための強力な武器なのです。といっても、追い払うということはただ、ちょうどその件の係の秘書にだけあてはまることです。ほかの秘書たちを夜間に突然訪ねるということは、まだだれにだって自由でしょう。しかし、そんなことはだれもやらないでしょうから、ほとんど無意味なわけです。まず第一に、そんなことをやれば、係の秘書の機嫌をひどくそこねてしまうでしょうからな。われわれ秘書は仕事に関してはたしかにたがいに嫉妬深くはなく、だれもがあまりに多く割り当てられた、ほんとうにあっさりと背負いこまされた仕事の重荷を担っているんです。しかし、陳情人たちに対しては、仕事の係を乱されることはけっして我慢できません。係のところでは話が進まないと思い、係以外のところでうまく切り抜けようとして、多くの者がこれまでに失敗してしまいました。こうした試みはつぎのようなことで挫折してしまわないではいません。つまり、係でない秘書は、たとい夜間に襲われて、助けてやろうと心から思っても、自分が係ではないため、ほとんどだれか任意の弁護士以上にはその件に手出しができないのです。いや、根本ではそんな弁護士よりもずっと手出しができないくらいです。というのは、その秘書には――法の抜け道をあらゆる弁護士諸氏よりもよく知っているので、何かをすることができるとしても――自分の係ではない事柄には時間というものがないんです。一瞬でもそんなことのために時間をさくことはできないんですよ。ですから、こんなふうな結果になるとわかっていながら、だれが係でない秘書の役目をやるために自分の夜の時間を使ったりするものですか。また陳情人たちにしても、自分のそのほかの職業をやるほかに係の者の呼び出しや指図に応じようとするなら、やることがいっぱいあります。むろんこの『やることがいっぱいある』というのは陳情人たちのいう意味であって、秘書たちのいう意味での『やることがいっぱいある』というのとはもちろんけっして同じことではありません」
 Kは微笑しながらうなずいた。今は万事をよく理解したように思った。ビュルゲルのいったことが彼の心を占めていたためではなく、自分は次の瞬間に完全に眠りこんでしまい、しかも今度は夢を見たりじゃまされたりしないで眠れるだろう、と確信していたからだった。一方に係の秘書たち、他方に係でない秘書たちと、両者のあいだで、そしていっぱいやることのある陳情人たちのむれを眼の前にして、深い眠りに沈んでいき、こうしていっさいのことから逃がれるだろう、と確信しているのだった。低い、自己満足しているような、自分が眠りこむのにはどうも役には立たないらしいビュルゲルの声に今では慣れてしまっていたので、その声は彼の眠りをじゃまするよりはむしろ促すようだった。「かたかた廻れ、水車よ、かたかた廻れ」と、彼は考えた。「お前はただおれのために廻っているんだ」
「それならどこに」と、二本の指で下唇をもてあそびながら、まるで骨を折ってさすらい歩いたあとで魅惑的な見はらしの場所に近づいたように眼を見開き、首をのばして、彼はいった。「それならどこに、さっきいった、まれな、ほとんど絶対にやってこない可能性というものがあるんでしょうか。その秘密は職務の係についての規定のうちに隠されています。つまり、どの件にもただ一人の特定の秘書が係となる、という規定はないし、また大きな生きた組織においてはそういうわけにもいかないのです。ただ、一人が主要な係となって、ほかの多くの者は、それに比べて係としての役目は小さいけれど、ある程度はそんな役目を担う、というだけのことです。だれがいったい、たといこの上ない働き手であろうと、どんな小さな事件のものでもすべての関係事項を自分の机の上に集めることができるでしょうか。私が主要な係といったのでさえ、いいすぎです。きわめて少ししか係としての役目をもっていなくても、すでに係の全体ではないでしょうか。この場合には、事件と取り組むときの情熱だけが万事を決定するのではないでしょうか。そして、その情熱はいつでも同じであり、いつでもせいいっぱいに強いのではないでしょうか。あらゆる点において秘書のあいだにはちがいがあるかもしれません。そして、そうしたちがいは無数にあるのです。しかし、情熱の点ではちがいはありません。彼らのうちのだれもが、ほんのわずかしか係としての役目を担わないような事件を扱うように要求されるならば、それでもう自分を抑えることができないでしょう。とはいっても、外部に向っては、きちんと審理できるようにされていなければなりません。そこで、陳情人たちにとっては一定の秘書が前面に現われるのであって、陳情人たちはおおやけにはその秘書にしがみつかなければなりません。しかし、それはけっして、その事件に対して係としての役目を最大に担っている秘書である必要はありません。この点で決定を下すのは組織であり、またそのときどきの特別な組織が必要とするところなのです。これがこのことに関する事情です。ところで、測量技師さん、陳情人が何かの事情で、私が申し上げたような、一般にはいくらでもある障害にもかかわらず、当該の事件に対して係としてのある種の役目をもっている秘書を真夜中に襲うということがありうるかどうか、一つ考えてごらんなさい。あなたはまだこんな可能性のことを考えたことはありませんね? どうもそうだと思います。実際、そんな可能性のことを考えることは必要でもないのです。というのは、そんな可能性はほとんど絶対に起こらないのです。これ以上精密にできているのはないようなふるい[#「ふるい」に傍点]をするりとすり抜けるためには、陳情人はどんなに特別な、まったく特定の形をした、小さい巧みな穀粒でなければならないでしょうか? あなたは、そんなことは起こるはずがない、とお思いですね? あなたのお考えはもっともです。そんなことは全然起こるはずがないのです。ところが、ある夜のこと――だれがいっさいのことを保証なんかできるでしょうか――そういうことが起こるんです。とはいっても、私は自分の知人たちのあいだに、すでにそういう目にあったような者を一人だって知りません。ところで、そんなことはほとんどなんの証明にもなりません。私の知人の数はここで考慮に入れるべき人びとの数に比べると限られたものですし、その上、そういう目にあった秘書がはたしてそんなことを白状しようと思うものかどうかはたしかではありませんからね。ともかくそれはまったく個人的なことですし、ある意味で役所の恥に深刻にふれるようなことですからね。それでも、ともかく私の経験はおそらく、ここで問題となっているのはきわめてまれな、ほんとうはただ噂《うわさ》によってだけ存在するような、そして噂以外のどんなものによっても裏書きされないようなことであって、したがってそれを恐れるのはゆきすぎだ、ということを証明するものです。たといそんなことがほんとうに起こるとしても、そんなことはこの世で起こる余地はないのだ、と証明してやることによって(そんな証明はきわめてやさしいものです)、それを明らかに無害にしてやることができます。――そう思ってよいはずです――ともかく、そんなことが起こるかもしれないという不安からふとんの下に隠れてしまって、思いきって外を見ようとしない、というようなことをやるのは病的です。そして、たといその完全にありそうもないことが突然、形をとって起ったとしても、それで万事はだめになったといえるでしょうか。まったく正反対です。万事がだめになる、なんていうことは、もっともありそうもないことよりももっとありそうもないことです。むろん、陳情人が部屋のなかに入ると、すでに事はきわめてめんどうです。それはこちらの胸をしめつけます。『お前はどれくらいのあいだそれに抵抗できるだろうか』と、自問します。しかし、抵抗なんか全然できぬということは、わかっています。あなたはひとつこうした事情を正しく思い浮かべてみる必要があります。一度も見たことのない、いつも待っていた、ほんとうの渇《かわ》きをもって待っていた、正当な思慮で自分の手には入らないものといつでも思っていた陳情人が、そこに坐っているのです。彼が無言のままそこにいるというだけですでに、自分のあわれな生活に入ってきてくれ、その人生をあなた自身のものと思って、その人生のなかで探し廻ってくれ、自分のむなしい要求の下でいっしょに悩んでくれ、とさそいかけているようなものです。静かな夜のなかでのこのさそいかけは、じつに魅惑的でしてねえ。ところが、そのさそいのいうままになるならば、もう役人であることをやめてしまったのです。そういう状態にあると、願いごとを拒むというのはもう不可能となります。正確にいうと、こちらは絶望しているんです。もっと正確にいうならば、とても幸福なのです。絶望しているというのは、われわれがここに坐り、陳情人たちの嘆願を待ち、その願いが一たび口にされるならば、たといそれが自分で見通すことができる限りでも役所の組織を明らかに破壊してしまうとしても、それをかなえてやらないわけにいかない、と知っているときのわれわれの無防備の状態、その状態というものは職務の遂行において起こりうる最悪の状態ですからねえ。その理由は、まず第一に――ほかのことはすべて別としても――そういうとき自分のために一時的に強引に要求しているのは、考えも及ばぬような大変な地位の昇進なんですからね。われわれの地位からいうと、今ここで問題となっているような嘆願をかなえてやる資格なんか全然ないんです。しかし、こうした夜間の陳情人が身近かにいることによって、われわれにはある程度職務上の力も大きくなっていくのです。つまり、われわれはわれわれの領域の外にあるようなことを引き受けることになります。それどころか、それを実行さえするでしょう。陳情人は夜間に、ちょうど強盗が森のなかでやるように、そのほかの場合にはわれわれにけっしてできないような犠牲をしいるわけです。まあ、いいとしましょう。とにかく今は陳情人がまだそこにいて、われわれを元気づけ、強制し、鼓舞しており、万事はまだ半分無意識のうちに進行しているわけですからね。だが、そのあとがどうなるのでしょうか。すべては過ぎ去り、陳情人はあきてしまい、無関心になり、われわれのところを去り、われわれのほうはただひとり、われわれの職務上の越権に直面して無防備の状態でそこに立っているわけですからね。――これはどんなものか全然想像しつくすことができないくらいです! それにもかかわらず、われわれは幸福なのです。その幸福はどんなに自滅的なものでしょう! たしかにわれわれは、陳情人に対してほんとうの事情を隠すように努めることだってできるでしょうに! 陳情人自身は自分ではほとんど何にも気づいていません。陳情人は彼らの考えによれば、おそらくただ何かどうでもいいような偶然の理由から――疲れ果て、失望し、過労と失望とのために考えもなく、どうでもいいという気持になって――いこうと思った部屋とは別な部屋に入りこんだ、というわけです。そして、何も知らずにそこに坐り、およそ彼が何かを考えているとするなら、自分のあやまちと自分の疲れとのことを頭のなかで考えているわけです。その人間をそのまま打ち捨てておけないものでしょうか? それができないのです。われわれは幸福を味わっている者独特のおしゃべりによって、すべてを説明しないではいられないのです。われわれは、自分自身を少しもいたわることができないままに、何が起ったのかということ、どんな理由からそれが起ったのかということ、またこの機会がどんなにまれなものであり、比べものがない大きな機会であるかということを、くわしく教えてやらないわけにいかないのです。そして、陳情人はなるほどほかのどんな人間もありえないほどの孤立無援の状態のなかでそんな機会のうちにはまりこんだのではあるが、今やその気になりさえするなら、測量技師さん、いいですか、いっさいを思うままにすることができ、しかも彼の頼みをともかく述べるという以外に何もする必要はないのだ、それがかなえられる用意はもうできているのだ、それどころか、それがかなえられることに向って自分で身体をのばしているのだ、ということ、そうしたすべてを教えてやらないではいられないのです。これは役人のむずかしい瞬間です。しかし、たといわれわれがそれをやったとしても、測量技師さん、ただどうしても起こらざるをえないことが起ったというだけなんですよ。われわれは謙虚な態度で待たなければならないのです」
 Kは、起っているいっさいのことにおかまいなしに、眠っていた。最初はベッドの上のほうの左腕にのせられていた彼の頭は、眠っているうちに滑り落ちてしまい、宙に浮いて、ゆっくりと下へ沈んでいった。上の腕で支えるだけではもう十分ではなく、思わず知らずKは右手をふとんの上について支えにしようとしたが、そのとき偶然にふとんの下でもち上がっているビュルゲルの足をつかんだ。ビュルゲルはそっちを見やったが、いくら重荷になっても、Kに自分の足をまかせていた。
 とそのとき、はげしい打ちかたでわきの壁をたたく音がした。Kはびっくりして目ざめ、壁を見つめた。
「測量技師がそこにいませんか」と、たずねる声がした。
「いますよ」と、ビュルゲルはいって、自分の足をKから離し、突然、子供のようにあらあらしく、乱暴な調子でごろりと横になった。
「それなら、もうこっちにきてもらいたいんですがね」と、その声はまたいった。ビュルゲルのことも、ビュルゲルがまだKを必要とするのかもしれないということも、まったく考慮していないような調子だった。
「エルランガーです」と、ビュルゲルはいったが、エルランガーが隣室にいるということは、彼にとっては少しも驚くようなことではないらしかった。
「すぐあの人のところへいらっしゃい。あの人はもう腹を立てていますから、なだめてやるようにしてごらんなさい。あの人はよく眠るんですが、私たちはあまり大きな声で話しましたからね。人はある種のことを話すときには、自分自身も自分の声もどちらも抑えることができないものです。さあ、あちらへいらっしゃい。あなたは眠りからまだ全然抜けきれないようですね。いらっしゃい。いったい、この上にどんな用があるというんです? いや、あなたは眠いということの弁解なんかする必要はありません。なぜそんな必要なんかあります? 肉体の力はある限界までにしか及びません。この限界がほかの場合でも意味が大きいものだ、ということに対してだれが責任なんかとれますか? いや、だれだってそんな責任はとれません。世界そのものがそうやって自分の運行を正し、つり合いを取っているんですからな。これは、ほかの点に関しては慰めのないものであっても、すばらしい、どう考えても想像もつかないくらいすばらしい仕組みですからな。さあ、もういらっしゃって下さい。なぜあなたが私をそんなに見つめるのか、私にはわかりませんね。もしあなたがこれ以上ぐずぐずしていらっしゃると、エルランガーが私に腹を立てますからね。そんなことは避けたいんです。どうか、もういらっしゃって下さい。向うで何があなたを待っているかはわかりません。ここでは万事が機会にみちあふれていますけれどもね。ただ、むろんのこと、ある意味で大きすぎて利用のできかねる機会というものがあります。ほかならぬ事柄自体において挫折するものごとというものがあるものでしてね。まったく、これは驚くべきことです。ところで、私は今度は少し眠れる気がします。むろん、もう五時ですし、まもなくさわぎが始まります。少なくとも、あなたはもうあちらへいらっしゃっていただくと、ありがたいんですが」
 深い眠りから突然眼をさまされて頭がぼうっとして、まだ際限もなくねむけをおぼえ、きゅうくつな姿勢をしいたために身体のふしぶしが痛むのを感じながら、Kは長いあいだ立ち上がる決心がつきかねており、額を抑え、自分の膝の上をながめていた。ビュルゲルがたえず別れの挨拶をいって彼を追いたてても、彼を去らせるようにもっていくことはできなかったろう。ただもうこれ以上この部屋にとどまっていても完全にむだだという感情だけが、だんだんとここを出ていく気にさせたのだった。彼にはこの部屋がなんともいえぬほど荒涼としているように思われた。この部屋がそんなふうになってしまったのか、それとも以前からそうであったのかは、彼にはわからなかった。また眠りこむというようなことは、この部屋では成功しないだろう。この確信こそ決定的な感情だった。そのことに少し微笑しながら、彼は立ち上がり、支えさえあれば手あたり次第にベッドとか壁とかドアとかに身体を支えて、まるでずっと前にビュルゲルに別れを告げたもののように、挨拶もしないで出ていった。

第十九章

 エルランガーが開いたドアのところに立って、彼に合図をしなかったならば、彼はおそらくビュルゲルの部屋を出たときと同じようにエルランガーの部屋の前も無関心に通り過ぎてしまったことだろう。エルランガーのその合図は、人差指でちょっと、ただ一回だけやったものだった。エルランガーはすでにすっかり出かける用意ができて、首にきっちりと合った、上のほうまでボタンがかかる襟の、黒い毛皮の外套を着ていた。一人の従僕がちょうど彼に手袋を渡したところで、その従僕は彼の毛皮の帽子をまだ手にもっていた。
「あなたはとっくにきていなければならなかったのですよ」と、エルランガーはいった。
 Kは詑びをいおうとした。エルランガーは、両眼を疲れたように閉ざして、そんなことはしないように、と合図をしてみせた。
「問題は次の点です」と、エルランガーはいった。「酒場に以前、フリーダという女の子が勤めていました。私はその子の名前だけ知っています。その子自身は知りません。その子のことは私にはどうでもいいのです。このフリーダがときどきクラムにビールをもっていきました。今はあそこには別な女の子がいるようです。ところで、こんな変化はむろんつまらぬことです。おそらくだれにとってもそうでしょう。ましてクラムにとってはまちがいありません。ところで、仕事が大きければ大きいほど(そして、クラムの仕事はむろんもっとも大きなものです)、自分の身を外界に対して守る力は少ししか残らないものです。そのため、きわめてつまらぬものごとのつまらない変化がいちいち深刻な妨げになるということになりかねません。机の上のきわめて小さな変化、そこに前からあったしみ[#「しみ」に傍点]が取り除かれたというようなことが、もう妨げになるものなのです。新しい女給仕がきたというのもまさにそれです。むろんそんなことはみな、ほかのだれかがやっている任意の仕事のじゃまをするとしても、クラムのじゃまなんかにはなりません。そんなことは全然問題にはなりません。それにもかかわらず、われわれはクラムがくつろいでいられるようにできるだけ気づかっている義務があります。そのために、彼にとっては妨げではないようなことであっても――おそらくクラムにとっては妨げになることなんかおよそないと思われますから――われわれにとって妨げとなるかもしれないと思われるものに気づいたならば、それを取り除くように注意していなければなりません。クラムのため、クラムの仕事のためにわれわれはこうした妨げを取り除くのではなく、われわれのため、われわれの良心とわれわれの安心とのために取り除こうとするのです。それゆえ、そのフリーダという子はすぐまた酒場にもどらなければなりません。おそらくその子は、もどるというそのことによって妨げとなることでしょう。で、そうなれば、われわれはその子をまた追い出すことでしょう。しかし、目下のところ、その子はもどらなくてはなりません。私の聞かされているところでは、あなたはその子といっしょに暮らしているそうですね。そこで、すぐその子がもどるように計らって下さい。個人的感情などは、この場合いっさい考慮している余地がありません。それはまったくわかりきったことです。そこで私はこのことについてのこれ以上の言及はほんの少しでも許しません。あなたがこの小さなことをみとめるなら、それがあなたの将来に何かのときに役立つかもしれない、ということを私がいうなら、それはもう私が必要以上のことをいっていることになります。私があなたにいわなければならないことは、これだけです」
 エルランガーは別れの挨拶にKにうなずいて見せ、従僕が手渡した毛皮の帽子をかぶると、従僕を従えて、足早に、しかし少しびっこをひきながら、廊下をむこうへいってしまった。
 この土地ではときどき、実行のきわめてたやすい命令が与えられるのであったが、この実行のやさしさがKをよろこばせなかった。その理由は、命令がフリーダに関することであり、しかも命令としていわれ、しかもKの耳には嘲笑のように響くというためばかりでなく、何よりもその理由は、その命令からKにとっては自分のあらゆる努力はむだであるということがはっきりとわかってくるからであった。さまざまな命令は、都合のよいものでも都合の悪いものでも、彼の頭上を通り越していき、しかも都合のよい命令も窮極においては都合の悪い核心をもっており、いずれにしてもすべての命令は彼の頭上を通り越していくのだった。そして、彼はあまりに低い地位に置かれていて、そのためにそうした命令に干渉したり、あるいはそれを黙らせ、自分の声に耳を傾けさせることはできないのだった。エルランガーが拒んでいるとすれば、お前は何をしようというのだ。そして、もしエルランガーが拒まないとしても、お前は彼に向って何をいうことができるだろう? Kは、きょうは自分の疲れが事情のあらゆる不利にもまして自分の損になっているのだ、ということをよく知っていた。しかし、自分の身体にたよることができると信じていた彼、そしてこの確信がなかったらけっしてこの土地までこようなどとはしなかったであろう彼が、どうして二晩か三晩の悪い夜と一晩の眠られぬ夜とに耐えることができなかったのだろうか。なぜまさにここでこんなにどうしようもないほど疲れてしまったのだろうか。ここではだれ一人として疲れてはいず、あるいはここではむしろだれでも、そしていつでも、疲れてはいるのだが、それが仕事のさわりにはちっともならないのに。そればかりか、ここでは疲れていることがむしろ仕事をはかどらせるようなのだ。それから推量されることは、それがKの疲れとはまったくちがった別な疲れなのだ、ということだった。ここではたしかに疲れというものがうまくいっている仕事の最中にもあるらしい。外に向っては疲れのように見えるが、ほんとうは打ち破ることのできない安静であり、打ち破ることのできない平和であるようなものなのだ。真昼に少し疲れているならば、そのことは一日がうまく自然に進んでいることになるのだ。「ここのお偉がたたちはいつでも真昼にいるのだ」と、Kはひとりつぶやいた。
 そして、この思いは、今はまだ五時なのに早くも廊下の両側がにぎやかになったということと、ぴったり一致した。部屋部屋のこのがやがやいう声は何かきわめて楽しそうなものをもっていた。その声はあるいは遠足の支度をしている子供たちの歓声のように響いたり、あるいは鶏小屋の鶏たちが巣から羽ばたきしながら飛び出すように、眼ざめつつある一日と完全に調和していることをよろこぶ声のように、響いた。どこかで一人の紳士が鶏の鳴き声を真似さえしていた。廊下自体はまだ人気がなかったが、ドアはもう動き始めていた。くり返し一つのドアがちょっと開けられたかと思うと、すぐ閉められ、こうしたドアを開ける音で廊下はざわめいていた。ときどきKはまた、天井まで達していない壁の上のすきまに朝らしく乱れた髪の頭が現われるかと思うと、すぐ消えるのを見た。遠くのほうから、書類をのせた小さな乳母車のようなのが、一人の従僕にひかれて、ゆっくりとやってきた。もう一人の従僕がそれと並んで歩き、一枚のリストを手にし、それによってドアの番号を書類の番号と見比べていた。車はたいていのドアの前でとまった。すると普通はドアが開き、関係書類が室内へさし出されるのだが、それがときどきは、ただ一枚の紙片であった。――こういう場合には部屋から廊下へ向ってちょっとした対話が行われるのだったが、おそらく従僕にとがめ立てされているらしかった。ドアが閉っていると、書類は用心深く戸口のところに積み重ねられた。こんな場合、書類はもう配達されてしまったのに、まわりのドアの動きはやまないで、むしろ強くなるようにKには思われた。おそらく、ほかの者たちが、どうしてかわからないが戸口の上にまだ片づけられないままになっている書類を、もの欲しそうにうかがっているのだった。彼らは、その部屋の者がドアを開けさえすればその書類を手に入れることができるのに、それをしない、ということが理解できないのだ。その書類が片づけられないときまったら、あとでほかの人びとのあいだで分配されるということだってありうるのだ。そのほかの人びとは今でももう、しばしばのぞき見しては、書類がまだ戸口のところにあるかどうか、まだ自分たちにその書類が分配される望みがあるかどうか、確かめようとしている。ところで、この置きっ放しになっている書類はたいていはとくに大きな大きな束であった。そしてKは、それがある種の自慢か悪意かで、あるいはもっともな、同僚を刺戟しようとする誇りで一時的に置きっ放しになっているのだ、と考えた。こういう彼の想像を強めたのは、ときどき、いつも彼がそれらをながめていないときに、長いあいだ見世物に供されていた袋が、突然、急いで部屋のなかに引きこまれ、次にドアがまたさっきと同じように動かないままでいることだった。すると、そのまわりの部屋部屋のドアも、このたえない魅惑の対象がとうとう取り片づけられてしまったことに失望してか、それとも満足してか、いずれにせよ静まり、それからまただんだんと動き出すのだった。
 Kはこうしたすべてを好奇心からだけではなく、深い関心をもってながめていた。彼はほとんどこうしたやりとりのまっただなかにいる気がして、あっちこっちをながめ、――適当な距離を置いてではあったが――従僕たちのあとをついて歩き、彼らの分配の仕事をながめていた。従僕たちはむろんしばしばきびしい目つきで、頭をたれ、唇をそっくり返して、彼のほうを振り返って見るのだった。分配の仕事は、前へ進めば進むほど、いよいよ円滑にいかなくなり、リストがぴったりと合わなかったり、あるいは書類が従僕にはどうもよくは区別できなかったり、あるいは部屋部屋の人びとが別の理由から文句をつけたりするのだった。ともかく、かなりな数の分配した書類を取り返すということも起った。すると車は引き返し、書類の返却に関してドアのすきま越しに談判が行われた。談判はすでにひどく面倒だった。その上、これはしょっちゅう起こるのだったが、問題が返却ということになると、ほかならぬさっきはきわめてさかんに動いていたドアが、今度は容赦《ようしゃ》なくぴたりと閉じられ、まるでそんなことはもう全然聞きたくはないというようであった。それからやっと、ほんとうの面倒が始まる。書類を要求する権利があると思いこんでいる者は、自分の部屋のなかで大さわぎして、手をたたいたり、足を踏みならしたりして、ドアのすきま越しにくり返し一定の書類番号を廊下へ向って叫ぶのだった。従僕の一人はいらだっている者たちをなだめるのにかかりきりになり、もう一方の従僕は閉ざされたドアの前で返却してもらうために闘っていた。二人ともひどい目にあっていた。いらだっている者は、なだめられるとしばしばいっそういらだち、従僕のむなしい言葉に耳を貸すことがもう全然できない。慰めなんか欲しくはなく、書類が欲しいのだ。そんな人びとの一人が一度は上のすきまから洗面器一杯の水を従僕に浴びせかけた。もう一方の、身分が高いほうらしい従僕は、もっとずっとひどい目にあった。およそ当該の人が談判に入るとなると、具体的な話合いが行われることになり、その話合いでは従僕はリストを、その人のほうはさまざまなメモと書類そのものとを引合いに出す。その書類は彼が返却しなければならないものだが、今のところしっかりと手ににぎっているため、その書類の片はじさえ従僕のむさぼるような眼にほとんど見えないくらいなのだ。そうなると従僕のほうも、少し傾いている廊下をいつでもひとりでに少しばかりすべっていっている車のところへ走っていかなければならなかったり、あるいは書類を要求している人のところへいき、そこでこれまでの書類の持主の抗議にかわって新しい反対の抗議を聞かなければならなかった。そんな談判はひどく長くつづくのだが、ときどきは話合いがつき、ただ書類の取りちがえがあっただけなので、部屋の人のほうが書類の一部をさし出したり、別な書類をその埋合せとして受け取ったりするのだった。しかしまた、従僕の証明によって窮地に追いこまれたのであれ、たえまのない交渉に疲れてしまったのであれ、要求された書類をすぐさまあきらめなければならないということも起った。ところが、そうなると書類を従僕に渡さないで、突然決心して廊下に遠く投げ出すのだった。そのために、結び紐《ひも》がとけ、紙片が飛び散り、従僕たちはすべてをふたたび整理するために大いに骨を折らなければならなかった。しかし、こんなことはみな、従僕が返却を頼んでいるのに返事をもらえないときに比べると、まだしも比較的事は簡単だった。返事がもらえないとなると、閉ざされたドアの前に立ち、頼んだり誓ったりし、自分のリストを引用したり、規定を引合いに出すのだが、いっさいがむだで、部屋からは物音一つ聞こえてこない。許可なしで部屋へ入るという権利は従僕にはないらしかった。そして、この優秀な従僕もときどきは自制心を失ってしまい、自分の車のところへいき、書類の上に腰を下ろし、額の汗をぬぐい、しばらくのあいだは途方にくれて足をぶらぶらさせているよりほかに全然何もしようとしなかった。まわりの人びとのそうした様子に対する関心はきわめて大きく、いたるところでささやきの声が聞こえ、ほとんどどのドアも静かではなかった。上の壁が切れたところでは、奇妙なふうに布でほとんどすっかり覆面し、その上ほんのしばらくでも落ちついて自分の場所にとどまっていない顔がいくつも並んで、いっさいのなりゆきを眼で追っているのだった。こんなさわぎの最中にKは、ビュルゲルの部屋がそのあいだじゅう閉ざされたままであり、二人の従僕は廊下のこの部分をすでに通り過ぎているのに、ビュルゲルには書類が一つも配分されなかった、ということに気づいた。おそらくビュルゲルはまだ眠っているのであろう。といってもこのさわぎのなかでそんなふうに眠っているとは、きわめて健康な眠りを意味するはずだ。しかし、彼はなぜ書類をもらわないのだろう。ほんのわずかな部屋、しかもおそらく人のいない部屋だけが、こんなふうにして通り過ぎられてしまったのだった。それに反して、エルランガーの部屋にはすでに新しい、とくにさわがしい客が入っていた。エルランガーはこの客によって夜のうちに明らかに追い立てられてしまったにちがいなかった。そんなことはエルランガーの冷たくてこまかい人柄にはほとんどふさわしくないことだったが、彼がドアのしきいのところでKを待ちかまえていたということは、そのことを暗示するものだった。
 本筋を離れた観察をいろいろとやったあと、Kはすぐまた従僕のほうへ注意をもどすのだった。この従僕については、Kがほかのときに従僕一般について語り聞かされていたこと、つまり彼らの無為なこと、彼らの安楽な暮し、彼らの高慢さなどということは、ほんとうにあてはまらなかった。従僕たちのあいだにはきっと例外があるのか、それとも、これはもっとありそうなことだが、彼らのあいだにはさまざまなグループがあるのかもしれなかった。というのは、Kが気づいたところでは、従僕たちのあいだには多くの境界があって、Kはこれまでそうした限界について暗示するものをほとんど見ることができなかったのだった。ことにこの従僕の人に譲らぬところが彼にはひどく気に入った。これらの小さくて頑固《がんこ》な部屋部屋との闘いにおいて――Kにはしばしば部屋部屋との闘いのように思われるのだった。なぜなら、部屋の住人たちはほとんど見られなかったからだ――この従僕は少しもあとへはひかなかった。彼は疲れきってしまっていたが――だれがこんなことをやって疲れきってしまわないだろうか――すぐまた元気を回復し、車からすべるように降りると、身体をまっすぐに立て、歯をくいしばって、征服すべきドアめがけてふたたび突進していくのだった。そして、彼は二度、三度と、しかもきわめて簡単に、ただいまいましい沈黙によって、撃退されるような結果にはなったが、しかも全然敗けはしなかった。公然たる攻撃によっては何一つなしとげられないと見てとると、彼は別なやりかたで試みるのだった。たとえば、Kが見あやまったのでなければ、計略によって攻撃を試みるのだった。その場合には、彼は外見上はドアを見捨てて、いわばそのドアの沈黙に疲れきらせてしまい、ほかのドアへ向っていて、しばらくするとふたたび問題のドアへもどり、もう一人の従僕を呼ぶ。こうしたすべてをわざとらしく、大きな声でやるのだ。そして、閉ざされたドアのしきいのところに書類を積み重ね始めるのだった。それはまるで、自分は自分の考えを変えてしまった、この人からは何も取り上げないで、むしろ配分することが正当なのだ、といわんばかりである。それから彼は先へ進むが、たえずドアに眼をとめていて、やがてそこの人が(普通はそういうことになるのだが)書類を部屋のなかへ引きずりこもうとして用心深くドアを開けると、その従僕は一跳びか二跳びでそこへ走りより、足をドアとドアの柱とのあいだにさしこみ、こうやって部屋の者が少なくとも面と向って自分と談判しないではいられないようにする。これは普通は半ば満足すべき結果を生むのだった。そして、もしこれが成功しなかったり、あるいはあるドアのところではこんなふうにやることが正しいやりかたではないように思われたりすると、別なやりかたで試みるのだった。そうなると彼はたとえば、書類を要求する人をもっぱら相手にする。そういうときには、まったく価値のない手伝いであるもう一人のいつもただ機械的に働いている従僕はわきに押しやって、ささやき声で、こっそりと、頭を部屋へ深く突っこんで、みずから部屋の人に説得し始める。おそらく部屋の人にいろいろ約束をして、次回の配分のときには別な人を相応に罰してやるなどと受け合っているらしいのだ。少なくともしばしば相手の人物のドアを指さし、彼の疲れが許す限りにおいては、笑っても見せる。それでも一度や二度は、むろんいっさいの試みをやめてしまうような場合もあった。しかし、そういう場合にもKは、それはただ外見上だけやめてしまうのか、それとも少なくとも正しい理由からやめるのか、そのどちらかである、と思った。というのは、彼は落ちついて先へ進むし、あたりを見廻すこともしないで隣りの人のさわぎを我慢しているのだった。ただ、ときどきかなり長く眼をつむることだけが、彼がそのさわぎに苦しめられているのだ、ということを示すのだった。しかし、やがてその部屋の人もだんだんとおとなしくなる。その人の叫び声も、とだえることのない子供の泣き声がだんだんととぎれとぎれのすすり泣きへと移っていくのと似ていた。しかし、まったく静かになってしまったあとでも、またときどきはばらばらの叫び声があがったり、そのドアが一瞬開けられたり、ばたんと閉められたりするのだった。ともかくも、この場合にもその従僕がおそらく完全に正しい処置をとった、ということは明らかであった。最後に、おとなしくしようとしない一人の人だけが残った。その人は長いあいだ沈黙していたが、それはただ元気を回復するためだけであった。次にまた、前にも劣らずはげしくどなり出すのだった。なぜその人がそんなふうに叫んだり、不平をいったりするのかは明らかではなかった。おそらくそれは書類の分配のためではまったくなかった。そうしているあいだに、従僕のほうは仕事をすませてしまっていた。ただ一つの書類、ほんとうは一枚の紙切れにすぎず、メモ帳の一片なのだが、それだけが手伝いの落度で車のなかに残ってしまった。今ではそれをだれに配分すべきか、わからなかった。「あれはほんとにおれの書類かもしれないぞ」という考えが、Kの頭をかすめた。村長はしょっちゅうこんなきわめて少ない場合のことを話していたのだった。そしてKは、自分でほんとうは自分のそんな仮定を勝手気ままで滑稽なものと思いはしたが、その紙片を考えこんだようにして調べている従僕のほうへ近づこうと試みた。それはあまりやさしいことではなかった。というのは、従僕はKの好意に対してひどい仕返しをするのだった。それまでどんなにむずかしい仕事をやっている最中でも、たえず暇を見つけては、悪意をこめてかいらいらしてか、神経質そうに頭を振り向けてKのほうをながめるのだった。配分の終った今になってやっと、彼はKを少し忘れてしまったらしかった。そのほかの点でも彼は投げやりになってしまっていたのだ。彼のひどい疲労を思えば、それも理解できることだった。その紙片についても彼はたいして骨を折っているわけではなく、おそらくその紙片を全然読んでなんかいるわけではなく、ただそんなふうによそおっているだけなのだ。ここの廊下でその紙片を配分してやることでおそらくどの部屋の人をもよろこばせたことだろうが、彼は別な決心をしたのだった。彼は配分にはもううんざりしていた。人差指を唇にあてて、つれの従僕に黙っているように合図をすると――Kはまだ彼のところからだいぶ遠くにいたが――その紙片をこまかく裂きちぎってしまい、それをポケットにしまいこんだ。これはたしかに、Kがここの事務のやりかたで見た最初の規則違反だった。もっとも、Kが規則違反というものをあやまって理解しているということは、ありうることではあった。そして、たといそれが規則違反であるとしても、それは許されるべきものであった。つまり、ここで支配している事情の下では、その従僕はあやまちなく仕事をすることはできなかったのだ。つもりつもった怒り、つもりつもった不安は、一度は爆発しないではいられなかったのだ。そして、それがただ一枚の紙片を引き裂くということで表わされたのであったのなら、それはいかにも罪のないことではある。あの何ものによってもしずめられない例の人の声は、廊下にまだかん高く響いていた。そして、ほかの点ではたがいにたいして仲のよい関係にはないほかの同僚たちは、このさわぎに関しては完全に同じ考えであるらしかった。だんだん、その人はただ自分に声をかけたり、うなずいて見せたりして自分をはげましてくれるあらゆる人びとにかわって、このことに固執する役目を引き受けたような恰好になっていった。ところが、その従僕はそんなことはもう全然気にもかけなかった。彼は自分の仕事を終えていた。車の取手を指さして、もう一方の従僕にそれをつかむように合図すると、二人はやってきたときと同じようにして去っていった。たださっきよりももっと満足げに、そして、車が彼らの前で跳ねるほどに足早に去っていくのだった。ただ一度だけ、ぎくりとして、うしろを振り返った。それは、たえず叫んでいる例の人が(その人のドアの前をKはちょうどうろついていた。なぜなら、その人がほんとうは何を欲しているのか、知りたく思ったからだ)叫ぶことではもう間に合わなくなったらしく、叫ぶかわりに今度はベルをたえまなく鳴らし始めたのだった。その人はおそらくベルのボタンを前もって見つけていたのであろうが、それを鳴らして手数をはぶけることにきっとよろこんでいるのだ。すると、ほかの部屋部屋ではがやがやいう大さわぎが始った。それは賛成を意味するものらしかった。その人は、みんながずっと前からしたいと思いながらも、どういうわけかさし控えなければならなかったことをやっているように思われるのだ。その人がベルで呼ぼうと思ったのは、ボーイのたぐい、おそらくはフリーダなのだろうか。そうやって長いこと鳴らしているがいいのだ。フリーダは、イェレミーアスの頭を冷やすためにぬれた布をあてることにかかりきりなのだし、たといイェレミーアスがもうなおっているとしても、フリーダには暇なんかないのだ。というのは、そうなれば彼女はイェレミーアスの腕のなかにいるはずだ。ところが、ベルはたちまち効果があった。早くも紳士荘の亭主自身が、黒い服を着て、いつものようにボタンをきちんとはめ、遠くのほうから走りよってきた。しかし、亭主は自分の品位を忘れているようだった。そんなふうにして走ってきたのだった。両腕を半ば拡げ、まるで大きな事故のために自分が呼ばれ、その事故をつかまえ、自分の腕に抱きかかえてすぐその息の根をとめてやろう、とするような恰好だった。そして、ベルの鳴り方が少しでも不規則になるたびに、ちょっと跳び上がり、なおいっそう急ぐように見えた。彼のずっとうしろからおかみも現われ、彼女も腕を拡げて走ってくるのだが、彼女の歩みは歩幅が狭く、いかにも気取っているようだった。彼女は遅れてしまうだろう、亭主がそのあいだに万事必要なことをやってしまっているだろう、とKは思った。亭主が走るのに場所をあけてやるため、Kはぴたりと壁にくっついた。ところが亭主は、まるでKが自分のめざす相手だといわんばかりにまさしくKのところで立ちどまり、すぐおかみもそこへやってきて、二人はKに非難を浴びせかけるのだった。Kはあわてているし、驚いてもいるので、その非難がなんのことやらわからなかった。ことに例の人のベルの音がそれにまじり、おまけにほかのベルも鳴り出したため、いよいよKには何がなんだかわからなかったのだ。それらのベルは、もう必要からではなく、ただ遊びのため、あふれるばかりのよろこびのために鳴り出したようだった。Kは、自分の罪なるものをよく理解することが自分にとって大いに関心のあることだったので、亭主が彼を腕に抱え、彼をつれてこのさわぎのなかから立ち去ろうとすることに、大いに賛成だった。そのさわぎはいよいよひどくなるばかりだった。というのは、彼らのうしろでは――Kは全然振り返らなかった。なぜならば、亭主が、そしてそれ以上にもう一方の側からおかみが、彼に向って話しかけてくるからだった――今やすべてのドアがまったく開けられ、廊下は活気づき、そこではにぎやかな狭い小路でのように人のゆききがくりひろげられていくようだった。彼らの前方にあるドアのほうは、なかにいる人びとを出してやることができるように、Kが早く通り過ぎていくのをいらいらしながら待ち構えていた。そして、こうした状態のところへ、まるで勝利を祝うためのように、ベルの音が鳴り響き、いよいよ音を重ねていくのだった。そしてとうとうKは――Kたちはすでに、二、三台のそり[#「そり」に傍点]が待っている静かな、雪で白い内庭へふたたびきていたが――問題になっているのはどういうことなのかを、だんだんと聞かされた。亭主もおかみも、どうしてKがあんなことをやる気になれたのかわからない、というのだった。
「でも、自分はいったい何をやったというんです?」と、Kはくり返してたずねたが、長いあいだその答えを得ることはできなかった。なぜならば、その罪は亭主とおかみとの二人にはあまりにもわかりきったことで、それゆえKの誠意などは少しも考えなかったのだった。Kはひどく手間をかけてやっといっさいをのみこむことができた。彼は不当にも廊下へ出た、というのだ。だいたい彼には、せいぜい酒場へいけることぐらいのもので、それでさえもただお情けだし、禁止に逆らってのことなのだ。もし彼が城のある人から呼び出しを受けたら、もちろん呼び出しの場所へ出頭しなければならないが、いつでも次のことを意識していなければならないのだ。――彼にもきっと普通の常識ぐらいはあるはずではないか?――つまり、自分はほんとうはいてはならないところにいるのであって、そこに彼が城のある人に呼ばれたことは、ただおおやけの用件が要求するからであり、またそれを許したからであるにすぎない。それゆえ、彼は事情聴取を受けるためにすみやかに出頭しなくてはならないし、しかもできるだけすみやかに帰ってしまわなくてはならない。いったい、あの廊下で自分はここではひどく場ちがいなのだという感じを全然もたなかったのだろうか。もしそういう感じをもっていたなら、どうしてあそこで牧場の羊や牛馬のようにうろつき廻ることなどできたのだろう? あなたは夜間聴取に呼び出されたのではないのか。それなのに、なぜ夜間聴取が行われているのか、知らないのか。夜間聴取というものは――と、ここでKは改めてその意味についての説明を聞かされた――ただ、城の人たちにとって昼間見るのは耐えがたい陳情人たちを、すみやかに、夜間、人工の光の下で聴取し、しかも聴取のすぐあとであらゆるみにくさを眠りのうちに忘れ去るかもしれないという可能性を期待して聴取する、ということだけを目的としている。ところが、Kの示した態度はこうしたあらゆる用心のための処置を嘲笑するようなものだった。亡霊だって朝になると消えるというのに、Kはそこにとどまり、両手をポケットに突っこんで、自分は立ち去らないので、部屋部屋とそこにいる人びともろとも、廊下全体が立ち去るだろう、と期待しているような態度だった。そして、そういうことだって――これは確信してもらっていいが――もしなんとかしてできるものなら、きっと起ったことだろう。何しろ、あのかたたちのやさしい気持というのは限りがないものなのだ。だれだってKを追い立てたり、あるいは、あなたは結局立ち去らなければならない、などとわかりきったことをいったりしないだろう。あの人たちはKがいるあいだおそらく興奮のために身体をふるわせており、そしてあの人たちのいちばん好きな朝の時間が台なしになってしまうけれど、けっしてKを追い立てたり、立ち去れなどといったりはしないだろう。Kに対して断固とした処置に出るかわりに、あの人たちは苦しむことのほうを選ぶのだ。とはいってもその場合にこういう期待が働いていることはたしかだ。つまり、Kは最後にはこの明白な事実をだんだんと知るにちがいないし、またあの人びとの苦しみに対応して、自分でもこんなにひどく場ちがいに、衆目を浴びながら、朝っぱらからこんな廊下に突っ立っていることが我慢できなくなるほど苦しくなるにちがいない、という期待だ。ところがそれがむなしい期待というものだ。あの人たちは、無感覚な、かたくなな、どんな畏敬の気持によってもやわらげられない心があるものだ、ということを知らないし、また親切でへり下った気持をもっているあの人たちとしてはそんなことを知ろうとは思わないのだ。あのあわれな生きものである夜の蛾《が》でさえも、朝がくれば静かな片隅を探し、小さくなって、できれば消えてしまいたいと思いながら、それができないことを不幸と感じているではないか。それに反してKは、いちばん目につくあそこに立っている始末だ。そうすることによって朝の訪れを妨げることができるとするなら、おそらく彼はそれをやることだろう。彼には朝の訪れを妨げることはできないけれど、残念ながらそれを遅らせ、むずかしくすることはできる。書類の配分を見なかったか。あれは、いちばん近い関係者以外のだれも見てはならないことなのだ。亭主もおかみも自分たちの家のなかでありながら見てはならないことなのだ。亭主もおかみも、たとえばきょう従僕たちから聞いたように、ただ暗示的に話されるのを聞いていただけだ。あの書類配分がどんな困難の下で行われたか、気づかなかったのか。あれはそれ自体理解できないことだ。しかし、あの人たちのだれもがただ用件だけのために働いていて、けっして自分一個の利益のことなんか考えていない。それゆえ、全力をふるって、書類分配という重要で基本的な仕事がすみやかに、容易に、まちがいなく行われるように協力しないではいられないのだ。そして、Kはほんとうに次のようなことをかすかながら予感しなかったか。つまり、あらゆる困難の主な原因は、あの人たちのあいだの直接的な交渉の可能性なしで、配分がほとんど閉め切られたドアのところで行われなければならないということにある。あの人たちは直接の交渉をすればもちろん一瞬のうちにたがいに理解し合えるのだが、従僕たちの仲介によるとなるとほとんど何時間もかからなければならないし、けっして文句なしに行われるためしはない。これはあの人たちと従僕との両方にとって消えることのない悩みの種であり、おそらくはさらにあとの仕事に有害な結果を及ぼすことになるだろう。なぜあの人たちはたがいに交渉し合うことをしないか、というのか? それでは、Kにはまだわからないのか。そんな人間はおかみには――そして亭主のほうもそれを裏書きした――はじめてだ、自分たちはこれまでいろいろと扱いにくい人びととかかり合ってきたけれど。普通ならばけっして口に出していおうとしないことを、Kにはあからさまにいわなければならない。というのは、そうでないと、いちばん必要欠くべからざることさえもわからないのだ。まあいい、どうせ話してやらなければならないのだから。あなたがいたため、ただ、もっぱら、あなたがいるということのために、あの人たちは部屋から出られなかったのだ。なぜかというと、あの人たちは、朝、眼がさめた直後には、あまりに恥かしがり屋で、あまりに気持が傷つきやすいので、他人の眼に自分の姿をさらすことができないのだ。あの人たちは明らかに、たとい完全に身づくろいしていても、それでもまだあんまりあらわすぎて自分の姿を人に見せることはできないと感じている。なんであの人たちが恥かしがるのか、いうことはむずかしいけれど、おそらく永遠の働き手たちであるあの人たちは、ただ自分たちが眠ってしまったというだけのために恥かしがっているのだろう。だが、おそらくあの人たちは、自分の姿を人に見せること以上に、見知らぬ人びとに会うことを恥かしがっているのだろう。夜間聴取の助けを借りてあの人たちが幸いにも切り抜けてきたもの、つまりあの人たちにとってまことに耐えがたい陳情人たちをながめるということを、今、朝となって、突然、ありのままにむき出しの姿で改めてしいられたくはないのだ。あの人たちはそういうことをやれる人たちではない。このことを顧慮しないとは、なんという人間だろう! そうだ、そんなやつはKのような人間であるにちがいない。掟であろうときわめてありふれた人間的な思いやりであろうと、なんだってこんな鈍感な冷淡さと寝ぼけまなことですっかり見すごしてしまう人、書類配分をほとんど不可能にし、この家の名声を台なしにしてしまい、そしてこれまで起ったことがないようなことをやってのける人なのだ。あの絶望させられてしまったかたたちがみずから自分の身を守ろうとし始め、普通の人間たちには考えられないような自制のあとでついにベルに手をかけ、ほかの手段ではどうしても動じることのないKを追い払うために助けを呼ぶなどということは、それこそこれまでに起ったことがないようなことだ! あのかたたちが助けを呼ぶなんて! 亭主もおかみもこの宿のすべての雇い人たちも、ずっと前にかけつけていたら、もし呼ばれもせずに、朝、ただ手伝いしてすぐ立ち去るためだけであっても、あのかたたちのとこへ思いきって現われていさえしたら、どんなにかよかったことだろうに。Kに対する怒りに身体をふるわせながら、また自分たちの無力に絶望しながら、彼らはここの廊下の入口に待っていたのだ。そして、ほんとうはけっして期待していなかったベルの音が自分たちにとって一種の救いとなったのだ。ところで、最悪のことはもう過ぎ去ってしまった! あなた、つまりKが、ついにあなたから解放されたあのかたたちのよろこばしげな仕事ぶりを一眼でも見ることができたらいいんだが! むろん、Kにとっては万事もう終ってしまったわけではない。自分がひき起こしたことに対してきっと責任をとらなければならないだろう。
 こうしているうちに、三人は酒場へきていた。亭主がひどく怒っているのにもかかわらず、なぜKをここまでつれてきたのかは、まったく明らかでなかった。おそらく亭主は、Kがひどく疲れていて、この家から出ていくことはさしあたりできない、と見てとっていたのだろう。そこに坐るようにとすすめられることも待たずに、Kはすぐ樽《たる》の一つに文字どおりくずおれてしまった。その暗がりのなかでは、彼は気持がよかった。その大きな部屋には、今はただ光の弱い電燈一つだけがビールの栓《せん》の上で輝いていた。外もやはりまだ深い暗闇で、吹雪《ふぶき》のようだった。ここでこんなに暖かくしていられることは、ありがたいと思わなければならないし、追い出されないように用心をしなければならない。亭主とおかみとはなおも彼の前に立っていた。まるで、Kという人間が今でもまだ一種の危険を意味するかのようであり、この男はまったく信用できないのだから、突然起き上がって、また廊下へ侵入していこうとすることもありえぬことではない、というようであった。また彼ら自身も夜なかに驚かされたこと、早く起きてしまったことで、疲れていた。ことにおかみはそうで、絹のようにさらさら音を立てる、スカートの広い、茶色の、少ししどけなくボタンをかけてリボンをつけた服を着ていたが――あの火急の場合にどこからそんなものを取り出してきたのだろう?――頭を折られてしまったように夫の肩にもたれかけ、きれいなハンカチで両眼をたたき、そうしながらも子供らしい悪意のこもった視線をKに向けていた。この夫婦をなだめるため、Kは、二人が自分に今語ってくれたことはすべて自分にはまったく耳新しいことだ、だがそういうことは知らなかったけれどもそう長く廊下にいたわけではない、実際、あの廊下に何も用事があったわけではなく、またけっしてだれかをわずらわそうなどと思ったのではなくて、あんなことはすべて過度の疲れから起ったことなのだ、といった。彼はこの夫婦があの不快きわまる場面にけりをつけてくれたことに感謝し、もし自分に釈明が要求されるならば、それはとても歓迎すべきことだ、というのは、そうすることによってだけ自分のふるまいに対する一般的な誤解を防ぐことができるのだ、と述べた。ただ疲れのせいで、それ以外のことに責があるわけではない。ところでこの疲れは、自分が事情聴取の緊張にまだ慣れていないということからきている。自分はなんといってもこの土地へきてからまだいくらにもなっていない。これからこの点でいくらか経験をつめば、あんなことはもう二度とは起こるはずがないだろう。おそらく自分は事情聴取をあまりにまじめに考えているのかもしれないが、それはきっとそのこと自体としてけっして欠点ではないはずだ。自分は二回の聴取をつづけざまに受けなければならなかったのだ。一回はビュルゲルのところで、二度目のはエルランガーのところでだった。ことに最初のですっかり疲れてしまった。もっとも二度目のはあまり長くかからなかった。エルランガーは自分にちょっとしたことをやるようにと頼んだだけだ。しかし、二回の事情聴取を同時に受けるということは、一度にもちこたえることができる以上のものだ。おそらくあんなふうなことは、ほかのだれか、たとえばご亭主にだってやりきれたものではなかったことだろう。二度目の事情聴取を自分はやっとの思いでふらふらになって終えたのだ。あれはほとんど一種の酔ったような状態だった。実際のところ、自分はあのお二人にはじめて会い、はじめてお話を聞いたのだが、あの人たちに答えることさえしなければならなかった。万事は、自分の知っている限りでは、ほんとうにうまく終ったのだが、それからあんな事故が起ってしまった。しかし、その前に起ったことを考えてもらえれば、そんなことをだれもほとんどこの自分の罪には数えることができないはずだ。残念なことに、ただエルランガーとビュルゲルとだけしか自分のそんな状態を知っていなかった。あの二人の人ならそういうこちらの状態を考えてくれ、あれから起ったようなすべてのことを防いでくれたことだろうが、エルランガーはおそらく城へいくためだろうが、聴取のあとですぐ出かけなければならなかったし、ビュルゲルはおそらくあの聴取に疲れて果てて――だから自分もまいってしまわないで頑張り抜くことがどうしてできただろうか――眠りこんでしまい、あの書類配分のあいだもすっかり寝過ごしてしまったくらいなのだ。もし自分がそれと同じように眠ってもよかったならば、自分はその機会をよろこんで利用して、禁じられているのにあんなふうにかいま見るというようなことはすべて断念したことだろう。断念するということは、自分はほんとうはねぼけまなこで全然ものを見ることができなかったくらいだから、いっそうたやすかったのだ。だから、あの神経質な人びとも何一つはばからずに自分の前に姿を見せてもよかったのだ。
 二度の聴取――エルランガーのも――について語ったこと、またKがあの人たちのことを尊敬をこめて話したことは、亭主に好感を与えた。亭主はもうKの頼み、つまり樽の上に一枚の板をしき、そこで少なくとも明けがたまで眠りたいという頼みを、かなえてやろうとしているように見えた。ところが、おかみのほうは明らかに反対らしく、彼女は今やっと自分の服とそのしどけない様子とに気づき、ところどころを無益に引っぱりなおして、くり返し頭を振るのだった。この宿の清潔に関する昔からの懸案らしい争いが、またもや突発しているらしかった。疲れきっているKにとっては、夫婦の対話は非常に大きな意味を帯びていた。この宿からふたたび追い出されるということは、これまでに体験したいっさいのことを越えるような不幸であるように彼には思われた。亭主とおかみとが自分に向って一致して反対してくるようなことがあっても、そんなことが起ってはならないのだ。Kは樽の上にかがみこんで、うかがうように二人を見つめていた。とうとうおかみは、Kがずっと前から気づいていた例のなみなみならぬ神経質さをもって、突然わきへどき――おそらく彼女は亭主ともう別なことを話していたのだった――こう叫んだ。
「この人ったら、なんてわたしを見つめているんでしょう! もうこれでこの人を追っ払ってちょうだい!」
 しかしKは、機会をつかんで、自分がここにいることになるだろうと、完全に確信し、ほとんどどうでもいいのだというような態度で確信して、こういった。
「あなたを見ているんじゃなくて、あなたの服を見ているんです」
「なぜわたしの服を見るんです?」と、おかみは興奮してたずねた。Kは肩をすぼめて見せた。
「いきましょう!」と、おかみは亭主に向っていった。「この人は酔っ払っているんです、ろくでなしめが。酔いがさめるまで、ここに眠らせておきなさい」
 そういって、さらにペーピーに、何か枕になるものをKに投げてやるように命じた。ペーピーはおかみの呼び声で暗がりから姿を現わしたが、髪は乱れ、疲れており、だらしなく箒を手にしていた。

第二十章

 Kが眼ざめたとき、まず、自分はほとんど眠らなかったように思った。部屋はさっきのまま人気がなく、暖かかった。どの壁もまっ暗で、ビールの栓の上のところについていた電燈は消えていた。窓の外も夜だった。ところが、彼が身体をのばし、枕が落ち、寝床と樽とががたがたいうと、すぐペーピーがやってきた。そして、もう夜であり、自分が十二時間以上も眠ったのだ、ということをこの子から聞いた。おかみが昼のあいだに二、三度彼の様子をたずねたし、ゲルステッカーもそのあいだに一度彼の様子を見にここへやってきた。ゲルステッカーは、Kがおかみと話していたとき、ここの暗がりのなかでビールを飲みながら待っていたが、もうKが眠っているのをじゃまする気にはなれなかったのだ。それに、最後にフリーダもやってきたということで、彼女は一瞬間彼のそばに立っていたが、ほとんど彼のためにやってきたのではなく、ここでいろいろと準備をしなければならなかったのだ。というのは、今晩から彼女はまた以前の勤めにつくはずだからだ。そんなことをペーピーはしゃべった。
「あの人はきっとあなたのことをもう好きじゃないようね?」と、ペーピーはコーヒーと菓子とを運んできながら、たずねた。しかし、そのききかたは前のように悪意がこもったものではなく、悲しげな調子で、まるであれからこの世のなかの悪意を知ってしまい、それに比べては自分のどんな悪意もむだで、意味がないといわんばかりであった。彼女はまるで苦しみをともにする人に話しかけるような調子でKに話しかけてきた。そして、Kがコーヒーを味わってみて、どうも甘味がたりないと思っているらしいのを見て取ると、すぐ走っていって、彼のために砂糖のいっぱい入った砂糖入れをもってきた。彼女の悲しい気分は、今晩のほうがおそらくこの前のときよりももっと飾り立てているということにさまたげにはなっていなかった。髪の毛の編み目や髪に編み入れたリボンがたくさんあって、額にそった生えぎわとこめかみのあたりとでは髪に念入りにこてをあて、首には小さな鎖をかけていて、それがブラウスの深い襟ぐりに垂れ下がっていた。とうとう十分に眠ったし、よいコーヒーも飲めるのだ、という満足から、Kがそっと髪の編み目の一つに手をのばし、それをときほぐしてみようとすると、ペーピーは疲れたように「かまわないでちょうだい」といい、彼と並んで樽の上に腰を下ろした。Kは彼女の悩みについてたずねる必要はなかった。彼女のほうから自分ですぐ語り出したのだった。眼をじっとコーヒーのポットに向けたまま、話しているあいだも気をそらす必要があるとでもいうように、また自分の悩みにかかりきりになっていてもそれにすっかり没頭するわけにはいかないのだ、というのはそれは自分の力を超えるものなのだ、といわんばかりであった。まずKは、ほんとうは自分がペーピーの不幸に責任があるのだ、でも彼女のほうはそれをうらみには思っていない、ということを聞かされた。そして、Kに反対なんかさせまいとして、話のあいだにも熱心にうなずいて見せるのだった。まず彼がフリーダを酒場からつれ出し、それによってペーピーの出世を可能にした。それ以外に、フリーダの心を動かして彼女の地位を捨てるようにさせることができるものは何一つ考えられない。フリーダはあの酒場でまるで巣のなかのくも[#「くも」に傍点]のように坐りこみ、いたるところに彼女の知っている限りの糸を張っていた。彼女を彼女の意に反して引き抜くことはまったく不可能だったろう。ただ身分の低い者への愛だけが、つまり自分の地位にふさわしくはない何ものかだけが、彼女をその地位から追い立てることができたのだ。で、ペーピーのほうはどうだろう? いったいペーピーは、あの地位を自分の手に入れようなどと、かつて考えたことがあったろうか。彼女は客室つきの女中で、重要でない、ほとんど先の見込みもない地位にいたのだった。どの娘とも同じようにすばらしい未来の夢を見ていたことは見ていた。夢はだれにだって見るなというわけにはいかないものだ。けれども、それ以上に進むことなんか、本気で考えたことはなかった。彼女はすでに手に入れたもので満足しきっていたのだった。ところが、フリーダが突然、酒場から消えてしまい、それがあまりに突然だったものだから、亭主はすぐ適当な者を手に入れることができず、探したところ、むろん相応に前へのり出していたペーピーが眼にとまった。あのころ彼女は、それまでにどんな人も愛したこともないくらいにKのことを愛していた。彼女は何カ月ものあいだ、下のちっぽけな暗い部屋に坐ったきりで、そこで何年でも、また運が悪ければ一生のあいだでも人の眼につかずに暮らすつもりでいた。すると、そこへKが現われた。そんなKはまるで一人の英雄で、娘を解放してくれる人間というわけだった。そして、実際に彼女のために出世の道をあけてくれたのだ。とはいっても、Kのほうでは彼女のことなど何も知らず、彼女のためを思ってそんなことをしたわけでもなかった。だが、それは彼女の感謝の気持をさえぎるものではなかった。彼女があの地位につけられる前の晩に――あの地位につくことはまだきまったわけではなかったが、大いにありそうなことだった――彼女は心のなかで彼と話し合い、自分の感謝を彼の耳にささやいて、何時間かを過ごしたのだった。そしてさらに、彼が自分の身に引き受けた重荷がほかならぬフリーダであるということが、彼女の眼に彼の行為をいよいよすばらしいものに見えさせた。彼がペーピーを引き出すために、フリーダを自分の恋人としたということのなかには、何か理解できないほど無私のものが含まれていたのだ。フリーダときたら、きれいでもない、少しふけてしまった、やせた女の子で、短い、毛の少ない髪をしており、その上気心の知れぬ女で、いつも何かしら秘密をもっている。そのことはたしかにあの人の容貌ともぴったり合っている。顔にも身体にもみじめさが疑いの余地なく現われているんだから、少なくとも、たとえば彼女のいわゆるクラムとの関係といったような、だれにもたしかめることのできない秘密をほかにもいろいろともっているにちがいない。そして、ペーピーにはあのとき、次のような考えさえも頭に浮かんだのだった。つまり、いったい、ほんとうにKがフリーダを愛しているなんていうことがあるんだろうか、あの人は思いちがいしているんじゃないだろうか、あるいはただフリーダだけをだましているんじゃないだろうか、そしておそらくこうしたすべてから生まれるただ一つの結果はペーピーの出世ということだけになるのだろう、そうなればKはそのあやまちに気づくか、それともそのあやまちをもう隠そうとはしないで、もうフリーダのことは見ずに、ペーピーだけを見るのではないだろうか、と。このことはペーピーの気ちがいじみた空想であるはずがなかった。というのは、彼女はフリーダと、一人の娘と一人の娘という関係で十分に張り合うことができたからだ。このことはだれだって否定はしないだろう。Kが一瞬のあいだに眼をくらまされてしまったのは、何よりもまずフリーダの地位だったのだし、フリーダがその地位に与えることを心得ていた輝きだったのだ。そこでペーピーはこんなことを夢見たのだった。Kは、もし彼女があの地位を手に入れたら、嘆願せんばかりに彼女のところへくることだろうし、そうしたら彼女は、Kの願いをきき入れて地位を失うか、それとも彼をこばんでさらに出世をつづけるか、どちらかを選ばなければならないだろう、と。そして彼女は、いっさいのものをあきらめ、身を落して彼のところへいき、彼がフリーダのところではけっして知ることができないような、そして世のなかのどんな名誉ある地位にも依存しないような、ほんとうの愛を彼に教えてやる気構えでいたのだった。ところがそれからちがったことになってしまった。それはなんのせいなのだろう? 何よりもKのせいで、次にはむろんフリーダのずるさのせいなのだ。何よりもKのせいだ、というのは、彼は何を欲しているのだろう、なんという変った人間なんだろう? いったい、何を得ようと求めているのであり、彼に心を傾けさせ、彼にいちばん身近かなもの、いちばんよいもの、いちばん美しいものを忘れ去らせるような、どんな大切なものがあるというんだろう? 彼女こそその犠牲で、万事はばかげており、万事がだめになってしまったのだ。そして、だれかこの紳士荘の全体に火をつけ、それを燃やしてしまう、しかもなんの跡かたもないくらい完全に燃やし、まるでストーブで紙を燃やすように燃やしてしまう人があったら、その人こそ今ではペーピーにとってはいちばん選り抜きの大切な人なのだ。そんなふうにしてペーピーは酒場に出るようになったのだった。四日前、昼食のちょっと前のことだった。ここの仕事はけっしてやさしいものでなく、ほとんど殺人的な仕事だが、それによって手に入れることのできるものも、けっして小さくはないのだ。ペーピーは以前にも、一日でもむだに過ごしたことはなかった。そして、どんなに大胆なことを頭のなかで思っても、この地位を自分のために要求するなどということは一度だってなかったけれども、それでも彼女は十分に観察していたのであり、この地位がどんな意味をもっているかを知ってはいた。けっしてなんの準備もなしでこの地位を引き受けたわけではなかった。そうでなければこの地位を引き受けて何時間とたたぬうちに失ってしまうことだろう。ここで客室つき女中のやりかたでやろうなどとしたら、それこそすぐくびになってしまう。客室つき女中をやっていると、時とともに自分がまったく失われ、忘れ去られてしまっていくように思われるのだ。その仕事は鉱山での仕事のようなもので、少なくとも秘書たちが泊まるあの廊下ではそうだ。あそこでは何日ものあいだ、急いであちこち歩いていて、あえて眼も上げようとはしない少数の昼間の陳情人を除いては、二、三人のほかの客室つき女中のほかに一人の人間だって見かけることがなく、その二、三人の客室つき女中たちはみな同じように不機嫌な顔つきをしている始末だ。朝には、およそ部屋から出ることが許されない。朝には秘書たちは自分たちだけで安心していたいからだ。食事は下僕たちが台所から運んでいく。そこで客室つき女中たちは普通はなんの用事もないのだ。食事のあいだも、彼女たちが廊下へ現われることは許されてはいない。ただ城のかたたちが仕事をしているあいだだけ、客室つき女中たちは掃除をやってもいいことになっている。しかし、もちろん人がいる部屋ではなく、ただちょうど人がいない部屋だけなのだ。しかも、あのかたたちの仕事のじゃまにならないように、まったく静かにやらなければならない。しかし、あんな部屋をどうして静かに掃除するなんていうことができるだろうか。なにしろ、城のかたたちが数日のあいだも泊ったあとで、その上、あの汚ない下僕の連中がそのなかを歩き廻った部屋であり、やっとのことで客室つき女中にまかされたときには、ノアの洪水だってそれを洗い清めることがけっしてできないだろうと思われるような状態にあるんだから。たしかに、あの人たちは身分の高い人びとではあるが、よっぽど強く自分の嫌悪感に打ち勝たなければ、あのかたたちのいたあとを片づけるなんていうことはできはしない。客室つき女中はけっしてひどく多すぎる仕事をもっているわけではないけれど、それはなかなかがっちりした仕事なのだ。けっしてほめ言葉などもらうことはなく、いつでもただしかられるだけだ。ことにいちばん苦しくて、いちばんしょっちゅう聞かされるのは、掃除のときに書類がなくなった、というおしかりだ。ところが、ほんとうは何一つなくなったりなどしたわけではなく、どんな紙切れだって亭主に渡すのだが、それでもむろん書類はなくなってしまう。ただそれはけっして女中たちの責任ではないのだ。ところで、そういうことになると、委員の人たちがやってきて、女中たちは部屋から出なければならない。委員たちはベッドを引っかき廻して探す。女中たちは所有物なんかもっていないのだから、彼女たちの数少ない品物は背負い籠一つでいっぱいになるくらいなのに、それでも委員たちは何時間でも探すという始末だ。もちろんあのかたたちは何一つ見つけはしない。どうしてそんなところに書類が入りこむなどということがあるだろうか。女中たちが書類をどうしようというのだろう? ところが結果はいつでも、失望した委員たちの側からの、亭主の口を通じて伝えられるののしりの言葉とおどかしだけだ。そして、昼も夜も少しも静かなときなんかなく、夜の半分はさわがしく、朝は夜明けからさわがしい始末だ。少なくともあそこに住まなくていいならどんなにいいかもしれないのだが、しかし住まないわけにはいかないのだ。というのは、合間のときに注文に応じてちょっとしたものを台所から運んでいくのは、やはり客室つき女中の仕事で、ことに夜間はそうだ。いつでも、突然、客室つき女中の部屋のドアが拳でたたかれる。注文を書き取る。台所へかけ下りていく。料理人の若衆たちをゆすり起こす。注文の品をぼんにのせて、客室つき女中の部屋のドアの前に置く。するとそこから下僕たちがもっていく。こういうことはすべて、なんて悲しむべきことだろう。しかし、そんなことはまだいちばん悪いことではない。いちばん悪いことは、むしろ注文が全然こないとき、つまり、みんながもう眠っているはずの、そしてたいていの人びとがとうとうほんとうに眠っている真夜中に、ときどき客室つき女中の部屋のドアの前を忍び歩きする音が聞こえ始めるときだ。そんなとき女中たちはベッドから下りて――ベッドは上下に重なっているのだ。あそこはどこでもひどく場所が狭く、女中たちの部屋の全体はほんとうは三つの仕切りをもった大きな戸棚以外の何ものでもないのだ――ドアに耳をあてて聞き、ひざまずき、不安のあまりたがいに抱き合うのだ。すると、ドアの前にたえず忍び歩きしている物音が聞こえてくる。その人がついに入ってきてくれるなら、みんなはどんなにありがたいかわからないのだが、何も起こりはしないし、だれも入ってなんかこないのだ。そうなると、ここに危険が迫っているときまっているわけではない、あれはただ、だれかがドアの前をあちこちと歩き廻って、注文をすべきかどうか考えこみ、それなのに決心がつかないでいるのだ、と自分にいって聞かせないではいられない。おそらくそれだけのことかもしれないし、おそらくそれとはまったくちがったことなのかもしれないのだ。ほんとうのところ、女中たちはあのかたたちのことを全然知らないし、ほとんど彼らを見たことさえない。ともかく、女中たちは部屋のなかで不安のあまり死にそうになっている。そして、部屋の外がとうとう静かになると、彼女らは壁によりかかって、もうふたたびベッドの上へ上がる気力もなくなっている。こんな生活がまたペーピーを待っているのだ。今晩のうちにも、彼女はまた女中部屋のなかの彼女の場所へ移っていかなければならない。そして、どうしてこんなことになったのだろう? Kとフリーダとのためなのだ。彼女がやっとのがれたばかりのそんな生活にまたもどっていくのだ。なるほどKの助けを借りはしたが、自分の最大の努力によってもやっとのがれた生活なのに。というのは、あそこの勤めでは、そのほかのところではこの上なく気をくばっている女中たちでも、身だしなみをおろそかにしてしまうのだ。いったい、だれのために身を飾るというのだろうか。だれ一人として彼女らのことなど見はしない。せいぜいのところ、台所にいる使用人たちぐらいのものだ。そんなことで満足な女なら、身を飾ることをやるかもしれないが。それ以外には、いつでも自分たちの小さな部屋にいるか、あのかたたちの部屋部屋にいるかするのだ。そして、あのかたたちの部屋にきれいな服で入っていくだけでも、軽率で浪費というものだ。そして、いつでも人工の光のなか、こもった空気のなかにいて――いつも暖房しているためだ――ほんとうはいつでも疲れきっている有様だ。週に一回の休みの午後も、せいぜいのところ、台所のどこかの仕切り部屋で静かに、不安もなく眠りこけて過ごすくらいのものだ。だから、なんのために身を飾るのだろうか? それどころか、服もろくには着ていない始末なのだ。ところが、ペーピーは突然、酒場へ移されたのだった。そこでは、自分をひけらかそうとするところだとしてだが、下とはまったく反対のことが必要であり、人びとの視線をいつでも浴び、そのなかにはひどくぜいたくな、注意深い人たちもいて、それゆえいつでもできる限りりっぱに、人に好感を与えるように見せなければならないのだ。そこで、これは一つの転機だった。そして、ペーピーは、何一つ取り逃がさなかった、といっていいはずだ。あとでどういうことになるだろうか、などということは気にもかけはしなかった。自分がこの地位に必要なさまざまな能力をもっていることを、彼女は知っていた。そのことをまったく確信していた。今でもこの確信はもっているし、だれだってこの確信を彼女から奪うことはできはしない。今でも、この彼女の敗北の日でも、そんなことはできないはずだ。ただ、いちばん最初の日にその能力をどうやって証明するかということは、むずかしいことだった。なぜなら、彼女は着るものも身を飾るものももたない、一人の貧しい客室つきの女中だったからだ。そして、あのかたたちはこちらがどういうふうにしてりっぱになっていくか、ということを待つ忍耐なんかもってはいないで、その移り変りの時期もなしにすぐ、ふさわしい酒場の女給仕を見ようと思っているからだ。さもないと、あのかたたちは背を向けてしまうことになる。フリーダだってそういう要求を満足させることができたのだから、あのかたたちの要求はそれほどたいしたものではないだろう、などと人は思うかもしれない。しかし、それは正しくはないのだ。ペーピーもしばしばそのことを考えてみた。またフリーダともしょっちゅう会っていたし、しばらくのあいだはあの人といっしょに寝さえしていた。しかしフリーダのやり口に手がかりをつけることは、やさしいことではない。そして、よほど注意を払うのでないと――そして、どんな男の人たちがそんなに注意を払うだろうか――あの人にはすぐだまされてしまう。あの人がどんなにひどく見えるか、ということは、フリーダ自身以上によく知っている者はいないのだ。たとえば、あの人が髪をといているのをはじめて見れば、同情のあまり手を打ち合わせてしまうことだろう。こんな娘は、事がきちんといっているなら、けっして客室つきの女中にだってなれないだろう、と思うことだろう。あの人はそれを自分でも知っていて、多くの晩に、身体をペーピーに押しつけ、ペーピーの髪を自分の頭のまわりに置きながら、そのことを泣いたものだった。ところが、あの人が勤めにつくとなると、あらゆる疑いは消えてしまい、あの人は自分をいちばん美しい女だと思い、それをうまいやりかたでだれにでも吹きこんでしまうことを心得ているのだ。あの人は人びとの心をよく知っていて、それがあの人のほんとうの腕前というものなのだ。そして、人びとがあの人のことをよくながめるひまもないように、すばやく嘘をいい、あざむいてしまうのだ。もちろんそれだけでは長いあいだには十分というわけにはいかない。人びとは見る眼をもっているし、その眼がついには勝つことになるからだ。しかし、こうした危険に気づくと、その瞬間にあの人は別な手段をもう用意しているのだ。最近のことをいうならば、たとえばクラムとの関係がそれだ。ああ、あの人とクラムとの関係! もしあなたがそんなことを信じないなら、あなたはそれを今からでも調べることができます。クラムのところへいって、たずねてごらんなさい。なんてずるいんでしょう、なんてずるいんでしょう。そして、あなたがこんなことをたずねるためにクラムのところへあえていったりしてはならないとしても、そしてもっと限りなく重要なことをたずねるためにクラムのところへいってもあの人の前には出ることはおそらく許されないとしても、そしてクラムはあなたには完全に閉ざされてさえいるとしても――ただあなたとかあなたと似た人たちとかにだけ閉ざされているんですわ。というのは、たとえばフリーダはいつでもいこうと思うときに、あの人のところへ跳《と》んで入っていくんですもの――、そんなふうになっているとしても、それでもあなたはその事柄を調べてみることができますわ。あなたはただ待っていさえすればいいんです! だってクラムは、そんなふうなまちがった噂に長いこと我慢してはいられないでしょう。なにしろあの人は、自分について酒場や食堂で語られていることを、たしかにひどく熱心に追求するんです。そうしたすべてはあの人にとってはいちばん大切なことなんです。そして、それがもしまちがっていると、あの人はそれをすぐ訂正するでしょう。ところがあの人は訂正しません。そうとすると、何も訂正することなんかないんですし、みんなほんとうのことばかりですわ。人が見ていることは、なるほどただ、フリーダがビールをクラムの部屋へもっていき、勘定をもってまた出てくるということだけではあります。しかし、人が見ていないことは、フリーダが話すのですし、あの人のいうことを信じないわけにはいきません。そして、あの人はそんなことを全然話しません。あの人はそんな秘密をけっしてもらしたりしないでしょう。いいえ、そうじゃなくて、あの人のまわりでいろいろな秘密がたがいに自然としゃべり合うんです。そして、それらの秘密が一度しゃべりつくされたとなると、あの人はもうむろん自分からそれらの秘密について話すことをはばかってはいないのではあるけれど、つつましやかに話して、別に何かを主張するというわけではなく、ただどっちみち一般に知られていることだけを引合いに出すんです。それもけっして全部じゃありません。たとえば、あの人が酒場に出るようになって以来、クラムが以前ほどにはビールを飲まなくなった、ずっと量が少なくなったというわけではないけれど、それでもはっきり量が少なくなったということなど、そういうことについてはあの人は話しません。それにはまたいろいろと理由がありうるわけです。ビールがクラムにとっては前ほどうまくない時期がやってきているのだとか、フリーダのことでビールを飲むことをまったく忘れてしまったのだとかいう理由です。ですから、ともかくも、これがどんなに驚くべきことであろうとも、フリーダはクラムの恋人のわけです。でも、クラムを満足させる人だったら、どうしてその人をほかの人たちだって感嘆しないでいるでしょうか。それで、フリーダはたちまちのうちに大変な美人ということになってしまいました。酒場が必要とするとおりそっくりそのままの性質をそなえた女の子ですわ。いいえ、それどころか、ほとんど美しすぎ、勢力がありすぎ、もう酒場なんかにはほとんど満足しないくらいですわ。そして事実――あの人がまだ酒場にいることは、人びとの眼にも奇妙に見えています。酒場の女給仕であることは、大変なことです。そのことからもクラムとの関係は大いに信じるに価することです。しかし、一度酒場の女給仕がクラムの愛人となったのなら、どうしてクラムはあの人を、しかもあんなにも長く、酒場にほっておくのでしょう? なぜクラムはあの人をもっと高いところへ引き上げないのでしょう? この点には何も矛盾はないのだとか、クラムがそんな態度をとるのには一定の理由があるのだとか、あるいは突然、おそらくごく近いうちに、フリーダの出世が行われるのだろうとか、そんなことを千回でも人びとにいって聞かせることができるでしょうが、そんなことはすべてたいした効果がありません。人びとはひとたび一定の観念を抱くと、どんな手を使っても長いあいだそうした観念から引き離すことはできません。たしかに、フリーダがクラムの愛人であることをだれ一人として疑ってはいなかったんです。ほかの人びとよりも事情をよく知っているらしい人びとでさえ、もう疲れてしまって、それを疑うなんていうことはありませんでした。『ちぇっ、クラムの愛人になっているがいいさ』と、人びとは考えました。『でも、お前がもう愛人となっているのなら、そのときはお前の出世によってもそのことを見せてもらいたいものだ』って。ところが、人びとは何一つ変化をみとめませんでした。フリーダはこれまでどおり酒場にとどまっていましたし、そのままでいることをひそかにとてもよろこんでいました。ところが、人びとのあいだではあの人は声望を失ってしまいました。そのことがむろんあの人に気づかれないでいるはずがありません。あの人は実際、まだ何ごとかが存在する以前からそれに気づくんです。ほんとうに美しい、かわいらしい娘だったら、ひとたび酒場に住みつくようになったからには、腕前なんて振るう必要なんかありません。美しいあいだは、何か特別な不幸な偶然が起こらなければ、酒場の女給仕でいられることでしょう。ところが、フリーダのような娘はいつでも自分の地位のことを心配していなければならないんですわ。むろんあの人はそれを人にわかるように見せはしませんし、むしろいつでもこぼしたり、あの地位を呪ったりはしています。しかし、心ひそかに人びとの気分をたえず観察しているんです。こうして、人びとが冷淡になったことをあの人は見て取りました。フリーダが現われても、もう何ごとでもなく、ただ眼を上げてちょっと見るぐらいの値打しかないものとなってしまいました。下僕たちもけっしてあの人に気を使ったりはしなくなりました。下僕たちはだれの眼にもわかるほどオルガやオルガのような子たちにしがみついていました。あの人はご亭主の態度からも、自分がだんだんなくてはならない人間ではなくなっていくことに気づきました。クラムについてもたえず新しい話を見つけることができるものではなし、ものには限度というものがありますもの。そこであのフリーダは、何か新しいことをやろうと決心したのでした。だれがすぐにそのことを見抜くことができたでしょう! ペーピーはそれに勘づいてはいたが、残念ながらそれを見抜くことはできなかった。フリーダはスキャンダルを起こす決心をしたのだった。クラムの愛人であるあの人が、だれか任意の男の人、できるならいちばんつまらぬ男に身を投げ出すというわけだ。これは衆目を集めることだろうし、長いあいだ人の口にものぼるだろう。そして、ついには人びとはまた、クラムの愛人であるということはどういうことなのか、ということを思い出すだろう。そして、この名誉を新しい愛の陶酔のなかで捨て去ってしまうということが何を意味するか、を思い出すだろう。ただ、このりこうな芝居を演じることのできる適当な男を見つけるのは、むずかしかった。それはフリーダの知っている男であってはならないし、けっして下僕たちの一人であってもならない。そんな男であれば、おそらく眼をむいて彼女を見つめ、通り過ぎていってしまうことだろう。何よりも、そんな男では十分まじめさを保つことができないだろうし、フリーダがそんな男に襲われ、身を守ることができないで、思慮を失った瞬間にその男に征服されてしまったのだ、などといくらうまく話したって、そんな噂をひろめることはできなかったことだろう。そして、その男はどんなにつまらぬ者であっても、その鈍重で下品なやりかたにもかかわらず、ほかならぬフリーダだけにあこがれていて、――なんということだろう!――フリーダと結婚するということよりも高い望みを抱いていないのだ、と人びとに信じさせることができるような男でなければならなかった。でも、その男はどんなに卑しい、できるなら下僕よりも身分の低い、下僕よりもずっとずっと身分の低い者であっても、その男のことでどんな娘にも自分が嘲笑されるようなことのない男、ほかの判断力をそなえた娘たちでさえもいつかは何か心をひかれるものをもっている男でなければならなかった。しかし、そんな男をどこで見つけることができるだろうか。ほかの娘ならおそらく一生かかってもそんな男を見つけることができなかったろう。ところが、フリーダの幸運が彼女のために土地測量技師を酒場へつれてくることになった。しかも、おそらくはその計画があの人の心にはじめて浮かんだ日にである。土地測量技師! ああ、いったいKは何を考えているんだろう? どんな奇妙なことを頭のなかで思い描いているんだろう? 何か特別なことでも手に入れようというのだろうか。地位だろうか、特別の待遇をだろうか。何かそういったものを欲しているのだろうか。ところで、そんなものを求めているのだったら、彼はほんの最初からもっとちがった処置をとらなければならなかったのだ。ともかく彼という人間は何ものでもなく、彼の状態をじっと見ていると、ひどく気の毒だといわなければならない。彼は測量技師ではある。それはおそらく何ものかにはちがいないのだ。そうだとすれば何かを学んだわけだ。ところが、それで何をやったらいいのかわからないとすれば、やはり何ものでもないわけだ。ところが彼は、少しも遠慮をしないで、いろいろ要求をする。けっして面と向ってあからさまにではないが、彼が何か要求をしているということは、だれにでも気づく。ところがこれが人を怒らせるのだ。いったい彼は、一人の客室つき女中でさえ、彼と長いあいだ話していると、いくらか自分の品位をおとしてしまうのだ、ということを知っているだろうか。そして、こんな変った要求をたずさえて、最初の晩にたちまちまったくひどいわなに引っかかってしまったのだ。いったい、彼は恥かしいと思わないのか。フリーダのどんなところが彼を魅惑したのだろうか。今では彼は白状することもできるだろう。あの痩せこけた、黄色い女が、ほんとうに彼の気に入ることができたのだろうか。いや、ちがう。彼はフリーダを全然見たことがなかったし、彼女はただ、自分はクラムの愛人だ、といっただけなのだ。彼にはそれが新奇なこととして深い感銘を与えたわけだ。そして、彼はだめになってしまったのだ! ところが、彼女のほうは今度は酒場を出なければならなくなった。今ではもうむろん彼女のための居場所は紳士荘になくなってしまったのだ。ペーピーはフリーダが出ていく前の朝のうちに彼女を見た。使用人たちはかけよってきた。だれだってこの光景が見たくてうずうずしていたのだ。そして、彼女の力はまだ大きかったので、人びとは彼女を惜しみ、みんな、そして彼女の敵さえも、彼女のことを惜しんだ。こんなふうに彼女の計算はすでに最初において正しかったことが証明されたわけだ。こんな男に身を投げ捨ててしまったことは、すべての者にとって不可解に思われた。一つの悲運であって、むろんどんな酒場の女給仕にだって感心する台所の小さな下女たちは、やるせない思いをしていたのだった。ペーピーでさえもそれに心を動かされてしまった。彼女の注意はほんとうは別なものに向けられていたのだったが、それでも彼女はけっしてその感動をすっかり抑えきることはできなかった。フリーダがほんとうはほとんど悲しんでいないことが、ペーピーにはとくに目立ったのだった。フリーダがぶつかったのは、じつのところ結局は恐ろしい不幸だったのだ。実際、フリーダも、あたかも自分がひどく不幸であるかのようにふるまってはいた。しかし、それは十分ではなかった。この演技はペーピーの眼をあざむくことはできなかった。それでは、何がフリーダにしゃんとした態度をとらせたのだろうか。新しい愛の幸福といったものだったのだろうか。そんな推察は問題外だった。としたら、そのほかのなんなのだろう? そのときすでに自分の後継者と見なされていたペーピーに対しても、いつもと同じように冷たく親切そうな態度でいる力を彼女に与えたものは何だったのだろうか。ペーピーには、そのときはそんなことを考えている十分なひまはなかった。彼女は新しい地位のための準備であまりにもたくさんやることがあったのだった。おそらく一、二時間以内には新しい地位につくはずであったのに、まだきれいに髪も整えてはいないし、優雅《ゆうが》な服も、上品な下着も、使える靴も、もってはいなかった。そうしたものを一、二時間のうちにそろえなければならないのだった。ちゃんとそろえることができないのなら、その地位なんかあきらめてしまうほうがましだった。というのは、そういうことであれば半時間とたたないうちにその地位を失うにきまっていた。ところで、それは一部分はうまくいったのだった。髪を整えることには彼女は特別な手腕をもっていたし、あるときはおかみの髪を整えるためにおかみのところへ呼ばれたことさえあった。彼女に恵まれているのは、特別な手の器用さというものなのだ。むろん、髪の毛がたっぷりあるので、自分のしたいとおりにすぐなるのだ。服についても助けがあった。彼女の二人の同僚が彼女に変わらない親切な態度を見せてくれたのだった。仲間のうちの一人の女中が酒場の女給になることは、一種の名誉でもあるのだ。そして、そうなるとペーピーはあとで、力をにぎるようになったら、いろいろ利益を授けてくれることができるはずだったからだ。女中の一人がずっと前から高い服|生地《きじ》を使わないでしまっておいた。それはその子の宝物だった。その女中はしばしばそれをほかの子たちに見せびらかし、いつかそれを使ってすばらしく着飾ってやろう、と夢見ていたのだった。ところが――これはその子の美しい行為だったが――今、ペーピーがそれを必要とするということになったとき、その生地を犠牲にしてくれたのだった。そして、二人は進んで縫うことを手伝ってくれた。その子たちが自分のために縫うのだったとしても、二人はあれよりも熱心になることはできなかったことだろう。それはひどく楽しい、幸福を味わわされるような仕事でさえあった。みんな、上下のベッドにそれぞれ坐って、縫いながら歌を歌った。たがいにでき上がった部分と附属品とを上へ下へと渡し合った。ペーピーはそのことを考えると、万事がむだとなり、自分が手ぶらでまた友だちのところへ帰っていくことが、いつでも心に重くのしかかるくらいだ! なんという不幸で、なんと軽はずみな罪をつくったのだろう、だれよりもKのせいなのだ! あのときは、みんながなんと服のことをよろこんだことだろう。それはまるで成功の保証のように思われるのだった。そして、あとから小さなリボンをつける場所が見つかったようなときには、最後の疑惑さえも消えてしまうのだった。そして、この服はほんとうにきれいではないだろうか。もう今ではしわになって、しみも少しついている。ペーピーは着換えをもってはいないので、昼も夜もその服を着なければならなかったのだ。それでも今だって、それがどんなにきれいか、ちょっと見ただけでわかる。あのいまいましいバルナバスのところの女たちだって、これよりもりっぱなものはけっしてつくれないだろう。そして、好きなように上と下とをしめたり、ゆるめたりできるということ、つまり、一枚の服にはすぎないのだが、いろいろ変化を与えることができるということ、――これは特別の長所で、ほんとうはペーピーの発明なのだ。それにむろん、彼女にとっては服を縫うことはむずかしいことではなかった。ペーピーはそれを自慢しているわけではない。実際、若い健康な娘たちにはなんだって似合うものなのだ。下着類と靴とを用意することは、それよりもずっとむずかしかった。そして、ほんとうはここから失敗が始まるわけだ。この点でも友だちはできるだけのことをして助けてくれたのだが、彼女たちにはたいしたことはできなかった。ペーピーがよせ合わせ、つくろい合わせたのは、粗末な下着にすぎなかった。そして、ハイヒールの靴のかわりに、人に見せるよりも隠しておきたいような室内靴だった。二人の女中はペーピーを慰めていった。フリーダだってそんなにきれいな身なりをしていたわけではなく、ときどきはだらしない恰好で歩き廻っていた。そのため、客たちはフリーダにサービスしてもらうよりも、地下室の酒番の小僧たちにサービスしてもらいたがったほどではないか。それは事実だったが、フリーダだからこそ、そんなこともやれたのだ。あの人はもう人に大事がられ、もてはやされていたのだった。一人の貴婦人がふと汚れた、しどけない着つけで現われると、それだけいっそう魅惑的になるものなのだ。しかし、ペーピーのような新米の場合にはどうだろうか。それに、フリーダは全然うまく服が着られなかった。彼女はまったくあらゆる趣味から見離されているのだ。だれかが黄色い肌をもっているだけでも、むろんそれを隠しておかなければならない。フリーダのように、その上に襟ぐりの深いクリーム色のブラウスなんか着て、黄色一色で見る者の眼から涙があふれるほどの恰好をしてはならない。そして、それほどではなかったにしても、彼女はけちでありすぎて、いい身なりなんかできなかったのだ。かせいだ金はみんなとっておくのだ。なんのためなのかは、だれにもわからない。勤めでは金は全然いらない。うそや策略で事はたりるのだった。この模範をペーピーは真似しようとも思わなかったし、また、真似することもできなかった。それゆえ、自分の身を引き立たせるため、彼女がはじめにそんなに身を飾ったのは、正しいことだったのだ。自分がただもっと金を使ってやることさえできたなら、どんなにフリーダがずるかったとしても、どんなにKがばかであろうと、自分は勝利者でいることができただろう。実際、そんなふうではじめはよかったのだ。必要なわずかばかりの客扱いのしかたとかいろいろな知識とかは、すでに前もって知っていた。そこで酒場に身を置くやいなや、たちまちそこに住みついてしまった。仕事のことでは、だれもフリーダがいなくて残念だとは思わなかった、二日目になってやっと、いったいフリーダはどこにいるのだ、と何人かの客がたずねた。まちがいは起こらないし、ご亭主は満足していた。最初の日には心配でたまらずしょっちゅう酒場にきたが、あとになるとときどき顔を見せるぐらいで、それも最後にはペーピーに万事まかせきりにした。勘定が合ったからだ。――収入は平均してフリーダがいたときよりいくらか多いくらいだった。彼女はいろいろと改革をやった。フリーダは勤勉からではなく、貪欲さや支配欲や、自分の権利のうちのいくぶんかをだれかに譲ることになるのではないかという不安から、下僕たちのことさえ(少なくとも一部分は、ことにだれかが様子を見ているときには)監視していたのだが、ペーピーはそれとはちがってそんな仕事を完全に地下室の酒番の小僧たちに割り当ててしまった。この連中のほうがこの仕事にはいっそうぴったりしているのだ。このやりかたで彼女は男のかたたちのためにいっそう時間を多くさくことができ、客は手早く給仕してもらうようになった。それでも彼女はだれとでも二こと三ことを話すことができた。自分の身体はすっかりクラムにあずけてあるのだといわんばかりに、クラム以外のだれかがどんな言葉をかけても、また近よってきても、クラムに対する侮辱と見なしていたフリーダのようではけっしてなかった。そんなフリーダのやりかたは、むろん賢明でもあった。というのは、彼女がだれかを自分に近よせると、それは途方もなくすばらしい好意ということになった。しかし、ペーピーはこんな技巧は嫌いだし、またそんなものははじめには使えるものではない。ペーピーはだれに対しても親切にし、まただれもがそれに対してペーピーに親切をもってむくいた。みんなは明らかにこの変化をよろこんでいた。仕事に疲れた人たちがちょっとのあいだビールを前にして坐ることができるときには、彼らはたった一こと、一つのまなざし、また一回の肩をすぼめる動作によって、彼女をまるで変えることができるのだ。みんなの手が熱心にペーピーのまき毛をなでるので、彼女は一日に十回も髪をなおさなければならなかった。このまき毛と編み目との誘惑にはだれだって抵抗できない。ふだんはぼんやりしているKでさえ、けっしてできないのだ。こういうふうにしてさわがしくて仕事の多い、しかし上首尾の日々が過ぎたのだった。その日々がこんなにすみやかに過ぎ去っていなかったら、もう少し多かったら! たとい疲れ果てるくらい緊張していたとしても、四日間とはあまりに少なすぎる。五日目があったらおそらく十分であったかもしれないが、四日間では少なすぎた。ペーピーは四日のあいだに早くもパトロンや友人を手に入れていた。もしみんなのまなざしを信用することができるのなら、彼女がビールのジョッキをもって人なかへ出ていくときは、まるで友情の海のなかを泳いでいるようなものであった。バルトマイアーという書記などは彼女にすっかり惚《ほ》れこんでしまって、この鎖と垂れ飾りとを贈ってくれ、その垂れ飾りのなかに自分の肖像を入れたほどだ。もっともこれは少し厚かましいやりかたではあったが。こんなことやそのほかのいろいろなことが起ったのだが、それでもたった四日間だった。四日間では、ペーピーがいくら力をつくしたところで、フリーダはほとんど人びとから忘れられてしまうにしても、完全に忘れ去られてしまうというわけにはいかない。しかし、もしフリーダが用心深く彼女の大きなスキャンダルによって人びとの口にのぼっていなかったなら、忘れ去られてしまったかもしれない。フリーダはスキャンダルによって人びとの眼に新鮮なものとなったのだった。ただ好奇心から人びとはフリーダをまた見たいと思ったのだ。人びとにとってはうんざりするほど味気なかったものが、ほかの点ではまったくどうでもいいようなKという男の功績によって、ふたたび人びとにとっての魅惑となったのだった。しかし、ペーピーがそこにいて、彼女がいるということで人びとに働きかけているあいだは、お客たちとしてもペーピーをフリーダの魅惑と引き換えにするようなことはやらなかったろう。ところがたいていは年配のかたたちで、酒場の新しい女給に慣れるまでは、自分たちのこれまでの習慣に鈍重にいすわっているのだ。この交換がとても有利であるとしても、それでももう二、三日つづいていたら、あのお客のかたたちの意に反してもう二、三日、おそらくは五日目だけでもつづいていたらよかったのだが、四日間ではいかにもたりない。ペーピーはどんなことがあるにせよやはりまだ臨時雇いでしかなかったのだ。それから、おそらく最大の不幸は、この四日間にクラムが、最初の二日間には村にいたにもかかわらず、下の食堂へ降りてこなかったことだ。もしクラムがやってきたら、それはペーピーにとっての決定的な試験となったことだろう。試験といっても、それは彼女が少しも恐れてなんかいない、むしろよろこんでいたものだ。彼女は――こんなことにはむろん口に出してふれないほうがいちばんいいのだが――クラムの愛人にはならなかったろうし、またそんなものに成り上がろうなどという気持にもならなかっただろうが、少なくともフリーダぐらいにはすばらしくビールのグラスをテーブルの上に置くことを心得ていたろうし、フリーダのような押しつけがましい態度でなく、かわいらしく挨拶をして、かわいらしく注文を受けたことだろうし、もしクラムがおよそ娘の眼のなかに何ものかを探している人間であれば、彼はペーピーの眼のなかに完全にあきるほどそれを見出したことだろう。だが、なぜクラムはやってこなかったのだろう? 偶然にだろうか? ペーピーはあのときにはそう思ったのだった。二日のあいだ、彼女はクラムをどんな瞬間にも待っていた。夜なかにも待っていた。『今、クラムがやってくる』と、彼女はたえず考え、ほかの理由からでなくただ期待をこめた不安と、彼が入ってくるときにまっさきにすぐさま彼を見ようという要求とから、あちこちと走り廻っていた。このたえまのない失望が彼女をひどく疲れさせたのだった。おそらくそのために、ほんとうはできるはずのことが全部はできなかったのだ。少しのひまがあれば、使用人が足を踏み入れることを厳禁されている廊下へこっそり忍んで出ていき、そこの壁の切りこみにぴったり身体を押しつけて、待っていた。『今、クラムが出てきたら』と、彼女は思った、『あのかたが部屋から出てくるところを迎え、わたしの両腕に抱えて下の食堂までつれていくことができたら! この重荷の下でわたしはくずおれたりはしないだろう、その重荷がどんなに大きくたって!』ところが、クラムはやってこなかった。あの二階の廊下は静まり返っていて、あそこにいったことのある者でないと想像することができないくらいだ。あんまり静かなので、全然長いこと我慢していられないくらいなのだ。静けさが人が追い払ってしまう。しかし、十度追い払われても、十度また上がってくるというように、ペーピーはくり返した。まったく無意味なことだった。クラムはくるつもりなら、くるだろうし、こないつもりなら、ペーピーが壁の切りこみに入って胸の鼓動のために半分窒息してしまうとしても、彼女がクラムをおびきよせることはできないだろう。それは無意味なことだったが、もし彼がこないのなら、いっさいがほとんど無意味だったのだ。そして、クラムはほんとうにやってこなかった。今では、クラムがなぜこなかったのか、ペーピーにはわかっている。フリーダは、もし上の廊下でペーピーが壁の切りこみに隠れ、両手を胸にあてている様子を見ることができたら、すばらしい楽しみをもったことだろうが。クラムが降りてこなかったのは、フリーダがそれを許さなかったからなのだ。彼女が頼んでそうさせたのではない。彼女の頼みはクラムの耳にまではとどかないのだ。けれどフリーダというこのくも[#「くも」に傍点]のような女は、だれも知らないようないろいろのつながりをもっている。ペーピーがお客に何かいうときには、隣りのテーブルの人たちにも聞こえるくらいだ。ところがフリーダは何もいうことがなく、ただビールをテーブルに置くと、立ち去ってしまう。ただ、彼女が金を出して買ったただ一つの品物である絹のスカートだけがさらさら音を立てるだけだ。ところで、いざ何かいうときにも、おおっぴらにはいわず、お客の耳にささやくだけで、隣りのテーブルの人たちが耳をそばだてるほどにかがみこむ。彼女のいうことはおそらくつまらぬことではあろうが、いつもそうとはきまっていない。彼女はいろいろなつながりをもち、一つのつながりを別のいろいろなつながりで支えているのだ。たいていのつながりは失敗するけれど――だれがいつまでもフリーダなんかにかまっているだろうか?――ときどきは一つのつながりをしっかとつかむ。こうしたいろいろなつながりを彼女は今や利用し始めた。Kが彼女にそういう可能性を与えたのだ。彼女のそばに坐り、彼女を見張っているかわりに、ほとんど家にとどまっていないで、うろつき廻り、そこかしこで話合いをし、あらゆることに注意を向けているのだが、ただフリーダに対してだけは注意を向けない。そして、最後には彼女にもっと多くの自由を与えるために、橋亭から人のいない学校へ移ってしまった。そういうことはみなまったく蜜月の結構なはじまりだったわけだ。ところで、ペーピーは、Kがフリーダのもとで我慢しなかったというので彼を非難するわけではないのだ。だれだってあの女のところで我慢できるものではない。だが、なぜ彼はフリーダをすっかり捨ててしまわなかったのだ。なぜくり返し彼女のところへ帰っていったのか。なぜうろつき廻ることによって、まるでフリーダのために闘っているような見かけをつくってしまったのか。まるでKはフリーダと関係をもつことによってはじめて自分の事実上のつまらなさを発見し、フリーダにふさわしくなろうとし、なんとかして成り上がろうとして、あとで人からじゃまされずに現在の不自由な生活のつぐないをつけることができるために、今のところは彼女といっしょにいることをあきらめている、とでもいうかのように見える。そのあいだにもフリーダは時間をむなしく過ごしたりしてはいないで、おそらく彼女がKを引っ張っていったあの学校に坐り、紳士荘をじっと見守っており、Kをじっと見守っているのだ。使いの者といったら、彼女はすばらしいのを手のうちに収めている。つまり、Kの助手たちだ。あの二人を――だれにもどうしてかわからない。たといKのことを知っていても、どうしてかわからないが――Kはフリーダにまかせてしまった。彼女はあの二人を自分の昔の友だちのところへやり、自分のことを思い出させ、自分がKのような男によって囚《とら》われの身となったことを嘆き、ペーピーに対する敵意をけしかけ、自分がもうすぐ酒場へもどると告げ、助力を頼み、クラムに何も打ち明けないようにと哀願し、まるでクラムをいたわってやらねばならぬのだから、そのためにどうあっても酒場へ降りていかせてはならぬのだ、というふうにしむけるのだ。ほかの人びとに対してはクラムをいたわるのだといっているけれど、ご亭主に対してはこれは自分が手に入れた成果なのだといって利用し、自分がいなければクラムはもうこない、ということに注意を向けさせようとする。下の酒場でペーピーのような子しか給仕していないなら、クラムはどうしてここへくるだろう。なるほどご亭主には責任はない。あのペーピーはともかく、見つけ出せる最良の代用なんだから。しかし、どうしても代用では十分でない。ほんの一、二日でもそんなものではけっして十分でない、などというのだ。フリーダのこうした暗躍のすべてについてKは何一つ知っていない。その辺をうろつき廻っているのでなければ、のんきな顔をして彼女の足もとに寝そべっている始末だ。ところが、フリーダのほうはそのあいだも自分を酒場から距てている時間をちゃんと数えているのだ。ところで助手たちはこの使いの勤めをやっているだけでなく、Kにやきもちをやかせ、Kをのぼせさせておく役目もしているのだ。フリーダは子供のころから助手たちを知っていて、たがいにもう秘密などもち合わせているはずがない。だが、Kに敬意を表して、あの連中はつぎつぎにフリーダにこがれ始めたわけだ。そして、Kにとってはそれが大きな愛となるという危険が生まれている。そしてKは、これ以上の矛盾はありえないということでも、なんだってフリーダの気に入るようなことをして、助手たちによってやきもちをやかされているくせに、自分がひとりでうろつき廻りに出かけているあいだ、三人がいっしょに水入らずでいるということは我慢している。これではほとんど、Kはフリーダの第三の助手のようなものではないか。そこで、フリーダはついに自分の見守りつづけてきたところをもとにして、大きな一撃を下す決心をしたのだ。つまり、酒場へもどる決心をしたのだ。そして、それはほんとうに潮《しお》どきでもあった。フリーダというずるい女がこのことをよく知っていて、利用するやりかたは、ほんとうに感嘆に価するものがある。この観測の力と決心の力とは、他人には真似られないフリーダの腕前なのだ。もしペーピーがその能力をもっていたら、彼女の生活はどんなにちがったものとなったことだろう。もしフリーダがもう一日か二日、学校にとどまっていたら、ペーピーはもうけっして追い出されることはなく、みんなから愛され、支持されて、決定的に酒場の女給になっていたことだろう。そして、見すぼらしい嫁入り支度を眼がくらむほどすばらしく補うのに十分な金をもうけたことだろう。もう一日か二日かのことだったのだ。そうすれば、クラムはどんな策略を使ったって、もう食堂から遠ざけておくことができず、やってきて酒を飲み、くつろいだ気分になり、フリーダのいないことにおよそ気づいたとしても、この変化に大いに満足したことだろう。もう一日か二日だったのだ。そうすればフリーダは、彼女のスキャンダル、彼女のさまざまなつながり、二人の助手たち、そうしたいっさいのものといっしょにまったく忘れ去られてしまい、けっしてまた現われることがなかったろう。そうなれば、彼女はおそらく、それだけしっかりとKにしがみつき、彼女にそれができるとしての話だが――Kをほんとうに愛することを知るだろうか。いや、それもそうはいかないのだ。というのは、Kが彼女にあき、どんなにひどく彼女が自分をだましていたか、彼女の自称する美しさとかいわゆる誠実さとか、ことに何よりも自称するクラムの愛だとかいうものによって自分をだましていたか、ということを知るのにはもう一日とはかからなかったことだろう。もうほんの一日あれば、そしてそれ以上はいらないが、あの汚ならしい助手たちといっしょにあの女を家から追い出してしまったことだろう。考えてみれば、Kはけっしてそれ以上の時間はかからなかったはずだ。そして、この二つの危険のあいだに立たされ、明らかにあの女の頭上でもう墓穴が閉じ始めていたときに――Kは頭が単純なものだから、あの女のためになお狭くて細い道を開けておいたのだ――あの女は逃げ出したのだ。突然――そんなことはだれももう予期していなかった。そんなことは自然にそむいたことなのだ――、突然あの女はがらりと変って、まだ彼女を愛し、いつも彼女のあとを追い廻してばかりいるKを追い出し、友人や助手のあと押しのもとで救いの女神としてご亭主の前へ現われたわけだ。自分のスキャンダルによって前よりもずっと魅惑的となり、いちばん身分の低い人たちからもいちばん身分の高い人たちからも同じようにそれとわかるほども渇望されている有様だ。身分の低い者の手に入ったのもほんの一瞬で、すぐにしかるべくその男を突きのけてしまい、そしてその男にもほかのすべての男にも前にもまして手のとどかぬようになるのだ。ただ前とちがうところは、前にはこういうすべてのことを人が疑うのももっともなわけだったが、今度は確信されるようになった、という点だけだ。こうして彼女はもどってきた。ご亭主はちょっとペーピーを横眼にながめて、ためらっていたが――ご亭主は、あんなにもその資格があることを証明したペーピーを犠牲にしたものかどうか、考えたのだ――、やがてくどきおとされ、フリーダの味方をしてしゃべりすぎるほどしゃべり、ことに、フリーダがきっとクラムを食堂にくるようにさせるだろう、というのだった。わたしたちは今、この夕方、ちょうどそこまでの状態にいるわけだ。ペーピーは、フリーダがやってきて、この地位を引き受けてかちどきをあげるまで待っていないつもりだ。金入れはもうおかみに渡したし、もう出ていくことができる。下の女中部屋の仕切りベッドは彼女のために用意されている。泣いてくれる女友だちに迎えられながら、自分はそこへいくだろう。身体から服をむしり取り、髪からはリボンを引きちぎって、みんな部屋の片隅に突っこんでしまうだろう。そこにそんなものはうまく隠されつづけ、忘れたままでいたいあの酒場勤めの期間のことなんか不必要に思い出させることはないだろう。それから自分はあの大きなバケツと箒とを手に取り、歯をくいしばって、仕事に取りかかるのだ。でも、自分はその前にいっさいのことをKに話してやらないではいられなかったのだ。助けてやらなければ今でもこうしたことを知らなかったにちがいないKが、このペーピーに対してどんなに醜いふるまいをしたか、どんなに彼女を不幸にしたか、ということをさとるためにだ。むろん、Kだってこういうことにただ悪用されただけの話だ。
 ペーピーは語り終えた。彼女は息をつきながら一粒二粒の涙を眼と頬とから拭い、うなずきながらKを見つめた。まるで、根本においては問題は自分の不幸なんかにはないのだ、自分はこの不幸に耐えていくだろうし、そのためにはだれかの助力も慰めも全然いらないし、ましてKの助けや慰めなんかはいらない、自分はまだ年が若いが人生をよく知っている、自分の不幸はただ自分の知識を裏書きしているにすぎないのだ、だが問題はKだ、自分は彼の眼の前に彼のほんとうの姿を描いて見せてやろうとしたのだ、自分のすべての希望がこわれてしまったあとでも、そうしてやることは必要だと思ったのだ、といおうとするかのようであった。
「君はなんていう乱暴な空想をもっているんだ、ペーピー」と、Kはいった。「君が今やっとそうしたことを発見したというのは、全然ほんとうのことじゃない。それは実際、ただ下の暗くて狭い女中部屋から生まれた夢にすぎないよ。それはあの女中部屋でならぴったりだろうけれど、ここのひろびろとした酒場じゃ奇妙に見えるね。そんな考えだから、君はここで自分というものを主張することができなかったんだ。それにきまっているよ。君が自慢する君の服と髪形にしたところで、君たちの部屋のあの暗がりとあのベッドとの産物なんだ。あそこではきっととてもきれいなのだろうが、ここではだれだって内心ひそかに、あるいはおおっぴらに、そんなものは笑っているんだ。それから、そのほかに君はどんなことを話したんだっけね? そうだ、この私が悪用され、だまされた、っていうことだったね? いや、ペーピー、私は君と同じように、悪用されたり、だまされたりしてはいないよ。フリーダが現在、私を見捨てたということ、あるいは、君がいったように、一人の助手と逃げ出したということは、ほんとうだ。君は真相をかすかながら見ている。それに、あの子が私の妻になるということは、ほんとうにありそうもないことだ。けれど、私があの子にあきあきしてしまったとか、あの子をつぎの日に早くも追い出してしまったことだろうとか、普通おそらく妻が夫をだますようにあの子が私をだましたとかいうのは、全然正しくないことだ。君たち客室つき女中というものは、鍵孔《かぎあな》を通してスパイすることに慣れていて、それによって、君たちが実際に見る小さなことから大げさにあやまって全体を推量するというものの見かたを身につけているんだよ。その結果が、たとえば私が今の場合に君よりもずっと少ししか真相を知らない、というようなことになるのだ。なぜフリーダが私を見捨てたのか、ということを私は君のように説明することはとてもできない。いちばんほんとうらしく思われる説明は、君がちょっとふれたけれど十分に利用はしなかった説明、つまり、私があの子のことをほっておいた、ということのように私には思われるね。残念ながらそれはほんとうだ。私はあの子をほっておいた。だが、それには特別の理由があるのだ。しかし、それはここでいう筋合いのものではないけれど。もしあの子が私のところへもどってきたら、私は幸福だろうけれど、でも私はまたすぐ、あの子のことをほうりぱなしにし始めることだろう。そういうことなんだ。あの子が私のところにいたので、私は君に笑われたようにああしてうろつき廻っていたのだよ。あの子がいなくなった今では、私はほとんどやることがなくなってしまい、疲れ、いよいよ完全にやることがなくなるように望んでいるんだ。私に対する忠告はもうないかね、ペーピー?」
「あるわよ」と、ペーピーは突然勢いづいて、Kの肩をつかんで、いった。「あたしたち二人はどちらもだまされた人間だわ。いっしょになりましょう。いっしょに下の女中たちのところへいきましょう!」
「君がだまされたことをこぼしているあいだは」と、Kはいった。「私は君と折れ合うことはできないよ。君がいつもだまされていたと主張しているのは、それが君にとって気持がいいし、君を感動させるからだ。だが、ほんとうのところは、君はこの地位にはふさわしくはなかったのだ。君の考えによるといちばん無知な人間であるはずのこの私がそれを見抜くんだから、君が不適任だということはなんとはっきりしているだろう。君はたしかにいい娘だ、ペーピー。でも、それを知ることはそんなにやさしいことではないんだよ。たとえば私も、はじめは君のことを残酷で高慢な女だと思ったんだ。でも、君はそんな女ではない。君の頭を混乱させているのは、ただこの地位なのだ。なぜなら、君はこの地位にふさわしくはないのだからね。この地位が君には高すぎるなんて、私はいおうとは思わない。これは実際のところ、何もかくべつな地位じゃない。おそらく、くわしく見るなら、君の以前の地位よりは名誉なものだろう。でも全体としてはその区別は大きくはないし、二つはむしろ取りちがえるくらいたがいに似かよったものだ。そうさ、ほとんどこういってもいいだろう。客室つき女中であるほうが酒場にいるよりもましだ、というのは、あっちではいつでも秘書たちのあいだにいるんだが、それに反してここでは、食堂で秘書たちの上役たちにサービスすることができるけれど、まったく身分の低い連中、たとえばこの私なんかともつき合わなくちゃならないからね。私なんかはどうも権利という点でこの酒場以外のどこにもとどまるわけにはいかないのだが、こんな私とつき合うことが、そんなに度はずれな名誉なのだろうか? まあ、君にはそう見えるらしいし、おそらく君としてはその理由があるのだろうね。しかし、まさにそのために君は不適任なんだ。こんな地位なんかほかのと同じようなものなんだが、君にとっては天国なんだ。そのために君は万事に度はずれな熱心さでかかり合い、君の考えによれば天使が身を飾っているように飾り立てるのだ。――天使というのはほんとうはそんなものとはちがうんだがね――地位のためにふるえ、いつも追いかけられているように感じ、君の考えによると自分を支えてくれることができると思われるようなすべての者を探し、過度の親切によってそういう者を手に入れようとするのだが、それによってそういう者のじゃまをし、突き放しているわけだ。というのは、その人たちは酒場ではのんびりしていたいので、自分の心配のほかに酒場の女給の心配までしたくはないのだからね。フリーダが出ていったあと、高い身分のお客たちのだれ一人としてほんとうはこのできごとに気づいていなかったらしいと思われるのに、今ではみんなそのことを知っているし、ほんとうにフリーダにこがれているんだ。というのは、フリーダはたしかに万事を君とはまったく別なふうにやっていたのだからね。たといあの子がほかの点ではどうあろうとも、またあの子は自分の地位を尊重することを心得ていたにせよ、勤めでは経験に富み、冷静で沈着だったからな。これは君もとくに強調しているところだが、ところが君はこの教訓を利用していないというわけだ。君はあの子のまなざしをよく見たことがあるかね? あれはもう酒場の女給のまなざしなんかじゃなくて、もうほとんどおかみのまなざしなんだ。あの子はなんでも見ていたし、しかもその場合に一人一人を見ていたんだ。そして、一人一人を見るために残されていたまなざしは、その見られる男を征服するにたるだけの力をもっていたんだ。あの子がちょっとばかりやせていて、ちょっとばかりふけているというようなこと、あの子よりもきれいな髪を想像することができたなどということは、あの子がほんとうにもっていたものに比べれば、ちっぽけなことなんだよ。そして、こんな欠点が気になってしかたがなかったような人間は、そのことによってただ、自分にはより偉大なものに対する感覚が欠けている、ということを示しただけだろう。クラムに対してはそんなことをたしかに非難するわけにはいかない。君がクラムのフリーダに対する愛を信じようとしないのは、ただ若い無経験な娘のまちがった見かたというものだ。クラムが君には――そして、これはもっともだが――手がとどかないように見えると、そのためにフリーダもクラムに近づくことはできなかったと思ってしまうのだ。君はまちがっているよ。たとい私はまちがいのない証拠をもってはいないにしても、私はその点ではただフリーダの言葉だけを信じるね。これがどんなに君には信じられないことに思われようとも、また世間や役人の本質や女性の美しさの高貴さと影響力とについての君の考えとどんなにぴったり合わないとしても、これはほんとうなんだ。ちょうど今、私たちがここに並んで坐り、私が君の手を私の両手のあいだに取っているように、おそらくクラムとフリーダとも、まるでこの世でもっともあたりまえのことのように、並んで坐っていたんだ。そして、自分から進んで下へ降りてきたのだ。いや、それどころか、急いで降りてきさえしたんだよ。だれも廊下でなんかうかがってはいなかったし、ほかの仕事をほうりぱなしになんかしなかったんだ。クラムは下へ降りてこようと自分で骨を折らなければならなかったんだ。君が驚いたというフリーダの服装の欠点なんか、クラムには全然苦にはならなかったのさ。君はフリーダのいうことを信じたくないんだよ! そして、それによって自分がどんなに自分をさらけ出しているのか、それによって君の無経験なことをどんなに示しているのか、知らないんだ! クラムに対する関係なんか全然知らない人だって、彼女の人柄を見れば、その人柄は君よりも私よりも村の人たちよりもすぐれただれかがつくりあげたものだということ、またあの二人の対話は、お客たちと女給たちとのあいだに普通交わされるような、そして君の人生の目標であるらしいような冗談をはるかに超《こ》えていたものだったということを、みとめないではいないだろうよ。でも私は君にどうも不当なことをいっているようだ。君は自分でほんとうによくフリーダの特徴を知っているし、あの子の観測の能力や決断力や人びとに対する影響力というものに気づいている。けれど、君はただむろん万事をまちがって解釈しているんだよ。そして、あの子がそうしたすべてをただ利己的に自分の利益のために、また人に対する悪意のために使っていて、君に対する武器としてさえも使っている、と信じているんだ。ちがうよ、ペーピー、たといあの子がそんな矢をもっていたところで、こんな近い距離ではそれを射ることはできないだろうさ。それに、利己的だって? むしろこういうことができるだろう。あの子がもっているもの、あの子が期待してもよいものを犠牲にして、私たち二人にもっと高い地位を保証する機会を与えたのに、私たち二人はあの子を失望させてしまい、あの子にまたここへもどってこざるをえないようにしてしまったんだよ。ほんとうにこのとおりなのか、私にはわからないし、また私の罪というのも私にはどうもはっきりはしないのだが、私自身を君と比べてみると、何かそういう考えが私には浮かんでくるんだ。まるで、たとえばフリーダの落ちつき、フリーダのてきぱきしていることによるならば、やさしく、また眼立つこともなしに手に入れることができるようなものを、泣いたり、引っかいたり、引っ張ったりして手に入れようとして、あまりにもひどく、あまりにもさわがしく、あまりにも子供っぽく、あまりにも無経験に骨折ってきたみたいだ。――まるで子供がテーブル・クロスを引っ張るが、何も手には入らないで、ただ上にのっているみごとな品物を全部落してしまい、永久に手に入らなくしてしまうようなものなのだ――ほんとうにこのとおりかどうか、私にはわからない。でも、君が話したことよりはむしろ私のいうとおりなのだということは、私はよく知っているよ」
「そりゃあ、そうでしょうよ」と、ペーピーはいった。「フリーダがあなたから逃げてしまったので、あなたはあの人に首ったけになっているんだわ。あの人が去ってしまったら、あの人に首ったけになることはむずかしいことではありませんからね。でも、あなたのいいたいと思っているとおりだとしても、そしてあなたのいうことがもっともであり、あなたがあたしを笑い者にしている点でももっともだとしても、あなたはこれからどうしようというの? フリーダはあなたを見捨ててしまったのだわ。あたしの説明によっても、あなたの説明によっても、いずれにしたってあの人があなたのところへもどってくるという望みはあなたにはないのよ。そして、たといあの人がやってくるとしても、それまでのあいだ、あなたはどこかで過ごさなければならないんだわ。外は寒いし、あなたには仕事もなければ寝床もないわけよ。あたしたちのところへいらっしゃいな。あたしの友だちはあなたの気に入るでしょう。あたしたちはあなたをくつろがせてあげるわよ。あなたは実際女手だけではむずかしいような仕事を助けてくれるんだわ。あたしたちは自分たちだけをたよりにしていなくてもいいようになるし、夜なかにもう不安に苦しめられることもなくなるわ。あたしたちのところへいらっしゃいな! あたしの友だちもフリーダのことは知っているのよ。あたしたちは、あなたがあきあきしてしまうまで、あの人のことを話してあげるわ。さあ、いらっしゃいよ! あたしたち、フリーダの写真もいろいろもっているから、あなたにそれを見せてあげるわよ。あのころはフリーダはまだ今よりももっとつつましやかだったわ。あなたはほとんどあの人だとは見わけられないでしょうよ。せいぜいあの人の眼ぐらいのものでしょう。あのころもう何かをじっとうかがっていたあの眼ね。ねえ、あなた、いらっしゃるでしょう?」
「いったい、そんなことが許されているのかい? きのうも、君たちの廊下で私がつかまったというので、大変なスキャンダルがあったんだよ」
「あなたがつかまったからよ。でも、あたしたちのところにいれば、つかまらないわ。だれも、あなたのことを知りっこないわよ。知っているのはあたしたち三人だけよ。ああ、それはきっと愉快よ。もうあたしには、あそこの生活がついさっき思われたよりもずっと我慢ができるもののように思われてきたわ。今ならもう、わたしがここを去らなければならないということで、それほど多くのものを失うことにはならないわ。ねえ、あたしたちは三人きりでも退屈なんかしなかったわ。にがい人生を甘く楽しいものにしなければいけないのよ。人生はあたしたちにとってすでに小さいときからにがくされていたのよ。で、あたしたち三人はいっしょになって、あそこでできる限りすばらしく暮らしているんです。とくにヘンリエッテがあなたの気に入ることでしょうよ。でも、エミーリエもきっとそうだわ。わたしはあなたのことをもうあの人たちに話しておいたわ。あそこではこんな話をしても、信じてくれないわ。まるで部屋の外ではほんとうは何ごとも起こるはずがないっていうようなの。あそこは暖かくて狭いの。そして、あたしたちはたがいにもっとぴったりと身体をくっつけ合っているのよ。いいえ、おたがいにたよりにしてはいるけれど、けっしてたがいにあきることなんかないわ。反対に、あの友だちのことを考えると、あそこへもどっていくことがほとんど正しいことのようにあたしには思われるわ。なぜあたしはあの人たちよりも出世しなければならないでしょう? そんなことはないわ。あたしたち三人のだれにも未来がふさがれていたっていうことが、あたしたちをいっしょにさせていたものなんだわ。ところが、今はあたしだけがあそこから抜け出して、あの人たちから離れたんだわ。むろん、わたしはあの人たちのことを忘れはしなかったわ。どうしたらあの人たちのために何かしてあげられるかということが、あたしのいちばん気がかりなことでした。あたし自身の地位がまだ不安定なときに――どんなにそれが不安定なものであるか、あたしは全然知らなかったの――もうあたしはご亭主とヘンリエッテやエミーリエのことを話しました。ヘンリエッテについては、ご亭主はまったく譲れないというわけでもなかったけれど、そうはいってもあたしたち二人よりずっと年上で、およそフリーダぐらいの年のエミーリエについては、ご亭主はあたしに全然希望を与えてくれなかったの。でも、考えてもみてちょうだい、あの人たちは全然あそこを去りたがらないんですよ。自分たちがあそこで送っているのがみじめな生活だ、ということはあの人たちも知っているけれど、あの人たちはもう順応してしまったのよ。やさしい人たちだこと。あの人たちが別れのときに流してくれた涙は、なによりもあたしがいっしょの部屋を去らなければならないこと、そして寒いとこへ出ていくということ――あそこでは部屋の外のものがなんでも冷たく思われるんです――、そして知らない大きな部屋部屋のなかで、知らない偉い人たちと闘わなければならないこと、しかもその目的が何かというと、ただ命をつないでいくというだけなんだということ(そんなことはあの人たちといっしょに暮らしていたってあたしにはできたんだわ)、そのことを悲しんでくれたんだと思うわ。あたしが今、帰っていっても、あの人たちはおそらく全然驚かないでしょう。そして、ただあたしの機嫌を取ってくれるために、少し泣いて、あたしの運命を嘆いてくれるでしょう。でも、それがすむと、あの人たちはあなたを見て、あたしがあそこを去ったことはやはりよかったんだ、と気づくでしょう。わたしたちが今では一人の男の人を助け手と守り手としてもつということは、あの人たちを幸福にするでしょうし、すべてを秘密にしておかなければならないということ、そしてあたしたちがこの秘密によってこれまで以上に固く結ばれるんだということに、あの人たちをとくに有頂天《うちょうてん》にすることでしょう。いらっしゃいよ、ねえ、あたしたちのところへいらっしゃい! あなたにはどんな責任も生じることなんかないわよ。あなたはあたしたちのように永久にあたしたちの部屋に結びつけられてしまうわけじゃないのよ。やがて春になって、あなたがほかのどこかに宿を見つけ、あたしたちのところがもう気に入らなくなったら、出ていくことができるんだわ。そうはいっても、秘密だけはそうなってもまだ守らなければいけないし、あたしたちを裏切ったりなんかしてはいけないけれど。というのは、そんなことがあったら、あたしたちは紳士荘を出なければならないでしょうから。それからまた、そのほかのときでも、あなたがあたしたちのところにいるあいだは、用心していて、あたしたちが安全だと見なさないようなところにはどこにも姿を見せてはならないし、およそあたしたちの忠告に従わなければならないわ。これがあなたをしばるただ一つのことです。そして、そのことはあなたにとってもあたしたちにとってと同じように大切なことなんです。でも、そのほかの点ではあなたは完全に自由で、あたしたちがあなたに割り当てる仕事はそれほどむずかしいことじゃないのよ、そんなこと、心配しないでちょうだい。で、あなた、いらっしゃる?」
「春までまだどのくらいあるんだろうね?」と、Kはたずねた。
「春まで、ですって?」と、ペーピーはきき返した。「ここでは冬は長いわ。とても長い冬で、単調なの。でも、下ではあたしたちはそんなことをこぼしはしないわ。冬に対してはあたしたちは安全なのよ。でも、いつか春もくるし、夏もきて、きっとそのさかりのときをもつでしょうね。でも、今、思い出のなかでは、春も夏とは短く、まるで二日以上はないみたいよ。そして、その短い日々のあいだにさえ、いちばんすばらしい天気の日に、ときどき雪が降るのよ」
 そのとき、ドアが開いた。ペーピーはぎくっとした。彼女は頭のなかで酒場からあまりに遠ざかっていたのだった。でも、それはフリーダではなく、おかみだった。おかみは、Kがまだここにいるのを見て、驚いた様子だった。Kは、自分はおかみさんを待っていたんだ、と弁解し、同時に、自分がここに泊まることを許してくれたことに感謝した。なぜKが自分を待っていたのか、わからない、とおかみはいった。そこでKは答えた。自分はおかみさんがまだ自分と話そうと思っているような感じをもったのだ。それがもしあやまりであるなら、お許しを願いたい。それはそうとして、自分はもう出ていかなければならない。自分が小使をやっている学校をあまりに長いあいだほっぽりぱなしにしていた。こういうすべてに責任があるのはきのうの呼出し状なのだ。なにしろ自分はまだこういうことにほとんど経験がないのだ。おかみさんをきのうのような不快な目にあわせることは、きっともう二度とは起こらないだろう。Kはこういって、お辞儀をして出ていこうとした。おかみはまるで夢を見ているような眼つきをして、Kをじっと見つめた。そのまなざしによってKのほうも、望んだ以上に長くとらえられていた。それから、おかみはなお少し微笑したが、Kのびっくりした顔によってやっとある程度目ざめさせられたのだった。まるで彼女は自分の微笑に対する返事を待っていたのだが、その返事がこないのでやっと今、目がさめた、といわんばかりだった。
「あなたは、きのうだったと思うけど、わたしの服のことについて何かいうなんて厚かましいことをやりましたっけね」
 Kは思い出すことができなかった。
「思い出せないのね? 厚かましさがあとでは臆病になるっていうわけね」
 Kは、きのうは疲れていたのだ、と弁解した。きのう自分が何かつまらぬおしゃべりをしたということは十分にありうることだが、ともかくも今はもう思い出すことができない。いったい、おかみさんの服についてどんなことをいうことができたのだろうか。その服は自分がこれまでに見たこともないほど、きれいだというのに。少なくとも自分はまだどこかのおかみさんがこんな服を着て働いているのを見たことがない。
「そんなことをいうのはやめなさい!」と、おかみは早口にいった。「わたしはあなたの口からもう一ことだって服について聞きたくはないのよ。あなたはわたしの服について心配してくれる必要なんかありません。そんなことは永久に禁じます」
 Kはもう一度お辞儀をして、ドアのところへいった。
「いったい、どういう意味なの」と、おかみは彼のうしろから叫んだ。「どこかのおかみさんがこんな服を着て働いているのを見たことがない、って? そんな意味のない言葉が何になるんです? まったく意味がないことですよ。いったい、どういうつもりでいったんです?」
 Kは振り向いて、どうか興奮しないでくれ、と頼んだ。もちろん、そんな言葉は意味がない。それに自分は服のことなんか全然わからないときている。自分のような境遇にある者は、つぎのない清潔な服であれば、なんだってりっぱに見える。自分が驚いたのは、ただ、おかみさんが、あそこの廊下に、夜なか、ほとんど服を着ていないあらゆる男たちのあいだに、あんなに美しい夜会服を着て現われたというだけのことで、それ以上のことではないのだ。
「それじゃあ」と、おかみはいった。「やっとあなたはきのうの自分の言葉を思い出したらしいわね。そして、それに余計なばかばかしいことをいいたしたのね。あなたが服のことなんか全然わからない、ってことはそのとおりですよ。それならば、余計なことをいうのはやめて下さいな。――そのことはわたしがあなたに本気で頼んだじゃありませんか――りっぱな服だとか、似合わない夜会服だとか、なにやかやと、品さだめなんかして……いったい……」ここで、彼女には悪寒《おかん》がしたようだった、「あなたはわたしの服について少しだって世話なんかやくべきではないんですよ。いいですか?」
 そして、Kが黙ってまた向きなおろうとしたとき、こうたずねた。
「いったい、あなたはどこから服の知識なんか仕入れたんです?」
 Kは肩をすぼめて、自分はそんな知識なんかもっていない、ということを示した。
「あなたはそんな知識をもってはいません」と、おかみはいった。「でも、厚かましくもそんな知識をもっているような顔をするもんじゃありません。下の帳場へいらっしゃい。見せてあげるものがあります。そうすれば、あなたはそんな厚かましい真似はおそらく永久にやらなくなるでしょうからね」
 おかみは先に立ってドアを出ていった。ペーピーがKから勘定をもらうという口実でKのところへ跳んできた。二人は急いで申し合わせた。Kが内庭を知っているので、話は簡単だった。内庭の門はわきの道へ通じていて、門のそばに小さなくぐり戸がある。そのうしろにペーピーはおよそ一時間ぐらいあとになったら立っていて、三度ノックしたら開ける、という取りきめだった。
 帳場は酒場に向かい合っていた。ただ玄関を横切っていくだけだ。おかみは電燈をつけたその帳場にすでに立って、いらいらしながらKのほうを見ていた。しかし、まだ一つじゃまがあった。ゲルステッカーが玄関で待っていて、Kと話があるというのだ。彼を振り捨てるのはやさしいことではなかった。おかみも助け舟を出してくれ、ゲルステッカーにその押しつけがましいことをしかった。
「いったい、どこへいくんだい? いったい、どこへ?」と、ドアが閉ってからも、ゲルステッカーの叫ぶ声が聞こえた。そして、その言葉は溜息と咳の音ときたなくまじり合っていた。
 暖房のききすぎた小さな部屋だった。狭いほうの壁のところに立ち机と鉄の金庫とがあり、広いほうの壁にはたんすと寝椅子とがあった。大部分の場所をとっているのはたんすだ。広いほうの壁をいっぱいにふさいでいるだけでなく、奥行が深いために部屋をひどく狭くしている。このたんすをあけるためには引き戸が三つもいる。おかみは寝椅子を指さして、Kにそこに坐るように合図したが、自分は立ち机のそばの廻転椅子に腰かけた。
「あなたは裁断を一度も習ったことがないの?」と、おかみがたずねた。
「いいえ、一度もありません」と、Kはいった。
「いったいあなたはなんなの!」
「土地測量技師です」
「いったいそれはなんなの?」
 Kはそれを説明したが、その説明はおかみにあくびをさせるだけだった。
「あなたはほんとうのことをいわないのね、なぜほんとうのことをいわないんです?」
「あなただってほんとうのことをいいませんよ」
「わたしがですって? またそろそろあなたの厚かましい態度を見せるんですか。そして、たといわたしがほんとうのことをいわないとしたって――いったいわたしはあなたに対して弁解しなければならないんですか。でも、どんな点でわたしがあなたにほんとうのことをいわなかったんです?」
「あなたは自分でいっているようなおかみさんであるだけじゃないんですからね」
「なんですって! あなたはよく発見をする人ね! ではいったい、そのほかになんだっていうの? あなたの厚かましさはほんとうにもういよいよ大きくなっていくのね」
「あなたがそのほかのなんであるのか、私にはわかりません。私にわかっているのは、あなたがおかみさんであり、そのほかにあなたの着ている服は、宿屋のおかみさんにはふさわしくなく、また私の知っている限りではこの村ではだれもそんなのを着てはいないということだけです」
「それではわたしたちは話の本題へ入ったわけです。あなたはそれをいわないではいられないのね。あなたという人は、おそらく全然厚かましいのじゃなく、ただ、何かばかげたことを知っていて、どんなにいわれてもそのことを黙ってはいられない子供のようなものなんだわ。では、いいなさいな! この服のどこが変っているんです?」
「私がそれをいったら、あなたは怒りますよ」
「いいえ、それを笑うでしょうよ。きっと子供じみたおしゃべりなんでしょうから。で、この服はどんなだというんです?」
「それを知りたいというんですね。それじゃあ、いいましょう。その服はほんとうに高価ないい生地でできていますね。だが、もう古くさくて、ごてごて飾りすぎているし、何度も修繕してあり、着古していて、あなたの年にもあなたの姿恰好にもあなたの地位にもぴったりしません。それは私の眼にすぐつきました、私があなたにはじめて会ったときにね。およそ一週間ばかり前、ここの玄関でした」
「ようくわかりましたわ。古くさくて、ごてごて飾りすぎていて、それからなんでしたっけね? で、いったいあなたはどこからそんなことを聞きこんできたっていうんです?」
「それは眼に見えているままなんですよ。何も教わる必要なんかありません」
「あなたはわけもなくすぐさま見抜きましたね。だれにもきく必要なんかなくて、しかも流行が要求しているものがすぐわかるんですね。それじゃあ、あなたはわたしにとってなくてはならない人になるかもしれないわ。というのは、美しい服についてはわたしは目がないもんでねえ。この戸棚が服でいっぱいなのを見たら、あなたはなんていうでしょうね?」
 彼女は引き戸をみな開けた。すると、服が戸棚の幅いっぱい、奥行いっぱいにぎっしりとつまっていた。たいていは暗色と灰色と赤色と黒の服で、すべて念入りにかけてあり、拡げてあった。
「みんなわたしの服よ。みんなあなたのいうように古くさくて、ごてごて飾りすぎているわ。でも、これはただ、上のわたしの部屋にはしまうところがない服ばかりなのよ。上にはまだいっぱいつまった戸棚が二つあるわ。戸棚二つよ。どれもこれと同じくらいの大きさなのよ。どう、驚いた?」
「いいえ、まあそんなことだろうと思っていました。私はいったはずですよ、あなたはただのおかみじゃなくて何か別なものを目ざしているって」
「わたしが目ざしているのは、ただ美しい服を着るということだけですよ。あなたはばかか、子供か、それともひどく性悪で危険な人間かなのだわ。出ていきなきい、もう出ていってちょうだい!」
 Kは早くも玄関へ出ていたが、ゲルステッカーがまた彼の袖をしっかとつかんだ。そのとき、おかみがKのうしろから声をかけた。
「あした、新しい服が手に入るわ。おそらくあなたを迎えにだれかをやるでしょうよ」

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
入力:kompass
校正:米田
2011年12月3日作成
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原田義人

最初の苦悩 ERSTES LEID フランツ・カフカ Franz Kafka —-原田義人訳

 ある空中ブランコ乗りは――よく知られているように、大きなサーカス舞台の円天井の上高くで行われるこの曲芸は、およそ人間のなしうるあらゆる芸当のうちでもっともむずかしいものの一つであるが――、はじめはただ自分の芸を完全にしようという努力からだったが、のちにはまた横暴なほどになってしまった習慣から、自分の生活をつぎのようにつくりあげてしまった。つまり、一つの興行で働いているあいだは、昼も夜もブランコの上にとどまっているのだ。食事や大小便といったものはすべて(とはいってもそういうものはきわめて少なかったものだが)、下で見張っている交代の小使たちの手で面倒が見られ、上で必要とされるものはすべて特別につくられた容器で上げ下ろしされるのだった。こうした生きかたからはまわりの生活にとってとくに困難なことは起こらなかった。ただ、ほかの番組が行われるあいだは、彼が姿を隠すことができないので上にとどまっているということ、またこうしたときにはたいていはおとなしくしているにもかかわらず、ときどき観客の視線が上にいる彼のほうにそれていくということが、ほんのちょっとばかり妨げとなった。しかし、サーカスの幹部はこのことを許していた。なぜならば、彼は平凡でない、かけがえのない曲芸師であったからだ。また彼らはもちろん、彼がわがままからこんなふうな生活をやっているのではなく、ほんとうはただそうやってたえず練習をやっているのであり、ただそうやってこそ彼の芸を完璧《かんぺき》に維持することができるのだ、ということをよく知っていた。
 けれども、上はそのほかの点でも身体によかった。そして、暖かい季節のあいだ、円天井のぐるりにあるわき窓が開け放たれ、新鮮な風といっしょに太陽の光が強くこのぼうっとかすんだような館内に入りこんでくると、そこはすばらしくさえあった。むろん、彼の人づき合いは限られていて、ただときどきだれか曲芸師仲間が縄梯子《なわばしご》をよじ登ってくるだけで、そうすると二人でブランコに坐り、支え綱の右と左とによりかかりながらしゃべるのだった。あるいは、大工たちが屋根を修繕しながら、開いた窓越しに彼といくらか言葉を交わしたり、消防夫が回廊の非常燈を点検しながら、何か敬意をこめたような、しかしほとんど何をいっているのかわからないような言葉を彼に向って叫んだりした。そのほかは、彼のまわりは静かだった。ただときどき、午後のがらんとした小屋に迷いこんだような使用人のだれかが、ほとんど眼のとどかないほどの高みを考えこんだように見上げると、そこでブランコ乗りがだれかに見守られているとは気づくことができないまま、さまざまな芸をやったり、休んだりしていた。
 もしつぎからつぎへと廻る避けられない旅というものがなかったならば、ブランコ乗りはそうやってじゃまされずに暮らすことができただろう。そうした旅興行が彼にはひどくわずらわしかった。興行主はブランコ乗りが彼の苦しみをけっして不必要に長びかせないように気を配ってはいた。町へ乗りこむときには競走用自動車を利用し、夜間とか早朝に人気《ひとけ》のない通りを最大速力で飛ばしていくのだが、むろんブランコ乗りの望むところからいうとあまりにものろのろしすぎた。汽車では一車室全体が独占され、そのなかでブランコ乗りは不十分ながらなんとかふだんの生活のしかたにかわるように、旅のあいだ上の網棚で時を過ごす。つぎの客演場所の小屋ではブランコ乗りが到着するずっと前にブランコがすでにすえつけられ、場内へ通じるすべてのドアも開け放たれ、通路はすべて楽に通れるようになっている。なるほどこうした配慮が必要ではあったが、ブランコ乗りが足を縄梯子にかけ、あっという間にたちまちまた彼のブランコにぶら下がるときこそ、いつでも興行主の生活のうちでもっともすばらしい瞬間だった。
 きわめて多くの旅興行が興行主にはうまくいったけれども、新しい旅はどれも彼にとってつらい。というのは、ほかのあらゆることは別としても、旅興行というものはブランコ乗りの神経にとってはなんといっても破壊的なものだった。
 こうしてあるときまた、二人は汽車に乗って旅にあった。ブランコ乗りは網棚に横になって夢見ている。興行主は窓ぎわによりかかってブランコ乗りと向かい合い、本を読んでいた。そのとき、ブランコ乗りが低い声で彼に語りかけた。興行主はすぐ相手になった。ブランコ乗りは唇をかみながら、自分は今度は自分の演技のために今までの一つのブランコのかわりに向かい合った二つのブランコをもたなければならない、というのだった。興行主はすぐさまそれに同意した。ところがブランコ乗りは、まるで今の場合に興行主が賛成であろうと反対であろうと意味がないのだということを示そうとするかのように、もう二度と、どんなことがあっても一つだけのブランコでは演技をしない、という。そんなことになると考えただけでも身ぶるいがするらしかった。興行主は、ためらい、考えながら、ブランコを二つにすれば一つよりもよいし、そのほかの点でもこの新しい趣向は有利だ、その趣向はこの見世物をもっと変化に富んだものにする、ということに完全に同意だ、と断言した。すると、ブランコ乗りは突然泣き始めた。すっかり驚いた興行主は飛び上がり、いったいどうしたのか、とたずねた。ところが返事がないので、坐席の上に立ち、ブランコ乗りの身体をなで、相手の顔を自分の顔に押しつけた。それでブランコ乗りの涙が彼の顔にまで流れてきた。だが、いろいろたずねてみたり、なだめすかしてみたりしてやっと、ブランコ乗りはすすり泣きしながらいった。
「このたった一本の綱につかまるだけで――どうしておれは生きられるだろう!」
 そこで、興行主にとってはブランコ乗りをなだめることはいっそうやさしくなった。彼は、すぐつぎの駅からこれからいく客演地にもう一つブランコを注文する電話をかけよう、と約束した。そして、自分がブランコ乗りにこんなにも長いあいだただ一つのブランコの上でやらせていたことはいけなかった、と自分を責め、相手がとうとうこのまちがいに気づかせてくれたことに礼を言い、またそれを大いにほめた。こうやって興行主はブランコ乗りをだんだんとなだめることに成功し、まだ自分の片隅の席にもどることができた。ところが、彼自身が落ちつけなかった。重苦しい心配で彼はこっそりと本越しにブランコ乗りのほうを見た。彼がこんな考えに悩まされ始めたとなると、どうしてそれがすっかりやむことがあるだろうか。これは彼を真底から脅《おび》やかすものではないだろうか。そして実際興行主は、泣き寝入りした、見たところ静かな眠りのなかで、最初のしわがブランコ乗りのすべすべした子供のような額の上に刻まれ始めているのを見るように思った。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
入力:kompass
校正:青空文庫
2010年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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原田義人

皇帝の使者 EINE KAISERLICHE BOTSCHAFT フランツ・カフカ Franz Kafka ———原田義人訳

 皇帝が――そう呼ばれているのだ――君という単独者、みすぼらしい臣下、皇帝という太陽から貧弱な姿で遠い遠いところへ逃がれていく影、そういう君に皇帝が臨終のベッドから伝言を送った。皇帝は使者をベッドのそばにひざまずかせ、その耳にその伝言の文句をささやいた。皇帝にとってはその伝言がひどく大切だったので、使者にそれを自分の耳へ復誦《ふくしょう》させたのだった。うなずいて見せることで、皇帝はその復誦の言葉の正しさを裏書きした。そして、自分の死に立ち会っている全員を前にして――障害となる四方の壁は打ちこわされ、ひろびろとのび、高くまでつづいている宮殿前の階段の上には、帝国の高官たちが輪形をつくって立っている――、こうしたすべての者を前にして皇帝は使者を派遣した。使者はすぐ途についた。力強い、疲れを知らぬ男だ。あるいは右腕、あるいは左腕と前にのばしながら、群集のあいだに自分の道を切り開いていった。抵抗する者がいると、彼は自分の胸を指さした。その胸の上には太陽のしるしがついている。彼はそうやってまた、ほかのどんな人間にもできないほどたやすく前進していくことができた。だが、群集はあまりにも多かった。彼らの住居は果てしなくつづいていた。ひろびろとした野原がひらけているならば、使者はどんなに飛ぶように走ったことだろう。そして、やがて君はきっと彼の拳《こぶし》が君の戸口をたたくすばらしい音を聞いたことだろう。ところが、そんなことにはならないで、彼はなんと無益に骨を折っていることだろう。いつまでたっても彼は宮殿の奥深くの部屋部屋をなんとかしてかけ抜けようとするのだ。だが、けっしてその部屋部屋を抜けきることはないだろう。そして、もしうまくかけ抜けたとしても、何一つ得るところはないだろう。つぎにはなんとかして階段をかけ下りようとしなければならないだろう。そして、その階段をうまくかけ下りることができても、何一つ得るところはないだろう。いくつもの内庭を越えていかなければならぬのだ。そして、かずかずの内庭のつぎには第二の壮大な宮殿がくる。それからふたたび、階段と内庭だ。それからまた宮殿だ。そういうことをくり返して何千年たっても終わることはない。そして、とうとういちばん外側の門から走り出たところで――だが、けっして、けっして、そんなことは起こるはずがない――やっと彼の前には首都が横たわっているのだ。その首都こそ世界の中央であり、世界の沈澱物《ちんでんぶつ》で高く積み上げられている。だれ一人としてここをかけ抜けることはできないし、まして死者のたよりをたずさえてかけ抜けることはできない。――だが君は、夕べが訪れると、君の窓辺に坐り、心のなかでそのたよりを夢想するのだ。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
入力:kompass
校正:青空文庫
2010年11月28日作成
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原田義人

カフカ解説—– 原田義人

 カフカがプルースト、ジョイス、フォークナーなどと並んで二十世紀のもっとも重要な作家の一人として考えられるようになったのは、彼の死後二十年余を経た第二次大戦後のことであるといってよい。今、たとえば一九三〇年ころに出版されて十万部を超《こ》える部数を出した詳細なドイツ現代文学史を開いてみると、そのなかでカフカについて書かれているのはわずか十数行にすぎない。また、三六年にアメリカで刊行されたあるドイツ文学史を見ると、そこにはカフカの名前をまったく見出すことができない。元来、カフカ自身は生前わずか数冊の小品・短編を発表しただけであり、遺言はいっさいの遺稿の破棄を要求したのであった。その遺志に反して、三長編遺作をはじめとしていっさいの断片を整理刊行したのは、彼の親友であった作家マクス・ブロートの功績であり、その熱意と傾倒とがなかったならば、とうてい今日のカフカ像は結ばれずに終ったにちがいない。ブロートは彼の『フランツ・カフカ伝』(増補版)において、カフカの死後、遺作を出版してくれる大出版社を見出すことがむずかしかった、と述懐している。そこで、それらの書巻に対する著名作家の関心を喚起しようとしたところ、ゲルハルト・ハウプトマンは「残念ながらカフカという名前はまだ聞いたことがありません」と答えたという。
 今日、カフカに関する文献はおびただしい数に達している。そして、それだけのカフカ解釈がある。それを要領よくまとめることはとうてい不可能である。しかし、カフカ解釈の一つの大きな柱は、いうまでもなくブロートのものである。ブロートは熱狂的なユダヤ主義者であり、その立場からのカフカ解釈は一面的であるとして多くの人びとから激しい攻撃を浴びた。彼は『カフカの信仰と思想』という著者の序文において、カフカの正しい解釈のためには、アフォリズムにおけるカフカと、物語作品(長・短編)におけるカフカと、この二つの流れを区別しなければならない、という。彼によれば、アフォリズムのカフカは人間のなかの「破壊されないもの」を認識し、世界の形而上的な核心に対して積極的で信仰的な関係をもっている。この面ではカフカは、人類に対していうべき積極的な言葉、一つの信仰、各人の個人的生活を変えるようにというきびしい要求、を述べているのであり、トルストイの思想と密接な関係をもっている。一方、小説および物語のカフカは、恐れと孤独感とのうちでさまよっている人間、つまり、アフォリズムや日記のなかで語っているあの「破壊されないもの」を失った人間、信仰において確信をもてなくなり、錯乱《さくらん》している人間、を示している。ここでは、アフォリズムに見られるような積極的な言葉を聞かないで正しい道を離れ去るときに現われる、恐るべき処罰を描いている。この両面を理解しなければ、カフカを理解することができない、というのである。ここで、二つの問題が出てくる。第一は、カフカの作品は文学作品として完結したものと見ることは許されないのか、ということである。第二は、従来カフカのアフォリズムは十分にわれわれ読者の前に提供されていなかった。数多くの遺稿や日記や書簡が公刊され、全集がほぼ完結したのは、比較的新しいことである。第一の点に関しては、いわば文学上の永遠の問題であり、ブロートの解釈に対する多くの批判はまさにこの点に集中されているといってよい。第二の点についていえば、カフカ研究の大きないとぐちがやっと開けたばかりであり、この領域はまださまざまな問題を解決されぬままに残しているのである。
 ブロートは右のような主張にもとづいて、フランスの実存主義者流のニヒリズム的解釈に反対し、さらにカトリック的解釈を不十分であるとする。つまり、ニヒリズム的解釈はカフカから超越者に根ざしているという核心を取り除いてしまうものであり、カトリックないし過激なキリスト教的解釈はカフカを超越者だけに還元し、カフカがきわめて崇高な意味において尊重していた積極的な現世の力を没却するものである。ここでブロートが批判しているニヒリズム的解釈、またキリスト教的解釈というものは、カフカ解釈の重要な二つの柱である。前者は文学的に生産的であり、後者は思想的に意味が大きい。いわゆる「不条理の文学」の先駆者としてのカフカは、きわめて大きな影響力をもっており、すでに多くの模倣者さえ現われるにいたっている。カフカの文学は宗教的な寓意性を見出すのに好適なものがあり、ニヒリズム的解釈なるものもいわば裏返しの形でその問題とかかわりをもってくる。ブロートの多年にわたる主張は、自己の解釈以外のいっさいを許そうとしない挑発的なものであって、その点がすでに反感をそそるものがある。しかし、彼の主張は公正に見て問題性に富み、これからももっとも重要な手がかりとして扱われていくことであろう。
 ところで、最近のカフカ研究の動向を見ると、まず実証的研究の分野での仕事が目立つ。これは一つにはカフカの作品を文学としてながめようとする志向と表裏するものである。あとでもふれるが、ブロート編集のカフカ作品のテクストについての批判がいろいろな形で提供されている。この問題については以前から疑問が投じられていたのであるが、チュービンゲン大学のバイスナー教授がその口火を切った。彼は講演『物語作家カフカ』(一九五二)という小冊子において、「一つ一つの言葉とセンテンスとから、全体の意味づけを帯びた構成にまで昇っていく文献学的解釈は、カフカにおいては今のところ不可能です。なぜなら、信頼できるように編集されたテキストというものがないからです」と、述べた。この冊子の注において、バイスナーはその理由も説明している。ブロートは『審判』の第二版のあとがきにおいて、テキストを読みやすくするため、文章記号や言葉の綴りや文章構造を、最小限にだが、一般のドイツ語の慣用に従って改めるようにした、と述べた。バイスナーはこうしたブロートの態度を批判し、例として短編『判決』の原文批判を行い、カフカが生前に出版した版と、ブロートによる全集版とのあいだの六〇個所ほどの相違点を列挙している。またシュトゥットガルト工業大学のマルティーニ教授は、断片遺稿の短編『村の学校教師』の原文批判において、約二八〇個所ほどの原稿と刊本とのちがいを指摘している。これらはわれわれ外国人にとってはニュアンスのちがいがちょっとわかりにくい句読点などが大部分であり、こまかすぎるといえばそうもいえるものである。今日のもっともすぐれた深いカフカ研究家の一人であるケルン大学のエメリヒ教授などは、「原稿の写真版を調べたが、文章記号の疑問や読みにくい原稿の読みちがえによって起ったきわめて少数のあやまりのほかには、意識的に変更を加えた原文侵害というものはどこにも見あたらなかった」といい、「ブロートは多くの点で批判的でないやりかたをしたかもしれないが、もともと刊本ということに明るい文献学者ではないのだから、やむをえない。ちゃんとしたテキストを刊行しようとする彼の誠実な努力は何びとも否定することができない」と、いっている。いろいろ問題はあるが、まずこのエメリヒのいうところあたりが穏当といえるだろう。このカフカ集の『変身』([#割り注]三五一ページ、※[#ローマ数字2、1-13-22]のはじめの個所[#割り注終わり])においても、たとえば「電気の街燈の光が蒼白く……」という妙な訳のところがある。ここは、カフカ生前の刊本では、「市内電車のライトが」となっている。こうしたちがいがどこからきているのかは、原稿も調べなくては結論が下しにくい。いずれにせよ、われわれ外国人にはなかなか近づきがたい領域である。
 フランスのサルトル、カミュ、ブランショ、バタイユなどのカフカ観はたしかに興味深い。しかし、これらはすでにいずれも邦訳もあるので、ここではふれない。カフカ文学の解釈でとくに根本的な問題をついていると思われるのは、前に述べたエメリヒである。彼はある比較的短いエッセイのなかで、次のように述べている。カフカの短編や長編を読むとき、われわれは異様な世界のなかへ入りこんだような感じに打たれる。この世界で起こるできごとは、空間・時間によって規定された外的な現象界ではありえないことであるし、われわれにはまるで夢のなかで出会うことのように思われる。しかも、それはけっしてはっきりと夢だといって受け取ることはできない。外的な現象界と直接つながっていて、実際の夢のように意識下の連想によって進行するものではない。こうして、時間と空間、原因と結果、というような経験的な秩序は、ここには見られない。むろん、過去の多くの文学においても、文学は現実を超えた理念的な虚構の世界として理解されてきたのであり、その世界ではあらゆる経験的な自然の現象はより高い精神的な意味づけの下に置かれているか、あるいはそれ自体が象徴となって、一つの精神的秩序の意味を担っている。そこで、カフカの描くできごとの背後にその精神的意味を求め、いったいそれは何を意味しているのであろうか、と考えてみる。けれども、その場合にもやはりうまく解釈はできない。カフカの文学のなかでは、できごとの意味は絶えず反省され、説明されて、はっきりと分析されている。しかし、そうやって獲得された意味が、たちまち作品のなかで疑われ、斥《しりぞ》けられている。そこで、精神的な意味づけを求めようとすることが不可能となってしまう。しかも、それは二重に不可能である。第一に、カフカの文学においては、城は天上とか恩寵《おんちょう》の場所を表わし、その下の村は人間界を表わしている、というような、いわば比喩(アレゴリー)としての暗示を読み取ることはできない。ここでは、従来の比喩的な文学におけるように、感覚的に知覚できる現象と精神的な意味とのあいだにはっきりした関係があるわけではないからである。第二に、カフカの文学は、古典主義またはロマン主義のいう意味での象徴性を含んでいるものでもない。つまり、ゲーテがいったように特殊のなかに普遍を表わしているものでもなければ、またノヴァーリスなどのロマン派文学のように、自然が精神と化し、精神が自然と化すというふうに無限に高まっていく過程を表わしているものでもない。描かれているさまざまなできごとの意味のつながりが否定され、ついには現象そのものが疑われているのである。こうして、カフカにおいては、現象界も芸術作品の意味構造も破壊されているように見えるため、読者は異様な感じと困惑した感じとを抱かないではいられない。過去の芸術においても、グロテスク、諷刺、ヴィジョン、夢の文学などのように、表われる事象やイメージを破壊するとか、それを変形する(デフォルメ)ということはあった。そして、こうしたゆがみに出会うと、読者ははじめは違和感や嫌悪感をひき起こすことはある。しかし、そうしたグロテスクや諷刺やヴィジョンの意味をひとたびつかみさえすれば、そうした違和感や嫌悪感は快感や驚きや讃嘆へと変っていく。しかし、カフカにおいては、そうした意味はついにとらえられずに終わるため、迷路のような無意味さのなかにまきこまれたという麻痺感に襲われてしまう。
 それでは、カフカの文学をどういうものとして理解すべきであろうか。カフカの形象の世界は、いわば人間存在そのものを表わす詩的な象形文字なのである。一定の世界観的、神学的、倫理的、社会的、政治的なさまざまな理念を感覚的な事象とか行為とかのうちに具体化し、それらの理念に詩的な形態を与えようとするものではない。また、それとは反対に、われわれがすでによく知っている空間・時間的な現実、あるいは精神的な現実を、できるだけいきいきとほんものらしく描写し、そうした現実の意味を啓示したり、解釈したりしようというのではない。むしろ、希望と絶望、真実と虚偽、罪と無罪、自由と束縛、存在と非在、信仰と懐疑、生と死、知と無知、現世の生活と来世の生活、といったようなさまざまな対立の不断の緊張のうちに置かれている人間存在そのものが、イメージと精神的な表現とのうちに形態化されているのであり、もしそうしたものが矛盾にみちた緊張、人間的なさまざまな対立の同時的な並存を忠実かつ真実に反映されるべきものであるならば、どうしても逆説的に形態化されなければならないのである。こうして、カフカの文学は、一定の理念とか一定の問題とかを一定の現象のうちに形態化したり、表現したり、解決したりしたものではなく、表現形式そのものが意味を担うものとなっているのであり、表徴となっている。このことから、カフカの小説が無限につづき、完結も完成もほんとうの終末も知らないという事実も理解できるだろう。というのは、ここで問題となっているのは、個々の人間の一定の問題を一定のやりかたで形態化し、結論へもっていくことではなく、人間存在の模型をつくり出すということだからである。そうした人間存在の模型というものは、その本質からいって完結されえないものとならないわけにはいかない。カフカ文学のこうした断片的・非完結的な性格から、同時にまた、どんな形象もどんな筋の展開もどんな思想も、それ自体のために描かれるのではなく、ただ機能的な意味をもつものにすぎない、という結果が出てくる。それは、象徴として描くという理論に従った過去の文学の表現における場合よりももっと絶対的な意味でそうなのである。こうした絶対的な機能性というものをもつカフカの文学は、一定の歴史的、イデオロギー的、あるいは心理的な内容をもつものとして読むべきではなく、人間存在の模型として、形式そのものの面から理解されなければならない。以上がエメリヒの説くところである。こうした態度で実際に個々の作品に向かうときどういうことになるか、というのはむずかしい問題だが、カフカの諸作品をなんらかの意味づけによって理解しようとするときには、そうした試みは挫折しないではいない。エメリヒの見解は深い示唆《しさ》を含むものである。そして、さまざまな思想的、宗教的なカフカ解釈が一応出そろった今日、カフカ文学を文学の問題として考えようとするすこぶる適切な再反省として受け取ることができるように思われる。しばしばいわれるカフカのいわゆる「寓話的方法」ということは、むしろこのエメリヒの説のように解すべきものであろう。
 次にウィリー・ハースがその自伝的回想『文学的世界』において、かなり断定的なカフカ観を表明しているのも見逃がすことはできない。ハースは一八九一年にプラークに生まれ、年上の友人ブロートを通じてカフカを個人的に知っていた。本カフカ集の作家論の筆者であり、この短いカフカ論は彼の『時代のさまざまな形姿』(一九三〇)という評論集に収められたものであるが、今日でもカフカの作品の最良の解説の一つに数えられている。そして、カフカと恋愛関係があったミレナ・イェセンスカから彼女に宛てたカフカの手紙を譲られ、第二次大戦後にカフカ全集の一巻として収めるために編集したのは彼である。ハースはいう。カフカだけが、二、三の断片的ではあるが壮大不滅の画像のなかで、とくに『審判』と『城』とのなかで、自分たちの青春の世界を集約し、組み立てた。これらの作品を読んだときに、自分の青春のまったく慣れ親んでいたパノラマを読むような気持に襲われた。そのなかでは、どんな町の隠れた片隅、町角、どんな埃っぽい廊下、どんなみだらさ、どんな隠微な暗示でも、すぐ自分にはそれとわかるほどだ。だから自分には、カフカの作品について書かれた実存主義的なのやら非実存主義的なのやら無数のエッセイの一つとして理解できないほどである。カフカの世界的名声というものも、自分にとっては不本意ながら一種の滑稽感を呼びさまさないではいない。プラークに生まれなかったような、そして一八九〇年か一八八〇年ごろに生まれなかったような人が、カフカを理解できるとはとうてい思えない。カフカの奇妙に無口で寓意的=現実的な洞察力のうちには、ひどく暗示的な地方的前景の世界、つまり彼の二大長編『審判』と『城』との環境というものを現実に知らない人には、ただこの地方的な小さな世界のうちに、そしてそのような小さな世界によって存在しているまったく濃密な形而上的な類推というものもほんとうにはわからない、というところがある。そのためにきわめてばかばかしい誤解がこれまでに生まれたし、今でも生まれているのである。カフカは閉鎖的なオーストリア的=ユダヤ的なプラークの秘密であるように思われる。それを解く鍵《かぎ》はただ自分たちだけがもっているのだ。カフカの「世界的名声」というひねくれた誤解の累積がついに減っていって、自分たちが彼という友人を取りもどすことができたならば、それは自分にとって最大のよろこびである。カフカは、ほんとうをいうと、自分たちが一九一〇年ごろにすでに知っており、しばしばいく晩でも議論して考えていたような問題(神の近づきがたさとか原罪とかいう問題)だけを書いたのである。彼の偉大な業績は、それを天才的な象徴によって形象化することができたという点にある。だが、それ以上に、いかなる楽観的な幻影によっても眼をくらまされるということがなかった点にある。おそらくは、彼があんなにも早く死んでしまったことは、幸いであった。もし彼がもっと長く生きていたならば、ブロートが想像しているようにおそらくは実際に熱心なシオニズムの信奉者、いわゆる「みごとな新世界」の忠誠な国民となっただろう。つまり、実際にあったままの彼よりもずっと積極的な人間になったことだろう。もしそうなっていたら、どんな思想にも影響されることのなかった彼の特殊な天才は悲しいことに発揮されなかっただろう。しかし、カフカはあるがままのカフカで終った。だから自分たちは、彼の世界的名声はまもなく終わるものと予言する。原子力に脅やかされている今日の人類に対して彼がおそらく与えることができるかもしれないものといえば、ただ彼の晩年の短いいくつかの物語がもつすばらしい滑稽味をおびたユーモアだけだろう。しかし、彼のこのにがい笑いさえも人びとはまもなく信じなくなるだろう。
 以上のようなハースの所説および予言は、すこぶる独断的なものであり、またこうしたカフカ観をもつにいたったについては、親友であった作家フランツ・ウェルフェルに対するハースの傾倒が少なからぬ影を投じているように思われるのであるが、また一面に聞くべきものをもっている。カフカの文学は素材的に当時のプラークの空気を反映しているものであり、また個人的な体験をさまざまな形で取り入れている場合がすこぶる多い。そのために、カフカの諸作品に自伝的な要素をあとづけようとする強引な説さえもあるほどである。ところで、若い評論家・作家であるワルター・イェンスは、ある短い文章のなかでハースの右のような見解に賛成し、カフカの文学を、カミュがアルジェリアの郷土文学であるような意味で郷土文学であるといっている。いずれにせよ、カフカの文学から壮大な思想体系を導き出そうとした従来のカフカ観から、もう一度彼の作品をこまかに味わおうとする一つの気運がかなり強く動き出していることの証左と考えられるのである。カフカはプラークの出身であるが、多少の旅行を除いて、ついにプラークの世界から出ることはなかった。その点、同じプラークの出身であるリルケやウェルフェルとはまったくちがっている。われわれには理解できないと突き放されては身もふたもないが、カフカの文学を性急に解釈するより前に、われわれもまた彼の作品にまず虚心にふれていくことが大切であろう。
 むろん、現代小説の発展の上でカフカが果たした役割の意味は失われないだろう。第二次大戦後、ドイツ現代文学におけるもっとも重要な作家の一人として評価されるようになったヘルマン・ブロッホは、ジェームス・ジョイスの方法を生涯の理想として作品を書いたが、彼は次のようにいっている。ジョイスの『ユリシーズ』の仕事は、現代小説の特質である神話を形成しようとする意図の実現である。しかし、ジョイスの描いた人物たちは神話的人間像とはなることができなかった。なぜなら、神話というものは現代にはありえないからである。神話は、人間を脅やかし破滅させる根源力を描くものであり、そうした力を象徴するさまざまの形姿に対して、それに劣らぬ大きなプロメテウス的な英雄の象徴像を対置する。ところが、現代においてはそうした人間を脅やかす力はもはや根源的な自然ではなく、ただ文明によって飼いならされた自然があるだけである。そこで現代に可能なものは、「反神話」と呼ぶべきものであろう。現代のこうした極度の絶望状態を表現しえたのは、ジョイスではなくて、カフカである。彼こそは、そうした絶望状態そのものの象徴化を行うことのできる例外的な力をもつ作家であった。ゾラの「ルゴン=マッカール叢書」の仕事以来、現代小説は神話になろうと努めてきた。しかし、どんな芸術的な難解な方法も手法もそれには役立たなかった。むしろそのためにはある真率さというものが必要なのであろう。そうした真率さをつくり出すことができたのはただカフカだけである。人は自分がジョイスのあとを追っていると思っている。たしかに自分は理論的にはジョイスとつながりがあったからである。しかし、もし自分にカフカほど大きな詩的な力があったならば、自分はおそらくこのきわめて非ジョイス的なカフカの方向へ駆り立てられていったことだろう。だが、自分はそのような不遜《ふそん》なことはしない。ただ一つの世代には二人のカフカはいないのだ、といっている。そして、カフカの方法についてこう述べている。カフカは一つの新しい神話を実現した作家である。実存主義者の作品がじつは彼らの哲学的理論を例証し、具体化しようとする寓話や伝説のようなものであり、その意味では伝統的な文学の領域にとどまっているのに対して、カフカの目標はまったく反対の方向、すなわち抽象というものにあり、具体化というものにはない。カフカはこうした「非理論的抽象」というものに成功した稀有《けう》な作家である、というのである。カフカについていわれる「抽象小説」という言葉は、こうした意味のものとして理解すべきものである。
 しかし、カフカの抽象という作業は、けっして現実的なものを離れることはなかった。カフカは「ありふれたものそのものが、すでに一つの奇蹟なのだ! ぼくはそれをただ書きとめるだけだ。ただ、ぼくがちょうど薄暗がりの舞台の上の照明のように、事物を少しばかり照らし出しているということはありうることだ」といっている。その独自な照射力こそカフカの手法であった、といってよいだろう。ドストエフスキーは『作家の日記』のなかでいっている。「最大の奇蹟はしばしば、現実のうちで起こることである。われわれは現実をいつでもただ、われわれが見たいと思うようにだけ、われわれが自分で先入見をもって考えていたようにだけ見ようとする。ところが、次に突然、現実をもっと正確に調べ、眼に見えるもののなかに、われわれが見たいと思っているものではなく、ほんとうにあるがままのものを見出すとき、われわれはそれをすぐさま奇蹟だと考える……」といっている。こうした現実の透視力こそ偉大な作家たちの仕事にほかなるまい。カフカが書くことを「祈りの形式」と呼んでいたことは、有名である。彼はこうして謙虚な仕事をつづけ、わずかな作品だけを残し、巨大なトルゾーを葬ろうという決意で死んでいったのである。彼の仕事が人間の絶望を歌ったのであれ、その救済を求めたのであれ、われわれは彼によって現実の見かたを、現代の人間的状況に対応するような現実の見かたを教えられるであろう。多くのカフカ解釈者たちが好んで引くカフカの言葉がある。「何びとも、いちばん深い地獄のなかにある人びとほどに純粋に歌う者はいない。われわれが天使たちの歌と考えているものは、そうした人びとの歌なのだ」
 個々の作品については、ハースの作家論が短いながら洞察に富む解釈を下しているのを参考としていただきたい。いずれも三十年も前に書かれたものとは考えられないような一つの適切な解説となっているように思われる。本集はいわばハースの意図そのままで編集されたようなものである。ハースの作家論でふれられている作品はすべてここに収められている。筆者としては『支那の長城が築かれたとき』のような断片を収められなかったのがやや残念であるが、この「短編集」はいずれもカフカが生前に発表したものだけに限られており、その意味ではカフカ自身の遺志の範囲に含まれる作品である。カフカの短編は凝集力をもち、たしかに完結性をもつものと考えてよいであろう。この分野における彼の仕事は、人間の生の断面をとらえ、人間存在の個々の問題を扱っていると見ることもできる。長編小説はいうまでもなく生の全体をとらえようとするものである。その長編が非完結的な性格に終ったことについては、最近ある評者(シュトレルカ)が、注目すべき見解を述べている。カフカの小説の非完結性は、エメリヒのいうような意味によってばかりでなく、一つの現象を反対のものによっても述べるということを極限まで実行している彼の方法からきている。どんな叙述の可能性についても、無数のちがった、しばしば矛盾するような可能性を対置させるのが彼の方法である。真実の全体をとらえるためにこうした方法を取っていくわけであるが、全体的な人間存在の現象はあまりにも多様な姿をおび、錯雑しているので、さまざまに受け取れるような比喩的な形象を極度に抽象化していってさえも、あらゆる可能性を包括するような完全な全体像を、カフカが脳裡に思い浮かべているとおりに表現するまでには到達することができなかったのだ、というのである。なお、これと関連して、カフカが長編のなかで長々と書いている議論の奇妙な展開というものも理解すべきであろう。それらはいかに退屈に見えようとも、カフカの弁証法ともいうべき重要な特質を示す部分と見なければならない。『審判』のなかの弁護士や画家の叙述、『城』のなかのバルナバスの家でのオルガの叙述あるいは秘書ビュルゲルの叙述といった個所は、そのもっともいちじるしい例と考えられる。
 以下、参考までに若干のノートをつけておく。
『審判』は、一九一四年秋に着手され、その翌年にもつづけられた。そのうちの「掟の前で」は一四年十二月十三日に書かれた。なおこの部分は、短編集『田舎医師』に収められて生前に発表された。二、三の言葉のちがいがあるだけである。ブロートはこの作品の原稿を二〇年六月に入手し、すぐ整理したという。少し前に、ベルギーのガン大学のユイテルスプロート教授は、この作品の章の配列を改めるべきことを提案してカフカ研究に大きな話題を投じた。この「新配列」なるものはくわしく紹介するいとまはないが、その結論だけを現行の章の順序番号で置き変えると、1・4・2・3・5・6・9・7・8・10[#「10」は縦中横]という順序となり、そのあいだに残されている小断片をはさむというのである。ブロートはむろんはげしく反論して、原稿の写真版を示して論駁している。このユイテルスプロートの論拠は、大ざっぱにいえば作中の文句をたよりに時間的進行に従ってつじつまを合わせようとするもので、それによると彼自身の配列でも矛盾が起こる。さらに作品解釈の上でも重大な欠陥が別な研究者によって指摘された。したがって大部分はくつがえされてしまった。ただ、この作品の時間的順序はこまかな点でおかしなところがあり、それはこの作品の未完であったために起ったものであると解すべきである。『審判』という標題が邦訳の定訳となっているが、原題は「訴訟」という意味である。しかし、この作品の標題として内容的にきわめて適切と思われる。この標題をつけたのは、戦前の本野享一の翻訳である。ただし、短編『判決』とこの『審判』という標題とは、今日でもまだ混同されている場合があるので注意していただきたい。作中のビュルストナー嬢というのは、一九一四年カフカが出会い、二度婚約し、二度とも解消したF・B嬢の面影をとどめるものといわれている。
『城』は、一九二一年、ことに二二年に書かれた。つまりミレナという女性との危機的な関係のうちに書かれた作品で、ミレナは作中のフリーダ、クラムはその夫に反映しているといわれている。ハースがいっているように舞台はツューラウという村を素材としたらしいが、そこでカフカは一九一八年の滞在中にキエルケゴール研究を始めた。作中のアマーリアとソルティーニとの関係にキエルケゴールの影響を見ようとする説もある。『日記』の一九一四年六月十一日の項に「村での誘惑」という断片が書かれているが、これは『城』とある類似をもっている。『審判』にしろ『城』にしろ、カフカは突発的な創作を行なったのではなく、テーマを長くあたためていたのだ、という想像も成り立ちうるように思われる。
「短編集」に移ると、『変身』は一九一二年に書かれた。その作品についてのバイスナー教授の指摘は興味深い。一九一六年に出たこの作品のカバーには、オトマル・シュタルケの絵が描かれている。これはおそらく作者の同意なしで描かれたものではないだろう。きわめてありそうに思えることは、カフカ自身の協力あるいは希望によって行われたということである。その絵は、寝巻を着てスリッパをはいた一人の男が、絶望して両手で顔をおおっている姿を示している。その姿恰好からいって、これはグレゴールの父親ではなくて、グレゴール自身である。つまり、作品のなかではグレゴールは最初から大きな毒虫に変身しているのであるが、この暗示的な絵のなかでは人間として描かれているわけである。その事実をどう受け取るにせよ、この作品を考える上の重要な手がかりであろう。虫への変身という変った思いつきというのではなく、そこには作者の人間的境涯を見つめる凝視が感じられるはずである。
『流刑地で』は一九一四年十月に書かれ、一九年に単行本として出版された。エメリヒはおそらく大戦勃発によって受けた印象の下で書かれたものと推定している。カフカ自身が出版者への手紙のなかで、この作品に関して時代転換の問題を意識していたことをもらしているからである。エメリヒはこの短編を、古い掟と新しい掟との対立として解釈している。すなわち、古い秩序は救済(受刑者の苦しみによる認識ということが描かれている)のために人間を犠牲にし、新しい「人間的な」秩序は人間のために救済を犠牲にする、と考えられているというのである。なお、この作品は期せずしてナチスの強制収容所を予言したものであると受け取るような考えかたがあるが、そういう解釈はいきすぎといわなければならないだろう。
『火夫』は長編『アメリカ』の序章である。『アメリカ』は一九一二年から執筆された。この『アメリカ』という作品は、カフカの日記中の記述によって、今日では研究者たちのあいだで『失踪者』と呼ばれるのが通例となっている。たしかにこの作品は未完成の度合いが大きく、前述のユイテルスプロートのごときは、この作品が『審判』や『城』の終末と同じように主人公の死で終るべきものであったと断定している。普通、他の二長編に比して明るい諧謔味にあふれた作品と考えられているのとはちがった見解である。カフカは、この作品がディケンズの作風にならったものであることを日記のなかにしるしている。つまり『判決』以後の作風とはあるちがいがあることが感じられるであろう。そういう意味からも、あえて収録した。
 この『火夫』は一三年に単独で出版され、一五年にフォンターネ賞というかなり権威ある文学賞を受けた。一四年に、今日では現代ドイツ文学の大作家といわれているローベルト・ムージルが短い書評でこの作品を取り上げて、その意図された素朴さというものを論じ、少年の根源的な善意への衝動というものを描きえている、といっている。そして、このなかの女中の誘惑という短いエピソードに注目して「きわめて意識的な芸術家」を感じ取っている。なお、作中のカルル少年の伯父の姿は、カフカ自身の母方の伯父でスペインで成功した人物の面影を写しているといわれている。
『判決』は一九一二年九月二十二日から二十三日の夜にかけて書かれ、一六年に出版された。この作品は、カフカの方法上の新しい転機を画した境界石と考えられている。カフカは、これを書いた年の八月にF・B嬢と出会った。父との関係も年譜の冒頭にふれてあるように微妙なものであった。したがって、かなりな程度まで身辺の事情を反映しているものと見てよいであろう。この短編には『死刑宣告』という邦訳名も行われている。カフカはヤーヌフとの対話のなかで、この作品を「一夜の亡霊」と呼んだ。だが、あなたはそれを書いたではないか、という反論に対して、「それはただ確認の行為であり、それによって亡霊を防ぐわけです」と答えた。彼が文学作品に一種の浄化力を信じていたと受け取ってよいかもしれない言葉である。
『皇帝の使者』および『家長の心配』は、短編集『田舎医師』(一九一九)に収められたものである。この短編集には十四編の比較的短い作品が収められているが、その大部分は一六年から一七年にかけて書かれた。『皇帝の使者』は断片『支那の長城が築かれたとき』の一節として含まれているものである。けっしてとどかない皇帝の伝言、それを空しく待ちもうけている臣下、この両者の関係はカフカの宗教観を考える上の絶好な手がかりとして好んで引用されるものである。
 この二小品はいかにもカフカらしい寓話であるが、前に述べたようにエメリヒは、カフカのいわゆる寓話は比喩とか象徴とかいうものとして受け取ることはできない、と主張している。エメリヒの考えかたが実際の作品解釈をどういうふうに行うのかというもっともわかりやすい例は、この『家長の心配』の解釈法に見られるので、一例として大体を見よう。エメリヒによると、冒頭に出てくるオドラデク(Odradek)という言葉からして、人間の言葉らしく見えるけれども、言葉としての意味をもたないものである。けれどもカフカは皮肉な、あるいはユーモラスな手を巧妙に使っている。西スラヴ語には odraditi という動詞があり、それは「人に忠告して何かをやめさせる」という意味である。これは語源的にいうとドイツ語の Rat(忠告)からきている。語尾の ek というのは縮小名詞の接尾語で、つまり「小さな……もの」を意味する。おそらくカフカの頭のなかではほかの言葉の響き、たとえばチェコ語の radost(よろこび)ないしは rad(「人好きのする」というような意味の形容詞)、さらにドイツ語の Rad(「車」という意味で、この奇妙な品物の形に近いはずである)が同時に考えられていたのかもしれない。しかし、「忠告してやめさせる小さなもの」という初めの意味が中心となっているはずである。すなわち、この品物の名前そのものが、どんな限定された意味も抛棄《ほうき》するようにすすめているのである。こうしてカフカはこの作品において謎をかけ、同時に謎をといてみせているわけである。その形状をくわしく読んでいくと、ちょうどオドラデクという言葉のようにさまざまな要素がまじっている。いろいろな矛盾する要素が一つになって、意味がないように見えながら、全体としてまとまりをもっている。つかまえることができないが、一つの全体、わかちがたく完結したものなのである。そして、これがこれからどうなるのか、と考えてみても、わからない。つまり、このオドラデクは生と思考との進行過程には従わない。死滅することなくいっさいから離れており、それゆえ一定の住居をもたない。そこで、家長の心配ないし愁《うれ》い、つまり自分の地上の家に対する責任というものを課せられている人間の不安な気持というものは、このオドラデクのうちにあらゆる地上的な存在の限定というものを見せつけられ、どんな人間的な意味づけによってもとらえられないところの自分よりもあとに生き残るという「まとまったもの」と向かい合い、それによって自分の人間的な目標や目的というものが無益で意味がないということを振り返って思わなければならなくなる、というところにあるのである。
 こうしてこのオドラデクのうちにはカフカの世界像が極限にまで表現されている。もの[#「もの」に傍点]であってもの[#「もの」に傍点]ではなく、人間であって人間ではない。そして、ただ精神の領域と物質の領域とを離れることによってのみ、現実にあるまとまったものとなることができるのである。この存在のもの[#「もの」に傍点]としての性格はもはやはっきりした意味をもつ精神的性格を表わす象徴ではない。この存在が語る言葉はもはやもの[#「もの」に傍点]を解釈するのでもない。なるほど地上的な存在としてとどまっていて、言葉の諸要素、物質と精神との諸要素を維持してはいる。しかし、それはいっさいの定義を止揚しているのである。そして、絶対的な自由のなかに住んでいる。むろんそれは、生命を犠牲にし、いっさいのはっきりした志向というものを犠牲にして到達できることである。そこで、いかにも古びた無用の投げ捨てられたものというような外見を与えられている。生の瓦礫《がれき》のうちからのみ自由が目ざめ、そうした瓦礫のうちにおいてのみ人間は生きることができるのだ、とカフカは日記のなかに書いている。
 そして、このような自由からまたオドラデクの「笑い」が響いてくる。それは別世界から響いてくるような笑いであり、若いカフカがある手紙のなかで書いたように、いわば「月」からの笑いなのである。カフカのこのような笑いというものを表わすものとしては、よくいわれているフモール(ヒューモア)という言葉は適切とはいえない。フモールというのは、あきらめの微笑のうちに与えられたものを是認し、その超えられない限界と対照とを是認することである。ところがオドラデクの笑いは「肺なしで出せるように」響き、いっさいを拒否するものであり、カフカがいっているように「生きることは不可能だということの証明」を面白がっているのである。こうして生と死、喜劇と悲劇との境界はもはやなくなっている。カフカのいわゆるフモールにおいては、人は笑うべきか、まじめでいるべきか、わからない。というのは、このいわゆるフモールなるものは、厳粛さと朗らかさとがまじったという意味での喜悲劇などという呼びかたはできないものなのである。エメリヒの解釈はまだまだつづくが、以上でオドラデクなる謎めいた存在をどうとらえようとしているかはわかるであろう。
『最初の苦悩』および『断食芸人』は、カフカの死の直後に出版された短編集『断食芸人』(一九二四)に収められている。これは四編の物語を集め、一九二一年から死の直前までのあいだに書かれた作品集である。『断食芸人』については芸術家の運命を描いたものと解する解釈もある。カフカ晩年のにがく暗い笑いの響く両作である。
 解説の不十分なところは、ハースの作家論、また年譜によって補っていただきたい、年譜は、ワーゲンバッハの最近の研究(一九一二年までの伝記)、ブロートの各著、カフカ自身の日記・書簡などを材料とした。大体のところはわかっても、はっきり時期をさだめがたい事実は残念ながら省いた。たとえばカフカはトルストイ、ドストエフスキーを読んで深い感銘を受けている。大学卒業前後に読み、ドストエフスキーはF・B嬢との恋愛時代にも読んでいるが、編者には今のところ何年とはっきり断定できない。年譜の記述に混乱しているところもあろうが、これを一つの手がかりとしていただければ幸いである。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
※この作品で触れられている「カフカ集の『変身』」は、青空文庫で「変身」(新字新仮名)として公開されています。
入力:kompass
校正:米田
2011年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

原田義人

火夫 DER HEIZER フランツ・カフカ Franz Kafka   —–原田義人訳

 十六歳のカルル・ロスマンは、ある女中に誘惑され、その女とのあいだに子供ができたというので、貧しい両親によってアメリカへやられたのだが、彼がすでに速度を下げた船でニューヨーク港へ入っていったとき、ずっと前から見えていた自由の女神の像が、まるで突然強まった陽の光のなかにあるように見えた。剣をもった女神の腕がまるでつい今振り上げたばかりのようにそびえ、その姿のまわりにはただようような風が吹いていた。
「あんなに高いぞ!」と、彼は自分に言い、まるで船を去ることを考えないような様子で、彼のそばを通り過ぎていく荷物運搬人たちがいよいよ数を増していくのに押されて、だんだんと舷側の手すりまでいってしまった。
 航海中に一時的に知合いになった一人の若い男が、通りすがりにいった。
「ほう、まだ降りる気がないのかい?」
「もう準備はすんでいますよ」と、その男に笑いかけながらカルルはいって、自分がたくましい青年なものだから、自慢げにトランクを肩に担いでみせた。しかし、ステッキを少し振りながらもうほかの人びとと去っていくその男のほうを見ていたとき、自分の雨傘を下の船室に忘れてきたことに気づいて驚いた。彼はあまりありがたそうには見えない一人の知人に、ちょっとトランクの番をして下さい、と頼んで、帰りに道をまちがえないようにあたりの様子を見廻してから、急いで立ち去った。下へ降りていって、近道になるはずだった一つの通路がはじめて遮断《しゃだん》されているのを発見して、困ったことになったぞ、と思った。この遮断はおそらく船客全員を下船させることと関係があるらしかった。そこで、あとからあとから曲りくねった廊下を通り、書きもの机が一つだけぽつりと置いてある人のいない部屋を一つ通って、つぎつぎにつづく階段を骨折って探していたが、この道はただ一、二度だけ、それもいつも大ぜいの仲間と歩いただけだったので、ほんとうにすっかり道に迷ってしまった。途方にくれてしまい、だれにも会わないし、ただたえず頭の上に千人にも及ぶたくさんの人びとの足音が聞こえ、遠くのほうからすでに停止した機関の最後の音がまるで息のように聞こえてくるだけなので、よく考えてもみないで、うろつき廻ったあげくにいきどまりになった任意の小さなドアをノックし始めた。
「開いているよ」と、なかから叫ぶ声がした。そこでカルルはほんとうにほっと息をつきながらドアを開けた。
「なぜそんなに気がちがったみたいにドアを打つんだね」と、一人の大男が、カルルのほうをほとんど見ないでたずねた。どこかの天窓からは、船の上のほうでとっくに使い古されたような陰気な光がこのみすぼらしい船室へ射しこんでいた。この船室にはベッドと棚と椅子とその大男とが、まるで貯蔵品のようにぴったり並んで立っていた。
「道に迷ってしまったんです」と、カルルはいった。「航海中は全然気がつかなかったけれど、恐ろしく大きい船ですね」
「そうさ。あんたのいうとおりだ」と、男はいくらか誇らしげにいいながらも、小さなトランクの錠前を扱うことをやめなかった。両手でくり返しその錠前を押えては、錠のぱちりと下りる音をじっと聞いているのだ。
「まあ、入んなさい!」と、男はさらにいった。「まさか外に立っているわけにもいくまいからね」
「おじゃまじゃないですか」と、カルルはたずねた。
「ああ、どうしてじゃまになんかなるものかね」
「あんたはドイツ人ですか」と、カルルはたしかめようとした。ことにアイルランド人によってアメリカへ着きたての者たちがこうむるおそれのある危険について、いろいろ聞かされていたからだった。
「そうだよ、そうだよ」と、男はいった。
 カルルはまだためらっていた。すると男は不意にドアの取手をつかみ、ドアを素早く閉めるとともにカルルを引きこんでしまった。
「通路からのぞかれるのが、我慢できなくてね」と、男はまたトランクの仕事にかかりながら、いった。「だれでもあそこを通っては、のぞきこんでいきやがる。それに我慢できる者なんてほとんどいないだろうさ」
「でも通路には全然人がいませんよ」と、カルルはいった。ベッドの柱に押しつけられて窮屈そうに立っている。
「うん、今のところはね」と、男がいった。
「だが、その今が問題じゃないか。この男とは話がむずかしいぞ」と、カルルはひそかに思った。
「まあ、ベッドの上に横になんなさい。そこは場所があるからね」と、男はいった。
 カルルはできるだけうまくはって入り、はじめに飛びこんでやろうとして失敗した試みを大きな声で笑った。だが、ベッドに入るやいなや、叫んだ。
「しまった、ぼくはトランクのことをすっかり忘れていた!」
「どこに置いたのかね」
「上のデッキですよ。知っている人が番をしてくれています。ところでなんという名前の人だったかな?」そして、母親が旅行のために上着の裏につけてくれた隠しポケットから一枚の名刺を取り出した。「ブッターバウムだ。フランツ・ブッターバウムだ!」
「そのトランクはとても大切なもんですかい?」
「むろんですよ」
「それならなぜ知らない人にあずけたりなんかするのかね」
「下へ雨傘を忘れたんで取りにきたんですが、トランクをひきずって下りたくはなかったものだから。おまけに道に迷ってしまったんです」
「ひとりかね? つれはいなさらないのかね?」
「ええ、ひとりなんです」
「おそらくこの男を信用したほうがいいのだろう」と、こんな考えがカルルの頭をかすめた。「すぐにこれよりもいい友だちが見つかるものでもないし」
「で、トランクも失くしてしまったわけだね。雨傘のほうはわかんないがね」そして、男はまるでカルルのことが今ではただ一つの自分の関心事となったといわんばかりに、椅子に腰を下ろした。
「でも、トランクはまだ失くなったわけじゃないと思いますよ」
「そう思ううちがしあわせでさあ」と、男はいって、短くて濃い黒い髪の毛をごりごりかいた。「船では、港々でしきたりがちがうんでさあ。ハンブルクではあんたのブッターバウムはきっとトランクの番をしていただろうが、ここではきっとトランクも傘も両方ともあとかたもないだろうよ」
「それじゃあ、すぐ上へいかなくちゃならない」と、カルルはいって、どうやって出ていけるのか、とあたりを見廻した。
「まあ、ここにいなさるんだな」と、男はいって、片手で手荒なくらいに胸を突いてベッドへ押しもどした。
「どうしてです?」と、カルルは腹立たしげにたずねた。
「意味がないからさ」と、男はいった。「ちょっとしたら、わしも行くよ。そのときいっしょにいこう。トランクが盗まれていたら、どうしようもないし、その人が置きっ放しにしておいたなら、船がすっかり空っぽになれば、それだけ見つけやすいわけだ。傘だってそうさ」
「船の上のことはよく知っているんですか?」と、カルルは不信をこめてたずねた。船が空になったら自分の品物がいちばん見つけやすいだろう、というふだんならば納得のいく考えが、隠れた難点をもっているように思われた。
「だって、わしは火夫でさあ」と、男はいった。
「あんた、火夫さんですか!」と、まるでそのことがあらゆる期待を超《こ》えていたようにうれしそうに叫んで、肘《ひじ》をついてその男をもっと近くながめた。
「ぼくがスロワキア人といっしょにいた船室のすぐ前にのぞき窓がついていて、そこから機関室が見えましたよ」
「そうだ。わしはそこで働いていたんだ」と、火夫はいった。
「ぼくは前から機械のことに興味があったんです」と、カルルは一定の考えの筋道をたどりながらいった。「で、もしアメリカにこなければならなかったなら、きっと将来は技師になったことでしょう」
「いったい、なぜこなければならなくなったんだい?」
「いや、どうも!」と、カルルはいって、その話は手を振って拒んだ。そうしながら、告白しないことも大目に見てもらいたいというように、微笑して火夫の顔をじっと見た。
「何かわけがあるんだね」と、火夫はいったが、その言葉でその理由を話すようにと要求しているのか、それともそれを拒もうとしているのか、はっきりはわからなかった。
「今では火夫にだってなってもいいんです」と、カルルはいった。「両親にとっては、ぼくが何になったってどうでもいいんですから」
「わしの職があくよ」と、火夫はいって、それを十分に意識しながら両手をズボンのポケットに突っこみ、しわくちゃな、革のような、鉄色のズボンに包まれている脚をベッドの上に投げ出して、ながながとのばした。そこでカルルはもっと壁のほうによらなければならなかった。
「船をやめるんですか」
「そうだよ。わしらはきょう出発するんだ」
「いったい、なぜなんです? 気に入らないんですか?」
「そうだな、いろいろ事情があってね。気に入るとか入らんとかいうことでは、いつでもきまるもんじゃないさ。ともかく、あんたのいうことはもっともで、わしには気に入らなくもあるさ。あんたはきっと、火夫になることをまじめには考えてはいないんだ。そんなことならいくらでも手軽になれるだろうよ。だから、わしはきっぱりとやめろというね。ヨーロッパで学問するつもりだったのなら、なぜここでも学問しようと思わないんだね? アメリカの大学はヨーロッパのより比べものにならぬくらいいいんだぜ」
「そうかもしれません」と、カルルはいった。「でも、学問するための金がほとんどないんですよ。昼間はどこかの店で働き、夜は勉強して、ついにドクトルになり、たしか市長かなんかになった、っていうような話をだれかの本で読んだことがあるけれど、それには大変な忍耐が必要でしょうね? ぼくにはその忍耐が欠けているんじゃないか、と思うんですよ。その上、ぼくはそれほどいい生徒じゃありませんでした。学校をやめることも、ぼくには実際それほどつらくはなかったんです。それからここの学校はきっともっときびしいでしょうからね。英語はほとんどできないんです。およそここの人たちは外国人にひどく偏見をもっていると思いますね」
「あんたもそれをもう経験したんですかい? そうか、そりゃあいい。それならあんたはわしの相棒だ。いいかね、わしらはドイツ船に乗っているわけだ。ハンブルク=アメリカ航海の船だ。それなのになぜわしらはこの船でドイツ人ばかりじゃないのかね? なぜ機関長はルーマニア人なのかね。機関長はシューバルっていうんだ。こいつが信じられんことだ。このならず者がドイツ船でわしらドイツ人をしぼり上げているんだ。いったいあんたは――」ここで息切れがして、手をゆらゆらと振った。「わしが、文句のための文句をいっていると思うかね。あんたにはなんの力もないし、自分自身がすかんぴんの若者だということはわかっているさ。だが、これじゃあ、あんまりというもんだ!」そして、テーブルの上を拳《こぶし》で何度かたたき、たたきながらも眼を拳から離さないでいる。「わしはとてもたくさんの船で働いた」――そして彼は二十ばかりの名前を立てつづけにまるで一語のように並べた。カルルは頭がすっかり混乱してしまった。「それでずばぬけた働きぶりを見せて、ほめられた。船長たちの趣味に合った働き手だったんだ。一つの貿易帆船に二、三年もいたこともある」――それが彼の生涯の絶頂であるかのように、立ち上がった。「それがこのボロ船じゃあ、万事が規則ずくめでできているし、洒落気《しゃれけ》ひとつあるじゃない。この船じゃあ、わしはなんの役にも立たない。いつもあのシューバルのじゃまばかりして、なまけ者で通っている。海へおっぽり投げられたってしかたがない。給料はお情けでもらっている。こういうんだよ。わかるかね。わしにはわからんね」
「そんなことをいわれて黙っている手はありませんよ」と、カルルは興奮していった。彼は自分が船の不確かな床の上にいて、未知の大陸の岸にいるのだ、という感情をほとんど失くしてしまっていた。こうやって火夫のベッドの上にいて、そんなにも気がおけない思いがするのだった。「で、船長のところへいきましたか? 船長のところであんたの権利を主張したんですか」
「まあ、出ていってくれ。ここから出ていってもらいたいな。ここにいてもらいたくないね。わしのいうことも聞いていないで、わしに忠告しようっていうんだから。どうしてわしが船長のところへいかなきゃならないっていうんだい?」そういうと、疲れたようにまた腰を下ろし、両手のなかに顔を隠した。
「この男にはこれよりいい忠告はしてやれないのだ」と、カルルは自分に言い聞かせた。そして、ばかばかしいと思われるような忠告をこんなところでやっていないで、むしろトランクを取りにいくべきだった、と思った。父親があのトランクを永久に譲ってくれたとき、「どのくらい長くこれを失《な》くさないでいるかな?」と、冗談にたずねたのだった。そして、この貴重なトランクはおそらくもうほんとうに失くなってしまったのだ。それでもただ一つよかったと思うことは、父親がいくら調べようと思ったところで、彼の現在の状態を知るわけにはいかないということだった。ただ、彼がこの船でニューヨークまできたということだけしか、船会社は父親に教えることができない。だが、トランクのなかの品物をほとんど使わなかったことが、カルルには残念だった。たとえばシャツを着換えることがずっと前に必要だっただろうに。つまり、当をえないところで余計な節約をしていたわけだ。今、これからの人生の門出にあたっては清潔な身なりで登場すべきところを、汚れたシャツを着た姿を見せなければならないのだ。そのほかの点では、トランクを失くしたことはそれほどまずいことではなかったろう。というのは、彼が身につけている服は、トランクのなかにあるのよりもいいのだ。トランクのなかのは、ほんとうはただ間に合せの服で、母親が出発のすぐ前につくろわなければならなかったものだ。今、思い出したのだが、トランクのなかにはヴェロナのサラミ・ソーセージが一本入っていた。これは、母親が特別の贈物としてトランクに入れてくれたものだが、ほんの少ししか食べられなかった。航海のあいだ、まったく食欲がなくて、三等船室で配給されるスープで彼には十分すぎるくらいだった。だが、あのソーセージはもっていたかった。そうすれば、あれをこの火夫にやることができたろう。というのは、こういう連中は何かちょっとしたものをつかませると、すぐ味方につけることができるのだ。そのことは父親から教えられていた。父親は葉巻をわけてやることによって、商売の上で自分とかかり合いのある下っぱの社員たちを手に入れていた。今、カルルが贈物にできるものとしてもっているのは、金だけだった。だが、たといトランクはおそらく失くしてしまうということになっても、金にだけはさしあたり手をつけたくなかった。ふたたび彼のもの思いはトランクにもどっていった。そして、もし今このトランクをあんなに容易にもち逃げされるくらいなら、なぜその同じトランクを航海のあいだあんなに注意深く気をつけていて、それを見張るためにほとんど夜も眠れないくらいだったのか、さっぱりわからなかった。彼は航海中の五晩の夜を思い出した。そのあいだじゅう、彼の左側の二人目に寝床をもっていた小柄なスロワキア人が自分のトランクを狙《ねら》っていると、たえず疑いをかけていたのだった。このスロワキア人はただ、カルルがついに弱ってしまってちょっとのあいだこっくりこっくり眠るのを待ち受けているのだった。昼間いつももてあそんだり練習したりしていた長いなわを使って、トランクを自分のところへたぐりよせようというわけだ。昼間はこのスロワキア人はひどく罪がないように見えるのだが、夜になるやいなや、ときどき寝床から起き上がって、悲しげな顔つきでトランクのほうを見るのだった。カルルはこうしたこといっさいをはっきりと見わけることができた。というのは、船内規則では禁止されているにもかかわらず、いつでもあちこちで渡航者としての不安から小さな蝋燭《ろうそく》をつけていて、移民案内社のわかりにくい案内をなんとか呑みこもうとしているのだった。こういう蝋燭が近くにあればカルルは少しはうとうとすることができたが、その火が遠くにあるとか、まっ暗だとかいうときには、眼を開けていなければならなかった。この努力が彼をほんとうに疲れさせてしまった。そして、今となってみると、こんな努力もおそらくまったく無用だったのだ。このトランクをもち逃げしたブッターバウムのやつ、いつかどこかで出会うようなことがあったら、ただではおかないぞ!
 ちょうどそのとき、その部屋の外の遠くのほうで、これまでの完全な静かさを破るように子供の足音のような小さくて短な音が鳴り響いた。その音は響きを強めながら近づいてきた。それは男の人たちの静かな行進だった。通路が狭いのだから当然な話だが、その人たちは一列になって歩いているらしかった。武器の鳴るようなかたかたいう音がした。ベッドのなかで、トランクとスロワキア人とについての心配から解放されて、すんでのことに眠りこもうとしていたカルルはびっくりして起き上がり、火夫をつついて彼の注意を向けようとした。というのは、行列の先頭がちょうどドアのところにまで達したらしかった。
「あれは船のバンドだよ」と、火夫はいった。「上のデッキで演奏を終えて、荷づくりにいくんだ。これで全部すんだと。これでもう出かけられる。さあ、こないか!」
 火夫はカルルの手をつかみ、最後の瞬間にベッドの上の壁から額ぶちに入ったままの聖母像を取り、それを胸のポケットに突っこんで、自分のトランクを手に取ると、カルルとともに急いで船室を出た。
「これからわしは事務室へいき、係の人たちにわしの考えをいおう。もうお客さんはいないから、遠慮していることはないんだ」
 このことを火夫はいろいろな言いかたでくり返し、歩きながら足で横に払って通路を横切っていくねずみを踏みつけようとした。ねずみはもう十分|間《ま》に合うところまで達していたのだが、ただもっと素早くその孔《あな》に飛びこんでいった。火夫はおよそ動作ののろい男だった。というのは、長い脚をもってはいるものの、その脚があんまり重すぎるのだ。
 二人は料理場の一画を通っていった。そこでは二、三人の汚ないエプロン姿の――彼女たちはわざと汁をかけたのだ――女の子たちが、大きなバケツのなかで食器を洗っていた。火夫はリーネとかいう女の子を呼んで、腕を女の腰へ廻し、色っぽくたえず男の腕に身体を押しつけてくるその女をつれて少しばかり歩いた。
「今、給料が出るぜ。いっしょに、こないかい?」と、火夫はいった。
「なぜあたしがいく必要があるのさ? それよりお金をこっちへもっておいでよ」と、女は答え、男の腕をするりと抜けて、逃げ去った。
「そのハンサムな子、どこから見つけてきたのさ?」と、女はきいたが、もう返事なんかしてもらおうと思っているのではなかった。仕事を中断していた女の子たちみんなの笑い声が聞こえてきた。
 二人は先へ進んで、一つのドアのところへきた。そのドアの上には小さな前びさしがついていて、そのひさしは小さい金ぬりの女神像の柱に支えられている。船の設備にしてはほんとうにぜいたくに見えた。カルルは、気づいたのだが、このあたりへ一度もきたことがなかった。おそらく航海中は一、二等の船客たちの専用の場所だったのだろう。ところが船の大掃除を前にした今では隔ての壁がみんな取り外されたのだ。事実、ここへくるまでに二、三人の男たちに出会ったが、みんな箒《ほうき》を肩に担いでいて、火夫に挨拶したのだった。カルルは船の設備がりっぱなのに驚いた。三等船室ではむろんそんなことはほとんどわからなかったのだ。通路に沿って電線が張られてあり、小さなベルの音がたえず聞こえた。
 火夫はうやうやしくドアをノックして、「入りたまえ」という声がしたとき、かまわずに入れと手でうながした。カルルも入ったが、ドアのそばに立ちどまっていた。部屋の三つの窓の前には海の波が見えた。その楽しそうな動きを見ていると、カルルの胸は高鳴った。まるで五日のあいだ海をたえず見ていたのではなかったようだった。大きな船がたがいに進路を交叉し、その重みが許すだけ打ちつける波に身をまかせていた。目を細くすると、これらの船がただその重みだけでゆれているように見える。マストには細いけれど長い旗が掲げられてあり、それらの旗は航海によってちぢんでしまっていたが、それでもときどきゆれ動いていた。おそらく軍艦からだろうが祝砲が聞こえてきた。あまり遠くないところを通り過ぎていくこうした軍艦の一隻の砲身が、その鋼鉄の被いの反射光で輝き、安全でなめらかだが水平とはいかない航行に愛撫されるように軽くゆらいでいた。小さな船やボートは、少なくともドアのところからは、遠くにしか見られなかったが、大きな船のあいだのぽっかりあいた水面に乗り入れていた。だが、そうしたすべての背後にニューヨークの町が立っており、その摩天楼の何十万という窓でカルルを見ていた。実際、この部屋にいると、自分がどこにいるのか、わかるというものだ。
 円テーブルに三人の人が坐っていた。一人は青い船員の制服を着た高級船員であり、ほかの二人は港務局の役人で、黒いアメリカの制服を着ていた。テーブルの上には、高く積み重ねられたさまざまな書類がのっていて、それらを高級船員がまず手にしたペンでざっとたどり、それから二人の役人に手渡すのだ。役人のほうは、あるいは読んだり、あるいは抜き書きしたり、あるいは書類鞄に入れる。そうでないときには、ほとんどたえず歯で小さい音を立てているほうの役人が、同僚に口授して何か調書に書き取らせている。
 窓ぎわの書きもの机には、背中をドアのほうに向けて、小柄な男が一人坐っている。この男は自分の前のどっしりした本棚のなかに頭の高さに並べられてある大きな二つ折り版の書類を扱っていた。その男のそばには、蓋を開けた、少なくともはじめ見ただけでは空《から》のように見える小型金庫が置かれていた。
 二番目の窓の前には何も置いてなく、いちばんながめがよかった。ところが、第三の窓の近くには二人の紳士が立って低い声で話していた。一人のほうは窓のそばによりかかっている。この人もやはり船員の制服を着ていて、短剣のつかをいじっていた。この人が話している相手の人は、窓のほうを向いて、ときどき身体を動かすと、相手の胸を飾っている勲章の列の一部分が見えるのだった。この人は私服を着て、細身の竹のステッキをもっていて、そのステッキは両手で腰のところにしっかり当てているため、やはり短剣のように突き出ていた。
 カルルは、こうしたすべてを見るだけのひまがなかった。というのは、すぐ給仕が彼ら二人のほうに近づいてきて、お前なんかここにくる人間じゃないんだというような目つきをして、いったいなんの用か、と火夫にたずねた。火夫は、たずねられたのと同じように低い声で、会計主任さんとお話ししたいのだ、と答えた。給仕は、自分としてはそんな願いはききかねるというふうに手を振って拒んだが、それでも爪先で歩いて、円テーブルを大廻りして避けて二つ折り版をもっている人のところへいった。この人は――はっきりと見えたのだが――給仕の言葉を聞いて身体を硬直させたが、ついに自分と話したいといっている男のほうを振り向いて、きびしく拒絶の意味をこめて、火夫に向かい、そしてまた念を押すため給仕に向っても、手を振って見せた。すると給仕は火夫のところへもどってきて、何かを打ち明けるような調子でいった。
「すぐ部屋から出ていきなさい!」
 この返事を聞いたあとで、火夫はカルルを見下ろした。まるで、この男こそ無言で自分の悩みを訴えるべき相手だといわんばかりの様子だった。カルルは前後の見さかいもなく出しゃばっていき、部屋を横切って足早に歩いていった。そのため高級船員の椅子をかすかにかすめるほどであった。給仕は彼をつかまえようとして両腕を拡げ、毒虫を追うように身体をかがめて走ったが、カルルのほうが先に会計主任の机に達した。そこでは主任は、給仕がこの男をつれ去るだろうと考えて、しっかりした態度を保っていた。
 むろんすぐに部屋全体が活気を帯びた。テーブルに坐っている高級船員は飛び上がった。港務局の二人の役人は、静かに、しかし注意深くながめている。給仕は、すでに偉い人たちが関心を示すようになったところでは自分の出る幕ではない、と思って、引き下がってしまった。ドアのそばの火夫は、自分の助けが必要となる瞬間を緊張して待ち構えている。会計主任はとうとう安楽椅子に坐ったまま大きく右旋回した。
 カルルは、これらの人びとの視線にさらされることをちっともためらわずに、例の隠しポケットをごそごそ探して、旅券を取り出した。そして、これ以上自己紹介するかわりに、その旅券を開いたまま机の上に置いた。会計主任はこんな旅券はどうでもいいと考えているらしかった。というのは、二本の指でそれをわきへどけたのだ。するとカルルは、まるでこの手続きが満足すべき結果で終ったとでもいうように、旅券をまたポケットにしまいこんだ。
「失礼ですが申し上げます」と、カルルは語り始めた。「ぼくの考えによるとあの火夫さんに不当な扱いが加えられたんです。この船であの人の上にいるのはシューバルとかいう人です。あの人自身は、すでにたくさんの船で(あの人はあなたにそれらの船の名前をみんな申し上げることができますが)完全に満足すべき勤めをしました。勤勉で、仕事のことを大切に考えています。たとえば貿易帆船ほどに勤めが法外にむずかしいわけでないこの船で、なぜあの人がどうもしっくりいかないのか、ほんとうにわかりません。だから、あの人の昇進を妨げ、あの人の真価がみとめられることをだめにしているのは、ただいわれのない悪口にすぎないのかもしれません。そうでなかったら、この人はかならずや真価をみとめられないでいるはずがないのです。ぼくはこの件についてただ一般的なことだけを申しました。あの人の特別な苦情についてはあの人からあなたに自分で申し上げることでしょう」
 カルルはこの演説でここにいるすべての人に呼びかけたのだった。事実、みんなも聞いていたし、会計主任が正しい人間だというのよりも、みんなのなかにだれか正しい人間が一人いるということのほうがいっそうありそうに思えるのだった。さらに、彼がこの火夫に出会ったのはほんのついさっきのことだ、ということは抜け目なくいわないでおいた。ともかく、もし彼が今いる場所からはじめて見た例の竹のステッキをもった紳士の赤ら顔に当惑させられなかったならば、もっとうまく話すことができただろう。
「その話は一語一語みんなほんとうです」と、まだだれもたずねないし、まだだれもおよそ彼のほうを見もしないのに、火夫はいった。火夫のこの早まりすぎた行動は、もし例の勲章をつけた紳士が(そのときカルルにわかったのだが、ともかくこの人が船長だった)火夫のいうことを聞こうという気にすでになったらしいのでなかったならば、大きな失策だったことだろう。つまり、その人は手をのばして、火夫に向って叫んだのだった。
「こっちにきたまえ!」
 その声は、一撃で話をつけようとして断固とした響きをもっていた。今はいっさいが火夫の態度にかかっていた。というのは、彼の件の正しさに関しては、カルルは少しも疑ってはいなかった。
 ありがたいことに、火夫がすでに世間をいろいろ渡ってきたことが、この機会に示された。非の打ちどころなく落ちついて、小さなトランクから最後の一つかみで一束の書類と一冊のメモ帳とを取り出し、それをもって当然のことのように会計主任をまったく無視して船長のところへ歩みより、窓わくの上に証明書類を拡げた。会計主任には、自分からそこへ出かけていくよりほかに方法がなかった。
「この男は有名な不平屋でして」と、会計主任は説明のためにいった。「機関室によりも会計にいることのほうが多いんです。この男はあのおとなしい人間のシューバルさえもすっかり絶望させてしまったのです。どうかお聞き下さい!」それから火夫のほうに向きなおっていった。
「君の厚かましさもほんとうに度を越しているよ。君はこれまでに何度、支払い部屋からほうり出されたんだ。君のようにまったく、完全に、例外なく不当な要求をやるなら、そんな扱いを受けるのがあたりまえさ。君は何度、そこから会計課へかけこんだのかね。シューバルが君の直接の上役なのだから、君は下役としてあの人とだけで話をつけるように、って何度おだやかに言い聞かされたのかね。それなのに今度は、船長さんがいられるとこんなところにまでやってきて、船長さんをわずらわすことを恥じないで、君のくだらない訴えの代弁者としてこんな子供みたいな人までつれてくることをちっともはばからないんだからね。こんな子供さんなんか、私はおよそこの船ではじめて見るんだがね!」
 カルルは、無理に自分を抑えて、飛び出すことはひかえていた。だが、すでに船長もそこへきていて、こういった。
「まあ、この男のいうことも一度聞いてやろうじゃないか。あのシューバルはどのみち、ゆくゆくは私に対してはあまりに自分勝手なことをやるようになるだろう。といっても、君の有利になるようにこんなことをいったつもりじゃないのだが」
 終りの言葉は火夫に向っていったのだ。彼がすぐ火夫のために尽力するわけにいかないのは当然すぎることだったが、いっさいは順調に進んでいるように見えた。火夫は説明を始め、最初からシューバルを「さん」づけで呼んで自分を抑えていた。会計主任のいなくなった机のところで、カルルはどんなによろこんでいたことだろう。彼はただなぐさみのために手紙|秤《ばかり》を何度も手で押えつけていた。――シューバルさんは不公平です! シューバルさんは外国人にえこひいきします! シューバルさんは火夫たちを機関室から出して便所掃除をさせました。これはけっして火夫のやるべき仕事じゃありません!――一度などは、シューバル氏の腕前さえもあやしいものだというようなことがいわれた。それはほんとうにもっているよりも、むしろ見かけだけのものだ、というのだ。ここのところで、カルルは力をこめて船長を見つめた。まるで自分が船長の同僚であるかのように親しげな調子であった。これもただ、火夫のいくらかまずい表現法によって船長が火夫にとって不利なような影響をこうむることを避けようとしたのだった。ともかく、いろいろの話からもほんとうのところは聞き取ることができなかった。そして、船長はまだ、今度は火夫の言い分を最後まで聞いてやろうという決意を眼に浮かべて、前を見ていたけれども、ほかの人びとはじりじりしてきた。そして、火夫の声はまもなく無制限に部屋を支配しなくなった。そのことはいろいろなことを心配させた。まず最初に、私服の紳士は竹のステッキを動かし始め、低くではあるが、はめこみの床をたたいている。ほかの人びとはむろんときどきそちらを見やった。港務局の役人たちは、急いでいるらしく、また書類を手に取って、まだいくらか気が散っているようではあるが書類を調べ始めた。高級船員は自分の机をまた身近かによせた。勝ち目があると信じている会計主任は、皮肉まじりに深い溜息をもらしてみせた。ただ給仕だけはみんなが襲われているむら気に取りつかれずにいるように見えた。そして、偉い人たちのあいだに置かれた哀れな男の苦しみに一部分同感して、カルルに向って真顔でうなずいて見せる。まるでそんな表情によって何かを説明しようとしているかのようだ。
 そうしているうちに、窓の前では港の風景がつぎつぎとくりひろげられた。一隻の平たい貨物船が、ころがり出さないように妙なふうに積み重ねられた樽《たる》の山をのせて、この船のそばを通り過ぎていった。そのためにこの部屋はほとんどまっ暗になってしまった。小さなモーターボートが、もしカルルにひまがあったらよく見ることができただろうが、舵のところにまっすぐに立った男の両手の動きに従いながら一直線に疾走していく。奇妙な形をした浮遊物がときどきじっとしてはいない水面からひとりでに浮かび上がっては、すぐまた波をかぶって、驚いている視線の前で沈んでしまう。遠洋航海の汽船のボートは、懸命に漕《こ》いでいる水夫たちによって進められていくが、船客でいっぱいだ。船客たちはボートのなかで、押しこめられたままになって、静かに、期待にみちて坐っているが、何人かは移り変っていく光景を見ようとして頭を廻さないではいられない。終わることのない動き、落ちつくことのない水によって途方にくれている人びとと彼らの仕事との上に移された落ちつきのない動揺だ!
 だが、いっさいは急ぐように、はっきりするように、くわしく述べるように、と警告しているのだ。ところが、火夫は何をやったのだろうか。なるほど汗を流して話してはいる。窓の上の書類はふるえる両手ではもうずっと前から支えていることができなくなっていた。四方八方からシューバルに関する不平が彼に流れてきている。そのどれもが彼の考えによれば、このシューバルを完全に葬り去るのに十分だ、というのだ。ところが、彼が船長に示すことができたのは、すべてのことをごちゃまぜにした悲しむべき混乱だけだった。竹のステッキをもった紳士は、さっきから天井に向ってそっとパイプをふかしている。港務局の二人の役人はすでに高級船員を自分たちの机につかまえ、相手をまた離しそうには見えない。会計主任は明らかにただ船長が落ちつき払っているために口をはさむことをひかえているのだ。給仕は気をつけの姿勢でいつでも火夫に関する船長の命令に従おうと待ち構えている。
 そこでカルルはもう何もしないままでいることができなかった。そこでゆっくりと船長たちのほうに歩いていき、歩きながらそれだけ素早く、どうやったらいちばんうまくこの一件に口を出していくことができるだろうか、と考えてみた。もうほんとうに潮時《しおどき》だった。もうほんの少したったら、彼らは二人でうまく事務室から飛び出すことができるのだ。船長はいい人らしいし、それにちょうど今、カルルにはそう思われたのだが、自分が公正な上役であることを示そうとする何か特別の理由があるのだ。だが結局のところ、船長は徹底的に弾《ひ》くことができる楽器ではないのだ。――そして火夫は、なるほど限りなく憤っている内心からではあるが、まさにそういうものとして船長を扱っているのだ。
 そこでカルルは火夫に向っていった。
「もっと簡単に話さなくちゃ。もっとはっきりわかるように。船長さんは、あんたがお話ししているようでは、もっともと思っては下さらないですよ。船長さんが機関士たちや伝令係たちの名前とか洗礼名とかまでご存じで、あなたがそんな名前を言いさえすれば、すぐにだれのことかおわかりになるものですかね。あんたの苦情を整理して、まずいちばん大切なのを申し上げ、ほかのは一段下のものとして申し上げるんですね。そうすればおそらく、たいていのことはただいうことももう必要じゃなくなるでしょう。あんたはぼくにはいつだってあんなにはっきりと話して聞かせたのに!」もしアメリカでトランクを盗むやつがいるなら、ときどきはうそをついてもいいわけだ、と彼は自分のうその弁解のために考えた。
 これが役に立ったならばいいのに! もう遅すぎたんじゃなかったか。火夫は知っているカルルの声を聞くと、なるほどすぐに話を中断はしたが、男としての名誉を傷つけられたこと、恐ろしいさまざまな思い出、現在の極端に苦しい立場、こういったことのために涙を流し、その涙にすっかり曇ってしまった彼の眼ではすでにカルルをうまく見わけることができなくなっていた。今になってからどうして――カルルは今黙っているこの男を前にして、無言のうちにこのことを見抜いていた――、今になってからどうして突然、彼の話しかたを変えることができよう。火夫にとっては、いうべきことはみんないってしまったのに、少しもそれをみとめてはもらえないように思えるし、また一面では、まだ何もいっていないのだが、さらにすべてのことを聞いてくれと今は求めることができないように思えてもいるのだ。そして、こうしたときに、さらに自分のただ一人の味方であるカルルが口を出してきて、自分は教訓を与えようとする。ところが、教訓のかわりに、いっさいが、いっさいがもうだめなのだ、と教えているのだ。
「窓からなんかながめていないで、もっと早くここへくればよかった」と、カルルは自分にいって、あらゆる希望の綱は切れたということを示す合図に、火夫の前で顔を伏せ、両手でズボンのぬい目のところをたたいた。
 ところが火夫はそれを誤解して、きっとカルルの態度に何か自分に対するひそかな非難を嗅《か》ぎ出したのだろう。そして、その非難をカルルに思いとどまらせようという善意の意図から、自分の行為の仕上げといわんばかりに今度はカルルと口論をし始めた。円テーブルの人たちは、自分たちの重要な仕事のじゃまをしているこんな無益なさわぎにさっきから腹を立てていたし、会計主任はだんだんと船長の忍耐が理解できなくなって、今にも爆発しそうになっていた。給仕はふたたび紳士がたの仲間に入って、火夫をけわしい目つきでじろじろ見ていた。最後に竹のステッキをもった例の紳士は、船長もときどきは親しげな視線を送っていたのだが、もう火夫に対してすっかり冷淡になってしまっていた。それどころか嫌気がさしてしまい、小さなメモ帳を取り出して、どうもまったく別な用件をあれこれ考えているらしく、メモ帳とカルルとのあいだに眼をあちこちと移していた。
「わかっていますよ、わかっていますとも」と、カルルはいった。彼は今では自分に向けられた火夫の長広舌を避けようと骨を折っていた。それでもあらゆる争いの合い間にまだ火夫に対する友情の微笑を忘れてはいなかった。
「あんたのいうことはもっともだ。正しい。ぼくはそれを疑ったことは一度もありませんとも」彼はなぐられることを恐れるあまり、火夫の振り廻している両手をとめたかった。とはいえ、もっとしたいことといえば、火夫を片隅へ追いこんで、ほかのだれにも聞かれないように、一こと二こと、低い声でなだめる言葉をささやいてやる、ということであった。ところが、火夫はまったく羽目をはずしていた。カルルは今ではもう、火夫はせっぱつまれば絶望的な力を振りしぼってここにいる七人の男たちを征服するかもしれない、などということを考えて、その考えから一種のなぐさめをくみ出し始めてさえいるのだった。とはいっても、書きもの机の上には、そこをちょっと見ただけでわかるのだが、電気装置のたくさんの押しボタンのついた台があった。それに手をかけ、ただ簡単にそれらのボタンを押しさえすれば、敵意をもつ人間たちであふれている通路が縦横に通じているこの船全体に暴動をひきおこすことができるのだ。
 そのとき、あんなに無関心であった竹のステッキをもった紳士が、カルルに近づいてきて、ひどく高い声ではなかったが、火夫のどなり散らしている叫び声を圧してはっきりわかるように、「いったい、君はなんていう名前ですか」と、たずねた。この瞬間、まるでだれかがドアのうしろでこの紳士の発言を待っていたかのように、ノックする音がした。給仕は船長のほうを見た。船長はうなずいた。そこで給仕はドアのところへいき、ドアを開けた。ドアの外には古いカイゼル服を着て、中肉中背の男が立っていた。その外見からいうとほんとうは機関の仕事に適してはいなかった。だが、これがシューバルだった。ある種の満足を表わしているみんなの眼で、カルルはこの男がシューバルだということに気づかなかったとしても(船長さえ満足の気持からのがれてはいなかった)、火夫の様子でそれとわかって驚かないわけにはいかなかっただろう。なにしろ火夫は、力のこもった腕に拳をしっかと固めて、まるでこの固めた拳こそいちばん大切なものであり、そのためには自分の生命のすべてを犠牲にする覚悟でいるように思われるのだった。そこに彼の力のすべてがこもっていて、また彼の身体をおよそきちんと起こさせている力もその拳にこもっていた。
 こうして敵が現われたわけだが、礼装を着てこだわりなく元気で、わきの下に帳簿を抱えている。おそらく火夫の賃金表と労働報告書とであろう。そして、一人一人の気分をまず何より先にたしかめようとしていることをひどく露骨に顔に出して、順を追ってみんなの眼をながめていた。七人ともすでに彼の味方であった。というのは、船長はさっきは彼に対してある文句をもっているか、あるいはただそれを口実としているかしたのであるが、火夫が自分に対して害を与えたあとの今となっては、おそらくシューバルを非難することはほんの少しでもないように見えた。この火夫のような男に対しては、いくらきびしい扱いをしても十分ということはないのだ。そして、もしシューバルに対して非難すべきものがあるならば、それは彼が火夫の反抗心をこれまでのうちに打ち破ることができず、そのために火夫がきょうはあえて船長の前にまで現われるにいたったという事情そのものであった。
 ところでおそらくこう考えることもできた。火夫とシューバルとの対立は、上級の法廷を前にして表われるような効果を、この人びとを前にしてもきっと表わさないではいないだろう。というのは、シューバルがいくらうまくよそおうことができたところで、しかしそれを最後までもちこたえることはできないにちがいなかった。彼の悪がほんの少しひらめいただけでも、それをこの人たちにはっきりと見させるのに十分だろう。その手はずを進めてやろうとカルルは思った。彼はこれまでについでながらここにいる一人一人の洞察力《どうさつりょく》、弱点、気まぐれなどを知っていた。そして、この観点からいうと、これまでここで過ごした時間はけっしてむだではなかったわけだ。火夫がもっと事態に応じるだけの才覚をもっていたらよかったが、しかしこれは完全に闘争能力をもたないように見えた。もし彼にシューバルを向かい合わせたら、きっとこいつの憎い頭蓋骨《ずがいこつ》を拳でたたくことはできただろう。しかし、ほんの一、二歩だけでもシューバルの[#「シューバルの」は底本では「シュバールの」]ほうに向って自分から進んでいくことは、きっとほとんどできなかったろう。シューバルが自分から進んでやってくるのではなくとも、船長に呼ばれて最後にはやってこないわけにはいかないという、ひどくやさしく予想できることを、カルルはなぜ予想しなかったのだろう。カルルと火夫との二人が実際にやってしまったように、救いがたいほど手ぶらで、いとも簡単にドアがあるところへ入るなどというのではなく、なぜカルルはやってくる途中、火夫とくわしく戦闘計画を相談しておかなかったのだろうか。いったい火夫はものをいうことができるだろうか。これはいちばんうまくいった場合だけに行われるのではあるが、もしくわしい訊問が行われるとしても、その場合に必要なイエスやノーを火夫はいえるだろうか。火夫はそこに突っ立っている。両脚を開いて、膝は不安定であり、頭は少しばかり上げている。開いた口を通って空気が出入りしていて、まるで胸のなかにはその空気を使う肺がないかのようだ。
 とはいえ、カルルはおそらく故郷にいるときは一度もなかったほど、力強く、頭もさえているように感じられた。彼が外国でりっぱな人たちを前にして善のために闘い、まだ勝利をもたらすまでにはいたっていないにしても、もう最後の征服の準備が完全にできているのを、彼の両親がもし見ることができたならば、なんといったことだろう。両親は彼についての意見を修正するだろうか。自分たちのあいだに彼を坐らせて、ほめてくれるだろうか。彼らにとても従順な彼の眼のうちを一度は、一度は見入るだろうか! これはどうもたしかとはいえない問いだし、またそんな問いを提起するのにはまったく不適当な今の瞬間なのだ!
「私がやってきたのは、火夫が私の不正直さということを何か非難しているからです。料理場のある女の子が、この男がここへやってくるところを見かけた、と私に言いました。船長さん、並びにみなさん、私はどんな非難でも、私の書類を使って、あるいは必要の場合にはドアの前に立っている偏見のない公平な証人たちの陳述によって、否定し去る用意があります」シューバルはこう語った。
 これはなるほど一個の男のはっきりした話ではあった。聞き手たちの顔つきに表われた変化によると、彼らは長い時間かかってはじめて人間の声をまた聞いているのだ、と思うことができるだろう。むろん彼らは、このりっぱな話にさえもいろいろ欠陥があるということに気づいてはいなかった。なぜ彼が思いついた最初の具体的な言葉が〈不正直さ〉というものなのだろうか。おそらく、彼の国民的偏見などということではなくて、非難はこの点に向けられなくてはならなかったのではないだろうか。料理場の女の子が火夫が事務室へいく途中だったのを見て、シューバルはそれを聞くとただちになんのためにいくのかわかったというのか。彼の頭をそんなに鋭敏にしたのは、彼自身の罪の自覚ではないのだろうか。そして、彼はすぐ証人たちをつれてきて、しかもその証人たちが偏見がなくて公平だというのか。ぺてんだ、ぺてん以外の何ものでもないのだ! それなのに、この人たちはそれを黙って聞いており、その上にそれを正しい態度とみとめているのか。なぜ料理場の女の子の報告から彼がここにつくまでのあいだに、疑いもなくひどく時間がかかったのか。その目的はただひとえに、それによって火夫が要領をえない話でこの人たちを疲れさせ、そのためにこの人たちが明晰《めいせき》な判断力を失ってしまう、ということを狙《ねら》ったのだ。この人たちの明晰な判断力こそ、何よりもシューバルが恐れなくてはならないものなのだ。彼はきっとすでに長いあいだドアのむこうに立っていたのであり、あの人のどうでもいいような質問から考えるのに、火夫がもうやられてしまった、と期待できる瞬間になってやっとドアをノックしたのではなかったろうか。
 いっさいは明らかであった。そして、シューバルによっても意に反してそういう事情が述べられたのだった。だが、ほかの人たちに対してはもっと別なふうに、もっとわかりやすく教えてあげなければならない。彼らは目をさましてやることが必要なのだ。だからカルル、急ぐんだ、証人たちが現われ、いっさいをうその洪水でわからなくしてしまう前に、少なくとも今の時間を十分に利用するんだ。
 だが、そのとき船長は手で合図してシューバルを黙らせた。シューバルはその合図を受けるとすぐに――というのは、彼の一件がほんのしばらくのあいだ中断されたように見えたからだった――わきへどいて、早くも彼の味方についた給仕と低い声で話し始めた。そして、火夫とカルルとのほうに横眼を使ったり、まことに確信ありげな手の動作をしたりしないではいなかった。シューバルはこうやってこのつぎの大演説の練習をやっているらしかった。
「この青年に何かおたずねになろうとされたのではありませんか、ヤーコプさん?」船長はみんなが黙りこくっているなかで、こう竹のステッキの紳士に向っていった。
「そうですとも」と、紳士は小さくうなずきながら、船長が気をきかせてくれたことに感謝していった。それからもう一度、カルルに向ってたずねた。
「君はいったいなんていう名前だね?」
 こんなしつっこい質問者というこの突発事を早く片づけることがこの重大な本筋と関係ありと考えたカルルは、彼の習慣となっているように旅券を見せて自己紹介するとなると、まずはじめにその旅券をポケットのなかから探さなければならないので、そんなことはやめてしまい、ただ手短かに答えた。
「カルル・ロスマンです」
「それじゃあ」と、ヤーコプと呼ばれたこの人はそういって、ほとんど信じられないといったふうに微笑しながら、あとしざりした。船長も、会計主任も、高級船員も、そればかりか給仕さえも、カルルの名前のために度はずれな驚きをはっきりと示した。ただ港務局の二人の役人とシューバルとだけが、無関心といった態度をとっていた。
「それじゃあ」と、ヤーコプ氏はくり返して、いくらかこわばった足取りでカルルのほうへ近づいてきた。「それなら、私はお前の伯父のヤーコプで、お前は私の甥《おい》だ。さっきから、そんなことは少しも知らなかった!」そう船長に向っていうと、つぎにカルルを抱いて接吻した。カルルは無口のまま、すべてされるままになっていた。
「あなたのお名前は?」と、カルルは身体をゆるめられたと感じたあとで、なるほどうれしそうにではあるが、まったく無感動にたずねた。そして、この新しいできごとが火夫に対して及ぼすだろうと思われる結果を予測しようと努めた。
「これはあなたにとっての大変な幸運ですよ」と船長はいった。船長は、カルルの紳士に対する質問によってヤーコプ氏という人物の品位が傷つけられたと思ったのだった。ヤーコプ氏は窓に向って立っていた。自分の興奮した顔をほかの人びとに見せなくてもすむように、ということらしい。そして、その上、顔をハンカチで軽くたたいている。「あなたに伯父様として名のられたのは、上院議員エドワルト・ヤーコプ氏です。これからは、おそらくあなたのこれまでの期待とはちがうことでしょうが、輝かしい将来があなたを待っています。今この最初の瞬間のうちにそのことを呑みこもうとなさい。そして、しっかりしなさい!」
「ぼくはなるほどアメリカにヤーコプという伯父さんをもってはいます」と、カルルは船長に向っていった。「でも、ぼくが聞きあやまったのでなければ、ヤーコプというのはこの上院議員さんの姓でしたね」
「そうですよ」と、船長は期待にみちていった。
「ところで、ぼくの伯父さんのヤーコプは、ぼくの母の兄ですが、洗礼名がヤーコプっていうんです。で、姓はむろん母のと同じはずですが、母は旧姓ベンデルマイヤーっていうんです」
「みなさん!」と、窓ぎわで気をとりしずめていた場所から元気よくもどってきた上院議員は、カルルの説明に関連して叫んだ。港務局の役人を除いて、みんなが笑い出した。ある者は感動しているようであり、ある者はどういうつもりなのかわからなかった。
「ぼくのいったことは、けっしてそんなに滑稽なことではないのに」と、カルルは思った。
「みなさん」と、上院議員はくり返した。「みなさんは、私の意志とみなさんご自身の意志とに反して、つまらぬ家庭の一幕に立ち会われているわけです。そこで私としては、みなさんにご説明申し上げないわけにはいきません。というのは、私の考えますところでは、ただ船長さんだけが」――こういうと、二人はたがいに目礼を交わすのだった――「事情をすっかりご存じなのです」
「今のところぼくはほんとうにどの一ことにも注意して聞かねばならないぞ」と、カルルは自分に言い聞かせ、ふと横をながめると火夫の姿に生気がもどり始めているのをみとめて、よろこんだ。
「私は長年にわたるアメリカ滞在のあいだに――この滞在という言葉はむろんここでは一人のアメリカ市民にとってはぴったりするものではないのですが。なにしろ私は真底からアメリカ市民でありますから――、で、長年にわたり、私はヨーロッパの親戚とはまったくつながりをもたずに暮らしていました。その理由は、第一のはここで申し上げるにふさわしいものでなく、第二の理由をお話しすることは、私にとってあまりにも迷惑なのです。おそらく私の甥にそれを語ってやらなければならないときがくると思いますが、そのときのことが心配なくらいです。話すときには、残念ながらこの子の両親とその一族とについて率直な言葉を語ることが避けられないでしょう」
「これはぼくの伯父さんだぞ、疑う余地はない」と、カルルは自分に言い聞かせ、耳を傾けていた。「おそらく名前を変えたのだろう」
「私の甥は今では両親から――事の真相を示す言葉を使うことにしましょう――あっさり捨てられたのです。ちょうど、猫がしゃくにさわると、ドアの前に投げ出されるようにです。私の甥が何をやってこんなふうに罰を受けたのか、私はとりつくろって申すつもりはありません。しかし、甥のあやまちは、それを申しただけですでに十分弁解になる理由を含んでいるようなたぐいのものなのです」
「これは聞く価値があるぞ」と、カルルは考えた。「でも、伯父さんがあれをみんなに話すのは困るぞ。ところで、伯父さんはあれを知っているはずはないんだが。いったい、どこから聞いたんだろう?」
「つまり」と、伯父は語りつづけ、ちょっと身体を傾けて前に踏んばっている竹のステッキにもたれた。それによって実際、この件から不必要ないかめしさを取り除くことに成功した。そうでなければこの件はきっとそんな不必要にまじめな調子を帯びたことだろう。「つまり、甥はヨハンナ・ブルマーという女中に誘惑されたのです。これはおよそ三十五歳ほどの女です。この〈誘惑された〉という言葉で甥の気を悪くさせたくはないのですが、ほかの同じようにぴったりした言葉を見つけ出すことは困難なのです」
 すでに伯父のかなり近くへ歩みよっていたカルルは、この話の与えた印象をこの場にいる人びとの顔から読み取ろうとして、このとき振り向いてみた。だれも笑う者はなく、みんな忍耐強く、まじめそうに聞いていた。結局のところ、最初の機会が生じたというときに、上院議員の甥のことを笑うわけにはいかないのだ。むしろ、火夫がほんのちょっとではあるがカルルにほほえみかけたといえたかもしれない。だが、これは第一に彼が新しい生気を取りもどしたしるしとしてよろこばしいことであり、第二にはもっともなことでもあった。なぜなら、実際カルルはあの船室で、今ではこんなにもひろまってしまったこの件を極秘にしておこうとしたからだった。
「ところでこのブルマーが」と、伯父は語りつづけた、「甥の子供を生みました。じょうぶな男の児で、洗礼のときヤーコプという名をつけられました。疑いもなく不肖《ふしょう》この私を頭においてのことであります。この私のことは、甥がきっとただまったくさりげなく話しただけだと思われますが、それでさえその女の子に少なからぬ感銘を与えたにちがいありません。幸いなことに、と私はいわないわけにまいりません。というのは、両親は養育費の支払いとか自分たちの身にまで及ぶそのほかのスキャンダルとかを避けるために――私は強調しておかねばなりませんが、あちらの法律も、また両親のそのほかの事情も知りません――、で、養育費の支払いとスキャンダルとを避けるために、彼らの息子、つまり私の甥をアメリカへ運ばせたのです。ごらんのとおり、こんな無責任きわまる不十分な支度しかしてやらずにです。それゆえ、この子は、もしこのアメリカにかろうじて生き残っている神意のしるしと奇蹟とがなかったならば、自分の身ひとつをたよりにしなければならず、きっとたちまちのうちにニューヨーク港の裏町のどこかで零落したことでしょう。もしその女中が私宛ての手紙、しかもそれは長いことあちらこちらとさまよっておとといやっと私の手に入ったのですが、その手紙のなかで一部始終を知らせ、それに甥の人相のことや賢明にも船の名前も添えて書いてよこさなかったならば、そんなことになったかもしれません。もしみなさんを面白がらせるつもりならば、その手紙の二、三の箇所を」――といって、伯父はこまかな字で書かれた大きな二枚のレターペーパーをポケットから取り出し、それを振って見せた――「ここで朗読することもできるでしょう。この手紙はきっと効果があるでしょう。つねに善意からではあるが、いくらか単純なずるさと、子供の父親である甥に対する大きな愛情とをもって書かれているからです。だが、事情を説明するために必要である以上にみなさんを面白がらせるつもりはありませんし、また甥を迎えるにあたって、おそらくまだ残っている甥のいろいろな感情を傷つけるようなことをやりたくもありません。甥は、もしそうしたいなら、すでに彼を待っている部屋の静けさのなかでこの手紙を読んで、それを知ればいいのですから」
 だが、カルルはその女中に対してなんらの感情も抱いてはいなかった。いよいよ遠くへ退いていく過去の、ひしめき合う思い出のなかで、その女は台所で戸棚のそばに坐っている。その棚の板の上に両肘をついている。彼が父親のために水を飲むコップを取りにとか、母親に頼まれたことをやるためにとかでときどき台所へいくと、女は彼をじっと見るのだった。ときどきは台所の戸棚のわきで変な姿勢で手紙を書いており、カルルの顔を見て霊感を引き出すのだった。ときどきは片手で両眼を被っていた。そういうときは、いくら彼女に呼びかけても、彼女の耳にはとどかなかった。ときどきは台所のわきの自分の小さな部屋でひざまずいて、木の十字架に祈っていた。そういうときには、カルルはただおずおずしながら、通りすがりに少し開いているドアのすきまを通して女の姿を見るのだった。ときどきは、台所で走り廻って、カルルが彼女の道をふさぐと、魔女のように高笑いしながら、跳び下がった。ときどきは、カルルが入っていくと、台所のドアを閉めて、カルルがどいてくれと要求するまで手でドアの取手を押えていた。ときどきは、カルルが全然欲しくもない品物をもってきて、無言でそれを彼の両手のなかに押しつけるのだった。ところが、あるとき、「カルル」といって、思いがけないその呼びかけにまだ驚いている彼を、しかめ面をして溜息をもらしながら自分の小さな部屋へつれこみ、部屋に鍵《かぎ》をかけた。
 女は絞め殺さんばかりにカルルの首に抱きつき、服を脱がせてくれと頼みながら、自分のほうでも実際に彼の服を脱がせ、ベッドの上に寝かせた。まるで今からは彼をだれの手にもやらず、この世の終りまで、なでいつくしみたいといわんばかりだった。「カルル、おお、あたしのカルル!」と、女は叫び、彼をながめて、彼を所有していることをたしかめようとするかのようだ。一方、彼のほうは何一つ眼に入らず、女が特別彼のために積み重ねたらしいたくさんの暖かいかけぶとんのなかで不快に感じていた。それから女は彼により添って寝て、彼の秘密を何か聞きたいといったが、彼が何もいうことができないので、冗談でなのか本気なのかわからないが怒って、彼の身体をゆすり、耳をあてて心臓の鼓動を聞き、同じように聞いてみろといって自分の胸をさし出した。ところが、女はカルルにそうさせることができないと、自分の裸の腹を彼の身体に押しつけ、手で彼の両脚のあいだを探った。あんまりいやらしいので、カルルは頭と首とを枕から振りはずしてしまった。それから女は、腹を二、三度彼に向って押しつけた。――カルルには、まるで女が自分自身の一部であるような気がした。おそらくこの理由から恐ろしくみじめな気持に襲われたのだろう。女のほうから何度も何度もまたのあいびきをせがまれたあとで、カルルは泣きながら自分のベッドへもどった。これだけのことだったが、伯父はそれから大きな物語をつくり出すことを心得ていた。で、その女中が伯父のことを考えて、伯父に彼の到着を知らせたというわけだった。じつにいいことをやってくれた。自分としてもきっとその女にいつかむくいてやるだろう、と伯父はいった。
「で今、私がお前の伯父かそうでないか、お前の口からはっきり聞こう」と、上院議員は叫んだ。
「あなたはぼくの伯父さんです」と、カルルはいって、彼の手に接吻し、そのかわりに額に接吻してもらった。「あなたに会って、ぼくはとてもうれしいです。でも、ぼくの両親が伯父さんについて悪いことだけ話していると思うなら、まちがいです。でも、それは別問題としても、あなたの話にはいくらかのまちがいが入っていました。つまり、実際には万事がそんなふうに起ったのではありません。けれども、伯父さんはほんとうにこのアメリカからでは事柄に十分な判断を下すことは無理です。それに、このみなさんにあまり関係はない件のこまかな点で少しばかりまちがったことを教えられても、そうたいして害にはならないと思います」
「よくいった」と、上院議員はいって、明らかに同感を示している船長の前にカルルをつれていき、たずねた。「私はすばらしい甥をもっているでしょう?」
「甥御《おいご》さんとお知合いになれまして、私は大いによろこんでいます」と、船長はただ軍隊の訓練を受けた人たちだけがやるようなお辞儀をしながらいった。「こうした[#「「こうした」は底本では「こうした」]めぐり合いの場所を提供できましたことは、本船の光栄とするところです。しかし、三等船客としての航海はきっとひどかったことでしょう。しかし、どなたが乗船しておられるかわかりませんのでね。ところで、われわれは三等の人たちの航海をできるだけ楽にしてあげるように、ありとあらゆることをやっています。たとえば、アメリカ船よりもずっと多くのことをやっております。けれども三等の航海をたのしみにするということまでには、なんといってもまだいたっていません」
「ぼくにはちっとも悪いことなんかありませんでした」
「甥にはちっとも悪いことなんかなかったそうですぞ」と、上院議員は大きな声で笑いながらいった。
「ただトランクだけはどうも失くして――」と、いいかけて、起ったこと、まだやることで残っていることをみんな思い出しながら、あたりを見廻し、この場にいる人たちがみな黙って尊敬と驚きとのために彼に視線を注いでいるのをながめた。ただ港務局の役人たちの様子には、彼らの自己満足しているきびしい顔から見抜くことができる限りでは、こんなに工合の悪いときに自分たちがやってきたと残念がっているのが見られた。そして、今自分たちの前に置いてある懐中時計のほうが、彼らにはどうもこの部屋のなかで起っていること、そしておそらくこれからなお起こるかもしれないことよりも重要であるらしかった。
 船長のあとで自分の関心を表わした最初の人物は、奇妙なことに火夫だった。
「心からお祝いを言いますぜ」と、彼はいって、カルルの手をにぎった。それによって相手をみとめているというようなことを言い表わそうとしたのだった。つぎに同じ言葉で上院議員に向かおうとしたとき、上院議員は火夫がそれによって自分の分を超えたことをやろうとしているといわんばかりに、あとしざりした。火夫もすぐにやめてしまった。
 ところが、ほかの人びとも今はやるべきことがわかったとみえて、たちまちカルルと上院議員とのまわりにさわぎを起こした。そこで、カルルはシューバルからさえ祝いの言葉をかけられ、それを受け、その礼を述べた。ふたたび静けさが立ちもどったなかで、最後の番で港務局の役人たちがやってきて、英語で二語だけいったが、これが滑稽な印象を与えた。
 上院議員はすっかり上機嫌で、よろこびを完全に味わいつくすため、どうでもいいようなことを思い出し、ほかの人びとにも思い出させようという気になっていたが、それはむろんすべての人びとによって我慢して聞かれただけではなく、関心をもって受け入れられた。そこで彼は、女中の手紙のなかに書いてあったもっともいちじるしいカルルの人相の特徴を、きっとあとでちょっと使うことになるだろうと思ってメモ帳に書き入れていたのだ、といってみんなの注意を喚起した。ところで、彼はさっきの火夫の我慢できないおしゃべりのあいだに、ただ気をそらすためだけの目的でメモ帳を取り出し、むろん探偵式にいえば正しくはない女中の観察点をカルルの外見と遊び半分に結び合わせようとしたというのだった。
「私の甥はこんなふうに見られているんですよ!」と、彼はもう一度祝いの言葉を受けたいと思っているかのような調子で話を結んだ。
「火夫はこれでどうなるでしょう?」と、カルルは伯父の最後の話がすむと、たずねた。彼は、自分の新しい立場では、なんでも思ったことをいってもいいのだと考えた。
「火夫はあれにふさわしいようになるだろう」と、上院議員はいった。「それに、船長さんがよいと思われるようになるだろうよ。もう火夫のことは十分だし、十分すぎると私は思うね。ここにおられるみなさんもきっと私のこの意見に賛成されるだろう」
「正義に関する件においては、そんなことは問題じゃありません」と、カルルはいった。彼は伯父と船長とのあいだに立っていたが、おそらくこのような位置に立っていることに影響されて、決定を自分の手中ににぎっているように思った。
 それにもかかわらず、火夫はもう自分のために何も望んでいないらしかった。両手を半分ズボンのバンドに突っこんでいた。彼が興奮して動いたためにそのバンドは模様のついたシャツの片はじといっしょに外へ見えていた。そんなことは少しも彼の気にはならない。彼は自分の悩みをすっかり訴えてしまったのだから、自分が身につけている一つ二つのぼろを見られたってかまわないし、追い出されたってかまわないのだ。ここでは階級のいちばん下の給仕とシューバルとの二人が、自分を追い出すというこの最後の好意を果たしてくれるものと、彼はすっかり思いこんでいた。そうすればシューバルは気が落ちつくだろうし、もう会計主任がいったように絶望なんかすることはないだろう。船長はルーマニア人ばかりを雇うことができるだろう。船じゅうどこででもルーマニア語が話されることになるだろう。そうすればおそらくいっさいがもっとよくなるだろう。火夫が会計課でおしゃべりすることはもうないだろう。ただ自分の最後のおしゃべりだけをかなりなつかしい思い出のうちにとどめることだろう。なぜなら、上院議員がはっきりと断言したように、自分のおしゃべりが甥を認知する間接のきっかけとなったからだ。ところでこの甥はさっき何度も自分のために役に立ってくれようとした。だから、伯父との再会に際して自分が役立ったことに対する礼はもうずっと前にあらかじめすませてあったようなものだ。そこで火夫には、今何かをカルルから要求するなどということは全然思いつかなかった。それに、カルルが上院議員の甥であろうと、とうてい船長ではないのだ。ところで、船長の口からは最後にひどい言葉が吐き出されるだろう――こんな自分の考えを追って、火夫は実際にもカルルのほうを見ないように努めていたが、残念ながら自分の敵だけがいるこの部屋では、カルル以外に彼の眼を休める場所がなかった。
「事態を誤解してはいけないね」と、上院議員はカルルに向っていった。「おそらく正義に関する問題であろうが、同時に規律の問題でもあるのだ。両方とも、そしてことに後者はここでは船長さんの判断にまかされているのだ」
「そうだ」と、火夫がつぶやいた。それに気づき、それがわかった者は、奇妙な微笑をもらした。
「だが、船長さんはその上、ちょうどニューヨークに到着したばかりで、信じられないくらいたまっているにちがいない公務をもっていられるのだよ。だから、もう私たちが船を去る潮時だ。余計なことをしてまだ何かまったく不必要な首の突っこみかたをやって、二人の機関士のつまらぬけんかを大事件にしないためにだな。ともかくお前のやりかたはすっかりわかる。だがそれだからこそ、急いでお前をここからつれ去る権利が私にあるというものだ」
「すぐあなたがたのためにボートを下ろさせましょう」と、船長はいった。カルルが驚いたことに、疑いもなく伯父の自己|謙遜《けんそん》と見られる言葉にほんの少しでも異を立てることをやらないのだ。会計主任はあわてて書きもの机のところへいき、船長の命令をボート係に電話で伝えた。
「時間が迫っているんだ」と、カルルは自分に言い聞かせた。「でも、みんなを侮辱することなしでは、ぼくは何もすることができないぞ。だが今は、伯父がやっとぼくを見つけたんだから、伯父を見捨てるわけにはいかない。船長はなるほど礼儀正しいけれど、でもそれだけのことだ。規律のこととなると、船長の礼儀正しさも忘れられてしまう。伯父はたしかに心からああ船長に話したんだ。シューバルとは話したくない。あの男に握手の手を渡したことも残念なくらいだ。そして、ここにいるそのほかの連中はみんなくずだ」
 そして、こんなことを考えながらゆっくりと火夫のほうへ歩いていき、その右手をバンドから取って、自分の手のなかにもてあそびながらおさめていた。
「どうしてあんたは何もいわないんです?」と、彼はたずねた。「どうしてみんな黙って受け入れているんです?」
 火夫は、いうべきことをどう言い表わしたらいいのか探しているように、額にしわをよせた。それからカルルの手と自分の手の上に眼を落していた。
「あんたは不当な扱いを受けているんですよ。この船のだれよりもね。それはぼくもちゃんと知っているんだ」
 そして、カルルは火夫の指のあいだに自分の指をさし入れたり抜いたりした。火夫のほうは、いくらよろこんだってだれも自分のことを悪く取ることがないだろうと思われる歓喜に襲われたように、輝く眼でまわりを見廻している。
「でも、あんたは自分の身を守らなくちゃいけない。イエスとノーとをはっきりいわなくちゃいけないんですよ。そうでないと、人びとは真相が全然わからないんだから。ぼくのいうことを聞くって、約束して下さいよ。だって、ぼく自身はいろいろな理由から、もう全然助けてあげることができないだろうと思うんです」
 それから、カルルは火夫の手に接吻しながら、泣いた。そして、ひびだらけの、ほとんど血のかよっていないようなその手を取って、自分の両頬に押えつけた。まるで思いきらなければならない宝のようだった。――ところが伯父の上院議員が彼のそばへきて、強制の様子はほんの少ししか見せなかったが、彼を引っ張っていった。
「火夫がお前の心に魅入ったらしいね」と、伯父はいって、意味ありげな面持《おももち》でカルルの頭越しに船長のほうを見やった。「お前はひとりぽっちだと感じていたんだ。そのときお前は火夫を見つけたんで、今はあの男に感謝しているんだ。それはまったく感心なことだよ。でも、もう私のために、あまりやりすぎないようにするんだ。お前の地位を理解することを学ばなければいけないぞ」
 ドアの前でさわぎが起った。叫び声が聞こえ、まるでだれかが乱暴にドアへぶつけられたようであった。いくらか荒れ狂った様子で一人の水夫が部屋に入ってきた。そして女中のエプロンを身体に巻きつけていた。
「外にたくさんいますよ」と、その男は叫んで、まだ人ごみのなかにいるかのように肘《ひじ》であたりを突くような恰好をした。とうとう正気に返って、船長の前で敬礼しようとしたが、女中のエプロンに気がつき、それを引きはがして床に投げ、叫んだ。
「まったく不愉快だ。女中のエプロンなんか巻きつけやがって」
 だが、靴のかかとを音を立てながら合わせ、敬礼した。だれかが笑おうとしたが、船長はきびしい口調でいった。
「だいぶいい機嫌のようだね。だれが外にいるのかね?」
「私の証人たちです」と、シューバルは歩み出ながらいった。「彼らの不穏当なふるまいはどうかお許しのほどを。水夫たちは航海を終えると、ときどき気ちがいのようになるんです」
「すぐなかへ入れてくれ」と、船長は命令し、すぐ上院議員のほうへ振り向くと、親しげにだが口早にいった。「上院議員さん、どうか甥御さんとごいっしょにこの水夫のあとをついていって下さい。この男があなたがたをボートへご案内します。親しくあなたさまとお知合いになれまして、大変うれしく、また大変光栄であることを、まず最初に申し上げなければなりません。いずれ近く機会を得まして、アメリカの商船事情についての私たちの中断されました話をまた取り上げることができますように望みます。そのときもまた、きょうのように愉快なやりかたで中断されることを望みます」
「今のところは、この甥で私には十分ですな」と、伯父は笑いながらいった。「ご親切に心からお礼申し上げたいと思います。どうかご機嫌よう。それに、まったくありえないことではありませんが、私たちは」――ここで彼はカルルを心から抱きしめた――「つぎのヨーロッパ旅行のときには、おそらくかなり長いあいだ、あなたとごいっしょになれるでしょう」
「そうなったら、どんなに心からうれしく思うことでしょう」と、船長はいった。二人の紳士はたがいに握手し、カルルはまだ黙ったまま、ちょっと船長に手をさし出しただけだった。というのは、船長はもう十五人ぐらいの水夫たちにかかりきりになっているのだった。彼らはシューバルの指揮下にいくらか当惑はしていたが、音高く部屋に入ってきたのだった。水夫は上院議員にお先に失礼しますといって、彼とカルルとのために人ごみを押しわけた。二人はお辞儀する水夫たちのあいだを通ってたやすく出ていくことができた。とにかく善良なこの連中はシューバルと火夫との争いを冗談で、その滑稽さが船長の前でもやまないのだ、と考えているらしかった。カルルは彼らのあいだに料理場の女の子のリーネをみとめたが、この女はカルルに向って陽気にまばたきの合図をしてよこしながら、水夫が投げ捨てたエプロンを身体に巻きつけていた。それは彼女のものだったのだ。
 その水夫につづいて二人は事務室を出て、小さな通路へ曲っていった。その通路をいくと、一、二歩で小さなドアの前に出た。そこから短い階段が彼らのために用意されたボートへ通じていた。案内役の水夫はたちまちひと跳《と》びでボートのなかへ飛び下りたが、ボートのなかの水夫たちは立ち上がって、敬礼した。上院議員がカルルに、用心して降りるようにといましめると、カルルはいちばん上の階段の上ではげしく泣き出した。上院議員は右手をカルルの顎《あご》の下にあて、左手でしっかと自分の身体に押しつけて、彼の身体をなでた。こうして二人はゆっくり一段一段と降りていき、しっかと抱き合ったままボートに入った。上院議員はカルルのために自分の真向いにいい席を探し出した。上院議員の合図で水夫たちは本船からボートを突き離し、すぐ力いっぱいに漕ぎ始めた。船から一、二メートル離れるやいなや、カルルは自分たちが今、会計課の窓が向いている側にいることに気づいた。三つの窓はどれもシューバルの証人たちに占められており、彼らはひどく親しげに挨拶し、合図していた。伯父さえも答礼した。一人の水夫は、規則正しい漕ぐ手を休めないままで投げキスを送るという芸当をやって見せた。ほんとうに、火夫なんかもういないかのようだった。カルルは、伯父の膝に自分の膝をほとんどつけんばかりにして、伯父の眼のうちをじっとながめた。この人がいつかあの火夫のかわりになることができるだろうか、という疑いが彼の心に起った。伯父のほうもカルルの視線を避けて、彼らのボートをゆさぶっている波のほうに視線を投げていた。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
入力:kompass
校正:青空文庫
2010年11月28日作成
2011年1月28日修正
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原田義人

家長の心配 DIE SORGE DES HAUSVATERS フランツ・カフカ Franz Kafka—– 原田義人訳

ある人びとは、「オドラデク」という言葉はスラヴ語から出ている、といって、それを根拠にしてこの言葉の成立を証明しようとしている。ほかの人びとはまた、この言葉はドイツ語から出ているものであり、ただスラヴ語の影響を受けているだけだ、といっている。この二つの解釈が不確かなことは、どちらもあたってはいないという結論を下してもきっと正しいのだ、と思わせる。ことに、そのどちらの解釈によっても言葉の意味が見出せられないのだから、なおさらのことだ。
 もちろん、もしオドラデクという名前のものがほんとうにあるのでなければ、だれだってそんな語源の研究にたずさわりはしないだろう。まず見たところ、それは平たい星形の糸巻のように見えるし、また実際に糸で巻かれているようにも見える。糸といっても、ひどくばらばらな品質と色とをもった切れ切れの古いより糸を結びつけ、しかしやはりもつれ合わしてあるだけのものではあるのだろう。だが、それは単に糸巻であるだけではなく、星形のまんなかから小さな一本の棒が突き出していて、それからこの小さな棒と直角にもう一本の棒がついている。このあとのほうの棒を一方の足、星形のとがりの一つをもう一方の足にして、全体はまるで両足で立つように直立することができる。
 この組立て品は以前は何か用途にかなった形をしていたのだが、今ではそれがこわれてこんな形になってしまっただけなのだ、と人は思いたくなることだろう。だが、どうもそういうことではないようなのだ。少なくともそれを証拠立てるような徴候というものはない。つまり、何かそういったことを暗示するような、ものがついていた跡とか、折れた個所とかはどこにもない。全体は意味のないように見えるのだが、それはそれなりにまとまっている。それに、この品についてこれ以上くわしいことをいうことはできない。なぜかというと、オドラデクはひどく動きやすくて、つかまえることができないものだからだ。
 それは、屋根裏部屋や建物の階段部や廊下や玄関などに転々としてとどまる。ときどき、何カ月ものあいだ姿が見られない。きっと別な家々へ移っていったためなのだ。けれども、やがてかならず私たちの家へもどってくる。ときどき、私たちがドアから出るとき、これが下の階段の手すりにもたれかかっていると、私たちはこれに言葉をかけたくなる。むろん、むずかしい問いなどするのではなくて、私たちはそれを――なにせそれがあんまり小さいのでそうする気になるのだが――子供のように扱うのだ。
「君の名前はなんていうの?」と、私たちはたずねる。
「オドラデクだよ」と、それはいう。
「どこに泊っているんだい?」
「泊まるところなんかきまっていないや」と、それはいって、笑う。ところが、その笑いは、肺なしで出せるような笑いなのだ。たとえば、落葉のかさかさいう音のように響くのだ。これで対話はたいてい終ってしまう。それに、こうした返事でさえ、いつでももらえるときまってはいない。しばしばそれは長いこと黙りこくっている。木のようなだんまりだが、どうもそれ自体が木でできているらしい。
 それがこれからどうなることだろう、と私は自分にたずねてみるのだが、なんの回答も出てはこない。いったい、死ぬことがあるのだろうか。死ぬものはみな、あらかじめ一種の目的、一種の活動というものをもっていたからこそ、それで身をすりへらして死んでいくのだ。このことはオドラデクにはあてはまらない。それならいつか、たとえば私の子供たちや子孫たちの前に、より[#「より」に傍点]糸をうしろにひきずりながら階段からころげ落ちていくようなことになるのだろうか。それはだれにだって害は及ぼさないようだ。だが、私が死んでもそれが生き残るだろうと考えただけで、私の胸はほとんど痛むくらいだ。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
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2010年11月28日作成
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