佐々木直次郎

落穴と振子 THE PIT AND THE PENDULUM エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe 佐々木直次郎訳

Impia tortorum longos hic turba furores
Sanguinis innocui, non satiata, aluit.
Sospite nunc patria, fracto nunc funeris antro,
Mors ubi dira fuit vita salusque patent.


「ここにかつて神を恐れざる拷問者の群れ、飽くことなく、
罪なき者の血に、長くそが狂暴の呪文《じゅもん》を育《はぐく》みぬ。
今や国土やすらかに、恐怖の洞穴はうちこわされ、
恐ろしき死のありしところ、生命と平安と現われたり」
[#ここから10字下げ]
〔パリのジャコバン倶楽部の遺趾《いし》に建てらるべき市場の門扉にしるすために作られた四行詩〕

 私は弱っていた、――あの長いあいだの苦痛のために、死にそうなくらいひどく弱っていた。そして彼らがやっと私の縛《いまし》めを解いて、坐ることを許してくれたときには、もう知覚が失われるのを感じた。宣告――恐ろしい死刑の宣告――が私の耳にとどいた最後のはっきりした言葉であった。それからのちは、宗教裁判(1)官たちの声が、なにか夢のような、はっきりしない、がやがやという音のなかに呑みこまれてしまうように思われた。それは私の心に回転[#「回転」に傍点]という観念を伝えた。――たぶん、水車の輪のぎいぎいまわる音を連想したからであったろう。それもほんのちょっとのあいだであった、やがてもう私にはなにも聞えなくなったから。しかし少しのあいだはまだ、私には眼が見えた、――がなんという恐ろしい誇張をもって見えたことであろう! 私には黒い法服を着た裁判官たちの唇が見えた。その唇は白く――いまこれらの言葉を書きつけている紙よりも真っ白に――そして怪奇なほど薄く、その冷酷――動かしがたい決意――人間の苦痛にたいするむごたらしい軽侮を強く示してあくまでも薄く、私の眼にうつった。私は、自分にとっては運命であるところの判決が、なおその唇から出ているのを見た。その唇が恐ろしい話しぶりでねじれるのを見た。その唇が私の名の音節を言う形になるのを見た。そしてそれにはなんの音もないので私は戦慄《せんりつ》した。私はまた、この無我夢中の恐怖の数瞬間に、その部屋の壁を蔽《おお》うている黒い壁掛けが静かに、ほとんど眼にたたぬほどかすかに、揺れるのを見た。それから私の視線はテーブルの上にある七本の高い蝋燭《ろうそく》に落ちた。最初はその蝋燭が慈悲深い様子をしていて、自分を救ってくれそうな白いほっそりとした天使たちのように思われた。だがその次には、たちまち非常に恐ろしい嫌悪の情が私の心をおそってきて、体じゅうのあらゆる繊維が流電池の線にでも触れたようにぴりぴりと震えるのを感じ、同時に天使の姿は炎の頭をした無意味な妖怪《ようかい》となってしまい、彼らからはなんの救いも得られないということがわかった。それから私の空想のなかへは、墓のなかにはさぞ甘美な休息があるにちがいないという考えが、美しい音楽の調べのように、しのびこんできた。この考えはゆっくりと、またこっそりとやってきて、それを十分味わえるようになるまでにはだいぶ長くかかったようであった。だが私の心がやっとはっきりとその考えを感じ、それを味わったちょうどその瞬間、裁判官たちの姿は魔法のように私の前から消えた。高い蝋燭は虚無のなかへ沈み、その炎もすっかり消えうせてしまった。真っ黒な暗闇がそれにつづいた。あらゆる感覚は冥府《めいふ》へ落ちる霊魂のように、狂おしい急激な下降のなかに嚥《の》みこまれるように思われた。そのあとはただ、沈黙と、静止と、夜とが、宇宙全体であった。
 私は気絶していたのであった。しかしそれでも意識がすっかり失われていたとは言いたくない。それがどれくらい残っていたかということは、ここで断定しようとは思わないし、書こうとも思わない。だがすべてが失われていたのではなかった。深い眠りのなかでも――いや! 無我夢中のときでも――いや! 気絶しているときでも――いや! 死んでいても――いや! 墓のなかにあってさえも、すべてが失われるものではないのだ[#「ものではないのだ」に傍点]。でなければ人間にとって不滅ということがなくなる。もっとも深い眠りから覚めるとき、我々はなにかしら[#「なにかしら」に傍点]薄紗《うすもの》のような夢を破るものである。しかし一秒もたつと(その薄いものはそれほど脆《もろ》いものであろう)我々はいままで夢をみていたことをもう覚えていない。気絶からよみがえるまでには二つの段階がある。第一は、心的もしくは精神的存在の知覚の段階であり、第二は、肉体的存在の知覚のそれである。もし我々がこの第二の段階に達したときに、第一の段階の印象を思い起すことができるとするなら、これらの印象が彼岸の深淵《しんえん》の記憶を雄弁に語っていると言ってもよいようだ。そしてその深淵とは――なんであるか? 我々はどうして、少なくともその深淵の影を死の影と区別したらいいか? しかし私が第一の段階と名づけたものの印象がもし意のままに思い起されないものとしても、長いあいだたったのちに、それらの印象が自然にやってきて、どこからやってきたのかと怪しむようなことはあるまいか? かつて一度も気絶したことのない人は、赤々と燃え輝いている石炭のなかに、不思議な宮殿やどこか見知ったような顔などを見る人ではない。世の多くの人々の眼にはうつらないような悲しげな幻影が空中に浮んでいるのを見る人でもない。なにかの珍しい花の香を嗅《か》いでもの思いにふける人でもない。いままではなんの注意もひいたことのないような音楽の韻律の意味を考えて頭が乱される人でもない。
 思い出そうとする考え深いいくたびもの試みの最中に、私の霊魂が落ちていったあの虚無らしい状態の形跡をよせ集めようとする熱心な努力の最中に、ときどきうまく思い出せたと思う瞬間があった。あとになって明晰《めいせき》な理性の保証するところによると、その無意識らしい状態にだけ関している記憶を、呼び起した短い、ごく短い時期があった。この影のような記憶がぼんやりと語っているところによると、背の高い者たちが、無言のまま私の体を持ち上げて、下の方へ――下の方へ――なおも下の方へと運んでいったので、とうとう私はその果てしない下降ということを考えただけで気持の悪い眩暈《めまい》に圧倒されてしまったのだ。また私は、心が不自然なほど静かだったので、漠然とした恐怖を感じたのだ。次にはすべてのものがみな急に動かなくなったという知覚がきた。まるで私を運んでいる者たち(恐ろしい一行!)が下降しながらとっくに限りないものの限界をも越えてしまって、彼らの労苦に疲れはてた歩みをとどめたかのように。そののちに思い起すのは平坦と湿気との感じである。それからはすべてが狂乱[#「狂乱」に傍点]――考えることを許されないいまわしいもののあいだを忙しくとびまわる記憶の狂乱である。
 まったくとつぜんに、私の魂に運動と音とが――心臓のはげしい運動と、耳に響くその鼓動の音とが、戻ってきた。それからいっさいが空白である合間。やがてまた音と、運動と、触覚――体じゅうにしみわたるぴりぴり疼《うず》く感覚。次に思考力を伴わない単なる生存の意識、――この状態は長くつづいた。それからまったくとつぜんに、思考力[#「思考力」に傍点]と、戦慄するような恐怖感と、自分のほんとうの状態を知りつくそうとする熱心な努力。つぎには無感覚になってしまいたいという強烈な願望。それから魂の急速なよみがえりと、動こうとする努力の成功。そして今度は審問や、裁判官たちや、黒い壁掛けや、宣告や、衰弱や、気絶などの完全な記憶。それからは、その後につづいたすべてのことの、後日になって熱心な努力でやっと漠然と思い起すことのできたすべてのことの、完全な忘却。
 これまでは私は眼を開かなかった。私は縛めを解かれて仰向けに横たわっているのを感じた。手を伸ばすと、何かじめじめした硬いものにどたりと落ちた。何分間もそこに手を置いたまま、自分がどこにいてどうなって[#「どうなって」に傍点]いるのか想像しようと努めた。眼を開いて見たかったが、そうするだけの勇気がなかった。身のまわりのものを最初にちらと見ることを私は恐れたのだ。恐ろしいものを見るのを恐れたのではない。なにも[#「なにも」に傍点]見るものがない[#「ない」に傍点]のではあるまいかと思って恐ろしくなったのだった。とうとう、はげしい自暴自棄の気持で、眼をぱっとあけてみた。すると私のいちばん恐れていた考えが事実となってあらわれた。永遠の夜の暗黒が私を包んでいるのだ。私は息をしようとしてもがいた。濃い暗闇は私を圧迫し窒息させるように思われた。空気は堪えがたいほど息づまるようであった。私はなおじっと横たわって、理性を働かせようと努めた。宗教裁判官のやり方を思い出して、その点から自分のほんとうの状態を推定してみようと試みた。宣告が言いわたされ、それから非常に長い時間がたっているような気がした。しかし自分が実際に死んでいると想像したことは一瞬時もなかった。そのような想像は、物語では読むことはあるが、ほんとうの生存とはぜんぜん矛盾するものである。――だが、いったい私はどこに、どんな状態でいるのであろう? 死刑を宣告された者が通常 〔autos-da-fe’〕(「信仰の行為(2)」)で殺されることは私も知っていた。そしてそれが私の審問された日のちょうどその夜にも執行されたのであった。私は自分の牢《ろう》へ送りかえされて幾月ものあいだ起りそうにもない次の犠牲を待つことになったのであろうか? そんなことがあるはずはないと私はすぐ悟った。犠牲者はすぐに必要なのだ。そのうえ、私の前の牢は、トレード(3)にあるすべての監房と同じように、石の床であって、光線がぜんぜんさえぎられてはいなかった。
 恐ろしい考えがこのとき急に念頭に浮び、血は奔流のように心臓へ集まった。そして少しのあいだ、私はもう一度無感覚の状態にあともどりした。我に返るとすぐ、全身の繊維が痙攣《けいれん》的に震えながらも、すっと立ち上がった。頭の上や身のまわりやあらゆる方向に両腕を乱暴に突き出してみた。なんにも触れなかった。それでも墓穴[#「墓穴」に傍点]の壁に突き当りはしないかと思って、一歩でも動くことを恐れた。汗が体じゅうの毛孔から流れ出て、額には冷たい大きな玉がたまった。この不安な苦痛にとうとう堪えられなくなった。そこで両手をひろげ、かすかな光線でもとらえようと思って眼を眼窩《がんか》から突き出すようにしながら、注意深く前へ動いた。私は何歩も進んだ、しかしやはりすべてが暗黒と空虚とであった。私はいままでよりも自由に呼吸をした。私の運命が少なくともいちばん恐ろしいものではないことはまず明らかであるように思われた。
 そしてなおも注意深く前へ歩きつづけているあいだに、今度はトレードの恐怖についてのいろいろの漠然とした噂《うわさ》が、私の記憶に群がりながら浮んできた。牢については前から奇妙なことが言い伝えられていた。――つくり話だと私はいつも思っていたが――しかしいかにも奇妙な、声をひそめてでなければくりかえして話すことができないくらいにもの凄《すご》い話であった。私はこの地下の暗黒の世界で餓死させられるのであろうか? さもなければ、たぶん、それよりもっと恐ろしいものではあろうが、どんな運命が私を待っているのであろうか? その結果が死であり、それも普通の苦しさ以上の死であろうということは、あの裁判官らの性質をよく知っている私には疑う余地もなかった。ただその方法と時間とが、私を考えさせ、あるいは悩ましたすべてであった。
 ひろげていた手はとうとうなにか固い障害物につき当った。それは壁であったが、石造らしく――ひどくなめらかで、ぬらぬらしていて、冷たかった。私はそれについて行った。ある昔の物語が教えてくれた注意深い警戒の念をもって、一歩一歩進んだ。しかし、この方法は牢の広さを確かめる手段とはならなかった。というのは、一まわりしてもとの出発点に戻っていても、そのことがわからないからであって、それほどその壁は完全に一様なものらしかった。そこで私は、宗教裁判所の部屋のなかへ連れて行かれたときにポケットのなかにあったナイフを探した。がそれはなかった。私の衣服は粗末なセルの着物にかわっていたのだ。出発点を認められるようにそのナイフの刀身をどこか石の小さい隙間にさしこんでおこうと思ったのであったが。しかしこの困難は、心が乱れていたので初めはどうにもできないもののように思われたが、実はちょっとしたものにすぎなかった。私は着物のへりを一部分ひき裂いてその布片《きれ》をずっと伸ばして、壁と直角に置いた。牢獄のまわりを手さぐりして回っているうちに、完全に一周すればこの布片に出会うことはまちがいない。少なくともそう私は考えた。だが、この牢の広さや、または自分の衰弱を、勘定に入れていなかった。地面はじめじめしてすべった。私はしばらくのあいだ前へよろめきながら進んでいたが、そのうちにつまずいて倒れた。ひどい疲労のために倒れたまま起き上がれなかった。そして横になるとすぐ眠りが私をおそった。
 目が覚めて、片腕を伸ばすと、かたわらには一塊のパンと水の入った水差しとが置いてあった。ひどく疲れきっていたので、私はこの事がらを十分考えてみることもなく、がつがつと貪《むさぼ》るように食ったり飲んだりした。それから間もなく牢獄のなかをまた回りはじめ、かなり骨を折ってやっとあのセルの布片のところへやってきた。つまずいて倒れるときまでに五十二歩を数え、また歩きはじめてからさらに四十八歩を数えて――そのときに布片のところへ着いたのであった。してみると全体で百歩あることになる。そして二歩を一ヤードとして私はこの牢獄の周囲を五十ヤードと推定した。しかし壁のところで多くの角に出会ったので、この窖《あなぐら》――窖であろうということは想像しないわけにはゆかなかった――の形状を推測することはできなかった。
 このような調査には私はほとんど目的を――たしかに希望などは少しも――持っていなかった。けれども漠然とした好奇心が私を駆ってその調査をつづけさせた。私は壁のところを離れて、この構内の地域を横断してみようと決心した。初めは非常に用心しながら進んだ。床は固い物質でできているらしかったが、ねばねばしていて油断がならなかったからだ。しかしとうとう勇気を出して、ためらわずにしっかりと足を踏み出した、――できるだけ一直線によぎろうと努めながら。こんなふうにして十歩か十二歩ばかり進んだときに、さっきひき裂いた着物のへりの残片が両足のあいだに絡まった。私はそれを踏みつけて、ばったりと俯向《うつむ》けに倒れてしまった。
 倒れた当座は狼狽《ろうばい》していたので、一つのちょっと驚くべき事がらにすぐ気づくわけにはゆかなかったが、何秒かたつと、まだ倒れているあいだに、それが私の注意をひいた。それはこういうことであった。私の頤《おとがい》は牢獄の床の上についていたが、唇や頭の上部が、顎よりも低くなっているらしいのに、なににも触れていないのである。同時に額がしっとりとした湿気にひたっているように思われ、腐った菌類の独得の臭いが鼻をついてきた。私は片手を突き出した。すると自分が円い落穴《おとしあな》のちょうど縁のところに倒れていることに気がついたので、ぞっと身ぶるいした。その落穴の大きさはもちろん、そのときには確かめる方法もなかったが。私はその縁のすぐ下の石細工のあたりを手さぐりして、うまく小さな石のかけらを取り出し、それをその深淵のなかへ落してみた。何秒ものあいだ、石が落ちてゆくとき落穴の壁につき当る反響に、私はじっと耳を傾けていた。とうとう陰鬱に水のなかへ落ちて、高い反響がそのあとにつづいた。それと同時に、頭上で戸をぱっとあけ、また同じようにすばやくしめるような音がして、一すじの弱い光線がとつぜん暗闇のなかにひらめいたかと思うと、またたちまちにして消えてしまった。
 私は自分のために用意されてあった運命をはっきりと知った。そしてちょうど折よく偶然に起った出来事によって助かったことを喜んだ。倒れる前にもう一歩進む、すると私はふたたびこの世に出ることができなかったのだ。そしていままぬかれた死こそは、宗教裁判所に関する話のなかで荒唐無稽な愚にもつかぬものと私のそれまで思いこんでいた種類のものであったのだ。宗教裁判の暴虐の犠牲者には、もっとも恐るべき肉体的の苦痛を伴う死か、またはもっともいまわしい精神的の恐怖を伴う死か、どちらかを選ぶのである。私はその後者を受けることになっていたのだ。長いあいだの苦痛のために、私の神経は自分の声にさえ身ぶるいするほど衰弱し、どんな点からでも、自分を待ち受けているこの種の迫害にはたいへん適当な材料となっていたのであった。
 手足をぶるぶる震わせながら、私は壁の方へ手さぐりで戻った、――私の想像力がいまこの牢獄のいろいろな位置にたくさん描き出した落穴の恐怖をおかすよりも、むしろその壁のところで死のうと心を決めながら。もっとも他の心持ちでいたときなら、私はこれらの深淵の一つへ跳びこんで一思いに自分の惨めな運命の結末をつけてしまう勇気があったろう。だがそのとき私はもっとも完全な臆病者であった。私はまたこれらの落穴について前に読んだこと――とっさに[#「とっさに」に傍点]生命を絶つということは彼らの恐ろしい計画のなかには少しもないということ――も忘れることができなかった。
 精神の興奮は幾時間も私を眠らせなかった。がとうとう私はふたたび眠りに落ちた。目を覚ますと、前と同じように一塊のパンと水の入った水差しとが置いてあった。焼くような渇きを覚えたので、私はその水差しの水を一飲みに飲みほした。それには薬がまぜてあったにちがいない、――飲むか飲まないうちにたまらなく睡くなったから。深い眠りが私におそいかかってきた、――死の眠りのような深い眠りが。どれだけ長くそれがつづいたか、もちろん私にはわからない。しかしまた眼を開いたときには、今度は身のまわりのものが見えるようになっていた。どこにその光源があるのか初めはわかりかねた異様な硫黄色の微光によって、この牢獄の広さや様子を見ることができたのだ。
 牢獄の大きさについて私はひどく思い違いをしていた。壁の全周囲は二十五ヤードを超えていなかった。この事実は数分のあいだ、私に役にも立たない非常な苦労をさせた。まったく役にも立たない、――なぜなら、私の取りまかれているこの恐ろしい事情のもとにあって、牢獄の面積などということよりも下らないことがあろうか? だが、私の心はつまらないことに異常な興味を持っていた。そして、測量をするときに自分が犯した誤ちの理由を明らかにしようとする努力に没頭した。とうとう真相が頭に閃《ひらめ》いた。最初に探索しようと試みたときには、倒れるまでに五十二歩を数えていた。そのときはセルの布片へもう一歩か二歩というところへまで来ていたにちがいない。実際、私はほとんど窖を一周していたのだ。それから眠った、――そして眼が覚めると、前に歩いたところを逆に戻ったにちがいない、――こうして周囲を実際のほとんど二倍に想像したのだ。心が混乱していたので、私は壁を左にして歩きだし、戻ったときには壁を右にしていたことに気づかなかったのだ。
 私はまた、この構内の形についてもだまされていた。手さぐりながら歩いたときに角がたくさんあったので、ずいぶん不規則な形だという考えを持っていたのであった。昏睡《こんすい》や睡眠からさめた者に与えるまったくの暗闇の効果というものはこんなに強いものなのだ! 角というのはただ、不規則な間隔をおいたいくつかの凹み、あるいは壁龕《へきがん》にすぎなかった。牢獄の全体の形は四角であった。私が前に石細工だと考えたものは、今度は鉄かあるいはなにか他の金属の大きな板らしく思われ、その継目《つぎめ》が凹みになっているのであった。この金属板を張った構内の壁の全面には、修道僧の気味の悪い迷信が生みだした恐ろしく厭《いと》わしい意匠の画が、不器用に描きなぐってあった。骸骨《がいこつ》の形をして脅すような容貌をした悪鬼の姿や、そのほか実に恐ろしい画像などが、一面にひろがって壁をよごしていた。私は、これらの怪物の輪郭は十分はっきりしているが、その色彩が湿った空気のためであろうか、褪《あ》せてぼんやりしているらしいことを認めた。それから今度は床にも注意してみた――が、それは石造だった。その真ん中に、さっきその虎口をのがれたあの円い落穴が口を開いていた。がそれはこの牢獄のなかにただ一つしかなかった。
 こういうことをすべて私はぼんやりと、しかも非常な努力をして、見たのだ。――というわけは、体の状態が眠っているあいだにひどく変っていたからである。今度は仰向けになって体をながながと伸ばし、低い木製の枠組《わくぐみ》のようなものの上に臥《ね》ていた。その枠に馬の上腹帯に似た長い革紐でしっかりと縛りつけられているのだ。革紐は手足や胴体にぐるぐると巻きつけてあって、頭と左腕とだけが自由になっていたが、その左腕も非常な骨折りをしてやっと、かたわらの床の上に置いてある土器の皿から食物を取ることができるだけの程度にすぎなかった。恐ろしいことには、水差しがなくなっていた。恐ろしいことには――というのは、堪えがたいほどの渇きのために体が焼きつくされるようであったからだ。この渇きを刺激するのが私の迫害者どもの計画であったらしい、――なぜなら皿のなかの食物はひりひりするように辛く味をつけた肉であったから。
 眼を上の方へ向けて、私はこの牢獄の天井を調べた。高さは約三、四十フィートであって、側面の壁と非常によく似た造りであった。その天井の鏡板の一枚にあるたいへん奇妙な画像が、私の注意をすっかり釘《くぎ》づけにするように強くひきつけた。それは普通によく描かれているような時《タイム》の画像(4)であって、ただ違うのは大鎌のかわりに、ちょっと見たところでは、古風な掛時計についているような巨大な振子《ふりこ》を描いたのであろうと想像されるものを、持っていることであった。しかしこの機械の様子には、なにかしら私にもっと注意深く眺めさせるものがあった。まっすぐに上を向いてそれを眺めると(というのはそれの位置はちょうど私の真上にあったから)、なんだかそれが動いているような気がした。間もなくその考えは事実だということがわかった。その振動は短く、もちろんゆっくりしていた。私はいくらか恐怖を感じながらも、それよりももっと驚異の念をもって、数分間それを見まもっていた。とうとうそののろい運動を見つめるのに疲れてしまって、監房のなかのほかの物に眼をうつした。
 かすかな物音が私の注意をひいたので、床の方に眼をやると、大きな鼠が何匹かそこを走っているのが見えた。彼らはちょうど私の右の方に見えるところにある例の井戸から出てきたのだ。私が眺めているときでさえ、彼らは、肉片の匂いに誘われて、がつがつした眼つきをして、あわただしそうに群れをなしてやってきた。彼らを脅して肉片によせつけないようにするには、たいへんな努力と注意が必要だった。
 ふたたび視線を上の方へ向けたときまでには、半時間か、それともあるいは一時間も(というのは完全に時間を注意することはできなかったから)たっていたかもしれない。そのとき見たことで、私はすっかり狼狽《ろうばい》し、驚かされた。振子の振動は一ヤード近くもその振幅を増しているのだ。当然の結果として、その速度もまた大きくなっていた。しかし、私がもっとも不安だったのは、それが眼に見えて下降してくる[#「下降してくる」に傍点]という考えであった。それから私は、その振子の下端がきらきら光る鋼鉄の三日月形になっていて、先端から先端までは長さが一フィートほどあり、その先端は上の方を向き、下刃は明らかに剃刀《かみそり》の刃のように鋭いということを見てとった。――それを見てどんなに恐ろしく感じたかは言うまでもない。それは剃刀のようにがっしりしていて重いらしく、刃の方からだんだんに細くなって、上は固くて幅の広い部分になっている。そして真鍮《しんちゅう》の重い柄につけてあって、空気を切って揺れるときに全体がしゅっしゅっと音をたてた[#「しゅっしゅっと音をたてた」に傍点]。
 私はもう、拷問の巧みな僧侶によって自分のために用意された運命を疑うことができなかった。私があの落穴に気がついたということは、とっくに宗教裁判所の役人どもには知れていた。――あの落穴[#「あの落穴」に傍点]――その恐怖こそ私のような大胆不敵な国教忌避者のために用意してあったのだ。あの落穴[#「あの落穴」に傍点]――それこそ地獄の典型であり、噂によれば彼らのあらゆる刑罰のなかの極点と考えられているものだ。この落穴に落ちこむことを、私はまったく偶然の出来事によってのがれたのであった。そして私は驚愕《きょうがく》、つまり拷問の罠《わな》に落ちこんで苦しむことが、この牢獄のいろいろな奇怪な死刑の重要な部分となっていることを知った。深淵へ落ちなかったからには、私をその深淵のなかへ投げ込むということは、かの悪魔の計画にはなかった。そこで(ほかにとるべき方法もないので)それより別の、もっとお手やわらかな破滅が私を待つことになったのだ。お手やわらかな! こんな言葉をこんな場合に使うことを思いつくと、私は苦悶《くもん》のなかでもちょっと微笑したのだった。
 鋼鉄の刃のもの凄い振動を数えているあいだの、死よりも恐ろしい長い長い幾時間のことを、話したところでなんになろう! 一インチずつ――一ライン(5)ずつ――長い年月と思われる間《ま》をおいて、やっとわかるような降り方で――下へ、もっと下へと、降りてくる! それがひりひりするような息で私を煽《あお》りつけるくらい身近に迫ってくるまでには、幾日か過ぎた、――幾日も幾日も過ぎたにちがいない。鋭い鋼鉄の臭いが私の鼻孔をおそった。私は祈った、――それがもっと速く降りてくるようにと、天がうるさがるほど祈った。気が狂ったようになり、揺れているその偃月刀《えんげつとう》の方へ向って自分の体を上げようともがいた。それからまた急に静かになって、子供がなにか珍しい玩具を見たときのように、そのきらきら輝く死の振子を見て微笑しながら横たわっていた。
 もう一度、まったく無感覚のときがあった。それは短いあいだであった。なぜなら、ふたたび我に返ったときに振子は眼につくほど下っていなかったから。しかしあるいは長いあいだであったかもしれない、――というのは、私の気絶するのに気をつけていて、振子の振動を思うままに止めることもできる悪魔どものいることを、私は知っていたから。正気づくとまた、私はひどく――おお! なんとも言いようもないほど――気分が悪く衰弱していることを感じた、ちょうど長いあいだの飢え疲れのように。その苦痛のあいだにさえ、人間の本能は食物を求めるのであった。私は苦しい努力をして左腕を紐の許すかぎり伸ばし、鼠が食い残しておいてくれた食物のわずかな残りを手に入れた。その一片を口のなかへ入れたとき、私の心には半ば形になった歓喜の――希望の――念が湧《わ》きあがった。しかしこの私が[#「この私が」に傍点]希望などになんの用があろう? それはいま言ったとおり、なかば形になった考えであった。――人はよくそんな考えを持つが、それは決して完成されるものではない。私はそれが歓喜の――希望の――念であることを感じた。しかしまたそれが形になりかけて消えてしまったことを感じた。それを仕上げようと――取りもどそうと努めたが無駄だった。長いあいだの苦しみは、私のあらゆる普通の心の能力をほとんど絶滅させてしまっていた。私は低能者になっていた、――白痴になっていた。
 振子の振動は私の身の丈《たけ》と直角になっていた。私は偃月刀が自分の心臓の部分をよぎるように工夫してあることを知った。それは外衣のセルを擦り切るだろう、――それから返り、そしてまたその動作をくりかえすだろう、――二回――三回と。振幅がもの凄く広くなり(約三十フィートか、またはそれ以上)、しゅっしゅっと音をたてて降りてくる勢いが鉄の壁さえ切り裂くくらいであっても、数分間というものはそれのすることはやはり私の外衣を擦り切ることだけであろう。ここまで考えてくると私の考えはとまった。この考えより先へは行けなかった。私はしつこくこの考えに注意を集めた、――ちょうどそうすれば鋼鉄の刃の下降をそこで[#「そこで」に傍点]とめることができるかのように。私は偃月刀が衣服を切って通るときの音を――布地が摩擦されることが神経にさわる奇妙なぞっとするような感覚を、わざと考えてみた。こうしたくだらないことをいろいろと歯の根が浮くくらいになるまで考えてみた。
 下へ――じりじり下へ、振子は這《は》い降りてくる。私はその振子の横に揺れる速度と、下へ降りてくる速度とを照らしあわせて、狂気じみた快感を感じた。右へ――左へ――遠く広く――悪鬼の叫びをあげて! 私の心臓めがけて、虎のような忍び足で下へ! この二つの考えのどっちかが力強くなるにしたがって、私はかわるがわるに笑ったり叫んだりした。
 下へ――まちがいなく、無情に下へ、それは私の胸から三インチ以内のところを振動しているのだ! 私は左腕を自由にしようとしてはげしく――猛《たけ》りくるって――もがいた。その左の腕はただ肘《ひじ》から手首までだけが自由になっていた。手は非常な苦心をしてやっとかたわらの皿から口のところへ動かせるだけで、それ以上は動かせなかった。もし肘から上の紐を切ることができたら、私は振子をつかまえて止めようとでもしたことであろう。それは雪崩《なだれ》を止めようとするのと同じようなことだ!
 下へ――なおも休みなく――なおも避けがたく下へ! それが振動するたびに私はあえぎ、もがいた。一揺れごとに痙攣的に身をちぢめた。眼はまったく意味のない絶望からくる熱心さで、振子が外の方へ、上の方へと跳びあがるあとを追った。そしてそれが落ちてくるときには発作的に閉じた、死は救いであったろうが。おお、なんという言うに言われぬ救いであろう! あの機械がほんの少しばかり下っただけであの鋭いきらきら光る斧《おの》を私の胸に突きこむのだ、ということを考えると、体じゅうの神経がみなうち震えた。この神経をうち震えさせ――体をちぢませるものは希望[#「希望」に傍点]であった。宗教裁判所の牢獄のなかであってさえ死刑囚の耳にささやくものは希望[#「希望」に傍点]――拷問台の上にあってさえ喜びいさむ希望――であった。
 もう十回か十二回振動すれば鋼鉄の刃が私の外衣にほんとうに触れるということがわかった。――そしてそれがわかると、ふいに、私の心には鋭い落ちついた絶望の静けさがやってきた。この幾時間ものあいだ――あるいはおそらく幾日ものあいだ――いま初めて私は考えた[#「考えた」に傍点]。すると、自分を巻いている革紐つまり上腹帯は一本だけ[#「一本だけ」に傍点]だということが思いついた。私は何本もの紐で縛られているのではなかった。剃刀のような偃月刀の最初の一撃が紐のどの部分をよぎっても、その紐が切りはなされて、左手を使って体から解きはなすことができるにちがいない。だが、その場合には鋼鉄の刃のすぐ近くにあることがどんなに恐ろしいことだろう! ほんのちょっとでももがいたらどんなに危ないことになるだろう! そのうえに拷問吏の手下どもが、こんなことがありそうだと察して、それに備えておくということもありそうなことではなかろうか? 紐が私の胸の振子の通るところに巻いてあるということがありそうだろうか? このかすかな、そして最後と思われる希望が破られるのを恐れながらも、私は胸のところをはっきり見られるくらいにまで頭を上げてみた。革紐は手足も胴も縦横にぐるぐると堅く巻いてあった、――ただ人をうち殺すその偃月刀の通り路だけはのけて[#「ただ人をうち殺すその偃月刀の通り路だけはのけて」に傍点]。
 頭をもとの位置に下ろすとすぐ、前にちょっと言ったところの、そしてその半分が、燃えるような唇に食物を持って行ったときにぼんやり浮んだところの、あの救いという考えのまだ形をなさない半分、というより以上にうまく言いあらわせないものが、私の心にひらめいた。全体の考えがいまあらわれてきたのだ。――弱い、あまり正気でもない、あまりはっきりしないものであったが、――それでもとにかく全体であった。私はすぐに自暴自棄の勇気で、その考えの実行にとりかかった。
 もう幾時間も、私の臥ている低い枠組のすぐ近くには、鼠が文字どおり群がっていた。彼らは荒々しく、大胆で、がつがつして飢えていた。――彼らの赤い眼は、ただ私が動かなくなりさえしたら私を餌食にしようと待ちかまえているように、私の方を向いてぎらぎらと光っていた。「この井戸のなかであいつらはいったいどんな食物を食いつけてきたのだろう?」と私は考えた。
 彼らは、私がいろいろ骨を折って追い払おうとしたのに、もう皿のなかの食物をちょっぴり残しただけで、すっかり食いつくしてしまっていた。私はただ手を皿のあたりに習慣的に上げ下げして振っていたのだが、とうとうその無意識に一様な運動は効き目がなくなってしまった。貪欲《どんよく》にも鼠どもはちょいちょい鋭い牙《きば》を私の指につきたてた。私は残っている脂っこいよい香のする肉片を、手のとどくかぎり革紐にすっかりなすりつけて、それから手を床からひっこめて、息を殺してじっと臥ていた。
 初めはその飢えきった動物どもも、この変化に――運動の中止されたのに――驚きおそれた。彼らはびっくりして尻込みした。井戸の方へ逃げたやつも多かった。しかしこれはほんのしばらくのことにすぎなかった。彼らの貪欲をあてにしたのは無駄ではなかった。私が身動きもしなくなったのを見てとると、いちばん大胆なやつが一、二匹、枠の上に跳びあがって、革紐を嗅《か》いだ。これがまるで総突撃の合図のようであった。彼らは井戸から出てきて、新たに群れをなして駆け集まってきた。枠の木にかじりつき――それを乗りこえ、そして幾百となく私の体の上に跳びあがった。振子の規則正しい運動などはちっとも彼らの邪魔にはならなかった。彼らは振子に撃たれるのを避けながら、油を塗った革紐に忙しく群がった。彼らは押しよせ――群がって私の上に絶えず積みかさなった。咽喉の上でのたうちまわった。その冷たい唇が私の唇を探した。彼らの群がってくる圧迫のために私はなかば窒息しかかった。なんとも言いようのない不快な感じが胸に湧きあがり、じっとりとした冷たさで心臓をぞっとさせた。それでも一分もたつと、私はこの争闘もやがて終ってしまうだろうと感じた。私は革紐の緩むのをはっきりと悟った。すでに一カ所以上も切れているにちがいないことがわかった。超人間的の決心をもって、私はじっと[#「じっと」に傍点]横たわっていた。
 私の予想はまちがっていなかった、――忍耐も無益ではなかった。やっと私は自由[#「自由」に傍点]になったのを感じた。革紐は幾すじかになって体からぶら下がった。しかし振子の刃はもう胸のところに迫った。それは外衣のセルを裂いていた。その下のリンネルも切っていた。またも二回揺れた。すると鋭い苦痛の感覚があらゆる神経に伝わった。しかし逃げ出る瞬間がきているのだ。手を一振りすると、私の救助者どもはあわてふためいてどっと逃げさった。じりじりと身を動かし――気をつけて、横ざまにすくみながら、ゆっくりと――革紐からすりぬけて、偃月刀のとどかないところへ身をすべらした。少なくとも当分は、私は自由になったのだ[#「私は自由になったのだ」に傍点]。
 自由! ――宗教裁判所の手につかまれながら! 恐怖の木の寝台から牢獄の石の床に足を踏み出すとすぐ、あの地獄のような恐ろしい機械の運動がぴったりと止り、なにか眼に見えない力でするすると天井の上に引き上げられるのを私は見た。これは非常に強く身にしみた教訓であった。私の一挙一動がみな看視されていることは疑いがない。自由! ――私はただ苦悶の一つの形式による死をのがれて、なにか他の形式の、死よりもいっそう悪いものの手に渡されることになったにすぎないのだ。そう考えながら、私をとり囲んでいる鉄の壁をびくびくして見まわした。なにか異常なことが――初めははっきりと見分けることのできなかったある変化が――この部屋のなかに起ったことは明らかであった。何分間も夢み心地にわななきながら茫然《ぼうぜん》として、私はただいたずらにとりとめのない臆測にふけっていた。そのあいだに、この監房を照らしている硫黄色の光の源を初めて知るようになった。それは幅半インチほどの隙間からくるのだ。その隙間というのは壁の下の方で牢獄をぐるりと一まわりしている。だから壁は床から完全に離れているように見えたし、またほんとうに離れていたのである。その隙間からのぞこうと骨を折ったが、もちろん無駄であった。
 この試みをやめて立ち上がると、この部屋の変化の神秘が急に理解されるようになってきた。私は前に、壁上に描かれている画の輪郭は十分はっきりしてはいるが、その色彩がぼんやりしていて明瞭ではないようだということを述べた。ところがその色彩がいまや驚くほどの強烈な光輝を帯びて、しかも刻一刻とその光輝を増し、その幽霊のような悪鬼のような画像を、私の神経より強い神経をさえ戦慄させるほどの姿にしたのだ。狂暴なもの凄い生き生きした悪魔の眼は、らんらんとして前にはなにも見えなかったあらゆる方向から私をにらみつけ、気味のわるい火の輝きでひらめくので無理にも想像力でそれを幻だと考えてしまうわけにはゆかなかった。
 幻どころか! ――呼吸をするときでさえ、灼熱《しゃくねつ》した鉄の熱気が鼻をついてくるのだ! 息のつまるような臭いが牢獄に満ちた! 私の苦悶をにらんでいる眼は一刻ごとにらんらんとした光を強くした! 血の恐怖の画の上には真紅のもっと濃い色がひろがった! 私はあえいだ! 息をしようとしてあえいだ! 私の迫害者どもの計画についてはなんの疑いもない、――おお、人間のなかでもいちばん無慈悲な! おお、いちばん悪魔のような者ども! 私はその真っ赤に熱した鉄板から監房の真ん中の方へあとじさりした。眼の前にさし迫った火刑の死を考えると、あの井戸の冷たさという観念が、苦痛をやわらげる香油のように心に浮んできた。私はその恐ろしい井戸のふちへ走りよった。眼を見はって下の方を見た。燃えたった屋根のぎらぎらする光が井戸の奥そこまで照らしていた。それでもしばらくは、私の心は錯乱していて自分の見たものの意味を理解しようとはしなかった。やっとそれが私の心に入ってきた、――無理に押し入った、戦《おのの》き震える理性に焼きつけた。おお、ものを言う声が出たらいいのだが! ――ああ、恐ろしい! ――ああ、このほかの恐ろしさならなんでもよい! 鋭い叫び声をあげて私はそのふちから駆けもどり、両手に顔をうずめた、――はげしく泣きながら。
 熱は急速に増した、私は瘧《おこり》の発作のようにぶるぶる震えながら、もう一度眼をあげた。監房のなかには二度目の変化が起っていた、――そして今度の変化は明らかに形[#「形」に傍点]に関するものであった。前と同様に、初めのうちは起りつつあることを感知し理解しようと努めたが、無駄だった。だが、疑念のなかにとり残されているのも長くはなかった。二回も私がのがれたので、宗教裁判所は復讐《ふくしゅう》を急いでいた。そして懼怖《おそれ》の王(6)とこのうえふざけているわけにはゆかなくなったのだ。部屋は前には四角形であった。私はいまその鉄の四隅のなかの二つが鋭角をなしているのを――したがって当然ほかの二つは鈍角をなしているのを認めた。この恐ろしい角度の違いは、低くごろごろいうような、または呻《うめ》くような音とともに急速に増した。またたくまに部屋はその形をかえて菱形となった。しかしこの変化はそれでやみはしなかった、――私はそれがやむのを望みもしなければ願いもしなかった。その灼熱した壁を私は、永遠の平和の衣服として胸にぴったり着けることができるのだ。私は言った、「死――この落穴の死でさえなければどんな死でもいい!」ばかな! この落穴のなかへ[#「この落穴のなかへ」に傍点]私を駆りたてるのが、この燃える鉄板の目的であることを知らなかったのか? その灼熱に耐えることができるか? あるいはもしそれに耐えることができるとしても、その圧力に逆らうことができるか? そしていまや菱形は、なにも考えるひまを与えないくらいの速さでますます平たくなってきた。その中心、つまりその幅の広いところは、大きく口を開いているあの深淵の真上であった。私はたじろいだ、――が迫ってくる壁は抵抗できないように私を前へ押しすすめた。とうとう焼けこげて悶《もだ》えくるしむ私の体には、もう牢獄の堅い床の上に一インチの足場もなくなった。私はもうもがかなかった、が私の苦悶は、一声の高い、長い、最後の、絶望の絶叫となってほとばしった。私は自分が落穴のふちへよろめきよったのを感じた、――私は眼を逸《そ》らした――
 がやがやいう人声が聞えた! 多くの喇叭《らっぱ》の音のような高らかな響きが聞えた! 百雷のような荒々しい軋《きし》り音が聞えた! 炎の壁は急にとびのいた! 私が失神してその深淵のなかへ落ちこもうとした瞬間に、一つの腕がのびて私の腕をつかんだ。それはラサール将軍(7)の腕であった。フランス軍がトレードに入ったのだ。宗教裁判所はその敵の手に落ちた。

(1) 十二世紀ごろから始まりその後数世紀にわたって、ローマ教会の教権擁護のために、異端その他宗教に関する罪悪を摘発撲滅するために行われた、歴史上有名な裁判。――フランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ポルトガル、その他ヨーロッパの諸国においてさかんに行われて、異教徒の迫害に利用され、ことにスペインにおける宗教裁判はその糺問《きゅうもん》が峻烈《しゅんれつ》で処刑が残酷なので有名であった。第十八世紀にいたってようやくやみ、スペインでは最も遅く、一八三四年まで行われた。
(2) ポルトガル語で「信仰の行為」の意。宗教裁判所の異教徒処刑の判決宣告式、およびその処刑、ことに火刑を言う。ここではその火刑の意味である。――宗教裁判において有罪と決定されたものは、異端の帽と異端の服とをつけさせられ僧侶の行列に囲まれて、跣足《はだし》で市街をひきまわされ、最後に聖壇の前に立って死刑を宣告され、刑吏の手によって生きながら焚《や》き殺されるのであった。
(3) Toledo――スペイン中央部のトレード州の町。マドリッドの南西にある。
(4) 普通よく見られるとおり、大鎌を肩にし、砂時計を手にしている老人の画。
(5) 一インチの十二分の一の長さ。
(6) 「死」のこと。――旧約ヨブ記第十八章第十四節、「やがて彼はその恃《たの》める天幕より曳離《ひきはな》されて懼怖の王[#「懼怖の王」に傍点]の許《もと》に駆《おい》やられん」
(7) Antonie Charles Louis Colinet Lasalle(一七七五―一八〇九)――ナポレオン一世の部下の有名な将軍。彼がスペインに攻め入ったのは一八〇八年である。
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底本「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1977(昭和52)年5月10日40刷改版
   1998(平成10)年12月25日78刷
※本文中の(1)~(7)は訳注番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように小書きされています。
入力:江村秀之
校正:鈴木厚司
2005年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木直次郎

宝島 宝島 スティーブンソン Stevenson Robert Louis-佐々木直次郎訳

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買うのを躊躇する人に


もしも船乗《ふなのり》調子の船乗物語や、
 暴風雨《あらし》や冒険、暑さ寒さが、
もしもスクーナー船や、島々や、
 置去《おきざ》り人《びと》や海賊や埋められた黄金《おうごん》や、
さてはまた昔の風のままに再び語られた
 あらゆる古いロマンスが、
私《わたし》をかつて喜ばせたように、より賢い
 今日《こんにち》の少年たちを喜ばせることが出来るなら、
――それならよろしい、すぐ始め給え! もしそうでなく、
 もし勉強好きな青年たちが、
昔の嗜好を忘れてしまい、
 キングストンや、勇者バランタインや、
森と波とのクーパー(註一)[#「(註一)」は行右小書き]を、もはや欲しないなら、
 それもまたよろしい! それなら私と私の海賊どもは、
それらの人や彼等の創造物の横《よこたわ》る
 墳墓の中に仲間入りせんことを!
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第一篇 老海賊

第一章「ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」へ来た老水夫

 大地主のトゥリローニーさんや、医師のリヴジー先生や、その他の方々《かたがた》が、私に、宝島についての顛末を、初めから終りまで、ただまだ掘り出してない宝もあることだから島の方位だけは秘して、すっかり書き留めてくれと言われるので、私は、キリスト紀元一七――年に筆を起し、私の父が「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋(註二)[#「(註二)」は行右小書き]」という宿屋をやっていて、あのサーベル傷のある日に焦《や》けた老水夫が、初めて私たちの家《うち》に泊りこんだ時まで、溯ることにする。
 私は、彼が、船員衣類箱(註三)[#「(註三)」は行右小書き]を後から手押車《ておしぐるま》で運ばせながら、宿屋の戸口のところへのそりのそりと歩いて来た時のことを、まるで昨日《きのう》のことのように覚えている。背の高い、巌乗な、どっしりした、栗色の男だった。タールまみれの弁髪がよごれた青い上衣の肩に垂れていた(註四)[#「(註四)」は行右小書き]。手は荒れて傷痕だらけで、黒い挫けた爪をしていた。そしてサーベル傷が片頬にきたなく蒼白くついていた。私はまた覚えている。彼は入江を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、そうしながらひとりで口笛を吹いていたが、それから突然、その後もたびたび歌ったあの古い船唄を歌い出したのだった。――


「死人箱《しびとのはこ》にゃあ十五人――
  よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!

 揚錨絞盤《キャプスタン》の梃《てこ》を[#「梃《てこ》を」は底本では「挺を」]※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すのに調子を合せて歌って嗄《しゃが》らしたらしい、高い、老いぼれたよぼよぼの声だった。それから彼は持っていた木挺のような[#「木挺のような」はママ]棒片《ぼうぎれ》で扉《ドア》をこつこつと叩き、私の父が出ると、ぶっきらぼうにラム酒を一杯注文した。それを持ってゆくと、彼は、酒の品評家のように、ちびりちびりと味いながらゆっくり飲み、その間も、あたりの断崖を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したり店の看板を見上げたりしていた。
「これぁ便利な入江だ。」とようやく彼は言い出した。「この酒屋も気の利いた処《とこ》にあるな。客は多いかね、大将《てえしょう》?」
 父は、いや、残念ながら客はごく少くてどうも、と彼に言った。
「うむ、そうか、」と彼は言った。「じゃあ己《おれ》にゃ持って来いの泊り場所だ。おいおい、お前《めえ》、」と手押車を押して来た男に呼びかけて、「ここへ車をつけて己の箱をおろしてくんねえ。己はしばらくここに泊ることにするぜ。」と言い続けた。「己ぁあっさりした男でな。ラムと|卵かけ塩漬豚肉《ベーコン・アンド・エッグズ》さえあれぁいいんだ。そしてあそこのあの岬を通る船を見張ってるのさ。己を何と言ったらいいって? 船長と言って貰《もれ》えてえ。おお、なるほど、あれか、――そうれ。」と彼は三枚か四枚の金貨を閾《しきい》のところへ投げ出した。「そいつがすっかりなくなったら、そう言って来い。」と司令官のように厳《いかめ》しい顔をして言った。
 そして、実際、衣服こそ粗末でものの言い方もぞんざいではあったけれども、彼には平水夫《ひらすいふ》らしいところは少しもなく、平生人をこき使ったりぶん殴ったりし慣れている副船長か船長のように思われた。手押車を押して来た男の話によれば、彼はその日の朝「|ジョージ王《ロイアル・ジョージ》屋」のところで駅逓馬車(註六)[#「(註六)」は行右小書き]を降り、海岸沿いにどんな宿屋があるかと尋ねて、私の家が多分評判がよく、また一軒離れていると聞かされたのであろう、他のところよりも私の家を滞在処に択んだのだという。そしてこの客人について私たちの知り得たことはそれだけだった。
 彼はいつもごく無口《むくち》な男であった。昼は一日中、真鍮の望遠鏡を持って、入江の周りや、または断崖の上をうろついていた。晩はずっと談話室《パーラー》の隅の炉火のそばに腰掛けて、あまり水を割らない強いラムを飲んでいた。話しかけられても大抵は口を利かなかった。ただ不意におそろしい顔をして見上げ、霧笛のように鼻を鳴らすだけだった。で、私たちも家《うち》のあたりへ来る人々も間もなく彼を相手にしないようになった。毎日、彼は、ぶらぶら歩きから帰って来ると、だれか船乗《ふなのり》が街道を通って行かなかったかと尋ねるのが常であった。初めのうちは、私たちは、彼がこういう質問をするのは自分と同じ仲間がほしいからだと思っていた。が、彼には、彼がそういう連中を避けたがっているのだということがわかりかけて来た。海員が「ベンボー提督屋」に泊ると(折々海岸伝いにブリストル(註七)[#「(註七)」は行右小書き]へ行く者が泊ることがあったのだ)、彼はカーテンをつけてある入口からその男を覗いて見てから、談話室へ入るのであった。そしてだれでもそういう人のいる時には、彼はいつでも必ず小鼠のようにこっそりしていた。少くとも私だけには、この事柄は不思議ではなかった。というのは、私は幾分彼と懼れを共にする者であったからである。彼は或る日私を脇へつれて行き、もし「一本脚の船乗を油断なく」見張っていて、見えたらすぐに知らせてくれさえしたら、毎月の一日に四ペンス銀貨を一枚ずつやると約束したのだ。月の一日が※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って来て、私が自分の報酬を請求すると、彼はただ私に向って鼻を鳴らして、私をじっと睨みつけることが、たびたびあった。が、その週の終らないうちに必ず考え直して、その四ペンスの銀貨を持って来てくれ、「一本脚の船乗」に気をつけておれという例の命令を繰返した。
 その人物がどんなに私の夢を悩ませたかは、言うまでもないくらいである。嵐の夜々、風が家全体を揺り動かし、激浪が入江や断崖に轟きわたる時には、その男がいろいろの姿で、またいろいろの悪魔のような形相をして現れるのであった。時には脚が膝のところで切れており、時には股《もも》のつけ根から切れていた。また時には、もとからその一本脚しかなくて、それが胴体の真中についているという怪物であることもあった。その男が生垣《いけがき》や溝を跳び越えてぴょんぴょん跳びながら私を追っかけて来るのは、中でも一番怖しい悪夢であった。で、結局、私は毎月四ペンスの金《かね》を貰うためにこんな忌わしい妄想に悩まされて、かなり割が合わない訳だった。
 しかし、私はその一本脚の船乗のことを思うとそんなに脅かされはしたけれども、船長その人には彼を知っている他のだれよりもずっと怖《こわ》くはなかった。彼は頭がもたないほどのたくさんのラムを飲む晩もあったが、そういう時には、時としては、坐りこんで例のいやな古い奇怪な船唄を歌い、だれをも念頭に置かなかった。が「時には、みんなにぐるりと杯をゆきわたらせて、ぶるぶるしている一座の者すべてに、無理に自分の話を傾聴させたり、自分の歌う後をつけて合唱させたりすることもあった。「よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と」で家が家鳴《やな》りするのを、私はたびたび聞いたことがある。近所の人々は皆びくびくしながら一所懸命に歌う仲間入りをし、目をつけられないようにと銘々が互に競って大声を出して歌ったのだ。なぜなら、こういう発作の時には彼はこの上なく高飛車に出たからで、みんなに黙れと言ってテーブルを手でぴしゃりと打つ。何か尋ねるとかっと癇癪を起したり、時には何も尋ねないからと言って、一座の者が自分の話を聞いていないのだときめこんで、怒ったりする。そして、自分が眠くなるまで飲んで寝床へよろめきこむまでは、だれ一人も宿屋を立去らせようとしないのであった。
 彼の話は中でも最も人々を怖がらせたものであった。それは実に恐しい話だった。首絞《くびし》めや、板歩かせ(註八)[#「(註八)」は行右小書き]や、海上の暴風雨《あらし》や、ドゥライ・トーテューガズ(註九)[#「(註九)」は行右小書き]や、スペイン海(註一〇)[#「(註一〇)」は行右小書き]での乱暴な所業やそこの土地土地などの話だった。彼自身の言うところから察すれば、彼はかつて海上を航海した最も邪悪な人間どもの間で過して来た者に相違ない。そして彼がこういう話をする時の言葉遣いは、彼の語った罪悪とほとんど同じくらいに、樸訥な私たちの田舎の人々をぞっとさせたのであった。父は、これでは宿屋も潰されてしまうだろう、やたらにいじめつけられ、口を利けば呶鳴《どな》りつけて黙らされ、震えながら寝床へやらされるのでは、間もなくだれもここへ来なくなるだろうから、といつも言い言いしていた。しかし、私は、彼が泊りに来たことは私たちのためになったと、ほんとうに信じている。人々もその当時は怖がっていたが、しかし振り返ってみると彼のいたことをむしろ好いていたのだ。それは平穏無事な田舎の生活には素敵な刺激だった。そして、若い人たちの中には、彼のことを「まことの船乗」だとか、「ほんとの老練な水夫」だとか、その他そういうような名で呼び、イギリスが海上で覇をなしたのはああいう類《たぐい》の人がいたればこそだと言って、彼に敬服するような顔をする連中さえもいたのである。
 一方から言えば、実際、彼は私たちの家を潰しそうにも思われた。というのは、彼は幾週も幾週も、そうしてついには幾月も幾月も滞在し続けたので、前の金はみんなとっくに使い尽したのだが、それでも父にはどうしてもまた勘定を頂きたいと言い張るだけの勇気が出なかったのである。もしいつでもそれをちょっと口に出したところで、船長は唸ると言ってもいいくらいに大きく鼻息を鳴らして、可哀そうな父を睨みつけて部屋から追い出してしまうのだった。そんなのにはねつけられた後に父が両手を揉み絞って(註一一)[#「(註一一)」は行右小書き]いるのを私は見たことがある。そして、そんな苦悩や恐怖の中に日を送ったことがきっと父の不幸な若死《わかじに》をよほど早めたのに違いないと思う。
 船長は、私たちのところにいた間に、靴下を数足行商人から買った他《ほか》には、身につけるものを何一つ変えたことがなかった。帽子の縁《ふち》の上反《うわぞり》が一箇処垂れると、彼はその日以来それをぶら下げておき、風の吹く時などずいぶんうるさいにも拘らず、そのままにしていた。私は彼の上衣の有様も覚えているが、彼は二階の自分の部屋でそれに綴布《つぎ》をあて、死ぬ前にはそれはまったく綴布だらけだった。彼は手紙を一度も書くこともなければ受取ることもなかったし、近所の人たち以外にはだれとも口を利いたこともなく、その人たちと口を利くのも大概はラムに酔った時だけだった。例の大きな船員衣類箱は私たちの中のだれ一人も開けてあるのを見た者はかつてなかった。
 彼は一度だけ逆《さから》われたことがあった。それはもう彼の末期に近い頃で、私の父が死病に罹って病勢がよほど進んでいる時のことだった。リヴジー先生が或る日の午後遅く父を診《み》に来て、母の出したちょっとした夕食をとり、「ベンボー屋」には厩舎《うまや》がなかったので、村から馬が迎えに来るまで一服やろうと談話室へ入って行った。私は先生の後からついて入ったが、雪のように白い髪粉《かみこ》をつけ(註一二)[#「(註一二)」は行右小書き]、きらきらした黒い眼をした、挙動の快活な、品のよい立派なその医師と、粗野な田舎の人々、就中《なかんずく》、ラムが大分※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、テーブルに両腕を張って腰掛けている、垢じみた、鈍重な、酔眼朦朧たる、ぼろぼろ着物の案山子《かかし》みたいな例の海賊君との対照が、目に止ったことを覚えている。突然、彼は――というのは船長のことだが――あの相も変らぬ唄を歌い出した。――


「死人箱にゃあ十五人――
  よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!
 残りの奴は酒と悪魔が片附《かたづ》けた――
  よいこらさあ、それからラムが一罎と!

 初め私は「死人箱《しびとのはこ》」というのは二階の表側の室にある彼のあの大きな箱のことだと思っていて、それが私の悪夢の中では例の一本脚の船乗のこととこんがらかっていたものだった。しかしこの時分には私たちは皆とっくにその唄に特別の注意を払わなくなっていた。で、それは、その晩、だれにも珍しくはなかったのだが、リヴジー先生だけには初めてで、先生にはあまりよい感じを起させなかったのを私は見て取った。というのは、先生はいかにも腹を立てた顔でちょっとの間見上げたからで、それから植木屋のテーラー爺さんにリューマチスの新療法についての話を続けた。とかくしているうちに、船長は自分の歌でだんだんと元気づいて来て、とうとう前のテーブルを手でぴしゃりと敲いた。黙れ――という意味であることを私たちみんなが知っているやり方だった。みんなの話し声はぴたりと止んだが、リヴジー先生の声だけは別であった。彼は、はっきりと穏かにしゃべり、言葉の合間合間にパイプをぱっぱっと吸いながら、前の通りに話し続けた。船長はしばらくの間彼を睨みつけ、それからもう一度手でぴしゃりと敲いて、さらに強く睨み、とうとうひどい野卑な罵り言葉を吐き出した。「おい、黙れ、野郎ども!」
「君は私《わたし》に言っているのかね?」と医師が言った。そしてその悪党が、また罵り言葉で、そうだと言うと、「私はたった一|事《こと》君に言っておくことがあるがね、」と医師は答えた。「それは、もし君が相変らずラムを飲み続けていると、この世から間もなくごく下劣なならず者が一人消え失せるだろうということだ!」
 老人めの激怒は恐しいものだった。彼は跳び立って、水夫用の摺込ナイフをひき出して刃を開き、それを掌にのせて振り動かしながら、医師を壁に突き刺してやると脅しつけた。
 医師は身動きさえもしなかった。前の通りに肩越しに振り向いて、同じ調子の声で、彼に話しかけた。室中の者に聞えるようにと幾らか高くはあったが、しかしまったく落着き払ったしっかりした声だった。――
「そのナイフをすぐさまポケットにしまわぬと、私は名誉にかけてお前をきっと次の巡回裁判で絞首《しめくび》にしてやるぞ。」
 それから二人の間に睨み合いが始まった。が、船長の方が間もなく降参し、武器を収めて、負けた犬のようにぶつぶつ言いながら、再び自分の席に坐った。
「ところでね、」と医師は続けて言った。「私の区にそういう奴がいるとわかったからには、私はこれからしょっちゅうお前に気をつけているから、そのつもりでいるがいい。私は医者だけじゃない。治安判事もやっているのだ。で、お前に対するちょっとした告訴でも握ったが最後、それがただ今夜のような無作法のためであったにしろ、お前をひっ捕えさせてここから追っ払わせることにしてやるからな。これだけ言っておく。」
 それから間もなくリヴジー先生の馬が戸口のところへ来たので、先生はそれに乗って帰って行った。が、船長は、その晩も、またそれから後の幾晩も、黙っておとなしくしていたのであった。

第二章 黒犬《ブラック・ドッグ》現れて去る

 この後遠からず、私たちにとうとう船長を厄介払いしてくれたあの不可思議な出来事の最初の事件が起ったのである。もっとも、その出来事というのは、だんだんとわかる通り、船長に関することをすっかり厄介払いしたという訳ではないのであるが。その冬はひどく寒くて、永い間|厳《きび》しい霜が降《お》り、烈しい風が吹いた。そして、可哀そうな父が春まで持ち越しそうにもないことは、初めからよくわかっていた。父は日毎に衰弱してゆき、母と私とは宿屋のことを何から何まで切り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]していて、ずっととても忙しくて、例の厭な客人には大して構わずにいた。
 一月の或る朝、ごく早い頃のことであった。――刺すような酷寒の朝で、――入江は一面に霜で真白になっており、漣《さざなみ》は静かに磯の石ころを洗い、太陽はまだ低くて、丘の頂《いただき》に射《さ》し、遠く海の方を照しているだけだった。船長はいつもより早く起きて、浜を下って行った。古びた青色の上衣の広い裾の下に彎刀《カトラス》(註一三)[#「(註一三)」は行右小書き]をぶら下げ、小脇に真鍮の望遠鏡を抱え、帽子を阿弥陀にかぶっていた。私は覚えているが、彼が大胯《おおまた》に歩いてゆくにつれてその後に彼の息が煙のように残っていた。そして彼が大きな岩角を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った時に私の聞いた最後の音は、怒ったような大きな荒い鼻息で、それはちょうど心ではまだリヴジー先生のことを思っているかのようだった。
 さて、母は二階に父と一緒にいた。私は船長の帰って来た時の用意に朝食の支度をしていたが、その時|談話室《パーラー》の扉《ドア》が開《あ》いて、それまでに私の一度も見たことのない男が入って来た。蒼白い色の男で、左手の指が二本なかった。彎刀を身につけてはいるけれども、あまり強そうには見えなかった。私はいつも船乗なら、一本脚でも二本脚でも、よく気をつけていたのだが、この男には頭を悩ましたのを覚えている。水夫らしくもないが、しかしまたどことなく海臭いところがあったのだ。
 何の御用ですかと尋ねると、彼はラムをくれと言った。しかし、私がそれを取りに室から出かけると、彼はテーブルの上に腰を下して、私にそばへ来いと手招きした。私は手にナプキンを持ったまま立ち止った。
「坊やこっちへ来な。」と彼は言った。「もっとこっちへ来な。」私は一歩近づいた。
「この食事は己《おれ》の仲間のビルのかい?」と彼はちょっと横目をして尋ねた。
 私は、あんたの仲間のビルという人は知らない、これは家《うち》に泊っている、私たちが船長と言っている人のだ、と言ってやった。
「なるほど、」と彼は言った。「己の仲間のビルのことなら船長と言われもするだろうな。あいつは片頬に切傷《きりきず》がある。そしてなかなか面白《おもしれ》えとこがあるよ、ことに酔っ払うとだ、ビルの奴はね。まあ証拠として申し上げようかな。その船長という男にゃ片頬に切傷がある、――そしてお望みとあれば言うが、それぁ右の頬だ。ああ、それ御覧、言いあてたろう。ところで、己の仲間のビルはこの家《うち》にいるかね?」
 私はその人は散歩に出ていると言った。
「どっちの方だ、坊や? どっちの方へ行っているんだい?」
 で、私が例の岩を指し、あの方から帰って来そうで、もう間もなく帰るだろうと言い、その他二三の問に答えると、その男は言った。「ああ、ビルの奴にゃ己に逢うなあ飲むのと同じくれえ嬉しいだろうな。」
 この言葉を言った時の彼の顔付はちっとも愉快そうではなかった。また、彼が言った通りのことを思っているとしたところで、この男は考え違いをしているのだと思う理由が私にはあった。しかし何も自分の知ったことではない、と私は思った。それにまた、どうしていいかもわからなかった。その他所《よそ》の男は宿屋の戸口のすぐ内側のところをうろついてばかりいて、鼠を待ち構えている猫のように岩角の方を窺っていた。一度私は街道へ出てみたが、彼はすぐさま私を呼び戻し、私が彼の気に入るように速くそれに従わなかったところが、彼の蒼白い顔が非常に怖しく変り、私を跳び上らせたほどの罵り言葉で、入れと命令した。私が戻るや否や彼は半ば御機嫌をとり半ば鼻であしらうような元の態度に返り、私の肩を軽く叩いて、お前はよい子だ、己はほんとにお前が好きなんだ、と言った。「己にも倅《せがれ》が一人あるがね、」と彼は言った。「お前《めえ》と瓜二つで、己の自慢の種よ。だが子供に大切なことは躾《しつけ》だ、坊や、――躾だよ。ところでだ、もしお前がビルと一緒に航海したことがあれぁ、二度言われるまでそこに立っているなんてこたぁしめえ、――お前はそんなこたぁしねえよ。そんなやり方はビルは決してやらねえ。またあの男と一緒に航海した者だってもやらねえさ。さて、あれぁいかにも仲間のビルだぞ、遠眼鏡《とおめがね》を抱えてね、おやおや、ほんとにな。坊や、お前と己とはちょいと談話室《パーラー》へ戻って、扉《ドア》の後《うしろ》にいてさ、ビルをちょっとばかりびっくりさせてやろうよ、――うん、確かにそうだ。」
 そう言いながら、その男は私と一緒に談話室へ戻り、隅の方で私を彼の背後に立たせ、二人とも開いている扉の蔭に隠れるようにした。諸君も想像されるように、私はひどく不安でびくびくしていたが、その他所の男も確かに怖がっているのを見て取ると、私の恐怖の念はさらに加わった。彼は彎刀の柄《つか》にすぐ手をやれるようにしたり、刀身が鞘からいつでも抜けるようにしたりした。そして私たちがそこに待っている間中、彼は咽喉《のど》の詰る思いをしているかのように絶えず唾をごくりごくりと嚥みこんでいた。
 やがて大胯に船長が入って来て、右も左も見ずに扉を背後にばたんと閉《し》めると、朝食の用意のしてあるところへと室を突っ切ってまっすぐに進んだ。
「ビル。」と他所の男が言ったが、その声は強いて大胆そうに見せかけようとしているように思われた。
 船長はぐるりと後へ向いて私たちと向き合った。その顔には赭味《あかみ》がすっかりなくなっていたし、鼻までが蒼かった。幽霊か、悪魔か、それよりももっと怖いものでも見た人間のような顔付であった。そして、確かに、まったくちょっとの間にひどく老いぼれて元気のなくなった彼を見ると、私は気の毒に思った。
「おい、ビル、己を知ってるだろ。お前《めえ》は昔の船友達を知ってるな、きっと、ビル。」と他所の男が言った。
 船長は喘ぐような息をした。
「黒犬《ブラック・ドッグ》だな」」と彼は言った。
「でなくてだれなものか?」と一方は大分落着いて来て返答した。「まさにその黒犬《ブラックドッグ》が昔の船友達のビリーに逢いに来たのさ、『|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋』へな。ああ、ビル、ビル、お互《たげえ》にずいぶんといろんな目に遭ったものだな、己がこの二本指をなくしてから此方《このかた》よ。」と不具になった手を挙げてみせた。
「で、おい、」と船長が言った。「お前《めえ》は己を探し出した。己はここにいる。だから、さあ、はっきり言ってくれろ。何の用だ?」
「さすがはお前だ。」と黒犬が言った。「お前の言う通りだよ、ビリー。ところで己はこの子供からラムを一|杯《ぺえ》貰えてえんだ。己ぁこの子がとても気に入ったのだ。それから、どうか掛けてくんねえ。昔の船友達らしく、ざっくばらんに話すとしようじゃねえか。」
 私がラムを持って戻って来た時には、二人はもう船長の朝食の食卓の両側に腰を掛けていた。――黒犬の方は扉の近くにいて、片方の眼を昔の友達に、片方の眼を私の思ったところでは逃げ場所につけておけるようにと、斜に腰掛けていた。
 彼は、私に、あっちへ行っておれ、そして扉を広く開けっ放しにして行ってくれ、と言いつけた。「鍵穴《かぎあな》から覗いたりなんかすると承知しねえぞ、坊や。」と彼は言った。で、私は二人を残して、帳場へ退いた。
 私は耳をすまして聞いてやろうと確かに一心になってはいたけれども、大分永い間、早口にべらべらしゃべる低い声の他《ほか》には何一つ聞えなかった。が、とうとう、その声はだんだん高くなり出して来て、船長の一語二語を聞き取ることが出来た。大抵は罵り言葉だった。
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。それでおしまいだ!」と船長は一度|呶鳴《どな》った。そしてまた呶鳴った。「もしぶらんこ(註一四)[#「(註一四)」は行右小書き]になるなら、みんながぶらんこだ、ってえんだ。」
 それから突然、凄じく罵り言葉やその他のやかましい物音が起った。――椅子とテーブルとが一度にひっくり返り、続いて刃物の打ち合う音がし、それから苦痛の叫び声がしたかと思うと、次の瞬間には、私は、黒犬が全力で逃げ、船長が猛烈に追っかけてゆくのを見た。二人とも抜き放った彎刀を手にし、黒犬は左の肩からたらたらと血を出していた。ちょうど戸口のところで、船長はその逃げてゆく男を狙って最後の物凄い一撃を浴《あび》せかけたが、もし家《うち》のベンボー提督の大きな看板で妨げられなかったなら、その一撃は確かにその男を背骨まで切り下したことだろう。今でも看板の下側にその刀痕が残っている。
 この一撃が果合《はたしあい》の終りであった。一度街道へ出ると、黒犬は、傷を負っているにも拘らず、一目散に走り逃げ、しばらくのうちに丘の縁の向うへ姿を消してしまった。船長はと言えば、彼は呆然としたように看板を見つめながら突っ立っていた。それから手で眼を何遍もこすり、やっと家の中へ引返して来た。
「ジム、」と彼が言った。「ラムだ。」そしてそう言った時に、少しよろめき、片手を壁にあてて身を支えた。
「怪我しましたか?」と私は叫んだ。
「ラムだ。」と彼は繰返して言った。「己はここから行かなきゃならん。ラムだ! ラムだ!」
 私はラムを取りに走って行った。しかし、さっきから起ったいろいろのことですっかりあわてていたので、コップを一つ壊したり樽の注口を駄目にしたりした。そしてまだまごまごしているうちに、談話室で何かがどかりと倒れる音が聞えたので、駆け込んで見ると、船長が床の上に大の字になって寝ていた。それと同時に、叫び声や喧嘩《けんか》騒ぎに驚いた私の母も私を助けに階下《した》へ駆け降りて来た。私たちは二人がかりで彼の頭を抱え上げた。彼は大層烈しく苦しそうに息をしていた。が、眼は閉じ、顔は気味の悪いほどの色をしていた。
「やれやれ、何てことだろう。」と母が叫んだ。「この家《うち》にゃ何て情《なさけ》ないことになったものだろう! それにお父さんは御病気だしねえ!」
 しばらくの間、私たちは船長の手当をするにはどうしたらいいかまるでわからなかった。また、彼があの他所の男との格闘で致命傷を受けたものと思いこんでもいたのだ。私はラムを持って来て、彼の咽喉へ流しこんでやろうとしたことはしたけれども、彼は歯をしっかりと喰いしばっていて、顎は鉄のように固かった。そこへ扉が開いてリヴジー先生が父を診察しに入って来たので、私たちはほっとした。
「おお、先生、」と私たちは叫んだ。「どうしたらよろしいでしょう? この人はどこを怪我しているのでしょう?」
「怪我だと? 馬鹿なことを!」と医師が言った。「あんた方《がた》や私と同様ちっとも怪我なんかしていませんよ。この男は中風を起したのだ、私が注意してやった通りにね。さあ、ホーキンズさんのおかみさん、あなたは早く二階の御主人のところへ行って下さい。そして、なるべくならこのことは御主人には話さずにな。私の方は、こいつのやくざな命《いのち》を助けるために一所懸命にやらねばならん。それからジムには金盥《かなだらい》をここへ持って来て貰おうね。」
 私が金盥を持って戻って来た時には、医師はもう船長の袖を切り開いて、大きな逞しい腕をまくりあげていた。その腕には数箇処に文身《いれずみ》がしてあった。「幸運あり」というのと、「順風」というのと、「ビリー・ボーンズのお気に入り」というのが、二の腕にごく巧みにはっきりと彫ってあった。それから、肩に近いところには、絞首台とそれにぶら下っている男とのスケッチがあり、なかなか生々《いきいき》と出来ていると私は思った。
「自分のことの予言だな。」と医師は指でその絵に触りながら言った。「さて、ビリー・ボーンズ君、というのが君の名前ならだが、君の血の色をちょっと拝見するよ。ジム、」と私に向って、「君は血を見るのが怖《こわ》いかね?」
「いいえ。」と私は答えた。
「よし、では、」と彼が言った。「金盥を持っていてくれ給え。」そう言って彼は刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]針を取って血管を切り開いた(註一五)[#「(註一五)」は行右小書き]。
 ずいぶんたくさん血が取られてから、船長はやっと眼を開《あ》けてぼんやりとあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。最初は医師の顔がわかると、紛れもない顰《しか》め面《づら》をした。次に私が目に入ると、ほっとした様子だった。しかし突然顔色が変り、起き上ろうとしながら、叫んだ。――
「黒犬《ブラック・ドッグ》はどこだ?」
「黒犬《ブラック・ドッグ》なんぞはここにはおらんよ、君が自分で背負っている他《ほか》にはな。(註一六)[#「(註一六)」は行右小書き]」と医師が言った。
「君は相変らずラムを飲んでいたものだから、中風を起したんだ、私が君に言ってやった通りに。で、私は、ずいぶん厭ではあったが、君を墓から頭を先にしてひきずり出してやったのだ。ところで、ボーンズ君――」
「それぁ俺《わし》の名じゃねえ。」と彼は遮った。
「どうだっていいさ。」と医師が答えた。「私の知合《しりあい》の海賊の名だよ。簡短でいいから君をそう言うことにするのだ。で、君に言っておかねばならんのはこういうことなのだ。ラムの一杯くらいなら君の命を取ることもあるまい。が、一杯やれば、もう一杯、もう一杯とやることになる。で、私は自分の仮髪《かつら》を賭けて言うが、もしお前はぴたりと止《や》めてしまわなければ、きっと死ねぞ、――わかったかね? ――死んで、聖書に書いてあるあの男みたいにお前の往くべき処へ行くんだぞ。(註一七)[#「(註一七)」は行右小書き]さあ、さあ、力を出すんだ。今度だけは手伝って寝台《ベッド》までつれて行ってやるよ。」
 私たちは、二人がかりで、ひどく骨折って、やっと彼を二階へひっぱり上げ、寝台へ寝かしてやった。すると彼は、ほとんど気絶しているかのように、頭をぐたりと枕に落した。
「さあ、いいかね。」と医師が言った。「これで私は責任をすませたのだ。――ラムということは君には死ということだぜ。」
 そう言うと彼は、私の腕を取りながら、父を診察しにそこを去った。
「何でもないことさ。」彼は扉を閉めるや否や言った。「あの男をしばらく静かにしておけるだけの血をぬいてやったのだ。あの男は一週間はあそこで寝ていなければいけない、――それがあの男にも君|方《がた》にも一番よいことだ。しかしもう一度発作を起せばあの男も往生だよ。」

第三章 黒丸《くろまる》

 午《ひる》頃、私は冷い飲物と薬とを持って船長の室へ入って行った。彼は、少しばかりずり上っただけで、私たちが室を出て来た時とほとんど同じようにして寝ていて、弱ってもおり興奮してもいるようだった。
「ジム、」と彼が言った。「ここじゃあ頼りになるなあお前《めえ》ばかりよ。で、己だっていつもお前にゃよくしてやったろう。一月《ひとつき》でも四ペンス銀貨をやらなかった月はないしさ。ところで、ねえ、己は今このようにずいぶ弱ってるし、だれも構っちゃくれねえ。で、ジム、お前己にラムを一|杯《ぺえ》持って来ておくれ。なあ、くれるだろ、え?」
「お医者さまが――」と私は言いかけた。
 けれども彼は急に、力のない声で、しかし心から、医師の悪口を言い出した。「医者なんて奴あみんな阿呆だ。」と彼は言った。「それに、あの医者なんか、へん、船乗のことなんぞ何を知ってるんだ? 己ぁ、瀝青《チャン》みてえに暑くって、仲間の奴らあ黄熱でばたばた斃《たお》れる処《とこ》にもいたことがあるし、地震で海みてえにぐらぐらしてる御結構な土地にもいたことがある。――そんな処をあの医者が知っているかい? ――そして己はラムで命を繋いでいたんだ、ほんとうによ。己にゃあ、ラムは何よりの好物だ、大事《でえじ》な女房だ。己は今|風下《かざしも》の海岸に浮いている情ねえ老いぼれ船みてえなもんだから、そのラムが飲めねえとなれぁ、ジム、お前に祟《たた》るぞ。それからあの医者の阿呆にもな。」と彼はそれからまたしばらくの間悪口を言い続けた。「見てくれ、ジム、己の指はこんなにぶるぶるしているよ。」と口説くような調子で続けた。「じっとさせておけねえのだ。出来ねえんさ。今日《きょう》はまだ一|滴《しづく》もやらねえんでね。あの医者は馬鹿だよ、ほんとに。もしラムを少しも飲まなけれぁ、ジム、己は酒精《アルコール》中毒が起るよ。もう少しは起ってるのだ。己にゃあその隅に、お前の後《うしろ》に、フリント親分が見えてるんだ。刷物《すりもの》みてえに、はっきりと見えてるんだ。もし酒精中毒を起すとなると、己ぁ荒《あれ》え渡世をして来た男だ、大騒ぎを起すぜ。あの医者だって一杯だけなら何でもあるめえって言ったよ。一杯持って来れぁ一ギニー金貨を一枚やるよ、ジム。」
 彼はだんだんと興奮して来たので、父に障りはしないかと私ははらはらした。父はその日はひどく悪くて、安静が必要だったのだ。それに、今船長の言った先生の言葉もあるから大丈夫だろうと思ったし、鼻薬でつろうとするのにはちょっと癪にさわった。
「あんたのお金なんかちっともほしかあないよ。お父さんにあんたが借りてる分の他《ほか》にはね。」と私は言った。「一杯だけ持って来てあげるが、それだけだよ。」
 それを持って来てやると、彼はひったくるように掴んで、すっかり飲み干してしまった。
「よしよし、」と彼が言った。「確かに、幾らかよくなったよ。ところでな、おい、あの医者はどのくれえこの寝床ん中に寝てなきゃなんねえって言ってた?」
「どうしても一週間は、って。」と私は言った。
「ひえっ!」と彼は叫んだ。「一週間だと! そんなこたぁ出来ねえ。それまでにゃあ奴らは黒丸《くろまる》を持って来らあ。あのやくざ水夫どもはこの今だって己の風上へ出てうまくやろうとしてうろつき※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってるんだ。あいつらは自分の分を取っておけねえんで、他人《ひと》の分をふんだくろうとするんだ。それが船乗らしい振舞《ふるめえ》か? え、聞きてえもんだ。だが己はつましい人間だ。自分の大事な金は一度も無駄使いもしなけれぁ、なくしもしねえ。も一度奴らに一|杯《ぺえ》喰わしてくれよう。奴らなんざあ怖《こわ》かねえ。なあ、己はまた帆を広げて、もう一度奴らを出し抜いてやるぞ。」
 こう言いながら、彼は、私が痛くてもう少しで大声を出しかけたほど私の肩をぎゅっと掴んで、脚を重量品のように重そうに動かしながら、ようようのことで寝台《ベッド》から起き上った。彼の言葉は意味には元気があったけれども、それを言っている声が弱々しいので、その対照が哀れだった。彼は寝台の端に腰を掛けた姿勢をとると、語をちょっと休んだ。
「あの医者にやられた。」と彼は呟いた。「耳鳴りがする。寝かしてくれ。」
 私が大して手伝わないうちに彼はまた以前の場所へ倒れ、しばらくは黙ったままでいた。
「ジム、」とようやく彼は言い出した。「今日あの水夫を見たろう?」
「黒犬《ブラック・ドッグ》かい?」と私は尋ねた。
「ああ! 黒犬《ブラック・ドッグ》だよ。」と彼は言った。「あいつ[#「あいつ」に傍点]は悪い奴だ。が、あいつをけしかけたもっと悪い奴がいるのだ。でな、己がどうにかして逃げられねえで、奴らが己に黒丸をさしつけたらな、いいかね、奴らの狙ってるのは己の古い衣類箱なんだよ。お前、馬に乗ってな、――乗れるね、乗れるかな? うむ、よしよし、じゃあ、馬に乗ってな、行くんだ、――そのう、なあに、言っちまえ! ――あのいまいましい医者の阿呆んとこへ行って、みんなを――治安判事だの何だのを――呼び集めてくれって話すんだ。そうすれぁ、あの男は『|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋』へ押しかけて来て――奴らをひっ捕えてくれるだろう、――フリントの船員をそっくりみんな、残ってる奴らみんなをな。己は一等運転士だったんだ、己はな。フリントの一等運転士だったのだ。そしてあの場所を知ってるのは己一人なんだよ。あの人は、今の己みてえに死にかけていた時に、サヴァナ(註一八)[#「(註一八)」は行右小書き]であれを己にくれたのだ。だがな、奴らが黒丸を己んとこへ持って来るまでは、それとも、お前がまた黒犬か、一本脚の船乗をだ、ジム、――ことに其奴《そやつ》だぜ、――其奴らを見るまでは、お前、言いに行くんじゃねえぞ。」
「だけど、その黒丸って何ですか、船長さん?」と私は尋ねた。
「それはね、呼出状さ。奴らが持って来たらお前に言ってやるよ。だが油断なく見張っててくれ、ジム。そうすりゃお前を相棒にして分けてやるからな、きっと。」
 彼はそれからしばらく取りとめのないことを言い、その声はだんだん弱っていった。が、私が薬をやると、「船乗で薬を飲みたがるなんて奴あ己だけだ。」と言いながら、子供のようにそれを服《の》んでから間もなく、とうとうぐっすりと気絶したように寝入ってしまったので、私はそこを立去った。もし万事が無事にいっていたなら自分がどうしていたかということは、私にはわからない。恐らくは医師にすべての話をしてしまったことであろう。というのは、私は、船長があの打明け話をしたことを後悔して私を殺しはしまいかと思って、とても怖かったからである。しかし実際起ったのは、その晩父がまったく急に亡《な》くなったことで、そのために他の事は皆そっちのけになってしまった。私たちの当然な悲歎、近所の人たちの弔問、葬式の手配、その間にもしなければならない宿屋のすべての仕事、などでずっとひどく忙しくて、私は船長のことを思う暇も碌々なく、まして彼を恐しがってなぞいられなかったのだ。
 彼は翌朝には階下へ降りて来るには来たし、いつもの通りに食事はした。もっとも、食べる方は少ししか食べなかったが、ラムはいつもよりもたくさん飲んだかも知れない。なぜなら、顔を顰め鼻息を鳴らしながら帳場から自分で勝手に取って来て飲み、だれ一人もそれを止《と》めようとする者がなかったのだから。葬式の前の晩にも彼は相変らず酔っ払っていたが、その喪中の家で、例のいやな古い船唄を彼がのべつに歌っているのを聞くのは、たまらないことだった。だが、彼は弱ってはいたけれども、私たちはみんな彼をひどく怖がっていたし、医師は急に何マイルも離れた患者のところへ行って、父の死んだ後は家の近くへ一度も来なかったのだ。私は船長が弱っていると言ったが、実際、彼は力を回復するよりも却って弱ってゆくように思われた。彼は這うようにして二階を上り下りし、談話室《パーラー》から帳場へ行ったりまた戻ったりした。時には、壁につかまって身を支えながら歩いてゆき、嶮《けわ》しい山を登る人のように苦しくはあはあ息をしながら、鼻を戸口の外へ突き出して海の香を嗅ぐこともあった。私に特に話しかけることは別になかった。自分のした内証話はほとんど忘れてしまっていたのだろうと思う。しかし気分は前よりはそわそわして、体《からだ》の弱っていることを差引すると前よりは荒っぽくなった。酔っ払った時などは、彎刀《カトラス》を引き抜いて、前のテーブルの上に抜身のまま置いたりするような、ひやひやさせることをした。しかし、そんなような有様ではあったけれども、前よりは他の人々のことを気にかけなくなり、自分だけの考えに耽って、幾らか気が変になっているのかと思われた。例えば、一度などは、私たちの非常に驚いたことには、鄙《ひな》びた恋唄のような、違った歌を歌い出したりしたものだった。それは、彼がまだ船乗にならない前の若い時分に覚えたものに違いなかった。
 このようにして過ぎていったが、葬式の翌日、霧深い、身を斬るような、霜寒の午後の三時頃、私は戸口のところにしばらく立って、父についての悲しい思いに耽っていた。すると、だれかが街道をのろのろとこっちへやって来るのが見えた。その男は、杖で自分の前をこつこつ叩いているし、眼と鼻との上に大きな緑色の覆いをかけているところをみると、明かに盲《めくら》であった。そして年か衰弱のせいのように傴僂《せむし》になっていて、頭巾《ずきん》附の大きな古びたぼろぼろの水夫マントを着ているので、実に不恰好《ぶかっこう》な姿に見えた。私は生れてからあんな恐しい様子をした者を見たことがなかった。彼は宿屋から少し離れたところに止ると、声を張り上げて奇妙な単調な調子で、前に向ってだれにともなく言いかけた。――
「どなたか御親切な旦那さま、哀れな盲人《めくら》に教えてやって下さい。私はわがイギリスのために、ジョージ陛下万歳! 名誉の戦争に出まして、大事な眼をなくした者でございます。――私の今おりますのは、この国のどこでございましょう、何という処でございましょうか?」
「ここは黒丘《ブラック・ヒル》入江の『|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋』だよ、小父《おじ》さん。」と私が言った。
「声がしましたな、」と彼は言った。――「お若い方《かた》の声だ。どうか御親切なお若い方、私にお手を貸して、中へ案内して下さいませんか?」
 私が手を差し出すと、今まで物言いのやさしかった、その怖しい、眼のつぶれた奴は、たちまちその手を万力《まんりき》のようにしっかと掴んだ。私はびっくりしてひっこもうと身を※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》いた。が、盲人は腕をぐっとひっぱっただけで私を身近へひきつけた。
「さあ、小僧、俺《わし》を船長のところへつれて行け。」と彼は言った。
「それぁとても駄目ですよ。」と私が言った。
「おお、言ったな!」と彼はせせら笑った。「まっすぐにつれて行け。でねえと、この腕をへし折ってくれるぞ。」
 そう言いながら、私の腕を捩り上げたので、私は思わず叫び声をあげた。
「でも、私《わたし》の言うのはあんたのためなんですよ。」と私が言った。「船長さんは以前の船長さんじゃないんだもの。抜身の彎刀《カトラス》を持って坐っているよ。この間も他《ほか》の方《かた》が――」
「さあ、さっさと歩くんだ。」と彼は私の言葉を遮った。私はその盲人の声のような無慈悲な、冷酷な、不愉快な声はかつて聞いたことがなかった。手の痛さよりもその声の方がもっと私をおじけさせた。それですぐ彼の言うことをきいて、まっすぐに歩いて戸口のところから談話室の方へと進んで行った。その談話室に、あの病気の老海賊がラムに酔ってぼんやりして坐りこんでいるのだ。盲人は私にぴったりとくっついて、鉄のような拳で私を掴み、堪えられないほどの重さで私に凭《もた》れかかっていた。「まっすぐに奴のところへつれて行って、奴に見えるとこまで来たら、『ビルさん、あんたの友達が来ましたよ。』って呶鳴《どな》るんだ。もししねえと、こうしてやるぞ。」そう言うと彼は私の腕をぐいとひっぱり上げたので、私は気が遠くなりそうに思った。あれやこれやで、私はこの盲乞食がすっかり怖くなったので船長の恐しさを忘れてしまい、談話室の扉《ドア》を開《あ》けると、言いつけられた言葉を震え声で呶鳴った。
 可哀そうに、船長は眼を上げると、一目でラムの気《け》がなくなり、まったく酔いが醒めてしまった。その顔の表情といったら、恐怖というよりもむしろ死病の表情であった。彼は立ち上ろうとしたが、しかし、それだけの力も体に残っていたとは私には思えない。
「さあ、ビル、そのままで坐ってろよ。」と乞食が言った。「眼は見えなくても、耳は指一本動かしたってわかるんだ。用事は用事さ。お前《めえ》の右の手を出してくんな。小僧、奴の右手の手頸を掴んで、俺の右手の近くへ持って来い。」
 私たちは二人とも寸分違わず盲人の言う通りにした。と、私は、盲人が杖を持っている手の掌中から、船長の掌の中へ、何かを渡したのを見た。船長は直ちにそれを握った。
「さあこれですんだ。」と盲人が言った。そしてその言葉を口にすると急に私を掴んでいる手を放し、ほんとうとは思えないくらいに見当も違えず素速く、談話室から街道へと跳び出し、私がまだじっと突っ立っていると、彼の杖の音が街道をこつ、こつ、こつ、こつと遠くまで行くのが聞えた。
 私か船長かが我に返ったようになるまでにはしばらく間があった。が、とうとう、そしてほとんど同時に、私はまだ掴んでいた船長の手頸を離し、彼の方は手をひっこめて掌の中をぱっと見た。
「十時!」と彼は叫んだ。「六時間ある。まだ奴らを出し抜けるぞ。」そして跳び立った。
 と同時に、彼はよろめき、咽喉へ手をあて、ちょっとの間ぐらぐらしながら立っていたが、それから、異様な声を立てながら、ばたりと俯伏に床《ゆか》へ倒れた。
 私は、母を呼びながら、直ちに彼のそばへ駆け寄った。が急いでももう無駄だった。船長は猛烈な卒中にやられて死んでしまっていた。奇妙なことだが、近頃こそ彼を可哀そうに思いかけてはいたけれども、私は確かに彼を好いたことなんぞ決してないのに、彼が死んだのを見るや否や、どっと涙が出て来たのであった。それが私の見た二度目の死で、一度目の死の悲しみが私の心にまだ生々《なまなま》しかったのだ。

第四章 船員衣類箱

 私は、もちろん、時を移さず、自分の知っている限りのことを母に話した。多分、ずっと前に話しておくべきであったのだが。そして直ちに私たちはむずかしい危険な立場にいることに気がついた。船長の金《かね》――もし彼が幾らかでも持っているなら――には確かに私たちに支払うべき分があった。が、船長の船友達、とりわけ私の見た二人の例証たる人間、黒犬《ブラック・ドッグ》とあの盲乞食とが、その死んだ男の借金の支払のために自分たちの分捕品を見棄てる気になるということは、ありそうにもなかった。船長の言いつけたようにすぐに馬に乗ってリヴジー先生のところへ駆けつけるとすると、母は独りぽっちになって保護する者がなくなるので、それは思いもよらぬことだった? 実際、もうあまり永くこの家に居残っていることは、私たちどちらにとってもとても出来ないように思われた。台所の炉の中で石炭の落ちる音にも、掛時計のかっちかっちいう音にさえも、私たちはびくびくした。私たちの耳には、近づいて来る跫音《あしおと》が四辺に頻りにどかどか聞えるような気がした。談話室《パーラー》の床《ゆか》に倒れている船長の死体やら、あのいやらしい盲乞食がすぐ近くにうろついていて今にも帰って来そうなことを思うやらで、私は恐しくて身の毛のよだつ時があった。何とか速くきめなければならなかった。そして私たちはとうとう、二人一緒に出かけて隣村《となりむら》へ行って助けを求めようという考えが思いついた。言うが早いかやり出した。帽子もかぶらないままで、私たちは直ちに、迫って来る夕闇の霜寒の霧の中へ駆け出した。
 その村というのは、次の入江の向側にあって、こちらから見えはしないが、何百ヤードも離れていなかった。それに大層心強かったのは、例の盲人がやって来た方、また恐らく帰って行った方とは、反対の方角にあったことだった。私たちはそう永くは街道にいなかったのだが、それでも時々立ち止って互に縋《すが》り合い耳をすました。しかし何も変った音はしなかった。――ただ、岸に打ち寄せる漣《さざなみ》の低い音と、森で鴉がかあかあ鳴く声だけだった。
 村へ着いたのはもう灯《ひ》ともし頃《ごろ》だった。そして、家々の戸口や窓から洩れる黄ろい光を見た時の嬉しさを、私は決して忘れることがあるまい。だが、それが、後でわかったように、私たちがそこで得られた最上の助けだったのだ。という訳は、――人々が自分を恥じたろうと思われるであろうが、――だれ一人として私たちと一緒に「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」へ引返そうという者がなかったからである。私たちの難儀を話せば話すほど、ますます――男も女も子供も――皆自分たちの家へすっこむのだった。フリント船長の名は、私には初めてであったけれども、村ではよく知っている人もあって、非常に恐れさせる力があった。それに、「ベンボー提督屋」の先の方の側で野良《のら》仕事をしていた人たちの中には、見慣れない男が何人も街道にいるのを見て、それを密輸入者だと思って逃げ出したことがあるのを、思い出す者もあったし、また、少くとも一人は、キット入江と言っているところに小さな帆船《ラッガー》を一艘見たことがあった。実際、フリント船長の仲間であった者ならだれであろうと、村の人を死ぬほど怖がらせるに十分であった。で、結局、別の方角にあるリヴジー先生のところへなら進んで馬を走らせようという者が幾人もいたけれども、私たちを助けて宿屋を護ろうとする者は一人もいなかったのである。
 臆病はうつると世間では言う。しかしまた、一方、議論は非常に勇気をつけるものである。で、銘々が言うだけのことを言ってしまうと、母は皆に言った。父親のないこの子のものであるお金は損したくない、と母は言い切った。「あなた方《がた》がどなたも来て下さらないなら、ジムと私《あたし》が行きます。」と母が言った。「戻って行きますよ、来た道をね。いやどうも有難うござんした。図体《ずうたい》ばかり大きくて、胆っ玉の小さい方《かた》ばかりですね。死んだっていいから、私たちはあの箱を開《あ》けてみます。すみませんがその嚢を貸して下さいな、クロスリーさんのおかみさん。私たちの貰う権利のあるだけのお金を入れて来るんですから。」
 もちろん、私は母と一緒に行くと言った。また、もちろん、人々はみんな私たちのことを無鉄砲だと呶鳴《どな》った。が、それでもなお、一緒に行ってやろうという者は一人もなかった。ただ、私たちが襲われないようにと、弾丸を籠めた一挺のピストルを私に渡してくれ、また帰りに追いかけられた場合の用意に、馬にちゃんと鞍をつけておこうと約束してくれただけだった。一方、一人の若者が、武装した援助の人を探しに、医師の許へ馬を走らせることになった。
 私たち二人がその寒い晩この危険な冒険に出かけた時には、私の胸はひどくどきどきと動悸うった。ちょうど満月が昇り始めていて、霧の上の方の縁《へり》を通して赤くほのかに現れた。このために私たちはますます急いだ。という訳は、これでは、再び出て来る前に、すっかり昼のように明るくなっていて、家から私たちの出るのが見張っている者どもに見つけられてしまうことは、明かだったからである。私たちは音を立てずに速く生垣に沿うて走って行った。また、私たちの恐怖の念を増すものは何一つ見もしなければ聞きもしなかった。そしてとうとう「ベンボー提督屋」へ着いて、入口の扉《ドア》を背後にぴたりと閉めると、まったくほっとした。
 私がすぐさま閂《かんぬき》をさし、私たちは、船長の死体のある家の中にただ二人きりで、暗闇《くらやみ》の中でちょっとの間はあはあ喘ぎながら立っていた。それから母が帳場から蝋燭を取って来て、私たちは互に手を取り合いながら、談話室へ入って行った。船長は私たちの出て来た時のまま、仰向になって、眼を開いて、片腕を伸ばしながら、横っていた。
「鎧戸を下《おろ》して、ジムや。」と母が小声で言った。「あいつらが来て外から覗くかも知れないから。それからね、」と、私が鎧戸を下してしまうと、母が言った。「あれ[#「あれ」に傍点]から鍵を取らなきゃならないんだがね。あんなものに触《さわ》るなんてねえ!」そう言いながら母はしゃくり泣きのようなことをした。
 私はすぐさましゃがんで膝をついた。船長の手の近くの床《ゆか》の上に、片面を黒く塗った、小さな丸い紙片《かみきれ》があった。これがあの黒丸[#「黒丸」に傍点]であることは疑えなかった。取り上げて見ると、裏面に、頗る上手な明瞭な手跡で、こういう簡短な文句が書いてあった。「今夜十時まで待ってやる。」
「十時までなんだって、お母さん。」と私は言った。ちょうどそう言った時、家《うち》の古い掛時計が鳴り出した。この不意の音で私たちはぎょっとして跳び上った。けれども、これはよい知らせだった。というのは、まだ六時だったから。
「さあ、ジムや、あの鍵だよ。」と母が言った。
 私は彼のポケットを一つ一つ探った。小さな貨幣が二三箇に、指貫《ゆびぬき》が一つに、糸と大きな縫針、端を噛み切ってある捩巻煙草《ねじまきたばこ》が一本と、曲った柄の附いた|大形ナイフ《ガリー》と、懐中羅針儀と、それから引火奴箱《ほくちばこ》、これだけが入っているだけだったので、私は絶望し始めた。
「じゃ多分頸の周りについてるんだろうよ。」と母が言ってくれた。
 厭でたまらないのをこらへて、シャツの頸のところを引き裂くと、果して、タールまみれの紐に鍵が下げてあったので、私は彼の大形ナイフでその紐を切った。この上首尾に私たちはもう大丈夫だと思い、さっそく二階へ駆け上って船長が永い間寝泊りしていた小さな室へ入った。そこに例の箱が彼の着いた日以来置いてあるのだ。
 その箱は、外から見たところでは他の船乗衣類箱と同じようだった。蓋には「B.」という頭字《かしらじ》が烙鉄《やきがね》で烙印してあった。永い間手荒く扱われたためか角は幾分ひしゃげて壊れていた。
「鍵をおくれ。」と母が言った。そして、錠は非常に固かったけれども、瞬く間に母はそれを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して蓋をはね開けた。
 煙草とタールとの強い臭いが内部からぷんとして来たが、一番上には、入念にブラシをかけて折り摺んである一着のすこぶる上等な服の他《ほか》には、何も見えなかった。この服はまだ一度も着てない、と母は言った。その下からは、ごったまぜで、――四分儀、ブリキの小鑵が一箇、煙草が数本、ごく立派なピストルが二対、銀の棒が一本、古いスペインの懐中時計が一箇、それにあまり値打のない大抵は外国製の装身具類が幾つか、真鍮で拵えたコンパスが一つ、それから珍しい西インドの貝殻が五つ六つあった。その時以来、私は、どうして船長が悪業を犯してお尋ね者の放浪生活を送っている間この貝殻を持ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていたのかと、不審に思うことがたびたびある。
 これまでに私たちの見つけた幾らかでも値打のあるものは銀と装身具だけで、これはどちらとも私たちには不向のものだった。その下に古びた船員作業服が一着あった。方々の港口の洲で海水を浴びたために白っぽくなっていた。母はいらいらしてそれをひっぱり出した。すると箱の中にある最後の物が私たちの前に現れた。油布《ゆふ》でくるんだ書類のような包と、触《さわ》ると金《かね》の音のじゃらじゃらするズックの嚢だった。
「あの悪者たちに私が正直な女だということを見せてやろう。」と母が言った。「私は自分の貰わなきゃならない分だけは貰うが、一文だって余計にゃ取らないよ。クロスリーさんのおかみさんの嚢を持っていておくれ。」そして母は船長の勘定高をその海員の嚢から私の持っている嚢の中へと数えて入れ始めた。
 それはなかなか永くかかる面倒な仕事だった。なぜなら、その貨幣はいろいろの国のさまざまの大きさのもので、――ダブルーン金貨や、ルイドール金貨や、ギニー金貨や、八銀貨や、その他私の知らないものなどが、みんなめちゃくちゃに詰め込んであったのだから。それにまた、ギニー金貨がほとんど一番少く、母に勘定の出来るのはそのギニー金貨だけなのであった。(註一九)[#「(註一九)」は行右小書き]
 私たちが半分ばかり数えた時、私は突然母の腕に手をかけた。しいんとした霜寒の空気の中に、私をぎょっとさせた音を聞いたからである。――冱《い》てついた街道をあの盲人の杖がこつ、こつ、こつと叩く音だ。私たちが息を殺して坐っている間に、その音はだんだんだんだんと近づいて来た。やがて杖で宿屋の入口の扉を強く敲いた。それから把手《とって》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す音が聞え、あの盲人めが入ろうとするのであろう、閂ががたがたいうのが聞えた。それから永い間、内も外もひっそりしていた。とうとう、また、こつ、こつと杖の音がし始めて、ゆっくりと再び微かになってゆき、ついに聞えなくなったので、私たちは言うに言われぬくらい喜び、また有難く思った。
「お母さん、みんな持って逃げて行きましょうよ。」と私が言った。きっと、扉に閂がさしてあるのが怪しいと思われて、面倒を惹き起すに違いないと思ったからである。もっとも、その閂をさしておいたことを私がどんなに有難く思ったかは、あの恐しい盲人に逢ったことのない人には到底わからないのであるが?
 しかし母は、怖がってはいる癖に、自分の当然受取るべき分より少しでもたくさん取ることを承諾しようとせず、またそれより少いのも頑固に承知しなかった。まだなかなか七時にもならない、と母は言った。母は自分の権利を知っていて、それだけを得たいというのだ。そしてなおも私と言い争っていた時に、小さな低い呼子《よびこ》の音が丘の大分離れた処で鳴った。二人ともそれを聞けば十分だった。いや、十二分だった。
「取った分だけ持ってゆくことにするよ。」と母は跳び上りながら言った。
「じゃ僕は勘定を帳消しするためにこれを持ってゆこう。」と私は油布の小包を取り上げながら言った。
 次の瞬間には、空《から》の箱のそばに蝋燭を残したまま、私たちは二人とも階下へ手探りして降りていた。その次の瞬間には扉を開けて一散に逃げ出していた。私たちの出たのは一刻も早過ぎるということはなかった。霧はずんずんと霽《は》れてゆくところであった。月はもうどちらの側の高地をもまったくはっきりと照していた。そして谷のちょうど底のところと旅店の戸口の周りだけにまだ薄い霧が破れずにかかっていて、私たちが逃げ出す初めの間だけ身を隠すことが出来たのだ。丘の麓から少ししか行かないところ、村までの半分道よりずっと手前で、私たちは月光の中に出なければならなかった。それだけではなかった。走っている何人もの跫音《あしおと》がもう私たちの耳に聞えて来たのである。その方向を振り返って見ると、灯が一つあちこちと揺れ動き頻りに速くこちらへ進んで来るので、今やって来る者どもの中の一人が角燈を持っていることがわかった。
「ねえ、お前、」と母が急に言った。「このお金を持ってずんずん逃げておくれ。私は気が遠くなりそうだから。」
 これではどうしたって私たち二人とももうおしまいだ、と私は思った。どんなに私は近所の人々の臆病を呪ったことだろう。どんなに私は母が正直であってまた慾張りであったことや、さっきは無鉄砲でありながら今は心弱くなったことを、咎めたことだろう! 幸運にも、私たちはちょうど小さな橋のところにいた。それで私はよろよろしている母を助けて土手の縁までつれて行くと、果して、母はほっと吐息《といき》をついて私の肩にぐったりと倒れかかった。私はどうしてそれだけの力が出たのかわからないし、手荒なことをしたのかも知れないが、とにかく、どうにかこうにか母を橋のアーチの下から少し離れた土手の下へ曳きずって行った。それ以上は動かすことが出来なかった。橋があまり低くてその下は私が這ってゆけるだけだったからである。そういう訳で私たちはそこに止《とど》まっていなければならなかったが、――母はほとんど全身が見えるところにいたし、二人とも宿屋から声の聞えるところにいたのである。

第五章 盲人の最期

 私の好奇心は、或る意味で、私の恐怖の念よりも強かった。なぜなら、私は自分のいた処にじっとしていられなくて、再び土手へ這い上ったからで、そこから、頭を金雀花《えにしだ》の茂みの後に隠して、私の家の前の街道を見渡そうと思ったのである。私がちょうどよい場所を占めるか占めないに、敵どもはやって来始めた。七八人で、ばたばたと調子を乱した足音をさせながら街道を激しく走り、角燈を持った男が数歩先に立っていた。三人の男が互に手を取り合って一緒に走っていたが、霧を通してながらも、この三人組の真中の男が例の盲乞食だと私は見て取った。次の瞬間、その男の声で私の思った通りだということがわかった。
「戸をぶっ壊せ!」と彼が叫んだ。
「よしきた!」と二三人が答えた。そして「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」へどっと突進し、角燈持ちがそれに続いた。それから私には彼等が立ち止ったのが見え、今までとは低い調子で何か言っているのが聞えた。戸口が開いているのを見てびっくりしたのであろう。しかしその静かなのはしばらくしか続かなかった。盲人が再び命令を下したのである。彼があせって怒り狂っているかのように、その声はさらに大きく高く響きわたった。
「入《へえ》れ、入れ、入れ!」と彼は喚《わめ》き、皆がぐずぐずしているのを罵った。
 四五人の者が直ちに命令に従い、二人がその怖しい乞食と共に街道に残った。しばらく間《ま》があったが、やがて驚きの叫び声がし、それから家の中から喚く声がした。――
「ビルの奴あ死んでるぞ!」
 しかし盲人は再び彼等がぐずぐずしているのを口ぎたなく罵った。
「ずるけ野郎ども、二三人で奴の体《からだ》を調べるんだ。残りの奴らは上へ行って箱を手に入れろ。」と彼は叫んだ。
 彼等の足が私の家の古い階段をがたがたっと駆け上る音が私に聞えた。あれでは家はぐらぐら揺れたに違いない。それからすぐ後に、またびっくりした声が起った。船長の室の窓がばたんと開《あ》け放され、硝子ががちゃんと壊れる音がした。そして一人の男が月光の中へ頭と肩とをぐっと出して、その下の街道にいる盲乞食に話しかけた。
「おい、ピュー、」と彼が叫んだ。「先に来た奴らがいるんだ。だれかが箱をすっかり掻き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してあるぜ。」
「あれぁあるか?」とピユーが呶鳴《どな》った。
「金《かね》はあるよ。」
 盲人は金なんぞ糞喰らえだと言った。
「フリントの書《け》えたものがあるか、ってえんだ。」と叫んだ。
「それぁここにゃ見えねえ。」とその男は答えた。
「じゃあ、下にいる野郎ども、ビルの体についてやしねえか?」と盲人が再び叫んだ。
 すると、多分船長の体を調べるために階下に残っていた男であろう、別の奴が宿屋の戸口のところへ出て来て、「ビルの体はもうすっかり検査してあらあ。何一つ残っちゃいねえ。」と言った。
「じゃ宿屋の奴らだ、――あの小僧だ。奴の眼をくり抜いてくれりゃあよかった!」と盲人のピューが叫んだ。「奴らはたった今ここにいたんだ、――俺が入《へえ》ろうとした時に戸に閂をさしていやがったんだ。おい、みんな、散らばって、奴らを見つけ出せ。」
「違《ちげ》えねえ、奴らはここに燈《ひ》を残してゆきやがった。」と窓のところにいる奴が言った。
「散らばって奴らを見つけ出せい! 家を探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れ!」とピューは杖で街道を敲きながら繰返して言った。
 それに続いて、私の古い家中が大騒ぎになった。ずっしりした足があちこちとどやどや歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。家具がひっくり返される。扉が蹴破られる。あたりの岩までが反響するくらいだった。それから、その連中は一人一人再び街道へ出て来て、家の者たちがどこにも見当らないと言った。ちょうどこの時、さっき死んだ船長の金を数えていた母と私とを狼狽させたと同じ呼子の音が、もう一度夜気を擘《つんざ》いてはっきりと聞えたが、この時は二回繰返して鳴った。私は前にはそれを盲人が仲間を襲撃に呼び集める彼のいわば喇叭《らっぱ》のようなものと思っていたのであった。が、今度は、それが村の近くの丘辺からの合図で、それを聞いた時の海賊どもの様子から考えて、危険が迫っていることを彼等に警告する合図であるということが、わかった。
「ダークがまた鳴らしたぜ。」と一人が言った。「二度だぞ! 引揚げなきゃなるめえ、兄弟《きょうでえ》。」
「引揚げるだと、この卑怯者め!」とピューが叫んだ。「ダークは初めっから馬鹿で臆病者なんだ、――あんな野郎にゃ構うこたぁねえ。奴らはすぐ近くにいるに違えねえんだ。遠くへ行ってるはずはねえ。つかめえているも同じだ。散らばって奴らを捜せ、やくざども! えい、畜生、俺に眼が見えたらなあ!」と喚いた。
 この言葉は幾らか利目《ききめ》があったらしい。二人の男ががらくた物の間をここかしこと探し始めたが、しかし、私には、本気にやっているのではなくて、始終自分の身の危険に半ば気を配っているように思われた。一方、他の連中は街道にぐずついて立っていた。
「この馬鹿野郎どもめ、何万両が手に入《へえ》ろうってのに、尻込みしてやがるなんて! あれを見つけ出しゃあ、手前《てめえ》たちは王様みてえに金持になれるんだ。それがここにあるってことがわかってながら、もじもじして突っ立ってやがる。手前たちの中にゃビルに面と向えた奴が一人もなかったんだ。それを俺がやったんだぞ、――この盲人《めくら》がな! それだのに手前たちのために俺は運をなくしなきゃならねえ! 馬車を乗り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]せようってのに、這《へ》えつくばいの乞食になって、ラムを貰って歩かなきゃならねえんだ! 手前たちにビスケットについている虫だけの勇気でもありゃあ、奴らを掴めえられるんだがなあ。」
「ちぇっ、ピュー、己たちぁダブルーン金貨を手に入れたんだぞ!」と一人がぶつぶつ言った。
「奴らがあのいまいましい物を隠したんかも知れねえ。」と別の男が言った。「ジョージ金貨(註二〇)[#「(註二〇)」は行右小書き]をやるからな、ピュー、ぎゃあぎゃあいうのはよせよ。」
 ぎゃあぎゃあいうとは当嵌《あてはま》った言葉であった。こういう反対を受けてピューの憤怒はますますひどくなった。ついにはまったく逆上してしまって、右に左に盲滅法彼等に打ってかかり、彼の杖で一人ならずしたたか殴りつけられる音がした。
 彼等の方も、盲の悪漢を罵り返し、ひどい言葉で嚇《おど》しつけ、彼の杖を掴んで※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎ取ろうとしたが駄目だった。
 この喧嘩《けんか》で私たちは助かったのだ。こうしてまだ盛んに暴《あば》れている間に、村の側にある丘の上から別の物音が聞えて来た。――駆けて来る馬の蹄の音である。それとほとんど同時に、生垣の方からピストルの音がしてぱっと火花を発した。これは明かに危険を知らせる最後の合図であった。なぜなら、海賊どもは直ちに向を変えて四方八方へ分れて走り出したから。或る者は入江伝いに海の方へゆき、或る者は丘を斜に横切ってゆきなどして、半|分《ぷん》とたたないうちに彼等の影も見えなくなり、ピューだけが残された。彼を見棄てて行ったのは、狼狽のあまりか、それとも彼の悪口や打擲《ちょうちゃく》に意趣返しをするためか、私にはわからない。がとにかく彼は後に残って、狂気のように街道を行ったり来たりしながらこつこつ叩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、仲間の者を手探りしたり呼び立てたりした。その挙句に方角を間違え、私の前を通り越して村の方へ数歩走りながら、叫んだ。――
「ジョニー、黒犬《ブラック・ドッグ》、ダーク、」とその他の名も呼び、「お前《めえ》たちは年寄のピューをおいてゆくんじゃねえだろうな、兄弟《きょうでえ》、――年寄のピューをな!」
 ちょうどその時、馬蹄の音が高地の頂上に達したかと思うと、四五人の騎者の姿が月光の中に現れ、全速力で坂路を駆け下りて来た。
 これを聞いてピューは方向を間違えていたのに気がつき、きゃっと叫んで向を変え、溝の方へまっすぐに走って、その中へ転《ころ》げ込んだ。しかし彼はすぐさま再び立ち上って、また駆け出したが、今度はすっかり顛倒していたので、走って来る一番近い馬の真下へ突き進んだ。
 騎手は彼を救おうとしたが、駄目だった。悲鳴をあげてばったりとピューは倒れ、その声は夜の空気の中へ高く響きわたった。四つの蹄は彼を踏みにじり蹴飛ばして通り過ぎた。彼は横倒しに倒れ、それからぐにゃりと俯向になって、それっきり動かなくなった。
 私は跳び立って、馬に乗っている人たちに声をかけた。彼等もこの椿事《ちんじ》にびっくりして、ともかく馬を留めようとしていた。それで彼等が何者か私にはすぐにわかった。皆の後に後《おく》れてやって来たのは、村からリヴジー先生の許へ行った若者であった。その他の人々は税務署の役人たちで、その若者は途中でこの人たちに会い、気転を利かして一緒に直ちに引返して来たのだ。例の帆船《ラッガー》がキット入江に入っているという知らせが監督官のダンスさんの耳に入ったので、彼はその晩私の家の方向へやって来たのだった。そのお蔭で母と私とは命拾いをしたのである。
 ピューは死んでいた。まったくことぎれていた。母の方は、村まで運んで行って、冷い水を少しや嗅塩《かぎしお》(註二一)[#「(註二一)」は行右小書き]や何やをやると、間もなく再び正気に返った。怖がったのだがそのために別条はなかった。しかしまだ受取るお金の足りなかったことをこぼし続けていた。一方、監督官は出来るだけ速くキット入江へ馬を走らせた。けれども彼の部下の人たちは、馬から下りて、それをひっぱったり、時には支えてやったりして、その上絶えず伏兵を恐れながら、峡谷を手探って下って行かねばならなかったので、皆が入江へ下り着いた時には、例の帆船がすでに錨を上げて航進し始めていたのは、怪しむに当らないことだった。もっとも、船はまだ入江の中にはいた。監督官はその船に声をかけた。すると中からだれかの声が答えて、月明りのところへ出ないようにしろ、さもないと弾《たま》を喰らうぞ、と言った。そして同時に、一発の弾丸がぴゅうっと飛んで来て彼の腕を掠めた。それから間もなく、帆船は岬を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って見えなくなってしまった。ダンスさんは、彼の言葉で言えば、「水を離れた魚《さかな》みたいに」そこに突っ立った。もうこうなっては出来ることはB――へ急いで人をやって税関の監視船に知らせてやることだけだった。「でもそうしたところでまず何にもなるまい。奴らはすっかり逃げてしまって、もうおしまいだからな。」と彼は言って、「ただ、私《わたし》はピュー先生を踏んづけてやったのは愉快だよ。」と言い足した。この時までには彼は私の話を聞いて知っていたからである。
 私は彼と一緒に「ベンボー提督屋」へ戻ったが、あれほどめちゃめちゃになった家は諸君にも想像出来ないくらいである。掛時計さえも、あいつらが母と私とを乱暴に探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていた間に叩き落されていた。そして、実際に持って行かれたものは、船長のあの金嚢《かねぶくろ》と、銭箱の中の銀貨が少しとだけではあったけれども、私にはすぐに私たちの家《うち》はもう潰されたということがわかった。ダンスさんにはこの場の有様が合点がゆかなかった。
「奴らは金を持って行ったと言うんだね? ふうん、とすると、ホーキンズ、奴らの探していたのは一体何だい? もっと金がほしかったのかな?」
「いいえ、お金じゃないと思います。」と私は答えた。「実は、私の胸ポケットに持っている物だと思うのです。実を申しますと、それを安全なところへ置きたいんですが。」
「なるほどね。いいとも。」と彼は言った。「よければ、私が預ってあげよう。」
「私は、多分、リヴジー先生が――」と私が言いかけた。
「まったくそうだ。」と彼はごく機嫌よく私の言葉を遮った。「まったくそうだよ、――紳士で治安判事だからね。で、今思いついたんだが、私もあそこへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、あの人か大地主さんに報告した方がよかろう。ピューさんは死んだのだ、何と言ったところでな。と言って、私はそれを残念に思う訳じゃないが、とにかく彼は死んだんだ。で、世間の人たちはこのことを種にして陛下の税務署の役人を非難するだろう、もし種に出来ればだ。でね、どうだい、ホーキンズ。よければ、一緒につれて行ってあげよう。」
 私はその言葉に対して心から彼に礼を言った。そして二人は馬の繋いである村へ歩いて戻った。私が自分のつもりを母に話してしまった時分には、一同はもう馬に跨っていた。
「ドッガー、君の馬はいい馬だから、この子を君の後《うしろ》に乗せてあげ給え。」とダンスさんが言った。
 私がドッガーの帯革につかまって馬に乗るや否や、監督官は命令を下し、一行はぽかぽかと早足で街道をリヴジー先生の家へと向った。

第六章 船長の書類

 私たちは途中をずっと疾く馬を走らせて、とうとうリヴジー先生の家の戸口の前に停った。家は前面から見ると真暗《まっくら》だった。
 ダンスさんが私に跳び下りて戸を敲いてくれと言ったので、ドッガーのくれた鐙《あぶみ》にぶら下って私は降りた。ほとんどすぐに女中が戸を開いた。
「リヴジー先生はいらっしゃいますか?」と私は尋ねた。
 いいえ、と女中は言った。先生は午後帰って来たのだが、お屋敷へ晩餐によばれて行って、今夜は大地主さんと一緒に過している、とのことだった。
「それではそこへ行こう、諸君。」とダンスさんが言った。
 今度は、道程《みちのり》が近かったので、私は馬には乗らずに、ドッガーの鐙革《あぶみかわ》につかまりながら門番小屋附の門まで走って行った。そこから、葉が落ちてしまって、月光に照されている、長い並木路を上って、屋敷の建物の白い輪廓が大きな古い庭園を両側に見渡している処まで来た。ここでダンスさんは馬から下りて、私を一緒につれてゆき、一言通ずると、家の中へ通された。
 下男は私たちを導いて筵《むしろ》を敷いた廊下を通ってゆき、ついに大きな書斎へと案内した。書棚がぎっしりと列んでいて、その一つ一つの書棚の上には胸像が置いてあった。そこに、大地主さんとリヴジー先生とが、パイプを手にして、真赤に燃えている炉火の両側に腰掛けていた。
 私は大地主さんをそんなに間近に見たことがそれまでに一度もなかった。彼は六フィート以上もある背の高い人で、それに相応して幅もあり、無骨な豪傑風の顔は、永い間の旅行ですっかり荒れて赤らみ皺がよっていた。眉毛は真黒で、すぐぴりぴり動いた。そのために、怒りっぽいというのではないが、気短で傲慢といったような顔付に見えた。
「お入りなさい、ダンス君。」と彼はすこぶる厳かに、また丁寧に言った。
「やあ、今晩は、ダンス。」と医師は頷いて会釈しながら言った。「それから、ジムも、今晩は。どういう風の吹き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しでここへやって来たのかね?」
 税務監督官は硬くなって直立しながら、学課をやるように一部始終の話をした。すると、二人の紳士がどんなに身を乗り出し、互に顔を見合せ、驚きと興味とのために煙草を吸ふのも忘れていたかは、諸君にお目にかけたかったくらいであった。私の母が宿屋へ引返したところまで聞くと、リヴジー先生は腿をぽんと打ち、大地主さんは「えらいぞ!」と叫んで、その途端に持っていた長いパイプを炉の鉄格子にぶっつけて折ってしまった。話のすむ大分前から、トゥリローニーさん(というのは、覚えておられるであろうが、大地主さんの名である)は自分の席から立ち上って、室内を大胯に歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていたし、医師は、もっとよく聞き取ろうとでもするように、髪粉をつけた仮髪《かつら》を脱いで腰掛けていて、その短く刈込んだ黒い頭はまったくすこぶる珍妙に見えた。
 とうとうダンスさんは話を終った。
「ダンス君、」と大地主さんが言った。「君はなかなか立派な男だ。それから、その腹黒い極悪な不埒者を馬蹄にかけたことは、私《わたし》は善行だと思うねえ、君。油虫を踏み潰したようなものだよ。このホーキンズという子も偉い。ホーキンズ、そのベルを鳴らしてくれないか? ダンス君にビールをあげなくちゃならんから。」
「それで、ジム、」と先生が言った。「君は奴らの探していた物を持っているんだね?」
「はい、ここにあります。」と私は言って、油布の包を彼に渡した。
 医師はそれをつくづく眺めながら、開けたくて指をむずむずさせていたようだった。が、開けないで、静かに上衣のポケットの中へしまった。
「大地主さん、」と彼は言った。「ダンスはビールを頂戴したら、無論、陛下の御用を勤めに行かねばなりません。しかし、ジム・ホーキンズは私の家《うち》に泊めるためにここにいさせたいと思いますから、御免を蒙って、冷《コールド》パイを取りよせて、ジムに夕食を食べさせたいのですが。」
「どうぞ、リヴジー君。」と大地主さんが言った。「ホーキンズは冷《コールド》パイなんぞよりももっといいものを手に入れたんだ。」
 そこで大きな鳩パイが運ばれて側《サイド》テーブルに載せられ、私は鷹のように空腹だったので、たっぷり食べた。その間にダンスさんはなおいろいろとお世辞を言われて、やがて引下って行った。
「ところで、大地主さん。」と医師が言った。
「ところで、リヴジー君。」と大地主さんが同じ瞬間に言った。
「一時《いちどき》にゃ一人ずつ、一時にゃ一人ずつ。」とリヴジー先生が笑った。「あなたは今のフリントのことを聞いたことがおありでしょうな?」
「聞いたことがあるかって!」と大地主さんが叫んだ。「あるどころじゃないさ! あいつはこの上なしという残忍な海賊だった。黒髯《ブラックビアド》(註二二)[#「(註二二)」は行右小書き]だってフリントに比べれぁ子供みたいなものだった。スペイン人が彼をべらぼうに恐れておったので、私は、実際、時には彼がイギリス人であるのを自慢したこともあったくらいだよ。私はトゥリニダッド(註二三)[#「(註二三)」は行右小書き]の沖であいつの船の中檣帆《トップスル》をこの眼で見たことがあるが、私の乗っていた船の臆病船長の大馬鹿野郎めが引返したのだ、――引返したんだよ、君、スペイン港(註二四)[#「(註二四)」は行右小書き]へな。」
「いや、私も彼のことはイングランドで聞いたことがありますがね。」と医師が言った。「しかし要点は、彼は金《かね》を持っていたろうか? ということです。」
「金だって!」と大地主さんが叫んだ。「君はさっきの話を聞かなかったのかい? あの悪党どもの探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っているのが金でなくて何だね? あいつらが金でなくって何をほしがるものかね? あいつらが碌でなしの命《いのち》を賭けるのは金でなくって何のためかね?」
「それはやがてわかるでしょう。」と医師が答えた。「だがあなたのように滅法に熱してしまって大声を出されては、私は一|言《こと》も口を出せませんよ。私の知りたいのはこういうことなんです。このポケットに私の持っているものが、フリントが宝を埋めた場所の何かの手掛りになるとして、その宝は多額のものだろうか? ということですよ。」
「多額だともさ、君!」と大地主さんは叫んだ。「もし君の今言ったような手掛りがあるとすれば、私はブリストルの波止場で船を一艘艤装して、君やこのホーキンズを一緒につれて行って、たとい一年かかってもその宝を探し出すつもりだ。それくらいの額はあるだろうよ。」
「よろしい。」と医師が言った。「それでは、ジムが承知なら、この包を開けてみましょう。」と彼はそれを自分の前のテーブルの上に置いた。包は縫いつけてあったので、医師は自分の器械箱を持ち出して来て、医療鋏で縫目を切らなければならなかった。中には二つの物が入っていた、――一冊の帳薄と、封緘した一枚の紙と。
「まず先に帳簿の方を調べてみよう。」と医師が言った。
 彼がそれを開ける時には彼の肩越しに大地主さんも私も二人とも覗きこんでいた。私は、リヴジー先生が親切に手招きしてくれたので、食事をしていた側テーブルを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、その詮索の楽しみに与《あずか》りに行っていたのである。最初の頁には、ペンを手に持った人が無駄書きか練習にやったような、書き散らした文字があるだけだった。その中の一つは例の文身《いれずみ》の文句と同じ「ビリー・ボーンズ お気に入り」というのであった。それから、「副船長W・ボーンズ氏」というのと、「ラムもうなくなる」というのと、「パーム礁島(註二五)[#「(註二五)」は行右小書き]沖で彼はあいつを貰った」というのがあった。他にも幾つか文句があったが、大抵は一語のもので読めなかった。私は、「あいつを貰った」のはだれなのか、またその男の貰った「あいつ」とは何なのか、不審に思わずにはいられなかった。大方、背中にナイフでも喰らったのだろう。
「これぁ大して得るところがないな。」とリヴジー先生が言って、頁をめくった。
 次の十一二頁には、奇妙な記入が一杯にしてあった。行の一端に日附があり、もう一方の端に金額が書いてあることは、普通の会計簿と同様であるが、しかし、説明の文句の代りに、二つの間にはただ違った数の十字記号だけが記《しる》してあった。例えば、一七四五年の六月十二日には、七十ポンドの額が明かにだれかに支払ったことになっているが、その事由の説明としては十字記号が六つ記《しる》してあるばかりであった。もっとも、「カラカス(註二六)[#「(註二六)」は行右小書き]沖」というように場所の名や、または六二度一七分二〇秒、一九度二分四〇秒というように単に緯度経度が、書き加えてあるところも少しはあった。
 この記録はかれこれ二十年以上も続いていて、年月がたつにつれて一々の記入高が大きくなってゆき、終りに、五六度間違った寄算をした後に総高が出してあって、「ボーンズの身代」という言葉が書き加えてあった。
「何のことだか私にはさっぱりわからん。」とリヴジー先生が言った。
「真昼のように明白だよ。」と大地主さんが大声で言った。「これはあの腹黒の畜生めの会計簿さ。この十字記号は奴らの沈めた船か掠奪した町の名の代りなんだ。金高はあの無頼漢の貰った分前だし、それから、曖昧ではいけないと奴《やっこ》さんの思ったところでは、何とか幾分はっきりと書き足してあるだろう。それ、『カラカス沖』とあるね。これは、その海岸の沖で海賊どもに乗り込まれた不幸な船があったということなんだよ。可哀そうに、その船に乗っていた人たちはねえ、――とっくの昔に珊瑚になっているだろうよ。(註二七)[#「(註二七)」は行右小書き]」
「なるほど!」と医師が言った。「さすがに旅行家は違ったものだ。いや、その通り! そして、この男の地位が上るにつれて、金高が殖えていますね。」
 この帳簿には、その他に、終り近くの白紙のところに記《しる》してある二三の場所の方位と、フランスと、イギリスと、スペインの金《かね》を共通の価格に換算する表くらいしかなかった。
「倹約家《しまつや》だ!」と医師が叫んだ。「この男は騙《だま》されるような人間じゃなかったですな。」
「ところで今度はもう一つの方だ。」と大地主さんが言った。
 紙の方は、封印の代りに指貫《ゆびぬき》で幾箇処も封緘してあった。多分、私が船長のポケットの中にあるのを見つけたあの指貫だろう。医師はその封緘を非常に注意して開けると、ばらりと現れ出たのは、或る島の地図(註二八)[#「(註二八)」は行右小書き]で、緯度経度、水深、山や湾や入海の名、それから船をその海岸の安全な碇泊所に入れるに必要らしいあらゆる細目なども書いてあった。その島は長さ約九マイル、幅五マイルで、肥った竜が立ち上ったといったような形をしていて、陸で囲まれた良港が二つあり、中央部には「遠眼鏡《スパイグラース》山」と記された山があった。それより後の日附の書き加えが幾つかあったが、とりわけ、赤インクで書いた十字記号が三つあって、」――その二つは島の北部に、一つは南西部にあり、この後の十字記号のそばには、同じ赤インクで、船長のたどたどしい筆蹟とはよほど違った」小さな、綺麗な手蹟で、「宝の大部分はここに。」――と書いてあった。
 裏には、同じ手蹟で、次のようなさらに詳しいことが書いてあった。――

「北北東より一ポイント(註二九)[#「(註二九)」は行右小書き]北に位して、遠眼鏡の肩、高い木。
 骸骨島東南東微東。
 十フィート。
 銀の棒は北の隠し場にあり。東高台の傾斜面にて、黒い断巌に面を向けてその十尋南のところに見出すを得。
 武器は、北浦の岬の北方、東に位し四分の一ポイント北に寄れる砂丘に容易に見出さる                      
 J・F。

 これだけだった。が、簡短なものではあり、私には理解の出来ないものではあったけれども、これを見ると大地主さんとリヴジー先生とは大喜びだった。
「リヴジー君、」と大地主さんが言った。「君は厄介な医者商売なんぞはさっそくやめだね。明日《あす》私はブリストルへ立つ。三週間のうちに――三週間だぜ!――いや、二週間で――十日でだ、――我々はイギリスでも最上の船とだね、君、それから選り抜きの乗組員を手に入れるのだ。ホーキンズは船室給仕《ケビンボーイ》になって来るんだ。お前は素敵な船室給仕になるよ、ホーキンズ。君は、リヴジー君、船医だ。私は司令官になる。レッドルースと、ジョイスと、ハンターもつれてゆこう。我々は、順風を受けて、速く航海し、何の苦もなくその場所を見つけ、どうにも出来んほどの――あり余るほどの金を手に入れて、――それからはずっと金が湯水のように使えるようになるんだ。」
「トゥリローニーさん、」と医師が言った。「私は御一緒に行きますよ。それからジムも行くことは私が請合います。ジムはきっとこの企ての誉《ほまれ》たる者になるでしょう。ただ、私には気にかかる人が一人だけいます。」
「で、それぁだれだい?」と大地主さんが大声で言った。「君、其奴《そやつ》の名を言い給え!」
「あなたです。」と医師が答えた。「あなたは口を慎めないからです。この紙のことを知っているのは私たちだけじゃありません。あの今晩宿屋を襲った奴らや――確かに大胆な向う見ずの暴れ者たちだが――それから、例の帆船《ラッガー》に残っていた者どもも、また、恐らくあまり遠くもないところにいるその他の奴らも、みんな、水火を冒してもその金を手に入れようと決心しているんです。私たちは出帆してしまうまでは一人も離れてはなりません。ジムと私とはそれまでの間くっついていましょう。あなたはブリストルへ行かれる時にはジョイスとハンターとをつれてお出でなさい。そして、初めからおしまいまで、私たちのだれ一人も、私たちの見つけたもののことを一言も口にしてはなりません。」
「リヴジー君、」と大地主さんが答えた。「君の言われることはいつも正しい。私は墓のように黙っていますよ。」
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第二篇 船の料理番《コック》

第七章 ブリストルへ行く

 海へ出る準備が出来るまでには、大地主さんの想像したよりも永くかかった。また、私たちの最初の計画は一つとして――私をそばに置いておくというリヴジー先生の計画でさえ――思ったように実行されはしなかった。先生は留守の間を預る医者を探しにロンドンへ行かなければならなかった。大地主さんはブリストルで頻りに奔走していた。そして私は、猟場番人のレッドルース爺さんの監督の下に、ほとんど囚人のようにして、屋敷にずっと住んでいた。だが、海の空想や、見知らぬ島々や冒険などの恍惚となるような予想で、頭は一杯だった。私は例の地図のことを幾時間も打続けて考えた。その地図の細かいところまでみんなよく覚えていたのだ。家事管理人の室の炉火のそばに腰掛けながら、私は、空想の中で、あらゆる方向からその島に近づいて行き、その島の表面を残る隈なく踏査し、遠眼鏡《スパイグラース》山と言われるあの高い山に千回も攀《よ》じ登って、その頂上からいろいろに変化する素晴しい跳望を眺めて楽しんだ。時にはその島は野蛮人で一杯で、それと私たちは闘った。時には危険な獣がたくさんいて、それが私たちを追っかけて来た。しかし、そういうあらゆる空想の中でも、私たちが後に実際の冒険で出合ったような奇妙な傷ましい出来事は一つも思い浮ばなかったのである。
 こうして何週間も過ぎていったが、或る日、リヴジー先生に宛てた手紙が一通来た。それには「同氏不在の節はトム・レッドルース又はホーキンズ少年開封の事」と書き添えてあった。この命令に従って、私たちは、というよりもむしろ私は――というのは猟場番人は印刷した物の他《ほか》はうまく読めなかったからであるが――次のような重大な知らせを読んだ。――

  「一七――年三月一日
ブリストル、古錨《オールド・アンカー》 旅宿にて。

 リヴジー君、――小生は貴下が屋敷に居られるか、それともまだロンドンに居られるかわからないので、この手紙を両地へ二通出します。
 船は購入して艤装してあります。いつでも出帆出来るように準備して、碇泊している。あれより気持のよいスクーナー船(註三〇)[#「(註三〇)」は行右小書き]は貴下にも想像出来ないでしょう。――子供でも操縦が出来るかも知れない。――二百トンで、名はヒスパニオーラ号。
 この船は小生の旧友ブランドリーの周旋で手に入れたもので、彼は始めから終りまで実によくしてくれています。この感心な男は小生のために一心に働いてくれました。それからまた、ブリストルの人々も、我々の目指している港のことを――というのは宝のことだが――嗅ぎつけるや否や、だれも彼も非常によく働いてくれたと言ってもよいでしょう。」
「レッドルースさん、」と私は手紙を途中で止《や》めて言った。「リヴジー先生はこんなことは喜ばれますまいよ。あんなに言ってあったのに、大地主さんはやっぱりしゃべっておしまいになったんだね。」
「ううん、うちの旦那さまより偉《えれ》え人があるかな?」と猟場番人は唸るように言った。「大地主さんがリヴジー先生に遠慮してものが言えねえなんて、そんなべらぼうな話があるもんか。」
 そう言われたので私は説明するのは一切やめて、すぐに読み続けた。――

「ブランドリー自身がヒスパニオーラ号を見つけて、非常にうまく掛合ってごく安価で手に入れてくれたのです。ブリストルにはブランドリーをひどく毛嫌いしている連中もいます。彼等は、この正直な男を、金のためには何でもやるとか、ヒスパニオーラ号は彼のものだったのを、馬鹿に高い値で小生に売りつけたのだ、などとまで言います。――実に見え透いた中傷だ。だが、彼等の中の一人だって、この船の真価を否定する者はありません。
 今までのところは何一つ故障もありませんでした。もっとも、職工たちは――艤装人やら何やらは――じれったいくらいのろのろしていた。が、それは時のたつうちにどうにかなった。小生を悩ませたのは乗組員でした。
 小生はちょうど二十人ほしいと思いました、――土人や、海賊や、またはかの憎むべきフランス人に襲われた場合の用意にです。――そして六人だけ見つけるのにさえ非常に苦労をしました。ところがそのうちに実に素敵な幸運で小生は正に自分の必要とする男にめぐりあったのです。
 小生は波止場に立っていたのですが、その時、ほんのちょっとした偶然の機会で、その男と口を利くようになりました。聞いてみると、以前船乗をやっていた男で、今は居酒屋をやっているが、ブリストル中の船乗をみんな知っている、陸で健康を害したので、もう一度海へ出るために料理番《コック》としてのよい口を得たい、ということでした。彼の言うところでは、その朝は潮《しお》の香を嗅ぎにそこへやって来ていたのだそうです。
 小生は非常に感動して、――貴下ももし居られたらそうだったでしょう、――そして、ただ気の毒と思う情から、その場で彼を船の料理番に雇い入れました。のっぽのジョン・シルヴァーと彼は呼ばれています。そして脚が一本ありません。しかしこのことは推薦状だと小生は見倣《みな》しました。彼はかの不朽の名声あるホーク(註三一)[#「(註三一)」は行右小書き]の下で国家の為に働いてその片脚をなくしたのだからです。ところが彼には扶助料がついていないんだよ、リヴジー君。今は何という怪《け》しからん時代だろう!
 ところで、君、小生は料理番を一人見つけただけだと思ったのだが、しかし実は小生の発見したのは全乗組員であったのです。シルヴァーと小生と二人で数日の中にこの上なしの倔強な老練な水夫の一団を集めたのです。――見た目はよくはないが、その面付《つらつき》から察すれば実に性根《しょうね》のしっかりした奴らです。これならきっと軍艦でも動かせるよ。
 のっぽのジョンは小生のすでに雇い入れておいた六七人の中から二人を除けさえしました。彼は、彼等が大事な冒険には恐れなければならぬあの海に慣れぬ奴らだということを、直ちに小生に見せてくれました。
 小生は、牡牛の如《ごと》くに食い、丸太の如くに眠って、素晴しく健康で元気です。しかし、わが老練な水夫君らが揚錨絞盤《キャプスタン》の周りを足踏み鳴らして歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る(註三二)[#「(註三二)」は行右小書き]のを聞くまでは、小生は一刻をも享楽しないでしょう。さあ、海へ! 宝なんぞはどうだっていい! 小生を夢中にさせているのは海の輝きだ。だから、リヴジー君、大急ぎでやって来給え。もし貴下が小生に敬意を持つならば、一時間も無駄にし給うな。
 ホーキンズ少年は、レッドルースを守護役にして、母親に会いにやって下さい。それから二人とも全速力でブリストルへよこして下さい。
[#地から3字上げ]ジョン・トゥリローニー。
 追伸。――書き洩したが、ブランドリーは航海長に素晴しい男を見つけてくれました。――頑固な男なのは残念だが、しかし他のあらゆる点では宝のような人物だよ。ブランドリーで思い出したから序《ついで》に書いておくが、彼はもし我々が八月末までに帰って来ない場合には伴船《ともぶね》を後からよこすことになっている。それから、のっぽのジョン・シルヴァーは副船長にすこぶる有能な男を発見した。アローという名の男だ。また、呼子を吹いて号令する正式の水夫長《ボースン》もいるよ、リヴジー君。だから、ヒスパニオーラ号では万事軍艦式にやります。
 書くのを忘れていたが、シルヴァーは財産家です。小生は彼がまだ一度も借越したことのない銀行通帳を持っているのを知っています。彼は細君を残して宿屋の方をやらせるそうだ。そしてその細君というのは黒人なんだから、貴下や小生の如《ごと》き永年の独身者は、彼がまた海へ出ようとするのは、健康のためと同じく細君のためだと推量しても、もっともな次第だ。
[#地から3字上げ]J・T。
 再追伸。――ホーキンズは母親の許で一晩泊ってもよろしい。
[#地から3字上げ]J・T。」

 この手紙がどんなに私を興奮させたかは諸君も御想像出来るであろう。私は嬉しくて我を忘れるくらいであった。そしてもし私がだれかを軽蔑したことがあるとするなら、それはトム・レッドルース爺さんだった。彼はただぶつぶつ言ったり泣言を並べたりするだけだった。猟場番人の下働はだれでも喜んでレッドルースと地位を代えたろう。がそれは大地主さんの意向ではなかった。そして大地主さんの意向は彼等みんなの間では法律のようなものであったのだ。レッドルース爺さんの他にはぶつぶつ不平を言う者さえだれ一人もいなかったろう。
 その翌朝、爺さんと私とは徒歩で「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」へ向った。行ってみると母は丈夫で元気だった。永い間あれほどの苦労の種だった船長は、もう悪《あ》しき者|虐遇《しひたげ》を息《や》める処(註三三)[#「(註三三)」は行右小書き]へ行ってしまった。大地主さんは、何もかも修繕させ、食堂などや看板も塗り換えさせ、家具も幾つか買い足してくれた。――とりわけ、帳場には母のために美しい臂掛椅子が一脚買ってあった。それからまた、私が出かけて行っている間母に手不足がないようにと、小僧として子供を一人見つけて来ておいてもあった。
 この子供を見ると、私は初めて自分の立場がわかった。その瞬間までは私は目前の冒険のことばかり考えて、後に残してゆく家《うち》のことはちっとも考えていなかった。それが、今、この不器用などこかの子供を見て、これが母のそばに私の代りになってここにいるのかと思うと、初めて涙がこみ上げて来た。私はその子供に苦労させたかも知れない。というのは、彼はその仕事には新米で、私は何回となく機会のある度に彼を直してやったり叱ったりしたし、そういう機会をつかまえることにかけては私は迂濶な方ではなかったから。
 その夜が過ぎて、次の日、昼食の後に、レッドルースと私とは再び徒歩で街道へ出た。私は、何と、生れて以来住み慣れた入江と、懐しい「ベンボー提督」――彼は塗り換えられていたので、もうさほど懐しくはなかったが――とに、さよならを言った。最後に私の心に思い浮んだものの一つは、縁反帽《ふちぞりぼう》をかぶって、頬にサーベル傷をつけ、真鍮の古い望遠鏡を抱えて、たびたび浜辺を大胯に歩いていたあの船長のことであった。間もなく私たちは角を曲ったので、私の家は見えなくなった。
 黄昏《たそがれ》頃、灌木の生い茂った荒地にある「|ジョージ王《ロイアル・ジョージ》屋」のところで、私たちは駅逓馬車に乗り込んだ。私はレッドルースとでっぷり太った老紳士との間に挟み込まれた。そして、馬車は疾く動いていたし夜気は冷かったにも拘らず、私は最初からよほどうとうとしていて、やがて、宿駅から宿駅へと丘を上り谷を下りながら、ぐっすりと丸太のように眠ったに違いない。というのは、横腹を肱《ひじ》でつかれてようやく目を覚し、眼を開《あ》けて見ると、馬車は或る都会の街路の大きな建物の前に止っていて、夜はもうとっくに明けていたからである。
「どこですか?」と私は尋ねた。
「ブリストルさ。」とトムが言った。「降りるんだよ。」
 トゥリローニーさんは、スクーナー船での作業を監督するために、波止場のずっと下手にある宿屋に泊っていた。で、そこまで私たちは歩いて行かねばならなかったが、その途は埠頭に沿うていて、大小さまざまの、いろいろの艤装の、あらゆる国々の船が無数にいるそばを通ってゆくので、私の嬉しさは非常なものだった。或る船では、水夫たちが歌いながら作業をしていた。また或る船では、檣や帆桁などの、私の頭上高いところに、蜘蛛の巣ほどに細く見える索にぶら下っている人たちがいた。私は生れてからずっと海浜に育って来たのではあるが、それまでは海の近くにいたことが一度もなかったような気がした。タールや潮《しお》の香も何か物珍しいものだった。私は、いずれも遠く大洋を渡って来た、実に珍奇な船首像を見た。また、耳に環を嵌《は》め、頬髯をくるくるとちぢらせ、タールまみれの弁髪を下げて、肩で風を切りながら、不恰好《ぶかっこう》な水夫歩きをやっている、老練な水夫たちをたくさん見た。たといそれだけの人数の王様や大僧正を見たにしたところで、私はそれ以上に喜びはしなかったろう。
 そして私自身も航海に出ようとしているのだ。呼子を吹いて号令する水夫長や、弁髪を垂れて船唄を歌う海員たちと一緒に、スクーナー船に乗って航海に出ようとしているのだ。まだ知らない島へ向けて、埋められた宝を捜しに、航海に出ようとしているのだ!
 私がなおもこういう喜ばしい夢想に耽っている間に、私たちは不意に或る大きな宿屋の前へ出て、大地主のトゥリローニーさんに出会った。大地主さんは、丈夫な青い服を着用して、すっかり船の士官のように着飾り、顔をにこにこさせながら、水夫の歩き方を素敵にうまく真似て、戸口から出て来るところだった。
「やあ、やって来たな。」と彼は叫んだ。「先生も昨夜《ゆうべ》ロンドンから来られたよ。万歳! これで船の乗組員がすっかり揃ったぞ!」
「おお、そうですか。」と私は叫んだ。「でいつ出帆するんですか?」
「出帆か!」と彼は言った。「うむ、明日《あす》出帆するんだ!」

第八章 「遠眼鏡《スパイグラース》屋」の店で

 私が朝食をすませると、大地主さんが「遠眼鏡《スパイグラース》屋」の店のジョン・シルヴァーに宛てた手紙を一通私に渡して、波止場に沿うて、大きな真鍮の望遠鏡を看板にした小さな居酒屋をよく気をつけて行けば、訳なくそこが見つかる、と言ってくれた。私は、船や水夫をもっと見られる機会が出来たのに大喜びで、出かけてゆき、ちょうど波止場が今が一番忙しい時だったので、人や車や荷物がひどく込合っている間を拾い歩きし、やがてその居酒屋を見つけた。
 それはなかなか立派な小ぢんまりした酒場だった。看板は近頃塗り換えたもので、窓には瀟洒な赤いカーテンが掛っており、床《ゆか》には綺麗に砂が撒いてあった。両側に街路があり、どちら側にも開け放した扉《ドア》があったので、その天井の低い大きな室は、煙草の煙が濛々としていたのに、かなりよく見通された。
 客は大部分船乗だった。そしてずいぶん大きな声でしゃべり合っているので、私は、入ってゆくのが怖《こわ》いような気がして、戸口でためらっていた。
 そうしてぐずぐずしている時に、一人の男が脇の室から出て来たが、私は一目でそれがのっぽのジョンに違いないと思った。左の脚がほとんど股のつけ根のところから切れており、左の腋の下に※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖《かせづえ》(註三四)[#「(註三四)」は行右小書き]を持っていて、それを驚くべく器用に扱い、それをあてて鳥のようにぴょんぴょん跳び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていた。大層|丈《たけ》が高くて巌乗な男で、顔はハムのように大きく、――不器量で蒼白いが、利口そうでにこにこしていた。実際、非常に機嫌がよいらしく、口笛を吹きながらテーブルの間を動き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、贔屓《ひいき》の客人たちには愛想のいい言葉をかけたり、その肩をぽんと叩いたりしていた。
 さて、実を言うと、私は、大地主のトゥリローニーさんの手紙にのっぽのジョンのことを書いてあるのを見た実に最初の時から、その男こそ私が「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」で永い間見張っていたあの一本脚の水夫ではあるまいかと、心の中で恐れを抱いていたのであった。しかし今目前にいる男を一目見ただけで十分だった。私は船長や、黒犬《ブラック・ドッグ》や、盲人のピューを見ていたので、海賊がどんなようなものかということは知っているつもりだった。――海賊とは、私の考えによれば、このさっぱりした快活な気質の亭主とはまるで違った人間なのだ。
 私は直ちに勇気を出して、閾《しきい》を跨ぎ、その男が※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖に凭《もた》れながら一人の客と話している処へ、まっすぐに歩いて行った。
「シルヴァーさんですね?」と私は尋ねて、手紙を差し出した。
「そうですよ。」と彼が言った。「いかにも、それがわっしの名でさあ。してあんたはだれですかね?」それから大地主さんの手紙を見ると、彼は何だかぎょっとしたように私には思われた。
「おお!」と彼は、手を差し出しながら、大層大きな声をして言った。「なるほど。君はわっしたちの今度の船室給仕《ケビンボーイ》だね。やあ、初めて。」
 そして彼は私の手を大きな掌の中にしっかりと握った。
 ちょうどその時、ずっと向うの方にいた客の一人が、急に立ち上って、扉の方に進んだ。その扉は彼のじきそばにあったので、彼はすぐに街路へ出てしまった。しかしそのあわただしい様子が私の注意を惹き、私は一目でそれがだれだかわかった。それは、「ベンボー提督屋」へ最初にやって来た、指の二本ない、あの蒼白い顔をした男だった。
「おお、あいつを止めて! あれは黒犬《ブラック・ドッグ》だ!」と私は叫んだ。
「だれだろうと構やしねえが、しかし奴あ勘定を払ってねえんだ。おい、ハリー、走ってって奴を掴めえてくれ。」とシルヴァーが叫んだ。
 するとその扉の一番近くにいた中《うち》の一人が跳び立って、後を追っかけて行った。
「よしんば奴がホーク大将にしろ勘定は払わせてやる。」とシルヴァーが呶鳴《どな》った。それから私の手を放して、――「奴がだれだと言いなすったかね?」と尋ねた。「黒《ブラック》、何だったかね?」
「犬《ドッグ》ですよ。」と私は言った。「トゥリローニーさんはあの海賊どものことを話しませんでしたか? あいつはあの中の一人でしたよ。」
「そうかい?」とシルヴァーが叫んだ。「わっしの店にそんな奴が! ベン、お前《めえ》走ってってハリーに加勢してくれ。あの馬鹿どもの一人だったのか、奴が? モーガン、奴と飲んでたのはお前だったな? ここまでやって来い。」
 モーガンと呼ばれた男――年寄の、白髪の、マホガニー色の顔をした水夫――は、噛煙草《かみたばこ》をもぐもぐやりながら、大分おずおずして出て来た。
「ところで、モーガン、」とのっぽのジョンはすこぶる厳《いかめ》しく言った。「お前はあの黒《ブラック》――黒犬《ブラック・ドッグ》を前に一度も見たことがねえな、え、そうだろ?」
「ねえんですよ。」とモーガンは言って、お辞儀をした。
「お前は奴の名前《なめえ》を知らなかったんだな、そうだろ?」
「そうですよ。」
「よし、トム・モーガン、そいつぁお前のためにゃ結構なこった!」と亭主は大声で言った。
「もしあんなような奴とつきあってたんなら、二度と己《おれ》の家《うち》へ足を入れさすんじゃなかったぞ。そいつぁ間違《まちげ》えっこなしだ。で、奴あお前に何と言ってたい?」
「おいらはほんとに知らねえんですよ。」とモーガンは答えた。
「お前の肩の上にのっかってるのは、そりゃあ頭か、それとも三孔滑車《みつめせみ》(註三五)[#「(註三五)」は行右小書き]か?」とのっぽのジョンは呶鳴《どな》りつけた。「ほんとに知らねえんですだと、ほんとに! 多分お前はだれと話してたのかほんとに知らねえっていうんだろ、多分な? おい、こら、あいつは何のことをしゃべってたんだ、――航海《こうけえ》のことか、船長《せんちょ》のことか、船のことか? さっさと言ってみろ! 何の話だった?」
「船底潜《ふなぞこもぐ》らせ(註三六)[#「(註三六)」は行右小書き]のことを話してたんでさ。」とモーガンが答えた。
「船底潜らせだと? 大層《てえそう》お似合なこったよ。違《ちげ》えねえや。元んとこへ戻れ、トムの間抜《まぬけ》野郎め。」
 そして、モーガンが彼の席へよろめき帰ると、シルヴァーは私に内証話のような囁き声で言ったが、それは非常に諂《へつら》うような調子に私には思えた。――
「あれぁとても正直者なんだよ、あのトム・モーガンはね。ただ頓馬《とんま》なだけでね。ところで、」と彼は声高に再びしゃべり続けて、「待てよ、――黒犬《ブラック・ドッグ》と? いいや、己ぁそんな名前は知らねえ。知らねえとも。だが、どうやら見たような気が――そうだ、見たことがある、あの野郎を。あいつはよくここへ盲乞食と一緒に来たぞ。うん、よく来たよ。」
「そうですよ、間違いありません。」と私は言った。「僕はその盲人《めくら》も知っています。ピューという名前でしたよ。」
「そうだった!」とシルヴァーは今はまったく興奮して叫んだ。「うん、ピューだ! 確かにそういう名前だった。ああ、あいつはぺてん師らしかったな、まったく! とにかく、もしあの黒犬をつかめえれば、トゥリローニー船長《せんちょ》に、いいお知らせが出来る訳だぞ! ベンはなかなか走る男だ。水夫にゃあベンくれえよく走る男はあんまりいねえ。あの男なら訳なく奴に追いつくだろう、きっとな! 奴は船底潜らせのことを話してたと? この己が[#「この己が」に傍点]奴に船底潜らせをやってやるぞ[#「やるぞ」に傍点]!」
 彼は、こういう文句を吐き出すように言っている間、始終、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖で店をあちこちとぴょんぴょん歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら、手でテーブルを叩いたり、中央刑事裁判所《オールド・ベーリー》(註三七)[#「(註三七)」は行右小書き]の裁判官やボー街(註三八)[#「(註三八)」は行右小書き]の警吏でも得心させそうなくらいの興奮した様子を見せたりしていた。「遠眼鏡屋」で黒犬を見てから私の例の疑念はすっかり再び呼び覚されていたので、私はその料理番《コック》をよく気をつけて注視していた。しかし、彼は私などにわかるには余りに心が深く、余りに悟り早く、余りに利口だった。そして、さっきの二人の男が息を切らして戻って来て、追っかけて行った奴を人込みの中で見失ってしまったと言って、まるで泥棒などのように呶鳴《どな》りつけられている頃には、私はのっぽのジョン・シルヴァーの潔白なことを請合ってもいいくらいの気持になっていたのであった。
「ねえ、ホーキンズ、」と彼は言った。「俺《わし》のような人間にもこんな情ねえ辛《つれ》えことがあるんだ。わしなあ、そうじゃねえかい? トゥリローニー船長がねえ、――あの方《かた》はどう思いなさるかなあ? いめいめしいあん畜生めが、俺の家《うち》に坐りこんで、俺んとこのラムを飲んでやがったなんて! そこへ君がやって来て、そいつをはっきり言ってくれたのだ。それだのに俺は、このいまいましい眼の前で、みすみす奴を逃がしちまったんだ! で、ホーキンズ、君は船長さんと一緒に俺を公平に判断しておくれ。君は子供だ。子供じゃあるが、ペンキみてえにはしっこい。それは君が初めて入《へえ》って来た時に俺にゃあちゃんとわかってるんだ。で、こういう訳だよ。こんな古|棒片《ぼうぎれ》をついてぴょっこぴょこ歩いてる俺に、何が出来るかね? 俺も丈夫な船長だった時なら、すぐに訳なく奴に追っついて、さっそくひっ捕えてくれるんだ。そうともよ。だがこれじゃあ――」
 と言いかけて、突然、言葉を切り、そして、何かを思い出したように口をあんぐり開けた。
「勘定を!」と彼は喚いた。「ラムが三杯だ! えい、こん畜生、勘定のことを忘れちまうなんて!」
 そして、腰掛にどかんと腰を落して、彼は涙が頬を流れ落ちるまで笑いこけた。私もそれにひきこまれずにはいられなかった。そして私たちは一緒に笑い続けたので、酒場中が鳴り響いた。
「やれやれ、己も何てやくざな老いぼれ水夫になったものだろう!」と彼はようやく頬を拭いながら言った。「君と俺とは仲よくしような、ホーキンズ。これじゃあ俺もきっと船のボーイ並《なみ》に扱われるだろうからねえ。だが、さあ、出かける用意をし給え。こうしちゃいられねえ。義務は義務だ、なあ君。俺も自分の古ぼけた縁反帽をかぶって、君と一緒にトゥリローニー船長んとこへ行って、この事件を報告するとしよう。なぜって、いいかい、これぁ大事件なんだからね、ホーキンズ君。そして、君だって俺だって、信用っていったようなものでは、これはどうもすまされんことだからね。君だってそう思うだろう。利口じゃなかったな、――俺たち二人とも利口じゃなかったさ。だが、畜生! あの勘定を取り損うなんてうめえ洒落だったよ。」
 そして彼は再び笑い始めた。余り心《しん》から笑うので、私は彼のようにその洒落はわかりはしなかったけれども、また彼と一緒になって笑い興ぜずにはいられなかった。
 埠頭に沿うて二人がしばらくの道を歩いてゆく間も、彼は実に面白い連《つれ》になってくれた。途にあるいろいろの船について、その艤装や、トン数や、国籍などを言ってくれたり、やっている作業を――これは荷卸ししているのだとか、あれは船荷を積み込んでいるところだとか、あれは出帆しようとしているのだとか――説明してくれたりした。また時々は、船や水夫などのちょっとした逸話を話してくれたり、海語を私がすっかり覚えこんでしまうまで繰返して言ってくれたりした。私はこれは実にいい船友達が出来たものだと思い始めた。
 宿屋に着くと、大地主さんとリヴジー先生とは一緒に着席していて、スクーナー船を検査に行く前に、祝杯に一クォート(註三九)[#「(註三九)」は行右小書き]のビールを飲み終えたところであった。
 のっぽのジョンは、例の話を、初めから終りまで、非常に熱心に、またまったくありのままに話した。「そういうわけでした。ね、そうだったね、ホーキンズ?」と彼は時々言い、私はその度にまったくその通りだと言うことが出来た。
 二人の紳士は黒犬が逃げたのを残念がった。が私たち皆はどうも致し方がないということに意見が一致した。そして、お愛想を言われてから、のっぽのジョンは※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を取り上げて出て行った。
「今日の午後四時までに全員乗船だぜ。」と大地主さんが彼の後から呶鳴《どな》った。
「はいはい。」と料理番は廊下で叫んだ。
「いや、大地主さん、」とリヴジー先生が言った。「私は概してあんたの発見されたものにはあまり信を措きませんが、これだけは言えますな? ジョン・シルヴァーは気に入りましたよ。」
「あの男はまったく頼もしい奴さ。」と大地主さんが断言した。
「ところで、ジムも一緒に船へ来てもいいでしょうな?」と先生が言い足した。
「無論いいとも。」と大地主さんが言った。「帽子をお持ち、ホーキンズ。船を見にゆくんだ。」

第九章 火薬と武器

 ヒスパニオーラ号は少し沖に碇泊していたので、私たちはたくさんの他の船の船首像の下を通ったり船尾を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ったりしてゆき、それらの船の錨索が、時には私たちの舟の竜骨《キール》の下で軋り、時には私たちの頭上で揺れ動いた。しかし、とうとうヒスパニオーラ号に横附けになり、上ってゆくと、副船長のアローさんが出迎えて挨拶した。日に焦《や》けた老海員で、耳に耳環をつけ、眇《すがめ》だった。この人と大地主さんとはごく親しくて仲がよかったが、トゥリローニーさんと船長との間は同じようにいっていないことに私は間もなく気づいた。
 船長は鋭敏らしい人であった。船の中のことには何もかも腹が立っているような様子で、間もなくその理由を私たちに話すことになった。私たちが船室《ケビン》の中へ下りてゆくかゆかぬに、一人の水夫が後からついて来たのである。
「スモレット船長がお話申したいとのことで。」と彼が言った。
「私はいつでも船長の命令の通りにする。お通ししろ。」と大地主さんが言った。
 船長は、その使者のすぐ後にいたので、直ちに入って来て、扉《ドア》を背後に閉《し》めた。
「で、スモレット船長、どういうお話ですかな? 万事うまくいっていてほしいものだが。万事きちんと整頓して航海にさしつかえないようになっていますか?」
「は、」と船長が言った。「たとい御立腹を蒙っても、はっきり申し上げた方がよいと思います。私《わたし》はこの航海を好みません。船員を好みません。それから副船長を好みません。これが手っ取り早いところです。」
「多分、君はこの船も好まんのだろうね?」と大地主さんが尋ねた。大層怒っているのが私にはわかった。
「まだ験《ため》してみないので、それは何とも申し上げられません。」と船長は言った。「結構な船のようです。それ以上は言えません。」
「恐らく、君は君の雇主も好まんのかも知れんね?」と大地主さんが言った。
 しかしここでリヴジー先生が口を入れた。
「ちょっと待って下さい、」と彼は言った。「ちょっと待って下さい。そういうような質問は感情を害するばかりで何にもなりゃせん。船長は言い過ぎているか、あるいは言い足りないのです。で、私は船長の言葉について説明を求めなければなりません。あなたはこの航海を好まないと言われますね。で、それはなぜですか?」
「私は、いわゆる封緘命令(註四〇)[#「(註四〇)」は行右小書き]で、その方《かた》のためにその方が命ぜられる処へこの船をやるのに雇われたのです。」と船長が言った。「そこまでは結構です。しかし私には今わかったのですが、平水夫たちが一人残らず私の知っている以上のことを知っております。これは公平じゃないと私は思います。公平だとお思いですか?」
「いや、思いませんな。」とリヴジー先生が言った。
「次にです。」と船長が言った。「私は我々が宝を探しに行くのだということを聞いております――それも、いいですが、私自身の部下から聞いたんですよ。ところで、宝というものはなかなか気をつけねばならないものです。私は宝探しの航海はどうしても好みません。しかも、それが秘密の航海で、その上(トゥリローニーさん、失礼ですが)その秘密が鸚鵡《おうむ》にまで話してあるのでは、ますます好みません。」
「シルヴァーの鸚鵡にかね?」と大地主さんが尋ねた。
「まあものの譬えがです。」と船長が言った。「べらべらしゃべってある、という意味です。どうもあなた方はお二人とも御自分のしようとしておられることがおわかりでないと思いますが、私の考えを申し上げましょう、――生きるか死ぬるか、際《きわ》どい仕事ですよ。」
「それはまったく明かなことです。そして多分その通りでしょう。」とリヴジー先生が答えた。「私たちはその危険を冒している。が、私たちはあなたの思っておられるほどに物識らずではありません。次に、あなたは乗組員を好まないと言われますね。あれらはよい水夫じゃありませんか?」
「私は好まないのです。」とスモレット船長は答えた。「その段になれば、私は自分の部下は自分で選ぶべきだったと思います。」
「多分そうあるべきだったでしょう。」と医師が答えた。「私の友人は、多分、乗組員を選ぶ時にはあなたにも一緒に来て頂くべきであったでしょう。しかし、あなたを軽んじたようなことがよしあったにしても、それは何気《なにげ》なくやったことで、故意ではありません。それから、あなたはアロー君も好まないのですね?」
「好みません。あれはよい海員だとは信じます。が、乗組員と狎々《なれなれ》し過ぎるので、よい高等船員とは申されません。副船長というものは交際を避けておるべきです、――平水夫と酒を飲んだりなぞすべきじゃありません!」
「あの男が酒を飲むというのかね?」と大地主さんが大声で言った。
「いいえ。ただ親しみ過ぎるというだけで。」と船長が答えた。
「なるほど。で、船長、結局のところは?」と医師が尋ねた。「あなたの希望されることを言って下さい。」
「さよう。あなた方は飽くまでこの航海をおやりになる決心ですか?」
「断然。」と大地主さんが答えた。
「よろしい。」と船長が言った。「それなら、私が自分の証明出来ないことを言っていたのをこれまで我慢して聞いて頂いたのですから、もう少し言うのを聞いて下さい。彼等は火薬と武器とを前部船艙に入れています。ところで、この船室《ケビン》の下によい場所があります。なぜそこへ入れないのですか? ――これが第一の点。それから、あなた方は四人の従者をつれてお出でですが、その中には前の方で寝ることになっている人もあるそうです? なぜこの船室のそばの棚寝床《バース》に寝させないのですか? ――これが第二の点。」
「まだあるのかな?」とトゥリローニーさんが尋ねた。
「もう一つです。」と船長が言った。「もう秘密が洩され過ぎています。」
「非常に洩され過ぎていますな。」と医師が相槌を打った。
「私が自分の耳で聞いたことを申し上げましょう。」とスモレット船長が続けて言った。「あなた方は或る島の地図を持っておられるそうです。その地図には宝のある処を示すのに十字記号がついているそうです。そしてその島の在る処は――」と言ってその緯度と経度とを正確に挙げた。
「私はそれを言ったことは決してない、だれ一人にも!」と大地主さんが叫んだ。
「でも船員は知っております。」と船長が返答した。
「リヴジー君、それは君かホーキンズかに違いない。」と大地主さんが叫んだ。
「だれが言ったかということは大したことじゃありません。」と医師が答えた。そして私にはわかったが、医師も船長もどちらともトゥリローニーさんの抗弁には大して顧慮しなかった。実際のところ、私だってそうだった。大地主さんは実に口に締りのないおしゃべり屋だったから。だが、この場合には私はほんとうに彼の言った通りだろうと思うし、まただれも島の位置まで言った者はなかったのだと思う。
「ところで」と船長が続けて言った。「私はどなたがその地図を持っておられるかは存じません。しかし、それは私やアロー君にだって秘密にしておいて頂きたいと、私は主張します。でなければ私は辞職させて頂きたいと思います。」
「なるほど。」と医師が言った。「あなたは私たちに、その事を秘密にしておいて、それから、ここに私の友人の従者たちを置き、船内のすべての武器と火薬とを備えて、船尾の部分を守備所にして貰いたい、と言われるのですね。つまり、あなたは暴動を気遣っておられるのですね。」
「もしもし、」とスモレット船長が言った。「別に気を悪くするつもりではありませんが、言うべきことを私に教えられる権利はお持ちにならんはずです。もし船長にそんなことが言えるだけの根拠があれば、まったく航海などする理由はない訳でしょう。アロー君のことを言えば、あれはまったく正直な男だと私は信じています。船員たちの或る者もそうです。いや、みんな案外正直者かも知れません。しかし、私はこの船の安全とこの船に乗っている人一人残らずの生命について責任があります。どうも、私の考えるところでは、万事が十分よくいっていないようです。それであなた方に確実な予防手段を執って頂きたいというのです。でなければ私に職を罷めさせて下さい。これだけです。」
「スモレット船長、」と医師は微笑しながら言い始めた。「大山鳴動して鼠一匹という寓話を聞かれたことがありますか? 失礼ですが、あなたはその寓話を思い出させます。あなたがここへ入って来られた時には、私は自分の仮髪《かつら》を賭けて言うが、それ以上のことを心に思っておられたのでしょう。」
「先生、」と船長が言った。「あなたは賢い方《かた》です。私がここへ来ました時には、解職させて頂くつもりでした。トゥリローニーさんが一|言《こと》でもお聞きになろうとは思いませんでしたから。」
「いかにも聞きはしなかったろうさ。」と大地主さんが叫んだ。「リヴジー君がここにいなかったら、私は君を叩き出してでいたろうよ。が実際は、このように君の言うことを聞いてやったのだ。で、まあ、君の望む通りにするとしよう。しかし、君のことはよく思わんよ。」
「それは御随意です。」と船長が言った。「私は自分の義務は果してお目にかけます。」
 そう言うと彼は立去った。
「トゥリローニーさん、」と医師が言った。「案に相違して、あなたはこの船に二人も正直な人間を乗せましたね、――あの人とジョン・シルヴァーと。」
「シルヴァーはそう言いたければ言ってもいいさ。」と大地主さんが叫んだ。「が、あの我慢の出来んいかさま師のことなら、私は断言するが、あの男の振舞は男らしくない、海員らしくない、全然イギリス人らしくない、と思うよ。」
「まあ、今にわかるでしょう。」と医師が言った。
 私たちが甲板へ出て来た時には、水夫たちはもう、よいこら、よいこらと掛声をしながら、武器と火薬とを運び出しにかかっていて、船長とアローさんとがそばに立って監督していた。
 今度の配置はまったく私の気に入った。スクーナー船全部が検査された。中部船艙の後の部分であったところに、六箇の棚寝床《バース》が船尾に拵えてあった。そしてその一組の船室は左舷の側にある円材(註四一)[#「(註四一)」は行右小書き]の出ている廊下で厨室と前甲板下水夫部屋《フォークスル》とに続いているだけだった。初めは、船長と、アローさんと、ハンターと、ジョイスと、医師と、大地主さんとがこの六つの棚寝床を占めることにきまっていたのであった。ところが今度は、レッドルースと私とがその中の二つに入ることになり、アローさんと船長とが甲板の船室昇降口室《コムパニヨン》で寝ることになった。そこは両側とも拡げられていて、最上後甲板下船室《ラウンドハウス》と言ってもいいくらいであった。もちろん、やはり天井はごく低かった。が二つの吊床《ハンモック》を吊《つる》すだけの余地はあった。そして副船長でさえこの配置には喜んでいたようだった? 多分、彼でさえ乗組員には疑いを抱いていたのであろう。だがこれはただ推量である。というのは、後にわかるように、私たちは永くは彼の世話にならなかったのだから。
 私たちが皆一所懸命に働いて、火薬と棚寝床とを移していると、その時、船員の最後の一二人と、のっぽのジョンとが、艀《はしけ》でやって来た。
 料理番《コック》は猿のようにうまく舷側《ふなばた》を上って来て、やっていることを見るや否や、「おや、兄弟《きょうでえ》! これぁ何だい?」と言った。
「火薬の場所を変えてるんだよ、ジャック。」と一人が答えた。
「やれやれ、何てこった。」とのっぽのジョンが叫んだ。「そんなことをしていちゃあ、きっと明日《あす》の朝の潮時《しおどき》をはずしちまうぜ!」
「俺《わし》の命令さ!」と船長がぶっきらぼうに言った。「お前は下へ行くがいい。みんなが夕食を待っているだろう。」
「はいはい。」と料理番は答えた。そして前髪に手を触れる敬礼をして、すぐ厨室の方へ姿を消した。
「あれはよい男ですぬ、船長」と医師が言った。
「そうかも知れませんな。」とスモレット船長は答えて、「おい、それはゆっくりやれ、ゆっくり。」と火薬を運んでいる連中に向って続けてしゃべった。それから突然、私たちが船の中央部に運んで来た旋回砲、真鍮の九ポンド砲を私が調べているのを目に留めると、――「こら、その給仕《ボーイ》、そこにいちゃいかん! 料理番《コック》のところへ行って何か手伝いをしろ。」と呶鳴《どな》った。
 それで私は急いで駆けてゆくと、彼がずいぶん大きな声で医師にこう言うのが聞えた。――
「私にはこの船で気に入った者は一人も出来ますまいよ。」
 確かに、私は大地主さんとまったく同感で、船長を心の底から憎んだ。

第十章 航海

 その夜は一晩中、私たちはいろいろの物をその各の場所にしまいこむのに大混雑し、またブランドリーさんやその他の大地主さんの知人たちが、大地主さんの平安な航海と無事の帰航とを祈りに、小舟何艘にも一杯乗ってやって来た。「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋では私にその半分の仕事があった晩も一晩だってなかった。そして、明方《あけがた》少し前に、水夫長《ボースン》が呼子を鳴らして、船員が揚錨絞盤《キャプスタン》の梃《てこ》に[#「梃《てこ》に」は底本では「挺に」]就《つ》き始めた時分には、私はへとへとに疲れていた。その二倍も疲れていたにしても、私は甲板を去りはしなかったろう。それほどすべてが私には物新しくて興味があったのだ、――簡短な号令も、呼子の鋭い音《ね》も、船の角燈のちらちらする光の中をそれぞれ自分の場所へ駆けてゆく人々も。
「さあ、|肉焼き台《バービキュー》、歌を一つやれよ。」と一人の声が叫んだ。
「あの昔のをな。」と別の声が叫んだ。
「よしきた、兄弟。」と※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖に凭《もた》れてそばに立っていたのっぽのジョンが言って、すぐに節《ふし》も文句も私のよく知っているあの唄をやり出した。――


「死人箱《しびとのはこ》にゃあ十五人――」

すると全部の水夫が合唱《コーラス》をやった。――


「よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!」

そしてその「さあ!」のところで梃《てこ》を[#「梃《てこ》を」は底本では「挺を」]威勢よく※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
 こんな気の立った瞬間にさえ、その唄は私の心をたちまちにして懐しい「ベンボー提督屋」へつれ帰らせた。そして私にはあの船長の声がその合唱の中で歌っているのが聞えるような気がした。しかし、やがて錨がまっすぐに上げられた。やがてそれは水をぽたぽた滴らせながら船首のところにぶら下った。やがて帆が風を十分に孕み出し、陸や船が両側で飛ぶように動き出した。そして、私が一時間ばかりの眠りを貪ろうとして横になることが出来る前に、ヒスパニオーラ号はもう宝の島をさして航海を始めていたのである。
 私はその航海のことを詳細に物語ろうとは思わない。航海はかなり順調にうまくいった。船はよい船であることがわかったし、船員たちは腕利きの水夫だったし、船長は自分の任務を十分に了解していた。しかし、私たちが宝島まで来ないうちに、知っておいて貰わなければならぬ二三の事件が起った。
 第一に、アローさんが船長の気遣っていたより以上に、厄介な人間になった。水夫たちには少しも睨みが利かず、部下の者は彼に対して勝手なことをした。しかし、悪いのは決してそれだけではなかった。航海に出てから一二日たつと、彼は、眼をとろんとさせ、頬を赤くし、口を吃《ども》らせ、その他の酔っている徴候も示しながら、甲板へ出て来出したのである。幾度も彼は恥をかいて下へ行けと命ぜられた。時には自分で転《ころ》んで怪我《けが》をしたり、時には一日中あの船室昇降口室《コムパニヨン》の片側にある自分の小さい寝床の中に横になっていたり、そうかと思うと、時には、一二日の間はほとんど素面《しらふ》でいて自分の仕事を少くとも普通にやっていることもあった。
 一方、彼がどこで酒を手に入れるのか、私たちにはどうしてもわからなかった。それは船での謎だった。私たちはずいぶん彼に注意していたけれども、少しもそれを解くことが出来なかった。そして、面と向って彼に尋ねれば、酔っている時には彼はただ笑っているばかりだったし、素面の時には、水の他《ほか》は何もついぞ飲んだことがないと真面目《まじめ》くさって否定するのだった。
 彼は副船長として役に立たず、水夫たちに悪い感化を及ぼすばかりではなく、この分では間もなく自分の身をも滅ぼすことになるに違いないということは明白だった。そういう訳だったから、逆浪の立っている或る暗い晩、彼がまったく姿を消して二度と出て来なかった時には、だれも大して驚きもせず、さほど気の毒がりもしなかった。
「海へ落ちたんだな!」と船長が言った。「いや、これであの男に足械《あしかせ》をかける手数が省けたようなものですよ。」
 しかし副船長がいなくなったものだから、もちろん、水夫たちの一人を昇進させることが必要となった。水夫長のジョーブ・アンダスンが船中では一番適任だったので、水夫長という名称は旧《もと》通りであったけれども、幾分か副船長の役を勤めることになった。トゥリローニーさんは航海をしたことがあって、その知識のために大層役に立った。凪《なぎ》の時にはたびたび自分で当直勤務《ウオッチ》をやることがあったからである。また、舵手《コクスン》のイズレール・ハンズは注意深い、狡猾な、老練な、経験のある海員で、まさかの時にはほとんど何でも任《まか》すことが出来る男だった。
 彼はのっぽのジョン・シルヴァーの腹心の友であって、彼の名を挙げると、私は自然、皆が|肉焼き台《バービキュー》(註四二)[#「(註四二)」は行右小書き]と呼んでいる、私たちの船の料理番《コック》のことを話す順序になって来る。
 船の中では、彼は、両手とも出来るだけ自由に使えるようにと、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を頸の周りにかけた一本の締索《しめなわ》にぶら下げていた。彼が隔壁に※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖の足を突っぱって、それで身を支え、船の揺れ動くままに任せながら、陸上にいて安全な人のように料理をやり続けているのを見るのは、なかなか面白かった。天候の非常に荒れた日に彼が甲板を横切ってゆく有様は、なお一層奇妙だった。彼は一本か二本の索を用意して一番幅の広い場所を突っ切る時にはそれを頼りにした。――その索のことをのっぽのジョンの耳環と皆は言っていたが。そして、或る時は※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を使い、また或る時はそれを例の締索で脇に曳きずって、他の人の歩くのと同じくらいに速く、一つの場所から他の場所へと動いてゆくのであった。それでも、以前に彼と一緒に航海したことのある人々の中には、彼がそんな有様になったのを見るのは可哀そうだと言う者もいた。
「あの男は並《なみ》の人じゃねえんだよ、あの|肉焼き台《バービキュー》はな。」と舵手が私に言った。「若《わけ》え時にゃ良《え》え教育を受けたんで、その気になれぁ書物みてえにちゃんと立派にしゃべれるんだ。それから強《つえ》えぞ、――獅子《ライオン》だってのっぽのジョンのそばあたりにもよれやしねえんだぜ! 己は、あの男が四人の者と取っ組み合って、其奴《そいつ》らの頭を叩き合したのを見たことがある。――あの男の方は素手《すで》でよ。」
 水夫たちは皆彼を尊重し、彼に服従さえした。彼は一人一人に対しての口の利き方を心得ていたし、だれにも何か特別の世話を焼いてやった。私にはずっと変らず親切で、私が厨室へ行くといつも喜んでくれた。そこは彼が始終新しいピンのように綺麗にしておいた。皿なども磨き立てて掛けてあり、彼の鸚鵡《おうむ》が一隅にある鳥籠の中にいた。
「来給え、ホーキンズ、」と彼はよく言った。「来てジョンと話をしておくれ。だれよりも君が来てくれるのが嬉しいよ、坊や。まあ腰を掛けて変った話でも聞いてくれ給え。これがフリント船長《せんちょ》だ、――己はこの鸚鵡をあの名高《なだけ》え海賊の名を取ってフリント船長って言ってるんだよ、――このフリント船長がな、今度の航海《こうけえ》はうまくゆくって予言しているぜ。そうじゃなかったかね、船長?」
 すると鸚鵡は「八銀貨! 八銀貨! 八銀貨!」と非常に速いのに言い続け、息が切れはしまいかと思われるまで、またはジョンがハンケチを鳥籠の上に投げかけるまで、それを止《や》めない。
「ところで、この鳥はね、」とジョンは言う。「多分二百歳ぐらいだろうよ、ホーキンズ。――鸚鵡って奴は大概《てえげえ》いつまででも生きてるものなんだ。で、だれでもこいつよりももっとたくさん悪い事を見て来たものがあれぁ、それは悪魔だけに違えねえさ。この鳥はイングランドと一緒の船にいたこともあるんだ。あの大海賊のイングランド船長(註四三)[#「(註四三)」は行右小書き]とね。こいつはマダガスカルにもいたことがあるし、マラバーにも、スリナムにも、プロヴィデンスにも、ポートベロー(註四四)[#「(註四四)」は行右小書き]にもいたことがある。あの銀貨や銀塊を積んだ難破船の引揚げの時にもいたんだ。そこでこいつは『八銀貨』を覚えたんだから、不思議はない訳さ。その八銀貨が三十五万枚もあったんだぜ、ホーキンズ! こいつはまたゴア(註四五)[#「(註四五)」は行右小書き]の港の外でインド太守の船に乗込みのあった時にもいたんだよ。でも、こうして見ていると、まるで赤ん坊みてえに思えるだろう。だがお前《めえ》は火薬の臭《にお》いを嗅いだことがあるんだ、――そうだろ、船長?」
「針路転換用意。」と鸚鵡《おうむ》は金切声を立てる。
「ああ、利口な奴だ、こいつは。」と料理番は言って、ポケットから角砂糖を出して鸚鵡にやる。それから、その鳥は横木をつついて、信じられないほど口ぎたない言葉を吐き続ける。「ほら、ねえ、君、」とジョンが言い足す。「朱に交れば赤くなる、って奴さ。己のこの無邪気な鳥が、可哀そうに、こんなひどい言葉を使うんだからね。無論、何にも知らずにだよ。言わば牧師さんの前だってこれと同じことを言うんだろうからねえ。」そして、牧師さんと言うところで、彼はいつものしかつめらしいやり方で前髪に手を触れるので、私はこんなよい男はまたとあるまいと思ったものだった。
 とかくしているうちにも、大地主さんとスモレット船長とはやはりよそよそしい間柄であった。大地主さんはそのことを少しも意に介しなかった。彼は船長を軽蔑した。船長の方は、話しかけられた時の他は決して口を利かなかったし、その話しかけられた時でも、つっけんどんで、ぶっきらぼうで、素気《そっけ》なく、一言も無駄口を利かなかった。一度言いこめられた時に、彼は、船員については自分は思い違いをしていたようだ、中には自分の希望通りに敏捷な者もいるし、みんながかなりよくやっている、と白状した。船に関しては、彼はそれがまったく気に入っていた。「この船はほとんど風上に間切《まぎ》っても進めますな。女房にだってこれほど言うことをきかせる訳にはゆきますまいよ。しかし、」と彼は言い足すのだった。「まあ、我々が帰国していないのが残念です。私はこの航海を好みません。」
 大地主さんは、それを聞くと、ぷいと顔を背けて、頤を突き出しながら(註四六)[#「(註四六)」は行右小書き]、甲板をあちこちと歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。
「もうちっとでも失敬なことを言うと、俺《わし》の癇癪玉も破裂するぞ。」と彼はよく言った。
 私たちは幾度か暴風に遭ったが、それはただヒスパニオーラ号の優良な性質を証拠立てただけであった。船の中の者は皆十分に満足しているようだった。そうでなければ、よくよくの気むずかし屋だったに違いない。というのは、私の信ずるところでは、ノアの方舟《はこぶね》此方これほど甘やかされた船員は決してなかったのだから。ちょっとした口実があっても、強い|水割りラム《グロッグ》が振舞われたりした。また、何でもない日に、例えば、大地主さんがだれかの誕生日だということを聞いたというような日などには、プディングが出た。それから、林檎の樽が一ついつでも中部甲板に蓋を開けたまま置いてあって、だれでも好きな者が勝手に食べられるようになっていた。
「こんなことからよいことが起ったというのは、まだ聞いたことがない。」と船長はリヴジー先生に言った。「水夫を甘やかすのは、彼等を悪魔にする。私はそう信じています。」
 しかし、これからわかるように、よいことがその林檎樽から確かに起ったのである。というのは、もしその林檎樽がなかったなら、私たちは何の警告も受けることがなかったろうし、一人残らず叛逆の手にかかって殺されてしまったかも知れないのだから。
 それは次のような次第であった。
 私たちは、目指している島――私はもっとはっきり書くことは許されていない――の風上に出るために、これまでは貿易風について赤道の方へ走っていたが、今度は赤道から離れてその島へ向って走り、昼夜油断なく見張りをしていた。最も多くに見積っても、私たちの往航の最後の日に当る頃のことであった。その夜のうちか、遅くとも翌日の正午前には、宝島が見えるはずであった。私たちは南南西に進んでいて、正横にむらのない風を受け、浪は静かだった。ヒスパニオーラ号は絶えず一様に横揺れし、時々船首の第一斜檣《ボースプリット》を水に突っ込んでぱっと飛沫《しぶき》をあげた。上も下もすべての帆が風を孕んでいた。だれも彼も大元気だった。もう私たちの冒険の最初の部分の終りにごく近かったからである。
 さて、日没のすぐ後、私は自分の仕事をすっかりすませて、自分の棚寝床《バース》へ行く途中、ふと林檎を食べたいと思った。私は甲板へ走り上った。当直の者は皆前部にいて島を見張っていた。舵輪を握っている男は帆の前縁を見ながら、ゆっくりとひとりで口笛を吹き続けていた。そしてその口笛の音が、船首や舷側《げんそく》にあたる浪のしゅうしゅうという音を除けば、聞える唯一の音であった。
 私は体《からだ》ぐるみ林檎樽の中へ入り込んだ。すると林檎がほとんど残っていないのがわかった。が、そこで暗がりの中に坐っていると、波の音やら船の動揺やらで、つい寝込んだか、それとも眠りかけようとしていたか、その時、だれか重い男がすぐ近くにどしんと腰を下した。その男が肩を樽にもたせかけると樽がぐらぐらと揺れたので、私がもう少しのことで跳び上ろうとした時、その男がしゃべり始めた。それはシルヴァーの声だった。そして、私は一ダースの言葉も聞かないうちに、どんなことがあっても出てゆくどころではなく、極度の恐怖と好奇心とで、ぶるぶる震えながらも耳を傾けて、そこに蹲った。というのは、その一ダースの言葉から、私は船中にいるすべての正直な人たちの生命が自分一人に懸っていることを知ったからである。

第十一章 林檎樽の中で聞いた話

「いいや、己じゃねえ。」とシルヴァーが言った。「フリントが船長《せんちょ》だったんだ。己は、こんな木の脚をついてるんで、按針手《クォータマスター》だったよ。己が脚をなくした時の片舷《かたがわ》からの一斉射撃で、ピューの奴めも眼玉をなくしたのさ。己の脚を切ってくれたのは上手な外科医だった、――大学なんかもみんなすまして、――ラテン語もどっさり知ってたし、その他《ほか》何でも知っていてね。だが、その男も犬みてえに縊《くび》り殺されて、他の奴らと同じに天日《てんぴ》に曝されたぜ、コーソー要塞(註四七)[#「(註四七)」は行右小書き]でよ。あれはロバーツ(註四八)[#「(註四八)」は行右小書き]の手下だった、あれはな。あれも船の名を変えたんで起ったことさ、――大幸運《ロイアル・フォーチュン》号とか何とかね。だから、船に名をつけたら、そのままにしておくことだな。イングランドがインドの太守を虜《とリこ》にしてから、己たちみんなを無事にマラバーから乗せて戻ったカサンドラ号だってそうだったし、赤い血を見て暴れ狂って手当り次第の船をやっつけ、金貨で今にも沈みそうになった、フリントの船の海象《ウオルラス》号だってそうだったよ。」
「ああ!」と別の声が叫んだが、それは船中で一番若い水夫の声で、明かに感歎しきった声だった。「あの人は仲間の華《はな》だったんだね、あのフリントって人は!」
「デーヴィス(註四九)[#「(註四九)」は行右小書き]も偉い奴だったそうだ、みんなの話じゃあな。」とシルヴァーが言った。「己は一度もあの人と一緒に船に乗ったことはねえ。初めはイングランドの船に乗り、それからフリントの船に乗った、というのが己の経歴だ。そして今じゃあ、言わば自前《じまえ》になったって訳さ。己はイングランドの時には九百ポンド貯《た》め、フリントのところでは二千ポンド貯めた。これぁ平水夫にしちゃあ悪かあねえだろ。――みんなちゃんと銀行に預けてあるよ。肝腎なのは稼ぐことじゃねえ、貯めることだ。こいつあ違えねえとこだぜ。イングランドの手下の奴らあ今みんなどこにいる? わからねえ。フリントの手下は? それぁ、大抵はこの船にいて、プディングを貰って喜んでやがるが、――その前《めえ》にゃ乞食をしていた奴もある。眼をなくしたピューの奴などは、恥しくもなく、国会の議員さまみてえに一年に千二百ポンドも使ったものだ。奴は今どこにいる? そうさ、もう死んじゃって、あの世にいらあ。だがその前二年ってものは、馬鹿めが! あいつは饑《かつ》えていやがったんだよ。奴は乞食をする、盗みはやる、人殺しをやる、おまけに飢死《うえじに》と来るんだからなあ!」
「じゃあ、金《かね》だって大して役にゃ立たない訳ですね、つまり。」とその若い水夫は言った。
「馬鹿にゃあ大《てえ》して役に立たねえとも、違えねえさ、――金だって何だって。」とシルヴァーが大声で言った。「だが、なあ、おい。お前《めえ》は若《わけ》え。若えが、ペンキみてえにはしっこい。それはお前をちょっと見た時から己にゃあちゃんとわかってるんだ。だから己はお前を一人前の男と同じに話をするんだぜ。」
 この憎むべき老いぼれの悪漢が、私に使ったのとそっくり同じ言葉のおべっかを、他の人間に言っているのを聞いた時の私の気持がどんなだったかは、諸君も想像出来るであろう。私は、もし出来さえしたら、樽越しに彼を突き殺してやったろうと思う。その間に、彼は、窃《ぬす》み聞きされているとは少しも思わずに、しゃべり続けた。
「分限紳士《ぶんげんしんし》ってなあこういうものなんだ。奴らは荒仕事をやるし、ぶらんこ往生覚悟の仕事をやるが、闘鶏《けあいどり》みてえに贅沢に飲み食いする。そして一航海やって来ればだ、そうさなあ、ポケットにゃ何百ファージングの代りに何百ポンドと入《へえ》ってる。(註五〇)[#「(註五〇)」は行右小書き]ところで、大概《てえげえ》の奴らはそれをラムや大尽遊びに使っちまって、またぞろシャツ一枚で海へ出かけるという訳さ。だが己のやり口はそうじゃねえ。己はそれをそっくりためておく。こっちに少し、あっちに少しという風にして、どこにもあんまりたんとはおかねえ。嫌疑がかかるからな。己ぁ五十だぜ、いいかね。今度の航海から帰《けえ》りせえすりゃ、真面目《まじめ》な紳士の暮しを始めるんだ。まだずいぶん早《はえ》え、ってお前は言うだろう。ああ、だが己は今までだって安楽に暮して来たのだ。してえと思うことでやらなかったことは何一つなかったし、いつも柔かな寝床に寝てうめえものばかり食ってたんだ。海に出てる時だけあ別だがね。その己が初めはどうだったかね? お前と同じに、平水夫さ!」
「なるほど、」と一方の男が言った。「だが他の金はみんなもうなくなった訳ですね? これから後はあんただってブリストルへは顔が出せねえでしょう。」
「じゃあ」己の金がどこにおいてあると思うかね?」とシルヴァーは嘲笑《あざわら》うように尋ねた。
「ブリストルにさ、銀行だの何だのにな。」と相手の男が言った。
「この船が錨を揚げた時にゃあそうだったのさ。」と料理番《コック》は言った。「だが今時分は己の女房がそいつをすっかり握ってるのだ。そして『遠眼鏡《スパイグラース》屋』は借地権も暖簾《のれん》も道具一式もすっかり売り払って、嬶《かかあ》どんは己と逢うためにそこを出ているよ。己はお前を信用してるから、どこで逢うことにしているのか言ってやってもいいが、そうすると仲間の奴らが嫉むだろうからな。」
「で、あんたはおかみさんを信用出来るのかい?」と一方の男が尋ねた。
「分限紳士って者は、」と料理番が答えた。「普通は仲間同志じゃあんまり信用しねえものだ。そしてそれももっともなんだ、確かにな。だが、己にゃあまた己の流儀があるのさ。だれかが仲間の者を裏切るなんてこたぁ、――己を知っているだれかのことだが、――このジョンのいる同じ場所じゃ起りっこねえんだ。ピューを恐れてる奴もいた。またフリントを恐れてる奴もいた。がそのフリントはまたフリントで己を恐れていた。恐れてはいたが、また己のことを自慢にもしていた。あいつらはこの上なしの乱暴な船乗だった、フリントの船員はな。悪魔だってあいつらと一緒に海へ行くのは尻込みしたろうよ。ところでだ、ほんとのところ、己は法螺吹きじゃねえし、お前の見てる通り己は仲間を仲よくさせているが、己が按針手だった時にゃあ、フリントの手下の海賊どももおとなしいことったら、小羊[#「小羊」に傍点]と言ったって追っつかねえくれえだったぜ。ああ、お前だってこのジョンと一緒の船にいりゃあひとりでにわかるよ。」
「いや、実はね、」と若者が答えた。「ジョン、あんたと今の話をするまでは、あっしは今度の仕事は大して気が進まなかったんでさ。だがもうわかった。握手しましょう。」
「お前は強え男だ。おまけにはしっこい。」とシルヴァーは、樽ががたがた揺れるくらい心をこめて握手しながら、答えた。「それに分限紳士としちゃあ己の見たことのねえくれえ男前がいいしな。」
 この時分には、彼等の遣っている言葉の意味が私にはわかりかけていた。「分限紳士」というのは明かに普通の海賊のことに違いなく、(註五一)[#「(註五一)」は行右小書き]私の窃《ぬす》み聞きしたこの小場面は、実直な船員の一人が堕落させられる最後の一幕だったのだ。――恐らくそれは船中に残っている最後の実直な者であったのだろう。しかし、この点では私は間もなく安堵させられる話を聞いたのだ。シルヴァーがちょっと口笛を吹くと、もう一人の男がぶらぶら歩いて来て二人のそばに坐った。
「ディックは話がついたよ。」とシルヴァーが言った。
「おお、ディックが話がつくってこたぁ己ぁ知ってたよ。」と舵手《コクスン》のイズレール・ハンズの声が答えた。「この男は馬鹿じゃねえからな、このディックは。」それから彼は噛煙草をぐにゃぐにゃやって唾をぺっと吐いた。「だが、おい、」と続けて言った。「己の聞かして貰《もれ》えてえのはこういうことさ、|肉焼き台《バービキュー》。一|体《てえ》、いつまで己たちはうろうろ舟みてえにぐずぐずしてるんだね? 己ぁもうスモレット船長《せんちょ》にゃうんざりしてる。奴は永《なげ》えこと己をこき使いやがったよ、畜生! 己ぁあの船室《ケビン》へ入りてえんだ、そうさ。奴らの漬物《ピックル》だの葡萄酒だの何だのがほしいんだ。」
「イズレール、」とシルヴァーが言った。「お前の頭は大して役に立たねえぞ、相変らずな。だがお前は聞くことだけは出来そうだ。何しろでっけえ耳をしているからな。ところで、己の言うことはこうだ。お前は水夫部屋に寝てるんだ、せっせと働くんだ、丁寧な口を利くんだ、酔っ払わずにいるんだ、己が命令するまではだ。その通りにしてるんだぞ、小僧。」
「うむ、いやだなんて己は言やしねえ。言ったけえ?」と舵手はぶつぶつ言った。「己の言うのは、いつだ? ってえんだ。それが己の言ってることなんだ。」
「いつだと! こん畜生!」とシルヴァーが叫んだ。「よし、では、聞かして貰えてえんなら、いつだか言ってやろう。己がこれならやれると思う最後のぎりぎりの時、それがその時なんだ。スモレット船長という立派な海員《けえいん》がいて、この有難《ありがて》え船を己たちのために動かしてくれる。あの大地主と医者の奴が地図やなんぞを持っていてくれる。――それがどこにあるのか己にはわからねえじゃねえか? お前たちだってわからねえだろ。そこでだ、己は、あの大地主と医者とに金《かね》をめっけ出させて、それを船に積み込む手伝いをさせてやろう、ってつもりなんだ。それからがこっちのやる番だよ。もしお前たち大馬鹿野郎どもがみんなが頼りになるなら、己は、スモレット船長にまた船を半分途まで戻させて、それからやっつけるのだ。」
「なあに、ここに乗ってる己たちだってみんな海員だ、と己は思うんだがな。」と若者のディックが言った。
「己たちだってみんな平水夫だ、って言う間違えだろうよ。」とシルヴァーがつっけんどんに言った。「なるほど己たちは一つの針路に船を進めることは出来るが、しかしだれがその針路をきめるんだい? お前さん方みんながたびたびしくじるのは、そこなんだ。もし己の思う通りにするとすりゃあ、己はスモレット船長に少くも貿易風の中まで船を戻させる。そうすりゃ、いまいましい見込違いもなければ、一日にちょっぴりの水だけ飲んでなけれぁならんような目にも遭わずにすむだろう。だが手前たちがどんな質《たち》の連中か己は知ってる。現なまを船に積み込み次第《しでえ》、己は島で奴らをやっつけねばなるめえ。情《なさけ》ねえやり方さ。しかし手前たちは酔っ払うまでは決して仕合せになれねえって連中なんだ。えい、糞いまいましい、手前たちのような手合と一緒に船に乗ってるのはつくづく厭《いや》んなっちゃうぜ!」
「止《や》めろよ、のっぽのジョン。」とイズレールが叫んだ。「だれがお前《めえ》に逆《さから》ったい?」
「うむ、己がこれまでにどれほどたくさんの立派な船が舷側《ふなばた》に攻め寄せられたのを見て来たとお前は思う? それから、どれほどたくさんの元気な若え奴らが仕置波止場(註五二)[#「(註五二)」は行右小書き]で天日に曝されたのを見たと思う?」とシルヴァーが叫んだ。「そりゃあみんな、ただ急ぎに急いだからなんだぜ。わかったか? 己は海のことならちったぁ心得てるんだ、己はな。もし手前たちが今のままにして、うまくやってきせえすれぁ、馬車に乗って歩く身分になれるのだ、そうともよ。だが手前たちゃ駄目さ! 己はお前たちを知ってる。お前たちは明日にでもラムを一口飲んで、縊り殺されることになるだろうよ。」
「お前が牧師みてえな男だってこたぁだれだって知ってるよ、ジョン。だが、他《ほか》にもお前と同じくれえ帆も捲けれぁ舵も取れる者だっているぜ。」とイズレールが言った。「奴らはちっとは遊びも好きだった、そうとも。とにかく、奴らはそんなに世間離れがしてねえで、どいつもみんな陽気に大尽遊びをやったものさ。」
「そうかね?」とシルヴァーが言った。「なるほど。で、その連中は今はどこにいる? ピューはそんな風な奴だったが、乞食になって死んじまった。フリントもそうだったが、サヴァナでラムで命をなくした。ああ、あの連中は立派な船乗だった、ほんとにな! ただ、今はどこにいる?」
「しかしねえ、」とディックが尋ねた。「奴らを攻撃して、それから奴らをどう始末するんですね、とにかく?」
「うん、お前はさすがだ!」と料理番は感歎したように叫んだ。「それが己が仕事と言ってることだよ。ところで、お前はどう思う? 島流しみてえに奴らを島に残して来るかね? それならイングランドのやり方だろう。それとも豚肉《ぶたにく》みてえに奴らを叩っ切るかね? それならフリントかビリー・ボーンズのやり方だろうな。」
「ビリーはそれにゃお誂《あつれ》え向きの男だったな。」とイズレールが言った。「『死人《しびと》は咬みつかず』って奴《やっこ》さんはよく言ってたっけ。ところで、今じゃ自分で死んでござるので、咬みつくかつかねえかってことはちゃんと何もかも御存知の訳だ。もし今までに荒っぽい船員があの世へ行ったことがあるとすりゃ、それぁビリーだな。」
「お前の言う通りだ。」とシルヴァーが言った。「荒っぽくてめちゃな奴だった。だが、いいかね。己は穏かな人間だ、――まるで紳士だ、ってお前たちも言うだろう。しかし今度は大事《でえじ》な場合だ。やることはやらにゃならんよ、兄弟《きょうでえ》。己は投票する、――殺しちゃう方へだ。己が国会にいて、馬車に乗って歩いている時に、あの船室《ケビン》にいる口やかましい奴どもにゃ一人だって帰って来て貰えたかねえ、お祈りの式に出て来た悪魔みてえに思いがけなくな。己の言うのは待てということだ。しかし時機が来たら、やっつけるのだ!」
「ジョン、お前は偉者《えらもの》だ!」と舵手が叫んだ。
「見てからそう言うがいいさ、イズレール。」とシルヴァーは言った。「たった一つ己に望みがある、――トゥリローニーが望みだ。己はこの手であの間抜野郎の首を胴体から捩じ切ってやるのだ。ディック!」と彼は急に言葉を止めて言い足した。「お前、いい子だから、ちょっと跳び上って、己に林檎を一つ取ってくれ。咽《のど》を湿《しめ》すんだから。」
 その時の私の恐怖は想像出来るであろう! その力さえあったなら私は跳び出て逃げ出したことだろう。けれども私の手足も心も同様に私をためらはせた。ディックが立ち上りかけるのが聞えた。それからだれかが彼を止めたようだった。そしてハンズの大声に言う声が聞えた。――
「おお、止《よ》せ止せ! その樽の中のものなんかしゃぶるなよ、ジョン。ラムを一|杯《ぺえ》やろうじゃねえか。」
「ディック、」とシルヴァーが言った。「お前を信用するよ。樽の上に計量器がある、いいかい。それ、鍵だ。小皿に一杯入れて持って来てくれ。」
 私はびくびくしてはいたけれども、アローさんが身を滅ぼすようになった強い酒を手に入れたのも、こんな風にしてだったに違いない、と思わずにはいられなかった。
 ディックはほんのしばらくの間行っていたが、彼のいない間イズレールは料理番にずっと囁き続けていた。私の聞き取れたのはほんの一二語に過ぎなかったけれども、それでも私は重大な消息を知った。というのは、他にも同じような意味のきれぎれの文句の他に、こういう文句全体が聞えたからである。「あいつらはもう一人もこっちへつくめえよ。」とすると、船中にはまだ忠実な船員もいる訳であった。
 ディックが戻って来ると、三人は順々に小皿を取って飲んだ。――一人は「運がいいように。」と言って飲み、もう一人は「フリントのために祝杯を。」と言って飲み、シルヴァーは歌のような調子で「己たちのために祝杯を挙げる。しっかりやるんだ。そうすりゃ獲物はどっさり、御馳走もどっさりだ。」と言って飲んだ。
 ちょうどその時、樽の中にいる私に何だか明るい光がぱっと射《さ》して来た。見上げると、月が昇っていて、後檣《ミズンマスト》の頂を銀色にし、前檣帆《フォースル》の前縁に白く輝いているのだった。そして、それとほとんど同時に、見張りの者の声が「陸が見えるぞう!」と叫んだ。

第十二章 戦争会議

 甲板をどかどかと走る足音がした。人々が船室《ケビン》や水夫部屋《フォークスル》から駆け上って来るのが聞えた。それで、私はたちまちに樽の外へひらりと出て、前檣帆《フォースル》の後《うしろ》に隠れ、船尾の方へくるりと向を変えて、広い甲板のところへ出て来ると、ちょうど折よく、風上船首へと走ってゆくハンターとリヴジー先生とに一緒になった。
 そこには船員がすでにみんな集っていた。帯のようになっていた霧が月の出とほとんど同時に霽《は》れていた。船から遥か南西に当って、二つの低い山が二マイルばかり離れて立っているのが見え、その中の一つの背後に第三のもっと高い山が聳えていて、その山嶺はまだ霧に包まれていた。三つとも尖っていて円錐形をなしていた。
 これだけを私はほとんど夢心地で見た。というのは、一二分前のあのぞっとするほどの恐しさから、私はまだ恢復していなかったからである。その時スモレット船長が命令を下す声が聞えた。ヒスパニオーラ号は二ポイントだけ風の吹いて来る方角の方へ向けられ、今度はちょうど島の東側を島に触れずに通り過ぎるような針路で進んで行った。
「さて、みんな、」と船長は、すべての帆が帆脚索で十分に張られた時に、言った。「君たちの中でだれか以前に前のあの島を見た者があるかね?」
「わっしが見ました。」とシルヴァーが言った。「わっしは或る貿易船に料理番《コック》をしてました時に、あそこへ水を取りに行ったことがごぜえます。」
「碇泊所は南側で、小島の蔭だと思うが?」と船長が尋ねた。
「はあ、そうです。骸骨《スケリトン》島ってその島を皆は申しております。もとは海賊どもの大事《でえじ》な処でして、わっしらの船にいた一人の水夫が奴らのつけていた名前をみんな知ってました。北の方にあるあの山を奴らは前檣《フォーマスト》山と言っております。三つの山が南の方へ一列に並んでますな、――前檣山と、大檣《メーンマスト》山と、後檣《ミズンマスト》山という風に。けれど、大檣山を――あの雲のかかったでっけえ奴ですが――奴らは普通は遠眼鏡《スパイグラース》山って言っておりますよ。奴らが船を掃除するのに碇泊していた間、あの山に見張りを置いたという訳でね。失礼ながら、奴らが自分らの船を掃除しましたのは、あそこなんですから。」
「ここに海図があるがね。」とスモレット船長が言った。「それがあの場所かどうか見てくれ。」
 その海図を手にした時、のっぽのジョンの眼はきらりと輝いた。しかし、紙が新しいので、私には彼が失望しなければならぬことがわかった。それは私たちがビリー・ボーンズの衣類箱の中で見つけたあの地図ではなくて、正確な写しで、すべてが――地名も高度も水深も――すっかり書いてあったが、ただあの赤い十字記号と書込みの備考とだけがなかった。シルヴァーの苦悩はひどかったに違いないが、彼にはそれを隠すだけの意力があった。
「そうですよ、」と彼は言った。「これは確かにあの場所で。なかなかうまく描《け》えてありますねえ。だれが描えたんですかなあ? 海賊なんて奴あとても物識らずで描けめえとあっしは思いますがな。はあ、ここにありますよ、『キッド船長(註五三)[#「(註五三)」は行右小書き]碇泊所』とね、――あっしの船友達もそう言ってました。南の岸に沿うて強い潮が流れていて、それから西の岸を北の方へずうっと上っております。なるほどね、」と彼は言った。「船を風上に向けて島の風上へおやりになったのは、ようごぜえましたな。ともかく、船を入れて手入れをなさろうっておつもりなら、この辺にゃここよりよい処はごぜえませんよ。」
「有難う。」とスモレット船長が言った。「また後で力を貸して貰うことがあるだろう。行ってよろしい。」
 私はジョンが島について自分の知っていることをいかにも冷静に公言したのには驚いた。そして、彼が私の方へ近づいて来るのを見た時にはどきどきしたことを白状する。無論、私が林檎樽で彼の話を窃《ぬす》み聞きしたことは彼は知らなかったのだが、それでも、この時分には、私は彼の残忍さと二枚舌と勢力とには非常に怖しくなっていたので、彼が私の腕に手をかけた時にはほとんど身震いを隠せないくらいであった。――
「ああ、ここは面白《おもしれ》え処《とこ》だぜ、この島はな、――若《わけ》え者が上陸するにゃほんとに面白え処だ。」と彼は言った。「水浴びも出来る、木にも登れる、山羊も狩れるぞ。それに、自分でも山羊みてえにあの山のてっぺんへも行けるんだ。うむ、己だって若返《わかげえ》って来る。自分の木の脚を忘れちまいそうだよ。若くって、足指が十本揃ってるってこたぁ、楽しいことさ。違えねえぜ。君がちょいと探検にでも行ってみてえと思ったら、ちょっとジョン爺《じい》に言って来いよ。持ってく弁当を拵《こせ》えてやるからな。」
 そう言って私の肩を実に親しそうにぽんと叩くと、彼はぴょっこぴょっこ歩き出して、下へ行った。
 スモレット船長と、大地主さんと、リヴジー先生とは、後甲板で一緒に話していた。私はその人たちに自分の聞いた話を知らせたくてたまらなかったけれども、おおっぴらにその人たちの中へ割り込む訳にもゆかなかった。それで何かもっともらしい口実を見つけ出そうと頭の中であれこれと思案している間に、リヴジー先生が私をそばへ呼びつけた。彼は自分のパイプを下に置いて来たのであるが、非常な煙草好きなので、私にそれを取りにやらせるつもりだったのだ。けれども、私は人に洩れ聞きされずに話せるくらいに彼に近づくや否や、すぐに言い出した。――「先生、お話があります。船長さんと大地主さんとを船室《ケビン》へつれて降りて下さい。それから何かにかこつけて私を呼んで下さい。私は恐しいことを聞いたんです。」
 医師はちょっと顔色を変えたが、次の瞬間には自分の心を制した。
「有難う、ジム。」と彼は大層大きな声で言い、「それだけ聞けばよかったのだ。」と私に何か尋ねたかのようにした。
 そう言うと彼はくるりと後へ向いてまた他の二人の仲間に加わった。三人はしばらく一緒に話していた。そして、だれ一人もぎょっとしもせず、声を高めもせず、驚いたような声さえ立てなかったけれども、リヴジー先生が私の頼みを伝えたことは十分明かだった。というのは、私の聞いた次のことは船長がジョーブ・アンダスンに命令を下したことで、全員が呼子で甲板に召集されたからである。
「諸君、」とスモレット船長が言った。「私は諸君に一|言《こと》言いたいことがある。向うに見えるあの島が我々の目当にして来た場所だ。トゥリローニーさんは、我々みんなの知っている通り、大層気前のよい方《かた》であるので、今しがた私に一二言お尋ねになり、私が船中の各員上下ともその義務を尽し、これ以上は望まれないくらいであるとお答が出来たところが、トゥリローニーさんと私と先生とは船室へ降りて諸君の[#「諸君の」に傍点]健康と幸運とを祝して杯を挙げることになり、諸君にも酒を振舞って私たちの[#「私たちの」に傍点]健康と幸運とを祝して飲んで貰うことになった。これについて私の思うところを言うことにすると、誠に結構なことであると思う。それで諸君も私と同様に思われるならば、そうして下すった紳士のために万歳を唱えて貰いたい。」
 万歳の声が続いて起った。――それは当然のことだった。けれども、それがいかにも盛んに心から熱誠に響きわたったので、私はこの同じ人々が私たちの血を流そうと企《たく》らんでいるのだなどとはほとんど信じられぬくらいであった。
「もう一つスモレット船長《せんちょ》のために万歳だ。」とのっぽのジョンが、初めの万歳が鎮まった時に、叫んだ。
 するとそれもまた威勢よく唱えられた。
 それが終ると三人の紳士は下へ降りて行ったが、程なく、ジム・ホーキンズは船室に用があるという伝言があった。
 行って見ると、三人ともテーブルの周りに着席していて、スペインの葡萄酒が一罎《ひとびん》と乾葡萄とが前に載せてあり、医師は仮髪を膝の上に置いて、絶えず煙草を吹かしていたが、それが先生の昂奮しているしるしだということは私は知っていた。暖かい晩だったので、船尾の窓は開けてあって、海に残っている船跡《ふなあと》に月光がきらきらと輝いているのが見えた。
「さあ、ホーキンズ、」と大地主さんが言った。「何か言うことがあるそうだね。すっかり話しておくれ。」
 私は命ぜられた通りにし、シルヴァーの会話の一部始終を出来るだけ簡短に話した。それを話し終えるまではだれも口を出さなかったし、また三人の中の一人も身動きさえせず、初めから終りまで私の顔にじっと眼を注いでいたのであった。
「ジム、お掛け。」とリヴジー先生が言った。
 そして彼等は私をテーブルに向ってそばに掛けさせて、私に葡萄酒を一杯|注《つ》いでくれ、乾葡萄を手にいっぱい入れてくれて、それから三人とも代る代る、銘々会釈をしながら、私の幸運と勇気とのために、私の健康を祝して乾杯してくれた。
「さて、船長、」と大地主さんが言った。「君の言った通りだった。私は間違っていた。私は自分の馬鹿であることを認めて、君の命令を待ちます。」
「馬鹿なのは私も同じです。」と船長は答えた。「暴動をやるつもりの船員が前にその前兆を示さなかったということは聞いたことがありません。いやしくもそれを見抜く眼のある人ならわかりますし、それに応じて手段を執ります。しかし、この船員には、」と彼は言い足した。「私はまんまと一杯喰わされました。」
「船長、」と医師が言った。「失礼ですが、そこがシルヴァーです。実に素敵な男ですな。」
「帆桁《ほげた》の端に吊り下げてやったら素敵に似合いましょうな。」と船長が答えた。「しかしこれは無駄話です。こんなことを言っていても仕方がありません。私は三つ四つ考えていることがありますが、トゥリローニーさんのお許しを得て、申してみましょう。」
「君は船長です。話されるのは当然ですよ。」とトゥリローニーさんが鷹揚に言った。
「第一にです。」とスモレットさんは始めた。「我々はやり続けねばなりません。引返すことが出来ないからです。もし私が針路を転ずる命令を下そうものなら、彼等は直ちに謀叛を起しましょう。第二に、我々には時間がまだあります、――少くとも、あの宝を見つけるまでは。第三に、忠実な船員もいます。ところで、早かれ晩《おそ》かれ打合いを始めなければならんのですが、私の提議しますのは、いわゆる機会の前髪を捉えて、或る日彼等が少しも予期していない時に撃ってかかるということです。トゥリローニーさん、あなたのお家《うち》の召使たちは信用出来ると思いますが?」
「私自身と同様です。」と大地主さんが断言した。
「あの三人に、」と船長は数えた。「私たちで七人になりますな、このホーキンズも入れて。ところで、実直な船員の方は?」
「恐らくトゥリローニー君の選ばれた者でしょう。シルヴァーに出会われない前に、自分で見つけられた連中ですな。」と医師が言った。
「いいや、」と大地主さんが答えた。「ハンズは私の選んだ中の一人だったからねえ。」
「私もハンズは信用出来るものと思っていました。」と船長が言い添えた。
「そしてあいつらがみんなイギリス人だとはな!」と大地主さんは呶鳴《どな》り出した。「私はこの船をぶち壊してしまいたい気になるよ。」
「そこで、皆さん、」と船長が言った。「私の申し得る最善のことはこれだけです。どうか、じっとしていて、油断なく警戒していなければなりません。それは男にはつらいことだということはわかっています。撃ってかかる方がよっぽど愉快ではありましょう。だが味方の者がわかるまでは何とも致し方がありません。じっとしていて、風の出るのを待つ、これが私の意見です。」
「このジムは、」と先生が言った。「だれよりも我々の役に立ってくれますよ。皆もこの子には気を許していますし、それにジムは気のつく子ですから。」
「ホーキンズ、私はお前を非常に信用しているよ。」と大地主さんが言い添えた。こう言われると私はかなり絶望しかけた。まるで頼りない心細い気がしたからだ。しかし、不思議に引続いて起った出来事で、実際、私のために皆が救われることになったのである。とかくするうちに、私たちは思うままに話し合ったが、私たちの信頼出来るとわかっている者は二十六人の中に僅か七人であった。そしてこの七人の中で一人は子供だから、私たちの側の大人は向側の十九人に対して六人の訳だった。
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第三篇 私の海岸の冒険

第十三章 どうして海岸の冒険を始めたか

 翌朝私が甲板へ出て見た時には、島の様子はすっかり変っていた。風はその時はまったく凪いでいたけれども、船は夜の間によほど進行していて、今は、低い東海岸の南東半マイルばかりのところに動かずにいた。灰色の森林が島の表面の大部分を蔽うていた。その一様な色合は、低地にある黄ろい砂地の縞と、他の樹々より高く立っている――或るものは一本で、或るものは群をなして――たくさんの松柏類の高い樹木とで、破られてはいた。が、全体としての色調は変化がなくてくすんでいた。例の山々は裸岩の尖峯をなして植物帯の上にくっきりと聳え立っていた。どの山も奇妙な恰好《かっこう》をしていたが、三四百フィートあって島では一番高い遠眼鏡《スパイグラース》山は、やはり形も一番奇妙で、ほとんどどの方面からも垂直に聳え立っていて、それから頂上のところで突然切り取られたようになっているので、彫像を載せる台のようだった。
 ヒスパニオーラ号は大洋のうねりで排水孔が水の下へ入るほど横揺れしていた。帆の下桁は滑車《せみ》を強くひっぱり、舵はあちこちへばたんばたんと音を立て、船全体はぎいぎい軋ったり、唸るような音を立てたり、跳び上ったりして、工場のようだった。私は後支索にしっかりと縋《すが》りついていなければならなかったが、何もかも私や眼の前で眩暈《めまい》するほどぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていた。というのは、船足がついている時は私はなかなか船に酔わなかったのだが、こうじっとしていて罎《びん》のようにころころさせられるのでは、胸がむかむかせずにはいられなかったからで、とりわけ、朝の、空腹の時ではそうだった。
 多分そのためであったろうが、――多分、灰色の憂鬱な森林や、荒涼たる岩石の尖峯や、嶮《けわ》しい磯に白波を立てて轟きわたっているのが見えも聞えもする寄波《よせなみ》など、そういう島の光景のためであったろうが、――とにかく、太陽は赫々《あかあか》と焼くが如《ごと》くに輝いていたし、海辺《うみべ》の鳥は私たちの周り中で魚を漁《あさ》って啼き叫んでいたし、永く航海をして来た後に上陸出来ることはだれだって嬉しかろうと思われるだろうが、私の心はすっかり滅入っていた。そして、前方をそうして最初に眺めた時から、宝島のことなど思うさえも厭になった。
 退屈な朝仕事を私たちはやらなければならなかった。少しでも風の吹きそうな気配《けはい》もないので、ボートを下して水夫を乗り込ませ、船を曳索《ひきなわ》で曳いて、島の角を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、狭い水路を上って、骸骨《スケリトン》島の蔭の碇泊所まで三四マイル行かねばならなかったのだ。私はそのボートの中の一艘に自ら進んで乗り組んだ。もちろん、何の用事もなかったのであるが。暑気はひどくて、水夫たちは仕事に猛烈に不平を鳴らした。アンダスンは私の乗っていたボートを指揮していたが、乗員を取締るどころか、一番ひどくぶつぶつ言った。
「ふん、こんなことは永《なげ》えこっちゃねえんだ。」と彼は罵り言葉と共に言うのだった。
 これはずいぶん悪い徴候だなと私は思った。というのは、その日までは船員は任務を活溌に喜んでやって来たのだからである。が、島が見えるともう訓練の綱が弛んでしまったのだ。
 入って行く間中、のっぽのジョンは舵手《かじとり》のそばに立って船の操舵を指揮していた。彼はその水路を自分の掌のように知っていた。そして、舷側《ふなばた》にいて測鉛で水深を測っている男がどこでも海図に記《しる》してあるよりも水が深いと言ったけれども、ジョンは一度も躊躇しなかった。
「退潮《ひきしお》で底がぐうっと洗い流されてるんだよ。」と彼は言った。「で、この水路はまあ言わば鋤で掘り出されてるようなものなのさ。」
 私たちはちょうど海図に錨の記してある処に投錨した。一方は本島、もう一方は骸骨島で、どちらの岸からも三分の一マイルばかりのところだった。海底は綺麗な砂であった。錨を投げ込むと、鳥の群《むれ》がぱっと飛び立って森の上をぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら啼き叫んだ。けれども一分とたたないうちに再び舞い降りて、すべてがもう一度ひっそりとした。
 その場所はまったく陸で囲まれており、森で埋ったようになっていて、樹木はちょうど高潮線(註五四)[#「(註五四)」は行右小書き]のところまでも生い茂り、海岸は大抵平坦で、山々の頂は、ここに一つ、彼処に一つと、円形劇場のようになって遠くにぐるりと立っていた。二つの小川が、というよりもむしろ二つの沼が、この池と言ってもいいところへ注いでいて、海岸のその部分のあたりにある簇葉《むらば》は一種の毒々しい輝きを持っていた。船からは、小屋や柵壁はちっとも見えなかった。それらは樹木の間にすっかり埋っていたからだ。それで、もし船室昇降口室《コムパニヨン》にあの海図がなかったなら、私たちは、その島が海中から生じてから此方《このかた》そこにかつて碇泊した最初の者であると思ったかも知れなかった。
 そよとの風もなかったし、また、半マイルも彼方に、外洋の磯に打ち寄せ岩石に激して、どどうっと響いている寄波の他《ほか》には、何の物音もしなかった。その碇泊所一面には一種特別の澱んだ臭いが漂うていた、――水に浸った木の葉や腐った木の幹の臭いが。私は、医師が、悪い卵を口にした人のように、頻りに鼻でくんくん嗅いでいるのを認めた。
「実のことは知らないが、しかしここに熱病があることは私はこの仮髪《かつら》を賭けるよ。」と先生は言った。
 水夫たちの挙動はボートの中では驚くべきものであったとするなら、彼等が船へ帰って来た時にはそれはほんとうに険悪なものとなって来た。彼等は甲板のあちこちに寝ころんで呶鳴《どな》りながら話し合っていた。ほんのちょっとした命令が出されたところが、脹《ふく》れっ面《つら》をし、不承不承にぞんざいにそれをやった。実直な船員までがかぶれたに違いない。船中には他の者を匡正してやる者が一人もいなかったからである。暴動が雷雲のように私たちの上に覆いかかっていることは明かだった。
 そして、この危険を看て取った者は、私たち船室《ケビン》の連中ばかりではなかった。のっぽのジョンはあっちの群からこっちの群へと熱心に歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、頻りに忠告をしていた。手本としてはだれもそれ以上は示せないくらいであった。彼はまったくいつにもないほどいそいそとしていて慇懃だった。だれに対してもにこにこしていた。何か言いつけられると、ジョンは、この上もなく快活に「はいはい!」と言いながら、直ちに自分の※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をあてた。そして、他に何もすることのない時には、他の者の不平を隠そうとでもするように、次から次へと唄を歌い続けた。
 その陰鬱な午後のあらゆる陰鬱な事柄の中でも、のっぽのジョンのこの一目瞭然たる心遣いは最も気味悪く思われた。
 私たちは船室で会議を開いた。
「さて、」と船長が言った。「もし私が構わずにもう一度命令を出そうものなら、全船の者がたちまちにどっと私たちを襲って来るでしょう。御覧の通り、こういったような有様です。私に乱暴な返事をしましたでしょう? ところで、私が何か言い返せば、たちまち槍が飛んで来るでしょうし、何も言わなければ、シルヴァーはこれには何か訳があるのだと悟るでしょう。そうなれば万事休すです。そこで、頼りになる人間がたった一人だけおります。」
「で、それはだれです?」と大地主さんが尋ねた。
「シルヴァーです。」と船長が答えた。「あいつはあなた方や私と同様に一所懸命に揉み消そうとしています。これはちょっとした不平です。あいつは機会さえあれば間もなく奴らを説いてそれを止めさせましょうよ。で、私の提議しますのは、奴にその機会を与えようということなんです。水夫たちに午後の上陸を許してやろうじゃありませんか。もし彼等がみんな行けば、私たちはこの船を操縦して戦いましょう。もし彼等が一人も行かなければ、その時は、私たちは船室《ケビン》を守るのです。神が正しき者を護って下さいますように。もし何人かが行けば、よろしいですか、シルヴァーは奴らをまた小羊のようにおとなしくして船へつれて来ますよ。」
 そういうことに決定された。弾丸を籠めたピストルが確実な味方の者全部に配られた。ハンターと、ジョイスと、レッドルースとは秘密を打明けられたが、それを聞いても、私たちの予期していたよりも驚きもしなかったし元気も盛んだった。それから、船長は甲板へ行って船員に言い渡した。
「諸君、」と彼は言った。「今日は暑くて、みんな疲れていて元気がない。一度上陸しても別にさしつかえはあるまい、――ボートもまだ揚げてないことだし。君たちはあの快艇《ギッグ》に乗って、何人でも好きなだけ午後中上陸してもよろしい。日没《ひのいり》の半時間前に砲を撃《う》って知らせる。」
 その愚かな奴らは陸へ上るや否や宝に蹴躓《けつまず》いて向脛《むこうずね》をへし折るくらいに思っていたに違いない。というのは、彼等はみんなたちまち仏頂面を直して、万歳を叫んだからで、その声は遠くの山に反響して、鳥がもう一度碇泊所の周りに飛び立ってがあがあ鳴き騒いだ。
 船長は彼等の邪魔になっているようなへまなことはしなかった。彼は、上陸隊を取纏めることはシルヴァーに任せて、すぐに身を隠した。彼がそうしたのはよかったと私は思う。もし船長が甲板にいたなら、もはや現在の事態を知っていないような風をしていることさえ出来なかったろう。事態は白昼のように明かだったのだ。シルヴァーは船長で、有勢な叛徒の船員を部下に有しているのだ。実直な水夫というのは――そして私は間もなく船中にそういう者たちがいるという証拠を知ることになったのであるが――ごく愚鈍な連中だったに違いない。いや、もっと正確に言えば、ほんとうのところはこうではなかったろうかと思う。すなわち、発頭人どもの示す手本によってすべての船員が不平を抱くようになったので、ただ、或る者はその程度がひどく、或る者はそれが少かったのだ。そして、少数の者は、大体善良な連中なので、それ以上になりもしなければさせられもしなかったのであろう。ぶらぶらしていてずるけることと、船を奪って罪もない多くの人を殺すこととは、まったく別のことなのである。
 とにかく、やがて上陸隊が編成された。六人のものが船に留《とど》まることになり、シルヴァーをも含めた残りの十三人が乗り込み始めた。
 その時のことだった、私たちの生命を救うによほど与《あずか》って力のあったあの向う見ずな考えの最初のものが、私の頭に思い浮んだのは。シルヴァーが六人を残してゆくとなれば、味方が船を占領してそれを操縦して戦うことが出来ないことは明かであった。また、たった六人だけ残されるのだから、船室の連中が現在のところ私の助力を必要としないことも同じく明かだった。私は上陸しようと直ちに思いついたのだ。で、すぐさま舷側を滑り下りて、近い方のボートの艇首座に身を丸くしてちぢこまった。と、ほとんど同時にそのボートは押し出された。
 だれも私に目を留める者がなく、ただ舳《へさき》の漕手が「お前かい、ジム? 頭を低くしていろよ。」と言っただけだった。しかし、シルヴァーは、もう一艘のボートから、目ざとくこっちを見て、それが私かどうかを大声で尋ねた。で、その瞬間から私は自分のしたことを後悔し始めた。
 船員たちは渚まで競漕したが、私の乗っていたボートは、幾分先に出発していた上に、軽くもあり漕手もよかったので、もう一艘のボートを遥かに抜いて進み、舳が岸辺の樹木の間に突き込むと、私は一本の枝を掴んでぶら下って、一番近くの茂みの中へ躍り込んだ。その時にはシルヴァーやその他の者はまだ百ヤードも後にいた。
「ジム、ジム!」とシルヴァーが大声で呼んでいるのが聞えた。
 しかしもちろん私はそれには少しも気を留めなかった。跳んだり、屈《かが》んだり、押し分けたりしながら、真正面へとまっすぐにひた走りに走り、とうとうその上走れなくなった。

第十四章 第一撃

 私はのっぽのジョンをすっぽかしてやったのがひどく嬉しかったので、愉快な気持になって、自分の今いる奇妙な土地を多少の興味をもって見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し始めた。
 私は、柳や、蒲《がま》や、変てこな見慣れない沼沢性の樹木などが一面に生い茂っている沼のような地域を横切って来て、その時は、波のように起伏している広い砂原の端のところに出ていた。その砂原は長さ約一マイルあり、松の樹が少しと、大きくなったのは樫に似ているが、葉が柳のように青白い、曲りくねった樹木がたくさん、点々と散在していた。この空地の向側には、例の山の一つが立っていて、二つの奇怪な峨々《がが》たる峯をぎらぎらと太陽に輝かせていた。
 私は今初めて探検の喜びを感じた。この島は無人島であった。船の仲間は後にして来たし、行手には口の利けない獣と鳥の他《ほか》には何一つ生物《いきもの》がいなかった。私は樹々の間をここかしこと歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。あちこちに私の知らぬ花の咲いた植物があった。あちこちに蛇が見えたが、その中の一匹は岩棚から鎌首をあげて、独楽《こま》の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るような音を立てながら私を睨んでいた。それが有毒な敵で、その音こそあの有名ながらがら蛇の音だとは、私は少しも思ってもみなかった。
 それから、あの樫のような樹――鮮色樫あるいは常緑樫という名だということを後になって聞いた――の長く続いた茂みのところへやって来た。その樹は黒苺《くろいちご》のように砂に沿うて低く生えていて、大枝は妙にねじれ、葉は藁屋根のようにこんもりしていた。この茂みは一つの砂丘の頂から下へ延びていて、下へゆくにつれて拡がりもし高くもなり、蘆の生い茂った広い湿地の縁まで達していた。その湿地を近い方の小川が滲み込みながら進み、碇泊所へ流れ込んでいた。沼は強烈な太陽の光の中に湯気を立てていて遠眼鏡《スパイグラース》山の輪廓はもやもやとして震えて見えた。
 突然、蒲の間がざわざわし始めた。野鴨が一羽ぐわあと鳴いて飛び立ち、続いてまた一羽また一羽と、間もなく沼の全表面の上には鳥の大群が空中に啼き叫びながら輸を描いて飛び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。私はすぐに、船の仲間のだれかが湿地の縁に沿うて近づいて来たのに違いないと判断した。果して私の思った通りだった。間もなく、ずっと遠くに低い人声《ひとごえ》が聞え、なおも耳を傾けていると、それがだんだん大きく近くなって来た。
 それを聞くと私は非常に怖《こわ》くなって、一番近くの鮮色樫のこんもりしている下へ這い込んで、耳をすましながら、小鼠のように黙って、そこにしゃがんでいた。
 別の声が返事をした。すると初めの声が、それはシルヴァーの声だということが私にはその時わかったが、また話し始めて、永い間|滔々《とうとう》としゃべり続け、ただ時々別の声が口を出すだけだった。その音調から察すれば、彼等は熱心に、またほとんど烈しいくらいに、話し合っているに違いなかった。しかし、はっきりした言葉は一つも私の耳に入らなかった。
 とうとうその話し手たちは立ち止ったらしかった。そして多分坐ったようであった。というのは、彼等がそれ以上近づいて来なくなったばかりではなく、鳥の群もだんだん静かになりかけ、再び沼地の自分たちの場所に下り始めたからである。
 そして今私は自分の仕事を等閑《なおざり》にしていることに気がついて来た。無鉄砲にもあの兇漢どもと一緒に上陸したからには、いくら何でも自分の出来ることは彼等の相談を窃《ぬす》み聞きすることだ、そして自分の明白な義務は、都合よく低く這っている樹々の下に隠れて出来るだけ近くへ忍び寄ることだ、と思い始めたのだ。
 話し手のいる方角は、彼等の声の響だけではなく、数羽の鳥がまだその闖入者《ちんにゅうしゃ》たちの頭上に驚いて舞っている様子でも、かなり精確にわかった。
 四つん這いになって這いながら、私は彼等の方へそろそろと、しかし脇目もふらずに進んで行った。とうとう、木の葉の隙間へ頭を上げると、沼のそばに、樹木が密に生えている小さな緑の谷がはっきりと見下されて、そこにのっぽのジョン・シルヴァーともう一人の船員とが向い合って話しながら立っていた。
 太陽が彼等を全身照していた。シルヴァーは帽子をそばの地面の上に投げ出していて、彼の暑気でてらてらしている、大きな、すべすべした、色白の顔は、哀願するように相手の男の顔に向けられていた。
「兄弟《きょうでえ》、」と彼は言っていた。「これもお前《めえ》を尊敬してるからのことだぜ、――尊敬だぞ、違《ちげ》えねえぜ! もしお前が好きでなけりゃあ、己がこんなとこまで来てお前にわざわざ言って聞かせてやると思うか? もうすっかりきまってることだ、――今更お前がどうにもこうにも出来やしねえ。己がこう言ってるのもお前の首をつなぐためなんだ。で、もしあの乱暴な奴らのだれかがこのことを知ったら、己ぁどうなるか、トム、――え、おい、どうなると思う?」
「シルヴァー、」と相手の男が言った。――そして私には、彼が顔を真赤にしているばかりではなく、鴉のように嗄《しゃが》れた声を出し、またその声がぴんと張った索のように震えているのがわかった。――「シルヴァー、」と彼は言った。「お前は年寄だ。そして正直者だ。ともかくそういう評判を取ってるんだ。それにまた、たくさんの貧乏な水夫たちの持っていねえほどの金《かね》も持っている。それから胆っ玉もある、確かにな。それだのに、お前はあの馬鹿どもの仲間にひきこまれようって言うのかい? そんなお前じゃねえ! 己はそんなことをするくれえなら片手をなくしたっていい。それぁ神様が己を照覧していらっしゃるくれえ確かにだ。もし己が自分の義務に背いたら――」
 と、その時突然、彼の言葉は或る叫び声で遮られた。私は実直な船員を一人見つけたのであったが、――さて、今、ちょうどそれと同時に、もう一人の実直な船員の知らせがわかって来たのである。沼のずっと遠くで、突然、怒った叫び声のような音声が起ったかと思うと、それに続いて別の声がし、それから恐しい長く引いた悲鳴が一声聞えた。遠眼鏡山の岩は幾度となくその悲鳴を反響した。沼の鳥の群はことごとく一斉にぶうんと羽音を立てて再び飛び立ち、天を暗くした。そして、永い間その死のをめき声がなおも私の頭の中で鳴り響いていた後に、ようやく寂寞が再びあたりを領し、ただ、また降りて来る鳥のさわさわという羽音と、遠くの大浪のどどうっと響いて来る音とが、午後の懶《ものう》さを擾《みだ》しているだけだった。
 トムはその声を聞くと拍車をかけられた馬のように跳び上った。が、シルヴァーは眼を瞬きもしなかった。彼は軽く※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖に凭《もた》れながら、じっとその場所に立っていて、今にも跳びかかろうとする蛇のように相手の男を見守っていた。
「ジョン!」と水夫は片手を差し伸ばしながら言った。
「手を触《さわ》るな!」とシルヴァーは一ヤードほど跳び退きながら叫んだ。それは熟練した体操家のような速さと確かさだと私には思われた。
「厭なら触らねえよ、ジョン・シルヴァー。」と一方の者が言った。「お前に己をこわがらせるのは、良心が咎めるからだぞ。だが、一|体《てえ》、あの声は何だったい?」
「あれか?」とシルヴァーが、ずっと微笑はしていたが、しかし前よりはもっと用心深くしながら、答えた。彼の眼は大きな顔の中でほんのピンの先ほども小さくなっていたが、しかし硝子の破片のように閃いていた。「あれか? おお、あれぁアランだろうと思うな。」
 それを聞くと可哀そうなトムは勇士のようにかっと怒った。
「アランだと!」と彼は叫んだ。「では、まことの船乗としてあの男の魂を安らかならしめ給え! で、ジョン・シルヴァー、お前は永《なげ》えこと己の仲間だったが、これからはもう仲間じゃねえぞ。己は犬みてえにみじめな死に方をしようとも、義務をしながら死ぬつもりだ。お前たちはアランを殺したんだろう? 殺せるなら、己も殺せ。だが己はお前たちなんぞ物ともしねえぞ。」
 そう言うと、その勇敢な男は料理番《コック》にくるりと背を向けて、海岸の方へ歩き出した。しかし彼は遠くまでは行かれぬ運命だった。一声叫びながら、ジョンは一本の木の枝を掴むと、手早く※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を腋の下から外して、その奇怪な飛道具を空気を切ってぶうんと投げつけた。それは、尖頭を先にして、可哀そうなトムの背中の真中のちょうど両肩の間に、恐しい勢でぶっつかった。彼は虚空を掴み、ううんと呻いて、倒れた。
 彼がひどく怪我《けが》をしたかさほどでもなかったかは、だれにもわからなかった。その音から判断すれば、恐らく、彼の背中は即座に打ち砕かれたのであろう。それに彼には恢復するだけの時間も与えられなかった。シルヴァーは、片足はなく※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖もなくとも、猿のように敏捷で、次の瞬間にはトムの上に跨って、その抵抗も出来ない体《からだ》に二度もナイフを柄《つか》のところまで突き刺したのだ。彼がそうして突き刺している時に息を切らしてはあはあいっているのが、私の隠れている場所からも聞えた。
 私は気が遠くなるということはほんとうはどんなことであるか知らないが、それからしばらくの間は見えるものことごとくが自分の前から渦巻く靄《もや》の中をぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行ったことは知っている。シルヴァーも、鳥も、高い遠眼鏡山の山頂も、私の眼の前で倒になってくるくるくるくると※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行き、耳の中では、あらゆる種類の鐘が鳴り響き、遠くの声がわあっと叫ぶのが聞えた。 私が再び正気に返った時には、かの極悪人は気を落着けていて、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を腕の下にし、帽子をかぶっていた。そのすぐ前には、トムが芝生の上にじっと動かずに横っていた。けれどもその殺人者は彼のことを少しも気にかけないで、その間血塗れのナイフを一把の草で拭いていた。その他のものは何の変化もなく、太陽は、湯気立っている沼や、山の高い尖頂に、依然として無慈悲に輝いていて、私は、自分の眼の前で殺人が実際に行われて、一人の人間の生命がつい一瞬前に無残に絶たれたのだということを、ほとんど信ずる気にはなれないのであった。
 しかしその時ジョンは手をポケットの中に入れて、呼子を取り出し、いろいろの調子の音《ね》で吹くと、それが暑い空気の中を遠くまで響きわたった。私には、無論、その合図の意味はわからなかった。が、それを聞くとたちまちに私の恐怖が目覚めて来た。もっとたくさん人がやって来るのだろう。私は発見されるかも知れない。彼等はすでに実直な人々を二人まで殺しているのだ。トムとアランとの後に、私が次にやられるのではなかろうか?
 すぐさま私は逃げ出すことにして、出来るだけ速くこっそりと、森のもっと開けた部分へと、再び這い戻りかけた。そうしていると、あの老海賊とその仲間たちとの間に互に呼び交している声が聞え、危険を知らせるその声が私の足を早めさせた。茂みを出るや否や、私は、人殺しどもから離れられさえすれば逃げる方向などにはほとんど構わずに、それまでに走ったことのないほどひた走りに走った。そして走っている間に、恐怖はいよいよ募って来て、しまいには狂気じみたものになった。
 実際、だれでも私より以上に助かる見込のなくなった者はあるだろうか? 合図の砲の鳴る時が来ても、どうして私は、人殺しの罪悪を犯したばかりのあの悪鬼どもにまじって、ボートのところまで下りて行かれようか? 私を真先に見つけた奴が鴫《しぎ》の首でもひねるように私をひねり殺しはしないだろうか? 私が姿を見せないそのことが彼等には私が彼等を恐れていることの、従って私が彼等のやったことを知っていることの証拠と思われはしないだろうか? もうどうしたって駄目だ、と私は思った。さようなら、ヒスパニオーラ号よ。さようなら、大地主さんや、先生や、船長さん! 私には、餓死するか、謀叛人どもの手にかかって殺されるかの他には、何も残されてはいなかった。
 この間もずっと、前に言ったように、私はなおも走り続けていて、少しも気がつかずに、あの二つの峯のある小山の麓に近づいて、島の中でも、鮮色樫がもっと疎《まばら》に生えていて、恰好《かっこう》も大きさももっと森林樹らしく見える部分へ入り込んでいた。その樹々にまじって、或るものは五十フィート、或るものは七十フィート近くの高さのある、数本の松の樹がちらほら生えていた。空気もまた、下の沼のほとりよりは爽かな香がした。
 そしてここでまた、新たな驚きが、私に、胸をどきんとしながら立往生させたのであった。

第十五章 島の男

 山はこのあたりでは嶮《けわ》しくて石だらけだったが、その山腹から礫《こいし》がばらばらと離れて、樹の間をがらがらと音を立てて跳びながら落ちて来た。私の眼が本能的にその方向へ向くと、一つの姿が非常な速さで一本の松の樹の幹の後へ跳び込んだのが見えた。それが何であったか、熊か、人間か、猿か、私にはまるでわからなかった。どす黒くて、毛でむしゃむしゃしているようだった。それ以上はわからなかった。しかしこの新しい怪物の出現は私を立ち止らせた。
 私は今や両側とも断たれたようなものであった。背後にはあの人殺しどもがいる。前にはこの得体《えたい》の知れぬものが潜《ひそ》んでいる。そこで直ちに私は自分の知らぬ危険よりはむしろ自分の知っている危険の方を取ることにした。シルヴァーだってこの森の怪物に比べればそれほど恐しくないような気がしたので、私は急に踵を返して、肩越しに油断なく振り返りながら、ボートの方角へと引返しかけた。
 と、たちまちその怪物が再び姿を現し、大きく迂回して、私の行手を遮りかけた。私はともかく疲れていたが、よし朝起きた時のように元気があったにせよ、そういうような相手と速さを競うことは自分には到底無駄だということがわかった。幹から幹へとその怪物は鹿のように跳び移り、二本の脚で人間のように走ってはいたが、走る時にはほとんど身を二つに折り曲げて屈んでいて、私のそれまでに見たどの人間とも似ていなかった。でもそれは人間だった。それはもはや疑うことが出来なくなった。
 私はふと以前に聞いたことのある食人種の話を思い出した。私はもう少しのことで救いを呼ぼうとした。けれども、いかに野蛮人ではあってもそれが人間だったという事実だけでも、幾らか私を安心させ、それに比例してシルヴァーの恐しさが甦って来た。それで、私は立ち止って、何か逃げる方法はないかと思案した。そうして考えていると、自分がピストルを持っていたことがぱっと頭に思い浮んだ。自分が素手《すで》ではないことを思い出すや否や、勇気が再び心の中に燃え上った。そして私はその島の男にきっぱりと顔を向け、彼の方へつかつかと歩いて行った。
 彼はこの時には他の樹の幹の後に隠れていた。が、私をよく見守っていたに違いない。という訳は、私が彼のいる方角へ動き出すや否や、また姿を現して、私に逢うために一歩踏み出したからである。それから、躊躇したり、あとしざりしたり、再び前へ出たりしたが、その挙句、私のびっくりしまごついたことには、ぺたんと跪いて、組み合した両手を哀顔するようにして差し出した。
 それを見ると私はもう一度立ち止った。
「君はだれだい?」と私は尋ねた。
「ベン・ガンだよ。」と彼は答えた。その声は嗄《しゃが》れていてぎごちなくて、銹びた錠前のようだった。「俺《わし》は可哀《かええ》そうなベン・ガンだよ。この三年間も人間と口を利いたことがねえんだ。」
 私にはその時、この男が自分と同じく白人で、その目鼻立ちは人好きのするくらいでさえあることが、わかった。彼の皮膚は、むき出しになっているところはどこも、日に焦《や》けていた。唇までが黒くなっていた。そして碧い眼はそのようなどす黒い顔の中でまったく際立っていた。私のそれまでに見たり空想したりして来たあらゆる乞食の中で、彼はぼろぼろの着物を着ている点では大将だった。彼は古びた船の帆布と古びた船布とで拵えた襤褸《ぼろ》着物を着ていた。そしてこの異様な補綴細工《つぎはぎざいく》は、真鍮のボタンだの、木片だの、タールまみれの括帆索の紐輪だのという、実に種々様々な不調和な留具《とめぐ》ですっかりくっつけてあった。腰には真鍮のびじょ金《がね》のついた古びた革帯を巻いていたが、それが彼の服装全体の中で唯一の確かなものだった。
「三年間もだって!」と私は叫んだ。「じゃあ君は難破したのかい?」
「いいや、そうじゃねえよ、兄弟《きょうでえ》。」と彼は言った。――「置去りにされたんさ。」
 この置去りと言う言葉は私も前に聞いたことがあって、それが海賊仲間にはごくありふれた一種の怖しい刑罰で、反則者に僅かばかりの火薬と弾丸とを持たせ、どこか遠くの人のいない島に上陸させて、置いて来ることだ、ということは知っていた。
「三年前に置去りにされてね、」と彼は言い続けた。「それからこっちは、山羊と、苺《いちご》と、牡蠣《かき》で命を繋いで来たんだ。どこにいても人間ってものはね、人間てものはどうにかやってゆけるもんだねえ。だが、兄弟、俺は人間の食物《くいもの》がほしくってたまんねえのさ。お前《めえ》さんはひょっとしてチーズを一|片《きれ》持ち合していやしねえかね、え? 持たねえって? やれやれ、俺あ幾晩も幾晩も永《なげ》え夜《よ》うさりチーズの夢をみたよ、――大概《てえげえ》、炙《あぶ》った奴さ。――そしてまた目が覚めてみると、やっぱりここにいるのさ。」
「もしいつか僕がまた船へ乗れたら、君にチーズをどっさりあげるよ。」と私が言った。
 この間中、彼は、私のジャケツの地質に触ってみたり、私の手を撫でたり、私の長靴を眺めたり、概して、彼の話している合間合間に、同じ人間仲間のいることに子供のような喜びを示していたのであった。けれども、私の最後の言葉を聞くと、彼はぎっくりとしたようにこすく顔を振り上げた。
「もしいつかまた船に乗れたら、ってお前さんは言ったね?」と彼は私の言葉を繰返して言った。「ふうん、すると、だれがお前さんの邪魔をするのかい?」
「君じゃあないことだけは確かさ。」と私は答えてやった。
「そりゃそうだよ。」と彼は叫んだ。「ところでお前さんは――お前さんは何ていう名だね、兄弟?」
「ジムだよ。」と私は言ってやった。
「ジム、ジム。」と彼はまったく喜んでいるらしく言った。「じゃ、ねえ、ジム、俺はね、お前さんが聞くと恥しがるくれえ乱暴な渡世をして来た男だよ。まあ、例えばさ、お前さんはこの俺に信心|深《ぶけ》え母親《おふくろ》があったとは思うめえ、――この俺を見てね?」と彼は尋ねた。
「いや、なあに、格別そうでもないがねえ。」と私は答えた。
「ああ、そうかね。」と彼は言った。「とにかく、俺にゃあそんな母親があったのさ、――素敵に信心深え母親がな。それに俺も行儀のいい信心探え子供だったよ。教義問答なんか、とても聞き取れねえくれえ早口に、ぺらぺら言えたもんだぜ。それがこういう有様になったのだよ、ジム。そしてこれも墓石の上で投銭戯《あないち》(註五五)[#「(註五五)」は行右小書き]をやったのが始まりさ! それが始まりだったが、それからだんだん深入りしたんだ。俺の母親は俺にそうなるって言ってたよ。何もかもすっかり言いあてたのさ、母親はな。信心深え女《ひと》だったなあ! だが、俺がこんなとこに置かれることになったなあ、神様の思召しだったよ。俺あこの淋しい島でそんなことをすっかり考えて来たんで、今じゃまた信心深え男に返《けえ》ってるんだ。もうラムなんか決してあんなにたくさん飲みやしねえ。もっとも、初めてありつけた時にゃあ、もちろん、縁起にほんのちょっとくれえはやるがね。俺あ真人間にならなくちゃあならんし、その見越しもちゃんとついているんだ。それにね、ジム、」――とあたり中を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、耳語くらいに声を低めて、――「俺は金持なんだぜ。」
 私は、その時、この男はこんな寂しいところに独りぽっちでいたために可哀そうに気が変になっているのだと思った。そして、その気持がきっと私の顔に現れたのだろうと思う。というのは、彼は躍起となってその言葉を繰返したから。――
「金持だぜ! 金持だってえんだよ! で、お前さんにいい話をしてあげよう。俺はお前さんを立派な男にしてあげるぜ、ジム。ああ、ジム、お前さんは自分の運勢を有難く思うようになるよ、きっと。何《なん》しろ、お前さんは俺を一番先にめっけてくれた人だからなあ!」
 そして、こう言った時、突然彼の顔に不機嫌な影がさし、彼は片手に掴んでいる私の手を強く握ると、私の眼の前に嚇《おど》すように人差指を挙げた。
「ところで、ジム、ほんとのとこを言っておくれよ。あれぁフリントの船じゃねえのかい?」と尋ねた。
 この言葉を聞くと、私にはうまい考えが思い浮んだ。私は味方を一人見つけたと思いかけ、すぐに彼に答えてやった。
「フリントの船じゃないよ。それにフリントはもう死んじゃった。だが、君が訊《き》くから、ほんとのことを言ってあげるんだが、――あの船にはフリントの子分が何人か乗っているんだ。私たち残りの者はそれで困ってるんだよ。」
「一本――脚の――男はいねえかね?」と彼は喘ぐように言った。
「シルヴァーかい?」と私は尋ねた。
「ああ、シルヴァーだ! そういう名前《なめえ》だったよ。」と彼が言った。
「あの男は料理番《コック》なんだ。そしてまた張本人なんだよ。」
 彼はまだ私の手頸を持っていたが、これを聞くとそれをぎゅっと握り締めた。
「もしお前がのっぽのジョンの使に来たんなら、己《おれ》あ豚みてえにやられるんだ。それぁ己にゃわかってる。だがお前はどこにいると思う?」と彼は言った。
 私は直ちに心をきめて、彼に、返事として、私たちの航海の一部始終や、私たちが今どんな苦境に陥っているかということを、話してやった。彼は非常に熱心な興味をもって聞いていたが、話し終えると、私の頭を軽く叩いた。
「お前さんはいい子だ、ジム。」と彼が言った。「で、お前さん方《がた》はみんな困った羽目になっているんだね? よし、じゃあ、ベン・ガンを信用しなせえ、――ベン・ガンはそれにゃあお誂《あつれ》え向きの男だよ。ところで「その大地主さんて人は人を助けるのに太《ふと》っ腹《ぱら》になれそうな人だとお前さんは思うかね?――お前さんの話だと、その人も困った羽目になってるということだが。」
 私は大地主さんはこの上なく心の大きい人だと言ってやった。
「そうかい。だがね、」とベン・ガンは答えた。「俺は門番にして貰ったり、仕着《しきせ》をして貰ったり、そんなようなことをして貰《もれ》えてえ、って言うつもりじゃねえんだぜ。そんなこたぁ俺の目当じゃねえんだよ、ジム。俺の言うつもりなのは、大地主さんが、もう或る人間のものも同様な金の中から、大枚、まあ千ポンドぐれえ、分けて下さりそうかい? ということなのさ。」
「それぁきっとして下さると思うよ。」と私は言った。「ほんとは、みんなが分前を貰うことになってるんだから。」
「それから[#「それから」に傍点]国へ帰る船賃は要《い》らないのかい!」と彼は非常にずるい顔付をしながら言い足した。
「知れたことさ。」と私は叫んだ。「大地主さんは紳士だもの。それにまた、あいつらを厄介払いしてしまえば、君にも船を国へ帰す手伝いをして貰わなきゃならないしね。」
「ああ、それぁそうだろな。」と彼は言った。そして非常に安堵したような様子だった。
「じゃあ、お前さんにいい話をしてあげるとしよう。」と彼は話し続けた。「それだけ言うことにするぜ。俺はね、フリントがあの宝を埋めた時にゃあ、あの人の船にいたんだ。あの人は六人の者と一緒さ、――六人とも丈夫な水夫だった。あの連中は一週間近くも陸にいたし、俺らは海象《ウオルラス》号に乗って岸に寄ったり離れたりしてたんだ。或る日のこと、合図があって、フリントが一人で小さなボートに乗って帰《けえ》って来た。頭を青い肩巾《スカーフ》で包んでね。お陽《ひ》さんが昇りかけてた時で、あの人の顔は恐しく真蒼に見えたね。だけど、あの人だけで、いいかね、六人はみんな死んだのだ、――死んで埋められたんだぜ。どうしてあの人にそんなことがやれたのか、俺らの船の者一人も合点《がてん》がいかなかったな。何にしてもともかく、闘い、殺害、不意の死(註五六)[#「(註五六)」は行右小書き]だったのさ、――あの人が六人を相手にしてな。ビリー・ボーンズは副船長だったし、のっぽのジョンは按針手《クオータマスター》だった。その二人が宝はどこにあるのかって訊いたんだよ。するとあの人は言った。『ああ、手前《てめえ》たちぁしたけりゃ上陸してもええぜ、そしてここに残るがいいや。』とね。『だが、この船の方は、もっと獲物を探しに荒し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るんだぞ、畜生!』そう言ったものさ。
 ところで、俺は三年前に別の船に乗っててね、この島を見たんだ。で、言ったのさ、『おい、みんな、ここにゃフリントの宝があるんだ。上陸してめっけようじゃねえか。』とね。船長《せんちょ》はそれにゃ気が進まなかったが、仲間の奴らはみんな賛成して、上陸した。十二日もみんなで宝を探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、毎日毎日奴らは俺に悪態《あくたい》をつき、とうとう或る朝みんなが船へ行っちまった。『お前《めえ》はな、ベンジャミン・ガン、』って奴らは言うんだ。『ここに鉄砲を置いとくぜ、それから鋤と、鶴嘴《つるはし》とをな。』とね。『お前はここに残ってるがいいや。そしてフリントの金をめっけ出して自分のものにしな。』って奴らは言うのさ。
 でね、ジム、もう三年間俺はここにいるのさ。そしてその日から此方ってもの、人間の食物は一口も食わねえんだよ。だがねえ、おい、俺を見ておくれ。俺は平水夫みてえに見えるかい? 見えねえだろ。また、そうじゃなかったんだからな。」
 そう言うと、彼は瞬きをして、私をきゅっと抓《つね》った。
「その大地主さんて人に言っておくれよ、ジム。」――と彼は話し続けた。「あの男はそうじゃなかったんです、――とそう言うんだぜ。三年が間あの男はこの島の人間になっていました、昼も夜も、天気のよい日も雨の日も。そして時々はお祈りのことも考えてたようでした(と言うんだよ)。それから時々は、年とった母親がまだ生きてるなら、その母親のことも考えてたようでした(とね)。だけどガンは大抵(とこうだよ)――あの男は大抵別の事に夢中になってました。そう言ってからお前さんは大地主さんを一つつねるんだぜ、こんな工合にな。」
 と言って彼は非常に親しげな風にまた私を抓った。
「それからな、」と彼は続けた。――「それから、行ってこう言うんだよ。――ガンは善人でごぜえます(とな)。そして、あの男も元はやっぱりその仲間でしたが、あんな分限紳士よりは、生れつきの紳士の方を、とっても――いいかい、とってもだよ――信用しています、とね。」
「うん、君の言ったことは僕には一|言《こと》もわからないねえ。」と私は言った。「だが、そんなことはどうだっていい。どうして僕が船へ帰れるかね?」
「ああ、そりゃあ困ったこったね、確かに。」と彼が言った。「よしよし、俺のボートがあるよ。俺がこの二本の手で拵《こせ》えた奴さ。白い岩の下に隠してある。まさかの時にゃあ、暗くなってからあれを使ってみてもいいよ。おやっ!」と彼は急に呶鳴《どな》り出した。「あれぁ何だね?」
 ちょうどその時、日が沈むまでにはまだ一二時間はあったのに、雷のような砲声が起って島中が鳴り響いたのである。
「戦《いくさ》を始めたんだよ!」と私は叫んだ。「僕について来給え。」
 そして私は碇泊所の方へ、怖《こわ》さも何もすっかり忘れて、走り出した。すると、山羊の皮を着た島に置去りにされた男は、私のそばにくっついて、身軽く楽々と駆けた。
「左、左、」と彼が言った。「左手へ左手へと行くんだよ、ジム君! その木の下へ入《へえ》るんだ! そこが俺が初めて山羊を殺した処さ。今じゃあ山羊の奴らはこんなとこまで下りて来やしねえ。ベンジャミン・ガンが怖《こえ》えんで、みんなあの山の上へ逃げちまったよ。ああ! そこにはばかがある。」――墓場というつもりだったに違いない。「塚があるだろ? 俺は時々ここへ来てお祈りをするんさ。多分|今日《きょう》あたりは日曜だろうと思った時にね。それぁなるほど礼拝堂じゃねえさ。だけど、この方がよっぽど有難《ありがて》えような気がしたよ。で、お前さんは言うんだぜ、ベン・ガンは手不足で困りやした、ってね。――牧師さまはいらっしゃらねえし、聖書や旗でせえねえんですから、とね。」
 私が走ってゆく間に彼はそのようにしゃべり続けていたが、別に返事を期待するのでもなく、また私も何の返事もしなかった。
 大砲の音の次に、かなり間をおいてから、小銃の一斉射撃が聞えた。
 それが止んでまたひっそりとし、それから、私は、前方四分の一マイルとないところに、英国国旗《ユニオンジャック》が森の上の空中に翻っているのを見た。

第四篇 柵壁


第十六章 医師が続けた物語 どうして船を棄てたか

 あの二艘のボートがヒスパニオーラ号から岸へ行ったのは、一時半――海語で言うと三点鐘(註五七)[#「(註五七)」は行右小書き]――頃であった。船長と、大地主と、私とは、船室《ケビン》でいろいろと相談をしていた。一陣の微風でもあったなら、吾々は船に残っている六人の謀叛人を襲い、錨索を放って、沖へ出たであろう。しかし風はなかったし、その上、どうにも仕方がなくなったことには、ハンターが降りて来て、ジム・ホーキンズがいつの間にかボートへ入り込んで皆と一緒に上陸してしまったと知らせてくれた。
 吾々はジム・ホーキンズを疑う気は少しも起らなかったが、彼が無事でいられるかと非常に心配になった。ああいう気の荒くなっている連中と一緒に行ったのでは、吾々が再びあの子を見られるかどうか見込は五分五分のように思われた。吾々は甲板へ駆け上った。瀝青《チャン》が板の接目《つぎめ》で泡立っていた。その場所に漂う気持の悪い悪臭が私の胸を悪くさせた。もし熱病や赤痢を嗅げる処があるとするなら、あの厭な碇泊所こそ正にそれであった。例の大人の悪党は前甲板の帆の下でぶつぶつ言いながら坐っていた。岸には河口のすぐ近くにあの二艘の快艇《ギッグ》が繋いであって、両方ともに一人ずつ残って坐っていた。その中の一人は「リリバリアロー(註五八)[#「(註五八)」は行右小書き]」を口笛で吹いていた。
 何もせずに待っていることはたまらなかった。それで、ハンターと私とが情報を求めに小形端艇《ジョリボート》に乗って上陸しようということになった。
 前の快艇はその漕手らの右の方に曲っていたが、ハンターと私とは、海図にある柵壁の方向へと、真直《まっすぐ》に漕いで行った。ボートの番をするのに残された二人の者は、吾々の現れて来たのにあわて出したようだった。「リリバリアロー」もぴたりと止んだ。そして両人がどうしたらいいかと相談しているのが見えた。もし彼等がシルヴァーのところへ知らせに行ったなら、すべては違った成行になったかも知れなかった。が、彼等は何か命令されていたのであろう、元のところに静かに坐って、また「リリバリアロー」をやり出した。
 海岸にはちょっと出張った処があって、私はそこを彼等と吾々との間にするように舟を進めた。そういう訳で、吾々は上陸しない先にもう快艇が見えなくなっていた。岸に着くと私は舟から跳び出し、暑さを避けるのに大きな絹のハンケチを帽子の下に入れ、安全のためにちゃんと火薬を填めた一対のピストルを持って、ほとんど走るようにして進んだ。
 百ヤードと行かないうちに、柵壁に着いた。
 それはこういう風になっていた。清水の泉が一つの円い丘のほとんど頂上のところに湧き出ていた。さて、この丘の上に、その泉をも取り入れて、堅牢な丸太小屋が造ってあり、危急の場合には四十人くらいの人数を収容出来たし、四方とも壁に小銃射撃が出来るように銃眼を穿ってあった。小屋の周り中は樹木を伐り払って広い空地にしてあり、その上にまた、高さ六フィートの※[#「木+戈」、U+233FE、148-2]囲《くいがこい》をめぐらしてあった。この※[#「木+戈」、U+233FE、148-3]囲には開き戸もなければ明《あ》いている箇所もなく、非常に堅固なので、時間や勢力をかけずには引き倒すことが出来ないし、相当間隔を置いてあるので、包囲者は身を隠すことも出来なかった。この丸太小屋の中にいる人々の方は、あらゆる点で包囲者に対して有利であった。静かに隠れていて、敵を鷓鴣《しゃこ》のように射撃することが出来るのだ。ただ食糧があってよく見張りをしていさえすればよかった。まったくの奇襲を受けるのでない限りは、一聯隊の敵に対してもその場所を守ることが出来たかも知れなかった。
 私に特に気に入ったのは、泉であった。吾々はヒスパニオーラ号の船室に十分よい場所を占めていて、武器と弾薬も、食べる物も、種々の上等の酒も豊富にあったけれども、一つだけ手抜りがあった。――水がなかったのである。私がそのことを考えている時、断末魔の人間の悲鳴が島中に響きわたった。私は非業の死はこれが初めてではない。――かつてカムバランド公爵(註五九)[#「(註五九)」は行右小書き]閣下に仕えていたことがあり、フオンテノイ(註六〇)[#「(註六〇)」は行右小書き]では自分も負傷したことがある。――が、この時は心臓がどきんとした。「ジム・ホーキンズがやられた。」と真先に思ったのである。
 昔軍人だったということは有難いことであるが、しかし医者であるということはなおさらである。もう一刻もぐずぐずしてはいられない。そこで私は直ちに決心をし、時を移さず海岸へ引返して、小形端艇に跳び乗った。
 好運にもハンターは上手な漕手だった。吾々のボートは水を切って進み、間もなく横附けになったので、私はスクーナー船に上って行った。
 みんなは、当然のことながら、すっかりどぎまぎしていた。大地主は敷布《シーツ》のように蒼白な顔をして坐っていて、自分がみんなをこんな災難に陥れたことを考えていた。善良な人だ! 六人の前甲板の水夫の中の一人も大地主と同じくらいの顔色をしていた。
「こんなことには初めての男が一人いますよ。」とスモレット船長は、その男の方へ頭を動かしながら、言った。「彼《あれ》はあの悲鳴を聞いた時には、今少しで気絶しそうでしたよ、先生。ちょっと舵を動かしてやれば、あの男は我々の味方になりましょう。」
 私は自分の計画を船長に話した。そしてそれを実行する細かい手筈《てはず》を二人で決定した。
 吾々は、レッドルース老人に装弾した銃を三四挺と身を護るための敷蒲団《マットレス》を一枚与えて、船室と前甲板下水夫部屋《フォークスル》との間の廊下に立たせた。ハンターはボートを船尾窓の下に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、ジョイスと私とはそのボートに火薬の鑵や、銃や、堅《かた》パンの嚢や、豚肉の小樽や、コニャックの樽や、私には何より大事な薬箱などを積み込み始めた。
 その間に、大地主と船長とは甲板に留《とど》まり、船長は舵手《コクスン》に声をかけた。船に残っている者の中の頭立《かしらだ》った男なのである。
「ハンズ君、」と彼は言った。「ここに我々二人は銘々一対ずつのピストルを持っている。もし君ら六人の中のだれでもちょっとでも信号めいたことをすれば、その者は命《いのち》をなくするんだぞ。」
 彼等は大層びっくりした。そして、ちょっと相談してから、一人残らず船首の昇降口を転《ころ》げ込んで下りて行った。疑いもなく、吾々を背後から不意打しようと思ったのであろう。ところが、円材の出ている廊下にレッドルースが彼等を待ち構えているのを見ると、彼等は直ちに方向を転じて、一人の頭が再び甲板にひょいと出た。
「降りろ、畜生!」と船長が叫んだ。
 するとその頭はまたひょいとひっこんでしまった。そして、しばらくは、その六人のごく意気地のない水夫どもは何の音も立てなかった。
 この時分までには、吾々は、手当り次第の物を抛り込んで、小形端艇に積めるだけ積み込んでしまった。ジョイスと私とは船尾窓から抜け出して、再び岸へ向って進み、オールの動く限り速く一所懸命に漕いだ。
 こうして二度もやって来たので、岸にいる見張人はかなり驚いた。「リリバリアロー」はまた止んだ。そして、吾々がちょうど例の小さな岬の蔭に彼等を見失おうとする時に、彼等の一人がひらりと岸へ跳び移って姿を消した。私は計画を変えて彼等のボートを破壊してやろうかとも思ったが、シルヴァーやその他の者どもがすぐ近くにいるかも知れないし、余り慾張り過ぎてはあるいはすべてが失敗に終るかも知れないと思って、思い止《とど》まった。
 吾々は間もなく前と同じ場所に上陸し、丸太小屋に必要品を入れにかかった。最初は三人ともどっさり荷物を背負って行って、それを防柵の上から投げ込んだ。それから、ジョイスを残して、それの番をさせ――無論一人ではあるが、銃を半ダースも持たせておいた――ハンターと私とは小形端艇に引返して、もう一度荷物を背負った。こうして二人は息をつく間もなく進み、とうとう全部の積荷を運んでしまうと、二人の召使は丸太小屋の中に自分たちの位置を占め、私は全力を出してヒスパニオーラ号へ漕ぎ戻った。
 吾々が二回もボートに荷を積み込もうとしたことはずいぶん大胆らしく思われるが、ほんとうはそれほどでもなかった。彼等は無論人数では優っていたが、吾々は武器で優っていた。上陸している連中は一人も銃を持っていないので、彼等がピストルの射撃出来る距離以内に来ないうちに、吾々は少くとも六人はやっつけることが出来るつもりだった。
 大地主は船尾の窓のところで私を待っていた。さっきの気の遠くなったような様子はすっかりなくなっていた。彼は繋艇索を掴んでそれを結びつけ、それから吾々二人は命がけでボートに荷を積み込み始めた。積荷は豚肉と火薬と堅パンで、それに、大地主と私とレッドルースと船長とに銘々ただ銃が二挺ずっと彎刀《カトラス》が一本ずつだった。残りの武器と火薬とは二尋半の水の中へ投げ込んだ。それで、そのぴかぴかした鋼鉄の刃物などがずっと下に綺麗な砂の底で太陽に輝いているのが見えた。
 この時分には潮が退《ひ》き始めていたので、船は錨の周りをぐるぐる動いていた。例の二艘の快艇の方角で微かにおういと呼ぶ声が聞えた。ジョイスとハンターとはそれとはずっと東の方にいるので、二人のことはそれで安心出来たけれども、その声は吾々の一行に早く出かけなければならないことを警告した。
 レッドルースは廊下の彼の場所を引揚げて、ボートの中へ跳び下りた。そこで吾々はスモレット船長に便利なようにとボートを船の船尾張出部《カウンター》のところへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
「おい、お前ら、」と船長が言った。「私の言うことが聞えるか?」
 水夫部屋からは何の返事もなかった。
「お前にだ、エーブラハム・グレー、――お前に私は口を利いているのだぞ。」
 それでも答がない。
「グレー、」とスモレット氏は少し声高に再び言い始めた。「私はこの船を立退《たちの》くところだ。で、お前に船長について来いと命令する。お前が心底《しんそこ》は善人だということは私は知っている。また、恐らく、お前たちみんなの中の一人だって悪党ぶっているほどの悪党じゃあないのだ。私はここに時計を手に持っている。私のところへ来るのにお前に三十秒だけ余裕を与えてやる。」
 しばらく間があった。
「さあ、お前、」と船長が言葉を続けた。「そんなに永くぐずぐずしていちゃいかん。私は一秒一秒自分の命もここにいられる方々《かたがた》の命も危険に曝《さら》しているのだ。」
 突然格闘が始まり、打合いの音がしたかと思うと、片頬にナイフの傷を受けたエーブラハム・グレーが躍り出て来て、口笛で呼ばれた犬のように、船長のところへ走って来た。
「来ましたよ、船長。」と彼は言った。
 そして次の瞬間には、彼と船長とは吾々のボートに跳び下り、吾々はボートを押し出して漕ぎ出した。
 吾々は本船からはすっかり離れた。が、まだ上陸して吾々の柵壁の中にいるのではないのだ。


第十七章 医師が続けた物語    小形端艇《ジョリボート》の最後の航行

 この五度目の航行は今までの時とはまるで違っていた。第一に、吾々の乗り込んでいた薬壺のような小さいボートは非常に積み込み過ぎていた。大人が五人で、その中の三人――トゥリローニーと、レッドルースと、船長――は丈が六フィート以上あり、これだけでももうそのボートの運ぶことになっているよりも以上だった。それに加えて、火薬と豚肉とパン嚢とがあったのだ。艫《とも》では舷側《げんそく》上部まで水に触れていた。何度か舟は水をかぶり、私のズボンと上衣の裾とは、百ヤードと行かないうちに、すっかりびしょびしょに濡れてしまった。
 船長は吾々を釣合よく坐らせたので、ボートは前よりは幾らか平らになった。けれどもやはり、吾々は息をするのさえ気がかりだった。
 第二に、潮がその時は退いていて、――漣《さざなみ》の立っている強い潮流が内湾を西の方へ流れ、それから吾々がその朝入って来た海峡を南の方へ外海の方へと流れていた。その漣でさえ積み込み渦ぎた吾々の舟には危険であったが、最も悪いことは、舟がほんとうの針路《コース》から押し流されて、例の岬の蔭の吾々の正当な上陸所から遠ざかっていることだった。もし潮流のままに任せていたなら、舟はあの快艇《ギッグ》のそばに着いて、そこへは海賊どもがいつ現れるかも知れなかった。
「柵壁の方へボートの先を向けておけないんですがね。」と私は船長に言った。私が舵を操っていて、船長とレッドルースとの二人の新手《あらて》がオールを漕いでいたのだ。「舟は潮《しお》に流され通しです。もう少し強く漕げませんか?」
「そうするとボートがひっくり返ってしまいます。」と船長が言った。「どうか、あなたは舟を風上へ向けて下さらなければいけません、――潮に勝って進めるのが見えるまで風上へ向けて下さい。」
 私はその通りにやってみたが、潮は絶えずボートを西の方へ押し流すので、とうとう舳《へさき》を真東に、すなわち吾々の行くべき方向とちょうど直角くらいに、向けるようになってしまった。
「この分ではとても岸に着けませんな。」と私が言った。
「これが我々の執れる唯一の針路《コース》だとすれば、こうする他《ほか》はありませんね。」と船長が答えた。
「我々は潮に逆《さから》って漕いでいなければなりません。おわかりの通り、」と彼は言い続けた。「もしあの上陸所の風下へ流されたら最後、どこで岸に着けるかわかったものじゃありません。おまけに奴らの快艇《ギッグ》に襲われるかも知れないのです。しかし、こうして進んでおれば潮もだんだん弱くなるにきまっているし、そうすれば岸伝いにすぐに漕ぎ戻れますよ。」
「潮はもう弱って来ましたよ。」と艇首座に坐っていたグレーが言った。「舟をちっとは緩めてもいいでしょう。」
「有無う、君。」と私はまるでこれまで何もなかったかのように言った。吾々はみんな彼を味方の一人として遇することに心の中できめていたからである。
 突然船長がまた口を開いたが、その声が少し変っているように私は思った。
「あ、大砲!」と彼は言った。
「私もそのことは考えていました。」と私は言った。船長がきっと堡塁を砲撃されることを考えているのだと思ったからである。「奴らはとても大砲を陸に揚げることは出来ません。よしんばそれが出来たにしても、あの森の中をひっぱり上げることは決して出来やしませんよ。」
「艫《とも》の方を御覧なさい、先生。」と船長が答えた。
 吾々は九ポンド砲のことをすっかり忘れていたのだ。そして、怖しいことには、五人の悪漢がその砲の周りで忙しく立ち働いていて、砲身の被筒《ジャケット》と言っている、航海中はそれに被せてあったあの丈夫な防水布の覆いを取除けているのだった。それだけではなかった。同時に私の心にぱっと思い浮んだのは、その砲の砲弾と火薬とを残して来たことで、斧を一振りすればそれがそっくり船にいる悪者どもの手に入るのであった。
「イズレールはフリントの砲手でしたよ。」とグレーが嗄《しゃが》れ声で言った。
 どんな危険を冒しても、吾々はボートの舳《へさき》をまっすぐに上陸地に向けた。この時分には吾々は、吾々のやらなくてはならぬ穏かな漕ぎ方でさえ舵が利くだけの速力が得られるくらいに、潮流からずっと離れていたので、私は舟を目的地の方へしっかりと向けておくことが出来た。しかし、非常に困ったことには、私が今執っている針路のために、吾々の舟はヒスパニオーラ号に艫《とも》を向ける代りに舷側《ふなばた》を向けて、納屋の大扉のような射外すことのない大標的になっているのだった。
 私には、あのブランディー面《づら》の悪党のイズレール・ハンズが甲板の上に砲弾を一つどしんと抛り出したのが、見えたばかりではなく、聞えもした。
「だれが一番射撃のうまい人です?」と船長が尋ねた。
「トゥリローエーさんがずぬけています。」と私が言った。
「トゥリローニーさん、あいつらの中の一人を狙い撃ちして下さいませんか? なるべくならハンズの奴を。」と船長が言った。
 トゥリローニーは鋼鉄のように冷静だった。彼は自分の鉄砲の点火薬を調べてみた。
「もしもし、」と船長が叫んだ。「その鉄砲は静かにやって下さい。でないとボートがひっくり返りますから。トゥリローニーさんが狙いをつけられる時にはボートの釣合を取るように全員用意。」
 大地主が鉄砲を肩に上げると、漕手は手を止《や》め、みんなは平衡を保つために反対の側に凭《もた》れかかり、すべてが実にうまくいって舟が一滴の水もかぶらなかったくらいであった。
 この時分には悪漢どもは大砲を旋軸の上で※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してしまっていて、ハンズは※[#「木+朔」、第3水準1-85-94]杖《こみや》を持って砲口のところにおり、従って最も弾丸に身を曝している訳だった。けれども、吾々は運が悪かった。というのは、ちょうどトゥリローニーが発砲した時にハンズは身を屈め、弾丸は彼の頭上をぴゅっと掠めたからで、倒れたのは他の四人の中の一人であった。
 その男のあげた悲鳴に反響する如《ごと》く声をあげたのは、船にいる仲間どもだけではなかった。岸からも大勢の声が起った。で、その方向を眺めると、上陸している方の海賊どもが樹立の間からぞろぞろと出て来て、あわててボートの中へ跳び込むのが見えた。
「こちらへあの快艇《ギッグ》がやって来ますよ。」と私が言った。
「では、力漕だ。」と船長が叫んだ。「もう舟が沈みはしないかと構っちゃおられません。もし岸に着けなけりゃあ、おしまいです。」
「一艘だけに乗り込んでいる。」と私は言い足した。「もう一艘の方の奴らは岸を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って我々の行手を断つつもりらしい。」
「奴らには走るのがつらいでしょうよ。」と船長が答えた。「何しろ、陸へ上った船乗ですからね。私の気になるのは奴らじゃありません。砲弾です。まるで絨毯の上の球《たま》ころがしだ! だれがやったってやり損ねるはずがありゃしません。大地主さん、火縄が見えたら言って下さい。オールで舟を停めますから。」
 この間にも、舟はそのような積み込み過ぎたボートとしてはかなり速く前進していたし、進んでゆく間に水もほとんどかぶらなかった。もう岸に迫っていて、三四十本も漕げば浜に乗り上げたろう。というのは、退潮《ひきしお》のために、簇生している樹々の下に、狭い砂地が帯のようにすでに現れていたからである。快艇はもはや恐れるには及ばなかった。例の小さな岬のためにそれはもう吾々のところからは見えなくなっていた。あれほどひどく吾々を手間取らせた退潮は、今度はその償いをして、吾々の攻手《せめて》を手間取らせていた。ただ一つの危険は大砲だった。
「出来さえすれぁ、停って、もう一人狙い撃ちしてやりたいんだがな。」と船長が言った。
 しかし、彼等がどんなことがあろうと発砲を遅らせないでおくつもりでいることは明かであった。さっきの倒れた男が死んではいなくて、這って行こうとしているのが私にも見えたのに、彼等はその仲間の方を見ようとさえしなかった。
「用意!」と大地主が叫んだ。
「停れ!」と船長は反響のように速く叫んだ。
 そして船長とレッドルースとは舟の艫《とも》がそっくり水の中へ入ったくらいに力を入れてぐっと逆漕《バック》した。その刹那《せつな》、砲声が轟然と起った。これがジムの聞いた第一の砲声であったのだ。大地主の射撃の音は彼のところでは聞えなかったのだから。その弾丸がどこを通ったかは、吾々の中の一人も正確にはわからなかった。が、それはきっと吾々の頭上を飛んで行ったのであって、吾々の災難はその煽り風のせいもあったかも知れない、と私は思う。
 ともかく、ボートは、三フィートの水の中へ、ごく静かに艫の方から沈んで行って、船長と私とは向い合いながら突っ立った。他の三人は真逆さまに落ちて、ずぶ濡れになりぶくぶくと泡を立てながら起き上って来た。
 ここまでは大した損害はなかった。一人も命は落さなかったし、吾々は無事に岸まで徒渉することが出来た。しかし、吾々の荷物はみんな水の底に沈み、その上困ったことには、五挺の鉄砲の中の二挺しか役に立たなくなったのであった。私のは、私は一種の本能で膝から素早くひっ掴んで頭の上に差し上げた。船長の方は、弾薬帯で肩に背負っていて、賢い人らしく弾機装置の方を上にしていた。他の三挺はボートと一緒に沈んだのである。
 さらに吾々の懸念を増したことには、岸沿いの森の中に人声《ひとごえ》がすでに近づいて来るのが聞えた。そして、吾々には、この半ば跛になったような有様で柵壁へ行く道を断たれる危険があるだけではなく、ハンターとジョイスとが六七人の敵の者に攻撃されたなら、しっかりと踏み止まるだけの分別や気転があるかどうかという憂慮もあった。ハンターはしっかりした男だった。それは吾々にはわかっていた。がジョイスの方が怪しかった。――従僕としては、また人の衣服にブラシをかけるには、面白い、丁寧な男であったが、軍人としてはまったく適していないのだ。
 こんなことを考えながら、吾々は、小形端艇と、吾々の火薬と食糧品との大半とを後に残して、出来るだけ速く岸まで徒渉した。


第十八章 医師が続けた物語       第一日の戦闘の終り

 吾々は、今吾々と柵壁との間にある細長い森林地を突っ切って、一所懸命に前進した。すると一歩一歩と進む毎に海賊どもの声がだんだん近くにがやがや言っているのが聞えて来た。間もなく、彼等の走る跫音《あしおと》や、彼等が藪を押し分けてゆく時の枝のぽきぽき折れる音までも、聞えるようになった。
 私はこれでは本気で一合戦やらなければなるまいということがわかりかけて来たので、自分の点火薬を調べた。
「船長、」と私は言った。「トゥリローニー君は射撃の名人です。あなたの鉄砲をやって下さい。あの人のは役に立たんのですから。」
 二人は鉄砲を取換え、トゥリローニーは、この騒動の始まり以来のように黙々として冷静に、ちょっと立ち止って、どこもみな役に立っようになっているかを確めた。同時に、私は、グレーが何も武器を持っていないのに気がついて、自分の彎刀《カトラス》を渡してやった。彼が手に唾し、眉を顰《しか》めて、その刀身をびゅうびゅうと空気を切って振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すのを見ると、吾々みんなは元気が出て来た。彼の体《からだ》のどの線を見ても、この新しい味方が一|廉《かど》の役に立つ人間だということは、明かだった。
 さらに四十歩ほど進むと、森の縁へ来て、前面に柵壁が見えた。吾々はその囲柵の南側の真中あたりに行き着いた。すると、ほとんど同時に、七人の謀叛人が――水夫長《ボースン》のジョーブ・アンダスンを先頭にして――その南西の隅のところにどっと一斉に現れて来た。
 彼等はびっくりしたように立ち止った。そして彼等が気を取直さないうちに、大地主と私だけではなく、丸太小屋からハンターとジョイスまでが、火蓋を切る暇があった。この四人の射撃は幾らかばらばらな一斉射撃となったが、しかしその役目は果した。敵の一人は実際倒れ、残りの奴らはすぐさまくるりと背を向けて樹立の中へ跳び込んだ。
 弾丸を籠め直してから、吾々は倒れた敵を介抱してやろうと防柵の外側について下りて行った。その男はまったく死んでいた。――心臓を射貫かれたのだ。
 吾々がこの成功を喜びかけていたちょうどその瞬間、ピストルが叢林の中でばあんと鳴り、一発の弾丸が私の耳を掠めてぴゅっと飛び、可哀そうにトム・レッドルースがよろよろして地面へばったり倒れた。大地主も私も二人とも撃ち返した。が、何も狙うものがなかったのだから、恐らく火薬を浪費しただけであったろう。それから吾々はまた弾丸を籠めると、可哀そうなトムに注意を向けた。
 船長とグレーとがすでに彼の傷を調べていたが、私は一目でもう駄目だと見て取った。
 吾々が敏捷に一斉射撃を返したので、謀叛人どもはもう一度潰走したのだろうと思う。吾々はその上もう妨害を受けずに、その可哀そうな年寄の猟揚番人を持ち揚げて柵壁を越し、血を出しながら呻いているのを丸太小屋の中へ運び込んだ。
 可哀そうなこの老人は、吾々が難儀なことになったまったくの始まりから、今こうして丸太小屋の中に横らされて死んでゆこうとしている時に至るまで、一言の驚きや、不平や、恐れの言葉も、承諾の言葉さえも、口に出したことがなかった。彼はトゥロイ人の如《ごと》く勇敢にあの船の廊下の敷蒲団《マットレス》の蔭で敵に備えていた。彼はいかなる命令にも黙々として、頑固に、よく従った。彼は吾々の仲間の中の最年長者で、吾々よりも二十歳も年長だった。そして今、死んでゆこうとしているのは、このむっつりした、年寄の、勤勉な召使であったのだ。
 大地主は彼のそばにどかりと膝をついて、子供のように泣きながら、彼の手に接吻した。
「お医者さま、わっしは行くのでごぜえますか?」と彼は尋ねた。
「トムや、」と私は言った。「お前はほんとうの故郷《くに》へ行くのだよ。」
「俺《わし》は先に鉄砲で奴らに一発喰らわしてやりたかった。」と彼が答えた。
「トム、」と大地主が言った。「私を赦《ゆる》すと言ってくれないか?」
「そんな勿体《もってえ》ねえことが、わっしからあんたさまに言えますか、旦那さま?」というのがその返事であった。「だが、それでようごぜえます、アーメン!」
 しばらくの間黙っていた後、彼はだれかが祈祷を上げてくれた方がよいと思うと言った。「それが慣例《しきたり》ですからね。」と言訳するように言い足した。それから間もなく、その上一言も言わずに、死んでしまった。
 それまでの間に、船長は、胸やポケットのあたりが非常に膨らんでいるのは前から私も気づいていたが、そこからさまざまな品物をたくさん出した。――英国の国旗や、聖書や、一巻きの丈夫そうな綱や、ペンや、インクや、航海日誌や、何ポンドかの煙草などであった。彼は囲柵の中に伐り倒して枝を切り去った相当長い樅の木が一本あるのを見つけて、ハンターに手伝って貰って、それを、丸太小屋の隅の樹幹が交叉して角をなしている処に立てた。それから、屋根に攀《よ》じ登って、自分の手で国旗を結びつけて掲げた。
 それをしてしまうと船長は大いに安堵したようだった。彼は再び丸太小屋へ入って来て、他には何事もないかのように、さっきの品物を数え始めた。しかし彼はそれにも拘らずトムの臨終には目を離さなかった。そして、息を引取るや否や、別の国旗を持って来て、それを恭しく死体の上にかけた。
「そんなにお歎きなさるな。」と彼は大地主の手を握りながら言った。
「この人のことはこれですっかりいいのです。船長と主人とに対する義務を果しながら斃《たお》れた船員には何も心配はありません。これは教会で言うのとは違うかも知れません。が、それが事実です。」
 それから彼は私を脇へひっぱって行った。
「リヴジーさん、」と彼が言った。「あなたと大地主さんとは何週間たったら件船《ともぶね》が来ると思ってお出でですか?」
 私は、それは週ではなくて月できめてあるのであって、もし吾々が八月の末までに帰らなかったら、ブランドリーが吾々を探しに伴船を出すことになっているが、それよりも早くもなければ遅くもない、と彼に言った。「ですから御自分で計算してみて下さい。」と私は言った。
「ははあ、なるほど、」と船長は頭を掻きながら答えた。「とすると、どんなに神様の有難い思召しを蒙っていることを酌量してみましても、我々はかなり詰開《つめびら》き(註六一)[#「(註六一)」は行右小書き]になっていると申さなければなりませんな。」
「それはどういう意味ですか?」と私は尋ねた。
「我々があの二度目の積荷をなくしたのは残念です。私の言うのはそのことですよ。」と船長が答えた。「火薬と弾丸とは、まあ足りましょう。しかし食糧が不足なんです。非常に不足で、――リヴジーさん、恐らくあの余分の口が減って我々に好都合なくらい、それくらいに不足なんです。」
 そう言って彼は旗の下の死体を指した。
 ちょうどその時、どおんという轟然たる音とびゅうっと唸る音を立てて、一発の砲弾が丸太小屋の屋根の上を飛び去って、ずっと遠くの森の中に落ちた。
「ほほう!」と船長が言った。「どんどん撃て撃て! お前らにはもう火薬があんまりないぜ。」
 二度目に撃った時には、狙いは前よりはよくて、弾丸は柵壁の内側に落下して、ぱっと砂煙を立てたが、しかしそれ以上に何の損害も与えなかった。
「船長、」と大地主が言った。「この小屋は船からちっとも見えないはずです。奴らの狙っているのは国旗に違いない。あれを卸した方がよかありませんか?」
「私の旗を引下すのですって!」と船長が叫んだ。「いいえ、私は下しません。」そして彼がその言葉を言うや否や、吾々は皆彼に賛成したと思う。なぜなら、それは単に剛毅な、海員らしい、正常な感情であったばかりではない。その上にそれは立派な策略でもあって、敵に吾々が彼等の砲撃を軽蔑していることを示したからである。
 その夕刻中彼等はずっと大砲を撃ち続けた。次々に来る弾丸は、飛び越して行ったり、届かなかったり、囲柵の中で砂を蹴上げたりした。しかし、彼等は高く発射しなければならなかったので、弾丸は威力を失って落ち、柔かい砂の中に埋ってしまった。弾丸の跳ね返る恐れは少しもなかった。そして、一弾が丸太小屋の屋根を突き抜けて跳び込み、さらに床《ゆか》を突き抜けて行ったけれども、吾々は間もなくそういう荒遊びに慣れてしまって、クリケットくらいにしか気にかけなくなった。
「こうなるとよいことが一つありますな。」と船長が言った。「前の森にはだれもいそうにもないことです。潮はよほど退《ひ》いているから、さっきの荷物は水から出ているだろう。豚肉を取りに行こうという志願者。」
 グレーとハンターとが真先に進み出た者であった。十分に武装して二人は柵壁の外へそっと出た。が、その派遣が無益であることがわかった。謀叛人どもは吾々の思ったよりも大胆であった。それとも彼等はイズレールの砲術に案外信頼していたのだ。というのは、四五人の奴らが頻りに吾々の荷物を運び去って、それを持って一艘の快艇《ギッグ》のところまで徒渉していたからである。その快艇はすぐそばにあって、潮流に押し流されないようにするためにオールを漕いだりしていた。シルヴァーは艇尾座にいて指揮していた。そして彼等は皆、今は、彼等自身のどこか秘密の武器庫から持ち出した銃を一挺ずつ持っていたのであった。
 船長は腰を下して航海日誌を書き出した。その記入の初めの方はこうである。――
「船長アレグザーンダー・スモレット、船医デーヴィッド・リヴジー、二等船匠手エーブラハム・グレー、船主ジョン・トゥリローニー、船主の従僕、非海員ジョン・ハンター及びリチャード・ジョイス――以上は船の乗員中の忠実なる者として残れる者の全部なり――は、切詰めたる定量にて十日間の糧食を携えて、本日上陸し、宝島の丸太小屋に英国国旗を掲ぐ。船主の従僕、非海員トマス・レッドルース、叛徒に射殺さる。船室給仕ジェームズ・ホーキンズ――」
 そして、ちょうど同時に、私は可哀そうなジム・ホーキンズの運命がどうなったろうかと思っていたところであった。
 すると陸の方からおういと呼ぶ声がした。
「だれかが俺《わし》らを呼んでおります。」と見張りに立っていたハンターが言った。
「先生! 大地主さん! 船長さん! おうい、ハンター、君かい?」という叫び声がした。
 それで私が戸口のところまで走ってゆくと、ちょうど、ジム・ホーキンズが無事で達者で柵壁を攀《よ》じ越えてやって来るのが見えたのであった。


第十九章 ジム・ホーキンズが再び始めた物語       柵壁内の屯営

 べン・ガンは旗を見るや否や立ち停り、私の腕を掴んでひき止め、腰を下した。
「おい、」と彼が言った。「あすこにお前《めえ》さんの仲間がいるぜ、確かに。」
「あれぁどうも謀叛人らしいよ。」と私は答えた。
「そんなことがあるもんか!」と彼は叫んだ。「なあに、分限紳士でなけりゃだれ一人船をつけやしねえこんな処《とこ》だもの、シルヴァーなら海賊旗《ジョリー・ロジャー》(註六二)[#「(註六二)」は行右小書き]を立てるだろうよ。それにゃあ間違《まちげ》えなしさ。いいや、ありゃお前さんの仲間だ。それに、さっき戦争があったろう。でお前さんの仲間が勝ったんだと思うねえ。それでここへ上陸してあの古い柵の中に入《へえ》ってるのさ。あの柵は何年も何年も前にフリントが拵《こせ》えたものだ。ああ、あの人はまったく大将《てえしょう》らしい人だったよ、あのフリントはな! ラムの他《ほか》にゃあ、あの人にかなうものは何にもなかったんだ。怖《こえ》え者なんて一人だってなかったんだぜ。シルヴァーだけは別だがね。――シルヴァーはそれっくれえ気の利いた奴だったよ。」
「なるほど、」と私は言った。「じゃそうかも知れない。そんならそれでいい。それなら僕は一層急いで行って味方と一緒にならなくちゃ。」
「いやいや、兄弟《きょうでえ》、」とベンが答えた。「そうはゆかねえ。お前はいい子だ。違《ちげ》えねえよ。だが、何と言っても、まだほんの子供だよ。ところで、ベン・ガンとなるとなかなか抜目はねえ。ラムに酔ってたってそこへは行かねえぜ、お前さんの行こうとしてる処へはな、――ラムに酔ってたって行かねえとも、俺《わし》がその生れつきの紳士って人に逢って、その人から名誉にかけての約束てえ奴を聞くまではな。でお前さんは俺の言った言葉を忘れはしねえだろな。『とっても(とこう言うんだぜ)、とっても信用しています。』とね、――それからあの人をつねるんだよ。」
 そして彼は前と同じような巧みな様子で三度目に私を抓《つね》った。
「それからベン・ガンに用のある時にゃ、どこへ行きゃあ会えるか知ってるね、ジム。今日《きょう》お前さんと会ったあすこだぜ。それから、会いに来る人は手に何か白い物を持って来るんだよ。そして一人だけで来なきゃいけねえ。おお! それからお前さんはこう言ってほしいね。『ベン・ガンにゃあ自分の仔細があります。』って言うんだぜ。」
「なるほど、」と私は言った。「わかったようだよ。君には何か言い出したい話があって、大地主さんか先生に逢いたいのだね。それから、君は僕と会ったあすこへ行けばいるんだね。それだけかい?」
「それからいつ頃? っていうことだな。」と彼は言い足した。「そうさな、正午《ひる》頃から六点鐘頃までだ。」
「よろしい。」と私は言った。「じゃあ僕はもう行ってもいいかい?」
「お前さんは忘れやしねえだろな?」と彼は心配そうに尋ねた。「とっても、ということと、仔細がある、ということを、言うんだぜ。仔細がある。これが大事なことなんだよ。男と男の話としてね。よし、さあ、」――とやはり私を掴まえながら――「もう行ってもいいだろうよ、ジム。それからね、ジム、もしお前さんがシルヴァーに逢っても、ベン・ガンを売るようなことはしめえな? 拷問にかけられたってしゃべりゃしめえな? 大丈夫だね。それから、もしあの海賊どもが浜で野営するならばだ、ジム、朝にはきっと人死《ひとじに》があるだろうぜ。」
 この時に轟然たる音が彼の言葉を遮り、一発の砲弾が樹立を突き裂いて、私たち二人が話していた処から百ヤードと離れていない砂地の中へ落下した。次の瞬間には二人とも別々の方向へ逃げ出していた。
 それから後のたっぷり一時間は、砲撃が頻りに島を震わせて、砲弾が絶えず森に落ちた。私はその恐しい弾丸に始終追われて、あるいは追われているような気がしたのであるが、隠れ場所から隠れ場所へと逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。しかし、砲撃がそろそろ終りかける頃には、弾丸が一番多く落ちる柵壁の方へはまだ行く勇気はなかったけれども、再び幾らか元気が出かけていた。そして、東へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り路をしてから、岸辺の樹立の間をそろそろと下りて行った。
 太陽はちょうど沈んだばかりで、海風《うみかぜ》は森の樹をざわざわと鳴らして吹きまくり、また碇泊所の灰色の水面を波立たせていた。潮も遠くまで退いていて、広々とした砂地が現れていた。空気は、日中の暑さの後に、冷えて来て、私のジャケツを通して身に滲み込んだ。
 ヒスパニオーラ号はやはり前に投錨した処にいた。けれども、果して、海賊旗《ジョリー・ロジャー》――海賊の黒い旗――をその斜桁上外端《ピーク》にひらひらと翻していた。私が見ている時にもまだ、また赤く砲火が閃き轟然たる砲声がして、大きな反響を起し、もう一発の砲弾が空中をびゅうっと飛んで行った。それが最後の砲撃だった。
 しばらくの間私は横って、攻撃の後の騒ぎを見ていた。柵壁の近くの渚では、水夫たちが斧で何かを叩き壊していた。後でわかったが、例の小形端艇《ジョリボート》であった。彼方の、川口の近くには、樹立の間に焚火が盛んに燃えていて、その地点と本船との間を一艘の快艇《ギッグ》が絶えず行ったり来たりしており、前にはあんなに不機嫌だった水夫たちは、オールを漕ぎながら子供のように喚いていた。しかし、その声にはラムを飲んだらしい調子があった。
 とうとう、私はもう柵壁の方へ戻れるだろうと思った。私は低い砂の出洲《です》をかなりずっと下っていた。この出洲は碇泊所を東で抱え、半潮(註六三)[#「(註六三)」は行右小書き]の時には骸骨《スケリトン》島と連っているのである。そして今、私は立ち上ると、出洲をもう少し下ったところに、低い灌木の間から、かなり高い、色が妙に白っぽい岩が一つだけ立っているのが目に入った。私は、これがベン・ガンの話したあの白い岩かも知れない、いつかボートが要《い》ることになるかも知れないが、それを捜す処はわかった訳だ、と思いついた。
 それから森の中を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行って、柵壁の裏手、すなわち海岸向きの側へ再び着き、間もなく味方の人たちに大いに歓迎された。
 私は間もなく自分の一部始終の話をしてしまって、あたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し始めた。その丸太小屋は角材にしない丸木のままの松の幹で造ってあった、――屋根も、壁も、床《ゆか》も。床は数箇処砂地の面から一フートないし一フート半も高くなっていた。戸口のところにはポーチがあり、そのポーチの下に、例の小さな泉が、幾らか奇妙な性質の人工の溜池――というのは、船の大きな鉄釜の底を抜いて、船長の言葉で言えば「船荷を満載した時の水準線まで」砂の中に埋めたものなのであるが――の中へ湧き出ていた。
 小屋の骨組の他にはほとんど何も残されてはいなかった。が、一つの隅に、炉床の代りに敷いてある板石と、火を入れる古い銹びた鉄の籠とがあった。
 円い丘の傾斜面と柵壁の内側全部とは、この小屋を建てるために樹木をすっかり伐り払ってあった。その切株で見ると、ずいぶん立派な喬木の林が伐り倒されたことがわかった。土は大抵、その樹木を取除けた後に、雨に流しやられたり、風の吹き寄せた砂に埋められたりしていた。ただあの釜から流れ下っている小川のところだけでは、苔や、何かの羊歯《しだ》や、地を這っている小さな灌木などが、こんもり生い茂っていて、砂地の中にまだ緑色をしていた。柵壁のすぐ近くの周りに――防禦のためには近過ぎると皆は言ったが――森林がまだ高く密に繁っており、陸の側は皆樅だが、海の方は鮮色樫がよほどまじっていた。
 前に言ったあの寒い夕風は、この粗末な建物のありとあらゆる隙間からぴゅうぴゅう吹き込んで来て、細かい砂の雨を絶間なしに床《ゆか》に撒き散らした。私たちの眼の中にも砂、歯の間にも砂、夕食の中にも砂があり、あの釜の底の泉の中にも、まさしく、煮えかかった粥のように、砂が踊っていた。この小屋の煙突というのは、屋根に開《あ》いている一つの四角な穴であった。だから、外へ出てゆく煙はほんの僅かで、残りは小屋の中に渦巻いて、私たちに絶えず咳をさせたり涙を出させたりした。
 これにかてて加えて、新たに味方になったグレーは、謀叛人の中から跳び出して来る時に受けた傷のために、顔に繃帯をしていたし、可哀そうなトム・レッドルース爺さんは、まだ埋葬されずに、硬くなって、英国国旗《ユーニヨン・ジャック》に蔽われたまま、壁に沿うて横っているのであった。
 もし私たちが何もせずに坐りこんでいさせられたならば、私たちは皆きっと意気銷沈してしまったことだろう。しかし、スモレット船長は決してそんなことをするような人ではなかった。全員が彼の前に呼び集められ、彼は私たちを当直の組に分けた。医師と、グレーと、私とが一組、大地主さんと、ハンターと、ジョイスとが他の一組になった。私たちみんなは疲れていたけれども、二人は薪を取りにやられるし、他の二人はレッドルースの墓を掘りにかからされるし、医師は料理番《コック》に指命されるし、私は戸口のところに歩哨に立たされた。そして船長自身は一人一人のところへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、私たちを励ましたり、どこでも必要なところでは手を貸したりした。
 折々、医師は戸口のところへやって来て、少し外気を吸ったり、けむくてたまらぬ眼を休ませたりした。そうして来る度に、私にちょっと言葉をかけた。
「あのスモレットという人は私よりは偉い人間だよ。そして私がこう言う時にはなかなかのことだぜ、ジム。」と彼は一度は言った。
 また或る時は彼はやって来てからしばらくの間黙っていた。それから頭をかしげて、私をじっと眺めた。
「そのベン・ガンというのはしっかりした男かね?」と彼が尋ねた。
「私にはわかりません。」と私は言った。「正気な男かどうかもよくわからないんです。」
「正気かどうかという疑いがあるくらいなら、その男は正気だよ。」と先生が答えた。「無人島に三年もただ爪を咬んで暮していた人間というものはね、ジム、君や私と同様に正気に見えるというはずがないのだ。そんなことは人間の性質としてはないことだよ。その男がほしがっていると君の言ったのはチーズだったかね?」
「ええ、チーズです。」と私は答えた。
「じゃあ、ジム、」と彼は言った。「食物にやかましいとどんないいことになるか見て御覧。君は私の嗅煙草《かぎたばこ》入れを見たことがあるだろうね? で君は私が嗅煙草を取り出すのは一度も見たことがないだろう。その訳はこうだ、あの嗅煙草入れの中にはパルマ・チーズ(註六四)[#「(註六四)」は行右小書き]が入れてあるのさ、――イタリーで出来たチーズで、すこぶる滋養のある奴だ。そこで、あれをベン・ガンにくれてやるとしよう!」
 夕食を食べる前に私たちはトム爺さんを砂の中に埋葬して、帽子を脱いだまま風に吹かれて暫くの間その周りに立っていた。薪はずいぶんたくさん取って来てあったが、船長の気に入るほどではなかった。彼は頭を振って、私たちに「明日《あす》はもっと元気を出して取って来なくっちゃいけません。」と言った。それから、みんなが豚肉を食べ、一人一人がかなり強いブランディーを一杯ずつ飲んでしまうと、三人の頭株は一隅に集って、これから先のことを相談した。
 三人はどうしたらいいか途方に暮れている様子だった。糧食がごく乏しいので、救助の来るずっと前に私たちは飢餓に迫られて降服するより他しようがなかったからである。しかし、私たちの最上の望みは、海賊どもをどしどし殺して、彼等が旗を曳き下して降参するか、ヒスパニオーラ号に乗って逃げ出すまでやっつけることだ、ということに決定した。彼等はすでに最初の十九人から十五人に減っていたし、その他に二人が負傷しているし、少くとも一人――あの大砲のそばで撃たれた男――は、よし死んでいないにしても、重傷を負うていた。私たちは彼等にずどんとやってやる度毎に、自分たち自身の命を落さずに、極度の注意をしてやらなければならない訳だった。そして、この他に、私たちには二つの有力な味方があった。――ラムと風土とである。
 ラムについて言えば、私たちは約半マイルも離れていたのに、彼等が夜遅くまで喚いたり歌ったりしているのが聞えるくらいであった。また風土の方について言えば、彼等は沼地に野営していて、医薬の用意もないので、一週間とたたぬうちに半分の者は病気に罹って寝込むだろう、と先生はその仮髪《かつら》を賭けて断言した。
「そういう訳で、」と彼は言い足した。「もし我々がみんな先に撃ち倒されなければ、あいつらは喜んであのスクーナー船でこそこそ逃げて行ってしまうでしょうよ。奴らのほしいのはいつでも船で、船さえあればまた海賊を始められるんですからな。」
「私はまた船をなくしたのは今度が初めてで。」とスモレット船長が言った。
 諸君も想像される通り、私はへとへとに疲れていた。そして、何遍も何遍も寝返りうつまでは寝つかれなかったが、寝ついてしまうと、丸太のようにぐっすりと眠った。
 他の人たちがとっくに起きていて、もう朝食をすませて、薪の山を前日の一倍半ばかりもたくさんにした頃に、私はどさくさする物音と人の声とで目を覚した。
「休戦旗だ!」とだれかが言うのが私に聞えた。それから、すぐ後に、驚いたような叫び声と共に、「シルヴァーが自分で来たぞ!」と聞えた。
 それを聞くと、私は跳ね起きて、眼を擦《こす》りながら、壁の銃眼のところへ走って行った。

第二十章 シルヴァーの使命

 果して、柵壁のすぐ外側に二人の男がいて、一人は白い布片を振っており、もう一人はまさしくシルヴァーで、そのそばに落着き払って立っていた。
 まだごく早くて、私が戸外で感じた一番寒い朝だったように思う。寒気は骨の髄までも滲み徹った。空は晴れわたって頭上には一片の雲もなく、樹々の頂は太陽に照されて薔薇色に輝いていた。しかしシルヴァーが彼の副官と共に立っている処では、すべてがまだ影の中にあって、彼等は、夜の間に沼沢地から這い上った低い白い靄《もや》に、深く膝のところにまでも浸されていた。この寒気と靄とを合せて考えると、この島の有難くない処であることがわかった。それは、明かに、湿気のひどい、熱病に罹り易い、不健康な場所であった。
「諸君、屋内《なか》にいるんだ。」と船長が言った。「九分九厘までこれは策略ですから。」
 それから彼はかの海賊に声をかけた。
「だれだ? 止れ。でないと撃つぞ。」
「休戦旗ですぜ。」とシルヴァーが叫んだ。
 船長はポーチにいて、用心深く騙《だま》し撃《う》ちをやられても中《あた》らぬところにいるようにしていた。彼は振り向いて私たちに言った。――
「先生の組は見張りに就《つ》け。リヴジー先生はどうか北側にいて下さい。ジムは東側。グレーは西。非番の組、全員銃に装填せよ。諸君、元気よく、注意深く。」
 それから再び彼は謀叛人たちの方へ振り向いた。
「で、そんな休戦旗を持って来て何の用があるんだ?」と彼は呶鳴《どな》った。
 今度は、返事をしたのはもう一人の男だった。
「シルヴァー船長《せんちょ》が話を纏めにお出でなすったんで。」とその男が叫んだ。
「シルヴァー船長《せんちょ》だと! そんな人は知らんな。だれのことだい?」と船長は大声で言った。そして独り言のようにこう言い足すのが私たちに聞えた。「船長だって? おやおや、驚いたな。えらい御出世だ!」
 のっぽのジョンは自分で答えた。
「わっしのことでさあ。あんたが脱走なすってから、この若《わけ》え奴らがわっしを船長《せんちょ》に選んだのでさ。」――と「脱走」という言葉に特に力を入れた。「わっしらは、もし折合いせえつくものなら、喜んで降参しますよ、ぐずぐず言わずにすぐさまね。わっしの聞かして貰《もれ》えてえのは、スモレット船長、わっしをこの柵の外へ無事に出させて、鉄砲を撃たねえ前に弾丸《たま》の届かねえとこへゆくまで一分ほど待ってくれる、てえあんたの約束ですよ。」
「おい、」とスモレット船長が言った。「己《おれ》は貴様に口を利きたいとはちっとも思っちゃおらん。もし貴様の方で己に口が利きたいなら、来たっていい。それだけのことさ。不信義なことをするとなれぁ、それは貴様の方だろうよ。そんなことをすれぁ有難い目に遭うぜ。」
「それで十分ですよ、船長。」とのっぽのジョンは機嫌よく叫んだ。「あんたから一|言《こと》約束の言葉を聞けば十分ですよ。わっしは紳士ってものを知ってますからなあ、間違えなくね。」
 休戦旗を持っている男がシルヴァーを制止しようとするのが見えた。また、船長の返事がいかにも横柄なのを聞けば、これは不思議ではなかった。しかし、シルヴァーは声を立ててその男を笑い、そんなにびくびくするなんて馬鹿げているよとでもいうように、その男の背中をぽんと叩いた。それから柵壁まで進んで、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をその上から投げ込み、片脚を上げると、非常に勢よく上手に柵を乗り越して無事に内側へひらりと下りた。
 白状するが、私はこういう有様にすっかり気を取られてしまって、歩哨の役目などはちっともやりはしなかった。実際、私はもう自分の東側の銃眼を離れて、船長の背後までこっそり行っていたのである。船長はその時は閾《しきい》の上に腰を掛けて、膝の上に肱《ひじ》をつき、両手で頭を支えながら、砂の中の古い鉄の釜からぶくぶくと湧いている水をじっと見ていた。彼は「いざ、乙女《おとめ》よ、若人《わこうど》よ。(註六五)[#「(註六五)」は行右小書き]」と口笛を吹いていた。
 シルヴァーは丘を登って来るのに恐しく骨を折った。傾斜は嶮《けわ》しいし、木の切株はたくさんあるし、砂地は柔かいと来ているので、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を持った彼は方向を換えようとしている帆船のように体が自由に利かないのであった。しかし彼は黙々として男らしくそれをやり通し、とうとう船長の前まで来て、見事な態度で船長に挨拶した。彼は晴着を着飾っていた。真鍮のボタンのたくさんついている素敵に大きな青色の上衣は膝まで垂れており、綺麗なモールで飾った帽子は阿弥陀に頭にのっかっていた。
「おお、来たな。」と船長は顔を上げながら言った。「坐ったがよかろう。」
「内へ入れてくれねえんですかい、船長?」とのっぽのジョンは不平を言った。「ほんとに、えらく寒い朝だから、外の砂の上に坐るなんてつれえですねえ。」
「そうさなあ、シルヴァー、」と船長が言った。「もし貴様が実直にさえしていたなら、今頃は船の炊事室に坐っていられたんだろうがな。それは自業自得さ。お前は、己の船の料理番《コック》であるか、――それなら立派な待遇を受けるんだが、――それとも、くだらん謀叛人で海賊のシルヴァー船長であるかだ。その方なら絞首《しめくび》になるがいいや!」
「ようがす、ようがす、船長。」と船の料理番《コック》は、命ぜられた通り砂地に腰を下しながら、答えた。「あんたは後でまたわっしに手を貸して立たしてくれなくちゃならんでしょうからな。それだけのことでさ。これぁなかなか気持のいい立派な処《とこ》にお出でですなあ。やあ、ジムがいるね! お早う、ジム。先生、御機嫌よう。これはこれは、皆さん方《がた》は言わば仕合せな一家族みてえに御一緒にお出ででごぜえますな。」
「おい、何か言うことがあるなら、言った方がいいぜ。」と船長が言った。
「御もっともで、スモレット船長。」とシルヴァーが答えた。「いかにも、義務は義務ですからね。じゃあ、申しますがね、昨晩《ゆうべ》のあれはあんた方はうめえことをおやんなすったもんですなあ。確かに、うめえことでしたよ。それぁわっしも隠しやしません。あんた方の中にゃ木挺を[#「木挺を」はママ]ずいぶ器用に使う人がいるんですねえ。で、隠しやしませんが、そりゃあわっしの手下ん中にゃびくついた奴もいましたよ。――いや、みんながびくついたかも知れねえ。そういうわっしだってびくついたかも知れねえ。そのためにわっしがこうして折合いをつけにやって来たんかも知れませんよ。だがね、いいですかい、船長、二度とああはゆきませんぜ、畜生! わっしらの方も歩哨を立てますし、ラムもちったぁ控えることにしますからな。あんた方はわっしらがみんなほろ酔い加減だったと思ってるかも知れねえ。だが、わっしは確かに素面《しらふ》でしたぜ。ただえらく疲れてただけでさ。わっしがもうちょっとだけ早く目が覚めせえしたら、その場であんた方を掴めえたんですがねえ。掴めえましたとも。わっしがあの男んとこへ行って見た時にゃ、あの男はまだ死んでやしませんでしたからね、まだね。」
「それで?」とスモレット船長はこの上なく冷静に言った。
 シルヴァーの言ったことはすべて船長には謎のようでまるでわからなかったが、船長はそんな口振りは少しも示さなかった。私はと言えば、薄々わかりかけて来た。ベン・ガンが最後に言った言葉が頭に思い浮んだのだ。私は、海賊どもがみんな焚火の周りに酔っ払って寝ている間にあのベン・ガンが奴らを見舞ったのだろうと思い始め、私たちの相手にする敵がたった十四人になったと数えて喜んだ。
「それで、こういう訳ですよ。」とシルヴァーが言った。「わっしらはあの宝がほしいし、またどうあっても手に入れるつもりだ、――それがわっしの方の目的ですよ! あんた方はむしろただ命《いのち》が助かりたいんでしょう。それがあんた方の方の目的でさあね。あんたは海図を持っていなさるね?」
「それはそうかも知れん。」と船長が返事した。
「おお、なあに、持ってなさるよ。それぁわっしにゃわかってますさ。」とのっぽのジョンが答えた。「そんなに人に素気《そっけ》なくなさるこたぁありませんや。そんなことをしたって何の役にも立たねえんですから。そいつぁ間違えっこなしでさ。わっしの言いてえのは、わっしらはあんたの海図がほしいってことだ。でねえ、あんた方に害をしようってつもりはちっともねえんでさあ――わっしはね。」
「それは駄目だぜ、おい。」と船長が口を挿んだ。「貴様らがやろうとしていたことは己たちにはちゃんとわかっているし、己たちの方は平気だ。なぜって、貴様らはもうそれが出来ないんだからな。」
 そして船長は泰然と彼を眺め、パイプに煙草を填《つ》め出した。
「もしエーブ・グレーの奴が――」とシルヴァーが急に呶鳴《どな》り出した。
「止《や》めろ!」とスモレットさんが大声で言った。「グレーは己に何も言わなかったし、己もあの男に何も尋ねはしなかった。それに、己はむしろ貴様もあの男もこの島全体も海の中から地獄へ吹き飛ばしてやりたいくらいなんだ。おい、これでそのことについちゃ貴様には己の心がわかったはずだ。」
 こうちょっと呶鳴りつけられたのでシルヴァーは冷静になったようだった。彼はそれまではだんだんいらだって来ていたのだが、今は気を落着けた。
「いや、これはどうも、」と彼が言った。「多分、あっしは、紳士って方々がその時の場合によってどんなことを適当と考《かんげ》えるか考えねえかってことの区別をつけなかったんでしょう。で、船長、あんたはパイプをやろうとしていなさる様子だから、わっしも遠慮なくやりますぜ。」そう言って彼はパイプに煙草を填めて、それに火をつけた。そして、その二人の人はしばらくの間は煙草を吹かしながら無言で坐り、互に顔を見合ったり、また煙草を止《や》めたり、また前へ屈んで唾を吐いたりしていた。その二人の様子を見ているのは芝居のように面白かった。
「ところで、こういう話ですよ。」とシルヴァーがまた始めた。「宝を手に入れられる海図をわっしらに渡して貰《もれ》えましょう。それから、可哀《かええ》そうな水夫らを撃ち殺したり、寝てる間に頭に孔をあけたりするのは、やめて貰えましょう。そうして下さりゃ、どっちでもお好きな方《ほう》にしてあげますぜ。宝を積み込みせえすりゃ、わっしらと一緒に船に乗んなさるか。それなら、あっしが名誉にかけてきっとあんた方をどっかへ無事に上陸させてあげましょう。それともまた、もし、わっしの手下の中にゃ乱暴な奴もいて、こき使われた怨みを持ってるんで、一緒に船に乗るのがお気が進まねえなら、ここに残ったってようがすぜ。それなら、あんた方と食物を一人一人に分けましょう。そして、これもきっと、船を見かけ次第それに信号して、あんた方を迎えにここへ来させてあげますよ。どっちでもね。どうです、訳のわかった話でしょう。これよりいいことって望めやしませんぜ。しませんともさ。それからね、」――と声を張り上げて――「この丸太小屋ん中にいるみんなの人に、わっしの言ったことをよく考えて貰えてえんだ。一人に言ってることは、みんなに言ってることなんだから。」
 スモレット船長は坐っていたところから立ち上って、パイプの灰を左手の掌にはたき出した。
「それだけか?」と彼は尋ねた。
「一|言《こと》も残さずすっかりだ、畜生!」とジョンは答えた。「これを厭だというなら、あんた方はわしの見納《みおさ》めで、後は鉄砲|丸《だま》をお見舞《みめえ》するだけだ。」
「至極結構。」と船長が言った。「今度は己の言うことを聞かしてやる。もし貴様らが武器を持たずに一人一人やって来るなら、己は、貴様らみんなた鉄械《かせ》をかけた上で、イギリスへつれて帰って公平な裁判にかけてやるということを、約束してやろう。もしやって来ないというなら、このアレグザーンダー・スモレットは陛下の旗を掲げているのだ、きっと貴様らみんなを魚《さかな》の餌食にしてくれるぞ。貴様らは宝を見つけることが出来ない。貴様らは船を動かすことも出来ない、――貴様らの中には船を動かせそうな奴が一人だっていないよ。貴様らは我々と戦うことも出来ない、――そら、グレーは貴様らの仲間の六人の中から抜け出て来たんだぜ。お前さんの船は動きが取れなくなっていますよ、シルヴァーさん。お前さん方は危い風下の海岸にいるようなものなんだ、すぐにわかるだろうがね。己はここに立って貴様にそれだけ言ってやる。これが貴様が己から聞く最後の親切な言葉だぞ。この次己が貴様に逢った時には、必ず、貴様の背中に一発撃ち込んでやるんだからな。おい、小僧、歩くんだ。とっとと出て行け、どうか、ずんずん、駆足でな。」
 シルヴァーの顔は観物《みもの》だった。激怒のために眼玉は跳び山しそうだった。彼はパイプから火を振い出した。
「手を貸して立たしてくれ!」と彼は叫んだ。
「己は厭だ。」と船長が答えた。
「だれか手を貸して立たしてくれねえか?」と彼は喚いた。
 私たちは一人も動かなかった。彼は、非常に口ぎたない呪いの言葉をがなり立てながら、砂地を這って行って、ポーチに掴まると、ようやく再び立ち上って※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をあてた。それから泉の中へぺっと唾を吐いた。
「そら! これが己の手前《てめえ》たちに思っていることだ。」と彼は呶鳴《どな》った。「一時間とたたねえうちに、この古ぼけた丸太小屋にラム樽みてえに穴をあけてくれるぞ。笑っとけ、畜生、笑っときやがれ! 一時間とたたねえうちに、手前らは笑う反対《はんてえ》に泣面《なきづら》をかくんだ。死ぬ奴は運のいい奴だぞ。」
 そして、恐しい罵り言葉を吐いて彼は躓《つまず》きながら立去り、砂地をやっとのことで下って、四遍か五遍しくじった後に、休戦旗を持った男に助けられて柵壁を越すと、瞬く間に樹立の中へ姿を消してしまった。

第二十一章 攻撃

 シルヴァーの姿が見えなくなるや否や、それまでその姿をじっと見送っていた船長は、小屋の内部の方へ振り向くと、グレーの他には私たちが一人も自分の持場にいないのを見た。私たちが船長の立腹したのを見たのは、この時が初めてであった。
「部署に就《つ》け!」と彼は呶鳴《どな》った。それから、私たちがみんなこそこそと自分の場所に戻ると、「グレー、」と船長は言った。「君の名は航海日誌に記《しる》しておく。君は海員らしく自分の義務を守ったのだ。トゥリローニーさん、あなたには驚きましたな。先生、あなたは兵役に就《つ》いておられたことがあったと思いますがな! もしフォンテノイでもそういう風に服務しておられたのでしたら、寝床に入っておられた方がよかったでしょうよ。」
 医師の組は皆銘々の銃眼のところに戻り、残りの者は頻りに予備の銃に装填したが、だれも彼も顔を赤くし、小言で耳が痛がったのは、諸君も信じられることだろう。
 船長はしばらくの間無言のままで見ていた。それから口を開いた。
「諸君、」と彼は言った。「私はシルヴァーに罵詈の一斉射撃を浴《あび》せてやりました。わざと猛烈にやつつけたのです。で、奴の言ったように、一時間とたたないうちに、我々は攻め込まれましょう。我々が人数で劣っていることは、私が申すまでもありませんが、しかし我々は隠れて戦うのです。そしてもうちょっと前なら、我々は紀律をもって戦うのだと言えたでしょう。諸君にその気さえあれば、奴らを打ち負かすことが出来るということは、私は少しも疑いません。」
 それから彼は各自の持場を巡回し、すべて異状のないのを確めた。
 小屋の二つの短い側の東側と両側とには、銃眼が二つしかなかった。ポーチのある南側にも、また二つあり、北側には、五つあった。銃は私たち七人に対してちょうど二十挺あった。薪は四つの山に――テーブルとでも言ったように――積み上げてあって、各の側の真中あたりに一つずつあり、この各のテーブルの上には、弾薬と四挺の装填した銃とがいつでも防禦者の手に取れるように置いてあった。小屋の真中には、彎刀《カトラス》が並べてあった。
「火を抛《ほう》り出しなさい。」と船長が言った。「寒くなくなったし、眼に煙《けむ》を入れてはなりませんから。」
 鉄製の火籠をそっくりトゥリローニーさんが持ち出して、燃えさしは砂の中に突っ込んで消された。
「ホーキンズは朝飯《あさめし》がまだだな。ホーキンズ、勝手に取って、自分の持場へ帰って食べなさい。」とスモレット船長が続けて言った。「さあ、早くするんだ。すまないうちにまた食べたくなるだろうよ。ハンター、全員にブランディーを配れ。」
 そして、それが配られている間に、船長は心の中で防禦の計画をすっかり立てた。
「先生、あなたは戸口を引受けて下さい。」と彼は再び言い始めた。「気をつけて、体を出さないことです。内にいて、ポーチから撃って下さい。ハンター、東側を守ってくれ、そこだ。ジョイス、君はな、西側に立つんだ。トゥリローニーさん、あなたは一番射撃の上手な人です、――あなたとグレーとは、銃眼の五つある、この長い北側を引受けて下さい。危険のあるのはそこですから。もし奴らがそこまで上って来て、こっちの窓から我々に向って撃ち込むようになっては、すこぶる面白からん形勢になりますよ。ホーキンズ、君と私とは射撃にはあまり役にたたんから、そばに立ってて弾丸籠《たまご》めをして手伝いをするとしよう。」
 船長の言ったように、寒気はもう過ぎていた。太陽は小屋の周りをぐるりと取巻いた樹立の上まで昇るとすぐ、開拓地へ強く照りつけて、靄《もや》をたちまちに飲み干してしまった。間もなく砂地は焼け、丸太小屋の丸太の樹脂《やに》が融け出した。ジャケツも上衣も脱ぎ棄て、シャツは胸をはだけ、袖を肩までもまくり上げて、私たちは、銘々が自分の持場で、暑気と不安とで熱に浮かされたようになって立っていた。
 一時間たった。
「畜生め!」と船長が言った。「こいつあどうも赤道無風帯みたいに退屈だな。グレー、口笛を吹いて風を呼んでくれ。(註六六)[#「(註六六)」は行右小書き]」
 ちょうどその瞬間に攻撃の最初の知らせがあった。
「お尋ねいたしますが、」とジョイスが言った。「だれかが見えましたら、撃つんですか?」
「そう言ったじゃないか!」と船長は叫んだ。
「有難うございます。」とジョイスはやはり穏かな慇懃な調子で答えた。
 その後しばらくは何事もなかった。が、今の話で私たちみんなは気をひきしめて、耳も眼も緊張させていた。――銃手は銃を両手で構え、船長は口を堅く結び、顔を顰《しか》めて、小屋の真中に突っ立った。
 そうして数秒たつと、突然ジョイスが銃を手早く上げて発砲した。その銃声が消え去るか去らないに、外からはそれに応じてばらばらな一斉射撃が起り、囲柵のあらゆる側から引続いて一弾また一弾と飛んで来た。数発の弾丸が丸太小屋に中《あた》ったが、一発も内へは入らなかった。そして、煙が消え去った時には、柵壁も、その周りの森も、前と同じようにひっそりとしてだれもいなかった。枝一本揺れないし、銃身がぴかりと閃いて敵のいることを示しもしなかった。
「君の狙った奴に中ったか?」と船長が尋ねた。
「いいえ。」とジョイスは答えた。「中らなかったと思います。」
「それでもほんとのことを言うのはまだしも結構。」とスモレット船長が呟いた。「ホーキンズ、この人の鉄砲に弾丸《たま》を籠めてやりなさい。先生、あなたの側には何発ほど来ましたか?」
「はっきりとわかっています。」とリヴジー先生が言った。「この側には三発発砲して来ました。ぴかりと光るのが三つ見えたのです、――二つはくっついて、――一つはずっと西の方で。」
「三発と!」と船長は繰返して言った。「それから、トゥリローニーさん、あなたの側は何発でしたか?」
 しかしこれはそう容易には答えられなかった。北からはたくさん来たのだ。――大地主さんの計算では七発、グレーの言うところによれば、八発か九発だった。東と西とからは、たった一発ずつしか発砲されなかった。だから、攻撃は北側から開始されるので、他の三方では見せかけの敵対行為に煩わされるだけだ、ということは明かだった。しかしスモレット船長は彼の手配を少しも変えなかった。彼の主張するところでは、もし謀叛人どもが柵壁を越えるのに成功すれば、どれでも護りのない銃眼を占領して、私たちをこの砦《とりで》の中で鼠のように射殺してしまうだろう、というのであった。
 それにまた、私たちには考えている余裕も大してなかった。不意に、わあっと喊声をあげながら、一群の海賊が北側の森から躍り出して、柵壁へとまっすぐに走って来た。同時に、銃火がもう一度森から開かれて、一発のライフル銃の弾丸がひゅうっと戸口から飛んで来て、医師の銃をめちゃめちゃに壊してしまった。
 突撃隊は猿のように柵の上に群った。大地主さんとグレーとは続けざまに発砲した。三人の奴が倒れた。一人は前へ倒れて囲柵の中へ落ち、二人は後へ倒れて外側に落ちた。しかしこの中で、一人は明かに負傷したよりもびっくりして倒れたのであった。なぜなら、彼はたちまち再び立ち上って、すぐに樹立の中へ姿を消してしまったから。
 二人が斃《たお》れ、一人が逃げ、四人がうまく私たちの防禦陣地の内へ足を入れた。同時に、森の蔭からは、七八人の者が、いずれも明かに数挺ずつの銃を持っているらしく、丸太小屋めがけて、中りはしないが猛烈な射撃を続けた。
 闖入《ちんにゅう》して来た四人の者は小屋に向ってまっすぐに突進し、走りながら喚き声をあげた。すると樹立の中にいる連中もわあっと喚き返して彼等を声援した。こちらからは数発撃った。しかし、射手があせっていたので、一発も効果はなかったらしい。瞬く間に、四人の海賊は丘を攀《よ》じ登って私たちに迫って来た。
 水夫長《ボースン》のジョーブ・アンダスンの頭が中央の銃眼のところににゅっと現れた。
「奴らをやっつけろ、みんな、――みんな!」と彼は雷のような声で呶鳴《どな》った。
 同時に、もう一人の海賊はハンターの銃口を掴み、それを彼の手から捩り取り、銃眼からひったくって、猛烈な一撃を喰わしたので、ハンターは可哀そうに気絶して床《ゆか》の上に倒れた。その間に、もう一人の奴は無事に小屋をぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、不意に戸口に現れ、彎刀で医師に打ってかかった。
 私たちの位置はすっかり反対になった。もうちょっと前には、私たちは掩護物の蔭から身を曝している敵を射撃していたのだが、今では、曝露されていて一撃も返すことの出来ないのは私たちの方となった。
 丸太小屋は煙で一杯になった。私たちが割合に無事だったのはそのためであった。叫び声とどたばたする音、ピストルを発射する閃光と轟音、一声の高い呻き声などが、私の耳の中に鳴り響いた。
「出るんだ、諸君、出るんだ。外で戦うんだ! 彎刀《カトラス》を取れ!」と船長が叫んだ。
 私は例の薪の山から一本の彎刀を素早くひっ掴んだ。と同時にだれかが別のをひっ掴んで、私の指の関節をさっと切ったが、私はそれをほとんど感じなかった。私は戸口を跳び出して明るい日光の中に出た。だれかがすぐ背後から来たが、だれだかわからなかった。真正面には、医師が自分の攻撃者を追って丘を下っていたが、ちょうど私の視線が先生に落ちた時に、先生は刀を打ち下し、その海賊は顔に大きな斬傷を受けて、仰向に※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》きながら倒れた。
「小屋を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れ、諸君! 小屋を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れ!」と船長が叫んだ。そして、この騒ぎの中でさえ、私は船長の声に変ったところがあるのに気がついた。
 機械的に私は命令に従い、東の方へ振り向き、彎刀を振りかざしながら、小屋の角を走り曲った。すると次の瞬間にはアンダスンとばったり顔を合せた。彼は大きな声で喚いて、短剣を頭上高く振り上げ、それが月光にきらりと光った。私は恐しいと思う暇もなかったが、今にも一撃が下されようとする途端に、たちまち一方の脇へ跳び退き、柔かい砂の中に足を踏み外して、斜面を真逆さまに転げ落ちた。
 私が最初戸口から跳び出した時には、他の謀叛人どもも、私たちをやっつけてしまおうと、すでに防柵に攀《よ》じ登っていたのである。赤い寝帽《ナイトキャップ》をかぶって、口に彎刀を啣《くわ》えた一人の男などは、もう上まで登ってしまって、片脚をこちらへ跨いでいたのだった。ところで、その間はごくしばらくだったので、私が再び立ち上った時にはすべての者が元と同じ姿勢で、赤い寝帽をかぶった奴はやはり半分跨ぎかけたままだし、もう一人の奴はやはり柵壁の上に頭だけを出していた。しかし、この僅かな間に、戦はもう終って、勝利は味方のものとなった。
 グレーが私のすぐ背後からついて来て、大男の水夫長が打ち損じたのをやり直す暇もないうちに、水夫長を斬り倒してしまったのだ。もう一人の奴は、小屋の中へ発砲しようとしていた刹那《せつな》に銃眼のところで撃たれて、今は断末魔の苦悶をやりながら横っていて、手にしているピストルからはまだ煙が出ていた。第三人目の奴は、私の見たように、先生が一撃でやっつけたのだ。防柵を攀《よ》じ登ってやって来た四人の中で、たった一人だけが殺されずに残った訳で、その男は、戦場に彎刀を残して、殺されはしまいかと恐れながら今再び柵を攀じ出ようとしているところだった。
「撃て、――小屋から撃て!」と先生が叫んだ。「おい、君ら、隠れ場へ戻るんだ。」
 しかしこの言葉は顧みられず、一発も撃たれなかったので、闖入者《ちんにゅうしゃ》の一人だけ生き残った奴は逃げおおせて、他の連中と一緒に森の中へ姿を消してしまった。三秒もたつと、倒れている五人の他には攻撃隊は影もなかった。四人は防柵の内側に、一人はその外側に倒れていた。
 先生と、グレーと、私とは、大急ぎで小屋の方へ走り戻った。生き残った奴らは間もなく自分たちの銃の置いてある処へ戻るだろうし、いつ射撃を再び始めるかも知れなかった。
 小屋の中はこの時分には幾らか煙が少くなっていた。そして私たちは勝利を得るために払った価格を一目で見て取ったのである。ハンターは自分の銃眼のそばに昏倒して横っていたし、ジョイスは自分の場所で頭を射貫かれて、二度と動けない有様になっていた。そして、小屋のちょうど真中には、大地主さんが船長を支えていて、二人とも同じくらい蒼ざめていた。
「船長が負傷した。」とトゥリローニーさんが言った。
「奴らは逃げましたか?」とスモレットさんが尋ねた。
「逃げられる奴だけはみんな、確かに。」と先生が答えた。「だが、どうしてももう逃げられない奴が五人います。」
「五人ですって!」と船長が叫んだ。「ふうむ、それぁいい。こっちの三人に対して五人やられたんなら、今じゃ我々は九人に対する四人ですな。それなら初めより歩《ぶ》がよくなった訳ですよ。あの時は我々は十九人に対する七人でした。またはそう思っていたのでしたが、あれではどうもやりきれませんからねえ。」★

 ★謀叛人は間もなく総計僅か八人になったのである。というのは、スクーナー船の船上でトゥリローニーさんに撃たれた男が、負傷したその晩に死んだからだ。しかし、このことは、もちろん、忠実な側の者には後になるまでは知られなかったのである。

第五篇 私の海の冒険

第二十二章 どうして海の冒険を始めたか

 謀叛人どもは引返しては来なかった、――森の中から発砲さえして来なかった。彼等は、船長の言うのによれば、「その日の食糧だけは貰って」しまったのである。それで私たちはその場所を自分たちだけのものに出来たし、負傷者の傷を調べたり食事をとったりする平穏な時間もあった。大地主さんと私とは、危険をも構わずに、屋外で料理をした。そして屋外にいてさえ、医師が手当をしている負傷者の高い呻き声が聞えて来るのが怖《こわ》くて、自分たちのしていることがほとんどわからないくらいであった。
 戦闘で倒れた八人の中で、たった三人だけがまだ息《いき》があり、――それは、銃眼のところで撃たれた海賊の一人と、ハンターと、スモレット船長とである。そしてこの中の初めの二人は死んでいるも同様だった。実際、謀叛人の方は、先生の外科手術を受けているうちに死んだし、ハンターは、私たちが出来るだけのことはしたが、一度も意識を恢復しなかった。彼はその日|中《じゅう》死生の間をさまよい、私の家《うち》で卒中の発作に罹ったあの老海賊のように荒い息遣いをしていた。しかし、彼の胸の骨はあの一撃で打ち砕かれていたし、頭蓋骨は倒れた時に挫けていて、その夜のうちに、何の徴候もなく声も立てずに、彼は神の許へ行ってしまった。
 船長はと言えば、彼の傷はいかにも重くはあったが、しかし危険なものではなかった。どの器官にも致命傷は負っていなかった。アンダスンの弾丸が――というのは最初に船長を射撃したのはジョーブの奴だったからであるが――肩胛骨《けんこうこつ》を折って肺に触れていたが、ひどいことはなかった。第二弾は脹脛《ふくらはぎ》の筋肉を少し切り裂いて引違えただけだった。彼はきっと恢復するが、しかしその間、これから数週間は、歩いても腕を動かしてもいけないし、出来る時には口を利くことさえよくない、と先生が言った。
 私自身の偶然に受けた指関節の切傷は、ほんの蚤の喰ったくらいのものだった。リヴジー先生はそれに膏薬《こうやく》を貼って、おまけに私の耳をひっぱった。
 食事の後に、大地主さんと先生とは船長のそばにしばらく坐って相談をした。そして思う存分にしゃべり合ってしまうと、それは正午を少し過ぎた頃であったが、先生は自分の帽子とピストルとを取り上げ、彎刀《カトラス》を佩《お》び、例の海図をポケットに入れ、銃を肩にかけて、北側の防柵を乗り越え、さっさと樹立の中へ入って行った。
 グレーと私とは、上官たちの相談しているのが聞えないようにと、丸太小屋のずっと端の方に一諸に坐っていたが、グレーは、医師が出て行ったのにまったく呆気《あっけ》に取られて、パイプを口から取り出したまま、それをまた口に啣《くわ》えるのもすっかり忘れたほどだった。
「おやおや、」と彼は言った。「一体全体、リヴジー先生は気でも違ったんかい?」
「なあに、そんなことはないさ。」と私が言った。「気が違うということになれぁ、この僕たちの中では先生が一番おしまいだよ。僕はそう思うさ。」
「じゃあ、兄弟《きょうでえ》」とグレーが言った。「先生は気が違っていねえんかも知れねえ。だが、あの人[#「あの人」に傍点]の方が気が変になっているのでねえとするとだ、いいかい、このわっし[#「わっし」に傍点]の方が変なのだな。」
「僕はこう思うよ、」と私が答えた。「先生には何か思いつきがあるんだとね。そしてもし僕の思う通りなら、先生は今ベン・ガンに会いにいらしったんだよ。」
 後で明白になったことだが、私の思った通りだった。しかし、とかくするうちに、小屋の中は息苦しいまでに暑く、防柵の内側の狭い砂地は真昼の太陽に照りつけられて燃え立っようだったので、私の頭にはまた一つの考えが浮び始めた。それは決してさほど正しい考えではなかった。私に思い浮び始めたというのは、先生を羨むことなのであった。先生は森のひいやりとする樹蔭を歩きながら、周りに鳥の啼くのを聞いたり、松の樹の心地よい香を嗅いだりしているのに、私は、暑さで融けた樹脂《やに》のくっついた衣服を着て、焙《あぶ》られるような思いをしながら坐っていて、自分の周りには血がたくさん流れているし、あたり中に死体がごろごろ横っているので、それを見ていると、この場所がつくづく厭になり、その厭だという気持はほとんどここが恐しいというくらいに強いものだった。
 私が丸太小屋を洗い落したり、それから食後の食器を洗って始末している間中、この厭だという気持と羨ましいという気持はますます強くなる一方で、とうとうしまいには、自分がパン嚢のそばにいて、その時だれも私を見ていないのを幸いに、逃げ出す用意の手始めに、上衣の両方のポケットに堅《かた》パンを一杯詰め込んだ。
 私は馬鹿だった、と言われても仕方がない。確かに私は馬鹿な大胆過ぎることをやろうとしていたのだ。しかし、自分の出来るだけの用心をしてそれをやる決心だった。それだけの堅パンがあれば、どんなことが起ったにしても、少くとも、次の日のよほど遅くまではひもじい思いをすることはなかったろう。
 次に私が身につけたものは一対のピストルであった。そして角《つの》製火薬筒と弾丸とはすでに持っていたので、武器はこれで十分だと思った。
 私が頭に描いた計画はと言えば、それはそれだけとしては悪い計画ではなかった。碇泊所を東で外海と分っている例の砂の出洲《です》を下って行って、昨夕目についたあの白い岩を見つけ出して、ベン・ガンがボートを隠しておいたのがそこかどうかをつきとめようというのだ。これは確かにやる価値のあることだと私は今も信じている。しかし私は囲柵から出ることは許されまいと思いこんでいたので、私の唯一の方法は、だれも気をつけていない時に何とも言わずに無断でこっそり抜け出ることであった。これは、計画そのものをまで悪いものにするくらいな、悪いやり方であった。しかし私はほんの子供だったし、ぜひやろうと決心していたのだ。
 さて、とうとう素晴しい機会を見つけることになった。大地主さんとグレーとは頻りに船長に繃帯を巻く手伝いをしていた。だれも見ている者がなかった。私は跳び出して柵壁を越え樹立の茂みの中へ駆け込み、私のいないことが気づかれないうちに、もう仲間の人たちの呼び声の聞えないところまで行っていた。
 これが私の二度目の愚かな行いで、小屋を護るのに健康な人をたった二人だけ残して出たのだから、一度目のあの冒険とは遥かに悪かったのだ。しかし、これも、一度目の時のように、私たちみんなを救うことの助けになったのである。
 私は島の東海岸をさしてまっすぐに進んで行った。碇泊所から決して目を留められないようにするために、出洲の外海に面した側を下って行くことにしていたからである。まだ暖かくて日が照ってはいたけれども、もう午後も大分遅くなっていた。喬木の森を縫うようにしてどんどん歩いて行くと、ずっと前の方から間断なく雷のように轟いている寄波《よせなみ》の音が聞えたばかりではなく、樹の葉のざあざあ鳴る音や大枝の擦れ合う音までが聞えて来たので、海風《うみかぜ》がいつもよりも強く海岸に吹きつけていることがわかった。間もなく、冷い風が私の体《からだ》にあたって来た。そしてさらに数歩行くと、森の縁の開けたところへ出て、見渡すと、海は水平線までも青々として日に照され、寄波は磯に沿うてのたうち白波を立てているのだった。
 私は宝島の周囲では海が静かだったのを一度も見たことがない。太陽が頭上に輝きわたり、空気はそよとも動かず、海面は波立たずに青々としていようとも、こういう大浪はいつも外海に面した海岸にはどこでも打ち寄せて、昼も夜も雷のように轟きわたっているのだった。それで私にはこの島では浪の音の聞えない処が一箇所でもあろうとはほとんど信じられない。
 私は大喜びで寄波のそばをずっと歩いて行き、とうとう、もう十分に南の方まで来たと思って、何かのこんもり茂った灌木に身を隠して、用心しながら出洲の背へ這い上った。
 私の背後は海で、前面は碇泊所であった。海風は、いつになく烈しく吹いたためにいつもよりも早く吹き尽してしまったとでもいう風に、すでに止んでいた。その後には、南南東からの弱い変り易い微風が吹いて、大きな層をなした霧を運んで来た。そして碇泊所は、骸骨《スケリトン》島の風蔭で、初めて私たちが入って来た時のように静かで鉛のようにどんよりしていた。ヒスパニオーラ号は、その滑かな一面の鏡のような水面に、檣冠から吃水線までくっきりと映っていて、海賊旗《ジョリー・ロジャー》が|斜桁上外端《ピーク》にぶら下っていた。
 その舷側には一艘の快艇《ギッグ》が横附けになっていて、シルヴァーがその艇尾座におり、――彼は私にはいつでも見分けがついた、――それから、二人の男が本船の船尾の舷牆に凭《もた》れていたが、その中の一人は赤い帽子をかぶっていた。――まさしく、数時間前に防柵に馬乗りになっているのを私が見たあの悪漢だ。見たところでは彼等はしゃべったり笑ったりしているようだった。もっとも、その距離――一マイル以上――では、無論、言っていることは私には一語も聞き取れなかったが。と、突然、実に怖しい、この世のものとは思えぬ叫び声がして、最初は私はひどくびっくりしたが、すぐフリント船長の声を思い出し、その鳥が飼主の手頸に棲《とま》っているのがその鮮かな羽毛の色でそれと見分けられるような気さえした。
 それから間もなくその端艇は本船を離れて岸に向って漕いでゆき、赤い帽子をかぶった男とその仲間の男とは船室《ケビン》の昇降口から下へ降りて行った。
 ちょうどその時に太陽は遠眼鏡《スパイグラース》山の背後に沈んで、霧がずんずん集って来るので、いよいよ本式に暗くなりかけて来た。私は、もしその夜ボートを見つけるのなら、一刻もぐずぐずしてはいられないと気がついた。
 例の白い岩は、矮林の上に十分見えてはいたが、まだ八分の一マイルばかり出洲を下ったあたりにあって、矮木の間を時々は四つん這いになって這いながらそれに近づくまでには、かなりの時間がかかった。そのごつごつした岩の面に私が手をかけた時には、ほとんど夜になっていた。岩のすぐ下手に、緑の芝地のごく小さな凹地《くぼち》があって、それが、土手と、その辺にすこぶるたくさん生えている膝くらいまでの高さのこんもりした下生《したばえ》とで隠されていた。そして、この凹《へこ》みの真中に、果して、山羊の皮で作った小さなテントがあった。ちょうどイギリスでジプシー人が持ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っているようなテントだった。
 凹地の中へ降りて、そのテントの端を上げてみると、ベン・ガンのボートがあった。――まさしく紛れもない手製のものだった。強靱な木を不器用な一方に偏った枠組にして、それに、毛の方を内側にした山羊の皮を張ったものである。これは私にさえ極めて小さいので、大きな大人を乗せて浮ぶことが出来ようとは私にはほとんど想像出来ないくらいであった。出来るだけ低く取附けた腰掛梁《こしかけばり》が一つと、舳《へさき》に足架《あしかけ》のようなものと、推進用の両櫂《ダブル・パッドル》(註六七)[#「(註六七)」は行右小書き]が一本とあった。
 私はその当時は古代のブリトン人が造ったような革舟《コラクル》(註六八)[#「(註六八)」は行右小書き]をまだ見ていなかったが、その後になって見たことがある。それで、ベン・ガンのボートを一番はっきり説明するには、かつて人間の造った最初の最もまずい革舟のようなものだと言えばいいと思う。しかし、それは革舟のあの大きな便益は確かに持っていた。すなわち、極めて軽くて持ち運び易いのである。
 さて、もうボートを見つけてしまったのだから「私も今度だけは隠れ遊びもたんのうしたろうと思われるだろう。けれども、それまでの間に、私は別の考えを思いつき、それがとてもやりたくなっていたので、たといスモレット船長にさえ逆《さから》ってでもそれを実行したろうと思う。それは、夜陰に乗じてそっと海へ乗り出し、ヒスパニオーラ号の錨索を切って、どこでも流れ着く処へ船を坐礁させようというのであった。私は、謀叛人どもが、その朝撃退されてからは、錨を揚げて海へ出て行くことを何よりも望んでいるものと、すっかりきめこんでいた。で、それを邪魔してやるのは面白いことだろうと思った。そして、あのように番人どもに一艘のボートも残しておかないのだから、それはほとんど危険なしに出来そうだと考えたのである。
 私は真暗《まっくら》になるのを待っために腰を下して坐り、堅パンをたらふく食べた。その夜は私の目論《もくろみ》には万に一つという誂え向きの夜だった。霧はその時は空をすっかり蔽うていた。昼の名残《なごり》の光がだんだん淡くなってまったく消えてしまうと、真の暗闇《くらやみ》が宝島を包んだ。そして、とうとう、私が革舟を担《かつ》いで、夕食を食べたその凹地《くぼち》から躓《つまず》きながら手探りして出た時には、その碇泊所全体で目に見える箇所はたった二つしかなかった。
 一つは、岸の大きな焚火で、そのそばに敗北した海賊どもが湿地で酒宴を開いていた。もう一つは、暗闇の中のほんの朦朧たる明りで、碇泊している船の位置を示しているものだった。船は退潮《ひきしお》につれてぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていて、――船首が今私の方へ向いており、――船中の唯一の灯は船室にあったのだ。それで、私に見えたのは、船尾の窓から流れ出る強い光線が霧に反映しているものに過ぎなかったのである。
 退潮はすでにしばらく続いていたので、私は長い一帯のじくじくした砂地を徒渉しなければならなかった。そこでは何回も踝《くるぶし》の上までもずぶずぶと沈んだ。それからやっと退《ひ》いていっている水の縁のところまで来たので、少し水の中へ入って行って、多少力を出して機敏に革舟を竜骨《キール》のところを下にして水面に浮べた。

第二十三章 退潮《ひきしお》が流れる

 この革舟《コラクル》は――それを使わない前から十分わかっていたが――私くらいの背や重さの人間にはごく安全なボートで、荒海でもふわふわと浮くし敏捷に動いた。しかし、操縦するにはこの上もなくひねくれた偏屈な舟だった。どうやってみても、いつも風下へばかり流れるし、ぐるぐるぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るのがそいつの一番得意の手だった。ベン・ガンでさえあの舟が「その癖がわかるまでは扱いにくい」奴だったということを認めている。
 無論、私にはその癖がわかっていなかった。その舟は私の行かねばならぬ方角以外のあらゆる方向へぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。大抵の時は横向になっていたので、潮《しお》がなかったなら私は到底船に着けなかったろうと思う。幸運にも、私がどう櫂を漕いでいても、潮は舟を絶えず押し流していた。そしてちょうど行手にヒスパニオーラ号があって、ほとんどそれに会い損うはずがなかった。

初めは船は私の前に何か暗闇よりももっと黒いものの汚点のようにぼうっと見えていたが、それからその円材や船体が形をなして見え始めたかと思うと、次の瞬間には、というように思われたのであるが(なぜなら、先へ進むにつれて、退潮《ひきしお》の流れがだんだん疾くなって来ていたから)、私はもう船の錨索のそばに来ていたので、すぐにそれを掴まえた。
 錨索は弓の弦《つる》のようにぴんと張っていた。――船はそれほど強く錨をひっぱっていたのだ。船体の周りでは、真黒な闇の中で、漣《さざなみ》を立てた潮流が小さな山川のように泡立ちさざめいていた。私の船用|大形ナイフ《ガリー》でぷっつりと切ってやれば、ヒスパニオーラ号はぶんぶん帆を唸らせながら潮流と共に流れ下るだろう。
 ここまではよかった。しかし次に私の思い浮べたのは、ぴんと張っている錨索を急に切るというのは、蹴る馬のような危険なものだということだった。もしヒスパニオーラ号を錨から切り離すような無鉄砲なことをしようものなら、九分九厘まで、私と革舟とはまるっきり空中へ叩き飛ばされるだろう。
 それで私はそのことはすっかり思い止《とど》まった。そして、もし幸運が再び私に特別に恩恵を与えてくれなかったなら、私は自分の計画を放棄しなければならなかったろう。けれども、南東南から吹き始めていた弱い微風は、日が暮れてからは、次第に南西風に変っていた。ちょうど私が考えこんでいる間に、一陣の風が起って、ヒスパニオーラ号に吹きつけ、船を潮流の中へ無理に押し上げた。そのために、非常に嬉しかったことには、錨索が私の手の中で弛んだのが感じられ、それを掴んでいた手がちょっとの間水の下へ入った。
 そこで私は決心して、大形ナイフを取り出し、歯でそれを開いて、索の股《こ》を一つ一つと切り、とうとう船は二つの股で揺れ動いているだけになった。それから私はじっとして、もう一度風が吹いて来て索の緊張が緩んだらこの残りの股を切断しようと待っていた。
 この間中、船室《ケビン》から高い声が聞えていた。が、実を言えば、私は他の考えにすっかり気を取られていたので、それにはほとんど耳を籍《か》さずにいた。けれども、もう他にすることがなくなったので、もっとそれに注意し始めた。
 一方の声は、以前フリントの砲手だったという舵手《コクスン》のイズレール・ハンズの声だと私にはわかった。もう一方は、もちろん、例の寝帽《ナイトキャップ》をかぶった男だった。二人とも明かに酒に酔っていたが、それでもまだ飲み続けていた。という訳は、私が耳を傾けている間にさえ、その中の一人が、酔っ払った叫び声をあげながら、船尾の窓を開《あ》けて何かを抛《ほう》り出したが、それを私は空罎《あきびん》だろうと判断したからである。しかし彼等は酩酊しているだけではなかった。猛烈に怒っていることは明かだった。罵り言葉が霰のように飛び、時々はきっと殴り合いになるに違いないと思うほどの呶鳴《どな》り声がした。けれどもその度に喧嘩《けんか》は次第にやんで、声はしばらくの間ぶつぶつと低くなり、やがてまた次の喧嘩が始まり、それも何事もなく次第にすんでゆくという風だった。
 岸の方には、岸辺の樹立を通して野営《キャムプ》の大きな焚火があかあかと燃えているのが見えた。だれかがのろい単調な古びた水夫の唄を歌っていて、一節の終り毎に声を下げて震わし、歌い手に根気がなくなって止《や》めるより他《ほか》にはまるで終りがないように思われた。私はその唄を航海中に一度ならず聞いたことがあって、こういう文句を覚えこんだ。――


「七十五人で船出をしたが、
 生き残ったはただ一人《ひとり》。

そして、これは、その朝あれほど無残にも死傷者を出した連中にとっては、幾らか陰惨にも適切過ぎる唄だと、私は思った。しかし、実際、私の見たところから考えると、こういう海賊たちは皆、彼等が船を走らせる海と同じように無神経なものだったのだ。
 やがて風が吹いて来た。スクーナー船は闇の中で斜に動いて近づいて来た。私は錨索がもう一度弛んだのを感じたので、ぐっと力をこめて残りの縄をぷっつりと切った。
 風は革舟にはほんの僅かしか作用を及ぼさなかったので、私はもう少しでヒスパニオーラ号の船首にぶっつけられようとした。同時にそのスクーナー船は後端を中心にして潮流を横切ってゆっくりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って両端が今までと反対の位置になりかけた。
 私は今にも革舟が顛覆するかと思ったので、死物狂いになって努力した。そして革舟を直接に押し離すことが出来ないとわかったので、今度は船尾の方へまっすぐに押し進んで行った。ついに私はその危険な隣人から免れた。そして最後に革舟をぐっと推進させたちょうどその時に、私の手がふと船尾の船牆を越えて水中に垂れ下っている一本の軽い索にあたった。と、即座に私はそれを掴んだ。
 どうしてそんなことをしたのか自分でもほとんどわからない。初めはただ本能だったのだ。が、一度それを手に握って、それがしっかりしているのがわかると、好奇心がむらむらっと湧き起って来て、船室の窓からちょっと覗いてやろうと決心した。
 私はその索を手繰《たぐ》って引き寄せ、もう十分近づいたと思った頃に、非常な危険を冒して自分の半身ほど立ち上り、そうして船室の天井と室内の一部とを見渡した。
 この時分には、スクーナー船とそれの小さな伴船《ともぶね》とはかなり速く水を分けてすうっと流れていた。実際、私たちはすでに野営の焚火と平行になるところまでも来ていた。船は絶えず水沫を跳ばしながら無数の漣を押し切って進み、ざあざあ大きな音を立てていた。それで、窓閾《まどしきい》の上へ眼をやるまでは、私はなぜあの番人どもが一向驚かないのか合点がゆかなかったのだ。だが、一目見ると十分だった。また、そのぐらぐらしている小舟からは、一目だけしか見られなかった。その一目で、ハンズと彼の仲間の男とが絡み合って猛烈な組打をやっており、互に相手の喉頸《のどくび》をひっ掴んでいるのが見えたのである。
 私は再び腰掛梁にどかんと腰を下した。ちょうどよい時だった。すんでのことに舟から水中へ落ちるところであった。しばらくの間は、私には、煙ったランプの下で一緒にゆらいでいたあの狂暴な真赤になった二つの顔の他には、何一つも見えなかった。それで私は眼を閉じて、もう一度眼を闇に慣らそうとした。
 例の果しのない唄もとうとう終って、野営の焚火を囲んでいる人数の減った仲間全体は、私のたびたび聞いたあの合唱をやり出していた。――


「死人箱《しびとのはこ》にゃあ十五人――
  よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!
 残りの奴は酒と悪魔が片附けた――
  よいこらさあ、それからラムが一罎と!」

 ちょうど私が、酒と悪魔とが正にその瞬間にヒスパニオーラ号の船室でどんなに活躍しているかを考えていた時に、急に革舟がぐっと傾いたのに驚かされた。同時にそれはぐらぐらとして、それから針路を変えたように思われた。速力はその間に異様に増していた。
 私は直ちに眼を開《あ》けた。周り中には一面に漣があり、鋭いざあざあいう音を立てて泡立ち、微かに燐光を発していた。私の舟は依然としてヒスパニオーラ号の船跡《ふなあと》の数ヤードのところをぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていたが、そのヒスパニオーラ号までも針路がよろよろしているようであったし、その円材が夜の闇の中で少し揺れ動いているのが見えた。いや、もっと見つめていると、その船もやはり南の方へ方向を転じているのが確かにわかった。
 私は肩越しに振り返って見た。すると心臓がどきんとして肋骨にぶつかったような気がした。自分の真後《まうしろ》に、野営の焚火の光があったのである。潮流は直角に曲っていて、それと共に高いスクーナー船と小さな踊っているような革舟とをぐるりと押し流して来たのだ。だんだん速くなり、だんだん烈しく泡立ち、だんだん高い音を立てながら、潮は瀬戸を通って外海へとぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら進んでゆく。
 突然、私の前にあるスクーナー船は激しく針路を逸して、多分二十度も曲った。するとほとんど同時に船中で叫び声が起り、続いて別の叫び声がした。船室昇降梯子をどかどかと歩く足音が聞えた。それで、あの二人の酔漢もとうとう喧嘩《けんか》を中止して自分たちが災難に遭っていることに気がついたのだということがわかった。
 私はそのみすぼらしい小舟の底にぺったりと寝そべって、自分の魂を神にひたすらに委ねていた。海峡の終るところで、私たちはきっと荒波の砕けている沙洲にぶっつかるに違いなく、そこで私のすべての心労も迅速に終ってしまうだろうと思った。そして私は死ぬことは多分堪えられたろうが、近づいて来る運命を傍観しているのは堪えられなかった。
 絶えず大浪にあちこちと押しやられ、時々は飛び散る飛沫《しぶき》に濡れ、今度水の中に突き込まれたら死ぬだろうと絶間なく思いながら、そうして私は何時間も横っていたに違いない。次第に疲れが増して来た。こういう恐怖の中でさえ、私の心は痺《しび》れたようになり、折々は無感覚になった。遂にはとうとう眠ってしまい、波に揺られる革舟の中で、私は横になって故郷と懐しい「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」とを夢にみた。

第二十四章 革舟《コラクル》の巡航

 目が覚めた時はもうすっかり夜が明け放れていて、私は宝島の南西端のところに漂うているのだった。太陽は昇っていたが、大きな山容の遠眼鏡《スパイグラース》山の背後にあって私にはまだ見えなかった。その山はこっち側では恐しい断崖をなしてほとんど海へ下っていた。
 ホールボーリン岬と後檣《ミズンマスト》山とが私のすぐ近くにあった。山は禿山で暗い色をしており、岬は四五十フィートの高さの断崖になっていて、その縁《へり》には落ちて来た岩石がたくさんごろごろしていた。私は海の方へ四分の一マイルも出ていないので、漕ぎ寄せて上陸しようというのが最初に考えたことだった。
 その考えは間もなく断念した。ごろごろしている岩石の間には砕け波が噴き上って轟いていた。高い反響が次から次へと起り、ひどい飛沫が飛び散っていた。それで、私は、近よったところで、荒磯に打ちつけられて死ぬか、でなければ、突き出た険岩を攀《よ》じ登ろうとして徒らに体力を使い尽すだけだとわかった。
 それだけではなかった。巨大なぬらぬらした怪物――いわば、非常な大きさの蝸牛《かたつむり》の柔かいようなもの――が、岩石の平たくなった上を一緒に這ったり、ざぶんと高い水音を立てて海の中へ落ち込んだりしているのが、見えたのである。そういうものが五六十匹も群っていて、それの吠える声は岩々にこだましていた。
 私はその後になって、それが海驢《あしか》というものであり、全然害をしないものであることを知った。
 しかし、磯が険難で寄波が高く荒立っている上に、この動物の恰好《かっこう》を見ては、私がその上陸所が厭になるのには十二分であった。そういう危難に向ふくらいなら、むしろ海上で餓死する方がよいと思った。
 とかくするうちに、もっとよい機会と思われるものが前に現れた。ホールボーリン岬の北に、陸がずっと続いていて、潮が低いので、長く延びた黄ろい砂地を露《あら》わしていた。その北には、もう一つ、別の岬――例の海図には|森の岬《ケープ・オヴ・ザ・ウッヅ》と記されているもの――があって、高い緑の松の樹で蔽われ、その樹が海の縁《へり》までも生えていた。
 私は、シルヴァーが宝島の西海岸全体に沿うて北の方へと流れている潮流があると言ったのを思い出した。そして、自分の位置から考えて、自分がすでにその潮流に乗っていると知ったので、ホールボーリン岬を後にして、それよりは都合がよさそうに見える森の岬に上陸を企てるために体力を使わずに貯えておくことにしよう、と考えたのである。
 海には大きな滑《なめら》かなうねりがあった。風は南からむらなくそよそよと吹いていたので、風と潮流とには喰違いがなく、大浪はぐうっと高まってはまた砕けずに下って行った。
 もしそうでなかったなら、私はとっくに命を失っていたに違いない。ところが、そういう訳だったから、私の小さな軽いボートが易々《やすやす》と安全に波に乗ってゆく有様は驚くべきものだった。私が舟の底にじっと横っていて、ただ片眼だけを舟縁の上へやっていると、幾度も、大きな青い波の頂上が私のすぐ上にぐうっと高く上るのが見えた。それでも革舟《コラクル》はただちょっと跳ね上って、弾機《ばね》仕掛のように踊り、鳥のように軽々《かるがる》と向側の波窪へ降りてゆくのであった。
 少したつと私はずいぶん大胆になり出して、自分の櫂を漕ぐ手並を試《ため》してみようと起き上った。しかし、重さの按排が少し変っただけでも、革舟の動作には甚しい変化が生ずるのだった。そして私が動くか動かないに、ボートは、今までの穏かな踊るような運動は直ちにやめて、眩暈《めまい》がするほどの嶮《けわ》しい水の斜面をまっすぐに走り下って、次の波の横腹へぱっと水煙《みづけむり》をあげながら舳《へさき》を深く突っ込んだ。
 私はびしょ濡れになって度胆を抜かれ、すぐさま元の位置に返った。すると革舟は再び落着いたようで、私を前のようにふわふわと大浪の間を運んでくれた。この舟には手出しをしてはならぬということは明かだった。で、自分にはこの舟の針路を左右することは毫も出来ないのだから、この分では、私には陸へ着けるどんな望みが残されているだろうか?
 私は非常に怖《こわ》くなって来たが、それでも心を乱さずにいた。先ず第一に、十分に用心して体を動かしながら、自分の航海帽で少しずつ革舟の淦《あか》(註六九)[#「(註六九)」は行右小書き]をかい出した。それから、もう一度眼を舟縁の上へやりながら、どうしてこの舟がこんなに静かに大狼を滑り抜けてゆくのかということを研究しにかかった。
 すると、どの波も、海岸や船の甲板から見えるような、大きな、滑かな、つやつやした山ではなくて、まさしく、陸上の山脈のように嶺や平坦な処や谷間がたくさんあるものだ、ということがわかった。革舟は、なすがままにさせておくと、くるくる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら、その低い処をいわば縫うようにしてゆき、波の嶮《けわ》しい斜面や高いすぐ崩れ落ちる頂上を避けてゆくのであった。
「ははん、なあるほど、」と私は思った。「僕がこうして寝ていて、釣合を失わずにいなければならないことは確かだ。しかしまた、櫂を舟縁に置いて、時々平らな処で陸の方へ一推し二推しやれることも確かだぞ。」こう思うが早いか実行した。私は両肱《りょうひじ》で体を支えて実に苦しい姿勢をしながら寝て、折々一二本弱いのに漕いでは舳《へさき》を岸の方へ向けた。
 これはすこぶるくたびれもするし、まだるっこくもある仕事ではあったが、それでも私は確かに進んでいるのが目に見えた。そして、森の岬に近づいて来た時には、その岬にはきっと着き損うに違いないことはわかったけれども、それでも数百ヤード東の方へ来ていた。実際、私は岸に迫っていた。涼しげな緑の梢が一緒に風に揺れ動いているのが見え、次の岬には間違いなく着けるにきまっていると思った。
 その時に、非常に困ったことには、私は咽喉《のど》の渇きに苦しめられかけて来た。太陽が頭上からかんかん照りつける、それを波が千倍にも反射する、海水が私にかかって乾き、唇までも塩で硬《こわ》ばる、こういうことが一緒になって咽喉は焼けつき頭がずきずき痛み出した。で、そんなに間近に樹立が見えると、私はそこが恋しくてたまらなかった。しかし潮流は間もなく岬を通り越して私を流して行った。そして次の海の視界が展開した時に、私は或るものを見て、それが私の考えの性質を変えたのであった。
 ちょうど私の正面に、半マイルと離れていないところに、私は帆を揚げて走っているヒスパニオーラ号を見たのだ。もちろん、私は捕虜にされるものと思った。けれども、水のないのにひどく苦しめられていたので、そう考えると嬉しいのか悲しいのかほとんどわからなかった。そして、それがどちらとも判断がつかないうちに、私はすっかり驚いて、ただ眼を丸くして訝るより他にしようがなかった。
 ヒスパニオーラ号は大檣帆《メーンスル》と二つの斜檣帆《ジブ》とを張っていて、その美しい真白な帆布は雪か銀のように太陽に輝いていた。私が最初にその船を見た時には、すべての帆が風を受けて膨らんでいて、北西へ針路を向けていた。それで私は船に乗っている人たちは島をぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って碇泊所へ戻って行こうとしているのだろうと思った。ところが、やがて船がだんだんと西の方へ転回しかけたので、彼等が私を認めて、追っかけて来ようと船首を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しているのだと考えた。しかし、とうとう、船は真正面に風上へ向き、すっかり逆帆を喰って、帆を風に震わせながら、しばらくはそこに立往生した。
「へまな奴らだな。」と私は言った。「あいつらはまだやっぱり梟のように酔っ払っているのに違いない。そして、スモレット船長ならどんなに彼等を叱りとばして追い使ったろうと思った。
 とかくするうちに、スクーナー船は次第に風下へ向い、再び別の針路を執って、一分くらいの間疾く帆走したかと思うと、もう一度ちょうど風上に向って停った。こういうことを再三再四繰返した。あちこちへ、上ったり下ったり、北へ、南へ、東へ、西へと、ヒスパニオーラ号は急に突き進み、その度毎に初めにやったように止って、帆布をものうげにぱたぱたさせるのだった。だれも舵を扱っていないのだということが私にはもう明かになって来た。そして、もしそうとすれば、あの連中はどこにいるのだろう? 彼等は正体もなく酔いつぶれているか、それとも船を見棄ててしまったのだろうから、多分、もし私が船に乗り込めるならば、船を船長に返せるかも知れない、と私は考えた。
 潮流は革舟とスクーナー船とを同じ速度で南の方へ(註七〇)[#「(註七〇)」は行右小書き]押し流していた。スクーナー船の方の帆走はずいぶん気儘で間歇的で、ずいぶん永い間動きが取れなくなってうろうろしていることがあったので、潮流とは遅くはならないにしても、確かに少しも速くはなかった。もし私が起き上って櫂を漕ぎさえしたなら、きっとその船に追いつけると思った。この計画はちょっと冒険のようなところがあって私の興味を湧き起し、船首の昇降梯子のそばに水樽があることを思うと私の勇気は二倍になった。
 起き上ると、ほとんどすぐにまたぱっと水煙のお見舞を受けた。が今度は自分の目的をやり通すことにした。そして出来るだけの力を揮い用心をして、舵を操られていないヒスパニオーラ号を追って漕ぎ出した。一度ひどく波をかぶったので、心臓を鳥のようにどきどきさせながら、漕ぐのを止めて淦《あか》をかい出さねばならなかった。けれども次第に慣れて来て、ただ時々|舳《へさき》をぶっつけたり顔に白波をぶっかけられたりするだけで、波の間を革舟を進めて行った。
 私は今や急速にスクーナー船に近づいていた。舵柄がばたんばたんと動く度にそれについている真鍮がぴかぴか光るのまでが見えた。それでも一人の姿も甲板には見えなかった。船は見棄てられたのだと想像しない訳にはゆかなかった。もしそうでなければ、あの連中は下で酔って寝ているのだ。それなら多分私は彼等を当木《あてぎ》で塞いでしまって、船を自分の思うままに出来るかも知れない。
 しばらくの間は船は私には何より困ることをしていた。――じっとしていることだ。船は正南へ向い、無論、始終針路がぐらぐらした。風下へ向く度毎に帆は幾分膨らみ、そうするとすぐにまた風の方へ向くのだ。これが私には何より困ることだと言う訳は、船は、帆布が大砲のようにばたばた鳴り、滑車《せみ》が甲板の上で転《ころ》がってがらがら音を立て、そういうどうにも出来ないような様子に見えながら、それでもなお、潮流の速さのためだけではなくて、当然にも大きいものである風圧を全部受けるために、やはり私から向うへ走り続けていたからである。
 しかし、ついに、いよいよ機会が来た。風がしばらくの間落ちてごく弱くなり、潮流が次第にヒスパニオーラ号を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、船は中央を舳《へさき》にしてゆっくりと回転し、ついには船尾を私に向けた。船室の窓はやはり開《あ》けっ放しになっており、テーブルの上に懸っているランプは昼になってもまだやはりともれていた。大檣帆は旌旗のようにだらりと垂れた。潮流がなかったなら船はちっとも動かなかったのだ。
 それまでしばらくの間は私は船と遠ざかってさえいた。が、こうなって来ると、努力を二倍にして、もう一度船に追いつこうとし始めた。
 もう船から百ヤードとないところまで来た時に、突然また風が吹いて来た。船は左舷に風を受け、身を屈めて燕のようにすっと波を掠めながら再び動き出した。
 私は最初は絶望しかけたが、すぐにそれは喜びに変った。船は※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って私に舷側《ふなばた》を向け、――なおも※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、私との距離を半分、それから三分の二、それから四分の三と縮めて来た。竜骨前端部の下で波が白く泡立っているのが見えた。革舟の中の私の低い位置からは、船は非常に高いものに見えた。
 それから、不意に、私はわかって来た。それまでは考える余裕が――身を動かして自分を救う余裕がほとんどなかったのだ。私が一つのうねり波の頂にいる時に、スクーナー船が次のうねり波を越えて下って来た。第一斜檣《ボースプリット》が私の頭上にあった。私は跳び立って、革舟を水の下へ強く蹴って飛び上った。片手で第二斜檣《ジブブーム》を掴み、片足は支索と転桁索との間にひっかけた。そしてそこにしがみついて喘いでいる時に、鈍い物音がして、スクーナー船が革舟にぶっつかってそれを打ち壊して、私が戻る処もなしにヒスパニオーラ号に残されたのだということがわかった。

第二十五章 海賊旗《ジョリー・ロジャー》を引下す

 私が第一斜檣《ボースプリット》の上にのっかるかのっからないに、第三斜檣帆《フライイング・ジブ》が大砲のような音を立てて煽られ、今までと反対の舷に風を受けることになった。そうして反対になったためにスクーナー船は竜骨《キール》のところまでも震えた。だが、他の帆はやはり風を受けて膨らんでいたので、次の瞬間にはその斜檣帆《ジブ》は再び煽り返されて、だらりとぶら下った。
 このために私はもう少しのことで海の中へはね飛ばされるところだった。それで、もう一刻もぐずぐずせずに、第一斜檣を這ってゆき、甲板の上へ頭を先にして転がり下りた。
 私は最上前甲板の風下の側にいたので、やはり風を受けて膨らんでいる大檣帆《メーンスル》のために、後甲板の或る部分は私には見えなかった。だれ一人も見当らなかった。あの謀叛以来一度も洗ったことのない甲板の板には、たくさんの足跡がついていた。そして、頸のところを叩き割られた空罎《あきびん》が一本、排水孔の中を生きているもののようにあちこちと転がっていた。
 突然ヒスパニオーラ号は真正面に風上に向った。私の背後の斜檣帆はばたばたと大きな音を立てた。舵はどんとぶっつかった。船全体が気持の悪いほど動き震え、同時に大檣帆の[#「大檣帆の」は底本では「大縦帆の」]下桁が船の内側に揺れ動き、帆が滑車のところで唸って、私に風下の後甲板が見えるようにした。
 二人の番人は、なるほど、そこにいた。赤帽の男は、木挺の[#「木挺の」はママ]ように硬ばって、仰向に倒れ、両腕を十字架のように伸ばして、開いた唇の間から歯を見せていた。イズレール・ハンズは、舷牆に倚りかかっていて、頤を胸につけ、両手は前へ投げて甲板に投げ出し、顔は、日に焦《や》けた表皮の下が、脂蝋燭のように蒼白かった。
 しばらくの間は船は悍馬のように跳びはねたり横へ動いたりし、帆は今左舷に風を受けて膨らんだかと思うと、次には右舷からの風で膨らみ、帆の下桁があちこちと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るので、そのために檣《マスト》がぎいぎいと高い音を立てた。それにまた、時々は、舷牆を越えてぱあっと水煙が飛んで来たり、船首をうねり波に猛烈にぶっつけたりした。今はもう海の底へ沈んでしまった、あの手製の一方に偏った革舟《コラクル》よりも、この艤装した大きな船の方がずっとひどく揺れるのだった。
 スクーナー船が跳び上る度に、赤帽の男はあちこちと滑り動いた。しかし、――見ていて物凄いことには、――彼の姿勢も、歯を露わしたにやにや笑いの表情も、そういう手荒い取扱いを受けても、少しも変らないのであった。また、船が跳び上る度に、ハンズの方はだんだんに一層|体《からだ》を沈めて甲板へずり下ってゆくようで、両脚は絶えず前へ滑り出し、体全体が船尾の方へ傾いてゆくので、その顔は、だんだんと私に見えないようになり、とうとう、片耳と、一方の頬髯の擦り切れた捲毛だけしか、見えなくなってしまった。
 同時に、私は、二人ともの周りに、甲板の板にどす黒い血のはねかった痕を認めたので、彼等が酔った怒りにまかせて互に殺し合ったのに違いないと思いかけて来た。
 私がこうして眺めて不審に思っている間に、静かな瞬間、船がじっとしている時に、イズレール・ハンズは少し向き直って、低い呻き声を出しながら、身を捩って私の最初に見た時の位置に戻った。その呻き声は苦痛と死ぬほどの衰弱とを語っていて、呻く時の顎をだらりと開けた様子は私の心に哀れを催させた。しかし、林檎樽で窃《ぬす》み聞きした話を思い出すと、憐みの情はすっかりなくなった。
 私は船尾の方へ歩いて行って、大檣《メーンマスト》のところまで行った。
「来たよ、ハンズさん。」と私は皮肉に言った。
 彼は大儀そうに眼玉を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。が、余りにひどく弱っていて驚きを言い現すことも出来なかった。出来たのは一|言《こと》「ブランディーを。」と言うことだけだった。
 これはもうぐずぐずしていてはならぬと私は思った。で、また甲板を横切って突然傾いた帆の下桁をくぐり抜けながら、船尾へ走って行って、船室昇降口の階段を下って船室《ケビン》へ入った。
 そこはほとんど想像も出来ないほどの乱雑な有様になっていた。錠を下した箇処はどこも皆、海図を捜すのに打ち壊して開けてあった。床《ゆか》には泥がべたべたついていた。悪党どもが野営《キャムプ》の周りの沼地を捗って来た後に、ここに坐って酒を飲んだり相談をしたりしたのだ。一面に真白に塗って、鉱金《めつき》で玉縁にしてある隔壁には、きたない手の痕がついていた。何ダースというたくさんの空罎《あきびん》が、船の揺れ動くのにつれて、隅で一緒にがちゃがちゃ音を立てていた。先生の医書が一冊テーブルの上に開いてあって、その紙が半分ほども引きちぎってあった。煙草の火をつけるのに使ったのだろうと思う。こういう有様の真中に、ランプはまだやはり薄暗い焦茶色のくすぼった光を投げていた。
 私は穴蔵へ入って行った。樽はみんななくなっていたし、罎《びん》の方は実に驚くほど多数が飲み干したり投げ棄てたりしてあった。確かに、謀叛が始まって以来、彼等は一人でもかつて素面《しらふ》でいられるはずがなかったのだ。
 私はそこここと捜し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、ブランディーが幾らか残っている罎を一本見つけたので、ハンズにやることにした。それから自分には、堅パンと、漬けた果物を幾つかと、乾葡萄の大きな房を一つと、チーズを一片見つけ出した。これだけのものを持って甲板へ出て行き、自分の分は舵手《コクスン》の手には決して届かない、舵の頭の蔭のところに置き、前部の水樽のところまで行って、水をぐうっと十分に飲んで、それから、ようやく、ハンズにブランディーをやった。
 彼はその罎を口から離すまでには一ジル(註七一)[#「(註七一)」は行右小書き]は飲んだに違いない。
「ああ、うまかったな、畜生。こいつがほしかったんだ!」と彼が言った。
 私はすでに自分の場所に腰を下して食べ始めていた。
「大分《だいぶ》怪我《けが》したかい?」と私が尋ねた。
 彼はぶうぶう言い出した。というよりも、むしろ、吠えたと言った方がいいかも知れない。
「もしあの医者が船にいたら、己《おれ》ぁすぐに癒ったろうがな。だが己にゃあ運がねえんだ、この通りにな。が、これぁ己だけのことさ。そこにいる間抜めはすっかりくたばってやがるぜ、其奴《そやつ》は。」と彼は言い足して、赤い帽子をかぶった男を指した。「奴はどのみち船乗じゃなかったんだ。ところでお前《めえ》はどっから来たんだい?」
「うむ、僕はこの船を占領しに来たんだよ、ハンズ君。だから、追って何とかお達しがあるまでは、君は僕を船長と思っていてくれ給え。」と私は言った。
 彼はずいぶん苦々《にがにが》しい顔をして私を見たが、何とも言わなかった。幾分か顔の色がよくなっては来たが、まだやはり体の工合がひどく悪いように見え、船ががたんがたん動く度に、やはり向うへのめり、ずり下っていた。
「それはそうと、ハンズ君、」と私は言い続けた。「僕はあんな旗を揚げておくことは出来ないよ。だから、失礼だけれど、あれを引下すぜ。あんなものよりはない方がましだ。」
 そして、私は、再び帆の下桁をくぐり抜けながら、旗索《はたづな》のところへ走って行き、彼等のいまいましい黒い旗を下して、それを海の中へ抛《ほう》り投げた。
「国王陛下万歳!」と私は帽子を打ち振りながら言った。「そしてシルヴァー船長はもうおはらい箱だ!」
 ハンズは、その間もずっと頤を胸につけながら、鋭くずるそうに私を見つめていた。
「己の考《かんげ》えじゃあ、」と彼はとうとう言い出した。――「己の考えじゃあな、ホーキンズ船長《せんちょ》、お前だって幾らか岸に着きてえんだろ、なあ。で、相談をするとしようじゃねえか。」
「ああ、よかろう、喜んで相談に乗るよ、ハンズ君。言ってみ給え。」と私は言った。そしてまたむしゃむしゃと食べ出した。
「この男はな、」と彼は、死骸を力なく頤で示しながら、言い始めた。――「オブライエンって名で、――げびたアイルランド人さ、――この男と己とが、船を戻すつもりで、船に帆を張ったのさ。ところがだ、奴はもう死んじゃった、奴はよ、――淦《あか》みてえに死んじゃった。で、だれが一|体《てえ》この船を走らせるかね。己の考えるとこじゃ、己がお前に教えてやらなきゃあ、お前はそんなことの出来る人間じゃねえ。そこでだ、いいかな、おい、お前は己に食物だの飲物だの、それから傷のとこを縛る古い肩巾《スカーフ》かハンケチだのを持って来てくれるんだ。いいかい。そうすりゃ、己はお前に船の動かし方を教えてやろう。それなら何もかも五分五分だろうと思うがな。」
「僕も一つ言いたいことがあるんだがね。」と私が言った。「僕はキッド船長の碇泊所へは戻らない。北浦へ入って行って、あすこで船をそうっと浜に乗り上げるつもりなんだ。」
「なるほど、そりゃそうだろ。」と彼は叫んだ。「なあに、己だってそんなにひでえ阿呆でもねえ、つまりはな。わかってるよ。わからねえものかい? 己は自分の賽を投げてみてだ、負けたんさ。そして勝ってるのはお前なんだ。北浦だと? まあ、仕方がねえや。ねえとも! お前の手伝いをしてこの船を仕置渡止場まででも※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してやろうよ、畜生! してやるとも。」
 さて、この言葉には幾分条埋の通ったところがあるように、私には思われた。それで、私たちは即座に相談を纏めた。三分もたつうちに、私はヒスパニオーラ号を追風で易々と宝島の岸に沿うて走らせていて、心の中には、正午前に北の岬を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、さらに高潮になる前に北浦まで間切って(註七二)[#「(註七二)」は行右小書き]行き、高潮になった時に船を安全に浜に乗り上げて、潮が退《ひ》いて上陸出来るようになるまで待とう、という楽しい希望を抱いていた。
 それから私は舵柄を括りつけて、下へ降り、自分の衣類箱のところへ行って、母に貰った柔かい絹のハンケチを取って来た。そのハンケチで、私も手伝って、ハンズは腿に受けた血の出ている大きな突傷《つききず》を繃帯し、そして、少しばかり食べ、ブランディーをまた一口二口飲むと、彼は目に見えて元気づき、前よりはまっすぐにも坐り、大きな声ではっきりも口を利き、すべての点で別人になったように見えた。
 風は素晴しく私たちに役立ってくれた。船は追風を受けて鳥のようにすっすっと走り、島の岸は閃くように過ぎ去り、眺望は一分毎に変って行った。間もなく高台を通り過ぎ、矮生の松が疎《まばら》にちらほらと生えている低い砂地のそばをどんどん進み、やがてそこもまた通り越して、島の北の端をなしている岩山の角を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってしまった。
 私は自分の新しい司令者たる地位に大いに得意だったし、日の照っている晴れわたった天候とこのように刻々に違ってゆく海岸の展望とで愉快だった。今はもう水もうまい食物もたっぷりあるし、柵壁を脱走したことでこれまでひどく私を責めていた良心も、自分がこの大きな獲物を手に入れたために静められた。だから、甲板のあちこちと私の後を追うて嘲弄するように見ている舵手の眼と、彼の顔に絶えず浮んでいる変な微笑さえなかったなら、私にはその上望むものは何一つなかったろうと思う。その微笑は、何か苦痛と衰弱とのようなものを含む微笑――窶《やつ》れた老人の微笑だった。が、その他に、私の働いているのを狡猾にじろじろじろじろと見守っている彼の表情には、ちょっぴり嘲弄のようなものが、どこか陰険なところが、あったのだ。

第二十六章 イズレール・ハンズ

 風は、望み通りに吹いてくれて、今度は西風に変った。それで私たちはそれだけ易々と島の北東の角(註七三)[#「(註七三)」は行右小書き]から北浦の入口まで帆走することが出来た。ただ、投錨することは出来ないし、潮がもっと十分に満ちて来るまでは船を浜に乗り上げる訳にはゆかなかったので、私たちは無聊に苦しんだ。舵手《コクスン》は停船の仕方を私に教えてくれた。私はずいぶん何度もやってみてようやくうまくいった。それから二人とも黙ったまま坐って、また食事をした。
「船長《せんちょ》、」と彼はやがて、前と同じあの不愉快な微笑を浮べながら、言い出した。「ここに己の船仲間のオブライエンがいるがねえ。お前こいつを船から抛《ほう》り出してくれちゃどうだい。己は大概《てえげえ》はものを気にする男じゃねえし、こいつをばらしたことなんぞ何とも思ってやしねえ。だが、こうしておいても別に飾りにもなるめえと思うが、え、どうだね?」
「僕はそんなに力がないし、それにそういう仕事は嫌いだ。その男がそこにころがっていたって、僕ぁ構わないよ。」と私が言った。
「この船は縁起の悪い船さ、――このヒスパニオーラ号はね、ジム。」と彼は眼をしばたたきながら話し続けた。「このヒスパニオーラ号じゃずいぶたくさん人が殺されたよ、――お前や己がブリストルで乗り込んでからこっち、可哀《かええ》そうに死んじゃった水夫はとてもたくさんなものだ。己ぁこんな不運な目にゃ遭ったことがねえ。ねえとも。それに、このオブライエンの奴もいるが、――こいつも死んでる。そうだろな? ところでと、己ぁ学問がねえが、お前は読み書きも勘定も出来る子だ。で、ぶちまけて言うが、お前は、死んだ人間ってものは死んでそれっきりのものと思うか、それとも、また生き返《けえ》って来るものと思うかね?」
「人間の体は殺すことが出来るがね、ハンズ君、魂は殺せないものだよ。君だってそんなことぐらいはちゃんと知ってるはずだ。」と私が答えた。「そこにいるオブライエンは今じゃ別の世界にいるんだ。そしてそこから多分僕たちを見ているだろうよ。」
「ああ!」と彼は言った。「やれやれ、そいつぁいけねえ、――そいじゃ人を殺すなんて暇潰しみてえなもんだなあ。だが、己のこれまでの経験じゃあ、魂なんてものは大《てえ》したもんじゃねえ。己は魂って奴を相手に一か八かやってみてやろうよ、ジム。ところで、お前はもう存分にしゃべったんだから、一つ頼みがあるんだ。お前、あの船室《ケビン》へ降りて行って、己にあれを――ええと、あのう――えい、畜生! 名が思い出せねえぞ」うん、そうそう、お前、葡萄酒を一罎《ひとびん》、持って来てくんねえか、ジム。このブランディーは己にゃ強過ぎて頭へ来るんでね。」
 ところで、舵手のこうして口籠ったのはちょっと不自然に思われた。それに、ブランディーよりも葡萄酒の方がよいと言うのに至っては、私は全然ほんとうにしなかった。話全体が口実なのだ。彼は私に甲板から去らせたいのだ。――それだけは明かだった。けれども、どういう目的でそうするのか、私にはどうしても想像がつかなかった。彼の眼は決して私の眼と会わなかった。
 その眼は、空を見上げたり、死んでいるオブライエンをちらりと見たり、あちこちと、上へ下へと、絶えずきょろきょろしていた。その間も始終、彼は微笑し、ひどく気が咎めて極《きま》りの悪いような様子で舌をべろべろ出しているので、彼が何かを企《たく》らんでいるのだということは小さな子供にでもわかったろう。しかし、私は、自分の有利な点がどこにあるかもわかっていたし、こんなひどく愚鈍な奴には自分の疑念を最後まで容易に隠しておくことが出来るとわかっていたので、すぐに返事をしてやった。
「葡萄酒かい?」と私は言った。「その方がずっといいとも。白がいいか、それとも赤がいいかれ?」
「そうさな、己にゃどっちだって同じだよ、兄弟《きょうでえ》。」と彼は答えた。「強くって、たっぷりありせえすりゃ、そんなこたぁ構うもんか。」
「よしよし。」と私は答えた。「ポート葡萄酒を持って来てあげよう、ハンズ君。だが、探さなくちゃならんだろうよ。」
 そう言って、私は出来るだけ大きな音を立てて船室昇降階段を駆け降りると、靴を脱いで、円材の出ている廊下をそっと走って行き、|前甲板下水夫部屋《フォークスル》の梯子を上って、船首の昇降口から頭をひょいと出した。私がそんなところにいようとは彼が思いもよらぬということは私にはわかっていた。しかしそれでも私は出来る限りの用心をした。すると、確かに、私の最悪の疑いがまったくほんとうであるということがわかったのであった。
 彼は両手と両膝とで自分のいた場所から体を上げていた。そして、動く度に脚がかなりぴりぴり痛むようではあったが、――呻き声を抑え隠すのが私に聞き取れたから、――それでも、かなりの速さで甲板を横切って身を曳きずって行った。半|分《ぶん》ほどのうちに彼は左舷の排水孔のところへ行って、一巻きの綱の中から、柄までも血塗れになっている長いナイフ、というよりもむしろ短剣を取り出した。下顎を突き出しながら、ちょっとの間それを見て、切先《きっさき》を手にあてて試《ため》してから、ジャケツの懐の中へ急いで隠すと、また元の場所へ戻って舷牆に凭《もた》れかかった。
 これだけわかれば十分だった。イズレールは動き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ることが出来る。彼は今では武器を持っている。で、もし私を遠ざけるために彼がさっきあれほど骨折ったのなら、私を殺すつもりなのだということは明かだった。その後に彼がどうするつもりなのかということは、――北浦からあの湿地の間にある野営《キャムプ》までまっすぐに島を横切って這って行こうとするつもりなのか、それとも、大砲を発射して、自分の方の仲間の者が先に助けに来てくれるのを頼みにするつもりなのかということは、無論私にはわからないことだったが。
 しかしながら、私は彼を一つの点で信頼することが出来ると確信した。というのは、その点で私たちの利害が一致していたからだ。それはこのスクーナー船の処置ということである。私たちは二人とも、船をどこかの避難所へ十分安全に乗り上げさせて、時機の来た時には、なるべく骨も折らず危険もなしに再び海へ出られるようにしておきたい、と望んでいるのだ。それで、それをやってしまうまでは自分の命は確かに助けておかれるだろうと私は考えた。
 このように心の中でいろいろと考えている間も、私は体を遊ばせてはいなかった。そっと船室へ戻って、また靴を穿き、手当り次第に葡萄酒の罎《びん》を一本掴むと、それを申訳の理由に持って、再び甲板に出て行った。
 ハンズは私が降りて行った時のようにしていて、すっかり体を丸めて、光にも堪えられないほど衰弱しているとでもいった風に眼瞼《まぶた》を伏せていた。しかし、私が来ると顔を上げ、よく慣れた手付で罎の頸を叩き折り、「運がいいように!」という彼の気に入りの乾杯の言葉を言いながら、ぐうっと飲んだ。それからしばらくはじっとしていたが、今度は噛煙草を一本ひっぱり出して、私に一片切ってくれと頼んだ。
「そいつを一|片《きれ》切ってくんねえ。己はナイフを持っていねえから。よし持ってたって、切るだけの力もねえ。ああ、ジム、ジム、己ぁやり損ったようだよ! 一片切ってくれ。それがどうやらこの世の噛み納《おさ》めらしいよ、兄弟。己ぁもう墓場へ行くんだ、きっとな。」
「よし、」と私が言った。「煙草を切ってあげよう。だが、もし僕が君で、自分がそんなに工合が悪いと思ったら、キリスト教徒らしくお祈りをするがねえ。」
「なぜだい?」と彼は言った。「え、なぜだか言ってくれよ。」
「なぜだって?」と私は叫んだ。「君はつい今しがた死人のことを僕に尋ねたじゃないか。君は自分の信用を破ったんだ。君は罪を犯したり偽《いつわ》りを言ったり人の血を流したりして暮して来たんだ。今だって君の殺した人間が君の足許にころがっている。それだのに君はなぜって訊《き》くんだね! 神様のお慈悲をお願いするためだよ、ハンズ君、そのためさ。」
 私は、彼が血塗れの短剣をポケットの中に隠していて、それで私を殺してしまおうと企らんでいることを思うと、思わず少し熱して話した。彼の方は、葡葡酒をぐっと飲むと、ひどく真面目《まじめ》くさって口を利き出した。
「三十年も己は方々の海をわたり※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、その間にゃいい目にも悪《わり》い目にも遭えば、もっといい目にももっと悪い目にも遭ったし、いい天気にも悪い天気にも遭ったし、食物がなくなったこともあれば、斬り合いをやったこともあるし、その他《ほか》いろんな目に遭ったよ。ところでね、実際のところ、己ぁいい事をしていい目に遭ったってこたぁまだ一度だってねえ。先に打ってかかる奴が己ぁ好きだ。死人《しびと》は咬みつかねえ。これが己の考《かんげ》えといったところさ、――アーメン、まあそれでいいや。時にねえ、おい、」と彼は、急に口調を変えて、言い足した。「こんな馬鹿っ話《ぱなし》はこれっくれえでたくさんだ。潮がもうずいぶんさして来たぜ。さあ、ホーキンズ船長、己の指図する通りにやるんだ。そうすりゃ船はすぐに走り出して片附いちまおうぜ。」
 すっかりで二マイル足らず船を走らせればよかったのだ。けれどもここの航行はなかなか面倒だった。この北の碇泊所の入口は狭くて浅い上に、東と西とに陸があるので、スクーナー船を入れるにはよほどうまく操縦しなければならなかった。が、私は上手な機敏な助手だったと思うし、ハンズは優れた水先案内人《パイロット》だったと信ずる。というのは、船は、見るも気持のよいくらい正確に手際よく、代る代る針路を変えて、岸を掠めながら、ひらりひらりと身を交すようにして入って行ったからである。
 岬を通り過ぎるや否や、陸地が私たちのぐるりに迫って来た。北浦の岸は南の碇泊所の岸と同様に樹木がこんもりと生い茂っていた。が湾内はもっと狭くて長く、広い河口のようで、実際またそうなのであった。私たちの真正面の、南の瑞に、もうぼろぼろに腐朽してしまって見る影もない船が一艘見えた。もとは三本|檣《マスト》の大きな船であったのだが、ずいぶん永い間|雨風《あめかぜ》に曝されていたので、ぽたぽた水を滴らしている海藻が大きな蜘蛛の巣のように周囲にぶら下っていたし、甲板には海岸に生える灌木が根をおろしていて、今ちょうど花が一杯咲き乱れていた。それは実に傷《いた》ましい光景であったが、しかしまたこの碇泊所が穏かなところであることを私たちに示していた。
「おい、あそこを見ろよ。」とハンズが言った。「船を乗り上げるにゃ持って来いの処《とこ》があらあ。細かな平たい砂地で、ちっとの風もねえし、ぐるりにゃあずっと樹があるし、あの古船《ふるぶね》の上にゃ庭みてえに花が咲いてるぜ。」
「で、乗り上げたら、また船を出すにはどうするんだろう?」と私は尋ねた。
「なあに、それぁこうさ。」と彼が答えた。「干潮《ひきしお》の時に綱を持ってあっちの向側の岸へ行くんだ。あのでっけえ松の樹のどれか一つにその綱をぐるりと巻く。それからそいつを持って帰《けえ》って」揚錨絞盤《いかりまき》に巻いて、潮を待ってるんだ。満潮《みちしお》になったら、みんなでその綱をひっぱれば、船はひとりで出るみてえにすうっと出るよ。さあさあ、坊や、用意するんだ。船着場が近いのに、船足が速過ぎるぞ。少し面舵《おもかじ》、――そうだ、――ようそろ(註七四)[#「(註七四)」は行右小書き]、――面舵、――少し取舵《とりかじ》、――ようそろ、――ようそろ!」
 そんな風に彼は命令を下すと、私は息もつかずにそれに従った。そのうちに、突然、彼は「さあ、おい、開け!」と叫んだ。そこで私は舵輪をぐっと風上に操った。するとヒスパニオーラ号は急速にぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、低い樹の茂った岸に船首を向けて走り続けた。
 こういう操縦に興奮していたために、それまでは私が絶えずずいぶん油断なく舵手を警戒していたのが、幾分お留守になっていた。その時でさえ、私は、船が水底に触れるのを今か今かと待ちながら、やはり非常に面白がっていたので、自分の頭上に懸っている危難をすっかり忘れてしまい、右舷の舷牆の上から首を伸ばしながら、船首の前に広く拡がっている漣を見つめていたのである。それで、急に何だか不安になって、頭を振り向けなかったなら、私はひとたまりもなく殺されてしまったことであろう。恐らく、靴か何かのきしむ音が聞えたのか、彼の影の動くのが眼尻で見えたのかも知れない。それとも、恐らく、猫のような本能のためであったかも知れない。が、とにかく、私が振り返った時には、果して、ハンズが、右手に例の短剣を握って、私の方へすでに半分も近よっていたのであった。
 私たちは眼と眼とがぶつかった時には二人とも大きな声を立てて叫んだに違いない。しかし、私の声は恐怖の金切声であったが、彼のは突っかかって来る牡牛のような憤怒の唸り声だった。それと同じ瞬間に彼は前へ躍りかかり、私は船首の方へ横さまに跳んだ。その時に、私は掴んでいた舵柄を放すと、それが風下の方へ烈しく跳ねた。このために私は命が助かったのだと思う。という訳は、その舵柄がハンズの胸にあたって、彼はしばらくの間ぴたりと止ったからである。
 彼が立直れないうちに、私は彼に追いつめられていた隅っこから無事に出て、甲板中をあちこち逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れるようになった。大檣《メーンマスト》のすぐ前で立ち止って、ポケットからピストルをひき出すと、彼がもう向を変えてまっすぐに私をまた追って来ていたけれども、冷静に狙いを定めて、引金を引いた。撃鉄はかちっと落ちたが、火花も出なければ音もしなかった。点火薬が海水のために役に立たなくなっていたのだ。私は自分の不注意がいまいましかった。なぜもっとずっと前に自分の唯一の武器に火薬を入れ換え弾丸を籠め換えておかなかったのか? それをしておいたなら、今のように、この屠殺者の前に逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってばかりいる羊のような目に遭わなかったろうに?
 彼は負傷してはいたが、素速く動くことは驚くべきほどで、彼の白髪《しらが》雑りの髪の毛は顔に振りかかり、その顔は焦心と憤怒とで英国商船旗のように真赤だった。私は自分のもう一挺の方のピストルを試してみる暇もなかったし、また、実際、役に立たないにきまっていると思ったので、試してみようという気持も大してなかった。ただ、一つのことだけは私にははっきりわかっていた。私はただ彼の前から逃げるだけではいけない。そんなことをしていれば、彼は、ちょっと前に私をもう少しで船尾へ追い込もうとしたように、じきにまた船首へ追い込んでしまうだろう。そうして掴まったが最後、あの九インチか十インチもある血塗れの短剣でぐざりとやられて、それがこの世の最後となるだろう。私は、かなりの大きさの大檣に掌をあてて、全神経を張りつめて待っていた。
 私が逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るつもりだということを見て取ると、彼も立ち止った。そしてしばらくの間は、彼の方は剣で打ってかかる真似をし、私の方はまたそれに対応する動作をしていた。それはまるで私が故郷の黒丘《ブラック・ヒル》入江の岩のあたりでよくやったような遊び事であった。だが前には、勿論、今のように胸をひどくどきどきさせてやったことは一度もなかった。それでも、やはり、それは子供の遊び事だった。そして、私はこんな腿に負傷をしている大分年とった水夫なんぞに負けるものかと思った。実際、私は大いに元気が出かかっていたので、この事件の結末がどうなるかということを二三ちらちらっと考えてみることが出来た。そして、自分がこれを永びかせることが出来るということは確かにわかったが、また、結局逃げおおせてしまう見込がないということもわかった。
 さて、こういう有様になっているうちに、突然ヒスパニオーラ号は乗り上げて、ぐらぐらとし、ちょっとの間砂地に擱坐したかと思うと、どっと左舷へ傾いて、甲板が四十五度の角度になり、一桶ほどの水が排水孔の中へはね込み、甲板と舷牆との間に水溜りのようになって溜った。
 私たちは二人ともその途端にひっくり返り、二人ともほとんど一緒になって排水孔の中へ転がり込んだ。死んでいる赤帽の男も、両腕をやはり拡げたまま、硬ばって私たちの後から転げて来た。私たちは実際ごく近くなっていて、私の頭が舵手の脚にごつんとぶっつかって私の歯が音を立てたくらいであった。そうして打ちあたったけれども、再び立ち上ったのは私の方が先であった。
 なぜなら、ハンズは死体と絡み合っていたからである。このように船が急に傾いたために甲板は走り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る場所ではなくなってしまった。私は何か新たな逃げる方法を見つけなければならなかった。それもすぐ見つけなければならなかった。敵は私に触れんばかりのところにいるからだ。とっさに私は後檣《ミズンマスト》の横静索(註七五)[#「(註七五)」は行右小書き]に跳びついて、索を手繰りながらずんずんと攀《よ》じ登り、檣頭横桁に腰を下すまでは息もつかなかった。
 私はそうして機敏にやったために助かったのだ。私が上へ逃げ上っている時に、短剣が私の下半フートとないところに突き刺さったのである。そして、イズレール・ハンズが口をぽかんと開け顔を私の方へ振り上げながら突っ立っている有様は、まったく驚きと失望との彫像のようだった。
 私はちょっと暇が出来たので、時を移さず自分のピストルの点火薬を換え、それから、一挺がいつでも使えるようになると、念に念を入れるために、もう一挺の方の弾薬を取り出して、それも初めから新たに装填し直しにかかった。
 私がこういう事を始めたのでハンズはびっくり仰天した。彼には形勢が彼の方に悪くなっていることがわかりかけた。そして、どうしようかと明かに躊躇した後、彼もまた横静索に大儀そうに掴まって、短剣を歯で啣《くわ》えながら、ゆっくりと苦しそうに登り始めた。負傷した足をひきずり上げるには、非常に時間もかかり、幾度も呻き声を出さねばならなかった。それで、彼が三分の一より上へさほど上らないうちに、私は悠々と自分の準備をすませてしまった。それから、どちらの手にもピストルを持って、彼に話しかけた。
「ハンズ君、」と私は言った。「もう一歩でも上ってみ給え。君の脳天を撃ち抜くよ! 死人《しびと》は咬みつかないはずだね。」と言い足して、私はくっくっと笑った。
 彼はすぐさま止った。その顔がぴりぴり動いているので、何かを考えようとしているのだということが、私にはわかった。ところがその考え方がいかにものろのろしていて骨折っているので、私は、今の安全な立場にいて、声を立てて笑った。とうとう、彼は三度唾を嚥みこんでから、口を利き出したが、顔にはやはり極度に困りきった同じ表情を浮べていた。口を利くために口から短剣を取らねばならなかったが、しかしその他には彼は少しも動かずにいた。
「ジム、」と彼は言った。「己たちぁどうも料簡《りょうけん》がいけねえようだ、お前も己もな。で、仲直りしなけりゃなるめえ。船があんなによろけせえしなけれぁ、己はお前をつかめえたんだがな。だが己にゃあ運がねえんだ、まったくよ。己は降参しなくちゃならねえようだ。船長をしたこともある人間が、お前みてえな小僧っ子に降参するなあ、辛《つれ》えこったよ。なあ、ジム。」私は彼の言葉を面白がって聞きとれ、微笑し続けて、飼場の雄鶏のように得意になっていた。と、はっと思う間に、彼の右手が肩の後へ行った。何かが空気を切って矢のようにぴゅうっと飛んで来た。私は打たれた感じがしたかと思うと次には烈しい痛みを感じ、肩のところを檣に突き刺された。その瞬間の怖しい痛みと驚きとで――それは自分の意思でしたのだとは私はほとんど言えないし、意識した狙いはなしにやったのだと確信するが――私のピストルが二挺とも発射して、二挺とも私の手から離れた。落ちたのはそのピストルだけではなかった。息の詰ったような叫び声と共に、舵手は横静索を掴んでいる手を放して、頭を先にして海の中へ落ち込んだのである。

第二十七章 「八銀貨」

 船が傾いているために、檣《マスト》はずっと遠く水の上へ突き出ていて、檣頭横桁の私の棲木《とまりぎ》の下には、湾の水面の他に何もなかった。ハンズはさほど上まで上っていなかったので、従って私よりは船の近くにいて、私と舷牆との間に落ちた。彼は一度だけ白波と血との石鹸《シャボン》泡のようになった水面へ浮び上ったが、それからまた沈んで、それっきり浮き上らなかった。水が静まると、船の舷側の影の、綺麗な、ぴかぴかする砂の上に、彼が体をちぢこめて横っているのが見えた。一二尾の魚が彼の体の前をすいすいと通って行った。時々、水が震えると、彼が起き上ろうとでもするように少し動いたように見えた。しかし、それでも、彼は撃たれた上に溺れたのだから、すっかり死んでいるのだ。私を殺そうとしたその場所で魚の餌食になることになったのだ。
 そのことがはっきりすると、私は急に気持が悪くなり、気が遠くなり、恐しくなり出して来た。熱い血が背中と胸とにたらたらと流れていた。短剣が私の肩を檣に突き刺している箇処は、熱した鉄のように焼けつくように思われた。だが、私を苦しめたのは、こういう実際の痛みはさほどでもなかった。それなら自分には声も立てずに我慢が出来るように思われたからだ。私を悩ませたのは、檣頭横桁からあの静かな緑色をした水の中の舵手《コクスン》の死体のそばへ落ちはしまいかという、心に抱いている恐怖であった。
 私は爪がずきずきするまで両手でしがみつき、危険を見まいとでもするように眼を閉じた。すると次第に心が落着いて来て、動悸もいつもの速さに静まり、再び我に返った。
 最初に思ったのは短剣を抜き取ろうということだった。が、余りに強く突き刺さっていたのか、それとも怖くて出来なかったのか、とにかく私は烈しく身震いをして止《や》めてしまった。ところが、まったく奇態なことには、そうして身震いしたためにその事が出来てしまった。ナイフは、事実、もう少しのことでまったく外れるところだったのだ。それは皮膚をほんのちょっとだけ刺していたので、身震いするとそこが裂き取れたのである。もっとも、血は前よりは盛んに流れ出たが、私は再び自分の自由になり、ただ上衣とシャツとを檣に打ちつけられているだけとなった。
 この上衣とシャツとは急に体をぐいと動かして切り取り、それから右舷の横静索を伝って再び甲板に戻った。私は心弱くなっていたので、イズレールがついさっきそこから落ちた、水の上へ差し懸っている左舷の横静索を、再び伝って降りる気にはどうしてもなれなかったのだ。
 私は船室へ下りて行って、自分の傷に出来るだけのことをした。その傷はずいぶん痛んだし、まだどんどん出血していた。しかし深い傷でもなければ危険な傷でもなく、また腕を動かしてもひどく苦痛だということもなかった。それから私はあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、船が今では或る意味で自分のものだったから、その船の最後の乗客をも船から掃い出してやろうと思い立った。――例の死人のオブライエンである。
 彼は、前に言ったように舷牆に突き当って、そこで、気味の悪い不恰好《ぶかっこう》な人形のようにころがっていた。なるほど人間の大きさはしているが、人間らしい色や人間らしい綺麗さとは何と違っていることだろう! その場所にいてくれたので、私は容易に彼を始末することが出来た。それに、私は悲惨な冒険に慣れたために死人に対する恐怖がほとんどすっかりなくなっていたので、糠《ぬか》の嚢か何かのように彼の腰を掴んで、ぐっと一度持ち上げると、船の外へ投げ落した。彼はどぶんと音を立てて水の中へ沈んで行った。赤い帽子は取れて、水面に浮んだ。そしてはねかった水が静まると、彼とイズレールとが並んで横っているのが見えて、二人とも水が揺れるにつれてゆらゆらしていた。オブライエンは、まだごく若い男なのに、頭がひどく禿げていた。その禿頭を、彼は自分を殺した人間の膝にのっけて横っていた。そして敏捷に動く魚がその二人の上をあちこちと泳いでいた。
 私は今では船にただ一人となった。潮はつい今変ったばかりであった。太陽はやがて沈もうとしていて、すでに西岸の松の樹の影がちょうど碇泊所のあたりに射《さ》しかけて、甲板の上に模様をなして落ちていた。夕風が吹き起っていて、それは東にある峯の二つある山のためによほど受け止められてはいたけれども、それでも索具は静かに少し歌うように鳴り出していたし、垂れていた、帆はあちこちとばたばたし出していた。
 私は船が危険になったのがわかりかけた。で、斜檣帆《ジブ》を急いで下して甲板へばたばた落した。が大檣帆《メーンスル》の方はそれよりは厄介だった。もちろん、スクーナー船が傾いた時に、帆の下桁が舷外へぐらりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、帆桁帽と一二フィートの帆布とが水の中へ入ってさえいた。このためになおさら危険だと私は思った。それでも、非常に強く張りつめているので手を出すのが恐しいような気もした。とうとう、私はナイフを取り出して揚索を切った。すると斜桁上外端《ピーク》が直ちにばったりと落ちて、弛んだ帆布の大きな腹部が水の上に拡がって浮いた。そして、どうひっぱってみても下索《さげなわ》は動かすことが出来なかったので」私に出来たのはそれだけだった。それ以上のことでは、ヒスパニオーラ号は、私自身と同様、運に頼るより他はなかった。
 この時分には碇泊所全体はすっかり影になってしまっていたが、――落陽の最後の光線が、森の隙間から射して来て、あの破船を覆うている花に、宝石のようにきらきらと輝いたのを、私は今も忘れられない。もう寒くなりかけて来た。潮は急速に外海の方へ流れて行っていて、スクーナー船はますます傾いて船梁が垂直になるほどになった。
 私は船首の方へ這って行って下を覗いた。よほど浅いようだったので、まさかの時の用心にあの切れている錨索に両手で掴まって、そうっと船の外へ体を下して行った。水は私の腰までもなかった。砂は固くて、漣の痕が一面についていた。それで、大檣帆を湾の水面に広く曳きずって、傾いているヒスパニオーラ号を後に残して、私は大元気で岸まで徒渉した。ほとんど同時に太陽はまったく沈み、風は揺れ動いている松林の間で薄暮の中を低くひゅうひゅうと鳴っていた。
 ともかく、とうとう、私は海から上ったし、また空手《からて》で戻って来たのでもなかった。あそこに、ヒスパニオーラ号が、とうとう海賊どもの手からすっかり離れて、いつでも味方の人々を乗せて再び海に出られるようになっているのだ。私は何よりも柵壁へ帰りついて自分の手柄話をしたくてたまらなかった。あるいは私は自分のやった隠れ遊びについてちょっとぐらい叱られるかも知れない。がヒスパニオーラ号を取戻したことはそういう文句をすっかり決着させてしまうだけの答になるのだ。そして私はスモレット船長でも私がただ暇潰しをしていたのではないと言ってくれるだろうと思った。
 そんなことを思いながら、素敵な元気で、丸太小屋の味方の人たちの方へ戻りかけた。ふと、キッド船長の碇泊所へ注いでいる川の中の一番東にあるのが自分の左手にある二つ峯の山から流れ出ていることを思い出したので、川幅が狭い間に流れを渡っておこうと思って、その方向へ進路を曲げた。森はかなり開けていて、低い方の山嘴に沿うて行くと、やがてその山の角を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってしまい、それから間もなくその川を脛の半ばまで水に入って渉った。
 渉ってしまうと、私があの置去り人《びと》のベン・ガンに出会った処の近くへ来た。それで眼を四方へ配りながら、一層用心して歩いた。もうほとんど薄暗くなっていて、私が二つの峯の間の割目が開けている処まで来ると、一条のゆらゆらした火の光が空に映えているのに気がついた。そこにはあの島の男が盛んに火を燃して夕食の料理をしているのだろう、と私は考えた。しかし、どうして彼がそんなに不注意に自分の居所を示しているのかと、心の中で不審に思った。というのは、あの光が私に見えるくらいだから、海岸の沼地に野営しているシルヴァーの眼に入らない訳がなかったからである。
 だんだんと夜はますます暗くなって来た。私はただ自分の目指す方向へめちゃくちゃに進んで行くだけだった。私の背後の二つ峯の山も、右手の遠眼鏡山も、だんだんと微かにぼんやりして来た。星も稀で光が薄かった。私は、自分のさまよい歩いている低地で、絶えず藪の中で躓《つまず》いたり砂の凹穴の中へ転がり込んだりした。
 急に何だかあたりが明るくなった。見上げると、淡い微かな月光が遠眼鏡山の頂上に射していた。それから間もなく、何か幅の広い銀色のものが樹々の後《うしろ》に下へ低く動いてゆくのが見え、月が昇ったことがわかった。
 これを助けにして、残りの道程《みちのり》を急いで進み、時には歩いたり、時には走ったりして、気をあせりながら柵壁へ近づいて行った。それでも、柵壁の前にある森の中へ入りかかった時には、さすがに歩みを弛めて少しは気をつけて進むだけの用心はした。誤って自分の味方の人に撃ち倒されては、私の冒険も情ない結末となってしまうからだ。
 月はだんだんと高く昇った。その光は森の幾分開けた箇処を通してここかしこに広く注ぎ始めた。ところが、私の真正面に、それとは違った色の光が樹立の間に見えて来た。それは赤い熱そうな光で、時々少し暗くなり、――ちょうど、くすぶっている篝火の余燼のようであった。
 どうしても私にはそれが何なのかわからなかった。
 とうとう私は開拓地の縁のところまで下って来た。そこの西端はすでに月光を浴びていた。その他の処は、丸太小屋も、まだ黒い影の中にあって、長い銀色の光線で市松模様になっていた。小屋の両側には、大きな焚火が燃え尽きて明るい余燼となっていて、赤い強い反射光を放ち、柔かな淡い月光とひどく対照していた。人影《ひとかげ》一つも動かず、風の音の他には物音一つしなかった。
 私は、心の中で非常に不審に思いながら、また恐らく少しは怖くも思いながら、立ち止った。大きな火を焚くということは味方の習慣ではなかった。実際、私たちは、船長の命令で、薪には幾分けちなくらいであったのだ。それで、自分のいない間に何か悪いことになったのではないかと気がかりになり出した。
 私は絶えず影にいるようにして東側をこっそりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってゆき、闇の一番濃い、都合のよい処で、防柵を越えた。
 念に念を入れて、私は四つん這いになり、何の音も立てずに小屋の隅の方へそろそろと進んだ。もっと近づくと、私の心は急に大いに気楽になった。鼾《いびき》の声というものは本来は気持のよいものではないし、他の場合には私はそれに苦情を言ったことも段々あったが、この時だけは、味方の人たちが眠りながら一緒に大きく安らかに鼾をかいているのを聞くと、音楽を聞くような気がした。海上で当直夜番の叫ぶ声、あの美しい「変りなあし。」という声でも、これ以上に心強く私の耳に響いたことはなかった。
 その間にも、一つのことだけは疑いがなかった。あの人たちの夜番の仕方が非常に悪いということである。もし今こうして忍び寄って来ているのがシルヴァーと彼の一味の者であったなら、一人だって夜明《よあけ》の光を見られまい。それというのも船長が負傷しているからのことだ、と私は思った。そして、こうして当番に就《つ》く者も少いほどの危険な状態に皆を残して出て来たことに対して、私はまた烈しく自分を責めた。
 この時分には私は戸口のところまで行って立ち上っていた。内はただ真暗なので、眼では何一つ見分けることが出来なかった。音の方は、一様な単調な鼾の声と、時々、私にはどうしてもわからぬ、ばたばたしたり、こつこつしたりする、小さな音とが聞えた。
 両腕を前へ差し出しながら私は落着いて入って行った。私は自分の場所に寝ていて、朝になって皆が私を見て驚く顔を見てやろう。(そう思って、私は声を立てずに含み笑いをした。)
 私の足が何か蹴ると動くものにぶつかった。――それは眠っている人の脚だった。その男は寝返りをうって唸ったが、目は覚さなかった。
 と、その時、突然、闇の中から鋭い声が起った。
「八銀貨! 八銀貨! 八銀貨! 八銀貨! 八銀貨!」と小さな碾臼《ひきうす》の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る音のように切間もなく変化もなしに続けた。
 シルヴァーの緑色の鸚鵡《おうむ》のフリント船長だ! こつこつと木の皮をつついているのが聞えたのは、その鳥だったのだ。どの人間よりもよく夜番をして、こうしてそのうるさい繰返し文句で私の来たことを知らせたのは、その鳥だったのだ。
 私は気を取直すだけの暇もなかった。鸚鵡の鋭い速い声で、眠っていた人々は日を覚して跳び起きた。そして、力強い罵り言葉と共に、シルヴァーの声が叫んだ。――
「だれだ?」
 私は振り向いて逃げようとしたが、一人の人に猛烈にぶっつかって跳ね返り、また走り出すと今度は別の男の腕の中へ跳び込んでしまった。その男は私を掴んでしっかりと抱きすくめた。
「松明《たいまつ》を持って来い、ディック。」私がそうして確実に捕えられた時にシルヴァーが言った。
 すると、一人の男が丸太小屋から出て行って、やがて火のついている焼木《やけぎ》を持って戻って来た。
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第六篇 シルヴァー船長

第二十八章 敵の宿営で

 松明《たいまつ》の赤い光が丸太小屋の内部をぱっと照すと、私の懸念していた中でも一番悪いことが起っているのがわかった。海賊どもが小屋も食糧も占領していた。前のように、コニャックの樽もあれば、豚肉やパンもあった。そして、私の恐怖を十倍にも増したことには、捕虜の影もなかった。私は味方の人たちが皆殺されてしまったのだと判断するより他《ほか》はなかった。そして、自分もそこにいて皆と一緒に死ななかったことを思うと、非常に心苦しかった。
 そこにはみんなで海賊が六人いた。他の奴らは生き残ってはいなかったのだ。六人の中の五人までは立っていて、酔って寝入ったばかりのところを不意に起されたので、赤い腫《は》れぼったい顔をしていた。六人目の者は肱《ひじ》をついて体《からだ》を起しているだけだった。彼は死人のように蒼い顔をしていて、頭に巻いている血のにじんだ繃帯は、彼が近頃負傷したのであって、しかもつい先頃手当をしたのだということを語っていた。私は、あの大攻撃の時に撃たれて森の中へ逃げ戻った男がいたことを思い出し、こいつがその男だということを疑わなかった。
 鸚鵡《おうむ》はのっぽのジョンの肩にとまって、羽毛を嘴で整えていた。ジョン自身も、私のいつも見慣れているよりは幾らか蒼ざめていたし、もっといかつい顔をしていると、私は思った。彼はまだ、例の談判にやって来た時の上等な広幅羅紗の一着を着ていたが、それは、泥土でよごれたり、森の鋭い茨で裂けたりして、ひどく傷《いた》んでいた。
「ふん、そうか、」と彼は言った。「こいつあジム・ホーキンズだな、畜生! ちょいとお立寄り、ってとこかね、え? よしよし、まあ、友達らしく扱ってやろう。」
 そう言うと彼はブランディーの樽に腰を下して、パイプに煙草を填《つ》め始めた。
「その松明《たいまつ》を貸してくれ、ディック。」と彼は言い、それから、煙草に火を十分つけてしまうと、「ああ、それでいいよ。」と言い足した。「その火を薪の山の中へ突っ込んでくれろ。そいから、お前《めえ》たち、紳士|方《がた》、坐ったらどうだい! ――ホーキンズ君のために立ってなくたっていいんだぜ。ホーキンズ君はお前たちをゆるして下さるだろうよ[#「下さるだろうよ」に傍点]。そいつぁ間違《まちげ》えっこなしさ。ところで、ジム、」――と煙草を止めて、――「お前《めえ》がここへやって来たなあこのジョン爺《じい》もまったくもって嬉しいが驚いたよ。お前がはしっこい奴だってこたぁ己《おれ》が初めてお前を見た時からわかってるさ。だが、これぁどうも己にゃまるで合点がいかねえぞ、まったくな。」
 以上の言葉に対しては、十分想像されるであろうように、私は何の返事もしなかった。彼等は私に壁を背にして立たせてるた。私は、臆せずにシルヴァーの顔を見ながら、そこに立っていた。表面はずいぶん大胆そうにしていたつもりであるが、心の中には暗澹たる絶望を抱いていた。シルヴァーは大いに落着いてパイプを一二服吹かし、それからまたしゃべり続けた。
「ところで、なあ、ジム、お前がここへ来た[#「来た」に傍点]からにゃあ、ちっとばかし言って聞かせることがあるんだ。己ぁいつもお前が好きだった、お前がな。元気な小僧だし、己の若くっていい男だった時に生写《いきうつ》しだからよ。いつも己はお前が仲間に入《へえ》ってくれて、紳士で死んで貰《もれ》えてえもんだと思ってた。ところが、なあ大将《てえしょう》今度はお前はどうもそうしなくっちゃならねえ。なるほどスモレット船長《せんちょ》は立派な海員《けえいん》だ。それぁ己もいつだって白状するさ。だが紀律が厳《きび》し過ぎらあ。『義務は義務だ。』って奴《やっこ》さんはよく言う。またそれにゃあ違《ちげ》えねえ。お前もうあの船長に近よらねえようにしろよ。あの医者だってお前にゃひどく怒ってるぜ、――『恩知らずの腕白者』って言ってたんだ。で、手つ取り早《ばえ》えとこを言っちまえば、まずこうだ。お前は自分の組の方へは帰《けえ》れねえ。あいつらはお前に帰って貰えたかあねえんだからね。そこで、お前が一人っきりでまた一つの組を起すとなると、こいつあどうも淋しかろうて。で、そうするんでなけりゃ、お前はシルヴァー船長の組に入らなきゃなるめえな。」
 ここまではよかった。とすると、味方の人たちはまだ生きているのだ。私は、船室《ケビン》の人たちが私の脱走を怒っているというシルヴァーの言葉の真実であることを幾分か信じたけれども、自分の聞いたことのために、悲しむよりは、むしろほっとした。
「お前が己たちに掴まってるってことは己は何も言わねえ。」とシルヴァーが言い続けた。「ほんとはそうなんだがね、間違えなしにな。己ぁ万事相談づくでやる人間だ。嚇《おど》していいことになったってこたぁ己ぁ一度も知らねえ。もしお前が働いてくれる気ならだ、なあ、こっちへつくがいい。もし厭ならばだ、ジム、そうさ、自由に厭だって返事するんだ。――自由で結構さ、兄弟《きゃうでえ》。で、どんな海員だってこれより公平なことが言える者がいるなら、お目にかかりてえや!」
「それじゃあ、僕は返事をしなきゃいけないのかい?」と私はひどく震えた声で尋ねた。彼のこの鼻であしらうような話の全体にわたって、私は自分に迫りかかっている死の威嚇を感じさせられ、頬はほてり心臓は胸の中で苦しいほど動悸うった。
「なあ、おい、」とシルヴァーは言った。「だれもお前に無理強いはしねえ。篤《とく》と考《かんげ》えろよ。己たちぁ一人だってお前をせき立てはしねえつもりだ、兄弟。お前と一緒にいると愉快で時のたつのがわからねえくれえだからなあ。」
「ではね、」と私は少し大胆になって言った。「もし僕がどちらかにきめなきゃならないんなら、僕は、ほんとうのことや、あんた方《がた》がどうしてここにいるのか、僕の方の人たちがどこにいるのかってことを、知らして貰う権利がある訳だねえ。」
「ほんとのとこだと!」と海賊の一人が太い唸り声で私の言葉を繰返して言った。「ふん、そいつがわかった奴は仕合せ者だろうて!」
「おい、お前に話しかけられるまではお前は黙って控えてるがいいんだ。」とシルヴァーはその男に向って荒々しく呶鳴《どな》った。それから、元の優しい口調で、私に答えた。「昨日《きのう》の朝のことだ、ホーキンズ君、折半直(註七六)[#「(註七六)」は行右小書き]に、リヴジーさんが休戦旗を持ってやって来たんさ。『シルヴァー船長、お前は裏切られたんだ。船は行っちまったぞ。』ってお医者は言うのだ。そうさな、多分己たちは酒を飲んで、盃を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す景気づけに唄でも歌っていたんだろう。そうじゃねえとは言わねえ。ともかくだれ一人気をつけていた者はなかったんだ。で、外を見ると、驚いたな! あの古船《ふるぶね》はいねえんさ。あの時のみんなみてえなぽかんと間抜面《まぬけづら》をした阿呆どもは見たことがねえな。いや、この己が中でも一番ぽかんとしてたって言っても、間違えなしさ。『ところで、相談をしようじゃないか。』ってお医者は言うんだ。己たちは相談をした。あの人と己とな。それで、己たちはここにいることになったって訳さ。食物も、ブランディーも、丸太小屋も、お前たちが気を利かして切っといてくれた薪も、まあ言わばこの結構な舟を檣頭横桁《クロスツリーズ》から内竜骨《ケルソン》までそっくり、貰ったんだ。あの人たちの方は、てくてく出て行った。どこにいるのか己にゃわからねえ。」
 彼は再び静かにパイプを吸った。
「それからな、」と彼は話し続けた。「お前がその頭に、お前もその条約の中へ入ってるんだと思いこむといけねえから、一番おしめえに聞いた言葉を聞かしてやろう。『あんた方《がた》は何人で立退《たちの》くんですかい?』と己が言ったんだ。すると、『四人だ。』ってあの人は言うのさ。――『四人で、その中《うち》一人は負傷してる。あの子供は、どこにいるのか俺《わし》は知らん、畜生。またどこにいようと大して構わん。俺らはあいつにゃほとほと閉口した。』こうあの人は言ってたぜ。」
「それだけかい?」と私が尋ねた。
「そうさ、お前に聞かさんけりゃならんことはこれだけだよ、坊や。」とシルヴァーが答えた。
「と今度は僕がどちらかきめなきゃならないんだね?」
「で今度はお前がどっちかきめなきゃならねえんだ。違えねえ。」とシルヴァーが言った。
「じゃ言おう。」と私は言った。「僕は、自分がこれから先どんなことを覚悟しなけりゃならないかよくわからないような馬鹿じゃない。どんな悪いことになろうと、僕は気にかけやしないんだ。君たちと一緒になってから此方《このかた》、ずいぶんたくさん人の死ぬのを見て来たからね。だが一つ二つ君たちに言うことがある。」とここまで言って来た時分には私はすっかり興奮していた。「まず第一にはこういうことだ。君たちは今悪い有様になっている。船はなくなる、宝は手に入らない、人数は減る。君たちの仕事はすっかり駄目になっちまった。そこで、だれがそうしたのか知りたければ言うが、――それは僕だったんだよ! 僕は、島が見えたあの晩に林檎樽の中にいて、ジョン、君と、それから、ディック・ジョンソン、君と、それから、今はもう海の底にいるハンズとが話しているのを聞いて、一時間とたたないうちに君たちの言ったことを一語も残さずみんな知らせたんだ。それから、スクーナー船はと言うと、あれの錨索を切ったのも僕なら、君たちがあの船に乗せておいた人たちを殺したのも僕、あの船を君たちの中の一人だって二度ともう見られない処へ隠したのも僕だよ。勝って笑えるのは僕の方なんだ。僕はこの事件では初手《しょて》から上手《うわて》に出ているんだ。僕はもう君たちが蝿ほども怖《こわ》かあない。さあ、僕を殺すとも生かすとも、好きなようにしてくれ給え。だが一つのことだけ言っておこう。もうこれっきりだ。もし君たちが僕の命を助けてくれるなら、すんだことはすんだことにして、君らが海賊をしたために裁判にかけられる時にゃ、僕は出来るだけのことをして君たちを救ってあげよう。どちらかきめるのは君たちの方だ。他人《ひと》を殺して君たち自身に何にもならぬことをするか、それとも、僕を生かしておいて、君たちが絞首《しめくび》になるのを助かる証人を残しておくかだ。」
 私はここで言葉を止めた。というのは、実際、私は息が切れたし、それに、驚いたことには、そこにいる者が一人も身動きもしないで、みんなが羊のようにただ私を見つめて坐っていたからである。そして彼等がまだじっと見つめている間に、私は再び口を切った。――
「それからね、シルヴァーさん、あんたはここにいる中で一番偉い人だと思うが、もし僕が殺されるようなことになったなら、あんたはどうか先生に僕の死に方を知らせてあげて下さい。」
「心に留めておこう。」とシルヴァーは言ったが、非常に奇妙な口調だったので、彼が私の頼みを嘲笑《あざわら》っているのか、それとも私の勇気に感心していたのか、私にはどうしてもいずれとも判断しかねた。
「まだ一つ言い添えることがある。」と例のマホガニー色の顔をした年寄の船乗――モーガンという名の――私がブリストルの埠頭にあったのっぽのジョンの居酒屋で見たことのあるあの男――が叫んだ。「黒犬《ブラック・ドッグ》を知ってたのもこいつだったぞ。」
「そうさ、それからな、」と船の料理番《コック》は言い足した。「もう一つ言い添えることもあるぜ、畜生! ビリー・ボーンズから海図をかっぱらったのもやっぱりこの子供だったよ。たびたび己たちはこのジム・ホーキンズのためにしくじったんだ!」
「じゃあこうしてくれるぞ!」とモーガンは罵り言葉と共に言った。
 そして彼は、二十歳の若者のような勢でナイフを抜いて、跳び立った。
「止《や》めろ!」とシルヴァーが叫んだ。「お前は何だ、トム・モーガン? 多分お前は船長のつもりだったんだろう、大方な。馬鹿めが。だが己がよく教えてやろう! 己に逆《さから》えば、お前はこの三十年|前《めえ》からたくさんの奴がお前の前に遭ったような目に遭うんだぞ。――帆桁の端にぶら下げられた奴もいやがるんだ、畜生! それから船の外へ抛《ほう》り出された奴もいる。みんな魚の餌食になったものさ。己に面と向って反対《はんてえ》した奴で、その後でいい目に遭った奴は、一人だっていねえんだぜ、トム・モーガン。そいつぁ間違えっこなしだぞ。」
 モーガンはじっとしてしまった。しかし他の連中からぶつぶつ嗄《しゃが》れ声の不平が起った。
「トムの方に道理があるよ。」と一人が言った。
「己はずいぶん永《なげ》え間一人にいじめられるのを我慢して来たんだ。この上またお前《めえ》にいじめられてたまるもんか、ジョン・シルヴァー。」と別の者が言い足した。
「手前《てめえ》ら紳士たちの中でだれかこの己[#「この己」に傍点]と議論か喧嘩《けんか》できまりをつけてえって奴がいるのか?」とシルヴァーは、まだ火のついているパイプを右手に持ったまま、樽の上の坐り場所からぐっと前へ身を屈めながら、奴鳴った。「どうしようってのか言ってみろ。手前らあ唖《おし》じゃあるめえ。してえ奴にゃさせてやる。己も永え年月《としつき》過して来て、今になって大馬鹿野郎めに己の面先《つらさき》で生意気な真似をさせておくと思うか? 手前たちだってやり方は心得てるんだ。みんな自分じゃ分限紳士のつもりなんだからな。さあ、いつだって向って来い。やれる奴は彎刀《カトラス》を手に取れ。そうすりゃ、己は、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖《かせづえ》をついちゃいるが、このパイプが空《から》にならねえうちに、其奴《そやつ》の臓腑がどんな色をしているか見てやろう。」
 だれも動かなかった。だれも答えなかった。
「それがお前たちのやり方だ、そうだろ?」と彼はパイプを口へ戻しながら言い足した。「そうさ、お前たちゃどのみち見掛ばかりの奴らだ。相手にするほどの値打もねえ、手前らはな。多分手前たちだって自分の国の言葉はわかるだろう。己は選ばれてここで船長になってるんだぞ。己はずんと一番|偉《えれ》え人間だからこそここで船長になってるんだぞ。手前らにゃ分限紳士らしく勝負する気はねえんだ。それなら、畜生、己の言うことをきいてりゃいいんさ、まったくよ! ところで、己はこの子供が好きなんだ。こんないい子供は見たことがねえ。この子はこの小屋ん中にいる手前ら鼠野郎を二人一緒にしたよりも以上の人間だ。で、己の言うのはこうだ。この子に手をかける奴は己が相手になってやる、――これが己の言うことだ。違えねえぞ。」
 この後は永い合間があった。私は壁を背にしてまっすぐに立っていて、心臓はまだ大鎚のように烈しく動悸うっていたが、しかし今では一条の希望の光が胸の中に射《さ》し込んで来た。シルヴァーは壁に凭《もた》れかかって、腕を組み、パイプを口の隅に啣《くわ》えて、まるで教会にでもいるように落着いていた。それでも、眼は絶えずこっそりときょろきょろし、不従服な部下を眼尻で見ていた。彼等の方はと言うと、だんだんに丸太小屋の遠くの方の端へ寄り合ってゆき、彼等のひそひそと囁く低い声が流れのように私の耳に絶間なしに聞えて来た。一人一人彼等はこっちを見上げ、そして松明《たいまつ》の赤い光がちょっとの間彼等の興奮した顔を照すのだった。しかし彼等が眼を向けるのは私の方へではなく、シルヴァーの方へだった。
「手前らはたんと言うことがあると見えるな。」とシルヴァーは言って、空中へぺっと唾を吐き跳ばした。「大声で言って己に聞かせるか、でなきゃ止《や》めちまえ。」
「失礼だがね、」と彼等の中の一人が答えた。「お前《めえ》さんは規則によっちゃずいぶんずぼらだが、多分|他《ほか》の規則は守ってくれるんだろうな。ここにいる船員は不服があるんだ。ここにいる船員はこけおどかしはちっとも有難かねえんだ。ここにいる船員は他の船員と同じに自分たちの権利があるんだ、遠慮のねえとこを言えばね。で、お前さんの拵《こせ》えた規則で、己たちは一緒に話し合ってもいいだろうと己は思うんだ。今んとこはお前さんを船長と認めるから、お前さんの許しを願う訳さ。だが己は自分の権利を要求して、会議を開きに外へ出ますぜ。」
 こう言って、いやに丁寧な水夫式の敬礼をして、のっぽの、面相の悪い、黄ろい眼をした、三十五くらいのその男は、戸口の方へすまして歩いて行って、小屋の外へ出てしまった。すると残りの連中も順々にそれに倣《なら》った。一人一人が出てゆく時に敬礼をし、一人一人が何とか言訳を添えた。「規則に従ってね。」と一人は言った。「水夫部屋会議で。」とモーガンは言った。そんな風に何とか言って皆が出て行き、後にはシルヴァーと私とだけが松明と共に残された。
 船の料理番は直ちにパイプを口から取った。
「さて、ねえおい、ジム・ホーキンズ。」と彼はしっかりした囁き声で言った。その声はやっと聞き取れるくらいのものだった。「君はもう少しで殺されるかも知れんところだ。いや、もっとずっと悪いことにゃ、拷問されるかも知れんところだ。奴らは己を排斥《へえせき》しようとしてるからな。だが、いいかね、己はどんなことがあっても君に味方してやる。己にゃそういうつもりはなかったんだ。そうだ、君があんなにぱすぱすとしゃべるまではなかったんさ。己は、あんな大金《てえきん》を手に入れ損《そこ》ねるし、おまけに首を絞《し》められるとなったんで、やけっぱちになりかかっていた。だが己にゃ君が頼りになる男だってことがわかったんだ。己は自分にこう言ったのさ。ジョン、お前はホーキンズに味方しろ。そうすりゃホーキンズはお前に味方してくれるだろう。お前はあの子の最後のカルタ札だし、それから、ジョン、あの子はお前の最後のカルタ札だってこたぁ違えねえんだぞ! 持ちつ持たれつだ。お前が自分の証人を救えば、あの子はお前の首を救ってくれるだろうよ! とね。」
 私はぼんやりとわかりかけて来た。
「君は何もかも駄目になったと言うんだね?」と私は尋ねた。
「うん、まったく、そうなんだ!」と彼は答えた。「船はなくなる、首もなくなる、――そういった有様さ。一度は己もあの湾を捜してみたんだよ、ジム・ホーキンズ。だがスクーナー船なんてまるで見えやしねえ。――で、己も強情者だが、へこたれてしまったよ。あの会議を開いてる奴らはね、まったくの馬鹿野郎の臆病者さ。己は君の命をあいつらから救ってあげるよ、――出来る限りはだ。だがね、いいかい、ジム、――その代りにだ、――君はのっぽのジョンがぶらんこになるのを救ってくれるんだぜ。」
 私は当惑した。彼の求めていることはそれほど望みのないことと思われたのだ。――何しろ、彼は永年の海賊で、初めから終りまで張本人なんだから。
「僕に出来ることは、してあげるよ。」と私は言った。
「じゃこれで話がきまった!」とのっぽのジョンが叫んだ。「君は元気よく言ってくれた。で、有難《ありがて》え! 己に助かる見込が一つ出来た訳だ。」
 彼は、薪の中に立てかけてある松明のところまでぴょこぴょこ跳んで行って、パイプに新しく火をつけた。
「己の言うことをよく聞いてくれ、ジム。」と彼は元のところへ戻りながら言った。「己は分別のある人間だよ、そうともさ。己は今じゃ大地主の側についてるんだ。君があの船をどこかへ無事に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したってことは己にゃわかってる。どんな風にしてやったか、そいつぁわからねえが、とにかくあれは無事なんだ。ハンズとオブライエンとは丸めこまれたんだろうと思う。あいつら[#「あいつら」に傍点]はどっちとも己は大《てえ》して信用していなかったよ。ところでよく聞いてくれ。己は何も訊《き》かねえし、他の奴らにも訊かせはしねえ。勝負のついた時を己は知っている。知ってるとも。それから頼りになるしっかりした若者を知っている。ああ、君は若《わけ》えし、――君と己とが一緒になれぁたんといいことが出来るかも知れねえなあ!」
 彼は樽から錫の小杯にコニャックを注いだ。
「兄弟、飲まねえか?」と彼が尋ねた。そして私が断ると、「じゃあ、自分だけで一口やるぜ、ジム。」と言った。「己は一|杯《ぺえ》やらなきゃならねえんだ。面倒な事を控えてるんでね。面倒な事って言えば、あのお医者はどうして己に海図をくれたんだろうな、ジム?」
 私の顔はありありと不審の色を浮べたので、彼はその上尋ねる必要のないのを見て取った。
「ああ、そうさ、でもくれたんだよ。」と彼は言った。「あれにゃきっと何か訳があるぜ、――あれにゃあ確かに何か訳がな、ジム、――いいにしろ悪いにしろ。」
 そして彼はまたそのブランディーを一口飲んで、最も悪い事を予期している人のように、大きな薄色の頭を振った。

第二十九章 再び黒丸

 海賊どもの会議はしばらく続いていたが、やがて一人の者が小屋へ入って来て、私の眼には何となく皮肉に見える、さっきと同じ例の敬礼をまたやってから、ちょっとの間|松明《たいまつ》を貸して貰いたいと頼んだ。シルヴァーは簡単に承諾した。するとその使者は再び出て行き、後には私たちが暗闇《くらやみ》の中に残された。
「そうら、そろそろ騒ぎが起って来るぜ、ジム。」とシルヴァーが言った。彼は、この時分には、すっかり親しい打解けた口調になっていた。
 私は一番近くの銃眼のところへ行って、外を見た。例の大きな焚火の余燼はもうほとんど燃え尽きて、今ではごく弱くぼんやりと光っているので、私にはあの密謀者たちが松明をほしがった訳がわかった。柵壁までの傾斜面を半分くらい下ったところで、彼等は一団になって集っていた。一人が松明を持っていた。もう一人が皆の真中に膝をついていたが、その手に持っている開いたナイフの刀身が、月光と松明の光とで違った色に輝くのが見えた。その他の者は身を前へ屈めて、膝をついている男のしていることを見ているようだった。その男が手にナイフと共に一冊の書物を持っているのを私はどうにか見分けることが出来た。そして、どうしてそんな不似合なものが彼等の手に入ったのだろうとまだ訝っていると、その時膝をついていた者がまた立ち上って、一同が小屋の方へ一緒に歩き出した。
「やって来るよ。」と私は言った。そして自分の元の場所へ戻った。彼等を見ていたのを見つけられては自分の沽券《こけん》にかかわるような気がしたからである。
「よしよし、奴らを来させろ、なあ、――奴らを来させろだ。」とシルヴァーは陽気に言った。
「己にゃまだ最後の手段があるからな。」
 戸が開いて、五人の男が、入ったばかりのところにごたごたとかたまって立ったが、その中の一人を前へ押し出した。その男が一足一足と踏み出す毎にためらいながら、それでも握った右の手を前へ差し出しながら、のろのろと進んで来るのを見るのは、他の場合だったらずいぶんとおかしかったろう。
「おい、こら、さっさとやって来い。」とシルヴァーが呶鳴《どな》った。「取って喰おうたぁ言やしねえ。そいつを手渡ししろ、間抜め。己ぁ規則は知ってるよ、そうともさ。総代をやっつけるようなことはしねえや。」
 この言葉で勇気がついて、その海賊は前よりは速く進み出て、シルヴァーに手から手へ何かを渡すと、もっと一層敏捷に仲間たちのところへ再び戻って行った。
 料理番《コック》は渡されたものを眺めた。
「黒丸《くろまる》だな! そうだろと思ってた。」と彼は言った。「手前らはどっからこの紙を取って来たんだ? おやおや、こりゃどうだい! なあ、おい、これぁ縁起がよくねえぞ! 手前たちは監督からこれを切るなんて馬鹿な真似をしたんだな。どの馬鹿が聖書を切ったんだ?」
「ああ、そら見ろ!」とモーガンが言った。――「そうら見ろ。おいらの言わねえこっちゃあねえ。そんなことをしていいことになるはずがねえって、おいらが言ったんだ。」
「ふうむ、手前たちは仲間で相談してきめたんだな。」とシルヴァーが言い続けた。「じゃ手前らはみんなぶらんこ往生することになると思うな。どの阿呆の間抜めが聖書なんぞを持ってたんだ?」
「ディックだよ。」と一人が言った。
「ディックだと? じゃあディックはお祈りをするがいいや。」とシルヴァーが言った。「奴の好運もこれまでだ、ディックのな。そいつぁ間違えっこなしだぜ。」
 しかしこの時例の黄ろい眼をしたのっぽの男が口を出した。
「おしゃべりは止《や》めろ、ジョン・シルヴァー。ここにいる船員は、規則通りにみんなで会議を開いて、お前に黒丸をつきつけたんだ。お前も、規則通りに、そいつを裏返して、そこに書《け》えてあることを見てくんねえ。それからしゃべるがいいさ。」
「有難うよ、ジョージ。」と料理番が答えた。「お前はいつも仕事はてきぱきしてるし、規則は十分心得てるし、ジョージ、己ぁお前を見るなあ好きだよ。さてと、とにかく、こりゃ何だな? ははあ! 『免職』と、――なあるほど、そうだな? なかなかうまく書えてあるわい、確かにな。刷った物みてえだ、まったくさ。ジョージ、お前の手蹟《て》かい? まあ、お前はすっかりここにいる船員の中での頭《かしら》になってるんだな。お前は次にゃ船長《せんちょ》になれるぜ、きっとだよ。すまねえが、ちょいとその松明《たいまつ》をも一度取ってくんねえか? このパイプが消えたんだ。」
「さあ、おい、」とジョージが言った。「ここにいる船員を馬鹿にするのもいい加減にしねえ。お前はおどけてるつもりなんだろう。がお前はもう駄目だよ。その樽から下りて来て、投票するがよかろうて。」
「手前は規則を知ってるって言ったように思うがな。」とシルヴァーは軽蔑したように答えた。「ともかく、手前が知らねえにしろ、己は知ってるんだ。だから己はここにいる、――己はまだ手前たちの船長だぞ、いいか、――手前たちが自分の苦情を言って、己がそれに答えてやるまではだ。それまでの間は、手前らの黒丸は堅《かた》パン一つほどの値打もねえんだ。それがすんでから、考えるとしよう。」
「おお、」とジョージが答えた。「お前はちっとも心配《しんぺえ》するこたねえや。己たちゃ[#「己たちゃ」に傍点]間違ったこたぁしねえよ、己たちはな。第《でえ》一、お前は今度の仕事をやり損《そこ》ねた。――いくらお前がずうずうしい男だって、これにゃそうじゃねえとは言えめえ。第二に、お前は敵をこの罠から何にもならねえのに逃がしちまった。なぜ奴らは出て行きたがったか? そりゃ己ぁ知らねえ。だが奴らがそうしたがってたこたぁ確かだ。第三、お前は、己たちが奴らの出かけるとこをやっつけようとするのを、させなかった。おお、己たちぁお前の腹の底を見抜いてるんだよ、ジョン・シルヴァー。お前は奴らに内通したがってるんだ。それがお前の不都合なとこだ。それから、第四は、この小僧のことだ。」
「それだけか?」とシルヴァーが平然と答えた。
「これだけあれぁたくさんさ。」とジョージが言い返した。「お前のへまのために己たちぁみんなぶらんこになって天日《てんぴ》に曝《さら》されるだろうよ。」
「よし、じゃあ、いいか。その四箇条に返答してやろう。一つ一つ返答してやる。己が今度の仕事をやり損ねたと? ふむ、ところで、手前たちはみんな、己のやりたかったことを知ってるはずだ。それから、もしその通りになってたら、己たちぁ明日《あす》といわず今晩にもヒスパニオーラ号に乗り込んでて、一人残らず生きていて、元気で、うめえ乾葡萄入りのプディングをたらふく食べ、宝を船艙に一|杯《ぺえ》積み込んでた、ってことも知ってるはずだ、畜生! そんなら、だれがその己の邪魔をしたんだ? だれがこの正式の船長の己をせき立てて早まらせたんだ? だれが己たちの上陸した日に己にあの黒丸をつきつけて、この舞踏《ダンス》を始めたんだ? ああ、面白《おもしれ》え舞踏だよ、――違えねえや、――ロンドンの仕置波止場でぶら下げられて縄の先でやる踊りみてえさ、まったくな。だが、だれがこんなことをやったんだ? そうさ、それぁアンダスンと、それからハンズと、それから手前、ジョージ・メリーだぞ! そして手前はそのおせっかいな奴らの中で一人だけ生き残ってる奴なんだ。それだのに、生意気千万にも己に代って船長になろうとするなんて、――己たちみんなをこんな目に遭わせた手前がだ! こん畜生め! こんな大べらぼうな話って聞いたこたぁねえ。」
 シルヴァーはちょっと言葉を切ったが、私は、ジョージとその仲間の者たちの顔で、以上の言葉が無駄ではなかったのを見て取ることが出来た。
「それが第一条の答だ。」と被告のシルヴァーが呶鳴って、額から流れる汗を拭うた。小屋が震えるほど猛烈にしゃべっていたからである。「やれやれ、ほんとに、手前たちと話してると厭んなっちまうぜ。手前たちゃ物の弁《わきめ》えもなけりゃ物覚えも悪いと来てるんだからな。手前たちの母親《おふくろ》は何だって手前らを海へなんぞ出したのか己にゃあわからねえ。海だと! 分限紳士だと! 仕立屋が手前たちに相応の商売《しょうべえ》だろうよ(註七七)[#「(註七七)」は行右小書き]。」
「さあ、続けろ、ジョン。」とモーガンが言った。「残りのもさっさと言え。」
「ああ、残りのか!」とジョンが答えた。「ありゃあなかなか立派なものだな、そうじゃねえか? 手前たちは今度の仕事はやり損ねたと言う。ああ! もしどのくれえひどくやり損ねてるか手前たちにわかりゃあ、きっと、手前たちゃびっくりするぜ! 己たちゃもうすぐ絞首《しめくび》になりそうなとこなんだぞ。それを考えただけでも己は頸が硬《こわ》ばるくれえだ。多分、手前らも見たことがあるだろう、鎖で絞《し》め殺されて、鳥がその周りに集ってる奴らを。潮《しお》で流されてゆくのを船乗が指してるんだ。『あれぁだれだい?』って一人が言う。『あれかい! ああ、あれぁジョン・シルヴァーさ。己ぁ被奴《あいつ》をよく知ってたよ。』と別の奴が言う。それから上手※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しをして次の浮標《ブイ》の方へ船を走らせていると、その鎖ががちゃがちゃ鳴るのが聞える、って訳さ。まあ、それが己たちのゆきつくところだ、己たちみんなのな。これもこいつと、ハンズと、アンダスンと、その他《ほか》手前たちいまいましい馬鹿野郎どものお蔭なんだ。それから、第四条の、その小僧のことが聞きてえんならだ、畜生! 言ってくれるが、其奴《そいつ》は人質じゃねえか? 人質をなくしちまおうってえのか? いいや、いけねえ。其奴は己たちの最後の頼みになるんだ、きっとだ。その小僧を殺すって? 己ぁ厭だよ、兄弟! それから、第三条か? ああ、そうだ、第三条にゃ言うことがうんとある。大方、手前たちはほんとの大学出の医者が毎日|診《み》に来てくれるのを有難えとも思わねえんだろな?――ジョン、頭を打ち割られたお前も、――ジョージ・メリー、まだ六時間とたたねえ前に瘧《おこり》をやって、今の今だってレモンの皮みてえな色の眼をしているお前もさ。それから、大方、手前たちは伴船《ともぶね》のやって来るのも知らねえんだろ、多分な? だが、来るんだぞ。それもそんなに永えこっちゃねえ。で、そうなって来ると人質があって喜ぶのはだれだかわかるだろ。それからと、第二条の、己がなぜ取引をしたかってことならだ、――へん、手前らがそれをして貰えたくって己んとこへ膝をついて這《へ》えつくばってやって来たんだ、――膝をついてな、やって来たんじゃねえか。それっくれえ手前たちゃ萎《しを》れてたんだ。――それにまた、己がそれをしなかったら、手前らは飢死《うえじに》してたろうて。――だが、そんなこたぁどうだっていい! こいつを見ろ、――そうすりゃ訳がわからあ!」
 そう言って彼は床《ゆか》の上に一枚の紙を投げ出したが、私にはすぐにそれが何だかわかった。――まさしく、私があの船長の衣類箱の底で油布に包んであるのを見つけた、三つの赤い十字記号のついている、黄ろい紙の海図であった。なぜ先生がそれを彼にやったのかということは、私には想像出来ないことだった。
 しかしそのことが私には合点のゆかぬことだったとするなら、海図の現れたことは生き残っている謀叛人どもには信じられぬことだった。彼等は鼠に跳びかかる猫のようにそれに跳びかかった。海図は手から手へと渡され、一人が別の奴からひったくった。そして、それを調べながら罵ったり呶鳴《どな》ったり子供のように笑ったりしている有様は、彼等が黄金そのものをいじっているばかりではなく、さらにもう無事にそれを積んで海に出ているようだと、思われるくらいであった。
「そうだよ、」と一人が言った。「こりゃ確かにフリントだ。J・Fと書えて、下に線を引いて、それに索結びみてえなものも書えてある。あの人はいつもこう書えてたよ。」
「こりゃいいや。」とジョージが言った。「だが己たちゃ船がねえから、どうしてあれを持って行くんだい?」
 シルヴァーが突然跳び立って、片手を壁にあてて身を支え、「手前に断《ことわ》っておくぞ、ジョージ。」と呶鳴った。「もう一|言《こと》生意気な口を利こうものなら、己は手前をひっぱり出して勝負するんだぞ。どうしてだと? へん、そんなことを己が知ってるものか? 手前らこそそれを己に教えてくれなきゃならなかったんだ、――余計な差出口をして己のスクーナ一船をなくしちまった手前とその他の奴らとがだ、この馬鹿野郎どもめが! だが手前らは駄自さ。それが言えるもんか。手前らにゃ油虫ほどの智慧もねえんだ。だが、ジョージ・メリー、手前だって丁寧な口だけは利けるんだし、また己がそうさせてやるぞ、いいか。」
「そいつぁまず申分のないとこだ。」と老人のモーガンが言った。
「申分がないだと! 己もそう思う。」と料理番が言った。「手前らは船をなくした。己は宝をめっけた。これじゃあだれが偉《えれ》え人間だい? で、もう己は辞職するぜ、畜生! さあ、もう手前らの好きな奴を選挙して船長にしろ。己はやめちまったんだ。」
「シルヴァーだ!」と皆が叫んだ。「いつまでも|肉焼き台《バービキュー》だ! 肉焼き台が船長《せんちょ》だ!」
「じゃそうきまったんだな?」と料理番が叫んだ。「ジョージ、お前はどうやらもう一度待たなきゃならねえようだなあ、おい。己が怨み深《ぶけ》え人間でねえのがお前にゃ仕合せだ。だがそいつぁ己の流儀じゃなかったんだぞ。それから、兄弟、この黒丸はどうする? もう大《てえ》して役にも立つめえな? ディックが自分の運をそこねて自分の聖書を駄目にした。まあそれっくれえのところさ。」
「この聖書は接吻《キス》して宣誓するにゃまだ役に立っだろうね?」とディックはぶつぶつ言った。彼は自分で呪いを招いたのに明かに不安を感じているのだった。
「少し切り取ってある聖書がかい!」とシルヴァーが嘲笑するように答えた。「駄目さ。そんなものは小唄本ほどの利目もねえや。」
「だって、そうかね?」とディックは嬉しそうに叫んだ。「まあ、でもね、持っててもいいだろうと思うねえ。」
「そら、ジム、――お前にゃ珍しいものだよ。」とシルヴァーが言って、その紙を私にひょいと抛《ほう》ってくれた。
 それはクラウン貨幣(註七八)[#「(註七八)」は行右小書き]ほどの大きさの円い紙だった。一番終りの紙だったので、片側は白かった。もう一方の側にはヨハネ黙示録の一二節が見え、――その中でもこういう文句が私の心にぎくりとこたえた。「犬および殺人者は外に居るなり。(註七九)[#「(註七九)」は行右小書き]」その印刷している側は焼木の炭を塗って黒くしてあったが、その炭がもう剥げかかって私の指を少しよごしていたのだ。白い側には同じく炭で「免職」という一語が書いてあった。私はその珍品を現在もそばに持っている。が、今では文字はすっかり消えて、拇指の爪でつけたようなかすり痕が一つ残っているだけである。
 それがその夜の事件の結末であった。その後間もなく、酒がみんなにぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]されて、私たちは寝ることになった。そしてシルヴァーの復讐は、高々、ジョージ・メリーを歩哨に立たせて、もし誠実にやらないと殺してしまうぞと嚇したことだけだった。
 私は永い間眼を閉じることが出来なかった。確かに私には考えることがたくさんあったのである。その日の午後自分が殺した男のことや、自分の非常に危険な立場のことや、とりわけ、シルヴァーの今やって見せた素晴しい芸当――片手では謀叛人どもをくっつけておき、もう一方の手では、出来るものでも出来ないものでもありとあらゆる手段によって、和解をして自分のみじめな命を救おうと努める――のことなどについてである。そのシルヴァー自身は安らかに眠って、高い鼾《いびき》をかいていた。それでも、彼を取巻いている暗澹たる危難や、彼を待っている恥ずべき絞首台のことを考えると、彼が悪人ではあっても、私の胸は彼のために痛むのであった。

第三十章 宣誓解放

 森の縁から呼びかける、はっきりした、力強い声で、私は目を覚された。――実際、私たちみんなが目を覚されたのだ。歩哨でさえも、戸口の柱に凭《もた》れていたのを身を起して、睡気ざましに体をゆすっているのが見えたから。――
「おうい、丸太小屋あ!」とその声は叫んだ。「医者が来たぞ。」
 まさしくそれは医師であった。その声を聞くと私は嬉しかったが、それでもその嬉しさには夾雑物《まざりもの》がないではなかった。私は自分の不従順なこそこそした行為を思い出してどぎまぎした。そして、その行為のために自分がどんなことになったか――どんな連中の間にいてどんな危険に取巻かれているか――ということを思うと、面目なくて先生に顔が合されなかった。
 夜がまだすっかり明けきっていなかったから、先生は暗い中に起きて来たのに相違ない。私が銃眼のところへ駆け寄って外を見ると、先生は、この前一度シルヴァーが来た時のように、地を這っている靄《もや》に膝のところまでも包まれて立っているのが見えた。
「やあ、先生! お早うごぜえまあす!」とシルヴァーは、すぐにすっかり目を覚して好人物らしいにこにこ顔をしながら、叫んだ。「ずいぶんとお早《はえ》えんですねえ、まったく。諺にもあります通り、喰物《くいもの》にありつくのは早起きの鳥ですよ。(註八〇)[#「(註八〇)」は行右小書き]おい、ジョージ、お前、体をゆすぶり起して、リヴジー先生が柵をお越しになる手伝いをしてあげろ。みんな工合がようごぜえますよ、あんたの患者はね、――みんな工合がよくって元気でさあ。」
 ※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を肱《ひじ》の下にあて、片手を丸太小屋の側壁につけて、丘の頂に立ちながら、彼はこうぺらぺらとしゃべり続けたが、――声も、態度も、顔付も、まったく以前のジョンであった。
「それに、あんたがまったくびっくりなさることがありますぜ。」と彼は言葉を続けた。「ここにゃちっちゃなお客がいますんで、――ひっ! ひっ! 新規の賄《まかない》附の下宿人って訳でさ。達者でぴんぴんしてますよ。このジョンのすぐ横で、船荷の宰領(註八一)[#「(註八一)」は行右小書き]みてえに寝ましたよ、――夜っぴて、枕を並べてね。」
 リヴジー先生はこの時分には柵壁を越えて料理番《コック》のかなり近くへ来ていた。それで先生がこう言う時の声の変っているのが私にはわかった。――
「ジムじゃないか?」
「まさに間違えなくそのジムで。」とシルヴァーが言った。
 先生は何も言わなかったが、ぴたりと止った。そして、また動き出すことが出来るようになったと思われるまでには、何秒かかかった。
「よし、よし、」とやがて彼は言った。「義務第一で、遊びその後だ。お前だってそう言うだろうな、シルヴァー。まずお前のところのあの患者たちを診察するとしよう。」
 それからすぐ医師は丸太小屋へ入って来て、私には怖い顔をして頷いて会釈し、病人の間で仕事にとりかかった。彼は、こういう不信義な悪魔どもの間では自分の生命が一本の髪の毛に懸っているようなものだということは知っていたには相違ないが、少しの懸念もしていないような様子をしていた。そして、まるで平静なイギリスの家庭を普通に往診してでもいるように、自分の患者たちにいろいろとしゃべっていた。彼の態度は皆に反応したのだろうと思う。というのは、彼等も医師に対して、何事も起らなかったかのように――彼がやはり船医であり、彼等がやはり忠実な平水夫であるかのように――振舞っていたから。
「お前は工合がよくなっているよ、なあ、おい。」と彼は頭に繃帯をした男に言った。「九死に一生を得た人間というのがいるなら、それはお前のことだ。お前の頭は鉄のように堅いに違いないな。それからと、ジョージ、どんな様子だ? ひどい顔色をしているな、確かに。ふうむ、お前の肝臓がな、でんぐり返っているんだぞ。お前はあの薬を飲んだか? 皆の者、この男はあの薬を飲んだかね?」
「はいはい、旦那、確かにこいつは飲みましたよ。」とモーガンが答えた。
「うむ、私もこのように謀叛人の医者になっている以上は、というよりも監獄医になっている以上はと言った方がいいんだがね、」とリヴジー先生は非常に快活な調子で言った。「とにかく、ジョージ陛下と(陛下万歳!)絞首台とのために一人の命でもなくしないようにするというのは面目にかけて大切なことだからな。」
 悪漢どもは互に顔を見合せたが、この手痛い言葉を黙って聞き流してしまった。
「ディックは気分がよくねえんですが。」と一人が言った。
「よくないって?」と医師が答えた。「じゃあ、ここへ来なさい、ディック、そして舌を見せて御覧。いや、これで気分がよかったら不思議だろうて! この男の舌を見てはフランス人だって恐しがるよ。こいつも熱病さ。」
「ああ、それ見ろ、」とモーガンが言った。「聖書を裂いたからそんなことになっただ。」
「あんまり頓馬だからそんなことになっただ、――お前の言う真似をするとね。」と医師は言い返した。「あんまり頓馬で、よい空気と毒気との区別も知らず、乾燥した土地と疫病のあるいやな泥沼との区別も知らんからだよ。まあ、大抵は、――もちろんこれはただ私の考えだが、――そのマラリヤ熱をお前たちの体から取ってしまうまでには、お前たちはみんな恐しい目に遭わなけりゃならんだろう。沼地に野営するなんて、どうしてそんなことをしたんだい? シルヴァー、お前には私も驚いたよ。お前は、何もかもひっくるめて見たところ、他の多くの者ほど馬鹿じゃないが、しかし、どうも健康の法則の観念と来ちゃ初歩も持っていないようだな。」
 医師は一人一人に薬を調合してやり、彼等はまったく笑止なほどへいこらしてその処方薬を飲んだが、その様子は人殺しをした謀叛人や海賊というよりは貧民学校の生徒のようだった。それがすむと医師が言った。――「さあ、今日《きょう》はこれでいい。ところで今度はあの子供とちょっと話をしたいんだがねえ。」
 そして彼は私の方へぞんざいに頭を振り動かした。
 ジョージ・メリーは戸口のところにいて、苦《にが》い味のする薬を飲んだ後でぺっぺっと唾を吐いていたが、医師のそう言い出した言葉を聞くなり真赤な顔をしてくるりと振り向き、「いけねえ!」と叫んで口ぎたなく罵った。
 するとシルヴァーが平手でぴしゃりと樽を叩いた。
「黙れ!」と彼は呶鳴《どな》って、ほんとうに獅子のようにあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。「先生、」とそれから彼はいつもの調子で言葉を続けた。「わっしは、あんたがこの子を可愛《かえぇ》がっていなさることを知ってるんで、そのことを考えていたんでさあ。わっしらはみんなあんたの御親切をほんとに有難く思っていますし、御覧の通りにあんたを信用していて、薬を酒みてえに飲んでます。で、わっしはこうしたらみんなに都合がいいだろうと思うんですがねえ。ホーキンズ、君は若《わけ》え紳士として名誉にかけての約束って奴を俺《わし》にしてくれねえか、――生れは貧乏だが、お前は若え紳士だからな、――逃げ出さねえという、名誉にかけての約束をしてくれねえかい?」
 私はすぐにその誓約をした。
「では、先生、」とシルヴァーが言った。「あんたはあの柵の外側へちょいと出て下せえ。そうして下さりゃ、あっしはこの子をこっち側までつれてゆきましょう。そうすれぁ柵越しに話が出来るでしょう。じゃ、さようなら、先生。それから大地主さんとスモレット船長によろしく。」
 これまではただシルヴァーの凄い見幕だけで抑えつけられていた皆の不平は、医師が小屋を出てしまうとすぐに爆発した。シルヴァーは、敵味方に二股をかけているとか――自分だけで別に和解をしようとしているとか――仲間の者たちの利益を犠牲にするとか言って、要するに、彼の正にやっている通りのそのことを、手厳しく非難された。今度は、それが実に明白であるように私にも思われたので、彼がどうして彼等の怒りを逸《そら》せられるか私には想像がつかなかった。しかし、彼は残りの者どもを一緒にしたより二倍ものしたたか者であった。それに昨晩の勝利は彼等の心を圧倒していた。彼は彼等に馬鹿だの間抜だのとあらゆる悪たれ口をたたき、私を医師と話させることは必要なのだと言い、例の海図を彼等の面先《つらさき》に振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してみせ、宝探しに行くことになっているその日になって条約を破るなんてことが出来るかと尋ねた。
「いいや、そんなことが出来るもんか!」と彼が叫んだ。「条約を破るのはその時が来てのことだ。それまでは、奴《やっこ》さんの長靴にブランディーを塗って磨けと言われても、あの医者の奴をごまかしておくんだ。」
 それから彼は火を焚きつけろと彼等に言いつけて、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をついて、片手を私の肩にかけながら、傲然と外へ出た。得心させられたというよりは彼の口達者な弁舌に黙らされて、方々にばらばらになっている連中を後に残して。
「ゆっくりと、おい、ゆっくりと。」と彼が言った。「己たちが急ぐと見ようものなら、奴らはすぐにかかって来るかも知れねえからな。」 それで、ごくゆっくりと私たちは砂地を進んで、医師が柵壁の向側で私たちを待っている処の方へ行った。そして、容易に話の出来る距離まで来るや否や、シルヴァーは立ち止った。
「このことも書き留めておいて下せえまし、先生。」と彼が言った。「それから、この子があんたに話しますでしょうが、わっしはこの子の命を救ってやりましたし、そのために免職させられもしました。それにゃ違えごぜえません。先生、人間がわっしのように危《あぶね》えことまでやった時にゃ、――言わば命をそっくり投げ出して向う見ずなことをやった時にゃ、――その人間に一|言《こと》くれえやさしい言葉をかけてやんなすっても、大方、さしつかえはねえとお考えでごぜえましょうな? 今はわっしの命だけじゃなくって――おまけにこの子の命にもかかわってるってことを、どうか覚えておいて頂きてえんで。で、先生、後生ですから、わっしに親切な言葉をかけて、ちっとでも望みが持てるようにしてやって下せえ。」
 シルヴァーは、一度ここへ出て来て仲間の者と丸太小屋とに背中を向けると、人間が変ってしまった。頬までがこけたように思われ、声が震えていた。これほど真面目《まじめ》な人間は一人もないくらいであった。
「うむ、ジョン、お前は怖がっているんじゃないかね?」とリヴジー先生が尋ねた。
「先生、わっしは臆病者じゃありません。そうですよ、わっしはね、――そんな[#「そんな」に傍点]に臆病者じゃありませんとも!」と言って彼は指をぱちっと鳴らした。「わっしが臆病者ならそんなことは言やしませんや。だが正直に白状しますが、わっしは絞首台のことを思うとぞくぞくするんでさ。あんたは立派な正直な人だ。あんたみてえな立派な人は見たことがねえ! で、あんたがわっしのした悪いこともお忘れにゃならねえだろうが、わっしがどんないいことをしたかってこともお忘れにならねえ、ってこともわっしは知ってますよ。そこでと、わっしはあっちへ行って――この通りにね――あんたとジムとを二人きりにしておきますぜ。で、このこともあっしの手柄として書きつけておいて下せえ。これだってずいぶんと無理をしてやってることですからね、そうですとも!」
 そう言いながら彼は少し後へ戻って、話し声の届かないところまで行き、そこで木の切株に腰を下して口笛を吹き始めた。そして、時々その座席の上でぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、私と医師との方を見たり、部下の不従順な悪党どもの方を見たりした。その悪党どもは、焚火――それを彼等は頻りに再び焚きつけていた――と小屋との間の砂地を行ったり来たりして、小屋から豚肉とパンとを運び出して朝食の用意をしていたのである。
「そうか、ジム、君はここにいたんだね。」と先生は悲しそうに言った。「自業自得でどうも仕方がない、ねえ、君。まったくのところ、私には君を責める気はない。が、親切であっても不親切であっても、これだけは言っておきたい。スモレット船長が丈夫だった時には、君は跳び出そうとはしなかった。そしてあの人が悪くなって、どうにも出来ない時だったので、あれはどうもまったく卑怯なことだったのだよ!」
 私はこの時には泣き出したことを白状しよう。「先生、」と私は言った。「勘忍して下さい。僕は十分自分を責めました。僕の命はどうせないものです。そして、もしシルヴァーが僕を庇《かば》ってくれなかったら、僕は今時分は死んでいたでしょう。それで、先生、これを信じて下さい。僕は死ぬのはかまいません、――それが僕には当然なのでしょうから、――しかし僕の心配するのは拷問です。もしあいつらが僕を拷問するとなると――」
「ジム、」と先生が私の言葉を遮ったが、その声はすっかり変っていた。「ジム、私はそんなことをさせておけん。さあ、跳び越せ。逃げ出そう。」
「先生、僕は誓言したんです。」と私は言った。
「わかってるよ、わかってるよ。」と彼は叫んだ。「だが、ジム、今はそんなことは仕方がない非難も恥も、一切合財、私が引受けるよ、ねえ、君。だが君をここへ残しておくってことは私には出来ないんだ。さあ、跳べ! 一跳びで外へ出られる。二人で羚羊《かもしか》のように逃げ出そう。」
「いいえ。」と私は答えた。「あなたは御自分ならそんなことをなさらないということはよく御存じです。あなただって、大地主さんだって、船長さんだってそうです。僕だってそんなことはしません。シルヴァーは僕を信用したんです。僕は誓言したんですから、戻って行きます。けれども、先生、まだ僕にはお話することが残っていたんですよ。もしあいつらが僕を拷問するとなると、僕はひょっとして一|言《こと》くらい口を滑らしてあの船がどこにあるかということを言うかも知れません。といいますのは、僕は船を取戻したんです。一つには運がよかったのと、一つには冒険をやったのとで。あれは、北浦の、南の浜の、高潮線のすぐ下のところにおいてあります。半潮の時にはきっと高く水を離れているでしょう。」
「船をね!」と先生がびっくりして言った。
 私が大急ぎで自分の冒険のことを話すと、先生は無言のまま私の言うことをしまいまで聞いていた。
「どうもこれには宿命といったようなものがあるね。」と彼は私が話し終えると言った。「事毎に、私たちの命を救ってくれるのは君なのだ。それだのに、私たちが君に命をなくさせるようなことをすると君は思うかい? そんなことをしたら実にすまん訳だよ、君。君は奴らの陰謀を見つけた。君はベン・ガンを見つけた。――あれは君がこれまでにした中で一番よい行いで、また、君がこれから九十まで生きようとも、あれ以上によいことは出来ないだろう。おお、そうそう、ベン・ガンのことを言えばだね! あれぁ実にいたずら者だよ。おい、シルヴァー!」と先生は大きな声で叫んだ。「シルヴァー!――一|事《こと》お前に忠告するがね、」と彼は料理番が再び近づいて来ると言葉を続けた。「あの宝を探しにゆくのはあんまり急がん方がいいぜ。」
「そうですねえ、先生、わっしは出来るだけのことはしますが、どうもそりゃあむずかしいですね。」とシルヴァーが言った。「失礼ですが、わっしはあの宝を捜すことで自分の命とその子の命を繋いでるだけなんですから。それにゃあ違えありません。」
「じゃ、シルヴァー、」と医師は答えた。「もしそうなら、もう一歩進んで言っておこう。宝を見つけた時には用心をしろよ。」
「先生、」とシルヴァーが言った。「男と男の話としちゃ、そりゃあ何だか奥歯に物の挟まってるような言い方ですね。あんたがどうしようとしていなさるのか、どうして丸太小屋を出なさったのか、どうしてあの海図をわっしに下さったのか、わっしにゃわからねえ。わかるもんですかい? それでも、わっしは眼をつぶって、望みの持てる言葉一つも聞かされずに、あんたの言いつけ通りにして来たんですぜ! だが、いや、今のはひど過ぎる。もしあんたが思ってなさることをきっぱりわっしに言って下さらねえんなら、ちょいとそう言って下せえ。そうすりゃわっしだって成行にまかせますから。」
「いやね、」と医師は考えこみながら言った。「私にはそれ以上言う権利がないのだ。それは私の秘密じゃないんだからなあ、シルヴァー。でなけりゃ、きっと、お前に話してやるんだが。しかし私は自分の言えるだけのことをお前に言うとしよう。一歩だけ先へ出て言うのだ。でないと、船長に叱られるからねえ、きっと! 第一に、私はお前にちっとばかり望みを持たせてやろう。シルヴァー、もし私たちが二人ともこの狼の罠から生きて出られたら、私は、偽誓だけはしないが、自分の全力を尽して、お前を救ってやろう。」
 シルヴアーの顔は晴々とした。「先生、あんたがわっしの母親《おふくろ》でも、きっと、それ以上のことは言えますまいよ。」と彼が叫んだ。
「まあ、それが私の第一の譲歩だ。」と医師は言い足した。「第二のは一つの忠告だがな。その子を始終お前のすぐそばにおいて、もし助けの要《い》る時には、おういと大声で呼んでくれ。そしたら私はお前に加勢しに行ってやろう。私がでたらめを言っているかどうかは、それでお前にもわかるだろう。じゃ、さようなら、ジム。」
 そしてリヴジー先生は柵越しに私と握手し、シルヴァーに頷いて会釈して、足早に森の中へ入って行った。

第三十一章 宝探し――フリントの指針

「ジム、」とシルヴァーは私たち二人だけになると言った。「もし己がお前の命を救ったんなら、お前は己の命を救ってくれたんだ。それは忘れねえよ。先生がお前に逃げろって合図したのを己は見たんだ、――この眼尻でな、見たとも。それから、お前がいやですて言うのも見たぜ、聞くようにはっきりとね。ジム、これで己は君に一つ借りが出来たよ。あの攻撃がしくじってから此方己ぁ初めて望みが持てたんだ。それも君のお蔭さ。ところで、ジム、己たちはこれからあの宝探しに行かなくちゃならんのだがね、これも封緘命令で、行ってみるまではわからねえという奴でな、己ぁ気が進まねえんだ。で、お前と己とは、言わば互《たげえ》に持ちつ持たれつで、しっかりくっついていなきゃいけねえ。そしてどんなことがあろうと首が助かることにしようぜ。」
 ちょうどその時、一人の男が焚火のところから朝飯の支度が出来たぞと私たちを呼んだ。それで、私たちはやがて砂地のここかしこに坐って堅パンとフライにした塩漬肉とを食べ始めた。彼等は牛を一頭丸焼するに適当なくらいの火を焚いてあった。そしてそれが今非常にかっかと盛んに燃えているので、風上からようやくその火に近づけるだけで、その方からでも用心をしなければ近づけなかった。それと同じ浪費的な気持で、彼等は食べ切れる三倍もの肉を料理したようであった。そして一人の奴は、訳もなくげらげら笑いながら、残った分を焚火の中へ投げ込んだ。火は、こういう珍しい燃料を抛《ほう》り込まれて、ますます盛んにごうごう音を立てて燃えた。私は今までにあんなに明日《あす》のことを気にかけない人たちを見たことがない。その日暮しというのが彼等のやり方を説明し得る唯一の言葉である。そして、彼等は小競合にはすこぶる大胆ですぐにけりをつけてしまうけれども、食物を浪費したり歩哨が眠ったりするのでは、とても永びく戦争などには全然不適当だということが私にはわかった。
 シルヴァーでさえ、肩の上にフリント船長をとまらせて、盛んに食べながら、彼等の思慮のなさに対して一言の非難もしなかった。そして、彼がそれまでにこの時ほどの狡猾さを示したことは一度もないと私は思ったので、そのことは私を一層驚かせたのだ。
「そうさ、兄弟、」と彼は言った。「|肉焼き台《バービキュー》がいてこの頭でもってお前たちのために考えてやるてえのは、お前たちにゃ仕合せなことだぜ。己はほしかったものを手に入れたんだ、そうとも。なるほど、奴らは確かに船を持っている。どこに持ってるのか、己ぁまだ知らねえ。だが、己たちは宝を見つけせえすりゃ、方々跳び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って探しあてるさ。そうなれぁ、兄弟、ボートを持っている己たちの方が勝ちだと思うな。」
 彼は、口一杯に熱い塩漬豚肉を頬張りながら、こんな風にしゃべり続けた。こうして彼は皆の希望と信頼とを回復した。同時に自分の希望と自信とをも取戻したのだろうと思う。
「この人質のことを言えばね、」と彼は話し続けた。「さっきのが、この子のひどく好きな連中との話しじまいだろうと思うよ。己はちょいといいことを聞いたが、それもこの子のお蔭だ。だがそれはもうすんでしまったことさ。宝探しに行く時にゃ己はこの子に綱をつけてつれて行くとしよう。なぜって、いいかい、何か事の起った場合の用心に、当分は、己たちはこの子を黄金みてえに大事《でえじ》にしておくんだからな。船も宝も両方とも手に入《へえ》って、仲間で陽気に海へ出るようになったら、その時にゃあな、己たちはホーキンズ君を説きつけて味方に誘うてよ、無論、いろいろ尽してくれたお礼に、分前もやるとしようよ。」
 皆がこの時上機嫌だったのは不思議ではなかった。私はと言うと、すっかりしょげていた。シルヴァーが今言った計画が実行出来るようになれば、すでに二重に裏切者である彼は、それを採用するに躊躇しないだろう。彼はまだどちらの陣営にも足をかけていた。それで、彼が、私たちの側へついて精々絞首を辛うじて免れるよりは、海賊どもと一緒に富と自由とを得る方を択ぶだろうということには、少しの疑いもなかった。
 いや、そればかりではなく、よし彼が余儀なくリヴジー先生との約束を守らねばならないようなことになったとしても、その場合でさえ私たちの前にはどんなに危険があったろう! 彼の手下の者たちの疑念が確実なものとなって、彼と私とが命がけで戦わなければならなくなった時には、――彼は不具《かたわ》で、私は子供、――相手は五人の倔強で敏捷な水夫たちだから、――どんなことになるだろう!
 こういう二重の懸念にかてて加えて、味方の人たちの振舞にもまだどうしても解けぬ謎があった。柵壁から出て行ったことも説明がつかないし、海図を譲ったことも合点がゆかぬし、さらに一層わからないのは、先生がシルヴァーに「宝を見つけた時には用心をしろよ。」と最後に警告したことだった。で、どんなに私が朝飯の味も碌々わからなかったか、どんなに不安な心を抱いて海賊どもの後について宝を捜しに出発したかということは、諸君にも容易にわかるだろう。
 だれか見る人がいたら、私たちはずいぶん珍妙な様子に見えたろう。みんなよごれた水夫服を着て、私を除く他はみんな十分に武装していた。シルヴァーは、腰に大きな彎刀《カトラス》を佩《お》び、四角い裾の上衣の一つ一つのポケットにピストルを一挺ずつ入れている他に、他に二挺の鉄砲を――一挺は前に一挺は後に――吊り下げていた。その上にも彼の奇妙な風体《ふうてい》を完全にするために、フリント船長が彼の肩に棲って意味もない船乗の言葉をいろいろでたらめにべちゃべちゃしゃべり散らしていた。私は腰に綱を巻かれて、船の料理番《コック》の後に従順について行った。彼はその綱の括りつけてない方の端を、時には空《あ》いている方の手で持ち、時には強い歯で啣《くわ》えていた。どう見ても、私はまるで踊り熊という恰好《かっこう》でひっぱられているのであった。
 他の人々はいろいろな荷物を背負っていた。或る者は鶴嘴《つるはし》やシャヴェル――それがヒスパニオーラ号から彼等が陸へ持って来た物の中で一番必要な物だったのだから――を持ち、また或る者は昼食の用意に豚肉やパンやブランディーを背負った。こういう食糧が皆もとは味方の貯臓物であったのを私は見て取った。それでシルヴァーが前晩言った言葉のほんとうであることがわかった。もし彼が医師と契約を取極めなかったならば、彼と謀叛人たちとは、船に逃げられたのだから、ただ清水を飲み、狩猟をしてその獲物を食べて、命を繋ぐより他はなかったに違いない。ところが、水はあまり彼等の口に合はないのだし、船乗というものは大抵射撃がうまくない。おまけに、食物がそんなに欠乏している時には、火薬がどっさりあるということはありそうにもなかったのだ。
 さて、このように支度して、私たち一同は――確かに日蔭にいなければならぬ例の頭を割った奴までも――出立し、一人一人とばらばらに浜の方へ行って、あの二艘の快艇《ギッグ》のある処へ来た。この快艇までが海賊どもの酔って馬鹿騒ぎをした痕を留めていて、一艘は腰掛梁《こしかけばり》が一つ壊れており、二艘とも泥だらけで淦《あか》もかい出してなかった。安全のために二艘とも持って行くことになった。そこで、人数を二つに分けて、碇泊所の水面に乗り出した。
 漕いでゆく間に、海図のことで多少議諭が起った。例の赤い十字記号は、無論、指標としては余りに甚しく大き過ぎたし、それに、裏面の備考の文句も、次に掲げるように、幾分曖昧なところがあった。それは、読者も思い出されるであろうが、こう書いてあったのである。――


北北東より一ポイント北に位して、遠眼鏡の肩、高い木。
骸骨島東南東微東。
十フィート。」

 だから、高い木が主《おも》な目標なのであった。今、私たちの真正面では、碇泊所は二百フィートから三百フィートまでの高さの高原で画られていて、その北は遠眼鏡《スパイグラース》山の傾斜した南の肩に接し、南の方へ向ってはまた隆起して、後檣《ミズンマスト》山と言われているごつごつした嶮岨《けんそ》な高地になっていた。この高原の頂には異った高さの松の樹がたくさん生えていた。ここかしこに、違った種数の松の樹が附近の樹々よりも正味四五十フィートも高く聳えているので、その中のどれがフリント船長のさした「高い木」であるかということは、その場所へ行って、羅針儀の示度で定めるより他はないのであった。
 しかし、そういう訳ではあったけれども、ボートに乗っている連中はだれも彼も、まだ半分も海を渡らない先から、もう自分の好きな木を択り出していた。のっぽのジョンだけは肩をすくめて(註八二)[#「(註八二)」は行右小書き]彼等にそこへ行くまで待っておれと言った。
 私たちは、シルヴァーの指図で、腕をあまり早く疲らせないようにと、ゆっくりと漕いだ。そしてずいぶん長い間舟に乗ってから、第二の川――遠眼鏡山の森の割目を流れ下っている川――の口に上陸した。そこから、左へ曲って、高原の方へ傾斜地を登り始めた。
 初めのうちは、ねとねとした泥深い地面と、こんがらかっている沼地の植物とのために、進むのがなかなか捗らなかった。けれども、だんだんと山は嶮《けわ》しくなりかけ、足の下も石がちになって来て、樹木もその性質が変り、もっと間が開けて生えているようになって来た。実際、私たちが今近づいているのは島でも非常に気持のよい処であった。香《かおり》の強い金雀花《えにしだ》や、花の咲いている多くの灌木が、ほとんど草に取って代っていた。緑色の肉豆蒄《にくずく》の木の茂みが、赤い幹をして広い影をつくっている松の樹と共に、ここかしこに散在していた。そして肉豆蒄の芳香は松の樹の香気とまじっていた。その上に、空気は澄んでいてすがすがしく、強い日光の中では、このことは素晴しく爽快に感じられた。
 一行は扇の形に広く拡がって、大声をあげたりあちこちに跳んだりして進んだ。その真中あたりに、他の者たちとは大分|後《おく》れて、シルヴァーと私とがついてゆき、――私は例の綱に繋がれ、彼は滑り易い砂礫の上をひどくはあはあ喘ぎながら登っていた。実際、時々私は彼に手を貸してやらねばならなかった。でなければ彼は足を踏み外して山を転《ころ》げ落ちたに違いない。
 こうして半マイルばかり進んで、高原の頂上に近づいていた時に、一番左の方にいた男が、おじけたように大声で喚き出した。続けざまに幾度も叫び声を立てたので、他の者もその男の方向へ走り出した。
「宝をめっけたはずぁねえよ。」とモーガン爺が、右の方から私たちのそばを急いで通り過ぎながら、言った。「あれぁずっとてっぺんにあるんだからな。」
 実際、私たちもその場所へ行ってみると、それはまったく違ったものだった。かなり大きな一本の松の樹の根もとに、緑の蔓草に絡まって、その蔓草は小さい骨を幾分か持ち上げてさえいたが、人間の骸骨が、衣服の屑片と共に、地面の上にあったのである。だれも彼もちょっとの間はぞっとしたと私は思う。
「こいつは船乗だったんだぜ。」とジョージ・メリーが言った。彼は、他の者よりは大胆だったので、骸骨のずっと近くへ行っていて、衣服の襤褸《ぼろ》を調べていたのだ。「ともかく、これぁ船乗の服だ。」
「そうともさ、そりゃ多分そうだろうとも。」とシルヴァーが言った。「こんな処《とこ》に僧正さまもめっかるめえからな。だが、この骸骨の寝方はどうだい? これぁ自然じゃあねえな。」
 実際、もう一度見直すと、その死体が自然の姿勢になっていると想像するのは不可能であるように思われた。多少乱れている(それは、多分、鳥がその死体を啄んだためになったのか、あるいはだんだんと遺骸を取巻いて来た蔓草が徐々に生い茂ったためになったのであろう)のを別にすれば、その男は完全にまっすぐに横っていて、――両足は一つの方向を指し、両手は、水へ跳び込む人の手のように頭の上へ伸ばして、ちょうどその反対の方向を指しているのであった。
「俺のぼけた馬鹿頭にも一つ考えついたことがあるよ。」とシルヴァーが言った。「ここに羅針儀がある。あすこに骸骨《スケリトン》島のてっぺんが歯みてえに突き出てる。ちょいと方位を取ってみてくれろ、その骸骨の向いている方のな。」
 それをやってみた。死体はまっすぐに島の方向を指していたし、羅針儀は正しく東南東微東を指示した。
「そうだろうと思ってた。」と料理番が叫んだ。「これぁ指針だよ。この線をまっすぐに行くと北極星と結構なお宝があるって寸法さ。だが、畜生! フリントのことを思うと身内《みうち》がぞくぞくするぞ。これも奴さん[#「奴さん」に傍点]の洒落に違えねえ。奴《やっこ》さんとあの六人の奴だけがここへ来て、奴さんが其奴らを一人残らず殺しちまった。それからこいつ一人だけをここへひっぱって来て、羅針儀に合せて寝かしたんだよ、あん畜生! こいつあ骨が長えし、髪の毛が黄ろいな。そうだ、これぁアラダイスだろう。お前はアラダイスを覚えてるだろ、トム・モーガン?」
「ああ、ああ、覚えてるよ。」とモーガンが答えた。「あいつぁおいらに借金があったんだよ、そうなんだ。それにここへ上陸する時にゃおいらのナイフを持って行きやがったぜ。」
「ナイフって言やあ、どうして奴のナイフがここらにころがっていねえんだろな?」と別の男が言った。「フリントは水夫のポケットから物を抜き取るような人間じゃなかったし、鳥だってあんなものは持って行くめえがなあ。」
「違えねえ、そりゃほんとだ!」とシルヴァーが叫んだ。
「ここにゃ何一つ残ってやしねえ。」とメリーがまだ骸骨の中を探りながら言った。「銅貨一枚なけりゃ煙草入れ一つもねえや。これぁどうも当《あた》り前《めえ》じゃねえと思うな。」
「うん、確かに、そうだ。」とシルヴァーが同意した。「当り前でもなけりゃ、有難くもねえ、ってところさ。いやどうも驚くねえ! 兄弟。だが、もしフリントが生きてたら、ここはお前たちにも己にもよくねえ処だったろうぜ。あいつらも六人だったが、己たちも六人だ。そしてあいつらは今骸骨になってるんだからな。」
「おいらはあの人の死んだのをこの眼で見たんだ。」とモーガンが言った。「ビリーの奴がおいらをつれて入《へえ》ったんさ。すると、あの人はもう死んでて眼の上に銅貨をのっけていたよ。」
「死んだとも、――そうさ、確かにあの人は死んじまったよ。」と繃帯をした奴が言った。「だが、もし幽霊ってものが出るとすりゃ、フリントの幽霊は出るだろうて。気の毒に、あの人はよくねえ死に方をしたからな、フリントは!」
「そうさ、その通りだったよ。」と別の者が言った。「あの人は怒ったり、ラムを持って来いって呶鳴《どな》ったり、また唄を歌ったりしていた。唄と言やあの人は『十五人』ばっかしだったなあ、兄弟。で、ほんとのとこを言や、己ぁあれからってものはあの唄を聞くなぁ好きじゃねえんだ。ありゃあえらく暑い時で、窓が開《あ》けっ放しになってたんで、あの唄がとってもはっきり聞えて来たよ。――でもその時にゃもうあの人には死の網がかかってたのさ。」
「おい、おい、」とシルヴァーが言った。「その話はもうよせよ。奴さんは死んじまったんだし、幽霊になって出て来もしねえよ。少くも昼のうちは出て来はしめえ。そいつは聞違えっこなしだ。心配《しんぺえ》は身の毒さ。さあ、ダブルーン金貨を探しに前進だ。」
 私たちは出発するにはした。が、太陽がかんかん照ってぎらぎらする昼間《ひるま》であったにも拘らず、海賊どもはもう分れ分れになって森の中を走ったり喚いたりせずに、互に並んで歩き、息をひそめて話した。あの死んだ海賊の恐しさが皆の心にしみこんでいたのだ。

第三十二章 宝探し――樹《こ》の間《ま》の声

 一つには今の騒ぎで気が滅入ったのと、また一つにはシルヴァーや病気の連中を休息させるために、一行の者全体は、高地の頂上に達するとすぐ、腰を下した。
 その高原は西の方へ幾らか傾斜していたので、私たちの休んだ場所からは、どちら側にも広い展望が見渡せた。前には、樹々の梢の上に、寄波《よせなみ》で縁取られている|森の岬《ケープ・オヴ・ザ・ウッズ》が見えた。背後には、碇泊所や骸骨《スケリトン》島が見下せたばかりではなく、東の方に――例の出洲《です》と東側の低地とをまったく越えて――渺茫たる外海までが見えた。私たちの真上には遠眼鏡《スパイグラース》山が聳え立って、一本松が点々と生えていたり、絶壁で黒くなっていたりした。聞える物音とては、島のぐるり中から響いて来る遠くの砕け波の音と、叢林の中で鳴く無数の虫の声だけであった。人影《ひとかげ》一つなく、海上には帆影《ほかげ》一つない。眺望の広大さまでがその寂蓼の感じを一|入《しお》増した。
 シルヴァーは、腰を下すと、彼の羅針儀で方位を取った。
「骸骨島から一直線のあたりには、『高い木』は三本ある。」と彼は言った。「『遠眼鏡の肩』ってのは、あそこの少し低くなった処《とこ》のことだろうと思うな。もう金《かね》をめっけるなあ造作のねえ事さ。先に腹を拵えてえような気もするな。」
「おいらは腹が空《す》いてやしねえ。」とモーガンが唸るように言った。「フリントのことを思ったんで空かねえんだろう――と思うんだ。」
「ああ、でも、お前、お前はあの男の死んでるのを有難えと思え。」とシルヴァーが言った。
「あの男は人相の悪い奴だったな。」と別の海賊が身震いしながら叫んだ。「おまけに、顔が青くってね。」
「あれゃあラムのためになったんだよ。」とメリーが言い足した。「青い! うむ、青かったねえ。それぁほんとの言葉だよ。」
 あの骸骨を見つけてこんなことばかりを考えるようになってからは、彼等はだんだんと低い声で口を利くようになり、今ではほとんど囁き声くらいになっていたので、彼等の話し声は森の静寂をほとんど破らなかった。と、突然、私たちの前面の樹立の真中から、力のない、高い、震え声で、節《ふし》も文句もよく知っているあの唄を歌い始めるのが聞えて来た。――


「死人箱《しびとのはこ》にゃあ十五人――
  よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!」

 この時の海賊どものようにひどくびっくりした人たちを私は一度も見たことがない。魔法をかけられたように六人の者は顔色を失ってしまった。跳び上る者もいたし、他の者にしがみつく者もいた。モーガンは地面にへたばった。
「ありゃフリントだ、違《ちげ》え――!」とメリーが叫んだ。
 その唄は始まった時のように突然止んだ。――だれかが歌い手の口に手をあてたかのように、歌の半ばで急に中絶した、とでもいう風であった。緑の梢の間から日光で輝いている澄んだ大気の中をずっと遠く流れて来たので、私にはその唄は軽やかに心地よく聞えた。だから他の連中がそんなに恐しがっているのは不思議であった。
「おい、」とシルヴァーは、灰色になった唇で言葉を出そうと努めながら、言った。「こいつぁいけねえ。出かける用意をしろ。これぁどうも変なこった。己にはあの声はだれだかわからねえ。だが、あれぁだれかが悪戯《わるさ》をしてるんだ、――だれか正体のある人間がだ、それにゃ違えねえ。」
 こう言っているうちに彼は勇気を取戻し、それと共に顔色も幾分ついて来た。すでに他の者たちも彼の励ます言葉に耳を藉しかけて、少し正気に返っていたが、その時、また同じ声が聞え出した。――今度は唄ではなくて、微かな遠くからの呼び声で、それが遠眼鏡山の谷間にもっと微かにこだました。
「ダービー・マグロー、」とその声は哀哭する――それがその声を最もよく言い現す言葉であった――ように言った。「ダービー・マグロー! ダービー・マグロー!」と幾度も幾度も繰返し、それから少し声を高めて、ここには書かない罵り言葉と共に、「ラムを船尾へ持って来おい、ダービー!」と言った。
 海賊どもは地面に根が生えたように立ち竦み、眼玉が顔から跳び出そうであった。その声が消えてしまって永くたっても、彼等はなおも無言のまま恐しそうに前を見つめていた。
「もう確かだぜ!」と一人が喘ぐように言った。「帰《けえ》ろうよ。」
「あれぁあの人の死ぬ時の言葉だった。」とモーガンが呻くように言った。「あの人がこの世で一番おしめえに言った言葉だ。」
 ディックは自分の聖書を取り出して、ぺらぺらと祈祷した。彼は、船乗になって悪い仲間に入る前には、よい育ちであったのだ。
 それでも、シルヴァーは参らなかった。歯をがちがち鳴らしているのが私には聞えたが、しかし彼はまだ降参していなかった。
「この島にゃダービーのことを聞いた奴はだれもいねえはずだ。ここにいる己たちの他《ほか》には一人だっていねえはずだが。」と彼は呟いた。それから、強いて元気を出して、「兄弟、」と叫んだ。「己はあの金を取りにここへ来たんだ。人間にだって悪魔にだって負けやしねえぞ。フリントが生きてる時だって己は奴がちっとも怖《こわ》かなかったんだ。死んでるあいつなんか怖《こえ》えもんか。ここから四分の一マイルとねえ処に七十万ポンドって金があるんだ。青っ面《つら》をした大酒飲みの老いぼれ海員《けえいん》の――それも死んでる奴が怖えってって、そういう大金《てえきん》に尻《けつ》を見せて逃げるなんて分限紳士が、どこの世界にあるけえ?」
 しかし彼の手下の者たちが元気を盛り返す様子は一向になかった。実際、むしろ、彼の言葉が死者に対して不遜なのにますます恐しがるようだった。
「止《や》めろよ、ジョン!」とメリーが言った。「幽霊に逆うなよ。」
 その他の者たちに至っては皆すっかり恐しがって返事をすることも出来なかった。彼等はそれだけの勇気があったならてんでに逃げ出したことであろう。だが恐怖のために彼等は互に寄り合い、ジョンの大胆さが自分たちを助けてくれるかのように、彼のすぐ近くにいた。彼の方は、自分の弱気をかなりに抑えつけていた。
「幽霊だと? うむ、そうかも知れねえ。」と彼は言った。「だが、己には腑に落ちねえことが一つある。山彦《やまびこ》がしたな。ところで、影のある幽霊なんてだれも見たことがねえ。とすればだ、幽霊に山彦なんかあってどうするものかね? そいつは変だろ、確かにな?」
 この論拠は私には甚《はなは》だ薄弱に思われた。しかし何が迷信家の心を動かすかわからぬもので、私の驚いたことには、ジョージ・メリーが大いに安堵した。
「うむ、そりゃそうだな。」と彼が言った。「お前は利口だよ、ジョン、確かに。さあ、引返《ひっけえ》すんだ、兄弟! 己たちゃやり口が間違ってると思うよ。考えてみると、なるほど、あれぁフリントの声みてえだったが、やっぱり、あの人の声そっくりじゃなかったぜ。あれぁだれか他の奴の声に似てたな、――あれぁあのう――」
「ベン・ガンさ、きっと!」とシルヴァーが呶鳴《どな》った。
「うん、そうだ。」とモーガンが、膝をついていたのを跳び立ちながら、叫んだ。「ありゃベン・ガンだよ!」
「それだってあんまり変りはねえだろ?」とディックが尋ねた。「ベン・ガンだってここに生きていねえことは、フリントと同じだ。」
 しかし年をとった方の海員たちはこの言葉を鼻であしらった。
「なあに、ベン・ガンなんかだれも気にかけやしねえ。」とメリーが叫んだ。「死んでいようが生きていようが、だれも気にかけやしねえや。」
 彼等の元気が恢復し、顔色も普通になって来た様は、驚くべきほどであった。間もなく彼等は一緒にしゃべり出し、時々話をやめて聞耳を立てた。それっきり何の声も聞えて来なかったので、やがて皆は道具を肩に担って再び出発した。メリーは、骸骨島から一直線に皆を歩かせるために、シルヴァーの羅針儀を持って先に歩いて行った。彼の言ったのはほんとうだった。死んでいようが生きていようが、ベン・ガンのことなどだれも気にかけはしなかった。
 ディックだけはまだ例の聖書を手に持って、歩きながら恐しそうにあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]していた。しかしだれも彼に同情する者はなく、シルヴァーなどは彼の用心を冷かしさえした。
「己ぁ言ったろう、」とシルヴァーが言った。――「お前は聖書を駄目にしたんだって己ぁ言ったろう。誓言をするだけの役にも立たなくなったものを、幽霊が怖がるとでもお前は思ってるのか? これっぽちの値打もねえぜ!」と彼は、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖でちょっと身を支えながら、太い指をぱちっと鳴らした。
 しかしディックは気が楽になるはずもなかった。実際、その若者が病気に罹っているのが間もなく私にははっきりわかった。暑気と、疲労と、今の事の衝撃《ショック》とで早められて、リヴジー先生の預言した熱病が、明かにずんずんとひどくなっていたのだ。
 その頂上は、このあたりでは開けていて気持よく歩けた。前に言ったように高原は西の方へ傾斜しているので、私たちの進む途は少し下り坂になっていた。松の樹の大きいのや小さいのが広く離れて生えていたし」肉豆蒄や躑躅《つつじ》の叢の間でさえ、広く開けた空地が熱い日光に焼けていた。私たちは、島を突っ切ってほとんど北西に進んで行くと、一方では「遠眼鏡山の肩の下にますます近づき、また一方では、私が一度|革舟《コラクル》の中で揺られて震えていたことのあるあの西側の湾がますます広く見渡せた。
 そのうちに例の高い木の中の一番初めの木のところへ着いたので、方位を取ってみると、その木ではないとわかった。二番目の木もそうだった。三番目の木は一|叢《むら》の下生《したばえ》の上に二百フィート近くも高く空中に聳え立っていた。巨人のような植物で、赤い幹は小屋ほどの大きさがあり、その周囲の広い樹蔭《こかげ》では歩兵一箇中隊でも演習が出来たろう。これは島の東の海からも西の海からも遠くから目につくし、海図に航海目標として書き入れられていたかも知れないくらいのものだった。
 しかし今私の道連《みちづれ》の者どもの心を動かしたのは、その木の大きさではなかった。それは、その拡がった樹蔭の下のどこかに七十万ポンドの黄金が埋めてあるということであったのだ。彼等が近づくにつれ、金《かね》のことを思う心はさっきまでの恐怖を呑みこんでしまった。彼等の眼はぎらぎらと燃えた。足は次第に速く軽くなった。心は、彼等の一人一人を彼方で待っているあの幸運、一生涯中贅沢と快楽とをさせてくれるあの財宝に、すっかり夢中になっていた。
 シルヴァーは、ぶうぶう言いながら、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をついてぴょこぴょこ跳んで行った。彼の鼻孔は脹れて震えていた。その熱したてらてらした顔に蝿がとまると彼は狂人のように罵った。私に括りつけてある綱を荒々しくひっぱり、時々は恐しい顔付をして私の方を振り向いた。確かに彼は少しも自分の気持を隠そうとはしなかった。そして確かに私はその彼の気持を印刷物のように読み取った。こうして黄金のすぐ近くへ来ると、他のことはすべて忘れてしまっていたのだ。彼のした約束も医師から聞いた警告も二つとも過去の事だったのだ。そして、彼が宝を手に入れ、夜陰に乗じてヒスパニオーラ号を見つけ出して乗り込み、この島にいる正直な人々を一人残らず叩き殺して、初めにもくろんでいた通りに、罪悪と財宝とを積み込んで出帆してしまいたいと思っているのだということは、私には疑うことが出来なかった。
 こういう懼れで心が乱れていたので、宝探しの連中の速い歩調に後れずについて行くのは私には辛《つら》かった。折々私は躓《つまず》いた。シルヴァーが綱を荒々しくひっぱったり人殺しのような眼付で私を睨みつけたりしたのは、その時だったのだ。私たちより後れてしまって、今では殿《しんがり》となっているディックは、熱が上り続けているので、一人でべちゃくちゃと祈ったり罵ったりしていた。それもまた私のみじめさを増したが、その上、挙句の果に、私は、神をも敬わぬあの青い顔をした海賊が――唄を歌ったり酒を持って来いと喚いたりしながらサヴァナで死んだという男が――かつてこの高原で手ずから六人の同類を殺したという惨劇のことを思って、悩まされたのであった。今はこのように平和なこの森も、その時は悲鳴で鳴り響いたに違いない、と私は思った。そして、そう思っただけでさえ、その悲鳴がまだ鳴り響いているように思われてならなかった。
 私たちは今や茂みの縁に来た。
「ばんざあい、兄弟、みんな一緒に行くんだぜ!」とメリーが叫んだ。そして先頭にいる者が急に駆け出した。
 と、突然、十ヤードと先へ行かないうちに、彼等が立ち止ったのが私たちに見えた。低い叫び声が起った。シルヴァーは、魔に憑かれた者のように※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖の足で土をはね跳ばしながら、歩む速さを二倍にした。そして次の瞬間には彼と私もぴたりと停った。
 私たちの前には大きな掘った穴があった。側面が落ち込んでいて、底に草が萌え出ているところからみると、ごく昨今に掘ったものではなかった。この穴の中には、二つに折れた鶴嘴《つるはし》の柄《え》と、幾つもの荷箱の板が散らかっていた。その板の一つに、海象《ウォルラス》号という名――フリントの船の名――が、烙鉄で烙印を押してあるのを、私は見た。
 すべてが疑う余地のないほど明白であった。隠してあった物は見つけられて奪われてしまったのだ。七十万ポンドはなくなってしまったのだ!

第三十三章 首魁の没落

 この世の中にこれほどの顛倒は決してなかった。その六人の者は銘々まるでぶん殴られでもしたかのようだった。しかし、シルヴァーだけには、その打撃はほとんど直ちに過ぎ去った。それまでは彼は競馬馬のようにあの金のことばかりにひたすら心をはやらせていたのであった。ところが、それがたちまちにしてぴたりと止められたのである。そして彼は少しもあわてず、気を取直し、他の者たちがまだ失望を自覚するだけの余裕がないうちに自分の計画を立て変えてしまった。
「ジム、」と彼が囁いた。「これを持って、面倒の起った時の用意をしていてくれ。」
 そして彼は二つの銃身のあるピストルを一挺私に渡してくれた。
 同時に彼は北の方へ静かに動き出して、数歩行ってその穴を私たち二人と他の五人との間にあるようにした。それから私を見て、「なかなか危いことになったぞ。」と言うかのように頷いてみせたが、実際、私もそうだと思った。彼の顔付は今はすっかり親しそうになっていた。こんな風に絶えず変るのに私も反感を起して、「君はまた寝返りうったんだね。」と囁かずにはいられなかった。
 彼にはそれに答えるだけの余裕がなかった。海賊どもが、罵り喚きながら、相次いで穴の中へ跳び降り始め、板を脇へ投げ出しながら、指で掘り始めたのである。モーガンが金貨を一枚見つけた。彼は罵り言葉を続けざまに吐きながらそれを差し上げた。それは二ギニー金貨で、十五秒ほどの間彼等の手から手へと渡されていた。
「二ギニーだぜ!」とメリーが、それをシルヴァーに振ってみせながら、呶鳴《どな》った。「これがお前《めえ》の言う七十万ポンドけえ? お前は商売《しょうべえ》のうめえ人間じゃあなかったかね? お前は今までに何一つやり損ねたことのねえ男だと、この唐変木の間抜めが!」
「ずんずん掘って見ろよ、手前《てめえ》たち。」とシルヴァーは落着き払って横柄に言った。「豚胡桃《ぶたぐるみ》でも出て来るだろうぜ」きっとな。」
「豚胡桃だと!」とメリーは金切声で繰返した。「兄弟《きょうでえ》、あれを聞いたか? うん、確かにあの男は何もかもみんな知ってたんだぞ。奴の面《つら》を見ろ。ちゃんとあそこに書《け》えてあるぜ。」
「へん、メリー。」とシルヴァーが言った。「また船長《せんちょ》になるつもりか? 手前は押《おし》の強《つえ》え野郎だよ、まったく。」
 しかし今度はだれも皆全然メリーの味方をした。彼等は、恐しい眼付をして背後を振り向きながら、穴から這い上りかけた。ただ一つだけ私たちに都合のよさそうなことを私は認めた。彼等は皆シルヴァーと反対の側に上って行ったのである。
 こうして、私たちは、一方に二人、もう一方に五人、穴を間にして立ったが、だれ一人第一撃を始めるだけの勇気を出す者はなかった。シルヴァーは身動きもしなかった。※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をついてまっすぐに立ったまま、彼等を見つめて、いつもの通りに自若としているように見えた。確かに、彼は勇敢な男であった。
 とうとう、メリーは口を利いた方がよいと思ったらしかった。
「兄弟、」と彼が言った。「奴らはあすこに二人っきりだぞ。一人は、己たちみんなをここまでつれて来て、己たちをこんなぶざまな目に遭わせやがった、老いぼれの不具《かたわ》だ。もう一人は、己が心の臓を抉《えぐ》り出してくれようと思ってる餓鬼だ。さあ、兄弟――」
 彼は声を張り上げ片腕を振り上げて、明かに突撃の指揮をするつもりだった。しかしちょうどその時、――ばあん! ばあん! ばあん!――と三発の小銃弾が茂みの中から飛んで来た。メリーは真逆さまに穴の中へ転がり落ちた。頭に繃帯をした男は独楽《こま》のようにくるくるっと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってから、横向にばったりと倒れて、その場で死んだが、まだぴくぴく動いていた。他の三人はくるりと向を変えて一所懸命に逃げ出した。
 瞬きする間もないうちに、のっぽのジョンは※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》いているメリーにピストルの二つの銃身から発射した。そしてメリーが断末魔の苦悶をやりながら彼の方に眼をぐるりと向けると、彼は、「ジョージ、己がお前を往生させてやったのだね。」と言った。
 同時に、医師と、グレーと、ベン・ガンとが、肉豆蒄の木の間から、まだ煙の出ている銃を持って私たちのところへ跳んで来た。
「前へ!」と先生が叫んだ。「全速力だ、みんな。奴らとボートの間を断《た》たなきゃならん。」
 それで私たちは非常な速さで駆け出して、時には胸のところまである藪の中も突き抜けて走って行った。
 しかしシルヴァーだけは私たちに後れずについて来ようと一所懸命になっていたのだ。その男が胸の筋肉が張り裂けそうなくらいに※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をついて跳びながらやりおおせた業《わざ》は、普通の健全な体の人間でもとても及ばぬ業であった。これは先生もそう言っておられる。そういう訳で、私たちが傾斜面の頂上に着いた時には、彼はすでに私たちより三十ヤードくらいの後にいて、今にも息も止りそうになっていた。
「先生、」と彼は呼びかけた。「あすこを御覧なさあい! 急ぐこたぁありませんぜ!」
 確かに、急ぐ必要はなかった。高原のもっと開けた処に、三人の生き残った者たちが、初めに駆け出したと同じ方向に、まっすぐに後檣《ミズンマスト》山の方へ、まだ走っているのが見えた。私たちはすでに彼等とボートとの間にいるのだ。それで、私たち四人は腰を下して息をついたが、その間に、のっぽのジョンが、顔の汗を拭いながら、ゆっくり私たちに追いついて来た。
「どうも有難うごぜえました、先生。」と彼が言った。「あんたは、わっしとホーキンズにとっちゃ、ちょうどいい時に来て下せえましたようで。で、やっぱりお前《めえ》なんだな、ベン・ガン!」と言い足した。「うん、お前は確かに面白《おもしれ》え奴だよ。」
「俺《わし》はベン・ガンだよ、そうさ。」と島に置去りにされた男は、もじもじして鰻のように体をくねらせながら、答えた。「で、」と彼は大分永く間をおいてから言い足した。「変りはねえかい、シルヴァーさん? まず達者だよ、有難う、ってとこだろう。」
「ベン、ベン、」とシルヴァーは呟いた。「お前に一|杯《ぺえ》喰わされようとはな!」
 医師は、謀叛人どもが逃げる時に棄てて行った鶴嘴《つるはし》を一挺取りに、グレーを戻らせた。それから、ボートのある処まで私たちがぶらぶらと山を下って行く間に、先生はそれまでに起った事を手短に物語ってくれた。その話はシルヴァーが心から興味を持ったものであった。そして薄馬鹿の置去り人《びと》のベン・ガンが始めから終りまでその主人公なのであった。
 ベンは、島中を永い間ただ一人でさまようている間に、例の骸骨を見つけた。――それの所持品を掠奪したのは彼であったのだ。彼は宝を見つけた。そしてそれを掘り上げた(あの穴の中に折れていたのは彼の鶴嘴の柄であった)。彼はその宝を背負って、高い松の樹の根もとから、島の北東隅の二つ峯の山にある洞穴まで、うんざりするほど何度も何度も往復して運び、ヒスパニオーラ号の到着する二箇月前から、宝はそこに安全にしまってあったのである。
 医師は、あの攻撃のあった日の午後に、この秘密をベン・ガンから聞き出すと、また、その翌朝、碇泊所に船のいなくなったのを見ると、シルヴァーのところへ出かけて行って、今ではもう無用のものになった例の海図を彼にやり、――ベン・ガンの洞穴にはガンが自分で塩漬にした山羊の肉が十分に貯えてあるので、シルヴァーに食糧もやり、――柵壁から二つ峯の山まで安全に移る機会を得るために何もかもやってしまった。その山の方にいれば、マラリヤに罹る恐れもないし、金の番をすることも出来たからである。
「君について言えばね、ジム、」と先生が言った。「私はそうしたくはなかったんだ。だが私は、義務を守っている人たちにとって一番いいと思ったことを、したのだよ。で、君がその人たちの中の一人でなかったとすれば、それはだれの咎《とが》だったろうかね?」
 その朝、海賊どもが先生のために怖しい失望をすることになっているので私がその捲添えを喰うに違いないということに気がつくと、先生は洞穴までずっと駆け通しで帰り、船長を護るのに大地主さんだけを残して、グレーと置去り人とをつれて出発し、あの松の樹のそばの近くにいられるようにと、島を対角線に突っ切って進んで行った。けれども、間もなく私たちの方の一行が先に進んでいることがわかったので、足の速いベン・ガンを前に走らせて、一人で彼の出来るだけのことをさせることにした。その時に、彼は昔の船友達の迷信を利用してやろうと思いついた。それが大いにうまく当ったので、グレーと医師もやって来て、宝探しの連中の到着しないうちにすでに待伏せしていることが出来たのである。
「ああ、」とシルヴァーが言った。「ホーキンズをつれて来たのはわっしにゃ仕合せでした。さもなけりゃ、あんたはジョン爺《じい》をずたずたに切らせて、何とも思いなさらなかったでしょうよ、先生。」
「何とも思わなかったろうて。」とリヴジー先生は機嫌よく答えた。
 そしてこの時分には私たちは快艇《ギッグ》のところへ着いていた。医師は鶴嘴《つるはし》でその中の一艘を打ち壊し、それから私たちみんなはもう一艘の方に乗り込んで、北浦をさして海路で※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行こうと出発した。
 それは八九マイルの航行であった。シルヴァーは、もうほとんど死にそうなくらいに疲れていたけれども、私たち他の者と同様にオールを取らされ、舟は間もなく穏かな海の上をずんずんと飛ぶように進んだ。間もなく私たちは海峡を通り抜けて、島の南東の角を狙った。そこは四日前にヒスパニオーラ号を曳綱で曳いて入った処である。
 二つ峯の山のそばを通り過ぎる時に、ベン・ガンの洞穴の黒い入口と、そのそばに銃に凭《もた》れて立っている人の姿とが見えた。それは大地主さんだった。私たちはハンケチを打ち振って万歳を三唱したが、シルヴァーの声もだれにも劣らないほど熱誠にそれに加わった。
 さらに三マイル進み、ちょうど北浦の口を入ったところで、私たちの出会ったのは他《ほか》ならぬ、ひとりで動いているヒスパニオーラ号だった。この前の満潮で浮き上ったのだ。そしてもし南の碇泊所のようにひどい風があったり強い潮流があったりしたならば、船はもう二度と見られないところへ流れて行ってしまったか、あるいはどこかへ坐礁してどうにも出来なくなってしまっていたろう。しかし実際は、大檣帆《メーンスル》が破損した以外には、悪くなったところはほとんどなかった。それで、別の錨をつけて、それを一尋半の水の中へ落した。私たち一同は、ベン・ガンの宝蔵《たからぐら》に一番近い地点であるラム入江へと、再び漕いで※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。それからグレーが一人だけで快艇を漕いでヒスパエオーラ号へ戻り、そこで番をしてその夜を過すことにした。
 浜から洞穴の入口までは緩い傾斜をなして上っていた。その頂上で、大地主さんが私たちを出迎えた。私には彼は懇ろに親切にしてくれて、私の脱走したことについては、叱るにも褒めるにも一|言《こと》も言わなかった。シルヴァーが丁寧なお辞儀をすると、少しむっと赤い顔をした。
「ジョン・シルヴァー、」と彼は言った。「お前は非常な悪党で詐欺師だ、――実に驚くべき詐欺師だよ。私はお前を告訴するなと言われている。だから、しないつもりだ。しかし死んだ人たちが磨石《ひきうす》のようにお前の頸《くび》にぶら下っているのだぞ(註八三)[#「(註八三)」は行右小書き]。」
「どうも有難うごぜえます、はい。」とのっぽのジョンは、またお辞儀をしながら、答えた。
「私に有難うなんてよくも言えたもんだ!」と大地主さんが叫んだ。「私としては自分の義務を非常に怠ることになるんだ。退《の》いていろ。」
 それから私たちみんなは洞穴へ入った。そこは広い風通しのよい場所で小さな泉と清水の水溜りがあり、その上には羊歯《しだ》が蔽いかかっていた。床《ゆか》は砂地であった。大きな焚火の前に、スモレット船長が寝ていた。そして、遠くの方の隅には、大きな山のような貨幣と、四辺形に積み上げられた黄金の棒とが、焚火の焔にただぼんやりとちらちら光っているのが見えた。それが、私たちが手に入れようとして遥々やって来た、そしてまたヒスパニオーラ号からすでに十七人の生命を失わさせた、フリントの宝なのであった。それを集めるために、どれだけ多くの血が流され悲しみが味われたか、どれだけの立派な船が海原《うなばら》で船底に孔をあけて沈められたか、どれだけの勇敢な人々が眼隠しされて船側の板を歩かせられて海に落ちたか、どれだけの大砲の弾丸が撃たれたか、どれだけの恥辱と虚偽と残虐とが行われたか、恐らく、生きている人間でそれを語り得る者は一人もなかったろう。だが、それらの罪悪にそれぞれ与《あずか》り、またそれぞれその報酬に与《あずか》ろうと望んでその甲斐《かい》のなかった人間が、その島にまだ三人いるのであった。――シルヴァーと、年寄のモーガンと、ベン・ガンとだ。
「来給え、ジム。」と船長が言った。「君は君の縄張ではいい子供だよ、ジム。だが君と私とがもう一度一緒に航海に出ようとは私は思わんな。君は生れつきあまり人気者なので私には手に負えんよ。そこにいるのはお前だな、ジョン・シルヴァー? おい、何しにここへ来たのだ?」
「わっしの義務をやりに戻って来ましたんで、はい。」とシルヴァーが答えた。
「ふむ!」と船長が言った。そしてそれっきり何も言わなかった。
 その夜私が味方の人たちに囲まれて食べた晩餐の何と楽しかったことか。また、ベン・ガンの塩漬の山羊の肉や、ヒスパニオーラ号から持って来た幾つかの珍味や一罎《ひとびん》の年|経《へ》た葡萄酒で、その食事の何とおいしかったことか。確かに、それ以上に楽しげな幸福な人々はまたとなかったに違いない。そして、そこにはシルヴァーもいて、ほとんど焚火の光の届かない後の方に坐っていたが、しかしうまそうに食べ、何でも用のある時にはすぐに前へ跳んで来るし、私たちの笑う時にはおとなしく声を立ててそれに加わりさえした。――まったく、航海に出かけて来た時と同じあの柔和な、慇懃な、従順な船員であった。

第三十四章 それから結末

 その翌朝、私たちは早くから働き始めた。この恐しくたくさんの黄金を浜まで陸路で一マイル近く運搬し、そこからボートでヒスパニオーラ号まで三マイル運搬するのは、そのような小人数の働き手にはずいぶんの仕事であったからである。まだ島をうろついている三人の奴は、大して私たちに面倒をかけなかった。山の肩のところに歩哨を一人だけ立たせておけばいかに不意に襲って来ても十分大丈夫だったし、その上、彼等は戦闘にはもう十二分に懲々《こりごり》していると私たちは思ったのだ。
 だから作業はどしどし進められた。グレーとベン・ガンとはボートで往復し、彼等の行っている間にその他の者は浜に宝を積み上げた。綱の端にぶら下げた二本の金の棒は、大人一人に十分な荷で、――それを持ってのろのろと歩けるくらいのものだった。私は、運ぶのには大して役に立たないので、一日中洞穴の中にいて、せっせと金貨をパン嚢の中に詰め込んでいた。
 それは実に珍しい蒐集物《コレクション》だった。いろいろな貨幣のある点ではビリー・ボーンズの箱の中にあった金《かね》と同じであったが、それよりはずっとたくさんでもありずっと種々雑多でもあったので、私にはそれを種類分けするのがこの上もなく面白かった。イギリスや、フランスや、スペインや、ポルトガルなどの貨幣があり、ジョージ金貨や、ルイ金貨もあれば、ダブルーン金貨、ダブル・ギニー金貨、モイドー金貨、セクィン金貨(註八四)[#「(註八四)」は行右小書き]もあり、過去百年間のヨーロッパのあらゆる国王の宵像を刻した貨幣があるかと思うと、糸の束か蜘蛛の巣のように見えるものを押刻した珍奇な東洋の貨幣もあり、丸い貨幣に四角い貨幣、それから頸にかけでもするかのように真中に孔を穿った貨幣まであって、――世界中のほとんどあらゆる種類の金《かね》がこの蒐集物の中にあったに違いないと思う。数はと言えば、確かに秋の木《こ》の葉のようにあったので、私の背中は屈んでいるために痛くなり、指はそれを択り分けるのでずきずきしたくらいであった。
 次の日もまた次の日もこの作業が続いた。毎日夕方になると一財産が船に積み込まれるのだが、しかし次の一財産が翌朝を待っているのだった。そして、この間中、私たちはあの三人の生き残っている謀叛人の消息を少しも聞かなかった。
 とうとう、――三日目の晩だったと思うが、――先生と私とが、島の低地を見下せる山の肩のところをぶらぶら歩いていると、その時、下の真暗な闇の中から、叫んでいるようでもあり歌っているようでもある声が風に運ばれて来た。私たちの耳に届いたのはほんの少しで、その後はすぐ元の静寂に返った。
「可哀そうにな。あれぁ謀叛人どもだよ!」と先生が言った。
「みんな酔っ払ってるんで。」とシルヴァーの声が私たちの背後からした。
 シルヴァーは全然自由を許されていたと言ってもよく、また、毎日剣もほろろの扱いを受けていたにも拘らず、自分ではもう一度すっかり特権を与えられた親しい従者になったつもりでいるようだった。実際、彼がそういう馬鹿にされた待遇を実によく忍んで、絶えず飽くまでも慇懃にみんなに取入ろうと努めていたことは、非常なものであった。それでも、だれも彼を犬以上にはあしらわなかったと思う。そうでないのは、ベン・ガンか、私くらいのもので、ベン・ガンは昔の按針手《クォータマスター》をやはりひどく恐れていたのだし、私は事実彼に感謝すべきことがあったのだ。もっとも、実際、私には他のだれよりも彼を悪く思ってもいい理由もあったように思う。というのは、彼があの高原で新たな裏切りを企《たく》らんでいるのを見ていたからであるが。そういう次第で、医師が彼に答えたのはかなり素気なかった。
「酔っ払っているか譫語《うわごと》を言っているかだ。」と先生が言った。
「仰しゃる通りでごぜえますよ。」とシルヴァーが答えた。「そして、どっちだってちっとも構やしません、あんたにもわっしにも。」
「お前は自分を慈悲深い人間だと言ってくれとは言うまいな。」と先生は冷笑しながら答えた。
「で、私の気持を聞いたらお前は驚くかも知れんよ、シルヴァー君。だがもし彼等が確かに譫語を言っているものとわかればだ、――あの中の少くとも一人が熱病に罹っていることはまず確かなんだからな、――私はこの野営地から出て行って、自分の体にはどんな危険を冒そうとも、自分の医術の助けをあの連中に藉《か》してやらねばならん。」
「失礼ですが、あんた、そりゃあいけませんよ。」とシルヴァーは言った。「あんたの御大切《ごてえせつ》な命がなくなりますからね。違えありませんぜ。あっしは今じゃすっかりあんたの側についてるんでさ。だから味方の人を減らせたかぁありません。あんたはもちろんのことです。あんたにゃ御恩を受けていますからね。だがあそこの下にいる奴らと来ちゃあ、約束を守れるような奴じゃごぜえません、――そうですとも、守りてえと思ったって守れねえ奴らでさあ。おまけに、あんたが約束を守れるってことも、奴らにゃ信じられねえんですから。」
「うん、そうだろう。」と先生が言った。「お前は約束を守れる人間だよ。それは私たちも知ってるさ。」
 さて、それがその三人の海賊について私たちの得たほとんど最後の消息であった。ただ一度だけ私たちはずっと遠くで一発の銃声を聞き、彼等が猟をしているのだろうと推測した。会議が開かれて、彼等を島に棄てて行かねばならぬということにきまった。――これにはべン・ガンが非常に喜んだし、グレーが大いに賛成したということは、言っておかねばならない。私たちは、かなり多くの火薬と弾丸と、塩漬の山羊の肉の大部分と、数種の薬と、他の幾つかの必要品と、道具類と、衣類と、一枚の余分の帆と、一二尋の綱と、それから医師の特別の希望で煙草の立派な贈物とを、残しておいてやった。
 それがほとんどその島での私たちの最後の行為であった。それ以前に、私たちは宝を船に積み込んでしまい、何かの難儀のあった場合の用意にと十分の水と山羊の肉の残りとを運び入れておいたのだ。そしてついに、或る朝、私たちは、自分たちに思うままに出来るのはほとんどそれだけだったが、錨を揚げ、かつて船長が防柵で掲げてその下で戦ったあの国旗を翻しながら、北浦を出帆した。
 間もなく私たちにわかったことだが、例の三人の奴は私たちの思ったよりも近くで私たちを見ていたに違いない。というのは、瀬戸を抜け出る時には、船は南の岬のごく近くを進まなければならなかったが、その岬の砂の出洲に彼等が三人とも一緒に跪いて、哀願するように両腕を挙げているのが見えたからである。彼等をそんなみじめな有様に残してゆくのは、私たちみんなに憐みの心を起させたと私は思う。けれども私たちはまた暴動の起るような危険を冒すことは出来なかったし、それに彼等を国へつれて帰って絞首台に送るのは親切が却って仇になるようなものであったろう。医師は彼等に声をかけて、食糧品を残しておいてやったことと、それがどこにあるかということとを知らせてやった。しかし、彼等はやはり私たちの名を呼び続けて、後生ですからお慈悲にこんな処に残して行って死なせないで下さいと哀訴していた。
 とうとう、船がなおもその針路を続けて、今では声の届かないところへずんずん進んでいるのを見ると、その中の一人――どの男だったかわからない――が嗄《しゃが》れた叫び声をあげながら跳び立って、銃を肩にあてたかと思うと、一発ぶっ放した。その弾丸はシルヴァーの頭上を越え大檣帆《メーンスル》を貫いてぴゅうっと飛んで行った。
 その後は、私たちは舷檣の蔭に隠れていたが、その次に私が顔を出して見た時には彼等はもう出洲から姿を消してしまっていて、その出洲さえも次第に遠ざかってほとんど見えなくなっていた。それが、とにかく、そのことの終りだった。そして正午前には、私の何とも言えぬほど嬉しかったことには、宝島の一番高い岩までが青い水平線の下に没してしまった。
 私たちは人員がひどく足りなかったので、船中の者はだれも彼も働かなければならなかった。――ただ船長だけは船尾に敷いた敷蒲団《マットレス》に横って命令を下していた。よほど恢復してはいたけれども、まだ安静を要したからである。私たちはスペイン領アメリカ(註八五)[#「(註八五)」は行右小書き]にある一番近い港に船首を向けた。それは新手《あらて》の水夫がなしに帰航するという危険を冒すことは出来なかったからだ。ところが今はまだそれがなかったものだから、方向不定の風が吹いたり疾強風が二度も吹いて来たりして、そこへ着かないうちに私たちは皆へとへとに疲れてしまった。
 ちょうど日没の頃に、船は陸地に囲まれた実に美しい湾内に投錨した。するとすぐに、海岸から黒人やメキシコ・インド人や混血人《あいのこ》などの一杯に乗っている小舟が周囲に漕ぎ寄せて来て、果物や野菜を売りつけたり、海の中へ小銭を投げて貰って潜って取らせてほしいと言ったりした。そんなにたくさんのにこにこした愛嬌のある顔(ことに黒人)や、熱帯の果物の香味や、とりわけ、町にともれ始めた灯影は、あの島に滞在していた間の陰惨な血腥い、いろいろな事と対照して、まったく恍惚とさせるほどであった。先生と大地主さんとは、私をつれて、宵の口を陸で過そうと上陸した。ところが、そこで二人はイギリス軍艦の艦長に逢って、その人と話しこみ、その人の軍艦へ一緒に行き、短く言えば、非常に愉快で時の移るのも忘れてしまったので、私たちがヒスパニオーラ号の舷側《ふなばた》に帰って来た時には夜がもう明けかかっていたのであった。
 ベン・ガンがただ一人で甲板にいたが、私たちが船に上るや否や、馬鹿に体を捩りながら、私たちに白状をし始めた。シルヴァーが逃げたのだ。数時間前に彼が岸からやって来た小舟に乗って逃げ出すのを、その置去り人は見て見ぬ振りをしていたのであった。そして今、彼は、そうしたのはただ私たちの命《いのち》を救いたかったためで、もし「あの一本脚の男が船に残ってた」なら、私たちの命はきっとなくなったろう、と断言した。しかし、それだけではなかった。料理番《コック》は空手《からて》では行かなかった。彼はだれも気づかない間に隔壁を切り抜いて、多分三四百ギニーくらい入っている貨幣の嚢を一つ、これから先の放浪の用意にと、持って行ったのである。
 それくらいの廉い金で彼を厄介払いしたことを皆は喜んだと私は思う。
 さて、かいつまんで話せば、私たちはその港で数人の船員を雇い入れて、無事に帰航を続け、ヒスパニオーラ号がブリストルに到着したのは、ちょうどブランドリーさんが伴船の準備をしようと考えかけていた時であった。出帆した時に乗っていた人々で船と一緒に戻って来たのは五人だけだった。まさしく、「残りの奴は酒と悪魔が片附けた」のだ。もっとも、確かに、私たちは、あの悔賊どもの歌った――


「七十五人で船出をしたが、
 生き残ったはただ一人《ひとり》。

というその船ほどのひどい目には遭わなかった訳であるが。
 私たちは皆、その宝をたっぷり分けて貰って、銘々の性質に従って、利口にか愚かにか使った。スモレット船長は今では海上生活を止《や》めている。グレーは自分の貰った金を貯蓄したばかりではなく、急に立身したいという望みを起して、自分の本職を勉強した。そして今では立派な全帆装船の副船長でその共同所有者の一人になっている。それに結婚もして、子供もある。ベン・ガンはと言うと、彼は千ポンド貰ったのであるが、それを三週間で使い果すか無くするかしてしまった。いや、もっと正確に言えば、十九日間でだ。なぜなら、二十日目にはまた金を貰いにやって来たのだから。それから、彼は、まさしく島で懸念していた通りに、門番にして貰った。今でもやはり生きていて、多少馬鹿にされてはいるが、村の子供たちに非常に好かれていて、日曜日や聖徒祭日には教会での名うての唱歌者になってある。
 シルヴァーのことは、私たちはあれから消息を聞いたことがない。あの恐しい一本脚の船乗はとうとう私の生涯からすっかり消え失せてしまった。しかし、恐らく彼は黒人の細君にめぐり逢って、多分まだその細君やフリント船長と一緒に安楽に暮していることだろう。そうであってほしいものと思う。というのは、あの世では彼の安楽になれる見込はごく少いのだから。
 銀の棒と武器(註八六)[#「(註八六)」は行右小書き]とは、私にはよくわからぬけれども、多分、フリントの埋めた処にまだあるのだろう。そして確かにそこにあろうがどうだろうが私の構ったことではない。牛と荷馬車の綱とでひっぱられようとも、私はあの呪われた島へはもう二度と行かないつもりだ。そして今でも私のみる一番の悪夢は、あの島の岸にどどうっと打ち寄せている波の音を聞く時か、または、「八銀貨! 八銀貨!」というフリント船長の鋭い声が耳の中に鳴り響いて、寝床の中でがばと跳び起きる時なのである。
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〔買うのを躊躇する人に〕

一 キングストンや、…………クーパー。――「キングストン」はウィリヤム・ヘンリー・ジャイルズ・キングストン(一八一四―一八八○)。「勇者バランタイン」はロバート・マイケル・バランタイン(一八二五―一八九四)。共にイギリスの少年文学の作者である。「森と波とのクーパー」はアメリカの小説家ジェームズ・フェニモー・クーパー(一七八九―一八五一)をさす。未開拓時代のアメリカ大陸を描いた五部作、及び海洋文学をもって有名であり、それらの作品は少年の読物としても喜ばれている。二行後の「それらの人や彼等の創造物」とは、これらの作家やその作中人物のことである。前節の「置去り人」については、本文の第十五章に説明されている。
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〔第一篇 老海賊〕
二 「ベンボー提督屋」。 ――ジョン・ベンボー(一六五三―一七〇二)という十七世紀末のイギリスの有名な提督の名を屋号にし、その肖像を看板にしている宿屋である。なお、この宿屋は居酒屋も兼ねているのである。
三 船員衣類箱。 ――船員が航海中に衣類その他の所持品を入れる木製の箱。船の水夫部屋の舷側にぴったり嵌るように、普通は、側が少し傾斜して、底よりも蓋の方が小さくなっている。
四 弁髪が…………。 ――往時の水夫は短い弁髪を下げていた。
五 「死人箱にゃあ…………」。――西インドの海賊のことを歌った唄の最初の二行である。第二行は畳句《リフレーン》になっている。「死人箱」というのは西インド諸島中の一つの小島の名。海賊船がその死人箱島に乗り上げた時に助かったのは僅か十五人の海賊とラム酒が少しとだけであったという。それからこの畳句が出ているのであって、畳句の方は唄の本筋には無関係なのである。第一行を水夫長が歌うと、第二行の畳句を水夫たちが合唱して、「よいこらさあ」の「さあ」に当るところで、力を合せて、錨を捲き揚げる絞盤の梃《てこ》を[#「梃《てこ》を」は底本では「挺を」]ぐいと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、次にまた水夫長が歌い、合唱がそれに続くのである。
六 駅逓馬車。――宿駅と宿駅との間を定期に往復する乗合馬車。鉄道が出来る前の主要な交通機関であった。
七 ブリストル。――ブリストルはこの物語の時代にはイギリスでの第二の大きな海港であった。
八 板歩かせ。――舷から海へ突き出した板を眼隠しして歩かせ、海中へ陥って溺死させることで、十七八世紀頃に海賊が彼等の捕虜を殺すために用いた方法である。
九 ドゥライ・トーテューガズ。――メキシコ湾のフロリダ半島の南方の海上にある一群の珊瑚礁。
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一○ スペイン海。――住時、南アメリカの北岸のカリブ海に面した地方一帯の海を漠然と指した名称。スペイン本国と当時のスペイン領アメリカとの航路に当り、昔盛んに海賊が出没した。
一一 両手を揉み絞る。――苦しみ、悲しみ、悶えの時などの身振り。
一二 髪粉。――この頃の紳士は仮髪《かつら》をつけていたので、その仮髪にふりかける粉のこと。
一三 彎刀。――この頃の船乗のよく持っていた、重い、彎曲した刀。
一四 ぶらんこ。――「ぶらこん往生」、すなわち絞殺、絞刑のこと。
一五 刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]針を取って…………。――昔の医術に、刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]と言って、血管を刺して血を出す療法があったのである。
一六 黒犬なんぞは…………。――英語の「黒犬《ブラック・ドッグ》」という語は「不機嫌」という意味でもあり、「黒犬を背負う」は「不機嫌である」、「機嫌が悪い」ということを意味する。その意味を使った洒落である。
一七 聖書に書いてある…………。――新約全書使徒行伝第一章第二十五節に「すでに、ユダは此つとめを離れて其住くべき処に往きたり。」とある。「聖書に書いてあるあの男」はこのイスカリオテのユダをさし、「往くべき処」は地獄のことである。
一八 サヴァナ。――北アメリカの大西洋岸にある港。今の合衆国のジョージア州にある。
一九 ダブルーン金貨や、…………。――「ダブルーン金貨」は往時のスペインの金貨。「ルイドール金貨」はルイ十三世時代に初めて鋳造されて大革命まで通用していたフランスの金貨。「ギニー金貨」は十七世紀後葉から十九世紀初葉まで流通していたイギリスの金貨。「八銀貨」は表に8R(八レーアルの意味)の字を記《しる》してあるスペインの古銀貨である。この物語は冒頭に書いてあるように一七――年代のことであるから、当時はこれらの貨幣が流通していたのであるが、ギニー金貸以外は外国の貨幣であるから、勘定が出来ないのである。
二○ ジョージ金貨。――当時流通していた聖ジョージの像を刻したイギリスの貨幣。
二一 嗅塩。――婦人などに用うる鼻で嗅がせる気附薬。
二二 黒髯。――本名エドワード・ティーチ。スペイン海を荒し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った残忍不敵な有名な海賊。
二三 トゥリニダッド。――西インド諸島中の最南の島。スペイン海にある。
二四 スペイン港。――トゥリニダッド島の首都。
二五 パーム礁島。――北アメリカのフロリダ半島の西海岸にある島。タムパ港を湾内に有するタムパ湾の入口にある。
二六 カラカス。――南アメリカのヴュネズエラの首府。
二七 とっくの昔に珊瑚に…………。――人間が海に沈んで死ぬと骨が珊瑚になると昔は考えられていたからである。
二八 島の地図。――巻頭の地図参照。なお、第三篇以後においては物語の進行に従い必要に応じてこの地図を屡々参照のこと。
二九 一ポイント。――羅針盤の周囲の三十二分の一。すなわち直角の八分の一の角度。
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〔第二篇 船の料理番〕
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三○ スクーナー船。――縦帆式帆装の帆船。時には四檣または五檣のものもあるが、普通二檣あるいは三檣である。帆が縦帆式であることは特に第五篇のために記憶されること。
三一 ホーク。――イギリスの有名な提督エドワード・ホーク(一七〇五―一七八一)のこと。一七四七年と一七五九年とにフランスの艦隊と戦って破ったことがある。
三二 水夫らが揚錨絞盤の周りを…………歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。――すなわち、絞盤を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して錨を捲き揚げ、出帆すること。
三三 悪しき者虐遇を息める処。――冥土のこと。旧約全書ヨブ記第三章第十七節に「彼処《かしこ》にては悪しき者虐遇を息め、倦み憊れたる者|安息《やすみ》を得。」とある。
三四 ※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖。――跛者などが腋の下にあてて歩くに用うる丁字形の杖。撞木杖。
三五 三孔滑車。――船で静索や支索を張ったりその他の目的に用いる締索を通す三箇の孔のあいている滑車。円くて、孔が三つついているので、顔を罵って三孔滑車かと言ったのであろう。因に、これらの船乗たちはその会話に頻りに海語を用いている。
三六 船底潜らせ。――長い索でたぐって一舷から他舷へ、または船首から船尾へ、船底の水を潜り越させる刑罰のこと。往時イギリスやオランダの海軍で一種の懲罰として重罪人に科したものである。
三七 中央刑事裁判所。――ロンドンの往時の有名な裁判所。
三八 ボー街。――一七四九年に建てられたロンドンの有名な警察裁判所のある街の名。
三九 一クォート。――一ガロンの四分の一。わが六合余。
四○ 封緘命令。――或る時期まで、または船艦などが或る地点に達するまでは、開封すべからざる命令。その時期またはその場所に到って初めて開封して任務を知るのである。
四一 円材。――船では檣、桁、防材などをいう。
四二 肉焼き台。――大きな肉をのせて焙る鉄製の枠のこと。料理室で使うものであるから、それを料理番のジョン・シルヴァーの綽名にしたのである。
四三 イングランド船長。――実在した有名な海賊、ネッド・イングランドのこと。
四四 マダガスカルにも…………。――マダガスカル島は往時インド洋の海賊が根拠地とした島。マラバーはインド南西の海岸、スリナムはオランダ領ギアナのこと、プロヴィデンスはカリブ海にある島、ポートベローはパナマ地峡の北岸にあった港、いずれも昔海賊に荒された土地であった。
四五 ゴア。――インドの西海岸にあるポルトガルの植民地。
四六 頤を突き出す。――怒った時の態度。
四七 コーリー要塞。――アフリカの黄金海岸にあったイギリスの要塞。
四八 ロバーツ。――海賊バーソロミュー・ロバーツのこと。最後に軍艦と戦闘して死んだ。
四九 デーヴィス。――海賊ハウエル・デーヴィスのこと。大胆無類の海賊だったが、部下の一人に殺された。前のロバーツはこの男の後継指揮者であった。
五○ 何百ファージングの代りに何百ポンドと…………。――一ファージングは四分の一ペニーという小額であり、一ポンドは二十シリング、一シリングは十二ペンスであるから、ポンドはファージングの約一千倍近くに当るのである。
五一 「分限紳士」というのは…………。――海賊は、掏摸やこそ泥や普通の強盗などを軽蔑して、自分たちを戯れに「分限紳士」と称していたのである。
五二 仕置波止場。――テムズ河のロンドンの披止場にあった、海賊どもが鎖で絞殺されて日に曝された仕置場。
五三 キッド船長。――有名な海賊ウィリヤム・キッド。彼は後にボストンで捕えられてイギリスへ送られ、一七〇一年にロンドンの仕置波止場で絞殺された。
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〔第三篇 私の海岸の冒険〕
五四 高潮線。――海浜に残る高潮すなわち満潮の跡。
五五 投銭戯。――小銭を投げて穴の中へ入ったものな取る子供のやる賭戯。
五六 闘い、殺害、不意の死。――イギリス教会公定祈祷書の中にある文句である。

〔第四篇 柵壁〕
五七 三点鐘。――船では、定刻を報ずるに、零時半に時鐘を一点打ち、二時に二点打ち、以下半時間毎に一点ずつ加えて打ち、八点に至ると、当直の交代時間となり、また一点に返るのである。故に、四時、八時、十二時が八点鐘の時刻であり、一時半は三点鐘である。
五八 「リリバリアロー」。――一六八六年頃に作られたアイルランドの旧教徒を諷刺嘲笑した政治的歌謡。「リアロー、リアロー、リリ・バリアロー」云々という畳句《リフレーン》があるのである。一六八八年の革命の勃発に与《あずか》って力があったと言われ、革命の間及びその後にイングランド中で非常に流行し、軍隊や人民に盛んに歌われた。
五九 カムバランド公爵。――ジョージ二世の第三子、イギリスの将軍であるウィリヤム・オーガスタス(一七二一――一七六五)。
六○ フォンテノイ。――あるいはフォントノア。ベルギーの村。ここで、一七四五年五月十一日、カムバランド公の率いたイギリス、オランダ、オーストリアの聯合軍五万が、フランス軍七万と戦って敗れた。両軍の死傷はすこぶる多大であったと伝へられている。
六一 詰開き。――航海用語で、帆船が出来るだけ風上に向って帆を揚げ、風の来る方に近く帆走し上ること。ここでは船長がその語を比喩的に用いたのである。
六二 海賊旗。――黒地に白く頭蓋骨と二つの交叉した大腿骨とを染め抜いた海賊の旗。
六三 半潮。――満潮と干潮との中間。
六四 パルマ・チーズ。――パルマはイタリー北部にある州で、その地方で製するチーズは古くから有名であった。
六五 「いざ、乙女よ、若人よ。」――イギリスの昔の歌謡。
六六 口笛を吹いて風を呼ぶ。――凪《なぎ》の時には口笛を吹けば風が吹き出すという船乗の迷信があったのである。

〔第五篇 私の海の冒険〕
六七 両櫂。――訳語がないので仮にこう訳しておく。両端に水掻の扁平部がある櫂で、舟の左右両側で交々水を掻くのである。
六八 革舟。――木の骨組に獣皮を張って造った原始的な小舟。今日でもウェールズ、アイルランド、フランスなどの河川湖水で漁夫が用いる。ごく軽くて背負って遊ぶことが出来るのである。
六九 淦。――舟底のたまり水。
七○ 南の方へ。――これは原作者の誤りであろう。「北の方へ」でなければならない。
七一 一ジル。――一クォートの八分の一。わが約八勺。一合近くの量。
七二 間切る。――帆船が風上に向って進む時の言葉で両舷を代る代る風にあてて風上に向って電光形の航路で進行することをいう。この時は南風だから、北の岬を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってそこから北浦まで南の方へ帆走するには、間切らなければならないのである。
七三 北東の角。――この「北東」の語は妥当ではない。「北西」の誤りであるかも知れない。でなければ「北の岬の北東の角」の意味であろう。
七四 ようそろ。――船の向が現在のままでよしという意味を舵手に伝へる命令の言葉。
七五 横静索。――檣を左右側方に支持するために檣頭から両舷へ張ってある静索。

〔第六篇 シルヴァー船長〕
七六 折半直。――船では甲板当直は四時間交代であるが、午後四時から八時までは折半されて二時間交代に行われる。その間を折半直という。朝には折半直はないのだから、この語は原作者の誤りであろう。
七七 仕立屋が手前たちに相応の商売。――イギリスでは「仕立屋は九人で男一人前」という諺もあって、仕立屋が男らしからぬ商売として軽蔑されていたのである。
七八 クラウン貨幣。――王冠を刻した貨幣。銀貨で五シリングの価格であるから、相当大きなものである。直径一寸三分くらいもあった。
七九 「犬および殺人者は外に居るなり」。――聖書の最後の頁にあるヨハネ黙示録第二十二章第十五節の中にある句。
八○ 諺にもあります通り、食物にありつくのは…………。――「早起きの鳥は虫を捕える」という諺があるのである。わが国の「早起き三文の得」の意味の諺。
八一 船荷の宰領。――商船の航海中船荷の上に乗り添うて守り送る人。上乗《うわのり》とも言う。
八二 肩をすくめる。――軽蔑、冷淡、不快などの身振り。
八三 死んだ人たちが磨石のように…………。――新約全書マタイ伝第十八章第六節の中に「磨石をその頸に懸けられて海の深みに沈められん方‥‥」云々とある句から言ったのである。
八四 ダブル・ギニー金貨、…………。――「ダブル・ギニー金貨」は四十二シリングに当るイギリスの昔の金貨。「モイドー金貨はポルトガルの往時の金貨。「セクィン金貨」は昔のヴェニス共和国の金貨。
八五 スペイン領アメリカ。――往時、中央アメリカ及び南アメリカには、現在の諸国の独立する以前に、広大なスペイン領があった。現今でもそれらの地方ではスペイン語が行われている。
八六 銀の棒と武器と。――第六章「船長の書類」の中にある地図の裏の文句参照。
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底本:「宝島」岩波文庫、岩波書店
   1935(昭和10)年10月30日初版第1刷発行
   1956(昭和31)年6月30日第17刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「亦→また、既に→すでに、於いて→おいて、於ける→おける、甚だ→はなはだ、以て→もって、殆ど→ほとんど、度々→たびたび、漸く→ようやく、極く→ごく、傍→そば、暫く→しばらく、直ぐ→すぐ、真直→まっすぐ、何故→なぜ、殊に→ことに、更に→さらに、尤も→もっとも、勿論→もちろん、益々→ますます、猶→なお、早速→さっそく、遂に→ついに、此処彼処→ここかしこ、彼処→あすこ、尚→なお、所謂→いわゆる、忽ち→たちまち、何処→どこ、彼奴→あいつ、何時→いつ、苟も→いやしくも、悉く→ことごとく、如何→いか、尚更→なおさら、筈→はず、誰→だれ、頗る→すこぶる、即ち→すなわち、咄嗟→とっさ、全く→まったく、著→着、ハンヅ→ハンズ、乃至→ないし、謂わば→いわば、彼方此方→あちこち、此奴→こいつ、駈→駆、差支え→さしつかえ」
※「燈」と「灯」の使い分けは、底本通りです。
※一部、ルビを補いました。
※入力に際しては、「宝島」新潮文庫(佐々木直次郎・稲沢秀夫訳)を参考にしました。
入力:kompass
校正:伊藤時也
2009年8月12日作成
2012年2月23日修正
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佐々木直次郎

宝島—–序–佐々木直次郎

「宝島」はロバート・ルーイス・スティーヴンスン(一八五○―一八九四)の最初の長篇小説であり、彼の出世作であるが、また彼の全作中でも最も高名な名作であることは周知の通りである。紀行文、随筆《エッセー》、短篇小説などにおける彼の数年間の文筆生活の後に、一八八一年の九月、スコットランドのブレーマーでの療養中に書き始められた。作者自身の記すところによれば、彼が或る日彼の妻の連子である少年ロイド・オズバンのために空想で描いて与えた一枚の島の地図がその起源であったという。この地図にスティーヴンスンは想像力を刺激され、島を宝島と名づけて、それによってこの海賊と宝との物語を組立て、その少年を唯一人の聴き手として書き始めたのであるが、燈台技師であった作者の父トマス・スティーヴンスンもまたやがてその聴き手に加わった。かくしてこの小説はすでに最初から少年のみならず成人あるいは老人をも読者に有したと言い得るかも知れない。トマスは熱心な聴き手となって、作中のビリー・ボーンズの衣類箱が探される時にはその中にある種々の品物を挙げ、またフリントの船の名を「海象《ウオルラス》号」とつけたのも彼であった。こうして初めの十五章が書き上げられたが、当時は作の表題は「船の料理番《コック》」であった。それによっても察せられるように、本篇における最も重要な人物はヒスパニオーラ号の料理番として現れるジョン・シルヴァーなのである。スティーヴンスンは毎夕食後家族のためにこの物語を読み続けていたが、偶々アレグザーンダー・ジャップという人が訪れてその仲間に入り、この話にはなはだ興味を感じて、帰る時に最初の数章の原稿を持ち去り、それを友人である少年新聞「ヤング・フォークス紙」の編輯者ジェームズ・ヘンダスンに送った。間もなくこの作は同紙上に連載され始めた。題名を「宝島」と改めたのはヘンダスンである。しかし、第十五章の次で作者は恐らく行詰りを感じたのであろう、一度執筆を放棄したが、その冬を越すためにスウィスの保養地ダーヴォスに赴いてから、再びこの作のペンを執り上げ、物語の書き手を主人公ジム・ホーキンズから一時的に医師リヴジーに移して書き継ぎ、逐に最後の章まで完成させた。「ヤング・フォークス紙」には一八八一年の十月上旬から翌年の一月下旬までにわたって掲載され、その発表当時には批評家の注目をも惹かず、世評にも上らなかったが、一八八三年十二月に単行本として出版されるに至って、世人に歓喜をもって迎えられ、啻《ただ》に少年のみならず、政治家、法律家などに至るまでも耽読されたと言われ、スティーヴンスンの名声を初めて高めたのであった。それ以来今日まで引続いて広く読まれていると共に、また文学史上においても確乎たる古典的地位を贏《か》ち得ているのである。
「宝島」は洵《まこと》に少年文学であると同時に成人をも十分に愉しませ得る小説であり、大衆文学であると同時に文学に対して最も優れた理解力と鑑賞力とを有する人々にも愛読され得る作品である。この作が凡百の軽文学を遥かに抜いているのは、全篇の構成から措辞の末に至るまでに滲透している作者の芸術的感覚と手腕とによってであろう。スティーヴンスンがイギリス文学中有数の文章家《スタイリスト》であることは已に人の知るところであるが、本篇における彼の小説的技術もまた極めて高度のものであることは認めざるを得ない。ただ、第十六章から三章だけの書き手が異っていることは全体としては幾分の技術的欠陥とも言い得られぬではない。しかし、それらの章もそれ自身としては完全な効果を収めており、また通読に際して不自然ないしは不調和の感をほとんど与えない。この作にあってはスティーヴンスンの作家的短所は影を潜め、長所は遺憾なく発揮されている。事件、情景等の叙述、描写の比類少き巧みさは、恐らくすべての読者の直ちに気づくところであろう。全篇にわたって、脳裡に残る傑れた場面はかなり多くを挙げることが出来る。あるいは、全三十四章が印象的な場面のほとんど連続である。しかも、少年ジム・ホーキンズ、その母、老海賊ビリー・ボーンズ、医師リヴジー、海賊|黒犬《ブラック・ドッグ》、盲人ピュー、大地主トゥリローニー、船長スモレット、島の男ベン・ガン、舵手イズレール・ハンズ、船員ディック・ジョンソン、その他作中諸人物は各それぞれの明確さと自然さとをもって描かれているが、特に評家の最も讃歎するのは、隻脚の海賊ジョン・シルヴァーの性格創造である。この快活、饒舌、柔和、慇懃、陰険、横柄、勇敢、残忍、聡慧、雄弁、剛胆、狡猾――端倪すべからざる人物は、実に溌剌として紙上に躍っているのが見られるであろう。

   一九三五年十月

 佐々木直次郎

底本:「宝島」岩波文庫、岩波書店
   1935(昭和10)年10月30日初版第1刷発行
   1956(昭和31)年6月30日第17刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「亦→また、既に→すでに、甚だ→はなはだ、以て→もって、乃至→ないし、殆ど→ほとんど」
※底本で「灯」と使い分けられているは「燈」は、新字には改めませんでした。
※一部、ルビを補いました。
※入力に際しては、「宝島」新潮文庫(佐々木直次郎・稲沢秀夫訳)を参考にしました。
入力:kompass
校正:伊藤時也
2009年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木直次郎

二都物語 上巻 チャールズ・ディッケンズ——-佐々木直次郎訳

     序

「二都物語」はチャールズ・ディッケンズ(一八一二―一八七〇)の一八五九年の作である。すなわちこの巨匠が数え年四十八歳の時の作である。作者は一八三六年に諧謔小説「ピックウィク倶楽部」によって一躍ウォールター・スコット以後のイギリス随一の流行作家となり、以来「オリヴァー・トゥウィスト」、「ニコラス・ニックルビー」、「骨董店」、「バーナビー・ラッジ」、「マーティン・チャッズルウィット」、「ドムビー父子」、「デーヴィッド・コッパフィールド」、「物淋しい家」、「小さなドリット」等の諸大作その他の作品を発表して、既に、当時全ヨーロッパにおける最も高名な小説家の一人であり、その名声のみならず文学的手腕においても彼の高潮に達していたのであった。「二都物語」の作者自身の緒言に記されているように、彼がこの作の主要な観念を思い付いたのは彼の年少の友人ウィルキー・コリンズの劇を演じていた時であって、それは一八五七年の夏のことであった。しかし、その思付きはただごく漠然たるものであり、当時は家庭的不和のためにはなはだしく心を苦しめられていて、ただちにそれの具体化に著手することが出来なかったが、やがて、フランス革命を背景としてその観念を中心に一の物語を創作することとし、慎重綿密にその考案、準備、構想を進めたらしい。翌五八年の一月末には、彼の親友であり後に彼の伝記作者となったジョン・フォースターに宛てた書簡の中で、「いつかは」というその物語の標題を報じており、更に同年三月には「生埋《いきう》め」、「黄金《こがね》の糸」、「ボーヴェーの医師」という標題を挙げている。また、書かれた正確な年月は不明であるが、一八五五年から書き始めた彼の覚書帳《メモランダム》の中には、この作について、「二つの時期――フランスの劇のように間に時の推移のある――にわたる物語については如何? そういう思付きのための標題。時! 森の木の葉。散らばった木の葉。偉大な車輪。※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って。古い木の葉。ずっと以前に。遠く離れて。落葉。二十五年。何年も何年も。過ぎ去る歳月。毎日毎日。伐り倒された樹。記憶のカートン。やくざ者。二つの世代。」とあり、他に、この作の主要人物である獅子の豺《やまいぬ》としてのカートンと、同じく作中人物のクランチャー夫妻とについての萠芽的な思付きが記されている。しかし、五八年の五月にはディッケンズは妻のキャサリンと遂に合意の別居をすることとなり、また同年から彼の自作朗読会を始めたので、その年もその制作に没頭することが出来ず、翌五九年の三月に至ってようやく「二都物語」と現在の標題が決定され、「ハウスホールド・ワーヅ誌」に代って創刊された同じく彼自身の主宰する週刊雑誌「オール・ジ・イア・ラウンド誌」上に、その第一号すなわち四月三十日号から同年の十一月二十六日号までにわたって連載されたのである。かつ、同年六月から十二月までにわたってチャップマン・アンド・ホール社から作者の他の諸長篇と同様に月刊分冊で逐次出版され、ただちに巨万の読者に迎えられた。これは八分冊に分れ、各分冊に「ピックウィク倶楽部」の挿画以来フィズの名で知られたハブロット・ブラウンの挿画が二葉ずつ入り、第六分冊までは定価各一シリング、最後の第七第八分冊は合本二シリングであって、その最後の分冊に標題紙《タイトルページ》や目次などと共に緒言が附せられた。制作の前及びその間に作者が異常な苦心を重ね努力を払い時日を費したことは彼の手記や書簡などによって窺い知られる。
 本篇の手法に関する意図について、作者は制作中の書簡にこう書いている。「私は、真実に迫った人物、しかし彼等が対話によって自分自身を現すよりも以上に物語そのものが現すべき人物がいて、各章ごとに興味の加わる、画のように叙述した一つの物語[#「画のように叙述した一つの物語」に傍点]を作るこの小さな仕事に専心している。他の言葉で言えば、(中略)人物を出来事それ自身の臼の中で搗き砕き、その人物から彼等の興味を打ち出して、出来事の物語を書くことが出来ると思ったのである。」
 フランス革命に取材したことについては、作者が年来絶えず繰返して読み、決して厭きることのなかった、トマス・カーライルの名著「フランス革命史」に負うところが極めて多かった。この物語の文体、思想等についても、カーライルの影響を示しているところが見られる。なお、作者が制作の準備中に知人であるカーライルに自分の目的に役立ちそうな数冊の参考書の借用を請うたところ、カーライルはただちに荷車二台に満載したフランス革命に関する文献をディッケンズの邸宅に送り届けたという。
「二都物語」は「バーナビー・ラッジ」に次ぐディッケンズの第二の歴史小説であり、また彼の最後の歴史小説である。歴史小説と言っても、時代を過去に採り、背景を歴史的事件に求めただけであって、登場する人物はことごとく非歴史的人物であり、作者自身の純然たる創造になる人物のみである。本篇の主人公である、自己犠牲的な深い愛によって進んで断頭台の下に立つ弁護士シドニー・カートンは、疑いもなく近代小説の群像中でも最も魅力ある性格の一であるに違いない。その他、その正義感のために暴虐な貴族の手によってバスティーユ牢獄に投獄され、十八年間監禁されていた医師アレクサーンドル・マネット、その娘リューシー・マネット、フランスの貴族の地位と財産とを自ら抛棄してイギリスで自活するシャルル・エヴレモンド、その叔父サン・テヴレモンド侯爵、パリーの酒店の主人であり革命党員であるエルネスト・ドファルジュ、その妻テレーズ・ドファルジュ、銀行員ジャーヴィス・ロリー、弁護士ストライヴァー、走使いクランチャー、家政婦プロス等の諸人物は、いずれも、円熟した大作家にふさわしい手腕で鮮かに創造されている。そして、これらの人物が、フランス大革命の前及びその間の時代を背景とし、イギリス及びフランスの両国、主としてロンドンとパリーとの二都を舞台として演ずる劇的な物語は、実に津々たる興味にみちているのである。ある意味ではまさしく歴史小説であるよりも以上に伝奇小説《ロマンス》であるかもしれない。
 また、この作はディッケンズの全作中において特異な地位を占めるものである。「ピックウィク倶楽部」以下彼の諸長篇の大部分にあっては、殊に前半期の多くの作にあっては、筋《プロット》はあまり顧慮ないしは重視されず、誇張して言えば全篇が挿話の連続であり、豊かな興味は主として作中諸人物の滑稽感《ヒューマー》や哀感《ペーソス》に集中しているのが普通であるに対して、本篇では、筋《プロット》は完全に首尾一貫し、全体の構成がはなはだ緊密であり、作中諸人物はことごとく物語の進展に関与し、物語は巧みな戯曲的展開をもって章を逐うて最後の不可避的な結末に至る。すなわち、その人物以上に事件の進展に読者の感興が惹かれる。他の諸大作よりも量において小であり、人物の数も比較的に少く、全体的に極めて圧縮されていることもまた、この作の顕著な一特質である。
 外面的にはディッケンズの最大の特徴である諧謔《ヒューマー》は、本篇にあっては題材の性質上著しく抑制されている。しかしそれは全然影を潜めているのではなく、この作の処々に現れて微妙な効果を収めていることは、細心な読者には容易に認め得るところである。
 その異常な題材、印象的な人物、劇的な事件、巧緻な手法、等、等によって、この物語はあらゆる読者を深く愉しませるのみならず、また、終りの方に表現されているその主要観念は、愛や人生そのものについて考えさせるものをも含んでいる。
 従来の批評家がディッケンズの他のいかなる作よりもこの作に対する評価について意見を異にし、ある評家は諧謔《ヒューマー》に乏しいこの物語をさほど高く評価せず、また他の評家はこれをこの作家の最も完璧な傑作と激賞し、作者自身もその完成の少し前に本篇を「自分のこれまでに書いた最上の物語」として期待したが、作家が最近の労作を自己の最上の作と考えやすい傾向などをも考慮に入れても、要するに、この「二都物語」が、ディッケンズの代表作とは遠いものであるにせよ、単に彼の力作たるに止まらず、少くとも「デーヴィッド・コッパフィールド」その他と共にこの民衆の作家、小説文学の巨匠の最高傑作の一であり、かつ世界の文学における傑れた一名作であることは、何等の疑いもあり得ない。
 物語は全三巻から成る。第一巻は、一七七五年の秋から冬へかけての数日間のことを取扱い、この物語全曲に対する短い静かな序曲に過ぎない。第二巻は、一七八〇年の三月からフランス革命勃発の三年後すなわち一七九二年の八月に至るまでの十二年間余にわたり、最も変化に富む展開部に当る。第三巻は、一七九二年秋から翌九三年暮までの一年数箇月間、革命の真最中のことであり、荒れ狂う終曲であると共に、全曲の最高潮《クライマクス》である。
 第三巻中の医師マネットの手記によって物語の発端は遠く一七五七年まで遡り、更に第三巻の結末にはシドニー・カートンのそれから数十年後の予想が記され、時代はフランス革命の前後数十年間にわたっているが、この作の姿なき主人公はフランス革命であるとも言い得る。この物語によって読者は絵画的に具象化されたかの革命とその時代とについて歴史書以外の知識と感銘とを得るであろう。その意味で、この小説は、人類の歴史が過去に有した最大の動乱の時代の一であるフランス革命の時代に興味と関心とを有する人々にも読まれるに価するものである。
 訳者の他のすべての飜訳におけると同様に、訳文中に傍点[#「傍点」に傍点]を附してある箇処は、原文においてだいたい強調の意味をもって斜体活字《イタリック》で印刷されている箇処であり、訳文中圏点[#「圏点」に丸傍点]を附してある語は、同じく原文に強調の意味をもって頭文字のみで記されている語である。ダッシュ、句読点、その他については、絶えず数種の底本を対照して適当と考えるところに拠る。
 星標★を附した箇処の語句には巻末に註を附して、主として作品の細部または細部の語句をも正確に理解するに必要なことを記したが、各読者が単にその必要に応じて参照さるべきである。
 同じく巻末に附した解説は、もし読まれるならば、原作の後に読まれることを希望したい。

   一九三六年八月[#地から3字上げ]佐々木直次郎
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     目次
 
 序(訳者)

緒言
第一巻 甦る
 第一章 時代
 第二章 駅逓馬車
 第三章 夜の影
 第四章 準備
 第五章 酒店
 第六章 靴造り
第二巻 黄金の糸
 第一章 五年後
 第二章 観物
 第三章 当外れ
 第四章 祝い
 第五章 豺
 第六章 何百の人々
 第七章 都会における貴族
 第八章 田舎における貴族
 第九章 ゴルゴンの首

  註(訳者)

  解説(訳者)
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    二都物語
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     緒言

 私が自分の子供たちや友人たちと共にウィルキー・コリンズ氏の劇の「凍れる海」を演じていた時に、私は初めてこの物語の主要な観念を思い付いたのである★。その観念を自分自身で具体化してみたいという強い欲望が、その時私に起った。それで私は自分の空想の裡《うち》で特別の注意と感興とをもってそれを追究したが、空想裡ではそれは烱眼な観客に対しての上演を必要ならしめたのであった。
 その観念が私の心に親しくなって来るにつれて、それは次第次第にそれの現在の形体になって来た。その制作の間を通じて、それは私を完全に捉えていた。私は、これらの頁の中になされかつ感じられているところのことを、自分ですべて確かになしかつ感じたくらいにまで、それらを実感したのである★。
 かの大革命の前ないしはその間におけるフランスの人民の状態についてここに何等かの言及(いかにわずかなものであろうとも)がなされている時にはいつでも、それは、真に、最も信頼するに足る証拠に基いてなされているのである。カーライル氏の驚歎すべき書物★の哲学に何かを附け加えるということは何人にも望むことが出来ないけれども、あの怖しい時代についての一般の絵画的な理解の手段に何ものかを附け加えたいというのは私の希望の一つであったのである。

     ロンドン、タヴィストック館★にて、 一八五九年十一月。
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    第一巻 甦《よみがえ》る
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    第一章 時代

 それはすべての時世の中で最もよい時世でもあれば、すべての時世の中で最も悪い時世でもあった。叡智の時代でもあれば、痴愚の時代でもあった。信仰の時期でもあれば、懐疑の時期でもあった。光明の時節でもあれば、暗黒の時節でもあった。希望の春でもあれば、絶望の冬でもあった。人々の前にはあらゆるものがあるのでもあれば、人々の前には何一つないのでもあった。人々は皆真直に天国へ行きつつあるのでもあれば、人々は皆真直にその反対の道を行きつつあるのでもあった。――要するに、その時代は、当時の最も口やかましい権威者たちのある者が、善かれ悪しかれ最大級の比較法でのみ解さるべき時代であると主張したほど、現代と似ていたのであった。
 イギリスの玉座には、大きな顎をした国王と不器量な顔をした王妃とがいた。フランスの玉座には、大きな顎をした国王と美しい顔をした王妃とがいた★。どちらの国でも、現世の利得を保持している国家の貴族たちには、天下の形勢が永久に安定しているということは水晶よりも明かなのであった。
 それはキリスト紀元一千七百七十五年のことであった。その恵まれた時代には、現代と同様に、さまざまの心霊的な啓示がイギリスに授けられた★。サウスコット夫人★は彼女の第二十五囘の祝福された誕生日を迎えたばかりであったが、近衛騎兵聯隊の予言者の一兵卒が、ロンドンとウェストミンスター★とを呑み込む手筈が出来ていると言い触らして、彼女の荘厳な出現を先触れしていた。例の雄鶏小路《コック・レーン》の幽霊★でさえ、あの昨年の精霊も(不可思議にも独創力に欠けていて)御託宣《メッセジ》をやはりこつこつと叩いて知らせたように、自分の御託宣《メッセジ》をこつこつと叩いて知らせた後に、鎮められてから、ちょうど十二年たったに過ぎなかった。それとは違って俗世界の出来事であるが、ただの音信《メッセジ》が、つい先頃、アメリカにおける英国臣民の会議から、イギリスの国王ならびに人民宛にやって来た★。不思議なことには、この音信《メッセジ》の方が、これまで雄鶏小路《コック・レーン》のどの雛《ひよっこ》から受け取ったどんな通信よりも、人類にとってもっと重要なものであるということが、後にわかったのである★。
 心霊的な事柄では概して楯と三叉戟との姉妹国★ほどに恵まれていなかったフランスは、紙幣を造ってはそれを使い果して、素晴しい勢で下り坂を転げ落ちていた★。その他《ほか》、キリスト教の牧師たちの指導の下に、フランスは、一人の青年がおおよそ五六十ヤードばかり離れた視界の内を通り過ぎる修道僧たちの穢《きたな》らしい行列に敬意を表するために雨中に跪《ひざまず》かなかったからといって、その青年の両手を切り取り、舌を釘抜《くぎぬき》で引き抜き、体を生きながら焼くように、宣告したりするような慈悲深い仕事をして楽しんでいた。その受難者が死刑に処せられた時に、フランスやノルウェーの森林には、歴史上にも怖しい、嚢と刃物との附いているある動かし得る枠細工★を作るために、伐り倒されて板に挽かれるようにと、運命という樵夫《きこり》が既に印《しるし》をつけておいた樹木が、生い繁っていたのであろう。また、その日には、死という農夫がかの大革命の時の自分の死刑囚護送馬車にするために既に取除けておいた粗末な荷車が、パリー近隣のねとねとした土地を耕している百姓たちのむさくるしい納屋の中に、田野の泥にまみれ、豚に嗅ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]され、禽《とり》どもに塒《とや》にされて、雨露を防いでいたのであろう。しかし、その樵夫《きこり》とその農夫とは、絶えず働いてはいるけれども、黙々として働いているのである。それで、彼等が跫音《あしおと》を忍ばせながら歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っているのを、誰一人として聞きつけはしなかった。彼等が目を覚しているのではなかろうかと疑いを抱くだけでも、無神論者で叛逆者になるというのであったから、それはなおさらのことであったのだ。
 イギリスでは、大層な国民的の自慢ももっともだというだけの秩序や保安は、すこぶる怪しいものだった。武器を携えた連中の大胆不敵な押込強盗や、大道強奪は、首都でさえ毎晩のように行われた。市内の家庭へは、家具を家具商の倉庫に移して安全にしてからでなければ市外へ出てはならぬと、公然とお達しがあった。夜の追剥《おいはぎ》は昼間《ひるま》は本市《シティー》★で商売をしている男であった。そして、「首領《キャプテン》★」の資格で止れと命じた自分の仲間の商人に正体を見破られて詰《なじ》られると、勇ましくその男の頭を射貫《いぬ》いて馬を飛ばして逃げ去った。駅逓馬車★が七人の剽盗に待伏せされ、車掌がその中の三人を射殺したが、「弾薬が欠乏したために」自分も残りの四人に射殺された。その後で駅逓馬車の客は無事安穏に掠奪された。あの素晴らしい勢力家のロンドン市長も、ターナム・グリーン★で一人だけの追剥に立ち止って所持品を渡せとやられたものだった。追剥はその著名な人物を彼の随行員一同の目の前で剥奪したのであった。ロンドンの監獄の囚人が獄吏と戦闘をし、弾丸を籠めた喇叭銃《らっぱじゅう》★が尊厳なる法律によって囚人たちの中へ撃ち込まれたこともあった。盗賊どもが宮廷の引見式で貴族たちの頸から金剛石《ダイヤモンド》の十字架を切り偸んだこともあった。銃兵たちが密輸品を捜索するためにセント・ジャイルジズ★へ入って行くと、暴民が銃兵に発砲し、銃兵が暴民に発砲したこともあった。が、誰一人としてこれらの出来事のどれ一つをも大して変ったこととは考えなかったのである。こうした出来事の最中に、いつも多忙でいつも無益であるよりも有害な絞刑吏は、のべつに用があった。時には、ずらりと並んだいろいろな罪人を片っ端から絞殺したり、時には、火曜日に捕えられた強盗を土曜日に絞首にしたり、時には、ニューゲート★で十二人ずつ手に烙印を押したり、また時には、ウェストミンスター会館《ホール》★の入口のところで小冊子《パンフレット》を焼き棄てたりした。今日《きょう》は、兇悪な殺人者の命《いのち》を取るかと思うと、明日《あす》は、百姓の倅《せがれ》から六ペンスを奪ったけちな小盗の命《いのち》を取ったりした。
 こういうすべての事柄や、これに類した数多《あまた》の事柄が、その親愛なる一千七百七十五年とそのすぐ前後に起っていたのであった。例の樵夫《きこり》と農夫とが誰にも気づかれずに働いていた間、そういう事柄に取巻かれながら、大きな顎をしたあの二人と、不器量な顔と美しい顔をしたあのもう二人とは、すこぶる堂々と歩み、彼等の神授の王権を傲然と携えて行った。こういう風にして、一千七百七十五年は、その王者たちや、無数の微賤な人々――この物語に出て来る人々をもその中に含めて――を導いて、彼等の前に横わる道を進ませたのである。
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    第二章 駅逓馬車

 十一月も晩《おそ》くのある金曜日の夜、この物語と交渉のある人物の中の最初の人の前に横わっていたのは、ドーヴァー街道であった。そのドーヴァー街道は、その人の前にと同じく、シューターズ丘《ヒル》★をがたがたと登ってゆくドーヴァー通いの駅逓馬車の先に横わっているのであった。その人は駅逓馬車の脇に沿うて泥濘の中を阪路を歩いて登っていたのであるが、他の乗客たちもやはりそうしていた。それは、何も彼等がこういう場合に少しでも歩行運動に趣味を持っていたからではなく、その丘も、馬具も、泥濘《ぬかるみ》も、馬車も、みんなひどく厄介なものだったので、馬どもはそれまでにもう三度も立ち停ったし、おまけに一度などは、ブラックヒース★へ馬車を曳き戻そうという反抗的な意思をもって、街道を横切って馬車を牽き曲げたからなのである。しかし、手綱と鞭と馭者と車掌とが、一緒になって、放置しておけば、動物の中には理性を賦与されているものもいるという議論に非常に都合のよくなる目論《もくろみ》を、禁止するところのあの軍律を、読み聞かせた★のだ。それで、馬どもも降参して、彼等の任務をまたやり出したのだった。
 彼等は、頭をうなだれ尾を震わせながら、折々は、四肢の附根《つけね》のところで潰れはしないかと思われるくらいに、足掻《あが》いたり躓《つまず》いたりして、どろどろの泥の中を進んで行った。馭者が、油断なく「どうどう! はい、どうどう!」と言いながら、彼等を立ち止らせて休ませるたびに、左側の先導馬は、いかにも並外れて勢のある馬らしく――頭や頭に附いているすべてのものを激しく振り動かし、こんな丘へこんな馬車を曳き上げるなんてことが出来るものかと言っているようだった。その馬がそういう音を立てるたびごとに、例の旅客は、神経質な旅客ならするように、びくっとして、心がどきどきするのであった。
 谷間という谷間には濛々《もうもう》たる霧がたちこめていた。そして、悪霊のように、安息を求めて得られずに、寄るべなく丘の上へさまよい上っていた。じっとりした、ひどく冷い霧、それが、荒れた海の波のように、目に見えて一つ一つと続いて拡がっている漣《さざなみ》をなして、空中をのろのろと進んで来る。馬車ランプの燃えているのと、その附近の道路の数ヤードとを除いては、何もかもランプの光から遮っているくらいに、濃い霧だった。そして、喘ぎながら曳っぱっている馬の立てる湯気がそれと雑《まじ》り、その霧がみんな馬の吐き出したものかと思われるほどであった。
 例の旅客の他《ほか》に、もう二人の旅客が、その駅逓馬車の脇に沿うて丘をのそりのそりと登っていた。三人とも、耳の上も頬骨のところまでも身をくるんでいて、膝の上までの大長靴を穿いていた。この三人の中の誰一人も、自分の見たことからは、他の二人のどちらかがどういう類《たぐい》の人物であるか言えなかったろう。また、銘々は、自分の二人の道連《みちづれ》の肉眼に対してと同様に、彼等の心眼に対しても、ほとんど同じくらいたくさんのものを纒って自分を隠していた。その頃の旅人は、ちょっと知り合っただけで打解けることをひどく嫌っていたのである。というのは、道中で逢う人間は誰であろうと、それが追剥か、追剥とぐるになっている者であるかもしれなかったからである。その追剥とぐるになっているということなら、何しろ、宿駅★という宿駅、居酒屋という居酒屋には、亭主から一番下っぱの怪しげな厩舎係までにわたって、「首領《キャプテン》」の手当を貰っている者が誰かしらいるという時代では、それはいかにもありそうなことなのだ。そんなことをドーヴァー通いの駅逓馬車の車掌が腹の中で思ったのは、一千七百七十五年の十一月のその金曜日の夜、シューターズ丘《ヒル》をがたがた登りながらのことで、その時、彼は馬車の後部にある自分だけの特別の台に立って、足をどんどんと踏み、自分の前にある武器箱に目と片手とを離さずにいた。その武器箱の中には、彎刀《わんとう》を一番下にして、その上に七八挺の装薬した馬上拳銃が置いてあり、それの上に一挺の装薬した喇叭銃が載せてあったのだ。
 このドーヴァー通いの駅逓馬車は、車掌が乗客を疑《うたぐ》り、乗客たちは相互に疑り車掌を疑り、みんなが他の者を一人残らず疑り、馭者は馬より他《ほか》のものは何も信用しないという、それのいつも通りの和気靄々《わきあいあい》たる有様であった。その馬については、それらがこの旅行には適していないということを、馭者は潔白な良心をもって両聖約書にかけて宣誓することでも出来た。
「どうどう!」と馭者が言った。「はい、どう! もう一度ぐっと曳っぱりゃ、てっぺんだぞ、いまいましい奴め。手前《てめえ》たちをそこまで漕ぎつけさせるにゃあおれあずいぶん骨を折ったからな! ――ジョー!」
「おうい!」と車掌が答えた。
「何時《なんじ》だろうね、ジョー?」
「十一時たっぷり十分過ぎてるよ。」
「驚いたな!」といらいらした馭者は叫んだ。「それでいてまだシューターズのてっぺんへ著けねえんだぜ! ちえっ! やい! そら行け!」
 例の勢のある馬は、断乎としていうことをきかないでいたところへ鞭でぴしりとやられたので、今度は断然と爬《か》き登り出した。すると他の三頭の馬もそれに倣った。もう一度ドーヴァー通いの駅逓馬車はがたごとと動き出し、乗客たちの大長靴もその脇に沿うてぴしゃりぴしゃりと進んで行った。馬車が止る時には彼等は止り、それとぴったりくっついていた。もし、その三人の中の誰でも一人が、他の者に、霧と闇との中へ少し先に歩いて行こうではないかと言い出すような、大胆なことをしようものなら、彼は自分を追剥としてたちどころに射殺されるようにするようなものであったろう。
 最後の疾駆で馬車は丘の頂上に達した。馬はまた息《いき》をつぐために立ち止り、車掌は下りて来て、下り坂の用心に車輪に歯止《はどめ》をかけ、乗客を入れるために馬車の扉《ドア》を開《あ》けた。
「しっ! ジョー!」と馭者は、馭者台から見下しながら、警告するような声で叫んだ。
「何だい、トム?」
 彼等は二人とも耳をすました。
「馬が一匹|緩駈《ゆるがけ》でやって来るぜ、ジョー。」
「いや[#「いや」に傍点]、馬が一匹|疾駈《はやがけ》でだよ、トム。」と車掌は答えて、扉《ドア》を掴んでいる手を放し、自分の席へひらりと跳び乗った。「お客さん方! よろしいですか、皆さん!」
 大急ぎでこう頼むと、彼は喇叭銃に撃鉄をかけ、撃つ身構えをした。
 この物語に既に記載されている例の旅客は、馬車の踏台に乗って、入りかけていた。他の二人の旅客は、彼のすぐ後にいて、続いて入ろうとしていた。彼は、半身を馬車の中に、半身を馬車の外にしたまま、踏台に立ち止った。他の二人は道路の彼の下に立ち止った。彼等三人は馭者から車掌へ、車掌から馭者へと眼をやり、そして耳をすました。馭者は振り返って見、車掌も振り返って見、例の勢のある馬でさえ、逆らいもせずに、耳を欹《そばた》て振り返って見た。
 夜の静かな上に、馬車のがらがらごとごという音が止《や》んだための静けさが加わって、あたりは全くひっそりしてしまった。馬の喘ぐのが伝わって馬車がぶるぶる震動し、ちょうど馬車が胸騒ぎしてでもいるようだった。旅客たちの心臓はおそらく聞き取れそうなくらいに高く鼓動していたろう。とにかく、そのひっそりしている合間は、人々が息を殺し、固唾《かたず》を呑み、何事が起るかと思って動悸を速めている様子を、聞えるほどに表《あらわ》したのであった。
 疾駈《はやがけ》で来る馬の蹄の音が猛烈に丘を上って来た。
「おうい!」と車掌は呶鳴れるだけの大きな声で呼びかけた。「こらあ! 止れ! 撃つぞ!」
 馬の歩みはぴたりと止められた。そして、頻りに泥をはねかす音と足掻《あが》く音がすると共に、霧の中から一人の男の声が聞えて来た。「それあドーヴァー通いの馬車かい?」
「何だろうといらぬお世話だい!」と車掌が言い返した。「お前《めえ》こそ何者だ?」
「それあドーヴァー通いの馬車なの[#「なの」に傍点]かい?」
「どうしてそんなことを知りてえんだ?」
「もしそうなら、わっしはお客さんに用があるんだよ。」
「何というお客さんだい?」
「ジャーヴィス・ロリーさんだ。」
 例の記載ずみの旅客はただちにそれが自分の名前であるということを告げ知らせた。車掌と、馭者と、他の二人の旅客とは、胡散《うさん》そうに彼をじろじろ見た。
「そこにじっとしていろよ。」と車掌が霧の中の声に呼びかけた。「もしおれが間違《まちげ》えをやらかすとなると、そいつあお前《めえ》の生涯中取返しがつかねえんだからな。ロリーって名前のお方、じかに返事してやって下せえ。」
「どうしたのだね?」と、その時、例の旅客は穏かに震えた口振りで尋ねた。「わたしに用があるというのは誰だね? ジェリーかい?」
(「あれがジェリーってえんなら、そのジェリーてえ奴の声が、おれにゃ気にくわねえよ。」と車掌がひとりでぶつぶつ言った。「あいつはおれの気に入らねえほどの嗄《しゃが》れ声をしていやがるよ、あのジェリーはな。」)
「そうですよ、ロリーさん。」
「どうしたのだい?」
「あっちの向うからあなたの後を追っかけて急ぎの書面を持って来ましたんで。T社で。」
「わたしはあの使いの者を知っていますよ、車掌。」とロリー氏は言って、道路へ下りたが、――彼が下りるのを背後から他の二人の旅客は丁寧にというよりは素速く手助けし、その二人はすぐに馬車の中へもぐり込んで、扉《ドア》を閉《し》め、窓も引き上げてしまった。「あの男なら近くへよこしても大丈夫だ。何も間違いはないから。」
「なけりゃいいが、わしにゃあそいつがほんとに信じられねえ。」と車掌が無愛想な独《ひと》り言《ごと》のように言った。「おういおい!」
「よしよし! おうい!」とジェリーは前よりももっと嗄《しゃが》れ声で言った。
「並足で来るんだぞ。いいか? それからもしお前がその鞍にピストル袋をつけてるんなら、手をそいつの近くへやるのをおれに見せねえようにしろよ。何しろおれは間違《まちげ》えをするなあ悪魔みてえに速《はえ》えんだからな。そしておれが間違《まちげ》えをやらかす時にゃ、きっと鉛|弾丸《だま》でやるんだからな。さあ、もうやって来い。」
 一頭の馬と乗手との姿が、渦巻いている霧の中からのろのろと出て来て、例の旅客の立っている、駅逓馬車の脇のところまでやって来た。その乗手は身を屈め、それから、車掌をちらりと仰ぎ見ながら、一枚の小さく折り摺《たた》んだ紙片を旅客に手渡しした。乗手の馬は息を切らしていて、馬も乗手も両方とも、馬の蹄から男の帽子まで、泥まみれになっていた。
「車掌!」と旅客は、平静な事務的な信頼の語調で、言った。
 用心深い車掌は、右手を自分の持ち上げている喇叭銃の台尻に、左手をその銃身にかけ、眼を騎者に注ぎながら、ぶっきらぼうに答えた。「へえ。」
「何も懸念することはない。わたしはテルソン銀行のものだ。ロンドンのテルソン銀行はお前さんも知っているに違いない。わたしは用向でパリーへ行くところなのだ。酒代《さかて》に一クラウン★あげるよ。これを読んでいいね?」
「速くして下さいますんならね、旦那。」
 彼は自分のいる側の馬車ランプの明りの中にそれを開《あ》けて、そして読んだ、――最初は口の中で、次には声を立てて。「『ドーヴァーにて|お嬢さん《マムゼール》を待て。』と。長くはないだろう、ねえ、車掌。ジェリー、こう言ってくれ。わたしの返事は、甦る[#「甦る」に丸傍点]、というのだった、とね。」
 ジェリーは鞍の上でぎょっとした。「そいつあまたとてつもなく奇妙な御返事ですねえ。」と彼は精一杯の嗄《しゃが》れ声で言った。
「その伝言《ことづて》を持って帰りなさい。そうすれば、わたしがこれを受け取ったことが、手紙を書いたと同じくらいに、先方にわかるだろうからね。出来るだけ道を急いで行きなさい。じゃ、さようなら。」
 そう言いながら、旅客は馬車の扉《ドア》を開《あ》けて入った。が、今度は相客たちは少しも彼の手助けをしなかった。彼等は自分の懐中時計や財布を長靴の中へ手速く隠し込んでしまって、その時はすっかり眠っている風をしていたのだ。それは、特にはっきりした目的があってのことではなく、ただ、何等かの他の種類の行動の原因を作るような危険を避けるためなのであった。
 馬車は再びがらがらと動き出し、下り坂へ来かかると、前よりももっと濃い環を巻いた霧が周りに迫って来た。車掌はまもなく喇叭銃を武器箱の中へ戻し、それから、その中にある他の武器を検《しら》べ、自分の帯革につけている補充用の拳銃《ピストル》を検べると、自分の座席の下にある小さな箱を検べてみた。その中には二三の鍛冶道具と、火把《たいまつ》が一対と、引火奴箱《ほくちばこ》が一つ入っていた。それだけすっかり備えておいたのは、折々起ったことであるが、馬車ランプが嵐に吹き消された時には、車内に入って閉《し》めきり、火打石と火打|鉄《がね》とで打ち出した火花を藁からほどよく離しておけば、かなり安全にかつ容易に(うまくゆけば)五分間で明りをつけることが出来たからである。
「トム!」と馬車の屋根越しに低い声で。
「おうい、ジョー。」
「あの伝言《ことづて》を聞いたかい?」
「聞いたよ、ジョー。」
「お前《めえ》あれをどう思ったい、トム?」
「まるでわかんねえよ、ジョー。」
「じゃあ、そいつも同《おんな》じこったなあ。」と車掌は考え込むように言った。「おれだってまるっきりわかんねえんだからな。」
 霧と闇との中にただ独り残されたジェリーは、その間に馬から下りて、疲れ果てた馬を楽にさせてやるばかりではなく、自分の顔にかかっている泥を拭ったり、半ガロン★ほどの水を含むことの出来そうな自分の帽子の鍔《つば》から水気を振い落したりした。駅逓馬車の車輪の音がもう聞えなくなってしまい、夜がまたすっかり静まり返るまで、彼はひどく泥のはねかっている腕に手綱をかけたまま立っていたが、それからぐるりと身を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して丘を歩いて下り出した。
「あんなにテムプル関門《バー》★から駈け通しで来たんだからなあ、お婆さん、お前《めえ》を平地《ひらち》へつれてくまではおれはお前《めえ》の前脚を信用出来ねえよ。」とこの嗄《しゃが》れ声の使者は、自分の牝馬をちらりと眺めながら、言った。「『甦《よみがえ》る』だとよ。こいつあとてつもなく奇妙な伝言《ことづて》だなあ。そんなことがたくさんあった日にゃあ、お前《めえ》のためにやよくあるめえぜ、ジェリー! なあ、おい、ジェリー! もし甦るなんてことが流行《はや》って来ようものなら、お前《めえ》はとてつもなく面白くもねえことになるだろうぜ、ジェリー!★」
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    第三章 夜の影

 あらゆる人間が他のあらゆる人間にとって深奥な秘密であり神秘であるように出来ているということは、考えてみると驚くべき事実である。私が夜間にある大きな都会に入る時、その暗く寄り集っている家々の一つ一つがそれぞれの秘密を包んでいるということや、その一つ一つの家の中の一つ一つの室がまたそれぞれの秘密を包んでいるということや、そこにいる幾十万の胸の中に鼓動している一つ一つの心臓が、それの思い描いている事柄によっては、それに最も近しい心臓にとっても一の秘密である! ということは、考えると厳《おごそ》かな事柄である。死というものでさえ、その恐しさの幾分かは、このことに基くのである。もはや私は自分の愛したこの懐《なつか》しい書物の紙葉をめくることが出来ない。そして、いつかはそれをみんな読もうと思っていた望みも空しくなってしまう。もはや私は深さの測り知られぬこの水の底を覗き込むことが出来ない。瞬時の光がちらりと射し込んだ時に、私はその水の中に沈んでいる宝やその他の物を瞥見したことがあったのだが。その書物は、私がたった一頁だけ読んでしまうと、永久に永久にぴたりと閉じられる宿命《さだめ》になっていたのだ。その水は、光がその水面に閃いていて、私が岸に何も知らずに立っている時に、永遠の氷に鎖《とざ》される宿命《さだめ》になっていたのだ。私の友人が死ぬ。私の隣人が死ぬ。私の恋人、私の心の愛人が死ぬ。それは、その個人の裡《うち》に常に宿っていた秘密の仮借なき凝固であり永久化であるのだ。そういう秘密を私もまた自分の裡に宿して自分の生涯の終りまで持って行くことであろう。私の今通っているこの都会のどの墓地にでも、この都会の忙しく働いている住民たちが、その心の一番奥底では、私にとって窺い知りがたいものであり、あるいは私が彼等にとってそうであるよりも以上に、窺い知りがたい死者というものが、果しているであろうか?
 この、生得の、他人に譲ることの出来ない資産ということでは、例の馬上の使者も、国王や、宰相や、ロンドン随一の富裕な商人などと全く同じだけのものを持っているのであった。また、がたがたと音を立てて行く一台の古ぼけた駅逓馬車の狭苦しい中に閉じこめられている、あの三人の旅客にしても、やはりそうなのだ。彼等は、一人一人が自分自身の六頭牽の馬車に乗って、あるいは自分自身の六十頭牽の馬車に乗って、自分と隣の者との間に一つの郡ほどの間隔を置いてでもいるように、完全に、お互が神秘なのであった。
 例の使者はゆっくりした早足で馬に乗って引返し、かなり幾度も路傍の居酒屋に止って酒を飲んだが、しかし、なるべく口を噤み、帽子を眼深《まぶか》にかぶっているようにしていた。彼はそういう帽子のかぶり方に極めてよく釣合った眼をしていた。黒味がかかった眼で、色でも形でも深みが少しもなく、もし余り遠く離れていると何かの事で片眼だけが見つけ出されはしないかと恐れてでもいるかのように――ひどくくっつき過ぎているのだ。その眼は、三角の痰壺のような古ぼけた縁反帽《ふちそりぼう》の下、頤と咽《のど》とを巻いてほとんど膝あたりまで垂れ下っている大きな襟巻の上に、陰険な表情をしていた。止って一杯飲む時には、彼は、右手で酒をぐうっとやる間だけ、その襟巻を左手で取り除け、それがすむや否や、すぐに再び巻きつけてしまうのだった。
「いいや、ジェリー、いやいや!」と使者は、馬に乗っている間も一つの事ばかり考え返しながら、言った。「そいつあお前《めえ》のためにゃよくあるめえぜ、ジェリー。ジェリー、お前《めえ》は実直な商売人なんだからな、そいつあお前の[#「お前の」に傍点]商売にゃ向くめえよ! よみが――! うん、旦那は一杯飲んで酔っ払ってたに違《ちげ》えねえや!」
 あの伝言《ことづて》は彼の心をひどく悩ませたので、彼は何度も帽子を脱いで頭をがりがり掻くより他《ほか》に仕方がないくらいであった。ぱらぱらと禿げている脳天を除いては、硬《こわ》い黒い髪の毛がその頭一面にぎざぎざと突っ立っていて、ほとんど彼の団子鼻のあたりまでも生え下っていた。その頭は鍛冶屋の作った物のようであった。髪の生えた頭というよりは、堅固に忍返《しのびがえ》し★を打ちつけてある塀の頂に似ていた。だから、蛙跳び★の一番の名人でも、跳び越すのにこれほど危険な男は世の中にもいないと言って、彼を跳び越すことは断《ことわ》ったかもしれなかった。
 彼がテムプル関門《バー》の傍のテルソン銀行の戸口のところにある番小屋の中の夜番人に渡し、その夜番人がまたそれを中にいる上役たちに渡すことになっているはずの、あの伝言《ことづて》を持って、馬を早足で歩ませながら引返している間、夜の影は、彼にとっては、その伝言《ことづて》から生じたような形をしているように見え、その牝馬にとっては、その馬[#「その馬」に傍点]だけにしかわからないいろいろの不安の種から生じたような形をしているように見えたのであった。そういう不安の種はたくさんあったらしく、馬は路上のあらゆる物影におびえていた。
 その間に、例の駅逓馬車は、お互に窺い知りがたい三人の相客を車内に乗せたまま、がたがた、ごろごろ、がらがら、ごとごとと、そのもどかしい道を進んで行った。この三人にも、同じように、夜の影は、彼等のうとうとしている眼と取留めのない思いとが心に浮ばせた通りの姿をして現れた。
 テルソン銀行がその駅逓馬車の中で取附けに逢っていた。あの銀行員の乗客が――馬車が特別ひどく揺れる度に、隣の乗客にぶつかって、その人を隅っこに押しつけることのないために、車内の者が皆しているように、吊革に片腕を通したまま――眼を半ば閉じながら自分の座席でこくりこくりやっていると、小さな馬車の窓や、そこから仄暗《ほのぐら》く射し込んで来る馬車ランプや、向い合っている乗客の嵩ばった図体などが、銀行に変って、一大支払をやっているのだった。馬具のがちゃがちゃいう音は、貨幣のじゃらじゃらいう音になった。そして、五分間のうちに、テルソン銀行でさえ、その国外及び国内のあらゆる関係方面をみんなひっくるめて、かつてその三倍の時間に支払ったことのあるよりも以上に多額の、為替手形が支払われた。それから今度は、テルソン銀行の地下の貴重品室が、その乗客の知っているような高価な品物や秘密物を納めたまま(そしてそれらの物について彼の知っていることは少くはなかったのだ)、彼の前に開かれた。そして、彼は大きな幾つもの鍵と微かに弱々しく燃えている蝋燭とを持ってその中へ入って行った。すると、その品々は、彼が最後に見た時とちょうど同じに安全で、堅固で、無事で、平静であることがわかった。
 しかし、銀行がほとんど絶えず彼と共にあったけれども、また馬車も(阿片剤を飲んだための苦痛があるように、混乱したのにではあるが)絶えず彼と共にあったけれども、その夜|中《じゅう》流れて止《や》まなかったもう一つの印象の流れがあった。彼はある人を墓穴から掘り出しに行く途中なのであった。
 ところで、彼の前に現れる多数の顔の中のどれが、その埋葬されている人のほんとうの顔なのか、夜の影は示してくれなかった。だが、それらはどれもこれも年齢四十五歳の男の顔であって、主として異っているのは、その表《あらわ》している感情と、その瘠せ衰えた様子の物凄さとの点であった。自負、軽蔑、反抗、強情、服従、悲歎などの表情が次々に現れ、いろいろのこけた頬、蒼ざめた顔色、痩せ細った手や指などが次々と現れたのだ。しかしその顔はだいたいは同一の顔で、頭はどれもまだそういう年でもないのに真白だった。幾度も幾度も、このうとうとしている旅客はその亡霊に尋ねるのであった。――
「どれくらいの間埋められていたんです?」
 その答はいつも同じであった。「ほとんど十八年。」
「あなたは掘り出されるという望みはすっかり棄てておられたのですね?」
「ずっと以前に。」
「あなたは御自分が甦《よみがえ》っていることを御存じなのですね?」
「みんながわたしにそう言ってくれる。」
「あなたは生きたいとお思いでしょうね?」
「わしにはわからない。」
「あの女《ひと》をあなたのところへお連れして来ましょうか? あなたの方からあの女《ひと》に逢いにいらっしゃいますか?」
 この質問に対する答は、いろいろさまざまで、正反対のもあった。時には、とぎれとぎれに「待ってくれ! 余り早く彼女《あれ》に逢ってはわたしは死にそうだから。」という返事をすることもあった。時には、さめざめと涙の雨にくれ、それから「わたしを彼女《あれ》のところへ連れて行ってくれ。」という返事をすることもあった。また時としては、じっと見つめて当惑したような顔をして、それから「わしはそんな女を知らん。わしには何のことかわからん。」という返事をすることもあった。
 そういう想像上の会話の後に、この旅客は、その憐れな人間を掘り出してやるために、空想の裡《うち》で――ある時は鋤で、ある時は大きな鍵で、ある時は自分の両手で――掘って、掘って、掘るのであった。顔にも髪にも土をくっつけたまま、ようやく出て来ると、その男はたちまち倒れて塵になってしまう。すると旅客ははっとして我に返り、窓を下して、霧と雨とを頬に実際に感じるのであった。
 それでも、彼が眼を見開いて、霧と雨や、ランプから射す光の動いてゆく斑紋や、ぐいぐいと遠退《とおの》いてゆく路傍の生垣などを眺めている時でさえ、馬車の外の夜の影は、いつの間にか馬車の内の夜の影のあの連《つらな》りと一緒になるのだった。テムプル関門《バー》の傍のほんとうの銀行も、前日のほんとうの事務も、ほんとうの貴重品室も、彼の後を追っかけて来たほんとうの急書も、彼が持たして返したほんとうの伝言も、みんなそこにある。そういうものの真中から、例の幽霊のような顔が現れて来る。すると彼はまたそれに話しかける。
「どれくらいの間埋められていたんです?」
「ほとんど十八年。」
「あなたは生きたいとお思いでしょうね?」
「わしにはわからない。」
 掘って――掘って――掘っている――と、とうとう二人の乗客の中の一人がたまりかねたような身動きをするので、彼ははっと気がついて窓を引き上げ、片腕をしっかりと吊革に通して、眠っている二人の姿を黙想する。そのうちにいつの間にか彼の心は二人のことから離れて、彼等は再び銀行と墓穴との中へ滑り込んでしまう。
「どれくらいの間埋められていたんです?」
「ほとんど十八年。」
「掘り出されるという望みはすっかり棄てておられたのですね?」
「ずっと以前に。」
 この言葉がつい今しがた口で言われたようにまだ耳に残っている――今までにかつて口で言われた言葉が彼の耳に残ったようにはっきりと残っている――時に、その疲れた旅客は、明るい光に気がついてはっとし、夜の影がもう消え失せていることを知った。
 彼は窓を下すと、顔を外に突き出して、さし昇る太陽を眺めた。そこには、山脊のようになって長く連っている耕地があって、犂《からすき》★が一つ、前夜馬を軛《くびき》から離した時に残されたままにしておいてあった。耕地の向うには、静かな雑木林があって、燃えるように紅《あか》い木の葉や、金色のように黄ろい木の葉が、梢にまだたくさん残っていた。地面は冷くてしっとり湿《しめ》っていたけれども、空は晴れわたっていて、太陽は燦然と、穏かに、美わしく昇っていた。
「十八年とは!」と旅客はその太陽を眺めながら言った。「お慈悲深いお天道《てんとう》さま! 十八年間も生埋《いきう》めにされているなんて!」
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    第四章 準備

 駅逓馬車が午前中に無事にドーヴァーへ著くと、ロイアル・ジョージ旅館《ホテル》★の給仕|頭《がしら》は、いつもきまってするように、馬車の扉《ドア》を開《あ》けた。彼はそれを幾分儀式張って仰《ぎょう》々しくやったのであった。というのは、何しろ、冬季にロンドンから駅逓馬車で旅をして来るということは、冒険好きな旅行者に祝意を表してやってしかるべきくらいの事柄であったからである。
 この時までには、その祝意を表さるべき冒険好きの旅行者は、たった一人しか残っていなかった。他の二人は途中のそれぞれの目的地で下りてしまっていたからだ。馬車の黴臭い内部は、その湿《しめ》っぽい汚《よご》れた藁と、不愉快な臭気と、薄暗さとで、幾らか、大きな犬小屋のようであった。藁をふらふらにくっつけ、長い毳《けば》のある肩掛をぐるぐる巻きつけ、鍔《つば》のびらびらしている帽子をかぶり、泥だらけの脚をして、その馬車の中から体《からだ》をゆすぶりながら出て来た、乗客のロリー氏は、幾らか、大きな犬のようであった。
「明日《あす》カレー★行きの定期船は出るだろうね、給仕?」
「さようでございます、旦那、もしお天気が持ちまして風が相当の順風でございますればね。潮《しお》は午後の二時頃にかなり工合よくなりますでしょう、はい。で、お寝《やす》みですか、旦那?」
「わたしは晩になるまでは寝まい。しかし、寝室は頼む。それから床屋をな。」
「それから御朝食は、旦那? はいはい、畏りました。は、どうぞそちらへ。和合《コンコード》の間へ御案内! お客さまのお鞄《かばん》と熱いお湯を和合《コンコード》の間へな。お客さまのお長靴は和合《コンコード》の間でお脱がせ申すんだぞ。(上等の石炭で火が燃やしてございますよ、旦那。)床屋さんを和合《コンコード》の間へ呼んで来ておあげなさい。さあさあ、和合《コンコード》の間の御用をさっさとするんだよ!」
 その和合《コンコード》の寝室というのはいつも駅逓馬車で来た旅客にあてがわれていたので、そして、駅逓馬車で来た旅客たちはいつも頭の先から足の先までぼってり身をくるんでいたので、その室は、ロイアル・ジョージ屋の人々にとっては、そこへ入って行くのはただ一種類だけの人に見えるが、そこから出て来るのはあらゆる種類のさまざまの人であるという、妙な興味があるのだった。そういう訳で、六十歳の一紳士が、大きな四角いカフスとポケットに大きな覆布《ふた》のついている、かなり著古してはあるが、極めてよく手入れのしてある茶色の服に正装して、朝食をとりに行く時には、別の給仕と、二人の荷持と、幾人かの女中と、女主人とが、和合《コンコード》の間と食堂との間の通路の処々方々に偶然にもみんなぶらぶらしていたのであった。
 食堂には、その午前、この茶色服の紳士より他《ほか》に客はなかった。彼の朝食の食卓は炉火の前へ引き寄せてあった。そして、その火の光に照されながら、食事を待って腰掛けている間、彼は余りじっとしているので、肖像画を描《か》かせるために著席しているのかと思われるくらいであった。
 彼はすこぶるきちんとして几帳面に見え、両膝に手を置き、音の大きな懐中時計は、あたかもかっかと燃えている炉火の軽躁さとうつろいやすさとに自分の荘重さと寿命の永さとを競《きそ》わせるかのように、垂片《たれ》のあるチョッキの下で朗々たる説教をちょきちょきちょきちょきとやっていた。彼は恰好のよい脚をしていて、少しはそれを自慢にしていたらしい。というのは、茶色の靴下はすべすべとぴったり合っていて、地合が上等のものであったし、緊金《しめがね》附きの靴も質素ではあったが小綺麗なものだったから。彼は、頭にごくぴったりくっついている、風変りな小さいつやつやした縮れた亜麻色の仮髪《かつら》をかぶっていた。この仮髪《かつら》は髪の毛で作られたものであろうが、しかしそれよりもまるで絹糸か硝子質の物の繊維で紡いだもののように見えた。彼のシャツ、カラー類は、靴下と釣合うほどの上等なものではなかったが、近くの渚に寄せて砕ける波頭《なみがしら》か、海上遠くで日光にきらきらと光っている帆影ほどに白かった。習慣的に抑制されて穏かになっている顔は、潤《うるお》いのあるきらきらした一双の眼のために、例の一風変った仮髪《かつら》の下で始終明るくされていた。その眼をテルソン銀行風の落著いた遠慮深い表情に仕込むには、過ぎ去った年月の間に、その眼の持主に多少は骨を折らせたものに違いない。彼は健康そうな頬色をしていて、その顔には、皺がよってはいたけれども、憂慮の痕は大して見えなかった。だが、おそらく、テルソン銀行の機密に参与する独身の行員たちというものは、他人の苦労に主としてかかりあっていたのであろう。そして、おそらく、|他人のお古《セカンドハンド》の苦労というものは、|他人のお古《セカンドハンド》の著物と同様に、脱ぐのも著るのも造作のないものなのであろう。
 肖像画を描《か》かせるために著席している人との類似を更に完全にしようと、ロリー氏はうとうとと寐入《ねい》ってしまった。朝食が運ばれて来たのに彼は目を覚された。そして、自分の椅子を食事の方へ動かしながら、給仕に言った。――
「若い御婦人が今日《きょう》ここへ何時《なんどき》来られるかもしれないが、その方《かた》のために部屋を用意しておいてもらいたい。その御婦人はジャーヴィス・ロリーさんはいないかと言って尋ねられるかもしれないし、それとも、ただ、テルソン銀行から来たお方はいないかと尋ねられるかもしれない。そしたらどうか知らせて下さい。」
「は、畏りました。ロンドンのテルソン銀行でございますね、旦那?」
「そうだ。」
「は、承知いたしました。手前どもでは、あなたさまのところの方々《かたがた》がロンドンとパリーの間を往ったり来たりして御旅行なさいます時に、たびたび御贔屓にあずかっております、はい。テルソン銀行では、旦那、ずいぶん御旅行をなさいますようで。」
「そうだよ。わたしどもの銀行は、イギリスの銀行であると同じくらいに、全くフランスの銀行ででもあるようなものだからね。」
「は、なるほど。でも、旦那、あなたさまはあまりそういう御旅行はしつけてお出でになりませんようでございますが?」
「近年はやらない。わたしどもが――いや、わたしが――この前フランスから戻ってから十五年になるよ。」
「へえ、さようでございますか? それでは手前がここへ参りましたより以前のことでございますよ、はい。ここの人たちがここへ参りましたよりも以前のことで、旦那。このジョージ屋はその時分は他《ほか》の人の経営でございました。」
「そうだろうねえ。」
「しかし、旦那、テルソン銀行のようなところになりますと、十五年前はおろか、五十年ばかりも前でも、繁昌していらっしったということには、手前がどっさり賭《かけ》をいたしましてもよろしゅうございましょうね?」
「それを三倍にして、百五十年と言ったっていいかもしれんな。それでも大して間違いじゃないだろうよ。」
「へえ、さようで!」
 口と両の眼とを円くしながら、給仕人《ウェーター》は食卓から一足下ると、ナプキンを右の腕から左の腕へと移して、安楽な姿勢をとった。そして、客の食べたり飲んだりするのを、展望台か望楼からでもするように見下しながら、立っていた。あらゆる時代における給仕人《ウェーター》のかの昔からの慣習に従って。
 ロリー氏は朝食をすましてしまうと、浜辺へ散歩に出かけた。小さな幅の狭い曲りくねったドーヴァーの町は、海の駝鳥のように、浜辺から隠れて、その頭を白堊の断崖の中に突っ込んでいた★。浜辺は山なす波浪と凄じく転げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っている石ころとの沙漠であった。そして波浪は己《おの》が欲するままのことをした。その欲するままのこととは破壊であった。それは狂暴に町に向って轟き、断崖に向って轟き、海岸を突き崩した。家々の間の空気は非常に強く魚臭い臭いがして、ちょうど病気の人間が海の中へ浸りに行くように、病気の魚がその空気に浸りに来たのかと想像されるほどであった。この港では漁業も少しは行われていたが、夜間にぶらぶら歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って海の方を眺めることが盛んに行われた★。殊に、潮《しお》がさして来て満潮に近い時に、それが行われるのであった。何一つ商売もしていない小商人が、時々、不可思議千万にも大財産をつくることがあった。そして、この附近の者が誰一人も点灯夫に我慢がならないことは不思議なくらいだった。
 日が昃《かげ》って午後になり、折々はフランスの海岸が見えるくらいに澄みわたっていた空気が、再び霧と水蒸気とを含んで来るにつれて、ロリー氏の思いもまた曇って来たようであった。日が暮れて、彼が朝食を待っていた時のようにして夕食を待ちながら、食堂の炉火の前に腰掛けていた時には、彼の心は、赤く燃えている石炭の中をせっせと掘って掘って掘っているのであった。
 夕食後の上等なクラレット★の一罎は、赤い石炭の中を掘る人に、ともすれば仕事を抛擲させがちであるからということの他《ほか》には、何の害もしないものである。ロリー氏は永い間安閑としていたが、そのうちに、中年を過ぎた血色のいい紳士が一罎を傾け尽した場合にいつも見られるようなこの上もなく満足だという様子で、自分の葡萄酒の最後の杯を注《つ》いだ時に、がらがらという車輪の音が狭い街路をこちらの方へとやって来て、旅館の構内へごろごろと入って来た。
 彼は杯に口をつけずにそれを下に置いた。「|お嬢さん《マムゼール》だな!」と彼は言った。
 数分たつと給仕人《ウェーター》が入って来て、マネット嬢がロンドンからお著きになって、テルソン銀行からお出でになった紳士にお目にかかれるなら仕合せですと言っていらっしゃいます、と知らせた。
「そんなに早く?」
 マネット嬢は途中で食事をおとりなったので、今はちっともほしくはないそうで、もしテルソン銀行の紳士の思召しと御都合さえよろしければ、すぐにお目にかかりたいと非常にお望みです、とのこと。
 そのテルソン銀行の紳士は、そのためには、ただ、無神経な捨鉢らしい風に杯の酒をぐうっと飲み乾《ほ》し、例の風変りな小さい亜麻色の仮髪《かつら》を耳のところでしっかりと抑えつけて、給仕人《ウェーター》の後についてマネット嬢の部屋へと行きさえすればよいのであった。そこは大きな暗い室で、黒い馬毛織を葬式にふさわしいような陰気なのに飾りつけ、どっしたりした黒ずんだ卓子《テーブル》を幾つも置いてあった。これらの卓子《テーブル》は油を塗ってぴかぴかと拭き込んであるので、室の中央にある卓子《テーブル》に立ててある二本の高い蝋燭は、どの板にもぼんやりと映っていた。あたかもその蝋燭が黒いマホガニーの深い墓穴の中に埋められていて、そこから掘り出されるまではその蝋燭からはこれというほどの光は期待することが出来ないかのようだった。
 そこの薄暗さでは見透すのが困難であったので、ロリー氏は、だいぶん擦り切れているトルコ絨毯の上を気をつけて歩きながら、マネット嬢は一時どこか隣の室あたりにいるのだろうと想像したが、やがて、例の二本の高い蝋燭の傍を通り過ぎてしまうと、彼には、その蝋燭と煖炉との間にある卓子《テーブル》の傍に、乗馬用外套を著て、まだ麦藁の旅行帽をリボンのところで手に持ったままの、十七より上にはなっていない一人のうら若い婦人が、自分を迎えて立っているのを認めた。彼の眼が、小柄で華奢な美しい姿や、豊かな金髪や、尋ねるような眼付をして彼自身の眼とぴたりと会った一双の碧い眼や、眉を上げたり顰《ひそ》めたりして、当惑の表情とも、不審の表情とも、恐怖の表情とも、それとも単に怜悧な熱心な注意の表情ともつかぬ、しかしその四つの表情を皆含んでいる一種の表情をする奇妙な能力(いかにも若々しくて滑《なめら》かな額《ひたい》であることを心に留めてのことであるが)を持つ額などに止《とど》まった時――彼の眼がそれらのものに止まった時に、突然、ある面影がまざまざと彼の前に浮んだ。それは、霰が烈しく吹きつけて波が高いある寒い日、この同じイギリス海峡を渡る時に彼自身が腕に抱いていた一人の幼児の面影であった。その面影は、彼女の背後にある気味の悪い大姿見鏡の面《おもて》に横から吹きかけた息《いき》なぞのように、消え去ってしまい、その大姿見鏡の縁には、幾人かは首が欠けているし、一人残らず手か足が不具だという、病院患者の行列のような、黒奴《くろんぼ》のキューピッドたちが、死海の果物★を盛った黒い籠を、黒い女性の神々に捧げていたが、――それから彼はマネット嬢に対して彼の正式のお辞儀をした。
「どうぞお掛け遊ばせ。」ごくはっきりした気持のよい若々しい声で。その口調《アクセント》には少し外国|訛《なま》りがあったが、それは全くほんの少しである★。
「わたしはあなたのお手に接吻いたします、お嬢さん。」とロリー氏は、もう一度彼の正式のお辞儀をしながら、昔の作法に従ってこう言い、それから著席した。
「あたくし昨日《きのう》銀行からお手紙を頂きましたのでございますが、それには、何か新しい知らせが――いいえ、発見されましたことが――」
「その言葉は別に重要ではありません、お嬢さん。そのどちらのお言葉でも結構ですよ。」
「――あたくしの一度も逢ったことのない――ずっと以前に亡《な》くなりました父のわずかな財産のことにつきまして、何かわかりましたことがありますそうで――」
 ロリー氏は椅子に掛けたまま身を動かして、例の黒奴《くろんぼ》のキューピッドたちの病院患者行列の方へ心配そうな眼をちらりと向けた。あたかも彼等が[#「彼等が」に傍点]その馬鹿げた籠の中に誰でもに対するどんな助けになるものでも持っているかのように!
「――そのために、あたくしがパリーへ参って、あちらで、その御用のためにわざわざパリーまでお出で下さる銀行のお方とお打合せをしなければならない、と書いてございましたのですが。」
「その人間というのがわたしで。」
「そう承るだろうと存じておりました。」
 彼女は、彼が自分などよりはずっとずっと経験もあり智慮もある方《かた》だと自分が思っているということを、彼に伝えたいという可憐な願いをこめて、彼に対して膝を屈めて礼をした(当時は若い淑女は膝を屈める礼をしたものである)。彼の方ももう一度彼女にお辞儀をした。
「あたくしは銀行へこう御返事いたしました。あたくしのことを知っていて下すって、御親切にいろいろあたくしに教えて下さる方々《かたがた》が、あたくしがフランスへ参らなければならないとお考えになるのですし、それに、あたくしは孤児《みなしご》で、御一緒に行って頂けるようなお友達もございませんのですから、旅行の間、そのお方さまのお世話になれますなら、大変有難いのでございますが、と申し上げましたのでございます。そのお方はもうロンドンをお立ちになってしまっていらっしゃいましたが、でも、そのお方にここであたくしをお待ち下さるようにお願いしますために、その方《かた》の後《あと》から使いの人を出して下すったことと存じます。」
「わたしはそのお役目を任されましたことを嬉しく思っておりました。それを果すことが出来ますればもっと嬉しいことでございましょう。」とロリー氏が言った。
「ほんとに有難うございます。有難くお礼を申し上げます。銀行からのお話では、その方《かた》が用事の詳しいことをあたくしに御説明して下さいますはずで、それがびっくりするような事柄なのだから、その覚悟をしていなければならない、とのことでございました。あたくしはもう十分その覚悟をいたしておりますので、あたくしとしましてはどんなお話なのか知りたくて知りたくてたまらないのでございますが。」
「御もっとも。」とロリー氏は言った。「さよう、――わたしは――」
 ちょっと言葉を切ってから、彼はまた例の縮れた亜麻色の仮髪《かつら》を耳のところで抑えつけながら、こう言い足した。――
「どうも言い出すのが大変むずかしいことなのでして。」
 彼が言い出さずに、躊躇しているうちに、彼女の視線とぱったり出会った。と、例の若々しい額が眉を上げてあの奇妙な表情をし――しかしそれは奇妙なという他《ほか》に可愛いくて特有の表情であったが――それから、彼女は、何かの通り過ぎる物影を思わず掴むか引き止めるかのように、片手を挙げた。
「あなたはあたくしのまるで知らないお方なのでしょうか?」
「そうじゃないと仰しゃるんですか?」ロリー氏は両手を拡げて、議論好きなような微笑を浮べながらその手をぐっと左右に差し伸ばした。
 彼女がこれまでずっとその傍に立っていた横の椅子へ物思わしげに腰を下した時に、眉毛と眉毛の間、この上なく優美な上品な鼻筋をした女らしい小さな鼻のすぐ上のところに、例の表情が深まった。彼は彼女が物思いに沈んでいるのを見守っていたが、彼女が再び眼を上げた瞬間に、こう話し出した。――
「あなたの帰化なさいましたこの国では、あなたをお若いイギリスの御婦人として|マネット嬢《ミス・マネット》と申し上げるのが一番よろしいかと存じますが?」
「ええ、どうぞ。」
「|マネット嬢《ミス・マネット》、わたしは事務家でございます。今わたしには自分の果さなければならん事務の受持が一つございますのです。あなたがそれをお聴き取り下さいます時には、わたしをほんの物を言う機械だというくらいにお思い下さい。――全くのところ、わたしなぞはそれと大して違ったものじゃありません。では、お嬢さん、御免を蒙って、わたしどもの方《ほう》のあるお得意さまの身の上話をあなたにお話申し上げることにいたしましょう。」
「身の上話ですって!」
 彼女が言い返した言葉を彼はわざと聞き違えたらしく、急いで言い足した。「そうです、お得意さまです。銀行業の方ではお取引先のことをお得意さまといつも申しておりますんで。その方《かた》はフランスの紳士でした。科学の方面の紳士で。非常に学識のある人で、――お医者でした。」
「ボーヴェー★出身の方《かた》ではございませんの?」
「そうですねえ、ええ、ボーヴェー出身の方《かた》です。あなたのお父さまのムシュー★・マネットと同じように、その紳士はボーヴェー出身の方《かた》でございました。あなたのお父さまのムシュー・マネットと同じように、その紳士もパリーでなかなか評判の人でした。わたしがその方《かた》とお近付《ちかづき》になりましたのはそのパリーだったのです。わたしたちの関係は事務上の関係でございましたが、しかし非常に親しくして頂いておりました。わたしはその頃わたしどものフランスの店におりまして、それまでには――そう! 二十年間もそこにおりましたのですが。」
「その頃――と仰しゃいますと、いつ頃なのでございましょうかしら?」
「わたしは、お嬢さん、二十年前のことをお話申しておるのです。その方《かた》は御結婚なさいました、――イギリスの御婦人とでした。――そしてわたしは財産管理人の一人になりました。その方《かた》の財務上の事は、他《ほか》のたくさんのフランスの紳士方やフランスの御家庭の財務と同様に、すっかりテルソン銀行に任せてございましたのです。そんな風にして、わたしは現在、いや以前から、たくさんのお得意さまのあれやこれやの管理人になっております。これは皆ただの事務上の関係ですよ、お嬢さん。それには友情とか、特別の関心とかはなく、感情といったようなものは何もないのです。わたしは事務の人間として今日までの生涯を送って来ました間に、そういうのの一つから他《ほか》のにと移って参りました。それは、ちょうど、わたしが毎日事務を執っています間に、一人のお得意さまから他のお得意さまへと移ってゆきますようなもので。手短に申しますと、わたしには感情というものがございませんのです。わたしはほんの機械なんです。で、話を続けることにいたしますと――」
「でもそれはあたくしの父の身の上話でございましょう。あたくし何だか、」――と例の不思議な表情をする額が彼に向って熱心になりながら――「あたくしの母が父の亡くなりましてからたった二年しか生きていなくて、あたくしが孤児《みなしご》になりました時に、あたくしをイギリスへ連れて来て下さいましたのは、あなたでしたように、思われて参りました。あなたに違いないような気がいたします。」
 ロリー氏は、彼の手を握ろうとして信頼するように差し伸べられた、ためらっている、小さな手を取って、それを幾らか儀式張って自分の脣にあてた。それから彼はその若い淑女をすぐにまた彼女の椅子のところへ連れて行った。そして、左手では椅子の背を掴み、右手を使って自分の頤を撫でたり、仮髪《かつら》の耳のところをひっぱったり、自分の言ったことを注意させたりしながら、立って、腰掛けて自分を見上げている彼女の顔を見下した。
「|マネット嬢《ミス・マネット》、それはいかにも[#「いかにも」に傍点]わたしでした。ところが、それ以来わたしがあなたに一度もお目にかからなかったことをお考え下されば、わたしがつい今、自分のことを、わたしには感情というものがないとか、わたしと他の人たちとの関係はみんなただの事務上の関係だとか申しましたことが、ほんとうであることがおわかりになりますでしょう。そうです、一度もお目にかかりませんでした。あなたはそれ以来ずっとテルソン商社の被後見人ですのに、わたしはそれ以来ずっとテルソン商社の他《ほか》の事務にばかり齷齪《あくせく》していたのです。感情なんて! わたしにはそんなものを持つ時まもなく、機会もありません。わたしは一生、お嬢さん、大きなお札《さつ》の皺伸機《しわのし》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して過すのですよ。」
 自分の毎日の仕事をこういう奇妙なのに説明してから、ロリー氏は亜麻色の仮髪《かつら》を両手で頭の上から平らに抑えつけ(これは全く余計なことで、そのぴかぴかした表面は前から何も及ばないくらいに平らになっているのである)、それから元の姿勢に返った。
「ここまでは、お嬢さん、(あなたの仰しゃいました通り)あなたのお気の毒なお父さまの身の上話なのです。ところが、これからは違うのですよ。もしも、あなたのお父さまが、お亡くなりになったという時に、亡くなられたのではない、としますと――。驚かないで下さい! そんなにびっくりなすっては!」
 彼女は、実際、跳び立つほどびっくりしたのだった。そして両手で彼の手頸を掴んだ。
「どうぞ、」とロリー氏は、左の手を椅子の背から離して、それを烈しくぶるぶる震えながら彼の手を握っている懇願するような指の上に重ねながら、宥《なだ》めるような調子で言った。――「どうぞお気を鎮めて下さい、――これは事務なんですから。今申しましたように――」
 彼女の様子がひどく彼を不安にさせたので、彼は言葉を切り、どうしようかと迷ったが、また話し出した。――
「今申しましたように、ですね。もしもムシュー・マネットが亡くなられたのではないとしますと、ですよ。もしもあなたのお父さまが突然に人にも言わずに姿を消されたのだとしますと、です。もしも神隠しか何かのようにされたのだとしますと、です。どんなに恐しい処へ行かれたか推測するのはむずかしくはないが、どんなことをしてもお父さまを探し出すことは出来ないのだとしますと、ね。お父さまには同国人の中に一人の敵があって、その敵が、この海の向うでわたしが若い時分どんな大胆な人でもひそひそ声で話すことも恐しがっていたということを知っているような特権を――例えばですね、書入れしてない書式用紙にちょっと名前を書き込んで、誰をでも牢獄へどんなに永い間でも押しこめておけるという特権★を――使える人間だったとしますと、ですね。お父さまの奥さんに当る人が、王さまや、お妃《きさき》さまや、宮廷や、僧侶に、何か夫の消息を聞かしてくれるようにと歎願なすったが、みんな全く何の甲斐《かい》もなかったとしますと、ですね。――もしもそうだったとしますと、そうすると、そのあなたのお父さまの身の上は、ボーヴェーのお医者である、今の不幸な紳士の身の上になるのです。」
「どうかもっとお聞かせ下さいますように。」
「お聞かせいたしますよ。しようとしているところです。あなたは御辛抱がお出来になりますね?」
「今のようなこんな不安な気持でいるのでさえなければ、あたくしどんなことでも辛抱が出来ますわ。」
「あなたは落著いて仰しゃいますし、あなたは落着いて――いらっしゃいますね[#「いらっしゃいますね」に傍点]。それなら大丈夫ですな!」(しかし彼の態度は彼の言葉ほどには安心していなかった。)「事務ですよ。事務とお考え下さい、――しなければならない事務とね。さて、もしそのお医者の奥さんが、大変気丈夫な勇気のある御婦人ではありましたけれども、お子さんがお生れになるまでにこの事で非常に御心痛になりまして――」
「その子供と仰しゃいますのは女の子だったのでございますねえ。」
「女のお子さんでした。こ――これは――事務ですよ、――御心配なさらないで下さい。お嬢さん、もしそのお気の毒な御婦人が、お子さんがお生れになるまでに非常に御心痛になりまして、そのために、可哀そうなお子さんにはお父さまはお亡くなりになったものと信じさせて育てて、御自分の味われたようなお苦しみは幾分でも味わせまいという御決心をなさいましたものとしますと――。いやいや、そんなに跪いたりなすっちゃいけません! 一体どうしてあなたがわたしに跪いたりなぞなさるんです!」
「ほんとのことを。おお、御親切なお情《なさけ》深いお方、どうかほんとのことを!」
「こ――これは事務ですよ。あなたがそんなことをなさるとわたしはまごついてしまいます。まごついていてはわたしはどうして事務を処理することが出来ましょう? さあさあ、お互に頭を明晰にしましょう。もしあなたが今、例えばですね、九ペンスの九倍はいくらになるか、あるいは二十ギニーは何シリングかということを、言ってみて頂ければ★、よほど気が引立つんですがねえ。わたしだってあなたのお心の工合にもっともっと安堵が出来るというものですが。」
 こう頼んだのに対して直接には答えなかったけれども、彼女は、彼がごく穏かに彼女を起してやった時に、ジャーヴィス・ロリー氏に多少の安心を与えるくらいに、静かに腰を掛けたし、ずっと彼の手頸を握っていた手を今までよりももっとしっかりさせたのであった。
「それでよろしい、それでよろしい。さあ、しっかりして! 事務ですよ! あなたは事務を控えているのです。有益な事務をね。|マネット嬢《ミス・マネット》、あなたのお母さまはあなたに対してそういう御方針をお執りになったのです。で、お母さまがお亡くなりになり、――御傷心のためかと思いますが、――その時あなたは二歳で後にお遺されになりましたのですが、お母さまは御自分では何の甲斐《かい》がなくてもお父さまの捜索を決して怠られなかったのに、あなたには、お父さまが牢獄の中でまもなく死なれたのだろうか、それともそこで永い永い年月《としつき》の間痩せ衰えていらっしゃるのだろうかと、どちらともはっきりわからずに過すというような黒い雲もささずに、花のように、美しく、幸福に、御生長になるようになさいましたのです。」
 こう言いながら、彼は、房々と垂れている金髪を、感に堪えないような憐みの情をもって見下した。あたかもその髪がもう既に白くなっているのかもしれぬと心の中で思い浮べてでもいるかのように。
「御承知のように、御両親には大した御財産はございませんでしたし、お持ちになっていらしたものは皆お母さまとあなたとのお手に入りました。お金《かね》にしても、その他《ほか》の何かの所有物にしても、今さら新しく発見されるものは何一つなかったのです。しかし――」
 彼は自分の手頸がいっそうしっかりと握り締められるのを感じたので、言葉を切った。これまで特に彼の注意を惹いていた、そして今では動かなくなっている、額の例の表情は、ますます深まって苦痛と恐怖との表情になっていた。
「しかしあの方《かた》が見つかったのです。あの方《かた》は生きてお出でになるのです。さぞひどく変っていらっしゃることでしょう。ほとんど見る影もなくなっておられるかもしれません。そんなことのないようにと思ってはいるのですが。とにかく、生きておられるのです。あなたのお父さまはパリーで昔の召使の家に引取られてお出でになるので、それでわたしたちはそこへ行こうとしているところなのです。わたしは、出来れば、お父さまであるかどうかを確めるためにですし、あなたは、お父さまを生命と、愛と、義務と、休息と、慰安とに復《かえ》さしておあげになるためにです。」
 身震いが彼女の体に起り、それが彼の体に伝わった。彼女は、まるで夢の中ででも言っているように、低い、はっきりした、怖《お》じ恐れた声でこう言った。――
「あたしはお父さまの幽霊に逢いにゆくのですわ! お逢いするのはお父さまの幽霊でございましょう、――ほんとのお父さまじゃなくって!」
 ロリー氏は自分の腕に掴まっている手を静かにさすった。「さあ、さあ、さあ! もうわかりましたね、わかりましたね! 一番よい事も一番悪い事ももうすっかりあなたにお話してしまったのですよ。あなたはあのお気の毒なひどい目に遭われた方《かた》のおられるところをさしてよほど来ておられるのです。そして、海路の旅が無事にすみ、陸路の旅も無事にすめば、すぐにその方《かた》の懐《なつか》しいお傍《そば》へいらっしゃれましょう。」
 彼女は、囁き声くらいに低くなった前と同じ調子で、繰返して言った。「あたしはこれまでずっと自由でしたし、ずっと幸福でしたのに、でもお父さまの幽霊は一度もあたしのところへ来て下さいませんでしたわ!」
「もう一|事《こと》だけ申し上げますと、」ロリー氏は、彼女の注意を惹きつけようとする一つの穏かな手段として、その言葉に力を入れて言った。「あの方《かた》は見つかりました時には別の名前になっておられました。ほんとうのお名前は、永い間忘れておられたか、それとも永い間隠しておられたのでしょう。今それがどっちだか尋ねるということは、無益であるよりも有害でしょう。あの方《かた》が何年も見落されておられたのか、それともずっと故意に監禁されておられたのか、どちらか知ろうとすることも、無益であるよりも有害でしょう。今はどんなことを尋ねるのも、無益どころか有害でしょう。そういうことをするのは危険でしょうから。どこででもどんなのにでも、その事柄は口にしない方がよろしいでしょう。そして、あの方《かた》を――何にしてもしばらくの間は――フランスから連れ出してあげる方がよろしいでしょう。イギリス人として安全なわたしでさえ、またフランスの信用にとって重要であるテルソン銀行でさえ、この件の名を挙げることは一切避けているのです。わたしは自分の身の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りに、この件のことを公然と書いてある書類は一片も持っておりません。これは全然秘密任務なのです。わたしの資格証明書も、記入事項も、覚書も、『甦《よみがえ》る』という一行の文句にすっかり含まれているのです。その文句はどんなことでも意味することが出来るのです。おや、どうしたんですか! お嬢さんは一|言《こと》も聞いていないんだな! |マネット嬢《ミス・マネット》!」
 全くじっとして黙ったまま、椅子の背に倒れかかりもせずに、彼女は彼の手の下で腰掛けて、全然人事不省になっていた。眼は開いていてじっと彼を見つめており、あの最後の表情はまるで彼女の額に刻《きざ》み込まれたか烙《や》きつけられたかのように見えた。彼女が彼の腕にひどくしっかりと掴まっているので、彼は彼女に怪我させはしまいかと思って自分の体を引き離すのを恐れた。それで彼は体を動かさずに大声で助力を求めた。
 すると、まるで赭《あか》い顔色をして、髪の毛も赭く、非常にぴったりと体に合っている型の衣服を著て、頭には親衛歩兵の桝型帽、それもずいぶんの桝目のもの★のような、あるいは大きなスティルトン乾酪《チーズ》★のような、実に驚くべき帽子をかぶっているということを、ロリー氏があわてているうちにも認めた、一人の荒っぽそうな婦人が、宿屋の召使たちの先頭に立って部屋の中へ駈け込んで来て、逞しい手を彼の胸にかけたかと思うと、彼を一番近くの壁に突き飛ばして、その可哀そうな若い淑女から彼を引き離すという問題をすぐさま解決してしまった。
(「これはてっきり男に違いないな!」とロリー氏は、壁にぶっつかると同時に、息《いき》もつけなくなりながら考えた。)
「まあ、お前さんたちはみんな何てざまをしてるんだね!」とその女は宿屋の召使たちに向って呶鳴りつけた。「そんなところに突っ立ってわたしをじろじろ見てなんかいないで、どうしてお薬やなんぞを取りに行かないの? わたしなんか大して見映《みば》えがしやしないよ。そうじゃないかい? どうしてお前さんたちは要《い》るものを取りに行かないんだよ? 嗅塩《かぎしお》と、お冷《ひや》と、お酢《す》と★を速く持って来ないと、思い知らしてあげるよ。いいかね!」
 それだけの気附薬を取りに皆が早速方々へ走って行った。すると彼女はそうっと病人を長椅子《ソーファ》に寝かして、非常に上手に優《やさ》しく介抱した。その病人のことを「わたしの大事な方《かた》!」とか「わたしの小鳥さん!」とか言って呼んだり、その金髪をいかにも誇らかに念入りに肩の上に振り分けてやったりしながら。
「それから、茶色服のお前さん!」と彼女は、憤然としてロリー氏の方へ振り向きながら、言った。「お前さんは、お嬢さまを死ぬほどびっくりさせずには、お前さんの話を話せなかったの? 御覧なさいよ。こんなに蒼いお顔をして、手まで冷くなっていらっしゃるじゃありませんか。そんなことをするのを[#「そんなことをするのを」に傍点]銀行家って言うんですか?」
 ロリー氏はこの返答のしにくい難問に大いにまごついたので、ただ、よほどぼんやりと同情と恐縮とを示しながら、少し離れたところで、眺めているより他《ほか》に仕方がなかった。一方、その力の強い女は、もし宿屋の召使たちがじろじろと見ながらここにぐずぐずしていようものなら、どうするのかは言わなかったが何かを「思い知らしてやる」という不思議な嚇《おど》し文句で、彼等を追っ払ってしまってから、一つ一つ正規の順序を逐うて病人を囘復させ、彼女を宥《なだ》め賺《すか》してうなだれている頭を自分の肩にのせさせた。
「もうよくなられるでしょうね。」とロリー氏が言った。
「よくおなりになったって、茶色服のお前さんなんかにゃ余計なお世話ですよ。ねえ、わたしの可愛いい綺麗なお方!」
「あなたは、」とロリー氏は、もう一度しばらくの間ぼんやりした同情と恐縮とを示した後に、言った。「|マネット嬢《ミス・マネット》のお伴をしてフランスへいらっしゃるんでしょうな?」
「いかにもそうありそうなことなのよ!」とその力の強い女が答えた。「でも、もしわたしが海を渡って行くことに前からきまってるんなら、天の神さまがわたしが島国《しまぐに》に生れて来るように骰子《さいころ》をお投げになるとあんたは思いますか?」
 これもまたなかなか返答のしにくい難問なので、ジャーヴィス・ロリー氏はそれを考えるために引下ることにしたのであった。
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    第五章 酒店

 大きな葡萄酒の樽が街路に落されて壊れていた。この事故はその樽を荷車から取り出す時に起ったのであった。樽はごろごろっと転がり落ちて、箍《たが》がはじけ、酒店の戸口のすぐ外のところの敷石の上に止って、胡桃の殻のようにめちゃめちゃに砕けたのだ。
 近くにいた人々は皆、自分たちの仕事を、あるいは自分たちの無為を一時中止して、その葡萄酒を飲みにその場所へ走って行った。街路のごつごつした不揃いな敷石は、四方八方に向いていて、それに近づくあらゆる生物《いきもの》を殊更《ことさら》に跛《びっこ》にしてやろうというつもりのもののように思われたが、その敷石が流れた葡萄酒を堰き止めて、小さな水溜りを幾つも作っていた。その水溜りは、それぞれ、その大きさに応じて、そこへ来て押し合いへし合いしている群集に取巻かれた。男たちの中には、跪いて、両手を合せて掬《すく》って、その葡萄酒が指の間からすっかりこぼれてしまわないうちに、自分で啜ったり、自分の肩の上に身を屈めている女たちにも啜らせてやろうとしたりする者もあった。中には、男も女も、欠けた陶器の小さな湯呑で水溜りを掬ったり、女たちの頭から取った手拭までも浸して、それを幼児の口の中へ絞り込んでやったりする者もあった。また、葡萄酒が流れてゆくのを堰き止めようと、小さな泥の堤防を築く者もいた。上の方の高い窓から見物している者たちに教えられて、あちこちと走り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、新しい方向に流れ出してゆく葡萄酒の小さな流れを遮り止める者もいた。渣滓《おり》の滲み込んでいるじくじくした樽の破片にかじりついて、酒で朽ちたじめじめした木片をさもうまそうに舐めたり、噛みさえしたりする者もいた。葡萄酒の流れ去る下水は一つもなかった。それで、それがすっかり吸い上げられたばかりではなく、それと一緒にずいぶんたくさんの泥までが吸い上げられたので、この街には市街掃除夫がいたのではなかったかと思われたくらいであった。もっとも、これは、誰でもこの街のことをよく知っている人が、そういう市街掃除夫などという者が奇蹟的にもここに現れるということを信ずることが出来たとしてのことであるが。
 笑い声と興がっている声――男たちや女たちや子供たちの声――の甲高《かんだか》い響が、この酒飲み競争の続いている間、その街路に鳴り響いていた。この競技には荒っぽいところがほとんどなくて、ふざけたところが多くあった。それには特別な仲のよさが、一人一人が誰か他の者と仲間になりたいという目立った意向があって、そのために、酒に運のよかった連中や気さくな連中の間ではとりわけ、剽軽《ひょうきん》に抱き合ったり、健康を祝して飲んだり、握手をしたり、さては十二人ばかりが一緒になって手を繋ぎ合って舞踏をするまでになったのであった。ところが、葡萄酒がなくなってしまって、それのごくたっぷりあった場所までが指で引掻かれて焼網模様をつけられる頃になると、そういう騒ぎは、始った時と同じように急に、ばったりと止んでしまった。切りかけていた薪に自分の鋸を差したまま放《ほお》って来た男は、またその鋸を挽き出した。熱灰《あつはい》の入っている小さな壺で自分自身か自分の子供かの手足の指の凍痛を和《やわら》げようとしてみていたのを、その壺を戸口段のところに放《ほお》っておいて来た女は、壺のところへ戻った。穴蔵から冬の明るみの中へ出て来た、腕をまくって、髪を縺《もつ》らし、蒼白な顔をした男たちは、立去って再び降りて行った。そして、日光よりももっとこの場にはふさわしく見える陰暗がこの場面に次第に募って来た。
 その葡萄酒は赤葡萄酒であって、それがこぼれたパリーの場末のサン・タントワヌ★の狭い街路の地面を染めたのであった。それはまた多くの手と、多くの顔と、多くの素足と、多くの木靴とを染めた。薪を挽いている男の手は、その薪材に赤い痕を残した。自分の赤ん坊の守《もり》をしている女の額《ひたい》は、自分の頭に再び巻きつけた襤褸布片《ぼろぎれ》の汚染《しみ》で染められた。樽の側板《がわいた》にがつがつしがみついていた連中は、口の周囲に虎のような汚斑をつけていた。そういうのに口を汚《よご》している一人の脊の高い剽軽者が、その男の頭は寝帽《ナイトキャップ》にしている長いきたない袋の中に入っていると言うよりも、それからはみ出ていると言った方がよかったが、泥まみれの酒の渣滓《おり》に浸した指で、壁に、血[#「血」に丸傍点]――となぐり書きした。
 やがて、そういう葡萄酒もまたこの街路の敷石の上にこぼされる時が、またそれの汚染《しみ》がそこにある多くのものを赤く染める時が、来ることになっていたのである★。
 さて、一時の微光のためにサン・タントワヌの聖なる御顔から★払い除けられていた暗雲が、またサン・タントワヌにかかってしまったので、そこの暗さはひどくなった。――寒気と、汚穢と、疾病と、無智と、窮乏とが、その聖者の御前に侍している貴族であった。――いずれも皆非常な権勢のある貴人であったが、とりわけそうなのはその最後の者であった。老人を碾《ひ》いて若者にしたというお伽話の碾臼《ひきうす》とは確かに違った碾臼で恐しくも碾きに碾かれて来た人間の標本が、あらゆる隅々に震えていた。あらゆる家々の戸口を出入していた。あらゆる窓から覗いていた。風にあおられているあらゆる形ばかりの衣服を著ながらうろうろしていた。彼等を捏《こ》ね潰した碾臼は、若者を碾いて老人にする碾臼であった。子供たちまでが年寄のような顔と沈んだ声とをしていた。そして、その子供たちの顔にも、大人《おとな》の顔にも、年齢のあらゆる皺の中に鋤き込まれてからまた現れて来ているのは、飢餓という目標《めじるし》であった。それは至る処に蔓っていた。飢餓は竿や綱にぶら下っているみすぼらしい衣服の中に入って高い家々から突き出されていた。飢餓は藁と襤褸と木材と紙とで補片《つぎ》をあてられてその家々の中へ入っていた。飢餓は例の男が鋸で挽き切るわずかな薪のどの屑の中にも繰返された。飢餓は煙の立たぬ煙突からじっと見下していたし、塵芥の中にさえ食えるものの残屑一つない穢《きたな》い街路から跳び立った。飢餓はパン屋の棚の少しばかり並べてある粗悪なパンの小さな一塊ずつに書いてある文字であった。腸詰屋では売り出してある犬肉料理の一つ一つに書いてある文字であった。飢餓は囘転している円筒の中の焼栗の間でその干涸《ひから》びた骨をがらがら鳴らしていた。飢餓は数滴の油を不承不承に滴《た》らして揚げた皮ばかりの馬鈴薯の薄片の入っているどの一文皿の中にも粉々に切り刻まれていた。
 飢餓の住所はすべてのものがそれに適合していた。気持の悪いものと悪臭とのみちている狭い曲りくねった街路、それから幾つも岐《わか》れている別の狭い曲りくねった街路、そのどこにもかしこにも襤褸と寝帽《ナイトキャップ》との人間が住んでいて、どこにもかしこにも襤褸と寝帽《ナイトキャップ》との臭いがして、目に見えるすべてのものが険悪そうに見える考え込んでいるような顔付をしている。人々の狩り立てられたような様子の中にも、いよいよ追い詰められるとなると振り返って反抗するかもしれぬという野獣の気持がまだ幾分かはあった。彼等は銷沈していてこそこそしてはいたけれども、焔の眼は彼等の間にないではなかった。また、彼等の抑えつけている感情のために血の気の失せた、きっと結んでいる脣もないではなかった。また、彼等が自分でかけられるか、それとも人にかけてやることを考えている、あの絞首台の縄に似たのに顰《ひそ》めている額《ひたい》もないではなかった。商売の看板は(そしてそれは店の数とほとんど同じほどあったが)、いずれも皆、窮乏の物凄い図解であった。牛肉屋や豚肉屋は肉の一番脂肪分の少い骨の多い下等なところだけを描いたのを出していた。パン屋は一番粗末なけちなパン塊を描いて出していた。酒店で酒を飲んでいるところとしてぞんざいに画いてある人々は、水っぽい葡萄酒やビールの量りの悪いことをぶつぶつ言いながら、凄い顔をして互にひそひそ話をしていた。道具類と兇器類とを除いては、景気よく描き出されているものは何一つとしてなかった。ただ、刃物師の小刀や斧は鋭利でぴかぴかしていたし、鍛冶屋の鉄鎚はどっしりと重そうであったし、鉄砲鍛冶の店にある商品はいかにも人を殺しそうであった。鋪道のあの人を跛《びっこ》にしそうな石には、泥水の小さな溜りはたくさんあっても、別に歩道はなくて、家々の戸口のところでいきなりに切れていた。その埋合せに、下水溝が街路の真中を流れていたが、――それはともかく流れる時だけである。流れる時というのはただ豪雨の後ばかりで、その時にはたびたび矯激な発作でも起したように家々の中へまで流れ込むのだった。街々を突っ切って、遠く間を隔てて、不恰好な街灯が一つずつ、滑車綱で吊《つる》してあった。日が暮れて、点灯夫がそれを下し、火を点じて、また吊し上げると、弱い光を放っている数多《あまた》の仄暗い灯心が、病みほうけたように頭上で揺れ動いて、あたかも海上にあるようであった。実際それらは海上にあるのであった。そして船と船員とは嵐に遭う危険に臨んでいたのであった★。
 なぜなら、この界隈の痩せこけた案山子《かかし》たち★が、する仕事もなく腹を空《す》かしながら、永い間点灯夫のすることを眺めているうちに、その点灯夫のやり方を改良して、自分たちの境涯の暗闇《くらやみ》を明るくするために、その滑車綱で人間をひっぱり上げようという考えを思い付く★時が、やがて来ることになっていたからである。しかし、その時はまだ来てはいなかった。そして、フランスを吹きわたるどの風も徒らにその案山子たちの襤褸をはたはたと振り動かすだけであった。なぜなら、鳴声も羽毛も美しい鳥ども★は一向に自らを戒めるところがなかったからである。
 さっきの酒店は角店《かどみせ》で、外見や格式が他の大抵の店よりも立派であった。その酒店の主人は、黄ろいチョッキに緑色のズボンを著けて、店の外に立って、こぼれた葡萄酒を飲もうと争っている有様を傍観していた。「こいつあおれの知ったことじゃねえや。」と彼は、最後に肩を一つ竦《すく》め★ながら、言った。「市場《いちば》から来た連中がしでかしたんだからな。奴らにもう一つ持って来させりゃいい。」
 その時、ふと彼の眼が例の脊の高い剽軽者があの駄洒落《だじゃれ》を書き立てているに止ったので、彼は路の向側のその男に声をかけた。――
「おいおい、ガスパール、お前そこで何してるんだい?」
 その男は、そういう手合のよくやるように、さも意味ありげに自分の駄洒落《だじゃれ》を指し示した。ところが、それが的《まと》が外《はず》れて、すっかり失敗した。これもそういう手合にはよくあることである。
「どうしたんだ? お前は気違い病院行きの代物か?」と酒店の主人は、道路を横切って行って、一掴みの泥をすくい上げ、それを例の洒落《しゃれ》の落書の上になすりつけて消しながら、言った。「どうしてお前は大道なんかで書くんだ? こんな文句を――さあ、おれに言ってみろ――こんな文句を書き込む場所が他《ほか》にないのか?」
 こう言い聞かせながら、彼は汚れていない方の手を(偶然にかもしれぬし、そうではないかもしれぬが)その剽軽者の胸のところに落した。剽軽者はその手を自分の手でぽんと敲いて、ぴょいと身軽く跳び上り、珍妙な踊っているような恰好で下りて来ながら、酒で染った自分の靴の片方を、足からひょいと振り脱いで手に受け止め、それを差し出して見せた。そういう次第で、その男は、飽くことのない悪戯《いたずら》好きであることは言うまでもないが、極端な悪戯《いたずら》好きの剽軽者らしく見えた。
「靴を穿きな、靴を穿きな。」ともう一人の方《ほう》が言った。「酒は酒と言って、それで止《や》めとくんだぞ。」そう忠告しながら、彼は自分の汚れた方の片手をその剽軽者の衣服で拭いた。――その男のせいでその手を汚したのだというので、全くわざとやったのだ。それから、道路を再び横切って、酒店へ入った。
 この酒店の主人というのは、猪頸《いくび》の、勇敢そうな、三十歳くらいの男であった。そして熱しやすい気性の人間に違いなかった。というのは、身を斬るような寒い日だったのに、彼は上衣を著ないで、それを肩へ投げかけていたからである。シャツの袖もまくし上げてあって、日に焦《や》けた腕は肱のところまでむき出しになっていた。それから、頭にも、自分自身のくるくると縮れている短い黒っぽい髪の毛より他《ほか》には、何もかぶっていなかった。彼は総体に浅黒い男で、感じのいい眼をしており、その眼と眼との間にはかなり大胆な豪放さがあった。概して愛嬌のよさそうな男であるが、執念深そうでもある。明かに強い決意と頑固な意思とを持った男だ。右側にも左側にも深淵のある隘路を駈け降りて来る時には出くわしたくない男である。というのは、どんなことがあってもこの男を後戻りさせることは出来ないだろうから。
 彼の妻のマダーム・ドファルジュは、彼が店に入って来た時には、店の中の勘定台の後に腰掛けていた。マダーム・ドファルジュは彼とほぼ同年輩のがっしりした婦人で、滅多に何でも見ないように思われる油断のない眼と、たくさん指環を嵌めた大きな手と、きりっとした顔と、きつい目鼻立ちと、非常に落著き払った態度とをしていた。マダーム・ドファルジュには、彼女なら自分の管理しているどの勘定ででも自分の気のつかない間違いを滅多にやることはあるまいと誰でもが予言出来そうな、一種の特性があった。マダーム・ドファルジュは寒がりだったので、毛皮にくるまって、その上、首の周りには派手な肩掛《ショール》をぐるぐる巻きつけていた。もっとも、それも大きな耳環が隠れてしまうほどにはしていなかったが。彼女の編物がその前にあったが、彼女はそれを下に置いて爪《つま》楊枝で歯をほじくっていた。左の手で右の肱を支えながら、そうして歯をほじくっていて、マダーム・ドファルジュは、自分の御亭主が入って来た時には何も言わずに、ただ一度だけちょっと咳払いをした。この咳払いは、彼女が爪楊枝を使いながら黒くくっきりとした眉毛をわずかばかり揚げることと共に、彼女の夫に、彼が路の向側まで行っていた間に誰か新しいお客が立寄っていないか、店を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してお客の間を探した方がいいだろう、ということを暗示したのである。
 そこで酒店の主人は眼をぐるぐるっと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してみると、その眼は、やがて、一隅に腰掛けている一人の中年過ぎの紳士と一人の若い淑女とに止った。店には他《ほか》にも客がいた。骨牌《かるた》をしているのが二人、ドミノーズ★をしているのが二人、勘定台のところに立ってわずかな葡萄酒を永くかかってちびちび飲んでいるのが三人いたのだ。勘定台の後へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行く時に、彼は、その中年過ぎの紳士が若い淑女に「これが例の男ですよ。」と目色で言ったのを見て取った。
「一体全体お前さんたち[#「お前さんたち」に傍点]はそんな処で何をしてるんだい?」とムシュー・ドファルジュは心の中で言った。「こちとらはお前さんたちなんか知らねえや。」
 しかし、彼はその二人の見知らぬ人には気がつかぬ風をして、勘定台のところで飲んでいる三人組の客と談話をし始めた。
「どうだね、ジャーク★?」とその三人の中の一人がムシュー・ドファルジュに言った。「こぼれた葡萄酒はみんな飲んじまったかい?」
「一|滴《しずく》も残さずによ、ジャーク。」とムシュー・ドファルジュは答えた。
 こんな風に洗礼名★の交換がすんだ時、マダーム・ドファルジュは、爪楊枝で歯をほじくりながら、また一つ咳払いをし、また少し眉毛を揚げた。
「あのみじめな獣たちは大抵は、」と三人の中の二番目の者がムシュー・ドファルジュに向って言った。「葡萄酒の味を知るなんてこたあ滅多にねえんだからな。いや、葡萄酒だけじゃねえ、黒パンと死ぬこととの他《ほか》のものの味を知るってことは滅多にねえんだ。そうじゃねえか、ジャーク?」
「そうだよ、ジャーク。」とムシュー・ドファルジュは返答した。
 こうして二度目にその洗礼名を交換している時に、マダーム・ドファルジュは、極めて落著き払ってやはり爪楊枝を使いながら、また一つ咳払いをし、また少し眉毛を揚げた。
 今度は、三人の中の最後の者が、空《から》になった酒を飲む器《うつわ》を下に置いて脣をぴちゃぴちゃ舐めながら、自分の言うことを言い出した。
「ああ! それよりはもっと悪いんさ! ああいう可哀そうな畜生どもがしょっちゅう口にしてるのは苦《にが》い味ばかりなんだ。そして奴らはつらい暮しをしているんだよ、ジャーク。おれの言う通りだろ、ジャーク?」
「お前の言う通りだよ、ジャーク。」というのがムシュー・ドファルジュの返事であった。
 この三度目の洗礼名の交換が終った瞬間に、マダーム・ドファルジュは爪楊枝をやめて、眉毛をきっと上げ、自分の座席で少しさらさら音をさせた。
「待てよ! うん、なるほど!」と彼女の夫は呟いた。「諸君、――わしの家内だ!」
 三人の客はマダーム・ドファルジュに向って自分たちの帽子を脱いで、それを大袈裟に振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。彼女は、頭をぐるりと向け、彼等をちらっと見て、彼等の敬礼に報いた。それから、彼女は何気ない風に店の中をちらりと見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、見たところ非常に平静な沈著な様子で自分の編物を取り上げて、余念なく編み出した。
「諸君、」ときらきら光る眼を注意深く彼女に注いでいた彼女の夫は、言った。「さよなら。あの独身者向きに設備してある部屋は、それ、君たちが見たいと言って、さっきわしがちょっと表へ出た時に尋ねていたあの部屋だが、あれは六階にあるんだ。そこへゆく階段の出入口は、わしの家の窓際の、この左手にくっついた、」と手で指しながら、「小さな中庭のところにあるよ。しかし、今思い出したんだが、君たちの中の一人はあすこへ行ったことがあるんだから、道案内は出来る訳だね。じゃ、諸君、さようなら!」
 その三人の客は飲んだ葡萄酒の勘定を払って、そこから出て行った。ムシュー・ドファルジュの眼は編物をしている妻をじっと見守っていたが、その時、例の紳士がさっきの隅っこから進み出て、ちょっと一|言《こと》お伺いしたいと言った。
「お安いことで。」とムシュー・ドファルジュは言って、その紳士と一緒に戸口のところまで静かに歩を運んだ。
 二人の会談は極めて短かったが、また極めててきぱきしたものだった。ほとんど最初の一語で、ムシュー・ドファルジュははっとして非常に注意深く耳を傾けた。それが一分と続かないうちに、彼は頷《うなず》いて出て行った。すると紳士は例の若い淑女を手招きして、その二人もまた出て行った。マダーム・ドファルジュは眉毛も動かさずに指を敏捷に動かしながら編物をして、何も見ようとしなかった★。
 ジャーヴィス・ロリー氏とマネット嬢とは、こうしてその酒店から出て来ると、ムシュー・ドファルジュがつい先刻彼の他の客たちに教えてやったあの階段の出入口のところで彼と一緒になった。そこは悪臭のある小さな暗い中庭に向いていて、多数の人々の住んでいる積み重なったたくさんの家々の共同の入口になっていた。床瓦《ゆかがわら》を鋪いた薄暗い階段へと続く床瓦を鋪いた薄暗い入口のところで、ムシュー・ドファルジュは昔の主人の息女に対して片膝を曲げて身を屈め、彼女の手を自分の脣にあてた。それは優雅な行為であったが、しかしそのやり方はちっとも優雅ではなかった。数秒の間に極めて著しい変化が彼に起っていたのだ。彼の顔には愛嬌のいいところがなくなったし、開《あ》けっ放しの様子も少しもなくなり、寡言な、怒りっぽい、危険な人間になっていた。
「ずいぶん高いんです。少々厄介ですよ。ゆっくりかかった方がいいでしょう。」三人が階段を昇りかけた時に、ムシュー・ドファルジュはきっとした声でロリー氏にこう言った。
「あの方《かた》は独りでおられるのですか?」と後者が囁いた。
「独りでですと! お気の毒に、あの方《かた》と一緒にいるなんて者はいやしませんよ。」と今一人の方《ほう》が同じ低い声で言った。
「では、あの方《かた》はしょっちゅう独りでおられるんですか?」
「そうです。」
「あの方《かた》自身のお望みで?」
「あの方《かた》自身の余儀ない事情ででさ。あの人たちがわっしを見つけ出して、わっしがあの方《かた》を引取るかどうか、またわっしが危険を冒しても慎重にやってくれるかどうかと聞きただした後で、わっしは初めてあの方《かた》にお目にかかったんですが、――その時あの方は独りであったように、今でもそうなんですよ。」
「ひどく変っておられるでしょうな?」
「変ってるですって!」
 酒店の主人は立ち止って、片手で壁をどんと叩き、恐しい呪いの言葉を呟いた。どんな露骨な返事でもこの半分の力をこめることも出来なかったろう。ロリー氏の気分は、彼が二人の同伴者と共にだんだんと昇ってゆくにつれて、だんだんと沈んでゆくのであった。
 パリーの古くからの込んでいる地域にある、そういう階段や、それの附属物は、今でもずいぶんひどいものであろう。が、その当時では、それは、そういうものに慣れて無感覚になっていない人の感覚には実に厭わしいものだった。大きな不潔な巣のような一つの高い建物の内部にある一つ一つの小さな住居――言葉を換えて言えば、共同の階段に向いている一つ一つの戸口の内にある一室ないし数室――は、銘々の階段の中休み段に銘々の塵芥を山のように積み重ねておき、その上、残りの塵芥を窓から抛り出した。こうして出来たどうにも手のつけようのない始末に負えぬ腐敗の堆塊は、たとい貧窮と剥奪とがそれの無形の不潔物を空気に多量に含めなくてさえも、あたりの空気を十分汚したであろう。そこへその二つの悪い原因が一緒になって加わったものだから、そこの空気はほとんど我慢の出来ぬものになっていた。こういう空気の中を、塵埃と毒気との急勾配の暗い堅坑を通って、路は続いているのであった。ジャーヴィス・ロリー氏は、刻一刻とひどくなって来る自分自身の心騒ぎと、自分の若い同伴者の興奮とに負けて、二度も立ち止って休息した。その立ち止ったのは二度とも陰気な格子のところであった。その格子からは、少しでも腐敗せずに残っている衰えたよい空気は皆逃げ出して、すべての悪くなった不健康な瓦斯体が這い込んで来るように思われたのであった。その銹びた鉄棒の間から、ごちゃごちゃになっている附近の様子が、眼で見えるというよりも、舌で味われるようであった。そして、ノートル・ダム★のかの二つの大きな塔の頂よりこっちにある、あるいはそれよりも低いところにある区域内には、健康な生活や健全な熱望などの見込をちょっとでも持っているものは何一つとしてないのであった。
 遂に、階段のてっぺんに達し、彼等は三度目に立ち止った。が、屋根裏部屋の階まで行くには、今までよりももっと勾配の急な、幅の狭い、もう一つ上の階段をまだ昇らなければならなかった。酒店の主人は、あの若い淑女に何か質問をされるのを恐れてでもいるように、絶えず少し先に立って歩き、絶えずロリー氏の歩く側を進んで来たが、このあたりでくるりと向き直り、肩にかけていた上衣のポケットの中を入念に探って、一つの鍵を取り出した。
「じゃ、君、扉《ドア》には錠を下してあるんですね?」とロリー氏は意外に思って言った。
「ええ。そうです。」というのがムシュー・ドファルジュの厳しい返事であった。
「君はあの不仕合せな方《かた》をそんなに閉じこめておくのが必要だと思うのですね?」
「わっしは鍵をかけておくのが必要だと思うんです。」ムシュー・ドファルジュはロリー氏の耳のもっと近くで囁いて、ひどく顔を蹙《しか》めた。
「どうしてです?」
「どうしてですって! もし扉《ドア》が開《あ》けっ放しになっていようものなら、あの人はあんなに永い間押しこめられて暮して来られたので、怖《こわ》がって――暴《あば》れて――われとわが身をずたずたに引き裂いて――死んでしまうか――どんな悪いことになるかわからないからでさ。」
「そんなことがあり得るだろうか?」とロリー氏は大声で言った。
「そんなことがあり得るだろうかってんですか!」とドファルジュは苦々《にがにが》しく言い返した。「そうですよ。われわれが美しい世の中に住んでいる時に、そんなことは実際[#「実際」に傍点]あり得るのです。また、その他《ほか》のそういうようなことがたくさんあり得るんです。あり得るだけじゃない。現にあるのです、――いいですか、あるんですよ! ――あの空の下で、毎日毎日ね。悪魔万歳だ。さあ、行きましょうか。」
 この対話はごく低い囁き声で行われたので、その一語も若い淑女の耳には達しなかった。けれども、この時分には彼女は強烈な感動のためにぶるぶる震え、彼女の顔には深い不安と、とりわけ憂慮と恐怖とが表れていたので、ロリー氏は元気づかせる一二語を言うのを自分の義務と感じた。
「しっかりなさい、お嬢さん! しっかりして! 事務ですよ! 一番つらいことはじきにすんでしまいましょう。ただ部屋の戸口を跨ぐだけのことです。そうすれば一番つらいことはすんでしまうのですよ。それからは、あなたがあの方《かた》に対して持ってお出でになるあらゆるよいこと、あなたがあの方《かた》に対して持ってお出でになるあらゆる慰安、あらゆる幸福が始るのです。ここにおられるわたしたちの親切な友達にそちら側から力を藉してもらいましょう。それで結構、ドファルジュ君。さあ、さあ。事務ですよ、事務ですよ!」
 彼等はゆっくりとそっと上って行った。その階段は短くて、彼等はまもなく頂上へ著いた。そこへ来ると、そこで階段が急に一つ曲っていたので、彼等には突然三人の男が見えるようになった。その三人は一つの扉《ドア》の脇にぴったり寄り添うて頭を屈めていて、壁にある隙間か穴から、その扉《ドア》のついている室の中を熱心に覗き込んでいるのだった。足音が間近に迫って来るのを聞くと、その三人の者は振り向いて、立ち上った。見ると、それはさっき酒店で酒を飲んでいたあの同一の名の三人であった。
「わっしはあなた方が訪ねてお出でなすったのにびっくりして、あの連中のことを忘れてましたよ。」とムシュー・ドファルジュは弁明した。「おい、君ら、あっちへ行ってくれ。わしたちはここで用事があるんだから。」
 三人の者は傍をすうっと通り抜けて、黙ったまま降りて行った。
 その階には他《ほか》に扉《ドア》が一つもないようであったし、自分たちだけになると酒店の主人はその扉《ドア》の方へ真直に歩いてゆくので、ロリー氏は少しむっとして囁き声で彼に尋ねた。――
「君はムシュー・マネットを見世物にしてるのかね?」
「わっしは、選ばれた少数の者に、あなたが御覧になったようなやり方で、あの人を見せるのです。」
「そんなことをしていいものですかな?」
「わっしは[#「わっしは」に傍点]いいと思っています。」
「その少数の者というのはどんな人たちです? 君はその人たちをどうして選ぶのですか?」
「わっしは、わっしと同じ名の者を――ジャークってのがわっしの名ですが――ほんとうの人間として選ぶんです。そういう連中には、あの人を見せてやることはためになりそうなんでね。が、もう止《よ》しときましょう。あなたはイギリス人だ。だからそんなことは別問題です。どうか、ほんのちょっと、そこで待ってて下さい。」
 二人に後に下っているようにと諭《さと》すような手振りをしながら、彼は身を屈めて、壁の隙間から覗いて見た。ほどなく再び頭を揚げると、彼は扉《ドア》を二度か三度叩いたが、――それは明かにそこで物音を立てるだけの目的でしたのであった。それと同じ目的で、鍵を扉《ドア》にあてて三四度ずうっと引き、その後で、それを不器用に錠の中へ挿し込み、出来るだけがちゃがちゃさせながらそれを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
 扉《ドア》は彼の手でゆっくりと内側へ開き、彼は室内を覗き込んで何かを言った。すると弱々しい声が何かを答えた。どちら側からもただの一|言《こと》以上はしゃべらなかったに違いない。
 彼は肩越しに振り返って、二人に入るようにと手招きした。ロリー氏は自分の片腕を令嬢の腰にしっかりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、彼女を支えた。彼女がぐったりと倒れかかるように感じたからである。
「こ――こ――これは――事務ですよ、事務ですよ!」と彼は励ましたが、その頬には事務らしくもない一滴の涙が光っていた。「お入りなさい、お入りなさい!」
「あたくしあれが怖《こわ》いのです。」と彼女は身震いしながら答えた。
「あれとは? 何のことです?」
「あの方《かた》のことですの。あたくしの父のこと。」
 彼女はそういう様子だし、案内者は手招きしているので、幾分やけ気味になって、彼は自分の肩の上でぶるぶる震えている彼女の腕を自分の頸にひっかけ、彼女を少し抱え上げるようにして、彼女をせき立てて室内へ入った。彼は扉《ドア》のすぐ内側のところで彼女を下し、自分にしがみついている彼女を支えた。
 ドファルジュは鍵を引き出し、扉《ドア》を閉《し》め、内側から扉《ドア》に錠を下し、再び鍵を抜き取って、それを手に持った。こういうことを皆、彼は、順序正しく、また、立てられるだけの騒々しい荒々しい音を立てて、やったのであった。最後に、彼は整然たる足取りで室を横切って窓のあるところまで歩いて行った。彼はそこで立ち止って、くるりと顔を向けた。
 薪などの置場にするために造られたその屋根裏部屋は、薄暗くてぼんやりしていた。何しろ、そこの屋根窓型の窓というのは、実際は、屋根に取附けた扉《ドア》であって、街路から貯蔵物を釣り上げるのに使う小さな起重機《クレーン》がその上に附いていた。硝子は嵌めてなく、フランス風の構造の扉《ドア》ならどれも皆そうなっているように、二枚が真中で閉《し》まるようになっていた。寒気を遮るために、この扉《ドア》の片側はぴったりと閉《し》めてあり、もう一方の側はほんのごく少しだけ開《あ》けてあった。そこからわずかな光線が射し込んでいるだけだったので、最初入って来た時には何を見ることも困難であった。そして、こういう薄暗がりの中で何事でも精密さを要する作業をする能力は、どんな人間にしてもただ永い間の習慣によってのみ徐々に作り上げることが出来るだけであったろう。しかるに、そういう種類の作業がその屋根裏部屋で行われていたのであった。というのは、一人の白髪の男が、戸口の方に背を向け、酒店の主人が自分を見ながら立っている窓の方に顔を向けながら、低い腰掛台《ベンチ》に腰掛けて、前屈みになってせっせと靴を造っていたからである。
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    第六章 靴造り

「今日《こんにち》は!」とムシュー・ドファルジュは、靴を造るのに低く屈んでいる白髪の頭を見下しながら、言った。
 その頭はちょっとの間揚げられ、そして、ごく弱々しい声が、あたかも遠くで言っているかのように、その挨拶に答えた。――
「今日《こんにち》は!」
「相変らず精が出るようですね?」
 永い間の沈黙の後に、頭はまたちょっとの間上げられ、さっきの声が答えた。「はい、――仕事をしております。」今度は、顔が再びがくりと垂れる前に、やつれた両眼が問いかけた人をちょっと見た。
 その声の弱々しさは哀れでもあり物凄くもあった。幽閉と粗食も確かにそれに与ってはいたろうけれども、それは肉体的の衰弱から来る弱々しさではなかった。それの悲惨な特性は、それが孤独でいて声を使うことがなかったことから来る弱々しさであるということであった。その声はずっとずっと以前に立てた音声の最後の弱い反響のようであった。それは人間の声らしい生気ある響をすっかり失っているので、かつては美しかった色彩が色褪せて見る影もない薄ぎたない汚染《しみ》になってしまったような感じを与えるのであった。それは非常に沈んだ抑えつけられた声なので、まるで地下の声のようであった。それは望みの絶えた救われない人間をよく表《あらわ》していて、ちょうど、飢えた旅人が、曠野の中をただ独りさまようて疲れ果て、行き倒れて死ぬ前に、故郷と近親の者とを思い出す時の声はこうでもあろうかと思われるくらいであった。
 無言の作業の数分間が過ぎた。それから例のやつれた眼が再び見上げた。それは、幾分でも興味や好奇心からではなく、その眼の見て知っている唯一の訪問者が立っていた場所から、まだその人が立去っていないことを、予め、ぼんやりと無意識に知覚したからであった。
「わたしはね、」とその靴造りからじっと眼を放さずにいたドファルジュが言った。「ここへもう少し明りを入れたいんですがね。もう少しくらいなら我慢が出来ましょうね?」
 靴造りは仕事を止《や》めた。耳をすましているようなぼんやりした様子で、自分の一方の側の床《ゆか》を見た。それから、同じように、もう一方の側の床《ゆか》を見た。それから、話しかけた人を仰いで見た。
「何と仰しゃいましたか?」
「あなたはもう少しくらいの明りは我慢が出来ましょうね?」
「あんたが入れるというなら、わたしは我慢しなけりゃならん。」(その最後の言葉にほんのごくわずかばかりの力を入れて。)
 開いている方の片扉が更にもう少し開《あ》けられ、差当りその角度で動かぬようにされた。幅の広い光線が屋根裏部屋の中へさっと射し込み、その靴工がまだ仕上らぬ靴を膝の上に載せたまま働く手を休めている姿を見せた。彼の二三の普通の道具と、鞣皮《なめしがわ》のさまざまの切屑とが、彼の足もとや腰掛台《ベンチ》の上に散らばっていた。彼は、ぎざぎざに刈った、しかしさほど長く延びていない白い鬚と、肉の落ちた顔と、非常に光る眼をしていた。その眼は、よし事実大きくはなかったにしても、まだ黒い眉毛ともじゃもじゃの白髪の下で、肉が落ちて痩せこけた顔のために大きく見えたであろう。ところが、それは生れつき大きかったので、異様に大きく見えた。黄ろいぼろぼろになったシャツの咽《のど》もとが開いていて、体《からだ》の萎《しな》びて痩せ衰えているのが見えた。彼の体も、古ぼけた麻布の仕事服も、だぶだぶの靴下も、身に著けているすべてのひどい襤褸《ぼろ》著物も、永い間じかに日光と外気とにあたらなかったために、すっかり色が褪せて、一様にくすんだ羊皮紙のような黄色になっているので、どれがどれだか見分けもつきかねるくらいであった。
 彼は片手を自分の眼と光との間に揚げていたが、その手の骨までが透き通って見えるように思われた。仕事の手を休めたまま、じっとぼんやりした眼付をしながら、彼はそうして腰掛けていた。彼は、音声を場所と結びつける習慣を失ってしまったかのように、最初に自分のこちら側、次にあちら側と見下してからでなければ、決して自分の前にいる者の姿を見ないのであった。まずこんな風にきょろきょろして、口を利くのも忘れてからでなければ、決して口を利かないのであった。
「今日《きょう》のうちにその一足の靴を仕上げようというんですか?」とドファルジュは、ロリー氏に前へ出るようにと手招きしながら、尋ねた。
「何と仰しゃいましたかな?」
「今日《きょう》の中にその一足の靴を仕上げるつもりなのですか?」
「仕上げるつもりだということはわたしには言えません。仕上るだろうと思うだけです。わたしにはわかりません。」
 しかしその質問は彼に仕事のことを思い出させ、彼は再び身を屈めて仕事にかかった。
 ロリー氏は、令嬢を扉《ドア》の近くに残して、無言のまま前へ出て来た。彼がドファルジュの傍に一二分間ばかりも立っていた頃、靴造りは顔を上げて見た。彼は別の人間の姿を見ても別に驚いた様子は見せなかった。ただ、その姿を見ると彼の片方の手のぶるぶるしている指が脣にふらふらとあてられ(彼の脣も爪も同じ蒼ざめた鉛色をしていた)、それからやがてその手はばたりと仕事のところへ落ち、彼はもう一度靴の上へ身を屈めた。この見上げるのとこれだけの動作をするのとはほんのしばらくしかかからなかった。
「そら、あなたのところへお客さんですよ。」とムシュー・ドファルジュが言った。
「何と仰しゃいましたか?」
「お客さんが来ていらっしゃるよ。」
 靴造りは前のように顔を上げて見たが、しかし仕事から手を離さなかった。
「さあ!」とドファルジュが言った。「ここに、出来のよい靴を見ればすぐおわかりになる方《かた》が来てお出でになるのだ。お前の拵えているその靴をこの方《かた》にお目にかけなさい。旦那《ムシュー》、それを取ってみて下さい。」
 ロリー氏はそれを手に取った。
「この方《かた》に、それがどんな種類の靴か、また製造者の名前は何というのか、申し上げなさい。」
 いつもよりももっと永い間をおいてから、靴造りはこう答えた。――
「あんたのお尋ねになりましたのはどんなことだったかわたしは忘れました。何と仰しゃいましたのですか?」
「この方《かた》の御参考に靴の種類を説明してあげることが出来ないか? と言ったのだよ。」
「それは婦人靴です。若い婦人の散歩靴です。それは今の流行のものです。わたしはその流行を一度も見たことがありませんでした。わたしは型を一つ持っているのです。」彼は、束《つか》の間《ま》のほんの微かな誇りの色を浮べながら、その靴をちらりと見やった。
「それから製造者の名前は?」とドファルジュが言った。
 その靴造りは、する仕事がなくなったので、右手の指の節《ふし》を左の掌《てのひら》に載せ、次には左手の指の節を右の掌に載せ、それから次には片手で鬚の生えた頤を撫で、そういうことを規則正しく一瞬も休まずに続けた。彼が口を利いた後で必ず陥る放心状態から彼を囘復させる骨折は、誰か非常に虚弱な人を気絶から囘復させたり、何かの打明け話を聞くことが出来ようかと思って、死にかかっている人間の魂を引き止めようと努めたりするのに似ていた。
「わたしの名前をお尋ねになりましたのですか?」
「いかにも尋ねた。」
「北塔百五番。」
「それだけか?」
「北塔百五番。」
 吐息《といき》とも呻《め》き声ともつかぬものうい音《ね》をほっと洩らすと共に、彼はまた身を屈めて仕事をし出したが、やがて沈黙はまた破られた。
「あなたは本職の靴造りではないのでしょうね?」と、彼をじっと見つめながら、ロリー氏が言った。
 この質問をドファルジュに転嫁したがっているかのように、彼のやつれた眼はドファルジュの方に向いた。が、その方面からは何の助けも来なかったので、その眼は床《ゆか》を捜してから質問者に戻った。
「わたしが本職の靴造りではないだろうって? はい、わたしは本職の靴造りではありませんでした。わたしは――わたしはここへ来てから覚えたのです。独りで覚えたのです。わたしはお許しを願って――」
 彼はそう言いかけたまま何分間もぼんやりした。その間中、あの両手の規則的な代る代るの動作を繰返していた。彼の眼は、とうとう、そこからさまよい出た元の顔へゆっくりと戻った。その顔に止ると、彼ははっとして、眠っていた人がつい今目が覚めて、前夜の話題をまた話し出すような工合に、再び言い始めた。
「わたしはお許しを願って独りで覚えたいと思いましたが、ずいぶん永い間かかってやっとのことでそのお許しを得ました。その時からずっと靴を造っております。」
 彼が取り上げられている靴を受け取ろうとして手を差し出した時に、ロリー氏はなおも彼の顔をじっと覗き込みながら言った。――
「ムシュー・マネット、あなたは私のことをちっとも覚えていらっしゃいませんか?」
 靴は床《ゆか》にばたりと落ち、彼はその質問者をじいっと眺めながら腰掛けていた。
「ムシュー・マネット、」――ロリー氏は自分の片手をドファルジュの腕にかけて、――「あなたはこの人のことをちっとも覚えていらっしゃいませんか? この人をよく御覧なさい。私をよく御覧なさい。あなたのお心の中には、昔の銀行員や、昔の仕事や、昔の召使や、昔のことが少しも浮んで参りませんか、ムシュー・マネット?」
 その永年の間の囚人がロリー氏とドファルジュとを代る代るじいっと見つめながら腰掛けているうちに、額《ひたい》の真中の、永い間掻き消されていた、活動的な鋭い知能の徴《しるし》が、彼にかぶさっていた黒い霧を押し分けてだんだんと現れて来た。と、その徴は再び霧に覆われ、次第に微かになり、とうとう消え去ってしまった。が、それは確かにそこに現れたのであった。そして、その表情は、壁に沿うて彼の姿の見られるところまでそうっと歩いて来て、今はそこに彼を見つめながら立っている令嬢の、美しい若い顔にも寸分の違いなくそっくりに現れたので、――その彼女は、最初は、たとい彼を近づけず彼の姿を見まいとするためではないにしても、恐怖を交《まじ》えた憐憫の情から両手をただ挙げていただけであったのに、今は、亡霊のような彼の顔を自分の暖かな若い胸に休ませて、それを愛撫して生命と希望とに引戻してあげたいという熱望で震わせながら、その手を彼の方に差し伸べていたのであるが、――その表情は彼女の美しい若い顔にも寸分の違いなく(もっともその性質はいっそう強かったが)そっくりに現れたので、移り動く光のようにそれが彼から彼女に移ったのかと思われるくらいであった。
 暗黒がその表情に代って彼に覆いかぶさっていた。彼が二人を見つめる注意が次第次第に弱くなり、その眼は陰鬱な放心状態で前のようにして床《ゆか》を捜し自分の周りを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。遂に、深い長い吐息を一つつくと、彼は靴を取り上げて、また仕事にかかった。
「あの方《かた》だという見分けがおつきになりましたか、旦那《ムシュー》?」とドファルジュが囁き声で尋ねた。
「つきました。一瞬間ですがね。最初はわたしはそれを全く望みがないと思いましたが、ほんの一瞬間、わたしが以前よっく知っていた顔を確かに見ました。しいっ! わたしたちはもっと後へさがりましょう。しいっ!」
 彼女は屋根裏部屋の壁のところから離れて、彼の腰掛けている腰掛台《ベンチ》のごく近くまで行っていた。手を差し出せば身を屈めて仕事をしている自分に触れるところにいる人の姿をも意識しない彼の様子には、何となくぞっとするようなところがあった。
 一語も話されなかったし、何の音も立てられなかった。彼女は彼の傍に精霊のように立っていたし、彼は仕事をしながら屈んでいた。
 そのうちに、彼は手に持っている道具を靴造り用の小刀《ナイフ》に持ち替える必要が出来た。その小刀《ナイフ》は彼女の立っている側と反対の側にあった。それを取り上げて、再び仕事にかかろうと屈んだ時に、ふと彼女の衣服の裾《スカート》が目についた。彼は眼を上げて、彼女の顔を見た。傍に見ていた二人の者ははっとして前へ出た。が、彼女は片手を動して彼等を制止した。彼がその小刀《ナイフ》で彼女を突き刺しはしまいかと、彼等は懸念したにしても、彼女は少しもしなかった。
 彼は恐しい眼付で彼女を見つめた。そして、しばらくしてから、彼の脣は、まだ少しの声もそこから出て来はしなかったけれども、何かの言葉を言う形をし出した。漸次に、速い苦しげな息遣いの合間合間に、こう言うのが聞えて来た。――
「これはどうしたことだろう?」
 涙を顔にぽろぽろ流しながら、彼女は自分の両の手を脣にあて、それに接吻して彼に送った。それから、その手をちょうど彼の破滅させられた頭をそこに休ませるかのように、自分の胸の上に組み合せた。
「あなたは牢番さんの娘さんではありませんね?」
 彼女は溜息をつくように言った。「ええ。」
「あなたは誰ですか?」
 彼女は、まだ自分の声の調子が当《あて》に出来なかったので、彼と並んでその腰掛台《ベンチ》に腰を掛けた。彼は尻込みした。が彼女は自分の片手を彼の腕にかけた。彼女がそうした時に奇妙な戦慄が彼を襲い、それが目に見えて彼の体中に伝わった。彼は彼女を見つめながら、小刀《ナイフ》をそっと下に置いた。
 長い捲毛にしている彼女の金髪は、ぞんざいに掻き分けてあって、彼女の頸のところまで垂れていた。彼は手を少しずつ伸ばし、その髪を手に取り上げてじっと見入った。そうしている最中に彼は気がふらふらとして、もう一度深い吐息をつくと、靴を造る仕事を始めた。
 しかし永い間ではなかった。彼女は彼の腕を放して、彼の肩に手をかけた。すると彼は、あたかもその手がほんとうにそこにあるのかということを確めようとするかのように、二度か三度それを疑わしげに眺めてから、仕事を下に置き、自分の頸のところへ手をやって、黒くなった一筋の紐を取り出した。その紐には摺《たた》んである襤褸の小片が結びつけてあった。彼はそれを膝の上で気をつけて開《あ》けた。中にはほんの少しの髪の毛が入っていた。彼がいつか以前に自分の指に巻きつけて取ったらしい一筋か二筋の長い金髪だった。
 彼は彼女の髪の毛を再び手に取って、それをつくづくと眺めた。「同じものだ。どうしてそんなことがあるはずがあろう! あれはいつのことだったろう! どうしてだったかな!」
 例の思いを凝すような表情が彼の額に戻って来た時、彼はその表情が彼女の額にもあるのに気がついたようであった。彼は彼女を光の方へまともに向けて、彼女を眺めた。
「わしが呼び出されたあの晩、彼女《あれ》はわしの肩に頭をあてていた。――彼女《あれ》はわしの出かけるのを心配していた。わしの方は少しも心配などしなかったのに。――それからわしが北塔へ連れて来られた時に、これがわしの袖についているのをあの人たちが見つけたのだ。『あなた方もこれはわたしに残しておいて下さるでしょうな? これはわたしの魂の脱獄には助けになるかもしれんが、体の脱獄には決して助けになることは出来んものだから。』わしはそう言ったものだった。わしはそれをよく覚えている。」
 彼はこれだけの文句を口に出せるまでには、何度も何度も脣でその文句の形をしてみたのであった。しかし、話そうとする言葉が出て来始めると、ゆっくりではあったけれども、次々に続いて出て来た。
「これはどうしてだったろうな? ――あれはあなただったのか[#「あれはあなただったのか」に傍点]?」
 彼が恐しく不意に彼女の方に振り向いたので、もう一度、二人の傍観者ははっとした。だが、彼女は彼の手に掴まえられたまま全くじっと腰掛けていて、ただ低い声でこう言った。「どうぞ、お願いでございますから、皆さま、あたくしたちの近くへお出で下さいますな、口をお利き下さいますな、お動き下さいますな!」
「おや!」と彼は叫んだ。「あれは誰の声だったかな?」
 この叫び声を立てると彼は両手を彼女から離し、自分の白髪のところへ上げて、気違いのようにそれを掻きむしった。それも次第に止んでしまった。彼の靴造りの仕事以外のどんなことでも彼には次第に止んでゆくように。そして彼はあの小さな包みを再び摺み、それを胸のところへしまいこもうとした。が、やはり彼女を見ていて、陰気な顔をしながら頭を振った。
「いや、いや、いや。あなたは若過ぎる。若盛り過ぎる。そんなことはあるはずがない。この囚人がどんなになっているか見て御覧。この手は彼女《あれ》の知っていた頃の手ではない。この顔も彼女《あれ》の知っていた頃の顔ではない。この声も彼女《あれ》の聞いたことのある声ではない。いや、いや。彼女《あれ》も――またその頃のわしも――北塔で永い年月《としつき》がたたぬ前のことだ、――ずっとずっと昔のことだ。優しい天使さん、あなたの名前は何というのですか?」
 彼の語調と挙動との和《やわら》いだのに喜んで応ずるように、彼の娘は彼の前に跪いて、訴えるように両手を彼の胸のところへ差し出した。
「おお、あなたさま、いつかまた別の時に、あたくしの名前や、あたくしのお父さまがどなたでしたか、お母さまがどなたでしたか、またそのお二人のつらいつらいお身の上をどうしてあたくしがちっとも知らずにいましたか、お話申し上げましょう。けれども、今は申し上げられません。ここでは申し上げられません。ここで今申し上げられますのは、どうかあたくしにお手をあててあたくしを祝福して下さいましとお願いすることだけでございますわ。あたくしに接吻して下さいまし、接吻して下さいまし! おお、お懐《なつか》しいお方、お懐しいお方さま!」
 彼の冷い白い頭は彼女のつやつやした髪の毛と雑《まじ》り、その髪は彼を照す自由の光であるかのようにその頭を温め輝かせた。
「もしあなたがあたくしの声をお聞きになりまして、あたくしの声に――そうなのかどうかあたくしは存じません、そうであるようにと思っているのでございますが――あたくしの声に、以前あなたのお耳にとって美わしい音楽でありましたお声に幾らかでも似たところがございましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! もしあなたがあたくしの髪にお触りになりまして、あなたがお若くて自由でいらした頃にあなたのお胸にもたれた最愛の方《かた》のお頭《つむり》を思い出させるものが何でもございましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! もしあたくしがこれから御一緒に家庭をつくって、出来るだけ忠実に出来るだけ真心をこめてあなたにお仕えいたしましょうと申し上げます時に、あなたのお気の毒なお心が思い悩んでいらっしゃる間、永い間見棄てられていた家庭を思いお出しになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし!」
 彼女は彼の頸をいっそうしっかりと抱き締めて、彼を子供のように自分の胸のところで揺り動かした。
「もしあたくしが、お懐しいお懐しいお方、あなたのお苦しみはもうすみました、そのお苦しみからあなたをお救いするためにあたくしはここへ参りました、あたくしたちは平和に安穏に暮すためにイギリスへ行くのです、と申し上げます時に、あなたが、御自分の有益な御生涯が無駄になりましたことや、あたくしたちの生れ故郷のフランスがあなたにたいそう意地わるであったことを思いお出しになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! それからまた、もしあたくしが自分の名前と、生きてお出でになるあたくしのお父さまのお名前と、お亡《な》くなりになりましたお母さまのお名前を申し上げます時に、あたくしのお気の毒なお母さまが御慈愛からあたくしのお父さまのお苦しみをあたくしにお隠しになりましたため、あたくしがお父さまのために一日中骨を折ったことや一晩中眠らずに泣き明かしたことが一度もなかったことを、あたくしの立派なお父さまの前に跪いて、お父さまのお赦《ゆる》しをお願いしなければならないのです、ということがおわかりになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! お母さまのために、それから、あたくしのために、お泣き下さいまし! まあ皆さま、何て有難いことでしょう! 父の浄らかな涙があたくしの顔に落ちますの。父の啜り泣きがあたくしの胸に響いて来ますの。おお、御覧下さいまし! あたくしたちのために神さまに感謝して下さいまし、何と有難いことでしょう!★」
 彼は彼女の胸の中でぐったりとなり、その顔は彼女の胸のところに落ちていた。それは実に感動的な光景であった。しかも、これまでに彼が受けて来た非行と苦難とを思えば、実に恐しい光景であった。二人の傍観者は顔を蔽うたのであった。
 屋根裏部屋の静けさは永い間乱されずにいた。そして、彼の波打つ胸も震える体も、あらゆる嵐の後に必ず来るあの静穏――人間にとっては、生活という嵐が遂には鎮まって必ずそこへ落著くあの休息と沈黙との表象――に永い間委ねられていた。それから、二人の傍観者はその父親と娘とを床《ゆか》から抱き起そうと前へ進み出た。父親の方はだんだんに床《ゆか》にずり下っていて、疲れ果てて、昏睡状態になってそこで横わっていた。娘の方は、片腕に父の頭を載せておけるようにと、彼と一緒に下へうずくまっていた。そして、彼に垂れかかっている彼女の髪の毛は彼から光を除けていた。
「もし父を起さずにおいて、」と彼女は、ロリー氏が何度も鼻をかんだ後で二人の上に身を屈めた時に、ロリー氏に片手を挙げながら、言った。「父をこの家からすぐ連れて行けるように、あたくしたちがすぐさまパリーを立つ手筈がすっかり出来ますならば――」
「だが、お考え下さい。お父さまは御旅行をなすってもよろしいですか?」とロリー氏が尋ねた。
「父にとってあんなに恐しいこの都にいるよりは、まだしもその方がよい、とあたくしは思いますわ。」
「それあそうですよ。」と、見たり聞いたりするのに跪いていたドファルジュは、言った。「そればかりじゃありません。ムシュー・マネットは、あらゆる理由から、フランスを去られる方が一番いいんです。じゃあ、わっしは馬車と駅馬を雇って来ましょうか?」
「それは事務ですな。」とロリー氏は、すぐさま彼の几帳面な態度に返りながら、言った。「事務をやらねばならんのでしたら、わたしがやる方がいいでしょう。」
「では、どうぞあたくしたち二人をここに残しておいて下さいまし。」とマネット嬢は言い張った。「御覧の通り父はこんなに落著いて参りましたから、もう父をあたくしと一緒に残してお出でになりましても御心配はございません。どうして御心配なことなどございましょう? 誰も入って来ませんように扉《ドア》に錠を下して下さいますなら、きっと、父は、あなた方がお戻りになります時には、お出かけの時と同じように穏かにしておりますでしょうよ。何にしましても、あなた方がお帰りになりますまであたくしは父を預りましょう。そしてお帰りになりましたらあたくしたちは早速父を連れ出すことにいたしましょう。」
 ロリー氏もドファルジュも二人とも、このやり方は幾分気が進まず、二人の中のどちらか一人が残ることに賛成であった。けれども、馬車と馬の手配りをしなければならぬだけではなく、旅行免状の手配りもしなければならなかったし、それに、日も暮れようとしていて、時間が切迫していたので、とうとう、ぜひしなければならない用事を大急ぎで二人に分けて、それをしに二人が急いで出かけるということになった。
 それから、闇が迫って来ると、娘は自分の頭を父親のすぐ傍の堅い床《ゆか》の上に横えて、彼を見守っていた。闇はだんだんと濃くなって来た。そして二人は静かに横わっていた。そのうちに、とうとう、壁の例の隙間から灯光が一つちらちら洩れて来た。
 ロリー氏とムシュー・ドファルジュとが、すっかり旅行の準備をすませて、旅行用の外套や肩掛膝掛などの他《ほか》に、パンと肉、葡萄酒、熱い珈琲を携えて来た。ムシュー・ドファルジュは、この食糧と、彼の持っているランプとを、靴造りの腰掛台《ベンチ》(その屋根裏部屋にはそれ以外に藁蒲団の寝台《ベッド》が一つあるだけだった)の上に置いた。それから彼とロリー氏とは囚人を呼び覚し、助けて立ち上らせた。
 彼の顔に現れた、おびえたような、茫然とした驚きの中に、彼の心の奥を読み取ることは、いかなる人智にも出来なかったろう。彼がこれまでに起ったことを知っているのかどうか、彼等が彼に言ったことを思い出せるのかどうか、彼が自分の自由になっていることを知っているのかどうか、それはいかなる智慧も解くことの出来ない疑問であった。彼等は彼に話しかけてみた。が、彼はひどくまごまごして、返事もなかなか出来ないので、彼等は彼の当惑する様にびっくりして、当分はその上彼をいじくらないことにしようということにした。彼は、時々両手で頭を抱えるような、前には彼に見られなかった、狂気じみた、我を忘れたような挙動をした。それでも、娘の声だけでも聞くのは幾分気持がよいらしく、彼女が口を利く時にはきっとその方へ振り向くのであった。
 圧制に服従するのに永い間慣れていた人間に見られる柔順な態度で、彼は、彼等が飲み食いするようにと与えたものを飲み食いし、彼等が身に著けるようにと与えた外套やその他の身に纒うものを著た。彼は娘がその腕を彼の腕と組もうとするのにすぐに応じて、彼女の手を自分の両手に取って――放さずに持っていた。
 一同は下へ降り始めた。ムシュー・ドファルジュはランプを持って真先に行き、ロリー氏はその小さな行列の殿《しんがり》になった。あの長い本階段をそう幾段も降りないうちに彼は立ち止って、屋根をじっと見つめ、壁をじろじろ見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
「この場所を覚えていらっしゃいますか、お父さま? あなたはここを上っていらしたことを覚えていらっしゃいますか!」
「何と仰しゃったかな?」
 しかし、彼女がその問を繰返さないうちに、彼はあたかも彼女がその問を繰返したかのように答を呟いた。
「覚えているかって? いいや、覚えていない。あれはずいぶん以前のことだったからな。」
 彼が牢獄からこの家へ連れて来られたことについては少しの記憶も持っていないのは、彼等には明白になった。彼等は彼が「北塔百五番。」と呟くのを聞いた。そして、彼が自分の周囲を眺める時には、明かにそれは自分を永い間取囲んでいた堅固な城壁を探し求めるためであったのだ。一同が中庭まで来ると、彼は、吊上げ橋のあるのを予期しているように、知らず識らずのうちに歩き振りを変えた。ところが、吊上げ橋がなくて、からりとしている街路に馬車が待っているのを見ると、彼は娘の手を放して、また自分の頭を抱えた。
 入口のあたりには人だかりもなかった。たくさんの窓のどれにも人影は見えなかった。街路にも偶然に通りかかっている人さえ一人もいなかった。不自然なほどの沈黙と寂寞とがあたりを領していた。ただ一人の人間だけが見えた。それはマダーム・ドファルジュであった。――彼女は入口の側柱に凭れかかって編物をしていて、何も見ずにいた。
 かの囚人が馬車の中へ入ってしまい、彼の娘がその後に続いて入ってしまった時に、ロリー氏は、囚人が彼の靴を造る道具とあの仕上っていない靴とを哀れげに求める声を聞いて、踏台の上に足を止めた。マダーム・ドファルジュはただちに自分の夫に声をかけて自分がそれを取って来ようと言い、編物をしながら、中庭を通って、ランプの光の届かぬところへ歩いて行った。彼女は急いでそれを持って降りて来て、馬車の中へそれを手渡しした。――そしてすぐに入口の側柱に凭れかかって編物をし、何も見ようとしなかった。
 ドファルジュは馭者台に乗って、「城門へ!」と命じた。馭者は鞭をひゅうっと鳴らし、一同の乗った馬車は弱い光を放って頭上に吊り下っている街灯の下をがらがらと走って行った。
 頭上に吊り下っている街灯――立派な街になるほどますます明るく、悪い街になるほどますます薄暗く吊り下っている――の下を通って、また、灯火のついた店や、楽しげな群集や、灯光で装飾された珈琲店や、劇場の入口などの傍を通り過ぎて、市門の一つへと。そこの衛兵所の、角灯を持った兵士たち。「免状だ、旅行者たち!」「ではこれを御覧下さい、お役人さん。」とドファルジュが、馬車から降りて、その役人たちを由々しげに離れたところへ連れてゆきながら、言った。「これが車内の頭の白い人の旅行免状です。この免状は、あの人と一緒に、わっしが――で引渡されまし――」 彼は声を低くした。すると衛兵たちの角灯の間にざわめきが起った。そして、その角灯の一つが軍服を著た腕で馬車の中へ突き入れられると、その腕に接続した眼が、不断の日の、いや不断の夜の眼付とは違った眼付で、その頭の白い人を眺めた。「よろしい。通れ!」と軍服から。「御機嫌よろしゅう!」とドファルジュから。そして、だんだんと光の弱くなってゆく頭上に吊り下っている街灯がしばらく続いている下を通って、星が広くたくさん輝いている下へ。
 動かざる永遠の灯《ともしび》――その中のあるものは、この小さな地球から非常に遠く隔っているので、その光線が果してこの地球をそこで何事でも苦しんだりしている空間中の一点として見つけたことさえあるかどうか疑わしいと学者が言っている――のその穹窿の下に、夜の影は広々とまた黒々としていた。夜が明けるまでの、冷い、眠られぬがちな時間を通じて、その夜の影は、ジャーヴィス・ロリー氏――埋められていて掘り出された人と向い合って腰を掛け、この人からどんな微妙な能力が永久に失われたのか、どんな能力が囘復出来るのかと訝《いぶか》っているロリー氏――の耳に、もう一度、あの以前の問を囁いた。――
「あなたは甦《よみがえ》りたいとお思いでしょうね?」
 それからまたあの以前の答を囁くのだった。――
「わしにはわからない。」
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     第二巻 黄金《こがね》の糸
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    第一章 五年後

 テムプル関門《バー》の傍のテルソン銀行は、一千七百八十年においてさえ、古風な場所であった。それはごく狭くて、ごく暗くて、ごく不体裁で、ごく勝手が悪かった。その上に、その商社の社員たちがその狭いのを誇りとし、その暗いのを誇りとし、その不体裁なのを誇りとし、その勝手の悪いのを誇りとしているという精神的の特質でも、それは古風な場所であった。彼等は自分の銀行が狭くて暗くて不体裁で勝手の悪い点で際立っていることを自慢さえしていて、もしそれがこれほどひどくなかったならば、銀行の品格はそれだけ低くなるだろうという、明確な信念に燃えていた。これは決して消極的な信念ではなくて、もっと便利な営業所に対して彼等が閃かす積極的な武器であった。テルソンは(と彼等は言うのだった)何もゆとりなどを必要としない。テルソンは何も明りなどを必要としない。テルソンは何も装飾などを必要としない。ノークス商会には必要かもしれぬ。スヌークス兄弟商会には必要かもしれぬ。だが、テルソンには、有難いことには! だ――。
 こういう社員は誰でも、テルソン銀行を改築しようなどという問題を持ち出そうものなら、自分の息子でも勘当したことであろう。この点ではその銀行はこの国とよほど似ていた。この国は、永い間非常に非難のあった、しかし品格だけはますます備わって来た法律や慣習を改善しようと言い出した息子たちを、はなはだしばしば勘当したのだから。
 こういう次第で、テルソン銀行は意気揚々と不便の極致になってしまっていた。白痴のように強情な扉《ドア》を低い軋り音を立てながらぐいと開《あ》けた後に、諸君はテルソン銀行の中へ二段だけ下って降りる。そして、小さな勘定台の二つある、みすぼらしい、小さな店の中で、諸君は我に返る。そこでは、この上もなく年をとった人たちが、諸君の小切手をちょうど風がそれをさらさら音を立てさせるかのように振り動かしてみたり、また、この上もなく黒ずんだ窓の傍でその署名を調べてみたりする。その窓はフリート街★から来る泥土をいつも雨のように浴びせられていて、その窓に附いている鉄格子と、テムプル関門《バー》の重苦しい影とのためにいっそう黒ずんでいたのだ。もし諸君が自分の用件で「銀行」と会う必要が生ずるならば、諸君は奥の方にある罪人の監房のようなところに入れられる。諸君がそこで空費された生涯ということについて黙想していると、やがて銀行は両手をポケットに突っ込んでやって来る。そこの陰気な薄明りの中では諸君は彼を辛うじて細眼《ほそめ》で見ることが出来るだけだ。諸君のお金《かね》は虫の喰った古い木製の抽斗《ひきだし》の中から出て来る。またはその中へ入って行く。その抽斗が開《あ》けられたり閉《し》められたりする時に抽斗の微分子が諸君の鼻の中を舞い上ったり諸君の咽《のど》を舞い下ったりするのである。諸君の銀行紙幣は、まるでそれが再びもとの襤褸《ぼろ》にずんずん分解しつつあるかのように、黴臭い匂いをしている。諸君の金属器類はそこらあたりのどぶ溜のようなところの中へしまいこまれる。そして悪《あ》しき交りがそれの善き光沢を一日か二日のうちに害《そこな》う★のである。諸君の証券は台所と流し場とを改造した俄か造りの貴重品室の中へ入ってしまう。そしてその羊皮紙から脂肪がすっかり蝕《く》い取られてその銀行の空気になってしまう。家庭の書類を入れた諸君の軽い方の箱は、階上の、いつも大きな食卓が置いてあるが決して御馳走のあったことがないバーミサイドの部屋★へ上って行く。そして、その部屋で、一千七百八十年においてさえ、諸君の以前の愛人や諸君の小さな子供たちによって諸君に宛てて書かれた最初の手紙は、アビシニアかアシャンティーにふさわしい狂暴な残忍さと兇猛さとをもってテムプル関門《バー》の上に曝されている首★に、窓越しに横目で見られる恐怖から、ようやくのことで免れるのである。
 しかし、実際、その当時では、死刑に処するということは、あらゆる商売や職業に大いに流行している方法であった。そしてテルソン銀行でもそれに後《おく》れは取らなかった。死ということはあらゆることに対する大自然の療法である。とすればどうしてそれが法律の療法でないことがあろうか? そういう訳で、文書偽造者は死刑に処せられた。不正な紙幣の行使者は死刑に処せられた。信書の不法開封者は死刑に処せられた。四十シリング六ペンスを偸んだ者は死刑に処せられた。テルソン銀行の戸口にいる馬の番人が馬を曳いて逃走して死刑に処せられた。不正貨幣の鋳造者は死刑に処せられた。犯罪の全音域中の楽音を鳴らす者の四分の三は死刑に処せられた。そうしたところで犯罪防止に少しでも役に立ったという訳ではない、――事実は全くその正反対であったと言ってもいいくらいであったかもしれぬ、――が、そうすることは一つ一つの事件の煩わしさを一掃(現世に関する限りでは)して、それに関係のあることで考慮しなければならないようなことを他に一切残さなかったのだ。そういう次第で、テルソン銀行も、その全盛時代には、同時代の他の大きな営業所と同様に、非常に多くの人命を奪ったものである。だから、もしその銀行の前で打ち落された首が、こっそりと始末されないで、テムプル関門《バー》の上にずらりと並べられていたならば、その首は、おそらく、銀行の一階が受けているわずかばかりの明りをかなりはなはだしく遮ったことであろう。
 テルソン銀行のさまざまの薄暗い食器戸棚や兎小屋のようなところに押しこめられて、この上もなく年をとった人たちがいかにも真面目《まじめ》に事務を執っていた。彼等は青年をテルソン銀行ロンドン商社に採用した時には、その青年が老年になるまで彼をどこかに隠しておく。彼等は彼を乾酪《チーズ》のように暗い場所に貯蔵しておくのだ。するとしまいに彼は十分にテルソン風の風味と青黴★とを帯びて来るのである。そうなってようやく、彼は、人目に立つように大きな帳簿を調べたり、自分のズボンとゲートルとを銀行の全体の重みに加えたりして、人目に触れることを許されるのであった。
 テルソン銀行の戸外に――呼び入れられる時でなければどうあっても決して入ることのない――時には門番になり時には走使《はしりづか》いになる、雑役夫が一人いて、その銀行の生きた看板になっていた。彼は、使いに行っている時の他《ほか》は、営業時間中にはそこにいないことは決してなかった。そして、その使いに行っている時には、彼の倅《せがれ》が彼の代理をした。彼にそっくり生写《いきうつ》しの、十二歳になる、人相の悪い腕白小僧だ。世間の人々は、テルソン銀行が大まかなやり方でその雑役夫を使ってやっているのだということを承知していた。その銀行はいつも誰かしらそういう資格の人間を使ってやっていたのであって、歳月がこの人間をその地位に運んで来たのである。彼の姓はクランチャーといって、幼少の頃に、ハウンヅディッチ★の東教区教会で、代理人を立てて悪行を棄てると誓った時に★、ジェリーという名を附け加えてもらっていた。
 場面は、ホワイトフライアーズ★のハンギング・ソード小路《アレー》におけるクランチャー氏の私宅であった。時は、|わが主の紀元《アノー・ドミナイ》千七百八十年、風の強い三月のある日の朝、七時半。(クランチャー氏自身はわが主の紀元のことをいつもアナ・ドミノーズと言っていた。キリスト紀元なるものはあの一般に流行している遊びの発明された時から始っているのであって、それを発明したある婦人が自分の名をそれに与えたのだ、と明かに思い込んでいたものらしい。★)
 クランチャー君の借間《アパートメント》は附近が悪臭のない場所ではなかった。そして、たといたった一枚だけの硝子板の嵌っている物置を一室に数えるとしても、間数《まかず》は二つきりであった。しかし、その二|間《ま》はごくきちんと片附いていた。その風の強い三月のある日の朝、まだ時刻が早かったのに、彼の寝ている部屋はもうすっかり拭き掃除がしてあった。そして、朝食の用意に並べてあるコップや敷皿と、がたがたする樅板との間には、ごく清潔な白い布が掛けてあった。
 クランチャー君は、寛《くつろ》いでいるハーリクィンのように、補綴《つぎはぎ》だらけの掛蒲団をかぶって寐ていた★。最初は、ぐっすりと眠っていたが、だんだんと、寝床の中でのたくり※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ったり波打ったりし始め、遂には、例の忍返《しのびがえ》しを打ちつけたような髪の毛で敷布《シーツ》をずたずたに裂きそうにしながら、蒲団の上へぬっと起き上った。その途端に、彼は恐しく怒り立った声で呶鳴った。――
「畜生、あいつめまたやってやがるな!」
 部屋の一隅に跪いていた、おとなしそうな、勤勉そうな女が、今言われたあいつとは彼女のことであるということが十分にわかるほどあわてておどおどして、立ち上った。
「こら!」とクランチャー君は、寝床の中から片方の長靴を探しながら、言った。「お前《めえ》またやってやがるな。そうだろ?」
 この二度目の会釈で朝の挨拶をすませると、彼は三度目の会釈として片方の長靴をその女をめがけて投げつけた。それはひどく泥だらけな長靴であった。そして、それは、彼が銀行の時間がすんでからきれいな靴で家へ戻って来るのに、次の朝起きる時にはその同じ長靴が粘土だらけになっていることがしばしばあるという、クランチャー君の家事経済に関係のある、奇妙な事柄★を紹介し得るのである。
「何を、」とクランチャー君は、狙った的《まと》に中《あ》てそこなってから自分の呼びかける人間の言い方を変えて、言った。――「何を手前《てめえ》はしてやがったんでえ、人に迷惑をかける奴め?」
「わたしはただお祈りを唱えていただけですよ。」
「お祈りを唱えていたと! ひでえ阿魔《あま》だよ、手前《てめえ》は! へえつくばりやがって、おれに悪いことになるようにって祈るなんて、どういうつもりなんだ?」
「わたしはお前さんに悪いようになんて祈りやしませんよ。お前さんによいようにと祈ってたんです。」
「そうじゃねえだろ。よしそうだったにしろ、おれあそんな勝手な真似なんぞしてもれえたかねえ。おい! お前《めえ》のおっ母《かあ》はひでえ女だぜ、ジェリー坊。お前《めえ》の父《とう》ちゃんの運がよくならねえようにってお祈りをするんだからな。お前《めえ》は律義なおっ母を持ったもんだよ、お前《めえ》はな、小僧。お前《めえ》は信心深えおっ母を持ったもんだぞ、お前《めえ》はよ、なあ、坊主。へえつくばって、自分の独り息子の口からバタ附きパンをひったくって下さいって祈るんだからなあ!」
 小クランチャー君(彼はシャツのままでいた)はこれをひどく怒って、母親の方へ振り向くと、自分の食物を祈って取ってしまうようなことは一切してくれるなと烈しく異議を唱えた。
「ところで、この自惚《うぬぼ》れ女め、手前《てめえ》はな、」とクランチャー君は、前後撞著に気がつかずに、言った。「手前の[#「手前の」に傍点]お祈りの値打がどれだけあるだろうと思ってるんだい? 手前の[#「手前の」に傍点]お祈りに手前《てめえ》のつけてる値段を言ってみろ!」
「わたしのお祈りは心の中から出て来るだけだよ、ジェリー。それより他《ほか》に値打ってありゃしないよ。」
「それより他に値打ってありゃしないだと。」とクランチャー君は繰返して言った。「じゃあ、大《てえ》して値打のねえものなんだな。あったってなくったって、おれあもう祈ってもれえたかねえんだぞ。おれあそんなこたあ我慢が出来ねえ。おれあ手前が[#「手前が」に傍点]こそこそやってそのために不仕合せにされるなんて厭だ。手前《てめえ》がぜひともへえつくばらなけりゃならねえんなら、手前《てめえ》の亭主や子供のためになるようにへえつくばれ。ためにならねえようにやるんじゃねえぞ。もしおれに邪慳《じゃけん》な女房さえなかったならだ、そいからこの可哀《かええ》そうな子供に邪慳なおっ母さえなかったならばだ、おれあ、先週なんざあ、悪いように祈られたり、目論《もくろみ》の裏をかかれたり、信心のために出し抜かれたりして、この上なしの運の悪い目になんぞ遭わねえで、お金《かね》を幾らか儲けてたんだ。ち、ち、畜生め!」とそれまでの間に衣服を著てしまっていたクランチャー君が言った。「あの先週は、神信心だのあれやこれやの呪い事だので、おれあぺてんにかけられて、可哀《かええ》そうな実直な商売人めがこれまで出くわしたことのある中でも一番不仕合せな目に遭ったじゃねえか! おい、ジェリー坊、お前《めえ》著物を著てな、おれが靴を磨いてる間、時々おっ母に気をつけてろよ。そしてまたへえつくばりそうな様子がちょっとでも見えたら、おれを呼ぶんだぜ。てえのはだ、手前《てめえ》、いいかい、」とここで彼はもう一度女房に話しかけて、「おれあまたあんな風にやられたかねえからなんだぞ。おれあ貸馬車みてえに体がぐらぐらしてるし、阿片チンキを飲んだみてえに眠いし、体の筋はあんまり使い過ぎてるんで、もし痛みでもなかろうものなら、どれがおれでどれが他人《ひと》さまだかわかんねえくれえなんだ。それだのにおれの懐《ふところ》工合はそのためにちっともよくはならねえ。で、おれあどうも、手前《てめえ》が朝から晩まであれをやってて、おれの懐工合がよくならねえようにしてるんじゃねえかと思うんだ。おれあそんなことは勘弁がならねえ、この人に迷惑をかける奴め。さあ、手前《てめえ》、何とか言うことがあるかい!」
 その上にまだ、「ああ! そうだよ! 手前《てめえ》はそれに信心|深《ぶけ》え人間だったな。それなら自分の亭主や子供のためにならねえようなことはしめえな、そうだろな? そうとも、手前はしねえとも!」というような文句を呶鳴ったり、ぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っている彼の憤怒の囘転砥石からその他の皮肉の火花を散らしたりしながら、クランチャー君は自分の長靴磨きや出勤準備をやり出した。そうしている間に、彼の息子は、この方《ほう》の頭は父親よりは幾分柔かな忍返しを打ってあるし、その若々しい眼は父親のと同じに互にくっついていたが、言いつかった通りに母親を見張っていた。彼は時々、身支度をしている自分の寝間の物置から飛び出して来て、小さな叫び声で「おっ母《かあ》、お前《めえ》つくばろうとしてるな。――おうい、父《とう》ちゃん!」と言い、そして、そういう佯《いつわ》りの警報を発してから、親不孝なにたにた笑いを浮べながらまた自分の部屋へ飛び込んで、あの可哀そうな婦人を大いにまごつかせるのであった。
 クランチャー君の機嫌は、彼が朝食に向った時にも、ちっともよくなっていなかった。彼はクランチャー夫人が食前の祈祷をするのを特別の憎悪の念をもって憤った。
「やい、人に迷惑をかける奴め! 手前《てめえ》は何をしていやがるんだい? またあれをやってるのか?」
 彼の妻は、ただ「食事前に祝福を願った」だけだと弁明した。
「そんなこたあしてくれるな!」とクランチャー君は、あたかも女房の祈願の効験でパンの塊が消え失せてゆくのが見えはしまいかと思ってでもいるようにあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、言った。「おれあ祝福してもらって家《うち》から追ん出されたかねえんだよ。おれあ祝福で自分の食物《たべもの》を食卓からふんだくられるなあ厭だ。じっとしてろ!」
 ちっとも陽気にならなかった宴会で一晩中起きてでもいたかのように、ひどく赤い眼と怖《こわ》い顔をして、ジェリー・クランチャーは、動物園の四《よ》つ足《あし》連中のように食事を前にして唸りながら、朝食を食べるというよりも噛みちらかしていた。九時近くになると、彼は苛立《いらだ》った顔付を和《やわら》げ、そして、自分の本性にかぶせられる限りの恥しからぬきちんとした外見を装《よそお》いながら、その日の業務に出て行った。
 その業務たるや、彼自身が自分のことを好んで「実直な商売人」と称してはいたけれども、どうも商売とは言いがたいものなのであった。彼の元手《もとで》は、背の壊れた椅子を切り縮めて拵えた木製の床几《しょうぎ》一つだけであった。その床几を、小ジェリーが、父親と並んで歩きながら、銀行のテムプル関門《バー》に一番近い窓の下のところまで毎朝運んで行くのだった。その場所で、その雑役夫の足を寒気と湿気とから防ぐために、どれでも通りがかりの車から拾い取ることの出来た最初の一掴みの藁を加えれば、その床几はその日の陣所となるのだ。彼のこの持場にいるクランチャー君は、フリート街やテムプル★によく知られていることは関門《バー》そのものと同じくらいであった。――また形相の悪いこともそれとほとんど同じであった。
 例のこの上もなく年をとった人たちがテルソン銀行へ入って行く時に自分の三角帽に手をかけて挨拶するのにちょうど間に合うようにと、九時十五分前に陣取って、ジェリーは、その風の強い三月の朝、彼の部署に就いたのである。小ジェリーは、関門《バー》を通り抜けて侵入していない時には、父親の傍に立っていて、自分の愛らしい目的には適当なくらいに小さい通りがかりの少年たちに、手厳しい種類の肉体的及び精神的の危害を加えてやろうとしていた。お互に非常によく似た父と子とが、銘々の両の眼が互に近よっていると同じように二つの頭を近よせながら、フリート街の朝の人通りを黙然《もくねん》と眺めている様子は、二匹の猿にすこぶる類似していた。その類似は、成人のジェリーの方は藁を噛んでは吐き出しているのに、少年のジェリーの方は頻りにぱちぱち瞬きしている眼で父親やフリート街の他のあらゆるものをきょろきょろと気をつけているという、従属性の情况によって減少されはしなかった。
 テルソン銀行所属の常雇の屋内小使の一人が戸口から頭をにゅっと出して、こういう指図を伝えた。――
「門番さん御用ですよ!」
「万歳、父ちゃん! 朝っぱらにとっつきから一仕事だい!」
 小ジェリーは、こう言って父親の門出《かどで》を祝うと、例の床几に腰を下して、父親の噛んでいた藁に継承的な興味を持ち始め、それから考え込んだ。
「いっつも銹《さび》だらけだ! 父ちゃんの指はいっつも銹だらけだ!」と小ジェリーは呟いた。「父ちゃんはあんな鉄の銹をみんなどっからつけて来るんだろう? ここじゃあ鉄の銹なんてつくはずがねえんだがなあ!」
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    第二章 観物《みもの》

「お前はもちろんオールド・ベーリー★をよく知っているね?」とこの上もなく年をとった事務員の一人が走使いのジェリーに言った。
「へえい、旦那。」とジェリーはどこか強情な様子で答えた。「ベーリーは知っておりますとも[#「とも」に傍点]」
「あ、そうだろう。それからお前はロリーさんを知ってるな。」
「ロリーさんなら、旦那、わっしはベーリーを知ってるよりはよっぽどよく知ってますよ。実直な商売人のわっしがベーリーを、」とその問題の役所へ不承不承に出頭した証人に似なくもないように、ジェリーは言った。「知りたいと思ってるよりはよっぽどよく知ってまさあ。」
「よしよし。じゃあな、証人の入って行く戸口を見つけて、そこの門番にロリーさん宛のこの手紙を見せるんだ。そうすれば門番はお前を入れてくれるだろう。」
「法廷へですか、旦那?」
「法廷へだ。」
 クランチャー君の二つの眼はお互に更に少しずつ近よって、「こいつあお前《めえ》どう思う?」と尋ね合ったように思われた。
「わっしは法廷で待っているんですかい、旦那?」と彼は、眼と眼のその相談の結果として、尋ねた。
「今言ってやるよ。門番は手紙をロリーさんに渡してくれるだろう。そうしたら、お前は何でもロリーさんの目につくような身振りをして、あの人にお前のいる場所を見せてあげるんだぞ。それからお前のしなければならんことは、あの人の用事があるまでそこにずっといるだけだ。」
「それだけなんですか、旦那?」
「それだけだ。あの人は走使いの者を手許にほしいと仰しゃるのだよ。これにはお前がそこにいることをあの人に知らせてあるのさ。」
 老事務員が手紙を丁寧に摺《たた》んで表書をした時に、クランチャー君は、その行員が吸取紙を使う段になるまで彼を無言のまま眺めていた後に、こう言った。――
「今朝《けさ》は偽造罪を裁判するんでしょうね?」
「叛逆罪さ!」
「それじゃあ四《よ》つ裂《ざ》き★だ。」とジェリーは言った。「むごたらしいことをするもんだなあ!」
「それが法律だよ。」と老事務員は、びっくりしたような眼鏡を彼に向けながら、言った。「それが法律だよ。」
「人間に※[#「木+戈」、129-2]《くい》を打ち込むなんていくら法律だってひでえとわっしは思いますよ。人間を殺すのだって十分ひでえが、※[#「木+戈」、129-3]《くい》を打ち込むなんて全くひでえこっでさあ、旦那。」
「そんなことはちっともないさ。」と老事務員は返答した。「法律のことを悪く言うものじゃない。自分の胸にあることと声にすることに気をつけるんだよ、ねえ、お前。そして法律のことは法律にまかせておくがいい。それだけの忠告をわたしはお前にしてあげるよ。」
「わっしの胸と声に宿ってるものってのは、旦那、湿気でさあ。」とジェリーは言った。「わっしの暮し方がどんなに湿《しめ》っぽい暮し方だか、旦那のお察しに任《まか》せますよ。」
「うむ、うむ、」と老行員は言った。「わたしたちはみんなさまざまな暮しの立て方をしてるんだよ。湿っぽい暮しの立て方をしている者もあれば、干涸《ひから》びた暮しの立て方をしている者もあるさ。さあ、手紙だ。行って来てくれ。」
 ジェリーは手紙を受け取った。そして、表面に見せかけているほどには内心では敬意を持たずに、「そういうお前さんだって実入《みい》りの少い爺さんだろうよ。」と心の中で言いながら、お辞儀をして、通りすがりに自分の息子に行先を告げて、出かけて行った。
 その時代には、絞刑はタイバーン★で行われていたので、ニューゲートの外側のかの街は、その後にそこの附物《つきもの》となった一の不名誉な醜名を、まだ受けてはいなかった。しかし、その監獄は厭わしい処であった。その中では大抵の種類の背徳や悪事が行われ、そこではいろいろの恐しい疾病が生れた。その疾病は囚人と共に法廷へ入り込んで、時としては被告席から裁判所長閣下にさえ真直に突き進んで、閣下を裁判官席からひきずり下すこともあった。黒い法冠をかぶった裁判官が囚人に死の判決を宣告すると同じくらいにはっきりと自分自身に死の判決を宣告し、しかも囚人よりも先に死ぬことさえも、一度ならずあった。その他《ほか》のことについては、オールド・ベーリーは死出の旅宿のようなものとして名高かった。そこからは、色蒼ざめた旅人たちが、二輪荷車や四輪馬車に乗って、他界への非業の旅へと、絶えず出立したのである。もっとも二マイル半ばかりは一般公衆の街路や道路を通って行くのだが★、それを見て恥辱とするような善良な市民は、よしあったにしても、ごく稀であった。――それほど習慣というものは力強いものであり、またそれほど始めからよい習慣をつけておくということは望ましいことなのである。オールド・ベーリーは、また架形台★でも名高かった。これは賢明な昔の施設物の一つで、誰一人としてその程度を予知することの出来ない刑罰を課したものであった。なおまた、そこは笞刑柱★でも名高かった。これも懐《なつか》しい昔の施設物の一つであって、その刑の行われているのを見ると人をごく情深くし柔和にするのであった。それからまた、そこは殺人報償金★の手広い取引でも名高かった。これも祖先伝来の智慧の一断片であって、この下界で犯すことの出来る最も恐しい慾得ずくの犯罪へと当然に到らしめるものであった。結局、当時のオールド・ベーリーは、「何事にても現に起っていることはすべて正当なり。」という箴言の最良の例証なのであった。この格言は、かつて起ったことはすべて誤っていなかった、という厄介な結論さえ包含しなかったならば、ずいぶんものぐさな格言ではあるが、それと同時に決定的な格言であったろうが。
 この忌わしい所業の場所のあちらこちらに散らばっている不潔な群集の中を、こそこそと道を歩くことに慣れた人間の巧妙さでうまく通り抜けて、例の走使いの男は自分の探している戸口を見つけ出した。そして、そこの扉《ドア》についている落し戸から例の手紙を差し入れた。人々は、その頃は、ベッドラム★にある芝居を見るのに金を払ったと同じように、オールド・ベーリーの芝居を見るのに金を払ったものであった。――ただ、後者のオールド・ベーリーの余興の方がずっと値段が高かったが。だから、オールド・ベーリーのあらゆる戸口は厳重に番人を置いてあった。――ただし、犯罪人たちが入って来る社会の戸口だけは確かにその例外で★、そこだけは常に広く開《あ》け放してあったのだ。
 しばらくぐずぐず遅滞していた後に、扉《ドア》はその蝶番《ちょうつがい》のところでしぶしぶとほんのわずかばかり囘転し、そしてジェリー・クランチャー君にようやく法廷の中へ体《からだ》をぎゅっと押し入れさせた。
「何が始ってるんです?」と彼は自分の隣に居合せた男に小声で尋ねた。
「まだ何も。」
「何が始るとこなんですか?」
「叛逆事件でさ。」
「四つ裂きの事件ですね、え?」
「ああ!」とその男はさも楽しみそうに答えた。「あいつは網代橇《あじろぞり》★に載せて曳っぱられて行って半殺しに首を絞められ、それから下《おろ》されて自分の眼の前で薄割《うすざ》きにされ、それから臓腑を引き出されて自分の見ている間に焼き捨てられ、それから次には首をちょん切《ぎ》られ、体を四つにぶつ切られる。そいつが判決でさあ。」
「もし有罪ときまったら、って言うんでしょう?」とジェリーは但書と言ったような意味で附け加えた。
「いや、なあに! きっと有罪になりますよ。」と相手が言った。「そいつあ心配するにゃあ及びませんや。」
 この時、クランチャー君の注意は、さっきの手紙を片手に持ってロリー氏の方へ歩いて行くのが見える門番に逸《そ》らされた。ロリー氏は、仮髪《かつら》をかぶった紳士たちの間に、一脚の卓子《テーブル》に向って腰掛けていた。そこから遠くないところに、囚人の弁護士である、仮髪《かつら》を著けた一紳士が、大束の書類を前にしていたし、また、ほとんど向い合ったところに、今一人の仮髪《かつら》を著けた紳士が、両手をポケットに突っ込んでいたが、この人の全注意は、クランチャー君がその時眺めてみた時にもその後に眺めてみた時にも、いつも法廷の天井に集中されているように思われた。ジェリーは荒々しい咳払いをして、頤をさすり、手で合図をした挙句、立ち上って彼を探しているロリー氏の目に留った。ロリー氏は静かに頷《うなず》いて、そして再び腰を下した。
「あの人は[#「あの人は」に傍点]この事件にどんな関係があるんですかい?」とジェリーのさっき口を利いた男が尋ねた。
「わっしはまるで知らねえんで。」とジェリーが言った。
「じゃあ、こんなことをお訊きしちゃ何だが、あんたは[#「あんたは」に傍点]この事件にどんな関係があるんですかね?」
「そいつもまるっきり知らねえんで。」とジェリーは言った。
 裁判官が入場し、それに続いて法廷内に非常なざわめきが起ってやがて鎮まってゆき、それらのために二人の対話は中止された。ほどなく、被告席が興味の中心点となった。今までそこに立っていた二人の看守が出て行き、やがて囚人が連れ込まれて、被告席に入れられた。
 天井を眺めている例の仮髪《かつら》を著けた紳士一人を除いて、その場にいる者は一人残らず、その被告を凝視した。場内のあらゆる人間の呼吸が、波のように、あるいは風のように、あるいは火のように、彼をめがけて押し寄せた。彼を見ようとして、多くの熱心な顔が柱の蔭や隅々から差し伸べられた。後の方の列にいる見物人たちは、彼の髪の毛一筋でも見逃すまいと、立ち上った。法廷の平場《ひらば》にいる人々は、誰に迷惑をかけようとも彼を一目見てやろうと、前にいる人々の肩に手をかけ、――彼の姿をどこからどこまで見ようと、足を爪立てて立ったり、何かの出張りの上に乗っかったり、ないも同然のものの上に立ったりした。この後者の仲間の中に一際目立って、ニューゲートの忍返《しのびがえ》しを打ってある塀の一小片が生きて来たように、ジェリーが立っていた。彼はここへやって来る途中で一杯ひっかけて来たのだが、そのビール臭い息《いき》を、囚人めがけて喚《わめ》き出した。それは、囚人に向って流れている、他のビールや、ジン酒や、茶や、珈琲や、何やかやの波と雑《まじ》った。その波は、既に、囚人の背後にある幾つかの大きな窓にぶつかって砕けて、汚《よご》れた霧と雨になっていたのだ。
 こういうすべての凝視と咆哮との対象というのは、日に焦《や》けた頬と黒眼がちな眼とをした、体格もよく容貌もよい、二十五歳ばかりの青年であった。彼の身分で言えば青年紳士であった。彼は、じみに、黒かあるいはごく濃い鼠の服を著ていた。そして、長くて黒っぽい彼の髪は、頸の後のところでリボンで束ねてあった。それは飾りのためというよりは邪魔にならぬようにしておくためだった。心の中の感情は体のどんな覆いを通しても必ず現れ出ると同様に、彼の今の立場が生んだ蒼白い顔色は彼の頬の日に焦《や》けた鳶色を通して現れていて、精神が太陽よりも力強いことを示していた。その他の点では彼は全く落著いていて、裁判官に一礼をして、静かに立っていた。
 この人間を見つめたりこの人間に呶鳴ったりする人々の興味は、人間性を高めるような種類のものではなかった。彼がこれほどの怖しい判決を受ける危険に臨んでいるのでなかったなら――その判決の残忍な細目の中のどれか一つでも免ぜられる見込があるのだったら――それだけ大いに彼は自分の魅力を失ったことであろう。あのように言語道断な切りさいなまれ方をされる宣告を受けることになっている人間の姿、それが観物《みもの》なのであった。あのように惨殺され切れ切れに裂かれて末代まで名を残すことになっている男、それが人気を生み出していたのだ。種々雑多な見物人たちが、自己を欺くことにかけての自分たちのそれぞれの技巧と能力とに応じて、その興味をどんなに糊塗してみたところで、その興味は、その根底においては、食人鬼のような興味であった。
 法廷内はしいんとする! チャールズ・ダーネーは、彼を告発した(際限のないべちゃくちゃしたおしゃべりをもって)起訴に対して、昨日無罪の申立をしたのであった。その告発というのは、彼はわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の君主なるわが国王陛下に対する不忠の叛逆者であって、その理由とするところは、彼は、種々の機会に、種々の手段と方法とをもって、フランス国王リューイスが上述のわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下に対してなせる戦争★において、彼リューイスを援助したのである。すなわち、彼は、上述のわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下の領土と、上述のフランスのリューイスの領土との間を往復し、上述ののわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下が幾何《いくばく》の軍隊をカナダ及び北アメリカに送る準備をしておられるかを、邪悪にも、不忠にも、叛逆的にも、その他種々奸悪にも、上述のフランスのリューイスに密告したのである、ということに対してである。これだけのことは、ジェリーは、いろいろの法律の用語のために髪の毛を逆立てられて頭がますます忍返しのようになりながらも、会得出来て大いに満足した。それで、前述の、幾度も幾度も前述のと言われた、チャールズ・ダーネーなる者が、彼の前で審問を受けようとしているのだということと、陪審官が就任の宣誓をしているのだということと、検事長閣下が弁論にかかろうとしているのだということを、曲りなりにもやっとのことで了解出来たのであった。
 その場にいるすべての人々の心の中で絞首され、斬首されて、四つ裂きにされていた(そして彼自身もそのことは知っていた)被告は、そうした立場にひるみもしなければ、そうした立場にあって少しでも芝居じみた態度を装《よそお》いもしなかった。彼は平静にして傾聴していた。厳粛な関心をもって弁論の開始されるのを注視していた。そして自分の前にある厚板に両手を載せたまま立っていたが、極めて自若としているので、その手は板の上に撒いてある薬草の一葉をも動かしはしなかった。法廷には、獄舎臭と獄舎熱とに対する予防として、一面に薬草を撒き散らし酢を振り撒いてあったのだ。
 囚人の頭の上には鏡があって、彼に光を投げ下すようになっていた。これまでに幾多の悪人や幾多の卑劣漢がその鏡に映されては、その鏡の表面からもこの地球の表面からも共に姿を消してしまったのであった。大洋がいつかはその中に沈んでいる死者を出すことになっているように★、もしその鏡がそれに映った姿をいつか元へ戻すことが出来るならば、この厭わしい場所は実に物凄い幽霊屋敷となることであろう。恥辱不名誉という思いが、それのために鏡はそこに置いてあったのだが、その囚人の心にもちらりと浮んだのかもしれない。それはともかく、彼は姿勢をちょっと変えると、自分の顔に射した一条の光に気づいて、上を見た。そして鏡を見た時に彼の顔はさっと赧らみ、彼の右の手は薬草を押し除けた。
 その動作は、偶然、彼の顔を、法廷の彼の左手に当る側へ向かせたのであった。彼の眼と同じ高さのあたりに、裁判官席のそこの隅に、二人の人が腰掛けていて、彼の視線はただちにその人たちに留《とど》まった。それが非常に突然であったし、また非常にひどく彼の顔付が変ったので、彼に向けられていたすべての眼が、今度はその二人の方へ振り向いた。
 見物人は、その二人の人物が、二十歳を少し出た若い婦人と、明かに彼女の父親である一紳士とであることを知った。その紳士というのは、頭髪の真白な点と、顔に一種名状しがたい強さがある点とで、極めて目に立つ外貌の男であった。強さと言っても活動的な強さではなくて、沈思黙考しているような強さであった。この表情が現れている時には、彼はあたかも老人であるかのように見えた。が、その表情が掻き動かされて消え去る時――ちょうど今も彼が自分の娘に話しかける際にたちまちそうなったように――には、彼はまだ人生の盛りを越えていない立派な男に見えるようになった。
 彼の娘は彼の傍に腰掛けながら、片手を彼の腕に通し、片方の手をその腕に押しつけていた。彼女は、この場の光景の恐しさと、囚人に対する同情とで、父親にひしと寄り添っていた。彼女の額《ひたい》には、被告の危難以外の何ものも見ないほどの一心の恐怖と同情とが、ありありと現れていた。それが極めて目に立ち、極めて力強く飾らずに表れていたので、今まで被告に対して何の憐憫の情も持たずにじろじろ見ていた連中も、彼女のためにさすがに心を動かされた。そして、「あの人たちは何者だろう?」という囁きが拡まった。
 走使いのジェリーは、それまで自己特有の流儀に自己特有の観察をしていて、夢中の余りに自分の指についている鉄銹をしゃぶり取っていたが、その二人が何者であるかを聞こうとして頸を差し伸ばした。彼の近くにいた群集が、その質問を、その親子の一番近くにいる傍聴者の方へだんだんと押し送っていた。そしてその傍聴者のところからそれはいっそうのろのろと押し送られて戻って来て、ようやくジェリーのところに著いた。――
「証人だとさ。」
「どちら側の?」
「反対側の。」
「どっち側に反対の?」
「被告側にだってさ。」
 検事長閣下が絞首索を綯《な》い、首斬斧を研《と》ぎ、処刑台に釘を打ち込まんがために立ち上った時に、裁判官は、ずうっと見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]していた眼を元へ戻し、自分の座席で反《そ》り返って、自分の手中にその生命を握っている人間をじっと眺めた。
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    第三章 当外《あてはず》れ

 検事長閣下は陪審官に向って次のようなことを告げなければならないと言った。諸君の面前にいる被告人は、年こそ若いが、死刑に価する叛逆の術策では極めて老獪である。彼が吾々の公敵と通信していることは、今日《きょう》や昨日《きのう》からのことではなく、昨年や一昨年からのことでさえない。被告が、それよりももっと永い間、秘密の用務を帯びてフランスとイギリスとの間を往復する習慣にあったことは確実であって、その用務については彼は何等明白な説明をすることが出来ないのである。もしも叛逆行為なるものが栄えるのがその自然であるならば(幸いにもそういうことは決してないのであるが)、彼の用務が真に邪悪であり有罪であることはそのまま発見されずにすんだかもしれない。ところが、天帝は、恐怖にも動かされず非難にも動かされない一人の人間の心にそのことを知らせて、彼をして被告の画策の性質を探出させ、嫌悪の念に打たれて、その画策を陛下の首席国務大臣ならびに尊敬すべき枢密院に暴露させたもうたのである。この愛国者は諸君の前に出頭させられるであろう。彼の立場及び態度は概して崇高である。彼は被告の友人であったのであるが、幸いにしてかつまた不幸にして被告の非行を看破すると、もはや腹心の友とは認め得ないその叛逆者を、国家の聖なる祭壇に捧げようと決心したのである。古《いにしえ》のギリシアやローマにおけるが如く、わが英国にももし公共の恩人に対して彫像を贈る法令が発布されるならば、この輝ける市民は確かにそれを受けるであろう。が、そういう法令が発布されていないので、彼はおそらくはそれを受けることはあるまい。美徳というものは、詩人たちが古来述べているように(そういう詩の幾多の文句を陪審官諸氏が一語一語舌端に諳《そら》んじておられるであろうことを自分はよく知っているが、――と検事長が言うと、陪審官たちの顔は彼等がそういう詩句については少しも知らぬことに気がついていささか疚《やま》しいような色を表《あらわ》した)、ある意味では伝染するものであり、愛国心、すなわち国を愛する心として知られているかの赫々たる美徳はとりわけそうである。清浄潔白な一点の非難すべきところもない、国王陛下のためのこの証人、陛下の御事に言及するのはいかに些細なことであっても名誉であるが、この証人の示した気高い亀鑑は、被告の従僕に伝染し、彼の心に、その主人の卓子《テーブル》の抽斗《ひきだし》やポケットを調べ、主人の書類を隠匿しようという、神聖な決意を生ぜしめたのである。自分(検事長閣下)はこの賞讃すべき従僕に加えられる若干の誹謗を聞くことを覚悟している。が、全体から言って、自分はこの従僕を自分の(検事長閣下の)兄弟姉妹よりも好み、彼を自分の(検事長閣下の)父母よりも以上に尊敬するのである。自分は陪審官諸氏に来って同じようになされよと確信をもって要求するものである。この二人の証人の証言は、やがてここに提出されるであろうところの彼等の発見した文書と共に、被告が、陛下の兵力と、その海陸における配慮と戦備とについての明細書を所持していたことを示すであろう。しかして、彼がそのような情報を敵国へ常習的に送っていたということに何等の疑いをも残さないであろう。これらの明細書が被告の手蹟のものであるということは証明出来ない。が、それはどちらでもよろしいのである。実際、それは、被告が警戒手段に巧妙なることを示すものとして、起訴にはかえって好都合なのである。その証拠書類は五箇年前まで遡り、被告が既に、英国軍隊とアメリカ人との間に行われた実に最初の戦闘の時日から数週間以前に、そういう有害な任務に従事していたことを示すであろう。これらの理由によって、陪審官諸氏は、忠誠なる陪審官であるがゆえに(諸君がそうであることを自分は知っている)、また責任を重んずる陪審官であるがゆえに(諸君がそうであることを諸君自らが[#「諸君自らが」に傍点]知っておられる)、諸君の好むと好まざるとにかかわらず、断然この被告を有罪と決し、彼を殺さなければならないのである。この被告の頭の刎ねられない限り、諸君は決して枕を高うして眠ることが出来ないであろう。諸君は諸君の妻が枕を高うして眠っているという考えをも忍ぶことが出来ないであろう。諸君は諸君の子供たちが枕を高うして眠っているという思いをも堪えることが出来ないであろう。要するに、諸君にとっても諸君の妻子にとっても、もはや枕を高うして眠るなどということは決してあり得ないのである、と。検事長閣下は、順々に彼の考え得られるあらゆるものの名にかけて、また彼が既に被告をもう死んでいるも同然と考えているという彼の厳粛な誓言に基いて、その被告の首を陪審官たちに請求することによって、論告を終えたのであった。
 検事長の論告が終ると、法廷内ががやがやして来た。それはあたかも雲霞のような大きな青蠅の群《むれ》が、その囚人がまもなくどうなるかということを見越して、彼の身辺に群っているかのようであった。それがまた静まった時に、かの一点の非難すべきところもない愛国者が証人席に現れた。
 次席検事閣下が、それから、彼の指導者の指導に従って、かの愛国者を審問した。名はジョン・バーサッド、紳士である。彼の純潔な精神の物語は検事長閣下がさっき述べたところと寸分の違いもなかった。――それに何か欠点があったとすれば、おそらく、いささか寸分の違いもなさ過ぎたことであろう。彼はその高潔な胸中の重荷を卸してしまったので、つつましげに引下ったであろうが、ロリー氏から遠くないところに腰掛けている、書類を前にした、あの仮髪《かつら》を著けた紳士が、彼に二三の質問をしたいと請うたのであった。向い合って腰掛けている例の仮髪《かつら》の紳士は、まだやはり法廷の天井を眺めていた。
 君はかつて自分で間諜《スパイ》をやっていたことがあるか?★ いいや、自分はそういう卑劣なあてこすりを軽蔑する。君は何によって衣食しているか? 自分の財産によってだ。君の財産はどこにあるか? どこにあるかは正確に記憶していない。その財産は何であるか? 何も他人に関係のあることではない。君はその財産を相続したのか? そうだ、相続したのだ。誰からか? 遠縁の親戚から。非常に遠縁か? かなり遠縁である。監獄に入ったことがあるか? 確かにない。債務者監獄に入ったことは一度もないか? そんなことが今の件とどんな関係があるのかわからない。債務者監獄に入ったことは決してないか? ――さあ、もう一度問う。決してないか? ある。何度か? 二三度。五六度ではないか? あるいはそうかもしれない。何の職業か? 紳士だ。人から蹴られたことがあるか? あったかもしれぬ。たびたびあったか? いいや。階段から蹴落されたこと★があるか? 断然ない。一度階段の頂上のところで蹴られて、自分勝手に階段を落ちたことがある。その時は博奕《ばくち》でごまかしをやったために蹴られたのか? そういうような意味のことを、自分にそういう乱暴を加えた酔っ払いの嘘つきが言った。がそれはほんとうではない。それがほんとうではないということを誓うか? きっぱりと。賭博でごまかしをやって生活したことがあるか? 決してない。賭博をやって生活したことがあるか? 他《ほか》の紳士のする程度以上ではない。被告から金を借りたことがあるか? ある。返したことがあるか? ない。被告と親交があると言っても、それは実際のところはごくちょっとした交際で、乗合馬車や宿屋や郵船などの中で被告に無理に押しつけた交際ではないか? いいや。その明細書を被告が持っているのを見たということは間違いないか? 確かだ。その明細書についてはそれ以上のことは知らないのか? 知らない。例えば、君はそれを自分で手に入れたのではなかったか? そうではない。この証言によって何かを得ようと期待しているのではないか? いいや。いつも政府に雇われて金《かね》を貰って、他人を罠に陥れることを仕事にしているのではないか? とんでもないことだ。それとも何かためにしようとしているのではないか? とんでもないことだ。それを誓うか? 幾度でも。全くの愛国心という動機以外には動機はないのか? ちっともない。
 かの謹直な従僕、ロジャー・クライは、非常な速度でさっさと宣誓しては証言して行った。自分は四年前から誠実にかつ純樸に被告に奉公していたのである。カレー通いの郵船の中で、自分は被告に向って小用|足《た》しを雇うつもりはないかと尋ねた。すると被告は自分を雇ったのである。自分はお情に小用足しを使ってくれと頼んだのではない。――そういうことは思いもよらぬことだ。まもなく、自分は被告を怪しいと思うようになり、彼を監視し始めた。旅行中、彼の衣服を整頓する際に、何囘となく自分はこれと似た明細書が被告のポケットにあるのを見たことがある。自分はここにある明細書を被告の机の抽斗から取り出したのである。自分が最初にそれをそこに入れておいたのではない。自分は、被告がこれと同じ明細書をカレーでフランスの紳士たちに見せ、またこれと似た明細書をカレーとブーローニュ★との両地でフランスの紳士たちに見せているのを見た。自分は自分の国を愛するから、それを忍ぶことが出来ず、密告をしたのである。自分は銀製の急須を盗んだという嫌疑をかけられたことは一度もない。芥子《からし》壺に関して中傷されたことはあるが、しかしそれは鍍金《めっき》の品に過ぎないことがわかった。自分はさっきの証人を七八年来知っている。それは単に暗合に過ぎない。自分はこれを特に不思議な暗合とは考えない。暗合というものは大抵不思議なものであるから。また、自分の[#「自分の」に傍点]場合でもまた真の愛国心が唯一の動機であるということも、自分は不思議な暗合とは考えない。自分は真の英国人であり、自分のような者の多からんことを希望するものである。
 青蠅がまたぶんぶん唸った。そして検事長閣下はジャーヴィス・ロリー氏を呼んだ。
「ジャーヴィス・ロリー氏、あなたはテルソン銀行の事務員だね?」
「そうです。」
「一千七百七十五年の十一月のある金曜日の夜、あなたは用向でロンドンとドーヴァーとの間を駅逓馬車で旅行しましたか?」
「しました。」
「その駅逓馬車には他《ほか》に誰か乗客がありましたか?」
「二人ありました。」
「その二人は夜の間に途中で降りましたか?」
「降りました。」
「ロリー氏、被告を見なさい。被告はその二人の乗客の中の一人ではなかったか?」
「そうであったとお請合《うけあ》いは出来ません。」
「被告はその二人の乗客の中のどちらかに似てはいませんか?」
「二人ともすっかり身をくるんでおりましたし、真暗《まっくら》な晩でしたし、それに私たちは皆一向に口も利きませんでしたので、それさえもお請合《うけあ》いは出来ません。」
「ロリー氏、もう一度被告を見なさい。被告がその二人の乗客のしていたように身をくるんでいると仮定して、彼のかっぷくと身長とに、彼がその中の一人でありそうにもないと思わせるようなところがありますか?」
「いいえ。」
「ロリー氏、あなたは被告がその中の一人ではなかったとは誓わないんですな?」
「それは誓いません。」
「それでは少くともあなたは彼がその中の一人であったかもしれぬと言われるんですね?」
「そうです。ただ一つ違いますのは、その二人とも――私と同様に――追剥を怖《こわ》がってびくびくしておりましたと記憶いたしますが、この被告には小胆な様子がございません。」
「あなたはいかにも臆病らしく見える人間というのを見たことがありますか、ロリー氏?」
「確かにそういう人間を見たことがございます。」
「ロリー氏、もう一度被告を見なさい。あなたの確かに知っておられるところでは、あなたは以前に彼に逢ったことがありますか?」
「あります。」
「いつです?」
「私はそれから数日後にフランスから帰ろうといたしましたが、カレーで、被告が私の乗っておりました定期船に乗船して参りまして、私と一緒に航海をいたしました。」
「何時《なんじ》に彼は乗船しましたか?」
「夜半少し過ぎに。」
「真夜中にだね。そんな時ならぬ時刻に乗船した乗客は被告一人だけでしたか?」
「偶然にも被告一人だけでした。」
「『偶然にも』などということはどうでもよろしい、ロリー氏。その真夜中《まよなか》に乗船した乗客は被告一人だけだったのですな?」
「そうでした。」
「あなたは一人で旅行していたのですか、ロリー氏、それとも誰か連《つれ》がありましたか?」
「二人の連《つれ》がありました。紳士と婦人とです。その二人はここにおられます。」
「その二人はここにおられるのだね。あなたは被告と何か話をしましたか?」
「ほとんどしません。天候は荒れておりましたし、その航海は長くかかって海が荒れましたので、私はほとんど岸から離れて岸に著くまで長椅子《ソーファ》に寝ていましたのです。」
「|マネット嬢《ミス・マネット》!」
 さっきも場内のすべての眼がその方へ振り向き、今また再び振り向けられた、かの若い婦人は、自分の腰掛けていた場所に立ち上った。彼女の父親も一緒に立ち、自分の片腕に彼女の片手を通したままにしていた。
「|マネット嬢《ミス・マネット》、被告を御覧なさい。」
 そういう同情と、またそういう真心のこもった若さと美しさとに対することは、その被告にとっては、場内のすべての群集と対するよりも遥かにつらいことであった。いわば自分の墓穴の縁《ふち》に彼女と共に別になって立っているので、じろじろと見つめているすべての人の好奇心の眼は、しばらくの間は、彼に全くじっとしているように力をつけることが出来なかった。彼の右の手は前にある薬草をあわてて掻き分けて空想の中で庭園の花壇にした。そして息遣いを落著かせてしっかりさせようとする彼の努力のために脣はぶるぶる震え、その脣からは血の気がさっと心臓へ戻った。例の大きな蠅のぶんぶん唸る音がまた高まった。
「|マネット嬢《ミス・マネット》、あなたは以前に被告に逢ったことがありますか?」
「はい。」
「どこで?」
「ただ今お話に出ました定期船の中で。同じ折に。」
「あなたは今話に出た若い御婦人ですね?」
「はあ! ほんとに不仕合せなことに、さようなのでございます!」
 彼女の同情から出たその悲しげな声音《こわね》は、裁判官が幾分荒々しく「あなたに尋ねられた質問に答えればよろしい。それについて意見がましいことを言ってはならぬ。」と言った時の、彼のあまり音楽的でない声の中に消されてしまった。
「|マネット嬢《ミス・マネット》、あなたはイギリス海峡を渡る時のその航海中に被告と何か話をしましたか?」
「はい。」
「それを思い出して御覧なさい。」
 深い静けさの中で、彼女は弱い声で言い始めた。――
「あの紳士が乗船なさいました時に――」
「あなたは被告のことを言っておられるのか?」と裁判官は眉を顰《ひそ》めながら尋ねた。
「はい、閣下。」
「では被告と言いなさい。」
「被告が乗船して参りました時に、被告は、私の父が、」と彼女は傍に立っている父親に自分の眼を愛情をこめて向けながら、「たいそう疲労していまして、体《からだ》もひどく弱っておりますのに、目を留めました。父はずいぶん衰弱しておりましたので、私は父を外の空気のあたらないところへ連れて参りますのはよくないと存じまして、船室の昇降段の近くの甲板の上に父のために寝床《ベッド》を拵えておきました。そして、父の世話をするために、私は父の傍の甲板に坐っていたのでございます。その晩は私ども四人の他《ほか》に乗客はございませんでした。被告は、親切に、私に私のいたしましたよりも上手に父を風や寒さに当てないようにするにはどうしたらよいか教えてあげてもよろしいかと申してくれました。私は、港の外へ出ますと風がどんなに吹くものか存じませんでしたので、それを上手にするにはどうしたらよろしいのかわからなかったのでございます。被告は私に代ってそれをしてくれました。被告は私の父の様子についても大変|優《やさ》しく親切に言って下さいましたが、きっとほんとうにそう思われたのだと私は思っております。こんな風にして私たちは言葉を交《かわ》し始めたのでございました。」
「ちょっと話の途中ですが。被告は一人だけで乗船したのですか?」
「いいえ。」
「何人被告と一緒にいましたか?」
「フランスの紳士が二人でした。」
「三人で一緒に相談していましたか?」
「フランスの紳士たちが御自分たちの艀《はしけ》に乗って陸へ引揚げなければならなくなる最後の時まで、その三人は一緒に相談していらっしゃいました。」
「この明細書に似た何かの書類が、彼等の間で遣り取りされていませんでしたか?」
「何か書類がその人たちの間で遣り取りされておりました。けれどもどんな書類だか私は存じません。」
「形や寸法がこれに似ていましたか?」
「そうかもしれません。でもほんとうに私は存じませんの。その人たちは私のごく近くでひそひそ話をしながら立っていらしたのではございますけれども。と申しますのは、その人たちは船室の昇降段の一番上のところに立っていらしたのですから。それはそこに吊《つる》してありましたランプの光を使うためなのでした。そのランプは暗いランプでしたし、それにその人たちはごく低い声で話していらっしゃいましたので、私にはその人たちの言っていらっしゃることは聞き取れませんでしたし、またその方《かた》たちが書類を見ていらっしゃるということだけしか見えなかったのでございます。」
「では、被告の話したことについて言って下さい、|マネット嬢《ミス・マネット》。」
「被告は、私の父に対して親切で、好意を持って、いろいろ世話をして下さいましたように、私にも打解けて何でも話して下さいました。――それは私の頼りない境遇から起ったことでございましょうが。私は、」とわっと泣き出して、「今日《きょう》あの方《かた》に御迷惑をおかけして、あの方《かた》に恩を仇《あだ》で返すようなことがなければよいがと存じます。」
 青蠅がぶんぶん唸る。
「|マネット嬢《ミス・マネット》、もし被告が、あなたがそれを述べることがあなたの義務であり――あなたの述べなければならない――またあなたがどうしてもそれを述べずにいる訳にはゆかない――ところの証言を非常に気が進まぬながら述べておられるのだ、ということを完全に理解していないとするなら、彼はここにいる者の中でそのことを理解していないただ一人の人間です。どうか先を続けて下さい。」
「被告は、私に、自分はある面倒なむずかしい性質の用事で旅行しているのだが、その用事はいろいろの人に迷惑をかけることになるかもしれない、だから自分は変名を使って旅行しているのだ、と話しました。また、自分はその用事のために数日前にフランスへ行って来たのだが、これから先も永い間そのために折々フランスとイギリスとの間を行ったり来たりすることになるかもしれない、と申しました。」
「被告はアメリカのことについて何か言いましたか、|マネット嬢《ミス・マネット》? 詳細に述べなさい。」
「被告はあの戦争がどうして起るようになったかということを私に説明してくれようといたしました。そして、自分の判断し得る限りでは、あれはイギリス側が間違った愚かな戦争をやったのだ、と申しました。また、常談のように、たぶんジョージ・ウォシントンは歴史上ジョージ三世とほとんど同じくらいの偉大な名声を残すだろう★、と言い足しました。でも、その言い振りには少しも悪気はございませんでした。それは、笑いながら、時間を紛《まぎ》らすために、話されたのでございます。」
 芝居の非常に興味のある場面で、多くの眼の注がれている主役俳優の顔に、何か強く目立つ表情が現れるたびに、その表情は見物人に無意識の中に模倣されるものである。彼女がこの証言を述べている時にも、また、それを裁判官が書き留めている間彼女が言葉を切っている合間に、その証言が弁護士に与える印象がよいか悪いかを注視している時にも、彼女の額《ひたい》は痛々しいまでに懸念と緊張とを現した。すると、法廷内の到る処で傍聴者の間にそれと同じ表情が現れた。裁判官がジョージ・ウォシントンについてのあの恐しい異端の言を聞いて、自分の控書から顔を上げてぎろりと眼を光らせた時には、そこにいた人々の額の大部分は、この証人を映す鏡となったと言ってもよいくらいであった。
 検事長閣下はこの時裁判長閣下に、念のためと、また形式上から、この若い婦人の父マネット医師を呼び出すことを必要と認める、ということを知らせた。それで彼が呼び出された。
「|マネット医師《ドクター・マネット》、被告を見なさい。あなたはいつか以前に彼に逢ったことがありますか?」
「一度だけ。彼がロンドンの私の寓居へ訪ねて来ました時に。約三年か、三年半ばかり前。」
「あなたは彼があの郵船にあなたと同船した乗客に相違ないと認めることや、あるいはあなたの令嬢と彼との会話について話すことが出来ますか?」
「閣下、私にはどちらも出来ません。」
「あなたがそれをどちらも出来ないということには何か特別の理由がありますか?」
 彼は、低い声で、答えた。「あります。」
「あなたは、あなたの生国で、公判も、告発さえも受けずに、永い間の監禁を受けるという不幸な目に遭われたのですか、|マネット医師《ドクター・マネット》?」
 彼は、あらゆる人の心を動かす語調で、答えた。「永い間の監禁でした。」
「あなたは今問題になっている折に釈放されたばかりだったのですか?」
「皆が私にそう申しております。」
「その折の記憶が少しもありませんか?」
「少しも。私が監禁の身で靴造りに従事しておりましたある時――それがいつであるかということさえ私には言えないのでありますが――その時から、ここにおります可愛いい娘と一緒に自分がロンドンに暮しているのだと気がつきました時まで、私の心は白紙なのです。お恵み深い神さまが私の心の力を囘復して下された時には、娘は私とごく親しくなっておりました。しかし、どんな風にして親しくなって来たのかということを申し上げることさえ私には全く出来ないのです。それまでの経路については少しも記憶がありません。」
 検事長閣下は腰を下し、そしてその父と娘とは一緒に腰を下した。
 一つの奇妙な事柄がその次にこの事件に生じた。目下の目的は、被告が、まだ逮捕されない誰かある共犯者と共に、五年前の十一月のその金曜日の晩にドーヴァー通いの駅逓馬車に乗って出かけたが、人目をごまかすために、夜中《よなか》にある土地で馬車を降り、そこには足を留めずに、そこから約十二マイルかそれ以上も後戻りして、兵営と海軍工廠とのある処まで行き、そこで情報を蒐集した、ということを証拠立てることなのであった。で、一人の証人が呼び出されて、被告はその兵営と海軍工廠とのある町のある旅館の食堂に、誰か他の人間を待ちながら、ちょうどその必要な時刻にいた男に違いない、ということを鑑定させることになった。例の被告の弁護士はこの証人にいろいろ対質訊問★をしていたが、この証人がその時より以外のどんな機会にも被告を見たことが一度もないということの他《ほか》には、何一つ得るところがなかった。この時、これまでずっと法廷の天井を眺めていた例の仮髪《かつら》の紳士が、小さな紙片に一二語書いて、それを捻《ひね》って、その弁護士に投げてやった。弁護士は、訊問の次の合間にその紙片を開いて見ると、非常な注意と好奇心とをもって被告をうち眺めた。
「君はそれが確かに[#「確かに」に傍点]被告であったということを十分に確信していると今一度言えますね?」
 その証人はそれを十分に確信していると言った。
「君はこれまでに誰でも被告に非常に似た人を見たことがありますか?」
 被告と見違えるくらいに似た人は見たことがない(と証人が言ったのであるが)とのこと。
「では、あの紳士、あそこにいるわたしの同僚を、」とさっき紙を投げてよこした男を指さしながら、「よく見たまえ。それから次に被告をよく見たまえ。どう思います? 二人は互に非常に似ていやしませんか?」
 二人をそうして見比べてみると、その同僚弁護士の風采が放埓なというほどではないにしても無頓著でじだらくなのを差引すれば、二人が互に非常に似ていることは、証人ばかりではなく、その場に居合せたすべての人を驚かすに十分であった。裁判長閣下が、仮髪《かつら》を脱ぐようにその同僚弁護士に命じて頂きたいと請われて、あまり快くもなさそうな承諾を与えると、二人の似ていることはますます目立つようになった。裁判長閣下は、ストライヴァー氏(被告の弁護人)に向って、では吾々は次にはカートン氏(彼の同僚弁護士の名)を叛逆罪の廉《かど》で審理しなければならないのか? と尋ねた。けれども、ストライヴァー氏は裁判長閣下に答えて、そうではない、しかし、自分はその証人に、一度あったことは二度あるものかどうか、もし証人が彼の軽率を示すこういう例証をもっと前に見ていたなら、今のような確信を持ったかどうか、現にそれを見た上でも、今のような確信を持つかどうか、云々、ということを答えてもらいたいのだ、と言った。その訊問の結果は、この証人を瀬戸物の器《うつわ》のように粉砕し、この事件における彼の役割を無用のがらくたとしてしまうまでに打ち砕いたのであった。
 クランチャー君は、ずっと今までの証言を聴きながら、この時分までには自分の指から全く一|昼食《ランチ》分くらいの鉄銹を食べてしまっていた。彼は、今度は、ストライヴァー氏が被告側の申立をきっちりした一著の衣服のように陪審官に合せて造ってゆくのを、傾聴しなければならなかった。ストライヴァー氏は陪審官たちに次のことを証示した。愛国者と称せられるバーサッドはお傭い間諜《スパイ》で、友を売る人間であり、他人の血を売る鉄面皮な商人であり、呪うべきユダ★からこの方《かた》この地上に現れた最大悪党の一人であり――そのユダに彼は確かに顔も幾らか似ている、ということ。謹直な従僕と称せられるクライは彼の友人で同類であり、またそうであるに恥じぬものである、ということ、この二人の事実捏造者で偽証者が自分たちの喰い物にしようとして被告に油断のない眼を注いでいた訳は、被告はフランス生れであるので、フランスにおける何かの家庭問題のためにそのようにイギリス海峡を渡って幾度も往復しなければならなかったからであり、――もっとも、その家庭問題というのが何であるかは、彼の近親の人々に対する考慮から、被告には、生命を賭しても、打明けることが出来ないのである、ということ。陪審官諸氏の現に見られたようにあの若い婦人をあのように苦しめて述べさせ、彼女から※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]じ取り※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]ぎ取ったところのあの証言は、誰でもそういう風に出会った若い紳士と若い淑女との間にありがちな、ほんのちょっとした無邪気な慇懃と礼儀とを意味するだけであって、何にもならぬものであり、――ただ、ジョージ・ウォシントンに関するあの言葉だけは例外であるが、それとても全く余りに途方もないあり得べからざる言葉であるので、怪《け》しからぬ常談としての見地より以外の見地で見らるべきものではない、ということ。最も下等な国民的反感と恐怖心とを利用して人気を博そうとするこの企てが失敗すれば、政府における一つの弱点となるであろうから、検事長閣下は極力努力されたのである、ということ。さりながら、この企てには、余りにしばしばこのような事件を醜悪化するところの、またこの国の国事犯裁判に充満しているところの、あの陋劣で破廉恥な性質の証拠の他《ほか》には、何等拠るべきものがないのである、ということ。しかし、ここまで彼の弁論が進んで来た時に裁判長閣下は言を挟んで(あたかも彼の言ったことが真実ではなかったかのようにしかつめらしい顔をしながら)、自分はこの法官席に坐っていて、そういうあてつけを忍ぶことは出来ない、と言った。
 ストライヴァー氏はそれから自分の方の数人の証人を呼び出し、そしてクランチャー君は、次には、検事長閣下がストライヴァー氏がさっき陪審官に合せて造った衣服をそっくり裏返しにしてゆくのを、傾聴しなければならなかった。検事長閣下は、バーサッドとクライとが彼の考えていたよりも百倍も善良であり、被告が百倍も悪人であることを述べ立てた。最後に、裁判長閣下自身が立って、その衣服を時には裏返しにしたり、また時には表返しにしたりしたが、だいたいにおいて、それを被告の屍衣になるようにてきぱきと裁って型をつけて行った。
 それから今度は、陪審官たちが審議するために向うへ向き、例の大蠅がまた群って来た。
 これまであのように永い間法廷の天井を眺めながら腰掛けていたカートン氏は、この騒ぎの中にあってさえ、座席も変えなければ姿勢も変えなかった。彼の同僚弁護士のストライヴァー氏は、自分の前にある書類を一纒めにしながら、近くに腰掛けている人々と私語したり、時々は陪審官の方を心配そうにちらりと見たりしていたし、すべての観客は多少とも移動したり、新たに集団を造ったりしていたし、裁判長閣下でさえ、その席から立ち上って、壇上をゆっくりと往ったり来たりして歩いていて、観衆の心に裁判長も興奮しているのではなかろうかと疑わせないではなかったのに、この一人の男だけは、破《やぶ》けた弁護士服は半ば脱げかかったまま、また、きちんとしていないその仮髪《かつら》はちょうどさっき脱いだ後に彼の頭の上に偶然載っかったようにかぶり、両手はポケットに入れ、眼は終日そうであったように天井に向けたまま、反《そ》り返って腰掛けているのだった。彼の態度に何となく特に無頓著なようなところのあるのが、彼を不体裁に見せたばかりではなく、疑いもなく彼と被告との間に存するあの強い類似(それは、二人が見比べられた時には、彼が一時だけ真面目《まじめ》になったために、強められたのであった)を非常に減じたので、見物人の多数の者たちは、今彼に注目すると、その二人がそんなに似ているとは思えなかったはずだがと互に言い合ったくらいであった。クランチャー君はその考えを自分のすぐ隣の者に話して、それからこう言い足した。「あの男なんかにゃあ[#「あの男なんかにゃあ」に傍点]弁護の口なんざ一つも手に入《へえ》りっこねえってことにゃ、わっしは半ギニー賭けたっていいでさあ。一つだって手に入《へえ》りそうな奴にゃ見えやしねえ。そうでしょう?」
 だが、このカートン氏は、場内の細かなことを、見掛よりはもっと呑込んでいるのだった。というのは、マネット嬢の頭が父親の胸へがくりと垂れた時に、彼は、それを見つけて、聞き取れる声で「守衛! あすこの若い婦人を介抱してあげろ。あの紳士に手伝って外へ連れ出してあげるんだ。あの婦人が倒れようとしているのがわからんか!」と言った最初の人であったから。
 彼女が連れ去られた時に、人々は彼女を大いに不憫がった。また彼女の父親に大いに同情した。自分の監禁の時代を思い出させられることは、彼には明かに非常な苦痛であったのだろう。彼は訊問を受けた時に強烈な内心の動揺を色に現した。そして、彼を老人に見えさせるあの思いに沈んだような考え込んでいるような様子は、それ以来ずっと、重苦しい雲のように、彼に蔽いかかっていたのであった。彼が出て行った時に、向き直ってちょっと待っていた陪審官は、陪審長を通じて発言した。
 彼等は意見が一致しないので、退廷して協議したいと希望した。裁判長閣下は(たぶん例のジョージ・ウォシントンの件を心に思い浮べていたのであろう)彼等の意見が一致しないということに幾分驚いた様子を示したが、監視附きで退廷してもよろしいという意向を告げて、自分も退廷した。公判は終日続き、やがて法廷内のランプが点《とも》され出した。陪審官は永い間退席しているだろうという噂が立ち始めた。見物人たちは飲食しにぽつりぽつりと去り、囚人も被告席の後の方へ引下って、腰を下した。
 ロリー氏は、さっきあの若い婦人とその父親とが出た時に外へ出て行っていたが、この時再び入って来て、ジェリーを手招きした。ジェリーは、興味が弛んで人が減っていたので、容易《たやす》く彼の近くへ行くことが出来た。
「ジェリー、お前何か食べたいなら、食べに行ってもいいよ。だが、遠くへは行かないようにな。陪審官が入って来る時には間違いなく聞いていてほしいのだ。ちょっとでも陪審官に遅れちゃいけないよ。その評決をお前に銀行まで持って帰ってもらいたいんだからね。お前はわたしの知ってる中じゃ一番足の疾《はや》い使いだから、わたしよりはずっと前にテムプル関門《バー》に著くだろう。」
 ジェリーはちょうど指の節《ふし》で触れられるだけの幅の額《ひたい》をしていた。それで彼はこの通牒と一シリングとを受けたしるしに指の節を額に触れた★。ちょうどその時にカートン氏がやって来て、ロリー氏の腕に手をかけた。
「あの御婦人はいかがです?」
「非常に苦しんでおられます。が、お父さんがいたわっておられますし、法廷から出たのでそれだけ気分がよいようですよ。」
「僕が被告にそう話してやりましょう。あなたのような体面を重んずる銀行員が、公然と被告と口を利いているのを見られては、よくないでしょうからねえ。」
 ロリー氏は、あたかも自分が心の中でその点を考えていたことに気づいたかのように、顔を赧らめた。それでカートン氏は被告人席の外側の方へ歩いて行った。法廷の出口もその方向にあったので、ジェリーは体中を眼にし、耳にし、忍返《しのびがえ》しにしながら、その後について行った。
「ダーネー君!」
 囚人はすぐに進み出て来た。
「君はもちろんあの証人の|マネット嬢《ミス・マネット》の様子を聞きたがっているだろうね。あの人はやがてよくなるよ。君の見たのはあの人の興奮の一番ひどい時だったんだから。」
「私がその原因であったことを非常にすまなく思っています。私の代りにあなたからあの方《かた》に、私の熱心な感謝と一緒に、そう伝えていただくことは出来ないでしょうか?」
「ああ、出来るよ。君が頼むなら、伝えてやろう。」
 カートン氏の態度はほとんど横柄と言ってもいいくらいに無頓著であった。彼は、囚人から半ば身をそむけて、被告人席に片肱で凭れかかりながら、立っていた。
「ぜひお頼みします。私の心からの感謝を受けて下さい。」
「ダーネー君、」とカートンは、やはり半ばだけ彼の方へ向きながら、言った。「君はどうなると思っているかね?」
「最悪の事を予期しています。」
「そう予期しているのが一番賢明だし、また一番ありそうなことだね。だが、陪審官たちが退出したことは君に有利だと僕は思うな。」
 法廷の出口にぶらぶらしていることは許されなかったので、ジェリーは、それ以上は聞かずに、その二人――容貌では互に実に似ていながら、態度では互にまるで似ていない――両人とも上にある鏡に姿を映しながら相並んで立っている――を後に残して出て行った。
 階下の盗賊や悪漢などの雑沓しているような廊下では、一時間半という時間は、羊肉パイとビールとの助けを藉りて過してさえ、のろのろとたって行った。その嗄《しゃが》れ声の走使《はしりづか》いは、それだけの食事をとった後に一つの長腰掛に窮屈そうに腰掛けながら、ついうとうとと居睡りしかけたが、その時、声高なざわめきの声が起り、法廷へと続く階段を人々がどっと潮《うしお》のように速く駈け上って行くので、彼もその中に一緒に運ばれて行った。
「ジェリー! ジェリー!」彼が戸口のところまで行くと、ロリー氏はそこで既に彼を呼んでいた。
「ここです、旦那! 戻って来ますなあまるで戦争でさあ。ここにおりますよ、旦那!」
 ロリー氏は人込みの間から一枚の紙を彼に手渡しした。「大急ぎでな! お前受け取ったか?」
「へえ、旦那。」
 その紙に急いで書いてあったのは「放免[#「放免」に丸傍点]」という語であった。
「もしあんたがもう一度あの『甦《よみがえ》る』って伝言《ことづて》を出して下すったんなら、」とジェリーはぐるりと向き変った時に呟いた。「わっしも今度はあんたの言う意味がわかったんだがなあ。」
 彼はオールド・ベーリーをすっかり出てしまうまでは、それ以外に何かを言う機会は、あるいは何かを考える機会さえも、なかった。なぜなら、群集は彼の足をさらいそうなくらいの猛烈な勢でどっと押し出していたし、当《あて》の外《はず》れた青蠅が他の腐肉を捜し求めに四方へ散ってゆくかのように、蠅の唸るような声高いうわあっという声が街路へ流れ出ていたからである。
[#改ページ]

    第四章 祝い

 法廷の薄暗い灯火のついている廊下から、終日そこで煮られていた人間の蒸煮肉《シチュー》の最後の滓《かす》が濾し取られている時に、マネット医師と、その娘のリューシー・マネットと、被告人の弁護の依頼者のロリー氏と、被告の弁護人のストライヴァー氏とが、チャールズ・ダーネー氏――今釈放されたばかりの――を取囲んで、彼が死から免れたことに祝詞を述べていた。
 そこよりはもっとずっと明るい明りで見ても、面貌の理智的な、挙止の端正なマネット医師が、パリーのあの屋根裏部屋にいた靴造りだと認めることは、むずかしかったであろう。けれども、誰でも彼を二度目に見ると、おやっと思って彼を見直さずにはいられなかったろう。もっとも、そうしたところで、まだ、彼の低い沈んだ声の物悲しい調子や、何も明かな原因もなしに発作的に彼に覆いかぶさる放心状態までは、観察する機会は来なかったであろうが。ただ一つの外部からの原因、それは彼のあの永年の間の永引いた苦しみに話が触れることであったが、それはいつでも――さっきの公判の時のように――彼の魂の奥底からそういう状態を喚び起すのであった。が、一方、その状態はまたその性質上ひとりでに起って、彼の上に暗雲を曳いて来ることもあった。それは、彼の身の上をよく知らない人々にとっては、まるで、三百マイルも離れたところにある本物のバスティーユ★が夏の太陽を受けて彼の上に投げかける影を見たかのように、不可解なことだった。
 彼の心からこの陰鬱な物思いを払い除ける魅力を持っているのは彼の娘だけであった。彼女は、彼をその災難の彼方《かなた》の過去と、その災難の此方《こなた》の現在とに結びつける黄金《こがね》の糸であった。そして彼女の声音《こわね》、彼女の顔の明るさ、彼女の手の接触は、ほとんどいつでも、彼には強い有益な効力を持っていた。絶対にいつでも、という訳ではない。彼女にも自分の力の及ばなかった場合もあるのを思い起すことが出来たからである。が、そういう場合はわずかでちょっとしたものであったので、彼女はそんなことはもうすんでしまったものと信じていたのであった。
 ダーネー氏は熱情と感謝とをこめて彼女の手に接吻し、それからストライヴァー氏の方へ振り向いて、彼に厚く礼を言った。ストライヴァー氏は、三十を少し越しただけだが、実際よりは二十歳も老《ふ》けて見える、太った、大声の、赭ら顔の、ざっくばらんな男で、敏感《デリカシー》などというひけめは一切持ち合せていなかった。人中《ひとなか》へも会話へも他人を肩で押し分けて(精神的にも肉体的にも)割込んでゆく押の強いたちであった。それは、彼が実生活でも他人を肩で押し分けて出世してゆくことを十分証拠立てているのだった。
 彼はまだ仮髪《かつら》と弁護士服とを著けていた。そして、人のいいロリー氏をその一団からすっかり押し出してしまうまでに、自分のさっきの弁護依頼人に向って肩肱を張って、言った。「わたしは君を立派に救い出してあげたんで嬉しいですよ、ダーネー君。あれはどうも不埓な告発でした。実に不埓なものでした。だが、そのためにかえってうまくゆきそうだったんですな。」
「私は一生御恩に著《き》ます、――二つの意味で。」と彼のさっきの弁護依頼人が、相手の手を取りながら、言った。
「わたしは君のためにわたしの全力《ベスト》を尽したんです、ダーネー君。そしてわたしの全力《ベスト》は他《ほか》の人のに劣らんつもりですがね。」
「劣るどころかずっと優《まさ》っていますよ。」と明かに誰かが言わなければならないところだったので、ロリー氏がそれを言った。たぶん、少しの私心もなかったという訳ではなく、もう一度元のところへ割込もうという私心的な目的もあってのことらしかった。
「あなたはそうお考えですかね?」とストライヴァー氏は言った。「なるほど! あなたは一日中出席しておられたんだから、御存じのはずだ。それに、あなたは事務家ですからなあ。」
「ところでその事務家としまして、」とロリー氏が言った。彼は、その法律に精通した弁護士に先刻その一団から肩で押し出されたようにして、今度はその一団の中へ肩で押し戻されていたのである。――「その事務家としまして、私は|マネット先生《ドクター・マネット》にお願いいたしたいんですが、この会議をこれで打切りにして、私どもみんなを家《うち》へ帰らせていただきたいものですね。リューシーさんは工合がお悪いようですし、ダーネー君は恐しい目に遭われたのですし、私どもは疲れ切っておりますから。」
「御自分だけのことを話しなさい、ロリーさん。」とストライヴァーが言った。「わたしはまだしなけりゃならん夜の仕事があるんだ。御自分だけのことを話しなさい。」
「私は、自分のためと、」とロリー氏は答えた。「それからダーネー君に代って、申すのです。それからリューシーさんにも代って、それからまた――。リューシーさん、あなたは私が私どもみんなに代って話してもいいとお考えになりませんか?」彼はきっぱりと彼女にそう尋ねて、彼女の父親にちらりと目をやった。
 彼の顔はダーネーをひどく詮索的な眼付で見つめていわば凍ったようになっていた。そのじっと見入った眼付はだんだんと深まって、嫌悪と疑惑との蹙《しか》め顔となり、恐怖の色をさえ交《まじ》えた。そういう奇妙な表情を浮べたまま彼の思いは彼からふらふらと脱け出ていたのだ★。
「お父さま。」とリューシーは、自分の手をそっと彼の手に載せながら、言った。
 彼は幻影をゆっくりと払い除けて、彼女の方へ振り向いた。
「あたしたちはお家《うち》へ帰りましょうか、お父さま?」
 長い息をつきながら、彼は答えた。「うむ。」
 放免された囚人の友人たち★は、彼がその晩釈放されることはあるまいと考えて、――そう考えたのは彼自身が発頭人なのであったが、――もう散り散りになってしまっていた。廊下の灯火はほとんど全部消され、鉄の門はぎいっと軋り音を立てて鎖されかけ、その気味の悪い場所は、明日の朝、絞首台や、架刑台や、笞刑柱や、烙鉄《やきがね》などの興味が再び見物人を集めるまでは、人気《ひとけ》がなくなってしまった。リューシー・マネットは、父親とダーネー氏との間に挟まれて歩きながら、戸外へ出た。一台の貸馬車が呼び止められて、父と娘とはそれに乗って去って行った。
 ストライヴァー氏は廊下で皆と別れて、肩で風を切って衣裳室へと引返して行ってしまっていた。その一団に加わりもせず、また彼等の中の誰とも一語を交《かわ》しもせずに、壁の蔭の一番暗いところに凭れかかっていたもう一人の人間は、黙々として皆の後からぶらぶらと出て行って、馬車が馳せ去るまで見送っていた。彼はそれからロリー氏とダーネー氏とが鋪道に立っているところまで歩いて行った。
「やあ、ロリーさん! 事務家ももう今じゃあダーネー君と口が利けるようになったという訳ですかな?」
 誰一人としてこの日の弁論におけるカートン氏の役割について少しでも感謝の意を表した者はなかった。誰一人としてそれを知りもしなかった。彼は法服を脱いでいたが、そのために別段風采がよくなっているという訳でもなかった。
「事務家の心が善良な直情と事務上の体面との二つに分れる場合に、その人がどんなつらい思いをするものかということが君にわかれば、君も面白がるんだろうがね、ダーネー君。」
 ロリー氏は顔を赧くして、むきになって言った。「あなたはさっきもそのことを仰しゃいましたね。会社などへ勤めているわれわれ事務家は、自分が自分の思い通りにならんのですよ。われわれは自分自身のことよりももっと会社のことを考えなくちゃあならんのです。」
「わかってますとも[#「とも」に傍点]、わかってますとも[#「とも」に傍点]。」とカートン氏は無頓著に答えた。「そう怒っちゃいけませんよ、ロリーさん。あなたが人に劣らない善い人だってことは、僕は少しも疑いませんよ。いや、人より以上に、と言ってもいいでしょう。」
「それにですな、実際、」とロリー氏は、相手の言うことにも構わずに、言い続けた。「わたしにはあなたがそういう事柄にどういう関係がおありになるのか全くのところわからんのです。わたしはあなたよりはよっぽど年長者だから、それに免じて言わしてもらえるならですな、そういうことがあなたの関する事務だとはわたしには全くわからんのです。」
「事務ですって! とんでもない、僕には[#「僕には」に傍点]事務なんてものはありゃしませんよ。」とカートン氏が言った。
「事務がないとはお気の毒なことですな。」
「僕もそう思います。」
「もしおありでしたら、」とロリー氏は言い続けた。「たぶんあなただってそれに身をお入れになるでしょうがね。」
「いやいや、どういたしまして! ――身を入れるものですか。」とカートン氏が言った。
「えっ、何ですって!」と、彼の冷淡さにすっかりかんかんになって、ロリー氏は叫んだ。「事務は非常に結構なものですし、また非常に尊敬すべきものです。それでですな、事務上から拘束を受けて黙っていたり差控えていたりしなければならないとしても、ダーネー君のような寛大な青年紳士は、その辺の事情を大目に見られることなどはちゃんと心得ておられるのです。ダーネー君、おやすみなさい。御機嫌よう! あなたが今日《きょう》命拾いをされたのはこれから順調な幸福な生涯を送られるためであるようにと思いますよ。――おうい、轎《かご》★だ!」
 その弁護士にと同様にたぶん自分自身にも少し腹を立てて、ロリー氏はせかせかと轎に乗って、テルソン銀行へと担がれて行った。ポルト葡萄酒★の匂いをぷんぷんさせて、全くの素面《しらふ》とは見えないカートン氏は、この時笑い声を立てて、ダーネーの方へ振り向いた。――
「君と僕とが落合うとはこれあ不思議な※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り合せだ。自分にそっくりの人間とここで二人だけでこの鋪石《しきいし》の上に立っているなんて、君にとっても不思議な晩に違いないだろう?」
「私にはまだ、」とチャールズ・ダーネーが答えた。「この世へ戻ったような気が十分しないのです。」
「そいつあ不思議じゃあないよ。何しろ君があの世の方へだいぶ遠くまで行きかけたのはついさっきのことだからな。君は気が遠くなっているようなのに口を利いているね。」
「私は確かに[#「確かに」に傍点]気が遠くなりそうな気がして来ました。」
「それなら一体どうして君は食事をしないんだ? 僕は、あの馬鹿野郎どもが君をどちらの世界に置いたものか――この世か、それともどこか別の世か――と頭をひねっている間に、食事をしたのさ。うまい食事をさせてくれる一番近くの飲食店へ案内しようか。」
 腕と腕とを組み合せながら、彼は相手の男をひっぱって、ラッドゲート・ヒル★を下ってフリート街に出て、それから、廊道を上って一軒の飲食店へ入った。そこで二人は小さな一室に案内され、チャールズ・ダーネーは上等のあっさりした食事と上等の葡萄酒とでまもなく力を恢復していた。その間カートンは同じ卓子《テーブル》に向って彼と向い合せに腰掛けていて、前に自分の別なポルト葡萄酒の罎を置き、例の半ば横柄な態度をすっかり現していた。

「君はもうこの世の人間に戻ったような気がするかね、ダーネー君?」
「私はまだ時間と場所については恐しく混乱していますが、それくらいの気がするほどには気分がよくなりました。」
「それはさぞかし御満足だろうね!」
 彼は苦《にが》々しげにそう言って、また自分の杯に一杯に注《つ》いだ。それは大きな杯であった。
「ところが僕はだ、僕の何よりの願いは、自分がこの世のものだということを忘れたいということなんだ。この世は僕にとっては――こんな酒を除けばだね――何のいいところもないし、また、僕もこの世にとってはそうなんだ。だから、その点では僕たちは大して似ちゃあいないんだな。いや、そればかりか、僕たちはどの点でも大して似ていないような気がして来たよ、君と僕とはね。」
 昼間《ひるま》の感情の激動で頭が乱れてもいたし、粗野な振舞のこの生写《いきうつ》しの人間と一緒にそこにいるのが夢のように思れもするので、チャールズ・ダーネーはどう答えていいかまごついた。で、とうとう、何も答えなかった。
「さあ、もう君の食事もすんだのだから、」とカートンはやがて言った。「なぜ君は健康を祝さないのさ、ダーネー君? なぜ君は乾杯をしないんだい?」
「何の祝杯を? 何の乾杯を?」
「なあに、そいつあ君の口先まで出ているさ。そうあるべきだよ、そうに違いないよ。そうだということは僕は誓ってもいいぜ。」
「では、|マネット嬢《ミス・マネット》に!」
「では、|マネット嬢《ミス・マネット》に!」
 その乾杯をしている間相手の顔をまともに眺めていたカートンは、自分の杯を肩越しに壁に投げつけた。杯は粉微塵に砕けた。それから、彼は呼鈴《ベル》を鳴らして、別のを持って来いと言いつけた。
「あれなら暗がりで手を貸して馬車に乗せてやりがいのある美人だね、ダーネー君!」と彼は、新たな杯に酒を注《つ》ぎ込みながら、言った。
 ちょっと眉を顰《ひそ》めて簡単に「そう。」と言うのがその答であった。
「あれなら同情されたり泣いてもらったりされがいのある美人だよ! どんな気持がするかなあ? ああいう美人の同情と憐憫の対象になるのなら、命がけで裁判されるだけの値打があるかね、ダーネー君?」
 もう一度ダーネーは一|言《こと》も答えなかった。
「あの女《ひと》は、僕が君の伝言《ことづて》を伝えてやったら、それを聞いてとても喜んでいたよ。いや、なあに、あの女《ひと》が喜んでいる素振りを見せたという訳じゃあないんだがね。喜んでいたろうと僕が推量しているのさ。」
 こう言われたことから、ダーネーは、この不愉快な相手が昼間の難関で我から進んで自分を助けてくれたことを、折よく思い出した。それで彼は話をそこへ向けて、彼にその礼を言った。
「僕はどんな礼だって言ってほしくもなければ、言ってもらうだけの資格もないのさ。」というのがその無頓著な応答だった。「第一に、あれは何でもないことだし、第二には、僕はなぜあんなことをしたのか自分でもわからないんだ。ダーネー君、僕は君に一つ尋ねたいことがあるんだがね。」
「どうぞ。あなたの御親切な御尽力に対してわずかな返礼ですが。」
「君は僕が君に特別に好意を持っていると思うかね?」
「全くのところ、カートン君、」と相手は妙に度を失って返答した。「私はそんなことを考えてみたことがないんです。」
「でも今ここで考えてみたまえ。」
「あなたはいかにも私に好意を持っておられるように振舞われました。が、好意を持っておられるとは私は思いません。」
「僕も[#「僕も」に傍点]自分が好意を持っているとは思わないんだ。」とカートンが言った。「僕は君の頭のよさにすこぶる敬服するようになったよ。」
「それにしても、」とダーネーは、呼鈴《ベル》を鳴らしに立ち上りながら、言い続けた。「そのために、私が勘定を持って、私たちがどちら側とも悪感情なしでお別れすることは、差支えがないようにしたいものですね。」
 カートンが「そりゃあちっとも差支えはないとも!」と答えたので、ダーネーは呼鈴《ベル》を鳴らした。「君は勘定を全部持つか?」とカートンが言った。肯定の返事をすると、「じゃあこれと同《おんな》じ葡萄酒をもう一パイント★おれに持って来てくれ、給仕。それから十時になったらおれを起しに来てくれ。」
 勘定書を払うと、チャールズ・ダーネーは立ち上って、カートンにおやすみを言った。その挨拶には返答せずに、幾らか嚇《おど》すような挑戦するような態度で、カートンも立ち上って、それから言った。「最後にもう一|言《こと》だ、ダーネー君。君は僕が酔っ払っていると思うかね?」
「あなたはだいぶお飲みになったと私は思いますがね、カートン君。」
「思うって? 君は僕が飲んでいたことは知っているじゃないか。」
「そう言わなければならないのでしたら、私はそのことを知っています。」
「ではなぜ飲むかってことも序《ついで》に知らしてあげよう。僕はね、失望した奴隷なんだよ、君。僕は誰一人だって好きでもなければ気にもかけないし、また誰一人だって僕を好きでもなければ気にもかけやしないんだ。」
「たいそう遺憾なことです。あなたは御自分の才能をもっと有効に御利用出来ますでしょうに。」
「そうかもしれんさ、ダーネー君。そうでないかもしれんさ。だが、君は酒を飲まんからっていい気になってちゃいけないぜ。どんなことになるか君だってわかりゃしないんだからね。おやすみ!」
 一人だけになると、この不思議な人物は蝋燭を取り上げて、壁に懸っている鏡のところへ行き、それに映る自分の姿を綿密にうち眺めた。
「お前はあの男に特別に好意を持っているのか?」と彼は自分自身の姿に向って呟いた。「お前に似ている男だからといって特別に好意を持たなければならん訳があるのかい? 人に好意を持つなんてことはお前の柄《がら》じゃない。それはお前も承知しているはずだ。えい、畜生め! 何というお前の変り果てようだ! お前の堕落しない前の姿と、お前のなれたかもしれない姿を見せてくれた男だからといって、その男を好くというのは立派な理由さね! あの男と位置を換えてみろ。そうしたら、お前はあの男と同じようにあの青い眼で見つめられたり、あの男と同じようにあの不安そうな顔で同情されたりしたろうか? さあ、いいか。遠慮なくあからさまに言ってみろ! お前はあいつを憎んでいるのだ。」
 彼は心の慰めを一パイントの葡萄酒に求めて、それを数分のうちにすっかり飲み尽すと、それから両腕の上に突っ伏して寐込んでしまった。彼の髪の毛は卓子《テーブル》の上に乱れかかり、蝋燭の長い蝋垂れが彼の上にたらたらと滴り落ちるのだった★。
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    第五章 豺《やまいぬ》

 その頃は飲酒の時代であって、大抵の人は豪飲したものだった。時がその後そういう習慣に齎した改善は極めて著しいものであったので、その頃の一人の男が完全な紳士としての体面を穢《けが》さずに、平生よく一晩のうちに飲んだ葡萄酒やポンス★の量を、控目に述べても、今日では、馬鹿馬鹿しい誇張と思われるほどであろう。法律家という智的職業階級も、その大酒の習癖にかけては、確かに他のいかなる智的職業階級にもひけを取らなかった。また、もう既にずんずん他人を肩で押し除けて手広く儲けのある商売をやっているストライヴァー氏も、その道にかけては、法曹界の酒気抜きの競争にかけてよりも以上に、彼の同輩たちにひけを取りはしなかった。
 オールド・ベーリーの寵児であり、普通刑事裁判所の寵児であるストライヴァー氏は、自分の登って来た梯子の下の方の段を用心深くも切り落し始めていた。普通刑事裁判所もオールド・ベーリーも今ではその寵児を特に腕を差し伸べて招かねばならなくなった。そして、民事高等裁判所★の裁判長の面貌の方へ肩で他人を押し除けて突き出ているストライヴァー氏の血色のよい顔が、ちょうど庭一面に生い繁った仲間のけばけばしい花の間から太陽をめがけてぐっと伸び出ている大きな向日葵《ひまわり》のように、仮髪《かつら》の花壇★からにゅっと現れ出ているのが、毎日のように見受けられたのであった。
 一頃、ストライヴァー氏は口達者で、無遠慮で、敏捷で、大胆な男ではあるが、弁護士の伎倆の中で一番目立ち一番必要なものの一つであるところの、山なす陳述記録から要点を抜き出すというあの才能を持っていない、ということが法曹界で評判であった。しかし、このことについては著しい進歩が彼に現れて来た。仕事が多くなればなるほど、その精髄を掴む彼の能力が増して来るように思われた。そして、夜どんなに晩《おそ》くまでシドニー・カートンと一緒に痛飲していても、彼は翌朝には必ず自分の要点をちゃんと心得ていた。
 人間の中でも一番怠惰な、一番前途の望みのないシドニー・カートンは、ストライヴァーには大切な味方であった。この二人がヒラリー期からミケルマス期までの間に★一緒に飲んだ酒の量は、王の軍艦一隻でも浮べられそうなくらいであった。ストライヴァーは、いつも両手をポケットに突っ込んで、法廷の天井ばかり見つめているカートンがいなくては、どこででも、決して事件を引受けはしなかった。彼らは巡囘裁判★にも一緒に出かけた。そしてそこでさえも彼等のいつも通りの酒宴を夜|晩《おそ》くまで続けるのだった。そして、夜がすっかり明け放れてから、カートンが、どら猫か何かのように、こそこそとひょろひょろと自分の下宿へ帰ってゆくのが見られるという噂が伝わった。遂に、そういう事柄に興味を持っているような連中の間には、シドニー・カートンは決して獅子にはなれないだろうが、非常に立派な豺《やまいぬ》★であるということや、彼はそういう賤しい資格でストライヴァーに奉仕しているのだということが、噂され始めたのであった。
「十時ですよ、旦那。」と彼がさっき起してくれと頼んでおいた飲食店の男が言った。――「十時ですよ、旦那。」
「ううん、どう[#「どう」に傍点]したって?」
「十時ですよ、旦那。」
「何だっていうんだい? 夜の十時だっていうのか?」
「そうですよ、旦那。あなたさまが起してくれってわたしに仰しゃいましたんで。」
「ああ! そうだったな。よし、よし。」
 何度かまたうとうとと眠りかけようとするのを、給仕が続けざまに五分間も炉火を掻き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して手際よく妨げたので、彼はとうとう立ち上って、帽子をひょいと頭にのっけて、外へ出た。彼は道を曲ってテムプルへ入り、そして、高等法院|通《どおり》と書館|通《どおり》の鋪道を二囘ばかり歩調正しく歩いて元気を囘復してから、ストライヴァーの事務室に入って行った★。
 この二人の協議には一度も加わったことのないストライヴァーの書記はもう帰ってしまっていて、ストライヴァー御本人が扉《ドア》を開けた。彼はスリッパを穿き、ゆったりした寝衣を著て、もっと寛《くつろ》ぐために咽《のど》もとをむき出しにしていた。彼の眼の周りには、ジェフリーズ★の肖像画からこの方《かた》、法律家仲間のすべての酒客に見られる、また、画の技巧でさまざまに違うが、いずれの飲酒時代の肖像画にも認められる、あの幾らか気違いじみた、不自然な、ひからびた斑点があった。
「少し遅いぜ、記憶の名人。」とストライヴァーが言った。
「ほぼいつもの時間だよ。十五分くらい遅いかもしれんな。」
 二人は、書物がずらりと列んで、書類が取散らかっている、すすけた一室へ入った。そこには炉火があかあかと燃えていた。炉側棚には湯沸しが湯気を立てていたし、ばらばらに撒き散らばっている書類の真中に、一つの卓子《テーブル》がぴかぴかと光っていて、その上にはたくさんの葡萄酒と、ブランディーと、ラム酒と、砂糖と、レモンとが載せてあった。
「君は一罎やって来たようだね、シドニー。」
「今晩は二罎だったろう、確か。僕は今まで昼の弁護依頼人と一緒に食事をしていたんだ。いや、あの男の食事をするのを見ていたって言うかな。――どっちだって同じことさ!」
「君があの顔の似ているところへ持って行ったのはね、シドニー、あれは素敵な論点だったよ。どうして君はあんなとこを掴まえたんだい? いつあんなことを思い付いたのかね?」
「おれはあいつはずいぶん美男だなと思ったんだ。それから、おれだって運がよかったなら、奴と同じぐらいの人間になれてたろうと考えたんさ。」
 ストライヴァー氏はその年に似合わぬ布袋腹を揺がせるほどに笑った。「君にして幸運か、シドニー! 仕事にかかるんだ、仕事にかかるんだ。」
 大いに不機嫌な顔をしながら、豺は自分の衣服を寛《くつろ》げて、隣室に入って行ったが、冷水の入っている大きな水差と、洗盤と、一二枚のタオルとを持って戻って来た。そのタオルを水に浸して、少し絞《しぼ》ると、彼は見るも物凄い工合にそれを摺《たた》んで頭の上にのっけて、卓子《テーブル》に向って腰を掛け、それから言った。「さあ、用意が出来たぞ!」
「今夜の煮詰め仕事は大してないよ、記憶の名人。」とストライヴァー氏は、書類を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、陽気に言った。
「どれだけ?」
「たった二口さ。」
「むずかしい奴を先にくれ。」
「ほら、それだよ、シドニー。どしどしやるんだ!」
 獅子は、それから、酒の載っている卓子《テーブル》の一方の側にある長椅子《ソーファ》に背を凭れかけてゆったりと構えた。豺の方は、そのもう一方の側にある、書類の散乱している自分自身の卓子《テーブル》に向って、酒罎と杯とがすぐに手の届くところに腰掛けた。二人とも頻りに酒の卓子《テーブル》に手を出したが、その出し方は銘々で違っていた。獅子の方は、大抵は両手を腰の帯革《バンド》にかけて凭れていて、炉火を眺めたり、時々は何か手軽な方の書類をいじったりしていた。豺は、眉を蹙《しか》めて一心不乱の顔をしながら、仕事にすっかり夢中になっているので、自分の杯を取ろうと差し伸べる手に眼をくれさえしないくらいで、――その手は、脣へ持ってゆく杯に当るまでには、一分かそれ以上もそのあたりを探《さぐ》り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ることがたびたびあった。二度か三度、当面の問題がひどくこんがらかって来たので、豺もどうしても立ち上って、例のタオルを改めて水に浸さなければならなくなった。こうして水差と洗盤のところへ巡礼すると、彼はどんな言葉でも言い現せないくらいの奇抜な濡れ頭巾をかぶって戻って来るのであった。その奇抜さは、彼が気懸りそうな真面目《まじめ》くさった顔をしているので、なおさら滑稽なものになった。
 とうとう豺は獅子のためにこぢんまりした食事を纒めてしまって、それを獅子に差し出しにかかった。獅子はそれを細心の注意をしながら食べ、それに自分の択り好みもし、自分の意見も加えた。すると豺はそのいずれにも助力してやった。その食事がすっかり風味されてしまうと、獅子は再び腰の帯革《バンド》に両手を突っ込み、ごろりと横になって考え込んだ。豺は、それから、なみなみと注《つ》いだ一杯の酒で咽《のど》を潤《うるお》したり、頭のタオルを取替えたりして元気をつけると、二番目の食物を集めにかかった。それも同じような風にして獅子に与えられ、それが片附いたのは時計が朝の三時を打った時だった。
「さあ、これですんだんだから、シドニー、ポンスを一杯|注《つ》ぎたまえよ。」とストライヴァー氏が言った。
 豺は、また湯気の立っていたタオルを頭から取って、体《からだ》をゆすぶり、欠伸をし、ぶるぶるっと身震いしてから、言われる通りにした。
「今日《きょう》のあの検事側の証人の件じゃ、シドニー、君は実にしっかりしてたね。どの質問もどの質問も手応えがあったからねえ。」
「おれはいつだってしっかりしてるさ。そうじゃないかね?」
「僕はそれを否定しないよ。何が君の御機嫌に触ったんだい? まあポンスをひっかけて、機嫌を直したまえ。」
 不満らしくぶつぶつ言いながら、豺は再び言われる通りにした。
「昔のシュルーズベリー学校★時代の昔の通りのシドニー・カートンだね。」とストライヴァーは、現在と過去の彼を調べてでもみるように彼の上に頭を頷《うなず》かせながら、言った。「昔の通りの|ぎいこばったん《シーソー》のシドニーだね。今上っているかと思えばもう下っている。今元気かと思えばもうしょげてる!」
「ああ、ああ!」と相手は溜息をつきながら答えた。「そうだよ! 相も変らぬ運《めぐ》り合《あわ》せの、相も変らぬシドニーさ。あの頃でさえ、おれは他《ほか》の子供たちに宿題をしてやって、自分のは滅多にやらなかったものだ。」
「なぜやらなかったんだい?」
「なぜだかわかるものか。おれの流儀だったんだろうよ。」
 彼は、両手をポケットに突っ込み両脚を前にぐっと伸ばしたまま、炉火を眺めながら、腰掛けていた。
「カートン、」と彼の友人は、あたかも炉側格子はその中で不屈の努力が鍛えられる熔鉱炉であって、昔のシュルーズベリー学校時代の昔の通りのシドニー・カートンのためにしてやれる唯一の思遣りのある仕打は彼をその熔鉱炉の中へ肩で押し込んでやることであるかのように、威張り散らすような風で彼に向って肩肱を張って、言った。「君の流儀はなっていない流儀だし、いつだってそうだったんだ。君は気力でも意思でも奮い起すってことがない。僕を見たまえ。」
「おやおや、これあたまらん!」とシドニーは、今までよりは気軽な機嫌のよい笑い声を立てながら、応答した「君の[#「君の」に傍点]お説教は御免だよ!」
「僕はこれまでやって来たことをどんな風にやって来たかね?」とストライヴァーが言った。「僕は今やっていることをどんな風にやっているかね?」
「僕に給料を払って手伝わせてやってるってとこも少しはあるようだね。だが、僕にそんなことを言ったって、風《かぜ》に言ってるようなもので、無駄だよ。君はやろうと思うことはやる人間だ。君はいつだって最前列にいたんだし、僕はいつだって後の方にいたんだ。」
「僕が最前列へ出るには出るようにしなければならなかったんだ。僕だって最前列に生れついたんじゃないよ。そうだろう?」
「僕は君の誕生の儀式に立会ったんじゃないさ。だが、どうも僕の思うところじゃ君はそこに生れついたらしいな。」とカートンが言った。そう言って、彼はまた声を立てて笑い、それから二人とも一緒に笑った。
「シュルーズベリー時代の前だって、シュルーズベリー時代だって、シュルーズベリー時代から後今までだって、」とカートンは言葉を続けた。「君は君の列に就いていたし、僕は僕の列に就いていたんだ。僕たちがパリーの学生街の学生同志で、フランス語だの、フランス法律だの、その他《ほか》大してためにもならなかったフランスのパン屑みたいな学問だのを齧《かじ》っていた頃でさえ、君はいつだって存在を認められていたし、僕はいつだって――存在を認められなかったんだ。」
「で、それは誰のせいだったのだい?」
「確かに、それが君のせいでなかったとは僕には請合《うけあ》えないんだ。君はいつだってぶつかって割込んで押し除けて突き進んで、ちっとも休まずにいるものだから、僕はどうしても銹びついてじっとしているより他《ほか》に機会がなかったのだ。だが、夜も明けかけようってのに、昔のことなんか話してるのは、陰気くさいな。僕の帰る前に何か他《ほか》の話をしてくれよ。」
「それならだ! あの美しい証人のために僕と乾杯したまえ。」とストライヴァーは自分の杯を挙げて言った。「君の嬉しい話になったろう?」
 明白にそうではなかった。というのは彼はまた陰鬱になって来たから。
「美しい証人と。」と彼は自分の杯の中を覗き込みながら呟いた。「おれには今日《きょう》昼から夜へかけてずいぶん証人があったが。君の言う美しい証人とは誰だい?」
「あの絵のように美しい医者の娘さんの、マネット嬢さ。」
「あの女が[#「あの女が」に傍点]美しい?」
「美しかあないかね?」
「ないね。」
「だって、君、あの女は満廷讃美の的《まと》だったぜ!」
「満廷讃美の的《まと》がなんだい! 誰がオールド・ベーリーを美人の審査員にしたのだね? あれは金髪のお人形というだけさ!」
「君は知らないだろうがね、シドニー、」とストライヴァー氏が、鋭い眼で彼を見ながら、また片手で自分の血色のよい顔をゆっくりと撫でながら、言った。――「君は知らないだろうがね、僕はあの時、君がその金髪のお人形に同情を寄せていたものだから、その金髪のお人形に何事が起ったか素速く見つけたんだ、と思ってたくらいなんだよ。」
「何事が起ったか素速く見つけたって! 人形だろうが人形でなかろうが、一人の女の子が人の鼻先から一二ヤードのところで気絶したんならだね、望遠鏡なしにだって見えようじゃないか。おれは君と乾杯はするが、美人だということは否定するよ。さあ、これでもうおれは飲みたくない。帰って寝るとしよう。」
 主《あるじ》が蝋燭を持って彼の後から階段のところまで送って出て、彼が階段を降りるのを照してやった時、夜明《よあけ》の光はもうそこの汚《よご》れた窓から寒そうに覗き込んでいた。彼がその建物から外へ出ると、空気は冷くて陰気で、空はどんよりと曇り、河★は仄暗くくすみ、あたりの光景は生気のない沙漠のようであった。そして砂塵の渦巻が朝風に吹かれてくるくるくるくると※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていた。それはまるで沙漠の砂が遠い彼方《かなた》で捲き上って、それのこちらへと進んで来る最初の砂塵がこの市を覆い始めたようでもあった。
 裡《うち》には精根が尽き果て、周囲は一面に沙漠に囲まれて、この男はひっそりした台地を横切ってゆく途中でじっと立ち止った。そして一瞬間、立派な野心と、克己と、堅忍との蜃気楼が、自分の眼前の曠野に横わるのを見た。その幻影の美わしい都には、夢のような桟敷があってそこから愛の神や美の神たちが彼を見ており、花園があってそこには生命の果実が熟して下っており、希望の泉があって彼の見えるところできらきら光っていた。それもほんの一瞬間で、すぐに消え失せてしまった。彼は井桁形に建てられた家の高い部屋まで攀じ上ると、顧みられぬがちの寝台《ベッド》の上に衣服のままで身を投げかけ、その枕は徒らな涙で濡れるのであった。
 物淋しげに、物淋しげに、太陽は昇った。立派な才能と立派な情緒とを持ちながら、それを適当な方面に働かすことが出来ず、自分自身の裨益にも自分自身の幸福にもすることが出来ず、自分の身を枯らす害虫に気づいていながら、それにわが身を蝕むにまかせて諦めている男、その昇る太陽はこの男よりも物淋しいものを照さなかった。
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    第六章 何百の人々

 マネット医師の静かな住居は、ソホー広場★から遠からぬ閑静な街の一劃にあった。四箇月という月日の波があの叛逆罪の公判の上を乗り越えてしまって、公衆の興味と記憶ということから言えば、それを遠く海の方へ押し流してしまっていた頃の、ある天気のよい日曜日の午後、ジャーヴィス・ロリー氏は、自分の住んでいるクラークンウェル★から出かけて、医師と食事を共にしに行く途中、日当りのいい街々を歩いて行った。ロリー氏は、何度か事務上の事だけに専念することにした後に、結局医師の友人になってしまったのだった。そしてその閑静な街の一劃は彼の生活の中の日当りのいい部分となった。
 その天気のよい日曜日に、ロリー氏は、午後早く、習慣上の三つの理由で、ソホーの方へ歩いていたのだ。第一に、天気のよい日曜日には、彼は晩餐の前に医師とリューシーと一緒に散歩に出かけることがたびたびあったからだし、第二に、都合のよくない日曜日には、彼は家族の友人として彼等と一緒にいて、話をしたり、読書をしたり、窓の外を眺めたり、漫然とその日を過したりする習慣であったからだし、第三に、彼は自分の解かねばならないちょっとしたむずかしい疑問を持っていたのだが、医師の家庭の習わしから考えて、その時がそれを解くに好適な時だということを知っていたからであった。
 医師の住んでいるその一劃ほど風変りな一劃は、ロンドン中にも見出せそうになかった。その一劃には通り抜ける路がなかった。それで、医師の住居の前面の窓からは、いかにも浮世を離れたようなのんびりした様子の漂っている街の気持のいい小さな通景《みとおし》を見渡すことが出来た。オックスフォド街道★の北には、その頃は建物がほとんどなかった。そして、今はなくなってしまったその野原には、喬木が繁り、野生の草花が生え、山櫨《さんざし》が花を開いていた。だから、田舎の空気は、あてどもなくさまようている宿なし乞食のように教区へ弱々しく入り込んで来ないで、自由に元気よくソホーを吹き流れるのであった。そして、あまり遠くもないところに、よく日の当る南向きの塀がたくさんあって、季節にはその塀のところで桃の実が熟するのだった★。
 夏の光は朝の間だけその一劃にぎらぎらと射し込んだ。が、街々が暑くなる頃には、その一劃は日蔭になった。もっとも、日蔭と言っても、そこの向うにきらきら光る日の輝きも見られないほど引込んだ日蔭ではなかったが。そこは、静かで落著いてはいるが気の晴れる、凉しい場所であり、不思議によく物音を反響する箇所であり、騒擾の街からの全くの避難港であった。
 そういうような碇泊所にはきまって船が静かに泊っているはずであり、また事実泊っていた。医師は大きなひっそりした家の二つの階を借りていた。この家では、昼間《ひるま》はいろいろの職業が営まれているということであったが、しかしいつの昼でもさほど物音も聞えず、その物音も夜になればみんな差控えられた。一本の篠懸《すずかけ》の樹が緑の葉をさらさらと鳴らしている中庭を通って行ける裏手の一つの建物の中では、教会のオルガンが造られているということであったし、また銀が浮彫を施されているということであったし、それにまた金がある不可思議な巨人によって打ち延べられているということであった。この巨人は表広間の壁から金色《こんじき》の片腕を突き出していて★、――あたかも、自分は自分をこのように高価な金属に打ち換えてしまったのだが、訪問者も片っ端から同じ風に金に変えてやるぞと嚇《おど》しつけてでもいるかのようであった。このようなさまざまな商売にしても、階上に住んでいるという噂の一人きりの間借人にしても、階下に事務所を持っているという話の魯鈍な馬車装具製作人にしても、いつでもほとんど音も立てなければ姿も見せなかった。時としては、ちゃんと上衣を著込んだ風来の職工が広間を横切って行ったり、あるいは見慣れぬ人がそこらを覗き込んだり、あるいは中庭を隔てて遠くからかちんかちんという金物の音が聞えたり、例の金色《こんじき》の巨人のところからとんとんと打つ音が聞えたりすることがあった。けれども、こういうことは、家の背後の篠懸の樹の中にいる雀と、家の前の街の一劃の反響とが、日曜日の朝から土曜日の晩まで思いのままに振舞っている、という法則を証明するために必要な、除外例に過ぎなかった。
 マネット医師は、この住居で、彼の昔の評判を知っているとか、また彼の身の上話が口から口へと伝えられるうちにその評判が蘇《よみがえ》ったのを聞いたとかして、彼の許へやって来る患者を、迎えた。彼の科学上の知識と、精巧な実験を行う時の彼の用意周到さと熟練とのために、彼には他の方面でも相当の依頼者が出来た。で、彼は必要なだけの収入は得られたのであった。
 以上のことは、ジャーヴィス・ロリー氏が、その天気のよい日曜日の午後、その一劃にある閑静な家の戸口の呼鈴《ベル》を鳴らした時に、彼の知っており、考えており、気づいていた範囲内のことであったのである。
「|マネット先生《ドクター・マネット》は御在宅?」
 もうお帰りになるはずとのこと。
「リューシーさんは御在宅?」
 もうお帰りになるはずとのこと。
「|プロスさん《ミス・プロス》は御在宅?」
 たぶんいらっしゃるだろうが、しかし、お入り下さいと言っていいのか、いらっしゃいませんと言った方がいいのか、それについてのプロスさんの意向を予想することは、女中には確かに出来ないとのこと。
「わたしは心やすい者だから、」とロリー氏は言った。「二階へ上らしてもらうとしよう。」
 医師の令嬢は、自分の生れた国のことは少しも知らなかったのに、その国の最も有用で最も愉快な特徴の一つである、わずかな資力を大いに利用するというあの才能を、その国から生れながらに享けているように見えた。家具は質素なものではあったが、ただその趣味と嗜好とにだけ価値のあるいろいろの小さな装飾で引立たせてあったので、その効果は気持のよいものであった。室内の一番大きな物から一番小さな物に至るまでのあらゆるものの配置、色彩の配合、些細なものの節約や、巧妙な手際や、明敏な眼識や、優れた感覚などで得られた優雅な多種多様さと対照、そういうものはそれ自身としても非常に快いものであると同時に、それの創案者をも非常によく表《あらわ》していたので、ロリー氏があたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら立っていると、椅子や卓子《テーブル》までが、この時分までには彼にはすっかりおなじみになっていたあの一種特別の表情★のようなものを浮べながら、彼に、お気に入りましたか? と尋ねているように思われるほどであった。
 一つの階には三つの室があった。そして、その室と室とを通ずる扉《ドア》は空気がどの室をも自由に吹き抜けられるようにと開《あ》け放してあったので、ロリー氏は、自分の周囲のどこにも目につくその空想上の類似★ににこにこしながら眼を留めて、一室から次の室へと歩いて行った。最初の室は一番上等の室で、そこにはリューシーの小鳥と、草花と、書物と、机と、裁縫台と、水彩絵具の箱とがあった。二番目の室は医師の診察室で、食堂にも使われていた。中庭の例の篠懸の樹のさらさらと動く葉影で絶えず変化する斑《まだら》模様をつけられている三番目の室は、医師の寝室であって、――その室の一隅には、今は使われていない靴造りの腰掛台《ベンチ》と道具箱とが、パリーの郊外サン・タントワヌのあの酒店の傍の陰惨な建物の六階にあったとほぼ同じようにして、置いてあった。
「どうも驚くなあ、」とロリー氏はあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すのを止《や》めて、言った。「あの人はあんな自分の苦しみを思い出させるものを身の周りに置いとくなんて!」
「何だってそんなことに驚くんですか?」という不意の問が彼をびくりとさせた。
 その問は、彼がドーヴァーのロイアル・ジョージ旅館《ホテル》で初めて知り合って、その後その時よりは親しくなっていた、例の腕っ節の強い、荒っぽい、赭い顔の婦人、プロス嬢★の発したものであった。
「わたしはこう思っていたんですがねえ――」とロリー氏が言い出した。
「ふうん! 思ってたんですって!」とプロス嬢が言った。それでロリー氏は言葉を切った。
「お変りありませんか?」とその時その婦人は――鋭く、だがあたかも彼に対して何も悪意を抱いていないということを示すつもりであるかのように――尋ねた。
「有難う、達者な方《ほう》です。」とロリー氏は柔和に答えた。「あんたはいかがです?」
「自慢するほどのことはちっともございませんよ。」とプロス嬢が言った。
「ほんとに?」
「ええ! ほんとにですとも!」とプロス嬢は言った。「私はお嬢さまのことでとっても困ってるんですもの。」
「ほんとに?」
「後生《ごしょう》ですからその『ほんとに』の他《ほか》に何とか言って下さいよ。でないと私気が揉めて死にそうですから。」とプロス嬢が言った。彼女の性質は(その体格とは違って)短い方だった。
「じゃあ、全くですか?」とロリー氏は言い直しとして言った。
「『全くですか』だっていやですが、」とプロス嬢が答えた。「少しはましですわ。そうなんですよ、私とっても困っているんです。」
「その訳を伺えますかな?」
「私は、お嬢さまに少しもふさわしくない人たちが何十人と、お嬢さまの世話を焼きにここへやって来てもらいたくはないんですの。」とプロス嬢が言った。
「そんな目的で何十人とほんと[#「ほんと」に傍点]やって来るんですか?」
「何百人とね。」とプロス嬢が言った。
 自分の最初に言い出したことが疑われると、いつでも必ずそれを誇張するというのが、この婦人(彼女の時代より前でもそれより後でも他にもそういう人々はあるのであるが)の特徴なのであった。
「おやおや!」とロリー氏は、自分の思い付くことの出来た中でも一番安全な言葉として、そう言った。
「私がお嬢さまと御一緒に暮して来ましたのは――いいえ、お嬢さまが私と一緒にお暮しになりまして、私にお給金を下さいましたのは、と申さなければならないんで、もし私が何も頂戴しなくても自分なりお嬢さまなりを養ってゆけるのでしたら、決して決して、お嬢さまにそんなお給金を出していただくようなことはおさせしなかったんですが、――その一緒にお暮しになりましたのは、お嬢さまがまだ十歳《とお》の時からでした。ですから、ほんとうにとてもつらいんですの。」とプロス嬢が言った。
 何がとてもつらいのかはっきりとはわからないので、ロリー氏は自分の頭を振り動かした。自分の体《からだ》のその重要な部分を、何にでもぴったりと合う魔法の外套のようなものとして使ったのである。
「お嬢さんにちっともふさわしくないいろんな人たちが、始終やって来るんですからねえ。」とプロス嬢が言った。「あなたがそれをお始めになった時だって――」
「わたしが[#「わたしが」に傍点]そんなことを始めたって、|プロスさん《ミス・プロス》?」
「あなたがお始めになったじゃありませんでしたか? お嬢さんのお父さまを生き返らせたのはどなたでした?」
「ああ、そうか! あのことが[#「あのことが」に傍点]それの始めだったと言うんなら――」とロリー氏が言った。
「あのことはそれの終りだったとも言えないでしょうからね? 今申しましたようにね、あなたがそれをお始めになった時だって、ずいぶんつらかったんですの。と言って、私はマネット先生に何も難癖《なんくせ》をつけるんじゃありません。ただ、あの方《かた》だってああいうお嬢さまにはふさわしくないということだけを別にすればですがね。でもそれはあの方《かた》の咎《とが》じゃあございませんわ。どんな人にだって、どんな場合でも、そんなことは望むのが無理なんですからね。ですけれども、あの方《かた》の後から(あの方《かた》だけは私我慢してあげるんですが)、お嬢さまの愛情を私から取り上げてしまいに、大勢の人たちがやって来るのは、ほんとうに二倍にも三倍にもつらいことですわ。」
 ロリー氏はプロス嬢の非常に嫉妬深いことを知っていた。が、彼はまた、彼女が表面《うわべ》は偏屈ではあるが、その実は、自分たちが失ってしまった若さに対して、自分たちがかつて持ったことのなかった美しさに対して、自分たちが不幸にも習得することの出来なかった芸能に対して、自分たち自身の陰鬱な生涯には一度も射さなかった輝かしい希望に対して、純粋な愛情と欽仰とから、喜んで自分を奴隷にしようとする、あの非利己的な人間――それは女性の間にのみ見出される――の一人であるということも、この時分には知っていた。彼は世間をよく知っていたので、そういう真心の誠実な奉仕に優《まさ》るものは世の中には何ものもないということを知っていた。そのように尽された、そのように金銭ずくの穢《けが》れを少しも持たないそういう奉仕に、彼は極めて高い尊敬の念を持っていたので、彼は、自分だけの心の中で作っている応報の排列表★――吾々は皆そういう排列表を多少とも作っているのであるが――の中では、プロス嬢を、天質と人工との両方によって彼女とは比べものにならぬほど美しく粧うている、テルソン銀行に預金を持っている多くの淑女たちよりも、下級の天使たちによほど近いところに置いていたのであった。
「お嬢さまにふさわしい男は一人だけしかいなかったのですし、これからだってそうでしょう。」とプロス嬢は言った。「その男というのは私の弟のソロモンでしたの。もしあれが身を持崩していませんでしたらばですがねえ。」
 また始った。ロリー氏がいつかプロス嬢の身の上をいろいろと尋ねてみたところが、彼女の弟のソロモンというのは、賭博の賭金にするために彼女の持っていたものを何もかも一切捲き上げて、無一文になった彼女を少しも気の毒とも思わないでそのまま見棄てて行ってしまった無情な無頼漢である、という事実が確かになったのであった。そのソロモンをプロス嬢がそのように信じ切っている(そういうちょっとした身の誤りのためにその信用はいささか減ってはいたが)ということは、ロリー氏には全く常談事とは思えなかった。そしてまた、そのことは彼が彼女に好感を抱くについて大いに効力があったのだった。
「わたしたちは今のところ偶然二人きりだし、二人とも事務の人間だから、」と彼は、二人が応接室へと引返して、そこで打解けた気持で腰を下した時に、言った。「私はあんたにお尋ねしたいんだが、――先生《ドクター》は、リューシーさんと話される時に、あの靴を造っておられた頃のことを仰しゃったことがまだ一度もないかね?」
「ええ、一度も。」
「それだのにあの腰掛台《ベンチ》とあの道具とを自分の傍に置いておかれるんだね?」
「ああ!」とプロス嬢は頭を振りながら答えた。「でも私はあの方《かた》が心の中でもその頃のことを思っていらっしゃらないとは申しませんよ。」
「あんたはあの人がその頃のことをよほど考えておられると思いますか?」
「思います。」とプロス嬢が言った。
「あんたの想像するところでは――」とロリー氏が言いかけると、プロス嬢がその言葉をこう遮った。――
「何だって想像なぞしたことは一度もありません。想像力なんてちっともないんです。」
「こりゃあ間違ったな。では、あんたの推測するところでは――あんただって時には推測ぐらいはするね?」
「時々はね。」とプロス嬢が言った。
「あんたの推測するところでは、」とロリー氏は、彼女を親切そうに見ながら、例のきらきらした眼に笑いを含んだ光を閃かして、言い続けた。「|マネット先生《ドクター・マネット》は、御自分があんなに迫害されたことの原因や、またたぶんその迫害者の名前などについても、あの永い年月《としつき》の間ずっと、何か御自分の御意見を持っておられた、と思いますかね?」
「私は、そのことについては、お嬢さまが私にお話下さいましたことの他《ほか》には、何も推測したことがありません。」
「で、そのお嬢さまのお話では――?」
「お嬢さまは先生がそれについて御意見を持っていらっしゃると思ってお出でです。」
「ところで、わたしがこんなにいろんなことを尋ねるのに腹を立てないで下さいよ。わたしはただの気の利かない事務家だし、あんたも婦人の事務家なんだからね。」
「気の利かないですか?」とプロス嬢はつんとして尋ねた。
 その謙遜な形容詞を使わなければよかったと思いながら、ロリー氏は答えた。「いや、いや、いや。確かにそうじゃないとも。で、事務のことに戻るとして。――|マネット先生《ドクター・マネット》が、どんな罪も犯したことがないに違いないのに、そうだということはわれわれはみんな十分に確信しているんだが、それだのに、その問題に決して触れようとされないというのは、不思議じゃあないですか? あの人は昔わたしと事務上の関係があったし、今はお互に懇意になっているとはいえ、わたしは自分のために言うのではない。あの人があんなに心から愛著しておられ、またあの人にあんなに心から愛著しておられる、あの美しいお嬢さんのために言っているつもりなんだがね? とにかく、|プロスさん《ミス・プロス》、わたしがあんたとこんな話をしようとするのは、好奇心からするのではなくって、心配のあまりにするのだ、ということを信じてもらいたいのだが。」
「そうね! 私にわかっております限りでは、と申してもわずかなことでしょうがねえ、」とプロス嬢は、その弁解の語調のために心を和《やわら》げて、言った。「あの方《かた》はその話には何でもかんでも一切触れるのを怖《こわ》がっていらっしゃるんですよ。」
「怖がって?」
「なぜ怖がっていらっしゃるかってことはよっくわかる、と思うんですが。それは恐しい思い出ですもの。それにまた、あの方《かた》が正気をなくされましたのもそれから起ったことですもの。どんな風にして正気をなくしたのか、またどんな風にして正気に戻ったのかということを御自分では御存じないので、あの方《かた》には自分がまた正気をなくしないってことはどうしてもはっきりと請合《うけあ》えないんでしょう。このことだけだってその話はあの方《かた》には気持がよくはないんだろうと、私はそう思うんです。」
 これはロリー氏が予期していたより以上の意味深長な言葉であった。「なるほど。」と彼は言った。「だから考えるのも恐しいんだね。それにしてもだ、|プロスさん《ミス・プロス》、わたしの心の中には疑いが一つ残っているんですがね。そういう気持を御自分の心の中に始終押し隠しておられるということは|マネット先生《ドクター・マネット》のためにいいかどうか、ということなんだ。実際、その疑いのために、またその疑いから時々私の心に起る不安のために、わたしはこの現在の打明け話をする気になったのだが。」
「どうともしようがないんでしょうね。」とプロス嬢が頭を振りながら言った。「そのことにちょっとでも触れるとなると、あの方《かた》はじきに工合が悪くなるんですもの。うっちゃってそのままにしておく方がいいんでしょうね。つまり、厭《いや》でも応でも、うっちゃってそのままにしておくより他《ほか》はないんでしょう。時々、あの方《かた》は真夜中《まよなか》にお起きになりましてね、御自分のお部屋の中を往ったり来たり、往ったり来たりしてお歩きになるのが、この上のあそこにいる私どもに聞えることがよくありますの。お嬢さまは、そんな時には、あの方《かた》のお心が昔の牢屋の中を往ったり来たり、往ったり来たりしてお歩きになっているのだとお思いになるように、今ではなっていらっしゃいます。で、急いであの方《かた》のところへお出でになりまして、お二人で御一緒に、そのまま往ったり来たり、往ったり来たりして、あの方《かた》のお心が落著くまで、お歩きになるんですよ。しかしあの方《かた》はお嬢さまに御自分のじっとしておられぬことのほんとうの原因を一|言《こと》も決して仰しゃいませんし、それでお嬢さまもあの方《かた》にそのことを口にしないのが一番いいと気づいてお出でです。で、黙ったまま、お二人は御一緒に往ったり来たり、往ったり来たりして歩いていらっしゃいますと、そのうちに、お嬢さまの愛情とそうして連立っていらっしゃることとであの方《かた》は正気にお返りになるんです。」
 プロス嬢は自分は想像力を持っていないと言ったにもかかわらず、彼女が「往ったり来たりして歩く」という文句を何度も何度も繰返したのをみると、何か一つの悲しい思いに一本調子に絶えず悩まされている苦痛を感知していることがわかり、そのことは彼女がその想像力なるものを持っていることを証明しているのだった。
 その一劃は不思議によく物音を反響する一劃であるということは既に述べた。ちょうど、今|彼方此方《かなたこなた》と疲れた足取りで歩くという話が出たので、そのために起ったのかと思われるほどに、こちらへとやって来る足音が、鳴り響くようにその一劃に反響し始めた。
「そら、お帰りですわ!」とプロス嬢が、その会談を打切りにして立ち上りながら、言った。「もうすぐに何百って人が押し掛けて来ますよ!」
 そこはその音響学上の性質から言って実に珍しい一劃で、実に一種特別な耳のような場所であったので、ロリー氏が開《あ》けてある窓のところに立って、足音の聞えた父と娘との来るのを待っていると、彼等が決して近づいて来ないのではなかろうかというような気がするのであった。その足音が向うへ行ってしまったかのように、さっきの反響が消え失せたばかりではない。決してやって来ない他の足音の反響がその代りに聞えて来て、それが間近に来たかと思うとそれっきり消え失せてしまうのだった。けれども、父と娘とはとうとう姿を見せた。そしてプロス嬢はその二人を出迎えるために表戸口のところに待ち構えていた。
 たとい荒っぽくて、赭ら顔で、怖《こわ》い顔付ではあっても、プロス嬢が、自分の大好きな令嬢が二階へ上るとその帽子を脱がせて、それを自分のハンケチの端でちょっと手入れをして直し、埃《ほこり》を吹き払ってやったり、いつでもしまわれるように彼女のマントを摺《たた》んでやったり、彼女の豊かな髪の毛を、自分自身がもしこの上もなく虚栄心の強いこの上もなく美しい女であったなら、自分の髪の毛にあるいは持ったかもしれないほどの誇らしさで、撫でつけてやったりしているのは、見ていて気持のよいものであった。その彼女の大事な令嬢が、彼女を抱擁して彼女にお礼を言い、自分のためにそんなにまで面倒をみてくれることに不服を言っているのもまた、見ていて気持のよいものであった。――もっとも、その不服を言うのだけはほんの常談に言ってみただけであった。でなければ、プロス嬢は、ひどく気を悪くして、自分自身の部屋にひっこんで泣き出したことであろう。医師が、その二人を傍から見て、言葉や眼付でプロス嬢に彼女がどんなにリューシーを甘やかしているかということを言っているが、その言葉や眼付にはプロス嬢に劣らぬほど甘やかしているところがあるし、もし出来るものならそれより以上に甘やかしたがっているようなのもまた、見ていて気持のよいものであった。ロリー氏が、例の小さな仮髪《かつら》をかぶってこういうすべての様子をにこにこ顔で眺めて、晩年になって独身者の自分に途を照して一つの家庭に導いてくれた自分の運星に感謝しているのもまた、見ていて気持のよいものであった。しかし、こういう有様を何百の人々は見に来はしなかった。そしてロリー氏はプロス嬢の予告の実現されるのを徒らに期待していたのであった。
 食事時になったが、それでもまだ何百の人々は来ない。この小さな家庭の切※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しでは、プロス嬢は台所の方面を引受けていて、いつもそれを驚くほど見事にやってのけた。彼女のこさえる食事は、ごく質素な材料のものでありながら、非常に上手に料理して非常に上手によそってあり、半ばイギリス風で半ばはフランス風で、趣向が非常に気が利いていて、どんな料理も及ばないくらいであった。プロス嬢の交際というのは徹底的に実際的な性質のもので、彼女は、何枚かの一シリング銀貨や半クラウン銀貨で誘惑されて料理の秘訣を自分に知らしてくれそうな貧窮したフランス人を捜して、ソホーやその近隣の区域を荒し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るのであった。そういうおちぶれたゴール人の子孫★たちから、彼女は実に不思議な技術を習得していたので、そこの家婢である婦人と少女なぞは、彼女を、一羽の禽、一疋の兎、菜園にある一二種の野菜を取って来させて、そういうものを何でも自分の好きなものに変えてしまうような、女魔法使か、シンダレラの教母★のように思い込んでいるほどであった。
 日曜日には、プロス嬢は医師の食卓で食事をすることにしていたが、しかしその他の日には、台所か、それとも三階にある自分自身の室――そこは彼女のお嬢さまの他《ほか》にはかつて誰一人も入ることを許されたことのない青い部屋★であったが――かで、人知れぬ時刻に食事することを、どうしてもやめなかった。この日の食事の際には、プロス嬢は、彼女のお嬢さまの楽しい顔と彼女を喜ばそうとする楽しい努力とに応じて、よほど打寛《うちくつろ》いでいた。だから、その食事もまた非常に楽しかった。
 その日は蒸暑い日であった。それで、食事がすむと、リューシーは、葡萄酒を篠懸の樹の下に持ち出して、みんなそこへ出て腰掛けることにしましょう、と言い出した。すべてのことが彼女次第であり、彼女を中心にして囘転していたので、皆はその篠懸の樹の下へ出て行った。そして彼女は特にロリー氏のために葡萄酒を持って行った。彼女は、しばらく前から、ロリー氏のお酌取りの役を引受けていたのだ。そして、皆が篠懸の樹の下に腰掛けて話している間も、彼女は彼の杯を始終一杯にしておくようにした。あたりの建物の何となく神秘的に見える裏手や横面がそこで話している彼等を覗いていたし、篠懸の樹は彼等の頭上でその樹のいつものやり方で彼等に向って囁いていた。
 それでもまだ、何百の人々は姿を見せなかった。彼等が篠懸の樹の下に腰掛けている間にダーネー氏が姿を見せた。が彼はたった一人であった。
 マネット医師は彼を懇ろに迎えた。またリューシーもそうした。しかし、プロス嬢は俄かに頭と体とにひきつりを起して、家の中へひっこんだ。彼女がこの病気に罹ることは珍しくなかった。そして彼女はその病気のことを打解けた会話の時には「痙攣の発作」と言っていた。
 医師は体の工合がこの上もなくよくて、特別に若々しく見えた。彼とリューシーとの類似はこういう時には非常に目立った。そして、彼等が並んで腰を掛け、彼女は彼の肩に凭れ、彼は彼女の椅子の背に片腕をかけている時に、その似ているところを見比べてみるのは極めて愉快なことであった。
 彼は、いろいろの問題にわたって、非常に決活に、絶えず話していた。「ちょっと伺いますが、|マネット先生《ドクター・マネット》、」とダーネー氏が、彼等が篠懸の樹の下に腰を下した時に、言ったが、――それは、ちょうどその時ロンドンの古い建築物ということが話題になっていたので、自然その話を続けて言ったのだった。――「あなたはロンドン塔★をよく御覧になったことがおありですか?」
「リューシーと二人で行って来たことがあります。だがほんの通りすがりに寄っただけです。興味のあるものが一杯あるなということがわかるくらいには、見物して来ました。まあ、それっくらいのところです。」
「あなた方も御存じのように、私は[#「私は」に傍点]あすこへ行っていたことがありますが★、」とダーネーは、幾らか腹立たしげに顔を赧らめはしたけれども、微笑を浮べながら、言った。「見物人とは別の資格でいたのですし、またあすこをよく見物する便宜を与えられるような資格でいたのでもありませんでした。私があすこにいました時に珍しい話を聞かされましたよ。」
「どんなお話でしたの?」とリューシーが尋ねた。
「どこか少し改築している時に、職人たちが一つの古い地下牢を見つけたんだそうです。そこは、永年の間、建て塞がれて忘れられていたんですね。そこの内側の壁の石にはどれにもこれにも、囚人たちの刻みつけた文字が一面にありました。――年月日だの、名前だの、怨みの言葉だの、祈りの言葉だのですね。その壁の一角にある一つの隅石に、死刑になったらしい一人の囚人が、自分の最後の仕事として、三つの文字を彫っておいたそうです。何かごく貧弱な道具で、あわただしく、しっかりしない手で彫ってあるんです。最初は、それは D.I.C. と読まれたのですがね。ところが、もっと念入りに調べてみると、最後の文字は G だとわかりました。そういう頭文字《かしらもじ》の姓名の囚人がいたという記録も伝説もなかったので、その名前は何というのだろうかといろいろ推測されたんですが、どうもわからなかったのです。とうとう、その文字は姓名の頭文字ではなくて、 DIG ★という完全な一語ではなかろうか、と言い出した者がいました。で、その文字の刻んである下の床《ゆか》をごく念入りに調べてみたんです。すると、一つの石か、瓦か、鋪石《しきいし》の破片のようなものの下の土の中に、小さな革製の函《ケース》か嚢かの塵になったものと雑《まじ》って、塵になってしまった紙が見つかったんだそうですよ。その誰だかわからない囚人の書いておいたことは、もうどうしたって読めっこないでしょう。が、とにかくその男は何かを書いて、牢番に見つからないようにそれを隠しておいたんですね。」
「おや、お父さま、」とリューシーが叫んだ。「御気分がお悪いんですね!」
 彼は片手を頭へやって突然立ち上っていたのだ。彼の挙動と彼の顔付とはみんなをすっかり驚かせた★。
「いいや、悪いんじゃないよ。大粒の雨が落ちて来たんでね、それでびっくりしたのだ。みんな家《うち》へ入った方がよかろうな。」
 彼はほとんど即時に平静に返った。大粒の雨がほんとうに降っていて、彼は自分の手の甲にかかっている雨滴を見せた。しかし、彼はそれまで話されていたあの発見のことに関してはただの一|言《こと》も言わなかった。そして、みんなが家の中へ入って行く時に、ロリー氏の事務家的な眼は、チャールズ・ダーネーに向けられた医師の顔に、それがかつてあの裁判所の廊下でダーネーに向けられた時にその顔に浮んだと同じ異様な顔付を、認めたか、あるいは認めたような気がしたのであった。
 だが、彼は非常に速く平静に返ったので、ロリー氏は自分の事務家的な眼を疑ったほどであった。医師が広間にある例の金色《こんじき》の巨人の腕の下で立ち止って、自分はまだ些細なことに驚かぬようになっていない(いつかはそうなるにしても)ので、さっきは雨にもびくりとしたのだ、と皆に言った時には、彼はその巨人の腕にも劣らぬくらいにしっかりしていた。
 お茶時になり、プロス嬢はお茶を入れながら、また痙攣の発作を起した。それでもまだ何百の人々は来なかった。カートン氏がぶらりと入って来たのだが、しかし彼でやっと二人になっただけだ。
 その夜はひどく暑苦しかったので、扉《ドア》や窓を開け放しにして腰掛けていても、みんなは暑さに耐えられなかった。茶の卓子《テーブル》が片附けられると、一同は窓の一つのところへ席を移して、外の暗澹とした黄昏《たそがれ》を眺めた。リューシーは父親の脇に腰掛けていた。ダーネーは彼女の傍に腰掛けていた。カートンは一つの窓に凭れていた。窓掛《カーテン》は長くて白いのであったが、この一劃へも渦巻き込んで来た夕立風が、その窓掛《カーテン》を天井へ吹き上げて、それを妖怪の翼のようにはたはたと振り動かした。
「雨粒がまだ降っているな、大粒の、ずっしりした奴が、ぱらりぱらりと。」とマネット医師が言った。「ゆっくりとやって来ますな。」
「確実にやって来ますね。」とカートンが言った。
 彼等は低い声で話した。何かを待ち受けている人々が大抵そうするように。暗い部屋で電光を待ち受けている人々がいつもそうするように。
 街路では、嵐の始らないうちに避難所へ行こうと急いでゆく人々が非常にざわざわしていた。不思議によく物音を反響するその一劃は、行ったり来たりしている足音の反響で鳴り響いた。だが本物の足音は一つも聞えては来なかった。
「あんなにたくさんの人がいて、しかもこんなに淋しいとは!」と、皆がしばらくの間耳を傾けていてから、ダーネーが言った。
「印象的ではございませんか、ダーネーさん?」とリューシーが尋ねた。「時々、私は、夕方などにここに腰掛けておりますと、空想するんでございますが、――けれども、今夜は、何もかもこんなに暗くって厳《おごそ》かなので、馬鹿げた空想なぞちょっとしただけでも私ぞっとしますの。――」
「私たちにもぞっとさせて下さい。どんな空想だかどうか私たちに知らしていただきたいものですねえ。」
「あなた方には何でもないことに思われますでしょう。そういう幻想は、私たちがそれを自分で作り出した時だけ印象的なのだと、私思いますわ。それは他人《ひと》さまにお伝えすることが出来ないものなんですのよ。私時々夕方などに独《ひと》りきりでここに腰掛けて、じいっと耳をすまして聴いておりますと、あの反響が、今に私どもの生活の中へ入って来るすべての足音の反響だと思われて来ますの。」
「もしそうなるとすると、いつかはわれわれの生活の中へ大群集が入って来る訳だ。」とシドニー・カートンが、いつものむっつりした言い方で、口を挟んだ。
 足音は絶間がなかった。そしてそれの急ぐ様はますます速くなって来た。この一劃はその足の歩く音を反響し更に反響した。窓の下を通ると思われるものもあり、室内を歩くと思われるものもあり、来るものもあり、行くものもあり、突然止むものもあり、はたと立ち止るものもあり、すべては遠くの街の足音であって、見えるところにあるものは一つもなかった。
「あの足音がみんな私たちみんなのところへ来ることになっているのですか、|マネット嬢《ミス・マネット》、それとも私たちの間であれを分けることになるのですか?」
「私存じませんわ、ダーネーさん。馬鹿げた空想だと申し上げましたのに、あなたが聞かしてくれと仰しゃいましたんですもの。私がその空想に耽りますのは、私が独りきりでおります時なので、その時は、その足音を私の生活と、それから私の父の生活の中へ入って来る人たちの足音だと想像したのでございました。」
「僕がそいつを僕の生活の中へ引受けてあげますよ!」とカートンが言った。「僕は[#「僕は」に傍点]文句なしで無条件でやります。やあ、大群集がわれわれに迫って来ますよ、|マネット嬢《ミス・マネット》。そして僕には彼等が見えます、――あの稲光《いなびかり》で。」彼がこの最後の言葉を附け加えたのは、窓に凭れかかっている彼の姿を照した一条の鮮かな閃光がぴかりと輝いた後であった。
「それから僕には彼等の音が聞える!」と彼は、一しきりの雷鳴の後で、再び附け加えた。「そら、来ますよ、速く、凄じく、猛烈に!」
 彼の前兆したのは雨の襲来と怒号とであって、その雨が彼の言葉を止《や》めさせた。その雨の中ではどんな声でも聞き取れなかったからである。忘れがたいくらいの猛烈な雷鳴と電光とがその激湍のような雨と共に始った。そして、轟音と閃光と豪雨とは一瞬の間断もなく続いて、夜半になって月が昇った頃にまで及んだ。
 聖《セント》ポール寺院★の大鐘が澄みわたった空気の中で一時を鳴らした頃、ロリー氏は、長靴を穿いて提灯を持ったジェリーに護衛されて、クラークンウェルへの帰途に就いた。ソホーとクラークンウェルとの途中には処々に淋しい路があったので、ロリー氏は、追剥の用心に、いつでもジェリーをその用事に雇っておいたのだ。もっとも、いつもはこの用事はたっぷり二時間も早くすんでしまうのであったが。
「何という晩だったろう! なあ、ジェリー、」とロリー氏が言った。「死人が墓場からでも出て来かねないような晩だったね。」
「わっしは、そんなことになりそうな晩てえのは、自分じゃ見たことがありませんよ、旦那。――また、見たいとは思いませんや。」とジェリーが答えた。
「おやすみなさい、カートン君。」とその事務家は言った。「おやすみなさい、ダーネー君。わたしたちはいつかもう一度こういう晩を御一緒に見ることがありましょうかなあ!」

 おそらく、あるだろう。おそらく、人々の大群集が殺到しつつ怒号しつつ彼等に追って来るのをもまた、見ることがあるだろう。

    第七章 都会における貴族《モンセーニュール》

 宮廷において政権を握っている大貴族の一人であるモンセーニュール★は、パリーの宏大な邸宅で、二週間目ごとの彼の接見会《リセプション》を催していた。モンセーニュールは、彼には聖堂中の聖堂であり、その外《そと》の一続きの幾間《いくま》かにいる礼拝者の群《むれ》にとっては最も神聖な処の中でも最も神聖な処である、彼の奥の間《ま》にいた。モンセーニュールは彼のチョコレート★を飲もうとしているところであった。モンセーニュールは非常に多くのものを易《やす》々と嚥《の》み下《くだ》すことが出来たので、少数の気むずかし屋には、フランスをまでずんずん嚥み下しているのだと想像されていた。だが、彼の毎朝のチョコレートは、料理人の他《ほか》に四人の強壮な男の手を藉りなくては、モンセーニュールの咽《のど》へ入ることさえも出来なかった。
 そうだ。その幸福なるチョコレートをモンセーニュールの脣へまで持ってゆくには、四人の男が要《い》るのであった。その四人ともぴかぴかときらびやかな装飾を身に著け、その中の頭《かしら》の者に至っては、モンセーニュールの範を垂れたもうた高貴にして醇雅な様式と競うて、ポケットの中に二箇よりも少い金時計が入っていては生きてゆくことが出来ないのだった。一人の侍者はチョコレート注器《つぎ》を神聖な御前へと運ぶ。二番目の侍者はチョコレートを特にそれだけのために携えている小さな器具で攪拌して泡立たせる。三番目の侍者は恵まれたるナプキンを捧呈する。四番目の侍者(これが例の二箇の金時計を持っている男)はチョコレートを注《つ》ぐのである。モンセーニュールにとっては、こういう四人のチョコレート係《がかり》の侍者の中の一人が欠けても、この讃美にみちた天の下で彼の高い地位を保つことは出来ないのであった。もし彼のチョコレートが不名誉にもわずか三人の人間に給仕されるようなことがあったならば、彼の家名の穢《けが》れははなはだしいものであったろう。二人であったなら彼は憤死したに違いない。
 モンセーニュールは昨晩もささやかな晩餐に出かけたのであった。その席では喜劇と大歌劇《グランド・オペラ》とが極めて楽しく演ぜられた。モンセーニュールは大概の晩はささやかな晩餐に出かけて、嬌艶な来会者たちに取巻かれるのであった。モンセーニュールは極めて優雅で極めて多感であらせられたので、喜劇や大歌劇《グランド・オペラ》は、退屈な国家の政務や国家の機密に与っている彼には、全フランスの窮乏よりも遥かに多く彼を動かす力があった。フランスにとっては幸福なことだ。同じようなことが、フランスと似たようなのに恵まれているあらゆる国々にとって常にそうであるように! ――(一例としては)国を売った陽気なステューアト★のあの遺憾な時代のイギリスにとって常にそうであったように。
 モンセーニュールは総体から見た公務について一つの真に高貴な意見を持っていた。その意見というのは、一切のものをしてそれ自身の路を進ましめよ、というのであった。箇々の公務については、モンセーニュールはそれとは別のやはり真に高貴な意見を持っていた。それは、一切のものはことごとく彼の路を歩まねばならぬ――彼自身の権力と財嚢とを肥す方へ行かねばならぬ、というのであった。総体から見たものと箇々のものとを含めて彼の快楽については、モンセーニュールはまた別のやはり真に高貴な意見を持っていた。それは、この世は彼の快楽のために造られたのだ、というのであった。彼の法則の本文は(原文とは代名詞一つだけ変っているが、それは大したことではない)こうなっていた。「モンセーニュール曰《い》いけるは、地とこれに盈《み》てる物はわがものなり。★」
 それにもかかわらず、モンセーニュールは、卑俗な財政困難ということが彼の公私両方の財政に這い込んでいるのに、ようようにして気がついて来た。それで、彼は、その両方面の財政に関しては、やむをえず収税請負人★と結託したのであった。公の財政に関しては、モンセーニュールはそれを全くどうすることも出来なかったので、それゆえ誰かそれをどうにか出来る者に任《まか》さなければならなかったからであるし、私の財政に関しては、収税請負人は富裕であって、モンセーニュールは代々の非常な奢侈と浪費との結果として貧しくなりつつあったからである。そこで、モンセーニュールは、修道院にいる彼の妹を、彼女が身に著け得る最も廉価な衣装である面紗《ヴェール》をかぶる★のが差迫っているのを断《ことわ》るにまだ時がある間に、そこから連れ戻して、家柄は賤しいがすこぶる富裕な一人の収税請負人に、褒美として彼女を与えたのであった。この収税請負人は、頭部に黄金の林檎のついた身分相応な杖を携えながら、今、外側の室の来客の中にいて、人々に大いに平身低頭されていた。――もっとも、モンセーニュール一門の優秀な人種だけは常にその例外で、その連中は、彼の妻もその中に含めて、最も高慢な侮蔑の念をもって彼を見下《みくだ》していたのである。
 その収税請負人は豪奢な男であった。三十頭の馬が彼の厩舎にいたし、二十四人の家僕が彼の広間に控えていたし、六人の侍女が彼の妻に侍していた。掠奪と徴発との出来る限りはひたすらそれをのみやるということを公言している人間として、この収税請負人は、――彼の婚姻関係がいかに社会道徳に貢献するところがあったにしても、――当日モンセーニュールの邸宅に伺候した貴顕縉紳の間にあっては、少くとも最も現実性に富んだ人物であった。
 なぜなら、その室にいる者たちは、見た目には美しくて、当代の趣味と技巧とでなし得る限りのあらゆる意匠の装飾で飾られてはいるけれども、実際は、健実な代物ではなかったからである。どこか他の処にいる(そしてそれは、貧富の両極端からほとんど等距離にあるノートル・ダムの展望塔がその両方ともを見られないくらいに遠く隔ってもいない処なのであるが)襤褸《ぼろ》と寝帽《ナイトキャップ》とを著けた案山子《かかし》たちと幾分でも関聯して考えると、その室にいる者たちは極めて気持の悪い代物であったろう、――もしモンセーニュールの邸宅で誰かそういうことを考えてみる人間があったとするならばであるが。軍事上の知識に欠けている陸軍士官たち。船の観念を少しも持っていない海軍士官たち。政務の概念をも持たぬ文官たち。好色な眼をし、放縦な舌でしゃべり、更に放縦な生活をしている、最悪の世俗的な世界の人間である、鉄面皮な僧侶たち。そのすべての者たちは彼等のそれぞれの職務に全然不適当であり、そのすべての者たちがその職務に適しているような風をして恐しい嘘をついているが、しかしそのすべての者たちは近いか遠いかの別はあれモンセーニュールの仲間の者であり、それゆえに何かが得られる限りのあらゆる公職に嵌め込んでもらった者なのである。こういう連中は何十何百とまとめて数えなければならないくらいいたのであった。モンセーニュールや国務とは直接には関係のない、しかしそうかと言って真実な何等かのものにも一切等しく関係のない、あるいは何等かの現世の正しい目的に向って何等かの真直な道を通って旅して過す生涯にも関係のない人々も、それに劣らず夥しかった。ありもせぬ架空の病気に高価な治療を施して大財産をつくった医者どもが、モンセーニュールの控の間《ま》で、彼等の閑雅な患者たちに向ってにこにこと微笑の愛嬌を振り撒いていた。国家を犯している小さな悪弊に対するあらゆる種類の救治策を発見していながら、ただの一つの罪悪でも根絶しようと本気でとりかかるという救治策だけは知らない山師どもが、モンセーニュールの接見会《リセプション》で、人の心を迷わす彼等の譫語《たわごと》を手当り次第の人間の耳に注ぎ込んでいた。言葉で世界を改造している、また天に攀じ登るためのバベルの骨牌《かるた》塔★を築いている不信心な哲学者たちは、モンセーニュールによって招集されたこの驚歎すべき会合で、金属の変質ということに著目している不信心な化学者たちと話をしていた。最上等のお仕込を受けた申分のない紳士たち、この最上等のお仕込なるものは、その注意すべき時代にあっては――かつまたそれ以後今日までもそうであるが――人間的な興味のある自然な問題には一切無関心になるというそれの結果によって識別されることになっていたのであるが、そういう紳士たちは、モンセーニュールの邸宅において、最も模範的な倦怠状態にあった。こういうさまざまな名士たちがパリーという立派な世界で彼等の後に残して来た家庭の有様に至っては、そこに集ったモンセーニュールの信者たちの中にまじっている間諜《スパイ》――それはその優雅な来客の半分ほども占めていたが――でも、その社会の天使たち★の中に、態度や容姿で自分が母であるということを自認しているたった一人の人妻さえ見つけ出すことがむずかしい、ということがわかったほどであったろう。実際、一人の厄介な生物をこの世の中へ生み出すというだけの所業――それだけでは母という名前を事実として示すまでには行っていないのである――を除いては、母などというものは上流社会には知られていないのであった。百姓の女たちが野暮な赤ん坊などというものを傍において、育て上げるのであって、六十歳の婀娜なお婆さんたちは二十歳の時のように盛装し晩餐をとるのであった。
 非現実性という癩患がモンセーニュールに伺候するあらゆる人間を醜くしていた。一番外の方の室には、世の中の事態が幾分悪化しつつあるという漠然たる不安を数年前から心の中に抱いていた、半ダースの例外的な人々がいた。その事態を匡正する一つの有望な方法として、その半ダースの人間の中の半分は、痙攣教徒★という奇異な宗派の信者になっていた。そして、その時でさえ、自分たちが、口から泡を出し、暴《あば》れ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、呶鳴り、その場で類癇★に罹って――それによって、モンセーニュールを導くための未来へのすこぶるわかりやすい指道標を建てるのであるが――みせたものかどうかと、心の中で考えているところであった。こういう苦行僧の他《ほか》に、別の宗派へ飛び込んで行った他の三人がいた。その宗派というのは、「真理の中心」がどうのこうのという譫語《たわごと》で事態を矯正しようとするものであった。すなわち、人間は真理の中心から離れてしまっている――それは大して論証を必要としない――が、またその円周の外へは出ていない、だから、人間は、断食することと精霊を見ることとによって、その円周の外へ飛び出さぬようにしていなければならぬし、またその中心へ押し戻されさえしなければならぬ、ということを主張したのであった。従って、こういう連中の間では、精霊との談話が大いに行われ、――そして、それには、決して明瞭になっては来なかったたくさんの御利益《ごりやく》があったのである。
 しかし、幾分心の慰めにもなろうというのは、モンセーニュールの大邸宅に集ったすべての来客が一点の欠点もない服装をしていることであった。もしも最後の審判日が盛装|日《デー》であるということが確められさえしたならば、そこに集った者は誰も彼も永遠に正しいものとなれたことであろう。あのように縮らして髪粉をつけてぴんと立てた頭髪や、人工的に保持され修飾されているあのように美しい顔色や、あのように見るも華美な佩剣や、嗅覚に対するあのように鋭敏な配慮をもってすれば、確かにどんなものでもいつまでもいつまでも保たせることが出来るであろう。最上等のお仕込を受けた申分のない紳士たちは、彼等がものうげに動くたびにちりんちりんと鳴る小さな垂れ下っている飾物を身に著けていた。こうした黄金の拘束物は貴金属の小さな鈴のように鳴り響いた。そして、それの鳴り響く音や、絹や金襴や上質の亜麻のさらさら擦れる音などのために、そこの空気の中には、サン・タントワヌと彼のがつがつした飢餓とを遠くへ吹き飛ばしてしまうほどの激動があったのだ。
 服装こそはあらゆるものをそれぞれの位置に保たしめるに用いられる唯一の間違いのない護符であり呪文であった。各人は決して終ることのない仮装舞踏会のために衣服を著けているのであった。テュイルリーの宮殿★から、モンセーニュールと全宮廷とを経て、議院や、法廷や、すべての社会(あの案山子たちだけを除いて)を経て、その仮装舞踏会は下賤な死刑執行吏にまで及んだ。その死刑執行吏でさえ、かの呪文に遵って、「頭髪を縮らし、髪粉をつけ、金モールの上衣、扁底靴★、白絹の靴下を著用して」職務を執行せよと命ぜられていたのだ。絞首刑や車輪刑★――斧鉞の刑は稀であった――の時には、ムシュー・パリー★、とムシュー・オルレアンやその他の彼の地方の同業者たちの間では監督派流儀に★彼をそう言ったのであるが、そのムシュー・パリーは、そういう優美な服装で職を司ったものである。そして、そのキリスト紀元千七百八十年にモンセーニュールの接見会《リセプション》に集った賓客たちの中で、頭髪を縮らし、髪粉をつけ、金モール服を著、扁底靴を穿き、白絹靴下を穿いた一校刑史に根ざしたある制度★が、余人ならぬ自分たちの運の星の消えるのを見ることになろうとは、誰がおそらく思ったことであろう!
 モンセーニュールは彼の四人の侍者の重荷を卸してやって彼のチョコレートを飲んでしまうと、最も神聖な処の中でも最も神聖な処の扉《ドア》をさっと開かせて、現れ出でた。すると、何という従順、何という阿諛追従、何という卑屈、何というあさましい屈従! 体《からだ》と心との平伏については、その方法ではもう少しも天帝に対してすることが残されていないくらいであった。――それが、モンセーニュールの礼拝者たちが天帝を決して煩わさなかった★いろいろな理由の中の一つであったのかもしれない。
 ここでは約束の一言を授け、かしこでは一つの微笑を贈り、一人の幸福な奴隷には一片の耳語を恵み、別の幸福な奴隷には片手の一振りを与えながら、モンセーニュールはにこやかに彼の部屋部屋を通り過ぎて、真理の円周の遠い果《はて》までも行った。そこまで行くと、モンセーニュールはくるりと向を変え、また引返して来て、そうしているうちにしかるべき時がたつと自分を例のチョコレート妖精たちの手によって自分の聖堂の中へ閉じこめさせてしまって、それきり姿を見せなかった。
 見世物が終って、そこの空気中の例の激動はほんの小さな嵐になり、例の貴金属の小さな鈴はちりんちりん鳴り響きながら階下へ降りて行った。まもなくすべての群集の中でただ一人の人物だけがそこに残された。その男は、帽子を腕の下に、嗅煙草入れを片手に持ちながら、鏡の間《あいだ》をゆっくりと通って出口の方へ行った。
「貴様なんぞは、」とこの人物は、彼の途中にある最後の扉《ドア》のところで立ち止って、例の聖堂の方角へ振り向きながら、言った。「悪魔に喰われてしまえ!」
 そう言うと、彼は足の埃《ほこり》を振り払うように指から嗅煙草を振り払い、それから静かに階下へと歩いて降りた。
 彼は、立派な服装をした、態度の尊大な、精巧な仮面のような顔をした、六十歳ばかりの男であった。透き通るように蒼白い顔。いずれもはっきりとした目鼻立ち。それに浮べた動かぬ表情。鼻は、他の点では美しい恰好をしているが、両方の鼻孔の上のところがごく微かに撮まれたようになっていた。その二つの圧搾したようなところ、あるいは凹みに、その顔の示す唯一の小さな変化は宿っているのだった。その凹みは、時としては頻りに色を変えることがあったし、また何か微かな脈搏のようなもののために折々拡がったり縮まったりした。そんな時には、それはその容貌全体に陰険と残忍との相を与えたのだった。注意して吟味してみると、そういう相を助長するその容貌の能力は、口の線と、眼窩の線とが、余りにはなはだしく水平で細いということの中にあるのであった。それにしても、その顔の与える印象から言えば、それは美しい顔であり、また非凡な顔であった。
 この顔の持主は階段を降りて庭に出ると、自分の馬車に乗り込み、馬を走らせて去った。接見会《リセプション》では彼と話をした人は多くはなかった。彼は皆とは離れて狭い場席に立っていたし、またモンセーニュールも彼に対してはもっと温かい態度を示してもよかりそうなものであった。そういう次第であったから、彼には、平民どもが自分の馬の前でぱっと散って、時々は轢き倒されそうになって危く免れるのを見るのは、かえって愉快であるらしかった。彼の馭者はまるで敵軍に向って突撃するかのように馬車を駆った。しかも、馭者のその狂暴な無鉄砲さは、主人の顔に阻止の色を浮べさせたり、脣に制止の言葉を上《のぼ》させたりすることがなかった。馬車を激しく駆るという貴族の乱暴な風習が、歩道のない狭い街路では、ただの庶民を野蛮的に危険な目に遭わせたり不具にしたりするという苦情が、その聾《つんぼ》の都会と唖《おし》の時代とにおいてさえ、時折は聞き取れるようになることがあった。しかし、そんな苦情を二度と考え直すほどそれを気にかける者はほとんどいなかった。そして、このことでも、他のすべてのことにおけると同様に、みじめな平民たちは自分たちの難儀を自分たちの出来る限り免れるようにするより他《ほか》はなかったのである。
 烈しいがらがらがたがたという音を立てながら、今の時代では了解するのに容易ではないほどの不人情な思いやりのなさで、その馬車は幾つもの街をまっしぐらに駈け抜け、幾つもの街角を飛ぶように走り曲って行き、女たちはその前で悲鳴をあげるし、男たちは互に掴まったり子供たちをその通路の外へ掴み出したりした。とうとう、一つの飲用泉の近くのある街角のところへ走りかかった時に、馬車の車輪の一つが気持悪くちょっとがたつき、数多《あまた》の声があっと大きな叫び声をあげ、馬どもは後脚で立ったり後脚で跳び上ったりした。
 この馬が跳び立つという不便なことがなかったなら、馬車はおそらく止らなかったであろう。馬車がそれの轢いた負傷者を置去りにしてそのまま駆けてゆくということはよくあることであったし、どうしてそんなことのないはずがあろう? しかし、びっくりした側仕《そばづかえ》はあたふたと降り、馬の轡や手綱には多数の手がかかった。
「何の故障か?」と馬車に乗っている方《かた》が、静かに顔を外に出して見ながら、言った。
 寝帽《ナイトキャップ》をかぶった一人の脊の高い男が馬の脚の間から包みのようなものを抱え上げ、それを飲用泉の台石の上に置いて、泥土《どろつち》のところへ坐って、その上に覆いかぶさりながら野獣のように咆えていた。
「御免下さりませ、侯爵さま!」と襤褸を著た柔順な一人の男が言った。「子供でござります。」
「どうしてあの男はあのような厭《いと》わしい声を立てているのじゃ? あの男の子供なのか?」
「失礼でござりますが、侯爵さま、――可哀そうに、――さようでござります。」
 飲用泉は少し離れたところにあった。というのは、街路は、それのあるところでは、十ヤードか十二ヤード四方ほどの広さに拡がっていたからである。その脊の高い男が突然地面から起き上って、馬車をめがけて走って来た時、侯爵閣下は一瞬剣の※[#「木+覇、第4水準2-15-85]《つか》にはっと手をかけた。
「殺された!」とその男は、両腕をぐっと頭上に差し伸ばし、彼をじっと見つめながら、気違いじみた自暴自棄の様子で、言った。「死んじゃった!」
 人々は周りに寄り集って、侯爵閣下を眺めた。彼を眺めている多くの眼には、熱心に注意していることの他《ほか》には、どんな意味も現れてはいなかった。目に見えるほどの威嚇や憤怒はなかった。また人々は何も言いはしなかった。あの最初の叫び声をあげた後には、彼等は黙ってしまったし、そのままずっと黙っていた。口を利いた例の柔順な男の声は、極端な柔順さのために活気も気力もないものであった。侯爵閣下は、あたかも彼等がほんの穴から出て来た鼠ででもあるかのように、彼等一同をじろりと眺め※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
 彼は財布を取り出した。
「お前ら平民どもが、」と彼が言った。「自分の体や子供たちに気をつけていることが出来んというのは、わしにはどうも不思議なことじゃがのう。お前たちの中の誰か一人はいつでも必ず邪魔になるところにいる。お前たちがこれまでにわしの馬にどれだけの害を加えたかわしにもわからぬくらいじゃ。そら! それをあの男にやれ。」
 彼は側仕に拾わせようとして一枚の金貨を投げ出した。すると、すべての眼がその金貨の落ちるのを見下せるようにと、すべての頭が前の方へ差し延べられた。脊の高い男はもう一度非常に気味悪い叫び声で「死んじゃった!」と喚《わめ》いた。
 彼は別の男が急いでやって来たために言葉を止《や》めた。他の者たちはその男のために道を開《あ》けた。この男を見ると、その可哀そうな人間はその男の肩に倒れかかって、しゃくりあげて泣きながら、飲用泉の方を指さした。その飲用泉のところでは、何人かの女たちがあの動かぬ包みのようなものの上に身を屈めたり、それの近くを静かに動いたりしていた。だが、その女たちも男たちと同様に黙っていた。
「おれにはすっかりわかってるよ、すっかりわかってるよ。」とその最後に来た男が言った。「しっかりしろよ、なあ、ガスパール★! あの可哀そうな小《ちっ》ちゃな玩具《おもちゃ》の身にとってみれあ、生きてるよりはああして死ぬ方がまだしもましなんだ。苦しみもせずにじきに死んだんだからな。あれが一時間でもあんなに仕合せに生きていられたことがあったかい?」
「おいおい、お前は哲学者じゃのう。」と侯爵が微笑《ほほえ》みながら言った。「お前は何という名前かな?」
「ドファルジュと申します。」
「何商売じゃ?」
「侯爵さま、酒屋で。」
「それを拾え、哲学者の酒屋。」と侯爵は、もう一枚の金貨をその男に投げ与えながら、言った。「そしてそれをお前の勝手に使うがよいぞ。それ、馬だ。馬に異状はないか?」
 群集をもう一度見て遣《つかわ》しもされずに、侯爵閣下は座席に反《そ》り返って、過《あやま》って何かのつまらぬ品物を壊したが、それの賠償はしてしまったし、その賠償をするくらいの余裕はちゃんとある紳士のような態度で、今まさに馬車を駆って去ろうとした。その時に、彼のゆったりとした気分は、突然、一枚の金貨が馬車の中に飛び込んで来て、その床《ゆか》の上でちゃりんと鳴ったのに、掻き乱された。
「待て!」と侯爵閣下は言った。「馬を停めておけ! 誰が投げおったのか?」
 彼は、ちょっと前まで酒屋のドファルジュが立っていた場所に眼をやった。が、その場所にはさっきのあの哀れな父親が鋪石《しきいし》の上に俯向になってひれ伏していて、その傍に立っている人の姿は編物をしている一人の浅黒いがっしりした婦人の姿であった。
「この犬どもめが!」と侯爵は、しかし穏かな語調で、例の鼻の凹みのところだけを除いては顔色も変えずに、言った。「わしは貴様らを誰だろうと構わずにわざと馬に踏みにじらせて、貴様らをこの世から根絶やしにしてくれたいのじゃわい。もしどの悪党が馬車に投げつけおったのかわかろうものなら、そしてその盗賊めが馬車の近くにいようものなら、そやつを車輪にかけて押し潰してやるのじゃが。」
 彼等はずいぶん怖気《おじけ》づいていたし、それに、そういうような人間が、法律の範囲内で、またその範囲を越えて、彼等に対してどんなことをすることが出来るかということの経験は、ずいぶん久しい間のつらいものであったので、一つの声も、一つの手も、一つの眼さえも、挙げる者がなかった。男たちの中には、一人もなかったのだ。しかし、編物をしながら立っている例の婦人だけはきっと見上げ、侯爵の顔を臆せずに見た。それに気を留めることは侯爵の威厳に関わることであった。彼の侮蔑を湛えた眼は彼女をちらりと眺め過し、他のすべての鼠どもをちらりと眺め過した。それから再び座席に反り返って、「やれ!」と命じた。
 彼は馬車を駆らせて行った。そして他の馬車が後から後へと続々と馳せ過ぎて行った。大臣、国家の山師、収税請負人、医師、法律家、僧侶、大歌劇《グランド・オペラ》、喜劇、燦然たる間断なき流れをなした全仮装舞踏会は、馳せ過ぎて行った。例の鼠どもはそれを見物しに彼等の穴から這い出して来ていた。そして彼等は幾時間も幾時間も見物していた。軍隊と警官隊とがしばしば彼等とその美観との間を通って行って、障壁を作り、彼等はその障壁の背後へこそこそと逃げ、その間からそっと隙見したのだった。さっきの父親はずっと前に自分のあの包みを取り上げるとそれを持って姿を隠してしまい、その包みが飲用泉の台石の上に置いてあった間それに附き添うていた女たちは、そこに腰を下して、水の流れるのと仮装舞踏会が馬車で走ってゆくのとを見守っていたし、――編物をしながら一|際《きわ》目立って立っていた例の一人の婦人は、運命の如き堅実さをもってなおも編物をし続けていた。飲用泉の水は流れて行った。かの馬車の迅速な河は流れて行った。昼は流れて夜となった。その都会の中の多くの生命は自然の法則に従って死へと流れ入って行った。歳月の流れは人を待たなかった。鼠どもは再び彼等の暗い穴の中でくっつき合って眠っていた。仮装舞踏会は晩餐の席で輝かしく照されていた。万物はそれぞれの進路を流れて行った。
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    第八章 田舎における貴族《モンセーニュール》

 美しい風景。そこには穀物が実ってはいるが、豊かではない。麦のあるべき処にみすぼらしいライ麦の畑。みすぼらしい豌豆《えんどう》や蚕豆《そらまめ》の畑、ごく下等な野菜類の畑が小麦の代りになっている。非情の自然にも、それを耕している男女たちに見ると同様に、不承不承に生長しているように見える一般的な傾向――諦めて枯れてしまおうとする元気のない気風。
 侯爵閣下は、四頭の駅馬と二人の馭者とによって嚮導された、彼の旅行馬車(それはいつもの馬車よりは軽快なものであったかもしれなかった)に乗って、嶮しい丘をがたごとと登っていた。侯爵閣下の面上の赤味は彼の立派な躾の非難になるものではなかった★。それは内から起ったものではなかった。それは彼の意力ではどうにも出来ぬ一つの外的の事情――沈みゆく太陽のためになったものであった。
 旅行馬車が丘の頂上に達した時にその落陽は非常に燦然と車内へ射し込んで来たので、中に乗っている人は真紅色に浸された。「もうじきに、」と侯爵閣下は自分の手をちらりと眺めながら言った。「薄らぐじゃろう。」
 事実、太陽は地平線に近く傾いていたので、その瞬間に没しかけた。重い輪止《わどめ》が車輪にかけられて、馬車が雲のような砂埃《すなぼこり》を立て燃殻《もえがら》のような臭いをさせながら丘を滑り下っている時、真赤な夕焼は急速に薄くなって行った。太陽と侯爵とは共に下《くだ》って行ったので、輪止が取り外された時には夕焼はもう少しも残っていなかった。
 しかし、そこには、断崖をなしたところも広々としたところもある起伏した土地、その丘の麓にある小さな村、その向うの広い見晴しと高台、教会堂の塔、風車、狩猟をするための森、牢獄として使われている堡塁が上に立っている断巌などが残っていた。夜が近づくにつれて暗くなってゆくこういうすべてのものを、侯爵は、いかにも家路に近づいている者のような様子で、ぐるりと見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
 その村にはただ一筋の貧乏くさい街路があって、そこには貧乏くさい酒造場や、貧乏くさい製革所や、貧乏くさい居酒屋や、駅馬の継替えのための貧乏くさい厩舎や、貧乏くさい飲用泉や、普通の通りのすべての貧乏くさい設備があった。そこにはまた貧乏くさい村民もいた。その村民は皆貧乏であった。彼等の中には、戸口に腰を下して、夕食の用意に貧弱な玉葱などを細かく裂いている者も多くいたし、また、飲用泉のところで、葉だの、草だの、何でもそういうような土から出来るもので食べられるいろいろの小さなものだのを洗っている者も多くいた。彼等を貧乏にさせたものの意味深い証拠も欠けてはいなかった。国への租税、教会への租税、領主への租税、地方税や一般税が、その小さな村の厳《おごそ》かな掟に従って、こちらへ払いあちらへ払いしなければならなかったので、遂には、どんなものであろうととにかく村というものが呑み込まれずに残っているということが、不思議なくらいであった。
 子供はあまり見かけられなかったし、犬は一匹も見えなかった。大人《おとな》の男や女については、この世で彼等の選ぶことの出来る道は次の予想の中に述べられていた。――すなわち、製粉所の下にある小さな村で、命を支えられる限りの最低の条件で生きてゆくか、それとも、断巌の上に高く聳え立っている牢獄の中で監禁されて死んでゆくかだ。
 先頭に立った一人の従僕に先触れされて、また、あたかも侯爵が蛇髪復讐女神《フュアリー》★たちに供奉されてやって来たかのように、馭者たちの鞭が夕暮の空気の中で彼等の頭の周りを蛇のように絡まってひゅうひゅうと鳴る音に先触れされて、侯爵閣下は旅行馬車に乗ったまま宿駅の門のところで停った。そこは飲用泉の近くであって、農夫たちはしていた仕事を中止して彼を眺めた。彼も彼等を眺め、そして、彼等のうちに、貧苦に窶れた顔や姿が徐々に確実に削り落されているのを、そうと気づきはしなかったが、目にした。その彼等の顔や姿が削り落されていることが、フランス人は痩せているということをイギリス人の迷信にしたのであったが、その迷信はそういう事実のなくなった後も百年近くまで続いているのである。
 侯爵閣下が、彼自身と同類の連中が宮廷のモンセーニュールの前にうなだれたように、彼自身の前にうなだれている柔順な顔――ただ、その相違は、これらの顔は単に耐え忍ぶためにうなだれているのであって御機嫌を取るためではない、ということであったが――をずっと見やった時、一人の白髪雑《しらがまじ》りの道路工夫がその群に加わった。
「あいつをここへ連れて来い!」と侯爵は従僕に言った。
 その男は帽子を片手にして連れて来られた。すると、他の連中は、あのパリーの飲用泉のところにいた人々と同じような工合に、周りに寄り集ってじっと見ながら聞耳を立てた。
「わしは途中でお前の傍を通ったようじゃが?」
「閣下《モンセーニュール》、仰せの通りでござります。お途中で手前めの傍をお通り遊ばしました。」
「丘を登っている時と、丘の頂と、二度じゃな?」
「閣下《モンセーニュール》、仰せの通りでござります。」
「お前は何をあんなにじいっと見ておったのか?」
「閣下《モンセーニュール》、手前はあの男を見ておりましたのでござります。」
 彼は少し身を屈めて、自分のぼろぼろになった青い帽子で馬車の下を指した。他の者どもも皆身を屈めて馬車の下を見た。
「どの男じゃ、豚め? そしてお前はなぜそこを見ておるのじゃ?」
「御免下さりませ、閣下《モンセーニュール》。奴はその歯止沓《はどめぐつ》★――輪止の鎖にぶら下っておりましたんで。」
「誰がじゃ?」とその旅行者が問うた。
「閣下《モンセーニュール》、あの男のことで。」
「この阿呆どもめは悪魔にさらわれてしまうがいい! その男は何という名前か? お前はこの辺の者を一人残らず知っておるじゃろう。そやつは誰だったのじゃ?」
「へえ、閣下《モンセーニュール》! そいつはこの辺の者じゃござりませなんだ。生れてからこっち、手前はそいつを一度も見たことがござりませなんだ。」
「鎖にぶら下っておったと? 息《いき》を詰らすためか?」
「御免を蒙りまして申し上げますが、それが不思議なところでございましたよ、閣下《モンセーニュール》。そいつの頭は仰向にぶら下っておりました、――こんな風に!」
 彼は馬車に対して横になるように体《からだ》を向け、反《そ》り返って、顔を空の方へ振り向け、頭をだらりと下げた。それから、体を元へ戻して、帽子をいじくって、ぴょこんと一つお辞儀をした。
「そやつはどんな様子をしておったか?」
「閣下《モンセーニュール》、その男は粉屋よりも真白でござりました。すっかり埃《ほこり》をかぶって、幽霊のように白くって、幽霊のように脊が高く★って!」
 この画のような言い方はそこにいた小さな群集に非常な感動を惹き起した。が、すべての眼は、他の眼と※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《めくば》せもせずに、侯爵閣下を眺めた。たぶん、彼には良心を悩ます幽霊などというものがいるかどうかということを観察するためであったのだろう。
「なるほど、お前はでかしおったわい。」と侯爵は、こういう虫けらどもを相手に立腹すべきではないとうまく気がついて、言った。「泥坊めがわしの馬車にくっついているのを見ておりながら、お前のその大きな口を開いて知らせようともしなかったとはな。ちえっ! この男をあちらへ連れて行け、ムシュー・ガベル!」
 ムシュー・ガベルはそこの宿駅長であって、他に何かの徴税吏をも兼ねていた。彼は、さっきから、この訊問を輔佐するためにすこぶる追従するような態度で出て来ていて、その訊問されている者の腕のところの服をいかにも役人らしい風に掴んでいたのである。
「ちえっ! あちらへ行け!」とムシュー・ガベルが言った。
「今の他所者《よそもの》が今夜お前の村で宿を取ろうとしたらそやつを捕えておけ。そしてそやつに悪い事をさせぬようにきっと気をつけるのじゃぞ、ガベル。」
「閣下《モンセーニュール》、御命令は必ず遵奉いたしますつもりでございます。」
「そやつは逃げ失せてしまったのか、野郎めは? ――さっきの罰当りはどこにいる?」
 その罰当りは既に六人ばかりの特別に親しい友達★と一緒に馬車の下に入っていて、自分の青い帽子で例の鎖を指し示していた。別の六人ばかりの特別に親しい友達がすぐさま彼をひっぱり出して、息《いき》もつかせずに侯爵閣下のところへ出した。
「その男は逃げ失せてしまったのか、この頓馬め、馬車が輪止をかけに停った時にな?」
「閣下《モンセーニュール》、奴は、川の中へ跳び込む人間のように、頭を先にして、丘の坂のとこるをまっさかさまに跳び下りてゆきましてござります。」
「それを調べてみろ、ガベル。馬車をやれ!」
 鎖を見つめていた例の六人の者は、羊のようにかたまって、まだ車輪の間にいた。その車輪が突然囘転し出したのだから、彼等が皮と骨とを助かったのは全く僥倖であった。その皮と骨との他《ほか》には彼等には助かるべきものはほとんどなかったのだ。でなければ彼等はそれほど運がよくなかったかもしれなかった。
 馬車は急に村から駈け出して、その向うの高台へと登って行ったが、その勢はまもなくその丘の嶮しさに阻まれた。次第に、馬車は速力が衰えて並足となり、夏の夜のいろいろの甘い香《かおり》の間をゆらゆらと揺れがたがたと音を立てながら登って行った。馭者たちは、無数の遊糸《いとゆう》のような蚋《ぶよ》があの蛇神復讐女神《フュアリー》に代って自分たちの周りをぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っている中を、ゆったりと自分たちの鞭の革紐の先を繕っていた。側仕《そばづかえ》は馬の脇を歩いて行った。従僕はぼんやりと見える遠くの方へ先頭に立って駈けて行くのが聞き取れた。
 丘の一番嶮しい地点に小さな墓地があって、そこに一つの十字架があり、その十字架に救世主キリストの新しい大きな像がついていた。それはみすぼらしい木像で、誰か未熟な田舎の彫刻師の作ったものであったが、その彫刻師はこの像を実物――おそらくは、自分という実物――から考案したのであった。というのは、それは恐しく痩せ細っていたから。
 永い間だんだんと悪くなって来ていて、まだその一番悪いところへ来ていない一つの大きな悲惨の、この悲惨な表象★に向って、一人の女が跪いていた。彼女は馬車が自分に近づいて来ると頭を振り向け、素速く立ち上り、馬車の扉《ドア》のところに現れた。
「ああ、閣下《モンセーニュール》! 閣下《モンセーニュール》、お願いでございます。」
 閣下《モンセーニュール》は、苛立《いらだ》たしい声を立てたが、顔色は例の通り変えもせずに、窓の外に顔を出した。
「どうした! 何のことじゃ? いつもいつもお願いじゃな!」
「閣下《モンセーニュール》。お慈悲でございます! 御猟場番人の、私の亭主のことで。」
「猟場番人の、お前の亭主がどうしたのじゃ? お前らの言うことはいつもいつも同《おんな》じじゃ。何かが納められないのじゃろう?」
「亭主はすっかり納めました、閣下《モンセーニュール》。亭主は死にました。」
「そうか! では安穏になっておるのじゃ。わしがそれをお前のところへ生き返らせてやれるか?」
「ああ、さようではございません、閣下《モンセーニュール》! しかし亭主は、あそこに、萎《しな》びた草が少しばかりかたまって生えているところの下におります。」
「それで?」
「閣下《モンセーニュール》、そういう萎びた草の少しかたまって生えているところがそれはそれはたくさんございます!」
「それで?」
 彼女は年寄の女のように見えたが、ほんとうは若いのであった。彼女の物腰は強い悲歎を抱いているような物腰であった。代る代る、彼女はその筋立った瘤だらけの両手を烈しく力をこめて握り合せたり、片手を馬車の扉《ドア》にかけたりした、――まるでその扉《ドア》が人間の胸であって、訴える手の触るのを感じてくれるもののように、やさしく、撫でさすりながら。
「閣下《モンセーニュール》、お聞き下さいませ! 閣下《モンセーニュール》、私のお願いをお聞き下さいませ! 私の亭主は貧乏のために死にました。たくさんの者が貧乏のために死にます。もっとたくさんの者が貧乏のために死にますでしょう。」
「それで? わしがその者どもを養えるか?」
「閣下《モンセーニュール》、それは有難い神さまだけが御存じでございます。けれども私はそんなことをお頼みするのではございません。私のお願いいたしますのは、私の亭主の名前を書きました小さな石か木片《きぎれ》を一つ、亭主の寝ております場所がわかりますように、その上に置かせていただきたいということでございます。でございませんと、その場所はじきに忘れられてしまいますでしょう。私が同じ病で死にます時にはそこはどうしても見つからないでこざいましょう。私はどこか他《ほか》の萎びた草のかたまって生えているところの下に埋められますでしょう。閣下《モンセーニュール》、死ぬ者はそれはそれはたくさんでございます。死ぬ者はずんずん殖えて参ります。貧乏な者がそれはそれはたくさんでございますから。閣下《モンセーニュール》! 閣下《モンセーニュール》!」
 側仕は彼女を扉《ドア》から押し除け、馬車は急に疾《はや》い早足で駈け出し、馭者は馬の足を速めさせたので、彼女は遥かの後に取残され、そして閣下《モンセーニュール》は、再び蛇髪復讐女神《フュアリー》に護衛されて、彼と彼の館《やかた》との間に残っている一二リーグ★の距離を急速に短縮しつつあった。
 夏の夜の甘い香《かおり》は彼の周囲一面にたちこめた。そしてまた、そこから遠く離れてもいない飲用泉のところにいる、塵まみれの、襤褸《ぼろ》を著た、働き疲れた群《むれ》の上にも、雨の降るように、偏頗なくたちこめた。その群《むれ》に向って、例の道路工夫は、彼の全部であるところの例の青い帽子の助けを藉りて、彼等の辛抱出来る限り、さっきの幽霊のような男のことをまだ頻りに述べ立てていた。そのうちに、だんだんと、彼等は辛抱が出来なくなるにつれて、一人一人と減ってゆき、小さな窓々の中に灯火が瞬き出した。その灯火は、窓が暗くなってもっと星が出て来るにつれて、消されたのではなくて空へ打ち上げられたように思われた。
 その頃、屋根の高い大きな家と、枝を拡げたたくさんの樹木との影が、侯爵閣下に覆いかかっていた。そして、その影は、彼の馬車が停った時に、火把《たいまつ》の光と入れ換った。それから彼の館の大扉が彼に向って開かれた。
「ムシュー・シャルルがわしを訪ねて来るはずじゃが。イギリスから到著しておるか?」
「閣下《モンセーニュール》、まだ御到著ではございませぬ。」
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    第九章 ゴルゴンの首

 侯爵閣下のその館《やかた》は、どっしりとした建物であって、その前面には石を敷いた広い庭があり、二条の彎曲した石の階段が、表玄関の扉《ドア》の前にある石の露台《テレス》で出会っていた。何から何まで石だらけの建物で、どちらを向いても、どっしりした石造の欄干や、石造の甕や、石造の花や、石造の人間の顔や、石造の獅子の頭などがある。まるで、二世紀前にその建物が竣工した時に、ゴルゴン★の首がそれを検分したかのよう。
 侯爵閣下は馬車から出て、火把《たいまつ》を先に立てて、浅く段をつけた幅広の上り段を上って行ったが、その火把はあたりの暗闇《くらやみ》を掻き乱し、彼方《かなた》の樹の間の厩の大きな建物の屋根にいる一羽の梟から声高い抗議を受けたほどであった。その他《ほか》のすべてのものはごく静かであったので、階段を上りながら持って行かれる火把と、玄関の大扉のところで差し出されているもう一つの火把とは、夜の戸外にあるのではなくて、密閉した宏壮な室の中にでもあるもののように燃えていた。梟の声の他《ほか》に聞える物音とては、噴水がその石の水盤に落ちる音ばかりであった。何しろ、その夜は、何時間も続けざまに息《いき》を殺し、それから長い低い溜息を一つ吐いて、また息を殺すと言われるあの闇夜《やみよ》なのであったから。
 玄関の大扉が背後で鏘然たる音を立てて閉《し》まると、侯爵閣下は、古い猪猟槍や、刀剣や、狩猟短剣などで物凄く飾られ、また、今はおのが保護者なる死の許《もと》へ行っている多くの百姓たちが、領主の怒りに触れた時にそれで打たれたところの、太い乗馬笞や馬鞭などでいっそう物凄く飾られている表広間を、横切って行った。
 夜の用心のために戸締りをしてある、暗い、大きな部屋部屋を避けながら、侯爵閣下は、火把持を前に歩かせて、階段を上って、廊下に向いている一つの扉《ドア》のところまで行った。その扉《ドア》がさっと開《あ》けられると、彼は、寝室と他の二室、都合三室の彼自身の私室へ入った。床《ゆか》には凉しげに絨毯を敷いてない、高い円天井の室で、炉には冬季に薪を燃やすための大きな薪架があり、豪奢な時代の豪奢な国の侯爵という身分にふさわしいあらゆる豪奢なものがあった。決して断絶することがないはずの王統★の先々代のルイ――ルイ十四世――時代の流行様式が、この三室の高価な家具に歴然と顕れていた。が、それは、フランスの歴史の古い時代の頁の挿絵ともなるべきところの数多《あまた》の品によって変化を与えられてもいた。
 その室の中の第三の室には、夕食の食卓に二人前の用意がしてあった。そこは、その館の消化器のような恰好★をした四つの塔の一つの中にある、円形の室であった。小さな、天井の高い室で、そこの窓は一杯に開《あ》け放ってあり、木製の鎧戸は閉《し》めてあったので、暗い夜の闇は、鎧戸の石色の幅広の線と互違いに、幾つもの黒い細い水平の線になって見えるだけだった。
「甥めは、」と侯爵は、その夕食の準備をちらりと見やって、言った。「到著しておらぬということじゃったが。」
 御到著ではありませんが、閣下《モンセーニュール》と御一緒のことと思っておりましたので、とのことであった。
「うむ! 奴は今夜は著きそうにもない。でも、食卓はそのままにしておけ。わしは十五分のうちに身支度を整えるから。」
 十五分のうちに閣下《モンセーニュール》は身支度を整えて、選りすぐった贅沢な夕食に向ってただ独り著席した。彼の椅子は窓と向い合っていたが、彼はスープを吸ってしまって、ボルドー葡萄酒の杯を脣へ持って行きかけた時に、その杯を下に置いた。
「あれは何じゃな?」と彼は、例の黒色と石色との水平の線のところをじっと気をつけて見ながら、静かに尋ねた。
「閣下《モンセーニュール》? あれと仰せられますと?」
「鎧戸の外じゃ。鎧戸を開《あ》けてみい。」
 その通りにされた。
「どうじゃ?」
「閣下《モンセーニュール》、何でもございませぬ。樹と闇とがあるだけでございます。」
 口を利いたその召使人は、鎧戸をさっと開《あ》けて、顔を突き出して空虚な暗闇を覗いて見てから、振り返ってその闇を背後にして、指図を待ちながら立った。
「よろしい。」と落著き払った主人が言った。「元の通りに閉《し》めろ。」
 それもその通りにされ、侯爵は食事を続けた。食事を半ば終えた頃、彼は、車輪の音を聞いて、手にしている杯を再び止《とど》めた。その音は威勢よく近づいて、館の正面までやって来た。
「誰が来たのか尋ねて来い。」
 それは閣下《モンセーニュール》の甥であった。彼は午後早くに閣下《モンセーニュール》の後数リーグばかりのところまで来ていたのであった。彼はその距離を急速に短縮したのだが、しかし途中で閣下《モンセーニュール》に追いつくほどに急速ではなかった。彼は閣下《モンセーニュール》が自分の前に行くということは宿駅で聞いていたのだ。
 ちょうどこちらに晩餐の用意がしてあるから、どうか来て食事していただきたい、と彼に言って来い(閣下《モンセーニュール》がそう言ったのであるが)とのことであった。まもなく彼はやって来た。彼はイギリスでチャールズ・ダーネーとして知られている人物であった★。
 閣下《モンセーニュール》は彼を慇懃な態度で迎えた。が二人は握手をしなかった。
「あなたは昨日《きのう》パリーをお立ちになりましたのですね?」と彼は、食卓に向って著席した時に、閣下《モンセーニュール》に言った。
「昨日《きのう》。で、お前は?」
「私は真直に参りました。」
「ロンドンから?」
「そうです。」
「お前は来るのにだいぶん永くかかったようじゃのう。」と侯爵は微笑を浮べながら言った。
「どういたしまして。私は真直に来ましたのです。」
「いや失礼! わしの言うのは、旅行に永くかかったというのじゃない。旅行をする気になるのに永くかかったというのじゃ。」
「私の手間取りましたのは、」――と甥はちょっと返答をためらって――「いろいろな用事のためでした。」
「そうだろうとも。」と垢抜けのした叔父は言った。
 召使人がいる間は、それ以外の言葉は二人の間に交《かわ》されなかった。珈琲が出されて、二人だけになると、甥は、叔父を見つめて、精巧な仮面に似た顔の眼と見合いながら、話を切り出した。
「あなたもお察しのように、私の戻って参りましたのは、私が国を去りました目的を続行するためです。その目的のためには私は大きな思いがけない危険に陥りました。しかし、それは神聖な目的です。ですから、もし私がそれのために死ぬところまで行ったとしても、私はそれをやり通したろうと思います。」
「死ぬところまでということはないさ。」と叔父は言った。「死ぬところまで、などと言う必要はないよ。」
「もし私が、」と甥が返答した。「そのために死の瀬戸際まで連れて行かれたとしても、あなたがそこで私を止めてやろうと気にかけて下すったかどうか、怪しいものですねえ。」
 鼻にあるあの深くなったところと、残忍な顔にあるあの細い真直な線が長くなったこととで見ると、そのことは到底望みがないと思われた。叔父はそんなことがあるものかという抗議の優雅な手振りを一つしたが、それは上品な躾から来たちょっとした形式であることは明かであったので、相手に安心を与えるようなものではなかった。
「実際のところ、」と甥が続けて言った。「私の知っている限りでは、あなたは、私を取巻いていた嫌疑を受けやすい事情に、いっそう嫌疑を受けやすい外見を与えるようにと、殊更にお骨折になったかもしれませんね。」
「いや、いや、そんなことはしないさ。」と叔父は面白そうに言った。
「しかし、それはともかく、」と甥は、深い疑惑の念をもって彼をちらりと眺めながら、再び言い始めた。「あなたの御方針がどうしてでも私に思い止らせよう、そしてそのためにはどんな手段であろうと躊躇しないというのであることは、私は承知しています。」
「のう、お前、わしはお前にそう言い聞かせたはずじゃ。」と叔父は、例の二つの凹みのところを微かに脈|搏《う》たせながら、言った。「ずっと以前にお前にそう言い聞かせたのを思い出してもらいたいものじゃな。」
「覚えております。」
「有難う。」と侯爵は言った、――実際ごくやさしく。
 彼の声は、ほとんど楽器の音《ね》のように、空中に漂った。
「つまりですね、」と甥は言葉を続けた。「私がこのフランスでこうして牢獄に入らずにいられるのは、あなたにとっては不運であると同時に、私にとっては幸運なのだ、と私は信じます。」
「わしにはどうもまるでわからんが。」と叔父は、珈琲を啜りながら、返答した。「説明してもらえまいかのう?」
「もしもあなたが宮廷の不興を蒙ってお出でではなく、またここ何年間もあのように面白からぬ形勢になってお出でではなかったならば、一枚の拘禁令状★で私はどこかの城牢へ無期限に送り込まれていたろう、と私は信じているのです。」
「そうかもしれん。」と叔父は極めて冷静に言った。「家門の名誉のためには、わしはお前をそれくらいまでの不自由な目に遭わせる決心をしかねないからな。いや、これは失礼なことを言ったのう!」
「一昨日の接見会《リセプション》も、私には仕合せにも、例の通り冷いものだったろうと思いますね。」と甥が言った。
「わしなら仕合せにもとは言わぬがな、お前。」と叔父はいかにも垢抜けのした上品さで返答した。「わしにはそうとは信じられんよ。孤独という有利な境遇に取巻かれた、考慮するには持って来いの機会というものは、お前が独力でやるよりも遥かに有利にお前の運命を左右することが出来るのじゃ。だが、その問題を議論したところで無益じゃ。わしは、お前の言う通り、不利な地位に立っておる。そういう小さな懲治の手段、家門の権力と名誉とを守るためのそういう穏やかな助力、お前をそんな不自由な目に遭わせることの出来るそういう些少の恩恵、そういうものも今では伝《つて》を求めてしつこく頼まなければ得られぬことになっておる。そういうものを得ようと求める者は極めて多数じゃが、それを与えられる者は(比較的に言えば)ごく少数なのじゃ! 前はこんなことはなかったのだが、そういうようないろいろのことではフランスは悪化して来ておるわい。わしたちの遠くもない先祖たちは近隣の下民どもに対して生殺与奪の権を持っておったものじゃ。この部屋からも、たくさんのそういう犬どもがひっぱり出されて絞《し》め殺されたし、この次の部屋(わしの寝室)では、わしたちの知っているところでも、一人の奴などは、自分の娘のことについて――そやつの[#「そやつの」に傍点]娘じゃぞ!――何か横柄な気の利いたことを言いおったというので、その場で短剣で突き刺されたものじゃよ。わしたちは多くの特権を失うてしもうた。新しい哲学が流行《はや》って来たでのう。で、当今、わしたちの地位をあくまで主張するとなると、ほんとうに不便な目に遭うかもしれんわい。(わしは遭うだろうとまでは言わぬ。遭うかもしれんと言うのじゃ。)何もかも全く悪くなってしもうた、全く悪くなってしもうた!」
 侯爵は穏かに少量の一撮みの嗅煙草を嗅いだ。そして、国家更生の偉大な手段となるべき、この自分という人間がまだ存在している国家について、いかにもこの上なく彼にふさわしく優雅に落胆したような様子で、頭を振った。
「われわれは、昔でも近代でも、余りわれわれの地位を主張して来ましたので、」と甥は憂鬱に言った。「われわれの家名はフランス中のどの家名よりも憎み嫌われていると私は思います。」
「そうありたいものじゃな。」と叔父が言った。「高貴な者に対する憎悪は卑賤な者の無意識の尊敬じゃ。」
「この辺のどこの土地にだって、」と甥は前と同じ語調で言い続けた。「恐怖と屈従との陰鬱な敬意以外のどんな敬意でも浮べて私を見てくれるような顔は一つだって見当りませんよ。」
「家門の偉大さに対する礼儀じゃよ。」と侯爵は言った。「わしどもの一門がその偉大さを維持して来たやり方から見て当然受くべき礼儀じゃよ。はっはっ!」そして彼はまた穏かに少量の一撮みの嗅煙草を嗅いで、軽く脚を組んだ。
 しかし、彼の甥が食卓に片肱をかけて、思いに沈んで元気なくその片手で眼を蔽うた時、あの精巧な仮面は、それをかぶっている人の無頓著を装《よそお》う態度には不釣合なほど、鋭さと細心さと嫌悪とを強く集中させて、彼を横目にじっと見た。
「抑圧は唯一の永続する哲学なのじゃ。恐怖と屈従との陰鬱な敬意は、なあ、お前、」と侯爵は言った。「この屋根が、」と屋根の方を見上げながら、「空を見えぬように遮っている限りは、あの犬どもを鞭に柔順にさせておくじゃろうて。」
 それは侯爵の想像したほど永いことではないかもしれなかった。この時からわずか数年後のその館と、またやはりこの時からわずか数年後のそれと同じような五十の館との光景を、その晩彼に見せてやることが出来たならば、彼は、火災で黒焦げにされ、掠奪で破壊された、その物凄い廃墟から、どれを自分のものとして主張していいか、途方に暮れたことであろう。彼の誇った屋根について言えば、彼はそれが[#「それが」に傍点]新しい方法で空を見えぬように遮るのを知ったであろう。――すなわち、その屋根の鉛が、幾万の小銃の銃身から発射されて、それに中《あた》った人々の死体の眼から、永久に、空を見えぬように遮る★、という新しい方法である。
「ともかく、」と侯爵が言った。「お前が望まんにしても、わしは家門の名誉と安泰とを保ってゆくつもりじゃよ。だが、お前は疲れているに違いない。今夜は話はこれで切り上げるとしようかな?」
「もうしばらく。」
「お前さえよければ、一時間でも。」
「われわれは、」と甥が言った。「悪事をして来たのです。そして今その悪事の報いを受けているのです。」
「わしたち[#「わしたち」に傍点]が悪事をして来たと?」と侯爵は、尋ねるような微笑を浮べて、最初に自分の甥を、次に自分を優雅に指さしながら、真似て言った。
「われわれの一家がです。その名誉が私たち二人ともにとって全く違った意味で非常に大切なものである、われわれの名誉ある一家がです。私の父の時代だけでさえ、われわれは、何であろうとわれわれの快楽の邪魔をした人間には一人残らず害を加えて、夥しい悪事をしたのです。私の父の時代は同時にあなたの時代なのですから、父の時代のことを話す必要などがどうしてありましょう? 私の父と双生子《ふたご》の兄弟で、共同相続人で、父の後継者であるあなたを、私は父と切り離すことが出来ましょうか?」
「死という奴が切り離してくれたよ!」と侯爵が言った。
「その父の死のために私は、」と甥が答えた。「私にとっては恐しい制度に束縛されることになり、私はその制度に対して責任はあるが、その中にあって権力がないのです。それでも、私の母の口から出た最後の願いは実行したい、母の眼に現れた最後の眼付には従いたいと思っています。その眼付は慈悲を施して罪の償《つぐな》いをするようにと私に懇願したのでした。それで、助力と権力とを求めましたが無駄だったので苦しんでいるのです。」
「そんなものをわしに求めてもだ、のう、お前、」と侯爵は、人差指で彼の胸のところに触りながら――二人はその時は炉の傍に立っていた――言った。「それはいつまでたったって無駄だろうな。そう思っていてもらいたい。」
 彼が嗅煙草の箱を片手にしたまま、彼の甥を静かに眺めながら立っている間、透き通るように白いその顔にあるどの細い真直な線も、残忍そうに、狡猾そうに、きっと引締められた。彼は、あたかも彼の指が短剣の鋭利な切先《きっさき》であって、それで技《わざ》も巧みに相手の体《からだ》を刺し貫きでもするかのように、もう一度甥の胸のところに手をあて、そして言った。――
「なあ、お前、わしはこれまで自分の従って来た制度を続けながら死ぬつもりじゃ。」
 こう言ってしまうと、彼は嗅煙草の最後の一撮みを嗅いで、その箱をポケットに入れた。
「お前も道理のわかった人間になって、」と彼は、卓上の小さな呼鈴《ベル》を鳴らしてから、附け加えた。「お前の生れながらの運命に甘んじた方がいいのじゃが。だが、ムシュー・シャルル、お前にはもうその見込がないようじゃな。」
「この財産もフランスも私にはもうないものです。」と甥は愁然として言った。「私はその二つを抛棄します。」
「二つともお前の抛棄出来るものかな? フランスの方はそうかもしれん。が、財産は? それは言うほどの値打もないくらいのものじゃが、それでも、もうお前の勝手に出来るものか?」
「私の今申しました言葉では、私はそれをもう要求するつもりはないという意味なのです。もしその財産が明日《あす》にでもあなたから私に譲り渡されるとしましても――」
「明日《あす》そうなるということはありそうにもないという自惚《うぬぼ》れをわしは持っておるが。」
「――あるいは今から二十年後にそうなるとしましても――」
「それはまたずいぶん敬意を表したものじゃな。」と侯爵が言った。「それにしても、わしはその仮定の方が有難いのう。」
「――私はその財産を棄てて、どこか他の処で他の方法で生活します。放棄したところで大したものじゃありません。悲惨と廃墟とのごた集め以外の何でしょう!」
「ほほう!」と侯爵は、豪奢な室内をぐるりと見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、言った。
「見た眼にはそれはここなどずいぶん立派です。しかし、青空の下、白日で、そのほんとうの姿で見れば、それは、浪費と、失政と、誅求と、負債と、抵当と、圧制と、飢餓と、窮乏と、困苦との、崩れかけている塔なのです。」
「ほほう!」と侯爵は、いかにも満足そうな様子で、再び言った。
「もしそれがいつか私のものになるとしましても、私はその財産を、それを曳きずり倒そうとしている重圧を徐々に除去するに(もしそういうことが出来るとしてですが)もっと適した誰かの手に、委ねます。そうして、ここを立去ることが出来ないで、永い間辛抱の出来る限り苦しめられて来た、あの悲惨な人々が、次の代には、幾分でも苦しみが減るようにします。ともかく、それは私のものにはしません。その財産には、またこの国中にも、呪いがかかっています。」
「してお前は?」と叔父が言った。「余計なことまで聞きたがるのは宥《ゆる》してくれい。お前はお前の新しい哲学に従って有難く暮してゆくつもりかな?」
「私は、生きてゆくためには、わが国の他の人々が、たとい名門の後楯《うしろだて》があろうと、いつかはしなければならないかもしれぬことをするより他《ほか》はありません、――つまり、働くことです。」
「例えば、イギリスで?」
「そうです。そうすれば、家門の名誉がこの国で私のために傷けられる恐れはありませんよ。また、他の国では家名が私のために穢《けが》されるはずはありません。他の国では私は家名を名乗っておりませんから。」
 呼鈴《ベル》を鳴らしたのは隣の寝室に灯火をつけさせるためだった。その室は今、通路の戸口から、ぱっと明るく輝いた。侯爵はその方を見やって、側仕《そばづかえ》の足音の遠ざかってゆくのに耳を傾けた。
「イギリスはお前にはよほど気に入っておるようじゃのう、お前があちらでまずうまくいっているところを見るとな。」と彼は、それから、微笑を浮べながら平静な顔を甥に向けて、言った。
「さっきも申し上げましたが、私があちらでうまくいっていることについては、あなたのお蔭かもしれないと思っていますよ。その他《ほか》のことについては、あそこは私の避難所なのです。」
「奴らは、あの自慢屋のイギリス人どもは、イギリスはたくさんの人間の避難所になっている★と言うておるのう。お前は同国人であすこを避難所にしている人間を知っておるじゃろう? 医者じゃが?」
「ええ。」
「娘と一緒かのう?」
「ええ。」
「なるほど。」と侯爵が言った。「お前は疲れているじゃろう。では、おやすみ!」
 彼が例の極めて慇懃な態度で頭を下げた時に、その微笑している顔には何か隠立《かくしだ》てしているようなところがあったし、彼は今の言葉に何となく不可思議な意味を含ませたので、それが彼の甥の眼と耳とに強く響いた。同時に、あの眼の縁《ふち》の細い真直な線と、細い真直な脣と、鼻の凹みとが、見事に悪魔的に見える皮肉さを見せて歪《ゆが》んだ。
「なるほど。」と侯爵は繰返して言った。「娘と一緒の医者か。なるほど。そこで新しい哲学が始るという訳じゃな! お前は疲れているじゃろう。じゃ、おやすみ!」
 彼のその顔に向って質問することは、館の外の石造の顔に向って質問するのと同様な効能しかなかったろう。甥は扉《ドア》の方へ歩いてゆきながら彼をじっと見たが、何の得るところもなかった。
「おやすみ!」と叔父が言った。「わしは明日《あす》の朝またお前に逢いたいと思うておるよ。ゆっくりおやすみ! わしの甥どのをあちらの部屋へ明りをつけて御案内せい! ――それから、したければ、その甥どのを寝床の中で焼き殺しても構わんぞ。」と彼はこの最後の文句を心の中で附け加え、それから、小さな呼鈴《ベル》をもう一度鳴らして、側仕を自分の寝室へ呼んだ。
 側仕は来てやがて引下り、侯爵閣下は、その暑いひっそりした夜、眠れるようにと静かに体を馴らすために、寛《ゆるや》かな寝間著を著てあちこちと歩いた。柔かなスリッパを穿いた足が床《ゆか》の上で少しの音も立てずに、さらさらと著物の音だけさせて室内を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、彼は優美な虎のように動いていた。――物語にある、改悛の念のない邪悪なある侯爵が、魔法をかけられて、週期的に虎の姿に変るのが、今終ったばかりなのか、これから始ろうとしているのか、どちらかであるように見えた。
 彼は華美な彼の寝室を端から端まで行ったり来たりしながら、ひとりでに心に浮んで来るその日の昼の旅行の断片を再び眼にしていた。日没頃に丘をのろのろと登って来たこと、沈みゆく太陽、下り坂、製粉所、断巌の上の牢獄、凹地にある小さな村、飲用泉のところにいた百姓ども、馬車の下の鎖を指し示していた青い帽子を持った道路工夫などである。その飲用泉は、パリーのあの飲用泉と、段の上に横わっていたあの小さな包みと、その上に腰を屈めていた女どもと、両腕を差し上げて「死んじゃった!」と叫んだ脊の高い男とを思い起させた。
「もう凉しくなった。」と侯爵閣下は言った。「床《とこ》に就けるじゃろう。」
 そこで、大きな炉の上に一つの灯火だけを燃やしておいたまま、彼は自分の周りに薄い紗の帳《とばり》を垂らした。そして、眠ろうとして気を落著けた時に、夜が長い溜息を一つついてその沈黙を破ったのを聞いた。
 外囲の塀の上にある石造の顔は、重苦しい三時間というもの、何も見えずに真黒な夜を見つめていた。重苦しい三時間というものは、厩の中の馬は秣架《まぐさかけ》をがたがたさせ、犬は吠え、例の梟は詩人たちが常套的に梟の声としている鳴声とはほとんど似ていない鳴声を立てた。だが、彼等のものと定めてあることを滅多に言わないのが、そういう動物の強情な習慣なのである。
 重苦しい三時間というものは、館の石造の顔は、獅子のも人間のも、何も見えずに夜を見つめていた。深い暗黒はすべての風景を包み、深い暗黒はその静寂をすべての路上の静まり返っている塵埃に附け加えた。墓地では萎《しな》びた草の少しかたまって生えているところが互に見分けがつかぬくらいになっていた。あの十字架についている像は、眼には見えなかったが、そこから降りて来ていたかもしれなかった。村では、収税者も納税者もみんなぐっすりと眠っていた。たぶん、飢えた者が通例するように御馳走の夢をみながら、また、こき使われる奴隷や軛《くびき》をかけられた牡牛がするかもしれぬように安楽と休息との夢をみながら、村の瘠せた住民たちは深く眠って、食物を食べ自由の身となっていた。
 暗い三時間を通じて、村の飲用泉は見えず聞えずに流れ、館の噴水は見えず聞えずに落ち、――どちらも、時の泉から流れ落ちる分秒のように、溶け去った。それから、その二つの灰色の水が薄明りの中に幽霊のように見え出し、館の石造の顔は眼を開いた。
 次第次第に明るくなってゆき、とうとう、太陽は静かな樹々の頂に触れ、丘の上一面にその輝かな光を注いだ。その真紅の光を浴びて、館の噴水の水は血に変ったように見え、石造の顔は深紅色になった。小鳥の楽しく囀る声は高く賑かであった。そして、侯爵閣下の寝室の大きな窓の風雨に曝された窓敷の上で、一羽の小鳥が力一杯にこの上もなく美わしい声で歌を歌った。それを聞くと、一番近くの石造の顔はびっくりして眼を見張ったように思われ、口をぽかんと開《あ》け下顎をだらりと下げて、怖《お》じ恐れたように見えた。
 いよいよ、太陽はすっかり昇って、村では活動が始った。開き窓は開かれ、がたがたした戸は閂を外され、人々は、新しい爽かな空気にまだ冷気を覚えて――震えながら外へ出て来た。それから、村の住民の間では、滅多に軽減されることのない一日の労働が始った。飲用泉のところへ行く者もある。野良《のら》へ行く者もある。ここでは、掘ったり鋤いたりしに行く男や女たちがいる。かしこでは、乏しい家畜の世話をして、どこの路傍にでもあるような牧場へと、骨ばった牝牛を牽いてゆく男や女たちがいる。教会堂の中や例の十字架のところには、跪いている人の姿が一つ二つある。その十字架に祈祷している場に列席しながら、牽かれている牝牛は、十字架の下の雑草の間に朝食を求めようとしていた。
 館は、その格式にふさわしく、遅く目覚めた。が、徐々に確実に目覚めた。まず最初に、陰気な猪猟槍と狩猟短剣とが昔のように赤く染められ、次には、朝の日光によく切れそうにぴかぴかと光った。それから、扉《ドア》や窓がさっと開かれる。厩の中の馬は戸口のところへ流れ込んで来る清々《すがすが》しい光を肩越しに見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す。樹の葉は鉄格子の窓のところできらきらと光りさらさらと音を立てる。犬は鎖を強くひっぱって、解き放たれるのを待ちかねて後脚で立ち上る。
 こういうすべての些細な出来事は、毎日毎日きまりきって、朝が戻って来るごとに、あることであった。が、館の大鐘の鳴り響いたことや、階段を駈け上ったり駈け下りたりすることは、確かに、いつもあることではなかった。また、露台《テレス》をあわただしく動く人の姿も、ここでもかしこでもどこでも長靴を穿いてどかどか歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ることも、急いで馬の鞍に跨って駈け去ることも、確かに、いつもあることではなかった。
 このあわて急ぐことをどんな風《かぜ》が例の白髪雑《しらがまじ》りの道路工夫に伝えたのであろう? 彼は既に、村の向うの丘の頂で、その日の弁当(持ち運び映《ば》えのしない)を鴉でも喙《ついば》むだけの骨折甲斐のない包みにして積み重ねた石ころの上に置いて、仕事にかかっていたのに。空飛ぶ鳥が、そのあわて急ぎの穀粒を遠方へ運んでゆくうちに、鳥が偶然に種子を蒔くことがあるように彼の上に一粒を落したのであろうか? それはいずれにしても、その道路工夫は、その蒸暑い朝、膝まで埃《ほこり》に埋めながら、まるで命がけのように丘を駈け下りてゆき、飲用泉のところへ著くまでは一度も止りはしなかったのであった。
 村のすべての人々は飲用泉のところに集り、いつものふさぎ込んだ様子であたりに立って、低い声で囁き合っていたが、しかし冷かな好奇心と驚きより他《ほか》には何の感情も現さなかった。大急ぎで牽いて来られて、何でもその辺のものに繋がれた牛は、ぼんやりと見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したり、寝そべって、中途で止《や》めになった彼等の逍遥の間に拾い喰っておいた、別にそれだけの骨折をした甲斐もない食物を口の中へ戻して反芻したりしていた。館の人々の何人かと、宿駅の人々の何人かと、租税を取立てる役人の全部とは、多少の武装をして、何もない小さな街路の今一方の側に役にも立たないようなのにかたまっていた。既に、例の道路工夫は五十人の特別に親しい友達の群《むれ》の真中へ入り込んでいて、あの青い帽子で自分の胸を敲いていた。こういうすべてのことは何を前兆したのであろう? また、ムシュー・ガベルが馬上の召使の背後にひらりと飛び乗ると、馬が(荷は二倍になったにもかかわらず)、そのガベルを、ドイツの民謡のレオノーラ★を新たに演じたように、疾駈《はやがけ》で運び去ったのは、何を前兆したのであろう?
 それは、彼方《かなた》の館で石造の顔が一つだけ多くなったことを前兆したのであった。
 ゴルゴンが夜の間にその建物を再び検分して、不足していた一つの石造の顔を附け加えたのである。ゴルゴンが約二百年の間待ちに待っていた石造の顔を。
 その顔というのは侯爵閣下の枕の上に仰向に寝ていた。それは、突然ぎょっとさせられ、憤怒させられ、石に化せられた、精巧な仮面のようであった。その顔にくっついている石の体の心臓には、一本の短刀が深く突き刺してあった。その※[#「木+覇」、第4水準2-15-85]《つか》に一片の紙が巻きつけてあって、その紙にはこう走り書きしてあった。――
「彼を速く彼の墓場へ運んでゆけ[#「彼を速く彼の墓場へ運んでゆけ」に傍点]。これは[#「これは」に傍点]ジャーク[#「ジャーク」に丸傍点]より[#「より」に傍点]。」
[#改丁]

   

〔緒言〕
ウィルキー・コリンズ氏の劇の…………  ウィルキー・コリンズは作者ディッケンズの友人の小説家ウィリャム・ウィルキー・コリンズ(一八二四―一八八九)であり、ディッケンズはこのコリンズと共作したこともある。ディッケンズは小説家となる前に俳優になろうとしたことがあるくらいで、劇に対しては生涯強い熱情を抱いていて、素人演劇をしばしば試みていたのであった。コリンズのその劇の主人公のリチャード・ウォーダーの没我的な性格が、ディッケンズにこの小説の主要な観念――それはこの作の終りの方に至ってわかる――を思い付かせ、遂にそれをこの作の主要な人物シドニー・カートンに再現したのである。
私は、これらの頁の中になされかつ……実感したのである  この強烈な言葉はディッケンズにあっては決して空しい嘘ではないであろう。ディッケンズの想像力は非常に強烈であって、彼の作中の人物は彼にとっては常に実在の人物であり、あるいは彼自身の分身であった。彼は筆を執りつつその作中の人物と共にあるいは笑いあるいは泣き、作中人物のことをあたかも実在の人物であるかのように妻や友人たちに語り、一篇の小説を書き了《おわ》ってその中の人物と別れる時には心から彼等との別れを惜しみ、彼の作の「骨董店」の少女ネルの死や同じく「ドムビー父子」のポール・ドムビーの死などを書いた後には親しい友を失った人のように歎き悲しんで眠ることが出来ずに暁までも街々をさまよい歩いたという。この「二都物語」中の諸人物も彼の心を完全に捉えたことは想像に難くない。
カーライル氏の驚歎すべき書物  トマス・カーライル(一七九五―一八八一)の「フランス革命史(一八三七)をさす。コリンズの劇によって得た著想を表現するに当って作者がフランス革命を材料としたことについては、カーライルのこの書に負うところがはなはだ大であった。また、作者はフランス革命の資料についてはカーライルから数多の参考書を得てそれに拠ったという。
タヴィストック館  一八五一年から五九年までの間ディッケンズの住んでいたロンドンの家。

〔第一巻 甦る〕
 〔第一章 時代〕

イギリスの玉座には…………  当時のイギリスの国王はジョージ三世(一七三八―一八二〇)、王妃はシャーロット・ソファイア(一七四四―一八一七)であった。シャーロットは肥満していて不器量であった。フランスの国王はルイ十六世(一七五四―一七九三)、王妃はマリー・アントワネット(一七五五―一七九三)であった。
心霊的な啓示が…………  迷信が盛んであったことをさす。
サウスコット夫人  ジョアナ・サウスコット(一七五〇―一八一四)。もと女中であったが、後に宗教狂となり、一宗派を創立し、押韻の予言を述べ、奇蹟を行う風をし、自分をヨハネ黙示録第十二章に記されている婦であると称した。その信徒十万以上に達したと言われる。この一七七五年には二十五歳であった。
ウェストミンスター  今日はロンドン市の一区であるが、以前は別の町であったのである。旧ロンドン市の西南にある。
雄鶏小路の幽霊  一七六二年、ロンドンのスミスフィールドの雄鶏小路のある家に出たという当時有名だった幽霊。こつこつと叩いたりその他の奇妙な音が聞え、ケント夫人という女の幽霊だと言い触らされて、ロンドン中の大騒ぎとなり、永い間多くの人々が瞞された。これはパースンズという男が十一歳の自分の娘に叩かせていたのだということが発見されて、パースンズは処罰された。この一七七五年から十二年前のことである。
ただの音信が、つい先頃、アメリカにおける英国臣民の会議から…………  一七七五年の七月にアメリカにおけるイギリス植民地の住民から「代議士選出権なき課税」に対してイギリス本国に抗議して来たことをさす。
この音信の方が……人類にとってもっと重要なものであるということが…………  これがアメリカ独立戦争の導火線となり、アメリカ合衆国の独立によってデモクラシーの思想は新旧両世界を風靡し、遂にフランス革命が起るに至ったからである。
楯と三叉戟との姉妹国  イギリスをさす。「楯と三叉戟」は海神ネプテューンの標章であり、イギリスの紋章ではブリタニアをあらわす女人像が海の女王の象徴として楯と三叉戟とを持っているのである。
紙幣を造ってはそれを使い果して…………  財政窮乏のために紙幣を濫発して、国勢が衰えつつあったことをいう。
歴史上にも怖しい……枠細工  フランス革命当時に用いられた歴史上にも有名なかの断頭台をさす。枠細工の上の方に重い刃物が附いていて、それが差し伸べられている処刑者の首へ滑り落ち、その首が転がり込む嚢が附いていたのである。
本市  ロンドン市の中央の最も繁華な商業区。昔の本来のロンドンの区域であった処。
「首領」  当時の有名な追剥の名。
駅逓馬車  宿継馬車。宿駅と宿駅との間を往復する乗合馬車。鉄道の出来る前の主要な交通機関であった。この頃の物語にはよく出て来る。
ターナム・グリーン  ロンドンの西方の郊外にある地名。
喇叭銃  口径の大きな、銃口が漏斗形をした、短い、往時行われた銃。
セント・ジャイルジズ  ロンドンの、本市の西、ウェストミンスターの北東の一地区。貧困と悪行との一中心地として名高かった。
ニューゲート  ロンドンの古くから有名な監獄。旧ロンドン市の西の門のところにあった。一二一八年に創建されて一九〇二年に取毀されるまであったのだから、この作中の時代のみならず、この作者の時代にも存在していたのである。この監獄のことは後にも出て来るが、改善されずに、常によからぬ評判が立てられていた。
ウェストミンスター会館  昔のウェストミンスター宮殿の一部。ここで国事犯に対する審問が行われ、その入口のところで時事問題を論じたパンフレットが焼棄されたのである。
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 〔第二章 駅逓馬車〕

シューターズ丘  ロンドンの南東八マイルのところにあるかなり高い丘。
ブラックヒース  シューターズ丘とロンドンとの途中にある広濶な公有地。
手綱と鞭と馭者と車掌とが……軍律を読み聞かせた  馭者と車掌とが手綱を曳き鞭で打って馬に先へ歩ませたことである。「放置しておけば、動物の中には理性を賦与されているものもいるという議論に非常に都合のよくなる目論」とは、無論、前文にあるように、馬が自分勝手に路を戻りかけたことをさす。以下、この作にも、このように諧謔作家としてのディッケンズを示す文章や箇処が綿密な読者には処々に認められるであろう。
宿駅  駅逓馬車の継替えの駅馬を繋留してある家。
一クラウン  イギリスの五シリングの銀貨。
半ガロン  一ガロンは約二升五合の液量。
テムプル関門  旧ロンドン市の西、ウェストミンスターとの境界にあった有名な門。後の章でたびたび出る。この物語のテルソン銀行はその傍にあるのである。
もし甦るなんてことが流行って来ようものなら…………  このジェリーの言葉の意味はずっと後になって明かになる。

 〔第三章 夜の影〕

忍返し  人の忍んで越え入るのを防ぐために、尖頭を外にして塀や垣や柵壁などの上に打ちつける釘状のもの。ジェリーの髪の毛を忍返しに喩えることは、これから後たびたび用いられる。
蛙跳び  前方に屈んでいる人の背に手をつけてその人の上を跳び越す遊戯。馬跳び。
犂  牛または馬に曳かせて耕す鋤。

 〔第四章 準備〕

ロイアル・ジョージ旅館  当時はジョージ三世の治世であり、その名を屋号にした宿屋などが多かった。
カレー  ドーヴァーの対岸にあるフランスの港。
海の駝鳥のように…………  駝鳥は追い詰められると頭だけ砂の中へ隠して見えないつもりでいると言われているので、海から上って頭だけを断崖の中へ突っ込んでいるようなドーヴァーの町を、戯れてその駝鳥に喩えたのであろう。
夜間にぶらぶら歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って…………  対岸のフランスからの密輸入が盛んに行われていたことを暗示するのである。
クラレット  ボルドー産の赤葡萄酒。
死海の果物  生のない果物の意味。彫刻した食べられない果物だからである。この前後の、黒奴のキューピッドも、黒い籠も、黒い女性の神々も、もちろん、皆、鏡の縁の彫刻である。
少し外国訛りがあったが…………  その理由は少し後になって判明する。
ボーヴェー  パリーの北方約四十マイルのところにある都市。カレーからパリーへ行く途にある。
ムシュー  フランス語の「‥‥氏」、「‥‥さん」、「‥‥君」に当る語。本篇では、もちろん、フランス人の名前に附けてある。また、フランス人が紳士に対する呼掛け語としてもこの語を用いる。
書入れしてない書式用紙に…………  当時、フランスの王は御璽で封印した逮捕または拘禁の秘密令状を寵臣貴族たちに与えたのであった。ゆえに、彼等はその令状に誰でも彼等の欲する者の名を書き入れて、その者を裁判なしにただちに投獄することが出来たのである。
九ペンスの九倍は…………  ペンスもギニーもイギリスの貨幣で、十二ペンスが一シリングであり、一ギニーは二十一シリングに当る。
親衛歩兵の……桝目のもの  イギリスの親衛歩兵第一聯隊の兵は大きなバケツ型の毛皮の帽子をかぶっている。それを「桝」に喩えて滑稽に言ったのであろう。
スティルトン乾酪  もとイングランドのスティルトン村で造り始めた上等のチーズ。
嗅塩と……酢と  嗅塩は婦人などに用いる鼻で嗅がせる気附薬、炭酸アムモニウムのこと。酢はやはり嗅剤で気附薬にしたもの。

 〔第五章 酒店〕

サン・タントワヌ  パリーの東方の廓外、バスティーユ牢獄とセーヌ河との間の一区域。下層階級の住んでいた地域であった。
やがて、そういう葡萄酒もまた…………  革命の勃発を暗示するのである。「そういう葡萄酒」とは、もちろん、前文の「血」をさす。フランス革命はこのサン・タントワヌにおける暴動から始ったのである。
サン・タントワヌの聖なる御顔…………  サン・タントワヌはキリスト教教父の聖《サント》アントワヌ(英語読みならば聖《セント》アントニー)の名をとった地名であるので、ここではその語を街と聖者との両方にかけたのである。このサン・タントワヌの擬人法は、この物語では、この後にしばしば用いられている。
実際それらは海上に…………  この「灯」はフランスの運命を、「船」は国を、「船員」は国民を、「嵐」は革命を象徴するのであろう。
痩せこけた案山子たち  貧民をさす。「案山子」という語は「襤褸を著た人」をも意味するからである。
その点灯夫のやり方を改良して…………  革命の時に、街灯柱を絞首台代りにして、民衆の敵を滑車綱で吊り上げて絞殺したのである。
鳴声も羽毛も美しい鳥ども  貴族をさす。
肩を竦める  不快、当惑、平気、冷淡などをあらわす身振り。
ドミノーズ  二十八箇の牌子を使って二人または数人でやる遊戯。
ジャーク  この名はフランス革命の運動を組織したと信ぜられる秘密結社の合言葉であった。
洗礼名  洗礼式の時に附けられる名。ここでは、もちろん、「ジャーク」のこと。
マダーム・ドファルジュは……編物をして…………  このマダーム・ドファルジュが常に編物をしている理由はよほど後(第二巻第十五章)になって明かになる。
ノートル・ダム  パリーの有名な大寺院。サン・タントワヌの西方市の中央にあり、その大伽藍の上には二つの巨大な塔が聳え立っている。

 〔第六章 靴造り〕

何と有難いことでしょう!  彼の涙によって彼の智能が幾分か甦ったことがわかったからである。
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〔第二巻 黄金の糸〕
 〔第一章 五年後〕
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フリート街  旧ロンドン市の西の境界であったテムプル関門から東へ通じている街。
悪しき交りがそれの善き光沢を…………  新約全書コリント前書第十五章第三十三節の「悪しき交りは善き行いを害うなり。」という句から言ったのであろう。
バーミサイドの部屋  「千一夜物語」すなわち「アラビア夜話」の中に、バグダッドの富豪バーミサイド家の人がある時シャカバックという乞食を饗宴に招いたが、立派な食器の中は皆空であった、それをシャカバックは実際に飲食するような身振りをして見せた、云々、という有名な話がある。その話から、このテルソン銀行の階上の、大きな食卓だけは置いてあるが食事のあったことがないという部屋を、諧謔的に「バーミサイドの部屋」と呼んだのである。
アビシニアかアシャンティーにふさわしい……曝されている首  アビシニアはエチオピアのこと。アシャンティーは西部アフリカの黄金海岸の北にあった王国で、一九〇一年にイギリス領となったのだから、この作の書かれた当時はまだ独立国であった。共に黒人の国で、首斬りの蛮風がごく普通に行われていたのであろう。テムプル関門には、往時、処刑者の首や肢体をその上に曝したのであった。
青黴  チーズなどに生ずるものをいう。
ハウンヅディッチ  ロンドンの東部の一区域。
代理人を立てて……誓った時に  「洗礼式の時に」という意味を諧謔的に言ったのである。すなわち、このクランチャーはジェリーという洗礼名であり、第一巻に出て来たあの使いの者なのである。
ホワイトフライアーズ  ロンドンのテムプルに近い一区域。フリート街からテムズ河までに拡がる。
クランチャー氏自身はわが主の紀元のことを…………  「わが主の年にて」すなわち「キリスト紀元」という意味のラテン語を英語読みにして「アノー・ドミナイ」という。それをわがクランチャー君はアナという名の女がドミノーズを発明した年という意味だと思っていたのである。
ハーリクィンのように…………  ハーリクィンは黙劇《パントマイム》に出て来る道化役の一人で、常に派手な雑色の衣裳を著ているので、クランチャーが補綴だらけの蒲団をかぶっているのを、ハーリクィンに喩えたのである。
彼が銀行の時間がすんでからきれいな靴で……奇妙な事柄  これも、第一巻第二章の終りのジェリーの言葉や、この後のジェリーについての言葉などと共に、後(第二巻第十四章)になってわかるのである。
テムプル  中世紀の聖堂騎士団の殿堂の遺趾のあるところ。フリート街の南にある一区劃。「テムプル」は「聖堂」の意味。テムプル関門はここにあった。テムプルには、有名な内テムプル、中央テムプルの二法学会院があり法律関係の人々が多くいる。

 〔第二章 観物〕

オールド・ベーリー  往時のロンドンの中央刑事裁判所、あるいは中央法廷のこと。旧ロンドン市の外壁のところにあったので「オールド・ベーリー」と言われる。「旧外壁」の意味である。フリート街の東北に当るニューゲート街のニューゲート監獄の近くにあった。
四つ裂き  叛逆罪で処刑された人間の体は四つに切断して、その各部分を諸所の都市に分配して曝し、他の犯罪者に対する見せしめとしたのであった。
タイバーン  今のハイド公園の近くにあったロンドンの往時の処刑場。一七八三年すなわちこの時より三年後までここで処刑が行われ、それから処刑はニューゲートの監獄に移されたのである。
二マイル半ばかりは…………  オールド・ベーリーから処刑場のタイバーンまでの道程は二マイル半ほどあった。「他界への[#「他界への」に傍点]非業の旅」と言っても、その二マイル半だけは天下の公道を通って行くのである。
架刑台  往時罪人の頸と手とを板の間に挟んで立たせて街上に曝した刑具。その罪人を見物して笑い物にする見物人は、往々それに投石して負傷させたことがあった。ゆえに、次の文章にあるように、その刑罰の程度を予知することが出来なかったと言うのである。
笞刑柱  罪人を笞つ時にその人間を縛りつける柱。
殺人報償金  死に当る大罪人を告発したり、主人や恩人などを敵に売って殺させたりした報酬として受ける金。
ベッドラム  ロンドンの古くからの有名な瘋癲病院。「ベッドラム」はベスリヘム(ベツレヘム)の転訛。もと修道院であったが後に精神病院となったロンドンのセント・メアリー・オヴ・ベスリヘムを略してベッドラムと言ったのである。以前はロンドン名所の一であって、入場料を取って見物人を入れていた。
社会の戸口だけは…………  社会が犯罪人を生んで盛んに法廷へ送り込んだことをさす。
網代橇  昔、叛逆者、死刑囚などをそれに載せて縛りつけて刑場へ曳いて行った網代の枠のようなもの。
フランス国王リューイスが……なせる戦争  「リューイス」は「ルイ」を英語風に言った名であって、ここではルイ十六世をさす。一七七五年にアメリカ独立戦争が始り、一七七八年にルイ十六世はアメリカ合衆国を承認し、その支援に軍隊と艦隊とを送って、イギリスと交戦状態に入った。その状態は一七八三年まで続いていたのである。
大洋がいつかはその中に沈んでいる死者を…………  新約全書ヨハネ黙示録第二十章第十三節に「海その中の死人を出し‥‥彼等おのおのその行いに循いて審判《さばき》を受けたり。」とあることから言ったのである。
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 〔第三章 当外れ〕
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君はかつて…………  以下、被告の弁護士が相手方の証人のジョン・バーサッドに向って質問をするのである。すなわち対質訊問をするのである。
階段から蹴落されたこと  何か不正なことなどをして家から蹴出され放逐されることを意味する。
ブーローニュ  カレーの西南にある、やはりドーヴァー海峡に面したフランスの海港。
ジョージ・ウォシントンは歴史上ジョージ三世と…………  ジョージ三世は第一巻の註に記したように当時のイギリス国王である。後に合衆国の初代の大統領となったジョージ・ウォシントン(一七三二―一七九九)は当時アメリカ軍の総指揮官であって、独立戦争開戦以来各地に転戦していた。
対質訊問  相手方のために召喚されて調べられる証人に対して反問すること。
呪うべきユダ  銀三十枚を得てキリストを売りユダヤの有司に渡して磔にさせたイスカリオテのユダ。
指の節を額に触れる  尊敬または認知のしるしである。
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 〔第四章 祝い〕
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バスティーユ  往時パリーにあった有名な牢獄。主として国事犯罪人を収容した。一七八九年フランス革命が起ると同時に民衆に破壊されたことは普く知られている。サン・タントワヌ門の傍にある。マネット医師はこの牢獄に監禁されていたのである。
彼の顔はダーネーをひどく詮索的な眼付で…………  マネット医師がチャールズ・ダーネーの顔に何を認めてこのような表情をしたのかは、この物語の終り近く(第三巻第十章)にならなければ判明しない。
放免された囚人の友人たち  当日の法廷の見物人を戯れて言ったのであろう。
轎  一人乗りで二人の轎夫《かごかき》が棒で肩に担いで運ぶもの。十七八世紀にヨーロッパの諸都市で流行した。
ポルト葡萄酒  ポルトガルのオポルト原産の有名な葡萄酒。
ラッドゲート・ヒル  オールド・ベーリーのあるニューゲート街の南に、聖《セント》ポール寺院から西に通じている街路。フリート街に続く。そのフリート街の南にはテムプルがあり、その西端にはテムプル関門があるのである。
一パイント  わが三合余に当る。
蝋垂れが…………  イギリスでは、蝋燭の蝋垂れの垂れ落ちる方向にいる人の身の上に凶事殊に死が来る、という迷信がある。

 〔第五章 豺〕

ポンス  酒、砂糖、牛乳、レモン、及び香料などを混和して製した飲料。
民事高等裁判所  または単に高等裁判所、あるいは最高民事法院、または単に高等法院とも訳される。原名では「王座裁判所」と言われ、イギリスの最高の裁判所であった。ゆえに、ストライヴァーはオールド・ベーリーも普通刑事裁判所も自分の出世の「梯子の下の方の段」として関係を断とうとしていたのである。
仮髪の花壇  仮髪を著けている裁判官、弁護士たちの席を意味する。
ヒラリー期からミケルマス期までの間に  イギリスではもと高等法院の開廷期が四期に分れていた。ヒラリー期(一月十一日から同月三十一日まで)、イースター期(四月十五日から五月八日まで)、トゥリニティー期(五月二十二日から六月十二日まで)、ミケルマス期(十一月二日から同月二十五日まで)である。ゆえに「ヒラリー期からミケルマス期までの間」とは、厳密に言えば一月十一日から十一月二十五日まで、すなわち高等法院の約一箇年間をさすのである。
巡囘裁判  昔は裁判官が折々田舎を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って裁判した。その時は弁護士もその裁判官に附随して巡囘した。
豺  豺は獅子のために餌をあさりその報酬として食い残りの骨片を与えられるという昔からの言伝えがあるので、「豺」という語は、他人のために下働きをする者、人の手先となって働く者、という意味に使われる。
ストライヴァーの事務室に…………  第二巻第一章の「テムプル」の註に記したように、テムプルには法学会院がある。その法学会院内には弁護士の事務室がある。大抵数室より成る。
ジェフリーズ  この物語の時代から百年ほど前の、残忍と放逸とをもって有名であった裁判官ジョージ・ジェフリーズ(一六四八―一六八九)をさす。
シュルーズベリー学校  イングランドの西部、ウェールズに近いシュルーズベリーの町にある小学校。一五五二年に創立されたという古い歴史を持っているので有名である。
河  テムズ河である。テムプルはテムズ河の畔にある。

 〔第六章 何百の人々〕

ソホー広場  ロンドンのオックスフォド街の南にある広場。附近は外国人が多く居住していた。テムプルから一マイルほど隔っている。当時はそのあたりまでが市内であった。
クラークンウェル  ロンドンの本市の北にある区域。住宅地である。当時は市外であった。
オックスフォド街道  ロンドンの西部と本市とを繋ぐ大街道。当時はこの街道から北はことごとく市外であった。
南向きの塀が…………  果樹を南向きの塀のところに植えておくと、暖かいために果実がよく熟するのである。
この巨人は表広間の壁から金色の片腕を…………  この巨大な金色の片腕というのは、金細工師の看板なのである。それをこのように滑稽に説明したのである。
この時分までには……あの一種特別の表情  その家具類の配置などの「創案者」であるリューシーの額に現れるあの特殊な表情をさす。
自分の周囲のどこにも目につくその空想上の類似  家具とリューシーとの表情の類似。
プロス嬢  「嬢」の原語の「ミス」は、未婚婦人の名に冠する敬称であって、このプロス女史は年齢がもうあまり若くはないのであるが、日本語には完全な訳語がないので、老嬢という意味で「嬢」と訳することにする。
応報の排列表  人の行為の善悪に対しての来世における応報についての順番表というような意味。
ゴール人の子孫  フランス人のこと。ゴールは今のフランス及びその近隣の地域にわたって古代にあった国で、フランス人のことを戯れてゴール人とも言う。
シンダレラの教母  シンダレラは有名なお伽噺の女主人公で、彼女は継母や姉妹たちに虐待されながら台所で働いていたが、妖精であるその教母がシンダレラに魔法で美装させて王宮の舞踏会に行かせ、王子に恋されたシンダレラは魔法の消える夜半に宮殿から逃げ帰るが、自分の小さな上靴を落して来たことから遂に王子と結婚することになる。ここに「シンダレラの教母」と言ってあるのは、その教母が宮殿の舞踏会に行くシンダレラのために魔法で南瓜を馬車に、※[#「鼠+奚」、第4水準2-94-69]鼠を馬に、襤褸著物を美服に変えたからである。
青い部屋  フランスの中世紀の有名な物語にある青髯という男が、幾度も結婚してその妻を皆殺し、死体を青色の部屋に隠しておいて他の者に入るのを許さなかったということから、誰をも入れなかったプロス嬢の室を諧謔的にこう言ったのであろう。
ロンドン塔  ロンドンのほぼ中央のテムズ河北岸にある古くから有名な建築物。一〇七八年に建築され始め、後次第に増築されたのである。初めは城廓として築造され、王宮として用いられた時代もあったが、永い間政治犯の牢獄として用いられていた。その後種々の観覧物の陳列所や武器庫となった。
あなた方も御存じのように、私はあすこへ…………  ダーネーは例の叛逆罪の廉で捕えられていた時にしばらくロンドン塔に監禁されたのであろうか。
DIG  英語の「掘れ」という語。
彼は片手を頭へやって突然…………  マネット医師がなぜこの時このような挙動をしたかは、この物語の終りの方(第三巻第九章)に至って明かになる。
聖ポール寺院  ロンドン市の中央にある大寺院。ソホー広場の東方約一マイル半、クラークンウェルの南にある。

 〔第七章 都会における貴族〕

モンセーニュール  フランスで貴族や高僧などに対して用いた敬称であり、「閣下」、「殿下」、「猊下」の意味に当るフランス語である。その語を作者はフランス貴族の擬人法として用いたのであって、ここでは、「モンセーニュール」は個人の名であると共に、また当時のフランスの貴族を象徴しているのである。後の章では、この語は本来の意味の通りに個人に対する敬称として用いられ、また、更に後の章では、フランス全貴族の代名詞としても用いられる。
チョコレート  ここではチョコレート飲料をさす。チョコレートを砂糖湯または牛乳に溶かしたもの。
国を売った陽気なステューアト  イギリス国王チャールズ二世(一六三〇―一六八五)をさす。ステューアトは、彼の法外な放逸の費用を得るために、フランス国王ルイ十四世から巨額の金銭を得て、国会の意志に反して、ルイ十四世のオランダに対する戦争においてフランスを援助するというドーヴァー条約を、一六七〇年に密かに締結した。このチャールズ二世は「陽気な国王」と綽名されていた。
「モンセーニュール曰いけるは、地とこれに盈てる物はわがものなり。」  新約全書コリント前書第十章第二十六節に「地とこれに盈てる物は主のものなればなり。」とある。その「主のもの」という原文の代名詞を「わがもの」と変えたのである。
収税請負人  フランスの王政時代に、一区域の租税を徴収する特権を政府から得て、その代償として政府に一定の額を支払い、その契約の定額以上に人民から搾取したものはことごとく自己の懐に収めることが出来た収税吏。この収税請負人はこうして人民を誅求して、大革命の前には人民にはなはだしく怨まれていた。
面紗をかぶる  修道院の尼僧になることを意味する。
バベルの骨牌塔 「バベルの塔」は、旧約全書創世紀第十一章に記されている、太古バビロンで天に昇るために建築しようとした高塔で、架空的の計画という意味に使われており、「骨牌塔」とは、骨牌札で築いたようなすぐに崩れる塔という意味であろう。
その社会の天使たち  上流社会の婦人たちをさす。その中にはさすがの間諜でも一人の母性をも見つけ出すことが出来ないほど、上流社会の家庭は乱れていた、というのがこの前後の意味である。
痙攣教徒  十七世紀頃フランスに起った一つの狂信的な宗派の信者。フランスにおけるヤンセン教徒の一派であって、痙攣的発作に陥ったりその他の奇怪な動作によって奇蹟的の治療を行うと称した。彼等はまたその痙攣的動作で未来を予言し社会を改善することが出来ると信じた。
類癇  全身硬直する病気。
テュイルリーの宮殿  以前パリー市の中央にあったフランス国王の宮殿。ルイ十四世時代からは華美を尽していた。
扁底靴  踵のごく低い、または踵のない、エナメル革の浅い靴。主として舞踏の時などに用いられるものである。
車輪刑  罪人の手足を車輪に縛って死に致した残酷な処刑。
ムシュー・パリー  パリー市の死刑執行吏をこう言った。普通にはムシュー・ド・パリー。
監督派流儀に  未詳。この監督派というのはプロテスタント監督教会派をさすのであって、その唱道した監督制度主義とは教会の主権を法王のような一主権者に委ねないで教会の監督たちの手に委ぬべきであるとしたものであった。
一絞刑吏に根ざしたある制度  大革命時代の断頭台による処刑を意味する。
天帝を決して煩わさなかった  願い事をしたりして天帝を煩わさなかったこと。換言すれば、神を信仰しなかったこと。この前後は、彼等はモンセーニュールに対して体のみならず心までも平伏し尽していたので、神に対して平伏する余地が残らなかった。それが彼等の不信仰であった一つの理由であったかもしれぬ、という意味。
ガスパール  第一巻第五章に、サン・タントワヌで街上にこぼれた葡萄酒で「血」という字を書いた、「ガスパール」と呼ばれた「脊の高い」剽軽者がいたことを、読者は記憶されるであろう。これはあの男であろう。

 〔第八章 田舎における貴族〕

侯爵閣下の面上の赤味は彼の立派な躾の…………  赤面したりするのは貴族たる者の立派な躾に反するからであろう。
蛇髪復讐女神  ギリシア神話の復讐を司る三女神。長い蛇の頭髪をしていたので、馭者の振う長い鞭をその女神の蛇の髪に喩えたのである。
歯止沓  車が坂を下る時車輪が滑らぬように輪底に取附ける鉄片または木片。
幽霊のように脊が高く  この「脊が高い」という一語によって、侯爵の旅行馬車の下にくっついて他の地方からやって来た男が前章のパリーで子供を侯爵の馬車で轢き殺されたガスパールであることが、ここでは微かに暗示されているに止まる。
六人ばかりの特別に親しい友達  この「特別に親しい友達」という言葉は特殊の意味を持っていて、後になるほど数が増して来る。
永い間……一つの大きな悲惨の、この悲惨な表象  「大きな悲惨」とはその地方全体の貧窮をさすのであり、「悲惨な表象」とはキリストの木像をさすのである。
一二リーグ  一リーグは三マイルである。

 〔第九章 ゴルゴンの首〕

ゴルゴン  ギリシア神話の醜怪な容貌をして頭髪は蛇であったという女怪であって、一目でも見る人をことごとく石に化せしめたという。
決して断絶することがないはずの王統  フランスのブルボン王統をさす。ブルボン王統は永久にフランスの王座を保つであろうと予言されていた。
消化器のような恰好  円筒形で、先が円錐形をなして尖っている形。
彼はイギリスでチャールズ・ダーネーとして…………  前に侯爵がこの甥を「ムシュー・シャルル」と言ったが、フランスでシャルルという名は同じ綴字で英語ではチャールズと発音するのである。
拘禁令状  第一巻第四章の註に記した如く、フランスの国王の私印で封印した密書であって、それを国王から貰った人は、それに誰でも任意の者の名を記入して、その者を裁判なしにただちに投獄することが出来た。
その屋根の鉛が…………  大革命時代からナポレオン戦争時代にかけて、建物の屋根瓦の鉛が溶かされて銃弾にされたのである。
イギリスはたくさんの人間の避難所になっている  ヨーロッパ諸国の亡命者などは多くイギリスへ亡命したのである。
ドイツの民謡のレオノーラ  ある乙女が十字軍遠征に行って死んだ恋人を歎き悲しんでいると、夜呼び起され勧められて、馬上の自分の恋人に見える姿の背後に乗って駈け去ったが、それはほんとうは恋人の骸骨の幽霊であったという。十八世紀の末頃にはこの詩はイギリスでもよく知られていた。

   

  解説

    第一巻 甦る

〔六章から成る。この物語全体に対する短い序曲。出来事は一七七五年の秋から冬へかけてのわずか数日間のこと。場面はイギリスのドーヴァー街道からフランスのパリーへ。「甦る」という暗号文句を標題とし、フランスの一医師が十八年間の獄中の監禁から再び自由の世界へ甦るまでの顛末が語られるに過ぎぬ。この物語における最も主要な人物でさえこの巻ではまだ全然現れていない。〕


第一章 時代  この章では、作者ディッケンズは、一七七五年すなわちアメリカ独立戦争開始の年でありフランス大革命勃発の十数年前に当る頃におけるイギリス及びフランス両国の政治的及び社会的状態を、陰翳の多い筆で一抹的に描いて、この物語の発端の背景としている。純然たる序言的な章である。
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第二章 駅逓馬車  物語はロンドンからドーヴァーへ通ずる街道から始る。一七七五年十一月末の夜。丘を登るドーヴァー行の駅逓馬車、その傍を歩く一乗客、泥濘の道、馬車を曳く馬、谷々をたちこめるイギリス名物の霧、厚く身をくるんだ乗客たち、馭者と車掌、等、等、――この物語の初めの方は長編の発端らしく悠々としてその道を辿り、遅々として進捗しない。先へ進むに従って速度が速くなる。そのドーヴァー行の駅逓馬車を早馬で追いかけて来た使者のジェリーが、ロンドンのテルソン銀行のジャーヴィス・ロリーという乗客に「ドーヴァーにてお嬢さんを待て。」という簡短な手紙を渡し、「甦る」という奇妙な返事を受けて引返す。この章の筋はそれだけに過ぎないが、読者をも霧の中にいるような雰囲気の中に残す。

第三章 夜の影  この章では、馬車と別れてロンドンの銀行へ帰ってゆくジェリーと、馬車に乗ってドーヴァーへ向うロリーとが書かれているだけで、物語の筋は一向進展しない。ただ、読者にますます疑問と期待との感を抱かせる。「夜の影」とは原語では「夜の闇」の意味であり、それが彼等にとってその夜それぞれの形をなして現れる。ジェリーは生粋のディッケンズ的人物の一人である。ここでその容貌が作者一流の幾分誇張的で怪奇的《グロテスク》な戯画的手法でスケッチされる。ディッケンズは常に作中人物の容貌風采はもとより音声に至るまでもはっきりと想像したので、各主要人物のそれらを必ず書いている。甦るという言葉に悩まされるこのジェリーは秘密の商売を持っているのだが、その商売が何であるか、またその商売がこの物語にいかなる関係を持つことになるかは、ずっと後の第二巻第十四章と第三巻第八章とに至ってようやく判明するのである。ロリーの馬車の中での夢と現実との交錯は、はなはだ小説的に巧みに書かれている。心に重くかかる何かの用件を持って一晩夜汽車に乗ったことのある読者は、このロリー氏と幾らか似たような経験を持つであろう。彼の夢に浮ぶのは、彼の勤務先の銀行と共に、年齢四十五歳の男の物凄く瘠せ衰えた顔。その男との想像上の対話。それから空想の裡でその男を頻りに掘り出し、その男がようやく出て来ると、たちまち倒れて塵になる。そういう陰惨な夢と、その夢から覚めて見る窓外の紅葉黄葉の疎林と美しく昇る朝暾とは、対照の妙を得て効果的である。

第四章 準備  その日の午前に駅逓馬車の著いたドーヴァーの旅館。それまでぼってりと身に纒っていたものを脱いで正装して食堂へ入るロリー氏。六十歳の独身の紳士、テルソン銀行員。この物語において最初に登場し、最後まで副人物的な役割を勤めるこの一主要人物は、この旅館の食堂で肖像画を描かせるために著席しているかのように静かに腰掛けている間に、作者によってその肖像画をペンで描かれる。それから、ドーヴァーのスケッチ、その他。その夜、彼の後を追うて来たマネット嬢。大きな薄暗い一室で、読者はまた十七歳ばかりの本編の女主人公《ヘロイン》に紹介される。ここで、パリーでこれから処理さるべき事務の準備として、約二十年前の事がロリーの口を通じて一部分語られるのである。前章以来の読者の疑問の霧は幾分かは霽れる。この章の終りのところで初めて登場するマネット嬢の附添いの婦人プロス(ここでは名は記されていないが)。彼女はディッケンズ的喜劇風の身振りで現れて来て読者を微笑させる。駅逓馬車から犬のような様子で出て来るロリー氏の描写や、食堂での彼と給仕人との会話や、その他の細部の巧みさなどは、一々指摘しない。
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第五章 酒店  場面はパリーの貧民窟サン・タントワヌに移る。前章から数日後の冬の日。街上に葡萄酒の樽が壊れて、流れる赤葡萄酒を飢えた人々が争って飲む光景。この街上の葡萄酒は、後にこの区域から始った大革命の流血を前兆するのである。ここに描かれたサン・タントワヌ街の窮乏と汚穢との画面はその臭いまでも読者に感じさせ、極めて傑れている。荘重で峻厳なカーライルの文体を思わせるところがある。この街の酒店の主人ドファルジュとその妻とがここでその風貌を描写される。共に年齢三十歳前後。この二人がいかなる人物であるかは第二巻第三巻に至って次第に明かにされる。しかし、この物語の「姿なき主人公」とも言い得る「革命」は、この章において微かにその前奏曲が奏されている。飢餓、貧窮、欠乏、狩り立てられ、追い詰められかけている人民の野獣的な顔付、ジャークという同一の名を持つ者の秘密結社。マダーム・ドファルジュは既にその編物を始めている。このサン・タントワヌの酒店にマネット嬢とロリー氏とが現れる。そして、彼女の父マネット医師の昔の召使人であったムシュー・ドファルジュの案内で、酒店の附近のある建物の六階の屋根裏部屋へとムシュー・マネットに会いに上って行く。なお、ドファルジュがいかなる人々からマネットを引取ったかは、はっきりとは書いてない。ドファルジュがジャークという同じ名の連中にマネットを覗かせるのは、貴族の圧制と暴虐との一標本を見せるためなのである。

第六章 靴造り  サン・タントワヌ区のある屋根裏部屋。まだやはりバスティーユの牢獄の中にいるつもりで頻りに靴を造っている変り果てた白髪のマネット。名を問われると「北塔百五番」とのみ繰返す永年の囚人。その永年の監禁のために暗雲に鎖された智力。父と娘との初めての対面。娘の髪の毛や声によって微かに甦った遠い昔の記憶。娘の永い言葉によってようやくごく微かに甦った智能。夜になってから、訪問者たちはこの甦る人ムシュー・マネットを馬車に乗せてイギリスに向ってただちにパリーを立つ。パリー市の城門でドファルジュだけが下りて別れる。街灯の下から大空の永遠の灯――星――の下へと走る馬車。第三章の駅逓馬車の中で幾度も繰返されたあの空想の対話が再びロリーの耳に戻って来て、巻を閉じる。
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    第二巻 黄金の糸
〔二十四章から成る。序曲に次ぐ展開部である。最も長くかつ変化に富む。年月は一七八〇年三月から一七九二年八月に至るまでの十二箇年余、場面はロンドンとパリーとフランスの田舎とにわたる。この作中の諸人物はほとんどすべて登場し、女主人公《ヘロイン》が彼女の黄金の糸を巻いてゆき、第三巻で起る波瀾はこの巻において完全に準備される。〕

第一章 五年後  ロンドン。前章から五年後すなわち一七八〇年。初めに、ロンドンのテムプル関門《バー》の傍にある古風なテルソン銀行が描かれる。極めてイギリス風な銀行であることが巧みに語られている。それに附随して、テムプル関門《バー》の上に曝されている処刑者の首のことから、当時死刑ということが少しも珍しくなかったことが書かれているのは、続章に出て来る叛逆罪の裁判に対する一種の予備知識を読者に与えるためであろう。それに続いて、この銀行の戸外に息子と共にあたかも「銀行の生きた看板」であるかのような役を勤めているジェリー・クランチャー君が再び登場する。その年の三月のある朝。まず彼の私宅の場から始る。クランチャー君は、息子の小ジェリー君や、前に出た女丈夫プロス女史や、後に出て来る弁護士ストライヴァー先生と共に、この物語における喜劇的人物である。自ら「実直な商売人」と称する彼が、温順にして敬虔な細君の祈祷に頻りに文句をつけるのは、何か多少良心に疚しい所業をしているからであろう。彼のいわゆる「蹲る」ことに対してさんざん毒づいた後に、彼は小ジェリーを連れて銀行へ御出勤になり、大小二匹の猿のように銀行の前に陣取る。当時十二歳の小猿は父親の指にいつも鉄の銹がついているのを不思議がる。

第二章 観物  銀行(の戸外)へ出勤したジェリーはまもなく裁判所行の御用を仰せつかり、ロリー氏が行っているオールド・ベーリーへ入ってゆく。このジェリーの描写や会話によって読者は諧謔作家としてのディッケンズに幾分接することが出来る。このオールド・ベーリーにおける叛逆事件の公判の場面で、この物語における二人の主要な人物――互いに容貌が酷似しているシドニー・カートンとチャールズ・ダーネー――が初めて登場する。もっとも、この章では、カートンの方は、まだ名も記されず、ただ「両手をポケットに突っ込んで」、「法廷の天井ばかり眺めている」、「仮髪を著けた今一人の紳士」として簡単に漠然と紹介されているだけであり、彼はこれから後の章に至って次第次第にその姿を大きく現して、最後のこの小説中の最大の人物となるのである。また、ダーネーの方は、フランスの間諜の嫌疑をかけられたこの叛逆事件の被告、恐しい死刑の判決を受くべきこの法廷の観物として現れ、その真の身分などはこの巻の第九章になって明かになるのである。被告席に立った冷静な態度の質素な彼の姿。二十五歳ばかりの青年紳士。その他に、いずれも名は次の章まで記されていないが、被告の弁護士ストライヴァー。証人として現れるマネット医師とマネット嬢。前の巻から五年たっているのだから、五十歳の紳士と二十二歳の令嬢である。

第三章 当外れ  いよいよ被告チャールズ・ダーネーの叛逆罪の公判が始る。検事長閣下の滔々たる論告。検事側の証人ジョン・バーサッド及びロジャー・クライに対する被告の弁護士ストライヴァー氏の対質訊問。それに対するすこぶる怪しげな答弁。次に、ロリー氏と、マネット嬢と、マネット医師との証言によって、五年前に彼等が一緒にフランスからイギリスへ渡った時のこと、マネット嬢とダーネー氏とが初めて逢った時のこと、マネット医師がロンドンに居住したこと、その他が簡短に述べられる。それから、更に公判が進み、ストライヴァーが同僚弁護士であるカートンの注意によってカートンとダーネーとの容貌の酷似を利用して相手側の一証人の証言を粉砕する。次に、彼の被告に対する弁護。このバーサッドやクライというのは、実は、政府に傭われている間諜であって、フランス生れの被告に近づいて無理に交際を結び証拠を捏造してフランスの間諜として告発し、当時のフランスに対する国民的反感を利用して政府への人気を博そうとしたのであり、そういう類のことを職業にしている人間なのである。それがダーネーとカートンとの容貌の類似という思付きから失敗させられ、終日公判が続いた後に陪審官は遂に無罪放免の評決をする。死刑囚を見るつもりで集って青蠅のように騒いでいた観衆は、その当が外れて青蠅のように裁判所から去ってゆく。この章で、カートンとマネット嬢とダーネーとの三人の最初の交渉が微妙に始っている。

第四章 祝い  その夜。法廷の廊下で、釈放されたばかりのダーネーを取囲んで祝いを述べるマネット、その娘リューシー、ロリー、ストライヴァー。大声の太ったストライヴァー氏が改めて紹介される。遠慮、思遣り、上品、敏感など――要するに一語で正確な訳語がないが「デリカシー」というひけめは一切持ち合せていない、三十歳を少し越している男。また、マネット医師のことはここでもこの後でもたびたび書かれるが、第三巻第十章の彼の手記に至るまでは彼の過去の経歴がはっきりわからない。確かに、彼の上にはバスティーユ牢獄の濃い影が落ちているような印象を与える。この法廷の廊下で彼はダーネーの顔に何かを認める。ただ一人壁蔭の暗いところに凭れていたカートンは、皆の後から裁判所を出て、マネットとリューシーとが貸馬車で去るのを黙々と見送った後、ぶらりと鋪道へ現れ、善良な銀行員のロリーをひやかしてから、ダーネーを誘って二人で近くの飲食店へ行く。その二人の人物の対話の場面の大写し。ダーネーが去ってからのカートンの鏡に映る姿に向っての独白。それから酔って卓子《テーブル》に突っ伏して眠ってしまう彼の上に滴り落ちる不吉な運命を暗示するような蝋燭の蝋垂れ。

第五章 豺  ストライヴァーに対して豺の役目を勤めているシドニー・カートン。彼は飲食店をその夜晩く出て、テムプルのストライヴァーの事務室へ入ってゆく。作者は少年時代に二年ばかり法律事務所の見習書記をしていたことがあり、こういう法律家などを書くことも巧みである。カートンは、ストライヴァーとシュルーズベリー学校以来の同窓生であるから、年齢もやはり同じくだいたい三十歳くらいであろう。前章からこの章へと彼の性格は次第に描かれて来る。ストライヴァーは(第二巻の終りの方である一つの小さな役割を演ずる他は)このカートンの対照に書かれているのである。徹夜して酒を飲みつつ仕事をしてから、カートンはマネット嬢のことを思って憂鬱になりながら、どんよりした陰気な夜明の戸外へ出る。周囲の沙漠。一瞬の蜃気楼。浪費されている才能を抱いて埋もれている男。印象的な場面。
            ――――――――
第六章 何百の人々  前章から四箇月後すなわち一七八〇年七月頃。同じくロンドン。ソホー広場附近のマネット医師一家の閑静な住居が見事に描き出される。ある日曜日の午後。そこへロリー氏が訪ねる。ドーヴァーの旅館で初対面をした例のプロス嬢との対話。それによってマネット医師のことがまた語られる。なお、プロス嬢の話にちょっと出るように、彼女にはソロモン・プロスという弟があることは、この物語の後の方の章のために記憶されなければならない。嫉妬深いプロス嬢がお嬢さんに会いに来る何百[#「何百」に傍点]の人というのは、ダーネーとカートンとであった。マネットに何か衝撃《ショック》を与えたらしいダーネーのロンドン塔の囚人の話。リューシーとダーネーとの間に交される二三の簡短な、しかし愛人同志らしい対話。その家で聞える足音の反響をいつか自分たちの生活の中へ入り込んで来る足音の反響だというリューシーの空想。それに対するカートンの言葉。夜になって襲来する雷鳴と電光と豪雨。暗示的で感銘的な場面。雨が霽れて帰る途で迎えに来たジェリーはまたロリーの言葉にぎょっとする。この章の結末の数行は、漠然たる、しかし効果的な暗示の文句である。
            ――――――――
第七章 都会における貴族  これから三章は場面がフランスへ移り、人物はしばらく一変するが、やがて前に出た人物も登場して加わる。前章と同じく一七八〇年の夏。フランス革命の起る九年前である。この章の前半のモンセーニュールは当時のフランスの貴族の象徴的人物であり、ここに、フランスの王政封建時代末期の支配階級の戯画が、モンセーニュールのパリーの邸宅における接見会《リセプション》の場面によって、描き上げられる。この戯画もまた実に傑れており、第一巻第五章のあのサン・タントワヌ区の画面と対照されて効果的である。この章の後半からは、そのモンセーニュールの接見会《リセプション》に出席したある侯爵が主な人物となる。例によってその人物の肖像画。彼はそこを去り馬車を駆って街々を驀進し、平民どもを蜘蛛の子のように散らし、その挙句ガスパールという男の子供を轢き殺す。その場へあの酒店の主人ドファルジュが現れる。一人の人間を殺して、金貨を一枚投げ与え、何かの品物を壊してその賠償をすませたかのようにまた馬車を駆って去る侯爵。その侯爵をただ一人きっと見つめるマダーム・ドファルジュ。それから、馬車で流れ去る仮装舞踏会のように著飾った上流人士。自分たちの穴から出てそれを眺め続ける鼠のような貧民たち。昼は夜となり、仮装舞踏会は晩餐の明るい灯火に輝き、鼠は暗い穴の中でくっつき合って眠り、万物はそれぞれの道を流れる。

第八章 田舎における貴族  窮乏し疲弊したフランスのある田舎。前章の翌々日の日没頃から夜へかけて。侯爵は彼の領地へ旅行馬車で帰って行く。穀物の乏しい田園。すべてが貧乏くさい村。貧苦に窶れた村民。その村の宿駅の前でしばらく停った侯爵は、青い帽子を持った一人の道路工夫を訊問して、脊の高い男が一人自分の旅行馬車の下にぶら下って来たことを知る。宿駅長のガベルが現れる。彼は徴税吏をも兼ねている。ガベルに命令を与えてから、侯爵はまた出発する。途で会う一人の寡婦の歎願を押し除けて、日がとっぷり暮れてから彼の館に到著する。彼は著くとすぐに、イギリスから来るはずのムシュー・シャルルが著いているかと尋ねる。

第九章 ゴルゴンの首  侯爵の館。その夜から翌朝へかけて。一目であらゆるものを石に化せしめるというゴルゴンの首が検分したかのような、何から何までが石で出来た堂々たる建物。月もなく風もない真暗なひっそりとした晩。やがて塔の中の豪奢な一室で侯爵が食卓に向っていると、侯爵の甥のシャルルが到著するが、このシャルルとは意外にも数箇月前イギリスでの叛逆事件の被告であったチャールズ・ダーネーである。挙止だけは優雅で心の冷酷な、抑圧を唯一の永続する哲学と信じている、骨の髄からの封建貴族の叔父。貴族の暴虐圧制と誅求搾取とを嫌って、財産継承の権利を抛棄し、国を去り、家名を棄てて、イギリスで働いて生活しようとする、新しい思想を奉ずる甥。この二人(殊に前者)はその会話やわずかな動作などによって驚くべく巧妙に書かれている。甥を別室へ送り出して自分の寝室で寝ようとする侯爵。その日の昼の旅行や前々日のパリーでのことの追想。それから深い夜の闇の三時間。この夜から朝へかけての叙述もまた最も傑れている部分の一つである。夏の夜は早く次第に明けかかり、遂に館でも夜がすっかり明け放れると、館の大鐘が鳴り響き、人々があわただしく駈け※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、ただならぬ模様。侯爵もまた寝室で石になったのである。彼を突き刺した短刀に附いている紙片の文句によれば、ドファルジュの仲間であるジャークの一人に暗殺されたのであって、暗殺者が前日に侯爵の馬車の下にぶら下って来た脊の高い男であり、パリーで侯爵に子供を轢き殺されたガスパールであることは暗示されている。この物語の主要な人物は既に全部出揃い、読者はそれらの人物について一通りは知ったのである。
[#ここで字下げ終わり]
            ――――――――
[#地から2字上げ]第二巻未完。


底本:「二都物語 上巻」岩波文庫、岩波書店
   1936(昭和11)年10月30日第1刷発行
   1967(昭和42)年4月20日第26刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 恰も→あたかも 或る→ある 如何→いか・いかが 聊か→いささか 何時→いつ 一層→いっそう 今更→今さら 謂わば→いわば 所謂→いわゆる 於て→おいて 大凡→おおよそ 於ける→おける 恐らく→おそらく 己→おれ 却って→かえって 彼処→かしこ か知ら→かしら 難い→がたい 且つ→かつ 嘗て→かつて かも知れ→かもしれ 位→くらい 極く→ごく 此処→ここ 毎→ごと 悉く→ことごとく 此→この 而→しかし 然る→しかる 屡々→しばしば 暫く→しばらく 直ぐ→すぐ 頗る→すこぶる 即ち→すなわち 是非→ぜひ 其奴→そいつ・そやつ 大層→たいそう 大体→だいたい 大分→だいぶ・だいぶん 唯→ただ 但し→ただし 直ち→ただち 忽ち→たちまち 度→たび 度々→たびたび 多分→たぶん 給え→たまえ 給う→たもう (て)頂→いただ (て・で)貰→もら・もれ 何処→どこ・どっ 乃至→ないし 尚・猶→なお 尚更→なおさら 何故→なぜ に拘らず→にかかわらず 筈→はず 甚だ→はなはだ 甚し→はなはだし 程→ほど 殆ど→ほとんど 正しく→まさしく 将に→まさに 先ず→まず 益々→ますます 亦→また 間もなく→まもなく 勿論→もちろん 以て→もって 尤も→もっとも 易→やす 已むを得ず→やむをえず 故→ゆえ 漸く→ようやく 俺→わし 僅か→わずか」
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付しました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(畑中智江)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年6月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木直次郎

盗まれた手紙 THE PURLOINED LETTER エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe——-佐々木直次郎訳

Nil 〔sapientiae&〕 odiosius acumine nimio.
(叡智にとりてあまりに鋭敏すぎるほど忌むべきはなし)


セネカ(1)

 パリで、一八――年の秋のある風の吹きすさぶ晩、暗くなって間もなく、私は友人C・オーギュスト・デュパンと一緒に、郭外《フォーブール》サン・ジェルマンのデュノー街三十三番地四階にある彼の小さな裏向きの図書室、つまり書斎で、黙想と海泡石《かいほうせき》のパイプとの二重の快楽にふけっていた。少なくとも一時間というものは、我々は深い沈黙をつづけていた。そして誰かがひょっと見たら、二人とも、部屋じゅうに濛々《もうもう》と立ちこめた煙草のけむりがくるくると渦巻くのに、すっかり心を奪われているように見えたかもしれない。しかし、私自身は、その晩の早いころ我々の話題になっていたある題目のことを、心のなかで考えていたのだった。というのは、あのモルグ街の事件と、マリー・ロジェエ殺しの怪事件のことなのである。だから、部屋の扉が開いて、我々の古馴染《ふるなじみ》のパリの警視総監G――氏(2)が入ってきたとき、私にはそれがなにか暗合のように思われたのであった。
 我々は心から彼を歓迎した。この男には軽蔑《けいべつ》したいところもあるが面白いところもあったし、それに我々はここ数年間、彼に会わなかったからである。二人はそれまで暗いところに坐っていたので、デュパンはすぐランプをつけようとして立ち上がったが、G――がある非常に困っている公務について、我々に相談に、というよりも私の友の意見をききに来たのだというと、デュパンはそのままふたたび腰を下ろした。
「もしなにかよく考える必要のあることなら、暗闇のなかで考えたほうがいいでしょう」と彼は灯心に火をつけるのをよして、言った。
「また君の奇妙な考えですな」と総監が言った。彼は自分のわからないことはなんでもみんな『奇妙な』という癖なので、まったく『奇妙なこと』だらけの真ん中に生きているのだった。
「いかにも、そのとおり」とデュパンは言って、客に煙草をすすめ、坐り心地のよい椅子を彼の方へ押しやった。
「ところで今度の面倒なことというのはなんですか?」と私が尋ねた。「殺人事件なんぞはもうご免こうむりたいものですな」
「いやいや、そんなものじゃないんだ。実は、事がらはいたって[#「いたって」に傍点]単純なので、我々だけで十分うまくやってゆけるとは思うんだが、でもデュパン君がきっとその詳しいことを聞きたがるだろうと思ったんでね。なにしろとても奇妙[#「奇妙」に傍点]なことなんだから」
「単純で奇妙、か」とデュパンが言った。
「うむ、さよう。で、またどちらとも、そのとおりでもないので。実は、事件は実に単純なんだ[#「なんだ」に傍点]が、しかも我々をまったく迷わせるので、ひどく参っている始末なんだ」
「じゃ、たぶん、事がらがあまり単純なので、それがかえって、あなた方を当惑させているんだな」と友が言った。
「ばかを言っちゃいかん!」と、総監は心から笑いながら答えた。
「きっと、その謎《なぞ》はちと、はっきりしすぎるかな」と、デュパンが言った。
「おやおや! そんな考えってあるもんかね?」
「少々わかりきっていすぎる[#「すぎる」に傍点]んだよ」
「は、は、は! ――は、は、は! ――ほ、ほ、ほ!」と客はたいそう面白がって大笑いした。「おお、デュパン君、こう笑わされちゃ助からんよ!」
「ところで、いったいどんな事件が起っているんですか[#「ですか」に傍点]?」と私が尋ねた。
「じゃあ、お話ししようか」と総監は、煙草のけむりを長く、しっかりと、考えこむように吹かし、自分の椅子に坐りこんで、答えた。「手短かに話しましょう。だがその前にご注意願いたいのは、これは絶対秘密を要する事件で、もし僕が他人に洩らしたことが知れたら、僕はおそらくいまの地位を失わねばならん、ということです」
「まあ、お始めなさい」と私が言った。
「なんなら、およしになっても」とデュパンが言った。
「では、話しましょう。ある高貴の筋から内々で僕に通知があって、宮廷から、絶対に重要なある書類が盗まれたというのです。盗んだ当人はちゃんとわかっているんだ。それには疑いはない。取るところを見られているんだからね。また、その男がまだそれを持っていることもわかっているのです」
「それが、どうしてわかっているんです?」とデュパンが尋ねた。
「それは、その書類の性質からと、また、それが盗んだ人間の手を離れる[#「離れる」に傍点]とすぐ現われるはずのある結果がまだ現われないことから、はっきり考えられるのです。――つまり、彼が最後にそれを使うはずの、その使い方から起きる結果が現われていないんでね」と総監が答えた。
「もう少しはっきり願いたい」と私が言った。
「よろしい。じゃあ思いきって言うが、その文書はそれを持っている者に、ある方面である種の勢力を与えるのだ。そこではそういう勢力は莫大な価値があるのです」総監は外交用語を使うのが好きだった。
「まだ私にはすっかりわからんが」とデュパンが言った。
「わからない? よろしい。その書類を、名は言えないがある第三者にあばくと、ある非常に高い地位の方の名誉にかかわるのですな。そしてこの事実は、書類の所持者にその高貴な方に対して権力を揮《ふる》わせ、その方の名誉と平和とが危うくされているのです」
「しかしその権力なるものは」と私は語をはさんだ。「盗まれた人が盗んだ人を知っているということを、その盗んだ当人が知ってのことでしょう。誰がそんなひどいことを――」
「ところが盗んだ人というのは」と、G――は言った。「男らしいことであろうとなかろうと、どんなことでも平気でやるあのD――大臣ですよ。その盗み方は、大胆であるとともに巧妙でもあったのです。その書類は――うち明けて申せば、手紙なんですが――その盗まれたお方が、王宮の奥の間にお一人でいらしたときにお受け取りになられたものです。そのご婦人がそれを読んでおいでになるときに、もう一人の高貴な方がふいに入って来られた。ところが、そのご婦人は、その手紙をとりわけその方には見せたくないと思っておられたものなんですな。で、急いでそれを引出しのなかへ押しこもうとされたが駄目だったので、仕方なしに開いたままテーブルの上にお置きになりました。でも、宛名がいちばん上になっていて、したがって内容のところが隠れていたので、手紙はべつに注意されずにすんだというわけでした。このときにD――大臣が入って来たのです。彼の山猫のような眼はすぐその手紙を見つけ、宛名の筆蹟《ひっせき》を認め、それから受取人の方《かた》の狼狽しておられるのを見てとり、その方の秘密を知ってしまったのですな。いつものように用向きを手早くすませると、彼は例の手紙といくらか似ている一通の手紙を取り出して、それを開き、ちょっと読むようなふりをして、それからその問題の手紙とぴったり並べて置きました。そしてまた、十五分ばかり公務について話をする。さて退出するときに、彼はテーブルから自分のものでない手紙を失敬して行ったのですよ。その手紙のほんとうの所有者はそれを見ておられたけれども、その第三者の方がすぐ側に立っておられるところで、もちろん、その行為をとがめるわけにもゆかなかったんですね。大臣は、自分の手紙を――大事でもなんでもないのを――テーブルの上に残して、さっさと引き上げたんです」
「なるほど、そこで」とデュパンが私の方を向いて言った。「君の言っているその権力なるものが完全に揮われるわけがちゃんとわかったことになるんだね。――盗まれた人が盗んだ人を知っているということを、盗んだ当人が知っている、ということが」
「そうなんだ」と総監が答えた。「それで、こうしてにぎられた勢力は、この数カ月の間、政治上の目的に、はなはだ危険な程度にまで利用されてきているんでね。盗まれた方はご自分の手紙を取りもどす必要を、日ごとに痛切に感じておられる。だが、これはむろん大っぴらにやるわけにはゆかない。とうとう思いあまって、事をわたしにおまかせになったのです」
「なるほど、あなた以上に賢明なやり手は望めないし、想像もされないですからな」とデュパンは濛々とけむりの渦巻くなかで言った。
「お世辞を言っちゃいけませんよ。しかし、まあ、そんなようなことかもしれないな」と総監は答えた。
「あなたのおっしゃるとおり」と私が言った。「その手紙がまだ大臣の手にあることは明らかですね。権力を与えるのは、手紙をなにかに使うことではなくて、それを持っていることなんだから。使ってしまえば権力はなくなるわけだ」
「そのとおり」とG――は言った。「で、その確信のもとに、私は捜査をすすめたのです。まず第一になすべきことは、大臣の邸をすっかり捜索することでした。そして、そこでわたしのいちばん困ったのは、彼に知られないで捜索しなければならんということでしたよ。なによりも、我々の計画を彼に疑われるようになると、危険が生ずるかもしれないということを、わたしは警告されたんですから」
「ですが」と私は言った。「そのような調査は、あなた方にはまったくお手のものでしょう。パリの警察はいままでにそんなことは何度もやったことがあるんだから」
「そうですとも。だからわたしは失望しなかったんです。それに、大臣の習慣もわたしには非常に好都合でした。彼はよく一晩じゅう家をあけるのです。召使もたくさん使っていない。彼らは主人の部屋から離れたところに寝ているし、主にナポリ人だから、造作なく酔わせてしまえるのです。ご承知のとおり、わたしはパリじゅうのどんな部屋だろうが戸棚だろうがあけられる鍵《かぎ》を持っている。この三カ月というものは、一晩だってその大部分をわたしが自身でD――の邸をくまなく捜さずに過したことはありません。わたしの名誉にかかわることだし、それにほんとうのことを言ってしまえば、報酬はすばらしいんですよ。だからわたしは捜索をやめずにつづけていたのですが、とうとう、盗んだ男はわたしよりももっとはしっこい人間だということが十分にわかって、やめてしまいました。あの書類を隠すことのできそうな屋敷じゅうのどんなすみずみまでも調べたつもりなんですがねえ」
「しかしですね」と、私は提言した。「その手紙がたしかに大臣の手にあるとしても、彼がそれを自分の屋敷以外のどこかに隠しているかもしれん、ということはありえないでしょうか?」
「そいつはまずほとんどありえないことだね」とデュパンが言った。「宮廷での現在の特殊の事情と、とりわけ、D――の関係しているという評判のあの陰謀問題とから、その書類をすぐ間に合わせることが、それを即座に取り出せることが――それを持っていることとほとんど同じくらい重要なことなんだからな」
「それを取り出せることと言うと?」と私は言った。
「つまり、やぶいて[#「やぶいて」に傍点]しまえることさ」と、デュパンが言った。
「なるほど」と私は言った。「じゃあ、その書類は明らかに屋敷内にあるわけだ。大臣がそれを体につけているなんてことについては、問題にしなくてもいいんでしょうな」
「ぜんぜんないね」と総監は言った。「追剥《おいはぎ》の仕業のように見せて二度も彼を待ち伏せして、僕自身の監視のもとに厳重に体を捜させたんだから」
「そんな厄介なことはしなくたってよかったろうにね」とデュパンが言った。「D――だってまんざら馬鹿でもないだろうと思う。とすれば、そんな待ち伏せされることなんぞは当然のこととして、予期していたにちがいないでしょうよ」
「まんざら[#「まんざら」に傍点]馬鹿ではね」とG――は言った。「だが、あの男は詩人ですぜ。詩人なんてものは馬鹿とほんの一隔てだとわたしは思っていますよ」
「いかにも」デュパンは海泡石のパイプからゆったりと、考えこんででもいるように、煙草のけむりを吹き出してから、言った。「もっとも僕だってへぼ詩を作ったことがあるんだが」
「あなたの捜索のことをすっかり詳しくお話しになってはどうでしょう」と私が言った。
「おお、そうですな。いや、もう、我々は時間をかけてゆっくり、どこもここもみんな[#「どこもここもみんな」に傍点]捜した、というわけなんです。こういった仕事には僕は永年の経験があるんで。僕は建物全体を一部屋ごとにかかり、一部屋に満一週間の夜を費やしました。初めに各室の家具を調べたのです。ありとあらゆる引出しをあけてみました。ご承知のことと思うが、相当に熟練した警察官にとっては、秘密の[#「秘密の」に傍点]引出しなどというようなものはありえないのです。こういう捜索にあたって『秘密の』引出しがその眼につかないと思う者がいるなら、そりゃあ阿呆ですよ。それほど[#「それほど」に傍点]やさしいことなんです。どんな戸棚でもみんな、測られる容積の――空間の――ある一定の量がある。ところで我々は正確な物差を持っている。一ライン(3)の五十分の一だって見おとすはずはない。戸棚のつぎには椅子を調べました。クッションは、僕が使っているのをご覧になったことのある、あの細い、長い針で探ってみました。テーブルからは上板を取りのけてみました。
「なぜそんなことを?」
「テーブルや、それに似たような作りの家具の上板は、ときどき、物を隠そうとする人が取りのけることがあるのです。そうして脚に穴をあけ、品物をそのなかへ入れて、上板をもとのとおりにしておくんですよ。寝台の柱の底や頭も同じぐあいに使われます」
「しかし、そんな穴は叩いてみたら音でわかりはしませんかね?」と私は尋ねた。
「品物を入れるときに、そのまわりに綿を十分につめれば、決してわからない。そのうえに、我々の場合では、なにしろ音をたてずにやらにゃならなかったんだから」
「しかし、あなただって、物の入れられそうな家具をどれもこれもみんな[#「どれもこれもみんな」に傍点]取りはずすことはできなかったでしょう、――ばらばらにすることはできなかったでしょう。手紙の一通くらいなら、細くぐるぐる巻けば、大きな編物針と形も大きさも大して違わないものに巻き縮められる。そんなふうにすれば、たとえば椅子の桟のなかへでも差しこむことができるかもしれん。あなたは椅子を一つ残らずばらばらにしやしなかったでしょう?」
「そりゃあしませんでしたがね。だが我々はもっとうまくやりましたよ、――邸じゅうのあらゆる椅子の桟、それから実際あらゆる種類の家具の接目《つぎめ》を、非常に強度の拡大鏡を使って調べたんです。近ごろ手をつけたような跡が少しでもあれば、すぐに我々の眼につかないはずはない。たとえば、錐《きり》くずの一粒でも、林檎《りんご》みたいにはっきりしたでしょうよ。膠《にかわ》づけが少しでも変だったり――接目が少しでも普通以上に開いていたり――すれば、それだけで十分に見破られたでしょう」
「鏡はご注意なすったでしょうね、板とガラスとのあいだを。また寝台や寝具はお探りになったでしょうね。それからカーテンや絨毯《じゅうたん》も」
「それはもちろん。そんなふうにして家具を一つ残らずすっかりやってしまうと、今度は家の全面を区画して、一つでも見おとしをしないように、それに番号をつけました。それから屋敷じゅうを各平方インチごとに、そのすぐ隣の二軒も含めて、前のように、拡大鏡で精密に調べたのです」
「隣の二軒の家も!」と私は叫んだ。「そりゃあさぞたいへんなお骨折りだったでしょうなあ」
「そうでしたよ。でもなにしろ報酬が莫大なんでね」
「家の周囲の地面[#「地面」に傍点]も含めておやりになったんですね?」
「地面にはすっかり煉瓦《れんが》が敷いてあるんでね、それほど骨を折らずにすみましたよ。煉瓦のあいだの苔《こけ》を調べたんだが、動かされていないことがわかったのです」
「むろんD――の書類のあいだや、図書室の書物のなかもご覧になりましたね?」
「いや、見ましたとも。荷物や包みはかたっぱしからあけてみました。書物はみんな、ある警察官たちのやるように、ただ振ってみるだけでは満足できなかったのでね、あけてみるばかりでなく、一冊ごとに一枚一枚めくってみました。また本の表紙[#「表紙」に傍点]もみんな非常に正確に厚さを測り、一つ一つ拡大鏡でうんと注意ぶかく調べました。最近に装釘《そうてい》に手をつけたものがあれば、眼にとまらないなんてことは絶対になかったはずです。製本屋から来たばかりの五、六冊の本は、針で念入りに探ってみました」
「絨毯の下の床はお調べになりましたね?」
「たしかに。絨毯はみんな剥《は》いで、床板を拡大鏡で調べました」
「それから壁紙も?」
「ええ」
「穴蔵も見ましたね?」
「見ました」
「それじゃあ」と私は言った。「あなたは見込み違いをしていらしたのでしょう。手紙はあなたが想像なさるように屋敷のなかにはない[#「ない」に傍点]んですよ」
「僕もそうじゃなかろうかと思う」と総監が言った。「で、デュパン君、どうしたらいいでしょうね?」
「屋敷をもう一度完全に捜すんですな」
「それはぜんぜん不要だ」とG――が答えた。「手紙が邸のなかにないことは、僕が生きているのと同じくらい確かですよ」
「だが、僕にはそれ以上の助言はできないのです」とデュパンは言った。「あなたは、もちろん、その手紙の正確な説明書を持っているでしょうね?」
「ええ、もちろんですとも!」――そう言うと、総監は手帳を取り出して、紛失した書類のなかの様子と、ことに外観を詳しく書いたものを、大きな声で読みはじめた。その説明書を読みおわってしまうと間もなく、彼は帰って行ったが、私はいままで、この善良な紳士がこれほどすっかり意気|銷沈《しょうちん》しているのを見たことがなかった。
 その後一月ほどたってから、彼はまた我々を訪ねてきたが、そのときも我々二人は前とほとんど同じようなことをしていた。彼はパイプを取り、椅子に腰を下ろし、なにか普通の話を始めた。とうとう、私は言いだした。――
「ところで、G――さん、例の盗まれた手紙はどうなりました? あの大臣を出し抜くなんてことはとてもできないと、とうとう諦《あきら》めたようですな?」
「あの畜生、いまいましい奴だ、――そうですよ。デュパン君が言ってくれたとおりに、僕はもう一度調べてみました、――が、やっぱり思ったとおり、まったく無駄骨を折ったばかりだったよ」
「報酬はどれだけだと言いましたかね?」とデュパンが尋ねた。
「うむ、大したものだ、非常に[#「非常に」に傍点]たくさんな報酬だ、はっきりいくらとは言いたくないのだが、誰でもあの手紙を僕に渡してくれる人には、僕の小切手で五万フランあげてもかまわない、ということだけは言っておきましょう。実は、あれは日ごとに重要になってきているので、報酬が最近二倍にされたんです。だが、たとえ三倍にされたところで、僕はいままでしたことより以上にはなにもできまい」
「ふむ、なるほど」デュパンは海泡石のパイプを吹かす合間に、ゆっくりと言った。「僕は思うんだがね――G――、あなたはこの事件に対してまだできるだけ――骨を折ってはいないようですな。あなたはもうちっと――やれたと僕は思うんだがな、え?」
「どうして? ――どんなふうに?」
「なあにね、――パッ、パッ――あなたは――パッ、パッ――この事件について人の意見を用いたらよかったろうにね、え? パッ、パッ、パッ。――あなたはアバニシー(4)の話を覚えていますか?」
「いいや。アバニシーなんぞくたばってしまえだ!」
「ごもっとも! くたばってしまえでけっこう。だがね、あるとき、ある金持の吝嗇家《けちんぼ》が、そのアバニシーに医療上の意見をただで聞こうという工夫をしたんです。そこで、どこかで会ったとき世間話を始めて、もしもこういう患者がいたなら、というふうにして、自分の病症をその医者に話したのですな。
『その男の症候はこうこうだということにいたしますと、さて、先生、あなた[#「あなた」に傍点]ならその男になにを用いろとおっしゃいますか?』とその吝嗇家がきいたんですね。
『さよう、無論、医者の助言[#「助言」に傍点]を用いるんですな!』とアバニシーは言ったそうですよ」
「だが」と総監は少しむっとして言った。「僕[#「僕」に傍点]は完全に[#「完全に」に傍点]喜んで助言を用いますし、そのお礼も払いますよ。この事件でわたしを助けてくれる人があれば誰にでも五万フランをほんとう[#「ほんとう」に傍点]にあげるつもりなんです」
「それなら」とデュパンは引出しをあけて小切手帳を取り出しながら答えた。「それだけの額の小切手を僕に書いて下すってもいいでしょう。それに署名したら、あの手紙を渡しましょう」
 私はびっくりした。総監はまったく雷に打たれたようだった。彼はちょっとのあいだ、ものも言わず、身動きもせず、口をぽかんとあけ、眼の玉がとび出るようにして、信じられないというふうに私の友を眺めていた。それから、どうやら我に返ったらしく、ペンをつかんで、なんども止めたりぼんやり眺めたりしたのち、やっと五万フランの小切手を書いて署名し、テーブル越しにデュパンに渡した。デュパンはそれを念入りに調べて紙入れにしまい、それから写字台《エスクリトワール》の引出しの錠をあけ、そこから一通の手紙を出して、総監にやった。総監は狂気せんばかりにそれをしっかりつかみ、震える手で開いて、その内容を大急ぎでちらりと見、それから扉の方へよろめきよると、とうとう無作法にも、さっきデュパンが小切手を書いてくれと言ったときからひと言も口をきかずに、部屋から、そして家から跳び出して行ったのであった。
 彼が行ってしまうと、デュパンは説明をしはじめた。
「パリの警察はね」と彼が言った。「その道ではなかなかの手腕があるんだよ。彼らは根気がいいし、工夫力もあるし、狡猾《こうかつ》でもあるし、職務上主として必要なように見える知識には十分によく通じてもいる。だから、G――がD――邸の家宅捜索をした方法を我々に詳しく話してくれたとき、僕は、彼の労力の及ぶところまでは――彼が申し分のない調査をしたということを、完全に信じたんだ」
「彼の労力の及ぶところまではだって?」と私は言った。
「そうさ」とデュパンが言った。「執られた手段は、その種の最上のものであったばかりではなく、完全無欠なところまで実行されたのさ。手紙が彼らの捜索範囲内に置いてあったなら、あの連中はきっと見つけたろう」
 私はただ笑った、――が彼はまったく真面目で言っているようであった。
「そんなわけで」と彼はつづけて言った。「手段はその種のものでは上等だったし、りっぱに実行もされた。ただ欠点というのは、その事件とそれから相手とに当てはまっていないということだったんだよ。総監は非常に巧妙な方法というのはプロクルステス(5)の寝台のようなものだと思って、自分の計画を無理にそれに適合させようとするんだね。彼はいつも、自分の手にしている事件に対してあまり深謀すぎたり浅慮すぎたりしてしくじるのだ。小学校の子供だって彼よりももっとうまく推理するのがたくさんいる。僕は八歳ばかりの子供を知っていたが、この子は『丁か半か』という勝負で言い当てるのがうまくて、みんなに褒められていた。この勝負は簡単なもので、弾石《はじきいし》でやるのだ。一人がこの石を手にいくつか持っていて、相手にその数が丁か半かときく。もし当てたら、当てたほうが一つ取るし、違ったら、一つ取られるのだ。いま言ったその子供は学校じゅうの弾石をみんな取ってしまったものだよ。むろん、彼は当てる法則といったようなものを持っていたのだ。というのは、ただ相手のはしっこさを観察して、その程度をはかるということなんだ。たとえば、まったくの馬鹿が相手になっていて、握った手を上げて、『丁か半か?』ときく。その生徒は『半』と答えて、負ける。が二度目には勝つ。というわけは、彼はこう考えるのだ、『この馬鹿は初めに丁を持って勝ったんだから、こいつの利口さの程度ではちょうど、二度目には半を持つくらいのところだろう。だから半と言ってやろう』とね。――そこで半と言って勝つのだ。それから、相手がこれとはもう少し上の馬鹿だと、彼はこういうふうに考える。『こいつは初めに僕が半と言ったので二度目にはすぐ、前の馬鹿のように、簡単に丁から半へ変えようとするだろう。が考えなおしてこれはあまり簡単な変え方だと思いつき、結局やはり前のように丁を持つことに決めるだろう。だから丁と言ってやろう』とね。――で、『丁』と言って、勝つんだ。そこで、仲間の者たちに『運が強い』と言われていたその生徒のこの推理の方法だね、――これは最後まで分析すると、何かね?」
「それはただ推理者の知力を相手の知力と合致させることにすぎんね」と私は言った。
「そうなんだ」とデュパンが言った。「で、僕はこの子供に、彼の成功の基であるその完全な[#「完全な」に傍点]合致をどんな手段でやるのかと尋ねたら、こう答えた。『僕は、誰かがどれくらい賢いか、どれくらい間抜けか、どれくらい善い人か、どれくらい悪い人か、またその時のその人の考えがどんなものか、というようなことを知りたいと思うときには、自分の顔の表情をできるだけ正確にその人の表情と同じようにします。それから、その表情と釣り合うように、または一致するようにして、自分の心や胸に起ってくる考えや気持を知ろうとして待っているんです』というのさ。この生徒のこの答えは、ロシュフコー(6)や、ラ・ブリュイエール(7)や、マキアヴェリ(8)や、カンパネラ(9)のものとされている、あの、あらゆる贋《にせ》の深遠さよりも深いものだよ」
「で、その推理者の知力を相手の知力と合致させることはだね」と私は言った。「もし君の言うことを僕が誤解していないなら、相手の知力をはかる正確さのいかんによるね」
「実際上の価値としては、そういうことになるね」とデュパンは答えた。「で、総監やその部下たちが、あんなにちょいちょい失敗するのは、第一に、その合致が欠けているためで、第二には、相手の知力のはかり方が悪いため、というよりも、むしろはからないためなんだ。彼らはただ自分たち自身[#「自身」に傍点]の工夫力だけしか考えない。そしてなんでも隠されたものを捜すのに、自分たち[#「自分たち」に傍点]の隠しそうな方法だけしか気がつかない。彼ら自身の工夫力が普通一般人[#「普通一般人」に傍点]の工夫力の忠実な代表であるという点までは――これは正しい。が、特殊の悪人の狡知《こうち》と、彼ら自身の知恵の質が異なっている場合には、もちろん彼らはしくじってしまう。これは相手の狡知が彼らより以上のときにはいつもそうだし、その以下の場合にもたいていそうなんだ。彼らは調査をするとき決して方針を変えるということをしない。せいぜい、なにか非常な出来事――なにかすばらしい報酬など――で励まされると、自分たちの方針は変えないで、ただもとのやり方[#「やり方」に傍点]を拡張し、また大げさにする。たとえばこのD――の場合に、行動の方針を変えるためにどんなことがされたか? あんなふうに穴をあけたり、探針で探ったり、叩いて音を試したり、拡大鏡でこと細かに調べたり、建物の表面を平方インチに区画して番号をつけたりすること――そんなことはみんな、総監が長いあいだの在職中に見慣れてきた、人間の工夫力に関する一連の考えを基礎にしている探索方針の一つ、あるいはいくつかを、大げさに応用したものにすぎんじゃないか? 彼は、あらゆる[#「あらゆる」に傍点]人間は手紙を隠すのに、――必ずしも椅子の脚に錐で穴をあけないにしても――少なくとも、椅子の脚の錐穴に手紙を隠そうとするのと同じような考えから思いついた、どこか[#「どこか」に傍点]たやすく人目につかぬ穴か隅っこに――隠すものだ、と決めこんでいるじゃないか? が、そういう念の入った隅っこに隠すことは、ただ普通の場合にだけ用いられるもので、ただ平凡な知力の者が用いるだけじゃないか。なぜかと言えば、ものを隠す場合にはみな、その隠す品物をそういう念入りの方法で処置するということは――まず第一に考えられることだし、推量されることなんだからね。だから、それの発見は、ちっとも探索者の明敏さいかんによるのではなくて、ぜんぜん単なる注意と、忍耐と、決意とによるのだ。そして事件が重大な場合には――あるいは、警察官の眼にはどうせ同じことだが、つまり報酬が多いときには――そういう特性は決して[#「決して」に傍点]欠けるはずはない。というわけだから、もしあの盗まれた手紙が総監の調査の範囲内のどこかに隠してあったなら――言葉をかえて言えば、それの隠匿の方針が総監の方針のなかにあるものだったなら――それの発見はぜんぜん疑いの余地はなかったろう、と僕の言おうとしたことは君にはもうわかったろう。それなのに、あの先生はすっかり煙《けむ》に巻かれてしまった。そして彼の失敗の遠因は、あの大臣は馬鹿である、なぜなら彼は詩人としての名声を得ているから、と推定したことにあるのだ。すべての馬鹿は詩人であると、こう総監は自分で思っている[#「思っている」に傍点]。そして彼はそこから、すべての詩人は馬鹿である、と推論して、ただ媒辞不周延《ノーン・ディストリブーティオー・メディイー》(10)の誤謬に陥ったのさ」
「だが詩人というのはほんとうかね?」と私は尋ねた。「兄弟が二人あるということは聞いているし、二人とも文名はある。だが、たしかあの大臣のほうは微分学についてかなり博学な著述があったと思うよ。あの男は数学者であって、詩人じゃあないよ」
「いや、違うよ。僕はあの男をよく知っている。彼はその両方なんだ。詩人兼[#「兼」に傍点]数学者なればこそ、彼はよく推理するのだ。単なる数学者にすぎなかったら、彼は推理なんぞはちっともできなくて、総監の思うままになったろう」
「こりゃあ驚くね」と私は言った。「そういう意見は世間の通説とまるで矛盾しているからね。君は何世紀ものあいだ十分理解されてきた考えを無視しようとするんじゃあるまいな。数学的な推理こそ、長いあいだ特に優れた推理と見なされてるんだからねえ」
「『|あらゆる公衆一般の観念、あらゆる世間一般に承認されたる慣例は愚かなるものと思わばまちがいなし。なんとなれば、そは衆愚を喜ばしむるものなればなり《イリヤ・ア・パリエ・ク・トゥティデェ・ピュブリク・トゥト・コンヴァンシオン・ルシュ・エ・テュヌ・ソティーズ・カアル・エラ・コンヴニュ・オ・プリュ・グラン・ノンブル》』さ」とデュパンはシャンフォオル(11)の言葉を引用して答えた。「いかにも数学者は、君のいま言ったその世間一般の誤謬をひろめるのに全力を尽してきたが、それは真理としてひろまっていたとしても、やっぱりりっぱな誤謬だよ。たとえば、彼らはこんなことを用いてはもったいないような技巧をもって、『分析』という言葉を代数学に適用させてしまった。このごまかしの元祖はフランス人だよ。だが、もし言葉というものが少しでも重要なものであるなら――つまり、言葉というものが事がらに適用されることによってなんらかの価値を生むものであるならだね――『分析』が『代数学』を意味しないことは、ラテン語で“ambitus”が‘ambition’を意味せず(12)、“religio”が‘religion’を意味せず(13)、あるいはまた“homines honesti”が‘honorable men’を意味しない(14)くらいの程度なんだ」
「君はいまパリの代数学者たちを相手に喧嘩《けんか》してるんだね。だが、まあ話をつづけたまえ」
「僕は、絶対的に論理的な形式以外の、あらゆる特殊の形式でなされる推理の効力に、したがってまたその価値に、反対する。とりわけ、数学的の研究によって引き出された推理に、反対する。数学は形式と数量との科学であって、数学的の推論は形式と数量との観察に適用された論理にすぎない。純粋[#「純粋」に傍点]代数学と言われているものの真理でさえ、それが絶対的の、普遍的の、真理であると想像するところに、大きな誤謬があるんだよ。そしてこの誤謬は実にひどいものなので、それが広く一般に信ぜられているのには僕もびっくりするね。数学の公理は普遍的な真理の公理ではない[#「ない」に傍点]のだ。関係[#「関係」に傍点]――形式と数量との関係――について真であることも、たとえば倫理学などに関しては、しばしば非常にまちがったものであることがある。倫理学では、部分の総和は全体に等しいということはたいがい真ではない[#「ない」に傍点]。化学においてもやはりその公理は駄目だ。動機の考究にしたってもそうだよ。なぜかと言えば、ある与えられた価値を持つ二つの動機は、それを合わせても、必ずしもその個々の和に等しい価値にはならないからね。このほかにも、まだ関係[#「関係」に傍点]の範囲内でだけ真理であるにすぎない数学的真理がたくさんある。しかし数学者は習慣上、彼の限定された真理[#「限定された真理」に傍点]から、まるでそれが絶対的になににでも適用されるものであるかのように、論ずるのだ。――そして世間も実際そうだと想像しているんだがね。ブライアント(15)が、あのたいへん該博な『神話学』のなかで、『だれも異教徒の寓話《ぐうわ》を信じはしないが、それでいて、我々はいつもうっかり、それらの寓話を実在するものと思って、それらから推論をする』と言っているのは、それに似た誤謬の源を言っているのさ。ところが、かの代数学者たちは異教徒そのものなんで、彼らはその『異教徒の寓話』を信じている[#「いる」に傍点]のだ。そして、彼らがその推論をするのは、ついうっかりして忘れてやるよりも、わけのわからぬ頭の悪さからやるんだからな。要するにだね、ただの数学者で等根以外のことで信用できる人、あるいは x2[#「2」は上付き小文字]+px が絶対的にかつ無条件にqに等しいということをひそかに自分の信条としていない人には、僕はいままでお目にかかったことがないよ。まあ、ためしに、そういう紳士方の一人に、x2[#「2」は上付き小文字]+px が必ずしもqに等しくない[#「ない」に傍点]場合もありうると思う、と言ってやってご覧なさい。そして君の言おうとしていることを相手にわからせたら、できるだけさっさとその男の手のとどかないところへ逃げたまえ、きっと彼は君をはり倒そうとするだろうからね」
 彼の最後の言葉を聞いて私がただ笑っていると、彼は話をつづけた。「僕の言おうとするのは、もしあの大臣が数学者であるだけだったら、総監はこの小切手を僕にくれる必要がなかったろう、ということなんだ。しかし僕は彼が数学者でありかつ詩人であることを知っていたので、僕の物差を、彼の周囲の事情を考えて、彼の才能に適合させたのだ。僕はまた廷臣としての、また大胆な陰謀家《アントリガン》としての彼をも知っていた。そういう人間が警察の普通のやり方を知らないはずはないと僕は考えた。彼は自分が待ち伏せされることを予想しないはずがなかったろう。――そして事実は彼がそれを予想したことを示している。彼は自分の屋敷が秘密に調べられることを予知したにちがいない、と僕は思った。彼がちょいちょい夜家をあけることを、総監は自分の成功を助けるものだと思って大いに喜んだが、僕はただそれを、警察に十分に捜索させる機会を与え、そうしてそれだけ早く彼らに、G――が事実とうとう到達したあの確信――手紙が屋敷の内にないのだという確信を――与えようとする策略《リュウズ》だと考えた。それからまた、僕がさっきちょっと骨を折って君に詳しく話した、あの隠された品物を捜す場合にとる、警察の一本調子な方針についてのあらゆる考えだね、――ああいう考えはみんな必ず大臣の心に浮んだろう、と僕は感じた。そういうことを考えると、彼はどうしても否応なしに普通の隅っこ[#「隅っこ」に傍点]の隠し場所などはいっさい眼もくれなかったにちがいない、あの男[#「あの男」に傍点]が、自分の邸のいちばん入り組んだ、引っこんだ隅っこでも、総監の眼や、探針や、錐や、拡大鏡にとっては、ごく普通の戸棚同様にあけっ放しのものであることを知らないほど、愚鈍であるはずがない、と僕は考えた。結局、僕は、彼がたとえ熟慮の末に選んだのではなくとも、当然の成行きとして、単純[#「単純」に傍点]な手段をとったにちがいない、ということを悟ったのだよ。君は、我々が最初に総監と会ったとき、この事件がそんなに彼を悩ませるのは、それがきわめて[#「きわめて」に傍点]わかりきっているためかもしれんと僕が言ったら、総監がやけに笑いこけたことを、たぶん覚えているだろう」
「うん、たいへんなご機嫌だったことをよく覚えているよ。あんまり笑うので、ひきつけやしないかと僕はほんとうに思ったものだ」と私は言った。
「物質界には」とデュパンは語をつづけた。「非物質界と非常によく類似したことがたくさんある。だから、隠喩《いんゆ》やあるいは直喩が叙述を修飾するとともに、議論を強めることができるという修辞上の独断が、いくらか真理らしく見えるのだ。たとえば惰性力《ウィース・イネルティアエ》の法則は物理学でも形而上《けいじじょう》学でも同一であるらしい。物理学で、大きい物体を動かすのは小さい物体を動かすよりも困難で、それに伴う運動量《モーメントゥム》はその困難に比例するものであるが、これは形而上学で、能力の大きい知能は劣等な知能よりもその動作において力があり、堅実であり、重大な結果を生ずるけれども、またそれよりも動かしにくく、動きだしても最初の数歩のうちはそれよりも厄介で、ためらっているのと同様なのだ。もう一つ例を挙げよう。往来の商店の看板のなかでどんなのがいちばん注意をひくかということを、君はいつか気をつけたことがあるかい?」
「そんなことは考えてみたこともないね」と私は言った。
「地図の上でやる字捜しの遊びがある」と彼はまた話しつづけた。「一方の者がまず――町の名でも、河の名でも、州の名でも、国の名でも――つまり、いろんな色のついたごちゃごちゃした地図の表面にあるどんな名でも言って――相手に捜させるんだ。この遊びの初心者はたいがい、いちばん細かい字で書いてある名を言って相手を困らせようとする。けれども玄人《くろうと》は、大きな字で地図の端から端までひろがっているような名を選ぶのだ。そういう文字は、あまり大きすぎる字で書いてある往来の看板や貼札《びら》と同じように、あまり明瞭すぎるためにかえって人眼につかない。そしてこの物理的の見落しは、知能が、あまりひどく、あまり明白にわかりきっていすぎる事がらを気づかずに過すという精神的の不注意と、ちょうど類似しているものなんだ。しかし、こういうことはあの総監の理解力のいくぶん上か、あるいは下のことであるらしいね。彼は、大臣があの手紙を誰にも気づかれないようにするいちばんよい方法として、それをみんなのすぐ鼻先に置きそうだとか、あるいは置いたかもしれないなどということは、一度だって考えたこともありゃしないのさ。
 だが僕は、D――の大胆な、思いきった、明敏な工夫力と、彼がその書類を有効に使おうと思うなら常にそれを手近に[#「手近に」に傍点]置かなければならないという事実と、それが総監のいつもの捜索の範囲内には隠されていないという、その決定的な証言とを考えれば考えるほど、――大臣がその手紙を隠すのに、ぜんぜんそれを隠そうとはしないという遠大な、賢明な方策をとったのだということがわかってきたのだ。
 てっきりそうにちがいないと思いながら、僕は緑色の眼鏡を用意して、ある晴れた朝、ひょっこり大臣の邸を訪問した。D――は在宅していて、例のとおり欠伸《あくび》をしたり、ぶらぶらしたり、のらくらしたりして、退屈《アンニュイ》でたまらないというふりをしていた。彼はおそらく現代での、もっともほんとうに精力的な人間だろう、――が、それは誰も見ていないときだけのことなんだ。
 彼にひけを取らないようにと、僕は自分の眼が弱くて困るといい、眼鏡をかけなければならないことをこぼして、表面は主人の話にだけ余念なく聞き入っているようなふりをしながら、その眼鏡の下から部屋じゅうを念入りにすっかり見まわした。
 僕は、彼の近くにある大きな書机《ライティング・テーブル》にとくに注意を向けた。その上には、一つ二つの楽器や何冊かの本とともに、いろいろな手紙とその他の書類とが乱雑にのせてあった。しかし、長いあいだ、よほど気をつけて調べたが、ここにはなにも特別の嫌疑をひくようなものがなかった。
 部屋をぐるぐる見まわしているうちに、とうとう僕の眼は、暖炉前飾《マントルピース》の真ん中辺のすぐ下のところにある真鍮《しんちゅう》の小さなツマミから、よごれた青いリボンでぶら下げてある、安ものの、見かけばかりのボール紙製の名刺差しにとまった。この名刺差しには三つ四つの仕切りがあって、五、六枚の名刺と、一通だけの手紙とが入っていた。手紙のほうはひどくよごれて皺《しわ》くちゃになっていた。それは真ん中から二つに裂きかけてあった。――ちょうど、つまらぬものだから初めはすっかり裂いてしまうつもりだったが、ふと思いかえしてよしたといったようにね。ひどく[#「ひどく」に傍点]目立ったD――の花押《かきはん》のある、大きな黒い封印があって、細かな女の筆蹟でD――大臣へ宛てたものだった。それは名刺差しの上の方の仕切りに、無頓着《むとんじゃく》に、またいかにもぞんざいらしく、突っこんであった。
 この手紙をちらりと見るや否や、僕はすぐにこれが自分の捜しているものだと決めてしまった。なるほど、見たところでは、これは総監があの詳しい説明書を読んでくれたものとは根本的に違っている。このほうは封印が大きくて、黒く、D――の花押があるし、あのほうは封印が小さくて、赤く、S――公爵家の紋章がある。この宛名は、大臣に宛てたもので、細かく女文字で書いてあるし、あのほうの表書は、さる王族に宛てたもので、とても太い、しっかりした字で書いてある。ただ大きさだけが符号しているのだ。ではあるが、こういう相違があまり極端に根本的であること[#「根本的であること」に傍点]。それのよごれていることや、紙のきたなくなって裂けていることがD――の真の[#「真の」に傍点]几帳面《きちょうめん》な習慣と矛盾しているし、また、その書類をつまらないもののように、見る者をだまそうとする計画だなと思いつかせること。――それと、置場所だが、書類がどの訪問客にもまる見えのあまりに人眼につくところにあったこと。したがって僕が前に到達したあの結論ときちんと一致しているということ。こういったことはたしかに、疑うつもりで来た者には非常に嫌疑を濃くするものだったんだね。
 僕はできるだけ訪問を長びかせて、きっと大臣の興味をひき、彼がやっきとなるにちがいない話題を持ち出して、彼とさかんに議論をつづけながら、少しも手紙から注意を放さなかった。そうして調べているあいだに、その外観や、名刺差しのなかの入れぐあいなどを僕は暗記した。そしてとうとう一つの発見をしたが、それは僕がいだきそうなどんな小さな疑いでも消してしまうものだった。手紙の縁をよく見ていると、それが必要以上にこすれて[#「こすれて」に傍点]いることがわかったのだ。それは、堅い紙がいったん折り曲げられて紙折り箆《へら》で押えられ、そのもと折られた同じ折目のところから反対に折り返されたときにできる折れぐあい[#「ぐあい」に傍点]なんだよ。これを発見すれば十分だった。僕には、その手紙が手袋みたいに裏返しにされ、ふたたび宛名が書かれ、封印がしなおされたことは明らかだった。僕は大臣にさよならを言って、金製の嗅煙草《かぎたばこ》入れをテーブルの上に置いたまま、すぐ帰ってきた。
 翌朝、僕はその嗅煙草入れを取りに行って、前日の話をまた熱心に始めた。しかし、そうしているうちに邸の窓のすぐ下のところで、ピストルの音のような大きな音が聞え、つづいて恐ろしい悲鳴と、群集の叫び声とが聞えてきた。D――は窓の方へ駆けより、それを押し開いて、外を眺めた。そのあいだに、僕はあの名刺差しのところへ歩みより、手紙を取って、自分のポケットのなかへ入れ、そしてあとには、(外側だけは)同じようにしたにせ手紙を、かわりに入れておいた。それは僕が家《うち》で念入りに用意してきていたものなんだ、――パンでこさえた封印で造作もなくD――の花押をまねてね。
 往来の騒ぎは、銃を持った男の気違いじみた挙動から起ったものだった。彼は女子供の大勢いる真ん中でそいつを発射したのだ。しかし弾《たま》がこめてないことがわかり、狂人か酔っ払いだと思われて、行くままにされた。その男が行ってしまうと、D――は窓ぎわから戻ってきたが、僕は自分の目的のものを手に入れるとすぐ彼のあとを追ってそこへ行っていたのだ。それから間もなく僕は彼と別れてきた。そのにせ狂人は僕が雇った男さ」
「しかし君がその手紙のかわりを置いてきたのはどんな目的だったのかね?」と私は尋ねた。「最初に訪ねて行ったとき、公然とそいつを取り返して帰ったほうがよくはなかったかね?」
「D――は」デュパンが答えた。「向う見ずな男だ。また剛胆な男だ。それに彼の邸には、彼のために身命をささげた従者たちもいる。君の言うような無鉄砲なまねをやろうものなら、僕は生きて大臣のところから出ることができなかったかもしれん。パリの人たちはそれきり僕の噂《うわさ》を聞かなくなったかもしれないぜ。しかし、そういう事がらとは別に、僕には一つの目的があったのさ。僕の政治上の贔屓《ひいき》は君もご承知のとおりだ。この事件では、僕は例の貴婦人の一党員として行動するのだ。十八カ月のあいだ、大臣は彼女を自分の権力にしたがわせてきた。今度は彼女のほうが彼をその権力にしたがわせるんだ。――なぜかと言うと、彼は手紙が自分の手にないことに気がつかないので、相変らずあるようなつもりで無理なことをやるだろうからね。こうして必ず彼はたちまち政治的破滅に陥ってしまうだろう。彼の没落は急激でもあるし、また見苦しくもあるだろうよ。あの facilis descensus Averni「地獄に降るは易し(16)」ということを話すのはたいへんけっこうだが、なにに登るのでも、カタラアニ(17)が歌の歌い方について言ったように、下るよりも上るほうがずっとやさしいのだ。現在の場合では、僕は降ってゆく者にはなんの同情も――少なくともなんの憐憫《れんびん》も――持っていない。あの男はかの monstrum horrendum(18) だ。破廉恥な天才だ。だが、僕は、あの男が総監のいわゆる『さるお方』なる婦人に裏をかかれて、僕が名刺差しのなかへ入れてきた手紙をあけてみなければならなくなったとき、彼がどう思うかということを、はっきり知りたくてたまらないね」
「どうして? 君はなにか変ったものでもそのなかへ入れてきたのかい?」
「なあに、――なかを白紙のままにしておくのはあんまりよくないだろうと思ったのさ、――そいつあ礼を失するだろうからな。D――は以前ウィンナで僕にひどい仕打ちをしたことがある。それに対して僕はごく機嫌よく、この怨《うら》みは忘れないぞと言ってやった。だから、彼も自分に一杯食わせた人間が誰だか知りたく思うに決っているだろうから、手がかりを与えないのはかわいそうだと僕は考えたんだ。彼は僕の筆蹟をよく知っている。で、僕はただ白紙の真ん中にこう書いておいたよ、――

‘――Un dessein si funeste,
   S’il n’est digne d’〔Atre’e〕, est digne de Thyeste.’
「――かかる痛ましき企みは、
   よしアトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしけれ(19)」
とね。これはクレビヨン(20)の『アトレ』のなかにある文句なんだ」


(1) Lucius 〔Annae&us〕 Seneca(前四ごろ―六五)――有名なローマの哲学者。
(2) この警視総監G――氏は前の『モルグ街の殺人事件』にも『マリー・ロジェエの怪事件』にもちょっと出ているが、ボードレールは、ポーは“M. Gisquet”のことを考えていたにちがいないと言っている。「ジスケエ氏」というのは Henri Joseph Gispuet(一七九二―一八六六)のことで、この作の書かれる十年ほど前まで、パリの警視総監をしていた男である。もっとも、似ているのは頭文字と、警視総監であったということだけである。
(3) 一インチの十二分の一。
(4) John Abernethy(一七六四―一八三一)――イギリスの医者。解剖学者であり生理学者であったがとくに、その奇矯な人格をもって知られていた。
(5) Procrustes――古代ギリシャの伝説のアッティカの強盗で、人を捕えたたびごとに鉄の寝床に寝かせ、その身長が寝台より長いときはその余った部分を斬り縮め、短かければ引き延ばして同じ長さにして殺したと言い伝えられている。
(6) 〔Franc,ois〕 la Rochefoucauld(一六一三―八〇)――“Maximes”の筆者としてよく知られているフランスの著作家。
(7) Jean de la 〔Bruye
re〕(一六四五―九六)――フランスの著作家。ハリスン版やその他にはこの名が La Bougive となっているが、イングラム版、ステッドマン・ウッドベリー版、ボードレール本には La 〔Bruyere〕 となっている。
(8) Niccolo Machiavelli(一四六九―一五二七)――イタリアの政治家、著作家。
(9) Tommaso Campanella(一五六八―一六三九)――イタリアの僧侶、哲学者。
(10) non distributio medii――論理学上の術語で、三段論法において、媒辞《ばいじ》が両方の前提ともに不周延である誤謬《ごびゅう》をいう。「すべての馬鹿は詩人である(大前提)。彼は詩人である(小前提)。ゆえに彼は馬鹿である(結論)」というこの総監の三段論法において、「馬鹿」は大名辞であり、「彼」は小名辞であり、「詩人」は媒辞(中名辞)である。媒辞は、大前提と小前提との関係を媒介するものであるから、少なくとも一度は周延(拡充)されていなければならない。すなわちその概念の全体の範囲にわたっての主張でなければならない。しかしこの論法においては「詩人」という媒辞はどちらの前提でも周延されていない。すなわち、単にその一部分のみについて主張されたにすぎない。ゆえにこの結論は誤っている。こういう誤りを、論理学では媒辞(中名辞)不周延(不拡充)の誤謬という。
(11) Nicholas Chamfort(一七四一―九四)――フランスの文人。箴言《しんげん》、警句の筆者として知られていた。
(12) ラテン語の“ambitus”は「投票を依頼するために走りまわること」、「官職を得るために奔走すること」の意味であって、それから出た英語の“ambition”(野心)とは少し意味が違う。
(13) ラテン語の“religio”は「注意深いこと」、「律義」、「几帳面」というような意味で、それから出た“religion”(宗教)を意味しない。
(14) “homines honesti”は「有名な人々」の意味で、“honorable men”(立派な人々)を意味しない。
(15) Jacob Bryant(一七一五―一八〇四)――イギリスの考古学者“A New System or an Analysis of Ancient Mythology”の著がある。
(16) 「地獄に降るは易し」。――ヴェルギリウスの“〔AE&neis〕”第六巻一二六行。
(17) Angelica Catalani(一七八〇?―一八四九)――イタリアの有名なソプラノの歌手。
(18) 「恐ろしき怪物」。――ヴェルギリウスの“〔AE&neis〕”第三巻六五八行。
(19) 「――かかる痛ましき企みは、よしアトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしけれ」――クレビヨンの悲劇“〔Atre’e〕 et Thyeste”第五幕第四場。(アトレとティエストとの兄弟の話はギリシャの残忍な伝説であって、ティエストはアトレの妻を誘惑し、アトレはその復讐《ふくしゅう》のためにいつわって和解の宴を張り、ティエストを招き、ティエストの三人の子を殺してその肉を父に食わせたという)
(20) Prosper Jolyot de 〔Cre’billon〕(一六七四―一七六二)――フランスの悲劇詩人。“〔Atre’e〕 et Thyeste”はその一七〇七年の作である。
[#ここで字下げ終わり]


底本:「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1977(昭和52)年5月10日40刷改版
   1986(昭和61)年10月15日59刷
※(1)~(20)は訳注番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように小書きされています。また数字は縦中横になっています。
入力:鈴木厚司
校正:小酒井博士
2004年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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佐々木直次郎

早すぎる埋葬 THE PREMATURE BURIAL エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe——-佐々木直次郎訳

 興味の点はまったく人を夢中にさせるものであるが、普通の小説にするのにはあまりに恐ろしすぎる、というような題材がある。単なるロマンティシストは、人の気を悪くさせたり胸を悪くさせたりしたくないなら、これらの題材を避けなければならない。それらは事実の厳粛と尊厳とによって是認され支持されるときにだけ正しく取り扱われるのである。たとえば、我々はベレジナ河越え(1)や、リスボンの地震(2)や、ロンドンの大疫病(3)や、セント・バーソロミューの虐殺(4)や、あるいはカルカッタの牢獄《ろうごく》における百二十三人の俘虜《ふりょ》の窒息死(5)などの記事を読むとき、もっとも強烈な「快苦感」に戦慄《せんりつ》する。しかし、これらの記事が人を感動させるのは、事実であり――現実であり――歴史であるのだ。虚構の話としては、我々は単純な嫌悪の情をもってそれらを見るであろう。
 私は記録に残っている比較的有名で壮大な惨禍の四、五を挙げたのであるが、これらがこんなに強烈に人の心に感動を与えるのは、その惨禍の性質によるのと同様に、その大きさによるのである。私がここに人類の災害の長い不気味な目録《カタログ》のなかから、これらの広大な一般的な災厄のどれよりも本質的な苦痛に満ちている、多くの個人的の実例を選びだしてもいいことは読者に告げるまでもないであろう。実際、真の悲惨――どたんばの苦悩――は個人的のものであり、一般的のものではない。戦慄すべき極度の苦痛が単なる個人によって耐えぬかれ、決して集団の人間によってではないこと――このことにたいして我々は慈悲深い神に感謝しよう!
 まだ生きているあいだに埋葬されたということは、疑いもなくかつてこの世の人間の運命の上に落ちてきた、これらの極度の苦痛のなかでも、もっとも恐ろしいものである。しかもそれがいままでにしばしば、たいへんしばしば、起ったということは、ものを考える人にはほとんど否定しがたいことであろう。生と死とを分つ境界はどう見ても影のような漠然としたものである。どこで生が終りどこで死が始まるのか、ということは誰が言えよう? 我々は、生活力のすべての外見的の機能がまったく停止し、しかもその停止は正しく言えば単に中止にすぎないような、病気のあることを知っている。それはただこの理解しがたい機関が一時的に休止したにすぎない。ある期間がたてば、なにか眼に見えない神秘的な力がふたたび魔術の歯車を動かし、それから魔法の車輪を動かす。銀《しろがね》の紐《ひも》は永久に解けたのではなく、また金《こがね》の盞《さら》は償いがたいほど砕けたのでもない(6)のだ。だがいったいそのあいだ霊魂はどこにあったのか?
 しかし、こういう結果を生まなければならないというような――生活力の中止ということが周知のように起ることは、当然、早すぎる埋葬ということをときどきひき起すにちがいないというような――先験的《ア・プリオリ》の必然的結論は別として、我々はこのような埋葬が実際にたいへん多く、いままでに起ったことを証明できる医学上の、また普通の、経験の直接の証拠を持っているのである。もし必要ならば私は十分信ずべき例をすぐに百も挙げることができるくらいである。そのたいへん有名な、そして読者のなかのある人々の記憶にはまだ新たな一件が、あまり古くはないころ、ボルティモアの付近の市に起り、痛ましい強烈な驚きを広く世人に与えたことがある。著名の弁護士で国会議員である名望ある一市民の妻が、とつぜん不思議な病気にかかり、その病気には医師もすっかり悩まされたのであった。彼女は非常に苦しんでから死んだ、あるいは死んだと思われた。実際、誰も彼女がほんとうには死ななかったのではなかろうかと疑ってみなかったし、疑うべき理由もなかった。彼女はあらゆる普通の死の外観をすべて示していた。顔は普通のとおりしまって落ちくぼんだ輪郭になった。唇も大理石のように蒼白《あおじろ》かった。眼は光沢がなかった。温みはもう少しもなかった。脈搏《みゃくはく》はやんでいた。三日間その身体は埋葬されずに保存されたが、そのあいだに石のように硬くなった。手短かに言えば、死体が急速に腐爛《ふらん》するように想像されたので、葬儀は急いで行われたのであった。
 夫人はその一家の墓舎に納められた。その墓舎はそれから三年間開かれなかったが、三年目の終りに一つの石棺を入れるために開かれた。――ところが、おお! なんという恐ろしい衝撃《ショック》が、自らその扉をさっと開いた夫を待ち受けていたろう! 門が外側へまわったとたん、なにか白装束のものが彼の腕にがらがらと落ちかかってきたのだ。それはまだ腐らない屍衣《きょうかたびら》を着た妻の骸骨であった。
 詳しく調べた結果、彼女が埋葬後二日以内に生き返ったということ――彼女が棺のなかでもがいたので棺が棚から床へ落ちてこわれ、そのなかから脱けでることができたということが明らかになった。墓のなかには偶然に油のいっぱい入ったランプが残されてあったが、それは空《から》になっていた。だがそれは蒸発してなくなったのだったかもしれぬ。この恐ろしい室へ降りてゆく階段のいちばん上に、棺の大きな破片があった。この破片で彼女は鉄の扉を叩いて、誰かの注意をひこうと努めたものらしかった。そうしているうちに単に恐怖の念から大かた気絶したのか、あるいは死んだのであろう。そして倒れるときに、彼女の屍衣がなにか内側に突き出ていた鉄細工に絡まった。こうして彼女はそのままになり、立ったまま腐ったのである。
 一八一〇年に生きながらの埋葬という事件がフランスで起ったが、その詳しい事情は、事実は真に小説よりも奇なり、というあの断言を保証するに役立つものである。この話の女主人公《ヒロイン》は有名な家の、富裕な、またたいへん美しい容姿を持った若い娘、ヴィクトリーヌ・ラフルカード嬢であった。彼女の多くの求婚者のなかにパリの貧しい文士か雑誌記者のジュリアン・ボシュエがいた。彼の才能と人好きのする性質とは彼女の注意をひき、また実際に彼は愛されていたようにも思われた。だが彼女の家柄にたいする矜持《きょうじ》はとうとう彼女に彼をすてさせて、かなり有名な銀行家で外交官であるルネル氏という男と結婚することを決心させたのであった。しかし結婚後、この紳士は彼女を顧みず、そのうえ明らかに虐待さえしたらしい。彼とともに不幸な数年を過したのち、彼女は死んだ、――少なくとも彼女の状態はそれを見たすべての人々を欺くくらい死によく似ていた。彼女は埋葬された、――墓舎のなかではなく――彼女の生れた村の普通の墓に。絶望に満たされ、しかもなお深い愛慕の追憶に燃え立ちながらボシュエは、死体を墓から発掘してその豊かな髪の毛を手に入れようというロマンティックな望みをもって、都からはるばるその村のある遠い地方まで旅をした。彼は墓にたどりついた。真夜中に棺を掘り出し、それを開いて、まさに髪の毛を切ろうとしているときに、恋人の眼が開いたのに気づいた。実際夫人は生きながら葬られていたのであった。生気がまったくなくなっていたのではなかった。そして彼女は愛人の抱擁によって、死とまちがえられた昏睡《こんすい》状態から呼び覚まされたのである。彼は狂気のようになって村の自分の宿へまで彼女を背負って帰った。それからかなりの医学上の知識から思いついたある効き目のある気付け薬を用いた。とうとう彼女は生き返った。彼女は自分を救ってくれた者が誰であるかを知った。少しずつもとの健康をすっかり回復するまで彼と一緒にいた。彼女の女心も金剛石のように堅くはなく、今度の愛の教訓はその心をやわらげるに十分であった。彼女はその心をボシュエに与えた。そしてもう夫のもとへは戻らずに、生き返ったことを隠して愛人とともに、アメリカへ逃げた。二十年ののち二人は、歳月が夫人の姿をたいそう変えてしまったので、もう彼女の友人でも気づくことはあるまいと信じてフランスへ帰った。しかしこれはまちがっていた。というのはひと目見るとルネル氏は意外にも彼女を認めて彼の妻となることを要求したからである。この要求を彼女は拒絶した。そして法廷も彼女の拒絶を支持して、その特殊の事情は、こうした長い年月の経過とともに、正義上ばかりでなく法律上でも夫としての権利を消滅させたものである、と判決を下したのであった。
 ライプツィッヒの『外科医報』――誰かアメリカの出版者が翻訳して出版してもよさそうな高い権威と価値とを持っている雑誌――が近ごろの号に同じこの性質のひどく悲惨な出来事を掲載している。
 巨大な体躯《たいく》とたくましい健康とを持った一砲兵士官が、悍馬《かんば》から振りおとされて頭部に重傷を負い、すぐ人事不省に陥った。頭蓋骨《ずがいこつ》が少し破砕されたのであるが、べつにさし迫った危険もなかった。穿顱《せんろ》術(7)は首尾よくなし遂げられた。刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]《しらく》法(8)もされ、そのほか多くの普通の救助法も試みられた。しかし彼はだんだんにますます望みのない昏睡状態に陥って、とうとう死んでしまったと考えられた。天気は暖かであった。そして彼は無作法にもあわただしく公共墓地に埋葬された。葬式は木曜日に行われたが、その次の日曜日、墓地の内はいつものとおり墓参者でたいへん混雑していた。ところが正午ごろ一人の農夫が、その士官の墓の上に腰を下ろしていると、ちょうど下で誰かがもがいてでもいるように地面が揺れるのをはっきりと感じた、と言いたてたので、たいへんな騒ぎが起った。初めは誰もほとんどこの男の言うことを気にかけなかったが、彼のあからさまな恐怖と、その話をしきりに言い張る頑固なしつこさとは、とうとう自然に人々の心を動かしたのであった。鋤《すき》が急いで持ちこまれた。墓は気の毒なほど浅かったので、二、三分でそのなかの士官の頭が見えるくらいに掘り出された。彼はそのとき外見上は死んでいるように見えたが、棺のなかにほとんど真っすぐになって坐り、棺の蓋は彼がはげしくもがいたためにいくらか持ち上げられていた。
 彼はすぐに最寄りの病院に運ばれたが、そこで仮死状態ではあるがまだ生きていると断定された。数時間ののち彼は生き返って、知人の顔を見分けることができた。そしてきれぎれの言葉で墓のなかでの苦痛を語った。
 彼の言うところによると、彼が埋められて無感覚になってしまうまでに一時間以上も生存を意識していたことが明らかであった。墓は不注意に、また無造作に土で埋められて孔が非常に多かったので、必然的に空気がいくらか入ることができた。彼は頭上に群集の足音を聞き、いちいち自分のいることを知らせようと努めた。彼の言うところでは、深い眠りから彼をよび覚ましたらしいのは、墓地のなかの雑踏であったが、目が覚めるとすぐ、彼には自分の恐ろしい位置が十分きっぱりとわかったのであった。
 記載されるところによると、この患者は経過がよくて間もなく全快しそうに思われたが、とうとう藪《やぶ》医術の犠牲になってしまった。彼は流電池をかけられたのだが、ときどき起るあの精神昏迷の発作が起きて、とつぜん絶息したのである。
 流電池のことを言えば、私は有名で、またたいへん異常なよい例を思い出す。その流電池が、二日間も埋められていたロンドンの若い一弁護士を生き返らせた事件であって、一八三一年に起り、その当時非常な評判となり、いたる所で人々の話題となったものである。
 患者エドワード・ステープルトン氏はチフス熱のために外見上死んだのであるが、その病気は、医師たちの好奇心をそそるような異常な徴候をあらわしたのであった。彼がこうして外見上死ぬと、彼の親戚は死体解剖の許可を請われたが、彼らはそれを拒絶した。そのように拒絶された場合にはよくあるように、医者たちはこっそりと死体を墓から掘り出してゆっくり解剖しようと決心した。ロンドンのどこにでもたくさんいる死体盗人団(9)のあるものによってたやすく手配されて、葬儀がすんでから三日目の夜に、その死体だと思われていた体は八フィートの深さの墓から掘り出されて、ある私立病院の手術室に置かれた。
 腹部に実際ある程度の切開をしたときに、その体が生き生きして腐敗していない様子なので、電池をかけることを思いつかせたのであった。つぎつぎに幾回となく実験がつづけられ、普通のとおりの結果があらわれたが、ただ一、二度起った痙攣《けいれん》的な動作のなかに普通以上の生気があったほかには、どんな点でもべつに大して変ったことはなかった。夜が更けた。そして間もなく明け方になろうとしていたので、とうとうすぐに解剖にとりかかったほうがいいということになった。しかし一人の研究生がとくに自説を試してみたいと思い、胸部の筋肉の一つに電池をかけることを主張した。そこでちょっとした切りこみをこさえ、電線を急いで接《つな》いだ。すると患者はたちまち、あわただしいが少しも痙攣的ではない動作で手術台から立ち上がり、床の中央へ歩きだして、ちょっとのあいだ自分の周囲を不安そうに眺めまわしてから――しゃべった。なんと言ったのかわからなかった。がたしかに言葉であった。音節ははっきりしていた。しゃべってから、彼はばったりと床の上に倒れた。
 しばらくのあいだ、すべての人々は恐怖のために麻痺《まひ》したようになった、――が急ぎの場合でそうもしていられないので間もなくみんなは気をとりなおした。ステープルトン氏は気絶してはいるが生きているのだ、ということがわかった。エーテルを吸わせると彼は生き返り、それからさっさと健康を回復して、間もなく友人たちのあいだへ戻った、――彼らには彼の生き返ったいっさいの事情は病気の再発の懸念がなくなるまで知らされなかったが。彼らの驚き――彼らのうきうきの驚喜――はたやすく想像できよう。
 しかしこの出来事のもっとも戦慄すべき特異性は、ステープルトン氏自身が言っていることのなかにあるのである。彼は、どんなときでもまったく無感覚になったことはない、――医師に死んだ[#「死んだ」に傍点]と言われた瞬間から病院の床の上に気絶して倒れた瞬間にいたるまで、ぼんやり、雑然とだが、自分の身に起ったことはみな知っていた、と言っている。彼が解剖室という場所に気づいたときに、その窮境にあって一所懸命に言おうとしたあの意味のわからなかった言葉というのは、「私は生きているのだ」という言葉であったのだ。
 このような記録をたくさん並べたてるのはたやすいことであろう、――が私はいまそんなことはしまい、――早すぎる埋葬が実際に起るものだという事実を立証するような必要はべつにないからである。そのことの性質から言って、たいへん稀《まれ》にしか我々の力ではその早すぎる埋葬を見つけることができないことを考えるならば、それが我々に知られることなく頻繁に[#「頻繁に」に傍点]起るかもしれないということは認めないわけにはゆかない。実際、なんらかの目的で墓地がどれだけか掘り返されるときに、骸骨がこのいちばん恐ろしい疑惑を思いつかせるような姿勢で見出されないことはほとんどないのである。
 この疑惑は恐ろしい、――がその運命となるともっと恐ろしい! 死ぬ前の埋葬ということほど、このうえもない肉体と精神との苦痛を思い出させるのにまったく適した事件が他にない[#「ない」に傍点]ということは、なんのためらいもなく断言してよかろう。肺臓の堪えがたい圧迫――湿った土の息づまるような臭気――体にぴったりとまつわりつく屍衣《きょうかたびら》――狭い棺のかたい抱擁――絶対の夜の暗黒――圧しかぶさる海のような沈黙――眼には見えないが触知することのできる征服者|蛆虫《うじむし》の出現――このようなことと、また頭上には空気や草があるという考え、我々の運命を知りさえしたら救ってくれるために飛んでくるであろうところの親しい友人たちの思い出、しかし彼らにどうしても[#「どうしても」に傍点]この運命を知らすことができぬ――我々の望みのない運命はほんとうに死んだ人間の運命と少しも異ならない、という意識、――このような考えは、まだ鼓動している心臓に、もっとも大胆な想像力でもひるむにちがいないような驚くべき耐えがたい恐怖を与えるであろう。我々は地上ではこんなにも苦しいことを知らない、――地下の地獄のなかでさえこの半分の恐ろしさをも想像することができない。そして、このようにこの題目に関する物語はみな、実に深い興味を持っている。しかもその興味はその題目自身の神聖な畏怖《いふ》をとおしてたいへん当然に、またたいへん特別に、物語られる事がらが真実[#「真実」に傍点]であるという我々の確信から起るものである。ここに私が語ろうとすることも、私自身の実際の知識――私自身の確実な個人的な経験による話なのである。
 数年のあいだ私は奇妙な病気に悩まされていたが、医者はその病気を、それ以上はっきりした病名がないために類癇《るいかん》(10)と呼ぶことにしている。この病気の直接的なまた素因的な原因や、また実際の症状さえもまだはっきりわからないのであるが、その外見上の明らかな性質は十分に了解されているのである。そのさまざまな変化は主として病気の程度によるものらしい。ときに患者はたった一日か、またはもっと短いあいだだけ、一種のひどい昏睡状態に陥る。彼は無感覚になり、外部的には少しも動かぬ。が心臓の鼓動はまだかすかながら知覚される。温みもいくらかは残っている。かすかな血色が頬のまん中あたりに漂っている。そして唇のところへ鏡をあててみると、肺臓ののろい、不規則な、頼りない運動を知ることができる。それからまた昏睡状態が幾週間も――幾月さえもつづく。そのあいだは、もっとも精密な検査やもっとも厳重な医学上の試験も、その患者の状態と我々の絶対的の死と考えるものとのあいだに、なんらの外部的の区別を立てることができない。彼が早すぎる埋葬をまぬかれるのはたいてい必ず、ただもと類癇にかかったことがあるのを近親の者たちが知っていること、それにつづいて起る類癇ではなかろうかという疑い、とりわけ腐敗の様子の見えないこと、などによってである。病気の昂進《こうしん》するのは幸いにもごく少しずつである。最初の徴候は目立つものではあるが、死と紛らわしくはない。発作はだんだんにはっきりしてきて、一回ごとに前よりも長時間つづく。これが埋葬をまぬかれる主な理由なのである。しかしときどきあるように、最初[#「最初」に傍点]の発病が過激な性質のものである不幸な人々は、ほとんど不可避的に生きながら墓のなかへ入れられるのである。
 私自身の病症は主な点では医学書にしるされているものとべつに違っていなかった。ときどき、なんのはっきりした原因もなく、私は少しずつ半仮死あるいはなかば気絶の状態に陥った。そして苦痛もなく、動く力も、また厳密に言えば考える力もなく、ただ生きていることと、自分の病床を取りまいている人々のいることとをぼんやりと麻痺したように意識しながら、病気の危機がとつぜん過ぎ去って完全な感覚が戻ってくるまで、じっとそのままでいるのだった。またあるときは、急に猛烈におそわれた。胸が悪くなって、体がしびれ、ぞっと寒気《さむけ》がし、眼がくらみ、やがてすぐばったりと倒れる。それから数週間も、なにもかも空虚で、真っ黒で、ひっそりしていて、虚無が宇宙全体を占める。もうこれ以上のまったくの寂滅はありえない。しかし、このような急な病気から目覚めるのは、発作がとつぜんであったわりあいにぐずぐずしていた。ちょうど長いわびしい冬の夜じゅう、街をさまよい歩いている友もなく家もない乞食に夜が明けるように――そんなにのろのろと――そんなに疲れはてて――そんなに嬉しく、霊魂の光が私にふたたび戻ってくるのであった。
 しかしこの昏睡の病癖をべつにしては、私の健康は一般にいいように見えた。また私は自分が一つの大きな疾患にかかっているとはぜんぜん考えることができなかった、――ただ私の普通の睡眠[#「睡眠」に傍点]の特異性がもっとひどくなったものと考えられることをのぞいては。眠りから覚めるとき、私は決してすぐに意識を完全に取りもどすことができなくて、いつも何分間も非常な昏迷と混乱とのなかにとり残されるのであった。――そのあいだ一般の精神機能、ことに記憶が、絶対的中絶の状態にあった。
 私のいろいろ耐えしのんだことのなかで肉体的の苦痛は少しもなかったが、精神的の苦痛となると実に無限であった。私は死に関することばかりを考えた。「蛆虫と、墓と、碑銘」のことを口にした。死の幻想に夢中になって、早すぎる埋葬という考えが絶えず私の頭を支配した。このもの凄《すご》い虞《おそ》れが昼も夜も私を悩ました。昼はそのもの思いの呵責《かしゃく》がひどいものであったし――夜となればこのうえもなかった。恐ろしい暗黒が地上を蔽うと、ものを考えるたびの恐怖のために私は身震いした、――柩車《きゅうしゃ》の上の震える羽毛飾りのように身震いした。このうえ目を覚ましているわけにはゆかなくなると、眠らないでいようともがきながらやっと眠りに落ちた、――というのは、目が覚めたときに自分が墓のなかにいるかもしれないと考えて戦慄したからである。こうしてやっと眠りに落ちたとき、それはただ、一つの墓場の観念だけがその上に大きな暗黒の翼をひろげて飛びまわっている幻想の世界へ、すぐに跳びこむことにすぎなかった。
 このように夢のなかで私を苦しめた無数の陰鬱な影像のなかから、ここにただ一つの幻影を選び出してしるすことにしよう。たしか私はいつものよりももっと長く深い類癇の昏睡状態に陥っていたようであった。とつぜん、氷のように冷たい手が私の額《ひたい》にさわって、いらいらしたような早口の声が耳もとで「起きろ!」という言葉をささやいた。
 私はまっすぐに坐りなおした。まったくの真っ暗闇だった。私は自分を呼び起したものの姿を見ることができなかった。どんな場所に横たわっていたかということも、思い出せなかった。そのまま身動きもしないで一所懸命に考えをまとめようとしていると、その冷たい手が私の手首を強くつかんで怒りっぽく振り、そしてあの早口の声がもう一度言った。
「起きろ! 起きろと言っているじゃないか?」
「と言っていったいお前は誰だ?」と私は尋ねた。
「おれはいま住んでいるところでは名前なんぞないのだ」とその声は悲しげに答えた。「おれは昔は人間だった、がいまは悪霊だ。前は無慈悲だった、がいまは憐《あわ》れみぶかい。お前にはおれの震えているのがわかるだろう。おれの歯はしゃべるたびにがちがちいうが、これは夜の――果てしない夜の――寒さのためではないのだ。だが、この恐ろしさはたまらぬ。どうしてお前は[#「お前は」に傍点]静かに眠ってなどいられるのだ? おれはあの大きな苦痛の叫び声のためにじっとしていることもできない。このような有様はおれには堪えられぬ。立ち上がれ! おれと一緒に外の夜の世界へ来い。お前に墓を見せてやろう。これが痛ましい光景ではないのか? ――よく見ろ!」
 私は眼を見張った。するとその姿の見えないものは、なおも私の手首をつかみながら、全人類の墓をぱっと眼前に開いてくれた。その一つ一つの墓からかすかな腐朽の燐光《りんこう》が出ているので、私はずっと奥の方までも眺め、そこに屍衣を着た肉体が蛆虫とともに悲しい厳かな眠りに落ちているのを見ることができた。だが、ああ! ほんとうに眠っている者は、ぜんぜん眠っていない者よりも何百万も少なかった。そして力弱くもがいている者も少しはあった。悲しげな不安が満ちていた。数えきれないほどの穴の底からは、埋められている者の着物のさらさらと鳴る陰惨な音が洩れてきた。静かに眠っているように思われる者も多くは、もと埋葬されたときのきちんとした窮屈な姿勢をいくらかでも変えているのを私は見た。じっと眺めていると、例の声がまた私に話しかけた。
「これが――おお、これが惨めな有様ではないのか[#「ないのか」に傍点]?」しかし、私が答える言葉を考え出すこともできないうちに、そのものはつかんでいた手首をはなし、燐光は消え、墓はとつぜんはげしく閉ざされた。そしてそのなかからもう一度大勢で「これが――おお、神よ! これが惨めな有様ではないのか[#「ないのか」に傍点]?」という絶望の叫び声が起ってきたのであった。
 夜あらわれてくるこのような幻想は、その恐るべき力を目の覚めている時間にもひろげてきた。神経はすっかり衰弱して、私は絶え間ない恐怖の餌食《えじき》となった。馬に乗ることも、散歩することも、その他いっさいの家から離れなければならないような運動にふけることもためらった。実際、私に類癇の病癖のあることを知っている人々のところを離れては、もう自分の身を安心していることができなかった。いつもの発作を起したとき、ほんとうの状態が確かめられないうちに埋葬されはしないかということを恐れたからである。私はもっとも親しい友人たちの注意や誠実さえ疑った。類癇がいつもより長くつづいたときに、彼らが私をもう癒《なお》らないものと見なすような気になりはしないかと恐れた。そのうえもっと、ずいぶん彼らに厄介をかけたので、非常に長びいた病気にさえなれば、それを厄介払いをするのにちょうどいい口実と喜んで考えはしまいか、ということまでも恐れるようになった。彼らがどんなに真面目に約束をして私を安心させようとしても無駄だった。私は、もうこのうえ保存ができないというまでに腐朽がひどくならなければ、どんなことがあっても私を埋葬しない、というもっとも堅い誓いを彼らに強要した。それでもなお私の死の恐怖は、どんな理性にもしたがおうともしなかったし――またなんの慰安をも受けなかった。私はたいへん念の入った用心をいろいろと始めることにした。なによりもまず一家の墓窖《はかあな》を内側から造作なくあけることができるように作りかえた。墓のなかへずっと突き出ている長い槓杆《てこ》をちょっと押せば鉄の門がぱっと開くようにした。また空気や光線も自由に入るようにし、私の入ることになっている棺からすぐ届くところに食物と水とを入れるのに都合のよい容器も置いた。棺は暖かに柔かく褥《しとね》を張り、その蓋には墓窖の扉と同じ仕組みで、体をちょっと動かしただけでも自由に動くように工夫した発条《ばね》をつけた。なおこれらのほかに、墓の天井から大きなベルを下げて、その綱が棺の穴を通して死体の片手に結びつけられるようにした。ああ! しかし人間の運命にたいして用心などはなんの役に立とう? このように十分工夫した安全装置さえも、生きながらの埋葬という極度の苦痛から、その苦痛を受けるように運命を定められている惨めな人間を救い出すに足りないのだ!
 あるとき――前にもたびたびあったように――私はまったくの無意識から、最初の弱い漠然とした生存の意識へ浮び上がりかかっている自分に気がついた。ゆっくりと――亀の歩みのように――霊魂のほのかな灰色の曙《あけぼの》が近づいてきた。しびれたような不安。鈍い苦痛の無感覚の持続。なんの懸念もなく――希望もなく、――努力もない。次に長い間をおいてから、耳鳴りがする。それからもっと長い時間がたってから、手足のひりひり痛む感覚。次には楽しい静寂の果てしのないように思われる時間、そのあいだに目覚めかかる感情が思考力のなかへ入ろうともがく。次にまたしばらくのあいだ虚無のなかへ沈む。それからとつぜんの回復。やっと眼瞼《まぶた》がかすかに震え、たちまちぼんやりとはげしい恐怖のショックが電気のように走り、血が顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》から心臓へどきどきと流れる。そして初めて考えようとするはっきりした努力。それから初めて思い起そうとする努力。部分的の束《つか》の間《ま》の成功。それから記憶がいくらかその領域を回復して、ある程度まで自分の状態がわかる。自分が普通の眠りから覚めたのではないのを感ずる。類癇にかかっていたことを思い出す。そしてとうとう、まるで大海が押しよせてくるように、私のおののいている魂はあの無慈悲なおそれに圧倒される、――あのもの凄い、いつも私の心を占めている考えに。
 この想像に捉えられたのち数分間、私はじっとして動かずにいた。なぜか? 動くだけの勇気を奮い起すことができなかったのだ。私は骨を折って自分の運命をはっきり知ろうとは無理にしなかった、――しかし心にはたしかにそうだぞ[#「たしかにそうだぞ」に傍点]と私にささやくなにものかがあった。絶望――どんな他の惨めなことも決して起きないような絶望――だけが、だいぶ長くためらった末に、私に重い眼瞼をあけてみることを促した。とうとう眼を開いた。真っ暗――すべて真っ暗であった。私は発作が過ぎ去ったのを知った。病気の峠がずっと前に過ぎ去っていることを知った。私はもう視力の働きを完全に回復していることを知った、――それなのに真っ暗であった、――すべて真っ暗であった、――一条の光さえもない濃い真っ暗な永遠につづく夜であった。
 私は一所懸命に大声を出そうとした。すると唇と乾ききった舌とはそうしようとして痙攣的に一緒に動いた、――がなにか重い山がのしかかったように圧しつけられて、苦しい息をするたびに心臓とともにあえぎ震える空洞《うつろ》の肺臓からは、少しの声も出てこなかった。
 このように大きな声を出そうとして顎《あご》を動かしてみると、ちょうど死人がされているように顎が結わえられていることがわかった。また自分がなにか堅い物の上に横たわっているのを感じた。そして両側もなにかそれに似たものでぴったりと押しつけられていた。これまでは私は手も足も動かそうとはしなかった、――がこのとき、いままで手首を交差して長々とのばしていた両腕を荒々しく突き上げてみた。すると顔から六インチもない高さの、私の体の上にひろがっている固い木製のものにぶっつかった。私は自分がとうとう棺のなかに横たわっているのだということをもう疑うことができなかった。
 この無限の苦痛のなかへいまや希望の天使がやさしく訪れて来た、――というのは、あの前からの用意のことを思い出したからだ。私は身悶《みもだ》えし、蓋を押し開こうとして痙攣的な動作をした。蓋は動こうともしなかった。ベルの綱を捜して手首にさわってみた。それもなかった。そしてまた天使はもう永久に消え失せて、もっと苛酷な絶望が勝ち誇って君臨した。というのは、前にあれほど用心深く用意して張っておいた褥がないことに気がつかないわけにはゆかなかったからである。それにまたとつぜん湿った土の強い妙な匂いが私の鼻孔をおそってきた。結論はもう疑いない。私はあの墓窖のなかにいるのではない[#「のではない」に傍点]のだ。私は家を離れているあいだに――知らない人々のなかにいるあいだに――昏睡に陥ったのだ、――いつ、あるいはどうして、ということは思い出すことができないが、――そして彼らが私を犬のように埋めたのだ、――どこかの普通の棺のなかに入れて釘付《くぎづ》けにし――深く、深く、永久に、どこか普通の名もない墓のなかへ投げこんだのだ。
 この恐ろしい確信がこのように魂の底にまでしみこむと、私はもう一度大声で叫ぼうと努めた。するとこの二度目の努力は成功した。長い、気違いじみた、とぎれない悲鳴、または苦痛の叫び声が、地下の夜の領土じゅうに響きわたった。
「おうい! おうい、しっかりしろ!」と荒々しい声が答えた。
「いったいどうしやがったんだい?」と二番目の声が言った。
「そこから出て来い!」と三番目の声が言った。
「山猫みたいにそんなに唸《うな》りやがって、いったいどうしたっていうんだ?」と四番目の声が言った。そして私は、荒っぽい男の一団につかまえられて、しばらく無遠慮にゆすられた。彼らは私を眠りから覚ましてくれたのではない、――というのは、私は叫んだときにはもうちゃんと目が覚めていたのだから、――しかし彼らは私の記憶力をすっかり回復してくれたのであった。
 この出来事はヴァージニア州のリッチモンドの付近で起ったのである。一人の友人と一緒に、私は銃猟の旅をして、ジェームス河の堤に沿って数マイル下った。夜が近づいて、私たちは嵐におそわれた。庭土を積みこんだ小さな一本マストの帆船が河の流れに碇泊《ていはく》していたが、その船室が唯一の役に立つ避難所であった。私たちはそれを利用してその夜を船で過した。その船に二つしかない棚寝床《パアス》の一つに私は眠ったが、――六、七十トンの小さな帆船の棚寝床のことだから詳しく言うまでもあるまい。私の入ったのには寝具などはなにもなかった。幅はいちばん広いところで十八インチだった。その底と頭上の甲板との距離もちょうど同じほどであった。体をそのなかへ押しこむのに非常に骨が折れた。それにもかかわらず私はぐっすりと眠った。そして私の見たすべてのものは――というのはそれは夢でもなく夢魔でもなかったのだから――私の寝ていた場所の周囲の事情からと、――私の普段からの考えの偏《かたよ》っていたことからと、――前にもちょっと言ったように睡眠から覚めたのち長いあいだ我に返るのが、ことに記憶力を回復するのが、困難なことから、自然に起ったことであった。私を揺り動かしたのは、この帆船の船員と、その荷揚げをする人夫たちであった。その船の荷から土の匂いがしたのだ。顎のあたりに結わえてあったものというのは、いつものナイトキャップがないのでそのかわりに頭から巻きつけておいた絹のハンケチなのであった。
 しかし私の受けた苦痛は、そのときはたしかに実際に埋葬された苦痛とまったく同じものであった。その苦痛は恐ろしく――想像もつかぬほど、戦慄すべきものであった。しかし凶から吉が生れるようになった、というのは、その過度の苦痛が私の心に必然的の激変を起したからである。私の心は強くなり――落ちついてきた。私はどこへでもでた。活溌な運動もした。大空のひろびろとした空気を呼吸した。死よりもほかのことを考えるようになった。いろいろの医学書に手をふれないようになった。バッカン(11)の書物を焼きすてた。「夜の思い(12)」も――墓地に関する嘘話も――妖怪物語も――すべてそんなもの[#「すべてそんなもの」に傍点]は読まなくなった。要するに私は新たな人間になり、立派な男としての生活をするようになった。その記憶すべき夜から、私は永久に墓場の恐怖を忘れてしまった。それとともに類癇の病気も起らなくなった。あの墓場の恐怖は病気の結果であるよりも、むしろその原因であったのであろう。
 我々の悲しい人類の世界が、理性の冷静な眼にさえも、地獄の相を示すときがある。――しかし、人間の想像は、その地獄の洞窟を一つ一つ罰せられることなくして探るところのカラティス(13)のようなものではない。ああ! 墓場の恐怖のあのもの凄い幽霊らはまったく空想的なものと見なすことができないのだ。――しかしオグザス河(14)を下ってアフラシアブ(15)とともに旅をしたかの悪魔たちのように、彼らは眠らねばならぬ。でなければ彼らは我々を食いつくすであろう。――彼らは眠るようにさせられなければならぬ。でなければ我々は滅びるのだ。


(1) 一八一二年、ナポレオンの軍隊がモスコーより退却しミンスク県のベレジナ河を渡るときロシア軍に襲撃され、十一月二十六日より二十九日にわたって数万のフランス兵が殺戮《さつりく》されあるいは溺死《できし》した。捕虜となった者一万六千人。
(2) 一七五五年十一月一日のリスボンの大地震。死者約四万人に達した。
(3) 一六六五年よりその翌年にかけて、ロンドンに疫病が流行し、当時のロンドンの住民の約三分の一、七万人が斃《たお》れた。
(4) 一五七二年八月二十四日、セント・バーソロミューの祭日の夜半から始まったパリおよび各地方におけるフランスの新教徒《ユグノー》の大虐殺。その犠牲者の数は二万ないし三万にのぼった。
(5) 一七五六年六月二十日、インド土人の大守シュラジャー・ドーラーによって、百四十六人のイギリス人の俘虜が、カルカッタのわずか十八フィート四方の狭い牢獄のなかへ押しこまれた。その翌朝、二十三人をのぞいて他の百二十三人はことごとく窒息のために死んでいた。
(6) 旧約伝道の書第十二章第六―七節、「然《しか》る時には銀の紐[#「銀の紐」に傍点]は解け金の盞[#「金の盞」に傍点]は砕け吊瓶《つるべ》は泉の側に壊《やぶ》れ轆轤《くるま》は井《いど》の傍《かたわら》に破《わ》れん、而《しか》して塵《ちり》は本《もと》の如《ごと》く土に帰り霊魂《たましい》はこれを賦《さず》けし神にかえるべし」
(7) 穿顱錐《せんろすい》で頭蓋骨を穿《うが》つ手術。あるいは円錐《えんきょ》術とも言う。
(8) 静脈を切って血を出す治療法。
(9) body-snatcher――解剖の目的のためにひそかに墓をあばいて死体を盗む者。イギリスにおいては一八三二年に解剖法令が出るまでは、ただ殺人者の死体だけが解剖を許されていたが、解剖学の進歩とともに死体が大いに不足するにいたった。そこでこの「死体盗人」というものがおびただしくできて、諸所の墓をあばいて死体を盗み、それを解剖者に売ることを業としたのである。(それを防ぐためには鉄の棺に入れて埋葬しなければならなかったという)――この死体盗人はまた resurrectionist とも言われる。このステープルトン氏を発掘した連中のごときはまさに言葉本来の意味での resurrectionist であろう。
(10) Catalepsy――類癇、または全身硬直と訳される。
(11) Buchan(一七三八―九一)スコットランドの宗教狂信家。彼女は自らヨハネ黙示録第十二章の婦であると信じ、その信者は Buchanites と称せられた。
(12) “Night Thoughts”――Edward Young(一六八一―一七六五)の有名な詩“Night Thoughts : Night I (on Life, Death and Immortality).”and Night II (on Time, Death and Friendship).”のことであろう。
(13) Carathis――Wiliam Beckford(一七五九―一八四四)の東洋ロマンス“Vathek”(この物語は一七八七年にフランス語で出版され、その数年前に誰かの英訳が流布したりして問題を起し、当時ヨーロッパに広く読まれたものらしい。――最近も、エピローグを付したこの物語の最初の完全な版と称する二巻が、原文のフランス語でオックスフォードから出版された)の主人公の母。占星術の達人。
(14) Oxus――中央アジアのアム・ダリア河の古名。
(15) Afrasiab――Abul Kasim Mansur(九四〇ごろ―一〇二〇、ペルシャの大叙事詩人)の“Shahnamah”(「諸王の書」の意。イランおよびペルシャの君主英雄の行為を歌った約六万対句の叙事詩)の中の Turan 王 Pesheng の子。イランの諸王との長い戦争ののちに捕えられて殺される。

底本「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1977(昭和52)年5月10日40刷改版
   1998(平成10)年12月25日78刷
※本文中の(1)~(15)は訳注番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように小書きされています。また数字は縦中横になっています。
入力:江村秀之
校正:鈴木厚司
2005年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木直次郎

黒猫 THE BLACK CAT エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe 佐々木直次郎訳

私がこれから書こうとしているきわめて奇怪な、またきわめて素朴《そぼく》な物語については、自分はそれを信じてもらえるとも思わないし、そう願いもしない。自分の感覚でさえが自分の経験したことを信じないような場合に、他人に信じてもらおうなどと期待するのは、ほんとに正気の沙汰《さた》とは言えないと思う。だが、私は正気を失っている訳ではなく、――また決して夢みているのでもない。しかしあす私は死ぬべき身だ。で、今日のうちに自分の魂の重荷をおろしておきたいのだ。私の第一の目的は、一連の単なる家庭の出来事を、はっきりと、簡潔に、注釈ぬきで、世の人々に示すことである。それらの出来事は、その結果として、私を恐れさせ――苦しめ――そして破滅させた。だが私はそれをくどくどと説明しようとは思わない。私にはそれはただもう恐怖だけを感じさせた。――多くの人々には恐ろしいというよりも怪奇《バロック》なものに見えるであろう。今後、あるいは、誰か知者があらわれてきて、私の幻想を単なる平凡なことにしてしまうかもしれぬ。――誰か私などよりももっと冷静な、もっと論理的な、もっとずっと興奮しやすくない知性人が、私が畏怖《いふ》をもって述べる事がらのなかに、ごく自然な原因結果の普通の連続以上のものを認めないようになるであろう。
 子供のころから私はおとなしくて情けぶかい性質で知られていた。私の心の優しさは仲間たちにからかわれるくらいにきわだっていた。とりわけ動物が好きで、両親もさまざまな生きものを私の思いどおりに飼ってくれた。私はたいていそれらの生きものを相手にして時を過し、それらに食物をやったり、それらを愛撫《あいぶ》したりするときほど楽しいことはなかった。この特質は成長するとともにだんだん強くなり、大人になってからは自分の主な楽しみの源泉の一つとなったのであった。忠実な利口な犬をかわいがったことのある人には、そのような愉快さの性質や強さをわざわざ説明する必要はほとんどない。動物の非利己的な自己犠牲的な愛のなかには、単なる人間[#「人間」に傍点]のさもしい友情や薄っぺらな信義をしばしば嘗《な》めたことのある人の心をじかに打つなにものかがある。
 私は若いころ結婚したが、幸いなことに妻は私と性の合う気質だった。私が家庭的な生きものを好きなのに気がつくと、彼女はおりさえあればとても気持のいい種類の生きものを手に入れた。私たちは鳥類や、金魚や、一匹の立派な犬や、兎《うさぎ》や、一匹の小猿《こざる》や、一匹の猫[#「一匹の猫」に傍点]などを飼った。
 この最後のものは非常に大きな美しい動物で、体じゅう黒く、驚くほどに利口だった。この猫の知恵のあることを話すときには、心ではかなり迷信にかぶれていた妻は、黒猫というものがみんな魔女が姿を変えたものだという、あの昔からの世間の言いつたえを、よく口にしたものだった。もっとも、彼女だっていつでもこんなことを本気で[#「本気で」に傍点]考えていたというのではなく、――私がこの事がらを述べるのはただ、ちょうどいまふと思い出したからにすぎない。
 プルートォ――というのがその猫の名であった――は私の気に入りであり、遊び仲間であった。食物をやるのはいつも私だけだったし、彼は家じゅう私の行くところへどこへでも一緒に来た。往来へまでついて来ないようにするのには、かなり骨が折れるくらいであった。
 私と猫との親しみはこんなぐあいにして数年間つづいたが、そのあいだに私の気質や性格は一般に――酒癖という悪鬼のために――急激に悪いほうへ(白状するのも恥ずかしいが)変ってしまった。私は一日一日と気むずかしくなり、癇癪《かんしゃく》もちになり、他人の感情などちっともかまわなくなってしまった。妻に対しては乱暴な言葉を使うようになった。しまいには彼女の体に手を振り上げるまでになった。飼っていた生きものも、もちろん、その私の性質の変化を感じさせられた。私は彼らをかまわなくなっただけではなく、虐待《ぎゃくたい》した。けれども、兎や、猿や、あるいは犬でさえも、なにげなく、または私を慕って、そばへやって来ると、遠慮なしにいじめてやったものだったのだが、プルートォをいじめないでおくだけの心づかいはまだあった。しかし私の病気はつのってきて――ああ、アルコールのような恐ろしい病気が他にあろうか! ――ついにはプルートォでさえ――いまでは年をとって、したがっていくらか怒りっぽくなっているプルートォでさえ、私の不機嫌《ふきげん》のとばっちりをうけるようになった。
 ある夜、町のそちこちにある自分の行きつけの酒場の一つからひどく酔っぱらって帰って来ると、その猫がなんだか私の前を避けたような気がした。私は彼をひっとらえた。そのとき彼は私の手荒さにびっくりして、歯で私の手にちょっとした傷をつけた。と、たちまち悪魔のような憤怒《ふんぬ》が私にのりうつった。私は我を忘れてしまった。生来のやさしい魂はすぐに私の体から飛び去ったようであった。そしてジン酒におだてられた悪鬼以上の憎悪《ぞうお》が体のあらゆる筋肉をぶるぶる震わせた。私はチョッキのポケットからペンナイフを取り出し、それを開き、そのかわいそうな動物の咽喉《のど》をつかむと、悠々《ゆうゆう》とその眼窩《がんか》から片眼《かため》をえぐり取った。この憎むべき凶行をしるしながら、私は面《おもて》をあからめ、体がほてり、身ぶるいする。
 朝になって理性が戻ってきたとき――一晩眠って前夜の乱行の毒気が消えてしまったとき――自分の犯した罪にたいしてなかば恐怖の、なかば悔恨の情を感じた。が、それもせいぜい弱い曖昧《あいまい》な感情で、心まで動かされはしなかった。私はふたたび無節制になって、間もなくその行為のすべての記憶を酒にまぎらしてしまった。
 そのうちに猫はいくらかずつ回復してきた。眼のなくなった眼窩はいかにも恐ろしい様子をしてはいたが、もう痛みは少しもないようだった。彼はもとどおりに家のなかを歩きまわっていたけれども、当りまえのことであろうが私が近づくとひどく恐ろしがって逃げて行くのだった。私は、前にあんなに自分を慕っていた動物がこんなに明らかに自分を嫌《きら》うようになったことを、初めは悲しく思うくらいに、昔の心が残っていた。しかしこの感情もやがて癇癪に変っていった。それから、まるで私を最後の取りかえしのつかない破滅に陥らせるためのように、天邪鬼[#「天邪鬼」に傍点]の心持がやってきた。この心持を哲学は少しも認めてはいない。けれども、私は、自分の魂が生きているということと同じくらいに、天邪鬼《あまのじゃく》が人間の心の原始的な衝動の一つ――人の性格に命令する、分つことのできない本源的な性能もしくは感情の一つ――であるということを確信している。してはいけない[#「いけない」に傍点]という、ただそれだけの理由で、自分が邪悪な、あるいは愚かな行為をしていることに、人はどんなにかしばしば気づいたことであろう。人は、掟[#「掟」に傍点]を、単にそれが掟《おきて》であると知っているだけのために、その最善の判断に逆らってまでも、その掟を破ろうとする永続的な性向を、持っていはしないだろうか? この天邪鬼の心持がいま言ったように、私の最後の破滅を来たしたのであった。なんの罪もない動物に対して自分の加えた傷害をなおもつづけさせ、とうとう仕遂げさせるように私をせっついたのは、魂の自らを苦しめようとする[#「自らを苦しめようとする」に傍点]――それ自身の本性に暴虐を加えようとする――悪のためにのみ悪をしようとする、この不可解な切望であったのだ。ある朝、冷然と、私は猫の首に輪索《わなわ》をはめて、一本の木の枝につるした。――眼から涙を流しながら、心に痛切な悔恨を感じながら、つるした。――その猫が私を慕っていたということを知っていればこそ[#「こそ」に傍点]、猫が私を怒らせるようなことはなに一つしなかったということを感じていればこそ[#「こそ」に傍点]、つるしたのだ。――そうすれば自分は罪を犯すのだ、――自分の不滅の魂をいとも慈悲ぶかく、いとも畏《おそ》るべき神の無限の慈悲の及ばない彼方《かなた》へ置く――もしそういうことがありうるなら――ほどにも危うくするような極悪罪を犯すのだ、ということを知っていればこそ[#「こそ」に傍点]、つるしたのだった。
 この残酷な行為をやった日の晩、私は火事だという叫び声で眠りから覚まされた。私の寝台のカーテンに火がついていた。家全体が燃え上がっていた。妻と、召使と、私自身とは、やっとのことでその火災からのがれた。なにもかも焼けてしまった。私の全財産はなくなり、それ以来私は絶望に身をまかせてしまった。
 この災難とあの凶行とのあいだに因果関係をつけようとするほど、私は心の弱い者ではない。しかし私は事実のつながりを詳しく述べているのであって、――一つの鐶《かん》でも不完全にしておきたくないのである。火事のつぎの日、私は焼跡へ行ってみた。壁は、一カ所だけをのぞいて、みんな焼け落ちていた。この一カ所というのは、家の真ん中あたりにある、私の寝台の頭板に向っていた、あまり厚くない仕切壁のところであった。ここの漆喰《しっくい》だけはだいたい火の力に耐えていたが、――この事実を私は最近そこを塗り換えたからだろうと思った。この壁のまわりに真っ黒に人がたかっていて、多くの人々がその一部分を綿密な熱心な注意をもって調べているようだった。「妙だな!」「不思議だね?」という言葉や、その他それに似たような文句が、私の好奇心をそそった。近づいてみると、その白い表面に薄肉彫りに彫ったかのように、巨大な猫[#「猫」に傍点]の姿が見えた。その痕《あと》はまったく驚くほど正確にあらわれていた。その動物の首のまわりには縄《なわ》があった。
 最初この妖怪《ようかい》――というのは私にはそれ以外のものとは思えなかったからだが――を見たとき、私の驚愕《きょうがく》と恐怖とは非常なものだった。しかしあれこれと考えてみてやっと気が安まった。猫が家につづいている庭につるしてあったことを私は思い出した。火事の警報が伝わると、この庭はすぐに大勢の人でいっぱいになり、――そのなかの誰かが猫を木から切りはなして、開いていた窓から私の部屋のなかへ投げこんだものにちがいない。これはきっと私の寝ているのを起すためにやったものだろう。そこへ他の壁が落ちかかって、私の残虐の犠牲者を、その塗りたての漆喰の壁のなかへ押しつけ、そうして、その漆喰の石灰と、火炎と、死骸《しがい》から出たアンモニアとで、自分の見たような像ができあがったのだ。
 いま述べた驚くべき事実を、自分の良心にたいしてはぜんぜんできなかったとしても、理性にたいしてはこんなにたやすく説明したのであるが、それでも、それが私の想像に深い印象を与えたことに変りはなかった。幾月ものあいだ私はその猫の幻像を払いのけることができなかった。そしてそのあいだ、悔恨に似ているがそうではないある漠然《ばくぜん》とした感情が、私の心のなかへ戻ってきた。私は猫のいなくなったことを悔むようにさえなり、そのころ行きつけの悪所《あくしょ》でそれの代りになる同じ種類の、またいくらか似たような毛並のものがいないかと自分のまわりを捜すようにもなった。
 ある夜、ごくたちの悪い酒場に、なかば茫然《ぼうぜん》として腰かけていると、その部屋の主な家具をになっているジン酒かラム酒の大樽《おおだる》の上に、なんだか黒い物がじっとしているのに、とつぜん注意をひかれた。私はそれまで数分間その大樽のてっぺんのところをじっと見ていたので、いま私を驚かせたことは、自分がもっと早くその物に気がつかなかったという事実なのであった。私は近づいて行って、それに手を触れてみた。それは一匹の黒猫――非常に大きな猫――で、プルートォくらいの大きさは十分あり、一つの点をのぞいて、あらゆる点で彼にとてもよく似ていた。プルートォは体のどこにも白い毛が一本もなかったが、この猫は、胸のところがほとんど一面に、ぼんやりした形ではあるが、大きな、白い斑点《はんてん》で蔽《おお》われているのだ。
 私がさわると、その猫はすぐに立ち上がり、さかんにごろごろ咽喉を鳴らし、私の手に体をすりつけ、私が目をつけてやったのを喜んでいるようだった。これこそ私の探している猫だった。私はすぐにそこの主人にそれを買いたいと言い出した。が主人はその猫を自分のものだとは言わず、――ちっとも知らないし――いままでに見たこともないと言うのだった。
 私は愛撫をつづけていたが、家へ帰りかけようとすると、その動物はついて来たいような様子を見せた。で、ついて来るままにさせ、歩いて行く途中でおりおりかがんで軽く手で叩《たた》いてやった。家へ着くと、すぐに居ついてしまい、すぐ妻の非常なお気に入りになった。
 私はというと、間もなくその猫に対する嫌悪の情が心のなかに湧《わ》き起るのに気がついた。これは自分の予想していたこととは正反対であった。しかし――どうしてだか、またなぜだかは知らないが――猫がはっきり私を好いていることが私をかえって厭《いや》がらせ、うるさがらせた。だんだんに、この厭でうるさいという感情が嵩《こう》じてはげしい憎しみになっていった。私はその動物を避けた。ある慚愧《ざんき》の念と、以前の残酷な行為の記憶とが、私にそれを肉体的に虐待しないようにさせたのだ。数週の間、私は打つとか、その他手荒なことはしなかった。がしだいしだいに――ごくゆっくりと――言いようのない嫌悪の情をもってその猫を見るようになり、悪疫《あくえき》の息吹《いぶき》から逃げるように、その忌《い》むべき存在から無言のままで逃げ出すようになった。
 疑いもなく、その動物に対する私の憎しみを増したのは、それを家へ連れてきた翌朝、それにもプルートォのように片眼がないということを発見したことであった。けれども、この事がらのためにそれはますます妻にかわいがられるだけであった。妻は、以前は私のりっぱな特徴であり、また多くのもっとも単純な、もっとも純粋な快楽の源であったあの慈悲ぶかい気持を、前にも言ったように、多分に持っていたのだ。
 しかし、私がこの猫を嫌えば嫌うほど、猫のほうはいよいよ私を好くようになってくるようだった。私のあとをつけまわり、そのしつこさは読者に理解してもらうのが困難なくらいであった。私が腰かけているときにはいつでも、椅子《いす》の下にうずくまったり、あるいは膝《ひざ》の上へ上がって、しきりにどこへでもいまいましくじゃれついたりした。立ち上がって歩こうとすると、両足のあいだへ入って、私を倒しそうにしたり、あるいはその長い鋭い爪《つめ》を私の着物にひっかけて、胸のところまでよじ登ったりする。そんなときには、殴り殺してしまいたかったけれども、そうすることを差し控えたのは、いくらか自分の以前の罪悪を思い出すためであったが、主としては――あっさり白状してしまえば――その動物がほんとうに怖かった[#「怖かった」に傍点]ためであった。
 この怖さは肉体的災害の怖さとは少し違っていた、――が、それでもそのほかにそれをなんと説明してよいか私にはわからない。私は告白するのが恥ずかしいくらいだが――そうだ、この重罪人の監房のなかにあってさえも、告白するのが恥ずかしいくらいだが――その動物が私の心に起させた恐怖の念は、実にくだらない一つの妄想《もうそう》のために強められていたのであった。その猫と前に殺した猫との唯一《ゆいいつ》の眼に見える違いといえば、さっき話したあの白い毛の斑点なのだが、妻はその斑点のことで何度か私に注意していた。この斑点は、大きくはあったが、もとはたいへんぼんやりした形であったということを、読者は記憶せられるであろう。ところが、だんだんに――ほとんど眼につかないほどにゆっくりと、そして、長いあいだ私の理性はそれを気の迷いだとして否定しようとあせっていたのだが――それが、とうとう、まったくきっぱりした輪郭となった。それはいまや私が名を言うも身ぶるいするような物の格好になった。――そして、とりわけこのために、私はその怪物を嫌い、恐れ、できるなら思いきって[#「できるなら思いきって」に傍点]やっつけてしまいたいと思ったのであるが、――それはいまや、恐ろしい――もの凄《すご》い物の――絞首台[#「絞首台」に傍点]の――形になったのだ! ――おお、恐怖と罪悪との――苦悶《くもん》と死との痛ましい恐ろしい刑具の形になったのだ!
 そしていまこそ私は実に単なる人間の惨《みじ》めさ以上に惨めであった。一匹の畜生が[#「一匹の畜生が」に傍点]――その仲間の奴《やつ》を私は傲然《ごうぜん》と殺してやったのだ――一匹の畜生が私に[#「一匹の畜生が私に」に傍点]――いと高き神の像《かたち》に象《かたど》って造られた人間である私に――かくも多くの堪えがたい苦痛を与えるとは! ああ! 昼も夜も私はもう安息の恩恵というものを知らなくなった! 昼間はかの動物がちょっとも私を一人にしておかなかった。夜には、私は言いようもなく恐ろしい夢から毎時間ぎょっとして目覚めると、そいつ[#「そいつ」に傍点]の熱い息が自分の顔にかかり、そのどっしりした重さが――私には払い落す力のない悪魔の化身が――いつもいつも私の心臓[#「心臓」に傍点]の上に圧《お》しかかっているのだった!
 こういった呵責《かしゃく》に押しつけられて、私のうちに少しばかり残っていた善も敗北してしまった。邪悪な考えが私の唯一の友となった、――もっとも暗黒な、もっとも邪悪な考えが。私のいつもの気むずかしい気質はますますつのって、あらゆる物やあらゆる人を憎むようになった。そして、いまでは幾度もとつぜんに起るおさえられぬ激怒の発作に盲目的に身をまかせたのだが、なんの苦情も言わない私の妻は、ああ! それを誰よりもいつもひどく受けながら、辛抱づよく我慢したのだった。
 ある日、妻はなにかの家の用事で、貧乏のために私たちが仕方なく住んでいた古い穴蔵のなかへ、私と一緒に降りてきた。猫もその急な階段を私のあとへついて降りてきたが、もう少しのことで私を真っ逆さまに突き落そうとしたので、私はかっと激怒した。怒りのあまり、これまで自分の手を止めていたあの子供らしい怖さも忘れて、斧《おの》を振り上げ、その動物をめがけて一撃に打ち下ろそうとした。それを自分の思ったとおりに打ち下ろしたなら、もちろん、猫は即座に死んでしまったろう。が、その一撃は妻の手でさえぎられた。この邪魔立てに悪鬼以上の憤怒に駆られて、私は妻につかまれている腕をひき放し、斧を彼女の脳天に打ちこんだ。彼女は呻《うめ》き声もたてずに、その場で倒れて死んでしまった。
 この恐ろしい殺人をやってしまうと、私はすぐに、きわめて慎重に、死体を隠す仕事に取りかかった。昼でも夜でも、近所の人々の目にとまる恐れなしには、それを家から運び去ることができないということは、私にはわかっていた。いろいろの計画が心に浮んだ。あるときは死骸を細かく切って火で焼いてしまおうと考えた。またあるときには穴蔵の床にそれを埋める穴を掘ろうと決心した。さらにまた、庭の井戸のなかへ投げこもうかとも――商品のように箱のなかへ入れて普通やるように荷造りして、運搬人に家から持ち出させようかとも、考えてみた。最後に、これらのどれよりもずっといいと思われる工夫を考えついた。中世紀の僧侶《そうりょ》たちが彼らの犠牲者を壁に塗りこんだと伝えられているように――それを穴蔵の壁に塗りこむことに決めたのだ。
 そういった目的にはその穴蔵はたいへん適していた。そこの壁はぞんざいにできていたし、近ごろ粗い漆喰を一面に塗られたばかりで、空気が湿っているためにその漆喰が固まっていないのだった。その上に、一方の壁には、穴蔵の他のところと同じようにしてある、見せかけだけの煙突か暖炉のためにできた、突き出た一カ所があった。ここの煉瓦《れんが》を取りのけて、死骸を押しこみ、誰の目にもなに一つ怪しいことの見つからないように、前のとおりにすっかり壁を塗り潰《つぶ》すことは、造作なくできるにちがいない、と私は思った。
 そしてこの予想ははずれなかった。鉄梃《かなてこ》を使って私はたやすく煉瓦を動かし、内側の壁に死体を注意深く寄せかけると、その位置に支えておきながら、大した苦もなく全体をもとのとおりに積み直した。できるかぎりの用心をして膠泥《モルタル》と、砂と、毛髪とを手に入れると、前のと区別のつけられない漆喰をこしらえ、それで新しい煉瓦細工の上をとても念入りに塗った。仕上げてしまうと、万事がうまくいったのに満足した。壁には手を加えたような様子が少しも見えなかった。床の上の屑《くず》はごく注意して拾い上げた。私は得意になってあたりを見まわして、こう独言《ひとりごと》を言った。――「さあ、これで少なくとも今度だけは己《おれ》の骨折りも無駄《むだ》じゃなかったぞ」
 次に私のやることは、かくまでの不幸の原因であったあの獣を捜すことであった。とうとう私はそれを殺してやろうと堅く決心していたからである。そのときそいつに出会うことができたなら、そいつの命はないに決っていた。が、そのずるい動物は私のさっきの怒りのはげしさにびっくりしたらしく、私がいまの気分でいるところへは姿を見せるのを控えているようであった。その厭でたまらない生きものがいなくなったために私の胸に生じた、深い、この上なく幸福な、安堵《あんど》の感じは、記述することも、想像することもできないくらいである。猫はその夜じゅう姿をあらわさなかった。――で、そのために、あの猫を家へ連れてきて以来、少なくとも一晩だけは、私はぐっすりと安らかに眠った。そうだ、魂に人殺しの重荷を負いながらも眠った[#「眠った」に傍点]のだ!
 二日目も過ぎ三日目も過ぎたが、それでもまだ私の呵責者は出てこなかった。もう一度私は自由な人間として呼吸した。あの怪物は永久にこの屋内から逃げ去ってしまったのだ! 私はもうあいつを見ることはないのだ! 私の幸福はこの上もなかった! 自分の凶行の罪はほとんど私を不安にさせなかった。二、三の訊問《じんもん》は受けたが、それには造作なく答えた。家宅捜索さえ一度行われた、――が無論なにも発見されるはずがなかった。私は自分の未来の幸運を確実だと思った。
 殺人をしてから四日目に、まったく思いがけなく、一隊の警官が家へやって来て、ふたたび屋内を厳重に調べにかかった。けれども、自分の隠匿《いんとく》の場所はわかるはずがないと思って、私はちっともどぎまぎしなかった。警官は私に彼らの捜索について来いと命じた。彼らはすみずみまでも残るくまなく捜した。とうとう、三度目か四度目に穴蔵へ降りて行った。私は体の筋一つ動かさなかった。私の心臓は罪もなくて眠っている人の心臓のように穏やかに鼓動していた。私は穴蔵を端から端へと歩いた。腕を胸の上で組み、あちこち悠々《ゆうゆう》と歩きまわった。警官はすっかり満足して、引き揚げようとした。私の心の歓喜は抑えきれないくらい強かった。私は、凱歌《がいか》のつもりでたった一言でも言ってやり、また自分の潔白を彼らに確かな上にも確かにしてやりたくてたまらなかった。
「皆さん」と、とうとう私は、一行が階投をのぼりかけたときに、言った。「お疑いが晴れたことをわたしは嬉《うれ》しく思います。皆さん方のご健康を祈り、それからも少し礼儀を重んぜられんことを望みます。ときに、皆さん、これは――これはなかなかよくできている家ですぜ」〔なにかをすらすら言いたいはげしい欲望を感じて、私は自分の口にしていることがほとんどわからなかった〕――「すてきに[#「すてきに」に傍点]よくできている家だと言っていいでしょうな。この壁は――お帰りですか? 皆さん――この壁はがんじょうにこしらえてありますよ」そう言って、ただ気違いじみた空威張《からいば》りから、手にした杖《つえ》で、ちょうど愛妻の死骸が内側に立っている部分の煉瓦細工を、強くたたいた。
 だが、神よ、魔王の牙《きば》より私を護《まも》りまた救いたまえ! 私の打った音の反響が鎮《しず》まるか鎮まらぬかに、その墓のなかから一つの声が私に答えたのであった! ――初めは、子供の啜《すす》り泣きのように、なにかで包まれたような、きれぎれな叫び声であったが、それから急に高まって、まったく異様な、人間のものではない、一つの長い、高い、連続した金切声となり、――地獄に墜《お》ちてもだえ苦しむ者と、地獄に墜《おと》して喜ぶ悪魔との咽喉《のど》から一緒になって、ただ地獄からだけ聞えてくるものと思われるような、なかば恐怖の、なかば勝利の、号泣――慟哭《どうこく》するような悲鳴――となった。
 私自身の気持は語るも愚かである。気が遠くなって、私は反対の側の壁へとよろめいた。一瞬間、階段の上にいた一行は、極度の恐怖と畏懼《いく》とのために、じっと立ち止った。次の瞬間には、幾本かの逞《たくま》しい腕が壁をせっせとくずしていた。壁はそっくり落ちた。もうひどく腐爛《ふらん》して血魂が固まりついている死骸が、そこにいた人々の眼前にすっくと立った。その頭の上に、赤い口を大きくあけ、爛々たる片眼《かため》を光らせて、あのいまわしい獣が坐《すわ》っていた。そいつの奸策《かんさく》が私をおびきこんで人殺しをさせ、そいつのたてた声が私を絞刑吏に引渡したのだ。その怪物を私はその墓のなかへ塗りこめておいたのだった!

底本:「黒猫・黄金虫」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1995(平成7)年10月15日89刷改版
   1997(平成9)年第93刷
入力:大野晋
校正:宮崎直彦
1999年2月4日公開
2005年12月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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佐々木直次郎

黄金虫 THE GOLD-BUG エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe—-佐々木直次郎訳


おや、おや! こいつ気が狂ったみたいに踊って いる。

タラント蜘蛛《ぐも》に咬《か》まれたんだな]

『みんな間違い(1)』

 もうよほど以前のこと、私はウィリアム・ルグラン君という人と親しくしていた。彼は古いユグノー(2)の一家の子孫で、かつては富裕であったが、うちつづく不運のためすっかり貧窮に陥っていた。その災難に伴う屈辱を避けるために、彼は先祖の代から住み慣れたニュー・オーリアンズ(3)の町を去って、南カロライナ州のチャールストンに近いサリヴァン島に住むことになった。
 この島は非常に妙な島だ。ほとんど海の砂ばかりでできていて、長さは三マイルほどある。幅はどこでも四分の一マイルを超えない。水鶏《くいな》が好んで集まる、粘土《ねばつち》に蘆《あし》が一面に生い繁《しげ》ったところをじくじく流れる、ほとんど目につかないような小川で、本土から隔てられている。植物はもとより少なく、またあったにしてもとても小さなものだ。大きいというほどの樹木は一本も見あたらない。島の西端にはモールトリー要塞《ようさい》(4)があり、また夏のあいだチャールストンの塵埃《じんあい》と暑熱とをのがれて来る人々の住むみすぼらしい木造の家が何軒かあって、その近くには、いかにもあのもしゃもしゃした棕櫚《しゅろ》(5)の林があるにはあった。しかしこの西端と、海岸の堅い白いなぎさの線とをのぞいては、島全体は、イギリスの園芸家たちの非常に珍重するあのかんばしい桃金嬢《マートル》の下生えでぎっしり蔽《おお》われているのだ。この灌木《かんぼく》は、ここではしばしば十五フィートから二十フィートの高さにもなって、ほとんど通り抜けられないくらいの叢林《そうりん》となって、あたりの大気をそのかぐわしい芳香でみたしている。
 この叢林のいちばん奥の、つまり、島の東端からあまり遠くないところに、ルグランは自分で小さな小屋を建てて、私がふとしたことから初めて彼と知りあったときには、そこに住んでいたのだった。私たちは間もなく親密になっていった。――というのは、この隠遁者《いんとんしゃ》には興味と尊敬の念とを起させるものが多分にあったからなのだ。私には、彼がなかなか教育があって、頭脳の力が非常にすぐれているが、すっかり|人間嫌い《ミザンスロピー》になっていて、いま熱中したかと思うとたちまち憂鬱《ゆううつ》になるといった片意地な気分に陥りがちだ、ということがわかった。彼は書物はたくさん持っていたが、たまにしか読まなかった。主な楽しみといえば、銃猟や魚釣《さかなつ》り、あるいは貝殻《かいがら》や昆虫《こんちゅう》学の標本を捜しながら、なぎさを伝い桃金嬢の林のなかを通ってぶらつくことなどであった。――その昆虫学の標本の蒐集《しゅうしゅう》は、スワンメルダム(6)のような昆虫学者にも羨望《せんぼう》されるくらいのものだった。こういった遠出をする場合には、たいていジュピターという年寄りの黒人がおともをしていた。彼はルグラン家の零落する前に解放されていたのだが、若い「ウィル旦那《だんな》」のあとについて歩くことを自分の権利と考えて、おどかしても、すかしても、それをやめさせることができなかった。ことによったら、ルグランの親戚《しんせき》の者たちが、ルグランの頭が少し変なのだと思って、この放浪癖の男を監視し後見させるつもりで、ジュピターにそんな頑固《がんこ》さを教えこんでおいたのかもしれない。
 サリヴァン島のある緯度のあたりでは、冬でも寒さが非常にきびしいということはめったになく、秋には火がなくてはたまらぬというようなことはまったく稀《まれ》である。しかし、一八――年の十月のなかばごろ、ひどくひえびえする日があった。ちょうど日没前、私はあの常磐木《ときわぎ》のあいだをかきわけて友の小屋の方へ行った。その前三、四週間ほど私は彼を訪ねたことがなかった。――私の住居はそのころこの島から九マイル離れているチャールストンにあって、往復の便利は今日よりはずっとわるかった。小屋に着くと、いつも私の習慣にしているように扉《とびら》を叩《たた》いたが、なんの返事もないので、自分の知っている鍵《かぎ》の隠し場所を捜し、扉の錠をあけてなかへ入った。炉には気持のいい火があかあかと燃えていた。これは思いがけぬ珍しいものでもあり、また決してありがたからぬものでもなかった。私は外套《がいとう》を脱ぎすてると、ぱちぱち音をたてて燃えている丸太のそばへ肘掛椅子《ひじかけいす》をひきよせて、この家の主人たちの帰ってくるのを気長に待っていた。
 暗くなってから間もなく彼らは帰ってきて、心から私を歓迎してくれた。ジュピターは耳もとまで口をあけてにたにた笑いながら、晩餐《ばんさん》に水鶏を料理しようと忙しく立ち働いた。ルグランは例の熱中する発作――発作とでも言わなければほかになんと言おう? ――に罹《かか》っていた。彼は新しい種類の、世にまだ知られていない二枚貝を発見したのだが、そのうえまた、ジュピターの助けを借りて一匹の甲虫《かぶとむし》を追いつめて捕えたのだ。その甲虫を彼はまったく新しいものと信じていたが、それについてあす私の意見を聞きたいというのであった。
「で、なぜ今夜じゃいけないのかね?」と、私は火の上で両手をこすりながら尋ねた。甲虫なんぞはみんな悪魔に食われてしまえ、と心のなかで思いながら。
「ああ、君がここへ来ることがわかってさえいたらなあ!」とルグランが言った。「だがずいぶん長く会わなかったし、どうして今夜にかぎって訪ねてきてくれるってことがわかるもんかね? 僕は帰りみちで要塞のG――中尉《ちゅうい》に会って、まったくなんの考えもなしに、その虫を貸してやったんだ。だから君にはあすの朝まで見せるわけにはゆかんのだ。今晩はここで泊りたまえ。そしたら、日の出にジャップを取りにやらせるよ。そりゃあ実にすばらしいものだぜ!」
「何が? ――日の出がかい?」
「ばかな! 違うよ! ――その虫がさ。ぴかぴかした黄金色《こがねいろ》をしていて、――大きな胡桃《くるみ》の実ほどの大きさでね、――背中の一方の端近くに真っ黒な点が二つあり、もう一方のほうにはいくらか長いのが一つある、触角《アンテニー》は――」
「錫《ティン》なんて(7)あいつにゃあちっとも入《へえ》っていねえ[#「いねえ」に傍点]んでがす、ウィル旦那。わっしは前《めえ》から言ってるんでがすが」と、このときジュピターが口を出した。「あの虫はどこからどこまで、羽根だきゃあ別だが、外も中もすっかり、ほんとの黄金虫でさ。――生れてからあんな重てえ虫は持ったことがねえ」
「なるほど。としてもだな、ジャップ」とルグランは、その場合としては不必要なほどちょっと真面目《まじめ》すぎると思われるような調子で、答えた。「それがお前の鳥を焦《こ》がす理由になるのかな? その色はね」とここで彼は私の方へ向いて、――「実際ジュピターの考えももっともだと言ってもいいくらいのものなんだ。あの甲から発するのよりももっとぴかぴかする金属性の光沢《つや》は、君だって見たことがあるまい。――が、これについちゃああすになるまでは君にはなんとも意見を下せないわけだ。それまでにまず、形だけはいくらか教えてあげることができるよ」こう言いながら、彼は小さなテーブルの前へ腰をかけたが、その上にはペンとインクとはあったけれども、紙はなかった。彼は引出しのなかを捜したが、一枚も見当らなかった。
「なあに、いいさ」ととうとう彼は言った。「これで間に合うだろう」と、チョッキのポケットから、ひどくよごれた大判洋紙《フールズキャップ》らしいもののきれっぱしを取り出して、その上にペンで略図を描いた。彼がそうしているあいだ、私はまだ寒けがするので、火のそばを離れずにいた。図ができあがると、彼は立ち上がらないで、それを私に手渡しした。それを受け取ったとき、高い(8)うなり声が聞え、つづいて扉をがりがりひっかく音がした。ジュピターが扉をあけると、ルグランの飼っている大きなニューファウンドランド種の犬が跳びこんで来て、私の肩に跳びつき、しきりにじゃれついた。いままで私が訪ねて来たときにずいぶんかわいがってやっていたからなのだ。犬のふざけがすんでしまうと、私は例の紙を眺《なが》めたが、実を言えば友の描いたものを見て少なからず面くらったのであった。
「なるほどね!」と私は、数分間そいつをつくづく見つめた末に、言った。「こりゃあたしかに奇妙な甲虫だよ[#「だよ」に傍点]。僕には初めてだ。これまでにこんなものは見たことがない――頭蓋骨《ずがいこつ》か髑髏《どくろ》でなければね。僕の[#「僕の」に傍点]いままで見たもののなかでは、なによりもその髑髏に似ているよ」
「髑髏だって!」とルグランは鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。――「うん、――そうだ、いかにも紙に描《か》いたところでは幾分そんな格好をしてるな、たしかに。上の方の二つの黒い点は、眼《め》のように見えるし、え、そうだろう? それから下にある長いのは口に見えるし、――それに、全体の形が楕円形《だえんけい》だからね」
「たぶんそうだろう」と私は言った。「しかしだね、ルグラン、君は絵が上手じゃないねえ。とにかく、その虫の本物を見るまで待たなくちゃならん、どんなご面相をしているのか知ろうと思ったらね」
「そうかなあ」彼は少しむっとして言った。「僕はかなり描けるんだがね、――少なくとも描けなくちゃならん[#「なくちゃならん」に傍点]のだ、――いい先生に教わったんだし、自分じゃあそうひどい愚物でもないつもりなんだから」
「しかし、君、それじゃあ君は茶化しているんだよ」と私は言った。「こりゃあ、ちゃんとした普通の頭蓋骨[#「頭蓋骨」に傍点]だ。――実際、生理学上のこの部分に関する一般の考えにしたがえば、実に立派な[#「立派な」に傍点]頭蓋骨だと言ってもいいね。――そして君の甲虫というのが、もしこれに似てるのなら、それこそ珍無類の甲虫にちがいない。そうだな、この暗示《ヒント》でぞっとするような迷信が一つこさえられるぜ。きっと君はその虫を 〔scaraboe&us caput hominis〕(人頭甲虫)とか、何かそういったような名をつけるだろうね。――博物学にはそういうような名前がたくさんあるからね。ところで、君の話したあの触角というのはどこにあるんだい?」
「触角!」とルグランが言った。彼はこの話題に奇妙に熱中しているようだった。「触角は君には見えるはずだと思うんだが。僕は、実物の虫についているとおりにはっきりと描いたんだし、それで十分だと思うんだがな」
「うん、そうかねえ」と私は言った。「きっと君は描いておいたんだろう、――でもやっぱり僕には見えない」そして、私は彼の機嫌《きげん》を損じないようにと、それ以上なにも言わないで、その紙を彼に渡した。が、私は形勢が一変してしまったのにはすっかり驚いた。彼の不機嫌には私も面くらったし、――それに、甲虫の図はと言えば、ほんとうに触角などはちっとも[#「ちっとも」に傍点]見えなくて、全体が髑髏の普通の絵にたしかに[#「たしかに」に傍点]そっくりだったのだ。
 彼はひどく不機嫌に紙を受け取り、火のなかへ投げこむつもりらしく、それを皺《しわ》くちゃにしようとしたが、そのときふと図をちらりと見ると、とつぜんそれに注意をひきつけられたようであった。たちまち彼の顔は真っ赤になり、――それから真っ蒼《さお》になった。数分間、彼は坐《すわ》ったままその図を詳しく調べつづけていた。とうとう立ち上がると、テーブルから蝋燭《ろうそく》を取って、部屋のいちばん遠い隅《すみ》っこにある船乗りの衣類箱のところへ行って腰をかけた。そこでまた、紙をあらゆる方向にひっくり返してしきりに調べた。だが彼は一ことも口をきかなかった。そして彼の挙動は大いに私をびっくりさせた。それでも、私はなにか口を出したりしてだんだんひどくなってくる彼の気むずかしさをつのらせないほうがよいと考えた。やがて彼は上衣《うわぎ》のポケットから紙入れを取り出して、例の紙をそのなかへ丁寧にしまいこみ、それを書机《ライティング・デスク》のなかに入れて、錠をかけた。彼の態度は今度はだんだん落ちついてきた。が最初の熱中しているような様子はまったくなくなっていた。それでも、むっつりしているというよりも、むしろ茫然《ぼうぜん》としているようだった。夜が更《ふ》けるにしたがって彼はますます空想に夢中になってゆき、私がどんな洒落《しゃれ》を言ってもそれから覚ますことができなかった。私は前にたびたびそこに泊ったことがあるので、その夜も小屋に泊るつもりだったが、なにしろ主《あるじ》がこんな機嫌なので、帰ったほうがいいと思った。彼は強《し》いて泊って行けとは言わなかったが、別れるときには、いつもよりももっと心をこめて私の手を握った。
 それから一カ月ばかりもたったころ(そのあいだ私はルグランにちっとも会わなかった)、彼の下男のジュピターが私をチャールストンに訪ねて来た。私は、この善良な年寄りの黒人がこんなにしょげているのを、それまでに見たことがなかった。で、なにかたいへんな災難が友の身に振りかかったのではなかろうかと気づかった。
「おい、ジャップ」と私が言った。「どうしたんだい? ――旦那はどうかね?」
「へえ、ほんとのことを申しますと、旦那さま、うちの旦那はあんまりよくねえんでがす」
「よくない! それはほんとに困ったことだ。どこが悪いと言っているのかね?」
「それ、そこがですよ! どこも悪《わり》いと言っていらっしゃらねえだが、――それがてえへん病気なんでがす」
「たいへん[#「たいへん」に傍点]病気だって! ジュピター。――なぜお前はすぐそう言わないんだ? 床《とこ》に寝ているのかい?」
「いいや、そうでねえ! ――どこにも寝ていねえんで、――そこが困ったこっで、――わっしは可哀《かえ》えそうなウィル旦那のことで胸がいっぺえになるんでがす」
「ジュピター、もっとわかるように言ってもらいたいものだな。お前は旦那が病気だと言う。旦那はどこが悪いのかお前に話さないのか?」
「へえ、旦那さま、あんなこっで気が違うてなぁ割に合わねえこっでがすよ。――ウィル旦那はなんともねえって言ってるが、――そんならなんだって、頭を下げて、肩をつっ立って、幽霊みてえに真っ蒼になって、こんな格好をして歩きまわるだかね? それにまた、しょっちゅう計算してるんで――」
「なにをしているって? ジュピター」
「石盤に数字を書いて計算してるんでがす、――わっしのいままで見たことのねえ変てこな数字でさ。ほんとに、わっしはおっかなくなってきましただ。旦那のすることにゃあしっかり眼を配ってなけりゃなんねえ。こねえだも、夜の明けねえうちにわっしをまいて、その日|一日《いちんち》いねえんでがす。わっしは、旦那が帰《けえ》って来たらしたたかぶん殴ってくれようと思って、でっけえ棒をこせえときました。――だけど、わっしは馬鹿《ばか》で、どうしてもそんな元気が出ねえんでがす。――旦那があんまり可哀《かえ》えそうな様子をしてるで」
「え? ――なんだって? ――うん、そうか! ――まあまあ、そんなかわいそうな者にはあんまり手荒なことをしないほうがいいと思うな。――折檻《せっかん》したりなんぞしなさんな、ジュピター。――そんなことをされたら旦那はとてもたまるまいからね。――だが、どうしてそんな病気に、というよりそんな変なことをするように、なったのか、お前にはなにも思い当らないのかね? この前僕がお前んとこへ行ってからのち、なにか面白くないことでもあったのかい?」
「いいや、旦那さま、あれからあとにゃあ[#「あとにゃあ」に傍点]なんにも面白くねえことってごぜえません。――そりゃああれより前の[#「前の」に傍点]こったとわっしは思うんでがす。――あんたさまがいらっしゃったあの日のことで」
「どうして? なんのことだい?」
「なあに、旦那さま、あの虫のこっでがすよ、――それ」
「あの何だって?」
「あの虫で。――きっと、ウィル旦那はあの黄金虫に頭のどっかを咬《か》まれたんでがす」
「と思うような理由があるのかね? ジュピター」
「爪《つめ》も、口もありんでがすよ、旦那さま。わっしはあんないまいましい虫あ見たことがねえ。――そばへ来るもんはなんでもみんな蹴《け》ったり咬みついたりするんでさ。ウィル旦那が初めにつかまえただが、すぐにまたおっ放《ぱな》さなけりゃなんなかっただ。――そんときに咬まれたにちげえねえ。わっしは自分じゃああの虫の口の格好が気に食わねえんで、指では持ちたくねえと思って、めっけた紙っきれでつかまえましただ。紙に包んでしまって、その紙っきれの端をそいつの口に押しこんでやりましただ、――そんなぐあいにやったんでがす」
「じゃあ、お前は旦那がほんとうにその甲虫に咬まれて、それで病気になったのだと思うんだな?」
「そう思うんじゃごぜえません、――そうと知ってるんでがす。あの黄金虫に咬まれたんでなけりゃあ、どうしてあんなにしょっちゅう黄金《こがね》の夢をみてるもんかね? わっしは前《めえ》にもあんな黄金虫の話を聞いたことがありますだ」
「しかし、どうして旦那が黄金の夢をみているということがお前にわかるかね?」
「どうしてわかるって? そりゃあ、寝言にまでそのことを言ってなさるからでさ、――それでわかるんでがす」
「なるほど、ジャップ。たぶんお前の言うとおりかもしれん。だが、きょうお前がここへご入来《じゅらい》になったのは、どんなご用なのかな?」
「なんでごぜえます? 旦那さま」
「お前はルグラン君からなにか伝言《ことづけ》を言いつかってきたのかい?」
「いいや、旦那さま、この手紙を持ってめえりましただ」と言ってジュピターは次のような一通の手紙を私に渡した。


「拝啓。どうして君はこんなに長く訪ねに来てくれないのか? 僕のちょっとした無愛想《ブリュスクリー》などに腹を立てるような馬鹿な君ではないと思う。いや、そんなことはあるはずがない。
 この前君に会ってから、僕には大きな心配事ができている。君に話したいことがあるのだが、それをどんなぐあいに話していいか、あるいはまた話すべきかどうかも、わかり兼ねるのだ。
 僕はこの数日来あまりぐあいがよくなかったが、ジャップめは好意のおせっかいからまるで耐えがたいくらいに僕を悩ませる。君は信じてくれるだろうか? ――彼は先日、大きな棒を用意して、そいつで、僕が彼をまいて一人で本土の山中にその日を過したのを懲《こ》らそうとするのだ。僕が病気のような顔つきをしていたばかりにその折檻をまぬかれたのだと、僕はほんとうに信じている。
 この前お目にかかって以来、僕の標本棚《ひょうほんだな》にはなんら加うるところがない。
 もしなんとかご都合がついたら、ジュピターと同道にて来てくれたまえ。ぜひ[#「ぜひ」に傍点]来てくれたまえ。重大な用件について、今晩[#「今晩」に傍点]お目にかかりたい。もっとも[#「もっとも」に傍点]重大な用件であることを断言する。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から5字上げ]敬具
[#地から2字上げ]ウィリアム・ルグラン」

 この手紙の調子にはどこか私に非常な不安を与えるものがあった。全体の書きぶりがいつものルグランのとはよほど違っている。いったい彼はなにを夢想しているのだろう? どんな変な考えが新たに彼の興奮しやすい頭にとっついたのだろう? どんな「もっとも重大な用件」を彼が[#「彼が」に傍点]処理しなければならんというのだろう? ジュピターの話の様子ではどうもあまりいいことではなさそうだ。私はたび重なる不運のためにとうとう彼がまったく気が狂ったのではなかろうかと恐れた。だから、一刻もぐずぐずしないで、その黒人と同行する用意をした。
 波止場へ着くと、一|梃《ちょう》の大鎌《おおがま》と三梃の鋤《すき》とが我々の乗って行こうとするボートの底に置いてあるのに気がついた。どれもみな見たところ新しい。
「これはみんなどうしたんだい? ジャップ」と私は尋ねた。
「うちの旦那《だんな》の鎌と鋤でがす、旦那さま」
「そりゃあそうだろう。が、どうしてここにあるんだね?」
「ウィル旦那がこの鎌と鋤を町へ行って買って来いってきかねえんでがす。眼の玉がとび出るほどお金《あし》を取られましただ」
「しかし、いったいぜんたい、お前のところの『ウィル旦那』は鎌や鋤なんぞをどうしようというのかね?」
「そりゃあわっし[#「わっし」に傍点]にゃあわからねえこっでさ。また、うちの旦那にだってやっぱしわかりっこねえにちげえねえ。だけど、なんもかもみんなあの虫のせえでがすよ」
 ジュピターは「あの虫」にすっかり自分の心を奪われているようなので、彼にはなにをきいても満足な答えを得られるはずがないということを知って、私はそれからボートに乗りこみ、出帆した。強い順風をうけて間もなくモールトリー要塞《ようさい》の北の小さい入江に入り、そこから二マイルほど歩くと小屋に着いた。着いたのは午後の三時ごろだった。ルグランは待ちこがれていた。彼は私の手を神経質な熱誠《アンプレスマン》をこめてつかんだので、私はびっくりし、またすでにいだいていたあの疑念を強くした。彼の顔色はもの凄《すご》いくらいにまで蒼白《あおじろ》く、深くくぼんだ眼はただならぬ光で輝いていた。彼の健康について二こと三こと尋ねてから、私は、なにを言っていいかわからなかったので、G――中尉《ちゅうい》からもう例の甲虫《かぶとむし》を返してもらったかどうかと尋ねた。
「もらったとも」彼は顔をさっと真っ赤にして答えた。「あの翌朝返してもらったんだ。もうどんなことがあろうと、あの甲虫を手放すものか。君、あれについてジュピターの言ったことはまったくほんとなんだぜ」
「どんな点がかね?」私は悲しい予感を心に感じながら尋ねた。
「あれをほんとうの黄金[#「ほんとうの黄金」に傍点]でできている虫だと想像した点がさ」彼はこの言葉を心から真面目《まじめ》な様子で言ったので、私はなんとも言えぬほどぞっとした。
「この虫が僕の身代をつくるのだ」と彼は勝ち誇ったような微笑を浮べながら言いつづけた。「僕の先祖からの財産を取り返してくれるのだ。とすると、僕があれを大切にするのも決して不思議じゃあるまい? 運命の神があれを僕に授けようと考えたからには、僕はただそれを適当に用いさえすればいいのだ。そうすればあれが手引きとなって僕は黄金のところへ着くだろうよ。ジュピター、あの甲虫を持ってきてくれ!」
「えっ! あの虫でがすか? 旦那。わっしはあの虫に手出ししたかあごぜえません、――ご自分で取りにいらっせえ」そこでルグランは真面目な重々しい様子で立ち上がり、甲虫の入れてあるガラス箱からそれを持ってきてくれた。それは美しい甲虫で、またその当時には博物学者にも知られていないもので、――むろん、科学的の見地から見て大した掘出し物だった。背の一方の端近くには円い、黒い点が二つあり、もう一方の端近くには長いのが一つある。甲は非常に堅く、つやつやしていて、見たところはまったく磨《みが》きたてた黄金のようであった。この虫の重さも大したもので、すべてのことを考え合せると、ジュピターがああ考えるのをとがめるわけにはゆかなかった。しかし、ルグランまでがジュピターのその考えに同意するのはなんと解釈したらいいか、私にはどうしてもわかりかねた。
「君を迎えにやったのはね」と彼は、私がその甲虫を調べてしまったとき、大げさな調子で言った。「君を迎えにやったのは、運命の神とこの甲虫との考えを成功させるのに、君の助言と助力とを願いたいと思って――」
「ねえ、ルグラン君」私は彼の言葉をさえぎって大声で言った。「君はたしかにぐあいがよくない。だから少し用心したほうがいいよ。寝たまえ。よくなるまで、僕は二、三日ここにいるから。君は熱があるし――」
「脈をみたまえ」と彼は言った。
 私は脈をとってみたが、実のところ、熱のありそうな様子はちっともなかった。
「しかし熱はなくても病気かもしれないよ。まあ、今度だけは僕の言うとおりにしてくれたまえ。第一に寝るのだ。次には――」
「君は思い違いをしている」と彼は言葉をはさんだ。「僕はいま罹《かか》っている興奮状態ではこれで十分健康なのだ。もし君がほんとうに僕の健康を願ってくれるなら、この興奮を救ってくれたまえ」
「というと、どうすればいいんだい?」
「わけのないことさ。ジュピターと僕とはこれから本土の山のなかへ探検に行くんだが、この探検には誰か信頼できる人の助けがいる。君は僕たちの信用できるただ一人なのだ。成功しても失敗しても、君のいま見ている僕の興奮は、とにかく鎮《しず》められるだろう」
「なんとかして君のお役に立ちたいと思う」と私は答えた。「だが、君はこのべらぼうな甲虫が君の探検となにか関係があるとでも言うのかい?」
「あるよ」
「じゃあ、ルグラン、僕はそんなばかげた仕事の仲間入りはできない」
「それは残念だ、――実に残念だ。――じゃあ僕ら二人だけでやらなくちゃあならない」
「君ら二人だけでやるって! この男はたしかに気が違っているぞ! ――だが待ちたまえ、――君はどのくらいのあいだ留守にするつもりなんだ?」
「たぶん一晩じゅうだ。僕たちはいまからすぐ出発して、ともかく日の出ごろには戻って来られるだろう」
「では君は、この君の酔狂がすんでしまって、甲虫一件がだ(ちぇっ!)、君の満足するように落着したら、そのときは家へ帰って、医者の勧告と同じに僕の勧告に絶対にしたがう、ってことを、きっと僕に約束するかね?」
「うん、約束する。じゃあ、すぐ出かけよう。一刻もぐずぐずしちゃあおられないんだから」
 気が進まぬながら私は友に同行した。我々は四時ごろに出発した、――ルグランと、ジュピターと、犬と、私とだ。ジュピターは大鎌と鋤とを持っていたが、――それをみんな自分で持って行くと言い張って肯《き》かなかったのは、過度の勤勉や忠実からというよりも、そのどちらの道具でも主人の手のとどくところに置くことを恐れるかららしく、私には思われた。彼の態度はひどく頑固《がんこ》で、みちみち彼の唇《くちびる》をもれるのは「あのいまいましい虫めが」という言葉だけであった。私はというと龕灯《がんどう》(9)を二つひきうけたが、ルグランは例の甲虫だけで満足していて、それを鞭索《むちなわ》の端にくくりつけ、歩きながら手品師のような格好でそいつをくるくる振りまわしていた。私は友の気のふれていることのこの最後の明白な証拠を見たときには、どうにも涙をとめることのできないくらいであった。しかし、少なくとも当分のあいだは、あるいは成功の見込みのありそうななにかもっと有力な手段をとることができるまでは、彼のしたいままにさせておくのがいちばんいい、と考えた。一方、探検の目的について彼にさぐりを入れてみたが、まるで駄目《だめ》だった。私をうまく同行させることができたので、彼はさして重要でない問題など話したくないらしく、なにを尋ねても「いまにわかるさ!」としか返事をしてくれなかった。
 我々は島のはずれの小川を小舟で渡り、それから本土の海岸の高地を登って、人の通らない非常に荒れはてた寂しい地域を、北西の方向へと進んだ。ルグランは決然として先頭に立ってゆき、ただ自分が前に来たときにつけておいた目標らしいものを調べるために、ところどころでほんのちょっとのあいだ立ち止るだけだった。
 こんなふうにして我々は約二時間ほど歩き、ちょうど太陽が沈みかけたときに、いままでに見たどこよりもずっともの凄い地帯へ入ったのであった。そこは一種の高原で、ほとんど登ることのできない山の頂上近くにあった。その山は麓《ふもと》から絶頂まで樹木がぎっしり生えていて、ところどころに巨岩が散らばっていて、その岩は地面の上にただごろごろころがっているらしく、たいていはよりかかっている樹木に支えられて、やっと下の谷底へ転落しないでいるのだ。さまざまな方向に走っている深い峡谷は、あたりの風景にいっそう凄然《せいぜん》とした森厳の趣をそえているのであった。
 我々のよじ登ったこの天然の高台には茨《いばら》が一面を蔽《おお》っていて、大鎌がなかったらとても先へ進むことができまいということがすぐわかった。ジュピターは主人の指図によって、途方もなく高い一本のゆりの木の根もとまで、我々のために道を切りひらきはじめた。そのゆりの木というのは八本から十本ばかりの樫《かし》の木とともにこの平地に立っていて、その葉や形の美しいこと、枝の広くひろがっていること、外観の堂々たることなどの点では、それらの樫の木のどれよりも、また私のそれまでに見たどんな木よりも、はるかに優《まさ》っているのであった。我々がこの木のところへ着いたとき、ルグランはジュピターの方へ振り向いて、この木によじ登れると思うかどうかと尋ねた。老人はこの問いにちょっとためらったようで、しばらくのあいだは返事をしなかった。とうとうその大きな幹に近づいて、まわりをゆっくり歩きまわって、念入りにそれを調べた。すっかり調べおえると、ただこう言った。
「ええ、旦那、ジャップの見た木で登れねえってえのはごぜえません」
「そんならできるだけ早く登ってくれ。じきに暗くなって、やることが見えなくなるだろうから」
「どこまで登るんですか? 旦那」とジュピターが尋ねた。
「まず大きい幹を登るんだ。そうすれば、どっちへ行くのか言ってやるから。――おい、――ちょっと待て! この甲虫を持ってゆくんだ」
「虫でがすかい! ウィル旦那。――あの黄金虫でがすかい!」とその黒人は恐ろしがって尻込《しりご》みしながら叫んだ。――「なんだってあんな虫を木の上まで持って上がらにゃなんねえでがす? ――わっしゃあそんなこと、まっぴらだあ!」
「ジャップ、お前が、お前みたいな大きな丈夫な黒んぼが、なにもしない、小さな、死んだ甲虫を持つのが怖いんならばだ、まあ、この紐《ひも》につけて持って行ってもいいさ。――だが、なんとかしてこいつを持って行かないんなら、仕方がないからおれはこのシャベルでお前の頭をたたき割らねばなるまいて」
「なんでごぜえます? 旦那」ジャップはいかにも恥ずかしがって承知しながら、言った。「しょっちゅう年寄りの黒んぼを相手に喧嘩《けんか》してばかりさ。ちょっと冗談を言っただけでがすよ。わっし[#「わっし」に傍点]があの虫を怖がるって! あんな虫ぐれえ、なんとも思うもんかねえ?」そう言って彼は用心深く紐のいちばん端をつかみ、できるだけ虫を自分の体から遠くはなして、木に登る用意をした。
 アメリカの森林樹のなかでもっとも荘厳なゆりの木、つまり Liriodendron Tulipiferum(訳注「ゆりの木」の学名)[#「訳注「ゆりの木」の学名」は割り注(2行に)]は、若木のときには、幹が奇妙になめらかで、横枝を出さずにしばしば非常な高さにまで生長する。しかし、年をとるにつれて、樹皮が瘤《こぶ》だらけになり、凹凸《おうとつ》ができる一方、たくさんの短い枝が幹にあらわれるのである。だから、いまの場合、よじ登る困難は、実際は見かけほどひどくないのであった。大きな円柱形の幹を両腕と両膝《りょうひざ》とでできるだけしっかり抱き、手でどこかとび出たところをつかんで、素足の指を別のにかけながら、ジュピターは、一、二度落ちそうになったのをやっとまぬかれたのち、とうとう最初の大きな樹《き》の股《また》のところまで這《は》い登ってゆき、もう仕事は実質的にはすっかりすんでしまったと考えたらしかった。地上から約六、七十フィートばかり登ったのではあるけれど、木登りの危険[#「危険」に傍点]は事実もう去ったのだ。
「今度はどっちへ行くんでがす? ウィル旦那」と彼は尋ねた。
「やっぱりいちばん大きな枝を登るんだ、――こっち側のだぞ」とルグランが言った。黒人はすぐその言葉にしたがって、なんの苦もなさそうに、だんだん高く登ってゆき、とうとう彼のずんぐりした姿は、そのまわりの茂った樹の葉のあいだから少しも見えなくなってしまった。やがて彼の声が、遠くから呼びかけるように聞えてきた。
「まだどのくれえ登るんでがすかい?」
「どれくらい登ったんだ?」とルグランがきいた。
「ずいぶん高うがす」と黒人が答えた。「木のてっぺんの隙間《すきま》から空が見えますだ」
「空なんかどうでもいい。がおれの言うことをよく聞けよ。幹の下の方を見て、こっち側のお前の下の枝を勘定してみろ。いくつ枝を越したか?」
「一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、――五つ越しましただ、旦那、こっち側ので」
「じゃあもう一つ枝を登れ」
 しばらくたつとまた声が聞えて、七本目の枝へ着いたと知らせた。
「さあ、ジャップ」とルグランは、明らかに非常に興奮して、叫んだ。「その枝をできるだけ先の方まで行ってくれ。なにか変ったものがあったら、知らせるんだぞ」
 このころには、哀れな友の発狂について私のいだいていたかすかな疑いも、とうとうまったくなくなってしまった。彼は気がふれているのだと断定するよりほかなかった。そして彼を家へ連れもどすことについて、本気に気をもむようになった。どうしたらいちばんいいだろうかと思案しているうちに、ジュピターの声が聞えてきた。
「この枝をうんと先の方までゆくのは、おっかねえこっでがす。ずっと大概《てえげえ》枯枝でがすよ」
「枯枝だと言うのかい? ジュピター」とルグランは震え声で叫んだ。
「ええ、旦那、枯れきってまさ、――たしかに参《めえ》ってますだ、――この世からおさらばしてますだ」
「こいつあいったい、どうしたらいいだろうなあ?」とルグランは、いかにも困りきったらしく、言った。
「どうするって!」と私は、口を出すきっかけができたのを喜びながら、言った。「うちへ帰って寝るのさ。さあさあ! ――そのほうが利口だ。遅くもなるし、それに、君はあの約束を覚えてるだろう」
「ジュピター」と彼は、私の言うことには少しも気をとめないで、どなった。「おれの言うことが聞えるか?」
「ええ、ウィル旦那《だんな》、はっきり聞えますだ」
「じゃあ、お前のナイフで木をよっくためして、ひどく[#「ひどく」に傍点]腐ってるかどうか見ろ」
「腐ってますだ、旦那、やっぱし」としばらくたってから黒人が答えた。「だけど、そんなにひどく腐ってもいねえ。わっしだけなら、枝のもう少し先まで行けそうでがすよ、きっと」
「お前だけならって! そりゃあどういうことなんだ?」
「なあに、虫のこっでがすよ。とっても[#「とっても」に傍点]重てえ虫でさ。こいつを先に落せば、黒んぼ一人ぐれえの重さだけにゃあ、枝は折れますめえ」
「このいまいましい馬鹿《ばか》野郎!」とルグランは、よほどほっとしたような様子で、どなった。「なんだってそんなくだらんことを言うんだ? その甲虫を落したが最後、お前のくびをへし折ってくれるぞ。こら、ジュピター! おれの言うことが聞えるか?」
「聞えますだ、旦那。かわいそうな黒んぼにそんなふうにどならなくてもようがすよ」
「よしよし! じゃあよく聞け! ――もしお前が、その甲虫を放さないで、危なくないと思うところまでその枝をずっと先の方へ行くなら、降りて来たらすぐ、一ドル銀貨をくれてやるぞ」
「いま行ってるところでがす、ウィル旦那、――ほんとに」と黒人はすばやく答えた。――「もうおおかた端っこのとこでさ」
「端っこのところ[#「端っこのところ」に傍点]だって!」と、そのときルグランはまったく金切り声をたてた。「お前はその枝の端っこのところまで行ったと言うのか?」
「もうじき端っこでがすよ。旦那。――わあ! おったまげただ! 木の上のここんとこにあるのあなんだろう[#「だろう」に傍点]?」
「よしよし!」ルグランは非常に喜んで叫んだ。「そりゃあなんだ?」
「なあに、髑髏《しゃれこうべ》でごぜえますよ。――誰か木の上に自分の頭を置いて行ったんで、鴉《からす》がその肉をみんなくらってしまったんでがす」
「髑髏だと言ったな! ――上等上等! ――それはどうして枝に結びつけてあるかい? ――なんでとめてあるかい?」
「なるほど、旦那。見やしょう。やあ、こりゃあたしかになんと不思議なこった。――髑髏のなかにゃでっけえ釘《くぎ》があって、それで木にくっついてますだ」
「よし、ジュピター、おれの言うとおりにするんだぞ。――わかるか?」
「ええ、旦那」
「じゃあ、よく気をつけろ! ――髑髏の左の眼《め》を見つけるんだ」
「ふうん! へえ! ようがす! ええっと、眼なんてちっとも残っていねえんでがすが」
「このまぬけめが! お前は自分の右の手と左の手の区別を知ってるか?」
「ええ、そりゃあ知ってますだ、――よく知ってますだ、――わしが薪《まき》を割るのが左の手でがす」
「なるほど! お前は左ききだっけな。で、お前の左の眼は、お前の左の手と同じ方にあるんだぞ。とすると、お前にゃあ髑髏の左の眼が、というのはもと左の眼のあったところだが、わかるだろう。見つけたか?」
 ここで長い合間があった。とうとう黒人が尋ねた。
「髑髏の左の眼もやっぱり髑髏の左の手と同じ側にあるんでがすかい? ――でも髑髏にゃあ手なんてちっともねえだ。――なあに、かまわねえ! いま、左の眼を見つけましただ。――ここが左の眼だ! これをどうするんでがすかい?」
「そこから甲虫《かぶとむし》を通しておろすんだ。紐ののばせるだけな。――だが、気をつけてつかんでいる紐をはなさんようにするんだぞ」
「すっかりやりましただ、ウィル旦那。この穴から虫を通すなあわけのねえこっでさあ。――下から見てくだせえ!」
 この会話のあいだじゅう、ジュピターの体は少しも見えなかった。が、彼のおろした甲虫は、いま、紐の端に見えてきて、我々の立っている高台をまだほのかに照らしている落陽の名残の光のなかに、磨《みが》きたてた黄金の球のようにきらきら輝いていた。甲虫はどの枝にもひっかからないでぶら下がっていて、落せば我々の足もとへ落ちて来たろう。ルグランはすぐに大鎌《おおがま》を取り、それで虫の真下に直径三、四ヤードの円い空地を切りひらき、それをやってしまうと、ジュピターに紐をはなして木から降りて来いと命じた。
 ちょうどその甲虫の落ちた地点に、すこぶる精確に杭《くい》を打ちこむと、友は今度はポケットから巻尺を取り出した。それの一端を杭にいちばん近いその木の幹の一点に結びつけてから、彼はそれを杭にとどくまでのばし、そこからさらに、木と杭との二点でちゃんと確定された方向に、五十フィートの距離までのばした。――そのあいだをジュピターが大鎌で茨を刈り取る。こうして達した地点に第二の杭が打ちこまれ、それを中心にして直径四ヤードばかりのぞんざいな円が描かれた。それからルグランは、自分で一|梃《ちょう》の鋤《すき》を取り、ジュピターに一梃、私に一梃渡して、できるだけ速く掘りにかかってくれと頼んだ。
 実を言うと、私はもともとこんな道楽には特別の趣味を持っていなかったし、ことにそのときには進んで断わりたかったのだ。というのは、だんだん夜は迫って来るし、それにこれまでの運動でずいぶん疲れてもいたから。しかし、のがれる方法もなかったし、また拒絶してかわいそうな友の心の平静をみだしたりすることを恐れた。もしジュピターの助けをほんとに頼りにできるなら、私はさっそくこの狂人を無理にも連れて帰ろうとしたろう。だが、その年寄りの黒人の性質を十分にのみこんでいるので、私が彼の主人と争うようなときには、どんな場合にしろ、私に味方をしてくれようとは望めないのであった。私は、ルグランが金《かね》が埋められているというあの南部諸州に無数にある迷信のどれかにかぶれていて、また例の甲虫を発見したことのために、あるいはおそらくジュピターがそれをしきりに「ほんとうの黄金でできている虫」だと言い張ったことのために、彼の空想がいよいよ強められているのだ、ということを疑わなかった。いったい、発狂しやすい人間というものはそういう暗示には造作なくかかりがちなもので、ことにそれが前から好んで考えていることと一致する場合にはなおさらである。それから私はこの気の毒な男が甲虫を「自分の身代の手引き」だと言ったことを思い出した。とにかく、私はむしょうにいらいらし、また途方に暮れた。が、しまいにはとうとう、やむを得ぬことと諦《あきら》めて気持よくやろう――本気で掘って、そうして早くこの空想家に目《ま》のあたり証拠を見せつけて、彼のいだいている考えのまちがっていることを納得させてやろう――と心に決めたのであった。
 角灯に火をつけて、我々一同は、こんなことよりはもっとわけのわかった事がらにふさわしいような熱心さをもって仕事にとりかかった。そして、火影が我々の体や道具を照らしたとき、私は、我々がどんなに絵のような一群をなしているだろう、また、偶然に我々のいるところを通りかかる人があったら、その人には我々のやっていることがどんなにか奇妙にも、おかしくも見えるにちがいない、ということを考えないではいられなかった。
 二時間のあいだ我々は脇目《わきめ》もふらずに掘った。ほとんどものも言わなかった。いちばん困ったことは犬のきゃんきゃん啼《な》きたてることだった。犬は我々のしていることを非常に面白がっているのだ。しまいにはそれがあまり騒々しくなったので、誰か付近をうろついている者どもに聞きとがめられはしまいかと気づかった。――いや、もっと正確に言えば、これはルグランの気がかりであったのだ。――なぜなら、私としては、どんな邪魔でも入ってこの放浪者を連れかえることができるならむしろ喜んだろうから。とうとう、そのやかましい声をジュピターがたいへんうまく黙らせてしまった。彼は、いかにもしかつめらしく考えこんだような様子をしながら穴から出て、自分の片方のズボン吊《つ》りで犬の口をしばりあげ、それから低くくすくす笑いながら、また自分の仕事にかかった。
 その二時間がたってしまうと、我々は五フィートの深さに達したけれども、やはり宝などのあらわれて来そうな様子もなかった。一同はそれからちょっと休んだ。そして私はこの茶番狂言もいよいよおしまいになればいいがと思いはじめた。しかしルグランは、明らかにひどく面くらってはいたけれど、もの思わしげに額をぬぐうと、またふたたび鋤を取りはじめた。それまでに我々は直径四フィートの全円を掘ってしまっていたのだが、今度は少しその範囲を大きくし、さらに二フィートだけ深く掘った。それでもやはりなにもあらわれて来なかった。あの黄金探索者は、私は心から彼を気の毒に思ったが、とうとう、顔一面にはげしい失望の色を浮べながら穴から這い上がり、仕事を始めるときに脱ぎすてておいた上衣《うわぎ》を、のろのろといやいやながら着はじめた。そのあいだ私はなにも言わなかった。ジュピターは主人の合図で道具を寄せはじめた。それがすんでしまい、犬の口籠《くつご》をはずしてやると、我々は黙りこくって家路へとついた。
 その方向へたしか十歩ばかり歩いたとき、ルグランは大きな呪《のろ》いの声をあげながら、ジュピターのところへ大股につかつかと歩みより、彼の襟頸《えりくび》をひっつかんだ。びっくりした黒人は眼と口とをできるだけ大きく開き、鋤を落して、膝をついた。
「この野郎!」ルグランは食いしばった歯のあいだから一こと一ことを吐き出すように言った。――「このいまいましい黒んぼの悪党め! ――さあ、言え! ――おれの言うことにいますぐ返事をしろ、ごまかさずに! ――どっちが――どっちがお前の左の眼だ?」
「ひぇっ! ご免くだせえ、ウィル旦那。こっちがたしかにわっしの左の眼でがしょう?」とどぎもを抜かれたジュピターは、自分の右の眼[#「右の眼」に傍点]に手をあてて、主人がいまにもそれをえぐり取りはしないかと恐れるように、必死になってその眼をおさえながら、叫んだ。
「そうだろうと思った! ――おれにゃあわかっていたんだ! しめたぞ!」とルグランはわめくと、黒人を突きはなして、つづけざまに跳び上がったりくるくるまわったりしたので、下男はびっくり仰天して、立ち上がりながら、無言のまま主人から私を、また私から主人をと眺《なが》めかえした。
「さあ! あともどりだ」とルグランは言った。「まだ勝負はつかないんだ」そして彼はふたたび先に立って、あのゆりの木の方へ行った。
「ジュピター」と、我々がその木の根もとのところへ来ると、彼は言った。「ここへ来い! 髑髏は顔を外にして枝に打ちつけてあったか、それとも顔を枝の方へ向けてあったか?」
「顔は外へ向いていましただ、旦那。だから鴉は造作なく眼を突っつくことができたんでがす」
「よし。じゃあ、お前が甲虫を落したのは、こっちの眼からか、それともそっちの眼からか?」――と言いながら、ルグランは、ジュピターの両方の眼に一つ一つ触ってみせた。
「こっちの眼でがす、旦那。――左の眼で、あんたさまのおっしゃったとおりに」と言って黒人の指したのは彼の右の眼だった。
「それでよし。――もう一度やり直しだ」
 こうなると、私は友の狂気のなかにもなにかある方法らしいもののあることがわかった。あるいは、わかったような気がした。彼は甲虫の落ちた地点を標示する例の杭を、もとの位置から三インチばかり西の方へ移した。それから、前のように巻尺を幹のいちばん近い点から杭までひっぱり、それをさらに一直線に五十フィートの距離までのばして、さっき掘った地点から数ヤード離れた場所に目標を立てた。
 その新しい位置の周囲に、前のよりはいくらか大きい円を描き、ふたたび我々は鋤を持って仕事にとりかかった。私はおそろしく疲れていた。が、なにがそういう変化を自分の気持に起させたのかちっともわからなかったけれど、もう課せられた労働が大して厭《いや》ではなくなった。私は奇妙に興味を感じてきた。――いや、興奮をさえ感じてきた。おそらく、ルグランのすべての突飛な振舞いのなかには、なにかあるもの――なにか先見とか熟慮とかいったような様子――があって、それが私の心を動かしたのであろう。私は熱心に掘った。そしてときどき、期待に似たようなある心持で、不幸な友を発狂させたあの空想の宝を、実際に待ちうけている自分に、ふと気がつくことがあった。そういう妄想《もうそう》がすっかり私の心をとらえていたとき、そして掘りはじめてからたぶん一時間半もたったころ、我々はふたたび犬のはげしく吠《ほ》える声に邪魔された。前に犬が騒ぎたてたのはあきらかにふざけたがりか気まぐれからであったが、今度ははげしい真剣な調子だった。ジュピターがまた口籠をかけようとすると、犬ははげしく抵抗し、穴のなかへ跳びこんで、狂ったように爪《つめ》で土をひっかいた。そして数秒のうちに、一塊の人骨を掘り出したが、それは二人分の完全な骸骨《がいこつ》をなすもので、数個の金属性のボタンと、毛織物の腐って塵《ちり》になったのらしく見えるものとが、それにまじっていた。鋤を一、二度打ちこむと、大きなスペイン短剣《ナイフ》の刀身がひっくり返って出た。それからさらに掘ると、ばらばらの金貨や銀貨が三、四枚あらわれた。
 これを見ると、ジュピターの喜びはほとんど抑えきれぬくらいだった。が、彼の主人の顔はひどい失望の色を帯びた。しかし、彼はもっと努力をつづけてくれと我々を励ましたが、その言葉が言い終るか終らぬうちに、私はつまずいてのめった。自分の長靴《ながぐつ》の爪先《つまさき》を、ばらばらの土のなかに半分埋まっていた大きな鉄の鐶《かん》にひっかけたのだ。
 我々はいまや一所懸命に掘った。そして私はかつてこれ以上に強烈な興奮の十分間を過したことがない。その十分間に、我々は一つの長方形の木製の大箱をすっかり掘り出したのだ。この箱は、それが完全に保存されていることや、驚くべき堅牢《けんろう》さを持っていることなどから考えると、明らかになにかある鉱化作用――たぶん塩化第二水銀の鉱化作用――をほどこされているのであった。長さは三フィート半、幅は三フィート、深さは二フィート半あった。鍛鉄《たんてつ》の箍《たが》でしっかりと締め、鋲《びょう》を打ってあって、全体に一種の格子《こうし》細工をなしている。箱の両側の、上部に近いところに、鉄の鐶が三つずつ――みんなで六つ――あり、それによって六人でしっかり持つことができるようになっている。我々が一緒になってあらんかぎりの力を出してみたが、底をほんの少しばかりずらすことができただけであった。こんな恐ろしく重いものはとうてい動かせないということがすぐにわかった。ありがたいことには、蓋《ふた》を留めてあるのは二本の抜き差しのできる閂《かんぬき》だけだった。不安のあまりぶるぶる震え、息をはずませながら――我々はその閂を引き抜いた。とたちまち、価《あたい》も知れぬほどの財宝が我々の眼前に光りきらめいて現われた。角灯の光が穴のなかへ射《さ》したとき、雑然として積み重なっている黄金宝石の山から、実に燦爛《さんらん》たる光輝が照りかえして、まったく我々の眼を眩《くら》ませたのであった。
 それを眺めたときの心持を私は書きしるそうとはしまい。驚きが主だったことは言うまでもない。ルグランは興奮のあまりへとへとになっているようで、ほとんど口もきかなかった。ジュピターの顔はちょっとのあいだ黒人の顔としてはこれ以上にはなれないほど、死人のように蒼白《あおじろ》くなった。彼はあっけにとられて――胆《きも》をつぶしているらしかった。やがて彼は穴のなかに膝《ひざ》をついて、袖《そで》をまくり上げた両腕を肘《ひじ》のところまで黄金のなかに埋め、ちょうど湯に入って好い気持になってでもいるように、腕をそのままにしていた。とうとう、深い溜息《ためいき》をつきながら、独言《ひとりごと》のように叫んだ。
「で、こりゃあみんなあの黄金虫からなんだ! あのきれいな黄金虫! わっしがあんなに乱暴に悪口言った、かわいそうなちっちぇえ黄金虫からなんだ! お前《めえ》は恥ずかしくねえか? 黒んぼ、――返事してみろ!」
 とうとう、私は主従の二人をうながして財宝を運ぶようにさせなければならなくなった。夜はだんだん更《ふ》けて来るし、夜明け前になにもかもみんな家へ持ってゆくには、一働きする必要があったのだ。が、どうしたらいいかなかなかわからず、考えるのにずいぶん長く時間がかかった。――それほど一同の頭は混乱していたのだ。とうとう、なかにある物の三分の二を取り出して箱を軽くすると、どうにか穴から引き揚げることができた。取り出した品物は茨《いばら》のあいだに置いて、その番をさせるために犬を残し、我々が帰って来るまでは、どんなことがあってもその場所から離れぬよう、また口を開かぬようにと、ジュピターから犬にきびしく言いつけた。それから我々は箱を持って急いで家路についた。そして無事に、だが非常に骨を折ったのちに、小屋へ着いたのは、午前一時だった。疲れきっていたので、すぐまたつづけて働くということは人間業ではできないことだった。我々は二時まで休み、食事をとった。それからすぐ、幸いに家のなかにあった三つの丈夫な袋をたずさえて、山に向って出発した。四時すこし前にさっきの穴へ着き、残りの獲物を三人にできるだけ等分に分け、穴は埋めないままにして、ふたたび小屋へと向ったが、二度目に我々の黄金の荷を小屋におろしたのは、ちょうど曙《あけぼの》の最初の光が東の方の樹々《きぎ》の頂から輝きだしたころであった。
 一同はもうすっかりへたばっていた。が、はげしい興奮が我々を休息させなかった。三、四時間ばかりうとうとと眠ると、我々は、まるで申し合せてでもあったように、財宝を調べようと起き上がった。
 箱は縁のところまでいっぱいになっていて、その内容を吟味するのに、その日一日と、その夜の大部分がかかった。秩序とか排列とかいったようなものは少しもなかった。なにもかも雑然と積み重ねてあった。すべてを念入りに択《え》り分けてみると、初めに想像していたよりももっと莫大《ばくだい》な富が手に入ったことがわかった。貨幣では四十五万ドル以上もあった。――これは一つ一つの価格を、当時の相場表によって、できるだけ正確に値ぶみしてである。銀貨は一枚もなかった。みんな古い時代の金貨で、種類も種々様々だった。――フランスや、スペインや、ドイツの貨幣、それにイギリスのギニー金貨(10)が少し、また、これまで見本を見たこともないような貨幣もあった。ひどく磨《す》りへっているので、刻印のちっとも読めない、非常に大きくて重い貨幣もいくつかあった。アメリカの貨幣は一つもなかった。宝石の価格を見積るのはいっそう困難だった。金剛石《ダイヤモンド》は――そのなかにはとても大きい立派なものもあったが――みんなで百十個あり、小さいのは一つもない。すばらしい光輝をはなつ紅玉《ルビー》が十八個、緑柱玉《エメラルド》が三百十個、これはみなきわめて美しい。青玉《サファイア》が二十一個と、蛋白石《オパール》が一個。それらの宝石はすべてその台からはずして、箱のなかにばらばらに投げこんであった。ほかの黄金のあいだから択り出したその台のほうは、見分けのつかぬようにするためか、鉄鎚《かなづち》で叩きつぶしたものらしく見えた。これらすべてのほかに、非常にたくさんの純金の装飾品があった。つまり、どっしりした指輪やイヤリングがかれこれ二百。立派な首飾り、――これはたしか三十あったと記憶する。とても大きな重い十字架が八十三個。非常な価格の香炉が五個。葡萄《ぶどう》の葉と酔いしれて踊っている人々の姿とを見事に浮彫りした大きな黄金のポンス鉢《ばち》が一個。それから精巧に彫りをした刀剣の柄《つか》が二本と、そのほか、思い出すことのできないたくさんの小さな品々。これらの貴重品の重量は三百五十ポンドを超えていた。そしてこの概算には百九十七個のすばらしい金時計が入っていないのだ。そのなかの三個はたしかにそれぞれ五百ドルの価はある。時計の多くは非常に古くて、機械が腐食のために多少ともいたんでいるので、時を測るものとしては無価値であった。が、どれもこれも皆たくさんの宝石をちりばめ、高価な革に入っていた。この箱の全内容を、その夜、我々は百五十万ドルと見積った。ところが、その後、その装身具や宝石類を(いくつかは我々自身が使うのに取っておいたが)売り払ってみると、我々がこの財宝をよほど安く値ぶみしていたことがわかったのだった。
 いよいよ調べが終って、はげしい興奮がいくらか鎮《しず》まると、ルグランは、私がこの不思議きわまる謎《なぞ》の説明を聞きたくてたまらないでいるのを見て、それに関するいっさいの事情を詳しく話しはじめたのだ。
「君は覚えているだろう」と彼は言った。「僕が甲虫《かぶとむし》の略図を描《か》いて君に渡したあの晩のことを。また、君が僕の描いた絵を髑髏《どくろ》に似ていると言い張ったのに僕がすっかり腹を立てたことも、思い出せるだろう。初め君がそう言ったときには、僕は君が冗談を言っているのだと思ったものだ。だがその後、あの虫の背中に妙な点があるのを思い浮べて、君の言ったことにも少しは事実の根拠がないでもないと内心認めるようになった。でも、君が僕の絵の腕前を冷やかしたのが癪《しゃく》だった。――僕は絵が上手だと言われているんだからね。――だから、君があの羊皮紙の切れっぱしを渡してくれたとき、僕はそいつを皺《しわ》くちゃにして、怒って火のなかへ投げこもうとしたんだ」
「あの紙の切れっぱしのことだろう」と私が言った。
「いいや。あれは見たところでは紙によく似ていて、最初は僕もそうかと思ったが、絵を描いてみると、ごく薄い羊皮紙だということにすぐ気がついたよ。覚えているだろう、ずいぶんよごれていたね。ところで、あれをちょうど皺くちゃにしようとしていたとき、君の見ていたあの絵がちらりと僕の眼にとまったのさ。で、自分が甲虫の絵を描いておいたと思ったちょうどその場所に、事実、髑髏の図を認めたときの僕の驚きは、君にも想像できるだろう。ちょっとのあいだ、僕はあんまりびっくりしたので、正確にものを考えることができなかった。僕は、自分の描いた絵が、大体の輪郭には似ているところはあったけれども――細かい点ではそれとはたいへん違っていることを知った。やがて蝋燭を取って、部屋の向う隅《すみ》へ行って腰をかけ、その羊皮紙をもっとよく吟味しはじめた。ひっくり返してみると、僕の絵が自分の描いたとおりにその裏にあるのだ。そのときの僕の最初の感じは、ただ、両方の絵の輪郭がまったくよく似ているということにたいする驚きだった。――羊皮紙の反対の側に、僕の描いた甲虫の絵の真下に、僕の眼《め》につかずに頭蓋骨《ずがいこつ》があり、この頭蓋骨の輪郭だけではなく、大きさまでが、僕の絵によく似ている、という事実に含まれた不思議な暗合にたいする驚きだった。この暗合の不思議さはしばらくのあいだ僕をまったく茫然《ぼうぜん》とさせたよ。これはこういうような暗合から起る普通の結果なんだ。心は連絡を――原因と結果との関連を――確立しようと努め、それができないので、一種の一時的な麻痺《まひ》状態に陥るんだね。だが、僕がこの茫然自失の状態から回復すると、その暗合よりももっともっと僕を驚かせた一つの確信が、心のなかにだんだんと湧《わ》き上がってきたんだ。僕は、甲虫の絵を描いたときには羊皮紙の上になんの絵もなかった[#「なかった」に傍点]ことを、明瞭《めいりょう》に、確実に、思い出しはじめた。僕はこのことを完全に確かだと思うようになった。なぜなら、いちばんきれいなところを捜そうと思って、初めに一方の側を、それから裏をと、ひっくり返してみたことを、思い出したからなんだ。もし頭蓋骨がそのときそこにあったのなら、もちろん見のがすはずがない。この点に、実際、説明のできないと思われる神秘があった。が、そのときもうはや、僕の知力のいちばん奥深いところでは、昨夜の冒険であんなに見事に証明されたあの事実の概念が、蛍火《ほたるび》のように、かすかに、ひらめいたようだった。僕はすぐ立ち上がり、羊皮紙を大事にしまいこんで、一人になるまでそれ以上考えることはいっさいやめてしまった。
 君が帰ってゆき、ジュピターがぐっすり眠ってしまうと、僕はその事がらをもっと順序立てて研究することに着手した。まず第一に、羊皮紙がどうして自分の手に入ったかということを考えてみた。僕たちがあの甲虫を発見した場所は、島の東の方一マイルばかりの本土の海岸で、満潮点のほんの少し上のところだった。僕がつかまえると、強く咬《か》みついたので、それを落した。ジュピターはいつもの用心深さで、自分の方へ飛んできたその虫をつかむ前に、樹の葉か、なにかそういったようなものを捜して、それでつかまえようと、あたりを見まわした。彼の眼と、それから僕の眼とが、あの羊皮紙の切れっぱしにとまったのは、この瞬間だった。もっとも、そのときはそれを紙だと思っていたがね。それは砂のなかになかば埋まっていて、一つの隅だけが出ていた。それを見つけた場所の近くに、僕は帆船の大短艇《ロング・ボート》らしいものの残骸を認めた。その難破船はよほど長いあいだそこにあるものらしかった。というのは、ボートの用材らしいということがやっとわかるほどだったから。
 さて、ジュピターがその羊皮紙を拾い上げ、甲虫をそのなかに包んで、僕に渡してくれた。それから間もなく僕たちは家へ帰りかけたが、その途中でG――中尉《ちゅうい》に会った。虫を見せたところ、要塞《ようさい》へ借りて行きたいと頼むのだ。僕が承知すると、彼はすぐにその虫を、それの包んであった羊皮紙のなかへ入れないで、そのまま自分のチョッキのポケットのなかへ突っこんでしまった。その羊皮紙は彼が虫を調べているあいだ僕が手に持っていたのさ。たぶん、彼は僕の気が変るのを恐れて、すぐさま獲物をしまってしまうほうがいいと考えたんだろうよ。――なにしろ君も知っているとおり、あの男は博物学に関することならなんでもまるで夢中だからね。それと同時に、僕はなんの気なしに、羊皮紙を自分のポケットのなかへ入れたにちがいない。
 僕が甲虫の絵を描こうと思って、テーブルのところへ行ったとき、いつも置いてあるところに紙が一枚もなかったことを、君は覚えているね。引出しのなかを見たが、そこにもなかった。古手紙でもないかと思ってポケットを捜すと、そのとき、手があの羊皮紙に触れたのだ。あれが僕の手に入った正確な経路をこんなに詳しく話すのは、その事情がとくに強い印象を僕に与えたからなんだよ。
 きっと君は僕が空想を駆りたてているのだと思うだろう、――が、僕はもうとっくに連絡[#「連絡」に傍点]を立ててしまっていたのだ。大きな鎖の二つの輪を結びつけてしまったのだ。海岸にボートが横たわっていて、そのボートから遠くないところに頭蓋骨の描いてある羊皮紙――紙ではなくて[#「紙ではなくて」に傍点]――があったんだぜ。君はもちろん、『どこに連絡があるのだ?』と問うだろう。僕は、頭蓋骨、つまり髑髏は誰でも知っているとおり海賊の徽章《きしょう》だと答える。髑髏の旗は、海賊が仕事をするときにはいつでも、かかげるものなのだ。
 僕は、その切れっぱしが羊皮紙であって、紙ではないと言ったね。羊皮紙は持ちのいいもので――ほとんど不滅だ。ただ普通絵を描いたり字を書いたりするには、とても紙ほど適していないから、大して重要ではない事がらはめったに羊皮紙には書かない。こう考えると、髑髏になにか意味が――なにか適切さが――あることに思いついた。僕はまたその羊皮紙の形[#「形」に傍点]にも十分注意した。一つの隅だけがなにかのはずみでちぎれてしまっていたけれど、もとの形が長方形であることはわかった。実際、それはちょうど控書として――なにか長く記憶し大切に保存すべきことを書きしるすものとして――選ばれそうなものなんだ」
「しかしだね」と私が言葉をはさんだ。「君は、甲虫の絵を描いたときにはその頭蓋骨は羊皮紙の上になかった[#「なかった」に傍点]と言う。とすると、どうしてボートと頭蓋骨のあいだに連絡をつけるんだい? ――その頭蓋骨のほうは、君自身の認めるところによれば、(どうして、また誰によって、描かれたか、ということはわからんが)君が甲虫を描いたのちに描かれたにちがいないんだからねえ」
「ああ、そこに全体の神秘がかかっているんだよ。もっとも、この点では、その秘密を解決するのは僕には比較的むずかしくはなかったがね。僕のやり方は確実で、ただ一つの結論しか出てこないのだ。たとえば、僕はこんなふうに推理していったんだ。僕が甲虫を描いたときには頭蓋骨は少しも羊皮紙にあらわれていなかった。絵を描きあげると僕はそれを君に渡し、君が返すまでじっと君を見ていた。だから君が[#「君が」に傍点]あの頭蓋骨を描いたんじゃないし、またほかにそれを描くような者は誰も居合わさなかった。してみると、それは人間業で描かれたんじゃない。それにもかかわらず描いてあったんだ。
 ここまで考えてくると、僕はそのときの前後に起ったあらゆる出来事を、十分はっきり思い出そうと努め、また実際[#「実際」に傍点]思い出したのだ。気候のひえびえする日で(ほんとに珍しいことだった!)炉には火がさかんに燃えていた。僕は歩いてきたので体がほてっていたから、テーブルのそばに腰かけていた。だが君は椅子《いす》を炉のすぐ近くへひきよせていた。僕が君の手に羊皮紙を渡し、君がそれを調べようとしたちょうどそのとき、あのニューファウンドランド種のウルフの奴《やつ》が入ってきて、君の肩に跳びついた。君は左手で犬を撫《な》で、また遠ざけながら、羊皮紙を持った右の手を無頓着《むとんじゃく》に膝のあいだの、火のすぐ近くのところへ垂れた。一時はそれに火がついたかと思ったので、君に注意しようとしたが、僕が言いださないうちに君はそれをひっこめて、調べにかかったのだ。こういうすべての事がらを考えたとき、僕は、熱[#「熱」に傍点]こそ羊皮紙にその頭蓋骨をあらわさせたものだということを少しも疑わなかったんだよ。君もよく知っているとおり、紙なり皮紙《ヴェラム》なりに文字を書き、火にかけたときにだけその文字が見えるようにできる化学的薬剤があるし、またずっと昔からあった。不純酸化コバルトを王水《アクア・リージア》に浸し、その四倍の重量の水に薄めたものが、ときどき用いられる。すると緑色が出る。コバルトの※[#「金+皮」、第3水準1-93-7]《ひ》(11)を粗製硝酸に溶かしたものだと、赤色が出る。これらの色は、文字を書いた物質が冷却すると、そののち速い遅いの差はあっても、消えてしまう。が、火にあてると、ふたたびあらわれてくるのだ。
 僕はそこで今度はその髑髏をよくよく調べてみた。と、外側の端のほう――皮紙の端にいちばん近い絵の端のほう――は、ほかのところよりはよほどはっきり[#「はっきり」に傍点]している。火気の作用が不完全または不平等だったことは明らかだ。僕はすぐ火を焚《た》きつけて、羊皮紙のあらゆる部分を強い熱にあててみた。初めは、ただ髑髏のぼんやりした線がはっきりしてきただけだった。が、なおも辛抱強くその実験をつづけていると、髑髏を描いてある場所の斜め反対の隅っこに、最初は山羊《やぎ》だろうと思われる絵が見えるようになってきた。しかし、もっとよく調べてみると、それは仔山羊《キッド》のつもりなのだということがわかった」
「は、は、は!」私は言った。「たしかに僕には君を笑う権利はないが、――百五十万という金は笑いごとにしちゃああんまり重大だからねえ、――だが君は、君の鎖の第三の輪をこさえようとしているんじゃあるまいね。海賊と山羊とのあいだにはなにも特別の関係なんかないだろう。海賊は、ご承知のとおり、山羊なんかには縁はないからな。山羊ならお百姓さんの畑だよ」
「しかし僕はいま、その絵は山羊じゃない[#「ない」に傍点]と言ったぜ」
「うん、そんなら仔山羊《キッド》だね、――まあ、ほとんど同じものさ」
「ほとんどね。だが、まったく同じものじゃない」とルグランが言った。「君はキッド船長[#「船長」に傍点]という男の話を聞いたことがあるだろう。僕はすぐこの動物の絵を、地口《じぐち》の署名か、象形文字の署名、といったようなものだと見なしたんだ。署名だというわけは、皮紙《ヴェラム》の上にあるその位置がいかにもそう思わせたからなんだよ。その斜め反対の隅にある髑髏も、同じように、印章とか、印判とかいうふうに見えた。しかし、そのほかのものがなに一つないのには、――書類だろうと自分の想像したものの主体――文の前後にたいする本文――がないのには、僕もまったく弱ったね」
「君は印章と署名とのあいだに手紙でも見つかると思ったんだろう」
「まあ、そういったようなことさ。実を言うと、僕はなにかしらすばらしい好運が向いてきそうな予感がしてならなかったんだ。なぜかってことはほとんど言えないがね。つまり、たぶん、それは実際の信念というよりは願望だったのだろう。――だが、あの虫を純金だと言ったジュピターのばかげた言葉が僕の空想に強い影響を及ぼしたんだよ。それからまた、つぎつぎに起った偶然の出来事と暗合、――そういうものがまったく実に[#「実に」に傍点]不思議だった。一年じゅうで火の要るほど寒い日はその日だけと、あるいはその日だけかもしれんと、思われるその[#「その」に傍点]日に、ああいう出来事が起ったということ、また、その火がなかったら、あるいはちょうどあの瞬間に犬が入って来なかったなら、僕が決して髑髏に気がつきはしなかったろうし、したがって宝を手に入れることもできなかったろうということは、ほんとに、ほんの偶然のことじゃないか?」
「だが先を話したまえ、――じれったくてたまらないよ」
「よしよし。君はもちろん、あの世間にひろまっているたくさんの話――キッド(12)とその一味の者が大西洋のどこかの海岸に金を埋めたという、あの無数の漠然《ばくぜん》とした噂《うわさ》――を聞いたことがあるね。こういう噂はなにか事実の根拠があったにちがいない。そして、その噂がそんなに長いあいだ、そんなに引きつづいて存在しているということは、その埋められた宝がまだやはり埋まったままになっている[#「ままになっている」に傍点]という事情からだけ起りうることだ、と僕には思われたのだ。もしキッドが自分の略奪品を一時隠しておいて、その後それを取り返したのなら、その噂は現在のような、いつも変らない形で僕たちの耳に入りはしないだろう。君も気がついているだろうが、話というのはどれもこれもみんな、金を捜す人のことで、金を見つけ出した人のことではない。あの海賊が自分の金を取りもどしたのなら、そこでこの事件は立消えになってしまうはずだ。で、僕はこう思った。キッドはなにかの事故のために――たとえば、その場所を示す控書をなくしたといったようなことのために――それを取りもどす手段をなくしたのだ。そしてそのことが彼の手下の者どもに知れたのだ。でなければ彼らは宝が隠してあるなどということを聞くはずがなかったんだろうがね。そこで彼らはそれを取り返そうとしきりにやってみたが、なんの手がかりもないので失敗し、その連中が今日誰でも知っているあの噂の種をまき、それからそれが広く世間にひろがるようになったのだ、とね。君は、海岸でなにか大事な宝が掘り出されたということを、いままで聞いたことがあるかい?」
「いいや」
「しかしキッドの蓄えた財宝が莫大《ばくだい》なものであることはよく知られている。だから、僕はそいつがまだ土のなかにあるのだと考えたんだよ。で、あんなに不思議なぐあいにして見つかったあの羊皮紙が、それの埋めてある場所の記録の紛失したものなのだという、ほとんど確信と言えるくらいの希望を、僕がいだいたと言っても、君はべつに驚きはしないだろう」
「だがそれからどうしたんだい?」
「僕は火力を強くしてから、ふたたびその皮紙を火にあててみた。が、なにもあらわれなかった。そこで今度は、泥《どろ》のついていることがこの失敗となにか関係があるかもしれん、と考えた。だから羊皮紙に湯をかけて丁寧に洗い、それから錫《すず》の鍋《なべ》のなかへ頭蓋骨の絵を下に向けて入れ、その鍋を炭火の竈《かまど》にかけた。二、三分たつと、鍋がすっかり熱くなったので、羊皮紙を取りのけてみると、なんとも言えないほど嬉《うれ》しかったことには、行になって並んでいる数字のようなものが、ところどころに斑点《はんてん》になって見えるんだね。それでまた鍋のなかへ入れて、もう一分間そのままにしておいた。取り出してみると、全体がちょうど君のいま見るとおりになっていたんだ」
 こう言って、ルグランは羊皮紙をまた熱して、私にそれを調べさせた。髑髏と山羊とのあいだに、赤い色で、次のような記号が乱雑に出ている。――

 53‡‡†305))6;4826)4‡.)4‡);806;48†8¶60))85;1‡(;:‡8†83(88)5†;46(;8896?;8)‡(;485);5†2:‡(;49562(5―4)8¶8;4069285);)6†8)4‡‡;1(‡9;48081;8:8‡1;48†85;4)485†528806*81(‡9;48;(88;4(‡?34;48)4‡;161;:188;‡?;(13)

「しかし」と私は紙片を彼に返しながら言った。「僕にゃあやっぱり、まるでわからないな。この謎《なぞ》を解いたらゴルコンダ(14)の宝石をみんなもらえるとしても、僕はとてもそれを手に入れることはできないねえ」
「でもね」とルグランが言った。「これを解くことは、決してむずかしくはないんだよ。君がこの記号を最初にざっと見て想像するほどにはね。誰でもたやすくわかるだろうが、この記号は暗号をなしているのだ。――つまり、意味を持っているのだ。しかし、キッドについて知られていることから考えると、彼にそう大して難解な暗号文を組み立てる能力などがあろうとは僕には思えなかった。僕はすぐ、これは単純な種類のもの――だが、あの船乗りの頭には、解《キイ》がなければ絶対に解けないと思われるような、そんな程度のもの――だと心を決めてしまったんだ」
「で君はほんとうにそれを解いたんだね?」
「わけなしにさ。僕はいままでにこの一万倍もむずかしいのを解いたことがある。境遇と、頭脳のある性向とが、僕をそういう謎に興味をもたせるようにしたのだ。人間の知恵を適切に働かしても解けないような謎を、人間の知恵が組み立てることができるかどうかということは、大いに疑わしいな。事実、連続した読みやすい記号が、一度それとわかってしまえば、その意味を展開する困難などは、僕はなんとも思わなかった。
 いまの場合では――秘密文書の場合では実際すべてそうだが――第一の問題は暗号[#「暗号」に傍点]の国語が何語かということなんだ。なぜなら、解釈の原則は、ことに簡単な暗号となると、ある特定の国語の特質によるのであるし、またそれによって変りもするんだからね。一般に、どの国語かがわかるまでは、解釈を試みる人の知っているあらゆる国語を(蓋然率《プロバビリティ》にしたがって)実験してみるよりほかに仕方がない。だがいま僕たちの前にあるこの暗号では、署名があるので、このことについてのいっさいの困難が取りのぞかれている。『キッド』という言葉の洒落《しゃれ》は英語以外の国語ではわからないものだ。こういう事情がなかったなら、僕はまずスペイン語とフランス語とでやりはじめたろうよ。スパニッシュ・メイン(15)の海賊がこの種の秘密を書くとすればたいていそのどちらかの国語だろうからね。ところがそういうわけだったから、僕はこの暗号を英語だと仮定した。
 ごらんのとおり、語と語とのあいだにはなんの句切りもない。句切りがあったら、仕事は比較的やさしかったろう。そういう場合には、初めに短い言葉を対照し、分析する。そしてもし、よくあるように、一字の語(たとえばaとか、Iとかいう語だね)が見つかったら、解釈はまずできたと思っていいのだ。しかし、句切りが少しもないので、僕の最初にとるべき手段は、いちばん多く出ている字と、いちばん少ししか出ていない字とを、つきとめることだった。で、すっかり数えて、僕はこういう表を作った。
  8    という記号は    三十三  ある
  ;      〃       二十六
  4      〃        十九
  ‡)     〃        十六
  *      〃        十三
  5      〃        十二
  6      〃        十一
  †1     〃         八
  0      〃         六
  92     〃         五
  :3     〃         四
  ?      〃         三
  ¶      〃         二
  ―      〃         一
 さて、英語でもっともしばしば出てくる字はeだ。それからaoidhnrstuycfglmwbkpqxzという順序になっている。しかしeは非常に多いので、どんな長さの文章でも、一つの文章にeがいちばんたくさん出ていないということは、めったにないのだ。
 とすると、ここで、僕たちはまず手初めに、単なる憶測以上のあるものの基礎を得たことになるね。表というものが、一般に有益なものであるということは明白だ、――が、この暗号にかぎっては、僕たちはほんのわずかしかその助けを要しない。いちばん多い記号は8だから、まずそれを普通のアルファベットのeと仮定して始めることにしよう。この推定を証拠だててみるために、8が二つ続いているかどうかを見ようじゃないか。――なぜかというと、英語ではeが二つつづくことがかなりの頻度であるからだ、――たとえば、‘meet’‘fleet’‘speed’‘seen’‘been’‘agree’などのようにね。僕たちの暗号の場合では、暗号文が短いにもかかわらずそれが五度までも重なっているよ。
 そこで、8をeと仮定してみよう。さて、英語のすべての語[#「語」に傍点]のなかで、いちばんありふれた語は、‘the’だ。だから、最後が8になっていて、同じ配置の順序になっている三つの記号が、たびたび出ていないかどうかを見よう。そんなふうに並んだ、そういう文字がたびたび出ていたら、それはたぶん、‘the’という語をあらわすものだろう。調べてみると、そういう排列が七カ所もあって、その記号というのは ;48 だ。だから、;はtをあらわし、4はhをあらわし、8はeをあらわしていると仮定してもよかろう。――この最後の記号はいまではまず十分確証された。こうして一歩大きく踏み出したのだ。
 しかも、一つの語が決ったので、たいへん重要な一点を決めることができるわけだ。つまり、他の語の初めと終りとをいくつか決められるのだね。たとえば暗号のおしまい近くの――最後から二番目の ;48 という組合せのあるところを見よう。と、そのすぐ次にくる;が語の初めであることがわかる。そうして、この‘the’の後にある六つの記号のうち、僕たちは五つまで知っているのだ。そこで、わからないところは空けておいて、その五つの記号をわかっている文字に書きかえてみようじゃないか。――
  t eeth
 ここで、この‘th’が、この初めのtで始まる語の一部分をなさないものとして、すぐにこれをしりぞけることができる。というわけは、この空いているところへ当てはまる文字としてアルファベットを一つ残らず調べてみても、th がその一部分となるような語ができないことがわかるからなんだ。こうして僕たちは
  t ee
に局限され、そして、もし必要ならば前のようにアルファベットを一つ一つあててみると、考えられる唯一《ゆいいつ》の読み方として‘tree’という語に到達する。こうして(で表わしてあるrという字をもう一つ知り、‘the tree’という言葉が並んでいることがわかるのだ。
 この言葉の少し先の方を見てゆくと、また ;48 の組合せがあるから、これをそのすぐ前にある語にたいする句切り[#「句切り」に傍点]として用いる。するとこういう排列になっているね。
  the tree ;4(‡?34 the
つまり、わかっているところへ普通の文字を置きかえると、こうなる。
  the tree thr ‡?3 h the
 さて、未知の記号のかわりに、空白を残すか、または点を打てば、こうなるだろう。
  the tree thr・・・h the
すると‘through’という言葉がすぐに明らかになってくるが、この発見は、‡、?、3であらわされているo、u、gという三つの文字を僕たちに与えてくれるのだ。
 それから既知の記号の組合せがないかと暗号を念入りに捜してゆくと、初めのほうからあまり遠くないところに、こんな排列が見つかる。
  83(88 すなわち egree
これは明白に‘degree’という語の終りで、†であらわしてあるdという文字がまた一つわかるのだ。
 この、‘degree’という語の四つ先に
  ;46(;88*
という組合せがある。
 既知の記号を翻訳し、未知のを前のように点であらわすと、こうなるね。
  th・rtee・
この排列はすぐ‘thirteen’という言葉を思いつかせ、6、*であらわしてあるi、nという二つの新しい文字をまた教えてくれる。
 今度は、暗号文の初めを見ると、
  53‡‡†
という組合せがあるね。
 前のように翻訳すると、
  ・good
となるが、これは最初の文字がAで、初めの二つの語が‘A good’であることを確信させるものだ。
 混乱を避けるために、もういまでは、わかっただけの鍵を表の形式にして整えたほうがいいだろう。それはこうなる。
  5    は    a を表わす
  †    〃    d
  8    〃    e
  3    〃    g
  4    〃    h
  6    〃    i
  *    〃    n
  ‡    〃    o
  (    〃    r
  ;    〃    t
  ?    〃    u
 だから、これでもっとも重要な文字が十一(16)もわかったわけで、これ以上解き方の詳しいことをつづけて話す必要はないだろう。僕は、この種の暗号の造作なく解けるものであることを君に納得させ、またその展開の理論的根拠にたいする多少の洞察《どうさつ》を君に与えるために、もう十分話したのだ。だが、僕たちの前にあるこの見本なんぞは、暗号文の実にもっとも単純な種類に属するものだと思いたまえ。いまではもう、この羊皮紙に書いてある記号を、解いたとおりに全訳したものを、君に示すことが残っているだけだ。それはこうだよ。
 ‘A good glass in the bishop’s hostel in the devil’s seat forty-one degrees and thirteen minutes northeast and by north main branch seventh limb east side shoot from the left eye of the death’s-head a bee-line from the tree through the shot fifty feet out.’
(『僧正の旅籠《はたご》悪魔の腰掛けにて良き眼鏡四十一度十三分北東微北東側第七の大枝|髑髏《どくろ》の左眼《ひだりめ》より射る樹《き》より弾を通して五十フィート外方に直距線』)」
「だが」と私は言った。「謎は依然として前と同じくらい厄介《やっかい》なようだね。『悪魔の腰掛け』だの、『髑髏』だの、『僧正の旅籠』だのというような、こんな妄語《たわごと》から、どうして意味をひっぱり出すことができるのかね?」
「そりゃあね」とルグランが答えた。「ちょっと見たときには、まだ問題は容易ならぬものに見えるさ。まず僕の努力したことは、暗号を書いた人間の考えたとおりの自然な区分に、文章を分けることだった」
「というと、句読《くとう》をつけることだね?」
「そういったようなことさ」
「しかしどうしてそれができたんだい?」
「僕は、これを書いた者にとっては、解釈をもっとむずかしくするために言葉を区分なしにくっつけて書きつづけることが重要な点だったのだ、と考えた。ところで、あまり頭の鋭敏ではない人間がそういうことをやるときには、たいていは必ずやりすぎるものだ。文を書いてゆくうちに、当然句読点をつけなければならんような文意の切れるところへくると、そういう連中はとかく、その場所で普通より以上に記号をごちゃごちゃにつめて書きがちなものだよ。いまの場合、この書き物を調べてみるなら、君はそういうひどく込んでいるところが五カ所あることをたやすく眼にとめるだろう。このヒントにしたがって、僕はこんなふうに区分をしたんだ。
 ‘A good glass in the bishop’s hostel in the devil’s seat ―― forty-one degrees and thirteen minutes ―― northeast and by north ―― main branch seventh limb east side ―― shoot from the left eye of the death’s-head ―― a bee-line from the tree through the shot fifty feet out.’
(『僧正の旅籠悪魔の腰掛けにて良き眼鏡――四十一度十三分――北東微北――東側第七の大枝――髑髏の左眼より射る――樹より弾を通して五十フィート外方に直距線』)」
「こういう区分をされても」と私は言った。「まだやっぱり僕にはわからないね」
「二、三日のあいだは僕にもわからなかったよ」とルグランが答えた。「そのあいだ、僕はサリヴァン島の付近に『|僧正の旅館《ビショップス・ホテル》』という名で知られている建物がないかと熱心に捜しまわった。むろん、『旅籠《ホステル》』という古語はよしたのさ。が、それに関してはなにも得るところがなかったので、捜索の範囲をひろげてもっと系統的な方法でやってゆこうとしていたとき、ある朝、まったくとつぜんに頭に浮んだのは、この『|僧正の旅籠《ビショップス・ホステル》』というのは、島の四マイルばかり北方にずっと昔から古い屋敷を持っていたベソップという名の旧家となにか関係があるかもしれない、ということだった。そこで、僕はそこの農園へ行って、その土地の年寄りの黒んぼたちにまたいろいろきいてみた。とうとう、よほど年をとった一人の婆《ばあ》さんが、ベソップの城[#「ベソップの城」に傍点]というような所のことを聞いたことがあって、そこへご案内することができるだろうと思うが、それは城でも宿屋でもなくて高い岩だと言ってくれた。
 僕は骨折り賃は十分出すがと言うと、婆さんはしばらくためらったのち、その場所へ一緒に行ってくれることを承知した。大した困難もなくそこが見つかったので、それから婆さんを帰して、僕はその場所を調べはじめた。その『城』というのは崖《がけ》や岩が雑然と集まっているところのことで、そのなかの一つの岩は、ずっと高くて、また孤立していて人工的なふうに見えるので、たいへん目立っていた。僕はその岩のてっぺんへよじ登ったんだが、さて、それからどうしたらいいかということには大いに途方に暮れてしまったね。
 さんざんに考えこんでいるうちに、僕の眼はふと、自分の立っている頂上からたぶん一ヤードくらい下の岩の東の面にあるせまい出っ張りに落ちた。この出っ張りは約十八インチほど突き出ていて、幅は一フィート以上はなく、そのすぐ上の崖に凹《くぼ》みあるので、われわれの祖先の使ったあの背を刳《く》った椅子《いす》にあらまし似ているんだ。僕はこれこそあの書き物にある『悪魔の腰掛け』にちがいないと思い、もうあの謎の秘密をすっかり握ったような気がしたよ。
『良き眼鏡』というのが望遠鏡以外のものであるはずがないということは、僕にはわかっていた。船乗りは『眼鏡』という言葉をそれ以外の意味にはめったに使わないからね。そこで、僕は望遠鏡はここで用いるべきであるということ、ここがそれを用いるに少しの変更をも許さぬ[#「少しの変更をも許さぬ」に傍点]定まった観察点であるということが、すぐにわかったのだ。また、『四十一度十三分』や『北東微北』という文句が眼鏡を照準する方向を示すものであることは、すぐに信じられた。こういう発見に大いに興奮して、急いで家へ帰り、望遠鏡を手に入れて、また岩のところへひき返した。
 出っ張りのところへ降りると、一つのきまった姿勢でなければ席を取ることができないということがわかった。この事実は僕が前からもっていた考えをますます確かめてくれたのだ。それから眼鏡の使用にとりかかった。むろん、『四十一度十三分』というのは現視地平(17)の上の仰角を指しているものにちがいない。なぜなら、水平線上の方向は「北東微北」という言葉ではっきり示されているんだからね。この北東微北の方向を僕は懐中磁石ですぐに決めた。それから、眼鏡を大体の見当でできるだけ四十一度(18)の仰角に向けて、気をつけながらそれを上下に動かしていると、そのうちにはるか彼方《かなた》に群を抜いてそびえている一本の大木の葉の繁《しげ》みのなかに、円い隙間《すきま》、あるいは空いているところがあるのに、注意をひかれた。この隙間の真ん中に白い点を認めたが、初めはそれがなんであるか見分けがつかなかった。望遠鏡の焦点を合わせて、ふたたび見ると、今度はそれが人間の頭蓋骨《ずがいこつ》であることがわかった。
 これを発見すると、僕はすっかり喜びいさんで、謎《なぞ》が解けてしまったと考えたよ。なぜかと言えば、『東側第七の大枝』という文句は、木の上の頭蓋骨の位置を指すものに決っているし、また『髑髏の左眼より射る』というのも、埋められた宝の捜索に関して唯一の解釈しか許さないものだったから。僕は、頭蓋骨の左の眼から弾丸を落す仕組みになっているので、また、幹のいちばん近い点から『弾』(つまり弾丸の落ちたところ)を通して直距離、あるいは別の言葉で言えば一直線を引き、そこからさらに五十フィートの距離に延長すれば、ある一定の点が示されるだろう、ということを悟った。――そして、この地点の下に貴重な品物が隠されているということは、少なくともないとも言えぬ[#「ないとも言えぬ」に傍点]ことだと考えたしだいなのさ」
「なにもかもすべて、実にはっきりしているね」と私は言った。「また巧妙ではあるが、簡単で明瞭《めいりょう》だよ。で君はその『僧正の旅籠』を出て、それからどうしたんだい?」
「もちろん、その木の方位をよく見定めてから、家へ帰ったさ。だが、その『悪魔の腰掛け』を離れるとすぐ、例の円い隙間は見えなくなり、その後はどっちへ振り向いてもちらりとも見ることができなかったよ。この事件全体のなかで僕にいちばん巧妙だと思われるのは、この円く空いているところが、岩の面のせまい出っ張り以外のどんな視点からも見られない、という事実だね。(幾度もやってみて、それが事実だ[#「だ」に傍点]ということを僕は確信してるんだ)
 この『僧正の旅籠』へ探検に行ったときには、ジュピターも一緒についてきたが、あいつは、それまでの数週間、僕の態度のぼんやりしていることにちゃんと気がついていて、僕を一人ではおかぬようにとくに注意をしていた。だがその次の日、僕は非常に早く起きて、うまくあいつをまいて、例の木を捜しに山のなかへ行ったんだ。ずいぶん骨を折った末、そいつを見つけた。夜になって家へ帰ると、奴《やっこ》さんは僕を折檻《せっかん》しようというんだよ。それからのちの冒険については、君は僕自身と同様によく知っているはずだ」
「最初に掘ったときに」と私が言った。「君が場所をまちがえたのは、ジュピターがまぬけにも頭蓋骨の左の眼からではなくて右の眼から虫を落したためだったんだね」
「そのとおりさ。そのしくじりは『弾』のところに――つまり、木に近いほうの杭《くい》の位置に――二インチ半ほどの差ができた。そして、もし宝が『弾』の真下[#「真下」に傍点]にあったのなら、この誤りはなんでもなかったろう。ところが、『弾』と、木のいちばん近い点とは、ただ方向の線を決定する二点にすぎなかったのだ。むろんその誤りは、初めは小さなものであっても、線をのばしてゆくにしたがって大きくなり、五十フィートも行ったときには、すっかり場所が違ってしまったのさ。宝がどこかこの辺にほんとうに埋められているという深い確信が僕になかったなら、僕たちの骨折りもすっかり無駄[#「無駄」に傍点]になってしまうところだったよ」
「頭蓋骨[#「頭蓋骨」に傍点]を用いるという思いつき――頭蓋骨の眼から弾丸を落すという思いつき――は、海賊の旗からキッドが考えついたことだろうと、僕は思うね。きっと彼は、この気味のわるい徽章《きしょう》で自分の金を取りもどすことに、詩的調和といったようなものを感じたんだぜ」
「あるいはそうかもしれん。だが僕は、常識ということが、詩的調和ということとまったく同じくらい、このことに関係があると考えずにはいられないんだ。あの『悪魔の腰掛け』から見えるためには、その物は、もし小さい物なら、どうしても白く[#「白く」に傍点]なくちゃならん。ところで、どんな天候にさらされても、その白さを保ち、さらにその白さを増しもするものとしては、人間の頭蓋骨にかなうものはないからな(19)」
「しかし君の大げさなものの言いぶりや、甲虫《かぶとむし》を振りまわす振舞いといったら――そりゃあ実に奇妙きてれつだったぜ! 僕はてっきり君が気が狂ったのだと思ったよ。で、君はなぜあの頭蓋骨から、弾丸ではなくて、虫を、落させようと言い張ったんだい?」
「いや、実を言うと、君が明らかに僕の正気を疑っているのが少し癪《しゃく》だったので、僕一流のやり方で、真面目《まじめ》にちょっとばかり煙《けむ》に巻いて、君をこっそり懲《こ》らしてやろうと思ったのさ。甲虫を振りまわしたのもそのためだし、あれを木から落させたのもそのためなんだ。君があれを非常に重いと言ったので、木から落すというその考えを思いついたのだ」
「なるほど。わかったよ。ところで、僕にはもう一つだけ合点のゆかぬことがある。あの穴のなかにあった骸骨《がいこつ》はなんと解釈すべきだろうね?」
「それは僕にだって君以上には答えられぬ問題だよ。しかし、あれを説明するのにたった一つだけもっともらしい方法があるようだな。――僕の言うような凶行があったと信ずるのは恐ろしいことだがね。キッドが――もしほんとうにキッドがこの宝を隠したのならだよ。僕はそうと信じて疑わないが――彼がそれを埋めるときに誰かに手伝ってもらったことは明らかだ。だが、その仕事のいちばん厄介なところがすんでしまうと、彼は自分の秘密に関係した者どもをみんな片づけてしまったほうが都合がいいと考えたんだろう。それには、たぶん、手伝人たちが穴のなかでせっせと働いている時に、鶴嘴《つるはし》で二つも食らわせば十分だったろうよ。それとも、一ダースも殴りつけなければならなかったか、――その辺は誰にだってわからんさ」


(1) “All in the Wrong”――イギリスの俳優で劇作家の Arthur Murphy(一七二七―一八〇五)の喜劇。一七六一年初演。一八三六年にニューヨークでも上演された。
(2) Huguenot――十六、七世紀頃のフランスの新教徒。一六八五年にルイ十四世によってナント勅令が廃棄され、新教が禁止されると、多くの新教徒《ユグノー》がアメリカの植民地に移住した。
(3) New Orleans――ミシシッピ河の海に注ぐあたりのルイジアナ州にある都会。
(4) Fort Moultrie――チャールストン港の防御のために一七七六年に建てられ、まだ竣功《しゅんこう》しないうちにアメリカ軍の William Moultrie(一七三一―一八〇五)大佐がここに立て籠《こも》ってイギリス軍を防いだので、その名が付せられた。ポーは青年時代に軍隊にいたときしばらくこの要塞《ようさい》に勤務していたことがある。
(5) Palmetto――南カロライナ州は一名“Palmette State”と言われるほどだから、この棕櫚《しゅろ》がよほど多いのであろう。
(6) Jan Swammerdam(一六三七―八〇)――オランダの有名な博物学者。ことに昆虫《こんちゅう》学者として、その蒐集《しゅうしゅう》と著述とが知られている。
(7) ルグランが 〔antennoe&〕(触角)と言いかけたのを、ジュピターは tin(錫《すず》)のことと思い違いをしたのであろう。ボードレールは“Calembour intraduisible”だと書いているが、日本語でもやはり訳されないことは同様である。
(8) この「高い」loud という語は、ステッドマン・ウッドベリー版には「低い」low となっているが、ハリスン版、イングラム版、その他の諸版にはみな前者になっている。ボードレールの訳本もその意味に訳してある。ステッドマン版はこの語をグリズウォルド版に拠《よ》ったのであろうか。しかし、ここでは前者をとることにして、意味がまったく反対になっている相違なので特に注をしておく。
(9) dark lantern――光をさえぎる蓋《ふた》のついている角灯。
(10) guinea――十七世紀後葉アフリカ西海岸のギニー地方に産する金で初めて鋳造された往時のイギリスの金貨。一八一三年以降は鋳造されなかったのだから、この物語の書かれた当時にもすでに、一般に流通していなかったのである。
(11) 鉱物を溶解するときに炉床または坩堝《るつぼ》の底に沈澱《ちんでん》するもの。
(12) William Kidd(一六四五?―一七〇一)――十七世紀の末の有名な海賊。スコットランドに生れ、初め剛胆な船長として世に知られていたが、のち海上生活を退いてニューヨークに隠退中、その船舶操縦術の手腕を時の植民大臣 Earl of Bellamont に認められ、当時アメリカの沿岸およびインド洋に横行していた海賊を剿滅《そうめつ》せよとの命を受けて、一六九六年に“Adventure”号の船長としてイングランドのプリマス港から出帆し、ニューヨークへ行き、それからマダガスカル島へ航した。その後間もなく彼自身が海賊になったと噂《うわさ》が立った。一六九九年にアメリカの海岸へ帰り、やがてボストンで逮捕されて部下と共にイングランドへ送られ、海賊を働いたことを否認したが、船員の一人を殺害した廉《かど》で、九人の部下と共に絞刑《こうけい》に処せられた。これより前、彼はニューヨークの東方ロング島の東にあるガーディナア島に一部分の財宝を埋めておいたが、それはのちに発掘された。その没収された財宝の総額は約一万四千ポンドに達するものであった。しかし、「キッド船長の宝」が大西洋のどこかの海岸にまだ埋められているという噂は、その後も永く世間に伝えられていた。
(13) この暗号文のうち一カ所は、ステッドマン・ウッドベリー版およびハリスン版が、他の諸版と異なっている。他の諸版の“forty-one degrees”に当る記号が“twenty-one degrees”になっているからである。(初めから四十四番目 1‡(;:………………;) が 8*;:………………)これは、のちに注18[#「18」は縦中横]においてしるすような理由で、たぶん、作者自身が一八四五年出版の彼の『物語集』にのちの刊行の準備として自筆で推敲《すいこう》の筆を加えたときに、書き直したものであろう。ステッドマン・ウッドベリー版、ハリスン版は、そのポーの自筆を加えたいわゆるロリマー・グレアム本を参照して、それに拠ったのである。しかし、ハリスン版の訂正個所はまちがっているし、またハリスン版、ステッドマン版ともにあとの記号の数のところが訂正暗号に合っていないので、この訳本ではあとのほうの数字を訂正したりすることは避けて、普通の諸版のもとの暗号を用いることにした。他の諸版にもそれぞれ小さな誤りがあるので、以下暗号に関するかぎり、諸版から妥当と思うところを取ることにする。
(14) Golconda――インドの南部にある旧《ふる》い町。金剛石の市場として有名であった。
(15) Spanish main――往時、南アメリカの北海岸のオリノコ河またはアマゾン河の口からパナマ海峡に至る一帯の地方や、カリブ海のこれに接した部分を、漠然《ばくぜん》と指した名称。スペインと南アメリカとの航路に当り、昔さかんに海賊が出没した。
(16) この「十一」は、ステッドマン版、イングラム版、ハリスン版等の標準版にはみな前の行の「?〃u」を除いて「十」となっているが、これはたぶん作者自身の誤りであろう。「?〃u」を加えて「十一」となっている版もあるので、それにしたがう。
(17) 実際に見|得《う》べき水と空との分界線。
(18) この「四十一度」は、ハリスン版とステッドマン・ウッドベリー版では、すべて「二十一度」となっている。事実、「四十一度十三分の仰角」で見て、「はるか彼方《かなた》に」見える大木というのは、あまりに高過ぎて不自然、あるいはむしろ不合理であろう。しかしこの変更は注13[#「13」は縦中横]で書いたように、暗号文の記号と共に、おそらく、ポーがのちの刊行本のための用意にときどき筆を加えておいたいわゆるロリマー・グレアム本の、自筆の書き入れに拠ったものらしく、まだ決定的な、あるいは完全な、訂正ではないので、この訳本ではすべてもとの「四十一度」にしておいた。
(19) 以上の頭蓋骨|云々《うんぬん》に関する二節の対話は、普通の諸版には全然ない。ボードレールの訳本にもない。同じくロリマー・グレアム本にポーがのちに書き加えておいた部分であろう。

底本:「黒猫・黄金虫」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1995(平成7)年10月15日89刷改版
   1997(平成9)年11月25日93刷
※(1)~(19)は訳注番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように小書きされています。また数字は縦中横になっています。
入力:福田直子
校正:鈴木厚司
2004年6月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木直次郎, 未分類

モルグ街の殺人事件 THE MURDERS IN THE RUE MORGUE エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe——-佐々木直次郎訳


 サイレーンがどんな歌を歌ったか、またアキリースが女たちの間に身を隠したときどんな名を名のったかは、難問ではあるが、みなみな推量しかねることではない。
トマス・ブラウン卿


 分析的なものとして論じられている精神の諸作用は、実は、ほとんど分析を許さぬものなのである。ただ結果から見て、それらを感知するにすぎない。そのなかでもわかっていることは、精神の諸作用を過分に身につけている人にとっては、これこそなによりも生き生きとした楽しみの源泉である、ということだ。ちょうど、強健な人が筋肉を働かせる運動を喜んで自分の肉体的能力を誇るのと同じように、分析家はものごとを解き明かす知的活動に熱中する。彼は、この才能を発揮できることなら、どんなつまらない仕事でも楽しんでやるのだ。彼は、謎《なぞ》や、難問や、象形文字が好きで、凡人の理解力では超自然とも見えるほどの明敏さで、それらを解き明かす。しかも、彼がありとあらゆる方法を尽して得た結論は、実のところ、まるで直観にしか見えないのだ。
 分析の能力は数学の研究によって、おそらく大いに活躍させられるだろう。ことに、その最高の部門であって、ただ逆行的なやり方をするというだけで、不当にも、とくに解析学と呼ばれているものによってだ。しかし、計算することはもともと分析することではない。たとえば、将棋《チェス》をさす人は、計算はするが、分析しようとはしない。だから、チェス遊びが心的性質に与える効果などは、ひどい誤解だということになる。私はいま、なにも論文を書いているのではない。ただ、たいへん勝手なことを述べて、いささか風変りな物語の序文にしようとしているだけである。ここでついでに、手が込んでいるわりにつまらないチェスなどよりは、地味な碁《ドラフツ》のほうが、もっと確実にもっと有効に、思索的知性の高い力を働かせるものだと、断言しよう。チェスは、駒がいろいろと奇妙な動き方をするし、その価値もさまざまで、しかも変るものだから、ただ単に複雑だというだけで(よくある誤謬《ごびゅう》だが)、なにか深奥なもののように誤られる。この場合、注意力[#「注意力」に傍点]こそ強く要求されるのだ。ちょっとでも注意がゆるむと、しくじって、大損するか負けになる。しかも駒の動きがまちまちで入り組んでいるために、しくじりのチャンスはますます大きくなる。そして、十中の九までは鋭敏な人よりも、集中力の強い人のほうが勝つ。その反対にドラフツでは、動きが一様《ユニーク》で変化が少なく、しくじる率も少ないし、わりあいに注意力も働かされずにすむので、利益はすべて、どちらかの優れて明敏なほうが得ることになる。もっと具体的に言えば――ドラフツのゲームで、駒が盤面にキング四つだけとなった場合を想像してみよう。もうこうなれば、無論しくじりの起るはずはない。するとこの場合の勝負は(両方の競技者がまったく互角として)、知力を強く働かせた結果としての、|念入り《ルシェルシェ》な駒の動かし方だけで決ることは明らかである。普通の手がみな尽きてしまうと、分析家は相手の心のなかに自身を投げこみ、すっかり相手の心になりきって、相手を誘ってしくじらせたり、せきたてて誤算させたりする唯一の方法(ときには実にばかばかしいほど簡単な手なのだが)を、一目で発見することがよくある。
 ホイストは、いわゆる計算力を養うものとして早くから知られていて、最高級の知力を持つ人々はチェスをつまらないものとけなして、ちょっと不思議なほどホイストに凝ったものだ。たしかに、この種のものではホイストほど分析能力を働かせるものはほかにない。キリスト教国中で一番のチェスの名人だといっても、つまりはただチェスの名人だというにすぎない。ところがホイストの上手《じょうず》ということになると、心と心とがたたかうすべての、もっと重大な事業にも成功できるということを意味する。この上手というのは、正当な利益をもたらすすべて[#「すべて」に傍点]のつぼ[#「つぼ」に傍点]を、それぞれちゃんと知り抜いているといった、技《わざ》の完全な精通を意味するのである。これらのつぼ[#「つぼ」に傍点]は多種多様で、しかも多くの場合、普通の理解力ではぜんぜん近づきがたい思考の奥深くに隠れているのだ。注意深く観察するということは明瞭に記憶することであって、そこまでなら集中力の優れたチェスの棋客もホイストを十分うまくやるだろうし、またホイルの法則だって(それがゲームの単なるメカニズムに基づいたものである以上)誰にでも十分に理解できるものなのだ。だから、よい記憶で、「方式」どおりにやるということが、うまく勝負をする秘訣《ひけつ》だと一般に考えられている点である。ところが、分析家の腕の見せどころは、単なる法則の限界を越えたところにあるのだ。彼は黙っていながら多くの観察や推理をする。また、たぶん彼の仲間もそうする。それで、そうして得られた知識の範囲の違いは、推理の正しさよりも観察の質にあるのだ。必要な知識は、なに[#「なに」に傍点]を観察すべきかを知ることなのである。わが分析的競技者は決して自分だけの中に閉じこもることをしないし、またゲームが目的だからといって、ゲーム以外のものごとからの推定を拒んだりはしない。彼はまず味方の顔つきをよく見てから、それを敵方の一人一人の顔つきと念入りに比較する。一人一人の手にある骨牌《かるた》の揃《そろ》え方を考え、ときどき持主が一枚一枚を眺める眼つきから、一つ一つの切札や絵札を数える。彼は競技の進行中ずっと、顔のあらゆる変化に注意し、確信や、驚きや、勝利や、口惜《くや》しさなどの表情の違いから、思惟《しい》の材料を集める。うち出された札を集める様子から、その人がその組でもう一度やれるかどうかを判断する。テーブルの上に札を投げ出す態度から、いかさまの手などはすぐ見破ってしまう。ひょいと、うっかりしゃべったひと言、どうかして札を落したり、表を見せたりして、あわてて引っこめたり、平気でいたりする態度、または、札を数えることや、それを並べる様子、当惑したり、ためらったり、あせったり、あわてたり――といったすべてのことは、見たところ直覚のような彼の知覚能力に、ちゃんとことの真相を示しているのである。だから、初めの二、三回がすむと、彼は一人一人の手にある札をすっかり知ってしまい、あとは、まるで他の連中が持札の全部をさらしてでもいるみたいに、絶対的な確信をもって自分の札を切り出すのである。
 分析力と、単なる工夫力とを、混同してはならない。なぜなら、分析家は工夫がうまいと決っているが、工夫のうまい人でも恐ろしく分析力のない人がときどきあるからである。この工夫力が普通あらわれるのは、構成力とか結合力によってであって、骨相学者たちはこの力を本源的能力と想像して別の器官をこれに割当てている(これは誤っていると私は信ずる)のであるが、この力は他の点ではまるで白痴に近い知力をもつ人々に実にしばしは見られるので、いままでにも倫理学者の間に広く注意をひいたくらいである。工夫力と分析力のあいだには、非常によく似通った性質のものではあるが、空想と想像のあいだの相違よりも、実にもっと大きな相違があるのである。
 これから語す物語は、いままで語った命題の注釈のように、読者諸君には見えるであろう。
 一八――年の春から夏にかけてパリに住んでいたとき、私はC・オーギュスト・デュパン氏という人と知合いになった。この若い紳士は良家の――実際に名家の出であったがいろいろ不運な出来事のために貧乏になり、そのために気力もくじけて、世間に出て活動したり、財産を挽回《ばんかい》しようとする元気もなくしてしまった。それでも、債権者たちの好意で、親ゆずりの財産の残りがまだ少しあったので、それから上がる収入でひどい節約をしながらどうかこうか生活の必需品を手に入れ、余分なもののことなど思いもしなかった。唯一の贅沢《ぜいたく》といえは、実に書物だけで、これはパリでたやすく手に入った。
 我々が初めて会ったのはモンマルトル街の名もない図書館で、そこで二人が偶然にも同じたいへん貴重な稀覯書《きこうしょ》を捜していたことから、いっそう親しくなったのであった。二人はたびたび会った。フランス人が自分のことを語るときにはいつも示すあの率直さで、彼が、詳しく話してくれた彼一家の小歴史は、非常に面白かった。私はまた、彼の読書の範囲のたいそう広いのに驚いた。そしてことに彼の想像力の奔放なはげしさと溌剌《はつらつ》たる清新さとは、私の魂を燃え立たせるように感じた。そのころ、私は求めるものがあってパリで捜していた。で、こういう人と交わることはなににもまさる宝であろうと思い、この気持をはっきり彼にうち明けた。で、とうとう私のパリ滞在中は、一緒に住もうということになった。そして、ちょうど、どんな迷信か問題にもしなかったが、とにかく迷信のために長いこと住み手のなかった、郭外《フォーブール》サン・ジェルマンの辺鄙《へんぴ》な淋しいところにある、崩れかけた、古い、怪しげな邸を借りた。その家賃や、また、二人に共通した気質である、いささか空想的な憂鬱にふさわしいように家具を備えつける費用を、私のほうが彼よりはいくらか暮し向きが楽だったので、私が受け持つことにした。
 ここでの我々の日常生活が世間に知れたなら、我々は狂人と――もっともたぶん、害のない狂人と――思われたにちがいない。我々の隠遁《いんとん》は完全なものであった。訪問者は一人もよせつけなかった。実際、我々の隠れ家は私の以前の仲間たちには注意深く秘密にしておいたし、デュパンがパリで世間と交渉を絶ってからよほど年がたっていた。我々はただ二人だけで暮していた。
 夜そのもののために夜を溺愛《できあい》するというのが、私の友の気まぐれな好み(というよりほかに何と言えよう?)であった。そしてこの奇癖《ビザルリー》にも、他のすべての彼の癖と同様に、私はいつの間にか陥って、まったく投げやりに彼の気違いじみた気まぐれに身をまかせてしまった。漆黒の夜の女神はいつも我々と一緒に住んでいるというわけにはいかない。が、我々は彼女を模造することはできる。ほのぼのと夜が明けかかると、我々はその古い建物の重々しい鎧戸《よろいど》をみんなしめてしまい、強い香りの入った、無気味にほんのかすかな光を放つだけの蝋燭《ろうそく》を二本だけともす。その光で二人は読んだり、書いたり、話したりして――夢想にふけり、時計がほんとうの暗黒の来たことを知らせるまでそうしている。それから一緒に街へ出かけ、昼間の話を続けたり、夜更けるまで遠く歩きまわったりして、にぎやかな都会の奇《く》しき光と影とのあいだに、静かな観察が与えてくれる、無限の精神的興奮を求めるのであった。
 そうしたときに私は、デュパンの特殊な分析的能力を認めたり、感嘆したりせずにはいられなかった(彼の豊富な想像力から十分に期待していたことだが)。彼はまた、その能力を働かせることを――なにもそれを見せびらかすことではないとしても――たいそう喜ぶらしく、またそのことから生ずる愉快さを、私にあっさり白状しもした。彼は、低い含み笑いをしながら、たいていの人間は自分から見ると、胸に窓をあけているのだ、と私に向って自慢し、そういうことを言ったあとでは、いつも、私の胸のなかをよく知っている実にはっきりした驚くべき証拠を見せるのであった。そんなときの彼の態度は冷やかで放心しているようだった。眼にはなんの表情もない。声はいつもは豊かな次中音《テナー》なのが最高音になり、発音が落ちついていてはっきりしていなかったら、まるで癇癪《かんしゃく》を起しているように聞えたろう。こんな気分になっている彼を見ていると、私はよく二重霊魂という昔の哲学について深く考えこみ、二重のデュパン――創造的なデュパンと分析的なデュパン――ということを考えて面白く思うのであった。
 いま言ったことから、私がなにか神秘的なことを語ったり、なにかロマンスを書いたりしようとしているなどと思ってはならない。私がこのフランス人について語ったことは、単に興奮した、もしかすると一種の病的な知性の結果にすぎないのだ。だが、こんなときの彼の言葉の調子については、例を挙げるのがいちばんよくわかるだろう。
 ある夜のこと、我々はパレ・ロワイヤール付近の、長い、きたない街をぶらぶら歩いていた。二人ともなにか考えこんでいたらしく、少なくとも十五分間はどちらからもひと言もものを言わなかった。と、まったく突然に、デュパンがこう話しかけた。
「いやまったく、あいつは小男さ。そりゃあ寄席《テアトル・デ・ヴァリエテ》のほうが向くだろうよ」
「たしかに、そのとおりだね」と、私は思わず返事をしたが、初めは私が心のなかで考えていたことに話し手がちゃんと調子を合わせていた不思議なやり方に気がつかなかった(それほど私は考えに夢中になっていたので)。それからすぐ我に返って、ひどくびっくりした。
「デュパン」と私は真面目に言った。「これは僕にはちっともわからないね。あっさり白状するが、僕はびっくりしたよ。自分の感覚が信じられないくらいだ。どうして君にわかったんだい? 僕の考えていたあの――」と、ここで私は、彼がほんとうに私の考えていた人間のことを知っているかどうかをはっきり確かめるために、ちょっと言葉を切った。
「――シャンティリのことだろう」と彼は言った。「なぜ君はあとを言わないんだ? 君はあの男は小柄で悲劇には不向きだと腹のなかで言っていたじゃないか」
 これはまさしく私の考えていたことだった。シャンティリというのは、もとサン・ドニイ街の靴直しだったが、芝居気違いになり、クレビヨンの悲劇のクセルクセスの役《ロール》をやって、さんざん悪評を受けたのであった。
「どうか話してくれたまえ」と、私は大声で言った。「どんな方法で――もし方法があるならだよ――僕の心のなかを見抜くことができたのかということを」事実、私は口で言うよりももっとびっくりしていたのだ。
「あの果物屋さ」と友は答えた。「クセルクセスとか、すべてそういった役をするにはあの靴底直しでは寸が足りないという結論を、君にさせたのはね」
「果物屋だって! ――驚くねえ、――果物屋なんて僕は一人も知りやしないよ」
「僕たちがこの通りへ入ったときに君にぶっつかったあの男さ、――もう十五分も前だったろう」
 そう言われて私は思い出した。いかにも、我々がC――街からこの通りへ曲ったときに、頭に大きな林檎籠《りんごかご》をのせた果物屋が、誤って危うく私を突き倒しそうになったのだった。だが、それがシャンティリとどんな関係があるのか、私にはどうしてもわからなかった。
 デュパンの様子には法螺吹き《シャルラタヌリー》のようなところはちっともなかった。「じゃあ説明しよう」と彼が言った。「君にはっきりわかるように、まず、僕が君に話しかけたときから、あの果物屋と衝突したときまでの、君の考えの経路を逆にたどってみることにしよう。鎖の大きな輪はこう繋《つな》がる、――シャンティリ、オリオン星座、ニコルズ博士、エピキュロス、截石法《ステリオトミー》、往来の舗石、果物屋」
 まあ自分の生涯のある時期に、自分の心がある結論に到達した道順をさかのぼってみることを、面白いと思わない人は、あまりないだろう。この仕事はときどき実に興味のあるもので、初めてそれを試みる人は、出発点と到着点とのあいだにちょっと見ると無限の距離と無連絡とのあることに驚くのだ。だから、このフランス人がいま言ったことを聞いて、それが真実であることを認めるほかなかったときの、私の驚きはどんなであったろう。彼はつづけて言った。
「もし僕の記憶がまちがってなければ、C――街を出るすぐ前に、僕たちは馬のことを話していたのだ。それが僕たちの最後の話題だったね。この通りへ曲ったとき、頭に大きな籠をのせた果物屋が急いで僕たちとすれちがって、歩道を修繕しているところに集めてあった舗石の積山の上に君を押しやった。君はそのばらばらの石ころを踏んで、すべり、踝《くるぶし》をちょっと挫《くじ》いたので、むかっとした不機嫌な様子で、ぶつぶつ言って、積んである石を振り向いて見たが、あとは黙って歩きだした。僕はなにも君のすることにとくに注意していたんじゃない。が、近ごろ、どうも観察ということがせずにはいられなくなっているんでね。
 君はずっと地面に眼を落していた、――むっとした表情をしたまま、舗石の穴や轍《わだち》をちらりちらりと眺めながらね(だから君がまだ石のことを考えていることが僕にはわかったんだ)。そのうちに僕たちはあのラマルティーヌという小路へやって来た。そこには、重ねて目釘《めくぎ》を打った切石が試験的に敷いてあるのだ。ここへ来ると君の顔は晴れやかになった。そして君の唇が動いたので、きっと『截石法《ステリオトミー》』という言葉を呟《つぶや》いたのだなと僕は思った。これはこういった舗石にひどく気取って用いられる語だからね。君が『截石法《ステリオトミー》』と呟けばかならず原子《アトミー》のことを考え、ついでにエピキュロスの学説を考えるようになることを、僕は知っていた。そして、ついこのあいだ僕たちがこの学説について論じ合ったとき、僕が、この高貴なギリシャ人の漠然とした推測が、なんと奇妙にも、まあほとんど世人に注意されなかったが、近世の星雲宇宙|開闢《かいびゃく》論によって確かめられた、ということを君に話したから、君がきっとオリオン星座の大星雲を見上げるだろうと思って、予期していたんだ。すると、はたして君は見上げた。で、僕は、自分が今まで君の考えにちゃんと正しくついてきたことを確信したのだ。ところできのうの『ミュゼエ』に出たシャンティリに対する辛辣《しんらつ》な悪口のなかで、その風刺家は、靴直しが悲劇を演ずるために名前を変えたことを皮肉にあてつけて、僕たちがよく話していたラテン語の詩句を引用した。というのは、あの
[#天から2字下げ]“Perdidit antiquum litera prima sonum.”(初めの文字は昔の音を失えり)
という詩句のことさ。これはもとウリオンと書いたのをいまではオリオンとなっていることを言ったものだと話したことがある。で、この説明に関したある辛辣な皮肉から、君がそれを忘れるはずがないのを僕は知っていた。だから、君がオリオンとシャンティリという二つの観念をかならず結びつけるだろうということは明らかだった。はたして君がそうしたということは、君の唇に浮んだ微笑の様子でわかった。君はあのかわいそうな靴直しがやっつけられたことを考えたのだ。それまでは君はこごんで歩いていたが、そのとき体をぐっと十分に伸ばした。そこで僕は君がシャンティリの小柄なことを考えたということを確信したよ。で、そのときに君の黙想をさえぎって、ほんとにあいつは――あのシャンティリは――小男だから、寄席のほうが向くだろう、と言ったのさ」
 それからしばらくたったころ、『ガゼット・デ・トゥリビュノー』の夕刊に眼を通していると、次のような記事が我々の注意をひいたのである。

「奇怪なる殺人事件。――今暁三時ごろ、サン・ロック区の住民は、レスパネエ夫人とその娘カミイユ・レスパネエ嬢との居住する、モルグ街の一軒の家屋の四階より洩れたらしい、連続して聞える恐ろしい悲鳴のために、夢を破られた。通常の方法で入ろうとしたが不可能だったので少し遅れ、金梃《かなてこ》で門口を打ちこわして、近隣の者八、九人が二名の憲兵とともに入った。このときには叫び声はやんでいた。が一同が最初の階段を駆け上がっていたとき、はげしく争うような荒々しい声が二言三言聞きとれた。それは家の上の方から聞えたものらしかった。第二の踊場に着いたときには、この音もやんでしまい、あたりはまったく静かになった。一同は手分けして室から室へと走りまわった。四階の大きな裏側の部屋へ行くと(その扉は内側から鍵《かぎ》をかけてあったので、無理に押しあけたのだが)、そこに居合せた全員を驚愕《きょうがく》させるというよりも、むしろ戦慄《せんりつ》させる光景が現出したのである。
 室内は実に乱雑を極め――家具は打ちこわされ四方に投げ散らされている。寝台はただ一個あるだけで、その寝具は取りのけられ、床の中央に投げだされていた。椅子の上には血にまみれた剃刀《かみそり》がある。炉の上にはやはり血に染まった、長い、ふさふさした人間の灰色の髪の毛が二束ばかり、根元から引き抜かれたものらしい。床の上にはナポレオン金貨四枚と、黄玉《トパーズ》の耳輪一個と、銀の大きなスプーン三個と、洋銀《メタル・ダルジェ》の小さなスプーン三個と、金貨約四千フラン入りの袋二個とがある。一隅にある箪笥《たんす》の引出しはあけてあって、たくさんの品物がなかに残ってはいるが、明らかにかすめ取られたらしい。鉄の小さな金庫が寝具[#「寝具」に傍点](寝台ではなく)の下に発見された。あけてあって、鍵はまだ錠前にさしたままになっている。なかには数通の古手紙と、あまり重要ではない書類とのほかには、なにも入っていなかった。
 ここではレスパネエ夫人の姿は見えなかった。が、炉のなかに非常に多量の煤《すす》が認められたので、煙突のなかを探ってみると、(語るも恐ろしいことだが!)頭部を下にした娘の死体がそこから引き出された。そのせまい隙間にそうしてかなり上まで無理に押し上げられていたのである。体は十分温かだった。調べてみると、多くの擦り傷があったが、これはたしかに手荒く押しこんだり引き出したりしたためにできたものである。顔面にはひどい掻き傷が多数あり、咽喉《のど》にも黒ずんだ傷と、深い爪の痕《あと》とがあって、被害者は絞め殺されたようであった。
 家のあらゆる部分をくまなく捜索したが、それ以上はなんの発見もなく、一同はこの建物の裏にある石敷きの小さな中庭へ出ると、そこに老婦人の死体が横たわっており、その咽喉が完全に切られていたので、体を起そうとすると頭部が落ちてしまった。頭も胴もおそろしく切りさいなまれ、――胴のほうはほとんど人間のものとは見えないくらいであった。
 この恐るべき怪事件には、いまのところ、まだ少しの手がかりもないようである」

翌日の新聞は、さらに、次のような詳報を付け加えた。
「モルグ街の惨劇。この最も奇怪な恐ろしい事件〔フランスでは『事件《アフエール》』という言葉はまだ我我の感ずるような軽々しい意味を持っていない〕に関しては多くの人々が取り調べられた。しかし、本件に光明を与えるようなことは、まだなに一つあらわれてこない。以下、陳述された重要な証言をすべて掲げることにする。
 洗濯女、ポーリン・デュプールの証言。過去三年間、洗濯の御用を聞いていたので、被害者両人を知っていた。老婦人と娘との仲はよく、――互いに深く愛し合っていた。代金は滞りなく払ってくれた。二人の暮し方や暮し向きについては知らぬ。レスパネエ夫人は占いを業としていたと思う。金を貯《た》めているという噂《うわさ》だった。洗濯物を取りに行ったり持って行ったりするときに、その家で誰にも逢ったことがない。たしかに召使は一人も使っていなかった。その建物には四階のほかにはどこにも家具がないようであった。
 煙草商、ピエール・モローの証言。いままで四年間、レスパネエ夫人に少量の煙草および嗅煙草《かぎたばこ》を売っていた。その付近で生れ、ずっとそこに住んでいる。夫人と娘とは、その死体の見出された家に六年以上住んでいた。もとは宝石商が住んでいて、上のほうの部屋をいろいろな人々に又貸ししていた。家はレスパネエ夫人の所有であった。彼女は借家の又貸しを嫌って、自らそこへ引き移り、どの部屋も貸さないことにした。老婦人は子供っぽかった。証人は六年間に娘を五、六回ほど見たことがあった。二人はいたって隠遁《いんとん》的な生活をしていて、――金を持っているという噂だった。近所の人たちの話ではレスパネエ夫人は占いをしているということだった。ほんとうだとは思わぬ。老婦人と娘、荷物運搬人が一、二回、医者が約八、九回のほかには、その家の内へ入ってゆく者を見たことがなかった。
 近所の多くの人々も同様な意味の証言をなした。この家へしばしば出入りする者といっては一人もないということだった。レスパネエ夫人と娘との親戚で生きている者があるかどうかもわからなかった。表の窓の鎧戸はほとんど開かれたことがない。裏の窓の鎧戸は、四階の大きな裏側の室をのぞいて、いつもしめてあった。家はよい家で、あまり古くない。
 憲兵、イジドル・ミュゼエの証言。朝の三時ごろその家へ呼ばれ、戸口のところに約二、三十人の人が入ろうとしているのを見た。ついに銃剣をもって――鉄梃ではなく――その戸口をこじあけた。二枚門つまり両開き門になっていて、下にも上にも閂《かんぬき》がかかっていないためあけるには大して困難はなかった。悲鳴は門が開くまでつづき、――それから突然やんだ。それは誰か一人の(あるいは数人の)人のはげしい苦悶《くもん》の叫び声らしく、――大声で長くて、短い早口ではなかった。証人がさきに立って二階へ上った。初めの踊場についたとき、声高くはげしく争うような二つの声が聞えた。一つは荒々しい声で、もう一つはもっと鋭い――非常に妙な声だった。荒々しい声のほうの数語は聞きとれた。それはフランス人の言葉だった。女の声ではないことは確かだ。『畜生《サクレ》』という言葉と『|くそッ《ディアーブル》!』という言葉とを聞きとることができた。鋭い声は外国人の声だった。男の声だか女の声だか、はっきりわからなかった。なんと言ったのかも判じられなかったが、国語はスペイン語だと信ずる。この証人の述べた室内および死体の状態は、昨日、本紙のしるしたとおりである。
 隣人、銀細工業、アンリ・デュヴァルの証言。初めにその家へ入った連中の一人であった。大体のところミュゼエの証言を確証する。彼らは家へ押し入るとすぐ、夜更けにもかかわらず、わっと集まってきた群集を入れないために扉をふたたび閉じた。鋭い声というのは、この証人はイタリア人の声だと思っている。フランス人の声でないことは確かだ。男の声だったかということは確かではない。女の声だったかもしれぬ。イタリア語には通じていない。言葉は聞きとれなかったが、音の抑揚で、言ったのはイタリア人だと確信する。レスパネエ夫人とその娘とを知っている。二人としばしば話し合ったことがある。その鋭い声はどちらの被害者の声でもないことは確かだ。
 料理店業、オーデンハイメルの証言。この証人は自分から進んで証言した。フランス語を話せないので、通訳をとおして調べられた。アムステルダムの生れである。悲鳴の聞えたときにその家の前を通りかかった。悲鳴は数分――たしか十分くらい――の間つづいた。長くて、大声で、――実に恐ろしく、苦しげだった。その建物へ入った連中の一人である。一点をのぞいてすべての点で前にあげた証言を確証する。鋭い声は男の――フランス人の声であることは確かだ。言った言葉は聞きとれなかった。声高く、速くて、――高低があり、――明らかに怒りと恐れとから発せられたものであった。耳ざわりな声で―― 鋭いというよりも耳ざわりなものであった。鋭い声とは言えぬ。荒々しい声のほうは『畜生《サクレ》!』と『|くそッ《ディアーブル》!』とをくりかえして言い、一度は『|こらッ《モン・ディユ》!』と言った。
 ドロレーヌ街ミニョー父子銀行の頭取、ジュール・ミニョー――老ミニョーの証言。レスパネエ夫人は多少の財産を持っていた。――年(八年前)の春から彼の銀行と取引を始めた。ときどき少額ずつ預け入れた。死亡の三日前までは少しも払い出したことはなかったが、その日彼女は自分でやって来て四〇〇〇フランの金額を引き出した。この額は金貨で支払われ、一人の行員が金を家まで届けた。
 ミニョー父子銀行の行員、アドルフ・ル・ボンの証言。当日の正午ごろ、彼は四〇〇〇フランを二個の袋に入れてレスパネエ夫人とその住宅へ同行した。扉が開くとレスパネエ嬢があらわれて彼の手から一つの袋を受け取り、老婦人はもう一つを取ってくれた。彼はそれからお辞儀をして立ち去った。そのとき、路上には誰も見えなかった。裏通りで、――ひどく淋しいところである。
 仕立屋、ウィリアム・バードの証言。その家へ入った者の一人であった。イギリス人で、パリに二年住んでいる。最初に階段をのぼった者の一人で、争う声を聞いた。荒々しい声はフランス人の声であった。数語わかったが、いま全部は思い出せない。『畜生《サクレ》!』と『|こらッ《モン・ディユ》!』とははっきりと聞いた。そのとき、数人の人が格闘しているような音――ひっかいたりつかみ合ったりする音がした。鋭い声のほうは非常に高く――荒々しい声よりも高かった。イギリス人の声ではないことは確かだ。ドイツ人の声らしかった。女の声だったかもしれぬ。ドイツ語はわからない。
 以上の証人のうち四名は当時を思い出して、さらに証言した。レスパネエ嬢の死体の見つかった室の扉は、一同がそこへ着いたときには、内側から錠が下りていた。まったくひっそりしていて、――呻《うめ》き声もなんの物音も聞えなかった。扉をこじあけたときには、誰もいなかった。裏の部屋も表の部屋も窓が下りていて内側からしっかりしまっていた。その二つの部屋のあいだの扉はしまっていたが、錠はかかっていなかった。表の部屋から廊下へ通ずる扉は錠がかかっていて、鍵は内側にあった。四階の廊下のつき当りにある表側の小さな部屋は開かれていて、扉が少しあいていた。この部屋には古い寝台や、箱や、その他のものが詰めこんであった。これらは念入りに取りのけられ捜索された。家じゅう残るくまなく丹念に捜索された。煙突のなかは『煙突掃除器』で上げ下げした。家は屋根裏部屋(マンサルド)のある四階建であった。屋根の引窓はきわめて固く釘《くぎ》づけにされ、――幾年も開かれなかったように見えた。争う声の聞えたときと部屋の扉を押しあけたときとのあいだの時間については、証人らの陳述はさまざまであった。ある者は三分しかたたぬと言い、ある者は五分もたっていたと言った。扉はようようのことで開いた。
 葬儀屋、アルフォンゾ・ガルシオの証言。モルグ街に住んでいる。スペイン生れで、家へ入った者の一人であった。階上へは上がらなかった。神経質なので、興奮の影響を気づかったのである。争う声を聞いた。荒々しい声はフランス人の声であった。なんと言ったのか聞きとれなかった。鋭い声のほうはイギリス人の声であった、――これは確かだ。英語はわからないが、音の抑揚でそうと判断する。
 菓子製造人、アルベルト・モンターニの証言。最初に階段をのぼったなかの一人であった。例の声を聞いた。荒々しい声はフランス人の声であった。いくらか聞きとれた。声の主はたしなめているようだった。鋭い声の言葉はわからなかった。早くて乱れた調子でしゃべっていた。ロシア人の声だと思う。一同の証言を確証する。この証人はイタリア人で、ロシア人と話したことはない。
 再び呼び出された数人の証言したところによれば四階のあらゆる部屋の煙突は、せまくて人間は通れない。『煙突掃除器』というのは、煙突掃除人たちの使うような円筒形の掃除ブラッシのことである。このブラッシを家じゅうのあらゆる煙穴《けむあな》に上げ下げした。一同が階段をのぼってゆくあいだに、人の降りて行けるような通り路は、裏には一つもない。レスパネエ嬢の体は、四、五人が力を合わせなければ引き下ろすことができなかったほど、煙突のなかに強く押しこんであった。
 医師、ポール・デュマの証言。夜明けごろ死体を検視するために呼ばれて行った。そのとき死体は二つとも、レスパネエ嬢の見つかった室の寝台の麻布の上に横たわっていた。若い婦人の死体はひどい打撲傷と擦り傷がついていた。煙突のなかへ突き上げられたために、そんなふうになったものにちがいない。咽喉はひどく擦りむけていた。頤《おとがい》のすぐ下にはいくつかの深い掻き傷があって、明らかに指の痕である鉛色の斑点《はんてん》が一続きに並んでいた。顔面はもの凄《すご》く変色し、眼球は突き出ていた。舌は一部分|噛《か》み切られていた。鳩尾《みぞおち》に、膝《ひざ》を押しつけたためにできたらしい大きな打撲傷が発見された。デュマ氏の鑑定によれば、レスパネエ嬢は誰か一人あるいは数人によって絞殺されたのである。母のほうの死体はおそろしく切りさいなまれていた。右の脚と腕との骨はどれも多少とも砕かれていた。左の脛骨《けいこつ》と左側の全|肋骨《ろっこつ》はひどく折れていた。全身がおそろしく傷つけられ変色していた。この傷害がどうして加えられたかはわからない。木製の重い棍棒《こんぼう》、あるいは鉄製の広い棒――椅子――なにか大きな、重い、鈍い形の凶器を、もし非常な大力の男の手で使ったなら、このような結果が起きたかもしれない。女ではどんな凶器を用いてもこういう危害を加えることはできない。被害者の頭部は、証人の見たときには、すっかり胴から離れて、これもひどく砕かれていた。咽喉は明らかに、なにかたいへん鋭利な刃物で――たぶん剃刀で――切られていた。
 外科医、アレクサンドル・エティエンヌは死体を検視するためにデュマ氏とともに呼ばれた。デュマ氏の証言と鑑定を確証する。
 そのほか数名の者が調べられたが、以上のほかに重要なことはなにも得られなかった。すべての点でこんな不思議な、こんな不可解な殺人事件――まあかりに、ほんとの殺人が行われたものとしてだが――はパリではいままで行われたことがなかった。警察はまったく途方に暮れている。――この種の事件では珍しい出来事である。しかも手がかりらしいものの影もない」

 同紙の夕刊は、サン・ロック区ではまだ大騒ぎがつづいていること、――犯罪の行われた家がふたたび念入りに探索されたこと、改めて証人を呼び出して取り調べたが、なんの得るところもなかったこと、を報じた。しかし、付記として、アドルフ・ル・ボンが、既報の事実以上になにも有罪とすべきところがないにもかかわらず、逮捕されて収容されたことがしるしてあった。
 デュパンはこの事件の進展に奇妙なくらい興味を感じているらしかった。――彼はなにも批評めいたことは言わなかったが、少なくとも私はその態度からそう判断した。彼がこの殺人事件について私の意見を尋ねたのは、ル・ボンが収容されたという報道があってからのちのことだった。
 この事件を解きがたい怪事件と考える点で、私はパリ市民と同じ意見であるにすぎなかった。殺人犯人を探り出す手段は、私には少しもわからなかった。
「こんな見せかけだけの調査で、手段を判断してはならない」とデュパンが言った。「パリの警察は明敏だと褒められているが、ただ小利口なだけなんだよ。彼らのやり方には、ゆきあたりばったりの方法以上に、方法というものがない。彼らは手段をたくさん見せびらかすが、それがときによるとその目的にうまく合っていないのでね。例のジュールダンどのが、|音楽をもっとよく聴くために《プール・ミュウ・ザンタンドル・ラ・ミュジィク》――部屋着《ローブ・ド・シャンブル》を持ってこいと言ったことを思い出させるよ。彼らの達した結果には、ときには驚くべきものがある。が、その大部分は単なる勤勉と活動とで得たものなんだ。この二つが役に立たないときには、彼らの計画は失敗する。たとえば、ヴィドックは推量がうまくて、根気強い男だった。しかし、考えに教養がなくて、いつも調査に熱心すぎるためにしくじっていた。彼は物をあまり近くへ持ってくるので視力を減じたのだ。一、二の点はたぶん非常にはっきり見えたかもしれん。が、そのためにどうしてもものごとを全体として見失うんだね。こういうわけで、あまり考えが深すぎるということがあるものだ。真理は必ずしも井戸のなかにはない。事実、重要なほうの知識となると、それはいつも表面《うわべ》にあるものだと僕は信じる。深さは、真理を探し求める渓谷にあるのであって、その真理が見出される山巓《さんてん》にあるのではない。こういった誤謬の典型は、天体を観察するときのことでよくわかる。星をちらりと見ることが――網膜の外側を(そこは内側よりも弱い光線を感じやすいのだ)星の方へ向けて横目で見ることが、星をはっきり見ることになる、――星の輝きがいちばんよくわかるのだ。その輝きは眼を星に十分に[#「十分に」に傍点]真正面に向けるにつれてぼんやりしてゆく。そりゃああとの場合には実際たくさん光線が眼に入るさ。が前の場合にはもっと安全な感受能力があるのだ。過度の深さは考えを惑わし力を弱める。あまり長く、一心に、あるいはまともに、じっと見ていれば、金星だって大空から消えて見えなくなるかもしれんよ。
 この殺人事件について言えばだ、それについての僕たちの意見を立てる前に、僕たち自身で少し調べてみようじゃないか。調査は僕たちを楽しませてくれるだろうよ。〔楽しみというのはこんな場合に用いるには妙な言葉だと思ったが、私は何も言わなかった〕それにまた、ル・ボンには前に世話になったことがあって、僕はその恩を忘れてはいない。出かけて行って、僕たち自身の眼でその家を調べてみよう。僕は警視総監のG――を知っているから、必要な許可をとるのは簡単だろう」
 許可が得られたので、我々はさっそくモルグ街へと出かけた。そこはリシュリュー街とサン・ロック街との間にあるみすぼらしい通りである。この区域は我々の住んでいた区域とずっと離れているので、そこへ着いたのは午後遅くであった。家はすぐわかった。まだ大勢の人が、べつに目的もないのに好奇心から、しまっている鎧戸を往来の向う側から見上げていたからだ。普通のパリ風の家で、門があり、その片側にガラス窓のついた番小屋があって、窓に一つすべり戸がついていて門番小屋《ロジュ・ド・コンシェルジュ》と記してあった。家へ入る前に我々はその街を通りすぎて行き、横町へ曲り、それからまた曲ってその建物の裏へ出た。――その間、デュパンはその家ばかりではなくあたり全体を実に細かな注意で調べていたが、どんな目的なのか私には見当がつかなかった。
 あと戻りして、――我々はふたたび家の前へ来て、ベルを鳴らし、証明書を見せて、管理人に入れてもらった。二人は階段をのぼり、――レスパネエ嬢の死体の見つかった、被害者二人がまだ横たわっている室へ行った、例のとおり、部屋の乱雑さはそのままにしてあった。私には『ガゼット・デ・トゥリビュノー』に報ぜられていた以上のことはなにも見えなかった。デュパンはなにからなにまで、被害者の死体をも、精細に調べた。我々はそれから他の部屋部屋を歩きまわったり、中庭へ行ったりした。一人の憲兵がずっと付きそってきた。調査は暗くなるまでかかり、それから我々はひき上げた。家へ帰る途中で、私の連れはある新聞社へちょっと立ちよった。
 前に言ったように、友にはさまざまなむら気があって、〔Je les me’nageais〕(私は逆らわないでそっとしておいた)――英語にはこの文句にちょうど当るものがない――であった。ところが今度は、翌日の午《ひる》ごろまでは、この殺人事件に関する会話はいっさいしたくないというのが彼の気分なのであった。その時になると、彼は突然に、凶行の現場にどんなことでも変った[#「変った」に傍点]ことを認めはしなかったかと私に尋ねた。
「変った」という言葉に力を入れた彼の様子には、なぜか知らないがなにか私をぞっとさせるものがあった。
「いいや、変った[#「変った」に傍点]ことってなにもなかったよ」と私は言った。「少なくとも、僕たち二人が新聞で見たこと以上にはなにもね」
「あの『ガゼット』はこの事件の異常な恐ろしさを理解していないようだよ」と彼が答えた。「しかしあんな新聞のくだらん意見なんぞは相手にせずにおこう。この怪事件は解決が容易だと思われるのだが、そう思われる理由のために――つまり、その外観が異様な性質なので――かえって不可解だと考えられている、と僕には思われるのだ。警察は、動機がわからないために――殺人そのものよりも、殺人があまりに凶暴なために当惑している。また、彼らは、あの争っているように聞えた声と、階上には殺されたレスパネエ嬢のほかに誰も見あたらず、また階段をのぼってゆく一行の者に気づかれないで逃げる手段がないという事実との、辻褄《つじつま》を合わせることができないことでも途方に暮れている。部屋がひどく乱雑になっていたこと、死体が頭を下にして煙突のなかに突き上げてあったこと、老夫人の体がむごたらしく切りさいなまれていたこと、などの事実や、さっき言ったこと、それから僕がわざわざ言うまでもない他の事実などは、警察ご自慢の明敏さを完全に参らせてしまって、力をすっかり麻痺《まひ》させてしまったのだね。彼らは、異常なことと難解なこととを混同するという、あの大きな、しかしよくある誤ちに陥っているんだ。だが、かりに理性が真相を探してゆくとすれは、ありきたりの面から離れている点こそ問題なんだよ。我々がいまやっているような調査では、『どんなことが起ったか』ということよりも、『在ったことのなかで、いままでにまったく起ったことのないのはどんなことか』と尋ねなければならない。要するにだ、僕はこの怪事件をやがて解決するだろうが、いや、もう解決してしまっているんだが、その手軽さは、警察の連中の眼に解決不可能と見えるのとちょうど正比例しているんだね」
 私はびっくりして黙ったまま彼を見つめた。
「僕はいま待っているのだ」と彼は、部屋の扉の方に眼をやりながら、言葉をつづけた。――「僕はいま、たぶんこの凶行の犯人ではなかろうが、その犯行にいくらか関わっているにちがいない一人の人間を待っているのだ。この犯罪のもっとも凶悪な部分には、おそらくその男は関係がないだろう。この推定があたっていればいいがと思う。というのは、僕はこの謎《なぞ》全体をこの推定の上に立って解こうとしているんだからね。僕はここで――この部屋で――その男の来るのを今か今かと待ちかまえている。ことによったらその男は来ないかもしれない。が多分来るだろうよ。もしやって来たら、ひきとめなければならない。ここにピストルがある。必要なときには、これをどう使うかということは二人とも知っているはずだ」
 私はピストルを手にしたが、自分のしたことにまるで気もつかず、また自分の聞いたことも信じられなかった。そのあいだにデュパンはまるで独言《ひとりごと》を言っているように話しつづけた。こういうときの彼の放心したような様子については、すでに語ったとおりである。彼は私に話しかけているのだった。が、その声は、決して高くはなかったけれど、誰かずっと遠いところにいる者に話しているときのような抑揚があった。眼は、なんの表情もなくて、ただ壁だけをじっと眺めているのだった。
「階段の上にいた連中の聞いた争うような声が」と彼は言った。「あの二人の女の声ではないということは、証言によって十分に証明された。だから、母親のほうが初めに娘を殺し、そのあとで自殺をしたのではなかろうかという疑いは、いっさいなくなるわけだ。僕は殺人の手段ということのために、この点を話しておくんだよ。レスパネエ夫人の力では、娘の死体をあんなふうに煙突のなかに突き上げるなんてことはとてもできまいし、また彼女自身の体についている傷の性質から言っても、自殺などという考えをぜんぜん許さないものなんだからね。とすると、殺人は誰か第三者がやったのだ。そしてこの第三者の声が、争っているように聞えた声だったのだ。今度は、――この声についての証言全体ではなく――その証言のなかの特異な[#「特異な」に傍点]点を、注意してみようじゃないか。君はそれについて何か妙なことに気づかなかったかね?」
 私は荒々しい声をフランス人の声だと推定することにはすべての証人の意見が一致しているのに、あの鋭い、あるいは一人の証人の言うところによれば耳ざわりな、声に関してはひどい意見の相違がある、ということを言った。
「それは証言そのものなんだ」とデュパンが言った。「だが証言の特異な点じゃない。君は特殊なことはなにも気づかなかったんだね。しかし何か気づくべきものがたしかにあった[#「あった」に傍点]のだ。君の言うとおり、証人たちは荒々しい声については意見が一致していた。この点では彼らは一人残らず異議がなかった。けれども鋭いほうの声に関しては、その特異な点は、――彼らの意見が異なっていたということではなくて――イタリア人と、イギリス人と、スペイン人と、オランダ人と、フランス人とがそれを説明しようとしているのに、めいめいがみんなそれを外国人[#「外国人」に傍点]の声だと言っていることなのだ。一人一人がみんな自分の国の者の声ではなかったと信じている。みんながそれを――自分がその国語を知っている国の人の声と思わないで――その反対に思っている。フランス人はスペイン人の声だと思い、『自分がスペイン語を知っていたなら[#「自分がスペイン語を知っていたなら」に傍点]いくつか言葉を聞きとれたかもしれない』などと言っている。オランダ人はフランス人の声だと言っているが、『フランス語がわからないので、この証人は通訳をとおして調べられた[#「フランス語がわからないので、この証人は通訳をとおして調べられた」に傍点]』と書いてある。イギリス人はドイツ人の声だと考えているが、『ドイツ語はわからない[#「ドイツ語はわからない」に傍点]』のだ。スペイン人はイギリス人の声であることは『確かだ』と思っているが、『彼は英語を少しも知らないので[#「彼は英語を少しも知らないので」に傍点]』、ぜんぜん『音の抑揚で判断する』のだ。イタリア人はロシア人の声と信じているが、『ロシア人と話したことはない[#「ロシア人と話したことはない」に傍点]』のだ。そのうえ、もう一人のフランス人は、前のフランス人と違って、その声をイタリア人の声だと思いこんでいるが、その国語を知らないので[#「その国語を知らないので」に傍点]、スペイン人と同様に『音の抑揚で確信』しているのだ。さて、こういう証言の得られる[#「れる」に傍点]声というのは、ほんとうに実に奇妙なただならぬものだったにちがいないね! ――その声の調子[#「調子」に傍点]には、ヨーロッパの五大国の人間にさえ聞きなれたところが少しもなかったんだぜ! 君はアジア人の――アフリカ人の声だったかもしれんと言うだろう。アジア人もアフリカ人もパリにはたくさんいない。が、その推定を否定しないで、僕は単に今、三つの点を君に注意してもらいたい。その声を一人の証人は『鋭いというよりも耳ざわりな』ものと言っている。他の二人は『速くて高低のある[#「高低のある」に傍点]』ものであったと言っている。どの証人も、言葉――言葉に似た音――を聞きとれたとは言っていない」
「僕がこれまで」とデュパンはつづけて言った。「君の理解力にどんな印象を与えたかは知らない。が僕は、証言のこの部分――あの荒々しい声と鋭い声とについての部分――だけからの正しい推定でも、この怪事件の調査の今後いっさいの進展に一つの方向を与える十分な手がかりになると、はっきり言いきれるね。いま『正しい推定』と言ったが、これでは僕の言いたいところは十分に言いあらわせない。僕は、その推定は唯一の[#「唯一の」に傍点]正しい推定であるということ、また、その手がかりはそのただ一つの結果としてそれから必ず[#「必ず」に傍点]起ってくるものであるということ、を言いたかったのだ。だが、その手がかりというのがどんなものかは、今すぐは言わないでおこう。ただ、それは僕にとっては、あの室内での僕の調査に、ある一定の形――ある確実な傾向――を与えるに足りるほど力のあるものだった、ということを心にとめてもらいたい。
 いま、かりに、二人があの部屋へ行くとしてみよう。第一に僕たちはそこでなにを探すだろう? 殺人犯人の逃走した手段さ。僕たち二人とも超自然的なことなど信じはしないのだ。レスパネエ夫人親子は幽霊に殺されたんじゃない。殺人をやった者は実体のあるもので、その実体で逃げたんだ。ではどうしてか? 幸いにも、この点については唯一の推理の方法があって、その方法がある一定の結論に導いてくれるにちがいない[#「ちがいない」に傍点]。――逃走できる手段を一つ一つ調べてみようじゃないか。一同が階段をのぼっていたとき、レスパネエ嬢の見出された室か、少なくともその隣の室に、加害者がいたことは明らかだ。とすると、出口を探さなければならんのはこの二つの部屋だけだね。警察は床や、天井や、璧の石を、四方八方はいでみた。どんな秘密の[#「秘密の」に傍点]出口があっても彼らの眼にとまらぬはずはない。しかし、僕は彼らの[#「彼らの」に傍点]眼に頼らないで、自分自身の眼で調べてみた。と、ほんとに秘密の出口なんぞは一つもなかった[#「なかった」に傍点]。部屋から廊下へ出る扉は二つとも、しっかり錠がかかっていて、鍵が内側にあった。今度は煙突を見ようじゃないか。これは炉の上八、九フィートばかりは普通の広さだが、それから先はずっと、猫でも大きいのは通れはしないだろう。いままで言った手段で逃げ出ることの不可能なのはこれで確実だから、もう残っているのは窓だけになる。表の部屋の窓からは、誰だって通りにいる群集の眼にとまらないで逃げることができるはずがない。とすると、犯人は裏の部屋の窓から出たにちがいない[#「ちがいない」に傍点]のだ。さて、この断定に、こういうはっきりした方法で来たからには、それが一見不可能に見えるという理由でしりぞけるということは、僕たち推理家のすべきことではない。この一見『不可能』らしく見えることが実際はそうではないということを証明することが、僕たちに残されているだけなんだ。
 あの室には窓が二つある。一つは家具などの邪魔がなくて、すっかり見える。もう一つの窓は、かさばった寝台の頭がそれにぴったり押しつけてあるために、下の方が隠れて見えなくなっている。初めに言った窓は内からしっかりとしめてあった。それを上げようとした人たちが全力を出してみたが上がらなかった。窓枠《まどわく》の左の方に大きな錐穴《きりあな》があけてあって、非常に太い釘がほとんど頭のところまで打ちこんであった。もう一つの窓を調べると、同様な釘が同様に打ちこんであった。そしてこの窓枠を力をこめて上げようとしてみたが、やっぱり駄目だった。そこで警察の連中はもうこの方面から出たのではないとすっかり思いこんでしまったのだ。だから[#「だから」に傍点]釘を抜いて窓をあけてみることは余計なことだと考えたんだよ。
 僕自身の調査はもう少し念入りだった。それはさっき言ったような理由から念入りにやったのさ。――つまり、一見不可能らしく見えるすべてのことが実際はそうでないということを証明しなければならん[#「しなければならん」に傍点]のは、この点にあるのだ、ということを僕は知っていたんだから。
 僕はこんなふうに――帰納的《ア・ポステリオリ》に――考えを進めた。犯人はこの二つの窓のどちらからか逃げたに決っている[#「決っている」に傍点]。そうだとすれば、窓は内側からふたたびあのようにしめることはできなかったはずだ。――こいつが、それが実に明瞭であるために、警察がこの方面の調査をやめにしたわけなんだがね。それだのに窓枠はしまっていた[#「いた」に傍点]。とすると、窓にはひとりでしまる力がなければならん[#「なければならん」に傍点]ことになる。この断定には逃げ道がないのだ。僕は邪魔のないほうの窓のところへ歩いて行って、ちょっと骨を折って釘を引き抜き、それから窓枠を上げようとしてみた。一所懸命にやってみたが、僕の予想していたとおり、それは上がらなかった。そこで僕は隠し弾機《ばね》があるにちがいないと気がついた。そしてまたこんなふうに自分の考えが確かめられてきたので、僕は、釘に関する事情がまだどんなに不思議に見えても、少なくとも僕の前提が正しいということがわかってきた。念入りに探してみると、すぐに隠し弾機が見つかった。僕はそれを押してみて、この発見に満足して、窓をあけることはしなかった。
 そこで今度は、釘をもとのとおりにさして、それを注意ぶかく眺めた。この窓から出た人間は窓をまたしめたかもしれない、そして弾機はかかったろう、――が釘はどうしてももとのとおりさせるはずがない。この断定は明らかで、ふたたび僕の調査の範囲はせばまった。加害者はもう一つの窓から逃げたにちがいない[#「ちがいない」に傍点]のだ。そこで、両方の窓枠についている弾機が同じだと想像すれば、両方の釘に、あるいは少なくともその釘のさしこみ方に、相違がなければならん[#「なければならん」に傍点]わけだ。僕は寝台の麻布の上へ上がって、その頭板の上から第二の窓を丹念に調べてみた。板のうしろへ手を下ろしてみると、すぐ弾機が見つかったので、押してみたが、想像していたとおり、その弾機は第一の窓についていたのと同じ性質のものだった。今度は釘を見た。それは前のと同じく丈夫なもので、見たところ、同じようなぐあいに――ほとんど頭のところまで――打ちこんであった。
 僕が途方に暮れたろうと、君は言うだろう。が、もしそう考えるなら、君は帰納的推理ということの性質を誤解しているにちがいない。猟の言葉を用いて言うなら、僕は一度も『嗅《か》ぎそこない』はしなかったのだ。臭跡《においあと》がちょっとの間も失わなかったんだ。鎖の環《わ》は一つも切れていないのだぜ。僕はこの秘密をとことんの結果までたどって行った。――そしてその結果というのは、その釘[#「その釘」に傍点]なのだ。それは実際あらゆる点で第一の窓にあるのと同じ様子をしていた。が、この事実なんぞは、(決定的なものに見えるかもしれないが)ここで、この点で、手がかりが終っているという事情と比べればぜんぜん無力なものだよ。『釘になにか変ったことがあるにちがいない[#「ちがいない」に傍点]』と僕は言った。僕はそれにさわってみた。すると、その頭のほうが、四分の一インチほどの釘身《ていしん》がついたまま、ぼろりと取れて僕の指に残った。釘身の残りは錐穴のなかにあって、折れたままになっていた。折れたのは古くのことで(というわけは先がすっかり錆《さ》びていたからだ)、鉄鎚《かなづち》で打ちこまれたときにそうなったらしい。その鉄鎚で、釘の頭の部分は下の窓枠の上にいくらか入ったのだ。今度はこの頭の部分をもとの穴へ注意深くはめてみた。するとまったく完全な釘と見え、――折れ目は見えなくなった。僕は弾機を押して、窓枠をそっと二、三インチ上げてみた。釘の頭は、しっかりその穴にはまったまま、それと一緒に上がった。窓をしめると、また完全な一本の釘のように見えた。
 謎はここまではもう解けたのだ。加害者は寝台に面している窓から逃げたんだよ。彼が出ると窓はひとりでに落ちて(あるいはわざとしめたのかもしれんが)、弾機でしっかりしまってしまった。そして、この弾機でしまっているのを警察は釘でしまっているのだと思い違いをして、――それ以上調査することは不必要だと考えた、というわけさ。
 つぎの問題は下へ降りる方法だ。この点については、僕は君と一緒にあの建物のまわりを歩いているあいだにわかっていた。例の窓から五フィート半ばかり離れたところに避雷針が通っている。この避雷針から窓へ直接手をかけることは誰にだってできないだろう。入ることは言うまでもない。だが、僕は、あの四階の鎧戸がパリの大工がフェラードと言っている特殊な種類のものであることに眼をとめた。――いまではめったに用いられないが、リヨンやボルドーなどのごく古い屋敷によく見られる種類のものだね。普通の扉(両開き扉ではなくて一枚扉)のようになっていて、ただ違うのは上半分が格子造り、すなわち格子細工になっていることだ。――だから手をかけるにすこぶる都合がいい。さていまの場合では、この鎧戸は幅がたっぷり三フィート半もある。僕たちが家のうしろから見たときには、この鎧戸は二つとも半分ほど開いていた。――つまり、壁と直角になっていた。警察の連中も僕と同様に家のうしろを調べたろう。が、それにしても、このフェラードを正面から見たので(そうにちがいない)、彼らはあの幅の大きいことに気がつかなかったか、なんにしてもそれを考えに入れなかったのだ。実際、この方面から逃げ出たはずがないといったん思いこんでしまったので、自然ここはざっとしか調べなかったんだろうな。しかし僕には、寝台の頭のほうの窓にある鎧戸を十分に壁の方へ押し開けば、避雷針から二フィート以内のところまでとどく、ということは明らかだった。また、ごく並外れた勇気と活動力とがあれば、避雷針からこうして窓の内へ入ることができたかもしれない、ということも明らかだった。――二フィート半も手をのばせば(いまその鎧戸がすっかり開いていると想像して)、強盗は格子細工のところをしっかり掴むことができたろう。それから、避雷針をはなし、足をしっかり壁にかけて踏んばり、思いきってそれを蹴《け》ると、鎧戸はあおりをくってばっとしまるだろう。そして、そのとき窓があいていたと想像すれば、部屋のなかへまで跳びこむことができるのだ。
 こういうきわどい、こういうむずかしい離れわざをうまくやってのけるには、ごく[#「ごく」に傍点]並外れた活動力が要る、と僕が言ったのを特に覚えていてもらいたい。第一には、そんなこともやれたかもしれんということを君に示すのが僕の意図だ。――が、第二には、そしてこのほうが主なんだが[#「主なんだが」に傍点]、そんなことをやる敏捷さはごく異常な[#「敏捷さはごく異常な」に傍点]――ほとんど超自然的な性質のものだということを君によくわかってもらいたいのだ。
 君はきっと、法律の術語を使って、『自己の陳述を立証する』ためには、この事件に要せられた活動力を十分に評価するよりも、むしろそれを低く評価すべきではないか、と言うだろう。法律の慣例ではそうかもしれんが、理論ではそうはいかない。僕の最後の目的は真実だけだ。で、さしあたっての目的は、いま言ったそのごく並外れた[#「並外れた」に傍点]活動力と、どこの国の言葉か一人一人の意見がみなまちまちで、ひと言も聞きわけられなかった、あのごく特異な[#「ごく特異な」に傍点]鋭い(あるいは耳ざわりな)、高低のある[#「高低のある」に傍点]声とを、君に考え合せてもらいたいことなんだよ」
 こう言われると、デュパンの言っていることの意味の、おぼろげな、いくらか形をなした概念が、私の心をかすめた。私は今にもわかりかけているようで、わからなかった。――ちょうど人がときどき、いまにも思い出せそうで、結局は思い出せないといったことがあるように。友は話をつづけた。
「僕が問題を、逃げ出す手段から」と彼が言った。「入りこむ手段に移したことは、君にはわかっているだろう。出るのも入るのも、同じ場所から、同じ手段で、やったのだということを暗示したかったのだ。今度は部屋のなかへ戻ってみよう。そこの有様を調べてみようじゃないか。箪笥《たんす》の引出しは、たくさんの衣類がなかに残ってはいるが、かすめ取られていたとのことだね。この断定はおかしい。これは単なる推測だ、――まったくばかげた推測だ、――それ以上のものじゃない。そのとき引出しのなかに入っていたものが初めから引出しのなかにあったものの全部ではないということが、どうしてわかるか? レスパネエ夫人とその娘とはごくひっそりと生活をしていた。――客もなかったし、――めったに出かけなかったし、――たくさんの着替えの衣装もいらなかった。あのなかにあったものは、この女たちの持っていそうなもののなかではいちばん上等な質《たち》のものだった。もし泥坊がなにかを取って行ったとしたならなぜいちばんいいのを取って行かなかったか――なぜみんな取って行かなかったか? 要するに、なぜひとかかえの衣類なんぞに手を出して、四千フランの金貨を残しておいて行ったか? 金貨は残しておいてあった[#「あった」に傍点]んだぜ。銀行家のミニョー氏の言ったほとんど全額が、袋に入ったまま床の上にあったんだぜ。だから、家の扉のところで金が渡されたという証言のために警察の連中の頭のなかに浮んだ、動機[#「動機」に傍点]についてのまちがった考えなんぞは、君には振りすててもらいたいね。こんなこと(金が渡されて、それを受け取った者がそれから三日以内に殺されたということ)などよりも十倍も不思議な暗合が、僕たちみんなに、生涯の毎時間ごとに、ほんのちょっとした注意もひかないで、起っているのだ。一般に暗合というものは、蓋然性《プロパビリティ》の理論――人間の研究のもっとも輝かしい対象にもっとも輝かしい例証を与えているあの理論――を少しも知らないように教育された思索家たちには大きな障害物なんだ。今度の場合では、もし金がなくなっていたのなら、三日前にそれを渡したという事実は、暗合以上のあるものとなったかもしれない。動機についての例の考えを確実にするものであったかもしれない。しかし、今度の場合のほんとうの事情の下では、金がこの凶行の動機だと考えるならば、僕たちはその犯人を、金も動機も一緒に投げすててしまうような、ぐうたらな馬鹿者だと思わなければならないことになるわけだよ。
 今度は、僕がいままで君の注意をひいた点――あの特異な声と、あの並外れた敏捷《びんしょう》さと、こんなに珍しく残忍な殺人にまるで動機がないという驚くべき事実と――をしっかり心にとめておいて、凶行そのものをざっと見てみようじゃないか。一人の女が腕力で絞め殺されて、頭を下にして煙突に突き上げられている。普通の殺人犯はこんな殺し方はしないね。ことに、殺した人間をこんなふうに始末することはないよ。死体を煙突へ突き上げるというやり方には、なにかひどく[#「ひどく」に傍点]異様《ウトレ》なところ――たとえそれをやった奴が人間のなかでもっとも凶悪な奴と想像してみても、なにか人間業という普通の考え方とはまるで相容《あいい》れないもの――があることを、君は認めるだろう。また、四、五人もの人間が力を合わせてやっと引きおろす[#「おろす」に傍点]ことができたほど、その隙間にそんなに強く死体を突き上げた[#「上げた」に傍点]力というのはなんと大したものか! ということを考えてみたまえ。
 今度は、実に驚くべき力を用いた証拠がもう一つあるのを見よう。炉の上には人間の灰色の髪の毛のふさふさした束――非常にふさふさした束――があった。これは根元から引き抜いたものだった。頭からこんなふうに二、三十本の髪の毛だって一緒にむしり取るには大した力のいることは君も知っているだろう。君も僕と同様その髪の毛を見たんだ。あの根には(ぞっとするが!)頭の皮の肉がちぎれてくっついていたね。――まったく一時に何十万本の髪の毛をひっこ抜くときに出すような恐ろしい力の証拠だ。老夫人の咽喉はただ切られていただけではなく、頭が胴からすっかり離れてしまっていた。道具はただの剃刀なんだぜ。このやり方の獣的な[#「獣的な」に傍点]残忍性も見てもらいたい。レスパネエ夫人の体にある打撲傷のことは僕は言わない。デュマ氏と、その助手のエティエンヌ氏とは、それはなにか鈍い形の道具でやったものだと言っている。そこまではこの方々の説はまことに正しい。鈍い形の道具というのは明らかに中庭の舗石なのだ。被害者は寝台の上にあるほうのあの窓からそこへ落ちたのだよ。この考えは、いまから見ればどんなに単純なものに見えようとも、鎧戸の幅に気がつかなかったと同じ理由で、警察の連中には気がつかなかったのだ。――なぜかと言えば、釘があんなふうになっていたので、彼らは窓があけられたかもしれんということなどはまるで考えなかったんだからね。
 いまもし君が、こういうようなすべての事がらに加えて、部屋がへんに乱雑になっていたことを正しく考えてみるなら、僕たちはいよいよ、驚くべき敏捷さ、超人間的な力、獣的な残忍性、動機のない惨殺、まったく人間離れのした恐ろしい奇怪な行為、いろんな国の人たちの耳にも聞き慣れない調子の、はっきり理解できる言葉がひと言も聞きとれなかったという声、などの観念を結びつけるところまできたのだ。とすると、どんな結果になるかね? 君の想像に僕はどんな印象を与えたかね?」
 デュパンがこう尋ねたとき、私は思わずぞっとしたのだった。「狂人がやったんだね」と私は言った。「――誰か近所の癲狂院《メゾン・ド・サンテ》から逃げ出した狂躁《きょうそう》性の気違いが」
「ある点では」と彼が答えた。「君の考えは見当違いじゃないよ。だが、狂人の声は発作のもっともはげしいときでも、階段のところで聞えたあの変な声と決して符合するものではないね。狂人だってどこかの国の人間だし、その言葉は、たとえ一語一語がどんなに切れ切れでも、音節はいつもちゃんとくっついているはずだよ。そのうえに、狂人の髪の毛は僕がいまこの手に持っているようなこんなものじゃあない。僕はこの少しの束を、レスパネエ夫人の固くつかんでいた指からほどいたんだ。君はこれを何だと思う?」
「デュパン!」と、私はすっかりびくついて言った。「この髪の毛はとても変だね、――これは人間の毛[#「人間の毛」に傍点]じゃないよ」
「僕も人間の毛だとは言っちゃいないのだ」と彼が言った。「しかし、この点をきめる前に、この紙にここに僕が描いておいた小さな見取図をちょっと見てもらいたいな。これは、証言のある部分にレスパネエ嬢の咽喉にある『黒ずんだ傷と、深い爪の痕』と記されてあり、また他の部分に(デュマとエティエンヌとの両氏によって)『明らかに指の痕である一つづきの鉛色の斑点』と書かれているものの模写なんだ」
「君も気づくだろうが」と友は、テーブルの上に、二人の前へその紙をひろげながら、つづけて言った。「この図を見ると、固くしっかりとつかんだことがわかる。指のすべった[#「すべった」に傍点]様子もない。一本一本の指が、初めにつかんだとおりに、――おそらく相手の死ぬまで――ぎゅっとつかんだままだったのだ。今度は、これに描いてある一つ一つの跡に、君の指をみんな、同時に、あててみたまえ」
 私はやってみたが駄目だった。
「それではまだほんとに試したんじゃないかもしれないな」と彼は言った。「この紙は平面になってひろがっている。が人間の咽喉は円筒形だ。ここに咽喉くらいの太さの棒切れがある。その図をこいつに巻いて、もう一度やってみたまえ」
 私は言われたとおりにやってみた。ができないことは前よりもいっそうはっきりした。「こりゃあ人間の指の痕じゃないよ」と私は言った。
「じゃあ今度は」とデュパンが答えた。「キュヴィエのこの章を読んでみたまえ」
 それは東インド諸島に棲《す》む黄褐色の大猩々《おおしょうじょう》を解剖学的に、叙述的に、詳しく書いた記事であった。この動物の巨大な身長や、非常な膂力《りょりょく》と活動力や、凶猛な残忍性や、模倣性などは、すべての人によく知られているところである。私はあの殺人が凄惨を極めているわけをすぐに悟った。
「指について書いてあることは」と、私は読み終えると言った。「この図とぴったり一致しているね。なるほど、ここに書いてある種の猩々でなければ、君の描いたような痕はつけられまい。この朽葉色の髪の毛の束も、キュヴィエの書いている獣のと同じ性質のものだ。しかし、僕にはとてもこの恐ろしい怪事件の細かいところはわからないね。そのうえ、争っていたような声が二つ[#「二つ」に傍点]聞えて、一つはたしかにフランス人の声だったと言うんだからねえ」
「そうさ。それから君は、この声について証言がほとんどみんな一致してあげている言葉――あの『|こらッ《モン・ディユ》!』という言葉を覚えているだろう。証人の一人(菓子製造人のモンターニ)がこれをたしなめる、または諫《いさ》める言葉だと言っているが、それはこの場合もっともなんだ。そこで、僕は謎を完全に解く自分の見込みを、この二つの言葉の上に主として立てているんだよ。一人のフランス人がこの殺人を知っていたのだ。彼はその凶行には少しも加わっていないということはありうる。――いやおそらくたしかにそうだろう。猩々はその男のところから逃げたのかもしれない。彼はそのあとを追ってあの部屋のところへまで行ったのかもしれない。が、その後のあの騒ぎのために、とうとう捕えることができなかったのだ。猩々はまだつかまらないでいるのだ。こういう推測――それ以上のものだという権利は僕にはないからね――を僕はこのうえつづけないことにする。なぜなら、この推測の基礎になっているぼんやりした考察は、僕自身の理知で認めることのできるほどの深さを持ってはいないのだし、また、それを他人に理解させようなんて、できることとは思えないからね。だから、それをただ推測と見なして、推測として話すことにしよう。もし、そのフランス人が僕の想像どおり実際この凶行に関係がないとするなら、昨晩、僕が帰りに『ル・モンド』(これは海運業専門の新聞で、水夫たちのよく読むものだ)社へ頼んでおいたこの広告を見て、その男はきっとこの家へやって来るだろうよ」
 彼は私に一枚の新聞を渡した。それには次のように書いてあった。


「捕獲。――ボルネオ種のたいそう大きい黄褐色の猩々一匹。本月――日早朝〔殺人事件のあった朝〕、ボア・ド・ブローニュにて。所有者(マルタ島船舶の船員なりと判明した)は、自己の所有なることを十分に証明し、その捕獲および保管に要した若干の費用を支払われるならば、その動物を受け取ることができる。郭外《フォーブール》サン・ジェルマン――街――番地四階へ来訪されたし」

「どうしてその男が船員で、マルタ島船舶の乗組員だということが、君にわかったかね?」と私は尋ねた。
「僕にはわかっていない[#「いない」に傍点]のだ」とデュパンが言った。「僕もたしかには[#「たしかには」に傍点]知らないのさ。が、ここにリボンのきれっぱしがある。この形や、脂じみているところなどから見ると、明らかにあの水夫たちの好んでやる長い辮髪《べんぱつ》を結わえるのに使っていたものだよ。そのうえ、この結び方は船乗り以外の者にはめったに結わえないものだし、またマルタ人独得のものなんだ。僕はこのリボンを避雷針の下で拾ったんだ。被害者のどちらかのものであるはずはない。ところで、もしこのリボンから僕がそのフランス人をマルタ島船舶の乗組員だと推理したことがまちがっているとしてもだ、広告にああ書いても少しも差支えはないよ。もしまちがっているなら、彼はただ僕が何かの事情で考え違いをしたのだと思って、それについて詮議《せんぎ》したりなどしないだろう。ところが、もしそれが当っているなら、大きな利益が得られるというものだ。そのフランス人は、殺人には無関係だが、それを知っているので、当然、その広告に応ずることを――猩々を受け取りに来ることを――ためらうだろう。彼はこう考えるだろう、――『己《おれ》には罪はない。己は貧乏だ。己の猩々は大した値打ちのものだ、――己のような身分の者には、あれだけでりっぱな財産なんだ、――危険だなんてくだらん懸念のために、あれをなくしてたまるものかい? あれはいますぐ己の手に入るところにあるのだ。あの凶行の場所からずっと離れた――ボア・ド・ブローニュで見つかったんだ。知恵もない畜生があんなことをしようとは、どうして思われよう? 警察は途方に暮れているのだ。――少しの手がかりもつかめないのだ。あの獣のやったことを探り出したにしたところで、己があの人殺しを知っていることの証拠は挙げられまいし、また知っていたからって己を罪に巻きこむことはできまい。ことに、己のことは、わかっているのだ[#「己のことは、わかっているのだ」に傍点]。広告主は己をあの獣の所有者だと言っている。彼がどのくらいのところまで知っているのか、己にはわからない。己のものだとわかっている、あんな大きな値打ちの持物をもらいに行かなかったら、少なくとも猩々に嫌疑がかかりやすくなるだろう。己にでも猩々にでも注意をひくということは利口なことじゃない。広告に応じて、猩々をもらってきて、この事件が鎮まってしまうまで、あいつを隠しておくことにしよう』というふうにね」
 このとき、階段をのぼってくる足音が聞えた。
「ピストルを用意したまえ」とデュパンが言った。「しかし僕が合図をするまでは撃ったり見せたりしちゃあいけないぜ」
 家の玄関の扉はあけっ放しになっていたので、その訪問者はベルを鳴らさないで入り、階段を数歩のぼってきた。しかし、そこでためらっているようだった。やがて、その男が降りてゆくのが聞えた。デュパンは急いで扉のところへ歩みよったが、そのときふたたびのぼってくる音が聞えた。今度はあと戻りせず、しっかりした足どりでのぼってきて、我々の部屋の扉をとんとんと叩いた。
「お入りなさい」と、デュパンが快活な親しみのある調子で言った。
 一人の男が入ってきた。まちがいもなく水夫だ。――背の高い、頑丈な、力のありそうな男で、どこか向う見ずな顔つきをしているが、まんざら無愛想な顔でもない。ひどく日焦《ひや》けしたその顔は、半分以上、頬髯《ほおひげ》や口髭《くちひげ》に隠れている。大きな樫《かし》の棍棒をたずさえていたが、そのほかには何も武器は持っていないらしい。彼はぎごちなくお辞儀をして、「こんばんは」と挨拶した。そのフランス語の調子は、多少ヌーフシャテル訛《なま》りがあったが、それでもりっぱにパリ生れであることを示すものだった。
「やあ、おかけなさい」とデュパンが言った。「あなたは猩々のことでお訪ねになったのでしょうな。いや、たしかに、あれを持っておられるのは羨《うらや》ましいくらいだ。実にりっぱなものだし、無論ずいぶん高価なものにちがいない。あれは何歳くらいだと思いますかね?」
 その水夫は、なにか重荷を下ろしたといったような様子で、長い溜息《ためいき》をつき、それからしっかりした調子で答えた。
「わたしにはわからないんです、――が、せいぜい四歳か五歳くらいでしょう。ここに置いてくだすったんですか?」
「いやいや、ここにはあれを入れるに都合のいいところがありません。すぐ近所のデュブール街の貸廐《かしうまや》に置いてあるのです。あすの朝お渡ししましょう。もちろん、あなたは自分のものだということの証明はできるでしょうな?」
「ええ、できますとも」
「私はあれを手放すのが惜しいような気がしますよ」とデュパンが言った。
「あなたにいろいろこんなお手数をおかけして、なんのお礼もしないというようなつもりはありません」とその男は言った。「そんなことは思いもよらなかったことです。あれを見つけてくだすったお礼は――相当のことならなんでも――喜んでするつもりです」
「なるほど」と友は答えた。「それはいかにもたいそう結構です。こうっと! ――なにをいただこうかな? おお! そうだ。お礼はこういうことにしてもらおう。あのモルグ街の殺人事件について、君の知っているだけのことを、一つ残らずみんな話してくれたまえ」
 デュパンはこのあとのほうの言葉を、非常に低い調子で、非常に静かに言った。また、同じように静かに扉の方へ歩いて行って、それに錠を下ろし、その鍵をポケットに入れた。それから彼は懐中からピストルを出し、まったく落ちつき払ってそれをテーブルの上に置いた。
 水夫の顔は、ちょうど窒息しかけて苦しんでいるかのように、赤くなった。彼はすっくと立ち上がって、棍棒を握った。しかし次の瞬間には椅子にどっかと腰を下ろし、がたがた震えて、まるで死人のような顔色になってしまった。彼はひと言も口を利かなかった。私は心の底からこの男をかわいそうに思った。
「ねえ、君」と、デュパンは親切な調子で言った。「君は必要もないのにびくついているんだ、――まったくさ。僕たちはなにも悪気《わるぎ》があってするのじゃない。僕たちが君になんの危害を加えるつもりもないことを私は紳士としての、またフランス人としての名誉にかけて誓う。君があのモルグ街の凶行について罪のないことは私はよく知っている。しかし、君があれにいくらか関係があるということを否定するのはよくない。いま言ったことから、私がこの事件について知る手段を持っていたことは、君にはわかるはずだ、――君には夢にも思えない手段だがね。いま、問題はこんなことになっているのだ。君は避けうることは何もしなかったし、――またたしかに罪になるようなことは何もしなかった。君は罪にならずに盗めるときに、盗みの罪さえ犯さなかったのだ。君にはなにも隠すことはない。隠す理由もない。一方、君はぜひとも君の知っているだけのことをみんな白状する義務がある。一人の罪のない男がいま牢《ろう》に入れられているのだが、その男に負わされた罪の下手人を君は指し示すことができるのだ」
 デュパンがこう言っているあいだに、水夫はよほど落ちつきを取りもどしてきた。しかし、彼の初めの大胆な態度はもうまるでなくなってしまった。
「じゃあ、ほんとうに」と、しばらくたってから彼は言った。「あの事件についてわたしの知っていることをすっかりお話ししましょう[#「しましょう」に傍点]。――だが、わたしの言うことの半分でもあんたが信じてくださろうとは思いません。――そんなことを思うなら、それこそわたしは馬鹿です。でも、わたしには罪はないのです[#「のです」に傍点]。だから、殺されたっていいから、残らずうち明けましょう」
 この男の述べたことは大体こうであった。彼は近ごろインド群島へ航海してきた。彼の加わっていた一行が、ボルネオに上陸し、奥地の方へ遊びの旅行で入って行った。そのとき、彼と一人の仲間とが猩々を捕えたのだ。この仲間の男が死んだので、その動物は彼一人のものになった。そいつの手に負えない獰猛《どうもう》さのために、帰りの航海のあいだじゅう彼はずいぶん困ったが、とうとうパリの自分の家に無事に入れてしまうことができた。そして近所の人々が自分に不愉快な好奇心を向けないように、猩々が船中で、木片で傷つけた足の傷が癒《なお》るまで、注意深くかくまっておいた。それを売ろうというのが、彼の最後の目的だったのだ。
 あの殺人のあった夜、いや、もっと正確に言えばあの朝、彼は船乗りたちの遊びから帰ってくると、その獣が、厳重に閉じこめておいたと思っていた隣の小部屋から、自分の寝室の中へ入りこんでいるのを見つけたのだった。猩々は剃刀を手に持ち、石鹸泡《せっけんあわ》を一面に塗って、鏡の前に坐って顔を剃《そ》ろうとしていた。前に主人のやるのを小部屋の鍵穴からのぞいていたものにちがいない。そんな危険な凶器が、そんな凶猛な、しかもそれをよく使うことのできる獣の手にあるのを見て度胆を抜かれてしまい、その男はしばらくはどうしていいか途方に暮れた。しかし、彼はそいつがどんなに荒れ狂っているときでも、鞭《むち》を使って鎮めるのに慣れていたので、今度もそれをやってみようとした。その鞭を見ると猩々はたちまち部屋の扉から跳び出し、階段を駆けおり、それから運わるく開いていた一つの窓から街路へと跳び出したのであった。
 そのフランス人は絶望しながらもあとを追った。猩々はなおも剃刀を手にしたまま、ときどき立ち止って振りかえり、ほとんど追いつかれそうになるまで、手まねをして見せた。それからまた逃げ出した。こんなふうにして追跡は長いあいだ続いた。かれこれ朝の三時ごろのことであったから、街路はひっそりと静まりかえっていた。モルグ街の裏の小路へ通りかかったとき、レスパネエ夫人の家の四階の部屋の開いた窓から洩れる明りに、猩々は注意をひかれた。その家の方へ走りより、避雷針を眼にとめると、想像もつかぬほどのすばやさでよじ登り、壁のところまですっかり押し開かれていた鎧戸をつかみ、その鎧戸で寝台の頭板のところへじかに跳びついた。これだけの離れわざが一分もかからなかったのだ。鎧戸は猩々が部屋へ入ったとき蹴かえされてふたたび開いた。
 その間、水夫は喜びもしたが、当惑もした。猩々の跳びこんでいった罠《わな》からは避雷針のほかには逃げ路はほとんどないのだし、その避雷針を降りてくれば取り押えることができようから、彼は今度こそつかまえられるという強い希望を持った。また一方では、家のなかでなにをするかという心配が多分にあった。この後のほうの考えから彼はなおも猩々のあとを追った。避雷針は造作なくのぼれるし、ことに船乗りにはなんでもない。だが、彼が左方ずっと離れたところにある窓の高さまで行きつくと、それから先は進めなかった。せいぜいできることは、身を伸ばして部屋のなかをちらりと覗《のぞ》くことだけだった。そうして覗くと、彼はあまりの怖ろしさに、つかまっている手を危うく放しそうになった。モルグ街の住民の夢を破ったあの恐ろしい悲鳴が夜の静寂のなかに響きわたったのは、このときのことであった。寝衣《ねまき》を着たレスパネエ夫人と娘とは、部屋の真ん中に引き出してある、前に述べたあの鉄の箱のなかのなにかの書類を整理していたらしい。それはあけてあって、なかの物はその側の床の上に置いてあった。被害者たちは窓の方へ背を向けて坐っていたにちがいない。そして猩々の入りこんだのと、悲鳴のしたのとのあいだに経過した時間から考えると、すぐには猩々に気がつかなかったらしい。鎧戸のばたばたした音はきっと風の音だと思われたのであろう。
 水夫が覗きこんだとき、その巨大な動物はレスパネエ夫人の髪の毛(ちょうど梳《す》いていたので解いてあった)をつかんで、床屋の手ぶりをまねて、彼女の顔のあたりに剃刀を振りまわしていた。娘は倒れていて身動きもしない。気絶していたのだ。老夫人が悲鳴をあげ、身もだえしたので(その間に髪の毛が頭からむしり取られたのだが)、猩々のたぶん穏やかな気持がすっかり憤怒の気持に変った。その力強い腕で思いきり一ふりすると、彼女の頭を胴体からほとんど切り離してしまった。血を見ると猩々の怒りは狂気のようになった。歯を食いしばり、両眼から炎を放って、娘の体に跳びかかり、その恐ろしい爪を咽喉へ突き立てて彼女の息が絶えてしまうまで放さなかった。猩々のきょろきょろした血ばしった眼つきが、このときふと寝台の頭の方へ落ちると、その向うに、恐怖のために硬《こわ》ばった主人の顔がちょっと見えた。たしかにあの恐ろしい鞭をまだ覚えていた猩々は、怒りがたちまち今度は恐怖に変った。罰を受けるようなことをしたと悟って、自分のやった凶行を隠そうと思ったらしく、ひどくそわそわして部屋じゅうをとびまわり、そのたびに家具をひっくり返したりこわしたりし、また寝台から寝具をひきずり落したりした。とうとう、まず娘の死体をつかんで、のちに見つけられたように、煙突のなかへ突き上げ、それから老夫人の死体をつかんで、すぐ窓から真っ逆さまに投げだした。
 猩々がその切りさいなんだ死体をかかえて窓へ近づいてきたとき、水夫は胆をつぶして避雷針の方に身をすくめ、その避雷針を這《は》い降りるというよりもむしろ辷《すべ》り降りて、一目散に家へ逃げ帰った、――その凶行の結果を恐れ、また恐怖のあまり猩々の運命についてのいっさいの懸念をすっかり棄ててしまって。階段の上で人々の聞いた言葉というのは、猩々の悪鬼のような声とまじった、そのフランス人の恐怖と驚愕《きょうがく》との叫び声であったのだ。
 もうこの上につけ加えることはほとんどない。猩々は、扉がうち破られるすぐ前に、避雷針を伝って部屋から逃げ出したにちがいない。窓はそこから出るときにしめて行ったのだろう。その後、猩々は持主自身に捕えられ、植物園《ジャルダン・デ・プラント》に非常な大金で売られた。ル・ボンは、我々が警視庁へ行って(デュパンの多少の注釈とともに)事情を述べると、すぐに釈放された。警視総監は、私の友に好意を持っていたけれども、事件のこの転回を見て自分の口惜《くや》しさをまったく隠しきれなくて、人はみんな自分自分のことをかまっていればいいものだ、というような厭味《いやみ》を一つ二つ言うよりほかにしようがなかった。
「なんとでも言わしておくさ」べつに返事をする必要もないと思っていたデュパンはこう言った。「勝手にしゃべらせておくさ。それでご自分の気が安まるだろうよ。僕は奴《やっこ》さんの城内で奴さんをうち負かしてやったのだから満足だ。だが、あの男がこの怪事件を解決するのにしくじったということは、決して彼自身が思っているような不思議な事がらじゃない。なにしろ、実際、わが友人の総監は少々ずるすぎて考え深くないからね。彼の知恵[#「知恵」に傍点]には雄蕊[#「雄蕊」に傍点]がないのだ。女神ラヴェルナの絵みたいに、頭ばかりで胴がない。――あるいは、せいぜい鱈《たら》みたいに頭と肩ばかりなんだ。しかしまああの男はいい人間だよ。僕はことに、あの男が利口そうな口を利くことに妙を得ているところが好きなんだ。そのおかげで奴さんは俊敏という名声を得ているんだがね。奴さんのやり口というのは『|あるものを否定し、ないものを説明する《ド・ニエ・ス・キ・エ・エ・デクスプリケ・ス・キ・ネ・パ》』(原注)というのさ」

原注 ルソーの“〔Nouvella He’loises〕”

底本:「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1977(昭和52)年5月10日40刷改版
   1997(平成9)年12月25日77刷
底本の親本:「エドガア・アラン・ポオ小説全集」第一書房
   1931(昭和6)年~1933(昭和8)年
入力:大野晋
校正:j.utiyama
1999年7月6日公開
2005年12月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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佐々木直次郎

メールストロムの旋渦 A DESCENT INTO THE MAELSTROM エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe——佐々木直次郎訳


 自然における神の道は、摂理におけると同様に、われら人間[#「われら人間」に傍点]の道と異なっている。また、われらの造る模型は、広大深玄であって測り知れない神の業《わざ》にはとうていかなわない。まったく神の業はデモクリタスの井戸よりも深い。  ジョオゼフ・グランヴィル

 私たちはそのとき峨々《がが》としてそびえ立つ岩の頂上にたどりついた。四、五分のあいだ老人はへとへとに疲れきって口もきけないようであった。
「まだそんなに古いことではありません」と、彼はとうとう話しだした。「そのころでしたら、末の息子と同じくらいにらくらくと、この道をご案内できたのですがね。それが三年ほど前に私は、どんな人間も遭ったことのないような――たとえ遭ったにしても、生き残ってそれを話すことなんぞはとてもできないような――恐ろしい目に遭って、そのときの六時間の死ぬような恐ろしさのために、体も心もすっかり参ってしまったものでしてね。あなたは私をずいぶん[#「ずいぶん」に傍点]老人だと思っていらっしゃる――が、ほんとうはそうじゃないのですよ。たった一日もたたないうちに、真っ黒だった髪の毛がこんなに白くなり、手足の力もなくなって、神経が弱ってしまいました。だからいまでは、ほんのちょいとした仕事にも体がぶるぶる震え、ものの影にもおびえるような有様です。こんな小さい崖《がけ》から見下ろしても眩暈《めまい》がするんですからね」
 その「小さい崖」の縁に、彼は体の重みの半分以上も突き出るくらい無頓着《むとんじゃく》に身を投げだして休んでいて、ただ片肘《かたひじ》をそのなめらかな崖ぎわにかけて落ちないようにしているだけなのであるが、――この「小さい崖」というのは、なんのさえぎるものもない、切り立った、黒く光っている岩の絶壁であって、私たちの下にある重なりあった岩の群れから、ざっと千五、六百フィートもそびえ立っているのである。どんなことがあろうと、私などはその崖の端から六ヤード以内のところへ入る気がしなかったろう。実際、私は同行者のこの危険この上ない姿勢にまったく度胆《どぎも》を抜かれてしまい、地上にぴったりと腹這《はらば》いになって、身のまわりの灌木《かんぼく》にしがみついたまま、上を向いて空を仰ぐ元気さえなかった。――また吹きすさぶ風のために山が根から崩れそうだという考えを振いおとそうと一所懸命に努めたが、それがなかなかできないのであった。どうにか考えなおして坐《すわ》って遠くを眺《なが》めるだけの勇気を出すまでには、だいぶ時間がかかった。
「そんな弱い心持は、追っぱらってしまわねばなりませんね」と案内者が言った。「さっき申しましたあの出来事の場所全体がいちばんよく見渡せるようにと思って、あなたをここへお連れしてきたので――ちょうど眼《め》の下にその場所を見ながら、一部始終のお話をしようというのですから」
「私たちはいま」と彼はその特徴である詳しい話しぶりで話をつづけた、――「私たちはいま、ノルウェーの海岸に接して――北緯六十八度――広大なノルドランド州の――淋《さび》しいロフォーデン地方にいるのです。いまそのてっぺんに坐っているこの山は、ヘルゼッゲン、雲の山です。さあ、もう少し伸びあがってください、――眩暈がするようでしたら草につかまって――そう、そんなふうに――そうして、帯のようになっている靄《もや》の向うの、海の方をご覧なさい」
 私は眩暈がしそうになりながらも見た。すると広々した大洋が見える。その水の色はインクのように黒いので、私の頭にはすぐヌビアの地理学者の書いた Mare Tenebrarum(1)についての記述が思い出された。これ以上に痛ましくも荒寥《こうりょう》とした展望《パノラマ》は、どんな人間の想像でも決して思い浮べることができない。右を見ても左を見ても眼のとどくかぎり、恐ろしいくらいに黒い突き出た絶壁が、この世界の城壁のように長くつらなっている。その絶壁の陰鬱《いんうつ》な感じは、永遠に咆哮《ほうこう》し号叫しながら、それにぶつかって白いもの凄《すご》い波頭を高くあげている寄波《よせなみ》のために、いっそう強くされているばかりであった。私たちがその頂上に坐っている岬《みさき》にちょうど向きあって、五、六マイルほど離れた沖に、荒れ果てた小島が見えた。もっとはっきり言えば、果てしのない波濤《はとう》の彼方《かなた》に、それにとり囲まれてその位置が見分けられた。それから約二マイルばかり陸に近いところに、それより小さな島がもう一つあった。岩石で恐ろしくごつごつした不毛な島で、一群の黒い岩がその周囲に点々として散在している。
 海の様子は、この遠い方の島と海岸とのあいだのところでは、なにかしらひどく並々でないところがあった。このとき疾風が非常に強く陸の方へ向って吹いていたので、遠くの沖合の二本マストの帆船が二つの縮帆部《リーフ》をちぢめた縦帆《トライセール》を張って停船(2)し、しかもなお、その全船体をしきりに波間に没入していたが、その島と海岸とのあいだだけは、規則的な波のうねりらしいものがぜんぜんなく、ただ、あらゆる方向に――風に向った方にもその他の方向と同じように――海水が短く、急速に、怒ったように、逆にほとばしっているだけであった。泡《あわ》は岩のすぐ近いところのほかにはほとんど見えない。
「あの遠い方の島は」と老人はまた話しはじめた。「ノルウェー人がヴァルーと言っています。真ん中の島はモスケーです。それから一マイル北の方にあるのはアンバーレン。向うにあるのはイスレーゼン、ホットホルム、ケイルドヘルム、スアルヴェン、ブックホルム。もっと遠くの――モスケーとヴァルーとのあいだには――オッテルホルムとフリーメンとサンドフレーゼンと、ストックホルムとがあります。これはみんなほんとうの地名なんですが――いったいどうしてこういちいち名をつける必要があったのかということは、あなたにも私にもわからないことです。そら、なにか聞えませんか? 水の様子になにか変ったことがあるのがわかりませんか?」
 私たちはヘルゼッゲンの頂上にもう十分ばかりいた。ここへ来るにはロフォーデンの奥の方からやってきたので、途中では海がちっとも見えなくて、絶頂に来て初めて海がぱっと眼の前に展開したのである。老人がそう言ったときに、私はアメリカの大草原《プレアリー》における野牛の大群の咆哮のようなだんだんと高まってゆく騒々しい物音に気がついた。と同時にまた、眼の下に見えていた船乗りたちのいわゆる狂い波[#「狂い波」に傍点](3)が、急速に東の方へ流れる潮流に変りつつあることに気がついた。みるみるうちに、この潮流はすさまじく速くなった。刻一刻と速さを増し――せっかちな激しさを加えた。五分もたつと、ヴァルーまでの海は一面に抑えきれぬ狂瀾怒濤《きょうらんどとう》をまき上げた。が、怒濤のいちばんひどく猛《たけ》り狂っているのはモスケーと海岸とのあいだであった。そこではひろびろとたたえている海水が、裂けて割れて無数の衝突しあう水路になったかと思うと、たちまち狂おしく痙攣《けいれん》し、――高まり、湧《わ》きたち、ざわめき、――巨大な無数の渦《うず》となって旋回し、まっさかさまに落下する急流のほかにはどこにも見られぬような速さで、渦巻きながら、突進しながら、東の方へ流れてゆく。
 それからさらに四、五分たつと、この光景にまた一つの根本的な変化が起った。海面は一般にいくらか穏やかになり、渦巻は一つ一つ消えて、不思議な泡の縞《しま》がいままでなにもなかったところにあらわれるようになったのだ。この縞はしまいにはずっと遠くの方までひろがってゆき、互いに結びあって、いったん鎮《しず》まった渦巻の旋回運動をふたたび始め、さらに巨大な渦巻の萌芽《ほうが》を形づくろうとしているようであった。とつぜん――まったくとつぜんに――これがはっきり定まった形をとり、直径一マイル以上もある円をなした。その渦巻の縁は、白く光っている飛沫《しぶき》の幅の広い帯となっている。しかしその飛沫の一滴さえもこの恐ろしい漏斗《じょうご》の口のなかへ落ちこまない。その漏斗の内側は、眼のとどくかぎり、なめらかな、きらきら輝いている黒玉《こくぎょく》のように黒い水の壁であって、水平線にたいして約四十五度の角度で傾斜し、揺らぎながら恐ろしい速さで目まぐるしくぐるぐるまわり、なかば号叫し、なかば咆哮し、かのナイヤガラの大瀑布《だいばくふ》が天に向ってあげる苦悶《くもん》の声さえかなわないような、すさまじい声を風に向ってあげているのだ。
 山はその根からうち震え、岩は揺れた。私はぴったりとひれ伏して、神経の激動のあまり少しばかりの草にしがみついた。
「これこそ」と、私はやっと老人に言った、――「これこそ、あのメールストロム(4)の大渦巻なんですね」
「ときには、そうも言いますが」と彼は言った。「私どもノルウェー人は、あの真ん中にあるモスケー島の名をとって、モスケー・ストロムと言っております」
 この渦巻についての普通の記述は、いま眼の前に見たこの光景にたいして、少しも私に前もって覚悟させてくれなかった。ヨナス・ラムス(5)の記述はおそらくどれよりもいちばん詳しいものではあろうが、この光景の雄大さ、あるいは恐ろしさ――あるいは見る者の度胆を抜くこの奇観[#「奇観」に傍点]の心を奪うような感じ――のちょっとした概念をも伝えることができない。私はこの著者がどんな地点から、またどんな時刻に、この渦巻を見たのかは知らない。が、それはヘルゼッゲンの頂上からでもなく、また嵐《あらし》の吹いているあいだでもなかったにちがいない。しかし彼の記述のなかには、その光景の印象を伝えるにはたいへん効果は弱いが、その詳しい点で引用してもよい数節がある。
 彼はこう書いている。「ロフォーデンとモスケーとのあいだにおいては、水深三十五|尋《ひろ》ないし四十尋なり。されど他の側においては、ヴェル(ヴァルー)に向いてこの深さはしだいに減り、船舶の航行に不便にして、静穏な天候のおりにもしばしば岩礁《がんしょう》のために難破するの危険あり。満潮時には潮流は猛烈なる速度をもってロフォーデンとモスケーとのあいだを陸に向って奔流す。されどその激烈なる退潮時の咆哮にいたりては、もっとも恐ろしき轟々《ごうごう》たる大瀑布も及ぶところにあらず、――その響きは数リーグの遠きに達す。しかしてその渦巻すなわち凹《くぼ》みは広くかつ深くして、もし船舶にしてその吸引力圏内に入るときは、かならず吸いこまれ海底に運び去られて岩礁に打ちくだかれ、水力衰うるに及び、その破片ふたたび水面に投げ出されるなり。しかれども、かく平穏なる間隙《かんげき》は潮の干満の交代時に、しかも天候静穏の日に見るのみにして、十五分間継続するにすぎず、その猛威はふたたびしだいに加わる。潮流もっとも猛烈にして暴風によってさらにその狂暴を加うるときは、一ノルウェー・マイル以内に入ること危険なり。この圏内に入らざるうちにそれにたいして警戒するところなかりしため、端艇、快走船、船舶など多く海底に運び去られたり。同様に鯨群《げいぐん》のこの潮流の近くに来たり、その激烈なる水勢に巻きこまるること少なからず、逃れんとするむなしき努力のなかに叫喚し、怒号するさまは筆の及ぶところにあらず。かつて一頭の熊《くま》ロフォーデンよりモスケーに泳ぎわたらんとして潮流に巻きこまれて押し流され、そのもの凄く咆哮する声は遠く岸にも聞えたるほどなりき。樅《もみ》、松などの大なる幹、潮流に呑《の》まれたるのちふたたび浮び上がるや、はなはだしく折れ砕けてあたかもそが上に剛毛《あらげ》を生ぜるがごとく見ゆ。こは明らかに、渦巻の底の峨々《がが》たる岩石より成り、そのあいだにこれらの木材のあちこちと旋転することを示すものなり。この潮流は海水の干満によりて支配せらる、――すなわち常に六時間ごとに高潮となり落潮となる。一六四五年、四旬斎前第二日曜《セクサゼシマ》の早朝、その怒号狂瀾ことにはげしく、ために海辺なる家屋の石材すら地に崩落せり」
 水深については、どうして渦巻のすぐ近くでこういうことが確かめられたか私にはわからぬ。この「四十尋」というのは、モスケーかあるいはロフォーデンかどちらかの岸に近い、海峡の一部分にだけあてはまることにちがいない。モスケー・ストロムの中心の深さはもっと大したものにちがいなく、この事実のなによりの証拠は、ヘルゼッゲンの頂の岩上からこの渦巻の深淵《しんえん》をななめに一見するだけで十分である。この高峰から眼下の咆哮する phlegethon(6)を見下ろしながら、私は鯨や熊の話をさも信じがたい事がらのように書いているかの善良なヨナス・ラムス先生の単純さに微笑せずにはいられなかった。というのは、現存の最大の戦闘艦でさえ、この恐ろしい吸引力のおよぶ範囲内に来れば、一片の羽毛が台風に吹きまくられるようになんの抵抗もできずに、たちまちその姿をなくしてしまうことは、実にわかりきったことに思われたからである。
 この現象を説明しようとした記述は、そのなかのある部分は、読んでいるときには十分もっともらしく思われたようだったが――いまではひどく異なった不満足なものになった。一般に信じられている考えでは、この渦巻は、フェロー諸島(7)のあいだにある三つの、これより小さな渦巻と同様に、「その原因、満潮および干潮にさいして漲落《ちょうらく》する波濤が岩石および暗礁の稜《りょう》に激して互いに衝突するためにほかならず、海水はその岩石暗礁にせきとめられて瀑布のごとく急下す、かくて潮の上ること高ければその落下はますます深かるべく、これらの当然の結果として旋渦《せんか》すなわち渦巻を生じ、その巨大なる吸引力はより小なる実験によりても十分知るを得べし」というのである。以上は『大英百科全書《エンサイクロピーディア・ブリタニカ》』のしるすところである。キルヘル(8)やその他の人々は、メールストロムの海峡の中心には、地球を貫いてどこか非常に遠いところ――以前はボスニア湾(9)がかなり断定的に挙げられた――へ出ている深淵がある、と想像している。この意見は、本来はなんの根拠もないものではあるが、目《ま》のあたり眺めたときには私の想像力がすぐなるほどと思ったものであった。そしてそれを案内者に話すと、彼は、このことはノルウェー人のほとんどみながいだいている見方ではあるが、自分はそう思っていないといったので、私はちょっと意外に思った。しかし、この見方については、彼は自分の力では理解することができないということを告白したが、その点では私はまったく同感であった。――なぜなら、理論上ではどんなに決定的なものであっても、この深淵の雷のような轟《とどろ》きのなかにあっては、それはまったく不可解なばかげたものとさえなってしまうからである。
「もう渦巻は十分ご覧になったでしょう」と老人は言った。「そこでこの岩をまわって風のあたらぬ陰へ行き、水の轟きの弱くなるところで、話をしましょう。それをお聞きになれば、私がモスケー・ストロムについていくらかは知っているはずだということがおわかりになるでしょう」
 老人の言った所へ行くと、彼は話しはじめた。
「私と二人の兄弟とはもと、七十トン積みばかりのスクーナー帆式の漁船を一|艘《そう》持っていて、それでいつもモスケーの向うの、ヴァルーに近い島々のあいだで、漁をすることにしておりました。すべて海でひどい渦を巻いているところは、やってみる元気さえあるなら、時機のよいときにはなかなかいい漁があるものです。が、ロフォーデンの漁師全体のなかで私ども三人だけが、いま申し上げたようにその島々へ出かけてゆくのを決った仕事にしていた者なのでした。普通の漁場はそれからずっと南の方へ下ったところです。そこではいつでも大した危険もなく魚がとれるので、誰でもその場所の方へ行きます。だが、この岩のあいだのえりぬきの場所は、上等な種類の魚がとれるばかりではなく、数もずっとたくさんなので、私どもはよく、同じ商売の臆病《おくびょう》な連中が一週間かかってもかき集めることのできないくらいの魚を、たった一日でとったものでした。実際、私どもは命がけの投機《やま》仕事をしていたので――骨を折るかわりに命を賭《か》け、勇気を資本《もとで》にしていた、というわけですね。
 私どもは船を、ここから海岸に沿うて五マイルほど上《かみ》へ行ったところの入江に繋《つな》いでおきました。そして天気のよい日に十五分間の滞潮《よどみ》を利用して、モスケー・ストロムの本海峡を横ぎって淵《ふち》のずっと上手につき進み、渦流《うず》がよそほどはげしくないオッテルホルムやサンドフレーゼンの近くへ下って行って、錨《いかり》を下ろすことにしていました。そこでいつも次の滞潮《よどみ》に近いころまでいて、それから錨を揚げて帰りました。行くにも帰るにも確かな横風がないと決して出かけませんでした、――着くまでは大丈夫やまないと思えるようなやつですね、――そしてこの点では、私どもはめったに見込み違いをしたことはありませんでした。六年間に二度、まったくの無風のために、一晩じゅう錨を下ろしたままでいなければならないことがありました。がそんなことはこの辺ではまったく稀《まれ》なことなのです。それから一度は、私どもが漁場へ着いて間もなく疾風《はやて》が吹き起って、帰ることなどは思いもよらないくらいに海峡がひどく大荒れになったために、一週間近くも漁場に留《とど》まっていなければならなくて、餓死《うえじに》しようとしたことがありました。あのときは、もし私どもがあの無数の逆潮流――今日はここにあるかと思うと明日はなくなっているあの逆潮流――の一つのなかへうまく流れこまなかったとしたら、(なにしろ渦巻が猛烈に荒れて船がぐるぐるまわされるので、とうとう錨をもつらせてそれを引きずったような有様でしたから)どんなに手をつくしても沖へ押しながされてしまったでしょうが、その逆潮流が私どもをフリーメンの風下《かざしも》の方へ押し流し、そこで運よく投錨《とうびょう》することができたのでした。
 私どもが『漁場で』遭った難儀は、その二十分の一もお話しできません、――なにしろそこは、天気のよいときでもいやな場所なんです、――だが私どもは、どうにかこうにか、いつも大したこともなくモスケー・ストロムの虎口《ここう》を通りぬけていました。それでもときどき、滞潮《よどみ》に一分ほど遅れたり早すぎたりしたときには、肝っ玉がひっくり返ったものですよ。またときによると、出帆するときに風が思ったほど強くなくて、望みどおりに進むことができず、そのうちに潮流のために船が自由にならなくなるようなこともありました。兄には十八になる息子がありましたし、私にも丈夫な奴《やつ》が二人ありました。この連中がそんなときにいれば、大橈《おおかい》を漕《こ》ぐのにも、あとで魚をとるときにも、よほど助けになったでしょうが、どうしたものか、自分たちはそんな冒険をしていても、若い連中をその危険な仕事のなかへひき入れようという気はありませんでした、――なんと言っても結局、恐ろしい危険なことでした[#「でした」に傍点]からね。
 もう五、六日もたてば、私がいまからお話しようとしていることが起ってから、ちょうど三年になります。一八――年の七月十八日のことでした。その日をこの地方の者は決して忘れますまい、――というのは、開闢《かいびゃく》以来吹いたことのないような、実に恐ろしい台風の吹きあれた日ですから。だが午前中いっぱい、それから午後も遅くまで、ずっと穏やかな西南の微風が吹いていて、陽《ひ》が照り輝いていたので、私どものあいだでもいちばん年寄りの経験のある船乗りでさえ、そのあとにつづいて起ることを見とおすことができなかったくらいです。
 私ども三人――二人の兄弟と私――は、午後の二時ごろ例の島の方へ渡って、間もなく見事な魚をほとんど船いっぱいに積みましたが、その日はそれまでに一度もなかったほど、たくさんとれたと三人とも話し合いました。いよいよ錨を揚げて帰りかけたのは、私の時計で[#「私の時計で」に傍点]ちょうど七時。ストロムでいちばんの難所を滞潮《よどみ》のときに通りぬけようというのです。それは八時だということが私どもにはわかっているのでした。
 私どもは右舷《うげん》後方にさわやかな風を受けて出かけ、しばらくはすばらしい速力で水を切って進み、危険なことがあろうなどとは夢にも思いませんでした。実際そんなことを懸念《けねん》する理由は少しもなかったのですから。ところが、たちまち、ヘルゼッゲンの峰越しに吹きおろす風のために、船は裏帆(10[#「10」は縦中横])になってしまいました。こういうことはまったくただならぬ――それまでに私どもの遭ったことのないようなことなので、はっきりなぜということもわかりませんでしたが、なんとなしに私はちょっと不安を感じはじめました。私どもは船を詰め開き(11[#「11」は縦中横])にしましたが、少しも渦流《うず》を乗り切って進むことができません。で、私がもとの停泊所へ戻ろうかということを言いだそうとしたそのとたん、艫《とも》の方を見ると、実に驚くべき速さでむくむくと湧き上がる、奇妙な銅色をした雲が、水平線をすっかり蔽《おお》っているのに気がついたのです。
 そのうちにいままで向い風であった風がぱったり落ちて、まったく凪《な》いでしまい、船はあちこちと漂いました。しかしこの状態は、私どもがそれについてなにか考える暇があるほど、長くはつづきませんでした。一分とたたないうちに嵐がおそってきました、――二分とたたないうちに空はすっかり雲で蔽われました、――そして、その雲と跳びかかる飛沫《しぶき》とのためにたちまち、船のなかでお互いの姿を見ることもできないくらい、あたりが暗くなってしまいました。
 そのとき吹いたような台風のことをお話ししようとするのは愚かなことです。ノルウェーじゅうでいちばん年寄りの船乗りだって、あれほどのには遭ったことはありますまい。私どもはその台風がすっかりおそってこないうちに帆索《ほづな》をゆるめておきましたが、最初の一吹きで、二本の檣《マスト》は鋸《のこぎり》でひき切ったように折れて海へとばされました。その大檣《メインマスト》のほうには弟が用心のために体を結えていたのですが、それと一緒にさらわれてしまったのです。
 私どもの船はいままでに水に浮んだ船のなかでもいちばん軽い羽毛《はね》のようなものでした。それはすっかり平甲板(12[#「12」は縦中横])が張ってあり、舳《へさき》の近くに小さな艙口《ハッチ》が一つあるだけで、この艙口《ハッチ》はストロムを渡ろうとするときには、例の狂い波の海にたいする用心として、しめておくのが習慣になっていました。こうしてなかったらすぐにも浸水して沈没したでしょう。――というのは、しばらくのあいだは船はまったく水にもぐっていたからです。どうして兄が助かったのか私にはわかりません、確かめる機会もなかったものですから。私はと言いますと、前檣《フォアマスト》の帆索をゆるめるとすぐ、甲板の上にぴったりと腹這《はらば》いになって、両足は舳のせまい上縁《うわべり》にしっかり踏んばり、両手では前檣の根もとの近くにある環付螺釘《リング・ボールト》(13[#「13」は縦中横])をつかんでいました。それはたしかに私のできることとしては最上の方法でしたが――こんなふうに私をさせたのは、まったくただ本能でした。――というのは、ひどくうろたえていて、ものを考えるなんてことはとてもできなかったのですから。
 しばらくのあいだはいま申しましたとおり、船はまったく水につかっていましたが、そのあいだ私はずっと息をこらえて螺釘《ボールト》にしがみついていました。それがもう辛抱できなくなると、手はなおもはなさずに、膝《ひざ》をついて体を上げ、首を水の上へ出しました。やがて私どもの小さな船は、ちょうど犬が水から出てきたときにするように、ぶるぶるっと一ふるいして、海水をいくらか振いおとしました。それから私は、気が遠くなっていたのを取りなおして、意識をはっきりさせてどうしたらいいか考えようとしていたときに、誰かが自分の腕をつかむのを感じました。それは兄だったのです。兄が波にさらわれたものと思いこんでいたものですから、私の心は喜びで跳びたちました、――が次の瞬間、この喜びはたちまち一変して恐怖となりました、――兄が私の耳もとに口をよせて一こと、『モスケー[#「モスケー」に傍点]・ストロムだ[#「ストロムだ」に傍点]!』と叫んだからです。
 そのときの私の心持がどんなものだったかは、誰にも決してわかりますまい。私はまるで猛烈な瘧《おこり》の発作におそわれたように、頭のてっぺんから足の爪先《つまさき》まで、がたがた震えました。私には兄がその一ことで言おうとしたことが十分よくわかりました、兄が私に知らせようとしたことがよくわかりました。船にいま吹きつけている風のために、私たちはストロムの渦巻《うずまき》の方へ押し流されることになっているのです、そしてもうどんなことも私たちを救うことができないのです!
 ストロムの海峡[#「海峡」に傍点]を渡るときにはいつでも、たといどんなに天気の穏やかなときでも、渦巻のずっと上手の方へ行って、それから滞潮《よどみ》のときを注意深くうかがって待っていなければならない、ということはお話ししましたね。――ところがいま、私たちはその淵の方へ、まっしぐらに押し流されているのです、しかも、このような台風のなかを! 『きっと、私たちはちょうど滞潮《よどみ》の時分にあそこへ着くことになろう、――とすると多少は望みがあるわけだ』と私は考えました。――しかし次の瞬間には、少しでも望みなどを夢みるなんてなんという大馬鹿者《おおばかもの》だろうと自分を呪《のろ》いました。もし私どもの船が九十門の大砲を積載している軍艦の十倍もあったとしても、もう破滅の運命が決っているのだ、ということがよくわかったのです。
 このころまでには、嵐の最初のはげしさは衰えていました。あるいはたぶん、追風で走っていたのでそんなに強く感じなかったのかもしれません。がとにかく、いままで風のために平らにおさえつけられて泡立《あわだ》っていた波は、いまではまるで山のようにもり上がってきました。また、空にも不思議な変化が起っていました。あたりはまだやはり、どちらも一面に真っ黒でしたが、頭上あたりにとつぜん円い雲の切れ目ができて、澄みきった空があらわれました、――これまで見たことのないほど澄みきった、明るく濃い青色の空です、――そして、そこから、私のそれまで一度も見たことのないような光を帯びた満月が輝きだしたのです。その月は私どものまわりにあるものをみな、実にはっきりと照らしました、――が、おお、なんという光景を照らし出したことでしょう!
 私はそのとき一、二度、兄に話しかけようとしました、――がどうしたわけかわかりませんが、やかましい物音が非常に高くて、耳もとで声をかぎりに叫んだのですけれども、一ことも兄に聞えるようにはできませんでした。やがて兄は死人のように真《ま》っ蒼《さお》な顔をして頭を振り、『聴いてみろ[#「聴いてみろ」に傍点]!』とでもいうようなふうに、指を一本挙げました。
 初めはそれがどういう意味かわかりませんでした、――が間もなく恐ろしい考えが頭に閃《ひらめ》きました。私はズボンの時計|衣嚢《かくし》から、時計をひっぱり出しました。それは止っています。私は月の光でその文字面をちらりと眺《なが》め、それからその時計を遠く海のなかへ放《ほう》り投げてわっと泣きだしました。時計はぜんまいが解けてしまって七時で止っていたのです[#「時計はぜんまいが解けてしまって七時で止っていたのです」に傍点]! 私どもは滞潮の時刻に遅れたのです[#「私どもは滞潮の時刻に遅れたのです」に傍点]。そして[#「そして」に傍点]、ストロムの渦巻は荒れくるっている真っ最中なのです[#「ストロムの渦巻は荒れくるっている真っ最中なのです」に傍点]!
 船というものは、丈夫にできていて、きちんと手入れがしてあり、積荷が重くなければ、追風に走っているときは、疾風のときの波でもかならず船の下をすべってゆくように思われるものです、――海に慣れない人には非常に不思議に思われることですが、――これは海の言葉では波に乗る[#「波に乗る」に傍点]と言っていることなのです。で、それまで私どもの船は非常にうまくうねり波に乗ってきたのですが、やがて恐ろしく大きな波がちょうど船尾張出部《カウンター》の下のところにぶつかって、船をぐうっと持ち上げました、――高く――高く――天にもとどかんばかりに。波というものがあんなに高く上がるものだということは、それまでは信じようとしたって信じられなかったでしょう。それから今度は下の方へ傾き、すべり、ずっと落ちるので、ちょうど夢のなかで高い山の頂上から落ちるときのように気持が悪く眩暈《めまい》がしました。しかし船が高く上がったときに、私はあたりをちらりと一目見渡しました、――その一目だけで十分でした。私は一瞬間で自分たちの正確な位置を見てとりました。モスケー・ストロムの渦巻は真正面の四分の一マイルばかりのところにあるのです、――が、あなたがいまご覧になった渦巻が水車をまわす流れと違っているくらい、毎日のモスケー・ストロムとはまるで違っているのです。もし私がどこにいるのか、そしてどうなるのか、ということを知らなかったら、その場所がどんなところかぜんぜんわからなかったことでしょう。ところが知っていたものですから、恐ろしさのために私は思わず眼《め》を閉じました。眼瞼《まぶた》が痙攣《けいれん》でも起したように、ぴったりとくっついたのです。
 それから二分とたたないころに、急に波が鎮《しず》まったような気がして、一面に泡に包まれました。
 船は左舷《さげん》へぐいとなかばまわり、それからその新たな方向へ電《いなずま》のようにつき進みました。同時に水の轟く音は、鋭い叫び声のような――ちょうど幾千という蒸気釜《じょうきがま》がその放水管から一時に蒸気を出したと思われるような――物音にまったく消されてしまいました。船はいま、渦巻のまわりにはいつもあるあの寄波《よせなみ》の帯のなかにいるのです。そして無論次の瞬間には深淵《しんえん》のなかへつきこまれるのだ、と私は考えました、――その深淵の下の方は、驚くべき速さで船が走っているのでぼんやりとしか見えませんでしたが。しかし船は少しも水のなかへ沈みそうではなく、気泡《きほう》のように波の上を掠《かす》り飛ぶように思われるのです。その右舷は渦巻に近く、左舷にはいま通ってきた大海原《おおうなばら》がもり上がっていました。それは私たちと水平線とのあいだに、巨大な、のたうちまわる壁のようにそびえ立っているのです。
 奇妙なように思われるでしょうが、こうしていよいよ渦巻の顎《あご》に呑《の》まれかかりますと、渦巻にただ近づいているときよりもかえって気が落ちつくのを感じました。もう助かる望みがないと心を決めてしまったので、初め私の元気をすっかり失《な》くした、あの恐怖の念が大部分なくなったのです。絶望が神経を張り締めてくれたのでしょうかね。
 空威張《からいば》りするように見えるかもしれません――が、まったくほんとうの話なんです、――私は、こうして死ぬのはなんというすばらしいことだろう、そして、神さまの御力《みちから》のこんな驚くべき示顕《じげん》のことを思うと、自分一個の生命《いのち》などという取るにも足らぬことを考えるのはなんというばかげたことだろう、と考えはじめました。この考えが心に浮んだとき、たしか恥ずかしさで顔を赧《あか》らめたと思います。しばらくたつと、渦巻そのものについての鋭い好奇心が強く心のなかに起ってきました。私は、自分の生命を犠牲にしようとも、その底を探ってみたいという願い[#「願い」に傍点]をはっきりと感じました。ただ私のいちばん大きな悲しみは、陸《おか》にいる古くからの仲間たちに、これから自分の見る神秘を話してやることができまい、ということでした。こういう考えは、こんな危急な境遇にある人間の心に起るものとしては、たしかに奇妙な考えです。――そしてその後よく考えることですが、船が淵のまわりをぐるぐるまわるので、私は少々頭が変になっていたのではなかろうかと思いますよ。
 心の落着きを取りもどすようになった事情はもう一つありました。それは風のやんだことです。風は私どものいるところまで吹いて来ることができないのです、――というわけは、さっきご覧になったとおり、寄波《よせなみ》の帯は海面よりかなり低いので、その海面は今では高く黒い山の背のようになって私どもの上にそびえていたのですから。もしあなたが海でひどい疾風にお遭いになったことがないなら、あの風と飛沫《しぶき》とが一緒になってどんなに人の心をかき乱すものかということは、とてもご想像ができません。あれにやられると目が見えなくなり、耳も聞えず、首が締められるようになり、なにかしたり考えたりする力がまるでなくなるものです。しかし私どもはいまではもう、そのような苦しみをよほどまぬかれていました。――ちょうど牢獄《ろうごく》にいる死刑を宣告された重罪人が、判決のまだ定まらないあいだは禁じられていた多少の寛大な待遇を許される、といったようなものですね。
 この寄波の帯を何回ほどまわったかということはわかりません。流れるというよりむしろ飛ぶように、だんだんに波の真ん中へより、それからまたその恐ろしい内側の縁のところへだんだん近づきながら、たぶん一時間も、ぐるぐると走りまわりました。このあいだじゅうずっと、私は決して環付螺釘《リング・ボールト》を放しませんでした。兄は艫《とも》の方にいて、船尾張出部の籠《かご》の下にしっかり結びつけてあった、小さな空《から》になった水樽《みずだる》につかまっていました。それは甲板にあるもので疾風が最初におそってきたとき海のなかへ吹きとばされなかったただ一つの物です。船が深淵の縁へ近づいてきたとき、兄はつかまっていたその樽から手を放し、環《リング》のほうへやってきて、恐怖のあまりに私の手を環《リング》からひき放そうとしました。その環《リング》は二人とも安全につかまっていられるくらい大きくはないのです。私は兄がこんなことをしようとするのを見たときほど悲しい思いをしたことはありません、――兄はそのとき正気を失っていたのだ――あまりの恐ろしさのため乱暴な狂人になっていたのだ、とは承知していましたが。しかし私はその場所を兄と争おうとは思いませんでした。私ども二人のどちらがつかまったところでなんの違いもないことを知っていましたので、私は兄に螺釘を持たせて、艫の樽の方へ行きました。そうするのはべつに大してむずかしいことではありませんでした。というのは船は非常にしっかりと、そして水平になったまま、ぐるぐる飛ぶようにまわっていて、ただ渦巻がはげしくうねり湧《わ》き立っているために前後に揺れるだけでしたから。その新しい位置にうまく落ちついたかと思うとすぐ、船は右舷の方へぐっと傾き、深淵をめがけてまっしぐらに突き進みました。私はあわただしい神さまへの祈りを口にし、もういよいよおしまいだなと思いました。
 胸が悪くなるようにすうっと下へ落ちてゆくのを感じたとき、私は本能的に樽につかまっている手を固くし、眼を閉じました。何秒かというものは思いきって眼をあけることができなくて――いま死ぬかいま死ぬかと待ちかまえながら、まだ水のなかで断末魔のもがきをやらないのを不審に思っていました。しかし時は刻々とたってゆきます。私はやはり生きているのです。落ちてゆく感じがやみました。そして船の運動は泡の帯のところにいたときと同じようになったように思われました。ただ違うのは船が前よりもいっそう傾いていることだけです。私は勇気を出して、もう一度あたりの有様を見わたしました。
 自分のまわりを眺めたときのあの、畏懼《いく》と、恐怖と、嘆美との感じを、私は決して忘れることはありますまい。船は円周の広々とした、深さも巨大な、漏斗《じょうご》の内側の表面に、まるで魔法にでもかかったように、なかほどにかかっているように見え、その漏斗のまったくなめらかな面は、眼が眩《くら》むほどぐるぐるまわっていなかったなら、そしてまた、満月の光を反射して閃くもの凄《すご》い輝きを発していなかったら、黒檀《こくたん》とも見まがうほどでした。そして月の光は、さっきお話ししました雲のあいだの円い切れ目から、黒い水の壁に沿うて漲《みなぎ》りあふれる金色《こんじき》の輝きとなって流れ出し、ずっと下の深淵のいちばん深い奥底までも射《さ》しているのです。
 初めはあまり心が乱れていたので、なにも正確に眼にとめることはできませんでした。とつぜん眼の前にあらわれた恐るべき荘厳が私の見たすべてでした。しかし、いくらか心が落ちついたとき、私の視線は本能的に下の方へ向きました。船が淵《ふち》の傾斜した表面にかかっているので、その方向はなんのさえぎるものもなく見えるのです。船はまったく水平になっていました、――というのは、船の甲板が水面と平行になっていた、ということです、――がその水面が四十五度以上の角度で傾斜しているので、私どもは横ざまになっているのです。しかしこんな位置にありながら、まったく平らな面にいると同じように、手がかりや足がかりを保っているのがむずかしくないことに、気がつかずにはいられませんでした。これは船の回転している速さのためであったろうと思います。
 月の光は深い渦巻の底までも射しているようでした。しかしそれでも、そこのあらゆるものを立ちこめている濃い霧のために、なにもはっきりと見分けることができませんでした。その霧の上には、マホメット教徒が現世から永劫《えいごう》の国へゆく唯一《ゆいいつ》の通路だという、あのせまいゆらゆらする橋(14[#「14」は縦中横])のような、壮麗な虹《にじ》がかかっていました。この霧あるいは飛沫は、疑いもなく漏斗の大きな水壁が底で合って互いに衝突するために生ずるものでした。――がその霧のなかから天に向って湧き上がる大叫喚は、お話ししようとしたって、とてもできるものではありません。
 上の方の泡の帯のところから最初に深淵のなかへすべりこんだときは、斜面をよほど下の方へ降りましたが、それからのちはその割合では降りてゆきませんでした。ぐるぐるまわりながら船は走ります、――が一様な速さではなく――目まぐるしく揺れたり跳び上がったりして、あるときはたった二、三百ヤード――またあるときは渦巻の周囲をほとんど完全に一周したりします。一回転ごとに船が下に降りてゆくのは、急ではありませんでしたが、はっきりと感じられました。
 こうして船の運ばれてゆくこの広々とした流れる黒檀の上で、自分のまわりを見渡していますと、渦に巻きこまれるのが私どもの船だけではないことに気がつきました。上の方にも下の方にも、船の破片や、建築用材の大きな塊や、樹木の幹や、そのほか家具の砕片や、こわれた箱や、樽や、桶板《おけいた》などの小さなものが、たくさん見えるのです。私は前に、不自然なくらいの好奇心が最初の恐怖の念にとってかわっていたことを申しましたね。その好奇心は恐ろしい破滅にだんだんに近づくにつれて、いよいよ増してくるのです。私は奇妙な関心をもって、私どもと仲間になって流れている無数のものを見まもりはじめました。どうも気が変になっていたにちがいありません[#「ちがいありません」に傍点]、――そのいろいろのものが下の泡の方へ降りてゆく速さを比較することに興味[#「興味」に傍点]を求めさえしていたのですから。ふと気がつくとあるときはこんなことを言っているのです。『きっとあの樅《もみ》の木が今度、あの恐ろしい底へ跳びこんで見えなくなるだろうな』――ところが、オランダ商船の難破したのがそれを追い越して先に沈んでしまったので、がっかりしました。このような種類の推測を何べんもやり、そしてみんな間違ったあげく、この事実――私がかならず見込み違いをしたというその事実――が私にある一つながりの考えを思いつかせ、そのために手足はふたたびぶるぶる震え、心臓はもう一度どきんどきんと強く打ちました。
 このように私の心を動かしたのは新たな恐怖ではなくて前よりもいっそう心を奮いたたせる希望[#「希望」に傍点]の光が射してきたことなのです。この希望は、一部分は過去の記憶から、また一部分は現在の観察から、生れてきたのでした。私は、モスケー・ストロムに呑みこまれ、それからまた投げ出されてロフォーデンの海岸に撒《ま》き散らされた、いろいろな漂流物を思い浮べました。そのなかの大部分のものは、実にひどく打ち砕かれていました、――刺《とげ》がいっぱいにつきたっているように見えるくらい、擦《す》りむかれてざらざらになっていました、――が私はまた、そのなかには少しもいたんでいないものも[#「ものも」に傍点]あったことを、はっきり思い出しました。そこでこの相違は、ざらざらになった破片だけが完全に呑みこまれたもの[#「完全に呑みこまれたもの」に傍点]であり、その他のものは潮時を大分遅れて渦巻に入ったか、あるいはなにかの理由で入ってからゆっくりと降りたために、底にまで達しないうちに満潮あるいは干潮の変り目が来てしまったのだ、と思うよりほかに説明ができませんでした。どちらにしろ、これらのものが早い時刻に巻きこまれたり、あるいは急速に吸いこまれたりしたものの運命に遭わずに、こうしてふたたび大洋の表面に巻き上げられることはありそうだ、と考えました。私はまた三つの重要な観察をしました。第一は、一般に物体が大きければ大きいほど、下へ降りる速さが速いこと、――第二は、球形のものとその他の形の[#「その他の形の」に傍点]ものとでは、同じ大きさでも、下降の速さは球形のものが大であること、第三は、円筒形のものとその他の形のものとでは、同じ大きさでも、円筒形がずっと遅く吸いこまれてゆくということです。私は助かってから、このことについて、この地方の学校の年寄りの先生となんども話したことがありますが、『円筒形』だの『球形』だのという言葉を使うことはその先生から教わったのです。その先生は、私の観察したことが実際水に浮いている破片の形からくる自然の結果だということを説明してくれました、――その説明は忘れてしまいましたが、――そしてまた、どういうわけで渦巻のなかを走っている円筒形のものが、他のすべての形をした同じ容積の物体よりも、渦巻の吸引力に強く抵抗し、それらよりも引きこまれにくいかということを、私に聞かせてくれたのです(15[#「15」は縦中横])。
 このような観察を裏づけ、さらにそれを実地に利用したいと私に思わせた、驚くべき事実が一つありました。それは、渦巻をぐるぐるまわるたびに船は樽やそのほか船の帆桁《ほげた》や檣《マスト》のようなもののそばを通るのですが、そういうような多くのものが、私が初めてこの渦巻の不思議な眺めに眼を開いたときには同じ高さにあったのが、いまではずっと私どもの上の方にあり、もとの位置からちょっとしか動いていないらしい、ということなのです。
 もう私はなすべきことをためらってはいませんでした。現につかまっている水樽にしっかり身を結びつけ、それを船尾張出部から切りはなして、水のなかへ跳びこもうと心を決めたのです。私は合図をして兄の注意をひき、側《そば》に流れてきた樽を指さし、私のしようとしていることをわからせるために自分の力でできるかぎりのことをしました。とうとう兄には私の計画がわかったものと思われました、――がほんとにわかったのか、それともわからなかったのか、兄は絶望的に首を振り、環付螺釘《リング・ボールト》につかまっている自分の位置から離れることを承知しないのです。兄の心を動かすことはできないことですし、それに危急のさいで一刻もぐずぐずしていられないので、私はつらい思いをしながら、兄を彼の運命にまかせ、船尾張出部に結びつけてあった縛索《しばりなわ》で体を樽にしっかり縛り、そのうえもう一刻もためらわずに樽とともに海のなかへ跳びこみました。
 その結果はまさに私の望んでいたとおりでした。いまこの話をしているのが私自身ですし――私が無事に助かってしまった[#「しまった」に傍点]ことはご覧のとおりですし――また助かった方法ももうはやご承知で、このうえ私の言おうとすることはみんなおわかりのことでしょうから、話を急いで切りあげましょう。私が船をとび出してから一時間ばかりもたったころ、船は私よりずっと下の方へ降りてから、三、四回つづけざまに猛烈な回転をして、愛する兄を乗せたまま、下の混沌《こんとん》とした湧きたつ泡《あわ》のなかへ、永久にまっさかさまに落ちこんでしまいました。私のからだを縛りつけた樽が、渦巻の底と、船から跳びこんだところとの、中間くらいのところまで沈んだころに、渦巻の様子に大きな変化が起りました。広大な漏斗の側面の傾斜が、刻一刻とだんだん嶮《けわ》しくなくなってきます。渦巻の回転もだんだん勢いが弱くなります。やがて泡や虹が消え、渦巻の底がゆるゆると高まってくるように思われました。空は晴れ、風はとっくに落ち、満月は輝きながら西の方へ沈みかけていました。そして私は、ロフォーデンの海岸のすっかり見える、モスケー・ストロムの淵がさっきまであった[#「さっきまであった」に傍点]ところの上手の、大洋の表面に浮び上がっているのでした。滞潮《よどみ》の時刻なのです、――が海はまだ台風の名残りで山のような波を揚げていました。私はストロムの海峡のなかへ猛烈に巻きこまれ、海岸に沿うて数分のうちに漁師たちの『漁場』へ押し流されました。そこで一|艘《そう》の船が私を拾いあげてくれました、――疲労のためにぐったりと弱りはてている、そして(もう危険がなくなったとなると)その恐ろしさの思い出のために口もきけなくなっている私を。船にひきあげてくれた人たちは、古くからの仲間や、毎日顔を合わせている連中でした、――が、ちょうどあの世からやってきた人間のように誰ひとり私を見分けることができませんでした。その前の日までは鴉《からす》のように真っ黒だった髪の毛は、ご覧のとおりに白くなっていました。みんなは私の顔つきまですっかり変ってしまったといいます。私はみんなにこの話をしました、――が誰もほんとうにしませんでした。今それをあなたに[#「あなたに」に傍点]お話ししたのですが、――人の言うことを茶化してしまうあのロフォーデンの漁師たち以上に、あなたがそれを信じてくださろうとは、どうも私にはあまり思えないんですがね」


(1)「暗黒の海」――昔、地中海沿岸の住民に知られない外海(大西洋)のことをかく言ったのであるという。――前の「ヌビアの地理学者」というのは誰のことか、はっきりわかっていない。ポーの晩年の論文『ユウレカ』のなかには、「ヌビアの地理学者 Ptolemy Hephestion によって記述された暗黒の海[#「暗黒の海」に傍点]」云々《うんぬん》とあるが、これはポーの思い違いであるらしく、おそらくアレクサンドリアの天文地理学者 Claudius Ptolemy ではなかろうかと言われている。
(2)強風のときに船が海上で安全のため、帆を低く下げあるいは絞って、できるかぎり風の方へ船首を向け、ほとんど静止していること。
(3)chopping――強い潮流の方向と反対に風が吹くとき、あるいは二つの潮流が合するときなどに生ずるように、波が短く不規則に乱れたように立ち騒ぐこと。かりに「狂い波」と訳しておいた。
(4)〔Maelstro:m〕――ノルウェー北部の海岸にある有名な大旋渦《だいせんか》。モスケン(モスケー)・ストロムとも呼ばれる。原語読みならばメールシトルムとでも書くべきであるが、ここでは英語読みにした。前のノルドランド(ノルラン)以下の固有名詞も必ずしも原語読みにしたがわず、便宜上の読み方を用いた。島の名などは多く作者の創作にかかるものらしい。
(5)Jonas Rarmus(一六四九-一七一八)――ノルウェーの僧侶《そうりょ》。ノルウェーの地理および歴史に関する著述がある。
(6)ギリシャ神話の冥府《めいふ》にある燃ゆる炎の河。
(7)アイスランドの東南、スコットランドの北方の洋上にある諸島。
(8)Athanasius Kircher(一六〇一-八〇)――ドイツの数学、言語学、考古学の学者。
(9)バルチック海の北方の海。
(10[#「10」は縦中横])向い風のために帆がマストに吹きつけられること。
(11[#「11」は縦中横])できるだけ風の来る方に近く帆走し上がること。
(12[#「12」は縦中横])船首から船尾にいたるまですっかり平坦《へいたん》に張られた上甲板。通し甲板。
(13[#「13」は縦中横])ring-bolt――綱などを結びつけるために甲板に取り付けられた環《かん》のついた螺釘《ねじくぎ》。環釘。
(14[#「14」は縦中横])マホメット教徒の信ずるところによれば、現世から天国へ至るには蜘蛛《くも》の糸よりも細い橋を渡るのである。その橋を渡るときに罪ある者は地獄の深淵《しんえん》に落ちるという。
(15[#「15」は縦中横])アルキメデス“De Incidentibus in Fluido”第二巻を見よ。(原注)



底本:「黒猫・黄金虫」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1995(平成7)年10月15日89刷改版
   2004(平成16)年2月5日100刷
※(1)~(15[#「15」は縦中横])は訳注番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように小書きされています。また数字は縦中横になっています。
入力:kompass
校正:土屋隆
2005年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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佐々木直次郎

ジーキル博士とハイド氏の怪事件 THE STRANGE CASE OF DR. JEKYLL AND MR. HYDE スティーヴンスン Stevenson Robert Louis———-佐々木直次郎訳

   キャサリン・ディ・マットスに

神が結んだ紲《きずな》は解かぬがよい。
わたしたちはやはりあのヒースと風の子でありたい。
ふるさと遠く離れていても、おお、あれもまたあなたとわたしのためだ。
エニシダが、かの北国《きたぐに》に美しく咲き匂うのは。

         
     戸口の話

 弁護士のアッタスン氏は、いかつい顔をした男で、微笑なぞ決して浮かべたことがなかった。話をする時は冷ややかで、口数も少なく、話下手だった。感情はあまり外に出さなかった。やせていて、背が高く、そっけなくて、陰気だが、それでいて何となく人好きのするところがあった。気らくな会合などでは、とくに口に合った酒が出たりすると、何かしらとても優しいものが彼の眼から輝いた。実際、それは彼の話の中には決して出て来ないものであった。が、食後の顔の無言のシンボルであるその眼にあらわれ、また、ふだんの行いの中には、もっとたびたび、もっとはっきり、あらわれたのであった。彼は自分に対しては厳格で、自分ひとりの時にはジン酒を飲んで、葡萄酒をがまんした。芝居好きなのに、二十年ものあいだ劇場の入口をくぐったこともなかった。しかし他人にはえらく寛大で、人が元気にまかせて遊びまわるのを、さも羨ましげに、驚嘆することもあった。そして、彼らがどんな窮境に陥っている場合でも、とがめるよりは助けることを好んだ。「わたしはカインの主義*が好きだよ、」と、彼はよくこんな妙な言い方をするのだった。「兄弟が自分勝手に落ちぶれてゆくのを見ているだけさ。」こんな工合だから、堕落してゆく人たちには最後まで立派な知人となり、最後までよい感化を与える者となるような立場にたつことは、よくあった。そして、そういう人々に対しても、彼らが彼の事務所へ出入りしている限り、ちっともその態度を変えなかった。
 もちろん、こういう芸当はアッタスン氏にとっては何でもないことであった。というのは、なにしろ感情をあらわさない男だったし、その友人関係でさえも同じような人のよい寛大さに基づいているらしかったので。ただ偶然にできた出来合いの友人だけで満足しているのは内気な人間の特徴であるが、この弁護士の場合もそうであった。彼の友人といえば、血縁の者か、でなければずうっと永い間の知り合いであった。彼の愛情は、常春藤《きずた》のように、時と共に成長したものであって、相手が友人として適当だというわけではなかった。彼の遠縁で、有名な粋人であるリチャード・エンフィールド氏との友情も、むろんそうして出来たものだった。この二人がお互いに何を認めることができたのか、あるいはどんな共通の話題を見出すことができたのかということは、多くの人々にとって解きがたい難問であった。日曜日に二人が散歩しているのに出会った人たちの話によると、二人は口も利かず、ひどくつまらなさそうな顔付きをしていて、誰か知人の姿を見るといかにもほっとしたように声をかけるのが常だということであった。そのくせ、その二人はこの日曜の散歩をとても大事にして、毎週の一番の大切なものと考え、それを欠かさずに楽しむためには、いろんな遊びをとりやめたばかりではなく、しなければならぬ用事までもふり捨てたのであった。
 そんな散歩をしていたある時のこと、二人がなにげなくロンドンのにぎやかな区域の横町を通りかかったことがあった。その横町はせまくて、まあ閑静な方だったが、それでも日曜以外の日には商売が繁盛していた。そこに住んでいる商人たちはみんな景気がよさそうであった。そして、みんなは競ってその上にも景気をよくしようと思い、儲けのあまりを惜しげもなく使って店を飾り立てた。だから、店々は、まるでにこやかな女売子の行列のように、客を招くような様子で道の両側にたち並んでいた。日曜日には、いつもの華やかな美しさも蔽われ、人通りも少なかったが、それでもその横町は、くすんだその付近とくらべると、森の中の火事のように照り映えていた。それに鎧戸は塗り換えたばかりだし、真鍮の標札は十分に磨き立ててあるし、街全体の調子がさっぱりしていて派手なので、すぐに通行人の眼をひき、喜ばせた。
 東へ向って行って左手の、一つの街かどから二軒目のところに、路地の入口があって、街並はくぎられていた。そしてちょうどそこに、気味の悪い一枚の建物が切妻《きりづま》を街路に突き出していた。その建物は二階建で、一階に戸口が一つあるだけ、二階は色のあせた壁だけで、窓は一つもなく、どこを見ても永いことよごれ放題にしてあった跡があった。ベルもノッカーも取付けてない入口の戸は、いたんで変色していた。浮浪人はそのひっこんだ戸口へのそりのそりと入り込んで戸の鏡板でマッチを擦り、子供たちは踏段の上で店を張って遊び、学校の生徒は繰形《くりがた》でナイフの切味を験《ため》したりした。そしてもう三十年近くの間、誰ひとり出て来て、そういう勝手な客たちを追い払ったり、彼らの荒した跡を修繕したりする者もなかった。
 エンフィールド氏と弁護士とは横町のその反対側を歩いていたが、路地の入口の真向いまでやって来ると、エンフィールド氏がステッキを上げて指した。
「あの戸口に気がついたことがありますか?」と彼は尋ねた。そして、相手がうなずくと、彼は言い足した、「あの戸口を見ると僕は妙な話を思い出すのです。」
「なるほど!」とアッタスン氏は言ったが、ちょっと声の調子が変っていた。「で、それはどんなことなのかね?」
「ええ、それはこうなんです、」とエンフィールド氏が答えた。「僕はある遠いところから家へ帰る途中でした。暗い冬の朝の三時頃のことです。その途中は、街灯のほかには全く何一つ見えないところでした。どの通りもどの通りも、人はみんな寝ているし、――どの通りもどの通りも、みんな何かの行列を待っているように明りがついていて、そのくせ教会のようにがらんとしているし、――で、とうとう僕は、人がじいっと聴き耳を立てて巡査の姿でも現われればいいと頻りに思い始める、あの気持になってきました。と突然、二人の人影が見えたのです。一人は小柄な男で、足ばやに東の方へばたばた歩いてゆく。もう一人は八つか九つくらいの女の子で、十字路を一所懸命に走ってきた。で、その二人は当然かどのところでぶっつかってしまいました。するとそのとき恐ろしいことが起こったのですよ。というのは、その男が子供の体を平気で踏みつけて、子供が地べたで泣き叫んでいるのをそのままにして行ってしまうのです。聞いただけでは何でもないようですが、見ていては地獄のようなことでした。それは人間の仕業じゃない。憎らしい鬼か何かのような仕業でした。僕はこら待てっと叫んで、駆け出して行き、その男の襟をひっ掴んで、元のところまで連れ戻ったのですが、そこには泣き叫んでいる子供の周りにもう人だかりがしていました。その男はまるで平然としていて何の手向いもしませんでしたが、ただ僕を一目ぎろりと見た眼付きの気持の悪さときたら、僕は駆足をした時のようにびっしょり汗が出たくらいです。出て来た人たちは女の子の家の者で、間もなく医者もやって来ました。子供はさっきその医者を呼びに行ったのでしたがね。ところで、医者の話では、子供は大したこともなく、ただおびえたのだということでした。で、あなたはこれでこの話はすんだと思ったかも知れません。ところが一つ妙なことがあったのです。僕は例の男を一目見た時からむかつくほど嫌いでした。子供の家の者もやはりそうだったが、それはもちろん当然のことでしょう。だが、僕の驚いたのは医者の場合だったのです。その男は世間なみの平凡な医者で、特に年寄りでも若者でもなく、特別の変った様子もしてもいず、ひどいエディンバラ訛りがあって、嚢笛《ふくろぶえ》のように鈍感な男でした。それがねえ、その男もやはり僕たちほかの者みんなと同じなんです。僕のつかまえている男を見るたびに、そのお医者はそいつを殺してでもやりたい気持になって胸がむかむかして真っ蒼になるのが、僕にはわかったのです。僕が心の中で思っていることが医者にわかったように、医者が心の中で思っていることも僕にはわかりました。でも、殺すなんてできることじゃなし、我々はその次のできるだけのことをしてやりました。我々はその男に言ってやったのです。我々はその事を世間に公表して、君の名前がロンドンの端から端までも鼻つまみになるようにしてやることができるし、またそうしてやるつもりだ。もし君に友人なり信用なりがあるなら、我々は必ずそれをなくさせてやる、とね。そして、我々は猛烈にまくし立てている間じゅう、女たちをできるだけそいつに寄せつけないようにしていました。何しろ女たちは夜叉みたいに猛り立っていたのでね。あんなに憎らしそうな顔の集まっているのを僕は今までに一度も見たことがありません。しかも、あいつはその真ん中に突っ立って、むっとした、せせら笑うような冷ややかな態度をして、――びくついてもいることは僕にはわかったが、――しかし、ねえ、全くサタンのように平気で押し通しているんですよ。奴はこう言ったものです。『もし君たちがこの事を利用しようというのなら、もちろん僕はどうにも仕方がない。紳士なら誰だっていざこざは避けたいのだからね、』とね。『金額を言い給え、』と奴は言いました。で、我々は子供の家の者のために奴から百ポンドせびり取ることにしました。奴は明らかにいやだと頑張りたかったらしいのですが、我々みんなの様子には何となく危害でも加えそうな気勢があったので、とうとう折れてでました。次はその金を受け取ることですが、奴がどこへ我々を連れて行ったと思います? なんと、それがあの戸口のところなんですよ。――鍵をすっと取り出して、中へ入り、やがて、金貨でかれこれ十ポンドばかりと、残額をクーツ銀行宛の小切手にしたのとを持って出て来たんです。その小切手は持参人払いに振出したもので、ある名前が署名してありました。その名前がこの話の要点の一つなんですが、その名前は言えません。が、それはともかく世間によく知られていて、新聞なぞにもよくでる名前なんです。金額は大したものです。が、その署名は、それが偽筆でさえなければ、それ以上の額だって支払うことのできるものでした。僕はその男にずけずけといってやりました。どうも何もかも疑わしいようだ。まともな世間じゃあ、朝の四時なんて時刻に穴蔵みたいなところへ入って行って、百ポンドにも近い大金を他人の小切手で持って出て来る者なんてないよ、とね。けれどもそいつは全く平気の平ざでせせら笑っているのです。『安心し給え。僕は銀行が開くまで君たちと一緒にいて、その小切手を自分で現金に替えてやるから、』と言うのです。そこで我々はみんなで出かけました。医者と、子供の父親と、そいつと、僕とですね。そして僕の部屋で夜明けまで過ごし、翌日、朝食をすますと、連れ立って銀行へ行きました。僕は自分で例の小切手を差出して、どうもこれは偽造だと思うが、と言ったのです。ところがそんなことはちっともないのさ。その小切手は本物だったのです。」
「ちぇっ!」とアッタスン氏が言った。
「あなたも僕と同感なんですね、」とエンフィールド氏が言った。「そうですよ、ひどい話です。何しろそいつは誰一人として相手にならないような奴で、実に憎らしい男なんですからね。それから、その小切手を振出した人というのは紳士の典型とも言ってもいい人だし、それに有名でもあるし、しかももっと困ったことには、いわゆる慈善家連中の一人なんです。これはきっと、ゆすりでしょうね。立派な人間が若い時の道楽か何かを種にされて目の玉の飛び出るほどの額をねだり取られているのでしょうよ。だから、ゆすりの家と僕はあの家のことを言っているのです。でも、それだけではとてもすべてを説明したことになんかなりはしないんですがねえ、」と彼は言い足した。そしてそう言い終ると物思いに沈んでしまった。
 と、その物思いから、彼はアッタスン氏のだしぬけの質問で呼びさまされた。「で君は、小切手の振出人がそこに住んでいるかどうかは知らないんだね?」
「いそうなところじゃないですか?」とエンフィールド氏は答えた。「しかし、僕は偶然その人の住所を心に留めておきました。その人は何とかいう広辻《スクエア》に住んでいるのです。」
「で君は、人に尋ねてみたことがないのだね――その戸口の家のことを?」とアッタスン氏が言った。
「ええ、ありませんよ。ちょっと遠慮したんです、」という返事だった。「もともと僕は人のことを詮索するのが嫌いなんです。そういうことは何だか最後の審判みたいでね。何か詮索を始めるとしますね。それは石を転がすようなものですよ。こちらは丘の頂上にじっと坐っている。すると石の方はどんどん転がって行って、ほかの石を幾つも転がす。そして、まるで思いもよらぬどこかの人のよいお爺さんが自分のとこの裏庭で石に頭を打たれて死に、そのためにその家族の者は名前を変えなければならなくなったりしますからね。いいや、僕はね、これを自分の主義にしているのですよ。物事が変に思われれば思われるだけ、それだけ益々詮索しない、というのをね。」
「それはなかなかよい主義だ、」と弁護士が言った。
「だが僕は自分だけであの場所を調べてみました、」とエンフィールド氏が言い続けた。「どうもあすこは人の住んでいる家とはとても思えませんね。ほかに戸口はなし、あの戸口へも、例の事件の男が極くたまに出入りするほかは、誰一人として出入りする者がないのです。路地側の二階には窓が三つあるが、階下《した》には一つもない。窓はいつも閉めてあるが、しかし奇麗になっています。それから、煙突が一本あって、大抵煙が出ていること。だから、誰かがあすこに住んでいるには違いありません。でもそれも大して確かなことじゃあないんです。何しろあの路地のあたりは建物がぎっしり建て込んでいて、どこが家の区切かよくわからないんですから。」
 二人はまた暫くは黙ったまま歩いていった。それから「エンフィールド君、」とアッタスン氏が言った。「君のその主義はよい主義だよ。」
「ええ、僕もそう思っています、」とエンフィールドが答えた。
「が、それにしても、」と弁護士は言葉を続けた。「ききたいことが一つある。わたしは子供を踏みつけたその男の名前をききたいのだが。」
「そうですね、」とエンフィールド氏が言った。「それは言っても別に差支えないでしょうね。そいつはハイドという名前でしたよ。」
「ふむ、」とアッタスン氏が言った。「その男は見たところどんなような男かね?」
「そいつの人相を言うのはたやすくないですよ。その様子にはどこか変なところがありましてね。何だか不愉快な、何だかとても憎らしいところが。僕はこれまでにあんなにいやな人間を見たことがありませんが、それでいてそれがなぜかよくわからないのです。あの男はどこか不具に違いない。不具という感じを強く人に与えるのです。もっとも、どこがそうかということは僕にもはっきり言えませんがね。とても異様な顔付きでしたが、それでいて何一つ並はずれなところを挙げることも実際できないのです。いやまったく、僕にはとても説明がつかない。僕にはあの男の人相を言えません。といって覚えていない訳じゃあないのですよ。なぜってこの今でも僕はあの男を思い浮かべることができるんですから。」
 アッタスン氏はまた黙って少し歩いていったが、たしかに何か考え込んでいた。とうとう「その男が鍵を使ったというのは確かなんだね?」と彼は尋ねた。
「一体あなたは……」とエンフィールドは我を忘れるくらい驚いて言いかけた。
「うん、わかっているよ、」とアッタスンが言った。「こう言っちゃ変に思われるに違いないがね。実は、わたしがもう一方の人の名前をきかないのは、わたしがとうにそれを知っているからなのだ。ねえ、リチャード、君の話はひしひしとこたえたんだよ。もし今の話にどこか不正確な点があったら、訂正なさった方がいい。」
「そんならそうと言って下さればいいのに、」と相手はちょっと不機嫌な様子で答えた。「しかし、僕は学者的にと言ってもいいくらいに正確に話したのです。そいつは鍵を持っていました。それどころか、今でも持っていますよ。一週間とたたない前、彼がそれを使っているのを僕は見たのです。」
 アッタスン氏は深い溜息をついたが、一言もいわなかった。すると若者の方がつづけてまた言いだした。「何も言うものではないという教訓をまた一つ得ましたよ、」と彼は言った。「自分のおしゃべりが恥ずかしくなりました。このことはもう二度とは触れないという約束をしようじゃありませんか。」
「よろしいとも、」と弁護士は言った。「約束しよう、リチャード。」

     ハイド氏の捜索

 その晩、アッタスン氏は暗い気分で自分のひとり住居へ帰って来て、食欲もなしに夕食の卓についた。いつも日曜などには、食事がすむと、炉の傍らに腰を下ろして、何か難かしい神学の書物を一冊机の上にのせて読み、近くの教会の時計が十二時を打つと、厳粛に感謝して床につくのが、習慣であった。しかし、この夜の彼は、食卓がかたづけられると直ぐ、蝋燭を取り上げて、自分の事務室へ入って行った。そこで金庫を開けて、その一番奥から、封筒にジーキル博士遺言書と書いてある書類を取り出すと、眉をくもらせながら腰を下ろしてその内容を熟読した。遺言書は全文のすべてが本人自筆のものであった。というのは、アッタスン氏は、出来上ったそれを保管してはいるけれども、それを作るには少しの助力をも拒んだからである。その遺言書は、医学博士、民法学博士、法学博士、王立科学協会会員等なるヘンリー・ジーキル死亡の場合には、彼の一切の所有財産は、彼の「友人にして恩人なるエドワード・ハイド」の手に渡るべきことを規定しているばかりではなく、ジーキル博士の「三カ月以上に亙る失踪、または理由不明の不在」の場合には、前記エドワード・ハイドは直ちに前記ヘンリー・ジーキルの跡をつぎ、博士の家人に少額の支払いをする以外には何らの負担も義務も負わなくともよいことを規定していた。この証書はこれまで永い間、弁護士の不愉快のたねであった。それは、弁護士として、また人生の穏健な慣習的な方面の愛好者としての彼を不快にさせたのであった。彼にとっては突飛なことは不心得なことであった。しかし、今までは、彼の憤慨をつのらせたのは、彼がそのハイド氏なる人間については何も知らないためであった。それが今や急に一変して、その人間のことを知っているためとなったのだ。その名前だけ知っていて、それ以上のことを何も知らなかった時でさえ、それはもう十分不都合であった。その名前がかずかずのいやらしい属性をつけ始めるようになっては、ますます不都合となった。そして、それまで永いあいだ彼の眼を遮っていた変りやすい朦朧たる霧の中から、突如として、悪魔の姿がはっきりと躍りでたのである。
「これはきちがい沙汰だと思っていた、」と、彼はそのいやな書類を金庫の元の場所にしまいながら言った。「ところが今度はどうもこれは何かけしからぬことではないかという気がしてきたぞ。」
 そう言うと彼は蝋燭を吹き消し、外套を着て、あの医学の牙城といわれるキャヴェンディッシュ広辻《スクエア》の方へと出かけた。そこには、彼の友人である著名なラニョン博士が邸宅を構えていて、群れ集まる患者に接していたのだ。「誰か知っている者があるとすれば、それはラニョンだろう、」と彼は考えたのである。
 しかつめらしい召使頭が彼を見知っていて、喜んで迎えた。彼は少しも待たされず、玄関から直ぐに食堂へ案内されると、そこにはラニョン博士がひとりで葡萄酒を飲んでいた。元気で、健康で、快活な、赭ら顔の紳士で、もしゃもしゃした髪の毛はまだそういう歳でもないのに白く、動作は大げさでてきぱきしていた。アッタスン氏を見ると、椅子から跳び立って、両手を差出して歓迎した。この愛想のよさは、この人の癖で、ちょっと芝居じみて見えたが、しかし真心から出ているのであった。というのも、この二人は古くからの友達で、小学校から大学までの同窓であったし、お互いに十分自尊心があると同時に相手を尊敬し、そして、必ずしもそうとは限らぬものだが、お互いに交際することをとても楽しみにしている人たちであったから。
 ちょっとした雑談のあとで、弁護士はひどく気にかかっている、例のいやな問題の方へ話を向けて行った。
「ねえ、ラニョン、君と僕とはヘンリー・ジーキルの一番古くからの友達だったね?」と彼は言った。
「その友達もお互いにもっと若かったらね、」とラニョン博士がくすくす笑って言った。「しかし君の言う通りだろうと思う。が、それがどうかしたの? 僕は近ごろとんと彼に会わないよ。」
「なるほど!」とアッタスンが言った。「君たちは共通の関心で結ばれているものと僕は思ってたのだが。」
「そうだったのさ、」という返事だった。「しかし、もう十年以上も前から、ヘンリー・ジーキルはあまり突飛になってきたんで、僕にはたまらなくなったのだ。彼は変になりかけてきたのだ、精神が変にね。勿論僕はいわゆる昔の誼《よし》みで今でも彼のことを気にかけてはいるが、このごろはずっとあの男にめったに会ったことがない。あんな非科学的なでたらめばかり言われては、」と博士はとつぜん顔を真っ赤にして言いたした。「デーモンとピシアス*だって仲が悪くなるよ。」
 このちょっとした憤慨はかえってアッタスン氏を幾らか安心させた。「二人は何か学問上のことで意見が違っただけなんだな、」と彼は考えた。そして、もともと学問的熱情などを持っていない(財産譲渡証書作成のことだけは別であるが)男なので、「ただそれだけのことさ!」とつけ加えさえした。彼はしばらく友人の気がしずまるのを待って、尋ねようと思ってきた例の問題に近づいた。「君は彼が世話している――ハイドという男に会ったことがあるかね?」と彼は訊いた。
「ハイド?」とラニョンがきき返した。「いいや。そんな男は聞いたことがない。これまでにね。」
 弁護士が大きな暗い寝床に持ち帰った知識はそれだけであった。その寝床で彼が寝つかれずにしきりに寝返りを打っているうちに、真夜中も過ぎてだんだんと明け方に近くなった。まっくら闇の中で考え悩み、いろいろな疑問に取巻かれて、思いまどった彼にとっては、くるしい一夜であった。
 アッタスン氏の住居のすぐ近くにある教会の鐘が六時を打った。それでもまだ彼はその問題を考えつづけていた。これまで、その問題は彼の知的方面だけに関していたのであった。ところが今では彼の想像力もそれに加わるようになった、というよりも、それの俘《とりこ》になってしまった。そして彼がカーテンをおろした部屋のまっくらな夜の闇の中で、横になって輾転反側していると、エンフィールド氏から聞いた話が、一連の幻灯の絵巻物となって彼の心の前を通っていった。夜の都会を一面に照らしている街灯が現われる。次にどんどん足ばやに歩いてゆく一人の男の姿。つぎに医者のところから駆けもどってくる子供の姿。それからその二人がぶつかり、人間の姿をした悪鬼が踏み倒して、その泣き叫ぶのを気にもかけずに通り過ぎてゆく。それからまた、豪奢な邸宅の一室が見える。そこには彼の友人が眠っていて、夢を見ながら微笑している。するとその部屋のドアが開かれ、ベッドのカーテンがさっと引きのけられ、眠っている友人が呼び起こされる。そして、見よ! その傍らに一人の男が立っている。その男は権力を与えられているので、そんな真夜中でも、友人は起き上ってその命令をきかなければならないのだ。この二つの場面に現われる男の姿が、夜どおし弁護士の心につきまとった。そして、いつでも彼がうとうと眠りかけさえすると、寝静まっている家々にその姿が一そう忍びやかにすうっと入って来たり、または街灯のともった都会の広い迷路をその姿が一そう速く、目まいがするほどにも速く駆けまわり、街かどという街かどで女の子を踏みつぶして、泣き叫ぶままにして行ったりするのが、見えるのであった。それなのに、その男には彼が見覚えられる顔というものがなかった。夢のなかでさえ、その男には顔がなく、あったにしても、見ようとすると眼の前で溶けてしまうのであった。こんな訳で、弁護土の心の中に、ほんとうのハイド氏の顔を見たいという異常に強い、まるで法外な好奇心がわきおこって、ずんずん大きくなって来たのである。もしただの一度だけでもその男を見ることができたなら、大抵の不思議の事柄というものがよく調べてみればそうであるように、この不思議もはっきりして恐らくすっかりなくなってしまうだろう、と彼は考えた。友人の奇妙なこのみ、または束縛(どちらに言ってもいいが)に対する理由、またあの遺言書の驚くべき文句に対する理由までも、わかるかも知れない。それに、少なくとも、それは見ておいて損のない顔であるだろう。慈悲心を持たない人間の顔であり、それを見ただけで、あの安っぽく感動しないエンフィールドの心に、忘れられない憎悪の念をおこさせたような顔であるから。
 その時からだった、アッタスン氏が商店の並んでいる例の横町にある例の戸口のあたりへ始終行くことになったのは。執務時間前の朝でも、事務が忙しくて暇が少ないひる時でも、霧のかかった都会の月光に照らされている夜でも、昼となく、夜となく人通りの少ない時でも多い時でも、弁護士の姿は、その定めの見張場に見出された。
「彼がハイド氏なら、己《おれ》はシーク氏になってやろう*」と彼は考えていた。
 そしてとうとう彼の忍耐は報いられた。からりと晴れわたったある夜のこと、空気は霜を結ぶくらい寒く、街路は舞踏室の床《ゆか》のように奇麗で、街灯は、それを揺がす風もないので、光と影の模様をくっきりと描いていた。商店の閉ざされる十時になると、その横町はひどく淋しくなり、四方八方からロンドンの低いうなるような音が聞こえてはくるが、大へん静かになった。小さなもの音でも遠くまで聞こえた。道路のどちら側でも、家々の中から洩れて来るもの音がはっきりと聞きとれた。そして通行人の近づいて来る足音は、その当人よりもずっと前からわかった。アッタスン氏は、その見張場へ来てから数分たったころ、あの変な軽やかな足音が近づいて来るのに気がついた。毎夜見張りをしているうちに、彼は、たった一人の人間の足音でも、その人間がまだずっと遠くにいるうちに、市中の騒々しいどよめきから、突然にはっきりと聞こえてくるあの奇妙な感じに、もうとっくに慣れていた。しかし、この時ほど彼の注意が鋭くひきつけられたことは前には一度もなかった。それで、今度こそはどうもそうらしいという強い迷信的な予感を抱いて、彼は路地の入口へ身をひそめた。
 足音はずんずん近づいて来て、街の角を曲ると急に一そう大きくなった。弁護士は、入口からうかがうと、自分の相手にしなければならぬ人間の風態が直ぐにわかった。小男で、じみな服装をしていて、そんなに遠くから見てさえも、その男の顔付きは、どういうものか、弁護士にはひどく気に食わなかった。しかし、その男は近道をするために道路をよぎって、まっすぐに戸口の方へやって来た。そして歩きながら、わが家へ近づく人のようにポケットから鍵を取り出した。
 アッタスン氏は進みでて、通り過ぎようとするその男の肩にちょっと手を触れた。「ハイドさん、ですね?」
 ハイド氏ははっと息を吸いこみながらたじろいだ。しかし彼の恐れはほんの一瞬間だった。そして彼は弁護士をまとには見なかったが、大へん落着いて答えた、「それはわたしの名前です。何の御用ですか?」
「あなたがお入りになろうとするところをお見かけしたものですから、」と弁護士は答えた。「私はジーキル博士の旧友で、――ゴーント街のアッタスンという者ですが、――あなたは私の名前をお聞きになったことがあるに違いない。で、ちょうどいいところでお会いしたから、通して頂けるかも知れないと思ったのです。」
「あなたはジーキル博士には会えますまい。留守ですから、」とハイド氏は鍵の孔の塵をぷっと吹きながら答えた。それから今度は突然、しかし、やはり顔を上げずに、「どうしてわたしをご存じでしたか?」と尋ねた。
「あなたに、」とアッタスン氏が言った。「お願いがあるんですが?」
「どうぞ、」と相手は答えた。「どんなことです?」
「あなたのお顔を見せて頂けませんか?」と弁護士が尋ねた。
 ハイド氏はためらっているようであった。が、やがて、何か急に思いついたように、挑みかかるような様子で向きなおった。そして二人は数秒の間じっと互いに睨み合った。「もうこれでまたお目にかかってもわかるでしょう、」とアッタスン氏が言った。「こうしておけば何かの役に立つかも知れません。」
「そうです、」とハイド氏が答えた。「我々はお会いしてよかった。それから、ついでに、わたしの住所も知っておかれたらよいでしょう。」そうして彼はソホーのある街の番地を知らせた。
「おや!」とアッタスン氏は心の中で考えた、「この男もあの遺言書のことを考えていたのか知らん?」しかし彼は自分の気持を外へださずに、ただその住所がわかったという返事に低い声を出しただけだった。
「で、今度は、」と相手が言った。「どうしてあなたはわたしをご存じだったのです?」
「これこれこういう人だと聞いていたから、」という答えだった。
「誰から?」
「わたしたちには共通の友人がある、」とアッタスン氏が言った。
「共通の友人!」と少し嗄れ声でハイド氏がきき返した。「それは誰です?」
「例えば、ジーキル、」と弁護士が答えた。
「あの男がそんなことを言ったことなんかないですよ、」とハイド氏はかっと怒って叫んだ。「君が嘘をつこうとは思わなかった。」
「まあまあ、」とアッタスン氏が言った、「それはおだやかな言い方ではないね。」
 相手は大きく唸ったが、それが獰猛な笑いになった。そして次の瞬間には、驚くべき速さで、戸口の錠をはずして、家の中へ姿を消してしまった。
 弁護士は、ハイド氏にとり残されると、不安の化身のように、しばらく突っ立っていた。それからのろのろと街をのぼり始めたが[#「始めたが」は底本では「殆めたが」]、一二歩ごとに立ちどまり、途方に暮れている人のように額に手をあてた。彼が歩きながらこんなに考え込んでいる問題は、難題の部類に入る問題だった。ハイド氏は色が蒼くて小男だったし、どこと言って奇形なところはないが不具という印象を与えるし、不愉快な笑い方をするし、弁護士に対して臆病と大胆との混った一種凶悪な態度で振舞ったし、しゃがれた、囁くような、幾らかとぎれとぎれな声でものを言った。――これらすべての点は彼にとって不利であったが、しかし、これらをみんな一緒にしても、アッタスン氏がハイド氏に抱いた、これまで経験したことのない憎悪、嫌厭、恐怖を説明することができなかった。「ほかにまだ何かあるに違いない、」と、この困惑した紳士は言った。「何と言ってよいかわからんが、何かそれ以上のものが確かにある[#「ある」に傍点]のだ。ほんとに、あの男はどうも人間らしくないようだな! 何か穴居人のようなところがあると言おうか? それとも、あの昔話のフェル博士の*ようなものだろうか? それともまた、忌わしい霊魂から出る光が、あのように肉体から泌み出て、その肉体の形を変えたものなのだろうか? どうもそうらしいようだ。なぜなら、ああ気の毒なハリー・ジーキル、もしわたしがこれまで人間の顔に悪魔の相を見たことがあるとすれば、それは君の新しい友人のあの顔だ!」
 その横町の角を曲ると、古風な立派な家の集まった一郭があったが、今では大部分はその高い身分からおちぶれて、一階ずつに、また部屋部屋に区切って、地図版画師や、建築師や、いかがわしい代言人や、インチキ企業家など、あるゆる身分階級の人々に貸してあった。しかし、角から二軒目の家だけが、今でもやはり、そのままそっくり一人の人が居住していた。玄関のあかり窓を除いて、今は闇に包まれてはいるけれども、いかにも富裕らしい趣きのあるその家の戸口のところで、アッタスン氏は立ち止って戸をたたいた。身装《みなり》のよい中年過ぎの召使が戸を開いた。
「ジーキル博士はお宅かね、プール?」と弁護士が尋ねた。
「見て参りましょう、アッタスンさま、」とプールは言いながら、客を、大きな、天井の低い、気持のよい広間に通した。そこは、床《ゆか》に板石がしいてあり、かっかと燃える、むき出しの炉で(田舎の屋敷風に)暖められ、樫の高価な用箪笥が備えつけてあった。「ここの暖炉のそばでお待ち下さいますか、旦那さま? それとも食堂に明りをつけてさしあげましょうか?」
「ここで結構、有難う、」と弁護士は言って、その高い炉囲いに近づいて、それに凭れかかった。今、彼がひとり取り残されたこの広間は、彼の友人の博士の得意にしている気に入りの部屋であった。そしてアッタスン自身もいつもは、そこをロンドンじゅうで一番居心地のよい部屋だと言っていた。しかし今夜は、彼は気味が悪くてならなかった。ハイドの顔が彼の記憶に重苦しくのしかかっていた。彼は(彼には滅多にないことだが)人生が厭わしく感じられた。そして、気が滅入っているので、彼は、磨き立ててある用箪笥に映るちらちらする炉火の光や、天井に不安そうに動く影にも、凶事の前兆を見るような気がした。やがてプールが戻って来て、ジーキル博士が外出しているということを知らせた時、自分がほっとしたのを彼は恥ずかしく思った。
「わたしはハイドさんがあの元の解剖室の戸口から入るのを見たのだがね、プール、」と彼は言った。「ジーキル博士が不在の時に、そんなことをしても差支えはないのかね?」
「差支えなどございませんとも、アッタスンさま、」とその召使が答えた。「ハイドさんは鍵をお持ちなんですから。」
「おまえの御主人はあの若い人を大そう信用しておられるようだな、プール、」とアッタスンが物思いに沈みながら言葉を続けた。
「はい、旦那さま、全く信用しておいででございます、」とプールが言った。「私どもはみんなあの方のおっしゃる通りにしろと言いつけられております。」
「わたしはハイドさんと一緒になったことがないと思うが?」とアッタスンが尋ねた。
「ええ、ええ、おありではございませんとも、旦那さま。あの方は一度もここで御食事[#「御食事」に傍点]をなさいません、」とその召使頭が答えた。「実際、私どもはお屋敷のこちらの方であの方を滅多にお見かけしないのです。たいていは実験室の方から出入りなさいますから。」
「では、さようなら、プール。」
「おやすみなさいまし、アッタスンさま。」
 こうして弁護士はひどく重苦しい心を抱いて家路についた。「気の毒なハリー・ジーキル、」と彼は考えた、「彼が苦しい羽目に陥っているのでなかろうかと気になってならない! 彼は若いときには放蕩をした。いかにも、それはずっと以前のことには違いない。だが、神さまの法律には、時効法なんてものはないのだからな。そうだ、そうに違いない。何かの昔の罪という亡霊か、何かの隠してある不名誉な行ないという癌なのだ。記憶が過ちを忘れてしまい、自分を愛する心が罪を許してしまってから何年もたってから、罰というものは跛をひきながらやって来るものだ。」そして、この考えに嚇かされた弁護士は、しばらく自分自身の過去を考えて、ひょっとして何かの旧悪がびっくり箱のように、いきなり明るみに跳び出してきはしまいかと思って、記憶の隅々までも探ってみた。彼の過去はまず過失のない方だった。彼よりも少ない懸念をもって自分の生涯をふり返ることのできる人は少なかった。それでも彼は自分のなした多くのよくないことを思うと恥ずかしさに堪えなかったが、また、自分が今にもしようとして止めた多くのことを思うと、再び元気づいて厳粛な感謝の念を抱くのであった。それからまた、彼は前の問題にもどって、希望の閃きを心に描いた。「あのハイドという若者もよく調べてみたら、」と彼は思った。「やはり秘密を持っているに違いない。あの男の顔付きから考えれば、さぞ暗い凶悪な秘密をな。それに比べれば可哀そうなジーキルの一番悪い秘密だってお日さまの光みたいなものだろう。このままにうっちゃっておく訳にはゆかない。あんな奴が盗人のようにハリーの枕許へ忍びよることを考えるとぞっとする。可哀そうなハリー、目をさました時にはどんなに怖いだろう! それにまた危険だ。というのは、あのハイドの奴が例の遺言書のあることを感づいたなら、奴は財産を相続するのを待ちかねるようになるかも知れんからな。そうだ、わしは一肌ぬいでやらなければならん、――もしジーキルがわたしにそうさせてさえくれるなら、」と彼は言い足した。「もしジーキルがわたしにそうさせてさえくれるならだ。」するともう一度、彼の心の眼の前に透し絵のようにはっきりと、あの遺言書の奇怪な文句が見えたのである。

     ジーキル博士は全く安らかであった

 それから二週間ほどたつと、大へん好都合にも、博士は五六人の親しい旧友を招いて、いつもの楽しい晩餐会を催した。みんな聡明な、名声ある人々であり、みんなよい酒の味のわかる連中であった。そしてアッタスン氏は、ほかの人々が帰ってしまった後までも自分で居残るように仕向けた。これは何も初めてのことではなく、それまでに何十回もあったことであった。アッタスンは、好かれるところでは、非常に好かれた。彼を招いた人たちは気さくな連中やおしゃべりな連中がとっくに家へ帰ってしまってからも、この無愛想な弁護士をひき留めておくことを好んだ。彼らは、思い切り陽気にはしゃいだ後に、しばらくこの控え目な客と向い合って坐り、この男の貴い沈黙によって淋しさに慣れるようにし、自分の心を冷静に落着かせることを好んだのである。このしきたりには、ジーキル博士も例外ではなかった。で、いま彼が炉をへだてて坐っていると、――大柄な、体の格好のよい、鬚のない五十ばかりの男で、かくれ遊びも多少あるかも知れないが、いかにも才能があり親切そうな人である――その顔付きから見ても彼がアッタスン氏に対して心からの温かい愛情を抱いていることがわかった。
「僕は君に話したいと思っていたのだがね、ジーキル、」とアッタスン氏が切り出した。「君のあの遺言書のことを君は覚えているだろうね?」
 この話題が気に入らぬことは、細かに注意して見る人にはすぐに察しられたであろう。が、博士は快活に受け流した。「気の毒だね、アッタスン、」と彼が言った。「こんな依頼人を持って君は不幸だね。僕の遺言書で、君が困っているほど困っている人間ってのは見たことがないよ。もっとも、あの頑迷な衒学者のラニョンが、彼のいわゆる僕の科学的異端で困っているがね。いや、彼がいい男だということは知ってるさ、――そんなに顔をしかめなくたっていいよ、なかなか立派な男で、僕も彼にはもっと会いたいといつも思っているんだ。しかしそれでもやはり頑迷な衒学者さ。無学な、やかましい衒学者さ。あのラニョンくらい僕を失望させた人間はなかったよ。」
「僕が、あれにはどうしても賛成できないということを、君は知っている筈だ、」とアッタスンは、その新しい話題をあっさり無視して言葉を続けた。
「僕の遺言書のことか? うん、たしかに、覚えている、」とちょっと鋭い調子で博士が言った。「君は僕にそう言ったことがあるよ。」
「では、もう一度そう言うよ、」と弁護士は続けた。「僕はハイドという若者のことが多少わかってきたのでね。」
 ジーキル博士の大きな、立派な顔は唇までも真っ蒼になり、眼のあたりには険しい色があらわれた。「僕はそれ以上聞きたくないのだ、」と彼が言った。「それは我々が言わないことに約束したことだと思うがね。」
「僕の聞いたのは怪しからんことなのだ、」とアッタスンが言った。
「それにしたって同じことだ。君には僕の立場がわからないんだよ、」と博士は何となく辻褄の合わぬような様子で答えた。「僕は苦しい立場にいるんだよ、アッタスン。僕の立場は大変妙な――大変妙な立場なんだ。それは話したってどうにもならないような事情なんだ。」
「ジーキル、」とアッタスンが言った。「君は僕を知っているはずだ。僕は信頼して貰ってもよい人間だ。そのことを内証ですっかりうち明けてくれ給え。そうすれば僕はきっと君をそれから救ってあげられると思うのだ。」
「ねえ、アッタスン、」と博士が言った。「君は実に親切だ。君は全く親切だ。何と言ってお礼を言っていいかわからない。僕は君を十分に信じている。僕はどんな人間よりも君を信頼したいのだ。いや、どっちかと言えば、自分自身よりも君を信頼したいのだ。しかし、全くのところ、あれは君の想像しているようなことじゃないんだよ。そんなにひどいことではないのだ。で、ただ君を安心させるだけのために、一つのことを言ってあげよう。僕はそうしようと思う時にはいつでも、ハイド氏と手を切ることができるのだ。そのことを僕は誓うよ。君には幾重にも感謝する。それから、ちょっと一言《ひとこと》だけ付け加えておきたいんだがね、アッタスン。きっと君はそれを悪くはとらないだろうと思うんだが。それは、このことは一身上の事柄なのだから、どうかうっちゃっておいて貰いたい、ということなんだ。」
 アッタスンは炉火を見ながらしばらく考えていた。
「君の言うことが至極もっともだということは疑わないよ、」とついに彼は言って、立ち上った。
「それはそうとして、我々がこの件に触れたからには、そして触れるのももうこれっきりにしたいものだが、」と博士は続けた。「君に解って貰いたい事が一つあるのだ。僕は可哀そうなハイドのことをほんとうに非常に気にかけているのだ。君があの男に会ったことは僕は知っている。彼が僕にそう言ったから。で彼が不作法なことをしはしなかったかと僕は気遣っている。しかし僕は、実際、心からあの若者のことをひどく、とてもひどく気にかけているんだ。それで、もし僕が死んだら、ねえ、アッタスン。君が彼を我慢してやって彼の権利を彼のために取ってやると、僕に約束してほしいのだがね。もし君がすべてを知ったなら、そうしてくれるだろうと思うのだ。そして、君がその約束をしてくれるなら、僕の心から重荷が下りるのだが。」
「僕はあの男をいつか好きになれそうな風をすることはできないね、」と弁護士が言った。
「僕はそんなことを頼んでいるんじゃないよ、」とジーキルは相手の腕に手をかけながら懇願した。「僕はただ正当な取扱いを頼んでいるだけなんだ。僕がもうこの世にいなくなった時に、僕のために彼の助けになってやって貰いたいと頼んでいるだけなんだよ。」
 アッタスンは抑えきれない溜息をもらした。「よろしい。約束する、」と彼は言った。

     カルー殺害事件

 それから一年近くたった一八――年十月のこと、ロンドン市民は非常に凶暴な犯罪によってうち驚かされ、しかもその被害者の身分が高かったので一そう世間の注意をひいた。そのいきさつは簡単なものではあったが、しかし驚くべきものであった。テムズ河から遠くないある家にひとり住まいをしている女中が、十一時ごろ二階へ寝に行った。夜なか過ぎには霧が全市に立ちこめたが、夜のふけぬうちは雲一つなく、女中のいる家の窓から見下ろす小路は、皎々と満月に照らされていた。彼女はロマンティックな性質だったらしく、窓の直ぐ下に置いてあった自分の箱に腰を下ろして、夢のような物思いに耽り始めたのである。その時ほど(と彼女は、その晩の見聞きしたことを物語るたびにいって涙を流しながら言うのだったが)彼女があらゆる人々と睦まじく感じたこともなく、世間のことを親しみを以て考えたこともなかった。そうして腰をかけている時に、彼女は一人の気品のある白髪の老紳士がその小路をこちらへ近づいて来るのに気がついた。するとまた、この紳士の方へ、ごく小柄な紳士がもう一人やって来たが、これには彼女を初めあまり気にとめなかった。その二人が話を交すことができるところまで(それはちょうど女中の眼の下であった)来たとき、老紳士の方がお辞儀をして、大そう立派なていねいな態度で相手に話しかけた。話をしていることは大して重大なこととは思えなかった。実際、彼が指さしをしていることから察すると、ただ道を尋ねているだけのようにも時々は見えた。しかし、月が、話している人の顔を照らしていて、娘はその顔を眺めるのがたのしかった。その顔はいかにも悪意のない、古風で親切な気質を表わしているように思われたが、しかしまた、正しい理由のある自己満足からくる何となく高ぶったところもあった。そして彼女の眼がもう一人の方にうつると、彼女は、それが、いつか一度自分の主人を訪ねて来たことがあり、自分が嫌な気持のしたハイド氏という男であることがわかって、びっくりした。その男は片手に重いステッキを持っていて、それをいじっていた。が、彼は一言も答えず、じれったくてたまらない様子で聴いているようであった。それから突然、彼はかっと怒り出して、足をどんどん踏みつけ、ステッキを振り回し、まるで狂人のように(女中の言ったところによれば)あばれた。老紳士は、大へん驚いたような、またちょっと感情を害したような様子で、一歩退いた。それを見るとハイド氏はすっかり自制力を失って、老紳士を地面に殴りたおした。そして次の瞬間には、猿のような凶暴さで、被害者を足で踏みにじり、続けさまに打ちのめしたので、骨は音を立てて砕け、体は路上に跳ねとばされた。その光景ともの音の怖ろしさに、女中は気を失ってしまった。
 彼女が我に返って警官を呼びに行った時は二時であった。殺害者はとっくに行ってしまっていた。が、被害者はめちゃくちゃに傷つけられて小路の真ん中に横たわっていた。凶行に用いたステッキは何かの珍しい、大そう丈夫で堅い木のものであったが、あの凶暴で残忍な力を揮ったために真二つに折れていた。そして折れた半分は近くの溝のなかに転げこんでいた。――片方の半分はきっと殺害者が持ち去ったのであろう。財布が一つと金時計一つ、被害者の身に着いていた。が名刺も書類もなく、ただ、封をして切手を貼った封筒が一つあり、彼は恐らくそれを郵便箱へ入れに行くところであったのだろうが、それにはアッタスン氏の住所と名前とが書いてあった。
 この封筒は翌朝、弁護士がまだ寝床を離れぬうちに、彼のところへとどけられた。彼はそれを見、事情をきくと直ぐ、厳粛な顔をして言い出した。「その死体を見た上でなければ何とも申し上げ兼ねます、」と彼は言った。「これは容易ならぬことかも知れません。身支度をする間どうか待って頂きたい。」そしてやはり同じ重々しい顔付きで、急いで朝食をすまし、死体が運ばれている警察署へ馬車を走らせた。その死体のある小室へ入るや否や、彼はうなずいた。「そうです、」と彼は言った。「僕はこの人を知っています。お気の毒ながらこれはダンヴァーズ・カルー卿です。」
「えっ、そりゃほんとうですか?」と警官が大きな声で言った。そして次の瞬間には彼の眼は職業的功名心で輝いた。「これは大変な騒ぎになるだろう、」と彼は言った。「で、あなたにも狂人を捕える助力をして頂けると思いますが。」そして彼は女中の目撃したことを簡単に話し、折れたステッキを示した。
 アッタスン氏はハイドの名を聞いただけでもう心がひるんでいた。がステッキが前に置かれると、もう疑うことができなかった。折れていたんではいるけれども、それは何年も前に彼自身がヘンリー・ジーキルに贈ったステッキであることがわかったのだ。
「そのハイド氏というのは小柄な男ですか?」と彼は尋ねた。
「並外れて小柄で、並外れて人相が悪い、とその女中が言っているのです、」と警官が言った。
 アッタスン氏は思案した。それからやがて顔を上げて言った、「僕の馬車で一緒にお出でになれば、その男の家へお連れできると思います。」
 この時分には朝の九時頃になっていて、この季節になってから初めての霧が立ちこめていた。大きなチョコレート色の棺衣《かんおおい》のような霧が空一面に垂れ下っていた。しかし風が絶えず、この戦陣を張った水蒸気を、攻めて追い散らしていた。だから、馬車が街から街へとゆらゆら進んでゆく時に、アッタスン氏は、薄明りが濃く淡く驚くほどさまざまな色合いを示しているのを見た。あるところでは夕方遅くのように暗いかと思えば、またあるところでは、大火事か何かの明りのように、濃いもの凄い褐色の輝きがあった。また、あるところでは、一時、霧がすっかり散って、やせ細った一条の日光が渦巻く雲の間からちらりと射し込んでくるのであった。こういう刻々に変ってゆく閃光の下で見る陰気なソホーの区域は、泥だらけの路や、だらしない通行人や、これまでずっと消したことがないのか、それとも、またも襲って来る陰気な暗さにそなえて新たに火を点けたのか、それらの街灯などと共に、弁護士の眼には、悪夢のなかで見るどこかの都会の一地域のように見えた。その上、彼の心に浮かぶ考えも至って憂欝な色を帯びていた。そして、彼が自分の同乗者をちらりと見る時に、正しい人をも時としておそうことのある、法律と、法律の執行者とに対するあの恐怖を、かすかに感じたのであった。
 馬車が言いつけた番地の前に停った時、霧が少しはれて、くすんだ街や、けばけばしく飾り立てた酒場や、低級なフランス式料理店や、三文雑誌や安サラダを売る店や、あちこちの家の戸口にむれ集まっているぼろ服を着たたくさんの子供たちや、朝酒を飲みに鍵を手にして出てきたいろんな国々の大ぜいの女たちなどが、彼の眼に映った。それから次の瞬間には、黄土のように茶色の霧が再びそのあたりに下りて、彼をその野卑な周囲からさえぎってしまった。そこがヘンリー・ジーキルのお気に入りの男、正貨二十五万ポンドの相続者である人物の住居なのであった。
 象牙のような色の顔をした銀髪の老婦人が入口の戸を開けた。猫をかぶって愛想よくした悪相な顔をしていた。しかし客に対するふるまいは立派だった。彼女は言った。さようでございます、こちらはハイドさんのお宅です。けれども唯今御不在です。昨晩は大そうおそくお戻りでしたが、一時間とたたないうちにまたお出掛けになりました。それは別に珍しいことではありません。あの方はふだんから大変不規則な習慣でして、よくお留守になさいます。現に、昨日お帰りになりましたのもかれこれ二月振りでした、と。
「じゃよろしい、僕たちはあの人の部屋を見たいのだ、」と弁護士が言った。そしてその女がそれはできませんと言いかけると、「この方がどなただかおまえさんに言っておく方がよかろう、」と言い添えた。「これはロンドン警視庁のニューカメン警視さんだ。」
 憎ったらしい喜びの色がさっとその女の顔に現われた。「ああ! あの人は挙げられたんですね!」と彼女は言った。「何をしたのでしょう?」
 アッタスン氏と警視とはちらりと眼を見合わせた。「あの男はあまり人に受けのいい人物ではないようですな、」と警視が言った。「ではね、お婆さん、僕とこのお方にちょいとそこらを見せて貰いたい。」
 その老婦人さえいなければ空家であるその家全体の中で、ハイド氏はたった二室しか使っていなかったが、その二室は贅沢によい趣味で家具を備えつけてあった。戸棚には葡萄酒が一ぱい入っていたし、食器類は銀製だし、テーブルかけも高雅だった。壁には立派な絵が懸っていたが、それは(アッタスンの推測では)なかなかの美術鑑識家であるヘンリー・ジーキルからの贈物であろう。絨毯は幾重にもなった厚いもので、色合いも気持のいいものであった。しかし、この時には、最近にあわててひっかき回したらしい形跡がいろいろあった。衣服はポケットを裏返しにしたまま床《ゆか》のあたりに散らばっていたし、錠の下りるひきだしは開けっ放しになっていたし、炉床には、たくさんの書類を焼いたらしく、黒い灰が山になっていた。その燃え屑の中から、警視は燃え残った緑色の小切手帳の端っこを掘り出した。例のステッキの片方の半分もドアのうしろから見つけ出された。これで彼の嫌疑が確かになったので、警視は喜ばしいと言った。銀行へ行ってみると、数千ポンドの金がその殺人犯人の預金になっていることがわかったので、彼はすっかり満足した。
「もう大丈夫ですよ、」と彼はアッタスン氏に言った。「つかまえたも同然です。奴はよっぽどあわてたに違いありません。でなけりゃ、ステッキを置き忘れたり、とりわけ、小切手帳を焼いたりなんかしなかったでしょう。だって、金はあの男にとっては命ほどに大事なものなんですからね。もう銀行で奴を待っていて、犯人逮捕のビラを出しさえすればいいという訳です。」
 しかし、このビラを出すということは、そうたやすくできることではなかった。なぜなら、ハイド氏には懇意な人がほとんどおらず、――例の家政婦でさえ彼には二度会っただけであったし、彼の家族はどこを探しても見当らなかったし、彼は写真をとったこともなかったし、彼の人相を言うことのできる少数の人々も、世間普通の観察者がそうであるように、言うことが各々ひどく違っていた。ただ一つの点でだけ、彼らの言うことは一致していた。それは、その逃亡者が彼を目撃した人たちに言うに言われぬ不具という妙に深い印象を与えたということであった。

     手紙の出来事

 アッタスン氏がジーキル博士の家の戸口へやっと辿り着いたのは、その日の午後おそくであった。彼はすぐプールに案内されて、台所の傍らを下り、もと庭園であった裏庭をよぎって、実験室とも解剖室ともどっちにも言われている建物へつれて行かれた。博士はこの家をある有名な外科医の相続人から買いとったのであるが、彼自身の趣味は解剖よりもむしろ化学の方だったので、庭園の奥にあるこの一棟の建物の使いみちを変えたのだった。弁護士が彼の友人の邸宅のこの部分に通されたのは初めてであった。で、彼は窓のないくすんだその建物を物珍しそうにじろじろ眺め、階段式になった解剖講堂を通りぬける時にはいやな奇妙な感じであたりを見回した。そこはもとは熱心な学生が一ぱいに詰めかけたものであるが、今ではもの淋しくひっそりしていて、テーブルの上には化学器械が積まれ、床《ゆか》には編みかごが転がり、荷造り用の藁が散らばっており、明りは霧のかかっている円天井からぼんやりと射しこんでいた。その講堂のもっと先に階段があって、それを上ると赤い粗羅紗を張ったドアのところへ来た。そしてこのドアを通って、アッタスン氏はやっと博士の書斎へ迎え入れられた。それは広い部屋で、周囲に硝子戸棚が取りつけられ、いろいろの物の中でも一つの姿見鏡と一つの事務用のテーブルとが備えつけてあり、鉄格子のついた三つの埃だらけの窓が例の路地に面して開いていた。火が炉のなかで燃えていた。ランプが一つ炉棚の上にともして置いてあった。家のなかまでも霧が深く立ちこめ始めたからである。そして、その炉に近く、ジーキル博士がひどく元気のなさそうな顔をして腰かけていた。彼は客を迎えるために立ちあがりもせず、ただ冷たい片手をさし出して、歓待の挨拶をしたが、その声はいつもと変っていた。
「ところで、」とアッタスン氏は、プールが出て行くと直ぐに言った、「君はあの事件のことを聞いたろうね?」
 博士は身ぶるいした。「広辻《スクエア》のところで大声で言っていたよ、」と彼は言った。「僕はそれを食堂にいて聞いた。」
「一言《ひとこと》だけ言っておくがね、」と弁護士が言った。「カルーは僕の依頼人だったが、君もやはりそうだ。で、僕は自分のしていることを知っておきたいのだ。君はまさかあの男をかくまうような馬鹿げたことはしないだろうね?」
「アッタスン、僕は神に誓って、」と博士は大声で言った。「神に誓って、もう二度とあの男には会わないつもりだよ。僕は名誉にかけて君に言うが、僕はもうこの世ではあの男と縁を切ったのだ。すっかりすんでしまったのだ。それにまた実際あの男の方でも僕の助力を必要としないのだ。あの男のことは君よりも僕の方がよく知っている。あの男は大丈夫なんだ。全く大丈夫なんだ。よく聞いてくれ給え、あの男はもうこれっきり、決して人の噂になることはないだろうよ。」
 弁護士はむずかしい顔をして聴いていた。彼は友人の熱病に罹っているような態度が気に入らなかった。「君はあの男のことには大分自信があるようだが、」と彼が言った。「君のために、どうか君の言う通りであるようにと思うよ。もし裁判にでもなろうものなら、君の名前が出るかも知れんからね。」
「僕はあの男のことには十分自信があるんだ、」とジーキルが答えた。「誰にもうち明けることはできないが、僕には確かに根拠があるんだ。しかし君に助言をして貰えるかも知れないことが一つあるんだがね。僕はそのう――僕は手紙を一通受け取ったのだが、それを警察へ見せたものかどうか迷っているのだ。僕はそれを君の手に任せたいんだよ、アッタスン。君ならきっとうまく判断してくれるだろう。僕は君を非常に信頼しているのだから。」
「その手紙からあの男が見つかるかも知れんと君は心配しているのだね?」と弁護士は尋ねた。
「いや、そうじゃない、」と相手が答えた。「ハイドがどうなろうと僕は別に気にかけちゃいないのだ。僕はあの男とはすっかり縁を切ったのだから。僕はこの忌わしい事件のために自分の評判が幾らか危険に曝されていることを考えていたのだ。」
 アッタスンは暫くの間考え込んだ。彼は友人の利己的なのに[#「利己的なのに」は底本では「利己発なのに」]驚いたが、しかしまたそれで安心もした。「では、」と彼はやっと言った。「その手紙を見せて貰おうか。」
 その手紙は妙な直立体で書いてあって、「エドワード・ハイド」と署名してあった。それには、筆者《わたくし》は、恩人ジーキル博士から永い間絶大な恩恵を受けながら、それに対して誠に申し訳ない報いをしてきたが、博士はもう私の身の安全については少しも心配される必要がない、私には確実に信頼できる逃亡の手段があるから、という意味のことをごく簡単に書いてあった。弁護士はこの手紙を見て非常に喜んだ。それでみると二人の親交は彼の予想していたよりは美しいもののように思われた。それで彼は今まである疑惑を抱いていたのをすまなく思った。
「この封筒があるかね?」と彼は尋ねた。
「焼いてしまったのだ、つい何の気もなしにね、」とジーキルが答えた。「でもそれには消印はなかったよ。その手紙は手渡しされたのだ。」
「僕にこれを預けて一晩考えさせてくれないか?」とアッタスンが尋ねた。
「君に何もかもそっくり僕のかわりに判断して貰いたいのだ、」というのがその返事であった。「僕は自分に信頼を失ってしまったのだ。」
「では、考えてみよう、」と弁護士が答えた。「ところでもう一言《ひとこと》きくがね。君の遺言書にあの失踪のことについて書かせたのはハイドだったのだね?」
 博士は急に気が遠くなりそうな様子であった。彼は口を堅く閉じてうなずいた。
「そうだろうと思っていた、」とアッタスンが言った。「彼は君を殺すつもりだったのだ。君は危いところを助かったのだよ。」
「僕はそれよりはもっとずっと重大な経験をしたのだ、」と博士は重々しい口調で答えた。「僕はある教訓を得たのだ、――おお、アッタスン、何という教訓を僕は得たことだろう!」そう言って彼はちょっとの間、両手で顔をおおうた。
 帰りがけに、弁護士は立ち止まって一言二言プールと言葉を交した。「ときに、今日手紙が届けられたそうだが、その使いの者はどんな人間だったかね?」と彼は言った。しかしプールは郵便で来たほかには何一つ来なかったときっぱり断言した。「そしてそれも通知状のようなものばかりでした、」と彼は言いそえた。
 この知らせは帰ってゆく客の不安をまた新たにした。きっとあの手紙は実験室の戸口から渡されたのだろう。あるいは、実際、あの書斎で書かれたのかも知れない。そして、もしそうだとすれば、それは違った判断をしなければならぬし、一そう慎重に取扱わねばならない。彼が歩いてゆくと、新聞売子は道ばたで声をからしながら叫んでいた。「号外。国会議員惨殺事件。」それは彼の依頼人である一人の知人の弔辞のようであった。そして、彼はもう一人の依頼人である友人の名誉がこの事件の渦中に巻きこまれはしまいかと思って、ある気がかりを抑えることができなかった。彼が決めなければならぬことは、少なくとも、細心の注意を要することであった。そして、ふだんは人に頼らないたちではあったが、彼は他人の助言がほしいと思うようになってきた。それも直接に聞くわけにはゆかなかった。が、うまく釣り出すことはできるかも知れないと彼は思った。
 間もなく、彼は、自分の家の炉の一方に、主任事務員のゲスト氏と向い合って、腰を下ろしていた。二人の間には、炉からちょうどよい距離のところに、地下室に永いあいだ日の目を見ずに貯えてあった特別に古い葡萄酒が一罎おいてあった。霧はなおも霞んだ市の上に翼をひろげて眠っていて、街灯は紅玉のようにかすかに輝いていた。そしてその低く深く垂れこめた息詰るような霧の中を、都会の交通機関が相変らず強風のような音を立てて大通りを通っていた。しかし室の中は炉火の光で気持がよかった。罎の中の葡萄酒の酸はとっくの昔に溶解してしまって、その紫色は、年代を経てやわらかになっていた。ちょうど窓の色硝子の色が年月とともに冴えてくるように。そして丘の中腹の葡萄畑に照った暑い秋の午後の日光が、今にも葡萄酒の中からとき放されて、ロンドンの霧を消散させようとしているかのようであった。だんだんと弁護士は気分がやわらいできた。彼はゲスト氏には誰よりも秘密にしておくことが少なかった。そして思わぬ秘密までもうち明けないとは限らないのであった。ゲストはたびたび用事で博士のところへ行ったことがあるし、プールをも知っていた。彼はハイド氏があの家と心やすくしていることを聞いていないはずはあるまい。彼なら結論をひき出せるかも知れない。とすれば、あの不可解な謎をとく手紙を彼に見せてもよくはないだろうか? それに、ことに、ゲストは手跡の熱心な研究家だし鑑定家だから、手紙を見せられても、それを当然な親切なことと考えるだろうから。その上、その事務員は助言をすることのできる男で、ああいう奇妙な書面を読んでなんとか意見をもらさぬことはないだろう。そうすればその意見によってアッタスン氏は今後の方針をきめられるかも知れない。
「ダンヴァーズ卿のはお気の毒な事件だね、」と彼は言った。
「全くさようでございます。ずいぶん世間の同情をひいております、」とゲストと[#「ゲストと」はママ]答えた。「犯人はもちろん気違いでございましょうね。」
「そのことについて君の意見を聞きたいのだがね、」とアッタスンが答えた。「僕はここにその犯人の書いた書面を持っているのだ。これはここだけの話だよ。僕はそれをどうしたらいいかよくわからないのだからね。何にしても厄介なことなんだ。だが、これだ。全く君のお手の物さ。殺人犯の自筆だよ。」
 ゲストの眼は輝いた。そして彼は直ぐに腰を下ろして、それを熱心に調べた。「いいえ、」と彼は言った、「気違いじゃありませんな。けどれも妙な筆跡ですね。」
「それにどう考えてみてもその書き手も大へん妙な男なんだ、」と弁護士が言い足した。
 ちょうどその時、召使が一通の手紙を持って入ってきた。
「それはジーキル博士からのでございますか?」と事務員は訊いた。「見覚えのある手だと思いました。何か内証のもので、アッタスンさん?」
「ただ晩餐の招待状だよ。どうして? これを見たいのかい?」
「はあ、ちょっと。有難うございます。」そして事務員はその二枚の紙片を並べて、しきりにその内容を見比べた。「有難うございました、」と彼はようやくその両方とも返しながら言った。「大へん興味のある筆跡です。」
 話がとぎれた。その間アッタスン氏は心のなかで悶えていた。「どうして[#「「どうして」は底本では「」どうして」]君はそれを比べたのかね、ゲスト?」と彼は突然きいた。
「さようで、」と事務員が答えた、「少し不思議な類似点がございますので。その二つの手跡は多くの点で同一なんです。ただ字の傾斜が違っているだけで。」
「ちょいとおかしいな、」とアッタスンが言った。
「おっしゃる通り、ちょいとおかしいのです、」とゲストが答えた。
「僕はこの手紙のことは人には言いたくないのだからね、わかったね、」と主人が言った。
「はい。承知いたしました、」と事務員が言った。
 そして、その夜アッタスン氏は自分一人になるとすぐに、その手紙を自分の金庫の中にしまいこみ、それから後はそこから出さなかった。「何ということだ!」と彼は考えた。「ヘンリー・ジーキルが殺人犯のために偽手紙を書くなんて!」そう思うと、彼の血は血管の中で冷たくなるような気がした。

     ラニョン博士の変事

 時が流れた。ダンヴァーズ卿の死は公衆に対する危害として世間の憤慨をかったので、数千ポンドの懸賞金がかけられた。しかしハイド氏は、まるで初めから存在しなかった人のように、警察の視界から消え失せてしまった。なるほど、彼の過去のことが大分明るみへ出された。そのどれもみな評判のよくないものであった。その男の冷酷で凶暴な残忍さのこと、その下劣な生活のこと、その奇妙な仲間たちのこと、これまでずっと周囲から憎悪の眼で見られていたこと、などについていろんな噂が出てきた。しかし、彼の現在の居どころについては、ささやき一つ聞こえなかった。あの殺害の朝ソホーの家を立ち去った時から、彼は全く姿を消してしまった。そして、時がたつにつれて、だんだんにアッタスン氏はあの烈しい驚きから回復し始め、前よりは心がおちついてきた。ダンヴァーズ卿の死は、彼の考え方によれば、ハイド氏の失踪によって十分に償われたのであった。あの悪い影響を及ぼす人間がいなくなったので、ジーキル博士には新しい生活が始った。彼は孤独の生活から出て、再び友人たちと交際をするようになり、もう一度彼らの心やすい客人ともなり招待者ともなった。そして、彼は今まではずっと慈善行為で知られていたが、今では宗教心でもそれに劣らず有名になった。彼は忙しく活動し、多く戸外に出て、善行をつんだ。彼の顔は、社会に奉仕をしていることを内心意識しているかのように、明るく晴れやかになったように見えた。そして二カ月以上の間、博士は平和であった。
 一月の八日、アッタスンは博士の家へ、数人の客と共に晩餐に招かれた。ラニョンもその席にいた。そして主人の顔は、その三人が離れられない友人であった昔のように、二人を代る代る眺めていたのであった。ところが十二日と、そしてまた十四日に、弁護士は玄関ばらいを食わされた。「博士はお引きこもりでございまして、どなたにもお会いになりません、」とプールが言った。十五日に彼はまた訪ねてみたが、また断わられた。彼はここ二カ月間というもの、殆ど毎日のようにその友人に会いつけていたので、博士がこのように孤独の生活へ返ったことは、ひどく気になった。五日目の晩に彼はゲストを招いて一しょに食事をし、六日目の晩には、ラニョン博士のところへ出かけた。
 そこではどうやら面会を拒絶されはしなかった。が、入ってみると、博士の様子が変っているのにぎょっとした。彼の顔には死の宣告がはっきりと書いてあった。あの赤らんだ顔をした元気そうな男が蒼白くなっていた。肉は落ち、目に見えて前よりは頭が禿げ年をとっていた。しかしながら、弁護士の注意をひいたのは、急激な肉体的衰弱のそういう徴候よりも、むしろ、何か心の深い恐怖を示しているらしい眼付きや挙動であった。博士が死を怖れるということはありそうではなかった。しかしアッタスンにはそうではなかろうかと思われてならなかった。「そうだ、この男は医者だから、自分の容態や、自分の余命が幾らもないことを知っているに違いない。そしてそれを知っていることが彼には堪えられないのだ、」と彼は考えた。しかし、アッタスンが彼の顔色の悪いことを言ったとき、ラニョンは自分はもうやがて命のない人間だと非常にしっかりした態度で断言した。
「僕はひどいショックを受けたのだ、」と彼が言った。「そしてとても回復できないだろう。もうあと何週間かという問題だ。考えてみると、人生は楽しかった。僕は人生が好きだった。そうだよ、君、いつも人生が好きだった。だが、我々がすべてを知り尽したなら、死んでしまいたくなるだろう、と時々は思うことがあるよ。」
「ジーキルも病気なんだ、」とアッタスンが言った。「君はあれから会ったかね?」
 ラニョンの顔付きは変った。そして彼は震える片手を上げた。「僕はジーキル博士にはもう会いたくもないしあの男のことを聞きたくもない、」と彼は大きなきっぱりしない声で言った。「あの男とはすっかり縁を切ったのだ。だから、僕が死んだものと思っている人間のことはどうか一切言わないで貰いたい。」
「困ったな、」とアッタスンが言った。それからかなり黙っていて から、「僕に何かできないかね?」と尋ねた。「我々三人はずいぶん古くからの友達だよ、ラニョン。もう生きている間にほかにこんな友達は出来ないだろう。」
「どうにもできないのだ、」とラニョンが答えた。「あの男自身に訊いてくれ給え。」
「あの男は会おうとしないのだ、」と弁護士が言った。
「それは不思議じゃないよ、」という返事だった。「僕が死んだ後、いつかはね、アッタスン、君はあるいはこのことの是非を知るようになるかもしれない。今は話す訳にはゆかないのだ。で、それはそうとして、もし君がそこに腰掛けてほかのことを僕と話すことができるなら、どうかゆっくりしていってくれ給え。しかし、もしその厭な話題に触れずにおくことができないなら、後生だから帰ってくれ給え。僕はそれには我慢ができないのだから。」
 家に帰るとすぐ、アッタスンは腰を下ろしてジーキルに手紙を書き、自分を家に入れぬことに苦情を言い、ラニョンとのこの不幸な絶交の原因を尋ねてやった。すると翌日長い返事がきたが、それにはときどき非常に悲痛な言葉が並べられ、ところどころ意味がはっきりしないところもあった。ラニョンとの仲違いはどうにもできないものであった。「彼は我々の旧友を責めはしない、」とジーキルは書いていた。「しかし二人が二度と会ってはならぬという彼の意見には同感だ。私はこれからは極端な隠遁生活を送るつもりだ。もし私の家の扉が君に対してさえちょいちょい閉ざされることがあっても、君は驚いてはならないし、また私の友情を疑ってもならない。君は私に私自身の暗い路を行かせなければならない。私は何とも言いようのない懲罰と危険とを身に負うている。もし私が罪人《つみびと》の首《かしら》であるならば、私はまた苦しむ者の首《かしら》でもあるのだ。この世がこんなに恐ろしい苦悩と恐怖とを容れる余地があるとは考えられなかった。この運命を軽減するためには、アッタスンよ、君はただ一つの事しかなし得ない。それは私の沈黙を尊重してくれることなのだ。」アッタスンはびっくりした。ハイドの暗い影が取りのけられて、博士はもとの仕事と親交とに立ち帰っていたのだ。ほんの一週間前には、ゆくすえは楽しい名誉ある老年を迎えることのできそうな、あらゆる望みで微笑していたのであった。ところが今は忽ちのうちに、友情も、心の平和も、彼の生涯の全行路も破滅させられたのだ。これほどの大きな思いがけない変化は狂気としか思えなかった。しかし、ラニョンの態度や言葉を考えてみると、それには何かもっと深いわけがあるに違いなかった。
 一週間後にラニョン博士は病床につき、二週間とたたないうちに死んでしまった。大へん悲しんだ葬式のすんだ日の晩、アッタスンは自分の事務室の扉《ドア》に錠を下ろし、陰欝な蝋燭の光の傍らに腰をかけて、死んだ友の手跡で宛名を書かれその封印で封された一通の封書を取り出して前においた。
「親展[#「親展」に丸傍点]。J・G・アッタスンの手にのみ[#「にのみ」に丸傍点]開封さるべし、彼が先立ちて死する場合は読まれずして破棄さるべきこと[#「読まれずして破棄さるべきこと」に傍点]、」とそれにはそうはっきりと上書《うわが》きしてあった。そして弁護士はその内容を見るのを恐れた。「わたしは今日一人の友人を葬った。これを見たためにもう一人の友人を失うようなことにでもなったらどうしよう?」と彼は考えた。しかし、彼はすぐにこの恐れを不忠実だと反省して、封を破った。中にはもう一通の封書があって、同じように封緘し、表には「ヘンリー・ジーキル博士の死亡乃至は失踪まで開封せられざること、」と記されてあった。アッタスンは自分の眼を信ずることができなかった。そうだ、失踪とある。ここにもまた、彼がもうずっと前にその筆者に返してしまったあの気違いじみた遺言書のなかにあったように、失踪ということとヘンリー・ジーキルの名前とが結びつけられているのだ。しかし、あの遺言書では、その考えはハイドという男の陰険な入れ知恵から出ていたのであった。それは全く余りにも明白な怖ろしい目論《もくろみ》[#「目論《もくろみ》」はママ]をもってそこに※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]入されたのだ。ところが、ラニョンの字で書かれたとなると、それはどういうことを意味するのだろう? 禁止をやぶってすぐさまこの不思議なことの底まで探ってみたいという強い好奇心がおこった。しかし職業上の名誉と亡き友に対する信義とは、その被委託者にとって峻厳な義務であった。で、その包みは彼の私用金庫の一番奥にそのままにしておかれた。
 好奇心を抑えることと、それに打ち勝つこととは、別のことである。その日からのち、アッタスンが彼の生き残っている友人との交際を、前と同じように熱望したかどうかは、疑わしい。彼はその友人のことを好意をもって考えた。しかし、彼の思いは不安で恐ろしいものだった。いかにも彼は訪ねには行った。が面会を断わられて却ってほっとしたかも知れない。おそらく、心の中では、すき好んで自分をとじこめている人の家の中へ通されて、気心の知れない隠遁者と向いあって話すよりも、広々とした都会の空気と音響とに取巻かれて、戸口の段のところでプールと話している方がよいと思ったかも知れない。実際、プールも大して愉快な知らせを持合わせなかった。博士はこの頃では前よりも一そう実験室の上の書斎に閉じこもり、時々はそこで眠ることさえあったらしい。彼は元気もなく、大へん無口になり、読書もしなかった。何か心にかかることがあるらしかった。アッタスンはいつもいつもこういう変らぬ報告を聞かされるので、だんだんと訪問するのを少なくするようになった。

     窓際の出来事

 ある日曜日、アッタスン氏がエンフィールド氏と一緒にいつもの散歩をしているときに、偶然またあの横町を通りかかった。そして、例の戸口の前へやって来ると、二人とも立ち止ってその戸口をじっと眺めた。
「まあ、あの話もどうやらけりがつきましたね、」とエンフィールドが言った。「我々はもう二度とハイド氏に会うことはないでしょう。」
「そうでありたいものだ、」とアッタスンが言った。「僕が一度あの男に会って、君と同じように嫌悪を感じたということは、いつか君に話したかね?」
「あの男に会って嫌悪を感じないということは、まずありませんよ、」とエンフィールドが答えた。
「それはそうと、ここがジーキル博士の家の裏口だということを知らなかったなんて、僕も何て馬鹿だろうとあなたはお思いなったでしょうね! 僕がそのことを知ったとしても、それは幾らかあなた御自身のせいだったのですよ。」
「じゃあ君はわかったのだね?」とアッタスンが言った。「だがそれなら、この路地へ入って行って窓のところをちょっと見て来てもよかろう。実を言うと、僕は気の毒なジーキルのことが気がかりなのだ。で、たとい家の外へでも、友達が来ているということが、あの男のためになるような気がするのだ。」
 その路地は大そう涼しくて少し湿っぽく、頭上の高い空はまだ夕焼けで明るいのに、もうはや黄昏の色が濃かった。あの三つの窓の真ん中の窓は半分開いていた。そして、その窓ぎわ近くに腰をかけて、佗しい囚人か何かのように限りなく悲しそうな顔付きで風にあたっているジーキル博士を、アッタスンはみつけた。
「やあ! ジーキル!」と彼は叫んだ。「君はよくなったのだね。」
「僕はどうも元気がなくてね、アッタスン、」と博士は陰気に答えた。「どうも元気がないのだ。有難いことには、これも永いことではあるまい。」
「君はあんまり家の中にばかりい過ぎるんだ、」と弁護士が言った。「外へ出て、エンフィールド君や僕のように血液の循環をよくしなければいけない。(これは僕の従弟《いとこ》で、――エンフィールド君だ、――ジーキル博士だよ。)さあ来給え。帽子を持ってきて[#「持ってきて」は底本では「持っきて」]、僕たちと一緒に元気よく散歩し給え。」
「御親切はまことに有難い、」と相手は溜息をつくような声で言った。「僕もそうしたいのは山々なんだ。が、いや、いや、いや、それはとてもできないのだ。僕にはできないんだ。しかし実際、アッタスン、よく来てくれたね。全く非常に嬉しいことだ。僕は君とエンフィールド君に上って貰いたいのだが、しかし、こんなところでどうもね。」

「なあに、それなら、」と弁護士は愛想よく言った、「僕たちがこのままにしていて、ここから君と話をすることにすれば一番いい。」
「それはちょうど僕がお願いしようと思っていたことだよ、」と博士は微笑しながら答えた。けれどもその言葉が言い終るか終らないうちに、その微笑はさっと彼の顔から消えてしまい、目もあてられぬような恐怖と絶望の表情に変ったので、窓下にいる二人は血までも凍るような気がした。窓がすぐにぴしゃりと下ろされたので、二人はそれをほんのちらりと一目見ただけであった。しかしその一目で十分だった。彼らは一言も言わずにひき返してその路地を出た。やはり無言のままで彼らはあの横町をよぎった。そして日曜日でさえ相変らずいくらか賑わっている近くの大通りへ出て来てから初めて、アッタスン氏はやっと振りかえって連れの顔を見た。彼らは二人とも真っ蒼だった。そして、眼にも同じような恐怖の色があった。
「ああ困ったことになった! 困ったことになった!」とアッタスン氏が言った。
 しかしエンフィールド氏はひどく真面目な顔をしてただ頷いただけであった。そしてまただまって歩き続けた。

     最後の夜

 アッタスン氏がある夜、夕食のあとで炉ばたに腰かけていると、プールが訪ねてきて驚かされた。
「おやおや、プール、どうしてここへやって来たのだい?」と彼は大声で言った。それからプールをもう一度見て、「どうかしたのかい?」と言いたした、「博士がお悪いのか。」
「アッタスンさま、」とその男が言った。「どうも少し変なのでございます。」
「そこへお掛け。そしてまあこの葡萄酒を一杯飲むのだ、」と弁護士が言った。「さあ、ゆっくりしておまえの言いたいことをはっきり言っておくれ。」
「あなたさまは博士の習慣をご存じでいらっしゃいますね、」とプールが答えた。「博士がよくとじこもっておしまいになることも。ところが、また書斎にとじこもられたのでございます。私にはあれが気にかかるのですよ、――ほんとうに気にかかるのでございます。アッタスンさま、私は心配なのでございます。」
「ねえ、おまえ、」と弁護士が言った。「隠さずに言ってくれ。何がおまえに心配なのだ?」
「私は一週間ばかり前からずっと心配して参りました、」とプールは頑固に相手の質問をそらして答えた。「そしてもうとても我慢ができません。」
 その男の様子はその言葉がほんとうであることをちゃんと証拠立てていた。彼の挙動は一そう悪くなった。そして、初めに自分の恐怖を知らせた時のほかは、弁護士の顔を一度もまともに見なかった。今でさえ、まだ口もつけない葡萄酒のコップを膝の上に置いたまま掛けていて、その眼は床《ゆか》の一隅にむけられていた。「私にはもうとても我慢ができません、」と彼はまた言った。
「さあさあ、」と弁護士が言った、「おまえの言うことには何かもっともな理由があるということはわたしにはわかるよ、プール。何かひどく不都合なことがあるということはわかる。それがどんなことだかわたしに言ってみて御覧。」
「人殺しか何かがあったのだと私は思います、」とプールはしわがれた声で言った。
「人殺しだと!」と弁護士は、非常に驚いて、それで幾らか腹立たしくなって、叫んだ。「どんな人殺しなんだ? この男は何のことを言っているのだ?」
「私にはどうも申し上げられません、」という返事であった。「私と御一緒にお出で下すって御自身で見て頂けないでしょうか?」
 アッタスン氏はそれに答えるかわりに、ただ立ち上って帽子と外套とを手に取った。しかし、彼はその召使頭の顔に大きな安堵の色が現われたのを見て不思議に思った。また、彼がついてこようとして葡萄酒を下に置いたとき、それにはまだ口がつけてないのを見て、それも不思議に思った。
 その夜は、風の強い、寒い、いかにもその季節らしい、三月の夜であった。蒼白い月が風に吹きかえされたかのように仰向きになって懸っていて、まるで透きとおった寒冷紗のような薄雲《うすぐも》が一つ空を飛んでいた。風のために話をすることも出来ず、顔には赤い斑が出来た。おまけに、風に吹き払われてしまったように街路にはいつになく人通りがなかった。アッタスン氏はロンドンのこの部分がこんなに人気《ひとけ》のないのは、これまでに見たことがないと思ったくらいだった。彼は人通りがあればいいがと思った。人間に会って触ってみたいという、これほどに烈しい欲望を感じたことは、これまで一度もなかった。どんなに払いのけようと努めても、何か禍いがおこってきそうな強い予感をひしひしと感じないではいられなかったからである。広辻《スクエア》のところまでやってくると、そこは一面に風と埃とが舞っていて、庭園の細い樹々は柵にぶっつかっていた。途中ずっと一二歩先に立って歩いてきたプールは、ここへくると、道の真ん中に立ち止り、身をきるような寒さなのに、帽子を脱いで、赤いハンケチで額を拭いた。けれども、急いで歩いてきたには違いないが、彼が拭ったのは急いだための汗ではなく、何か喉を締めつけられるような苦悩の脂汗だった。なぜなら、彼の顔は蒼白であったし、口をきいた時にはその声はかすれてとぎれがちであったから。
「さあ、旦那さま、」と彼が言った。「参りました。どうか神さま、何も変ったことがございませんように。」
「アーメン、プール、」と弁護士が言った。
 そこで召使頭はひどく用心深いやり方で戸をたたいた。戸は鎖のついたまま少し開かれて、内から誰かの声が尋ねた、「あんたかね、プールさん?」
「大丈夫だよ、」とプールが言った。「戸を開けてくれ。」
 二人が入ってみると、広間はあかあかと灯火をつけてあった。炉火も盛んに焚きつけてあった。そしてその炉のあたりに、家中の召使が、男も女も、羊の群れのようにごたごたとより集まっていた。アッタスン氏の姿を見ると、女中が急にヒステリックなすすり泣きを始めたし、料理女は「あら有難い! アッタスンさまだわ、」と叫びながら、まるで彼に抱きつこうとでもするように走り出てきた。
「なんだ、どうしたのだ? みんなこんなところにいるのか?」と弁護士は気むずかしく言った。「大そう不しだらで、大そう不体裁だ。御主人が見られたら機嫌を悪くなさるぞ。」
「みんな怖がっているのでして、」とプールが言った。
 黙ってひっそりしてしまい、誰一人としていいわけする者もなかった。ただ例の女中だけが声を高くして、今では大きな声を出して泣き出した。
「静かにするんだ!」とプールが彼女に言ったが、その口調の烈しさは彼自身の神経も乱れていることを示していた。そして実際、その娘が急に泣き声を張りあげた時には、皆ぎょっとして、恐ろしいものでも待っているような顔つきで奥のドアの方を振り向いたのだった。「さあ、」と召使頭は言葉を続けて、ナイフ研ぎボーイに言った。「蝋燭を一本渡してくれ。わたしたちはすぐに片づけてしまおう。」それから彼はアッタスン氏について来るように頼み、裏庭の方へ案内した。
「さて、旦那さま、」と彼が言った。「なるべくお静かにお出で下さいまし。あなたさまに先方の言うことを聞いて頂きたいのでして、先方には、あなたさまのおられることを聞かれたくはないのですから。で、よろしいですか、旦那さま、もしひょっとしてあなたさまに入れと申しましてもお入りになってはいけませんよ。」
 アッタスン氏は、こういう思いがけないことになったので、びくっとして、倒れんばかりになった。けれども、勇気をふるい起こして、その召使頭について実験室の建物の中へ入り、編みかごだの罎だののがらくたの転がっている外科の階段講堂を通りぬけて、あの階段の下まで来た。ここへ来るとプールはアッタスン氏に、一方の側に立って耳を澄ましているようにと合図をし、そして自分は蝋燭を下に置き、はっきりとわかるような非常な決心をして、階段を上り、書斎のドアの赤い粗羅紗を少しぶるぶるした手でとんとんたたいた。
「旦那さま、アッタスンさまがお目にかかりたいとおっしゃってお出ででございますが、」と彼は声をかけ、そう言いながらも、弁護士によく聴いているようにともう一度はげしく合図した。
 ドアの内から声が答えた。「誰にもお目にかかれないと言ってくれ、」とその声は不平そうに言った。
「はい、畏りました、」とプールは何だか得意そうな調子で言った。そして蝋燭を取り上げると、アッタスン氏を導いて引返し、裏庭を通って大きな台所へ入った。そこには火は消えていて、甲虫が床《ゆか》の上に跳んでいた。
「旦那さま、」と彼はアッタスン氏の眼を見ながら言った。「あれが私の主人の声でしたでしょうか?」
「声がひどく変ったようだな、」と弁護士は真っ蒼になりながらも相手を見返して答えた。
「変ったですって? まあ、さよう、私もそう思います、」とその召使頭が言った。「二十年もあの方のお屋敷に奉公しておりながら、その御主人のお声を聞き違えるなんてことがございましょうか? いいや、旦那さま。御主人は殺されたんです。神さまの御名を呼んでわめいておられるのを私たちが聞きました八日前に、殺されたのでございます。御主人の代りに誰が[#「誰が」に傍点]あすこに入っているのか、またその者がなぜ[#「なぜ」に傍点]あすこに残っているのかということは、神さまに叫ぶような恐ろしいことなのですよ、アッタスンさま!」
「それはずいぶん妙な話だな、プール。それはむしろ突飛な話だよ、なあ、おまえ、」とアッタスン氏は指を噛みながら言った。「仮りにおまえの推測どおりだとしても、ジーキル博士がそのう――そうだ、殺されたとしてもだ、その殺害者が一たい何のためにそこに残っているだろうか? そんなことはどうも辻褄が合わんな。理屈に合わないよ。」
「まあ、アッタスンさま、あなたさまを納得させるのはなかなか厄介ですが、でもそのうち納得させてあげましょう、」とプールが言った。「この一週間というものは(あなたさまも知って頂きたい)その人間だか、何だか、とにかくあの書斎の中にいる者が、夜となく昼となく、何かある薬をほしがってわめいているのでございます。そしてそれが気に入るのが手に入れられないのです。紙っきれに御自分の注文を書いて、それを階段の上に投げ出しておくというのが、時々あの方の、というのは御主人のことですが――癖でした。この週はそればっかりだったのです。ただ紙ばかり出してあって、ドアは閉めっきりで、食事さえそこに出しておくと誰も見ていない時にこっそりと持ち込む、といった風なんで。でね、旦那さま、毎日毎日、いや、一日に二度も三度も、注文や小言が出まして、私はロンドンじゅうの薬問屋を駆けずり回されているのでございます。私が薬品を持って帰る度ごとに、いつもきまって、これは純粋の品ではないから返して来いという紙と、別の店への注文が出るのでした。その薬が、何のためですか、旦那さま、とてもひどく入用なようでございます。」
「その紙というのをおまえはどれか持っているかね?」とアッタスン氏が尋ねた。
 プールはポケットの中を探って一枚の皺くちゃになった手紙を手渡した。それを弁護士は蝋燭の近くに身をこごめて注意深くしらべた。その内容はこうなっていた。「ジーキル博士はモー商会に申し入れます。モー商会の今度の見本は不純品でJ博士の目下の目的には全く役には立ちません。一八――年にJ博士はM商会からかなり多量を購入したことがあります。どうか最も念入りに注意して探しだし、同じ品質の物が多少でも残っていましたなら、それをすぐにJ博士の所に送って下さい。費用は問題でありません。J博士にとってこの薬品はこの上もなく重要なものなのです。」ここまでは手紙はすこぶる落着いて書いてあったが、ここでペンが急に走り書きになって、筆者の感情が抑え切れなくなっていた。「後生だから、私にあの前の品を少し見つけてくれ、」と付け加えてあった。
「これは妙な手紙だ、」とアッタスン氏が言った。それから、きつく「どうしておまえはこれを開けたのだね?」と言った。
「モー商会の男が大変に腹を立てましてね、旦那さま、それをまるで紙屑のように私に投げ返したのでございます、」とプールが答えた。
「これはたしかに博士の筆跡ではないか?」と弁護士が言葉を続けた。
「私もそうらしいと思いました、」と召使はすこしむっつりして言った。それから声の調子を変えて「けれども筆跡なぞ何でしょう?」と言った。「私はあの人を見たんですもの!」
「あの人を見たと?」アッタスン氏はきき返した。「それで?」
「それなんですよ!」とプールが言った。「それはこういう訳なのでございます。私は庭から階段講堂へいきなり入ったことがありました。すると、あの人がその薬かそれとも何かを探しにこっそり出て来ていたらしいのです、といいますのは、書斎のドアが開いていまして、あの人がその室のずっと向うの端で編みかごの間をしきりに探していたからで。私が入って参りますと顔を上げ、何か叫び声のような声を立てて、二階の書斎へ駆け込んでしまいました。私があの人を見たのはほんの一分間くらいのものでしたが、私はぞっとして髪の毛が頭に突っ立ちました。ねえ、旦那さま、もしあれが私の主人でしたなら、なぜ顔に覆面なんぞをしていたのでしょう? もし私の主人でしたなら、なぜ鼠のような叫び声なぞを立てて、逃げて行ったのでしょう? 私はあの方にずいぶん永らく御奉公しております。それに……」とその男はここで言葉を切って、片手で顔をこすった。
「これは何もかも非常に妙なことばかりだ、」とアッタスン氏が言った。「しかしどうやら僕にはわかりかけたような気がする。おまえの御主人はな、プール、きっと、病人を非常に苦しめて、顔かたちも変えるというあの病気の一種に罹られたのだ。そのために、多分、声が変っているのだろうと思う。そのために覆面をしたり友人を避けたりしているのだろう。そのためにその薬をしきりに探して、その薬で、可哀そうに、あの男はどうにか回復しようという望みを持っているのだろう、――どうかその望みがかなえばいいが! これが僕の解釈だ。ずいぶん痛ましいことだがなあ、――プール、考えてもぞっとするようなことだ。しかしこう考えればはっきりわかって自然だし、ちゃんと辻褄が合って、いろんな途方もない恐れを抱くこともいらなくなるよ。」
「旦那さま、」と召使頭は顔色を斑な紫色に変えながら言った、「あの者は私の主人ではございませんでした。ほんとでございます。私の主人は――」とここで彼はあたりを見回して、それから声をひそめて言い出した――「背の高い立派な体格の方《かた》ですが、その男はずいぶん小男でございました。」アッタスンは抗議しようとした。「まあ、旦那さま、」とプールが大声で言った。「あなたは私が二十年も奉公していて自分の主人がわからないとお思いになるのですか? 御主人の頭が書斎のドアのところでどの辺まで来るか、これまでずっと毎朝毎朝そこで見ていながら、それがわからないとお思いになるのですか? いいえ、旦那さま、覆面をしていたあの者は決してジーキル博士ではございませんでした、――何者だったかということは神さまだけがご存じです、決してジーキル博士ではございませんでしたよ。で、人殺しがあったのだということは私は心から信じているのです。」
「プール、」と弁護士が答えた。「おまえがそう言うなら、確かめるのが僕の義務になってくる。僕はおまえの御主人の気を悪くしたくないのは山々だし、この手紙を見ると御主人はまだ確かに生きておられるようで大変迷うのだが、私はあのドアを押し開けて入るのを自分の義務と考えよう。」
「ああ、アッタスンさま、それはごもっともです!」と召使頭が叫んだ。
「ところで第二の問題だが、」とアッタスンが言葉を続けた。「誰がそれをすることにするかね?」
「なあに、旦那さまと私で、」という臆しない返答だった。
「よく言ってくれた、」と弁護士が答えた。「で、どんなことになろうと、きっとおまえに迷惑はかけないようにしてやろう。」
「階段講堂に斧が一梃ございます、」とプールは続けて言った。「それから旦那さまは台所の火掻きを御自分でお持ち下さいまし。」
 弁護士はその不細工な、しかし重い道具を手に取って、振り動かしてみた。「おまえはね、プール、」と彼は顔を上げて言った。「おまえと僕とは多少危険なところへ入ろうとしているのだということを知っているかね?」
「さようでございますとも、旦那さま、」と召使頭が答えた。
「ではな、我々は包み隠しをしない方がよい、」と相手が言った。「我々は二人とも心に思っていることをみんなまだ口に出して言っていないのだ。すっかりうち明けて話すとしようじゃないか。そのおまえの見たという覆面をした男だが、おまえはその男に見覚えがあったかね?」
「さようでございますね、何しろそれは大へん素速く逃げて行きましたし、そいつはひどく体を折り曲げておりましたので、そのことははっきり申し上げることはできません、」という返事であった。「けれども、それはハイドさんではなかったか? と旦那さまがおっしゃるおつもりなら、――そうですね、さよう、そうだったと私は思いますんで! 体の大きさも大体同じくらいですし、素ばしこくて身軽な様子も同じでしてねえ。それに、ほかの誰が実験室の戸口から中へ入ることができましょう? あの人殺しの時にもあの人はやっぱり鍵を持っていたということは、旦那さまもお忘れではございませんでしょう? でもそれだけじゃありません。アッタスンさま、あなたさまがいつかあのハイドさんにお会いになったことがおありかどうか私は存じませんが?」
「うん、僕は一度あの男と話したことがある、」と弁護士が言った。
「それなら、あなたさまも私どもみんなと同じように、あのお方には何となく変なところが――何となく人をぎょっとさせるところが――あったということをご存じに違いありません。それを何と言ったらいいか、こう言うよりほかには、私にはよくわからないのですが、――骨の髄までも何だかぞっとするようなところですね。」
「僕も実はおまえの言うような気持がしたよ、」とアッタスン氏が言った。
「全くさようですよ、旦那さま、」とプールが答えた。「ところで、その猿のような覆面をした者が薬の間から跳び出して書斎の中へ駆けこみました時に、その感じが氷のようにぞっと私の背骨を通ったのでございます。おお、そんなことは証拠にゃならないということは知っていますよ、アッタスンさま。それっくらいのことは私もちゃんと存じております。しかし人には感じというものがございます。で、あれがハイドさんだったということは、私は聖書にかけても誓いますよ!」
「なるほど、なるほど、」と弁護士が言った。「僕もどうもそうじゃないかと思う。あの二人の関係から、よくないことが出来たのだろう、――よくないことが起こるにきまっていたのだ。なるほど、全く、おまえの言う通りだと思う。気の毒にハリーは殺されたのだと僕も思う。そして彼を殺害した者は(何のためだか、神さまだけしかご存じではないが)まだその被害者の部屋に潜んでいるのだと思う。よし、我々は復讐をしてやろう。ブラッドショーを呼んでくれ。」
 その馬丁は呼ばれて真っ蒼になってびくびくしながらやってきた。
「しっかりするんだ、ブラッドショー、」と弁護士が言った。「こういうどっちつかずの有様がお前たちみんなを怖がらせているんだよ。だが今我々はこんな有様にけりをつけようと思っているのだ。ここにいるプールと僕とがこれから書斎へ押し入るつもりだ。もしみんながよければ、僕が一切の責任を負うてやる。その間、何かへまをしたり、犯人が裏口から逃げ出したりするといけないから、おまえとあのナイフ研ぎのボーイとは丈夫な棒を一本ずつ持って、角をまわって、実験室の戸口のところで張番をしていなければならない、おまえたちがその部署につくまで、我々は十分間待つとしよう。」
 ブラッドショーが立去ると、弁護士は自分の懐中時計を見た。「さあ、プール、我々も部署につこう、」と彼は言って、火掻きを小脇に抱えて、先に立って裏庭へ出た。風に吹かれて飛ぶ雲がちょうど月をおおっていて、そのときは真っ暗であった。建物にかこまれて深い井戸のようになっている裏庭には、ときどき隙間風が吹き込んできて、蝋燭の光を二人の足もとへあちこちと揺り動かした。やがて彼らは風の当らない階段講堂へ入ると、黙ったまま腰を下ろして待った。ロンドンのどよめきは重々しく四方から聞こえていた。しかしあたりは静かで、ただ書斎の床をあちこちと歩き回っている足音だけがきこえていた。
「ああして一日中歩いているのですよ、」とプールが囁いた。「いいえ、昼間ばかりか、夜も大抵はああなのでございます。ただ薬屋から新しい見本が参りました時だけ、ちょっとやむのです。ああ、あんなにまで落着けないのは良心が咎めるからですよ! ああ、旦那さま、あの一歩一歩に人殺しをして流した血があるんですよ! だがもう一度聴いてごらんなさいまし、もう少し近くへ寄って、――ようく耳を澄ましてごらんなさいまし、アッタスンさま。あれが博士の足音でございましょうか?」
 その足音は、非常にゆっくり歩いていたにも拘らず、威勢のよい調子の、軽やかな奇妙なものであった。ヘンリー・ジーキルの重々しい軋むような足取りとは全く違っていた。アッタスンは溜息をついた。「ほかに何も変ったことはないかね?」と彼は尋ねた。
 プールはうなずいた。「一度、」と彼が言った。「一度私はあれが泣いているのを聞きました!」
「泣いていた? それはどうした訳で?」と弁護士は急に恐怖の寒気を覚えながら言った。
「女か、それとも地獄へ堕ちた亡者みたいに泣いておりました、」と召使頭が言った。「それを聞いて戻って来ますと、それが心に残って、私までも泣きたくなるくらいでした。」
 しかしその時、約束の十分も終りかけていた。プールは積み重ねてある荷造り用の藁の下から斧を引き出した。蝋燭は、攻撃にかかる二人を照らすために、一番近くのテーブルの上に置かれた。そして二人は、夜の静けさの中を、あの根気強い足首がやはり往ったり来たり、往ったり来たりしているところへと、息を殺してちかよって行った。
「ジーキル、」とアッタスンが大声で呼んだ、「僕は君に会いたいのだ。」彼はちょっと言葉を切った。が何の返事もなかった。「僕は君にはっきり警告するが、我々は疑いを起こしたのだ。それでわたしは君に会わなければならんし、また会うつもりだ、」と彼は言葉を続けた。「もし正当な手段で会えなければ、非常手段ででも、――もし君の同意がなければ、暴力を用いてでもだ」
「アッタスン、」とさっきの声が言った、「後生だから、容《ゆる》してくれ!」
「ああ、あれはジーキルの声じゃない、――ハイドの声だ!」とアッタスンが叫んだ。「ドアを打ち破れ、プール。」
 プールは斧を肩の上にふり上げた。打ち下ろすと建物がゆれ動き、赤い粗羅紗を張ったドアは錠と蝶番とに当って跳ね返った。まるで動物的な恐ろしい叫び声が書斎から響きわたった。斧が再びふり上げられ、再び鏡板ががあんと音を立て枠板が跳ね返った。こうして四度打ち下ろされたが、木は堅かったし、取付けの器具は丈夫に出来ていた。それで五度目になってやっと、錠がばらばらに打ち砕け、ドアの壊れたのが内側の絨毯の上に倒れた。
 攻めかかった二人は、自分たちのやった乱暴と、その後の静けさとにぞっとして、ちょっと後へ下って覗きこんだ。彼らの眼の前には、静かなランプの光に照らされた書斎があった。暖炉には気持のよい火がぱちぱち音を立てて真っ赤に燃えていた。湯沸しは低い調子で歌を歌っていた。ひきだしが一つ二つ開いていたし、事務用のテーブルの上には書類がきちんと並べてあった。炉の近くには、茶道具があって茶を入れる用意がされていた。もしこの室に、薬品の一杯入っていた硝子張りの戸棚さえなかったなら、その夜ロンドン中でも一番静かな室とも、また一番平凡な室とも言えたろう。
 室のちょうど真ん中に、ひどく※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]《ね》じ曲ってまだぴくぴく動いている一人の男の体が横たわっていた。二人は爪先を立てて近寄り、それを仰向きにすると、見えたのはエドワード・ハイドの顔であった。彼は、自分には大分大き過ぎる、博士の着るくらいの大きさの衣服を着ていた。顔面神経はまだ生きているもののように動いていた。が生命は全くなくなっていた。そして、片手に持っている割れた薬びんと、空中に漂っている苦扁桃水の強い臭いとによって、アッタスンはそこに倒れているのが自殺者の死体であることを知った。
「我々は来るのが遅過ぎた、救うにしても罰するにしてもだ、」とアッタスンは厳《いかめ》しい口調で言った。「ハイドは死んでしまった。あとはもうおまえの御主人の死体を探し出すことだけだ。」
 その建物の大部分は、階段講堂と、書斎とで占められていた。階段講堂は殆ど一階全部をふさぎ、上から明りを取ってあったし、書斎は二階の一方の端にあって、あの路地に面していた。階段講堂と例の横町の戸口とは廊下でつながり、その戸口と書斎とは別にもう一つの階段で通じていた。そのほかには暗い物置が二つ三つと、広い穴蔵が一つあった。今二人はこれをみんな綿密に調べた。物置はどれも一目見ればよかった。というのは、どれもみんな空っぽだったし、どれもみんな戸から埃が落ちてくるのを見ても、永いこと開けずにおいてあったことがわかったからである。穴蔵は、ほとんどがジーキルの前に住んでいた外科医時代からのものである、壊れかけたがらくた物で一杯になっていた。けれども、戸を開けただけで、幾年も入口を閉ざしていたまるで莚のような蜘蛛の巣が落ちてきたので、それ以上搜してみても何にもならないことを知らされた。生きているにしろ死んでいるにしろ、どこにもヘンリー・ジーキルのあとかたもなかった。
 プールは廊下の板石を踏んでみた。「あの方はここに埋められておいでになるに違いありません、」と彼はその音に耳を傾けながら言った。
「それとも逃げたのかも知れない、」とアッタスンは言い、そして横町の戸口を調べに行った。戸には錠が下りていた。そしてすぐ傍らの板石の上に、二人はとっくに錆びている鍵を見つけた。
「これは使えるようには見えないな、」と弁護士が言った。
「使えるですって!」とプールは鸚鵡返しに言った。「壊れているではございませんか、旦那さま? まるで人が踏みつけでもしたように。」
「ああ、ああ、」とアッタスンは言葉を続けた。「それに、折れたところまで錆びている。」二人はぎょっとしてお互いに顔を見合わせた。「これは僕にはわからないよ、プール、」と弁護士が言った。「書斎へ引返すとしようじゃないか。」
 二人は黙々として階段を上り、そしてなおも、ちょいちょい死体を恐ろしそうにちらりと見ながら、書斎の中にある物を前よりももっと綿密に調べにかかった。一つのテーブルには、化学上の仕事をしていた形跡があり、いろいろの分量の白い塩のようなものが幾つも硝子皿に盛ってあって、その不幸な男が実験をしようとしているところを妨げられたかのようであった。
「あれは私がいつも持って参りましたのと同じ薬でございます、」とプールが言った。ちょうど彼がそう言った時に、湯沸しがびっくりするような音を立てて煮えこぼれた。
 それで二人は炉辺へ行った。そこには安楽椅子が心地よさそうに引き寄せてあり、茶道具が椅子に掛ける人の肱のところに用意してあって、砂糖までも茶碗の中に入れてあった。書棚には本が何冊もあって、一冊は茶道具の傍らに開けたままになっていた。それがジーキルがかねて幾度も激賞したことのある信仰についての書物で、それに彼自身の手跡で、神への驚くべき不敬の言葉が書き込んであるのを見て、アッタスンは非常に驚いた。
 それから、二人がその部屋を調べているうちに、姿見鏡のところへやって来て、思わずぞっとして鏡の奥をのぞき込んだ。しかし、鏡のむき工合で、ただ、天井にちらちらしている薔薇色の光と、戸棚の硝子戸に幾つにもなって映っているきらきら光る炉火と、屈んでのぞき込んでいる自分たちの蒼ざめた恐ろしげな顔とのほかには、何も映って見えなかった。
「この鏡はいろいろ不思議なことを映したのでございますよ、旦那さま、」とプールが囁いた。
「それに、こんな鏡があるということが確かに何よりも不思議だよ、」と同じ調子で弁護士が言った。「なぜって言えば、一たい何だってジーキルは、」――彼はその言葉にぎょっとして止めたが、やがてその気の弱さに打ち勝って、「一たい何だってジーキルはこんなものが必要だったのだろう?」と言った。
「全くさようでございますねえ!」とプールが言った。
 次に彼らは事務用テーブルの方へ行った。その机の上には、きちんと並べた書類の中に、一通の大きな封筒が一番上にあって、それには博士の筆跡でアッタスン氏の名が書いてあった。弁護士がそれを開封すると、数通の封入書が床に落ちた。第一のは遺言書で、六カ月前に彼が返したのと同一のあの奇妙な条件で作られ、博士の死亡の場合には遺言状となり、失踪の場合には財産贈与証書となるものであった。しかし、エドワード・ハイドという名の代りにゲーブリエル・ジョン・アッタスンという名が書いてあるのを見て、弁護士は言うに言われぬほど驚いた。彼はプールを見、それからまたその証書を見、最後に絨毯の上に横たわっている犯罪者の死体を見た。「頭がぐらぐらする、」と彼が言った。「この男はこのあいだじゅうずっとどうかしていたのだ。この男が僕を好く訳がない。自分の名前を僕の名前に書き換えられているのを見て非常に怒ったはずだ。それだのにこの証書を破り棄てていないのだからね。」
 彼は第二の書類を取り上げた。それは博士の筆跡の簡単な手紙で、一番上に日付が書いてあった。「おや、プール!」と弁護士は叫んだ。「博士は生きていたのだ、今日ここにいたのだ。そんな暫くの間に殺されてしまうはずがない、まだ生きているに違いない、逃げたに違いないよ! とすると、なぜ逃げたんだろう? 逃げたとすると、我々はこの自殺を発表してもよいだろうか? うむ、我々は慎重にならねばならん。うっかりすると、おまえの御主人を何か恐ろしい災難の中へ巻き込むようなことになるかも知れないぞ。」
「どうしてそれをお読みにならないんですか、旦那さま?」とプールが尋ねた。
「恐ろしいからだ、」と弁護士は重々しい口調で答えた。「どうか恐ろしがる理由なぞがありませんように!」そう言うと彼はその手紙を眼のところへ持って行って、次のように読んだ。――
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「親愛なるアッタスン。――この手紙が君の手に入る時には私は失踪しているでしょう。どういう事情によってかは私には予想することはできないが、しかし、私の直覚と、私の言い表わしようのない境遇のすべての事情とは、もう終りが確実で、しかも間近いということを私に告げるのです。その時には、行って、先ずラニョンが君の手に渡すと私に予告していた手記を読んでいただきたい。そして、もし君がもっとよく知りたいと思うならば、私の告白を読んで下さい。
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[#地から9字上げ]君の価値なき不幸なる友、
[#地から2字上げ]ヘンリー・ジーキル。」

「もう一つ封書があったね?」とアッタスンが尋ねた。
「ここにございます、旦那さま、」とプールが言って、数カ所で封じてあるかなりの包みを彼の手に渡した。
 弁護士はそれをポケットに入れた。「僕はこの書類については一切しゃべらぬつもりだ。おまえの御主人が逃げられたにしても死んでおられたにしても、我々は少なくともあの人の評判を傷つけぬようにすることができるのだ。今は十時だ。僕は家へ帰って落着いてこの記録を読まなければならん。しかし十二時前には戻ってくる。それから警察へ届けることにしよう。」
 二人は階段講堂のドアに錠を下ろして、外へ出た。そしてアッタスンは、広間の暖炉のあたりに集まっている召使たちをもう一度あとに残して、今こそこの謎をいよいよ明らかにするであろう二つの手記を読むために、自分の事務所へとぼとぼと帰っていった。

     ラニョン博士の手記

 今から四日前の一月九日に、私は夕方の配達で書留の手紙を一通うけ取ったが、それには私の同僚であって、古い同窓であるヘンリー・ジーキルの手跡で宛名が書いてあった。私は非常に驚いた。なぜなら、我々はふだん手紙をやりとりする習慣はまるでなかったし、実は、私はその前夜、彼と会って、彼と一しょに食事をしたのだし、我々の交際では書留などという固苦しい形式をとるようなことは、何一つ考えられなかったからである。その内容となるとますます私は驚かされた。その手紙にはこう書いてあったからである。――

「一八――年十二月十日。
 親愛なるラニョン君、――君は私の最も古くからの友人の一人なのです。そして、我々は科学上の問題では時によって意見の違ったこともあったかも知れないが、我々の友情がとぎれたことは少なくとも私の方では思い出すことができないのです。もし君が私に向って『ジーキル、私の生命も、私の名誉も、私の理性も君だけを力にしているのです』と言ったなら、私が君を助けるために自分の財産も、自分の左腕もみな犠牲にしようとしなかった日は、一日だってなかったでしょう。ところが、ラニョン君、今こそ、私の生命も、私の名誉も、私の理性もすべて君の心まかせなのです。もし君が今夜、私の言うとおりにしてくれなければ、私は破滅するだけです。こんな前置きを並べると、君は、引きうけたなら何か不名誉になるようなことを、私が君に頼もうとしているのだと想像なさるかも知れないが、それは君自身で判断して下さい。
 私は、君に今夜だけは他のあらゆる用事を延期して貰いたいのです、――さよう、もし君が国王の枕頭に招かれたとしてもです。そして、君の馬車がいま戸口にいなければ、辻馬車を雇って下さい。そして、参考のためにこの手紙をもって、まっすぐに私の家へ馬車を走らせて貰いたいのです。私の召使頭のプールにはいいつけてあります。彼は錠前屋と一しょに君の来るのを待っているでしょう。それから私の書斎のドアをこじ開けることになっているのです。そして、君はひとりで入って行って、左手の硝子張りの戸棚(E文字の)を、もし鍵がかかっていたら錠を壊して開け、上から四番目の、あるいは(同じことだが)下から三番目のひきだしを、その中身をすべてそのままに[#「その中身をすべてそのままに」に傍点]、抜き出して下さい。私はひどい心痛のために君に指図を誤りはしないかと、病的な不安を感じています。しかし、たとえ私の言葉が間違っているにしても、君はその中身でそのひきだしを知ることができましょう。散薬と、一つの薬びんと一冊の手帳とが入っているのです。そのひきだしをそっくりそのままキャヴェンディッシュ広辻《スクエア》に持って帰って頂きたいのです。
 これがお願いの第一の部分ですが、今度は第二の部分です。君がこの手紙を読んですぐ出掛けてくれるなら、夜の十二時よりずっと前に戻れるでしょう。が、それだけの時間の余裕を残しておくことにしましょう。それは、避けることも予想することもできないような障害を気づかうからばかりでなく、君の召使たちが寝てしまった時刻が、それから後にすることになっていることに都合がよいからです。それで、十二時に、君はひとりで君の診察室にいて、私の代理で訪ねて行く男を、君自身で家の中へ通し、君が私の書斎から持ってきたひきだしをその男に渡して下さい。それだけすれば、君は君の役目を果してしまう訳で、私は心から感謝いたします。もし君がどうしても説明が聞きたければ、それから五分間もたてば、これらの手筈が大へん重要なものであること、その手筈がいかにも奇異なものと思われるかもしれないが、それを一つでもはぶいたならば、私が死ぬか私の理性が破滅するかして、君の良心が苦しめられることになるだろうということが、君に理解されるようになるでしょう。
 君がこの願いを軽んずるようなことはしないだろうと確信してはいますが、万一にもそんなことがありはしまいかと思っただけでも、私は心が沈み手が震えるのです。どうか今、私のことを考えてみて下さい。ある妙なところにいて、どんな空想もとどかないほどの暗い苦痛に悩んでいるのです。しかも、もし君がちゃんと私の頼みをきいてくれさえするならば、私の苦しみは一息《ひといき》のように過ぎ去るだろうということを、よく知っているのです。どうか私の頼みをきいていただきたい、親愛なるラニョン君よ、そして私を救って下さい。
君の友人なる
          H・J


 追伸。これをはや封じてしまってから、また新しい恐怖が私の心に起こりました。郵便局の都合で私の思う通りにならず、この手紙が明朝まで君の手に届かないということも、ないともかぎりません。その場合には、ラニョン君、明日中の君に最も都合のよい時に、私の頼んだ用事をして下さい。そして、夜の十二時にもう一度私の使いの者を待って下さい。が、その時はもう遅過ぎるかも知れません。そしてもしその夜が何事もなく過ぎれば、君はもうヘンリー・ジーキルに会うことはないものと思って下さい。」

 この手紙を読んで、私は私の同僚が気が違ったのだと思いこんでしまった。しかし、そのことが疑いの余地がないということが証明されるまでは、私は彼の頼んだ通りにしてやらなければならないと思った。このごたごたしたことを理解しなければしないだけ、私はそれの重要さを判断することができない訳だし、こんなにまで書いてきた願いを捨てて置いたなら重大な責任を負わなければならないことになる。そこで私はテーブルから立ち上って、貸馬車に乗り、まっすぐにジーキルの家へ走らせた。召使頭は私の着くのを待っていた。彼も私のと同じ書留郵便で指図の手紙を受け取り、すぐに錠前屋と大工とを呼びにやったのだった。我々がまだ話しているうちにその職人たちがやって来た。それで我々は一緒に、もとデンマン博士の外科の講堂だった建物へと入って行った。ジーキルの私室へ入るには(君も無論知っているように)そこからが一番便利である。ドアはごく丈夫で、錠は上等のものであった。もし無理に開けようとすれば、なかなか厄介だろうし、ひどく破損させなければなるまいと、大工は言った。それに錠前屋も殆どあきらめかかった。しかしこの錠前屋の方は器用な男だったので、二時間もやってみたところ、ドアは開いた。Eという記号のついている戸棚の錠を開け、そのひきだしを取り出して、それに藁を一杯に詰め、敷布に包んで、それをキャヴェンディッシュ広辻《スクエア》へ持ち帰って来た。
 家へ帰ってから私はその中身を調べにかかった。散薬はかなり手際よく包んであったが、調剤師のやるようなきちんとしたのではなかったので、ジーキルの手製のものであることは明らかであった。その包みの一つを開けて見ると、白色の純粋な結晶塩のように思われるものが入っていた。次に薬びんに注意すると、それには血のように赤い液体が半分ばかり入っていた。とても嗅覚を刺激する液体で、燐と何かの揮発性のエーテルとが含まれているように、私には思われた。その他の成分は私に考えつかなかった。帳面というのは普通の練習帳で、日づけが続けて記してある以外には殆ど何も書いてなかった。この日づけは幾年もの間にわたっていたが、しかし、私はその記入がかれこれ一年ほど前のところでばったりと止まっているのに気がついた。ところどころに簡単な言葉が日づけに書きこんであって、大抵はほんの一語に過ぎなかった。総計数百の記入の中で「二倍」というのがたぶん六回ほどあったろう。また、そのリストのごく初めの方に、幾つもの感嘆符号を付けた「全くの失敗※[#感嘆符三つ、77-3]」というのが一回あった。このすべてのことは、私の好奇心を刺激しはしたが、はっきりしたことはまるで解らなかった。ここに、何かのチンキの入った薬びんと、何かの塩剤の入った紙包みと、何ら実際の役に立たなかった(残念ながらジーキルの研究の多くのものと同様に)ところの一連の実験の記録とがある。私の家にこういう品物のあることが、一体どうして私の気まぐれな同僚の名誉なり、正気なり、生命なりに影響するというのだろうか? 彼の使いの者が私のところへ来ることができるならば、なぜその者は彼のところへは行けないのだろうか? それには何かの差しつかえがあるとしたところで、なぜその紳士は私によって密かに迎え入れられなければならないのか? 私は考えれば考えるほど、相手が脳病患者であると確信するようになった。それで私は召使たちを寝させてしまったが、正当防衛ができるようにと一梃の古い連発銃に弾をこめた。
 十二時の鐘がロンドンの空に鳴りわたるかわたらないに、ノッカーが戸口のところでごく静かにこつ、こつと耳を立てた。それにこたえて私が自分で行って見ると、一人の小男が玄関の円柱によりかかって屈んでいた。
「ジーキル博士のところから来たのですか?」と私は尋ねた。
 その男は気詰りそうな身振りで「そうです、」と言った。そして私が中へ入れと言うと、その男は振り返って広辻《スクエア》の闇の方をちらりと探るように見てから、私の言うことを聞いた。そう遠くないところに一人の巡査が角灯を照らしながらやって来た。それを見ると、私の訪問者はぎょっとして一そう急いで入ったように私には思われた。
 こういう一々のしぐさは、実際のところ、私に不快の感を与えた。それで、彼について診察室の明るい光のところへ行くまで、私は絶えず自分の武器に手をかけるようにしていた。診察室へ来ると、やっと、その男をはっきりと見ることが出来た。私はそれまで一度もその男を見たことがなかった。それだけは確かだった。前にも言ったように、その男は小男であった。その上、私に強い印象を与えたのは、ぞっとするような彼の顔つきと、非常な筋肉の活動力と、ちょっと見ても非常に虚弱な体質との異常な結合と、それから――最後に、と言っても前のに劣らないのだが――彼の近くにいると何となく妙な不安を感ずることであった。これは悪寒の初期の症状に幾らか似ていて、脈搏のひどい衰えが伴った。その時は、私はそれを何かある特異質の個人的な嫌悪のためだと考え、ただその徴候のひどいのを不審に思っただけだったが、その後、その原因が人間の本性にもっとずっと深く存在して、憎悪の原理よりももっと崇高な、何かの原則によるものだと信ずるようになったのである。
 この男は(入って来た最初の瞬間から、厭らしい好奇心とでも呼ぶよりほかには言いようのない気持を私に起こさせたのであるが)、普通の人が着ていたなら、とてもおかしいような風に衣服を着ていた。というのは、彼の衣服は、服地こそ贅沢でじみなものではあったが、どの部分の寸法もみな彼には恐ろしく大き過ぎて、――ズボンは脚にだぶだぶぶら下り、地面に引きずらぬように巻くり上げてあるし、上衣の腰のところは臀の下まで来ているし、カラーは肩の上にぶざまに拡がっているのだ。ところが不思議なことには、この滑稽な服装を見ても、私は笑う気になるどころではなかった。いや、むしろ、いま私とむき合っている人間の本質そのものには何か病的な、普通でないところが――何か強い印象を与える、不思議な、胸を悪くするようなところが――あるので、この鮮やかな不釣合はそれと調和し、それを強めるだけのように思われた。だから、その男の性質や性格に対する私の興味に、更にその男の素姓、その生活、その財産や、社会における身分などを知りたいという好奇心までも加えられたのであった。
 こういう観察は、それを書き記すにはずいぶん長くなったが、ほんの数秒の間にしたことであった。私の訪問者は、実際、陰気な興奮に燃えていた。
「あれを持って来てくれましたか?」と彼は叫んだ。「あれを持って来てくれましたか?」そして彼はじれったくてたまらなくて、手を私の腕にかけて私を揺すぶろうとしさえした。
 私は彼に触られると血が凍るような感じがして、彼をおし除けた。「まあ、君、」と私は言った、「わたしはまだ君とお近付きになってはいないということを君は忘れておられる。どうか、お掛けなさい。」そして私は彼に手本を示して自分のいつもの座席に腰を下ろし、患者に対する自分のいつもの態度をできるだけ装ったが、時刻も遅かったし、先入主もああいう風であったし、その訪問者に対する恐怖感もあったので、十分いつものような態度はとれなかった。
「どうも失礼いたしました、ラニョン博士、」と彼は大へん丁寧に答えた。「あなたのおっしゃることはいかにももっともです。気がせいていたものですから、つい無作法をいたしました。わたしはあなたの御同僚のヘンリー・ジーキル博士の依頼で、ちょっと重大な用事でこちらへ参ったのです。で、きっと……」と彼はちょっと言葉を切って、片手を自分の喉にあてた。そして、その落着いた態度にも拘らず、病的興奮の発作の起ころうとするのを抑えているのが私にはわかった。――「きっとひきだしが……」
 しかし、この時、私はその訪問者の不安な気持が気の毒になり、またたぶん自分自身の好奇心がだんだん高まってくるのをいくらか満足させたくなった。
「そこにありますよ、」と私は言って、例のひきだしを指さした。そこにはそれがまだ敷布におおわれたままテーブルのうしろの床《ゆか》の上にあった。
 彼はそれに跳びかかった。それからちょっと立ち上り、片手を胸にあてた。顎がひきつって歯がぎしぎし軋るのが聞こえた。顔は見るももの凄くなったので、私は彼が死にはしまいか、また気が狂いはしまいかと驚いたほどであった。
「まあ、気を落着けなさい、」と私は言った。
 彼は私に恐ろしい微笑を向けた。そして捨鉢の決心を固めたかのように、敷布を引き除けた。その中身を見ると、彼はひどく安心したらしく、大きなしゃくりあげるような声を出したので、私はびっくりして坐ったまま身動きもできなくなった。次の瞬間には、もうよほど落ちついた声になって、「メートル・グラスがありますか?」と彼は尋ねた。
 私はやっとのことで座席から立ち上り、彼の求めるものを渡してやった。
 彼はにっこり頷いて礼を言い、あの赤色のチンキを数滴、分量をはかって入れ、それに一包みの散薬を加えた。最初は赤味を帯びた色であったこの混合物は、結晶塩が溶けるにつれて、色が鮮やかになり、ぶつぶつと音を立てて泡立ち、少量の水蒸気を発散しだした。と同時に、その沸騰が止んで、その化合物は暗紫色にかわり、それがまた前よりは少しずつ薄い緑色に色があせていった。こういう変化を鋭い目で見つめていた私の訪問者は、にやりと笑って、メートル・グラスをテーブルの上に置き、それから振り向いて、探るような様子で私を見た。
「ところで今度は、」と彼が言った、「残っていることを片づけるとしましょう。君は知りたいですか? 君は教わりたいですか? 君は私にこのグラスを手に持ってこれきり何も話をせずにこの家から出て行かせるつもりですか? それとも好奇心が強くて聞かずにはいられないのですか? よく考えてから返事して下さい。君の決める通りにしますから。君の決め方によって、君を前のままに残しておいて上げよう。前よりも富むのでもなく前よりも知識があるのでもなくしておいて上げよう。死ぬような苦しみをしている人間に尽力をしてやったという意識が一種の精神上の富と見なされるのでなければですがね。それともまた、もし君がその方を望むならば、知識の新しい領域や、名声や権力をうる新しい大道を、たちどころに、ここで、この部屋で、君の前にひろげてみせて上げよう。魔王の不信仰をも揺るがせるような奇怪なものを見せて、君の眼を眩ませて上げよう。」
「君、」と私は、冷静さをほんとうには持っているどころではなかったが、強いてそれを装って言った、「君は謎のようなことを言われる。わたしが君の言葉を大して信用しないで聞いていると言っても君はたぶん不思議にも思われはしないだろう。しかし、わたしも訳のわからぬ御用をここまでして深入りしたんですから、おしまいまで見せて貰うことにしましょう。」
「よろしい、」とその訪問者が答えた。「ラニョン君、君は自分の誓ったことを覚えているでしょうな。これからのことは我々の職業上秘密を守るべきことなのです。さあ、君は永いあいだ実にかた意地な唯物的な見方にとらわれてきたが、そして霊妙な薬の効能を否定して、自分の目上の者たちを嘲笑してきたが、――これを見給え!」
 彼はメートル・グラスを口にあてると、ぐっと一息に呑み下した。すると叫び声をたてて、ひょろひょろとよろめき、テーブルを掴まえてしっかとしがみついたまま、血走った眼でじっと見つめ、口を開けて喘いだ。見ているうちに変化が起こったように私は思った。――彼は膨れるように見え、――彼の顔は急に黒くなり、目鼻立ちが融けて変ったように思われ、――そして次の瞬間には、私は跳び立って壁に凭れかかり、その怪物から自分の身を護ろうと腕を上げ、心は恐怖で一ぱいになった。
「おお、これは!」と私は叫び、そして二度も三度も「おお、これは!」とくり返した。それは、私の眼の前に――色蒼ざめてぶるぶる震え、半ば気を失い、死から蘇った人のように手で前方を探りながら――ヘンリー・ジーキルが立っていたからである!
 それから一時間ばかりの間に彼が私に物語ったことは、私はとても書く気になれない。私は確かに見、確かに聞いたのであり、私の心はそのために病んだ。しかしながら、そのとき見たことが私の眼から消えてしまった今、そのことを信ずるかと自分に尋ねてみると、私は答えることができない。私の生命は根こそぎ揺り動かされている。睡眠は私を見棄ててしまった。最も烈しい恐怖が昼も夜も絶えず私の傍を離れない。私は自分の余命が幾らもなく、自分が死ななければならないことを感ずる。しかも私は信じられぬままで死ぬであろう。あの男が悔悟の戻さえ流しながら私にうち明けた悖徳行為については、思い出してもぞっとする。私は一つのことだけ言っておこう、アッタスン、そしてそれだけで(もし君がそれを信ずる気になれれば)十分であるだろう。その夜、私の家へ忍び込んで来たかの人間は、ジーキル自身の告白によれば、ハイドという名で知られ、カルーの殺害者として全国の隅々までも搜索されている男なのであった。
[#地から2字上げ]ヘースティー・ラニョン。

     この事件に関するヘンリー・ジーキルの委しい陳述書

 私は一八――年に大財産の相続者として生まれた。その上すぐれた才能を恵まれ、生まれつき勤勉な性質で、わが同胞の賢明な人や善良な人を尊敬することを好んだ。だから、誰にでも想像されるように、名誉ある、すばらしい将来を十分に保証されていた。だが、実のところ、私の一ばん悪い欠点は抑えることのできない快楽癖だった。それは、多くの人たちを楽しませもしたが、また、気位が高くて世間の前では人並以上にえらそうな顔をしていたいという私のわがままな欲望とは、折合い難いものであった。そのために、私は自分の遊楽を人に隠すようになり、分別のある年頃になって、自分の周りを見回し、世間での自分の栄達と地位とに注意するようになると、私はもはや深い二重生活をしていたのであった。私がやったような不品行は、かえって世間に言いふらした人も多いだろう。しかし、私は、自分の立てた高い見地から、それをまるで病的と言ってもよいほどの羞恥の念をもって眺め、また隠したのである。だから、私をこんな人間に作りあげ、また、人間の性質を二つの要素に分けている善と悪との領域を、私の場合にあっては、大部分の人の場合よりも一そう深い溝をもって切り放したのは、私の欠点が特別に下劣であるためよりも、むしろ私の理想を追う心が厳しすぎたためであった。それで私は、宗教の根元に横たわり、最も多くの苦悩の源泉の一つであるところの、あの苛酷な人生の掟について深く執拗に考えない訳にはゆかなかった。私はひどい二重人格者ではあったが、決して偽善者ではなかった。私の善悪両方面とも、いずれも飽くまで真剣であった。私は、学問の進歩のために、または人間の悲しみや苦しみを救うために公然と努力している時も、自制をすてて恥ずべき行ないにひたっている時も、同じように私自身であった。そして、偶然にも、私の科学上の研究の方向がもっぱら神秘的なものと超絶的なものの方へ向っていたので、それがこの両面の絶え間のない闘争という意識に反応して、それに強い光明を投げたのである。こうして、私の知性の両方面、道徳的方面と知的方面とから、一日一日と、私はあの真理、つまり人はほんとうは一つのものではなく、ほんとうは二つのものであるという真理に、着々と次第に近づいてゆき、それの部分的発見によって私はこのような恐ろしい破滅を招く運命となったのである。私が二つのものであると言うのは、私自身の知識の程度がその点以上には進んでいないからである。今後この同じ方面である人々は私の後に続き、ある人々は私を追い越すであろう。それで私は、人間というものはさまざまの互いに調和しない独立の住民からなる単なる一団体として結局は知られるようになるだろう、ということを思い切って予言しておこう。私はと言えば、自分の生活の性質から一方の方向に、ただもう一方の方向だけにまっしぐらに進んだ。私が、人間はもともと完全に二重性のものであることを認めるようになったのは、その道徳的方面でだった。しかも私自身の意識の分野の中で互いに争っている二つの性質のどちらかが自分であるとはっきり言えるのは、ただ自分が根本的にはその両方であるからである、ということを知った。だから、私の科学的の発見の進行がそういう奇跡の可能性を少しも暗示しない前から、私はもう、愛する白日夢として、この二要素の分離という着想を好んで考えるようになっていた。私はこう思った。もしその各々の要素を別々の個体に宿らせることさえできたなら、人生はあらゆる耐えられないものから救われるであろう。正しくない要素は、自分と双生児の一方である正しい要素のすべての志望や悔恨から解放されて、自分の欲するままの道を行くことができるであろうし、正しい方は、自分の喜びとする善事を行ない、縁もないこの悪の手によって恥辱や悔悟にさらされることなしに、安心して堅実に向上の路を歩むことができるであろう、と。この互いに調和しない二つの薪たばがこのように一しょにくくりつけられているということ――意識という苦しみの胎の内でこの両極の双生児が絶えず争っていなければならないということが、人類の禍いであったのだ。では、どうしてこの二つを分離させようか?
  私がここまで考えてきた時、前に言ったように、実験室のテーブルからその問題に側面光が射しかけたのである。私は、我々がそれに包まれて歩いているこの見たところいかにも頑丈なような肉体というものが、極めて不安な実体のないようなもの、霧のようなはかないものであることを、今までに述べられたよりももっと深く了解するようになった。ちょうど風が天幕小屋の幕を、吹き飛ばすように、ある作因がその肉体という衣服をゆり動かして引きはぐ力を持っているということを、私は発見した。二つの正しい理由から、私は自分自身の告白のうち、この科学的方面へは深く入らないことにする。第一は、我々の人生の運命と重荷とは永久に人間の肩に結びつけられていて、それを投げ棄てようとすれば、それは却って一そう不思議な一そう恐ろしい圧力で我々に戻って来るだけだということを、私は悟ったからである。第二は、私の記録が十分に明らかにするであろうが、ああ、なんと、私の発見は不完全であったからである。だから、次のことだけを記すことにしよう。つまり、私は、私の生まれながらの肉体が、私の心霊を構成しているある力から発する精気と光輝とに過ぎない、ということを認めたばかりではなく、ついに苦心して調合したある薬によって、それらの力をその最高位からおしのけて、私の霊魂の劣等な要素の表われであって、その刻印が押されているために、やはり私にとって生来のものであるところの、第二の形体と容貌とを以て、それに代えることに成功したのであった。
  私はこの理論を試験するまでには永い間ためらった。それが命懸けであることを私はちゃんと知っていた。なぜなら、そのように強力で、個性の城塞までも揺り動かすほどの薬は、ほんのちょっとでも飲み過ぎたり、服薬の時が少しでも違ったら、私が変化させようとするその実体のない肉体をすっかり抹殺してしまうかも知れないからである。しかし、そのように深遠で非凡な発見の誘惑は、ついに、危懼の念に打ち勝ってしまった。私はずっと前からチンキの方は調剤してあったので、すぐに、ある薬問屋からある特別の塩剤をたくさんに買いこんだ。それは、私の実験によって、最後の必要な成分であることがわかっていたものである。こうして、ある呪うべき夜遅く、私はそれらの薬品を調合し、それらが硝子器の中で一しょに煮え立ち、煙を上げるのを見つめ、その沸騰がしずまったとき、勇気をふるい起こしてその薬液を飲みほした。
  つぎに非常に激しい苦痛がおこった。骨が挽かれるような苦しみ、恐ろしい吐き気、生まれる時か死ぬ時よりもつよい精神の恐怖。やがてこれらの苦悶は急にしずまって、私はまるで大病から回復したみたいに我にかえった。私の感覚は何となく妙で、何とも言いようなく清新で、また、その清新さそのもののために信じられないほど甘美であった。私は体がこれまでよりも若々しく、軽く、幸福であるように感じ、心のうちには、たけだけしく向う見ずな気持と、空想の中を水車をまわす流れのように奔流する混乱した肉感的な幻影の流れと、義務の束縛からの解放と、未知の、しかし潔白ではない精神の自由とを意識した。私は、この新しい生命を呼吸するとすぐに、自分がこれまでよりも邪悪で、しかも十倍も邪悪で、自分の本来の悪に奴隷として売られたものであることを知った。そして、そう考えることが、葡萄酒のように私の心を引締め喜ばせた。私はこういう感覚の新鮮さに狂喜して両手を差し伸ばした。そうしていると、ふと、自分の身長が短くなっていることに気がついた。
  その時分には、私の室には鏡がなかった。今これを書いている時に私の傍らにあるものは、全くこういう身体の変化を見るために、後になってここへ持って来たものなのである。ともかく、夜はよほど更けていて、――まだ真暗ではあったけれども、やがてもう夜も明けようとしていた。私の家の者たちはぐっすり熟睡していた。で、私は、希望と成功とで得意になっていたので、その新しい姿のままで自分の寝室まで行こうと決心した。私が裏庭をよぎって行くとき、一晩中眠らずに見張りをしている星座も、今までにまだ見たことのないような種類の最初の生物である私を、いぶかりながら見下ろしていたことであろう。自分自身の家の中を他人となって、私は廊下をこっそりと通った。そして自分の室へやってきて、初めてエドワード・ハイドの姿を見たのであった。
  私は、ここでは、自分が知っていることではなく、どうもそうであるらしいと自分の想像したことを、理論だけで話さなければならない。私がいま具体性を与えた自分の本性の悪の面は、私がたった今すてたばかりの善の方面ほどに強くもなく発育してもいなかった。また、私のこれまでの生活は結局十分の九までは努力と徳行と抑制との生活であったから、その悪の方は、善の方よりも使われることがずっと少なく、消粍されることもずっと少なかったのである。だから、エドワード・ハイドがヘンリー・ジーキルよりもずっと小さく、弱く、若かったのだろうと、私は思うのだ。ちょうど善が一方の顔に輝いているように、もう一方の顔には悪がはっきりと明らかに書かれていた。その上、悪(それは人間の死を来たす方面であると私はやはり信ぜざるを得ないのであるが)はその身体にも不具と衰退との痕をとめていた。それなのに、鏡の中にその醜い姿を眺めた時、私はなんの嫌悪も感じないで、むしろ跳び上るような歓びを感じた。これもまた私自身なのだ。それは自然で人間らしく思われた。私の眼には、それは、私がこれまで自分の顔と言い慣れてきたあの不完全などっちともつかぬ顔よりも、一そう生き生きした心の映像を示していたし、一そうはっきりして単純であるように見えた。そしてここまでは確かに私の考えは正しかった。私は、自分がエドワード・ハイドの外貌をつけている時には、誰でも初めて私に近づく者は必ず明白な肉体の不安を感じないではいられない、ということに気がついた。これは、私が思うのでは、我々が出あう人間はすべて善と悪との混りあったものであるが、エドワード・ハイドだけは、人類全体の中でただ一人、純粋な悪であったからであろう。
  私は鏡のところにほんのちょっとの間しかぐずぐずしていなかった。まだ第二の決定的の実験をやってみなければならないのだ。自分がもう回復ができないほどに自分の本体を失ってしまって、もはや自分の家ではないこの家から、夜の明けないうちに逃げ出さなければならないかどうかを、確かめることがまだ残っているのだ。それで、急いで書斎へもどると、私はもう一度あの薬を調合して飲み、もう一度解体の苦痛を感じ、もう一度ヘンリー・ジーキルの性格と身長と容貌とをもって我にかえった。
  その夜、私は運命の十字路に来ていたのだ。もし私がもっと崇高な精神で自分の発見に近づいたのであったら、もし私が高邁な、あるいは敬虔な向上心に支配されている時にあの実験を敢行したのであったなら、すべては違った結果になったに相違ないし、あの死と生との苦しみから私は悪魔ではなくて天使として出て来たであろう。その薬には何も差別的な作用がなかった。悪魔のようにするのでも神のようにするのでもなかった。その薬はただ私の気質が閉じこめられている獄舎の戸を震い動かすだけであった。すると、あのフィリッパイの囚人のように*、内にいたものが走り出るのであった。その時には私の徳性は眠っていて、野心のためにずっと目を覚ましていた私の悪が、すばしこく迅速にその機会をとらえたのだ。そして跳び出して来たのがエドワード・ハイドであった。だから、私はいまでは二つの外貌と二つの性格を持ってはいたけれど、一方はぜんぜん悪であって、もう一方はやはり昔のままのヘンリー・ジーキルで、その矯正や改善はとても見込みがないと私がとうに知っているあの不調和な混合体なのであった。こうして悪い方へとばかり向っていったのである。
  その頃でさえ、私は研究生活の味気なさに対する自分の嫌悪の念にまだうち勝っていなかった。私はやはり時々遊びたい気分になるのであった。そして私の遊楽は(控え目に言っても)体面にかかわるものであったし、私は世間にも十分有名で、大へん尊敬されていただけでなく、初老の年齢になりかけていたので、私の生活のこの矛盾は日ごとにいやになっていった。私の新しい力が私を誘惑して、とうとう私をその奴隷としてしまったのは、この方面においてであった。私はあの一杯の薬を飲みさえすれば、高名な教授の肉体をすぐに脱ぎすてて、厚い外套のようにエドワード・ハイドの肉体を着けることができるのだ。そう考えると私は微笑した。その考えはその時には滑稽なように私には思われた。そして私は極めて注意ぶかく自分の準備をととのえた。私はハイドがのちに警察に跡をつけられたあのソホーの家を手に入れて家具を備えつけ、無口で横着なのをよく承知のうえであの女を家政婦として雇った。一方、自分の召使人どもに、ハイド氏という人(その人相を私は言った)は広辻《スクエア》の私の家では思い通りに勝手なことをしてもよいのだということを知らせた。そして、間違いをさけるために、自分の第二の人格になって、訪問までして自分を彼らによく見せておいた。つぎに私は君があれほど反対したあの遺言書を作った。これは、もしジーキル博士としての自分に何事が起こっても、私が金銭上の損失をうけずにエドワード・ハイドの身になれるようにするためであった。そして、このようにあらゆる方面で用心堅固にしたつもりで、私は自分の立場のその奇妙な免疫性を利用しにかかったのである。
  暴漢を雇ってそれに自分の罪悪を行なわせ、自分の身体や名声は安全にかばった人たちがこれまでにはあった。ところが、自分の遊楽のためにそんなことをしたのはこれまでには私が初めてであったのだ。快い名望の重荷を負うて、社会の中でこんなにせっせと働きながら、たちまち小学生のように、そんな借り物を脱ぎすてて、自由の海へまっさかさまに跳びこむことのできたのは、私が初めてであったのだ。しかも私は、あの見通しのできないマントを着ているので、その安全は完全なものであった。そのことを考えてみ給え、――私という人間は存在しもしないのだ! 私はただ自分の実験室の戸口の中へ逃げ込んで、いつでも用意してある薬を調合してのみ下すのに、ほんの一秒か二秒をかけさえすれば、彼が何をしてこようと、エドワード・ハイドは鏡に吹きかけた息の曇りのように消えてしまうのだ。そして彼のかわりに、ヘンリー・ジーキルが、嫌疑を笑うことのできる人間として、静かにくつろいで、研究室で真夜中の灯火をかき立てているのだ。
  私が姿を変えて求めようとあせった遊楽は、前にも言ったように、体面にかかわるものであった。私はこれよりひどい言葉は使いたくない。しかしエドワード・ハイドの手にかかると、その遊楽は間もなく恐ろしいものの方へと変っていった。そうした出遊びから帰ってきたとき、私はときどき自分の身代りのやる悪行につくづく一種の驚きを感ずることがあった。私が自分の霊魂の中から呼び出して、ただその思いのままに振舞うために出してやったこの小悪魔は、生まれつき悪質邪悪なものであった。彼のすること考えることはみな自己が中心で、少しでも他人を苦しめて獣のような貪欲さで快楽をむさぼり、石で出来た人間のように無慈悲であった。ヘンリー・ジーキルはときどきエドワード・ハイドの行為に対して愕然とすることがあった。しかし、こういう立場は普通の法則からは離れていたので、うまく良心の手を弛めていた。罪のあるのは、要するに、ハイドであり、ハイドだけであった。ジーキルは少しも変りがなかった。彼が目覚めれば、見たところ少しも損われていない元の善良な性質に返るのであった。彼は、それができる場合には、ハイドのした悪事を急いで償おうとさえした。こうして彼の良心は眠っていたのであった。
  私がこんな風にして見過ごしにしていた悪行(というのは今でも私は自分でそれを行なったとは認めがたいからであるが)については、くわしく記すつもりはない。私はただ懲罰が自分に近づいてきた前知らせと、それが一歩一歩せまってきた順序とを指摘するだけに止めるつもりである。私は一つの事件に出会ったがそれは何も大したことにもならなかったからちょっと書いておくだけにしよう。ある子供に対する私の残酷な行為が一人の通行人をひどく憤らせた。その人が君の親戚の人であることを私は先日知ったのだが。医者とその子供の家族とがその人に加わったので一時は自分の生命も危険ではないかと心配した。そして結局、彼らの極めて当然な憤慨をなだめるために、エドワード・ハイドは彼らをあの戸口のところまで連れて行き、ヘンリー・ジーキルの名前で振出した小切手で彼らに支払ってやらなければならなかった。しかしこういう危険はたやすく将来から取りのぞかれた。それはエドワード・ハイド自身の名儀で新しく別の銀行に預金したからである。そして、私の手跡を後へ傾斜させて私の分身の署名の書体にすることにすると、私はもう災厄の手のとどかぬところにいるのだと思った。
  ダンヴァーズ卿の殺害事件から二カ月ばかり前、私はいつもの遊興に出かけ、夜が更けてから帰って来たが、翌日寝床の中で目が覚めると少し変な感じがした。自分の周りを見回したが駄目だった。広辻《スクエア》の自分の室の上品な家具や天井を高くした作りを眺めたが駄目だつた。寝台のカーテンの模様やマホガニー材の寝台の意匠をそれと認めても駄目だった。自分は自分のいるところにいるのではない、自分は自分の目を覚ましたように見えるところで目を覚ましたのではなくて、いつもエドワード・ハイドの体になって眠る習慣になっているあのソホーの小さい室で目を覚ましたのだ、とやはり何かが主張し続けるのだ。私はひとりで微笑し、いつもの心理学的方法で、ゆっくりとこの錯覚の諸要素を調べ始めたが、そうしながらも、時々また心地よい朝のまどろみへ陥るのであった。こんなことをしているうちに、目が幾分はっきり覚めている時、眼がふと私の手に止まった。ところで、ヘンリー・ジーキルの手は(君もときどき見たように)形も大きさも職業にふさわしいものだった。大きくて、しっかりして、白く、奇麗なのだ。ところが、いま私が夜具に半ばくるまりながら、ロンドン中部の朝の黄ろい光の中に、十分はっきりと見た手は、痩せて、筋張って、指の節が太く、色が蒼黒くて、薄黒い毛がもじゃもじゃ生えていた。それはエドワード・ハイドの手であった。
  私はあまりの驚きですっかり茫然としてしまって、その手を三十秒近くもじっと見つめていたらしかった。それから、シムバルを打ち合わせる音のように突如として私の胸の中に恐怖が湧きおこった。私は寝床から跳び出して鏡のところへ走って行った。鏡に映った姿を見ると、私はぞっとして血が凍ったような気がした。そうだ、私はヘンリー・ジーキルで寝につき、エドワード・ハイドで目が覚めたのだ。これはどう説明したらよいだろうか? と私は自分に尋ねた。それから、また恐怖のために跳び上りながら、――これはどうして元どおりにしたらよいだろうか? と尋ねた。朝もだいぶ遅くなっていた。召使たちは起きている。私の薬はみな書斎にある、――私がそのとき愕然として突っ立っているところからは、二つの階段を下り、裏手の廊下を通りぬけ、露天の中庭をよぎり、解剖学の階段講堂を通って行く、遠い道程だ。なるほど、顔をおおうて行くことはできるかも知れない。しかし、身長の変化を隠すことができないとすれば、それが何の役に立とう? そのとき、召使たちが私の第二の自我であるハイドの出入りするのに前から慣れていることが思い浮かぶと、たまらないほど嬉しくなって安心した。さっそく私は私自身の身丈の衣服をできるだけうまく身に着けた。そしてすばやく家の中を通りぬけたが、ブラッドショーがそんな時刻にそんな妙な服装をしているハイド氏を見ると眼を円くしてあとしざりした。それから十分もたつと、ジーキル博士は自分の姿にもどっていて、暗い顔色をしながら、朝食を食べるような振りをして着席していた。
  食欲はとても少ししかなかった。この説明しがたい出来ごと、今までの経験がこのように転倒したことは、壁にあらわれたあのバビロニアの指*のように、私の受くべき審判の文字を綴っているように思われた。そして、私は、これまでよりも真剣に、自分の二重存在の結果や可能性について考え始めた。私が形態化する力を持っている私のあの分身は、近ごろでは非常に体を使っていたし滋養を与えられて発育していた。このごろは、エドワード・ハイドの身体が身長を増し、以前よりは血液が豊富になったかのように、私には思われた。そして、もしこんなことがずっと続くならば、自分の本性の平衡が永久に失われてしまい、任意に変身する力が失われ、エドワード・ハイドの性格が自分の性格になってしまって、とりかえしがつかなくなるかも知れないという危険に、私は気がつき始めた。あの薬の効力はいつも一様に現われるという訳ではなかった。私の経歴のごく初めのころ一度、薬がぜんぜん利かなかったことがあった。そのときから、私は一度ならず量を二倍にしなければならなかったし、一度などは、ほんとうに命がけで量を三倍にしなければならなかった。そして、たまにあるこういう不確実性が、これまでの私の満足な気持に唯一の暗い影を投げていたのであった。ところが、いま、その朝の出来ごとに照らして考えると、はじめ困難なのはジーキルの体を脱ぎすてることであったのに、近ごろはその困難はだんだん明確にその反対の方に移っているということを、認めるようになった。そんな訳で、すべてのことが次のようなことを示しているように思われた。つまり、私は少しずつ自分の本来の善い方の自我を失って、少しずつ自分の第二の悪い方の自我と合体されつつあるということである。
  この二者のうち、今こそ私はどちらかを選ばなければならぬのだと感じた。私の二つの本性は記憶力を共通にしているが、他のすべての能力は両者の間に非常に不平等に分れていた。ジーキル(混合物であるところの)は、時には非常に過敏な懸念をもって、時には貪るような興味を以て、ハイドの快楽や冒険を計画し、それを一しょにやった。けれどもハイドはジーキルには無関心であった。もしかすると、山賊が追跡を免れるために身をかくす洞穴を憶えていると同じくらいにしか彼を憶えていなかった。ジーキルは父親以上の関心をもち、ハイドは息子以上に無関心であった。私の運命をジーキルと共にすることは、永い間私をこっそり満足させ、近ごろでは耽溺するようになっていたあのいろいろの欲望を思い切ることであった。ハイドと運命を共にすることは、数多の利益や抱負を思い切り、一ぺんに、しかも永久に、人から軽蔑され友だちもなくなることであった。この両方を交換することは割が合わないように見えるかも知れない。しかし、まだもう一つ秤にかけて考えなければならないことがあった。というのは、ジーキルの方は禁欲の火の中にあってひどく苦しんでいるのに、ハイドの方は自分が失ったすべてを意識さえもしていない、ということであった。私の事情は不思議なものではあったが、こんな問題は、人間のように古くて、ありふれたものなのだ。これと大たい同じの動機や恐怖が、誘惑されて震えおののいている罪人《つみびと》のために運命のサイコロを投じたのである。そして私の場合には、大多数の人々の場合と同様に、自分の善い方を選びはしたが、それを固守する力が足りないことがわかったのである。
  そうだ、私は、友人たちに取りかこまれて立派な希望を抱いてはいる、中年過ぎの不満な博士の方を択び、ハイドの変装で私が享楽した自由や、若さや、軽い足取りや、躍るような鼓動や、秘密の快楽に、きっぱりと別れを告げたのだ。私はこの選択をしたけれども、それにはたぶん無意識のうちに幾らかの保留を残しておいたのであろう。なぜなら、私はソホーの家を引払おうともしなかったし、またエドワード・ハイドの衣服を放棄しようともせず、それをやはり書斎に用意しておいたからである。しかし、二カ月の間は、私はその決心に忠実であった。二カ月の間は、私は、それまでになかったほど謹厳な生活を送り、その報償として良心にほめられた。けれどう[#「けれどう」はママ]、時がたつにしたがってとうとう私の恐怖はその生々しさがだんだん失われるようになり、良心の賞讃もあたりまえのことのようになってきた。私は、自由を求めてもがいているハイドのそれのような苦悶と切望とに悩まされ始めた。そして、とうとう、道徳心の衰えている時に、もう一度あの変身薬を調合して飲んだのである。
  大酒家が自分の悪習について自分で理屈をつけるとき、彼がその獣のような肉体的無感覚のためにおかす危険のことを、五百度に一度でも気にかけることがあろうとは、私は思わない。私もまた自分の立場を永いこと考えてはいたけれども、エドワード・ハイドの主要な性格であるところの、完全な道徳的の無感覚と、いつでも悪を行おうとする狂暴性とを、十分に考えてみたことがなかった。けれども、私が罰せられたのは、そういう性格によってであったのだ。私の悪魔は久しく閉じこめられていたのだが、それが唸りながら出てきた。私は、その薬を飲んだ時でさえ、これまでよりも一そう放縦な一そう猛烈な、悪をなそうとしていることを意識した。私の不幸な被害者のていねいな言葉を聞いていた時にあの激しいいらだたしさを私の心の中に起こさせたのは、きっと、それであったに違いない。神さまの前でも、私は少なくとも次のことはちゃんと言い切れる。道徳的に健全な人間ならあんなちょっとしたことに腹を立ててああいう罪を犯すはずがないと。また、私は病気の子供が玩具を壊すと同じくらいの理性のない気持でなぐったのだと。しかし、人間の中の最悪の者でさえもそれによっていろいろの誘惑の中をある程度しっかりして歩み続けるところの、あの平衡を保つ本能をすべて、私は自分から捨てていたのである。それで私の場合には、どんなにちょっとにせよ誘惑されることは、それに負けることなのであった。
  たちまち地獄の悪霊が私のうちに目ざめて荒れくるった。歓びに有頂天になりながら、私はあの抵抗もしない体をさんざんに殴りつけ、殴るたびに喜びを味わった。そして疲れて来はじめるとようやく、その無我夢中の発作の最中に、突然ひやりと恐怖の戦慄に胸を打たれた。霧がはれた。私は自分が死罪になることを知った。そして、悪の欲望がみたされ、刺激され、生の愛着がぎりぎりまでおびやかされたので、歓ぶと同時に恐れおののきながら、その暴行の場所から逃げ出した。私はソホーの家に駆けつけ、念に念を入れるために、自分の書類を焼きすてた。それから外へ出て、街灯に照らされている街々を、やはり二つに分裂した無我夢中の心もちで通ってゆき、自分の犯した罪を小気味よく思い、これから先の別の罪をいろいろと気軽に企みながらも、また一方では絶えず足をはやめ復讐者の足音が聞こえはしないかと自分のうしろに絶えず耳を澄ましていた。ハイドはあの薬を調合しながら歌を口ずさみ、それを飲む時にはかの死者のために乾盃した。引き裂くような変身の苦痛がまだ終らぬうちに、ヘンリー・ジーキルは、感謝と悔恨との涙を流しながら、ひざまずいて神に向って指を組合わせた手を挙げていた。放縦のヴェールは頭から足の先まで引きさかれ、私は自分の全生涯を見た。父の手に引かれて歩いていた子供の頃から、自分の職業生活の克己的な労苦を思いうかべ、最後には、まるで夢のような気持で、その晩のあの呪わしい惨事をいくどもいくども思い出したのであった。私は声をあげて泣きたいくらいであった。私は涙をながし神に祈りながら、自分の記憶にあつまって自分を責めるかずかずの恐ろしい光景や物音を抑えつけようとした。それでもやはり、その祈りの間から、私の罪悪の醜い顔が私の心の中をじっと睨みつけるのであった。この悔恨の烈しさがだんだんに消えかかると、それに続いて喜びの情がおこった。私の行状の問題は解決したのだ。これから後はもうハイドになることができないのだ。否でも応でも、私は今では自分の存在の善い方に限られたのだ。そして、おお、それを考えると私はどんなに喜んだろう! どれほど喜んでつつましやかな気持で、私は自然の生活の拘束を新しく受け入れたことだろう! どれほど心から思い切って、これまであんなにちょいちょい出入りしていた戸口の錠を下ろし、その鍵を踵の下に踏みにじったことだろう!
  翌日、その殺人を見下ろしていた者があったこと、ハイドがその犯罪をしたのだということが世間に知れわたっていること、またその被害者が世に重んぜられている人であったこと、などの報道がされた。それは単に犯罪ではなく、悲惨な愚かな行為であったのだ。私はそれを知ると喜んだと思う。私は、自分の善い方の衝動が処刑台を恐れる心によって、このように支えられ護られていることを、喜んだと思う。ジーキルはいまや私の逃遁《のがれ》の邑《まち》で*あった。ハイドがちょっとでも顔をだそうものならば、彼を捕えて殺すために、すべての人々の手が挙げられるであろう。
  私はこれからの行為によって過去をつぐなおうと決心した。そして、この決心がいくらかの善を生んだということを、偽りなく言うことができる。昨年の終りの数カ月の間、どんなに熱心に私が人の苦しみを救うために骨折ったかは、君も知っている通りである。他人のために多くのことをし、自分も平穏に、ほとんど幸福に日を過ごしたということは、君も知っている通りである。そしてまた、私がこの潔白な慈善生活に倦きたと言うのはほんとうではない。それどころか、私は一日一日と一そう完全にその生活を楽しむようになったと思う。しかし、私はやはりあの意志の二重性に呪われていた。そして、悔悟の最初のするどい切先が鈍ると、永いあいだ勝手気ままにされていて、つい近ごろになって鎖で繋がれてしまった、私の下等な方面が、自由をもとめて唸りはじめた。と言っても、私がハイドを復活させようなどと夢にも思ったのではない。そんなことは思っただけでも私は気がふれるほど驚いたであろう。いや、私がもう一度自分の良心を弄ぶように誘惑されたのは、私自身のそのままの体でであった。私がとうとう誘惑の攻撃に負けてしまったのは、ありきたりの密かな罪人《つみびと》としてであったのだ。
  すべてのものには終りがくる。どんなに大きな桝目でも遂には一ぱいになる。そして、私が自分の悪い心にちょっとの間でも従ったことは、とうとう私の心の平衡を破ってしまったのである。それでも私はそれに気がつかなかった。その堕落は、私が、私の発見をまだしなかった昔へ返るようにきわめて自然なことに思われた。美しく晴れた一月のある日のことであった。足の下は霜がとけていて湿っていたが、空には一片の雲もなかった。リージェント公園では冬の鳥の囀りがいたるところにきこえ、春の匂いが甘くただよっていた。私は日向《ひなた》でベンチに腰をかけていた。私のうちの獣性は過去の歓楽を思い出して舌なめずりをしていた。精神的方面は、あとになって悔やむことをわかっていながら、まだ動く気にならずに、うつらうつらしていた。結局、私は自分が隣人たちと同じなのだと考えた。それから、自分を他の人々と比べ、自分が慈善をして活動していることと、他人が冷酷に無頓着でなまけていることを比べて、微笑した。すると、そういう自惚れたことを思っている最中に、とつぜん気分が悪くなって、怖ろしい嘔き気ととても烈しい身ぶるいとにおそわれた。それがなくなると、私は気を失った。やがて、その失神も続いてしずまると、私は自分の考え方にある変化が起こり、一そう大胆になって、危険をみくびり、義務の束縛が解かれたのに気がつきはじめた。私は下を見た。私の衣服は縮まった手足にだらりと垂れさがり、膝の上に載っている手は筋張って毛だらけだった。私はまたもやエドワード・ハイドになっているのだ。一瞬前までは私は確かにすべての人の尊敬を受けて、富み、愛されていたし、――家の食堂には私のために食事の支度がしてあった。ところが今は、私は、狩り立てられていて、家もなく、あらゆる人々からのお尋ね者で、世間に知れわたった人殺しで、絞首台へ送られる人間なのであった。
  私の理性はぐらついた。が、すっかりなくなりはしなかった。私がこれまで何度も気がついていることであるが、私が第二の性格になっている時には、私のいろいろの機能はきわめて鋭くなり、元気は一そう弾力性をもってくるように思われた。そういうわけで、ジーキルなら多分まいってしまうような場合でも、ハイドはその時の急場をしのぐことができるのであった。例の薬は、書斎の戸棚の一つの中にあった。どうしたらそれを手に入れられるだろうか? それが(顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》を両手で押しつけながら)私の解きにかかった問題であった。実験室の戸口は私が閉めてしまった。もし私が住居の方から入ろうとすれば、私の召使たちは私(ハイド)を絞首台に引渡そうとするだろう。私は人手を借りなければならないことを知って、ラニョンのことを思った。どうしたら彼のもとへ行けるだろうか? どうして彼を説きつけることができようか? 私が街路で捕えられることを免れたとしても、どうして私は彼の前まで行けるだろうか? また、どうして未知の不愉快な訪問者である私が、あの有名な医者を説きふせて、彼の同僚であるジーキル博士の研究室をさがさせることができようか? その時、私は自分のいままでの特質の中で、ただ一つの部分だけがそのまま、自分に残っていることを思い出した。私は自分自身の手跡で字を書くことができるのだ。そして、一度このぱっと燃えあがる閃きを認めると、私のとるべき道は端から端まで照らしだされた。
  そこで、私はできるだけよく服装をととのえ、通りすがりの貸馬車を呼んで、自分が何気なくその名を憶えていたポートランド街のあるホテルに走らせた。私の姿(それは、その衣服がどんな悲惨な運命を包んでいたにしても、実際ずいぶん滑稽なものであった)を見ると、馭者はふき出してしまった。私は烈しく怒って馭者にむかって歯ぎしりをした。すると彼の笑いは消えた。――これは彼にとっては仕合わせであったが、――私にとっては尚一そう仕合わせであった。なぜなら、もう少しのところで私はきっと彼を馭者台から引きずり下ろしたに違いないからだ。旅館へ入る時に、私はもの凄い顔つきであたりを睨みまわしたので、給仕人たちは震えあがった。彼らは私の目の前では顔を見かわしもしなかった。ただぺこぺこして私の言いつけに従い、私を私室へ案内して、手紙を書くにいる物をもってきた。生命が危険になっている時のハイドは、私にとっては初めて経験するものであった。烈しい怒りにふるえ、人を苦しめたくてたまらなくて、人殺しをやりかねないほど興奮しているのだ。それでもその男はぬけ目がなかった。非常な意志の努力で怒りを抑え、一通はラニョンに、一通はプールに宛てた、二通の重要な手紙を書きあげ、それが投函されたという実証を受けとりたいために、それを書留にするようにという指図を与えて出した。
  そのあとで、彼は一日中旅館の私室の暖炉にむかって、爪を噛みながら腰かけていた。その室にひとりっきりで、恐怖におびやかされながら食事もしたが、給仕は彼の眼の前ではっきりとびくびくしていた。で、すっかり夜になってしまうと、彼はそこを出て、閉めきった辻馬車の片隅に身をおいて、ロンドンの街路をあちこちと乗りまわした。彼、と私は言う、――私、とはどうにも言うことができないのだ。その地獄の子には人間らしいところは少しもなかった。彼のなかに住んでいるのは恐怖と憎悪だけであった。そして、とうとう、彼は馭者が変に思いはじめたような気がしたので、馬車を捨てて、例の体に合わない衣服を着て人目につく姿のまま、夜の人通りの中へ思いきって歩いて行ったが、その時、この二つの下等な激情は彼のうちに嵐のように荒れ狂っていた。彼は恐怖に駆られて、べちゃくちゃひとりごとを言いながら、人通りの少ない往来をこそこそと通り、まだ夜の十二時までに何分あるかと数えては、足ばやに歩いた。一度などは、一人の女が、マッチを一箱買ってくれというらしく、彼に話しかけた。彼はその女の顔を殴りつけたので、女は逃げていった。
  私がラニョンの家で本当の自分に返ったとき、その旧友の恐怖を見て、多分いくらか心を動かされたかも知れない。が、私は覚えていない。とにかく、その恐怖なぞは、私がそれまでの数時間のことを思い出す時の恐怖に比べれば、大海の一滴に過ぎなかった。私には一つの変化がおこっていた。私を苦しめたのは、もう絞首台の恐怖ではなかった。それはただ、ハイドに変ることの恐れであった。私はラニョンの非難をなかば夢心地で聞いていた。自分の家へ帰って床についたのもなかば夢心地であった。私はその日の疲れの後なのでぐっすりと深く眠ったので、私を悩ますあの悪夢でさえその眠りを破ることができなかった。翌朝、目を覚ましてみると、気力もなく、弱っていたが、しかし気分はさわやかになっていた。私は自分のうちに眠っている獣性をなおも憎み恐れていて、もちろん、前日のあの恐ろしい危険を忘れてはいなかった。だが、私はもう一度家にいるのだ。自分自身の家にいて、自分の薬のすぐ近くにいるのだ。そして、危険をのがれたことに対する感謝がほとんど希望の輝きにも劣らないくらいに、心の中で強く輝いていた。
  朝食のあとで、冷たい空気を気もちよく吸いながら、中庭をゆったりと歩いていると、またもや俄かに変身の先触れであるあの言うに言われぬ感じにおそわれた。そして書斎に逃げこむか逃げこまないかに、私はいま一度ハイドの激情で怒りふるえているのであった。この時にはもとの自分に返るためには二倍の分量の薬が要った。が、悲しいことには! それから六時間後、陰気に炉の火を眺めながら腰かけている時に、例の苦痛がもどってきて、また薬を用いなければならなかった。手みじかに言えば、その日から後は、私がジーキルの姿になっていることができるのは、体操をするような非常な努力によってか、薬の効きめのある間だけのように思われたのであった。昼となく夜となく始終、私はあの変身の前知らせの身ぶるいにおそわれるのであった。ことに、私が眠るか、または椅子にかけたままちょっとうとうとしてさえ、目をさました時には必ずハイドになっていた。この絶えずさし迫っている運命に圧迫され、また実際、人間には不可能と思われるほどの不眠におちいって、私は、自分自身の姿をしていても、興奮のために消耗し尽された人間になり、身も心も力なく衰えて、ただもう自分の分身に対する恐怖という一つの思いだけに心を奪われていた。しかし、眠った時とか、薬の効能が消えてしまった時とかには、私はいきなり、なんの手数もかけずに(なぜなら変身の苦痛は日毎に少なくなってきていたので)、恐怖の幻影に充ちた空想と、理由のない憎悪で沸きたつ心と、荒れくるう生命力とを容れるにしてはそう強くもなさそうな体との持主になってしまうのであった。ハイドのいろいろの能力はジーキルが衰弱するのと並行してますます強くなってくるように思われた。そして、確かにいまやこの二人を仲違いさせている憎悪は両方とも同じように強いものであった。ジーキルの場合には、それは生命の本能からくるものだった。彼は今では、意識現象のある部分を自分と共有していて、自分と死を共にしなければならないその人間が、完全に不具であることを、さとっていた。そして、この共同所有という絆《きずな》はそれだけでも彼の悩みのもっとも深刻なものであったが、そのほかに、彼はハイドを、生命力は強いにしても、どこか地獄の鬼のようなところばかりではなく、何となく無機物らしいところのあるものと、考えた。その地獄の粘土が叫んだり声を立てたりするように思われること、その定まった形のない土塊《つちくれ》が身振りをしたり罪を犯したりすること、死んだ無形のものが生命の働きをうばうということ、これはいかにも恐ろしいことであった。また、その反逆的な恐ろしいものが妻よりも身近に、眼よりもぴったりと彼に結びつけられて、彼の肉体のなかに閉じこめられ、そのなかでそれが呟くのが聞こえ、生まれ出ようともがいているのが感じられ、いつでも弱っている時や、安心して眠っている時には、彼にうち勝って、彼の生命を奪ってしまうということも、恐ろしいことであった。ハイドのジーキルに対する憎悪は、それとは違った種類のものであった。彼の絞首台への恐怖はいつも彼を駆りたてて一時的に自殺させ、一個の人間ではなくてジーキルの一部であるという従属的地位に返らせた。しかし、彼はそんなことをしなければならぬのを嫌い、ジーキルが近ごろ元気がなくなっているのを嫌い、自分自身が嫌われているのを怒った。そのために彼はよく私に猿のような悪戯をし、私の書物のページに私自身の手跡で涜神の文句をなぐり書きしたり、手紙を焼きすてたり、私の父の肖像画を破ったりした。そして実際、彼が死を恐れなかったなら、彼は私を巻きぞえにして死滅させるために、とっくに自殺をしていたであろう。しかし、彼の生に対する愛情は驚くほどのものであった。私はもう一歩進んで言おう。彼のことを思っただけでも胸が悪くなりぞっとする私でも、この卑劣で熱烈な愛着を思いだすとき、また自殺によって彼をきり放すことのできる私の力をどんなに彼が恐れているかを知るとき、彼をあわれむ気持が私の心のうちにおこるのであった。
  このうえ長くこの記述を続けることは、無駄であるし、またその時間も全くない。ただ、これほどの苦しみを受けたものは、まだこれまでにだれ一人もない、というだけにしておこう。それでも、こういう苦しみにさえ、習慣が――決してそれを軽くしたわけではないが――一種の心の無感覚、一種の絶望的な諦めをもってきた。そして、この懲罰は、いま私に振りかかっている最後の災難がなかったならば、まだまだ何年も続いたことであろう。ところが、その災難は私自身の顔や性質を私から永久に切りはなしてしまったのである。私の塩剤の貯えは、はじめの実験以来一度も新しく買い入れたことがなかったが、それがだんだんと少なくなってきた。私は新しいのを取りよせ、薬を調合した。すると沸騰がおこって、第一回の変色はあったが、二回目の変色がおこらなかった。私はそれを飲んだが、それは効きめがなかった。私がどんなにロンドンじゅうをさがし回らせたか、君はプールから聞けばわかるであろう。それも無駄であった。それで、私は、自分の最初に手に入れたのが不純であって、あの薬に効験を与えたのは、その未知の不純性であったのだと、今では確信している。
  それからざっと一週間たった。そして私はいま、あの前の散薬の最後の分の効力によってこの陳述書を書き終ろうとしているのである。だから、ヘンリー・ジーキルが自分自身の考えを考え自分自身の顔(今はなんとひどく変ったことであろう!)を鏡の中に見ることができるのは、奇跡でも起こらないかぎり、これが最後である。それに、この手記を書き終えるのにあまり永く手間どってはならないのだ。なぜなら、この手記がこれまで破られなかったとすれば、それは非常な用心と非常な幸運とが結合したためであった。これを書いている最中に変身の苦しみが私をおそうようなことがあれば、ハイドはこれをずたずたに引き裂いてしまうだろう。しかし、もし私がこれを片づけてしまってから幾らか時間がたっていたなら、彼の驚くべき利己主義と刹那主義とは、多分、その猿のような悪意のいたずらから、今一度これを救うであろう。それに、実際、我々二人に迫っている最後の運命は、とっくに彼を変え、彼をおし潰してしまった。今から半時間もたてば、私は再び、そして永久に、あの憎み嫌われる人間に変っているであろうが、そのときには、私が椅子に腰かけてどんなに震えて泣いているか、または、どんなに耳をすまして極度に張りつめた恐怖のために無我夢中になって、この室(この世での私の最後の避難所)をあちこちと歩きながら、自分を脅かすすべての物音に聴き耳を立てているかということを、私は知っているのだ。ハイドは処刑台上で死ぬだろうか? それとも最後の瞬間になって逃れるだけの勇気があるだろうか? それは神さまだけがご存じである。私はどちらでもかまわない。これが私の臨終の時なのだ。そしてこれから先におこることは私以外の者に関することなのだ。だから、ここで私がペンをおいてこの告白を封緘しようとするとき、私はあの不幸なヘンリー・ジーキルの生涯を終らせるのである。

    

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七頁 カインの主義 カインはアダムの長子で、弟アベルを殺した男。旧約聖書創世記第四章第八―九節に「彼等野におりける時、カインその弟アベルに起ちかかりて、これを殺せり。エホバ、カインに言いたまいけるは、汝の弟アベルはいずこにおるや、彼言う、我知らず、我あに我が弟の守者《まもりて》ならんや、」とあるので、ここにアッタスンが「カインの主義」と言ったのは、知っていて知らぬ振りをすることを意味したのである。
一九頁 デーモンとピシアス 二人とも古代ギリシアの人で、その友情の厚いので有名であったので、「デーモンとピシアス」という語は、漢語における管鮑の交、刎頸の友、莫逆の友即ち親友を意味すること、「ジーキルとハイド」が二重性格を意味するようなものである。
二一頁 彼がハイド氏なら…… ハイドという名は「|隠れる《ハイド》」という語と発音が同じであり、シークは「探す」という意味である。「ハイド・アンド・シーク」は隠れんぼを意味するので、その洒落である。
二五頁 フェル博士 別に理由がなくて人に嫌われたという人物。
八九頁 あのフィリッパイの囚人のように フィリッパイは昔のマケドニアの都市、聖書のピリピであって、この「フィリッパイの囚人」はパウロとシラスとをさす。使徒パウロとシラスとがフィリッパイに伝道に赴き、その地で投獄せられた。「夜半ごろパウロとシラスと祈りて神を賛美するを囚人ら聞きいたるに、俄かに大いなる地震おこりて、牢舎の基ふるい動き、その戸たちどころに皆ひらけ、すべての囚人の縲絏《なわめ》とけたり、」と新約聖書使徒行伝第十六章第二十五―六節に記されているところから、言った文句である。
九四頁 壁にあらわれたあのバビロニアの指 昔バビロンの王ペルシャザルが酒宴を開いている最中に、人の手の指があらわれて、王宮の壁に解し難い形の文字を書いた。王は大いに恐れて、バビロンの知者どもにそれを解き明かさしめようとしたが、皆読むことができなかった。ダニエルが召されて、その文字を読み、王の治世の終りと国の分裂とを示すのであると言った。その予言はその後間もなく実現された。旧約聖書ダニエル書第五章に記されている故事である。
九九頁 逃遁の邑 古代ユダヤで誤って人を殺した者を庇護した町である。旧約聖書民数紀略第三十五章、ヨシュア記第二十章などに記されている。

      解説

「ジーキル博士とハイド氏」は、単に固有名詞としてのみならず、二重性格[#「二重性格」に傍点]を意味する普通名詞としても亦、普く世界中に知られているくらいに、有名な小説である。原作の標題は[#ここから横組み]“The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde”[#ここで横組み終わり](「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」)であって、ロバート・ルーイス・スティーヴンスン(一八五〇―一八九四)の一八八五年の作、翌一八八六年一月に初めて出版されたものである。
 この作の創作過程については、既に種々の伝説[#「伝説」に傍点]が存在している。とにかく、「新アラビア夜話」及び「宝島」の出版によって初めて文学的名声を得たスティーヴンスンが肺患に悩みながらヨーロッパ大陸からイギリスに帰り、イングランド南海岸の保養地ボーンマスに父から買って貰ってスケリヴォーと名づけた家に病を養っている間、詩集「子供の詩の園」、長編小説「オットー王」などの脱稿の後、一八八五年、金の必要に迫られて、何か速く書き上げることのできそうな小説を頻りに考えている時に、或る夜見た夢[#「夢」に傍点]によって、この二重人格の物語を思い付いたのだという。その夢に関しても諸説があるが、彼が夢みたのは、恐らく、彼自身の言っているように、一人の男が戸棚の中に押しこめられている時に薬を飲んで他の人間に変ったという場面だけくらいのものであって、他は目覚めている時に構想されたのである。彼は友人との合作戯曲「執事僧ブローディー」、短篇小説「マーカイム」など類似の題目を過去において幾度か扱っており、人間の二重性を主題とした物語を書くことを以前から意図していたのであった。最初の草稿は烈しい勢で忽ち書き上げられた。それを彼の妻が読み、寓話であるべきものが幾分平凡な物語になっていて、寓意が明らかにされていないと非難した。彼はその非難を認めて、異った見地から新たに書き直すことにし、完全な改作ができないことを恐れて最初の原稿を焼き棄て、再び白熱の興奮の中に約三万語の作を僅か三日間で書き上げたと言われている。尤も推敲と完成にはその後約一カ月を要したという。ともかく、スティーヴンスン自身の言葉によればこの書が「考察され、書かれ、書き直され、再び書き直され、印刷された」のが「十週間以内」であったというのは、真実であろう。
 こうしてこの作は一八八五年の秋の末頃には既にロンドンのロングマンズ、グリーン社から単行本として出版される準備が出来ていたが、出版社の営業上の理由から延期され、翌八六年の一月中旬に発行された。最初は別に顧みられなかったが、「タイムズ紙」に紹介の一文が出るに至って世の注目を惹き、他の批評が続々と現われ、また聖《セント》ポール大会堂でその道徳的寓意《モラル》が説教の材料とされるに及んで、各地の教会の牧師も好んでこの作を引用し、世評は益々高まり、この書は大いに読まれて、一伝記者に従えばバイロン卿の如く「スケリヴォーの病隠遁者も一朝目覚めて自己の名高きを知った」のである。かくしてスティーヴンスンはこの一小編によって作家としての名声を完全に確立するに至った。この二年前に彼の出世作「宝島」の出現が世に迎えられた時もそれの最初の出版から一年間に売られた部数は約五千に過ぎなかったが、「ジーキル博士とハイド氏の怪事件」は数カ月にして五万部を売り、更に大西洋を越えてアメリカにおいてもポーに比されて直ちに歓迎された。そして今日においては、前述の如く、全世界において「ジーキル博士とハイド氏」または「ジーキルとハイド」と言えば二重人格を意味するくらいに一般的となっているのである。
 作そのものについては茲に解説しない。エドガー・アラン・ポーの「ウィリヤム・ウィルスン」、オスカー・ワイルドの「ドーリアン・グレーの肖像画」などと共に、この種の文学としては世界的古典となっているが、それらとの比較も読者にとって興味ある題目であるだろう。

 この翻訳は訳者所蔵の一八八六年ロングマンズ、グリーン社発行の初版本に拠ってなした。この書は同年発行の後の版を蔵しておられる市河博士の折紙付きで、その見返しの裏に鉛筆で書き込んであるように、今日ではあるいは[#「あるいは」に傍点][#ここから横組み]“first edition, scarce”[#ここで横組み終わり](初版、稀覯」)の書の部類の片隅に入るかも知れない。薄茶色のクロース表紙の本である。しかし、後に改版の際に多少改訂された個所は、大体その訂正を採った。
 訳文中に傍点[#「傍点」に傍点]を付してある部分は、原文において強調の意味を以て斜体活字《イタリック》で印刷されている語であり、圏点[#「圏点」に丸傍点]を付してあるのは、同じく強調の意味で頭文字だけで印刷されている語である。
 ジーキル(またはジェキルとも発音されるか)のジにヂを用いないのは、ディの音がわが国ではラジ[#「ジ」に傍点]オの如く屡々ヂと発音され且つ書かれるので、それと区別するためである。エドワー[#「ー」に傍点]ド、リチャー[#「ー」に傍点]ド等の発音はわが国における従来の慣用に従った。
 訳文中の数個の語句について巻末に簡単な注を付したが、注は一々読まれなくても差支えない。
 尚、この原作が献ぜられているキャサリン・ディ・マットス夫人は作者の従妹であって、献詩のヒースの生い茂り風吹き荒ぶ北国は彼等の故郷スコットランドをさすのである。

   一九四〇年十                           
佐々木直次郎

底本:「ジーキル博士とハイド氏」新潮文庫、新潮社
   1950(昭和25)年11月25日発行
   1962(昭和37)年8月10日24刷
※「捜」と「搜」の混在は、底本通りです。
入力:kompass
校正:松永正敏
2007年2月16日作成
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