黒島伝治

国境——-黒島伝治

     

 ブラゴウエシチェンスクと黒河を距《へだ》てる黒竜江は、海ばかり眺めて、育った日本人には馬関と門司の間の海峡を見るような感じがした。二ツの市街が岸のはなで睨み合って対峙《たいじ》している。
 河は、海峡よりはもっと広いひろがりをもって海のように豊潤に、悠々《ゆうゆう》と国境を流れている。
 対岸には、搾取《さくしゅ》のない生産と、新しい社会主義社会の建設と、労働者が、自分たちのための労働を、行いうる地球上たった一つのプロレタリアートの国があった。赤い布で髪をしばった若い女が、男のような活溌な足どりで歩いている。ポチカレオへ赤い貨車が動く。河のこちらは、支那領だ。
 黒竜江は、どこまでも海のような豊潤さと、悠々さをたたえて、遠く、ザバイガル州と呼倫湖から、シベリアと支那との、国境をうねうねとうねり二千里に渡って流れていた。
 十一月の初めだった。氷塊が流れ初めた。河面一面にせり合い、押し合い氷塊は、一度に放りこまれた塵芥《じんかい》のように、うようよと流れて行った。ある日、それが、ぴたりと動かなくなった。冬籠もりをした汽船は、水上にぬぎ忘れられた片足の下駄のように、氷に張り閉されてしまった。
 舷側の水かきは、泥濘《でいねい》に踏みこんで、二進《にっち》も三進《さっち》も行かなくなった五光のようだった。つい、四五日前まで船に乗って渡っていた、その河の上を、二頭立の馬に引かれた馬車が、勢いよくがらがらと車輪を鳴らして走りだした。防寒服を着た支那人が通る。
 サヴエート同盟の市街、ブラゴウエシチェンスクと、支那の市街黒河とを距てる「海峡」は、その日から埋められた。黒橇《くろそり》や、荷馬車や、徒歩の労働者が、きゅうに檻《おり》から放たれた家畜のように、自由に嬉々として、氷上を辷《すべ》り、頻《ひん》ぱんに対岸から対岸へ往き来した。
「今日《こんにち》は! タワーリシチ! 演説を傍聴さしてもらうぞ」
 支那人、朝鮮人たち、労働者が、サヴエート同盟の土を踏むことをなつかしがりながら、大きな露西亜《ロシア》式の防寒靴をはいて街の倶楽部《クラブ》へ押しかけて行った。
 十一月七日、一月二十一日には、労働者たちは、河を渡ってやって行く。三月八日には女たちがやって行く。
「僕、日本人、行ってもいいですか?」
「よろしい」
 その日本人は、二十歳を過ぎたばかりだった。モスクワへ行きたい希望を抑《おさ》えることができなかった。黒河に住んで一年になる。いつか、ブラゴウエシチェンスクにも、顔見知りが多くなっていた。
 黒竜江にはところどころ結氷を破って、底から上ってくる河水を溜《た》め、荷馬車を引く、咽頭《のど》が乾いた馬に水をのませるのを商売とする支那人が現れた。いくら渇《かわき》を覚えても、氷塊を破って馬に喰わせるわけには行かない。支那人は一回、銅片一文を取って馬に水を飲ませるのだ。水が凍らないように、長い棒でしょっちゅう水面をばしゃばしゃかきまぜ、叩いていた。白鬚《しらひげ》まじりの鬚に氷柱をさがらした老人だった。
 税関吏と、国境警戒兵は、そのころになると、毎年、一番骨が折れた。一番油断がならなかった。黒河からやってくる者たちは、何物も持たず、何物をも求めず、ただプロレタリアートの国の集団農場や、突撃隊の活動や、青年労働者のデモを見たいがためにやってくる。そういう風に見える。しかし、なかには、大褂児の下に絹の靴下を、二三十足もかくしていた。帽子の下に天子印の、四五間さきの空気をくんくんさせる高価な化粧品をしのばせていた。そして、彼らが市街のいずれかへ消えて行って、今夜ひっかえしてくる時には、靴下や化粧品のかわりに、ルーブル紙幣を、衣服の下にかくしている。そんな奴があった。

     

 北方の国境の冬は、夜が来るのが早かった。
 にょきにょきと屋根が尖《とが》った、ブラゴウエシチェンスクの市街は、三時半にもう、デモンストレーションのような電灯の光芒《こうぼう》に包まれていた。
 郊外には闇が迫ってきた。
 厚さ三尺ないし八尺、黒竜江の氷は、なおその上に厚さを加えようとして、ワチワチ音を立て、底から表面へ瘤《こぶ》のようにもれ上ってきた。警戒兵は、番小屋の中で、どこから聞えてくるともない、無慈悲《むじひ》な寒冷の音を聞いた。
 二重硝子の窓の外には、きつきつたる肌ざわりの荒い岩のような、黒竜江の結氷が星空の下に光っていた。
 番小屋は、舟着場から、約一露里(約九丁)上流にあって建てられていた。夏は、対岸から、踵《かかと》の高い女の白靴や、桜色に光沢を放っている、すき通るような薄い絹の靴下や、竹の骨を割った日傘が、舟で内密で持ちこまれてくる。ここは、流れが最も緩慢であった。そして、対岸の河岸が、三十メートル突きだして、ゆるく曲線を描いている関係から、舟は、流れの中へ放りだせば、ひとりでに流れに押されて、こちらの河岸へ吸いつけられるようにやってくる。地理的関係がめぐまれていた。支那人は、警戒兵が寝静まったころを見はからって、その自然を利用した。
 かつては、この地点から、多くの酒精が、持ちこまれてきた。ウオッカの製造が禁じられていた、時代である。支那人は、錻力《ブリキ》で特別に作らせた、コルセット様の、ぴったりと人間の胴体に合う中が空洞となった容器に、酒精を満し、身肌につけて、上から服を着、何食わぬ顔で河岸からあがってきた。酒精に水をまぜて、火酒として売りつけた。資本主義時代から、飲んだくれることが労働者的であるように思いこんでいるルンペンを酒に酔わしてしまった。酒のために、困難な闘争を忘れさせた。そして、ゼーヤから掘りだしてきた砂金を代りにポケットへしのばして、また、河を渡り、国外へ持ち去った。
 今は酒は珍らしくはない。国内で作られている。
 今は、五カ年計劃の実行に忙がしかった。能率増進に、職場と職場が競争した。贅沢品《ぜいたくひん》や、化粧品をこしらえているひまはなかった。そんなものをかえりみているどころではなかった。
 寒気が裂けるように、みしみし軋《きし》る音がした。
 ペーチカへ、白樺の薪《まき》を放りこんだワーシカは、窓の傍によって聴き耳を立てた。二重硝子を透して遠くに、対岸の黒河の屋根が重い支那家屋の家なみが、黒く見えた。すべてがかたまりついた雪と氷ばかりだ。部分部分が白く、きらきらと光っていた。
 また、きしきしという軋りが聞えて、氷上蹄鉄《ひょうじょうていてつ》を打ちつけられた馬が、氷を蹴る音がした。
「来ているぞ。また、来ているぞ」
 ワーシカは、二重硝子の窓に眼をよりつけるようにして、外をうかがった。「偉大なる転換の一年」を読んでいたシーシコフは、頭を上げて、スヰッチをひねった。電灯が消えた。番小屋は真暗になった。と、その反対に、外界の寒気と氷の夜の風景が、はっきりと窓に映ってきた。
 河を乗り起してやってくる馬橇が見えた。警戒兵としての経験からくるある直感で、ワーシカは、すぐ、労働組合の労働者ではなく、密輸入者の橇であると神経に感じた。銃をとると、彼は扉を押して、戸外へ躍《おど》りでた。扉が開いたその瞬間に、刺すような寒気が、小屋の中へ突き入ってきた。シーシコフもつづいて立ちあがった。
「止れ! 誰れだ?」
 支那人は、抑圧《よくあつ》せられ、駆逐《くちく》せられてなお、余喘《よぜん》を保っている資本主義的分子や、富農や意識の高まらない女たちをめがけて、贅沢品を持ちこんでくるのだ。一足の絹の靴下に五ルーブルから、八ルーブルの金を取って帰って行く。そして国境外では、サヴエート同盟に物資が欠乏していると、でたらめを飛ばした。
 一方では、飲酒反対、宗教反対のピオニールのデモを見習った対岸の黒河の支那の少年たちが、同様のデモをやったりするのに、他方どうしても、こちらの、すきを伺っては、穀物のぬすみ喰いにたかってくる雀のように、密輸入と、ルーブル紙幣の密輸出を企《くわだ》てる支那人があるのを、ワーシカはいまいましく思った。
「止れ! 誰れだ!」
 防寒帽で、すっかり、耳から鼻までかくしてしまった橇の上の男は、声で警戒兵が出てきたことを知るより先に、眼で危険を見て取った。
「止れ! 止らなけゃ打つぞ!」
 ワーシカは氷を踏んで進んだ。シーシコフは彼につづいていた。彼らと橇の距離はもう六七間になった。一人が馭者台で鞭を持ち、二人が、その後に坐っていた。馬は二頭だ。橇はちょっと止ったように見えた。と、馭者台から舌打ちがして、馬はくるりと反対にまわってしまった。鞭が、はげしく馬の尻をしばく音がした。
「逃げるな!」
 ワーシカは、すぐ折敷をして、銃をかまえた。命令をきかず、逃げだす奴は打ってもいいことになっているのだ。
 何か、橇の上から支那語の罵《ののし》る声がきこえた。ワーシカは引鉄を引いた。手ごたえがあった。ウーンと唸る声がした。同時に橇は、飛ぶような速力を出した。つづいて、シーシコフが発射した。
 銃の響きは、凍った闇に吸いこまれるように消えて行った。
「畜生! 逃がしちゃった!」

     

 戸外で蒙古《もうこ》馬が嘶《いなな》いた。
 馭者の呉はなだめるような声をかけて馬を止めた。
 ぶるぶる身慄いして、馬は、背の馬具を揺すぶった。今さっき出かけたばかりの橇《そり》がひっかえしてきたらしい。
 外から頼むように扉を叩く。ボーイが飛んで行った。鍵をはずした。
 きゅうにドカドカと騒がしい音がして、二人の支那人が支那服を着た田川を両方から助け肩にすがらしてはいってきた。
「大人、露西亜《ロシア》人にやられただ」
 支那人の呉清輝は、部屋の入口の天鵞絨《びろうど》のカーテンのかげから罪を犯した常習犯のように下卑《げび》た顔を深沢にむけてのぞかした。深沢は、二人の支那人の肩のあいだにぶらさがって顔をしかめている田川を睨《にら》めつけた。
「何、貴様が、ボンヤリしているんだ! 今どき夏じゃあるまいし、警戒兵の網にひっかかるなんて、わざわざ小屋のある方を選って馬の頭をむけて行ったんだろう?」
「このごろ、大人、川凍ったばかりで道がない。まるで、山の岩のよう。夜、なお行きにくい」
「嘘言え、横着をしてもっと上流の方を廻らんからだ」
「大人、行ったことがない。どんなにあぶないか、どんなに行きにくいか知らない。何もしない者、何も知らない」
 危険をくぐってやる仕事にかけては、俺の方がうわ手だ。ということを言いたげに呉は、安楽椅子に、ポンと落ちこんでチューインガムをしがんでいる深沢をチラと見て、にたにたと笑った。
「そうだ。何もしない者、何も知らないそうだ」
 田川は唸く声の間から、とぎれとぎれに繰りかえした。弾丸のあたった腰は、火がついたように疼《うず》きほてついていた。
「チッ! しようがないね。貴様ら、呉と郭と二人で、それじゃ夜明に出かけろ、今度はうまくやらないと荷物を没収されちゃ、怺《こら》えせんぞ!」
「ああで」
 荷物を積んだ橇は、門から厩《うまや》の脇にひっぱりこまれた。橇の毛布には、田川の血が落ちて、凍りついていた。支那人はボール箱の荷物をおろすと、脂ぎった手で無神経にその毛布をめくり上げた。相変らず、おかしげににやにや独《ひと》りで笑っていた。
「イーイーイイイ!」という掛声とともに、別の橇が勢いよく駈けこんできた。手綱が引かれて馬が止ると同時に防寒帽子の毛を霜だらけにした若いずんぐりした支那人がとびおりた。ひと仕事すまして帰ってきたのだ。
「どうしたい?」
 毛布を丸めている呉清輝にきいた。
「田川がうたれただよ」と呉は朗らかに笑った。「時にゃうたれることもあろうでか。これがおもしれえんだ」
「俺れら、こら、これだけやってきたぞ」
 若い男は、一と握りの紙幣束を紙屑のようにポケットから掴みだしてみせた。そして、また、ルーブル相場がさがってきたと話した。
「さがれゃ、さがって、こちとらは、物を高く売りつけりゃええだ。なに、かまうこっちゃねえだ」

 呉清輝は、実際、かげにかくれてこそこそと、あぶない仕事をやるために産れてきたような男だった。してはならぬ、ということがある。呉は、そのしてはならぬことを、かげにかくれて反対にやってみせる、それに快よさを覚えるようなたちの男だ。掏摸《すり》が一度、豪勢な身なりをしている男の懐中物をくすねて鼻をあかしてやると、その快味が忘れられず、何回もそれを繰りかえし、かっぱらう。そして、そのことのおもしろ味を享楽する。彼は、ちょうど、その掏摸根性のような根性を持っていた。
 密輸入商人の深沢洋行には、また、呉清輝のごとき人間がぜひ必要なのであった。
 深沢は、シベリアを植民地のように思って、利権を漁《あさ》って歩いた男だ。
 ルーブル紙幣は、サヴエート同盟の法律によって国外持出しを禁じられていた。そこでまた、国外から国内へ持ちこむこともできなかった。旅行者は、国境で円をルーブルに交換して行く、そして国外へ出る時には、ルーブルを円に交換してもらう。それは、一ルーブルが一円四銭の割合で交換された。ところが、ある時、深沢は、一ルーブル二十一銭で引きとった多くの紙幣を、国外から国内へ持ちこんで行った。そして、出てくる時、一円四銭で換えてもらって、ほくほくと逃げてきた。いっぱい喰わされたのはサヴエート同盟だった。彼は、昔から、こんな手段を使っていた。日本が出兵していたころ、御用商人に早変りして、内地なら三円の石油を一と鑵十二円で売りつけた。一ちょうの豆腐を十五銭に勘定した。ロシア人の馬車を使って、五割の頭をはねた。女郎屋のおやじになった。森林の利権を買って、それをまた会社へ鞘《さや》を取って売りつけた。日本軍が撤退《てったい》すると、サヴエート同盟の経済力は、シベリアにおいても復旧した。社会主義的建設が行われだした。シベリアで金儲けをしようとする人間は駆逐《くちく》された。それでも深沢は、どこまでもシベリアに喰いさがろうとした、黒竜江のこちら側へ渡った。火酒の密輸入をやった。火酒がだめになると、今度は贅沢品でサヴエート同盟の資本主義的分子を釣った。
 さまざまな化粧品や、真珠のはまった金の耳輪や、蝶形のピンや、絹の靴下や、エナメル塗った踵《かかと》の高い靴や、――そういう嵩《かさ》ばらずに金目になる品々が、哈爾賓《ハルピン》から河航汽船に積まれて、松花江を下り、ラホスースから、今度は黒竜江を遡って黒河へ運ばれてきた。それらの品々は、一時、深沢洋行の倉庫の中で休息した。それからおもむろに、支那人の手によって、国境をくぐりぬけ、サヴエート国内へもぐりこんで行った。
 これは二重の意義を持っていた。密輸入につきものの暴利をむさぼるだけではなかった。
 肉色に透き通るような柔らかい絹の靴下やエナメルを塗った高い女の靴の踵は、ブルジョア時代の客間と、頽廃的《たいはいてき》なダンスと、寝醒めの悪い悪夢を呼び戻す。花から取った香水や、肌色のスメツ白粉や、小指のさきほどの大きさが六ルーブルに価する紅は、集団農場の組織や、労働者の学校や、突撃隊の活動などとは、およそ相反するものだ。それをわざわざ持ちこんで行くのは意味がなければならなかった。社会主義的社会の建設に恐怖しているブルジョア国家の手がそこに動いていた。警戒兵たちがいまいましがっている支那人の背後には、×××がいた。
 商品とかえられて持ちだされてきいたルーブル紙幣は、十二銭内外で、サヴエート国内でただ一カ所密売買をやっている、浦潮《ウラジオ》の朝鮮銀行へ吸収されて行った。
 鮮銀はさらに、カムチャッカ漁場の利権を買ってる漁業会社へ、一ルーブル十八銭――二十銭で売りつけた。
 そこで、漁業会社は、普通相場の五分の一にあたる安いルーブル紙幣を借区料としてサヴエート同盟へ納《おさ》めるのだった。そして、ぬくらんと懐を肥やして、威張っていた。
 密輸入者の背後には、その商品を提供する哈爾賓《ハルピン》のブルジョアが控えているばかりではなかった。資本主義××が控えていた。
 どうすれば、こういう側面からのサヴエート攻撃の根を断つことができるか!
 呉清輝は、警戒兵も居眠りを始める夜明け前の一と時を見計って郭進才と橇を引きだした。橇は、踏みつけられた雪に滑桁を軋らして、出かけて行った。
 風も眠っていた。寒気はいっそうひどかった。鼻孔に吸いこまれる凍った空気は、寒いという感覚を通り越して痛かった。
 十五分ばかりして、橇はひっかえしてきた。
 呉は、左の腕を捩《ね》じ曲げるように、顎の下に、も一方の手で抱き上げ、額にいっぱい小皺《こじわ》をよせてはいってきた。
「早や行ってきたのかい?」
 腰の傷の疼痛《とうつう》で眠れない田川は、水を飲ましてもらいたいと思いながら声をかけた。
「火酒は残っていねえか? チッ! 俺れもやられた!」
「やっぱし、あしこのところからはいろうとしたのか?」
「いや、ずっと上へ廻ったんだ。ところがそこにも警戒兵がいた」
「どこにだって警戒兵はいるさ。番をするのはあたりまえだ」
「ふーむ、ふーむ、みごとにうたれちゃった」
 呉清輝はうたれたのが愉快だというような声を出した。
 火酒は、戸棚の隅に残っていた、呉は、それを傷口に流しかけた。酒精分が傷にしみた。すると、呉は、歯を喰いしばって、イイイッと頸を左右に慄《ふる》わした。
「何て、縁儀《えんぎ》の悪いこっちゃ、一と晩に二人も怪我をしやがって! 貴様ら、横着をして兵タイのいるいい道を選って行っとるんだろう。この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促《さいそく》の手紙が来とるんだぞ!」
 朝、深沢洋行のおやじは、ねむげな眼に眼糞をつけて支那人部屋にはいってきた。呉清輝と田川とは、傷の痛さに唸りながら、半ば、うつらうつらしつつ寝台に横たわっていた。おやじは、いきなり、ペーチカの横の水汲みの石油鑵を蹴《け》とばした。
「この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促の手紙が来とるんだぞ!」
 クヅネツォフからの暗号の手紙を田川の頭のさきで振りまわした。それには、アルファベットとアラビア数字がきれぎれに、一字一字、全部で三十字ほど折れ釘のように並んでいた。クヅネツォフは、対岸の、北の村に住んでいる富農だ。パン粉を買い占めたり、チーズを買い占めたり、そして、それを労働者に高くで売りつける。そんなことを常習のようにやっている男だ。みんなに毛ぎらいされていた。
「へへ、自分で持って行くがええや」
 おやじが去ったあとで、呉清輝は呟いた。
 田川は、これまで生きてきた日本の生活よりも、また、北満の河の北方側の生活よりも、河のかなたの生活の方がはるかにいいと心から思うことがたびたびあった。理屈ではなかった。街を歩いていると彼と同年くらいのロシアの青年たちの暗い影がちっともない顔を見てそう思うのだ。大またに、のしのしとまったく心配なげな歩きッぷりで歩いている。それを見てそう思うのだ。あの顔と較べて、いつも、じろじろ気を配って歩かなければならない罪人のような俺の境遇はどうだ!
 彼れらは、銭を持っていることがいらない。仕事を失う心配がない。食うものも着るものも必要なだけ購買組合からあてがわれる。俺らは、ただ金を取るために、危いことだって、気にむかないことだって、何だってやっている。内地でだってそうだ。満州でだってそうだ。ところが、彼れらは、金を取るためではなく、自分たちの生活を築きあげるために働いている。他人のために働いているんではなく、自分のために働いているんだ!
 むつまじげに労働学生が本をかかえて歩いている。それだけが、もう、彼をすばらしく引きつけるのだった。
 夜になると、怪我をしない郭と、若いボーイが扉のかげで立話をした。倉庫の鍵を外套から氷の上へガチャッと落した。やがて、橇に積んだボール紙の箱を乾草で蔽《おお》いかくし、馬に鞭打って河のかなたへ出かけて行った。
「あいつ、とうとう行っちゃったぞ!」
 呉清輝は、田川の耳もとへよってきて囁いた。
「どうしてそれが分るかい!」
「どうしても、こうしてもねえ。あいつだってばかじゃねえからな」
 呉清輝は、腹からおかしく、快よいもののようにヒヒヒと笑った。
 翌朝、おやじが、あたふたと、郭を探しにはいってきた。郭の所有物を調べた。ズックの袋も、破れ靴も、夏の帽子も何一つ残っていなかった。
「くそッ! 畜生! 百円がところ品物を持ち逃げしやがった!」おやじは口をとがらしていた。
 呉清輝と田川とはおやじが扉の外に見えなくなると、吹きだすようにヒヒヒヒと笑いだした。
 三日たった。呉清輝は、一方の腕を頸にぶらさげたまま、起《おき》て橇に荷物を積んだ。香水、クリイム、ピン、水白粉、油、ヘアネット、摺《す》り硝子《ガラス》の扇形の壜《びん》、ヘチマ形の壜。提灯《ちょうちん》形の壜。いろいろさまざまな恰好の壜がはいったボール箱が橇いっぱいに積みこまれた。呉は、その上へアンペラを置いた。そして、その上へ、秣草《まぐさ》を入れた麻袋を置いた。傷ついた腕はまだ傷そうであった。しかし、人には、もうだいじょうぶだ、癒《なお》った、と言った。
「一人で出かけるのかい!」
 田川は訊ねた。
「うむ、お前も行きたいか? 連てってやろうか」
 呉清輝は、小鼻でくッくッと笑って、自分の所有物を纏《まと》めた。河のかなたへ※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56]《ずらか》ってしまうのだ。
「俺ゃ、まだ起られねえ」
 晩が来ると、夜がふけるのを待たずに呉は出発した。
 田川は、ベットに横たわっていた。
「気をつけろよ」
 呉は出かけに言った。
「ああ」
 一時間して、おやじが支那人部屋へとびこんできた。おやじは、また、郭進才の場合のように呉の床箆子の附近をさがしまわって、破った、虱《しらみ》のいる肌着が一枚丸めて放ってあるのをつまみ上げ、舌打ちをした。
「チッ! まったく、油断もすきもならん! 貴様は、こらッ、田川! ここに寝ていて呉が何をしていたか分ったであろうが!」
 田川は、毛布をひっかむって眠ったふりをしていた。そして、おやじが出て行った後で声をあげて愉快げに笑った。

 だが、数日の後、おやじは、別の支那人をつれてきた。保証金を取った。そして、倉庫に休んでいる品々を別の橇に積みこませた。

     

 黒竜江の結氷が轟音《ごうおん》とともに破れ、氷塊《ひょうかい》は、濁流《だくりゅう》に押し流されて動きだす春がきた。
 河蒸汽ののどかな汽笛が河岸に響きわたった。雪解の水は、岸から溢れそうにもれ上がっている。帆をあげた舟、発動汽船、ボート、櫓《ろ》で漕《こ》ぐ舟、それらのものが春のぽかぽかする陽光をあびて上ったり下ったりした。
 黒河からブラゴウエシチェンスクへは、もう、舟に乗らなければ渡ってくることはできない。しかし、警戒兵は、油断がならなかった。税関の船着場以外へ、毎晩、支那人の舟が闇に乗じてしのびよってきた。舟は、暗い。霧がおりた流れを、上流にむかって漕ぎのぼって行く。三四丁のぼると、すきを伺って、相手の頸もとへひらりと飛びこんでくるシャモのように、舳《へさき》の向きをかえ、矢のように流れ下りながら、こちらへ泳ぎついてきた。そして、河岸へ這い上ると、それぞれの物を衣服の下や、長靴の中にしのばして、村の方へ消えて行った。
 哈爾賓《ハルピン》から運ばれたばかりのものを持ちこんでいるのだ。
 警戒兵は見のがすわけには行かなかった。
 彼れらは、まったく手ぶらで、ただ、衣服を着けただけで上がってくる。たんなる労働者か、百姓のように見えた。ところが、上衣を引きはぐと、どこにどうしてかくしているのか、五十足の靴下が、ばらばらと足もとへ落ちてきた。一人の少年が三十七個の化粧品の壜を持っていた。逃げる奴は射撃した。
 それは、一時途絶えたかと思うと、また、警戒兵が気を許している時をねらって、闇に乗じてしのびよってきた。
 五月にもやってきた。六月にもやってきた。七月にもやってきた。
「畜生! あいつらのしつこいのには根負けがしそうだぞ!」
 ワーシカは、夜が短い白夜を警戒した。涼しかった。黒竜江の濁った流れを見ながら、大またに、のしのしと行ったりきたりするのは、いい気持のものだ。
 八月に入って、密輸入者はどうしたのか、ふッと一人も発見されなくなった。「しかし、これで油断をしていると、またきゅうに、ドカドカと押しよせてくるんだぞ!」と警戒兵は考えた。
 ある日だ。太陽が没して、まだ、あたりが白く見えていた。対岸の三十メートル突きだした一番地理にめぐまれた地点から、三艘の舟が列をなして、こちらの岸へ吸いつけられるように流れてきた。ワーシカがこれを見た。彼れは身をひそめて待ちかまえた。
 舟は、矢のように岸へ流れ着いた。支那語で笑い喋りながら、六七人の若者がごそごそとあがってきた。ワーシカは、一種の緊張《きんちょう》から、胸がドキドキした。
「待て!」
 彼れは、小屋のかげから着剣した銃を持って踊りでた。
 若者は立止った。そして、
「何でがすか? タワリシチ!」
 馴れ馴れしい言葉をかけた。倶楽部《クラブ》で顔見知りの男が二人いた。中国人労働組合の男だ。
「や!」
 ワーシカは、ひょくんとして立止った。
「今晩は、タワーリシチ! 倶楽部で催しがあるんでしょう? 行ってもいいですか」
「ああ、よろしい」
 青年たちは愉快げに笑いながら番小屋の前を通りすぎて行った。ワーシカは、ポカンとして、しばらくそこに不思議がりながら立っていた。密輸入者はどうしたんだろう。
 だが、間もなく、ワーシカの疑問は解決された。朝鮮銀行がやっていた、暗黒相場のルーブル売買が禁止されたのが明らかになった。密輸入者が国外へ持ちだしたルーブル紙幣を金貨に換える換え場がなくなったのだ。
 日本のブル新聞は、鮮銀と、漁業会社に肩を持って、ぎょうぎょうしげに問題を取り上げていた。
 しかし、「そうだ、もっと早くから、ルーブル紙幣の暗黒売買を禁止しとかなけゃならなかったのだ! これさえ抑えとけば、香水をつけたり、絹の靴下をはいたりして、封建時代の気分を呼び戻そうとするような、反動分子に何も手にはいれゃしなかったのだ! プロレタリアの国に喰い下ろうとするブルジョアどもも何も手出しができやしなかったのだ!」と考えていた。
「よろしく、今のうちにその根から掘取りおくべしだ!」

底本:「日本文学全集 44」集英社
   1969(昭和44)年10月11日発行
初出:「戦旗」
   1931(昭和6)年2月
入力:岡本ゆみ子
校正:noriko saito
2009年10月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

黒島伝治

穴——-黒島傳治

      一

 彼の出した五円札が贋造紙幣だった。野戦郵便局でそのことが発見された。
 ウスリイ鉄道沿線P―の村に於ける出来事である。
 拳銃の這入っている革のサックを肩からはすかいに掛けて憲兵が、大地を踏みならしながら病院へやって来た。その顔は緊張して横柄で、大きな長靴は、足のさきにある何物をも踏みにじって行く権利があるものゝようだった。彼は、――彼とは栗島という男のことだ――、特色のない、一兵卒だった。偽《に》せ札《さつ》を作り出せるような気の利いた、男ではなかった。自分でも偽せ札を拵《こしら》えた覚えはなかった。そういうあやしい者から五円札を受取った記憶もなかった。けれども、物をはねとばさぬばかりのひどい見幕でやって来る憲兵を見ると、自分が罪人になったような動揺を感ぜずにはいられなかった。
 憲兵伍長は、腹立てゝいるようなむずかしい顔で、彼の姓名を呼んだ。彼は、心でそのいかめしさに反撥しながら、知らず/\素直におど/\した返事をした。
「そのまゝこっちへ来い。」
 下顎骨《かがくこつ》の長い、獰猛《どうもう》に見える伍長が突っ立ったまゝ云った。
 彼は、何故、そっちへ行かねばならないか、訊ねかえそうとした。しかし、うわ手な、罪人を扱うようなものゝ云い方は、変に彼を圧迫した。彼は、ポケットの街の女から貰った眼の大きい写真をかくすことも忘れて、呼ばれるままに事務室へ這入って行った。
 陸軍病院で――彼は、そこに勤務していた――毎月一円ずつ強制的に貯金をさせられている。院長の軍医正が、兵卒に貯金をすることを命じたのだ。
 俸給が、その時、戦時加俸がついてなんでも、一カ月五円六十銭だった。兵卒はそれだけの金で一カ月の身ざんまいをして行かねばならない。その上、なお一円だけ貯金に、金をとられるのだ。個人的な権限に属することでも、命じられた以上は、他を曲げて実行しなければならないのが兵卒だった。それが兵卒のつとめだ。彼は俸給に受取った五円札をその貯金を出した。そして、ツリに、一円札を四枚、金をまとめて野戦郵便局へ持って行く小使から受取った。その五円札が贋造だったことを局員が発見したのである。
 それは極めて精巧に、細心に印刷せられたものであった。印刷局で働いて、拵え方を知っている者の仕業のようだ。一見すると使い古され、しわくちゃになっていた。しかし、よく見ると、手垢が紙にしみこんでいなかった。皺《しわ》も一時に、故意につけられたものだ。
 郵便局では、隣にある電信隊の兵タイが、すぐやってきて、札を透かしたり指でパチ/\はじいたりした。珍しそうにそれを眺め入った。
「うまくやる奴もあるもんだね。よくこんなに細かいところまで似せられたもんだ。」
「すかしが一寸、はっきりしていないだろう。」貯金掛の字のうまい局員が云った。
「さあ。」
「それは紙の出どころが違うんだ。札の紙は、王子製紙でこしらえるんだが、これはどうも、その出が違うようだ。」
「一寸見ると、殆んど違わないね。」電信隊の兵タイは、蟇口《がまぐち》から自分の札を出して、比較してみた。「違わないね。……実際、Five なんか一分も違わず刷れとるじゃないか。」
「どれ/\。」
 局へ内地の新聞を読みに来ている、二三人の居留民が、好奇心に眼を光らせて受付の方へやって来た。
 三十歳をすぎている小使は、過去に暗い経歴を持っている、そのために内地にはいられなくて、前科者の集る西伯利亜《シベリア》へやって来たような男だった。彼の表情にも、ものごしにも、暗い、何か純粋でないものが自《おのずか》ら現れていた。彼は、それを自覚していた。こういう場合、嫌疑が、すぐ自分にかゝって来ることを彼は即座に、ピリッと感じた。
「おかしなことになったぞ。」彼は云った。「この札は、栗島という一等看護卒が出したやつなんだ。俺れゃちゃんと覚えとる。五円札を出したんは、あいつだけなんだから、あいつがきっと何かやったんだな。」
 彼は、自然さをよそおいつゝ人の耳によく刻みこまれるように、わざと大きな声を出した。
「栗島が出した札かい?」局員はきゝかえした。その声に疑問のひゞきがあった。
「あゝ、そうだ。」
「たしかだね?」
「うむ、そうだ。そうに違いない。」
 眼鏡を掛けた、眼つきの悪い局長が、奥の部屋から出て来た。局長は疑ぐるように、うわ眼を使って、小使をじろりと見た。
「誰れが出した札だって?」
 局長は、小使から局員の方へそのうわ眼を移しながら云った。
 小使は、局長の光っている眼つきが、なお自分に嫌疑をかけているのを見た。彼は、反抗的な、むずかしい気持になった。彼は、局長の言葉が耳に入らなかった振りをして、そこに集っている者達に栗島という看護卒が平生からはっきりしない点があることを高い声で話した。間もなく通りから、騒ぎを聞きつけて人々がどや/\這入って来た。
 郵便局の騒ぎはすぐ病院へ伝わった。
 自分の出した札が偽ものだったと見破られた時のこういう話をきくと、栗島は、なんだか自分で、知らぬまに、贋造紙幣を造っていたような、変な気持に襲われた。怖くて恐ろしい気がした。人間は、罪を犯そうとする意志がなくても、知らぬ間に、自分の意識外に於て、罪を犯していることがある。彼は、どこかで以前、そういう経験をしたように思った。どこだったか、一寸思い出せなかった。小学校へ通っている時、先生から、罰を喰った。その時、悪いことをするつもりがなくして、やったことが、先生から見ると悪いことだったような気もした。いや、たしかにそうだった。子供が自分の衝動の赴くまゝに、やりたい要求からやったことが、先生から見て悪いことがたび/\ある。子供はそこで罰せられねばならない。しかも、それは、子供ばかりにあるのではなかった。誰れにでもあることだ。人間には、どんなところに罪が彼を待ち受けているか分らない。弱点を持っている者に、罪をなすりつけようと念《こゝろ》がけている者があるのだ。彼は、それを思って恐ろしくなった。

      

「財布を出して見ろ。」
「はい。」
「ほかに金は置いてないか。」
「ありません。」
「この札は、君が出したやつだろう。」
 憲兵伍長は、ポケットから、大事そうに、偽札を取り出して示した。
「さあ、どうだったか覚えません。――あるいは出したやつかもしれません。」
「どっから受取った?」
「…………」
 栗島は、憲兵上等兵の監視つきで、事務室へ閉めこまれ、二時間ほど、ボンヤリ椅子に腰かけていた。机の上には、街の女の写真が大きな眼を開けて笑っていた。上等兵は、その写真を手に取って、彼の顔を見ながら、にや/\笑った。女郎の写真を彼が大事がっているのを冷笑しているのだが、上等兵も街へ遊びに出て、実物の女の顔を知っていることを思うと、彼はいゝ気がしなかった。女を好きになるということは、悪いことでも、恥ずべきことでもない。兵卒で、取調べを受ける場合に立つと、それが如何にも軽蔑さるべき、けがらわしいことのように取扱われた。不品行を誇張された。三等症のように見下げられた。ポケットから二三枚の二ツに折った葉書と共に、写真を引っぱり出した時、伍長は、
「この写真を何と云って呉れたい?」とへへら笑うように云った。
「何も云いやしません。」
「こいつにでも(と写真をさも軽蔑した調子で机の上に放り出して)なか/\金を入れとるだろう。……偽せ札でもこしらえんけりゃ追っつかんや。」
 如何にも、女に金を貢ぐために、偽せ札をこしらえていたと断定せぬばかりの口吻だ。
 彼は弁解がましいことを云うのがいやだった。分る時が来れば分るんだと思いながら、黙っていた。しかし、辛棒するのは、我慢がならなかった。憲兵が三等症にかゝって、病院へ内所で治療を受けに来ることは、珍らしくなかった。そんな時、彼等は、頭を下げ、笑顔を作って、看護卒の機嫌を取るようなことを云った。その態度は、掌《てのひら》を引っくりかえしたように、今、全然見られなかった。上等兵の表情には、これまで、病院で世話になったことのないあかの他人であるような意地悪く冷酷なところがあった。
 こういう態度の豹変は憲兵や警官にはあり勝ちなことだ。憲兵や警官のみならず、人間にはそういう頼りにならぬ一面が得てありがちなことだ。それ位いなことは、彼にも分らないことはなかった。それでも、何故か、彼は、腹の虫がおさまらなかった。憲兵が、横※[#「やまいだれ+坐」、第3水準1-88-47]《よこね》で跛《びっこ》を引きながら病院へやって来たことを云って面罵してやりたかった。だが、そうすれば、今、却って、自分が損をするばかりだ。彼はそう考えた。強いて押し黙っていた。
 一時間ばかり椅子でボンヤリしているうちに、伍長と、も一人の上等兵とは、兵舎で私の私物箱から背嚢、寝台、藁布団などを悉く引っくりかえして、くまなく調べていた。そればかりでなく、ほかの看護卒の、私物箱や、財布をも寝台の上に出させ、中に這入っている紙幣を偽物[#「偽物」は底本では「物偽」]かどうか、透かしてたしかめた。
 憲兵にとって、一枚の贋造紙幣が発見されたということは、なんにも自分の利害に関する問題ではなかった。発覚されない贋造紙幣ならば、百枚流通していようが、千枚流通していようが、それは、やかましく、詮議立てする必要のないことだった。しかし一度発覚され、知れ渡《わた》った限りは、役目として、それを取調べなければならなかった。犯人をせんさくし出さなければ、役目がつとまらなかった。役目がつとまらないということは、自分の進級に関係し、頸に関係する重大なこと柄だった。
 兵卒は、初年兵の時、財布に持っている金額と、金銭出納簿(入営するとそれを記入することを云いつけられる。)の帳尻とが合っているかどうか、寝台の前に立たせられて、班の上等兵から調べられた経験を持っていた。金額と帳尻とが合っていないと、胸ぐらを掴まれ、ゆすぶられ、油を搾られた。誰れかゞ金を紛失した場合、殊更、帳尻を合わしていない者に嫌疑が掛って来た。帳尻の合っていない者が盗んだとは、断定することは出来ない。それは弱点ではあった。が、盗んだ者だという理由にはならなかった。けれども、実際には、帳尻を合わしていない、投げやりな、そういう者に限って人のいゝ男が、ひどい馬鹿を見るのだ。
 憲兵が取調べる際にも、やはり、その弱点を掴むことに伍長と上等兵の眼は向けられた。彼等は、犯人らしい、多くの弱点を持っている者を挙げれば、それで役目がつとまるのだ。
 事務室から出ることを許されて、兵舎へ行くと、同年兵達は、口々にぶつ/\こぼしていた。
「栗島。お前本当に偽札をこしらえたんか?」
 松本がきいた。
「冗談を云っちゃ困るよ。」彼は笑った。
「憲兵がこしらえたらしいと云いよったぞ。」
「おどかすのは、えゝかげんにしてくれ。」
 彼の寝台の上には、手帳や、本や、絵葉書など、私物箱から放り出したまゝ散らかっていた。小使が局へ持って行った貯金通帳は、一円という預入金額を記入せずに拡げられてあった。彼は、無断で私物箱を調べられるというような屈辱には馴れていた。が、聯隊の経理室から出た俸給以外に紙幣が兵卒の手に這入る道がないことが明瞭であるにも拘《かかわ》らず、弱点を持っている自分の上に、長くかゝずらっている憲兵の卑屈さを見下げてやりたい感情を経験せずにはいられなかった。主計には頭が上らないから、兵卒のところでえばっているのだ。そんな風に考えた。
「オイ、栗島。」軍医と何か打合せをしていた伍長が、扉のすきから獰猛な顔を出して、兵舎の彼に呼びかけた。
「君は本当に偽物だとは知らずに使ったんかね?」
「そうです。」彼は答えた。
「うそを云っちゃいかんぞ!」
「うそじゃありません。」
「どこへも行かずにそこに居ってくれ。もっと取調べにゃならんかもしれん。」

      三

 憲兵隊は、鉄道線路のすぐ上にあった。赤い煉瓦の三階建だった。露西亜の旅団司令部か何かに使っていたのを占領したものだ。廊下へはどこからも光線が這入らなかった。薄暗くて湿気があった。地下室のようだ。彼は、そこを、上等兵につれられて、垢に汚れた手すりを伝って階段を登った。一週間ばかりたった後のことだ。二階へ上るとようよう地下室から一階へ上った来たような気がした。しかし、そこが二階であることは、彼は、はっきり分っていた。帰るには、階段をおりて、暗い廊下を通らなければならなかった。そこを逃げ出して行く。両側の扉から憲兵が、素早く手を突き出して、掴まえるだろう。彼は、外界から、確然と距てられたところへ連れこまれた。そこには、冷酷な牢獄の感じが、たゞよっていた。「なんでもない。一寸話があるだけだ。来てくれないか。」病院へ呼びに来た憲兵上等兵の事もなげな態度が、却って変に考えられた。罪なくして、薄暗い牢獄に投じられた者が幾人あることか! 彼はそんなことを思った。自分もそれにやられるのではないか!
 長い机の両側に、長い腰掛を並べてある一室に通された。
 曹長が鉛筆を持って這入って来て、彼と向い合って腰掛に腰かけた。獰猛な伍長よりも若そうな、小供らしい曹長だ。何か訊問するんだな、何をきかれたって、疑わしいことがあるもんか! 彼は心かまえた。曹長は露西亜語は、どれくらい勉強したかと訊ねた。態度に肩を怒らしたところがなくて砕けていた。
「西伯利亜へ来てからですから、ほんの僅かです。」
 云いながら、瞬間、何故曹長が、自分が露西亜語をかじっているのを知っているか、と、それが頭にひらめいた。
「話は出来ますか。」曹長は気軽くきいた。
「どっから僕が、露西亜語をかじってるんをしらべ出したんですか?」
「停車場《ていしゃば》で君がバルシニャ(娘)と話しているのをきいたことがあるよ――美人だったじゃないか。」
「あの女は、何でもない女ですよ。何も関係ありゃしないんです。」彼は、リザ・リーブスカヤのことを思い出して、どぎまぎして「胸膜炎で施療に来て居るからそれで知っとるんです。」
「そう弁解しなくたって君、何も悪いとは云ってやしないよ。」
 曹長は笑い出した。
「そうですか。」
 慌てゝはいけないと思った。
 曹長は、それから、彼の兄弟のことや、内地へ帰ってからどういう仕事をしようと思っているか、P村ではどういう知人があるか、自分は普通文官試験を受けようと思っているとか、一時間ばかりとりとめもない話をした。曹長は現役志願をして入営した。曹長にしては、年の若い男だった。話し振りから、低級な立身出世を夢みていることがすぐ分った。彼は、何だ、こんな男か、と思った。
 二人が話している傍へ、通訳が、顔の平べったい、眉尻の下っている一人の鮮人をつれて這入って来た。阿片の臭いが鼻にプンと来た。鰌髭《どじょうひげ》をはやし、不潔な陋屋の臭いが肉体にしみこんでいる。垢に汚れた老人だ。通訳が、何か、朝鮮語で云って、手を動かした。腰掛に坐れと云っていることが傍にいる彼に分った。だが鮮人は、飴のように、上半身をねち/\動かして、坐ろうとしなかった。
「坐れ、なんでもないんだ。」
 老人は、圧えつけられた、苦るしげな声で何か云った。
 通訳がさきに、彼の側に坐った。そして、も一度、前と同様に手を動かした。
 老人は、机のはしに、丸い爪を持った指の太い手をついて、急に座ると腰掛が毀れるかのように、腕に力を入れて、恐る/\静かに坐った。
 朝鮮語の話は、傍できいていると、癇高く、符号でも叫んでいるようだった。滑稽に聞える音調を、老人は真面目な顔で喋《しゃべ》っていた。黄色い、歯糞のついた歯が、凋《しお》れた唇の間からのぞき、口臭が、喇叭状《ラッパじょう》に拡がって、こっちの鼻にまで這入ってきた。彼は、息を吐きかけられるように不潔を感じた。
「一寸居ってくれ給え。」
 曹長は、刑法学者では誰れが権威があるとか、そういう文官試験に関係した話を途中でよして、便所へ行くものゝのように扉の外へ出た。
 彼は、老人の息がかゝらないように、出来るだけ腰掛の端の方へ坐り直した。彼は、癇高い語をつゞけている通訳と老人の唇の動き方を見た。老人は苦るしげに、引きつっているような舌を動かしている。やがて通訳も外へ出てしまった。年取った鮮人と、私とが二人きりで、部屋の中に残された。二人はお互いに、相手の顔や身体を眺めあった。老人は、鮮人に共通した意気の揚らない顔と、表情とを持っていた。彼は鮮人と云えば、皆同じようなプロフィルと表情を持っているとしか見えない位い、滅多に接近したことがなかった。彼等の顔には等しく、忍従した上に忍従して屈辱を受けつゞけた人間の沈鬱さが表現されているばかりだ。老人には、泣き出しそうな、哀しげな表情があった。
 彼は、朝鮮語は、「オブソ」という言葉だけしか知らなかった。それでは話が出来なかった。
「どこに住んでいるんだ。」
 露西亜語できいてみた。
 黄色い歯を見せて老人は何か云った。語調が哀れで悄然としていた。唇が動くにつれて、鰌髭が上ったり下ったりした。返事は露西亜語で云われたが、彼には意味がとれなかった。
「どうして、こんなところへやって来たんだ?」
 彼は、また露西亜語できいた。老人は不可解げに頸をひねって、哀しげな、また疑うような眼で、いつまでもおずおず彼を見ていた。
 彼も、じっと老人を見た。

      

 何故、憲兵隊へつれて来られたか、その理由が分らずに、彼は、湿っぽい、地下室の廊下を通って帰るように云われた。彼は自分が馬鹿にせられたような気がして腹立たしかった。廊下の一つの扉は、彼が外へ出かけに開いていた。のぞくと、そこは営倉だった。
「偽札をこしらえた者が掴まったそうじゃないか、見てきたかい?」
 兵舎へ帰ると、一人で将棋盤を持出して駒を動かしていた松本が頭を上げてきいた。
「いや。」
「朝鮮人だそうだよ。三枚ほど刷った五円札を本に挟んで置いてあったそうだ。」
「誰れからきいた?」
「今、尿道注射に来た憲兵が云っとった。密偵が見つけ出して来たんだ。」
 密偵は、鮮人だった。日本語と露西亜語がなか/\達者な、月三十円で憲兵隊に使われている男だった。隊長は犯人を検挙するために、褒美を十円やることを云い渡してあった。密偵は十円に釣られて、犬のように犯人を嗅ぎまわった。そして、十円を貰って嬉しがっている。憲兵は、松本にそういう話を笑いながらしたそうだ。
「じや、あの朝鮮人かもしれん。今さっきまで憲兵隊で同じ机に向って坐っとったんだ。」
 彼は、ひょっと連想した。
「どんな奴だ?」
「不潔な哀れげな爺さんだ。」
「君は、その爺さんと知り合いかって訊ねられただろう?」松本は意味ありげにきいた。
「いや。」
「露西亜語を教わりに行く振りをして、朝鮮人のところへ君は、行っとったんじゃないんか?」
「いつさ。」
「最近だよ。」
「なぜ、そんなことをきくんだい?」
 半里ばかり向うの沼のほとりに、鮮人部落がある。そこに、色の白い面長の若い娘がいる。このあたりの鮮人には珍らしい垢ぬけのした女だ。それを知らないか、松本はそうきいた。
 と、彼は、それと同じことを、鮮人部落の地理や、家の格好や、その内部の構造や、美しい娘のことなどを、執拗に憲兵隊で曹長に訊ねられたことを思い出した。
「女というものは恐ろしいもんだよ。そいつはいくらでも金を吸い取るからな。」
 松本は、また、誰れを指すともなく、しかし、それは、街のあの眼の大きい女であることをほのめかしながら、云った。
 ほかの同年兵達が、よそ/\しい疑うような眼をして、兵舎へ這入って来た時、彼は始めて自分があの鮮人から贋造紙幣を受取っていやしなかったか、そのことを試されているのに、気づいた。むやみに腹立たしかった。

      

 谷間の白樺のかげに、穴が掘られてあった。傍に十人ばかりの兵卒が立っていた。彼等は今、手にしているシャベルで穴を掘ったばかりだった。一人の将校が軍刀の柄に手をかけて、白樺の下をぐる/\歩いていた。口元の引きしまった、眼が怒っている若い男だ。兵卒達の顔には何かを期待する色が現れていた。将校は、穴や白樺や、兵卒の幾分輝かしい顔色を意識しつゝ、なお、それ等から離れて、ほかの形而上的な考えを追おうとしている様子が見えた。
 小川を渡って、乾草の堆積のかげから、三人の憲兵に追い立てられて、老人がぼつ/\やって来た。頭を垂れ、沈んで、元気がなかった。それは、憲兵隊の営倉に入れられていた鮮人だった。
「や、来た、来た。」
 丘の病院から、看護卒が四五人、営内靴で馳せ下って来た。
 老人は、脚が、かなわなくなったものゝのように歩みが遅かった。左右から憲兵が腕をとって引きたてゝていた。老人の表情は、次第に黒くなった。眼尻の下った、平ぺったい顔、陋屋と阿片の臭い。彼は、今にも凋んだ唇を曲げて、黄色い歯糞のついた歯を露出して泣きだしそうだった。
 左右の腕は、憲兵によって引きたてられてさきに行っている。が、胴体と脚は、斜に後方に残っていた。一人が剣鞘で尻を殴った。しかし老人は、感覚を失ったものゝのように動じなかった。彼は、本能的に白樺の下へ行くのを忌避していた。
「あ、これだ、これだ!」
 丘から下って来た看護卒は、老人が歩いて行く方へやって来た。そして、一人が云った。彼等は鮮人に接近すると、汚い伝染病にでも感染するかのように、一間ばかり離れて、珍しそうに、水飴のように大地にへばりつこうとする老人を眺めた。
「伍長殿。」剣鞘で老人の尻を叩いている男に、さきの一人が思い切った調子で云った。それは栗島だった。「どっか僕が偽せ札をこしらえた証拠が見つかりましたか?」
「まあ待て!」伍長は栗島を振りかえった。
「このヨボが僕に札を渡したって云っていましたか。」
 彼は、皮肉に意地悪く云った。
「犯人はこいつにきまったんだ。何も云うこたないじゃないか。」
 老人の左腕を引っぱっている上等兵が、うしろへ向いて云った。
「なあに、こんな百姓爺さんが偽札なんぞようこしらえるもんか! 何かの間違いだ。」
 老人は、白樺の下までつれて行かれると、穴の方に向いて立たせられた。あとから来た通訳が朝鮮語で何か云った。心配することはない。じいっと向うを見て、真直に立っていろ、と云ったのであった。しかし老人は、恐怖と、それが嘘であることを感じていた。彼は鼻も口も一しょになってしまうような泣き面をした。「俺は殺され度くない。いつ、そんな殺されるような悪いことをしたんだ!」と眼は訴えていた。「俺は生きられるだけ生きたいんだ! 朝鮮人だって、生きる権利は持っている筈だ!」そう云っているように見えた。
 兵卒は、水を打ったようにシンとなって、老人の両側に立った。彼等の眼は悉く将校の軍刀の柄に向けられた。
 軍刀が引きぬかれ、老人の背後に高く振りかざされた。形而上的なものを追おうとしていた眼と、強そうな両手は、注意力を老人の背後の一点に集中した。
 老人はびく/\動いた。
 氷のような悪寒が、電流のように速かに、兵卒達の全身を走った。彼等は、ヒヤッとした。栗島は、いつまでも太股がブル/\慄えるのを止めることが出来なかった。軍刀は打ちおろされたのであった。
 必死の、鋭い、号泣と叫喚が同時に、老人の全身から溢れた。それは、圧迫せられた意気の揚らない老人が発する声とはまるで反対な、力のある、反抗的な声だった。彼は「何をするのだ! 俺がどうして斬られるようなことをしたんだ!」と、叫んでいるようだった。
 栗島は、次の瞬間、老人が穴の中へとびこんでいるのを見た。それはとびこんだのではなかったかもしれなかった。ころげこんだのかもしれなかった。老人は、切断された蜥蜴《とかげ》の尻尾のように穴の中ではねまわった。彼は大きい、汚れた手で土を無茶くちゃに引き掻いた。そして、穴の外へ盲目的に這い上ろうとした。「俺は死にたくない!」彼は全身でそう云った。
 将校は血のついた軍刀をさげたまゝ、再び軍刀をあびせかけるその方法がないものゝように、ぼんやり老人を見た。
 兵卒は、思わず、恐怖から身震いしながら二三歩うしろへ退いた。伍長が這い上って来る老人を、靴で穴の中へ蹴落した。
「俺れゃ生きていたい!」
 老人は純粋な憐れみを求めた。
「くたばっちまえ!」
 通訳の口から露西亜語がもれた。
「俺れゃ生きていたい!」
 老人は蹴落されると、蜥蜴の尾のように穴の中ではねまわった。
 それから、再び盲目的に這い上ろうとした。また、固い靴で、蹴落された。彼は、必死に力いっぱいに、狭い穴の中でのたうちまわった。
 彼は、右肩を一尺ばかり斬られていた。栗島は、老人の傷口から溢れた血が、汚れた阿片臭い着物にしみて、頭から水をあびせられたように、着物がべと/\になって裾にしたゝり落ちるのを見た。薄藍色の着物が血で、どす黒くなった。血は、いつまでたっても止まらなかった。
 血は、老人がはねまわる、原動力だ。その原動力が、刻々に、体外へ流出した。
 彼は、抜き捨てられた菜ッ葉のように、凋《しお》れ、へすばってしまいだした。
 彼は最後の力を搾った。
 彼はまた這い上ろうとした。
 将校は、大刀のあびせようがなかった。将校は老人の手や顔に包丁で切ったような小さい傷をつけるのがいやになった。大刀の斬れあじをためすためにやってみたのだ。だが、そいつがあまりに斬れなかった。
「えゝい、仕様がない。このまゝ埋めてしまえ! 面倒だ」
 将校はテレかくしに苦笑した。
 シャベルを持っている兵卒は逡巡した。まだ老人は生きて、はねまわっているのだ。
「やれツ! かまわぬ。埋めっちまえ!」
「ほんとにいゝんですか? ××殿!」
 兵卒は、手が慄えて、シャベルを動かすことが出来なかった。彼等は、物訊ねたげに、傍にいる者の眼を見た。
 将校は、叱咤《しった》した。
 穴の底で半殺しにされた蛇のように手足をばた/\動かしている老人の上へ、土がなだれ落ちて行きだした。
「たすけ……」老人は、あがき唸った。
 土は、老人の憐憫を求める叫声には無関心になだれ落ちた。
 兵卒は、老人の唸きが聞えるとぞっとした。彼等は、土をかきこんで、それを遮断しようがために、無茶苦茶にシャベルを動かした。
 土は、穴を埋め、二尺も、三尺も厚く蔽いかぶせられ、ついに小山をつくった。……

      

 これは、ほんの些細な、一小事件にすぎなかった。兵卒達は、パルチザンの出没や、鉄橋の破壊や、駐屯部隊の移動など、次から次へその注意を奪われて、老人のことは、間もなく忘れてしまった。
 丘の病院からは、谷間の白樺と、小山になった穴のあとが眺められた。小川が静かに流れていた。栗島は、時々、院庭へ出て、白樺のあたりを見おろした。
 彼は、あの土をもり上げた底から、なお、叫び唸る声がひゞいて来るような気がした。狭い穴の中で、必死に、力いっぱいにのたうちまわっている、老人が、まだ、目に見えるようだった。彼は慄然とした。
 日が経った。次の俸給日が来た。兵卒は聯隊の経理室から出張した計手から俸給を受取った。彼等は、あの老人を絶滅して以来、もう、偽せ札を造り出す者がなくなってしまったと思っていた。殊に、絶滅の仕方が惨酷であったゞけ、その効果が多いような感じがした。
 彼等は、自分の姓名が書かれてある下へ印を捺して、五円と、いくらか半ぱの金を受取った。その金で街へ遊びに行ける。彼等は考えた。
「おや、こいつはまた偽札じゃないか。」不意に松本がびっくりして、割れるように叫んだ。
「何だ、何だ!」
「こいつはまた偽札だ。――本当に偽札だ!」
 その声は街へ遊びに行くのがおじゃんになったのを悲しむように絶望的だった。
「どれ?……どれ」
 それはたしかに、偽札だった。やはり、至極巧妙に印刷され、Five など、全く本ものと違わなかった。ところが、よく見るとSも、Hも、Yも、栗島も、同様に偽札を掴まされていた。軍医正もそうだった。

 ところが、更に偽札は病院ばかりでなく、聯隊の者も、憲兵も、ロシア人も、掴まされていた。そして今は、偽札が西伯利亜の曠野を際涯もなく流れ拡まって行っていた。…………

(一九二八年五月)

底本:「黒島傳治全集 第一巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年4月30日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2004年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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黒島伝治

鍬と鎌の五月——黒島傳治

農民の五月祭を書けという話である。
 ところが、僕は、まだ、それを見たことがない。昨年、山陰地方で行われたという、××君の手紙である。それが、どういう風だったか、僕はよく知らない。
 そこで困った。
 全然知らんことや、無かったことは、書くにも書きようがない。
 本当らしく、空想で、でっち上げたところで、そんなものには三文の値打ちも有りゃしない。
 で、以下は、労働祭のことではない。五月一日に農村であったことである。

 香川県は、全国で最も弾圧のひどい土地だ。第一回の普選に大山さんが立候補した。その時、強力だった農民組合が叩きつぶされた。そのまゝとなっている。
 なんにもしない、人間を、一ツの警察から、次の警察へ、次の警察から、又その次の警察へ、盥《たらい》廻しに拘留して、体重が二貫目も三貫目も減ってしまった例がいくらでもある。会合が許されない。僕の友人は、労働歌を歌っていて、ただ、それだけで一年間尾行につき纒《まと》われた。
 ちょっと、郷里の家へ帰っているともう、スパイが、嗅ぎつけて、家のそばに張りこんでいる。出て歩けば尾行がついて来る。それが結婚のことで帰っていてもそうなのである。親爺の還暦の「お祝い」のことで帰っていてもそうなのである。嚊《かかあ》を貰って、嚊の親もとへ行っていると、スパイは、その門の中へまでのこ/\はいって来る。金儲けと財産だけしか頭にない嚊の親や、兄弟が、どんな疑心を僕に対して起すかは、云わずとも知れた話である。スパイは、僕等の結婚や、お祝いごとまでも妨害するのだ。僕は、若し、いつか親爺が死んだら、子として、親爺の霊を弔わなければならない。子として、親爺の葬儀をしなければならない。その時にでも、スパイは、小うるさく、僕の背後につき纒って、墓場にまでやって来るだろう。

 西山も、帰るとスパイにつき纒われる仲間の一人だ。その西山が胸を悪くしてO市から帰っていた。
 彼は、もと、若手の組合員だった鍋谷や、宗保や、後藤の顔を見た。それから彼等の小学校の先生だった六十三の、これも先生をやめてから、若い者よりももっと元気のある運動者となった藤井にあった。
 どの顔にも元気がない。
 組合が厳存していた時代の元気が、からきしなくなってしまっている。それに、西山が驚いたのは、彼等の興味が、他へ動いていることだ。
 ごつ/\した、几帳面な藤井先生までが、野球フワンとなっていた。慶応|贔屓《びいき》で、試合の仲継放送があると、わざわざ隣村の時計屋の前まで、自転車できゝに出かけた。
 五月一日の朝のことである。今時分、O市では、中ノ島公園のあの橋をおりて、赤い組合旗と、沢山の労働者が、どん/\集っていることだろうな、と西山は考えた。彼は、むほん[#「むほん」に傍点]気を起して、何か仕出かして見たくなった。百姓が、鍬や鎌をかついで列を作って示威運動をやったらどんなもんだろう。
 彼は、宗保と後藤をさそい出した。三人で藤井先生をもさそいに行きかけた。
「おや、お揃いで、どこへ行くんだい?」
 下駄屋の前を通って、四ツ角を空の方へ折れたところで、饂飩《うどん》屋にいたスパイがひょっこり立って出て来た。スパイは、饂飩屋で饂飩を食って金を払わない。お湯屋の風呂に入って、風呂銭を払わない、煙草屋で、煙草を借りて、そのまゝ借りッぱなしである。饂飩屋も、お湯屋も、煙草屋も、商売の一寸した手落ちにケチをつけられて罰金沙汰にせられるのが怖い。そこで、スパイに借られ、食われたものは、代金請求もよくせずに、黙って食われ損をしているのだ。
「山の根へ薪を積むとて行ってるんだよ。」宗保が気をきかした。
「ヘエエ。」
 スパイは、疑い深かげな眼で三人を眺めた。そして、ついて来た。
 ──こいつは、くそッ、なにも出来なくなっちゃったな、と西山は思った。彼は、一寸なにかやると、すぐ検束騒ぎをするここの警察をよく知っていた。
 三人は、藤井先生の家へ行くことが出来なくなった。宗保は、薪を積みに行くという真実味をよそうため、途中で猫車をかりて、引っぱって山へ行く坂の道を登りだした。
「今日は、どうするにも駄目だよ。」彼の眼は二人に語った。「俺れんちの薪を積む手伝いでもして呉れろよ。」
 スパイは、三人が集ったのを、何かたくらんでいると睨んでいた。この男は、藤井先生がY村で教えていた頃の生徒だ。そのくせ、昔の先生に対してさえ、今は、官憲としての権力を振りまわして威張っていた。そして、旧師に対するような態度がちっともなかった。運動をやっている者は、先生だって、誰だって悪いというような調子だ。傍で見ても小面が憎かった。彼は、三人のあとから、山の根の運び出した薪を散り/\に放り出してある畠のところまでついて来た。
 三人は仕様がなかった。そこで薪積みを始めた。スパイは、煙草屋でせしめてきた「朝日」を吸って、なか/\去ろうとしない。
 薪は百姓に取って、売るにはあまりに安かった。それで、二年分もあるのだが、自分の家に焚きものとするとて、畠のつゞきの荒らした所へ高く積み重ねて、腐らないように屋根を作りつけて、かこって置くのだ。
「よいしょ。」
「よい来た。」
「よいしょ。」
「よい来た。」
 宗保は、ねそ[#「ねそ」に傍点]を掴んで提げて来る薪を一把一把積み重ねて行った。西山は、下駄をはいていた。五十把ほど運んだ頃、プスリとその鼻緒を切ってしまった。跛を引きだした。細長い、長屋のように積重ねられて行く薪は、背丈けほどの高さになった。宗保は、後藤と西山とが下から両手で差上げる薪束を、その上から受け取った。彼が歩くと薪の塚は崩れそうにゆさ/\と揺れた。
「ちょっと手伝えよ、そんなに日向ぼっこばかりしとらんで。」後藤はスパイにからかった。「遊んどって月給が貰えるんだから、そんなべら棒な仕事はないだろう。」
 スパイは苦笑した。
「よいしょ。」
「よい来た。」
「よいしょ。」
「よい来た。」
 薪は、積重ねられて、だん/\に家ほどの高さになってきた。五月の太陽はうら/\と照っていた。笹や、団栗《どんぐり》や、雑草の青い葉は、洗われたように、せい/\としている。
「おい/\、こいつ居眠りをしているよ」暫らくして後藤は西山の耳もとへきて囁いた。
「…………」
 見ると、スパイは、日あたりのいゝ、積重ねられた薪の南側に腰をおろしてうつら/\櫓をこいでいた。
 人の邪魔をしながら、いい気になっていやがるんだ、と西山は思った。彼は何か胸にむら/\とするものを感じた。
「やったろうか!」彼は後藤に囁いた。
「うむ。」後藤の眼はうなずいた。
 彼はゆさ/\崩れそうにゆれる薪の上を歩いている宗保に手で合図をした。
 宗保が、揺れる薪の上からおりて来ると、三人は、スパイが居眠りをしているのとは反対の北側へ集った。そして、家のようなうず高い薪の堆積にぐいと力を入れた。薪は、なだれのように、居眠りをしている×××の頭上を××××、××した。ぐしゃッと人間の肉体が××××音が薪の崩れ落ちる音にまじった。
「あ、あぶない、あぶない。薪がひとりでに崩れちゃったよ」
 三人は、大声をあげて人に聞えるように叫んだ。
 それが、メーデーに於ける彼等の、せめてもの心慰めだった。

(一九三〇年四月)

底本:「黒島傳治全集 第三巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年8月30日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2009年6月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

黒島伝治

外米と農民——黒島傳治

 隣家のS女は、彼女の生れた昨年の旱魃にも深い貯水池のおかげで例年のように収穫があった村へ、お米の買出しに出かけた。行きしなに、誰れでも外米は食いたくないんだから今度買ってきたら分けあって食べましょうと云って乗合バスに乗った。近所の者は分けて呉れることゝ心待ちに待っていたが、四五日しても挨拶がない。買って来たのは玄米らしく、精米所へ搗《つ》きに出しているのが目につく。ある一人の女が婉曲に、自分もその村へ買い出しに行こうと思うが売って呉れるだろうかとS女にたずねてみた。農家は米は持っているのだが、今年の稲が穂に出て確かにとれる見込みがつくまで手離さないという返事である。なにしろ田地持ちが外米を買って露命をつながなければならないようなことはまことに「はなし」ならぬ話である。
 昨年、私たちの地方では、水なしには育たない稲ばかりでなく、畑の作物も──どんな飢饉の年にも旱魃にもこれだけは大丈夫と云われる青木昆陽の甘藷までがほとんど駄目だった。村役場から配布される自治案内に、七分搗米に麦をまぜて食えば栄養摂取が十分になって自から健康増進せしむることができると書かれてあって、微苦笑を催させずに措かなかったのはこの二月頃だったが、産業組合購買部から配給される米には一斗に二升の平麦が添加されることになった。七分三分、あるいは六分四分に米麦を混合して常食としている農民は、平常から栄養摂取を十分にやっているわけだが、一年中食うだけの麦を持っている者も、組合から配給される平麦を買って、持っている麦があまるならそれは玄麦で売れというのである。誰れにも区別なく麦を添加するのは、中に米ばかりを食って麦を食わない者が出来るのを妨ぐためではあろうが、畑からとれた麦を持っている農民が、その麦を売って、又麦を買うということは、中間商人に手間賃を稼がせるばかりで、いずれの農家でも頗る評判が悪かった。
 それからまもなく、内地米一斗に外米四升が添加されるようになって麦の混食には平気だった者も外米のバラ/\してかたくて口ざわりの悪いのには閉口した。外米の添加量は次第に増されてきた。胃を悪るくする者、下痢する者など方々で悲鳴をあげた。発育ざかりの私の二人の子供は、一日一升五合くらいの飯を平らげてまだなにかほしそうな顔をしているのだが、外米の入った飯になると、かわいそうなほど急に、いつもの半分くらいしか食わなくなって悄《しょ》げこんだ。平生、まずいものを食いなれている百姓が、顔を見合すと、飯のまずいことをぶつ/\云う日が多くなった。
 かつてのかゝりつけの安斎医学博士の栄養説によると、台湾に住んでいてわざ/\内地米を取りよせて食っていた者があったそうだが、内地米が如何にすぐれていようともそんなのは栄養上からよくないそうである。人間もやはり自然界の一存在で、その住んでいる土地に出来るその季節の物を摂取するのが一番適当な栄養摂取方法で、気候に適応する上からもそれが必要で、台湾にいれば台湾米を食い、バナナを食うのが最も自然で栄養上からもそれがよいとのことである。野菜や果物等のはしりや季節はずれの物も不可でそのしゅん[#「しゅん」に傍点]のものが最もよいそうである。この見地からするとどうやら外米は吾々には自然でなく、栄養上からもよいとは云えないことになりそうだ。しかし、食わずに生きてはいられない。が、なるべく食いたくない。そこで、病気だと云って内地米ばかりを配給して貰う者が出てくる──一度や二度はその病気の看板もきくがそうたび/\は通らない。そこで医者の診断書を取ってくる。これなどまだ小心で正直な方だが口先のうまい奴は、これまでの取りつけの米屋に従来儲けさしているんだからということを笠にきて外米入らずを持って来させる。問屋と取引のある或る宿屋では内地米三十俵も積重ねる。それを売って呉れぬかというと、これはお客に出すために買ったのだが、相場がだいぶ違うのだという。
 じゃ、「闇」で買ったのかときく。いや「闇」じゃないんだがという。──どうだかあやしいものである。宿屋に泊る客も勿論外米を食うべきである。が、この頃、私の地方の島で四国の遍路に巡る一日五六百人から千人近くの人々にも外米は評判が悪い。路々ぶつ/\小言を云いながら通って行くのを私も二三耳にした。そんな連中が、飲食店に内地米の稲荷ずしでも売っているのを見つけようものなら、忽ち売切れとなってしまうのである。
 そこで宿屋や、飲食店の商売繁栄策としても内地米が目標となる。
 こんなのは、昨年の旱魃にいためつけられた地方だけかと思っていたら、食糧の供給を常に農村に仰がなければならない都会では、もっとすさまじいらしい。農村よりはよほどうまいものを食いなれている都会人には、恐らく外米は、痛くこたえることだろう。が、そこにもまた、いろいろな手段がとられていて、先日東京から来たある友達の話によると、外米の入っていない県にいる親戚に頼んだり、女中さんの田舎へ云ってやったりして、送ってもらっている者がだいぶあるとか。旱魃を免れた県には、米穀県外移出禁止というような城壁が築かれてはいるが、表門は閉っていても、裏のくゞり戸があいているので、四斗俵ならぬ三斗五升いりの袋ならその門を通過させてもらえるのだと笑っていた。
 この頃好景気のある船会社の船長の細君は、外米は鶏の餌に呉れてやっている、これは最も簡単な方法だが誰れにでも出来る方法ではない。新潟では米を家畜の飼料にしたというが、勿体ない話だが、新潟の農民が自分の田で作った米と、私の地方の農民が、金を出して買った外米とは同一に談じられないのである。船長の細君でゝもない限り、なんとかして外米をうまく食べようという技巧がそこで工夫されだした。
 まず、食事たびごとに飯をたいてみた。なにしろ、外米はつめたくなると一そうパラつくのである。
 前夜から洗っておいて、水加減を多くし、トロ火でやわらかくそしてふきこぼれないようにたいてみた。
 小豆飯にたいてみた。
 食塩をいれていく分味をつけてみた。
 寒天をいれて、ねばりをつけた。
 片栗をいれてねばりをつけた。
 内地米と外米の五分五分の混合、あるいは六分四分の混合に平麦を加えるとどうもばらつきようがひどいので糯米《もちごめ》を二分ほど加えてみた。
 平麦のかわりに丸麦を二度たきとして、ねりつぶしてねばりをつけた。
 黄粉をまぶして食ってみた。
 数えているとまだあるだろうが、いろ/\な食べ方が一カ月ばかりのうちに、附近の人々によってかくの如く考え出された。
 平生、内地米のありがたさには気づかずに食っていたのだが『食』は、『衣』『住』と共に、人間が生きて行く上に最も重大なことなので、まずいとなると、それに対する対策は、なか/\真剣でいくらも智恵が働きそうに思われる。
 一週間ばかり外米混入の飯を食いつづけた後、一日だけまぜものなしの内地米に戻ると、はじめて本当に身につくものを食った感じで、その身につくものが快よく胃の腑から直ちに血管にめぐって行くようで、子供らは、なんばいもなんばいも茶碗を出すのである。
 そして、あゝやっと息をついたという。おとなも本当にそうだと思う。
 ところが、この誰れもきらいな外米を、好んで買う者もある。しかも内地米を混合せず、外米ばかりを買うのである。
 それは麦を主食としている農民たちで、その地方には田がなく、金儲けの仕事もすくなく土地の条件にめぐまれない環境にある人々だ。外米は、内地米あるいは混合米よりもいくらか値段が安いのでそこを見こんで買うのである。これを米屋の番頭から聞きこんだあるはしっこい女は、じゃ、うちにある外米を売ってあげよう、うんと安くしてあげてもかまわないから、と云いだした。
 往復一里もあるその部落へその女は負い籠を背負って行ったそうだが、結果がどうなったかは帰って来ても喋らない。しかし、再三籠を背負って行くのを見た者があるそうだ。
 が、最近また米の配給方法が変って外米を鶏に呉れてやった船長の細君も、籠で売りに行く女も、もうそんなことができなくなってしまった。それは、そんなのを防ぐためだろうが、内地米と外米をすっかり混合してしまって配達するのである。鶏に呉れてやる女には、これはよいことだが、一週間に一度だけ内地米を食って息をついていた子供らにはこれはなか/\慰められないおお事である。

底本:「黒島傳治全集 第三巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年8月30日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2009年6月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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黒島伝治

海賊と遍路——黒島傳治

 私の郷里、小豆島にも、昔、瀬戸内海の海賊がいたらしい。山の上から、恰好な船がとおりかゝるのを見きわめて、小さい舟がする/\と島かげから辷り出て襲いかゝったものだろう。その海賊は、又、島の住民をも襲ったと云い伝えられている。かつて襲われたという家を私も二軒知っているが、そのいずれもが剛慾で人の持っているものを叩き落してでも自分が肥っていこうという家であったのを見ると、海賊というものにも、たゞ者を掠めとる一点ばりでなく、復讐的な気持や、剛慾者をこらしめる気持があったらしい。
 小豆島の西方、女木島という島には、海賊の住家だったらしい洞窟がある。巧妙にできた、かなり広い洞窟であるが、それがいま、オトギバナシの「桃太郎」の鬼が住んでいたところだと云われて、その島をも鬼ガ島と名づけ、遊覧者を引こうがための好奇心をそゝっている。こうなると、昔の海賊も、いまの何をつかまえても儲けようとする種類の人間には顔まけするだろう。
 小豆島は、島であるが、同時にまた山である。昔、大地が陥落して瀬戸内海ができるとき、陥落し残った土地だから土台は岩石である。その岩が雨に洗い出されて山のいただきには奇巌がいたるところに露出している。寒霞渓の巌と紅葉については、土地の者の私たちよりもよそ[#「よそ」に傍点]の人たちの方がくわしいだろう。山はあるところでは急激な崖になって海に這入り、又あるところは山と山との間の谷間が平かになって入江を形づくり部落と段々畑になった耕地がある。そして島の周囲には、いくつかのより小さい岩の島がある。
 私はしかし、小さい頃から和やかな瀬戸内海の自然に親しむよりは、より多く人間と人間との関係を見て大きくなった。貧しい者の悲しみや、露骨なみにくい競いや、諂《へつら》いをこれ事としている人間を見て大きくなった。慾のかたまりのような人間や、狡猾さが鼻頭にまでたゞよっているような人間や、尊大な威ばった人間がたくさんいるのである。
 約十年間郷里を離れていて、一昨年帰省してからも、やはり私の心を奪うものは、人間と人間との関係である。郷里以外の地で見聞きし、接触した人と人との関係や性格よりも、郷里で見るそれの方が、私には、より深い、細かい陰影までが会得されるような気がする。
 が、それと共に、自然の風物もいまでは、痛く私の心を引く。絶対安静の病床で一カ月も米杉の板を張った天井ばかりを眺めて暮した後、やっと起きて坐れるようになって、窓から小高い山の新芽がのびた松や団栗《どんぐり》や、段々畑の唐黍《とうきび》の青い葉を見るとそれが恐しく美しく見える。雨にぬれた弁天島という島や、黒みかゝった海や、去年の暴風にこわれた波止場や、そこに一艘つないである和船や、発動機船会社の貯油倉庫を私は、窓からいつまでもあきずに眺めたりする。波止場近くの草ッ原の雑草は、一カ月見ないうちに、病人の顎ひげのように長く伸び乱れているのである。
 やがて歩けるようになると私は杖をついて海岸伝いの道をあるいてみる。歩ける嬉しさ、坐れる嬉しさ、自然に接しられる嬉しさは、そのいずれも叶わぬ不自由な境涯に落ちて一そうはっきりと私に分るようになった。もう今では崖の下の海で、晴れ間を見て子供たちが海水浴を始めている。海の中へつき出た巌の上に立っている宿屋では、夏の客をむかえるとて、ボートをおろしている。
 この島は周囲三十里余の島だが、そこに四国八十八カ所になぞらえた島四国八十八カ所の霊場がある。山の洞窟や、部落のなかや、原に八十八の寺や、庵があるのである。
 毎年二月半ばから四月五月にかけて但馬《たじま》、美作《みまさか》、備前、讃岐《さぬき》あたりから多くの遍路がくる。菅笠をかむり、杖をつき、お札《ふだ》ばさみを頸から前にかけ、リンを鳴らして、南無大師遍照金剛を口ずさみながら霊場から霊場をめぐりあるく。
 この島四国めぐりは、霊験あらたかであると云い伝えられている。
 苦行をしてめぐっているうちに盲目の眼があいたり、いざり[#「いざり」に傍点]の脚が立ったり、業病がなおったりした者があると云われている。悪いことをした者は途中で脚がすくんであるけなくなると云われる。罰(これをバチとよむ)があたるのである。あるときいざりがめぐっていたのを、うしろから下駄で蹴とばした者があった。すると忽ちいざりの脚が立って、蹴とばした者の脚が立たなくなってへたばりこんでしまったという。即ちバチが、それこそテキ面だったのである。またあるとき、盲目の眼があいた。と、そのメクラは、島四国をめぐってさえ眼があくのならば、本四国をめぐったらどんなによいだろうと云った。ところが、メクラは本四国を上位においてそう云ったばかりに、開いた眼が又ふさがってしまった。そのメクラは女だったそうだが、非常に口惜しがってじだんだを踏んだそうである。その足のあとというのが岩に印されている。私もその足のあとだという岩の窪みを見た。しかしまだ足が立ったいざりや、眼があいたメクラについては人から話をきくだけで、直接、私自身がそういう人々に会ったことは一度もない。
 そういう人があるのならば本当に私は会ってみたいと思っているのだが、出会さない。
 島の人々は、遍路たちに夏蜜柑を籠に入れ道ばたに置き一ツ二銭とか三銭の木札を傍に立てゝ売るのだが、いまは、蜜柑だけがなくなって金が入れられていないことが多い。店さきのラムネの壜がからになって金を払わずに遍路が混雑にまぎれて去ったりする。人々は、いまじゃ弘法大師もさっぱり睨みがきかなくなったと云って罰のバチがあたることを殆んど信じなくなっている。

底本:「黒島傳二全集 第三巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年8月30日第1刷発行
入力:大野裕
校正:原田頌子
2001年9月3日公開
2006年3月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

黒島伝治

渦巻ける烏の群——黒島伝治

   一

「アナタア、ザンパン、頂だい。」
 子供達は青い眼を持っていた。そして、毛のすり切れてしまった破れ外套《がいとう》にくるまって、頭を襟の中に埋《うず》めるようにすくんでいた。娘もいた。少年もいた。靴が破れていた。そこへ、針のような雪がはみこんでいる。
 松木は、防寒靴をはき、ズボンのポケットに両手を突きこんで、炊事場の入口に立っていた。
 風に吹きつけられた雪が、窓硝子《まどガラス》を押し破りそうに積りかかっていた。谷間の泉から湧き出る水は、その周囲に凍《い》てついて、氷の岩が出来ていた。それが、丁度、地下から突き出て来るように、一昨日よりは昨日、昨日よりは今日の方がより高くもれ上って来た。彼は、やはり西伯利亜《シベリア》だと思った。氷が次第に地上にもれ上って来ることなどは、内地では見られない現象だ。
 子供達は、言葉がうまく通じないなりに、松木に憐れみを求め、こびるような顔つきと態度とを五人が五人までしてみせた。
 彼等が口にする「アナタア」には、露骨にこびたアクセントがあった。
「ザンパンない?」子供達は繰かえした。「……アナタア! 頂だい、頂だい!」
「あるよ。持って行け。」
 松木は、残飯桶《ざんぱんおけ》のふちを操《と》って、それを入口の方へころばし出した。
 そこには、中隊で食い残した麦飯が入っていた。パンの切れが放りこまれてあった。その上から、味噌汁の残りをぶちかけてあった。
 子供達は、喜び、うめき声を出したりしながら、互いに手をかきむしり合って、携えて来た琺瑯引《ほうろうび》きの洗面器へ残飯をかきこんだ。
 炊事場は、古い腐った漬物の臭いがした。それにバターと、南京袋《なんきんぶくろ》の臭いがまざった。
 調理台で、牛蒡《ごぼう》を切っていた吉永が、南京袋の前掛けをかけたまま入口へやって来た。
 武石は、ぺーチカに白樺の薪を放りこんでいた。ぺーチカの中で、白樺の皮が、火にパチパチはぜった。彼も入口へやって来た。
「コーリヤ。」
 松木が云った。
「何?」
 コーリヤは眼が鈴のように丸くって大きく、常にくるくる動めいている、そして顔にどっか尖《とが》ったところのある少年だった。
「ガーリヤはいるかね?」
「いるよ。」
「どうしてるんだ。」
「用をしてる。」
 コーリヤは、その場で、汁につかったパン切れをむしゃむしゃ頬張っていた。
ほかの子供達も、或はパンを、或は汁づけの飯を手に掴《つか》んでむしゃむしゃ食っていた。
「うまいかい?」
「うむ。」
「つめたいだろう。」
 彼等は、残飯桶の最後の一粒まで洗面器に拾いこむと、それを脇にかかえて、家の方へ雪の丘を馳《は》せ登《のぼ》った。
「有がとう。」
「有がとう。」
「有がとう。」
 子供達の外套や、袴《はかま》の裾が風にひらひらひるがえった。
 三人は、炊事場の入口からそれを見送っていた。
 彼等の細くって長い脚は、強いバネのように、勢いよくぴんぴん雪を蹴って、丘を登っていた。
「ナーシヤ!」
「リーザ!」
 武石と吉永とが呼んだ。
「なアに?」
 丘の上から答えた。
 子供達は、皆な、一時に立止まって、谷間の炊事場を見下した。
「飯をこぼすぞ。」
 吉永が日本語で云った。
「なアに?」
 吉永は、少女にこちらへ来るように手まねきをした。
 丘の上では、彼等が、きゃあきゃあ笑ったり叫んだりした。
 そして、少し行くと、それから自分の家へ分れ分れに散らばってしまった。

   

 山が、低くなだらかに傾斜して、二つの丘に分れ、やがて、草原に連って、広く、遠くへ展開している。
 兵営は、その二つの丘の峡間にあった。
 丘のそこかしこ、それから、丘のふもとの草原が延びて行こうとしているあたり、そこらへんに、露西亜人《ロシアじん》の家が点々として散在していた。革命を恐れて、本国から逃げて来た者もあった。前々から、西伯利亜に土着している者もあった。
 彼等はいずれも食うに困っていた。彼等の畑は荒され、家畜は掠奪《りゃくだつ》された。彼等は安心して仕事をすることが出来なかった。彼等は生活に窮するより外、道がなかった。
 板壁の釘が腐って落ちかけた木造の家に彼等は住んでいた。屋根は低かった。家の周囲には、藁《わら》やごみを散らかしてあった。
 処々に、うず高く積上げられた乾草があった。
 荷車は、軒場に乗りつけたまま放ってあった。
 室内には、古いテーブルや、サモ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ールがあった。刺繍《ししゅう》を施したカーテンがつるしてあった。でも、そこからは、動物の棲家《すみか》のように、異様な毛皮と、獣油の臭いが発散して来た。
 それが、日本の兵卒達に、如何にも、毛唐の臭いだと思わせた。
 子供達は、そこから、琺瑯引きの洗面器を抱えて毎日やって来た。ある時は、老人や婆さんがやって来た。ある時は娘がやって来た。
 吉永は、一中隊から来ていた。松木と武石とは二中隊の兵卒だった。
 三人は、パン屑《くず》のまじった白砂糖を捨てずに皿に取っておくようになった。食い残したパンに味噌汁をかけないようにした。そして、露西亜人が来ると、それを皆に分けてやった。
「お前ンとこへ遊びに行ってもいいかい?」
「どうぞ。」
「何か、いいことでもあるかい?」
「何ンにもない。……でもいらっしゃい、どうぞ。」
 その言葉が、朗らかに、快活に、心から、歓迎しているように、兵卒達には感じられた。
 兵卒は、殆んど露西亜語《ロシアご》が分らなかった。けれども、そのひびきで、自分達を歓迎していることを、捷《すばや》く見てとった。
 晩に、炊事場の仕事がすむと、上官に気づかれないように、一人ずつ、別々に、息を切らしながら、雪の丘を攀《よ》じ登《のぼ》った。吐き出す呼気が凍《こご》って、防寒帽の房々した毛に、それが霜のようにかたまりついた。
 彼等は、家庭の温かさと、情味とに飢え渇していた。西伯利亜へ来てから何年になるだろう。まだ二年ばかりだ。しかし、もう十年も家を離れ、内地を離れているような気がした。海上生活者が港にあこがれ、陸を恋しがるように、彼等は、内地にあこがれ、家庭を恋しがった。
 彼等の周囲にあるものは、はてしない雪の曠野《こうや》と、四角ばった煉瓦《れんが》の兵営と、撃ち合いばかりだ。
 誰のために彼等はこういうところで雪に埋れていなければならないだろう。それは自分のためでもなければ親のためでもないのだ。懐手をして、彼等を酷使していた者どものためだ。それは、××××なのだ。
 敵のために、彼等は、只働きをしてやっているばかりだ。
 吉永は、胸が腐りそうな気がした。息づまりそうだった。極刑に処せられることなしに兵営から逃出し得るならば、彼は、一分間と雖《いえど》も我慢していたくはなかった。――僅かの間でもいい、兵営の外に出たい、情味のある家庭をのぞきたい。そういう慾求を持って、彼は、雪の坂道を攀じ登った。
 丘の上には、リーザの家があった。彼はそこの玄関に立った。
 扉には、隙間風が吹きこまないように、目貼《めば》りがしてあった。彼は、ポケットから手を出して、その扉をコツコツ叩いた。
「|今晩は《ズラシテ》。」
 屋内ではぺーチカを焚《た》き、暖気が充ちている。その気はいが、扉の外から既に感じられた。
「今晩は。」
「どうぞ、いらっしゃい。」
 朗らかで張りのある女の声が扉を通してひびいて来た。
「まあ、ヨシナガサン! いらっしゃい。」
 娘は嬉しそうに、にこにこしながら、手を出した。
 彼は、始め、握手することを知らなかった。それまで、握手をしたことがなかったのだ。何か悪いことをするように、胸がおどおどした。
 が、まもなく、平気になってしまった。
 のみならず、相手がこちらの手を強く握りかえした時には、それは、何を意味しているか、握手と同時に、眼をどう使うと、それはこう云っているのだ。気がすすまぬように、だらりと手を出せば、それは見込がない。等々……。握手と同時に現われる、相手の心を読むことを、彼は心得てしまった。
 吉永がテーブルと椅子と、サモ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ールとがある部屋に通されている時、武石は、鼻から蒸気を吐きながら、他の扉を叩いていた。それから、稲垣、大野、川本、坂田、みなそれぞれ二三分間おくれて、別の扉を叩くのであった。
「|今晩は《ズラシテ》。」
 そして、相手がこちらの手を握りかえす、そのかえしようと、眼に注意を集中しているのであった。
 彼等のうちのある者は、相手が自分の要求するあるものを与えてくれる、とその眼つきから読んだ。そして胸を湧き立たせた。
「よし、今日は、ひとつ手にキスしてやろう。」
 一人の女に、二人がぶつかることがあった。三人がぶつかることもあった。そんな時、彼等は、帰りに、丘を下りながら、ひょいと立止まって、顔を見合わせ、からから笑った。
「ソぺールニクかな。」
「ソぺールニクって何だい?」
「ソぺールニク……競争者だよ。つまり、恋を争う者なんだ。ははは。」

   

 松木も丘をよじ登って行く一人だった。
 彼は笑ってすませるような競争者がなかった。
 彼は、朗らかな、張りのある声で、「いらっしゃい、どうぞ!」と女から呼びかけられたこともなかった。
 若《も》しそれが恋とよばれるならば、彼の恋は不如意な恋だった。彼は、丘を登りしなに、必ず、パンか、乾麺麭《かんめんぽう》か、砂糖かを新聞紙に包んで持っていた。それは兵卒に配給すべきものの一部をこっそり取っておいたものだった。彼は、それを持って丘を登り、そして丘を向うへ下った。
 三十分ほどたつと、彼は手ぶらで、悄然《しょうぜん》と反対の方から丘を登り、それから、兵営へ丘を下って帰って来た。ほかの者たちは、まだ、ぺーチカを焚いている暖かい部屋で、胸をときめかしている時分だった。
「ああ、もうこれでやめよう!」彼は、ぐったり雪の上にへたばりそうだった。「あほらしい。」
 丘のふもとに、雪に埋れた広い街道がある。雪は橇《そり》や靴に踏みつけられて、固く凍っている。そこへ行くまでに、聯隊《れんたい》の鉄条網が張りめぐらされてあった。彼は、毎晩、その下をくぐりぬけ、氷で辷《すべ》りそうな道を横切って、ある窓の下に立ったのであった。
「ガーリヤ!」
 彼は、指先で、窓硝子《まどガラス》をコツコツ叩いた。肺臓まで凍りつきそうな寒い風が吹きぬけて行った。彼は、その軒の下で暫らく佇《たたず》んでいた。
「ガーリヤ!」
 そして、また、硝子を叩いた。
「何?」
 女が硝子窓の向うから顔を見せた。唇の間に白い歯がのぞいている。それがひどく愛嬌《あいきょう》を持っている。
「這入ってもいい?」
「それ何?」
「パンだ。あげるよ。」
 女は、新聞紙に包んだものを窓から受取ると、すぐ硝子戸を閉めた。
「おい、もっと開けといてくれんか。」
「……室《へや》が冷えるからだめ。――一度開けると薪三本分損するの。」
 彼女は、桜色の皮膚を持っていた。笑いかけると、左右の頬に、子供のような笑窪が出来た。彼女は悪い女ではなかった。だが、自分に出来ることをして金を取らねばならなかった。親も、弟も食うことに困っているのだ。子供を持っている姉は、夫に吸わせる煙草を貰いに来た。
 松木は、パンを持って来た。砂糖を持って来た。それから、五円六十銭の俸給で何かを買って持って来た。
 でも、彼女の一家の生活を支えるには、あまりに金を持っていなすぎる。もっとよけいに俸給を取っている者が望ましい。
 肉に饉《う》えているのは兵卒ばかりではなかった。
 松木の八十五倍以上の俸給を取っているえらい[#「えらい」に傍点]人もやはり貪慾《どんよく》に肉を求めているのであった。
「私、用があるの。すみません、明日来てくださらない。」
 ガーリヤは云った。
「いつでも明日来いだ。で、明日来りゃ、明後日だ。」
「いえ、ほんとに明日、――明日待ってます。」

   

 雪は深くなって来た。
 炊事場へザンパンを貰いに来る者たちが踏み固めた道は、新しい雪に蔽《おお》われて、あと方も分らなくなった。すると、子供達は、それを踏みつけ、もとの通りの道をこしらえた。
 雪は、その上へまた降り積った。
 丘の家々は、石のように雪の下に埋れていた。
 彼方の山からは、始終、パルチザンがこちらの村を覗《うかが》っていた。のみならず、夜になると、歩哨《ほしょう》が、たびたび狼に襲われた。四肢が没してもまだ足りない程、深い雪の中を、狼は素早く馳《は》せて来た。
 狼は山で食うべきものが得られなかった。そこで、すきに乗じて、村落を襲い、鶏や仔犬や、豚をさらって行くのであった。彼等は群をなして、わめきながら、行くさきにあるものは何でも喰い殺さずにはおかないような勢いでやって来た。歩哨は、それに会うと、ふるえ上らずにはいられなかった。こちらは銃を持っているとは云え、二人だけしかいないのだ。慄悍《ひょうかん》な動物は、弾丸をくぐって直ちに、人に迫って来る。それは全く凄いものだった。衛兵は総がかりで狼と戦わねばならなかった。悪くすると、腋《わき》の下《した》や、のどに喰いつかれるのだ。
 薄ら曇りの日がつづいた。昼は短く、夜は長かった。太陽は、一度もにこにこした顔を見せなかった。松木は、これで二度目の冬を西伯利亜で過しているのであった。彼は疲れて憂欝《ゆううつ》になっていた。太陽が、地球を見棄ててどっかへとんで行っているような気がした。こんな状態がいつまでもつづけばきっと病気にかかるだろう。――それは、松木ばかりではなかった。同年兵が悉《ことごと》く、ふさぎこみ、疲憊《ひはい》していた。そして、女のところへ行く。そのことだけにしか興味を持っていなかった。
 ガーリヤは、人眼をしのぶようにして炊事場へやって来た。古いが、もとは相当にものが良かったらしい外套《がいとう》の下から、白く洗い晒《さら》された彼女のスカートがちらちら見えていた。
「お前は、人をよせつけないから、ザンパンが有ったってやらないよ。」
「あら、そう。」
 彼女は響きのいい、すき通るような声を出した。
「そうだとも、あたりまえだ。」
「じゃいい。」
 黒く磨かれた、踵《かがと》の高い靴で、彼女はきりっと、ブン廻しのように一とまわりして、丘の方へ行きかけた。
「いや、うそだうそだ。今さっきほかの者が来てすっかり持って行っちゃったんだ。」
 松木はうしろから叫んだ。
「いいえ、いらないわ。」
 彼女の細長い二本の脚は、強いばねのように勢いよくはねながら、丘を登った。
「ガーリヤ! 待て! 待て!」
 彼は乾麺麭《かんめんぽう》を一袋握って、あとから追っかけた。
 炊事場の入口へ同年兵が出てきて、それを見て笑っていた。
 松木は息を切らし切らし女に追いつくと、空の洗面器の中へ乾麺麭の袋を放り込んだ。
「さあ、これをやるよ。」
 ガーリヤは立止まって彼を見た。そして真白い歯を露《あら》わして、何か云った。彼は、何ということか意味が汲みとれなかった。しかし女が、自分に好感をよせていることだけは、円みのあるおだやかな調子ですぐ分った。彼は追っかけて来ていいことをしたと思った。
 帰りかけて、うしろへ振り向くと、ガーリヤは、雪の道を辷《すべ》りながら、丘を登っていた。
「おい、いいかげんにしろ。」炊事場の入口から、武石が叫んだ。「あんまりじゃれつきよると競争に行くぞ!」

   

 吉永の中隊は、大隊から分れて、イイシへ守備に行くことになった。
 HとSとの間に、かなり広汎《こうはん》な区域に亘って、森林地帯があった。そこには山があり、大きな谷があった。森林の中を貫いて、河が流ていた。そのあたりの地理は詳細には分らなかった。
 だが、そこの鉄橋は始終破壊された。枕木はいつの間にか引きぬかれていた。不意に軍用列車が襲撃された。
 電線は切断されづめだった。
 HとSとの連絡は始終断たれていた。
 そこにパルチザンの巣窟があることは、それで、ほぼ想像がついた。
 イイシへ守備中隊を出すのは、そこの連絡を十分にするがためであった。
 吉永は、松木の寝台の上で私物を纏《まと》めていた。炊事場を引き上げて、中隊へ帰るのだ。
 彼は、これまでに、しばしば危険に身を曝《さら》したことを思った。
 弾丸に倒れ、眼を失い、腕を落した者が、三人や四人ではなかった。
 彼と、一緒に歩哨に立っていて、夕方、不意に、胸から血潮を迸《ほと》ばしらして、倒れた男もあった。坂本という姓だった。
 彼は、その時の情景をいつまでもまざまざと覚えていた。
 どこからともなく、誰れかに射撃されたのだ。
 二人が立っていたのは山際だった。
 交代の歩哨は衛兵所から列を組んで出ているところだった。もう十五分すれば、二人は衛兵所へ帰って休めるのだった。
 夕日が、あかあかと彼方の地平線に落ちようとしていた。牛や馬の群が、背に夕日をあびて、草原をのろのろ歩いていた。十月半ばのことだ。
 坂本は、
「腹がへったなあ。」と云ってあくびをした。
「内地に居りゃ、今頃、野良から鍬《くわ》をかついで帰りよる時分だぜ。」
「あ、そうだ。もう芋を掘る時分かな。」
「うむ。」
「ああ、芋が食いたいなあ!」
 そして坂本はまたあくびをした。そのあくびが終るか終らないうちに、彼は、ぱたりと丸太を倒すように芝生の上に倒れてしまった。
 吉永は、とび上った。
 も一発、弾丸が、彼の頭をかすめて、ヒウと唸《うな》り去った。
「おい、坂本! おい!」
 彼は呼んでみた。
 軍服が、どす黒い血に染った。
 坂本はただ、「うう」と唸るばかりだった。
 内地を出発して、ウラジオストックへ着き、上陸した。その時から、既に危険は皆の身に迫っていたのであった。
 機関車は薪を焚《た》いていた。
 彼等は四百里ほど奥へ乗りこんで行った。時々列車からおりて、鉄砲で打ち合いをやった。そして、また列車にかえって、飯を焚いた。薪が燻《くすぶ》った。冬だった。機関車は薪がつきて、しょっちゅう動かなくなった。彼は二カ月間顔を洗わなかった。向うへ着いた時には、まるで黒ン坊だった。息が出来ぬくらいの寒さだった。そして流行感冒がはやっていた。兵営の上には、向うの飛行機が飛んでいた。街には到るところ、赤旗が流れていた。
 そこでどうしたか。結局、こっちの条件が悪く、負けそうだったので、持って帰れぬ什器《じゅうき》を焼いて退却した。赤旗が退路を遮った。で、戦争をした。そして、また退却をつづけた。赤旗は流行感冒のように、到るところに伝播《でんぱ》していた。また戦争だ。それからどうしたか?……
 雪解の沼のような泥濘《でいねい》の中に寝て、戦争をしたこともあった。頭の上から、機関銃をあびせかけられたこともあった。
 吉永は、自分がよくもこれまで生きてこられたものだと思った。一尺か二尺、自分の立っていた場所が横へそれていたら、死んでいるかもしれないのだ。
 これからだって、どうなることか、分るものか! 分るものか! 俺が一人死ぬことは、誰れも屁《へ》とも思っていないのだ。ただ、自分のことを心配してくれるのは、村で薪出しをしているお母《ふくろ》だけだ。
 彼は、お母がこしらえてくれた守り袋を肌につけていた。新しい白木綿で縫った、かなり大きい袋だった。それが、垢《あか》や汗にしみて黒く臭くなっていた。彼は、それを開けて、新しい袋を入れかえようと思った。彼は、袋を鋏《はさみ》で切り開けた。お守りが沢山慾張って入れてある。金刀比羅宮《ことひらぐう》、男山八幡宮《おとこやまはちまんぐう》、天照皇大神宮、不動明王、妙法蓮華経、水天宮。――母は、多ければ多いほど、御利益があると思ったのだろう! それ等が、殆んど紙の正体が失われるくらいにすり切れていた。――まだある。別に、紙に包んだ奴が。彼はそれを開けてみた。そこには紙幣が入っていた。五円札と、五十銭札と、一円札とが合せて十円ぐらい入っている。母が、薪出しをしてためた金を内所《ないしょ》で入れといてくれたのだろう。
「おい、おい。お守りの中から金が出てきたが。」
 吉永は嬉しそうに云った。
「何だ。」
「お守りの中から金が出てきたんだ。」
「ほんとかい。」
「嘘を云ったりするもんか。」
「ほう、そいつぁ、儲《もう》けたな。」
 松木と武石とが調理台の方から走《は》せ込《こ》んで来た。
 札も、汗と垢とで黒くなっていた。
「どれどれ、内地の札だな。」松木と武石とはなつかしそうに、それを手に取って見た。「内地の札を見るんは久しぶりだぞ。」
「お母が多分内所で入れてくれたんだ。」
「それをまた今まで知らなかったとは間がぬけとるな。……全く儲けもんだ。」
「うむ、儲けた。……半分わけてやろう。」
 吉永は、自分が少くとも、明後日は、イイシへ行かなければならないことを思った。雪の谷や、山を通らなければならない。そこにはパルチザンがいる。また撃ち合いだ。生命がどうなるか。誰れが知るもんか! 誰れが知るもんか!

   

 松木は、酒保から、餡《あん》パン、砂糖、パインアップル、煙草などを買って来た。
 晩におそくなって、彼は、それを新聞紙に包んで丘を登った。石のように固く凍《い》てついている雪は、靴にかちかち鳴った。空気は鼻を切りそうだ。彼は丘を登りきると、今度は向うへ下った。丘の下のあの窓には、灯がともっていた。人かげが、硝子戸《ガラスど》の中で、ちらちら動いていた。
 彼は歩きながら云ってみた。
「ガーリヤ。」
「ガーリヤ。」
「ガーリヤ。」
「あんたは、なんて生々しているんだろう。」
 さて、それを、ロシア語ではどう云ったらいいかな。
 丘の下でどっか人声がするようだった。三十すぎの婦人の声だ。それに一人は日本人らしい。何を云っているのかな。彼はちょいと立止まった。なんでも声が、ガーリヤの母親に似ているような気がした。が、声は、もうぷっつり聞えなかった。すると、まもなくすぐそこの、今まで開いていた窓に青いカーテンがさっと引っぱられた。
「おや、早や、寝る筈はないんだが……」彼はそう思った。そして、鉄条網をくぐりぬけ、窓の下へしのびよった。
「今晩は、――ガーリヤ!」
 ――彼が窓に届くように持って来ておいた踏石がとりのけられている。
「ガーリヤ。」
 砕かれた雪の破片が、彼の方へとんで来た。彼の防寒|外套《がいとう》の裾のあたりへぱらぱらと落ちた。雪はまたとんできた。彼の背にあたった。でも彼は、それに気づかなかった。そして、じいっと、窓を見上げていた。
「ガーリヤ!」
 彼は、上に向いて云った。星が切れるように冴えかえっていた。
「おい、こらッ!」
 さきから、雪を投げていた男が、うしろの白樺のかげから靴をならしてとび出て来た。武石だった。
 松木は、ぎょっとした。そして、新聞紙に包んだものを雪の上へ落しそうだった。
 彼は、若《も》し将校か、或は知らない者であった場合には、何もかも投げすてて逃げ出そうと瞬間に心かまえたくらいだった。
「また、やって来たな。」武石は笑った。
「君かい。おどかすなよ。」
 松木は、暫らく胸がどきどきするのが止まらなかった。彼は、武石だと知ると同時に、吉永から貰った金で、すぐさま、女の喜びそうなものを買って来たことをきまり悪く思った。「砂糖とパイナップルは置いて来ればよかった。」
「誰れかさきに、ここへ来た者があるんだ。」と武石が声を落して窓の中を指した。「俺れゃ、君が這入ったんかと思うて、ここで様子を伺うとったんだ。」
「誰れだ?」
「分らん。」
「下士か、将校か?」
「ぼっとしとって、それが分らないんだ。」
「誰奴《どいつ》かな。」
「――中に這入って見てやろう。」
「よせ、よせ、……帰ろう。」
 松木は、若し将校にでも見つかると困る、――そんなことを思った。
「このまま帰るのは意気地がないじゃないか。」
 武石は反撥《はんぱつ》した。彼は、ガンガン硝子戸を叩いた。
「ガーリヤ、ガーリヤ、|今晩は《ズラシテ》!」
 次の部屋から面倒くさそうな男の声がひびいた。
「ガーリヤ!」
「何だい。」
 ウラジオストックの幼年学校を、今はやめている弟のコーリヤが、白い肩章のついた軍服を着てカーテンのかげから顔を出した。
「ガーリヤは?」
「用をしてる。」
「一寸来いって。」
「何です? それ。」
 コーリヤは、松木の新聞包を見てたずねた。
「こら酒だ。」松木が答えないさきに、武石が脚もとから正宗の四合|罎《びん》を出して来た。「沢山いいものを持って来とるよ。」
 武石は、包みの新聞紙を引きはぎ、硝子戸の外から、罎をコーリヤの眼のさきへつき出した。松木は、その手つきがものなれているなと思った。
「|呉れ《ダワイ》。」コーリヤは手を動かした。
 でも、その手つきにいつものような力がなく、途中で腰を折られたように挫《くじ》けた。いつも無遠慮なコーリヤに珍らしいことだった。
 武石も、物を持って来て、やっているんだな、と松木は思った。じゃ、自分もやることは恥かしくない訳だ。彼はコーリヤが遠慮するとなおやりたくなった。
「さ、これもやるよ。」彼は、パイナップルの鑵詰《かんづめ》を取出した。
 コーリヤはもじもじしていた。
「さ、やるよ。」
「有がとう。」
 顔にどっか剣のある、それで一寸沈んだ少年が、武石には、面白そうな奴だと思われた。
「もっとやろうか。」
 少年は呉れるものは欲しいのだが、貰っては悪いというように、遠慮していた。
「煙草と砂糖。」松木は、窓口へさし上げた。
「有がとう。」
 コーリヤが、窓口から、やったものを受取って向うへ行くと、
「きっと、そこに誰れか来とるんだ。」と、武石は、小声で、松木にささやいた。
「誰れだな、俺れゃどうも見当がつかん。」
「這入りこんで現場を見届けてやろう。」
 二人は耳をすました。二つくらい次の部屋で、何か気配がして、開けたてに扉が軋《きし》る音が聞えてきた。サーベルの鞘《さや》が鳴る。武石は窓枠に手をかけて、よじ上り、中をのぞきこんだ。
「分るか。」
「いや、サモ※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ールがじゅんじゅんたぎっとるばかりだ。――ここはまさか、娘を売物にしとる家じゃないんだろうな。」
 コーリヤが扉《ドア》のかげから現れて来た。窓から屋内へ這入ろうとするかのように、よじ上っている武石を見ると、彼は急に態度をかえて、
「いけない! いけない!」叱るように、かすれた幅のある声を出した。
 武石は、突然、その懸命な声に、自分が悪いことをしているような感じを抱かせられ、窓から辷《すべ》り落《お》ちた。
 コーリヤは、窓の方へ来かけて、途中、ふとあとかえりをして、扉をぴしゃっと閉めた。暫らく二人は窓の下に佇《たたず》んでいた。丘の上の、雪に蔽《おお》われた家々には、灯がきらきら光っていた。武石は、そこにも女がいることを思った。吉永が、温かい茶をのみながら、リーザと名残を惜んでいるかも知れない。やせぎすな、小柄なリーザに、イイシまで一緒に行くことをすすめているだろう。多分、彼も、何かリーザが喜びそうなものを買って持って行っているのに違いない。武石は、小皺《こじわ》のよった、人のよさそうな、吉永の顔を思い浮べた。そして、自から、ほほ笑ましくなった。――吉永は、危険なイイシ守備に行ってしまうのだ。
 丘の上のそこかしこの灯が、カーテンにさえぎられ、ぼつぼつ消えて行った。
「お休み。」
 一番手近の、グドコーフの家から、三四人同年兵が出て行った。歩きながら交す、その話声が、丘の下までひびいて来た。兵営へ帰っているのだ。
 不意に頭の上で、響きのいい朗らかなガーリヤの声がした。二人は、急に、それでよみがえったような気がした。
「ばあ!」彼女は、硝子戸《ガラスど》の中から、二人に笑って見せた。「いらっしゃい、どうぞ。」
 玄関から這入ると、松木は、食堂や、寝室や、それから、も一つの仕事部屋をのぞきこんだ。
「誰れが来ていたんです?」
「少佐《マイヨール》。」
「何?」二人とも言葉を知らなかった。
「マイヨールです。」
「何だろう。マイヨールって。」松木と武石とは顔を見合わした。「振《ま》い寄る[#「寄る」に傍点]と解釈すりゃ、ダンスでもする奴かな。」

   

 少佐は、松木にとって、笑ってすませる競争者ではなかった。
 二人が玄関から這入って行った、丁度その時、少佐は勝手口から出て来た。彼は不機嫌に怒って、ぷりぷりしていた。十八貫もある、でっぷり肥った、髯《ひげ》のある男だ。彼の靴は、固い雪を蹴散らした。いっぱいに拡がった鼻の孔《あな》は、凍った空気をかみ殺すように吸いこみ、それから、その代りに、もうもうと蒸気を吐き出した。
 彼は、屈辱(!)と憤怒《ふんぬ》に背が焦げそうだった。それを、やっと我慢して押しこらえていた。そして、本部の方へ大股に歩いて行った。……途中で、ふと、彼は、踵《きびす》をかえした。
 つい、今さっきまで、松木と武石とが立っていた窓の下へ少佐は歩みよった。彼は、がん丈で、せいが高かった。つまさきで立ち上らずに、カーテンの隙間から部屋の中が見えた。
 そこには、二人の一等卒が、正宗の四合|壜《びん》を立てらして、テーブルに向い合っていた。ガーリヤは、少し上気したような顔をして喋《しゃべ》っている。白い歯がちらちらした。薄荷《はっか》のようにひりひりする唇が微笑している。
 彼は、嫉妬《しっと》と憤怒が胸に爆発した。大隊を指揮する、取っておきのどら声で怒なりつけようとした。その声は、のどの最上部にまで、ぐうぐう押し上げて来た。
 が、彼は、必死の努力で、やっとそれを押しこらえた。そして、前よりも二倍位い大股に、聯隊《れんたい》へとんで帰った。
「女のところで酒をのむなんて、全くけしからん奴だ!」
 営門で捧《ささ》げ銃《つつ》をした歩哨《ほしょう》は何か怒声をあびせかけられた。
 衛兵司令は、大隊長が鞭《むち》で殴りに来やしないか、そのひどい見幕を見て、こんなことを心配した位いだった。
「副官!」
 彼は、部屋に這入るといきなり怒鳴った。
「副官!」
 副官が這入って来ると、彼は、刀もはずさず、椅子に腰を落して、荒い鼻息をしながら、
「速刻不時点呼。すぐだ、すぐやってくれ!」
「はい。」
「それから、炊事場へ露西亜人《ロシアじん》をよせつけることはならん。残飯は一粒と雖《いえど》も、やることは絶対にならん。厳禁してくれ。」
「はい。」
「よし、それだけだ。」
 副官が、命令を達するために、次の部屋へ引き下ると、彼はまた叫んだ。
「副官!」
「はい。」
「この点呼に、もしもおくれる者があったら、その中隊を、第一中隊の代りに、イイシ守備に行かせること、そうしてくれ、罰としてここには置かない。そうするんだ。――すぐだ、速刻やってくれ!」

   

 一隊の兵士が雪の中を黙々として歩いて行った。疲れて元気がなかった。雪に落ちこむ大きな防寒靴が、如何にも重く、邪魔物のように感じられた。
 雪は、時々、彼等の脛《すね》にまで達した。すべての者が憂欝《ゆううつ》と不安に襲われていた。中隊長の顔には、焦慮の色が表われている。
 草原も、道も、河も悉《ことごと》く雪に蔽われていた。
 枝に雪をいただいて、それが丁度、枝に雪がなっているように見える枯木が、五六本ずつ所々に散見する外、あたりには何物も見えなかった。どこもかしこも、すべて、まぶしく光っている白い雪ばかりだった。そして、何等の音も、何等の叫びも聞えなかった。ばりばり雪を踏み砕いて歩く兵士の靴音は、空に呑まれるように消えて行った。
 彼等は、早朝から雪の曠野《こうや》を歩いているのであった。彼等は、昼に、パンと乾麺麭《かんめんぽう》をかじり、雪を食ってのどを湿した。
 どちらへ行けばイイシに達しられるか!
 右手向うの小高い丘の上から、銃を片手に提げ、片手に剣鞘を握って、斥候が馳《は》せ下《お》りて来た。彼は、銃が重くって、手が伸びているようだった。そして、雪の上にそれを引きずりながら、馳せていた。松木だった。
 彼は、息を切らし、中隊長の傍まで来ると、引きずっていた銃を如何にも重そうに持ち上げて、「捧げ銃」をした。彼の手は凍って、思う通りに利かなかった。銃は、真直に、形正しく、鼻のさきへ持ち上げることが出来なかった。
 中隊長は、不満げに、彼を睨《にら》んだ。「も一度。そんな捧《ささ》げ銃《つつ》があるか!」その眼は、そう云っているようだった。
 松木は、息切れがして、暫らくものを云うことが出来なかった。鼻孔から、喉頭が、マラソン競走をしたあとのように、乾燥し、硬《こわ》ばりついている。彼は唾液《つばき》を出して、のどを湿そうとしたが、その唾液が出てきなかった。雪の上に倒れて休みたかった。
「どうしたんだ?」
 中隊長は腹立たしげに眼に角立てた。
「道が、どうしても、」松木は息切れがして、つづけてものを云うことが出来なかった。「どうしても、分らないんであります。」
「露助は、どうしてるんだ。」
「はい。スメターニンは、」また息切れがした。「雪で見当がつかんというのであります。」
「仕様がない奴だ。大きな河があって、河の向うに、樅《もみ》の林がある。そういうところは見つからんか、そこへ出りゃ、すぐイイシへ行けるんだ。」
「はい。」
「露助にやかましく云って案内さして見ろ!」
 中隊長は歩きながら、腹立たしげに、がみがみ云った。「場合によっては銃剣をさしつけてもかまわん。あいつが、パルチザンと策応して、わざと道を迷わしとるのかもしれん。それをよく監視せにゃいかんぞ!」
「はい。」
 松木は、若《も》し交代さして貰えるかと、ひそかにそんなことをあてにして、暫らく中隊長の傍を並んで歩いていた。
 彼は蒼くなって居た。身体中の筋肉が、ぶちのめされるように疲れている。頭がぼんやりして耳が鳴る。
 だが、中隊長は、彼を休ませようとはしなかった。
「おい行くんだ。もっとよく探して見ろ!」
 ふらふら歩いていた松木は、疲れた老馬が鞭《むち》のために、最後の力を搾るように、また、銃を引きずって、向うへ馳《は》せ出《だ》した。
「おい、松木!」中隊長は呼び止めた。「道を探すだけでなしに、パルチザンがいやしないか、家があるか、鉄道が見えるか、よく気をつけてやるんだぞ。」
「はい。」
 斥候は、やがて、丘を登って、それから向うの谷かげに消えてしまった。そこには武石と、道案内のスメターニンとが彼を待っていた。
 松木と武石とは、朝、本隊を出発して以来つづけて斥候に出されているのであった。
 中隊長は、不機嫌に、二人に怒声をあびせかけた。
「中隊がイイシ守備に行かなけりゃならんのは誰れのためだと思うんだ! お前等、二人が脱柵《だっさく》して女のところで遊びよったせいじゃないか!」彼は、心から怒っているような眼で二人をにらみつけた。「中隊長は、皆んなを危険なところへは曝《さら》しとうない。中隊が可愛いいんだ。それを、危険なところへ行かなけりゃならんようにしたのは、貴様等二人だぞ! 軍人にあるまじきことだ!」
 そして二人は骨の折れる、危険な勤務につかせられた。
 松木と武石とは、雪の深い道を中隊から十町ばかりさきに出て歩いた。そして見た状勢を、馳《か》け足《あし》で、うしろへ引っかえして報告した。報告がすむと、また前に出て行くことを命じられた。雪は深く、そしてまぶしかった。二人は常に、前方と左右とに眼を配って行かなければならなかった。報告に、息せき息せき引っかえすたびに、中隊長は、不満げに、腹立たしそうな声で何か欠点を見つけてどなりつけた。
 雪の上に腰を落して休んでいた武石は、
「まだ交代さしてくれんのか。」ときいた。
「ああ。」松木の声にも元気がなかった。
「弱ったなア――俺れゃ、もうそこで凍《こご》え死んでしまう方がましだ!」
 武石は泣き出しそうに吐息をついた。
 二人は、スメターニンと共に、また歩きだした。丘を下ると、浅い谷があった。それから、緩慢な登りになっていた。それを行くと、左手には、けわしい山があった。右には、雪の曠野《こうや》が遥か遠くへ展開している。
 山へ登ってみよう、とスメターニンが云いだした。山から見下せば地理がはっきり分るかもしれなかった。それには、しかし、中隊が麓《ふもと》へ到着するまでに登って、様子を見て、おりてきなければならなかった。そうしなければ、また中隊長がやかましく云うのだ。
 山のひだは、一層、雪が深かった。松木と武石とは、銃を杖にしてよじ登った。そこには熊の趾跡《あしあと》があった。それから、小さい、何か分らぬ野獣の趾跡が到るところに印されていた。蓬《よもぎ》が雪に蔽《おお》われていた。灌木《かんぼく》の株に靴が引っかかった。二人は、熱病のように頭がふらふらした。何もかも取りはずして、雪の上に倒れて休みたかった。
 山は頂上で、次の山に連っていた。そしてそれから、また次の山が、丁度、珠数《じゅず》のように遠くへ続いていた。
 遠く彼方の地平線まで白い雪ばかりだ。スメターニンはやはり見当がつかなかった。
 中隊は、丘の上を蟻のように遅々としてやって来ていた。それは、広い、はてしのない雪の曠野で、実に、二三匹の蟻にも比すべき微々たるものであった。
「どっちへでもいい、ええかげんで連れてって呉れよ。」二人はやけになった。
「あんまり追いたてるから、なお分らなくなっちまったんだ。」
 スメターニンは、毛皮の帽子をぬいで額の汗を拭いた。

   

 薄く、そして白い夕暮が、曠野全体を蔽い迫ってきた。
 どちらへ行けばいいのか!
 疲れて、雪の中に倒れ、そのまま凍死してしまう者があるのを松木はたびたび聞いていた。
 疲労と空腹は、寒さに対する抵抗力を奪い去ってしまうものだ。
 一個中隊すべての者が雪の中で凍死する、そんなことがあるものだろうか? あってもいいものだろうか?
 少佐の性慾の××になったのだ。兵卒達はそういうことすら知らなかった。
 何故、シベリアへ来なければならなかったか。それは、だれによこされたのか? そういうことは、勿論、雲の上にかくれて彼等、には分らなかった。
 われわれは、シベリアへ来たくなかったのだ。むりやりに来させられたのだ。――それすら、彼等は、今、殆んど忘れかけていた。
 彼等の思っていることは、死にたくない。どうにかして雪の中から逃がれて、生きていたい。ただそればかりであった。
 雪の中へ来なければならなくせしめたものは、松木と武石とだ。
 そして、道を踏み迷わせたのも松木と武石とだ。――彼等は、そんな風に思っていた。それより上に、彼等に魔の手が強く働いていることは、兵士達には分らなかった。
 彼等が、いくらあせっても、行くさきにあるものは雪ばかりだった。彼等の四肢は麻痺《まひ》してきだした。意識が遠くなりかけた。破れ小屋でもいい、それを見つけて一夜を明かしたい!
 だが、どこまで行っても雪ばかりだ。……
 最初に倒れたのは、松木だった。それから武石だった。
 松木は、意識がぼっとして来たのは、まだ知っていた。だが、まもなく頭がくらくらして前後が分らなくなった。そして眠るように、意識は失われてしまった。
 彼の四肢は凍った。そして、やがて、身体全体が固く棒のように硬ばって動かなくなった。

 ……雪が降った。
 白い曠野《こうや》に、散り散りに横たわっている黄色の肉体は、埋められて行った。雪は降った上に降り積った。倒れた兵士は、雪に蔽《おお》われ、暫らくするうちに、背嚢《はいのう》も、靴も、軍帽も、すべて雪の下にかくれて、彼等が横たわっている痕跡《こんせき》は、すっかり分らなくなってしまった。

 雪は、なお、降りつづいた。……

   一〇

 春が来た。
 太陽が雲間からにこにこかがやきだした。枯木にかかっていた雪はいつのまにか落ちてしまった。雀の群が灌木《かんぼく》の間をにぎやかに囀《さえず》り、嬉々としてとびまわった。
 鉄橋を渡って行く軍用列車の轟《とどろ》きまでが、のびのびとしてきたようだ。
 積っていた雪は解け、雨垂れが、絶えず、快い音をたてて樋《とい》を流れる。
 吉永の中隊は、イイシに分遣されていた。丘の上の木造の建物を占領して、そこにいる。兵舎の樋から落ちた水は、枯れた芝生の間をくぐって、谷間へ小さな急流をなして流れていた。
 松木と武石との中隊が、行衛不明《ゆくえふめい》になった時、大隊長は、他の中隊を出して探索さした。大隊長は、心配そうな顔もしてみせた。遺族に対して申訳がない、そんなことも云った。――しかし、内心では、何等の心配をも感じてはいない。ばかりでなく、むしろ清々していた。気にかかるのは、師団長にどういう報告書を出すか、その事の方が大事であった。
 一週間探した。しかし、行衛は依然として分らなかった。少佐は、もうそのことは、全然忘れてしまっているようだった。彼は、本部の二階からガーリヤの家の方を眺めて、口笛で、「赤い夕日」を吹いたりした。
 春が来た。だが、あの一個中隊が、どこでどうして消えてしまったのか、今だにあとかたも分らなかった。
 吉永は、丘の上の兵営から、まだ、すっかり雪の解けきらない広漠たる曠野を見渡しながら、自分がよくも今まで生きてこられたものだ、とひそかに考えていた。あの時、自分達の中隊が、さきに分遣されることになっていたのだ。それがどうしたのか、出発の前日に変更されてしまった。彼の中隊が、橇《そり》でなく徒歩でやって来ていたならば、彼も、今頃、どこで自分の骨を見も知らぬ犬にしゃぶられているか分らないのだ。
 徒歩で深い雪の中へ行けば、それは、死に行くようなものだ。
 彼等をシベリアへよこした者は、彼等が、×××餌食《えじき》になろうが、狼に食い×××ようが、屁《へ》とも思っていやしないのだ。二人や三人が死ぬことは勿論である。二百人死のうが何でもない。兵士の死ぬ事を、チンコロが一匹死んだ程にも考えやしない。代りはいくらでもあるのだ。それは、令状一枚でかり出して来られるのだ。……
 丘の左側には汽車が通っていた。
 河があった。そこには、まだ氷が張っていた。牛が、ほがほがその上を歩いていた。
 右側には、はてしない曠野があった。
 枯木が立っていた。解けかけた雪があった。黒い烏の群が、空中に渦巻いていた。陰欝《いんうつ》に唖々《ああ》と鳴き交すその声は、丘の兵舎にまで、やかましく聞えてきた。それは、地平線の隅々からすべての烏が集って来たかと思われる程、無数に群がり、夕立雲のように空を蔽わぬばかりだった。
 烏はやがて、空から地平をめがけて、騒々しくとびおりて行った。そして、雪の中を執念《しゅうね》くかきさがしていた。
 その群は、昨日も集っていた。
 そして、今日もいる。
 三日たった。しかし、烏は、数と、騒々しさと、陰欝さとを増して来るばかりだった。
 或る日、村の警衛に出ていた兵士は、露西亜《ロシア》の百姓が、銃のさきに背嚢を引っかけて、肩にかついで帰って来るのに出会した。銃も背嚢も日本のものだ。
「おい、待て! それゃ、どっから、かっぱらって来たんだ?」
「あっちだよ。」髯《ひげ》もじゃの百姓は、大きな手をあげて、烏が群がっている曠野を指さした。
「あっちに落ちとったんだ。」
「うそ云え!」
「あっちだ。あっちの雪の中に沢山落ちとるんだ。……兵タイも沢山死んどるだ。」
「うそ云え!」兵士は、百姓の頬をぴしゃりとやった。「一寸来い。中隊まで来い!」
 日本の兵士が雪に埋れていることが明かになった。背嚢の中についていた記号は、それが、松木と武石の中隊のものであることを物語った。
 翌日中隊は、早朝から、烏が渦巻いている空の下へ出かけて行った。烏は、既に、浅猿《あさま》しくも、雪の上に群がって、貪慾《どんよく》な嘴《くちばし》で、そこをかきさがしつついていた。
 兵士達が行くと、烏は、かあかあ鳴き叫び、雲のように空へまい上った。
 そこには、半ば貪《むさぼ》り啄《つつ》かれた兵士達の屍《しかばね》が散り散りに横たわっていた。顔面はさんざんに傷《そこな》われて見るかげもなくなっていた。
 雪は半ば解けかけていた。水が靴にしみ通ってきた。
 やかましく鳴き叫びながら、空に群がっている烏は、やがて、一町ほど向うの雪の上へおりて行った。
 兵士は、烏が雪をかきさがし、つついているのを見つけては、それを追っかけた。
 烏は、また、鳴き叫びながら、空に廻《ま》い上《あが》って、二三町さきへおりた。そこにも屍があった。兵士はそれを追っかけた。
 烏は、次第に遠く、一里も、二里も向うの方まで、雪の上におりながら逃げて行った。

底本:「昭和文学全集 第32巻」小学館
   1989(平成元)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「黒島伝治全集 第1巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年4月発行
入力:大野裕
校正:Juki
2000年3月22日公開
2006年3月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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黒島伝治

愛読した本と作家から——-黒島傳治

 いろ/\なものを読んで忘れ、また、読んで忘れ、しょっちゅう、それを繰りかえして、自分の身についたものは、その中の、何十分の一にしかあたらない。僕はそんな気がしている。がそれは当然らしい。中には、毒になるものがあるし、また、毒にも薬にもならない、なんにも、役立たないものもある。
 空腹のとき、肉や刺身を食うと、それが直ちに、自分の血となり肉となるような感じがする。読んでそういう感じを覚える作家や、本は滅多にないものだ。
 僕にとって、トルストイが肥料だった。が、トルストイは、あまりに豊富すぎる肥料で、かえってあぶないようだ。あまりに慾張って、肥料を吸収しすぎた麦は、実らないさきに、青いまゝ倒れて、腐ってしまう。そのように、トルストイという肥料から、あまり慾張ってそれを吸収しすぎると、こっちが、肥料負けがしてあぶない。
 僕は、「三つの死」のみず/\しい、詩に、引きつけられた。「アンナ・カレニナ」「復活」などよりも、「戦争と平和」が好きだ。戦争を書いた最もいゝものは、「セバストポール」だ。「セバストポール」に書かれた戦争は、「戦争と平和」にかゝれた戦争よりも、真実味の程度に於て、純粋で、はるかにしのいでいる。トルストイのような古今無双の天才でも、自分が実際行ったセバストポールと、想像と調査が書いた「戦争と平和」に於ける戦争とには、段がついている。
「セバストポール」には、本当にその場に行き合わしたものでなければ出せないものがある。それが吾々を打つ。
 メリメは、水のように冷たい。そして、カッチリ纒りすぎる位いまとまっている。常に原始的な切ったり、はったり、殺し合いをやったりする、ロマンティックなことばかりを書いている。どんなことでも、かまわずにさっさと書いて行く、冷たい態度が僕はすきだった。燐光を放っている。短篇を書くならメリメのような短篇を書きたい、よく、そう思った。
 ゴーゴリと、モリエール、は、あるときは、トルストイ以上に好きだった。喜劇を書いても、諷刺文学を書いても、それで、人をおかしがらせたり、面白がらせたりする意図で書くのでは、下らない。悲劇になる、痛切な、身を以て苦るしんだ、そのことを喜劇として表現し、諷刺文学として表現して、始めて、価値がある。殊に、モリエールの晩年の「タルチーフ」や、「厭人家」などは、喜劇と云っていゝか、悲劇と云っていゝか分らないものだ。それだけに、打たれる度も深く強い。
 ゴーゴリや、モリエールの持っていた冷かな情熱と憎悪を以て、今のブルジョアをバクロする喜劇を書いたら、それが一番効果があると云い度い位いだ。僕等の前には、ゴーゴリや、モリエールによって取扱わるべき材料がうようよしている。
 今は小説を書くために、小説を書いている人間はいくらでもいるが、本当に、ペンをとってブルジョアを叩きつぶす意気を持ってかゝっている者は、五指を屈するにも足りない。僕は、トルストイや、ゴーゴリや、モリエールを(メリメは別として)よんで常に感じるのは、彼等は小説や戯曲を書くためにペンをとっていたのではない、ということである。彼等は、その時代の人間のため、生活のため、人生のために奮然としてペンをとっていたのである。彼等の思想や、立場には勿論同感しないが、彼等のペンをとる態度は、僕は、どこまでも、手本として学びたいと心がけている。
 愛読した本と、作家は、まだほかに多々あるが紙数の都合でこれだけとする。

底本:「黒島傳治全集 第三巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年8月30日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2009年6月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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黒島伝治

まかないの棒——黒島傳治

 京一が醤油醸造場へ働きにやられたのは、十六の暮れだった。
 節季の金を作るために、父母は毎朝暗いうちから山の樹を伐りに出かけていた。
 醸造場では、従兄の仁助《にすけ》が杜氏《とうじ》だった。小さい弟の子守りをしながら留守居をしていた祖母は、恥しがる京一をつれて行って、
「五体もないし、何んちゃ知らんのじゃせに、えいように頼むぞ。」
 と、彼女からは、孫にあたある仁助に頭を下げた。
 学校で席を並べていた同年の留吉は、一ヶ月ほど前、醸造場へ来たばかりだったが、勝気な性分なので、仕事の上では及ばぬなりにも大人のあとについて行っていた。彼は、背丈は、京一よりも低い位《くら》いだったが、頑丈で、腕や脚が節《ふし》こぶ立《だ》っていた。肩幅も広かった。きかぬ気で敏捷だった。そして、如何にも子供らしい脆弱な京一は仕事の上で留吉と比較にならなかった。
 京一は、第一、醸造場のいろいろな器具の名前を皆目知らなかった。槽《ふね》を使う(諸味《もろみ》を醤油袋に入れて搾《しぼ》り槽《ぶね》で搾ること)時に諸味を汲む桃桶を持って来いと云われて見当違いな溜桶《ためおけ》をさげて来て皆なに笑われたりした。馴れない仕事のために、肩や腰が痛んだり、手足が棒のようになったりした。始終、耳がじいんと鳴り、頭が変にもや/\した。
 タバコ(休憩時間のこと)には耳鳴りは一層ひどくなった。他の労働者達は焚き火にあたりながら冗談を云ったり、悪戯《いたずら》をしたりして、笑いころげていたが、京一だけは彼等の群から離れて、埃や、醤油粕の腐れなどを積上げた片隅でボンヤリ時間を過した。そのあたりからは、植物性の物質が腐敗して発する吐き出したいような臭気が立ち上ってきた。最初、彼は、堪えられなかったものだが、日を経るうちに、馴れてきて、さほどに感じなくなった。それに従って、彼の身体には、知らず知らず醤油の臭いがしみこんできているのだった。
「あ、臭い! われ(お前の意)が戻ると醤油臭い。」
 たまに、家へ帰ると祖母は鼻を鳴らしてこう云った。
「なに、臭いもんか。」
「臭《くさ》のうてか。われ自分でわからんのじゃ。」
 山仕事から帰った父母は、うまそうに芋を食っていた。
 京一は、山の仕事を思った。鋸で立っている樹を伐り倒すということは面白味のあることだった。霰の降るような日にでも山で働いていると汗が出た。麦飯の弁当がこの上なくうまかった。
 槽を使うのは、醤油屋の仕事に慣れた髯面の古江という男がやった。京一は、いつも桃桶で諸味を汲む役をやらせられた。桃桶を使うのは、一番容易な、子供にでもやれる仕事だった。古江が両手で醤油袋の口を開けて差し出して来る。その口へ桃のように一方の尖った桶で諸味をこぼさないように入れるのだ。子供にでもやれる仕事とは云え、京一は肩がこったり、腕が痛んだりした。
 耳がやはりじいんと鳴っていた。忙しく諸味を汲み上げるあいまあいまに、山で樹液のしたたる団栗《どんぐり》を伐っていることが思い出された。白い鋸屑《のこくず》が落葉の上に散って、樹は気持よく伐り倒されて行く。樹の倒れる音響に驚いて小鳥がけたたましく囀って飛びまわる。……山仕事の方がどれだけ面白いかしれない……
「チェッ…………どうなりゃ!」
 古江は、きらりとすごい眼つきをした。京一は、桃桶を袋の口にあてがいはずして、諸味を土の上にこぼしたのである。諸味は、古江の帆前垂《ほまえだれ》から足袋を汚してしまった。
「くそッ?」
「ははははは……」
 傍で袋をはいでいる者達は面白がって笑った。
 仁助は、従弟が皆に笑われたり、働きが鈍かったりすると、妙に腹が立つらしく、殊更京一をがみがみ叱りつけた。時には、彼の傍についていて、一寸した些事を一々取り上げて小言を云った。桃桶で汲む諸味の量が多いとか、少いとか、やかましく云った。
 すると、古江も図に乗って、仁助と同じように小言を並べた。

「おーい、やろか。」
 三十分のタバコがすむと、仁助は事務所から出て来て、労働者にそれぞれ仕事を命じた。仕事はいろいろあった。そして京一にはどれも、これも勝手が分らなかった。器具だけでも沢山あって、容易にその名前を覚えられなかった。コキン、コガ、スマシ、圧《お》し棒、枕……こんな風に変な名前がいくらでもあった。枕といっても、勿論、寝る時に使うそれではなかった。
 五六人も揃って同じ仕事をする場合には仕事に慣れた古江は若い者を、鞭で追いまわすようにひどいめに合わした。古江は手早く仕事をする。他の者もそれに負けまいと力を出す。古江がなお手早くやる。他の者は力いっぱいに働いてついて行く。……そして、次のタバコまでに、皆は結局散々コキ使われたことになって、へとへとに疲れてしまう。なかでも脆弱な京一が一番ひどく困らされるのだった。
「何んにも出来ん者が、他人《ひと》と一と並に休みよってどうなるもんでえ!…………休むひまに、道具の名前一つでも覚えるようにせい!」
 仁助は、片隅でぐったりしている京一にごつごつ云った。

 冬の寒い日だった。井戸端の氷は朝から、そのまま解けずにかたまっていた。仕事をしていても手は凍《い》てつきそうだった。タバコが来ると、皆な急いで焚き火の方へ走って行った。
「京よ、一寸、まかない棒を持って来い。」
 さきから来て温まっている古江は、京一がやって行くと、笑いながらそう云った。
「は。」
 もう醸造場へ来てから一カ月ばかりたっていた。一カ月もたてば、醤油屋で使う道具の名前は一と通り覚えてしまわねば一人前の能力がないものゝように云われていた。で京一は、訊ねかえしもせずに、知っている風をして、搾り場の道具を置いてある所へ行って、まかない棒を探した。一寸、聞いたことのあるような名だったが、どれがそうなのか思い出せなかった。
 焚き火の傍へ行って、殊更らしく訊ねかえすと、他の労働者達に笑われるので気が引けた。何とかして、自分で探し出して持って行かねばならない。
「まかない棒というから、とにかく棒には違いないんだろう。」
 彼は、醤油を煮ている大きな釜の傍にササラやタワシや櫂などを置いてある所を探しまわった。
「何を探しよるんどい?」焚き火の方へ行こうとして事務所からやって来た仁助がきいた。
 京一は、助かったと思って喜んだ。従兄に訊ねると叱られるかもしれないが、恥しい思いをしなくもいい。
「まかない棒いうたらどれどいの?」
 従兄は、例の団栗眼を光らして怒るかと思いの外、少し唇を尖らして、くっくっと吹き出しそうになった。が、すぐそれを呑み込んで、
「ううむ?」と曖昧に塩入れ場の前に六尺の天秤棒や、丸太棒やを六七本立てかけてある方に顎をちょいと突き出して搾り場を通り抜けて行ってしまった。
 京一は、丸太棒を取って、これがまかない棒というんだろうと思った。従兄は顎でこの棒を指していたと思われた。もうそれより外に、まかない棒という名の付きそうな棒はなかった。彼は、その棒を持って、焚き火の方へ行って、古江の傍に黙って立って居た。
「持って来たんかい。」
 古江の鬚面は焚き火で紅くほてっていた。
「は。」
 十人ばかりの焚き火を取り巻いている労働者達は、一様に京一を見て、くっくっ笑った。
「それがまかない棒かい?」
「よう…………」
「どら、こっちへおこせ!」
 従兄は団栗眼を光らして、京一の手から丸太棒を引ったくった。そして、いきなり、棒を振り上げて、京一の頭をぐゎんと殴って、腹立たしそうに、それを傍の木屑の上に投げつけた。
「これがまかないの棒じゃ?」
「ははははは……」労働者達は、一時にどっと笑い出した。
 京一は、眼が急にかっと光ったように思った。すると、それから頭の芯がじいんと鳴りだした。痛みが頭の先端から始まって、ずっと耳の上まで伝ってきた――皆は、まだ笑っている。急に、泣きたいと思わぬのに涙が出て来た。彼は、涙を他人《ひと》に見られまいとして、俯向いて早足にそこを去った。そして、醤油を煮ている釜の傍の大きな煉瓦の煙突の下に来た。涙は、なおつづいて出た。すると悲しくてたまらなくなって来た。顔を煙突につけると、煉瓦は中を通る煙の熱で温くなっていた。頭がずきんずきん痛んだ。手を触れると、丁度てっぺん[#「てっぺん」に傍点]が腫れ上っていた。
彼は煙突の方に向いて両手で顔を蔽うて泣いた。
 仕事が始る時、従兄がやって来て、
「阿呆が、もっと気を付けい!」と云った。
 併し、京一は、それを聞いていなかった。彼は、何故か自分一人が馬鹿にせられているようで淋しく悲しかった。
「もうこんなとこに居りゃせん!」
 彼は、涙をこすりこすり、手拭いで頬冠りをして、自分の家へ帰った。皆の留守を幸に、汚れている手足も洗わずに、蒲団の中へもぐり込んだ。
 暫らくたつと、弟を背負って隣家へ遊びに行っていた祖母が帰ってきて、
「まあ、京よ、風邪でも引いたんかいや。――頬冠りだけは取って寝え。」と云った。
 が彼は、寝た振りをして動かなかった。
 夕方には、山仕事に行っていた父母が帰った。
 祖母は、風邪には温いものがいいだろうと云って、夕飯に芋粥を煮た。京一は、芋粥ばかりを食い、他の家族は、麦飯に少しの芋粥を掛けてうまそうに食った。
「飯食う時だけは、その頬冠りを取れえ!」
 と、祖母は云ったが、父母は、じろりと彼を見て、放っとけというような顔をした。

 二三日、休んでいるうちに、家族には、風邪でないことが明かになった。
 二日目の朝、頬冠りを取って顔を洗っていると、祖母は、彼の頭に血がにじんだ跡があるのを見つけた。
「どうしたんどいや。醤油屋で何どあったんかいや!」
 父母が毎日のように山仕事に出かけたあとで祖母は彼にきいた。
「いいや。」
 彼は、別に何も云わなかった。
 五日目の晩に、父は、
「そんなに遊びよったら、ふよごろ[#「ふよごろ」に傍点](なまけ者のこと)になってしまうぞ!」と云った。
「己《お》らあ、もう醤油屋へは行かんのじゃ。」
 京一は、何か悲しいものがこみ上げてきて言葉尻がはっきり云えなかった。
「醤油屋へ行かずにどうするんどい? 遊びよったら食えんのじゃぞ!」
 京一は、ついに、まかないの棒のことを云い出して、涙声になってしまった。むつかしい顔をして聞いていた父は、
「阿呆が、うかうかしよるせに、他人になぶり者にせられるんじゃ。――そんなまかないの棒やかいが、この世界にあるもんかい!」
 あくる朝、父は山仕事に出る前に、
「今日は、もう仕事に行け!」
 といかつく京一に云いつけた。
「いや、己らは山へ行く。」
「阿呆めが! 山へ行たってどればも銭は取れんのに、仕様があるかい。醤油屋へ行け!」
 それでも、醤油屋へ行きたくなくなって、彼は、十時頃まで日向ぼっこをしていた。
「われが一人でよう行かんのなら、おばあ[#「おばあ」に傍点]がつれて行てやろうか。――行かなんだら、お父うが戻ってまた怒るぞ。」
 祖母はすやすや寝ている小さい弟を起して、古い負いこに包んで背負うと、彼を醸造場へつれて行った。年が寄って寒むがりになった祖母は、水鼻を垂らして歩きながら、背の小さい弟をゆすり上げてすかした。

 醸造場へ行くと、彼女は、孫の仁助に、京一をそう痛めずに使うてやってくれと頼んだ。
 京一は、きまり悪るそうに片隅に小さく立っていた。忙しそうに水を担っている若者等は、京一の顔をぬすみ見て、くっくっ笑った。

(一九二三年十二月)

底本:「黒島傳治全集 第一巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年4月30日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2006年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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黒島伝治

パルチザン・ウォルコフ——黒島伝治

       

 牛乳色《ちちいろ》の靄《もや》が山の麓《ふもと》へ流れ集りだした。
 小屋から出た鵝《がちょう》が、があがあ鳴きながら、河ふちへ這って行く。牛の群は吼《ほ》えずに、荒々しく丘の道を下った。汚れたプラトオクに頭をくるんだ女が鞭を振り上げてあとからそれを追って行く。ユフカ村は、今、ようよう晨《あした》の眠りからさめたばかりだった。
 森の樹枝を騒がして、せわしい馬蹄の音がひびいてきた。蹄鉄に蹴られた礫《こいし》が白樺《しらかば》の幹にぶつかる。馬はすぐ森を駈けぬけて、丘に現れた。それには羊皮の帽子をかむり、弾丸《たま》のケースをさした帯皮を両肩からはすかいに十文字にかけた男が乗っていた。
 騎馬の男は、靄に包まれて、はっきりその顔形《かお》が見分けられなかった。けれども、プラトオクに頭をくるんだ牛を追う女は、馬が自分の傍を通りぬける時、なつこい声をかけた。
「ミーチャ!」
「ナターリイ。」
 騎者の荒々しい声を残して、馬は、丘を横ぎり、ナターリイの前を矢のように走り抜けてしまった。
 暫《しば》らくすると、再び森の樹枝が揺れ騒ぎだした。そして、足並の乱れた十頭ばかりの馬蹄の音が聞えて来た。日本軍に追撃されたパルチザンが逃げのびてきたのだ。
 遠くで、豆をはぜらすような小銃の音がひびいた。
 ドミトリー・ウォルコフは、(いつもミーチャと呼ばれている)乾草《ほしくさ》がうず高く積み重ねられているところまで丘を乗りぬけて行くと、急に馬首を右に転じて、山の麓の方へ馳《は》せ登った。そこには屋根の低い、木造の百姓家が不規則に建ち並んでいた。馬は、家と家との間の狭い通りへ這入《はい》って行った。彼は馬の速力をゆるくした。そして、静かに、そこらにある車や、木切れなどを蹴散らさないように用心しいしい歩んだ。栗毛の肉のしまった若々しい馬は全速力で馳せのがれて来たため、かなり疲れて、呼吸がはずんでいた。
 裏通りの四五軒目の、玄関とも、露台《バルコン》ともつかないような入口の作りつけられている家の前で、ウォルコフは、ひらりと身がるく馬からおりた。
 人々は、眠《ねむり》から覚めたところだった。白い粘土で塗りかためられた煙突からは、紫色の煙が薄く、かすかに立のぼりはじめたばかりだ。
 ウォルコフは、手綱《たづな》をはなし、やわい板の階段を登って、扉《ドア》を叩いた。
 寝室の窓から、彼が来たことを見ていた三十すぎのユーブカをつけた女は戸口へ廻って内から掛金《かけがね》をはずした。
「急ぐんだ、爺さんはいないか。」
「おはいり。」
 女は、居るというしるしに、うなずいて見せて、自分の身《からだ》を脇《わき》の箱を置いてある方へそらし、ウォルコフが通る道をあけた。
「どうした、どうした。また××の犬どもがやって来やがったか。」
 一分間ばかりたつと、その戸口へよく肥《ふと》った、頬の肉が垂れ、眉毛が三寸くらいに長く伸びている老人がチャンチャンコを着て出てきた。
「ワーシカがやられた。」
「ワーシカが?」
「…………。」
 ユーブカをつけた女は、頸《くび》を垂れ、急に改った、つつましやかな、悲しげな表情を浮べて十字を切った。
「あいつは、ええ若いものだったんだ!……可憐《かわい》そうなこった!」
 老人は、十字を切って、やわい階段をおりて行った。おりて行きながら彼は口の中でなお、「可憐そうなこった、可憐そうなこった!」とくりかえした。
 老人はウォルコフが乗りすてた栗毛の鞍やあぶみを外して、厩《うまや》の方へ引いて行った。
 ウォルコフは、食堂兼客間になっている室と、寝室とを通りぬけて、奥まった物置きへつれて行かれた。そこは、空気が淀《よど》んで床下の穴倉から、湿気と、貯えられた葱《ねぎ》や馬鈴薯の匂いが板蓋《いたぶた》の隙間《すきま》からすうっと伝い上って来た。彼は、肩から銃をおろし、剣を取り、羊皮の帽子も、袖に星のついた上衣も乗馬靴もすっかりぬぎ捨ててしまった。ユーブカをつけた女は、次の室から、爺さんの百姓服を持ってきた。
 ウォルコフは、その百姓服に着換え、自分が馬上で纏《まと》っていた軍服や、銃を床下の穴倉へかくしてしまった。木蓋の上へは燕麦《えんばく》の這入った袋を持ってきて積み重ね、穴倉があることを分らなくした。
 豆をはぜらすような鉄砲の音が次第に近づいて来た。
 ウォルコフのあとから逃げのびたパルチザンが、それぞれ村へ馳せこんだ。そして、各々、家々へ散らばった。

       二

 ユフカ村から四五露里|距《へだた》っている部落――C附近をカーキ色の外皮を纏った小人のような小さい兵士達が散兵線を張って進んでいた。
 白樺や、榛《はんのき》や、団栗《どんぐり》などは、十月の初めがた既に黄や紅や茶褐に葉色を変じかけていた。露の玉は、そういう葉や、霜枯れ前の皺びた雑草を雨後のようにぬらしていた。
 草原や、斜丘にころびながら進んで行く兵士達の軍服は、外皮を通して、その露に、襦袢《じゅばん》の袖までが、しっとりとぬれた。汗ばみかけている彼等は、けれども、「止れ!」の号令で草の上に長々ところんで冷たい露に頬をぬらすのが快かった。
 逃げて行くパルチザンの姿は、牛乳色《ちちいろ》の靄に遮《さえぎ》られて見えなかった。彼等はそれを、ねらいもきめず、いいかげんに射撃した。
 左翼の疎《まば》らな森のはずれには、栗本の属している一隊が進んでいた。兵士達は、「止れ!」の号令がきこえてくると、銃をかたわらに投げ出して草に鼻をつけて匂いをかいだり、土の中へ剣身を突きこんで錆《さび》を落したりした。
 その剣は、豚を突殺すのに使ったり、素裸体《すっぱだか》に羽毛をむしり取った鵞鳥の胸をたち割るのに使って錆させたのだ。血に染った剣はふいても、ふいてもすぐ錆が来た。それを彼等は、土でこすって研ぐのだった。
 栗本は剣身の歪《ゆが》んだ剣を持っていた。彼は銃に着剣して人間を突き殺したことがある。その時、剣が曲ったのだ。突かれた男は、急所を殴られて一ッぺんに参る犬のようにふらふらッとななめ横にぴりぴり手足を慄《ふる》わしながら倒れてしまった。突きこんだ剣はすぐ、さっと引きぬかねば生きている肉体と血液が喰いついてぬけなくなることを彼はきいていた。が、それを思い出したのは、相手が倒れて暫らくしてからだった。彼は、人を殺したような気がしなかった。彼は、人を一人殺すのは容易に出来得ることではないと思っていた。が実際は、何のヘンテツもない土の中へ剣を突きこむのと同じようなことだった。銃のさきについていた剣は一と息に茶色のちぢれひげを持っている相手の汚れた服地と襦袢を通して胸の中へ這入ってしまった。相手はぶくぶくふくれた大きい手で、剣身を掴《つか》んで、それを握りとめようとした。同時に、ちぢれた鬚《ひげ》を持った口元を動かして何か云おうとするような表情をした。しかし、何も云わず、ぶくぶくした手が剣身を握りとめないうちに、剣は、肋骨《ろっこつ》の間にささって肺臓を突き通し背にまで出てしまった。栗本は夢ではないかと考えた。同時に、取りかえしのつかないことを仕出かしてしまったことに気づいた。銃を持っている両腕は、急にだらりと、力がぬけ去ってしまった。銃は倒れる男の身体について落ちて行った。
 暫らくして、両脚を踏ンばって、剣を引きぬくと、それは、くの字形に曲っていた。
 その曲ったあとがなかなかもとの通りになおらなかった。殺人をした証拠のようにいつまでも残っていた。
「これからだって、この剣にかかってやられる人間がいくらあるか知れやしないんだ。」栗本はそんなことを考えた。「また、俺等だって、いつやられるか知れやしないんだ。」
 右の森の中から「進めッ!」という声がひびいた。
「さ、進めだぞ。」
 兵士は横たわったままほかの者を促すように、こんなことを云った。
「ま、ゆっくりせい。」
「何だ、吉川はかくれて煙草をのんでいたんか――俺に残りをよこせ!」
 白樺の下で、軍曹が笑い声でこんなことを云っているのが栗本に聞えてきた。
 栗本は銃を杖にして立ち上った。
 兵士達は、靴を引きずりながら、草の上を進んだ。彼等は湿って水のある方へ出て行った。草は腰の帯革《たいかく》をかくすくらいに長く伸び茂っていた。
「見えるぞ、見えるぞ!」
 右の踏みならされた細道を進んでいる永井がその時、低声《こごえ》に云った。ロシアの女を引っかけるのに特別な手腕を持っている永井の声はいくらか笑《えみ》を含んでいた。
 栗本は、永井が銃をさし出した方を見た。
 靄に蔽《おお》われて、丘の斜面に木造の農家が二軒おぼろげに見えた。
「ここだ。ここがユフカだな。」
 そう思った。が、その実、そこはユフカではなかった。
 兵士達は、小屋にパルチザンがかくれていて、不意に捨身の抵抗を受けるかもしれないと予想した。その瞬間、彼等は緊張した。栗本の右側にいる吉田は白樺に銃身をもたして、小屋を射撃した。銃声が霧の中にこだまして、弾丸《たま》が小屋の積重ねられた丸太を通して向うへつきぬけたことがこちらへ感じられた。吉田はつづけて三四発うった。
 森の中を行っている者が、何者かにびっくりしたもののようにパチパチうちだした。
 小屋の中に誰もかくれていないことがたしかめられた。一列に散らばっていた兵士達は遠くから小屋をめがけて集って来た。
 小屋には、つい、二三時間前まで人間が住んでいた痕跡が残っていた。檐《のき》の鶏小屋には餌が木箱に残され、それがひっくりかえって横になっていた。扉《ドア》は閉め切ってあった。屋内はひっそりして、薄気味悪く、中にはなにも見えなかった。
 兵士は扉の前に来て、もしや、潜伏している者の抵抗を受けやしないか、再びそれを疑った。彼等は躊躇《ちゅうちょ》して立止った。誰れかさきに扉を開けて這入って行きさえすれば、あとは、すぐ、皆ながおじけずになだれこんで行ける。が、その皮切りをやる者がなかった。
「栗本、貴様行け。」
 煙草を吸っていた吉川をとがめた軍曹が云った。
 栗本は、なにか反感のようなものを感じながら、
「うむ、行くか!」
 そう云って、立ちふさがっている者達を押しのけて扉の前へ近づいた。「大きななりをして、胆力のないやつばかりだ。」そこらにいる者をさげすむように、腹の中で呟《つぶや》いた。彼の腰は据《すわ》ってきた。
 扉の中は暗かった。そこには、獣油や、南京袋の臭《にお》いのような毛唐の体臭が残っていた。栗本は、強く、扉《ドア》を突きのけて這入って行った。
「やっぱし、まっさきに露助を突っからかしただけあるよ。」
 うしろの方で誰れかが囁《ささや》いた。栗本は自分が銃剣でロシア人を突きさしたことを軽蔑していると、感じた。
「人を殺すんがなに珍しいんだ! 俺等は、二年間×××の方法を教えこまれて、人を殺しにやって来てるんじゃないか!」
 反感をなお強めながら、彼は、小屋の床をドシンドシン踏みならした。剣をつけた銃を振りまわした拍子に、テーブルの上の置ランプが倒れた。床板の上で、硝子《ガラス》のこわれるすさまじい音がした。
 扉の前に立っていた兵士達は、入口がこわれる程、やたらに押し合いへし合いしながら一時になだれこんできた。
 彼等は、戸棚や、テーブルや、ベッドなどを引っくりかえして、部屋の隅々まで探索した。彼等は、そこにある珍らしいものや、値打のありそうなものを、×××××××××××××××ろうとした。
 既に掠奪《りゃくだつ》の経験をなめている百姓は、引き上げる時、金目になるものや、必要な品々を持てるだけ持って逃げていた。百姓は、鶏をも、二本の脚を一ツにくくって、バタバタ羽ばたきするやつを馬の鞍につけて走り去った。だが産んだばかりの卵は持って行く余裕がなかったと見えて、巣箱に卵がころがっていた。兵士は、見つけると、ばい取りがちをし乍《なが》ら慌《あわ》てて残されたその卵をポケットに拾いこんだ。

       

 山の麓のさびれた高い鐘楼《しょうろう》と教会堂の下に麓から谷間へかけて、五六十戸ばかりの家が所々群がり、また時には、二三戸だけとびはなれて散在していた。これがユフカ村だった。村が静かに、平和に息づいていた。
 兵士達は、ようよう村に這入る手前の丘にまでやって来た。
 彼等はうち方をやめて、いつでも攻撃に移り得る用意をして、姿勢を低く草かげに散らばった。
「ここの奴等は、だいぶいいものを持っていそうだぞ。」
 永井は、村なりを見て掠奪心を刺戟された。彼は、ここでもロシアの女を引っかけることが出来る――それを考えていた。
「おい、いくら露助だって、生きてゆかなきゃならんのだぜ。いいものばかりをかっぱらわれてたまるものか!」
 栗本の声は不機嫌にとげ立っていた。
「なあに、××が許してることはやらなけりゃ損だよ。」
 珍しい、金目になるものを奪い取り、慾情の饉《う》えを満すことが出来る、そういう期待は何よりも兵士達を勇敢にする。彼等は、常に慾情に飢え、金のない、かつかつの生活を送っていた。だから、自分に欠けているものがほしくてたまらなかった。そこの消息を見抜いている×××は、表面やかましく云いながら、実は大目に見のがした。五十銭銀貨を一つ盗んでも禁固を喰う。償勤兵とならなければならない。それが内地に於ける軍人である。軍人は清廉潔白でなければならない。ところが、その約束が、ここでは解放されているのだ。兵士は、その××に引っかかって、ほしいものが得たさに勇敢に、捨身になるのだった。
「前島、その耳輪を俺によこしとけよ。」
 兵士は命令を待っている間に、今さっき百姓小屋で取ってきた獲物を、今度はお互いに、口でだまして奪い合った。
「いやですよ、軍曹殿。」
「俺のナイフと交換しようか。」
 ほかの声が云った。
「いやだよ。そんなもの十銭の値打もすりゃせんじゃないか。」
「馬鹿! 片ッ方だけの耳輪にどれだけの値打があるんだ!」
 斜丘の中ほどに壊《こわ》れかけた小屋があった。そこで通訳が向うからやって来た百姓の一人に何か口をきいているのが栗本の眼に映じた。その側に中隊長と中尉とが立っていた。顔が黒く日に焦げて皺《しわ》がよっている百姓の嗄《しゃが》れた量のある声が何か答えているのがこっちまで聞えてきた。その声は、ほかの声を消してしまうように強く太くひびいた。
 掠《かす》めたものを取りあっていた兵士達は、口を噤《つぐ》んで小舎の方を見た。十人ばかりの百姓が村から丘へのぼってきた。中隊長は、軍刀のつばのところへ左手をやって、いかつい眼で、集って来る百姓達を睨《ね》めまわしていた。百姓達には少しも日本の兵タイを恐れるような様子が見えなかった。
 通訳は、この村へパルチザンが逃げこんで来ただろう。それを知らぬかときいているらしかった。
 いくらミリタリストのチャキチャキでも、むちゃくちゃに百姓を殺す訳にや行かなかった。パルチザンはそれにつけこんで、百姓に化けて、安全に、平気であとから追っかけて来た軍隊の傍を歩きまわった。向うに持っている兵器や、兵士の性質を観察した。そして、次の襲撃方法の参考とした。
 中隊長は、それをチャンと知っていた。しかし、パルチザンと百姓とは、同じ服装をしていれば、見分けがつかなかった。
「逃げて行くパルチザンなんど、面倒くさい、大砲でぶっ殺してしまえやいいじゃないか。」
 小屋のところをぶらぶら歩きながら無遠慮に中隊長の顔を見ていた男が不意に横から口を出した。
 その男は骨組のしっかりした、かなり豊かな肉づきをしていた。しかし、せいが高いので寧《むし》ろ痩《や》せて見える敏捷《びんしょう》らしい男だった。
 見たところ、彼は、日本の兵タイなど面倒くさい、大砲で皆殺しにしてしまいたいと思っているらしかった。
 それが目的格をとっかえて表現されているのだった。
 中隊長は、通訳からその意味をきくと、じろりと、いかつい眼で暫らくその男を睨みつけた。
「そんなことをぬかす奴が、パルチザンをかくまっているんだ。」
 中隊長は日本語で云った。
「そっちにゃ、大砲を沢山持ってるんだろう。」
 その男は、中隊長のすごい眼には無頓着に通訳にきいた。
 再び中隊長は、じいっとその男を睨みつけた。中尉が、中隊長の耳もとへ口を持って行って何か囁いた。
 兵士達には攻撃の命令が発しられた。
 骨組のしっかりした男の表情には、憎悪と敵愾心《てきがいしん》が燃えていた。それがいつまでも輝いている大きい眼から消えなかった。

       

 百姓たちは、たびたび××の犬どもを襲撃した経験を持っていた。
 襲撃する。追いかえされる。又襲撃する。又追いかえされる。負傷する。
 彼等は、それを繰りかえしていた。そのうちに彼等の憎悪と敵愾心はつのってきた。
 最初、日本の兵士を客間に招待して紅茶の御馳走をしていた百姓が、今は、銃を持って森かげから同じ兵士を狙撃《そげき》していた。
 彼等の村は犬どもによって掠奪され、破壊されたのだ。
 ウォルコフもその一人だった。
 ウォルコフの村は、犬どもによって、一カ月ばかり前に荒されてしまった。彼は、村の牧者だった。
 彼は村にいて、怒った日本の兵タイが近づいて来るのを知ると、子供達をつれて家から逃げた。ある夕方のことだった。彼は、その時のことをよく覚えている。一人の日本兵が、斧《おの》で誰れかに殺された。それで犬どもが怒りだしたのだ。彼は逃げながら、途中、森から振りかえって村を眺めかえした。夏刈って、うず高く積重ねておいた乾草が焼かれて、炎が夕ぐれの空を赤々と焦がしていた。その余映は森にまで達して彼の行く道を明るくした。
 家が焼ける火を見ると子供達はぶるぶる顫《ふる》えた。「あれ……父《と》うちゃんどうなるの……」
「なんでもない、なんでもない、火事ごっこだよ。畜生!」彼は親爺《おやじ》と妹の身の上を案じた。
 翌朝、村へ帰ると親爺は逃げおくれて、家畜小屋の前で死骸《しがい》となっていた。胸から背にまでぐさりと銃剣を突きさされていた。動物が巣にいる幼い子供を可愛がるように、家畜を可愛がっていたあの温《おとな》しい眼は、今は、白く、何かを睨みつけるように見開《みひらか》れて動かなかった。異母妹のナターリイは、老人の死骸に打倒れて泣いた。
 長男は、根もとから折られた西洋桜を、立てらしてつぎ合わそうとした。それは、春、長男が山から掘ってきて、家の前に植えたものだ。子供は、つぎ合わせば、それがいきつくもののように、熱心に、倒れようとする桜を立てらした。しかし、駄目だった。
 壊された壁の下から鍬《くわ》を引っぱり出して、彼は、親爺の墓穴を掘りに行った。
 村中の家々は、目ぼしい金目になるようなものを掠奪せられ、たたきつぶされていた。餌がなくて飢えた家畜は、そこら中で悲しげにほえていた。
「父うちゃんこんなところへ穴を掘ってどうするの?」
「おじいさんがここんとこでねむるんだよ。」
 村の者は、その時、誰れも、日本人に対する憎悪を口にしなかった。
しかし、日本人に対する感情は、憎悪を通り越して、敵愾心になっていた。彼等は、×××を形容するのに、犬という動物の名前を使いだした。
 彼等は、自分の生存を妨害する犬どもを、撃滅してしまわずにはいられない欲求に迫られてきた。…………
 ウォルコフは、憎悪に満ちた眼で窓から、丘に現れた兵士を見ていた。
 丘に散らばった兵士達は、丘を横ぎり、丘を下って、喜ばしそうに何か叫びながら、村へ這入ってきた。そのあとへ、丘の上には、また、別な機関銃を持った一隊が現れてきた。
 犬どもが、どれほどあとからやってきているか、それは地平線が森に遮られて、村からは分らなかった。森の向うは地勢が次第に低くなっているのだ。けれども、ウォルコフは、犬どもの、威勢が、あまりによすぎることから推察して、あとにもっと強力な部隊がやって来ていることを感取した。
 村に這入ってきた犬どもは、軍隊というよりは、むしろ、××隊だった。彼等は、扉口に立っている老婆を突き倒して屋内へ押し入ってきた。武器の捜索を命じられているのだった。
「こいつ鉄砲をかくしとるだろう。」
「剣を出せ!」
「あなぐらを見せろ!」
「畜生! これゃ、また、早く逃げておく方がいいかもしれんて。」
近づいて来る叫声を耳にしながら、ウォルコフは考えた。
「銃を出せ!」
「剣を出せ!」
 兵士達は、それを繰りかえしながら、金目になる金や銀でこしらえた器具が這入っていそうな、戸棚や、机の引出しをこわれるのもかまわず、引きあけた。
 彼等は、そこに、がらくたばかりが這入っているのを見ると、腹立たしげに、それを床の上に叩きつけた。

 永井は、戦友達と共に、谷間へ馳せ下った。触れるとすぐ枝から離れて軍服一面に青い実が附着する泥棒草の草むらや、石崖や、灌木の株がある丘の斜面を兵士は、真直に馳せおりた。
 ここには、内地に於けるような、やかましい法律が存在していないことを彼等は喜んだ。責任を問われる心配がない××××と××は、兵士達にある野蛮な快味を与える。そして彼等を勇敢にするのだった。
 武器の押収を命じられていることは、殆《ほと》んど彼等の念頭になかった。快活らしい元気な表情の中には、ただ、ゼーヤから拾ってきた砂金を掴み取り、肌の白い豊満な肉体を持っているバルシニヤを快楽する、そのことばかりでいっぱいだった。
 永井は、ほかの者におくれないように、まっしぐらに突進した。着剣した、兵士の銃と銃、剣と剣が触れあって、がちゃがちゃ鳴ったり、床尾板《しょうびはん》がほかの者の剣鞘をはねあげたりした。
「栗本、なに、ぐずぐずしてるんだ! 早く進まんか!」
 軍曹がうしろの方で呶鳴っているのを永井は耳にした。が、彼は、うしろへ振りかえろうともしなかった。
 少尉が兵士達の注意を右の方へ向けようとして、何やら真剣に叫んで、抜き身の軍刀を振り上げながら、永井の傍を馳せぬけた。しかし、それが何故であるか、永井には分らなかった。彼の頭の中には娘の豊満な肉体を享楽するただそのことがあるばかりだった。
「看護卒!」
 どっかで誰れかが叫んだ。しかし、それも何故であるか分らなかった。そして、叫声は後方へ去ってしまった。
「突撃! 突撃ッ!」
 小さい溝をとび越したところで少尉は尻もちをついて、軍刀をやたらに振りまわして叫んでいた。少尉の軍袴《ズボン》の膝のところは、血に染んでいた。兵士は、左右によけて、そこを通りぬけた。火薬の臭いが、永井の鼻にぷんときた。
 すぐ眼のさきの傾斜の上にある小高い百姓家の窓から、ロシア人が、こっちをねらって射撃していた。
「何しにこんなところまで、おりてきたんだい。俺れゃ、人をうち殺すのにゃ、もうあきあきしちゃったぞ!」
 栗本は、進撃の命令を下した者に明かな反感を現して呶鳴った。
 が、誰れも、何も云わなかった。
 兵士達はロシア人をめがけて射撃した。

 大隊長とその附近にいた将校達は、丘の上に立ちながら、カーキ色の軍服を着け、同じ色の軍帽をかむった兵士の一団と、垢《あか》に黒くなった百姓服を着け、縁のない頭巾《ずきん》をかむった男や、薄いキャラコの平常着を纏《まと》った女や、短衣をつけた子供、無帽の老人の群れが、村に蠢《うごめ》き、右往左往しているのを眺めていた。カーキ色の方は、手あたり次第に、扉《ドア》を叩き壊し、柱を押し倒した。逃げて行く百姓の背を、うしろから銃床で殴りつける者がある。剣で突く者がある。煮え湯をあびせられたような悲鳴が聞えて来た。
「あァ、あァ、あァ。」語学校を出て間がない、若い通訳は、刺すような痛みでも感じたかのように、左右の手を握りしめて叫んだ。「女を殺している。若い女を突き殺してる!――大隊長殿あんなことをしてもいいんですか!」
 でぶでぶ腹の大隊長の顔には、答えの代りに、冷笑が浮んだばかりだった。
 谷間や、向うの傾斜面には、茶色の鬚《ひげ》を持っている男が、こっちでパッと発火の煙が上ると同時に、バタバタ倒れた。
「今度は誰れが倒れるだろう……女か、子供か?――それともこっちのカーキ色の軍服だろうか!」
 通訳は子供のようにおどおどしながら、村の方を見ていた。――銃声は、一つまた一つ、またまた一つと、つづけてパチパチ鳴りひびいた。
 大隊長と、将校は、野球の見物でもするように、面白そうに緊張していた。
 ユフカは、外国の軍隊を襲撃したパルチザンが逃げこんで百姓に化けるので有名だった。そればかりでなく、そこの百姓が残らずパルチザンだ。――ポーランド人の密偵の報告によるとそうだった。
 密偵は、日本軍にこびるために、故意に事実を曲げて仰山《ぎょうさん》に報告したことがあった。が、パルチザンの正体と居所を突きとめることに苦しんでいる司令部員は、密偵の予想通り、この針小棒大な報告を喜んだ。彼等は、パルチザンには、手が三本ついているように、はっきりほかの人間と見分けがつくことを望んでいたのだ。
 大隊長は、そのパルチザンの巣窟を、掃除することを司令官から命じられていた。
「……しかし、ここには、パルチザンばかりでなしに、おとなしい、いい百姓も住んどるらしいんです。」
 通訳は攻撃命令を発する際に、村の住民の性質を説明してこう云った。通訳は、内気な初心《うぶ》い男だった。彼はいい百姓が住んどるんです、とはっきり、云い切ることが出来なかった。大隊長は、ここがユフカで、過激派がいることだけを耳にとめた。それ以外、彼れにとって必要でない説明は一切、きき流してしまった。
 過激派討伐を命ぜられた限り、出来るだけ派手な方法を以て、そこらへんにいる、それに類した者をも鏖《みなごろし》にしなければならない。こういう場合、派手というのは、残酷の同意語であった。不明瞭な点を残さず、悉《ことごと》くそれを赤ときめて、一掃してしまえば功績も一層|水際《みずぎわ》立って司令部に認められる。
 大隊長は、そのへんのこつをよくのみこんでいた。彼は先《ま》ず武器を押収することを命じた。それから、パルチザンを、捕虜とすることを命じた。それから……。
 汚れた百姓服や、頭巾は無抵抗に、武器を取り上げられたり、××××たり、――殺されたりなどされるがままになっている訳には行かなかった。木造の壁の代りに丸太を積重ねていた家の中や乾草の堆積のかげからも、発射の煙が上った。これまでの銃声にまじって、また別の異《ちが》った太く鈍い銃声がひびいてきた。百姓が日本の兵士に抵抗して射撃しだしたのだ。
「やはり、パルチザンだったですね、一寸、抵抗しだしました。」
 副官は、事もなげに笑った。
「おや! おや! 今度は、日本の兵たい[#「たい」に傍点]がやられました。」通訳は、前よりも、もっと痛切な声で叫んだ。「倒れました。倒れました。倒れて夢中で手と頭を振っとります。」
「三人やられたね。――一人は将校だ。脚をやられたらしい。」
「どうして司令官は、こんなことをやらせるんです! 悲惨です! 悲惨です! 隊長殿すぐやめさしておしまいなさい!」
 銃を乱射するひびきは、一層はげしくなってきた。丘の上に整列していた別の中隊は、カーキ色と、百姓服が入り乱れ、蠢く方をめがけてウワッと叫びながら馳せくだりだした。
 副官でない方の中尉は、通訳を、壊れかけた小屋の裏へ引っぱって行った。
「何を、君、ばかなことを云ってるんだ!」
 中尉は、腹立たしげに通訳に云った。
「だって悲惨じゃありませんか! あんまり悲惨じゃありませんか!」
「君自身が、たま[#「たま」に傍点]にあたらんように用心し給え!」
 中尉は通訳をにらみつけて大隊長のそばへ引っかえした。
 通訳は、小屋のかげから、悲鳴や叫喚や、銃声がごったかえしに入りまじって聞えて来る方をおずおず見やった。右の一層高くなっている麓に据えつけられた狙撃砲は、その砲《つつ》さきへ弾丸《たま》をつめこんで、村をめがけてぶっぱなした。
 だが、そのたまが、どこに落ちて、どれだけ家をつぶし、人を殺したか、もう通訳には分らなかった。乾草を積重ねてあるところと、それから、百姓家と、二カ所から紫色の煙が上って、そこらへんに蠢めき騒いでいる兵たいや、百姓や、女や子供達を包んでしまった。と、また、別の離れたところからも、つづいて煙が上りだした。兵士達は、大隊長の一つの命令を遂行したのだ。
 村は焼き払われだした。紫色や、硫黄色《いおういろ》の煙が村の上に低迷した。狙撃砲からは二発目、三発目の射撃を行った。それは何を撃つのか、目標は見えなかった。やたらに、砲先の向いた方へ弾丸をぶっぱなしているのであった。
「副官、中隊を引き上げるように命令してくれ!」
 大隊長は副官を呼んだ。
「それから、機関銃隊攻撃用意!」
 村に攻めこんだ歩兵は、引き上げると、今度は村を包囲することを命じられた。逃げだすパルチザンを捕《つか》まえるためだ。
 カーキ色の軍服がいなくなった村は、火焔と煙に包まれつつ、その上から、機関銃を雨のようにばらまかれた。
 尻尾を焼かれた馬が芝生のある傾斜面を、ほえるように嘶《いなな》き、倒れている人間のあいだを縫って狂的に馳せまわった。
 女や、子供や、老人の叫喚が、逃げ場を失った家畜の鳴声に混って、家が倒れ、板が火に焦げる刺戟的な音響や、何かの爆発する轟音《ごうおん》などの間から聞えてくる。
 見晴しのきく、いくらか高いところで、兵士は、焼け出されて逃げてくる百姓を待ち受けて射撃した。逆襲される心配がないことは兵士の射撃を正確にした。
 こっちに散らばっている兵士の銃口から硝煙がパッと上る。すると、包囲線をめがけて走《は》せて来る汚れた短衣や、縁なし帽がバタバタ人形をころばすようにそこに倒れた。
「無茶なことに俺等を使いやがる!」栗本は考えた。
 傾斜面に倒れた縁なし帽や、ジャケツのあとから、また、ほかの汚れた短衣やキャラコの室内服の女や子供達が煙の下からつづいて息せき現れてきた。銃口は、また、その方へ向けられた。パッと硝煙が上った。子供がセルロイドの人形のように坂の芝生の上にひっくりかえった。
 汚れたジャケツは、吃驚《びっくり》して、三尺ほど空へとび上った。何事が起ったのか一分間ばかりジャケツが理解できないでいるさまが兵士達に見えた。
 ジャケツに抱き上げられた子供は泣声を発しなかった。死んでいたのだ。
「おい撃方《うちかた》やめろ!――俺等は誰のためにこんなことをしてるんだい!」
 栗本が腹立たしげに云った。その声があまりに大きかったので機関銃を持っている兵士までが彼の方へ振り向いた。
「百姓はいくら殺したってきりが有りゃしない。俺達はすきこのんで、あいつ等をやっつける身分かい!」彼はつづけた。「こんなことをしたって、俺達にゃ、一文だって得が行きゃしないんだ!」
 機関銃の上等兵は、少尉に鼓膜を叩き破られた兄を持っていた。何等償われることなしに兄は帰休になって、今は小作をやっている。入営前大阪へ出て、金をかけて兄は速記術を習得したのであった。それを兄は、耳が聞えなくなったため放棄しなければならなかった。上等兵は、ここで自分までも上官の命令に従わなくって不具者にされるか、或は弾丸《たま》で負傷するか、殺されるか、――したならば、年がよってなお山伐りをして暮しを立てている親爺がどんなにがっかりするだろうか、そのことを思った。――老衰した親爺の顔が見えるような気がした。
 けれども彼は、煙の中を逃げ出して来る短衣やキャラコも、子供や親があることを考えた。彼等も、耕すか、家畜を飼うかして、口を糊《のり》しているのだ。上等兵はそういうことを考えた。――同様に悲しむ親や子供を持っているのだ。
 こんなことをして彼等を撃ち、家を焼いたところで、自分には何にも利益がありやしないのだ。
 流れて来る煙に巻かれながら、また、百姓や女や、老人達がやって来た。
 上等兵は、機関銃のねらいをきめる役目をしていた。彼は、機関銃のつつさきを最大限度に空の方へねじ向けた。
 弾丸は、坂を馳せ登ってくる百姓や、女の頭の上をとびぬけ出した。
「撃てッ、パルチザンが逃げ出して来るじゃないか、撃てッ!」
 包囲線を見張っている将校は呶鳴りたてた。
 兵士の銃口からは、つづけて弾丸が唸《うな》り出た。
「撃てッ! パルチザンがいッくらでもこっちへ逃げ出して来るじゃないか。うてッ! うてッ!」
 兵士は撃った、あまりにはげしい射撃に銃身が熱くなった。だが弾丸は、悉く、一里もさきの空へ向ってとび上った。そこで人を殺す威力を失って遙か向うの草原に落下した。機関銃ばかりでなく、そこらの歩兵銃も空の方へそのつつさきを向けていたのだ。
 百姓は、逃げ口が見つかったのを喜んで麓の方へ押しよせてきた。
彼等は、物をくすねそこねた泥棒のように頸をちぢめてこそこそ周囲を盗み見ながら兵士の横を走せぬけた。
「早く行け!」
 栗本が聞き覚えのロシア語で云った。百姓は、道のない急な山を、よじ登った。
「撃てッ! 撃てッ! パルチザンを鏖《みなごろし》にしてしまうんだ! うてッ! うたんか!」
 士官は焦躁にかられだして兵士を呶鳴りつけた。
「ハイ、うちます。」
 また、弾丸が空へ向って呻《うな》り出た。
「うてッ! うてッ!」
「ハイ。」
 濃厚な煙が流れてきた。士官も兵士も眼を刺された。煙ッたくて涙が出た。

       

「今度こそ、俺れゃ金鵄勲章《きんしくんしょう》だぞ。」
 銃をかついで、来た道を引っかえしながら軍曹は、同僚の肩をたたいて笑った。彼は、中隊長の前で、三人の逃げ出そうとするパルチザンを突き殺した。それが、中隊長の眼にとまった自信が彼にあったのだ。
「俺だって功六級だ。」
 同僚もそれに劣らない自信があった。
 看護卒は、負傷した少尉の脚に繃帯《ほうたい》をした。少尉の傷は、致命的なものではなかった。だから、傷が癒《い》えると、少尉から上司へいい報告がして貰える。看護卒には、看護卒なりに、そういう自信があった。
 彼等は、愉快な、幸福な気分を味わいながら駐屯地へ向って引き上げて行った。
 大隊長は、司令部へ騎馬伝令を発して、ユフカに於けるパルチザンを残さず殲滅《せんめつ》せしめたと報告した。彼は、部下よりも、もっと精気に満ちた幸福を感じていた。背後の村には燃えさしの家が、ぷすぷす燻《くすぶ》り、人を焼く、あの火葬場のような悪臭が、部隊を追っかけるようにどこまでも流れ拡がってついてきた。けれども、それも、大隊長の内心の幸福を妨げなかった。
「ユフカは、たしかに司令官閣下の命令通り、パルチザンばかりの巣窟でありました――そう云います。」
 活溌な伝令が、出かける前、命令を復唱した、小気味のよい声を隊長は思い出していた。
「うむ、そうだ。」彼は肯《うなず》いて見せたのだった。「それを一人も残らず殲滅してしまった。我軍の戦術もよかったし、将卒も勇敢に奮闘した。これで西伯利亜《シベリア》のパルチザンの種も尽きるでありましょう。と、ね。」
「はい。――若《も》し、我軍の損傷は? ときかれましたら、三人の軽傷があったばかりであります。その中、一人は、非常に勇敢に闘った優秀な将校でありました。と云います。」
「うむ、そうだ、よろしッ!」その時の、自分の声が、朗らかにすき通って、いい響きを持っていたのを大隊長は満足に思った。
 ――今持っている旭日章《きょくじつしょう》のほかに、彼は年金のついている金鵄勲章を貰うことになる。俸給以外に、三百円か五百円、遊んでいても金が這入ってくることになるのだ。――功四級だろうか、それとも五級かな。四級だと五百円だ。それから勲功によって中佐に抜てきされる。……ただ一つ、彼の気に喰わぬことがあった。それは、鉄砲を空に向けて、わざとパルチザンを逃がしてしまった兵タイがあることだった。だが、それは表沙汰にして罰すると、自分の折角の勲功がふいになってしまうのだった。部下を指揮する手腕が十分でなかった責任は当然彼の上にかかって来るからだ。不届きな兵タイは、ほかの機会にひどいめにあわしてやることにして、今は、かくしておくことにした。その方が利巧な方法だ。
「閣下も討伐の目的が達して、非常にお喜びになることでしょう。」
 あとから来ている副官が云った。閣下とは司令官のことだ。
「うむ。」
 大隊長は、空へ鉄砲を向けた兵タイのことは忘れて、内心の幸福を抑えることが出来ずにこにこした。
「全く、うまく行きましたな。」
「うむ。――ご苦労だった。」
 ――彼はまた、功四級だろうか、それとも五級かな、と考えた。ひょっとすると、三級にありつけるかもしれんて。この頃は、金鵄も貰い易くなっているからな。そうすると、年金が七百円とれると……
 不意に、どこからか、数発の銃声がして、彼の鼻のさきを、ヒュッと弾丸《たま》が唸ってとび去った。彼は、思わず頸をすくめた。その拍子に馬はびっくりしてはね上った。そして尻をしたたかにぶん殴られたように前方へ驀進《ばくしん》した。隊長は、辷《すべ》り落ちそうになりながら、
「おォ、おォ、おォ!」
と悲しげな声を出した。
「誰れか来て呉れい!」彼は、おおかた、口に出して、それを叫ぼうとした。
 左側の樅《もみ》やえぞ松がある山の間にパルチザンが動いているのが兵士達の眼に映じた。彼等は、すぐ地物のかげに散らばった。
 パルチザンは、その山の中から射撃していたのだ。
 パルチザンは、明らかに感情の興奮にかられているようだった。
 その森の中からとんで来る弾丸は髪の毛一本ほどにま近く、兵士の身体をかすめて唸った。

       

 パルチザンは、山伝いに、カーキ色の軍服を追跡していた。
 彼等は空に向って、たま[#「たま」に傍点]をぶっぱなしたあの一角から、逃げのびた者だった。――その中には馬を焼かれたウォルコフもまじっていた。
 そこらへんの山は、パルチザンにとって、自分の手のようによく知りぬいているところだった。
 村を焼き討ちされたことが、彼等の感情を極端に激越に駆りたてていた。
 弾丸は逃げて行くカーキ色の軍服の腰にあたり、脚にあたり、また背にあたった。短い脚を、目に見えないくらい早くかわして逃げて行く乱れた隊列の中から、そのたびに一人また一人、草ッ原や、畦《あぜ》の上にころりころり倒れた。露西亜語を話す者のでない呻《うめ》きが倒れたところから聞えてきた。
「あたった。あたった。――そら一匹やっつけたぞ。」
 そのたびに、森の中では、歓喜の声を上げていた。
 中には、倒れた者が、また起き上って、びっこを引き引き走って行く者がある。傷ついた手をほかの手で握って走る者がある。それをパルチザンは森の中からねらいをきめて射撃した。興奮した感情は、かえってねらいを的確にした。
 カーキ色の軍服は、こっちで引鉄《ひきがね》を握りしめると、それから十秒もたたないうちに、足をすくわれたように草の上へ引っくりかえった。
「そら、また一匹やった。」
「あいつは兵卒だね。長い刀をさげて馬にのっている奴を引っくりかえしてやれい! 俺ら、あいつが憎らしいんだ。」
「ようし!」
「俺ら、あの長い軍刀がほしいんだ。あいつもやったれい!」
 彼等はだんだん愉快になってきた。…………

 (昭和三年十月)

底本:「現代日本文學大系 56 葉山嘉樹・黒島伝治・平林たい子集」筑摩書房
   1971(昭和46)年7月15日初版第1刷発行
   1974(昭和49)年5月30日初版第2刷発行
入力:大野裕
校正:柳沢成雄
2001年8月24日公開
2005年12月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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黒島伝治

チチハルまで——黒島伝治

       一

 十一月に入ると、北満は、大地が凍結を始める。
 占領した支那家屋が臨時の営舎だった。毛皮の防寒胴着をきてもまだ、刺すような寒気が肌を襲う。
 一等兵、和田の属する中隊は、二週間前、四平街を出発した。四※[#「さんずい+兆」、第3水準1-86-67]線で※[#「さんずい+兆」、第3水準1-86-67]南に着き、それからなお二百キロ北方に進んだ。
 兵士達は、執拗な虱の繁殖になやまされだした。
「ロシヤが馬占山の尻押しをしとるというのは本当かな?」もう二十日も風呂に這入らない彼等は、早く後方に引きあげる時が来るのを希いながら、上からきいた噂をした。
「ウソだ。」
 労働組合に居ったというので二等兵からちっとも昇級しない江原は即座にそれを否定した。
「でも、大砲や、弾薬を供給してるんじゃないんか?」
「それゃ、全然作りことだ。」
「そうかしら?」
 大興駅附近の丘陵や、塹壕には砲弾に見舞われた支那兵が、無数に野獣に喰い荒された肉塊のように散乱していた。和田たちの中隊は、そこを占領した。支那兵は生前、金にも食物にも被服にもめぐまれなかった有様を、栄養不良の皮膚と、ちぎれた、ボロボロの中山服に残して横たわっていた。それを見ると和田は何故とも知れず、ぞくッ[#「ぞくッ」に傍点]とした。
 一度退却した馬占山の黒龍江軍は、再び逆襲を試みるために、弾薬や砲を整え、兵力を集中していた。ロシアは、それを後援している。
「支那人朝鮮人」共産軍がブラゴウェチェンスクから増援隊として出動した。そういう噂が、各中隊にもっぱらとなって来た。
「――相手は、支那兵だけではないんである。皆は、決して、油断をしてはいけない! いいか!」
 鯖ヒゲの中隊長が注意を繰かえした。
 前線から帰ってくる将校斥候はロシヤ人や、ロシアの大砲を見てきたような話をした。
「本当かしら?」
 和田達多くの者は、麻酔にかかったように、半信半疑になった。
「ロシヤが、武器を供給したんだって? 黒龍江軍が抛《ほう》って逃げた銃を見て見ろ。みんな三八式歩兵銃じゃないか!」
「うむ、そうだな!」
 が、噂は、やはり無遠慮にはげしくまき散らされだした。
 ある夕方、彼等が占領地から営舎に帰ると、慰問袋と一緒に、手紙が配られてあった。
「今年は、こちらだけでなく北海道も一帯にキキンという話だ、年貢をおさめて、あとにはワラも残らず……」和田はそれを読んでいた。と、そこへ伍長が、江原を呼びに来た。
「何か用事ですか?」江原は不安げに反問した。
「何でもいい。そのまま来い!」
「どんな用事か、きかなきゃ分らないじゃないですか!」
「なにッ! 森口も浜田も来い!」
 江原だけでなく五六人が手紙も読みさしで、しぶしぶ起って行った。かれらは一列になって出て行った。あとに残った和田達は、無言でお互に顔を見合わしていた。
 江原達はそのまま帰ってこなかった。
 翌日未明に、軍隊は北進命令を受けた。
 二十六時間の激戦や進軍の後、和田達は、チチハルにまで進んだ。煮え湯をあびせられた蟻のように支那兵は到るところに群をなして倒れていた。大砲や銃は遺棄され、脚を撃たれた馬はわめいていた。和田はその中にロシア兵がいるかと思って気をはりつめていた。ロシア人や、ロシアの銃や、ロシアの大砲はしかし、どこにも発見することが出来なかった。和田はだんだん何だかアテがはずれたようなポカンとした気持になって行った。

底本:「日本プロレタリア文学集・20 「戦旗」「ナップ」作家集(七)」新日本出版社
   1985(昭和60)年3月25日初版
   1989(平成元)年3月25日第4刷
底本の親本:「黒島伝治全集第二巻」筑摩書房
初出:「文学新聞」
   1932(昭和7)年2月5日号
入力:林 幸雄
校正:土屋 隆
2001年12月4日公開
2005年12月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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黒島伝治

「紋」——黒島伝治

古い木綿布で眼隠しをした猫を手籠から出すとばあさんは、
「紋よ、われゃ、どこぞで飯を貰うて食うて行け」と子供に云いきかせるように云った。
 猫は、後へじり/\這いながら悲しそうにないた。
「性悪るせずに、人さんの余った物でも貰うて食えエ……ここらにゃ魚も有るわいや。」
 猫は頻りにないて、道と田との間の溝《どぶ》に後足を踏み込みそうになった。溝の水は澱んで腐り、泥の中からは棒振りが尾を出していた。
「そら、落ち込むがな。」ばあさんは猫を抱き上げた。汚れた白い毛の所々に黒い紋がついていた。ばあさんは肥った無細工な手でなでてやった。まだ幼い小猫時代には、毛は雪のように純白で、黒毛の紋は美しかった。で、「紋」という名をつけたのだった。しかし大きくなって、雛を捕ったり、魚を盗んだりしだすと、床板の下をくぐって人目を避けたり、寒い時には焚いたあとの火の消えたばかりの竈の中へにじりこんで寝たりするので、毛は黒く汚れていた。ばあさんも、野良仕事が忙しくって洗ってやりもしなかった。
「おとなしに、何でも貰うて食うて行け!」暫らくばあさんは、猫を胸にくっ著けて抱いていたが向うから空俥が見えだすと、ついに道の中に捨てて、丘の方へ引っかえした。
 丘の上から振りかえると、猫はなお頻りに道を這いながらないていた。俥は、海辺の網小屋のところに止まっていた。黒く静かな入江には、漁舟が四五艘動かずに浮いていた。小島の青い松のかげからは、弁財天の鳥居が見えた。
 ばあさんは、猫の毛のついた手籠を提げて丘を反対の方へ下った。これから七里ばかり歩いて、家へ帰るのである。
「紋」は、つい近ごろ、他家の台所で魚を盗んだり、お櫃の蓋を鼻さきで突き落して飯を食ったりすることを覚えた。そんな悪るさをするたびに、「茂兵衛ドンにゃ慾をしてこ猫に飯もやらんせによそでひろ/\するんじゃ。」とばあさんの家は、隣近所から悪く云われた。
「チョチョチョチョ、紋よ、われゃ、よそで飯を盗んで食うたりするんじゃないぞ。……家でなんぼでも食えエ。」ばあさんは、三度の食事毎に夫婦が食っている麦飯を、猫の飯椀に盛り上げてやった。ダシがらの鰯もやった。猫は舌なめずりをして、それを食うて腹をふくらした。それだのに、他所へ行くと、早速、盗みを働くのだった。
 そうして、本職の鼠を捕る方は、おろそかになった。
「おりくよ、旦那んとこにゃ、雛を捕られた云うて大モメをしよるが、また家の紋が捕ったんじゃないんか。」ある時、畠から帰りかけた、地主の家の騒ぎを聞いてきて、じいさんは、ばあさんに云った。
「そうかいんの、……あれはどこイ行たんかしらん……チョチョチョ。」ばあさんは猫を呼んでみた。すると、どこからか、悄々《しお/\》として「紋」が出てきた。
「われゃ、どこに居ったんぞ?」
 そうしているところへ、地主の下男が、喰い殺された雛の脚をさげてやってきた。
「お前んとこの猫は、こら、こんなに雛を喰い殺してしまいやがった!」と下男は、雛をばあさんの顔さきへ突きつけた。
「それゃ、まあ、すまんこって……」
「おどれが、こんな所で、のこのこ這いよりくさる!」下男は猫を見ると、素早く、礫を拾って投げつけた。不意に飛んできた礫に驚いて猫は三四間走ってから、下男を振り返って見て、物乞いするようにないた。
「おどれが!」再び下男は礫を投げつけた。
「この頃は、盗を働いて、鼠の番もせんせに、大分納屋の麦を鼠に食われよる。」じいさんは、晩飯を食ってから、煙草に火をつけながら云った。
「もう俵に孔でも開けとるかよ?」
「うむ。……俵のまわりは鼠の糞だらけじゃ。こんなことじゃ毎晩五合位い食われようことイ。」
「そうじゃろうか。……それでも、あいつを棄てるんは可愛そうじゃし……」
 おりくの家には風呂がなかった。地主の家や、近所で入れて貰っていた。で、向いの本土へ出稼ぎに行っている息子が時々帰ると、その土産物を御礼のつもりで心して持って行っていた。ところが、猫が悪るさをしだしてからは、地主の家からも、近所からも、風呂に入りに来いと云ってきなくなった。
「そこの人が悪いと、猫まで悪るなるもんじゃ。」風呂入りに集った近隣の老人達はおりくの家のことを悪く云いあった。
「あしこには、ろくに飯を食わさんのじゃろう。」
「あしこの茂公は、ほんまに油断がならなんだせにんの。」
 盗癖のために村にいられなくなって、どこかへ出奔して、十数年来頼りがない茂吉という、じいさんの弟があった。監獄へこそ行かなかったが、警察へはたびたび呼びつけられていた。近所の人々は、猫のことから、こんな古い疵《きず》まで洗いたてて喋りあった。
「もうあんな奴は放ってしまえ。」やがてじいさんは猫のことをこう云い出した。
「捨てる云うたって、家に生れて育った猫じゃのに可愛そうじゃの」
「うらあもう大分風呂イ入らんせに垢まぶれじゃ」
 四五日、捨てる、捨てないで、云いあった後、ばあさんは、一日をつぶして、猫を手籠に入れて捨てに行った。近くだとすぐ帰って来るので、遠く向うの漁村まで行った。
 夜、じいさんは、夜なべに草履を作っていた。ばあさんは、長途を往復した疲れでぐったり坐っていた。秋の夜風が戸外の杏の枝を揺がしていた。雁の音がかすかに聞えて来る。
 と、戸外で「紋」のなく声がした。物乞うように続けてないた。
「戻って来たんかいな。」居眠りをしていたばあさんは、ふと眼を開けた。
「うむ、戻ってきたわイ。」じいさんは不服そうに云った。「内へ入れずに放っとけ!」
 障子は閉め切ってあった。「紋」は入口がないので、家の周囲をぐる/\廻って鳴いた。
「可愛そうに、入れてやろうか。」ばあさんは立ちかけた。
「えゝい、放っとけ。」
「障子でも破って入って来たら、あとで手がいるがの。」
 入口を開けてやると、「紋」はなつかしそうに、ばあさんの足もとにざれついた。
「そら、腹が減ったじゃろう。……よそでぬすっとやかいするんじゃないぞ!」とばあさんは麦飯を椀に入れてやった。
「猫を放った云うて、嘘の皮じゃ。まだ、ひろ/\してやがら。」
「あんな奴は叩き殺してしまえ!」近所の人々は口々に、憎さげに云った。
「もっと遠いとこイ持って行《い》て捨てイ。」とじいさんは、近所の噂を聞いてきて、ばあさんに云った。
「遠い所いうたって、どこへ持って行くだよ。」
「どこぞ、なか/\戻って来られん所じゃ。」
 毎晩、じいさんと、ばあさんとはこんなことを話しあっていた。
 地主の坊ちゃんは、部落の子供達を集めて、それぞれ四五尺の棒を手にして、猫を追っかけてぶん殴りに来た。
「茂兵衛ドンの猫は家の雛を捕ったんじゃで……魚でも、芋でも、何でも盗むんじゃ。」会う人に悉くそうふれまわった。
 我鬼どもは坊っちゃんのあとから、ひとかどの兵士になったつもりで、列を作って走った。棒は銃の代りに肩にかついでいた。
 子供達は、毎日兵隊ごっこをやった。敵はいつも猫だった。大将になった坊っちゃんのあとにはボール紙を円く巻いて口にあてがった、喇叭卒がつづいていた。
 猫は、跛を引いて逃げ帰ると、納屋の隅にうずくまって、殴られた足をかばうようにねぶった。
「猫を出せエ、こらッ! 猫を出せエ、こらッ!」兵隊になった子供達は、おりくの家のまわりを囲んで叫んだ。
 ばあさんは、また一日をつぶして、「紋」を手籠に入れて捨てに行った。今度は、上り一里、下り一里半の山を越して遠くへ行った。
「やれ/\寛ろいだ。もうこれで戻りゃせんじゃろうんの。」晩に暗くなってから、ばあさんは家へ帰って、「どこぞで風呂を一っぱい貰いたいもんじゃ。――ああ、シンドかった。」
「太衛門にゃ風呂場から煙が出よったけれど、入りに来い云うて来りゃせんがい。」と、じいさんは井戸端で足を洗ってきて云った。
「せんど風呂に入らんせに、垢まぶれになった上に汗をかいて、気色が悪るうてどうならん。」
 二人は、もう殆ど一カ月ばかり風呂に入っていなかった。夏だったら行水が出来るのだが、秋も十一月の初めになっては行水どころではなかった。
「まあ、今夜は、乾手拭ででも身体を拭いて辛抱せい。二三日たったら、またもとのように旦那んとこで入れて貰えようだイ。」と、じいさんは云って、自分で掘って来て蒸した芋を頬ばった。
 けれども、一日おいて、猫は再び帰って来た。そして、以前と同様に魚を盗んだり、鶏をねらったりした。
 子供達は、もう忘れてしまったように猫をいじめなかった。が、その代り、大人が、見つけ次第に礫を投げつけたり、棒でぶん殴りに来たりした。
「また味をつけて鶏を捕りやがった。今度は雛じゃなしに鶏じゃ。」地主の下男が、喧嘩腰で、また奴鳴りこんできた。
「一体、お前等が悪いんじゃ。戻らんとこへ捨てりゃえいことを、捨てもせず、放ったらかしじゃせに、よその鶏を捕るんじゃ。これは三円もする鶏じゃないかい。――こんなことしよったら、田や畠も旦那に取り上げられて、作らして呉れやせんぞイ。」
 下男は、鶏が一羽なくなったところで自分の損でもないのに、如何にも惜しそうな調子で文句を並べたてた。
 猫は、後脚に礫をあてられて、血を流しながら竈の傍につくなんでいた。
「今度見つけたら、見つけ次第に叩き殺してやる!」下男はこんな捨てせりふを残して去った。
「殺されたら可愛そうじゃせに、よそイ出て行かんように、家につないどこうかいの。」ばあさんは麦蒔きに、畑へ出かけしなに、じいさんにそう云って、「紋」を細紐で柱につないでおいた。
 後脚の礫があたったところは、禿になった。毎年猪の子に旦那の家から部落中に配ってくれる団子は、その年に限って、おりくの家へだけは呉れなかった。
 ついに、ばあさんは、港から出る発動機船に頼んで本土へ猫を積んで行って貰った。彼女は長いこと風呂に入らず、たまらなくなって、一度だけ隣村の銭風呂へ行ったりした。
 地主の下男は、地子を集めるのに、まず第一番に、おりくの家へ荷車を引いてやって来た。
 ばあさんは村を歩くのに、引けめを感じておず/\していた。旦那や御領ンさんに顔を合すのがおっかなくって、向うから来るのを見かけると、わざと道を外らした。大師講に参ると部屋の隅で小さくなっていた。が、今度こそは、再び猫が帰って来る気遣いないので、やっと助かった思いをしていた。
「おりくさん、猫をあっちイ積んで行《い》たんはえいけれど、とう/\殺してしもうたがいの。」発動機船の舟方は、本土から帰ってばあさんに云った。
「そうかいの。」と、ばあさんは、じいっと船方を注視して話をきいた。
 それは、船が本土を出帆するまぎわになると、放り上げた猫が、荷揚場から、又船へ飛び乗ろうとしているのだった。それを見つけると船方は、早速、水荷い棒を取って、猫をめがけて殴った。ところが、そう力は入れなかったのに、棒が急所にあたったと見えて、猫は一度にころりと海の中に落ちて死んでしまった。というのだった。
「ほんに、可憐そうに!……」それを聞いてばあさんは沈みこんでしまった。

底本:「黒島傳治全集 第一巻」筑摩書房
   1970(昭和45年)年4月30日第1刷発行
入力:大野裕
校正:富田倫生
2000年10月16日公開
2000年11月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。