国木田独歩

女難——国木田独歩

     一

 今より四年前のことである、(とある男が話しだした)自分は何かの用事で銀座を歩いていると、ある四辻《よつつじ》の隅《すみ》に一人の男が尺八を吹いているのを見た。七八人の人がその前に立っているので、自分もふと足を止めて聴《き》く人の仲間に加わった。
 ころは春五月の末で、日は西に傾いて西側の家並みの影が東側の家の礎《いしずえ》から二三尺も上に這《は》い上っていた。それで尺八を吹く男の腰から上は鮮《あざ》やかな夕陽《ゆうひ》に照されていたのである。
 夕暮近いので、街はひとしおの雑踏を極め、鉄道馬車の往来、人車《くるま》の東西に駈《か》けぬける車輪の音、途《みち》を急ぐ人足の響きなど、あたりは騒然紛然としていた。この騒がしい場所の騒がしい時にかの男は悠然《ゆうぜん》と尺八を吹いていたのである。それであるから、自分の目には彼が半身に浴びている春の夕陽までがいかにも静かに、穏やかに見えて、彼の尺八の音の達《とど》く限り、そこに悠々たる一|寰区《かんく》が作られているように思われたのである。
 自分は彼が吹き出づる一高一低、絶えんとして絶えざる哀調を聴きながらも、つらつら彼の姿を看《み》た。
 彼は盲人《めくら》である。年ごろは三十二三でもあろうか、日に焼けて黒いのと、垢《あか》に埋《うず》もれて汚ないのとで年もしかとは判じかねるほどであった。ただ汚ないばかりでなく、見るからして彼ははなはだやつれていた、思うに昼は街《ちまた》の塵《ちり》に吹き立てられ、夜は木賃宿の隅に垢じみた夜具を被《かぶ》るのであろう。容貌《かおだち》は長い方で、鼻も高く眉毛《まゆげ》も濃く、額は櫛《くし》を加えたこともない蓬々《ぼうぼう》とした髪《け》で半ばおおわれているが、見たところほどよく発達し、よく下品な人に見るような骨張ったむげに凸起《とっき》した額ではない。
 音の力は恐ろしいもので、どんな下等な男女《なんにょ》が弾吹しても、聴く方から思うと、なんとなく弾吹者その人までをゆかしく感ずるものである。ことにこの盲人はそのむさくるしい姿に反映してどことなく人品の高いところがあるので、なおさら自分の心を動かした、恐らく聴いている他の人々も同感であったろうと思う。その吹き出づる哀楽の曲は彼が運命|拙《つた》なき身の上の旧歓今悲を語るがごとくに人々は感じたであろう。聴き捨てにする人は少なく、一銭二銭を彼の手に握らして立ち去るが多かった。

     

 同じ年の夏である。自分は家族を連れて鎌倉に暑さを避け、山に近き一|小屋《こいえ》を借りて住んでいた。ある夜のこと、月影ことに冴《さ》えていたので独《ひと》り散歩して浜に出た。
 浜は昼間の賑《にぎ》わいに引きかえて、月の景色の妙《たえ》なるにもかかわらず人出少し。自分は小川の海に注ぐ汀《みぎわ》に立って波に砕くる白銀《しろがね》の光を眺めていると、どこからともなく尺八の音が微《かす》かに聞えたので、あたりを見廻わすと、笛の音は西の方、ほど近いところ、漁船の多く曳《ひ》き上げてあるあたりから起るのである。
 近づいて見ると、はたして一艘の小舟の水際より四五間も曳き上げてあるをその周囲《まわり》を取り巻いて、ある者は舷《ふなばた》に腰かけ、ある者は砂上《すな》にうずくまり、ある者は立ちなど、十人あまりの男女が集まっている、そのうちに一人の男が舷に倚《よ》って尺八を吹いているのである。
 自分は、人々の群よりは、離れて聴いていた。月影はこんもり[#「こんもり」に傍点]とこの一群《ひとむれ》を映《てら》している、人々は一語《ひとこと》を発しないで耳を傾けていた。今しも一曲が終わったらしい、聴者《ききて》の三四人は立ち去った。余の人々は次の曲を待っているけれど吹く男は尺八を膝《ひざ》に突き首《かしら》を垂《た》れたまま身動きもしないのである。かくしてまた四五分も経った。他の三四人がまた立ち去った。自分は小船に近づいた。
 見ると残っている聴者の三人は浜の童の一人、村の若者の二人のみ、自分は舷に近く笛吹く男の前に立った。男は頭《かしら》を上げた。思いきや彼はこの春、銀座街頭に見たるその盲人ならんとは。されど盲人なる彼れの盲目《めくら》ならずとも自分を見知るべくもあらず、しばらく自分の方を向いていたが、やがてまた吹き初めた。指端《したん》を弄して低き音の縷《いと》のごときを引くことしばし、突然中止して船端《ふなばた》より下りた。自分はいきなり、
「あんまさん、私の宅《うち》に来て、少し聞かしてくれんか」
「ヘイ、ヘイー」と彼は驚いたように言って急に自分の顔を見て、そしてまた頭を垂れ首を傾け「ヘイ、どちら様へでも参ります」
「ウン、それじゃ来ておくれ」と自分は先に立った。
「お前の眼は全く見えないのかね」と四五歩にして振り返りさま自分は問うた。
「イイエ、右の方は少し見えるのでございます」
「少しでも見えれば結構だね」
「ヘエ、ヘヘヘヘヘ」と彼は軽《かろ》く笑ったが「イヤなまじすこしばかり見えるのもよくございません、欲が出ましてな」
「オイ橋だぞ」と溝《みぞ》にかけし小橋に注意して「けれども全く見えなくちゃアこんなところまで来て稼《かせ》ぐわけにゆかんではないか」
「稼ぐのならようございますが流がすので……」
「お前どこだイ、生まれは」
「生まれは西でございます、ヘイ」
「私はお前をこの春、銀座で見たことがある、どういうものかその時から時々お前のことを思いだすのだ、だから今もお前の顔を一目見てすぐ知った」
「ヘイそうでございますか、イヤもう行き当りばったりで足の向き次第、国々を流して歩るくのでございますからどこでどなた様に逢《あ》いますことやら……」
 途《みち》で二三の年若い男女に出遇《であ》った。軽雲一片月をかざしたのであたりはおぼろになった。手風琴の軽い調子が高い窓から響く。間もなく自分の宅《うち》に着いた。

     三

 縁辺《えんがわ》に席を与えて、まず麦湯一杯、それから一曲を所望した。自分は尺八のことにはまるで素人であるから、彼が吹くその曲の善《よ》し悪《あ》し、彼の技の巧拙はわからないけれども、心をこめて吹くその音色の脈々としてわれに迫る時、われ知らず凄動《せいどう》したのである。泣かんか、泣くにはあまりに悲哀《かなしみ》深し、吹く彼れはそもそもなんの感ずることなきか。
 曲終れば、音を売るものの常として必ず笑み、必ず謙遜の言葉の二三を吐くなるに反して、彼は黙然として控え、今しもわが吹き終った音の虚空に消えゆく、消えゆきし、そのあとを逐《お》うかと思わるるばかりであった。
 自分は彼の言葉つき、その態度により、初めよりその身の上に潜める物語りのあるべきを想像していたから、遠慮なく切りだした。
「尺八は本式に稽古《けいこ》したのだろうか、失敬なことを聞くが」
「イイエそうではないのでございます、全く自己流で、ただ子供の時から好きで吹き慣らしたというばかりで、人様にお聞かせ申すものではないのでございます、ヘイ」
「イヤそうでない、全くうまいものだ、これほど技があるなら人の門《かど》を流して歩かないでも弟子でも取った方が楽だろうと思う、お前|独身者《ひとりもの》かね?」
「ヘイ、親もなければ妻子もない、気楽な孤独者《ひとりもの》でございます、ヘッヘヘヘヘヘ」
「イヤ気楽でもあるまい、日に焼け雨に打たれ、住むところも定まらず国々を流れゆくなぞはあまり気楽でもなかろうじゃアないか。けれどもいずれ何か理由《いわれ》のあることだろうと思う、身の上話を一ツ聞かしてもらいたいものだ」と思いきって正面から問いかけた。人の不幸や、零落につけこんで、その秘密まで聞こうとするのは、決して心あるもののすることでないとは承知しながらも、彼に二度まで遇い、その遇うた場所と趣とが少からず自分を動かしたために、それらを顧慮することができなかったのである。
「ヘイ、お話ししてもよろしゅうございます。今日はどういうものかしきりと子供の時のことを想いだして、さきほども別荘の坊ちゃまたちがお庭の中で声を揃《そろ》えて唱歌を歌っておいでになるのを聞いた時なんだか泣きたくなりました。
 私の九《ここの》つ十《とお》のころでございます、よく母に連れられて城下から三里奥の山里に住んでいる叔母の家を訪ねて、二晩三晩泊ったものでございます。今日もちょうどそのころのことを久しぶりで思い出しました。今思うと、私が十七八の時分ひとが尺八を吹くのを聞いて、心をむしられるような気がしましたが、今私が九つや十の子供の時を想い出して堪《たま》らなくなるのとちょうど同じ心持でございます。
 父には五つの歳に別れまして、母と祖母《ばば》との手で育てられ、一反ばかりの広い屋敷に、山茶花《さざんか》もあり百日紅《さるすべり》もあり、黄金色の茘枝《れいし》の実が袖垣《そでがき》に下っていたのは今も眼の先にちらつきます。家と屋敷ばかり広うても貧乏士族で実は喰うにも困る中を母が手内職で、子供心にはなんの苦労もなく日を送っていたのでございます。
 母も心細いので山家の里に時々帰えるのが何よりの楽しみ、朝早く起きて、淋しい士族屋敷の杉垣ばかり並んだ中をとぼとぼと歩るきだす時の心持はなんとも言えませんでした。山路三里は子供には少し難儀で初めのうちこそ母よりも先に勇ましく飛んだり跳《は》ねたり、田溝の鮒《ふな》に石を投げたりして参りますが峠にかかる半《なか》ほどでへこたれてしまいました。それを母が励まして絶頂の茶屋に休んで峠餅《とうげもち》とか言いまして茶屋の婆が一人ぎめの名物を喰わしてもらうのを楽しみに、また一呼吸《ひといき》の勇気を出しました。峠を越して半《なか》ほどまで来ると、すぐ下に叔母の村里が見えます、春さきは狭い谷々に霞《かすみ》がたなびいて画のようでございました、村里が見えるともう到《つ》いた気でそこの路傍《みちばた》の石で一休みしまして、母は煙草《たばこ》を吸い、私は山の崖《がけ》から落ちる清水を飲みました。
 叔母の家は古い郷士で、そのころは大分家産が傾いていたそうですが、それでも私の目には大変金持のように見えたのでございます。太い大黒柱や、薄暗い米倉や、葛《かつら》の這い上った練塀《ねりべい》や、深い井戸が私には皆なありがたかったので、下男下女が私のことを城下の旦坊様と言ってくれるのがうれしかったのでございます。
 けれども何より嬉《うれ》しくって今思いだしても堪りませんのは同じ年ごろの従兄弟《いとこ》と二人で遊ぶことでした。二人はよく山の峡間《はざま》の渓川《たにがわ》に山※[#「魚+條」、第4水準2-93-74]《やまばえ》を釣《つ》りに行ったものでございます。山岸の一方が淵《ふち》になって蒼々《あおあお》と湛《たた》え、こちらは浅く瀬になっていますから、私どもはその瀬に立って糸を淵に投げ込んで釣るのでございます。見上げると両側の山は切り削《そ》いだように突っ立って、それに雑木《ぞうき》や赭松《あかまつ》が暗く茂っていますから、下から瞻《み》ると空は帯のようなのです。声を立てると山に響いて山が唸《うな》ります、黙って釣っていると森《しん》としています。
 ある日ふたりは余念なく釣っていますと、いつの間にか空が変って、さっと雨が降って来ました。ところがその日はことによく釣れるので二人とも帰ろうと言わないのです。太い雨が竿《さお》に中《あた》る、水面は水煙を立てて雨が跳《は》ねる、見あげると雨の足が山の絶頂から白い糸のように長く条白《しま》を立てて落ちるのです。衣服《きもの》はびしょぬれになる、これは大変だと思う矢先に、グイグイと強く糸を引く、上げると尺にも近い山※[#「魚+條」、第4水準2-93-74]の紫と紅《あか》の条《すじ》のあるのが釣れるのでございます、暴《あば》れるやつをグイと握って籠《びく》に押し込む時は、水に住む魚までがこの雨に濡れて他の時よりも一倍鮮やかで新しいように思われました。
『もう帰えろうか』と一人が言って此方をちょっと向きますが、すぐまた水面を見ます。
『帰ろうか』と一人が答えますが、これは見向きもしません、実際何を自分で言ったのかまるで夢中なのでございます。
 そのうちに雷がすぐ頭の上で鳴りだして、それが山に響いて山が破裂するかと思うような凄い音がして来たので、二人は物をも言わず糸を巻いて、籠《びく》を提《さ》げるが早いかドンドン逃げだしました。途中まで来ると下男が迎えに来るのに逢いましたが、家に帰ると叔母《おば》と母とに叱《しか》られて、籠を井戸ばたに投げ出したまま、衣服を着更えすぐ物置のような二階の一室《ひとま》に入り小さくなって、源平盛衰記の古本を出して画を見たものです。
 けれども母と叔母はさしむかいでいても決して笑い転《ころ》げるようなことはありません、二人とも言葉の少ない、物案じ顔の、色つやの悪い女でしたが、何か優しい低い声でひそひそ話し合っていました。一度は母が泣き顔をしている傍《そば》で叔母が涙ぐんでいるのを見ましたが私は別に気にも留めず、ただちょっとこわいような気がしてすぐと茶の間を飛び出したことがありました。
 私は七日も十日も泊っていたいのでございますが、長くて四日も経ちますと母が帰ろうと言いますので仕方なしに帰るのでございます。一度は一人残っていると強情を張りましたので、母だけ先に帰りましたが、私は日の暮れかかりに縁先に立っていますと、叔母の家は山に拠って高く築《つ》きあげてありますから山里の暮れゆくのが見下されるのです。西の空は夕日の余光《なごり》が水のように冴《さ》えて、山々は薄墨の色にぼけ、蒼《あお》い煙が谷や森の裾《すそ》に浮いています、なんだかうら悲しくなりました。寺の鐘までがいつもとは違うように聞え、その長く曳《ひ》く音が谷々を渡って遠く消えてゆくのを聞きましたら、急に母が恋しくなって、なぜ一しょに帰らなかったろう、今時分は家に着いて祖母《おばア》さんと何か話してござるだろうなど思いますと堪らなくなって叔母にこれからすぐ帰えると云いだしました。叔母は笑って取り合ってくれません、そのうちに燈火《あかり》が点《つ》く、従兄弟と挾《はさ》み将棊《しょうぎ》をやるなどするうちにいつか紛れてしまいましたが、次の日は下男に送られすぐ家に帰りました。
 また母と一しょに帰る時など、二人とも出かける時ほどの元気はありませんで、峠を越す時、母は幾度となく休みます。思い出しますのはその時の母の顔でございます。石に腰をおろしてほっと呼吸《いき》を吐《つ》いて言うに言われん悲しげな顔つきをします、その顔つきを見ますと私までが子供心にも悲しいような気がしまして黙ってつくねん[#「つくねん」に傍点]と母の傍《そば》に腰をかけているのでございます。そうすると母が、『お前腹がすきはせんか、腹がすいたら餅をお喰べ、出して上げようか』と言って合財嚢《がっさいぶくろ》の口を開きかけます。私が、『腹はすかない』と言えば、『そんなことを言わないで一つお喰べ、おっかさんも喰べるから』と言って無理に餅をくれます。そうされますと、私はなぜかなお悲しくなって、母の膝にしがみついて泣きたいほどに感じました。
 私は今でも母が恋しくって恋しくって堪らんのでございます」
 盲人は懐旧の念に堪えずや、急に言葉を止めて頭を垂れていたが、しばらくして(聴者《ききて》の誰人《たれ》なるかはすでに忘れはてたかのごとく熱心に)
「けれどもこれはあたりまえでございます、母はまるで私のために生きていましたので、一人の私をただむやみと可愛がりました。めったに叱ったこともありません、たまさか叱りましてもすぐに母の方から謝《あや》まるように私の気嫌を取りました。それで私は我儘《わがまま》な剛情者に育ちましたかと言うにそうではないので、腕白者のすることだけは一通りやりながら気が弱くて女のようなところがあったのでございます。
 これが昔気質の祖母《ばば》の気に入りません、ややともすると母に向いまして、
『お前があんまり優しくするから修蔵までが気の弱い児になってしまう。お前からしても少ししっかりして男は男らしく育てんといけませんぞ』とかく言ったものです。
 けれども母の性質《うまれつき》としてどうしても男は男らしくというような烈《はげ》しい育て方はできないのです。ただむやみと私が可愛いので、先から先と私の行く末を考えては、それを幸福《しあわせ》の方には取らないで、不幸せなことばかりを想い、ひとしお私がふびん[#「ふびん」に傍点]で堪らないのでございました。
 ある時、母は私の行く末を心配するあまりに、善教寺という寺の傍《そば》に店を出していた怪しい売卜者《うらないしゃ》のところへ私を連れて参りました。
 売卜者の顔はよく憶《おぼ》えております、丸顔の眼の深く落ちこんだ小さな老人で、顔つきは薄気味悪うございましたが母と話をするその言葉つきは大変に優しくって丁寧で、『アアさようかな、それは心配なことで、ごもっともごもっとも、よく私が卜《み》て進ぜます』という調子でございました。
 老人は私の顔を天眼鏡で覗《のぞ》いて見たり、筮竹《ぜいちく》をがちゃがちゃいわして見たり、まるで人相見と八卦見《はっけみ》と一しょにやっていましたが、やがてのことに、
『イヤ御心配なさるな、この児さんは末はきっと出世なさるる、よほどよい人相だ。けれど一つの難がある、それは女難だ、一生涯女に気をつけてゆけばきっと立派なものになる』と私の頭を撫《な》でまして、『むむ、いい児だ』としげしげ私の顔を見ました。
 母は大喜びに喜こびまして、家に帰えるやすぐと祖母にこのことを吹聴しましたところが祖母は笑いながら、
『男は剣難の方がまだ男らしいじゃないか、この児は色が白うて弱々しいからそれで卜者《うらないしゃ》から女難があると言われたのじゃ、けれども今から女難もあるまい、早くて十七八、遅くとも二十《はたち》ごろから気をつけるがよい』と申しました。
 ところが私にはその時(十二でした)もう女難があったのでございます。
 ここまでお話ししたのでございますから、これから私の女難の二つ三つを懺悔《ざんげ》いたしましょう。売卜者はうまく私の行く末を卜《うらな》い当てたのでございます。
 そのころ、私の家から三丁ばかり離れて飯塚という家がございましたがそこの娘におさよと申しまして十五ばかりの背《せい》のすらりとして可愛らしい児がいました。
 その児が途《みち》で私を見るときっとうちに遊びに来いと言うのです。私も初めのうちは行きませんでしたがあまりたびたび言うので一度参りますると、一時間も二時間も止めて還《かえ》さないで膝の上に抱き上げたり、頸《くび》にかじりついたり、頭の髪を丁寧に掻《か》き下してなお可愛くなったとその柔らかな頬《ほお》を無理に私の顔に押しつけたり、いろいろな真似をするのでございます。
 そうすると私もそれが嬉れしいような気がして、その後はたびたび遊びに出かけて、おさよの顔を見ないと物足りないようになりました。
 そのうち、売卜者から女難のことを言われ、母からは女難ということの講釈を聞かされましたので、子供心にも、もしか今のが女難ではあるまいかと、ひどくこわくなりましたが、母の前では顔にも出さず、ないない心を痛めていながらも時々おさよのもとに遊びに参りましたのでございます。
 今から思いますと、やはりそのころ私はおさよを慕うていたに違いないのです、おさよが私を抱いて赤児《あかんぼ》扱いにするのを私は表面《うわべ》で嫌がりながら内々はうれしく思い、その温たかな柔らかい肌《はだ》で押しつけられた時の心持は今でも忘れないのでございます。女難といえばその時もう女難に罹《かか》っていたといってもよろしゅうございましょう。
 母は毎日のように、女はこわいものだという講釈をして聴かし、いろいろと昔の人のことや、城下の若い者の身の上などを例えに引いて話すのでございます。安珍《あんちん》清姫《きよひめ》のことまで例えに引きました。外面如菩薩《げめんにょぼさつ》内心|如夜叉《にょやしゃ》などいう文句は耳にたこのできるほど聞かされまして、なんでも若い女と見たら鬼か蛇《じゃ》のように思うがよい、親切らしいことを女が言うのは皆な欺《だ》ますので、うかとその口に乗ろうものならすぐ大難に罹りますぞよというのが母の口癖でありましたのでございます。
 私は母を信仰していましたから母の言うことは少しも疑いませんでした。それですからおさよも事によったら内心如夜叉ではないかとこわがりながらも、自分で言いわけをこしらえて、おさよさんはまだ子供だし自分もまだ子供だからそんなこわいことはない、おさよさんが自分を可愛がるのは真実に可愛がるので決して欺《だま》すのじゃあないとこういう風に考えていたのでございます。
 ところがある日、日の暮に飯塚の家の前を通るとおさよが飛び出して来て、私を無理に引っ張り込みました。そしてなぜこの四五日遊びに来なかったと聞きますから、風邪を引いたといいますと、それは大変だ、もう癒《なお》ったかと、私の顔を覗きこんで、まだ顔色がよくない、大事になさいよ修さんが病気になったら私は死んでしまうと言ってじっと私の眼を見るのでございます。私は気が弱うございますからこういわれますとなんだかうれしいやら悲しいやらツイわれ知らず涙ぐみました、それを見ておさよは私を抱きかかえましたが見るとおさよも眼に一杯涙をもっているのでございます。そして今夜は泊れおっかさんの代りに私が抱いて寝てあげるからといいます。おっかさんに叱られるからいやだと申しますと、おっかさんには私が今|往《い》って謝《ことわ》って来るからかまわないといいます。その時私が、もし母上に言ったらなお叱られる、おさよさんのとこへ遊びに来るのも内証なんだからと小声で言いましたら、いきなり私を突き離して、なぜ内証で来るの、修さんと私と遊んじゃア悪いの、悪いのならもう来なくってもようござんすよと、こわい顔をして私を睨《にら》みつけたのでございます。私は慄《ふ》るい上って縁がわから飛び下り、一目散に飯塚の家から駈け出しました。
 それからというものは決して飯塚に参りません、おさよに途で逢っても逃げ出しました。おさよは私の逃げ出すのを見ていつもただ笑っていましたから、私はなおおさよが自分を欺しかけていたのだと信じたものでございます。

     

 次の女難は私の十九の時でございます。この時はもう祖母《ばば》も母も死んでしまい、私は叔母の家の厄介《やっかい》になりながら、村の小学校に出してもらって月五円の給料を受けていました。祖母の亡くなったのは十五の春、母はその秋に亡くなりましたから私は急に孤児《みなしご》になってしまい、ついに叔母の家に引き取られたのでございます。十八の年まで淋しい山里にいて学問という学問は何にもしないでただ城下の中学校に寄宿している従兄弟から送って寄こす少年雑誌見たようなものを読み、その他は叔母の家に昔から在った源平盛衰記、太平記、漢楚軍談《かんそぐんだん》、忠義水滸伝《ちゅうぎすいこでん》のようなものばかり読んだのでございます。それですから小学校の教師さえも全くは覚束ないのですけれど、叔母の家が村の旧家で、その威光で無理に雇ってもらったという次第でございました、母の病気の時、母はくれぐれも女に気をつけろと、死ぬる間際《まぎわ》まで女難を戒しめ、どうか早く立身してくれ、草葉の蔭から祈っているぞと言って死にました。けれどもどうして立身するか、それはまるで母にも見当がつかなかったのでございます。母は叔母の家から私の学資を出さそうとしたらしゅうございました。これが都合よく参りませんものですから、私の立身を堅く信じながらも、ただそれは漠《ばく》としたことで、実は内々ひどく心痛したものと見えます。それですから母としてはただ女難を戒しめるほかに私の立身の方法はなかったのでございます。私はまたうまれつき意気地がないのかして、自分の立身のことにはどういうものかあまり気をかけませんでした。ただ母に急に別れたので、その当坐の悲しさ、一月二月は叔母の家にいても、どうかすると人の見ぬところで、めそめそ泣いておりました。
 月日の経つうちに悲しみもだんだん薄らぎ、しまいには時々思い出すぐらいのことで、叔母の親切にほだされ、いつしか叔母を母のように思うて日を送るようになったのでございます。
 十八の歳から、叔母の家を五丁ばかり離れた小学校に通って、同僚の三四人とともに村の子供の世話をして、夜は尺八の稽古に浮身をやつし、この世を面白おかしく暮すようになりました。尺八の稽古といえば、そのころ村に老人《としより》がいまして、自己流の尺八を吹いていましたのを村の若い者が煽《おだ》てて大先生のようにいいふらし、ついに私もその弟子分になったのでございます。けれども元大先生からして自己流ですから弟子も皆な自己流で、ただむやみと吹くばかり、そのうち手が慣れて来れば、やれ誰が巧いとか拙《まず》いとかてんでに評判をし合って皆なで天狗《てんぐ》になったのでございます。私の性質《うまれつき》でありましょうか、私だけは若い者の中でも別段に凝《こ》り固まり、間《ま》がな隙《すき》がな、尺八を手にして、それを吹いてさえいれば欲も得もなく、朝早く日の昇《のぼ》らぬうちに裏の山に上がって、岩に腰をかけて暁の霧を浴びながら吹いていますと、私の尺八の音でもって朝霧が晴れ、私の転《まろ》ばす音につれて日がだんだん昇るようにまで思ったこともあったのでございます。
 それですから自然と若い者の中でも私が一番巧いということになり、老先生までがほんとに稽古すれば日本一の名人になるなどとそそのかしたものです。そのうち十九になりました。ちょうど春の初めのことでございます。日の暮方で、私はいつもの通り、尺八を持って村の小川の岸に腰をかけて、独り吹き澄ましていますと、後から『修蔵様』と呼ぶものがあります。振りかえって見ると武之允《たけのじょう》といういかめしい名を寺の和尚から附けてもらった男で隣村に越す坂の上に住んでいる若い者でした。
『なんだ。武之允|山城守《やましろのかみ》』
『全く修蔵様は尺八が巧いよ』とにやにや笑うのです。この男は少し変りもので、横着もので、随分人をひやかすような口ぶりをする奴ですから、『殴るぞ』と尺八を構えて喝《おど》す真似をしますと、彼奴《きゃつ》急に真面目になりまして、
『修蔵様に是非見てもらいたいものがあるんだが見てくれませんか』と妙なことを言い出したのでございます。変に思いまして、
『なんだろう、私に見てもらいたいというのは』
『なんでもいいから、ただ見てもらえばいいのだ』
『どんなものだい、品物かい』と問いますと武の奴、妙な笑いかたをして、
『あなたの大すきなものだ』
『手前はおれをなぶるなッ』
『なぶるのじゃアない、全く見てもらいたいのでござんす。私のお頼みだから是非見てやって下さい』と今度はまた大真面目に言うのでございます。
『よろしい、見てやろうから出せ』
『出せって、今ここにはありません、ちょっと私の家へ来てもらいたいのでございますが』
『お家の宝、なんとかの剣という品物かな』と私がいいますと今度また妙に笑い出しまして、
『まずそんな物でございます、何しろ宝にゃ相違ないのだから、ウンそうだ、宝でございます』と手を拍《う》ちますので私も不思議で堪りません、私の方からも見たくなりましたから、
『それじゃこれから一緒に行こう、サア行って見てやろう』とそれから二人連れ立ちまして、武の家に参りました。
 前に申しました通り武の家は小さな坂の頂にあるのでございます。叔母の家からは七八丁もありましょうか、その坂の下に例の尺八の大先生が住んでいるのでございますから私も坂の下までは始終参りますが、坂に登ったことは三四度しかありません。この坂を越しますと狭い谷間でありまして、そこに家が十軒とはないのです。だからこの坂を越すものは村の者でもたくさんはないのでござります。武の家は一軒の母屋《おもや》と一軒の物置とありますが物置はいつも戸が〆切《しめき》ってあってその上に崕《がけ》から大きな樫《かし》の木がおっかぶさっていますから見るからして陰気なのでございます。母屋も広い割合には人気がないかと思われるばかり、シンとしているのです。家にむかいあった崕の下に四角の井戸の浅いのがありまして、いつも清水を湛えていました。総体の様子がどうも薄気味の悪いところで、私はこの坂に来て、武の家の前を通るたびにすぐ水滸伝の麻痺薬《しびれぐすり》を思い出し、武松《ぶしょう》がやられました十字坡《じゅうじは》などを想い出したくらいです。
 それですが、武から妙なことを言われて大いに不思議に思っている上に武の家に連れてゆかれますのですから、坂を上りながらも内々薄気味が悪くなって来たのです。途々、武に何を見せるのだと聞きましても、武はどうしても言わないばかりか、しめたという顔つきをして根性の悪い笑い方をするのでございました。
 日はすっかり暮れて、十日ごろの月が鮮やかに映《さ》していましたが、坂の左右は樹が繁《しげ》っていますから十分光が届かないのでございます。上りは二丁ほどしかありません、すぐ武の家の前に出ました。家の前は広くなって樹の影がないので月影はっきりと地に印していました。
 障子に燈火《あかり》がぼんやり映って、家の内はひっそりとしています。武は黙って内庭に入りました。私は足が進みません、外でためらっていますと、
『お入りなされ!』と暗いところで武が言いました。
 その声は低いけれども底力があって、なんだか私を命令するようでした。
『ここで見てやるから持って来い』と私は外から言いました。
『お入りなされと言うに!』と今度はなお強く言いましたので私も仕方がないから、のっそり内庭に入りました。私の入ったのを見て、武は上にあがり茶の間の次ぎに入りました。しばらく出て参りません、その様子が内の誰かとこそこそ話をしているようでした。間もなく出て参りまして、今度は優しく、
『お上りなされませ、汚ないけえども』といいますから少しは安心して上りました。そして武の案内で奥の一間に入りますと、ここは案外小奇麗になっていまして、行燈《あんどん》の火が小さくして部屋の隅に置いてありました。しかしまず私の目につきましたのはそこに一人の娘が坐っていることでございます。私が入ると娘は急に起とうとしてまた居住いを直して顔を横に向けました。私は変ですから坐ることもできません、すると武が出し抜けに、
『見てもらいたいと言うたのはこれでございます』というや女は突っ伏してしまいました。私はなんと言ってよいか、文句が出ません、あっけに取られて武の顔を見ると、武も少し顔を赤らめて言いにくそうにしていましたが、
『まアここへ坐って下さりませ、私はちょっと出て来ますから』と言い捨てて行こうとしますから、
『なんだ、なんだ、私はいやだ、一人残るのは』と思わず言いますと、
『それでは坐って下さらんのか』と言ってこわい顔をして私を睨みました。私が帰るといえばすぐにでも蹶飛《けと》ばしそうな剣幕ですから私も仕方なしにそこに坐って黙っていますと、娘は泣いておるのです。嗚咽《むせ》びかえっているのです、それを見た武の顔はほんとうに例えようがありません、額に青筋を立てて歯を喰いしばるかと思うと、泣き出しそうな顔をして眼をまじまじさせます。何か言い出しそうにしては口のあたりを手の甲で摩《こす》るのでございます。
『一体どうしたのだ』と私も事の様子があんまり妙なので問いかけました。しますると武がどもりながらこういうのでございます。妹が是非あなたに遇わしてくれと言って聞かない、いろいろ言い聞かしたがどうしても承知しない、それだからあなたを欺《だま》して連れて来たのだ、どうか不憫《ふびん》な女だと思って可愛がってやってくれ、私から手を突いて頼むから、とまずこういう次第なのです。馬鹿馬鹿しい話だとお笑いもございましょうが、全くそうでしたので、まず私が村の色男になったのでございます。
 そのころ私は女難の戒めをまるで忘れたのではありませんが、何を申すにも山里のことですから、若い者が二三人集まればすぐ娘の評判でございます。小学校の同僚もなんぞと言えばどこの娘《こ》は別嬪《べっぴん》だとか、あの娘にはもう色があるとか、そんな噂《うわさ》をするのは平気で、全くそれが一ツの楽しみなのですから、私もいつかその風に染みまして村の娘にからかって見たい気も時々起したのでございます。さすが母の戒めがありますから、うかとは手も出しませんでしたが、決して心からその実、女を恐れていたのではなく、もしよい機会《おり》があったらきっと色の一ツぐらいできるはずになっていたのでございます。
 ところで武の妹はお幸《こう》と申しまして若い者のうちで大評判な可愛い娘でございまして年はそのころ十七でした。私も始終顔を見知っていましたが言葉を交《か》わしたことはなかったのです。先方《むこう》では私が叔母の家の者であり、学校の先生ということで遇うたびに礼をして行き過ぎるのでございます、田舎の娘に似《にや》わない色の白い、眼のはっきりとした女で、身体つきよくおさよに似てすらりとしていました。城下の娘にもあのくらいなのは少ないなどと村の者が自慢そうに評判していたのですが全くそうだと私も遇うたびに思っていたのでございます。でありますから、私も眼の前にお幸を突きつけられて、その兄から代って口説《くど》かれましては女難なぞを思うことができなかったのです。それに気の弱い私ですから、よしんば危いことと気がつきましたところで、とてもあの場合、武とお幸を振りきって逃げて帰るというような思いきった所作は私にはできないのでございました。
 その後は私も二晩置きか三晩置きには必ずお幸のもとに通いましたが、ごく内証にしていましたから、誰も気がつきませんでした。それに兄の武之允が何かにつけてかばってくれますし、また武の女房も初めからよく事情《わけ》を知っていて、やはり武と同じようにお幸と私の仲をうまくゆくようにのみ骨を折ってくれましたので私も武の家ではおおびらで遊んだものでございます。
 二人の仲は武の夫婦から時々冷かされるほど好うございました。かれこれするうち二月三月も経ち、忘れもしません六月七日の晩のことです。夜の八時ごろ、私はいつものようにお幸のもとに参りますと、この晩は宵《よい》から天気《そら》模様が怪しかったのが十時ごろには降りだして参りました。大降りにならぬうち、帰ろうと言い出しますと、お幸と武の女房が止めて帰しません、武は不在《るす》でございましたが、今に帰るだろうから帰ったら橋まで送らすからと申しますのでしばらくぐずぐずしていますと、武が帰って参りました。どこで飲んだかだいぶ酔っていましたが、私が奥の部屋に臥転《ねころ》んでいると、そこへずかずか入って来まして、どっかり大あぐらをかきました。お幸は私の傍《そば》に坐っていたのでございます。
『そとは大変な降りでござりますぜ、今夜はお泊りなされませ』と武は妙に言いだしました、と申すのは私がこれまで泊ろうとしても武は、もし泊まって事が知れたらまずいからといつも私を宥《なだ》めて帰しましたので、私も決して泊ったことはなかったのです。
『イヤやはり泊らん方がよかろう』と私の言いますのを、打ち消すようにして武は、
『実は今夜少しばかり話がありますから、それでお泊りなされというのだから、お泊りなされというたらお泊りなされ』と語気《ことば》がやや暴《あ》ろうなって参りました。舌も少し廻りかねる体《てい》でございました。
『話があるッてなんだろう、今すぐ聞いてもいいじゃアないか』
『あなた気がついていますか』と出し抜けに聞かれました。
『何をサ?』私は判じかねたのでございます。
『だからあなたはいけません、お幸はこれになりましたぜ』と腹に手を当てて見せましたので私はびっくりしてしまったのでございます。お幸は起って茶の間に逃げました。
『ほんとかえ、それは』と思わず声を小さくしました。
『ほんとかって、あなたがそれを知らんということはない、だけれども知らなかったらそれまでの話です、もうあなたも知ってみればこの後の方法《かた》をつけんじゃア』
『どうすればええだろう?』と私は気が顛倒《てんとう》していますから言うことがおずおずしています、そうしますと武はこわい眼をして、
『今になってそれを聞く法がありますか、初めからわかりきっているじゃありませんか、あなたの方でもこうなればこうと覚悟があるはずじゃ』
 言われて見ればもっともな次第ですが、全く私にはなんの覚悟もなかったので、ただ夢中になってお幸のもとに通ったばかりですから、かように武から言われると文句が出ないのです。
 私の黙っているのを見て、武はいまいましそうに舌打ちしましたが、
『すぐ公然《おもてむき》の女房になされ』
『女房に?』
『いやでござりますか?』
『いやじゃないが、今すぐと言うたところで叔母が承知するかせんかわからんじゃないか』
『叔母さんがなんといおうとあなたがその気ならなんでもない、あなたさえウンと言えば私が明日《あした》にでも表向きの夫婦にして見せます。なにもここばかりが世界じゃないから、叔母さんや村の者がぐずぐず言やア二人でどこへでも出てゆけばいい、人間一匹何をしても飯は喰えますぞ!』とまで云われて私も急に力が着きましたから、
『よろしい、それではともかくも一応叔母と相談して、叔母が承知すればよし、故障を言えばお前のいう通り、お幸と二人で大阪へでも東京へでも飛び出すばかりだが、お幸はこれを承知だろうか』
『ヘン! そんなことを私に聞くがものはありませんじゃないか、あなたの行くところならたとい火の中、水の底と来まサア!』と指の尖《さき》で私の頬を突いて先の剣幕にも似ず上気嫌なんです。
 その晩はそれで帰りましたが、サアこの話がどうしても叔母に言い出されないのでございます。それと申すのは叔母も私の母より女難の一件を聞いていますし、母の死ぬる前にも叔母に女難のことは繰り返して頼んでおいたのですから、私の口からお幸のことでも言い出そうものならどんなに驚きもし、心配もするかわからないのでございます、次の朝から三日の間、私は今言おうか、もう切り出そうかと叔母の部屋を出たり入ったりしましたが、とうとう言うことができなかったのでございます。
 叔母に言うことができないとすれば、お幸と二人で土地を逃げる他に仕方がないと一度は逃亡《かけおち》の仕度をして武の家に出かけましたが、それもイザとなって踏み出すことができませんでした。と申すのは、『これが女難だな』という恐ろしい考えが、次第次第にたかまってきて、今までお幸のもとに通ったことを思うと『しまった』という念が湧《わ》き上るのでございます。それですからもし、お幸を連れて逃げでもすれば、行く先どんな苦労をするかも知れず、それこそ女難のどん底に落ちてしまうと、一念こうなりましてはかけおちもできなくなったのでございます。
 それで四苦八苦、考えに考えぬいた末が、一人で土地を逃げるという了見になりました、忘れもいたしません、六月十五日の夜、七日の晩から七日目の晩でございます、お幸に一目逢いたいという未練は山々でしたが、ここが大事の場合だと、母の法名を念仏のように唱えまして、暗《やみ》に乗じて山里を逃亡いたしました、その晩あたりは何も知らないお幸が私の来るのを待ち焦《こが》れていたのに違いありません。女に欺されてはならぬとばかり教えられた私がいつか罪もない女を欺すこととなり、女難を免《のが》れるつもりで女を捨てた時はもう大女難にかかっていたので、その時の私にはそれがわからなかったのでございます。
 叔母の家から持ち出した金はわずか十円でございますから東京へ着きますと間もなく尺八を吹いて人の門に立たなければならぬ次第となりましたのです。それから二十八の年まで足かけ十年の間のことは申し上げますまい。国とは音信不通、東京にはもちろん、親族もなければ古い朋友もないので、種々さまざまのことをやって参りましたが、いつも女のことで大事の場合をしくじってしまいました。二十八になるまでには公然《おもてむき》の妻も一度は持ちましたが半年も続かず、女の方から逃げてしまいました。しかしその妻も私が本郷に下宿しておるうちにそこの娘とできやったのでございます。
 二十八の時の女難が私の生涯の終りで、女難と一しょに目を亡くしてしまったのでございますから、それをお話しいたして長物語を切り上げることにいたします。

     

 二十八の夏でございました、そのころはやや運が向いて参りまして、鉄道局の雇いとなり月給十八円|貰《もら》っていましたが女には懲《こ》りていますから女房も持たず、婆さんも雇わず、一人で六畳と三畳の長屋を借りまして自炊しながら局に通っておったのでございます。
 住居《すまい》は愛宕下町《あたごしたまち》の狭い路次で、両側に長屋が立っています中のその一軒でした。長屋は両側とも六軒ずつ仕切ってありましたが、私の住んでいたのは一番奥で、すぐ前には大工の夫婦者が住んでいたのでございます。
 長屋の者は大通りに住む方《かた》とは違いまして、御承知《ごぞんじ》でもございましょうが、互いに親しむのが早いもので、私が十二軒の奥に移りますと間もなく、十二軒の人は皆な私に挨拶するようになりました。
 その中でも前に住む大工は年ごろが私と同じですし、朝出かける時と、晩帰える時とが大概同じでございますから始終顔を合わせますのでいつか懇意になり、しまいには大工の方からたびたび遊びに来るようになりました。
 大工は名を藤吉と申しましたが、やはり江戸の職人という気風がどこまでもついて廻わり、様子がいなせ[#「いなせ」に傍点]で弁舌が爽《さわ》やかで至極面白い男でございました。ただ容貌《きりょう》はあまり立派ではございません、鼻の丸い額の狭いなどはことに目につきました。笑う時はどこかに人のよい、悪く言えば少し抜けているようなところが見えて、それがまたこの人の愛嬌でございます。
 私のところへ夜遊びに来ると、きっと酒の香《におい》をぷんぷんさせて、いきなり尻をまくってあぐらをかきます。そして私が酒を呑《の》まぬのを冷やかしたものでございます。
 そしてまた、しきりと女房を持てとすすめました。そのついでにどうかいたしますと、『君なぞは女で苦労したこともない唐偏木《とうへんぼく》だから女のありがた味を知らないのだ』とやるのです。御本人はどうかと申しますと、あまり苦労をしたらしくもないので、その女房も、親方が世話をして持たしてくれたとかいうのでございます。
 けれども私は東京に出てから十年の間、いろいろな苦労をしたに似ず、やはり持って生まれた性質《しょうぶん》と見えまして、烈しいこともできず、烈しい言葉すらあまり使わず、見たところ女などには近よることもできない野暮天に見えますので、大工の藤吉が唐偏木で女の味も知らぬというのは決して無理ではなかったのです。実際私は意気で女難にかかったというよりか皆んな、おとなしくって野暮だからかえって女難にかかったのでございます。
 ある夜のことに藤吉が参りまして、洗濯物《せんたくもの》があるなら嚊《かかあ》に洗わせるから出せと申しますから、遠慮なく単衣《ひとえ》と襦袢《じゅばん》を出しました。そう致しますとそのあくる日の夕方に大工の女房が自分で洗濯物を持って参りまして、これだからお神さんを早くお持ちなさい、女房のありがた味はこれでもわかろうと私の膝の上に持って来たのを投げ出して帰えりました。この女はお俊《しゅん》と申しまして、年は二十四五でございます。長屋中でお俊はいつか噂にのぼり、またお俊の前でもお神さんはどう見ても意気だなぞと、賞《ほ》めそやす山の神があるくらいですから私の目にもこれはただの女ではないくらいのことは感づいていたのでございます。
 藤吉は毎晩のように来るようになりました。それは一ツは私から尺八を習おうという熱心であったでございますが、笛とか尺八とかいうものは性質《うまれつき》と見えまして藤吉は器用な男でありながらどうしても進歩いたしません。それでも屈せずブウブウ吹いていたのでございます。
 お俊も遊びに来るようになりました。初めは二人で押しかけて参りましたが後には日曜日など、藤吉のいない時は昼間でも一人で遊びに来て、一人でしゃべって帰ってゆくようになったのでございます。私も後には藤吉の家に出掛けて夜の十二時までもくだらん話をして遊ぶようになりました。お俊はしきりに私の世話を焼いて、飯まで炊いてくれることもあり、菜ができると持って来てくれる、私の役所から帰らぬうちにちゃんと晩の仕度をしてくれることもあり、それですから藤吉がある時冷かしまして、『お前はこのごろ亭主が二人できたから忙がしいなア』と言ったことがあります。けれども藤吉は決して私を疑ぐるようなことはなく、初めはただ隣りづきあいでしたのが後には、なんでも身の上のことを打ち明けて私に相談するようになりました。それですから私もそのつもりでつきあって、随分やつの力にもなってやり、時には金の用までたしてやりましたのでやつはなお私をまたない友と信じ、二日ばかり私が風邪をひいた時など一日は仕事を休んで私のそばに附いていたことさえござります。
 それに長屋中、皆な私を可愛がってくれまして、おとなしい方だよい方だ、珍しい堅人《かたじん》だと褒《ほ》めてくれるのでございます。ですからお俊ばかりでなくお神さんたちが頼みもせぬ用を達《た》してくれるのでございます。ところがおかしいのはお俊がこれを焼いて、何を私がついているによけいなお世話だと、お神さんたちの目の前でいやな顔をする、それをお神さんたちはなお面白半分に私の世話を焼いたこともありました、けれども、それでもってお俊と私の仲を長屋の者が疑ぐるかというに決してそうでなく、てんで私をば木か金で作ったもののように無類の堅人だと信じていたのでございます。けれどもお俊の方はそれほどの信用はないのです。ですからお俊さんは少し怪しいが、とても物にはならぬなど、明らさまに私に向って言った山の神さえいたのでございます。
 実際、お俊は怪しいと言われても仕方がありますまい。ある晩のことに私が床を延べていますと、お俊が飛んで参りまして、
『どうせ私じゃお気に入りませんよ』と言いざま布団《ふとん》を引ったくって自分でどんどん敷き『サア、旦那様お休みなさい、オー世話の焼ける亭主だ』と言いながら色気のある眼元でじっと私を見上げましたことなどは、ただの仕草ではなかったのでございます。そしてその時の私の心持を言いますと、決して長屋の者が信じていたほどの堅固なものでなかったので、木や石でない限り、やはり妙な心持がしたのでございます。
 私がある時藤吉に向い、『どうもお俊さんは意気だ、まるで素人じゃアないようだ』と申しますと、藤吉にやにや笑っていましたが、『うまいところを当てられた、実はあれはさる茶屋でかなり名を売った女中であったのを親方が見つけ出し、本人の心持を聞いて見ると堅気の職人のところにゆきたいというので、それこそ幸いと私に世話してくれたのだ』と少々得意の気味でお俊の身元を打ち明けたのでございます。その時からなおさら私はお俊のそぶりを妙に感じて来ました。
 けれどもまず平穏無事に日が経ちますうち、ちょうど八月の中ごろの馬鹿に熱い日の晩でございます、長屋の者はみんな外に出て涼んでいましたが私だけは前の晩寝冷えをしたので身体の具合が悪く、宵から戸を閉めて床に就《つ》きました。なんでも十時ごろまで外はがやがや話し声が聞えていましたがそのうちだんだん静かになりお俊もおとなしく内に引っ込んだらしかったのです。私は眠られないのと熱《あ》つ苦しいとで、床を出ましてしばらく長火鉢の傍《そば》でマッチで煙草を喫《す》っていましたが、外へ出て見る気になり寝衣《ねまき》のままフイと路地に飛び出しました。路地にはもう誰もいないのです。路地から通りに出ますと、月が傾いてちょうど愛宕山の上にあるのでございます。外はさすがに少しは風があるのでそこからぶらぶら歩いていますと、向うから一人の男が、何かぶつぶつ口小言を云いながらやって参ります、その様子が酔っぱらいらしいので私は道を避けていますとよろよろと私の前に来て顔を上げたのを見れば藤吉でございました。
 藤吉は私を見るやいきなり、
『イヤ大将、うめえところで遇《あ》った、今これからお前さんとこへ、押しかけるとこなんだ。サア家へ帰れ、今夜こそおれは勘弁ならんのだ、どうしてもお前さんに聞いてもらうことがあるんだ』と私の手を取ってグイグイ路地の方へ引っ張って参るのでございます。
 私も酔っぱらいと思いまして『よしよし、サア帰ろう、なんでも聞こう』と一しょに連れ立って家に入りました。
 藤吉の顔を見ると凄《すご》いほど蒼《あお》ざめて眼が坐《すわ》っているのでございます。坐るが早いか、
『サア聞いてくれ、私はもうどうしても勘弁がならんのだ』と、それから巻舌で長々と述べ立てましたところを聞きますと、つまりこうなんです、藤吉がその日仲間の者四五人と一しょにある所《とこ》で一杯やりますと、仲間の一人がなんかのはずみから藤吉と口論を初めました。互いに悪口|雑言《ぞうごん》をし合っていますうちに、相手の男が、親方のお古を頂戴してありがたがっているような意久地なしは黙って引っ込めと怒鳴ったものとみえます。それが藤吉にグッと癪《しゃく》に触りましたというものは、これまでに朋輩からお俊は親方が手をつけて持て余したのを藤吉に押しつけたのだというあてこすりを二三度聞かされましたそうで、それを藤吉が人知れず苦にしていた矢先、またもやこういうて罵《のの》しられたものですから言うに言われぬ不平が一度に破裂したのでございます、よけいなお世話だ、親方のお古ならどうした、手前《てめえ》はお古を貰うこともできまいと、我鳴りつけたものとみえます。そうすると相手はあざ笑って、お古ならまだいいが、新しいのだ、今でも月に二三度はお手がつくのだと悪《あく》たれ[#「たれ」に傍点]たのでございます。藤吉はこれを聞きますが早いか、『よし、見ていろ』とすぐそこを飛び出して家に帰るとお俊をたたき出してしまう了見でぶらぶらと帰る途中、私に逢ったのでございました。
 それでこれからすぐにお俊を追い出すつもりだがお前さんも同意だろうと申しますから私はお俊が元親方と怪しい関係のあった女であるか、ないか、そんなことはわからないけれど、今ではお前を大切にして立派なお神さんになっているのだから追い出すほどのことはあるまい、見たところでも親方と怪しいという様子もないようだ、それは私が請け合うと申しますと、藤吉『今でも怪しいなら打ち殺してやるのだ、以前の関係があると聞いただけで私は承知ができねえのだ、お俊を追い出して親方の横面《よこつら》を張り擲《なぐ》ってくれるのだ、なんぞといえば女房まで世話をしてやったという、大きな面をしてむやみと親方風を吹かすからしてもう気に喰わねえでいたのだ、お古を押しつけておいて世話も何もあるものか、ふざけるない!』私がいくらなだめても聴かないでとうとう宅《うち》に帰って参ったのでございます。
 私もうっちゃってもおかれないと、藤吉の後について行こうとしますと、かまわないでおいてくれろと、私を内に入れません、仕方なしに外に立って内の様子を聴いていました。お俊はもう床に就《つ》いていた様子でしたが、藤吉は引きずり起して怒鳴りつけているのでございます、お俊は何も言わないで聞いていたようですが、しばらくしますとプイと外へ出て参りました。私を見て、
『くだらないこと言ってらア、酔っぱらいに取り合っても仕方がないからうっちゃっておきましょう』と言いながらズンズン私の宅《うち》に入るのでございます。私もお俊の後についてうちへ帰りました。
『誰がくだらないことを焼《た》きつけたのだろうねえ、ほんとにしようがないねえ』とお俊はこう言って、長火鉢の横に坐って、そこに置いてあった煙草を吸うておるのです。
『明日の朝になればなんでもないサ』と私もしょうことなしに宥《なだ》めていましたが、お俊が帰りそうにもないので、
『静かになったようだから見て来たらよかろう』と言いますと、お俊は黙って起って出てゆきましたから、私はすぐ蚊帳《かや》の内に入ってしまったのでございます。ところが間もなくお俊は戻《もど》って参りまして、
『よく寝ているからそとから戸締りをして来ました』と澄ましているのです。
『そしてお前さんどうするのだ』と私は蚊帳の内から問いました。
『私はこうして朝まで寝ないでいてやるのサ』
『そんなことができるものか、帰って寝たがよかろう』と申しますとお俊はじれったそうに『うっちゃっておいて下さいよ、酔っぱらいだから夜中にまたどんなことをするかわかるもんじゃアない、私ゃこわいワ、』と平気で煙草を吸っているのです。私も言いようがないから黙っていますと、お俊もいつものおしゃべりに似ず黙っているのでございます、蚊帳の中から透《すか》して見ると、薄暗い洋燈《ランプ》の光が房々《ふさふさ》とした髪から横顔にかけてぽーッとしています、それに蒸し暑いのでダラリとした様子がいつにないなまめかしいように私は思ったのでございます。
 そのうち、かれこれ二十分も経ちましたろうか。お俊は折り折り団扇《うちわ》で蚊を追っていましたが『オオひどい蚊だ』と急に起ち上がりまして、蚊帳の傍《そば》に来て、『あなたもう寝たの?』と聞きました。
『もう寝かけているところだ』と私はなぜか寝ぼけ声を使いました。
『ちょっと入らして頂戴な、蚊で堪らないから』と言いさま、やっと一人寝の蚊帳の中に入って来たのでございます。
 朝早くお俊は帰ってゆきましたが、どういう風に藤吉の気嫌を取ったものか、それとも酔いが醒《さ》めて藤吉が逆戻りしましたのか、おとなしく仕事に出て参りました。出際《でぎわ》に上り口から頭を出して『お早よう』と言いさま、妙に笑って頭を掻《か》いて見せまして『いずれおわびは帰ってから』と、言い捨てて出て参りました。その後姿を見送って『アア悪いことをした』と私はギックリ胸に来ましたけれどもう追っつきません。それからというものは、お俊の亭主はほんとうに二人になったのでございます。
 それから一月も経たぬうちに藤吉はまた親方に何か言われて、プンプン怒って帰って参りましたが、今度は少しも酔っていないのです。お俊と別れて自分はしばらく横浜へ稼《かせ》ぎに行くと言った様子はひどく覚悟をしたらしいので、私も浜へゆくことは強いて止めません、お俊と別れるには及ぶまい、しばらく私が預かるから半年も稼いだら帰って来てまた一しょになるがよかろうと申しますと、藤吉は涙を流してよろこびまして、万事よろしく頼むと家を畳んでお俊を私の宅に同居させ、横浜へ出かけてしまいました。
 もうこうなれば澄ましたもので、お俊と私はすっかり夫婦気取りで暮していたのでございます。
 そうすると一月ほどたちまして私は眼病にかかったのでございます。たいしたこともあるまいと初めは医者にもかからず、役所にはつとめて通っていましたが、だんだんに悪くなりましてしまいには役所を休むようになりました。医者に見せますと容易ならぬ眼病だと言われて、それから急にできるだけの療治にかかりましたが治る様子も見えないのでございます。
 お俊はなかなか気をつけて看護してくれました。藤吉からは何の消息《たより》もありません。私は藤吉のことを思いますと、ああ悪いことをしたと、つくづくわが身の罪を思うのでございますが、さればとてお俊を諭《さと》して藤吉の後を逐《お》わすことをいたすほどの決心は出ませんので、ただ悪い悪いと思いながらお俊の情を受けておりました。
 そのうちだんだん眼が悪くなる一方で役所は一月以上も休んでいるし、私は気が気でならず、もし盲目《めくら》になったらという一念が起るたびに、悶《もだ》え苦しみました。
 ここに怪しいことのございますのは、お俊の様子がひどく変ったことでございます、なんとなく私を看護するそぶりが前のようでなく、つまらぬことに疳癪《かんしゃく》を起して私につらく当るのでございます。そして折り折りは半日もいずれにか出あるいて帰らぬこともあるのです。私は口に出してこそ申しませんが、腹の中は面白くなくって堪りません。ところがある日のことでございました、『御免なさい』と太い声で尋ねて来た者があります。
『いらっしゃい』とお俊は起ってゆきましたが、しばらく何かその男とこそこそ話をしていましたが、やがて私の枕元に参りまして、『頭領が見えました、何かあなたにお話ししたいことがあるそうです』
 なんの頭領だろうと思っていますうちに、その男はずかずか私の枕元に参りまして、
『お初《はつ》にお目にかかります、私ことは大工|助次郎《すけじろう》と申しますもので、藤吉初めお俊がこれまでいろいろお世話様になりましたにつきましては、お礼の申し上げようもございません、別してお俊が厚いお情をこうむりました儀につきましては藤吉に代りまして私より十分の御礼を申し上げます。つきましては、お俊儀は今日ただ今より私が世話することになりましたにつきましては早速お宅を立ち退くことにいたします、さようあしからず御承知を願い置きます』と切り口上でベラベラとしゃべり立てました、私は文句が出ないのでございます。
 それからお俊と頭領がどたばた荷ごしらいをするようでしたが、間もなくお俊が私の傍《そば》に参りまして、『いろいろわけがあるのだから、悪く思っちゃアいけませんよ、さようなら、お大事に』
 二人は出て行きました。私は泣くこともわめくこともできません、これは皆な罰だと思いますと、母のやつれた姿や、孕《はら》んだまま置き去りにして来たお幸の姿などが眼の前に現われるのでございます。
 役所は免《や》められ、眼はとうとう片方が見えなくなり片方は少し見えても物の役には立たず、そのうち少しの貯蓄《たくわえ》はなくなってしまいました。それから今の姿におちぶれたのでございますが、今ではこれを悲しいとも思いません、ただ自分で吹く尺八の音につれて恋いしい母のことを思い出しますと、いっそ死んでしまったらと思うこともございますが死ぬることもできないのでございます」

     *     *     *

 盲人は去るにのぞんでさらに一曲を吹いた。自分はほとんどその哀音悲調を聴くに堪えなかった。恋の曲、懐旧の情、流転の哀しみ、うたてやその底に永久《とこしえ》の恨みをこめているではないか。
 月は西に落ち、盲人は去った。翌日は彼の姿を鎌倉に見ざりし。

底本:「日本の文学 5 樋口一葉 徳富蘆花 国木田独歩」中央公論社
   1968(昭和43)年12月5日初版発行
初出:「文藝界」金港堂
   1903(明治36)年12月
※「路次」と「路地」、「意久地」と「意気地」の混在は底本通りにしました。
入力:iritamago
校正:多羅尾伴内
2004年7月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

初恋——国木田独歩

僕の十四の時であった。僕の村に大沢先生という老人が住んでいたと仮定したまえ。イヤサ事実だが試みにそう仮定せよということサ。
 この老人の頑固《がんこ》さ加減は立派な漢学者でありながらたれ一人《ひとり》相手にする者がないのでわかる。地下《じげ》の百姓を見てもすぐと理屈でやり込めるところから敬して遠ざけられ、狭い田の畔《くろ》でこの先生に出あう者はまず一丁|前《さき》から避《よ》けてそのお通りを待っているという次第、先生ますます得意になり眼中人なく大手を振って村内を横行していた。
 その家は僕の家《うち》から三丁とは離れない山の麓《ふもと》にあって、四間《よま》ばかしの小さな建築《つくり》ながらよほど風流にできていて庭には樹木多く、草花なども種々植えていたようであった。そのころ四十ばかりになる下男《げなん》と十二歳になる孫娘と、たった三人、よそ目にはサもさびしそうにまた陰気らしゅう住んでいたが、実際はそうでなかったかもしれない。
 しかるにある日のこと、僕は独《ひと》りで散歩しながら計らずこの老先生の宅のすぐ上に当たる岡へと出た。何心なく向こうを見ると大沢の頑固老人、僕の近づくのも知らないで、松の根に腰打ちかけてしきりと書見をしていた。そのそばに孫娘がつくねんとして遠く海の方をながめているようである。僕の足音を聞いて娘はふとこの方へ向いたが、僕を見てにっこり笑った。続いて先生も僕を見たがいつもの通りこわい顔をして見せて持っていた書《ほん》を懐《ふところ》へ入れてしまった。
 そのころ僕は学校の餓鬼大将だけにすこぶる生意気《なまいき》で、少年のくせに大沢先生のいばるのが癪《しゃく》にさわってならない。いつか一度はあの頑固|爺《じじい》をへこましてくりょうと猪古才《ちょこざい》なことを考えていた。そこで、
『先生今読んでおられたのは何の本でございます』とこう訊《たず》ねた。
『何でもよいわ、お前またそれを聞いて何にする』と、力を込めた低い声で圧《お》しつけるように問い返した。
『僕は孟子《もうし》が好きですからそれでお訊《たず》ねしたのでございます』と、急所を突いた。この老先生がかねて孟子を攻撃して四書の中でもこれだけは決してわが家《や》に入れないと高言していることを僕は知っていたゆえ、意地《いじ》わるくここへ論難の口火をつけたのである。
『フーンお前は孟子が好きか。』『ハイ僕は非常に好きでございます。』『だれに習った、だれがお前に孟子を教えた。』『父が教えてくれました。』『そうかお前はばかな親を持ったのう。』『なぜです、失敬じゃアありませんか他人《ひと》の親をむやみにばかなんて!』と僕はやっきになった。
『黙れ! 生意気な』と老人は底光りのする目を怒らして一喝《いっかつ》した。そうすると黙ってそばに見ていた孫娘が急に老人の袖《そで》を引いて『お祖父《じい》さん帰りましょうお宅《うち》へ、ね帰りましょう』と優しく言った。僕はそれにも頓着《とんじゃく》なく『失敬だ、非常に失敬だ!』
と叫んでわが満身の勇気を示した。老人は忙しく懐《ふところ》から孟子を引き出した、孟子を!
『ソラここを読んで見ろ』と僕の眼前《めさき》に突き出したのが例の君、臣を視《み》ること犬馬《けんば》のごとくんばすなわち臣の君を見ること国人《こくじん》のごとし云々《うんぬん》の句である。僕はかねてかくあるべしと期《ご》していたから、すらすらと読んで『これが何です』と叫んだ。
『お前は日本人か。』『ハイ日本人でなければ何です。』『夷狄《いてき》だ畜生《ちくしょう》だ、日本人ならよくきけ、君、君たらずといえども臣もって臣たらざるべからずというのが先王の教えだ、君、臣を使うに礼をもってし臣、君に事《つか》うるに忠をもってす、これが孔子《こうし》の言葉だ、これこそ日の本《もと》の国体に適《かな》う教えだ、サアこれでも貴様は孟子が好きか。』
 僕はこう問い詰められてちょっと文句に困ったがすぐと『そんならなぜ先生は孟子を読みます』と揚げ足を取って見た。先生もこれには少し行き詰まったので僕は畳《たた》みかけて『つまり孟子の言った事はみな悪いというのではないでしょう、読んで益になることが沢山あるでしょう、僕はその益になるところだけが好きというのです、先生だって同じことでしょう、』と小賢《こざか》しくも弁じつけた。
 この時孫娘は再び老人の袖を引いて帰宅《かえり》を促した。老先生は静かに起《た》ちあがりさま『お前そんな生意気なことを言うものでない、益になるところとならぬところが少年《こども》の頭でわかると思うか、今夜宅へおいで、いろいろ話して聞かすから』と言い捨てて孫娘と共に山を下《お》りてしまった。
 僕が高慢な老人をへこましたのか、老人から自分の高慢をへこまされたのかわからなくなったが、ともかく、少しはへこましてやったつもりで宅に帰り、この事を父に語った。すると父から非常にしかられて、早速《さっそく》今夜あやまりに行けと命ぜられ長者を辱《はずかし》めたというので懇々説諭された。
 その晩、僕は大沢先生の宅を初めて訪《たず》ねたが、別にあやまるほどの事もなく、老先生はいかにも親切にいろいろな話をして聞かして、僕は何だか急にこの老人が好きになり、自分のお祖父《じい》さんのような気がするようになった。
 その後僕は毎日のように老先生の家を訪ねた。学校から帰るとすぐに先生の宅へ駆けつける、老人と孫娘の愛子はいつも気嫌《きげん》よく僕を迎えてくれる。そして外から見るとは大違い、先生の家は陰気どころかはなはだ快活で、下男の太助はよく滑稽《おどけ》を言うおもしろい男、愛子は小学校にも行かぬせいかして少しも人ずれのしない、何とも言えぬ奥ゆかしさのあるかあいい少女《おとめ》、老先生ときたらまるで人のよいお祖父《じい》さんたるに過ぎない。僕は一か月も大沢の家《うち》へ通ううち、今までの生意気な小賢《こざか》しいふうが次第に失せてしまった。
 前に話した松の根で老人が書《ほん》を見ている間《ひま》に、僕と愛子は丘の頂《いただき》の岩に腰をかけて夕日を見送った事も幾度だろう。
 これが僕の初恋、そして最後の恋さ。僕の大沢と名のる理由《わけ》も従ってわかったろう。

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「太平洋」
   1900(明治33)年10月
入力:土屋隆
校正:蒋龍
2009年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

初孫——国木田独歩

この度《たび》は貞夫《さだお》に結構なる御《おん》品|御《おん》贈り下されありがたく存じ候、お約束の写真ようよう昨日でき上がり候間二枚さし上げ申し候、内一枚は上田の姉に御《おん》届け下されたく候、ご覧のごとくますます肥え太りてもはや祖父《じい》様のお手には荷が少々勝ち過ぎるように相成り候、さればこのごろはただお膝《ひざ》の上にはい上がりてだだをこねおり候、この分にては小生が小供《こども》の時きき候と同じ昔噺《むかしばなし》を貞坊が聞き候ことも遠かるまじと思われ候、これを思えば悲しいともうれしいとも申しようなき感これありこれ必ず悲喜両方と存じ候、父上は何を申すも七十歳いかに強壮にましますとも百年のご寿命は望み難く、去年までは父上父上と申し上げ候を貞夫でき候て後われら夫妻がいつとなく祖父《じい》様とお呼び申すよう相成り候以来、父上ご自身も急に祖父様らしくなられ候て初孫《ういまご》あやしホクホク喜びたもうを見てはむしろ涙にござ候、しかし涙は不吉不吉、ご覧候えわれら一家のいかばかり楽しく暮らし候かを、父上母上及びわれら夫妻と貞夫の五人! 春霞《はるがすみ》たなびく野|辺《べ》といえどもわが家《や》ののどけさには及ぶまじく候
 ここに父上の祖父《じい》様らしくなられ候に引き換えて母上はますます元気よろしくことに近ごろは『ワッペウさん』というあだ名まで取られ候て、折り折り『おしゃべり』と衝突なされ候ことこれまた貞夫よりの事と思えばおかしく候、『おしゃべり』と申せば皆様すぐと小生の事に思《おぼ》し召され候わば大違いに候、妻《さい》のことに候、あの言葉少なき女が貞夫でき候て以来急に口数多く相成り近来はますますはげしく候、そしてそのおしゃべりの対手《あいて》が貞夫というに至っては実に滑稽《こっけい》にござ候、先夜も次の間にて貞夫を相手に何かわからぬことを申しおり候間小生、さような事を言うとも小供にはわからぬ少し黙っていておくれと申し候ところ
『ソラごらん、坊やがやかましいことをお言いだから父《とう》様のご用のお邪魔になるとサ』
『坊やがやかましいのではないお前がしゃべるのだよ』
『オヤオヤ今度は母様《かあさん》がしかられましたよ、ね坊や父様が、「やかましッ」て、こわいことねえ、だから黙ってねんねおし』
「困るね、そんな事を言っても坊にゃわからないのだからお前さえ黙ればいいんだよ』
『貞坊や、坊やはお話がわからないとサ、「わかりますッ」てお言い、坊やわかりますよッて』
 右の始末に候間小生もついに『おしゃべり』のあだ名を与えてもはや彼の勝手に任しおり候
 おしゃべりはともかくも小供のためにあの仲のよい姑《しゅうとめ》と嫁がどうして衝突を、と驚かれ候わんかなれど決してご心配には及ばず候、これには奇々妙々の理由《わけ》あることにて、天保《てんぽう》十四年生まれの母上の方が明治十二年生まれの妻《さい》よりも育児の上においてむしろ開化主義たり急進党なることこそその原因に候なれ、妻はご存じの田舎者《いなかもの》にて当今の女学校に入学せしことなければ、育児学など申す学問いたせしにもあらず、言わば昔風の家に育ちしただの女が初めて子を持ちしまでゆえ、無論小児を育てる上に不行き届きのこと多きに引き換え、母上は例の何事も後《あと》へは退《ひ》かぬご気性なるが上に孫かあいさのあまり平生《へいぜい》はさまで信仰したまわぬ今の医師及び産婆の注意の一から十まで真っ正直に受けたもうて、それはそれは寝るから起きるから乳を飲ます時間から何やかと用意周到のほど驚くばかりに候、さらに驚くべきは小生が妻のためにとて求め来たりし育児に関する書籍などを妻はまだろくろく見もせぬうちに、母上は老眼に眼鏡《めがね》かけながら暇さえあれば片っ端より読まれ候てなるほどなるほどと感心いたされ候ことに候、右等の事情より自然未熟なる妻の不注意をはなはだ気にしたもうという次第しかるに妻はまた『母《かあ》さまそれは「母の務め」の何枚目に書いてありました』などとまぜ返しを申し候ことなり、いよいよ母上はやっきとなりたもうて『お前はカラ旧癖《きゅうへい》だから困る』と答えられ候、『世は逆《さか》さまになりかけた』と祖父《じい》様大笑いいたされ候も無理ならぬ事にござ候
 先日貞夫少々|風邪《かぜ》の気《け》ありし時、母上目を丸くし
『小児が六歳までの間に死にます数は実におびただしいものでワッペウ[#「ワッペウ」に傍線]氏の表には平均百人の中《うち》十五人三分と記《しる》してござります』
と講義録の口調《くちょう》そっくりで申され候間、小生も思わずふきだし候、天保生まれの女の口からワッペウなどいう外国人の名前を一種変てこりんな発音にて聞かされ候ことゆえそのおかしさまた格別なりしかば、ついに『ワッペウさん』の尊号を母上に奉ることと相成り候、祖父様の貞夫をあやしたもう時にも
『ワッピョーワッピョー鳩ッぽッぽウ』
と調子を取られ候くらい、母上もまたあえて自らワッペウ氏をもって任じおられ候、天保できの女ワッペウと明治生まれの旧弊人との育児的衝突と来ては実に珍無類の滑稽《こっけい》にて、一家常に笑声多く、笑う門《かど》には福来たるの諺《ことわざ》で行けば、おいおいと百千万両何のその、岩崎|三井《みつい》にも少々融通してやるよう相成るべきかと内々《ないない》楽しみにいたしおり候
 しかし今は弁当官吏の身の上、一つのうば車さえ考えものという始末なれど、祖父《じい》様には貞夫もはや重く抱かれかね候えば、乳母《うば》車に乗せてそこらを押しまわしたきお望みに候間近々大憤発をもって一つ新調をいたすはずに候
 一|輛《りょう》のうば車で小児も喜び老人もまた小児のごとく喜びたもうかと思えば、福はすでにわが家《や》の門内に巣食いおり候、この上過分の福はいらぬ事に候
 今夜は雨降りてまことに静かなる晩に候、祖父《じい》様と貞夫はすでに夢もなげに眠り、母上と妻《さい》は次の室《ま》にて何事か小声に語り合い、折り折り忍びやかに笑うさま、小児《こども》のことのほか別に心配もなさそうに候

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「太平洋」
   1900(明治33)年12月
入力:土屋隆
校正:蒋龍
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国木田独歩

春の鳥——国木田独歩

       

 今より六七年前、私はある地方に英語と数学の教師をしていたことがございます。その町に城山《しろやま》というのがあって、大木暗く茂った山で、あまり高くはないが、はなはだ風景に富んでいましたゆえ、私は散歩がてらいつもこの山に登りました。
 頂上には城あとが残っています。高い石垣《いしがき》に蔦葛《つたかつら》がからみついて、それが真紅《しんく》に染まっているあんばいなど得も言われぬ趣でした。昔は天主閣の建っていた所が平地になって、いつしか姫小松まばらにおいたち、夏草すきまなく茂り、見るからに昔をしのばす哀れなさまとなっています。
 私は草を敷いて身を横たえ、数百年《すひゃくねん》斧《おの》の入れたことのない欝《うつ》たる深林の上を見越しに、近郊の田園を望んで楽しんだことも幾度であるかわかりませんほどでした。
 ある日曜の午後と覚えています、時は秋の末で、大空は水のごとく澄んでいながら野分《のわけ》吹きすさんで城山の林は激しく鳴っていました。私は例のごとく頂上に登って、やや西に傾いた日影の遠村近郊をあかく染めているのを見ながら、持って来た書物を読んでいますと、突然人の話し声が聞こえましたから石垣《いしがき》の端に出て下を見おろしました。別に怪しい者でなく三人の小娘が枯れ枝を拾っているのでした。風が激しいので得物《えもの》も多いかして、たくさん背中にしょったままなおもあたりをあさって[#「あさって」に傍点]いる様子です。むつまじげに話しながら、楽しげに歌いながら拾っています、それがいずれも十二三、たぶん何村あたりの農家の子供でしょう。
 私はしばらく見おろしていましたが、またもや書物のほうに目を移して、いつか小娘のことは忘れてしまいました。するとキャッという女の声、驚いて下を見ますと、三人の子供は何に恐れたのか、枯れ木を背負ったままアタフタ[#「アタフタ」に傍点]と逃げ出して、たちまち石垣《いしがき》のかなたにその姿を隠してしまいました。おかしなことと私はその近所を注意して見おろしていると、薄暗い森の奥から下草を分けながら、道もない所をこなたへやって来る者があります。初めは何者とも知れませんでしたが、森を出て石垣の下に現われたところを見ると、十一か十二歳と思わるる男の子です。紺の筒袖《つつそで》を着て白もめんの兵児帯《へこおび》をしめている様子は百姓の子でも町家の者でもなさそうでした。
 手に太い棒切れを持ってあたりをきょろきょろ見回していましたが、フト石垣の上を見上げた時、思わず二人は顔を見合わしました。子供はじっと私の顔を見つめていましたが、やがてニヤリと笑いました。その笑いが尋常でないのです。生白《なまじろ》い丸顔の、目のぎょろりとした様子までが、ただの子供でないと私はすぐ見て取りました。
「先生、何をしているの?」と私を呼びかけましたので私もちょっと驚きましたが、元来私の当時教師を勤めていた町はごく小さな城下ですから、私のほうでは自分の教え子のほかの人をあまり知らないでも、土地の者は都から来た年若い先生を大概知っているので、今この子供が私を呼びかけたも実は不思議はなかったのです。そこへ気がつくや、私も声を優しゅうして、
「本を読んでいるのだよ。ここへ来ませんか。」と言うや、子供はイキなり石垣に手をかけて猿《さる》のように登りはじめました。高さ五|間《けん》以上もある壁のような石垣《いしがき》ですから、私は驚いて止めようと思っているうちに、早くも中ほどまで来て、手近の葛《かつら》に手が届くと、すらすらとこれをたぐってたちまち私のそばに突っ立ちました。そしてニヤニヤと笑っています。
「名前はなんというの?」と私は問いました。「六《ろく》」「六? 六《ろく》さんというのかね。」と問いますと、子供はうなずいたまま例の怪しい笑いをもらして、口を少しあけたまま私の顔を気味の悪いほど見つめているのです。
「いくつかね、年は?」と、私が問いますと、けげんな顔をしていますから、いま一度問い返しました。すると妙な口つきをしてくちびるを動かしていましたが、急に両手を開いて指を折って一《ひ》、二《ふ》、三《み》と読んで十《とう》、十一と飛ばし、顔をあげてまじめに、
「十一だ。」と言う様子は、やっと五つぐらいの子の、ようよう数を覚えたのと少しも変わらないのです。そこで私も思わず「よく知っていますね。」「おっかさんに教わったのだ。」「学校へゆきますか。」「行かない。」「なぜ行かないの?」
 子供は頭をかしげて向こうを見ていますから考えているのだと私は思って待っていました。すると突然子供はワアワアと唖《おし》のような声を出して駆け出しました。「六さん、六さん」と驚いて私が呼び止めますと、
「からす、からす」と叫びながら、あとも振りむかないで天主台を駆けおりて、たちまちその姿を隠してしまいました。

       

 私はそのころ下宿屋《やどや》住まいでしたが、なにぶん不自由で困りますからいろいろ人に頼んで、ついに田口という人の二階二間を借り、衣食いっさいのことを任すことにしました。
 田口というは昔の家老職、城山の下に立派な屋敷を昔のままに構えて有福《ゆうふく》に暮らしていましたので、この二階を貸し、私を世話してくれたのは少なからぬ好意であったのです。
 ところで驚いたのは、田口に移った日の翌日、朝早く起きて散歩に出ようとすると、城山で会った子供が庭を掃いていたことです。私は、
「六さん、お早う」と声をかけましたが、子供は私の顔を見てニヤリ笑ったまま、草ぼうきで落ち葉を掃き、言葉を出しませんでした。
 日のたつうちに、この怪しい子供の身の上が次第にわかって来ました、と言うのは、畢竟《ひっきょう》私が気をつけて見たり聞いたりしたからでしょう。
 子供は名を六蔵と呼びまして、田口の主人《あるじ》には甥《おい》に当たり、生まれついての白痴であったのです。母親というは四十五六、早く夫に別れまして実家《さと》に帰り、二人の子を連れて兄の世話になっていたのであります。六蔵の姉はおしげと呼び、その時十七歳、私の見るところでは、これもまた白痴と言ってよいほど哀れな女でした。
 田口の主人《あるじ》も初めのほどは白痴のことを隠しているようでしたが、何をいうにも隠しうることでないのですから、ついにある夜のこと、私の室《へや》に来て教育の話の末に、甥《おい》と姪《めい》の白痴であることを話しだし、どうにかしてこれにいくぶんの教育を加えることはできないものかと、私に相談をしました。
 主人《あるじ》の語るところによると、この哀れなきょうだいの父親というは、非常な大酒家で、そのために命をも縮め、家産をも蕩尽《とうじん》したのだそうです。そして姉も弟《おとと》も初めのうちは小学校に出していたのが、二人とも何一つ学び得ず、いくら教師が骨を折ってもむだで、到底ほかの生徒といっしょに教えることはできず、いたずらに他の腕白《わんぱく》生徒《せいと》の嘲弄《ちょうろう》の道具になるばかりですから、かえって気の毒に思って退学をさしたのだそうです。
 なるほど詳しく聞いてみると、姉も弟《おとと》も全くの白痴であることが、いよいよ明らかになりました。
 しかるに主人《あるじ》の口からは言いませんが、主人《あるじ》の妹、すなわちきょうだいの母親というも、普通から見るとよほど抜けている人で、二人の子供の白痴の原因は、父の大酒にもよるでしょうが、母の遺伝にも因ることは私はすぐ看破しました。
 白痴教育というがあることは私も知っていますが、これには特別の知識の必要であることですから、私も田口の主人《あるじ》の相談にはうかと乗りませんでした。ただその容易でないことを話しただけでよしました。
 けれどもその後、だんだんおしげと六蔵の様子を見ると、いかにも気の毒でたまりません。不具のうちにもこれほど哀れなものはないと思いました。唖《おし》、聾《つんぼ》、盲《めしい》などは不幸には相違ありません。言うあたわざるもの、聞くあたわざる者、見るあたわざる者も、なお思うことはできます。思うて感ずることはできます。白痴となると、心の唖《おし》、聾《つんぼ》、盲《めくら》ですからほとんど禽獣《きんじゅう》に類しているのです。ともかく人の形をしているのですから全く感じがないわけではないが、普通の人と比べては十の一にも及びません。また不完全ながらも心の調子が整うていればまだしもですが、さらにいびつになってできているのですから、様子がよほど変です、泣くも笑うも喜ぶも悲しむも、みな普通の人から見ると調子が狂っているのだからなお哀れです。
 おしげはともかく、六蔵のほうは子供だけに無邪気《むじゃき》なところがありますから、私は一倍哀れに感じ、人の力でできることならば、どうにかして少しでもその知能の働きを増してやりたいと思うようになりました。
 すると田口の主人《あるじ》と話してから二週間もたった後のこと、夜の十時ごろでした、もう床につこうかと思っているところへ、
「先生、お寝《やす》みですか」と言いながら私の室《へや》にはいって来たのは六蔵の母親です。背の低い、痩形《やせがた》の、頭の小《ち》さい、中高《なかだか》の顔、いつも歯を染めている昔ふうの婦人《おんな》。口を少しあけて人のよさそうな、たわい[#「たわい」に傍点]のない笑いをいつもその目じりと口元に現わしているのがこの人の癖でした。
「そろそろ寝ようかと思っているところです。」と私が言ううち、婦人は火鉢《ひばち》のそばにすわって、
「先生私は少しお願いがあるのですが。」と言って言い出しにくい様子。「なんですか。」「六蔵のことでございます。あのようなばかですから、ゆくさきのことも案じられて、それを思う私は自分のばかを棚《たな》に上げて、六蔵のことが気にかかってならないのでございます。」
「ごもっともです。けれどもそうお案じなさるほどのこともありますまい。」とツイ私も慰めの文句を言うのはやはり人情でしょう。

       

 私はその夜だんだんと母親の言うところを聞きましたが、何よりも感じたのは、親子の情ということでした。前にも言ったとおり、この婦人とてもよほど抜けていることは一見してわかるほどですが、それがわが子の白痴を心配することは、普通の親と少しも変わらないのです。
 そして母親もまた白痴に近いだけ、私はますます哀れを催しました。思わず私ももらい泣きをしたくらいでした。
 そこで私は、六蔵の教育を骨を折ってみる約束をして気の毒な婦人を帰し、その夜はおそくまで、いろいろと工夫《くふう》を凝らしました。さてその翌日からは、散歩ごとに六蔵を伴なうことにして、機に応じていくらかずつ知能の働きを加えることにいたしました。
 第一に感じたのは、六蔵に数の観念が欠けていることです。一から十までの数がどうしても読めません。幾度もくり返して教えれば、二、三と十まで口で読み上げるだけのことはしますが、道ばたの石ころを拾うて三つ並べて、いくつだとききますと、考えてばかりいて返事をしないのです。無理にきくと初めは例の怪しげな笑い方をしていますが、後には泣きだしそうになるのです。
 私も苦心に苦心を積み、根気よく努めていました。ある時は八幡宮《はちまんぐう》の石段を数えて登り、一《ひ》、二《ふ》、三《み》と進んで七つと止まり、七つだよと言い聞かして、さて今の石段はいくつだとききますと、大きな声で十《とお》と答える始末です。松の並木を数えても、菓子をほうびにその数を教えても、結果は同じことです。一《ひ》、二《ふ》、三《み》という言葉と、その言葉が示す数の観念とは、この子供の頭になんの関係をも持っていないのです。
 白痴に数の観念の欠けていることは聞いてはいましたが、これほどまでとは思いもよらず、私もある時は泣きたいほどに思い、子供の顔を見つめたまま、涙がひとりでに落ちたこともありました。
 しかるに六蔵はなかなかの腕白者《わんぱくもの》で、いたずらをするときはずいぶん人を驚かすことがあるのです。山登りがじょうずで、城山を駆け回るなどまるで平地を歩くように、道のあるところ無い所、サッサと飛ぶのです。ですからこれまでも、田口の者が六蔵はどこへ行ったかと心配していると、昼飯を食ったまま出て日の暮れ方になって、城山の崖《がけ》から田口の奥庭にひょっくり飛びおりて帰って来るのだそうです。木拾いの娘が六蔵の姿を見て逃げ出したのは、きっとこれまで幾度となくこの白痴の腕白者におどされたものと私も思い当たったのであります。
 けれどもまた六蔵はじきに泣きます。母親が兄の手前を兼ねておりおりひどくしかることがあり、手の平で打つこともあります、その時は頭をかかえ身を縮めて泣き叫びます。しかしすぐと笑っているさまは、打たれたことをすっかり忘れてしまったらしく、これを見て私は、なおさらこの白痴の痛ましいことを感じました。
 かかるありさまですから、六蔵が歌など知っているはずもなさそうですが、知っています。木拾いの歌うような俗歌をそらんじて、おりおり低い声でやっています。
 ある日私は一人で城山に登りました、六蔵を連れてと思いましたが、姿が見えなかったのです。
 冬ながら九州は暖国ゆえ、天気さえよければごく暖かで、空気は澄んでいるし、山登りにはかえって冬がよいのです。
 落葉《らくよう》を踏んで頂に達し、例の天主台の下までゆくと、寂々《せきせき》として満山声なきうちに、何者か優しい声で歌うのが聞こえます、見ると天主台の石垣《いしがき》の角《かど》に、六蔵が馬乗りにまたがって、両足をふらふら動かしながら、目を遠く放って俗歌を歌っているのでした。
 空の色、日の光、古い城あと、そして少年、まるで絵です。少年は天使です。この時私の目には、六蔵が白痴とはどうしても見えませんでした。白痴と天使、なんという哀れな対照でしょう。しかし私はこの時、白痴ながらも少年はやはり自然の子であるかと、つくづく感じました。
 今一ツ六蔵の妙な癖を言いますと、この子供は鳥が好きで、鳥さえ見れば目の色をかえて騒ぐことです。けれども何を見ても「からす」と言い、いくら名を教えても覚えません。「もず」を見ても「ひよどり」を見ても「からす」と言います。おかしいのは、ある時白さぎを見て「からす」と言ッたことで、「さぎ」を「からす」に言い黒めるという俗諺《ぞくげん》が、この子だけにはあたりまえなのです。
 高い木のてっぺんで百舌鳥《もず》が鳴いているのを見ると、六蔵は口をあんぐりあけて、じっとながめています。そして百舌鳥《もず》の飛び立ってゆくあとを茫然《ぼうぜん》と見送るさまは、すこぶる妙で、この子供には空を自由に飛ぶ鳥がよほど不思議らしく思われました。

       

 さて私もこの哀れな子のためにはずいぶん骨を折ってみましたが、目に見えるほどの効能は少しもありませんでした。
 かれこれするうちに翌年の春になり、六蔵の身の上に不慮の災難が起こりました。三月の末でございました、ある日朝から六蔵の姿が見えません、昼過ぎになっても帰りません、ついに日暮れになっても帰って来ませんから田口の家では非常に心配し、ことに母親は居ても立ってもいられん様子です。
 そこで私はまず城山を捜すがよかろうと、田口の僕《ぼく》を一人連れて、ちょうちんの用意をして、心に怪しい痛ましいおもいをいだきながら、いつもの慣れた小道を登って城あとに達しました。
 俗に虫が知らすというような心持ちで天主台の下に来て、
「六さん! 六さん!」と呼びました。そして私と僕と、申し合わしたように耳をそばだてました。場所が城あとであるだけ、また捜す人が並みの子供でないだけ、なんとも知れない物すごさを感じました。
 天主台の上に出て、石垣《いしがき》の端から下をのぞいて行くうちに、北の最も高い角《かど》の真下に六蔵の死骸《しがい》が落ちているのを発見しました。
 怪談でも話すようですが、実際私は六蔵の帰りのあまりおそいと知ってからは、どうもこの高い石垣の上から六蔵の墜落して死んだように感じたのであります。
 あまり空想だと笑われるかも知れませんが、白状しますと、六蔵は鳥のように空をかけ回るつもりで石垣の角《かど》から身をおどらしたものと、私には思われるのです。木の枝に来て、六蔵の目の前まで枝から枝へと自在に飛んで見せたら、六蔵はきっと、自分もその枝に飛びつこうとしたに相違ありません。
 死骸《なきがら》を葬った翌々日、私はひとり天主台に登りました。そして六蔵のことを思うと、いろいろと人生不思議の思いに堪えなかったのです。人類と他の動物との相違。人類と自然との関係。生命と死などいう問題が、年若い私の心に深い深い哀《かな》しみを起こしました。
 イギリスの有名な詩人の詩に「童《わらべ》なりけり」というがあります。それは一人の子供が夕べごとにさびしい湖水のほとりに立って、両手の指を組み合わして、梟《ふくろ》の鳴くまねをすると、湖水の向こうの山の梟がこれに返事をする、これをその童《わらべ》は楽しみにしていましたが、ついに死にまして、静かな墓に葬られ、その霊《たま》は自然のふところに返ったというこころを詠じたものであります。
 私はこの詩がすきで常に読んでいましたが、六蔵の死を見て、その生涯《しょうがい》を思うて、その白痴を思う時は、この詩よりも六蔵のことはさらに意味あるように私は感じました。
 石垣《いしがき》の上に立って見ていると、春の鳥は自在に飛んでいます。その一つは六蔵ではありますまいか。よし六蔵でないにせよ、六蔵はその鳥とどれだけちがっていましたろう。

       アステリズム

 哀れな母親は、その子の死を、かえって子のために幸福《しやわせ》だと言いながらも泣いていました。
 ある日のことでした、私は六蔵の新しい墓におまいりするつもりで城山の北にある墓地にゆきますと、母親が先に来ていてしきりと墓のまわりをぐるぐる回りながら、何かひとりごとを言っている様子です。私の近づくのを少しも知らないと見えて、
「なんだってお前は鳥のまねなんぞした、え、なんだって石垣《いしがき》から飛んだの?……だって先生がそう言ったよ、六さんは空を飛ぶつもりで天主台の上から飛んだのだって。いくら白痴《ばか》でも、鳥のまねをする人がありますかね、」と言って少し考えて「けれどもね、お前は死んだほうがいいよ。死んだほうが幸福《しやわせ》だよ……」
 私に気がつくや、
「ね、先生。六は死んだほうが幸福《しやわせ》でございますよ、」と言って涙をハラハラとこぼしました。
「そういう事もありませんが、なにしろ不慮の災難だからあきらめる[#「あきらめる」に傍点]よりいたしかたがありませんよ……」
「けれど、なぜ鳥のまねなんぞしたのでございましょう。」
「それはわたしの想像ですよ。六さんがきっと鳥のまねをして死んだのだか、わかるものじゃありません。」
「だって先生はそう言ったじゃありませぬか。」と母親は目をすえて私の顔を見つめました。
「六さんはたいへん鳥がすきであったから、そうかも知れないと私が思っただけですよ。」
「ハイ、六は鳥がすきでしたよ。鳥を見ると自分の両手をこう広げて、こうして」と母親は鳥の羽ばたきのまねをして「こうしてそこらを飛び歩きましたよ。ハイ、そうして、からすの鳴くまねがじょうずでした」と目の色を変えて話す様子を見ていて、私は思わず目をふさぎました。
 城山の森から一羽のからすが羽をゆるやかに、二声三声鳴きながら飛んで、浜のほうへゆくや、白痴の親は急に話をやめて、茫然《ぼうぜん》と我れをも忘れて見送っていました。
 この一羽のからすを、六蔵の母親がなんと見たでしょう。

底本:「号外・少年の悲哀 他六編」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年4月17日第1刷発行
   1960(昭和35)年1月25日第14刷改版発行
   1981(昭和56)年4月10日第34刷発行
入力:紅 邪鬼
校正:LUNA CAT
2000年8月21日公開
2004年6月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

酒中日記 国木田独歩

 五月三日(明治三十〇年)
「あの男はどうなったかしら」との噂《うわさ》、よく有ることで、四五人集って以前の話が出ると、消えて去《な》くなった者の身の上に、ツイ話が移るものである。
 この大河|今蔵《いまぞう》、恐らく今時分やはり同じように噂せられているかも知れない。「時に大河はどうしたろう」升屋《ますや》の老人口をきる。
「最早《もう》死んだかも知れない」と誰かが気の無い返事を為《す》る。「全くあの男ほど気の毒な人はないよ」と老人は例の哀れっぽい声。
 気の毒がって下さる段は難有《ありがた》い。然《しか》し幸か不幸か、大河という男今|以《もっ》て生ている、しかも頗《すこぶ》る達者、この先何十年この世に呼吸《いき》の音《ね》を続けますことやら。憚《はばか》りながら未《ま》だ三十二で御座る。
 まさかこの小《ちっ》ぽけな島、馬島《うましま》という島、人口百二十三の一人となって、二十人あるなしの小供を対手《あいて》に、やはり例の教員、然し今度は私塾なり、アイウエオを教えているという事は御存知あるまい。無いのが当然で、かく申す自分すら、自分の身が流れ流れて思いもかけぬこの島でこんな暮《くらし》を為るとは夢にも思わなかったこと。
 噂をすれば影とやらで、ひょっくり自分が現われたなら、升屋の老人|喫驚《びっく》りして開《あ》いた口がふさがらぬかも知れない。「いったい君はどうしたというんだ」と漸《やっ》とのことで声を出す。それから話して一時間も経《た》つと又|喫驚《びっくり》、今度は腹の中で。「いったいこの男はどうしたのだろう、五年見ない間《ま》に全然《すっかり》気象まで変って了《しま》った」
 驚き給うな源因《げんいん》がある。第一、日記という者書いたことのない自分がこうやって、こまめに筆を走らして、どうでもよい自分のような男の身の上に有ったことや、有ることを、今日からポツポツ書いてみようという気になったのからして、自分は五年前の大河では御座らぬ。
 ああ今は気楽である。この島や島人《しまびと》はすっかり自分の気に入って了《しま》った。瀬戸内にこんな島があって、自分のような男を、ともかくも呑気《のんき》に過さしてくれるかと思うと、正《まさ》にこれ夢物語の一章一節、と言いたくなる。
 酒を呑んで書くと、少々手がふるえて困る、然し酒を呑まないで書くと心がふるえるかも知れない。「ああ気の弱い男!」何処《どこ》に自分が変っている、やはりこれが自分の本音《ほんね》だろう。
 可愛い可愛いお露《つゆ》が遊びに来たから、今日はこれで筆を投げる。
 五月四日[#「五月四日」に白丸傍点]
 自分が升屋の老人から百円受取って机の抽斗《ひきだし》に納《しま》ったのは忘れもせぬ十月二十五日。事の初《はじまり》がこの日で、その後自分はこの日に逢《あ》うごとに頸《くび》を縮めて眼をつぶる。なるべくこの日の事を思い出さないようにしていたが、今では平気なもの。
 一件がありありと眼の先に浮んで来る。
 あの頃の自分は真面目《まじめ》なもので、酒は飲めても飲まぬように、謹厳正直《きんげんせいちょく》、いやはや四角張《しかくばっ》た男であった。
 老人連、全然《すっかり》惚《ほ》れ込んでしまった。一《いつ》にも大河、二にも大河。公立|八雲《やくも》小学校の事は大河でなければ竹箒《たけぼうき》一本買うことも決定《きめ》るわけにゆかぬ次第。校長になってから二年目に升屋の老人、遂に女房の世話まで焼いて、お政を自分の妻にした。子が出来た。お政も子供も病身、健康なは自分ばかり。それでも一家《いっけ》無事に平和に、これぞという面白いこともない代り、又これぞという心配もなく日を送っていた。
 ところが日清《にっしん》戦争、連戦連勝、軍隊万歳、軍人でなければ夜も日も明けぬお目出度《めでた》いこととなって、そして自分の母と妹《いもと》とが堕落した。
 母と妹《いもと》とは自分達夫婦と同棲《どうせい》するのが窮屈で、赤坂区新町に下宿屋を開業。それも表向《おもてむき》ではなく、例の素人《しろうと》下宿。いやに気位を高くして、家が広いから、それにどうせ遊んでいる身体《からだ》、若いものを世話してやるだけのこと、もっとも性の知れぬお方は御免|被《こうむ》るとの触込《ふれこ》み。
 自体拙者は気に入らないので、頻《しき》りと止めてみたが、もともと強情我慢な母親《おふくろ》、妹《いもと》は我儘者《わがままもの》、母に甘やかされて育てられ、三絃《しゃみ》まで仕込まれて自堕落者に首尾よく成りおおせた女。お前たちの厄介にさえならなければ可《よ》かろうとの挨拶《あいさつ》で、頭から自分の注意は取あげない。
 これぞという間違もなく半年経ち、日清戦争となって、兵隊が下宿する。初は一人の下士。これが導火線、類を以て集り、終《つい》には酒、歌、軍歌、日本帝国万々歳! そして母と妹《いもと》との堕落。「国家の干城《かんじょう》たる軍人」が悪いのか、母と妹《いもと》とが悪いのか、今更いうべき問題でもないが、ただ一の動かすべからざる事実あり曰《いわ》く、娘を持ちし親々は、それが華族でも、富豪《ふうごう》でも、官吏でも、商人でも、皆《み》な悉《ことごと》く軍人を聟《むこ》に持ちたいという熱望を持ていたのである。
 娘は娘で軍人を情夫《いろ》に持つことは、寧《むし》ろ誇るべきことである、とまで思っていたらしい。
 軍人は軍人で、殊《こと》に下士以下は人の娘は勿論《もちろん》、後家《ごけ》は勿論、或《あるい》は人の妻をすら翫弄《がんろう》して、それが当然の権利であり、国民の義務であるとまで済ましていたらしい。
 三円借せ、五円借せ、母はそろそろ自分を攻め初めた。自分は出来るだけその望に応じて、苦しい中を何とか工夫して出してやった。
 月給十五円。それで親子三人が食ってゆくのである。なんで余裕があろう。小学校の教員はすべからく焼塩か何にかで三度のめし[#「めし」に傍点]を食い、以て教場に於ては国家の干城たる軍人を崇拝すべく七歳より十三四歳までの児童に教訓せよと時代は命令しているのである。
 唯々《いい》として自分はこの命令を奉じていた。
 然し母と妹《いもと》との節操を軍人閣下に献上し、更らに又、この十五円の中から五円三円と割《さ》いて、母と妹《いもと》とが淫酒の料に捧《ささ》げなければならぬかを思い、さすがお人好の自分も頗《すこぶ》る当惑したのである。
 酒が醒《さ》めかけて来た! 今日はここで止《や》める。
 五月六日[#「五月六日」に白丸傍点]
 昨日《きのう》は若い者が三四人押かけて来て、夜の十二時過ぎまで飲み、だみ声を張上げて歌ったので疲れて了《しま》い、何時《いつ》寝たのか知らぬ間に夜が明けて今日。それで昨日《きのう》の日記がお休み。
 さても気楽な教員。酒を飲うが歌おうが、お露《つゆ》を可愛《かあい》がって抱いて寝ようが、それで先生の資格なしとやかましく言う者はこの島に一人もない。
 特別に自分を尊敬も為《し》ない代りに、魚《うお》あれば魚、野菜あれば野菜、誰が持て来たとも知れず台所に投《ほう》りこんである。一升|徳利《どくり》をぶらさげて先生、憚《はばか》りながら地酒では御座らぬ、お露の酌で飲んでみさっせと縁先へ置いて去《い》く老人もある。
 ああ気楽だ、自由だ。母もいらぬ、妹《いもと》もいらぬ、妻子《つまこ》もいらぬ。慾もなければ得もない。それでいてお露が無暗《むやみ》に可愛のは不思議じゃないか。
 何が不思議。可愛いから可愛いので、お露とならば何時でも死ぬる。
 十日前のこと、自分は縁先に出て月を眺《なが》め、朧《おぼ》ろに霞《かす》んで湖水のような海を見おろしながら、お露の酌で飲んでいると、ふと死んだ妻子《つまこ》のこと、東京の母や妹《いもと》のことを思いだし、又この身の流転を思うて、我知らず涙を落すと、お露は見ていたが、その鈴のような眼に涙を一ぱい含くませた。その以前自分はお露に涙を見せたことなく、お露もまた自分に涙を見せたことはないのである。さても可愛いこの娘、この大河なる団栗眼《どんぐりまなこ》の猿のような顔《つら》をしている男にも何処《どこ》か異《おつ》なところが有るかして、朝夕慕い寄り、乙女《おとめ》心の限りを尽して親切にしてくれる不憫《ふびん》さ。
 自然生《じねんじょ》の三吉が文句じゃないが、今となりては、外に望は何もない、光栄ある歴史もなければ国家の干城たる軍人も居ないこの島。この島に生れてこの島に死し、死してはあの、そら今風が鳴っている山陰の静かな墓場に眠る人々の仲間入りして、この島の土となりたいばかり。
 お露を妻《かか》に持って島の者にならっせ、お前さん一人、遊んでいても島の者が一生養なって上げまさ、と六兵衛が言ってくれた時、嬉《うれ》しいやら情けないやらで泣きたかった。
 そして見ると、自分の周囲《まわり》には何処かに悲惨《ひさん》の影が取巻ていて、人の憐愍《れんみん》を自然に惹《ひ》くのかも知れない。自分の性質には何処かに人なつこい[#「なつこい」に傍点]ところがあって、自《おのず》と人の親愛を受けるのかもしれない。
 何《いず》れにせよ、自分の性質には思い切って人に逆らうことの出来る、ピンとしたところはないので、心では思っても行《おこない》に出すことの出来ない場合が幾多《いくら》もある。
 ああ哀れ気の毒千万なる男よ! 母の為め妹《いもと》の為めに可《よ》くないと思った下宿の件も遂には止め終《おお》せなかったも当然。母と妹《いもと》の浅ましい堕落を知りつつも思い切って言いだし得ず、言いだしても争そうことの出来なかったも当然。苦るしい中を算段して、いやいやながらも母と妹《いもと》とに淫酒の料をささげたもこれ又当然。
 二十四日の晩であった、母から手紙が来て、明二十五日の午後まかり出るから金五円至急に調達《ちょうだつ》せよと申込んで来た時、自分は思わず吐息をついて長火鉢《ながひばち》の前に坐ったまま拱手《うでぐみ》をして首を垂《た》れた。
「どうなさいました?」と病身な妻《さい》は驚いて問うた。
「これを御覧」と自分は手紙を妻《さい》に渡した。妻《さい》は見ていたが、これも黙って吐息したまま手紙を下に置く。
「何故《なぜ》こんな無理ばかり言って来るだろう」
「そうですね……」
「最早《もう》一文なしだろう?」
「一円ばかし有ります」
「有ったってそれを渡したら宅《うち》で困って了う。可いよ、明日《あした》母上《おっかさん》が来たら私がきっぱりお謝絶《ことわり》するから。そうそうは私達だって困らアね。それも今日《こんにち》母上《おっかさん》や妹《いもと》の露命をつなぐ為めとか何とか別に立派な費《つか》い途《みち》でも有るのなら、借金してだって、衣類《きもの》を質草に為《し》たって五円や三円位なら私の力にても出来《でか》して上げるけれど、兵隊に貢ぐのやら訳もわからない金だもの。可《よ》いよ、明日《あした》こそ私しが思いきり言うから、それで聴《き》かないならどうにでも勝手になさいと言ってやるから」
「言うのはお止《よ》しなさいよ」
「何故や、言うよ、明日こそ言うよ」
「だってね母上《おっかさん》のことだから又大きな声をして必定《きっと》お怒鳴《どなり》になるから、近処《きんじょ》へ聞えても外聞が悪いし、それにね、貴所《あなた》が思い切たことを被仰《おっしゃ》ると直ぐ私が恨まれますから。それでなくても私が気に喰《く》わんから一所に居たくても為方なしに別居して嫌《いや》な下宿屋までしているんだって言いふらしておいでになるんですから」とお政は最早《もう》泣き声になっている。
「然し実際|明日《あした》母上《おっかさん》が見えたって渡す金が無いじゃアないか」
「私が明日のお昼までにどうにか致します」
「どうにかって、お前に出来る位なら私にだって何とか為《な》りそうなものだが、実際始末にいけないのじゃないか」
「今度だけ私にまかして下さい、何とか致しますから」と言われて自分は強《しい》て争わず、めいり[#「めいり」に傍点]込んだ気を引きたてて改築事務を少しばかり執《とっ》て床に就《つ》いた。
 五月七日[#「五月七日」に白丸傍点]
 一寝入したかと思うと、フト眼が覚《さ》めた、眼が覚めたのではなく可怕《おそろし》い力が闇《やみ》の底から手を伸して揺《ゆ》り起したのである。
 その頃学校改築のことで自分はその委員長。自分の外に六名の委員が居ても多くは有名無実で、本気で世話を焼くものは自分の外に升屋の老人ばかり。予算から寄附金のことまで自分が先に立って苦労する。敷地の買上、その代価《ねだん》の交渉、受負師との掛引、割当てた寄附金の取立、現金の始末まで自分に為《さ》せられるので、自然と算盤《そろばん》が机の上に置れ通し。持前の性分、間に合わして置くことが出来ず、朝から寝るまで心配の絶えないところへ、母と妹《いもと》とが堕落の件。殊《こと》に又ぞろ母からの無理な申込で頭を痛めた故《せい》か、その夜は寝ぐるしく、怪しい夢ばかり見て我ながら眠っているのか、覚めているのか判然《わから》ぬ位であった。
 何か物音が為《し》たと思うと眼が覚めた。さては盗賊《どろぼう》と半ば身体《からだ》を起してきょろきょろと四辺《あたり》を見廻したが、森《しん》としてその様子もない。夢であったか現《うつつ》であったか、頭が錯乱しているので判然《はっきり》しない。
 言うに言われぬ恐怖《おそろし》さが身内に漲《みな》ぎってどうしてもそのまま眠ることが出来ないので、思い切って起上《たちあ》がった。
 次の八畳の間の間《あい》の襖《ふすま》は故意《わざ》と一枚開けてあるが、豆洋燈《まめランプ》の火はその入口《いりくち》までも達《とど》かず、中は真闇《まっくら》。自分の寝ている六畳の間すら煤《すす》けた天井の影暗く被《おお》い、靄霧《もや》でもかかったように思われた。
 妻のお政はすやすやと寝入り、その傍《そば》に二歳《ふたつ》になる助《たすく》がその顔を小枕《こまくら》に押着けて愛らしい手を母の腮《あご》の下に遠慮なく突込んでいる。お政の顔色の悪さ。さなきだに蒼《あお》ざめて血色|悪《あ》しき顔の夜目には死人《しびと》かと怪しまれるばかり。剰《あまつさ》え髪は乱れて頬《ほお》にかかり、頬の肉やや落ちて、身体《からだ》の健《すこや》かならぬと心に苦労多きとを示している。自分は音を立てぬようにその枕元を歩いて、長火鉢《ながひばち》の上なる豆洋燈を取上げた。
 暫時《しばらく》聴耳《ききみみ》を聳《たて》て何を聞くともなく突立っていたのは、猶《な》お八畳の間を見分する必要が有るかと疑がっていたので。しかし確に箪笥《たんす》を開ける音がした、障子をするすると開ける音を聞いた、夢か現《うつつ》かともかくと八畳の間に忍足で入って見たが、別に異変《かわり》はない。縁端《えんがわ》から、台所に出て真闇の中をそっと覗《のぞ》くと、臭気《におい》のある冷たい空気が気味悪く顔を掠《かす》めた。敷居に立って豆洋燈を高くかかげて真闇の隅々《すみずみ》を熟《じっ》と見ていたが、竈《かまど》の横にかくれて黒い風呂敷包が半分出ているのに目が着いた。不審に思い、中を開けて見ると現われたのが一筋の女帯。
 驚くまいことか、これがお政が外出《そとゆき》の唯《たっ》た一本の帯、升屋の老人が特に祝わってくれた品である。何故《なぜ》これが此所《ここ》に隠してあるのだろう。
 自分の寝静まるのを待って、お政はひそかに箪笥からこの帯を引出し、明朝《あす》早くこれを質屋に持込んで母への金を作る積《つもり》と思い当った時、自分は我知らず涙が頬を流れるのを拭《ふ》き得なかった。
 自分はそのまま帯を風呂敷に包んで元の所に置き、寝間に還《かえ》って長火鉢の前に坐わり烟草《たばこ》を吹かしながら物思に沈んだ。自分は果してあの母の実子だろうかというような怪しい惨《いた》ましい考が起って来る。現に自分の気性と母及び妹《いもと》の気象とは全然《まるで》異《ちが》っている。然し父には十の年に別れたのであるから、父の気象に自分が似て生れたということも自分には解らない。かすかに覚えているところでは父は柔和《やさし》い方《かた》で、荒々しく母や自分などを叱《しか》ったことはなかった。母に叱られて柱に縛《しば》りつけられたのを父が解てくれたことを覚えている。その時母が父にも怒《いかり》を移して慳貪《けんどん》に口をきいたことをも思い出し、父のこと母のこと、それからそれへと思を聯《つら》ね、果は親子の愛、兄弟の愛、夫婦の愛などいうことにまで考え込んで、これまでに知らない深い人情の秘密に触れたような気にもなった。
 お政は痛ましく助《たすく》は可愛く、父上は恋しく、懐《なつ》かしく、母と妹《いもと》は悪《にく》くもあり、痛ましくもあり、子供の時など思い起しては恋しくもあり、突然寄附金の事を思いだしては心配で堪《たま》らず、運動場に敷く小砂利《こじゃり》のことまで考えだし、頭はぐらぐらして気は遠くなり、それでいて神経は何処《どこか》に焦焦《じりじり》した気味がある……
 嗚呼《ああ》! 何故あの時自分は酒を呑《のま》なかったろう。今は舌打して飲む酒、呑ば酔《え》い、酔《え》えば楽しいこの酒を何故飲なかったろう。
 五月八日[#「五月八日」に白丸傍点]
 明くれば十月二十五日自分に取って大厄日。
 自分は朝起きて、日曜日のことゆえ朝食《あさめし》も急がず、小児《こども》を抱て庭に出《い》で、其処《そこ》らをぶらぶら散歩しながら考えた、帯の事を自分から言い出して止《と》めようかと。
 然し止めてみたところで別に金の工面の出来るでもなし、さりとて断然母に謝絶することは妻《さい》の断《たっ》て止めるところでもあるし。つまり自分は知らぬ顔をしていて妻《さい》の為すがままに任かすことに思い定めた。
 朝食《あさめし》を終るや直ぐ机に向って改築事務を執《と》っていると、升屋の老人、生垣《いけがき》の外から声をかけた。
「お早う御座い」と言いつつ縁先に廻って「朝《あさっ》ぱらから御勉強だね」
「折角の日曜もこの頃はつぶれ[#「つぶれ」に傍点]で御座います」
「ハハハハッ何に今に遊ばれるよ、学校でも立派に出来あがったところで、しんみり[#「しんみり」に傍点]と戦いたいものだ、私は今からそれを楽みに為《し》ている」
 座に着いて老人は烟管《きせる》を取出した。この老人と自分、外に村の者、町の者、出張所の代診、派出所の巡査など五六名の者は笊碁《ざるご》の仲間で、殊《こと》に自分と升屋とは暇さえあれば気永な勝負を争って楽んでいたのが、改築の騒から此方《こっち》、外の者はともかく、自分は殆《ほとん》ど何より嗜好《すき》、唯一の道楽である碁すら打ち得なかったのである。
「来月一ぱいは打てそうもありません」
「その代り冬休という奴《やつ》が直ぐ前に控えていますからな。左右に火鉢、甘《うま》い茶を飲みながら打つ楽《たのしみ》は又別だ」といいつつ老人は懐中《ふところ》から新聞を一枚出して、急に真顔《まがお》になり
「ちょっとこれを御覧」
 披《ひろ》げて二面の電報欄を指した。見ると或地方で小学校新築落成式を挙げし当日、廊《ろうか》の欄《てすり》が倒れて四五十人の児童庭に顛落《てんらく》し重傷者二名、軽傷者三十名との珍事の報道である。
「大変ですね。どうしたと言うんでしょう?」
「だから私が言わんことじゃあない。その通りだ、安普請《やすぶしん》をするとその通りだ。原などは余《あんま》り経費がかかり過ぎるなんて理窟《りくつ》を並べたが、こういう実例が上ってみると文句はあるまい。全体大切な児童《こども》を幾百人《なんびゃくにん》と集《よせ》るのだもの、丈夫な上に丈夫に建るのが当然《あたりまえ》だ。今日一つ原に会ってこの新聞を見せてやらなければならん」
「無闇《むやみ》な事も出来ますまいが、今度の設計なら決して高い予算じゃ御座いませんよ、何にしろあの建坪ですもの、八千円なら安い位なものです」
「いやその安価《やすい》のが私ゃ気に喰《く》わんのだが、先ず御互の議論が通ってあの予算で行くのだから、そう安《やすっ》ぽい直《す》ぐ欄《てすり》の倒れるような険呑《けんのん》なものは出来上らんと思うがね」と言って気を更《か》え、「其処《そこ》で寄附金じゃが未《ま》だ大《おおき》な口が二三《ふたつみつ》残ってはいないかね?」
「未だ三口ほど残っています」
「それじゃア私がこれから廻ってみよう」
「そうですか、それでは大井|様《さん》を願います。今日渡すから人をよこしてくれろと云って来ましたから」
「百円だったね?」と老人は念を推した。
「そうです」
 其処《そこ》で老人は程遠からぬ華族大井家の方へと廻るとて出行《いでゆ》きたるに引きちがえてお政は外から帰って来た。老人と自分とが話している間《ま》に質屋に行って来たのである。
「金は出来たろうか」と自分は何処までも知らぬ顔で聞いた。妻《さい》は、
「出来ました」と言いつつ小児《こども》を背から下して膝に乗せた。
「どうして出来たのだ」と自分は問わざるを得なくなった。
「どうしてでも可《い》いじゃアありませんか、私《わたくし》が……」と言いかけて淋《さび》しげな笑を洩《もら》した。
「そうさ、お前に任したのだから……ところで母上《おっか》さんが見えたら最早《もう》下宿屋は止《よ》して一所になって下さいと言ってみようじゃないか」
「言ったところで無益《むだ》で御座いますよ」
「無益ということもあるまい。熱心に説けば……」
「無益ですよ、却《かえ》って気を悪くなさるばかりですよ」
「それは多少《いくら》か気を悪くなさるだろうけれど、言わないで置けばこの後どんなことに成りゆくかも知れないよ」
「そうですねえ……然し兵隊さんとどうとかいうようなことは被仰《おっしゃら》んほうが可《よ》う御座いますよ」
「まさかそんなことまでもは言われも為《す》まいけれど」
 一時間立たぬうちに升屋の老人は帰って来て、
「甘《うま》く行ったよ」と座に着いた。
「どうも御苦労様でした」
「ハイ確かに百円。渡しましたよ。験《あら》ためて下さい」と紙包を自分の前に。
「今日は日曜で銀行がだめ[#「だめ」に傍点]ですから貴所《あなた》の宅《うち》に預かって下さいませんか。私の家は用心が悪う御座いますから」と自分が言うを老人は笑って打消し、
「大丈夫だよ、今夜だけだもの。私宅《うち》だって金庫を備えつけて置くほどの酒屋じゃアなし、ハッハッハッハッハッハッ。取られる時になりゃ私の処《とこ》だって同じだ。大井|様《さん》は済んだとして、後《あと》の二軒は誰が行く筈《はず》になっています」
「午後《ひるから》私が廻る積りです」
 升屋の老人は去り、自分は百円の紙包を机の抽斗《ひきだし》に入れた。
 五月九日[#「五月九日」に白丸傍点]
 自分は五年|前《ぜん》の事を書いているのである。十月二十五日の事を書いているのである。厭《いや》になって了った。書きたくない。
 けれども書く、酒を飲みながら書く。この頃島の若いものと一しょに稽古《けいこ》をしている義太夫《ぎだゆう》。そうだ『玉三《たまさん》』でも唸《うな》りながら書こう。面白い!
 ――昼飯《ひるめし》を済まして、自分は外出《でか》けようとするところへ母が来た。母が来たら自分の帰るまで待って貰《もら》う筈にして置いたところへ。
 色の浅黒い、眼に剣のある、一見して一癖あるべき面魂《つらだましい》というのが母の人相。背《せい》は自分と異《ちが》ってすらり[#「すらり」に傍点]と高い方。言葉に力がある。
 この母の前へ出ると自分の妻《さい》などはみじめ[#「みじめ」に傍点]な者。妻の一|言《こと》いう中《うち》に母は三言五言《みこといつこと》いう。妻はもじもじ[#「もじもじ」に傍点]しながらいう。母は号令でもするように言う。母は三言目には喧嘩腰《けんかごし》、妻は罵倒《ばとう》されて蒼《あお》くなって小さくなる。女でもこれほど異《ちが》うものかと怪しまれる位。
 母者《ははじゃ》ひとの御入来。
 其処《そこ》は端近《はしぢか》先《ま》ず先ずこれへとも何とも言わぬ中に母はつかつかと上って長火鉢の向《むこう》へむず[#「むず」に傍点]とばかり、
「手紙は届いたかね」との一|言《ごん》で先ず我々の荒肝《あらぎも》をひしがれた。
「届きました」と自分が答えた。
「言って来たことは都合がつくかね?」
「用意して置きました」とお政は小さい声。母はそろそろ気嫌《きげん》を改ためて、
「ああそれは難有《ありがと》う。毎度お気の毒だと思うんだけれど、ツイね私の方も請取《うけと》る金が都合よく請取れなかったりするものだから、此方《こっち》も困るだろうとは知りつつ、何処《どっこ》へも言って行く処がないし、ツイね」と言って莞爾《にっこり》。
 能《よ》く見ると母の顔は決して下品な出来ではない。柔和に構えて、チンとすましていられると、その剣のある眼つきが却《かえ》って威を示し、何処《どこ》の高貴のお部屋様かと受取られるところもある。
「イイえどう致しまして」とお政は言ったぎり、伏目《ふしめ》になって助《たすく》の頭を撫《な》でている。母はちょっと助を見たが、お世辞にも孫の気嫌を取ってみる母では無さそうで、実はそうで無い。時と場合でそんなことはどうにでも。
「助の顔色がどうも可くないね。いったい病身な児だから余程《よっぽど》気をつけないと不可《いけ》ませんよ」と云いつつ今度は自分の方を向いて、
「学校の方はどうだね」
「どうも多忙《いそが》しくって困ります。今日もこれから寄附金のことで出掛けるところでした」
「そうかね、私にかまわないでお出かけよ、私も今日は日曜だから悠然《ゆっくり》していられない」
「そうでしたね、日曜は兵隊が沢山来る日でしたね」と自分は何心なく言った。すると母、やはり気がとがめるかして、少し気色《けしき》を更え、音《おん》がカンを帯びて、
「なに私どもの処に下宿している方は曹長様《そうちょうさん》ばかりだから、日曜だって平常《ふだん》だってそんなに変らないよ。でもね、日曜は兵が遊びに来るし、それに矢張《やはり》上に立てば酒位飲まして返すからね自然と私共も忙がしくなる勘定サ。軍人はどうしても景気が可いね」
「そうですかね」と自分は気の無い挨拶《あいさつ》をしたので、母は愈々《いよいよ》気色ばみ。
「だってそうじゃないかお前、今度の戦争《いくさ》だって日本の軍人が豪《えら》いから何時《いつで》も勝つのじゃないか。軍人あっての日本だアね、私共は軍人が一番すきサ」
 この調子だから自分は遂に同居説を持だすことが出来ない。まして品行《みもち》の噂でも為て、忠告がましいことでも言おうものなら、母は何と言って怒鳴るかも知れない。妻《さい》が自分を止めたも無理でない。
「学校の先生なんテ、私は大嫌《だいきら》いサ、ぐずぐずして眼ばかりパチつかしているところは蚊を捕《つかま》え損《そこ》なった疣蛙《えぼがえる》みたようだ」とは曾《かつ》て自分を罵《のの》しった言葉。
 疣蛙が出ない中にと、自分は、
「ちょっと出て来ます、御悠寛《ごゆっくり》」とこそこそ出てしまった。何と意気地なき男よ!
 思えば母が大意張《おおいばり》で自分の金を奪い、遂に自分を不幸のドン底まで落したのも無理はない。自分達夫婦は最初から母に呑《のま》れていたので、母の為ることを怒《いか》り、恨み、罵ってはみる者の、自分達の力では母をどうすることも出来ないのであった。
 酒を飲まない奴《やつ》は飲む者に凹《へこ》まされると決定《きま》っているらしい。今の自分であってみろ! 文句がある。
「母上《おっか》さん、そりゃア貴女《あなた》軍人が一番お好きでしょうよ」とじろり[#「じろり」に傍点]その横顔を見てやる。母のことだから、
「オヤ異《おつ》なことを言うね、も一度言って御覧」と眼を釣上げて詰寄るだろう。
「御気《ごき》に触《さ》わったら御勘弁。一ツ差上げましょう」と杯《さかずき》を奉まつる。「草葉の蔭で父上が……」とそれからさわり[#「さわり」に傍点]で行くところだが、あの時はどうしてあの時分はあんなに野暮天《やぼてん》だったろう。
 浜を誰か唸《うな》って通る。あの節廻《ふしまわ》しは吉次《きちじ》だ。彼奴《きゃつ》声は全たく美《い》いよ。
 五月十日[#「五月十日」に白丸傍点]
 外から帰たのが三時頃であった。妻《さい》は突伏して泣いている。
「どうしたのだ、どうしたの?」と自分は驚ろいて訊《き》いたが、お政のことゆえ、泣くばかりで容易に言い得ない。泣くのはこの女の持前で、少しの事にも涙をこぼす。然し今度のは余程のことが有ったとみえて、自分が聞けば聞くほど益々《ますます》泣入ばかり。こうなると自分は狼狽《うろた》えざるを得ない。水を持て来てやりなどすると漸《ようや》くのことで詳わしく事条《じじょう》が解った。
 お政の苦心は十分母の満足を得なかったのである。折角の帯も三円にしかならず、仕方なしにお政は自分の出て行った後《あと》でこの三円を母に渡すと、母は大立腹。二人の問答は次のようであった。
「五円と言って来たのだよ」
「でも只今これだけしか無いのですから……」
「だって先刻《さっき》用意してあると言ったじゃないか」
「ですから三円だけ漸々《ようよう》作《こし》らえましたから……」
「そうお。漸々作らえておくれだったのか。お気の毒でしたね、色々御心配をかけて。必定《きっと》七屋《ななつや》からでも持て来たお金でしょう。そんな思《おもい》のとッ着いた金なんか借りたくないよ。何だね人面白《ひとおもしろ》くも無い。可いよ今蔵が帰って来るの待っているから。今蔵に言うから」
「イイえ主人《うち》では知らないのですから……」
「オヤ今蔵は知らないの? 驚いた、それじゃお前さんが内証でお貸なの。嘘《うそ》を吐《つ》きなさんな、嘘を。今蔵の奴|必定《きっと》三円位で追返せとか何とか言ったのだろう。だから自分は私を避《よ》けて出て行ったのだろう。可いよ、待ってるから。晩までだって待っていてやるから」
「宅《うち》のは全く、全く知らないので……」と妻は泣いて口がきけない。
「泣かないでも可いじゃアないか。お前さんは亭主の言いつけ通り為たのだから可いじゃアないか。フン何ぞと言うと直ぐ泣くのだ。どうせ私は鬼婆《おにばばア》だから私が何か言うと可怕《こわ》いだろうよ」
 何と言われても一方は泣くばかり、母は一人で並べている。
「だから出来なきゃ出来ないと言って寄こせば可いんだ。新町から青山くんだりまで三円ばかしのお金を取りに来るような暇はない身体ですよ。意気地がないから親一人|妹《いもと》一人養うことも出来ずさ、下宿屋家業までさして置いて忠孝の道を児童《こども》に教えるなんて、随分変った先生様もあるものだね。然しお政さんなんぞは幸福《しあわせ》さ、いくら親に不孝な男でも女房だけは可愛がるからね。お光《みつ》などのように兵隊の気嫌まで取て漸々御飯を戴《いただ》いていく女もあるから、お前さんなんぞ決して不足に思っちゃなりませんよ」
 皮肉も言い尽して、暫《しば》らく烟草《たばこ》を吹かしながら坐っていたが、時計を見上げて、
「どうせ避《よ》けた位だからちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]帰って来ないだろう。帰りましょう、私も多忙《いそが》しい身体だからね。お客様に御飯を上げる仕度《したく》も為なければならんし」と急に起上《たちあ》がって
「紙と筆を借りるよ。置手紙を書くから」と机の傍《そば》に行った。
 この時助が劇《はげ》しく泣きだしたので、妻は抱いて庭に下りて生垣《いけがき》の外を、自分も半分泣きながら、ぶらぶら歩るいて児供《こども》を寝かしつけようとしていた。暫《しばら》くすると急に母は大声で
「お政さん! お政さん!」と呼んだ。妻は座敷に上がると母は眼に角を立て睨《にら》むようにして
「お前さんまで逃げないでも可いよ。人を馬鹿にしてらア。手紙なんぞ書かないから、帰ったらそう言っておくれ。この三円も不用《いらな》いよ」と投げだして「最早《もう》私も決して来ないし、今蔵も来ないが可い、親とも思うな、子とも思わんからと言っておくれ!」
 非常な剣幕で母は立ち去り、妻はそのまま泣伏したのであった。
 自分は一々|聴《き》き終わって、今の自分なら、
「宜《よろ》しい! 不用《いらな》けゃ三円も上げんばかりだ。泣くな、泣くな、可いじゃないか母上《おっか》さんの方から母《おや》でもない子でも無いというのなら、致《いたし》かたもないさ。無理も大概にして貰《もら》わんとな」
 然《しか》しあの時分はそうでなかった。不孝の子であるように言われてみると甚《ひ》どくそれが気にかかる。気にかかるというには種々の意味が含んでいるので、世間|体《てい》もあるし、教員という第一の資格も欠けているようだし、即ち何となく心に安んじないのである。それに三円ということは自分も知らなかったのだ、その点は此方《こっち》が悪いような気もするので、
「困ったものだ」と腕組して暫く嘆息《ためいき》をしていたが、
「自分で勝手に下宿屋を行《や》っていながら、そんなことを言われてみると、全然《まるで》私共が悪いように聞える。可いよ、私が今夜行って来よう。そして三円だけ渡して来る」
 五月十一日[#「五月十一日」に白丸傍点]
 今日は朝から雨降り風起りて、湖水のような海もさすがに波音が高い。山は鳴っている。
 今夜はお露も来ない。先刻《さっき》まで自分と飲んでいた若者も帰ってしまった。自分は可《い》い心持に酔うている。酔うてはいるもののどうも孤独の感に堪《た》えない。要するに自分は孤独である。
 人の一生は何の為だろう。自分は哲学者でも宗教家でもないから深い理窟《りくつ》は知らないが、自分の今、今という今感ずるところは唯《た》だ儚《はかな》さだけである。
 どうも人生は儚いものに違いない。理窟は抜にして真実のところは儚いものらしい。
 もしはかないものでないならば、たとい人はどんな境遇に堕《おち》るとも自分が今感ずるような深い深い悲哀《かなしみ》は感じない筈《はず》だ。
 親とか子とか兄弟とか、朋友《ほうゆう》とか社会とか、人の周囲《まわり》には人の心を動かすものが出来ている。まぎらす[#「まぎらす」に傍点]者が出来ている。もしこれ等が皆《み》な消え失《う》せて山上に樹《た》っている一本松のように、ただ一人、無人島の荒磯《あらいそ》に住んでいたらどうだろう。風は急に雨は暗く海は怪しく叫ぶ時、人の生命、この地の上に住む人の一生を楽しいもの、望あるものと感ずることが出来ようか。
 だから人情は人の食物《くいもの》だ。米や肉が人に必要物なる如く親子や男女《なんにょ》や朋友の情は人の心の食物だ。これは比喩《ひゆ》でなく事実である。
 だから土地に肥料を施す如く、人は色々な文句を作ってこれ等の情を肥《つち》かうのだ。
 そうしてみると神様は甘《うま》く人間を作って御座る。ではない人間は甘く猿《さる》から進化している。
 オヤ! 戸をたたく者がある、この雨に。お露だ。可愛いお露だ。
 そうだ。人間は甘く猿から進化している。
 五月十二日[#「五月十二日」に白丸傍点]
 心細いことを書いている中《うち》にお露が来たので、昨夜は書き続きの本文《ほんもん》に取りかからなかった。さて――
 もしお政が気の勝ている女ならば、自分がその夜三円持て母を尋ねると言えば、
「質屋から持って来たお金なんか厭《いや》だと被仰《おっしゃ》ったのだから持て行かなくったって可う御座いますよ」と言い放って口惜《くや》し涙を流すところだが、お政にはそれが出来ない。母から厭味《いやみ》や皮肉を言われて泣いたのは唯《た》だ悲くって泣いたので、自分が優しく慰さむれば心も次第に静まり、別に文句は無いのである。
 ところで母は百円盗んで帰った。自分は今これを冷やかに書くが、机の抽斗《ひきだし》を開けてみて百円の紙包が紛失しているのを知った時は「オヤ!」と叫けんだきり容易に二の句が出なかった。
「お前この抽斗を開けや為なかったか」
「否《いいえ》」
「だって先刻《さっき》入れて置いた寄附金の包みが見えないよ」
「まア!」と言って妻は真蒼《まっさお》になった。自分は狼狽《あわて》て二《ふたつ》の抽斗を抽《ぬ》き放って中を一々|験《あら》ためたけれど無いものは無い。
「先刻|母上《おっか》さんが置手紙を書くってお開けになりましたよ!」
「そうだ!」と自分は膝《ひざ》を拍《う》った時、頭から水を浴たよう。崕《がけ》を蹈外《ふみはず》そうとした刹那《せつな》の心持。
 自分は暫らく茫然《ぼうぜん》として机の抽斗を眺《なが》めていたが、我知らず涙が頬《ほお》をつとうて流れる。
「余《あんま》り酷《ひど》すぎる」と一語《ひとこと》僅《わず》かに洩《もら》し得たばかり。妻は涙の泉も涸《かれ》たか唯《た》だ自分の顔を見て血の気のない唇《くちびる》をわなわなと戦《ふる》わしている。
「じゃア母上《おっか》さんが……」と言いかけるのを自分は手を振って打消し、
「黙っておいで、黙っておいで」と自分は四囲《あたり》を見廻して「これから新町まで行って来る」
「だって貴所《あなた》……」
「否《いい》や、母上《おっか》さんに会って取返えして来る。余《あんま》りだ、余《あんま》りだ。親だってこの事だけは黙っておられるものか。然しどうしてそんな浅ましい心を起したのだろう……」
 自分は涙を止めることが出来ない。妻も遂に泣きだした。夫婦途方に暮れて実に泣くばかり。思えば母が三円投出したのも、親子の縁を切るなど突飛なことを怒鳴って帰ったのも皆《み》なその心が見えすく。
「直ぐ行って来る。親を盗賊に為ることは出来ない。お前心配しないで待ておいで、是非取りかえして来るから」と自分は大急ぎで仕度《したく》し、手箱から亡父《ちち》の写真を取り出して懐中した。
 小春日和《こはるびより》の日曜とて、青山の通りは人出多く、大空は澄み渡り、風は砂を立てぬほどに吹き、人々行楽に忙がしい時、不幸の男よ、自分は夢地を辿《たど》る心地《ここち》で外を歩いた。自分は今もこの時を思いだすと、東京なる都会を悪《にく》む心を起さずにはいられないのである。
 東宮御所の横手まで来ると突然「大河君、大河君」と呼ぶ者がある。見れば斎藤という、これも建設委員の一人。莞爾《にこにこ》しながら近づき、
「どうも相済まん、僕は全然《まるで》遊んでいて。寄附金は大概集まったろうか」
 寄附金といわれて我知らずどきまぎ[#「どきまぎ」に傍点]したが「大略《あらまし》集まった」と僅《わずか》に答えて直ぐ傍《わき》を向いた。
「廻る所があるなら僕廻っても可いよ」
「難有《ありがと》う」と言ったぎり自分が躊躇《もじもじ》しているので斎藤は不審《いぶかし》そうに自分を見ていたが、「イヤ失敬」と言って去って終《しま》った。十歩を隔てて彼は振返って見たに違ない。自分は思わず頸《くび》を縮《すく》めた。
 母に会ったら、何と切出そう。新町に近づくにつれて、これが心配でならぬ。母から反対《あべこべ》に怒鳴つけられたら、どうしようなど思うと、母の剣幕が目先に浮んで来て、足は自《おのず》と立縮《たちすく》む。「もしどうしても返さなかったら」の一念が起ろうとする時、自分は胸《むね》を圧《おし》つけられるような気がするのでその一念を打消し打消し歩いた。
「大河とみ」の表札。二階建、格子戸《こうしど》、見たところは小官吏《こやくにん》の住宅《すまい》らしく。女姓名《おんななまえ》だけに金貸でも為《し》そうに見える。一度は引返えして手紙で言おうかとも思ったが、何しろ一大事と、自分は思切って格子戸を潜《くぐ》った。
 五月十三日[#「五月十三日」に白丸傍点]
 勝手の間に通ってみると、母は長火鉢《ながひばち》の向うに坐っていて、可怕《こわ》い顔して自分を迎えた。鉄瓶《てつびん》には徳利が入れてある。二階は兵士どもの飲んでいる最中。然し思ったより静で、妹《いもと》お光の浮いた笑声と、これに伴う男の太い声は二人か三人。母はじろり自分を見たばかり一言も言わず、大きな声で
「お光、お銚子《ちょうし》が出来たよ」と二階の上口《あがりくち》を向いて呼んだ。「ハイ」とお光は下《おり》て来て自分を見て、
「オヤ兄様」と言ったが笑いもせず、唯だ意外という顔付き、その風《ふう》は赤いものずくめ、どう見ても居酒屋の酌婦としか受取れない。母の可怕い顔と自分の真面目《まじめ》な顔とを見比べていたが、
「それからね母上《おっか》さん、お鮨《すし》を取って下さいって」
「そう、幾価《いくら》ばかり?」
「幾価だか。可い加減で可いでしょう。それから母上さんにもお入《いで》なさいって」
「あア」と母は言って妙な眼つきでお光の顔を見たが、お光はそのまま自分の方は見向もしないで二階へ上って了《し》まった。自分は唯だ坐わったきり、母の何とか言いだすのを待っていた。
「何しに来たの」と母は突慳貪《つっけんどん》に一言《ひとこと》。
「先刻は失礼しました」と自分は出来るだけ気を落着けて左《さ》あらぬ体《てい》に言った。
「いいえどうしまして。色々心配をかけて済なかったね。帰る時お政さんに言って置いたことがあるが聞いておくれだったかね?」と何処《どこ》までも冷やかに、憎々しげに言いながら起上《たちあ》がって「私はお客様《きゃくさん》の用で出て来るが、用があるなら待っていておくれ」と台所口から出て去《い》って了った。
 自分は腕組みして熟《じ》っとしていたが、我母ながらこれ実に悪婆《あくば》であるとつくづく情なく、ああまで済ましているところを見ると、言ったところで、無益《むだ》だと思うと寧《いっ》そのこと公けの沙汰《さた》にして終《しま》おうかとの気も起る。然し現在の母が子の抽斗から盗み出したので、仮令《たとい》公金であれ、子の情として訴たえる理由《わけ》にはどうしてもゆかない。訴たえることは出来ず、母からは取返えすことも出来ないなら、窃《ひそ》かに自分で弁償するより外の手段はない。八千円ばかりの金高から百円を帳面《ちょうづら》で胡魔化《ごまか》すことは、たとい自分に為し得ても、直ぐ後《あと》で発覚《ばれ》る。又自分にはさる不正なことは思ってみるだけでも身が戦《ふる》えるようだ。自分が弁償するとしてその金を自分は何処から持て来る?
 思えば思うほど自分はどうして可いか解らなくなって来た。これは如何《いか》なことでも母から取返えす外はと、思い定めていると母は外から帰って来て、無言で火鉢《ひばち》の向《むこう》に坐ったが、
「どうだね、聞いておくれだったかね?」と言って長い烟管《きせる》を取上げた。
「何をですか」と自分は母の顔を見ながら言った。
「まア可いサ聞かなかったのなら。然しお前の用というのは何だね?」
 自分は懐中《ふところ》から三円出して火鉢の横に置き、
「これは二円不足していますが、折角お政が作《こし》らえて置いたのですから、取って下さい、そう為《し》ませんと……」
「最早《もう》不用《いら》ないよ。だから私も二度とお前達の厄介にはなるまいし。お前達も私のようなものは親と思わないが可い。その方がお前達のお徳じゃアないか」
「母上《おっか》さん。貴女《あなた》は何故《なぜ》そんなことを急に被仰《おっしゃ》るのです」と自分は思わず涙を呑《の》んだ。
「急に言ったのが悪けりゃ謝《あや》まります。そうだったね、一年前位に言ったらお前達も幸福《しあわせ》だったのに」
 何という皮肉の言葉ぞ、今の自分ならば決然《きっぱり》と、
「そうですか、宜《よろ》しゅう御座います。それじゃ御言葉に従がいまして親とも思いますまい、子とも思って下さいますな。子とお思いになると飛《とん》だお恨みを受けるような事も起るだろうと思いますから。就《つ》いては今日|私《わたくし》の机の抽斗に百円入れて置きましたそれが、貴女のお帰りになると同時に紛失したので御座いますが、如何《いか》がでしょう、もしか反古《ほぐ》と間違ってお袂《たもと》へでもお入《いれ》になりませんでしたろうか、一応お聞申します」と腹から出た声を使って、グッと急所へ一本。
「何だと親を捕えて泥棒呼わりは聞き捨てになりませんぞ」と来るところを取って押え、片頬《かたほお》に笑味《えみ》を見せて、
「これは異なこと! 親子の縁は切れてる筈《はず》でしょう。イヤお持帰りになりませんならそれで可う御座います、右の次第を届け出《いず》るばかりですから」と大きく出れば、いかな母でも半分落城するところだけれど、あの時の自分に何でこんな芝居が打てよう。
 悪々《にくにく》しい皮肉を聞かされて、グッと行きづまって了い、手を拱《く》んだまま暫時《しばし》は頭も得《え》あげず、涙をほろほろこぼしていたが、
「母上《おっか》さん、それは余《あんま》りで御座います」とようように一言、母は何所《どこ》までも上手《うわて》、
「何が余《あんまり》だね、それは此方《こっち》の文句だよ。チョッ泣虫が揃《そろ》ってら。面白くもない!」
 自分は形無し。又も文句に塞《つま》ったが、気を引きたてて父の写真を母の前に置きながら
「父上《おとう》さんをお伴《つ》れ申してのお願いで御座います。母上さん、何卒《どうか》……お返しを願います、それでないと私が……」と漸《やっ》との思で言いだした。母は直ぐ血相変て、
「オヤそれは何の真似《まね》だえ。お可笑《かし》なことをお為《し》だねえ。父上《おとう》さんの写真が何だというの?」
「どうかそう被仰《おっしゃ》らずに何卒《どうか》お返しを。今日お持返えりの物を……」
「先刻《さっき》からお前|可笑《おかし》なことを言うね、私お前に何を借りたえ?」
「何も申しませんから、何卒そう被仰らずにお返しを願います、それでないと私の立つ瀬がないのですから……」と言わせも果てず母は火鉢を横に膝《ひざ》を進めて、
「怪《け》しからんことを言うよ、それでは私が今日お前の所から何か持ってでも帰ったと言うのだね、聞き捨てになりませんぞ」と声を高めて乗掛《のしかか》る。
「ま、ま、そう大きな声で……」と自分はまごまご。
「大きな声がどうしたの、いくらでも大きな声を出すよ……さア今《も》一度言って御覧ん。事とすべ[#「すべ」に傍点]に依《よ》ればお光も呼んで立合わすよ」という剣幕。この時二階の笑声もぴたり止んで、下を覗《うか》がい聞耳をたてている様子。自分は狼狽《うろた》えて言葉が出ない。もじもじしていると台所口で「お待遠さま」という声がした。母は、
「お光、お光お鮨が来たよ」と呼んだ。お光は下りて来る。格子《こうし》が開いたと思うと「今日は」と入って来たのが一人の軍曹。自分をちょっと尻目《しりめ》にかけ、
「御馳走様《ごちそうさま》」とお光が運ぶ鮨の大皿を見ながら、ひょろついて尻餅《しりもち》をついて、長火鉢の横にぶっ坐った。
「おやまあ可いお色ですこと」と母は今自分を睨《にら》みつけていた眼に媚《こび》を浮べて「何処で」
「ハッハッ……それは軍事上の秘密に属します」と軍曹酒気を吐いて「お茶を一ぱい頂戴《ちょうだい》」
「今入れているじゃありませんか、性急《せわし》ない児《こ》だ」と母は湯呑《ゆのみ》に充満《いっぱい》注《つ》いでやって自分の居ることは、最早《もう》忘れたかのよう。二階から大声で、
「大塚、大塚!」
「貴所《あなた》下りてお出《い》でなさいよ」と母が呼ぶ。大塚軍曹は上を向いて、
「お光さん、お光さん!」
 外所《そと》は豆腐屋の売声高く夕暮近い往来の気勢《けはい》。とてもこの様子ではと自分は急に起て帰ろうとすると、母は柔和《やさし》い声で、
「最早お帰りかえ。まア可いじゃアないか。そんなら又お来《い》でよ」と軍曹の前を作ろった。
 外へ出たが直ぐ帰えることも出来ず、さりとて人に相談すべき事ではなく、身に降りかかった災難を今更の如く悲しんで、気抜けした人のように当もなく歩いて溜池《ためいけ》の傍《そば》まで来た。
 全たく思案に暮れたが、然し何とか思案を定めなければならぬ。日は暮れかかり夕飯《ゆうめし》時になったけれど何を食《くお》うとも思わない。
 ふと山王台の森に烏《からす》の群れ集まるのを見て、暫《しばら》く彼処《かしこ》のベンチに倚《よ》って静かに工夫しようと日吉橋《ひよしばし》を渡った。
 哀れ気の毒な先生! 「見すぼらしげな後影」と言いたくなる。酒、酒、何であの時、蕎麦屋《そばや》にでも飛込んで、景気よく一二本も倒さなかったのだろう。
 五月十四日[#「五月十四日」に白丸傍点]
 寂寥《せきりょう》として人気《ひとげ》なき森蔭のベンチに倚ったまま、何時間自分は動かなかったろう。日は全く暮れて四囲《あたり》は真暗になったけれど、少しも気がつかず、ただ腕組して折り折り嘆息《ためいき》を洩《もら》すばかり、ひたすら物思に沈んでいたのである。
 実地に就ての益《やく》に立つ考案《かんがえ》は出ないで、こうなると種々な空想を描いては打壊《ぶちこ》わし、又た描く。空想から空想、枝から枝が生《は》え、殆《ほと》んど止度《とめど》がない。
 痴情の果から母とお光が軍曹に殺ろされる。と一つ思い浮かべるとその悲劇の有様が目の先に浮んで来て、母やお光が血だらけになって逃げ廻る様がありありと見える。今蔵々々と母は逃げながら自分を呼ぶ、自分は飛び込んで母を助けようとすると、一人の兵が自分を捉《とら》えて動かさない……アッと思うとこの空想が破れる。
 自分が百円持って銀行に預けに行く途中で、掏児《すり》に取られた体《てい》にして届け出よう、そう為ようと考がえた、すると嫌疑《けんぎ》が自分にかかり、自分は拘引される、お政と助は拘引中に病死するなど又々浅ましい方に空想が移つる。
 校舎落成のこと、その落成式の光景、升屋《ますや》の老人のよろこぶ顔までが目に浮んで来る。
 ああ百円あったらなアと思うと、これまで金銭《かね》のことなどさまで自分を悩ましたことのないのが、今更の如くその怪しい、恐ろしい力を感じて来る。ただ百円、その金銭《かね》さえあれば、母も盗賊にはなるまいものを。よし母は盗みを為たところで、自分にその金銭《かね》が有るならば今の場合、自分等夫婦は全く助かるものをなど考がえると、金銭《かね》という者が欲くもあり、悪《にく》くもあり、同時にその金銭《かね》のために少しも悩まされないで、長閑《のど》かにこの世を送っている者が羨《うらや》ましくもなり、又実に憎々しくもなる。総《すべ》てこれ等の苦々《にがにが》しい情は、これまで勤勉にして信用厚き小学教員、大河今蔵の心には起ったことはないので、ああ金銭《かね》が欲しいなアと思わず口に出して、熟《じっ》と暗い森の奥を見つめた。
 するとがやがやと男女|打雑《うちま》じって、ふざけ[#「ふざけ」に傍点]ながら上《のぼ》って来るものがある。
「淋《さび》しいじゃ有りませぬか、帰りましょうよ。最早《もう》こんな処《ところ》つまりませんわ」という女の声は確かにお光。自分はぎょっとして起あがろうとしたが、直ぐ其処《そこ》に近づいて来たのでそのまま身動きもせず様子を窺《うか》がっていた。人々は全たく此処《ここ》に人あることを気がつかぬらしい。お光が居れば母もと覗《うか》がったが女はお光一人、男は二人。
「ねえ最早《もう》帰りましょうよ、母上《おっか》さんが待っているから」と甘ったるい声。
「何故母上さんは一所に出なかったのだろう、君知らんかね」と一人の男が言うと、一人
「頭が痛むとか言っていたっけ」というや三人急に何か小さな声で囁《ささや》き合ったが、同時《いちど》にどっと笑い、一人が「ヨイショー」と叫けんで手を拍った。
 面白ろうない事が至るところ、自分に着纏《つきまと》って来る。三人が行き過ぐるや自分は舌打して起ちあがり、そこそこと山を下りて表町に出た。
 この上は明日中に何とか処置を着ける積り、一方には手紙で母に今一度十分訴たえてみ、一方には愈々《いよいよ》という最後の処置はどうするか妻《さい》とも能《よ》く相談しようと、進まぬながらも東宮御所の横手まで来て、土手について右に廻り青山の原に出た。原を横ぎる方が近いのである。
 原を横ぎる時、自分は一個《ひとつ》の手提革包《てさげかばん》を拾った。
 五月十五日[#「五月十五日」に白丸傍点]
 どうして手提革包を拾ったかその手続まで詳わしく書くにも当るまい。ただ拾ったので、足にぶつかったから拾ったので、拾って取上げて見ると手提革包であったのである。
 拾うと直ぐ、金銭《かね》! という一念が自分の頭にひらめいた。占たと思った、そして何となく夢ではないかとも思った。というものは実は山王台で種々の空想を描いた時、もし千両も拾ったらなど、恥かしい事だが考がえたからで、それが事実となったらしいからである。革包は容易《たやす》く開《あ》いた。
 紙幣《さつ》の束が三ツ、他《ほか》に書類などが入っている。星光《ほしあかり》にすかしてこれを見た時、その時自分は全たく夢ではないかと思っただけで、それを自分が届け出《いで》るとか、横奪《よこどり》することが破廉恥の極だとか、そういうことを考えることは出来なかった。
 ただ手短かに天の賜《あたえ》と思った。
 不思議なもので一度、良心の力を失なうと今度は反対に積極的に、不正なこと、思いがけぬ大罪《たいざい》を成《な》るべく為し遂《とげ》んと務めるものらしい。
 自分はそっと[#「そっと」に傍点]この革包《かばん》を私宅《たく》の横に積である材木の間に、しかも巧に隠匿《かく》して、紙幣《さつ》の一束を懐中して素知らぬ顔をして宅《うち》に入った。
 自分の足音を聞いただけで妻《さい》は飛起きて迎えた。助《たすく》を寝かし着けてそのまま横になって自分の帰宅《かえり》を待ちあぐんでいたのである。
「如何《いか》がでした」と自分の顔を見るや。
「取り返して来た!」と問われて直ぐ。
 この答も我知らず出たので、嘘《うそ》を吐《つ》く気もなく吐いたのである。
 既にこうなれば自分は全たくの孤立。母の秘密を保つ身は自分自身の秘密に立籠《たてこも》らねばならなくなった。
「まアどうして?」と妻のうれしそうに問《とう》のを苦笑《にがわらい》で受けて、手軽く、
「能く事わけを話したら渡した」とのみ。妻は猶《な》おその様子まで詳しく聴《き》きたかったらしいが自分の進まぬ風を見て、別に深くも訊《たず》ねず、
「どんなに心配しましたろう。もしも渡さなかったらと思って取越苦労ばかり為ていました」と万斤《まんぎん》の重荷を卸ろしたよろこび。自分は懐《ふところ》に片手を入れて一件を握っていたが未《ま》だ夢の醒《さ》めきらぬ心地がして茫然《ぼうぜん》としている。
「御飯は?」
「食って来た」
「母上《おっか》さんの処で?」
「あア」
「大変お顔の色が悪う御座いますよ」と妻は自分の顔を見つめて言う。
「余り心配したせいだろう」
「直ぐお寝《やす》みなさいな」
「イヤ帳簿の調査《しらべ》もあるからお前先へ寝ておくれ」と言って自分は八畳の間に入り机に向った。然し妻は容易に寝そうもないので、
「早くお寝みというに」
 自分はこれまで、これほど角《かど》のある言葉すら妻《さい》に向って発したことはないのである。妻は不審そうに自分の方を見ているようであったが、その中《うち》床に就てしまった。自分は一度|殊更《ことさら》に火鉢の傍に行って烟草《たばこ》を吸って、間《あい》の襖《ふすま》を閉《し》めきって、漸《ようや》く秘密の左右を得た。
 懐からそっと[#「そっと」に傍点]盗すむようにして紙幣《さつ》の束を出したが、その様子は母が机の抽斗《ひきだし》から、紙幣《さつ》の紙包を出したのと同じであったろう。
 一円紙幣で百枚! 全然《まるで》注文したよう。これを数える手はふるえ、数え終って自分は洋燈《ランプ》の火を熟《じっ》と見つめた。直ぐこれを明日銀行に預けて帳簿の表《おもて》を飾ろうと決定《きめ》たのである。
 又盗すまれてはと、箪笥に納《しも》うて錠を卸ろすや、今度は提革包《さげかばん》の始末。これは妻の寝静まった後ならではと一先《ひとまず》素知らぬ顔で床に入った。
 床に入って眼を閉じている時、この時には多少《いくら》か良心の眼は醒《さ》めそうなものだが、実際はそうでなかった。魔が自分に投げ与えた一の目的の為めに、良心ならぬ猛烈の意志は冷やかに働らいて、一に妻の鼻息を覗《う》かがっている。こうして二時間|経《た》ち、十二時が打つや、蒼《あお》い顔のお政は死人のように横たわっているのを見届けて、前夜は盗賊を疑ごうて床を脱け出た自分は、今度は自身盗賊のように前夜よりも更に静に、更に巧に、寝間を出て、縁《えんがわ》の戸を一分又た一分に開け、跣足《はだし》で外面《そと》に首尾能く出た。
 星は冴《さ》えに冴え、風は死し、秋の夜の静けさ、虫は鳴きしきっている。不思議なるは自分が、この時かかる目的の為に外面《そと》に出《いで》ながら、外面に出て二歩三歩《ふたあしみあし》あるいて暫時《しばし》佇立《たたず》んだ時この寥々《りょうりょう》として静粛かつ荘厳なる秋の夜の光景が身の毛もよだつまでに眼に沁《しみ》こんだことである。今もその時の空の美しさを忘れない。そして見ると、善にせよ悪にせよ人の精神凝って雑念《ぞうねん》の無い時は、外物の印象を受ける力もまた強い者と見える。
 材木の間から革包《かばん》を取出し、難なく座敷に持運んで見ると、他の二束《ふたたば》も同じく百円束、都合三百円の金高が入っていたのである。書類は請取《うけとり》の類。薄い帳面もあり、名刺もある。遺失《おと》した人は四谷区何町何番地|日向某《ひなたなにがし》とて穀物の問屋《といや》を業としている者ということが解った。
 心の弱い者が悪事を働いた時の常として、何かの言訳を自分が作らねば承知の出来ないが如く、自分は右の遺失《おとし》た人の住所姓名が解るや直ぐと見事な言訳を自分で作って、そして殆《ほとん》ど一道の光明を得たかのように喜こんだ。
 一先《ひとまず》拝借! 一先拝借して自分の急場を救った上で、その中《うち》に母から取返すとも、自分で工夫して金を作るとも、何とでもして取った百円を再び革包に入れ、そのまま人知れず先方に届ける。
 天の賜《たまもの》とは実にこの事と、無上によろこび、それから二百円を入れたままの革包を隠す工夫に取りかかった。然し元来《もと》狭い家だから別に安全な隠くし場の有ろう筈《はず》がない。思案に尽きて終《つい》に自分の書類、学校の帳簿などばかり入《いれ》て置く箪笥《たんす》の抽斗に入れてその上に書類を重ねそして鍵《かぎ》は昼夜自分の肌身《はだみ》より離さないことに決定《きめ》て漸《や》っと安心した。
 床に就たと思うと二時が打ち、がっかりして直ぐ寝入って終った。
 五月十六日[#「五月十六日」に白丸傍点]
 忘れることの出来ない十月二十五日は過ぎた。翌日から自分は平時《いつも》の通り授業もし改築事務も執《と》り、表面《うわべ》は以前と少しも変らなかった、母からもまた何とも言って来ず、自分も母に手紙で迫る事すら放棄して了い、一日一日と無事に過ぎゆいた。
 然し自分は到底悪人ではない、又度胸のある男でもない。さればこそ母からも附込《つけこ》まれ、遂に母を盗賊にして了い、遂に自分までが賊になってしまったのである。であるから賊になった上で又もや悶《もが》き初めるのは当然である。総《すべ》て自分のような男は皆な同じ行き方をするので、運命といえば運命。蛙《かえる》が何時《いつ》までも蛙であると同じ意味の運命。別に不思議はない。
 良心とかいう者が次第に頭を擡《もた》げて来た。そして何時も身に着けている鍵が気になって堪《たま》らなくなって来た。
 殊《こと》に自分は児童の教員、又た倫理を受持っているので常に忠孝仁義を説かねばならず、善悪邪正を説かねばならず、言行一致が大切じゃと真面目《まじめ》な顔で説かねばならず、その度毎《たびごと》に怪しく心が騒ぐ。生徒の質問の中で、折り折り胸を刺れるようなのがある。中には自分の秘密を知ってあんな質問をするのではあるまいかと疑い、思わず生徒の面《かお》を見て直ぐ我顔を負向《そむ》けることもある。或日の事、十歳《とお》ばかりの児が来て、
「校長先生、岩崎さんが私《わたくし》の鉛筆を拾って返しません」と訴たえて来た。拾ったとか、失《なくな》ったとか、落したとかいう事は多数の児童《こども》を集めていることゆえ常に有り勝で怪むに足《たら》ないのが、今突然この訴えに接して、自分はドキリ胸にこたえた。
「貴所《あなた》が気をつけんから落したのだ、待ておいで、今岩崎を呼ぶから」と言ったのは全然《まるで》これまでの自分にないことで、児童は喫驚《びっくり》して自分の顔を見た。
 岩崎という十二歳になる児童を呼んで「あなたは鉛筆を拾いはしなかったか」と聞くと顔を赤らめてもじもじしている。
「拾ったでしょう。他人《ひと》の者を拾ったら直ぐ私の所へ持て出るのが当前《あたりまえ》だのにそれを自分の者に為《す》るということは盗んだも同じことで、甚《はなは》だ善くないことですよ。その鉛筆を直ぐこの人にお返しなさい」と厳《おごそ》かに命《いい》つけた。
 そんならば何故《なぜ》自分は他人《ひと》の革包《かばん》を自分の箪笥に隠して置くのであるか。
 自分はその日校務を了《おわ》ると直ぐ宅に帰り、一室《ひとま》に屈居《かがん》で、悶《もが》き苦しんだ。自首して出ようかとも考がえ、それとも学校の方を辞職して了《しま》うかとも考がえた。この二《ふたつ》を撰《えら》ぶ上に就いて更に又苦しんだけれど、いずれとも決心することが出来ない。自首した後《あと》での妻子のことを思い、辞職した後での衣食のことを思い、衣食のことよりも更に自分を動かしたのは折角これまでに計営《けいえい》して校舎の改築も美々しく落成するものを捨《すて》て終《しま》うは如何《いか》にも残念に感じたことである。
 其処《そこ》で一日も早く百円の金を作るが第一と、今度はそれのみに心を砕いたが、当もなんにもない。小学教員に百円の内職は荷が勝ち過ぎる。ただ空想ばかりに耽《ふけ》っている。起きれば金銭《かね》、寝ても百円。或日のことで自分は女生徒の一人を連れて郊外散歩に出た。その以前は能く生徒の三四人を伴うて散歩に出たものである。
 美《うるわ》しき秋の日で身も軽く、少女《おとめ》は唱歌を歌いながら自分よりか四五歩先をさも愉快そうに跳《は》ねて行く。路《みち》は野原の薄《すすき》を分けてやや爪先上《つまさきあがり》の処まで来ると、ちらと自分の眼に映ったのは草の間から現われている紙包。自分は駈《か》け寄って拾いあげて見ると内《なか》に百円束が一個《ひとつ》。自分は狼狽《あわて》て懐中《ふところ》にねじこんだ。すると生徒が、
「先生何に?」と寄って来て問うた。
「何でも宜《よろ》しい!」
「だって何に? 拝見な。よう拝見な」と自分にあまえてぶら[#「あまえてぶら」に傍点]下った。
「可《い》けないと言うに!」と自分は少女《むすめ》を突飛ばすと、少女《むすめ》は仰向けに倒れかかったので、自分は思わずアッと叫けんでこれを支《ささ》えようとした時、覚《さむ》れば夢であって、自分は昼飯後《ひるめしご》教員室の椅子に凭《もた》れたまま転寝《うたたね》をしていたのであった。
 拾った金の穴を埋めんと悶《もが》いて又夢に金銭《かね》を拾う。自分は醒《さ》めた後で、人間の心の浅ましさを染々《しみじみ》と感じた。
 五月十七日
 妻《さい》のお政は自分の様子の変ったのに驚ろいているようである。自分は心にこれほどの苦悶《くるしみ》のあるのを少しも外に見せないなどいうことの出来る男でない。のみならずもし妻がこの秘密を知ったならどうしようと宅《うち》に在《あっ》てはそれがまた苦労の一で、妻の顔を見ても、感付てはいまいかとその眼色を読む。絶えずキョトキョトして、そわそわして安んじないばかりか、心に爛《ただれ》たところが有るから何でもないことで妻に角立《かどだ》った言葉を使うことがある。無言で一日暮すこともあり、自分の性質の特色ともいうべき温和な人なつこい[#「なつこい」に傍点]ところは殆《ほとん》ど消え失《う》せ、自分の性質の裏ともいうべき妙にひねくれた[#「ひねくれた」に傍点]片意地のところばかり潮の退《ひい》た後《あと》の岩のように、ごつごつと現われ残ったので、妻が内心驚ろいているのも決して不思議ではない。
 温和で正直だけが取柄の人間の、その取柄を失なったほど、不愉快な者はあるまい。渋を抜《ぬい》た柿の腐敗《くさ》りかかったようなもので、とても近よることは出来ない。妻が自分を面白からず思い気味悪るう思い、そして鬱《ふさ》いでばかりいて、折り折りさも気の無さそうな嘆息《ためいき》を洩《もら》すのも決して無理ではない。
 これを見るに就《つ》けて自分の心は愈々《いよいよ》爛れるばかり。然し運命は永くこの不幸な男女を弄《もてあ》そばず、自分が革包《かばん》を隠した日より一月目、十一月二十五日の夜を以って大切《おおぎり》と為《し》てくれた。
 この夜自分は学校の用で神田までゆき九時頃|帰宅《かえ》って見ると、妻が助《たすく》を背負《おぶ》ったまま火鉢の前に坐って蒼《あお》い顔というよりか凄《すご》い顔をしている。そして自分が帰宅《かえ》っても挨拶《あいさつ》も為ない。眼の辺《ふち》には泣きただらした痕《あと》の残っているのが明々地《ありあり》と解る。
 この様子を見て自分は驚いたというよりか懼《おそ》れた。懼れたというよりか戦慄《せんりつ》した。
「オイどうしたの? お前どうしたの?」と急《せ》きこんで問うたが、妻はその凄い眼で自分をじろりと見たばかりで一語も発しない。ふと気が着いて見ると、箪笥《たんす》を入た押込《おしこみ》の襖が開《あ》けっ放して、例の秘密の抽斗《ひきだし》が半分開いていた。自分は飛び起《た》った。
「誰が開けたのだ」と叫けんで抽斗に手をかけた。
「私が開けました」と妻の沈着《おちつ》き払った答。
「何故開けた、どうして開けた」
「委員会から帳簿を借してくれろと言って来ましたから開けて渡しました」とじろり自分の顔を見た。
「何だって私の居ないのに渡した、え何だって渡した。怪《けし》からんことだ」と喚《わめ》きつつ抽斗の中を見ると革包が出ていてしかも口を開けたままである。
「お前これを見たな!」と叫けんで「可《よ》し私にも覚悟がある、覚悟がある」と怒鳴りながらそのまま抽斗を閉《し》めて錠を卸し、非常な剣幕で外面《そと》に飛び出して了《し》まった。
 無我夢中で其処《そこ》らを歩いて何時《いつし》か青山の原に出たが矢張《やはり》当もなく歩いている。けれども結局、妻に秘密を知られたので、別に覚悟も何にも無いのである。ただ喫驚《びっくり》した余りに怒鳴り、狼狽《うろた》えた余《あまり》に喚いたので、外面《そと》に飛び出したのは逃げ出したるに過ぎない。
 であるから歩るいている中に次第に心が静まって来た。こうなっては何もかも妻に打明けて、この先のことも相談しよう、そうすれば却《かえ》って妻と自分との間の今の面白ろくない有様から逃《のが》れ出ることも出来ると、急いで宅《うち》に帰った。
 何故そんならば革包を拾って帰った時に相談しなかった。と問うを止《や》めよ。大河今蔵の筆法は万事これなのである。
 帰って見ると妻の姿が見えない。見えないも道理、助を背負《おぶっ》たまま裏の井戸の中で死でいた。
 お政はこれまで決して自分の錠を卸して置いた処を開けるようなことは為なかった。然し何時《いつし》か自分の挙動で箪笥の中に秘密のあることを推《すい》し、帳簿を取りに寄こされたを幸《さいわい》に無理に開けたに相違ない。鍵は用箪笥のを用いたらしい。革包の中を見てどんなにか驚いたろう。思うに自分が盗んだものと信じたに違いない。然し書置などは見当らなかった。
 何故死んだか。誰一人この秘密を知る者はない。升屋の老人の推測は、お政の天性《うまれつき》憂鬱《ゆううつ》である上に病身でとかく健康|勝《すぐ》れず、それが為に気がふれた[#「ふれた」に傍点]に違いないということである。自分の秘密を知らぬものの推測としてはこれが最も当っているので、お政の天性《うまれつき》と瘻弱《ひよわ》なことは確に幾分の源因を為している。もしこれが自分の母の如きであったなら決して自殺など為ない。
 自分は直ぐ辞表を出した。言うまでもなく非常に止められたが遂には、この場合無理もない、強《しい》て止めるのは却って気の毒と、三百円の慰労金で放免してくれた。
 実際自分は放免してくれると否とに関らず、自分には最早《もはや》何を為る力も無くなって了ったのである。人々は死だ妻《さい》よりも生き残った自分を憐《あわ》れんだ。其処《そこ》で三百円という類稀《たぐいまれ》なる慰労金まで支出したのは、升屋の老人などの発起《ほっき》に成ったのである。
 妻子の葬儀には母も妹《いもと》も来た。そして人々も当然と思い、二人も当然らしく挙動《ふるま》った。自分は母を見ても妹を見ても、普通の会葬者を見るのと何の変《かわり》もなかった。
 三百円を受けた時は嬉《うれ》しくもなく難有《ありがた》くもなく又|厭《いや》とも思わず。その中百円を葬儀の経費に百円を革包に返し、残《のこり》の百円及び家財家具を売り払った金を旅費として飄然《ひょうぜん》と東京を離れて了った。立つ前夜|密《ひそか》に例の手提革包を四谷の持主に送り届けた。
 何時自分が東京を去ったか、何処《いずこ》を指して出たか、何人《なにびと》も知らない、母にも手紙一つ出さず、建前が済んで内部《うち》の雑作《ぞうさく》も半ば出来上った新築校舎にすら一|瞥《べつ》もくれないで夜|窃《ひそ》かに迷い出たのである。
 大阪に、岡山に、広島に、西へ西へと流れて遂にこの島に漂着したのが去年の春。
 妻子の水死後|全然《まるで》失神者となって東京を出てこの方幾度自殺しようと思ったか知れない。衣食のために色々の業に従がい、種々の人間、種々の事柄に出会い、雨にも打たれ風にも揉《もま》れ、往時を想うて泣き今に当って苦しみ、そして五年の歳月《としつき》は澱《よど》みながらも絶ず流れて遂にこの今の泡《あわ》の塊《かたまり》のような軽石のような人間を作り上《あげ》たのである。
 三年前までは死んだ赤児《あかんぼ》の泣声がややもすると耳に着き、蒼白《あおじろ》い妻《さい》の水を被《かぶ》った凄《すご》い姿が眼の先にちらついたが、酒のお蔭で遂に追払って了った。然し今でも真夜中にふと[#「ふと」に白丸傍点]眼を醒《さ》ますと酒も大略《あらまし》醒めていて、眼の先を児を背負《おぶ》ったお政がぐるぐる廻って遠くなり近くなり遂に暗の中に消えるようなことが時々ある。然し別に可怕《おそろ》しくもない。お政も今は横顔だけ自分に見せるばかり。思うに遠からず彼方《あちら》向いて去《い》って了うだろう。不思議なことには真面目《まじめ》にお政のことを想う時は決してその浅ましい姿など眼に浮ばないで現われる時は何時も突然である。
 可愛《かあい》いお露に比べてみるとお政などは何でもない。母などは更に何でもない。
 五月十九日
 昨夜は六兵衛が来て遅くまで飲んだ。六兵衛の言い草が面白いではないか
「お露を妻《かか》に持なせえ」
「持っても可いなあ」
「持ても可《え》えなんチュウことは言わさん、あれほど可愛《かわ》いがっておって未だ文句が有るのか」
「全くあの女は可愛いよ、何故こう可愛いだろう、ハハハハ……」
「先方《むこう》でもそねえに言うてら、どうでこう先生が可愛いのか解らんチュウて」
「さようさ、私《わし》みたような男の何処《どこ》が可いのかお露は無暗と可愛いがってくれるが妙だ。これは私《わし》にも解らんよ」
「そうで無えだ、先生のような人は誰でも可愛《かあい》がりますぞ。お露が可愛がるのは無理が無えだ」
「ハハハハ何故や、何故や」
「何故チュウて問われると困まるが、一口に言うと先生は苦労人だ。それで居て面白ろいところがあって優しいところがあるだ。先生とこう飲んでいると私《わし》でも四十年《しじゅうねん》も前の情話《いろばなし》でも為てみたくなる、先生なら黙って聴《き》いてくれそうに思われるだ。島中《しまじゅう》先生を好《すか》んものは有りましねえで。お露や私《わし》を初め」
 自分はどうしてこう老人の気に入るだろう。老人といえば升屋の老人は今頃誰を対手《あいて》に碁を打っていることやら。
 六兵衛は又こう言った
「先生は一度|妻《かか》を持たことが有るに違いなかろう」
「どうして知れる」
「どうしてチュウて、それは老人《としより》の眼には知れる」
「全く有ったよ、然し余程|以前《まえ》に死で了った」
「ハアそれは気の毒なことをなされました」
「けれどもね六兵衛さん、死だ妻はお露ほど可愛《かあい》くなかったよ、何でも無《なか》ったよ」
「それは不実だ。先生もなかなか浮気だの、新らしいのが可《え》えだ」と言って老人は笑った。
 自分も唯《た》だ笑って答えなかった。不実か浮気か、そんなことは知らない。お露は可愛《かあい》い。お政は気の毒。
 酒の上の管《くだ》ではないが、夫婦というものは大して難有《ありがた》いものでは無い。別してお政なんぞ、あれは升屋の老人がくれたので、くれたから貰《もら》ったので、貰ったから子が出来たのだ。
 母もそうだ、自分を生んだから自分の母だ、母だから自分を育てたのだ。そこで親子の情があれば真実《ほんと》の親子であるが、無ければ他人だ。百円盗んで置きながら親子の縁を切るなど文句が面白ろい。初から他人なのだ。
 自分は小供の時から母に馴染《なじ》まなんだ。母も自分には極《きわめ》て情が薄かった。
 明日は日曜。同勢四五人舟で押出す約束であるが、お露も連れこみたいものだ。

 大河今蔵の日記は以上にて終りぬ。彼は翌日誤って舟より落ち遂に水死せるなり。酔に任せ起《た》って躍《おど》りいたるに突然水の面《おも》を見入りつ、お政々々と連呼してそのまま顛落《てんらく》せるなりという。
 記者去年帰省して旧友の小学校教員に会う、この日記は彼の手に秘蔵されいたるなり。馬島《うましま》に哀れなる少女あり大河の死後四月にして児を生む、これ大河が片身、少女はお露なりとぞ。
 猶《な》お友の語るところに依れば、お露は美人ならねどもその眼に人を動かす力あふれ、小柄《こづくり》なれども強健なる体格を具《そな》え、島の若者多くは心ひそかにこれを得んものと互に争いいたるを、一度《ひとたび》大河に少女の心|移《うつる》や、皆大河のためにこれを祝して敢《あえ》て嫉《ねたむ》もの無かりしという。
 お露は児のために生き、児は島人《しまびと》の何人《なんぴと》にも抱《いだ》かれ、大河はその望むところを達して島の奥、森蔭暗き墓場に眠るを得たり。
 記者思うに不幸なる大河の日記に依りて大河の総《すべて》を知ること能《あた》わず、何となれば日記は則《すなわ》ち大河自身が書き、しかしてその日記には彼が馬島に於ける生活を多く誌《しる》さざればなり。故《ゆえ》に余輩は彼を知るに於て、彼の日記を通して彼の過去を知るは勿論《もちろん》、馬島に於ける彼が日常をも推測せざる可《べか》らず。
 記者は彼を指して不幸なる男よというのみ、その他を言うに忍びず、彼もまた自己を憐《あわ》れみて、ややもすれば曰《いわ》く、ああ不幸なる男よと。
 酒中日記とは大河自から題したるなり。題して酒中日記という既に悲惨《ひさん》なり、況《いわ》んや実際彼の筆を採る必ず酔後に於てせるをや。この日記を読むに当《あたっ》て特に記憶すべきは実に又この事実なり。
 お政は児を負《お》うて彼に先《さきだ》ち、お露は彼に残されて児を負う。何《いず》れか不幸、何《いずれ》か悲惨。

底本:「牛肉と馬鈴薯・酒中日記」新潮文庫、新潮社
   1970(昭和45)年5月30日発行
入力:八木正三
校正:LUNA CAT
1998年5月11日公開
2011年5月23日修正
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国木田独歩

鹿狩り——国木田独歩

『鹿狩《しかが》りに連れて行《い》こうか』と中根《なかね》の叔父《おじ》が突然《だしぬけ》に言ったので僕はまごついた。『おもしろいぞ、連れて行こうか、』人のいい叔父はにこにこしながら勧めた。
『だッて僕は鉄砲がないもの。』
『あはははははばかを言ってる、お前に鉄砲が打てるものか、ただ見物に行くのだ。』
 僕はこの時やっと十二であった。叔父が笑うのも道理で、鹿狩りどころか雀《すずめ》一ツ自分で打つことはできない、しかし鹿狩りのおもしろい事は幾度も聞いているから、僕はお供《とも》をすることにした。
 十二月の三日の夜《よる》、同行のものは中根の家《うち》に集まることになっていたゆえ僕も叔父の家《うち》に出かけた、おっかさんは危《あぶ》なかろうと止めにかかったが、おとっさんが『勇壮活発の気を養うためだから行け』とおっしゃった。
 中根へ行って見るともう人がよほど集まっていた。見物人は僕|一人《ひとり》、少年《こども》も僕一人、あとは三十から上の人ばかりで十人ばかりみんな僕の故郷では上流の人たちであった。
 第一中根の叔父が銀行の頭取、そのほかに判事さんもいた、郡長さんもいた、狭い土地であるからかねてこれらの人々の交際は親密であるだけ、今人々の談話を聞くと随分粗暴であった。
 玄関の六畳の間にランプが一つ釣《つ》るしてあって、火桶《ひばち》が三つ四つ出してある、その周囲《まわり》は二人《ふたり》三人ずつ寄っていて笑うやらののしるやら、煙草《たばこ》の煙がぼうッと立ちこめていた。
 今井の叔父さんがみんなの中でも一番声が大きい、一番元気がある、一番おもしろそうである、一番|肥《ふと》っている、一番年を取っている、僕に一番気に入っていた。
 同勢十一人、夜《よ》の十時ごろ町を出発《たっ》た。町から小《こ》一里も行くとか[#「か」に二重傍線]の字港に出る、そこから船でつ[#「つ」に二重傍線]の字崎の浦まで海上五里、夜《よ》のうちに乗って、天明《あけがた》にさ[#「さ」に二重傍線]の字浦に着く、それから鹿狩りを初めるというのが手順であった。
『まるで山賊のようだ!、』と今井の叔父さんがその太い声で笑いながら怒鳴った。なるほど、一同の様子を見ると尋常でない。各《おのおの》粗末なしかも丈夫そうな洋服を着て、草鞋《わらじ》脚絆《きゃはん》で、鉄砲を各手《てんで》に持って、いろんな帽子をかぶって――どうしても山賊か一揆《いっき》の夜討ちぐらいにしか見えなかった。
 しかし一通りの山賊でない、図太い山賊で、か[#「か」に二重傍線]の字港まで十人が勝手次第にしゃべって、随分やかましかった。僕は一人、仲間|外《はず》れにされて黙って、みんなの後《あと》からみんなのしゃべるのを聞きながら歩いた。
 大概は猟の話であった。そしておもに手柄話か失敗話《しくじりばなし》であった。そしてやっぱり、今井の叔父さんが一番おもしろいことを話してみんなを笑わした。みんなが笑わない時には自分一人で大声で笑った。
 か[#「か」に二重傍線]の字港に着くと、船頭がもう用意《したく》をして待っていた。寂しい小さな港の小さな波止場《はとば》の内から船を出すとすぐ帆を張った、風の具合がいいので船は少し左舷《さげん》に傾《かし》ぎながら心持ちよく馳《はし》った。
 冬の寒い夜の暗い晩で、大空の星の数も読まるるばかりに鮮《あざ》やかに、舳《へさき》で水を切ってゆく先は波暗く島黒く、僕はこの晩のことを忘れることができない。
 船のなかでは酒が初まった。そして談話《はなし》は同じく猟の事で、自分はおもしろいと思って聞いていたがいつしか寝てしまった。それは穏やかな罪のない眠りで、夢とも現《うつつ》ともなく、舷側《ふなばた》をたたく水の音の、その柔らかな私語《ささや》くようなおりおりはコロコロコロと笑うようなのをすぐ耳の下の板一枚を隔てて聞くその心地《ここち》よさ。時々目を開《あ》けて見ると薄暗い舷燈のおぼろげな光の下《もと》に円座を組んで叔父さんたちは愉快にやってござる。また中には酔ってしゃべりくたぶれて舷側《げんそく》にもたれながらうつらうつらと眠っている者もある。相変わらず元気のいいのが今井の叔父さんで、『君の鉄砲なら一つで外《はず》れたらすぐ後《あと》の一つで打つことができるが僕のはそう行かないから困る、なアに、中《あた》るやつなら一発で中《あた》るからなア』と言って『あははははは』と笑った。
 判事の岡さんが何か言って叔父さんを冷やかしたようであったが僕は眠ってよく聞き取れなかった。
『徳さん徳さん』と呼ぶ声がしたと思うと、太い手が僕の肩を揺さぶった。僕はすぐ今井の叔父さんだなと思った。『徳さん、起きた起きた、着いたぞ、さア起きた。』
『眠いなア、』僕は実際眠かった。しかし人々が上陸の用意《したく》をするようだから、目をこすりこすり起きて見るとすぐ僕の目についたのは鎌《かま》のような月であった。
 船は陸とも島ともわからない山の根近く来て帆を下《お》ろしていた。陸の方では燈火一つ見えないで、磯《いそ》をたたく波の音がするばかり、暗くしんとしている。そして寒気《かんき》は刺すようで、山の端《は》の月の光が氷《こお》っているようである。僕は何とも言えなく物すごさを感じた。
 船がだんだん磯に近づくにつれて陸上の様子が少しは知れて来た。ここはかねて聞いていたさ[#「さ」に二重傍線]の字浦で、つ[#「つ」に二重傍線]の字崎の片すみであった。小さな桟橋、桟橋とは言えないのが磯にできている。船をそれに着けてわれらみんな上陸した。
 たった一軒の漁師の家《うち》がある、しかし一軒が普通《なみ》の漁師の五軒ぶりもある家《うち》でわれら一組が山賊風でどさどさ入《はい》っていくとかねて通知《しらせ》してあったことと見え、六十ばかりのこの家の主人《あるじ》らしい老人が挨拶《あいさつ》に出た。
 夜が明けるまでこの家で休息することにして、一同はその銃《つつ》をおろすなど、かれこれくつろいで東の白《しら》むのを待った。その間僕は炉のそばに臥《ね》そべっていたが、人々のうちにはこの家《うち》の若いものらが酌《く》んで出す茶椀酒《ちゃわんざけ》をくびくびやっている者もあった。シカシ今井の叔父さんはさすがにくたぶれてか、大きな体躯《からだ》を僕のそばに横たえてぐうぐう眠ってしまった。炉の火がその膩《あぶら》ぎった顔を赤く照らしている。
 戸外《そと》がだんだんあかるくなって来た。人々はそわそわし初めた、ただ今井の叔父さんは前後不覚の体《てい》である。
 僕は戸外《そと》へ飛びだした。夜見たよりも一段、蕭条《しょうじょう》たる海|辺《べ》であった。家の周囲《まわり》は鰯《いわし》が軒の高さほどにつるして一面に乾《ほ》してある。山の窪《くぼ》みなどには畑が作ってあってそのほかは草ばかりでただところどころに松が一本二本突ッたっている。僕はこんなところに鹿がいるだろうかと思った。
 大空の色と残月の光とで今日《きょう》の天気がわかる。風の清いこと寒いこと、月の光の遠いこと空の色の高いこと! 僕はきっと今日は鹿が獲《と》れると思った。
『徳さん徳さん今井の叔父さんを起こしてくれ』とたれか家内《うち》で呼ぶから僕は帰って見ると、みんな出発に取りかかっていたが叔父さんばかり高いびきで臥《ね》ている。僕は、『叔父さん叔父さん』と肩を揺さぶったがなかなか起きない。頭の髪を握ってぐいぐい引っぱってやっと起こした。『この児《こ》はひどい事をする』と言いながら大あくびをして、
『サアサア! 一番|槍《やり》の功名を拙者が仕《つかまつ》る、進軍だ進軍だ』とわめいて真っ先に飛び出した。僕もすぐその後に続いた。あだかも従卒のように。
 爪先《つまさき》あがりの小径《こみち》を斜めに、山の尾を横ぎって登ると、登りつめたところがつ[#「つ」に二重傍線]の字崎の背の一部になっていて左右が海である、それよりこの小径が二つに分かれて一は崎《みさき》の背を通してその極端に至り一は山のむこうに下りてな[#「な」に二重傍線]の字浦に出る。この三派《みつ》の路《みち》の集まったところに一本の松が立っている。一同はこの松の下に休息して、な[#「な」に二重傍線]の字浦の方から来るはずになっていた猟師の一組を待ち合わせていた。
 朝日が日向灘《ひゅうがなだ》から昇《のぼ》ってつ[#「つ」に二重傍線]の字崎の半面は紅霞《こうか》につつまれた。茫々《ぼうぼう》たる海の極《はて》は遠く太平洋の水と連なりて水平線上は雲一つ見えない、また四国地《しこくじ》が波の上に鮮《あざ》やかに見《み》える。すべての眺望《ちょうぼう》が高遠、壮大で、かつ優美である。
 一同は寒気《かんき》を防ぐために盛んに焼火《たきび》をして猟師を待っているとしばらくしてな[#「な」に二重傍線]の字浦の方からたくましい猟犬が十頭ばかり現われてその後に引き続いて六人の猟師が異様な衣裳《なり》で登って来る、これこそほんとの山賊らしかった。
 その鉄砲は旧式で粗末なものであるがこれを使用する技術は多年の熟練でなかなか巧みなものである。別して鹿狩りについてはつ[#「つ」に二重傍線]の字崎の地理に詳しく犬を使うことが上手《じょうず》ゆえ、われら一同の叔父《おじさん》たちといえども、素人《しろうと》の仲間での黒人《くろうと》ながら、この連中に比べては先生と徒弟《でし》の相違がある、されば鹿狩りの上の手順などすべて猟師の言うところに従わなければならなかった。
 さていよいよ猟場に踏み込むと、猟場は全く崎《みさき》の極端《はずれ》に近い山で雑草|荊棘《けいきょく》生《お》い茂った山の尾の谷である。僕は始終今井の叔父さんのそばを離れないことにした。
 人よりも早く犬は猟場に駆け込んだ。僕は叔父さんといっしょに山の背を通っていると、たちまちはげしく犬のほえる声を聞いた。
『そら出た、そらあすこを見ろ、どうだ鹿だろう、どうだどうだ、ウン早い早い。』と叔父さんの指《さ》す方を見ると、朝日輝く山の端《は》を一匹の鹿が勢いよくむこうへ走ってゆく、その後《あと》をよほど後《おく》れて二匹の犬、ほえながら追っかけて行く。
 画に書いた鹿や死んだ鹿は見たが、現に生きた鹿が山を走るのを見たは僕これが始めてだから手を拍《う》ってよろこんだ。僕のよろこぶさまを見て今井の叔父さんはにこにこ笑ってござった。
『今に見ろ、あの鹿を打ってみせるから。』
『だって逃げてしまったからだめだ。』
『どこへ逃げられるものか、山のむこうの方へもう猟師が回っているから、』と叔父さんはすこぶる得意であった。
 さて叔父さんたちの持ち場も定《き》まって、今井の叔父さんは、今鹿の逃げて行った方の丘を受け持つ事になったから僕は叔父さんと二人《ふたり》してほとんど足も入れられないような草藪《くさやぶ》の中をかき分け踏み分けやっとの思いで程《ほど》よいところに持ち場の本陣を据えた。
『今に見ろ、ここに待っていると鹿が逃げて来るから』と叔父さんは言った。そこで僕はしきりとむこうの丘やこちらの谷をながめて鹿の来るのを待っていた。
 十五、六人の人数《にんず》と十頭の犬で広い野山谷々を駆けまわる鹿を打つとはすこぶるむずかしい事のようであるが、元が崎《みさき》であるから山も谷も海にかぎられていて鹿とてもさまで自由自在に逃げまわることはできない、また人里の方へは、すっかり、高い壁が石で築いてあって畑の荒らされないようにしてあるゆえ、その方へ逃げることもできない、さらにまた鹿の通う路《みち》はおよそ猟師に知れているから、たとい少人数でも犬さえよく狩り出してくれれば、これを打つにさまでむずかしくはないのである。
 そこで今井の叔父さんの持ち場も鹿の逃げ路に当たっているので、鹿の来るのを待っているのも決して目的《あて》のないのではない。
 叔父さんは今に見ろ見ろと言ってすこぶる得意の笑《え》みをその四角な肥えた浅黒い顔にみなぎらして鉄砲をかまえて、きょろきょろと見まわしてまた折り折り耳を立て物音を聞いてござった。
 折り折り遠くでほえる犬の声が聞こえた。折り折り人の影がかなたの山の背こなたの山の尾に現われては隠れた、日は麗《うら》らかに輝き、風はそよそよと吹き、かしこここの小藪《こやぶ》が怪しげにざわついた。その度《たび》ごとに僕は目を丸くした。叔父さんは銃を持ち直した。
『オイ徳さん』叔父さんはしばらくして言った、『今しがた銃《つつ》の音がしたようであッたが、あの松のあるところへ行って見なさい、多分一ツぐらいもう獲れているかもしれない。』
 僕は叔父さんの言ったところへ行って見た。そこは僕らが今いたところから三、四丁離れた山の尾の一段高くなって頂《いただき》が少し平らなところであった。果たして一頭の鹿《しか》が松の枝の、僕の手が届きかねるところに釣り下げてあった、そしてそこにはだれもいなかった。僕は少年心《こどもごころ》に少し薄気味悪く思ったが、松の下に近づいて見ると角のない奴《やつ》のさまで大きくない鹿で、股《もも》に銃丸《たま》を受けていた。僕は気の毒に思った、その柔和な顔つきのまだ生き生きしたところを見て、無残にも四足を縛られたまま松の枝から倒《さか》さに下がっているところを見るとかあいそうでならなかった。
 たちまち小藪《こやぶ》を分けてやッて来たのは猟師である。僕を見て
『坊様、今に馬のようなのが取れますぞ。』
『まだ取れるだろうか。』
『まだまだ今日は十匹は取れますぞ。』
 しかし僕は信じなかッた。十匹も取れたら持って帰ることができないと思った。猟師は岩に腰を掛けて煙草《たばこ》を二、三ぶく吸っていたが谷の方で呼び子の笛が鳴るとすぐ小藪の中に隠れてどこかに行ってしまった、僕も急いで叔父さんのところへ帰って来ると、
『どうだ、取れていたか、そうだろう、今に見ろここで大きな奴を打って見せるから。』
 かれこれするうちに昼時分になったが鹿らしいものも来ない、たちまち谷を一つ越えたすぐむこうの山の尾で銃《つつ》の音がしたと思うと白い煙《けむ》が見えた。叔父さんも僕もキッとなってその方を見ると、三人の人影が現われて、その一人が膝《ひざ》を突いて続けさまに二発三発四発と打ち出した。続いて犬がはげしくほえた。
『そらそら海を海を、もうしめた、海を見ろ、海を』と叔父さん躍《おど》り上がって叫んだ。なるほど、ちょっと見ると何物とも判然しないが、しきりに海を游《およ》ぐ者がある。見ているうちに小舟が一|艘《そう》、磯《いそ》を離れたと思うと、舟から一発打ち出す銃音《つつおと》に、游いでいた者が見えなくなった。しばらくして小舟が磯に還《かえ》った。
『今のは太そうな奴だな、フン、うまいうまい。』叔父さん独語《ひとりごと》を言って上機嫌《じょうきげん》である。
『徳さん、腹が減ったか。』
『減った。』
『弁当をやらかそうか。』
 そこで叔父さんは弁当を出して二人《ふたり》、草の上に足を投げだして食いはじめた。僕はこの時ほどうまく弁当を食ったことは今までにない。叔父さんは瓢箪《ひょうたん》を取り出して独酌をはじめた。さもうまそうに舌打ちして飲んでござった。
『これでおれが一つ打つと一そう酒がうまいが。今に見ろ大きな奴を打って見せるぞ』、瓢箪を振って見て『その時のに残して置こうか。』
 さて弁当を食いしまって、叔父さんはそこにごろりと横になった。この時はちょうど午後一時ごろで冬ながら南方温暖の地方ゆえ、小春日和《こはるびより》の日中のようで、うらうらと照る日影は人の心も筋も融《と》けそうに生《なま》あたたかに、山にも枯れ草|雑《まじ》りの青葉少なからず日の光に映してそよ吹く風にきらめき、海の波穏やかな色は雲なき大空の色と相映じて蒼々茫々《そうそうぼうぼう》、東は際限《はて》なく水天互いに交わり、北は四国の山々手に取るがごとく、さらに日向地《ひゅうがじ》は右に伸びてその南端を微漠煙浪《びぼうえんろう》のうちに抹《まっ》し去る、僕は少年心《こどもごころ》にもこの美しい景色をながめて、恍惚《うっとり》としていたが、いつしか眼瞼《まぶた》が重くなって来た。傍《かたわ》らを見ると叔父さんは酒がまわったか銅色《どうしょく》の顔を日の方に向けたままグウグウといびきをかいていた。
 この時、小藪を分けてこの方に近づく者がある、僕はふとその方を向くと、すぐそこの小藪の上に枝のある大きな鹿の角が現われていた。鹿だ! 僕はどうしようかと思った。叔父さんを起こそうとしたがやめた、起こすと叔父さんがきっと『何だ何だ』と大きな声を出す、鹿が逃げてしまう、僕は思わず、叔父さんが小松に立てかけて置いた銃《つつ》をソッと把《と》った。
 鹿は少しも人のいるに気が付かぬかして、小藪の陰をしずかに歩いてこなたに近づいて来た。手をのばせば銃端《つつさき》が届きそうなところに来て立ち止まった。草藪の陰でその体《からだ》はよく見えないが角ばかりを見たところで非常な大鹿らしい。
 僕の胸はワクワクして来た、なぜ叔父さんを起こさなかったかと悔やんだがもう遅《おそ》い。十二の少年《こども》が銃《つつ》を把《と》って小馬ほどの鹿に差し向けたさまはどんなにおかしかっただろうか。
 しかし僕は戦慄《ふる》う手に力を入れて搬機《ひきがね》を引いた。ズドンの音とともに僕自身が後ろに倒れた。叔父さんが飛び起きた。
『何だ何だ危《あぶ》ない! どうしたッ?』と掬《すく》うようにして僕を起こした。僕はそのまま小藪のなかに飛び込んだ。そして叔父さんも続いて飛び込んだ。
『打ったな!』と叔父さんは鹿を一目見て叫んだ。そして何とも形容のしようのない妙な笑いを目元に浮かべて僕に抱きついた。そして目のうちには涙を浮かべていた。
       *          *
            *          *
 この日は猟師が言ったほどの大猟ではなかったがしかし六頭の鹿を獲《え》て、まず大猟の方であった。そして僕のうった鹿が一番大きかった、今井の叔父さんは帰り路《みち》僕をそばから離さないで、むやみに僕の冒険をほめた。帰路《かえり》は二組に分かれ一組は船で帰り、一組は陸を徒歩《かち》で帰ることにして、僕は叔父さんが離さないので陸を帰った。
 陸の組は叔父さんと僕のほか、判事さんなど五人であった。う[#「う」に二重傍線]の字峠の坂道を来ると、判事さんが、ちょっと立ち止まって、渓流《たにがわ》の岩の上に止まっていた小さな真っ黒な鳥を打った。僕が走って行ってこれを拾うて来て判事さんに渡すと、判事さんは何か小声で今井の叔父さんに言ったが、叔父さんはまじめな顔をして『ありがとう』と言って今の鳥を受け取った。僕は不思議に思ったばかりでその時は何の事だかわからなかった。
 その後《のち》二月ばかり経《た》った。その間僕は毎日のように今井の叔父さんの家に遊びに行って、叔父さんの鳥打ちにはきっとお伴《とも》をした。ある日僕のおとっさんが外から帰って来て、『今井の鉄也《てつや》さんが鉄砲腹をやった』とおっしゃって、おっかさんを初め僕もびっくりした。
 鉄也さんというのは今井の叔父さんの独《ひと》り子《ご》で、不幸にも四、五年前から気が狂《ちが》って、乱暴は働かないが全くの廃人であった。そのころ鉄也さんは二十一、二で、もし満足の人なら叔父さんのためには将来《ゆくすえ》の希望《のぞみ》であった。しかるに叔父さんもその希望《のぞみ》が全くなくなったがために、ほとんど自棄《やけ》を起こして酒も飲めば遊猟にもふける、どことなく自分までが狂気《きちがい》じみたふうになられた。それで僕のおとっさんを始めみんな大変に気の毒に思っていられたのである。
 ところが突然鉄也さんが鉄砲腹をやって死んでしまった、廃人は廃人であるがやはり独り子に相違ない、これまでに狂気《きちがい》のなおるという薬はなんでも試みて、う[#「う」に二重傍線]の字峠の谷で打った岩烏《いわがらす》も畢竟《ひっきょう》は狂気《きちがい》の薬であったそうである。それが今は無残の最後を遂げてもう叔父さんの望みは全く絶《た》えてしまった。
 僕は一月ばかり叔父さんのところに行かなかった。叔父さんの顔を見るのが気の毒さに。そうするとある日、僕が学校から帰宅《かえ》って見ると、今井の叔父さんが来ていて父上も奥の座敷で何か話をしてござった。その夜、おとっさんとおっかさんが大変まじめな顔をして兄《にい》さんと何かこそこそ相談をしたようであった。
 そして僕は今井に養子にもらわれた。叔父さんが僕のおとっさんになった、僕はその後|何度《いくど》もお伴《とも》をして猟に行ったが、岩烏を見つけるとソッと石を拾って追ってくれた、義父《おとっさん》が見ると気嫌《きげん》を悪くするから。
 人のいい優しい、そして勇気のある剛胆な、義理の堅い情け深い、そして気の毒な義父《おとっさん》が亡《な》くなってから十三年忌に今年が当たる、由《よ》って紀念のために少年《こども》の時の鹿狩りの物語《はなし》をしました。


(明治三十一年八月作)

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「家庭雑誌」
   1898(明治31)年8月
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2012年7月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

詩想——国木田独歩

       丘の白雲

 大空に漂う白雲《しらくも》の一つあり。童《わらべ》、丘にのぼり松の小かげに横たわりて、ひたすらこれをながめいたりしが、そのまま寝入りぬ。夢は楽しかりき。雲、童をのせて限りなき蒼空《あおぞら》をかなたこなたに漂う意《こころ》ののどけさ、童はしみじみうれしく思いぬ。童はいつしか地の上のことを忘れはてたり。めさめし時は秋の日西に傾きて丘の紅葉《もみじば》火のごとくかがやき、松の梢《こずえ》を吹くともなく吹く風の調《しら》べは遠き島根に寄せては返す波の音にも似たり。その静けさ。童は再び夢心地《ゆめこごち》せり。童はいつしか雲のことを忘れはてたり。この後、童も憂《う》き事しげき世の人となりつ、さまざまのこと彼を悩ましける。そのおりおり憶《おも》い起こして涙催すはかの丘の白雲、かの秋の日の丘なりき。

       二人の旅客

 雪深き深山《みやま》の人気《ひとけ》とだえし路《みち》を旅客《たびびと》一人《ひとり》ゆきぬ。雪《ゆき》いよいよ深く、路ますます危うく、寒気|堪《た》え難くなりてついに倒れぬ。その時、また一人の旅人来たりあわし、このさまを見て驚き、たすけ起こして薬などあたえしかば、先の旅客《たびびと》、この恩いずれの時かむくゆべき、身を終わるまで忘れじといいて情け深き人の手を執りぬ。後《のち》の旅人は微笑《ほほえ》みて何事もいわざりき。家に帰らば世の人々にも告げて、君が情け深き挙動《ふるまい》言い広め、文《ふみ》にも書きとめて後の世の人にも君が名歌わさばやと先の旅客《たびびと》言いたしぬ。情け深き人は微笑《ほほえ》みて何事もいわざりき。かくてこの二人《ふたり》は連れだちて途《みち》をいそぎぬ。路はいよいよ危うく雪はますます深し。一人つまずきぬ。一人あなやと叫びてその手を執りぬ。二人は底知れぬ谷に墜《お》ち失《う》せたり。千秋万古《せんしゅうばんこ》、ついにこの二人がゆくえを知るものなく、まして一人の旅客《たびびと》が情けの光をや。

       ※[#「月+溲のつくり」、第4水準2-85-45]土《しゅうど》

 美《うる》わしき菫《すみれ》の種と、やさしき野菊の種と、この二つの一つを石多く水少なく風|勁《つよ》く土焦げたる地にまき、その一つを春風ふき霞《かすみ》たなびき若水《わかみず》流れ鳥|啼《な》き蒼空《あおぞら》のはて地に垂《た》るる野にまきぬ。一つは枯れて土となり、一つは若葉|萌《も》え花咲きて、百年《ももとせ》たたぬ間に野は菫の野となりぬ。この比喩《ひゆ》を教えて国民の心の寛《ひろ》からんことを祈りし聖者《ひじり》おわしける。されどその民の土やせて石多く風|勁《つよ》く水少なかりしかば、聖者《ひじり》がまきしこの言葉《ことのは》も生育《そだつ》に由なく、花も咲かず実も結び得で枯れうせたり。しかしてその国は荒野《あれの》と変わりつ。

       路傍の梅

 少女《おとめ》あり、友が宅にて梅の実をたべしにあまりにうまかりしかば、そのたねを持ち帰り、わが家《や》の垣根《かきね》に埋めおきたり。少女《おとめ》は旅人が立ち寄る小さき茶屋の娘なりき、年経てその家倒れ、家ありし辺《あた》りは草深き野と変わりぬ。されど路傍なる梅の老木《おいき》のみはますます栄えて年々、花咲き、うまき実を結べば、道ゆく旅客《たびびと》らはちぎりて食い、その渇《かわ》きし喉《のんど》をうるおしけり。されどたれありて、この梅をここにまきし少女《おとめ》のこの世にありしや否やを知らず。
          (明治三十一年四月作)

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「家庭雑誌」
   1898(明治31)年4月
入力:土屋隆
校正:蒋龍
2009年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

糸くず LA FICELLE モーパッサン Guy De Maupassant—–国木田独歩訳

 市《いち》が立つ日であった。近在|近郷《きんごう》の百姓は四方からゴーデルヴィル[#「ゴーデルヴィル」に二重傍線]の町へと集まって来た。一歩ごとに体躯《からだ》を前に傾けて男はのそのそと歩む、その長い脚《すね》はかねての遅鈍な、骨の折れる百姓仕事のためにねじれて形をなしていない。それは鋤《すき》に寄りかかる癖があるからで、それでまた左の肩を別段にそびやかして歩み、体格が総じて歪《いが》んで見える。膝《ひざ》のあたりを格別に拡《ひろ》げるのは、刈り入れの時、体躯《からだ》のすわる身がまえの癖である。白い縫い模様のある襟《えり》飾りを着けて、糊《のり》で固めた緑色のフワフワした上衣《うわぎ》で骨太い体躯《からだ》を包んでいるから、ちょうど、空に漂う風船へ頭と両手両足をつけたように見える。
 これらの仲間の中には繩《なわ》の一|端《はし》へ牝牛《めうし》または犢《こうし》をつけて牽《ひ》いてゆくものもある。牛のすぐ後ろへ続いて、妻が大きな手籠《てかご》をさげて牛の尻《しり》を葉のついたままの生《なま》の木枝で鞭打《しば》きながら往《ゆ》く、手籠の内から雛鶏《ひよっこ》の頭か、さなくば家鴨《あひる》の頭がのぞいている。これらの女はみな男よりも小股《こまた》で早足に歩む、その凋《しお》れたまっすぐな体躯《からだ》を薄い小さなショールで飾ってその平たい胸の上でこれをピンで留めている。みんなその頭を固く白い布で巻いて髪を引き緊めて、その上に帽子を置いている。
 がたがた馬車が、跳《は》ね返る小馬に牽《ひ》かれて駆けて往く。車台の上では二人《ふたり》の男、おかしなふうに身体《からだ》を揺られている。そして車の中の一人の女はしかと両側を握って身体の揺れるのを防いでいる。
 ゴーデルヴィル[#「ゴーデルヴィル」に二重傍線]の市場は人畜入り乱れて大雑踏をきわめている。この群集の海の表面に現われ見えるのは牛の角と豪農の高帽と婦人の帽の飾りである。喚《よ》ぶ声、叫ぶ声、軋《きし》る声、相応じて熱閙《ねっとう》をきわめている。その中にも百姓の強壮な肺の臓から発する哄然《こうぜん》たる笑声がおりおり高く起こるかと思うとおりおりまた、とある家の垣根《かきね》に固く繋《つな》いである牝牛の長く呼ばわる声が別段に高く聞こえる。廐《うまや》の臭《にお》いや牛乳の臭いや、枯れ草の臭い、及び汗の臭いが相和《あいか》して、百姓に特有な半人半畜の臭気を放っている。
 ブレオーテ[#「ブレオーテ」に二重傍線]の人、アウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]がちょうど今ゴーデルヴィル[#「ゴーデルヴィル」に二重傍線]に到着した。そしてある辻《つじ》まで来ると、かれは小さな糸くずが地上に落ちているのを見つけた。このアウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]というのはノルマン[#「ノルマン」に二重傍線]地方の人にまがいなき経済家《しまつや》で、何によらず途《みち》に落ちているものはことごとく拾って置けば必ず何かの用に立つという考えをもっていた。そこでかれは俯《かが》んだ――もっともかねてリュウマチスに悩んでいるから、やっとの思いで俯《かが》んだ。かれは糸の切れっ端を拾い上げて、そして丁寧に巻こうとする時、馬具匠のマランダン[#「マランダン」に傍線]がその門口に立ってこちらを見ているのに気がついた。この二人はかつてある跛人《ちんば》の事でけんかをしたことがあるので今日までも互いに恨みを含んで怒《おこ》り合っていた。アウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]は糸くずのような塵《ちり》同様なものを拾ったところをかねての敵に見つけられたから、内心すこぶる恥ずかしく思った。そこで手早く上衣《うわぎ》の下にこれをかくした。しかる後、これを後ろのポケットの中に入れた、しかる後、何物をかさがすようなふうをして地上を見まわした。そして頭を前の方に垂《た》れて市場の方へと往《い》ってしまった。リュウマチスのために身体《からだ》をまるで二重《ふたえ》にして。
 見るがうちにかれは群集のうちに没してしまった。群集は今しも売買に上気《のぼせ》て大騒ぎをやっている。牝牛を買いたく思う百姓は去《い》って見たり来て見たり、容易に決心する事ができないで、絶えず欺《だま》されはしないかと惑いつ懼《おそ》れつ、売り手の目ばかりながめてはそいつのごまかし[#「ごまかし」に傍点]と家畜のいかさま[#「いかさま」に傍点]とを見いだそうとしている。
 農婦はその足もとに大きな手籠《てかご》を置き家禽《かきん》を地上に並べている。家禽は両|脚《あし》を縛られたまま、赤い鶏冠《とさか》をかしげて目をぎョろぎョろさしている。
 彼らは感じのなさそうな顔のぼんやりしたふうで、買い手の値ぶみを聞いて、売り価《ね》を維持している。あるいはまた急に踏まれた安価《やすね》にまけて、買い手を呼び止める、買い手はそろそろ逃げかけたので、
『よろしい、お持ちなされ!』
 かれこれするうちに辻《つじ》は次第に人が散って、日中の鐘が鳴ると、遠くから来た者はみな旅宿《りょしゅく》に入ってしまった。
 シュールダン[#「シュールダン」に傍線]の大広間は中食《ちゅうじき》の人々でいっぱいである。それと同様、広い庭先は種々雑多の車が入り乱れている――大八車《だいはちぐるま》、がたくり馬車、そのほか名も知れぬ車の泥にまみれて黄色になっているのもある。
 中食の卓とちょうど反対のところに、大きな炉があって、火がさかんに燃えていて、卓の右側に座《すわ》っている人々の背を温《あたた》めている。雛鶏《ひなどり》と家鴨《あひる》と羊肉の団子《だんご》とを串《さ》した炙《や》き串《ぐし》三本がしきりに返《かや》されていて、のどかに燃ゆる火鉢《ひばち》からは、炙《あぶ》り肉のうまそうな香《かお》り、攣《ちぢ》れた褐色《とびいろ》の皮の上にほとばしる肉汁の香りが室内に漂うて人々の口に水を涌《わ》かしている。
 そこで百姓のぜいたくのありたけがシュールダン[#「シュールダン」に傍線]の店で食われている。このシュールダン[#「シュールダン」に傍線]というは機敏な奴《やつ》で一代の中《うち》に大分の金を余した男である。
 皿《さら》の後《あと》に皿が出て、平らげられて、持ち去られてまた後の皿が来る、黄色な苹果《りんご》酒の壺《つぼ》が出る。人々は互いに今日の売買の事、もうけの事などを話し合っている。彼らはまた穀類の出来不出来の評判を尋ね合っている。気候が青物には申し分ないが、小麦には少し湿っているとの事。
 この時突然、店の庭先で太鼓がとどろいた、とんと物にかまわぬ人のほかは大方、跳《おど》り立って、戸口や窓のところに駆けて出た、口の中《うち》をもぐもぐさしたまま、手にナフキンを持ったままで。
 役所の令丁《よびこ》がその太鼓を打ってしまったと思うと、キョトキョト声で、のべつ[#「のべつ」に傍点]に読みあげた――
『ゴーデルヴィル[#「ゴーデルヴィル」に二重傍線]の住人、その他|今日《こんにち》の市場に出たる皆の衆、どなたも承知あれ、今朝《こんちょう》九時と十時の間にブーズヴィル[#「ブーズヴィル」に傍線]の街道にて手帳を落とせし者あり、そのうちには金五百フランと商用の書類を入れ置かれたり。拾いし者は速《すみ》やかに返すべし――町役場《ちょうやくば》に持参するとも、直ちにイモーヴィル[#「イモーヴィル」に二重傍線]のフォルチュネ[#「フォルチュネ」に傍線]、ウールフレーク[#「ウールフレーク」に傍線]に渡すとも勝手なり。ご褒美《ほうび》として二十フランの事。』
 人々は卓にかえった。太鼓の鈍い響きと令丁《よびこ》のかすかな声とが遠くでするのを人々は今一度聞いた。そこで人々はこの事件に話を移して、フォルチュネ[#「フォルチュネ」に傍線]、ウールフレーク[#「ウールフレーク」に傍線]が再びその手帳を取り返すことができるだろうかできないだろうかなど言い合った。
 そして食事が終わった。
 人々がコーヒーを飲み了《しま》ったと思うと、憲兵の伍長《ごちょう》が入り口に現われた。かれは問うた、
『ここにブレオーテ[#「ブレオーテ」に傍線]のアウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]がいるかね。』
 卓の一|端《はし》に座《すわ》っていたアウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]は答えた、
『わしはここにいるよ。』
 そこで伍長はまた、言った、
『アウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]、お前ちょっとわたしといっしょに役場に来てくれまいか。メイル[#「メイル」に傍線]殿がお前と話したいことがあるそうで。』
 アウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]は驚惶《きょうこう》の体《てい》で、コーンヤックの小さな杯《さかずき》をぐっとのみ干して立ちあがった。長座した後《あと》の第一歩はいつもながら格別に難渋なので、今朝《けさ》よりも一きわ悪《あ》しざまに前にかがみ、
『わしはここにいるよ、わしはここにいるよ。』
と繰り返して言って、立ち去った。
 そしてかれは伍長に従って行った。
 市長は安楽椅子にもたれて、彼を待っていた。この市長というは土地の名家で身の丈《たけ》高く辞令に富んだ威厳のある人物であった。
『アウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]、』かれは言った、『今朝、ブーズヴィル[#「ブーズヴィル」に二重傍線]の途上でイモーヴィル[#「イモーヴィル」に二重傍線]のウールフレーク[#「ウールフレーク」に傍線]の遺《おと》した手帳をお前が拾ったの見たものがある。』
 アウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]はなぜそんな不審が自分の上にかかったものか少しもわからないので、もうはや懼《おそ》れて、言葉もなく市長を見つめた。
『わしがって、わしがその手帳は拾ったッて。』
『そうだ、お前がよ。』
『わしは誓います、わしはてんでそんなことはまるきり知らねエだ。』
『でもお前は見つかッたゾ。』
『人がわしを見たッて、わしを。そのわしを見つけたチゅうのは全体たれのこッてござりますべエ。』
『馬具匠《ばぐつくり》のマランダン[#「マランダン」に傍線]。』
 そこで老人確かに覚えがある、わかった、真っ赤になって怒《おこ》った。
『おやッ! 彼奴《きゃつ》がわしを見たッて、あの悪党が。彼奴《きゃつ》はわしが、そらここにこの糸を拾ったの見ただ、あなた。』
 ポケットの底をさぐって、かれは裡《うち》から糸の切れくずを引きだした。
 しかし市長は疑わしそうに頭を振った、
『信用のあるマランダン[#「マランダン」に傍線]が手帳とこの糸と見あやまるということはわたしには信じられぬよ、アウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]。』
 アウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]は猛《たけ》り狂って、手をあげて、唾《つば》をした、ちょうど自分の真実を証明するつもりらしくそして繰り返しいった。
『全くほんとの事なんであなた、神様もご照覧あれ。全くもって、全くもって、嘘《うそ》なら命でも首でも。わたしはどこまでも言い張ります。』
 市長はなおも言いたした、
『お前はその手帳を拾った後《あと》で、まだ手帳から金がこぼれて落ちてはおらぬかとそこらをしばらく見回したろう。』
 かあいそうに老人は、憤怒《ふんど》と恐怖とで呼吸《いき》をつまらした。
『そんな嘘が、そんな嘘が――正直ものを誣《しい》るような、そんな嘘が言えるものなら!』
 かれは十分弁解した、かれは信ぜられなかった。
 かれはマランダン[#「マランダン」に傍線]と立ち合わされた。マランダン[#「マランダン」に傍線]はどこまでも自分の証拠をあげて主張した。かれらは一時間ばかりの間、言い争った。アウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]は自分で願って身躰《しんたい》の検査を求めた。手帳らしきものも見いだされなかった。
 ついに市長は大いに困ってその筋に上申して指揮を仰ぐのほかなしと告げて席を立った。
 この事件のうわさはたちまち広まった。老人が役所を出《い》ずるや、人々はその周囲を取り囲んでおもしろ半分、嘲弄《ちょうろう》半分、まじめ半分で事の成り行きを尋ねた。しかしたれもかれのために怒《おこ》ってくれるものはなかった。そこでかれは糸の一条を語りはじめた。たれも信ずるものがない、みんな笑った。かれは道すがらあうごとに呼びとめられ、かれもまた知る人にあえば呼びとめてこの一条を繰り返し繰り返し語りて自分を弁解し、そのたびごとにポケットの裏を返して見せて何にももっておらぬことを証明した。
 かれらは叫んだ、
『何だ古狸《ふるだぬき》!』
 そこでかれはだれもかれを信ずるものがないのに失望してますます怒り、憤り、上気《のぼせ》あがって、そしてこの一条を絶えず人に語った。
 日が暮れかかった。帰路につくべき時になった。かれは近隣のもの三人と同伴して、道すがら糸くずを拾った場所を示した。そして途中ただその不意の災難を語りつづけた。
 その晩はブレオーテ[#「ブレオーテ」に二重傍線]の村を駆けまわって、人ごとに一条を話したが、一人もかれを信ずるものにあわなかった。
 その夜は終夜、かれはこの一条に悩んだ。
 次の日、午後一時ごろ、マリウスボーメル[#「マリウスボーメル」に傍線]という百姓がイモヴィル[#「イモヴィル」に二重傍線]のウールフレーク[#「ウールフレーク」に傍線]にその手帳とその内にあった物とを返しに来た。この百姓はブルトン[#「ブルトン」に傍線]の作男でイモーヴィル[#「イモーヴィル」に二重傍線]の市場《しじょう》の番人である。
 この男の語るところによれば、かれはそれを途上《みち》で拾ったが、読むことができないのでこれを家《うち》に持ち帰りその主人に渡したものである。
 このうわさがたちまち近隣に広まった。アウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]の耳にも達した。かれは直ちに家を飛びだしてこの一条の物語がうまく小説らしく局を結んだと語り歩いた。かれは凱歌《がいか》をあげた。
『何さ、わしが情けないこったと思ったのはお前さんも知らっしゃる通り、この一条の何のというわけでない、ただ嘘偽《うそいつわり》ということであったので。嘘ほど人を痛めるものはないのじゃ。』
 終日かれは自分の今度の災難一件を語った。かれは途《みち》ゆく人を呼び止めて話した、居酒屋《いざかや》へ行っては酒をのむ人にまで話した。次の日曜日、人々が会堂から出かける所を見ては話した。かれはこの一件を話すがために知らぬ人を呼び止めたほどであった。今はかれも胸をなでた。しかるにまだ何ゆえともわかりかねながらどこかにかれを安からず思わしむるものがある。人々はかれの語るを聴《き》いていてもすこぶるまじめでない。彼らはかれを信じたらしく見えない。かれはその背後《うしろ》で彼らがこそこそ話をしているらしく感じた、
 次の週の火曜日、ゴーデルヴィル[#「ゴーデルヴィル」に二重傍線]の市場へとかれは勇み立って出かけた、かの一条を話したいばかりに。例のマランダン[#「マランダン」に傍線]がその戸口に立っていてかれの通るのを見るや笑いだした。なぜだろう。
 かれはクリクトー[#「クリクトー」に二重傍線]のある百姓に話しかけると、話の半ばも聴かず、この百姓の胃のくぼみに酒が入っていたところで、かれに面と向けて
『何だ大泥棒!』
 そして踵《きびす》をめぐらして去ってしまった。
 アウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]は無言で立ちどまった。だんだん不安心になって来た。なぜ『大泥棒』とかれを呼んだのだろう。
 シュールダン[#「シュールダン」に傍線]の酒店の卓に座して、かれはまたもや事の一部始終を説きはじめた。
 するとモンチヴィエー[#「モンチヴィエー」に二重傍線]の馬商《うまあきんど》がかれに向かって怒鳴った、
『よしてくれ、よしてくれ古狸、手前《てめえ》の糸の話ならおれはみんな知っている!』
 アウシュコルン[#「アウシュコルン」に傍線]は吃《ども》った、
『だって手帳は出て来ただあ!』
 相手はまた怒鳴った、
『黙れ、老耄《おいぼれ》、拾った奴《やつ》が一人いて、返《もど》した奴が別に一人いたのよ。それで世間の者はみんなばかなのさ。』
 老人は呼吸《いき》を止めた。かれはすっかり知った。人々はかれが党類を作って、組んで手帳を返《かえ》したものとかれを詰《なじ》るのであった。
 かれは弁解を試みたが、卓の人はみんな笑った。
 かれはその食事をも終わることができなく、嘲笑《ちょうしょう》一時に起こりし間を立ち去った。
 かれは恥じて怒って呼吸《いき》もふさがらんばかりに痛憤して、気も心もかきむしられて家に帰った。元来《もと》を言えばかれは狡猾《こうかつ》なるノルマン[#「ノルマン」に二重傍線]地方の人であるから人々がかれを詰《なじ》ったような計略あるいはもっとうまい手品のできないともいえないので、かれの狡猾はかねがね人に知れ渡っているところから、自分の無罪を証明することは到底|叶《かな》うまじきようにかれも思いだした。そこで猜忌《さいぎ》の悪徳のためにほとんど傷心してしまった。
 そこでかれはあらためて災難一条を語りだした。日ごとにその繰り言を長くし、日ごとに新たな証拠を加え、いよいよ熱心に弁解しますます厳粛な誓いを立てるようになった。誓いの文句などは人のいない時十分考えて用意しているのである。今やかれの心は全く糸の話で充《み》たされてしまった。かれの弁解がいよいよ完全になるだけ、かれの談論がいよいようまくなるだけ、ますますかれは信じられなくなった。
『みんな嘘言家《うそつき》の証拠さ』、人々はかれの背後《うしろ》で言い合っていた。
 かれはこれを感じている。かれの心はこのために裂かれた。かれは労して功なく精根を尽くしてしまった。かれの衰え行く様《よう》は明らかに見える。
 今や諧謔《かいぎゃく》の徒は周囲の人を喜ばすためにかれをして『糸くず』の物語をやってもらうようになった、ちょうど戦場に出た兵士に戦争談を所望すると同じ格で。あわれかれの心は根底より壊《やぶ》れ、次第に弱くなって来た。
 十二月の末《すえ》、かれはついに床についた。
 正月の初めにかれは死んだ。そして最後の苦悩の譫語《うわごと》にも自分の無罪を弁解して、繰り返した。
『糸の切れっ端《ぱし》――糸の切れっ端――ごらんくだされここにあります、あなた。』
          (三十一年三月作)

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「国民之友」
   1898(明治31)年3月
※底本では作者名は「モーパッサン作 独歩吟客重訳」と表示されています。
※人名に傍線、地名に二重傍線というパターンからはずれるものも底本通りとし、ママ注記、訂正注記は行いませんでした。
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2012年7月10日作成
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国木田独歩

号外——国木田独歩

 ぼろ洋服を着た男爵|加藤《かとう》が、今夜もホールに現われている。彼は多少キじるし[#「キじるし」に傍点]だとの評がホールの仲間にあるけれども、おそらくホールの御連中にキ[#「キ」に白丸傍点]的傾向を持っていないかたはあるまいと思われる。かく言う自分もさよう、同類と信じているのである。
 ここに言うホールとは、銀座何丁目の狭い、窮屈な路地にある正宗《まさむね》ホールの事である。
 生一本《きいっぽん》の酒を飲むことの自由自在、孫悟空《そんごくう》が雲に乗り霧を起こすがごとき、通力《つうりき》を持っていたもう「富豪」「成功の人」「カーネーギー」「なんとかフェラー」、「実業雑誌の食《く》い物」の諸君にありてはなんでもないでしょう、が、われわれごときにありては、でない、さようでない。正宗ホールでなければ飲めません。
 感心にうまい酒を飲ませます。混成酒ばかり飲みます、この不愉快な東京にいなければならぬ不幸《ふしあわせ》な運命のおたがいに取りては、ホールほどうれしい所はないのである。
 男爵加藤が、いつもどなる、なんと言うてどなる「モー一本」と言うてどなる。
 彫刻家の中倉の翁が、なんと言うて、その太い指を出す、「一本」
 ことごとく飲み仲間だ。ことごとく結構!
 今夜も「加《か》と男《だん》」がノッソリ御出張になりました。「加と男」とは「加藤男爵」の略称、御出張とは、特に男爵閣下にわれわれ平民ないし、平《ひら》ザムライどもが申し上げ奉る、言葉である。けれどもが、さし向かえば、些《さ》の尊敬をするわけでもない、自他平等、海藻《のり》のつくだ煮の品評に余念もありません。
「戦争《いくさ》がないと生きている張り合いがない、ああツマラない、困った事だ、なんとか戦争《いくさ》を始めるくふうはないものかしら。」
 加藤君が例のごとく始めました。「男《だん》」はこれが近ごろの癖なのである。近ごろとは、ポーツマウスの平和以後の冬の初めのころを指さす。
 中倉先生は大の反対論者で、こういう奇抜な事を言った事がある。
「モシできる事なら、大理石の塊《かたまり》のまん中に、半人半獣の二人がかみ合っているところを彫ってみたい、塊の外面《そと》にそのからみ合った手を現わして。という次第は、彼ら争闘を続けている限りは、その自由をうる時がない、すなわち幽閉である。封じかつ縛せられているのである。人類相争う限り、彼らはまだ、その真の自由を得ていないという意味を示してみたいものである。」
「お示しなさいな。御勝手に」「男《だん》」は冷ややかに答えた事がある。
 そこで「加と男」の癖が今夜も始まったけれど、中倉翁、もはや、しいて相手になりたくもないふうであった。
「大理石の塊《かたまり》で彫ってもらいたいものがある、なんだと思われます、わが党の老美術家」、加藤はまず当たりました。
「大砲だろう」と、中倉先生もなかなかこれで負けないのである。
「大違いです。」
「それならなんだ、わかったわかった」
「なんだ」と今度は「男《だん》」が問うている。
 二人の問答を聞いているのもおもしろいが、見ているのも妙だ、一人は三十前後の痩《や》せがたの、背の高い、きたならしい男、けれどもどこかに野人ならざる風貌《ふうぼう》を備えている、しかしなんという乱暴な衣装《みなり》だろう、古ぼけた洋服、ねずみ色のカラー、くしを入れない乱髪《らんぱつ》! 一人は四十幾歳、てっぺんがはげている。比ぶればいくらか服装《なり》はまさっているが、似たり寄ったり、なぜ二人とも洋服を着ているか、むしろ安物でもよいから小ザッぱり[#「ザッぱり」に傍点]した和服のほうがよさそうに思われるけれども、あいにくと二人とも一度は洋行なるものをして、二人とも横文字が読めて、一方はボルテーヤとか、ルーソーとか、一方はラファエルとかなんとか、もし新聞記者ならマコーレーをお題目としたことのある連中であるから、無理もない。かく申す自分がカーライル! すみのほうににやりにやり笑いながら、グビついているゾラもあり。
 綿貫《わたぬき》博士《はかせ》がそばで皮肉を言わないだけがまだしも、先生がいると問答がことさらにこみ入る。
「わかったとも、大わかりだ、」と楠公《なんこう》の社《やしろ》に建てられて、ポーツマウス一件のために神戸《こうべ》市中をひきずられたという何侯爵《なんのこうしゃく》の銅像を作った名誉の彫刻家が、子供のようにわめいた。
「イヤとてもわかるものか、わたしが言いましょうか、」と加《か》と男《だん》。
「言うてみなさい」と今度はまた彫刻家のほうから聞く。
「僕が言うて見せる」とついに自分が口を入れてお仲間にはいった。
「なんです」男《だん》が意味のない得意の声をいだした。
「戦争《いくさ》の神を彫ってくれろと言うのでしょう」
「大ちがい!」
「すなわち男爵閣下の御肖像を彫ってくれろと言うのでしょう」
「ヒヤヒヤ、それだそれだ、大いに僕の意を得たりだ、中倉さん、全く僕の像を彫ってもらいたいのです、かく申す『加と男』その人の像を。思うにこれは決して困難なる業《ぎょう》でない。このごとくほとんど毎晩お目にかかっているのだから、中倉君の眼底には、歴然と映刻せられておるだろうと思う。」
「そして題して戦争論者とするがよかろう。」と自分が言う。
「敗《ま》け戦《いくさ》の神と言うほうが適当だろう」と中倉先生はまた、自分が言わんと欲して言うあたわざる事を言う。
「題は僕自身がつける、あえて諸君の討論をわずらわさんやだ、僕には僕の題がある。なにしろ御承諾を願いたいものだ。」
「やりましょうとも。王侯貴人の像をイジくるよりか、それはわが党の『加と男』のために、じゃアない、ためにじゃアない、「加と男」をだ、……をだをだ、……。だから承知しましたよ。承知の助《すけ》だ。加と公の半身像なんぞ、目をつぶってもできる。これは面黒《おもくろ》い。ぜひやってみましょう、だが。」先生、この時、チョイと目を転じて、メートルグラスの番人を見た、これはおかわり[#「おかわり」に傍点]の合図。
「だが、……コーツト、(老人は老人らしい、接続詞をつかう。)題はなんといたしましょう、男的閣下。題は、題は。」
「だから言うじゃアないか、題はおれが、おれが考えがあるから可《エー》と言うに。」
「エーと仰せられましても、エーでごわせんだ。……めんどうくせえ、モーやめた。やめた、……加と男の肖像をつくること、やめた! ねえ、そうじゃアないか満谷《みつたに》の大将」と中倉先生の気炎少しくあがる。自分が満谷である。
「今晩は」と柄にない声を出して、同じく洋服の先生がはいって来て、も一ツの卓に着いて、われわれに黙礼した。これは、すぐ近所の新聞社の二の面の(三の面の人は概して、飲みそうで飲まない)豪傑兼|愛嬌者《あいきょうもの》である。けれども連中、だれも黙礼すら返さない、これが常例である。
「そうですとも、考えがあるなら言ったがいいじゃアないか、加藤さん早く言いたまえ、中倉先生の御意《ぎょい》に逆ろうては万事休すだ。」と満谷なる自分がオダテた。ケシかけた。
「号外という題だ。号外、号外! 号外に限る、僕の生命は号外にある。僕自身が号外である。しかりしこうして僕の生命が号外である。号外が出なくなって、僕死せりだ。僕は、これから何をするんだ。」男の顔には例の惨痛の色が現われた。
 げにしかり、わが加藤男爵は何を今後になすべきや。彼はともかくも、衣食において窮するところなし。彼には男爵中の最も貧しき財産ながらも、なおかつ財はこれあり、狂的男爵の露命をつなぐ上において、なんのコマル[#「コマル」に傍点]ところはないのであるが、彼は何事もしていない。
「ロシヤ征伐」において初めて彼は生活の意味を得た。と言わんよりもむしろ、国家の大難に当たりてこれを挙国一致で喜憂する事においてその生活の題目を得た。ポーツマウス以後、それがなくなった。
 かれ男爵、ただ酒を飲み、白眼にして世上を見てばかり[#「ばかり」に傍点]いた加藤の御前《ごぜん》は、がっかり[#「がっかり」に傍点]してしまった。世上の人はことごとく、彼ら自身の問題に走り、そがために喜憂すること、戦争以前のそれのごとくに立ち返った。けれども、男《だん》は喜憂目的物を失った。すなわち生活の対手《たいしゅ》、もしくはまと[#「まと」に傍点]、あるいは生活の扇動者を失った。
 がっかり[#「がっかり」に傍点]したのも無理はない。彼の戦争論者たるも無理はない。
「号外」、なるほど加藤男の彫像に題するには何よりの題目だろう、……男爵は例のごとくそのポケットから幾多の新聞の号外を取り出して、
「号外と僕に題するにおいて何かあらんだ。ねえ、中倉さん、ぜひ、その題で僕を、一ツ作ってもらいたい。……こんなふうに読んでいるところならなおさらにうれしい、」と朗読をはじめる。
 第三報、四月二十八日午後三時五分発、同月同日午後九時二十五分着。敵は靉河《あいか》右岸に沿い九連城以北に工事を継続しつつあり、二十八日も時々砲撃しつつあり、二十六日|九里島《きゅうりとう》対岸においてたおれたる敵の馬匹《ばひつ》九十五頭、ほかに生馬六頭を得たり――
「どうです、鴨緑江大捷《おうりょっこうたいしょう》の前触れだ、うれしかったねえ、あの時分は。胸がどきどきしたものだ」と、さらに他の号外に移る。
 ――戦死者中福井丸の広瀬中佐および杉野《すぎの》兵曹長《へいそうちょう》の最後はすこぶる壮烈にして、同船の投錨《とうびょう》せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬を点火するため船艙《せんそう》におりし時、敵の魚形水雷命中したるをもって、ついに戦死せるもののごとく、広瀬中佐は乗員をボートに乗り移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざるため自ら三たび船内を捜索したるも、船体|漸次《ぜんじ》に沈没、海水|甲板《かんぱん》に達せるをもって、やむを得ずボートにおり、本船を離れ敵弾の下《もと》を退却せる際、一巨弾中佐の頭部をうち、中佐の体《たい》は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり――
「どうです、聞いていますか」と加藤男爵は問えど、いつものことゆえ、聞いている者もあり、相手にせぬ者もある。けれども御当人は例によって夢中である。
「どうです、一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり――なんという悲壮な最後だろう、僕は何度読んでも涙がこぼれる」
 酔《え》いが回って来たのか、それとも感慨に堪えぬのか、目を閉じてうつらうつらとして、体《たい》をゆすぶっている。おそらくこの時が彼の最も楽しい時で、また生きている気持ちのする時であろう。しかし、まもなく目をあけて、
「けれども、だめだ、もうだめだ、もう戦争《いくさ》はやんじゃった、古い号外を読むと、なんだか急に年をとって[#「とって」に傍点]しまって、生涯《しょうがい》がおしまいになったような気がする、……」
「妙、妙、そこを彫るのだ、そこだ、なるほど号外の題はおもしろい、なるほど加藤君は号外だ、人間の号外だ、号外を読む人間の号外だ」と中倉翁は感心した声を出す。
「そこと言うのは」加藤男が聞く。
「そことは君が号外を前へ置いてひどくがっかり[#「がっかり」に傍点]しているところだ」
「それはいけない、そんな気のきかないところは御免をこうむる。――」と彼《か》の暗記しおる公報の一つ、常に朗読というより朗吟する一つを始めた、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動これを撃滅せんとす、本日天候晴朗なれども波高し――ここを願います、僕はこの号外を読むとたまらなくうれしくなるのだから――ぜひここをやってくださいな。」
 中倉先生微笑を含んでしばし黙っていたが、
「それじゃア、君に限った事はない。だれでも今の公報を読めば愉快だ、それを読んで愉快な気持ちになっておるところなら平凡な事で、別にこの大先生を煩わすに及ぶまいハヽヽヽヽ」
「なぜだ、これはおかしい、なぜです。」と加藤号外君、せきこんで[#「せきこんで」に傍点]詰問に及んだ。
「号外から縁がなくなって、君ががっかり[#「がっかり」に傍点]しておるところが君の君たるところじゃアないか。」
「大いにしかりだ」と自分は賛成する。
「それじゃア諸君は少しもがっかりしないのか」と加藤君大いに不平なり。
「どうだろう? 満谷《みつたに》君、」と中倉先生も少しこの問いには困ったらしい。自分も即答はしかねたが、加藤男爵の事についてかねていくらか考えてみた事のあるので、
「そうですねえ、まるきりがっかりしないでもないだろうと思う、というわけは、戦争《いくさ》最中はお互いにだれでも国家の大事だから、朝夕これを念頭に置いて喜憂したのが、それがおやめになったのだから、気抜けの体《てい》にちょっとだれもなったに相違ない、それをがっかりと言えばがっかりでしょう。」
「そら見たまえ、僕ばかりじゃアない、決してない、だから、喜んでいるところを彫るのが平凡ならばだ、がっかりしているところだって平凡だろう、どうですね、中倉の大先生、」と「加と男」やや得意なり。
「だって君のようなのもない、君は号外が出ないと生きている張り合いがないという次第じゃアないか。」と中倉翁の答えすこぶるよし。
「じゃア僕ががっかり[#「がっかり」に傍点]の総代というのか」と加藤男また奇抜なことをいう。
「だから君はわれわれの号外だ。」と中倉翁の言、さらに妙。加藤君この時、椅子《いす》から飛び上がって、
「さすが、中倉大先生様だ、大いによかろう、がっかりしたところ、大いによかろう、ぜひ願います、題して号外、妙、妙、」と大満足なり。
 それから一時間ばかり、さらに談じかつ飲み、中倉翁は一足《ひとあし》お先に、「加と男」閣下はグウグウ卓にもたれて寝てしまったので、自分はホールを出た。
 銀座は銀座に違いないが、なるほどわが「号外」君も無理はない、市街までがっかりしているようにも見える。三十七年から八年の中ごろまでは、通りがかりの赤の他人にさえ言葉をかけてみたいようであったのが、今ではまたもとの赤の他人どうしの往来になってしまった。
 そこで自分は戦争《いくさ》でなく、ほかに何か、戦争《いくさ》の時のような心持ちにみんながなって暮らす方法はないものかしらんと考えた。考えながら歩いた。(完)

底本:「号外・少年の悲哀 他六編」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年4月17日第1刷発行
   1960(昭和35)年1月25日第14刷改版発行
   1981(昭和56)年4月10日第34刷発行
入力:紅 邪鬼
校正:LUNA CAT
2000年8月21日公開
2004年6月23日修正
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国木田独歩

郊外——国木田独歩

     【一】

 時田《ときだ》先生、名は立派なれど村立《そんりつ》小学校の教員である、それも四角な顔の、太い眉《まゆ》の、大きい口の、骨格のたくましい、背《せい》の低い、言うまでもなく若い女などにはあまり好かれない方の男。
 そのくせ生徒にも父兄にも村長にもきわめて評判のよいのは、どこか言うに言われぬ優しいところがあるので、口数の少ない代わりには嘘《うそ》を言うことのできない性分、それは目でわかる、いつも笑みを含んでいるので。
 嫁を世話をしよう一人《ひとり》いいのがあると勧めた者は村長ばかりではない、しかしまじめな挨拶《あいさつ》をしたことなく、今年三十一で下宿住まい、このごろは人もこれを怪しまないほどになった。
 梅《むめ》ちゃん、先生の下宿はこの娘のいる家《うち》の、別室《はなれ》の中《ちゅう》二階である。下は物置で、土間《どま》からすぐ梯子段《はしごだん》が付いている、八畳一間ぎり、食事は運んで上げましょというのを、それには及ばないと、母屋《おもや》に食べに行《い》く、大概はみんなと一同《いっしょ》に膳《ぜん》を並べて食うので、何を食べささりょうと頓着《とんちゃく》しない。
 梅ちゃんは十歳《とお》の年から世話になったが、卒業しないで退校《ひい》ても先生別に止めもしなかった、今は弟の時坊が尋常二年で、先生の厄介になっている、宅《うち》へ帰ると甘えてしかたがないが学校では畏《おそ》れている。
 先生の中二階からはその屋根が少しばかりしか見えないが音はよく聞こえる水車《すいしゃ》、そこに幸《こう》ちゃんという息子《むすこ》がある、これも先生の厄介になッた一人で、卒業してから先生の宅《うち》へ夜分《やぶん》外史を習いに来たが今はよして水車の方を働いている、もっとも水車といっても都の近在だけに山国の小さな小屋とは一つにならない。月に十四、五両も上がる臼《うす》が幾個《いくつ》とかあって米を運ぶ車を曳《ひ》く馬の六、七頭も飼ッてある。たいしたものだと梅ちゃんの母親などはしょっちゅううらやんでいるくらいで。
『そんならこちらでも水車をやったらどうだろう、』と先生に似合わないことをある時まじめで言いだした。
『幸《こう》ちゃんとこのようにですか、だってあれは株ですものう、水車がそういつだってできるもんならたれだってやりますわ。』おかみさんは情けなそうに笑って言った。
『なるほど場処がないからねエ。』先生はまじめに感心してそれで水車の話はやんで幸ちゃんのうわさに移ッた。
 お神《かみ》さんはしきりと幸ちゃんをほめて、実はこれは毎度のことであるが、そして今度の継母《ままはは》はどうやら人が悪そうだからきっと、幸ちゃんにはつらく当たるだろうと言ッた。
『いい歳《とし》をしてもう今度で三度めですよ、第一|小供《こども》がかあいそうでさア。』
『三度め!』先生は二度めとばかり思ッていたのである。
『もっとも幸ちゃんの母親《おふくろ》は亡《な》くなッたんですけれども。』
 この時、のそり挨拶《あいさつ》なしに土間に現われたのが二十四、五の、小づくりな色の浅ぐろい、目元の優しい男。
『オヤ幸ちゃんが! 今お前さんのうわさをしていたのよ。』実はお神さん少し驚いてまごついたのである。
『先生今日は。』
『この二、三日見えないようであったね。』
『相変わらず忙しいもんですから。』
『マアお上がんなさいな、今日《こんにち》はどちらへ。』お神さんは幸吉《こうきち》の衣装《なり》に目をつけて言った。
『神田《かんだ》の叔父《おじ》の処へちょっと行って来ました、先生今晩お宅でしょうか。』幸吉の言葉は何となく沈んでいる。
『在宅《い》るとも、何《なん》か用だろうか。』
『ナニ別に、ただ少しばかし……』
『今夜|宅《うち》で浪花節《なにわぶし》をやらすはずだから幸ちゃんもおいでなさいな、そらいつかの梅竜《ばいりゅう》』お神さんは卒然言葉をはさんだ。
『そうですか、来ましょう、それじゃあまた晩に』と言って幸吉は帰ってしまった。
『幸ちゃん今日《きょう》はどうかしているよ』とお神さんは言ったが、先生別に返事をしないで立て膝《ひざ》をしながらお神さんの手元をながめていた。お神さんは時田のシャツの破綻《ほころび》を繕っている。
 夜食が済むと座敷を取り片|付《づ》けるので母屋《おもや》の方は騒いでいたが、それが済むと長屋の者や近所の者がそろそろ集まって来て、がやがやしゃべるのが聞こえる。日はとっぷり暮れたが月はまだ登らない、時田は燈火《ひ》も点《つ》けないで片足を敷居の上に延ばし、柱に倚《よ》りかかりながら、茫然《ぼんやり》外面《そと》をながめている。
『先生!』梅ちゃんの声らしい、時田は黙って返事をしない。『オヤいないのだよ』と去《い》ってしまった、それから五分も経《た》ったか、その間身動きもしないで東の森をながめていたが、月の光がちらちらともれて来たのを見て、彼は悠然《やおら》立って着衣《きもの》の前を丁寧に合わして、床《とこ》に放棄《ほう》ってあった鳥打ち帽を取るや、すたこらと梯子段《はしごだん》を下《お》りた。
 生垣《いけがき》を回ると突然《だしぬけ》に出っくわしたのがお梅である。お梅はきゃんな声で
『知らないよ。いいジャアないかあたしがだれのうわさをしようがお前さんの関《かま》った事ジャアないよ、ねエ先生!』
 時田は驚いて木《こ》の下闇《したやみ》を見ると、一人の男が立っていたが、ツイと長屋の裏の方へ消えてしまった。
『だれ。』時田は訊《たず》ねた。
『源公の野郎《やろう》、ほんとにこの節は生意気になったよ。先生散歩?』お梅は時田のそばに寄って顔をのぞくようにして見た。
『あの幸ちゃんが来たら散歩に行ったって、そしてすぐ帰るからッて言っておくれ、』と時田は門を出た。お梅は後《あと》について来て、
『すぐお帰んなさいナもう梅竜《ばいりゅう》が来ましたから。あらお月さま!』お梅は立ち止まった。時田は橋を渡って野の方へと行ってしまった。
 二時間も経《た》ったろうか、時田の帰って来たのは。月影にすかして見ると橋の上に立っているのはお梅である。
『先生どこを歩いていました今まで、幸ちゃんがさっきから待っていますよ。』
『梅ちゃんここで何してたの。』
『先生を待っていました、幸ちゃんの用ッて何でしょう。』
『何だか知らない。何だってよいジャあないか。』
『だって何だか沈鬱《ふさ》いでいるようだから……もしかと思って。』
『ああ少し寒くなって来た。』
 二人《ふたり》は連れだって中二階の前まで来たが、母屋《おもや》では浪花節《なにわぶし》の二切《ふたき》りめで、大夫《たゆう》の声がするばかり、みんな耳を澄ましていると見えて粛然《しん》としている。
『幸ちゃんに今帰ったからッて、そ言っておくれ、』と時田は庭の耳門《くぐり》へ入《はい》った、お梅はばたばたと母屋《おもや》の方へ駆《か》け出して土間へそっと入ると、幸吉が土間の入口に立っている。
『帰って?』幸吉は低い声で言った。
『今帰ってよ、用が済んだらまたお寄んなさいナ。』お梅の声もささやくよう。
『ありがとう。』幸吉は急いで中二階の方へ行った、しかし頭を垂《た》れたまま。お梅は座敷の隅《すみ》の方の薄暗い所に蹲居《つくなん》で浪花節を聞いていたが、みんなが笑う時でも笑顔《えがお》一つしなかった。二切りめが済むと座敷はにわかににぎやかになって、煙草《たばこ》を吸うやら便所に立つやら大騒ぎ。
『お梅。』母親《おふくろ》がきょろきょろと見回すと、
『なに。』お梅は大きな声で返事をした。
『どこにいたのさっきから。』
『ここで聴《き》いていたのよ、そして頭が痛くって……』と顔をしかめて頭をこつこつと軽くたたく。
『奥へ行って、寝《やす》みな、寝てたッて聞こえるよ。』母親《おふくろ》は心配そうに言う。それでもお梅は返事をしないでそのまま蹲居《つくなん》でいた。そのうち三切《みき》りめが初まるとお梅はしばらく聴いていたが、そッと立って土間へ下りると母親《おふくろ》が見つけて、低い声で、
『奥でお寝《やす》みな。』半ばしかるように言った。お梅は泣き出しそうな顔をして頭を振って外面《そと》へ出た。月は冴《さ》えに冴え、まるで秋かとも思われるよう。庭木の影がはっきりと地に印《いん》している。足を爪立《つまだ》てるようにして中二階の前の生垣《いけがき》のそばまで来て、垣根|越《ご》しに上を見あげた。二階はしんとしている。この時|母屋《おもや》でドッと笑い声がした。お梅はいまいましそうに舌うちをして、ほんとにいつまでやってるんだろうとつぶやきながら道へ出た。橋の上で話し声が聞こえるようだから、もしかと思って来ると先生一人、欄干に倚《よ》っかかッて空を仰いでいた。
『オヤお一人?』
『あア。』気のない返事。
『幸ちゃん帰りましたの?』お梅も欄干に倚《よ》って時田の顔をじっと見ている。
『今帰ったよ、』と大あくびをして『梅ちゃんどうして浪花節聴かないの、僕一つ聴いて来ようか。』
『およしなさいよつまらない! あたし聴いてたけど頭が痛くなって逃げ出したの。』
 二人はしばし黙っていた。水車へ水を取るので橋から少し下流に井堰《いせき》がある、そのため水がよどんで細長い池のようになっている、その岸は雑木《ぞうき》が茂って水の上に差し出ているのが暗い影を映しまた月の光が落ちているところは鏡のよう。たぶん羽虫《はむし》が飛ぶのであろう折り折り小さな波紋が消えてはまた現われている、お梅はじっと水を見ていたが、ついに
『幸ちゃんの話は何でした。』
『神田の叔父の方へしばらく往《い》っていたいがどうしたもんだろうと相談に来たのサ。』
『先生何と言ってやりました。』お梅は時田の顔を見て言ったがその声は少し震えていた、しかし時田はそんなことには気がつかないかして、すこぶる平気で、
『なるべくは家《うち》にいた方がよかろう、そうしないとなおの事|継母《おふくろ》との間がむずかしくなるからッて、留めてやった、かあいそうに泣いていたよ。』
『泣いて? まアかあいそうに。』お梅は涙ぐんで黙ってしまった。それも時田には気が付かない、
『なんでも詳しい事は聞かなんだが、今度の継母《おふくろ》に娘があってそれが海軍少将とかに奉公している、そいつを幸ちゃんの嫁にしたいと思っているらしい、幸ちゃんはそれがいやでたまらない、それを継母《おふくろ》が感づいてつらく当たるらしい、だから幸ちゃんの身になって見るとたまらないサ。』
『そうなのよ、わたしもその事はちょっと聞いてよ、そうなのよ、だってあんまりそれは無理だわ……』まだ何か言いそうな時、突然橋の上に通り掛かった男、お梅の顔をのぞき込んで
『オヤ梅ちゃん、今晩は、』と意味ありげに声を掛けて行き過ぎた。橋を渡ったと思うとちょっと振り向いて、
『忘れていた、幸ちゃんによろしく。』
『知らないわ、お菊さんが待ってるよ。』
『ハハハハありがとう。』いううち姿が見えなくなった。
『お菊さんて踏切の八百屋《やおや》の娘だろうか。』時田は訊《たず》ねた。お梅はうなずいたぎり黙っていた。

       【二】

 この日は近ごろ珍しいいい天気であったが、次の日は梅雨《つゆ》前のこととて、朝から空模様怪しく、午後はじめじめ降りだした。普通の人ならせっかくの日曜をめちゃめちゃにしてしまったと不平を並べるところだが、時田先生、全く無頓着《むとんじゃく》である。机の前に端座して生徒の清書を点検したり、作文を観《み》たり、出席簿を調べたり、倦《くた》ぶれた時はごろりとそこに寝ころんで天井をながめたりしている。
 午後二時、この降るのに訪《たず》ねて来て、中二階の三段目から『時田!』と首を出したのは江藤《えとう》という画家《えかき》である、時田よりは四つ五つ年下の、これもどこか変物《へんぶつ》らしい顔つき、語調《ものいい》と体度《みのこなし》とが時田よりも快活らしいばかり、共に青山御家人《あおやまごけにん》の息子《むすこ》で小供の時から親の代からの朋輩《ほうばい》同士である。
 時田は朱筆《しゅふで》を投げやって仰向けになりながら、
『君|先《せん》だって頼んで置いたのはできたかね。』
 江藤は火鉢《ひばち》のそばに座《すわ》って勝手に茶を飲み、とぼけた顔をして、
『なんだッたかしら。』
『そら手本サ。』
『すっかり忘れていた、失敬失敬、それよりか君に見せたい物があるのだ、』と風呂敷《ふろしき》に包んでその下をまた新聞紙で包んである、画板《がはん》を取り出して、時田に渡した。時田は黙って見ていたが、
『どこか見たような所だね、うまくできている。』
『そら、あの森のところサ御料地の、あそこから向こうの畑と林とを見たところサ。』
『なるほどそうだ、』といいながら時田は壁に下げてある小さな水彩画と見比べている。
『無論この方がまずいサ。ところがこの絵にはおもしろい話があるからそれで持って来たがこれからまたこれを持って行くところがあるのだ。』
 時田は起ち上がって火鉢のそばへ来て、『ふうン』とはなはだ気のない返事をして聞いている、これはこの人の癖だから対手《あいて》はなんとも感じない。
『昨日《きのう》はあのいい天気だからいつものように出かけて例の森、僕はまだあそこは画《か》いたことがないからどうせろくなものはできまいが、一ツ試みて見ようと、いつもの細い径《みち》を例のごとく空想にふけりながら歩いた。実は――もう白状してもいいから言うが――実は僕近ごろ自分で自分を疑い初めて、果たしておれに美術家たるの天才があるのだろうか、果たしておれは一個の画家として成功するだろうかなんてしきりと自脈を取っていたのサ。断然この希望をなげうってしまうかとも思ったがその時思い当たッたのは君の事だ。君がこうやッて村立尋常小学校の校長それも最初はただの教員から初めて十何年という長い間、汲々乎《きゅうきゅうこ》として勤めお互いの朋輩《ほうばい》にはもう大尉《たいい》になッた奴《やつ》もいれば法学士で判事になった奴もいるのを知らん顔でうらやましいとも思わず平気で自分の職分を守っている。もちろんこれは君の性分にもよるだろう、しかしそれはどちらでもいい、ともかく一心専念にやっているという事が僕は君の今日成功している所以《ゆえん》だと信ずる、成功とも! 教育家としてこの上の成功はないサ。父兄からは十二分の信用と尊敬とを得て何か込み入ったことはみんな君のところへ相談に来て君の判断を仰ぐ。僕は今の教育家にこういう例はあまりなかろうと思う。そこで僕は思った、僕に天才があろうがなかろうが、成功しようがしなかろうがそんな事は今顧みるに当たらない何でもこのままで一心不乱にやればいいんだ、というふうに考えて来ると気がせいせいして来た。
 昨日《きのう》もちょうどそんな事を考えながら歩いて、つまるところがペンキの看版《かんばん》かきになろうが稲荷《いなり》や八幡様《はちまんさま》の奉納絵を画こうがかまわない。やるところまでやると決心したからには、わき目もふれないなどしきりに思い続けて例の森まで行った。
 どこを画こうかと撰《えら》んで見たが、森その物は無論画いたところで画《え》としてはかえっておもしろくないから、何でも森を斜《はす》に取って西北の地平線から西へかけて低いところにもしゃもしゃと生《は》えてる楢林《ならばやし》あたりまでを写して見ることに決めた。
 道は随分暑かッたが森へ来て少し休むと薄暗い奥の方から冷たい風が吹いて来ていい心持《こころもち》になった、青葉の影の透きとおるような光を仰いで身体《からだ》を横に足を草の上に投げ出してじっと向こうを見ていると、何という静かな美しい、のびのびした景色だろう! 僕は何《なん》もかも忘れてしばらくながめていた。
 でき上がったのがこれだ。われながらお話にはならないまずサ加減、しかし僕は幾度でもこれを画《か》く、まず僕の力でこれならと思うやつができるまでは何度でも写しにくると決心してかかったのだ。ところでこのまずいやつをここまで画《か》き上げるのに妙なことがあったのサ。
 しきりと画いていると、実景があまりよくッて僕の手がいかにもまずいので、画いていながらまたもや変な気になって何というまずサだろう、これが画といわりょうかおれはとてもだめなのかしらん、と思うと画くのがいやになってもうよそうかもうよそうかと思いながらやっていた。すると後ろの森の方でガサゴソと妙な音がした。この時サ、僕は振り向いて見ようとしたが、待て! こんな事では到底だめだ、たといまずかろうがまずいからこそ勉強して画《か》くのだ、奉納絵を画いてもいいという決心はどうした、一心不乱とはここの事だ、たとい耳のそばで狼《おおかみ》がほえようが心を取り乱し気を散じないくらいでなければならないのが、森の奥でちょっと音がしたって、すぐそれに気を取られるようでどうするかと、今度はまずくても何でもずんずん画いていると、ゴソッ、ガサッという音がだんだん近づいて来るようで気になってならない、その音がまたすこぶる妙なので、ちょうど僕が一心に画《か》いているのをつけこんで後ろから何者か、忍び足に僕をねらうように思われる。さアそう思うと振り向いて見たくッてたまらない。しかし一たん見まいと決心したからには意地《いじ》が出て振り向くのが愧《はず》かしく、また振り向くと向かないのとで僕の美術家たり得《う》るや否《いな》やの分かれ目のような気がして来た。
 またこうも思った、見る見ないは別問題だ、てんであんな音が耳に入《はい》るようでそれが気になるようでそのために気をもむようではだめなんだ。もし真にわが一心をこの画幅とこの自然とに打ち込むなら大砲の音だって聞こえないだろうと。そこで画板にかじりつくようにして画《か》きはじめた。しかし何の益《やく》にも立たない、僕の心は七|分《ぶ》がた後ろの音に奪われているのだから。
 そこでまたこうも思った、何もそう固まるには及ばない、気になるならなるで、ちょっと見て烏《からす》か狐《きつね》か盗賊か鬼か蛇《じゃ》かもしくは一つ目小僧か大入道《おおにゅうどう》かそれを確かめて、安心して画いたがよサそうなものだ、よろしいそうだと振り向こうとしたが、残念でたまらない、もしここでおれが後ろへ振り向くならもう今日《きょう》かぎり画家はやめるのだゾ、よしか、それでよければ向け、もしこの森にいるとかうわさのある狂犬であっておれの後ろからいきなり頸筋《くびすじ》へ食らいつくなら着いてもいいではないか。それで死んでもかまわない、こうなればもう意地だ! この意地が通されないくらいなら美術家たるはおろか、何一ツしでかすものかと、今度はけんか腰になッて、人を後ろへ向かそうッて、たれが向くか、ざまを見ろと今から思えばおかしいがほんとにそう独語《ひとりごと》を言いながら画き続けた。
 音が近づくにつけて大きくなる、下草や小藪《こやぶ》を踏み分ける音がもうすぐ後ろで聞こえる、僕の身体《からだ》は冷水《ひやみず》を浴びたようになって、すくんで来る、それで腋《わき》の下からは汗がだらだら流れる、何のことはない一種の拷問サ。
 僕はただ夢中になって画いていたが目と手は器械的に動くのみで全身の注意は後ろに集まっていた。すると何者かが確かに僕の背なかにくっつくようにして足を止めた。そして耳のそばで呼吸の気合《けはい》がする。天下|何人《なんびと》か縮み上がらざらんやだ。君のような神経の少し遅鈍の方なら知らないこと――失敬失敬――僕はもう呼吸が塞《ふさ》がりそうになって、目がぐらぐらして来た。これが三十分も続いたら僕は気絶したろう。ところが間もなく、旦那《だんな》はうめえなアと耳元で大声に叫んだ奴《やつ》がある。
 びっくりして振り向くと六十ばかりの老爺《おやじ》が腰を屈《かが》めて僕の肩越しにのぞき込んでいるんだ。僕はあまりのことに、何だびっくりしたじゃアないかと怒鳴ってやッた。渠《きゃつ》一向平気で、背負っていた枯れ木の大束をそこへ卸して、旦那は絵の先生かときくから先生じゃアないまだ生徒なんだというとすこぶる感心したような顔つきで絵を見ていた。』
 ここまで話して来て江藤は急に口をつぐんで、対手《あいて》の顔をじっと見ていたが、思い出したように、
『そうだッけ、あの老爺《おやじ》さんを写生するとよかッた、』と言って膝《ひざ》を拍《う》った。この近在の百姓が御料地の森へ入《はい》って、枯れ枝を集めるのは、それは多分禁制であろうが、彼らは大びらでやっているのである。その事は無論時田も江藤も知っていたので、江藤もよく考えたら森の奥のガサガサする音は必ずそれと気の付くはずなんだ。
『それはそうとして君、それから僕は内心すこぶる慙《はず》かしく思ったから、今度は大いに熱心になって画《か》きだしたが、ほぼできたから巻煙草《まきたばこ》を出して吸い初めたら、それまで老爺《おやじ》さん黙って見ていたが、何と思ったか、まじめな顔で、その絵をくれないかと言いだした。その言い草がおもしろいじゃアないか、こういうんだ、今度|代々木《よよぎ》の八幡宮《はちまんぐう》が改築になったからそれへ奉納したいというんだ。それから老爺《おやじ》しきりと八幡の新築の立派なことなんかしゃべっているから、僕は聴《き》きながら考えた、この画はともかくもわがためには紀念すべきものである、そして、この老爺《おやじ》もわがためには紀念すべき人である、だからこの画をこの老爺《おやじ》にくれてやって八幡に奉納さすれば、われにもしこの後また退転の念が生じたとき、その八幡に行ってこの画を見て今日のことを思い出せば、なるほどそうだとまた猛進の精神を喚起さすだろう。そうだとこう考えて老爺《おやじ》にくれてやることにした。老爺大変よろこんですぐ持って帰るというから、それは困る明日《あす》まで待ってくれろ今日は自宅《うち》へ持って帰って少しは手を入れたいからと言うと、そんならちょっとわしが宅《うち》へ寄ってくれろじきそこだからッて、僕が行くとも言わないに先に立ってずんずんゆくから、僕もおもしろ半分についていったサ。思ったより大きな家《うち》で庭に麦が積んであって、婆《ばあ》さんと若夫婦らしいのとがしきりに抜《こ》いでいたが、それからみんな集まって絵を見るやら茶を出すやら大騒ぎを初めた。それで僕は明日《あす》自分で持って来てやると約束して来たんだ。今日は降るから閉口したが待っていると気の毒だから、これから行って来ようと思う。』
 時田はほとんど一口も入れないで黙って聴いていたが、江藤がやっとやめたので、
『その百姓家に娘はいなかったか、』と真顔で問うた。
『アアいたいた八歳《やつ》ばかしの。』何心なく江藤は答える。
『そいつは惜しかった十六、七で別品《べっぴん》でモデルになりそうだと来ると小説だッたッけ、』と言って『ウフフフ』と笑った。この先生に不似合いなことを時々言ってそうして自分でこんなふうな笑いかたをするのがこの人の癖の一つである。
『そううまくは行《ゆ》かないサ、ハハハハ、イヤそんなら行って来ようか、ご苦労な話だ、』と江藤が立ち上がろうとする時、生垣《いけがき》の外で、
『昨夜《ゆうべ》またやったよ、聞いたかねもう。今度は三十ばかしの野郎よ、野郎じゃアねッからお話になんねエ、十七、八の新造《しんぞ》と来《き》なきゃア、そうよそろそろ暑くなるから逆上《のぼ》せるかもしんねエ。』と大きな声で言うのは『踏切の八百屋《やおや》』である。
『そうよ懐《ふところ》が寒くなると血がみんな頭へ上って、それで気が狂《ちが》うんだろうよ』と言ったのは長屋の者らしい。
『うまいことをいってらア』と江藤はつぶやいた。
『おいらは毎晩|逆上《のぼ》せる薬を四合|瓶《びん》へ一本ずつ升屋《ますや》から買って飲むが一向鉄道|往生《おうじょう》をやらかす気にならねエハハハハ』
『薬が足りないのだろうよ、今夜あたりお神さんにそう言って二合も増《ふ》やしておもらいな。』
『違えねえ、懐《ふところ》が寒くならアヒヒヒヒ』と妙な声で笑った。

      【三】

 その夜八時過ぎでもあろうか、雨はしとしと降っている、踏切の八百屋《やおや》では早く店をしまい、主人《あるじ》は長火鉢《ながひばち》の前で大あぐらをかいて、いつもの四合の薬をぐびりぐびり飲《や》っている、女房はその手つきを見ている、娘のお菊はそばで針仕事をしながら時々頭を上げて店の戸の方を見る。
『なるほど四合では足りねエ。』
『何がなるほどだよ。』女房はもう不平らしい。
『逆上《のぼせ》の薬が足りないッてことよ。』
『ばか言ってらア。』女房には何のことだかわからない。
『お菊、もう二合取って来てくんねエ。』
『およしよ嘘《うそ》だよ、ばかばかしい。』女房はしかるように言って、燗徳利《かんどくり》をちょっと取って見て、『まだあるくせに。』
『あってもいいよ、二合取って来てくんねエ。明日《あした》口がきけねえから。』
『だれにさ、だれに口がきけねえんだよ。ばかばかしい。』
『なるほどうまいことを言うじゃアないか、今日おいらが蔦屋《つたや》へ行って今朝《けさ》の一件を話すと、長屋の者が、懐《ふところ》が寒くなるから頭へ逆上《のぼ》せるだッて言やアがる。うまいことを言うじゃアないか。そいでおいらア四合ずつ毎晩|逆上薬《のぼせぐすり》を飲むが鉄道往生する気になんねえッて言ったら、お神さんにそう言ってもう二合も買ってもらえッてやアがる。』
『大きにお世話だッて言ってやればいいに。』と女房は言って見たが、笑わざるを得なかった、娘も笑った。
『だから二合取って来てくんねえッてんだ。』
『ほんとに今夜はおよしよ、道が悪くってお菊がかあいそうだから。』女房は優しく言った。
『いいよわたし行って来ても。』娘は針を置いた。
 主人《あるじ》は最後の酒杯《さかずき》をじっと見ていたが、その目はとろんこになって、身体《からだ》がふらふらしている。
『やっぱり四合かな。』
 三人とも暫時無言。外面《そと》はしんとして雨の音さえよくは聞こえぬ。
『お前さん薬が利《き》いたじゃアないか。』
『ハハハハハ』主人《あるじ》は快く笑って『しかしおいらアいくら逆上《のぼ》せても鉄道往生はご免だ。ドラ床《とこ》の中《うち》で朝まで安楽成仏《あんらくじょうぶつ》としようかな。今朝《けさ》の野郎なんかまだ浮かばれねエでレールの上を迷ってるだろうよ。』
『チョッ薄気味の悪イ! ねエもうこんなところは引っ越してしまいたいねエ。』女房は心細そうに言った。
『ばか言ってらア、死ぬる奴《やつ》は勝手に死ぬるんだ、こっちの為《せえ》じゃアねエ。踏切の八百屋で顔が売れてるのを引っ越してどこへ行くんだイ。死にたい奴はこの踏切で遠慮なしにやってくれるがいいや、方々へ触れまわしてやらア、こっちの商売道具だ。』
 あくまで太い事をいって、立ち上がって便所へ行きながら、『その代わり便所の窓から念仏の一つも唱えてやらア。』
『あれだもの』女房は苦い顔をして娘と顔を見合した。娘はすこぶるまじめで黙っている。主人《あるじ》は便所の窓を明けたが、外面《そと》は雨でも月があるから薄光《うすあかり》でそこらが朧《おぼろ》に見える。窓の下はすぐ鉄道線路である。この時|傘《かさ》をさしたる一人《ひとり》の男、線路のそばに立っていたのが主人《あるじ》の窓をあけたので、ソッと避《よ》けて家の壁に身を寄せた。それを主人はちらと見て、
『何を言っても命あっての物種《ものだね》だ、』と大きな声で独言《ひとりごと》を初めた、『どうせ自分から死ぬるてエなアよくよくだろうが死んじまえば命がねえからなア。』
 この時クスリと一声、笑いを圧し殺すような気勢《けはい》がしたが、主人《あるじ》はそれには気が付かない。
『命せえあればまたどんな事でもできらア。銭がねえならかせぐのよ、情人《いろ》が不実《ふじつ》なら別な情人《いろ》を目つけるのよ。命がなくなりゃア種なしだ。』
 娘が来て、
『何言ってるの?』気味わるそうに言う。
『命あっての物種だてエ事よ、そうじゃアねえか、まアまア今夜なんか死神《しにがみ》に取っ付かれそうな晩だから、早く帰ってよく気を落ち着けて考えるんだなア。』
『何言ってるの。』
『まア出直した方がいいねエ、どうせ死ぬなら月でもいい晩の方がまだしゃれてらア。』
『いやな、』と娘は言って座敷の方へどたばたと逃げ出してしまった。
『出直した、出直した。その方がいい、あばよ、』と言って主人《あるじ》はよろめきながら出て来たが、火鉢の横にころりと寝たかと思うとすぐ大いびきをかいている。
『ほんとにこんなとこア早く越してしまいたいねえ、薄気味の悪い。しまいにはろくなことはないよ、ねえお菊。』母親《おふくろ》はやはり針仕事を始めながら、それも朝が早いからもうそろそろ眠そうな目つきでいう。
『そうねえ。』娘はさほどにも思わぬよう。
『この月になってからでも今朝《けさ》のが三人目だよ、よくよくこの踏切はけちがついていると見える。』
 娘は黙って相手にならない。二人は無言で仕事をしていたが、母の手は折り折りやんで、その度《たび》ごとにこくりこくりと居眠りをしている。娘はこのさまを見て見ないふりをしていたが、しばらくしてソッと起き上がって土間を下《お》りた。表の戸は二寸ばかり細目に開《あ》けてあるのを、音のせぬように開けて、身体《からだ》を半分出して四辺《あたり》を見まわすようであったが、ツと外に出た。軒下に立っているのが昨夜《ゆうべ》お梅から『お菊さんによろしく』と冷やかされた男。
『オヤ磯《いそ》さん? なぜそんなところに立ってるの、お入《はい》りな、』と娘は小声でいう。
『入《はい》りそこねて変だから今夜はよそうよ、さっき親父《とっ》さんが出直せッて言ったから、』とにやにや笑いながら言う。
『アラお前さんだったの? 何だか妙なことを言ってたと思ったよ。まアお入りな、かまわないから。』
『出直そうよ、ぐずぐずしてるとまた鉄道往生と間違えられるから、』と行きかける、
『人をばかばかしい、』と娘はまだ何か言いかけると内から母親《おふくろ》があくび声で、
『お菊もう寝るから外をお閉《し》め。』
『何だか雲ぎれがして晴れそうだよ、』と嘘《うそ》を言ってだまかす。
『オヤ外にいたの、何してるんだねえ、早くお閉めよ、』と険貪《けんどん》に言う。
『星が見えるよ、』と言って娘は肩をすぼめて、男の顔を見てにっこり笑う。
『早くお入りよ、』と言って男は踏切の方へすたこら行ってしまったが、たちまち姿が見えなくなった。娘は軒の外へ首を出して、今度はほんとに空を仰いで見たが、晴れそうにもない。霧のような雨がひやひやと襟頸《えりくび》に入るので、舌打ちして『星どころか』と微《かす》かに言ったが、荒々しく戸を閉めたと思うと間もなく家の内ひっそりとなってしまった。

 (明治三十三年七月作)

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   1983(昭和58)年4月10日第47刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月発行
初出:「太陽」
   1900(明治33)年10月発行
入力:h.saikawa
校正:noriko saito
2004年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

源おじ——-国木田独歩

     上

 都《みやこ》より一人の年若き教師下りきたりて佐伯《さいき》の子弟に語学教うることほとんど一年、秋の中ごろ来たりて夏の中ごろ去りぬ。夏の初め、彼は城下に住むことを厭《いと》いて、半里|隔《へだ》てし、桂《かつら》と呼ぶ港の岸に移りつ、ここより校舎に通いたり。かくて海辺《かいへん》にとどまること一月《ひとつき》、一月の間に言葉かわすほどの人|識《し》りしは片手にて数うるにも足らず。その重《おも》なる一人は宿の主人《あるじ》なり。ある夕《ゆうべ》、雨降り風|起《た》ちて磯《いそ》打つ波音もやや荒きに、独《ひと》りを好みて言葉すくなき教師もさすがにもの淋《さび》しく、二階なる一室《ひとま》を下りて主人夫婦が足投げだして涼《すず》みいし縁先に来たりぬ。夫婦は燈《ともしび》つけんともせず薄暗き中に団扇《うちわ》もて蚊《か》やりつつ語《かた》れり、教師を見て、珍らしやと坐《ざ》を譲《ゆず》りつ。夕闇《ゆうやみ》の風、軽《か》ろく雨を吹けば一滴二滴、面《おもて》を払うを三人は心地よげに受けてよもやまの話に入りぬ。
 その後《のち》教師都に帰りてより幾年《いくとせ》の月日|経《た》ち、ある冬の夜、夜《よ》更《ふ》けて一時を過ぎしに独《ひと》り小机に向かい手紙|認《したた》めぬ。そは故郷《ふるさと》なる旧友の許《もと》へと書き送るなり。そのもの案じがおなる蒼《あお》き色、この夜は頬《ほお》のあたりすこし赤らみておりおりいずこともなくみつむるまなざし、霧に包まれしある物を定《さだ》かに視《み》んと願うがごとし。
 霧のうちには一人の翁《おきな》立ちたり。
 教師は筆おきて読みかえしぬ。読みかえして目を閉《と》じたり。眼《まなこ》、外に閉じ内に開けば現われしはまた翁なり。手紙のうちに曰《いわ》く「宿の主人は事もなげにこの翁が上を語りぬ。げに珍しからぬ人の身の上のみ、かかる翁を求めんには山の蔭《かげ》、水の辺《ほとり》、国々には沢《さわ》なるべし。されどわれいかでこの翁を忘れえんや。余にはこの翁ただ何者をか秘めいて誰《たれ》一人開くこと叶《かな》わぬ箱のごとき思いす。こは余《よ》がいつもの怪しき意《こころ》の作用《はたらき》なるべきか。さもあらばあれ、われこの翁を懐《おも》う時は遠き笛の音《ね》ききて故郷《ふるさと》恋うる旅人の情《こころ》、動きつ、または想《そう》高き詩の一節読み了《お》わりて限りなき大空を仰《あお》ぐがごとき心地す」と。
 されど教師は翁が上を委《くわ》しく知れるにあらず。宿の主人《あるじ》より聞きえしはそのあらましのみ。主人は何ゆえにこの翁の事をかくも聞きたださるるか、教師が心《こころ》解《げ》しかねたれど問わるるままに語れり。
「この港は佐伯町《さいきまち》にふさわしかるべし。見たまうごとく家という家いくばくありや、人数《ひとかず》は二十にも足らざるべく、淋《さみ》しさはいつも今宵《こよい》のごとし。されど源叔父《げんおじ》が家一軒ただこの磯に立ちしその以前《かみ》の寂しさを想いたまえ。彼が家の横なる松、今は幅広き道路《みち》のかたわらに立ちて夏は涼しき蔭を旅人に借せど十余年の昔は沖より波寄せておりおりその根方《ねかた》を洗いぬ。城下より来たりて源叔父の舟頼まんものは海に突出《つきいで》し巌《いわ》に腰を掛けしことしばしばなり、今は火薬の力もて危《あや》うき崖も裂かれたれど。
「否《いな》、彼とてもいかで初めより独《ひと》り暮さんや。
「妻は美しかりし。名を百合《ゆり》と呼び、大入島《おおにゅうじま》の生まれなり。人の噂をなかば偽りとみるも、この事のみは信《まこと》なりと源叔父がある夜酒に呑まれて語りしを聞けば、彼の年二十八九のころ、春の夜《よ》更《ふ》けて妙見《みょうけん》の燈《ともしび》も消えし時、ほとほとと戸たたく者あり。源起きいで誰れぞと問うに、島まで渡したまえというは女の声なり。傾《かたぶ》きし月の光にすかし見ればかねて見知りし大入島の百合《ゆり》という小娘にぞありける。
「そのころ渡船《おろし》を業《ぎょう》となすもの多きうちにも、源が名は浦々《うらうら》にまで聞こえし。そは心たしかに侠気《おとこぎ》ある若者なりしがゆえのみならず、べつに深きゆえあり、げに君にも聞かしたきはそのころの源が声にぞありける。人々は彼が櫓《ろ》こぎつつ歌うを聴かんとて撰《えら》びて彼が舟に乗りたり。されど言葉すくなきは今も昔も変わらず。
「島の小女《おとめ》は心ありてかく晩《おそ》くも源が舟頼みしか、そは高きより見下ろしたまいし妙見様ならでは知る者なき秘密なるべし。舟とどめて互いに何をか語りしと問えど、酔うても言葉すくなき彼はただ額《ひたい》に深き二条《ふたすじ》の皺《しわ》寄せて笑うのみ、その笑いはどことなく悲しげなるぞうたてき。
「源が歌う声|冴《さ》えまさりつ。かくて若き夫婦の幸《たの》しき月日は夢よりも淡く過ぎたり。独子《ひとりご》の幸助《こうすけ》七歳《ななつ》の時、妻ゆりは二度目の産重くしてついにみまかりぬ。城下の者にて幸助を引取り、ゆくゆくは商人《あきうど》に仕立てやらんといいいでしがありしも、可愛《かあい》き妻には死別れ、さらに独子と離るるは忍びがたしとて辞しぬ。言葉すくなき彼はこのごろよりいよいよ言葉すくなくなりつ、笑うことも稀《まれ》に、櫓《ろ》こぐにも酒の勢いならでは歌わず、醍醐《だいご》の入江を夕月の光|砕《くだ》きつつ朗《ほが》らかに歌う声さえ哀れをそめたり、こは聞くものの心にや、あらず、妻失いしことは元気よかりし彼が心をなかば砕き去りたり。雨のそぼ降る日など、淋《さみ》しき家に幸助一人をのこしおくは不憫《ふびん》なりとて、客とともに舟に乗せゆけば、人々哀れがりぬ。されば小供《こども》への土産《みやげ》にと城下にて買いし菓子の袋開きてこの孤児《みなしご》に分つ母親もすくなからざりし。父は見知らぬ風にて礼もいわぬが常なり、これも悲しさのあまりなるべしと心にとむる者なし。
「かくて二年《ふたとせ》過ぎぬ。この港の工事なかばなりしころ吾《われ》ら夫婦、島よりここに移りてこの家を建て今の業をはじめぬ。山の端《は》削《けず》りて道路《みち》開かれ、源叔父が家の前には今の車道《くるまみち》でき、朝夕二度に汽船の笛鳴りつ、昔は網だに干さぬ荒磯《あらいそ》はたちまち今の様《さま》と変わりぬ。されど源叔父が渡船《おろし》の業は昔のままなり。浦人《うらびと》島人《しまびと》乗せて城下に往来《ゆきき》すること、前に変わらず、港開けて車道でき人通り繁《しげ》くなりて昔に比ぶればここも浮世の仲間入りせしを彼はうれしともはた悲しとも思わぬ様なりし。
「かくてまた三年《みとせ》過ぎぬ。幸助十二歳の時、子供らと海に遊び、誤りて溺《おぼ》れしを、見てありし子供ら、畏《おそ》れ逃げてこの事を人に告げざりき。夕暮になりて幸助の帰りこぬに心づき、驚きて吾らもともに捜せし時はいうまでもなく事遅れて、哀れの骸《かばね》は不思議にも源叔父が舟底に沈みいたり。
「彼はもはやけっしてうたわざりき、親しき人々にすら言葉かわすことを避くるようになりぬ。ものいわず、歌わず、笑わずして年月を送るうちにはいかなる人も世より忘れらるるものとみえたり。源叔父の舟こぐことは昔に変わらねど、浦人らは源叔父の舟に乗りながら源叔父の世にあることを忘れしようになりぬ。かく語る我身すらおりおり源叔父がかの丸き眼をなかば閉じ櫓《ろ》担《にな》いて帰りくるを見る時、源叔父はまだ生きてあるよなど思うことあり。彼はいかなる人ぞと問いたまいしは君が初めなり。
「さなり、呼びて酒|呑《の》ませなばついには歌いもすべし。されどその歌の意|解《げ》しがたし。否《いな》、彼はつぶやかず、繰言《くりごと》ならべず、ただおりおり太き嘆息《ためいき》するのみ。あわれとおぼさずや――」
 宿の主人《あるじ》が教師に語りしはこれに過ぎざりし。教師は都に帰りて後も源叔父《げんおじ》がこと忘れず。燈下に坐りて雨の音きく夜《よ》など、思いはしばしばこのあわれなる翁《おきな》が上に飛びぬ。思えらく、源叔父今はいかん、波の音ききつつ古き春の夜のこと思いて独り炉《ろ》のかたわらに丸き目ふさぎてやあらん、あるいは幸助がことのみ思いつづけてやおらんと。されど教師は知らざりき、かく想いやりし幾年《いくとせ》の後の冬の夜は翁の墓に霙《みぞれ》降《ふ》りつつありしを。
 年若き教師の、詩読む心にて記憶のページ翻《ひるが》えしつつある間に、翁が上にはさらに悲しきこと起こりつ、すでにこの世の人ならざりしなり。かくて教師の詩はその最後の一|節《せつ》を欠《か》きたり。

     

 佐伯《さいき》の子弟が語学の師を桂港《かつらみなと》の波止場に送りし年も暮れて翌年一月の末、ある日源叔父は所用ありて昼前より城下に出でたり。
 大空曇りて雪降らんとす。雪はこの地に稀《まれ》なり、その日の寒さ推《お》して知らる。山村水廓《さんそんすいかく》の民《たみ》、河より海より小舟|泛《う》かべて城下に用を便ずるが佐伯近在の習慣《ならい》なれば番匠川《ばんじょうがわ》の河岸《かし》にはいつも渡船《おろし》集《つど》いて乗るもの下りるもの、浦人は歌い山人はののしり、いと賑々《にぎにぎ》しけれど今日は淋びしく、河面《かわづら》には漣《さざなみ》たち灰色の雲の影落ちたり。大通《おおどおり》いずれもさび、軒端《のきば》暗く、往来《ゆきき》絶え、石多き横町《よこまち》の道は氷《こお》れり。城山の麓《ふもと》にて撞《つ》く鐘雲に響きて、屋根瓦の苔《こけ》白きこの町の終《はて》より終《はて》へともの哀しげなる音の漂う様は魚《うお》住まぬ湖水《みずうみ》の真中《ただなか》に石一個投げ入れたるごとし。
 祭の日などには舞台据えらるべき広辻《ひろつじ》あり、貧しき家の児ら血色《ちいろ》なき顔を曝《さら》して戯《たわむ》れす、懐手《ふところで》して立てるもあり。ここに来かかりし乞食《こじき》あり。小供の一人、「紀州《きしゅう》紀州」と呼びしが振向きもせで行過ぎんとす。うち見には十五六と思わる、蓬《よもぎ》なす頭髪は頸《くび》を被《おお》い、顔の長きが上に頬肉こけたれば頷《おとがい》の骨|尖《とが》れり。眼《まなこ》の光|濁《にご》り瞳《ひとみ》動くこと遅くいずこともなくみつむるまなざし鈍し。纒《まと》いしは袷《あわせ》一枚、裾は短かく襤褸《ぼろ》下がり濡れしままわずかに脛《すね》を隠せり。腋《わき》よりは蟋蟀《きりぎりす》の足めきたる肱《ひじ》現われつ、わなわなと戦慄《ふる》いつつゆけり。この時またかなたより来かかりしは源叔父なり。二人は辻の真中にて出遇《であ》いぬ。源叔父はその丸き目《め》※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》りて乞食を見たり。
「紀州」と呼びかけし翁の声は低けれども太《ふと》し。
 若き乞食はその鈍き目を顔とともにあげて、石なんどを見るように源叔父が眼《まなこ》を見たり。二人はしばし目と目見あわして立ちぬ。
 源叔父は袂《たもと》をさぐりて竹の皮包取りだし握飯一つ撮《つま》みて紀州の前に突きだせば、乞食は懐《ふところ》より椀《わん》をだしてこれを受けぬ。与えしものも言葉なく受けしものも言葉なく、互いに嬉《う》れしとも憐れとも思わぬようなり、紀州はそのまま行き過ぎて後振向きもせず、源叔父はその後影《うしろかげ》角《かど》をめぐりて見えずなるまで目送《みおく》りつ、大空仰げば降るともなしに降りくるは雪の二片三片《ふたひらみひら》なり、今一度乞食のゆきし方《かた》を見て太き嘆息《ためいき》せり。小供らは笑を忍びて肱《ひじ》つつきあえど翁は知らず。
 源叔父家に帰りしは夕暮なりし。彼が家の窓は道に向かえど開かれしことなく、さなきだに闇《くら》きを燈つけず、炉《ろ》の前に坐り指太き両手を顔に当て、首を垂れて嘆息つきたり。炉には枯枝一|掴《つか》みくべあり。細き枝に蝋燭《ろうそく》の焔《ほのお》ほどの火燃え移りてかわるがわる消えつ燃えつす。燃ゆる時は一間《ひとま》のうちしばらく明《あか》し。翁の影太く壁に映りて動き、煤《すす》けし壁に浮かびいずるは錦絵《にしきえ》なり。幸助五六歳のころ妻の百合が里帰りして貰いきしその時|粘《は》りつけしまま十年《ととせ》余の月日|経《た》ち今は薄墨《うすずみ》塗りしようなり、今宵《こよい》は風なく波音聞こえず。家を繞《めぐ》りてさらさらと私語《ささや》くごとき物音を翁は耳そばだてて聴きぬ。こは霙《みぞれ》の音なり。源叔父はしばしこのさびしき音《ね》を聞入りしが、太息《ためいき》して家内《やうち》を見まわしぬ。
 豆|洋燈《らんぷ》つけて戸外《そと》に出《いず》れば寒さ骨に沁《し》むばかり、冬の夜寒むに櫓こぐをつらしとも思わぬ身ながら粟《あわ》だつを覚えき。山黒く海暗し。火影《ほかげ》及ぶかぎりは雪片《せっぺん》きらめきて降《お》つるが見ゆ。地は堅く氷れり。この時若き男二人もの語りつつ城下の方《かた》より来しが、燈持ちて門《かど》に立てる翁《おきな》を見て、源叔父よ今宵の寒さはいかにという。翁は、さなりとのみ答えて目は城下の方に向かえり。
 やや行き過ぎて若者の一人、いつもながら源叔父の今宵の様はいかに、若き女あの顔を見なばそのまま気絶やせんと囁《ささや》けば相手は、明朝《あすあさ》あの松が枝に翁の足のさがれるを見出《みいだ》さんもしれずという、二人は身の毛のよだつを覚えて振向けば翁が門にはもはや燈火《ともしび》見えざりき。
 夜は更《ふ》けたり。雪は霙と変わり霙は雪となり降りつ止みつす。灘山《なだやま》の端《は》を月はなれて雲の海に光を包めば、古城市はさながら乾ける墓原《はかはら》のごとし。山々の麓《ふもと》には村あり、村々の奥には墓あり、墓はこの時|覚《さ》め、人はこの時眠り、夢の世界にて故人|相《あい》まみえ泣きつ笑いつす。影のごとき人今しも広辻を横ぎりて小橋の上をゆけり。橋の袂《たもと》に眠りし犬|頭《くび》をあげてその後影を見たれど吠《ほ》えず。あわれこの人墓よりや脱け出《い》でし。誰《たれ》に遇い誰《た》れと語らんとてかくはさまよう。彼は紀州なり。
 源叔父の独子《ひとりご》幸助海に溺《おぼ》れて失《う》せし同じ年の秋、一人の女乞食|日向《ひゅうが》の方《かた》より迷いきて佐伯の町に足をとどめぬ。伴《ともな》いしは八歳《やっつ》ばかりの男子《おのこ》なり。母はこの子を連れて家々の門に立てば、貰い物多く、ここの人の慈悲《めぐみ》深きは他国にて見ざりしほどなれば、子のために行末よしやと思いはかりけん、次の年の春、母は子を残していずれにか影を隠したり。太宰府《だざいふ》訪《もう》でし人帰りきての話に、かの女乞食に肖《に》たるが襤褸《ぼろ》着し、力士《すもうとり》に伴いて鳥居のわきに袖乞《そでご》いするを見しという。人々皆な思いあたる節なりといえり。町の者母の無情《つれなき》を憎み残されし子をいや増してあわれがりぬ。かくて母の計《はかりごと》あたりしとみえし。あらず、村々には寺あれど人々の慈悲《めぐみ》には限あり。不憫《ふびん》なりとは語りあえど、まじめに引取りて末永く育てんというものなく、時には庭先の掃除など命じ人らしく扱うものありしかど、永くは続かず。初めは童《わらべ》母を慕いて泣きぬ、人人物与えて慰めたり。童は母を思わずなりぬ、人人の慈悲《じひ》は童をして母を忘れしめたるのみ。物忘れする子なりともいい、白痴なりともいい、不潔なりともいい、盗《ぬすみ》すともいう、口実はさまざまなれどこの童を乞食の境《さかい》に落としつくし人情の世界のそとに葬りし結果はひとつなりき。
 戯《たわむ》れにいろは教うればいろはを覚え、戯れに読本《とくほん》教うればその一節二節を暗誦し、小供らの歌聞きてまた歌い、笑い語り戯れて、世の常の子と変わらざりき。げに変わらずみえたり。生国を紀州《きしゅう》なりと童のいうがままに「紀州」と呼びなされて、はては佐伯町附属の品物のように取扱われつ、街《まち》に遊ぶ子はこの童とともに育ちぬ。かくて彼が心は人々の知らぬ間に亡び、人々は彼と朝日照り炊煙《すいえん》棚引《たなび》き親子あり夫婦あり兄弟《きょうだい》あり朋友《ほうゆう》あり涙ある世界に同居せりと思える間《ま》、彼はいつしか無人《むにん》の島にその淋しき巣を移しここにその心を葬りたり。
 彼に物与えても礼言わずなりぬ。笑わずなりぬ。彼の怒《いか》りしを見んは難《かた》く彼の泣くを見んはたやすからず、彼は恨みも喜びもせず。ただ動き、ただ歩み、ただ食らう。食らう時かたわらよりうまきやと問えばアクセントなき言葉にてうましと答うその声は地の底にて響くがごとし。戯れに棒振りあげて彼の頭上に翳《かざ》せば、笑うごとき面持《おももち》してゆるやかに歩みを運ぶ様《さま》は主人に叱られし犬の尾振りつつ逃ぐるに似て異なり、彼はけっして媚《こび》を人にささげず。世の常の乞食見て憐れと思う心もて彼を憐れというは至らず。浮世の波に漂うて溺《おぼ》るる人を憐れとみる眼には彼を見出さんこと難《かた》かるべし、彼は波の底を這《は》うものなれば。
 紀州が小橋をかなたに渡りてより間もなく広辻に来かかりてあたりを見廻すものあり。手には小さき舷燈《げんとう》提《さ》げたり。舷燈の光|射《さ》す口をかなたこなたと転《めぐ》らすごとに、薄く積みし雪の上を末広がりし火影走りて雪は美しく閃《きら》めき、辻を囲める家々の暗き軒下を丸き火影《ほかげ》飛びぬ。この時|本町《ほんまち》の方《かた》より突如《とつじょ》と現われしは巡査なり。ずかずかと歩み寄りて何者ぞと声かけ、燈《ともしび》をかかげてこなたの顔を照らしぬ。丸き目、深き皺《しわ》、太き鼻、逞《たく》ましき舟子《ふなこ》なり。
「源叔父ならずや」、巡査は呆《あき》れし様《さま》なり。
「さなり」、嗄《しわが》れし声にて答う。
「夜|更《ふ》けて何者をか捜す」
「紀州を見たまわざりしか」
「紀州に何の用ありてか」
「今夜《こよい》はあまりに寒ければ家に伴わんと思いはべり」
「されど彼の寝床は犬も知らざるべし、みずから風ひかぬがよし」
 情《なさけ》ある巡査は行きさりぬ。
 源叔父は嘆息《ためいき》つきつつ小橋の上まで来しが、火影落ちしところに足跡あり。今踏みしようなり。紀州ならで誰かこの雪を跣足《すあし》のまま歩まんや。翁《おきな》は小走りに足跡向きし方《かた》へと馳《は》せぬ。

     

 源叔父が紀州をその家に引取りたりということ知れわたり、伝えききし人初めは真《まこと》とせず次に呆れ終《はて》は笑わぬものなかりき。この二人が差向いにて夕餉《ゆうげ》につく様《さま》こそ見たけれなど滑稽芝居見まほしき心にて嘲《あざけ》る者もありき。近ごろはあるかなきかに思われし源叔父またもや人の噂《うわさ》にのぼるようになりつ。
 雪の夜より七日《なのか》余り経ちぬ。夕日影あざやかに照り四国地遠く波の上に浮かびて見ゆ。鶴見崎のあたり真帆片帆《まほかたほ》白し。川口の洲《す》には千鳥飛べり。源叔父は五人の客乗せて纜《ともづな》解かんとす、三人の若者駈けきたりて乗りこめば舟には人満ちたり。島にかえる娘二人は姉妹《はらから》らしく、頭に手拭《てぬぐい》かぶり手に小さき包み持ちぬ。残り五人は浦人なり、後れて乗りこみし若者二人のほかの三人《みたり》は老《としより》夫婦と連《つれ》の小児《こども》なり。人々は町のことのみ語りあえり。芝居のことを若者の一人語りいでし時、このたびのは衣裳《いしょう》も格別に美しき由《よし》島にはいまだ見物せしものすくなけれど噂のみはいと高しと姉なる娘いう。否《いな》さまでならず、ただ去年のものにはすこしく優《まさ》れりとうち消すようにいうは老婦《おうな》なり。俳優《やくしゃ》のうちに久米五郎《くめごろう》とて稀《まれ》なる美男まじれりちょう噂島の娘らが間に高しとききぬ、いかにと若者|姉妹《はらから》に向かっていえば二人は顔赤らめ、老婦《おうな》は大声に笑いぬ。源叔父は櫓《ろ》こぎつつ眼《まなこ》を遠き方《かた》にのみ注《そそ》ぎて、ここにも浮世の笑声高きを空耳《そらみみ》に聞き、一言も雑《まじ》えず。
「紀州を家に伴えりと聞きぬ、信《まこと》にや」若者の一人、何をか思い出《いで》て問う。
「さなり」翁は見向きもせで答えぬ。
「乞食の子を家に入れしは何ゆえぞ解《げ》しがたしと怪しむものすくなからず、独りはあまりに淋しければにや」
「さなり」
「紀州ならずとも、ともに住むほどの子島にも浦にも求めんにはかならずあるべきに」
「げにしかり」と老婦《おうな》口を入れて源叔父の顔を見上げぬ。源叔父はもの案じ顔にてしばし答えず。西の山|懐《ふところ》より真直に立ちのぼる煙の末の夕日に輝きて真青《まさお》なるをみつめしようなり。
「紀州は親も兄弟も家もなき童《わらべ》なり、我は妻も子もなき翁《おきな》なり。我彼の父とならば、彼我の子となりなん、ともに幸いならずや」独語《ひとりごと》のようにいうを人々心のうちにて驚きぬ、この翁がかく滑らかに語りいでしを今まで聞きしことなければ。
「げに月日経つことの早さよ、源叔父。ゆり殿が赤児|抱《だ》きて磯辺に立てるを視《み》しは、われには昨日《きのう》のようなる心地す」老婦《おうな》は嘆息つきて、
「幸助殿今無事ならば何歳《いくつ》ぞ」と問う。
「紀州よりは二ツ三ツ上なるべし」さりげなく答えぬ。
「紀州の歳《とし》ほど推《すい》しがたきはあらず、垢《あか》にて歳も埋《うも》れはてしと覚《おぼ》ゆ、十にやはた十八にや」
 人々の笑う声しばし止まざりき。
「われもよくは知らず、十六七とかいえり。生《うみ》の母ならで定《さだか》に知るものあらんや、哀れとおぼさずや」翁は老《としより》夫婦が連れし七歳《ななつ》ばかりの孫とも思わるる児《こ》を見かえりつついえり。その声さえ震えるに、人々気の毒がりて笑うことを止めつ。
「げに親子の情二人が間に発《おこ》らば源叔父が行末《いくすえ》楽しかるべし。紀州とても人の子なり、源叔父の帰り遅しと門《かど》に待つようなりなば涙流すものは源叔父のみかは」夫《つま》なる老人《おきな》の取繕《とりつくろ》いげにいうも真意なきにあらず。
「さなり、げにその時はうれしかるべし」と答《いら》えし源叔父が言葉には喜び充《み》ちたり。
「紀州連れてこのたびの芝居見る心はなきか」かくいいし若者は源叔父|嘲《あざけ》らんとにはあらで、島の娘の笑い顔見たきなり。姉妹《はらから》は源叔父に気兼《きが》ねして微笑《ほほえみ》しのみ。老婦《おうな》は舷《ふなばた》たたき、そはきわめておもしろからんと笑いぬ。
「阿波十郎兵衛《あわのじゅうろべえ》など見せて我子泣かすも益《えき》なからん」源叔父は真顔にていう。
「我子とは誰《た》ぞ」老婦《おうな》は素知らぬ顔にて問いつ、
「幸助殿はかしこにて溺《おぼ》れしと聞きしに」振り向いて妙見《みょうけん》の山影黒きあたりを指《さ》しぬ、人々皆かなたを見たり。
「我子とは紀州のことなり」源叔父はしばしこぐ手を止めて彦岳《ひこだけ》の方《かた》を見やり、顔赤らめていい放ちぬ。怒りとも悲しみとも恥ともはた喜びともいいわけがたき情《こころ》胸《むね》を衝《つ》きつ。足を舷端《ふなばた》にかけ櫓《ろ》に力加えしとみるや、声高らかに歌いいでぬ。
 海も山も絶えて久しくこの声を聞かざりき。うたう翁も久しくこの声を聞かざりき。夕凪《ゆうなぎ》の海面《うみづら》をわたりてこの声の脈ゆるやかに波紋を描きつつ消えゆくとぞみえし。波紋は渚《なぎさ》を打てり。山彦《やまびこ》はかすかに応《こた》えせり。翁は久しくこの応えをきかざりき。三十年前の我、長き眠りより醒《さ》めて山のかなたより今の我を呼ぶならずや。
 老《としより》夫婦は声も節も昔のごとしと賛《ほ》め、年若き四人は噂に違《たが》わざりけりと聴きほれぬ。源叔父は七人の客わが舟にあるを忘れはてたり。
 娘二人を島に揚げし後は若者ら寒しとて毛布《けっと》被《かぶ》り足を縮めて臥《ふ》しぬ。老《としより》夫婦は孫に菓子与えなどし、家の事どもひそひそと語りあえり。浦に着きしころは日落ちて夕煙村を罩《こ》め浦を包みつ。帰舟《かえり》は客なかりき。醍醐《だいご》の入江の口を出《いず》る時|彦岳嵐《ひこだけあらし》身《み》に※[#「さんずい+参」、第4水準2-78-61]《し》み、顧《かえり》みれば大白《たいはく》の光|漣《さざなみ》に砕《くだ》け、こなたには大入島《おおにゅうじま》の火影|早《はや》きらめきそめぬ。静かに櫓こぐ翁の影黒く水に映れり。舳《へさき》軽く浮かべば舟底たたく水音、あわれ何をか囁《ささや》く。人の眠|催《もよお》す様《さま》なるこの水音を源叔父は聞くともなく聞きてさまざまの楽しきことのみ思いつづけ、悲しきこと、気がかりのこと、胸に浮かぶ時は櫓握る手に力入れて頭振りたり。物を追いやるようなり。
 家には待つものあり、彼は炉《ろ》の前に坐りて居眠《いねむ》りてやおらん、乞食せし時に比べて我家のうちの楽しさ煖《あたた》かさに心|溶《と》け、思うこともなく燈火《ともしび》うち見やりてやおらん、わが帰るを待たで夕餉《ゆうげ》おえしか、櫓こぐ術《すべ》教うべしといいし時、うれしげにうなずきぬ、言葉すくなく絶えずもの思わしげなるはこれまでの慣《なら》いなるべし、月日経たば肉づきて頬赤らむ時もあらん、されどされど。源叔父は頭《かしら》を振りぬ。否々《いないな》彼も人の子なり、我子なり、吾に習いて巧みにうたい出る彼が声こそ聞かまほしけれ、少女《おとめ》一人乗せて月夜に舟こぐこともあらば彼も人の子なりその少女ふたたび見たき情《こころ》起こさでやむべき、われにその情《こころ》見《み》ぬく眼ありかならずよそには見じ。
 波止場に入りし時、翁は夢みるごときまなざしして問屋《といや》の燈火《ともしび》、影長く水にゆらぐを見たり。舟|繋《つな》ぎおわれば臥席《ござ》巻《ま》きて腋《わき》に抱き櫓を肩にして岸に上《のぼ》りぬ。日暮れて間もなきに問屋三軒皆な戸ざして人影絶え人声なし。源叔父は眼閉じて歩み我家の前に来たりし時、丸き眼|※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》りてあたりを見廻わしぬ。
「我子よ今帰りしぞ」と呼び櫓置くべきところに櫓置きて内に入りぬ。家内《やうち》暗し。
「こはいかに、わが子よ今帰りぬ、早く燈《ともしび》点《つ》けずや」寂《せき》として応《こた》えなし。
「紀州紀州」竈馬《こおろぎ》のふつづかに喞《な》くあるのみ。
 翁は狼狽《あわ》てて懐中《ふところ》よりまっち取りだし、一摺《ひとす》りすれば一間のうちにわかに明《あか》くなりつ、人らしきもの見えず、しばししてまた暗し。陰森《いんしん》の気|床下《ゆかした》より起こりて翁が懐に入りぬ。手早く豆洋燈《まめらんぷ》に火を移しあたりを見廻わすまなざし鈍《にぶ》く、耳そばだてて「我子よ」と呼びし声|嗄《しわが》れて呼吸も迫りぬと覚《おぼ》し。
 炉には灰白く冷え夕餉たべしあとだになし。家内捜すまでもなく、ただ一間のうちを翁はゆるやかに見廻わしぬ。煤《すす》けし壁の四隅は光届きかねつ心ありて見れば、人あるに似たり。源叔父は顔を両手に埋め深き嘆息《ためいき》せり。この時もしやと思うこと胸を衝《つ》きしに、つと起《た》てば大粒の涙流れて煩をつたうを拭わんとはせず、柱に掛けし舷燈《げんとう》に火を移していそがわしく家を出で、城下の方指して走りぬ。
 蟹田《がんだ》なる鍛冶《かじ》の夜業《よなべ》の火花闇に散る前を行過ぎんとして立ちどまり、日暮のころ紀州この前を通らざりしかと問えば、気つかざりしと槌《つち》持てる若者の一人答えて訝《いぶか》しげなる顔す。こは夜業を妨げぬと笑面《えがお》作りつ、また急ぎゆけり。右は畑《はた》、左は堤《つつみ》の上を一列に老松並ぶ真直の道をなかば来たりし時、行先をゆくものあり。急ぎて燈火《ともしび》さし向くるに後姿紀州にまぎれなし。彼は両手を懐にし、身を前に屈めて歩めり。
「紀州ならずや」呼びかけてその肩に手を掛けつ、
「独りいずこに行かんとはする」怒り、はた喜び、はた悲しみ、はた限りなき失望をただこの一言に包みしようなり。紀州は源叔父が顔見て驚きし様もなく、道ゆく人を門に立ちて心なく見やるごとき様にてうち守りぬ。翁は呆《あき》れてしばし言葉なし。
「寒からずや、早く帰れ我子」いいつつ紀州の手取りて連れ帰りぬ。みちみち源叔父は、わが帰りの遅かりしゆえ淋しさに堪えざりしか、夕餉《ゆうげ》は戸棚に調《ととの》えおきしものをなどいいいい行けり。紀州は一言もいわず、生憎《あやにく》に嘆息もらすは翁なり。
 家に帰るや、炉に火を盛に燃《た》きてそのわきに紀州を坐らせ、戸棚より膳《ぜん》取り出だして自身《おのれ》は食らわず紀州にのみたべさす。紀州は翁のいうがままに翁のものまで食いつくしぬ。その間源叔父はおりおり紀州の顔見ては眼閉じ嘆息せり。たべおわりなば火にあたれといいて、うまかりしかと問う紀州は眠気なる眼《まなこ》にて翁が顔を見てかすかにうなずきしのみ。源叔父はこの様《さま》見るや、眠くば寝よと優《やさ》しくいい、みずから床敷きて布団《ふとん》かけてやりなどす。紀州の寝《いね》し後、翁は一人炉の前に坐り、眼を閉じて動かず。炉の火燃えつきんとすれども柴くべず、五十年の永き年月を潮風にのみ晒《さら》せし顔には赤き焔の影おぼつかなく漂《ただよ》えり。頬を連《つた》いてきらめくものは涙なるかも。屋根を渡る風の音す、門《かど》に立てる松の梢《こずえ》を嘯《うそぶ》きて過ぎぬ。
 翌朝《つぎのあさ》早く起きいでて源叔父は紀州に朝飯たべさせ自分《おのれ》は頭重く口|渇《かわ》きて堪えがたしと水のみ飲みて何も食わざりき。しばししてこの熱を見よと紀州の手取りて我|額《ひたい》に触れしめ、すこし風邪《かぜ》ひきしようなりと、ついに床のべてうち臥《ふ》しぬ。源叔父の疾《や》みて臥《ふ》するは稀なることなり。
「明日《あす》は癒《い》えん、ここに来たれ、物語して聞かすべし」しいてうちえみ、紀州を枕辺《まくらべ》に坐らせて、といきつくづくいろいろの物語して聞かしぬ。そなたは鱶《ふか》ちょう恐ろしき魚見しことなからんなど七ツ八ツの児に語るがごとし。ややありて。
「母親恋しくは思わずや」紀州の顔見つつ問いぬ。この問を紀州の解《げ》しかねしようなれば。
「永く我家にいよ、我をそなたの父と思え、――」
 なおいい続《つ》がんとして苦しげに息す。
「明後日《あさって》の夜は芝居見に連れゆくべし。外題《げだい》は阿波十郎兵衛《あわのじゅうろべえ》なる由《よし》ききぬ。そなたに見せなば親恋しと思う心かならず起こらん、そのときわれを父と思え、そなたの父はわれなり」
 かくて源叔父は昔見し芝居の筋を語りいで、巡礼謡《じゅんれいうた》をかすかなる声にてうたい聞かせつ、あわれと思わずやといいてみずから泣きぬ。紀州には何事も解しかぬ様《さま》なり。
「よしよし、話のみにては解しがたし、目に見なばそなたもかならず泣かん」いいおわりて苦しげなる息、ほと吐《つ》きたり。語り疲れてしばしまどろみぬ。目さめて枕辺を見しに紀州あらざりき。紀州よ我子よと呼びつつ走りゆくほどに顔のなかばを朱に染めし女|乞食《こじき》いずこよりか現われて紀州は我子なりといいしが見るうちに年若き眼に変わりぬ。ゆり[#「ゆり」に傍点]ならずや幸助をいかにせしぞ、わが眠りし間に幸助いずれにか逃げ亡《う》せたり、来たれ来たれ来たれともに捜せよ、見よ幸助は芥溜《ごみため》のなかより大根の切片《きれ》掘りだすぞと大声あげて泣けば、後《うし》ろより我子よというは母なり。母は舞台見ずやと指《ゆび》さしたまう。舞台には蝋燭《ろうそく》の光|眼《まなこ》を射るばかり輝きたり。母が眼のふち赤らめて泣きたまうを訝《いぶか》しく思いつ、自分《おのれ》は菓子のみ食いてついに母の膝に小さき頭|載《の》せそのまま眠入りぬ。母親ゆり起こしたまう心地して夢破れたり。源叔父は頭《つむり》をあげて、
「我子よ今恐ろしき夢みたり」いいつつ枕辺を見たり。紀州いざりき。
「わが子よ」嗄《しわ》がれし声にて呼びぬ。答なし。窓を吹く風の音|怪《あや》しく鳴りぬ。夢なるか現《うつつ》なるか。翁《おきな》は布団《ふとん》翻《はね》のけ、つと起《た》ちあがりて、紀州よ我子よと呼びし時、目《め》眩《くら》みてそのまま布団の上に倒れつ、千尋《ちひろ》の底に落入りて波わが頭上に砕けしように覚えぬ。
 その日源叔父は布団|被《かぶ》りしまま起出でず、何も食わず、頭を布団の外にすらいださざりき。朝より吹きそめし風しだいに荒らく磯打つ浪の音すごし。今日は浦人も城下に出でず、城下より嶋《しま》へ渡る者もなければ渡舟《おろし》頼みに来る者もなし。夜に入りて波ますます狂い波止場の崩れしかと怪しまるる音せり。
 朝まだき、東の空ようやく白みしころ、人々皆起きいでて合羽《かっぱ》を着、灯燈《ちょうちん》つけ舷燈|携《たずさ》えなどして波止場に集まりぬ。波止場は事なかりき。風落ちたれど波なお高く沖は雷《らい》の轟《とどろ》くようなる音し磯打つ波砕けて飛沫《しぶき》雨のごとし。人々荒跡を見廻るうち小舟一|艘《そう》岩の上に打上げられてなかば砕けしまま残れるを見出しぬ。
「誰《たれ》の舟ぞ」問屋《といや》の主人《あるじ》らしき男問う。
「源叔父の舟にまぎれなし」若者の一人答えぬ。人々顔見あわして言葉なし。
「誰《た》れにてもよし源叔父呼びきたらずや」
「われ行かん」若者は舷燈を地に置きて走りゆきぬ。十歩の先すでに見るべし。道に差出でし松が枝《え》より怪しき物さがれり。胆《きも》太き若者はずかずかと寄りて眼定めて見たり。縊《くび》れるは源叔父なりき。
 桂港《かつらみなと》にほど近き山ふところに小さき墓地ありて東に向かいぬ。源叔父の妻ゆり独子《ひとりご》幸助の墓みなこの処にあり。「池田源太郎之墓」と書きし墓標またここに建てられぬ。幸助を中にして三つの墓並び、冬の夜は霙《みぞれ》降ることもあれど、都なる年若き教師は源叔父今もなお一人|淋《さみ》しく磯辺に暮し妻子《つまこ》の事思いて泣きつつありとひとえに哀れがりぬ。
 紀州は同じく紀州なり、町のものよりは佐伯《さいき》附属の品とし視《み》らるること前のごとく、墓より脱け出でし人のようにこの古城市の夜半《よわ》にさまようこと前のごとし。ある人彼に向かいて、源叔父は縊れて死にたりと告げしに、彼はただその人の顔をうちまもりしのみ。

底本:「日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集」集英社
   1967(昭和42)年9月7日初版
   1972(昭和47)年9月10日9版
底本の親本:「国木田独歩全集」学習研究社
入力:j.utiyama
校正:八巻美恵
1998年10月21日公開
2004年6月6日修正
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国木田独歩

空知川の岸辺——國木田独歩

       

 余が札幌《さつぽろ》に滞在したのは五日間である、僅に五日間ではあるが余は此間に北海道を愛するの情を幾倍したのである。
 我国本土の中《うち》でも中国の如き、人口|稠密《ちうみつ》の地に成長して山をも野をも人間の力で平《たひら》げ尽したる光景を見慣れたる余にありては、東北の原野すら既に我自然に帰依《きえ》したるの情を動かしたるに、北海道を見るに及びて、如何《いか》で心躍らざらん、札幌は北海道の東京でありながら、満目の光景は殆ど余を魔し去つたのである。
 札幌を出発して単身|空知川《そらちがは》の沿岸に向つたのは、九月二十五日の朝で、東京ならば猶ほ残暑の候でありながら、余が此時の衣装《ふくさう》は冬着の洋服なりしを思はゞ、此地の秋既に老いて木枯《こがら》しの冬の間近に迫つて居ることが知れるであらう。
 目的は空知川の沿岸を調査しつゝある道庁の官吏に会つて土地の撰定を相談することである。然るに余は全く地理に暗いのである。且《か》つ道庁の官吏は果して沿岸|何《いづ》れの辺に屯《たむろ》して居るか、札幌の知人|何人《なんびと》も知らないのである、心細くも余は空知太《そらちぶと》を指して汽車に搭《たふ》じた。
 石狩《いしかり》の野は雲低く迷ひて車窓より眺むれば野にも山にも恐ろしき自然の力あふれ、此処に愛なく情《じやう》なく、見るとして荒涼、寂寞、冷厳にして且つ壮大なる光景は恰《あたか》も人間の無力と儚《はかな》さとを冷笑《あざわら》ふが如くに見えた。
 蒼白なる顔を外套の襟に埋めて車窓の一隅に黙然と坐して居る一青年を同室の人々は何と見たらう。人々の話柄《はなしがら》は作物である、山林である、土地である、此無限の富源より如何にして黄金を握《つか》み出すべきかである、彼等の或者は罎詰《びんづめ》の酒を傾けて高論し、或者は煙草をくゆらして談笑して居る。そして彼等多くは車中で初めて遇つたのである。そして一青年は彼等の仲間に加はらずたゞ一人其孤独を守つて、独り其空想に沈んで居るのである。彼は如何にして社会に住むべきかといふことは全然其思考の問題としたことがない、彼はたゞ何時《いつ》も何時も如何にして此天地間に此生を托すべきかといふことをのみ思ひ悩んで居た。であるから彼には同車の人々を見ること殆《ほとん》ど他界の者を見るが如く、彼と人々との間には越ゆ可からざる深谷の横はることを感ぜざるを得なかつたので、今しも汽車が同じ列車に人々及び彼を乗せて石狩の野を突過してゆくことは、恰度《ちやうど》彼の一生のそれと同じやうに思はれたのである。あゝ孤独よ! 彼は自ら求めて社会の外を歩みながらも、中心《ちゆうしん》実に孤独の感に堪えなかつた。
 若し夫《そ》れ天高く澄みて秋晴《しうせい》拭ふが如き日であつたならば余が鬱屈も大にくつろぎ[#「くつろぎ」に傍点]を得たらうけれど、雲は益々低く垂れ林は霧に包まれ何処《どこ》を見ても、光一閃だもないので余は殆ど堪ゆべからざる憂愁に沈んだのである。
 汽車の歌志内《うたしない》の炭山に分るゝ某《なにがし》停車場に着くや、車中の大半は其処で乗換へたので残るは余の外に二人あるのみ。原始時代そのまゝで幾千年人の足跡をとゞめざる大森林を穿《うが》つて列車は一直線に走るのである。灰色の霧の一団又一団、忽《たちま》ち現はれ忽ち消え、或は命あるものの如く黙々として浮動して居る。
「何処《どちら》までお出でゝすか。」と突然一人の男が余に声をかけた。年輩四十|幾干《いくつ》、骨格の逞《たくま》しい、頭髪の長生《のび》た、四角な顔、鋭い眼、大なる鼻、一見一癖あるべき人物で、其風俗は官吏に非ず職人にあらず、百姓にあらず、商人にあらず、実に北海道にして始めて見るべき種類の者らしい、則《すなは》ち何れの未開地にも必ず先づ最も跋扈《ばつこ》する山師《やまし》らしい。
「空知太《そらちぶと》まで行く積りです。」
「道庁の御用で?」彼は余を北海道庁の小役人と見たのである。
「イヤ僕は土地を撰定に出掛けるのです。」
「ハハア。空知太は何処等を御撰定か知らんが、最早《もう》目星《めぼしい》ところは無いやうですよ。」
「如何《どう》でしやう空知太から空知川の沿岸に出られるでしやうか。」
「それは出られましやうとも、然し空知川の沿岸の何処等ですか其が判然しないと……」
「和歌山県の移民団体が居る処で、道庁の官吏が二人出張して居る、其処へ行くのですがね、兎も角も空知太まで行つて聞いて見る積りで居るのです。」
「さうですか、それでは空知太にお出になつたら三浦屋といふ旅人宿《やどや》へ上つて御覧なさい、其処の主人《あるじ》がさういふことに明《あかる》う御座いますから聞て御覧なつたら可《よ》うがす、どうも未だ道路が開けないので一寸《ちよつと》其処までの処でも大変大廻りを為《し》なければならんやうなことが有つて慣れないものには困ることが多うがすテ。」
 それより彼は開墾の困難なことや、土地に由つて困難の非常に相違することや、交通不便の為めに折角の収穫も容易に市場に持出すことが出来ぬことや、小作人を使ふ方法などに就いて色々と話し出した、其等の事は余も札幌の諸友から聞いては居たが、彼の語るがまゝに受けて唯だ其好意を謝するのみであつた。
 間もなく汽車は蕭条《せうでう》たる一駅に着いて運転を止めたので余も下りると此列車より出た客は総体で二十人位に過ぎざるを見た、汽車は此処より引返すのである。
 たゞ見る此一小駅は森林に囲まれて居る一の孤島である。停車場に附属する処の二三の家屋の外《ほか》人間に縁ある者は何も無い。長く響いた気笛が森林に反響して脈々として遠く消え去《う》せた時、寂然《せきぜん》として言ふ可からざる静《しづけ》さに此孤島は還つた。
 三輛の乗合馬車が待つて居る。人々は黙々としてこれに乗り移つた。余も先の同車の男と共に其一に乗つた。
 北海道馬の驢馬《ろば》に等しきが二頭、逞ましき若者が一人、六人の客を乗せて何処《いづく》へともなく走り初めた、余は「何処へともなく」といふの心持が為《し》たのである。実に我が行先は何処《いづく》で、自から問ふて自から答へることが出来なかつたのである。
 三輛の馬車は相隔つる一町ばかり、余の馬車は殿《しんがり》に居たので前に進む馬車の一高一低、凸凹《でこぼこ》多き道を走つて行く様が能《よ》く見える。霧は林を掠《かす》めて飛び、道を横《よこぎ》つて又た林に入り、真紅《しんく》に染つた木の葉は枝を離れて二片三片馬車を追ふて舞ふ。御者《ぎよしや》は一鞭《いちべん》強く加へて
「最早《もう》降《おり》るぞ!」と叫けんだ。
「三浦屋の前で止めてお呉れ!」と先の男は叫けんで余を顧みた。余は目礼して其好意を謝した。車中|何人《なんびと》も一語を発しないで、皆な屈托な顔をして物思《ものおもひ》に沈んで居る。御者は今一度強く鞭を加へて喇叭《らつぱ》を吹き立《たて》たので躯《からだ》は小なれども強力《がうりよく》なる北海の健児は大駈《おほかけ》に駈けだした。
 林がやゝ開けて殖民の小屋が一軒二軒と現れて来たかと思ふと、突然平野に出た。幅広き道路の両側に商家らしきが飛び/\に並んで居る様は新開地の市街たるを欺《あざむ》かない。馬車は喇叭の音勇ましく此間を駈けた。

       

 三浦屋に着くや早速主人を呼んで、空知川の沿岸にゆくべき方法を問ひ、詳しく目的を話して見た。処が主人は寧《むし》ろ引返へして歌志内《うたしない》に廻はり、歌志内より山越えした方が便利だらうといふ。
「次の汽車なら日の暮までには歌志内に着きますから今夜は歌志内で一泊なされて、明日能くお聞合せになつて其上でお出かけになつたが可《よ》うがす。歌志内なら此処とは違つて道庁の方《かた》も居ますから、其井田さんとかいふ方の今居る処も多分解るでせう。」
 斯《か》ういはれて見ると成程さうである。されども余は空知川の岸に沿ふて進まば、余が会はんとする道庁の官吏井田某の居所を知るに最も便ならんと信じて、空知太まで来たのである。然《しか》るに空知太より空知川の岸をつたふことは案内者なくては出来ぬとのこと、而も其道らしき道の開け居るには在らずとの事を、三浦屋の主人より初めて聞いたのである。其処で余は主人の注意に従ひ、歌志内に廻はることに定《き》めて、次の汽車まで二時間以上を、三浦屋の二階で独りポツ然《ねん》と待つこととなつた。
 見渡せば前は平野《ひらの》である。伐《き》り残された大木が彼処此処《かしここゝ》に衝立《つゝた》つて居る。風当《かぜあた》りの強きゆゑか、何れも丸裸体《まるはだか》になつて、黄色に染つた葉の僅少《わづか》ばかりが枝にしがみ着いて居るばかり、それすら見て居る内にバラ/\と散つて居る。風の加はると共に雨が降つて来た。遠方《をちかた》は雨雲に閉されて能くも見え分かず、最近《まぢか》に立つて居る柏《かしは》の高さ三丈ばかりなるが、其太い葉を雨に打たれ風に揺られて、けうとき音《ね》を立てゝ居る。道を通る者は一人もない。
 かゝる時、かゝる場所に、一人の知人なく、一人の話相手なく、旅人宿《はたごや》の窓に倚つて降りしきる秋の雨を眺めることは決して楽しいものでない。余は端《はし》なく東京の父母や弟や親しき友を想ひ起して、今更の如く、今日まで我を囲みし人情の如何に温かであつたかを感じたのである。
 男子志を立て理想を追ふて、今や森林の中に自由の天地を求めんと願ふ時、決して女々《めゝ》しくてはならぬと我とわが心を引立《ひきたて》るやうにしたが、要するに理想は冷やかにして人情は温かく、自然は冷厳にして親しみ難く人寰《じんくわん》は懐かしくして巣を作るに適して居る。
 余は悶々として二時間を過した。其中《そのうち》には雨は小止《こやみ》になつたと思ふと、喇叭の音《ね》が遠くに響く。首を出して見ると斜に糸の如く降る雨を突いて一輛の馬車が馳せて来る。余は此馬車に乗込んで再び先の停車場へと、三浦屋を立つた。
 汽車の乗客は数《かぞ》ふるばかり。余の入つた室は余一人であつた。人独り居るは好ましきことに非ず、余は他の室に乗換へんかとも思つたが、思い止まつて雨と霧との為めに薄暗くなつて居る室の片隅に身を寄せて、暮近くなつた空の雲の去来《ゆきゝ》や輪をなして回転し去る林の立木を茫然と眺めて居た。斯《かゝ》る時、人は往々無念無想の裡《うち》に入るものである。利害の念もなければ越方《こしかた》行末の想《おもひ》もなく、恩愛の情もなく憎悪の悩もなく、失望もなく希望もなく、たゞ空然として眼を開き耳を開いて居る。旅をして身心共に疲れ果てゝ猶ほ其身は車上に揺られ、縁もゆかりもない地方を行く時は往々にして此《かく》の如き心境に陥るものである。かゝる時、はからず目に入つた光景は深く脳底に彫《ゑ》り込まれて多年これを忘れないものである。余が今しも車窓より眺むる処の雲の去来《ゆきゝ》や、樺《かば》の林や恰度《ちやうど》それであつた。
 汽車の歌志内の渓谷に着いた時は、雨全く止みて日は将《まさ》に暮れんとする時で、余は宿るべき家のあて[#「あて」に傍点]もなく停車場を出ると、流石《さすが》に幾千の鉱夫を養ひ、幾百の人家の狭き渓《たに》に簇集《ぞくしふ》して居る場所だけありて、宿引なるものが二三人待ち受けて居た。其一人に導かれ礫《いし》多く燈《ともしび》暗き町を歩みて二階建の旅人宿《はたごや》に入り、妻女の田舎なまりを其儘、愛嬌も心かららしく迎へられた時は、余も思はず微笑したのである。
 夜食を済すと、呼ばずして主人は余の室《へや》に来てくれたので、直《たゞち》に目的を語り彼より出来るだけの方便を求めた、主人は余の語る処をにこつい[#「にこつい」に傍点]て聞いて居たが
「一寸《ちよつと》お待ち下さい、少し心当りがありますから。」と言ひ捨てゝ室を去つた。暫時《しばら》くして立還《たちかへ》り
「だから縁といふは奇態なものです。貴所《あなた》最早《もう》御安心なさい、すつかり分明《わかり》ました。」と我身のことの如く喜んで座に着いた。
「わかりましたか。」
「わかりましたとも、大わかり。四日前から私の家にお泊りのお客様があります。この方は御料地の係の方《かた》で先達《せんだつて》から山林を見分《みわけ》してお廻はりになつたのですが、ソラ野宿の方が多がしよう、だから到当身体を傷《こは》して今手前共で保養して居らつしやるのです。篠原さんといふ方ですがね。何でも宅へ見える前の日は空知川の方に居らつしやつたといふこと聞きましたから、若しやと思つて唯今伺つて見ました処が、解りました。ウン道庁の出張員なら山を越すと直ぐ下の小屋に居たと仰しやるのです、御安心なさい此処から一里位なもので訳は有りません、朝行けばお昼前には帰つて来られますサ。」
「どうも色々|難有《ありがた》う、それで安心しました。然し今も其小屋に居て呉れゝば可いが。始終居所が変るので其れで道庁でも知れなかつたのだから。」
「大丈夫居ますよ、若《も》し変つて居たら先《せん》に居た小屋の者に聞けば可《よ》うがす、遠くに移るわけは有りません。」
「兎も角も明日《あす》朝早く出掛けますから案内を一人頼んで呉れませんか。」
「さうですな、山道で岐路《えだ》が多いから矢張り案内が入《い》るでしやう、宅の倅《せがれ》を連れて行《いら》つしやい。十四の小僧ですが、空知太《そらちぶと》までなら存じて居ます。案内位出来ませうよ。」と飽くまで親切に言つて呉れるので、余は実に謝する処を知らなかつた。成程縁は奇態なものである、余にして若し他の宿屋に泊つたなら決してこれ程の便宜と親切とは得ることが出来なかつたらう。
 主人は何処までも快活な男で、放胆で、而も眼中人なきの様子がある。彼の親切、見ず知らずの余にまで惜気もなく投げ出す親切は、彼の人物の自然であるらしい。世界を家《うち》となし到る処に其故郷を見出す程の人は、到る処の山川、接する処の人が則《すなは》ち朋友である。であるから人の困厄を見れぱ、其人が何人《なんびと》であらうと、憎悪《にくあし》するの因縁《いはれ》さへ無くば、則ち同情を表する十年の交友と一般なのである。余は主人の口より其略伝を聞くに及んで彼の人物の余の推測に近きを知つた。
 彼は其生れ故郷に於て相当の財産を持つて居た処が、彼の弟二人は彼の相続したる財産を羨むこと甚だしく、遂には骨肉の争《あらそひ》まで起る程に及んだ。然るに彼の父なる七十の老翁も亦た少弟《せうてい》二人を愛して、ややもすれば兄に迫つて其財産を分配せしめやうとする。若しこれ三等分すれば、三人とも一家を立つることが出来ないのである。
「だから私は考へたのです、これつばかしの物を兄弟して争ふなんて余り量見が小さい。宜しいお前達に与《や》つて了う。たゞ五分の一だけ呉れろ、乃公《わし》は其を以《もつ》て北海道に飛ぶからつて。其処で小僧が九《こゝのつ》の時でした、親子三人でポイと此方《こつち》へやつて来たのです。イヤ人間といふものは何処にでも住まば住まれるものですよハッハッハッ」と笑つて「処が妙でせう、弟の奴等、今では私が分配《わけ》てやつた物を大概無くしてしまつて、それで居て矢張り小ぽけな村を此上もない土地のやうに思つて私が何度も北海道へ来て見ろと手紙ですゝめても出て来得《きえ》ないんでサ。」
 余は此男の為す処を見、其語る処を聞いて、大に得る処があつたのである。よしや此一小旅店の主人は、余が思ふ所の人物と同一でないにせよ、よしや余が思ふ所の人物は、此主人より推して更らに余自身の空想を加へて以て化成したる者にせよ、彼はよく自由によく独立に、社会に住んで社会に圧せられず、無窮の天地に介立して安んずる処あり、海をも山をも原野をも将《は》た市街をも、我物顔に横行濶歩して少しも屈托せず、天涯地角到る処に花の香《かんば》しきを嗅ぎ人情の温かきに住む、げに男はすべからく此の如くして男といふべきではあるまいか。
 斯く感ずると共に余の胸は大《おほい》に開けて、札幌を出でてより歌志内に着くまで、雲と共に結ぼれ、雨と共にしほれて居た心は端《はし》なくも天の一方深碧にして窮りなきを望んだやうな気がして来た。
 夜の十時頃散歩に出て見ると、雲の流《ながれ》急にして絶間《たえま》々々には星が見える。暗い町を辿《たど》つて人家を離れると、渓を隔てゝ屏風の如く黒く前面に横《よこた》はる杣山《そまやま》の上に月現はれ、山を掠《かす》めて飛ぶ浮雲は折り/\其前面を拭ふて居る。空気は重く湿めり、空には風あれども地は粛然として声なく、たゞ渓流の音のかすかに聞ゆるばかり。余は一方は山、一方は崖の爪先上りの道を進みて小高き広場に出たかと思ふと、突然耳に入つたものは絃歌の騒《さわぎ》である。
 見れば山に沿ふて長屋建《ながやだち》の一棟あり、これに対して又一棟あり。絃歌は此長屋より起るのであつた。一棟は幾戸かに分れ、戸々皆な障子をとざし、其障子には火影|花《はなや》かに映り、三絃の乱れて狂ふ調子放歌の激して叫ぶ声、笑ふ声は雑然として起つて居るのである、牛部屋に等しき此長屋は何ぞ知らん鉱夫どもが深山幽谷の一隅に求め得し歓楽境ならんとは。
 流れて遊女となり、流れて鉱夫となり、買ふものも売るものも、我世夢ぞと狂歌乱舞するのである。余は進んで此|長屋小路《ながやこうぢ》に入つた。
 雨上《あめあがり》の路はぬかるみ[#「ぬかるみ」に傍点]、水溜《みづだまり》には火影《ほかげ》うつる。家は離れて見しよりも更に哀れな建てざまにて、新開地だけにたゞ軒先障子などの白木の夜目にも生々《なま/\》しく見ゆるばかり、床《ゆか》低く屋根低く、立てし障子は地より直《たゞち》に軒に至るかと思はれ、既に歪《ゆが》みて隙間よりは鉤《つり》ランプの笠など見ゆ。肌脱《はだぬぎ》の荒くれ男の影鬼の如く映れるあり、乱髪の酌婦の頭の夜叉の如く映るかと思へば、床も落つると思はるゝ音が為て、ドツとばかり笑声の起る家もあり。「飲めよ」、「歌へよ」、「殺すぞ」、「撲《なぐ》るぞ」、哄笑、激語、悪罵、歓呼、叱咤、艶《つや》ある小節《こぶし》の歌の文句の腸を断つばかりなる、三絃の調子の嗚咽《むせぶ》が如き忽ちにして暴風、忽ちにして春雨《しゆんう》、見来れば、歓楽の中に殺気をこめ、殺気の中に血涙をふくむ、泣くは笑ふのか、笑ふのは泣くのか、怒《いかり》は歌か、歌は怒か、嗚呼《あゝ》儚《はかな》き人生の流よ! 数年前までは熊眠り狼住みし此渓間に流れ落ちて、こゝに澱《よど》み、こゝに激し、こゝに沈み、月影冷やかにこれを照して居る。
 余は通り過ぎて振り顧《かへ》り、暫し停立《たゝず》んで居ると、突然間近なる一軒の障子が開《あ》いて一人の男がつと現はれた。
「や、月が出た!」と振上げた顔を見れば年頃二十六七、背高く肩広く屈強の若者である。きよろ/\四辺《あたり》を見廻して居たが吻《ほつ》と酒気《しゆき》を吐き、舌打して再び内によろめき込んだ。

       

 宿の子のまめ/\しきが先に立ちて、明くれば九月二十六日朝の九時、愈々《いよ/\》空知川の岸へと出発した。
 陰晴|定《さだ》めなき天気、薄き日影洩るゝかと思へば忽ち峰より林より霧起りて峰をも林をも路をも包んでしまう。山路は思ひしより楽にて、余は宿の子と様々の物語しつゝ身も心も軽く歩《あ》ゆんだ。
 林は全く黄葉《きば》み、蔦紅葉《つたもみぢ》は、真紅《しんく》に染り、霧起る時は霞《かすみ》を隔《へだて》て花を見るが如く、日光直射する時は露を帯びたる葉毎に幾千万の真珠碧玉を連らねて全山|燃《もゆ》るかと思はれた。宿の子は空知川沿岸に於ける熊の話を為《な》し、続いて彼が子供心に聞き集めたる熊物語の幾種かを熱心に語つた。坂を下りて熊笹の繁《しげれ》る所に来ると彼は一寸立どまり
「聞えるだらう、川の音が」と耳を傾けた、「ソラ……聞えるだらう、あれが空知川、もう直ぐ其処だ。」
「見えさうなものだな。」
「如何して見えるものか、森の中に流れて居るのだ。」
 二人は、頭を没する熊笹の間を僅に通う帯ほどの径《みち》を暫く行《ゆく》と、一人の老人の百姓らしきに出遇つたので、余は道庁の出張員が居る小屋を訊ねた。
「此径を三丁ばかり行くと幅の広い新開の道路に出る、其右側の最初の小屋に居なさるだ。」と言い捨てゝ老人は去《い》つて了つた。
 歌志内を出発《たつ》てから此処までの間に人に出遇つたのは此老人ばかりで、途中又小屋らしき物を見なかつたのである、余は此老人を見て空知川の沿岸の既に多少《いくら》かの開墾者の入込《いりこ》んで居ることを事実の上に知つた。
 熊笹の径《こみち》を通りぬけると果して、思ひがけない大道が深林を穿《うが》つて一直線に作られてある。其幅は五間以上もあらうか。然も両側に密茂《みつも》して居る林は、二丈を越へ三丈に達する大木が多いので、此幅広き大道も、堀割を通ずる鉄道線路のやうであつた。然し余は此道路を見て拓殖に熱心なる道庁の計営の、如何に困難多きかを知つたのである。
 見れば此道路の最初の右側に、内地では見ることの出来ない異様なる掘立小屋《ほつたてごや》[#「掘立小屋」は底本では「堀立小屋」]がある。小屋の左右及び後背《うしろ》は林を倒して、二三段歩の平地が開かれて居る。余は首尾よく此小屋で道庁の属官、井田某及び他の一人に会ふことが出来た。
 殖民課長の丁寧なる紹介は、彼等をして十分に親切に余が相談相手とならしめたのである。更に驚くべきは、彼等が余の名を聞いて、早く既に余を知つて居たことで、余の蕪雑なる文章も、何時しか北海道の思ひもかけぬ地に其読者を得て居たことであつた。
 二人は余の目的を聞き終りて後、空知川沿岸の地図を披《ひら》き其経験多き鑑識を以て、彼処比処《かしここゝ》と、移民者の為めに区劃せる一区一万五千坪の地の中から六ヶ所ほど撰定して呉れた。
 事務は終り雑談に移つた。
 小屋は三間に四間を出でず、屋根も周囲《まはり》の壁も大木の皮を幅広く剥《は》ぎて組合したもので、板を用ゐしは床のみ、床には莚《むしろ》を敷き、出入の口はこれ又樹皮を組みて戸となしたるが一枚|被《おほ》はれてあるばかりこれ開墾者の巣なり家なり、いな城廓なり。一隅に長方形の大きな炉が切つて、これを火鉢に竈《かまど》に、煙草盆に、冬ならば煖炉に使用するのである。
「冬になつたら堪らんでしやうねこんな小屋に居ては。」
「だつて開墾者は皆《みん》なこんな小屋に住んで居るのですよ。どうです辛棒が出来ますか。」と井田は笑ひながら言つた。
「覚悟は為《し》て居ますが、イザとなつたら随分困るでしやう。」
「然し思つた程でもないものです。若し冬になつて如何《どう》しても辛棒が出来さうもなかつたら、貴所方《あなたがた》のことだから札幌へ逃げて来れば可いですよ。どうせ冬籠《ふゆごもり》は何処でしても同じことだから。」
「ハッハッハッヽヽヽ其《それ》なら初めから小作人|任《まかせ》にして御自分は札幌に居る方が可《よ》からう。」と他の属官が言つた。
「さうですとも、さうですとも冬になつて札幌に逃げて行くほどなら寧《いつ》そ初めから東京に居て開墾した方が可いんです。何に僕は辛棒しますよ。」と余は覚悟を見せた。井田は
「さうですな、先づ雪でも降つて来たら、此《この》炉にドン/\焼火《たきび》をするんですな、薪木《たきゞ》ならお手のものだから。それで貴所方だからウンと書籍《しよもつ》を仕込《しこん》で置いて勉強なさるんですな。」
「雪が解ける時分には大学者になつて現はれるといふ趣向ですか。」と余は思わず笑つた。
 談《はな》して居ると、突然パラ/\と音がして来たので余は外に出て見ると、日は薄く光り、雲は静に流れ、寂たる深林を越えて時雨《しぐれ》が過ぎゆくのであつた。
 余は宿の子を残して、一人|此辺《このあたり》を散歩すべく小屋を出た。
 げに怪しき道路よ。これ千年の深林を滅《めつ》し、人力を以て自然に打克《うちかた》んが為めに、殊更に無人《ぶじん》の境《さかひ》を撰んで作られたのである。見渡すかぎり、両側の森林これを覆ふのみにて、一個の人影《じんえい》すらなく、一縷《いちる》の軽煙すら起らず、一の人語すら聞えず、寂々《せき/\》寥々《れう/\》として横はつて居る。
 余は時雨の音の淋しさを知つて居る、然し未だ曾《かつ》て、原始の大深林を忍びやかに過ぎゆく時雨ほど淋びしさを感じたことはない。これ実に自然の幽寂なる私語《さゝやき》である。深林の底に居て、此|音《ね》を聞く者、何人か生物を冷笑する自然の無限の威力を感ぜざらん。怒濤、暴風、疾雷、閃雷は自然の虚喝《きよかつ》である。彼の威力の最も人に迫るのは、彼の最も静かなる時である。高遠なる蒼天の、何の声もなく唯だ黙して下界を視下《みおろ》す時、曾《かつ》て人跡を許さゞりし深林の奥深き処、一片の木の葉の朽ちて風なきに落つる時、自然は欠伸《あくび》して曰く「あゝ我《わが》一日も暮れんとす」と、而して人間の一千年は此刹那に飛びゆくのである。
 余は両側の林を覗きつゝ行くと、左側で林のやゝ薄くなつて居る処を見出した。下草を分けて進み、ふと顧みると、此身は何時しか深林の底に居たのである。とある大木の朽ちて倒れたるに腰をかけた。
 林が暗くなつたかと思ふと、高い枝の上を時雨がサラ/\と降つて来た。来たかと思ふと間もなく止んで森《しん》として林は静まりかへつた。
 余は暫くジツとして林の奥の暗くなつて居る処を見て居た。
 社会が何処にある、人間の誇り顔に伝唱する「歴史」が何処にある。此場所に於て、此時に於て、人はたゞ「生存」其者《そのもの》の、自然の一呼吸の中に托されてをることを感ずるばかりである。露国の詩人は曾て森林の中に坐して、死の影の我に迫まるを覚えたと言つたが、実にさうである。又た曰く「人類の最後の一人が此の地球上より消滅する時、木の葉の一片も其為にそよがざるなり」と。
 死の如く静なる、冷やかなる、暗き、深き森林の中に坐して、此の如きの威迫を受けないものは誰も無からう。余我を忘れて恐ろしき空想に沈んで居ると、
「旦那! 旦那!」と呼ぶ声が森の外でした。急いで出て見ると宿の子が立つて居る。
「最早《もう》御用が済んで[#「で」に「〔ママ〕」の注記]帰りましやう」
 其処で二人は一先づ小屋に帰ると、井田は、
「どうです今夜は試験のために一晩此処に泊つて御覧になつては。」

 余は遂に再び北海道の地を踏まないで今日に到つた。たとひ一家の事情は余の開墾の目的を中止せしめたにせよ、余は今も尚ほ空知川の沿岸を思ふと、あの冷厳なる自然が、余を引つけるやうに感ずるのである。
 何故だらう。
[#地から2字上げ](明治三十五年十一月―十二月)

底本:「現代日本文學大系 11 國木田獨歩・田山花袋集」筑摩書房
   1970(昭和45)年3月15日初版第1刷発行
   1973(昭和48)年9月1日初版第4刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林田清明
校正:大西敦子
2000年6月27日公開
2006年3月18日修正
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国木田独歩

牛肉と馬鈴薯——国木田独歩

 明治|倶楽部《クラブ》とて芝区桜田本郷町のお堀辺《ほりばた》に西洋|作《づくり》の余り立派ではないが、それでも可なりの建物があった、建物は今でもある、しかし持主が代って、今では明治倶楽部その者はなくなって了《しま》った。
 この倶楽部が未《ま》だ繁盛していた頃のことである、或《ある》年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火《あかり》が点《つ》いていて、時々《おりおり》高く笑う声が外面《そと》に漏れていた。元来《いったい》この倶楽部は夜分人の集っていることは少ないので、ストーブの煙は平常《いつ》も昼間ばかり立ちのぼっているのである。
 然《しか》るに八時は先刻《さっき》打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。人力車《くるま》が六台玄関の横に並んでいたが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。
 すると一人の男、外套《がいとう》の襟《えり》を立てて中折帽《なかおれぼう》を面深《まぶか》に被《かぶ》ったのが、真暗《まっくら》な中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴《よびりん》を押した。
 内から戸が開《あ》くと、
「竹内君は来てお出《いで》ですかね」と低い声の沈重《おちつ》いた調子で訊《たず》ねた。
「ハア、お出で御座います、貴様《あなた》は?」と片眼の細顔の、和服を着た受付が丁寧に言った。
「これを」と出《いだ》した名刺には五号活字で岡本|誠夫《せいふ》としてあるばかり、何の肩書もない。受付はそれを受取り急いで二階に上って去《い》ったが間もなく降りて来て
「どうぞ此方《こちら》へ」と案内した、導かれて二階へ上ると、煖炉《ストーブ》を熾《さかん》に燃《た》いていたので、ムッとする程|温《あった》かい。煖炉《ストーブ》の前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄っている。傍《かたわら》の卓子《テーブル》にウイスキーの壜《びん》が上《のっ》ていてこっぷ[#「こっぷ」に傍点]の飲み干したるもあり、注《つ》いだままのもあり、人々は可《い》い加減に酒が廻《ま》わっていたのである。
 岡本の姿を見るや竹内は起《た》って、元気よく
「まアこれへ掛け給え」と一《ひとつ》の椅子をすすめた。
 岡本は容易に坐に就《つ》かない。見廻すとその中《うち》の五人は兼て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品の可《よ》い紳士は未だ見識《みし》らぬ人である。竹内はそれと気がつき、
「ウン貴様《あなた》は未だこの方を御存知ないだろう、紹介しましょう、この方は上村君《かみむらさん》と言って北海道炭鉱会社の社員の方です、上村君、この方は僕の極く旧《ふる》い朋友《ともだち》で岡本君……」
 と未だ言い了《おわ》らぬに上村と呼ばれし紳士は快活な調子で
「ヤ、初めて……お書きになった物は常に拝見していますので……今後御懇意に……」
 岡本は唯《た》だ「どうかお心安く」と言ったぎり黙って了った。そして椅子に倚《よ》った。
「サアその先を……」と綿貫《わたぬき》という背の低い、真黒の頬髭《ほおひげ》を生《はや》している紳士が言った。
「そうだ! 上村君、それから?」と井山《いやま》という眼のしょぼしょぼした頭髪《あたまのけ》の薄い、痩方《やせがた》の紳士が促した。
「イヤ岡本君が見えたから急に行《や》りにくくなったハハハハ」と炭鉱会社の紳士は少し羞《は》にかんだような笑方をした。
「何ですか?」
 岡本は竹内に問うた。
「イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生観を話すことになってね、まア聴《き》いて居給え名論卓説、滾々《こんこん》として尽きずだから」
「ナニ最早《もう》大概吐き尽したんですよ、貴様《あなた》は我々俗物党と違がって真物《ほんもの》なんだから、幸《さいわい》貴様《あなた》のを聞きましょう、ね諸君!」
 と上村は逃げかけた。
「いけないいけない、先《ま》ず君の説を終《お》え給え!」
「是非承わりたいものです」と岡本はウイスキーを一杯、下にも置かないで飲み干した。
「僕のは岡本|君《さん》の説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之《つまり》、理想と実際は一致しない、到底一致しない……」
「ヒヤヒヤ」と井山が調子を取った。
「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」
「ただそれだけですか」と岡本は第二の杯を手にして唸《うな》るように言った。
「だってねエ、理想は喰《た》べられませんものを!」と言った上村の顔は兎《うさぎ》のようであった。
「ハハハハビフテキじゃアあるまいし!」と竹内は大口を開けて笑った。
「否《いや》ビフテキです、実際はビフテキです、スチューです」
「オムレツかね!」と今まで黙って半分眠りかけていた、真紅《まっか》な顔をしている松木、坐中で一番年の若そうな紳士が真面目《まじめ》で言った。
「ハッハッハッハッ」と一坐が噴飯《ふき》だした。
「イヤ笑いごとじゃアないよ」と上村は少し躍起《やっき》になって、
「例えてみればそんなものなんで、理想に従がえば芋《いも》ばかし喰《く》っていなきゃアならない。ことによると馬鈴薯《いも》も喰えないことになる。諸君は牛肉と馬鈴薯《いも》とどっちが可《い》い?」
「牛肉が可いねエ!」と松木は又た眠むそうな声で真面目に言った。
「然しビフテキに馬鈴薯《いも》は附属物《つきもの》だよ」と頬髭《ほおひげ》の紳士が得意らしく言った。
「そうですとも! 理想は則《すなわ》ち実際の附属物《つきもの》なんだ! 馬鈴薯《いも》も全《まる》きり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」
 と言って、上村はやや満足したらしく岡本の顔を見た。
「だって北海道は馬鈴薯《じゃがいも》が名物だって言うじゃアありませんか」と岡本は平気で訊《たず》ねた。
「その馬鈴薯なんです、僕はその馬鈴薯には散々|酷《ひど》い目に遇《あ》ったんです。ね、竹内君は御存知ですが僕はこう見えても同志社の旧《ふる》い卒業生なんで、矢張《やはり》その頃は熱心なアーメンの仲間で、言い換ゆれば大々的馬鈴薯党だったんです!」
「君が?」とさも不審そうな顔色《かおつき》で井山がしょぼしょぼ眼《まなこ》を見張った。
「何も不思議は無いサ、その頃はウラ若いんだからね、岡本君はお幾歳《いくつ》かしらんが、僕が同志社を出たのは二十二でした。十三年も昔なんです。それはお目に掛けたいほど熱心なる馬鈴薯党でしたがね、学校に居る時分から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほど惚《ほ》れていたもんで、清教徒《ピュリタン》を以《もっ》て任じていたのだから堪《たま》らない!」
「大変な清教徒《ピュリタン》だ!」と松木が又た口を入れたのを、上村は一寸《ちょっ》と腮《あご》で止めて、ウイスキーを嘗《な》めながら
「断然この汚《けが》れたる内地を去って、北海道自由の天地に投じようと思いましたね」と言った時、岡本は凝然《じっ》と上村の顔を見た。
「そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。伝道師の中《うち》に北海道へ往《い》って来たという者があると直ぐ話を聴きに出掛けましたよ。ところが又先方は甘《うま》いことを話して聞かすんです。やれ自然《ネーチュール》がどうだの、石狩川《いしかりがわ》は洋々とした流れだの、見渡すかぎり森又た森だの、堪ったもんじゃアない! 僕は全然《すっかり》まいッちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを総合して如此《こんな》ふうな想像を描いていたもんだ。……先ず僕が自己の額に汗して森を開き林を倒し、そしてこれに小豆《あずき》を撒《ま》く、……」
「その百姓が見たかったねエハッハッハッハッハッハッ」と竹内は笑いだした。
「イヤ実地|行《や》ったのサ、まア待ち給え、追い追い其処《そこ》へ行くから……、その内にだんだんと田園が出来て来る、重《おも》に馬鈴薯《じゃがいも》を作る、馬鈴薯さえ有りゃア喰うに困らん……」
「ソラ馬鈴薯が出た!」と松木は又た口を入れた。
「其処で田園の中央《まんなか》に家がある、構造は極《きわ》めて粗末だが一見米国風に出来ている、新英洲《ニューイングランド》殖民地時代そのままという風に出来ている、屋根がこう急勾配《きゅうこうばい》になって物々しい煙突が横の方に一ツ。窓を幾個《いくつ》附けたものかと僕は非常に気を揉《も》んだことがあったッけ……」
「そして真個《ほんと》にその家が出来たのかね」と井山は又しょぼしょぼ眼《まなこ》を見張った。
「イヤこれは京都に居た時の想像だよ、窓で気を揉んだのは……そうだそうだ若王寺《にゃくおうじ》へ散歩に往って帰る時だった!」
「それからどうしました?」と岡本は真面目で促がした。
「それから北の方へ防風林を一|区劃《くかく》、なるべくは林を多く取って置くことにしました。それから水の澄み渡った小川がこの防風林の右の方からうねり出て屋敷の前を流れる。無論この川で家鴨《あひる》や鵞鳥《がちょう》がその紫の羽や真白な背を浮べてるんですよ。この川に三寸厚サの一枚板で橋が懸《か》かっている。これに欄干を附けたものか附けないものかと色々工夫したが矢張り附けないほうが自然だというんで附けないことに定《さだ》めました……まア構造はこんなものですが、僕の想像はこれで満足しなかったのだ……先ず冬になると……」
「ちょッとお話の途中ですが、貴様《あなた》はその『冬』という音《おん》にかぶれやアしませんでしたか?」と岡本は訊《たず》ねた。
 上村は驚ろいた顔色をして
「貴様はどうしてそれを御存知です、これは面白い! さすが貴様は馬鈴薯党だ! 冬と聞いては全く堪《たま》りませんでしたよ、何だかその冬|則《すなわ》ち自由というような気がしましてねエ! それに僕は例の熱心なるアーメンでしょうクリスマス万歳の仲間でしょう、クリスマスと来るとどうしても雪がイヤという程降って、軒から棒のような氷柱《つらら》が下っていないと嘘《うそ》のようでしてねエ。だから僕は北海道の冬というよりか冬則ち北海道という感が有ったのです。北海道の話を聴《きい》ても『冬になると……』とこういわれると、身体《からだ》がこうぶるぶるッとなったものです。それで例の想像にもです、冬になると雪が全然《すっかり》家を埋めて了《しま》う、そして夜は窓硝子《まどガラス》から赤い火影《ほかげ》がチラチラと洩《も》れる、折り折り風がゴーッと吹いて来て林の梢《こずえ》から雪がばたばたと墜《お》ちる、牛部屋でホルスタイン種の牝牛《めうし》がモーッと唸《うな》る!」
「君は詩人だ!」と叫けんで床を靴で蹶《けっ》たものがある。これは近藤といって岡本がこの部屋に入って来て後《のち》も一|言《ごん》を発しないで、唯《た》だウイスキーと首引《くびっぴき》をしていた背の高い、一癖あるべき顔構《つらがまえ》をした男である。
「ねエ岡本君!」と言い足した。岡本はただ、黙言《だまっ》て首肯《うなず》いたばかりであった。
「詩人? そうサ、僕はその頃は詩人サ、『山々|霞《かす》み入合《いりあい》の』ていうグレーのチャルチャードの飜訳《ほんやく》を愛読して自分で作ってみたものだアね、今日《こんにち》の新体詩人から見ると僕は先輩だアね」
「僕も新体詩なら作ったことがあるよ」と松木が今度は少し乗地《のりじ》になって言った。
「ナーニ僕だって二ツ三ツ作《やっ》たものサ」と井山が負けぬ気になって真面目で言った。
「綿貫君、君はどうだね?」と竹内が訊ねた。
「イヤお恥しいことだが僕は御存知の女気《おんなけ》のない通り詩人気は全くなかった、『権利義務』で一貫して了った、どうだろう僕は余程俗骨が発達してるとみえる!」と綿貫は頭を撫《なで》てみた。
「イヤ僕こそ甚《はなは》だお恥しい話だがこれで矢張り作《やっ》たものだ、そして何かの雑誌に二ツ三ツ載せたことがあるんだ! ハッハッハッハッハッ」
「ハッハッハッハッハッ」と一同が噴飯《ふきだ》して了った。
「そうすると諸君は皆詩人の古手なんだね、ハッハッハッハッハッ奇談々々!」と綿貫が叫んだ。
「そうか、諸君も作《やっ》たのか、驚ろいた、その昔は皆《みん》な馬鈴薯党なんだね」と上村は大《おおい》に面目を施こしたという顔色《かおつき》。
「お話の先を願いたいものです」と岡本は上村を促がした。
「そうだ、先をやり給え!」と近藤は殆《ほとん》ど命令するように言った。
「宜《よろ》しい! それから僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴしていたが、断然と北海道へ行ったその時の心持といったら無いね、何だかこう馬鹿野郎! というような心持がしてねエ、上野の停車場《ステーション》で汽車へ乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動きだすと僕は窓から頭を出して東京の方へ向いて唾《つばき》を吐きかけたもんだ。そして何とも言えない嬉《うれ》しさがこみ上げて来て人知れずハンケチで涙を拭《ふ》いたよ真実《ほんと》に!」
「一寸《ちょっ》と君、一寸と『馬鹿野郎!』というような心持というのが僕には了解が出来ないが……そのどういうんだね?」と権利義務の綿貫が真面目で訊ねた。
「唯《た》だ東京の奴等《やつら》を言ったのサ、名利《みょうり》に汲々《きゅうきゅう》としているその醜態《ざま》は何だ! 馬鹿野郎! 乃公《おれ》を見ろ! という心持サ」と上村もまた真面目で註解《ちゅうかい》を加えた。
「それから道行《みちゆき》は抜にして、ともかく無事に北海道は札幌へ着いた、馬鈴薯の本場へ着いた。そして苦もなく十万坪の土地が手に入った。サアこれからだ、所謂《いわゆ》る額に汗するのはこれからだというんで直《ただち》に着手したねエ。尤《もっと》も僕と最初から理想を一にしている友人、今は矢張《やっぱり》僕と同じ会社へ出ているがね、それと二人で開墾事業に取掛ったのだ、そら、竹内君知っておるだろう梶原《かじわら》信太郎のことサ……」
「ウン梶原君が!? あれが矢張《やっぱり》馬鈴薯だったのか、今じゃア豚のように肥《ふと》ってるじゃアないか」と竹内も驚いたようである。
「そうサ、今じゃア鬼のような顔《つら》をして、血のたれるビフテキを二口に喰って了うんだ。ところが先生僕と比較すると初《はじめ》から利口であったねエ、二月ばかりも辛棒していたろうか、或《ある》日こんな馬鹿気たことは断然|止《よそ》うという動議を提出した、その議論は何も自からこんな思をして隠者になる必要はない自然と戦うよりか寧《むし》ろ世間と格闘しようじゃアないか、馬鈴薯よりか牛肉の方が滋養分が多いというんだ。僕はその時|大《おおい》に反対した、君|止《よ》すなら止せ、僕は一人でもやると力味《りき》んだ。すると先生やるなら勝手にやり給え、君もも少しすると悟るだろう、要するに理想は空想だ、痴人の夢だ、なんて捨台辞《すてぜりふ》を吐いて直ぐ去《い》って了った。取残された僕は力味《りき》んではみたものの内内《ないない》心細かった、それでも小作人の一人二人を相手にその後、三月ばかり辛棒したねエ。豪《えら》いだろう!」
「馬鹿なんサ!」と近藤が叱《しか》るように言った。
「馬鹿? 馬鹿たア酷だ! 今から見れば大馬鹿サ、然しその時は全く豪かったよ」
「矢張《やっぱり》馬鹿サ、初から君なんかの柄にないんだ、北海道で馬鈴薯ばかり食《くお》うなんていう柄じゃアないんだ、それを知らないで三月も辛棒するなア馬鹿としか言えない!」
「馬鹿なら馬鹿でもよろしいとして、君のいう『柄にない』ということは次第に悟って来たんだ。難有《ありがた》いことには僕に馬鈴薯の品質《がら》が無かったのだ。其処《そこ》で夏も過ぎて楽しみにしていた『冬』という例の奴が漸次《だんだん》近づいて来た、その露払《つゆはらい》が秋、第一秋からして思ったよりか感心しなかったのサ、森《しん》とした林の上をパラパラと時雨《しぐれ》て来る、日の光が何となく薄いような気持がする、話相手はなしサ食うものは一粒|幾価《いくら》と言いそうな米を少しばかりと例の馬の鈴、寝る処《ところ》は木の皮を壁に代用した掘立小屋」
「それは貴様《あなた》覚悟の前だったでしょう!」と岡本が口を入れた。
「其処ですよ、理想よりか実際の可《い》いほうが可いというのは。覚悟はしていたものの矢張《やは》り余り感服しませんでしたねエ。第一、それじゃア痩《や》せますもの」
 上村は言って杯で一寸と口を湿《しめ》して
「僕は痩せようとは思っていなかった!」
「ハッハッハッハッハッハッ」と一同《みんな》笑いだした。
「そこで僕はつくづく考えた、なるほど梶原の奴の言った通りだ、馬鹿げきっている、止そうッというんで止しちまったが、あれであの冬を過ごしたら僕は死《しん》でいたね」
「其処でどういうんです、貴様の目下《もっか》のお説は?」と岡本は嘲《あざけ》るような、真面目な風で言った。
「だから馬鈴薯には懲々《こりごり》しましたというんです。何でも今は実際主義で、金が取れて美味《うま》いものが喰えて、こうやって諸君と煖炉《ストーブ》にあたって酒を飲んで、勝手な熱を吹き合う、腹が減《すい》たら牛肉を食う……」
「ヒヤヒヤ僕も同説だ、忠君愛国だってなんだって牛肉と両立しないことはない、それが両立しないというなら両立さすことが出来ないんだ、其奴《そいつ》が馬鹿なんだ」と綿貫は大に敦圉《いきま》いた。
「僕は違うねエ!」と近藤は叫んだ、そして煖炉を後に椅子へ馬乗になった。凄《すご》い光を帯びた眼で坐中を見廻しながら
「僕は馬鈴薯党でもない、牛肉党でもない! 上村君なんかは最初、馬鈴薯党で後に牛肉党に変節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の堕落したのだ、だから無暗《むやみ》と鼻をぴくぴくさして牛《うし》の焦《こげ》る臭《におい》を嗅《か》いで行《ある》く、その醜体《ざま》ったらない!」
「オイオイ、他人《ひと》を悪口する前に先ず自家の所信を吐くべしだ。君は何の堕落なんだ」と上村が切り込んだ。
「堕落? 堕落たア高い処から低い処へ落ちたことだろう、僕は幸《さいわい》にして最初から高い処に居ないからそんな外見《みっとも》ないことはしないんだ! 君なんかは主義で馬鈴薯を喰ったのだ、嗜《す》きで喰ったのじゃアない、だから牛肉に餓《う》えたのだ、僕なんかは嗜きで牛肉を喰うのだ、だから最初から、餓えぬ代り今だってがつがつしない、……」
「一向要領を得ない!」と上村が叫けんだ。近藤は直《ただち》に何ごとをか言い出さんと身構をした時、給使《きゅうじ》の一人がつかつかと近藤の傍《そば》に来てその耳に附いて何ごとをか囁《ささや》いた。すると
「近藤は、この近藤はシカク寛大なる主人ではない、と言ってくれ!」と怒鳴った。
「何だ?」と坐中の一人が驚いて聞いた。
「ナニ、車夫の野郎、又た博奕《ばくち》に敗けたから少し貸してくれろと言うんだ。……要領を得ないたア何だ! 大に要領を得ているじゃアないか、君等は牛肉党なんだ、牛肉主義なんだ、僕のは牛肉が最初から嗜きなんだ、主義でもヘチマ[#「ヘチマ」に傍点]でもない!」
「大に賛成ですなア」と静《しずか》に沈重《おちつ》いた声で言った者がある。
「賛成でしょう!」と近藤はにやり笑って岡本の顔を見た。
「至極賛成ですなア、主義でないと言うことは至極賛成ですなア、世の中の主義って言う奴ほど愚なものはない」と岡本はその冴《さ》え冴《ざ》えした眼光を座上に放った。
「その説を承たまわろう、是非願いたい!」と近藤はその四角な腮《あご》を突き出した。
「君は何方《どちら》なんです、牛と薯《いも》、エ、薯でしょう?」と上村は知った顔に岡本の説を誘《いざの》うた。
「僕も矢張、牛肉党に非ず、馬鈴薯党にあらずですなア、然し近藤君のように牛肉が嗜《す》きとも決っていないんです。勿論《もちろん》例の主義という手製料理は大嫌《だいきらい》ですが、さりとて肉とか薯《いも》とかいう嗜好《しこう》にも従うことが出来ません」
「それじゃア何だろう?」と井山がその尤《もっと》もらしいしょぼしょぼ眼《まなこ》をぱちつかした。
「何でもないんです、比喩《ひゆ》は廃《よ》して露骨に申しますが、僕はこれぞという理想を奉ずることも出来ず、それならって俗に和して肉慾を充《みた》して以て我生足れりとすることも出来ないのです、出来ないのです、為《し》ないのではないので、実をいうと何方《どちら》でも可いから決めて了ったらと思うけれど何という因果か今以て唯《た》った一つ、不思議な願を持ているからそのために何方《どちら》とも得決《えき》めないでいます」
「何だね、その不思議な願と言うのは?」と近藤は例の圧《お》しつけるような言振《いいぶり》で問うた。
「一口には言えない」
「まさか狼《おおかみ》の丸焼で一杯飲みたいという洒落《しゃれ》でもなかろう?」
「まずそんなことです。……実は僕、或|少女《むすめ》に懸想《けそう》したことがあります」と岡本は真面目で語り出《いだ》した。
「愉快々々、談|愈々《いよいよ》佳境に入《い》って来たぞ、それからッ?」と若い松木は椅子を煖炉《ストーブ》の方へ引寄た。
「少し談《はなし》が突然《だしぬけ》ですがね、まず僕の不思議の願というのを話すにはこの辺から初めましょう。その少女《むすめ》はなかなかの美人でした」
「ヨウ! ヨウ!」と松木は躍上《おどりあが》らんばかりに喜こんだ。
「どちらかと言えば丸顔の色のくっきり白い、肩つきの按排《あんばい》は西洋婦人のように肉附が佳《よ》くってしかもなだらかで、眼は少し眠むいような風の、パチリとはしないが物思に沈んでるという気味があるこの眼に愛嬌《あいきょう》を含めて凝然《じっ》と睇視《みつめ》られるなら大概の鉄腸漢も軟化しますなア。ところで僕は容易にやられて了ったのです。最初その女を見た時は別にそうも思っていなかったが、一度が二度、三度目位から変に引つけられるような気がして、妙にその女のことが気になって来ました。それでも僕は未だ恋《ラブ》したとは思いませんでしたねえ。
「或日僕がその女の家へ行きますと、両親は不在で唯《た》だ女中とその少女《むすめ》と妹《いもと》の十二になるのと三人ぎりでした。すると少女《むすめ》は身体《からだ》の具合が少し悪いと言って鬱《ふさ》いで、奥の間に独《ひとり》、つくねんと座っていましたが、低い声で唱歌をやっているのを僕は縁辺《えんがわ》に腰をかけたまま聴《き》いていました。
『お栄さん僕はそんな声を聴かされると何だか哀れっぽくなって堪《たま》りません』と思わず口に出しますと
『小妹《わたくし》は何故《なぜ》こんな世の中に生きているのか解らないのよ』と少女《むすめ》がさもさも頼《たより》なさそうに言いました、僕にはこれが大哲学者の厭世論《えんせいろん》にも優《まさ》って真実らしく聞えたが、その先は詳わしく言わないでも了解《わか》りましょう。
「二人は忽《たちま》ち恋の奴隷《やっこ》となって了ったのです。僕はその時初めて恋の楽しさと哀《かな》しさとを知りました、二月ばかりというものは全《まる》で夢のように過ぎましたが、その中の出来事の一二《ひとつふたつ》お安価《やすく》ない幕を談《はな》すと先ずこんなこともありましたっケ、
「或《ある》日午後五時頃から友人夫婦の洋行する送別会に出席しましたが僕の恋人も母に伴われて出席しました。会は非常な盛会で、中には伯爵家《はくしゃくけ》の令嬢なども見えていましたが夜の十時頃|漸《ようや》く散会になり僕はホテルから芝山内《しばさんない》の少女《むすめ》の宅まで、月が佳《よ》いから歩るいて送ることにして母と三人ぶらぶらと行《や》って来ると、途々《みちみち》母は口を極《きわ》めて洋行夫婦を褒《ほ》め頻《しきり》と羨《うらや》ましそうなことを言っていましたが、その言葉の中には自分の娘の余り出世間《しゅっせけん》的傾向を有しているのを残念がる意味があって、かかる傾向を有するも要するにその交際する友に由《よ》ると言わぬばかりの文句すら交えたので、僕と肩を寄せて歩るいていた娘は、僕の手を強く握りました、それで僕も握りかえした、これが母へ対するはかない反抗であったのです。
「それから山内の森の中へ来ると、月が木間《このま》から蒼然《そうぜん》たる光を洩《もら》して一段の趣を加えていたが、母は我々より五歩《いつあし》ばかり先を歩るいていました。夜は更《ふ》けて人の通行《ゆきき》も稀《まれ》になっていたから四辺《あたり》は極《きわ》めて静に僕の靴の音、二人の下駄の響ばかり物々しゅう反響していたが、先刻《さっき》の母の言草《いいぐさ》が胸に応《こた》えているので僕も娘も無言、母も急に真面目《まじめ》くさって黙って歩るいていました。
「森影暗く月の光を遮《さえぎ》った所へ来たと思うと少女《むすめ》は卒然《いきなり》僕に抱きつかんばかりに寄添って
『貴様《あなた》母の言葉を気にして小妹《わたくし》を見捨ては不可《いけ》ませんよ』と囁《ささや》き、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左の頬《ほお》にべたり熱いものが触て一種、花にも優《まさ》る香が鼻先を掠《かす》めました。突然明い所へ出ると、少女《むすめ》の両眼には涙が一ぱい含んでいて、その顔色は物凄《ものすご》いほど蒼白《あおじろ》かったが、一《ひとつ》は月の光を浴びたからでも有りましょう、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒気《さむけ》を覚えて恐《こわ》いとも哀《かな》しいとも言いようのない思が胸に塞《つか》えてちょうど、鉛の塊《かたまり》が胸を圧《お》しつけるように感じました。
「その夜、門口《かどぐち》まで送り、母なる人が一寸《ちょっ》と上って茶を飲めと勧めたを辞し自宅へと帰路に就《つ》きましたが、或|難《むずかし》い謎《なぞ》をかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛が悉《ことごと》く了解《わか》りでもするといったような心持がして、決して比喩《ひゆ》じゃアない、確にそういう心持がして、気になってならない。そこで直ぐは帰らず山内の淋《さ》むしい所を撰《よ》ってぶらぶら歩るき、何時《いつ》の間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時《しばら》く凝然《じっ》と品川の沖の空を眺《なが》めていました。
『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』という一念が電《いなずま》のように僕の心中最も暗き底に閃《ひらめ》いたと思うと僕は思わず躍《おど》り上がりました。そして其所《そこ》らを夢中で往きつ返《もど》りつ地を見つめたまま歩るいて『決してそんなことはない』『断じてない』と、魔を叱《しっ》するかのように言ってみたが、魔は決して去らない、僕はおりおり足を止めて地を凝視《みつめ》ていると、蒼白《あおじろ》い少女《むすめ》の顔がありありと眼先に現われて来る、どうしてもその顔色がこの世のものでないことを示している。
「遂《つい》に僕は心を静めて今夜十分眠る方が可《よ》い、全く自分の迷だと決心して丸山を下りかけました、すると更に僕を惑乱さする出来事にぶつかりました。というのは上《のぼ》る時は少も気がつかなかったが路傍《みちばた》にある木の枝から人がぶら下っていたことです。驚きましたねエ、僕は頭から冷水《ひやみず》をかけられたように感じて、其所《そこ》に突立って了いました。
「それでも勇気を鼓して近づいてみると女でした、無論その顔は見えないが、路にぬぎ捨てある下駄を見ると年若の女ということが分る……僕は一切夢中で紅葉館《こうようかん》の方から山内へ下りると突当《つきあたり》にあるあの交番まで駈《か》けつけてその由を告げました……」
「その女が君の恋していた少女《むすめ》であったというのですかね」と近藤は冷ややかに言た。
「それでは全《まる》で小説ですが、幸に小説にはなりませんでした。
「翌々日の新聞を見ると年は十九、兵士と通じて懐胎したのが兵士には国に帰って了《しま》われ、身の処置に窮して自殺したものらしいと書いてありました、ともかく僕はその夜|殆《ほとん》ど眠りませんでした。
「然《し》かし能《よ》くしたもので、その翌日|少女《むすめ》の顔を見ると平常《ふだん》に変っていない、そしてそのうっとり[#「うっとり」に傍点]した眼に笑《えみ》を含んで迎えられると、前夜からの心の苦悩は霧のように消えて了いました。それから又一月ばかりは何のこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで……」
「なるほどこれはお安価《やす》くないぞ」と綿貫が床を蹶《け》って言った。
「まア黙って聴《き》きたまえ、それから」と松木は至極|真面目《まじめ》になった。
「其先《さき》を僕が言おうか、こうでしょう、最後《おしまい》にその少女《むすめ》が欠伸《あくび》一つして、それで神聖なる恋が最後《おしまい》になった、そうでしょう?」と近藤も何故《なぜ》か真面目で言った。
「ハッハッハッハッハッハッ」と二三人が噴飯《ふきだ》して了った。
「イヤ少なくとも僕の恋はそうであった」と近藤は言い足した。
「君でも恋なんていうことを知っているのかね」これは井山の柄にない言草。
「岡本君の談話《はなし》の途中だが僕の恋を話そうか? 一分間で言える、僕と或|少女《むすめ》と乙な中《なか》になった、二人は無我夢中で面白い月日を送った、三月目に女が欠伸一つした、二人は分れた、これだけサ。要するに誰《たれ》の恋でもこれが大切《おおぎり》だよ、女という動物は三月たつと十人が十人、飽《あ》きて了う、夫婦なら仕方がないから結合《くっつ》いている。然しそれは女が欠伸を噛殺《かみころ》してその日を送っているに過ぎない、どうです君はそう思いませんか?」
「そうかも知れません、然し僕のは幸にその欠伸までに達しませんでした、先を聴いて下さい。
「僕もその頃、上村|君《さん》のお話と同様、北海道熱の烈《はげ》しいのに罹《かか》っていました、実をいうと今でも北海道の生活は好かろうと思っています。それで僕も色々と想像を描いていたので、それを恋人と語るのが何よりの楽《たのしみ》でした、矢張上村君の亜米利加《アメリカ》風の家は僕も大判の洋紙へ鉛筆で図取《ずどり》までしました。しかし少し違うのは冬の夜の窓からちらちらと燈火《あかり》を見せるばかりでない、折り折り楽しそうな笑声、澄んだ声で歌う女の唱歌を響かしたかったのです、……」
「だって僕は相手が無かったのですもの」と上村が情けなそうに言ったので、どっと皆《みんな》が笑った。
「君が馬鈴薯《じゃがいも》党を変節したのも、一はその故《せい》だろう」と綿貫が言った。
「イヤそれは嘘言《うそ》だ、上村君にもし相手があったら北海道の土を踏《ふま》ぬ先に変節していただろうと思う、女と言う奴《やつ》が到底馬鈴薯主義を実行し得《う》るもんじゃアない。先天的のビフテキ党だ、ちょうど僕のようなんだ。女は芋《いも》が嗜好《す》きなんていうのは嘘《うそ》サ!」と近藤が怒鳴るように言った。その最後の一句で又た皆がどっと笑った。
「それで二人は」と岡本が平気で語りだしたので漸々《ようよう》静まった。
「二人は将来の生活地を北海道と決めていまして、相談も漸く熟したので僕は一先《ひとまず》故郷《くに》に帰り、親族に托《たく》してあった山林田畑を悉《ことごと》く売り飛ばし、その資金で新開墾地を北海道に作ろうと、十日間位の積《つもり》で国に帰ったのが、親族の故障やら代価の不折合《ふおりあい》やらで思わず二十日もかかりました。 すると或日|少女《むすめ》の母から電報が来ました、驚いて取る物も取あえず帰京してみると、少女《むすめ》は最早《もう》死んでいました」
「死んで?」と松木は叫けんだ。
「そうです、それで僕の総《すべ》ての希望が悉く水の泡《あわ》となって了いました」と岡本の言葉が未だ終らぬうち近藤は左の如く言った、それが全《まる》で演説口調、
「イヤどうも面白い恋愛談《ラブだん》を聴かされ我等一同感謝の至に堪《た》えません、さりながらです、僕は岡本君の為めにその恋人の死を祝します、祝すというが不穏当ならば喜びます、ひそかに喜びます、寧《むし》ろ喜びます、却《かえっ》て喜びます、もしもその少女《むすめ》にして死ななんだならばです、その結果の悲惨なる、必ず死の悲惨に増すものが有ったに違いないと信ずる」
 とまでは頗《すこぶ》る真面目であったが、自分でも少し可笑《おか》しくなって来たか急に調子を変え、声を低うし笑味《えみ》を含ませて、
「何となれば、女は欠伸《あくび》をしますから……凡《およ》そ欠伸に数種ある、その中|尤《もっと》も悲むべく憎くむ可《べ》きの欠伸が二種ある、一は生命に倦《う》みたる欠伸、一は恋愛に倦みたる欠伸、生命に倦みたる欠伸は男子の特色、恋愛に倦みたる欠伸は女子《にょし》の天性、一は最も悲しむべく、一は尤も憎むべきものである」
 と少し真面目な口調に返り、
「則《すなわ》ち女子《にょし》は生命に倦むということは殆どない、年若い女が時々そんな様子を見せることがある、然しそれは恋に渇しているより生ずる変態たるに過ぎない、幸《さいわい》にしてその恋を得る、その後幾年月かは至極楽しそうだ、真に楽しそうだ、恐らく楽《たのしみ》という字の全意義はかかる女子《にょし》の境遇に於《おい》て尽されているだろう。然し忽ち倦《うん》で了う、則ち恋に倦でしまう、女子《にょし》の恋に倦だ奴ほど始末にいけないものは決して他《ほか》にあるまい、僕はこれを憎むべきものと言ったが実は寧ろ憐《あわ》れむべきものである、ところが男子はそうでない、往々にして生命そのものに倦むことがある、かかる場合に恋に出遇《であ》う時は初めて一方の活路を得る。そこで全き心を捧《ささ》げて恋の火中に投ずるに至るのである。かかる場合に在《あっ》ては恋則ち男子の生命である」
 と言って岡本を顧み、
「ね、そうでしょう。どうです僕の説は穿《うが》っているでしょう」
「一向に要領を得ない!」と松木が叫けんだ。
「ハッハッハッハッ要領を得ない? 実は僕も余り要領を得ていないのだ、ただ今のように言ってみたいので。どうです岡本君、だから僕は思うんだ君が馬鈴薯党でもなくビフテキ党でもなく唯《た》だ一の不思議なる願を持っているということは、死んだ少女《むすめ》に遇《あ》いたいというんでしょう」
「否《ノー》!」と一声叫けんで岡本は椅子を起《た》った。彼は最早《もう》余程《よほど》酔っていた。
「否《ノー》と先ず一語を下して置きます。諸君にしてもし僕の不思議なる願というのを聴いてくれるなら談《はな》しましょう」
「諸君は知らないが僕は是非聴く」と近藤は腕を振った。衆皆《みんな》は唯だ黙って岡本の顔を見ていたが松木と竹内は真面目《まじめ》で、綿貫と井山と上村は笑味《えみ》を含んで。
「それでは否《ノー》の一語を今一度叫けんで置きます。
「なるほど僕は近藤|君《さん》のお察《さっし》の通り恋愛に依《よっ》て一方の活路を開いた男の一人である。であるから少女《むすめ》の死は僕に取ての大打撃、殆《ほとん》ど総《すべ》ての希望は破壊し去ったことは先程申上げた通りです、もし例の返魂香《はんごんこう》とかいう価物《しろもの》があるなら僕は二三百|斤《きん》買い入れたい。どうか少女《むすめ》を今一度僕の手に返したい。僕の一念ここに至ると身も世もあられぬ思がします。僕は平気で白状しますが幾度《いくたび》僕は少女《むすめ》を思うて泣いたでしょう。幾度その名を呼で大空を仰いだでしょう。実にあの少女《むすめ》の今一度この世に生き返って来ることは僕の願です。
「しかし、これが僕の不思議なる願ではない。僕の真実の願ではない。僕はまだまだ大《おおい》なる願、深い願、熱心なる願を以《もっ》ています。この願さえ叶《かな》えば少女《むすめ》は復活しないでも宜《よろ》しい。復活して僕の面前で僕を売っても宜《よろ》しい。少女《むすめ》が僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。
「朝《あした》に道を聞かば夕《ゆうべ》に死すとも可なりというのと僕の願とは大に意義を異にしているけれど、その心持は同じです。僕はこの願が叶《かな》わん位なら今から百年生きていても何の益《やく》にも立ない、一向うれしくない、寧ろ苦しゅう思います。
「全世界の人悉くこの願を有《もっ》ていないでも宜しい、僕|独《ひと》りこの願を追います、僕がこの願を追うたが為めにその為めに強盗罪を犯すに至ても僕は悔いない、殺人、放火、何でも関《かま》いません、もし鬼ありて僕に保証するに、爾《なんじ》の妻を与えよ我これを姦《かん》せん爾の子を与えよ我これを喰《くら》わん然《しか》らば我は爾に爾の願を叶《かな》わしめんと言えば僕は雀躍《じゃくやく》して妻あらば妻、子あらば子を鬼に与えます」
「こいつは面白い、早くその願というものを聞きたいもんだ!」と綿貫がその髯《ひげ》を力任かせに引《ひい》て叫けんだ。
「今に申します。諸君は今日《こんにち》のようなグラグラ政府には飽きられただろうと思う、そこでビスマークとカブールとグラッドストンと豊太閤《ほうたいこう》みたような人間をつきまぜて一《ひとつ》鋼鉄のような政府を形《つく》り、思切った政治をやってみたいという希望があるに相違ない、僕も実にそういう願を以ています、しかし僕の不思議なる願はこれでもない。
「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督《クリスト》や釈迦《しゃか》や孔子《こうし》のような人になりたい、真実《ほんと》にそうなりたい。しかしもし僕のこの不思議なる願が叶わないで以て、そうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。
「山林の生活! と言ったばかりで僕の血は沸きます。則《すなわ》ち僕をして北海道を思わしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、この頃の冬の空晴れて、遠く地平線の上に国境をめぐる連山の雪を戴《いただ》いているのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます。堪《たま》らなくなる! 然しです、僕の一念ひとたびかの願に触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願さえ叶うなら紅塵《こうじん》三千丈の都会に車夫となっていてもよろしい。
「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科学と哲学と宗教とはこれを研究し闡明《せんめい》し、そして安心|立命《りゅうめい》の地をその上に置こうと悶《もが》いている、僕も大哲学者になりたい、ダルウィン跣足《はだし》というほどの大科学者になりたい。もしくは大宗教家になりたい。しかし僕の願というのはこれでもない。もし僕の願が叶わないで以て、大哲学者になったなら僕は自分を冷笑し自分の顔《つら》に『偽《いつわり》』の一字を烙印《らくいん》します」
「何だね、早く言いたまえその願というやつを!」と松木はもどかしそうに言った。
「言いましょう、喫驚《びっくり》しちゃアいけませんぞ」
「早く早く!」
 岡本は静に
「喫驚《びっくり》したいというのが僕の願なんです」
「何だ! 馬鹿々々しい!」
「何のこった!」
「落語《おとしばなし》か!」
 人々は投げだすように言ったが、近藤のみは黙言《だまっ》て岡本の説明を待ているらしい。
「こういう句があります、

  wake, poor troubled sleeper: shake off
  hy torpid night-mare dream.

即ち僕の願とは夢魔《むま》を振い落したいことです!」
「何のことだか解らない!」と綿貫は呟《つぶ》やくように言った。
「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!」
「愈々《いよいよ》以て謎《なぞ》のようだ!」と今度は井山がその顔をつるりと撫《な》でた。
「死の秘密を知りたいという願ではない、死ちょう事実に驚きたいという願です!」
「イクラでも君勝手に驚けば可《い》いじゃアないか、何でもないことだ!」と綿貫は嘲《あざけ》るように言った。
「必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりとも安《やすん》ずる能《あた》わざるほどにこの宇宙人生の秘義に悩まされんことが僕の願であります」
「なるほどこいつは益々《ますます》解りにくいぞ」と松木は呟《つぶ》やいて岡本の顔を穴のあくほど凝視《みつめ》ている。
「寧ろこの使用《つか》い古るした葡萄《ぶどう》のような眼球《めのたま》を※[#「宛+りっとう」、第4水準2-3-26]《えぐ》り出したいのが僕の願です!」と岡本は思わず卓を打った。
「愉快々々!」と近藤は思わず声を揚げた。
「オルムスの大会で王侯の威武に屈しなかったルーテルの胆《きも》は喰《く》いたく思わない、彼が十九歳の時学友アレキシスの雷死を眼前《まのあたり》に視《み》て死そのものの秘義に驚いたその心こそ僕の欲するところであります。
「勝手に驚けと言われました綿貫|君《さん》は。勝手に驚けとは至極面白い言葉である、然し決して勝手に驚けないのです。
「僕の恋人は死ました。この世から消えて失《なく》なりました。僕は全然恋の奴隷《やっこ》であったからかの少女《むすめ》に死なれて僕の心は掻乱《かきみだ》されてたことは非常であった。しかし僕の悲痛は恋の相手の亡《なく》なったが為の悲痛である。死ちょう冷刻《れいこく》なる事実を直視することは出来なかった。即ち恋ほど人心を支配するものはない、その恋よりも更に幾倍の力を人心の上に加うるものがあることが知られます。
「曰《いわ》く習慣《カストム》の力です。
[#ここから2字下げ]
Our birth is but asleep and forgetting.
[#ここで字下げ終わり]
 この句の通りです。僕等は生れてこの天地の間に来る、無我無心の小児《こども》の時から種々な事に出遇《であ》う、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここに於《おい》てかこの不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。哲学で候《そうろ》うの科学で御座るのと言って、自分は天地の外に立《たっ》ているかの態度を以てこの宇宙を取扱う。
[#ここから2字下げ]
Full soon thy soul shall have her earthly freight,
And custom lie upon thee with a weight,
Heavy as frost, and deep almost as life !
[#ここで字下げ終わり]
 この通りです、この通りです!
「即ち僕の願はどうにかしてこの霜を叩《はた》き落さんことであります。どうにかしてこの古び果てた習慣《カストム》の圧力から脱《の》がれて、驚異の念を以てこの宇宙に俯仰介立《ふぎょうかいりつ》したいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、馬鈴薯《じゃがいも》主義となろうが、将《は》た厭世《えんせい》の徒となってこの生命を咀《のろお》うが、決して頓着《とんじゃく》しない!
「結果は頓着しません、源因《げんいん》を虚偽に置きたくない。習慣の上に立つ遊戯的研究の上に前提を置きたくない。
「ヤレ月の光が美だとか花の夕《ゆうべ》が何だとか、星の夜は何だとか、要するに滔々《とうとう》たる詩人の文字《もんじ》は、あれは道楽です。彼等は決して本物を見てはいない、まぼろし[#「まぼろし」に傍点]を見ているのです、習慣の眼が作るところのまぼろし[#「まぼろし」に傍点]を見ているに過ぎません。感情の遊戯です。哲学でも宗教でも、その本尊は知らぬことその末代の末流に至ては悉くそうです。
「僕の知人にこう言った人があります。吾とは何ぞや※[#始め二重括弧、1-2-54]What am I ?※[#終わり二重括弧、1-2-55]なんちょう馬鹿な問を発して自から苦《くるしむ》ものがあるが到底知れないことは如何《いか》にしても知れるもんでない、とこう言って嘲笑《ちょうしょう》を洩《も》らした人があります。世間並からいうとその通りです、然しこの問は必ずしもその答を求むるが為めに発した問ではない。実にこの天地に於けるこの我ちょうものの如何にも不思議なることを痛感して自然に発したる心霊の叫である。この問その物が心霊の真面目なる声である。これを嘲《あざけ》るのはその心霊の麻痺《まひ》を白状するのである。僕の願は寧《むし》ろ、どうにかしてこの問を心から発したいのであります。ところがなかなかこの問は口から出ても心からは出ません。
「我|何処《いずく》より来《きた》り、我何処にか往《ゆ》く、よく言う言葉であるが、矢張りこの問を発せざらんと欲して発せざるを得ない人の心から宗教の泉は流れ出るので、詩でもそうです、だからその以外は悉く遊戯です虚偽です。
「もう止《よ》しましょう! 無益《だめ》です、無益《だめ》です、いくら言っても無益《だめ》です。……アア疲労《くたびれ》た! しかし最後に一|言《ごん》しますがね、僕は人間を二種に区別したい、曰《いわ》く驚く人、曰く平気な人……」
「僕は何方《どちら》へ属するのだろう!」と松木は笑いながら問うた。
「無論、平気な人に属します、ここに居る七人は皆な平気の平三《へいざ》の種類に属します。イヤ世界十幾億万人の中《うち》、平気な人でないものが幾人ありましょうか、詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は皆な平気で理窟《りくつ》を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。僕は昨夜|一《ひとつ》の夢を見ました。
「死んだ夢を見ました。死んで暗い道を独《ひと》りでとぼとぼ辿《たど》って行きながら思わず『マサカ死《しの》うとは思わなかった!』と叫びました。全くです、全く僕は叫びました。
「そこで僕は思うんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり子に死れたりしても、矢張り自分の死んだ後《あと》、地獄の門でマサカ自分が死うとは思わなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ハッハッハッハッハッハッハッハッ」
「人に驚かして貰《もら》えばしゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]が止るそうだが、何も平気で居て牛肉が喰《く》えるのに好んで喫驚《びっくり》したいというのも物数奇《ものずき》だねハハハハ」と綿貫はその太い腹をかかえた。
「イヤ僕も喫驚《びっくり》したいと言うけれど、矢張り単にそう言うだけですよハハハハ」
「唯《た》だ言うだけかアハハハハ」
「唯だ言うだけのことか、ヒヒヒヒ」
「そうか! 唯だお願い申してみる位なんですねハッハッハッハッ」
「矢張り道楽でさアハッハッハハッ」と岡本は一所《いっしょ》に笑ったが、近藤は岡本の顔に言う可からざる苦痛の色を見て取った。

底本:新潮文庫『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』
   1970(昭和45)年5月30日発行
入力:八木正三
校正:LUNA CAT
1998年5月23日公開
2011年5月23日修正
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国木田独歩

窮死——国木田独歩

九段坂の最寄《もより》にけち[#「けち」に傍点]なめし[#「めし」に傍点]屋がある。春の末の夕暮れに一人《ひとり》の男が大儀そうに敷居をまたげた。すでに三人の客がある。まだランプをつけないので薄暗い土間に居並ぶ人影もおぼろである。
 先客の三人も今来た一人も、みな土方か立ちんぼう[#「ちんぼう」に傍点]ぐらいのごく下等な労働者である。よほど都合のいい日でないと白馬《どぶろく》もろくろくは飲めない仲間らしい。けれどもせんの三人は、いくらかよかったと見えて、思い思いに飲《や》っていた。
「文公《ぶんこう》、そうだ君の名は文さんとか言ったね。からだはどうだね。」と角《かど》ばった顔の性質《ひと》のよさそうな四十を越した男がすみから声をかけた。
「ありがとう、どうせ長くはあるまい。」と今来た男は捨てばちに言って、投げるように腰掛けに身をおろして、両手で額を押え、苦しい咳《せき》をした。年ごろは三十前後である。
「そう気を落とすものじゃアない、しっかり[#「しっかり」に傍点]なさい」と、この店の亭主《ていしゅ》が言った。それぎりでたれもなんとも言わない、心のうちでは「長くあるまい」と言うのに同意をしているのである。
「六銭しかない、これでなんでもいいから……」と言いさして、咳《せき》で、食わしてもらいたいという言葉が出ない。文公は頭の毛を両手でつかんでもがいている。
 めそめそ泣いている赤んぼを背負ったおかみさん[#「おかみさん」に傍点]は、ランプをつけながら、
「苦しそうだ、水をあげようか。」と振り向いた。文公は頭を横に振った。
「水よりかこのほうがいい、これなら元気がつく」と三人の一人の大男が言った。この男はこの店にはなじみでないと見えてさっきから口をきか[#「きか」に傍点]なかったのである。突き出したのが白馬《どぶろく》の杯《さかずき》。文公はまたも頭を横に振った。
「一本つけ[#「つけ」に傍点]よう。やっぱりこれでないと元気がつかない。代《だい》はいつでもいいから飲《や》ったほうがよかろう。」と亭主《あるじ》は文公がなんとも返事せぬうちに白馬《どぶろく》を一本つけた。すると角《かど》ばった顔の男が、
「なアに文公が払えない時は、わしがどうにでもする。えッ、文公、だから一ツ飲《や》ってみな。」
 それでも文公は頭を押えたまま黙っていると、まもなく白馬一本と野菜の煮つけを少しばかり載せた小ざら一つが文公の前に置かれた。この時やっと頭を上げて、
「親方どうも済まない。」と弱い声で言ってまたも咳《せき》をしてホッとため息をついた。長おもてのやせこけた顔で、頭は五分刈りがそのまま伸びるだけ伸びて、ももくちゃ[#「ももくちゃ」に傍点]になって少しのつやもなく、灰色がかっている。
 文公のおかげで陰気がちになるのもしかたがない、しかしたれもそれを不平に思う者はないらしい。文公は続けざまに三四杯ひっかけてまたも頭を押えたが、人々の親切を思わぬでもなく、また深く思うでもない。まるで別の世界から言葉をかけられたような気持ちもするし、うれしいけれど、それがそれまでの事である事を知っているから「どうせ長くはない」との感じを、しばしの間でもよいから忘れたくても忘れる事ができないのである。
 からだにも心にも、ぽかんとしたような絶望的|無我《ぶが》が霧のように重く、あらゆる光をさえぎって立ちこめている。
 すき腹に飲んだので、まもなく酔いがまわり、やや元気づいて来た。顔を上げて我れ知らずにやり[#「にやり」に傍点]と笑った時は、四角の顔がすぐ、
「そら見ろ、気持ちが直ったろう。飲《や》れ飲《や》れ、一本で足りなきゃアもう一本|飲《や》れ、わしが引き受けるから。なんでも元気をつけるにゃアこれに限るッて事よ!」と御自身のほうが大元気になって来たのである。
 この時、外から二人の男が駆けこんで来た。いずれも土方ふうの者である。
「とうとう降《や》って来やアがった。」と叫んで思い思いに席を取った。文公の来る前から西の空がまっ黒に曇り、遠雷さえとどろきて、ただならぬけしきであったのである。
「なに、すぐ晴《あが》ります。だけど今時分の夕立なんて、よっぽど気まぐれだ。」と亭主《あるじ》が言った。
 二人が飛びこんでから急ににぎおうて来て、いつしか文公に気をつける者もなくなった。外はどしゃ降りである。二つのランプの光は赤くかすかに、陰《かげ》は暗くあまねくこのすすけた土間をこめて、荒くれ男のあから顔だけが右に左に動いている。
 文公は恵まれた白馬《どぶろく》一本をちびちび飲み終わると飯を初めた、これも赤んぼをおぶった女主人《かみさん》の親切でたらふく食った。そして、出かけると急に亭主がこっちを向いて、
「まだ降ってるだろう、やんでから行きな。」
「たいしたことはあるまい。みなさん、どうもありがとう」と、穴だらけの外套《がいとう》を頭からかぶって外へ出た。もう晴《あが》りぎわの小降りである。ともかくも路地をたどって通りへ出た。亭主《ていしゅ》は雨がやんでから行きなと言ったが、どこへ行く? 文公は路地口の軒下に身を寄せて往来の上下《かみしも》を見た。幌人車《ほろぐるま》が威勢よく駆けている。店々のともし火が道に映っている。一二丁先の大通りを電車が通る。さて文公はどこへ行く?
 めし[#「めし」に傍点]屋の連中も文公がどこへ行くか、もちろん知らないがしかしどこへ行こうと、それは問題でない。なぜなれば居残っている者のうちでも、今夜はどこへ泊まるかを決めていないものがある。この人々は大概、いわゆる居所不明、もしくは不定な連中であるから文公の今夜の行く先など気にしないのも無理はない。しかしあの容態では遠からずまいっ[#「まいっ」に傍点]てしまうだろうとは文公の去ったあとでのうわさであった。
「かわいそうに。養育院へでもはいればいい。」と亭主《あるじ》が言った。
「ところがその養育院というやつは、めんどうくさくってなかなかはいられないという事だぜ。」と客の土方の一人が言う。
「それじゃア行き倒れだ!」と一人が言う。
「たれか引き取り手がないものかナ。ぜんたい野郎はどこの者だ。」と一人が言う。
「自分でも知るまい。」
 実際文公は自分がどこで生まれたのか全く知らない、親も兄弟もあるのかないのかすら知らない、文公という名も、たれ言うとなくひとりでにできたのである。十二歳ごろの時、浮浪少年とのかどで、しばらく監獄に飼われていたが、いろいろの身のためになるお話を聞かされた後、門から追い出された。それから三十いくつになるまで種々な労働に身を任して、やはり以前の浮浪生活を続けて来たのである。この冬に肺を病んでから薬一滴飲むことすらできず、土方にせよ、立ちん坊にせよ、それを休めばすぐ食うことができないのであった。
「もうだめだ」と、十日ぐらい前から文公は思っていた。それでもかせげるだけはかせがなければならぬ。それできょうも朝五銭、午後《ひる》に六銭だけようやくかせいで、その六銭を今めし[#「めし」に傍点]屋でつかってしまった。五銭は昼めしになっているから一|文《もん》も残らない。
 さて文公はどこへ行く? ぼんやり軒下に立って目の前のこの世のさまをじっと見ているうちに、
「アヽいっそ死んでしまいたいなア」と思った。この時、悪寒《おかん》が身うちに行きわたって、ぶるぶるッとふるえた、そして続けざまに苦しい咳《せき》をしてむせび入った。
 ふと思いついたのは、今から二月前に日本橋のある所で土方をした時知り合いになった弁公という若者《わかいの》がこの近所に住んでいることであった。道悪《みちわる》を七八丁|飯田町《いいだまち》の河岸《かし》のほうへ歩いて暗い狭い路地をはいると突き当たりにブリキ葺《ぶき》の棟《むね》の低い家がある。もう雨戸が引きよせてある。
 たどり着いて、それでも思い切って、
「弁公、家《うち》か。」
「たれだい。」と内からすぐ返事がした。
「文公だ。」
 戸があいて「なんの用だ。」
「一晩泊めてくれ。」と言われて弁公すぐ身を横によけて
「まアこれを見てくれ、どこへ寝られる?」
 見ればなるほど三畳敷の一間《ひとま》に名ばかりの板の間と、上がり口にようやく下駄《げた》を脱ぐだけの土間とがあるばかり、その三畳敷に寝床が二つ敷いてあって、豆ランプが板の間の箱の上に載せてある。その薄い光で一ツの寝床に寝ている弁公の親父《おやじ》の頭がおぼろに見える。
 文公の黙っているのを見て、
「いつものばばアの宿へなんで行かねえ?」
「文《もん》なしだ。」
「三晩や四晩借りたってなんだ。」
「ウンと借りができて、もう行けねえんだ。」と言いさま、咳《せき》をして苦しい息を内に引くや、思わずホッと疲れ果てたため息をもらした。
「からだもよくないようだナ。」と、弁公初めて気がつく。
「すっかりだめになっちゃった。」
「そいつは気の毒だなア」と内と外でしばし無言でつっ立っている。するとまだ寝つかれないでいた親父が頭をもたげて、
「弁公、泊めてやれ、二人寝るのも三人寝るのも同じことだ。」
「同じことは一つこった。それじゃア足を洗うんだ。この磨滅下駄《ちびげた》を持って、そこの水道で洗って来な、」と弁公景気よく言って、土間を探り、下駄を拾って渡した。
 そこで文公はやっと宿を得て、二人の足のすそに丸くなった。親父《おやじ》も弁公も昼間の激しい労働で熟睡したが文公は熱と咳《せき》とで終夜苦しめられ、明け方近くなってやっと寝入った。
 短夜《みじかよ》の明けやすく、四時半には弁公引き窓をあけて飯をたきはじめた。親父もまもなく起きて身じたくをする。
 飯ができるや、まず弁公はその日の弁当、親父と自分との一度分をこしらえる。終わって二人は朝飯を食いながら親父は低い声で、
「この若者《わかいの》はよっぽどからだを痛めているようだ。きょうは一日そっとしておいて仕事を休ますほうがよかろう。」
 弁公はほおばって首を縦に二三度振る。
「そして出がけに、飯もたいてあるから勝手に食べて一日休めと言え。」
 弁公はうなずいた、親父は一段声を潜めて、
「他人事《ひとごと》と思うな、おれなんぞもう死のうと思った時、仲間の者に助けられたなア一度や二度じゃアない。助けてくれるのはいつも仲間のうちだ、てめえもこの若者《わかいの》は仲間だ、助けておけ。」
 弁公は口をもごもごしながら親父の耳に口を寄せて、
「でも文公は長くないよ。」
 親父は急に箸《はし》を立てて、にらみつけて、
「だから、なお助けるのだ。」
 弁公はまたもすなおにうなずいた。出がけに文公を揺り起こして、
「オイちょっと起きねえ、これから、おいらは仕事に出るが、兄きは一日休むがいい。飯もたいてあるからナア、イイカ留守を頼んだよ。」
 文公は不意に起こされたので、驚いて起き上がりかけたのを弁公が止めたので、また寝て、その言うことを聞いてただうなずいた。
 あまり当てにならない留守番だから、雨戸を引きよせて親子は出て行った。文公は留守居と言われたのですぐ起きていたいと思ったが、ころがっているのがつまり楽なので、十時ごろまで目だけさめて起き上がろうともしなかったが、腹がへったので、苦しいながら起き直って、飯を食ってまたごろり[#「ごろり」に傍点]として、夢うつつで正午近くなるとまた腹がへる。それでまた食ってごろついた。
 弁公親子はある親分について市の埋め立て工事の土方をかせいでいたのである。弁公は堀《ほり》を埋める組、親父《おやじ》は下水用の土管を埋めるための深いみぞを掘る組。それでこの日は親父はみぞを掘っていると、午後三時ごろ、親父のはね上げた土が、おりしも通りかかった車夫《くるまひき》のすねにぶつかった。この車夫《くるまひき》は車も衣装《みなり》も立派で、乗せていた客も紳士であったが、いきなり人車《くるま》を止めて、「何をしやアがるんだ、」と言いさま、みぞの中の親父に土の塊《かたまり》を投げつけた。
「気をつけろ、間抜けめ」と言うのが捨てぜりふで、そのまま行こうとすると、親父は承知しない。
「この野郎!」と言いさま往来にはい上がって、今しもかじ棒を上げかけている車夫《くるまひき》に土を投げつけた。そして、
「土方だって人間だぞ、ばかにしやアがんな、」と叫んだ。
 車夫《くるまひき》は取って返し、二人はつかみあいを初めたが、一方は血気の若者ゆえ、苦もなく親父《おやじ》をみぞに突き落とした。落ちかけた時調子の取りようが悪かったので、棒が倒れるように深いみぞにころげこんだ。そのため後脳《こうのう》をひどく打ち肋骨《ろっこつ》を折って親父は悶絶《もんぜつ》した。
 見る間に付近に散在していた土方が集まって来て、車夫《くるまひき》はなぐられるだけなぐられ、その上交番に引きずって行かれた。
 虫の息の親父は戸板に乗せられて、親方と仲間の土方二人と、気抜けのしたような弁公とに送られて家《うち》に帰った。それが五時五分である。文公はこの騒ぎにびっくりして、すみのほうへ小さくなってしまった。まもなく近所の医者が来る事は来た。診察の型だけして「もう脈がない。」と言ったきり、そこそこに行ってしまった。
「弁公しっかりしな、おれがきっとかたきを取ってやるから。」と親方は言いながら、財布《さいふ》から五十銭銀貨を三四枚取り出して「これで今夜は酒でも飲んで通夜《つや》をするのだ、あすは早くからおれも来て始末をしてやる。」
 親方の行ったあとで今まで外に立っていた仲間の二人はともかく内へはいった。けれどもすわる所がない。この時弁公はいきなり文公に、
「親父は車夫《くるまひき》の野郎とけんかをして殺されたのだ。これをやるから木賃《きちん》へ泊まってくれ。今夜は仲間と通夜《つや》をするのだから。」と、もらった銀貨一枚を出した。文公はそれを受け取って、
「それじゃア親父さんの顔を一度見せてくれ。」
「見ろ。」と言って、弁公はかぶせてあったものをとったが、この時はもう薄暗いので、はっきりしない。それでも文公はじっと見た。

       アステリズム

 飯田町の狭い路地から貧しい葬儀《とむらい》が出た日の翌日の朝の事である。新宿|赤羽《あかばね》間の鉄道線路に一人の轢死者《れきししゃ》が見つかった。
 轢死者は線路のそばに置かれたまま薦《こも》がかけてあるが、頭の一部と足の先だけは出ていた。手が一本ないようである。頭は血にまみれていた。六人の人がこのまわりをウロウロしている。高い土手の上に子守《こもり》の小娘が二人と職人体《しょくにんてい》の男が一人、無言で見物しているばかり、あたりには人影がない。前夜の雨がカラリ[#「カラリ」に傍点]とあがって、若草若葉の野は光り輝いている。
 六人の一人は巡査、一人は医者、三人は人夫、そして中折れ帽をかぶって二子《ふたこ》の羽織を着た男は村役場の者らしく、線路に沿うて二三間の所を行きつもどりつしている。始終談笑しているのが巡査と人夫で、医者はこめかみのへんを両手で押えてしゃがんでいる。けだし棺おけの来るのを皆が待っているのである。
「二時の貨物車でひかれたのでしょう。」と人夫の一人が言った。
「その時はまだ降っていたかね?」と巡査が煙草《たばこ》に火をつけながら問うた。
「降っていましたとも。雨のあがったのは三時過ぎでした。」
「どうも病人らしい。ねえ大島さん。」と巡査は医者のほうを向いた、大島医師は巡査が煙草を吸っているのを見て、自分も煙草を出して巡査から火を借りながら、
「無論病人です。」と言って轢死者のほうをちょっと見た。すると人夫が
「きのうそこの原をうろついていたのがこの野郎に違いありません。確かにこの外套《がいとう》を着た野郎です、ひょろひょろ歩いては木の陰に休んでいました。」
「そうするとなんだナ、やはり死ぬ気で来たことは来たが昼間は死ねないで夜やったのだナ。」と巡査は言いながら、くたびれて上り下り両線路の間にしゃがんだ。
「やっこさん、あの雨にどしどし降られたので、どうにもこうにもやりきれなくなって、そこの土手からころがり落ちて線路の上へぶったおれたのでしょう。」と、人夫は見たように話す。
「なにしろ哀れむべきやつサ。」と巡査が言って何心なく土手を見ると、見物人がふえて学生らしいのもまじっていた。
 この時赤羽行きの汽車が朝日をまともに車窓に受けて威勢よく走って来た。そして火夫も運転手も乗客も、みな身を乗り出して薦《こも》のかけてある一物《いちもつ》を見た。
 この一物は姓名も原籍も不明というので、例のとおり仮埋葬の処置を受けた。これが文公の最後であった。
 実に人夫が言ったとおり、文公はどうにもこうにもやりきれ[#「やりきれ」に傍点]なくって倒れたのである。(完)

底本:「号外・少年の悲哀 他六篇」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年4月17日 第1刷発行
   1960(昭和35)年1月25日 第14刷改版発行
   1981(昭和56)年4月10日 第34刷発行
入力:紅 邪鬼
校正:鈴木厚司
2000年7月5日公開
2004年6月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国木田独歩

畫の悲み——国木田独歩

畫《ゑ》を好《す》かぬ小供《こども》は先《ま》づ少《すく》ないとして其中《そのうち》にも自分《じぶん》は小供《こども》の時《とき》、何《なに》よりも畫《ゑ》が好《す》きであつた。(と岡本某《をかもとぼう》が語《かた》りだした)。
 好《す》きこそ物《もの》の上手《じやうず》とやらで、自分《じぶん》も他《た》の學課《がくゝわ》の中《うち》畫《ゑ》では同級生《どうきふせい》の中《うち》自分《じぶん》に及《およ》ぶものがない。畫《ゑ》と數學《すうがく》となら、憚《はゞか》りながら誰《たれ》でも來《こ》いなんて、自分《じぶん》も大《おほい》に得意《とくい》がつて居《ゐ》たのである。しかし得意《とくい》といふことは多少《たせう》競爭《きやうさう》を意味《いみ》する。自分《じぶん》の畫《ゑ》の好《す》きなことは全《まつた》く天性《てんせい》といつても可《よ》からう、自分《じぶん》を獨《ひとり》で置《お》けば畫《ゑ》ばかり書《か》いて居《ゐ》たものだ。
 獨《ひとり》で畫《ゑ》を書《か》いて居《ゐ》るといへば至極《しごく》温順《おとな》しく聞《きこ》えるが、其癖《そのくせ》自分《じぶん》ほど腕白者《わんぱくもの》は同級生《どうきふせい》の中《うち》にないばかりか、校長《かうちやう》が持《も》て餘《あま》して數々《しば/\》退校《たいかう》を以《もつ》て嚇《おど》したのでも全校《ぜんかう》第《だい》一といふことが分《わか》る。
 全校《ぜんかう》第《たい》[#ルビの「たい」に「ママ」の注記]一|腕白《わんぱく》でも數學《すうがく》でも。しかるに天性《てんせい》好《す》きな畫《ゑ》では全校《ぜんかう》第《だい》一の名譽《めいよ》を志村《しむら》といふ少年《せうねん》に奪《うば》はれて居《ゐ》た。この少年《せうねん》は數學《すうがく》は勿論《もちろん》、其他《そのた》の學力《がくりよく》も全校《ぜんかう》生徒中《せいとちゆう》、第《だい》二|流《りう》以下《いか》であるが、畫《ゑ》の天才《てんさい》に至《いた》つては全《まつた》く並《なら》ぶものがないので、僅《わづか》に壘《るゐ》を摩《ま》さうかとも言《い》はれる者《もの》は自分《じぶん》一|人《にん》、其他《そのた》は悉《こと/″\》く志村《しむら》の天才《てんさい》を崇《あが》め奉《たてまつ》つて居《ゐ》るばかりであつた。ところが自分《じぶん》は志村《しむら》を崇拜《すうはい》しない、今《いま》に見《み》ろといふ意氣込《いきごみ》で頻《しき》りと勵《は》げんで居《ゐ》た。
 元來《ぐわんらい》志村《しむら》は自分《じぶん》よりか歳《とし》も兄《あに》、級《きふ》も一|年《ねん》上《うへ》であつたが、自分《じぶん》は學力《がくりよく》優等《いうとう》といふので自分《じぶん》の居《ゐ》る級《くらす》と志村《しむら》の居《ゐ》る級《くらす》とを同時《どうじ》にやるべく校長《かうちやう》から特別《とくべつ》の處置《しよち》をせられるので自然《しぜん》志村《しむら》は自分《じぶん》の競爭者《きやうさうしや》となつて居《ゐ》た。
 然《しか》るに全校《ぜんかう》の人氣《にんき》、校長《かうちやう》教員《けうゐん》を始《はじ》め何百《なんびやく》の生徒《せいと》の人氣《にんき》は、温順《おとな》しい志村《しむら》に傾《かたむ》いて居《ゐ》る、志村《しむら》は色《いろ》の白《しろ》い柔和《にうわ》な、女《をんな》にして見《み》たいやうな少年《せうねん》、自分《じぶん》は美少年《びせうねん》ではあつたが、亂暴《らんばう》な傲慢《がうまん》な、喧嘩好《けんくわず》きの少年《せうねん》、おまけに何時《いつ》も級《くらす》の一|番《ばん》を占《し》めて居《ゐ》て、試驗《しけん》の時《とき》は必《かな》らず最優等《さいゝうとう》の成績《せいせき》を得《う》る處《ところ》から教員《けうゐん》は自分《じぶん》の高慢《かうまん》が癪《しやく》に觸《さは》り、生徒《せいと》は自分《じぶん》の壓制《あつせい》が癪《しやく》に觸《さは》り、自分《じぶん》にはどうしても人氣《にんき》が薄《うす》い。そこで衆人《みんな》の心持《こゝろもち》は、せめて畫《ゑ》でなりと志村《しむら》を第《だい》一として、岡本《をかもと》の鼻柱《はなばしら》を挫《くだ》いてやれといふ積《つもり》であつた。自分《じぶん》はよく此《この》消息《せうそく》を解《かい》して居《ゐ》た。そして心中《しんちゆう》ひそかに不平《ふへい》でならぬのは志村《しむら》の畫《ゑ》必《かなら》ずしも能《よ》く出來《でき》て居《ゐ》ない時《とき》でも校長《かうちやう》をはじめ衆人《みんな》がこれを激賞《げきしやう》し、自分《じぶん》の畫《ゑ》は確《たし》かに上出來《じやうでき》であつても、さまで賞《ほ》めて呉《く》れ手《て》のないことである。少年《こども》ながらも自分《じぶん》は人氣《にんき》といふものを惡《にく》んで居《ゐ》た。
 或日《あるひ》學校《がくかう》で生徒《せいと》の製作物《せいさくぶつ》の展覽會《てんらんくわい》が開《ひら》かれた。其《その》出品《しゆつぴん》は重《おも》に習字《しふじ》、※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、466-8]畫《づぐわ》、女子《ぢよし》は仕立物《したてもの》等《とう》で、生徒《せいと》の父兄姉妹《ふけいしまい》は朝《あさ》からぞろ/\と押《おし》かける。取《と》りどりの評判《ひやうばん》。製作物《せいさくぶつ》を出《だ》した生徒《せいと》は氣《き》が氣《き》でない、皆《み》なそは/\して展覽室《てんらんしつ》を出《で》たり入《はひ》つたりして居《ゐ》る自分《じぶん》も此《この》展覽會《てんらんくわい》に出品《しゆつぴん》する積《つも》りで畫紙《ゑがみ》一|枚《まい》に大《おほ》きく馬《うま》の頭《あたま》を書《か》いた。馬《うま》の顏《かほ》を斜《はす》に見《み》た處《ところ》で、無論《むろん》少年《せうねん》の手《て》には餘《あま》る畫題《ぐわだい》であるのを、自分《じぶん》は此《この》一|擧《きよ》に由《よつ》て是非《ぜひ》志村《しむら》に打勝《うちかた》うといふ意氣込《いきごみ》だから一|生懸命《しやうけんめい》、學校《がくかう》から宅《たく》に歸《かへ》ると一|室《しつ》に籠《こも》つて書《か》く、手本《てほん》を本《もと》にして生意氣《なまいき》にも實物《じつぶつ》の寫生《しやせい》を試《こゝろ》み、幸《さいは》ひ自分《じぶん》の宅《たく》から一丁[#ルビ抜けはママ]ばかり離《はな》れた桑園《くはゞたけ》の中《なか》に借馬屋《しやくばや》があるので、幾度《いくたび》となく其處《そこ》の廐《うまや》に通《かよ》つた。輪廓《りんくわく》といひ、陰影《いんえい》と云《い》ひ、運筆《うんぴつ》といひ、自分《じぶん》は確《たしか》にこれまで自分《じぶん》の書《か》いたものは勿論《もちろん》、志村《しむら》が書《か》いたものゝ中《うち》でこれに比《くら》ぶべき出來《でき》はないと自信《じしん》して、これならば必《かなら》ず志村《しむら》に勝《か》つ、いかに不公平《ふこうへい》な教員《けうゐん》や生徒《せいと》でも、今度《こんど》こそ自分《じぶん》の實力《じつりよく》に壓倒《あつたう》さるゝだらうと、大勝利《だいしようり》を豫期《よき》して出品《しゆつぴん》した。
 出品《しゆつぴん》の製作《せいさく》は皆《みん》な自宅《じたく》で書《か》くのだから、何人《なにぴと》も誰《たれ》が何《なに》を書《か》くのか知《し》らない、又《また》互《たがひ》に祕密《ひみつ》にして居《ゐ》た殊《こと》に志村《しむら》と自分《じぶん》は互《たがひ》の畫題《ぐわだい》を最《もつと》も祕密《ひみつ》にして知《し》らさないやうにして居《ゐ》た。であるから自分《じぶん》は馬《うま》を書《か》きながらも志村《しむら》は何《なに》を書《か》いて居《ゐ》るかといふ問《とひ》を常《つね》に懷《いだ》いて居《ゐ》たのである。
 さて展覽會《てんらんくわい》の當日《たうじつ》、恐《おそ》らく全校《ぜんかう》數百《すうひやく》の生徒中《せいとちゆう》尤《もつと》も胸《むね》を轟《とゞろ》かして、展覽室《てんらんしつ》に入《い》つた者《もの》は自分《じぶん》であらう。※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、467-4]畫室《づぐわしつ》は既《すで》に生徒《せいと》及《およ》び生徒《せいと》の父兄姉妹《ふけいしまい》で充滿《いつぱい》になつて居《ゐ》る。そして二|枚《まい》の大畫《たいぐわ》(今日《けふ》の所謂《いはゆ》る大作《たいさく》)が並《なら》べて掲《かゝ》げてある前《まへ》は最《もつと》も見物人《けんぶつにん》が集《たか》つて居《ゐ》る二|枚《まい》の大畫《たいぐわ》は言《い》はずとも志村《しむら》の作《さく》と自分《じぶん》の作《さく》。
 一|見《けん》自分《じぶん》は先《ま》づ荒膽《あらぎも》を拔《ぬ》かれてしまつた。志村《しむら》の畫題《ぐわだい》はコロンブスの肖像《せうざう》ならんとは! 而《しか》もチヨークで書《か》いてある。元來《ぐわんらい》學校《がくかう》では鉛筆畫《えんぴつぐわ》ばかりで、チヨーク畫《ぐわ》は教《をし》へない。自分《じぶん》もチヨークで畫《か》くなど思《おも》ひもつかんことであるから、畫《ゑ》の善惡《よしあし》は兔《と》も角《かく》、先《ま》づ此《この》一|事《じ》で自分《じぶん》は驚《おどろ》いてしまつた。その上《うへ》ならず、馬《うま》の頭《あたま》と髭髯《しぜん》面《めん》を被《おほ》ふ堂々《だう/\》たるコロンブスの肖像《せうざう》とは、一|見《けん》まるで比《くら》べ者《もの》にならんのである。且《か》つ鉛筆《えんぴつ》の色《いろ》はどんなに巧《たく》みに書《か》いても到底《たうてい》チヨークの色《いろ》には及《およ》ばない。畫題《ぐわだい》といひ色彩《しきさい》といひ、自分《じぶん》のは要《えう》するに少年《せうねん》が書《か》いた畫《ぐわ》、志村《しむら》のは本物《ほんもの》である。技術《ぎじゆつ》の巧拙《かうせつ》は問《と》ふ處《ところ》でない、掲《かゝ》げて以《もつ》て衆人《しゆうじん》の展覽《てんらん》に供《きよう》すべき製作《せいさく》としては、いかに我慢強《がまんづよ》い自分《じぶん》も自分《じぶん》の方《はう》が佳《い》いとは言《い》へなかつた。さなきだに志村《しむら》崇拜《すうはい》の連中《れんちゆう》は、これを見《み》て歡呼《くわんこ》して居《ゐ》る。『馬《うま》も佳《い》いがコロンブスは如何《どう》だ!』などいふ聲《こゑ》が彼處《あつち》でも此處《こつち》でもする。
 自分《じぶん》は學校《がくかう》の門《もん》を走《はし》り出《で》た。そして家《うち》には歸《かへ》らず、直《す》ぐ田甫《たんぼ》へ出《で》た。止《と》めやうと思《おも》ふても涙《なみだ》が止《と》まらない。口惜《くやし》いやら情《なさ》けないやら、前後夢中《ぜんごむちゆう》で川《かは》の岸《きし》まで走《はし》つて、川原《かはら》の草《くさ》の中《うち》に打倒《ぶつたふ》れてしまつた。
 足《あし》をばた/\やつて大聲《おほごゑ》を上《あ》げて泣《な》いて、それで飽《あ》き足《た》らず起上《おきあが》つて其處《そこ》らの石《いし》を拾《ひろ》ひ、四方八方[#ルビ抜けはママ]に投《な》げ付《つ》けて居《ゐ》た。
 かう暴《あば》れて居《ゐ》るうちにも自分《じぶん》は、彼奴《きやつ》何時《いつ》の間《ま》にチヨーク畫《ぐわ》を習《なら》つたらう、何人《だれ》が彼奴《きやつ》に教《をし》へたらうと其《そ》ればかり思《おも》ひ續《つゞ》けた。
 泣《な》いたのと暴《あば》れたので幾干《いくら》か胸《むね》がすくと共《とも》に、次第《しだい》に疲《つか》れて來《き》たので、いつか其處《そこ》に臥《ね》てしまひ、自分《じぶん》は蒼々《さう/\》たる大空《おほぞら》を見上《みあ》げて居《ゐ》ると、川瀬《かはせ》の音《おと》が淙々《そう/\》として聞《きこ》える。若草《わかくさ》を薙《な》いで來《く》る風《かぜ》が、得《え》ならぬ春《はる》の香《か》を送《おく》つて面《かほ》を掠《かす》める。佳《い》い心持《こゝろもち》になつて、自分《じぶん》は暫時《しばら》くぢつとして居《ゐ》たが、突然《とつぜん》、さうだ自分《じぶん》もチヨークで畫《か》いて見《み》やう、さうだといふ一|念《ねん》に打《う》たれたので、其儘《そのまゝ》飛《と》び起《お》き急《いそ》いで宅《うち》に歸《か》へり、父《ちゝ》の許《ゆるし》を得《え》て、直《す》ぐチヨークを買《か》ひ整《とゝの》へ畫板《ぐわばん》を提《ひつさ》げ直《す》ぐ又《また》外《そと》に飛《と》び出《だ》した。
 この時《とき》まで自分《じぶん》はチヨークを持《も》つたことが無《な》い。どういふ風《ふう》に書《か》くものやら全然《まるで》不案内《ふあんない》であつたがチヨークで書《か》いた畫《ゑ》を見《み》たことは度々《たび/\》あり、たゞこれまで自分《じぶん》で書《か》かないのは到底《たうてい》未《ま》だ自分《じぶん》どもの力《ちから》に及《およ》ばぬものとあきらめて居《ゐ》たからなので、志村《しむら》があの位《くら》ゐ書《か》けるなら自分《じぶん》も幾干《いくら》か出來《でき》るだらうと思《おも》つたのである。
 再《ふたゝ》び先《さき》の川邊《かはゞた》へ出《で》た。そして先《ま》づ自分《じぶん》の思《おも》ひついた畫題《ぐわだい》は水車《みづぐるま》、この水車《みづぐるま》は其以前《そのいぜん》鉛筆《えんぴつ》で書《か》いたことがあるので、チヨークの手始《てはじ》めに今《いま》一|度《ど》これを寫生《しやせい》してやらうと、堤《つゝみ》を辿《たど》つて上流《じやうりう》の方《はう》へと、足《あし》を向《む》けた。
 水車《みづぐるま》は川向《かはむかふ》にあつて其《その》古《ふる》めかしい處《ところ》、木立《こだち》の繁《しげ》みに半《なか》ば被《おほ》はれて居《ゐ》る案排《あんばい》、蔦葛《つたかづら》が這《は》ひ纏《まと》ふて居《ゐ》る具合《ぐあひ》、少年心《こどもごころ》にも面白《おもしろ》い畫題《ぐわだい》と心得《こゝろえ》て居《ゐ》たのである。これを對岸《たいがん》から寫《うつ》すので、自分《じぶん》は堤《つゝみ》を下《お》りて川原《かはら》の草原《くさはら》に出《で》ると、今《いま》まで川柳《かはやぎ》の蔭《かげ》で見《み》えなかつたが、一人《ひとり》の少年《せうねん》が草《くさ》の中《うち》に坐《すわ》つて頻《しき》りに水車《みづぐるま》を寫生《しやせい》して居《ゐ》るのを見《み》つけた。自分《じぶん》と少年《せうねん》とは四五十|間《けん》隔《へだ》たつて居《ゐ》たが自分《じぶん》は一|見《けん》して志村《しむら》であることを知《し》つた。彼《かれ》は一|心《しん》になつて居《ゐ》るので自分《じぶん》の近《ちかづ》いたのに氣《き》もつかぬらしかつた。
 おや/\、彼奴《きやつ》が來《き》て居《ゐ》る、どうして彼奴《きやつ》は自分《じぶん》の先《さき》へ先《さき》へと廻《ま》はるだらう、忌《い》ま/\しい奴《やつ》だと大《おほい》に癪《しやく》に觸《さは》つたが、さりとて引返《ひきか》へすのは猶《な》ほ慊《いや》だし、如何《どう》して呉《く》れやうと、其儘《そのまゝ》突立《つゝた》つて志村《しむら》の方《はう》を見《み》て居《ゐ》た。
 彼《かれ》は熱心《ねつしん》に書《か》いて居《ゐ》る草《くさ》の上《うへ》に腰《こし》から上《うへ》が出《で》て、其《その》立《た》てた膝《ひざ》に畫板《ぐわばん》が寄掛《よりか》けてある、そして川柳《かはやぎ》の影《かげ》が後《うしろ》から彼《かれ》の全身《ぜんしん》を被《おほ》ひ、たゞ其《その》白《しろ》い顏《かほ》の邊《あたり》から肩先《かたさき》へかけて楊《やなぎ》を洩《も》れた薄《うす》い光《ひかり》が穩《おだや》かに落《お》ちて居《ゐ》る。これは面白《おもし》ろい、彼奴《きやつ》を寫《うつ》してやらうと、自分《じぶん》は其儘《そのまゝ》其處《そこ》に腰《こし》を下《おろ》して、志村《しむら》其人《そのひと》の寫生《しやせい》に取《と》りかゝつた。それでも感心《かんしん》なことには、畫板《ぐわばん》に向《むか》うと最早《もはや》志村《しむら》もいま/\しい奴《やつ》など思《おも》ふ心《こゝろ》は消《き》えて書《か》く方《はう》に全《まつた》く心《こゝろ》を奪《と》られてしまつた。
 彼《かれ》は頭《かしら》を上《あ》げては水車《みづぐるま》を見《み》、又《また》畫板《ゑばん》に向《むか》ふ、そして折《を》り/\左《さ》も愉快《ゆくわい》らしい微笑《びせう》を頬《ほゝ》に浮《うか》べて居《ゐ》た彼《かれ》が微笑《びせう》する毎《ごと》に、自分《じぶん》も我知《われし》らず微笑《びせう》せざるを得《え》なかつた。
 さうする中《うち》に、志村《しむら》は突然《とつぜん》起《た》ち上《あ》がつて、其拍子《そのひやうし》に自分《じぶん》の方《はう》を向《む》いた、そして何《なん》にも言《い》ひ難《がた》き柔和《にうわ》な顏《かほ》をして、につこり[#「につこり」に傍点]と笑《わら》つた。自分《じぶん》も思《おも》はず笑《わら》つた。
『君《きみ》は何《なに》を書《か》いて居《ゐ》るのだ、』と聞《き》くから、
『君《きみ》を寫生《しやせい》して居《ゐ》たのだ。』
『僕《ぼく》は最早《もはや》水車《みづぐるま》を書《か》いてしまつたよ。』
『さうか、僕《ぼく》は未《ま》だ出來《でき》ないのだ。』
『さうか、』と言《い》つて志村《しむら》は其儘《そのまゝ》再《ふたゝ》び腰《こし》を下《お》ろし、もとの姿勢《しせい》になつて、
『書《か》き給《たま》へ、僕《ぼく》は其間《そのま》にこれを直《なほ》すから。』
 自分《じぶん》は畫《か》き初《はじ》めたが、畫《か》いて居《ゐ》るうち、彼《かれ》を忌《い》ま/\しいと思《おも》つた心《こゝろ》は全《まつた》く消《き》えてしまひ、却《かへつ》て彼《かれ》が可愛《かあい》くなつて來《き》た。其《その》うちに書《か》き終《をは》つたので、
『出來《でき》た、出來《でき》た!』と叫《さけ》ぶと、志村《しむら》は自分《じぶん》の傍《そば》に來《きた》り、
『をや君《きみ》はチヨークで書《か》いたね。』
『初《はじ》めてだから全然《まるで》畫《ゑ》にならん、君《きみ》はチヨーク畫《ぐわ》を誰《だれ》に習《なら》つた。』
『そら先達《せんだつて》東京《とうきやう》から歸《かへ》つて來《き》た奧野《おくの》さんに習《なら》つた然《しか》し未《ま》だ習《なら》ひたてだから何《なん》にも書《か》けない。』
『コロンブスは佳《よ》く出來《でき》て居《ゐ》たね、僕《ぼく》は驚《おどろ》いちやツた。』
 それから二人《ふたり》は連立《つれだ》つて學校《がくかう》へ行《い》つた。此以後《このいご》自分《じぶん》と志村《しむら》は全《まつた》く仲《なか》が善《よ》くなり、自分《じぶん》は心《こゝろ》から志村《しむら》の天才《てんさい》に服《ふく》し、志村《しむら》もまた元來《ぐわんらい》が温順《おとな》しい少年《せうねん》であるから、自分《じぶん》を又無《またな》き朋友《ほういう》として親《した》しんで呉《く》れた。二人[#ルビ抜けはママ]で畫板《ゑばん》を携《たづさ》へ野山《のやま》を寫生《しやせい》して歩《ある》いたことも幾度《いくど》か知《し》れない。
 間《ま》もなく自分《じぶん》も志村《しむら》も中學校《ちゆうがくかう》に入《い》ることゝなり、故郷《こきやう》の村落《そんらく》を離《はな》れて、縣《けん》の中央《ちゆうわう》なる某町《ぼうまち》に寄留《きりう》することゝなつた。中學《ちゆうがく》に入《い》つても二人[#ルビ抜けはママ]は畫《ゑ》を書《か》くことを何《なに》よりの樂《たのしみ》にして、以前《いぜん》と同《おな》じく相伴《あひともな》ふて寫生《しやせい》に出掛《でか》けて居《ゐ》た。
 此《この》某町《ぼうまち》から我村落《わがそんらく》まで七|里《り》、若《も》し車道《しやだう》をゆけば十三|里《り》の大迂廻《おほまはり》になるので我々《われ/\》は中學校《ちゆうがくかう》の寄宿舍《きしゆくしや》から村落《そんらく》に歸《かへ》る時《とき》、決《けつ》して車《くるま》に乘《の》らず、夏《なつ》と冬《ふゆ》の定期休業《ていききうげふ》毎《ごと》に必《かなら》ず、此《この》七|里《り》の途《みち》を草鞋《わらぢ》がけで歩《ある》いたものである。
 七|里《り》の途《みち》はたゞ山《やま》ばかり、坂《さか》あり、谷《たに》あり、溪流《けいりう》あり、淵《ふち》あり、瀧《たき》あり、村落《そんらく》あり、兒童《じどう》あり、林《はやし》あり、森《もり》あり、寄宿舍《きしゆくしや》の門《もん》を朝早《あさはや》く出《で》て日《ひ》の暮《くれ》に家《うち》に着《つ》くまでの間《あひだ》、自分《じぶん》は此等《これら》の形《かたち》、色《いろ》、光《ひかり》、趣《おもむ》きを如何《どう》いふ風《ふう》に畫《か》いたら、自分《じぶん》の心《こゝろ》を夢《ゆめ》のやうに鎖《と》ざして居《ゐ》る謎《なぞ》を解《と》くことが出來《でき》るかと、それのみに心《こゝろ》を奪《と》られて歩《ある》いた。志村《しむら》も同《おな》じ心《こゝろ》、後《あと》になり先《さき》になり、二人《ふたり》で歩《ある》いて居《ゐ》ると、時々《とき/″\》は路傍《ろばう》に腰《こし》を下《お》ろして鉛筆《えんぴつ》の寫生《しやせい》を試《こゝろ》み、彼《かれ》が起《た》たずば我《われ》も起《た》たず、我《われ》筆《ふで》をやめずんば彼《かれ》も止《や》めないと云《い》ふ風《ふう》で、思《おも》はず時《とき》が經《た》ち、驚《おど》ろいて二人《ふたり》とも、次《つぎ》の一|里《り》を駈足《かけあし》で飛《と》んだこともあつた。
 爾來《じらい》數年《すねん》、志村《しむら》は故《ゆゑ》ありて中學校《ちゆうがくかう》を退《しりぞ》いて村落《そんらく》に歸《かへ》り、自分《じぶん》は國《くに》を去《さ》つて東京《とうきやう》に遊學《いうがく》することゝなり、いつしか二人《ふたり》の間《あひだ》には音信《おんしん》もなくなつて、忽《たちま》ち又四五年[#ルビ抜けはママ]|經《た》つてしまつた。東京《とうきやう》に出《で》てから、自分《じぶん》は畫《ゑ》を思《おも》ひつゝも畫《ゑ》を自《みづか》ら書《か》かなくなり、たゞ都會《とくわい》の大家《たいか》の名作《めいさく》を見《み》て、僅《わづか》に自分《じぶん》の畫心《ゑごころ》を滿足《まんぞく》さして居《ゐ》たのである。
 處《ところ》が自分《じぶん》の二十の時《とき》であつた、久《ひさ》しぶりで故郷《こきやう》の村落《そんらく》に歸《かへ》つた。宅《たく》の物置《ものおき》に曾《かつ》て自分《じぶん》が持《もち》あるいた畫板《ゑばん》が有《あ》つたの[#(を脱カ)の注記]見《み》つけ、同時《どうじ》に志村《しむら》のことを思《おも》ひだしたので、早速《さつそく》人《ひと》に聞《き》いて見《み》ると、驚《おどろ》くまいことか、彼《かれ》は十七の歳《とし》病死《びやうし》したとのことである。
 自分《じぶん》は久《ひさ》しぶりで畫板《ゑばん》と鉛筆《えんぴつ》を提《ひつさ》げて家《いへ》を出《で》た。故郷《こきやう》の風景《ふうけい》は舊《もと》の通《とほ》りである、然《しか》し自分《じぶん》は最早《もはや》以前《いぜん》の少年《せうねん》ではない、自分《じぶん》はたゞ幾歳《いくつ》かの年《とし》を増《ま》したばかりでなく、幸《かう》か不幸《ふかう》か、人生《じんせい》の問題《もんだい》になやまされ、生死《せいし》の問題《もんだい》に深入《ふかい》りし、等《ひと》しく自然《しぜん》に對《たい》しても以前《いぜん》の心《こゝろ》には全《まつた》く趣《おもむき》を變《か》へて居《ゐ》たのである。言《い》ひ難《がた》き暗愁《あんしう》は暫時《しばらく》も自分《じぶん》を安《やす》めない。
 時《とき》は夏《なつ》の最中《もなか》自分《じぶん》はたゞ畫板《ゑばん》を提《ひつさ》げたといふばかり、何《なに》を書《か》いて見《み》る氣《き》にもならん、獨《ひと》りぶら/\と野末《のずゑ》に出《で》た。曾《かつ》て志村《しむら》と共《とも》に能《よ》く寫生《しやせい》に出《で》た野末《のずゑ》に。
 闇《やみ》にも歡《よろこ》びあり、光《ひかり》にも悲《かなしみ》あり麥藁帽《むぎわらばう》の廂《ひさし》を傾《かたむ》けて、彼方《かなた》の丘《をか》、此方《こなた》の林《はやし》を望《のぞ》めば、まじ/\と照《て》る日《ひ》に輝《かゞや》いて眩《まば》ゆきばかりの景色《けしき》。自分《じぶん》は思《おも》はず泣《な》いた。

底本:「定本 国木田独歩全集 第二巻」学習研究社
   1964(昭和39)年7月1日初版発行
   1978(昭和53)年3月1日増訂版発行
   1995(平成7)年7月3日増補版発行
底本の親本:「運命」佐久良書房
   1906(明治39)年3月発行
初出:「青年界」第一卷第二號
   1902(明治35)年8月1日発行
入力:鈴木厚司
校正:小林繁雄
2001年12月21日公開
2004年7月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

河霧——国木田独歩

 上田豊吉《うえだとよきち》がその故郷《ふるさと》を出たのは今よりおおよそ二十年ばかり前のことであった。
 その時かれは二十二歳であったが、郷党みな彼が前途《ゆくすえ》の成功を卜《ぼく》してその門出《かどで》を祝した。
『大いなる事業』ちょう言葉の宮の壮麗《うるわ》しき台《うてな》を金色《こんじき》の霧の裡《うち》に描いて、かれはその古き城下を立ち出《い》で、大阪京都をも見ないで直ちに東京へ乗り込んだ。
 故郷の朋友《ほうゆう》親籍《しんせき》兄弟《けいてい》、みなその安着の報《しらせ》を得て祝し、さらにかれが成功を語り合った。
 しかるに、ただ一人《ひとり》、『杉の杜《もり》のひげ』とあだ名せられて本名は並木善兵衛《なみきぜんべえ》という老人のみが次のごとくに言った。
『豊吉が何をしでかすものぞ、五年十年のうちにはきっと蒼《あお》くなって帰って来るから見ていろ。』
『なぜ?』その席にいた豊吉の友が問うた。
 老人は例の雪のような髭髯《ひげ》をひねくりながらさみしそうに悲しそうに、意地のわるそうに笑ったばかりで何とも答えなかった。
 そこで少しばかりこの老人の事を話して置くが、「杉の杜《もり》のひげ」と言われてその名が通っているだけ、岩――のものでそのころこの奇体な老人を知らぬ者はないほどであった。
 髭髯《ひげ》が雪のように白いところからそのあだ名を得たとはいうものの小さなきたならしい老人で、そのころ七十いくつとかでもすこぶる強壮なこつ[#「こつ」に傍点]こつした体格《からだ》であった。
 この老人がその小さな丸い目を杉の杜《もり》の薄暗い陰でビカビカ輝《ひか》らせて、黙って立っているのを見るとだれも薄気味の悪い老翁《じいさん》だと思う、それが老翁《じいさん》ばかりでなく「杉の杜」というのが、岩――の士族屋敷ではこの「ひげ」の生まれない前のもっと前からすでに気味の悪いところになっているので幾百年かたって今はその根方《ねがた》の周囲《まわり》五抱《いつかか》えもある一本の杉が並木善兵衛の屋敷の隅《すみ》に聳《つ》ッ立ッていてそこがさびしい四辻《よつつじ》になっている。
 善兵衛は若い時分から口の悪い男で、少し変物《へんぶつ》で右左を間違えて言う仲間の一人であったが、年を取るとよけいに口が悪くなった。
『彼奴《きゃつ》は遠からず死ぬわい』など人の身の上に不吉きわまる予言を試みて平気でいる、それがまた奇妙にあたる。むずかしく言えば一種霊活な批評眼を備えていた人、ありていに言えば天稟《てんりん》の直覚力が鋭利である上に、郷党が不思議がればいよいよ自分もよけいに人の気質、人の運命などに注意して見るようになり、それがおもしろくなり、自慢になり、ついに熟練になったのである。彼は決して卜者《うらない》ではなかった。
 そこで豊吉はこの「ひげ」と別に交際《ゆきき》もしないくせに「ひげ」は豊吉の上にあんな予言をした。
 そしてそれが二十年ぶりにあたった。あたったといえばそれだけであるが、それに三つの意味が含まれている。
『豊吉が何をしでかすものぞ、』これがその一、
『五年十年のうちには、』これがその二、
『きっと帰って来る、』これがその三。
 薄気味の悪い「ひげ」が黄鼠《いたち》のような目を輝《ひか》らせて杉の杜の陰からにらんだところを今少し詳しく言えば、
 豊吉は善人である、また才もある、しかし根《こん》がない、いや根も随分あるが、どこかに影の薄いような気味があって、そのすることが物の急所にあたらない。また力いっぱいに打ち込んだ棒の音が鈍く反響するというようなところがある。
 豊吉は善人である、情に厚い、しかし胆《きも》が小さい、と言うよりもむしろ、気が小さいので磯ぎんちゃく[#「ぎんちゃく」に傍点]と同質である。
 そこで彼は失敗やら成功やら、二十年の間に東京を中心としておもに東北地方を舞台に色んな事をやって見たが、ついに失敗に終わったと言うよりもむしろ、もはや精根の泉を涸《か》らしてしまった。
 そして故郷へ帰って来た。漂って来たのではない、実に帰って来たのである。彼はいかなる時にもその故郷を忘れ得なかった。いかにかれは零落するとも、都の巷に白馬《どぶろく》を命として埃芥《あくた》のように沈澱《ちんでん》してしまう人ではなかった。
 しかし「ひげ」の「五年十年」はあたらなかった、二十年ぶりに豊吉は帰って来た、しかも「ひげ」の「五年十年」には意味があるので、実にあたったのである。すなわち豊吉はたちまち失敗してたちまち逃げて帰って来るような男ではない、やれるだけはやって見る質《たち》であった。
 さて「杉の杜《もり》のひげ」の予言はことごとくあたった。しかしさすがの「ひげ」も取り逃がした予言が一つある、ただ幾百年の間、人間の運命をながめていた「杉の杜」のみは予《あらかじ》め知っていたに違いない。

 夏の末、秋の初めの九月なかば日曜の午後一時ごろ、「杉の杜」の四辻にぼんやり立っている者がある。
 年のころは四十ばかり、胡麻白頭《ごましろあたま》の色の黒い頬《ほお》のこけた面長《おもなが》な男である。
 汗じみて色の変わった縮布《ちぢみ》の洋服を着て脚絆《きゃはん》の紺《こん》もあせ草鞋《わらじ》もぼろぼろしている。都からの落人《おちびと》でなければこんな風《ふう》をしてはいない。すなわち上田豊吉である。
 二十年ぶりの故郷の様子は随分変わっていた。日本全国、どこの城下も町は新しく変わり、士族小路は古く変わるのが例であるが岩――もその通りで、町の方は新しい建物もでき、きらびやかな店もできて万《よろず》、何となく今の世のさまにともなっているが、士族屋敷の方はその反対で、いたるところ、古い都の断礎《だんそ》のような者があって一種言うべからざる沈静の気がすみずみまで行き渡っている。
 豊吉はしばらく杉の杜の陰で休んでいたが、気の弱いかれは、かくまでに零落《おちぶ》れてその懐《なつ》かしい故郷に帰って来ても、なお大声をあげて自分の帰って来たのを言いふらすことができない、大手を振って自分の生まれた土地を歩くことができない、直ちに兄の家《うち》、すなわち自分の生まれた家に行くことができない。
 かれは恐る恐るそこらをぶらつき初めた。夢路《ゆめじ》を歩む心地《ここち》で古い記憶の端々《はしばし》をたどりはじめた。なるほど、様子が変わった。
 しかしやはり、変わらない。二十年|前《まえ》の壁の穴が少し太くなったばかりである、豊吉が棒の先でいたずらに開《あ》けたところの。
 ただ豊吉の目には以前より路幅《みちはば》が狭くなったように思われ、樹《き》が多くなったように見え、昔よりよほどさびしくなったように思われた。蝉《せみ》がその単調な眠そうな声で鳴いている、寂《しん》とした日の光がじりじりと照りつけて、今しもこの古い士族屋敷は眠ったように静かである。
 杉の生垣《いけがき》をめぐると突き当たりの煉塀《ねりべい》の上に百日紅《ひゃくじつこう》が碧《みどり》の空に映じていて、壁はほとんど蔦《つた》で埋もれている。その横に門がある。樫《かし》、梅、橙《だいだい》などの庭木の門の上に黒い影を落としていて、門の内には棕櫚《しゅろ》の二、三本、その扇めいた太い葉が風にあおられながらぴかぴかと輝《ひか》っている。
 豊吉はうなずいて門札を見ると、板の色も文字の墨も同じように古びて「片山四郎」と書いてある。これは豊吉の竹馬《ちくば》の友である。
『達者《たっしゃ》でいるらしい、』かれは思った、『たぶん子供もできていることだろう。』
 かれはそっと内をのぞいた。桑園《くわばたけ》の方から家鶏《にわとり》が六、七羽、一羽の雄に導かれてのそのそと門の方へやって来るところであった。
 たちまち車井《くるまい》の音が高く響いたと思うと、『お安、金盥《かなだらい》を持って来てくれろ』という声はこの家の主人《あるじ》らしい。豊吉は物に襲われたように四辺《あたり》をきょろきょろと見まわして、急いで煉塀《ねりべい》の角《かど》を曲がった。四辺《あたり》には人らしき者の影も見えない。
『四郎だ四郎だ、』豊吉はぼんやり立って目を細くして何を見るともなくその狭い樹《き》の影の多い路の遠くをながめた。路の遠くには陽炎《かげろう》がうらうらとたっている。
 一匹の犬が豊吉の立っているすぐそばの、寒竹《かんちく》の生垣の間から突然現われて豊吉を見て胡散《うさん》そうに耳を立てたが、たちまち垣の内で口笛が一声二声高く響くや犬はまた駆け込んでしまった。豊吉は夢のさめたようにちょっと目をみはって、さびしい微笑を目元に浮かべた。
 すると、一人の十二、三の少年《こども》が釣竿《つりざお》を持って、小陰から出て来て豊吉には気が付かぬらしく、こなたを見向きもしないで軍歌らしいものを小声で唱《うた》いながらむこうへ行く、その後《あと》を前の犬が地をかぎかぎお伴《とも》をしてゆく。
 豊吉はわれ知らずその後《あと》について、じっと少年《こども》の後ろ影を見ながらゆく、その距離は数十歩である、実は三十年の歳月であった。豊吉は昔のわれを目の前にありありと見た。
 少年《こども》と犬との影が突然消えたと思うと、その曲がり角のすぐ上の古木《こぼく》、昔のままのその枝ぶり、蝉《せみ》のとまり[#「とまり」に傍点]どころまでが昔そのままなる――豊吉は『なるほど、今の児《こ》はあそこへ行くのだな』とうれしそうに笑ッて梅の樹《き》を見上げて、そして角を曲がった。
 川柳《かわやなぎ》の陰になった一|間《けん》幅ぐらいの小川の辺《ほとり》に三、四人の少年《こども》が集まっている、豊吉はニヤニヤ笑って急いでそこに往《い》った。
 大川の支流のこの小川のここは昔からの少年《こども》の釣り場である。豊吉は柳の陰に腰掛けて久しぶりにその影を昔の流れに映した。小川の流れはここに来て急に幅広くなって、深くなって静かになって暗くなっている。
 柳の間をもれる日の光が金色《こんじき》の線を水の中《うち》に射て、澄み渡った水底《みなぞこ》の小砂利《じゃり》が銀のように碧玉《たま》のように沈んでいる。
 少年《こども》はかしこここの柳の株に陣取って釣っていたが、今来た少年《こども》の方を振り向いて一人の十二、三の少年《こども》が
『檜山《ひやま》! これを見ろ!』と言って腹の真っ赤な山※[#「魚+條」、第4水準2-93-74]《やまばえ》の尺にも近いのを差し上げて見せた。そして自慢そうに、うれしそうに笑った。
『上田、自慢するなッ』と一人の少年《こども》が叫んだ。
 豊吉はつッと立ち上がって、上田と呼ばれた少年《こども》の方を向いて眉《まゆ》に皺《しわ》を寄せて目を細くしてまぶしそうに少年《こども》の顔を見た。そしてそのそばに往《い》った。
『どれ、今のをお見せなさい、』と豊吉は少年《こども》の顔を見ながら言ッた。
 少年《こども》はいぶかしそうに豊吉を見て、不精無精《ふしょうぶしょう》に籠《かご》の口を豊吉の前に差し向けた。
『なるほど、なるほど。』豊吉はちょっと籠《かご》の中を見たばかりで、少年《こども》の顔をじっと見ながら『なるほど、なるほど』といって小首を傾けた。
 少年《こども》は『大きいだろう!』と鋭く言い放ってひったくるように籠を取って、水の中に突き込んだ。そして水の底をじっと見て、もう傍《かたわ》らに人あるを忘れたようである。
 豊吉はあきれてしまった。『どうしても阿兄《あにき》の子だ、面相《おもざし》のよく似ているばかりか、今の声は阿兄《あにき》にそっくりだ』となおも少年《こども》の横顔を見ていたが、画《え》だ、まるで画であった! この二人《ふたり》のさまは。
 川柳は日の光にその長い青葉をきらめかして、風のそよぐごとに黒い影と入り乱れている。その冷ややかな陰の水際《みぎわ》に一人の丸く肥《ふと》ッた少年《こども》が釣りを垂《た》れて深い清い淵《ふち》の水面を余念なく見ている、その少年《こども》を少し隔《はな》れて柳の株に腰かけて、一人の旅人、零落と疲労をその衣服《きもの》と容貌《かお》に示し、夢みるごときまなざしをして少年《こども》をながめている。小川の水上《みなかみ》の柳の上を遠く城山《じょうざん》の石垣《いしがき》のくずれたのが見える。秋の初めで、空気は十分に澄んでいる、日の光は十分に鮮やかである。画だ! 意味の深い画である。
 豊吉の目は涙にあふれて来た。瞬《またた》きをしてのみ込んだ時、かれは思わはずその涙をはふり落とした。そして何ともいえない懐《ゆか》しさを感じて、『ここだ、おれの生まれたのはここだ、おれの死ぬのもここだ、ああうれしいうれしい、安心した』という心持ちが心の底からわいて来て、何となく、今までの長い間の辛苦|艱難《かんなん》が皮のむけたように自分を離れた心地がした。
『お前のおとっさんの名はなんていうかね』と豊吉は親しげに少年《こども》に近づいた。
 少年《こども》は目を丸くして豊吉を見た。豊吉はなおも親しげに、
『貫一《かんいち》というだろう?』
 少年《こども》は驚いて豊吉の顔をじっと見つめた。豊吉は少し笑いを含んで、
『貫一さんは丈夫《たっしゃ》かね。』
『達者《たっしゃ》だ。』
『それで安心しました、ああそれで安心しました。お前は豊吉という叔父さんのことをおとっさんから聞いたことがあろう。』
 少年《こども》はびっくりして立ちあがった。
『お前の名は?』
『源造《げんぞう》。』
『源造、おれはお前の叔父さんだ、豊吉だ。』
 少年《こども》は顔色を変えて竿《さお》を投げ捨てた。そして何も言わず、士族屋敷の方へといっさんに駆けていった。
 ほかの少年《こども》らも驚いて、豊吉を怪しそうに見て、急に糸を巻くやら籠《かご》を上げるやら、こそこそと逃げていってしまった。
 豊吉はあきれ返って、ぼんやり立って、少年《こども》らの駆けて行く後ろ影を見送った。

『上田の豊さんが帰ったそうだ』と彼を記憶しうわさしていた人々はみんなびっくりした。
 豊吉|二十《はたち》のころの知人みな四十五十の中老《ちゅうろう》になって、子供もあれば、中には孫もある、その人々が続々と見舞にくる、ことに女の人、昔美しかった乙女《おとめ》の今はお婆《ばあ》さんの連中が、また続々と見舞に来る。
 人々は驚いた、豊吉のあまりに老いぼれたのに。人々は祝った、その無事であッたを。人々は気の毒に思った、何事もなし得ないで零落《おちぶ》れて帰ったのを。そして笑った、そして泣いた、そして言葉を尽くして慰めた。
 ああ故郷《ふるさと》! 豊吉は二十年の間、一日も忘れたことはなかった、一時の成功にも一時の失敗にも。そして今、全然失敗して帰ッて来た、しかしかくまでに人々がわれに優しいこととは思わなかった。
 彼は驚いた、兄をはじめ人々のあまりに優しいのに。そして泣いた、ただ何とはなしにうれしく悲しくって。そしてがっかり[#「がっかり」に傍点]して急に年を取ッた。そして希望なき零落の海から、希望なき安心の島にと漂着した。
 かれの兄はこの不幸なる漂流者を心を尽くして介抱した。その子供らはこの人のよい叔父にすっかり、懐《なつ》いてしまった。兄貫一の子は三人あって、お花というが十五歳で、その次が前《さき》の源造、末が勇《いさむ》という七歳《ななつ》のかあいい児《こ》である。
 お花は叔父を慰め、源造は叔父さんと遊び、勇は叔父さんにあまえた。豊吉はお花が土蔵《くら》の前の石段に腰掛けて唱《うた》う唱歌をききながら茶室《はなれ》の窓に倚《よ》りかかって居眠り、源造に誘われて釣りに出かけて居眠りながら釣り、勇の馬になッて、のそのそと座敷をはいまわり、馬の嘶《な》き声を所望《しょもう》されて、牛の鳴くまねと間違えて勇に怒《おこ》られ、家《うち》じゅうを笑わせた。
 かかる際《ひま》にお花と源造に漢書の素読《そどく》、数学英語の初歩などを授けたが源因《もと》となり、ともかく、遊んでばかりいてはかえってよくない、少年《こども》を集めて私塾《しじゅく》のようなものでも開いたら、自分のためにも他人《ひと》のためにもなるだろうとの説が人々の間に起こって、兄も無論賛成してこの事を豊吉に勧めてみた。
 豊吉は同意した。そして心ひそかに歓《よろこ》んだ、その理由《わけ》は、かれ初めより無事に日を送ることをよろこばなかった、のみならずついに何事をもなさず何をしでかすることなく一生|空《むな》しく他《ひと》の厄介で終わるということは彼にとって多少の苦痛であった。
 希望なき安心の遅鈍なる生活もいつしか一月ばかり経《た》って、豊吉はお花の唱歌を聞きながら、居眠ってばかりいない、秋の夕空晴れて星の光も鮮《あざ》やかなる時、お花に伴われてかの小川の辺《ほとり》など散歩し、お花が声低く節《ふし》哀れに唱うを聞けばその沈みはてし心かすかに躍りて、その昔、失敗しながらも煩悶《はんもん》しながらもある仕事を企ててそれに力を尽くした日の方が、今の安息無事よりも願わしいように感じた。
 かれは思った、他郷《よそ》に出て失敗したのはあながちかれの罪ばかりでない、実にまた他郷の人の薄情《つれな》きにもよるのである、さればもしこのような親切な故郷の人々の間にいて、事を企てなば、必ず多少の成功はあるべく、以前のような形《かた》なしの失敗はあるまいと。
 かれは自分を知らなかった。自分の影がどんなに薄いかを知らなかった。そして喜んで私塾設立の儀を承諾した、さなきだにかれは自分で何らの仕事をか企てんとしていて言い出しにくく思っていたところであるから。
「杉の杜《もり》の髯《ひげ》」の予言のあたったのはここまでである。さてこの以後が「髯」の予言しのこした豊吉の運命である。

 月のよくさえた夜の十時ごろであった。大川が急に折れて城山《じょうざん》の麓《ふもと》をめぐる、その崖《がけ》の上を豊吉|独《ひと》り、おのが影を追いながら小さな藪路《やぶみち》をのぼりて行く。
 藪の小路《こみち》を出ると墓地がある。古墳累々と崖の小高いところに並んで、月の光を受けて白く見える。豊吉は墓の間を縫いながら行くと、一段高いところにまた数十の墓が並んでいる、その中のごく小さな墓――小松の根にある――の前に豊吉は立ち止まった。
 この墓が七年前に死んだ「並木善兵衛之墓」である、「杉の杜の髯」の安眠所である。
 この日、兄の貫一その他の人々は私塾設立の着手に取りかかり、片山という家《うち》の道場を借りて教場にあてる事にした。この道場というは四|間《けん》と五間の板間《いたのま》で、その以前豊吉も小学校から帰り路、この家の少年《こども》を餓鬼大将として荒《あば》れ回ったところである。さらに維新前はお面《めん》お籠手《こて》の真《まこと》の道場であった。
 人々は非常に奔走して、二十人の生徒に用いられるだけの机と腰掛けとを集めた、あるいは役場の物置より、あるいは小学校の倉の隅《すみ》より、半ば壊《こわ》れて用に立ちそうにないものをそれぞれ繕ってともかく、間に合わした。
 明日は開校式を行なうはずで、豊吉自らも色んな準備をして、演説の草稿まで作った。岩――の士族屋敷もこの日はそのために多少の談話と笑声《しょうせい》とを増し、日常《ひごろ》さびしい杉の杜《もり》付近までが何となく平時《ふだん》と異《ちが》っていた。
 お花は叔父のために『君が代』を唱うことに定まり、源造は叔父さんが先生になるというので学校に行ってもこの二、三|日《ち》は鼻が高い。勇は何で皆が騒ぐのか少しも知らない。
 そこでその夜《よ》、豊吉は片山の道場へ明日の準備のしのこり[#「しのこり」に傍点]をかたづけにいって、帰路、突然方向を変えて大川の辺《ほとり》へ出たのであった。「髯」の墓に豊吉は腰をかけて月を仰いだ。「髯」は今の豊吉を知らない、豊吉は昔の「髯」の予言を知らない。
 豊吉は大川の流れを見|下《お》ろしてわが故郷《ふるさと》の景色をしばし見とれていた、しばらくしてほっと嘆息《ためいき》をした、さもさもがっかり[#「がっかり」に傍点]したらしく。
 実にそうである、豊吉の精根は枯れていたのである。かれは今、堪《た》ゆべからざる疲労を感じた。私塾の設立! かれはこの言葉のうち、何らの弾力あるものを感じなくなった。
 山河月色《さんかげっしょく》、昔のままである。昔の知人の幾人《いくたり》かはこの墓地に眠っている。豊吉はこの時つくづくわが生涯の流れももはや限りなき大海《だいかい》近く流れ来たのを感じた。われとわが亡友《なきとも》との間、半透明の膜一重《まくひとえ》なるを感じた。
 そうでない、ただかれは疲れはてた。一杯の水を求めるほどの気もなくなった。
 豊吉は静かに立ち上がって河の岸に下りた。そして水の潯《ほとり》をとぼとぼとたどって河下《かわしも》の方へと歩いた。
 月はさえにさえている。城山《じょうざん》は真っ黒な影を河に映している。澱《よど》んで流るる辺《あた》りは鏡のごとく、瀬をなして流るるところは月光砕けてぎらぎら輝《ひか》っている。豊吉は夢心地になってしきりに流れを下った。
 河舟《かわぶね》の小さなのが岸に繋《つな》いであった。豊吉はこれに飛び乗るや、纜《ともづな》を解いて、棹《みざお》を立てた。昔の河遊びの手練《しゅれん》がまだのこっていて、船はするすると河心《かしん》に出た。
 遠く河すそをながむれば、月の色の隈《くま》なきにつれて、河霧夢のごとく淡く水面に浮かんでいる。豊吉はこれを望んで棹《みざお》を振るった。船いよいよ下れば河霧次第に遠ざかって行く。流れの末は間もなく海である。
 豊吉はついに再び岩――に帰って来なかった。もっとも悲しんだものはお花と源造であった。


(明治三十一年八月作)

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「国民之友」
   1898(明治31)年8月
入力:土屋隆
校正:蒋龍
2009年3月28日作成
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国木田独歩

運命論者——国木田独歩

      一

 秋の中過《なかばすぎ》、冬近くなると何《いず》れの海浜《かいひん》を問《とわ》ず、大方は淋《さび》れて来る、鎌倉《かまくら》も其《その》通《とお》りで、自分のように年中住んで居《い》る者の外《ほか》は、浜へ出て見ても、里の子、浦の子、地曳網《じびきあみ》の男、或《あるい》は浜づたいに往通《ゆきかよ》う行商《あきんど》を見るばかり、都人士《とじんし》らしい者の姿を見るのは稀《まれ》なのである。
 或日《あるひ》自分は何時《いつも》のように滑川《なめりがわ》の辺《ほとり》まで散歩して、さて砂山に登ると、思《おもい》の外、北風が身に沁《しむ》ので直《す》ぐ麓《ふもと》に下《おり》て其処《そこ》ら日あたりの可《よ》い所、身体《からだ》を伸《のば》して楽に書《ほん》の読めそうな所と四辺《あたり》を見廻《みま》わしたが、思うようなところがないので、彼方此方《あちらこちら》と探し歩いた、すると一個所、面白い場所を発見《みつ》けた。
 砂山が急に崩《ほ》げて草の根で僅《わずか》にそれを支《ささ》え、其《その》下《した》が崕《がけ》のようになって居《い》る、其|根方《ねかた》に座って両足を投げ出すと、背は後《うしろ》の砂山に靠《もた》れ、右の臂《ひじ》は傍らの小高いところに懸《かか》り、恰度《ちょうど》ソハに倚《よ》ったようで、真《まこと》に心持の佳《よ》い場処《ばしょ》である。
 自分は持《もっ》て来た小説を懐《ふところ》から出して心|長閑《のどか》に読んで居ると、日は暖《あたた》かに照り空は高く晴れ此処《ここ》よりは海も見えず、人声も聞えず、汀《なぎさ》に転《ころ》がる波音の穏かに重々しく聞える外《ほか》は四囲《あたり》寂然《ひっそり》として居るので、何時《いつ》しか心を全然《すっかり》書籍《ほん》に取られて了《しま》った。
 然《しかる》にふと物音の為《し》たようであるから何心なく頭を上げると、自分から四五間離れた処《ところ》に人が立《たっ》て居たのである。何時此処へ来て、何処《どこ》から現われたのか少《すこし》も気がつかなかったので、恰《あだか》も地の底から湧出《わきで》たかのように思われ、自分は驚いて能《よ》く見ると年輩《とし》は三十ばかり、面長《おもなが》の鼻の高い男、背はすらりとした※[#「月+叟」、第4水準2-85-45]形《やさがた》、衣装《みなり》といい品といい、一見して別荘に来て居る人か、それとも旅宿《やど》を取って滞留して居る紳士と知れた。
 彼は其処《そこ》につッ立って自分の方を凝《じっ》と見て居る其《その》眼《め》つきを見て自分は更に驚き且《か》つ怪しんだ。敵《かたき》を見る怒《いかり》の眼か、それにしては力薄し。人を疑う猜忌《さいぎ》の眼か、それにしては光鈍し。たゞ何心なく他を眺《ながむ》る眼にしては甚《はなは》[#「甚」は底本では「其」]だ凄味《すごみ》を帯ぶ。
 妙な奴《やつ》だと自分も見返して居ること暫《しば》し、彼は忽《たちま》ち眼を砂の上に転じて、一歩一歩、静かに歩きだした。されども此《この》窪地《くぼち》の外に出ようとは仕《し》ないで、たゞ其処らをブラブラ歩いて居る、そして時々|凄《すご》い眼で自分の方を見る、一たいの様子が尋常でないので、自分は心持が悪くなり、場所を変る積《つもり》で其処を起《た》ち、砂山の上まで来て、後《うしろ》を顧《かえりみ》ると、如何《どう》だろう怪《あやし》の男は早くも自分の座って居た場処に身体《からだ》を投げて居た! そして自分を見送って居る筈《はず》が、そうでなく立《たて》た膝《ひざ》の上に腕組をして突伏《つッぷ》して顔を腕の間に埋《うず》めて居た。
 余りの不思議さに自分は様子を見てやる気になって、兎《と》ある小蔭《こかげ》に枯草を敷て這《は》いつくばい、書《ほん》を見ながら、折々頭を挙げて彼《か》の男を覗《うかが》って居《い》た。
 彼はやゝ暫《しばら》く顔を上《あげ》なかった。けれども十分とは自分を待《また》さなかった、彼の起《たち》あがるや病人の如《ごと》く、何となく力なげであったが、起《た》ったと思うと其《その》儘《まま》くるり[#「くるり」に傍点]と後向《うしろむき》になって、砂山の崕《がけ》に面と向き、右の手で其|麓《ふもと》を掘りはじめた。
 取り出した物は大きな罎《びん》、彼は袂《たもと》からハンケチを出して罎の砂を払い、更に小な洋盃《コップ》様のものを出して、罎の栓《せん》を抜《ぬく》や、一盃《いっぱい》一盃、三四杯続けさまに飲んだが、罎を静かに下に置き、手に杯を持たまゝ、昂然《こうぜん》と頭《こうべ》をあげて大空を眺《なが》めて居た。
 そして又《また》一杯飲んだ。そして端《はし》なく眼《まなこ》を自分の方へ転じたと思うと、洋杯《コップ》を手にしたまゝ自分の方へ大股《おおまた》で歩いて来る、其|歩武《ほぶ》の気力ある様は以前の様子と全然《まるで》違うて居た。
 自分は驚いて逃げ出そうかと思った。然《しか》し直《す》ぐ思い返して其《その》まゝ横になって居ると、彼は間もなく自分の傍《そば》まで来て、怪《あやし》げな笑味《えみ》を浮べながら
「貴様《あなた》は僕が今何を為《し》たか見て居たでしょう?」
と言った声は少し嗄《しわが》れて居た。
「見て居ました。」と自分は判然《はっきり》答えた。
「貴様は他人《ひと》の秘密を覗《うか》がって可《よ》いと思いますか。」と彼は益《ますます》怪げな笑味《えみ》を深くする。
「可《よ》いとは思いません。」
「それなら何故《なぜ》僕の秘密を覗《うかが》いました。」
「僕は此処《ここ》で書籍《ほん》を読むの自由を持《もっ》て居ます。」
「それは別問題です。」と彼は一寸《ちょっと》眼を自分の書籍《ほん》の上に注いだ。
「別問題ではありません。貴様が何《な》にを為《し》ようと僕が何を為《し》ようと、それが他人《ひと》に害を及ぼさぬ限りはお互の自由です。若《も》し貴様《あなた》に秘密があるなら自《みず》から先《ま》ず秘密に為《し》たら可《よ》いでしょう。」
 彼は急にそわ/\して左の手で頭の毛を揉《むし》るように掻《か》きながら、
「そうです、そうです。けれども彼《あ》れが僕の做《な》し得るかぎりの秘密なんです。」と言って暫《しば》らく言葉を途切《とぎら》し、気を塞《つ》めて居たが、
「僕が貴様を責めたのは悪う御座《ござ》いました、けれども何乎《どうか》今御覧になったことを秘密に仕《し》て下さいませんかお願いですが。」
「お頼《たのみ》とあれば秘密にします。別に僕の関したことではありませんから。」
「難有《ありがと》う御座います。それで僕も安心しました。イヤ真《まこと》に失礼しました匆卒《いきなり》貴様を詰《とが》めまして……」と彼は人を圧《おし》つけようとする最初の気勢とは打《うっ》て変り、如何《いか》にも力なげに詫《わび》たのを見て、自分も気の毒になり、
「何もそう謝るには及びません、僕も実は貴様が先刻僕の前に佇立《つった》って僕ばかり見て居《い》た時の風が何《なん》となく怪《あやし》かったから、それで此処《ここ》へ来て貴様《あなた》の為《す》ることを覗《うか》ごうて居たのです。矢張《やはり》貴様を覗がったのです。けれども彼《あ》の事が貴様の秘密とあれば、堅く僕は其《その》秘密を守りますから御安心なさい。」
 彼は黙って自分の顔を見て居たが、
「貴様は必定《きっと》守って下さる方です。」と声をふるわし、
「如何《どう》でしょう、一つ僕の杯《さかずき》を受けて下さいませんか。」
「酒ですか、酒なら僕は飲ないほうが可《よ》いのです。」
「飲まないほうが! 飲まないほうが! 無論そうです。もう飲まないで済むことなら僕とても飲まないほうが可いのです。けれども僕は飲《のむ》のです。それが僕の秘密なんです。如何でしょう、僕と貴様と斯《こう》やって話をするのも何かの運命です、怪《あやし》い運命ですから、不思議な縁ですから一つ僕の秘密の杯を受けて下さいませんか、え、如何でしょう、受けて下さいませんか。」という言葉の節々、其《その》声音《こわね》、其眼元、其顔色は実《げ》に大《おおい》なる秘密、痛《いたま》しい秘密を包んで居《い》るように思われた。
「よろしゅう御座います、それでは一つ戴《いただ》きましょう。」と自分の答うるや直《す》ぐ彼は先に立《たっ》て元の場処《ばしょ》へと引返えすので、自分も其|後《あと》に従った。

      二

「これは上等のブランデーです。自分で上等も無いもんですが、先日上京した時、銀座の亀屋《かめや》へ行って最上のを呉《く》れろと内証《ないしょう》で三本|買《かっ》て来て此処《ここ》へ匿《かく》して置いたのです、一本は最早《もう》たいらげ[#「たいらげ」に傍点]て空罎《あきびん》は滑川《なめりがわ》に投げ込みました。これが二本目です、未《ま》だ一本この砂の中に埋《うず》めてあります、無くなれば又買って来ます。」
 自分は彼の差した杯《さかずき》を受け、少《すこし》ずつ啜《すす》りながら彼の言う処《ところ》を聞《きい》て居たが、聞くに連れて自分は彼を怪しむ念の益々《ますます》高《たかま》るを禁じ得なかった。けれども決して彼の秘密に立入《たちいろ》うとは思なかった。
「それで先刻僕が此処《ここ》へ来て見ると、意外にも貴様《あなた》が既に此《この》場処を占領して居たのです、驚きましたね、怪《け》しからん人もあるものだ僕の酒庫を犯し、僕の酒宴の莚《むしろ》を奪いながら平気で書籍《ほん》を読んで居るなんてと、僕はそれで貴様を見つめながら此処を去らなかったのです。」と彼は微笑して言った、其《その》眼元《めもと》には心の底に潜《ひそ》んで居る彼の優《やさし》い、正直な人柄の光さえ髣髴《ほのめ》いて、自分には更に其《それ》が惨《いたま》しげに見えた、其処《そこ》で自分も笑《わらい》を含み、
「そうでしょう、それでなければあんな眼つきで僕を御覧になる訳は御座いません。さも恨めしそうでした。」
「イヤ恨めしくは御座いません、情なかったのです。オヤ/\乃公《おれ》は隠して置いた酒さえも何時《いつ》か他人《ひと》の尻《しり》の下に敷《しか》れて了《しま》うのか、と自分の運命を詛《のろ》ったのです。詛うと言えば凄《すご》く聞えますが、実は僕にはそんな凄《すご》い了見《りょうけん》も亦《ま》た気力もありません。運命が僕を詛うて居《い》るのです――貴様《あなた》は運命ということを信じますか? え、運命ということ。如何《どう》です、も一《ひとつ》」と彼は罎《びん》を上げたので
「イヤ僕は最早《もう》戴《いただき》ますまい。」と杯《さかずき》を彼に返し「僕は運命論者ではありません。」
 彼は手酌《てしゃく》で飲み、酒気を吐いて、
「それでは偶然論者ですか。」
「原因結果の理法を信ずるばかりです。」
「けれども其《その》原因は人間の力より発し、そして其結果が人間の頭上に落ち来るばかりでなく、人間の力以上に原因したる結果を人間が受ける場合が沢山ある。その時、貴様は運命という人間の力以上の者を感じませんか。」
「感じます、けれども其《それ》は自然の力です。そして自然界は原因結果の理法以外には働かないものと僕は信じて居ますから、運命という如《ごと》き神秘らしい名目を其《その》力に加えることは出来ません。」
「そうですか、そうですか、解《わか》りました。それでは貴様《あなた》は宇宙に神秘なしと言うお考《かんがえ》なのです、要之《つまり》、貴様には此《この》宇宙に寄する此人生の意義が、極く平易|明亮《めいりょう》なので、貴様の頭は二々《ににん》が四《し》で、一切《いっせつ》が間に合うのです。貴様の宇宙は立体でなく平面です。無窮無限という事実も貴様には何等《なんら》、感興と畏懼《いく》と沈思とを喚《よ》び起す当面の大いなる事実ではなく、数の連続を以《もっ》てインフィニテー(無限)を式で示そうとする数学者のお仲間でしょう。」と言って苦しそうな嘆息を洩《もら》し、冷《ひやや》かな、嘲《あざけ》るような語気で、
「けれども、実は其方が幸福なのです。僕の言葉で言えば貴様は運命に祝福されて居る方、貴様の言葉で言えば僕は不幸な結果を身に受けて居る男です。」
「それでは此《これ》で失礼します。」と自分は起上《たちあが》った、すると彼は狼狽《あわて》て自分を引止め、「ま、ま、貴様怒ったのですか。若《も》し僕の言った事がお気に触ったら御勘弁を願います。つい其《そ》の自分で勝手に苦《くるし》んで勝手に色々なことを、馬鹿な訳にも立たん事を考《かん》がえて居《お》るもんですから、つい見境もなく饒舌《しゃべる》のです。否《いいえ》、誰《だれ》にも斯《そ》んなことを言った事はないのです。けれども何んだか貴様《あなた》には言って見とう感じましたから遠慮もなく勝手な熱を吹いたので、貴様には笑われるかも知れませんが。僕にはやはり怪《あや》しの運命が僕と貴様を引着《ひきつけ》たように感ぜられるのです。不幸《ふしあわ》せな男と思って、もすこしお話し下さいませんか、もすこし……」
「けれども別にお話しするようなことも僕には有りませんが……」
「そう言わないで何卒《どうか》もすこし此処《ここ》に居《い》て下さいな、もすこし……。噫《ああ》! 如何《どう》して斯《こ》う僕は無理ばかり言うのでしょう! 酔《よっ》たのでしょうか。運命です、運命です、可《よ》う御座います、貴様にお話がないなら僕が話します。僕が話すから聞いて下さい、せめて聴《きい》て下さい、僕の不幸《ふしあわせ》な運命を!」
 此《この》苦痛の叫《さけび》を聞いて何人《なんびと》か心を動かさざらん。自分は其《その》儘《まま》止《とどま》って、
「聞きましょうとも。僕が聴《き》いてお差支《さしつか》えがなければ何事でも承《うけ》たまわりましょう。」
「聴いて下さいますか。それならお話しましょう。けれども僕の運命の怪しき力に惑《まど》うて居る者ですから、其|積《つもり》で聴いて下さい。若《も》し原因結果の理法と貴様《あなた》が言うならそれでも可《よ》う御座います。たゞ其原因結果の発展が余りに人意の外《そと》に出て居て、其|為《ため》に一人《ひとり》の若い男が無限の苦悩に沈んで居る事実を貴様が知りましたなら、それを僕が怪しき運命の力と思うのも無理の無いことだけは承知下さるだろうと思います、で貴様に聞きますが此処《ここ》に一人の男があって、其男が何心なく途《みち》を歩いて居ると、何処《どこ》からとも知れず一《ひとつ》の石が飛んで来て其男の頭に命中《あた》り、即死する、そのために其男の妻子は餓《うえ》に沈み、其為めに母と子は争い、其為に親子は血を流す程の惨劇を演ずるという事実が、此世に有り得ることと貴様《あなた》は信ずるでしょうか。」
「実際有ることか無いことかは知りませんが、有り得ることとは信じます、それは。」
「そうでしょう、それなら貴様は人の意表に出た原因のために、ふとした原因のために、非常なる悲惨がやゝもすれば、人の頭上に落ちてくるという事実を認《した》たむるのです、僕の身の上の如《ごと》き、全《まっ》たく其《それ》なので、殆《ほと》んど信ず可《べ》からざる怪《あや》しい運命が僕を弄《もてあ》そんで居《い》るのです。僕は運命と言います。僕にはそう外《ほか》には信じられんですから。」と言って彼は吻《ほっ》と嘆息《ためいき》を吐《つ》き、
「けれども貴様|聴《き》いて呉《く》れますか。」
「聴《き》きますとも! 何卒《どう》かお話なさい。」
「それなら先《ま》ず手近な酒のことから話しましょう。貴様は定めし不思議なことと思って居るでしょうが、実は世間に有りふれたことで、苦悩《くるしみ》を忘れたさの魔酔剤に用いて居《お》るのです。砂の中に隠して置くのは隠くして飲まなければならない宅の事情があるからなので、その上、此《この》場所は如何《いか》にも静で且《か》つ快濶《かいかつ》で、如何《いか》な毒々しい運命の魔も身を隠して人を覗《うか》がう暗い蔭《かげ》のないのが僕の気に入ったからです。此処《ここ》へ身を横たえて酒精《アルコール》の力に身を托《たく》し高い大空を仰いで居る間は、僕の心が幾何《いくら》か自由を得る時です。その中《うち》には此激烈な酒精《アルコール》が左《さ》なきだに弱り果《はて》た僕の心臓を次第に破って、遂《つい》には首尾よく僕も自滅するだろうと思って居ます。」
「そんなら貴様《あなた》は、自殺を願うて居るのですか。」と自分は驚いて問うた。
「自殺じゃアない、自滅です。運命は僕の自殺すら許さないのです。貴様、運命の鬼が最も巧《たくみ》に使う道具の一は『惑《まどい》』ですよ。『惑』は悲《かなしみ》を苦《くるしみ》に変ます。苦悩《くるしみ》を更に自乗させます。自殺は決心です。始終|惑《まどい》のために苦んで居る者に、如何《どう》して此決心が起りましょう。だから『惑』という鈍い、重々しい苦悩《くるしみ》から脱れるには矢張《やはり》、自滅という遅鈍《ちどん》な方法しか策がないのです。」
と沁々《しみじみ》言う彼の顔には明《あきらか》に絶望の影が動いて居《い》た。
「如何《どう》いう理由《わけ》があるのか知りませんが、僕は他人の自殺を知って之《これ》を傍観する訳には行きません。自滅というも自殺に違いないのですから。」と自分が言うや、
「けれども自殺は人々の自由でしょう。」と彼は笑味《えみ》を含んで言った。
「そうかも知れません。然《しか》し之を止め得るならば、止めるのが又人々の自由なり義務です。」
「可《よ》う御座います。僕も決して自滅したくは有りません若《も》し貴様《あなた》が僕の物話《はなし》を悉皆《すっかり》聴《きい》て、其《その》上《うえ》で僕を救うの策を立てて下さるのなら僕は此《この》上《うえ》もない幸福です。」
 斯《こ》う聞いては自分も黙って居られない、
「可《よろ》しい! 何卒《どう》か悉皆《すっかり》聴かして貰《もら》いましょう。今度は僕の方からお願します。」

      

「僕は高橋信造《たかはししんぞう》という姓名ですが、高橋の姓は養家のを冒《おか》したので、僕の元の姓[#「姓」は底本では「性」]は大塚《おおつか》というです。
 大塚信造と言った時のことから話しますが、父は大塚|剛蔵《ごうぞう》と言って御存知でも御座《ござ》いますか、東京控訴院の判事としては一寸《ちょっと》世間でも名の知れた男で、剛蔵の名の示す如《ごと》く、剛直|一端《いっぺん》の人物。随分僕を教育する上には苦心したようでした。けれども如何《どう》いうものか僕は小児《こども》の時分から学問が嫌《きら》いで、たゞ物陰《ものかげ》に一人《ひとり》引込んで、何を考《かん》がえるともなく茫然《ぼんやり》して居ることが何より好《すき》でした。十二歳の時分と覚えて居ます、頃《ころ》は春の末《すえ》ということは庭の桜が殆《ほとん》ど散り尽して、色褪《いろあ》せた花弁《はなびら》の未《ま》だ梢《こずえ》に残って居《い》たのが、若葉の際《ひま》からホロ/\と一片《ひとひら》三片《みひら》落つる様《さま》を今も判然《はっきり》と想《おも》いだすことが出来るので知れます。僕は土蔵《くら》の石段に腰かけて例《いつも》の如《ごと》く茫然《ぼんやり》と庭の面《おもて》を眺《なが》めて居ますと、夕日が斜に庭の木《こ》の間《ま》に射《さ》し込《こん》で、さなきだに静かな庭が、一増《ひとしお》粛然《ひっそり》して、凝然《じっ》として、眺《なが》めて居ると少年心《こどもごころ》にも哀《かなし》いような楽《たのし》いような、所謂《いわゆ》る春愁《しゅんしゅう》でしょう、そんな心持《こころもち》になりました。
 人の心の不思議を知って居るものは、童児《こども》の胸にも春の静《しずか》な夕《ゆうべ》を感ずることの、実際有り得ることを否《いな》まぬだろうと思います。
 兎《と》も角《かく》も僕はそういう少年でした。父の剛蔵[#「剛蔵」は底本では「剛造」]はこのことを大変苦にして、僕のことを坊頭臭《ぼうずくさ》い子だと数々《しばしば》小言《こごと》を言い、僧侶《ぼうず》なら寺へ与《やっ》て了《しま》うなど怒鳴ったこともあります。それに引かえ僕の弟《おとと》の秀輔《ひですけ》は腕白小僧で、僕より二ツ年齢《とし》が下でしたが骨格も父に肖《に》て逞《たく》ましく、気象もまるで僕とは変《ちが》って居たのです。
 父が僕を叱《しか》る時、母と弟《おとと》とは何時《いつ》も笑って傍《はた》で見て居たものです。母というはお豊《とよ》といい、言葉の少ない、柔和らしく見えて確固《しっかり》した気象の女でしたが、僕を叱《しか》ったこともなく、さりとて甘やかす程に可愛《かわい》がりもせず、言わば寄らず触らずにして居たようです。
 それで僕の気象が性来今言ったようなのであるか、或《あるい》はそうでなく、僕は小児《こども》の時、早く不自然な境に置《おか》れて、我知らずの孤独な生活を送った故《ゆえ》かも知れないのです。
 成程父は僕のことを苦にしました。けれども其《その》心配はたゞ普通の親が其子の上を憂《うれう》るのとは異《ちが》って居たのです、それで父が『折角男に生れたのなら男らしくなれ、女のような男は育て甲斐《がい》がない』と愚痴めいた小言を言う、其言葉の中にも僕の怪しい運命の穂先が見えて居たのですが、少年《こども》の僕には未《ま》だ気が着きませんでした。
 言うことを忘れて居ましたが、其頃は父が岡山地方裁判所長の役で、大塚の一家《いっけ》は岡山の市中に住んで居《い》たので、一家が東京に移ったのは未だ余程後のことです。
 或日《あるひ》のことでした、僕が平時《いつも》のように庭へ出て松の根に腰をかけ茫然《ぼんやり》して居ると、何時《いつ》の間にか父が傍《そば》に来て、
『お前は何を考がえて居るのだ。持《もっ》て生れた気象なら致方《しかた》もないが、乃父《おれ》はお前のような気象は大嫌《だいきらい》だ、最少《もすこ》し確固《しっかり》しろ。』と真面目《まじめ》の顔で言いますから、僕は顔も上げ得ないで黙って居ました。すると父は僕の傍に腰を下して、
『オイ信造』と言って急に声を潜《ひそ》め『お前は誰《だれ》かに何か聞《きき》は為《し》なかったか。』
 僕には何のことか全然《すっかり》解《わか》らないから、驚いて父の顔を仰ぎましたが、不思議にも我知らず涙含《なみだぐ》みました。それを見て父の顔色は俄《にわか》に変り、益々《ますます》声を潜《ひそ》めて、
『慝《かく》すには及ばんぞ、聞《きい》たら聞いたと言うが可《え》え。そんなら乃父《おれ》には考案《かんがえ》があるから。サア慝くさずに言うが可え。何か聞いたろう?』
 此《この》時《とき》の父の様子は余程|狼狽《ろうばい》して居るようでした。それで声さえ平時《いつも》と変り、僕は可怕《こわ》くなりましたから、しく/\泣き出すと、父は益々《ますます》狼狽《うろた》え、
『サア言え! 聞いたら聞《きい》たと言え! 慝《かく》すかお前は』と僕の顔を睨《にら》みつけましたから、僕も益々|可怕《こわく》なり、
『御免なさい、御免なさい』とたゞ謝罪《あやま》りました。
『謝罪れと言うんじゃない。若《も》し何かお前が妙なことを聞《きい》て、それで茫然《ぼんやり》考がえて居るじゃないかと思うから、それで訊《き》くのだ。何《なん》にも聞かんのなら其《それ》で可《え》え。サア正直に言え!』と今度は真実《ほんと》に怒って言いますから、僕は何《なん》のことか解《わか》らず、たゞ非常な悪いことでも仕《し》たのかと、おろ/\声で、
『御免なさい、御免なさい。』
『馬鹿! 大馬鹿者! 誰《たれ》が謝罪れと言った。十二にもなって男の癖に直《す》ぐ泣く。』
 怒鳴られたので僕は喫驚《びっくり》して泣きながら父の顔を見て居《い》ると、父も暫《しばら》くは黙って熟《じっ》と僕の顔を見て居ましたが、急に涙含《なみだぐ》んで、
『泣《なか》んでも可《え》え、最早《もう》乃父《おれ》も問わんから、サア奥へ帰るが可《え》え、』と優《やさ》しく言った其《その》言葉は少ないが、慈愛に満《みち》て居たのです。
 其後でした、父が僕のことを余り言わなくなったのは。けれども又其後でした僕の心の底に一片の雲影の沈んだのは。運命の怪しき鬼が其|爪《つめ》を僕の心に打込んだのは実に此《この》時《とき》です。
 僕は父の言葉が気になって堪《たま》りませんでした。これも普通の小供《こども》なら間《ま》もなく忘れて了《しま》っただろうと思いますが、僕は忘れる処《どころ》か、間《ま》がな隙《すき》がな、何故《なぜ》父は彼《あ》のような事を問うたのか、父が斯《か》くまでに狼狽《ろうばい》した処《ところ》を見ると、余程の大事であろうと、少年心《こどもごころ》に色々と考えて、そして其大事は僕の身の上に関することだと信ずるようになりました。
 何故《なぜ》でしょう。僕は今でも不思議に思って居るのです。何故父の問うたことが僕の身の上のことと自分で信ずるに至ったでしょう。
 暗黒《くらき》に住みなれたものは、能《よ》く暗黒《くらき》に物を見ると同じ事で、不自然なる境に置《おか》れたる少年は何時《いつ》しか其《その》暗き不自然の底に蔭《ひそ》んで居る黒点を認めることが出来たのだろうと思います。
 けれども僕の其黒点の真相を捉《とら》え得たのはずっと後のことです。僕は気にかかりながらも、これを父に問い返すことは出来ず、又母には猶更《なおさ》ら出来ず、小《ちいさ》な心を痛めながらも月日を送って居ました。そして十五の歳《とし》に中学校の寄宿舎に入れられましたが、其前に一ツお話して置く事があるのです。
 大塚の隣屋敷に広い桑畑《くわばたけ》があって其横に板葺《そぎぶき》の小《ちいさ》な家がある、それに老人《としより》夫婦と其ころ十六七になる娘が住《すん》で居ました。以前は立派な士族で、桑園《くわばたけ》は則《すなわ》ち其屋敷跡だそうです。此《この》老人《としより》が僕の仲善《なかよし》でしたが、或日《あるひ》僕に囲碁の遊戯《あそび》を教えて呉《く》れました。二三日|経《たっ》て夜食の時、このことを父母に話しました処《ところ》、何時《いつ》も遊戯《あそび》のことは余り気にしない父が眼《め》に角《かど》を立《たて》て叱《しか》り、母すら驚いた眼を張って僕の顔を見つめました。そして父母が顔を見合わした時の様子の尋常でなかったので、僕は甚《はなは》だ妙に感じました。
 何故《なぜ》僕が囲碁を敵としなければならぬか、それも後に解《わか》りましたが、其《それ》が解った時こそ、僕が全く運命の鬼に圧倒せられ、僕が今の苦悩を甞《な》め尽す初《はじめ》で御座いました。

      四

 僕の十六の時、父は東京に転任したので大塚|一家《いっけ》は父と共に移転しましたが、僕だけは岡山中学校の寄宿舎に残されました。
 僕は其《その》後《ご》三年間の生活を思うと、僕の此《この》世《よ》に於《お》ける真《まこと》の生活は唯《た》だ彼《あ》の学校時代だけであったのを知ります。
 学生は皆な僕に親切でした。僕は心の自由を恢復《かいふく》し、悪運の手より脱《のが》れ、身の上の疑惑を懐《いだ》くこと次第に薄くなり、沈欝《ちんうつ》の気象までが何時《いつ》しか雪の融《と》ける如《ごと》く消えて、快濶《かいかつ》な青年の気を帯びて来ました。
 然《しか》るに十八の秋、突然東京の父から手紙が来て僕に上京を命じたのです。穏《おだやか》な僕の心は急に擾乱《かきみだ》され、僕は殆《ほと》んど父の真意を知るに苦しみ、返書を出して責めて今一年、卒業の日まで此《この》儘《まま》に仕て置いて貰《もら》おうかと思いましたが、思い返して直ぐ上京しました。麹町《こうじまち》の宅に着くや、父は一室《ひとま》に僕を喚《よ》んで、『早速《さっそく》だがお前と能《よ》く相談したいことが有るのだ。お前これから法律を学ぶ気はないかね。』
 思いもかけぬ言葉です。僕は驚いて父の顔を見つめたきり容易に口を開くことが出来ない。
『実は手紙で詳しく言ってやろうかとも思ったが、廻《まわ》りくどいから喚《よ》んだのだ。お前も卒業までと思ったろうし、又大学までとも志《こころざ》して居《い》たろうけれど、人は一日も早く独立の生活を営む方が可《え》えことはお前も知って居るだろう。それでお前これから直《す》ぐ私立の法律学校に入るのじゃ。三年で卒業する。弁護士の試験を受ける。そした暁《あかつき》は私と懇意な弁護士の事務所に世話してやるから、其処《そこ》で四五年も実地の勉強をするのじゃ。其《その》内《うち》に独立して事務所を開けば、それこそ立派なもの、お前も三十にならん内、堂々たる紳士となることが出来る。如何《どう》じゃな、其方が近道じゃぞ。』という父の言葉を聴《き》いて居る、僕の心の全く顛動《てんどう》したのも無理はないでしょう。
 これ実に他人の言葉です。他人の親切です。居候《いそうろう》の書生に主人の先生が示す恩愛です。
 大塚剛蔵は何時《いつ》しか其自然に返って居たのです。知らず/\其自然を暴露《しめ》すに至ったのです。僕を外《そと》に置くこと三年、其《その》実子なる秀輔《ひですけ》のみを傍《かたわら》に愛撫《あいぶ》すること三年、人間が其天真に帰るべき門、墳墓に近《ちかづ》くこと三年、此《この》三年の月日は彼をして自然に返らしたのです。けれども彼は未《ま》だ其自然を自認することが出来ず、何処《どこ》までも自分を以前の父の如《ごと》く、僕を以前の子の如く見ようとして居るのです。
 其処《そこ》で僕は最早《もはや》進んで僕の希望《のぞみ》を述《のべ》るどころではありません。たゞこれ命《めい》これ従《した》がうだけのことを手短かに答えて父の部屋を出てしまいました。
 父ばかりでなく母の様子も一変して居たのです。日の経《た》つに従ごうて僕は僕の身の上に一大秘密のあることを益々《ますます》信ずるようになり、父母の挙動に気をつければつけるほど疑惑の増すばかりなのです。
 一度は僕も自分の癖見《ひがみ》だろうかと思いましたが、合憎《あいにく》と想起《おもいおこ》すは十二の時、庭で父から問いつめられた事で、彼《あれ》を想《おも》い、これを思えば、最早《もはや》自分の身の秘密を疑がうことは出来ないのです。
 懊悩《おうのう》の中《うち》に神田の法律学校に通って三月も経《たち》ましたろうか。僕は今日こそ父に向い、断然|此方《こっち》から言い出して秘密の有無《うむ》を訊《ただ》そうと決心し、学校から日の暮方に帰って夜食を済ますや、父の居間にゆきました。父はランプの下《もと》で手紙を認《したた》めて居《い》ましたが、僕を見て、『何《なん》ぞ用か』と問い、やはり筆を執《とっ》て居ます。僕は父の脇《わき》の火鉢《ひばち》の傍《そば》に座って、暫《しばら》く黙って居ましたが、此《この》時降りかけて居た空が愈々《いよいよ》時雨《しぐれ》て来たと見え、廂《ひさし》を打つ霰《みぞれ》[#「霙」の誤り?、400-7]の音がパラ/\聞えました。父は筆を擱《お》いて徐《やお》ら此方《こちら》に向き、
『何ぞ用でもあるか、』と優《やさ》しく問いました。
『少し訊《たず》ねたいことが有りますので、』と僅《わず》かに口を切るや、父は早くも様子を見て取ったか
『何じゃ。』と厳《おごそ》かに膝《ひざ》を進めました。
『父様《とうさま》、私は真実《ほんと》に父様の児《こ》なのでしょうか。』と兼《かね》て思い定めて置いた通り、単刀直入に問いました。
『何じゃと』と父の一言、其《その》眼光の鋭さ! けれども直《す》ぐ父は顔を柔《やわら》げて、
『何故《なぜ》お前はそんなことを私に聞くのじゃ、何か私《わし》共がお前に親らしくないことでもして、それでそういうのか。』
『そういう訳では御座いませんが、私には昔から如何《どう》いう者か此《この》疑《うたがい》があるので、始終胸を痛めて居《お》るので御座ます、知らして益のない秘密だから父上《おとうさま》も黙ってお居でになるのでしょうけれど、私は是非それが知りたいので御座います。』と僕は静に、決然と言い放ちました。
 父は暫時《しばら》く腕組をして考えて居ましたが、徐《おもむ》ろに顔を上げて、
『お前が疑がって居ることも私《わし》は知って居たのじゃ。私の方から言うた方がと思ったことも此頃ある。それで最早《もはや》お前から聞《きか》れて見ると猶《な》お言うて了《しま》うが可《え》えから言うことに仕よう。』とそれから父は長々と物語りました。
 けれども父の知らして呉《く》れた事実はこれだけなのです。周防《すおう》山口の地方裁判所に父が奉職して居《い》た時分、馬場金之助《ばばきんのすけ》という碁客《ごかく》が居て、父と非常に懇親を結び、常に兄弟の如《ごと》く往来して居たそうです。その馬場という人物は一種非凡な処《ところ》があって、碁以外に父は其《その》人物を尊敬して居たということです。その一子が則《すなわ》ち僕であったのです。
 父は其頃三十八、母は三十四で最早《もはや》子は出来ないものと諦《あき》らめて居ると、馬場が病で没し、其妻も間もなく夫の後を襲《おそう》て此《この》世を去り、残ったのは二歳《ふたつ》になる男の子、これ幸《さいわい》と父が引取って自分の児《こ》とし養ったので、父からいうと半分は孤児を救う義侠《ぎきょう》でしたろう。
 僕の生《うみ》の父母は未《ま》だ年が若く、父は三十二、母は二十五であったそうです。けれども母の籍が未だ馬場の籍に入らん内に僕が生れ、其|為《ため》でしょう、僕の出産届が未だ仕てなかったので、大塚の父は僕を引取るや直《ただち》に自分の子として届けたのだそうです。
 以上の事を話して大塚の父のいうには、
『其《その》後《ご》私《わし》は間もなく山口を去ったから、お前を私の実子でないと知るものは多くないのじゃ。私達夫婦は飽《あ》くまで実子の積《つもり》でこれまで育てて来たのじゃ。この先も同じことだからお前も決して癖見根生《ひがみこんじょう》を起さず、何処《どこ》までも私達を父母と思って老先《おいさき》を見届けて呉れ。秀輔《ひですけ》は実子じゃがお前のことは決して知らさんから、お前も真実の兄となって生涯|彼《あ》れの力ともなって呉れ。』と、老《おい》の眼《め》に涙を見るより先に僕は最早《もう》泣いて居たのです。
 其処《そこ》で養父と僕とは此等《これら》の秘密を飽《あ》くまで人に洩《もら》さぬ約束をし、又《ま》た僕が此《この》先何かの用事で山口にゆくとも、たゞ他所《よそ》ながら父母の墓に詣《もう》で、決して公けにはせぬということを僕は養父に約しました。
 其《その》後《ご》の月日は以前よりも却《かえ》って穏《おだや》かに過《すぎ》たのです。養父も秘密を明けて却《かえ》って安心した様子、僕も養父母の高恩を思うにつけて、心を傾けて敬愛するようになり、勉学をも励むようになりました。
 そして一日も早く独立の生活を営み得るようになり、自分は大塚の家から別れ、義弟の秀輔に家督《かとく》を譲りたいものと深く心に決する処《ところ》があったのです。
 三年の月日は忽《たちま》ち逝《ゆ》き、僕は首尾よく学校を卒業しましたが、猶《な》お養父の言葉に従い、一年間更に勉強して、さて弁護士の試験を受けました処《ところ》、意外の上首尾、養父も大よろこびで早速其友なる井上博士の法律事務所に周旋《しゅうせん》して呉《く》れました。
 兎《と》も角《かく》も一人前《いちにんまえ》の弁護士となって日々|京橋区《きょうばしく》なる事務所に通うて居《い》ましたが、若《も》し彼《あ》のまゝで今日になったら、養父も其目的通りに僕を始末し、僕も平穏な月日を送って益々《ますます》前途の幸福を楽《たのし》んで居たでしょう。
 けれども、僕は如何《どう》しても悪運の児《こ》であったのです。殆《ほとん》ど何人《なんびと》も想像することの出来ない陥穽《おとしあな》が僕の前に出来て居て、悪運の鬼は惨刻《ざんこく》にも僕を突き落しました。

      

 井上博士は横浜にも一ヶ所事務所を持《もっ》て居ましたが、僕は二十五の春、此《この》事務所に詰めることとなり、名は井上の部下であっても其《その》実は僕が独立でやるのと同じことでした。年齢《とし》の割合には早い立身と云《い》っても可《よ》いだろうと思います。
 処《ところ》が横浜に高橋という雑貨商があって、随分盛大にやって居ましたが、其|主人《あるじ》は女で名は梅《うめ》、所天《つれあい》[#「所天」は底本では「所夫」]は二三年前に亡《なく》なって一人娘《ひとりむすめ》の里子《さとこ》というを相手に、先《ま》ず贅沢《ぜいたく》な暮《くらし》を仕《し》て居たのです。
 訴訟用から僕は此家に出入することとなり、僕と里子は恋仲になりました、手短に言いますが、半年|経《たた》ぬうちに二人《ふたり》は離れることの出来ないほど、逆《のぼ》せ上げたのです。
 そして其《その》結果は井上博士が媒酌《ばいしゃく》となり、遂《つい》に僕は大塚の家を隠居し高橋の養子となりました。
 僕の口から言うも変ですが、里子は美人というほどでなくとも随分人目を引く程の容色《きりょう》で、丸顔の愛嬌《あいきょう》のある女です。そして遠慮なくいいますが全く僕を愛して呉《く》れます、けれども此《この》愛は却《かえ》って今では僕を苦しめる一大要素になって居るので、若《も》し里子が斯《か》くまでに僕を愛し、僕が又た斯《こ》うまで里子を愛しないならば、僕はこれほどまでに苦しみは仕ないのです。
 養母の梅は今五十歳ですが、見た処《ところ》、四十位にしか見えず、小柄の女で美人の相を供《そな》え、なか/\立派な婦人です。そして情の烈《はげ》しい正直な人柄といえば、智慧《ちえ》の方はやゝ薄いということは直《す》ぐ解《わか》るでしょう。快活で能《よ》く笑い能《よ》く語りますが、如何《どう》かすると恐しい程沈欝な顔をして、半日|何人《なんびと》とも口を交《まじ》えないことがあります。僕は養子とならぬ以前から此《この》人柄に気をつけて居《い》ましたが、里子と結婚して高橋の家《うち》に寝起することとなりて間もなく、妙なことを発見したのです。
 それは夜の九時頃になると、養母は其《その》居間に籠《こも》って了《しま》い、不動明王を一心不乱に拝むことで、口に何ごとか念じつゝ床の間にかけた火炎の像の前に礼拝して十時となり十一時となり、時には夜半過《よなかすぎ》に及ぶのです、居間の中《うち》、沈欝《ふさ》いで居た晩は殊《こと》にこれが激しいようでした。
 僕も始めは黙って居ましたが、余り妙なので或日《あるひ》このことを里子に訊《たず》ねると、里子は手を振って声を潜《ひそ》め、『黙って居らっしゃいよ。あれは二年前から初めたので、あのことを母に話すと母は大変|気嫌《きげん》を悪くしますから、成るべく知らん顔して居たほうが可《い》いんですよ。御覧なさい全然《まるで》狂気《きちがい》でしょう。』と別に気にもかけぬ様なので、僕も強《しい》ては問いもしなかったのです。
 けれども其《その》後《ご》一月もして或日《あるひ》、僕は事務所から帰り、夜食を終て雑談して居《い》ると、養母は突然、
『怨霊《おんりょう》というものは何年|経《たっ》ても消えないものだろうか。』と問いました。すると里子は平気で、
『怨霊なんて有るもんじゃアないわ。』と一言で打消そうとすると、母は向《むき》になって、
『生意気を言いなさんな。お前見たことはあるまい。だからそんなことを言うのだ。』
『そんなら母上《おっかさん》は見て?』
『見ましたとも。』
『オヤそう、如何《どん》な顔をして居て? 私も見たいものだ。』と里子は何処《どこ》までも冷かしてかゝった。すると母は凄《すご》いほど顔色を変えて、
『お前|怨霊《おんりょう》が見たいの、怨霊が見たいの。真実《ほんと》に生意気なこというよ此《この》人《ひと》は!』と言い放ち、つッと起《たっ》て自分の部屋に引込《ひっこ》んで了《しま》った。僕は思わず、
『母上《おっかさん》如何《どう》か仕て居なさるよ、気を附けんと……』
 里子は不安心な顔をして、
『私|真実《ほんと》に気味が悪いわ。母上《おっかさん》は必定《きっと》何にか妙なことを思って居るのですよ。』
『ちっと神経を痛めて居なさるようだね。』と僕も言いましたが、さて翌日になると別に変ったことはないのです。変って居るのは唯々《ただ》何時《いつ》もの通り夜になると不動様を拝むことだけで、僕等《ぼくら》もこれは最早《もはや》見慣れて居るから強《しい》て気にもかゝりませんでした。
 処《ところ》が今歳《ことし》の五月です、僕は何時《いつも》よりか二時間も早く事務所を退《ひい》て家へ帰りますと、其《その》日《ひ》は曇って居たので家の中は薄暗い中《うち》にも母の室《へや》は殊《こと》に暗いのです。母に少し用事があったので別に案内もせず襖《ふすま》を開《あ》けて中に入ると母は火鉢《ひばち》の傍《そば》にぽつねんと座って居《い》ましたが、僕の顔を見るや、
『ア、ア、アッ、アッ!』と叫んで突起《つったっ》たかと思うと、又|尻餅《しりもち》を舂《つい》て熟《じっ》と僕を見た時の顔色! 僕は母が気絶したのかと喫驚《びっくり》して傍《そば》に駈寄《かけよ》りました。
『如何《どう》しました、如何しました』と叫《さ》けんだ僕の声を聞いて母は僅《わずか》に座り直し、
『お前だったか、私は、私は……』と胸を撫《さ》すって居ましたが、其《その》間《あいだ》も不思議そうに僕の顔を見て居たのです。僕は驚ろいて、
『母上《おっかさん》如何《どう》なさいました。』と聞くと、
『お前が出抜《だしぬけ》に入って来たので、私は誰《だれ》かと思った。おゝ喫驚《びっくり》した。』と直《す》ぐ床を敷《しか》して休んで了《しま》いました。
 此《この》事《こと》の有った後は母の神経に益々《ますます》異常を起し、不動明王を拝むばかりでなく、僕などは名も知らぬ神符《おふだ》を幾枚となく何処《どこ》からか貰《もら》って来て、自分の居間の所々《しょしょ》に貼《はり》つけたものです。そして更に妙なのは、これまで自分だけで勝手に信じて居たのが、僕を見て驚ろいた後は、僕に向っても不動を信じろというので、僕が何故《なぜ》信じなければならぬかと聞くと、
『たゞ黙って信じてお呉《く》れ。それでないと私が心細い。』
『母上《おっかさん》の気が安まるのなら信仰も仕ましょうが、それなら私よりもお里の方が可《い》いでしょう。』
『お里では不可《いけま》せん。彼《あれ》には関係のないことだから。』
『それでは私には関係があるのですか。』
『まアそんなことを言わないで信仰してお呉れ、後生だから。』という母の言葉を里子も傍《そば》で聞て居ましたが、呆《あき》れて、
『妙ねえ母上《おっかさん》、不動様が如何《どう》して母上《おっかさん》と信造さんとには関係があって私には無いのでしょう。』
『だから私が頼むのじゃアありませんか、理由《わけ》が言われる位なら頼《たのみ》はしません。』
『だって無理だわ、信造さんに不動様を信仰しろなんて、今時の人にそんなことを勧《すすめ》たって……』
『そんなら頼みません!』と母は怒って了《しま》ったので、僕は言葉を柔げ、
『イヤ私だって不動様を信じないとは限りません。だから母上《おっかさん》まア其《その》理由《いわれ》を話て下さいな。如何《どん》なことか知りませんが、親子の間だから少《すこし》も明《あか》されないようなことは無いでしょう。』と求めました。これは母の言う処《ところ》に由《よっ》て迷信を圧《おさ》え神経を静める方法もあろうかと思ったからです。すると母は暫《しばら》く考えて居《い》ましたが、吐息《といき》をして声を潜《ひそ》め、
『これ限《ぎ》りの話だよ、誰《たれ》にも知《しら》してはなりませんよ。私が未《ま》だ若い時分、お里の父上《おとうさま》に縁《えんづ》かない前に或《ある》男に言い寄られて執着《しゅうねく》追い廻《まわ》されたのだよ。けれども私は如何《どう》しても其男の心に従わなかったの。そうすると其男が病気になって死ぬ間際に大変私を怨《うら》んで色々なことを言ったそうです。それで私も可《い》い心持《こころもち》は仕《し》なかったが、此処《ここ》へ縁づいてからは別に気にもせんで暮して居ました。ところが所天《つれあい》[#「所天」は底本では「所夫」]が死《な》くなってからというものは、其《その》男の怨霊《おんりょう》が如何《どう》かすると現われて、可怖《こわ》い顔をして私を睨《にら》み、今にも私を取殺《とりころ》そうとするのです。それで私が不動様を一心に念ずると其怨霊がだん/\消《きえ》て無《なく》なります。それにね、』と、母は一増《ひとしお》声を潜め『この頃《ごろ》は其怨霊が信造に取ついたらしいよ。』
『まア嫌《いや》な!』里子は眉《まゆ》を顰《ひそ》めました。
『だってね、如何《どう》かすると信造の顔が私には怨霊そっくりに見えるのよ。』
 それで僕に不動様を信じろと勧めるのです。けれども僕にはそんな真似《まね》は出来ないから、里子と共に色々と怨霊などいうものの有るべきでないことを説いたけれど無益でした。母は堅く信じて疑がわないので、僕等も持余《もてあま》し、此《こ》の鎌倉へでも来て居て精神を静めたらと、無理に勧めて遂《つい》に此処《ここ》の別荘に入《いれ》たのは今年の五月のことです。」

      

 高橋信造は此処《ここ》まで話して来て忽《たちま》ち頭《かしら》をあげ、西に傾く日影を愁然《しゅうぜん》と見送って苦悩に堪《た》えぬ様であったが、手早く杯《さかずき》をあげて一杯飲み干し、
「この先を詳しく話す勇気は僕にありません。事実を露骨に手短に話しますから、其《それ》以上は貴様《あなた》の推察を願うだけです。
 高橋梅《たかはしうめ》、則《すなわ》ち僕の養母は僕の真実の母、生《うみ》の母であったのです。妻《さい》の里子《さとこ》は父を異《ことに》した僕の妹であったのです。如何《どう》です、これが奇《あや》しい運命でなくて何としましょう。斯《かく》の如《ごと》きをも源因結果の理法といえばそれまでです。けれども、かゝる理法の下に知らず/\此《この》身《み》を置《おか》れた僕から言えば、此天地間にかゝる惨刻《ざんこく》なる理法すら行なわるゝを恨みます。
 先《ま》ず如何《どう》して此等《これら》の事実が僕に知れたか、其《その》手続を簡単に言えば、母が鎌倉に来てから一月後《ひとつきのち》、僕は訴訟用で長崎にゆくこととなり、其途中山口、広島などへ立寄る心組で居《い》ましたから、見舞かた/″\鎌倉へ来て母に此《この》事を話しますと、母は眼《め》の色を変《かえ》て、山口などへ寄るなと言います。けれども僕の心には生《うみ》の父母の墓に参る積《つもり》がありますから、母には可《よ》い加減に言って置いて、遂《つい》に山口に寄ったのです。
 兼《かね》て大塚の父から聞いて居たから寺は直《す》ぐ分りました。けれども僕は馬場金之助《ばばきんのすけ》の墓のみ見出して、死《しん》だと聞《きい》た母の墓を見ないので、不審に思って老僧に遇《あ》い、右の事を訊《たず》ねました。尤《もっと》も唯《た》だ所縁《ゆかり》のものとのみ、僕の身の上は打明けないのです。
 すると老僧は馬場金之助の妻お信《のぶ》の墓のあるべき筈《はず》はない。彼《あ》の女は金之助の病中に、碁の弟子で、町の豪商|某《なにがし》の弟と怪しい仲になり、金之助の病気は其《その》為《ため》更に重くなったのを気の毒とも思ず、遂《つい》に乳飲児《ちのみご》[#「乳飲児」は底本では「飲乳児」]を置去りにして駈落《かけおち》して了《しま》ったのだと話しました。
 老僧は猶《なお》も父が病中母を罵《のの》しったこと、死際《しにぎわ》に大塚剛蔵に其|一子《いっし》を托したことまで語りました。
 其お信が高橋梅であるということは、誰《だれ》も知らないのです。僕も証拠は持《もっ》て居《い》ません。けれども老僧がお信のことを語る中に早くも僕は今の養母が則《すなわ》ちそれであることを確信したのです。
 僕は山口で直《す》ぐ死んで了おうかと思いました。彼《あ》の時、実に彼の時、僕が思い切《きっ》て自殺して了ったら、寧《むし》ろ僕は幸《さいわい》であったのです。
 けれども僕は帰って来ました。一《ひとつ》は何とかして確《たしか》な証拠を得たいため、一は里子に引寄せられたのです。里子は兎《と》も角《かく》も妹ですから、僕の結婚の不倫であることは言うまでもないが、僕は妹として里子を考えることは如何《どう》しても出来ないのです。
 人の心ほど不思議なものはありません。不倫という言葉は愛という事実には勝てないのです。僕と里子の愛が却《かえ》って僕を苦しめると先程言ったのは此《この》事です。
 僕は里子を擁《よう》して泣きました。幾度も泣きました。僕も亦《ま》た母と同じく物狂《ものぐるお》しくなりました、憐《あわ》れなるは里子です。総《すべ》ての事が里子には怪しき謎《なぞ》で、彼はたゞ惑《まど》いに惑うばかり、遂《つい》には母と同じく怨霊《おんりょう》を信ずるようになり、今も横浜の宅で母と共に不動明王に祈念を凝《こら》して居るのです。里子は怨霊の本体を知らず、たゞ母も僕も此怨霊に苦しめられて居るものと信じ、祈念の誠を以《もっ》て母と所天《おっと》[#「所天」は底本では「所夫」]を救《すくお》うとして居るのです。
 僕は成るべく母を見ないようにして居ます。母も僕に遇《あ》うことを好みません。母の眼《め》には成程僕が怨霊の顔と同じく見えるでしょうよ。僕は怨霊の児《こ》ですもの!
 僕には母を母として愛さなければならん筈《はず》です、然《しか》し僕は母が僕の父を瀕死《ひんし》の際《きわ》に捨て、僕を瀕死の父の病床に捨てて、密夫《みっぷ》と走ったことを思うと、言うべからざる怨恨《えんこん》の情が起るのです。僕の耳には亡父《なきちち》の怒罵《どば》の声が聞こえるのです。僕の眼《め》には疲れ果《はて》た身体《からだ》を起して、何も知らない無心の子を擁《いだ》き、男泣きに泣き給《たも》うた様が見えるのです。そして此《この》声を聞き此|様《さま》を見る僕には実に怨霊の気が乗移《のりうつ》るのです。
 夕暮の空ほの暗い時に、柱に靠《もた》れて居《い》た僕が突然、眼《まなこ》を張り呼吸《いき》を凝《こら》して天の一方を睨《にら》む様を見た者は母でなくとも逃げ出すでしょう。母ならば気絶するでしょう。
 けれども僕は里子のことを思うと、恨《うらみ》も怒《いかり》も消えて、たゞ限りなき悲哀《かなしみ》に沈み、この悲哀の底には愛と絶望が戦うて居るのです。
 処《ところ》が此《この》九月でした、僕は余りの苦悩《くるしさ》に平常|殆《ほとん》ど酒杯《さかずき》を手にせぬ僕が、里子の止《とめ》るのも聴《きか》ず飲めるだけ飲み、居間の中央に大の字になって居ると、何《なん》と思ったか、母が突然鎌倉から帰って来て里子だけを其《その》居間に呼びつけました。そして僕は酔って居ながらも直《す》ぐ其|理由《わけ》の尋常でないことを悟ったのです。
 一時間ばかり経《た》つと里子は眼を泣き膨《は》らして僕の居間に帰て来ましたから、『如何《どう》したのだ。』と聞くと里子は僕の傍《そば》に突伏《つっぷ》して泣きだしました。
『母上《おっかさん》が僕を離婚すると云《い》ったのだろう。』と僕は思わず怒鳴りました。すると里子は狼狽《あわて》て、
『だからね、母が何と言っても所天《あなた》[#「所天」は底本では「所夫」]決して気にしないで下さいな。気狂《きちがい》だと思って投擲《うっちゃ》って置いて下さいな、ね、後生ですから。』と泣声を振わして言いますから、『そういうことなら投擲《うっちゃ》って置く訳に行かない。』と僕はいきなり母の居間に突入しました。里子は止める間《ひま》もなかったので僕に続いて部屋に入ったのです。僕は母の前に座るや、
『貴女《あなた》は私を離婚すると里子に言ったそうですが、其《その》理由《わけ》を聞きましょう。離婚するなら仕ても私は平気です。或《あるい》は寧《むし》ろ私の望む処《ところ》で御座います。けれども理由《わけ》を被仰《おっしゃ》い、是非|其《そ》の理由を聞きましょう。』と酔《よい》に任《まか》せて詰寄《つめよ》りました。すると母は僕の剣幕の余り鋭いので喫驚《びっくり》して僕の顔を見て居《い》るばかり、一言も発しません。
『サア理由《わけ》を聞きましょう。怨霊《おんりょう》が私に乗移って居るから気味が悪いというのでしょう。それは気味が悪いでしょうよ。私は怨霊の児《こ》ですもの。』と言い放《はな》ちました、見る/\母の顔色は変り、物をも言わず部屋《へや》の外へ駈《か》け出て了《しま》いました。
 僕は其まゝ母の居間に寝て了ったのです。眼《め》が覚《さ》めるや酒の酔も醒《さ》め、頭の上には里子が心配そうに僕の顔を見て坐《すわっ》て居ました。母は直《す》ぐ鎌倉に引返したのでした。
 其《その》後《ご》僕と母とは会わないのです。僕は母に交《かわ》って此方《こちら》に来て、母は今、横浜の宅に居ますが、里子は両方を交《かわ》る/″\介抱して、二人《ふたり》の不幸をば一人《ひとり》で正直に解釈し、たゞ/\怨霊《おんりょう》の業《わざ》とのみ信じて、二人の胸の中《うち》の真《まこと》の苦悩《くるしみ》を全然《まるきり》知らないのです。
 僕は酒を飲むことを里子からも医師からも禁じられて居ます。けれども如何《どう》でしょう。此《こ》のような目に遇《あ》って居る僕がブランデイの隠飲《かくしの》みをやるのは、果《はたし》て無理でしょうか。
 今や僕の力は全く悪運の鬼に挫《ひし》がれて了いました。自殺の力もなく、自滅を待つほどの意久地《いくじ》のないものと成り果《はて》て居るのです。
 如何《どう》でしょう、以上ザッと話しました僕の今日までの生涯の経過を考がえて見て、僕の心持になって貰《もら》いたいものです。これが唯《た》だ源因結果の理法に過《すぎ》ないと数学の式に対するような冷かな心持で居《い》られるものでしょうか。生《うみ》の母は父の仇《あだ》です、最愛の妻は兄妹《きょうだい》です。これが冷かなる事実です。そして僕の運命です。
 若《も》し此《この》運命から僕を救い得る人があるなら、僕は謹《つつ》しんで教《おしえ》を奉じます。其《その》人は僕の救主《すくいぬし》です。」

      

 自分は一言を交えないで以上の物語を聞いた。聞き終って暫《しばら》くは一言も発し得なかった。成程悲惨なる境遇に陥った人であるとツク/″\気の毒に思ったのである。けれども止《や》むなくんばと、
「断然離婚なさったら如何《どう》です。」
「それは新らしき事実を作るばかりです。既に在る事実は其|為《た》めに消えません。」
「けれども其《それ》は止《やむ》を得ないでしょう。」
「だから運命です。離婚した処《ところ》で生《うみ》の母が父の仇《あだ》である事実は消《きえ》ません。離婚した処《ところ》で妹を妻として愛する僕の愛は変りません。人の力を以《もっ》て過去の事実を消すことの出来ない限り、人は到底運命の力より脱《のが》るゝことは出来ないでしょう。」
 自分は握手して、黙礼して、此《この》不幸なる青年紳士と別れた、日は既に落ちて余光華かに夕《ゆうべ》の雲を染め、顧れば我運命論者は淋《さび》しき砂山の頂に立って沖を遙《はるか》に眺《ながめ》て居た。
 其《その》後自分は此男に遇《あわ》ないのである。

底本:「日本の文学6 武蔵野・春の鳥」ほるぷ出版
   1985(昭和60)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「運命」左久良書房
   1906(明治39)年3月18日発行
      「國木田獨歩全集 第三卷」学習研究社
   1964(昭和39)年10月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※疑問点の確認にあたっては、「國木田獨歩全集 第三卷」1964(昭和39)年10月30日発行を参照しました。
入力:Mt.fuji
校正:福地博文
1999年5月13日公開
2004年6月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国木田独歩

遺言——-国木田独歩

 今度の戦《いくさ》で想《おも》い出した、多分|太沽《たいくう》沖にあるわが軍艦内にも同じような事があるだろうと思うからお話しすると、横須賀《よこすか》なるある海軍中佐の語るには、
 わが艦隊が明治二十七年の天長節を祝したのは、あたかも陸兵の華園口《かえんこう》上陸を保護するため、ベカ島の陰に集合していた時である。その日の事であった。自分は士官室で艦長始め他の士官諸氏と陛下万歳の祝杯を挙《あ》げた後、準士官室に回り、ここではわが艦長がまだ船に乗らない以前から海軍軍役に服していますという自慢話を聞かされて、それからホールへまわった。
 戦時は艦内の生活万事が平常《ふだん》よりか寛《ゆるや》かにしてあるが、この日はことに大目に見てあったからホールの騒ぎは一通りでない。例の椀大《わんだい》のブリキ製の杯《さかずき》、というよりか常は汁椀《しるわん》に使用されているやつで、グイグイあおりながら、ある者は月琴《げっきん》を取り出して俗歌の曲を唄《うた》いかつ弾《ひ》き、ある者は四竹《よつだけ》でアメリカマーチの調子に浮かれ、ある者は悲壮な声を張り上げてロングサインを歌っている、中にはろれつの回らぬ舌で管《くだ》を巻いている者もある、それぞれ五人十人とそこここに割拠して勝手に大気焔《だいきえん》を吐いていた。
 自分の入《はい》って来たのを見て、いきなり一人《ひとり》の水兵が水雷長万歳と叫ぶと、そこらにいた者一斉に立って自分を取り巻き、かの大杯を指《さ》しつけた。自分はその一二《ひとふたつ》を受けながら、シナの水兵は今時分定めて旅順《りょじゅん》や威海衛《いかいえい》で大《おお》へこみにへこんでいるだろう、一つ彼奴《きゃつ》らの万歳を祝してやろうではないかと言うとそれはおもしろいと、チャン万歳チャンチャン万歳など思い思いに叫ぶ、その意気は彼らの眼中すでに旅順口威海衛なしである。自分はなお奥の方へと彼らの間を縫って往《い》くと、船首水雷室の前に一小区画がある、そこに七、八名の水兵が、他の仲間と離れて一団体をなし、飲んでいた。
 わが水兵はいかに酔っていても長官に対する敬礼は忘れない。彼らは自分を見るや一同起立して敬礼を行なう、その態度の厳粛なるは、まだ十二分に酔っていないらしい。中央に構えていた一人の水兵、これは酒癖のあまりよくないながら仕事はよくやるので士官の受けのよい奴《やつ》、それが今おもしろい事を始めたところですと言う。何だと訊《たず》ねると、みんな顔を見合わせて笑う、中には目でよけいな事をしゃべるなと止める者もある。それにかまわずかの水兵の言うには、この仲間で近ごろ本国から来た手紙を読み合うと言うのです。自分。そいつは聞きものだぜひ傍聴したいものだと言って座を構えた。見ればみんな二通三通ずつの書状《てがみ》を携えている。
 その仕組みがおもしろい、甲の手紙は乙が読むという事になっていて、そのうちもっともはなはだしい者に罰杯《ばっぱい》を命ずるという約束である。『もっともはなはだしい』という意味は無論彼らの情事に関することは言わないでも明らかである。
 さア初めろと自分の急《せ》き立つるので、そろそろ読み上げる事になった。自分がそばで聴《き》くとは思いがけない事ゆえ、大いに恐縮している者もある。それもそのはずで、読む手紙も読む手紙もことごとく長崎より横須賀より、または品川よりなど、初めからそんなのばかり撰《えら》んで持ち合ったのだから、一として彼らの情事に関しないものはない、ことごとく罰杯を命ずべき品物である。かれこれするうち、自分の向かいにいた二等水兵が、内ポケットから手紙の束を引き出そうとして、その一通を卓の下に落としたが、かれはそれを急に拾ってポケットに押し込んで残りを隣の水兵に渡した。他の者はこれに気がつかなかったらしい、いよいよ読み上げが済むとかの酒癖の悪い水兵が、オイ水野、貴様は一つ隠したぞと言って、サア出せと叫んだ。こいつけしからんと他の水兵みな起ち上がって、サア出せいやなら十杯飲めと迫る。自分は笑いながらこれを見ていた。
 水野は、これだけはご免だとまじめで言う、いよいよ他の者はこいつおもしろいと迫る、例の酒癖がついに、本性《ほんしょう》を現わして螺《さざえ》のようなやつを突きつけながら、罰杯の代にこれだと叫んだ。強迫である。自分はあまりのことだと制止せんとする時、水野、そんな軽石は畏《こわ》くないが読まないと変に思うだろうから読む、自分で読むと、かれは激昂《げっこう》して突っ立った。
「一筆《ひとふで》示し上げ参らせ候《そろ》大同口《だいどうこう》よりのお手紙ただいま到着仕り候|母様《ははさん》大へん御《おん》よろこび涙を流してくり返しくり返しご覧相成り候」
 何だつまらない! と一人の水兵が笑いだした。水野はかまわず、ズンズン読む、その声は震えていた。
「ついてはご自身で返事書きたき由仰せられ候まま御枕《おんまくら》もとへ筆墨《ふですみ》の用意いたし候ところ永々《ながなが》のご病気ゆえ気のみはあせりたまえどもお手が利《き》き候わず情けなき事よと御《おん》嘆きありせめては代筆せよと仰せられ候間お言葉どおりを一々に書き取り申し候
[#ここから1字下げ]
 必ず必ず未練のことあるべからず候
 母が身ももはやながくはあるまじく今日《きょう》明日《あす》を定め難き命に候えば今申すことをば今生《こんじょう》の遺言《いごん》とも心得て深く心にきざみ置かれたく候そなたが父は順逆の道を誤りたまいて前原が一味に加わり候ものから今だにわれらさえ肩身の狭き心地《ここち》いたし候この度《たび》こそそなたは父にも兄にもかわりて大君《おおぎみ》の御為《おんため》国の為勇ましく戦い、命に代えて父の罪を償いわが祖先の名を高め候わんことを返すがえすも頼み上げ候
 せめて士官ならばとの今日のお手紙の文句は未練に候ぞ大将とて兵卒とて大君の為国の為に捧《ささ》げ候命に二はこれなく候かかる心得にては真《まこと》の忠義思いもよらず候兄はそなたが上をうらやみせめて軍夫《ぐんぷ》に加わりてもと明け暮れ申しおり候ここをくみ候わば一兵士《いっぺいし》ながらもそなたの幸いはいかばかりならんまた申すまでもなけれど上長の命令を堅く守り同列の方々とは親しく交わり艱難《かんなん》を互いにたすけ合い心を一にして大君の御為|御《おん》励みのほどひとえに祈り上げ候
以上は母が今わの際《きわ》の遺言と心得候て必ず必ず女々《めめ》しき挙動《ふるまい》あるべからず候
なお細々《こまこま》のことは嫂《あによめ》かき添え申すべく候
[#ここで字下げ終わり]
右|認《したた》め候て後母様の仰せにて仏壇に燈《ともしび》ささげ候えば私《わたくし》が手に扶《たす》けられて母様は床の上にすわりたまいこの遺言父の霊にも告げてはと読み上げたもう御《おん》声悲しく一句読みては涙ぬぐい一句読みてはむせびたもう御《おん》ありさまの痛ましさ……」
 水野が堪《こら》え堪えし涙ここに至りて玉のごとく手紙の上に落ちたのを見て、聴《き》く方でもじっと怺《こら》えていたのが、あだかも電気に打たれたかのように、一斉に飛び立ったが感|極《きわ》まってだれも一語を発し得ない。一種言うべからざるすさまじさがこの一区画に充《み》ちた。
 水野君万歳! と真っ先に叫んだのがかの酒癖水兵である。かれは狂気のごとくその大杯を振りまわした。この時自分の口を衝《つ》いて出た叫声《きょうせい》は、
 天皇陛下万歳!

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「太平洋」
   1900(明治33)年8月
入力:土屋隆
校正:蒋龍
2009年4月8日作成
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国木田独歩

わかれ——-国木田独歩

わが青年《わかもの》の名を田宮峰二郎《たみやみねじろう》と呼び、かれが住む茅屋《くさや》は丘の半腹にたちて美《うる》わしき庭これを囲み細き流れの北の方《かた》より走り来て庭を貫きたり。流れの岸には紅楓《もみじ》の類《たぐい》を植えそのほかの庭樹《き》には松、桜、梅など多かり、栗樹《くり》などの雑《まじ》わるは地柄《とちがら》なるべし、――区何町の豪商が別荘なりといえど家も古び庭もやや荒れて修繕《つくろ》わんともせず、主人《あるじ》らしき人の車その門に駐《とま》りしを見たる人まれなり、売り物なるべしとのうわさ一時は近所《あたり》の人の間に高かりしもいつかこのうわさも消えて跡《あと》なく、ただ一年《ひととせ》半ば以前よりこの年若き田宮の来たり住みつ。
 年は二十《はたち》を越ゆるようやく三つ四つ、背高く肉やせたり、顔だち凜々《りり》しく人柄も順良《すなお》に見ゆれどいつも物案じ顔に道ゆくを、出《い》であうこの地の人々は病める人ぞと判じいたり。さればまた別荘に独《ひと》り住むもその故《ゆえ》ぞと深くは怪しまざりき。終日《ひねもす》家にのみ閉じこもることはまれにて朝に一度または午後に一度、時には夜に入りても四辺《あたり》の野路《のみち》を当てもなげに歩み、林の中に分け入りなどするがこの人の慣らいなれば人々は運動のためぞと、しかるべきことのようにうわさせり。
 されどこの青年《わかもの》と親しく言葉かわす人なきにあらず。別荘と畑一つ隔たりて牛乳屋《ちちや》あり、樫《かし》の木に取り囲まれし二棟《ふたむね》は右なるに牛七匹住み、左なるに人五人住みつ、夫婦に小供《こども》二人《ふたり》、一人《ひとり》の雇男《おとこ》は配達人《はいたつ》なり。別荘へは長男《かしら》の童《わらべ》が朝夕二度の牛乳《ちち》を運べば、青年《わかもの》いつしかこの童と親しみ、その後は乳屋《ちちや》の主人《あるじ》とも微笑《ほほえ》みて物語するようになりぬ。されど物語《はなし》の種《たね》はさまで多からず、牛の事、牛乳《ちち》の事、花客先《とくいさき》のうわさなどに過ぎざりき。牛乳屋《ちちや》の物食う口は牛七匹と人五人のみのように言いしは誤謬《あやまり》にて、なお驢馬《ろば》一頭あり、こは主人《あるじ》がその生国《ふるさと》千葉よりともないしという、この家《や》には理由《わけ》ある一|物《もつ》なるが、主人《あるじ》青年《わかもの》に語りしところによれば千葉なる某《なにがし》という豪農のもとに主人《あるじ》使われし時、何かの手柄にて特に与えられしものの由なり。さまで美しというにあらねど童には手ごろの生き物ゆえ長《かしら》の児《こ》が寵愛《ちょうあい》なおざりならず、ただかの青年《わかもの》にのみはその背を借すことあり。青年《わかもの》は童の言うがまにまにこの驢馬にまたがれど常に苦笑いせり。青年《わかもの》には童がこの兎馬《うさぎうま》を愛《め》ずるにも増して愛《め》で慈《いつく》しむたくましき犬あればにや。
 庭を貫く流れは門《かど》の前を通ずる路《みち》を横ぎりて直ちに林に入り、林を出《い》ずれば土地にわかにくぼみて一軒の茅屋《くさや》その屋根のみを現わし水車《みずぐるま》めぐれり、この辺《あた》りには水車場《すいしゃば》多し、されどこはいと小さき者の一つなり、水車場を離れて孫屋《まごや》立ち、一抱《ひとかか》えばかりの樫《かし》七株八株一列に並びて冬は北の風を防ぎ夏は涼しき陰もてこの屋をおおい、水車場とこの屋との間を家鶏《にわとり》の一群れゆききし、もし五月雨《さみだれ》降りつづくころなど、荷物|曳《ひ》ける駄馬《だば》、水車場の軒先に立てば黒き水は蹄《ひづめ》のわきを白き藁《わら》浮かべて流れ、半ば眠れる馬の鬣《たてがみ》よりは雨滴《しずく》重く滴《したた》り、その背よりは湯気《ゆげ》立ちのぼり、家鶏《にわとり》は荷車の陰に隠れて羽翼《はね》振るうさまの鬱陶《うっとう》しげなる、かの青年《わかもの》は孫屋の縁先に腰かけて静かにこれらをながめそのわきに一人の老翁《おきな》腕こまねきて煙管《きせる》をくわえ折り折りかたみに何事をか語りあいては微笑《ほほえ》む、すなわちこの老翁《おきな》は青年《わかもの》が親しく物言う者の一人なり。
 水車場を過ぎて間もなく橋あり、長さよりも幅のかた広く、欄の高さは腰かくるにも足らず、これを渡りてまた林の間を行けばたちまち町の中ほどに出《い》ず、こは都にて開かるる洋画展覧会などの出品の中《うち》にてよく見受くる田舎町《いなかまち》の一つなれば、茅屋《くさや》と瓦屋《かわらや》と打ち雑《まじ》りたる、理髪所《とこや》の隣に万屋《よろずや》あり、万屋の隣に農家あり、農家の前には莚《むしろ》敷きて童《わらべ》と猫《ねこ》と仲よく遊べる、茅屋《くさや》の軒先には羽虫《はむし》の群れ輪をなして飛ぶが夕日に映りたる、鍛冶《かじ》の鉄砧《かなしき》の音高く響きて夕闇《ゆうやみ》に閃《ひらめ》く火花の見事なる、雨降る日は二十《はたち》ばかりの女何事をかかしましく叫びつ笑いて町の片側より片側へとゆくに傘《かさ》ささず襟頸《えりくび》を縮め駒下駄《こまげた》つまだてて飛ぶごとに後ろ振り向くさまのおかしき、いずれかこの町もかかる類《たぐい》に漏るべき、ただ東より西へと爪先上《つまさきあ》がりの勾配《こうばい》ゆるく、中央をば走り流るる小川ありて水上《みなかみ》は別荘を貫く流れと同じく、町人《まちびと》はみなこの小川にてさまざまのもの洗いすすげど水のやや濁れるをいとわず、流れには板橋いくつかかかりて、水際《みぎわ》には背低き楓《かえで》をところどころに植えたる、何人の思いつきにや、これいささかよそとその風情《ふぜい》をことにせり。町の西端《にしはずれ》に寺ありてゆうべゆうべの鐘はここより響けど、鐘|撞《つ》く男は六十《むそじ》を幾つか越えし翁《おきな》なれば力足らず絶《た》えだえの音《ね》は町の一端《はし》より一端《はし》へと、おぼつかなく漂うのみ、程《ほど》近き青年《わかもの》が別荘へは聞こゆる時あり聞こえかぬる時も多かり。この鐘の最後の一打ちわずかに響きおわるころ夕煙|巷《ちまた》をこめて東の林を離れし月影淡く小川の水に砕けそむれば近きわたりの騎馬隊の兵士が踵《かかと》に届く長剣を左手《ゆんで》にさげて早足に巷を上りゆく、続いて駄馬|牽《ひ》く馬子《まご》が鼻歌おもしろく、茶店の娘に声かけられても返事せぬがおかしく、かなたに赤児《やや》の泣き声きこゆればこなたには童《わらべ》が吹くラッパの音かしましく、上る兵士は月を背にし自己《おのれ》が影を追うて急ぎ、下る少女《おとめ》は月さやかに顔を照らすが面恥《おもは》ゆく、かの青年《わかもの》が林に次ぎてこの町を愛《め》ずるも理《ことわり》なきにあらず。昨日《きのう》の事は忘れ明日《あす》の事を思わず、一日一日をみだらなる楽しみ、片時の慰みに暮らす人のさまにも似たりとは青年《わかもの》がこの町を評する言葉にぞある。青年《わかもの》別荘に住みてよりいつしか一年《ひととせ》と半ばを過ぎて、その歳《とし》も秋の末となりぬ。ある日かれは朝|早《と》く起きいでて常のごとく犬を伴い家を出《い》でたり。灰色の外套《がいとう》長く膝《ひざ》をおおい露を避くる長靴《ながぐつ》は膝に及び頭《かしら》にはめりけん帽の縁《ふち》広きを戴《いただ》きぬ、顔の色今日はわけて蒼白《あおしろ》く目は異《あや》しく光りて昨夜の眠り足らぬがごとし。
 門を出《い》ずる時、牛乳屋《ちちや》の童《わらべ》にあいぬ。かれは童の手より罎《びん》を受け取りて立ちながら飲み、半ば残して童に渡せば、童これを掌《たなごころ》にうつしては犬に与う。青年の目は遠く大空のかなたに向かえり。空は雨雲ひくく漂い、木の葉半ば落ち失《う》せし林は狭霧《さぎり》をこめたり。
 青年《わかもの》は童に別れ、独《ひと》り流れに沿うて林を出《い》で、水車場の庭に入れば翁《おきな》一人《ひとり》、物案じ顔に大空を仰ぎいたり。青年《わかもの》の入り来たれるを見て軽く礼《いや》なしつ、孫屋の縁先に置かれし煙草盆《たばこぼん》よりは煙|真直《ますぐ》にたちのぼれり。君が今朝《けさ》の装衣《いでたち》はと翁まず口を開きてやや驚けるようなり。青年《わかもの》は言葉なく縁先に腰かけ、ややありて、明日《あす》は今の住家《すみか》を立ち退《の》くことに定めぬと青年は翁が問いには答えず、微笑《ほほえ》みてその顔を守りぬ。そはまたいかにしてと翁はいよいよ驚けるように目をみはりたり。されどまた七日の後には再び来たりておもむろに告別《いとまごい》せんと青年は嘆息《ためいき》つきて深く物を思えるさまなり、翁ははたと手《て》を拍《う》ち、しからばいよいよ遠く西に行きたもうこととなりしか。否《いな》、西にあらず、まず東に行かん、まずアメリカに遊ぶべし、それよりイギリスに、その後はかねて久しく望みしフランスイタリアに。これを聞きて翁の目は急に笑《え》みをたたえ、父上もさすがにこの度《たび》は許したまいしか、まずまずめでたし、いつごろ立ちたもうや。月末《つきずえ》なるべしと青年は答え、さればこの地もまたいつ帰り来て見んことの定め難く、また再び見ることかなうまじきやこれまた計り難ければ、今日は半日この辺《あた》りを歩みて一年と五月《いつつき》の間、わが慰めとなり、わが友となり、わが筆を教え、わが情《こころ》を養いし林や流れや小鳥にまでも別れを告げばやとかくは装衣《いでた》ちぬ、されど翁にはひとまず父の家に帰りて万事《よろず》の仕度《したく》を終えし後、また来たりておもむろに別れを述べんと言いつつ青年は身を起こして庭に立ち、軽く礼《いや》して立ち去らんとす。翁はただ微笑《ほほえ》むのみ、何の言葉もなく青年を打ちまもりつ。
 青年の出《い》で行きし後、翁は庭の中をかなたこなたと歩み、めでたしめでたしと繰り返して独言《ひとりご》ちしが、ふと足を止め、眼《まなこ》を閉じ、ややありて、されど哀れの君よと深き嘆息《ためいき》をもらしぬ。
 青年《わかもの》は水車場を立ち出でてそのまま街《ちまた》の方へと足を転《めぐら》しつ、節々《おりおり》空を打ち仰ぎたり。間もなく巷《ちまた》に出《い》でぬ。
 朝なお早ければ街《ちまた》はまだ往来《ゆきき》少なく、朝餉《あさげ》の煙重く軒より軒へとたなびき、小川の末は狭霧《さぎり》立ちこめて紗絹《うすぎぬ》のかなたより上り来る荷車《にぐるま》の音はさびたる街《ちまた》に重々しき反響を起こせり。青年は橋の一にたたずみて流れの裾《すそ》を見|下《お》ろしぬ。紅《くれない》に染め出《い》でし楓《かえで》の葉末に凝《こ》る露は朝日を受けねど空の光を映して玉のごとし。かれは意《こころ》にもなく手近の小枝を折り、真紅の葉一つを摘みて流れに落とせば、早瀬これを浮かべて流れゆくをかれは静かにながめて次の橋の陰に隠るるを待つらんごとし。
 この時|青年《わかもの》の目に入りしはかれが立てる橋に程《ほど》近き楓の木陰《こかげ》にうずくまりて物洗いいたる女の姿なり。水に垂《た》れし枝は女の全身を隠せどなおよくその顔より手先までを透かし見らる。横顔なれば定かに見分け難きも十八、九の少女《おとめ》なるべし、美しき腕は臂《ひじ》を現わし、心をこめて洗うは皿《さら》の類《たぐい》なり。
 少女は青年に気づかざるように、ひたすらその洗う器《うつわ》を見て何事をも打ち忘れたらんごとし。幾個《いくつ》かの皿すでに洗いおわりて傍《かたわ》らに重ね、今しも洗う大皿は特に心を用うるさまに見ゆるは雪白《せっぱく》なるに藍色《あいいろ》の縁《ふち》とりし品なり。青年が落とせし楓《かえで》の葉、流れて少女《おとめ》の手もと近く漂いゆくを、少女見てしばし流れ去るを打ちまもりしが急に手を伸ばして摘まみ、皿にのせて傍《かたわ》らに置きぬ。葉は水に湿《うるお》いていよいよ紅《くれない》に、真白《ましろ》の皿に置かれしさまは画《え》めきて見ゆ。この時|青年《わかもの》は少女の横顔の何者にか肖《に》たるように覚えしも思い出《い》ださざりき。ただ耳より腮《あご》にかけし肉づきはかれの画心《えごころ》を惹《ひ》く殊《こと》に深かりしのみ。
 由なき戯れとは思いつつも、少女《おとめ》がかれに気づかぬを興あることに思いしか、はた真白の皿に紅《くれない》の木《こ》の葉拾いのせしふるまいのみやびて見えつるか、青年はまた楓の葉を一つ摘みて水に投げたり。木の葉は少女《おとめ》の手もとに流れゆきぬ、少女《おとめ》は直ちに摘まみてまたかの大皿《おおざら》にのせたり。しかし今洗うは最後の品なり。
 こたびは青年手に持ちし小枝をそっと水に落とせば、小枝は軽く浮かびて回転《めく》りつつ、少女《おとめ》の手もと近く漂いぬ。少女は直ちにこれを拾い上げて、紅《くれない》の葉ごとに水の滴《したた》り落つるを見てありしがまたかの大皿にのせ、にわかに気づけるもののごとく振り向きたり。青年《わかもの》の目と少女《おとめ》の目と空《そら》に合いし時、少女はさとその面《かお》を赤らめ、しばしはためらいしが急に立ちあがりかの大皿のみを左手《ゆんで》に持ちて道にのぼり、小走りに駆け入りしは騎馬隊の兵士が常に集まりて酒飲むこの街《ちまた》唯一《ゆいつ》の旗亭なり。少女は軒下にて足を停《とど》め、今一度青年の方を見たり。
 今こそ思い出《い》でぬ、今の少女の顔のよく肖《に》たりというはわが治子《はるこ》なるを。げに治子の姉妹《はらから》なりと言わんもわれいかでたやすく疑い得《う》べき、ことに最初わが方を振り向きし時のまなざしは治子のと少しも違《たが》わず、かの美しき目とかくまでに相|肖《に》たる眼《まなこ》を持つ少女《おとめ》のまた世にあらんとは思わざりしに。
 されどこれもまたわが心の迷いなるべきか、われ治子を恋うる心の深きがゆえなるべきか。かく思いつづけて青年《わかもの》が手はポケットの中なるある物を握りつめたり、その顔にはしばらく血の上《のぼ》るようなりしが、愚かなると言いし声は低ければ杖《つえ》もて横の欄打ちし音は強く、足下《あしもと》なる犬は驚きて耳を立てたり。たちまち顔は常の色に復《かえ》りつ、後《あと》をも見ずして静かに街《ちまた》をのぼり往《ゆ》きぬ。
 犬はかれに先立ちて街《ちまた》を駆けのぼり早くかなたにありて青年《わかもの》を待てり。登りつむればここは高台の見晴らし広く大空澄み渡る日は遠方《おちかた》の山影《さんえい》鮮《あざ》やかに、国境《くにざかい》を限る山脈林の上を走りて見えつ隠れつす、冬の朝、霜寒きころ、銀《しろかね》の鎖の末は幽《かすか》なる空に消えゆく雪の峰など、みな青年《わかもの》が心を夢心地《ゆめごこち》に誘いかれが身うちの血わくが常なれど、今日《きょう》は雲のゆきき早く空と地と一つになりしようにて森も林もおぼろにかすみ秋霧重く立ちこむる野面《のづら》に立つ案山子《かがし》の姿もあわれにいずこともなく響く銃《つつ》の音沈みて聞こゆ。青年はしばし四辺《あたり》を見渡して停止《たたず》みつおりおり野路《のみち》を過《よぎ》る人影いつしか霧深き林の奥に消えゆくなどみつめたる、もしなみなみの人ならば鬱陶《うっとう》しとのみ思わんも、かれは然《しか》らず、かれが今の心のさまとこの朝の景色《けしき》とは似通う節《ふし》あり、霧立ち迷うておぼろにかすむ森のさまは哀れに物悲し、これ恋なり。されどその幻に似て遠きかなたに浮かべるさまは年若き者の夢想を俤《おもかげ》にして希望《のぞみ》という神の住みたもうがごとく、青年《わかもの》の心これに向かいてはただ静かに波打つのみ。
 林の貫きて真直《ますぐ》に通う路あり、車もようよう通い得《う》るほどなれば左右の梢《こずえ》は梢と交わり、夏は木《こ》の葉をもるる日影鮮やかに落ちて人の肩にゆらぎ、冬は落ち葉深く積みて風吹く終夜《よすがら》物のささやく音す。一年《ひととせ》と五月《いつつき》の間にかれこの路を往来《ゆきき》せしことを幾|度《たび》ぞ。この路に入りては人にあうことまれに、おりおり野菜の類《たぐい》を積みし荷車ならずば馬上|巻煙草《まきたばこ》をくわえて並み足に歩ませたる騎兵にあうのみ。今朝《けさ》もかれはこの路を撰《えら》びてたどりぬ。路の半ばに時雨《しぐれ》しめやかに降り来たりて間もなく過ぎ去りし後《のち》は左右《そう》の林の静けさをひとしおに覚え、かれが踏みゆく落ち葉の音のみことごとしく鳴れり。この真直《ますぐ》なる路の急に左に折るるところに立ち木やや疎《まば》らなる林あり。青年《わかもの》はかねてよくこの林の奥深く分け入り、切り株などに腰かけて日の光と風の力とに変わりゆく林の趣をめで楽しみたりければ、犬もまたこの林になずみけん、今日も先に立ちて走り入りぬ。
 木の葉半ば落ちて大空の透かし見らるる林を秋霧立ちこむる朝|訪《と》わばいかに心騒がしき人もわれ知らず四辺《あたり》の静けさに耳そばたつるなるべし。世の巷《ちまた》に駆けめぐる人は目のみを鋭く働かしめて耳を用いざるものなり。衷心《うち》騒がしき時いかで外界《そと》の物音を聞き得ん。
 青年の心には深き悲しみありて霧のごとくかかれり、そは静かにして重き冷霧なり。かれは木の葉一つ落ちし音にも耳傾け、林を隔てて遠く響く轍《わだち》の音、風ありとも覚えぬに私語《ささや》く枯れ葉の音にも耳を澄ましぬ。山鳩《やまばと》一羽いずこよりともなく突然|程《ほど》近き梢《こずえ》に止まりしが急にまた飛び去りぬ。かれが耳いよいよさえて四辺《あたり》いよいよ静寂《しずか》なり。かれは自己《おの》が心のさまをながむるように思いもて四辺《あたり》を見回しぬ。始めよりかれが恋の春霞《はるがすみ》たなびく野|辺《べ》のごとかるべしとは期せざりしもまたかくまでに物さびしく物悲しきありさまになりゆくべしとは青年《わかもの》今さらのように感じたり。
 かれに恋人あり、松本|治子《はるこ》とて、かれが二十二の時ゆくりなく相見て間もなく相思うの人となりぬ。十年互いに知りてついに路傍の石に置く露ほどの思いなく打ち過ぐるも人と人との交わりなり、今日《きょう》見て今夜《こよい》語り、その夜の夢に互いに行く末を契るも人と人との縁なり。治子がこの青年を恋うるに至りしは青年《わかもの》が治子を思うよりも早く、相思うことを互いに知りし時は互いの命は互いの心に取りかわして置かれぬ、これ相見てより一月《ひとつき》とは経《た》たざる間の事なり。親々《おやおや》はこの恋を許さざりき、その故《ゆえ》はと問わば言葉のかずかずもて許し難き理由《いわれ》を説かんも、ただ相恋うるが故にこの恋は許さじとあからさまに言うの直截《ちょくせつ》なるにしかず。物堅しといわるる人々はげにもと同意すべければなり。げにそのごとくなりき。かくて治子は都に近きその故郷《ふるさと》に送り返され、青年《わかもの》は自ら望みて伯父《おじ》なる人の別荘に独居し、悲しき苦しき一年《ひととせ》を過ぐしたり。
 青年《わかもの》は治子の事を思い絶たんともがきぬ、ついに思い絶ち得たりと自ら欺きぬ。自ら欺けるをかれはいつしか知りたれど、すでに一度自ら欺きし人はいかにこれを思い付くともかいなく、かえってこれを自ら誇らんとするが人の情《こころ》の怪しき作用《はたらき》の一つなり。そこには必ず一個《ひとつ》の言いわけあるものなり。この青年《わかもの》はわれに天職ありと自ら約せり。この約束を天の入れたもうや否やは問うところにあらず。
 かれは文学と画とを併《あわ》せ学び、これをもって世に立ち、これをもってかれ一|生《せい》の事業となさんものと志しぬ、家は富み、年は若し。この望みはかれが不屈の性と天稟《てんりん》の才とをもってしては達し難きものにあらず。かれはこれを自信せり。一年《ひととせ》の独居はいよいよこの自信を強め、恋の苦しみと悲しみとはこの自信と戦い、かれはついに治子を捨て、この天職に自個を捧《ささ》ぐべしと自ら誓いき。後の五月《いつつき》はこの誓いと恋と戦えり。しかしてかれ自ら敗れ、ついに遠く欧州に走らばやと思い定めき。最初父はこれを許さざりしも急にかれの願いを入れて一日も早く出立《しゅったつ》せよと命ずるごとくに促しぬ。
 昨夜治子より手紙来たり、今日|午《ひる》過ぎひそかに訪問《おとず》れて永久《とこしえ》の別れを告げんと申し送れり。永久《とこしえ》の別れとは何ぞ。かれの心はかき乱されぬ。昨夜はほとんど眠らざりき。行く末のかれが大望《たいもう》は霧のかなたに立ちておぼろながら確かにかれの心を惹《ひ》き、恋は霧のごとく大望を包みて静かにかれの眼前《めのまえ》に立ちふさがり、かれは迷いつ、怒りつ、悲哀《かなしみ》と激昂《げっこう》とにて一夜《ひとよ》を明かせり。明けがた近くしばしまどろみしが目さめし時はかれの顔|真《ま》っ蒼《さお》なりき。憂えも怒りも心の戦いもやみて、暴風一過、かれが胸には一片の秋雲凝って動かず。床にありていずこともなく凝視《みつ》めし眼《まなこ》よりは冷ややかなる涙《なみだ》、両の頬《ほお》をつたいて落ちぬ。『ああ恋しき治子よ』と叫びて跳《は》ね起きたり。水車場の翁《おきな》はほぼかれが上を知れるなり。
 この時またもや時雨《しぐれ》疎《まば》らに降り来たりぬ。その軽き一滴二滴に打たれて梢《こずえ》より落つる木の葉の風なきにひるがえるさまを青年《わかもの》は心ありげにながめたり。時雨《しぐれ》の通りこせし後は林の中《うち》しばし明るくなりしが間もなくまた元の夕闇《ゆうやみ》ほの暗きありさまとなり、遠方《おちかた》にて銃《つつ》の音かすかに聞こえぬ。青年《わかもの》は身を起こしてしばし林の中《うち》をたどりしが、直ちに路《みち》にはいでず、路に近けれど人目に隠るる流れの傍《かたわ》らにいでたり。こはかれが家の庭を流れてかの街《ちまた》を貫くものとは異なり、遠き大川より引きし水道の類《たぐい》ゆえ、幅は三尺に足らねど深ければ水層《みずかさ》多く、林を貫く辺《あた》りは一直線に走りて薄暗きかなたより現われまた薄暗き林の木陰《こかげ》に隠れ去るなり。村の者が野菜洗うためにとてこの流れの幅をことさらに広く掘り、小さき入り江をなせる、いつもかれが好みて訪《と》い来るところにいで落ち葉を敷きつ、茅《ちがや》、野ばら、小笹《おざさ》の類《たぐい》入り乱れし藪叢《やぶ》を背にしてうずくまり、前には流れの音もなく走るをながめたり。
 熱沙《ねっしゃ》限りなきサハラを旅する隊商も時々は甘き泉わき緑の木陰涼しきオーシスに行きあいて堪《た》え難き渇《かわ》きと死ぬばかりなる疲労《つかれ》を癒《いや》する由あれど、人生まれ落ちての旅路《たびじ》にはただ一度、恋ちょう真清水《ましみず》をくみ得てしばしは永久《とこしえ》の天を夢むといえども、この夢はさめやすくさむれば、またそのさびしき行程《みち》にのぼらざるを得ず、かくて小暗《おぐら》き墓の門に達するまで、ついに再び第二のオーシスに行きあうことなく、ただ空《むな》しく地平線下に沈みうせぬるかの真清水《ましみず》を懐《おも》うのみ、げにしかり、しかしてわれ今、しいて自らこのオーシスに分かれんとす、しいて自らこの夢を破らんとす。これまことにわれの堪え得《う》べき事なるか。
 恋の泉はいつもいつもわきて流れ疲れし人をまてど、この泉の潯《ほとり》にて行きあう年若き男女の旅人のみは幾度か幾度か代わりゆき、かつ若者に伴いし乙女《おとめ》初めは楽しげにこの泉をくめどたちまちその手を差しいれてこれを濁し、若者をここより追いやりつ、自己《おのれ》もまたあえぎあえぎその跡を逐《お》うて苦しき熱きさびしき旅路にのぼる。わが友の上にもこの事あり、わが読みし文《ふみ》の中《うち》にもこの事多し。されど治子は一度われをこの泉の潯《ほとり》に導きしより二年《ふたとせ》に近き月日を経て今なおわれを思いわれを恋うてやまず、昨夜の手紙を読むものたれかこの清き乙女《おとめ》を憐《あわれ》まざらん。しかしてわれ今、しいて自らこの乙女を捨てて遠く走らんとす。この乙女を沙漠《さばく》の真中《まなか》にのこしゆかんとす。これまことにわれの忍び得ることなるか。
 われ近ごろ、猛《たけ》き獅子《しし》と巨蠎《おろち》と、沙漠の真中《まなか》にて苦闘するさまを描ける洋画を見たり。題して沙漠の悲劇というといえどもこれぞ、すなわちこの世の真相なるべきか。げにこのわれなき世こそ治子の眼《まなこ》にはかくも映るなるべし。しかしてわれはいかん、われはいかん。
 青年《わかもの》は恋を想《おも》い、人の世を想い、治子を想い、沙漠を想い、ウォーシスを想い、想いは想いをつらねて環《まわ》り、深き哀《かな》しみより深き悲しみへと沈み入りぬ。風の音は人の思いを遠きに導き、水の流れは人の悲哀《かなしみ》を深きに誘《いざな》う。かれが前なる流れは音もせで淀《よど》みなく走るを、初めかれ心なくながめてありしが、見よ、水上《みなかみ》より流れ来たる木の葉を、かれはひたすらながめ入りぬ。紅の葉、黄色の葉、大小さまざまの木の葉はたちまち木陰《こかげ》より走りいでてまた木陰にかくれ走りつ。たちまち浮かびたちまち沈み、回転《めぐ》りつ、ためらいつす。かれは一つを見送りつまた一つを迎え、小なるを見失いては大なるをまてり。かれが心のはげしき戦いは昨夜にて終わり、今は荒寥《こうりょう》たる戦後の野にも等しく、悲風|惨雨《さんう》ならび至り、力なく光なく望みなし。身も魂《たま》も疲れに疲れて、いつか夢現《ゆめうつつ》の境に入りぬ。
 林あり。流れあり。梢《こずえ》よりは音せぬほどの風に誘われて木の葉落ち、流れはこれを浮かべて走る。青年《わかもの》あり、外套《がいとう》の襟《えり》に頸《くび》を埋《うず》め身を縮めて眠れる、その顔は蒼白《あおじろ》し。四辺《あたり》の林もしばしはこの青年に安き眠りを借さばやと、枝頭《しとう》そよがず、寂《せき》として音なし。流れには紅黄《こうこう》大小かずかずの木の葉、たちまち来たりたちまち去り、緩《ゆる》やかに回転《めぐ》りて急に沈むあり、舟のごとく浮かびて静かに流るるあり。この時東の空、雲すこしく綻《ほころ》びて梢の間より薄き日の光、青年の顔に落ちぬ、青年は夢に舟を浮かべて清き流れを下りつつあり、時はまさに春の半ばなり。左右の岸は新緑の光に輝き、仰げば梢と梢との間には大空澄みて蒼く高く、林の奥は日の光届きかねたれど、木《こ》の間《ま》木の間よりもるる光はさまざまの花を染め出《い》だし、涼しき風の枝より枝にわたるごとに青き光と黒き影は幾千万となき珠玉の入り乱れたらんごとく、岸に近き桜よりは幾千《すうせん》の胡蝶《こちょう》一時に梢を放れ、高く飛び、低く舞う。流れの淀むところは陰暗く、岩を回《めぐ》れば光景瞬間に変じ、河幅《かわはば》急に広まりぬ。底は一面の白砂《はくさ》に水紋落ちて綾《あや》をなし、両岸は緑野低く春草《しゅんそう》煙り、森林遠くこれを囲みたり。岸に一人《ひとり》の美《うる》わしき少女《おとめ》たたずみてこなたをながむる。そのまなざしは治子に肖《に》てさらに気高《けだか》く、手に持つ小枝をもて青年を招《まね》ぐさまはこなたに舟を寄せてわれと共に恋の泉をくみたまわずや、流れ流れていずこまでゆかんとしたもうぞ、流れの末は波荒き海なるをといえるがごとし。流れの末を打ち見やれば春霞《はるがすみ》たなびきたり。かれはしばしためらいつ、言い難き悲哀《かなしみ》胸を衝《つ》いて起こりぬ。少女《おとめ》は見て、その悲哀を癒《いや》す水はここにありと、小枝を流れに浸しこなたに向かいて振れば、冷たき沫《しぶき》飛び来たりて青年の頬《ほお》を打ちたり。春の夢破れぬ。
 風起こりて木の葉あらあらしく鳴りつ、梢《こずえ》より落つる滴《したた》りの落ち葉をうつ音雨のごとし。かれは静かに身を起こし、しばらく流れをみつめてありしが、心はなお夢路《ゆめじ》をたどれるがごとく、まなざしは遠き物をながむるさまなり。外套《がいとう》のポッケットに差し入れし手先に触るる物あるをかれは堅く握りて眼《まなこ》を閉じつ。
 この時犬高くほえしかば、急ぎて路に出《い》で口笛鋭く吹きつつ大股《おおまた》に歩みて野の方《かた》に向かい、おりおり空を仰ぎては眉《まゆ》をひそめぬ。空は雲の脚《あし》はやく、絶え間絶え間には蒼空《あおぞら》の高く澄めるが見ゆ。
 青年は絶えずポケットの内なる物を握りしめて、四辺《あたり》の光景には目もくれず、野を横ぎり家路《いえじ》へと急ぎぬ。ポケットの内なるは治子よりの昨夜の書状《てがみ》なり。短き坂道に来たりし時、下より騎兵二騎、何事をか声高に語らいつつ登りくるにあいたれどかれはほとんどこれにも気づかぬようにて路をよけ通しやりぬ。騎兵ゆき過ぎんとして、後《あと》なる馬上の、年若き人、言葉に力を入れ『……に候間《そろあいだ》至急、「至急」という二字は必ず加えざるべからず』と言うや、前なる騎兵、『無論、無論……』と答えつ、青年《わかもの》の耳たてし時は二騎の姿すでに木立ちにかくれて笑う声のみ高く聞こえたり。青年はさらに路をいそぎぬ。
       *          *
            *          *
 ――停車|場《ば》の時計、六時を五分過ぎ、下りの汽車を待つ客七、八人、声立てて語るものなければ寂寥《さびし》さはひとしおなり。ランプのおぼつかなき光、隈々《くまぐま》には届きかねつ。大空晴れて星の数もよまるるばかりに、風は北よりそよぎて夕暮れの寒さに人々は身をちぢめたり。発車にはなお十分を待たざるを得ず。
 この時切符を売りはじめしかば、人々みな立ちて箱の前に集まりし時、外《ほか》より男女《なんにょ》二人《ふたり》の客、静かに入り来たりぬ。これ松本治子と田宮峰二郎なり。青年は切符を買いて治子に渡し、二人は人々に後《おく》れてプラットフォームの方《かた》に出《い》で、人目を避くるごとく、かなたなる暗きあたりを相並びて歩めり。治子はおりおり目にハンケチをあてて言葉なし。青年は窮《きわ》みなき空高くながめ、胸さくるばかりの悲哀《かなしみ》をおさえて、ひそめし声に力を入れ、『必ず手紙を送りたまえ、今こそわが望みは君が心なれ。』
 慷慨《こうがい》に堪《た》えざるもののごとく、『君を力にてわが望みは必ず遂げん。』熱き涙一滴、青年が頬《ほお》をつたいしも乙女《おとめ》は知らず。ハンケチを口にくわえて歯をくいしばりぬ。しばし二人は言葉なく立てり。汽笛高く響きし時、青年は急ぎ乙女の手を堅く握り、言わんとして言うあたわず、乙女がわずかに『御身《おんみ》を大切に』と声もきれぎれに言うや『君こそ、君こそ、必ず心たしかに忍びたまえ、手紙を忘れたもうな。必ず……。』
 青年はその夜、十時ごろ茅屋《くさや》に帰りぬ。筆を走らして、おりおり嘆息《ためいき》つきつつ、
『われ君を思い断たんともがきしはげに愚かの至りなりき。われ君を思うこといよいよ深くしてわれますます自ら欺かんと企てぬ。思い断ち得てしかして得るところは何ぞ、われにも君にも永《なが》くいやし難き心の傷なるべし。しかしてわがいわゆる天職なるもの果たして全く遂げらるべきや。ああ愚かなる。げにわが血は荒れて事業事業と叫ぶ声のみぞいたずらに高く、その声の大なるに自ら欺かれてわれに限りなき力ありと思いき。』
 この時、風一陣、窓に近き栗《くり》の梢《こずえ》を魔《もの》ありて揉《も》みしようなる音す。青年は筆を止めて耳傾くるさまなりしが、
『わが力いずこにありや。口|渇《かわ》きし者の叫ぶ声を聞け、風にもまるる枯葉《こよう》の音を聞け。君なくしてなお事業と叫ぶわが声はこれなり。声かれ血|涸《か》れ涙《なみだ》涸れてしかして成し遂ぐるわが事業こそ見物《みもの》なりしに。ああされど今や君はわが力なり。あらず、君を思うわが深き深き情けこそわが将来《ゆくすえ》の真《まこと》の力なれ。あらず。われを思う君が深き高き清き情けこそわが将来《ゆくすえ》の血なれ。この血は地の底を流るる春の泉なり。草も木も命をここに養い、花もこれより開き、実を結ぶもその甘き汁はすなわちこの泉なり。こは詩的形容にあらず、君よ今わが現に感ずるところなり。
 昨夜までは、わが洋行も事業の名をかりて自ら欺く逃走なりき。かしこは墳墓なりき。今やしからず。今朝《けさ》より君が来宅までわが近郊の散歩は濁水暫時地を潜《くぐ》りし時のごとし。こはわが荒き感情の漉《こ》されし時なり。再び噴出せし今は清き甘き泉となりぬ。われは勇みてこの行に上るべし。望みは遠し、されど光のごとく明るし。熱血、身うちに躍《おど》る、これわが健康の徴《しるし》ならずや。みな君が賜《たまもの》なり。』
 青年の眼《まなこ》は輝きて、その頬《ほお》には血のぼりぬ。
『されば必ず永久《とこしえ》の別れちょう言葉を口にしたもうなかれ。永久の別れとは何ぞ。人はあまりにたやすく永久《とこしえ》の二字を口にす。恐ろし二字、厳《おごそ》かなる二字、人を生かし人を殺す二字。永久の望み、永久の死、人はこの両極に呼吸す。永久の死なき者に永久の別れありや。されど死という一字は人容易に近づきて深く感ずるを得ずといえども、別れの一字は人々の日々親しく感ずるがゆえに、もし人、この一字に永久の二字を加えて静かに思いきわめなばその胸さけん。君とてもしかり。これわれと永久《とこしえ》に別れて無究に相見ず、われは北極の氷と化し君は南極の石となりて、感ぜず思わず、限りなく相見ずと思いたもうともなお忍びたもうことを得るや。愛児を失いし人は始めて死の淵《ふち》の深きに驚き悲しむと言い伝う、わが知れる宗教家もしかいえり。こは誤感のみ。かれが感ずるは死にあらず、別れなり。その哀《かな》しみは死を悲しむにあらず、別れを悲しむなり。死は形のみ、別れは実《じつ》なり。たれか愛と永久《とこしえ》の別れと両立せしめ得るものぞ。千年万年億々年の別れを悲しまず、実に永久《とこしえ》の別れを悲しむ。否、われは永久《とこしえ》の別れを信ぜざるなり。愛の命はこの信仰のみ、われらが恋の望みは実にここにあり。否、君のみにあらず、われは一目見しかの旗亭《きてい》の娘の君によく肖《に》たると、老い先なき水車場の翁《おきな》とまた牛乳屋《ちちや》の童《わらべ》と問わず、みなわれに永久《とこしえ》の別れあるものぞとは思い忍ぶあたわず。ああ天よ地よ、すべて亡《ほろ》びよ。人と人とは永久《とこしえ》に情の世界に相見ん。君よ、必ず永久《とこしえ》の別れを軽々《かろがろ》しく口にも筆にも上《のぼ》したまいそ。これ実にわれの耐うるところにあらず。君を恋うることの深きによりて、われ初めてこの深き悲哀を知り、さらに限りなきの望みと力とを得たり。運命の力は強し、君とこの世にまた相見ることなかるべきやを思うだに、この心破れんとす、いわんや永久《とこしえ》の別れをや。』
 この時、夜ふけ、遠き林をわたる風の音の幽《かす》かに聞こゆるのみ、四辺《あたり》は寂《せき》として声なし。青年はしばし、夢みるごときまなざし遠く、ややありて『わが夜もふけぬ。君今は静かに休みておわさん。わが心|哀《かな》し。人々みな懐《なつ》かし。わけても君恋し。ああたれか永久《とこしえ》の別れというや。否、否、否……。』
 かれは掌《たなごころ》もて顔をおおい、臂《ひじ》を机に立てつ、目の前には牛乳屋《ちちや》、水車場、小川流るる巷《ちまた》、林の奥、木《こ》の葉浮かびて流るるまっすぐの水道、美しき優しき治子、翁《おきな》、童《わらべ》、驢馬《ろば》に至るまで鮮《あざ》やかに浮かび出《い》でしが、たちまちみな霧に包まれて消え、夢に見し春の流れの岸に立つ気高《けだか》き少女《おとめ》現われぬ。そは真《まこと》の治子の姿とかわらざりき。


         (明治三十一年十月作)

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「文芸倶楽部」
   1898(明治31)年10月
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2012年7月26日作成
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国木田独歩

まぼろし—— 国木田独歩

絶望

 文造《ぶんぞう》は約束どおり、その晩は訪問しないで、次の日の昼時分まで待った。そして彼女を訪《たず》ねた。
 懇親の間柄とて案内もなく客間に通って見ると綾子《あやこ》と春子とがいるばかりであった。文造はこの二人《ふたり》の頭《つむり》をさすって、姉《ねえ》さんの病気は少しは快《よ》くなったかと問い、いま会うことができようかと聞いて見た。
『姉さんはおっかさんとどこかへ出ましたよ』と綾子は答えた。
『なんて! 出ましたッて!』と言った文造の心は何となく穏やかでなかった。『姉さんは今時分いつでも家《うち》にいるはずでしょう、あなたのおけいこの時刻だから。』
『姉さんはもうこれからはあたしたちにおけいこしてくださらないのよ、』と綾子が答えた。
『姉さんはもうおけいこしてくれないの、』春子が繰り返した。
『お父さんはお宅《うち》?』文造は尋ねた。
『お父さんはお留守、姉さんはお病気なのよ、ゆうべ夜通し泣いてよ。』
『姉さんが泣いたって?。』
『ハあ、お峰《みね》がそう言ってよ、そしてね姉さんのお目が大変赤くなって腫《は》れていましたよ。』文造はしばらく物思いに沈んでいたが、寒気《さむけ》でもするようにふるえた。突然|暇《いとま》を告げて、そしてぼんやり自宅《いえ》に帰った。かれは眩暈《めまい》のするような高いところに立っていて、深い谷底を見|下《お》ろすような心地《ここち》を感じた。目がぐるぐるして来て、種々雑多な思いが頭の中を環《わ》のようにめぐりだした。遠方で打つ大砲の響きを聞くような、路《みち》のない森に迷い込んだような心地がして、喉《のど》が渇《かわ》いて来て、それで涙が出そうで出ない。
 痛ましげな微笑は頬《ほお》の辺《あた》りにただよい、何とも知れない苦しげな叫び声は唇《くちびる》からもれた。
『梅子《むめこ》はもうおれに会わないだろう』かれは繰り返し繰り返し言った。『しかしなぜだろう、こんなに急に変わるたア何のことだろう。なぜおれに会えないだろう、なぜそんなに困ッた事条《じじょう》があるなら自分《おれ》に打ちあけないだろう。』
『若旦那《わかだんな》。』
 文造は驚いて振り向いた。僕が手に一通の手紙を持って後背《うしろ》に来ていた。手紙を見ると、梅子からのである。封を切らないうちにもうそれと知って、首を垂《た》れてジッとすわッて、ちょうど打撃を待っているようである。ついに気を引きたてて封を切った。小さな半きれに認《したた》めてある文字は次のごとくである。
『御《おん》ゆるしのほど願い参らせ候《そろ》今は二人《ふたり》が間のこと何事も水の泡《あわ》と相成り候《そうろう》妾《わらわ》は東京に参るべく候悲しさに胸はりさくばかりに候えど妾が力に及び難く候これぞ妾が運命とあきらめ申し候……されど妾決して自ら弁解いたすまじく候妾がかねて想《おも》いし事今はまことと相成り候妾を恕《ゆる》したまえ妾をお忘れ下されたし君には値《あたい》なき妾に御心ひろくもたれよ再び妾を見んことを求めたまいそ
[#地から2字上げ]梅子』
 文造は読みおわって、やおら後ろに倒れた、ちょうどなにか目に見えない者が来て押しつけたように。持っていた手紙を指の間からすべり落とした、再び拾って、も一度読んだ。『東京へ』と微《かす》かに言ってまたその手紙を落とした。
 鉛のような絶望が今やかれの胸を圧して来た。かれは静かにその手をあげて、丁寧に襟《えり》をあわした。『死ぬるほどの傷を受けた人はちょうどこんなふうに穏やかなものさ』とかれは思った。『幻影《まぼろし》のように彼女《あれ》は現われて来てまた幻影《まぼろし》のように消えてしまった……しごくもっとものことである。自分《おれ》はかねて待ちうけていた。』文造はその実自ら欺いたので、決してこの結果を待ち受けてはいなかッた。
『彼女《あれ》は自分《おれ》を恋したのではない。彼女《あれ》の性質で何もかもよくわかる。君には値なき妾に候とはうまく言ったものだ!』かれは痛ましげな微笑をもらした。『彼女《あれ》は今まで自己《おのれ》の価値《ねうち》を知らなかったのである、しかしあの一条からどうして自分《おれ》のような一介の書生《しょせい》を思わないようになっただろう……自分《おれ》には何もかもよくわかっている。』
 しかし文造は梅子の優しい言葉、その微笑、その愛らしい目元、見かわすごとに愛と幸いとで輝いた目元を想い起こすと、堪《た》ゆべからざる悲痛が胸を衝《つ》いて来た。あらあらしく頭を壁に押しつけてもがいた。座《ざ》ぶとんに顔を埋《うず》めてしばらく声をのんで哭《こく》した。

かれ

 秋の末のことであった。自分は駿河台《するがだい》の友人を訪《たず》ねて、夜《よ》に入ってその家を辞して赤坂の自宅を指《さ》して途《みち》を急いだ。
 この夜は霧が深く立てこめていて、街頭のガス燈や電気燈の周囲《まわり》に凝っている水蒸気が美しく光っておぼろな輪をかけていた。往来《ゆきき》の人や車が幻影《まぼろし》のように現われては幻影《まぼろし》のように霧のうちに消えてゆく。自分はこんな晩に大路《おおじ》を歩くことが好きで。霧につつまれて歩く人を見るとみんな、何か楽しい思いにふけっているか、悲しい思いに沈んでいるかしているようで、自分もまた何とはなしに夢心地になって歩いた。
 九段坂の下まで来ると、だしぬけに『なんだと、酔っている、ばか! 五合や一升の酒に酔うようなおれ様か!』という声が自分のすぐ前でしたと思うと自分とすれ違って、一人の男がよろめきながら『腰の大小|伊達《だて》にゃあささぬ、生意気《なまいき》なことをぬかすと首がないぞ!』と言って『あははははッ』と笑ッた。自分は驚いて、振り向いて見ると、霧をこめておぼろな電気燈の光が斜めに射《さ》して大男の影を幻のように映していた。たちまち霧のうちに消えてしまった。この時もしや今のは彼人《あれ》ではないかという考えが電《いなずま》のように自分の胸に浮かんだ。
『まさか』と自分《おれ》は打消《けし》て見たが『しかし都は各種の人が流れ流れて集まって来る底のない大沼である。彼人《あれ》だってどんな具合でここへ漂って来《き》まいものでもない、』など思いつづけて坂の上まで来て下町の方を見下ろすと、夜《よ》は暗く霧は重く、ちょうどはてのない沼のようでところどころに光る燈火が燐《りん》の燃えるように怪しい光を放ちて明滅していた。
『彼人《あれ》とはだれのことか、』自分《おれ》はここにその姓名を明かしたくない、単に『かれ』と呼ぼう。
 かれは一個の謎《なぞ》である。またかれは一個《ひとつ》の『悲惨』である。時代が人物を生み、人物が時代を作るという言葉があるが、かれは明治の時代を作るために幾分の力を奮った男であって、それでついにこの時代の精神に触れず、この時代の空気を呼吸していながら今をののしり昔を誇り、当代の豪傑を小供《こども》呼ばわりにしてひそかに快しとしている。自分はかれを七年以前、故郷のある村の村塾《そんじゅく》で初めて見た。かれは当時《そのとき》、村の青年四、五名をあつめて漢籍を教えていた。
 自分は当時《そのころ》、かれを見るごとに言うべからざる痛ましさを感じた。かれは『過去』の亡魂である、それでもいい足りない。『封建時代』の化石である、それでもいい足りない。谷川の水、流れとともに大海《だいかい》に注がないで、横にそれて別に一小沢を造り、ここに淀《よど》み、ここに腐り、炎天にはその泥沸き、寒天にはその水|氷《こお》り、そしてついには涸《か》れゆくをまつがごときである。しかしかれと対座してその眼《まなこ》を見、その言葉をきくと、この例でもなお言い足りないで、さらに悲しい痛ましい命運の秘密が、その形骸《けいがい》のうちに潜んでいるように思われた。
 不平と猜忌《さいき》と高慢とがその眼《まなこ》に怪しい光を与えて、我慢と失意とが、その口辺に漂う冷笑《あざわらい》の底に戦っていた。自分はかれが投げだしたように笑うのを見るたびに泣きたく思った。
『国会がどうした? ばかをいえ。百姓どもが集まって来たって何事をしでかすものか。』これがかれの句調であった。
『東京がなんだ、参議がどうだ、東京は人間のはきだめ[#「はきだめ」に傍点]よ。俊助に高慢な顔をするなって、おれがそう言ったッて伝言《ことづけ》ろ!』これがかれのせめてもの愉快であった。『彼人《あれ》がどうしてまた東京に来たろう、』自分は自分の直覚を疑ってはまた確かめてその後、ある友人にもかれのことを話して見たが、友は小首を傾けたばかりであった。その後二週間ほどたって、自分は用談の客と三時間ばかり相談をつづけ、客が帰ったあとで、やや疲れを覚え、横になったまま庭をながめて秋の日影がだんだんと松の梢《こずえ》をのぼって次第に消えてゆくのを見ながら、うつらうつらしていた。すると玄関で『頼もう!』と怒鳴る声がした。自分はすぐ、『来たな!』と思った。
 果たしてかれであった。
『どうだその後《のち》は?』これがかれの開口第一のあいさつであった。自分が慇懃《いんぎん》にあいさつする言葉を打ち消して、『いやそうあらたまれては困る。』かれは酒気《しゅき》を帯びていた。
『これが土産《みやげ》だ。ほかに何にもない、そら! これを君にくれる、』と投げだしたのは短刀であった。自分はその唐突《とうとつ》に驚いた。かかる挙動《ふるまい》は決して以前のかれにはなかったのである。自分はもう今日のかれ、七年前のかれでないことを悟った。『これは右手指《めてざし》といって、こういう具合にさすので、』かれは短刀を拾って後ろざまに帯にさした。『敵を組み伏せた時、左でこう敵を押えて右でこうぬいて、』かれの身振りはさすがに勇ましかった、『こう突くのだ。』そしてかれは『あはははは』と笑った。すべてその挙動《ふるまい》がいかにもそわそわしていた。
 自分はかれこれと話して見たが、何一つ身にしみて話すことができなかった。かれはただそわそわして少しも落ちつかないで、その視線を絶えず自分の目から避けて、時々『あはははは』と大声に笑った、しかし七年前の哄笑《こうしょう》とはまるで違っていた。
 命じて置いた酒が出ると、『いや僕はもう飲んで来た、沢山沢山。』かれは自ら欺いた。
『まあ一つ、』自分は杯《さかずき》をさした。
『ありがとう、』かれは心中のよろこびを隠し得なかった。自分はかれの返杯を受けないで、さらに一杯を重ねさした。さもうまそうに飲むかれを自分はじっと視《み》ていた。かれは飲み干して自分の顔を見たが、野卑な喜びの色がその満面に動いたと思うとたちまち羞恥《はじ》の影がさっと射《さ》して、視線を転じてまた自分を見て、また転じた。自分はもうその様子を視《み》ていられなくなった。
『大ぶんお歳《とし》がゆきましたね、』思わず同情の言葉が意味を違えて放たれた。
『なに、これでまだまだ君なんかより丈夫だろう。この酒は上等だわイ。』
『白馬《どぶろく》とは違いますよ、ハハハハハハ』と、自分はふと口をすべらした。何たる残刻《ざんこく》無情の一語ぞ、自分は今もってこの一語を悔いている。しかしその時は自分もかれの変化があまり情けないので知らず知らずこれを卑しむ念が心のいずこかに動いていたに違いない。
『あハハハハハハ』かれも笑った。
 不平と猜忌《さいき》と高慢とですごく光った目が、高慢は半ばくじけ不平は酒にのまれ、不平なき猜忌は『野卑』に染まり、今や怪しく濁って、多少血走っていて、どこともなく零落の影が容貌《かお》の上に漂うている。
 自分はなぜ東京に上《のぼ》ったか、またいつ来たか、今どうして暮らしているか、これらのところを尋ねて見ようとしてよした。問わないでもわかる。そして自分は思った、その秘密はかれ自身よりもかえって自分の方がよく知っているだろうと。
 かれは酒を飲むにつれて、しきりに例の大言を昔のままに吐いたが、これはその実、昔のかれに自分で自分が申し訳をして、いささか快しとしているばかりである。むしろ時々小声で、『しかしおれももうだめだよ、』とわれ知らずもらす言葉が真実《ほんと》であった。
 自分はかれの運命を思って何とも言えずあわれになって来た。もうかれとても自家《おのれ》の運命の末がそろそろ恐《こわ》くなって来たに違いない。およそ自分の運命の末を恐がるその恐れほど惨痛《さんつう》のものがあろうか。しかもかれには言うに言われぬ無念がまだ折り折り古い打傷《うちみ》のようにかれの髄を悩ますかと思うとたまらなくなってくる。かれの友のある者は参議になった、ある者は神に祭られた。今の時代の人々は彼らを謳歌《おうか》している。そしてかれは今の時代の精神に触れないばかりに、今の時代をののしるばかりにこのありさまに落ちてしまった。
『あらためて一つ差し上げましょう、この後|永《なが》くお交際《つきあい》のできますように、』と自分は杯《さかずき》をさした。かれは黙して杯を受けて、ぐいと飲み干したが、愁然として頭を垂《た》れた。そして杯を下に置いた。突然|起《た》って、『いや大変酔った、さようなら。』
 自分は驚いて止めたが、止まらなかった。
『どうかまた来てください、』と自分のいう言葉も聞いたか聞かないか。かれの姿は夕闇《ゆうやみ》のうちに消えてしまった、まぼろし[#「まぼろし」に傍点]のように。
          (三十一年五月作)

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「国民之友」
   1898(明治31)年5月
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2012年7月26日作成
2012年9月29日修正
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