高村光太郎

珈琲店より——高村光太郎

例の MONTMARTRE の珈琲店《カフエ》で酒をのんで居る。此頃、僕の顔に非常な悲しみが潜んでゐるといつた君に、僕の一つの経験を話したくなつた。まあ読んでくれたまへ。
 〔OPE’RA〕 のはねたのが、かれこれ、十二時近くであつた。花の香ひと、油の香ひで蒸される様に暖かつた劇場の中から、急に往来へ出たので、春とはいひながら、夜更けの風が半ば気持ちよく、半ば無作法に感じられた。
 〔AVENUE DE L’OPE’RA〕 の数千の街灯が遠見の書割の様に並んで見える。芝居がへりの群衆が派手な衣裳に黒い DOMINO を引つかけて右にゆき、左に行く。僕は薄い外套の襟を立てて、このまま画室へ帰らうか、SOUPER でも喰はうか、と 〔ME’TRO〕 の入口の欄干の大理石によりかかつて考へた。
 五六日、夜ふかしが続くので、今夜は帰つて善く眠らうと心を極めて、〔ME’TRO〕 の地下の停車場へ降りかけた。籠つて湿つた空気の臭ひと薄暗い隧道《トンネル》とが人を吸ひ込まうとしてゐる。十燭の電灯が隧道の曲り角にぼんやりと光つてゐる。其の下をちらと絹帽が黒く光つて通つた。僕は降りかけた足を停めた。画室の寒い薄暗い窖《あなぐら》の様な寝室がまざまざと眼に見えて、今、此の PLACE に波をうつてゐる群衆から離れて、一人あんな遠くへ帰つてゆくのが、如何にも INHUMAIN の事の様に思へてならなかつた。
“UN HOMME! MOI AUSSI”と心に叫んで、引つかへして、元の〔OPE’RA〕の前の広場に立つた。アアク灯と白熱瓦斯の街灯とが僕の影を ASPHALTE の地面の上へ五つ六つに交差して描いた。
“VOILA UN JAPONAIS! QUE GRAND!”といふ声が耳のあたりで為た様に思つて振り返つた。五六歩の処を三人連れの女が手を引き合つて BOULEVARD の方へ急いで行く。何処を歩かうといふ考へも無かつた僕は、当然その後から行く可きものの様に急いで歩き出した。
 歩き出したが、別に其の女に追ひつかうといふのではない。ただ、河の瀬を流れる花弁の一つが右へ行くと、其の後のも右へ行く様に吸はれて行つたまでである。〔CRE’DIT LYONNAIS〕 の銀行の真黒な屋根の上に大熊星が朧ろげな色で逆立ちをしてゐる。BOULEVARD の両側の家並の上の方に CHOCOLAT MEUNIER だの、JOURNAL だのの明滅電灯の広告が青くなつたり、赤くなつたりして光つてゐる。芽の大きくなつた並木の MARRONNIER は、軒並みに並んでゐる珈琲店《カフエ》の明りで梢の方から倒《さかし》まに照されて、紫がかつた灰色に果しも無く列つてみえる。その並木の下の人道を強い横光線で、緑つぽい薄墨の闇の中から美しい男や女の顔が浮き出されて、往つたり来たりしてゐる。話声と笑声が車道の馬の蹄に和して一種の節奏《リズム》を作り、空気に飽和してゐる香水《パルフエン》の香と不思議な諧調をなして愉快に聞える。動物園のインコやアウムの館へ行くと、あの黄いろい高い声の雑然とした中に自ら調子があつて、唯の騒音でも無い様なのに似てゐる。僕は此の光りと音と香ひの流れの中を瀬のうねくるままに歩いてゐた。三人の女は鋭い笑ひ声を時々あげながらまだ歩いてゐる。
 僕は生れてから彫刻で育つた。僕の官能はすべて物を彫刻的に感じて来る。僕が WHISTLER の画や、RENOIR の絵を鑑賞し得る様になるまでには随分この彫刻と戦つたのであつた。往来の人を見ると、僕はその裸体が眼についてならないのである。衣裳を越して裸体の MOUVEMENT の美しさに先づ酔はされるのである。
 三人の女の体は皆まるで違つてゐる。その違つた体の MOUVEMENT が入りみだれて、しみじみと美しい。
 ぱつと一段明るい珈琲店《カフエ》の前に来たら、渦の中へ巻き込まれる様にその姿がすつと消えた。気がついたら、僕も大きな珈琲店の角《すみ》の大理石の卓《つくゑ》の前に腰をかけてゐた。
 好きな 〔CAFE’ AMERICAIN〕 の CITRON の香ひを賞しながら室を見廻した。急に人の話声が始まつたか、と思ふほど人の声が耳にはいる。急に明るくなつたか、と思ふほど室の美しさが眼に入る。急に熱くなつたかと思ふほど顔がほてつて来た。音楽隊《オルケストラ》では TARANTELLA をやり始めた。
 トラ、ラ、ラ、ラ、ラ。トララ、トララ、トラ、ラ、ラ、ラ、ラ。
 僕の神経も悉く躍り出しさうになつた。音の節奏《リズム》に従つて、今此の室にある総ての器、すべての人の分子間に同様な節奏の運動が起つてゐるに違ひない。
 足拍子が方々で始まつた。立派な体に吸ひついた様な薄い衣裳を着けてゐる女が二三人匙を持ちながら踴り出した。わつと喝采が起つた。僕も手を拍つた。
“HALLO! VOICI”と口々に言つて僕の肩を叩いたのは、先刻の女共であつた。
「後をつけていらしつたの?」
「後をつけて来たのではないの。後について来たの。」
「今夜は何処へ入らしつた?」
「〔OPE’RA〕」
「SALAMMBO ね、今夜は。」
「N’APPROCHER PAS; ELLE EST A MOI!」と一人が声高く、手つきをしながら声色をやつた。僕は、体中の神経が皆皮膚の表面へ出てしまつた様になつた。女等の眼、女等の声、女等の香ひが鋭い力で僕の触感から僕を刺戟する様であつた。言ふがままに三人の女に酒をとつた。僕も飲んだ。三人は唄つた。僕は手拍子をとつた。やがて、蒸された肉に麝香を染み込ました様な心になつて一人を連れて珈琲店《カフエ》を出た。
 今夜ほど皮膚の新鮮をあぢはつた事はないと思つた。

 朝になつた。
 白布の中で珈琲《カフエ》と麺麭《クロアソン》を食つた。日が窓から室の中にさし込んでゐる。窓掛けの薄紗を通して遠くに 〔PANTHE’ON〕 の円屋根が緑青色に見える。PIANISSIMO で然も GRANDIOSO な※[#「さんずい+氣」、第4水準2-79-6]笛の音がする。襤褸買ひの間の抜けた呼声が古風にきこえる。ごろごろと窓の下を車が通る。静かな騒がしさだ。
 一度眼をさました人は又うとうとと睡つて、長い睫が微かに顫へて見える。腕の筋が時々ぶるぶると痙攣する。
 僕は静かに、昨夕《ゆうべ》 〔OPE’RA〕 に行つてから、今朝までの自分の感情を追つて考へて見た。人の楽しむ事を自分もたのしみ、人の悲しむ事を自分も悲しみ得たのが何より満足に感じた。眼を閉ぢて、それから其へと纏らない考へを弄んで、無責任な心の鬼事に耽つてゐた。
 突然、
“TU DORS?”といふ声がして、QUINQUINA の香ひの残つてゐる息が顔にかかつた。大きな青い眼が澄み渡つて二つ見えた。
 あをい眼!
 その眼の窓から印度洋の紺青の空が見える。多島海の大理石を映してゐるあの海の色が透いて見える。NOTRE DAME の寺院の色硝子の断片。MONET の夏の林の陰の色。濃い SAPHIR の晶玉を 〔MOSQUE’E〕 の宝蔵で見る神秘の色。
 その眼の色がちらと動くと見ると、
「さあ、起きませう。起きて御飯をたべませう」と女が言つた。案外平凡な事を耳にして、驚いて跳ね起きた。女は、今日 〔CAFE’ UNIVERSITE’〕 で昼飯《ひるめし》を喰はうといつた。
 ふらふらと立つて洗面器の前へ行つた。熱湯の蛇口をねぢる時、図らず、さうだ、はからずだ。上を見ると見慣れぬ黒い男が寝衣《ねまき》のままで立つてゐる。非常な不愉快と不安と驚愕とが一しよになつて僕を襲つた。尚ほよく見ると、鏡であつた。鏡の中に僕が居るのであつた。
「ああ、僕はやつぱり日本人だ。JAPONAIS だ。MONGOL だ。LE JAUNE だ。」と頭の中で弾機《ばね》の外れた様な声がした。
 夢の様な心は此の時、AVALANCHE となつて根から崩れた。その朝、早々に女から逃れた。そして、画室の寒い板の間に長い間坐り込んで、しみじみと苦しい思ひを味はつた。
 話といふのは此だけだ。今夜、此から何処へ行かう。

底本:「日本の名随筆 別巻3 珈琲」作品社
   1991(平成3)年5月25日第1刷発行
   1997(平成9)年5月20日第6刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集 第九巻」筑摩書房
   1957(昭和32)年11月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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高村光太郎

緑色の太陽——高村光太郎

人は案外下らぬところで行き悩むものである。
 いわゆる日本画家は日本画という名にあてられて行き悩んでいる。いわゆる西洋画家は油絵具を背負いこんで行き悩んでいる。飛車よりも歩を可愛がるような羽目に自然と立ち至る事もあるのである。その MOTIV(モチフ)を考えるとおかしくはあるが、行き悩んでいる当面の事局を眼鏡の焦点に置いて考えると、かなり惨酷なものに見えないでもない。無意味な混雑と危険な SONDE(測定)の乱用とは、こんな時にすべての芸術家に課せられる重い通行税である。この意味において、今の日本の芸術家ほどその作品に高価な無益の印紙を貼っているものはない。いたものもない。この重税に反抗して芸術界の ANARCHISMUS(アナーキズム)が起らないとも限るまい。が、そういう所から起って来る ANARCHISMUS は反動的のものである。ANARCHIST の ANARCHISMUS ではないのである。
 僕は芸術界の絶対の自由《フライハイト》を求めている。従って、芸術家の PERSOENLICHKEIT(人格)に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考えたいのである。その PERSOENLICHKEIT を出発点としてその作品を SCHAETZEN(評価)したいのである。PERSOENLICHKEIT そのものはそのままに研究もし鑑賞もして、あまり多くの擬議を入れたくないのである。僕が青いと思ってるものを人が赤だと見れば、その人が赤だと思うことを基本として、その人がそれを赤として如何に取扱っているかを SCHAETZEN したいのである。その人がそれを赤と見る事については、僕は更に苦情を言いたくないのである。むしろ、自分と異なった自然の観かたのあるのを ANGENEHME UEBERFALL(快い驚き)として、如何ほどまでにその人が自然の核心を窺い得たか、如何ほどまでにその人の GEFUEHL(感覚、感情)が充実しているか、の方を考えて見たいのである。その上でその人の GEMUETSSTIMMUNG(情調)を味いたいのである。僕の心のこの要求は、僕を駆って、この頃人の口に上る地方色というものの価値を極小にしてしまったのである。(英語にいう LOCAL COLOUR(ローカルカラー)は意を二三にするが、ここには普通にある地方の自然の色彩の特色を指す事とする。)僕は地方色などというものを画家が考え悩むのは、前に言った高価な無益の印紙の一つにほかならないと思っている。
 絶対の自由《フライハイト》を要求する僕の態度が間違っていれば、そこから起って来る僕の考索はすべて無価値のものとなってしまうわけである。しかし、これは間違いようのない事に属している。理論でなくして僕の感情であるからである。たとい、間違って居ると言われても僕の頭のある限りは自分でどうする事も出来ない事なのである。やはり思うだけの事は述べて見たい。
 僕は生れて日本人である。魚が水を出て生活の出来ない如く、自分では黙って居ても、僕の居る所には日本人が居る事になるのである。と同時に、魚が水に濡れているのを意識していない如く、僕は日本人だという事を自分で意識していない時がある。時があるどころではない。意識しない時の方が多い位である。人事との交渉の時によく僕は日本人だと思う。自然に向った時には、僕はあまりその考えが出て来ない。つまり、そう思う時は僕の縄張りを思う時である。自我を対象のものの中に投入している時にはこんな考えの起って来よう筈がない。
 僕の製作時の心理状態は、従って、一箇の人間があるのみである。日本などという考えは更に無い。自分の思うまま見たまま、感じたままを構わずに行《や》るばかりである。後《のち》に見てその作品がいわゆる日本的であるかも知れない。ないかも知れない。あっても、なくても、僕という作家にとっては些少の差支えもない事なのである。地方色の存在すら、この場合には零《ゼロ》になるのである。
 地方色の価値をかなりに尊重している人は今の画界になかなか多い事である。日本の油絵具の運命というものは、この日本の地方色との妥協の如何によって定まるものと考えている人もあるようである。日本の自然にある犯すべからざる定まった色彩が固有していて、それに牴触しては忽ちその作品の〔“RAISON D’E^TRE”〕(存在理由)がなくなってしまうと考える所から、自分の胸にある燃えるような色彩も、夢のような TON(調子)も抑えつけようとして踟※[#「足へん+厨」、第3水準1-92-39]《ちちゅう》逡巡している人も少くないようである。いわゆる地方色に絶対の価値を与えて、それに対してやや異色ありと認めた作品は悉く論外として取扱って、唯の ABSCHAETZUNG(評価)を与える寛典すら容さぬ峻厳の態度に居る人もある。そして、地方色の価値は一般から認められて居るようである。「こんな色は日本にない」という言が非難の表白になって居るのを見てもわかる。僕はその地方色というものを無視したいのである。芸術家の立脚地に立って言をなして居る事はいうまでもない。
 人が「緑色の太陽」を画いても僕はこれを非なりと言わないつもりである。僕にもそう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」があるばかりでその絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽としてその作の情調を味いたい。僕はいかにも日本の仏らしい藤原時代の仏像と外国趣味の許多に加わっている天平時代の仏像とを比較して、“LOCAL COLOUR”の意味から前者を取る事はしないのである。DAS LEBEN(生命)の量によって上下したいのである。緑色の太陽を画いた作家の PERSOENLICHKEIT に絶対の権威をもたしめたいと考えている。日本の自然を薄墨色の情調と見るのが、今日の人の定型であるらしい。すべて曇天の情調をもって律しようとしているようである。春草氏の「落葉」がその一面を代表している。黒田清輝氏の如きも、自らは、力めて日本化(?)しようと努力して居らるるらしい。そして、世人はその日本化の未だ醇ならざるをうらんで居る形である。地方色を最も重んずる人に柏亭君が居る。同君のこの趣味は、地方色を重んぜよという理論の側よりも、むしろ氏の性情《テムペラメント》の中に根ざして居る純日本趣味並びに古典的趣味の側から多く要求されているのである。この点に関して非常に鋭敏な氏の感覚は、今の都会の色をいわゆる日本の地方色に遠しとして、丸の内の石垣の水、奈良の春日野、利根の沿岸の方を選ぶのである。一箇の芸術家の趣味性とその眼にうつる自国のいわゆる地方色との一致した最も幸福な一例である。氏が内面の要求に駆られて画かんとする情調は、おのずから今日世人のいう日本の自然の色と適合するのである。そこで氏の感覚には動かすべからざる日本の地方色の EIGENHEIT(特性)というものが確立してしまうのである。氏が最も地方色を重んずる一人となるのは自然な事である。従って氏は盛に地方色の試験管によって多くの作品を検査して居る。氏のいわゆる「西洋臭い」作品はかくの如くして摘出される。作画の技巧にまでもその SAEURE(酸)は影響を及ぼさずには止まないのである。この点は僕の ANARCHISMUS に傾いているのに対して氏は MONARCHISMUS(独裁主義)の形がある。等しく自然を見てもその性情の差によってかくの如く相違して来るのである。もとよりいずれを是としいずれを非とする事の出来ない問題である。
 僕といえども作品の鑑賞の側から、帰納的に地方色というものの存在を認めている事は確かである。日本人の作品には自ら日本の地方色とも見るべきものがある。仏国人の作、英国人の作、皆然りである。しかし、これは地方色の存在を認めるのであって、その価値を認めるのではない。附随物として認めるのであって鑑賞の対象物とは認めないのである。石炭ガスを造ると、骸炭《コオクス》が取れる。取れるから序に取るのである。取ろうと思わないでも取れるのである。日本人の手になったものは結局日本的である。日本的になるのである。日本的にしようとせずともなるのである。しかたのない腐れ縁なのである。僕は作品の鑑賞において、そのいわゆる地方色を自分の感じに置かずして作にあらわれた地方色そのものに無限の権威を持たせてそのままに味いたいのである。今日僕等が見ていわゆる地方色と見えない作品も後に至って顧れば、やはり明治の今日の色彩なのである。と考えたいのである。もしこの地方色というものを、作家自身の PERSOENLICHKEIT に任せてしまわないで、鑑賞者が恣に口を出す事になると、畢竟一つの桎梏を作家に加えるわけになる。地方色という観念は厳格に考えると、一つの ALLGEMEINE UEBEREINSTIMMUNG(普遍的調和)である。鑑賞家の勝手に味わうべき事で、作家の頭を労すべきものではない。出来た後で評定する事で、出来《でか》すのに考える筈のものではない。作家をして、日本人たる事を忘れさせたい。日本の自然を写しているという観念を全く取らせてしまいたい。そして、自由に、放埒に、我儘に、その見た自然の情調をそのまま画布に表わせさせたい。出来たものが、僕等の眼にあると考える日本のいわゆる地方色と反対のものであっても、僕はその故をもってこれを斥けたくない。支那情調のある人の眼には日本の自然も支那式に見える事があろう。EXOTISCH(エキゾチズム)の人の眼には稲荷神社の鳥居まで異国の色を帯びて見えよう。すべて、傍観者の与り知らぬ所、また苦情を申込む権利の無い事である。鑑賞家が作品に臨んでその作品の異風を擬議する事は不必要である。唯、その異風を認めた上で、作家の情調が虚偽の基礎の上に立っているか、作家生来の真面目であるかを作品によって見ればよいのである。作品の優劣はその上、別箇の問題として心に映じて来なければならない。
 この点から、僕は日本の作家があらゆる MOEGLICH(可能)な技巧を遠慮会釈なく用いん事を希望している。その時の内面の要求に従って必ずしも非日本的を恐れない事を祈るのである。いくら非日本的でも、日本人が作れば日本的でないわけには行かないのである。GAUGUIN(ゴーガン)は TAHITI(タヒチ)へまで行って非フランス的な色彩を残したが、彼の作は考えて見ると、TAHITI 式ではなくして矢張りパリっ子式である。WHISTLER(ホイスラー)はフランスに暮してある時はまた日本に対する NOSTALGIE(ノスタルジー)を恣にしたが、これも争われない ANGEL-SAECHSISCH(アングロサクソン風)である。あの TURNER(ターナー)はロンドンの市街をイタリヤの色彩で画いていたが、今思えば彼のイタリヤの自然を写した色彩はやはり英国式であった。MONET(モネ)はフランスの地方色を出そうと力めたのではない。自然を写そうとしたのである。勿論、世間からフランスの色彩とは認められなかったのである。フランスの色彩と認められないどころか、自然の色彩とも認められなかったのである。空色の樹の葉を画いたといっては罵られていたのである。しかるに、今日見れば矢張り外の国の人には画けないフランスの香いがする。これ等はすべて、魚に水の香のするようなものである。力めて得たのでなくして、おのずから附帯して来たのである。これを力めて得ようとすると芸術の堕落が芽をふいて来る。
 僕は朱塗の玉垣を美しむと共に、仁丹の広告電燈にも恍惚とする事がある。これは僕の頭の中に製作熱の沸いている時の事である。製作熱の無い時には今の都会の乱雑さが癇に触ってならないのである。僕の心の中には常にこの両様の虫が喰い込んでいる。これと同じように、僕はいわゆる日本趣味を尊ぶと同時に、非日本趣味にも心を奪われること甚だしい。またこれと同じように、日本の地方色というものをやや世間の人と人並に見てはいながら、心の叫びはその地方色の価値を零にしてしまうのである。従って西洋じみたものを見ても、西洋じみたという事については些少も反感を持たないのである。「緑色の太陽」を見ても気を悪くしないのである。
 僕は混雑した感想を混雑したままに書いてしまった。僕が見ては下らぬ事に考えられて、世間ではかなりに重大視されているいわゆる地方色の事を一言したかったのに過ぎない。僕は日本の芸術家が、日本を見ずして自然を見、定理にされた地方色を顧ずして更に計算し直した色調を勝手次第に表現せん事を熱望している。
 どんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。

底本:「日本の名随筆7 色」作品社
   1983(昭和58)年5月25日第1刷発行
   1999(平成11)年2月25日第20刷発行
底本の親本:「美について」筑摩書房
   1967(昭和42)年10月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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高村光太郎

木彫ウソを作った時–高村光太郎

  私は自分で生きものを飼う事が苦手のため、平常は犬一匹、小鳥一羽も飼っていないが、もともと鳥獣虫魚何にてもあれ、その美しさに心を打たれるので、街を歩いていると我知らず小鳥屋の前に足をとめる。母が生きていた頃だからもう十幾年か以前の事である。或る冬の日|本郷肴町《ほんごうさかなまち》の小鳥屋の前に立って、その頃流行していたセキセイインコの籠のたくさん並んでいるのを見ていたが、どうもこの小鳥の極彩色の華美な衣裳《いしょう》と無限につづくおしゃべりとが、周囲のくすんだ渋い、北緯三十五度|若干《じゃっかん》の東京の太陽の光とうまく調和しないように感じられて、珍らしくおもしろいとは思いながら、それほど夢中にはなれなかった。そのうちセキセイのぺちゃくちゃの騒音の間から、静かな、しかし音程のひどく高い、鋭く透る、ヒュウ、ヒュウという声が耳にはいった。店の奥の方から来るのだが、それが何だかもっと大変遠いところから聞えて来るような響《ひびき》をしているので、何だろうと思って店の中へ踏み込んだ。その頃私は小鳥の名などをさっぱり知らなかったので、それぞれの籠につけてある名札をよみながら鳥を見た。鶯《うぐいす》、山雀《やまがら》、目白、文鳥、十姉妹《じゅうしまつ》などの籠の上に載っていたウソをその時はじめて詳しく観察した。さっきの声はそのウソの鳴音だったのである。
 ウソを見て一番さきに興味をおぼえたのはその姿勢と形態とであった。この小鳥は思いきった直立の姿勢でとまり木にとまっていた。むしろ後ろに反りかえっていると言ってもいい動勢を有《も》っていた。それを見るとすぐ、あの柳の丸材で作った、亀井戸天神《かめいどてんじん》のウソ替《かえ》のウソを思出した。柳の丸材へ横に半分|鋸《のこぎり》を入れて上からぽんぽんと二つ三つ鑿《のみ》でこなし、その後ろへ削りかけのもじゃもじゃを作り、脳天を墨でぬり、眼玉を描き、ぐるりと紅で頸《くび》を撫《な》で、胸とおぼしきところに日の丸を一つ附けた、あの原始的なウソの木彫は、実に強くこの自然の動勢に迫っている。あの木彫りのウソは実物のウソよりも、もっとほんとにウソのようだ。私はたちまち自分でもウソの木彫を作ってみたくなった。鳥屋さんのいわゆるその照りウソを一羽籠ごと求めて持ちかえった。
 私は幅二寸、奥行二寸五分の檜《ひのき》の角材を高さ六寸ほどに切った。それから毎日ウソを観てばかりいた。ウソは鳥屋の店の仲間の声から急にひとり引離されて、いかにもさびしそうに見えた。一日ばかりは鳴かなかったが、そのうちまたしみとおるような、細い、高い、ヒュウ、ヒュウという口笛を吹きはじめた。(その後、家雀の群を友達にさせてからこのウソの声がすっかり荒されてしまって、しまいにはチャア、チャアとばかり鳴くようになった。)ひとりで窓ぎわの籠の中でそうやって静かに鳴いている時の彼の姿勢は、ますます背をまっすぐに立て、胸を高く張り、頭だけを静かに水平に動かし、片足でとまり木にとまり、片方の足はちぢめて腹の羽毛の中へ入れてしまう。ウソの面相は、雀や文鳥のように嘴《くちばし》の尖《とが》って三角に突き出た方でなく、むしろ鷹《たか》のように嘴が割合に小さく強く引きしまって尖端が鍵に曲り、眼も文鳥のように平らに横に附かず、鷹のように前方に強い角度を持って附いている。眼の上の眉のひさしがやや眼にのしかかり気味でそれが眼に陰影を与える。眼と嘴と額との国境のような凹《へこ》んだ三角地帯に、剛《こわ》い毛に半ば埋《うも》れるように鼻孔がこの辺のこなしを引締めている。文鳥のような鳥は鼻孔がむしろ嘴の根元の隆起部に大きく露出していてまるで違った景観を呈《てい》している。ウソの黒|頭巾《ずきん》の頭は角刈のようにさっと平らにそげている。これはややクマタカじみている。ここらは例のウソ替のウソそっくりである。後頭部でちょっと段がついてくびれ、それからぱっと明るく頬のふくらみが下に起る。そこの推移が実に甘美だ。頬から上は頭も眼も眼瞼も嘴も嘴の下の毛も皆|漆黒《しっこく》で、その黒い中で眼の動いているのがまた美しく、更にその黒に境《さかい》して大きく円い頬がきれいに頬紅をさして毛並美しく頸にかぶさっているのだから、このウソの首だけでも、いかにも山の小鳥らしい、黒じみない、おっとりとしていて、中々精悍な、また紅梅の花にも負けない美麗さと風格とのある鳥だと思った。頬紅からつづいて曙《あけぼの》いろの、ほんとに日の丸の感じの紅色の胸がぐっと前に高く張り出し、腹へかけて一段ゆるく明灰色に波うっている。この胸の方の明るい大まかな凹凸と、鶯いろの背部の垂直に近い、削ったような潔い輪廓とがいい釣合を持っている。その背部の蓑毛《みのげ》を胸の方の房々の羽毛が逆に下から逆まきにかぶせているのは、ウソの身体の中で、一番|颯爽《さっそう》としているところだ。胸の羽毛は斂《おさ》めた翼の風切《かざき》りの上へまでぱらぱらとかぶさる。背中の蓑毛と胸の羽毛の下からこの風切りが、もう一度あざやかな黒色で、黒頭巾との呼応をしている。閉じた翼の風切りのさきは左右あまり強く交叉せず、直ぐ下に背の長さ位の尾羽根がやはり黒一色ですっとさがり、その親骨がはっきり見える。風切りの黒と、尾羽根の黒との間にちらちらと、下尾筒《したびとう》の雪白の毛が隠見する。これが中々シックだ。この白い毛は春先の頃になると幾分多くなるように観察された。琴ひくような、夢みるような、咽喉《のど》をふくらまして長く引っぱる唄を謡い出す頃である。彫刻にしても彩色したらこの一個所の白が恐らく甚《はなは》だ効果的であろうとその時考えた。片足をちぢめて腹の中へ入れ、その腹の羽毛が少し立っているのもおもしろい。
 何にしろ黒じみず垢《あか》じみず、梅林のけはいの何処《どこ》かにしみこんでいる、すぱりとして鋭いくせに、またおっとりした、このドナテロのサンジャンのように直立している山の小鳥の気魄《きはく》を木で出して見たくてたまらなくなり、それから鑿《のみ》を研ぎ、小刀を研ぐのに二、三日かかって、わき目もふらずに彫りはじめて七日目にやっと出来た。出来た結果は思《おもい》の半分にも及ばないが、毎日|懐《ふところ》に入れて持って歩いた。飯屋でもそれを出して見ながら飯をくった。まだ健康だった頃の智恵子が私にも持たせてくれとせがんだ。いつぞや第一回大調和展覧会に出品した木彫ウソを作った時の話である。

底本:「日本の名随筆2 鳥」作品社
   1983(昭和58)年4月25日第1刷発行
   1995(平成7)年10月30日第18刷発行
底本の親本:「芸術論集 緑色の太陽」岩波書店
   1982(昭和57)年6月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

高村光太郎

美術学校時代——高村光太郎

 僕は江戸時代からの伝統で総領は親父の職業を継ぐというのは昔から極っていたので、子供の時から何を職業とするかということについて迷ったことはなかった。美術学校にも自然に入ってしまった。二重橋前の楠公の銅像の出来上ったのは明治二十六年頃で僕が十一歳の時であり、美術学校に入ったのは明治三十年の九月だったから齢《とし》でいえば十五歳であった。
 その頃の世の中は学校の規則なども非常に楽なもので、願書の上でだけ何歳と書いておけば入学が出来たので、早い方が良いということから歳の多い者の中に子供みたいな僕が飛込んでしまった。その頃の美術学校の制服というのはちょうど王朝時代の着物のような、上着は紺色の闕腋《けってき》で、頭には折烏帽子《おりえぼし》を被《かぶ》り、下には水浅葱《みずあさぎ》色の段袋を穿《は》くという、これはすべて岡倉覚三先生の趣味から来たものであったが、どうも初めそれを着るのが厭《いや》で気羞《きはず》かしくて往来を歩けないような気がしたのであった。その頃はいつも絣《かすり》の着物に小倉の袴《はかま》を着けて居ったので、この初めの制服は何となく厭でならなかった。
 それに代って洋服の制服が出来たのは僕が三年生の時で、何でも正木直彦先生が校長になって以来今の制服になったように記憶する。
 当時の美術学校は始めの一年が予科で本科が四年、五年で卒業ということになっていた。始めの一年の予科は皆おなじ学習をやり、その一年間やった学習の中で自分の気にいった科を選んで本科に入る。それから後四年間やって卒業するのである。僕は洋画の方はやらないで日本画をやらせられた。それから彫刻をやった。予科のうちは方々の教室に入って日本画もやり彫刻もやるという風であった。
 その当時の日本画科の先生には橋本雅邦、川端玉章、川崎千虎、荒木寛畝(今の十畝さんのお父さん)それから小堀鞆音等がいた。彫刻の方では僕の親父高村光雲、外に石川光明、竹内久一両先生、この三人くらいであった。木彫の方には助教授の林美雲先生などが居られた。僕は日本画の方で臨画ばかりやらされていた。つまり以前からの学校の御手本であり、これは岡倉先生の趣味に合ったものばかりで南画系統のものは無く北画ばかりであった。それを先ず一年間勉強すると今度は彫刻科にいって木彫を主としてやるようになった。
 学校では親父と石川先生などが相談して、やはり昔からの木彫の順序立ったやり方を教える。地紋、肉合《ししあ》い、浮彫、丸彫等と二年間くらいはそれを教えられる。小刀の使い方なども覚える。僕もその通りをやっていたが、早くから自分のやっていたことなので、学校といっても唯自分の家の延長のようなもので別段かわったところでも何でもなかった。
 この彫刻の同級にいた人で今特に記憶しているのは水谷鉄也君といって片瀬の乃木大将の銅像を作った人、後藤良君も木彫で仲間であったが、その他の人はよく判らなくなってしまった。僕の一年前には武石弘三郎君という人が居り、そのもっと前には渡辺長男君という人が居た。こういう人達と三年位までは特に変ったこともなく、先ず当然のことを無事にやって居ったのである。またその時分の学科といえば黒川真頼が日本歴史、詩人の本田種竹という人が通鑑の講義をして居った。森鴎外先生が美学の方をやり、久米桂一郎先生が解剖学を受持たれた。その学科というものはひどく簡単でほんの申訳みたようなものだったので、僕は馬鹿馬鹿しくて自分で勉強した。試験の時百二十点貰ったことがある。大村西崖先生の時だったが、日常自分で読んでいるものが試験に出てくるのだからそんなことになるのだろう。随分のんきな時代であった。
 ちょうど明治さかんな頃のこととて世の中はどんどん進んでくる。僕たち青年の眼には庭の色までもまるで毎日変化し、生き生きとして見えるようであった。そういう時代には何でも実に面白かったし、僅かな間ではあるが朝から晩まで実際大へんな勉強をしたものだった。当時はまだ電灯はなくて蝋燭《ろうそく》やランプで、ランプも昔は五分|芯《しん》三分芯などがあったが改良されて芯を丸くした空気ランプというのが出来、それが非常に明るいのでそれを使って一生懸命に勉強した。ホヤのついた西洋蝋燭の行灯《あんどん》みたようなものもあって、これはお客様用に使ったりしていた。
 僕の住居は矢張り今の林町だったが、まだあの辺一帯は田畑や竹藪《たけやぶ》で道の両側は孟宗竹《もうそうちく》が密生していた。あの辺は江戸時代からお茶の畑が多く、今でも地つづきに武蔵狭山というお茶の名産地が残っている程である。そんなわけで所々に家があり、家と家との間は殆んど茶畑であった。学校にも近いので都合はよかったが、あの団子坂などが昔は随分と急な坂で人力車などは上ることが出来なかった。ようやく上っても今度は下りる時には止まらない。命がけで上ったり下りたりするような坂であった。下の谷中道の両側はずっと田圃《たんぼ》になっており、山岡鉄舟の全生庵等があった。毎年秋になると団子坂は菊人形で賑《にぎ》わった。森鴎外先生はその頃から団子坂上の藪下という所に居られて馬に跨《またが》って通って居られるのを見かけた。鴎外先生という人は講義をする時でも何時でも、始終笑顔一つしないでむずかしい顔をしていたので、鴎外先生というと無闇に威張って怖い顔をしている先生と思っていた。年中軍服でサーベルを着け凡《およ》そ二年間美学の講義をせられたが、学年の終りに生徒に向い、今日まで教えたことについて分らない所があったら何んでもよいから質問をするようにということであった。
 みんなはそれぞれと質問をし、疑問の点を尋ねた。その時に生徒の一人が、先生仮象というのは何ですかと言い出した。そうすると鴎外先生はひどく怒ってしまい、仮象ということが分らないようでは一体今迄何をしておったのか、それが分らないようではこの一年間の講義は何にも分っていないのだろう、と先生をすっかり怒らせてしまった。その質問をした学生はもう落第かと思って隅の方に小さくなっている。学生も何んにも言わず黙りこくっていた。鴎外先生はプンプン怒り、そんな無責任な聴き方があるかと怒鳴りながら、それでお仕舞いになったことがある。尤《もっと》も仮象ということは今から考えればハルトマンの美学の一番の根源である。それが分らないで講義を聴いておったのでは分らないで聴いていた方が悪いに違いない。僕は鴎外先生を尊敬していたが、先生はどこまでも威張って居るように見えた。神経の細やかな人で、戯談一つ言ってもそれを覚えていて決して忘れない。非常に好き嫌いの強い人であった。
 その頃の僕は生理的にも心理的にも一つの目覚めの時代であって、彫刻をするについても非常に文学的に考えていたので、実際の仕事の上にも動物や仏像や人物、それから様々な世相のあらわれ、そういうものである観念を具備しておるものをやってみようと念じていた。学校に在っての制作は二年間くらいは何でもなかったが、その後渡辺長男君が初めて彫塑会という会を作り、学校の生徒だけで展覧会を開いたりするようになってから僕の仕事も段々かわってきた。つまりその頃始めて泥をいじくり出し、例えば坊さんが月を見上げて感慨に耽《ふけ》っているところや女の浴衣《ゆかた》が釘にぶら下っておるという妖気《ようき》の漂う鏡花式みたようなものを無闇に作ったが、それが当時の彫塑会では新しかった。後にこういうことが間違った新しい彫刻運動のもとになったりした。
 その頃僕は国文の方は美術学校で教えられる外に古典の方をさかんに勉強していた。漢文の方は本田種竹先生に師事した。詩なども大いに読んでいた。それが初めは文学的彫刻となってあらわれ、後にはその文学的彫刻を止揚するために詩歌に近づいた。俳句などもやり、角田竹冷先生からは一等を貰ったりした。折から日本の新派和歌が起り、落合先生は別にしても、久保猪之吉、服部躬治などがいかづち会というのを作って読売などの紙面をさかんに賑わし出した。そういうところへ明治三十三年に「明星」が始まった。これが華々しい運動となった。
「明星」の四号位からその新詩社に入社したが与謝野先生の添削は大へんなもので、僕の歌なども僕の名前がついているから僕のだろうと思うくらい直されてしまい、自分の書いた所は一字か二字しか残っていない事もあった。これでは誰の歌だか判らない。だからその時代のものは自作とはいえない。僕のものといえばその後僕がアメリカに行く船の中で拵えたもの、あの頃から後のが自分のものである。その当時は象徴派、ロマンチック派等が詩壇に起って僕は蒲原有明、上田敏、薄田泣菫などのものを読んだ。
 其頃学校の方では校長岡倉覚三先生がやめさせられ、教員も総辞職をするという仕末になり、親父も辞職をしたので僕も退学した。それが明治三十四年である。その後しばらくして又親父が復帰したので僕も学校にかえった。岡倉先生はまもなく日本美術院を拵らえ、下村観山、横山大観や菱田春草等と共に大きな日本画の改革をやり出した。岡倉先生の着想によるロマンチックの仕事は極めて周知のことで、当時としては非常に新しいものであった。線のない絵を描いたり色々と新機軸を出した。その為に今度は高山樗牛が美術評論を発表するなど、なかなか華々しい有様であった。
 岡倉先生がいなくなってから二三の校長を経て正木直彦先生が文部省から乗込んで来た。正木先生は理性の勝った人で寧《むし》ろ冷たい感じのする人であった。そして学校の内部組織も次第に改革されていった。先生のなかで美術学校の先生くらい扱いにくいものはなかったそうだが、それを正木先生は非常に合理的に一歩一歩黙って変えていったのである。生徒の服装を変えたのも先生だったと記憶する。それまでの闕腋《けってき》と折烏帽子《おりえぼし》を止めにして普通の金釦《きんボタン》にしてしまった。初めに闕腋を恥かしがったのが、今度はこんな金釦になってつまらないという気がしてならなかった。やがて学科目も変り時間なども変えられていった。それまでは学校の先生はお昼頃出てきて一時間もいるとさっさと帰宅したものであったが、それが一週間に二三度くらい出てきた先生も毎日来なければならぬように喧《やか》ましくなり、総て官吏服務規則に拠《よ》って勤めることになった。
 親父がその話を聴いて帰り、何んでも官吏というものは大へん難しい規則があって、学校は朝も帰りも時間があってベルが鳴らないと帰れない。また官吏というのは自分の仕事というものをやってはいけないらしい、と言って僕に話したことがある。それを又親父はとても律儀に考えて、何もかも自宅でやる仕事は一切止めにしてしまった。
 自分の仕事をすると何んでも規則違反だと考えて、一時親父は学校以外の個人的な制作はみんな断って終った。ところが規則はそれほどまでに厳重なものではないということが後で判り、また今迄のを取消して仕事を始めたりなど、実に滑稽《こっけい》であった。
 その頃黒田さんなどが新しい西洋画を描く機運をつくり、白馬会が名乗りをあげたり、一方では太平洋画会などが人気があった。白馬会は当時既に相当の会員を擁しており久米桂一郎先生、黒田清輝先生、藤島武二先生、長原孝太郎先生などと、これらの会の出来たことは急速に洋画壇の進歩をもたらせた。彫刻の方はちょうど其頃泥、粘土を使ってやる塑造科が出来た。木彫の生徒もそれを研究しなければならない。塑造科の先生は長沼守敬先生で、伊太利《イタリー》からかえって日本でさかんに銅像の研究を進めておられた。長沼先生の教室には武石弘三郎さん一人で、先生一人生徒一人のその教室を覗きながら羨《うらやま》しく思ったりした。長沼先生はどういうものか間もなく喧嘩《けんか》をして学校を辞めて仕舞った。その後に藤田文蔵先生が来て、僕らの木彫の方でもモデルを使って塑造をやることになり、初めてモデルを使うという期待は大へんなものであった。
 例の宮崎幾太郎の阿母さんのモデル婆さん、あれは一番初めに自分でモデルになったので、自分がモデルの株を持っていたわけだが、婆さんも次第に忙しくなり、自分の仲間の娘やお上さん、そのうちには男のモデルまで連れてくるようになった。木彫科の使った男の最初のモデルというのは俥屋で随分と滑稽なこともあった。よく覚えているが、山田鬼斎先生の教室にそのモデルの俥屋が婆さんに連れられてやってきた。此時は塑造台を新調してその俥屋のモデルを迎えたのであるが、彼は裸体になっても下帯を取らないでがん張っている。鬼斎先生がみんな取ってしまえと談判を始めた。学生はじっとその様子を眺めている。俥屋は初めそんな約束ではなかったと言い、何んでもよいから裸体になってしまえ、それでは御開帳をするのですか、そうだ、と押問答の末とうとう裸にさせてしまった。こんなわけだからモデルになった者は優遇して逃がさぬようにしたのである。ところがその俥屋の体格は実に悪い。お尻が出っ張って、脚が曲って全く俥屋らしいおかしい恰好《かっこう》であったがそれでもその一人のモデルをいつまでも使っていた。これが男のモデルの一等最初の人である。やがて女のモデルもやってくるようになったが、大へんな騒ぎで初め頃は僕らもまともにモデルが見られなかった。片手で前をかくしているモデルが多かった。
 木彫の方は小使が皆|石膏《せっこう》を扱うので、石膏屋さんとしては小沢という人がいたのを記憶する。石膏も初めは使用法を知らぬので沢山の無駄を出していた。そのうち宮島さんという人がいろいろと自分で工夫し、上手《うま》くなって専門の石膏屋になったが、僕らも段々少い石膏で上手く出来るようになった。流した石膏に青や赤の色を着けておいて、外型を毀《こわ》してゆく時に赤が出て来たからもう直ぐ肌だとか、青が出たから肌であるなどと、そんなことをやったりしたこともあった。
 その頃である。岩村透先生がフランスから帰ってきて何もかも新式だというので旋風を巻き起し、その上頭も良かったのでまるで学校中を掻き廻すような有様であった。いろんなことをやり出した。美術学校を専門学校にするにはもっと勇敢にやらねばならぬという風に、思いきりやり出したのである。それは大へんな勢力であった。正木先生は困ったであろう。色々なことから正木先生と岩村先生がとうとう衝突してしまった。美術学校記念日の美術祭なども祟《たた》った。この美術祭には岩村先生が大いに力を入れて二三日間も続き、飾物も出来る運動会もやる仮装行列もやるという風で、僕らは裸体になって活人画をやった。こんな事から後に岩村先生は学校を辞めることになってしまった。幾度かこういうふうに学校の空気が変って最後にもっと合理的な境地が出来、それで平凡なものに治まった。
 当時はあらゆる方面から見てまだまだ非常に幼稚なものであった。僕らはこうして五年間居たのであるが、結局何んにも分らない。いずれも中途半端なもので分らずに済んだ。卒業前の修学旅行に奈良へ初めて行ったのであるが、その二十歳の時奈良へ行って様々と見たことが初めて自分の身になったような気持がした。これまで動揺していたものが奈良に行って初めて大分納った。
 僕が学校を出たのはまだ二十歳の時なので研究科に入って徴兵猶予となり、再び学校へ通い出したのである。当時白井雨山先生がフランスから帰った。雑誌ステュジオの中にロダンという名前があらわれており、僕はその写真をみていいようのない驚きを感じた。又丸善でモオクレエルの「ロダン伝」を見つけ、その本を実に精読したものだった。これをロジンだと言いロデンが本当だと言い或は気狂いだなどとも先生がいった。僕はまたどうしても文学的なものから抜け切れず、浅草の玉乗りの少女の情景を作ったりしていた。こうしてこの研究科を二年ばかりやったのであるが、考えて西洋画科へ再入学した。此の時には岡本一平、藤田嗣治、近藤浩一路、田中良などの連中と一緒であった。田中君とは藤島塾で木炭画の稽古を長い間やったことがある。
 そうこうするうちに岩村透先生からフランスへ勉強に行ったらどうだ、と進められたが僕にはそんな金がない。その頃アメリカあたりに博覧会があって、向うには懇意な人々がいるから紹介状を二三本持って行けば何処かで使って呉れるだろうというような話であったが、とてもまだ僕自身にはそんな勇気はなかった。ところが親父の方がその話に乗気になり、齢《とし》を取ってからでは不安であるが、今の中なら大丈夫だ、と言い出した。初め岩村先生は二千円を拵えろといい、二千円あれば旅費と向うに行って一時就職する迄の費用はあると言う。そうなってみると親父の方が一生懸命で、何でもかんでもやろうと、とうとう僕もその時始めて背広服というものを作ったのである。
 僕は英語は相当達者だった。学校時代から神田の正則英語学校に通っていたので、英語については自信があった。正則に通うと言っても当時のことゆえ今のように乗物はなく、歩いていれば時間が間に合わない。それで自転車を買って一日中学校を駆け廻って勉強した。僕の家ではもと音楽が禁じられていたので、僕は小学校の時代から唱歌もやらないで通した。それは僕の曾祖父《そうそふ》に当る人が富本の名人であったが、何か悪い人の為に毒薬を飲まされ、全身がふらふらになり、祖父はそのために酷《ひど》い苦しみをしたのである。従って僕の親父もそのため一生涯大変な苦労をした。そんなわけで僕の家では誰に限らず子供の時から音楽は禁じられてしまった。
 僕の母なども長唄から笛などもやった人であるが、きつく禁じられていた。祖父はまた大津絵などをとても上手く唄っていたのを覚えている。僕はだからいまだに君ヶ代も満足には歌えない。小学校の試験の時には唱歌は歌えないので、その代り僕はオルガンを弾いた。美術学校時代にはヴァイオリンを神田小川町の高折周一先生についてさかんにやった。忙しい学校歴訪の間に、自転車の後にヴァイオリンを乗せて通っていた。
 こうして僕はアメリカへは日露戦争のすんだ後一九〇六年の二月に出掛けた。ロンドンにいた時にはマンドリンをやった。ピアノはミス ファウラーについて一寸勉強したがすぐやめた。
 そんなにやっていた楽器もある日ザウエルの音楽書を読んでその日限り止めてしまった。一つの音を出すにも並大抵のことではないという真剣な芸術論に触れ、自分のやっていたことがまるで冒涜《ぼうとく》のようにふり返られたのである。
 大体以上が美術学校時代である。

(追記、長沼守敬先生は今年七月十八日房州館山町で長逝せられた。享年八十六。)


 (談話筆記)

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

高村光太郎

美の日本的源泉—–高村光太郎

民族の持つ美の源泉は実に深く、遠い。その涌《わ》き出ずる水源は踏破しがたく、その地中の噴き出口は人の測定をゆるさない。厳として存在し、こんこんとして溢《あふ》れて止まぬ其の民族を貫く民族特有の美の源泉は、如何なる外的条件のかずかずを並べ立ててみても説明しがたく、殆ど解析の手がかり無き神秘さを感じさせる。近寄ってこれを観れば、或は紛々として他と分ちがたい程の交流に接する時さえありながら、一歩退いてこれを眺めるとまがう方もない其の民族特有の美の地下泉は、あらゆる形態で到るところにあらわれる。如何なる他からの影響があっても一つの民族は一つの根源的な美の性質を失わない。これの失われる時はその民族が解消する時である。
 世界美術史は斯《か》かる民族の美の源泉間に行われる勢力交流の消長に外ならない。或る民族の美的源泉が強力な時、その美は世界に溢流《いつりゅう》する。或る民族の美の源泉が弱い時、それは多く一地方的存在としてのみ生存する。最も強大な美の源泉は、民族そのものが亡びても其の美の勢力を失わない。一民族を超えて世界の美の源泉となる。
 斯くて現在の世界に美の大源泉を成すものが幾つか残った。エジプト―アッシリヤ系の美の大源泉は、考古学的時代からの数万年に亘るエジプト文化が生んだ所謂《いわゆる》「死の書」の宗教に伴って、王と奴隷とを表現する雄渾《ゆうこん》単一な厖大《ぼうだい》な美の形式であり、今日でもその王は傲然《ごうぜん》として美の世界に君臨し、その鷹や猫は黒|花崗岩《かこうがん》の中に生きている。そして絶え間なく諸民族の新らしい美に多くの示唆と激励とを与えている。西暦三世紀に及んでエジプトの伝統芸術は既に終を告げたが、その美の大源泉はまだ世界に生きている。アッシリヤ亦然り。アッシリヤに聯関《れんかん》してアラビヤ、イラン系の美は中位の存在として長く今日につづいている。世界の美の源泉として最も猛威をふるっているのはギリシャ―ロオマ系と、ビザンチン―ゴチック系との二つであろう。共にアリヤン民族の美の大系譜である。今日の欧米諸民族の美の源泉は悉《ことごと》く此の二系統にその母体を持つ。欧洲に於ける如何に飛び離れた新らしい美も此の二系統の外に出る事は出来ない。彼等の美的教養の限界がそれをゆるさないのである。欧米の国力は殆ど世界を制覇していたので、今日まで彼等の美は即ち世界の美となった。ギリシャの円柱は現に東京丸の内にも立っている。これこそ美の世界性であって、人類の親和本能がこれを行わしめるのである。東亜に於ては古来漢民族の美の源泉が優勢を占めていて、東亜の美といえば即ち支那系の美であるように世界に認められていた。欧洲の学者の多くは日本の美をも支那系と目している。少くとも支那美の一傍系と見ているようである。大和民族に独立の美の一大源泉があって、まったく世界のいずくにも類を見ない特質を持っている事を正しく認識している者は少い。甚だしきは支那を学んで及ばざる者が日本の美だと考えている。日本の寺院建築は支那の建築を学んだが、その規模も輪奐《りんかん》の美もはるかに支那に及ばない。日本の仏教美術は支那に学んだが、摩崖の大も日本には無く、宋元の幽玄の深さも日本には見ないと説くのはただに欧米人ばかりではない。これこそ美の源泉そのものの相異を認識する力無き者の商量であるといわねばならない。
 日本に於ける大和民族の美の源泉は深く神々の世の血統の中にある。幾千年の歴史の起伏を経て、美の相貌には種々の変化を見たが、美の本質に於ては今も太古の如くである。太古は今の如く新らしく、古事記は今日の書である。日本に於ける美の源泉は古来人知れず世界の一隅に涌きつづけていた。涌いては海に流れていたため、自尊気質の支那には素より認められず、まして日本を支那の属国ぐらいに長い間思っていた欧米諸民族には知られるわけもなく、独り天地の奥処に自らをますます深めていたのである。われわれの持つ美の源泉は今日までまだ人類の間によく知られなかった程新鮮無比、健康にして闊達《かったつ》な、又みやびにして姿高いものであり、それが日本美術史上の遺品の中にさまざまの形態となってあらわれている。私はその中から眼につく幾つかの例を挙げてわれわれ民族の美の特質が如何に世界に於ける新らしい美の源泉として、今後の人類文化に匡正《きょうせい》と豊潤とを与うべきかをたずねてみよう。

   埴輪の美

 埴輪《はにわ》というのは上代古墳の周辺に輪のように並べ立てた素焼の人物鳥獣其の他の造型物であって、今日はかなり多数に遺品が発掘されている。これはわれわれの持つ文化に直接つながる美の源泉の一つであって、同じ出土品でも所謂縄文式の土偶や土面のような、異種を感じさせるものではない。縄文式のものの持つ形式的に繁縟《はんじょく》な、暗い、陰鬱《いんうつ》な表現とはまるで違って、われわれの祖先が作った埴輪の人物はすべて明るく、簡素|質樸《しつぼく》であり、直接自然から汲み取った美への満足があり、いかにも清らか[#「清らか」に傍点]である。そこには野蛮|蒙昧《もうまい》な民族によく見かける怪奇異様への崇拝がない。所謂グロテスクの不健康な惑溺《わくでき》がない。天真らんまんな、大づかみの美が、日常性の健康さを以て表現されている。此の清らかさ[#「清らかさ」に傍点]は上代の禊《みそぎ》の行事と相通ずる日本美の源泉の一つのあらわれであって、これがわれわれ民族の審美と倫理との上に他民族に見られない強力な枢軸を成して、綿々として古今の歴史と風俗とを貫いて生きている。此の明るく清らかな美の感覚はやがて人類一般にもあまねく感得せられねばならないものであり、日本が未来に於て世界に与え世界に加え得る美の大源泉の一特質である。此の「鷹匠埴輪」の無邪気さと、やさしい強さと、清らかさとはよく此の特質を示している。美の健康性がここに在る。

   法隆寺金堂の壁画

 建国以来、日本にも国運上又は国政上に、危い、きわどい時機が幾度かあった。その所謂危機が外部から襲来した事もあり内部から爆発した事もある。そういう時、日本にはきまって不世出の大人物があらわれ、其の禍を断ち、却《かえっ》て更に国運の向上を来さしめている。あとから思うと不思議なくらいそれがうまく行っている。推古天皇の御代を、そういう危かった時代といっていいかどうか分らないが、思想上にも、国政上にも、どうしても解決しなければならない重大問題が前代から山のようにたまったままになっていて、ここで一歩をあやまれば取りかえしのつかないような事になるし、しかも最早一日も荏苒《じんぜん》していられない土壇場に押しつめられたような時代であった。幸にも、その時聖徳太子のような曠古《こうこ》の大天才が此世に顕《あらわ》れて一切の難事業を実に見事に裁決させられた。国是は定まり、国運は伸び、わけて文化の一新紀元が劃《かく》せられた。美の領域に於ける太子の偉業は今日から見て実に世界大なものがある。
 聖徳太子の日本美顕揚の御遺蹟は現に大和法隆寺に不滅の光を放っている。太子は比類なき聡明《そうめい》な知性を持たせられたと同時に極まりなき美の感性に富ませられ、又実に即決即断の明快な技術的手腕をも兼備させられた。太子の美的直覚の鋭く強く、決然として日本美の中核を把握せられてあやまるところなく、多くの外来の高僧や優秀な帰化工人等の意見を吟味させられ、取るべきは取り捨つべきは捨て、豊饒《ほうじょう》な大陸文化を十分に摂取しながら、よく日本独特の美の源泉を濁らしめず、現場の技術者等をも用捨なく指揮統率あらせられた御姿は実に颯爽《さっそう》たるものであった。
 推古天皇十五年、太子によって建立せられた法隆寺の建築そのものが既にただの大陸寺院建築の模倣ではなく、立派な日本的理念の表現に基いているのは言う迄もないが、今問題にしようとする金堂壁画の美に至ってはますますその感を深くする。金堂四面の壁にそれぞれ画かれた浄土変相の図は大規模な模写事業が現今行われていたりして、既に説明を要しないほど世間に知れ渡っている。同様な構図の壁画が印度《インド》アジャンタ洞窟内にもあり、それとの比較が普通に行われ、以前にはその移植であるかのような説をなす者さえあったが、今日では印度発生の斯《か》かる構図形式が西南アジア諸国の間を通過しているうちに、印度臭を脱却し、西域地方の特色に変貌し、それが支那朝鮮を経て日本に渡来したものと推定せられるようになった。その経過がどのようであろうとも、此の金堂の壁画は太子の息吹により純粋に日本美の諸要素に貫かれて、まったく他の如何なる国土にもない美を顕現している。写真に掲出した画面は西方|阿弥陀《あみだ》浄土の一部であり、本尊阿弥陀仏の脇侍《わきじ》、向って右側の多分|観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》の像であろうと思う部面の上半に過ぎないが、まことに美の一片は美の全体であると言われる通り、これだけでも其の壁画の美の如何なるものであるかを窺《うかが》うに十分である。埴輪《はにわ》で見た清らかさ[#「清らかさ」に傍点]の美が又此処にも在る。ここには又節度[#「節度」に傍点]の美がある。高さ[#「高さ」に傍点]の美がある。肉体を超えた精神至上[#「精神至上」に傍点]の美がある。
 仮にアジャンタ洞窟の壁画を想い出してみると、そこにはもっと、肉体性の卑近さがあり、なまなましさがあり、うるささがある。節度[#「節度」に傍点]の美については殊に大和民族特有の規律を此処に見る。壁面にぐりぐり画をかくとか、建築の隅から隅までに彫刻を一ぱい彫りつけて立派だとする他民族の神経はわれわれから見ると野蛮である。印度、ビルマ、アナン、ジャワあたりの仏教建築をはじめ、欧洲に於けるゴシック建築の装飾彫刻の如き過剰の美は、美の最も高きものとはいいにくい。
 金堂壁画の秀抜な節度[#「節度」に傍点]ある描法と、気品の高さ[#「高さ」に傍点]とはまだ世界に本当には知られていない高度な美の源泉であって、これまた将来人類一般の美意識鍛錬に重大な意味を持つものである。

   夢違観音

 法隆寺金堂の壁画が意味する日本美の源泉として、其の肉体性を超越した精神至上の美と高さの美と、その表現に当っての節度の美とを前に述べた。此の白鳳《はくほう》の遺作に加えて、もう一つ同時代の、しかも甚だしくその性格を異にする日本美の源泉となり得るものを挙げて置きたい。法隆寺に安置せられ、世に夢違観音と俗称せられる銅造観世音菩薩立像である。
 夢殿、中宮寺を含む法隆寺一郭の中にわれらの美の淵源とすべき彫刻の充満していることはいうまでもない。金堂安置の薬師如来像のような聖徳太子御在世中の造像にかかるものや、同金銅|釈迦《しゃか》三尊像や、所謂|百済観音《くだらかんのん》像や、夢殿の救世《くせ》観世音菩薩像、中宮寺の如意輪観音と称する半跏《はんか》像の如き一聯《いちれん》の神品は、悉《ことごと》く皆日本美の淵源としての性質を備えている。殊に夢殿の秘仏救世観世音像に至っては、限りなき太子讃仰の念と、太子|薨去《こうきょ》に対する万感をこめての痛惜やる方ない悲憤の余り、造顕せられた御像と拝察せられ、他の諸仏像とは全く違った精神雰囲気が御像を囲繞《いじょう》しているのを感ずる。まるで太子の生御魂《いきみたま》が鼓動をうって御像の中に籠《こも》り、救世の悲願に眼をらんらんとみひらき給うかに拝せられる。心ある者ならば、正目には仰ぎ見ることも畏《かしこ》しと感ぜられる筈であり、千余年の秘封を明治十七年に初めて開いたのがフェノロサという外国人であったという事であるが、これは外国人だからこそ敢て為し得たというべきである。様式だけは北魏に則《のっと》って造られているが、この破天荒とも言うべき表現の直接性は決して様式伝習の間から生れているのではなく、却《かえっ》て様式|破綻《はたん》から溢《あふ》れ出る技術と精神|気魄《きはく》との作ったものである。作者がしゃにむになって、むしろ有る限りの激情をうちつけに具象化したものと考えられる。あらたかな御像という物凄いほどの力がその超越的な写実性から来る。作者が絶体絶命な気構で一気に此の御像を作り上げ、しかも自分自身でさえ御像を凝視するのが恐ろしかったような不思議な状態を想見することが出来る。藤原時代に早くも秘仏としておん扉を固く閉じ奉ることに定められたという事のいわれが分るような気がする。この御像にはあらゆる宗教的、芸術的約束を無視した、言わばただならぬものがあるのである。私は今日でもこの御像は再び秘仏として秘封し奉る方がいいのではないかとさえ思っている。たしかに太子が推古の御代を深くおもい給い、蒼生《そうせい》の苦楽をあわれませられ、更には衆生の発菩提心《ほつぼだいしん》に大悲願をかけさせられる生御魂がここにおわすのである。多くの美学者によって言われるような、強勁《きょうけい》とか厳正とか自若とか慈悲抱擁とかいうようなものだけでは余りよそよそしくて、この御像の真を伝え得ない。もっとあらたかな、おそろしいものがあることを感ずべきである。従ってこの御像の写真撮影は悉く失敗に帰している。この御像は日本彫刻美の淵源としてその随一な権威を持つものであるが、私が敢て写真を掲げないのはそういう理由に基いている。今後どのような優れた写真家が出てこの御像の真を撮影し得るようになるかは測り知れないが、恐らくその撮影はその写真家の命取りとなるであろうと想像される。
 夢殿の救世観世音像は、こういう意味で古今を独歩する唯一無二の霊像であり、彫刻美としてのみ語るのはまことに心無きわざとなるのである。美の日本的源泉として飛鳥《あすか》時代が持つ要素は、おしなべてその様式や性格の部分的抽出をゆるさない。それはすべて全体性から来て居り、美に於ける精神の優位を語る根本の問題である。様式のみからいえば大陸の六朝や隋の移入が目立ち、まだ土着自生の域に達していない。聖徳太子が法隆寺の建築其他に於て成し遂げられた大陸分子の濾過《ろか》摂取の妙はまだ十分彫刻に於ては現れていない。天象風土に直接関係ある建築の方がかかる点に於て一歩先んじるようになるのは当然であるかもしれぬが、彫刻に於てはその様式踏襲の間にまがう方もなく日本的特質として現れて来る第一のものがまず仏像の骨相であった。白鳳|天平《てんぴょう》に至るまでのその推移のあとをたずねると面白いが此は問題が別になる。
 法隆寺東院絵殿に以前安置されていて今は綱封蔵にあるときく此の夢違観音は所謂《いわゆる》天平前期にあたる作であるが、この像の持つ美の要素には十分注目すべきものがあり、日本美の特質を深く包蔵している。わずか二尺八寸余の小像であるが古来世人の恭敬愛慕絶ゆる事なく、悪夢を善夢とかえてくださる御仏として礼拝されて来たという。そういう伝説に値する美が確かにある。この像には既に大陸の影響が十分に消化せられて、日本美独特のものが備っているが、前に述べた清らかさ、高さ、精神至上、節度というようなものに加え、更に疑念なき人なつこさ[#「人なつこさ」に傍点]の美がある。これが大和民族の本能から来ているところに意味がある。大和民族はもともと豪壮勇敢な悲壮美に富んでいるが、また一方他に見られぬ疑念なき人なつこさの情にゆたかである。日本人は他民族を不思議に容易にうけ入れる。随分危険なほど明け放ちの性質を持っている。乗ぜられる弱点ともなるが、又これが強大の実力を伴う時民族親和の魅力ともなる。敵さえ包容する大度量ともなる。この像にはその美が「天にはうたがい無きものを」という高度の無垢《むく》にまで至っている。実例をあげていられないが、こういう清らかな人なつこさ[#「清らかな人なつこさ」に傍点]は世界の美の源泉中に類が無い。そして又この美は世界に一つの新らしい美を開く。

   神護寺金堂の薬師如来

 日本美術の精華を語るに当って、其例を天平期の諸仏像にとるのは世の常識である。これは当然の事であって、飛鳥《あすか》白鳳の輸入期を超えて、其美が漸《ようや》く純日本の形式に落着き、しかも技術の優秀、精神の高遠、共に古今に並びなき発達を遂げた時代であるから、およそ日本美術を語ろうとすれば、どうしても此時期の諸仏像を挙げざるを得ないのである。雄渾《ゆうこん》な構想に加えるに緻密《ちみつ》な工匠的の美意識に富み、聡明《そうめい》な空間組成と鋭敏豊潤な色彩配置とを為し遂げたその純芸術力は世界にもこれに匹敵するもの甚だ稀《まれ》である。僅にギリシャが之に対比し得るだけで、他には規模の厖大《ぼうだい》とか煩瑣《はんさ》な技術の目まぐるしい積みかさねとか、偏った末梢美の誇示とかいう類のものはあっても、よく美の中正を行き芸術の微妙な機能の公道を捉えているものは甚だ少い。その点で日本とギリシャとは性質は全く異っても美の世界に於ける二つの大道|康衢《こうく》を成すものである。
 白鳳から天平へかけての諸仏像の壮麗さは筆紙に尽し難いものがある。まことに目もあやな景観で、その遺品だけを考えてもわずか百五六十年の間によくもこんなに多くの傑作が出来たものだと驚く外はない。いかに当時の仏像造顕そのものが国家の問題であり、又いかに造型意識そのものが直ちに信仰と倫理とにつながるものとして重大視されていたかを想見することが出来る。美は直ちに力であったのである。その美が競い立って相継いで芳香ある雰囲気を平城一円の地を中心に八方に漲《みなぎ》らしていたのである。
 夢違観音と同時代には新薬師寺の香薬師立像のような同型の美が作られていて、唐風様式の聡明な日本化が既に行われていた事を示す。
 最も壮観を極めるものに薬師寺金堂の薬師三尊の巨大な銅造仏がある。古事記、日本書紀の出来た頃前後の作と思われるが、その端厳にして旺盛《おうせい》な仏徳発揚の力といい、比例均衡の美といい、造型技巧の完璧《かんぺき》さといい、更に鋳金技術の驚くべき練達といい、まったく一つの不可思議である。唐の影響はよく淘汰《とうた》され、大陸にもかかる優れた遺品は絶無である。同寺東院堂の銅造聖観音立像もこれに劣らぬ美の最もいさぎよきものである。
 天平盛期となるとまず東大寺三月堂の乾漆の巨像|不空羂索観音《ふくうけんさくかんのん》があり、雄偉深遠で、しかも写実の真義を極めている。写実はすべての天平仏の美の根源であって、その自然から汲み取ることの感謝とよろこびを斯《か》くも正しく表現している時代は少い。同じ三月堂の塑造日光|月光《がっこう》の両|菩薩《ぼさつ》像もその傾向を推し進めたものであり、更に戒壇院の四天王像になると聡明な頭脳と余裕ある手腕とによる悠揚せまらぬ写実の妙諦《みょうてい》に徹底している。
 又一方には興福寺の十大弟子や八部衆のような近親感の強い純写生に基く諸作もあり、写生の極まるところ行信僧都や、鑑真和上のような肖像の神品となる。
 奈良朝後期には唐招提寺や大安寺のような新様の形式が大陸の影響下に生れ、それが又日本美に一段の奥深さを加えて弘仁期への橋を成している。唐招提寺金堂には今でもそれらの巨像がずらりと並んでいる。聖林寺の十一面観音像は又これとは離れて独立した天平後期の雄大の気を示顕する。
 今は原作を見るよしもないが、天平盛期にあたっていしくも聖武天皇は国家の総力をあげて東大寺に五丈余尺の金銅|毘盧舎那仏《びるしゃなぶつ》を建立あらせられた。この記念碑的製作の様式についての民族的本能から来る美の採択は恐らく劃期的《かっきてき》なものがあったであろう。それは内、国家を統一し、外、国力を唐《から》天竺《てんじく》にまでも示し、日本が世界の美の鎔鉱炉《ようこうろ》であることを千幾百年の古しえ、世に示そうとされたのである。
 斯《か》くの如く天平期の日本芸術の美は絢爛《けんらん》を極めているが言い得べくんばこれはすべて完成|綜合《そうごう》の美であって、真の意味での新らしい芽は無い。すべて飛鳥白鳳期に胚胎《はいたい》せられたものの進展成熟であり、例えば夢殿の救世観世音《くせかんぜおん》像に見るようなあの言語道断な、真剣な魂の初発性は見られない。
 天平期の完成に伴う諸弊害を一掃せられた英邁《えいまい》な桓武天皇の平安遷都前後にあたってもう一度人心は粛然として真剣の気を取りもどした。
 京都神護寺に厳存する木彫薬師如来立像を美の日本的源泉の一つとして今特記しようとするには説明がいる。この所謂《いわゆる》弘仁期直前に製作せられた一木造りの如来像は世間普通には晩唐様式の模倣であってむしろ日本的性格の甚だ少いそれゆえ其様式もあまり永続きしなかったものとして考えられている。一応|尤《もっと》もなのであるが、さてその晩唐の本家たる大陸にこれだけの内容と技術とを持った優れた仏像は無い。その晩唐様式の影響というのは唯わずかに衣襞《いへき》の線条の形式や全体の様式の形骸にとどまっていて、その生命とするところは晩唐のだらけた駄作とは根本的に正反対である。概して多くの写真は撮影のかげんで殆どその面影もわからないのであるが、此像の持つ真剣な原始力は世界に類を求め難いほど特異なものである。飛鳥白鳳や天平にもなかった精神内奥の陰影がその形象の上に深く刻みつけられている。刀刃を以て木材を刻み彫り成すことに造型の心理的意味が加わり、この棒立ちの薬師如来に精神形象の具体化が生れた。意力の発現[#「意力の発現」に傍点]がこれほど真摯《しんし》に行われているものは少い。美の切実性[#「美の切実性」に傍点]は日本からこそ起るのが当然である。われわれは今|斯《かく》の如き芸術を求める。われわれの祖先は斯の如きものを遺した。これを美の日本的源泉の一つとするかせぬかは、われわれ自身の意力の厚薄如何にかかっている。

   藤原期の仏画

 今日、日本画の特長を人が語る時多く水墨画の美を挙げる。外国人が最も心をひかれるのも水墨画であるという。現にさき頃仏印地方に日本画の展覧会を開いた時も最も好評を博したのは水墨画であったという事であり、従って今後外国で展覧会を開く時は水墨画を多く出陳する方がいいというような説まで耳にする。なるほど水墨画の類は日本支那に於て独特の発達を遂げちょっと外国では見られない美の深さにまで到達している。その点では確に日本の水墨画は、日本特殊の美の領域を堅持していて他の追随を許さない。
 私は今、美の日本的源泉として日本芸術の根蔕《こんたい》に厳存していて今後ますます生成発展せしむべき諸性質を考えているのであるが、以上の事実にも拘《かかわ》らず、この水墨画偏重の理念には大に警戒すべきものがあると信ずる。
 そもそも日本美の顕揚という事は決して日本の特殊美を以てのみ世界に臨もうとするのではないという事を十分注意すべきである。通俗的な意味で考えられる所謂日本的美という特殊性のみを追ってゆけば結局非常にせまい、限られた特質ばかりが残ってしまって、それらの性質のみを以て日本美を守るような消極的な気持に落ち込めば今後世界の美の諸源泉に立ち向う場合、ついに堂々たる態勢のものとなり得ない事となるのである。あれも日本的でない、これもいけないと排他的に考えるよりも、一切の善きもの、世界の美のあらゆる範疇《はんちゅう》を日本美に抱摂すべきであろう。つまり美のあらゆる範疇を日本美の健康性と清浄性とによって起死回生せしめねばならないのである。当今世界の近代美は爛熟《らんじゅく》と廃頽《はいたい》と自暴自棄とに落ち込んでいる。この一切をもう一度新鮮な黎明《れいめい》の美にかえさしめるのがわれわれ日本民族の仕事である。
 水墨画の美、もとより日本美の雄なるものである。しかし日本に藤原期の仏画ある事を忘れてはならない。日本にも曾《かつ》て交響楽的色彩の綜合美《そうごうび》に成る芸術の専ら行われた時代のある事を銘記しなければならない。外国人がよく日本を色彩の国と称《よ》ぶ時それは浮世絵の色彩を意味する。版画のあの落ちついた好もしい色彩の美は結局板木とバレンとの工作によって自然に出る色彩の綜合的妙味であって、版画の隆盛期に於ける肉筆絵画が必ずしも同様の妙趣を持っていたのではない。試みに広重北斎あたりの肉筆の彩色画を見れば如何にその版画に於ける色彩との相違の甚だしいかを観る事が出来よう。私の意見では日本に於ける交響楽的色彩美の本質は藤原期にあり、鎌倉期以後はむしろ色彩の把握というよりも素描へ彩色を加えるという意味の方に傾いていると思える。
 藤原期は、天平弘仁の彫刻隆盛の後をうけて絵画興隆の機運に恵まれた時代であり、一方には壁画をはじめとして大小の掛幅が作製され、又一方には宮廷生活の需要に応じた「源氏物語絵巻」のような絵巻物の類が創作せられた。いずれも色彩美のよろこびに溢《あふ》れたものであって、壁画掛幅のような建築との色彩調和に俟《ま》つものは当然の事としても、絵巻物のような単独鑑賞の絵画にしても「源氏物語絵巻」の如きは「つくり絵」と謂《い》われる胡粉《ごふん》ぬり重ねによる色彩の諧和《かいわ》豊麗を志している。もともと天平弘仁の彫刻そのものが既に色彩美を十全に発揮した造型であったのであるから、その後をうけた絵画が更に自由な規模による領域を発見してその色彩美をついに交響楽的綜合美にまで高めるに至ったのも自然である。
 写真を掲げた一図は高野山に蔵せられる「聖衆来迎図《しょうじゅらいごうず》」のほんの一部分、中央|阿弥陀《あみだ》如来の向って右に跪坐《きざ》する観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》の像である。此全画は又「二十五菩薩来迎図」とも称せられ、恵心僧都の筆という伝説のある絹本の大幅三幅に収められた一つの構図である。もとよりその全体を目前にしなければ説明もしかねるのであるが、何分にも竪《たて》六尺九寸、幅一丈にも余る大幅であるので、写真に縮小しては鮮明を欠くのでその一部分を掲げて描法の一端を示す事としたのである。幸い此の全画の写真はよく画集などに出ているので就て見る便宜も多い。もと比叡山に蔵せられたものであるという事であるが、叡山横川の僧都源信の「往生要集」に基く往生極楽の信仰をまのあたりに画きあらわした宗教画として、まことに壮麗無比、法悦無上の美が此処にある。「当《まさ》に知るべし、是の時に仏は大光明を放ち、諸の聖衆と倶《とも》に来つて、引接し擁護したまふなり。惑障相隔てて見たてまつること能《あた》はずと雖《いへど》も、大悲の願疑ふべからず。決定して此の室に来入したまふなり。」「命終らんとする時に臨み、合掌|叉手《さす》して南無阿弥陀仏と称《とな》へしむ。仏の名を称ふるが故に、五十|億劫《おくこふ》の生死の罪を除き、化仏の後に従つて、宝池の中に生る。」こういう浄土教の雄大な幻想が、さながら色彩の交響楽となって藤原期の仏画の一々に遍満する。写真の観世音菩薩像にしても金銀五彩の調和そのものであり、且つ又その個々の色彩の質が持つ高度の美に至っては、如何に当時の画人の美意識の極度に洗煉《せんれん》されていたかがうかがわれる。殊に今日まで褪色《たいしょく》もしないでいる紺青|臙脂《えんじ》の美は比類がない。アニリン剤の青竹や洋紅に毒された世界近代の画人は此の前に愧死《きし》するに値する。東京在住の人は帝室博物館に所蔵せられて頻繁に展示せられる「白象普賢菩薩像」に接する機会が多い。此の同じ藤原期の仏画に接して日本に曾《かつ》てあった色彩美の如何なるものであったかを実際に観られるがいい。色彩に於ける美の日本的源泉[#「色彩に於ける美の日本的源泉」に傍点]は決して低い浮世絵などの中に存在せずして、遠く高い藤原期にあり、しかもそれが絶妙のものである事を世界にもあまねく知らしめたい。そうしてわれわれは此の源泉から深く汲んで堂々たる交響楽的色彩美を今後の日本美の有力な一要素たらしめたい。

   能面「深井」

 以上私は、美の日本的源泉を説いて来た。ここにいう美の日本的源泉とは、単に美術上に於ける日本的美の性格とか、特質とかを意味するのではない。私の意図するところは、深くわれわれ民族の本能に根ざして他民族の美の理念と或は隔絶し、或は共通し、しかも世界に於ける美の健康な支持者として強力な気魄《きはく》と実質とを持ち、ギリシャ、エジプト、ゴチック、支那というような異質の美の系統に対しても堂々たる位置を占め、殊に近代に於ける世界の美をその廃頽《はいたい》から再起せしめる事に十分に役立ち、今後われわれ民族の努力によって、今日迄甚だ特殊な一隅の美としてのみ世界の人等に認められていたような偏見を一掃すると共に、ますます幅びろな、高度な美の標準として世界に臨む者としての日本美の源泉的性質を考える事にあった。日本美は今後ますます成長し、豊満し、進展するに違いない。而しそれは決して手当り次第の栄養摂取によっては果されない。十分な自覚と静観とを以て我々の進むべき筋道を心得た上での事でなければならない。私はそういう事の一助にもと思って自分の所見を提示するのである。これまで此意味に於ける日本美の重要な源泉的諸分子を挙げて来たが、最後には矢張能面がよく代表する日本美の奥深い含蓄性[#「奥深い含蓄性」に傍点]について一言せねばならぬ。
 能面の最も高き美は鎌倉末期から室町時代にかけて成就した。長い間の日本彫刻の伝統であった仏像彫刻が、鎌倉期の中興を経てついに再び廃頽堕落するに至った室町時代に及んで、その精粋が思いがけない能面のようなものに移り、此所に又別途の新らしい美を創《つく》り出した事は奇観である。芸術美が自然を離れれば必ず枯渇して、足利期仏像のような瑣末《さまつ》形式のくり返しに陥り、一度び自然に眼が開けば必ず新鮮の美が油然と起って、室町時代の能面のような幽玄微妙な神韻を創生するに至った事実はわれわれにとって無上の教訓となる芸術上の恐ろしい約束である。
 背後に蔚然《うつぜん》たる五山文学の学芸あり、世は南北朝の暗澹《あんたん》たる底流の上に立って興廃常なき中に足利義満等の夢幻の如き栄華は一時に噴火山上の享楽を世上に流通せしめた。この前後の芸術一般が持つ美には、それゆえ毎《つね》に無常迅速の哀感を内に孕《はら》み、外はむしろ威儀の卓然たるものがあった。猿楽は寺坊の間から起ってこれらの将軍と公卿との寵児《ちょうじ》となり、更に慰楽に飢えた民衆一般の支持をうけ、遠く辺陬《へんすう》の地にまで其の余光を分った。能面の急激な発達は斯《か》くして成就せられたのである。仏像の彫刻がただ形式の踏襲に終始し、ただ工人的|末梢《まっしょう》技巧のめまぐるしい累積となり終った時、此の新興芸術たる物まね[#「物まね」に傍点]の生命たる仮面の製作には実に驚くべき斬新の美が創り出された。
 能面は物まね演技の劇中人物を表現すべきものであるという条件が、その製作者をして勢い活世間の人間の面貌にまず注視を向けしめた。しかも仏像の類と違って賢愚雅俗のあらゆる人面の芸術的表現を余儀なくさせた。これは人を救う仏でなくて、仏に救われる煩悩の徒である。これは尊崇|措《お》かざる聖者の肖像ではなくして、浮世になみいる妄執に満ちた憐愍《れんびん》すべき餓鬼の相貌である。賢愚おしなべて哀れはかない運命の波に浮沈する盲亀の面貌である。彼岸の仏|菩薩《ぼさつ》でなくて、吾が隣人であり、又自己そのものである。面打といわれる彫刻家の製作にあたっての生きいきした感慨は思いやられる。
 こういう凡人の相貌を芸術化するという稀有《けう》な役割を持つ能面が、野卑な悪写実に走らずして、最も高雅な方向に向ったのは、一に当時の洗煉《せんれん》された一般的美意識によると共に、能楽という演技そのものが、その発祥を格式を尚《たっと》ぶ社寺のうちに持ち、謡曲のうしろには五山の碩学《せきがく》が厳として控えて居り、啓書記、兆殿司《ちょうでんす》、斗南、鉄舟徳済というような禅門書画家の輩出数うるに遑《いとま》なきほどの社会的雰囲気の中に育ち、わけて天才世阿弥のような実技者のきびしい幽玄思想に導かれた事によるのである。
 能面の美は演技上の必要から来た其の表情の縹渺性《ひょうびょうせい》に多く基いている。喜怒哀楽をむき出しに表現せず、そのいずれでもなく、又そのいずれでもあるような、含みを深く湛《たた》えた美の性格を極限の境にまで追及して得た此の奥深い含蓄性[#「奥深い含蓄性」に傍点]は、世界に類を見ない美の日本的源泉として、今日われわれの内にこんこんと湧いて已《や》まない無限の力を与えてくれる。「般若《はんにゃ》」のような激情の面でさえ、怒であると同時に、悲でもあり、のしかかる強さであると同時に、寂しい自卑自屈の弱さでもある。こういう類の表現は単にそれを理解する事だけですら、恐らく今日の世界に於ける美の感覚の程度では及び難いのではないかと考えられる。われわれは斯《か》かる超高度美を感受し得る美的感覚を、今後あまねく世界の人々にすすめねばならぬ。此の源泉から得た力を更に時代と共に前進せしめねばならぬ。
 奥深い含蓄性[#「奥深い含蓄性」に傍点]は元来東洋の持つ特性ではあるが、支那の持つこれと似たような性質とは根本から違っている。例えば倪雲林の墨画が代表するような含蓄性、又は幽玄性には、いつでも平かならざる抵抗性[#「平かならざる抵抗性」に傍点]を内に蔵している。われわれ民族のものはそういう曲折を内に持たない。常に真正面から深く入りこんだ含蓄性、幽玄性なのである。写真の「深井」は中年の女性の美とさびしさと、その人生的な味いとを魂もろとも遺憾なく表現している。此写真を見ていると、いつしらず人間界の深い、遠いところに明滅する美の発光体を心に感ずる。「深井」に限らず、能面の美の牽引性《けんいんせい》はすべて造型と精神との一身同体から来ている。美の日本的源泉としての斯かる含蓄性は今後まるで違った芸術的表現の上にも大きな要素として生きるであろう。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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高村光太郎

能の彫刻.——高村光太郎

 能はいはゆる綜合芸術の一つであるから、あらゆる芸術の分子がその舞台の上で融合し展開せられる。その融合の微妙さとその展開の為方の緊密にしてしかも回転自在な構成の美しさとに観る者は打たれる。しかし私のやうな彫刻家が能を観るたびにとりわけ感ずるのはその彫刻美である。他の舞台芸術に絶えてないほど能には彫刻的分子が多い。能は彫刻の延長であるもののやうな気さへしてくる。
 普通に、彫刻は動かないものと思はれてゐる。実は動くのである。彫刻の持つ魅力の幾分かは此の動きから来てゐる。もとより物体としての彫刻そのものが動くわけはない。ところが彫刻に面する時、観る者の方が動くから彫刻が動くのである。一つの彫刻の前に立つと先づその彫刻の輪郭が眼にうつる。観る者が一歩動くとその輪郭が忽ち動揺する。彫刻の輪郭はまるで生きてゐるやうに転変する。思ひがけなく急に隠れる突起もあり、又陰の方から静かにあらはれてくる穹窿もある。その輪郭線の微妙な移りかはりに不可言の調和と自然な波瀾とを見てとつて観る者は我知らず彫刻のまはりを一周する。彫刻の四面性とは斯の如きものである。唐招提寺の鑑真和上の坐像のやうな凝然とした静坐の像に対して此をじつと見てゐると、まるで呼吸してゐるやうな微かな動きを感ずる。これは観る者の呼吸の動きである。元来動かない筈の彫刻といふ物体に動きを感ずるところに彫刻の持つ神秘感の物理的根拠がある。深夜孤坐して一つの彫刻に見入る時の一種の物凄さは経験した人の既に知るところであらう。彫刻の写真がその実物の魅力の大半を失ふのは、写真が唯一つの輪郭に彫刻を固定してしまふところに理由がある。どんなにまろく浮き出してゐる写真でも、写真にはさういふ動きがない。彫刻の四面性といふ特質が殺されてしまふのである。
 かういふ彫刻の神秘的な動きがもう少し能動的に動いてくるのが能の動作であるやうな気がする。能では、どうすれば人がいちばん動かないで動き得るかを究めてゐるやうである。揚幕から出て橋がかりを一ノ松まで来る間、腰をおとして一足一足すり足でむらなく進むが、身体そのものは全く動揺しない。木で作つた彫刻が自然と前方に進んで来るやうである。面をかけた首の動きは観る者に非常に強く響くので、首は正しい位置を守つて微動もしない。立ちどまつて体をまはし、腕をひらくやうな時にも、決して中間の無駄な動作を交へない。最後の形に到る最も当然な動きを、丁度輪郭がおのづとほぐれていくやうに運ぶ。輪郭を乱さない。シテ柱に立つたまま謡へば二三年はたちまち経過する。斜め横に身体を向きかへるといふやうなわづかな動作はそれ故非常に烈しい変化を感じさせる。シテがワキに向つて迫るやうな時、つッつッつッつッと早足に進んでぴたりと止まる。進む時には進むといふ純粋な動きに一切が要約せられて、ここにも造型上の雑入がない。生きた人間の動作といふものはもともと甚だ強い感銘を与へるので、われわれの日常生活の動作は、その強さを和げるためにいつでも中途半端な動きをしてゐるのである。いはば動きの意味を稀薄にして融通のきくやうにしてゐるとも言へる。いろいろの分子を紛れこましてあいまいなうちに事を運んでゐるやうなものである。能ではさういふことがない。動きは純粋で、決定的で、最後的である。それ故微細の動きも甚だ強い。その動きはたとへば人間の動作の無水原質のやうなもので、われわれ日常の動きはいつでもそれに水を割つてゐる。その無水原質が更に凝圧されて、じつと静かに不動の形となる時、それは実に激甚な内面の動きとなる。曾て或人の「山姥」を脇から観たことがあるが、その老女が何といふのか甚だ地味で質素な青味がかつた色合の扮装で正面にうづくまるやうにこごみ加減に下に居て長い間じつとしてゐる姿には、その内面の激情が妖気を帯びて物凄いばかりに感じられた。これは殆ど一つの彫刻が置いてあるのと同じであり、彫刻と違ふところは、物そのものが呼吸をし、音声を出している点に過ぎない。面にこもつて出てくるあの一種の音声がしづかに物寂びて、四辺の空気に深い山林の精気をただよはす。その中にじつとしてゐる此の造型物はきりりとしまつて、よくこなされてゐて、些少の駄肉もない。これは彫刻の持つ神秘感をそのまま舞台に見る一例であるが、能に於ける動きのあらゆる場合がこの性質を持つてゐること言をまたない。「道成寺」の乱拍子のやうなところは素より、随分はげしい所作の時でも、その造型性は厳然と保たれる。「藤戸」の怨霊が杖をはげしく振つて自分の脇のあたりに突きさすやうな動きをするが、さういふ時身体全体は依然として朦朧と立つてゐる。立つてゐる形は崩れない。一つの形から一つの形への推移が純粋なのであらゆる瞬間が彫刻である。彫刻に於ける「形」といふのは必ず主要な形態に一切を統一して、その動勢の意味を公理ある型にまで上昇せしめたものである。決して中途半端な、あいまいな、四散するやうな二次三次的な形態はとらないのである。さういふ点で能の動作の各瞬間が彫刻的一齣であるといへる。それ故、面をかけた首に個人的な曲り癖が見えたり、上体のぐらつきが見えたり、ほんの心持だけでも故なく旁視したりする気はひが見えたりすると甚だをかしいといふことである。さうであらうと想像される。それほど厳重な造型であるだけに、逆に、天冠の纓絡などがきらきらと細かく揺れ動いてゐるやうな時、その美しさ、きらびやかさはまさに天上のものとなり、又怨霊などの黒頭の毛がふわふわと自然にゆれ動くのが何ともいへず気味わるく、凄く目にうつる。自然に動いてゐるものの方が、能では一種別様な世界のものに見えてくる。
 その上、能の装束そのものが既に彫刻的の性質を帯びてゐる。すべて大きく、輪郭がきつぱりしてゐて、甚だしく嵩のあるところと、細くひき緊つたところとが必ずあつて、抑揚がつき、どんな姿勢をしても全体から輪郭の突飛な逸脱を起さない。或る図形のうちに統一されて動いてゐる。これは幅びろな装束類や着附のおのづから構成する彫刻的な綜合性である。さういふシテが置物のやうなワキと調和ある位置を終始保つて去来するありさまを見て、われわれがそれを彫刻の延長のやうに感ずるのは無理がないであらう。
 面の問題になると、これはもとより彫刻そのものの問題である。舞台で見ると、仮面の方が真実の面で、直面の方が一時的の面のやうに見える。仮面の方に永遠な芸術力があつて、人間の生の顔の方には唯何某といふ人の、芸術の素材に過ぎない個人的人面があるばかりであるからである。能舞台全体の造型的な空気の中にあつては瞬きをしない、抑揚の強い能面こそ正常の表現を持つものであり、電車の中ででも見られる生きものの人面は甚だしく貧弱な、些細な、仮性の表現を持つものとならざるを得ない。芸術の威力をこれ程はつきり見せられることも珍しい。能面は人面の彫刻的要約である。従つてそこには彫刻的省略と誇張とがある。しかもそれは概ね平時の人面を表徴するよりも、或る劇的情緒の表現に堪へ得る種類の人面を表徴する役目を持つ。それが或る特定の情緒のみに局限せられず、或る性格のもののあらゆる場合に於ける表現に堪へ得なければならず、勢ひ能面そのものの絶対表現は或る定まつた性格の中核的内面世界の核心を表徴するものとなる。いはば八方睨みの竜の眼のやうに、その性格としての中正の一点を捉へねばならないのである。さういふ難事を能面作者は彫刻的に成就してゐる。喜んだ同じ面が悲しみもする。怒つた同じ面が息をきつて自卑の念にも悶える。「痩男」は「痩男」としてのあらゆる表現の芽を含み、「般若」は「般若」としてのあらゆる表現の陰影を内包してゐる。見張りきりの眼、開いたきりの口が却つてその性格の持つ宿業の深さを暗示する。「藤戸」の怨霊の面は舞台の上で長く正視するに堪へない程物すごく人に迫る。「船弁慶」の亡霊の面には正法にはとても敵し難い弱さを内心に蔵して、しかもなほあやかしの持つ強烈な霊の力を頼みとする者の哀れさがある。弱くして強く、烈しくして脆いこの表現の妙は悉くその性格の中正を捉へた彫刻的契機から発する。決して日常表面の特殊変化に偏つた表現では得られない効果である。能面のこなし[#「こなし」に傍点]はすべて上下の二つの面に分たれて、見上げれば忽ち晴れ、うつむけば忽ち曇るやうに出来て居り、総じて無駄の肉づけを避け、こなしだけで骨格を表はし、これに皮膚の様相を加へる。こなしに省略を行ふのでおのづから同時に誇張が行はれる。面上の部分がすべて大きく、「小面」のやうな美女の面でさへその鼻翼は実際よりも大である。これは遠望を約束された舞台上の効果から来る必然の技法でもあり、又往時の舞台照明の関係からも来てゐる。それ故現在の能舞台の明るすぎる電灯の下では聊か作者の企図したところと相違するものとなる。此点について其の道の人達が如何に考へてゐるのか不審に堪へないと思ふことがしばしばある。「羽衣」の天女が強い裸電球の並列の下で、額の下に眼を凹ませて立つてゐるのは甚だ美でない。又その錦繍の装束があまり輝き過ぎて縹渺の気韻を殺してゐる。能面の彫刻美について殊に興味のあるのは、それが賢聖や偉人の面に限られず、むしろ多くは煩悩に満ちた俗界の平凡人の面であり、しかもそれを美の領域にまで高めるほど深い彫刻的究明を行つてゐる点である。
 これほど彫刻的である能の姿は、そのためか屡※[#二の字点、1-2-22]彫刻家によつて彫刻せられる。しかし能の彫刻像にろくなものはない。能が既に彫刻である以上、それを更に彫刻に刻む時、製作の余地がなく、その彫刻は人形の意味しか持たないやうになる。再芸術は低くしか成立しない事を立証する一例と見る外はない。

底本:「日本の名随筆87 能」作品社
   1990(平成2)年1月25日第1刷発行
   1999(平成11)年2月25日第8刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集 第五巻」筑摩書房
   1957(昭和32)年11月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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高村光太郎

智恵子抄——高村光太郎

  人に

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

花よりさきに実のなるやうな
種子《たね》よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟に合はない不自然を
どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

なぜさうたやすく
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
私は淋しい かなしい
何といふ気はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグロキシニヤの
大きな花の腐つてゆくのを見る様な
私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて

明治四五・七

  或る夜のこころ

七月の夜の月は
見よ、ポプラアの林に熱を病めり
かすかに漂ふシクラメンの香りは
言葉なき君が唇にすすり泣けり
森も、道も、草も、遠き街《ちまた》も
いはれなきかなしみにもだえて
ほのかに白き溜息を吐けり
ならびゆくわかき二人は
手を取りて黒き土を踏めり
みえざる魔神はあまき酒を傾け
地にとどろく終列車のひびきは人の運命をあざわらふに似たり
魂はしのびやかに痙攣をおこし
印度|更紗《サラサ》の帯はやや汗ばみて
拝火教徒の忍黙をつづけむとす
こころよ、こころよ
わがこころよ、めざめよ
君がこころよ、めざめよ
こはなに事を意味するならむ
断ちがたく、苦しく、のがれまほしく
又あまく、去りがたく、堪へがたく――
こころよ、こころよ
病の床を起き出でよ
そのアツシシユの仮睡をふりすてよ
されど眼に見ゆるもの今はみな狂ほしきなり
七月の夜の月も
見よ、ポプラアの林に熱を病めり
やみがたき病よ
わがこころは温室の草の上
うつくしき毒虫の為にさいなまる
こころよ、こころよ
――あはれ何を呼びたまふや
今は無言の領する夜半なるものを――

大正元・八

  涙

世は今、いみじき事に悩み
人は日比谷に近く夜ごとに集ひ泣けり
われら心の底に涙を満たして
さりげなく笑みかはし
松本楼の庭前に氷菓を味へば
人はみな、いみじき事の噂に眉をひそめ
かすかに耳なれたる鈴の音す
われら僅かに語り
痛く、するどく、つよく、是非なき
夏の夜の氷菓のこころを嘆き
つめたき銀器をみつめて
君の小さき扇をわれ奪へり
君は暗き路傍に立ちてすすり泣き
われは物言はむとして物言はず
路ゆく人はわれらを見て
かのいみじき事に祈りするものとなせり
あはれ、あはれ
これもまた或るいみじき歎きの為めなれば
よしや姿は艶に過ぎたりとも
人よ、われらが涙をゆるしたまへ

大正元・八

  おそれ

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
一滴の水の微顫も
無益な千万の波動をつひやすのだ
水の静けさを貴んで
静寂の価《あたひ》を量らなければいけない

あなたは其のさきを私に話してはいけない
あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ
口から外へ出さなければいい
出せば則《すなは》ち雷火である
あなたは女だ
男のやうだと言はれても矢張女だ
あの蒼黒い空に汗ばんでゐる円い月だ
世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ
それでいい、それでいい
その夢を現《うつつ》にかへし
永遠を刹那にふり戻してはいけない
その上
この澄みきつた水の中へ
そんなあぶないものを投げ込んではいけない

私の心の静寂は血で買つた宝である
あなたには解りやうのない血を犠牲にした宝である
この静寂は私の生命《いのち》であり
この静寂は私の神である
しかも気むつかしい神である
夏の夜の食慾にさへも
尚ほ烈しい擾乱《じようらん》を惹き起すのである
あなたはその一点に手を触れようとするのか

いけない、いけない
あなたは静寂の価を量らなければいけない
さもなければ
非常な覚悟をしてかからなければいけない
その一個の石の起す波動は
あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない
百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない
あなたは女だ
これに堪へられるだけの力を作らなければならない
それが出来ようか
あなたは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない

御覧なさい
煤烟《ばいえん》と油じみの停車場も
今は此の月と少し暑くるしい靄《もや》との中に
何か偉大な美を包んでゐる宝蔵のやうに見えるではないか
あの青と赤とのシグナルの明りは
無言と送目との間に絶大な役目を果たし
はるかに月夜の情調に歌をあはせてゐる
私は今何かに囲まれてゐる
或る雰囲気に
或る不思議な調節を司《つかさど》る無形な力に
そして最も貴重な平衡を得てゐる
私の魂は永遠をおもひ
私の肉眼は万物に無限の価値を見る
しづかに、しづかに
私は今或る力に絶えず触れながら
言葉を忘れてゐる

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない

大正元・八

  からくりうた

(覗きからくりの絵の極めてをさなきをめづ)

国はみちのく、二本松のええ
赤の煉瓦の
酒倉越えて
酒の泡からひよつこり生れた
酒のやうなる
よいそれ、女が逃げたええ
逃げたそのさきや吉祥寺
どうせ火になる吉祥寺
阿武隈《あぶくま》川のええ
水も此の火は消せなんだとねえ
酒と水とは、つんつれ
ほんに敵《かたき》同志ぢやええ
酒とねえ、水とはねえ

大正元・八

  或る宵

瓦斯《ガス》の暖炉に火が燃える
ウウロン茶、風、細い夕月

――それだ、それだ、それが世の中だ
彼等の欲する真面目とは礼服の事だ
人工を天然に加へる事だ
直立不動の姿勢の事だ
彼等は自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまつた
曾《かつ》て裸体のままでゐた冷暖自知の心を――
あなたは此《これ》を見て何も不思議がる事はない
それが世の中といふものだ
心に多くの俗念を抱いて
眼前|咫尺《しせき》の間を見つめてゐる厭な冷酷な人間の集りだ
それ故、真実に生きようとする者は
――むかしから、今でも、このさきも――
却て真摯《しんし》でないとせられる
あなたの受けたやうな迫害をうける
卑怯《ひきよう》な彼等は
又誠意のない彼等は
初め驚異の声を発して我等を眺め
ありとある雑言を唄つて彼等の閑《ひま》な時間をつぶさうとする
誠意のない彼等は事件の人間をさし置いて唯《ただ》事件の当体をいぢくるばかりだ
いやしむべきは世の中だ
愧《は》づべきは其の渦中の矮人《わいじん》だ
我等は為《な》すべき事を為し
進むべき道を進み
自然の掟《おきて》を尊んで
行住坐臥我等の思ふ所と自然の定律と相もとらない境地に到らなければならない
最善の力は自分等を信ずる所にのみある
蛙のやうな醜い彼等の姿に驚いてはいけない
むしろ其の姿にグロテスクの美を御覧なさい
我等はただ愛する心を味へばいい
あらゆる紛糾を破つて
自然と自由とに生きねばならない
風のふくやうに、雲の飛ぶやうに
必然の理法と、内心の要求と、叡智《えいち》の暗示とに嘘がなければいい
自然は賢明である
自然は細心である
半端物のやうな彼等のために心を悩ますのはお止《よ》しなさい
さあ、又銀座で質素な飯《めし》でも喰ひませう

大正元・一〇

  梟の族

――聞いたか、聞いたか
ぼろすけぼうぼう――

軽くして責なき人の口の端
森のくらやみに住む梟《ふくろふ》の黒き毒に染みたるこゑ
街《ちまた》と木木《きぎ》とにひびき
わが耳を襲ひて堪へがたし
わが耳は夜陰に痛みて
心にうつる君が影像を悲しみ窺《うかが》ふ
かろくして責なきは
あしき鳥の性《さが》なり

――きいたか、きいたか
ぼろすけぼうぼう――

おのが声のかしましき反響によろこび
友より友に伝説をつたへてほこる
梟の族、あしきともがら
われは彼等よりも強しとおもへど
彼等はわれよりも多弁にして
暗示に富みたる眼と、物を蔵する言語とを有せり
さればかろくして責なき
その声のひびきのなやましさよ
聞くに堪へざる俗調は
君とわれとの心を取りて不倫と滑稽との境に擬せむとす
のろはれたるもの
梟の族、あしきともがらよ
されどわが心を狂ほしむるは
むしろかかるおろかしきなやましさなり
声は又も来る、又も来る

――きいたか、きいたか
ぼろすけぼうぼう――

大正元・一〇

  郊外の人に

わがこころはいま大風《おほかぜ》の如く君にむかへり
愛人よ
いまは青き魚《さかな》の肌にしみたる寒き夜もふけ渡りたり
されば安らかに郊外の家に眠れかし
をさな児のまことこそ君のすべてなれ
あまり清く透きとほりたれば
これを見るもの皆あしきこころをすてけり
また善きと悪しきとは被《おほ》ふ所なくその前にあらはれたり
君こそは実《げ》にこよなき審判官《さばきのつかさ》なれ
汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に
をさな児のまこともて
君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ
君の見いでつるものをわれは知らず
ただ我は君をこよなき審判官《さばきのつかさ》とすれば
君によりてこころよろこび
わがしらぬわれの
わがあたたかき肉のうちに籠《こも》れるを信ずるなり
冬なれば欅《けやき》の葉も落ちつくしたり
音もなき夜なり
わがこころはいま大風の如く君に向へり
そは地の底より湧きいづる貴くやはらかき温泉《いでゆ》にして
君が清き肌のくまぐまを残りなくひたすなり
わがこころは君の動くがままに
はね をどり 飛びさわげども
つねに君をまもることを忘れず
愛人よ
こは比《たぐ》ひなき命の霊泉なり
されば君は安らかに眠れかし
悪人のごとき寒き冬の夜なれば
いまは安らかに郊外の家に眠れかし
をさな児の如く眠れかし

大正元・一一

  冬の朝のめざめ

冬の朝なれば
ヨルダンの川も薄く氷りたる可《べ》し
われは白き毛布に包まれて我が寝室《ねべや》の内にあり
基督《キリスト》に洗礼を施すヨハネの心を
ヨハネの首を抱きたるサロオメの心を
我はわがこころの中に求めむとす
冬の朝なれば街《ちまた》より
つつましくからころと下駄の音も響くなり
大きなる自然こそはわが全身の所有なれ
しづかに運る天行のごとく
われも歩む可し
するどきモツカの香りは
よみがへりたる精霊の如く眼をみはり
いづこよりか室の内にしのび入る
われは此の時
むしろ数理学者の冷静をもて
世人の形《かたちづ》くる社会の波動にあやしき因律のめぐるを知る
起きよ我が愛人よ
冬の朝なれば
郊外の家にも鵯《ひよどり》は夙《つと》に来鳴く可し
わが愛人は今くろき眼を開《あ》きたらむ
をさな児のごとく手を伸ばし
朝の光りを喜び
小鳥の声を笑ふならむ
かく思ふとき
我は堪へがたき力の為めに動かされ
白き毛布を打ちて
愛の頌歌《ほめうた》をうたふなり
冬の朝なれば
こころいそいそと励み
また高くさけび
清らかにしてつよき生活をおもふ
青き琥珀《こはく》の空に
見えざる金粉ぞただよふなる
ポインタアの吠ゆる声とほく来《きた》れば
ものを求むる我が習癖はふるひ立ち
たちまちに又わが愛人を恋ふるなり
冬の朝なれば
ヨルダンの川に氷を噛《か》まむ

大正元・一一

  深夜の雪

あたたかいガスだんろの火は
ほのかな音を立て
しめきつた書斎の電燈は
しづかに、やや疲れ気味の二人を照す
宵からの曇り空が雪にかはり
さつき窓《まど》から見れば
もう一面に白かつたが
ただ音もなく降りつもる雪の重さを
地上と屋根と二人のこころとに感じ
むしろ楽みを包んで軟かいその重さに
世界は息をひそめて子供心の眼をみはる
「これみや、もうこんなに積つたぜ」
と、にじんだ声が遠くに聞え
やがてぽんぽんと下駄の歯をはたく音
あとはだんまりの夜も十一時となれば
話の種さへ切れ
紅茶もものうく
ただ二人手をとつて
声の無い此の世の中の深い心に耳を傾け
流れわたる時間の姿をみつめ
ほんのり汗ばんだ顔は安らかさに満ちて
ありとある人の感情をも容易《たやす》くうけいれようとする
又ぽんぽんぽんとはたく音の後から
車らしい何かの響き――
「ああ、御覧なさい、あの雪」
と、私が言へば
答へる人は忽ち童話の中に生き始め
かすかに口を開いて
雪をよろこぶ
雪も深夜をよろこんで
数限りもなく降りつもる
あたたかい雪
しんしんと身に迫つて重たい雪が――

大正二・二

  人に

遊びぢやない
暇つぶしぢやない
あなたが私に会ひに来る
――画もかかず、本も読まず、仕事もせず――
そして二日でも、三日でも
笑ひ、戯れ、飛びはね、又抱き
さんざ時間をちぢめ
数日を一瞬に果す

ああ、けれども
それは遊びぢやない
暇つぶしぢやない
充ちあふれた我等の余儀ない命である
生である
力である
浪費に過ぎ過多に走るものの様に見える
八月の自然の豊富さを
あの山の奥に花さき朽ちる草草や
声を発する日の光や
無限に動く雲のむれや
ありあまる雷霆《らいてい》や
雨や水や
緑や赤や青や黄や
世界にふき出る勢力を
無駄づかひと何《ど》うして言へよう
あなたは私に躍り
私はあなたにうたひ
刻刻の生を一ぱいに歩むのだ
本を抛《なげう》つ刹那の私と
本を開く刹那の私と
私の量は同《おんな》じだ
空疎な精励と
空疎な遊惰とを
私に関して聯想してはいけない
愛する心のはちきれた時
あなたは私に会ひに来る
すべてを棄て、すべてをのり超え
すべてをふみにじり
又嬉嬉として

大正二・二

  人類の泉

世界がわかわかしい緑になつて
青い雨がまた降つて来ます
この雨の音が
むらがり起る生物のいのちのあらわれとなつて
いつも私を堪《たま》らなくおびやかすのです
そして私のいきり立つ魂は
私を乗り超え私を脱《のが》れて
づんづんと私を作つてゆくのです
いま死んで いま生れるのです
二時が三時になり
青葉のさきから又も若葉の萌《も》え出すやうに
今日もこの魂の加速度を
自分ながら胸一ぱいに感じてゐました
そして極度の静寂をたもつて
ぢつと坐つてゐました
自然と涙が流れ
抱きしめる様にあなたを思ひつめてゐました
あなたは本当に私の半身です
あなたが一番たしかに私の信を握り
あなたこそ私の肉身の痛烈を奥底から分つのです
私にはあなたがある
あなたがある
私はかなり惨酷に人間の孤独を味つて来たのです
おそろしい自棄《やけ》の境にまで飛び込んだのをあなたは知つて居ます
私の生《いのち》を根から見てくれるのは
私を全部に解してくれるのは
ただあなたです
私は自分のゆく道の開路者《ピオニエエ》です
私の正しさは草木の正しさです
ああ あなたは其《それ》を生きた眼で見てくれるのです
もとよりあなたはあなたのいのちを持つてゐます
あなたは海水の流動する力をもつてゐます
あなたが私にある事は
微笑が私にある事です
あなたによつて私の生《いのち》は複雑になり 豊富になります
そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
私は今生きてゐる社会で
もう万人の通る通路から数歩自分の道に踏み込みました
もう共に手を取る友達はありません
ただ互に或る部分を了解し合ふ友達があるのみです
私はこの孤独を悲しまなくなりました
此《これ》は自然であり 又必然であるのですから
そしてこの孤独に満足さへしようとするのです
けれども
私にあなたが無いとしたら――
ああ それは想像も出来ません
想像するのも愚かです
私にはあなたがある
あなたがある
そしてあなたの内には大きな愛の世界があります
私は人から離れて孤独になりながら
あなたを通じて再び人類の生きた気息《きそく》に接します
ヒユウマニテイの中に活躍します
すべてから脱却して
ただあなたに向ふのです
深いとほい人類の泉に肌をひたすのです
あなたは私の為めに生れたのだ
私にはあなたがある
あなたがある あなたがある

大正二・三

  僕等

僕はあなたをおもふたびに
一ばんぢかに永遠を感じる
僕があり あなたがある
自分はこれに尽きてゐる
僕のいのちと あなたのいのちとが
よれ合ひ もつれ合ひ とけ合ひ
渾沌《こんとん》としたはじめにかへる
すべての差別見は僕等の間に価値を失ふ
僕等にとつては凡《すべ》てが絶対だ
そこには世にいふ男女の戦がない
信仰と敬虔《けいけん》と恋愛と自由とがある
そして大変な力と権威とがある
人間の一端と他端との融合だ
僕は丁度自然を信じ切る心安さで
僕等のいのちを信じてゐる
そして世間といふものを蹂躪《じゆうりん》してゐる
頑固な俗情に打ち勝つてゐる
二人ははるかに其処《そこ》をのり超えてゐる
僕は自分の痛さがあなたの痛さである事を感じる
僕は自分のこころよさがあなたのこころよさである事を感じる
自分を恃《たの》むやうにあなたをたのむ
自分が伸びてゆくのはあなたが育つてゆく事だとおもつてゐる
僕はいくら早足に歩いてもあなたを置き去りにする事はないと信じ 安心してゐる
僕が活力にみちてる様に
あなたは若若しさにかがやいてゐる
あなたは火だ
あなたは僕に古くなればなるほど新しさを感じさせる
僕にとつてあなたは新奇の無尽蔵だ
凡ての枝葉を取り去つた現実のかたまりだ
あなたのせつぷんは僕にうるほひを与へ
あなたの抱擁は僕に極甚《ごくじん》の滋味を与へる
あなたの冷たい手足
あなたの重たく まろいからだ
あなたの燐光のやうな皮膚
その四肢胴体をつらぬく生きものの力
此等はみな僕の最良のいのちの糧《かて》となるものだ
あなたは僕をたのみ
あなたは僕に生きる
それがすべてあなた自身を生かす事だ
僕等はいのちを惜しむ
僕等は休む事をしない
僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない
伸びないでは
大きくなりきらないでは
深くなり通さないでは
――何といふ光だ 何といふ喜だ

大正二・一二

  愛の嘆美

底の知れない肉体の慾は
あげ潮どきのおそろしいちから――
なほも燃え立つ汗ばんだ火に
火竜《サラマンドラ》はてんてんと躍る

ふりしきる雪は深夜に婚姻飛揚《ヴオル・ニユプシアル》の宴《うたげ》をあげ
寂寞《じやくまく》とした空中の歓喜をさけぶ
われらは世にも美しい力にくだかれ
このとき深密《じんみつ》のながれに身をひたして
いきり立つ薔薇《ばら》いろの靄《もや》に息づき
因陀羅網《いんだらもう》の珠玉《しゆぎよく》に照りかへして
われらのいのちを無尽に鋳る

冬に潜《ひそ》む揺籃の魔力と
冬にめぐむ下萌《したもえ》の生熱と――
すべての内に燃えるものは「時」の脈搏と共に脈うち
われらの全身に恍惚《こうこつ》の電流をひびかす

われらの皮膚はすさまじくめざめ
われらの内臓は生存の喜にのたうち
毛髪は蛍光《けいこう》を発し
指は独自の生命を得て五体に匍《は》ひまつはり
道《ことば》を蔵した渾沌のまことの世界は
たちまちわれらの上にその姿をあらはす

光にみち
幸にみち
あらゆる差別は一音にめぐり
毒薬と甘露とは其の筺《はこ》を同じくし
堪へがたい疼痛《とうつう》は身をよぢらしめ
極甚の法悦は不可思議の迷路を輝かす

われらは雪にあたたかく埋もれ
天然の素中《そちゆう》にとろけて
果てしのない地上の愛をむさぼり
はるかにわれらの生《いのち》を讃《ほ》めたたへる

大正三・二

  晩餐

暴風《しけ》をくらつた土砂ぶりの中を
ぬれ鼠になつて
買つた米が一升
二十四銭五厘だ
くさやの干《ひ》ものを五枚
沢庵《たくあん》を一本
生姜《しようが》の赤漬《あかづけ》
玉子は鳥屋《とや》から
海苔《のり》は鋼鉄をうちのべたやうな奴
薩摩《さつま》あげ
かつをの塩辛《しほから》
湯をたぎらして
餓鬼道のやうに喰《くら》ふ我等の晩餐

ふきつのる嵐は
瓦にぶつけて
家鳴《やなり》震動のけたたましく
われらの食慾は頑健にすすみ
ものを喰らひて己《おの》が血となす本能の力に迫られ
やがて飽満の恍惚に入れば
われら静かに手を取つて
心にかぎりなき喜を叫び
かつ祈る
日常の瑣事《さじ》にいのちあれ
生活のくまぐまに緻密《ちみつ》なる光彩あれ
われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
われらつねにみちよ

われらの晩餐は
嵐よりも烈しい力を帯び
われらの食後の倦怠は
不思議な肉慾をめざましめて
豪雨の中に燃えあがる
われらの五体を讃嘆せしめる

まづしいわれらの晩餐はこれだ

大正三・四

  淫心

をんなは多淫
われも多淫
飽かずわれらは
愛慾に光る

縦横|無礙《むげ》の淫心
夏の夜の
むんむんと蒸しあがる
瑠璃《るり》黒漆の大気に
魚鳥と化して躍る
つくるなし
われら共に超凡
すでに尋常規矩の網目を破る
われらが力のみなもとは
常に創世期の混沌に発し
歴史はその果実に生きて
その時|劫《こう》を滅す
されば
人間世界の成壌は
われら現前の一点にあつまり
われらの大は無辺際に充ちる

淫心は胸をついて
われらを憤らしめ
万物を拝せしめ
肉身を飛ばしめ
われら大声を放つて
無二の栄光に浴す

をんなは多淫
われも多淫
淫をふかめて往くところを知らず
万物をここに持す
われらますます多淫
地熱のごとし
烈烈――

大正三・八

  樹下の二人

――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

あれが阿多多羅山《あたたらやま》、
あの光るのが阿武隈川。

かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
うつとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
この大きな冬のはじめの野山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

あなたは不思議な仙丹《せんたん》を魂の壺にくゆらせて、
ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
無限の境に烟るものこそ、
こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
むしろ魔もののやうに捉《とら》へがたい
妙に変幻するものですね。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫《さかぐら》。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡つた北国《きたぐに》の木の香に満ちた空気を吸はう。
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
私は又あした遠く去る、
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
ここはあなたの生れたふるさと、
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
まだ松風が吹いてゐます、
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

大正一二・三

  狂奔する牛

ああ、あなたがそんなにおびえるのは
今のあれを見たのですね。
まるで通り魔のやうに、
この深山のまき[#「まき」に傍点]の林をとどろかして、
この深い寂寞《じやくまく》の境にあんな雪崩《なだれ》をまき起して、
今はもうどこかへ往つてしまつた
あの狂奔する牛の群を。

今日はもう止しませう、
画きかけてゐたあの穂高の三角の屋根に
もうテル ヴエルトの雲が出ました
槍の氷を溶かして来る
あのセルリヤンの梓川《あづさがは》に
もう山山がかぶさりました。
谷の白楊《はくよう》が遠く風になびいてゐます。
今日はもう画くのを止して
この人跡たえた神苑をけがさぬほどに
又好きな焚火《たきび》をしませう。
天然がきれいに掃き清めたこの苔《こけ》の上に
あなたもしづかにおすわりなさい。

あなたがそんなにおびえるのは
どつと逃げる牝牛の群を追ひかけて
ものおそろしくも息せき切つた、
血まみれの、若い、あの変貌した牡牛をみたからですね。
けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を
いつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう。
もつと多くの事をこの身に知つて、
いつかは静かな愛にほほゑみながら――

大正一四・六

  

工場の泥を凍らせてはいけない。
智恵子よ、
夕方の台所が如何に淋しからうとも、
石炭は焚かうね。
寝部屋の毛布が薄ければ、
上に坐蒲団をのせようとも、
夜明けの寒さに、
工場の泥を凍らせてはいけない。
私は冬の寝ずの番、
水銀柱の斥候《ものみ》を放つて、
あの北風に逆襲しよう。
少しばかり正月が淋しからうとも、
智恵子よ、
石炭は焚かうね。

大正一五・二

  鯰

盥《たらひ》の中でぴしやりとはねる音がする。
夜が更けると小刀の刃が冴《さ》える。
木を削るのは冬の夜の北風の為事《しごと》である。
煖炉に入れる石炭が無くなつても、
鯰《なまづ》よ、
お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
檜の木片《こつぱ》は私の眷族《けんぞく》、
智恵子は貧におどろかない。
鯰よ、
お前の鰭《ひれ》に剣があり、
お前の尻尾に触角があり、
お前の鰓《あぎと》に黒金の覆輪があり、
さうしてお前の楽天にそんな石頭があるといふのは、
何と面白い私の為事への挨拶であらう。
風が落ちて板の間に蘭の香ひがする。
智恵子は寝た。
私は彫りかけの鯰を傍へ押しやり、
研水《とみづ》を新しくして
更に鋭い明日の小刀を瀏瀏《りゆうりゆう》と研ぐ。

大正一五・二

  夜の二人

私達の最後が餓死であらうといふ予言は、
しとしとと雪の上に降る霙《みぞれ》まじりの夜の雨の言つた事です。
智恵子は人並はづれた覚悟のよい女だけれど
まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持つてゐます。
私達はすつかり黙つてもう一度雨をきかうと耳をすましました。
少し風が出たと見えて薔薇《ばら》の枝が窓硝子に爪を立てます。

大正一五・三

  あなたはだんだんきれいになる

をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽《せいれつ》な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。

昭和二・一

  あどけない話

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山《あたたらやま》の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。

昭和三・五

  同棲同類

――私は口をむすんで粘土をいぢる。
――智恵子はトンカラ機《はた》を織る。
――鼠は床にこぼれた南京《ナンキン》豆を取りに来る。
――それを雀が横取りする。
――カマキリは物干し綱に鎌を研ぐ。
――蠅とり蜘蛛《ぐも》は三段飛。
――かけた手拭はひとりでじやれる。
――郵便物ががちやりと落ちる。
――時計はひるね。
――鉄瓶《てつびん》もひるね。
――芙蓉《ふよう》の葉は舌を垂らす。
――づしんと小さな地震。
油蝉を伴奏にして
この一群の同棲同類の頭の上から
子午線上の大火団がまつさかさまにがつと照らす。

昭和三・八

  美の監禁に手渡す者

納税告知書の赤い手触りが袂《たもと》にある、
やつとラヂオから解放された寒夜の風が道路にある。

売る事の理不尽、購《あがな》ひ得るものは所有し得る者、
所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。

両立しない造形の秘技と貨幣の強引、
両立しない創造の喜と不耕|貪食《どんしよく》の苦《にが》さ。

がらんとした家に待つのは智恵子、粘土、及び木片《こつぱ》、
ふところの鯛焼はまだほのかに熱い、つぶれる。

昭和六・三

  人生遠視

足もとから鳥がたつ
自分の妻が狂気する
自分の着物がぼろになる
照尺距離三千メートル
ああこの鉄砲は長すぎる

昭和一〇・一

  風にのる智恵子

狂つた智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する
防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴《さつきばれ》の風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣《ゆかた》が松にかくれ又あらはれ
白い砂には松露がある
わたしは松露をひろひながら
ゆつくり智恵子のあとをおふ
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ

昭和一〇・四

  千鳥と遊ぶ智恵子

人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾《あし》あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。

昭和一二・7

  値《あ》ひがたき智恵子

智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為《す》る。

智恵子は現身《うつしみ》のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。

昭和一二・七

  山麓の二人

二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく靡《なび》いて波うち
芒《すすき》ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂へる妻は草を藉《し》いて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のやうに慟哭《どうこく》する
――わたしもうぢき駄目になる
意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
のがれる途《みち》無き魂との別離
その不可抗の予感
――わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙つて妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返つて
わたくしに縋《すが》る
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃《げき》として二人をつつむこの天地と一つになつた。

昭和一三・六

  或る日の記

水墨の横ものを描きをへて
その乾くのを待ちながら立つてみて居る
上高地から見た前穂高の岩の幔幕《まんまく》
墨のにじんだ明神|岳《だけ》のピラミツド
作品は時空を滅する
私の顔に天上から霧がふきつけ
私の精神に些《いささ》かの条件反射のあともない
乾いた唐紙《からかみ》はたちまち風にふかれて
このお化屋敷の板の間に波をうつ
私はそれを巻いて小包につくらうとする
一切の苦難は心にめざめ
一切の悲歎は身うちにかへる
智恵子狂ひて既に六年
生活の試練|鬢髪《びんぱつ》為に白い
私は手を休めて荷造りの新聞に見入る
そこにあるのは写真であつた
そそり立つ廬山《ろざん》に向つて無言に並ぶ野砲の列

昭和一三・八

  レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉《のど》に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔|山巓《さんてん》でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

昭和一四・二

  亡き人に

雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
枕頭《ちんとう》のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

朝風は人のやうに私の五体をめざまし
あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

私は白いシイツをはねて腕をのばし
夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののやうにあなたは立つ

私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる

あなたはまだゐる其処《そこ》にゐる
あなたは万物となつて私に満ちる

私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ

昭和一四・七

  梅酒

死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒《うめしゆ》は
十年の重みにどんより澱《よど》んで光を葆《つつ》み、
いま琥珀《こはく》の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨《くりや》に見つけたこの梅酒の芳《かを》りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤《きようらんどとう》の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。

昭和一五・三

  荒涼たる帰宅

あんなに帰りたがつてゐる自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃《ほこり》を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風《びようぶ》をさかさにする。
人は燭《しよく》をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処《どこ》かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。

昭和一六・六

  松庵寺

奥州花巻といふひなびた町の
浄土宗の古刹《こさつ》松庵寺で
秋の村雨《むらさめ》ふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すつかり焼けた松庵寺は
物置小屋に須弥壇《すみだん》をつくつた
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚《おしよう》さまの衣のすそさへ濡れました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どほりに一枚|起請文《きしようもん》をよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなき信によつてわたくしのために
燃えてしまつたあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置|御堂《みどう》の仏の前で
又も食ひ入るやうに思ひしらべました

昭和二〇・一〇

  報告(智恵子に)

日本はすつかり変りました。
あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた
あの傍若無人のがさつな階級が
とにかく存在しないことになりました。
すつかり変つたといつても、
それは他力による変革で
(日本の再教育と人はいひます。)
内からの爆発であなたのやうに、
あんないきいきした新しい世界を
命にかけてしんから望んだ
さういふ自力で得たのでないことが
あなたの前では恥しい。
あなたこそまことの自由を求めました。
求められない鉄の囲《かこひ》の中にゐて、
あなたがあんなに求めたものは、
結局あなたを此世の意識の外に逐《お》ひ、
あなたの頭をこはしました。
あなたの苦しみを今こそ思ふ。
日本の形は変りましたが、
あの苦しみを持たないわれわれの変革を
あなたに報告するのはつらいことです。

昭和二二・六

  噴霧的な夢

あのしやれた登山電車で智恵子と二人、
ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。
夢といふものは香料のやうに微粒的で
智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。
ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
ガスの火が噴射機《ジエツトプレイン》のやうに吹き出てゐた。
その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
智恵子はほのぼのと美しく清浄で
しかもかぎりなき惑溺《わくでき》にみちてゐた。
あの山の水のやうに透明な女体を燃やして
私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。
そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
昨日までの私の全存在の異和感が消えて
午前五時の秋爽《さわ》やかな山の小屋で目がさめた。

昭和二三・九

  もしも智恵子が

もしも智恵子が私といつしよに
岩手の山の源始の息吹《いぶき》に包まれて
いま六月の草木の中のここに居たら、
ゼンマイの綿帽子がもうとれて
キセキレイが井戸に来る山の小屋で
ことしの夏がこれから始まる
洋々とした季節の朝のここに居たら、
智恵子はこの三畳敷で目をさまし、
両手を伸して吹入るオゾンに身うちを洗ひ、
やつぱり二十代の声をあげて
十本一本のマツチをわらひ、
杉の枯葉に火をつけて
囲炉裏の鍋《なべ》でうまい茶粥《ちやがゆ》を煮るでせう。
畑の絹さやゑん豆をもぎつてきて
サフアイヤ色の朝の食事に興じるでせう。
もしも智恵子がここに居たら、
奥州南部の山の中の一軒家が
たちまち真空管の機構となつて
無数の強いエレクトロンを飛ばすでせう。

昭和二四・三

  元素智恵子

智恵子はすでに元素にかへつた。
わたくしは心霊独存の理を信じない。
智恵子はしかも実存する。
智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火を燃やし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、
わたくしを老いぼれの餌食《ゑじき》にさせない。
精神とは肉体の別の名だ。
わたくしの肉に居る智恵子は、
そのままわたくしの精神の極北。
智恵子はこよなき審判者であり、
うちに智恵子の睡る時わたくしは過《あやま》ち、
耳に智恵子の声をきく時わたくしは正しい。
智恵子はただ※[#「口+喜」、第3水準1-15-18]々《きき》としてとびはね、
わたくしの全存在をかけめぐる。
元素智恵子は今でもなほ
わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。

昭和二四・一〇

  メトロポオル

智恵子が憧れてゐた深い自然の真只中に
運命の曲折はわたくしを叩きこんだ。
運命は生きた智恵子を都会に殺し、
都会の子であるわたくしをここに置く。
岩手の山は荒々しく美しくまじりけなく、
わたくしを囲んで仮借しない。
虚偽と遊惰とはここの土壌に生存できず、
わたくしは自然のやうに一刻を争ひ、
ただ全裸を投げて前進する。
智恵子は死んでよみがへり、
わたくしの肉に宿つてここに生き、
かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ。
変幻きはまりない宇宙の現象、
転変かぎりない世代の起伏、
それをみんな智恵子がうけとめ、
それをわたくしが触知する。
わたくしの心は賑《にぎは》ひ、
山林|孤棲《こせい》と人のいふ
小さな山小屋の囲炉裏に居て
ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ。

昭和二四・一〇

  裸形

智恵子の裸形をわたくしは恋ふ。
つつましくて満ちてゐて
星宿のやうに森厳で
山脈のやうに波うつて
いつでもうすいミストがかかり、
その造型の瑪瑙《めのう》質に
奥の知れないつやがあつた。
智恵子の裸形の背中の小さな黒子《ほくろ》まで
わたくしは意味ふかくおぼえてゐて、
今も記憶の歳月にみがかれた
その全存在が明滅する。
わたくしの手でもう一度、
あの造型を生むことは
自然の定めた約束であり、
そのためにわたくしに肉類が与へられ、
そのためにわたくしに畑の野菜が与へられ、
米と小麦と牛酪《バター》とがゆるされる。
智恵子の裸形をこの世にのこして
わたくしはやがて天然の素中《そちゆう》に帰らう。

昭和二四・一〇

  案内

三畳あれば寝られますね。
これが水屋。
これが井戸。
山の水は山の空気のやうに美味。
あの畑が三|畝《せ》、
いまはキヤベツの全盛です。
ここの疎林がヤツカの並木で、
小屋のまはりは栗と松。
坂を登るとここが見晴し、
展望二十里南にひらけて
左が北上山系、
右が奥羽国境山脈、
まん中の平野を北上川が縦に流れて、
あの霞んでゐる突きあたりの辺が
金華山沖といふことでせう。
智恵さん気に入りましたか、好きですか。
うしろの山つづきが毒が森。
そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
智恵さん斯《か》ういふところ好きでせう。

昭和二四・一〇

  あの頃

人を信ずることは人を救ふ。
かなり不良性のあつたわたくしを
智恵子は頭から信じてかかつた。
いきなり内懐《うちふところ》に飛びこまれて
わたくしは自分の不良性を失つた。
わたくし自身も知らない何ものかが
こんな自分の中にあることを知らされて
わたくしはたじろいだ。
少しめんくらつて立ちなほり、
智恵子のまじめな純粋な
息をもつかない肉薄に
或日はつと気がついた。
わたくしの眼から珍しい涙がながれ、
わたくしはあらためて智恵子に向つた。
智恵子はにこやかにわたくしを迎へ、
その清浄な甘い香りでわたくしを包んだ。
わたくしはその甘美に酔つて一切を忘れた。
わたくしの猛獣性をさへ物ともしない
この天の族なる一女性の不可思議力に
無頼のわたくしは初めて自己の位置を知つた。

昭和二四・一〇

  吹雪の夜の独白

外では吹雪が荒れくるふ。
かういふ夜には鼠も来ず、
部落は遠くねしづまつて
人つ子ひとり山には居ない。
囲炉裏に大きな根つ子を投じて
みごとな大きな火を燃やす。
六十七年といふ生理の故に
今ではよほどらくだと思ふ。
あの欲情のあるかぎり、
ほんとの為事《しごと》は苦しいな。
美術といふ為事の奥は
さういふ非情を要求するのだ。
まるでなければ話にならぬし、
よくよく知つて今は無いといふのがいい。
かりに智恵子が今出てきても
大いにはしやいで笑ふだけだろ。
きびしい非情の内側から
あるともなしに匂ふものが
あの神韻といふやつだろ。
老いぼれでは困るがね。

昭和二四・一〇

  智恵子と遊ぶ

智恵子の所在は次元。
次元こそ絶対現実。

岩手の山に智恵子と遊ぶ
夢幻《ゆめまぼろし》の生の真実

フレンチ平原に茸《きのこ》は生えても
智恵子の遊びに変りはない。

二合の飯は今日のままごと。
牛のしつぽに韮《にら》を刻む。

強敵|糠蚊《ぬかが》とたたかひながら
三畝の畑にいのちを託す。

あばら骨に錐《きり》は刺され
肺気腫《はいきしゆ》噴射のとめどない咳《せき》。

造型は自然の中軸。
この世存在のシネ クワ ノン。

一切は智恵子次元の逍遙遊《しようようゆう》。
遊ぶ時人はわづかに卑しくなくなる。

昭和二六・一一

  報告

あなたのきらひな東京へ
山からこんどきてみると
生れ故郷の東京が
文化のがらくたに埋もれて
足のふみ場もないやうです。
ひと皮かぶせたアスフアルトに
無用のタキシが充満して
人は南にゆかうとすると
結局北にゆかされます。
空には爆音、
地にはラウドスピーカー。
鼓膜《こまく》を鋼《はがね》で張りつめて
意志のない不生産的生きものが
他国のチリンチリン的敗物を
がつがつ食べて得意です。
あなたのきらひな東京が
わたくしもきらひになりました。
仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう。
あの清潔なモラルの天地で
も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。

昭和二七・一一

  うた六首

ひとむきにむしやぶりつきて為事するわれをさびしと思ふな智恵子

気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり

いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる

わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき

この家に智恵子の息吹《いぶき》みちてのこりひとりめつぶる吾《あ》をいねしめず

光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所《ここ》に住みにき

  智恵子の半生

 妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒《ぞくりゆう》性肺結核で死んでから旬日で満二年になる。私はこの世で智恵子にめぐりあつたため、彼女の純愛によつて清浄にされ、以前の廃頽《はいたい》生活から救ひ出される事が出来た経歴を持つて居り、私の精神は一にかかつて彼女の存在そのものの上にあつたので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さへ其の目標を失つたやうな空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。彼女の生前、私は自分の製作した彫刻を何人よりもさきに彼女に見せた。一日の製作の終りにも其《それ》を彼女と一緒に検討する事が此上《このうえ》もない喜であつた。又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作つた木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫《あいぶ》した。彼女の居ないこの世で誰が私の彫刻をそのやうに子供のやうにうけ入れてくれるであらうか。もう見せる人も居やしないといふ思が私を幾箇月間か悩ました。美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。自分の作つたものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるといふ意識ほど、美術家にとつて力となるものはない。作りたいものを必ず作り上げる潜力となるものはない。製作の結果は或は万人の為のものともなることがあらう。けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらひたいだけで既に一ぱいなのが常である。私はさういふ人を妻の智恵子に持つてゐた。その智恵子が死んでしまつた当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかつた。作りたいものは山ほどあつても作る気になれなかつた。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知つてゐるからである。さういふ幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私と偕《とも》にある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処《そこ》に居る。彼女は何処《どこ》にでも居るのである。
 智恵子が結婚してから死ぬまでの二十四年間の生活は愛と生活苦と芸術への精進と矛盾と、さうして闘病との間断なき一連続に過ぎなかつた。彼女はさういふ渦巻の中で、宿命的に持つてゐた精神上の素質の為に倒れ、歓喜と絶望と信頼と諦観《ていかん》とのあざなはれた波濤《はとう》の間に没し去つた。彼女の追憶について書く事を人から幾度か示唆《しさ》されても今日まで其を書く気がしなかつた。あまりなまなましい苦闘のあとは、たとひ小さな一隅の生活にしても筆にするに忍びなかつたし、又いはば単なる私生活の報告のやうなものに果してどういふ意味があり得るかといふ疑問も強く心を牽制《けんせい》してゐたのである。だが今は書かう。出来るだけ簡単に此の一人の女性の運命を書きとめて置かう。大正昭和の年代に人知れず斯《か》ういふ事に悩み、かういふ事に生き、かういふ事に倒れた女性のあつた事を書き記して、それをあはれな彼女への餞《はなむけ》とする事を許させてもらはう。一人に極まれば万人に通ずるといふことを信じて、今日のやうな時勢の下にも敢て此の筆を執らうとするのである。
 今しづかに振りかへつて彼女の上を考へて見ると、その一生を要約すれば、まづ東北地方福島県二本松町の近在、漆原といふ所の酒造り長沼家に長女として明治十九年に生れ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけてゐるうちに洋画に興味を持ち始め、女子大学卒業後、郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留《とど》まり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家であつた中村|彜《つね》、斎藤与里治、津田|青楓《せいふう》の諸氏に出入して其の影響をうけ、又一方、其頃平塚雷鳥女史等の提起した女子思想運動にも加はり、雑誌「青鞜《せいとう》」の表紙画などを画いたりした。それが明治末年頃の事であり、やがて柳八重子女史の紹介で初めて私と知るやうになり、大正三年に私と結婚した。結婚後も油絵の研究に熱中してゐたが、芸術精進と家庭生活との板ばさみとなるやうな月日も漸く多くなり、その上|肋膜《ろくまく》を病んで以来しばしば病臥《びようが》を余儀なくされ、後年郷里の家君を亡《うしな》ひ、つづいて実家の破産に瀕《ひん》するにあひ、心痛苦慮は一通りでなかつた。やがて更年期の心神変調が因《もと》となつて精神異状の徴候があらはれ、昭和七年アダリン自殺を計り、幸ひ薬毒からは免れて一旦健康を恢復《かいふく》したが、その後あらゆる療養をも押しのけて徐々に確実に進んで来る脳細胞の疾患のため昭和十年には完全に精神分裂症に捉《とら》へられ、其年二月ゼームス坂病院に入院、昭和十三年十月其処でしづかに瞑目《めいもく》したのである。
 彼女の一生は実に単純であり、純粋に一私人的生活に終始し、いささかも社会的意義を有《も》つ生活に触れなかつた。わづかに「青鞜」に関係してゐた短い期間がその社会的接触のあつた時と言へばいえる程度に過ぎなかつた。社会的関心を持たなかつたばかりでなく、生来社交的でなかつた。「青鞜」に関係してゐた頃|所謂《いはゆる》新らしい女の一人として一部の人達の間に相当に顔を知られ、長沼智恵子といふ名がその仲間の口に時々上つたのも、実は当時のゴシツプ好きの連中が尾鰭《をひれ》をつけていろいろ面白さうに喧伝《けんでん》したのが因であつて、本人はむしろ無口な、非社交的な非論理的な、一途《いちず》な性格で押し通してゐたらしかつた。長沼さんとは話がしにくいといふのが当時の女友達の本当の意見のやうであつた。私は其頃の彼女をあまり善く知らないのであるが、津田青楓氏が何かに書いてゐた中に、彼女が高い塗下駄をはいて着物の裾を長く引きずるやうにして歩いてゐたのをよく見かけたといふやうな事があつたのを記憶する。そんな様子や口数の少いところから何となく人が彼女に好奇的な謎《なぞ》でも感じてゐたのではないかと思はれる。女|水滸伝《すいこでん》のやうに思はれたり、又|風情《ふぜい》ごのみのやうに言はれたりしたやうであるが実際はもつと素朴で無頓着《むとんちやく》であつたのだらうと想像する。
 私は彼女の前半生を殆ど全く知らないと言つていい。彼女について私が知つてゐるのは紹介されて彼女と識《し》つてから以後の事だけである。現在の事で一ぱいで、以前の事を知らうとする気も起らなかつたし、年齢さへ実は後年まで確実には知らなかつたのである。私が知つてからの彼女は実に単純|真摯《しんし》な性格で、心に何か天上的なものをいつでも湛《たた》へて居り、愛と信頼とに全身を投げ出してゐたやうな女性であつた。生来の勝気から自己の感情はかなり内に抑へてゐたやうで、物腰はおだやかで軽佻《けいちよう》な風は見られなかつた。自己を乗り越えて進まうとする気力の強さには時々驚かされる事もあつたが、又そこに随分無理な努力も人知れず重ねてゐたのである事を今日から考へると推察する事が出来る。
 その時には分らなかつたが、後から考へてみれば、結局彼女の半生は精神病にまで到達するやうに進んでゐたやうである。私との此の生活では外に往く道はなかつたやうに見える。どうしてさうかと考へる前に、もつと別な生活を想像してみると、例へば生活するのが東京でなくて郷里、或は何処かの田園であり、又配偶者が私のやうな美術家でなく、美術に理解ある他の職業の者、殊に農耕牧畜に従事してゐるやうな者であつた場合にはどうであつたらうと考へられる。或はもつと天然の寿を全うし得たかも知れない。さう思はれるほど彼女にとつては肉体的に既に東京が不適当の地であつた。東京の空気は彼女には常に無味乾燥でざらざらしてゐた。女子大で成瀬校長に奨励され、自転車に乗つたり、テニスに熱中したりして頗《すこぶ》る元気溌剌たる娘時代を過したやうであるが、卒業後は概してあまり頑健といふ方ではなく、様子もほつそりしてゐて、一年の半分近くは田舎や、山へ行つてゐたらしかつた。私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体《からだ》が保《も》たないのであつた。彼女はよく東京には空が無いといつて歎《なげ》いた。私の「あどけない話」といふ小詩がある。


 智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは
 うすもも色の朝のしめりだ。
 智恵子は遠くを見ながらいふ。
 阿多多羅山《あたたらやま》の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。
 あどけない空の話である。

 私自身は東京に生れて東京に育つてゐるため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染《なじ》む事だらうと思つてゐたが、彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかつた。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしてゐた。家のまはりに生える雑草の飽くなき写生、その植物学的探究、張出窓での百合《ゆり》花やトマトの栽培、野菜類の生食、ベトオフエンの第六交響楽レコオドへの惑溺《わくでき》といふやうな事は皆この要求充足の変形であつたに相違なく、此の一事だけでも半生に亙《わた》る彼女の表現し得ない不断のせつなさは想像以上のものであつたであらう。その最後の日、死ぬ数時間前に私が持つて行つたサンキストのレモンの一顆《いつか》を手にした彼女の喜も亦《また》この一筋につながるものであつたらう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗はれてゐるやうに見えた。
 彼女がつひに精神の破綻《はたん》を来すに至つた更に大きな原因は何といつてもその猛烈な芸術精進と、私への純真な愛に基く日常生活の営みとの間に起る矛盾|撞着《どうちやく》の悩みであつたであらう。彼女は絵画を熱愛した。女子大在学中既に油絵を画いてゐたらしく、学芸会に於《お》ける学生劇の背景製作などをいつも引きうけて居たといふ事であり、故郷の両親が初めは反対してゐたのに遂に画家になる事を承認したのも、其頃画いた祖父の肖像画の出来|栄《ばえ》が故郷の人達を驚かしたのに因ると伝へ聞いてゐる。この油絵は、私も後に見たが、素朴な中に渋い調和があり、色価の美しい作であつた。卒業後数年間の絵画については私はよく知らないが、幾分情調本位な甘い気分のものではなかつたかと思はれる。其頃のものを彼女はすべて破棄してしまつて私には見せなかつた。僅かに素描の下描などで私は其を想像するに過ぎなかつた。私と一緒になつてからは主に静物の勉強をつづけ幾百枚となく画いた。風景は故郷に帰つた時や、山などに旅行した時にかき、人物は素描では描いたが、油絵ではつひにまだ本格的に画くまでに至らなかつた。彼女はセザンヌに傾倒してゐて自然とその影響をうける事も強かつた。私もその頃は彫刻の外に油絵も画いてゐたが、勉強の部屋は別にしてゐた。彼女は色彩について実に苦しみ悩んだ。そして中途半端の成功を望まなかつたので自虐に等しいと思はれるほど自分自身を責めさいなんだ。或年、故郷に近い五色温泉に夏を過して其処の風景を画いて帰つて来た。その中の小品に相当に佳《よ》いものがあつたので、彼女も文展に出品する気になつて、他の大幅のものと一緒にそれを搬入したが、鑑査員の認めるところとならずに落選した。それ以来いくらすすめても彼女は何処の展覧会へも出品しようとしなかつた。自己の作品を公衆に展示する事によつて何か内に鬱積《うつせき》するものを世に訴へ、外に発散せしめる機会を得るといふ事も美術家には精神の助けとなるものだと思ふのであるが、さういふ事から自己を内に閉ぢこめてしまつたのも精神の内攻的傾向を助長したかも知れない。彼女は最善をばかり目指してゐたので何時《いつ》でも自己に不満であり、いつでも作品は未完成に終つた。又事実その油絵にはまだ色彩に不十分なもののある事は争はれなかつた。その素描にはすばらしい力と優雅とを持つてゐたが、油絵具を十分に克服する事がどうしてもまだ出来なかつた。彼女はそれを悲しんだ。時々はひとり画架の前で涙を流してゐた。偶然二階の彼女の部屋に行つてさういふところを見ると、私も言ひしれぬ寂しさを感じ慰《なぐさめ》の言葉も出ない事がよくあつた。ところで、私は人の想像以上に生活不如意で、震災前後に唯一度女中を置いたことがあるだけで、其他《そのほか》は彼女と二人きりの生活であつたし、彼女も私も同じ様な造型美術家なので、時間の使用について中々むつかしいやりくりが必要であつた。互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓《ていとん》してしまふ。さういふ日々もかなり重なり、結局やつぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず、おまけに私が昼間彫刻の仕事をすれば、夜は食事の暇も惜しく原稿を書くといふやうな事が多くなるにつれて、ますます彼女の絵画勉強の時間が食はれる事になるのであつた。詩歌《しいか》のやうな仕事などならば、或は頭の中で半分は進める事も出来、かなり零細な時間でも利用出来るかと思ふが、造型美術だけは或る定まつた時間の区劃が無ければどうする事も出来ないので、この点についての彼女の苦慮は思ひやられるものであつた。彼女はどんな事があつても私の仕事の時間を減らすまいとし、私の彫刻をかばひ、私を雑用から防がうと懸命に努力をした。彼女はいつの間にか油絵勉強の時間を縮少し、或時は粘土で彫刻を試みたり、又後には絹糸をつむいだり、其《それ》を草木染にしたり、機織《はたをり》を始めたりした。二人の着物や羽織を手織で作つたのが今でも残つてゐる。同じ草木染の権威山崎|斌《たけし》氏は彼女の死んだ時弔電に、


 袖のところ一すぢ青きしまを織りて
 あてなりし人今はなしはや

といふ歌を書いておくられた。結局彼女は口に出さなかつたが、油絵製作に絶望したのであつた。あれほど熱愛して生涯の仕事と思つてゐた自己の芸術に絶望する事はさう容易な心事である筈がない。後年服毒した夜には、隣室に千疋屋《せんびきや》から買つて来たばかりの果物籠が静物風に配置され、画架には新らしい画布が立てかけられてあつた。私はそれを見て胸をつかれた。慟哭《どうこく》したくなつた。
 彼女はやさしかつたが勝気であつたので、どんな事でも自分一人の胸に収めて唯黙つて進んだ。そして自己の最高の能力をつねに物に傾注した。芸術に関する事は素《もと》より、一般教養のこと、精神上の諸問題についても突きつめるだけつきつめて考へて、曖昧《あいまい》をゆるさず、妥協を卑しんだ。いはば四六時中張りきつてゐた弦のやうなもので、その極度の緊張に堪へられずして脳細胞が破れたのである。精根つきて倒れたのである。彼女の此の内部生活の清浄さに私は幾度浄められる思をしたか知れない。彼女にくらべると私は実に茫漠として濁つてゐる事を感じた。彼女の眼を見てゐるだけで私は百の教訓以上のものを感得するのが常であつた。彼女の眼には確かに阿多多羅山の山の上に出てゐる天空があつた。私は彼女の胸像を作る時この眼の及び難い事を痛感して自分の汚なさを恥ぢた。今から考へてみても彼女は到底この世に無事に生きながらへてゐられなかつた運命を内部的にも持つてゐたやうに見える。それほど隔絶的に此の世の空気と違つた世界の中に生きてゐた。私は時々何だか彼女は仮にこの世に存在してゐる魂のやうに思へる事があつたのを記憶する。彼女には世間慾といふものが無かつた。彼女は唯ひたむきに芸術と私とへの愛によつて生きてゐた。さうしていつでも若かつた。精神の若さと共に相貌の若さも著しかつた。彼女と一緒に旅行する度に、ゆくさきざきで人は彼女を私の妹と思つたり、娘とさへ思つたりした。彼女には何かさういふ種類の若さがあつて、死ぬ頃になつても五十歳を超えた女性とは一見して思へなかつた。結婚当時も私は彼女の老年といふものを想像する事が出来ず、「あなたでもお婆さんになるかしら」と戯れに言つたことがあるが、彼女はその時、「私年とらないうちに死ぬわ」と不用意に答へたことのあるのを覚えてゐる。さうしてまつたくその通りになつた。
 精神病学者の意見では、普通の健康人の脳は随分ひどい苦悩にも堪へられるものであり、精神病に陥る者は、大部分何等かの意味でその素質を先天的に持つてゐるか、又は怪我とか悪疾とかによつて後天的に持たせられた者であるといふ事である。彼女の家系には精神病の人は居なかつたやうであるが、ただ彼女の弟である実家の長男はかなり常規を逸した素行があり、そのため遂に実家は破産し、彼自身は悪疾をも病んで陋巷《らうこう》に窮死した。しかし遺伝的といひ得る程強い素質がそこに流れてゐると信じられない。又彼女は幼児の時切石で頭蓋にひどい怪我をした事があるといふ事であるがこれも其の後何の故障もなく平癒してしまつて後年の病気に関係があるとも思へない。又彼女が脳に変調を起した時、医者は私に外国で或る病気の感染を受けた事はないかと質問した。私にはまつたく其の記憶がなかつたし、又私の血液と彼女の血液とを再三検査してもらつたが、いつも結果は陰性であつた。さうすると彼女の精神分裂症といふ病気の起る素質が彼女に肉体的に存在したとは確定し難いのである。だが又あとから考へると、私が知つて以来の彼女の一切の傾向は此の病気の方へじりじりと一歩づつ進んでゐたのだとも取れる。その純真さへも唯ならぬものがあつたのである。思ひつめれば他の一切を放棄して悔まづ、所謂《いはゆる》矢も楯もたまらぬ気性を持つてゐたし、私への愛と信頼の強さ深さは殆ど嬰児のそれのやうであつたといつていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであつた。言ふことが出来れば彼女はすべて異常なのであつた。私が「樹下の二人」といふ詩の中で、


 ここはあなたの生れたふるさと
 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。

と歌つたのも此の実感から来てゐるのであつた。彼女が一歩づつ最後の破綻《はたん》に近づいて行つたのか、病気が螺線《らせん》のやうにぎりぎりと間違なく押し進んで来たのか、最後に近くなつてからはじめて私も何だか変なのではないかとそれとなく気がつくやうになつたのであつて、それまでは彼女の精神状態などについて露ほどの疑も抱いてはゐなかつた。つまり彼女は異常ではあつたが、異状ではなかつたのである。はじめて異状を感じたのは彼女の更年期が迫つて来た頃の事である。
 追憶の中の彼女をここに簡単に書きとめて置かう。
 前述の通り長沼智恵子を私に紹介したのは女子大の先輩柳八重子女史であつた。女史は私の紐育《ニユーヨーク》時代からの友人であつた画家柳敬助君の夫人で当時|桜楓《おうふう》会の仕事をして居られた。明治四十四年の頃である。私は明治四十二年七月にフランスから帰つて来て、父の家の庭にあつた隠居所の屋根に孔をあけてアトリエ代りにし、そこで彫刻や油絵を盛んに勉強してゐた。一方神田淡路町に琅※[#「王+干」、第3水準1-87-83]洞《ろうかんどう》といふ小さな美術店を創設して新興芸術の展覧会などをやつたり、当時日本に勃興《ぼつこう》したスバル一派の新文学運動に加はつたりしてゐたと同時に、遅蒔《おそまき》の青春が爆発して、北原白秋氏、長田秀雄氏、木下|杢太郎《もくたろう》氏などとさかんに往来してかなり烈しい所謂|耽溺《たんでき》生活に陥つてゐた。不安と焦躁と渇望と、何か知られざるものに対する絶望とでめちやめちやな日々を送り、遂に北海道移住を企てたり、それにも忽ち失敗したり、どうなる事か自分でも分らないやうな精神の危機を経験してゐた時であつた。柳敬助君に友人としての深慮があつたのかも知れないが、丁度さういふ時彼女が私に紹介されたのであつた。彼女はひどく優雅で、無口で、語尾が消えてしまひ、ただ私の作品を見て、お茶をのんだり、フランス絵画の話をきいたりして帰つてゆくのが常であつた。私は彼女の着こなしのうまさと、きやしやな姿の好ましさなどしか最初は眼につかなかつた。彼女は決して自分の画いた絵を持つて来なかつたのでどんなものを画いてゐるのかまるで知らなかつた。そのうち私は現在のアトリエを父に建ててもらふ事になり、明治四十五年には出来上つて、一人で移り住んだ。彼女はお祝にグロキシニヤの大鉢を持つて此処へ訪ねて来た。丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠《いぬぼう》へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時|若《も》し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であつた。私はそんな事は知らなかつたが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれてゐた。
 やがて彼女から熱烈な手紙が来るやうになり、私も此の人の外に心を託すべき女性は無いと思ふやうになつた。それでも幾度か此の心が一時的のものではないかと自ら疑つた。又彼女にも警告した。それは私の今後の生活の苦闘を思ふと彼女をその中に巻きこむに忍びない気がしたからである。其の頃せまい美術家仲間や女人達の間で二人に関する悪質のゴシツプが飛ばされ、二人とも家族などに対して随分困らせられた。然し彼女は私を信じ切り、私は彼女をむしろ崇拝した。悪声が四辺に満ちるほど、私達はますます強く結ばれた。私は自分の中にある不純の分子や溷濁《こんだく》の残留物を知つてゐるので時々自信を失ひかけると、彼女はいつでも私の中にあるものを清らかな光に照らして見せてくれた。


 汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に
 をさな児のまこともて
 君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ
 君の見出でつるものをわれは知らず
 ただ我は君をこよなき審判官《さばきのつかさ》とすれば
 君によりてこころよろこび
 わがしらぬわれの
 わがあたたかき肉のうちに籠《こも》れるを信ずるなり

と私も歌つたのである。私を破れかぶれの廃頽《はいたい》気分から遂に引上げ救ひ出してくれたのは彼女の純一な愛であつた。
 大正二年八月九月の二箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田ヴヰナス倶楽部《クラブ》で岸田|劉生《りゆうせい》君や木村荘八君等と共に開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。其の頃上高地に行く人は皆島々から岩魚止《いはなどめ》を経て徳本《とくごう》峠を越えたもので、かなりの道のりであつた。その夏同宿には窪田空穂《くぼたうつほ》氏や、茨木猪之吉氏も居られ、又丁度穂高登山に来られたウエストン夫妻も居られた。九月に入つてから彼女が画の道具を持つて私を訪ねて来た。その知らせをうけた日、私は徳本峠を越えて岩魚止まで彼女を迎へに行つた。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登つて来た。山の人もその健脚に驚いてゐた。私は又徳本峠を一緒に越えて彼女を清水屋に案内した。上高地の風光に接した彼女の喜は実に大きかつた。それからは毎日私が二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまはつた。彼女は其の頃|肋膜《ろくまく》を少し痛めてゐるらしかつたが山に居る間はどうやら大した事にもならなかつた。彼女の作画はこの時始めて見た。かなり主観的な自然の見方で一種の特色があり、大成すれば面白からうと思つた。私は穂高、明神、焼岳、霞沢、六百岳、梓川と触目を悉《ことごと》く画いた。彼女は其の時私の画いた自画像の一枚を後年病臥中でも見てゐた。その時ウエストンから彼女の事を妹さんか、夫人かと問はれた。友達ですと答へたら苦笑してゐた。当時東京の或新聞に「山上の恋」といふ見出しで上高地に於ける二人の事が誇張されて書かれた。多分下山した人の噂話を種にしたものであらう。それが又家族の人達の神経を痛めさせた。十月一日に一山|挙《こぞ》つて島々へ下りた。徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた。
 それ以来私の両親はひどく心配した。私は母に実にすまないと思つた。父や母の夢は皆破れた。所謂洋行帰りを利用して彫刻界へ押し出す事もせず、学校の先生をすすめても断り、然るべき江戸前のお嫁さんも貰はず、まるで了見が分らない事になつてしまつた。実にすまないと思つたが、結局大正三年に智恵子との結婚を許してもらふやうに両親に申出た。両親も許してくれた。両親のもとにかしづかず、アトリエに別居するわけなので、土地家屋等一切は両親と同居する弟夫妻の所有とする事にきめて置いた。私達二人はまつたく裸のままの家庭を持つた。もちろん熱海行などはしなかつた。それから実に長い間の貧乏生活がつづいたのである。
 彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出《ひきだし》に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、


 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属。

と私が書いたのも其の頃である。
 自分の貧に驚かない彼女も実家の没落にはひどく心を傷《いた》めた。幾度か実家へ帰つて家計整理をしたやうであつたが結局破産した。二本松町の大火。実父の永眠。相続人の遊蕩《ゆうとう》。破滅。彼女にとつては堪へがたい痛恨事であつたらう。彼女はよく病気をしたが、その度に田舎の家に帰ると平癒した。もう帰る家も無いといふ寂しさはどんなに彼女を苦しめたらう。彼女の寂しさをまぎらす多くの交友を持たなかつたのも其の性情から出たものとはいへ一つの運命であつた。一切を私への愛にかけて学校時代の友達とも追々遠ざかつてしまつた。僅かに立川の農事試験場の佐藤澄子さん其の他両三名の親友があつたに過ぎなかつたのである。それでさへ年に一二度の往来であつた。学校時代には彼女は相当に健康であつて運動も過激なほどやつたやうであるが、卒業後肋膜にいつも故障があり、私と結婚してから数年のうちに遂に湿性肋膜炎の重症のにかかつて入院し、幸に全治したが、その後或る練習所で乗馬の稽古を始めた所、そのせゐか後屈症を起して切開手術のため又入院した。盲腸などでも悩み、いつも何処かしらが悪かつた。彼女の半生の中で一番健康をたのしんだのは大正十四年頃の一二年間のことであつた。しかし病気でも彼女はじめじめしてゐなかつた。いつも清朗でおだやかであつた。悲しい時には涙を流して泣いたが、又ぢきに直つた。
 昭和六年私が三陸地方へ旅行してゐる頃、彼女に最初の精神変調が来たらしかつた。私は彼女を家に一人残して二週間と旅行をつづけた事はなかつたのに、此の時は一箇月近く歩いた。不在中泊りに来てゐた姪《めひ》や、又訪ねて来た母などの話をきくと余程孤独を感じてゐた様子で、母に、あたし死ぬわ、と言つた事があるといふ。丁度更年期に接してゐる年齢であつた。翌七年はロザンゼルスでオリムピツクのあつた年であるが、その七月十五日の朝、彼女は眠から覚めなかつた。前夜十二時過にアダリンを服用したと見え、粉末二五|瓦《グラム》入の瓶《びん》が空になつてゐた。彼女は童女のやうに円く肥つて眼をつぶり口を閉ぢ、寝台の上に仰臥《ぎようが》したままいくら呼んでも揺つても眠つてゐた。呼吸もあり、体温は中々高い。すぐ医者に来てもらつて解毒の手当し、医者から一応警察に届け、九段坂病院に入れた。遺書が出たが、其にはただ私への愛と感謝の言葉と、父への謝罪とが書いてあるだけだつた。その文章には少しも頭脳不調の痕跡《こんせき》は見られなかつた。一箇月の療養と看護とで平復退院。それから一箇年間は割に健康で過したが、そのうち種々な脳の故障が起るのに気づき、旅行でもしたらと思つて東北地方の温泉まはりを一緒にしたが、上野駅に帰着した時は出発した時よりも悪化してゐた。症状一進一退。彼女は最初幻覚を多く見るので寝台に臥《ふ》しながら、其を一々手帳に写生してゐた。刻々に変化するのを時間を記入しながら次々と描いては私に見せた。形や色の無類の美しさを感激を以て語つた。さうした或る期間を経てゐるうちに今度は全体に意識がひどくぼんやりするやうになり、食事も入浴も嬰児《えいじ》のやうに私がさせた。私も医者もこれを更年期の一時的現象と思つて、母や妹の居る九十九里浜の家に転地させ、オバホルモンなどを服用させてゐた。私は一週一度汽車で訪ねた。昭和九年私の父が胃潰瘍《いかいよう》で大学病院に入院、退院後十月十日に他界した。彼女は海岸で身体は丈夫になり朦朧《もうろう》状態は脱したが、脳の変調はむしろ進んだ。鳥と遊んだり、自身が鳥になつたり、松林の一角に立つて、光太郎智恵子光太郎智恵子と一時間も連呼したりするやうになつた。父死後の始末も一段落ついた頃彼女を海岸からアトリエに引きとつたが、病勢はまるで汽罐車《きかんしや》のやうに驀進《ばくしん》して来た。諸岡存博士の診察まうけたが、次第に狂暴の行為を始めるやうになり、自宅療養が危険なので、昭和十年二月知人の紹介で南品川のゼームス坂病院に入院、一切を院長斎藤玉男博士の懇篤な指導に拠《よ》ることにした。又|仕合《しあはせ》なことにさきに一等看護婦になつてゐた智恵子の姪のはる子さんといふ心やさしい娘さんに最後まで看護してもらふ事が出来た。昭和七年以来の彼女の経過追憶を細かに書くことはまだ私には痛々しすぎる。ただ此の病院生活の後半期は病状が割に平静を保持し、精神は分裂しながらも手は曾《かつ》て油絵具で成し遂げ得なかつたものを切紙によつて楽しく成就したかの観がある。百を以て数へる枚数の彼女の作つた切紙絵は、まつたく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛憐《あゐれん》の情の訴でもある。彼女は此所に実に健康に生きてゐる。彼女はそれを訪問した私に見せるのが何よりもうれしさうであつた。私がそれを見てゐる間、彼女は如何にも幸福さうに微笑したり、お辞儀したりしてゐた。最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑ふ表情をした。すつかり安心した顔であつた。私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。昭和十三年十月五日の夜であつた。
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  九十九里浜の初夏

 私は昭和九年五月から十二月末まで、毎週一度づつ九十九里浜の真亀納屋といふ小さな部落に東京から通つた。頭を悪くしてゐた妻を其処に住む親類の寓居《ぐうきよ》にあづけて置いたので、その妻を見舞ふために通つたのである。真亀といふ部落は、海水浴場としても知られてゐる鰯《いわし》の漁場千葉県山武郡片貝村の南方一里足らずの浜辺に沿つた淋しい漁村である。
 九十九里浜は千葉県銚子のさきの外川の突端から南方|太東岬《たいとうみさき》に至るまで、殆ど直線に近い大弓状の曲線を描いて十数里に亙る平坦な砂浜の間、眼をさへぎる何物も無いやうな、太平洋岸の豪宕《ごうとう》極まりない浜辺である。その丁度まんなかあたりに真亀の海岸は位する。
 私は汽車で両国から大網駅までゆく。ここからバスで今泉といふ海岸の部落迄まつ平らな水田の中を二里あまり走る。五月頃は水田に水がまんまんと漲《みなぎ》つてゐて、ところどころに白鷺《しらさぎ》が下りてゐる。白鷺は必ず小さな群を成して、水田に好個の日本的画趣を与へる。私は今泉の四辻の茶店に一休みして、又別な片貝行のバスに乗る。そこからは一里も行かないうちに真亀川を渡つて真亀の部落につくのである。部落からすぐ浜辺の方へ小径《こみち》をたどると、黒松の防風林の中へはいる。妻の逗留《とうりゆう》してゐる親戚の家は、此の防風林の中の小高い砂丘の上に立つてゐて、座敷の前は一望の砂浜となり、二三の小さな漁家の屋根が点々としてゐるさきに九十九里浜の波打際が白く見え、まつ青な太平洋が土手のやうに高くつづいて際涯《さいはて》の無い水平線が風景を両断する。
 午前に両国駅を出ると、いつも午後二三時頃此の砂丘につく。私は一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱つぽいやうな息をして私を喜び迎へる。私は妻を誘つていつも砂丘づたひに防風林の中をまづ歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽が少し斜に白い砂を照らし、微風は海から潮の香をふくんで、あをあをとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。丁度五月は松の花のさかりである。黒松の新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のやうな、ほろほろとした単性の花球がこぼれるやうに着く。
 松の花粉の飛ぶ壮観を私は此の九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林の黒松の花が熟する頃、海から吹きよせる風にのつて、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろ恐しいほどの勢である。支那の黄土をまきあげた黄塵《こうじん》といふのは、素《もと》より濁つて暗くすさまじいもののやうだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明かるく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよはせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣《ゆかた》の肩につもつたその花粉を軽くはたいて私は立ち上る。妻は足もとの砂を掘つてしきりに松露の玉をあつめてゐる。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がつひそこを駈けるやうに歩いてゐる。

  智恵子の切抜絵

 精神病者に簡単な手工をすすめるのはいいときいてゐたので、智恵子が病院に入院して、半年もたち、昂奮がやや鎮静した頃、私は智恵子の平常好きだつた千代紙を持つていつた。智恵子は大へんよろこんで其で千羽鶴を折つた。訪問するたびに部屋の天井から下つてゐる鶴の折紙がふえて美しかつた。そのうち、鶴の外にも紙燈籠《かみどうろう》だとか其他の形のものが作られるやうになり、中々意匠をこらしたものがぶら下つてゐた。すると或時、智恵子は訪問の私に一つの紙づつみを渡して見ろといふ風情《ふぜい》であつた。紙包をあけると中に色がみを鋏《はさみ》で切つた模様風の美しい紙細工が大切さうに仕舞つてあつた。其を見て私は驚いた。其がまつたく折鶴から飛躍的に進んだ立派な芸術品であつたからである。私の感嘆を見て智恵子は恥かしさうに笑つたり、お辞儀をしたりしてゐた。
 その頃は、何でもそこらにある紙きれを手あたり次第に用ゐてゐたのであるが、やがて色彩に対する要求が強くなつたと見えて、いろ紙を持つて来てくれといふやうになつた。私は早速丸の内のはい原へ行つて子供が折紙につかふいろ紙を幾種か買つて送つた。智恵子の「仕事」がそれから始まつた。看護婦さんのいふところによると、風邪《かぜ》をひいたり、熱を出したりした時以外は、毎日「仕事」をするのだといつて、朝からしきりと切紙細工をやつてゐたらしい。鋏はマニキユアに使ふ小さな、尖端の曲つた鋏である。その鋏一丁を手にして、暫く紙を見つめてゐてから、あとはすらすらと切りぬいてゆくのだといふ事である。模様の類は紙を四つ折又は八つ折にして置いて切りぬいてから紙をひらくと其処にシムメトリイが出来るわけである。さういふ模様に中々おもしろいのがある。はじめは一枚の紙で一枚を作る単色のものであつたが、後にはだんだん色調の配合、色量の均衡、布置の比例等に微妙な神経がはたらいて来て紙は一個のカムバスとなつた。十二|単衣《ひとへ》に於ける色|襲《がさ》ねの美を見るやうに、一枚の切抜きを又一枚の別のいろ紙の上に貼《は》りつけ、その色の調和や対照に妙味尽きないものが出来るやうになつた。或は同色を襲ねたり、或は近似の色で構成したり、或は鋏で線だけ切つて切りぬかずに置いたり、いろいろの技巧をこらした。此の切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたのは、下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見えて不可言の美を作る。智恵子は触目のものを手あたり次第に題材にした。食膳が出ると其の皿の上のものを紙でつくらないうちは箸《はし》をとらず、そのため食事が遅れて看護婦さんを困らした事も多かつたらしい。千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない。

底本:「智恵子抄」新潮文庫、新潮社
   1956(昭和31)年7月15日発行
   1967(昭和42)年12月15日改版
   1984(昭和59)年 12月15日79刷
※詩歌の天は、底本では、散文の二字分下に設定してあります。
入力:たきがは、門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

高村光太郎

智恵子の半生—–高村光太郎

 妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒性《ぞくりゅうせい》肺結核で死んでから旬日で満二年になる。私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の廃頽《はいたい》生活から救い出される事が出来た経歴を持って居り、私の精神は一にかかって彼女の存在そのものの上にあったので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈《はげ》しく、一時は自己の芸術的製作さえ其の目標を失ったような空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。彼女の生前、私は自分の製作した彫刻を何人よりもさきに彼女に見せた。一日の製作の終りにも其を彼女と一緒に検討する事が此上もない喜であった。又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作った木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫した。彼女の居ないこの世で誰が私の彫刻をそのように子供のようにうけ入れてくれるであろうか。もう見せる人も居やしないという思が私を幾箇月間か悩ました。美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識というようなものだけでは決して生れない。そういうものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあっても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあろう。大君の愛である事もあろう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。作りたいものを必ず作り上げる潜力となるものはない。製作の結果は或は万人の為のものともなることがあろう。けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらいたいだけで既に一ぱいなのが常である。私はそういう人を妻の智恵子に持っていた。その智恵子が死んでしまった当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかった。作りたいものは山ほどあっても作る気になれなかった。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知っているからである。そういう幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失う事によって却《かえっ》て私にとっては普遍的存在となったのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言わば彼女は私と偕《とも》にある者となり、私にとっての永遠なるものであるという実感の方が強くなった。私はそうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終って製作を眺める時「どうだろう」といって後ろをふりむけば智恵子はきっと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。
 智恵子が結婚してから死ぬまでの二十四年間の生活は愛と生活苦と芸術への精進と矛盾と、そうして闘病との間断なき一連続に過ぎなかった。彼女はそういう渦巻の中で、宿命的に持っていた精神上の素質の為に倒れ、歓喜と絶望と信頼と諦観《ていかん》とのあざなわれた波濤《はとう》の間に没し去った。彼女の追憶について書く事を人から幾度か示唆されても今日まで其を書く気がしなかった。あまりなまなましい苦闘のあとは、たとい小さな一隅の生活にしても筆にするに忍びなかったし、又いわば単なる私生活の報告のようなものに果してどういう意味があり得るかという疑問も強く心を牽制《けんせい》していたのである。だが今は書こう。出来るだけ簡単に此の一人の女性の運命を書きとめて置こう。大正昭和の年代に人知れず斯《こ》ういう事に悩み、こういう事に生き、こういう事に倒れた女性のあった事を書き記して、それをあわれな彼女への餞《はなむけ》とする事を許させてもらおう。一人に極まれば万人に通ずるということを信じて、今日のような時勢の下にも敢て此の筆を執ろうとするのである。
 今しずかに振りかえって彼女の上を考えて見ると、その一生を要約すれば、まず東北地方福島県二本松町の近在、漆原という所の酒造り長沼家に長女として明治十九年に生れ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけているうちに洋画に興味を持ち始め、女子大卒業後、郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留まり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家であった中村彝、斎藤与里治、津田青楓の諸氏に出入して其の影響をうけ、又一方、其頃平塚雷鳥女史等の提起した女子思想運動にも加わり、雑誌「青鞜《せいとう》」の表紙画などを画いたりした。それが明治末年頃の事であり、やがて柳八重子女史の紹介で初めて私と知るようになり、大正三年に私と結婚した。結婚後も油絵の研究に熱中していたが、芸術精進と家庭生活との板ばさみとなるような月日も漸《ようや》く多くなり、其上|肋膜《ろくまく》を病んで以来しばしば病臥《びょうが》を余儀なくされ、後年郷里の家君を亡《うしな》い、つづいて実家の破産に瀕《ひん》するにあい、心痛苦慮は一通りでなかった。やがて更年期の心神変調が因となって精神異状の徴候があらわれ、昭和七年アダリン自殺を計り、幸い薬毒からは免れて一旦健康を恢復《かいふく》したが、その後あらゆる療養をも押しのけて徐々に確実に進んで来る脳細胞の疾患のため昭和十年には完全に精神分裂症に捉えられ、其年二月ゼームス坂病院に入院、昭和十三年十月其処でしずかに瞑目《めいもく》したのである。
 彼女の一生は実に単純であり、純粋に一私人的生活に終始し、いささかも社会的意義を有《も》つ生活に触れなかった。わずかに「青鞜」に関係していた短い期間がその社会的接触のあった時と言えばいえる程度に過ぎなかった。社会的関心を持たなかったばかりでなく、生来社交的でなかった。「青鞜」に関係していた頃|所謂《いわゆる》新らしい女の一人として一部の人達の間に相当に顔を知られ、長沼智恵子という名がその仲間の口に時々上ったのも、実は当時のゴシップ好きの連中が尾鰭《おひれ》をつけていろいろ面白そうに喧伝《けんでん》したのが因であって、本人はむしろ無口な、非社交的な非論理的な、一途《いちず》な性格で押し通していたらしかった。長沼さんとは話がしにくいというのが当時の女友達の本当の意見のようであった。私は其頃の彼女をあまり善く知らないのであるが、津田青楓氏が何かに書いていた中に、彼女が高い塗下駄をはいて着物の裾を長く引きずるようにして歩いていたのをよく見かけたというような事があったのを記憶する。そんな様子や口数の少いところから何となく人が彼女に好奇的な謎でも感じていたのではないかと思われる。女|水滸伝《すいこでん》のように思われたり、又風情ごのみのように言われたりしたようであるが実際はもっと素朴で無頓着《むとんじゃく》であったのだろうと想像する。
 私は彼女の前半生を殆ど全く知らないと言っていい。彼女について私が知っているのは紹介されて彼女と識《し》ってから以後の事だけである。現在の事で一ぱいで、以前の事を知ろうとする気も起らなかったし、年齢さえ実は後年まで確実には知らなかったのである。私が知ってからの彼女は実に単純|真摯《しんし》な性格で、心に何か天上的なものをいつでも湛《たた》えて居り、愛と信頼とに全身を投げ出していたような女性であった。生来の勝気から自己の感情はかなり内に抑えていたようで、物腰はおだやかで軽佻《けいちょう》な風は見られなかった。自己を乗り越えて進もうとする気力の強さには時々驚かされる事もあったが、又そこに随分無理な努力も人知れず重ねていたのである事を今日から考えると推察する事が出来る。
 その時には分らなかったが、後から考えてみれば、結局彼女の半生は精神病にまで到達するように進んでいたようである。私との此の生活では外に往く道はなかったように見える。どうしてそうかと考える前に、もっと別な生活を想像してみると、例えば生活するのが東京でなくて郷里、或は何処かの田園であり、又配偶者が私のような美術家でなく、美術に理解ある他の職業の者、殊に農耕牧畜に従事しているような者であった場合にはどうであったろうと考えられる。或はもっと天然の寿を全うし得たかも知れない。そう思われるほど彼女にとっては肉体的に既に東京が不適当の地であった。東京の空気は彼女には常に無味乾燥でざらざらしていた。女子大で成瀬校長に奨励され、自転車に乗ったり、テニスに熱中したりして頗《すこぶ》る元気|溌剌《はつらつ》たる娘時代を過したようであるが、卒業後は概してあまり頑健という方ではなく、様子もほっそりしていて、一年の半分近くは田舎や、山へ行っていたらしかった。私と同棲《どうせい》してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰っていた。田舎の空気を吸って来なければ身体が保たないのであった。彼女はよく東京には空が無いといって歎《なげ》いた。私の「あどけない話」という小詩がある。

  
 智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは
 うすもも色の朝のしめりだ。
 智恵子は遠くを見ながらいふ。
 阿多多羅山の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。
 あどけない空の話である。

 私自身は東京に生れて東京に育っているため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染む事だろうと思っていたが、彼女の斯《か》かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしていた。家のまわりに生える雑草の飽くなき写生、その植物学的探究、張出窓での百合花やトマトの栽培、野菜類の生食、ベトオフェンの第六交響楽レコオドへの惑溺《わくでき》というような事は皆この要求充足の変形であったに相違なく、此の一事だけでも半生に亘る彼女の表現し得ない不断のせつなさは想像以上のものであったであろう。その最後の日、死ぬ数時間前に私が持って行ったサンキストのレモンの一顆《いっか》を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであったろう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗われているように見えた。
 彼女がついに精神の破綻《はたん》を来すに至った更に大きな原因は何といってもその猛烈な芸術精進と、私への純真な愛に基く日常生活の営みとの間に起る矛盾|撞着《どうちゃく》の悩みであったであろう。彼女は絵画を熱愛した。女子大在学中既に油絵を画いていたらしく、学芸会に於ける学生劇の背景製作などをいつも引きうけて居たという事であり、故郷の両親が初めは反対していたのに遂に画家になる事を承認したのも、其頃画いた祖父の肖像画の出来栄が故郷の人達を驚かしたのに因ると伝え聞いている。この油絵は、私も後に見たが、素朴な中に渋い調和があり、色価の美しい作であった。卒業後数年間の絵画については私はよく知らないが、幾分情調本位な甘い気分のものではなかったかと思われる。其頃のものを彼女はすべて破棄してしまって私には見せなかった。僅かに素描の下描などで私は其を想像するに過ぎなかった。私と一緒になってからは主に静物の勉強をつづけ幾百枚となく画いた。風景は故郷に帰った時や、山などに旅行した時にかき、人物は素描では描いたが、油絵ではついにまだ本格的に画くまでに至らなかった。彼女はセザンヌに傾倒していて自然とその影響をうける事も強かった。私もその頃は彫刻の外に油絵も画いていたが、勉強の部屋は別にしていた。彼女は色彩について実に苦しみ悩んだ。そして中途半端の成功を望まなかったので自虐に等しいと思われるほど自分自身を責めさいなんだ。或年、故郷に近い五色温泉に夏を過して其処の風景を画いて帰って来た。その中の小品に相当に佳いものがあったので、彼女も文展に出品する気になって、他の大幅のものと一緒にそれを搬入したが、鑑査員の認めるところとならずに落選した。それ以来いくらすすめても彼女は何処の展覧会へも出品しようとしなかった。自己の作品を公衆に展示する事によって何か内に鬱積《うっせき》するものを世に訴え、外に発散せしめる機会を得るという事も美術家には精神の助けとなるものだと思うのであるが、そういう事から自己を内に閉じこめてしまったのも精神の内攻的傾向を助長したかも知れない。彼女は最善をばかり目指していたので何時でも自己に不満足であり、いつでも作品は未完成に終った。又事実その油絵にはまだ色彩に不十分なもののある事は争われなかった。その素描にはすばらしい力と優雅とを持っていたが、油絵具を十分に克服する事がどうしてもまだ出来なかった。彼女はそれを悲しんだ。時々はひとり画架の前で涙を流していた。偶然二階の彼女の部屋に行ってそういうところを見ると、私も言いしれぬ寂しさを感じ慰の言葉も出ない事がよくあった。ところで、私は人の想像以上に生活不如意で、震災前後に唯一度女中を置いたことがあるだけで、其他は彼女と二人きりの生活であったし、彼女も私も同じ様な造型美術家なので、時間の使用について中々むつかしいやりくりが必要であった。互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓《ていとん》してしまう。そういう日々もかなり重なり、結局やっぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず、おまけに私が昼間彫刻の仕事をすれば、夜は食事の暇も惜しく原稿を書くというような事が多くなるにつれて、ますます彼女の絵画勉強の時間が喰われる事になるのであった。詩歌のような仕事などならば、或は頭の中で半分は進める事も出来、かなり零細な時間でも利用出来るかと思うが、造型美術だけは或る定まった時間の区劃《くかく》が無ければどうする事も出来ないので、この点についての彼女の苦慮は思いやられるものであった。彼女はどんな事があっても私の仕事の時間を減らすまいとし、私の彫刻をかばい、私を雑用から防ごうと懸命に努力をした。彼女はいつの間にか油絵勉強の時間を縮小し、或時は粘土で彫刻を試みたり、又後には絹糸をつむいだり、其を草木染にしたり、機織を始めたりした。二人の着物や羽織を手織で作ったのが今でも残っている。同じ草木染の権威山崎斌氏は彼女の死んだ時弔電に、


 袖のところ一すぢ青きしまを織りて
 あてなりし人今はなしはや

という歌を書いておくられた。結局彼女は口に出さなかったが、油絵製作に絶望したのであった。あれほど熱愛して生涯の仕事と思っていた自己の芸術に絶望する事はそう容易な心事である筈がない。後年服毒した夜には、隣室に千疋屋から買って来たばかりの果物籠《くだものかご》が静物風に配置され、画架には新らしい画布が立てかけられてあった。私はそれを見て胸をつかれた。慟哭《どうこく》したくなった。
 彼女はやさしかったが勝気であったので、どんな事でも自分一人の胸に収めて唯黙って進んだ。そして自己の最高の能力をつねに物に傾注した。芸術に関する事は素より、一般教養のこと、精神上の諸問題についても突きつめるだけつきつめて考えて、曖昧《あいまい》をゆるさず、妥協を卑しんだ。いわば四六時中張りきっていた弦のようなもので、その極度の緊張に堪えられずして脳細胞が破れたのである。精根つきて倒れたのである。彼女の此の内部生活の清浄さに私は幾度|浄《きよ》められる思をしたか知れない。彼女にくらべると私は実に茫漠として濁っている事を感じた。彼女の眼を見ているだけで私は百の教訓以上のものを感得するのが常であった。彼女の眼には確かに阿多多羅山の山の上に出ている天空があった。私は彼女の胸像を作る時この眼の及び難い事を痛感して自分の汚なさを恥じた。今から考えてみても彼女は到底この世に無事に生きながらえていられなかった運命を内部的にも持っていたように見える。それほど隔絶的に此の世の空気と違った世界の中に生きていた。私は時々何だか彼女は仮にこの世に存在している魂のように思える事があったのを記憶する。彼女には世間慾というものが無かった。彼女は唯ひたむきに芸術と私とへの愛によって生きていた。そうしていつでも若かった。精神の若さと共に相貌の若さも著しかった。彼女と一緒に旅行する度に、ゆくさきざきで人は彼女を私の妹と思ったり、娘とさえ思ったりした。彼女には何かそういう種類の若さがあって、死ぬ頃になっても五十歳を超えた女性とは一見して思えなかった。結婚当時も私は彼女の老年というものを想像する事が出来ず、「あなたでもお婆さんになるかしら」と戯れに言った事があるが、彼女はその時、「私年とらないうちに死ぬわ」と不用意に答えたことのあるのを覚えている。そうしてまったくその通りになった。
 精神病学者の意見では、普通の健康人の脳は随分ひどい苦悩にも堪えられるものであり、精神病に陥る者は、大部分何等かの意味でその素質を先天的に持っているか、又は怪我とか悪疾とかによって後天的に持たせられた者であるという事である。彼女の家系には精神病の人は居なかったようであるが、ただ彼女の弟である実家の長男はかなり常規を逸した素行があり、そのため遂に実家は破産し、彼自身は悪疾をも病んで陋巷《ろうこう》に窮死した。しかし遺伝的といい得る程強い素質がそこに流れていると信じられない。又彼女は幼児の時切石で頭蓋《ずがい》にひどい怪我をした事があるという事であるがこれも其の後何の故障もなく平癒してしまって後年の病気に関係があるとも思えない。又彼女が脳に変調を起した時、医者は私に外国で或る病気の感染を受けた事はないかと質問した。私にはまったく其の記憶がなかったし、又私の血液と彼女の血液とを再三検査してもらったが、いつも結果は陰性であった。そうすると彼女の精神分裂症という病気の起る素質が彼女に肉体的に存在したとは確定し難いのである。だが又あとから考えると、私が知って以来の彼女の一切の傾向は此の病気の方へじりじりと一歩ずつ進んでいたのだとも取れる。その純真さえも唯ならぬものがあったのである。思いつめれば他の一切を放棄して悔まず、所謂《いわゆる》矢も楯《たて》もたまらぬ気性を持っていたし、私への愛と信頼の強さ深さは殆ど嬰児《えいじ》のそれのようであったといっていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであった。言うことが出来れば彼女はすべて異常なのであった。私が「樹下の二人」という詩の中で、

 ここがあなたの生れたふるさと
 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。

と歌ったのも此の実感から来ているのであった。彼女が一歩ずつ最後の破綻《はたん》に近づいて行ったのか、病気が螺旋《らせん》のようにぎりぎりと間違なく押し進んで来たのか、最後に近くなってからはじめて私も何だか変なのではないかとそれとなく気がつくようになったのであって、それまでは彼女の精神状態などについて露ほどの疑も抱いてはいなかった。つまり彼女は異常ではあったが、異状ではなかったのである。はじめて異状を感じたのは彼女の更年期が迫って来た頃の事である。
 追憶の中の彼女をここに簡単に書きとめて置こう。
 前述の通り長沼智恵子を私に紹介したのは女子大の先輩柳八重子女史であった。女史は私の紐育《ニューヨーク》時代からの友人であった画家柳敬助君の夫人で当時桜楓会の仕事をして居られた。明治四十四年の頃である。私は明治四十二年七月にフランスから帰って来て、父の家の庭にあった隠居所の屋根に孔《あな》をあけてアトリエ代りにし、そこで彫刻や油絵を盛んに勉強していた。一方神田淡路町に琅※[#「王+干」、第3水準1-87-83]洞《ろうかんどう》という小さな美術店を創設して新興芸術の展覧会などをやったり、当時日本に勃興したスバル一派の新文学運動に加わったりしていたと同時に、遅蒔《おそまき》の青春が爆発して、北原白秋氏、長田秀雄氏、木下杢太郎氏などとさかんに往来してかなり烈《はげ》しい所謂《いわゆる》耽溺《たんでき》生活に陥っていた。不安と焦躁《しょうそう》と渇望と、何か知られざるものに対する絶望とでめちゃめちゃな日々を送り、遂に北海道移住を企てたり、それにも忽《たちま》ち失敗したり、どうなる事か自分でも分らないような精神の危機を経験していた時であった。柳敬助君に友人としての深慮があったのかも知れないが、丁度そういう時彼女が私に紹介されたのであった。彼女はひどく優雅で、無口で、語尾が消えてしまい、ただ私の作品を見て、お茶をのんだり、フランス絵画の話をきいたりして帰ってゆくのが常であった。私は彼女の着こなしのうまさと、きゃしゃな姿の好ましさなどしか最初は眼につかなかった。彼女は決して自分の画いた絵を持って来なかったのでどんなものを画いているのかまるで知らなかった。そのうち私は現在のアトリエを父に建ててもらう事になり、明治四十五年には出来上って、一人で移り住んだ。彼女はお祝にグロキシニヤの大鉢を持って此処へ訪ねて来た。丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来ていて又会った。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時|若《も》し私が何か無理な事でも言い出すような事があったら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだったという事であった。私はそんな事は知らなかったが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかという予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれていた。
 やがて彼女から熱烈な手紙が来るようになり、私も此の人の外に心を託すべき女性は無いと思うようになった。それでも幾度か此の心が一時的のものではないかと自ら疑った。又彼女にも警告した。それは私の今後の生活の苦闘を思うと彼女をその中に巻きこむに忍びない気がしたからである。其の頃せまい美術家仲間や女人達の間で二人に関する悪質のゴシップが飛ばされ、二人とも家族などに対して随分困らせられた。然し彼女は私を信じ切り、私は彼女をむしろ崇拝した。悪声が四辺に満ちるほど、私達はますます強く結ばれた。私は自分の中にある不純の分子や溷濁《こんだく》の残留物を知っているので時々自信を失いかけると、彼女はいつでも私の中にあるものを清らかな光に照らして見せてくれた。

 汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に
 をさな児のまこともて
 君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ
 君の見出でつるものをわれは知らず
 ただ我は君をこよなき審判官《さばきのつかさ》とすれば
 君によりてこころよろこび
 わが知らぬわれの
 わが温き肉のうちに籠れるを信ずるなり

と私も歌ったのである。私を破れかぶれの廃頽《はいたい》気分から遂に引上げ救い出してくれたのは彼女の純一な愛であった。
 大正二年八月九月の二箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田ヴイナス倶楽部《クラブ》で岸田劉生君や木村荘八君等と共に開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。其の頃上高地に行く人は皆島々から岩魚止を経て徳本峠を越えたもので、かなりの道のりであった。その夏同宿には窪田空穂氏や、茨木猪之吉氏も居られ、又丁度穂高登山に来られたウエストン夫妻も居られた。九月に入ってから彼女が画の道具を持って私を訪ねて来た。その知らせをうけた日、私は徳本峠を越えて岩魚止まで彼女を迎えに行った。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登って来た。山の人もその健脚に驚いていた。私は又徳本峠を一緒に越えて彼女を清水屋に案内した。上高地の風光に接した彼女の喜は実に大きかった。それから毎日私が二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまわった。彼女は其の頃|肋膜《ろくまく》を少し痛めているらしかったが山に居る間はどうやら大した事にもならなかった。彼女の作画はこの時始めて見た。かなり主観的な自然の見方で一種の特色があり、大成すれば面白かろうと思った。私は穂高、明神、焼岳、霞沢、六百岳、梓川と触目を悉《ことごと》く画いた。彼女は其の時私の画いた自画像の一枚を後年|病臥《びょうが》中でも見ていた。その時ウエストンから彼女の事を妹さんか、夫人かと問われた。友達ですと答えたら苦笑していた。当時東京の或新聞に「山上の恋」という見出しで上高地に於ける二人の事が誇張されて書かれた。多分下山した人の噂話を種にしたものであろう。それが又家族の人達の神経を痛めさせた。十月一日に一山|挙《こぞ》って島々へ下りた。徳本峠の山ふところを埋めていた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思い出して語った。
 それ以来私の両親はひどく心配した。私は母に実にすまないと思った。父や母の夢は皆破れた。所謂《いわゆる》洋行帰りを利用して彫刻界へ押し出す事もせず、学校の先生をすすめても断り、然るべき江戸前のお嫁さんも貰わず、まるで了見が分らない事になってしまった。実にすまないと思ったが、結局大正三年に智恵子との結婚を許してもらうように両親に申出た。両親も許してくれた。両親のもとにかしずかず、アトリエに別居するわけなので、土地家屋等一切は両親と同居する弟夫妻の所有とする事にきめて置いた。私達二人はまったく裸のままの家庭を持った。もちろん熱海行などはしなかった。それから実に長い間の貧乏生活がつづいたのである。
 彼女は裕福な豪家に育ったのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかった。私が金に困って古着屋を呼んで洋服を売って居ても平気で見ていたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであった。いよいよ食べられなくなったらというような話も時々出たが、だがどんな事があってもやるだけの仕事をやってしまわなければねというと、そう、あなたの彫刻が途中で無くなるような事があってはならないと度々言った。私達は定収入というものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばったり無くなった。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作ってやったのは二三度くらいのものであったろう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、ついに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すようになった。しかも其が甚だ美しい調和を持っていた。「あなたはだんだんきれいになる」という詩の中で、


 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属

と私が書いたのも其の頃である。
 自分の貧に驚かない彼女も実家の没落にはひどく心を傷めた。幾度か実家へ帰って家計整理をしたようであったが結局破産した。二本松町の大火。実父の永眠。相続人の遊蕩《ゆうとう》。破滅。彼女にとっては堪えがたい痛恨事であったろう。彼女はよく病気をしたが、その度に田舎の家に帰ると平癒した。もう帰る家も無いという寂しさはどんなに彼女を苦しめたろう。彼女の寂しさをまぎらす多くの交友を持たなかったのも其の性情から出たものとはいえ一つの運命であった。一切を私への愛にかけて学校時代の友達とも追々遠ざかってしまった。僅かに立川の農事試験場の佐藤澄子さん其の他両三名の親友があったに過ぎなかったのである。それでさえ年に一二度の往来であった。学校時代には彼女は相当に健康であって運動も過激なほどやったようであるが、卒業後|肋膜《ろくまく》にいつも故障があり、私と結婚してから数年のうちに遂に湿性肋膜炎の重症のにかかって入院し、幸に全治したが、その後或る練習所で乗馬の稽古《けいこ》を始めた所、そのせいか後屈症を起して切開手術のため又入院した。盲腸などでも悩み、いつも何処かしらが悪かった。彼女の半生の中で一番健康をたのしんだのは大正十四年頃の一二年間のことであった。しかし病気でも彼女はじめじめしてはいなかった。いつも清朗でおだやかであった。悲しい時には涙を流して泣いたが、又じきに直った。
 昭和六年私が三陸地方へ旅行している頃、彼女に最初の精神変調が来たらしかった。私は彼女を家に一人残して二週間と旅行をつづけた事はなかったのに、此の時は一箇月近く歩いた。不在中泊りに来ていた姪や、又訪ねて来た母などの話をきくと余程孤独を感じていた様子で、母に、あたし死ぬわ、と言った事があるという。丁度更年期に接している年齢であった。翌七年はロザンゼルスでオリムピックのあった年であるが、その七月十五日の朝、彼女は眠から覚めなかった。前夜十二時過にアダリンを服用したと見え、粉末二五|瓦《グラム》入の瓶が空になっていた。彼女は童女のように円く肥って眼をつぶり口を閉じ、寝台の上に仰臥《ぎょうが》したままいくら呼んでも揺っても眠っていた。呼吸もあり、体温は中々高い。すぐ医者に来てもらって解毒の手当し、医者から一応警察に届け、九段坂病院に入れた。遺書が出たが、其にはただ私への愛と感謝の言葉と、父への謝罪とが書いてあるだけだった。その文章には少しも頭脳不調の痕跡《こんせき》は見られなかった。一箇月の療養と看護とで平復退院。それから一箇年間は割に健康で過したが、そのうち種々な脳の故障が起るのに気づき、旅行でもしたらと思って東北地方の温泉まわりを一緒にしたが、上野駅に帰着した時は出発した時よりも悪化していた。症状一進一退。彼女は最初幻覚を多く見るので寝台に臥《ふ》しながら其を一々手帳に写生していた。刻々に変化するのを時間を記入しながら次々と描いては私に見せた。形や色の無類の美しさを感激を以て語った。そうした或る期間を経ているうちに今度は全体に意識がひどくぼんやりするようになり、食事も入浴も嬰児《えいじ》のように私がさせた。私も医者もこれを更年期の一時的現象と思って、母や妹の居る九十九里浜の家に転地させ、オバホルモンなどを服用させていた。私は一週一度汽車で訪ねた。昭和九年私の父が胃潰瘍《いかいよう》で大学病院に入院、退院後十月十日に他界した。彼女は海岸で身体は丈夫になり朦朧《もうろう》状態は脱したが、脳の変調はむしろ進んだ。鳥と遊んだり、自身が鳥になったり、松林の一角に立って、光太郎智恵子光太郎智恵子と一時間も連呼したりするようになった。父死後の始末も一段落ついた頃彼女を海岸からアトリエに引きとったが、病勢はまるで汽缶車のように驀進《ばくしん》して来た。諸岡存博士の診察もうけたが、次第に狂暴の行為を始めるようになり、自宅療養が危険なので、昭和十年二月知人の紹介で南品川のゼームス坂病院に入院、一切を院長斎藤玉男博士の懇篤な指導に拠ることにした。又仕合なことにさきに一等看護婦になっていた智恵子の姪のはる子さんという心やさしい娘さんに最後まで看護してもらう事が出来た。昭和七年以来の彼女の経過追憶を細かに書くことはまだ私には痛々しすぎる。ただ此の病院生活の後半期は病状が割に平静を保持し、精神は分裂しながらも手は曾《かつ》て油絵具で成し遂げ得なかったものを切紙によって楽しく成就したかの観がある。百を以て数える枚数の彼女の作った切紙絵は、まったく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛憐の情の訴でもある。彼女は此所に実に健康に生きている。彼女はそれを訪問した私に見せるのが何よりもうれしそうであった。私がそれを見ている間、彼女は如何にも幸福そうに微笑したり、お辞儀したりしていた。最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑う表情をした。すっかり安心した顔であった。私の持参したレモンの香りで洗われた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去った。昭和十三年十月五日の夜であった。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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高村光太郎

智恵子の紙絵—–高村光太郎

精神病者に簡単な手工をすすめるのはいいときいてゐたので、智恵子が病院に入院して、半年もたち、昂奮がやや鎮静した頃、私は智恵子の平常好きだつた千代紙を持つていつた。智恵子は大へんよろこんで其で千羽鶴を折つた。訪問するたびに部屋の天井から下つてゐる鶴の折紙がふえて美しかつた。そのうち、鶴の外にも紙灯籠だとか其他の形のものが作られるやうになり、中々意匠をこらしたものがぶら下つてゐた。すると或時、智恵子は訪問の私に一つの紙づつみを渡して見ろといふ風情であつた。紙包をあけると中に色がみを鋏で切つた模様風の美しい紙細工が大切さうに仕舞つてあつた。其を見て私は驚いた。其がまつたく折鶴から飛躍的に進んだ立派な芸術品であつたからである。私の感嘆を見て智恵子は恥かしさうに笑つたり、お辞儀をしたりしてゐた。
 その頃は、何でもそこらにある紙きれを手あたり次第に用ゐてゐたのであるが、やがて色彩に対する要求が強くなつたと見えて、いろ紙を持つて来てくれといふやうになつた。私は早速丸の内のはい原へ行つて子供が折紙につかふいろ紙を幾種か買つて送つた。智恵子の「仕事」がそれから始まつた。看護婦さんのいふところによると、風邪をひいたり、熱を出したりした時以外は、毎日「仕事」をするのだといつて、朝からしきりと切紙細工をやつてゐたらしい。鋏はマニキュアに使ふ小さな、尖端の曲つた鋏である。その鋏一挺を手にして、暫く紙を見つめてゐてから、あとはすらすらと切りぬいてゆくのだといふ事である。模様の類は紙を四つ折又は八つ折にして置いて切りぬいてから紙をひらくと其処にシムメトリイが出来るわけである。さういふ模様に中々おもしろいのがある。はじめは一枚の紙で一枚を作る単色のものであつたが、後にはだんだん色調の配合、色量の均衡、布置の比例等に微妙な神経がはたらいて来て紙は一個のカムバスとなつた。十二単衣に於ける色襲ねの美を見るやうに、一枚の切抜きを又一枚の別のいろ紙の上に貼りつけ、その色の調和や対照に妙味尽きないものが出来るやうになつた。或は同色を襲ねたり、或は近似の色で構成したり、或は鋏で線だけ切つて切りぬかずに置いたり、いろいろの技巧をこらした。此の切りぬかずに置いて、其を別の紙の上に貼つたのは、下の紙の色がちらちらと上の紙の線の間に見えて不可言の美を作る。智恵子は触目のものを手あたり次第に題材にした。食膳が出ると其の皿の上のものを紙でつくらないうちは箸をとらず、そのため食事が遅れて看護婦さんを困らした事も多かつたらしい。千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない。

底本:「日本の名随筆68 紙」作品社
   1988(昭和63)年6月25日第1刷発行
   1996(平成8)年8月25日第7刷発行
底本の親本:「智恵子紙絵」筑摩書房
   1979(昭和54)年10月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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高村光太郎

啄木と賢治—–高村光太郎

○岩手県というところは一般の人が考えている以上にすばらしい地方だということが、来て住んでみるとだんだんよく分ってきました。此の地方の人の性格は多く誠実で、何だか大きな山のような感じがします。為ることはのろいようですが、しかし確かです。天然の産物にも恵まれていて、今にこれがみんな世の中に利用されるようになったら、岩手県は日本の宝の蔵になるでしょう。
○人物にも時々たいへんすぐれた人が出ています。文芸方面でいえば、石川啄木、宮澤賢治などという詩人が出たことは、もう皆さんも知っていることでしょう。啄木の歌や、賢治の詩は学校の教科書にものっていたと思います。「雨ニモマケズ」という賢治の詩などは、思いがけぬほど多くの人に暗記されています。
○石川啄木は明治十八年に生れてたった二十七歳で死んだ詩人ですが、死んだ後になってますます世の中の人に其の詩や歌や小説を読まれ、終戦後にも時代の考え方に大きな力を与え、たいへん一般の人に好かれ、今では啄木を主人公にした映画がいくつも競争で作られるほどになりました。
○啄木は岩手県岩手郡の玉山村という小さな村に生れ、隣の渋民村の学校で勉強しました。少年の頃から大いに勉強して、十八歳頃から長い詩を書き、二十歳の時一冊の詩集を出した位ですが、それからの七年間東京に出たり、北海道へ行ったり、生活の為にずいぶん苦しみ通して、社会と個人生活との関係について深く考え、ついに世の中にさきがけて社会主義と自由思想との真理をつかみました。歌の多くはそういう思想から自然と出て来る切ないほどの思いに満たされていて、それをよむと誰でも、本当だなあ、と感ぜずにいられないほど身にしみる力を持っています。日本古来の不自由な和歌というものを啄木はまるで新らしい自由なものにしてしまいました。

  けど働けどわが暮しらくにならざりじつと手を見る
  はらかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに

などという歌でも、よんでいるといつのまにか強く心が動かされてくるでしょう。
○もう一人の大詩人宮澤賢治は稗貫郡花巻町に明治二十九年に生れ、この人もたった三十八歳で死にましたが、その為しとげた仕事の立派さは驚くばかりです。此の詩人の詩や童話は実にたくさんあり、どれをよんでみても心が清められ、高められ、美しくされないものはありません。非常に宗教心にあつく、法華経《ほけきょう》を信仰して、まるで菩薩《ぼさつ》さまのような生活をおくっていました。仏さまといってもいい程です。自分をすてて人の為に尽し、殊に貧しい農夫の為になる事を一所懸命に実際にやりました。詩人であるばかりでなく農業化学や地質学等の科学者でもあり、酸性土壌改良の炭酸カルシュームを掘り出したり、世の中にひろめたりしました。皆さんの知っている「雨ニモマケズ」の詩は病気でねている時に書いたのですが、今日でも多くの人に救と力とを与えています。「風の又三郎」を映画で見た事がありますか。あの童話も宮澤賢治の作ったものです。此詩人は全く世界的な大詩人といっていいでしょう。
○啄木といい、賢治といい、皆誠実な、うその無い、つきつめた性格の人でした。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
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高村光太郎

装幀について——高村光太郎

装幀美の極致は比例にあるといふのが私の持論である。尤も此は装幀に限らない。一般人事の究極は、すべて無駄なものを脱ぎすて枝葉のばかばかしさを洗ひ落し、結局比例の一点に進んではじめて此世に公明な存在の確立を得るものと考へてゐる。比例は無限に洗錬され、無限に発見される。比例を脱した比例が又生れる。人はさうして遠い未来に向つて蝉脱を重ねる。
 此頃はよく実写映画といふものがあつて、諸所の野蛮人の生活が見られる。それを見る度に、身の毛もよだつやうに恐ろしく感ずる事は、如何に彼等が無駄の多い生活をして居るかといふ事である。文身、偶像、面倒くさい儀礼、そんな事はまだ物の数でもなく、装飾のつもりで、耳朶へ孔をあけて大きな金属の輪をざくざくと通したり、皮膚へ疵をつけてみみずばれの紋様をつくつたり、甚しいのになると上下の唇を引きのばして茶盆ほどの木の円盤を嵌めこんだりする。当人達が大まじめでやつてゐる祭礼の仮面舞踊などのグロテスクさはただ呆れるばかりだ。それは悉く一地方的に歪曲された人間の審美に落ちこんだ結果であらうと推理する外はない。所謂井中の蛙は全般を見ない。凝れば凝るほど無駄をする事があり勝ちだ。
 この事は野蛮人に限らない。ルイ王朝のでこでこ服装、隣国に於ける昔日の纏足、それから十二単衣、立兵庫、大礼服、シルクハツト皆同類である、およそ純粋比例に目ざめない文化の結果する所は皆野暮である。もとより野蛮人の文身をはじめシルクハツトに至るまで、それぞれの環境中にそれぞれの美を十分に持つてゐないのではないが、ただその美が如何にも御苦労さまなだけである。
 書籍の装幀について考へる度に私はいつも前述の様な聯想作用に襲はれる。装幀は最大限に実用の必然要求に応じ、その基礎の上に立つ「比例の美」にまで蒸餾せられねばならぬ。天金は塵埃と湿気とへの防備として案出せられた。和本の渋引や雲母引の表紙も同断であらう。背の金文字は暗い書架の中での便宜から出た。ビールを飲むテーブルで読まれる独逸学生の歌謡集の表紙には四隅に金属の足さへついてゐる。かういふ種類の必要に起因する形態の変化は時代と共に行はれるであらうし、それが又新しい美への誘導ともなるであらう。
 今日多く流布する日本の書籍の装幀には遺憾ながら高度の審美を見る事が少い。純粋比例の美による装幀を私は望んでやまない。屡見かける文芸書のやうに、表紙にべたべた絵画を印刷したやうなものは児戯に類する。中には内容とかけ離れた宿場女郎の如き体裁のものさへある。新刊書に例を取つて述べる事は遠慮するが、ともかく全体にもう一段階抜け出してもらひたい。書店の店頭から無駄な悪趣味を一掃したい。書店の店頭を純粋比例の美で埋めたい。

底本:「日本の名随筆 別巻87 装丁」作品社
   1998(平成10)年5月25日第1刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集 第九巻」筑摩書房
   1957(昭和32)年11月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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高村光太郎

蝉の美と造型——高村光太郎

私はよく蝉の木彫をつくる。鳥獣虫魚何でも興味の無いものはないが、造型的意味から見て彫刻に適するものと適さないものとがある。私は虫類に友人が甚だ多く、バッタ、コオロギ、トンボ、カマキリ、セミ、クモの類は親友の方であり、カマキリの三角あたまなどには殊に愛着を感じ、よく自分の髪の毛を抜いて彼に御馳走する。カマキリは人間の髪の毛が非常に好きで進呈すると幾本でも貪《むさぼ》り食う。恐れるという事を知らない彼の性質も中々おもしろい。しかし彼は彫刻にはならない。形態が彫刻に向かない。バッタ、コオロギも其点では役に立たない。トンボには銀ヤンマのような堂々たる者もあり、トオスミトンボのような楚々《そそ》たる者もあり、アカトンボのようなしゃれた者もあって、一寸彫刻に面白そうに思えるが、これがやはり駄目。彫刻的契機に乏しい。作れば作れるが作ると却《かえっ》て自然の美と品位とを害《そこな》い、彫刻であるよりも玩具に近い、又は文人的骨董に類するものとなる。其点でセミは大に違う。彼はその形態の中にひどく彫刻的なものを具《そな》えている。しかも私が彼を好むのはむろん彫刻以前からの事である。
 子供は皆この生きた風琴を好む。私も子供の頃夏になると谷中天王寺の森の中を夢中に馳けまわって彼をつかまえた。モチの木の皮をはいで石でたたいて強いモチを作り、竹竿《たけざお》のさきに指をなめては其をまきつける楽しさを今でも稍《やや》感傷的に思出す。私はなぜかクモの巣の糸を集めて捉えるという方法を当時知らなかった。これは最近になって聞いた方法である。これで採れるなら此の方がよい。翅《はね》を傷めないに違いない。セミが思いがけなく低い木の幹などに止まって鳴いているのを発見すると、まったく動悸《どうき》のするほど昂奮《こうふん》する。今でもする。

 私は夏の夕方など時々モデル漁《あさ》りに出かける事があるが多くは自分では獲《と》れず、顔なじみの子供等にもらって来る。セミがあの有りったけの声をふりしぼるように鳴きさかっているのを見ると、獲るのも躊躇《ちゅうちょ》させられるほど大まじめで、鳴き終ると忽《たちま》ちぱっと飛び立って、慌ててそこらの物にぶつかりながら場所をかえるや否や、寸暇も無いというように直ぐ又鳴きはじめる、あの一心不乱な恋のよびかけには同情せずにいられない。よびかける事に夢中になっていて呼びかける目的を忘れてしまったのではないかと思うほど鳴く事に憑《つ》かれている。実際私はセミが配偶者を得たところを見た事が無い。

 東京にはジイジイ、アブラ、ミンミン、ツクヅクボウシ、カナカナ位しか居らず、ハルゼミ、チッチゼミ、クマゼミ、エゾゼミなどは居ないようである。私が実際手にして見たのはそれ故甚だ種類少く、この中でもハルゼミ、エゾゼミはまだ見ない。クマゼミは先年熱海で松の木のてっぺんに鳴いているのを見たが竿が届かず、手にはとれなかった。ジイジイが一番質朴で顔も眼が離れていてとぼけている。アブラは大きくて、精悍《せいかん》で、野蛮で、がんばり強く、その声の止め度もなく連続するフォルチシモの物凄い通りに、姿も剛健一点張である。私は好んでこのセミを作る。翅《はね》まで厚くて不透明で茶褐色である事、胴体が割に長くて頭の小さい事などが彫刻にいい。ミンミンは此に比べると豪華で、美麗で、技巧的で、上等に見える。翅の透明な、胸や腹の緑と黒の模様のおもしろい、彫刻に作っては派手なセミである。胴体は短く、腹部の末端の急すぼまりのところが可笑《おか》しい。彫刻では翅は雲母を蒔《ま》いたり、銀粉を掃いたりする。ツクヅクボウシとカナカナとは女性的で、獲《と》るとすぐ死ぬ。姿も華奢《きゃしゃ》で、優美で、青々とした精霊の感じがある。クマゼミ又の名シャンシャンゼミはセミの中で一番巨大で色も黒、緑の外に橙色《だいだいいろ》が交り、翅も透明でしかも強く、形もよいようであるが、此は手にとって見たのでないから詳細は知らない。ハルゼミは先年五月末越後長岡の悠久山の松林の中でその幽遠な声を聞いたが、姿は見なかった。

 セミの彫刻的契機はその全体のまとまり[#「まとまり」に傍点]のいい事にある。部分は複雑であるが、それが二枚の大きな翅によって統一され、しかも頭の両端の複眼の突出と胸部との関係が脆弱《ぜいじゃく》でなく、胸部が甲冑《かっちゅう》のように堅固で、殊に中胸背部の末端にある皺襞《しわひだ》の意匠が面白い彫刻的の形態と肉合いとを持ち、裏の腹部がうまく翅の中に納まり、六本の肢もあまり長くはなく、前肢には強い腕があり、口吻が又実に比例よく体の中央に針を垂れ、総体に単純化し易く、面に無駄が出ない。セミの美しさの最も微妙なところは、横から翅を見た時の翅の山の形をした線にある。頭から胸背部へかけて小さな円味を持つところへ、翅の上縁がずっと上へ立ち上り、一つの頂点を作って再び波をうって下の方へなだれるように低まり、一寸又立ち上って終っている工合が他の何物にも無いセミ特有の線である。翅の上縁の波形と下縁の単一な曲線との対照が美しい。セミの持つ線の美の極致と言える。その波形の比例はセミの種類によってそれぞれの特色を持つ。又セミを横から見ず、上方から見ても翅の美はすばらしい。左右の二枚がよく整斉を保ち、外郭はゆるい強い曲線を描いてはるかに後端まで走り、内側は大きい波形を左右から合せるように描き、後半は又開いて最末端でちょっと引きしまる。セミは生きている時も死んでからも大して形に変化を来さないが、此の翅の末端だけは違う。生きている時には其がかすかに内側にしまっているが、死ぬと其処が開いた形のままで終るようになる。むろんかすかにしまっている方が美しい。木彫ではこの薄い翅の彫り方によって彫刻上の面白さに差を生ずる。この薄いものを薄く彫ってしまうと下品になり、がさつになり、ブリキのように堅くなり、遂に彫刻性を失う。これは肉合いの妙味によって翅の意味を解釈し、木材の気持に随《したが》って処理してゆかねばならない。多くの彫金製のセミが下品に見えるのは此の点を考えないためである。すべて薄いものを実物のように薄く作ってしまうのは浅はかである。丁度逆なくらいに作ってよいのである。木彫に限らず、此の事は彫刻全般、芸術全般の問題としても真である。むやみに感激を表面に出した詩歌が必ずしも感激を伝えず、がさつで、ダルである事があり、却《かえっ》て逆な表現に強い感激のあらわれる事のあるようなものである。そうかといって、セミの翅をただ徒《いたずら》に厚く彫ればそれこそ厚ぼったくて、愚鈍で、どてらを着たセミになってしまう。あつくてしかもあつさを感じない事。これは彫刻上の肉合いと面の取扱とによってのみ可能となるのである。しかも彫刻そのものはそんな事が問題にならない程すらすらと眼に入るべきで、まるで翅の厚薄などという事は気のつかないのがいいのである。何だかあたり前に出来ていると思えれば最上なのである。それが美である。この場合、彫刻家はセミのようなもの[#「セミのようなもの」に傍点]を作っているのでなくて、セミに因る造型美を彫刻しているのだからである。それ故にこそ彫刻家はセミの形態について厳格な科学的研究を遂げ、その形成の原理を十分にのみこんでいなければならないのである。微細に亘った知識を持たなければ安心してその造型性を探求する事が出来ない。いい加減な感じや、あてずっぽうでは却て構成上の自由が得られないのである。自由であって、しかも根蔕《こんたい》のあるものでなければ真の美は生じない。

 埃及《エジプト》人が永生の象徴として好んで甲虫《スカラベイ》のお守を彫ったように、古代ギリシャ人は美と幸福と平和の象徴として好んでセミの小彫刻を作って装身具などの装飾にした。声とその諧調《かいちょう》の美とを賞したのだという。日本のセミは一般に喧《やかま》しいもののように取られ、アブラなどは殊に暑くるしいものの代表とされているが、あまり樹木の無いギリシャのセミはもっと静かな声なのかも知れない。或はカナカナのような種類なのかも知れない。しかし私は日本のセミの無邪気な力一ぱいの声が頭のしんまで貫くように響いてくるのを大変快く聞く。まして蝉時雨《せみしぐれ》というような言葉で表現されている林間のセミの競演の如きは夢のように美しい夏の贈物だと思う。セミを彫っているとそういう林間の緑したたる涼風が部屋に満ちて来るような気がする。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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高村光太郎

人の首——高村光太郎

 私は電車に乗ると異状な興奮を感ずる。人の首がずらりと前に並んで居るからである。人間移動展覧会と戯《たわむれ》に此を称《たた》えてよく此事を友達に話す。近代が人に与えてくれた特別な機会である。此所に並んでいる首は、美術展覧会に於ける絵画彫刻の首と違って、観られる為に在るのではない。たまに、見られ、眺められ、感嘆せられ、羨《うらやま》しがられる為に在る事を自ら意識している様な男性女性に会う事もあるが、其とても活世間という一つの活舞台の中では、おのずから活《い》きた事情にとりまかれて、壁上にかかり、台座の上に載っている作られた首の様にアフェクテエション一点張ではない。ロクでもない美術品の首よりも私はこの生きた首が好きである。此所に並んでいる首は皆一つの生活背景を持つ。皆一つの生活事情を持ち、毎日の生活に打ち込んでいる。或者は屈託し、或者は威張り返り、或者は想像もつかない悲に被《おお》われ、或者は楽しく、或者は放心している。四隣人無きが如く連れの人と家庭の内輪話をしているお神さんもある。民衆論を論じているロイド眼鏡の青年もいる。古着市に持ち出した荷物を抱えている阿父さんもいる。其がみんな自分達の内心に持っているものを思わず顔に露出して腰かけている。むしろ痛々しい程に感ずる時もある。
 人間の首ほど微妙なものはない。よく見ているとまるで深淵にのぞんでいる様な気がする。其人をまる出しにしているとも思われるし、又秘密のかたまりの様にも見える。そうして結局其人の極印だなと思わせられる。どんな平凡らしく見える人の首でも実に二つと無いそれぞれの機構を持っている。内心から閃《ひら》めいて来るものの見える時は其平凡人が忽《たちま》ち恐ろしい非凡の相を表わす。電車の中でも時々そういう事を見る。
 人の首の中で一番人間の年齢を示しているのは項部である。所謂《いわゆる》首すじである。顔面では年齢をかくせるが首すじではごまかせない。あらゆる年齢に従って首すじは最も微妙に人間らしい味を見せる。赤坊のぐらぐらな項《うなじ》。小学校時代の初毛《うぶげ》の生えた曲線の多い首すじ。殊にえり際。大人と子供との中間の人の首すじを見るのは特別に面白い。大人になりかかって行って、此所にだけまだ子供が残っている青年などは殻から出たての蝉の様に新鮮である。水々しい若い女の首すじの美は特に私が説く迄もあるまい。色まちの女が抜衣紋《ぬきえもん》にするのは天然自然の智慧である。恋する女に向って最後の決心をする動機の一つが其の可憐な首すじを見た事にあるという話をよく聞く。自然は恋人と語る若い女性を多くうつ向かせる。其を見つめている男の眼は女の一番いじらしい首筋に注がれる。致命的なわけである。三十代四十代の男の頼もしい首すじ。又初老の人の首すじに寄る横の皺《しわ》。私は老人の首すじの皺を見る時ほど深い人情に動かされる事は無い。何という人間の弱さ、寂しさを語るものかと思う。電車の中に立っていて、眼の下にそういう一人の老人の首すじを見る時、老年のさびと荘厳さとを身にしみて感ずる。
 鼻と口との関係は人の本性を一番多く物語る。鼻の下である。長さ短かさ出張り方、円さ、厚さ薄さ。千種万様で、実際、人が想像しているよりも以上の変種に富んでいるのは此部分である。鼻の下、口の上を見るとその人がまる出しかと思う時がある。一番人間の生物としての方面を示している。又その人の天性の美も此所に多く無意識に出ている。「人中《にんちゅう》」の特に美しい人は忘れられない。女優サラ ベルナアルの人中は少しつれていて其為め前歯がちらちらと見え勝である。其魅力は無比であった。
 頬のうしろ、顎《あご》から頤《おとがい》にかけては其人の弱点を一番持っている。誰でもそうである。其だけに又最も特質的な魅力もある。顎の美しさは最も彫刻的の微妙さを持つ。
 運動の無い前額から顱頂《ろちょう》にかけての頭蓋部《ずがいぶ》が、最も動的な其人の内心の陰影を顕《あら》わすのは不思議である。額の皺が人間の閲歴を如実に語るものである事は言う迄もなかろう。
 眼や眉や鼻や口や耳などという個々のものに就いては今語り尽せない。私はあまり睫毛《まつげ》の美しい少女を電車の中で見て、思わず知らず其顔をのぞき込んで気の毒な思いをさせた事がある。その睫毛は名状すべからざる美を持っていて到底再現する事は出来ない。名香のかおりに何処か麝香《じゃこう》をほのかにまじえた様な睫毛であった。あんな少女が生きているとは不思議な位だ。
 人間の首には先天の美と、後天の美とがある。此の二つが分ち難くまじり合って大きな調和を成している。先天の美は言う迄もないが後天の美に私は強い牽引《けんいん》を感ずる。閲歴が造る人間の美である。私が老人を特別に好むのは此の故もある。写真は人間の先天の美のみを写して後天の美を能《よ》く捉えない。だから写真では赤坊だけがよく写る。後天の美を本当に認め得るのは活きた眼だけである。機械では不可能である。写真に写ると実際よりも美しくなる人は此の先天の美に恵まれている人であり、写真では悪いが本人に会うと美しいという人は此の後天の美、閲歴、生活、性格|陶冶《とうや》等から来る美を多分に持っている人の事である。
 概して文芸家の首には深みがある。ドストイエフスキイ、ストリンドベリイ、ロマン ロラン、皆そうらしい。ポオ、※[#濁点付き片仮名ヱ、1-7-84]ルレエヌ等は何という不思議な首だろう。彼等の詩そのものと思う。政治家では、リンカンの首がすばらしい。生きている当人に会ってみたかったといつも思う。近くではレエニンの首が無比である。レエニンの性格に関する悪口を沢山きくけれども、私は其を信じない。彼の首が彼の決して不徳な人でなかった事を証拠立てている。野心ばかりの人に無い深さと美とがある。ナポレオンよりも好い。ナポレオンにはもっと野卑な処がある。近世の支那にはまだ人物が出ないようだ。
 日本の文芸家の首にも興味がある。私は交友が少ないので多く知らないが、詩人では千家元麿氏の首に無類な先天の美がある。室生犀星氏の首には汲めども尽きない味がある。彼の顎と眼とは珍宝である。ヨネ ノグチ氏の首も十目の視る所で、氏の顱頂は殊に美しい。概して詩人の首は好ましく、どこかに本気なものがある。若い詩人にも好い首があるが今は書くまい。文学家の方には益《ますます》知人が無い。佐藤春夫氏は彼の無名時代に肖像を画いたのがあるので知っている。彼の首には秀抜な組立がある。彼を彫刻で作らなかったのが心残だ。武者小路氏の前額と後頭と眼とはすばらしい。凡人崇拝の戸川秋骨氏の顎と口とは凡人どころではない。俳優では団十郎が頭に残っている。今の政治家は誰も知らないが、写真で見ると、高橋是清氏と、浜口雄幸氏とが面白い。浜口氏の首はいつか作ってみたいと思って覗《うかが》っている。此人は彫刻に殊に好い。
 電車の中であまり好い首の人に偶然逢うと別れるのに心が残る。思い切って話しかけようかと思う事が度々ある。女の人などは一生に二十日間位しかあるまいと思うような特に美しい期間がある。それをむざむざと過させてしまうのが惜しい。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
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高村光太郎

触覚の世界—— 高村光太郎

 私は彫刻家である。
 多分そのせいであろうが、私にとって此世界は触覚である。触覚はいちばん幼稚な感覚だと言われているが、しかも其れだからいちばん根源的なものであると言える。彫刻はいちばん根源的な芸術である。
 私の薬指の腹は、磨いた鏡面の凹凸を触知する。此は此頃偶然に気のついたことであるが、ガラスにも横縦がある。眼をつぶって普通の玻璃《はり》面を撫でてみると、それは丁度木目の通った桐のサツマ下駄のようなものである。磨いた鏡面はさすがにサツマ下駄でもないが、わずか五寸に足りない長さの間にも二つ程の波がある事を指の腹は知るのである。傾斜の感覚を薬指は持っているのであろう。鏡面の波動を感ずる味わいは、丁度船のおだやかなピッチングのようである。少し快よい眩暈《めまい》を感じさせる程度である。
 人は五官というが、私には五官の境界がはっきりしない。空は碧《あお》いという。けれども私はいう事が出来る。空はキメが細かいと。秋の雲は白いという。白いには違いないが、同時に、其は公孫樹《いちょう》の木材を斜に削った光沢があり、春の綿雲の、木曾の檜《ひのき》の板目とはまるで違う。考えてみると、色彩が触覚なのは当りまえである。光波の震動が網膜を刺戟《しげき》するのは純粋に運動の原理によるのであろう。絵画に於けるトオンの感じも、気がついてみれば触覚である。口ではいえないが、トオンのある絵画には、或る触覚上の玄妙がある。トオンを持たない画面には、指にひっかかる真綿の糸のようなものがふけ立っていたり、又はガラスの破片を踏んだ踵《かかと》のような痛さがあるのである。色彩が触覚でなかったら、画面は永久にぺちゃんこでいるであろうと想像される。
 音楽が触覚の芸術である事は今更いう迄もないであろう。私は音楽をきく時、全身できくのである。音楽は全存在を打つ。だから音楽には音の方向が必要である。蓄音機やラジオの音楽が大した役を為さないのは、其れが音の方向を持たないからである。どんなに精巧な機械から出て来ても此複製音は平ったい。四方から来ない。音楽堂の実物の音楽は、そこへゆくと、たとい拙くとも生きている。音が縦横に飛んで全身を包んで叩く。音楽が私を夢中にさせる功徳を、ただ唯心的にのみ私は取らない。其は斯《か》かる運動の恐ろしい力が本になっているのである。私は昔、伊太利《イタリー》のある寺院で復活祭前後に聴いたあの大オルガンの音を忘れない。私はその音を足の裏から聞いたと思った。その音は全身を下の方から貫いて来て、腹部の何処かで共鳴音を造りながら私の心に届いたようにおぼえている。
 音楽の力が生理的要素から来るのは分かり切った事である。ワグネルの或音楽をきくと若い独逸《ドイツ》人は知らぬ間にポルーションを起すという。私にはその経験こそなけれ、其れに近い恍惚《こうこつ》を感ずる事は事実である。音楽に酔うというのは卑近に言えば酒に酔うというよりも、むしろマッサアジに酔うという方が近い。どうかすると性に酔うようなものである。其処を通りぬけて心霊に響くからこそ、あの直接性があるのであろう。私は一時、一晩でも音楽をきかないと焦躁《しょうそう》に堪えられない時期があった。今考え合せてみると、其れは私が制慾剤ルブリンで僅かに一日を支えていた頃の事である。素よりそういう時の音楽への渇望は、純正な音楽への帰依から見れば、むしろ冒涜《ぼうとく》なのであった。しかし其の効果を別にして、交響楽の演奏者の数を予め作曲家が幾人以上と希望するいわれはないのである。
 私は曾《かつ》て帝劇で、シュウマン ハインクのお婆さんの歌をきいた。その歌の巧拙は姑《しばら》く措《お》いても、その声のキメの細かさ、緻密《ちみつ》さ、匂やかさ、そうして、丁度刀を鍛える時に、地金を折り返しては打ち、折り返しては練ったあとのような何とも言えぬ頼もしいねばり強さと、奥深さとに驚嘆した。その声をきいてから、他の歌うたいの声をきくと、あまり筒抜け過ぎて、その歌が煙突から出るもののようにしか響かなかった。いつでも私の触覚は音楽をきく時の第一関門となるのである。
 香とは微分子なのだそうである。肥くさいのは肥の微分子が飛びこむのだそうである。道理で私は香をも肌でかぐ。万物に匂の無いものはない。してみれば万物は常にその微分子を放散させているのである。自ら形骸を滅尽しつつあるのである。滅尽の度の早いのが香料だというだけである。微分子があまり一度に多量に飛びこむと圧迫される。香料は皆言わば稀薄《きはく》である。香水の原料は悪臭である。所謂《いわゆる》オリジナルは屍人くさく、麝香《じゃこう》は嘔吐《おうと》を催させ、伽羅《きゃら》の烟《けむり》はけむったい油煙に過ぎず、百合花の花粉は頭痛を起させる。嗅覚《きゅうかく》とは生理上にも鼻の粘膜の触覚であるに違いない。だから聯想的《れんそうてき》形容詞でなく、厚ぼったい匂や、ざらざらな匂や、すべすべな匂や、ねとねとな匂や、おしゃべりな匂や、屹立《きつりつ》した匂や、やけどする匂があるのである。
 味覚はもちろん触覚である。甘いも、辛いも、酸いも、あまり大まかな名称で、実は味わいを計る真の観念とはなり難い。キントンの甘いのはキントンだけの持つ一種の味的触覚に過ぎない。入れた砂糖の延長ではない。
 乾いた砂糖は湿った砂糖ではない。印度《インド》人がカレイドライスを指で味わい、そば好きがそばを咽喉《のど》で味わい、鮨《すし》を箸《はし》で喰べない人のあるのは常識である。調理の妙とはトオンである。色彩に於けるトオンと別種のものではない。
 五官は互に共通しているというよりも、殆ど全く触覚に統一せられている。所謂第六官といわれる位置の感覚も、素より同根である。水平、垂直の感覚を、彫刻家はねそべっていても知る。大工はさげふりと差金で柱や桁《けた》を測る。彫刻家は眼の触覚が掴《つか》む。所謂|太刀風《たちかぜ》を知らなければ彫刻は形を成さない。
 彫刻家は物を掴みたがる。つかんだ感じで万象を見たがる。彼の眼には万象が所謂「絵のよう」には映って来ない。彼は月を撫でてみる。焚火《たきび》にあたるように太陽にあたる。樹木は確かに一本ずつ立っている。地面は確かにがっしり其処にある。風景は何処をみても微妙に組み立てられている。人体のように骨組がある。筋肉がある。肌がある。そうして、均衡があり、機構がある。重さがあり、軽さがある。突きとめたものがある。
 此処に一つの詩がある。こんな風に一人の彫刻家は人生をまでも観る。


   或男はイエスの懐に手を入れて二つの創痕を撫でてみた
  一人のかたくなな彫刻家は
  万象をおのれ自身の指で触つてみる
  水を裂いて中をのぞき
  天を割つて入りこまうとする
  ほんとに君をつかまへてからはじめて君を君だと思ふ

 彫刻家が君をつかまえるという時、其れは君の裸をつかまえるという事を意味する。人間同志は案外相互の裸を知らないものである。実に荷に余るほどのものを沢山着込んで生きている。彫刻家はその附属物をみんな取ってしまった君自身だけを見たがるのである。一人の碩学《せきがく》がある。その深博な学問は其人自身ではない。その人自身の裸はもっと内奥の処にあたたかく生きている。カントの哲学はカント自身ではない。カント自身はその哲学を貫く中軸の奥に一個の存在として生きている。厨川白村の該博な知識は彼自身ではない。彼自身は別個の存在として著書|堆積裏《たいせきり》に蟠居《ばんきょ》している。その人の裸がその学問と切り離せない程偉大な事もある。又その学問の下に聖読庸行、見るも醜怪な姿をしている事もある。世上で人が人を見る時、多くの場合、その閲歴を、その勲章を、その業績を、その才能を、その思想を、その主張を、その道徳を、その気質、又はその性格を見る。
 彫刻家はそういうものを一先ず取り去る。奪い得るものは最後のものまでも奪い取る。そのあとに残るものをつかもうとする。其処まで突きとめないうちは、君を君だと思わないのである。
 人間の最後に残るもの、どうしても取り去る事の出来ないもの、外側からは手のつけられないもの、当人自身でも左右し得ぬもの、中から育つより外仕方の無いもの、従って縦横|無礙《むげ》なもの、何にも無くして実存するもの、この名状し難い人間の裸を彫刻家は観破したがるのである。だが裸は埋没され叮嚀《ていねい》に匿《かく》されているのが常である。善いにせよ、悪いにせよ、それが事実である。いくら理想家でも、人間に即刻裸で歩けとは言えないであろう。実に人世とは裸を埋没させる道場かと見えるばかりだ。しかし、着物が多くても少くても実際は構わない程、結局するところ、人はのがれられないものである。価値を絶したところに、其の人の真の姿があらわれて来る。彫刻家は此の無価値に触れたがる。なるほど人生には敵味方がある。又其の故に社会は進展する。けれども彫刻家の触覚はもっとその奥の処にごッつりしたものを探ろうとする。だから彼の見方は大抵の場合此の現世に逆行する。現世を縦に割る見方である。其処までゆかないと落ちつかない。人生の裸をつかまえなければ、人生を人生と思えない。人生の裸とは唯世間の真相をのみ意味するのではない。所謂現実暴露的な状態上の問題ではない。千万の現象そのものに、すぐ裸を見る力が欲しいのである。赤外線による写真には眼に見えないものが写るそうである。彫刻家の触覚は霧を破ろうとする。そして又霧は霧である事を確かに触知しようとする。
 人生そのものには必ず裸がある。むしろ、眼を転ずれば人生そのままが既に裸だと言えるのであろう。けれど人間の手に成るものは必ずそうとも限らない。人間の手に成る作品を見て、其中に実存する裸の力に触れるのは愉快である。作られ方の力ではない。又その傾向の力ではない。作られ方も傾向も皆充分考慮に値する。けれども考慮は結局時代に関する。動かし難いものを根源に探る触覚が、一番はじめに働き出す。それの怪しいもの、若《もし》くは無いものは掴《つか》むとつぶれる。いかに弱々しい、又は粗末らしい形をしたものでも此の根源のあるものはつぶれない。詩でいえば、例えばヴェルレエヌの嗟嘆《さたん》はつぶれない。ホイットマンの非詩と称せられる詩もつぶれない。そんなもののあっても無くてもいい時代が来てもつぶれない。通用しなくても生きている。性格や気質や道徳や思想や才能のあたりに根を置いている作品はあぶない。どうにもこうにもならない根源に立つもの、それだけが手応を持つ。この手応は精神を一新させる。それから千差万別の道が来る。
 私にとって触覚は恐ろしい致命点である。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
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高村光太郎

小刀の味—— 高村光太郎

 飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するように、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するようになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀《こがたな》を大切にし、まるで生き物のように此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。幾十本の小刀を所持していても、その一本一本の癖や調子や能力を事こまかに心得て居り、それが今現にどうなっているかをいつでも心に思い浮べる事が出来、為事《しごと》する時に当っては、殆ど本能的に必要に応じてその中の一本を選びとる。前に並べた小刀の中から或る一本を選ぶにしても、大抵は眼で見るよりも先に指さきがその小刀の柄に触れてそれを探りあてる。小刀の長さ、太さ、円さ、重さ、つまり手触りで自然とわかる。ピヤニストの指がまるでひとりでのように鍵《けん》をたたくのに似ている。桐の道具箱の引出の中に並んだ小刀を一本ずつ叮嚀《ていねい》に、洗いぬいた軟い白木綿で拭きながら、かすかに錆《さび》どめの沈丁油の匂をかぐ時は甚だ快い。
 わたくしの子供の頃には小刀打の名工が二人ばかり居て彫刻家仲間に珍重されていた。切出《きりだし》の信親《のぶちか》。丸刀《がんとう》の丸山《まるやま》。切出というのは鉛筆削りなどに使う、斜に刃のついている形の小刀であり、丸刀というのは円い溝の形をした突いて彫る小刀である。当時普通に用いられていた小刀は大抵|宗重《むねしげ》という銘がうってあって、此は大量生産されたものであるが、信親、丸山などになると数が少いので高い価を払って争ってやっと買い求めたものである。此は例えば東郷ハガネのような既成の鋼鉄を用いず、極めて原始的な玉鋼《たまはがね》と称する荒がねを小さな鞴《ふいご》で焼いては鍛え、焼いては鍛え、幾十遍も折り重ねて鍛え上げた鋼を刃に用いたもので、研ぎ上げて見ると、普通のもののように、ぴかぴかとか、きらきらとかいうような光り方はせず、むしろ少し白っぽく、ほのかに霞んだような、含んだような、静かな朝の海の上でも見るような、底に沈んだ光り方をする。光を葆《つつ》んでいる。そうしてまっ平らに研ぎすまされた面の中には見えるような見えないようなキメがあって、やわらかであたたかく、まるで息でもしているかと思われるけはいがする。同じそういう妙味のあるうちにも信親のは刃金が薄くて地金があつい。地金の軟かさと刃金の硬さとが不可言の調和を持っていて、いかにもあく抜けのした、品位のある様子をしている。当時いやに刃金のあつい、普通のぴかぴか光る切出を持たされると、子供ながらに変に重くるしく、かちかちしていてうんざりした事をおぼえている。丸山のは刃金があついのであるが、此は丸刀である性質上、そのあついのが又甚だ好適なのであった。
 為事場の板の間に座蒲団《ざぶとん》を敷き、前に研ぎ板を、向うに研水桶《とみずおけ》(小判桶)を置き、さて静かに胡坐《あぐら》をかいて膝に膝当てをはめ、膝の下にかった押え棒で、ほん山の合せ研を押えて、一心にこういう名工の打った小刀を研ぎ終り、その切味の微妙さを檜《ひのき》の板で試みる時はまったくたのしい。

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高村光太郎

書について—— 高村光太郎

 この頃は書道がひどく流行して来て、世の中に悪筆が横行している。なまじっか習った能筆風な無性格の書や、擬態の書や、逆にわざわざ稚拙をたくんだ、ずるいとぼけた書などが随分目につく。

   一

 絶えて久しい知人からなつかしい手紙をもらったところが、以前知っていたその人の字とは思えないほど古法帖めいた書体に改まっている、うまいけれどもつまらない手紙の字なのに驚くような事も時々ある。しかしこれはその人としての過程の時期であって、やがてはその習字臭を超脱した自己の字にまで抜け出る事だろうと考えてみずから慰めるのが常である。やはり書は習うに越した事はなく、もともと書というものが人工に起原を発し、伝統の重畳性にその美の大半をかけているものなので、生れたままの自然発生的の書にはどうしても深さが無く、その存在が脆弱《ぜいじゃく》で、甚だ味気ないものである。

   

 この生れたままの自然発生的な書というものにもいろいろあって、生れながらに筆硯的《ひっけんてき》感覚を多分に持っている人のは、或る点まで立派に書格を保有し、無邪気で、自然で、いい加減な習字先生のよりも遥に優れたものとなる。そういう例は支那人よりも日本人に多く、いつの間にか、性格まる出しの、まねてまねられない、或は奇逸の、或は平明清澄の妙境に進み入り、殊に老年にでもなると、おのずから一種の気品が備わって来て、慾も得もない佳い字を書くようになる。
 そういう佳品を目にするのはたのしいものであるが、さればといって、此を伝統の骨格を持ち、鍛冶《かじ》の効をつんで厳然とした規格の地盤に根を張った逸品の前に持ち出すと、やっぱり免れ難い弱さがあり、浅さがあり、何となく見劣りのするものである。人工から起ったものは何処までも人工の道を究めつくすのが本当であり、それには人工累積の美を突破しなければならないのである。生れながらに筆硯的感覚を持っている人のですらそうであるから、もともとそういう性来を持たない者の強引の書となると多くは俗臭に堕する傾がある。意地ばかりで出来た字、神経ばかりで出来た字、或は又逆に無神経ばかりで出来た字、ぐうたらばかりで出来た字が生れる。世の中にはなかなかそういう書が幅をきかせている。私などもその一人であるが、これではならぬと思ってつとめて天下の劇跡に眼を曝《さら》すことにしているのである。

   

 書はもとより造型的のものであるから、その根本原理として造型芸術共通の公理を持つ。比例均衡の制約。筆触の生理的心理的統整。布置構造のメカニズム。感覚的意識伝達としての知性的デフォルマシヨン。すべてそういうものが基礎となってその上に美が成り立つ。そういうものを無視しては書が存在し得ない。書を究めるという事は造型意識を養うことであり、この世の造型美に眼を開くことである。書が真に分かれば、絵画も彫刻も建築も分かる筈であり、文章の構成、生活の機構にもおのずから通じて来ねばならない。書だけ分かって他のものは分からないというのは分かりかたが浅いに外なるまい。書がその人の人となりを語るということも、その人の人としての分かりかたが書に反映するからであろう。
 顔真卿《がんしんけい》はまったくその書のように人生の造型機構に通達した偉人であり、晩年逆徒李希烈に殺されるのを予《あらかじ》め知って、しかも従容として運命の迫るのを直視していた其の態度の美が彼の比類無い行草の藁書《こうしょ》類に歴々と見られる。斯《かく》の如き書を書くものは正に斯の如き心眼ある人物である。後年の名筆であってしかも天真さに欠け、一点|柔媚《じゅうび》の色気とエゴイズムのかげとを持つ趙子昂《ちょうしこう》の人物などと思い比べると尚更はっきり此事がわかる。書を学ぶのはすなわち造型美の最も端的なるものを学ぶ事であり、ただ字がうまくなる勉強だけでは決してない。お手本や師伝のままを無神経にくり返してただ手際よく毛孔《もうく》の無いような字を書いているのが世上に滔々《とうとう》たる書匠である。

   

 漢魏六朝の碑碣《ひけつ》の美はまことに深淵のように怖ろしく、又実にゆたかに意匠の妙を尽している。しかし其は筆跡の忠実な翻刻というよりも、筆と刀との合作と見るべきものがなかなか多く、当時の石工の技能はよほど進んでいたものと見え、石工も亦立派な書家の一部であり、丁度日本の浮世絵に於ける木版師のような位置を持っていたものであろう。それゆえ、古拓をただ徒《いたずら》に肉筆で模し、殊に其の欠磨のあとの感じまで、ぶるぶる書きに書くようになっては却《かえっ》て俗臭堪えがたいものになる。今日|所謂《いわゆる》六朝風の書家の多くの書が看板字だけの気品しか持たないのは、もともと模すべからざるものを模し、毛筆の自性を殺してひたすら効果ばかりをねらう態度の卑さから来るのである。そういう書を書くものの書などを見ると、ばかばかしい程無神経な俗書であるのが常である。最も高雅なものから最も低俗なものが生れるのは、仏の側に生臭坊主がいるのと同じ通理だ。かかる古|碑碣《ひけつ》の美はただ眼福として朝夕之に親しみ、書の淵源を探る途《みち》として之を究めるのがいいのである。

   

 羲之《ぎし》の書と称せられているものは、なるほど多くの人の言う通り清和|醇粋《じゅんすい》である。偏せず、激せず、大空のようにひろく、のびのびとしていてつつましく、しかもその造型機構の妙は一点一画の歪みにまで行き届いている。書体に独創が多く、その独創が皆普遍性を持っているところを見ると、よほど優れた良識を具《そな》えていた人物と思われる。右軍の癖というものが考えられず、実に我は法なりという権威と正中性とがある。献之になるともう偏る。恐るべき力量は十分ありながら、父の持っていたような天空海闊《てんくうかいかつ》の気宇に欠ける。それ以後の百星に至っては、おのおの独自の美を創《つく》り出していて歴代の壮観ではあるが、それぞれ少しずつ末梢《まっしょう》的なものを持っている。

   

 書はあたり前と見えるのがよいと思う。無理と無駄との無いのがいいと思う。力が内にこもっていて騒がないのがいいと思う。悪筆は大抵余計な努力をしている。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のような立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。書道興って悪筆天下に満ちるの観があるので自戒のため此を書きつけて置く。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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高村光太郎

自分と詩との関係— 高村光太郎

 私は何を措《お》いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。私の彫刻がたとい善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。
 ところでその彫刻家が詩を書く。それにどういう意味があるか。以前よく、先輩は私に詩を書くのは止せといった。そういう余技にとられる時間と精力とがあるなら、それだけ彫刻にいそしんで、早く彫刻の第一流になれという風に忠告してくれた。それにも拘《かかわ》らず、私は詩を書く事を止めずに居る。
 なぜかといえば、私は自分の彫刻を護るために詩を書いているのだからである。自分の彫刻を純粋であらしめるため、彫刻に他の分子の夾雑《きょうざつ》して来るのを防ぐため、彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである。私には多分に彫刻の範囲を逸した表現上の欲望が内在していて、これを如何とも為がたい。その欲望を殺すわけにはゆかない性来を有《も》っていて、そのために学生時代から随分悩まされた。若し私が此の胸中の氤※[#「气<慍のつくり」、第3水準1-86-48]《いんうん》を言葉によって吐き出す事をしなかったら、私の彫刻が此の表現をひきうけねばならない。勢い、私の彫刻は多分に文学的になり、何かを物語らなければならなくなる。これは彫刻を病ましめる事である。私は既に学生時代にそういう彫刻をいろいろ作った。たとえば、サーカスの子供の悲劇を主題として群像を作った事がある。これは早朝に浅草の花屋敷へ虎の写生に通っていた頃、或るサーカス団の猛訓練を目撃して、その子供達に対する正義の念から構図を作ったのである。泣いている少女とそれを庇《かば》っている少年との群像であった。又たとえば、着物が吊されてある大きな浮彫を作った事がある。その着物に籠《こも》る妖《あや》しい鬼気といったようなものを取扱ったのであるが、これも多分に鏡花式の文学分子を含んでいた。又美術学校の卒業製作には、還俗《げんぞく》せんとする僧侶を作った。今思うと随分|滑稽《こっけい》な主題と構想とであって、経巻を破棄して立ち上り、甚だ俄芝居《にわかしばい》じみた姿態が与えられてあった。こういう風に私はどうしても彫刻で何かを語らずには居られなかったのである。この愚劣な彫刻の病気に気づいた私は、その頃ついに短歌を書く事によって自分の彫刻を護ろうと思うに至った。その延長が今日の私の詩である。それ故、私の短歌も詩も、叙景や、客観描写のものは甚だ少く、多くは直接法の主観的言志の形をとっている。客観描写の欲望は彫刻の製作によって満たされているのである。こういうわけで私の詩は自分では自分にとっての一つの安全弁であると思っている。これが無ければ私の胸中の氤※[#「气<慍のつくり」、第3水準1-86-48]は爆発に到るに違いないのであり、従って、自分の彫刻がどのように毒されるか分らないからである。余技などというものではない。
 ところで彫刻とは一つの世界観であって、この世を彫刻的に把握するところから彫刻は始まるのである。私の赴くところ随所皆彫刻である。私の詩が本来彫刻的である事は已《や》むを得ない結果である。彫刻の性質が詩を支配するのである。私が彫刻家でありながら彫刻の詩が少いのを怪んだ人が曾《かつ》てあったが、これは極めて表面的な鑑識であって、直接彫刻を主題として書いた詩ばかりが彫刻に因縁を持つのではない。詩の形成に於ける心理的、生理的の要素にそれが含まれているのである。だから多くの詩人の詩の形成の為方《しかた》と、私自身の詩の形成の為方とには何かしら喰いちがったものがあるように思われる。それは是非もない。
 詩の世界は宏大《こうだい》であって、あらゆる分野を抱摂する。詩はどんな矛盾をも容れ、どんな相剋《そうこく》をも包む。生きている人間の胸中から真に迸《ほとばし》り出る言葉が詩になり得ない事はない。記紀の歌謡の成り立ちがそれを示す。しかし言葉に感覚を持ち得ないものはそれを表現出来ず、表現しても自己内心の真の詩とは別種の詩でないものが出来てしまうという事はある。それ故、詩はともかく言葉に或る生得の感じを持っている者によって形を与えられるのであって、それが言葉に或る生得の感じを持っていない者の胸中へまでも入り込むのである。ああそうだと人々が思うのである。それが詩の発足で、それから詩は無限に分化進展する。私自身のこの一種の詩の分野も、詩の世界は必ず之を抱摂して詩そのものの腐葉土とするに違いないと信じている。
 私の彫刻がほんとに物になるのは六十歳を越えてからの事であろう。私の詩が安全弁的役割から蝉脱《せんだつ》して独立の生命を持つに至るかどうか、それは恐らくもっと後になってみなければ分らない事であろう。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
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高村光太郎

自作肖像漫談—– 高村光太郎

 今度は漫談になるであろう。この前肖像彫刻の事を書いたが、私自身肖像彫刻を作るのが好きなので、肖像というと大てい喜んで引きうける。これまでかなりいろいろの人のものを作った。

 昔、紐育《ニューヨーク》に居てボオグラム先生のスチュジオに働いていた頃、暫く同じ素人下宿に居られた鉄道省の岡野昇氏といわれる人が、私に小遣取をさせる気持で肖像を作らせてくれた。肖像で報酬をもらったのはこれが生れて初めての事なのでよく憶えている。先生の所で昼間働いて夕方帰って来てから岡野さんに坐ってもらった。日曜は休みなので朝から勢いこんで作った。七八寸位の小さなものであった。それを石膏《せっこう》型にとって岡野さんは帰朝される時持ちかえられたが、帰国後石膏に斑点《はんてん》が出たという通知があった。その頃はその人に肖《に》せる事だけがやっとの事で彫刻としての面白さなどはまるで無いものであったろうと思われる。「兄貴に似ている」と岡野さんが言われたので、それなら他人と間違えられる事もあるまいと思って稍《やや》安心した事を記憶している。令兄は法学博士岡野啓次郎氏という事であった。岡野昇さんは鉄道線路とシグナルとの設計見学に外遊せられていたのであったが、其頃の大宮駅の線路は同氏の設計らしく、引込線を錆《さ》びさせないように苦心するのだと常に言って居られた。ボストン停車場の線路はいいという事だったので、後日ボストンに行った時その線路の配置を注意して見たが自分にはさっぱり分らなかった。岡野さんは実に頭のいい人で何でもてきぱきと分った。余程以前に一種のブレイン トラストのようなものを組織せられた事があると記憶する。今もむろん健在の事と思うが、私のあの胸像はどうなっているかしらと時として思い出す。

 私は外国に居る間、外に肖像を作らなかった。日本に帰ってから丁度父光雲の還暦の祝があり、門下生の好意によって私がその記念胸像を作ることになった。まるで新帰朝の私の彫刻技術を父の門下生等に試験されるようなものであった。はじめ作って一同の同意を得たものは石膏型になってから急にいやになり、一週間ばかりで二度目の胸像を作り、この方を鋳造した。「世界美術全集」などに出ている写真はこの胸像であり、当時一般から彫刻の新生面と目されたのであるが、この胸像は実物の彫刻よりも写真の方がよい位で、甚だ見かけ倒しの作だと今では思っているので、そのうち鋳つぶしてしまう気でいる。父の胸像はその後一二度小さなのを作った事があり、死後更に決定版的に一つ作った。これは昭和十年の一周忌に作り上げた。今上野の美術学校の前庭に立っている。この肖像には私の中にあるゴチック的精神と従ってゴチック的表現とがともかくも存在すると思っている。肩や胸部を大きく作らなかったのは鋳造費用の都合からの事であり、彫刻上の意味からではない。亡父の事を人はよく容貌|魁偉《かいい》というが、どちらかというと派手で、大きくて、厚肉で、俗な分子が相当あり、なかなか扱いにくい首である。私は父の中にある一ばん精神的なものを表現する事につとめたつもりである。

 私が日本へ帰ってから初めて人にたのまれて肖像を作ったのは園田孝吉男の胸像であった。相州二の宮の園田男別邸へ写生に行ったり、その著書「赤心一片」を精読したりしてほぼ見当をつけて作った。男は長く十五銀行の頭取だった人で、戦時献金運動の早期主唱者であった。その当時は最善を尽したのだが今日見ると製作にまだ疎漏なものがある。大震災の時男は二の宮邸で亡くなられたが、震災後、東京の邸宅でその胸像を再び見る機会を得た。ブロンズの色が美しくなっていた。

 その後私は日本の彫刻界にあまり立ち交らないような事になったので、私自身に直接に註文してくる人はめったになかった。私が彫刻を作るという事を世人は知らない程であった。光雲翁はあとが続かないとよくみんなが言った。私は妻の智恵子の首を幾度でも作って勉強していたものの、金がとれないので、父の仕事の原型作りを常にやって生計の足しにしていた。父の依頼された肖像の原型を大小いろいろ作った。大半は忘れてしまった。十数箇年に亘る此の間の私の米櫃《こめびつ》仕事は、半分は父の意見に従い、半分は自分の審美判断に従った中途半端な、そういう原型物であった。折角苦心した肖像が父の仕事場で、星出し針で木彫に写される時むざんに歪められてしまうような事も少くなかった。松方正義老公の銀像、大倉喜八郎男夫妻の坐像、法隆寺貫主の坐像などが記憶にのこっている。松方老公のは助手として父に伴《つ》いていって三田の邸宅で写生した。老公は自分はビスマルクに似ていると人がいうと言って居られた。そして額の中央が特に高く隆起しているといって私に触らせてみせたりした。此の銀像は甚だ幼稚な出来であった。大倉男はあまり肖《に》ると機嫌が悪かった。こせこせ写生などするようでは駄目だと言われた。当時蒙古方面の踏査から帰られたばかりで颯爽《さっそう》として居た。私は何と言われても叮嚀《ていねい》に写生して帰って来た。法隆寺貫主には父の宅でお目にかかり、写真をとらせてもらい、其を参考にして油土で等身大の原型を作った。これは木彫に写された時大変違ってしまった。曾《かつ》て帝展に出品されたのがその木像である。貫主のような清浄な、静かな、深さのある人の肖像を自分の思い通りに製作したいなと思いながら、結局父の木彫に都合のいいように作った。父の仕事の下職としては随分愚劣なものもかなり作った。

 その年月の間に私はアメリカ行を計画してその資金獲得のために彫刻頒布会を発表したが入会者があまり少くて、物にならずに終った。モデルを十分使って勉強する事も出来ないので智恵子がしばしばモデルになった。彼女のからだは小さかったが比例がよくて美しかった。
 彫刻頒布会を発表した頃、日本女子大学の桜楓会から校長成瀬仁蔵先生の胸像をたのまれた。丁度先生はその時永眠せられてしまった。お目にかかったのも逝去数旬前の病床に於いてであった。この胸像はなかなか出来上らず、毎年一個平均ぐらいに原型を作っては壊し、大震災の午前十一時五十八分四十五秒も丁度その胸像をいじっている時であった。その胸像は先生の十七回忌の年にやっと出来上って目白の講堂に納めた。長くかかったわりに思うように良く出来なかったので恥かしく感じた。その時代に中野秀人君や黄瀛《コウエイ》君や住友芳雄君の首も作った。住友君のが一ばん良かった。

 今美術学校と黒田記念館とにある黒田清輝先生の胸像は二三年かかって其後つくった。これは黒田先生を学生時代によく見ていたので作りよかった。先生の頭蓋《ずがい》の形の特異さが殊に彫刻的に面白かった。所謂《いわゆる》法然《ほうねん》あたまである。この頃から私もだんだん彫刻性についての自分自身の会得に或る信念を持つようになった。

 この胸像が出来てから間もなく、智恵子の頭脳が変調になった。それからは長い苦闘生活の連続であった。その病気をどうかして平癒せしめたいと心を砕いてあらゆる手を尽している期間に、松戸の園芸学校の前校長だった赤星朝暉翁の胸像を作った。これも精神異状者を抱えながらの製作だったので思ったよりも仕事が延びた。智恵子の病勢の昂進《こうしん》に悩みながら其を製作していた毎日の苦しさは今思い出しても戦慄《せんりつ》を感ずる。智恵子は到頭自宅に置けないほどの狂燥状態となり、一方父は胃潰瘍《いかいよう》となり、その年父は死去し、智恵子は転地先の九十九里浜で完全な狂人になってしまった。私はその頃の数年間家事の雑務と看病とに追われて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過した。私自身がよく狂気しなかったと思う。其時世人は私が彫刻や詩作に怠けていると評した。やがて智恵子を病院に入れてから、朝夕智恵子の病状に気を引かれながらも少しずつ製作が出来るようになり、父の一周忌にその胸像を完成した。それから九代目団十郎の首を作りはじめたが、九分通り出来上るのと、智恵子の死とが一緒に来た。団十郎の首の粘土は乾いてひび割れてしまった。今もそのままになっているが、これはもう一度必ず作り直す気でいる。西蔵《チベット》学者河口慧海先生の首や坐像を記録的に作ったのもその頃である。今年はお許を得て木暮理太郎先生の肖像にかかりはじめているが未完成の事だから多くを語り得ない。

 彫刻家生活をつづけて居て、今最も残念に思うのは、西園寺公の肖像を作る機会を逸してしまった事である。父の生きているうちなら何とか方法もあったと思うのに、今となっては老公も亦年をとられてしまったし、又一介の在野の彫刻家としての私にはどうする事も出来ない次第である。政治家の面貌を見て彫刻的昂奮を感ずる事はめったにないのだが、西園寺公だけは以前から作りたかった。その風貌に深さと味いと豊かさと気品とが備っていて、存分に打ちこんで仕事が出来ると思っていた。公の風貌の日本的、東洋的なものには大きさがあり、高さがあり、こまかさがあり、汲み尽せないような奥の深い陰影があり、世界に示すに足りると思うのである。こういう方の在世時代に自分も生きていながら、ついにその彫刻を作り得ずにしまう事はのこり惜しいが是非もない。こういう類の深と大とのある風貌の人は当分日本に生れそうもないような気がする。中華民国には或はあるかも知れないが、中華民国となると又すっかり特質の違ったものになる。

 私は智恵子の首を除いては女性の肖像をあまり作っていない。はるか以前に歌人の今井邦子女史の胸像をつくりかけたのに、途中で粘土の故障でこわれてしまったのは惜しかった。幸い写真だけは残っていて女史の随筆集の挿画になっている。女史の持つ精神の美と強さとが幾分うかがわれるかも知れない。あの首は大理石で完成するつもりで石まで用意してあったのである。これからは機会を捉えて日本女性の新鮮な美を肖像としてたくさん作って置きたい。一体に女性のよい肖像彫刻は思ったよりも少い。これは美しく作るという成心を作者が持ち易いためではないかと思う。ロダンのノアイユ夫人などは最も優れた作の方で、この高雅な女流詩人の精神と肉体との美が遺憾なく表現されていて、それを見ていると人間の誇を感ずる。私は出来れば日本女性の簡潔な、地についた美が作りたい。お手本になってくれる人がたくさんあればいいと思う。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
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高村光太郎

詩について語らず ――編集子への手紙―― 高村光太郎

 詩の講座のために詩について書いてくれというかねての依頼でしたが、今詩について一行も書けないような心的状態にあるので書かずに居たところ、編集子の一人が膝づめ談判に来られていささか閉口、なおも固辞したものの、結局その書けないといういわれを書くようにといわれてやむなく筆をとります。
 ところが、書けないといういわれを書こうとするとこれが又なかなか書けません。なぜ書けないかがはっきり分るくらいなら、当然それは書けるわけであり、本当はただいわれ知らずに書けないのだという外はないのでしょう。
 詩は書いていながら、詩そのものについて語ることが今どうしても出来ないのです。どうしてでしょう。以前には断片的ながら詩について書いたこともありましたが、詩についてだんだんいろいろの問題が心の中につみ重なり、複雑になり、却《かえっ》て何も分らなくなってしまった状態です。今頃になってますます暗中|摸索《もさく》という有様なのです。
 元来私が詩を書くのは実にやむを得ない心的衝動から来るので、一種の電磁力|鬱積《うっせき》のエネルギー放出に外ならず、実はそれが果して人のいう詩と同じものであるかどうかさえ今では自己に向って確言出来ないとも思える時があります。明治以来の日本に於ける詩の通念というものを私は殆と踏みにじって来たといえます。従って、藤村――有明――白秋――朔太郎――現代詩人、という系列とは別個の道を私は歩いています。詩という言葉から味われるあの一種の特別な気圧層を私は無視しています。私は生活的断崖の絶端をゆきながら、内部に充ちてくる或る不可言の鬱積物を言語造型によって放電せざるを得ない衝動をうけるのです。このものは彫刻絵画の本質とは全く違った方向の本質を持っていて、現在の芸術中で一ばん近いものを探せば、恐らく音楽だろうと考えますが、不幸にして私は音楽の世界を寸毫《すんごう》も自分のものにしていないので、これはどうすることも出来ず、やむなく言語による発散放出に一切をかけている次第です。実は言語の持つ意味が邪魔になって、前に述べた鬱積物の真の真なるところが本当は出しにくいのです。バッハのコンチェルトなどをきいてひどくその無意味性をうらやましく思うのです。言語による以上、言語の持つ意味を回避するのは言語に対する遊戯に陥る道と考えるので、その意味をむしろ媒体として、その媒体によって放電作用を行うというわけです。それからさきの方法と技術と、その結果としての形式と、その発源としての感覚領域とについては今なおいろいろと研鑽《けんさん》中の始末で、これが又、日本語という特殊な国語の性質上、実に長期の基本的研究と、よほど視力のきいた見通しとを必要とするので、なかなか生半可な考え方に落ちつくわけにゆきません。ともかく私は今いわゆる刀刃上をゆく者の境地にいて自分だけの詩を体当り的に書いていますが、その方式については全く暗中摸索という外ありません。いつになったらはっきりした所謂《いわゆる》詩学《ポエチイク》が持てるか、そしてそれを原則的の意味で人に語り得るか、正直のところ分りません。
 私は以上のような者であり、又以上のような場に居ます。これで今私が詩について書けないといういわれを書いたことになるでしょうか。ともかくもこの通りです。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
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高村光太郎

山の雪—— 高村光太郎

 わたしは雪が大好きで、雪がふってくるとおもてにとび出し、あたまから雪を白くかぶるのがおもしろくてたまらない。
 わたしは日本の北の方、岩手県の山の中にすんでいるので、十一月ごろからそろそろ雪のふるのを見ることができ、十二月末にはもういちめんにまっしろになったけしきをまいにち見る。このへんでは、平均一メートルくらいしかつもらないけれども、小屋の北がわでは屋根までとどき、地めんのくぼみなどでは人間の胸くらいまでつもる。
 わたしの小屋は村の人たちのすんでいるところから四百メートルほど山の方にはなれていて、まわりに一けんも家はなく、林や野はらや、少しばかりの畑などがあるだけで、雪がつもるとどちらを見てもまっしろな雪ばかりになり、人っこひとり見えない。むろん人のこえもきこえず、あるく音もきこえない。小屋の中にすわっていると、雪のふるのは雨のように音をたてないから、世界じゅうがしずかにしんとしてしまって、つんぼになったような気がするくらいだが、いろりでもえる薪がときどきぱちぱちいったり、やかんの湯のわく音がかすかにきこえてくる。そういう日が三ヶ月もつづく。
 一メートルくらいつもった雪はあるきにくいから人も小屋にたずねてこない。あけてもくれてもひとりでいろりに火をもしながら、食事をしたり、本をよんだり、仕事をしたりしているが、そんなにながくひとりでいるとなんだか人にあいたくなる。人でなくてもいいから何か生きているものにあいたくなる。鳥でもけだものでもいいからくればいいとおもう。
 そういう時にわたしをよろこばせるのは山のキツツキだ。キツツキは夏はこないが、秋のころから冬にかけてこのへんにすんでいてときどき小屋をつつきにくる。小屋のそとの柱や、棒ぐいや、つんである薪などをつついて中にいる虫をたべるらしい。その音がなかなか大きく、こつこつこつこつとせっかちにきこえる。まるでお客がノックするような感じで、おもわず返事がしたくなる。つつく場所によってとんとんとんとんともきこえ、しばらくすると大きな羽音をさせて又べつの柱にゆく。虫がいましたかときいてみようとしているうちに、キョッというような小さな鳴きごえを出してとんでいってしまう。小屋の前にある栗の木のみきをしきりにたたいているのを見ると、頭のすこし赤いアオゲラというキツツキや、白いぶちが黒い羽についていて腹の赤いアカゲラというのが多いようだ。キツツキのほかには何の小鳥か、朝はやくや、夕方うすぐらくなるころ、のきしたにつるしてあるいろいろの青ものの実や、草の実をついばみにくる小鳥がいる。朝まだねている時、障子のそとでとびまわるその羽の音が、まるで枕もとでとんでいるように近くきこえる。なんだかかわゆらしい。わたしは小鳥におこされて、目をこすりながらおきあがる。キジやヤマドリは秋には多く見かけるが雪がふるとあまりこない。遠くの沼にはカモがおりて鳴きごえだけがよくきこえる。
 生きものといえば、夜になるとネズミがくる。ジネズミというのか、ハツカネズミか、ふつうのイエネズミよりも小さくて、人をおそれないネズミがはるばる雪の上を遠くからかよってくる。わたしの坐っているまわりをはしりながら、たたみにこぼれているものをひろってたべる。紙につつんでわきにおいてあるパンをたべようとして紙をくわえてひっぱる。わたしが手でたたみをたたくとびっくりしたような顔をして、とんぼがえりをして又ひっぱる。こんなに人なつこいと、アンツウでころす気にもなれない。このネズミは朝はどこかへかえっていって夜だけくる。
 山のけものは多く夜の間に出てあるく。朝になってみると、いちめんの白い雪の上にたくさんその足あとがのこっている。いちばん多いのはヤマウサギの足あとで、これはだれにでもすぐわかる。いなかにすんでいた人は知っているだろうが、ウサギの足あとは、ほかのけもののとちがって、おもしろい形をしている。ちょうどローマ字のTのような形で、前の方によこに二つならんで大きな足あとがあり、そのうしろに、たてに二つの小さな足あとがある。うしろにあるたての小さい二つがウサギの前あしで、前の方にある大きいよこならびの二つがウサギの後あしである。ウサギの後あしは前あしよりも大きく、あるく時、前あしをついて、ぴょんととぶと大きな後あしが、前あしよりも前の方へ出るのである。このおもしろい足あとが雪の上に曲線をかいてどこまでもつづく。その線がいく本もあちらにもこちらにもある。小屋のそとの井戸のへんまできていることもある。井戸のあたりにおいた青ものや、くだものをたべにきたものと見える。
 そのウサギをとりにキツネがくる。キツネは小屋のうしろの山の中にすんでいて、夜になるとこのへんまで出てくる。キツネの足あとはイヌのとはちがう。イヌのは足あとが二列にならんでつづいているが、キツネのは一列につづいている。そしてうしろの方へ雪がけってある。つまり女の人がハイヒールのくつでうまくあるくように、一直線上をあるく。四本のあしだから、なかなかむずかしいだろうとおもうが、うまい。キツネはおしゃれだなあとおもう。じっさい夕日をあびてあるいているところを見ると、毛が金いろに光って、尾をながくなびかせ、腹の方は白いように見えてきれいである。いちど鳥のようなものをくわえて小屋のまえの畑をあるいていったのを見たが、キツネがあるくと、カラスがいればさわいで鳴くからじきわかる。キツネの口はなかなか力があって、この秋、ある家の山羊が死んだところ、夜の間にキツネがそれをくわえて持っていってしまったと、その家の人がはなしていた。
 ウサギや、キツネのほかに、イタチの足あと、ネズミの足あと、ネコの足あと、みんなちがう。ネズミの足あとなどは、まるでゆうびん切手のミシンの線のようにきれいにこまかく、てんてんてんてんとつづいて、さいごに小屋のえんの下のところへきている。これは二列になっていて、雪がうしろへけってない。イタチのも二列。
 おもしろいのは人間の足あとで、ゴム靴でも、地下足袋《じかたび》でも、わらぐつでも、あるき方がひとりひとりちがうので、足あとをみると誰があるいたかたいていわかる。大またの人、小またの人、よたよたとあるく人、しゃんしゃんとあるく人、前のめりの人、そっている人、みなわかる。わたしの靴は十二文という大きさなので、これは村でもほかにないからすぐわかる。ゴム靴のうらのもようでもわかる。あるき方のうまい人や、まずい人があるが、雪の中では小またにこまかくあるく方がくたびれないといわれている。両足をよこにひらいてあるくのがいちばんくたびれるようだ。靴のかかとをまげる人のもくたびれそうだ。これはからだのまがっている人、内ぞうのどこかわるい人のだ。いちど、あまり大きな足あとがつづいているので、クマかと思っておどろいたら、「がんじき」というものをはいてあるいたあとだった。これは足が深く雪にもぐらないように、靴につけてはく道具である。「つまご」という大きなわらぐつも同じ役目をする。あまり深くてやわらかい雪の上は、立つと足がもぐるので、立ってあるかずに、雪の上をおよぐといいといってくれた人があるが、わたしにはできない。どうやっておよぐのかわからない。
 わたしは雪の中をあるくのが好きだが、あるきながら、いろいろの光線で雪を見るとうつくしい。足がふかくもぐるからあるきにくく、くたびれるので、ときどき雪の中へ腰をうずめてやすむ。眼の前にどこまでもつづく雪の平面を見ると、雪が五色か七色にひかっている時がある。うしろから日光がさすと、きらきらして無数の雪のけっしょうがみな光線をはねかえし、スペクトルというもののようになる。虹いろにこまかく光るから実にきれいだ。野はらをひろく平らにうずめた雪にも、ちょうど沙漠のすなにできるようなさざなみができて、それがほんとの波のように見えるが、光線のうらおもてで、色がちがう。くらい方は青びかりがするし、あかるい方はうすいだいだい色にひかり、雪は白いものとばかり思っていると、こんなにいろいろ色があるのでびっくりする。
 いちばんきれいなのは夜の雪である。夜でも雪はあかるいから、ほのぼのと何かが見える。そしていちめんに白くけむったようになってけしきが昼間とはたいへんちがってくる。ひろびろと奥ふかくみえて、まるでお伽話《とぎばなし》の世界のようになる。きれいはきれいだが夜の雪みちはあるくとあぶない。眼の前が光って、どこも同じように見えて方角がわからなくなる。わたしも小屋の近くの雪のはらで道にまよったことがある。まいにちあるいている道でも、どこかちがったところのようにみえ、あるいているうちにへんなところへいってしまった。やっと気がついてひきかえして、さんざん小屋をさがしてかえってきた。
 しずかな天気の時でもこんなだから、吹雪の夜などにはそとに出られない。昼間でも風がつよいと雪をまきあげて二三間さきも見えなくなる。まるで船がガスにまかれたようになってあるけないし、風がふきつけると息もできなくなる。わずか二三百メートルのところでもそうなんすることがあるわけだ。ふぶきの夜は小屋の中にとじこもって、いろりに火をたいて、風の音をきいている。風の音はまるで海の大波のように小屋の屋根の上をのりこして向うの野はらにぶつかる。うしろの山の遠くから風のくるのがきこえてきて、それの近づく様子は実におそろしいものである。それでもわたしの小屋はうしろに小さな山があるので風がじかにあたらないから助かっている。山がなかったら冬のつよい西風の吹雪にふきとばされてしまうだろう。
 雪が屋根の上にあつくつもると重たくなり、そのままにしておくと、春が近づいて雨がふった時、水をふくんでますます重くなって小屋がつぶれてしまう。それで一二度は雪おろしをする。大ていクリスマスの後あたりに一度やる。屋根へ上って平たいシャベルで雪をおろすと、窓の前に雪の小山ができる。わたしはいつも新年には国旗を立てるが、四角な紙にポスターカラーで赤いまんまるをかいて、それを棒のさきにのりではり、窓の前の雪の小山にその棒をさす。まっ白な雪の小山の上の赤い日の丸は実にきれいで、さわやかだ。空が青くはれているとなおさらうつくしい。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集第10巻」筑摩書房
   1958(昭和33)年3月10日初版第1刷発行
入力:kompass
校正:門田裕志
2006年11月20日作成
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