岡本綺堂

雪女—— 岡本綺堂

    

 O君は語る。

 大正の初年から某商会の満洲支店詰を勤めていた堀部君が足かけ十年振りで内地へ帰って来て、彼が満洲で遭遇した雪女の不思議な話を聞かせてくれた。
 この出来事の舞台は奉天《ほうてん》に近い芹菜堡子《ぎんさいほし》とかいう所だそうである。わたしもかつて満洲の土地を踏んだことがあるが、その芹菜堡子とかいうのはどんなところか知らない。しかし、それがいわゆる雲朔《うんさく》に近い荒涼たる寒村であることは容易に想像される。堀部君は商会の用向きで、遼陽《りょうよう》の支店を出発して、まず撫順《ぶじゅん》の炭鉱へ行って、それから汽車で蘇家屯へ引っ返して、蘇家屯かち更に渾河《こんが》の方面にむかった。蘇家屯から奉天までは真っ直ぐに汽車で行かれるのであるが、堀部君は商売用の都合から渾河で汽車にわかれて、供に連れたシナ人と二人で奉天街道をたどって行った。
 一月の末で、おとといはここでもかなりの雪が降った。きょうは朝から陰って剣《つるぎ》のように尖った北風がひゅうひゅうと吹く。土地に馴れている堀部君は毛皮の帽子を眉深《まぶか》にかぶって、あつい外套の襟に顔をうずめて、十分に防寒の支度を整えていたのであるが、それでも総身《そうみ》の血が凍るように冷えて来た。おまけに途中で日が暮れかかって、灰のような細かい雪が突然に吹きおろして来たので、堀部君はいよいよ遣《や》り切れなくなった。たずねる先は渾河と奉天との丁度まん中で、その土地でも有名な劉《りゅう》という資産家の宅であるが、そこまではまだ十七|清里《しんり》ほどあると聞かされて、堀部君はがっかりした。
 日は暮れかかる、雪は降って来る。これから満洲の田舎路を日本の里数で約三里も歩かせられては堪《た》まらないと思ったので、堀部君は途中で供のシナ人に相談した。
「これから劉の家までは大変だ。どこかそこらに泊めてもらうことは出来まいか。」
 供のシナ人は堀部君の店に長く奉公して、気心《きごころ》のよく知れている正直な青年であった。彼は李多《リートー》というのが本名であるが、堀部君の店では日本式に李太郎と呼びならわしていた。
「劉家《リューツェー》、遠いあります。」と、李太郎も白い息をふきながら答えた。「しかし、ここらに客桟《コーチェン》ありません。」
「宿屋は勿論あるまいよ。だが、どこかの家で泊めてくれるだろう。どんた穢《きたな》い家でも今夜は我慢するよ。この先の村へはいったら訊《き》いて見てくれ。」
「よろしい、判りました。」
 二人はだんだんに烈しくなって来る粉雪のなかを衝いて、俯向《うつむ》きがちにあえぎながら歩いて行くと、葉のない楊《やなぎ》に囲まれた小さい村の入口にたどり着いた。大きい木のかげに堀部君を休ませて置いて、李太郎はその村へ駈け込んで行ったが、やがて引っ返して来て、一軒の家を見つけたと手柄顔に報告した。
「泊めてくれる家《うち》、すぐ見付けました。家の人、たいそう親切あります。家は綺麗、不乾浄《プーカンジン》ありません。」
 縞麗でも穢くても大抵のことは我慢する覚悟で、堀部君は彼に誘われて行くと、それは石の井戸を前にした家で、ここらとしてはまず見苦しくない外構えであった。外套の雪を払いながら、堀部君は転《ころ》げるように門のなかへ駈け込むと、これは満洲地方で見る普通の農家で、門の中にはかなり広い空地がある。その左の方には雇人の住家らしい小さい建物があって、南にむかった正面のやや大きい建物が母屋《おもや》であるらしく思われた。
 李太郎が先に立って案内すると、母屋からは五十五、六にもなろうかと思われる老人が出て来て、こころよく二人を迎えた。なるほど親切な人物らしいと、堀部君もまず喜んで内へ誘い入れられた。家のうちは土竈《どべっつい》を据えたひと間をまん中にして、右と左とにひと間ずつの部屋が仕切られてあるらしく、堀部君らはその左の方の部屋に通された。そこはむろん土間で、南側と北側とには日本の床よりも少し高い寝床《ねどこ》が設けられて、その上には古びた筵《むしろ》が敷いてあった。土間には四角なテーブルのようなものが据えられて、木の腰掛けが三脚ならんでいた。
 老人は自分がこの家の主人であると言った。この頃はここらに悪い感冒がはやって、自分の妻も二人の雇人もみな病床に倒れているので碌々《ろくろく》にお構い申すことも出来ないと、気の毒そうに言訳をしていた。
「それにしても何か食わしてもらいたい。李太郎、お前も手伝ってなにか温かいものを拵《こしら》えてくれないか。」と、堀部君は寒気と疲労と空腹とにがっかりしながら言った。
「よろしい、よろしい。」
 李太郎も老人に頼んで、高梁《コーリャン》の粥《かゆ》を炊いてもらうことになった。彼は手伝って土竈の下を焚き始めた。その煙りがこちらの部屋まで流れ込んで来るので、堀部君は慌てて入口の戸を閉めたが、何分にも寒くて仕様がないので、再びその戸をあけて出て、自分も竃《へっつい》の前にかがんでしまった。
 老人が堀部君を歓待したのは子細《しさい》のあることで、彼は男女三人の子供をもっているが、長男は営口の方へ出稼ぎに行って、それから更に上海へ移って外国人の店に雇われている。次男は奉天へ行って日本人のホテルに働いている。そういう事情から、彼は外国人に対しても自然に好意をもっている。殊に奉天のホテルでは次男を可愛がってくれるというので、日本人に対しては特別の親しみをもっているのであった。その話をきいて、堀部君はいい家へ泊り合せたと思った。粥は高梁の中へ豚の肉を入れたもので、その煮えるのを待ちかねて四、五椀すすり込むと、堀部君のひたいには汗がにじみ出して来た。
「やれ、ありがたい。これで生き返った。」
 ほっと息をついて元の部屋へ戻ると、李太郎は竈の下の燃えさしを持って来て、寝床の煖炉《だんろ》に入れてくれた。老人も枯れた高梁の枝をかかえて来て、惜し気もなしに炉の中へたくさん押込んだ。
「多謝《トーシェー》、多謝。」
 堀部君はしきりに礼を言いながら、炉のあたたまる間、テーブルの前に腰をおろすと、老人も来ていろいろの話をはじめた。ここの家は主人夫婦と、ことし十三になる娘と、別棟に住んでいる雇人二人と、現在のところでは一家内あわせて五人暮らしであるのに、その三人が枕に就いているので、働くものは老人と小娘に過ぎない。仕事のない冬の季節であるからいいようなものの、ほかの季節であったらどうすることも出来ないと、老人は顔を陰らせながら話した。それを気の毒そうに聞いているうちに、外の吹雪はいよいよ暴れて来たらしく、窓の戸をゆする風の音がすさまじく聞えた。
 ここらの農家では夜も灯をともさないのが習いで、ふだんならば火縄を吊るしておくに過ぎないのであるが、今夜は客への歓待《かんたい》ぶりに一挺の蝋燭《ろうそく》がテーブルの上にともされている。その弱いひかりで堀部君は懐中時計を透かしてみると、午後六時を少し過ぎた頃であった。ここらの人たちはみな早寝であるが、堀部君にとってはまだ宵の口である。いくら疲れていても、今からすぐに寝るわけにもいかないので、幾分か迷惑そうな顔をしている老人を相手に、堀部君はまたいろいろの話をしているうちに、右の方の部屋で何かがたり[#「がたり」に傍点]という音がしたかと思うと、老人は俄《にわ》かに顔色を変えて、あわただしく腰掛けを起《た》って、その部屋へ駈け込んで行った。
 その慌て加減があまりに烈しいので、堀部君も少しあっけに取られていると、老人はなにか低い声で口早にいっているらしかったが、それぎり暫くは出て来なかった。
「どうしたんだろう。病人でも悪くなったのか。」と、堀部君は李太郎に言った。「お前そっと覗《のぞ》いてみろ。」
 ひとの内房を窺うというのは甚だよろしくないことであるので、李太郎は少し躊躇《ちゅうちょ》しているらしかったが、これも一種の不安を感じたらしく、とうとう抜き足をして真ん中の土間へ忍び出て、右の方の部屋をそっと窺いに行ったが、やがて老人と一緒にこの部屋へ戻って来た。老人の顔の色はまだ蒼ざめていた。
「病人、悪くなったのではありません。」と、李太郎は説明した。
 しかし彼の顔色も少し穏かでないのが、堀部君の注意をひいた。
「じゃ、どうしたんだ。」
「雪の姑娘《クーニャン》、来るかも知れません。」
「なんだ、雪の姑娘というのは……。」
 雪の姑娘――日本でいえば、雪女とか雪女郎とかいう意味であるらしい。堀部君は不思議そうに相手の顔を見つめていると、李太郎は小声で答えた。
「雪の娘――鬼子《コイツ》であります。」
「幽霊か。」と、堀部君もいよいよ眉《まゆ》を皺《しわ》めた。「そんか化け物が出るのか。」
「化け物、出ることあります。」と、李太郎は又ささやいた。「ここの家、三年前にも娘を取られました。」
「娘を取る……。その化け物が……。おかしいな。ほんとうかい。」
「嘘ありません。」
 なるほど嘘でもないらしい。死んだ者のように黙っている老人の蒼い顔には、強い強い恐怖の色が浮かんでいた。堀部君もしばらく黙って考えていた。

     

 雪の娘――幾年か満洲に住んでいる堀部君も、かつてそんな話を聞いたことはなかったが、今夜はじめてその説明を李太郎の口から聞かされた。
 今から三百年ほどの昔であろう。清《しん》の太祖が遼東一帯の地を斬り従えて、瀋陽《しんよう》――今の奉天――に都を建てた当時のことである。かずある侍妾《じしょう》のうちに姜氏《きょうし》といううるわしい女があって、特に太祖の恩寵を蒙っていたので、それを妬《ねた》むものが彼女に不貞のおこないがあると言い触らした。その相手は太祖の近臣で楊という美少年であった。それが太祖の耳に入って、姜氏と楊とは残酷な拷問をうけた。妬む者の讒言《ざんげん》か、それとも本当に覚えのあることか、その噂《うわさ》はまちまちでいずれとも決定しなかったが、ともかくも二人は有罪と決められて、楊は死罪に行なわれた。姜氏は大雪のふる夕、赤裸にして手足を縛られて、生きながらに渾河《こんが》の流れへ投げ込まれた。
 この悲惨な出来事があって以来、大雪のふる夜には、妖麗な白い女の姿が吹雪の中へまぼろしのように現われて、それに出逢うものは命を亡《うしな》うのである。そればかりでなく、その白い影は折りおりに人家へも忍び込んで来て、若い娘を招き去るのである。招かれた娘のゆくえは判らない。彼女は姜氏の幽魂に導かれて、おなじ渾河の水底へ押し沈められてしまうのであると、土地の者は恐れおののいている。その伝説は長く消えないで、渾河地方の雪の夜には妖麗幽怪な姑娘の物語が今もやはり繰返されているのである。現にここの家でも三年前、ちょうど今夜のような吹雪の夜に、十三になる姉娘を誘い出された怖ろしい経験をもっているので、おとといの晩もゆうべも、一家内は安き心もなかった。幸いにきょうは雪もやんだので、まずほっとしていると、夕方からまたもやこんな烈しい吹雪となったので、風にゆられる戸の音にも、天井を走る鼠の音にも、父の老人は弱い魂をおびやかされているのであった。
「ふうむ、どうも不思議だね。」と、堀部君はその奇怪な説明に耳をかたむけた。「じゃあ、ここの家ではかつて娘を取られたことがあるんだね。」
「そうです。」と、李太郎が怖ろしそうに言った。「姉も十三で取られました。妹もことし十三になります。また取られるかも知れません。」
「だって、その雪女はここの家ばかり狙うわけじゃあるまい。近所にも若い娘はたくさんいるだろう。」
「しかし美しい娘、たくさんありません。ここの家の娘、たいそう美しい。わたくし今、見て来ました。」
「そうすると、美しい娘ばかり狙うのか。」
「美しい娘、雪の姑娘に妬まれます。」
「けしからんね。」と、堀部君は蝋燭の火を見つめながら言った。「美しい娘ばかり狙うというのは、まるで我れわれのような幽霊だ。」
 李太郎はにっこりともしなかった。彼もこの奇怪な伝説に対して、すこぶる根強い迷信をもっているらしいので、堀部君はおかしくなって来た。
「で、昔からその白い女の正体をたしかに見届けた者はないんだね。」
「いいえ、見た者たくさんあります。あの雪の中に……。」と、李太郎は見えない表を指さした。「白い影のようなものが迷っています。そばへ近寄ったものはみな死にます。」
「それ以上のことは判らないんだね。で、その影のようなものは、戸が閉めてあっても、すうとはいって来るのか。」
「はいって来るときには、怖ろしい音がして戸がこわれます。戸を閉めて防ぐこと出来ません。」
「そうか。」と、堀部君は思わず声を立てて笑い出した。
 日本語の判らない老人は、びっくりしたように客の笑い顔をみあげた。李太郎も眼をみはって堀部君の顔を見つめていた。
「ここらにも馬賊はいるだろう。」と、堀部君は訊いた。
「馬賊《マーツェ》、おります。」と、李太郎はうなずいた。
「それだよ。きっとそれだよ。」と、堀部君はやはり笑いながら言った。「馬賊にも限るまいが、とにかくに泥坊の仕業だよ。むかしからそんな伝説のあるのを利用して、白い女に化けて来るんだよ。つまり幽霊の真似をして方々の若い娘をさらって行くのさ。その行くえの判らないというのは、どこか遠いところへ連れて行って、淫売婦か何かに売り飛ばしてしまうからだろう。美しい娘にかぎってさらわれるというのが論より証拠だ。ねえ、そうじゃないか。」
「そうでありましょうか。」と、李太郎はまだ不得心らしい眼色を見せていた。
「お前からここの主人によく話してやれよ。それは渾河に投げ込まれた女の幽霊でもなんでもない。たしかに人間の仕業に相違ない。たしかに泥坊の仕業で、幽霊のふりをして若い娘をさらって行くのだと……。いや、まったくそれに相違ないよ。昔は本当に幽霊が出たかも知れないが、中華民国の今日にそんなものが出るはずがない。幽霊がはいって来るときに、戸がこわれるというのも一つの証拠だ。何かの道具で叩きこわしてはいって来るのさ、ねえ、そうじゃあないか。ほんとうの幽霊ならば何処かの隙間《すきま》からでも自由にすっとはいって来られそうなものだのに、怖ろしい音をさせてはいって来るなどはどうも怪しいよ。それらを考えたら、幽霊の正体も大抵は判りそうなものだが……。」
 あっぱれ相手の蒙《もう》をひらいたつもりで、堀部君はここまでひと息にしゃべり続けたが、それは一向に手ごたえがなかった。李太郎は木偶《でく》の坊のようにただきょろりとして、こっちの口と眼の動くのを眺めているばかりで、なんともはっきりした返事をしないので、堀部君は少し焦《じ》れったくなって来た。今どきこんな迷信にとらわれて、あくまでも雪女の怪を信じているのかと思うと、情けなくもあり、ばかばかしくも感じられてならなかった。堀部君は叱るように彼を催促した。
「おい。そのことをここの主人に話して、早く安心させてやれよ。可哀そうに顔の色を変えて心配しているじゃないか。」
 叱られて、李太郎はさからわなかった。彼は主人の老人にむかって小声で話しかけた。堀部君もひと通りのシナ語には通じていたので、彼が正直に自分の意見を取次いでいるらしいのに満足して、黙って聞く人の顔色を窺っていると、老人は苦笑いをしてしずかにその頭《かしら》をふった。
「まだ判らないのか。馬鹿だな。」
 堀部君は舌打ちした。今度は直接に自分から懇々と言い聞かせたが、老人は暗い顔をしてただ薄笑いをしているばかりで、どうしても、その意見を素直には受け入れないらしいので、堀部君もいよいよ癇癪《かんしゃく》を起した。
「もう勝手にするがいい。いくら言って聞かせても判らないんだから仕方がない。こんな人間だから大事の娘がさらって行かれるんだ。ばかばかしい。」
 こっちの機嫌が悪いらしいので、老人は気の毒そうに黙ってしまった。李太郎も手持ち不沙汰のような形でうつむいていた。
「李太郎。もう寝ようよ。雪女でも出て来るといけないから。」と、堀部君は言いだした。
「寝る、よろしい。」
 李太郎もすぐに賛成した。老人は挨拶して、自分の部屋の方へ帰った。寝床のむしろを探ってみると、煖炉は丁度いい加減に暖まっているので、堀部君は靴をぬいで寝床へ上がって毛織りの膝掛けを着てごろ寝をしてしまった。李太郎はもう半分以上も燃えてしまった蝋燭の火を細い火縄に移して、それからその蝋燭を吹き消した。火縄は蓬《よもぎ》の葉を細く縒合《よりあわ》せたもので、天井から長く吊り下げてあった。
 疲れている堀部君は暖かい寝床の上でいい心持に寝てしまったが、自分の頭の上にある窓の戸を強くゆするような音におどろかされて眼を醒ました。部屋のうちは真っ暗で、細い火縄の火が秋の蛍のように微かに消え残っているばかりである。むこう側の寝床の上には、李太郎が鼾《いびき》を立てて寝入っているらしかった。耳をすまして窺うと、家のうちはしィんとして鼠の走る音も聞えなかったが、表の吹雪はいよいよ吹き暴れて来たらしく、浪のような音を立ててごうごうと吹き寄せていた。窓の戸の揺れたのはこの雪風であることを堀部君はすぐに覚《さと》った。満洲の雪の夜、その寒さと寂しさとには馴れていながらも、堀部君はなんだか眼がさえて再び寝つかれなくなった。
 床の上に起き直って、堀部君はマッチをすって、懐中時計を照らしてみると、今夜はもう十二時に近かった。ついでに巻煙草をすいつけて、その一本をすい終った頃に、烈しい吹雪はまたどっと吹き寄せて来て、窓の戸を吹き破られるかと思うように、がたがたとあおられた。宵の話を思い出して、かの雪女が闖入《ちんにゅう》して来る時には、こんな物音がするかも知れないなどと堀部君は考えた。そうして、またもや横になったが、一旦さえた眼はどうしても合わなかった。
「なぜだろう。」
 自分は有名の寝坊で、いつも朋輩《ほうばい》たちに笑われているくらいである。なんどきどんな所でも、枕につけばきっと朝までは正体もなく寝てしまうのが例であるのに、今夜にかぎって眠られないのは不思議である。やはりかの雪女の一件が、頭のなかで何かの邪魔をしているのではあるまいか。俺もだんだんシナ人にかぶれて来たかと、堀部君は自分で自分の臆病をあざけったが、また考えてみると、幽霊よりも馬賊の方が恐ろしい。幽霊などは初めから問題にならないが、馬賊は何をするか判らない。日本人が今夜ここに泊り込んだのを知って、夜なかに襲って来ないとも限らない。堀部君は提げ鞄《かばん》からピストルを探り出して、枕もとにおいた。こうなるといよいよ眠られない。いや、眠られない方が本当であるかも知れないと思い直して、堀部君は寝床の上に起き直ってしまった。
 寝しずまった村の上に吹雪は小やみもなしに暴れ狂っていた。夜がふけて煖炉の火もだんだん衰えたらしく、堀部君は何だかぞくぞくして来たので、探りながら寝床を這《は》い降りて、まん中の土間へ焚き物の高梁《コーリャン》を取りに行った。土間の隅にはかの土竈《どべっつい》があって、そのそばには幾束の高梁が積み重ねてあることを知っているので、堀部君は探り足でその方角へ進んで行くと、切株の腰掛けにつまずいて危うく転びそうになったので、あわててマッチをすると、その火は物に掴《つか》まれたようにふっと消えてしまった。
 その一|刹那《せつな》である。入口の戸にさらさらと物の触れるような音がきこえた。

     

 暗いなかで耳を澄ますと、それは細かい雪の触れる音らしいので、堀部君は自分の神経過敏を笑った。しかもその音は続けてきこえるので、堀部君はなんだか気になってならなかった。さっきから吹きつけている雪の音は、こんなに静かな柔かいものではない。気のせいか、何者かが戸の外へ忍んで来て内を窺っているらしくも思われるので、堀部君はぬき足をして入口の戸のそばへ忍んで行った。戸に耳を押し付けてじっと聞き澄ますと、それは雪の音ではない。どうも何者かがそこに佇《たたず》んでいるらしいので、堀部君はそっと自分の部屋へ引っ返して、枕もとのピストルを掴んだ。それから小声で李太郎を呼び起した。
「おい、起きろ、起きろ。李太郎。」
「あい、あい。」と、李太郎は寝ぼけ声で答えたが、やはりすぐには起き上がりそうもなかった。
「李太郎、早く起きろよ。」と、堀部君はじれて揺り起した。「雪女が来た。」
「あなた、嘘あります。」
「嘘じゃない、早く起きてくれ。」
「ほんとうありますか。」ど、李太郎はあわてて飛び起きた。
「どうも戸の外に何かいるらしい。僕も一緒に行くから、戸をあけてみろ。」
「いけません、いけません。」と、李太郎は制した。「あなた、見ることよろしくない。隠れている、よろしい。」
 暗がりで顔は見えないが、その声がひどくふるえているので、かれが異常の恐怖におそわれているらしいのが知られた。堀部君はその肩のあたりを引っ掴んで、寝床から引きずりおろした。
「弱虫め。僕が一緒に行くから大丈夫だ。早くしろ。」
 李太郎は探りながら靴をはいて、堀部君に引っ張られて出た。入口の戸は左右へ開くようになっていて、まん中には鍵がかけてあった。そこへ来て、また躊躇《ちゅうちょ》しているらしい彼を小声で叱り励まして、堀部君はその扉をあけさせた。李太郎はふるえながら鍵をはずして、一方の扉をそっと細目にあけると、その隙間から灰のような細かい雪が眼つぶしのようにさっと吹き込んで来た。片手にはピストル、片手はハンカチーフで眼をぬぐいながら、堀部君は扉のあいだから表を覗くと、外は一面に白かった。
 どちらから吹いて来る風か知らないが、空も土もただ真っ白な中で、そこにもここにも白い渦が大きい浪のように巻き上がって狂っている。そのほかにはなんの影も見えないので、堀部君は案に相違した。なんにも居ないらしいのに安心して、李太郎は思い切ってその扉を大きく明けると、氷のように寒い風が吹雪と共に狭い土間へ流れ込んで来たので、ふたりは思わず身をすくめる途端に、李太郎は小声であっ[#「あっ」に傍点]と言った。そうして、力いっぱいに堀部君の腕をつかんだ。
「あ、あれ、ごらんなさい。」
 彼が指さす方角には、白馬が跳《おど》り狂っているような吹雪の渦が見えた。その渦の中心かと思うところに更に、いつそう白い影がぼんやりと浮いていて、それは女の影であるらしく見えたので、堀部君もぎょっとした。ピストルを固く握りしめながら、息を殺して窺っていると、女のような白い影は吹雪に揉まれて右へ左へただよいながら、門内の空地《あきち》をさまよっているのであった。雪煙りかと思って堀部君は眼を据えてきっと見つめていたが、それが煙りかまぼろしか、その正体をたしかめることが出来なかった。しかし、それが人間でないことだけは確かであるので、馬賊の懸念はまず消え失せて、堀部君もピストルを握った拳《こぶし》がすこしゆるむと、家のなかから又もや影のように迷い出たものがあった。
 その影は二人のあいだをするりと摺りぬけて、李太郎のあけた扉の隙間から表へふらふらと出ていった。
「あ、姑娘《クーニャン》。」と、李太郎が小声でまた叫んだ。
「ここの家《うち》の娘か。」
 あまりの怖ろしさに李太郎はもう口がきけないらしかった。しかしそれが家の娘であるらしいことは容易に想像されたので、堀部君はピストルを持ったままで雪のなかへ追って出ると、娘の白い影は吹雪の渦に呑まれて忽《たちま》ち見えなくなった。
「早く主人に知らせろ。」
 李太郎に言い捨てて、堀部君は強情に雪のなかを追って行くと、門のあたりで娘の白い影がまたあらわれた。と思うと、それは浪にさらわれた人のように、雪けむりに巻き込まれて門の外へ投げやられたらしく見えた。門は幸いに低いので、堀部君は半分夢中でそれを乗り越えて、表の往来まで追って出ると、娘の影は大きい楊《やなぎ》の下にまた浮き出した。
「姑娘、姑娘。」と、堀部君は大きい声で呼んだ。「上那児去《シャンナールチユイ》。」
 どこへ行く、などと呼びかけても、娘の影は見返りもしなかった。それは風に吹きやられる木の葉のように、何処《どこ》ともなしに迷って行くらしかった。
 それでも姑娘を呼びつづけて七、八|間《けん》ほども追って行くと、又ひとしきり烈しい吹雪がどっと吹きまいて来て、堀部君はあやうく倒されそうになったので、そこらにある楊に取り付いてほっとひと息ついた時に、堀部君はさらに怪しいものを見せられた。それはさっき門内の空地にさまよっていた女のような白い影で、娘よりも二、三歩さきに雪のなかを浮いて行くと、娘の影はそれにおくれまいとするように追って行くのであった。うず巻く雪けむりの中にその二つの白い影が消えてあらわれて、よれてもつれて、浮くかと思えば沈み、たゆとうかと思えばまた走って、やがて堀部君の眼のとどかない所へ隠れてしまった。
 もう諦めて引っ返して来ると、内には李太郎が蝋燭をとぼして、恐怖に満ちた眼色をしてぼんやりと突っ立っていた。
「姑娘はどうした。」と、堀部君はからだの雪を払いながら訊いた。
「姑娘、おりません。」
 堀部君はさらに右の方の部屋をたずねると、主人の老人は寝床から這い落ちたらしい妻を抱えて、土間の上に泣き倒れていた。娘らしい者の姿は見えなかった。

 話はこれぎりである。堀部君はあくる朝そこを発って、雪の晴れたのを幸いに、三里ほどの路をたどって劉の家をたずねると、その一家でもゆうべの話をきいて、みな顔色を変えていたそうである。ここらの者はすべて雪女の伝説を信じているらしいということであった。もし堀部君に探偵趣味があり、時間の余裕があったらば、進んでその秘密を探り究めることが出来たかも知れなかったが、不幸にして彼はそれだけの事実をわたしに報告してくれたに過ぎなかった。

底本:「鷲」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「子供役者の死」隆文館
   1921(大正10)年3月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

火薬庫—— 岡本綺堂

 例の青蛙堂主人から再度の案内状が来た。それは四月の末で、わたしの庭の遅桜も散りはじめた頃である。定刻の午後六時までに小石川の青蛙堂へ着到《ちゃくとう》すると、今夜の顔ぶれはこの間の怪談会とはよほど変わっていた。例によって夜食の御馳走になって、それから下座敷の広間に案内されると、床の間には白い躑躅《つつじ》があっさりと生けてあるばかりで、かの三本足の蝦蟆《がま》将軍はどこへか影をひそめていた。紅茶一杯をすすり終った後に、主人は一座にむかって改めて挨拶した。
「先月第一回のお集まりを願いました節は、あいにくの雪でございましたが、今晩は幸いに晴天でまことに結構でございました。今晩お越しを願いました皆様のうちには、前回とおなじお方もあり、また違ったお顔も見えております。そこで、こう申上げると、わたくしは甚《はなは》だ移り気な、あきっぽい人間のように思召《おぼしめ》されるかも知れませんが、わたくしは例の怪談研究の傍らに探偵方面にも興味を持ちまして、この頃はぼつぼつその方面の研究にも取りかかっております。もちろんそれも怪談に縁のないわけではなく、いわゆる怪談と怪奇探偵談とは、そのあいだに一種の連絡があるようにも思われるのでございます。わたくしが探偵談に興味を持ち始めましたのも、つまりは怪談から誘い出されたような次第でありまして、あながちに本来の怪談を見捨てて、当世《とうせい》流行の探偵方面に早変りをしたというわけでもございませんから、どうぞお含み置きを願いたいと存じます。就きましては、今晩は前回と違いまして、皆様から興味の深い探偵物語をうけたまわりたいと希望しておりますのでございますが、いかがでございましょうか。」
 青蛙堂鬼談が今夜は青蛙堂探偵談に変ろうというのである。この注文を突然に提出されて、一座十五、六人はしばらく顔を見合せていると、主人はかさねて言った。
「もちろん、ここにお集まりのうちに本職の人のいないのは判っておりますから、当節のことばでいう本格の探偵物語を伺いたいと申すのではございません。今晩は単に一種の探偵趣味の会合として、そういう趣味に富んだお話をきかして下さればよろしいので、なにも人殺しとか泥坊とかいうような警察事故に限ったことではないのでございます。そこで、どなたからと申すよりも、やはり前回の先例にならいまして、今晩もまず星崎さんから口切りを願うわけにはまいりますまいか。」
 星崎さんは前回に「青蛙神」の怪を語った人である。名ざしで引出されて、頭をかきながらひと膝ゆすり出た。
「では、今夜もまた前座を勤めますかな。なにぶん突然のことで、面白いお話も思い出せないのですが……。わたしの友人に佐山君というのがおります。現在は××会社の支店長になって上海《シャンハイ》に勤めていますが、このお話――明治三十七年の九月、日露戦争の最中で、遼陽《りょうよう》陥落の公報が出てから一週間ほど過ぎた後のことです。――の当時はまだ二十四、五の青年で、北の地方の某師団所在地にある同じ会社の支店詰めであったそうで、勿論、その地位もまだ低い、単に一個の若い店員に過ぎなかったのです。××会社はその頃、その師団の御用をうけたまわって、何かの軍需品を納めていたので、戦争中は非常に忙がしかったそうです。佐山君は学校を出たばかりで、すぐにこの支店に廻されて、あまりに忙がしいので一時は面くらってしまったが、それもだんだんに馴れて来て、ようよう一人前の役目がまずとどこおりなく勤められるようになった頃に、この不思議な事件が出来《しゅったい》したのですから、そのつもりでお聞きください。」
 こういう前置きをして、彼はかの佐山君と火薬庫と狐とに関する一|場《じょう》の奇怪な物語を説き出した。

     一

 遼陽陥落の報知は無論に歓喜の声をもって日本じゅうに迎えられたが、殊に師団の所在地であるだけに、ここの気分はさらに一層の歓喜と誇りとをもって満たされた。盛大な提灯行列が三日にわたって行なわれて、佐山君の店の人たちも疲れ切ってしまうほどに毎晩提灯をふって歩きつづけた。声のかれるほどに万歳を叫びつづけた。そのおびただしい疲労のなかにも、会社の仕事はますます繁劇《はんげき》を加えるばかりで、佐山君らはほとんど不眠不休というありさまで働かされた。
 けさも朝から軍需品の材料をあつめるために、町から四里ほども距《はな》れている近在を自転車で駈けずりまわって、日の暮れる頃に帰って来ると、もう半道《はんみち》ばかりで町の入口に行き着くというところで、自転車に故障ができた。田舎道をむやみに駈け通したせいであろうと思ったが、途中に修繕を加える所はないので、佐山君はよんどころなしにその自転車を引摺りながら歩き出した。この頃の朝夕はめっきりと秋らしくなって、佐山君がくたびれ足をひきながらたどって来る川べりには、ほの白い蘆《あし》の穂が夕風になびいていた。佐山君は柳の立木に自転車をよせかけて、巻煙草をすいつけた。
「そんなに急いで帰るにも及ぶまい。おれは今日だけでもほかの人たちの三倍ぐらいも働いたのだ。」
 こんな自分勝手の理屈を考えながら、佐山君は川柳の根方《ねかた》に腰をおろして、鼠色の夕靄《ゆうもや》がだんだんに浮き出してくる川しもの方をゆっくりと眺めていた。川のむこうには雑木林に深くつつまれた小高い丘が黒く横たわって、その丘には師団の火薬庫のあることを佐山君は知っていた。そうして、その火薬庫付近の木立《こだち》や草むらの奥には、昼間でも狐や狸が時どきに姿をあらわすということを聞いていた。
 煙草好きの佐山君は一本の煙草をすってしまって、さらに第二本目のマッチをすりつけた時に、釣竿を持った一人の男が蘆の葉をさやさやと掻き分けて出て来た。ふと見るとそれは向田大尉であった。佐山君はほとんど毎日のように師団司令部に出入りするので、監理部の向田大尉の顔をよく見識っていた。
「今晩は……。」と、佐山君は起立して、うやうやしく敬礼した。
 大尉はたしかにこっちをじろりと見返ったらしかったが、そのまま会釈《えしゃく》もしないで行ってしまった。佐山君は自分に答礼されなかったという不愉快よりも、さらに一種の不思議を感じた。この戦時の忙がしい最中に、大尉が悠々と釣りなどをしているのもおかしい。殊に大尉は軍人にはめずらしいくらいの愛想《あいそ》のよい人で、出入りの商人などに対してもいつも丁寧に応対するというので、誰にもかれにも非常に評判のよい人である。その大尉殿が毎日のように顔を見合せている自分に対して、なんの挨拶もせずに行き過ぎてしまったのは、どうもおかしい。うす暗いので、もしや人違いをしたのかとも思ったが、マッチの火にうつった男の顔はたしかに向田大尉に相違ないと、佐山君は認めた。
「わざと知らぬ顔をしていたのかも知れない。」
 大尉は忙がしい暇をぬすんで、自分の好きな魚釣りに出て来た。そこを自分に認められた。この軍国多事の際に、軍人が悠長らしく釣竿などを持出しているところを、人に見つけられては工合が悪いので、彼はわざと知らぬ顔をして行き過ぎてしまった。――そんなことは実際ないともいえない。佐山君は大尉が無愛想の理由をまずこう解釈して、そのままに自分の店へ帰った。夕飯を食うときに、佐山君は古参の朋輩に訊いた。
「向田大尉は釣りが好きですか。」
「釣り……。」と、彼はすこし考えていた。「そんな話は聞かないね。向田大尉は非常な勉強家で、暇さえあれば家で書物と首っぴきだそうだ。」
 川端でさっき出逢った話をすると、彼は急に笑い出した。
「そりゃきっと人違いだよ。大尉はこのごろ非常に忙がしいんだから、悠々と釣りなんぞしている暇があるものか、夜ふけに家へ帰って寝るのが関の山だよ。第一、あの川で何が釣れるものか。ずっと下《しも》の方へ行かなければなんにも引っかからないことは、長くここにいる大尉がよく知っている筈だ。あすこらで釣竿をふり廻しているのは、ほんの子供さ。大人《おとな》がばかばかしい、あんなところへ行って暢気《のんき》に餌《えさ》をおろしていられるものか。」
 そう聞くと、どうも人違いでもあるらしい。うす暗い川端で自分は誰かを見あやまったのであろう。彼が挨拶なしに行き過ぎてしまったのも無理はなかった。勤勉の大尉殿がこの際に、見す見す釣れそうもない所で悠々と糸を垂れている筈がない。こう思いながらも、佐山君の胸にはまだ幾分の疑いが残っていて、蘆のあいだから釣竿を持って出て来た人は、どうも向田大尉に相違ないらしく思われてならなかった。しかし、どちらにしたところで、それがさしたる大問題でもないので、佐山君もその以上に深く考えて見ようともしなかった。
「それとも、君は狐に化かされたのかも知れないよ。」と、朋輩はからかうように又笑った。「君も知っているだろうが、あの火薬庫の近所には狐や狸がたびたび出て来るんだからね。この頃は滅多《めった》にそんな話は聞かないが、以前はよくあの辺で狐に化かされた者があったそうだ。」
「そうかも知れない。」
 佐山君も笑った。しかし内心はあまり面白くなかった。どう考えても、かの男は向田大尉に相違ないように思われた。なんとかして大尉が確かにあすこで魚釣りをしていたという証拠をつかまえて、自分をあざけっている朋輩どもを降参させてやりたいようにも思ったが、この上にそんなことを考えるべく彼はあまりに疲れていた。十時ごろに店の用を片付けて、佐山君は自分の下宿先へ帰った。
 疲れている彼は、寝床へもぐり込むとすぐにぐっすりと寝入ってしまった。そうしてこの一夜のうちに、どこでどんなことが起っていたかをなんにも知らなかった。夜があけていつもの通りに出勤すると、どこで聞き出して来たのか、店員たちの間にはこんな奇怪な噂が伝えられた。
「向田大尉がゆうべ火薬庫のそばで殺されたそうだ。」
「いや、大尉じゃない。狐だそうだ。」
 きのうの夕方の一条があるので、この話は人一倍に佐山君の耳に強くひびいた。彼はその事件の真相を確かめたいのと、ほかにも店の用事があるのとで、かたがた例よりは早く司令部へ出張すると、司令部の正門からちょうど向田大尉の出て来るのに出逢った。大尉はふだんよりも少し蒼ざめた顔をしていたが、佐山君に対してはやはり丁寧に挨拶して行き過ぎた。呼び止めて、きのうの釣りのことを訊いてみようかとも思ったが、場合が場合であるので、佐山君は遠慮しなければならなかった。
 いずれにしても、向田大尉が健在であることは疑うまでもない。大尉が殺されたのではない、狐が殺されたのかも知れない。大尉と狐と、その間にどういう関係があるのか。佐山君はいよいよ好奇心にそそられて、足早に司令部の門をくぐった。店の用向きをまず済ませてしまって、それからだんだん聞いてみると、大尉殿の噂はみな知っていた。時節柄そんな噂を伝えると、それから又いろいろの間違いを生ずるというので、司令部では固く秘密を守るように言い渡したのであるが、問題が問題であるだけにその秘密が完全に防ぎ切れないらしく、将校たちはさすがに口をつぐんでいても、兵卒らは佐山君にみな打明けて話した。
「狐が向田大尉どのに化けたのを、哨兵《しょうへい》に殺されたのさ。」
 佐山君はあっけに取られた。

     

 司令部の門を出ると、佐山君と相《あい》前後して戸塚|特務曹長《とくむそうちょう》が出て行った。特務曹長とも平素から懇意にしているので、佐山君は一緒にあるきながら又訊いた。
「ほんとうですか。火薬庫の一件は……。」
「ほんとうです。」と、特務曹長は真面目にうなずいた。「わたしは大尉殿に化けているところも見ました。」
「狐が大尉殿に化けたのですか。」
「そうであります。司令部にかつぎ込んだ時には、たしかに大尉殿であったのです。それがいつの間にか狐に変ってしまったのです。」
「たしかに大尉殿であったのですか。」と、佐山君は念を押した。
「そうであります。わたしも確かに見ました。」
 一方の大尉が無事である以上、殺された大尉殿は狐でなければならない。しかしそれがどうしても佐山君には信じられなかった。昔話ならば格別、実際に於いてそんな事実が決してあり得《う》べき筈がないと彼は思った。戸塚特務曹長はこれからその件に就いて火薬庫まで行くというので、佐山君も彼と一緒に行って現場の様子を見とどけ、あわせて昨夜の出来事の真相を知りたいと思って、かの川べりの丘の方へ肩をならべて歩き出した。
「で、いったいゆうべの事件というのはどうしたのですか。狐が大尉どのに化けて、何かいたずらでもしたのですか。」
「それはこういう訳です。」と、特務曹長は薄い口髭をひねりながら、重い口でぽつりぽつりと話し出した。「ゆうべ、いや今朝の一時ごろです。あの火薬庫の草むらの中にぼんやりと灯のかげが見えたのです。あの辺は灌木《かんぼく》やすすきが一面に生《お》い茂っている所で、その中から灯が見えたかと思ううちに、ひとりの人間が提灯を持って火薬庫の前へ近寄って来ました。哨兵《しょうへい》がよく見ると、それは向田大尉殿でありました。哨兵はむろん大尉殿の顔を識っています。ことに大尉殿は軍服を着て、司令部の提灯を持っているのですから、なんにも疑うところはないのであるが、軍隊の規律としてただ見逃がすわけには行かないので、哨兵は銃剣をかまえて『誰かッ』と声をかけたのです。けれども相手はなんにも返事をしない。哨兵は再び声をかけて『停まれッ』といったのですが、やはり停まらない。三度目に声をかけても、やはり黙っているので、哨兵はもう猶予するわけには行かなくなったのです。」
「でも、見す見す向田大尉殿だったのでしょう。」と、佐山君はさえぎるように言った。
「軍隊の規律ですから已むを得ません。」と、特務曹長はおごそかに答えた。「殊に火薬庫の歩哨《ほしょう》は重大の勤務であります。三度まで声をかけても答えない以上、それが見す見す向田大尉殿であっても打っちゃっては置かれません。哨兵は駈け寄って、その銃剣でひと突きに突き殺してしまったのです。そうして、その次第を報告すると、司令部の方でも大騒ぎになって、当直の将校たちもすぐに駈け付けてみると、死んでいるのは確かに向田大尉殿でありました。」
「あなたも現場へ出向かれたのですか。」と、佐山君は啄《くち》をいれた。
「いや、わたしは行きませんでした。しかしその死体を運び込んで来るのは見ました。大尉殿は軍服を着て、顔の上に軍帽が乗せてありました。そこで、まず大尉殿の自宅へ通知すると、大尉どのはちゃんと自宅に寝ているのです。大尉殿が無事に生きているというのを聞いて、みんなも又おどろいて再びその死体をあらためると、それはどうしても大尉殿に相違ないのです。そうして、たしかに大尉殿の軍服と軍帽を着けているのです。ただ、帯剣《たいけん》だけはなかったのです。そのうちに、ほんとうの大尉どのが司令部に出て来て、自分でも呆れている始末です。」
 この奇怪な出来事の説明をきかされながら、佐山君はあかるい秋の日の下をあるいているのであった。大空は青々と澄み切って、火薬庫の秘密をつつんだ雑木林の丘は、砂のように白く流れて行く雲の下に青黒く沈んでいた。特務曹長はひと息ついて又語り出した。
「なにしろ、大尉の服装をした人間が火薬庫の付近を徘徊《はいかい》していたのは事実で、しかも今は戦時であるから、問題はいよいよ重大になったのであります。で、その怪しい死体を一室にかつぎ込んで、今井副官殿と、安村中尉殿と、本人の向田大尉殿とが厳重に張番《はりばん》して、ともかくも夜の明けるのを待っていたのです。すると、不思議なことには、夜がだんだんに白《しら》んで来ると、その死体がいつの間にか狐に変ってしまったのです。軍服はやはりそのままで、軍帽を乗せられていた人間の顔が狐になっているのです。靴はどうなったのか判りません。彼が持っていたという司令部の提灯も、普通の白張《しらは》りの提灯に変っているのです。これにはみんなも又おどろかされて、大勢の人達を呼びあつめて立会いの上でよく検査すると、彼はどうしても人間でない、たしかに古狐であるということが判ったのです。その狐はわたしも見ました。由来、火薬庫の付近には古狐がたくさん棲んでいると伝えられているのですが、その狐が何かのいたずらをするつもりで、かえって哨兵に突き殺されたのだろうというのです。余り奇怪な話で、われわれには殆んど信じられないことですが、何をいうにも論より証拠で、そこに一匹の狐の死体が横たわっているのであるから仕方がない。どう考えても不思議なことであります。」
「実に不思議です。」と、佐山君も溜息《ためいき》をついた。ゆうべ逢った魚釣りの人もやはりその狐ではなかったかとも思われた。
 戸塚特務曹長が平素から非常にまじめな人物であることを佐山君はよく知っていた。口では信じられないと言いながらも、特務曹長は眼《ま》のあたりに見せ付けられたこの不思議を、あくまでも不思議の出来事として素直に承認するよりほかはないらしかった。話はこれでひとまず途切れて、二人は黙って丘の裾までゆき着いた。すすきや茅《かや》が一面に生い茂っている中に、ただひと筋の細い路が蛇のようにうねっているのを、二人はやはり黙って登って行った。頭の上からは枯れた木の葉が時々ひらひらと落ちて来た。
「大尉殿に化けた狐が殺されたのは、この辺だそうです。」
 特務曹長は指さして教えた。それは火薬庫の門前で、枯れたすすきが大勢の足あとに踏みにじられて倒れているほかには、なんにも新しい発見はなさそうであった。

     

 特務曹長に別れて帰る途中も、佐山君はこの奇怪な事件の解決に苦しんでいた。どう考えても、そんな不思議がこの世の中にあるべき筈がなかった。しかし、どこの国でも戦争などの際にはとかくいろいろの不思議が伝えられるもので、現に戦死者の魂がわが家に戻って来たというような話が、この町でも幾度か伝えられている。こうした場合には狐が人間に化けたというような信じがたい話も、案外なんらの故障なしに諸人《しょにん》に受け入れられるものである。佐山君が店へ帰ってそれを報告すると、平素はなにかにつけて小《こ》理屈を言いたがる人たちまでが、ただ不思議そうにその話をきいているばかりで、正面からそれを言い破ろうとする者もなかった。
 いかに秘密を守ろうとしても、こういうことは自然に洩れやすいもので、火薬庫の門前に起った奇怪の出来事の噂はそれからそれへと町じゅうに拡がった。それには又いろいろの尾鰭《おひれ》をそえて言いふらすものもあるので、師団の方では、この際あらぬ噂を伝えられて、いよいよ諸人の疑惑を深くするのを懸念したのであろう、町の新聞記者らを呼び集めて、その事件の顛末《てんまつ》をいっさい発表した。それは佐山君が戸塚特務曹長から聞かされたものと殆んど大同|小異《しょうい》であった。諸新聞はその記事を大きく書いて、大尉に化けたというその狐の写真までも掲載したので、その噂にふたたび花が咲いた。
 それと同時に、また一種の噂が伝えられた。向田大尉はほんとうに死んだらしいというのである。狐が殺されたのではなく、向田大尉が殺されたのである。現にその事件の翌夜、大尉の自宅から白木の棺をこっそりと運び出したのを見た者があるというのである。しかし佐山君は、すぐにその噂を否認した。狐が殺されたという翌朝、自分は司令部の門前で確かに向田大尉と顔を見合せて、いつもの通りに挨拶までも交換したのであるから、大尉が死んでしまった筈は断じてないと、佐山君はあくまでも主張していると、あたかもそれを裏書きするように、また新しい噂がきこえた。大尉の家から出たのは人間の葬式ではない、かの古狐の死骸を葬ったのである。畜生とはいえ、仮りにも自分の形を見せたものの死骸を野にさらすに忍びないというので、向田大尉はその狐の死骸を引取って来て、近所の寺に葬ったというのであった。
「そうだ。きっとそうだ。」と、佐山君は言った。
 しかし、ここに一つの不審は、その後に司令部に出入りする者が曾《かつ》て向田大尉の姿を見かけないことであった。大尉は病気で引籠っているのだと、司令部の人たちは説明していたが、なにぶんにも本人の姿がみえないということが諸人の疑いの種になって、大尉の葬式か、狐の葬式か、その疑問は容易に解決しなかった。あるとき佐山君が支店長にむかって、向田大尉殿はたしかに生きていると主張すると、支店長は意味ありげに苦笑いをしていた。そうして、こんなことを言った。
「狐の葬式はどうだか知らないが、向田大尉は生きているよ。」
 そのうちに、十月ももう半ばになって、沙河《しゃか》会戦の新しい公報が発表された。町の人たちの注意は皆その方に集められて、狐の噂などは自然に消えてしまった。ここは冬が早いので、火薬庫付近の草むらもだんだんに枯れ尽くした。沙河会戦の続報もたいてい発表されてしまって、世間では更に新しい戦報を待ちうけている頃に、向田大尉は突然この師団を立去るという噂がまた聞えた。これで大尉が無事に生きている証拠は挙がったが、他に転任するともいい、あるいは戦地に出征するともいい、その噂がまちまちであった。佐山君の支店ではこれまで商売上のことで、向田大尉には特別の世話になっていた。ことに平素から評判のよかった人だけに、突然ここを立去ると聞いて、誰もかれも今さら名残り惜しいようにも思った。
 支店長は相当の餞別を持って、向田大尉の自宅をたずねた。そうして、むろん司令部からも手伝いの者が来るであろうが、出発前に何かの用事があれば遠慮なく言い付けてくれと言い置いて帰った。その翌日、支店長の命令で、佐山君とほかに一人の店員が大尉の家へ顔を出すと、家じゅうは殆んどもう綺麗に片付いていた。大尉は細君《さいくん》と女中との三人暮らしで、別に大した荷物もないらしかった。
「やあ、わざわざ御苦労。なに、こんな小さな家だから、なんにも片付けるほどの家財もない。」
 大尉は笑いながら二人を茶の間に通した。全体が五間《いつま》ばかりで、家じゅうが殆んど見通しという狭い家の座敷には、それでも菰《こも》包みの荷物や、大きいカバンや、軍用|行李《こうり》などがいっぱいに置き列《なら》べてあった。
「皆さんにも折角お馴染みになりましたのに、急にこんなことになりまして……。」と、細君は自分で茶や菓子などを運んで来た。
 細君の暗い顔が佐山君の注意をひいた。もう一つ、彼の眼についたのは、茶の間の仏壇に新しい白木の位牌の見えたことであった。仏壇の戸は開かれて線香の匂いが微かに流れていた。
 どこへ転任するのか、あるいは戦地へ出征するのか、それに就いては大尉も細君もいっさい語らなかった。佐山君たちも遠慮してなんにも訊かなかった。混雑の際に邪魔をするのも悪いと思って、二人は早々に暇乞いをした。
「そうしますと、別に御用はございませんかしら。」
「ない、ない。」と、大尉は笑いながら首をふった。「支店長にもどうぞよろしく。」
「はい。いずれお見送りに出ます。」
 二人は店へ帰ってその通りを報告すると、支店長は黙ってうなずいていた。しかし彼の顔色もなんだか陰《くも》っているように見えた。向田大尉がここを立去るのは余り好い意味でないらしいと、佐山君はひそかに想像していた。それから三日目の夜汽車《よぎしゃ》で向田大尉の一家族はいよいよここを出発することになった。大尉は出発の時刻を秘密にしていたのであるが、どこで聞き伝えたのか、見送り人はなかなか多かった。その汽車の出て行くのを見送って、支店長は思わず溜息をついた。
「いい人だっけがなあ。」
 それから半月ほど経って、向田大尉から支店長にあてた郵便が到着した。状袋には単に向田とばかりで、その住所番地は書いてなかったが、消印が東京であることだけは確かに判った。佐山君はその郵便物を支店長の部屋へ持って行くと、彼は待ちかねたようにそれを受取った。
「向田大尉殿は東京へ行ったのですか。」と、佐山君は訊いた。
「そうだ。」と、支店長は気の毒そうに言った。「今だから言うが、あの人はやめたんだよ。」
「なぜです。」
「悪い弟を持ったんでね。」
 支店長はいよいよ気の毒そうな顔をしていたが、その以上の説明はなんにも与えてくれなかった。向田大尉――あの勤勉な向田大尉は、軍国多事の際に職をやめたのである。佐山君もなんだか暗い心持になって、黙って支店長の前を退いた。

「お話はまずこれぎりです。」と、星崎さんは言った。「佐山君もその以上のことは実際なんにも知らないそうです。しかし支店長のただ一句、――悪い弟を持った――それからだんだん推測すると、この事件の秘密もおぼろげながら判って来るようにも思われます。向田大尉には弟がある。それがよくない人間で、どこからか大尉のところへふらりと訪ねて来た。佐山君が川べりで夕方出逢った男は、おそらく本人の大尉でなく、その弟であったろうと思われます。兄弟であるから顔付きもよく似ている。ことに夕方のことですから、佐山君が見違えたのかも知れません。いや、佐山君ばかりでなく、火薬庫の哨兵も司令部の人たちも、一旦は見あやまったのでしょう。して見ると、狐が大尉に化けたのではなく、弟が大尉に化けたのらしい。その弟がなぜまた夜ふけに火薬庫の付近を徘徊していたのかそれはよく判りません。それが戦争中であるのと、本人がよくない人間であるのと、この二つを結びあわせて考えれば、大抵は想像が付くように思われます。弟が突き殺されてしまったところへ、兄の大尉が駈けつけて来て、いっさいの事情が明白になった結果、大尉の同情者の計らいで、その死体がいつの間にか狐に変って、何事も狐の仕業《しわざ》ということになったらしい。大尉の家からこっそり運び出された白木の棺も、仏壇に祀られていた新しい位牌も、すべてその秘密を語っているのではありますまいか。こうしてまず世間をつくろって置いて、大尉も弟の罪を引受けて職をなげうった――。いや、これはみんな私の想像ですから、嘘かほんとうか、もちろん保証は出来ません。向田大尉のためにはやはり狐が化けたことにして置いた方がいいかも知れません。狐が化けたのなら議論はない。人間が化けたとなると、いろいろ面倒になりますからね。」

底本:「蜘蛛の夢」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年4月20日初版1刷発行
初出:「子供役者の死」隆文館
   1921(大正10)年3月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:花田泰治郎
2006年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

こま犬—— 岡本綺堂

     一

 春の雪ふる宵に、わたしが小石川の青蛙堂に誘い出されて、もろもろの怪談を聞かされたことは、さきに発表した「青蛙堂鬼談」にくわしく書いた。しかしその夜の物語はあれだけで尽きているのではない。その席上でわたしがひそかに筆記したもの、あるいは記憶にとどめて書いたもの、数《かぞ》うればまだまだたくさんあるので、その拾遺というような意味で更にこの「近代異妖編」を草《そう》することにした。そのなかには「鬼談」というところまでは到達しないで、単に「奇談」という程度にとどまっているものもないではないが、その異《い》なるものは努《つと》めて採録した。前編の「青蛙堂鬼談」に幾分の興味を持たれた読者が、同様の興味をもってこの続編をも読了してくださらば、筆者のわたしばかりでなく、会主の青蛙堂主人もおそらく満足であろう。

 これはS君の話である。S君は去年久し振りで郷里へ帰って、半月ほど滞在していたという。その郷里は四国の讃岐《さぬき》で、Aという村である。
「なにしろ八年ぶりで帰ったのだが、周囲の空気はちっとも変らない。まったく変らな過ぎるくらいに変らない。三里ほどそばまでは汽車も通じているのだが、ほとんどその影響を受けていないらしいのは不思議だよ。それでも兄などにいわせると、一年増しに変って行くそうだが、どこがどう変っているのか、僕たちの眼にはさっぱり判らなかった。」
 S君の郷里は村といっても、諸国の人のあつまってくる繁華の町につづいていて、表通りはほとんど町のような形をなしている。それにもかかわらず、八年ぶりで帰郷したS君の眼にはなんらの変化を認めなかったというのである。
「そんなわけで別に面白いことも何《なん》にもなかった。勿論、おやじの十七回忌の法事に参列するために帰ったので、初めから面白ずくの旅行ではなかったのだが、それにしても面白いことはなかったよ。だが、ただ一つ――今夜の会合にはふさわしいかと思われるような出来事に遭遇した。それをこれからお話し申そうか。」
 こういう前置きをして、S君はしずかに語り出した。

 僕が郷里へ帰り着いたのは五月の十九日で、あいにくに毎日|小雨《こさめ》がけぶるように降りつづけていた。おやじの法事は二十一日に執行されたが、ここらは万事が旧式によるのだからなかなか面倒だ。ことに僕の家などは土地でも旧家の部であるからいよいよ小うるさい。勿論、僕はなんの手伝いをするわけでもなく、羽織袴でただうろうろしているばかりであったが、それでもいい加減に疲れてしまった。
 式がすんで、それから料理が出る。なにしろ四五十人のお客様というのであるから随分忙がしい。おまけにこういう時にうんと飲もうと手ぐすねを引いている連中もあるのだから、いよいよ遣り切れない。それでも後日《ごにち》の悪口の種を播《ま》かないように、兄夫婦は前からかなり神経を痛めていろいろの手配をして置いただけに、万事がとどこおりなく進行して、お客様いずれも満足であるらしかった。その席上でこんな話が出た。
「あの小袋ヶ岡の一件はほんとうかね。」
 この質問を提出したのは町に住んでいる肥料商の山木という五十あまりの老人で、その隣りに坐っている井沢という同年配の老人は首をかしげながら答えた。
「さあ、私もこのあいだからそんな話を聞いているが、ほんとうかしら。」
「ほんとうだそうですよ。」と、またその隣りにいる四十ぐらいの男が言った。「現にその啼声《なきごえ》を聞いたという者が幾人もありますからね。」
「蛙じゃないのかね。」と、山木は言った。「あの辺には大きい蛙がたくさんいるから。」
「いや、その蛙はこの頃ちっとも鳴かなくなったそうですよ。」と、第三の男は説明した。「そうして、妙な啼声がきこえる。新聞にも出ているから嘘じゃないでしょう。」
 こんな対話が耳にはいったので、接待に出ている僕も口を出した。
「それは何ですか、どういう事件なのですか。」
「いや、東京の人に話すと笑われるかも知れない。」と、山木はさかずきをおいて、自分がまず笑い出した。
 山木はまだ半信半疑であるらしいが、第三の男――僕はもうその人の顔を忘れていたが、あとで聞くと、それは町で糸屋をしている成田という人であった――は、大いにそれを信じているらしい。彼はいわゆる東京の人に対して、雄弁にそれを説明した。
 この村はずれに小袋ヶ岡というのがある。僕は故郷の歴史をよく知らないが、かの元亀《げんき》天正《てんしょう》の時代には長曽我部氏《ちょうそかべし》がほとんど四国の大部分を占領していて、天正十三年、羽柴秀吉の四国攻めの当時には、長曽我部の老臣細川源左衛門尉というのが讃岐方面を踏みしたがえて、大いに上方《かみがた》勢を悩ましたと伝えられている。その源左衛門尉の部下に小袋喜平次秋忠というのがあって、それが僕の村の附近に小さい城をかまえていた。小袋ヶ岡という名はそれから来たので、岡とはいっても殆んど平地も同様で、場所によってはかえって平地より窪んでいるくらいだが、ともかくも昔から岡と呼ばれていたらしい。ここへ押寄せて来たのは浮田秀家と小西行長の両軍で、小袋喜平次も必死に防戦したそうだが、何分にも衆寡《しゅうか》敵せずというわけで、四、五日の後には落城して、喜平次秋忠は敵に生捕《いけど》られて殺されたともいい、姿をかえて本国の土佐へ落ちて行ったともいうが、いずれにしても、ここらでかなりに激しい戦闘が行なわれたのは事実であると、故老の口碑《こうひ》に残っている。
 ところで、その岡の中ほどに小袋明神というのがあった。かの小袋喜平次が自分の城内に祀っていた守護神で、その神体はなんであるか判らない。落城と同時に城は焼かれてしまったが、その社《やしろ》だけは不思議に無事であったので、そのまま保存されてやはり小袋明神として祀られていた。僕の先祖もこの明神に華表《とりい》を寄進《きしん》したということが家の記録に残っているから、江戸時代までも相当に尊崇されていたらしい。それが明治の初年、ここらでは何十年振りとかいう大水《おおみず》が出たときに、小袋明神もまたこの天災をのがれることは出来ないで、神社も神体もみな何処かへ押流されてしまった。時はあたかも神仏混淆《しんぶつこんこう》の禁じられた時代で、祭神のはっきりしない神社は破却の運命に遭遇していたので、この小袋明神も再建を見ずして終った。その遺跡は明神跡と呼ばれて、小さい社殿の土台石などは昔ながらに残っていたが、さすがに誰も手をつける者もなかった。そこらには栗の大木が多いので、僕たちも子供のときには落葉を拾いに行ったことを覚えている。
 その小袋ヶ岡にこのごろ一種の不思議が起った――と、まあこういうのだ。なんでもかの明神跡らしいあたりで不思議な啼声がきこえる。はじめは蛙だろう、梟《ふくろう》だろうなどといっていたが、どうもそうではない。土の底から怪しい声が流れてくるらしいというので、物好きの連中がその探索に出かけて行ったが、やはり確かなことは判らない。故老の話によると、昔も時々そんな噂が伝えられて、それは明神の社殿の床下に棲んでいる大蛇《おろち》の仕業《しわざ》であるなどという説もあったが、勿論、それを見定めた者もなかった。それが何十年振りかで今年また繰返されることになったというわけだ。
 人間に対して別になんの害をなすというのでもないから、どんな啼声を出したからといっても別に問題にするには及ばない。ただ勝手に啼かして置けばいいようなものだが、人間に好奇心というものがある以上、どうもそのままには捨て置かれないので、村の青年団が三、四人ずつ交代で探険に出かけているが、いまだにその正体を見いだすことが出来ない。その啼声も絶えずきこえるのではない。昼のあいだはもちろん鎮まり返っていて、夜も九時過ぎてからでなければ聞えない。それは明神跡を中心として、西に聞えるかと思うと、また東に聞えることもある。南にあたって聞えるかと思うと、また北にも聞えるというわけで、探険隊もその方角を聞き定めるのに迷ってしまうというのだ。
 そこで、その啼声だが――聞いた者の話では、人でなく、鳥でなく、虫でなく、どうも獣《けもの》の声らしく、その調子は、あまり高くない。なんだか池の底でむせび泣くような悲しい声で、それを聞くと一種|悽愴《せいそう》の感をおぼえるそうだ。小袋ヶ岡の一件というのは大体まずこういうわけで、それがここら一円の問題となっているのだ。
「どうです。あなたにも判りませんか。」と、井沢は僕に訊《き》いた。
「わかりませんな。ただ不思議というばかりです。」
 僕はこう簡単に答えて逃げてしまった。実際、僕はこういう問題に対して余り興味を持っていないので、それ以上、深く探索したりする気にもなれなかったのだ。

     

 あくる日、なにかの話のついでに兄にもその一件を訊《き》いてみると、兄は無頓着らしく笑っていた。
「おれはよく知らないが、何かそんなことをいって騒いでいるようだよ。はじめは蛇か蛙のたぐいだといい、次には梟か何かだろうといい、のちには獣だろうといい、何がなんだか見当は付かないらしい。またこの頃では石が啼くのだろうと言い出した者もある。」
「ははあ、夜啼石《よなきいし》ですね。」
「そうだ、そうだ。」と、兄はまた笑った。「夜啼石伝説とかいうのがあるというじゃないか。ここらのもそれから考え付いたのだろうよ。」
 僕の兄弟だけに、兄もこんな問題には全然無趣味であるらしく、話はそれぎりで消えてしまった。しかしその日は雨もやんで、午頃《ひるごろ》からは青い空の色がところどころに洩れて来たので、僕は午後からふらりと家《うち》を出た。ゆうべはかの法事で、夜のふけるまで働かされたのと、いくら無頓着の僕でも幾分か気疲れがしたのとで、なんだか頭が少し重いように思われたので、なんというあてもなしに雨あがりの路をあるくことになったのだ。僕の郷里は田舎にしては珍しく路のいいところだ。まあ、その位がせめてもの取得《とりえ》だろう。
 すこし月並《つきなみ》になるが、子供のときに遊んだことのある森や流れや、そういう昔なじみの風景に接すると、さすがの僕も多少の思い出がないでもない。僕の卒業した小学校がいつの間にか建て換えられて、よほど立派な建物になっているのも眼についた。町の方へ行こうか、岡の方へ行こうかと、途中で立ちどまって思案しているうちに、ふと思いついたのは、かの小袋ヶ岡の一件だ。そこがどんな所であるかは勿論知っているが、近頃そんな問題を引起すについては、土地の様子がどんなに変っているかという事を知りたくもなったので、ついふらふらとその方面へ足を向けることになった。こうなると、僕もやはり一種の好奇心に駆《か》られていることは否《いな》まれないようだ。
 うしろの方には小高い岡がいくつも続いているが、問題の小袋ヶ岡は前にもいった通りのわけで、ほとんど平地といってもいいくらいだ。栗の林は依然として茂っている。やがて梅雨になれば、その花が一面にこぼれることを想像しながら、やや爪先《つまさき》あがりの細い路をたどって行くと、林のあいだから一人の若い女のすがたが現われた。だんだん近寄ると、相手は僕の顔をみて少し驚いたように挨拶した。
 女は町の肥料商――ゆうべこの小袋ヶ岡の一件を言い出したあの山木という人の娘で、八年前に見た時にはまだ小学校へ通っていたらしかったが、高松あたりの女学校を去年卒業して、ことしはもう二十歳《はたち》になるとか聞いていた。どちらかといえば大柄の、色の白い、眉の形のいい、別に取立てていうほどの容貌《きりょう》ではないが、こちらでは十人並として立派に通用する女で、名はお辰、当世風にいえば辰子で、本来ならばお互いにもう見忘れている時分だが、彼女にはきのうの朝も会っているので、双方同時に挨拶したわけだ。
「昨晩は父が出まして、いろいろ御馳走にあずかりましたそうで、有難うございました。」と、辰子は丁寧に礼を言った。
「いや、かえって御迷惑でしたろう。どうぞよろしく仰しゃって下さい。」
 挨拶はそれぎりで別れてしまった。辰子は村の方へ降りていく。僕はこれから登っていく。いわば双方すれ違いの挨拶に過ぎないのであったが、別れてから僕はふと考えた。あの辰子という女はなんのためにこんな所へ出て来たのか。たとい昼間にしても、町に住む人間、ことに女などに取っては用のありそうな場所ではない。あるいは世間の評判が高いので、明神跡でも窺いに来たのかとも思われるが、それならば若い女がただひとりで来そうもない。もっともこの頃の女はなかなか大胆になっているから、その啼声でも探険するつもりで、昼のうちにその場所を見定めに来たのかも知れない。そんなことをいろいろに考えながら、さらに林の奥ふかく進んで行くと、明神跡は昔よりもいっそう荒れ果てて、このごろの夏草がかなりに高く乱れているので、僕にはもう確かな見当も付かなくなってしまった。
 それでも例の問題が起ってから、わざわざ踏み込んでくる人も多いとみえて、そこにもここにも草の葉が踏みにじられている。その足跡をたよりにしてどうにかこうにか辿り着くと、ようように土台石らしい大きい石を一つ見いだした。そこらはまだほかにも大きい石が転がっている。中には土の中へ沈んだように埋まっているのもある。こんなのが夜啼石の目標になるのだろうかと僕は思った。
 あたりは実に荒涼寂寞だ。鳥の声さえも聞えない。こんなところで夜ふけに怪しい啼声を聞かされたら、誰でも余りいい心持はしないかも知れないと、僕はまた思った。その途端にうしろの草叢《くさむら》をがさがさと踏み分けてくる人がある。ふり向いてみると、年のころは二十八九、まだ三十にはなるまいと思われる痩形の男で、縞の洋服を着てステッキを持っていた。お互いは見識らない人ではあるが、こういう場所で双方が顔をあわせれば、なんとか言いたくなるのが人情だ。僕の方からまず声をかけた。
「随分ここらは荒れましたな。」
「どうもひどい有様です。おまけに雨あがりですから、この通りです。」と、男は自分のズボンを指《ゆび》さすと、膝から下は水をわたって来たように濡れていた。気が付いて見ると、僕の着物の裾もいつの間にか草の露にひたされていた。
「あなたも御探険ですか」と、僕は訊いた。
「探険というわけでもないのですが……。」と、男は微笑した。「あまり評判が大きいので、実地を見に来たのです。」
「なにか御発見がありましたか。」と、僕も笑いながらまた訊いた。
「いや、どうしまして……。まるで見当が付きません。」
「いったい、ほんとうでしょうか。」
「ほんとうかも知れません。」
 その声が案外厳格にきこえたので、僕は思わず彼の顔をみつめると、かれは神経質らしい眼を皺めながら言った。
「わたくしも最初は全然問題にしていなかったのですが、ここへ来てみると、なんだかそんな事もありそうに思われて来ました。」
「あなたの御鑑定では、その啼声はなんだろうとお思いですか。」
「それはわかりません。なにしろその声を一度も聞いたことがないのですから。」
「なるほど。」と、僕もうなずいた。「実はわたくしも聞いたことがないのです。」
「そうですか。わたくしも先刻《さっき》から見てあるいているのですが、もし果して石が啼くとすれば、あの石らしいのです。」
 かれはステッキで草むらの一方を指し示した。それは社殿の土台石よりもよほど前の方に横たわっている四角形の大きい石で、すこしく傾いたように土に埋められて、青すすきのかげに沈んでいた。
「どうしてそれと御鑑定が付きました。」
 僕はうたがうように訊いた。最初はちっとも見当が付かないと言いながら、今になってはあの石らしいという。最初のが謙遜か、今のがでたらめか、僕にはよく判らなかった。
「どうという理屈はありません。」と、彼はまじめに答えた。「ただ、なんとなくそういう気がしたのです。いずれ近いうちに再び来て、ほんとうに調査してみたいと思っています。いや、どうも失礼をしました。御免ください。」
 かれは会釈《えしゃく》して、しずかに岡を降って行った。

     

 僕が家へ帰った頃には、空はすっかり青くなって、あかるい夏らしい日のひかりが庭の青葉を輝くばかりに照らしていた。法事がすむまでは毎日降りつづいて、その翌日から晴れるとは随分意地のわるい天気だ。親父の後生《ごしょう》が悪いのか、僕たちが悪いのかと、兄もまぶしい空をながめながら笑っていた。それから兄はまたこんなことを言った。
「きょうは天気になったので、村の青年団は大挙して探険に繰出すそうだ。おまえも一緒に出かけちゃあどうだ。」
「いや、もう行って来ましたよ。明神跡もひどく荒れましたね。」
「荒れるはずだよ。ほかに仕様のないところだからね。なにしろ明神跡という名が付いているのだから、めったに手を着けるわけにもいかず、まあ当分は藪にして置くよりほかはあるまいよ。」と、兄はあくまでも無頓着であった。
 その晩の九時ごろから果して青年団が繰出して行くらしかった。地方によっては養蚕《ようさん》の忙がしい時期だが、僕らの村にはあまり養蚕がはやらないので、にわか天気を幸いに大挙することになったらしい。月はないが、星の明るい夜で、田圃《たんぼ》を縫って大勢が振り照らしてゆく角燈《かくとう》のひかりが狐火のように乱れて見えた。ゆうべの疲れがあるので、僕の家ではみんな早く寝てしまった。
 さて、話はこれからだ。
 あくる朝、僕は寝坊をして――ふだんでも寝坊だが、この朝は取分けて寝坊をしてしまって、床を離れたのは午前八時過ぎで、裏手の井戸端へ行って顔を洗っていると、兄が裏口の木戸からはいって来た。
「妙な噂を聞いたから、駐在所へ行って聞き合せてみたら、まったく本当だそうだ。」
「妙な噂……。なんですか。」と、僕は顔をふきながら訊いた。
「どうも驚いたよ。町の中学のMという教員が小袋ヶ岡で死んでいたそうだ。」と、兄もさすがに顔の色を陰らせていた。
「どうして死んだのですか。」
「それが判らない。ゆうべの九時過ぎに、青年団が小袋ヶ岡へ登って行くと、明神跡の石の上に腰をかけている男がある。洋服を着て、ただ黙って俯向《うつむ》いているので、だんだん近寄って調べてみると、それはかの中学教員で、からだはもう冷たくなっている。それから大騒ぎになっていろいろ介抱してみたが、どうしても生き返らないので、もう探険どころじゃあない。その死骸を町へ運ぶやら、医師を呼ぶやら、なかなかの騒ぎであったそうだが、おれの家では前夜の疲れでよく寝込んでしまって、そんなことはちっとも知らなかった。」
 この話を聞いているあいだに、僕はきのう出会った洋服の男を思い出した。その年頃や人相をきいてみると、いよいよ彼によく似ているらしく思われた。
「それで、その教員はとうとう死んでしまったのですね。」
「むむ、どうしても助からなかったそうだ。その死因はよく判らない。おそらく脳貧血ではないかというのだが、どうも確かなことは判らないらしい。なぜ小袋ヶ岡へ行ったのか、それもはっきりとは判らないが、理科の教師だから多分探険に出かけたのだろうということだ。」
「死因はともかくも、探険に行ったのは事実でしょう。僕はきのうその人に逢いましたよ。」と、僕は言った。
 きのう彼に出逢った顛末を残らず報告すると、兄もうなずいた。
「それじゃあ夜になってまた出直して行ったのだろう。ふだんから余り健康体でもなかったそうだから、夜露に冷えてどうかしたのかも知れない。なにしろ詰まらないことを騒ぎ立てるもんだから、とうとうこんな事になってしまったのだ。昔ならば明神の祟《たた》りとでもいうのだろう。」
 兄は苦々《にがにが》しそうに言った。僕も気の毒に思った。殊にきのうその場所で出逢った人だけに、その感じがいっそう深かった。
 前夜の探険は教員の死体発見騒ぎで中止されてしまったので、今夜も続行されることになった。教員の死因が判明しないために、またいろいろの臆説を伝える者もあって、それがいよいよ探険隊の好奇心を煽ったらしくも見えた。僕の家からはその探険隊に加わって出た者はなかったが、ゆうべの一件が大勢の神経を刺戟して、今夜もまた何か変った出来事がありはしまいかと、年の若い雇人などは夜のふけるまで起きているといっていた。
 それらには構わずに、夜の十時ごろ兄夫婦や僕はそろそろ寝支度に取りかかっていると、表は俄かにさわがしくなった。
「おや。」
 兄夫婦と僕は眼を見あわせた。こうなると、もう落ち着いてはいられないので、僕が真っ先に飛び出すと、兄もつづいて出て来た。今夜も星の明るい夜で、入口には大勢の雇人どもが何かがやがや立ち騒いでいた。
「どうした、どうした。」と、兄は声をかけた。
「山木の娘さんが死んでいたそうです。」と、雇人のひとりが答えた。
「辰子さんが死んだ……。」と、兄もびっくりしたように叫んだ。「ど、どこで死んだのだ。」
「明神跡の石に腰かけて……。」
「むむう。」
 兄は溜息をついた。僕も驚かされた。それからだんだん訊いてみると、探険隊は今夜もまた若い女の死体を発見した。女はゆうべの中学教員とおなじ場所で、しかも、同じ石に腰をかけて死んでいた。それが山木のむすめの辰子とわかって、その騒ぎはゆうべ以上に大きくなった。しかし中学教員の場合とは違って、辰子の死因は明瞭で、彼女《かれ》は劇薬をのんで自殺したということがすぐに判った。
 ただ判らないのは、辰子がなぜここへ来て、かの教員と同じ場所で自殺したかということで、それについてまたいろいろの想像説が伝えられた。辰子はかの教員と相思《そうし》の仲であったところ、その男が突然に死んでしまったので、辰子はひどく悲観して、おなじ運命を選んだのであろうという。それが一番合理的な推測で、現に僕もあの林のなかでまず辰子に逢い、それからあの教員に出逢ったのから考えても、個中《こちゅう》の消息が窺われるように思われる。
 しかしまた一方には教員と辰子との関係を全然否認して、いずれも個々別々の原因があるのだと主張している者もある。僕の兄なぞもその一人で、僕とてもかのふたりが密会している現状を見届けたというわけではないのだから、彼等のあいだには何の連絡もなく、みな別々に小袋ヶ岡へ踏み込んだものと認められないこともない。そんなら辰子はなぜ死んだかというと、かれは山木のひとり娘で、家には相当の資産もあり、家庭も至極円満で、病気その他の事情がない限りは自殺を図《はか》りそうなはずがないというのだ。こうなると、何がなんだか判らなくなる。
 さらに一つの問題は、Mという中学教員が腰をかけて死んでいた石と、辰子が腰をかけて死んでいた石とが、あたかも同じ石であったということだ。そのあたりには幾つかの石が転がっているのに、なぜ二人ともに同じ石を選んだかということが疑問の種になった。
 誰の考えも同じことで、それが腰をおろすのに最も便利であったから二人ながら無意識にそれを選んだのだろうといってしまえば、別に不思議もないことになるが、どうもそれだけでは気がすまないとみえて、村の人たちは相談して遂にその石を掘り出すことになった。石が啼くという噂もある際であるから、この石を掘り起してみたらば、あるいは何かの秘密を発見するかも知れないというので、かたがたその発掘に着手することに決まったらしい。
 当日は朝から曇っていたが、その噂を聞き伝えて町の方からも見物人が続々押出して来た。村の青年団は総出で、駐在所の巡査も立会うことになった。僕も行ってみようかと思って門口《かどぐち》まで出ると、あまりに混雑しては種々の妨害になるというので、岡の中途に縄張りをして、弥次馬連は現場へ近寄せないことになったと聞いたので、それでは詰まらないと引っ返した。
 いよいよ発掘に取りかかる頃には細かい雨がぱらぱらと降り出して来た。まず周囲の芒《すすき》や雑草を刈って置いて、それからあの四角の石を掘り起すと、それは思ったよりも浅かったので比較的容易に土から曳き出されたが、まだそのそばにも何か鍬《くわ》の先にあたるものがあるので、更にそこを掘り下げると、小さい石の狛犬《こまいぬ》があらわれた。それだけならば別に子細もないが、その狛犬の頸《くび》のまわりには長さ一間以上の黒い蛇がまき付いているのを見たときには、大勢も思わずあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだそうだ。
 蛇はわずかに眼を動かしているばかりで、人をみて逃げようともせず、あくまでも狛犬の頸を絞め付けているらしく見えるのを、大勢の鍬やショベルで滅茶滅茶にぶち殺してしまった。生捕りにすればよかったとあとでみんなは言っていたが、その一刹那には誰も彼もが何だか憎らしいような怖ろしいような心持になって、半分は夢中で無暗にぶち殺してしまったということだ。
 狛犬が四角の台石に乗っていたことは、その大きさを見ても判る。なにかの時に狛犬はころげ落ちて土の底に埋められ、その台石だけが残っていたのであろうが、故老の中にもその狛犬の形をみた者はないというから、遠い昔にその姿を土の底に隠してしまったらしい。蛇はいつの頃から巻き付いていたのかもわからない。中学教員も辰子もこの台石に腰をかけて、狛犬の埋められている土の上を踏みながら死んだのだ。有意か無意か、そこに何かの秘密があるのか、そんなことはやはり判らない。
 またその狛犬は小袋明神の社前に据え置かれたものであることはいうまでもない。しからば一匹ではあるまい。どうしても一対《いっつい》であるべきはずだというので、さらに近所を掘り返してみると、ようやくにしてその台石らしい物だけを発見したが、犬の形は遂にあらわれなかった。
 この話を聞いて、僕はその翌日、兄と一緒に再び小袋ヶ岡へ登ってみると、きょうは縄張りが取れているので、大勢の見物人が群集して思い思いの噂をしていた。蛇の死骸はどこへか片付けられてしまったが、かの狛犬とその台石とは掘り返されたままで元のところに横たわっていた。
「むむ、なかなかよく出来ているな。」と、兄は狛犬の精巧に出来ているのをしきりに感心して眺めていた。
 それよりも僕の胸を強く打ったのは、かの四角形の台石であった。かのMという中学教員が――おそらくその人であったろうと思う――ステッキで僕に指示《しめ》して、「もし果して石が啼くとすれば、あの石らしいのです」と教えたのは、確かにかの石であったのだ。Mはそれに腰をかけて死んだ。辰子という女もそれに腰をかけて死んだ。そうして、その石のそばから蛇にまき付かれた石の狛犬があらわれた。こうなると、さすがの僕もなんだか変な心持にもなって来た。
 僕はその後|十日《とおか》ほども滞在していたが、かの狛犬が掘り出されてから、小袋ヶ岡に怪しい啼声はきこえなくなったそうだ。

底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房
   1999(平成11)年7月2日第1刷
初出:「現代」
   1925(大正14)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

五色蟹—— 岡本綺堂

          

 わたしはさきに「山椒の魚」という短い探偵物語を紹介した。すると、読者の一人だというT君から手紙をよこして、自分もかつて旅行中にそれにやや似た事件に遭遇した経験をもっているから、何かの御参考までにその事実をありのままに御報告するといって、原稿紙約六十枚にわたる長い記事を送ってくれた。
 T君の手紙には又こんなことが書き添えてあった。――わたしはまだ一度もあなたにお目にかかったことがありません。したがって何かよい加減のでたらめを書いて来たのではないかという御疑念があるかも知れません。この記事に何のいつわりもないことはわたしが、誓って保証します。わたしは唯あなたに対して、現在の世の中にもこんな奇怪な事実があるということを御報告すればよろしいのです。万一それを発表なさるようでしたら、どうかその場所の名や、関係者の名だけは、然るべき変名をお用いくださるようにお願い申して置きます。
 あながち材料に窮しているためでもないが、この不思議な物語をわたしひとりの懐中《ふところ》にあたためて置くのに堪えられなくなって、わたしはその原稿に多少の添削を加えて、すぐに世の読者の前に発表することにした。但しT君の注文にしたがって、関係者の姓名だけは特に書き改めたことをはじめに断わっておく。場所は単に伊豆地方としておいた。伊豆の国には伊東、修善寺、熱海、伊豆山をはじめとして、名高い温泉場がたくさんあるから、そのうちの何処かであろうとよろしく御想像を願いたい。T君の名も仮りに遠泉君として置く。

 遠泉君は八月中旬のある夜、伊豆の温泉場の××館に泊まった。彼には二人の連れがあった。いずれも学校を出てまだ間もない青年の会社員で、一人は本多、もう一人は田宮、三人のうちでは田宮が最も若い二十四歳であった。
 遠泉君の一行がここに着いたのはまだ明るいうちで、三人は風呂にはいって宿屋の浴衣に着かえると、すぐに近所の海岸へ散歩に出た。大きい浪のくずれて打ち寄せる崖のふちをたどっているうちに、本多が石のあいだで美しい蟹を見つけた。蟹の甲には紅やむらさきや青や浅黄の線が流れていて、それが潮水にぬれて光って、一種の錦のように美しく見えたので、かれらは立ち止まってめずらしそうに眺めた。五色蟹だの、錦蟹だのと勝手な名をつけて、しばらく眺めていた末に、本多はその一匹をつかまえて自分のマッチ箱に入れた。蟹は非常に小さいので大きいマッチの箱におとなしくはいってしまった。
「つかまえてどうするんだ。」と、ほかの二人は訊いた。
「なに、宿へ持って帰って、これはなんという蟹だか訊いて見るんだ。」
 マッチ箱をハンカチーフにつつんで、本多は自分のふところに押し込んで、それから五、六町ばかり散歩して帰った。宿へ帰って、本多はそのマッチ箱をチャブ台の下に置いたままで、やがて女中が運び出して来た夕飯の膳にむかった。そのうちに海の空ももう暮れ切って、涼しい風がそよそよと流れ込んで来た。三人は少しばかり飲んだビールの酔いが出て、みな仰向けに行儀わるくごろごろと寝転んでしまった。汽車の疲れと、ビールの酔いとで、半分は夢のようにうとうとしていると、となりの座敷で俄かにきゃっきゃっと叫ぶ声がするので、三人はうたた寝の夢から驚いて起きた。
 となり座敷には四人連れの若い女が泊まりあわせていた。みな十九か二十歳《はたち》ぐらいで東京の女学生らしいと、こちらの三人も昼間からその噂をしていたのであった。遠泉君の註によると、この宿は土地でも第一流の旅館でない。どこもことごとく満員であるというので、よんどころなしに第二流の宿にはいって、しかも薄暗い下座敷へ押し込まれたのであるが、その代りに隣り座敷には若い女の群れが泊まりあわせている。これで幾らか差引きが付いたと、本多は用もないのに時々縁側に出て、障子をあけ放した隣り座敷を覗いていたこともあった。
 その隣り座敷で俄かに騒ぎ始めたので、三人はそっと縁側へ出て窺うと、湯あがりの若い女達もやはり行儀をくずして何か夢中になってしゃべっていたらしい。その一人の白い脛《はぎ》へ蟹が突然に這いあがったので、みな飛び起きて騒ぎ出したのであった。もしやと思って、こっちのチャブ台の下をあらためると、本多のマッチの箱は空《から》になっていた。彼はその箱をハンカチーフと一緒に押し込んで置いて、ついそのままに忘れていると、蟹は箱の中からどうしてか抜け出して、おそらく縁伝いに隣りへ這い込んだのであろう。そう判ってみると、本多はひどく恐縮して、もう一つにはそれを機会に隣りの女達と心安くなろうという目的もまじっていたらしく、彼はすぐに隣り座敷へ顔を出して、正直にその事情をうち明けて、自分たちの不注意を謝まった。その事情が判って、女達もみな笑い出した。
 それが縁になって、臆面のない本多はとなりの女連れの身許や姓名などをだんだんに聞き出した。かれらは古屋為子、鮎沢元子、臼井柳子、児島亀江という東京の某女学校の生徒で、暑中休暇を利用してこの温泉場に来て、四人が六畳と四畳半の二間を借りて殆んど自炊同様の生活をしているのであった。
「あなた方は当分御滞在でございますか。」と、その中で年長《としかさ》らしい為子が訊いた。
「さあ。まだどうなるか判りません。」と、本多は答えた。「しかし今頃はどこへ行っても混雑するでしょうから、まあ、ここに落ち着いていようかとも思っています。われわれはどの道、一週間ぐらいしか遊んでいることは出来ないんですから。」
「さようでございますか。」と、為子はほかの三人と顔を見あわせながら言った。「わたくし共も二週間ほど前からここへ来ているのでございますが、御覧の通り、この座敷はなんだか不用心でして、夜なんかは怖いようでございます。」
 いくら第二流の温泉宿で、座敷代と米代と炭代と電燈代と夜具代だけを支払って、一種の自炊生活をしている女学生らに対して、この真夏にいい座敷を貸してくれる筈はなかった。かれらの占領している二間は下座敷のどん詰まりで、横手の空地《あきち》には型ばかりの粗い竹垣を低く結いまわして、その裾には芒《すすき》や葉鶏頭が少しばかり伸びていた。かれらが忌《いや》がっているのは、その竹垣の外に細い路があって、それが斜《はす》にうねって登って、本街道の往還へ出る坂路につながっていることであった。もし何者かがその坂路を降りて来て、さらに細い路を斜めにたどって来ると、あたかもかの竹垣の外へゆき着いて、さらに又ひと跨ぎすれば安々とこの座敷に入り込むことが出来る。田舎のことであるから大丈夫とは思うものの、不用心といえばたしかに不用心であった。ことに若い女ばかりが滞在しているのであるから、昼間はともかく夜がふけては少し気味が悪いかも知れないと思いやられた。
 その隣りへ、こっちの三人が今夜泊まりあわせたので、かれらは余ほど気丈夫になったらしく見えた。そうなると、こちらもなんだか気の毒にもなったのと、相手が若い女達であるのとで、むしろここで一週間を送ろうということになった。
「それがいい。どこへ行っても同じことだよ。」と、本多は真っ先にそれを主張した。
 あくる朝、三人が海岸へ出ると、となりの四人連れもやはりそこらをあるいていて、一緒になって崖の上の或る社《やしろ》に参詣した。四人の女のうちでは、児島亀江というのが一番つつましやかで、顔容《かおかたち》もすぐれていた。三人の男とならんでゆく間も、彼女は殆んど一度も口を利かないのを、遠泉君たちはなんだか物足らないように思った。こっちの三人の中では、田宮が一番おとなしかった。
 昼のうちは別に何事もなかった。ただ午後になって、本多が果物をたくさんに注文して、遠慮している隣りの四人を無理に自分の座敷へよび込んで、その果物をかれらに馳走して、何かつまらない冗談話などをしたに過ぎなかった。日が暮れてから男の三人は再び散歩に出たが、女達はもう出て来なかった。
「田宮君、君はけしからんよ。」と、本多は途中でだしぬけに言い出した。「君はあの児島亀江という女と何か黙契《もっけい》があるらしいぞ。」
「児島というのはあの中で一番の美人だろう。」と、遠泉君は言った。「あれが田宮君と何か怪しい形跡があるのか。ゆうべの今日じゃあ、あんまり早いじゃないか。」
「馬鹿を言いたまえ。」
 田宮はただ苦笑をしていたが、やがて又小声で言い出した。
「どうもあの女はおかしい。僕には判らないことがある。」
「何が判らない。」と、本多は潮の光りで彼の白い横顔をのぞきながら訊いた。
「何がって……。どうも判らない。」
 田宮はくり返して言った。

          

 日が暮れてまだ間もないので、方々の旅館の客が涼みに出て来て、海岸もひとしきり賑わっていた。その混雑の中をぬけて、三人がけさ参詣した古社の前に登りついた時、田宮はあとさきを見かえりながら話し出した。
「僕はいったい臆病な人間だが、ゆうべは実におそろしかったよ。君たちにはまだ話さなかったが、僕はゆうべの夜半《よなか》、かれこれもう二時ごろだったろう。なんだか忌《いや》な夢を見て、眼が醒めると汗をびっしょりかいている。あんまり心持が悪いからひと風呂はいって来ようと思って、そっと蚊帳を這い出して風呂場へ行った。君たちも知っている通り、ここらは温泉の量が豊富だとみえて、風呂場はなかなか大きい。入口の戸をあけてはいると、中には湯気がもやもやと籠っていて、電燈のひかりも陰っている。なにしろ午前二時という頃だから、おそらく誰もはいっている気遣いはないと思って、僕は浴衣をぬいで湯風呂の前へすたすたと歩いて行くと、大きい風呂のまん中に真っ白な女の首がぼんやりと浮いてみえた。今頃はいっている人があるのかと思いながらよく見定めると、それは児島亀江の顔に相違ないので、僕も少し躊躇したが、もう素っぱだかになってしまったもんだから、御免なさいと挨拶しながら遠慮なしに熱い湯の中へずっとはいると、どういうものか僕は急にぞっと寒くなった。と思うと、今まで湯の中に浮いていた女の首が俄かに見えなくなってしまった。ねえ、僕でなくっても驚くだろう。僕は思わずきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と声をあげそうになったのをやっとこらえて、すぐに湯から飛び出して、碌々にぬれた身体も拭かずに逃げて来たんだが、どう考えてもそれが判らない。けさになって見ると、児島亀江という女は平気であさ飯を食っている。いや、僕の見違いでない、たしかにあの女だ。たといあの女でないとしても、とにかく人間の首が湯の中にふわふわと浮いていて、それが忽ちに消えてしまうという理屈がない。いくら考えても、僕にはその理屈が判らないんだ。」
「君は馬鹿だね。」と、本多は笑い出した。「君は何か忌な夢を見たというじゃあないか。その怖いこわいという料簡があるもんだから、湯気のなかに何か変なものが見えたのさ。海のなかの霧が海坊主に見えるのと同じ理屈だよ。さもなければ、君があの女のことばかりを考えつめていたもんだから、その顔が不意と見えたのさ。もしそれを疑うならば、直接にあの女に訊いてみればいい。ゆうべの夜なかに風呂へ行っていたかどうだか、訊いて見ればすぐ判ることじゃないか。」
「いや。訊くまでもない。実際、風呂にはいっていたならば、突然に消えてしまう筈がないじゃないか。」と、遠泉君は傍から啄《くち》を出した。「結局は夢まぼろしという訳だね。おい、田宮君。まだそれでも不得心ならば今夜も試しに行って見たまえ。」
「いや、もう御免だ。」
 田宮が身をすくめているらしいのは、暗いなかでも想像されたので、二人は声をあげて笑った。暗い石段を降りて、もとの海岸づたいに宿へ帰ると、となりの座敷では女たちの話し声がきこえた。
「おい、田宮君。ゆうべのことを訊いてやろうか。」と、本多はささやいた。
「よしてくれたまえ。いけない、いけない。」と、田宮は一生懸命に制していた。
 表二階はどの座敷も満員で、夜のふけるまで笑い声が賑かにきこえていたが、下座敷のどん詰まりにあるこの二組の座敷には、わざわざたずねて来る人のほかには誰も近寄らなかった。廊下をかよう女中の草履の音も響かなかった。かの竹垣の裾からは虫の声が涼しく湧き出して、音もなしに軽くなびいている芒の葉に夜の露がしっとりと降りているらしいのが、座敷を洩れる電燈のひかりに白くかがやいて見えた。三人は寝転んでしゃべっていたが、その話のちょっと途切れた時に、田宮は吸いかけの巻きたばこを煙草盆の灰に突き刺しながら、俄かに半身を起こした。
「あ、あれを見たまえ。」
 二人はその指さす方角に眼をやると、縁側の上に、一匹の小さな蟹が這っていた。それは、ゆうべの蟹とおなじように、五色にひかった美しい甲を持っていた。田宮は物にうなされたように、浴衣の襟をかきあわせながら起き直った。
「どうしてあの蟹がまた出たろう。」
「ゆうべの蟹は一体どうしたろう。」と、遠泉君は言った。
「なんでも隣りの連中が庭へ捨ててしまったらしい。」と、本多は深く気に留めないように言った。
「それがそこらにうろ付いて、夜になって又這い込んで来たんだろう。」
「あれ、見たまえ。又となりの方へ這って行く。」と、田宮は団扇《うちわ》でまた指さした。
「はは、蟹もこっちへは来ないで隣へ行く。」と、本多は笑った。「やっぱり女のいるところの方がいいと見えるね。」
 遠泉君も一緒になって笑ったが、田宮はあくまでも真面目であった。彼は眼を据えて蟹のゆくえを見つめているうちに、美しい甲の持ち主はもう隣り座敷の方へ行き過ぎてしまった。きっとまた女たちが騒ぎ出すだろうと、こっちでは耳を引き立てて窺っていたが、隣りではなんにも気がつかないらしく、やはり何かべちゃべちゃと話しつづけていた。
「御用心、御用心。」と、本多はとなりへ声をかけた。「蟹がまた這い込みましたよ。」
 となりでは急に話し声をやめて、そこらを探し廻っていたらしいが、やがて一度にどっと笑い出した。かれらは蟹を発見し得ないので、本多にかつがれたのだと思っていたらしかった。本多は起きて縁側に出て行った。そうして、たしかに蟹がはいり込んだことを説明したので、四人の女たちはまた起ちあがって座敷の隅々を詮索すると、蟹は果たして発見された。かれは床の間の上に這いあがって、女学生の化粧道具を入れた小さいオペラバックの上にうずくまっていた。そのバックは児島亀江のものであった。蟹は本多の手につかまって、低い垣の外へ投り出された。
 蟹の始末もまず片付いて、男三人は十時ごろに蚊帳にはいった。となり座敷もほとんど同時に寝鎮まった。宵のうちは涼しかったが、夜のふけるに連れてだんだんに蒸し暑くなって来たので、遠泉君はひと寝入りしたかと思うと眼がさめた。襟ににじむ汗を拭いて蒲団の上に腹這いながら煙草を吸っていると、となりに寝ていた本多も眼をあいた。
「いやに暑い晩だね。」と、彼は蚊帳越しに天井を仰ぎながら言った。「もう何時だろう。」
 枕もとの懐中時計を見ると、今夜ももう午前二時に近かった。いよいよ蒸して来たので、遠泉君は手をのばして団扇を取ろうとする時に、となり座敷の障子がしずかにあいて、二人の女がそっと廊下へ出てゆくらしかった。遠泉君も本多も田宮の話をふと思い出して、たがいに顔を見あわせた。
「風呂へ行くんじゃあないかしら。」と、本多は小声で言った。
「そうかも知れない。」
「丁度ゆうべの時刻だぜ。田宮が湯のなかで女の首を見たというのは……。」
「して見ると、となりの連中は混みあうのを嫌って、毎晩夜なかに風呂へ行くんだ。」と、遠泉君は言った。「田宮はゆうべも丁度そこへ行き合わせたんだ。湯のなかに女の首なんぞが浮き出して堪まるものか。」
「田宮を起こして、今夜も嚇かしてやろうじゃないか。」
「よせ、よせ。可哀そうによく寝ているようだ。」
 二人は団扇をつかいながら煙草をまた一本吸った。一つ蚊帳のなかに寝ている田宮が急にうなり出した。
「おい、どうした。何を魘《うな》されているんだ。」
 言いながら本多は彼の苦しそうな寝顔をのぞくと、田宮は暑いので掻巻《かいま》きを跳ねのけていた。仰向けに寝て行儀悪くはだけている浴衣の胸の上に小さい何物かを発見したときに、本多は思わず声をあげた。
「あ、蟹だ。さっきの蟹が田宮の胸に乗っている。」
 これと殆んど同時に、風呂場の方角でけたたましい女の叫び声が起こった。家内が寝鎮まっているだけに、その声があたりにひびき渡って、二人の耳を貫くようにきこえた。
「風呂場のようだね。」
 風呂場には隣りの女ふたりがはいっていることを知っているので、一種の不安を感じた遠泉君はすぐに飛び起きて蚊帳を出た。本多もつづいて出た。二人はまず風呂場の方へ駈けてゆくと、一人の女が風呂のあがり場に倒れていた。風呂の中にはなんにも見えなかった。ともかくも水を飲ませてその女を介抱しているうちに、その声を聞きつけて宿の男や女もここへ駈け付けて来た。
 女は表二階に滞在している某官吏の細君であった。この人も混雑を嫌って、正午ごろに一度、夜なかに一度、他の浴客の少ない時刻を見はからって入浴するのを例としていた。今夜はいつもよりも少しおくれて丁度二時を聞いたころに風呂場へ来ると、湯のなかに二人の若い女の首が浮いていた。自分と同じように夜ふけに入浴している人達だと思って、別に怪しみもしないで彼女も浴衣をぬいだ。そうして、湯風呂の前に進み寄った一刹那に、二つの首は突然消えてしまったので、彼女は気を失う程におどろいて倒れた。
 ゆうべの田宮の話が思い出されて、遠泉君はなんだか忌な心持になった。しかし本多はそれが迷信でも化け物でもない、自分のとなり座敷の女ふたりが確かに入浴していたに相違ないと言った。それにしても人間ふたりが突然に消え失せる筈はないので、風呂番や宿の男どもが大きい湯風呂のなかへ飛び込んで隅々を探してみると、若い女ふたりが湯の底に沈んでいるのを発見した。女ふたりは確かに入浴していて、あたかもかの細君がはいって来た途端に、どうかしたはずみで湯の底に沈んだらしい。二つの首が突然に消え失せたように見えたのは、それがためであった。すぐに医師を呼んでいろいろと手当てを加えた結果、ひとりの女は幸いに息を吹き返したが、ひとりはどうしても生きなかった。
 生きた女は古屋為子であった。死んだ女は児島亀江であった。為子の話によると、ふたりが湯風呂の中にゆっくり浸っていると、なんだか薄ら眠いような心持になった。と思う時に、入口の戸をあけて誰かはいって来たらしいので、湯気の中から顔をあげてその人を窺おうとする一刹那、自分と列んでいる亀江が突然に湯の底へ沈んでしまった。あっ[#「あっ」に傍点]と思うと、自分も何物にか曳かれたように、同じくずるずると沈んで行った。それから後は勿論なんにも知らないというのであった。

          

 亀江の検死は済んで、死体は連れの三人に引き渡された。三人はすぐに東京へ電報を打って、その実家から引取り人の来るのを待っていた。為子は幸いに生き返ったものの、あくる日も床を離れないで、医師の治療を受けていた。遠泉君の一行も案外の椿事におどろかされて、となり座敷の女たちのために出来るだけの手伝いをしてやった。田宮は気分が悪いといって、朝飯も碌々に食わなかった。
「あの、まことに恐れ入りますが、どなたかちょっと帳場まで……。」と、女中がこっちの座敷へよびに来た。
 遠泉君はすぐに起って、旅館の入口へ出てゆくと、駐在所の巡査がそこに腰をかけて番頭と何か話していた。
「なにか御用ですか。」
「いや、早速ですが、少しあなた方におたずね申したいことがあります。」と、巡査は声を低めた。
「御承知の通り、あなた方の隣り座敷の女学生が湯風呂のなかで変死した事件ですが、どうしてあの女学生が突然に湯の中へ沈んでしまったのか、医者にもその理由が判らないというんです。どうも急病でもないらしい。といって、滑って転ぶというのも少しおかしい。そこで、あなたのお考えはどうでしょうか。あの児島亀江という女学生は、同宿の他の三人と折合いの悪かったような形跡は見えなかったでしょうか。それとも何かほかにお心当たりのことはなかったでしょうか。」
 四人のうちでは一番の年長《としかさ》で、容貌《きりょう》もまた一番よくない古屋為子が、最も年若で最も容貌の美しい児島亀江と、一緒に湯風呂のなかに沈んだのは、一種の嫉妬か或いは同性の愛か、そういう点について警察でも疑いを挟んでいるらしかった。しかし遠泉君は実際なんにも知らなかった。
「さあ、それはなんとも御返事が出来ませんね。隣り合っているとはいうものの、なにしろおとといの晩から初めて懇意になったんですから、あの人達の身の上にどんな秘密があるのか、まるで知りません。」
「そうですか。」と、巡査は失望したようにうなずいた。「しかし警察の方では偶然の出来事や過失とは認めていないのです。もしこの後にも何かお心付きのことがありましたら御報告を願います。」
「承知しました。」
 巡査に別れて、遠泉君は自分の座敷へ戻ったが、児島亀江の死――それは確かに一種の疑問であった。相手が若い女達であるだけに、それからそれへといろいろの想像が湧いて出た。田宮がその前夜に見たという女の首のことがまた思い出された。
 四人連れのひとりは死ぬ、ひとりはどっと寝ているので、あとに残った元子と柳子のふたりは途方に暮れたような蒼い顔をして涙ぐんでいるのも惨《いじ》らしかった。さすがの本多もきょうはおとなしく黙っていた。田宮は半病人のような顔をしてぼんやりしていた。夕方になって、警官がふたたび帳場へ来て、なにか頻りに取り調べているらしかった。警察の側では女学生の死について、何かの秘密をさぐり出そうと努めているのであろう。それを思うにつけても、遠泉君は一種の好奇心も手伝って、なんとかしてその真相を確かめたいと、自分も少しくあせり気味になって来た。
 その晩は元子と柳子と遠泉君と本多と、宿の女房と娘とが、亀江の枕もとに坐って通夜をした。田宮は一時間ばかり坐っていたが、気分が悪いといって自分の座敷へ帰ってしまった。元子と柳子とは唖《おし》のように黙って、唯しょんぼりと俯向いているので、遠泉君はかれらの口からなんの手がかりも訊き出すたよりがなかった。こうして淋しい一夜は明けたが、東京からの引取り人はまだ来なかった。
 徹夜のために、頭がひどく重くなったので、遠泉君はあさ飯の箸をおくと、ひとりで海岸へ散歩に出て行った。女学生の死はこの狭い土地に知れ渡っているとみえて、往来の人達もその噂をして通った。遠泉君は海岸の石に腰をかけて、沖の方から白馬の鬣毛《たてがみ》のようにもつれて跳って来る浪の光りをながめている[#「ながめている」は底本では「ながている」]うちに、ふと自分の足もとへ眼をやると、かの五色の美しい蟹が岩の間をちょろちょろと這っていた。田宮の胸の上にこの蟹が登っていたことを思い出して、遠泉君はまたいやな心持になった。彼はそこらにある小石を拾って、蟹の甲を眼がけて投げ付けようとすると、その手は何者かに掴まれた。
「あ、およしなさい。祟りがある。」
 おどろいて振り返ると、自分のそばには六十ばかりの漁師らしい老人が立っていた。
「あの蟹はなんというんですか。」と、遠泉君は訊いた。
「あばた蟹[#「あばた蟹」に傍点]といいますよ。」
 美しい蟹に痘痕《あばた》の名はふさわしくないと遠泉君は思っていると、老いたる漁師はその蟹の由来を説明した。
 今から千年ほども昔の話である。ここらに大あばたの非常に醜《みにく》い女があった。あばたの女は若い男に恋して捨てられたので、かれは自分の醜いのをひどく怨んで、来世は美しい女に生まれ代って来るといって、この海岸から身を投げて死んだ。かれは果たして美しく生まれかわったが、人間にはなり得ないで蟹となった。あばた蟹の名はそれから起こったのである。そうして、この蟹に手を触れたものには祟りがあると言い伝えられて、いたずらの子供ですらも捕えるのを恐れていた。殊に嫁入り前の若い女がこの蟹を見ると、一生縁遠いか、あるいはその恋に破れるか、必ず何かの禍いをうけると恐れられていた。
 明治以後になって、この奇怪な伝説もだんだんに消えていった。あばた蟹を恐れるものも少なくなった。ところが、十年ほど前に東京の某銀行家の令嬢がこの温泉に滞在しているうちに、ある日ふとこの蟹を海岸で見付けて、あまり綺麗だというので、その一匹をつかまえて、なんの気もなしに自分の宿へ持って帰った。宿の女中も明治生まれの人間であるので、その伝説を知りながら黙っていると、その明くる晩、令嬢は湯風呂のなかに沈んでしまった。その以来、あばた蟹の伝説がふたたび諸人の記憶によみがえったが、それでも多数の人はやはりそれを否認して、令嬢の変死とあばた蟹とを結び付けて考えようとはしなかった。
「そんなことを言うと、土地の繁昌にけち[#「けち」に傍点]を付けるようでいけねえが、その後にもそれに似寄ったことが二度ばかりありましたよ。」と、彼は付け加えた。
 八月のあさ日に夏帽の庇《ひさし》を照らされながら、遠泉君は薄ら寒いような心持でその話を聴いていた。
 漁師に別れて宿へ帰る途中で、遠泉君は考えた。おとといその蟹をつかまえたのは本多である。しかも現在のところでは、本多にはなんの祟りもないらしく、蟹はかえって隣り座敷へ移って行った。一旦投げ捨てたのが又這いあがって来て、かの児島亀江のオペラバックの上に登った。彼女はこの時にもう呪われたのであろう。彼女が湯風呂の底に沈んだのは、為子の嫉妬でもなく、同性の愛でもなく、あばた蟹の祟りであるかも知れない。それにしても、四人の女の中でなぜ彼女が特に呪われたか、彼女が最も美しい顔を持っていた為であろうか。それともまだ他に子細があるのであろうか。
 遠泉君は更に彼女と田宮との関係を考えなければならなかった。おとといの晩、田宮が風呂場で見たという女の首はなんであろうか、それが果たして亀江であったろうか。ゆうべも本多が垣の外へ投げ出した蟹が、ふたたび這い戻って来て田宮の胸にのぼると、彼は非常に魘された。かの蟹と田宮と亀江と、この三者の間にどういう糸が繋がれているのであろうか。遠泉君は田宮を詮議してその秘密の鍵を握ろうと決心した。
 宿の前まで来ると、かれは再びきのうの巡査に逢った。
「やっぱりなんにもお心付きはありませんか。」と、巡査は訊いた。
「どうもありません。」と、遠泉君は冷やかに答えた。
「古屋為子がもう少しこころよくなったら、警察へ召喚して取り調べようと思っています。」と、巡査はまた言った。
 警察はあくまでも為子を疑って、いろいろに探偵しているらしく、東京へも電報で照会して、かの女学生たちの身許や素行の調査を依頼したとのことであった。遠泉君は漁師から聞いたあばた蟹の話をすると、巡査はただ笑っていた。
「ははあ、わたしは近ごろ転任して来たので、一向に知りませんがねえ。」
「御参考までに申し上げて置くのです。」
「いや、判りました。」
 巡査はやはり笑いながらうなずいていた。彼が全然それを問題にしていないのは、幾分の嘲笑を帯びた眼の色でも想像されるので、遠泉君は早々に別れて帰った。
 午後になって、東京から亀江の親戚がその屍体を引き取りに来た。屍体はすぐに火葬に付して、遺髪と遺骨とを持って帰るとのことであった。その翌日、元子は遺骨を送って東京へ帰った。柳子はあとに残って為子の看護をすることになった。柳子は警察へ一度よばれて、何かの取り調べをうけた。警察ではあくまでも犯罪者を探り出そうとしているのを、遠泉君は無用の努力であるらしく考えた。
 田宮はその以来ひどく元気をうしなって、半病人のようにぼんやりしているのが、連れの者に取っては甚だ不安の種であった。為子はだんだんに回復して、遠泉君らが出発する前日に、とうとう警察へ召喚されたが、そのまま無事に戻された。出発の朝、三人は海岸へ散歩に出ると、かのあばた蟹は一匹も形を見せなかった。

 東京へ帰ってからも、田宮はひと月以上もぼんやりしていた。彼は病気の届けを出して、自分の会社へも出勤しなかったが、九月の末になって世間に秋風が立った頃に、久し振りで遠泉君のところへ訪ねて来た。この頃ようよう気力を回復して二、三日前から会社へ出勤するようになったと言った。
「君はあの児島亀江という女学生と何か関係があったのか。」と、遠泉君は訊いた。
「実はかつて一度、帝劇の廊下で見かけたことがある。それが偶然に伊豆でめぐり逢ったんだ。」
「そこで、君はあの女をなんとか思っていたのか。」
 田宮は黙って溜め息をついていた。

(初出不明)

底本:「伝奇ノ匣2 岡本綺堂妖術伝奇集」学研M文庫、学習研究社
   2002(平成14)年3月29日初版発行
入力:川山隆
校正:門田裕志
2008年9月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

経帷子の秘密—— 岡本綺堂

     

 吉田君は語る。

 万延元年――かの井伊大老の桜田事変の年である。――九月二十四日の夕七つ半頃(午後五時)に二挺の駕籠《かご》が東海道の大森を出て、江戸の方角にむかって来た。
 その当時、横浜《ハマ》見物ということが一種の流行であった。去年の安政六年に横浜の港が開かれて、いわゆる異人館《いじんかん》が続々建築されることになった。それに伴って新しい町は開かれる、遊廓も作られる、宿屋も出来るというわけで、今までは葦芦《よしあし》の茂っていた漁村が、わずかに一年余りのあいだに、眼をおどろかすような繁華の土地に変ってしまった。それが江戸から七里、さのみ遠い所でもないので、東海道を往来の旅びとばかりでなく、江戸からわざわざ見物にゆく者がだんだんに多くなった。いつの代《よ》も流行は同じことで、横浜を知らないでは何だか恥かしいようにも思われて来たのである。
 今この駕籠に乗っている客も、やはり流行の横浜見物に行った帰り道であった。かれらは芝の田町《たまち》の近江屋という質屋の家族で、女房のお峰はことし四十歳、娘のお妻は十九歳である。近江屋は土地でも古い店で、お妻は人並に育てられ、容貌《きりょう》は人並以上であったが、この時代の娘としては縁遠い方で、ことし十九になるまで相当の縁談がなかった。家には由三郎という弟があるので、お妻はどうでも他家へ縁付かなければならない身の上であるが、今もなお親の手もとに養われていた。
 近江屋の親類でこの春から横浜に酒屋をはじめた者がある。それから横浜見物に来いとたびたび誘われるので、女房のお峰は思い切って出かけることになった。由三郎はまだ十六でもあり、殊に男のことであるから、この後に出かける機会はいくらもある。お妻は女の身で、他家へいったん縁付いてしまえば、めったに旅立ちなどは出来ないのであるから、今度の見物には姉のお妻を連れて行くことにして、ほかに文次郎という若い者が附添って、おとといの朝早く田町の店を出た。
 お妻は十九の厄年であるというので、その途中でまず川崎の厄除大師《やくよけだいし》に参詣した。それから横浜の親類の酒屋をたずねて、所々の見物にきのう一日を暮らした。横浜にふた晩泊って、三日目に江戸へ帰るというのが最初からの予定であるので、きょうは朝のうちに見残した所をひとめぐりして、神奈川の宿《しゅく》まで親類の者に送られて、お峰とお妻の親子は駕籠に乗った。文次郎は足|拵《ごしら》えをして徒歩《かち》で付いて来た。
 川崎の宿《しゅく》で駕籠をかえて、大森へさしかかった時に、お峰は近所の子供へ土産をやるのだといって名物の麦わら細工などを買った。そんなことで暇取《ひまど》って大森を出た二挺の駕籠が今や鈴ヶ森に近くなった頃には、旧暦の九月の日は早くも暮れかかって、海辺のゆう風が薄寒く身にしみた。
「お婆さん。お前さんはどこまで行くのだ。」と、文次郎は見かえって訊《き》いた。文次郎は十一の春から近江屋に奉公して、ことし二十三の立派な若い者である。
 一行の駕籠が大森を出る頃から、年ごろは六十あまり、やがては七十にも近いかと思われる老婆が杖も持たずに歩いて来る。それだけならば別に子細《しさい》もないのであるが、その老婆は乗物におくれまいとするように急いで来るのである。
 駕籠は男ふたりが担いでいるのである。附添いの文次郎も血気の若者である。それらが足を早めてゆく跡から、七十に近い老婆がおくれまいと付いて来るのは無理であるように思われた。実際、杖も持たないで腰をかがめ、息をはずませて、危く倒れそうによろめきながら、歩きつづけているのであった。
 文次郎の眼にはそれが気の毒にも思われた。また一面には、それが不思議のようにも感じられた。日が暮れかかって、独り歩きの不安から、この婆さんは自分たちのあとに付いて来るのであろうかとも考えたので、彼は見返ってその行く先をきいたのである。
「はい。鮫洲《さめず》までまいります。」
「鮫洲か。じゃあ、もう直ぐそこだ。」
「それでも年を取っておりますので……。」と、老婆は息を切りながら答えた。
「杖はないのだね。」
「包みを抱えておりますので、杖は邪魔だと思いまして……。」
 かれは浅黄色の小さい風呂敷包みを持っていた。この問答のうちに、夕暮れの色はいよいよ迫って来たので、駕籠屋は途中で駕籠を立てて、提灯に蝋燭《ろうそく》の灯を入れることになった。それを待つあいだに、文次郎はまた訊いた。
「それにしても、なぜ私たちのあとを追っかけて来るのだ。ひとりでは寂しいのかえ。」
「はい。日が暮れると、ここらは不用心でございます。わたくしは少々大事な物をかかえておりますので……。」
「よっぽど大事なものかえ。」と、文次郎は浅黄色の風呂敷包みに目をつけた。
「はい。」
 駕籠屋の灯に照らし出された老婆は、その若い時を偲《しの》ばせるような、色の白い、人品のよい女であった。木綿物ではあるが、見苦しくない扮装《いでたち》をしていた。
「しかし年寄りの足で私たちの駕籠に付いて来ようとするのは無理だね。転《ころ》ぶとあぶないぜ。」
 言ううちに、駕籠は再びあるき出したので、文次郎も共にあるき出した、老婆もやはり続いて来た。鈴ヶ森の畷《なわて》ももう半分ほど行き過ぎたと思うころに、老婆はつまずいて、よろけて、包みを抱えたままばったりと倒れた。
「それ、見なさい、言わないことじゃあない。それだから危ないというのだ。」
 文次郎は引っ返して老婆を扶《たす》け起そうとすると、かれは返事もせずにあえいでいた。疲れて倒れて、もう起きあがる気力もないらしいのである。
「困ったな。」と、文次郎は舌打ちした。
 さっきから駕籠のうちで、お峰の親子はこの問答を聞いていたのであるが、もうこうなっては聞き捨てにならないので、お峰は駕籠を停めさせて垂簾《たれ》をあげた。
「その婆さんは起きられないのかえ。」
「息が切れて、もう起きられないようです。」と、文次郎は答えた。
 お妻も駕籠の垂簾をあげて覗《のぞ》いた。
「鮫洲まで行くのだということだね。それじゃあそこまで私の駕籠に乗せて行ってやったらどうだろう。」
「そうしてやればいいけれど……。」と、お峰も言った。「それじゃあ私がおりましょう。」
「いいえ、おっ母さん。わたしがおりますよ。わたしはちっと歩きたいのですから。」
 旅|馴《な》れない者が駕籠に長く乗り通しているのは楽でない。年のわかいお妻が少し歩きたいというのも無理ではないと思ったので、母も強《し》いては止めなかった。
 お妻が草履《ぞうり》をはいて出ると、それと入れ代りに、老婆が文次郎と駕籠屋に扶けられて乗った。お妻を歩かせる以上、駕籠を早めるわけにもいかないので、鮫洲の宿に着いた頃には、その日もまったく暮れ果てていた。
「ありがとうございました。お蔭さまで大助かりをいたしました。」
 駕籠を出た老婆は繰返して礼を述べて、近江屋の一行に別れて行った。年寄りをいたわってやって、よい功徳《くどく》をしたようにお峰親子は思った。しかもそれは束《つか》の間《ま》で、老婆と入れ代って駕籠に乗ったお妻は忽《たちま》ちに叫んだ。
「あれ、忘れ物をして……。」
 老婆は大事の物という風呂敷包みを置き忘れて行ったのである。文次郎も駕籠屋らもあわてて見まわしたが、かれの姿はもうそこらあたりに見いだされなかった。当てもなしにお婆さんお婆さんと呼んでみたが、どこからも返事の声は聞かれなかった。
「あれほど大事そうに言っていながら、年寄りのくせにそそっかしいな。」
 口叱言《くちこごと》を言いながら、文次郎は駕籠屋の提灯を借りて、その風呂敷をあけてみた。一種の好奇心もまじって、お妻も覗いた。お峰も垂簾《たれ》をあげた。
「あっ。」
 驚きと恐れと一つにしたような異様の叫び声が、人々の口を衝《つ》いて出た。風呂敷に包《つつ》まれた物というのは、白い新しい経帷子《きょうかたびら》であった。

     

 かの老婆がなぜこんな物をかかえ歩いていたのか。考えようによっては、さのみ怪しむべきことでもないかも知れない。自分の親戚あるいは知人の家に不幸があって、かれは経帷子を持参する途中であったかも知れない。かれは年寄りのくせに路を急いだのも、それがためであったのかも知れない。心せくままに、かれはそれを駕籠のなかに置き忘れて去ったのかも知れない。
 もしそうならば、かれもおどろいて引っ返して来るであろう。近江屋は芝の田町で、高輪《たかなわ》に近いところであるから、ここからも遠くはない。そこで文次郎は迷惑な忘れ物をかかえて、暫くここに待合せていることにして、お峰親子の駕籠はまっすぐに江戸へ帰った。
 自分の店へ帰り着いて親子はまずほっ[#「ほっ」に傍点]とした。隠して置くべきことでもないので、お峰はかの老婆と経帷子の一条を夫にささやくと、亭主の由兵衛も眉《まゆ》をよせた。それに対する由兵衛の判断も、大抵は前に言ったような想像に過ぎなかったが、何分にもそれが普通の品物と違うので、人々の胸に一種の暗い影を投げかけた。殊にその時代の人々は、そんなことを忌《い》み嫌うの念が強かったので、縁起が悪いとみな思った。そうして、それが何かの不吉の前兆であるかのようにも恐れられた。
 夜がふけて文次郎が帰って来た。彼は鮫洲の宿《しゅく》をうろ付いて、一|※[#「日+向」、第3水準1-85-25]《とき》ほども待っていたが、老婆は遂に引っ返して来ないので、よんどころなくかの風呂敷包みをかかえて戻ったというのである。
「こんなことが近所にきこえると、何かの噂《うわさ》がうるさい。知れないように捨てて来い。」と、由兵衛は言った。
 文次郎は再びその包みを抱え出して、夜ふけを幸いに、高輪の海へ投げ込んでしまった。それを知っているのは、由兵衛夫婦とお妻だけで、忰《せがれ》の由三郎も他の奉公人らもそんな秘密をいっさい知らなかった。
 横浜見物のみやげ話も何となく浮き立たないで、お峰親子は暗い心持のうちに幾日を送った。取分けて、お妻はかの怪しい老婆から不吉な贈りものを受けたようにも思われて、横浜行きが今更のように悔まれた。厄除大師を恨むようにもなった。なまじいの情けをかけずに、いっそかの老婆を見捨てて来ればよかったとも思った。女房や娘の浮かない顔色をみて、由兵衛は叱るように言い聞かせた。
「もう済んでしまったことを、いつまで気にかけているものじゃあない。物事は逆《さか》さまというから、却ってめでたいことが来るかも知れない。刃物で斬られた夢を見れば、金が身に入るといって祝うじゃあないか。」
 由兵衛はそれを本気で言ったのか、あるいは一時の気休めに言ったのか知らないが、不思議にもそれが適中して、果たして目出たいことが来た。それから十日《とうか》も経たないうちに、今まで縁遠かったお妻に対して結構な縁談を申込まれたのである。
 淀橋の柏木成子町に井戸屋という古い店がある。井戸屋といっても井戸掘りではなく、酒屋である。先祖は小田原北条の浪人井戸なにがしで、ここに二百四、五十年を経る旧家と誇っているだけに、店も大きく、商売も手広く、ほかに広大の土地や田畑も所有して、淀橋界隈では一、二を争う大身代《おおしんだい》と謳《うた》われている。その井戸屋へ嫁入りの相談を突然に申込まれて、近江屋でも少しく意外に思ったくらいであった。しかもその媒妁《ばいしゃく》に立ったのは、お峰の伯父にあたる四谷大木戸前の万屋《よろずや》という酒屋の亭主で、世間にあり触れた不誠意の媒妁口ではないと思われるので、近江屋の夫婦も心が動いた。十九になるまで身の納まりの付かなかった娘が、そんな大家《たいけ》の嫁になることが出来れば、実に過分の仕合せであるとも思った。勿論《もちろん》、お妻にも異存はなかった。
 十月はじめに、双方の見合《みあい》も型のごとく済んで、この縁談はめでたく纏《まと》まった。但しお妻は十九の厄年であるので、輿入《こしい》れは来年の春として、年内に結納の取交せをすませることになった。近江屋も相当の身代ではあるが、井戸屋とは比較にならない。井戸屋の名は下町《したまち》でも知っているものが多いので、お妻はその幸運を羨《うらや》まれた。
「どうだ。経帷子が嫁入り衣裳に化けたのだ。物事は逆さまといったのに嘘はあるまい。」と、由兵衛は誇るように笑った。
 まったく逆さまである。怪しい老婆に経帷子を残されたのは、こういうめでたいことの前兆であったのかと、お峰もお妻も今更のように不思議に思ったが、いずれにしても意外の幸運に見舞われて、近江屋の一家は時ならぬ春が来たように賑わった。相手が大家であるので、お妻の嫁入り支度もひと通りでは済まない。それも万々《ばんばん》承知の上で、由兵衛夫婦は何やかやの支度に、この頃の短い冬の日を忙がしく送っていた。
 十一月になって、結納の取交せも済んで、輿入れはいよいよ来年正月の二十日過ぎと決められた。その十二月の十八日である。由兵衛は例年のごとく、浅草観音の歳市《としのいち》へ出てゆくと、その留守に三之助が歳暮の礼に来た。三之助は由兵衛の弟で、代々木町の三河屋という同商売の家へ婿に行ったのである。兄は留守でも奥の座敷へ通されて、三之助はお峰にささやいた。
「姉さん。このおめでたい矢先に、こんなことを申上げるのもどうかと思いますけれど、少し変なことを聞き込みましたので……。」
「変な事とは……。」
「あの井戸屋さんのことに就いて……。」と、三之助はいよいよ声を低めた。「あの家には変な噂があるそうで……。何代前のことだか知りませんが、井戸屋に奉公している一人の小僧のゆくえが知れなくなったのです。人にでも殺されたのか、自分で死んだのか、それとも駈落《かけおち》でもしたのか、そんなことはいっさい判らないのですが、その小僧の祖母《ばあ》さんという人が井戸屋へ押掛けて来て、自分の大事の孫を返してくれという。井戸屋では知らないという。又その祖母さんが強引に毎日押掛けて来て、どうしても孫を返せという。井戸屋でもしまいには持て余して、奉公人どもに言い付けて腕ずくで表へ突き出すと、そのばあさんが井戸屋の店を睨《にら》んで、覚えていろ、ここの家はきっと二代と続かないから……。そう言って帰ったぎりで、もう二度とは来なかったそうです。」
「それはいつごろの事なの。」と、お峰は不安らしく訊いた。経帷子の老婆のすがたが目先に浮かんだからである。
「今も言う通り、何代前のことか知りませんが、よっぽど遠い昔のことで、それから六、七代も過ぎているそうです。」
「それじゃあ、二代は続かせないと言ったのは、嘘なのね。」と、お峰はやや安心したように言った。
「ところが、まったく二代は続いていないのです。井戸屋の家には子育てがない。子供が生れてもみんな死んでしまうので、いつも養子に継がせているそうです。それですから、井戸屋の家はあの通り立派に続いているけれども、代々の相続人はみな他人で、おなじ血筋が二代続いていないのです。」
「そんなら身内から養子を貰《もら》えばいいじゃありませんか。そうすれば、血筋が断える筈《はず》がないのに……。」
「それがやっぱりいけないのです。」と、三之助はさらに説明した。「身内から貰った養子は自分の実子と同じように、みんな死んでしまうので、どうしても縁のない他人に継がせる事になるのだそうです。」
「変だねえ。」
「変ですよ。」
「そのばあさんというのが祟《たた》っているのかしら。」
「まあ、そういう噂ですがね。」
 こんなことを言うと、折角の縁談に水をさすようにも聞えるので、いっそ黙っていようかと思ったが、知っていながら素知らぬ顔をしているのもよくないと思い直して、ともかくもこれだけのことをお耳に入れて置くのであるから、かならず悪く思って下さるなと、三之助は言訳をして帰った。
 それと入れ違いに由兵衛が帰って来たので、お峰は早速にその話をすると、由兵衛も眉をよせた。淀橋と芝と遠く離れているので、井戸屋にそんな秘密のあることを由兵衛夫婦はちっとも知らなかったのである。三之助の話を聞いただけでは、そのばあさんが一途《いちず》に井戸屋を恨むのは無理のようにも思われるが、今更そんなことを論じても仕様がない。ともかくそんな呪《のろ》いのある家に、可愛い娘をやるかやらないかが、差しあたっての緊急問題であった。
「万屋の伯父さんはそんな事を知らないのでしょうかねえ。」と、お峰は疑うように言い出した。
「といって、三之助もまさか出たらめを言いはすまい。ほかの事とは違うからな。」と、由兵衛も半信半疑であった。
 万屋はお峰の伯父である。三之助は由兵衛の弟である。お峰としては伯父を信じ、由兵衛としては弟を信じたいのが自然の人情で、夫婦のあいだに食い違ったような心持がかもされたが、それで気まずくなるほどの夫婦でもなかった。まずその疑いを解くために、由兵衛は弟をたずねて再び詳しい話を聞き、お峰は伯父をたずねて真偽を確かめることにして、その翌日の早朝に夫婦は山の手へのぼった。
 二人は途中で引分かれて、由兵衛は代々木の三河屋へ行った。お峰は大木戸前の万屋をたずねた。万屋の伯父はお峰の詰問を受けてひどく難渋《なんじゅう》の顔色を見せたが、結局ため息まじりでこんな事を言い出した。
「おまえ達がそれを知った以上は、もう隠しても仕方がない。実は井戸屋にはそんな噂がある。と言ったら、なぜそんな家へ媒妁をしたと恨まれるかも知れないが、それには苦しい訳がある。」
 伯父は商売の手違いから、二、三年来その家運がおとろえて、同商売の井戸屋には少なからぬ借財が出来ている。現にこの歳の暮れにも井戸屋から相当の助力をして貰わなければ、無事に歳を越すことも出来ない始末である。万一この縁談が破れたなら、わたしは井戸屋に顔向けが出来ないばかりでない。ここで井戸屋に見放されたら、この年の瀬を越しかねて数代つづいた万屋の店を閉めなければならない事にもなる。そこを察して勘弁してくれと、伯父は老いの眼に涙をうかべて口説いた。
 これでいっさいの事情は判断した。いやな噂が聞えているために、大家の井戸屋にも嫁に来るものがない。そこへ自分の姪の娘を縁付けて、借財の始末や商売上の便利を図ろうとするのが、万屋の伯父の本心であった。つまりは近江屋の娘を生贄《いけにえ》にして、自分の都合のよいことをたくらんだのである。それを知って、お峰は腹立たしくなった。あまりにひどい仕方であると伯父を憎んだ。しかもこの縁談を打破れば万屋の店はつぶれるというのである。伯父ばかりでなく、伯母までが言葉を添えて、涙ながらに頼むのである。
 こうなると、女の心弱さに、お峰は伯父を憎んでばかりいられなくなった。結局は亭主とも相談の上ということで、かれは帰って来た。やがて由兵衛も帰って来て、三之助の話は本当であるらしいと言った。
 嘘も本当もない、いっさいは伯父が白状しているのである。そこで夫婦は額をあつめて、密々の相談に時を移したが、ここで自分たちが強情を張り通して、みすみす万屋の店を潰してしまうのは、親類一門として忍びないことである。それがこの時代の人々の弱い人情であった。さらに困るのは、お妻が嫁入りのことを町内じゅうでもすでに知っているのである。それを今更破談にするのは世間のきこえがよくない。あるいはそれがいろいろの邪魔になって、さなきだに縁遠い娘を一生|瑕物《きずもの》にしてしまうおそれがないともいえない。
「もうこの上は仕方がない。そのわけをお妻によく言い聞かせて、当人の料簡《りょうけん》次第にしたらどうだ。当人が承知なら決める、いやならば断わる。それよりほかない。」と、由兵衛は言った。
 お峰もそれに同意して、早速お妻を呼んで相談すると、かれは案外素直に承知した。
「横浜から帰るときに、あのお婆さんが経帷子を置いて行ったのも、所詮《しょせん》こうなる因縁でしょう。まして見合も済み、結納も済んだのですから、わたしも思い切って井戸屋へ参ります。」

     

 当人がいさぎよく決心している以上、両親ももうかれこれ言う術《すべ》はなかった。むしろ我が子に励まされたような形にもなって、躊躇《ちゅうちょ》せずに縁談を進行することにした。万屋の伯父夫婦は再び涙をながして喜んだ。
 待つような、待たないような年は早く明けて、正月二十二日は来た。この年は初春早々から雨が多くて、寒い日がつづいた。なんといっても、近江屋は土地の旧家であるから、同業者は勿論、町内の人々も祝いに来て、二、三日前から混雑していた。いよいよ輿入れという日の前夜に、お妻は文次郎を呼んでささやいた。
「去年あの経帷子を流したのは海辺《うみべ》のどこらあたりか、お前はおぼえているだろう。今夜そっと私を連れて行ってくれないか。」
 文次郎は何だか不安を感じたので、その場はいったん承知して置きながら、お峰にそれを密告したので、かれも一種の不安を感じた。よもやとは思うものの、いよいよあしたという今夜に迫って、万一身投げでもされたら大変であると恐れた。
「おまえは海辺へ何しに行くのだえ。」と、お峰は娘をなじるように訊いた。
「唯ちょいと行ってみたいのです。決して御心配をかけるような事はありません。」
「それじゃあわたしも一緒に行くが、いいかえ。」
 その日も朝から細雨《こさめ》が降っていたが、暮れ六つごろからやんだ。店口は人出入りが多いので、お峰親子は裏木戸から抜け出すと、文次郎は路地口に待合せていて、二人の先に立って行った。高輪の海岸は目の先である。
 時刻はやがて五つ(午後八時)に近い頃で、雲切れのした大空には金色の星がまばらに光っていた。海辺の茶屋はとうに店を締めてしまった。この頃は世の中が物騒になって、辻斬《つじぎ》りがはやるという噂があるので、まだ宵ながらここらの海岸に人通りも少なかった。品川がよいのそそり節《ぶし》もきこえなかった。
 三人は海岸に立って暗い海をながめた。文次郎も確かには憶えていないが、大方ここらであったろうと、提灯をかざして教えると、お妻はひざまずくように身をかがめて、両手をあわせた。かれは海にむかって何事をか祈っているらしかった。お峰も文次郎も目を放さずに、その行動を油断なく窺っていると、お妻は暫くのあいだ身動きもしなかった。寒い夜風が三人の鬢《びん》を吹いて通った。
 闇をゆるがす海の音は、凄まじいようにどうどうと響いて、足もとの石垣にくだけて散る浪のしぶきは夜目にもほの白くみえた。その浪を見つめるように、お妻は頭をあげたかと思うと、たちまちに小声で叫んだ。
「あれ、そこに……。」
 文次郎は思わず提灯をさし付けた。お峰も覗いた。灯のひかりと潮のひかりとに薄あかるい浪の上に、白いような物が漂っているのを見つけて、二人はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。それがかの経帷子であるらしく思われたからである。お峰は言い知れない恐怖を感じて、無言で文次郎の袖をひくと、彼もその正体を見届けようとして、幾たびか提灯を振り照らしたが、白い物の影はもう浮かび出さなかった。
 お妻は海にむかって再び手を合せた。

 その翌日、お妻はめでたく井戸屋へ送り込まれた。井戸屋の若主人は果たして養子で、その名を平蔵といった。先代の主人夫婦は、二、三年前に引きつづいて世を去ったので、新嫁《にいよめ》になんの気苦労もなかった。夫婦の仲も睦まじかった。
「これで何事もなければ、申分はないのですがねえ。」と、お峰は夫にささやいた。
 由兵衛もひそかに無事を祈っていた。この年の二月に、年号は文久と改まったのである。去年の桜田事変以来、世の中はますますおだやかならぬ形勢を見せて来たが、近江屋一家には別条なく、井戸屋にもなんの障りもなく、ここに一年の月日を送って、その年の暮れにお妻は懐姙した。
 本来ならば、めでたいと祝うのが当然でありながら、それを聞いて近江屋の夫婦は一種の不安に襲われた。不吉の予感が彼等のこころを暗くした。お峰は世間の母親のように、初孫《ういまご》の顔を見るのを楽しみに安閑とその日を送ってはいられなかった。かれは日ごろ信心する神社や仏寺に参詣して、娘の無事出産を祈るのは勿論、まだ見ぬ孫の息災延命《そくさいえんめい》をひたすらに願った。
 明くれば文久二年、その九月はお妻の臨月にあたるので、お峰は神仏に日参をはじめた。由兵衛も釣り込まれて神まいりを始めた。井戸屋の主人も神仏の信心を怠らず、わざわざ下総《しもうさ》の成田山に参詣して護摩《ごま》を焚いてもらった。ありがたい守符《まもりふだ》のたぐいが神棚や仏壇に積み重ねられた。
 九月二十三日に淀橋からお妻の使が来て、おっ母さんにちょっと会いたいから直ぐにお出《い》でくださいというので、もしや産気でも付いたのかと、お峰はすぐに駕籠を飛ばせてゆくと、お妻の様子は常に変らなかった。悪阻《つわり》の軽かったかれは、ほとんど臨月の姙婦とは見えないほどにすこやかであった。その顔色も艶々《つやつや》しかった。
「どうだえ、もう生まれそうかえ。」と、お峰はまず訊いた。
「お医者も、取揚げのお婆さんも、今月の末頃だろうと言っているのですけれど、わたしはきっとあした頃だろうと思います。」と、お妻は信ずるところがあるように言った。
「だって、お医者も取揚げ婆さんもそう言うのに、おまえ一人がどうして明日と決めているの。」
「ええ、あしたです。きっとあしたの日暮れ方です。」
「あしたの日暮れ方……。」
「おっ母さんはおととしの事を忘れましたか。あしたは九月の二十四日ですよ。」
 九月二十四日――横浜見物の帰り道に、二挺の駕籠が鈴ヶ森を通りかかったのは、その日の暮れ方であった。それを言い出されて、お峰は忌《いや》な心持になった。
「けれども、おっ母さん安心していて下さい。男の児にしろ、女の児にしろ、わたしの生んだ児はわたしがきっと守ります。」と、お妻はいよいよ自信がありそうに言った。
 姙婦を相手にかれこれ言い合うのもよくないと思ったので、お峰は黙って聞いていた。しかし何だか気がかりでもあるので、婿の平蔵にそっと耳打ちすると、平蔵も不安らしくうなずいた。
「実は私にも同じことを言いました。医者も取揚げ婆さんも今月の末頃だというのに、当人はどうしても、あしたの日暮れ方だと言い張っているのは、何だかおかしいように思われますが……。」
「そうですねえ。」
 九月二十四日の一件が胸の奥にわだかまっているので、その晩はお峰も井戸屋に泊り込んで、あしたの夕方を待つことにした。明くる二十四日は朝からほがらかに晴れて、秋風が高い空を吹いていた。渡り鳥の声もきこえた。
 お妻も昼のあいだは別に変ったこともなかったが、いわゆる釣瓶落《つるべおと》しの日が暮れて、広い家内に灯をともす頃、かれは俄《にわ》かに産気づいて、安らかに男の児を生み落した。その予言が見事に適中して人々を驚かせた。
 その知らせに驚いて駈けつけて来た産婆にむかって、お妻は訊いた。
「男ですか、女ですか。」
「坊ちゃんでございますよ。」と、産婆は誇るように言った。
「そうですか。」と、お妻はほほえんだ。「早くあっちへ連れて行ってください。おっ母さんもあっちへ行って……。」
 男の児の誕生に、一家内が浮かれ立っている隙《すき》をみて、お妻はこの世に別れを告げた。いつの間に用意してあったのか知らないが、かれは聖柄《ひじりづか》の短刀で左の乳の下をふかく突き刺していた。もう一つ、人々に奇異の感を懐《いだ》かせたのは、これもいつの間にか拵えてあったと見えて、かれは新しい経帷子を膝の下に敷いていたので、その鮮血《なまち》が白い衣を真っ紅に染めていた。
 その秘密を知っている者は、母のお峰だけであった。

「その時に生れた男の児が私の伯父で、今も達者でいます。」と、吉田君は言った。「そのお妻という女――すなわち私の曽祖母《ひいばあ》さんに当る人が、子供を生むと同時に自殺したので、井戸屋の家にまつわる一種の呪いが消滅したとでもいうのでしょうか。前にもお話し申す通り、今まで決して実子の育たなかった家に、お妻の生んだ子だけは無事に生長したのです。それが嫁を貰って、男の児ふたりと女の児ひとりを儲け、これもみなつつがなく成人しました。次男がわたしの父で、親戚の吉田という家を相続することになったので、わたしも吉田の姓を継いでいるわけです。本家は井戸の姓を名乗って、その子孫もみな繁昌しています。こんにちの我れわれから観ると、単に奇怪な伝説としか思われませんが、わたしの祖父などは昔の人間ですから、井戸の家の血統が今なお連綿《れんめん》としているのは、自害したおっ母さんのお蔭だといって、その命日には欠かさずに墓参りをしています。」

底本:「鷲」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「富士」
   1934(昭和9)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくってい ます。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
2007年9月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

兜 ——岡本綺堂

    

 わたしはこれから邦原君の話を紹介したい。邦原君は東京の山の手に住んでいて、大正十二年の震災に居宅と家財全部を焼かれたのであるが、家に伝わっていた古い兜が不思議に唯ひとつ助かった。
 それも邦原君自身や家族の者が取出したのではない。その一家はほとんど着のみ着のままで目白の方面へ避難したのであるが、なんでも九月なかばの雨の日に、ひとりの女がその避難先へたずねて来て、震災の当夜、お宅の門前にこんな物が落ちていましたからお届け申しますと言って、かの兜を置いて帰った。そのときあたかも邦原君らは不在であったので、避難先の家人はなんの気もつかずにそれを受取って、彼女の姓名をも聞き洩らしたというのである。何分にもあの混雑の際であるから、それも拠《よ》んどころないことであるが、彼女はいったい何者で、どうして邦原君の避難さきまでわざわざ届けに来てくれたのか、それらの事情は一切《いっさい》わからなかった。
 いずれその内には判るだろうと、邦原君も深く気にも留めずにいたのであるが、その届け主《ぬし》は今に至るまでわからない。焼け跡の区画整理は片付いて邦原君一家は旧宅地へ立ち戻って来たので、知人や出入りの者などについて心あたりを一々聞きただしてみたが、誰も届けた者はないという。そこで更に考えられることは、平生《へいぜい》ならともあれ、あの大混乱の最中に身許《みもと》不明の彼女が、たとい邦原家の門前に落ちていたとしても、その兜をすぐに邦原家の品物と認めたというのが少しく不審である。第一、邦原家の一族は前にもいう通り、ほとんど着のみ着のままで立退《たちの》いたのであるから、兜などを門前まで持出した覚えはないというのである。そうなると、その事情がいよいよ判らなくなる。まさかにその兜が口をきいて、おれを邦原家の避難先へ連れて行けと言ったわけでもあるまい。蘇鉄《そてつ》が妙国寺へ行こうといい、安宅丸《あたけまる》が伊豆へ行こうといった昔話を、今さら引合いに出すわけにもゆくまい。
 甚だよくない想像であるが、門前に落ちている筈《はず》のないかの兜が、果たして門前に落ちていたとすれば、当夜のどさくさに紛れて何者かが家の内から持出したものではないかと思われる。いったん持出しては見たものの兜などはどうにもなりそうもないので、何か他の金目《かねめ》のありそうな物だけを抱え去って、重い兜はそのまま門前に捨てて行ったのではあるまいか。それを彼女が拾って来てくれたのであろう。盗んだ本人がわざわざと届けに来るはずもあるまいから、それを盗んだ者と、それを届けてくれた者とは、別人でなければならない。盗んだ者を今さら詮議《せんぎ》する必要もないが、届けてくれた者だけは、それが何人《なんぴと》であるかを知って置きたいような気がしてならない、と邦原君は言っている。
 以下は邦原君の談話を紹介するのであるから、その兜について心あたりのある人は邦原君のところまで知らせてやってもらいたい。それによって、彼は今後その兜に対する取扱い方をすこしく変更することになるかも知れないのである。

 まずその兜が邦原家に伝わった由来を語らなければならない。文久二年といえば、今から六十余年のむかしである。江戸の末期であるから、世の中はひどく騒々しい。将軍家のお膝元という江戸も頗《すこぶ》る物騒で、押込みの強盗や辻斬《つじぎ》りが毎晩のように続く。その八月の十二日の宵である。この年は八月に閏《うるう》があったそうで、ここにいう八月は閏の方であるから、平年ならばもう九月という時節で、朝晩はめっきりと冷えて来た。その冷たい夜露を踏んで、ひとりの男が湯島の切通しをぬけて、本郷の大通りへ出て、かの加州《かしゅう》の屋敷の門前にさしかかった。
 前にもいう通り、今夜は八月十二日で、月のひかりは冴え渡っているので、その男の姿はあざやかに照らし出された。かれは単衣《ひとえもの》の尻を端折《はしょ》った町人ていの男で、大きい風呂敷包みを抱えている。それだけならば別に不思議もないのであるが、彼はその頭に鉄の兜をいただいていた。兜には錣《しころ》も付いていた。たといそれが町人でなくても、単衣をきて兜をかぶった姿などというものは、虫ぼしの時か何かでなくてはちょっと見られない図であろう。そういう異形《いぎょう》の男が加州の屋敷の門前を足早に通り過ぎて、やがて追分《おいわけ》に近づこうとするときに、どこから出て来たのか知らないが、不意につかつかと駆け寄って、うしろからその兜の天辺《てっぺん》へ斬りつけた者があった。
 男はあっ[#「あっ」に傍点]と驚いたが、もう振り返ってみる余裕もないので、半分は夢中で半|町《ちょう》あまりも逃げ延びて、路ばたの小さい屋敷へかけ込んだ。その屋敷は邦原家で、そのころ祖父の勘十郎は隠居して、父の勘次郎が家督を相続していたが、まだ若年《じゃくねん》で去年ようよう番入りをしたばかりであるから、屋敷内のことはやはり祖父が支配していたのである。小身《しょうしん》ではあるが、屋敷には中間《ちゅうげん》二人を召使っている。
 兜をかぶった男は、大きい銀杏《いちょう》の木を目あてに、その屋敷の門前へかけて来たが、夜はもう五つ(午後八時)を過ぎているので、門は締め切ってある。その門をむやみに叩いて、中間のひとりが明けてやるのを待ちかねたように、彼は息を切ってころげ込んで来て、中の口――すなわち内玄関の格子さきでぶっ倒れてしまった。
 兜をかぶっているので、誰だかよく判らない。他の中間も出てきて、まずその兜を取ってみると、彼はこの屋敷へも出入りをする金兵衛という道具屋であった。金兵衛は白山前町《はくさんまえまち》に店を持っていて、道具屋といっても主《おも》に鎧《よろい》兜や刀剣、槍、弓の武具を取扱っているので、邦原家へも出入りをしている。年は四十前後で、頗るのんきな面白い男であるので、さのみ近しく出入りをするという程でもないが、屋敷内の人々によく識られているので、今夜彼があわただしく駈け込んで来たについて、人々もおどろいて騒いだ。
「金兵衛。どうした。」
「やられました。」と、金兵衛は倒れたままで唸《うな》った。「あたまの天辺から割られました。」
「喧嘩か、辻斬りか。」と、ひとりの中間が訊《き》いた。
「辻斬りです、辻斬りです。もういけません。水をください。」と、金兵衛はまた唸った。
 水をのませて介抱して、だんだん検《あらた》めてみると、彼は今にも死にそうなことを言っているが、その頭は勿論、からだの内にも別に疵《きず》らしい跡は見いだされなかった。どこからも血などの流れている様子はなかった。
「おい、金兵衛。しっかりしろ。おまえは狐にでも化かされたのじゃあねえか。」と、中間らは笑い出した。
「いいえ、斬られました。確かに切られたんです。」と、金兵衛は自分の頭をおさえながら言った。「兜の天辺から梨子割《なしわ》りにされたんです。」
「馬鹿をいえ。おまえの頭はどうもなっていないじゃあねえか。」
 押し問答の末に、更にその兜をあらためると、成程その天辺に薄い太刀疵のあとが残っているらしいが、鉢その物がよほど堅固に出来ていたのか、あるいは斬った者の腕が鈍《にぶ》かったのか、いずれにしても兜の鉢を撃ち割ることが出来ないで、金兵衛のあたまは無事であったという事がわかった。
「まったく一《ひと》太刀でざくりとやられたものと思っていました。」と、金兵衛はほっとしたように言った。その口ぶりや顔付きがおかしいので、人々は又笑った。
 それが奥にもきこえて、隠居の勘十郎も、主人の勘次郎も出て来た。
 金兵衛はその日、下谷御成道《したやおなりみち》の同商売の店から他の古道具類と一緒にかの兜を買取って来たのである。その店はあまり武具を扱わないので、兜は邪魔物のように店の隅に押込んであったのを、金兵衛がふと見付け出して、元値同様に引取ったが、他にもいろいろの荷物があって、その持ち抱えが不便であるので、彼は兜をかぶることにして、月の明るい夜道をたどって来ると、図《はか》らずもかの災難に出逢ったのであった。最初から辻斬りのつもりで通行の人を待っていたのか、あるいは一時の出来ごころか、いずれにしても彼が兜をかぶっていたのが禍《わざわ》いのもとで、斬る方からいえば兜の天辺から真っ二つに斬ってみたいという注文であったらしい。いくら夜道でも兜などをかぶってあるくから、そんな目にも逢うのだと、勘十郎は笑いながら叱った。
 それでも彼は武士である。一面には金兵衛のばかばかしさを笑いながらも、勘十郎はその兜を見たくなった。斬った者の腕前は知らないが、ともかくも鉢の天辺から撃ちおろして、兜にも人にも恙《つつが》ないという以上、それは相当の冑師《かぶとし》の作でなければならないと思ったので、勘十郎は金兵衛を内へ呼び入れて、燈火《あかり》の下でその兜をあらためた。
 刀剣については相当の鑑定眼を持っている彼も、兜についてはなんにも判らなかったが、それが可なりに古い物で、鉢の鍛《きた》えも決して悪くないということだけは容易に判断された。世のありさまが穏やかでなくなって、いずかたでも武具の用意や手入れに忙がしい時節であるので、勘十郎はその兜を買いたいと言い出すと、金兵衛は一も二もなく承知した。
「どうぞお買いください。これをかぶっていた為にあぶなく真っ二つにされるところでした。こんな縁喜《えんぎ》の悪いものは早く手放してしまいとうございます。」
 その代金は追って受取ることにして、彼はその兜を置いて帰った。

     

 兜の価《あたい》は幾らであったか、それは別に伝わっていないが、その以来、兜は邦原家の床の間に飾られることになって、下谷の古道具屋の店にころがっているよりは少しく出世したのである。或る人に鑑定してもらうと、それは何代目かの明珍《みょうちん》の作であろうというので、勘十郎は思いもよらない掘出し物をしたのを喜んだという話であるから、おそらく捨値同様に値切り倒して買入れたのであろう。
 それはまずそれとして、その明くる朝、本郷の追分に近い路ばたに、ひとりの侍が腹を切って死んでいるのを発見した。年のころは三十五、六で、見苦しからぬ扮装《いでたち》の人物であったが、どこの何者であるか、その身許を知り得《う》るような手がかりはなかった。その噂《うわさ》を聞いて、金兵衛は邦原家の中間らにささやいた。
「その侍はきっとわたしを斬った奴ですよ。場所がちょうど同じところだから、わたしを斬ったあとで自分も切腹したんでしょう。」
「お前のような唐茄子《とうなす》頭を二つや三つ斬ったところで、なにも切腹するにゃ及ぶめえ。」と、中間らは笑った。
 金兵衛はしきりにその侍であることを主張していたが、彼もその相手の人相や風俗を見届けてはいないのであるから、しょせんは水かけ論に終るのほかはなかった。しかし彼の主張がまんざら根拠のないことでもないという証拠の一つとして、その侍の刀の刃がよほど零《こぼ》れていたという噂が伝えられた。彼は相手の兜を斬り得ないで、却って自分の刀の傷ついたのを恥じ悔《くや》んで、いさぎよくその場で自殺したのであろうと、金兵衛は主張するのであった。
 どういう身分の人か知らないが、辻斬りでもするほどの男がまさかにそれだけのことで自殺しようとは思われないので、万一それが金兵衛の兜を斬った侍であったとしても、その自殺には他の事情がひそんでいなければならないと認められたが、その身許は結局不明に終ったということであった。
 いずれにしても、それは邦原家に取って何のかかり合いもない出来事であったが、その兜について更に新しい出来事が起った。
 それからふた月ほどを過ぎた十月のなかばに、兜が突然に紛失したのである。それは小春日和のうららかに晴れた日の午《ひる》すぎで、当主の勘次郎は出番の日に当っているので朝から留守であった。隠居の勘十郎も牛込辺の親類をたずねて行って留守であった。兜はそのあいだに紛失したのであるから、隠居と主人の留守を窺って、何者かが盗み出したのは明白であったが、座敷の縁側にも人の足跡らしいものなどは残されていなかった。ほかにはなんにも紛失ものはなかった。賊は白昼大胆に武家屋敷の座敷へ忍び込んで、床の間に飾ってある兜ひとつを盗み出したのである。
 その当時の邦原家は隠居とその妻のお国と、当主の勘次郎との三人で、勘次郎はまだ独身であった。ほかには中間二人と下女ひとりで、中間らはいずれも主人の供をして出ていたのであるから、家に残っているのはお国と下女だけで、かれらは台所で何か立ち働いていた為に、座敷の方にそんなことの起っているのを、ちっとも知らなかったというのである。
 盗んだ者については、なんの手がかりもない。しいて疑えば、日ごろ邦原家へ出入りをして、その兜を見せられた者の一人が、羨《うらや》ましさの余り、欲しさの余りに悪心を起したものかとも想像されないことはないので、あれかこれかと数えてゆくと、その嫌疑《けんぎ》者が二、三人ぐらいは無いでもなかったが、別に取留めた証拠もないのに、武士に対して盗人のうたがいなどを懸けるわけにはゆかない。邦原家では自分の不注意とあきらめて、何かの証拠を見いだすまでは泣き寝入りにして置くのほかはなかった。
「どうも普通の賊ではない。」と、勘十郎は言った。
 床の間には箱入りの刀剣類も置いてあったのに、賊はそれらに眼をかけず、択《よ》りに択って古びた兜ひとつを抱え出したのを見ると、最初から兜を狙って来たものであろう。まさかにかの金兵衛が取返しに来たのでもあるまい。賊はこの屋敷に出入りする侍の一人に相違ないと、勘十郎は鑑定した。勘次郎もおなじ意見であった。
 それにつけても、かの兜の出所をよく取糺《とりただ》して置く必要があると思ったので、邦原家では金兵衛をよび寄せて詮議すると、金兵衛もその紛失に驚いていた。実は自分もその出所を知っていないのであるから、早速下谷の道具屋へ行って聞合せて来るといって帰ったが、その翌日の夕方に再び来て、次のようなことを報告した。
「けさ下谷へ行って聞きますと、あの兜はことしの五月、なんでも雨のびしょびしょ降る夕方に、二十七、八の女が売りに来たんだそうです。わたしの店では武具を扱わないから、ほかの店へ持って行ってくれと一旦は断わったそうですが、幾らでもいいから引取ってくれと頻《しき》りに頼むので、こっちも気の毒になってとうとう買い込むことになったのだということです。その女は屋敷者らしい上品な人でしたが、身なりは余りよくない方で、破《や》れた番傘をさしていて、九つか十歳《とお》ぐらいの女の子を連れていたそうで、まあ見たところでは浪人者か小身の御家人《ごけにん》の御新造でもあろうかという風体《ふうてい》で、左の眼の下に小さい痣《あざ》があったそうです。」
 それだけのことでは、その売主《うりぬし》についてもなんの手がかりを見いだすことも出来なかった。まあいい。そのうちには何か知れることもあるだろうと、邦原家でももう諦めてしまった。そうして、またふた月あまりも過ぎると、十二月の末の寒い日である。ゆうべから吹きつづく空《から》っ風に鼻先を赤くしながら、あの金兵衛がまた駈け込んで来た。
「御隠居さま、一大事でございます。」
 茶の間の縁側に出て、鉢植えの梅をいじくっていた勘十郎は、内へ引っ返して火鉢の前に坐った。
「ひどく慌てているな。例の兜のゆくえでも知れたのか。」
「知れました。」と、金兵衛は息をはずませながら答えた。「どうも驚きました。まったく驚きました。あの兜には何か祟《たた》っているんですな。」
「祟っている……。」
「わたくしと同商売の善吉という奴が、ゆうべ下谷の坂本の通りでやられました。」と、金兵衛は顔をしかめながら話した。「善吉は下谷金杉に小さい店を持っているんですが、それが坂本二丁目の往来で斬られたんです。こいつはわたくしと違って、うしろ袈裟《げさ》にばっさりやられてしまいました。」
「死んだのか。」と、勘十郎も顔をしかめた。
「死にました。なにしろ倒れているのを往来の者が見付けたんですから、どうして殺されたのか判りませんが、時節柄のことですからやっぱり辻斬りでしょう。ふだんから正直な奴でしたが、可哀そうなことをしましたよ。それはまあ災難としても、ここに不思議な事というのは、その善吉も兜をかかえて死んでいたんです。」
「おまえはその兜を見たか。」
「たしかに例の兜です。」と、金兵衛は一種の恐怖にとらわれているようにささやいた。「同商売ですから、わたくしも取りあえず悔みに行って、その兜というのを見せられて実にぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としました。死人に口無しですから、一体その兜をどこから手に入れて、引っかかえて来たのか判らないというんですが、わたくしといい、善吉といい、その兜を持っている者が続いてやられるというのは、どうも不思議じゃあありませんか。考えてみると、わたくしなぞは運がよかったんですね。兜をかぶっていたのが仕合せで、善吉のように引っかかえていたら、やっぱり真っ二つにされてしまったかも知れないところでした。」
 それが兜の祟りと言い得るかどうかは疑問であるが、ともかくも邦原家から盗み出されたかの兜がどこかを転々して善吉の手に渡って、それを持ち帰る途中で彼も何者にか斬られたというのは事実である。但しその兜を奪い取る目的で彼を殺したものならば、兜が彼の手に残っているはずはない。その兜と辻斬りとは別になんの係合いもないことで、単に偶然のまわり合せに過ぎないらしく思われるので、勘十郎はその理屈を説明して聞かせたが、金兵衛はまだほんとうに呑み込めないらしかった。
 その兜には何かの祟りがあって、それを持っている者はみな何かの禍いを受けるのであろうと、彼はあくまでも主張していた。
「それでは、最初お前にその兜を売った御成道の道具屋はどうした。」と、勘十郎はなじるように訊いた。
「それが今になると思い当ることがあるんです。御成道の道具屋の女房はこの七月に霍乱《かくらん》で死にました。」
「それは暑さに中《あた》ったのだろう。」
「暑さにあたって死ぬというのが、やっぱり何かの祟りですよ。」
 金兵衛はなんでもそれを兜の祟りに故事《こじ》つけようとしているのであるが、勘十郎はさすがに大小を差している人間だけに、むやみに祟りとか因縁《いんねん》とかいうような奇怪な事実を信じる気にもなれなかった。
「そこで旦那。どうなさいます。その兜を又お引取りになりますか。むこうでは売るに相違ありませんが……。」と、金兵衛は訊いた。
「さあ。」と、勘十郎もかんがえていた。「まあ、よそうよ。」
「わたくしもそう思っていました。あんな兜はもうお引取りにならない方が無事でございますよ。第一、それを持って来る途中で、わたくしが又どんな目に逢うか判りませんからね。」
 言うだけのことをいって、彼は早々に帰った。

     

 下谷の坂本通りで善吉を斬ったのは何者であるか、このごろ流行る辻斬りであろうというだけのことで、遂にその手がかりを獲《え》ずに終った。主人をうしなった善吉の家族は、店をたたんで何処へか立退いてしまったので、兜のゆくえも判らなかった。おそらく他の諸道具と一緒に売払われたのであろうと、金兵衛は言っていた。
 それから四年目の慶応二年に、隠居の勘十郎は世を去って、相続人の勘次郎が名実ともに邦原家の主人《あるじ》となった。かれはお町という妻を迎えて、慶応三年にはお峰という長女を生んだ。それが現代の邦原君の姉である。
 その翌年は慶応四年すなわち明治元年で、勘次郎は二十三歳の春をむかえた。この春から夏へかけて、江戸に何事が起ったかは、改めて説明するまでもあるまい。勘次郎は老いたる母と若い妻と幼い娘とを知己《しるべ》のかたにあずけて、自分は上野の彰義《しょうぎ》隊に馳《は》せ加わった。
 五月十五日の午後、勘次郎は落武者《おちむしゃ》の一人として、降りしきる五月雨《さみだれ》のなかを根岸のかたへ急いでゆくと、下谷から根岸方面の人々は軍《いくさ》の難を逃がれようとして、思い思いに家財を取りまとめて立退いた後であるから、路ばたにはいろいろの物が落ち散っていて、さながら火事場のようである。そのあいだを踏みわけて、勘次郎はともかくも箕輪《みのわ》の方角へ落ちて行こうとすると、急ぐがままに何物にかつまずいて、危うく倒れかかった。踏みとまって見ると、それは一つの兜であった。しかも見おぼえのある兜であった。かれはそれを拾い取って小脇にかかえた。
 持っている物でさえも、なるべくは打捨てて身軽になろうとする今の場合に、重い兜を拾ってどうする気であったか。後日《ごにち》になって考えると、彼自身にもその時の心持はよく判らないとの事であったが、勘次郎は唯なんとなく懐かしいように思って、その兜を拾いあげたのである。そうして、その邪魔物を大事そうに引っかかえて又走り出した。
 箕輪のあたりまで落ちのびて、彼は又かんがえた。雨が降っているものの、夏の日はまだなかなか暮れない。千住《せんじゅ》の宿《しゅく》にはおそらく官軍が屯《たむ》ろしているであろう。その警戒の眼をくぐり抜けるには、暗くなるのを待たなければならない。さりとて、往来にさまよっていては人目に立つと思ったので、彼は円通寺に近い一軒の茅葺《かやぶ》き家根をみつけて駈け込んだ。
「彰義隊の者だ。日の暮れるまで隠してくれ。」
 この場合、忌《いや》といえばどんな乱暴をされるか判らないのと、ここらの者はみな彰義隊に同情を寄せているのとで、どこの家でも彰義隊の落武者を拒《こば》むものは無かった。ここの家でもこころよく承知して、勘次郎を庭口から奥へ案内した。百姓家とも付かず、店屋《てんや》とも付かない家《うち》で、表には腰高《こしだか》の障子をしめてあった。ここらの事であるから相当に広い庭を取って、若葉の茂っている下に池なども掘ってあった。しかしかなりに古い家で、家内は六畳二間しかないらしく、勘次郎は草鞋《わらじ》をぬいで、奥の六畳へ通されると、十六、七の娘が茶を持って来てくれた。その母らしい三十四、五の女も出て来て挨拶《あいさつ》した。身なりはよくないが、二人ともに上品な人柄であった。
「失礼ながらおひもじくはございませんか。」と、女は訊いた。
 朝からのたたかいで勘次郎は腹がすいているので、その言うがままに飯を食わせてもらうことになった。
「ここの家《うち》に男はいないのか。」と、勘次郎は膳に向いながら訊いた。
「はい。娘と二人ぎりでございます。」と、女はつつましやかに答えた。その眼の下に小さい痣《あざ》のあるのを、勘次郎は初めて見た。
「なんの商売をしている。」
「ひと仕事などを致しております。」
 飯を食うと、朝からの疲れが出て、勘次郎は思わずうとうとと眠ってしまった。やがて眼がさめると、日はもう暮れ切って、池の蛙《かわず》が騒々しく鳴いていた。
「もうよい時分だ。そろそろ出掛けよう。」
 起きて身支度をすると、いつの間に用意してくれたのか、蓑笠《みのかさ》のほかに新しい草鞋までも取揃えてあった。腰弁当の握り飯もこしらえてあった。勘次郎はその親切をよろこんで懐ろから一枚の小判を出した。
「これは少しだが、世話になった礼だ。受取ってくれ」
「いえ、そんな御心配では恐れ入ります。」と、女はかたく辞退した。「いろいろ失礼なことを申上げるようでございますが、旦那さまはこれから御遠方へいらっしゃるのですから、一枚の小判でもお大切でございます。どうぞこれはお納めなすって下さいまし。」
「いや、そのほかにも多少の用意はあるから、心配しないで取ってくれ。」
 彼は無理にその金を押付けようとすると、女はすこしく詞《ことば》をあらためて言った。
「それでは甚だ勝手がましゅうございますが、お金の代りにおねだり申したい物がございますが……。」
「大小は格別、そめほかの物ならばなんでも望め。」
「あのお兜をいただきたいのでございます。」
 言われて、勘次郎は気がついた。彼は拾って来たかの兜を縁側に置いたままで、今まで忘れていたのであった。
「ああ、あれか。あれは途中で拾って来たのだ。」
「どこでお拾いなさいました。」
「根岸の路ばたに落ちていたのだ。どういう料簡《りょうけん》で拾って来たのか、自分にもわからない。」
 かれは正直にこう言ったが、落武者の身で拾い物をして来たなどとあっては、いかにも卑しい浅ましい料簡のように思われて、この親子にさげすまれるのも残念であると、彼はまた正直にその理由を説明した。
「その兜は一度わたしの家にあった物だ。それがどうしてか往来に落ちていたので、つい拾って来たのだが、あんなものを持ち歩いていられるものではない。欲しければ置いて行くぞ。」
「ありがとうございます。」
 兜は兜、金は金であるから、ぜひ受取ってくれと、勘次郎はかの小判を押付けたが、親子はどうしても受取らないので、彼はとうとうその金を自分のふところに納めて出た。出るときにも親子はいろいろの世話をしてくれて、暗い表まで送って来て別れた。
 上野の四方を取りまいた官軍は、三河島の口だけをあけて置いたので、彰義隊の大部分はその方面から落ちのびたが、三河島へゆくことを知らなかった者は、出口出口をふさがれて再び江戸へ引っ返すのほかはなかった。勘次郎も逃げ路をうしなって、さらに小塚原から浅草の方へ引っ返した。それからさらに本所へまわって、自分の菩提寺《ぼだいじ》にかくれた。その以後のことはこの物語に必要はない。かれは無事に明治時代の人となって、最初は小学校の教師を勤め、さらに或る会社に転じて晩年は相当の地位に昇った。
 彼がまだ小学校に勤めている当時、箕輪の円通寺に参詣した。その寺に彰義隊の戦死者を葬ってあるのは、誰も知ることである。そのついでにかの親子をたずねて、先年の礼を述べようと思って、いささかの手土産をたずさえてゆくと、その家はもう空家になっているので、近所について聞合せると、その家にはお道おかねという親子が久しく住んでいたが、上野の戦いの翌年の夏、ふたりは奥の六畳の間で咽喉《のど》を突いて自殺した。勿論その子細はわからない。古びた机の上に兜をかざって線香をそなえ、ふたりはその前に死んでいたのである。
 その話を聞かされて、勘次郎はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そうして、その兜はどうしたかと訊くと、かれらの家には別にこれぞという親類もないので、近所の者がその家財を売って葬式をすませた。兜もそのときに古道具屋に売り払われてしまったとの事であった。かれらの墓もやはり円通寺にあるので、勘次郎は彰義隊の墓と共に拝んで帰った。その以来、彼は彰義隊の墓へまいるときには、かならずかの親子の小さい墓へも香花《こうげ》をそなえるのを例としていた。
 憲法発布の明治二十二年には、勘次郎ももう四十四歳になっていた。その当時かれは築地に住んでいたので、夏の宵に銀座通りを散歩すると、夜みせの古道具屋で一つの古い兜を発見した。彼は言い値でその兜を買って帰った。あまりにいろいろの因縁がからんでいるので、彼はそれを見すごすに忍びないような気がしたからであった。
 かれはその兜を形見として明治の末年に世を去った。相続者たる邦原君もその来歴を知っているので、そのままに保存して置いたのである。勿論、その兜が邦原家に復帰して以来、別に変ったこともなかった。道具屋の金兵衛は明治以後どうしているか判らなかった。
 ところが、先年の震災にあたって、前にいったような、やや不思議な事件が出来《しゅったい》したのである。何者がその兜を邦原家の門前まで持出したか、また何者がそれを邦原君の避難先まで届けたか、それらの事情が判明すれば、別に不思議でもなんでもないことかも知れない。ああそうかと笑って済むことかも知れない。しかもその兜の歴史にはいろいろの因縁話が伴っているので、邦原君もなんだか気がかりのようでもあると言っている。したがってそれを届けてくれた女に逢わなかったのを甚だ残念がっているが、それを受取ったのは避難先の若い女中で、その話によると、かの女は三十四、五の上品な人柄で、あの際のことであるから余り綺麗でもない白地の浴衣を着て、破れかかった番傘をさしていたというのであった。
 もう一つ、かの女の特徴ともいうべきは、左の眼の下に小さい痣のあることで、女中は確かにそれを認めたというのである。邦原君の父が箕輪で宿をかりた家の母らしい女も、左の眼の下に小さい痣があった。しかしその女はもう五十年前に自殺してしまった筈で、たとい生きていたとしても非常の老人になっていなければならない。それとも一種の遺伝で、この兜に因縁のあるものは皆その眼の下に痣を持っているのかも知れない。
 その以来、邦原君の細君《さいくん》はなんだか気味が悪いというので、その兜を自宅に置くことを嫌っているが、さりとてむざむざ手放すにも忍びないので、邦原君は今もそのままに保存している。そうして、往来をあるく時にも、電車に乗っている時にも、左の眼の下に小さい痣を持つ女に注意しているが、その後まだ一度もそれらしい女にめぐり逢わないそうである。
「万一かれが五十年前の人であるならば、僕は一生たずねても再び逢えないかも知れない。」
 邦原君もこの頃はこんな怪談じみた事を言い出すようになった。どうかその届け主を早く見付け出して、彼の迷いをさましてやりたいものである。

底本:「鷲」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「週刊朝日」
   1928(昭和3)年7月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

女侠伝 ——岡本綺堂

     

 I君は語る。

 秋の雨のそぼ降る日である。わたしはK君と、シナの杭州、かの西湖《せいこ》のほとりの楼外楼《ろうがいろう》という飯館《はんかん》で、シナのひる飯を食い、シナの酒を飲んだ。のちに芥川龍之介氏の「支那游記」をよむと、同氏もここに画舫《がぼう》をつないで、槐《えんじゅ》の梧桐《ごとう》の下で西湖の水をながめながら、同じ飯館の老酒《ラオチュウ》をすすり、生姜煮《しょうがに》の鯉を食ったとしるされている。芥川氏の来たのは晩春の候で、槐や柳の青々した風景を叙してあるが、わたしがここに立寄ったのは、秋もようやく老いんとする頃で、梧桐はもちろん、槐にも柳にも物悲しい揺落《ようらく》の影を宿していた。
 わたし達も好きで雨の日を択《えら》んだわけではなかったが、ゆうべは杭州の旅館に泊って、きょうは西湖を遊覧する予定になっていたのであるから、空模様のすこし怪しいのを覚悟の上で、いわゆる画舫なるものに乗って出ると、果して細かい雨がほろほろと降りかかって来た。水を渡ってくる秋風も薄ら寒い。型のごとくに蘇小《そしょう》小の墳《ふん》、岳王《がくおう》の墓《ぼ》、それからそれへと見物ながらに参詣して、かの楼外楼の下に画舫をつないだ頃には、空はいよいよ陰《くも》って来た。さして強くも降らないが、雨はしとしとと降りしきっている。漢詩人ならば秋雨|蕭々《しょうしょう》とか何とか歌うべきところであろうが、我れわれ俗物は寒い方が身にしみて、早く酒でも飲むか、温かい物でも食うかしなければ凌がれないというので、船を出ると早々にかの飯館に飛込んでしまったのである。
 酒をのみ、肉を食って、やや落ちついた時にK君はおもむろに言い出した。
「君は上海で芝居をたびたび観たろうね。」
 わたしが芝居好きであることを知っているので、K君はこう言ったのである。私はすぐにうなずいた。
「観たよ。シナの芝居も最初はすこし勝手違いのようだが、たびたび観ていると自然におもしろくなるよ。」
「それは結構だ。僕は退屈しのぎに行ってみようかと思うこともあるが、最初の二、三度で懲りてしまったせいか、どうも足が進まない。」
 彼はシナの芝居ばかりでなく、日本の芝居にも趣味をもっていない男であるから、それも無理はないと私は思った。趣味の違った人間を相手にしてシナの芝居を語るのは無益であると思ったので、わたしはその問答を好い加減にして、さらに他の話題に移ろうとすると、きょうのK君は不思議にいつまでも芝居の話を繰《くり》返していた。
「日本でも地方の芝居小屋には怪談が往々伝えられるものだ。どこの小屋ではなんの狂言を上演するのは禁物で、それを上演すると何かの不思議があるとか、どこの小屋の楽屋には誰かの幽霊が出るとか、いろいろの怪しい伝説があるものだが、シナは怪談の本場だけに、田舎の劇場などにはやはりこのたぐいの怪談がたくさんあるらしいよ。」
「そうだろうな。」
「そのなかにこんな話がある。」と、K君は語り始めた。「前清《ぜんしん》の乾隆《けんりゅう》年間のことだそうだ。広東《カントン》の三水県の県署のまえに劇場がある。そこである日、包孝粛《ほうこうしゅく》の芝居を上演した。包孝粛は宋時代の名|判官《はんがん》で、日本でいえば大岡さまというところだ。その包孝粛が大岡|捌《さば》きのような段取りで、今や舞台に登って裁判を始めようとすると、ひとりの男が忽然《こつぜん》と彼の前にあらわれたと思いたまえ。その男は髪をふりみだし、顔に血を染めて、舞台の上にうずくまって、何か訴えるところがあるらしく見えた。しかし狂言の筋からいうと、そんな人物がそこへ登場する筈はないから、包孝粛に扮している俳優は不思議に思ってよく見ると、それは一座の俳優が仮装したのではなくして、どうも本物らしいのだ。」
「本物……幽霊か。」と、わたしは訊いた。
「そうだ。どうも幽霊らしいのだ。それが判ると、包孝粛も何もあったものじゃない。その俳優はあっと驚いて逃げ出してしまった。観客《けんぶつ》の眼には何も見えないのだが、唯ならぬ舞台の様子におどろかされて、これも一緒に騒ぎ出した。その騒動があたりにきこえて、県署から役人が出張して取調べると、右の一件だ。しかしその幽霊らしい者の姿はもう見えない。役人は引っ返してそれから県令《けんれい》に報告すると、県令はその俳優を呼出して更に取調べた上で、お前はもう一度、包孝粛の扮装をして舞台に出てみろ、そうして、その幽霊のようなものが再び現れたらば、ここの役所へ連れて来いと命令した。」
「幽霊を連れて来いは、無理だね。」
「もちろん無理だが、そこがシナのお役人だ。」と、K君は笑った。「俳優も困ったらしい顔をしたが、お役人の命令に背《そむ》くわけにはいかないから、ともかくも承知して帰って、再び包孝粛の芝居をはじめると、幽霊はまた出て来た。そこで俳優は怖《こわ》ごわながら言い聞かせた。おれは包孝粛の姿をしているが、これは芝居で、ほんとうの人物ではない。おまえは何か訴えることがあるなら、役所へ出て申立てるがよかろう。行きたくばおれが案内してやると言うと、その幽霊はうなずいて一緒について来た。そこで、県署へ行って堂に登ると、県令はどうしたと訊く。あの通り召連れてまいりましたと堂下を指さしたが、県令の眼にはなんにも見えない。県令は大きい声で、おまえは何者かと訊いたが、返事もきこえない。眼にもみえず、耳にもきこえないのであるから、県令は疑った。彼は俳優にむかって、貴様は役人をあざむくのか、その幽霊はどこにいるのかと詰問する。いや、そこにおりますと言っても、県令には見えない。俳優もこれには困って、なんとか返事をしてくれと幽霊に催促すると、幽霊はやはり返事をしない。しかし彼は俄かに立上がって、俳優を招きながら門外へ出て行くらしいので、俳優はそれを県令に申立てると、県令は下役ふたりに命じてその跡を追わせた。幽霊のすがたは俳優の眼にみえるばかりで、余人《よじん》には見えないのであるから、俳優は案内者として先に立って行くと、幽霊は町を離れて野道にさしかかる。そうして、およそ数里、日本の約一里も行ったかと思うと、やがて広い野原に行き着いて、ひとつの大きい塚の前で姿は消えた。その塚は村で有名な王家の母の墓所であることを確かめて、三人は引っ返して来た。」
「幽霊は男だね。」と、わたしはまた訊いた。「男の幽霊が女の墓にはいったというわけだね。」
「それだから少しおかしい。県令はすぐに王家の主人を呼出して取調べたが、なんにも心当りはないと答えたので、本人立会いの上でその墓を発掘してみると、土の下から果して一人の男の死体があらわれて、顔色《がんしょく》生けるが如くにみえたので、県令はさてこそという気色《きしょく》でいよいよ厳重に吟味したが、王はなかなか服罪しない。自分は決して他人の死骸などを埋めた覚えはない。自分の家は人に知られた旧家であるから、母の葬式には数百人が会葬している。その大勢のみる前で母の柩《ひつぎ》に土をかけたのであるから、他人の死骸なぞを一緒に埋めれば、誰かの口から世間に洩れる筈である。まだお疑いがあるならば、近所の者をいちいちお調べくださいというのだ。」
「しかしその葬式が済んだあとで、誰かがまたその死骸を埋めたかも知れないじゃないか。」
「そこだ。」と、K君はうなずいた。「シナの役人だって、君の考えるくらいの事は考えるよ。県令もそこに気がついたから、さらに王にむかって、おまえは墓の土盛《つちも》りの全部済むのを見届けて帰ったかと訊問すると、母の柩《ひつぎ》を納めて、その上に土をかけるまでを見届けて帰ったが、塚全体を盛りあげるのは土工《どこう》に任せて、その夜のうちに仕上げたのであると答えた。シナの塚は大きく築き上げるのであるから、柩に土をかけるのを見届けて帰るのがまず普通で、王の仕方に手落ちはなかったが、そうなると更に土工を吟味しなければならない。県令はその当時埋葬に従事した土工らを大勢よび出してみると、いずれも相貌《そうぼう》兇悪の徒《やから》ばかりだ。かれらの顔をいちいち睨みまわして、県令は大きい声で、貴様たちはけしからん奴らだ、人殺しをしてその儘に済むと思うか、証拠は歴然、隠しても隠しおおせる筈はないぞ、さあまっすぐに白状しろと頭から叱り付けると、土工らは蒼くなってふるえ出した。そうして、相手のいう通り、まっすぐに白状に及んだ。その白状によると、かれらは徹夜で王家の塚の土盛りをしていたところへ、ひとりの旅びとが来かかって松明《たいまつ》の火を貸してくれといった。見ると、彼は重そうに銀嚢《かねぶくろ》を背負っているので、土工らは忽ちに悪心を起して、不意に鉄の鋤《すき》をふりあげて、かの旅びとをぶち殺してしまって、その銀を山分けにした。死体は王家の柩の上に埋めて、またその上に土を盛り上げたので、爾来《じらい》数年のあいだ、誰も知らなかったというわけだ。」
「すると、幽霊はその旅びとだね。」と、わたしは言った。「しかし幽霊になって訴えるくらいなら、なぜ早く訴えなかったのだろう。そうしてまた、舞台の上に現れるにも及ぶまいじゃないか。」
「そこにはまた、理屈がある。土工らは旅びとを殺して、その死体の始末をするときに、こうして置けば誰も覚《さと》る気づかいはない。包孝粛のような偉い人が再び世に出たら知らず、さもなければとても裁判は出来まいといって、みんなが大きい声で笑ったそうだ。それを旅びとの幽霊というのか、魂というのか、ともかくも旅びとの死体が聴いていて、今度ここの劇場で包孝粛の芝居を上演したのを機会に、その名判官の前に姿を現したのだろうというのだ。土工らも余計なことをしゃべったばかりに、みごと幽霊に復讐されたわけさ。シナにはこんな怪談は幾らもあるが、包孝粛は遠いむかしの人だからどうすることも出来ない。そこで幽霊がそれに扮する俳優の前に現れたというのはちょっと面白いじゃないか。いや、話はこれからだんだんに面白くなるのだ。」
 K君は茶をすすりながらにやにや笑っていた。雨はいよいよ本降りになったらしく、岸の柳が枯れかかった葉を音もなしに振るい落しているのもわびしかった。

     

 わたしは黙って茶をすすっていた。しかし今のK君の最後のことばが少し判らなかった。包孝粛の舞台における怪談はもうそれで解決したらしく思われるのに、彼はこれから面白くなるのだという。それがどうも判らないので、わたしは表をながめていた眼をK君の方へむけて、更にそのあとを催促するように訊いた。
「そうすると、その話は済まないのかね。何かまだ後談《こうだん》があるのかね。」
「大いにあるよ。後談がなければ詰まらないじゃないか。」と、K君は得意らしくまた笑った。「今の話はここへ来たので思い出したのさ。その後談はこの西湖のほとりが舞台になるのだから、そのつもりで聴いてくれたまえ。その包孝粛に扮した俳優は李香とかいうのだそうで、以前は関羽《かんう》の芝居を売物にして各地を巡業していたのだが、近ごろは主として包孝粛の芝居を演じるようになった。そうして広東の三水県へ来て、ここでも包孝粛の芝居を興行していると、前にいったような怪奇の事件が舞台の上に出来《しゅったい》して、王家の塚を発掘することになったのだ。土工の連累《れんるい》者は十八人というのであるが、何分にも数年前のことだから、そのうちの四人はどこかへ流れ渡ってしまって行くえが判らない。残っている十四人はみな逮捕されて重い処刑が行われたのはいうまでもない。たとい幽霊の訴えがあったにもせよ、こうして隠れたる重罪犯を摘発し得たのは、李香の包孝粛によるのだからというので、県令からも幾らかの褒美が出た。王の家でも自分の墓所に他人の死体が合葬されているのを発見することが出来たのは、やはり李香のおかげであるといって、彼に相当の謝礼を贈った。県令の褒美はもちろん形ばかりの物であったが、王家は富豪であるからかなりの贈り物があったらしい。」
「こうなると、幽霊もありがたいね。」
「まったくありがたい。おまけにそれが評判になって、包孝粛の芝居は大入りというのだから、李香は実に大当りさ。李香の包孝粛がその人物を写し得て、いかにも真に迫ればこそ、冤鬼《えんき》も訴えに来たのだろうということになると、彼の技芸にも箔《はく》が付くわけで、万事が好都合、李香にとっては幽霊さまさまと拝み奉ってもよいくらいだ。彼はここで一ヵ月ほども包孝粛を打ちつづけて、懐ろをすっかり膨《ふく》らせて立去った――と、ここまでの事しか土地の者も知らないらしく、今でもその噂が炉畔の夜話に残っているそうだが、さてその後談だ。それから李香はやはり包孝粛を売物にして、各地を巡業してあるくと、広東の一件がそれからそれへと伝わって――もちろん、本人も大いに宣伝したに相違ないが、到るところ大評判で興行成績も頗《すこぶ》るいい。今までは余り名の売れていない一個の旅役者に過ぎなかった彼が、その名声も俄かにあがって、李香が包孝粛を出しさえすれば大入りはきっと受合いということになったのだから偉いものさ。こうして三、四年を送るあいだに、彼は少からぬ財産をこしらえてしまった。なにしろ金はある。人気はある。かれは飛ぶ鳥も落しそうな勢いでこの杭州へ乗込んで来ると、ここの芝居もすばらしい景気だ。しかし、人間はあまりトントン拍子にいくと、とかくに魔がさすもので、李香はこの杭州にいるあいだに不思議な死に方をしてしまった。」
「李香は死んだのか。」
「それがどうも不思議なのだ。李香はこの西湖のほとりの、我れわれがさっき参詣して来た蘇小小の墓の前に倒れて死んでいたのだ。からだには何の傷のあともない。ただ眠るが如く死んでいるのだ。さあ、大騒ぎになったのだが、彼がなぜこんなところへ来て死んでしまったのか、一向に判らない。なにしろ人気役者が不思議な死に方をしたのだから、世間の噂はまちまちで、種々さまざまの想像説も伝えられたが、もとより取留めた証拠がある訳ではない。しかしその前日の夜ふけに、彼が凄いほど美しい女と手をたずさえて、月の明かるい湖畔をさまよっていたのを見た者がある。それはこの西湖の画舫の船頭で、十日ほど前に李香は一座の者五、六人とここへ来て、誰もがするように画舫に乗って、湖水のなかを乗りまわした。人気商売であるから、船頭にも余分の祝儀をくれた。殊にそれが当時評判の高い李香であるというので、船頭もよくその顔をおぼえていたのだ。その李香が美しい女と夜ふけに湖畔を徘徊している――どこでも人気役者には有勝ちのことだから、船頭も深く怪しみもしないで摺れちがってしまったのだが、さて、こういうことになると、それが船頭の口から洩れて、種々のうたがいがその美人の上にかかって来た。」
「それは当りまえだ。そこで、その美人は何者だね。」
「まあ、待ちたまえ。急《せ》いちゃあいけない。話はなかなか入り組んでいるのだから。」と、K君は焦《じ》らすように、わざとらしく落ちつき払っていた。
 秋の習いといいながら、雨は強くもならず、小やみにもならない、さっきから殆んど同じような足並でしとしとと降りつづけている。午《ひる》をすぎてまだ間もないのに、湖水の上は暮れかかったように薄暗くけむっていた。
「李の死んだのはいつだね。」と、わたしは表をみながら訊いた。
「むむ。それを言い忘れたが、なんでも春のなかばで、そこらの桃の花が真っ赤に咲いて、おいおい踏青《つみくさ》が始まろうという頃だった。そうだ、シナ人の詩にあるじゃないか――孤憤何関児女事《こふんなんぞかんせんじじょのこと》、踏青争上岳王墳《とうせいあらそってのぼるがくおうのふん》――丁度まあその頃で、場面は西湖、時候は春で月明の夜というのだから、美人と共に逍遥するにはおあつらえむきさ。しかしその美人に殺されたらしいのだから怖ろしい。勿論、殺したという証拠があるわけでもなし、死体に傷のあともないのだから、確かなことはいえた筈ではないのだが、誰がいうともなしに李香はその女に殺されたのだという噂が立った。いや、まだおかしいのは、その女は生きた人間ではない。蘇小小の霊だというのだ。」
「また幽霊か。」
「シナの話には幽霊は付き物だから仕方がない。」と、K君は平気で答えた。「蘇小小というのは君も知っているだろうが、唐代で有名な美妓で、蘇小小といえば芸妓などの代名詞にもなっているくらいだ。その墓は西湖における名所のひとつになっていて、古来の詩人の題詠も頗る多い。その蘇小小の霊が墓のなかから抜け出して、李をここへ誘ってきたというのだ。つまり、蘇小小が李香という俳優に惚れて、その魂が仮りに姿をあらわして、たくみに李を誘惑して、共に冥途へ連れて行ったというわけだ。剪燈新話《せんとうしんわ》や聊斎志異《りょうさいしい》がひろく読まれている国だから、こういう想像説も生れて来そうなことさ。相手がいよいよ幽霊ときまれば、どうにも仕様がない。船頭がいう通りに、果して凄いほどの美人であるとすれば、あるいは蘇小小の霊かも知れない。そこで李が美人の霊魂にみこまれて、その墓へ誘い込まれたとなれば、いかにも詩的であり、小説的であり、西湖佳話に新しい一節を加《くわ》うることになるのだが、さすがに役人たちはそれを詩的にばかり解釈することを好まないので、それぞれに手をわけて詮議をはじめると、李はその夜ばかりでなく、すでに二、三度もその怪しい美人と外出したらしいということが判った。彼は芝居が済んでから旅宿をぬけ出して、夜の更けるまで何処かをさまよい歩いて来る。今から考えれば、その道連れがかの美人であったらしいと、同宿の一座の者から申立てた。そうなると、かの船頭ばかりでなく、李がかの美人と歩いていたのを俺も見たという者が幾人も現れて来た。中には美人が笛を吹いていたなどという者もあって、この怪談はいよいよ詩的になって来たが、どこまで本当だか判らないので、役人はともかくその美人の正体を突き留めようと苦心していた。座頭《ざがしら》の李香がいなくなっては芝居を明けることは出来ない。無理に明けたところで観客の来る筈もない。座頭を突然にうしなったこの一座はほとんど離散の悲境に陥ってしまったが、何分にもこの一件が解決しない間は、むやみにここを立去ることも出来ないので、一座の者は代るがわるに呼出されて、役人の訊問を受けていた。実に飛んだ災難だが、どうも仕方がない。」
「一体、その李というのは幾つぐらいで、どんな男なのだね。」と、わたしは一種の探偵的興味に誘われてまた訊いた。
「年は三十四、五で、まだ独身であったそうだ。たとい田舎廻りにもしろ、ともかくも座頭を勤めているのだから、背もすらりとして男振りも悪くない。舞台以外にはどちらかいうと無口の方で、ただ黙って何か考えているという風だったと伝えられている。しかし相当に親切の気のある男で、座員の面倒も見てやる。現に自分の子ともつかず、奉公人ともつかずに連れ歩いている崔英《さいえい》という十五、六歳の少女は、五、六年前に旅先で拾って来たのだそうで、なんでも李が旅興行をして歩いているうち、その頃は今ほどの人気役者ではなかったので、田舎の小さな宿屋にくすぶっていると、そこに泊り合せた親子づれの旅商人《たびあきんど》があって、その親父の方は四、五日わずらって死んだ。その病中、李は親切に世話をしてやったので、親父も大層よろこんで、死にぎわに自分のあとの事をいろいろ頼んだそうだ。頼まれて引取ったのがその娘の崔英で、まだ十一か二の小娘であったのを、自分の手もとに置いて旅から旅を連れてあるいているというのだ。一事が万事、まずこういった風であるから、彼は一座の者から恨まれているような形跡はちっともなかった。それであるから、彼は蘇小小の霊に誘われて死んだということにして置けば、まことに詩的な美しい最期となるのであったが、意地のわるい役人たちはどうもそれでは気が済まないとみえて、さらに一策を案じ出した。勿論、最初から湖畔の者に注意して、何か怪しい者を見たらばすぐに訴え出ろと申付けてはおいたのだが、別に二人の捕吏《ほり》を派出して、毎晩かの蘇小小の墓のあたりを警戒させることにした。」
「誰でも考えそうなことだね。」と、わたしは思わず笑った。
「誰でも考えそうなことをまず試みるのが本格の探偵だよ。」と、K君は相手を弁護するように言った。「見たまえ。それが果して成功したのだ。」

     

 少しやり込められた形で、わたしはぼんやりとK君の顔をながめていると、彼はやや得意らしく説明した。
「二人の捕吏が蘇小小の墓のあたりに潜伏していると、果してそこへ二つの黒い影があらわれた。宵闇ではあるが、星あかりと水あかりで大抵の見当は付く。その影はふたりの女と判ったが、その話し声は低くてきこえない。やがて二つの影は離れてしまいそうになったので、隠れていた捕吏は不意に飛出して取押えようとすると、ひとりの女はなかなか強い。忽ちに大の男ふたりを投げ倒して、闇のなかへ姿を隠してしまったが[#「しまったが」は底本では「しまつたが」]、逃げおくれた一人の女はその場で押えられた。よく見ると、それは十五、六歳の少女で、前にいった崔英という女であることが判ったので、捕吏はよろこび勇んで役所へ引揚げた。こうなると、少女でも容赦はない。拷問して白状させるという意気込みで厳重に吟味すると、崔英は恐れ入って逐一白状した。まずこの少女の申立てによると、かの広東における舞台の幽霊一件は、まったく李香のお芝居であったそうだ。」
「幽霊の一件は嘘か。」
「李がなぜそんな嘘を考え出したかというと、崔の父の旅商人というのは、さきに旅人をぶち殺してその銀嚢を奪い取った土工の群れの一人であったのだ。彼は分け前の銀《かね》をうけ取ると共に、娘を連れてその郷里を立去って、その銀を元手に旅商人になったが、比較的正直な人間とみえて、昔の罪に悩まされてその後はどうもよい心持がしない。からだもだんだん弱って来て、とうとう旅の空で死ぬようになった。その時かの李香が相宿《あいやど》のよしみで親切に看病してくれたので、彼は死にぎわに自分の秘密を残らず懺悔《ざんげ》して、自分は罪のふかい身の上であるから、こうして穏かに死ぬことが出来れば仕合せである。ただ心がかりは娘のことで、父をうしなって路頭《ろとう》に迷うであろうから、素姓の知れない捨子を拾ったとおもって面倒をみて、成長の後は下女にでも使ってくれと頼んだ。李はこころよく引受けて、孤児《みなしご》の娘をひき取り、父の死体の埋葬も型のごとくに済ませてやったが、ここでふと思い付いたのが舞台の幽霊一件だ。崔の父から詳しくその秘密を聞いたのを種にして、かれは俳優だけにひと狂言書こうと思い立ったらしい。王の家をたずねて、お前の母の塚には他人の死骸が合葬してあると教えてやったところで、幾らかの謝礼を貰うに過ぎない。むしろそれを巧みに利用して、自分の商売の広告にした方がましだと考えたので、今までは関羽を売りものにしていた彼が俄かに包孝粛の狂言を上演することにした。そうして広東の三水県へ来て、その狂言中に幽霊が出たといい、またその幽霊が墓のありかを教えたといい、細工《さいく》は流々《りゅうりゅう》、この狂言は大当りに当って、予想以上の好結果を得たというわけだ。さっきも話した通り、かの幽霊は李香の眼にみえるばかりで、余人の眼にはちっとも見えなかったというのも、あとで考えれば成程とうなずかれるが、その時はみんな見事に一杯食わされたのだ。そこで、彼は県令から御褒美を貰い、王家から謝礼を貰い、それから俄かに人気を得て、万事がおもう壺に嵌《はま》ったのだが、やはり因果《いんが》応報とでもいうか、彼は崔の父によってその運命をひらいたと共に、崔のために身をほろぼすことになってしまったのだ。」
「では、その娘が殺したのか。」と、わたしは少し意外らしく訊いた。「たとい李という奴が大山師《おおやまし》であろうとも、崔にとっては恩人じゃないか。」
「もちろん恩人には相違ないが、李も独身者《ひとりもの》だ。崔の娘がまだ十三、四のころから関係をつけてしまって、妾のようにしていたのだ。崔も自分の恩人ではあり、李に離れては路頭に迷うわけでもあるから、おとなしく彼にもてあそばれていたのだが、その一座に周という少年俳優がある。これも孤児で旅先から拾われて来たものだが、容貌《きりょう》がよいので年の割には重く用いられていた。崔と周とは同じような境遇で、おなじような年頃であるから、自然双方が親密になって、そのあいだに恋愛関係が生じて来ると、眼のさとい李は忽ちにそれを看破《かんぱ》して、揃いも揃った恩知らずめ、義理知らずめと、彼はまず周に対して残虐な仕置《しおき》を加えた。彼は崔の見る前で周を赤裸にして、しかも両手を縛りあげて、ほとんど口にすべからざる暴行をくり返した。それが幾晩もつづいたので、美少年の周は半病人のようにやつれ果ててしまったが、それでも舞台を休むことを許されなかった。それを見せつけられている崔は悲しかった。自分もやがては周とおなじような残虐な仕置を加えられるかと思うと、それも怖ろしかった。」
「なるほど、そこで李を殺す気になったのだね。」
「いや、それでも崔は少女だ。さすがに李を殺そうという気にはなれなかったらしい。さりとてこの儘にしていれば、周は責め殺されてしまうかも知れないので、彼女は思いあまって一通の手紙をかいた。すなわち自分の罪を深く詫びた上で、その申訳に命を捨てるから、どうぞ周さんをゆるしてくれ。周さんが悪いのではない、何事もわたしの罪であるというような、男をかばった書置を残して崔はある夜そっと旅館をぬけ出した。そのゆく先はこの西湖で、彼女は月を仰いで暫く泣いた後に、あわや身を投げ込もうとするところへ、不意にあらわれて来たのが、かの蘇小小の霊といわれる美人だ。美人は崔をひきとめて身投げの子細をきく。それがいかにも優しく親切であるので、年のわかい崔はその女の腕に抱かれながら一切の事情を打明けた。それが今度の問題ばかりでなく、過去の秘密いっさいをも語ってしまったらしい。それを聞いて、女はその美しい眉をあげた。そうして、崔にむかって決して死ぬには及ばない。わたしが必ずおまえさん達を救ってやるから、今夜は無事に宿へ帰ってこの後の成行きを見ていろと誓うように言った。それが嘘らしくも思われないので、崔は死ぬのを思いとどまって素直にそのまま帰ってくると、その翌日、かの女は李の芝居を見物に来て、楽屋へ何かの贈り物をした。それが縁になって、どういう風に話が付いたのか、李はかの女に誘い出されて、二度までも西湖のほとりへ行ったらしい。三度目に行ったときに、おそらく何かの眠り薬でも与えられたのだろう、蘇小小の墓の前に眠ったままで、再び醒めないことになってしまったのだ。そういう訳だから、崔はその下手人を大抵察しているものの、役人たちの調べに対して、なんにも知らない顔をしていると、その日の夕方、誰が送ったとも知れない一通の手紙が崔のところへ届いて、蘇小小の墓の前へ今夜そっと来てくれとあるので、崔はその人を察して出て行くと、果してかの女が待っていた。」
「その女は何者だね。」
「それは判らない。女は崔にむかって、わたしも蔭ながら成行きを窺っていたが、李の一件もこれで一段落で、もうこの上の詮議はあるまい。座頭の李が死んだ以上、おまえの一座も解散のほかはあるまいから、これを機会に周にも俳優をやめさせて、二人が夫婦になって何か新しい職業を求める方がよかろう。わたしもここを立去るつもりだから、もうお前にも逢えまいと言った。崔は名残り惜しく思ったが、今更ひき留めるわけにもいかない。せめてあなたの名を覚えて置きたいといったが、女は教えなかった。わたしは世間で言いふらす通り、蘇小小の霊だと思っていてくれればいいと、女は笑って別れようとする途端に、かの捕吏があらわれて来た……。これで一切の事情は明白になったのだが、崔が果して李香殺しに何の関係もないのか、あるいはかの女と共謀であるのか、本人の片口だけではまだ疑うべき余地があるので、崔はすぐに釈放されなかった。すると、ある朝のことだ。係りの役人が眼をさますと、その枕もとに短い剣と一通の手紙が置いてあって、崔の無罪は明白で、その申立てに一点の詐《いつわ》りもないのであるから、すぐ[#「すぐ」は底本では「すく」]釈放してくれと認《したた》めてあった。何者がいつ忍び込んだのか勿論わからないが、その剣をみて、役人はぞっとした。ぐずぐずしていれば、おまえの寝首を掻くぞという一種の威嚇《いかく》に相違ない。ここまで話せば、その後のことは君にも大抵の想像はつくだろう。李の一座はここで解散した。崔と周とは手に手をとってどこへか立去った。」
「その結末はたいてい想像されるが、その女は何者だか判らないじゃないか。」
「それは女侠というもので、つまり女の侠客だ。」と、K君は最後に説明した。「日本で侠客といえばすぐに幡随院長兵衛のたぐいを連想するが、シナでいう侠客はすこし意味が違う。勿論、弱きを助けて強きを挫《くじ》くという侠気も含まれているには相違ないが、その以外に刺客《しかく》とか、忍びの者とか、剣客とかいうような意味が多量に含まれている。それだけに、相手にとっては幡随院長兵衛などより危険性が多いわけだ。侠客が世に畏《おそ》れられるのはそこにある。崔を救った女も一種の女侠であることは、美人の繊手《せんしゅ》で捕吏ふたりを投げ倒したのや、役人の枕もとへ忍び込んで短剣と手紙を置いて来たのや、それらの活動をみても容易に想像されるではないか。シナの侠客のことはいろいろの書物に出ている。知らないのは君ぐらいのものだ。しかしその侠客すなわち剣侠、僧侠、女侠のたぐいが、今もあるかどうかは僕も知らない。いや、あまり長話をしていては、ここの家も迷惑だろう。そろそろ出かけようか。」
 わたし達はふたたび画舫の客となって、雨のなかを帰った。

底本:「蜘蛛の夢」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年4月20日初版1刷発行
初出:「現代」
   1927(昭和2)年8月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:花田泰治郎
2006年5月7日作成
2007年5月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

廿九日の牡丹餅—— 岡本綺堂

     

 六月末の新聞にこんな記事が発見された。今年は暑気が強く、悪疫《あくえき》が流行する。これを予防するには、家ごとに赤飯を炊《た》いて食えと言い出した者がある。それが相当に行われて、俄かに赤飯を炊いて疫病《やくびょう》よけをする家が少くないという。今日《こんにち》でも東京のまん中で、こんな非科学的のお呪禁《まじない》めいたことが流行するかと思うと、すこぶる不思議にも感じられるのであるが、文明国と称する欧米諸国にも迷信はある。いかに科学思想が発達しても、人間の迷信は根絶することは許されないのかも知れない。
 それに就いて、わたしはかつて故老から聞かされた江戸末期のむかし話を思い出した。
 それは安政元年七月のことである。この年には閏《うるう》があって、七月がふた月つづくことになる。それから言い出されたのであろうかとも思われるが、六月から七月にかけて、江戸市中に流言が行われた。ことしは残暑が長く、殊に閏の七月は残暑が例外に強い。その暑気をふせぐには、七月二十九日に黄粉《きなこ》の牡丹餅をこしらえて食うがよい。しかしそれを他家へ配ってはならない、家内親類奉公人などが残らず食いつくすに限る。そうすれば決して暑気あたりの患《わずら》いはないというのである。
 勿論その時代とても、すべての人がそれを信用するわけではなく、心ある者は一笑に付《ふ》して顧みなかったのであるが、そういうたぐいの流言は今日より多く行われ、多く信じられた。しかもその日は二十九日と限られ、江戸じゅうの家々が一度に牡丹餅をこしらえる事になったので、米屋では糯米《もちごめ》が品切れになり、粉屋《こなや》では黄粉を売切ってしまった。自分の家でこしらえる事の出来ないものは、牡丹餅屋へ買いに行くので、その店もまた大繁昌であった。

「困ったね。どうしたらよかろう。」
 女にしては力《りき》んだ眉をひそめて、団扇《うちわ》を片手に低い溜息をついたのは、浅草|金龍山《きんりゅうざん》下に清元《きよもと》の師匠の御神燈《ごしんとう》をかけている清元|延津弥《のぶつや》であった。延津弥はことし二十七であるが、こういう稼業にありがちの女世帯で、お熊という小女《こおんな》と二人暮しであるために、二十九日の朝になっても、かの牡丹餅をこしらえるすべがない。あいにく近所に牡丹餅屋もない。
 こうと知ったら、きのうのうちに三町ほど先の牡丹餅屋にあつらえて置けばよかったが、まさかに売切れることもあるまいと多寡《たか》をくくっていたのが今更に悔まれた。遊芸《ゆうげい》の師匠であるから、世間の人よりも起きるのがおそい。お熊が朝の仕事を片付けて、それから牡丹餅を買いに出ると、店は案外の混雑で、もう売切れであると断られた。お熊は手をむなしくして帰って来ると、延津弥は顔をしかめた。こうなると自然の人情で、どうしても牡丹餅を食わなければならないように思われて来た。世間の人たちがそれほど競って食うなかで、自分ひとりが食わなかったならば、どんな禍《わざわ》いを受けるかも知れないと恐れられた。
「ほかにどこか売っている家はないかねえ。」
 金龍山の牡丹餅は有名であるが、ここはしょせん駄目《だめ》であろうと、かれらも最初から諦めていたのである。しかもこの上はともかくも金龍山へ行ってみて、そこでお断りを食ったらば、広小路の方へ行って探してみたらよかろうということになった。
「暑いのにお気の毒だが、急いで行って来ておくれよ。また売切れてしまうと困るから……。」と、延津弥は頼むように言った。
「はい。行ってまいります。」
 お熊は直ぐに出て行った。けさももう五つ半(午前九時)過ぎで、聖天《しょうでん》の森では蝉の声が暑そうにきこえた。正直な小女は日傘もささずに、金龍山下|瓦町《かわらまち》の家をかけ出して、浅草観音堂の方角へ花川戸の通りを急いで来ると、日よけの扇を額《ひたい》にかざした若い男に出逢った。男は笑いながらお熊に声をかけた。
「暑いのに大急ぎで……。お使かえ。」
「おはぎを買いに……。」と、お熊は会釈《えしゃく》しながら答えた。
「ああ、そうか」と、男はまた笑った。「わたしも家で食べて来た。まだ口の端《はた》に黄粉が付いているかも知れねえ。」
 手の甲で口のまわりを撫でながら、男はやはりにやにや笑っていた。田原町《たわらまち》の蛇骨《じゃこつ》長屋のそばに千鳥という小料理屋がある。彼はその独り息子の長之助で、本来ならば父のない後の帳場に坐っているべきであるが、母親の甘いのを幸いに、肩揚げのおりないうちから浄瑠璃や踊りの稽古所ばいりを始めて、道楽の果てが寄席の高坐にあがるようになった。彼は落語家《はなしか》の円生の弟子になって千生《せんしょう》という芸名を貰っていたのである。実家が相当の店を張っていて、金づかいも悪くないお蔭に、千生の長之助は前坐の苦を早く抜け出し、芸は未熟ながらも寄席芸人の一人として、どうにか世間を押廻しているのであった。
 千生はことし二十三で、男振りもまず中くらいであるが、磨いた顔を忌《いや》にてかてかと光らせて、眉毛を細く剃りつけ、見るから芸人を看板にかけているような気障《きざ》な人体《じんてい》であったが、工面《くめん》が悪くないので透綾《すきや》の帷子《かたびら》に博多の帯、顔ばかりでなしに身装《みなり》も光っていた。
「もう遅いぜ。内でこしらえた人は格別、店で買おうという人は、みんな七つ起きをして押掛けているくらいだ。今から行ったって間に合うめえ。お気の毒だがお熊ちゃん、遅かりし由良之助だぜ。」
「そうでしょうねえ。」と、お熊はまじめでうなずいた。「実は今戸の方へ行って断られたんですよ。」
「そうだろう。今頃どこへ行っても売切れさ。いずこも同じ秋のゆうぐれで仕方がないね。」
「でも、まあ、念のために行ってみましょう。」
 別れて行こうとするお熊を、千生は又よび留めた。
「いや、お若けえの、待って下せえやし。と、長兵衛を極《き》めるほどの事でもねえが、見すみす無駄と知りながら、汗をたらして韋駄天《いだてん》は気の毒だ。ここに一つの思案あり。まあ聞きたまえ。」と、彼は芝居気取りでお熊の耳にささやいた。
 と、いっても、それは差したる秘密でもなく、これから方々の菓子屋や餅屋をさがして歩くまでもなく、わたしの家《うち》へ行って訊いてみろ。まだ食い残りがある筈であるから、そのわけを話して師匠とおまえの二人分を貰って来いというのであった。
 前にもいう通り、千生の家は小料理屋で母のお兼のほかに料理番や女中をあわせて六、七人の家内であるから、きょうの牡丹餅も相当にたくさん拵《こしら》えたのである。千生はそのお初を食って直ぐに出たのであるから、早く行けば幾らか分けてもらえるに相違ない。急げ、急げと千生は再び芝居がかりで指図した。
「ありがとうございます。では、そうしましょう。」
 お熊はよろこんで駈けて行った。千生は一体どこへ行くつもりであったのか知らないが、俄かに思い付いたようにほほえみながら、金龍山下の方角へ足をむけた。彼は延津弥の家の前に立停まって馴れなれしく声をかけた。
「師匠、内ですかえ。」
 広くもない家であるから、案内の声はすぐに奥にきこえて、延津弥は入口の葭戸《よしど》をあけた。
「あら、千生さん。」
「お邪魔じゃありませんか。」
「いいえ、どうぞお上がんなさい。」
 かねて識っている仲であるので、千生はずっと通って何かの世間話をはじめた。千生の肚《はら》では、こうして話し込んでいるうちにお熊が帰って来て、このおはぎは千生さんの家から貰ったと言えば、延津弥もよろこぶに相違ない。自分の顔もよくなるわけである。恩を売るというほどの深い底意はなくとも、師匠の口から礼の一つも言われたさに、彼はわざわざここへ訪ねて来たのであった。途中でお熊に出逢ったことを彼はわざと黙っていた。
 やがてお熊が帰って来たので、延津弥は待ちかねたように訊いた。
「お前、あったかえ。」
「どこも売切れだというので、千生さんの家へ行って貰って来ました。」
「千生さんの家……。千鳥さんへ行って、お貰い申して来たの。あら、まあ、どうも済みません。」
 と、延津弥は繰返して礼を言った。
 我が思う壺にはまったので、千生は内心得意であった。

     

 千生はそれから小半時《こはんとき》ほども話して帰ると、入れちがいに今戸の中田屋という質屋の亭主金助が来た。金助は晦日《みそか》まえで、蔵前《くらまえ》辺に何かの商売用があって出て来たついでに、延津弥の家へちょっと立寄ったのである。表向きは独り者といっても、延津弥がこうした旦那の世話になっているのは、その当時において珍しいことでもなかった。
 金助は二階の六畳へ通された。きょうは晦日のお手当を持って来たのであるから、延津弥は取分けて愛想よく彼を迎えた。かれはお熊に言い付けてかの牡丹餅を持ち出させた。
「ああ、ここにも牡丹餅があるね。きょうは内でも食わされた。」と、金助は笑った。
「まあ、ここのも一つ食べてください。まさかに毒もはいっていませんから。」
 女にすすめられて、金助はその牡丹餅を一つ食った。延津弥も食った。晦日まえで忙しいというので、金助は長居もせずに帰った。事件はこれから出来《しゅったい》したのである。
 金助はそれから二、三ヵ所の用達しを済ませて、その日の七つ(午後四時)ごろに今戸の店へ帰ったが、途中から胸が苦しくなって、わが家へころげ込むと共に倒れた。家内の者もおどろき騒いで、すぐに近所の医者を呼びにやると、医者は暑気あたりの霍乱《かくらん》であろうと診察した。そういうことのない呪禁《まじない》に、きょうは黄粉の牡丹餅を食ったのであるが、その効のなかったのを人びとは嘆いた。医者もいろいろの手当てを加えたが、金助は明くる晦日の夜明け前にとうとう息を引取った。
 最初は霍乱と診立《みた》てた医者も、後には普通の暑気あたりではないらしいと言い出した。何かの食い物の中毒ではないかというのである。二十九日の出先は判っているので、中田屋ではそれぞれに問い合せの使を出したが、残暑の強い折柄であるから、どこでも茶のほかには何も出さなかった。但し午飯《ひるめし》はどこで食ったか判らなかった。延津弥のことは本人も秘密にしていたので、家族も知らなかった。
 閏七月二日の朝五つ時(午前八時)に金助の葬儀は小梅の菩提寺で営《いとな》まれた。その会葬者のうちに延津弥との関係を知っている者があって、中田屋の大将が死んでは師匠も困るだろう、お前さんがその後釜を引受けてはどうだなどと、冗談まじりに話していたのが、ふと町方《まちかた》の耳にはいった。
 それからだんだん探索すると、延津弥の一件が明白になったばかりでなく、金助が当日金龍山下をたずねた事も判った。まだその上に延津弥もその晩から暑気あたりで寝ているというのである。但し延津弥の病気は差したる重態でもなく、二、三日の後は起きられるであろうとの事であった。
 女中のお熊も調べられた。金助と延津弥が同時に発病したのを見ると、あるいはかの牡丹餅に何かの子細があるのではないかと疑われた。お熊もその残りを食ったのであるが、これには別条もなかった。ともかくもその牡丹餅は田原町の千鳥から貰って来たものであるというので、千鳥の女房お兼をはじめ、家内の者一同も代るがわるに取調べを受けた。当日の牡丹餅は他へ分配はしてはならないということになっているので、お熊が貰いに来た時に、お兼はいったん断ろうと思ったのであるが、千生さんのお指図によって来ましたというので、かれも辞《いな》みかねて十一ばかりの牡丹餅を持たせてやった。それから飛んだ引合いを食って、千鳥の店ではひどく迷惑した。もちろん千鳥の店の者は何の障りもなかったのである。
 殊におどろいたのは千生の長之助で、自分もどんな巻添《まきぞ》いを受けるかも知れないという恐怖から、七月二日以来、どこかへ身を隠してしまった。
 七月六日の暗い宵に、千鳥のお兼がそっと金龍山下の師匠をたずねた。お兼は四十三で、年よりも若いといわれていたのであるが、今度の一件と、それから惹《ひ》いて大事のひとり息子の家出の苦労で、わずか四、五日のうちにめっきり老《ふ》けて見えた。
 お熊は近所の湯屋へ行って留守であった。延津弥はきのうから起きたが、髪はまだ櫛巻きにして、顔の色も蒼ざめていた。知合いの仲であるから、お兼はすぐに通されたが、今夜の対面は双方とも余り快くなかった。お兼の方からまず口を切った。
「今度はおたがいさまに、飛んだ迷惑で困りました。そこで早速ですが、せがれの長之助はその後にこちらへ参りましたろうか。」
「いいえ。」と、延津弥は情《すげ》なく答えた。「二十九日から一度も見えませんよ。」
「ほんとうに参りませんか。」
「見えませんよ。千生さんだって、うっかりここの家へ顔出しも出来ないでしょうから。」と、延津弥は皮肉らしく言った。
「そうですか。」と、お兼はさらに声をひくめた。「世間というのは途方もないことを言い触らすもので……。家《うち》の長之助がおまえさんと肚《はら》を合せて、中田屋の旦那を毒害したなんて言う者がありますそうで……。」
「まあ。」と、延津弥は呆れたようにお兼の顔をながめた。
「よもやそんな事があろうとは思いませんけれども。」
「あたりまえですよ。」と、延津弥は蒼ざめた顔をいよいよ蒼くして、罵るように言った。「なんであたしが千生さんと肚を合せて……。お熊に訊いて御覧なさい。こっちが頼みもしないのに、千生さんの方から知恵を貸して、おまえさんの家からおはぎを貰わして……。千生さんにどんな巧みがあったか知りませんけれど、あたしはなんにも知りませんよ。もしあのおはぎに毒がはいっていて、中田屋の旦那は死に、あたしもこんな病気になったのなら、千生さんは人殺しの下手人ですよ……。」
「そりゃそうですが、世間では……。」
「世間がどういうんですよ。」
「今もお話し申した通り、おまえさんと肚をあわせて……。」
「なぜ肚を合せるんですよ。肚を合せて、ど、どうするというんですよ。」
 言いかけて、延津弥は何か思い付いたように又罵った。
「まあ、ばかばかしい。それじゃあ、あたしが旦那の眼をぬすんで千生さんと……。まあ、途方もない。馬鹿もいい加減にするがいいわ。あたしも芸人だから、千生さんとひと通りのお附合いはしているけれど、何が口惜《くや》しくって、あんな寄席の前坐なんぞと……。お前さんもまた、そんな噂を真《ま》に受けて、あたしの所へ何の掛合いに来たんですよ。」
「別に掛合いに来たというわけじゃあないので……。」と、お兼の声もやや尖ってきこえた。「もしやここへ来やあしないかと思って……。」
「来ませんよ。来られた義理じゃあありませんよ。毒を入れたか入れないか知らないけれども、なにしろあのおはぎを食べたせいで、あたし達はあんな目に逢ったんですから……。つまり、千生さんはあたし達の仇じゃあありませんか。」
「そう言われると、お話は出来ませんけれど、あんな人間でも長之助はわたしの独り息子ですから……。」と、お兼は俄かに声を湿《うる》ませた。「どうしても身を隠さなければならない訳があるなら……。まあ当分はどこに忍んでいるにしても、先立つものは金ですから、ともかくも当座の入用にと思って、実はここに十両のお金を持って来たのですが……。」
 延津弥は黙って聴いていた。お熊はまだ帰らなかった。
「ねえ、お師匠さん。おまえさん、ほんとうに長之助の居どころを御存じないのでしょうか。」と、お兼はまた訊いた。
 延津弥はやはり黙っていた。小さい庭にむかった檐《のき》さきの風鈴が夜風に音を立てているばかりで、二人の沈黙は暫くつづいた。

     

 閏七月は誰かの予言どおり、かなり強い残暑に苦しめられたが、二十九日の牡丹餅が効を奏したのか、江戸にはさまでの病人もなく、まず目出たいといううちに、八月にはいって陽気もめっきりと涼しくなった。往来を飛びかう赤とんぼうの羽《はね》の光りにも、秋らしい日の色が見えるようになった。それからそれへと新しい噂に追われて、物忘れの早い江戸の人たちは、先々月の末に汗を拭きながら牡丹餅をこしらえたり、買い歩いたりした事を、遠い昔のように思いなして、もうその噂をする者もなかった。
 その八月の二十一日の夜である。小梅の通源寺という寺のそばで、ひとりの女の死骸が発見された。女は千鳥の女房お兼で、手拭で絞め殺されていたのである。お兼がなんのために夜中こんな寂しい所へ来て、何者に殺されたのか、その子細はわからなかった。
 千鳥の店の話によると、お兼はせがれ長之助のゆくえ不明を苦に病んで、この頃は浅草の観音へ夜詣《よまい》りをする。観音堂は眼と鼻のあいだの近い処であるが、時にはいっ刻《とき》ぐらいを過ぎて帰ることもある。当人は占い者へ廻ったとか、菩提寺の和尚さまに相談に行ったとか言っていたそうである。但しかの通源寺はお兼の菩提寺ではなかった。お兼の頸にまかれていたのは、有り触れた瓶《かめ》のぞきの買い手拭で、別に手がかりとなるべき物ではなかった。
 せがれの居どころは判らず、女あるじは急死したのであるから、千鳥の奉公人らも途方にくれた。お兼の兄の小兵衛は千住の宿《しゅく》で同商売をしているので、それが駈け付けて来て万事の世話をすることになった。もちろん町内の人びとも手伝って、まずはこの店相当の葬式を出したのは、二十四日の九つ(正午十二時)であった。その葬式がやがて出ようとする時、長之助の千生が蒼い顔をしてふらりと帰って来た。
「やあ、いいところへ息子が帰った。」
 人びとはよろこんで、早速かれを施主《せしゅ》に立たせようとしたが、それは許されなかった。店先にあつまる会葬者の群れの中に、手先の一人もとうから入り込んでいて、千生はすぐに引っ立てられて行った。まさかに親殺しではあるまいが、今戸の中田屋の一件がまだ解決していないので、あるいはその係合《かかりあ》いではないかという噂であった。
 番屋へ牽《ひ》かれた千生は、根が度胸のない人間であるから手先に嚇《おど》されて何もかも正直に申立てたので、捕《と》り方は直ぐに金龍山下へむかったが、清元の師匠はもう影を隠して、小女ひとりがぼんやりと留守番をしていた。お熊の申立てによると、延津弥も千鳥の葬式にゆくと言って、身支度をして出たままで帰らないという。おそらく田原町まで行く途中、長之助が挙げられた噂を聞いて、千鳥へも行かず、自宅へも帰らず、どこかへ逃亡したのであろうと察せられた。
 それから三日目の夜である。橋場の渡し番庄作のせがれ庄吉が近所へ遊びに行って、四《よ》つ(午後十時)に近い頃に帰って来ると、渡し小屋から少し距れた川端に誰かの話し声がきこえた。暗いので顔は見えないが、その声が男と女であることは直ぐに判ったので、年のわかい庄吉は一種の好奇心から足音を忍ばせて近寄った。かれは柳のかげに隠れて窺っていると、男は小声に力をこめて言った。
「じゃあ、どうしても帰らねえというのか。」
「帰らないよ。誰が帰るものか。」と、女は吐き出すように言った。
「じゃあ、どうするんだ。」
「死ぬのさ。」
「死ぬ……。」と、男は冷笑《あざわら》った。「きまり文句で嚇かすなよ。死ぬなら俺が一緒に心中してやらあ。」
「まっぴらだよ。誰がお前なんぞと……。あたしは一人で死ぬから邪魔をしておくれでないよ。」
「駄々をこねずに、まあ帰れよ。おたがいに考え直して、いい相談をしようじゃあねえか。」
「ふん、なにがいい相談だ。あたしは三日前にここから身を投げるつもりのところを、お前のようなゲジゲジ虫に取っ捉《つか》まって……。」
「そのゲジゲジが留めなけりゃあ、おめえはドブンを極《き》めたところだったじゃねえか。」
「だからさ。いっそ一と思いにドブンを極めようとしたところを、飛んだ奴に邪魔されて……。」と、女は激しく罵った。「いい相談があると瞞《だま》されて、掃溜《はきだめ》のような穢《きたな》い長屋の奥へ引っ張り込まれて、三日のあいだ、腹さんざん慰み物にされて、身ぐるみ剥がれて古浴衣一枚にされて……。揚句の果てに宿場女郎にでも売り飛ばそうとする、おまえの相談は聞かずとも判っているんだ。どうせ死ぬと決めた体だから、どうなってもいいようなものだが、あたしはお前のような男に骨までしゃぶられるような罪は作らないよ。」
「なに、罪は作らねえ……。女のくせに人殺しまでして、罪を作らねえが聞いて呆れらあ。よく考えて物をいえ。」
「人殺しはお前じゃあないか。」
 その声が高くなったので、男は暗いなかにあたりを憚《はばか》るように言った。
「おれはおめえを救ってやったのだ。」
「救ってくれたら、それでいいのさ。いつまで恩に着せることはないじゃないか。文句があるなら、千鳥へ行ってお言いよ。」
「べらぼうめ。うかうか千鳥なんぞへ面《つら》を出して、馬鹿息子と一緒に番屋へしょびかれて堪《たま》るものか。」
 さっきからの押問答をぬすみ聴いて、庄吉は男が何者であるかを覚った。男は近所の裏長屋に住む虎七という独り者で、表向きは瓦屋の職人であるが、商売はそっちのけで、ぐれ歩いている札付《ふだつき》のならずものである。女は何者であるか判らないが、ともかくもその事件が人殺しに関係しているらしいので、庄吉はおどろいた。殊に千鳥という名が彼の注意をひいた。
 こうなっては聞き捨てにならないと思ったので、彼は早々に引っ返して親父の庄作に注進《ちゅうしん》した。
 かれらの家は渡し場の近所で、庄作は今や一|合《ごう》の寝酒を楽しんでいるところであったが、それを聞いて眉をよせた。
「そりゃあ大変だ。なにしろ俺も行って様子を見届けよう。」
 庄吉に案内させて庄作も川端へ忍んで行くと、二つの黒い影はもうそこに見いだされなかった。
 暗いなかで聞こえるのは、岸に触れる水の音のみである。女は死ぬと言っていたから、庄吉の立去ったあとに身でも投げたか、それとも男に引摺られて帰ったか、それらはいっさい不明であった。
「お父っさん、どうしよう。」
「さあ。」と、庄作も考えた。「ほか場所ならばともかくも、渡し場近所で何事かあったのを素《そ》知らん顔をしていては、後日に何かの迷惑にならねえとも限らねえ。念のために届けて置くがよかろう。」
 親子は一応その次第を自身番へ届けて出た。
 しかもその男も女もすでにどこへか立去ってしまったというのでは、別に詮議の仕様もないので、自身番でもそのままに捨てて置いた。

     

 こんにちと違って、その当時の橋場あたりの裏長屋は狭い。殊に虎七の住み家《か》はその露地の奥の奥で、四畳半|一間《ひとま》に型ばかりの台所が付いているだけである。そこへ町方《まちかた》の手先がむかったのは明くる日の午《ひる》ごろであった。
 庄作親子の届け出でを聞いて、自身番でもその夜はそのままに捨てて置いたが、仮りにもそれが千鳥の女房殺しに関係があるらしいというのでは、もちろん聞き流しには出来ないので、明くる朝になって町《ちょう》役人にも申立て、さらに町方にも通じたので、ともかくも虎七を詮議しろということになって、町方の手先は直ぐに召捕りに行きむかうと、虎七の家の雨戸は閉め切ってあった。こんな奴等は盗人《ぬすっと》も同様、あさ寝も昼寝もめずらしくないので、手先は雨戸をこじ明けて踏み込むと、虎七は煎餅蒲団の上に大きい口をあいて蹈《ふ》んぞり返っていた。寝ているのではない、頸を絞められているのであった。
 川端の闇で虎七と争っていた女が清元延津弥であるらしいことは、読者もおそらく想像したであろう。捕り方もその判断の付かない筈はなかった。延津弥は一旦ここへ引戻されて、虎七の酔って眠った隙をみて、かれを絞め殺して逃げたに相違ない。四畳半の隅には徳利や茶碗などもころがっていた。
 隣りは空家、又その隣りは吉原へ通《かよ》い勤めの独り者であるので、この二、三日来、虎七の家にどんなことが起っていたか近所でも知る者はなかった。しかも前後の事情は庄吉の聴かされた通りで、彼は延津弥を脅迫して、結局その手に殺されたのは明白であった。捕り方はさらに金龍山下にむかったが、延津弥の姿はやはり見いだされなかった。
 中田屋の亭主の死は果して牡丹餅の中毒であるかどうか、それは解き難い疑問であるが、少くもそれから糸を引いて、千鳥の女房お兼と破落戸漢《ならずもの》の虎七とが変死を遂げたのは事実であった。二十九日の牡丹餅が怖るべき結果を生み出したのである。
 長之助の千生の申立てはこうであった。
「わたくしの店から持って行った牡丹餅を食って、中田屋の旦那は死んでしまい、延津弥の師匠も患《わずら》って、その詮議がむずかしくなったと聞いて、わたくしは急に怖くなって家を逃げ出しました。師匠の円生のところへ行って相談いたしますと、ここで逃げ隠れをするのはよくない。自分におぼえのないことならば、当分は家にじっとしていて、なにかのお調べがあったらば正直に申立てろと教えられましたので、その気になって引っ返しましたが、どうも不安心でならないので、途中から又逃げました。今更おもえば重々《じゅうじゅう》の心得ちがいで、それがためにおふくろが殺されるようにもなったのでございます。
 どう考えても、わたくしは馬鹿でございました。師匠の意見に従って、自分の家にじっとしていればよかったのですが、いったん姿をかくした以上、なおさら自分に疑いがかかったような気がしまして、七月から八月にかけて五十日ほどの間は所々方々《しょしょほうぼう》をうろ付いていました。まず小田原まで踏み出しましたが、箱根のお関所がありますので、熱海の方角へ道を換えて、この湯治場《とうじば》に半月ほども隠れていました。それから引っ返して江の島、鎌倉……。こう申すと、なんだか遊山《ゆさん》旅のようでございますが、ほかに行く所もなかったからでございます。
 それから又、相模路から八王子の方へ出まして、そこに遠縁の者がありますので、脚気《かっけ》の療治に来たのだと嘘をついて、暫くそこの厄介になっていましたが、その化けの皮もだんだん剥げかかって来たので、そこにも居たたまれなくなって……。まあ、半分は逐《お》い出されたような形で、幾らかの路用《ろよう》を貰って江戸へ帰って参りました。
 故郷の浅草へ帰りましたのは、八月十六日の晩で、それから真っ直ぐに家へ帰ればよかったのですが、なんだか閾《しきい》が高いので、ともかくもその後の様子を訊いてみようと思いまして、金龍山下の延津弥の家へこっそり尋ねて行きますと、師匠はよく帰って来てくれたと喜んで、すぐに二階へあげて泊めてくれました。そうして、四、五日厄介になっているうちに、延津弥が申しますには、わたしも中田屋の旦那に死に別れて心細い。どうぞこれからは力になってくれと口説かれまして……。まあ、夫婦のような事になってしまいましたが、延津弥はわたくしを家へ帰しません。
 そのうちに判りましたのは、延津弥がわたくしのお袋をだまして、三十両ほどの金を巻き上げている事で……。延津弥はおふくろにむかって、こんなことを言っていたそうでございます。中田屋の旦那を毒害したなぞは、まったく覚えのないことだが、実は千生さんと私とは前々から深く言いかわしている。中田屋の一件とは別口《べつくち》で、千生さんは少し筋の悪いことがあって、当分は身を隠していなければならない。その隠れ家《が》は知れているが、今すぐに逢わせるわけには行かない。千生さんも小遣いに不自由しているようだから、金はわたしから届けてあげる。こう言って最初におふくろから十両の金を受取りまして、それから五十日のあいだに三両五両と四、五たびも引出しましたそうで……。それは延津弥が自分の口から話したのですから嘘ではございますまい。
 わたくしもそれを知って、どうもひどい事をすると思いましたが、なにしろ延津弥とは夫婦同様になってしまったのですから、今さら開き直って女を責めるわけにも参りません。八月二十一日の晩に延津弥は日本橋の方へ行くといって家を出まして、四つを過ぎても帰りません。どうしたのかと案じていますと、九つ(十二時)を過ぎてようよう帰って来ました。わたくしは外へ出ませんので、世間の噂を聞きませんでしたが、おふくろはその晩、小梅で殺されたのでした。わたくしが初めてそれを知ったのは二十三日の午頃で、その翌日が千鳥から葬式の出る日でございます。延津弥はわたくしに向って、もう隠れている場合ではない、早く帰ってお葬式の施主に立てと申しますので、わたくしも思い切って帰りますと、直ぐに御用になったのでございます。何事もわたくしの不届きで、重々恐れ入りました。」
 これに因《よ》って察せられる通り、千生はよくよく意気地《いくじ》のない、だらしのない人間で、最初は身に覚えのない罪を恐れ、後には女にあやつられて、魂のない木偶《でく》の坊のように踊らされていたのである。
 事件の輪郭はこれで判った。その以上の秘密は延津弥の自白に俟《ま》つのほかはない。しかも延津弥はその後の消息不明であった。きびしい町方の眼をくぐって、遠いところへ落ち延びてしまったのか、あるいは自分でいう通り、隅田川に身を沈めて、その亡骸《なきがら》は海へ押流されてしまったのか。それは永久の謎として残されていた。
 前後の事情によって想像すると、延津弥は千生の母に対して最初は反感を懐《いだ》いていたが、十両の金を持って来たというのを聞いて、俄かに悪心をきざして、それを巻き上げることを案出したのであろう。それは殆ど明白であるが、千生の母をなぜ殺したかということに就いては、明白の回答は与えられていない。
 最初のうちは千生の母もだまされて、三両五両を延津弥の言うがままに引出されていたが、後にはそれを疑って是非とも我が子に逢わせてくれと言い、その捫着《もんちゃく》から延津弥が殺意を生じたのであろうと解釈する者もある。しかし八月二十一日の頃には千生を自分の家に隠まっていたのであるから、どうしても逢わされないという事もない筈である。あるいは母を殺して千生に家督を相続させ、自分も千鳥のおかみさんとして乗込むつもりであったろうという。その方がやや当っているらしいが、それにしても母を殺すのは余りに残忍であるように思われる。
 次は延津弥と虎七との関係である。小梅の寺のそばで、延津弥とお兼とが何か争っているところへ、虎七が偶然に通りあわせて、延津弥を助けてお兼を絞め殺し、それを種にして延津弥をいろいろ脅迫していたらしい。生きていれば死罪又は獄門の罪人であるから、女の手に葬られたのは未だしもの仕合せであるかも知れない。
 千生は自分の不心得から母が殺されるようになったので、重き罪科《ざいか》にも行わるべきところ、格別のお慈悲を以って追放を命ぜられた。
 七月二十九日の牡丹餅を食った者は江戸中にたくさんあったが、これほどの悲劇を生み出したものは、この物語の登場人物に限られていた。

底本:「蜘蛛の夢」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年4月20日初版1刷発行
初出:「富士」
   1936(昭和11)年7月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:花田泰治郎
2006年5月7日作成
2007年5月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

影を踏まれた女 ―「近代異妖編」—– 岡本綺堂

        

 Y君は語る。

 先刻も十三夜のお話が出たが、わたしも十三夜に縁のある不思議な話を知つてゐる。それは影を踏まれたといふことである。
 影を踏むといふ子供遊びは今は流行《はや》らない。今どきの子供はそんな詰らない遊びをしないのである。月のよい夜ならばいつでも好さゝうなものであるが、これは秋の夜にかぎられてゐるやうであつた。秋の月があざやかに冴《さ》え渡つて、地に敷く夜露が白く光つてゐる宵々に、町の子供たちは往来に出て、こんな唄《うた》を歌ひはやしながら、地にうつる彼等の影を踏むのである。
 ――影や道陸神《どうろくじん》、十三夜のぼた餅《もち》――
 ある者は自分の影を踏まうとして駈《か》けまはるが、大抵は他人の影を踏まうとして追ひまはすのである。相手は踏まれまいとして逃げまはりながら、隙《すき》をみて巧みに敵の影を踏まうとする。また横合《よこあい》から飛び出して行つて、どちらかの影を踏まうとするのもある。かうして三人五人、多いときには十人以上も入《い》りみだれて、地に落つる各自《めいめい》の影を追ふのである。勿論《もちろん》、すべつて転ぶのもある。下駄《げた》や草履《ぞうり》の鼻緒を踏み切るのもある。この遊びはいつの頃から始まつたのか知らないが、兎《と》にかくに江戸時代を経て、明治の初年、わたし達の子どもの頃まで行はれて、日清戦争の頃にはもう廃《すた》つてしまつたらしい。
 子ども同士がたがひに影を踏み合つてゐるのは別に仔細《しさい》もないが、それだけでは面白くないとみえて、往々にして通行人の影をふんで逃げることがある。迂闊《うかつ》に大人の影を踏むと叱《しか》られる虞《おそ》れがあるので、大抵は通りがかりの娘や子供の影を踏んでわつと囃《はや》し立てゝ逃げる。まことに他愛のない悪戯《いたずら》ではあるが、たとひ影にしても、自分の姿の映つてゐるものを土足で踏みにじられると云ふのは余り愉快なものではない。それに就《つい》てこんな話が伝へられてゐる。
 嘉永《かえい》元年九月十二日の宵である。芝の柴井町《しばいちよう》、近江屋《おうみや》といふ糸屋の娘おせきが神明前《しんめいまえ》の親類をたづねて、五つ(午後八時)前に帰つて来た。あしたは十三夜で、今夜の月も明るかつた。ことしの秋の寒さは例年よりも身にしみて、風邪《かぜ》引《ひ》きが多いといふので、おせきは仕立ておろしの綿入《わたいれ》の両|袖《そで》をかき合せながら、北に向つて足早に辿《たど》つてくると、宇田川町《うだがわちよう》の大通りに五六人の男の児《こ》が駈《か》けまはつて遊んでゐた。影や道陸神《どうろくじん》の唄《うた》の声もきこえた。
 そこを通りぬけて行きかゝると、その子供の群は一度にばら/\と駈けよつて来て、地に映つてゐるおせきの黒い影を踏まうとした。はつと思つて避けようとしたが、もう間にあはない。いたづらの子供たちは前後左右から追取《おつと》りまいて来て、逃げまはる娘の影を思ふがまゝに踏んだ。かれらは十三夜のぼた餅《もち》を歌ひはやしながらどつと笑つて立去つた。
 相手が立去つても、おせきはまだ一生懸命に逃げた。かれは息を切つて、逃げて、逃げて、柴井町の自分の店さきまで駈けて来て、店の框《かまち》へ腰をおろしながら横さまに俯伏《うつぶ》してしまつた。店には父の弥助《やすけ》と小僧ふたりが居あはせたので、驚いてすぐに彼女《かれ》を介抱した。奥からは母のお由《よし》も女中のおかんも駈出《かけだ》して来て、水をのませて、落着かせて、さて、その仔細《しさい》を問ひ糺《ただ》さうとしたが、おせきは胸の動悸《どうき》がなか/\鎮《しず》まらないらしく、しばらくは胸をかゝへて店さきに俯伏してゐた。
 おせきは今年十七の娘ざかりで、容貌《きりよう》もよい方である。宵とは云へ、月夜とは云へ、賑《にぎや》かい往来とは云つても、なにかの馬鹿者《ばかもの》にからかはれたのであらうと親たちは想像したので、弥助は表へ出てみたが、そこらには彼女《かれ》を追つて来たらしい者の影もみえなかつた。
「おまへは一体どうしたんだよ。」と、母のお由は待ちかねて又|訊《き》いた。
「あたし踏まれたの。」と、おせきは声をふるはせながら云つた。
「誰に踏まれたの。」
「宇田川町を通ると、影や道陸神《どうろくじん》の子供達があたしの影を踏んで……。」
「なんだ。」と、弥助は張合ひ抜けがしたやうに笑ひ出した。「それが何《ど》うしたといふのだ。そんなことを騒ぐ奴《やつ》があるものか。影や道陸神なんぞ珍しくもねえ。」
「ほんたうにそんな事を騒ぐにやあ及ばないぢやあないか。あたしは何事が起つたのかと思つてびつくりしたよ。」と、母も安心と共に少しく不平らしく云つた。
「でも、自分の影を踏まれると、悪いことがある……。寿命が縮まると……。」と、おせきは更に涙ぐんだ。
「そんな馬鹿《ばか》なことがあるものかね。」
 お由は一言《いちごん》の下《もと》に云ひ消したが、実をいふと其頃《そのころ》の一部の人達のあひだには、自分の影を踏まれると好くないといふ伝説がないでもなかつた。七|尺《しやく》去つて師の影を踏まずなどと支那《しな》でも云ふ。たとひ影にしても、人の形を踏むといふことは遠慮しろといふ意味から、彼《か》の伝説は生まれたらしいのであるが、後《のち》には踏む人の遠慮よりも踏まれる人の恐れとなつて、影を踏まれると運が悪くなるとか、寿命が縮むとか、甚《はなは》だしきは三年の内に死ぬなどと云ふ者がある。それほどに怖るべきものであるならば、どこの親達も子どもの遊びを堅く禁止しさうなものであるが、それ程にはやかましく云はなかつたのを見ると、その伝説や迷信も一般的ではなかつたらしい。而《しか》もそれを信じて、それを恐れる人達からみれば、それが一般的であると無いとは問題ではなかつた。
「馬鹿をいはずに早く奥へ行け。」
「詰らないことを気におしでないよ。」
 父には叱《しか》られ、母にはなだめられて、おせきはしよんぼり[#「しよんぼり」に傍点]と奥へ這入《はい》つたが、胸一杯の不安と恐怖とは決して納まらなかつた。近江屋の二階は六畳と三畳の二間《ふたま》で、おせきはその三畳に寝ることになつてゐたが、今夜は幾たびも強い動悸《どうき》におどろかされて眼《め》をさました。幾つかの小さい黒い影が自分の胸や腹の上に跳《おど》つてゐる夢をみた。
 あくる日は十三夜で、近江屋でも例年の通りに芒《すすき》や栗《くり》を買つて月の前にそなへた。今夜の月も晴れてゐた。
「よいお月見でございます。」と、近所の人たちも云つた。
 併《しか》しおせきはその月を見るのが何だか怖しいやうに思はれてならなかつた。月が怖しいのではない、その月のひかりに映し出《いだ》される自分の影をみるのが怖しいのであつた。世間ではよい月だと云つて、或《あるい》は二階から仰ぎ、あるひは店先から望み、あるひは往来へ出て眺めてゐるなかで、かれ一人は奥に閉籠《とじこも》つてゐた。
 ――影や道陸神、十三夜の牡丹餅《ぼたもち》――
 子ども等《ら》の歌ふ声々が、おせきの弱い魂を執念ぶかく脅《おびや》かした。

        

 それ以来、おせきは夜あるきをしなかつた。殊《こと》に月の明るい夜には表へ出るのを恐れるやうになつた。どうしても夜あるきをしなければならないやうな場合には、努めて月のない暗い宵を選んで出ることにしてゐた。世間の娘たちとは反対のこの行動が父や母の注意をひいて、お前はまだそんな詰らないことを気にしてゐるのかと、両親からしば/\叱《しか》られた。而《しか》もおせきの魂に深く食《く》ひ入つた一種の恐怖と不安とはいつまでも消え失せなかつた。
 さうしてゐる中《うち》に、不運のおせきは再び自分の影におどろかされるやうな事件に遭遇した。その年の師走《しわす》の十三日、おせきの家《うち》で煤掃《すすはき》をしてゐると、神明前の親類の店から小僧が駈《か》けて来て、おばあさんが急病で倒れたと報《しら》せた。神明前の親類といふのは、おせきの母の姉が縁付いてゐる家《うち》で、近江屋とは同商売であるばかりか、その次男の要次郎をゆく/\はおせきの婿《むこ》にするといふ内相談《ないそうだん》もある。そこの老母が倒れたと聞いては其儘《そのまま》には済されない。誰かゞすぐに見舞に駈《か》け付けなければならないのであるが、生憎《あいにく》にけふは煤掃の最中で父も母も手が離されないので、とりあへずおせきを出して遣《や》ることにした。
 襷《たすき》をはづして、髪をかきあげて、おせきが兎《と》つかはと店を出たのは、昼の八《や》つ(午後二時)を少し過ぎた頃であつた。ゆく先は大野屋といふ店で、こゝも今日は煤掃である。その最中に今年七十五になるおばあさんが突然|打《ぶ》つ倒れたのであるから、その騒ぎは一通りでなかつた。奥には四畳半の離屋《はなれ》があるので、急病人をそこへ運び込んで介抱してゐると、幸ひに病人は正気に戻つた。けふは取分けて寒い日であるのに、達者にまかせて老人が、早朝から若い者どもと一緒になつて立働いたために、こんな異変をひき起したのであるが、左《さ》のみ心配することはない。静《しずか》に寝かして置けば自然に癒《なお》ると、医者は云つた。それで先《ま》づ一《ひと》安心したところへ、おせきが駈けつけたのである。
「それでもまあ好うござんしたわねえ。」
 おせきも安心したが、折角《せつかく》こゝまで来た以上、すぐに帰つてしまふわけにも行かないので、病人の枕もとで看病の手つだひなどをしてゐるうちに、師走のみじかい日はいつか暮れてしまつて、大野屋の店の煤はきも片附いた。蕎麦《そば》を食《く》はされ、ゆふ飯を食はされて、おせきは五つ少し前に、こゝを出ることになつた。
「阿父《おとつ》さんや阿母《おつか》さんにもよろしく云つてください。病人も御覧の通りで、もう心配することはありませんから。」と、大野屋の伯母《おば》は云つた。
 宵ではあるが、年の暮で世間が物騒だといふので、伯母は次男の要次郎に云ひつけて、おせきを送らせて遣《や》ることにした。お取込みのところをそれには及ばないと、おせきは一応辞退したのであるが、それでも間違ひがあつてはならないと云つて、伯母は無理に要次郎を附けて出した。店を出るときに伯母は笑ひながら声をかけた。
「要次郎。おせきちやんを送つて行くのだから、影や道陸神《どうろくじん》を用心おしよ。」
「この寒いのに、誰も表に出てゐやしませんよ。」と、要次郎も笑ひながら答へた。
 おせきが影を踏まれたのは、やはりこゝの家《うち》から帰る途中の出来事で、彼女《かれ》がそれを気に病んでゐるらしいことは、母のお由から伯母にも話したので、大野屋|一家《いつけ》の者もみな知つてゐるのであつた。要次郎は今年十九の、色白の痩形《やせがた》の男で、おせきとは似合《にあい》の夫婦と云つてよい。その未来の夫婦がむつまじさうに肩をならべて出てゆくのを、伯母は微笑《ほほえ》みながら見送つた。
 一応は辞退したものゝ、要次郎に送られてゆくことはおせきも実は嬉《うれ》しかつた。これも笑ひながら表へ出ると、煤《すす》はきを済せて今夜は早く大戸《おおど》をおろしてゐる店もあつた。家中《うちじゆう》に灯《ひ》をとぼして何かまだ笑ひさゞめいてゐる店もあつた。その家々の屋根の上には、雪が降つたかと思ふやうに月のひかりが白く照り渡つてゐた。その月を仰いで、要次郎は夜の寒さが身にしみるやうに肩をすくめた。
「風はないが、なか/\寒い。」
「寒うござんすね。」
「おせきちやん、御覧よ。月がよく冴《さ》えてゐる。」
 要次郎に云はれて、おせきも思はず振り仰ぐと、向う側の屋根の物干《ものほし》の上に、一輪の冬の月は、冷《つめた》い鏡のやうに冴えてゐた。
「好いお月様ねえ。」
 とは云つたが、忽《たちま》ちに一種の不安がおせきの胸に湧《わ》いて来た。今夜は十二月十三日で、月のあることは判《わか》り切つてゐるのであつたが、今までは何かごた[#「ごた」に傍点]/\してゐたのと、要次郎と一緒にあるいてゐるのとで、おせきはそれを忘れてゐたのである。明るい月――それと反対におせきの心は暗くなつた。急におそろしいものを見せられたやうに、おせきは慌てゝ顔をそむけて俯向《うつむ》くと、今度は地に映る二人の影があり/\と見えた。
 それと同時に、要次郎も思ひ出したやうに云つた。
「おせきちやんは月夜の晩には表へ出ないんだつてね。」
 おせきは黙つてゐると、要次郎は笑ひ出した。
「なぜそんなことを気にするんだらう。あの晩もわたしが一緒に送つて来ればよかつたつけ。」
「だつて、なんだか気になるんですもの。」と、おせきは低い声で訴へるやうに云つた。
「大丈夫だよ。」と、要次郎はまた笑つた。
「大丈夫でせうか。」
 二人はもう宇田川町の通りへ来てゐた。要次郎の云つた通り、この極月《ごくげつ》の寒い夜に、影を踏んで騒ぎまはつてゐるやうな子供のすがたは一人も見出《みいだ》されなかつた。むかしから男女《おとこおんな》の影法師は憎いものに数へられてゐるが、要次郎とおせきはその憎い影法師を土の上に落しながら、摺寄《すりよ》るやうに列《なら》んであるいてゐた。勿論《もちろん》、こゝらの大通りに往来は絶えなかつたが、二つの憎い影法師をわざわざ踏みにじつて通るやうな、意地の悪い通行人もなかつた。
 宇田川町をゆきぬけて、柴井町へ踏み込んだときである。どこかの屋根の上で鴉《からす》の鳴く声がきこえた。
「あら、鴉が……」と、おせきは声のする方をみかへつた。
「月夜鴉だよ。」
 要次郎がかう云つた途端に、二匹の犬がそこらの路地《ろじ》から駈《か》け出して来て、恰《あたか》もおせきの影の上で狂ひまはつた。はつと思つておせきが身をよけると、犬はそれを追ふやうに駈けあるいて、かれの影を踏みながら狂つてゐる。おせきは身をふるはせて要次郎に取縋《とりすが》つた。
「おまへさん、早く追つて……」
「畜生《ちくしよう》。叱《し》つ、叱つ。」
 犬は要次郎に追はれながらも、やはりおせきに附纏《つきまと》つてゐるやうに、かれの影を踏みながら跳《おど》り狂つてゐるので、要次郎も癇癪《かんしやく》をおこして、足もとの小石を拾つて二三度|叩《たた》きつけると、二匹の犬は悲鳴をあげて逃げ去つた。
 おせきは無事に自分の家《うち》へ送りとゞけられたが、その晩の夢には、二匹の犬がかれの枕もとで駈けまはるのを見た。

        三

 今まで、おせきは月夜を恐れてゐたのであるが、その後のおせきは昼の日光をも恐れるやうになつた。日光のかゞやくところへ出れば、自分の影が地に映る。それを何者にか踏まれるのが怖しいので、かれは明るい日に表へ出るのを嫌つた。暗い夜を好み、暗い日を好み、家内でも薄暗いところを好むやうになると、当然の結果として彼女《かれ》は陰鬱《いんうつ》な人間となつた。
 それが嵩《こう》じて、あくる年の三月頃になると、かれは燈火《あかり》をも嫌ふやうになつた。月といはず、日と云はず、燈火《あかり》といはず、すべて自分の影をうつすものを嫌ふのである。かれは自分の影を見ることを恐れた。かれは針仕事の稽古《けいこ》にも通はなくなつた。
「おせきにも困つたものですね。」と、その事情を知つてゐる母は、とき/″\に顔をしかめて夫にさゝやくこともあつた。
「まつたく困つた奴《やつ》だ。」
 弥助も溜息《ためいき》をつくばかりで、どうにも仕様がなかつた。
「やつぱり一つの病気ですね。」と、お由は云つた。
「まあさうだな。」
 それが大野屋の人々にもきこえて、伯母《おば》夫婦も心配した。とりわけて要次郎は気を痛めた。ことに二度目のときには自分が一緒に連れ立つてゐただけに、彼は一種の責任があるやうにも感じられた。
「おまへが傍に附いてゐながら、なぜ早くその犬を追つてしまはないのだねえ。」と、要次郎は自分の母からも叱《しか》られた。
 おせきが初めて自分の影を踏まれたのは九月の十三夜である。それからもう半年以上を過ぎて、おせきは十八、要次郎は廿歳《はたち》の春を迎へてゐる。前々からの約束で、今年はもう婿入りの相談をきめることになつてゐるのであるが、肝心の婿取り娘が半気ちがひのやうな、半病人のやうな形になつてゐるので、それも先《ま》づそのまゝになつてゐるのを、おせきの親たちは勿論《もちろん》、伯母夫婦もしきりに心配してゐたのであるが、たゞ一通りの意見や説諭ぐらゐでは、何《ど》うしてもおせきの病を癒《なお》すことは出来なかつた。
 なにしろこれは一種の病気であると認めて、近江屋でも嫌がる本人を連れ出して、二三人の医者に診て貰《もら》つたのであるが、どこの医者にも確《たしか》な診断を下すことは出来ないで、おそらく年ごろの娘にあり勝《がち》の気鬱病《きうつびよう》であらうかなどと云ふに過ぎなかつた。そのうちに大野屋の惣領息子《そうりようむすこ》、すなはち要次郎の兄が或《ある》人から下谷《したや》に偉い行者《ぎようじや》があるといふことを聞いて来たが、要次郎はそれを信じなかつた。
「あれは狐使《きつねつか》ひだと云ふことだ。あんな奴《やつ》に祈祷《きとう》を頼むと、却《かえ》つて狐を憑《つ》けられる。」
「いや、その行者はそんなのではない。大抵《たいてい》の気ちがひでも一度御祈祷をして貰へば癒るさうだ。」
 兄弟が頻《しき》りに云ひ争つてゐるのが母の耳にも這入《はい》つたので、兎《と》も角《かく》もそれを近江屋の親たちに話して聞かせると、迷ひ悩んでゐる弥助夫婦は非常によろこんだ。併《しか》しすぐに娘を連れて行くと云つても、きつと嫌がるに相違ないと思つたので、夫婦だけが先づその行者をたづねて、彼の意見を一応|訊《き》いて来ることにした。それは嘉永《かえい》二年六月のはじめで、今年の梅雨《つゆ》のまだ明け切らない暗い日であつた。
 行者の家《うち》は五条の天神《てんじん》の裏通りで、表構《おもてがま》へは左《さ》ほど広くもないが、奥行《おくゆき》のひどく深い家《うち》であるので、この頃の雨の日には一層うす暗く感じられた。何の神か知らないが、それを祭つてある奥の間《ま》には二本の蝋燭《ろうそく》が点《とも》つてゐた。行者は六十以上かとも見える老人で、弥助夫婦からその娘のことを詳しく聴いた後《のち》に、かれはしばらく眼《め》をとぢて考へてゐた。
「自分で自分の影を恐れる――それは不思議のことでござる。では、兎も角もこの蝋燭をあげる。これを持つてお帰りなさるがよい。」
 行者は神前にかゞやいてゐる蝋燭の一本を把《と》つて出した。今夜の子《ね》の刻《こく》(午後十二時)にその蝋燭の火を照して、壁か又は障子《しようじ》にうつし出される娘の影を見とゞけろと云ふのである。娘に何かの憑物《つきもの》がしてゐるならば、その形は見えずとも其《その》影があり/\と映る筈《はず》である。その娘に狐が憑いてゐるならば、狐の影がうつるに相違ない。鬼が憑いてゐるならば鬼が映る。それを見とゞけて報告してくれゝば、わたしの方にも又相当の考へがあると云ふのであつた。かれはその蝋燭《ろうそく》を小さい白木《しらき》の箱に入れて、なにか呪文《じゆもん》のやうなことを唱《とな》へた上で、うや/\しく弥助にわたした。
「ありがたうござります。」
 夫婦は押頂《おしいただ》いて帰つて来た。その日はゆふ方から雨が強くなつて、とき/″\に雷《らい》の音がきこえた。これで梅雨《つゆ》も明けるのであらうと思つたが、今夜の弥助夫婦に取つては、雨の音、雷の音、それがなんとなく物すさまじいやうにも感じられた。
 前から話して置いては面倒だと思つたので、夫婦は娘にむかつて何事も洩《もら》さなかつた。四つ(午後十時)には店を閉めることになつてゐるので、今夜もいつもの通りにして家内の者を寝かせた。おせきは二階の三畳に寝た。胸に一物《いちもつ》ある夫婦は寐《ね》た振《ふり》をして夜のふけるのを待つてゐると、やがて子《ね》の刻《こく》の鐘がひゞいた。それを合図に夫婦はそつと階子《はしご》をのぼつた。弥助は彼《か》の蝋燭《ろうそく》を持つてゐた。
 二階の三畳の襖《ふすま》をあけて窺《うかが》ふと、今夜のおせきは疲れたやうにすや/\と眠つてゐた。お由はしづかに揺《ゆ》り起して、半分は寐ぼけてゐるやうな若い娘を寝床の上に起き直らせると、かれの黒い影は一方の鼠壁《ねずみかべ》に細く揺れて映つた。蝋燭を差出す父の手がすこしく顫《ふる》へてゐるからであつた。
 夫婦は恐るゝやうに壁を見つめると、それに映つてゐるのは確《たしか》に娘の影であつた。そこには角《つの》のある鬼や、口の尖《とが》つてゐる狐《きつね》などの影は決して見られなかつた。

        

 夫婦は安心したやうに先《ま》づほつとした。不思議さうにきよろきよろ[#「きよろきよろ」に傍点]してゐる娘を再び窃《そつ》と寝かせて、ふたりは抜き足をして二階を降りて来た。
 あくる日は弥助ひとりで再び下谷の行者《ぎようじや》をたづねると、老いたる行者は又かんがへてゐた。
「それでは私にも祈祷《きとう》の仕様がない。」
 突き放されて、弥助も途方にくれた。
「では、どうしても御祈祷は願はれますまいか。」と、かれは嘆くやうに云つた。
「お気の毒だが、わたしの力には及ばない。しかし、折角《せつかく》たび/\お出でになつたのであるから、もう一度ためして御覧になるがよい。」と、行者は更に一本の蝋燭を渡した。「今夜すぐにこの火を燃《もや》すのではない。今から数へて百日目の夜、時刻はやはり子《ね》の刻《こく》、お忘れなさるな。」
 今から百日といふのでは、あまりに先が長いとも思つたが、弥助はこの行者の前で我儘《わがまま》をいふほどの勇気はなかつた。かれは教へられたまゝに一本の蝋燭をいたゞいて帰つた。
 かういふ事情であるから、おせきの婿取りも当然延期されることになつた。あんな行者などを信仰するのは間違つてゐると、要次郎は蔭でしきりに憤慨してゐたが、周囲の力に圧せられて、彼はおめ/\それに服従するのほかは無かつた。
「夏の中《うち》にどこかの滝にでも打たせたら好からう。」と、要次郎は云つた。かれは近江屋の夫婦を説いて、王子か目黒の滝へおせきを連れ出さうと企てたが、両親は兎《と》も角《かく》も、本人のおせきが外出を堅く拒《こば》むので、それも結局実行されなかつた。
 ことしの夏の暑さは格別で、おせきの夏痩《なつや》せは著《いちじ》るしく眼《め》に立つた。日の目を見ないやうな奥の間《ま》にばかり閉籠《とじこも》つてゐるために、運動不足、それに伴ふ食慾不振がいよ/\彼女《かれ》を疲らせて、さながら生きてゐる幽霊のやうになり果てた。訳を知らない人は癆症《ろうしよう》であらうなどとも噂《うわさ》してゐた。そのあひだに夏も過ぎ、秋も来て、旧暦では秋の終りといふ九月になつた。行者《ぎようじや》に教へられた百日目は九月十二日に相当するのであつた。
 それは今初めて知つたわけではない。行者に教へられた時、弥助夫婦はすぐに其日《そのひ》を繰《く》つてみて、それが十三夜の前日に当ることをあらかじめ知つてゐたのである。おせきが初めて影を踏まれたのは去年の十三夜の前夜で、行者のいふ百日目が恰《あたか》も満一年目の当日であるといふことが、彼女《かれ》の父母《ちちはは》の胸に一種の暗い影を投げた。今度こそはその蝋燭《ろうそく》のひかりが何かの不思議を照し出すのではないかとも危《あやぶ》まれて、夫婦は一面に云ひ知れない不安をいだきながらも、いはゆる怖いもの見たさの好奇心も手伝つて、その日の早く来るのを待ちわびてゐた。
 その九月十二日がいよ/\来た。その夜の月は去年と同じやうに明るかつた。
 あくる十三日、けふも朝から晴れてゐた。午《ひる》少し前に弱い地震があつた。八《や》つ頃(午後二時)に大野屋の伯母《おば》が近所まで来たと云つて、近江屋の店に立寄つた。呼ばれて、おせきは奥から出て来て、伯母にも一通りの挨拶《あいさつ》をした。伯母が帰るときに、お由は表まで送つて出て、往来で小声でさゝやいた。
「おせきの百日目といふのは昨夜《ゆうべ》だつたのですよ。」
「さう思つたからわたしも様子を見に来たのさ。」と伯母も声をひそめた。「そこで、何か変つたことでもあつて……。」
「それがね、姉さん。」と、お由はうしろを見かへりながら摺寄《すりよ》つた。「ゆうべも九つ(午後十二時)を合図におせきの寝床へ忍んで行つて、寐《ね》ぼけてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]してゐるのを抱き起して、内の人が蝋燭をかざしてみると――壁には骸骨《がいこつ》の影が映つて……。」
 お由の声は顫《ふる》へてゐた。伯母も顔の色を変へた。
「え、骸骨の影が……。見違ひぢやあるまいね。」
「あんまり不思議ですから好く見つめてゐたんですけれど、確《たしか》にそれが骸骨に相違ないので、わたしはだん/\に怖くなりました。わたしばかりでなく、内の人の眼にもさう見えたといふのですから、嘘ぢやありません。」
「まあ。」と、伯母は溜息《ためいき》をついた。「当人はそれを知らないのかえ。」
「ひどく眠《ねむ》がつてゐて、又すぐに寐てしまひましたから、何にも知らないらしいのです。それにしても、骸骨《がいこつ》が映るなんて一体どうしたんでせう。」
「下谷へ行つて訊《き》いて見たの。」と、伯母《おば》は訊いた。
「内の人は今朝早くに下谷へ行つて、その話をしましたところが、行者様《ぎようじやさま》はたゞ黙つて考へてゐて、わたしにもよく判らないと云つたさうです。」と、お由は声を曇らせた。「ほんたうに判らないのか、判つてゐても云はないのか、どつちでせうね。」
「さあ。」
 判つてゐても云はないのであらうと、伯母は想像した。お由もさう思つてゐるらしかつた。もしさうならば、それは悪いことに相違ない。善《い》いことであれば隠す筈《はず》がないとは、誰でも考へられることである。二人の女は暗い顔をみあはせて、しばらく往来|中《なか》に突つ立つてゐると、その頭の上の青空には白い雲が高く流れてゐた。
 お由はやがて泣き出した。
「おせきは死ぬのでせうか。」
 伯母もなんと答へていゝか判らなかつた。かれも内心には十二分の恐れをいだきながら、兎《と》も角《かく》も間にあはせの気休めを云つて置くの外《ほか》はなかつた。
 伯母は家《うち》へ帰つてその話をすると、要次郎はまた怒つた。
「近江屋の叔父《おじ》さんや叔母《おば》さんにも困るな。いつまで狐《きつね》つかひの行者なんかを信仰してゐるのだらう。そんなことをして此方《こつち》をさん/″\嚇《おど》かして置いて、お仕舞《しまい》に高い祈祷《きとう》料をせしめようとする魂胆《こんたん》に相違ないのだ。そのくらゐの事が判らないのかな。」
「そんなことを云つても、論より証拠で、丁度《ちようど》百日目の晩に怪しい影が映つたといふぢやないか。」と、兄は云つた。
「それは行者が狐を使ふのだ。」
 又もや兄弟|喧嘩《げんか》がはじまつたが、大野屋の両親にもその裁判が付かなかつた。行者を信じる兄も、行者を信じない弟も、所詮《しよせん》は水かけ論に過ぎないので、ゆふ飯を境にしてその議論も自然物別れになつてしまつたが、要次郎の胸はまだ納まらなかつた。ゆふ飯を食《く》つてしまつて、近所の銭湯へ行つて帰つてくると、今夜の月はあざやかに昇つてゐた。
「好い十三夜だ。」と、近所の人たちも表に出た。中には手をあはせて拝んでゐるのもあつた。
 十三夜――それを考へると、要次郎はなんだか家《うち》に落ついてゐられなかつた。彼はふら/\と店を出て、柴井町の近江屋をたづねた。
「おせきちやん、居ますか。」
「はあ。奥にゐますよ。」と、母のお由は答へた。
「呼んで呉《く》れませんか。」と、要次郎は云つた。
「おせきや。要ちやんが来ましたよ。」
 母に呼ばれて、おせきは奥から出て来た。今夜のおせきはいつもよりも綺麗《きれい》に化粧してゐるのが、月のひかりの前に一層美しくみえた。
「月がいゝから表へ拝みに出ませんか。」と、要次郎は誘つた。
 おそらく断るかと思ひの外《ほか》、おせきは素直に表へ出て来たので、両親も不思議に思つた。要次郎もすこし案外に感じた。併《しか》し彼はおせきを明るい月の前にひき出して、その光を恐れないやうな習慣を作らせようと決心して来たのであるから、それを丁度《ちようど》幸ひにして、ふたりは連れ立つて歩き出した。両親もよろこんで出して遣《や》つた。
 若い男と女とは金杉《かなすぎ》の方角にむかつて歩いてゆくと、冷《つめた》い秋の夜風がふたりの袂《たもと》をそよ/\と吹いた。月のひかりは昼のやうに明るかつた。
「おせきちやん。かういふ月夜の晩にあるくのは、好い心持だらう。」と、要次郎は云つた。
 おせきは黙つてゐた。
「いつかの晩も云つた通り、詰らないことを気にするからいけない。それだから気が鬱《ふさ》いだり、からだが悪くなつたりして、お父《とつ》さんや阿母《おつか》さんも心配するやうになるのだ。そんなことを忘れてしまふために、今夜は遅くなるまで歩かうぢやないか。」
「えゝ。」と、おせきは低い声で答へた。
 ――影や道陸神《どうろくじん》、十三夜のぼた餅《もち》――
 子どもの唄《うた》が又きこえた。それは近江屋の店先を離れてから一町ほども歩き出した頃であつた。
「子供が来ても構はない。平気で思ふさま踏ませて遣《や》る方がいゝよ。」と、要次郎は励ますやうに云つた。
 子供の群は十人ばかりが一組になつて横町《よこちよう》から出て来た。かれらは声をそろへて唄ひながら二人のそばへ近寄つたが、要次郎は片手でおせきの右の手をしつかりと握りながら、わざと平気で歩いてゐると、その影を踏まうとして近寄つたらしい子供|等《ら》は、なにを見たのか、急にわつと云つて一度に逃げ散つた。
「お化けだ、お化けだ。」
 かれらは口々に叫びながら逃げた。影を踏まうとして近寄つても、こつちが平気でゐるらしいので、更にそんなことを云つて嚇《おど》したのであらうと思ひながら、要次郎は自分のうしろを見かへると、今までは南に向つて歩いてゐたので一向に気が付かなかつたが、斜めにうしろの地面に落ちてゐる二つの影――その一つは確かに自分の影であつたが、他の一つは骸骨《がいこつ》の影であつたので、要次郎もあつと驚いた。行者《ぎようじや》を狐《きつね》つかひなどと罵《ののし》つてゐながらも、今やその影を実地に見せられて、かれは俄《にわか》に云ひ知れない恐怖に襲はれた。子供等がお化けだと叫んだのも嘘ではなかつた。
 要次郎は不意の恐れに前後の考へをうしなつて、今までしつかりと握りしめてゐたおせきの手を振放して、半分は夢中で柴井町の方へ引返《ひつかえ》して逃げた。
 その注進におどろかされて、おせきの両親は要次郎と一緒にそこへ駈《か》け着けてみると、おせきは右の肩から袈裟斬《けさぎり》に斬《き》られて往来のまん中に倒れてゐた。
 近所の人の話によると、要次郎が駈け出したあとへ一人の侍が通りかゝつて、いきなりに刀をぬいておせきを斬り倒して立去つたといふのであつた。宵の口といひ、この月夜に辻斬《つじぎり》でもあるまい。かの侍も地にうつる怪しい影をみて、たちまちに斬り倒してしまつたのかも知れない。
 おせきが自分の影を恐れてゐたのは、かういふことになる前兆であつたかと、近江屋の親たちは嘆いた。行者《ぎようじや》の奴《やつ》が狐《きつね》を憑《つ》けてこんな不思議を見せたのだと、要次郎は憤《いきどお》つた。しかし誰にも確《たしか》な説明の出来る筈《はず》はなかつた。唯《ただ》こんな奇怪な出来事があつたとして、世間に伝へられたに過ぎなかつた。

底本:「日本幻想文学集成23 岡本綺堂 猿の眼 種村季弘編」国書刊行会
   1993(平成5)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「綺堂読物集・三」春陽堂
   1926(大正15)年
入力:林田清明
校正:ちはる
2000年12月30日公開
2005年12月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

慈悲心鳥—— 岡本綺堂

     

 人びとの話が代るがわるにここまで進んで来た時に、玄関の書生が「速達でございます。」といってかさ高の郵便を青蛙堂主人のところへ持って来た。主人はすぐに開封すると、それは罫紙に細かく書いた原稿ようのものに、短い手紙が添えてあるらしかった。主人はまずその手紙だけを読んでしまって、一座のわれわれの方へ再び向き直った。
「ちょっと皆さんに申上げたいことがございます。わたくしの友人のTという男――みなさんも御承知でございましょう、先度《せんど》の怪談会のときに「木曽の旅人」の話をお聴きに入れた男です。――あの男が二、三日前に参りましたから、実は今夜の「探偵趣味の会」のことを洩らしますと、それは面白い、自分もぜひ出席するといって帰りました。それが今夜はまだ見えないので、どうしたのかと思っていますと、唯今この速達便をよこしまして、退引《のっぴき》ならない用向きが起って、今夜は残念ながら出席することが出来ない。就いては、自分が今夜お話ししようと思っている事を原稿に書いて送るから、皆さんの前で読み上げてくれというのでございます。一体どんなことが書いてあるのか判りませんが、折角こうして送って来たのですから、その熱心に免じて、わたくしがこれから読み上げることに致します。御迷惑でも暫くお聴きください。」
 一座のうちには拍手する者もあった。
「では、読みます。」と、言いながら主人はその原稿の二、三行に眼を通した。「ははあ、自叙体に書いてある。このうち私というのはT自身のことで、その友人の森君という人との交渉を書いたものらしく思われます。まあ、読んでいったら判りましょう。」
 主人は原稿をひろげて読みはじめた。

「この降りに、出かけるのかい。」
 わたしは庭の八つ手の大きい葉を青黒く染めている六月の雨の色をながめながら、森君の方を見かえった。森君の机のそばには小さい旅行カバンが置かれてあった。
「なに、ちっとぐらい降っても構わない。思い立ったら、いつでも出かけるよ。」と、森君は巻煙草をくゆらしながら笑っていた。
 森君の旅行好きは私たちの友達仲間でも有名であった。暇さえあれば二日でも三日でも、時によればふた月でも三月でも、それからそれへと飛んであるく。したがって、ちっとぐらいの雨や風を念頭に置いていないのも当然であった。
「これからすぐに出掛けるのか。そうして今度はどっちの方角だ。」と、わたしも笑いながら訊いた。
「久しぶりで猪苗代《いなわしろ》から会津《あいづ》の方へ行ってみようと思っている。途中で宇都宮の友達をたずねて、それから……。」
「日光へでも廻るか。」
「日光……。」と、森君は急に顔をくもらせた。「いや、日光はもう十年以上も行ったことがない。あるいは一生行かないかも知れない。」
「ひどく見限ったね。日光はそれほど悪いところじゃあるまいと思うが……。」
「無論、日光の土地が悪いというわけじゃ決してない。僕も紅葉《もみじ》の時節になると、また行ってみたいような気になることもあるが、やはりどうも足が向かない。なんだか暗いような気分に誘い出されてね。」
「なぜだ。日光で何か忌《いや》なことでもあったのか。」と、わたしは一種の好奇心にそそのかされて訊いた。
「むむ。」と、森君は今ついたばかりの電燈の弱い光りを仰ぎながら溜息《ためいき》をついた。
「日光で一体どうしたんだ。」
「実はね。」と、言いかけて、森君は急に気がついたように懐中時計を出して見た。「や、こりゃいけない。もう三十分しかない。上野まで大急ぎだ。」
「いいじゃないか、ひと汽車ぐらいおくれたって……。別に急ぎの旅でもあるまい。」
 森君は焦《じ》れったそうに衝《つ》と起ちあがって、本箱のなかを引っ掻きまわしていたが、やがて一冊の古い日記を持出して、投げ出すように私のまえに置いた。
「この日記の八月のところを見てくれたまえ。そうすれば大抵わかるよ。僕は急ぐから失敬する。」
 客のわたしを置き去りにして、気の短い森君はカバンを引っ提げて、すたすたと玄関の方へ出て行ってしまった。森君は三十|幾歳《いくつ》の今年まで独身で、老婢《ばあや》ひとりと書生一人の気楽な生活である。雑誌などへ時どき寄稿するぐらいで、別に定まった職業はない。多年懇意にしている私は、今夜もただ簡単に会釈《えしゃく》しただけで彼を見送ろうともしなかった。老婢や書生が玄関でなにか言っているのをよそに聞きながら、わたしはその日記帳を手に取って、八月のところを探してみようとしたが、電燈の光線の工合が悪いので、わたしは初めて起ちあがって森君の机の前に坐り直した。あたかもその時に、縁側から内をのぞいている書生の顔が障子の硝子《がらす》越しに黒く見えたので、わたしは笑いながら声をかけた。
「先生はもう行きましたか。」
「はあ。」
「僕はもう少しお邪魔をしていますよ。」
「どうぞごゆっくり。」と、書生の顔はすぐに消えてしまった。
 わたしは書生のいう通り、ゆっくりとそこに坐り込んで森君の古い日記帳と向い合った。日記の表紙には今から十二、三年前の明治××年と記《しる》されてあった。わたしは急いでその八月のぺージを繰《く》ってみた。月はじめの三日ばかりの間には別に変った記事を見つけ出されなかったが、とにかく森君は七月の末から日光の町に滞在して、ある小さい宿屋の裏二階の四畳半に泊っていたということだけは判った。その当時の森君は或る私立大学の文科の学生であったことをわたしは知っていた。わたしは日光の古い町にさまよっていた若い学生のおもかげを頭に描きながら、その日記をだんだん読みつづけてゆくと、八月四日の条に、こういう記事を発見した。

 四日、晴。午前七時起床。散歩。例に依りて挽地物屋《ひきじものや》の六兵衛老人の店先に立つ。早起きの老人はいつもながら仕事に忙がしそう也《なり》。お冬さんは店の前を掃いている。籠の小鳥が騒々《そうぞう》しいほどさえずる。お冬さんの顔色ひどく悪し、なんだか可哀そう也――。

 六兵衛老人のことも、お冬という女のことも、前にはちっとも書いてないので、わたしも一時は判断に苦しんだが、その後の記事を読んでゆくうちに、お冬さんというのは老人のひとり娘で、ちょっと目をひく若い女であることが想像された。森君は毎日この店へ遊びに行って、親子と懇意になっていたらしい。

 五日、晴。涼し。――お冬さんは別に身体が悪いのでもないよう也。ほかに何か苦労があるらしく思わる。予の隣りの大きい旅館に滞在せる二十六、七の青年紳士も、朝夕にたびたびここの店に立寄って、お冬さんに親しく冗談などいう。お冬さんの顔色の悪きは、あるいは彼になにかの関係があるのではないかとも疑わる。――午後六時ごろ再び散歩。六兵衛老人の店先に腰をかけていると、かの青年紳士は小せんという町の芸妓を連れて威張って通る。お冬さんの眼の色いよいよ嶮《けわ》しくなる。これにて一切の秘密判明。紳士は磯貝満彦といいて、東京の某実業家の息子なる由《よし》。――

 森君がこうしてお冬という娘のことを気にかけているのを見ると、その日記にいわゆる「なんだか可哀そう」という程度を通り越しているらしい。森君もおそらく眼を嶮しくして、彼女と青年紳士との行動に注意していたのであろう。しかし六日と七日の日記の上にはお冬さんに関する記事はなんにも見えない。もっともこの二日間は毎日おそろしい雷雨がつづいたので、森君もさすがに外出しなかったのであった。

 八日、晴、驟雨《しゅうう》。午前七時起床。けさはぬぐうがごとき快晴なり。食後散歩。挽地物屋の店にお冬さんの姿みえず、老人もめずらしく仕事を休みて店先にぼんやり坐っている。例のごとく挨拶したれど、老人なんの返事もせず。――午飯《ひるめし》の時に宿の女中の話によれば、お冬さんはきのうの夕方に雷雨を冒《おか》して出《い》でたるまま帰らずとのこと也。情夫《おとこ》でもあるのかと訊けば、お冬さんは町でも評判のおとなしい娘にて、浮いた噂などかつて聞いたこともないという。彼女が無断にて家出の子細は誰にもわからず。なんだか夢のようなり。――夕より俄かにくもりて、驟雨、雷鳴。お冬さんは今頃どうしているにや。夜に入って雨やみたれば、八時ごろ散歩。挽地物屋《ひきじものや》の店にはやはりお冬さんは見えず。老人が団扇《うちわ》づかいの唯さびしげなり。

 九日、晴。虫が知らしたるか、けさは早く醒めると、雨戸をあけに来た女中から思いもつかない話をきく。お冬さんはゆうべの十一時過ぎに、ちらし髪の素足でどこからか帰って来たるよしにて、お山の天狗にさらわれたるならんとの噂なりとぞ。奇妙なこともあるものなり。食後すぐに行ってみると、お冬さんは真っ蒼な顔をして店に坐りいたり。声をかけても返事もせず、六兵衛老人の姿もみえず。さらに見まわせば、老人の道楽にてたくさんに飼いたるいろいろの小鳥の籠はひとつも見えず。お父《とっ》さんはどうしたと重ねて問えば、お冬さんは微かな声で、奥に寝ていますという。鳥籠はどうしたときけば、鳥はみんな放してやりましたという。なにか子細がありそうなれど、この上の詮議もならねばそのままにして別れる。晴れて今日は俄かに暑くなる。――午後再び散歩。大谷《だいや》川のほとりまで行って引っ返して来ると、お冬さんの店にはかの磯貝という紳士が腰をかけて、何か笑いながら話している。お冬さんの顔は鬼女のごとく、幽霊のごとく、たとえん方《かた》もなく物凄し。宿に帰れば宇都宮の田島さんより郵便来たり、今夜からあしたにかけて泊りがけで遊びに来いという。すぐに支度して行く。

 田島さんというのは森君の友人で、宇都宮で新聞記者をしている人であった。森君も九日の午後の汽車で宇都宮に着いて、公園に近い田島さんの家に一泊したことは日記に詳しく書いてあるが、この物語には不必要であるからここに紹介しない。とにかく森君は翌十日も田島さんの家で暮らした。その晩帰るつもりであったところを、無理にひきとめられてもうひと晩泊った。森君が田島さん夫婦に歓待されたことは日記を見てもよく判る。こうして彼は八月十一日を宇都宮で迎えた。彼の日記のおそろしい記事はこの日から始まるのである。

     

 十一日、陰《くもり》。ゆうべは蚊帳《かや》のなかで碁を囲んで夜ふかしをした為に、田島の奥さんに起されたのは午前十時、田島さんは予の寝ているうちに出社したという。きまりが悪いので早々に飛び起きて顔を洗い、あさ飯の御馳走になっているところへ、田島さんはあわただしく帰り来たり、これから日光へ出張しなければならない、丁度いいから一緒に行こうという。田島さんにせき立てられて、奥さんに挨拶もそこそこにして出る。停車場に駈けつけると、汽車はいま出るところなり。二人はころげるようにして漸く乗り込むと、夏の鳥打《とりうち》帽をかぶりたる三十前後の小作りの男がわれわれよりも先に乗っていて、田島さんを見て双方無言で挨拶する。やがて彼は田島さんにむかいて「あなたも御出張ですか。」といえば、田島さんはうなずいて「御同様に忙がしいことが出来ました。」という。それを口切りに、二人のあいだにはいろいろの会話が交換されたり。だんだん聞けば、予の留守のあいだに、日光の町にいたましき事件が突発して、かの磯貝満彦という青年紳士が何者にか惨殺されたるなり。
 兇行は昨夜八時頃より今暁《こんぎょう》四時頃までのあいだに仕遂げられたらしく、磯貝は銘仙《めいせん》の単衣《ひとえもの》の上に絽《ろ》の羽織をかさねて含満《がんまん》ヶ|渕《ふち》のほとりに倒れていたり。両手にて咽喉《のど》を強く絞められたらしく、ほかには何の負傷の痕もなし。また別に抵抗を試みたる形跡もなきは、その薄羽織の少しも破れざるを見ても察せられる。かれは片手にステッキを持っていたれど、それすらも振廻す暇がなかったらしいという。それは新聞社に達したる通信にて、田島さんの話なり。また、鳥打帽の男の話によれば、磯貝の紙入れはふところから掴《つか》み出して、引裂いて大地へ投げ捨ててありしが、在中の百余円はそのままなり。金時計は石に叩きつけて打毀《ぶちこわ》してあり。それらの事実から考えると、どうしても普通の物取りではなく、なにかの意趣《いしゅ》らしいという。この鳥打帽の男は宇都宮の折井という刑事巡査であることを後にて知りたり。
 午後に日光に着けば、判検事の臨検はもう済みて、磯貝の死体はその旅館に運ばれていたり。田島さんと折井君に別れて、予は自分の宿にかえる。宿でもこの噂で大騒ぎなり。こんな騒ぎのあるせいか、今日もまただんだんに暑くなる。午後二時ごろに田島さんが来て、これから折井君と一緒に現場を検分に行くが、君も行ってみないかという。一種の好奇心にそそられて、すぐに表へ出ると、折井君は先に立って行く。田島さんと予はあとについて行く。やがて下河原の橋を渡って含満ヶ渕に着く。たびたび散歩に来たところなれど、ここで昨夜おそろしい殺人の犯罪が行われたかと思うと、ふだんでも凄まじい水の音が今日はいよいよ凄まじく、踏んでいる土は震うように思わる。ここの名物の化《ばけ》地蔵が口を利いてくれたら、ゆうべの秘密もすぐに判ろうものを、石の地蔵尊は冷たく黙っておわします。予は暗い心持になって、おなじく黙って突っ立っていると、折井君は鷹のような眼をして頻りにそこらを眺めまわしている。田島さんもそれと競争するように、眼をはだけてきょろきょろしている。
 やがて田島さんはバットのあき箱を拾うと、折井君は受取って子細らしく嗅《か》いでみる。箱をあけて振ってみる。それからまた三十分ばかりもそこらをうろうろしているうちに、折井君は草のあいだから薄黒い小鳥の死骸を探し出したり。ようように巣立ちをしたばかりの雛にて、なんという鳥か判らず。田島さんは時鳥《ほととぎす》だろうという。折井君は黙って首をかしげている。ともかくもその雛鳥の死骸とバットの箱とを袂に入れて折井君はもう帰ろうと言い出したれば、二人も一緒に引っ返す。その途中、折井君は予にむかいて「あなたは先月からここに御逗留だそうですが、ここらの挽地物屋で、小鳥をたくさんに飼っている家《うち》はありませんか。」と訊く。それはお冬さんの家なり。予は正直に答えると、折井君はまた思案して「そのお冬というのはどんな女です。」と重ねて訊く。予は知っているだけのことを答えたり。
 予はここで白状す。お冬さんがこの事件に関係があろうとは思われず。たとい関係があるとしても、おとなしいお冬さんが大の男を絞め殺そう筈はなし、どのみち直接にはなんの関係もないらしく思われながら、予は妙に気おくれがして、お冬さんが家出のことをこの探偵の前にさらけ出すのを躊躇したり。別に子細はなし、若いお冬さんの秘密を他に洩らすのがなんだか痛々しいような気がしたるためなり。他のことはみな正直に言いたれど、この事だけは暫く秘密を守れり。
 折井君には途中で別れ、田島さんは予の宿に来たりて新聞の原稿を書く。きょうは坐っていても汗が出る。陰りて蒸し暑く、当夏に入りて第一の暑気かも知れず。田島さんは忙がしそうに原稿を書き終りて、夕方の汽車で宇都宮へ帰る。予は停車場まで送って行く。帰りぎわに田島さんは予にささやきて「折井君はお冬という娘に眼をつけているらしい。君も注意して、なにか聞き出したことがあったら直ぐに知らしてくれたまえ。」と言う。なんだか忌な心持にもなったけれど、ともかくも承知して別れる。宿へ帰る途中で再び折井君に逢う。折井君は汗をふきながら大活動の様子なり。しかもその活動を妨げるように、日が暮れると例の雷雨。

 十二日、晴。神経が少し興奮しているせいか、けさは四時頃から眼がさめる。あさ飯の膳の出るのを待ちかねて、早々に食ってしまって散歩に出る。六兵衛老人の姿はけさも店先にあらわれず。お冬さんに訊けば、気分が悪いので奥に寝ているという。お冬さんの顔色もひどく悪し。予は思い切って「警察の人が何か調べに来ましたか。」と訊けば、誰も来ないという。少し安心して宿に帰れば、かの小せんという芸者が店口に腰をかけて帳場にいる女房と何か話している。まんざら知らない顔でもなければ、予も挨拶しながら並んで腰をおろすと、小せんはゆうべいろいろの取調べを受けた話をして、被害者の磯貝は財産家の息子で非常の放蕩者なり、自分は彼の贔屓《ひいき》になっていたれど、兇行の当夜はほかの座敷に出ていて何事も知らざりしという。予はそれとなく探《さぐ》りを入れて、磯貝はお冬さんと何かわけでもあったのかと訊けば、小せんは断じてそんなことはあるまいという。予はいよいよ安心して自分の座敷に戻る。
 午後一時頃に田島さん再び来たる。被害者が資産家の息子だけに、この事件は東京の新聞にも詳しく掲載されてあるとの話なり。現に東京の新聞記者五、六名も田島さんと同じ汽車にて当地に入り込みたる由なれば、田島さんも競争して大いに活動するつもりらしく見ゆ。田島さんは宿で午飯を食いてすぐに出て行く。晴れたれども涼しい風がそよそよと吹く。――夕方に田島さん帰り来たりて、警察側の意見を予に話して聞かせる。兇行の嫌疑者に三種あり。第一は東京より磯貝のあとを追い来たりしものにて、彼の父は実業家とはいえ、金貸を本業として巨万の富を作りたる人物なれば、なにかの遺恨にて復讐の手をその子の上に加えしならんという説。第二は小せんの情夫にて、かれは鹿沼町の某会社の職工なりといえば、一種の嫉妬か、あるいは小せんと共謀して欲得のために磯貝を害せしやも知れずという説。第三はかのお冬の父の六兵衛ならんという説。折井君は頻りに第三の説を主張していれど、これは根拠が最も薄弱なりと田島さんはいう。予も同感なり。
 第二の説もいかがにや。欲心のために磯貝を害せしならば、紙入れや金時計をも奪い去るべき筈なるに、紙入れは引裂きたれど中味は無事なりしという。金時計も打毀《うちこわ》して捨ててあり。これから考えると、これも根拠が薄いようなり。ただし小せんはなんにも知らぬことにて、単に情夫の嫉妬と認むればこの説も相当に有力なるべし。こう煎じつめると、第一の説が最も確実らしいけれど、磯貝親子の人物についてなんにも知らざれば、予にはその当否の判断が付かず。ことに昨今は避暑客の出盛りにて、東京よりこの町に入り込みいる者おびただしければ、いちいち取調べるもなかなか困難なるべしと察せらる。
 夕飯を食ってしまうと、田島さんはまた出て行く。二階の窓から見あげると、大きい山の影は黒くそびえて、空にはもう秋らしい銀河《あまのがわ》が夢のように薄白く流れている。やがて田島さんが忙がわしく帰って来て、折井君はとうとう六兵衛老人を拘引《こういん》したという。予はなんだか腹立たしく感じられて、なにを証拠に拘引したかと鋭くきけば、田島さんも詳しいことは知らず。しかし現場にてきのう拾いたる巻煙草の空き箱に木屑の匂いが残っていたのと、それを振ったときに細かい木屑が少しばかりこぼれ出したとの、この二つにて兇行者が挽地物細工に関係あるものと鑑定したらしいとのこと也。しかし挽地物屋はほかにもたくさんあり。もうひとつの証拠はかの薄黒い雛鳥の死骸なりといえど、これは折井君も秘していわざる由。
 それを聞かされて、予はなんとなく落ちついていられず。田島さんが原稿を書いている間に、宿をぬけ出してお冬さんの家を覗きに行く。夜はもう八時過ぎなり。店先からそっとうかがえば、お冬さんの姿はみえず、声をかけても奥に返事はなし。すこし不安になりて、となりの人に訊けば、お冬さんはたった今どこへか出て行ったという。不安はいよいよ募《つの》りてしばらく考えているうちに、ふと胸に浮かびしことあり。もしやと思いて、すぐに含満ヶ渕の方へ追って行く。

     

 森君の日記にはこれから先のことを非常に詳しく書いてあるが、わたしはその通りをここに紹介するに堪《た》えないから、その眼目だけを掻いつまんで書くことにする。森君はお冬を追って行くと、果して含満ヶ渕で彼女のすがたを見つけた。彼女はここから身でも投げるらしく見えたので、森君はあわてて抱き止めた。お冬は泣いてなんにも言わないのを、無理になだめすかして訊いてみると、彼女の死のうとする子細はこうであった。
 前にもいう通り、六兵衛という老人は小鳥を飼うことが大好きで、商売の傍らに種々の小鳥を飼うのを楽しみにしていた。磯貝は去年もこの町へ避暑に来て、六兵衛の店へもたびたび遊びに来るうちに、ある日小鳥の飼い方の話が出ると、六兵衛は大自慢で、自分が手掛ければどんな鳥でも育たないことはないと言った。その高慢が少し面憎《つらにく》く思われたのか、それとも別に思惑があったのか、磯貝はきっと相違ないかと念を押すと、六兵衛はきっと受合うと強情に答えた。それから五、六日経つと磯貝は一箇の薄黒い卵を持って来て、これを孵《かえ》してくれといった。見馴れない卵であるからその親鳥をきくと、それは慈悲心鳥であることが判った。
 日光山の慈悲心鳥――それを今さら詳しく説明する必要もあるまい。磯貝は途方もない物好きと、富豪の強い贅沢心とからで、その慈悲心鳥を一度飼ってみたいと思い立って、中禅寺にいる者に頼んでいろいろに猟《あさ》らせたが、霊鳥といわれているこの鳥は声をきかせるばかりで形を見せたことはないので、彼は金にあかしてその巣を探させた。そうして、結局それは時鳥《ほととぎす》とおなじように、鶯《うぐいす》の巣で育つということを確かめて、高い値を払ってその卵を手に入れたが、それをどうして育ててよいか見当がつかないので、彼は六兵衛のところへ持って来て頼んだのであった。頼まれて六兵衛もさすがにおどろいた。ほかの鳥ならばなんでも引受けるが、慈悲心鳥の飼い方ばかりは彼にも判らなかった。しかも生れつきの強情と、強い自信力とがひとつになって、彼はとうとうそれを受合った。育ったらば東京へ報らしてくれ、受取りの使いをよこすからと約束して、磯貝は二百円の飼育料を六兵衛にあずけて帰った。
 名山の霊鳥を捕るというのが怖ろしい、更にそれを人間の手に飼うというのは勿体ないと、妻のお鉄と娘のお冬とがしきりに意見したが、六兵衛はどうしても肯《き》かなかった。かれは深い興味をもってその飼い方をいろいろに工夫した。そうして、どうやらこうやら無事に卵を孵《かえ》したが、雛は十日ばかりで斃《たお》れてしまったので、かれの失望よりも妻の恐怖の方が大きかった。お鉄はその後一種の気病《きや》みのように床について、ことしの三月にとうとう死んだ。磯貝から受取った二百円の金は、妻の長煩《ながわず》らいにみな遣ってしまって、六兵衛の身には殆ど一文も付かなかった。しかし慈悲心鳥の斃れたことを彼は東京へ報らせてやらなかった。磯貝の方からも催促はなかった。
 そのうちに今年の夏がめぐってきて、磯貝は再びこの町に来た。かれは六兵衛の不成功を責めた。あわせて今日《こんにち》までなんの通知もしなかった彼の横着をなじって、去年あずけて行った二百円の金をかえせと迫った。その申訳に困って、六兵衛は更に新しい卵を見つけて来ると約束した。かれは三日ほど仕事を休んで、山の奥をそれからそれへと探しあるいたが、霊鳥の巣は見付からなかった。よんどころなしに彼は鶯の巣から時鳥の卵を捕って来て、磯貝の手前を一時つくろっておいたが、その秘密を知っている娘はひどく心配した。さりとて二百円の金を返す目当てはとてもないので、どうなることかと案じているうちに、卵は孵った。六兵衛は、その時鳥の雛を磯貝の旅館へ持って行ってみせると、なんにも知らない彼は非常に喜んだ。六兵衛が帰ったあとで、磯貝はこれを宿の者に自慢らしく見せると、おなじ鶯の巣に育ちながらもそれは慈悲心鳥でないことが証明されたので、彼はまた怒った。八月七日の午後に、磯貝はかの雛鳥の籠をさげて六兵衛の店へ押掛けて行って、再びその横着を責めた。かれは詐欺取財として六兵衛を告訴するといきまいて帰った。
 お冬はもう堪《たま》らなくなった。このままにしておけば父が罪人にならなければならないので、彼女はすぐに磯貝のあとを追っていって、泣いて父の罪を詫びると、磯貝は少し相談があるから一緒に来いといって、無理に彼女を中禅寺の宿屋へ連れて行った。そうして、父の罪を救うのも救わないのもお前の料簡次第であると迫られた。その晩は山も崩れそうな大雷雨であった。お冬はそのあくる日も帰ることを許されなかった。夜になって磯貝が酔い倒れた隙をみて、彼女ははだしで宿屋をぬけ出して、暗い山路を半分夢中で駈け降りて帰った。可愛い娘がこれほどに凌辱《りょうじょく》されたことを知って、六兵衛は燃えるような息をついて磯貝を呪った。かれは仕事を投げ出してしまって、傷ついた野獣のように奥のひと間に唸りながら横になっていた。たましいも肉も無残にしいたげられたお冬は、幽霊のようになって空《むな》しく生きていた。
 抑えられない憤怒《ふんぬ》と悔恨とに身をもがいて、六兵衛は自分の店に飼ってある小鳥をみな放してしまった。しかしこの事件の種である時鳥の雛だけは、どういう料簡かそのままに捨てて置いた。九日の午後に磯貝が中禅寺から帰って来て、もうこうなった以上はいっそ自分の妾になれとお冬に再び迫ったが、彼女はどうしても承知しなかった。それをきいて六兵衛のはらわたはいよいよ憤怒に焼けただれた。その翌晩の八時ごろに、磯貝が散歩に出て挽地物屋の前を通ると、六兵衛は籠のなかから時鳥の雛をつかみ出して、すぐに彼のあとを追って行った。そうして、二時間ほどの後に帰って来た。磯貝が冷たい死骸となって含満ヶ渕のほとりに発見されたのは、そのあくる朝であった。
「八日の晩にわたくしがいっそ中禅寺の湖水に飛び込んでしまえばよかったんです。なんだかむやみに家が恋しくなって、町まで帰って来たのが悪かったんです。」
 お冬は泣いて悔《くや》んだ。彼女は自分の父が殺人の大きい罪を犯したのを悲しむと同時に、磯貝にしいたげられた自分のぬぐうべからざる汚辱《おじょく》を狭い町じゅうにさらすのを恐れた。彼女は父が今夜はいよいよ拘引されたのをみて、自分も決心した。磯貝の死に場所であった怖ろしい含満ヶ渕を、彼女も自分の死に場所と決めたのであった。
 森君は無論お冬に同情した。身悶《みもだ》えして泣き狂っている彼女を慰めていたわって、再び挽地物屋の店へ連れて帰った。しかしお冬の家は親ひとり子ひとりで、その親は拘引されている。そのあき巣に娘ひとりを残して置いては、なんどきまた何事を仕出かすかも知れないという不安があるので、森君はお冬を自分の宿屋へ連れて帰って、主人にあらましの訳を話して、当分はここに置いてもらうことにした。
 八月十二日の日記はこれで終っている。田島はその翌あさ帰った。それから十九日まで一週間の日記は甚だ簡単で、しかもところどころ抹殺してあるので殆ど要領を得ない。しかしお冬がその日まで森君の宿屋に一緒に泊っていたことは事実である。森君はあまり綿密に日記をつけている暇がなかったらしい。八月二十日以後の日記にはこういう記事が見えた。

 二十日、晴。けさは俄かに秋風立つ。午後一時ごろに六兵衛老人は宇都宮から突然に帰って来る。おどろいてきけば、殺人の嫌疑は晴れたる由。老人はその以外には口をつぐんでなんにも言わず。お冬さんは嬉し涙をこぼして自分の家へ帰る。予も一緒に行く。近所の人たちも見舞に来る。めでたきこと限りなし。――夜七時頃にお冬さんがたずねて来て、二時間ほど語りて帰る。夜はもう薄ら寒きほどなり。当分当地に滞在する由をしたためて、東京の兄や友人らに郵書を送る。兄からは叱言《こごと》が来るかも知れねど是非なし。

 二十一、二十二の二日間の日記には別に目立った記事もない。ただ森君がお冬さんと親しく往来していた事実を伝えているのみである。二十三日には折井探偵が再びこの町に姿をあらわしたと書いてある。芸妓の小せんは再び拘引された。それは磯貝から預かっていた金をそのまま着服したことが露見した為である。二十四日は無事。

 二十五日、陰。微雨。――宇都宮から田島さん来たる。磯貝殺しの犯人は、鹿沼町の某会社の職工にて、昨夜再び日光の町へ入り込みしところを折井刑事に捕縛されたりという。その職工は小せんの情夫にはあらず、情夫の朋輩《ほうばい》にて小牧なにがしという者なり。田島さんの報告によれば、小牧は東京にて相当の生活を営《いとな》みいたりしが、磯貝の父のために財産を差押えられ、妻子にわかれて流転《るてん》の末に、鹿沼の町にて職工となりたる也。兇行の当夜は小せんの情夫と共に日光に来たり、ある料理店にて小せんと三人で遊んでいるうちに、小せんは二階から往来をみおろして、あれは東京の磯貝という客だと教えしより、泥酔していた小牧は、むかしの恨みを思い出してむらむらと殺意を生じ、納涼《すずみ》に行く振りをして表へ飛び出し、彼のあとをつけて含満ヶ渕まで行くと、磯貝は誰やらとしきりに言い争っている様子なり。それがいよいよ彼の反感を挑発して、突然に飛びかかって磯貝の咽喉を絞めつけ、そこへ突き倒して逃げ帰りしなりという。
 磯貝の言い争っていた男は即ち六兵衛老人なり。老人も磯貝のあとを追っ掛けて、無理無体に含満ヶ渕の寂しいところまで連れて行き、娘を凌辱したる罪を激しく責め、その償いに貴様の命をわたすか、但しはこの時鳥を慈悲心鳥として更に三千円の飼養料を払うかと、腕まくりの凄まじい権幕に談判し、磯貝がこれだけで勘弁してくれと百円ほど入れたる紙入れを突き出したるに、彼は怒ってずたずたに引裂いて捨て、磯貝が更に金時計を差し出したるに、これも石に叩きつけて打毀し、どうでも三千円を渡せと罵るところへ、かの小牧が突然に飛び込みて一言の問答にも及ばず、すぐに磯貝を絞め殺してしまいたり。これには六兵衛も呆気《あっけ》にとられて少しぼんやりと突っ立っていたるが、自分の眼のまえに倒れている磯貝の死骸をみると、彼は俄かに言い知れぬ恐怖におそわれ、掴んでいたる雛鳥を投げ捨てて、これも早々に逃げ帰りしなり。これらの事情判明して六兵衛はゆるされ、小牧は捕わる。まことに不思議の出来事だと田島さんはいう。
 真の犯人が逮捕されるまでは、この事件に関する新聞の記事を差止められていたが、あしたからは差止め解禁となって何でも自由にかけると田島さんは大得意なり。記事差止めが解除となれば、あしたからは各新聞紙上にこの事件の真相が詳しく発表せらるるならん。犯人の小牧はもちろん、被害者の磯貝のことも、嫌疑者の六兵衛老人のことも……お冬さんのことも……。田島さんは今夜一泊。

 二十六日、雨。けさの新聞を待ちかねて手に取れば、宇都宮の新聞は一|斉《せい》に筆をそろえて今度の事件を詳細に報道したり。八時頃お冬さんをたずねると、まだなんにも知らない様子なり。言って聞かせるのもあまりに痛々しければ黙っている。田島さんはいろいろの材料をあつめて昼頃に引揚げて行く。雨はびしょびしょと降りしきりて昼でも薄ら寒い日なり。月末に近づきて各旅館の滞在客もおいおいに減ってゆく。いつもながら避暑地の初秋は侘《わび》しきもの也。午後四時ごろに再びお冬さんを訪ねんとて、二階の階子《はしご》を降りて行くと、たった今お冬さんがこの手紙をほうり込んで行ったとて、女中が半紙を細かく畳んだのを渡してくれる。急いで明けてみると、――もうあなたにはお目にかかりません――。

 森君の日記には、その後お冬さんについては何も書いていない。いや、書いたらしいが、みな抹殺してあるのでちっとも解らない。しかしお冬さんも六兵衛老人も決して無事ではなかったことは、、九月二日の記事を見ても知られた。

 九月二日。きょうは二百十日の由にて朝より暴《あ》れ模様なり。もう思い切って宿を発つことにする。発つ前に○○寺に参詣して、親子の新しい墓を拝む。時どきに大粒の雨がふり出して、強い風は卒塔婆《そとば》を吹き飛ばしそうにゆする。その風の絶え間にこおろぎの声きれぎれにきこゆ。――午前十時何分の上りの汽車に乗る――。

 森君が今日《こんにち》まで独身である理由もこれで大抵想像された。森君を乗せた汽車は今ごろ宇都宮に着いたかも知れない。森君の胸には旧《ふる》い疵が痛み出したかも知れない。わたしは日記の上から陰った眼をそむけた。
 今夜の雨はまだやまない。

底本:「蜘蛛の夢」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年4月20日初版1刷発行
初出:「慈悲心鳥」国文堂
   1920(大正9)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:花田泰治郎
2006年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

心中浪華の春雨—– 岡本綺堂

     

 寛延《かんえん》二|己巳年《つちのとみどし》の二月から三月にかけて、大坂は千日前《せんにちまえ》に二つの首が獄門に梟《か》けられた。ひとつは九郎右衛門という図太い男の首、他のひとつはお八重という美しい女の首で、先に処刑《しおき》を受けた男は赤格子《あかごうし》という異名《いみょう》を取った海賊であった。女は北の新地のかしく[#「かしく」に傍点]といった全盛の遊女で、ある蔵《くら》屋敷の客に引かされて天満の老松辺に住んでいたが、酒乱の癖が身に禍いして、兄の吉兵衛に手傷を負わせた為に、大坂じゅう引廻《ひきまわ》しの上に獄門の処刑を受けたのであった。
 これが大坂じゅうの噂に立って、豊竹座の人形芝居では直ぐに浄瑠璃に仕組もうとした。作者の並木宗輔《なみきそうすけ》や浅田一鳥《あさだいっちょう》がひたいをあつめてその趣向を練っていると、ここに又ひとつの新しい材料がふえた。大宝寺町の大工庄蔵の弟子で六三郎《ろくさぶろう》という今年十九の若者が、南の新屋敷《しんやしき》福島屋の遊女お園《その》と、三月十九日の夜に西横堀で心中を遂げたのである。しかもその六三郎は千日寺に梟《さら》されている首のひとつにゆかりのある者であった。
 芝居の方ではよい材料が続々湧いて出るのを喜んだに相違ないが、その材料に掻き集められた人びとの中で、最も若い六三郎が最も哀れであった。

 六三郎は九郎右衛門の子であった。
 九郎右衛門の素姓《すじょう》はよく判っていない。なんでも長町《ながまち》辺で小さい商いをしていたらしいが、太い胆《きも》をもって生まれた彼は小さい商人《あきんど》に不適当であった。彼は細かい十露盤《そろばん》の珠《たま》をせせっているのをもどかしく思って、堂島《どうじま》の米あきないに濡れ手で粟の大博奕《おおばくち》を試みると、その目算はがらり[#「がらり」に傍点]と狂って、小さい身代の有りたけを投げ出してもまだ足りないような破滅に陥った。もう夜逃げよりほかはない。彼は女房と一人の伜とを置き去りにして、どこへか姿を隠してしまった。
 ほかには頼む親類や友達もなかったので、取り残された女房は伜の六三郎を連れて裏家《うらや》住みの果敢《はか》ない身となった。九郎右衛門のゆくえは遂に知れなかった。さなきだにふだんからかよわいからだの女房は苦労の重荷に圧《お》しつぶされて、その明くる年の春に気病《きや》みのようなふうで脆《もろ》く死んでしまった。
 六三郎はまだ十歳《とお》の子供でどうする方角も立たなかった。近所の人たちの情けで母の葬いだけはともかくも済ましたが、これから先どうしていいのか、途方に暮れて唯おろおろ[#「おろおろ」に傍点]と泣いているのを、大工の庄蔵《しょうぞう》が不憫《ふびん》に思って、大宝寺町の自分の家《うち》へ引き取ってくれた。孤児《みなしご》六三郎はこうして大工の丁稚《でっち》になった。
 父に捨てられ、母をうしなった六三郎は、親方のほかには大坂じゅうにたよる人もなかった。庄蔵はおとこ気のある男で、よく六三郎の面倒を見てくれた。ちっとぐらい虐待されても他に行きどころのない孤児が、こうしたいい親方を取り当てたのは、彼に取ってこの上もない仕合せであったことはいうまでもない。六三郎もありがたいことに思って親方大事に奉公していた。
 六三郎はどの点に於いても父の血を引いていなかった。彼は母によく似た優しい眉や眼をもって生まれた。母によく似たすなおな弱々しい心をもって生まれた。気のあらい大工の渡世《とせい》には少しおとなし過ぎるとも思われたが、その弱々しいのがいよいよ親方夫婦の不憫を増して、兄弟子《あにでし》にも朋輩《ほうばい》にも憎まれずに、肩揚げの取れるまで無事に勤めていた。腕はにぶくもなかった。普通の丁稚とは違うものの、十年の年季をとどこおりなく済ましたら、裏家住みにしろ世帯を持たしてやると親方も親切にいってくれた。六三郎は小作りの子供らしい男なので、十八の春に初めて前髪を剃った。
 いくらおとなしい男でももう十八である。前髪を落したからは大人の仲間入りをしろと、兄弟子や友達にすすめられて、六三郎はその年の夏に初めて新屋敷の福島屋へ足を踏み込んだ。相方《あいかた》の遊女はお園《その》といって、六三郎よりも三つの年かさであった。十六の歳から色里《いろざと》の人となって今が勤め盛りのお園の眼には、初心《うぶ》で素直で年下の六三郎が可愛く見えた。親方夫婦のほかには懐かしい人はないように思い込んでいた六三郎も、この夜からさらに懐かしい人を新たに発見した。正直な男も恋には大胆になって、その後も親方や兄弟子たちの眼を忍んで新屋敷へ折りおりに姿を見せた。
 二人がどっちも若い同士であったら、すぐに無我夢中にのぼり詰めて我れから破滅を急ぐのであろうが、幸いに女は男よりも年上であった。色里の面白いことも苦しいことも知りつくしていた。まだ丁稚あがりの男の身分から考えても、五度逢うところは三度逢い、二度を一度にするのが二人の為であるということも知っていた。彼女《かれ》は小春治兵衛《こはるじへえ》や梅川忠兵衛《うめがわちゅうべえ》の悲しい末路をも知っていた。
「お前とわたしの名を浄瑠璃に唄われとうはない。わたしが二十五の年明《ねんあ》けまでは、おたがいに辛抱が大事でござんすぞ」
 お園はいつも弟のような六三郎に意見していた。二人の間にもう行く末の約束が固く取り結ばれていたのであった。しかし艶《はで》な浮名を好まない質《たち》であるのと、もうひとつには自分よりも年下の、しかも大工の丁稚あがりを情夫《おとこ》にしているということが勤めする身の見得《みえ》にもならないので、お園は自分がいよいよ自由の身になるまでは、なるべく六三郎との仲をひとには洩らしたくないと思っていた。そんな噂を立てられては男の為にもならないと案じた。若い男があせって通って来るのを、女はかえって堰《せ》き止めるようにしていた。年下の男をもった為に、お園はいろいろの気苦労が多かった。遊びの諸払いも自分がいつも半分ずつ立て替えていた。
 こういうじみな、隠れた恋を楽しんでいただけに、二人の仲はなんの破綻《はたん》を現わさずに続いていった。親方も薄うすは悟っていたものの、二人の恋がそれほどまでに根強くかたまっていようとはさすがに思いも付かなかったので、若い者の廓《くるわ》通い、ちっと位は大目に見て置いてやれと、別に小言らしいことも言わなかった。
 寛延二年には六三郎が十九になった。お園は二十二の春を迎えた。
 親方の家の裏には広い空地《あきち》があった。ここを仕事場としているので、空地の隅には材木を積んで置く木納屋《きなや》があった。納屋の角には六三郎が来ない昔から一本の桜が植えてあって、今はかなりの大木になっていた。六三郎はこの桜の下で鉋《かんな》や鋸《のこ》をつかって、春が来るごとに花の白い梢を仰ぐのであった。今年もその梢がやがて白くなろうとする二月のなかば、陰《くも》って暖かい日の夕暮れであった。六三郎は或る出入り場の仕事から帰って来て、それから近所の風呂屋へ行った。濡《ぬ》れた手拭をさげて風呂屋の門《かど》を出るころには、細かい雨がひたいにはらはら[#「はらはら」に傍点]と落ちて来た。
「もし、もし」
 うす暗い路ばたから声をかけられて、六三郎は立ち止まった。呼びかけた人は旅ごしらえをして、深い笠に顔をつつんでいた。
「お前は大工の六三郎さんではござりませぬか」
「はい。わたしは六三郎でござります」
 旅びとはあたりをちょっと見返ったが、やがてずっ[#「ずっ」に傍点]と寄って六三郎の手をとった。驚いて振り放そうとしたが、彼は掴《つか》んだその手をゆるめなかった。
「六三《ろくさ》。よく達者でいてくれた。おれは親父《おやじ》の九郎右衛門だ」
 足掛け十年振りで父に突然めぐり合った六三郎は、嬉しさと懐かしさに暫くは口も利けなかった。彼は父の手にすがってただ泣いていた。
 父はどこで聞いたか、我が子が大宝寺町の庄蔵親方の世話になっていることをもう知っていた。そうして、おれは当時|西国《さいこく》の博多に店を持って、唐人《とうじん》あきないを手広くしている。一年には何千両という儲《もう》けがある。それでお前を迎いに来た。大工の丁稚奉公などしていても多寡が知れている。おれと一緒に西国へ来て大商人《おおあきんど》の跡取りになれと囁《ささや》いて聞かせた。
 六三郎は夢のようであった。行くえの知れなかった父が突然に帰って来て、大商人の跡取りにするから一緒に来いという。なんだか嘘らしいような話でもあったが、正直な六三郎は父を疑わなかった。しかし親方に無断でこれから直ぐに行くのは困ると言った。親方に逢ってこれまでの礼を述べて、穏やかに暇を貰ってくれと父に頼んだ。
 九郎右衛門はなぜか渋っていたが、結局わが子の言い条を通して、親方のところへ暇を貰う掛合いに行くことになった。いよいよ博多へ行くと決まったら、お園のことも父に打ち明けようと思っていたが、六三郎はまだそれを言い出す暇がなかった。雨はしとしと[#「しとしと」に傍点]降って来たので、父子《おやこ》は濡れながらに路を急いだ。父子のうしろに黒い影が付きまとっていることを、二人ともに知らなかった。
 黒い影は町方《まちかた》の捕手《とりて》であった。父子が大宝寺町まで行き着かないうちに、捕手は二人を取り巻いた。九郎右衛門は素早くくぐりぬけて逃げ去ったが、あっけに取られてうろうろ[#「うろうろ」に傍点]していた六三郎はすぐに両腕を掴まれた。
 四つの木戸は閉められた。非常を報《しら》せる太鼓はとうとう[#「とうとう」に傍点]と鳴った。出口、出口を塞がれて九郎右衛門は逃げ場に迷った。ひとつ所を行きつ戻りつして暫くは捕手の眼を逃れていたが、その夜の戌《いぬ》の刻《こく》(午後八時)頃にとうとう縄にかかった。
 唐人あきないというけれども、彼は長崎辺の商人のように陸上で公然と取引きをするのではなかった。彼は抜荷《ぬけに》買いというもので、夜陰《やいん》に船を沖へ乗り出して外国船と密貿易をするのであった。密貿易は厳禁で、この時代には海賊と呼ばれていた。彼は故郷の大坂を立ち退《の》いて、中国西国をさまよううちに、大胆な彼は自分に適当な新しい職業を見いだして、かの抜荷買いの群れにはいった。それが運よく成功して、表向きは博多の町に唐物《とうぶつ》あきないの店を開いているが、その実は長崎奉行の眼をくぐって、いわゆる海賊を本業としていたのである。
 こうして十年を送るうちに、彼もさすがに故郷が恋しくなった。彼ももう四十を越して、鏡にむかって小鬢《こびん》の白い糸を見いだした時に、故郷に捨てて来た女房や伜がそぞろに懐かしくなった。余り懐かしさに堪えかねて、彼はそっと大坂へのぼって来た。その留守の間に、ふとした事から秘密が破れて、彼の仲間の一人が召捕られた。長崎の奉行所からは早飛脚《はやびきゃく》に絵姿を持たして、彼の召捕り方を大坂の奉行所へ依頼して来た。
 そんなことを夢にも知らない彼は、自分から網の中にはいって来た。自分が昔住んでいた長町辺を尋ね歩いて、それとなく女房や子供の身の上を聞き合わせると、女房はとうに死んでいた。伜は大工の丁稚《でっち》になって大宝寺町にいることが知れた。彼も今更のように昔を悔《くや》んだがもう取り返しの付くことではない、せめては伜だけを連れ帰って父子いっしょに暮らそうと、大宝寺町の近所をさまよっているうちに、彼は遂に待ち網にかかってしまった。
「十年振りで我が子の顔を見ましたれば、思い置くこともござりませぬ。しかし又なまじいにめぐりあった為に、なんにも知らぬ我が子に連坐《まきぞえ》の咎めが掛かろうかと思うと、それが悲しゅうござります」と、九郎右衛門は白洲《しらす》で涙を流した。
 奉行にも涙があった。六三郎はふだんから正直の聞えのある者、殊に父子とはいいながら十年も音信不通で、父の罪咎《つみとが》に就いてなんの係り合いもないことは判り切っている。また一方には親方の庄蔵から町名主《まちなぬし》にその事情を訴えて、六三郎の赦免をしきりに嘆願したので、結局六三郎はお構いなしということで免《ゆる》された。
「飛んだ災難であったが、まあ仕方がない。悪い親を持ったが因果と諦めろ」と、親方は慰めるように言った。
 この噂を聞いて、お園も定めて案じているだろうとは思ったが、この場合どうしても謹慎していなければならない六三郎は、親方の手前、世間の手前、迂闊《うかつ》に外出することもできないので、じっと堪《こら》えておとなしく日を送っていた。
 九郎右衛門は胆《きも》の据わった男だけに、今更なんの未練もなしに自分の罪科《ざいか》をいさぎよく白状したので、吟味にちっとも手数が掛からなかった。彼は大坂じゅうを引廻しの上で、千日寺の前に首を梟《さら》された。
 なまじいに親にめぐり合ったのが六三郎の不幸であった。大方はこうなることと覚悟はしていたものの、父の罪がいよいよ獄門と決まったのを知った時は、彼は怖ろしいのと悲しいのとで、実に生きている空はなかった。今日が死罪という日には、彼は飯もくわずに泣いていた。親方もただ「諦めろ、あきらめろ」というよりほかに慰めることばもなかった。
 兄弟子たちも六三郎には同情していた。近所の人たちも彼を気の毒に思っていた。しかし世間はむごいもので、気の毒とか可哀そうとかいう口の下から、大工の六三郎は引廻しの子だとか、海賊の子だとかいって、暗《あん》に彼を卑しむような蔭口をきく者も多かった。実際、海賊の子ということが彼の名誉ではなかった。気の弱い六三郎は父の悲惨な死を悲しむと同時に、自分の身に圧《お》しかかって来る世間のむごい迫害を恐れた。自分ばかりではない、大恩のある親方の顔にまでも泥を塗ったのを、彼はひどく申し訳のないことに思って嘆いた。
「そんなことをいつまでもくよくよするな、人の噂も七十五日で、そのうちには自然と消えてしまうに決まっている。ちっとの間の辛抱じゃ。ひとが何を言おうとも気にかけるな」
 親方はこう言って、いつも六三郎を励ましていた。六三郎は涙を流してありがたく聴《き》いていた。その弱々しい泣き顔を見ると、親方もいじらしくってならなかった。いくら屈託しても今更仕方がない、ちっと酒でも飲んで見ろなどともいった。
 父の首が梟《さら》されてから十三日目の晩に、六三郎は手拭に顔を包んでそっと福島屋へ訪ねて行った。今の身の上で晴れがましい遊興はできない。彼はお園を格子口まで呼び出して、そのやつれた蒼白い顔を見せた。このあいだから男の身を案じ暮らしていたお園は、薄暗い軒行燈《のきあんどう》の下にしょんぼりと立っている六三郎の寂しい影を見た時に、涙がまず突っ掛けるようにこぼれて来た。
「大坂じゅうに隠れのない噂、わたしは残らず聞きました。それでもお前の身に何の祟《たた》りもなかったのが、せめてもの仕合せというもの。そうして、親方の首尾はどうでござんすえ」
「いつもいう通り、親方は親切な人。いよいよ私《わし》をいとしがってくれる。それにちっとも苦労はない」
 そう言いながらも、しおれ切っている男の顔が、半月前とは別の人のように痩せ衰えているのを見るにつけても、その悼《いた》ましい苦労が思いやられて、お園の涙は止めどなしに流れた。

     

 親方は親切な人で、自分にもいろいろと力をつけてくれる。親のことはもう諦めるよりほかはない。
 こう思えば差し当って六三郎の身の上に何のわずらいもないのであるが、彼の最も恐れているのは広い世間の口と眼とであった。むごい口で海賊の子と罵られ、冷たい眼で引廻しの子と睨まれる。それでは世間に顔出しができない。出入り場へも仕事に行かれない。
「それを思うと、俺はもう生きている気はない」と、六三郎は意気地がないように泣き出した。
 男の気の弱いのはお園もかねて知っているので、こうして意気地なく泣いているのが、彼女にはいよいよいじらしく憐れに思われた。お園は子供をすかすように男をなだめて、たとい世間で何と言おうとも、誰がうしろ指を差そうとも、お前には頼もしい親方もついている、わたしというものもある。決して心細く思うには及ばない。ことし十九の男が泣いてばかりいるものではない。もっと心を強くもって男らしくしなければならないと、噛んでふくめるように言って聞かせた。六三郎はすなおに、ただあいあい[#「あいあい」に傍点]と聴いていた。
 二人はそれなりで別れた、呼び上げたいのは山々であったが、お園は家の首尾を気づかって、当分はおとなしく辛抱している方がいいと、くれぐれも言い含めて帰した。
 それからまた半月も経った。親方の家の桜は春を忘れずに白く咲き出した。六三郎もこのごろは空地の仕事場へ出て、この桜の下で板割れなどを削っていた。親方も当分は六三郎を外の仕事へは出すまいと思っていた。しかし日が経つにしたがって、悪い噂はかえって拡がるらしく、直接に自分の耳にはいることや、ほかの弟子たちが世間から聞いて来るいろいろの噂や、どれもこれもみんな六三郎には不利益なことばかりであった。ある出入り場では今後六三郎を仕事によこしてくれるなと言った。ある職人は六三郎とは一緒に仕事をしないと言った。海賊の子に対する世間の憎悪と迫害とが案外に力強いのに親方も驚かされた。
「可哀そうに、六三郎に罪はない」
 親方がいかに六三郎を庇《かば》っても、彼の手ひとつで世間という大きい敵を支えることはできなかった。親方もしまいには考えた。こんなことでは六三郎はいつまでも日蔭者で、晴れて世間を渡ることもできまい。いっそ世間から忘れられるように当分は他国へやった方がいいかとも思った。
「お前も科人《とがにん》の子と指さされてはこの大坂にも住みづらかろう。おれが添え手紙をして江戸の親方衆に頼んでやるから、ほとぼりの冷《さ》めるまで二年か三年か、江戸へ行って修業して来い」
 と、親方は言った。
 六三郎は素直に承知した。兄弟子たちもそれがよかろうと勧めた。
 今の六三郎としては、当分この土地を立ち退くというのが最も利口な方法であったに相違ない。六三郎もそう思った。しかしそれを断行するには、彼に取って辛い悲しいことが二つあった。第一はお園に別れることで、その理由はいうまでもない。第二はこの土地を去ることである。大坂に生まれて大坂以外に一度も足を踏み出したことのない六三郎は、自分を呪う大坂の土がやっぱり懐かしかった。見も知らない他国へひとり身で飛び込んで行くのが何だか恐ろしかった。海賊の子と指さされて大坂に住むのも辛いが、他国者と侮られて江戸に住むのも苦しかろうと、それが彼の小さい胆《きも》をおびえさせた。
 六三郎は三月十五日の晩に福島屋へ行った。彼はお園に逢って、江戸へ行かなければならなくなった訳を沈んだ声で物語った。お園も一度は驚いたが、親方の意見も無理はないと思った。なるほど当分は気を抜くためにこの土地を立ち退くのが六三郎の身の為でもあろうと考えた。
 他国の奉公は辛くもあろうが、そこが辛抱である。石に喰い付いても我慢しなければ男一匹とはいわれまい。お前が帰って来る頃には、わたしの年季も丁度明ける。そうしたら、どんな狭い裏家《うらや》住みでも二人が世帯を持って、かねての約束通りに末長く一緒に添い遂げられる。それを楽しみに二人は当分分かれ分かれになって、西と東で暮らすことにしよう。二年三年はおろか、たとい五年が十年でもわたしはきっと待っている。わたしの心に変りはない。お前も江戸の若い女子《おなご》に馴染などを拵《こさ》えて、わたしという者のあることを忘れてくれるな。親方の所へたよりをする伝手《つで》があったら、わたしの方へもたよりを聞かしてくれ。いよいよ発つという時には、もう一度逢いに来てくれと、お園は細々《こまごま》と言い聞かせて、その晩も格子の先で男と別れた。
 六三郎ももう決心した。一旦は懐かしい大坂の土にも離れ、恋しいお園にも別れて、西も東も知らない他国へ行って、当分は苦しい辛抱をするよりほかはないと心細くも覚悟した。
「では、親方さん。いよいよ江戸へ行くことにいたします」
「それがいい。なに、多寡が二年か三年の辛抱じゃ。いい時分には俺の方から呼び戻してやる。せいぜい腕を磨いて、大坂者を驚かすような立派な職人になって帰って来い。人間は腕次第じゃ。お前がいい腕をもっていれば、今までお前を悪う言った者も、向うから頭をさげて頼んで来るようにもなる」
 親方は江戸の或る棟梁に宛てた手紙を書いてくれて、これを持って行けばきっと面倒を見てくれると言った。初旅であるから気をつけろと、道中の心得などもいろいろ言い聞かしてくれた。旅の支度もしてくれた、路用もくれた。兄弟子たちも思い思いに餞別《せんべつ》をくれた。みんなの親切が身にしみて嬉しいに付けても、六三郎はこの親切な人びとに別れて、他国の他人の中へ踏み出すのがいよいよ辛かった。彼は人の見ない所で時どき涙をふいた。
 二十日《はつか》は日がいいというので、いよいよその朝に草鞋《わらじ》を穿くことになった。その前の日に六三郎は母の寺詣りに行きたいと言った。
「よく気がついた。当分お詣りもできまいから、おふくろの墓へ行って、よくその訳をいって拝んで来るがいい」と、親方は幾らかの布施《ふせ》を包んでくれた。
 六三郎はありがたくその布施をいただいて、午《ひる》すぎから親方の家を出た。今日もどんよりと陰った日で、裏の空地の桜は風もないのにもう散りそめていた。
 寺は六三郎が昔住んだ長町《ながまち》裏にあった。親方の家へ引き取られてからも六三郎は参詣を欠かしたことがないので、住職にも奇特《きどく》に思われていた。住職も今度の一条を知っているので、六三郎の不運を気の毒がって親切に慰めてくれた。江戸へ行くというのを聞いて、成る程それもよかろう、たとい幾年留守にしても阿母《おっか》さんの墓を無縁にするようなことは決してしない、安心して行くがよいと、これも江戸の知りびとに添え手紙などを書いてくれた。
 暇《いとま》乞いをして寺を出るころには雨が降って来た。六三郎は雨の中を千日寺へも行った。父の死首《しにくび》はもう梟《さら》されていないでも、せめて墓詣りだけでもして行きたいと思ったのである。死罪になった者の死体は投げ込み同様で、もとより墓標なども見えなかったが、それでも[#「それでも」は底本では「それても」]寺僧の情けで新しい卒塔婆《そとば》が一本立っていた。
 十年振りでめぐり合った父が直ぐにここの土になろうとは、まるで一※[#「日+向」、第3水準1-85-25]《いっとき》の夢としか思われなかった。しかもその夢はおそろしい夢であった。卵塔場《らんとうば》には春の草が青かった。細かい雨が音もなしに卒塔婆をぬらしていた。父に逢った夕暮れにもこんな雨にぬれたことを思い出して、顔のしずくを払う六三郎の指先には涙のしずくも流れた。
 死んだ父母に暇乞いは済んだ。今度は生きた人に暇乞いをしなければならない。日が暮れて六三郎はさらに新屋敷へ行った。
「よう来て下さんした」
 お園は六三郎を揚屋《あげや》へ連れて行った。今夜は当分の別れである。格子の立ち話では済まされなかった。二人が薄暗い燭台の前に坐った時に、雨の音はまだやまなかった。お園はどう工面《くめん》したか二両の金を餞別にくれた。それから自分が縫ったといって肌着をくれた。
 もう決心はしたものの、六三郎はやっぱりお園に別れるのが辛かった。呪われた土地がやっぱり懐かしかった。お園と行く末の話をしている間も、何に付けても涙ぐまれた。
「このあいだも言った通り、お前も男、必ず弱々しい気をもって下さるな。女でも生まれ故郷を離れて、遠い長崎や奥州の果てへ行く者も沢山《たくさん》ある。この廓《くるわ》にいる人でも大坂生まれは数えるほどで、近くても京《きょう》丹波《たんば》、遠くは四国西国から売られて来て、知らぬ他国で辛い勤め奉公しているのもある。それを思えば男の身で、多寡《たか》が二年か三年の辛抱がならぬということがあるものか」
 お園は同じことを繰り返して力を付けた。
「それはわしも知っている。親方にもいわれ、兄弟子たちにもいわれ、お前にも意見され、どうでも江戸へ行くことに覚悟は決めている。どんな辛い辛抱もして、立派な職人になって戻って来るほどに、どうぞそれまで待っていてくれ」
 口だけは男らしく言っても、それを裏切る涙は六三郎の眼に浮いていた。
 歯がゆいように弱々しい男がお園にはやっぱり可愛かった。可愛いというよりも、いじらしく憐れでならなかった。うるさい世間の口を避けるために、江戸へ修業に行くのも確かにいい。そうして、他人の中で揉《も》まれて来れば、人間も少しは強くなるに相違ない、腕もあがるに相違ない。一時《いっとき》は辛くとも当人の末の為になる。そう思って自分もしきりに勧めているのではあるが、また考えて見ると、人にもよれ六三郎はこうした稼業《かぎょう》に不似合いな、ふだんから身体もかよわい方である。気の弱いのも幾らかその弱いからだに伴っている。それが西も東も知らない他国に出て、右も左も他人の中へ投げ込まれたらどうであろう。
「鳥でさえも旅鴉《たびがらす》はいじめられる」
 お園はそんなことも悲しく思いやられた。自分も初めてこの廓《さと》へ身を沈めた当座は、意地の悪い朋輩にいじめられて、蔭で泣いたこともたびたびあった。いっそ死んでしまいたいように思ったこともあった。からだの弱い、気の弱い六三郎は、きっと自分と同じような悲しい口惜しい経験を繰り返すに相違ない。江戸の職人は気があらいと聞いている。その中に立ちまじって毎日叱られたり小突かれたり、散々《さんざん》ひどい目に会わされた上に、万一病み煩《わずら》いになった暁にも、まわりが他人ばかりでは碌に看病してくれる者もあるまい。
 こう思うと、自分の前にしょんぼりと坐っている男の痩せた顔や、そそけた髪や、それもこれもお園の胸を陰らせる種であった。男の末のためを思えばこそ、涙を呑み込んで無理に出してやろうとはするものの、自分とても別れたくないのは山々である。口でこそ二年三年というものの、その間には自分の身にもどんなことが起らないとも限らない。今夜が顔の見納めで、もう二度と逢われないようになるかも知れない。そんなことを考えると、お園も男に釣り込まれたように心が少し弱って来た。
 そうかといって今更どうなるものではない。こうなったら、どうしても男を励まして、無理にも江戸へやるより他《ほか》はない。弱いながらも男はもうその覚悟をしている。ここで自分がもろい涙を見せて、男の覚悟をにぶらせるような事があってはならない。所詮《しょせん》こういう苦しい破目《はめ》に落ちたのが男も自分も不運である。この不運を切り抜けるには強い覚悟がなければならない。やれるところまで存分にやって見て、それで切《せつ》ない思いが透らなければ、よくよく二人に縁がないものと諦めるよりほかはないと、世間の苦労をよけい積んでいるお園は、懐《ふとこ》ろ子《ご》のような六三郎よりもさすがに強い覚悟をもって、無理に笑い顔をつくっていた。そうして江戸の客から聴いたことのある浅草の観音さまや、上野の桜や、不忍《しのばず》の弁天さまや、そんな江戸名所のうわさなどを面白そうに男に話して聞かせた。
 六三郎はやっぱり浮かない顔をして聴いていた。どんな名所も故郷ほどには面白そうに思えなかった。たとい毎日逢われないでも、お園の生きている土地に同じく生きていたかった。
「あしたはいつごろ発《た》つのでござんす」と、お園は雨の音を気づかいながら訊《き》いた。
「朝の六つ半に八軒屋《はちけんや》から淀の川舟に乗って行く。あしたは旅立ちよしという日と聞いているから、大抵の雨ならば思い切って発つつもりで、親方も兄弟子たちも八軒屋まで送ってやると言うていた」
「ほんに長い旅でござんすから、暦《こよみ》のよい日をえらむのが肝腎《かんじん》。わたしもその刻限《こくげん》には北を向いて、蔭ながら見送ります。この頃の天気癖で、あしたもどうやら晴れそうもないが、さして強いこともござんすまい」
「どうで長い道中じゃ。雨を恐れてもいられまい」と、六三郎は寂しく笑った。
「お前は下戸《げこ》じゃが、今夜はお別れに一杯飲みなさんせ。酔うて面白う遊びましょう」
 二人は愁《うれ》いを打ち消そうとして杯を重ねた。三月も半ばを過ぎて、浪華の花を散らす春雨は夜の更けるまでしめやかに聞えた。
「家でも案じていると悪い。殊にあしたは早発ちじゃ。名残は惜しいが、もうそろそろと帰りなさんせ」と、しばらくしてお園は男の顔を見ながら優しく言った。
「ほんにそうじゃ。六三めは昼から家を出て、今頃までどこに何をしていることかと、親方も定めて案じているであろう。折角の発ちぎわに叱られてはならぬ」
「ほほ、親方も粋《すい》じゃ。大抵はこうと察していさんしょう」と、お園は笑った。
 六三郎も黙って笑った。お園はその耳に口を寄せて言った。
「お前、江戸の女子《おなご》と心安うしなさんすな、よいかえ」
「なんの、阿房《あほう》らしい」
 ようよう起ち上がった六三郎のうしろ姿を見ると、お園は急に胸がいっぱいになった。ふた足三足送ってゆくうちに、胸はいよいよ詰まってきて、不思議な暗い影がお園の周《まわ》りにまつわって来るように思われた。お園は男といっしょに闇の中を迷っているようにも感じられて、一種の恐怖に足がすくんだ。力のない男の歩みも遅かった。
 どう考えてもこの弱々しい男を、見も知らぬ遠い他国へ追いやって、たんと苦労させるのがいじらしかった。苦労をする男も辛《つら》いには相違ないが、これから先、朝に夕にその苦労を思いやる自分の辛さもしみじみ思いやられた。そんな苦しい思いをした上で、確かに末の楽しみがあるやらないやら、それもお園は俄かに不安になって来た。眼の前はいよいよ暗くなって来た。
「六三《ろくさ》さん。お前、どうしても江戸へ行く気かえ」と、お園は男の肩に手をかけて今更のように念を押した。
 男は不思議そうな顔をして立ちどまった。蒼白い顔と顔とが向き合った。お園は暗い影につつまれてしまったように感じた。
 夜の春雨はやはりしとしと[#「しとしと」に傍点]と降っていた。

 雨は明くる朝まで降りやまないで、西横堀の川端に死屍《しかばね》をさらした男と女との生《なま》なましい血を洗い流した。男は鑿《のみ》で咽喉《のど》を突き破っていた。女は剃刀《かみそり》で同じく咽喉を掻き切っていた。検視の末に、それが大工の六三郎と遊女のお園とであることは直ぐに判ったが、二人がいつ新屋敷をぬけ出したのか誰も知らなかった。なぜこの西横堀を死場所にえらんだのか、それも誰にも判断がつかなかった。
 六三郎は懐ろに書置きを持っていた。それは親方に宛てたもので、単に御恩を仇《あだ》に心得違いをして相済まないという意味が認《したた》めてあった。お園は自分と仲のいい朋輩に宛てて一通の書置きを残してあった。それには六三さんを江戸へやるのがいかにも可哀そうだから一緒に死ぬということが書いてあった。お園が六三郎とそれほどの深い仲であったというのが今になって初めて判った。仲のいい朋輩すらもこの書置きを受け取るまでは、勤め盛り売れ盛りのお園が大工の丁稚と命賭けの恋に落ちていようとは思いもつかなかった。
「よくよく運が悪う生まれたのじゃ」と、親方は泣いて六三郎の死骸を引き取ろうとしたが、時の法律によって直ぐに引き取ることを許されなかった。心中したお園と六三郎との死骸は、千日寺のうしろにある俗に灰山という所に三日のあいださらされた。罪ある父の首を梟《さら》された場所を去らずに、その子は恋の亡骸《むくろ》を晒《さら》したのであった。
 三日の後に六三郎の死骸は親方に引き渡された。お園は身寄りもないので主人に引き渡された。
 お園と六三郎とが心中した日に、神崎では御駕籠の十右衛門という者が大勢の馬士《まご》を斬った。新しい材料はそれからそれへと殖えて来るので、浄瑠璃の作者もその取捨《しゅしゃ》に苦しんだが、豊竹座ではお園六三郎と、かしくと、十右衛門と、その三つの事件を一つに組み合わせて、八重霞浪華浜荻《やえがすみなにわのはまおぎ》という新浄瑠璃をその月の二十六日から興行することになった。
 お園と六三郎との名はとうとう浄瑠璃に唄われてしまった。しかし近松の時代と違って、事実を有りのままに仕組むということは遠慮しなければならないような習わしになっていたので、大工の六三郎は武士に作り替えられて、大和の浪人小柴六三郎という名を番附にしるされた。

底本:「江戸情話集」光文社時代小説文庫、光文社
   1993(平成5)年12月20日初版1刷発行
入力:tatsuki
校正:かとうかおり
2000年6月10日公開
2008年10月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

ゆず湯—– 岡本綺堂

    

 本日ゆず湯というビラを見ながら、わたしは急に春に近づいたような気分になって、いつもの湯屋の格子をくぐると、出あいがしらに建具屋のおじいさんが濡れ手拭で額をふきながら出て来た。
「旦那、徳がとうとう死にましたよ。」
「徳さん……。左官屋の徳さんが。」
「ええ、けさ死んだそうで、今あの書生さんから聞きましたから、これからすぐに行ってやろうと思っているんです。なにしろ、別に親類というようなものも無いんですから、みんなが寄りあつまって何とか始末してやらなけりゃあなりますまいよ。運のわるい男でしてね。」
 こんなことを言いながら、気の短いおじいさんは下駄を突っかけて、そそくさと出て行ってしまった。午後二時ごろの銭湯はひろびろと明かるかった。狭い庭には縁日で買って来たらしい大きい鉢の梅が、硝子戸越しに白く見えた。
 着物をぬいで風呂場へゆくと、流しの板は白く乾いていて、あかるい風呂の隅には一人の若い男の頭がうしろ向きに浮いているだけであった。すき透るような新しい湯は風呂いっぱいにみなぎって、輪切りの柚《ゆず》があたたかい波にゆらゆらと流れていた。窓硝子を洩れる真昼の冬の日に照らされて、かげろうのように立ちまよう湯気のなかに、黄いろい木の実の強い匂いが籠っているのもこころよかった。わたしは好い心持になって先ずからだを湿《しめ》していると、隅の方に浮いていた黒い頭がやがてくるりと振り向いた。
「こんにちは。」
「押し詰まってお天気で結構です。」と、わたしも挨拶した。
 彼は近所の山口という医師の薬局生であった。わたしと別に懇意でもないが、湯屋なじみで普通の挨拶だけはするのであった。建具屋のおじいさんが書生さんといったのはこの男で、左官屋の徳さんはおそらく山口医師の診察を受けていたのであろうと私は推量した。
「左官屋の徳さんが死んだそうですね。」と、わたしもやがて風呂にはいって、少し熱い湯に顔をしかめながら訊いた。
「ええ、けさ七時ごろに……。」
「あなたのところの先生に療治してもらっていたんですか。」
「そうです。慢性の腎臓炎でした。わたしのところへ診察を受けに来たのは先月からでしたが、なんでもよっぽど前から悪かったらしいんですね。先生も最初からむずかしいと言っていたんですが、おととい頃から急に悪くなりました。」
「そうですか。気の毒でしたね。」
「なにしろ、気の毒でしたよ。」
 鸚鵡《おうむ》返しにこんな挨拶をしながら、薬局生はうずたかい柚をかきわけて流し場へ出た。それから水船のそばへたくさんの小桶をならべて、真っ赤にゆでられた胸や手足を石鹸の白い泡に埋めていた。それを見るともなしに眺めながら、わたしはまだ風呂のなかに浸っていた。表には師走《しわす》の町らしい人の足音が忙がしそうにきこえた。冬至《とうじ》の獅子舞の囃子の音も遠く響いた。ふと眼をあげて硝子窓の外をうかがうと、細い露地を隔てた隣りの土蔵の白壁のうえに冬の空は青々と高く晴れて、下界のいそがしい世の中を知らないように鳶が一羽ゆるく舞っているのが見えた。こういう場合、わたしはいつものんびりした気持になって、なんだかぼんやりと薄ら眠くなるのが習いであったが、きょうはなぜか落ちついた気分になれなかった。徳さんの死ということがわたしの頭をいろいろに動かしているのであった。
「それにしてもお玉さんはどうしているだろう。」
 わたしは徳さんの死から惹いて、その妹のお玉さんの悲しい身の上をも考えさせられた。
 お玉さんは親代々の江戸っ子で、お父《とっ》さんは立派な左官の棟梁株であったと聞いている。昔はどこに住んでいたか知らないが、わたしが麹町の元園町に引っ越して来た時には、お玉さんは町内のあまり広くもない露地の角に住んでいた。わたしの父はその露地の奥のあき地に平家を新築して移った。お玉さんの家は二階家で、東の往来にむかった格子作りであった。あらい格子の中は広い土間になっていて、そこには漆喰《しっくい》の俵や、土舟などが横たわっていた。住居の窓は露地のなかの南にむかっていて、住居につづく台所のまえは南から西へ折りまわした板塀に囲まれていた。塀のうちには小さい物置と四、五坪の狭い庭があって、庭には柿や桃や八つ手のたぐいが押しかぶさるように繁り合っていた。いずれも庭不相当の大木であった。二階はどうなっているか知らないが、わたしの記憶しているところでは、一度も東向きの窓を明けたことはなかった。北隣りには雇人の口入屋《くちいれや》があった。どういうわけか、お玉さんの家とその口入屋とはひどく仲が悪くって、いつも喧嘩が絶えなかった。
 わたしが引っ越して来た頃には、お玉さんのお父さんという人はもう生きていなかった。阿母《おっか》さんと兄の徳さんとお玉さんと、水入らずの三人暮らしであった。
 阿母さんの名は知らないが、年の頃は五十ぐらいで、色の白い、痩形で背のたかい、若いときにはまず美《い》い女の部であったらしく思われる人であった。徳さんは廿四五で顔付きもからだの格好も阿母さんに生き写しであったが、男としては少し小柄の方であった。それに引きかえて妹のお玉さんは眼鼻立ちこそ兄さんに肖《に》ているが、むしろ兄さんよりも大柄の女で、平べったい顔と厚ぼったい肉とをもっていた。年は二十歳《はたち》ぐらいで、いつも銀杏がえしに髪を結って、うすく白粉をつけていた。
 となりの口入屋ばかりでなく、近所の人はすべてお玉さん一家に対してあまり好い感情をもっていないらしかった。お玉さん親子の方でも努めて近所との付き合いを避けて、孤立の生活に甘んじているらしかった。阿母さんは非常に口やかましい人で、私たちの子供仲間からは左官屋の鬼婆と綽名《あだな》されていた。
 お玉さんの家《うち》の格子のまえには古風の天水桶があった。わたし達がもしその天水桶のまわりに集まって、夏はぼうふらを探し、冬は氷をいじったりすると、阿母さんは忽ちに格子をあけて、「誰だいいたずらをするのは……」と、かみ付くように呶鳴り付けた。雨のふる日に露地をぬける人の傘が、お玉さんの家の羽目か塀にがさりとでもさわる音がすると、阿母さんはすぐに例の「誰だい」を浴びせかけた。わたしも学校のゆきかえりに度々この阿母さんから「誰だい」と叱られた。
 徳さんは若い職人に似合わず、無口で陰気な男であった。見かけは小粋な若い衆であったが、町内の祭りなどにもいっさい係り合ったことはなかった。その癖、内で一杯飲むと、阿母さんやお玉さんの三味線で清元や葉唄を歌ったりしていた。お玉さんが家じゅうで一番陽気な質《たち》らしく、近所の人をみればいつもにこにこ笑って挨拶していた。しかし、阿母さんや兄さんがこういう風変わりであるので、娘盛りのお玉さんにも親しい友達はなかったらしく、麹町通りの夜店をひやかしにゆくにも、平河天神の縁日に参詣するにも、お玉さんはいつも阿母さんと一緒に出あるいていた。ときどきに阿母さんと連れ立って芝居や寄席へ行くこともあるらしかった。
 この一家は揃って綺麗好きであった。阿母さんは日に幾たびも格子のまえを掃いていた。お玉さんも毎日かいがいしく洗濯や張り物などをしていた。それで決して髪を乱していたこともなく、毎晩かならず近所の湯に行った。徳さんは朝と晩とに一日二度ずつ湯にはいった。
 徳さん自身は棟梁株ではなかったが、一人前の職人としては相当の腕をもっているので、別に生活に困るような風はみせなかった。お玉さんもいつも小綺麗な装《なり》をしていた。近所の噂によると、お玉さんは一度よそへ縁付いて子供まで生んだが、なぜだか不縁になって帰って来たのだということであった。そのせいか、私がお玉さんを知ってからもう三、四年も経っても、嫁にゆくような様子は見えなかった。お玉さんもだんだんに盛りを通り過ぎて、からだの幅のいよいよ広くなってくるのばかりが眼についた。
 そのうちに誰が言い出したのか知らないが、お玉さんには旦那があるという噂が立った。もちろん旦那らしい人の出入りする姿を見かけた者はなかったが、お玉さんの方から泊まりにゆくのだと、ほんとうらしく吹聴《ふいちょう》する者もあった。その旦那は異人さんだと言う者もあった。しかし、それにはどれも確かな証拠はなかった。このけしからぬ噂がお玉さん一家の耳にも響いたらしく、その後のお玉さんの様子はがらりと変わって、買物にでも出るほかには、めったにその姿を世間へ見せないようになった。近所の人たちに逢っても情《すげ》なく顔をそむけて、今までのようなにこにこした笑い顔を見せなくなった。三味線の音もちっとも聞かせなくなった。
 なんでもその明くる年のことと記憶している。日枝《ひえ》神社の本祭りで、この町内では踊り屋台を出した。しかし町内には踊る子が揃わないので、誰かの発議でそのころ牛込の赤城下にあった赤城座《あかぎざ》という小芝居の役者を雇うことになった。役者はみんな十五六の子供で、嵯峨や御室の光国と滝夜叉と御注進の三人が引き抜いてどんつく[#「どんつく」に傍点]の踊りになるのであった。この年の夏は陽気がおくれて、六月なかばでも若い衆たちの中形《ちゅうがた》のお揃衣《そろい》がうすら寒そうにみえた。宵宮《よみや》の十四日には夕方から霧のような細かい雨が花笠の上にしとしとと降って来た。
 踊り屋台はぬれながら町内を練り廻った。囃子の音が浮いてきこえた。屋台の軒にも牡丹のような紅い提灯がゆらめいて――それおぼえてか君さまの、袴も春のおぼろ染――滝夜叉がしどけない細紐《しごき》をしゃんと結んで少しく胸をそらしたときに、往来を真っ黒にうずめている見物の雨傘が一度にゆらいだ。
「うまいねえ。」
「上手だねえ。」
「そりゃほんとの役者だもの。」
 こんな褒めことばが、そこにもここにもささやかれた。
 お玉さんの家の人たちも格子のまえに立って、同じくこの踊り屋台を見物していたが、お玉さんの阿母さんはさも情けないというように顔をしかめて、誰にいうともなしに舌打ちしながら小声でののしった。
「なんだろう、こんな小穢いものを……。芸は下手でも上手でも、お祭りには町内の娘さん達が踊るもんだ。こんな乞食芝居みたいなものを何処からか引っ張って来やあがって、お祭りもないもんだ。ああ、いやだ、いやだ。長生きはしたくない。」
 こう言って阿母さんは内へつい[#「つい」に傍点]と引っ込んでしまった。お玉さんも徳さんもつづいてはいってしまった。
「鬼婆め、お株を言っていやあがる。長生きがしたくなければ、早くくたばってしまえ。」と、花笠をかぶった一人が罵った。
 それが讖《しん》をなしたわけでもあるまいが、阿母さんはその年の秋からどっと寝付いた。その頃には庭の大きい柿の実もだんだん紅《あか》らんで、近所のいたずら小僧が塀越しに竹竿を突っ込むこともあったが、阿母さんは例の「誰だい」を呶鳴る元気もなかった。そうして、十一月の初めにはもう白木の棺にはいってしまった。さすがに見ぬ顔もできないので、葬式には近所の人が五、六人見送った。おなじ仲間の職人も十人ばかり来た。寺は四谷の小さい寺であったが、葬儀の案外立派であったのには、みんなもおどろかされた。当日の会葬者一同には白強飯《しろおこわ》と煮染《にしめ》の辨当が出た。三十五日には見事な米饅頭と麦饅頭との蒸し物に茶を添えて近所に配った。
 万事が案外によく行きとどいているので、近所の人たちも少し気の毒になったのと、もう一つは口やかましい阿母さんがいなくなったというのが動機になって、以前よりは打ち解けて付き合おうとする人も出来たが、なぜかそれも長くはつづかなかった。三月半年と経つうちに、近所の人はだんだんに遠退いてしまって、お玉さんの兄妹《きょうだい》はふたたび元のさびしい孤立のすがたに立ちかえった。
 それでも或る世話好きの人がお玉さんに嫁入りさきを媒妁しようと、わざわざ親切に相談にゆくとお玉さんは切り口上で断わった。
「どうで異人の妾だなんていわれた者を、どこでも貰って下さる方はありますまい。」
 その人も取り付く島がないので引きさがった。これに懲りて誰もその後は縁談などを言い込む人はなかった。
 詳しく調べたならば、その当時まだほかにもいろいろの出来事があったかも知れないが、学校時代のわたしはこうした問題に就いてあまり多くの興味をもっていなかったので、別に穿索もしなかった。むかしのお玉さん一家に関して、わたしの幼い記憶に残っているのは先ずこのくらいのことに過ぎなかった。
 こんなことをそれからそれへと手繰り出して考えながら、わたしはいつの間にか流し場へ出て、半分は浮わの空で顔や手足を洗っていた。石鹸の泡が眼にしみたのにおどろいて、わたしは水で顔を洗った。それから風呂へはいって、再び柚湯に浸っていると、薬局生もあとからはいって来た。そうして、又こんなことを話しかけた。
「あの徳さんという人は、まあ行き倒れのように死んだんですね。」
「行き倒れ……。」と、私は又おどろいた。
「病気が重くなっても、相変わらず自分の方から診察を受けにかよって来ていたんです。そこで、けさも家を出て、薬壜をさげてよろよろと歩いてくると、床屋の角の電信柱の前でもう歩けなくなったんでしょう、電信柱に倚《よ》り掛かってしばらく休んでいたかと思ううちに、急にぐたぐたと頽《くず》れるように倒れてしまったんです。床屋でもおどろいて、すぐに店へかかえ込んで、それから私の家《うち》へ知らせて来たんですが、先生の行った頃にはもういけなくなっていたんです。」
 こんな話を聴かされて、私はいよいよ情けなくなって来た。折角の柚湯にも好い心持に浸っていることは出来なくなった。私はからだをなま拭きにして早々に揚がってしまった。

     二

 家へ帰ってからも、徳さんとお玉さんとのことが私の頭にまつわって離れなかった。殊にきょうの柚湯については一つの思い出があった。
 わたしは肩揚げが取れてから下町《したまち》へ出ていて、山の手の実家へは七、八年帰らなかった。それが或る都合で再び帰って住むようになった時には、私ももう昔の子供ではなかった。十二月の或る晩に遅く湯に行った。今では代が変わっているが、湯屋はやはりおなじ湯屋であった。わたしは夜の湯は嫌いであるが、その日は某所の宴会へ行ったために帰宅が自然遅くなって、よんどころなく夜の十一時頃に湯に行くことになった。その晩も冬至の柚湯で、仕舞湯に近い濁った湯風呂の隅には、さんざん煮くたれた柚の白い実が腐った綿のように穢《きたな》らしく浮いていた。わたしは気味悪そうにからだを縮めてはいっていた。もやもやした白い湯気が瓦斯のひかりを陰らせて、夜ふけの風呂のなかは薄暗かった。
 ――常から主《ぬし》の仇な気を、知っていながら女房に、なって見たいの慾が出て、神や仏を頼まずに、義理もへちまの皮羽織――
 少し錆のある声で清元を唄っている人があった。音曲に就いては、まんざらのつんぼうでもない私は、その節廻しの巧いのに驚かされた。じっと耳をかたむけながら其の声のぬしを湯気のなかに透かしてみると、それはかの徳さんであった。徳さんが唄うことは私も子供のときから知っていたが、こんなに好い喉《のど》をもっていようとは今まで思いも付かなかった。琵琶歌や浪花節が無遠慮に方々の湯屋を掻きまわしている世のなかに、清元の神田祭――しかもそれを偏人のように思っていた徳さんの喉から聞こうとは、まったく思いがけないことであった。
 私のほかには商家の小僧らしいのが二人はいっているきりであった。徳さんは好い心持そうに続けて唄っていた。しみじみと聴いているうちに、私はなんだか寂しいような暗い気分になって来た。お玉さんの兄妹が今の元園町に孤立しているのも、無理がないようにも思われて来た。
「どうもおやかましゅうございました。」
 徳さんは好い加減に唄ってしまうと、誰にいうともなしに挨拶して、流し場の方へすたすた出て行ってしまった。そうして、手早くからだを拭いて揚がって行った。私もやがてあとから出た。露地へさしかかった時には、徳さんの家はもう雨戸を閉めて燈火《あかり》のかげも洩れていなかった。霜ぐもりともいいそうな夜の空で、弱々しい薄月のひかりが庭の八つ手の葉を寒そうに照らしていた。
 わたしは毎日大抵明かるいうちに湯にゆくので、その柚湯の晩ぎりで再び徳さんの唄を聴く機会がなかった。それから半年以上も過ぎた或る夏の晩に又こんなことがあった。わたしが夜の九時頃に涼みから帰ってくると、徳さんの家のなかから劈《さ》くような女の声がひびいた。格子の外には通りがかりの人や近所の子供がのぞいていた。
「なんでえ、畜生! ざまあ見やがれ。うぬらのような百姓に判るもんか。」
 それはお玉さんの声らしいので、私はびっくりした。なにか兄妹喧嘩でも始めたのかとも思った。店さきに涼んでいる八百屋のおかみさんに訊くと、おかみさんは珍らしくもないという顔をして笑っていた。
「ええ、気ちがいが又あばれ出したんですよ。急に暑くなったんで逆上《のぼ》せたんでしょう。」
「お玉さんですか。」
「もう五、六年まえからおかしいんですよ。」
 わたしは思わず戦慄した。わたしにはそれが初耳であった。お玉さんはわたしが下町へ行っているあいだに、いつか気ちがいになっていたのであった。わたしが八百屋のおかみさんと話しているうちにも、お玉さんは何かしきりに呶鳴っていた。息もつかずに「べらぼう、畜生」などと罵っていた。徳さんの声はちっとも聞こえなかった。
 家《うち》へ帰ってその話をすると、家の者もみんな知っていた。お玉さんの気ちがいということは町内に隠れもない事実であったが、その原因は誰にも判らなかった。しかし別に乱暴を働くというのでもなく、夏も冬も長火鉢のまえに坐って、死んだようにふさいでいるかと思うと、時々だしぬけに破れるような大きい声を出して、誰を相手にするともなしに「なんでえ、畜生、べらぼう、百姓」などと罵りはじめるのであった。兄の徳さんも近頃は馴れたとみえて、別に取り鎮めようともしない。気のおかしい妹一人に留守番をさせて、平気で仕事に出てゆく。近所でも初めは不安に思ったが、これもしまいには馴れてしまって別に気に止める者もなくなった。
 お玉さんは自分で髪を結う、行水《ぎょうずい》をつかう、気分のいい時には針仕事などもしている。そんな時にはなんにも変わったことはないのであるが、ひと月か二月に一遍ぐらい急にむらむらとなって、例の「畜生、べらぼう」を呶鳴り始める。それが済むと、狐が落ちたようにけろり[#「けろり」に傍点]としているのであった。気ちがいというほどのことではない、一種のヒステリーだろうと私は思っていた。気ちがいにしても、ヒステリーにしても、一人の妹があの始末ではさぞ困ることだろうと、わたしは徳さんに同情した。ゆず湯で清元を聴かされて以来、わたしは徳さんの一家を掩っている暗い影を、いたましく眺めるようになって来た。
「畜生! べらぼう!」
 お玉さんはなにを罵っているのであろう、誰を呪っているのであろう。進んでゆく世間と懸けはなれて、自分たちの周囲に対して無意味の反抗をつづけながら、自然にほろびてゆくいわゆる江戸っ子の運命をわたしは悲しく思いやった。お祭りの乞食芝居を痛罵した阿母さんは、鬼ばばあと謳われながら死んだ。清元の上手な徳さんもお玉さんも、不幸な母と同じ路をあゆんでゆくらしく思われた。取り分けてお玉さんは可哀そうでならなかった。母は鬼婆、娘は狂女、よくよく呪われている母子《おやこ》だと思った。
 お玉さんは一人も友達をもっていなかったが、私の知っているところでは徳さんには三人の友達があった。一人は地主の長左衛門さんで、もう七十に近い老人であった。格別に親しく往来《ゆきき》をする様子もなかったが、徳さんもお玉さんもこの地主さまにはいつも丁寧に頭をさげていた。長左衛門さんの方でもこの兄妹の顔をみれば打ち解けて話などをしていた。
 もう一人は上田屋という貸本屋の主人であった。上田屋は江戸時代からの貸本屋で、番町一円の屋敷町を得意にして、昔はなかなか繁昌したものだと伝えられている。わたしが知ってからでも、土蔵付きの大きい角店で、見るから基礎のしっかりとしているらしい家構えであった。わたしの家でもここからいろいろの小説などを借りたことがあった。わたしが初めて読んだ八犬伝もここの本であった。活版本がだんだん行なわれるに付けて、むかしの貸本屋もだんだんに亡びてしまうので、上田屋もとうとう見切りをつけて、日清戦争前後に店をやめてしまった。しかしほかにも家作《かさく》などをもっているので、店は他人にゆずって、自分たちは近所でしもた[#「しもた」に傍点]家暮らしをすることになった。ここの主人ももう六十を越えていた。徳さんの兄妹は時々にここへ遊びに行くらしかった。もう一人はさっき湯屋で逢った建具屋のおじいさんであった。この建具屋の店にも徳さんが腰をかけている姿をおりおり見た。
 こう列べて見渡したところで、徳さんの友達には一人も若い人はなかった。地主の長左衛門さんも、上田屋の主人も、徳さんとは殆んど親子ほども年が違っていた。建具屋の親方も十五六の年上であった。したがってこれらの老いたる友達は、頼りない徳さんをだんだんに振り捨てて、別の世界へ行ってしまった。上田屋の主人が一番さきに死んだ。長左衛門さんも死んだ。今生き残っているのは建具屋のおじいさん一人であった。

     

 わたしの家では父が死んだのちに、おなじ露地のなかで南側の二階家にひき移って、わたしの家の水口がお玉さんの庭の板塀と丁度むかい合いになった。わたしの家の者が徳さんと顔を見あわせる機会が多くなった。それでも両方ながら別に挨拶もしなかった。その時はわたしが徳さんの清元を聴いてからもう四、五年も過ぎていた。
 その年の秋に強い風雨《あらし》があって、わたしの家の壁に雨漏りの汚点《しみ》が出た。たいした仕事でもないから近所の人に頼もうということになって、早速徳さんを呼びにやると、徳さんはこころよく来てくれた。多年近所に住んでいながら、わたしの家で徳さんに仕事を頼むのはこれが初めてであった。わたしはこの時はじめて徳さんと正面にむき合って、親しく彼と会話を交換したのであった。
 徳さんはもう四十を三つ四つ越えているらしかった。髪の毛の薄い、色の蒼黒い、眼の嶮しい、頤の尖った、見るから神経質らしい男で、手足は職人に不似合いなくらいに繊細《かぼそ》くみえた。紺の匂いの新しい印半※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、250-10]をきて、彼は行儀よくかしこまっていた。わたしから繕《つくろ》いの注文を一々聞いて、徳さんは丁寧に、はきはきと答えた。
「あんな人がなぜ近所と折合いが悪いんだろう。」
 徳さんの帰ったあとで、家内の者はみんな不思議がっていた。あくる日は朝早くから仕事に来て、徳さんは一日黙って働いていた。その働き振りのいかにも親切なのが嬉しかった。今どきの職人にはめずらしいと家内の評判はますます好かった。多寡が壁の繕いであったから、仕事は三日ばかりで済んでしまった。徳さんは勘定を受け取りにくる時に、庭の青柿の枝をたくさんに切って来てくれて、
「渋くってとても食べられません、花活けへでもお※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]しください。」と言った。なるほど粒は大きいが渋くって食えなかった。わたしは床の間の花瓶に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]した。
「妹はこの頃どんな塩梅ですね。」と、そのとき私はふいと訊いてみた。
「お蔭さまでこの頃はだいぶ落ちついているようですが、あいつのこってすから何時あばれ出すか知れやあしません。しかしあいつも我儘者ですから、なまじっかの所へ嫁なんぞに行って苦労するよりも、ああやって家で精いっぱい威張り散らして終る方が仕合わせかも知れませんよ。」と、徳さんは寂しく笑った。「おふくろも丁度あんな人間ですから、みんな血を引いているんでしょうよ。」
 それからだんだん話してみると、徳さんは妹のことをさのみ苦労にしてもいないらしかった。気のおかしくなるのは当たりまえだぐらいに思っているらしかった。ときどき大きな声などを出して呶鳴ったり騒いだりしても、近所に対して気の毒だとも思っていないらしかった。しかし徳さんが妹を可愛がっていることは私にもよく判った。かれは妹が可哀そうだから、自分もこの年まで独身でいると言った。その代りに少しは道楽もしましたと笑っていた。
 これが縁になって、徳さんは私達とも口を利くようになった。途中で逢っても彼は丁寧に時候の挨拶などをした。わたしの家へ仕事に来てから半月ばかりも後のことであったろう、私が或る日の夕方銀座から帰ってくると、町内の酒屋の角で徳さんに逢った。徳さんも仕事の帰りであるらしく、印半※[#「纏」の「广」に代えて「厂」、251-16]をきて手には薄《すすき》のひと束を持っていた。十月の日はめっきり詰まって、酒屋の軒ランプはもう火がはいっていた。徳さんの持っている薄の穂が夕闇のなかにほの白くみえた。
「今夜は十三夜ですか。」と、私はふと思い出して言った。
「へえ、片月見になるのも忌《いや》ですから。」
 徳さんは笑いながら薄をみせた。二人は言い合わしたように暗い空をみあげた。後《のち》の月は雨に隠されそうな雲の色であった。私はさびしい心持で徳さんと列んであるいた。袷でももう薄ら寒いような心細い秋風が、すすきの白い穂をそよそよと吹いていた。
 露地の入口へ来ると、あかりもまだつけない家の奥で、お玉さんの尖った声がひびいた。
「なんでえ、なに言ってやあがるんでえ。畜生! 馬鹿野郎!」
 お玉さんが又狂い出したかと思うと、わたしはいよいよ寂しい心持になった。もう珍らしくもないので、薄暗い表には誰も覗いている者もなかった。徳さんは黙って私に会釈《えしゃく》して格子をあけてはいった。格子のあく音がきこえると同時に、南向きの窓が内からがらりとあいた。前にもいった通り、窓は南に向いているので、露地を通っている私は丁度その窓から出た女の顔と斜めに向き合った。女の歯の白いのがまず眼について物凄かった。
 わたしは毎朝家を出て、夕方でなければ帰って来ない。お玉さんはめったに外へ出たことはない。お玉さんがこのごろ幽霊のように窶《やつ》れているということは、家の者の話には聞いていたが、わたしは直接にその変わった姿をみる機会がなくて過ぎた。それを今夜初めて見たのである。お玉さんの平べったい顔は削られたように痩せて尖って、櫛巻にしているらしい髪の毛は一本も乱さずに掻き上げられていた。その顔の色は気味の悪いほどに白かった。
「旦那、旦那。」と、お玉さんはひどく若々しい声で呼んだ。
 私も呼ばれて立ちどまった。
「あなたは洋服を着ているんですか。」
 その時わたしは和服を着ていたので、わたしは黙って蝙蝠《こうもり》のように両袖をひろげて見せた。お玉さんはかの白い歯をむき出してにやにやと笑った。
「洋服を着て通りやあがると、あたまから水をぶっ掛けるぞ。気をつけやあがれ。」
 窓はぴっしゃり閉められた。お玉さんの顔は消えてしまった。わたしは物に魘《おそ》われたような心持で早々に家へ帰った。その当時、わたしは毎日出勤するのに、和服を着て出ることもあれば洋服を着て出ることもあった。お玉さんから恐ろしい宣告を受けて以来、わたしは洋服を着るのを一時見あわせたが、そうばかりもいかない事情があるので、よんどころなく洋服をきて出る場合には、なるべく足音をぬすんでお玉さんの窓の下をそっと通り抜けるようにしていた。
 それからひと月ばかり経って、寒い雨の降る日であった。わたしは雨傘をかたむけてお玉さんの窓ぎわを通ると、さながら待ち設けていたかのように、窓が不意にあいたかと思うと、柄杓の水がわたしの傘の上にざぶりと降って来た。幸いに傘をかたむけていたので、差したることもなかったが、その時わたしは和服を着ていたにも拘わらず、こういう不意討ちの難に出逢ったのであった。その以来自分はもちろん家内の者にも注意して、お玉さんの窓の下はいつも忍び足で通ることにしていた。それでも時々に内から鋭い声で叱り付けられた。
「馬鹿野郎! 百姓! 水をぶっかけるぞ。しっかりしろ。」
 口でいうばかりでない、実際に水の降って来ることが度々あった。酒屋の小さい御用などは、寒中に頭から水を浴びせられて泣いて逃げた。近所の子供などはくやしがって、窓へ石を投げ込むのもあった。お玉さんも負けずに何か罵りながら、内から頻りに水を振りまいた。石と水との闘いが時々にこの狭い露地のなかで演ぜられた。
 そのうちにお玉さんの家は露地のそばを三尺通り切り縮められることになった。それは露地の奥の土蔵付きの家へ新しく越して来た某実業家の妾が、人力車の自由に出入りのできるだけに露地の幅をひろげてもらいたいと地主に交渉の結果、露地の入口にあるお玉さんの家をどうしても三尺ほどそぎ取らなければならないことになったのである。こういう手前勝手の要求を提出した人は、地主に対しても無論に高い地代を払うことになったに相違なかった。お玉さんの家の修繕費用も先方で全部負担するといった。
「長左衛門さんがおいでなら、わたくしも申すこともありますまいが、今はもう仕様がありません。」と、徳さんは若い地主からその相談を受けた時に、存外素直に承知した。しかし修繕の費用などは一銭も要らないときっぱり跳ね付けた。
 それからひと月の後に露地は広くなった。お玉さんの家はそれだけ痩せてしまった。その年の夏も暑かったが、お玉さんの家の窓は夜も昼も雨戸を閉めたままであった。お玉さんの乱暴があまり激しくなったので、徳さんは妹が窓から危険な物を投げ出さない用心に、露地にむかった窓の雨戸を釘付けにしてしまったのであった。お玉さんは内から窓をたたいて何か呶鳴っていた。
 暑さが募るにつれて、お玉さんの病気もいよいよ募って来たらしかった。この頃では家のなかで鉄瓶や土瓶を投げ出すような音もきこえた。ときどきには跣足《はだし》で飛び出すこともあった。建具屋のおじいさんももう見ていられなくなって、無理に徳さんをすすめて妹を巣鴨の病院へ入れさせることにした。今の徳さんには入院料を支辨する力もない。さりとて仮りにも一戸を持っている者の家族には施療を許されない規定になっているので、徳さんはとうとうその家を売ることになった。そうして、建具屋のおじいさんの尽力で、お玉さんはいよいよ巣鴨へ送られた。それは九月はじめの陰った日で、お玉さんはこの家を出ることを非常に拒んだ。ようようなだめて人力車に乗せると、お玉さんは幌《ほろ》をかけることを嫌った。
「畜生! べらぼう! 百姓! ざまあ見やがれ。」
 お玉さんは町じゅうの人を呪うように大きな声で叫びつづけながら、傲然として人力車にゆられて行った。わたしは露地の口に立って見送った。建具屋のおじいさんと徳さんとは人力車のあとに付いて行った。
「妹も長々御厄介になりました。」
 巣鴨から帰って来て、徳さんは近所へ一々挨拶にまわった。そうして、その晩のうちに世帯《しょたい》をたたんで、元の貸本屋の上田屋の二階に同居した。そのあとへは更に手入れをして質屋の隠居さんが越して来た。近所ではあるが町内が違うので、わたしはその後、徳さんの姿を見かけることは殆んどなかった。

 それから又二年過ぎた。そうして、柚湯の日に徳さんの死を突然きいたのである。徳さんの末路は悲惨であった。しかし徳さんもお玉さんもあくまで周囲の人間を土百姓と罵って、自分達だけがほんとうの江戸っ子であると誇りつつ、長い一生を強情に押して行ったかと思うと、単に悲惨というよりも、むしろ悲壮の感がないでもない。
 そのあくる日の午後に、わたしは再び建具屋のおじいさんに湯屋で逢った。おじいさんは徳さんの葬式から今帰ったところだと言った。
「徳の野郎、あいつは不思議な奴ですよ。なんだか貧乏しているようでしたけれど、いよいよ死んでからその葛籠《つづら》をあらためると、小新しい双子《ふたこ》の綿入れが三枚と羽織が三枚、銘仙の着物と羽織の揃ったのが一組、帯が三本、印半纏が四枚、ほかに浴衣が五枚と、それから現金が七十円ほどありましたよ。ところが、今までめったに寄り付いたことのねえ奴等が、やれ姪だの従弟《いとこ》だのといって方々からあつまって来て、片っ端からみんな持って行ってしまいましたよ。世の中は薄情に出来てますね。なるほど徳の野郎が今の奴等と付き合わなかった筈ですよ。」
 わたしは黙って聴いていた。そうして、お玉さんはこの頃どうしているかと訊いた。
「お玉は病院へ行ってから、からだはますます丈夫になって、まるで大道臼のように肥ってしまいましたよ。」
「病気の方はどうなんです。」
「いけませんね。もうどうしても癒らないでしょうよ。まあ、あすこで一生を終るんですね。」と、おじいさんは溜め息をついた。「だが、当人としたら其の方が仕合わせかも知れませんよ。」
「そうかも知れませんね。」
 二人はそれぎり黙って風呂へはいった。

底本:「岡本綺堂読物選集3 巷談編」青蛙房
   1969(昭和44)年9月5日発行
底本の親本:「十番随筆」新作社
   1924(大正13)年4月刊
入力:『鳩よ!』編集部
校正:『鳩よ!』編集部、富田倫生
2000年2月16日公開
2009年2月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

恨みの蠑螺 ——-岡本綺堂

    

 文政四年の四月は相州《そうしゅう》江の島弁財天の開帳《かいちょう》で、島は勿論、藤沢から片瀬にかよう路々もおびただしい繁昌を見せていた。
 その藤沢の宿《しゅく》の南側、ここから街道を切れて、石亀川の渡しを越えて片瀬へ出るのが、その当時の江の島参詣の路順であるので、その途中には開帳を当て込みの休み茶屋が幾軒も店をならべていた。もとより臨時の掛茶屋であるから、葭簀《よしず》がこいの粗末な店ばかりで、ほんの一時の足休めに過ぎないのであるが、若い女たちが白い手拭を姐《あね》さんかぶりにして、さざえを店先で焼いている姿は、いかにもここらの開帳にふさわしいような風情を写し出していた。その一軒の茶屋の前に二挺の駕籠をおろして、上下三人の客が休んでいた。
 三人はみな江戸者で、江の島参詣とひと目に知れるような旅拵えをしていた。ここで判り易いように彼らの人別《にんべつ》帳をしるせば、主人の男は京橋|木挽町《こびきちょう》五丁目の小泉という菓子屋の当主で、名は四郎兵衛、二十六歳。女はその母のお杉、四十四歳。供の男は店の奉公人の義助、二十三歳である。この一行は四月二十三日の朝に江戸を発って、その夜は神奈川で一泊、あくる二十四日は程ヶ谷、戸越を越して、四つ(午前十時)を過ぎる頃にこの藤沢へ行き着いて、この掛茶屋にひと休みしているのであった。
「なんだか空合いがおかしくなって来たな。」と、四郎兵衛は空を仰ぎながら言った。
「そうねえ。」と、お杉も覚束なそうに空をみあげた。「渡しへかかったころに降り出されると困るねえ。」
「このごろの天気癖で、時どきに曇りますが、降るほどの事もございますまい。」と、茶屋の女房は言った。
「きのう江戸を出るときはいい天気で、道中はもう暑かろうなどと言っていたのだが、けさは曇って薄ら寒い。」と、義助は草鞋の緒をむすび直しながら言った。
 こんな問答をぬすみ聞くように、さっきからこの店を覗いている一人の女があった。女は隣りの休み茶屋の前に立って、往来の客を呼んでいたのであるが、四郎兵衛らが駕籠をおろして隣りの店へはいるのを見ると、俄かに顔の色を変えた。かれは年のころ二十二、三の、目鼻立ちの涼しい女で、土地の者ではないらしい風俗であった。
 四郎兵衛の一行は茶代を置いて店を出た。供の義助は徒歩《かち》で、四郎兵衛とお杉が駕籠に乗ろうとする時、隣りの店の女はつかつかと寄って来て、今や駕籠に半身入れかかった四郎兵衛の胸ぐらをとった。
「畜生、人でなし……。」
 かれは激しく罵りながら力まかせに小突《こづ》きまわすと、四郎兵衛はからだを支えかねて、乗りかけた駕籠からころげ落ちた。それを見て駕籠屋もおどろいた。
「おい、姐《ねえ》さん。どうしたのだ。」
「どうするものかね。」と、女はあざやかな江戸弁で答えた。「こん畜生のおかげで、あたしは一生を棒に振ってしまったのだ。こいつ、唯は置くものか。おぼえていろ。」
 言うかと思うと、かれは相手をいったん突き放して自分の店へ駈け込んだ。店の入口にはさざえの殻がたくさんに積んである。かれはその貝殻を両手に掴んで来て、四郎兵衛を目がけて続け撃ちに叩きつけた。その行動があまりに素捷《すばや》いのと事があまりに意外であるのとで、周囲の人びとも呆気《あっけ》に取られて眺めているばかりであった。供の義助がようよう気がついて彼女を抱き留めた時、四郎兵衛はもう二つ三つの貝殻に顔をぶたれて、眉のはずれや下唇から生血《なまち》が流れ出していた。
 この騒ぎに、この一行が今まで休んでいた店を始め、近所の店から大勢が駈け出して来た。往来の人も立ちどまった。
「まあ、どうぞこちらへ……。」と、人びとにたすけられて四郎兵衛は元の店へはいった。
「ええ、お放しよ。放さないか。」
 かれは義助を突きのけて、四郎兵衛のあとを追おうとするのを、駕籠屋四人もさえぎった。大勢に邪魔されて、じれに焦れたかれは、わが手に残っている貝殻を四郎兵衛のうしろから投げ付けると、狙いは狂ってそのそばにうろうろしているお杉の右の頬にあたった。あっ[#「あっ」に傍点]といって顔を押える母の眼の下からも血がにじみ出した。
「お安さん。気でも違ったのじゃないか。」と、そこらの女たちは騒いだ。子細の知れないこの乱暴狼藉については、お安という女が突然発狂したとでも思うほかはなかった。
 その噂が耳にはいったとみえて、お安は店の奥を睨みながら怒鳴った。
「あたしは気違いでも何でもない。あいつに恨みがあるから仇討をしただけの事だ。さあ、あたしの顔を覚えているだろう。表へ出て来い。」
 言いながら奥へ跳り込もうとするのを、義助はまた押えた。
「まあ、静かにしても判るだろう。」
「ええ、判らないからこうするのだ。ええ、うるさい。お放しというのに……。」
 かれの手にはまだ一つの貝殻が残っている。これをつかんだままで強く払いのけると、その貝殻が顔にあたって目をぶたれたか、鼻をぶたれたか、義助も顔をおさえて立ちすくんでしまった。こうなっては容赦はできない。駕籠屋四人は腕ずくでお安を取押えて、無理にとなりの店へ引摺って行った。
 義助も右の頬を傷つけられたのである。気違いのような女に襲われて、四郎兵衛は二カ所、お杉と義助は一ヵ所、いずれもその顔をさざえの殻に撃たれて、たとい深手《ふかで》でないにしても、流れる生血《なまち》を鼻紙に染めることになったので、茶屋の女房は近所の薬屋へ血止めの薬を買いに行った。人違いか気違いか、なにしろ飛んだ災難に逢ったとお杉は嘆いた。年の若い義助は激昂して、あの女をここへ引摺って来てあやまらせなければ料簡《りょうけん》が出来ないといきまいた。
「おっ母さんの言う通り、これも災難だ。神まいりの途中で、事を荒立てるのはよくない。あの女は気違いだ。あやまらせたとて仕方がない。」と、四郎兵衛は人々をなだめるように言った。
 彼は最初に目指されただけに、傷は二ヵ所で、又その撲《う》ちどころも悪かったので、まぶたも唇も腫れあがっていた。
 主人が災難とあきらめているので、義助もよんどころなく我慢したが、主従三人が揃いも揃ってこんな目に逢うのは、あまりに忌々《いまいま》しいと思った。
 店の女たちにきいてみると、あのお安という気違いじみた女は、藤沢在に住んでいる伝八という百姓のうちに寄留して、近所の子供や若い衆に浄瑠璃などを教えている、伝八の女房の姪《めい》だということで、以前は江戸に住んでいたが、去年の春ごろからここへ引っ込んで来たのである。ことしのお開帳を当て込みに、自分が心棒になって休み茶屋をはじめ、近所の娘を手伝いに頼んでいるが、主人が江戸者で客あつかいに馴れているので、なかなか繁昌するという。お安が雇い人であれば、その主人に掛合うというすべもあるが、本人が主人では苦情を持ち込む相手がない。義助もまったく諦めるのほかはなかった。
 ここまで来た以上、もちろん引っ返すわけにもいかないので、茶屋の女房が買って来てくれた血止めの薬で手当てをして、四郎兵衛とお杉はふたたび駕籠に乗って、石亀川の渡しまで急がせた。お安もさすがに追って来なかった。
 江の島の宿屋へ行き着いて、ここで午飯《ひるめし》をすませて弁天のやしろに参詣した。今度の開帳は下の宮である。各地の講中《こうちゅう》や土地の参詣人で狭い島のなかは押合うほどに混雑していた。四郎兵衛の一行三人はいずれも顔を傷つけているので、その混雑の人びとに見送られるのが恥かしかった。
 若葉どきの慣いで、きょうは朝から曇って薄ら寒いように思われたが、島へ着く頃から空の色はいよいよ怪しくなって、細かい雨がさらさらと降り出して来た。三人はその雨に濡れながら宿へ帰った。
「今夜は泊るとして、あしたはどうしようかね。」と、お杉は言った。
 今夜は江の島に泊って、あしたは足ついでに鎌倉見物の予定であったが、出先の災難に気をくさらせたお杉は、早く江戸へ帰りたいような気にもなった。自分と義助は差したることもないが、四郎兵衛の顔の腫れているのも何だか不安であった。一日も早く江戸へ帰って療治をしなければなるまいかとも思った。
「また来るといっても、めったに出られるものじゃあない、折角来たのだから、やっぱり鎌倉へ廻りましょうよ。」と、四郎兵衛は言った。
「でも、おまえの怪我はどうだえ。痛むだろう。」
「なに、大したこともありません。多寡《たか》が打傷《うちきず》ですから。」
「じゃあ、まあ、あしたになっての様子にしよう。なにしろお前は少し横になっていたらいいだろう。」
 宿の女中に枕を借りて、四郎兵衛を暫く寝かして置くことにした。平生は軽口で冗談などをいう義助も、唯ぼんやりと黙っていた。雨はだんだん強くなって、二階の縁側から見晴らす海も潮けむりに暗かった。
「あいにく降り出しまして、御退屈でございましょう。」と、宿の女中が縁側から顔を出した。
「お江戸の松沢さんと仰しゃる方がたずねてお出《い》でになりましたが、お通し申してよろしゅうございましょうか。」

     

 やがてこの座敷へ通されて来た三十前後の町人風の男は、京橋の中橋《なかばし》広小路に同商売の菓子屋を営んでいる松沢という店の主人庄五郎であった。
「おや、お珍しいところで……。お前さんも御参詣でしたか。」と、お杉は笑って迎えた。
「わたしは講中の人たちと一緒にきのう来ました。」と、庄五郎も笑いながら[#「笑いながら」は底本では「笑いなから」]言った。「さっきこの宿へはいるうしろ姿が、どうもお前さん方らしいので、尋ねて来てみたらやっぱりそうでした。」
「わたし達は神奈川をけさ発って、お午《ひる》ごろに参りました。」
「それじゃあ誘い合せて来ればよかった。」と、言いながら庄五郎は少し眉を皺めた。「おかみさんといい、義助さんといい、みんな揃って怪我をしていなさるようだが、途中でどうかしなすったか。」
 藤沢の宿《しゅく》で飛んだ災難に出逢ったことを、お杉と義助から代るがわるに聞かされて、庄五郎はいよいよ顔色を暗くした。彼は低い溜息を洩らしながら、座敷の片隅に寝ころんでいる四郎兵衛の顔を覗いた。四郎兵衛は熱でも出たように、うとうとと眠っていた。
 あしたは鎌倉へ廻ろうか、それとも真っ直ぐに江戸へ帰ろうかというお杉の相談に対して、庄五郎は思案しながら言った。
「真っ直ぐに江戸へ帰るとすれば、もう一度その茶屋の前を通らなければならない。また何事かあると面倒だから、鎌倉をまわって帰る方がいいでしょうよ。」
「それもそうですねえ。」と、お杉はうなずいた。
 庄五郎の宿は近所の恵比寿屋であるというので、帰るときに義助は傘をさして送って出た。今までの混雑に引換えて、雨の降りしきる往来に人通りは少なかった。義助はあるきながらそっと訊いた。
「藤沢の女はまったく気違いでしょうか。それとも何か子細があるのでしょうか。」
 さっきから庄五郎の顔色と口振りとを窺って、義助は彼が何かの子細を知っているのではないかと疑ったからである。果して庄五郎は小声で言った。
「おまえは知らないか。その女は三十|間堀《けんぼり》の喜多屋という船宿に奉公していた女に相違ない。目と鼻のあいだに住んでいながら、おまえは一度も見たことがないのか。」
 そう言われて、義助も気がついた。お安に似たような女が近所の河岸の船宿の前に立っていたり、表を掃いていたりしたのを見たような記憶もある。但しそれは四、五年も前のことで、近来はそんな女のすがたを見かけなかった。それが突然に藤沢の宿にあらわれて、自分の主人に乱暴狼藉を働いたのは、一体どういう子細があるのか。義助はそれを知りたかった。
「あの女はお前の主人を仇だと言ったそうだが……。」と。庄五郎は意味ありげに言った。「四郎兵衛さんにも何か怨まれる訳があるのだろう。ともかくも再び藤沢を通らない方が無事だ。」
「お前さんはいつお帰りです。」と、義助は訊いた。
「わたし達はあした帰る。お前たちも一緒に連れて行ってやりたいが、藤沢の一件があるから道連れは困る。又ぞろ何かの間違いがあると、わたしばかりでなく、講中一同が迷惑する。お前たちは鎌倉をまわって帰りなさい。」
 繰返して言い聞かせて、庄五郎は恵比寿屋の門口《かどぐち》で義助に別れた。その意味ありげな言葉によって想像すると、お安という女が四郎兵衛を悩ましたのは、気違いでなく、人違いでなく、何か相当の子細があるに相違ないと義助は思った。
 小泉の店は旧家で、大名屋敷や旗本屋敷へも出入りをしている。菓子商売のほかに地所や家作《かさく》を持っていて、身上《しんしょう》もいい。主人はまだ若い。四年前に嫁を貰って無事に暮らしているが、独り者の頃には多少の道楽もしたように聞いている。世間によくあるためしで、主人は船宿の女と夫婦《みょうと》約束でもして置きながら、それを反古《ほご》にして他から嫁を貰った。お安という女はそれを怨んでいて、ここで測らずも出会ったのを幸いに、さざえのつぶての仇討となったかも知れない。果してそうであれば、傍杖《そばづえ》を食ったおかみさんと自分はともあれ、主人が痛い目をみるのは是非ない事かとも思われた。いずれにしても元来た道を引っ返すのは危険である。庄五郎の忠告にしたがって、鎌倉をまわって帰るのが無事あろうと、義助は宿へ帰ると直ぐにお杉を別座敷へ呼んだ。
 義助の話を聞いて、お杉も眉を皺めた。誰の考えも同じことで、かのお安がそういう素姓の女であれば、おそらく何かの約束を破って自分を振り捨てたという怨みであろうと、お杉も想像した。しかも今更そんな論議をしても仕方がない。差しあたりは危険を避けて鎌倉へまわるに如《し》くはないと、かれも義助の意見に同意することになった。
 雨は降りつづけている。この頃の長い日も早く暮れて、宿の女中が燭台を運んで来た。海の音もだんだんに高くなった。
「お江戸の小泉さんの旦那にお目にかかりたいと申して、女の人が見えました。」
 女中の取次を聞いて、お杉と義助は顔を見合せた。殊にそれが女であるというので、二人は何だかぎょっとした。
「どんな女です。」と、お杉は念のために訊いた。
「二十二、三の人で、藤沢から来たといえば判るということでございました。この雨のなかをびしょ濡れになって……。」
 二人はいよいよ薄気味悪くなった。この雨のなかをびしょ濡れになって藤沢から追って来た以上、なにかの覚悟があるに相違ない。今度はさざえの殻ぐらいでなく、短刀か匕首《あいくち》でも忍ばせて来たかも知れない。それを思うと、二人は魔物に魅《みこ》まれたように怖ろしくなって来た。
「どうしたもんだろう。」と、お杉は途方に暮れたようにささやいた。
「そうですねえ。」
 義助も返事に困ったが、この場合、家来の身として主人の矢おもてに立つのほかはないと決心した。
「よろしゅうございます。わたくしが行って、どんな用か聞いてみましょう。」
「お前、気をおつけよ。」と、お杉は不安らしく言った。
 思い切って起《た》ち上がろうとする義助を、四郎兵衛は呼びとめた。彼はいつのまにか目を醒ましていたのである。
「義助、お待ち……。藤沢から来た女はわたしが会おう。」
「いいかえ。お前が会っても……。」と、お杉はいよいよ不安らしく言った。
「義助はなんにも知らないのですから、会ったところでどうにもなりません。わたしが会います。」
 四郎兵衛は直ぐに起きあがって、女中と共に梯子を降りて行った。お杉と義助は又もや顔を見合せた。どう考えても不安である。
 そこへ又、女中が引っ返して来た。
「あの、旦那さまが仰しゃいましたが、どなたも決して下へお出でにならないように……。」
「承知しました。」と言って、女中を去らせたあとで、お杉は義助に又ささやいた。「して見ると、やっぱり覚えがあるのだね。出先で多分の用意もないが、金で済むことなら何とでも話を付けるか……。」
「旦那も大かたそのつもりでしょう。」
「そうだろうねえ。」
 四郎兵衛は容易に戻って来なかった。それが円満に解決した為か、それとも談判がむずかしい為かと、二人は息をつめてその成行きを案じていると、やがて、遠い下座敷で立ち騒ぐような物音がきこえた。人の叫ぶような声も洩れた。
「おまえ、行って御覧よ。」と、お杉はあわてて言った。
 もう堪《たま》らなくなって、義助は梯子を駈けおりて行くと、一人の女が宿屋の若い者らに押しすくめられて、表へ突き出されているのであった。距離が遠いので確かには判らなかったが、その女のうしろ姿は藤沢のお安らしかった。かれは表へ突き出されて、降りしきる雨のなかに姿を消した。
 四郎兵衛は腫れあがった顔を蒼くして、二階座敷へ戻って来た。
 夕飯の膳が運び出されたが、彼は碌ろくに箸を執らなかった。何をきいても確かな返事をしなかった。
「子細はあとで話します。」
 開帳の賑わいで、どこの宿屋も混雑している。この一行の座敷は海にむかった角《かど》にあるが、それでも一方の隣り座敷には三、四人の客が泊り合せていて、昼から騒々しく話したり笑ったりしている。それらの聞く耳を憚って、四郎兵衛は迂濶にその秘密を明かさないらしかったが、となりの人たちはしゃべり疲れて、宵から早く床に就いたので、その寝鎮まるのを待って、彼は小声で話し出した。
「今までおっかさんにも黙っていました。義助はもちろん知るまい。どうも困った事があるのです。」
「お前はあの女に係合いであったのかえ。」と、お杉は待ちかねたように訊いた。
「いえ、そういう事なら又何とかなりますが……。」
 四郎兵衛の低い溜息の声を打消すように、夜の海の音はごうごうと高くきこえた。

     

 前にもいう通り、小泉は暖簾のふるい菓子屋で、大名屋敷や旗本屋敷に幾軒の出入り先を持っていた。殊に大名屋敷に出入りしているのは、店の名誉でもあり、利益でもあるから、大切に御用を勤めること勿論である。中国筋の某藩の江戸屋敷に香川甚五郎という留守居役があって、平素から四郎兵衛を贔屓《ひいき》にしていた。
 その甚五郎があるとき四郎兵衛にささやいた。
「四郎兵衛、気の毒だが、おまえに一つ働いてもらいたいことがある。肯《き》いてくれるか。」
「代々のお出入り、殊にあなた様のお頼みでござりますなら、何なりとも御用を勤めましょう。」と、四郎兵衛は即座に請合った。それは今から四年前のことで、かれが二十二歳の春であった。
「おまえはちっと道楽をするそうだが、近所の三十間堀の喜多屋という船宿を知っているだろう。」
「存じております。」
「おれも知っている。あすこにお安という小綺麗な女がいる……。いや、早合点するな。おれに取持ってくれというのではない。あの女のからだを借りたいのだ。」
 甚五郎の説明によると、そのお安という女を写生したいというのである。顔は勿論、全身を赤はだかにして、手足から乳のたぐいに至るまでいっさいを写生する――今日のモデルとは意味が違って、いわば一種の春画である。それは幕府の役人に贈る秘密の賄賂で、金銭は珍しくない、普通の書画骨董類ももう古い。なにか新奇の工夫をと案じた末に、思い付いたのが裸体美人の写生画で、それを立派に表装して箱入りの贈り物にする。箱をあけて見て、これは妙案と感心させる趣向である。しかもその女が芸者や遊女では面白くない。さりとて堅気の娘がそんな注文に応ずる筈がない。結局、商売人と素人との中を取って、茶屋女のような種類に目をつけたのであるが、それとても選択がむずかしい。容貌《きりょう》がいいだけでもいけない。容貌もよし、姿も整って、年も若く、なるべく男を知らない女などという種々の注文をならべ立てると、その候補者はなかなか見いだせない。たとい見いだされたとしても、本人が不承知であればどうにもならない。
 その選択に行き悩んで、白羽《しらは》の矢を立てたのが喜多屋のお安であった。お安はそのころ十九の若い女で、すぐれた美人というのではないが、目鼻立ちの整った清らかな顔の持主で、背格好も肉付きもまず普通であった。船宿などに奉公する女であるから、どこか小粋《こいき》でありながら、下卑ていない。身持もよくて、これまでに浮いた噂もないという。それらの条件に合格したのが、お安の幸か不幸か判らなかったが、ともかくも甚五郎はかれに目を付けた。
 しかし問題が問題であるだけに、甚五郎はお安にむかって直接談判を開くことを躊躇した。彼は四郎兵衛をたのんで、その口からお安を口説き落させようと考えたのである。
「喜多屋の女房に頼んでもいいが、あいつは少し質《たち》のよくない奴だ。そんなことを根にして後《あと》ねだりなどをされるとうるさい。又その噂が世間へ洩れても困る。これはお安ひとりを相手の相談にしなければならない。他人にはいっさい秘密だ。」
 難儀の役目を言い付けられて、四郎兵衛も困った。しかも代々の出入り屋敷といい、平素から世話になっている留守居役が折り入って頼むのを、すげなく断るわけにもいかないので、彼はとうとうこの難役を引受けた。そして、どうにかこうにか本人のお安を説き伏せて、二十両の裸代を支払うことに取決めた。
 甚五郎も満足して万事の手筈を定め、お安は藤沢の叔母が病気だという口実で、主人の喜多屋から幾日かの暇を貰って、浅草辺の或る浮世絵師の家に泊り込むことになった。その絵師のことは四郎兵衛もよく知らないが、おそらく甚五郎から高い画料を受取ったのであろう。絵はとどこおりなく描きあがって、その出来栄えのいいのに甚五郎はいよいよ満足した。約束の二十両は四郎兵衛の手を経てお安に渡された。
 これでこの一件は無事に済んだ筈であるが、それから半年ほどの後に、お安はなんと思ったか、四郎兵衛にむかって、二十両の金を返すからあの裸体画を取戻してくれと言い出した。その絵はどこへ行ったか知らないが、甚五郎の手許に残っていないことは判っているので、四郎兵衛はそのわけを言って聞かせたが、お安はどうしても承知しない。自分のあられもない姿が世に残っているかと思うと、恥かしいと情けないとで、居ても立ってもいられないような気がする。是非ともあの裸体画を取戻して焼き捨ててしまわなければ、自分の気が済まないというのである。勿論お安が最初から素直に承知したのではない、忌《いや》がるものを無理に納得させたのであるが、ともかくも承知して万事を済ませた後、今更そんなことを言い出されては困る。それを甚五郎に取次いだところで、どうにもならない事は判り切っている。あるいは後《あと》ねだりをするのかと思って、四郎兵衛はさらに十両か十五両の金をやるといったが、お安は肯かない。自分の方から二十両の金を突きつけて、どうしても返してくれと迫るのであった。
 それは無理だといろいろに賺《すか》しても宥《なだ》めても、お安は肯かない。かれは顔色を変えて、さながら駄駄ッ子か気違いのように迫るのである。四郎兵衛も年が若いので、しまいには我慢が出来なくなった。
「これほど言って聞かせても判らなければ、勝手にしろ。」
「勝手にします。あたしは死にます。」
 二人は睨み合って別れた。それから幾日かの後に、お安は喜多屋から突然に姿を消した。まさかに死んだのではあるまいと思いながらも、四郎兵衛はあまりいい心持がしなかった。その後に甚五郎に会った時に、彼はお安に手古摺《てこず》った話をすると、甚五郎は笑った。
「それは困ったろう。あの絵は偉い人のところに納まっているのだから、取返せるものではない。しかし不思議なことがある。あれを描いた絵師はこのあいだ頓死をしたよ。お安に執殺《とりころ》されたのかな。」
 絵師の死はお安が喜多屋を立去ったのちの出来事であるのを知って、四郎兵衛は又もや忌《いや》な心持になった。
「今度はお互いの番だ。気をつけなければなるまいよ。」と、甚五郎はまた笑った。四郎兵衛は笑ってもいられなかった。
 しかもその後に何事も起らず、四郎兵衛はお夏という娘を貰って無事に暮らしていた。お安の消息は知れなかった。それが足掛け五年目のきょう、思いも寄らない所でめぐり逢って、四郎兵衛は幽霊に出逢ったように驚かされたのである。お安のかたき討はさざえのつぶてで済んだのではなかった。かれは江の島の宿まで執念ぶかく追って来たのである。その話によると、自分の恥かしい絵姿が江戸のうちの何処にか残っていると思うと、どうしても江戸にはいたたまれないので、喜多屋から無理に暇を取って京大坂を流れあるいて、去年から藤沢の叔母のもとへ帰って来たというのである。
 それはともかくも、お安は相変らず四郎兵衛にむかって、かの裸体画を返せと迫るのであった。
 その当時でさえも返せなかったものを、今となって返せるわけがないと、四郎兵衛は繰返して説明したが、お安は肯かない。ここで逢ったのを幸いに、江戸へ一緒に連れて行って、あの絵を戻せと言い張るので、四郎兵衛もほとほと持て余した。旅先で十分の用意もないから、せめてこれを小遣いにしろといって、彼は五両の金を差出したが、お安は金を貰いに来たのではないといって、その金を投げ返した。
 どうにもこうにも手がつけられないので、結局は又もや喧嘩となった。
 それを聞き付けた宿の者どもが寄って来て、たけり狂うお安を取押えて無理に表へ突き出してしまった。
「考えてみれば可哀そうなようでもありますが、何をいうにも半気違いのようになっていて、人の言うことが判らないので困ります。」と、四郎兵衛は話し終って又もや溜息をついた。
「それじゃあ、あしたも又来やあしないかね。」と、お杉も溜息まじりに言った。
「来るかも知れません。」
「こうと知ったら江の島なんぞへ来るのじゃあなかったねえ。」
「お安の叔母が藤沢にいるとは聞いてもいましたが、今じゃあすっかり忘れてしまって、うっかり来たのが間違いでした。」
「あしたは早朝にここを発って[#「発って」は底本では「発つて」]、鎌倉をまわって帰ろうよ。」
「それに限ります。」と、義助も言った。
「早く夜が明ければいいねえ。」と、お杉は言った。
 雨天ならばあしたも逗留という予定を変更して、雨が降ろうが、風が吹こうが、あしたは早々に出発と相談を決めて、三人はともかくも枕に就いたが、雨の音、海の音、さなきだに不安の夢にしばしば驚かされた。

     

 あしたは晴れるようにと、お杉が碌ろく寝もやらず弁財天を念じ明かした奇特《きどく》か、雨は暁け方からやんで、二十五日の朝は快晴となった。その朝日のひかりを海の上に拝んで、お杉は思わず手をあわせた。きょうの晴れは自分たちの救われる兆《しるし》であるようにも思われた。
 三人は早々に朝飯の箸をおいて、出がけに再び下の宮に参詣した。四郎兵衛とお杉は草履、義助は草鞋、皆それぞれに足拵えをして宿の者に教えられた通りに、鎌倉から金沢へ出て、それから四里あまりの路をたどって程ヶ谷へ着くという予定である。
 四郎兵衛の顔の傷も思いのほかに軽かったとみえて、今朝は腫れもひいて痛みも薄らいだ。天気もうららかに晴れているので、三人は徒歩《かち》で鎌倉まで行くことにした。ほかにもそういう考えの人たちがあるので、道連れではないが、あとさきになって同じ路をゆく群れが多かった。その人びとの苦労のない高話や笑い声を聴きながら歩いていると、三人の気分も次第に晴れやかになった。まさかにお安もここまでは付いて来ないだろうと幾分の安心も出て、四郎兵衛もゆるやかに煙草などをすいながら歩いた。
 無事に鎌倉に行き着いて、型のごとくに名所古蹟を見物した。ゆうべまでは鎌倉を通りぬけて、真っ直ぐに江戸へ帰るつもりであったが、さてここまで無事に来て見ると、そんなに慌てて逃げ帰るには及ぶまいという油断が出たのと、めったに再び来ることも出来ないというので、三人は他の人たちと同じように見てあるいた。八幡の本社はこの二月の火事に類焼して、雪の下の町もまだ焼け跡の整理が届かないのであるが、江の島開帳を当て込みに仮普請のままで商売を始めている店も多かった。
 しかも仇を持っているような三人は、さすがに悠々とここに一泊する気にはなれなかった。今夜は金沢で泊ることにして、見物はまずいい加減に切上げて、鎌倉のお名残りに由比ヶ浜へ出て、貝をあさる女子供の群れをながめながら、稲村ヶ崎の茶屋に休んでいると、五十前後の男が牛を牽《ひ》いて来た。
「牛に乗ってくだせえましよ。」
 ここらの百姓が農事のひまに牛を牽いて来て、旅の人たちに乗れと勧めるのは多年の慣いである。牛に乗ると長生きをするなどというので、おもしろ半分に乗る人がある。鎌倉へ来た以上、話のたねに牛に乗って行こうという人もある。それらの客を目当てに牛を牽いた百姓らがそこらに徘徊しているのも、鎌倉名物の一つであった。
「その牛はおとなしいかえ。」と、お杉は訊いた。
「みんな牝牛《めうし》だからねえ。おとなしいこと請合いですよ。馬や駕籠に乗るよりも、どんなに楽だか知れやあしねえ。」と、百姓は言った。
「ほかの牛も直ぐに呼んで来ますから、三人乗っておくんなせえ。」
「いや、お前だけでいい。男はあるいていく。」と、四郎兵衛は言った。
 金沢までの相談が決まって、足弱のお杉だけが、話の種に乗ることになった。男ふたりは附添って歩いた。牛を追ってゆくのは五十前後の正直そうな男であった。初めて牛に乗ったお杉は、案外に乗り心地のよいのを喜んでいた。
「落されるような事はあるまいね。」と、お杉は牛の背に横乗りをしていながら言った。
「馬から落ちたという事はあるが、牛から落ちたという話は聞かねえ。」と、男は笑った。「牛はおとなしいから、背中で踊ったって大丈夫ですよ。」
 この頃は日は長い。鎌倉山の若葉をながめながら、牛の背にゆられて行くのは、いかにも初夏の旅らしい気分であった。小《こ》一里も行き過ぎてからお杉は四郎兵衛に声をかけた。
「お前さん、わたしと代って乗って御覧よ。ほんとうにいい心持だよ。」
「じゃあ、少し代らせてもらいましょうか。」
 おもしろ半分が手伝って、四郎兵衛は母と入れかわって牛の背にまたがった。やがて朝夷《あさひな》の切通しに近いという頃に、むこうから同じく牛を牽いた男が来るのに出逢った。
「おお、お前は金沢か。」と、彼はこちらの男に大きい声で呼びかけた。「おらも金沢へ送って来た戻り路だよ。」
「ゆうべの雨で路はどうだ。」
「雨が強かったせいか、路は悪かあねえ。」
「それじゃあ牛も大助かりだ。」
「助かるといえば、お前のところのお安はどうした。」と、彼は立ちどまって訊いた。
「どうもよくねえ。」と、こちらの男は答えた。「医者さまは風邪を引いたのだというが、熱がひどいので傷寒《しょうかん》にでもならにゃあいいがと心配しているのだ。どこへ行ったのだか知らねえが、きのうの夕方、店をしめると直ぐにどっかへ出て行って、びしょ濡れになって雨のなかを夜ふけに帰って来たが、それで風邪を引いたに相違ねえ。おらは商売を休むわけにもいかねえから、嬶《かか》に看病させて、こうして出て来ているのだが、なんだか気がかりでならねえ。」
「そりゃ困ったな。あの雨のふるのにどこへ行ったのだろう。」
「それを詮議しても素直に言わねえ。江戸の客を追っかけて江の島へ行ったらしいのだが……。」
「なにしろ大事にしろよ。」
「おお。」
 二人は挨拶して別れた。牛の上でそれを聞いていた四郎兵衛は、自分の顔の傷を隠したくなった。お杉も義助も逃げ出したいような心持になった。
「おまえの家《うち》に何か病人があるのかね。」と、四郎兵衛は探るように訊いた。
「はあ、わたしの女房の姪《めい》ですよ。」と、男は牛をひきながら答えた。「今もいう通りだ。ゆうべから急に風邪を引いて、熱が出て、なんだか死にそうで、困っていますよ。」
「おまえの家はどこだ。」
「藤沢ですよ。少し遠いが、商売だから仕方がねえ。朝早くから牛を牽いて、鎌倉まで出て来ましたのさ。」
「おまえの姪は茶店でも出しているのかえ。」
「そうですよ。よく知っていなさるね。」
 男は思わず振返って、牛の上をみあげると、その途端に、牛は高く吼《ほ》えた。四郎兵衛は物におびえたように身をふるわせて、牛の背から突然にころげ落ちた。牛から落ちた話を聞かないと男は言ったが、それを裏切るように、彼は真っ逆さまにころげ落ちたのである。馬とは違って、牛の背は低い。それから地上に落ちたところで、さしたる事もあるまいと思われるが、四郎兵衛はそのまま気絶してしまった。
 牛方の男もおどろいたが、お杉と義助はさらに驚かされた。男は近所から清水を汲んで来て、四郎兵衛にふくませた。三人の介抱で、四郎兵衛はようように息を吹きかえしたが、夢みる人のようにぼんやりしていた。
 折りよくそこへ一挺の駕籠が通り合せたので、お杉と義助は四郎兵衛を駕籠に乗せかえた。牛方の男には金沢までの駄賃を払って、ここから帰してやることにした。男はひどく気の毒がって、幾たびか詫びと礼を言った。
「わたしの牛は今まで一度もお客を落したことはねえのに、どうしてこんな粗相《そそう》を仕出かしたのか。まあ、どうぞ勘弁しておくんなせえ。」
 お杉は罪ほろぼしのような心持で、この男の姪に幾らかの療治代でも恵んでやりたかったが、迂濶なことをして覚えられては悪いと思い直して、それはやめた。なんにも知らないらしいかの男は、詫びと礼とを繰返して言った。
 牛と別れて、二人はほっとした。傷寒で死にかかっているというお安の魂が、かの牛に乗りうつって来たかとも思われたからである。二人は再び不安に襲われながら、四郎兵衛の駕籠を護って金沢へ急いだ。
 金沢の宿《しゅく》に着いても、四郎兵衛はまだぼんやりしていた。ここでは思うような療治も出来ないというので、翌日の早朝に、この一行は三挺の駕籠をつらねて江戸へ帰ったが、江戸の医者たちにもその容態が判らなかった。ある者は牛から落ちた時に頭を強く撲《う》ったのであろうと言い、ある者はさざえの殻でぶたれた傷から破傷風になったのであろうと言い、その診断がまちまちであった。四郎兵衛は高熱のために、五、六日の後に死んだ。彼は死ぬまで一と言もいわなかった。
 お安の裸体画をかいた絵師は頓死したといい、その周旋をした四郎兵衛はこの始末である。義助はある時それを香川甚五郎にささやくと、甚五郎はまだ笑っていた。
「今度はいよいよおれの番かな。」

 果して彼の番になった。それから一年ほどの後に、甚五郎は身持|放埒《ほうらつ》の廉《かど》を以って留守居役を免ぜられ、国許逼塞《くにもとひっそく》を申付けられた。
 さてその本人のお安という女は、病気のために死んだかどうだか、その後の消息は判らなかった。その時代のことであるから、江戸から藤沢までわざわざ取調べにも行かれないので、小泉の店でもそのままにしてしまった。

底本:「蜘蛛の夢」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年4月20日初版1刷発行
初出:「富士」
   1934(昭和9)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:花田泰治郎
2006年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

異妖編—— 岡本綺堂

 K君はこの座中で第一の年長者であるだけに、江戸時代の怪異談をたくさんに知っていて、それからそれへと立て続けに五、六題の講話があった。そのなかで特殊のもの三題を選んで左に紹介する。

     一 新牡丹燈記

 剪燈新話のうちの牡丹燈記を翻案した、かの山東京伝の浮牡丹全伝や、三遊亭円朝の怪談牡丹燈籠や、それらはいずれも有名なものになっているが、それらとはまたすこし違ってこんな話が伝えられている。
 嘉永《かえい》初年のことである。四谷塩町の亀田屋という油屋の女房が熊吉という小僧をつれて、市ヶ谷の合羽坂下を通った。それは七月十二日の夜の四つ半(午後十一時)に近いころで、今夜はここらの組屋敷や商人店《あきんどみせ》を相手に小さい草市《くさいち》が開かれていたのであるが、山の手のことであるから月桂寺の四つの鐘を合図に、それらの商人もみな店をしまって帰って、路ばたには売れのこりの草の葉などが散っていた。
「よく後片付けをして行かないんだね。」
 こんなことを言いながら、女房は小僧に持たせた提灯の火をたよりに暗い夜路をたどって行った。町家の女房がさびしい夜ふけに、どうしてここらを歩いているかというと、それは親戚に不幸があって、その悔みに行った帰り路であった。本来ならば通夜をすべきであるが、盆前で店の方も忙しいので、いわゆる半通夜で四つ過ぎにそこを出て来たのである。月のない暗い空で、初秋の夜ふけの風がひやひやと肌にしみるので、女房は薄い着物の袖をかきあわせながら路を急いだ。
 一|時《とき》か半時前までは土地相応に賑わっていたらしい草市のあとも、人ひとり通らないほどに静まっていた。女房がいう通り、市《いち》商人は碌々に後片付けをして行かないとみえて、そこらにはしおれた鼠尾草《みそはぎ》や、破れた蓮の葉などが穢ならしく散っていた。唐もろこしの殻や西瓜の皮なども転がっていた。その狼藉たるなかを踏みわけて、ふたりは足を早めてくると、三、四間さきに盆燈籠のかげを見た。それは普通の形の白い切子燈籠《きりこどうろう》で、別に不思議もないのであるが、それが往来のほとんどまん中で、しかも土の上に据えられてあるように見えたのが、このふたりの注意をひいた。
「熊吉。御覧よ。燈籠はどうしたんだろう。おかしいじゃないか。」と、女房は小声で言った。
 小僧も立ちどまった。
「誰かが落して行ったんですかしら。」
 落し物もいろいろあるが、切子《きりこ》燈籠を往来のまん中に落して行くのは少しおかしいと女房は思った。小僧は持っている提灯をかざして、その燈籠の正体をたしかに見届けようとすると、今まで白くみえた燈籠がだんだんに薄あかくなった。さながらそれに灯《ひ》がはいったように思われるのである。そうして、その白い尾を夜風に軽くなびかせながら、地の上からふわふわと舞いあがっていくらしい。女房は冷たい水を浴びせられたような心持になって、思わず小僧の手をしっかりと掴んだ。
「ねえ、お前。どうしたんだろうね。」
「どうしたんでしょう。」
 熊吉も息を呑み込んで、怪しい切子燈籠の影をじっと見つめていると、それは余り高くも揚がらなかった。せいぜいが地面から三、四尺ほどのところを高く低くゆらめいて、前に行くかと思うと又あとの方へ戻ってくる。ちょっと見ると風に吹かれて漂《ただよ》っているようにも思われるが、かりにも盆燈籠ほどのものが風に吹かれて空中を舞いあるく筈もない。ことに薄あかるくみえるのも不思議である。何かのたましいがこの燈籠に宿っているのではないかと思うと、女房はいよいよ不気味になった。
 今夜は盂蘭盆《うらぼん》の草市で、夜ももう更けている。しかも今まで新ぼとけの前に通夜をして来た帰り路であるから、女房はなおさら薄気味わるく思った。両側の店屋《てんや》はどこも大戸をおろしているので、いざという場合にも駈け込むところがない。かれはそこに立竦《たちすく》んでしまった。
「人魂《ひとだま》かしら。」と、かれはまたささやいた。
「そうですねえ。」と、熊吉も考えていた。
「いっそ引っ返そうかねえ。」
「あとへ戻るんですか。」
「だって、お前。気味が悪くって行かれないじゃあないか。」
 そんな押問答をしているうちに、燈籠の灯は消えたように暗くなった。と思うと、五、六間さきの方へゆらゆらと飛んで行った。
「きっと狐か狸ですよ。畜生!」と、熊吉は罵るように言った。
 熊吉はことし十五の前髪であるが、年のわりには柄も大きく、力もある。女房もそれを見込んで今夜の供につれて来たくらいであるから、最初こそは燈籠の不思議を怪しんでいたが、だんだんに度胸がすわって来て、かれはこの不思議を狐か狸のいたずらと決めてしまった。かれは提灯のひかりでそこらを照らしてみて、路ばたに転がっている手頃の石を二つ三つ拾って来た。
「あれ、およしよ。」
 あやぶんで制する女房に提灯をあずけて、熊吉は両手にその石を持って、燈籠のゆくえを睨んでいると、それがまたうす明るくなった。そうして、向きを変えてこっちへ舞いもどって来たかと思うと、あたかも火取り虫が火にむかってくるように、女房の持っている提灯を目がけて一直線に飛んで来たので、女房はきゃっといって提灯を投げ出して逃げた。
「畜生!」
 熊吉はその燈籠に石をたたきつけた。慌てたので、第一の石は空《くう》を打ったが、つづいて投げつけた第二の礫《つぶて》は燈籠の真っ唯中にあたって、確かに手ごたえがしたように思うと、燈籠の影は吹き消したように闇のなかに隠れてしまった。そのあいだに、女房は右側の店屋の大戸を一生懸命に叩《たた》いた。かれはもう怖くてたまらないので、どこでも構わずにたたき起して、当座の救いを求めようとしたのであった。一旦消えた燈籠は再びどこからか現れて、あたかも女房が叩いている店のなかへ消えていくように見えたので、かれはまたきゃっと叫んで倒れた。
 叩かれた家では容易に起きて来なかったが、その音におどろかされて隣りの家から四十前後の男が半裸体のような寝巻姿で出て来た。かれは熊吉と一緒になって、倒れている女房を介抱しながら自分の家へ連れ込んだ。その店は小さい煙草屋であった。気絶こそしないが、女房はもう真っ蒼になって動悸のする胸を苦しそうに抱えているので、亭主の男は家内の物を呼び起して、女房に水を飲ませたりした。ようやく正気にかえった女房と小僧から今夜の出来事をきかされて、煙草屋の亭主も眉をよせた。
「その燈籠はまったく隣りの家《うち》へはいりましたかえ。」
 たしかにはいったと二人が言うと、亭主はいよいよ顔をしかめた。その娘らしい十七八の若い女も顔の色を変えた。
「なるほど、そうかも知れません。」と、亭主はやがて言い出した。「それはきっと隣りの娘ですよ。」
 女房はまた驚かされた。かれは身を固くして相手の顔を見つめていると、亭主は小声で語った。
「隣りの家は小間物屋で、主人は六年ほど前に死にまして、今では後家の女あるじで、小僧ひとりと女中一人、小体《こてい》に暮らしてはいますけれど、ほかに家作《かさく》なども持っていて、なかなか内福だということです。ところが、お貞さんというひとり娘……ことし十八で、わたしの家《うち》の娘とも子供のときからの遊び友達で、容貌《きりょう》も悪くなし、人柄も悪くない娘なのですが、半年ほど前にもこんなことがありました。
 なんでも正月の暗い晩でしたが、やはり夜ふけに隣りの戸を叩く音がきこえる、わたしは眼ざといもんですから、何事かと思って起きて出ると、侍らしい人が隣りのおかみさんを呼出して何か話しているようでしたが、やがてそのまま立去ってしまったので、わたしもそのままに寝てしまいました。すると、あくる日になって、となりのお貞さんが家《うち》の娘にこんなことを話したそうです。わたしはゆうべぐらい怖かったことはない。なんでも暗いお堀端のようなところを歩いていると、ひとりのお侍が出て来て、いきなり刀をぬいて斬りつけようとする。逃げても、逃げても、追っかけてくる。それでも一生懸命に家まで逃げて帰って、表口から転げるように駈け込んで、まあよかったと思うと夢がさめた。そんなら夢であったのか。どうしてこんな怖い夢を見たのかと思う途端に、表の戸を叩く音がきこえて、おっ母さんが出てみると、表には一人のお侍が立っていて、その人のいうには、今ここへくる途中で往来のまん中に火の玉のようなものが転げあるいているのを見た……。」
 聞いている女房はまたも胸の動悸が高くなった。亭主は一と息ついてまた話し出した。
「そこでそのお侍は、きっと狐か狸がおれを化かすに相違ないと思って、刀を抜いて追いまわしているうちに、その火の玉は宙を飛んでここの家へはいった。ほんとうの火の玉か、化物か、それは勿論判らないが、なにしろここの家へ飛び込んだのを確かに見届けたから、念のために断って置くとかいうのだそうです。となりの家でも気味悪がって、すぐにそこらを検《あらた》めてみだが、別に怪しい様子もないので、お侍にそう言うと、その人も安心した様子で、それならばいいと言って帰った。お貞さんも奥でその話を聞いていたので、寝床から抜出してそっと表をのぞいてみると、店先に立っている人は自分がたった今、夢の中で追いまわされた侍そのままなので、思わず声をあげたくらいに驚いたそうです。
 お貞さんは家の娘にその話をして、これがほんとうの正夢というのか、なにしろ生れてからあんなに怖い思いをしたことはなかったと言ったそうですが、お貞さんよりも、それを聞いた者の方が一倍気味が悪くなりました。その火の玉というのは一体なんでしょう。お貞さんが眠っているあいだに、その魂が自然にぬけ出して行ったのでしょうか。その以来、家の娘はなんだか怖いといって、お貞さんとはなるたけ附合わないようにしているくらいです。そういうわけですから、今夜の盆燈籠もやっぱりお貞さんかも知れませんね。小僧さんが石をぶつけたというから、お貞さんの家《うち》の盆燈籠が破れてでもいるか、それともお貞さんのからだに何か傷でもついているか、あしたになったらそれとなく探ってみましょう。」
 こんな話を聞かされて、女房もいよいよ怖くなったが、まさかに、ここの家に泊めてもらうわけにもいかないので、亭主にはあつく礼をいって、怖々ながらここを出た。家へ帰り着くまでに再び火の玉にも盆燈籠にも出逢わなかったが、かれの着物は冷汗でしぼるようにぬれていた。
 それから二、三日後に、亀田屋の女房はここを通って、このあいだの礼ながらに煙草屋の店へ立寄ると、亭主は小声で言った。
「まったく相違ありません。隣りの家の切子《きりこ》は、石でも当ったように破れていて、誰がこんないたずらをしたんだろうと、おかみさんが言っていたそうです。お貞さんには別に変ったこともないようで、さっきまで店に出ていました。なにしろ不思議なこともあるもんですよ。」
「不思議ですねえ。」と、女房もただ溜息をつくばかりであった。
 この奇怪な物語はこれぎりで、お貞という娘はその後どうしたか、それは何にも伝わっていない。

     二 寺町の竹藪

 これはある老女の昔話である。
 老女は名をおなおさんといって、浅草の田島町に住んでいた。そのころの田島町は俗に北寺町と呼ばれていたほどで、浅草の観音堂と隣り続きでありながら、すこぶるさびしい寺門前の町であった。
 話は嘉永四年の三月はじめで、なんでもお雛さまを片付けてから二、三日過ぎた頃であると、おなおさんは言った。旧暦の三月であるから、ひとえの桜はもう花ざかりで、上野から浅草へまわる人跫《ひとあし》のしげき時節である。なま暖かく、どんよりと曇った日の夕方で、その頃まだ十一のおなおさんが近所の娘たち四、五人と往来で遊んでいると、そのうちの一人が不意にあら[#「あら」に傍点]と叫んだ。
「お兼ちゃん。どこへ行っていたの。」
 お兼ちゃんというのは、この町内の数珠《じゅず》屋のむすめで、午《ひる》すぎの八つ(午後二時)を合図に、ほかの友達と一緒に手習いの師匠の家から帰った後、一度も表へその姿をみせなかったのである。お兼はおなおさんとおない年の、色の白い、可愛らしい娘で、ふだんからおとなしいので師匠にも褒められ、稽古朋輩にも親しまれていた。
 このごろの春の日ももう暮れかかってはいたが、往来はまだ薄あかるいので、お兼ちゃんの青ざめた顔は誰の眼にもはっきりと見えた。ひとりが声をかけると、ほかの小娘も皆ばらばらと駈け寄ってかれのまわりを取巻いた。おなおさんも無論に近寄って、その顔をのぞきながら訊《き》いた。
「おまえさん、どうしたの。さっきからちっとも遊びに出て来なかったのね。」
 お兼ちゃんは黙っていたが、やがて低い声で言った。
「あたし、もうみんなと遊ばないのよ。」
「どうして。」
 みんなは驚いたように声をそろえて訊《き》くと、お兼はまた黙っていた。そうして、悲しそうな顔をしながら横町の方へ消えるように立去ってしまった。消えるようにといっても、ほんとうに消えたのではない。横町の角を曲っていくまで、そのうしろ姿をたしかに見たとおなおさんは言った。
 その様子がなんとなくおかしいので、みんなも一旦は顔を見合せて、黙ってそのうしろ影を見送っていたが、お兼の立去ったのは自分の店と反対の方角で、しかもその横町には昼でも薄暗いような大きい竹藪のあることを思い出したときに、どの娘もなんだか薄気味わるくなって来た。おなおさんも俄かにぞっとした。そうして、言い合せたように一度に泣き声をあげて、めいめいの家《うち》へ逃げ込んでしまった。
 おなおさんの家は経師《きょうじ》屋であった。手もとが暗くなったので、そろそろと仕事をしまいかけていたお父さんは、あわただしく駈け込んで来たおなおさんを叱りつけた。
「なんだ、そうぞうしい。行儀のわるい奴だ。女の児が日の暮れるまで表に出ていることがあるものか。」
「でも、お父《とっ》さん、怖かったわ。」
「なにが怖い。」
 おなおさんから詳しい話を聞かされても、お父さんは別に気にも留めないらしかった。なぜ暗くなるまで外遊びをしていると、おっ母さんにも叱られて、おなおさんはそのまま奥へ行って、親子三人で夕飯を食った。夜になって、お父さんは小僧と一緒に近所の湯屋へ行ったが、職人の湯は早い。やがて帰って来ておっ母さんにささやいた。
「さっきおなおが何を言っているのかと思ったらどうもおかしいよ。数珠屋のお兼ちゃんは見えなくなったそうだ。」
 それは湯屋で聞いた話であるが、お兼はきょうのお午《ひる》すぎに手習いから帰って来て、広徳寺前の親類まで使いに行ったままで帰らない。家でも心配して聞合せにやると、むこうへは一度も来ないという。どこにか路草を食っているのかとも思ったが、年のいかない小娘が日のくれるまで帰って来ないのは不思議だというので、親たちの不安はいよいよ大きくなって、さっきから方々へ手分けをして探しているが、まだその行くえが判らないとのことであった。
「こうと知ったら、さっきすぐに知らせてやればよかったんだが……。」と、お父さんは悔むように言った。
「ほんとうにねえ。あとで親たちに恨まれるのも辛《つら》いから、おまえさんこの子をつれてお兼ちゃんの家《うち》へ行っておいでなさいよ。遅まきでも、行かないよりはましだから。」と、おっ母さんはそばから勧めた。
「じゃあ、行って来ようか。」
 お父さんに連れられて、おなおさんは数珠屋の店へ出て行った。曇った宵はこの時いよいよ曇って今にも泣き出しそうな空の色がおなおさんの小さい胸をいよいよ暗くした。言いしれない不安と恐怖にとらわれて、おなおさんは泣きたくなった。数珠屋ではもう先に知らせて来たものがあったと見えて、夕方にお兼が姿をあらわしたことを知っていた。その竹藪はお寺の墓場につづいているので、お寺にも一応ことわって、大勢で今その藪のなかを探しているところだと言った。
「そうですか。じゃあ、わたしもお手伝いに行きましょう。」と、おなおさんのお父さんもすぐに横町の方へ行った。
 横町の角を曲ろうとするときに、お父さんはおなおさんを見返って言った。
「おまえなんぞは来るんじゃあねえ。早く帰れ。」
 言いすててお父さんは横町へかけ込んでしまった。それでも怖いもの見たさに、おなおさんはそっと伸び上がってうかがうと、暗い大藪の中には提灯の火が七つ八つもみだれて見えた。とぎれとぎれに人の呼びあうような声もきこえた。恐ろしいような、悲しいような心持で、おなおさんは早々に自分の家へかけて帰ったが、かれの眼はいつか涙ぐんでいた。おっ母さんに言いつけられて、小僧も横町の藪へ探しに行った。
 夜のふけた頃に、お父さんと小僧は近所の人たちと一緒に帰って来た。
「いけねえ。どうしても見つからねえ。なにしろ暗いので、あしたの事にするよりほかはねえ。」
 おなおさんはいよいよ悲しくなって、しくしくと泣き出した。おっ母さんも顔をくもらせて、お兼ちゃんは児柄《こがら》がいいから、もしや人攫《ひとさら》いにでも連れて行かれたのではあるまいかと言った。そんなことかも知れねえと、お父さんも溜息をついていた。まったくその頃には、人攫いにさらって行かれたとか、天狗に連れて行かれたとか、神隠しに遭ったとかいうような話がしばしば伝えられた。
「それだからお前も日が暮れたら、一人で表へ出るんじゃないよ。」と、おっ母さんはおどすようにおなおさんに言いきかせた。
 単におどすばかりでなく、現在お兼ちゃんの実例があるのであるから、おなおさんも唯おとなしくおっ母さんの説諭を聞いていると、おっ母さんはふと思い出したようにおなおさんに訊いた。
「ねえ、お前。お兼ちゃんはもうみんなと遊ばないよって言ったんだね。」
「そうよ。」
「それがおかしいね。」と、かれはお父さんの方へ向き直った。「してみると、人攫いや神隠しじゃあなさそうだと思われるが……。お兼ちゃんは自分の一料簡でどこへか姿を隠したんじゃないかねえ。」
「むむ。どうもわからねえな。」と、お父さんも首をかしげた。
 お兼はひとり娘で、親たちにも可愛がられている。まだ十一の小娘では色恋でもあるまい。それらを考えると、どうも自分の一料簡で家出や駈落ちをしそうにも思われない。結局その謎は解けないままで、経師屋の家では寝てしまった。おなおさんはやはり怖いような悲しいような心持で、その晩は安々と眠られなかった。
 あくる日になって、お兼のゆくえは判った。近所の竹藪などを掻きまわしていても所詮知れようはずはない。お兼はずっと遠い深川の果て、洲崎堤の枯蘆のなかにその亡骸《なきがら》を横たえているのを発見した者があった。お兼は腰巻ひとつの赤裸でくびり殺されていたのである。お兼は素足になっていたが、そこには同じ年頃らしい女の子の古下駄が片足ころげていた。更におどろかれるのは、年弱《としよわ》の二つぐらいと思われる女の児が、お兼の死骸のそばに泣いていた。これは着物を着たままで、からだには何の疵もなかった。幸いに野良犬にも咬まれずに無事に泣きつづけていたらしい。その赤児から手がかりがついて、それは花川戸の八百留という八百屋の子であることが判った。
 八百留には上総《かずさ》生れのお長ということし十三の子守女が奉公していて、その前日の午《ひる》すぎに、いつもの通り赤児を背負って出たままで、これも明くる朝まで帰らないので、八百留の家でも心配して心あたりを探し廻っているところであった。してみると、お長は洲崎堤でお兼を絞め殺して、その着物を剥ぎ取って、おそらくその下駄をもはきかえて、自分の背負っている赤児をそこへ置き捨てて、どこへか姿を隠したものであるらしい。ふたりがどうしてそんなところへ連れ立って行ったのか、それは勿論わからなかった。お兼を殺してその着物を剥ぎ取るつもりで、お長がお兼を誘い出したとすれば、まだ十三の小娘にも似合わぬ恐ろしい犯罪である。
 お長の故郷は知れているので、とりあえず上総の実家を詮議すると、実家の方へは戻って来ないということであった。数珠屋では娘の死骸を引取って、型の如くに葬式をすませた。
 それにしても不思議なのは、その日の夕方にお兼が自分の町内にすがたを現わして、おなおさんその他の稽古朋輩に暇乞いのような詞《ことば》を残して行ったことである。お兼はそれから深川へ行ったのか。それともかれはもう死んでいて、その魂だけが帰って来たのか。それも一つの疑問であった。おなおさんばかりでなく、そこにいた子供たちは同時に皆それを見たのであるから、思い違いや見損じであろうはずはない。
 かれが竹藪の横町へ行くうしろ姿をみて、言い合せたようにみんなが怖くなったというのをみると、どこにか一種の鬼気が宿っていたのかも知れない。いずれにしても、おなおさんを初め近所の子供たちは、確かにお兼ちゃんの幽霊に相違ないと決めてしまって、その以来、日の暮れる頃まで表に出ている者はなかった。親たちも早く帰ってくるように、わが子供らを戒めていた。
 しかし子供たちのことであるから、まったく遊びに出ないというわけにはいかない。それから十日あまりも過ぎた後、まだ七つ(午後四時)頃だからと油断して、おなおさん達が表に出て遊んでいると、ひとりがまた俄かに叫んだ。
「あら、お兼ちゃんが行く。」
 今度は誰も声をかける者もなかった。子供たちは息を呑み込んで、身をすくめて、ただそのうしろ影を見送っていると、お兼ちゃんは手拭で顔をつつんで、やはりかの竹藪の横町の方へとぼとぼとあるいて行った。もちろんその跡を付けて行こうとする者もなかった。しかもそのうしろ姿が横町へ消えるのを見届けて、子供たちは一度にばらばらと駈け出した。今度は逃げるのでない、すぐに自分の親たちのところへ注進に行ったのであった。
 その注進を聞いて、町内の親たちが出て来た。経師屋のお父さんも出て来た。数珠屋からは勿論に駈け出して来た。大勢があとや先になって横町へ探しに行くと、お兼らしい娘のすがたは容易に見付からなかった。それでも竹藪をかき分けて根《こん》よく探しまわると、藪の出はずれの、やがて墓場に近いところに大きい椿が一本立っている。その枝に細紐をかけて、お兼らしい娘がくびれ死んでいるのを発見した。お兼ちゃんの着物をきていたので、子供たちは一途《いちず》にお兼ちゃんと思い込んだのであるが、それはかの八百留の子守のお長であった。
 お兼の着物を剥ぎとって、それを自分の身につけて、お長はこの十日あまりを何処で過したか判らない。そうして、あたかもお兼に導かれたように、この藪の中へ迷って来て、かれの短い命を終ったのである。お長は田舎者まる出しの小娘で、ふだんから小汚ない手織縞の短い着物ばかりを着ていたから、色白の可愛らしいお兼が小綺麗な身なりをしているのを見て、羨ましさの余りに、ふとおそろしい心を起したのであろうという噂であったが、それも確かなことは判らなかった。それにしてもお長がどうしてお兼を誘って行ったか、このふたりが前からおたがいに知り合っていたのか、それらのことも結局わからなかった。
 こうして、何事も謎のままで残っているうちにも、最初にあらわれたお兼のことが最も恐ろしい謎であった。
「あたし、もうみんなと遊ばないのよ。」
 お兼ちゃんの悲しそうな声がいつまでも耳に残っていて、その当座は怖い夢にたびたびうなされましたと、おなおさんは言った。

     三 龍を見た話

 ここにはまた、龍をみたために身をほろぼしたという人がある。それは江戸に大地震のあった翌年で、安政三年八月二十五日、江戸には凄まじい暴風雨が襲来して、震災後ようやく本普請の出来あがったもの、まだ仮普請のままであるもの、それらの家々の屋根は大抵吹きめくられ、吹き飛ばされてしまった。その上に津波のような高波が打寄せて来て、品川や深川の沖にかかっていた大船小舟はことごとく浜辺に打揚げられた。本所、深川には出水して、押流された家もあった。溺死した者もあった。去年の地震といい、ことしの風雨《あらし》といい、江戸の人々もずいぶん残酷に祟《たた》られたといってよい。
 その暴風雨の最も猛烈をきわめている二十五日の夜の四つ(午後十時)過ぎである。下谷御徒町《したやおかちまち》に住んでいる諸住《もろずみ》伊四郎という御徒士《おかち》組の侍が、よんどころない用向きの帰り路に日本橋の浜町河岸を通った。
 彼はこの暴風雨を冒《おか》して、しかも夜ふけになぜこんなところを歩いていたかというと、新大橋の袂にある松平相模守の下屋敷に自分の叔母が多年つとめていて、それが急病にかかったという通知をきょうの夕刻に受取ったので、伊四郎は取りあえずその見舞に駈け付けたのである。叔母はなにかの食あたりであったらしく、一時はひどく吐瀉《としゃ》して苦しんだ。なにぶん老年のことでもあるので、屋敷の者も心配して、早速に甥の伊四郎のところへ知らせてやったのであったが、思いのほかに早く癒って、伊四郎が駈け付けた頃にはもう安らかに床の上に横たわっていた。急激の吐瀉でもちろん疲労しているが、もう心配することはないと医者はいった。平生が達者な質《たち》であるので叔母も元気よく口をきいて、早速見舞に来てくれた礼を言ったりしていた。伊四郎もまず安心した。
 しかしわざわざ出向いて来たのであるから、すぐに帰るというわけにもいかないので、病人の枕もとで暫く話しているうちに、雨も風も烈しくなって来た。そのうちには小歇《こや》みになるだろうと待っていたが、夜のふけるにつれていよいよ強くなるらしいので、伊四郎も思い切って出ることにした。叔母はいっそ泊って行けと言ったが、よその屋敷の厄介になるのも心苦しいのと、この風雨では自分の家のことも何だか案じられるのとで、伊四郎は断ってそこを出た。
 出てみると、内で思っていたよりも更に烈しい風雨であった。とても一と通りのことでは歩かれないと覚悟して、伊四郎は足袋をぬいで、袴の股立《ももだ》ちを高く取って、素足になった。傘などは所詮なんの役にもたたないので、彼は手拭で頬かむりをして、片手に傘と下駄をさげた。せめて提灯だけはうまく保護して行こうと思ったのであるが、それも五、六間あるくうちに吹き消されてしまったので、彼は真っ暗な風雨のなかを北へ北へと急いで行った。
 今と違って、その当時ここらは屋敷つづきであるので、どこの長屋窓もみな閉じられて、灯のひかりなどはちっとも洩れていなかった。片側は武家屋敷、片側は大川であるから、もしこの暴風雨に吹きやられて川のなかへでも滑り込んだら大変であると、伊四郎はなるべく屋敷の側に沿うて行くと、時どきに大きい屋根瓦ががらがらくずれ落ちてくるので、彼はまたおびやかされた。風は東南《たつみ》で、彼にとっては追い風であるのがせめてもの仕合せであったが、吹かれて、吹きやられて、ややもすれば吹き飛ばされそうになるのを、彼は辛くも踏みこたえながら歩いた。滝のようにそそぎかかる雨を浴びて、彼は骨までも濡れるかと思った。その雨にまじって、木の葉や木の枝は勿論、小石や竹切れや簾《すだれ》や床几や、思いも付かないものまでが飛んでくるので、彼は自分のからだが吹き飛ばされる以外に、どこからともなしに吹き飛ばされてくる物をも防がなければならなかった。
「こうと知ったら、いっそ泊めてもらえばよかった。」と、彼は今更に後悔した。
 さりとて再び引っ返すのも難儀であるので、伊四郎はもろもろの危険を冒して一生懸命に歩いた。そうして、ともかくも一町あまりも行き過ぎたと思うときに、彼はふと何か光るものをみた。大川の水は暗く濁っているが、それでもいくらかの水あかりで岸に沿うたところはぼんやりと薄明るく見える。その水あかりを頼りにして、彼はその光るものを透かしてみると、それは地を這っているものの二つの眼であった。しかしそれは獣《けもの》とも思われなかった。二つの眼は風雨に逆らってこっちへ向ってくるらしいので、伊四郎はともかくも路ばたの大きい屋敷の門前に身をよせて、その光るものの正体をうかがっていると、何分にも暗いなかではっきりとは判らないが、それは蛇か蜥蝪《とかげ》のようなもので、しずかに地上を這っているらしかった。この風雨のためにどこから何物が這い出したのかと、伊四郎は一心にそれを見つめていると、かれは長い大きいからだを曳きずって来るらしく、濡れた土の上をざらりざらりと擦《こす》っている音が風雨のなかでも確かにきこえた。それはすこぶる巨大なものらしいので、伊四郎はおどろかされた。
 かれはだんだんに近づいて、伊四郎のひそんでいる屋敷の門前をしずかに行き過ぎたが、かれはその眼が光るばかりでなく、からだのところどころも金色《こんじき》にひらめいていた。かれはとかげのように四つ這いになって歩いているらしかったが、そのからだの長いのは想像以上で、頭から尾の末まではどうしても四、五間を越えているらしく思われたので、伊四郎は実に胆《きも》を冷やした。
 この怪物がようやく自分の前を通り過ぎてしまったので、伊四郎は初めてほうとする時、風雨はまた一としきり暴れ狂って、それが今までよりも一層はげしくなったかと思うと、海に近い大川の浪が逆まいて湧きあがった。暗い空からは稲妻が飛んだ。この凄まじい景色のなかに、かの怪物の大きいからだはいよいよ金色にかがやいて、湧きあがる浪を目がけて飛込むようにその姿を消してしまったので、伊四郎は再び胆を冷やした。
「あれは一体なんだろう。」
 彼は馬琴の八犬伝を思い出した。里見|義実《よしざね》が三浦の浜辺で白龍を見たという一節を思いあわせて、かの怪物はおそらく龍であろうと考えた。不忍池にも龍が棲むと信じられていた時代であるから、彼がこの凄まじい暴風雨の夜に龍をみたと考えたのも、決して無理ではなかった。伊四郎は偶然この不思議に出逢って、一種のよろこびを感じた。龍をみた者は出世すると言い伝えられている。それが果して龍ならば、自分に取って好運の兆《きざし》である。
 そう思うと、彼が一旦の恐怖はさらに歓喜の満足と変って、風雨のすこし衰えるのを待ってこの門前から再び歩き出した。そうして、二、三間も行ったかと思うと、彼は自分の爪さきに光るものの落ちているのを見た。立停まって拾ってみると、それは大きい鱗《うろこ》のようなものであったので、伊四郎は龍の鱗であろうと思った。龍をみて、さらに龍の鱗を拾ったのであるから、かれはいよいよ喜んで、丁寧にそれを懐ろ紙につつんで懐中した。彼は風雨の夜をあるいて、思いもよらない拾い物をしたのであった。
 無事に御徒町《おかちまち》の家へ帰って、伊四郎は濡れた着物をぬぐ間もなく、すぐに懐中を探ってみると、紙の中からはかの一片の鱗があらわれた。行灯の火に照らすと、それは薄い金色に光っていた。彼は妻に命じて三宝を持ち出させて、鱗をその上にのせて、うやうやしく床の間に祭った。
「このことはめったに吹聴《ふいちょう》してはならぬぞ。」と、彼は家内の者どもを固く戒めた。
 あくる日になると、ゆうべの風雨の最中に、永代《えいたい》の沖から龍の天上《てんじょう》するのを見た者があるという噂が伝わった。伊四郎はそれを聞いて、自分の見たのはいよいよ龍に相違ないことを確かめることが出来た。そのうちに、口の軽い奉公人どもがしゃべったのであろう。かの鱗の一件がいつとはなしに世間にもれて、それを一度みせてくれと望んでくる者が続々押掛けるので、伊四郎はもう隠すわけにはいかなくなった。初めは努めてことわるようにしたが、しまいには防ぎ切れなくなって、望むがままに座敷へ通して、三宝の上の鱗を一見させることにしたので、その門前は当分賑わった。
「あれはほんとうの龍かしら。大きい鯉かなんぞの鱗じゃないかな。」と、同役のある者は蔭でささやいた。
「いや、普通の魚の鱗とは違う。北条時政が江の島の窟《いわや》で弁財天から授かったという、かの三つ鱗のたぐいらしい。」と、勿体らしく説明する者もあった。
「してみると、あいつ北条にあやかって、今に天下を取るかな。」と、笑う者もあった。
「天下を取らずとも、組頭ぐらいには出世するかも知れないぞ。」と、羨ましそうに言う者もあった。
 こんな噂が小ひと月もつづいているうちに、それが叔母の勤めている松平相模守の屋敷へもきこえて、一度それをみせてもらいたいと言って来た。その時には、叔母はもう全快していた。ほかの屋敷とは違うので、伊四郎は快く承知して、新大橋の下屋敷へ出て行ったのは、九月二十日過ぎのうららかに晴れた朝であった。鱗は錦切れにつつんで、小さい白木の箱に入れて、その上を更に袱紗につつんで、大切にかかえて行った。
 叔母は自分が一応検分した上で、さらにそれを奥へささげて行った。幾人が見たのか知らないが、そのあいだ伊四郎は一時《いっとき》ほども待たされた。
「めずらしい物を見たと仰せられて、みなさま御満足でござりました。」と、叔母も喜ばしそうに話した。「これはお前の家の宝じゃ。大切に仕舞って置きなされ。」
 これは奥から下されたのだといって、伊四郎はここでお料理の御馳走になった。彼は酔わない程度に酒をのみ、ひる飯を食って、九つ半(午後一時)過ぐる頃にお暇《いとま》申して出た。
 彼が屋敷の門を出たのは、門番もたしかに見届けたのであるが、伊四郎はそれぎり何処へ行ってしまったのか、その日が暮れても、御徒町の家へは帰らなかった。家でも心配して叔母のところへ聞合せると、右の次第で屋敷の門を出た後のことは判らなかった。それから二日を過ぎ、三日を過ぎても、伊四郎はその姿をどこにも見せなかった。彼は龍の鱗をかかえたままで、なぜ逐電してしまったのか、誰にも想像が付かなかった。
 ただひとつの手がかりは、当日の九つ半ごろに酒屋の小僧が浜町河岸を通りかかると、今まで晴れていた空がたちまち暗くなって、俗に龍巻《たつまき》という凄まじい旋風《つむじかぜ》が吹き起った。小僧はたまらなくなって、地面にしばらく俯伏《うつぶ》していると、旋風は一としきりで、天地は再び元のように明るくなった。秋の空は青空にかがやいて、大川の水はなんにも知らないように静かに流れていた。旋風は小部分に起ったらしく、そこら近所にも別に被害はないらしく見えた。ただこの小僧のすこし先をあるいていた羽織袴の侍が、旋風のやんだ時にはもう見えなくなっていたということであるが、その一刹那、小僧は眼をとじて地に伏していたのであるから、そのあいだに侍は通り過ぎてしまったのかも知れない。

 伊四郎が見たのは龍ではない、おそらく山椒魚《さんしょううお》であろうという者もあった。そのころの江戸には川や古池に大きい山椒魚も棲んでいたらしい。それが風雨《あらし》のために迷い出したので、鱗はなにかほかの魚のものであろうと説明する者もあった。いずれにしても、彼がゆくえ不明になったのは事実である。彼は当時二十八歳で、夫婦のあいだに子はなかった。事情が事情で、急養子の届けを出すというわけにもいかなかったので、その家はむなしく断絶した。

底本:「影を踏まれた女」光文社文庫、光文社
   1988(昭和63)年10月20日初版1刷発行
   2001(平成13)年9月5日3刷
初出:
 新牡丹燈記「写真報知」
   1924(大正13)年6月
 寺町の竹藪「写真報知」
   1924(大正13)年9月
 龍を見た話「週刊朝日」
   1924(大正13)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:hongming
2006年1月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

怪獣—— 岡本綺堂

     一

「やあ、あなたも……。」と、藤木博士。
「やあ、あなたも……。」と、私。
 これは脚本風に書くと、時は明治の末年、秋の宵。場所は広島停車場前の旅館。登場人物は藤木理学博士、四十七、八歳。私、新聞記者、三十二歳。
 わたしは社用で九州へ出張する途中、この広島の支局に打合せをする事があって下車したのである。支局では大手町の旅館へ案内してくれたが、その本店には多数の軍人が泊り合せていたので、さらに停車場前の支店へ送り込まれた。どこの土地へ行っても、停車場前の旅館はとかくにざわざわして落着きのないものであるが、ここは旧大手前の姿をそのままに、昔ながらの大きい松並木が長く続いて、その松の青い影を前に見ながら、旅館や商家が軒をつらねているので、他の停車場前に見られないような暢《のび》やかな気分を感じさせるのが嬉しかった。
 風呂にはいって、ゆう飯を済ませて、これから川端でも散歩してみようかなどと思いながら、二階の廊下へ出て往来をながめている時、不意にわたしの肩を叩いて「やあ。」と声をかけた人がある。振返ると、それは東京の藤木博士であった。
 私は社用で博士の自宅を二、三回訪問したことがある。博士の講演もしばしば聴いている。そんなわけで博士とはお馴染であるが、思いも寄らないところで顔を見合せてちょっとおどろかされた。
「これかちどちらへ……。」と、わたしは訊いた。博士は某官庁の嘱託《しょくたく》になっているから、何かの用件で地方へ出張するのであろうと想像したのであった。
「いや、まっすぐに東京へ帰るのです。」と、博士は答えた。
 博士の郷里は九州の福岡で、その実家にいる弟の結婚式に立会うために、先日から帰郷していたのであるが、式もめでたく終って東京へ帰るという。
 九州から東京へ帰る博士と、東京から九州へゆく私と、あたかも摺れ違いに、この宿の二階で落合ったのである。機会がなければ、同じ旅館に泊り合せても、たがいに知らず識らずに別れてしまうこともある。一夜の宿で知人に出逢うのは、ほかの場所で出逢った時よりも、特別に懐かしく感じられるのが人情であろう。博士はふだんよりも打解けて言った。
「どうです。用がなければ、私の座敷へ遊びに来ませんか。」
「はあ。お邪魔に出ます。」
 川ばたの散歩はやめにして、わたしは直ぐに博士のあとに付いてゆくと、廊下を二度ほど曲った所にある八畳の座敷で、障子の前の縁先には中庭の松の大樹が眼隠しのように高くそびえていた。女中を呼んで茶を入れ換えさせ、ここの名物|柿羊羹《かきようかん》の菓子皿をチャブ台に載せて、博士は私と差向いになった。今晩は急に冷えてまいりましたと、女中も言っていたが、日が暮れてから俄《にわ》かに薄ら寒くなった。その頃わたしはちっとばかり俳句をひねくっていたので、夜寒《よさむ》の一句あるべきところなどとも思った。
「九州はどっちの方へ行くのですか。」
「九州は博多……久留米……熊本……鹿児島……。」と、わたしは答えた。「まだ其他にも四、五ヵ所ばかり途中下車の予定です。」
「ははあ。では、鹿児島本線視察というような訳ですな。」
「まあまあ、そんなわけです。」
「九州は初めてですか。」
「博多までは知っていますが、それから先は初旅です。」
「それでは面白いでしょう。」と、博士は微笑した。「私は九州の生れではあり、殊に旅行は好きの方であるから、学生時代にも随分あるき廻りました。その後も郷里へ帰省するたびに、時間の許すかぎりは方々を旅行したので、九州の主なる土地には靴の跡を留《とど》めているというわけです。あなたは今度の旅行は本線だけで、佐賀や長崎の方へお廻りになりませんか。」
「時間があれば、そっちへも廻りたいと思っています。それに、Mの町には私の友人が旅館を営んでいるので、ついでに尋ねて見たいとも考えているのですが……。」
「Mの町の旅館……。なんという旅館ですか。」と、博士は何げないように訊《き》いたが、その眼は少しく光っているようにも見られた。
「Sという旅館です。停車場からは少し遠い町はずれにあるが、土地では旧家だということで……。その次男は東京に出ていて、わたしと同じ学校にいたのです。」
「その次男という人は国へ帰っているのですか。」
「わたしと同時に卒業して、東京の雑誌社などに勤めていたのですが、家庭の事情で帰郷することになって、今では家の商売の手伝いをしています。」
「いつごろ帰郷したのですか。」
 それからそれへと追窮するような博士の態度を、わたしは少しく怪しみながら答えた。
「五年ほど前です。」
「五年ほど前……。」と、博士は過去を追想するように言った。「わたしが泊まったのは七年前だから、その頃にはまだ帰っていなかったのですね。」
「じゃあ、あなたもその旅館にお泊りになった事があるんですか。」
「あります。」と、博士はうなずいた。「その土地に流行する一種の害虫を調査するために、一ヵ月ほどもMの町に滞在していました。そのあいだに近所の町村へ出張したこともありましたが、大抵はS旅館を本陣にしていました。あなたの言う通り、土地では屈指《くっし》の旧家であるだけに、旅館とはいいながら大きい屋敷にでも住んでいるような感じで、まことに落ちついた居心地のいい家でした。老主人夫婦も若主人夫婦も正直な好人物で、親切に出這入《ではい》りの世話をしてくれましたが……。」
 言いかけて、博士は表に耳を傾けた。
「雨の音ですね。」
「降って来たようです。」と、わたしも耳を傾けながら言った。「さっきまで晴れていたんですが……。」
「秋の癖ですね。」
 ふたりは暫く黙って雨の音を聴いていたが、やがて博士は又しずかに言い出した。
「あなたはS旅館の次男という人から何か聴いたことがありますか、あの旅館にからんだ不思議な話を……。」
「聴きません。S旅館の次男――名は芳雄といって、私とは非常に親しくしていましたが、自分の家について不思議な話なぞをかつて聴かせたことはありませんでした。一体それはどういう話です。」
「わたしも科学者の一人でありながら、真面目でこんなことを話すのもいささかお恥かしい次第であるが、とにかくこれは嘘|偽《いつわ》りでない、わたしが眼《ま》のあたりに見た不思議の話です。S旅館も客商売であるから、こんなことが世間に伝わっては定めて迷惑するだろうと思って、これまで誰にも話したことは無かったのですが、あなたがその次男の親友とあれば、お話をしても差支えは無かろうかと思います。今もいう通り、それは不思議の話――まあ、一種の怪談といってもいいでしょう。お聴きになりますか。」
「どうぞ聴かせて下さい。」と、わたしは好奇の眼をかがやかしながら、問い迫るように相手の顔をみつめた。
 話の邪魔をすまいとするのか、表の雨の音はやんだらしい。ただ時どきに軒を落ちる雨だれが、何かをかぞえるように寂しくきこえた。博士は座敷の天井をみあげて少しく考えているらしかったが、下座敷の方で若い女が何か大きい声で笑い出したのを合図のように、居ずまいを直して語り出した。

     

 わたしがMの町へ入り込んで、S旅館――仮に曽田屋《そだや》といって置こう。――の客となったのは七年前の八月、残暑のまだ強い頃であった。大抵の地方はそうであるが、ここらも町は新暦、近在は旧暦を用いているので、その頃はちょうど旧盆に相当して、近在は盆踊りで毎晩賑わっていた。わたしはその土地特有の害虫を調査研究するために、町役場や警察署などを訪問して、最初の一週間ほどは毎日忙がしく暮らしていたが、それも先ず一と通りは片付いて、二、三日休養することになった。そのあいだに旅館の人たちとも懇意になって、だんだんに家内の様子をみると、老主人は六十前後、長男の若主人は三十前後、どちらも夫婦揃って健康らしい体格の所有者で、正直で親切な好人物、番頭や店の者や女中たちもみな行儀の好い、客扱いの行届いた者ばかりで、まことに好い宿を取当てたと、わたしも内心満足していたが、唯ひとつ私の眉をひそめさせたのは、ここの家の娘たちの淫《みだ》らな姿であった。
 姉はお政といって二十二、妹はお時といって十九、容貌《きりょう》は可もなく、不可もなく、まず普通という程度であるが、髪の結い方、着物の好みが余りに派手やかで、紅|白粉《おしろい》を毒々しいほどに塗り立てた化粧の仕方が、どうしても唯の女とは見えない。勿論、旅館も客商売であるから、その娘たちが相当に作り飾っているのは当然でもあろうが、この姉妹《きょうだい》の派手作りは余りに度を越えている。旧家を誇り、手堅いのを自慢にしている此の旅館の娘たちとはどうしてもうけ取れない。そこらの曖昧《あいまい》茶屋に巣くっている酌婦のたぐいよりも醜《みにく》い。天草《あまくさ》あたりから外国へ出稼ぎする女たちよりも更に醜い。くどくも言う通り、主人も奉公人もみな正直で行儀のいい此の一家内に、どうしてこんなだらしの無い、見るから淫蕩《いんとう》らしい娘たちが住んでいるのかと、わたしは不思議に思った位であった。
 残暑の強い時節といい、旧盆に相当しているせいか、ここらの旅館に泊り客は少なく、最初の二、三日は私ひとりであったが、その後に又ひとりの客が来た。それは大阪辺のある保険会社の外交員で、時どきにここらへ出張して来るらしく、旅館の人たちとも心安そうに話していた。年のころは二十七、八で、色の白い、身なりの小綺麗な、いかにも外交員タイプの如才のない男で、おそらく宿帳でも繰って私の姓名や身分を知ったのであろう、朝晩に廊下などで顔を見合せると、「先生、先生。」と、馴れなれしく話し掛けたりした。彼は氷垣明吉という名刺をくれた。
 ある日の宵に、わたしは町へ散歩に出た。うす暗い地方の町にこれぞという見る物もないので、わたしは中途から引っ返して、町はずれから近在の方へ出ようとすると、二人の男に挨拶《あいさつ》された。月あかりで透かして視ると、かれらはこのごろ顔なじみになった町役場の書記と小使《こづかい》で、これから近所の川へ夜釣りに行くというのであった。
「ここらの川では何が釣れます。」
 そんな話をしながら、わたしも二人とならんで歩いた。一町あまりも町を離れて、小さい土橋にさしかかると、むこうから男と女の二人連れが来て、私たちと摺れ違って通った。男はわたしを見て俄《にわ》かに顔をそむけたが、女は平気で何か笑いながら行き過ぎた。
「曽田屋の気違いめ、又あの保険屋とふざけ散らしているな。」と、若い書記は二人のうしろ姿を見送って、幾分の嫉妬もまじっているように罵った。
 男は保険会社の社員の氷垣で、女は曽田屋の妹娘のお時であることを、わたしも知っていた。しかも「気違い」という言葉が私の注意をひいた。
「気違いですか、あの娘は……。」
「まあ、気違いというのでしょうな。」と、老いたる小使は苦笑いをしながら答えた。「東京の先生は御存じありますまいが、曽田屋のむすめ姉妹といえば、ここらでは評判の色気違いで……。今夜もあの通り保険屋の若い男と狂い廻っている始末……。親たちや兄《あに》さんはまったく気の毒ですよ。」
 私もまったく気の毒だと思った。揃いも揃って娘二人があの体《てい》たらくでは、親や兄は定めて困っているに相違ない。普通の人は単に、色気違いとして嘲《あざけ》り笑っているに過ぎないらしいが、わたしから観ると、かの娘らは一種の精神病者か、あるいはヒステリー患者のたぐいであった。みだりに嘲り笑うよりも、むしろ気の毒な痛ましい人々ではあるまいかと思われた。わたしは更に小使にむかって訊いた。
「あの姉妹はいつ頃からあんな風になったのですか。」
「二、三年前……。おととし頃からかな。」と、小使は書記をみかえった。
「そうだ。おととしの夏ごろからだ。」と、書記は冷やかに言った。「あの家《うち》の普請《ふしん》が出来あがった頃からだろう。」
「あの家で普請をした事があるのですか。」
「表の方は元のままですが……。」と、小使は説明した。「なにしろ古い家で、奥の方はだいぶ傷《いた》んでいるところへ、一昨々年《さきおととし》の秋の大風雨《おおあらし》に出逢ったので、どうしても大手入れをしなければならない。それならばいっそ取毀《とりこわ》して建て換えろというので、その翌年の春、職人を入れてすっかり取毀させて、新しく建て直したのですよ。」
 今度初めて投宿した私は、広い旅館の全部を知らないのであるが、小使らの説明によると、曽田屋の家族の住居は、長い廊下つづきで店の方につながっているが、その建物は別棟になっていて、大小|五間《いつま》ほどある。おととし改築したというのは其の一と棟で、さすがは大家《たいけ》だけに、なかなか念入りに出来ているという。それだけの話ならば別に子細《しさい》もないが、その住居の別棟が落成した頃から、娘ふたりが今までとは生れ変ったような人間になって、眼にあまる淫蕩の醜態を世間に暴露するに至ったのは、少しく不思議である。
「親たちはそれを打っちゃって置くのですか。」
「いえ、親たちも兄さん夫婦もひどく心配して、初めのうちは叱ったり諭《さと》したりしていたのですが、姉も妹も肯《き》かないのです。なにしろ人間がまるで変ってしまったのですから……。」と、小使は嘆息するように言った。「あれだけの大きい店でもあり、旧家でもあり、お父さんは町長を勤めたこともある位ですから、その家の娘たちが色気違いのようになってしまっては、世間へ対しても顔向けが出来ません。曽田屋でも困り抜いた挙げ句に、姉は小倉にいる親類に預け、妹は久留米の親類にあずける事にしたのですが、それが又いけない。行く先ざきで男をこしらえて……。それも決まった相手があるならまだしもですけれど、学生だろうが、出前持だろうが、新聞売子だろうが、誰でも構わない。手あたり次第に関係を付けて、人の見る眼も憚《はばか》らずにふざけ散らすというのですから、とてもお話になりません。預けられた家でも呆れてしまって、どこでも断わって返して来る。そうかといって、ほかには変ったことも無いので、気違い扱いにして、病院へ入れるわけにもいかず、座敷牢へ押しこめて置くわけにもいかず、困りながらも其のままにして置くと、いつの間にか泊り客と関係する。旅芸人と駈落ちをして又戻って来る。親泣かせというのは全くあの娘たちのことで、どうしてあんな人間になったのか判りませんよ。」
「普請の出来あがる前までは、ちっともおかしなことは無かったのですな。」
「御承知の通り、あすこの兄さんは手堅い一方のいい人です。娘たちもそれと同じように、子供の時からおとなしい、行儀のいい生れ付きであったのですから、本来ならば姉妹ともに今頃は相当のところへ縁付いて、立派なお嫁さんでいられる筈《はず》なのですが……。貧乏人の娘なら、いっそ酌婦にでも出してしまうでしょうが、あれだけの家では世間の手前、まさかにそんな事も出来ず、もちろん嫁に貰《もら》う人もなし、あんなことをしていて今にどうなるのか。考えれば考えるほど気の毒です。昔から魔がさすというのは、あの娘たちのようなのを言うのでしょうよ。」
 現にこの盂蘭盆《うらぼん》にも、姉妹そろって踊りの群れにはいって、夜の更けるまで踊っていたばかりか、村の誰れかれと連れ立って、そこらの森の中へ忍び込んだとか、堤《どて》の下に転げていたという噂《うわさ》もある。その噂のまだ消えないうちに、妹娘は又もや保険会社の若い男と浮かれている。あの氷垣という男は毎年一度ずつはここらへ廻って来て、曽田屋を定宿《じょうやど》としているので、姉とも妹とも関係しているらしいという噂を立てられている。なんにしても困ったものだ、親たちは気の毒だと、老いたる小使は繰り返して言った。
 今夜の釣り場は町からよほど距《はな》れていると見えて、これだけの話を聴き終るまでに其処《そこ》らしい場所へは行き着かなかった。人家のまばらな田舎道のところどころに、大きい櫨《はぜ》の木が月のひかりを浴びて白く立っているばかりで、川らしい水明かりは見当らなかった。
 どこまでも此の人たちと連立って行くことは出来ない。私はもうここらで引っ返そうと思いながら、やはり一種の好奇心に引摺られて歩きつづけた。
「その普請の前後に、なにか変ったことはなかったのですか。」と、わたしはまた訊いた。今までおとなしかった娘たちの性行が、普請以後にわかに一変したというのは、何かの子細ありげにも思われたからであった。
「普請の前後に……。」と、小使は少し考えていたが、別に思い出すようなこともなかったらしい。
「普請中にも変ったことはなかったようだ。まあ、あの一件ぐらいだな。」と、書記は笑いながら言った。
「なんだ、あんなこと……。あははははは」と、小使も笑い出した。
「あの一件とは……。どんな事です。」と、わたしは重ねて訊いた。
「なに、詰まらない事ですよ。」と、若い書記はまた笑った。
「曽田屋の別棟は五間《いつま》ぐらいですが、ほかにも手入れをする所が相当にあるので、七、八人の大工が絶えず入り込んで、材木の切り組から出来《しゅったい》までには三月以上、やがて四月くらいはかかりましたろう。それは一昨年《おととし》の三月頃から五、六月頃にかけてのことで、その仕事に来た大工はみな泊り込みで働いていたんです。そのなかに西山――名は何というのか知りませんが、とにかく西山という若い大工がまじっていました。年はまだ十九とか二十歳《はたち》とかいうんですが、小僧あがりに似合わず仕事の腕はたいへんに優れていて、一人前の職人もかなわない位であったそうです。それが西山という姓を名乗ってはいますが、実は朝鮮人だともいい、又は琉球人の子で鹿児島で育ったのだともいう噂があって、当人に訊いてもはっきりした返事をしないので、まあどっちかだろう、ということになっていました。見たところは内地人にちっとも変らず、言葉は純粋の鹿児島弁でした。色の蒼白い、痩形《やせがた》の、神経質らしい男でしたが、なにしろ素直でよく働き、おまけに腕が優れているというんですから、親方にも仲間にも可愛がられていました。曽田屋の人たちも可愛がっていたそうです。
 すると、あしかけ三月目の五月頃のことでした。さっきから問題になっている曽田屋の娘、お政とお時の姉妹が寺参りに行くとかいうので、髪を結い、着物を着かえて、よそ行きの姿で普請場へ行ったんです。母の身支度の出来るのを待っている間に、なに心なく普請場を覗《のぞ》きに行ったんでしょう。その時はちょうど午《ひる》休みで大工も左官もどこへか行っていて、あの西山がたった一人、何か削り物をしていたんです。姉妹もふだんから西山を可愛がっているので、傍へ寄って何か話しているうちに、どういう切っ掛けで何を言い出したのか知りませんが、要するに西山がふたりの娘にむかって、突然に淫《みだ》らなことを言い出したんです。いや、言い出したばかりでなく、何か怪《け》しからん行動に出《い》でたらしいんです。そこへ親方と他の大工が帰って来て、親方はすぐ西山をなぐり付けました。他の職人にも殴られたそうです。
 勿論、親方はたいへんに怒って、出入り場のお嬢さん達に不埒《ふらち》を働くとは何事だ。貴様のような奴は何処へでも行ってしまえと呶鳴《どな》る。娘たちは泣き顔になって奥へ逃げ込む。それが老主人夫婦の耳にもはいったんですが、夫婦ともに好い人ですから、怒っている親方をなだめて無事に済ませたんです。怒る筈の主人が却って仲裁役になったんですから、親方も勘弁するのほかはありません。親方は西山を老主人夫婦、若主人夫婦、娘ふたりの前へ引摺って行って、さんざん謝《あや》まらせたんです。親方というのは暴《あら》っぽい男で、まかり間違えばぶち殺し兼ねないので、西山も真っ蒼になってしまったそうですよ。はははははは。」
「あの親方に取っ捉まっちゃあ、どんな人間だって堪まるまいよ。あははははは。」
 小使も声を揃えて笑った。

     

 若い職人が出入り場の娘を口説いて失敗した。単にそれだけの事ならば、世間にありふれた一場の笑い話に過ぎないかも知れない。しかし私は深入りして訊いた。
「その後、その西山という大工は相変らず働いていたのですか。」
「働いていました。」と、書記は答えた。「なんでも其の晩はどこへか出て行って、二時間も三時間も帰って来ないので、あいつ、極まりが悪いので夜逃げでもしたのじゃあないかと言っていると、夜が更《ふ》けてこっそり帰って来たそうです。そんなことが三晩ばかり続いて、その後は一度も外出せず、いよいよ落成の日までおとなしく熱心に働いていたといいます。」
「西山というのは此の土地の職人ですか。」
「鹿児島から出て来て、一年ほど前から親方の厄介になっていたんですが、曽田屋の普請が済むと、親方にも無断でふらりと立去ってしまって、それぎり音も沙汰もないそうです。たぶん鹿児島へでも帰ったんでしょう。」
「朝鮮だとか琉球だとかいうには、何か確かな証拠でもあるのですか。」
「さあ。証拠があるか無いか知りませんが、職人伸間ではみんなそう言っていたそうですから、何か訳があるんだろうと思います。」
 釣り場はいよいよ眼の前にあらわれて、そこにはかなりに広い川が流れていた。書記と小使はわたしに会釈《えしゃく》して、すすきの多い堤《どて》を降りて行った。わたしは月を踏んで町の方角へ引っ返した。
 どう考えても、曽田屋の一家は気の毒である。殊に本人の娘たちは可哀そうである。前にもいう通り、かの姉妹は色情狂というよりも、おそらく一種のヒステリー患者であろう。書記や小使は格別の注意を払っていないらしいが、姉妹に対する若い大工の恋愛事件、それが何かの強い衝撃を彼女らに与えたのではあるまいか。大工は姉妹にむかって何事を言ったのか、何事を仕掛けたのか、その現場に立会っていた者でない限りは、大方こんな事であったろうと想像するにとどまって、その真相を明らかに知り得ないのである。
 大工は親方に殴られて、曽田屋の人々に謝罪して、その後はおとなしく熱心に働いていたというが、果たして其の通りであったか。その後にも親方らの眼をぬすんで、若い女たちをおびやかすような言動を示さなかったか。それらの事情が判明しない以上、この問題を明らかに解決することは不可能である。
 しかもあの姉妹が果たしてヒステリー患者であるとすれば、それを救う方法が無いではない。曽田屋の父兄らに注意をあたえて、適当の治療法を講ずればよい。だが困るのは、その問題が問題であるだけに、父兄の方から言い出せば格別、わたしの方から父兄にむかって、ここの家の普請中にこんな出来事があったか、又その後に娘たちがどうして淫蕩の女になったか、それらの秘密を露骨に質問するわけにはゆかない。殊に今度初めて投宿した家で、双方の馴染みが浅いだけに猶更工合が悪い。さりとてこのままに見過すのも気が咎《とが》める。せめては番頭にでも内々で注意して置こうかなどと考えながら、もと来た道をぶらぶらと歩いて来ると、月の明かるい宵であるにも拘らず、どこからどうして出て来たのか判らなかったが、おそらく路ばたの櫨《はぜ》の木の蔭からでも飛び出して来たのであろう、ひとりの男の姿が突然にわたしの行く手にあらわれた。と思う間もなく、つづいて又ひとりの女があらわれた。
 その男と女が氷垣とお時であることを私はすぐに覚った。お時は何か小さい刃物を持っているらしく、それを月の光りにひらめかしながら、男に追い迫って来るように見られるので、私もおどろいて遮《さえぎ》った。私という加勢を得たので、氷垣も気が強くなったらしく、引っ返して女を取鎮めようとした。お時は見掛けによらない強い力で暴れ狂ったが、なんといっても相手は男二人であるから、遂にその場に押しすくめられてしまった。彼女はなんにも言わずにあえいでいた。
「君。早く刃物を取りあげたまえ。」と、わたしは氷垣に注意して、お時の手から剃刀《かみそり》を奪わせた。
 半狂乱のような女を押さえは押さえたものの、さてどうしていいか、二人はその始末に困っていると、いい塩梅《あんばい》に二人の男が通りかかった。それは氷垣も私も識らない人たちであったが、曽田屋へ出入りの商人であるらしく、彼らはお時をよく知っているので、私たちと一緒に彼女を護衛しながら、無事に町まで送って来てくれた。
 暮れても暑い上に、突然こんな事件に出逢ったので、涼みながらの散歩が却って汗を沸かせる種となった。わたしは曽田屋へ帰って、二階の座敷の欄干に倚《よ》りかかって、暫く息を休めていると、かの氷垣が挨拶に来た。
「先生。とんだ御迷惑をかけまして、なんとも申し訳がありません。」
 彼はひどく恐縮していた。そうして、何か頻りに言訳らしいことを繰返していたが、わたしは別に彼を咎めもしなかった。
 氷垣の説明によると、今夜はあまり暑いので、自分ひとりで散歩に出ると、あとからお時が追って来て一緒に行こうという。それから連立って村の方へ出ると、お時は更に自分にむかって何処へか連れて逃げてくれという。そんなことは出来ないと断わっても、お時は肯《き》かない。無理になだめて引っ返して来ると、お時は帯のあいだから剃刀を取出して、わたしを連れて逃げるのが忌《いや》ならば一緒に死んでくれという。いよいよ持て余して、しまいには怖くなって逃げ出すところへ、あなたがちょうどに来合せたので、まずは無事に済んだのである。さもなければどういうことになったか判らないと、彼は汗を拭きながら語った。
 しかし彼はお時と自分との関係に就いては、なんだか曖昧《あいまい》なことを言っていた。わたしはたって他人の秘密を探り出す必要もなかったが、この際なにかの参考にしたいという考えから、冗談まじりにいろいろ穿索《せんさく》すると、氷垣も結局降参して、実は姉娘のお政とは秘密の関係が無いでもないが、妹のお時とは何の関係もないと白状した。この白状も果たして嘘か本当か判らなかったが、わたしはその以上に追窮することを敢てしなかった。
 氷垣が立去ると、入れ代って旅館の番頭が来た。これは氷垣とは違って、見るからに老実そうな五十余歳の男であったが、その来意は氷垣と同様で、家の娘が途中で種々の御迷惑をかけて相済まないという挨拶であった。彼もひどく恐縮していた。氷垣の恐縮はそれに一種の愛矯[#「愛矯」はママ]も含まれていたが、この老番頭の恐縮は痛々しいほどに真面目なものであった。私はいよいよ気の毒に思うと同時に、番頭がここへ来てくれたのは好都合であるとも思った。
「ここの家《うち》の娘さん達は何か病気でもしているのかね。」と、わたしは何げなく訊いた。
「まことにお恥かしい次第でございます。」と、番頭は泣くように言った。「別に病気というわけでもございませんが……。」
「わたしは医者でないから確かなことは言えないが、素人が見て病気でないと思うような人間でも、専門の医者が見ると立派な病人であるという例もしばしばあるから、主人とも相談して念のために医者によく診察して貰ったらいいだろうと思うが……。」
「はい。」
 とは言ったが、番頭は難渋《なんじゅう》らしい顔色をみせた。さしあたり娘たちのからだに異状があるわけでもないのであるから、医者に診て貰えといっても、おそらく当人たちが承知すまい。もう一つには主人らは非常に外聞《がいぶん》を恥じ恐れているのであるから、この問題については、娘たちを医者に診察させるなどということには、おそらく同意しないであろうと、彼は言った。
 外聞を恐れるというのも一応無理ではないが、これはもう世間に知れ渡っている事実であるから、今さら秘密を守るよりも、進んで医師の診察を求めた方が優《ま》しであると思われたが、何分にも馴染みの浅いわたしとして、あまりに立ち入ってかれこれ云うわけにも行かないので、そのままに黙ってしまった。

     

 藤木博士がここまで話して来た時に、夜の雨がまたおとずれて来た。博士はひと息ついて、わたしの顔を暫く眺めていた。
「どうです。これだけの話では格別おもしろくもないでしょう。S旅館の娘ふたりが淫蕩の事実を詳しくお話しすると、確かに一編の小説になると思うのですが……。いや、わたしが聴いただけのことでも、それを正直に書いたら発売禁止は請け合いです。いずれにしても、今までの話だけでは、単にその娘たちが放縦淫蕩の女であったというにとどまって、奇談とかいうほどの価値はないのですが、肝腎の話はこれからですよ。あなたは新聞記者で第六感が働くでしょうが、かの娘たちが俄かに淫蕩な女に生れ変った原因はどこにあると思います。」
 こんな問題について第六感を働かせろというのは無理である。私はだまって微笑していると、博士はまた語りつづけた。
「判りませんか。わたしにも判らなかった。実は今でもはっきりと判らないのですが……。私はその後も旅館に三週間ほど滞在していました。そのあいだにもいろいろの事件がありますが、それを一々話していると、どうしても発売禁止の問題に触れますから、一足飛びに最後の事件に到着させましょう。
 わたしは自分の仕事を終って、いよいよ四、五日中には東京へ引揚げよう。その途中、郷里へもちょっと立寄ろうなどと思って、そろそろ帰り支度をしていると、九月のはじめ、例の二百二十日の少し前でした。二日ふた晩もつづいた大風雨《おおあらし》……。一昨々年《さきおととし》の風雨もひどかったが、今度のは更にひどい。こんな大暴れは三十年振りだとかいうくらいで、町も近村もおびただしい被害でした。S旅館もかなりの損害で、庭木はみんな根こぎにされる、塀を吹き倒される、家根《やね》を吹きめくられるという始末。それでも、表の店の方は、建物が古いだけに破損が少ない。こういうときには昔の建物が堅牢であるということを、今更のように感じました。それと反対に奥の別棟、すなわち家族の住居の方は、おととしの新築というにも拘らず、実に惨憺《さんたん》たるありさまで、家根瓦はほとんど完全に吹き飛ばされ、天井板も吹きめくられてしまいました。
 風雨が鎮まると、南国の空は高く晴れて、俄かに秋らしい日和《ひより》になりました。旅館では早速に職人をあつめて、被害の修繕に取りかかったのですが、新築の別棟は半分ほども取毀して、さらに改築しなければならないということでした。あしかけ四年のあいだに二度のあらしを食ったのだから、どこの家も気の毒です。そこで、まず別棟の取毀しに着手して、天井板をはずしていると、六畳の間の天井裏から不思議な物が発見されたのです。」
 博士はなかなか話し上手である。ここで聴き手を焦《じ》らすようにまた一と息ついた。その手に乗せられるとは知りながら、私もあとを追わずにはいられなかった。
「その天井裏から何が出たんです。」
「一|対《つい》の人形……木彫りの小さい人形ですよ。」と、博士は言った。「小さいといっても、六、七|寸《すん》ぐらいで、すこぶる精巧に出来ているのです。わたしも見せて貰いましたが、まったく好く出来ているように思われました。職人たちも感心していました。木地《きじ》は桂だろうということでした。」
「二つの人形は何を彫ったのですか。」
「それがまた怪奇なもので、どちらも若い女と怪獣の姿です。」
「怪獣……。」
「怪獣……。むかしの神話にも見当らないような怪獣……。むしろ妖怪といった方が、いいかも知れません。その怪獣と若い女……。こんな彫刻を写真に撮って、あなたの新聞にでも掲載してごらんなさい。たちまち叱られます。それで大抵はお察しくださいと言うのほかはありません。実に奇怪を極めたものです。そこで当然の問題は、いったい誰がこんな怪しからん物をこしらえて、この天井裏に隠して置いたかということですが……。あなたは誰の仕業《しわざ》だと鑑定します。」
「朝鮮だとか琉球だとかいう若い大工でしょう。」と、私はすぐに答えた。
「誰の考えも同じことですね。」と、博士はうなずいた。「あなたの鑑定通り、それは西山という若い大工の仕業に相違ないと、諸人の意見が一致しました。娘たちに挑《いど》んで、親方に殴られて、それから三晩ほどは外出して、いつも夜が更けて帰って来たという。おそらく何処へか行って、秘密にかの人形を彫刻していたのであろうと察せられます。そうして、誰にも覚《さと》られないように、その二つの人形を天井裏に忍ばせて置いたのでしょう。六畳の部屋は娘たちの居間です。彼はかねてそれを知っていて、その天井裏に不可解な人形を秘めて置いたのは、娘たちに対する一種の呪《のろ》いと認められます。職人たちの話を聴きますと、自分らの大工のあいだには、そんな奇怪な伝説はないといいます。してみると、彼が他国人であるとかいうのも、まんざら嘘でもないように思われます。彼は親方の家を立去った後、鹿児島へ帰った様子もなく、その消息は不明だそうです。あるいは自分の呪いを成就《じょうじゅ》させるために、どこかで自殺したのではないかという説もありますが、確かなことは判りません。」
「そうすると、その人形があった為に、S旅館の娘ふたりは俄かに淫蕩な女に変じたという訳ですね。」と、私はまだ幾分の疑いを抱きながら言った。「そこで、その娘たちはどうしました。」
「娘たちには隠して置こうとしたのですが、何分にも大勢が不思議がって騒ぎ立てるので、とうとう娘たちにも知れました。しかしその話を聴いただけで、別にその人形を見せてくれとも言わず、急に気分が悪いと言い出して、寝込んでしまいました。ふだんならば格別、あらしの被害で大手入れの最中、ふたりの病人が枕をならべて寝ていては困るので、ひとまず町の病院へ入れることにしましたが、姉妹ともに素直に送られて行きました。番頭や女中たちの話によると、半分眠っているようであったといいます。」
「その人形はどう処分しました。」
「家でも人形の処分に困って、いろいろ相談の結果、町はずれの菩提寺《ぼだいじ》へ持って行って、僧侶にお経を読んでもらった上で、寺の庭先で焼いてしまうことにしたのです。それは娘たちが入院してから三日目のことで、この日も初秋らしい風が吹いて空は青々と晴れていました。読経《どきょう》が型の如くに済んで、一対の人形がようやく灰になった時に、病院から使いがあわただしく駈けて来て、姉妹は眠るように息を引取ったと言いました。」
「先生……。」
「いや、まだお話がある。」と、博士は畳みかけて言った。「姉に関係があり、妹に関係があったらしい氷垣という外交員……。彼は先夜の一件以来、旅館にも居にくいようになったと見えて、早々にここを立去って、三里あまりも離れた隣りの町へ引移って、相変らず外交の仕事に歩き廻っていたのですが、例の大風雨の後、近所の川の渡し船が増水のために転覆して、船頭だけは幸いに助かったが、七人の乗客は全部溺死を遂げた。土地の新聞はそれを大々的に報道していましたが、その溺死者の一人に氷垣明吉の名を発見した時、わたしは何だかぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました。但し、それは人形を焼いた当日でなく、その翌日の午前中の出来事でした。」
 わたしは息を嚥《の》んで聴いていた。わたしの友人に二人の妹があって、それが流行病で同時に仆《たお》れたという話はかつて聴かされたが、その死に就いてこんな秘密がひそんでいることを、今夜初めて知ったのである。それは流行病以上の怖ろしい最期であった。
「その当時、わたしはコダックを携帯していたので、その怪獣を撮影して置きたいと思ったのですが、遺族の手前、まさかにそんな事も出来ないので、そのままにしてしまいました。」と、博士は言った。

底本:「鷲」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「オール讀物」
   1934(昭和9)年7月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

平家蟹—— 岡本綺堂

 登場人物
官女 玉虫《たまむし》
その妹 玉琴《たまこと》
那須与五郎宗春《なすのよごろうむねはる》
旅僧 雨月《うげつ》
官女 呉羽《くれは》の局《つぼね》
同 綾の局
浜の女房 おしお
那須の家来 弥藤二《やとうじ》
ほかに那須の家来。浜のわらべなど
[#改ページ]

          (一)

寿永四年五月、長門国《ながとのくに》壇の浦のゆうぐれ。あたりは一面の砂地にて、所々に磯馴松《そなれまつ》の大樹あり。正面には海をへだてて文字ヶ関遠くみゆ。浪の音、水鳥の声。

(平家没落の後、官女は零落してこの海浜にさまよい、いやしき業《わざ》して世を送るも哀れなり。呉羽の局、綾の局、いずれも三十歳前後にて花のさかりを過ぎたる上藹《じょうろう》、磯による藻屑《もくず》を籠に拾う。)
呉羽 のう、綾の局。これほど拾いあつめたら、あす一日の糧《かて》に不足はござるまい。もうそろそろと戻りましょうか。
綾の局 この長の日を立ち暮して、おたがいに苛《いこ》うくたびれました。
呉羽 今更いうも愚痴なれど、ありし雲井のむかしには、夢にも知らなんだ賤《しず》の手業《てわざ》に、命をつなぐ今の身の上。浅ましいとも悲しいとも、云おうようはござらぬのう。
綾の局 まだうら若い上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]たちは、泣顔かくす化粧《けわい》して、ゆききの人になさけを売り、とにもかくにも日を送れど、盛りを過ぎし我々は見かえる人もあらばこそ、唯おめおめと暮しては、飢《かつ》えて死なねばなりませぬ。
呉羽 せめて一日でも生きたいと、こうして働いてはいるものの、これがいつまで続こうやら……。(嘆息しつつ空を仰ぐ。)おお、こんなことを云うているひまに、やがて日も暮れまする。
綾の局 ほんに空も陰って来ました。このごろの日和《ひより》くせで、冷たい潮風が吹いて来ると、つづいて雨の来るのが習い。湿《ぬ》れぬうちに戻りましょうか。
呉羽 苫屋《とまや》に雨の漏らぬように、軒のやぶれもつくろうて置かねばなりますまい。
綾の局 召仕いもなき佗び住居は、なにやらかやら心せわしいことでござるのう。
(二人は籠をたずさえてとぼとぼとあゆみ去る。浜のわらべ甲乙丙の三人いず。乙は赤き蟹を糸に縛りて持ったり。)
童乙 どうじゃ。平家蟹《へいけがに》はまだいるかの。
童甲 あいにくに夕潮が一杯じゃ。これでは蟹も上がりそうもないぞ。
童丙 では、あすの朝、潮の干《ひ》た頃に捕りに来ようかのう。
(弥平兵衛宗清、四十余歳、今は仏門に入りて雨月という。旅姿、笠と杖とを持ちていず。)
雨月 これ、これ、平家蟹とは……。どのような蟹じゃな。
童乙 これじゃ。見さっしゃれ。
(蟹を見せる。雨月はじっと視る。)
雨月 この蟹をなぜ平家と云うのか。
童甲 この壇の浦で平家が亡びてから、ついぞ見たことのない、こんな蟹が沢山に寄って来ましたのじゃ。
童乙 蟹の甲には人の顔がみえています。
童丙 これ、このように、おこった顔をしています。
(指さし示せば、雨月はつくづく視て、思わずぞっとする。)
雨月 おお、なるほど蟹の甲にはありありと人の顔……。しかも凄まじい憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》……。平家がここでほろびた後に、このような不思議の蟹が……。
三人 そうじゃ、そうじゃ。
雨月 白きは源氏[#「源氏」は底本では「源民」]……赤きは平家の旗の色……。あかき甲にいかれる顔は……。平家の方々のたましいが、蟹に宿って迷いいずるか。
童甲 じゃによって、平家蟹といいますのじゃ。
(雨月は黙して蟹をながめている。)
雨月 これ、子供よ。浜育ちとはいいながら、無益《むやく》の殺生《せっしょう》はせぬものじゃ。この蟹を海へ放してやれ。その代りにわしがよいものをやりましょうぞ。
童乙 よい物をくださるなら、すぐに放してやりましょう。
雨月 おお、聞き分けのよい児じゃ。その代りには何がよかろうぞ。おお、これがよい。(腰をさぐりて糒《ほしい》を入れたる麻の袋をとり出す。)さあ、これをやる程に、蟹は早う放してやったがよい。
(童は袋より糒をすくい出して見る。)
童乙 これはなんでござるな。
雨月 それは糒というもので、水か湯にひたしてたべるのじゃ。
童乙 ありがとうござりました。
(童は蟹の糸をときて、うしろの海に放ちやる[#「放ちやる」は底本では「放ちゃる」]。)
雨月 この後もあの蟹を捕えてはならぬ。平家のたましいが乗憑《のりうつ》っているからは、どのようなおそろしい祟り[#「祟り」は底本では「崇り」]があろうも知れぬぞ。
三人 あい。あい。
(わらべ等は去る。雨月はあとを見送る。)
雨月 日暮れてあたりに人もなし、忍ぶ身には丁度幸いじゃ。海に沈みし御一門の尊霊に、よそながら御回向《ごえこう》申そうか。
(雨月は浜辺にひざまずき、数珠《じゅず》を繰りつつ、海にむかって回向す。官女玉虫、廿歳[#「廿歳」は底本では「甘歳」]、下髪《さげがみ》、被衣《かつき》をかぶりて出で、松の木かげに立ちて窺いいるうちに、雨月は回向を終りて起たんとす。)
玉虫 あ、もし……。
(雨月はたちどまりてすかし視る。)
雨月 どなたでござりまするな。
玉虫 おお、宗清殿……。わらわじゃ。玉虫じゃ。
(近寄りて被衣を取る。かくと見るより雨月は再び土にひざまずく。)
雨月 いかにも弥平兵衛宗清《やへいびょうえむねきよ》、不思議なところでお目にかかりました。
玉虫 なんの不思議なことがあろう。ここは平家が沈んだ海じゃ。平家にゆかりある者は、ここを去ってどこへ行こうぞ。見ればお身はさまを替えて、仏の御《み》弟子となったよな。
雨月 平家没落の後、甥の景清にいざなわれ、肥後の山家《やまが》にかくれて居りましたが、亡き方々の菩提をとむらう為め、御覧の通りにさまをかえて、今は世をすて武士を捨て、ただ阿弥陀仏を念じながら、諸国をめぐって居りまする。
玉虫 さりとは殊勝《しゅしょう》なことじゃ。(嘲るごとくに打笑む。)して、景清はなんとした。
雨月 かれは思い立ったることありとて、わたくしが頻りに止むるもきかず、鎌倉へ忍んでくだりました。
玉虫 むむ、鎌倉へ……。家重代という痣丸《あざまる》の銘刀を身につけて行ったであろうな。
雨月 おおかた左様でござりましょう。
玉虫 さすがは景清、あっぱれの者じゃ。その痣丸に源氏の血を……。大方そうであろうの。
雨月 そのように申して居りました。
玉虫 (心地よげにうなずく。)聞くもなかなかに勇ましい。たとい景清ならずとも、武士たるものにはそれほどの覚悟が無うてはなるまい。のう、宗清。過ぎし弥生《やよい》の廿四日[#「廿四日」は底本では「甘四日」]、平家の一門はことごとくこの海に沈んだ。きのうきょうとは思えども、数うれば早やふた月を過ぎて、きょうはあたかも御命日じゃぞ。あれ、あの向うに……松林の薄黒う見ゆるは……文字ヶ関から大里《だいり》の浜、あれをうしろにして味方の兵船《ひょうせん》はおよそ五百艘、さながら大鳥がつばさをひろげたように、左右に開いて陣取っていたのじゃ。
雨月 今わたくしが踏んでいる浜辺には、源氏の大軍が真黒にたむろして居りました。まして海の上には兵船およそ三千艘、すくなくも味方の五六倍はあったと覚えまする。それが一度に漕ぎよせて来る。なにを申すも多勢《たぜい》に無勢《ぶせい》……。(嘆息する。)わずか一日のいくさで……。思えば果敢《はか》ないことでござりました。
玉虫 とは云え、平家は最期まで勇ましゅう闘うたぞ。打物は折れ、矢種はつき、船はくだけ、人は沈んで果つるまで、一|人《にん》も卑怯に降参するものなく、口々にかたきを呪うて死んだ。(恨みの眉をあげる。)お身はまだ知るまいが、あめ風あれて浪高い夜には、海に数しれぬ鬼火《おにび》あらわれ、あまたの人の泣く声も悲しげにきこゆるぞ。海にほろびたる平家の一門、かばねは千尋《ちひろ》の底に葬られても、たましいは此世にとどまって、百年も千年も尽きぬ恨みをくり返すのであろうよ。
雨月 繋念《けねん》五百|生《しょう》、一念無量劫とは申しながら、罪ふかいは修羅《しゅら》の妄念でござりまする。とは云え、世になき人の執念は、法華経の功力《くりき》によって、成仏《じょうぶつ》解脱《げだつ》のすべもあれど、容易に度しがたいは、世にある人の執念……。甥の景清にも一切の執着《しゅうちく》を去って、復讐の企てなど思い切りまするよう、いくたびか意見申したれど……。
玉虫 景清は肯《き》かなんだか。おお、そうであろう。そのようななま悟りの説法めいたことは、わらわとても肯くまいぞ。
雨月 では、お前さまも……。
玉虫 わらわも源氏を呪うているのじゃ。
雨月 源氏を呪うて……。
玉虫 なにを驚くことがあろう。煩悩もあり、執着もあればこそ、人はこの世に生きているのじゃ。執念は人の命じゃ。一切の煩悩や執着を捨つるほどなら、冷たい土の下に眠っているがましであろう。
雨月 憚りながら、それは凡夫の迷い……。
玉虫 はて、くどう云やるな。お身とわらわとは心が違うぞ。
(細雨《こさめ》ふりいず、玉虫は空を仰ぐ。)
玉虫 五月《さつき》の習い、また雨となったか。これ、宗清、お身は行手をいそぐ身でもあるまい。こよいは一と夜逗留し、晴れ間を待って出立しや。
雨月 して、おまえ様のお住居は……。
玉虫 この浜づたいに五六町……。あれ、あの一本松が目じるしじゃ。
雨月 では、先帝のみささぎに参拝して、それからおたずね申しまする。
玉虫 強くふらぬ間に戻って来や。
(玉虫わかれて去る。雨月は見送る。)
雨月 さらでも女子《おなご》は罪ふかいと聞いたるに、源氏を呪詛《のろい》の調伏《ちょうぶく》のと、執念《しゅうね》く思いつめられたは、あまりと云えばおそろしい。今宵逗留せよと云われたを幸い、今一度あなたのお目にかかって、迷いの雲霧《くもぎり》の霽《は》るるように、御意見申すが法師の務めじゃ。(思案して)まずその前に御陵に参拝いたそうか。
(浪の音高くきこゆ。)
雨月 おお、日暮れて浪が高うなった。空は暗し、雨はふる……。鬼火の迷いいずるというは、今宵のような夜であろう。南無阿弥陀仏、なむ阿弥陀仏。
(海にむかいて再び合掌す。那須の家来二人うかがいいず。)
家来甲 怪しい旅僧……。
家来乙 むむ。
(二人走りかかって捕えんとす。)
雨月 なにゆえの狼籍……。愚僧決して怪しいものではござらぬ。
家来甲 ええ、海にむかって回向するは……。
家来乙 まさしく平家にゆかりの者じゃ。
(二人は無理に引立てんとするを、雨月はゆかじと争いて、遂に二人を投げ倒す。二人はかなわじと見て逃げ去る。雨月は法衣の塵をはらいて、にが笑い。)
雨月 一旦仏門に入ったるからは、むかしの武士は捨てた筈じゃに、われを忘れて荒気の振舞。法衣《ころも》の手前も面目ない。悟るというはむずかしいもののう。

          (二)

 浦の苫屋、二重屋体にて竹縁朽ちたり。正面の上のかたは板羽目にて、上に祭壇を設け、注連《しめ》を張れり。中央の出入り口にはやぶれたる簾《すだれ》を垂れたり。下の方もおなじく板羽目。庭前の下のかたに丸太の門口、蠣殻《かきがら》の附きたる垣を結えり。垣のそとには松の大樹ありて、うしろには壇の浦の海近くみゆ。
(浜の女房おしお、さざえの殻の燈台に火をともしつつ独り言。)
おしお やがてもう暮れる[#「暮れる」は底本では「幕れる」]というに、姉妹《きょうだい》の方々は何をしてござるのやら……。このごろの日和《ひより》くせで、又降って来たようじゃが……。
(雨すこしく降る。玉虫帰りきたる。)
玉虫 今戻りました。
おしお おお、お帰りなされましたか。あいにく降ってまいったので、さぞお困りでござりましょう。
玉虫 降りみ降らずみはこの頃の習い、さしたる雨でもござりませぬ。(ぬれたる被衣をぬぎて縁に上がる。)いつもいつも留守を頼み、ありがとうござりました。して、妹《いもと》はまだ戻りませぬか。
おしお まだお帰りにはなりませぬ。
玉虫 このごろは兎角にそわそわしておちつかず、内を外にして出あるいているは、どうしたことであろうかのう。
(眉をひそむれば、おしおは打笑う。)
おしお それも生業《なりわい》じゃ、是非もござりますまい。
玉虫 生業とは……。
おしお え。(口ごもる。)
玉虫 妹がどのような生業をして居りまするぞ。
おしお さあ、うっかりと口をすべらしたはわたくしのあやまり、どうぞ御勘弁くださりませ。
玉虫 いや、詫びることはない、あからさまに云うて下さればよいのじゃ。
(玉虫の妹玉琴、十七八歳、被衣をかぶりて下のかたより出で、門《かど》に立ちて内の問答をぬすみ聞く。玉虫はおしおの返答なきに、すこしく思案する。)
玉虫 おしおどの、包まずに云うてくだされ。平家ほろびし後は官女達もちりぢりばらばら、ここらあたりにさまようて、あるに甲斐なく世を送る。そのなかには恥を忍んで、のぼり下だりの旅人や、出船入船の商人《あきうど》を相手に、色をあきなうもあると聞く。妹ももしや其のような…。
おしお さあ。
玉虫 これ、しかと返事をして下されぬか。
(迫り問うに、おしおいよいよ迷惑す。玉琴は門をあけて走り入る。)
玉琴 姉《あね》さま……ゆるして下さりませ。
玉虫 むむ。さては推量にたがわず、姉に隠していつの間にか、遊女や白拍子のながれを汲み、色をあきなう身となったか。
玉琴 そのお叱りはとくより知っていれど、むかしに変る今の身の上、唯うかうかとしていては姉妹《きょうだい》ふたりが何となりましょうぞ。飢《かつ》えて死ぬる場になっては、恥も外聞も厭わばこそ、其日その日の糧《かて》がほしさに……。
おしお おお、それもごもっとも、みやこ育ちのおまえ様がたが、ここらの浜辺に流浪なされては、ほかに世渡りのすべもなし、御容貌《ごきりょう》のよいのを幸いに、ゆききの人になさけを売る。つらい勤めもお身のためじゃ。時の用には鼻もそぐと、下世話にいうは此事でござりましょう。
玉琴 姉さま、推量してくださりませ。
おしお かならずお叱りなされまするな。
(とりなし顔に云えど、玉虫は耳にもかけず。)
玉虫 これ、妹。もっともらしゅう云訳するが、かかる境涯におちぶれても、お前はまだまだ命が惜しいか。
玉琴 おなごの未練なこころからは、命が惜しゅうござりまする。
玉虫 恥をさらしても生きたいか。
玉琴 死ぬほどならばこの三月、平家滅亡の日に死にまする。
おしお ほんに左様でござります。平家滅亡のおりから、海に沈んだ官女達も多いとやら……。そのなかを無事にながらえたは、よくよく御運がよいのでござりましょうぞ。御運がよいと云えば……もし、玉琴さま。あのお方のことを申上げたら、姉上様の御機嫌がなおろうも知れますまい。
玉琴 いや、いや。それは……。
おしお はて、お隠しなさるには及びませぬ。(玉虫にむかいて。)人は七転《ななころ》び八起《やお》きとやら申しまして、悪いあとには又よいことが来るものでござります。まあ、お聞きなされませ。妹御《いもとご》さまは数ある客人のなかで、立派なおさむらい様と深いおなじみ……。やがては奥方に御出世なさろうも知れませぬ。そうなる時にはお前さまも、今の御苦労を打ち忘れて安楽な御身分にもなれましょうぞ。
玉虫 して、そのさむらいというは……。
おしお はい、あの……。
玉琴 あ、これ……。(云うなと制す。)
おしお 那須与五郎というお方……。
玉虫 那須与五郎……。(思案する。)平家の残党詮議のために、那須の一党は今なおここにとどまり、陣屋をかまえていると聞く。与五郎というも恐らくはその身内であろうな。
おしお なんでも大将の御舎弟じゃとかうけたまわりました。のう、玉琴さま……。
(玉琴答えず、恐るるごとくに差し俯向く。玉虫はいよいよ気色をかえる。)
玉虫 なに、大将の弟……与市の弟じゃと……。(つと起って妹の襟髪をとる。)人もあろうに、源氏方……しかも那須の一門に、狎《な》れ馴染んだる憎い奴……。一|刻《とき》もここには置かれぬ。さあ出てゆきゃ、出て行こうぞ。
玉琴 ええ。
おしお さりとはきつい御腹立ち……。まあ、まあ、お待ちなされませ。
玉虫 お前の知ったことではない。玉琴、再びそなたには逢わぬぞや。
(突き放して起たんとす。玉琴は姉の袂にすがる。)
玉琴 では、姉妹《きょうだい》の縁を切って……。
玉虫 姉妹はおろか、人間同士の縁も切った。おのれは畜生……。見るも汚れじゃ。
(袂を払って奥に入る。玉琴は泣き伏す。おしおは呆れる。)
おしお やれ、やれ、飛んでもないことになりましたのう。お詫びの種にもなろうかと、那須の殿様のことをうかうか申上げたら、却って御腹立ちは募るばかり。口はわざわいの門《かど》ということを今知って、悔んでもあとの祭じゃ。玉琴さま、料簡してくださりませ。
玉琴 いえ、いえ、詫びるには及びませぬ。遅かれ速かれ知ること……。その折にはどう云おう、こう云おうと、色々の云訳をかんがえて置きながら、いざというときには口へも出ず。たった一人の姉妹の勘当受けて、こりゃ何としたものであろうか。
(玉琴泣き入るを、おしおは慰める。)
おしお 一旦はあのように御立腹なされても、根が血をわけた御姉妹、自然とお心の解けるは知れたことでござります。とは云え、あのはげしいお顔色では、今が今、すぐにはお詫びもかないますまい。ともかくも今夜だけは、わたくしの宿までお越しなされませ。はて、泣いてござっては済まぬ。まあ、まあ、お立ちなされませ。
(なだめながら手を取れば、玉琴はしおしお起ち上がる。)
玉琴 とは云え、もう一度お詫びをして……。
おしお はて、今とやこうと申上げては、却って御機嫌にさからうようなもの。まあ、わたくしにまかせてお置きなされませ。
(玉琴の手をひきて門に出で、ふた足三足行きかかれば、向うより那須の家来弥藤二は松明《たいまつ》をふり照らしていず。双方ゆき逢う。)
弥藤二 おお、玉琴殿ではござらぬか。
おしお おまえは那須の御家来衆……。
弥藤二 玉琴どのをお迎いにまいった。
(今までしおれたる玉琴は、那須の迎いと聞きて俄かにいそいそする。)
玉琴 おお、弥藤二どの……。ようぞ迎いに来てくだされた。
弥藤二 与五郎どのもお待ち兼ねでござるぞ。早うまいられい。
玉琴 すぐにお供いたしましょう。
おしお 丁度よいところへお迎いじゃ。では、御陣屋へ行かしゃりますか。
玉琴 おしお殿、先へまいりまするぞ。
弥藤二 いざ、お越しなされい。
(弥藤二は先に立ち、玉琴附添いていそぎ行く。取り残されたるおしおはあとを見送る。)
おしお 玉琴どのも現金な……。那須のおむかいと聞いたらば、泣顔が急に笑顔となって、早々に出てゆかれた。あれでは姉様の勘当をうけるも無理はない。おお、鐘がきこえる。今が逢魔《おうま》が時というのじゃ。どれ、早う戻りましょう。
(おしおはつぶやきつつ去る。雨の音さびしく、奥より玉虫は以前とかわりし白の着附、緋の袴、小袿《こうちき》にて、檀扇《ひおうぎ》を持ちていず。遠寺の鐘の声きこゆ。玉虫は鐘の音を指折りかぞえて独り語。)
玉虫 今鳴る鐘は酉《とり》の刻……。平家の方々が見ゆるころじゃ。
(縁に出でてあたりを視る。垣のかげより大いなる平家蟹這いいず。)
玉虫 おお、新中納言殿……。こよいも時刻をたがえずに、ようぞまいられた。これへ……これへ……。(檜扇にてさしまねけば、蟹は縁の下へ這い寄る。)余の方々はなんとされた。つねよりも遅いことじゃ。
(上のかたの木かげよりも、おなじく平家蟹あらわる。)
玉虫 おお、能登どのか。今宵は知盛の卿に先を越されましたぞ。(打笑む。)
(左右よりつづいて二三匹、四五匹の蟹あらわれいず。)
玉虫 おお、教盛《のりもり》の卿、行盛の卿……。有盛、経盛、業盛《なりもり》の方々……。みな打揃うて見えられましたの。(縁に腰をかける。蟹はその足もとにむらがり寄る。)このごろの短か夜とは云いながら、あすの朝まではまだまだ長い。今宵はなにを語って明かしましょうぞ。(蟹にむかって問い、又うなずく。)毎夜毎夜の物語も、つまるところは平家の恨みじゃ。この恨みは一年二年、五年十年語りつづけても、容易に尽きることではあるまい。(蟹を見て、ひとりうなずく。)そうじゃ、そうじゃ。源氏が栄えてあるかぎりは、平家の恨みは消え失せまい。おお、それで思い出した。最前浜辺で宗清にゆき逢い、その物語によるときは、景清は姿をかえて鎌倉にくだり、家重代の痣丸に源氏の血を染めるとのことでござりまするぞ。ほほ、勇ましい覚悟ではござりませぬか。万一、景清が仕損じても、平家一門の呪詛《のろい》によって、源氏のゆくすえも大方は知れて居りまする。(云いかけて、又うなずく。)おお、云うまでもござらぬ。まず当のかたきの義経をほろぼして、次は範頼……次は頼朝……。おお、まだある。頼朝には頼家という小倅があるとやら……これも、助けては置かれぬ奴、勿論呪い殺しまする。その弟《おとと》も……又その子も……その孫も……。二代三代四代の末までも執念く祟って[#「祟って」は底本では「崇って」]、かりにも源氏の血をひくやからは、男も女も根絶しにして見せましょうぞ。
(云う声はしだいにうわ嗄《が》れて、鬢髪《びんぱつ》そよぎ、顔色すさまじ、下の方の木かげより以前の雨月忍び出で、息をのんで内の様子を窺う。玉虫はかくとも知らず、更に祭壇のかたを指さす。)
玉虫 あれ、見られい。唐《から》天竺日本にあらとあらゆる阿修羅の眷族《けんぞく》を、一つところに封じ籠めて、夜な夜なかたきを呪うて居りまするぞ。やがてその奇特《きどく》を……。
(この時、俄かに風ふき来たりて、燈台の火ふっと消ゆ。闇のなかにて玉虫の声。)
玉虫 おお、源氏の運も風の前のともしびじゃ。忽ちこのように消ゆるであろうぞ。ほほほほ。
(向うより那須与五郎宗春、二十歳、烏帽子、直垂《ひたたれ》にて蓑をつけ、松明《たいまつ》を持ち、あとより玉琴も蓑をつけ、附添うていず。この火のひかりを望みて、玉虫は起って奥に入り、雨月も木かげに身をひそむ。平家蟹もすべて消ゆ。与五郎等は門《かど》に来たりて、内をうかがう。)
与五郎 はて、不思議や。家の内は真の闇じゃ。
玉琴 姉様はどこへお出でなされたか。まずともかくもお通りなされませ。
与五郎 むむ。
(両人は内に入りて、あたりを照し視る。)
与五郎 おお、燈台はあれにある。燈火《あかし》をつけられい。
玉琴 心得ました。
(両人は蓑をぬぎ、玉琴は縁にあがりて、松明の火を燈台に移す。与五郎はその松明を打消して、おなじく縁にあがり、両人座を占める。)
与五郎 姉御はいずかたへ参られたであろうな。
玉琴 さあ、近所へ物買いにゆかれたか。但しは奥に……。(起って奥をうかがう。)奥も暗がりでよくは見えぬ。もし、姉様……姉上様……。
玉虫 そういうは誰じゃ。わらわはこれに居りまする。
(玉虫は小袿をぬぎ、白小袖、緋の袴にて、奥よりいず。)
玉琴 おお、姉様……。それにおいでなされましたか。
玉虫 又しても姉という。そなたとは、すでに縁切っているのじゃ。
(云いつつ悠然と座に直る。与五郎は一と膝すすめて会釈す。)
与五郎 姉上には初めて御意得申す。それがしは下野《しもつけ》の国の住人、那須与市宗隆の弟《おとと》、同苗与五郎宗春。
玉虫 その与五郎どのが何用あってここへはまいられた。
与五郎 妹御を所望にまいった。仔細はおおかた御存じでござろう。平家没落の後は、ゆかりの人々も寄辺《よるべ》をうしない、それの姫君、なにがしの女房と呼ばるる、やんごと無き上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]達もおちぶれて、たよりなきままに恥を忍び、浮川竹《うきかわたけ》の憂きに沈めて、傾城《けいせい》遊女の群れにも入りたもう。さりとはいたわしき限りよと、あわれを覚えしが恋の初め、はからずもこの玉琴殿と、浅からぬ縁《えにし》をむすび申した。
玉虫 むむ、それゆえに妹《いもと》をくれいと云わるるか。一旦縁を切ったる妹、わらわがとこう云うべき筋はござらぬ。勝手に連れて行かれたがよかろう。
(玉琴も進みいず。)
玉琴 さあ、それに就いてお願いがござりまする。これまでお目をかすめた罪は、いくえにもお詫びを申しますれば……。
玉虫 勘当をゆるせと云やるか。
玉琴 与五郎どのは今宵かぎり、俄かにここを引揚げて、本国の那須へ帰られまする。わらわも共に連れて行こうというありがたいおことば。就いては勘当のおわびを願い、おまえも共々に関東へ……。
玉虫 え、わらわも共に関東へ……。那須へ一緒にゆけと云やるか。
玉琴 わが身ばかり出世して、お前をすてて行かれましょうか。
与五郎 共々にお越し下さらば、それがしに取っても義理の姉上、決して疎略には存じ申さぬ。玉琴が切《せつ》なる願い、なにとぞ勘当をゆるされて、われわれと共に本国にくだり、安らけく世を送られい。那須は草ふかき村里なれど、歌によむ白河の関にも遠からず、那須野が原には殺生石《せっしょうせき》の旧蹟もござる。二荒《ふたら》の宮には春の桜、塩原の温泉《いでゆ》には秋のもみじ、四季とりどりの眺めにも事欠かず、よろずに御不自由はござりませぬ。
玉虫 御芳志は千万かたじけない。ついては玉琴。まずそなたに問いたいことがある。もしわらわが飽くまでも不承知と云うたら、そなたはどうしやるぞ。
玉琴 さあ。
玉虫 わらわを捨てても、与五郎どのと一緒にゆくであろうな。
(玉琴黙して答えず。玉虫はうなずく。)
玉虫 返事のないは、大方そうであろうの。よい、よい。それほどまでに思い合うた二人が仲を今更ひき裂くこともなるまい。わらわが許して女夫《めおと》にしましょうぞ。
玉琴 え。では、勘当をお赦しあって……。
玉虫 姉が媒酌《なかだち》して杯をさせましょう。
玉琴 ありがとうござりまする。
玉虫 まあ、しばらく待ちゃ。
(玉虫は起って、再び奥に入る。与五郎と玉琴は顔を見あわせる。)
玉琴 ここへ引返して来るみちみちも、どうあろうかと案じていたに、姉さまの御機嫌も思いのほかに早う直って、こんな嬉しいことはござりませぬ。
与五郎 しいてとやこう申されたら、それがしも刀の手前、われから姉妹の縁切って、そなたを連れ帰ろうと存じたるに、玉虫殿のこころも早う解けて、われも満足。祝言は追ってのこととは思えども、今この場合、姉御の詞《ことば》にさかろうもいかが。兎も角もここで杯しようぞ。
玉琴 どうぞそうして下さりませ。
与五郎 そなたの頼みじゃ、なんなりともきこうよ。
玉琴 あい。世にたよりない我々姉妹、この末ともにかならず見捨てて下さりまするな。
与五郎 坂東武者は弓矢ばかりか、なさけにかけても意地は強い。一度誓いしことばの末は、尽未来《じんみらい》まで変るまいぞ。
玉琴 おお。
(与五郎の手をとって押しいただく、奥より玉虫は三方《さんぽう》と土器《かわらけ》を持ちていず。)
玉虫 世にありし昔ならば、かずかずの儀式もあるべきに、花やもみじの色もなき浦の苫屋のわび住居。心ばかりの三三九度じゃ。
(三方を両人のあいだに据うれば、両人は形をあらためて一礼す。玉虫は更に祭壇より神酒を入れたる甕《かめ》を取りおろし、うやうやしく押しいただきて、しばしは口のうちにて何事をか念ず。)
玉虫 女子《おなご》ばかり住む家に、酒のたくわえは無けれども、幸いにここに神酒《みき》がある。めでたい折柄にはふさわしかろう。さかずきは女子から……。
玉琴 あい。
(玉琴はまず土器を取り、玉虫は酌に立つ。つづいて与五郎も飲む。かたのごとくに杯のやりとりあり。)
玉虫 おお、これでめでとう祝儀も済んだ。これからは色なおしに、わらわが一とさし舞いましょう。
(玉虫は檜扇を持ちて起ちあがり、はじめはしずかに舞う。)
唄※[#歌記号、1-3-28]世は治まりて、西海の浪しずかなり、岸の姫松はみどりの枝をかわして、沖にあそぶ鴎《かもめ》の影白し。見渡すかぎり、山も海も遠く連なりて、画くがごとき眺めかな。
(このあたりより舞はようやく急なり。)
唄※[#歌記号、1-3-28]ときに不思議や、一天にわかに掻きくもり、潮《うしお》はどうどうと怒り立ち、百千の悪鬼|羅刹《らせつ》は海の底よりあらわれたり。
(玉虫は足拍子を強くふみて、両人に向ってじりじりと詰めよる。与五郎と玉琴は毒酒にあたりし体《てい》にて、身神俄かに悩乱す。)
歌記号 口にはほのおの息をふき、手にはくろがねの矛《ほこ》をふるい、恨み重なるかたきの奴原、一人も余さず地獄へ堕《おと》せと、熱湯の池、つるぎの山、追い立て追い立て急ぎゆく。凄まじかりける次第なり。
(玉虫は舞いながら、檜扇をあげて与五郎を丁々と打つ。玉琴は這い寄って支えんとするを、玉虫はおなじく打つ。与五郎は太刀を抜きてよろめきながら斬ってかからんとすれども、身は自由ならず、いくたびか倒れて遂に縁よりまろび落つ。玉琴はこれを救わんとして、おなじく庭にまろび落つ。玉虫は舞いおわりて、こころよげにみおろしつ。)
玉虫 与五郎、玉琴、苦しいか。
与五郎 今かの酒を飲むとひとしく、俄かに身神悩乱して……ふたりが二人ながら苦痛に堪えぬは……。
玉琴 女夫《めおと》が祝言のさかずきは……命をちぢむる毒酒なりしか。
玉虫 ひとに洩れては願望《がんもう》のさまたげと、現在の妹にも秘し隠したれば、おなじ家のうちに住みながら、玉琴もまだ知るまい。西海に沈みたる平家のうらみを報いんために、神壇を築いてひそかに源氏を呪い、神酒を供えてもろもろの悪鬼羅刹を祭る。そち達ふたりが飲んだる酒は、即ちそれじゃ。
玉琴 して、その神酒が毒酒とは……。
玉虫 平家蟹の甲を裂いて、その肉を酒にひたし、神への贄《にえ》にささげしものぞ。
玉琴 ええ。
玉虫 男はもとより源氏方、女は肉身の姉を見すてて、かたきに心を通わす奴、呪いの奇特《きどく》をためすには屈竟と、最前神酒をとりし時、わが呪いの首尾よく成就するならば、この酒変じて毒となり、まのあたりに二人の命を奪えと、ひそかに念じてすすめたるに、酒は果して毒となった。はははははは。
与五郎 源氏|調伏《ちょうぶく》の奇特をためさん為に、われわれに毒酒を盛りしか……。女の愛に心ひかされ、油断せしが一生の不覚……。さるにても、源氏に仇なす奴……。おのれ、そのままには……。
(刀を杖に起たんとして又倒る。)
玉虫 はて、騒ぐまい。お身にはまだ云い聞かすことがある。過ぎし屋島のたたかいに、風流を好む平家の殿ばらは、船に扇のまとを立てさせ、官女あまたある中にも、この玉虫が選みいだされ、船端《ふなばた》に立って檜扇をかざし、敵をまねいて射よという。やがて源氏の武者一騎、萌葱《もえぎ》おどしの鎧きて、金覆輪《きんぷくりん》の鞍置いたる黒駒にまたがり、浪打ちぎわより乗入ったり。
与五郎 おお、それぞわが兄……那須与市宗隆《なすのよいちむねたか》……。
玉虫 おお、那須与市ということは後にて知った。兎にも角にもおぼえある武士ならん、いかに射るぞと見てあれば、かれは鏑矢《かぶらや》を取ってつがえ、よっ引いて飄《ひょう》と放つ。さすがに狙いはあやまたず、扇のかなめを射切ったれば、扇は空にまいあがり、風にもまれて海に落つ。(無念の声をふるわせる。)これぞ敗けいくさの前兆と、味方は愁《うれ》い……敵は勇む。わらわも無念に堪えかねて、扇と共に沈まんかと一旦は覚悟したれど、おもい直してきょうまでもおめおめとながらえしぞ。その与市の弟と名乗る奴、測《はか》らずここへ来たりしからは、いかで無事に帰そうか。
与五郎 さては扇のまとのうらみによって……。
玉虫 おのれはかたきの末じゃ。兄の与市めも遅かれ速かれ、共に地獄へ送ってやろうぞ。
(いよいよ心地よげに笑う。与五郎は無念の歯をかめども、苦痛はしだいにはげしく、ただ苦しき息をつくのみ。玉琴は這い寄る。)
玉琴 与五郎どの……。おん身をここへ誘うて来ずば、こうしたことにもなるまいものを……。
与五郎 おお、この上は是非も無し、かれは生きて源氏を呪わんと云う……われは死して彼を呪わん。玉虫……。おのれもやがて思い知ろうぞ。
玉虫 人に執念のないものは無い。われもひとを恨めば、ひとも我を恨もう。つまりは五分五分じゃ。恨まば恨め、七生の末までも恨むがよい。
与五郎 おのれ……。
(起たんとしてよろめくを、玉琴は支えんとしてすがりつく。)
与五郎 最早これまで……。玉琴……。
玉琴 与五郎どの……。
(与五郎は刀をとりなおして玉琴の胸を刺し、返す刀にてわが腹に突き立て、引きまわして倒る。下のかたの木かげより雨月再びうかがい出で、垣の外にひざまずきて合掌す。玉虫は見咎める。)
玉虫 そこにいるは誰じゃ。
雨月 (しずかに。)わたくしでござりまする。
玉虫 むむ、宗清か。遠慮はない、これへ来や。
雨月 いや、まいりますまい。わたくしは御仏《みほとけ》に仕えまする者。仏道と魔道とは相さること億万里、お前様のそばへは参られませぬ。
玉虫 それ程わらわがおそろしいか。
雨月 怖ろしいとも存じませぬが、瞋恚《しんい》執着《しゅうぢゃく》が凝りかたまって、生きながら魔道におちたるお前さまは、修行の浅いわれわれの力で、お救い申すことはかないませぬ。おいたわしゅうござりますれど、もうおわかれ申しまする。
(詞《ことば》すずしく云い放ちて、雨月は数珠にてわが身を払いきよめ、笠をかたむけてしずかにあゆみ去る。又もや雨はげしく降りいず。玉虫は起ちあがりて、二つの死骸を見おろす。)
玉虫 呪詛《のろし》のしるしあらわれて、ここにふたつの生贄《いけにえ》をならべた。源氏の運も長からず、一代…二代……。(指折りかぞえて。)おそくも三代の末までには……。かならず根絶やしにして見しょうぞ。(物すごき笑みをもらしつ。)さるにても、妹はともあれ、与五郎は那須の一族。かれを此のように殺したからは、敵も安穏には捨て置くまい。やがて射手の向うは知れたこと……。わらわの身を隠すべきところは……。
(浪の音たかく、一匹の平家蟹這い出で、縁にのぼる。)
玉虫 おお、蟹……。わらわを案内してたもるか。して、どこへ……。海へゆくのか。よい、よい。(蟹は消ゆ。浪の音いよいよ高し。)
玉虫 や、蟹はいつの間にか……。(あたりを見廻して。)おお、新中納言どの……。能登守どの……。また見えられたか。いざ御一緒に……わらわも海へまいりまする。おおそうじゃ。浪の底にも都はある。わらわも役目を果たしたれば、これからはお宮仕え。さあ、お供いたしまする。
(眼にもみえぬ人に物いう如く、玉虫はひとり語りつつ庭に降り立ち、表のかたへ迷い出でんとする時、向うより那須の家来弥藤二は松明を持ちて再びいず。)
弥藤二 若殿……。お迎い……。
(云いつつ門《かど》をあけんとして、出逢いがしらに玉虫に突きあたる。玉虫は物をも云わず、その松明をうばい取る。弥藤二おどろきて支えんとするを、玉虫は無言にて突き退け、片手に松明をふりかざして、緋の袴を長くひきつつ、足もしどろに迷いゆく。弥藤二は呆れてあとを見送る。浪の音、雨の音。)

  ――幕――

 (明治四十四年九月執筆/明治四十五年四月、浪花座で初演)

底本:「伝奇ノ匣2 岡本綺堂妖術伝奇集」学研M文庫、学習研究社
   2002(平成14)年3月29日初版発行
初出:「浪花座」公演
   1912(明治45)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2008年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

鼠——– 岡本綺堂

     

 大田蜀山人の「壬戌《じんじゅつ》紀行」に木曾街道の奈良井の宿のありさまを叙して「奈良井の駅舎を見わたせば梅、桜、彼岸ざくら、李《すもも》の花、枝をまじえて、春のなかばの心地せらる。駅亭に小道具をひさぐもの多し。膳、椀、弁当箱、杯、曲物《まげもの》など皆この辺の細工なり。駅舎もまた賑えり。」云々《うんぬん》とある。この以上にわたしのくだくだしい説明を加えないでも、江戸時代における木曾路のすがたは大抵想像されるであろう。
 蜀山人がここを過ぎたのは、享和二年の四月|朔日《ついたち》であるが、この物語はその翌年の三月二十七日に始まると記憶しておいてもらいたい。この年は信州の雪も例年より早く解けて、旧暦三月末の木曾路はすっかり春めいていた。
 その春風に吹かれながら、江戸へむかう旅人上下三人が今や鳥居峠をくだって、三軒屋の立場《たてば》に休んでいた。かれらは江戸の四谷|忍町《おしまち》の質屋渡世、近江屋七兵衛とその甥の梅次郎、手代の義助であった。
「おまえ様がたはお江戸の衆でござりますな。」と、立場茶屋の婆さんは茶をすすめながら言った。
「はい。江戸でございます。」と、七兵衛は答えた。「若いときから一度はお伊勢さまへお参りをしたいと思っていましたが、その念が叶ってこの春ようようお参りをして来ました。」
「それはよいことをなされました。」と、婆さんはうなずいた。「お参りのついでにどこへかお廻《まわ》りになりましたか。」
「お察しの通り、帰りには奈良から京大阪を見物して来ました。こんな長い旅はめったに出来ないので、東海道、帰りには中仙道を廻ることにして、無事ここまで帰って来ました。」
「それではお宿へのおみやげ話もたくさん出来ましたろう。」
「風邪《かぜ》も引かず、水|中《あた》りもせず、名所も見物し、名物も食べて、こうして帰って来られたのは、まったくお伊勢さまのお蔭でございます。」
 年ごろの念願もかない、愉快な旅をつづけて来て、七兵衛はいかにものびやかな顔をして、温かい茶をのみながらあたりの春景色を眺めていると、さっきから婆さんと客の話の途切れるのを待っていたらしく、店さきの山桜の大樹のかげから、ひとりの男が姿をあらわした。かれは六十前後、見るから山国育ちの頑丈そうな大男で、小脇には二、三枚の毛皮をかかえていた。
「もし、お江戸のお客さま。熊の皮を買って下さらんかな。」と、彼は見掛けによらない優しい声で言った。
 熊の皮、熊の胆《い》を売るのは、そのころの木曾路の習いで、この一行はここまで来るあいだにも、たびたびこの毛皮売に付きまとわれているので、手代の義助はまたかという顔をして無愛想に断った。
「いや、熊の皮なんぞはいらない、いらない。おれ達は江戸へ帰れば、虎の皮をふんどしにしているのだ。」
「はは、鬼じゃあるまいに……。」と、男は笑った。「そんな冗談を言わないで、一枚おみやげに買ってください。だんだん暖かくなると毛皮も売れなくなる。今のうち廉《やす》く売ります。」
「廉くっても高くっても断る。」と、梅次郎も口を出した。「わたしらは町人だ。熊の皮の敷皮にも坐れまいじゃないか。そんな物はお武家を見かけて売ることだ。」
 揃いも揃って剣もほろろに断られたが、そんなことには慣れているらしい男は、やはりにやにやと笑っていた。
「それじゃあ仕方がない。熊の皮が御不用ならば、熊の胆《い》を買ってください。これは薬だから、どなたにもお役に立ちます。道中の邪魔にもならない。どうぞ買ってください。」
「道中でうっかり熊の胆などを買うと、偽物をつかまされるということだ。そんな物もまあ御免だ。」と、義助はまた断った。
「偽物を売るような私じゃあない。そこはここの婆さんも証人だ。まあ、見てください。」
 男はうしろを見かえると、桜のかげからまたひとりが出て来た。それは年ごろ十七八の色白の娘で、手には小さい箱のようなものを抱えていた。身なりはもちろん粗末であったが、その顔立ちといい姿といい、この毛皮売の老人の道連れにはなにぶん不似合いに見えたので、三人の眼は一度にかれの上にそそがれた。
「江戸のお客さまを相手にするには、おれよりもお前のほうがいいようだ。」と、男は笑った。
「さあ、おまえからお願い申せよ。」
 娘は恥かしそうに笑いながら進み出た。
「今も申す通り、偽物などを売るような私らではございません。そんなことをしましたら、福島のお代官所で縛られます。安心してお求めください。」
 梅次郎も義助も若い者である。眼のまえに突然にあらわれて来た色白の若い女に対しては、今までのような暴《あら》っぽい態度を執るわけにもいかなくなった。
「姐《ねえ》さんがそう言うのだから偽物でもあるまいが、熊の胆はもう前の宿《しゅく》で買わされたのでな。」と、義助は言った。
 これはどの客からも聞かされる紋切型の嘘である。この道中で商売をしている以上、それで素直に引下がる筈のないのは判り切っていた。娘は押返して、買ってくれと言った。梅次郎と義助は買うような、買わないような、取留めのないことを言って、娘にからかっていた。梅次郎は、ことし廿一で、本来はおとなしい、きまじめな男であったが、長い道中のあいだに宿屋の女中や茶屋の女に親しみが出来て、この頃では若い女に冗談の一つも言ってからかうようになったのである。義助は二つ違いの廿三であった。
 七兵衛はさっきから黙って聞いていたが、その顔色が次第に緊張して来て、微笑を含んでいるそのくちびるが固く結ばれた。彼は手に持つ煙管《きせる》の火の消えるのも知らずに、熊の胆の押売りをする娘の白い顔をじっと眺めていたが、やがて突然に声をかけた。
「もし、おじいさん。その子はおまえの娘かえ、孫かえ。」
「いえ……。」と、毛皮売の男はあいまいに答えた。
「おまえの身寄りじゃあないのかえ。」と、七兵衛はまた訊いた。
「はい。」
 七兵衛は無言で娘を招くと、娘はすこし躊躇しながら、その人が腰をかけている床几《しょうぎ》の前に進み寄った。七兵衛はやはり無言で、娘の右の耳の下にある一つの黒子《ほくろ》を見つめながら、探るようにまた訊いた。
「おまえの左の二の腕に小さい青い痣《あざ》がありはしないかね。」
 娘は意外の問いを受けたように相手の顔をみあげた。
「あるかえ。」と、七兵衛は少しせいた。
「はい。」と、娘は小声で答えた。
「店のさきじゃあ話は出来ない。」と、七兵衛は立ちあがった。「ちょいと奥へ来てくれ。おじいさん、おまえも来てくれ。」
 その様子がただならず見えたので、男も娘もまた躊躇していたが、七兵衛にせき立てられて不安らしく続いて行った。娘はよろめいて店の柱に突き当った。
「旦那はどうしたのでしょうな。」と、義助も不安らしく三人のうしろ姿をながめていた。
「さあ。」
 梅次郎も不思議そうに考えていたが、俄に思い当ったように何事かささやくと、義助もおどろいたように眼をみはった。二人は無言でしばらく顔を見あわせていたが、義助は茶屋の婆さんに向って小声で訊いた。
「あの毛皮売のじいさんは何という男だね。」
「その奈良井の宿《しゅく》はずれに住んでいる男で、伊平と申します。」
「あの娘の名は。」
「お糸といいます。」
 それからだんだん詮議すると、お糸は伊平の娘でも孫でもなく、去年の秋ももう寒くなりかかった夕ぐれに、ひとりの若い娘が落葉を浴びながら伊平の門口《かどぐち》に立って、今夜泊めてくれと頼んだ。ひとり旅の女を泊めるのは迷惑だとも思ったが、その頼りない姿が不憫でもあるので、伊平は宿《しゅく》の役人に届けた上で、娘に一夜のやどりを許すことになると、その夜なかに伊平は俄に発熱して苦しみ出した。
 伊平は独り者で、病気は風邪をこじらせたのであったが、幸いに娘が泊り合せていたので、彼は親切な介抱をうけた。独り身の病人を見捨てては出られないので、娘はその次の日も留まって看病していたが伊平は容易に起きられなかった。そして、三日過ぎ、五日を送って、伊平が元のからだになるまでには小半月を過ぎてしまった。そのあいだ、かの娘は他人とは思えない程にかいがいしく立ち働いて、伊平を感謝させた。近所の人達からも褒められた。
 娘は江戸の生れであるが、七つの時に京へ移って、それから諸国を流浪して、しかも、継母《ままはは》にいじめられて、言いつくされない苦労をした末に、半分は乞食同様のありさまで、江戸の身寄りをたずねて下る途中であるが、長いあいだ音信不通であったので、その身寄りも今はどこに住んでいるか、よくは判らないというのである。
 そういう身の上ならば、的《あて》もなしに江戸へ行くよりも、いっそここに足を留めてはどうだと、伊平は言った。近所の人たちも勧めた。娘もそうして下されば仕合せであると答えた。その以来、お糸という娘は養女でもなく、奉公人でもなく、差しあたりは何ということもなしに伊平の家に入り込んで、この頃では商売の手伝いまでもするようになった。お糸は色白の上に容貌《きりょう》も悪くない。小さいときから苦労をして来たというだけに、人付合いも悪くない。それやこれやで近所の評判もよく、伊平さんはよい娘を拾い当てたと噂されている。
 婆さんの口からこんな話を聞かされているうちに、七兵衛ら三人は奥から出て来た。七兵衛の顔には抑え切れない喜びの色がかがやいていた。

     

 近江屋七兵衛がよろこぶのも無理はなかった。彼はこの木曾の奈良井の宿で、一旦失った手のうちの珠《たま》を偶然に発見したのである。
 七兵衛は四谷の忍町に五代つづきの質屋を営んでいて、女房お此《この》と番頭庄右衛門のほかに、手代三人、小僧二人、女中二人、仲働き一人の十一人家内で、おもに近所の旗本や御家人《ごけにん》を得意にして、手堅い商売をしていた。ほかに地所|家作《かさく》なども持っていて、町内でも物持ちの一人にかぞえられ、何の不足もない身の上であったが、ただひとつの不足――というよりも、一つの大きい悲しみは娘お元のゆくえ不明の一件であった。
 今から十一年前、寛政四年の暮春のゆうがたに、ことし七つのひとり娘お元が突然そのゆくえを晦《くら》ました。最初は表へ出て遊んでいるものと思って、誰も気に留めずにいたのであるが、夕飯頃になっても戻らないばかりか、近所にもその姿が見えないというので、家内は俄にさわぎ出した。七兵衛夫婦は気ちがいのようになって、それぞれに手分けをして探させたが、お元のゆくえは遂にわからなかった。
 この時代には神隠しということが信じられた。人攫《ひとさら》いということもしばしば行われた。お元は色白の女の子であるから、悪者の手にかどわかされたのかも知れないという説が多かった。いずれにしても、ひとり娘を失った七兵衛夫婦の悲しみは、ここに説明するまでもない。お此はその後三月ほどもぶらぶら病で床についたほどであった。七兵衛も費用を惜しまずに、出来るかぎりの手段をめぐらして、娘のゆくえを探り求めたが、飛び去った雛鳥はふたたび元の籠《かご》に帰らなかった。
 そのうちに、一年過ぎ、二年を過ぎて、近江屋の夫婦は諦められないながらに諦めるのほかはなかった。それでも何時《いつ》どこから戻って来るかも知れないという空頼みから、近江屋ではその後にも養子を貰おうとはしなかった。お元が無事であれば、ことしは十八の春を迎えることになる。ゆくえの知れない子供の年をかぞえて、お此は正月早々から涙をこぼした。
 七兵衛が今度の伊勢まいりは四十二の厄除《やくよけ》というのであるが、そのついでに伊勢から奈良、京大阪を見物してあるく間に、もしやわが子にめぐり逢うことがないともいえない。そんな果敢《はか》ない望みも手伝って、長い道中をつづけて来たのであるが、ゆく先々でそれらしい便りも聞かず、望みの綱もだんだんに切れかかって、もう五、六日の後には江戸入りということになった。その木曾街道で測らずも熊の胆を売る娘に出逢ったのである。七つのときに別れたのであるが、その幼な顔が残っている。年ごろも丁度同様である。気をつけて見ると、右の耳の下に証拠の黒子《ほくろ》がある。さらに念のために詮議すると、左の二の腕に青い痣があるという。もう疑うまでもない、この娘はわが子であると、七兵衛は思った。彼は喜んで涙を流した。
 正直な伊平は思いもよらぬ親子のめぐり逢いに驚いて、異議なくかれを実の親に引渡すことになったので、七兵衛は多分の礼金を彼にあたえて別れた。お糸という名は誰に付けられたのか好く判らないが、娘はむかしのお元にかえって、十一年目に再会した父と共に奈良井の宿を立去った。甥の梅次郎も手代の義助も、不思議の対面におどろきながら、これも喜び勇んで付いて行った。
 江戸を出るときには男三人であったこの一行に、若い女ひとりが加わって帰ったのを見た時に、近江屋の家は引っくり返るような騒ぎであった。女房も番頭も嬉し泣きに泣いた。近江屋からは町《ちょう》役人にも届け出て、お元は再びこの家の娘となった。この話もこれで納まれば、筆者もめでたく筆をおくことが出来るのであるが、事実はそれを許さないで、さらに暗い方面へ筆者を引摺って行くのであった。
 お元が無事に戻って来たのを聞き、親類たちもみんな喜んで駈けつけた。町内の人々も祝いに来た。その喜ばしさと忙しさに取りまぎれて、当座はただ夢のような日を送るうちに、四月も過ぎて五月もやがて半ばとなった。このごろは家内もおちついて、毎日ふり続くさみだれの音も耳に付くようになった。その五月末の夕がたに、お元が仲働きのお国と共に近所の湯屋へ行った留守をうかがって、お此は夫にささやいた。
「おまえさんはお元について、なにか気が付いたことはありませんかえ。」
「気が付いたこと……。どんなことだ。」と、七兵衛は少しく眉をよせた。女房の口ぶりが何やら子細ありげにも聞えたからである。
「実はお国が妙なことを言い出したのですが……。」と、お此はまたささやいた。「お元には鼠が付いていると言うのです。」
「なんでそんなことを言うのだ。」
「お国の言うには、お元さんのそばには小さい鼠がいる。始終は見えないが、時々にその姿を見ることがある。お元さんが縁側なぞを歩いていると、そのうしろからちょろちょろと付いて行く……。」
「ほんとうか。」と、七兵衛はそれを信じないようにほほえんだ。
「まったく本当だそうで……。お国だって、まさかそんな出たらめを言やあしますまいと思いますが……。」
「それもそうだが……。若い女なぞというものは、飛んでもないことを言い出すからな。そんな鼠が付いているならばお国ばかりでなく、ほかにも誰か見た者がありそうなものだが……。」
 自分たち夫婦は別としても、ほかに番頭もいる、手代もいる、小僧もいる、女中もいる。それらが誰も知らない秘密を、お国ひとりが知っているのは不審である。奉公人どもについて、それとなく詮議してみろと、七兵衛は言った。しかし多年他国を流浪して来たのであるから、人はとかくにつまらない噂を立てたがるものである。迂濶なことをして、大事の娘に瑕《きず》を付けてはならない。お前もそのつもりで秘密に詮議しろと、彼は女房に言い含めた。
 それから三、四日の後に、甥の梅次郎がたずねて来た。梅次郁は七兵衛の姉の次男で、やはり四谷の坂町に、越前屋という質屋を開いている。万一お元のゆくえがどうしても知れない暁には、この梅次郎を養子にしようかと、七兵衛夫婦も内々相談したことがある。お元が今度発見されると、その相談がいよいよ実現されて、梅次郎をお元の婿に貰おうということになった。勿論それは七兵衛夫婦の内相談だけで、まだ誰にも口外したわけではなかったが、お此のほうにはその下ごころがあるので、きょう尋ねて来た甥を愛想よく迎えた。
 梅次郎は奥へ通されて、庭の若葉を眺めながら言った。
「よく降りますね。叔父さんは……。」
「叔父さんは商売の用で、新宿のお屋敷まで……。」
「お元ッちゃんは……。」
「お国を連れて赤坂まで……。」と、言いかけてお此は声をひくめた。「ねえ、梅ちゃん。すこしお前に訊きたいことがあるのだが……。お前、木曾街道からお元と一緒に帰って来る途中で、なにか変ったことでもなかったかえ。」
「いいえ。」
 それぎりで、話はすこし途切れたが、やがて梅次郎のほうから探るように訊きかえした。
「叔母さん、なにか見ましたか。」
 お此はぎょっとした。それでもかれは素知らぬ顔で答えた。
「いいえ。」
 話はまた途切れた。庭の若葉にそそぐ雨の音もひとしきり止んだ。この時、梅次郎は何を見たか、小声に力をこめてお此を呼んだ。
「叔母さん。あ、あれ……。」
 彼が指さす縁側には、一匹の灰色の小鼠が迷うように走り廻っていたが、忽ち庭さきに飛びおりて姿を消した。叔母も甥も息をつめて眺めていた。
 叔母が言おうとすること、甥が言おうとすること、それが皆この一匹の鼠によって説明されたようにも思われた。しばらくして、二人はほうっと溜息をついた。お此の顔は青ざめていた。
「お前、誰に聞いたの、そんなことを……。」と、かれは摺り寄って訊いた。
「実は、お国さんに……。」と、梅次郎はどもりながら答えた。
 堅く口留めをして置いたにも拘らず、お国は鼠の一件を梅次郎にも洩らしたとみえる。お此はそのおしゃべりを憎むよりも、その報告の嘘でないのに驚かされた。考えようによっては、鼠が縁側に上がるぐらいのことは別に珍しくもない。縁の下から出て来て、縁側へ飛びあがって、再び縁の下へ逃げ込む。それは鼠として普通のことであるかも知れない。それをお元に結びつけて考えるのは間違っているかも知れない。しかもこの場合、お此も梅次郎もかの鼠に何かの子細があるらしく思われてならなかった。
「ほんとうに江戸へ来る途中には、なんにも変ったことはなかったのかねえ。」と、お此はかさねて訊いた。
「まったく変ったことはありませんでした。ただ……。」と梅次郎は躊躇しながら言った。「あの義助と大変に仲がよかったようで……。」
「まあ。」
 お此はあきれたように、再び溜息をついた。それを笑うように、どこかで枝蛙のからから[#「からから」に傍点]と鳴く声がきこえた。

     

 きょうの鼠の一件がお此の口から夫に訴えられたのは言うまでもない。しかも七兵衛は半信半疑であった。一家の主人で分別盛りの七兵衛は、単にそれだけの出来事で、その怪談を一途《いちず》に信じるわけにいかなかった。
 お此はその以来、お元の行動に注意するは勿論、お国にもひそかに言い含めて、絶えず探索の眼をそそがせていたが、店の奉公人や女中たちのあいだには、別に怪しい噂も伝わっていないらしかった。
「義助さんと仲よくしているような様子もありません。」と、お国は言った。
 七兵衛にとっては、このほうが大問題であった。梅次郎を婿にと思い設けている矢先に、娘と店の者とが何かの関係を生じては、その始末に困るのは見え透いている。さりとて取留めた証拠もなしに、多年無事に勤めている奉公人、殊に先ごろは自分の供をして長い道中をつづけて来た義助を無造作に放逐することも出来ないので、ただ無言のうちにかれらを監視するのほかはなかった。
 うしなった娘を連れ戻って、一旦は俄に明るくなった近江屋の一家内には、またもや暗い影がさして、主人夫婦はとかくに内所話をする日が多くなった。この年は梅雨《つゆ》が長くつづいて、六月の初めになっても毎日じめじめしているのも、近江屋夫婦の心をいよいよ暗くした。
 その六月はじめの或る夜である。奥の八畳に寝ていたお此がふと眼をさますと、衾《よぎ》の襟のあたりに何か歩いているように感じられた。枕もとの有明行燈《ありあけあんどう》は消えているので、その物のすがたは見えなかったが、お此は咄嗟のあいだに覚った。
「あ、鼠……。」
 息を殺してうかがっていると、それは確かに小鼠で、お此の衾の襟から裾のあたりをちょろちょろと駈けめぐっているのである。お此は俄にぞっとして少しくわが身を起しながら、隣りの寝床にいる七兵衛の衾の袖をつかんで、小声で呼び起した。
「おまえさん……。起きてくださいよ。」
 眼ざとい七兵衛はすぐに起きた。
「なんだ、何だ。」
「あの、鼠が……。」
 言ううちに、鼠はお此の衾の上を飛びおりて、蚊帳の外へ素早く逃げ去った。暗いなかではあるが畳を走る足音を聞いて、それが鼠であるらしいことを七兵衛も察した。
「おまえさん。確かに鼠ですよ。」と、お此は気味悪そうにささやいた。
「むむ。そうらしい。」
 それぎりで夫婦は再び枕につくと、やがてお此は再び夫をゆり起して、今度は鼠が自分の顔や頭の上をかけ廻るというのである。それが夢でもないことは、今度も七兵衛の耳に鼠の足音を聞いたのである。もう打捨てては置かれないので、七兵衛は床の上に起き直って枕もとの燧石《ひうちいし》を擦った。有明行燈の火に照らされた蚊帳の中には、鼠らしい物の姿も見いだされなかった。念のために衾や蒲団を振ってみたが、いたずら者はどこにも忍んでいなかった。
「行燈を消さずに置いてください。」
 言い知れない恐怖に襲われたお此は、夜の明けるまで、一睡も出来なかった。七兵衛もそのお相伴《しょうばん》で、おちおち眠られなかった。この頃の夜は短いので、わびしい雨戸の隙間が薄明るくなったかと思うと、ぬき足をして縁側の障子の外へ忍び寄る者があった。お此ははっとして耳を傾けると、外からそっと呼びかけた。
「おかみさん。お眼ざめですか。」
 それはお国の声であったので、お此は安心したように答えた。
「あい。起きています。なにか用かえ。」
「はいってもよろしゅうございますか。」
「おはいり。」
 許しを受けて、お国は又そっと障子をあけた。かれは寝まきのままで、蚊帳の外へ這い寄った。
「おかみさん。ちょいとおいで下さいませんか。」
「どこへ行くの。」
「お元さんのお部屋へ……。」
 お此は又はっとしたが、一種の好奇心もまじって、これも寝まきのままで蚊帳から抜け出した。お元の部屋は土蔵前の四畳半で、北向きに一間の肱かけ窓が付いていた。その窓の戸を洩れる朝のひかりをたよりに、お此は廊下の障子を細目にあけて窺うと、部屋いっぱいに吊られた蚊帳のなかに、お元は東枕に眠っている。その枕もとに一匹の灰色の小鼠が、あたかもその夢を守るようにうずくまっていた。
「御覧になりましたか。」と、お国は小声で言った。
 お此はもう返事が出来なかった。かれは半分夢中でお国の手をつかんで、ふるえる足を踏みしめながら自分の八畳の間へ戻って来ると、七兵衛も待ちかねたように声をかけた。
「おい、どうした。」
 鼠の話を聞かされて、七兵衛は起きあがった。彼もぬき足をして、お元の寝床を覗きにゆくと、その枕もとに鼠らしい物のすがたは見えなかった。お国も鼠を見たと言い、お此も確かに見たと言うのであるが、自分の眼で見届けない以上、七兵衛はやはり半信半疑であるので、むやみに騒いではならないと女達を戒めて、お国を自分の部屋へさがらせた。
 夫婦はいつもの時刻に寝床を出て、なにげない顔をして、朝食の膳にむかったが、お此の顔は青かった。お元もけさは気分が悪いと言って、ろくろくに朝飯を食わなかった。その顔色も母とおなじように青ざめているのが、七兵衛の注意をひいた。
 その日も降り通して薄暗い日であった。午《ひる》過ぎにお元は茶の間へしょんぼりとはいって来て、両親の前に両手をついた。
「まことに申訳がございません。どうぞ御勘弁をねがいます。」
 だしぬけに謝られて、夫婦も煙《けむ》にまかれた。それでも七兵衛はしずかに訊いた。
「申訳がない……。お前は何か悪いことでもしたのか。」
「恐れ入りました。」
「恐れ入ったとは、どういうわけだ。」
「わたくしは……。お家《うち》の娘ではございません。」と、お元は声を沈ませて言った。
 夫婦は顔を見あわせた。取分けて七兵衛は自分の耳を疑うほどに驚かされた。
「家の娘ではない……。どうしてそんなことを言うのだ。」
「わたくしは江戸の本所で生れまして、小さい時から両親と一緒に近在の祭や縁日をまわっておりました。お糸というのがやはり私の本名でございます。わたくし共の一座には蛇つかいもおりました。鶏娘という因果物もおりました。わたくしは鼠を使うのでございました。芝居でする金閣寺の雪姫、あの芝居の真似事をいたしまして、わたくしがお姫様の姿で桜の木にくくり付けられて、足の爪先《つまさき》で鼠をかきますと、たくさんの鼠がぞろぞろと出て来て、わたくしの縄を食い切るのでございます。芝居ならばそれだけですが、鼠を使うのが見世物の山ですから、その鼠がわたくしの頭へのぼったり、襟首へはいったり、ふところへ飛び込んだりして、見物にはらはらさせるのを芸当としていたのでございます。」
 お元と鼠との因縁はまずこれで説明された。かれはさらに語りつづけた。
「そうしておりますうちに、江戸ばかりでも面白くないというので、両親はわたくし共を連れて旅かせぎに出ました。まず振出しに八王子から甲府へ出まして、諏訪から松本、善光寺、上田などを打って廻り、それから北国へはいって、越後路から金沢、富山などを廻って岐阜へまいりました。ひと口に申せばそうですが、そのあいだに、足掛け三年の月日が経ちまして、旅先ではいろいろの苦労をいたしました。そうして、去年の秋の初めに岐阜まで参りますと、そこには悪い疫病が流行っていまして、一座のうちで半分ほどばたばたと死んでしまいました。わたくしの両親もおなじ日に死にました。もうどうすることも出来ないので、残る一座の者は散りぢりばらばらになりましたが、そのなかにお角という三味線ひきの悪い奴がありまして、わたくしをだまして、どこかへ売ろうと企んでいるらしいので、うかうかしていると大変だと思いまして、着のみ着のままでそっと逃げ出しました。東海道を下ると追っ掛けられるかも知れないので、中仙道を取って木曾路へさしかかった頃には、わずかの貯えもなくなってしまって、もうこの上は、乞食でもするよりほかはないと思っていますと、運よく伊平さんの家に引取られて、まあ何ということなしに半年余りを暮していたのでございます。」
 お元は怪しい女でなく、不幸の女である。その悲しい身の上ばなしを聞かされて、気の弱いお此は涙ぐまれて来た。

     

 これからがお元の懺悔である。
「まったく申訳のないことを致しました。この三月の二十七日に、伊平さんの商売の手伝いをして三軒屋の立場茶屋へ熊の皮や熊の胆を売りに行きますと、あなた方にお目にかかりました。その時に旦那さまが子細ありそうに、私の顔をじっと眺めておいでなさるので、なんだか、おかしいと思っておりますと、やがてわたくしを傍へ呼んで、おまえの左の二の腕に青い痣《あざ》はないかとお訊きになりました。さてはこの人は娘か妹か、なにかの女をさがしているに相違ないと思う途端に、ふっと悪い料簡が起りました。こんな木曾の山の中に、いつまで暮していても仕様がない。ここで何とかごまかして……。こう思ったのがわたくしの誤りでございました。奥へ連れて行かれる時に、店の柱へ二の腕をそっと強く打ちつけて、急ごしらえの痣をこしらえまして……。わたくしはまた何という大胆な女でございましょう。旦那さまの口占《くちうら》を引きながら、いい加減の嘘八百をならべ立てて、表に遊んでいるところを見識らない女に連れて行かれたの、それから京へ行って育てられたの、継母《ままはは》にいじめられたのと、まことしやかな作りごとをして、旦那さまをはじめ皆さんをいいように欺してしまって、とうとうこの家へ乗り込んだのでございます。思えば、一から十までわたくしが悪かったのでございます。どうぞ御勘弁をねがいます。」と、かれは前髪を畳にすり付けながら泣いた。
 ここらでも人に知られた近江屋七兵衛、四十二歳の分別盛りの男が、いかにわが子恋しさに眼が眩《くら》んだといいながら、十七八の小女にまんまと一杯食わされたかと思うと、七兵衛も我ながら腹が立つやら、ばかばかしいやらで、しばらくは開《あ》いた口が塞がらなかった。それでもまだ腑に落ちないことがあるので、彼は気を取直して訊いた。
「そこで、鼠はどうしたのだ。おまえが持って来たのか。」
「それが不思議でございます。」と、お元はうるんだ眼をかがやかしながら答えた。「岐阜の宿をぬけ出す時に、商売道具は勿論、鼠もみんな置き去りにして来たのでございますが、途中まで出て気がつきますと、一匹の小鼠がわたくしの袂にはいっていたのでございます。どうして紛れ込んでいたのか、それともわたくしを慕って来たのか、なにしろ捨てるのも可哀そうだと思いまして、懐に忍ばせたり、袂に入れたりして、木曾路までは一緒に連れて来ましたが、伊平さんの家に落ちつくようになりました時に、因果をふくめて放してやりました。鼠はそれぎり姿を見せませんので、どこかの縁の下へでも巣を食ってしまったものと思っていますと、旦那さまと御一緒に江戸へ帰る途中、碓氷峠をくだって坂本の宿に泊りますと、その晩、どこから付いて来たのか、その鼠がわたくしの袂のなかにはいっているのを見つけて、実にびっくり致しました。それほど自分に馴染んでいて、こうしてここまで付いて来たかと思うと、どうも捨てる気にならないので、そっと袂に入れて来ました。それを梅次郎さんや義助さんに見付けられて、ずいぶん困ったこともありましたが……。まあ、旦那さまには隠して置いてもらうことにして、無事に江戸まで帰ってまいりますと、この頃になってまたどこからか出て来まして、時々にわたくしの部屋へも姿をみせます。しかも、ゆうべはわたくしの夢に、その鼠が枕もとへ忍んで来まして、袖をくわえてどこへか引っ張っていこうとするらしいのです。こっちが行くまいとしても、相手は無理にくわえていこうとする。同じような夢を幾たびも繰返して、わたくしもがっかりしてしまいました。そのせいか、今朝はあたまが重くって、何をたべる気もなしにぼんやりしていますと、仲働きと女中の話し声がきこえまして……。」
 あまりに気分が悪いので、お元は台所へ水を飲みにゆくと、女中部屋で仲働きのお国が女中お芳に何か小声で話しかけている。鼠という言葉が耳について、お元はそっと立聞きすると、ゆうべはあの鼠がおかみさんの蚊帳のなかへはいり込んだこと、お元の枕もとにも坐っていたこと、それらをお国が不思議そうにささやいているのであった。
 もう仕方がないとお元も覚悟した。娘に化けて近江屋の家督を相続する――その大願成就はおぼつかない。うかうかしていると化けの皮を剥がれて、騙《かた》りの罪に問われるかも知れない。いっそ今のうちにも何もかも白状して、七兵衛夫婦に自分の罪を詫びて、早々にここを立去るのほかはないと、かれは思い切りよく覚悟したのである。
「重々憎い奴と、定めしお腹も立ちましょうが、どうぞ御勘弁くださいまして、きょうお暇をいただきとうございます。」と、お元はまた泣いた。
 その話を聞いているあいだに、七兵衛もいろいろ考えた。憎いとはいうものの、欺されたのは自分の不覚である。当人の望み通りに、早々追い出してしまえば子細はないのであるが、親類の手前、世間の手前、奉公人の手前、それを何と披露していいか。正直にいえば、まったくお笑い草である。近江屋七兵衛はよくよくの馬鹿者であると、自分の恥を内外にさらさなければならない。その恥がそれからそれへと広まると、近江屋の暖簾《のれん》も瑕が付く。それらのことを考えると、七兵衛も思案にあぐんだ。
 女房のお此も夫とおなじように考えた。殊にお此は女であるだけに、自分の前に泣いて詫びているお元のすがたを見ると、またなんだか可哀そうにもなって来た。たとい偽者であるにもせよ、けさまでわが子と思っていたお元を、このまま直ぐに追い出すに忍びないような弱い気にもなった。
「まあ、お待ちなさいよ」と、お此はお元をなだめるように言った。「そう事が判れば、わたし達のほうにも又なんとか考えようがある。ともかくも今すぐに出て行くのはよくない。もうちっとの間、知らん顔をしていておくれよ。」
「それがいい。」と、七兵衛も言った。「いずれ何とか処置を付けるから、もうちっと落ちついていてくれ。私のほうでも自分の暖簾にかかわることだから、決してこれを表沙汰にして、おまえを騙《かた》りの罪に落すようなことはしない。まあ安心して待っていてくれ。」
 夫婦からいろいろに説得されて、お元もおとなしく承知した。
「それでは何分よろしく願います。」
 自分の部屋へ立去るお元のうしろ姿を見送って、深い溜息が夫婦の口を洩れた。いかにお此が弱い気になったからといって、すでに偽者の正体があらわれた以上、それをわが子として養って置くことは出来ない。さりとて、その事実をありのままに世間へ発表することも出来ない。しょせんはお元に相当の手切金をあたえて、人知れずにこの家を立ちのかせ、表向きは家出と披露するのが一番無事であるらしい。勿論それも外聞にかかわることではあるが、偽者と知らずに連れ込んだというよりはましである。一旦かどわかされた娘をようよう連れ戻して来たところ、その悪者どもが付けて来て、再びかどわかして行ったのであろうということにすれば、こちらに油断の越度があったにもせよ、世間からは気の毒だと思われないこともない。ともかくも大きな恥をさらさないで済みそうである。夫婦の相談はまずそれに一致した。
「それにしても、梅ちゃんも義助もあんまりじゃありませんか。」と、お此は腹立たしそうに言った。「江戸へ帰る途中で、お元の袂に鼠を見付けたことがあるなら、誰かがそっと知らせてくれてもいいじゃありませんか。お国が話してくれなければ、わたし達はいつまでも知らずにいるのでした。このあいだも梅ちゃんにきいたら、途中ではなんにも変ったことはなかった、なぞと白ばっくれているんですもの。」
「まあ、仕方がない。梅次郎や義助を恨まないがいい。誰よりも彼よりも、わたしが一番悪いのだ。私が馬鹿であったのだ。」と、七兵衛は諦めたように言った。「そんな者にだまされたのが重々の不覚で、今さら人を咎めることはない。みんな私が悪いのだ」
 さすがは大家《たいけ》の主人だけに、七兵衛はいっさいの罪を自分にひき受けて、余人を責めようとはしなかった。
 それから二日目の夜の更けた頃に、お元は身拵えをして七兵衛夫婦の寝間へ忍び寄ると、それを待っていた七兵衛は路用として十両の金をわたした。彼は小声で言い聞かせた。
「江戸にいると面倒だ。どこか遠いところへ行くがいい。」
「かしこまりました。おかみさんにもいろいろ御心配をかけました。」と、お元は蚊帳の外に手をついた。
「気をつけておいでなさいよ。」
 お此の声も曇っていた。それをうしろに聞きながら、お元は折からの小雨のなかを庭さきへ抜け出した。横手の木戸を内からあけて、かれのすがたは闇に消えた。
 あくる朝の近江屋はお元の家出におどろき騒いだ。主人夫婦も表面《うわべ》は驚いた顔をして、人々と共に立ち騒いでいた。
 その予定の筋書以外に、かれら夫婦を本当におどろかしたのは、四谷からさのみ遠くない青山の権太原の夏草を枕にして、二人の若い男が倒れているという知らせであった。男のひとりは近江屋の手代義助で、他のひとりは越前屋の梅次郎である。義助は咽喉を絞められていた。梅次郎は短刀で脇腹を刺されていた。その短刀は近江屋の土蔵にある質物《しちもつ》を義助が持ち出したのである。死人に口なしで勿論たしかなことは判らないが、検視の役人らの鑑定によれば、かれらはこの草原で格闘をはじめて、梅次郎が相手を捻じ伏せてその咽喉を絞め付けると、義助も短刀をぬいて敵の脇腹を刺し、双方が必死に絞めつけ突き刺して、ついに相討ちになったのであろうという。
 お元の家出と二人の横死と、そのあいだに何かの関係があるかないか、それも判らなかった。もし関係があるとすれば、お元と義助と諜《しめ》しあわせて家出をしたのを、梅次郎があとから追い着いて格闘を演ずることになったのか。あるいはそれと反対に、お元と梅次郎とが家出したのを、義助が追って行ったのか。かれらは何がゆえに闘ったのか、お元はどうしたのか。それらの秘密は誰にも判らなかった。
 お元が江戸へ帰る途中、その袂に忍ばせている鼠を梅次郎と義助に見付けられて、ずいぶん困ったこともあったというから、あるいはその秘密を守る約束のもとに、二人の若い男はお元に一種の報酬を求めたかも知れない。その情交のもつれがお元の家出にむすび付いて、こんな悲劇を生み出したのではないかと、七兵衛夫婦はひそかに想像したが、もとより他人《ひと》に言うべきことではなかった。
 ふたりの死骸を初めて発見したのは、そこへ通りかかった青山百人組の同心で、死骸のまわりを一匹の灰色の小鼠が駈けめぐっていたとのことであるが、それはそこらの野鼠が血の匂いをかいで来たので、お元の鼠とは別種のものであろう。
 お元の消息はわからなかった。
   昭和七年十一月作「サンデー毎日」

底本:「鎧櫃の血」光文社文庫、光文社
   1988(昭和63)年5月20日初版1刷発行
   1988(昭和63)年5月30日2刷
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年6月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

中国怪奇小説集 捜神後記(六朝)——– 岡本綺堂

 第二の男は語る。
「次へ出まして、わたくしは『捜神後記』のお話をいたします。これは標題の示す通り、かの『捜神記』の後編ともいうべきもので、昔から東晋《とうしん》の陶淵明《とうえんめい》先生の撰ということになって居りますが、その作者については種々の議論がありまして、『捜神記』の干宝よりも、この陶淵明は更に一層疑わしいといわれて居ります。しかしそれが偽作であるにもせよ、無いにもせよ、その内容は『捜神記』に劣らないものでありまして、『後記』と銘を打つだけの価値はあるように思われます。これも『捜神記』に伴って、早く我が国に輸入されまして、わが文学上に直接間接の影響をあたうること多大であったのは、次の話をお聴きくだされば、大抵お判りになるだろうかと思います」

   貞女峡

 中宿《ちゅうしゅく》県に貞女峡《ていじょこう》というのがある。峡の西岸の水ぎわに石があって、その形が女のように見えるので、その石を貞女と呼び慣わしている。伝説によれば、秦の時代に数人の女がここへ法螺貝《ほらがい》を採りに来ると、風雨に逢って昼暗く、晴れてから見ると其の一人は石に化していたというのである。

   怪比丘尼

 東晋《とうしん》の大司馬|桓温《かんおん》は威勢|赫々《かくかく》たるものであったが、その晩年に一人の比丘尼《びくに》が遠方からたずねて来た。彼女は才あり徳ある婦人として、桓温からも大いに尊敬され、しばらく其の邸内にとどまっていた。
 唯《ただ》ひとつ怪しいのは、この尼僧の入浴時間の甚だ久しいことで、いったん浴室へはいると、時の移るまで出て来ないのである。桓温は少しくそれを疑って、ある時ひそかにその浴室を窺うと、彼は異常なる光景におびやかされた。
 尼僧は赤裸《あかはだか》になって、手には鋭利らしい刀を持っていた。彼女はその刀をふるって、まず自分の腹を截《た》ち割って臓腑をつかみ出し、さらに自分の首を切り、手足を切った。桓温は驚き怖れて逃げ帰ると、暫くして尼僧は浴室を出て来たが、その身体は常のごとくであるので、彼は又おどろかされた。しかも彼も一個の豪傑であるので、尼僧に対して自分の見た通りを正直に打ちあけて、さてその子細を聞きただすと、尼僧はおごそかに答えた。
「もし上《かみ》を凌ごうとする者があれば、皆あんな有様になるのです」
 桓温は顔の色を変じた。実をいえば、彼は多年の威力を恃《たの》んで、ひそかに謀叛《むほん》を企てていたのであった。その以来、彼は懼《おそ》れ戒《いまし》めて、一生無事に臣節を守った。尼僧はやがてここを立ち去って行くえが知れなかった。
 尼僧の教えを奉じた桓温は幸いに身を全うしたが、その子の桓玄《かんげん》は謀叛を企てて、彼女の予言通りに亡ぼされた。

   夫の影

 東晋《とうしん》の董寿《とうじゅ》が誅せられた時、それが夜中であったので、家内の者はまだ知らなかった。
 董の妻はその夜唯ひとりで坐っていると、たちまち自分のそばに夫の立っているのを見た。彼は無言で溜め息をついているのであった。
「あなた、今頃どうしてお退がりになったのです」
 妻は怪しんでいろいろにたずねたが、董はすべて答えなかった。そうして、無言のままに再びそこを出て、家に飼ってある※[#「鷄」の「鳥」に代えて「隹」、第3水準1-93-66]籠《とりかご》のまわりを繞《めぐ》ってゆくかと思うと、籠のうちの※[#「鷄」の「鳥」に代えて「隹」、第3水準1-93-66]《にわとり》が俄かに物におどろいたように消魂《けたたま》しく叫んだ。妻はいよいよ怪しんで、火を照らして窺うと、籠のそばにはおびただしい血が流れていた。
「さては凶事があったに相違ない」
 母も妻も一家こぞって泣き悲しんでいると、果たして夜が明けてから主人の死が伝えられた。

   蛮人の奇術

 魏《ぎ》のとき、尋陽《じんよう》県の北の山中に怪しい蛮人が棲んでいた。かれは一種の奇術を知っていて、人を変じて虎とするのである。毛の色から爪や牙《きば》に至るまで、まことの虎にちっとも変らず、いかなる人をも完全なる虎に作りかえてしまうのであった。
 土地の周《しゅう》という家に一人の奴僕《しもべ》があった。ある日、薪《たきぎ》を伐るために、妻と妹をつれて山の中へ分け入ると、奴僕はだしぬけに二人に言った。
「おまえ達はそこらの高い樹に登って、おれのする事を見物していろ」
 二人はその言うがままにすると、彼はかたわらの藪《やぶ》へはいって行ったが、やがて一匹の黄いろい斑《ふ》のある大虎が藪のなかから跳り出て、すさまじい唸《うな》り声をあげてたけり狂うので、樹の上にいる女たちはおどろいて身をすくめていると、虎は再び元の藪へ帰った。これで先ずほっとしていると、やがて又、彼は人間のすがたで現われた。
「このことを決して他言するなよ」
 しかしあまりの不思議におどろかされて、女たちはそれを同輩に洩らしたので、遂に主人の耳にもきこえた。そこで、彼に好《よ》い酒を飲ませて、その熟酔するのを窺って、主人はその衣服を解き、身のまわりをも検査したが、別にこれぞという物をも発見しなかった。更にその髪を解くと、頭髻《もとどり》のなかから一枚の紙があらわれた。紙には一つの虎を描いて、そのまわりに何か呪文《じゅもん》のようなことが記してあったので、主人はその文句を写し取った。そうして、酔いの醒めるのを待って詮議すると、彼も今更つつみ切れないと覚悟して、つぶさにその事情を説明した。
 彼の言うところに拠ると、先年かの蛮地の奥へ米を売りに行ったときに、三尺の布と、幾|升《しょう》の糧米《りょうまい》と、一羽の赤い雄※[#「鷄」の「鳥」に代えて「隹」、第3水準1-93-66]《おんどり》と、一升の酒とを或る蛮人に贈って、生きながら虎に変ずるの秘法を伝えられたのであった。

   雷車

 東晋の永和《えいわ》年中に、義興《ぎこう》の周《しゅう》という姓の人が都を出た。主人は馬に乗り、従者二人が付き添ってゆくと、今夜の宿りを求むべき村里へ行き着かないうちに、日が暮れかかった。
 路ばたに一軒の新しい草葺《くさぶ》きの家があって、ひとりの女が門《かど》に立っていた。女は十六、七で、ここらには珍しい上品な顔容《かおかたち》で、着物も鮮麗である。彼女は周に声をかけた。
「もうやがて日が暮れます。次の村へ行き着くのさえ覚束《おぼつか》ないのに、どうして臨賀《りんが》まで行かれましょう」
 周は臨賀という所まで行くのではなかったが、次の村へも覚束ないと聞いて、今夜はここの家《うち》へ泊めて貰うことにすると、女はかいがいしく立ち働いて、火をおこして、湯を沸かして、晩飯を食わせてくれた。
 やがて夜の初更《しょこう》(午後七時―九時)とおぼしき頃に、家の外から小児《こども》の呼ぶ声がきこえた。
「阿香《あこう》」
 それは女の名であるらしく、振り返って返事をすると、外ではまた言った。
「おまえに御用がある。雷車《らいしゃ》を推せという仰せだ」
「はい、はい」
 外の声はそれぎりで止むと、女は周にむかって言った。
「折角《せっかく》お泊まり下すっても、おかまい申すことも出来ません。わたくしは急用が起りましたので、すぐに行ってまいります」
 女は早々に出て行った。雷車を推せとはどういう事であろうと、周は従者らと噂をしていると、やがて夜半から大雷雨になったので、三人は顔をみあわせた。
 雷雨は暁け方にやむと、つづいて女は帰って来たので、彼女がいよいよ唯者《ただもの》でないことを三人は覚《さと》った。鄭重《ていちょう》に礼をのべて、彼女にわかれて、門を出てから見かえると、女のすがたも草の家も忽ち跡なく消えうせて、そこには新しい塚があるばかりであったので、三人は又もや顔を見あわせた。
 それにつけても、彼女が「臨賀までは遠い」と言ったのはどういう意味であるか、かれらにも判らなかった。しかも幾年の後に、その謎の解ける時節が来た。周は立身して臨賀の太守となったのである。

   武陵桃林

 東晋《とうしん》の太元《たいげん》年中に武陵《ぶりょう》の黄道真《こうどうしん》という漁人《ぎょじん》が魚を捕りに出て、渓川《たにがわ》に沿うて漕いで行くうちに、どのくらい深入りをしたか知らないが、たちまち桃の林を見いだした。
 桃の花は岸を挟んで一面に紅く咲きみだれていて、ほとんど他の雑木はなかった。黄は不思議に思って、なおも奥ふかく進んでゆくと、桃の林の尽くるところに、川の水源《みなもと》がある。そこには一つの山があって、山には小さい洞《ほら》がある。洞の奥からは光りが洩れる。彼は舟から上がって、その洞穴の門をくぐってゆくと、初めのうちは甚だ狭く、わずかに一人を通ずるくらいであったが、また行くこと数十歩にして俄かに眼さきは広くなった。
 そこには立派な家屋もあれば、よい田畑もあり、桑もあれば竹もある。路も縦横に開けて、※[#「鷄」の「鳥」に代えて「隹」、第3水準1-93-66]《とり》や犬の声もきこえる。そこらを往来している男も女も、衣服はみな他国人のような姿であるが、老人も小児も見るからに楽しそうな顔色であった。かれらは黄を見て、ひどく驚いた様子で、おまえは何処《どこ》の人でどうして来たかと集まって訊くので、黄は正直に答えると、かれらは黄を一軒の大きい家へ案内して、※[#「鷄」の「鳥」に代えて「隹」、第3水準1-93-66]を調理し、酒をすすめて饗応した。それを聞き伝えて、一村の者がみな打ち寄って来た。
 かれら自身の説明によると、その祖先が秦《しん》の暴政を避くるがために、妻子|眷族《けんぞく》をたずさえ、村人を伴って、この人跡《じんせき》絶えたるところへ隠れ住むことになったのである。その以来再び世間に出ようともせず、子々孫々ここに平和の歳月《としつき》を送っているので、世間のことはなんにも知らない。秦のほろびた事も知らない。漢《かん》の興《おこ》ったことも知らない。その漢がまた衰えて、魏《ぎ》となり、晋《しん》となったことも知らない。黄が一々それを説明して聞かせると、いずれもその変遷に驚いているらしかった。
 黄はそれからそれへと他の家にも案内されて、五、六日のあいだは種々の饗応を受けていたが、あまりに帰りがおくれては家内の者が心配するであろうと思ったので、別れを告げて帰って来た。その帰り路のところどころに目標《めじるし》をつけて置いて、黄は郡城にその次第を届けて出ると、時の太守|劉韻《りゅういん》は彼に人を添えて再び探査につかわしたが、目標はなんの役にも立たず、結局その桃林を尋ね当てることが出来なかった。

   離魂病

 宋《そう》のとき、なにがしという男がその妻と共に眠った。夜があけて、妻が起きて出た後に、夫もまた起きて出た。
 やがて妻が戻って来ると、夫は衾《よぎ》のうちに眠っているのであった。自分の出たあとに夫の出たことを知らないので、妻は別に怪しみもせずにいると、やがて奴僕《しもべ》が来て、旦那様が鏡をくれと仰《おっ》しゃりますと言った。
「ふざけてはいけない。旦那はここに寝ているではないか」と、妻は笑った。
「いえ、旦那様はあちらにおいでになります」
 奴僕も不思議そうに覗いてみると、主人はたしかに衾を被《き》て寝ているので、彼は顔色をかえて駈け出した。その報告に、夫も怪しんで来てみると、果たして寝床の上には自分と寸分違わない男が安らかに眠っているのであった。
「騒いではならない。静かにしろ」
 夫は近寄って手をさしのべ、衾の上からしずかにかの男を撫《な》でていると、その形は次第に薄く且《か》つ消えてしまった。
 夫婦も奴僕も言い知れない恐怖に囚《とら》われていると、それから間もなく、その夫は一種の病いにかかって、物の理屈も判らないようなぼんやりした人間になった。

   狐の手帳

 呉《ご》郡の顧旃《こせん》が猟《かり》に出て、一つの高い岡にのぼると、どこかで突然に人の声がきこえた。
「ああ、ことしは駄目だ」
 こんなところに誰か忍んでいるのかと怪しんで、彼は連れの者どもと共にそこらを探してあるくと、岡の上に一つの穽《あな》があって、それは古塚の頽《くず》れたものであるらしかった。
 その穽の中には一匹の古狐が坐って、何かの一巻を読んでいたので、すぐに猟犬を放してそれを咬み殺させた。それから狐の読んでいたものを検《あらた》めると、それには大勢の女の名を書きならべて、ある者には朱で鈎《かぎ》を引いてあった。察するに、妖狐が種々に形を変じて、容貌《きりょう》のいい女子《おなご》を犯していたもので、朱の鈎を引いてあるのは、すでにその目的を達したものであろう。
 女の名は百余人の多きにのぼって、顧旃のむすめの名もそのうちに記《しる》されていたが、幸いにまだ朱を引いていなかった。

   雷を罵る

 呉興《ごこう》の章苟《しょうこう》という男が五月の頃に田を耕しに出た。かれは真菰《まこも》に餅をつつんで来て、毎夕の食い物にしていたが、それがしばしば紛失するので、あるときそっと窺っていると、一匹の大きい蛇が忍び寄って偸《ぬす》み食らうのであった。彼は大いに怒って、長柄の鎌をもって切り付けると、蛇は傷ついて走った。
 彼はなおも追ってゆくと、ある坂の下に穴があって、蛇はそこへ逃げ込んだ。おのれどうしてくれようかと思案していると、穴のなかでは泣き声がきこえた。
「あいつがおれを切りゃあがった」
「あいつどうしてやろう」
「かみなりに頼んで撃ち殺させようか」
 そんな相談をしているかと思うと、たちまちに空が暗くなって、彼のあたまの上に雷《らい》の音が近づいて来た。しかも彼は頑強の男であるので、跳《おど》りあがって大いに罵《ののし》った。
「天がおれを貧乏な人間にこしらえたから、よんどころなしに毎日あくせくと働いているのだ。その命の綱の食い物をぬすむような奴を、切ったのがどうしたのだ。おれが悪いか、蛇が悪いか、考えてみても知れたことだ。そのくらいの理屈が分からねえで、おれに天罰をくだそうというなら、かみなりでも何でも来て見ろ。おのれ唯《ただ》は置かねえから覚悟しろ」
 彼は得物《えもの》を取り直して、天を睨《にら》んで突っ立っていると、その勢いに辟易《へきえき》したのか、あるいは道理に服したのか、雷は次第に遠退いて、かえって蛇の穴の上に落ちた。天が晴れてから見ると、そこには大小数十匹の蛇が重なり合って死んでいた。

   白帯の人

 呉《ご》の末に、臨海の人が山に入って猟《かり》をしていた。彼は木間《このま》に粗末の小屋を作って、そこに寝泊まりしていると、ある夜ひとりの男がたずねて来た。男は身のたけ一丈もあるらしく、黄衣をきて白い帯を垂れていた。
「折り入ってお願いがあって参りました」と、かれは言った。「実はわたくしに敵があって、明日ここで戦わなければなりません。どうぞ加勢をねがいます」
「よろしい。その敵は何者です」
「それは自然にわかります。ともかくも明日の午《ひる》頃にそこの渓《たに》へ来てください。敵は北から来て、わたくしは南からむかいます。敵は黄の帯を締めています、わたくしは白の帯をしめています」
 猟師は承知すると、かの男はよろこんで帰った。そこで、あくる日、約束の時刻に行ってみると、果たして渓《たに》の北方から風雨《あらし》のような声がひびいて来て、草も木も皆ざわざわとなびいた。南の方も同様である。やがて北からは黄いろい蛇、南からは白い蛇、いずれも長さ十余|丈《じょう》、渓の中ほどで行き合って、たがいに絡み合い咬み合って戦ったが、白い方の勢いがやや弱いようにみえた。約束はここだと思って、猟師は黄いろい蛇を目がけて矢を放つと、蛇は見ごとに急所を射られて斃《たお》れた。
 夜になると、咋夜の男が又たずねて来て、彼に厚く礼をのべた。
「ここに一年とどまって猟をなされば、きっとたくさんの獲物があります。ただし来年になったらばお帰りなさい。そうして、再びここへ来てはなりません」と、男は堅く念を押して帰った。
 なるほど其の後は大いなる獲物があって、一年のあいだに彼は莫大の金儲けをすることが出来た。それでいったんは山を降って、無事に五、六年を送ったが、昔の獲物のことを忘れかねて、あるとき再びかの山中へ猟にゆくと、白い帯の男が又あらわれた。
「あなたは困ったものです」と、彼は愁《うれ》うるが如くに言った。「再びここへ来てはならないと、わたくしがあれほど戒《いまし》めて置いたのに、それを用いないで又来るとは……。仇の子がもう成長していますから、きっとあなたに復讐するでしょう。それはあなたのみずから求めた禍いで、わたくしの知ったことではありません」
 言うかと思うと、彼は消えるように立ち去ったので、猟師は俄かに怖ろしくなって、早々にここを逃げ去ろうとすると、たちまちに黒い衣《きぬ》をきた者三人、いずれも身のたけ八尺ぐらいで、大きい口をあいて向かって来たので、猟師はその場に仆《たお》れてしまった。

   白亀

 東晋の咸康《かんこう》年中に、予《よ》州の刺史毛宝《ししもうほう》が※[#「朱+おおざと」、第3水準1-92-65]《しゅ》の城を守っていると、その部下の或る軍士が武昌《ぶしょう》の市《いち》へ行って、一頭の白い亀を売っているのを見た。亀は長さ四、五|寸《すん》、雪のように真っ白で頗《すこぶ》る可愛らしいので、彼はそれを買って帰って甕《かめ》のなかに養って置くと、日を経るにしたがって大きくなって、やがて一尺ほどにもなったので、軍士はそれを憐れんで江の中へ放してやった。
 それから幾年の後である。※[#「朱+おおざと」、第3水準1-92-65]の城は石季龍《せききりゅう》の軍に囲まれて破られ、毛宝は予州を捨てて走った。その落城の際に、城中の者の多数は江に飛び込んで死んだ。かの軍士も鎧《よろい》を着て、刀を持ったままで江に飛び込むと、なにか大きい石の上に堕《お》ちたように感じられて、水はその腰のあたりまでしか達《とど》かなかった。
 やがて中流まで運び出されてよく視ると、それはさきに放してやった白い亀で、その甲が六、七尺に生長していた。亀はむかしの恩人を載せて、むこうの岸まで送りとどけ、その無事に上陸するのを見て泳ぎ去ったが、中流まで来たときに再び振り返ってその人を見て、しずかに水の底に沈んだ。

   髑髏軍

 西晋《せいしん》の永嘉《えいか》五年、張栄《ちょうえい》が高平《こうへい》の巡邏主《じゅんらしゅ》となっていた時に、曹嶷《そうぎ》という賊が乱を起して、近所の地方をあらし廻るので、張は各村の住民に命じて、一種の自警団を組織し、各所に堡塁《ほうるい》を築いてみずから守らせた。
 ある夜のことである。山の上に火が起って、烟《けむ》りや火焔《ほのお》が高く舞いあがり、人馬の物音や甲冑《かっちゅう》のひびきが物《もの》騒がしくきこえたので、さては賊軍が押し寄せて来たに相違ないと、いずれも俄かに用心した。張はかれらを迎え撃つために、軍士を率いて駈けむかうと、山のあたりに人影はみえず、ただ無数の火の粉が飛んで来て、人の鎧や馬のたてがみに燃えつくので、皆おどろいて逃げ戻った。
 あくる朝、再び山へ登ってみると、どこにも火を焚《た》いたらしい跡はなく、ただ百人あまりの枯れた髑髏《どくろ》がそこらに散乱しているのみであった。

   山 操

 宋《そう》(南朝)の元嘉《げんか》年間のはじめである。富陽《ふよう》の人、王《おう》という男が蟹《かに》を捕るために、河のなかへ※[#「竹/斷」、64-3]《やな》を作って置いて、あくる朝それを見にゆくと、長さ二尺ほどの材木が※[#「竹/斷」、64-3]のなかに横たわっていた。それがために竹は破れて、蟹は一匹もかかっていなかった。
 そこで、その材木を岸の上に取って捨て、竹の破れを修繕して帰って来たが、翌日再び行ってみると、かの材木は又もや同じところに横たわっていて、※[#「竹/斷」、64-6]を破ること前日の如くである。
「これは不思議だ。この林木は何か怪しい物かも知れないぞ、いっそ焚《や》いてしまえ」
 蟹を入れる籠のなかへかの材木を押し込んで、肩に引っかけて帰って来ると、その途中で籠のなかから何かがさがさいう音がきこえるので、王は振り返ってみると、材木はいつの間にか奇怪な物に変っていた。顔は人のごとく、体は猴《さる》の如くで、一本足である。その怪物は王に訴えた。
「わたしは蟹が大好きであるので、実はあなたの竹を破って、その蟹をみんな食ってしまいました。どうぞ勘弁してください。もしわたしを赦《ゆる》して下されば、きっとあなたに助力して大きい蟹の捕れるようにして上げます。わたしは山の神です」
「どうして勘弁がなるものか」と、王は罵った。「貴様は一度ならず二度までも、おれの漁場をあらした奴だ。山の神でもなんでも容赦はない。罪の報いと諦めて往生しろ」
 怪物はどうぞ赦してくれとしきりに掻き口説《くど》いたが、王は頑として応じないので、怪物は最後に言った。
「それでは、あなたの姓名はなんというのですか」
「おれの名をきいてどうするのだ」
「ぜひ教えてください」
「忌《いや》だ、いやだ」
 なにを言っても取り合わない。そのうちに彼の家はだんだん近くなったので、怪物は悲しげに言った。
「わたしを赦してもくれず、また自分の姓名を教えてもくれない以上は、もうどうにも仕様がない。わたしもむなしく殺されるばかりだ」
 王は自分のうちへ帰って、すぐにその怪物を籠と共に焚いてしまったが、寂《せき》としてなんの声もなかった。土地の人はこのたぐいの怪物を山※[#「操」の「てへん」に代えて「けものへん」、第4水準2-80-51]《さんそう》と呼んでいるのである。かれらは人の姓名を知ると、不思議にその人を傷つけることが出来ると伝えられている。怪物がしきりに王の姓名を聞こうとしたのも、彼を害して逃がれようとしたものらしい。

   熊の母

 東晋《とうしん》の升平《しょうへい》年間に、ある人が山奥へ虎を射に行くと、あやまって一つの穴に堕《お》ちた。穴の底は非常に深く、内には数頭の仔熊が遊んでいた。
 さては熊の穴へはいったかと思ったが、穴が深いので出ることが出来ない。そのうちに一頭の大きい熊が外から戻って来たので、しょせん助からないと覚悟していると、熊はしまってある果物《くだもの》を取り出してまず仔熊にあたえた。それから又、一人分の果物を出して彼の前に置いた。彼はひどく腹が空いているので、怖ろしいのも忘れてそれを食った。
 熊は別に害を加えようとする様子もないので、彼もだんだんに安心して来た。熊は仔熊の母であることも判った。親熊は毎日外へ出ると、かならず果物を拾って帰って、仔熊にもあたえ、彼にも分けてくれた。それで彼は幸いに餓死をまぬかれていたが、日数を経るうちに仔熊もおいおい生長したので、親熊は一々にそれを背負って穴の外へ運び出した。
 自分ひとりが取り残されたら、いよいよ餓死することと観念していると、仔熊を残らず運び終った後に、親熊はまた引っ返して来て、人の前に坐った。彼はその意を覚って、その足に抱きつくと、熊は彼をかかえたままで穴の外へ跳り出した。こうして、彼は無事に生き還ったのである。

   烏龍

 会稽《かいけい》の句章《こうしょう》の民、張然《ちょうぜん》という男は都の夫役《ぶやく》に徴《め》されて、年を経るまで帰ることが出来なかった。留守は若い妻と一人の僕《しもべ》ばかりで、かれらはいつか密通した。
 張は都にあるあいだに一匹の狗《いぬ》を飼った。それは甚だすこやかな狗であるので、張は烏龍《うりゅう》と名づけて愛育しているうちに、いったん帰郷することとなったので、彼は烏龍を伴って帰った。
 夫が突然に帰って来たので、妻と僕は相談の末に彼を亡き者にしようと企てた。妻は飯の支度をして、夫と共に箸をとろうとする時、俄かに形をあらためて言った。
「これが一生のお別れです。あなたも機嫌よく箸をおとりなさい」
 おかしなことを言うと思うと、部屋の入口には僕が刀を帯びて、弓に矢をつがえて立っていた。彼は主人の食事の終るのを待っているのである。さてはと覚ったが、もうどうすることも出来ないので、張はただ泣くばかりであった。烏龍はその時も主人のそばに付いていたので、張は皿のなかの肉をとって狗にあたえた。
「わたしはここで殺されるのだ。お前は救ってくれるか」
 烏龍はその肉を啖《く》わないで、眼を据え、くちびるを舐《ねぶ》りながら、仇の僕を睨みつめているのである。張もその意を覚って、やや安心していると、僕は待ちかねて早く食え食えと主人に迫るので、張は奮然決心して、わが膝を叩きながら大いに叫んだ。
「烏龍、やっつけろ」
 狗は声に応じて飛びかかって僕に咬みついた。それが飛鳥のような疾《はや》さであるので、彼は思わず得物を取り落して地に倒れた。張はその刀を奪って、直ちに不義の僕を斬り殺した。妻は県の役所へ引き渡されて、法のごとくに行なわれた。

   鷺娘

 銭塘《せんとう》の杜《と》という人が船に乗って行った。時は雪の降りしきる夕暮れである。白い着物をきた一人の若い女が岸の上を来かかったので、杜は船中から声をかけた。
「姐《ねえ》さん。雪のふるのにお困りだろう。こっちの船へおいでなさい」
 女も立ち停まってそれに答えた。たがいに何か冗談を言い合った末に、杜は女をわが船へ乗せてゆくと、やがて女は一羽の白鷺《しらさぎ》となって雪のなかを飛び去ったので、杜は俄かにぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。それから間もなく、彼は病んで死んだ。

   蜜蜂

 宋の元嘉《げんか》元年に、建安《けんあん》郡の山賊百余人が郡内へ襲って来て、民家の財産や女たちを掠奪した。
 その挙げ句に、かれらは或る寺へも乱入して財宝を掠《かす》め取ろうとした。この寺ではかねて供養に用いる諸道具を別室に蔵《おさ》めてあったので、賊はその室《へや》の戸を打ち毀《こわ》して踏み込むと、忽ちに法衣《ころも》を入れてある革籠《かわご》のなかから幾万匹の蜜蜂が飛び出した。その幾万匹が一度に群がって賊を螫《さ》したので、かれらも狼狽した。ある者は体じゅうを螫され、ある者は眼を突きつぶされ、初めに掠奪した獲物をもみな打ち捨てて、転げまわって逃げ去った。

   犬妖

 林慮山《りんりょざん》の下に一つの亭がある。ここを通って、そこに宿る者はみな病死するということになっている。あるとき十余人の男おんなが入りまじって博奕《ばくち》をしているのを見た者があって、かれらは白や黄の着物をきていたと伝えられた。
 至伯夷《しつはくい》という男がそこに宿って、燭《しょく》を照らして経《きょう》を読んでいると、夜なかに十余人があつまって来て、彼と列《なら》んで坐を占めたが、やがて博奕の勝負をはじめたので、※[#「至+おおざと」、第3水準1-92-67]はひそかに燭をさし付けて窺うと、かれらの顔はみな犬であった。そこで、燭を執って起《た》ちあがる時、かれは粗相《そそう》の振りをして、燭の火をかれらの着物にこすり付けると、着物の焦げるのがあたかも毛を燃やしたように匂ったので、もう疑うまでもないと思った。
 かれは懐ろ刀をぬき出して、やにわにその一人を突き刺すと、初めは人のような叫びを揚げたが、やがて倒れて犬の姿になった。それを見て、他の者どもはみな逃げ去った。

   干宝の父

 東晋の干宝《かんぽう》は字《あざな》を令升《れいしょう》といい、その祖先は新蔡《しんさい》の人である。かれの父の瑩《けい》という人に一人の愛妾があったが、母は非常に嫉妬ぶかい婦人で、父が死んで埋葬する時に、ひそかにその妾をも墓のなかへ押し落して、生きながらに埋めてしまった。当時、干宝もその兄もみな幼年であったので、そんな秘密をいっさい知らなかったのである。
 それから十年の後に、母も死んだ。その死体を合葬するために父の墓をひらくと、かの妾が父の棺の上に俯伏しているのを発見した。衣服も生きている時の姿と変らず、身内もすこしく温かで、息も微かにかよっているらしい。驚き怪しんで輿《こし》にかき乗せ、自宅へ連れ戻って介抱すると、五、六日の後にまったく蘇生した。
 妾の話によると、その十年のあいだ、死んだ父が常に飲み食いの物を運んでくれた。そうして、生きている時と同じように、彼女と一緒に寝起きをしていたのみか、自宅に吉凶のことある毎《ごと》に、一々彼女に話して聞かせたというのである。あまりに不思議なことであるので、干宝兄弟は試みに彼女に問いただしてみると、果たして彼女は父が死後の出来事をみなよく知っていて、その言うところがすべて事実と符合するのであった。彼女はその後幾年を無事に送って、今度はほんとうに死んだ。
 干宝は『捜神記』の著者である。彼が天地のあいだに幽怪神秘のことあるを信じて、その述作に志すようになったのは、少年時代におけるこの実験に因ったのであると伝えられている。

   大蛟

 安城平都《あんじょうへいと》県の尹氏《いんし》の宅は郡の東十里の日黄《じつこう》村にあって、そこに小作人《こさくにん》も住んでいた。
 元嘉《げんか》二十三年六月のことである。ことし十三になる尹氏の子供が、小作の小屋の番をしていると、一人の男が来た。男は年ごろ二十《はたち》ぐらいで、白い馬に騎《の》って繖《かさ》をささせていた。ほかに従者四人、みな黄衣を着て東の方から来たが、ここの門前に立って尹氏の子供を呼び出し、暫く休息させてくれと言った。承知して通すと、男は庭へはいって床几《しょうぎ》に腰をおろした。従者の一人が繖をさしかけていた。見ると、この人たちの着物には縫い目がなく、鱗《うろこ》のような五色の斑《ふ》があって、毛がなかった。やがて雨を催して来ると、男は馬に騎《の》った。
「あしたまた来ます」と、彼は子供を見かえって言った。その去るところを見ると、この一行は西へむかい、空を踏んで次第に高く昇って行った。暫くすると、雲が四方から集まって白昼も闇のようになった。
 その翌日、俄かに大水が出て、山も丘も谷もみなひたされ、尹の小作小屋もまさに漂い去ろうとした。このとき長さ三丈とも見える大きい蛟《みずち》があらわれて、身をめぐらして此の家を護った。

   白水素女

 晋の安帝《あんてい》のとき、候官《こうかん》県の謝端《しゃたん》は幼い頃に父母をうしない、別に親類もないので、となりの人に養育されて成長した。
 謝端はやがて十七、八歳になったが、努《つと》めて恭謹の徳を守って、決して非法の事をしなかった。初めて家を持った時には、いまだ定まる妻がないので、となりの人も気の毒に思って、然るべき妻を探してやろうと心がけていたが、相当の者も見付からなかった。
 彼は早く起き、遅く寝て、耕作に怠りなく働いていると、あるとき村内で大きい法螺貝《ほらがい》を見つけた。三升入りの壺ほどの大きい物である。めずらしいと思って持ち帰って、それを甕《かめ》のなかに入れて置いた。その後、彼はいつもの如くに早く出て、夕過ぎに帰ってみると、留守のあいだに飯や湯の支度がすっかり出来ているのである。おそらく隣りの人の親切であろうと、数日の後に礼を言いに行くと、となりの人は答えた。
「わたしは何もしてあげた覚えはない。おまえはなんで礼をいうのだ」
 謝端にも判《わか》らなくなった。しかも一度や二度のことではないので、彼はさらに聞きただすと、隣りの人はまた笑った。
「おまえはもう女房をもらって、家のなかに隠してあるではないか。自分の女房に煮焚《にた》きをさせて置きながら、わたしにかれこれ言うことがあるものか」
 彼は黙って考えたが、何分にも理屈が呑み込めなかった。次の日は早朝から家を出て、また引っ返して籬《かき》の外から窺っていると、一人の少女が甕の中から出て、竈《かまど》の下に火を焚きはじめた。彼は直ぐに家へはいって甕のなかをあらためると、かの法螺貝は見えなくて、竈の下の女を見るばかりであった。
「おまえさんはどこから来て、焚き物をしていなさるのだ」と、彼は訊いた。
 女は大いに慌てたが、今さら甕のなかへ帰ろうにも帰られないので、正直に答えた。
「わたしは天漢《てんかん》の白水素女《はくすいそじょ》です。天帝はあなたが早く孤児《みなしご》になって、しかも恭謹の徳を守っているのをあわれんで、仮りにわたしに命じて、家を守り、煮焚きのわざを勤めさせていたのです。十年のうちにはあなたを富ませ、相当の妻を得るようにして、わたしは帰るつもりであったのですが、あなたはひそかに窺ってわたしの形を見付けてしまいました。もうこうなっては此処《ここ》にとどまることは出来ません。あなたはこの後も耕し、漁《すなど》りの業《わざ》をして、世を渡るようになさるがよろしい。この法螺貝を残して行きますから、これに米穀《べいこく》をたくわえて置けば、いつでも乏《とぼ》しくなるような事はありません」
 それと知って、彼はしきりにとどまることを願ったが、女は肯《き》かなかった。俄かに風雨が起って、彼女は姿をかくした。その後、彼は神座をしつらえて、祭祀《さいし》を怠らなかったが、その生活はすこぶる豊かで、ただ大いに富むというほどでないだけであった。土地の人の世話で妻を迎え、後に仕えて令長となった。
 今の素女祠《そじょし》がその遺跡である。

   千年の鶴

 丁令威《ていれいい》は遼東《りょうとう》の人で、仙術を霊虚山《れいきょざん》に学んだが、後に鶴に化《け》して遼東へ帰って来て、城門の柱に止まった。ある若者が弓をひいて射ようとすると、鶴は飛びあがって空中を舞いながら言った。
「鳥あり、鳥あり、丁令威。家を去る千年、今始めて帰る。城廓|故《もと》の如くにして、人民非なり。なんぞ仙を学ばざるか、塚|※[#「田/(田+田)/糸」、第3水準1-90-24]々《るいるい》たり」
 遂に大空高く飛び去った。今でも遼東の若者らは、自分たちの先代に仙人となった者があると言い伝えているが、それが丁令威という人であることを知らない。

   箏笛浦

 廬江《ろこう》の箏笛浦《そうてきほ》には大きい船がくつがえって水底に沈んでいる。これは魏《ぎ》王|曹操《そうそう》の船であると伝えられている。
 ある時、漁師が夜中に船を繋いでいると、そのあたりに笛や歌の声がきこえて、香《こう》の匂いが漂っていた。漁師が眠りに就くと、なにびとか来て注意した。
「官船に近づいてはならぬぞ」
 おどろいて眼をさまして、漁師はわが船を他の場所へ移した。沈んでいる船は幾人の歌妓《うたひめ》を載せて来て、ここの浦で顛覆《てんぷく》したのであるという。

   凶宅

 宋の襄城《じょうじょう》の李頤《りい》、字《あざな》は景真《けいしん》、後に湘東《しょうとう》の太守になった人であるが、その父は妖邪を信じない性質であった。近所に一軒の凶宅があって、住む者はかならず死ぬと言い伝えられているのを、父は買い取って住んでいたが、多年無事で子孫繁昌した。
 そのうちに、父は県知事に昇って移転することになったので、内外の親戚らを招いて留別《りゅうべつ》の宴を開いた。その宴席で父は言った。
「およそ天下に吉だとか凶だとかいう事があるだろうか。この家もむかしから凶宅だといわれていたが、わたしが多年住んでいるうちに何事もなく、家はますます繁昌して今度も栄転することになった。鬼などというものが一体どこにいるのだ。この家も凶宅どころか、今後は吉宅となるだろう。誰でも勝手にお住みなさい」
 そう言い終って、彼は起《た》って厠《かわや》へゆくと、その壁に蓆《むしろ》を巻いたような物が見えた。高さ五尺ばかりで、白い。彼は引っ返して刀を取って来て、その白い物を真っ二つに切ると、それが分かれて二つの人になった。さらに横なぐりに切り払うと、今度は四人になった。その四人が父の刀を奪い取って、その場で彼を斬り殺したばかりか、座敷へ乱入してその子弟を片端から斬り殺した。
 李姓の者はみな殺されて、他姓の者は無事にまぬかれた。
 そのとき李頤だけはまだ幼少で、その席に居合わせなかったので、変事の起ったのを知ると共に、乳母が抱えて裏門から逃げ出して、他家に隠れて幸いに命を全うした。

   蛟を生む

 長沙《ちょうさ》の人とばかりで、その姓名を忘れたが、家は江辺に住んでいた。その娘が岸へ出て衣《きもの》を濯《すす》いでいると、なんだか身内に異状があるように感じたが、後には馴れて気にもかけなかった。
 娘はいつか懐妊して、三つの生き物を生み落したが、それは小鰯《こいわし》のような物であった。それでも自分の生んだ物であるので、娘は憐れみいつくしんで、かれらを行水《ぎょうずい》の盥《たらい》のなかに養って置くと、三月ほどの後にだんだん大きくなって、それが蛟《みずち》の子であることが判った。蛟は龍《りゅう》のたぐいである。かれらにはそれぞれの字《あざな》をあたえて、大を当洪《とうこう》といい、次を破阻《はそ》といい、次を撲岸《ぼくがん》と呼んだ。
 そのうちに暴雨出水と共に、三つの蛟はみな行くえを晦《くら》ましたが、その後も雨が降りそうな日には、かれらが何処からか姿を見せた。娘も子供らの来そうなことを知って、岸辺へ出て眺めていると、蛟もまた頭《かしら》をあげて母をながめて去った。
 年を経て、その娘は死んだ。三つの蛟は又あらわれて母の墓所に赴き、幾日も号哭《ごうこく》して去った。その哭《な》く声は狗《いぬ》のようであった。

   秘術

 銭塘《せんとう》の杜子恭《としきょう》は秘術を知っていた。かつて或る人から瓜を割《さ》く刀を借りたので、その持ち主が返してくれと催促すると、彼は答えた。
「すぐにお返し申します」
 やがて其の人が嘉興《かこう》まで行くと、一尾の魚が船中に飛び込んだ。その腹を割くと、かの刀があらわれた。

   木像の弓矢

 孫恩《そんおん》が乱を起したときに、呉興《ごこう》の地方は大いに乱れた。なんのためか、ひとりの男が蒋侯《しょうこう》の廟《びょう》に突入した。蒋子文《しょうしぶん》は広陵《こうりょう》の人で、三国の呉《ご》の始めから、神としてここに祀られているのである。
 蒋侯の木像は弓矢をたずさえていたが、その弓を絞って飄《ひょう》と射ると、男は矢にあたって死んだ。往来の者も、廟を守る者も、皆それを目撃したという。

底本:「中国怪奇小説集」光文社
   1994(平成6)年4月20日第1刷発行
※校正には、1999(平成11)年11月5日3刷を使用しました。
入力:tatsuki
校正:もりみつじゅんじ
2003年7月31日作成
2003年9月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

西瓜—— 岡本綺堂

     

 これはM君の話である。M君は学生で、ことしの夏休みに静岡|在《ざい》の倉沢という友人をたずねて、半月あまりも逗留していた。

 倉沢の家は旧幕府の旗本で、維新の際にその祖父という人が旧主君の供をして、静岡へ無禄移住をした。平生から用心のいい人で、多少の蓄財もあったのを幸いに、幾らかの田地を買って帰農したが、後には茶を作るようにもなって、士族の商法がすこぶる成功したらしく、今の主人すなわち倉沢の父の代になっては大勢の雇人《やといにん》を使って、なかなか盛んにやっているように見えた。祖父という人はすでに世を去って、離れ座敷の隠居所はほとんど空家同様になっているので、わたしは逗留中そこに寝起きをしていた。
「母屋《おもや》よりもここの方が静かでいいよ。」と、倉沢は言ったが、実際ここは閑静で居心のいい八畳の間であった。しかしその逗留のあいだに三日ほど雨が降りつづいたことがあって、わたしもやや退屈を感じないわけには行かなくなった。
 勿論、倉沢は母屋から毎日|出張《でば》って来て、話し相手になってくれるのではあるが、久し振りで出逢った友達というのではなし、東京のおなじ学校で毎日顔をあわせているのであるから、今さら特別にめずらしい話題が湧き出して来よう筈はない。その退屈がだんだんに嵩《こう》じて来た第三日のゆう方に、倉沢は袴羽織という扮装《いでたち》でわたしの座敷へ顔を出した。かれは気の毒そうに言った。
「実は町にいる親戚の家から老人が急病で死んだという通知が来たので、これからちょっと行って来なければならない。都合によると、今夜は泊まり込むようになるかも知れないから、君ひとりで寂しいだろうが、まあ我慢してくれたまえ。このあいだ話したことのある写本だがね。家《うち》の者に言いつけて土蔵の中から捜し出させて置いたから、退屈しのぎに読んで見たまえ。格別面白いこともあるまいとは思うが……。」
 彼は古びた写本七冊をわたしの前に置いた。
「このあいだも話した通り、僕の家の六代前の主人は享保から宝暦のころに生きていたのだそうで、雅号を杏雨《きょうう》といって俳句などもやったらしい。その杏雨が何くれとなく書きあつめて置いた一種の随筆がこの七冊で、もともと随筆のことだから何処まで書けばいいということもないだろうが、とにかくまだこれだけでは完結しないとみえて、題号さえも付けてないのだ。維新の際に祖父も大抵のものは売り払ってしまったのだが、これだけはまず残して置いた。勿論、売るといったところで買い手もなく、さりとて紙屑屋へ売るのも何だか惜しいような気がするので、保存するという意味でもなしに自然保存されて、今日まで無事であったというわけだが、古つづらの底に押し込まれたままで誰も読んだ者もなかったのを、さきごろの土用干しの時に、僕が測らず発見したのだ。」
「それでも二足三文で紙屑屋なんぞに売られてしまわなくって好かったね。今日《こんにち》になってみれば頗《すこぶ》る貴重な書き物が維新当時にみんな反古《ほご》にされてしまったからね。」と、わたしはところどころに虫くいのある古写本をながめながら言った。
「なに、それほど貴重な物ではないに決まっているがね。君はそんなものに趣味を持っているようだから、まあ読んでみて、何か面白いことでもあったら僕にも話してくれたまえ。」
 こう言って倉沢は雨のなかを出て行った。かれのいう通り、わたしは若いくせにこんなものに趣味をもっていて、東京にいるあいだも本郷や神田の古本屋あさりをしているので、一種の好奇心も手伝ってすぐにその古本をひき寄せて見ると、なるほど二百年も前のものかも知れない。黴《かび》臭いような紙の匂いが何だか昔なつかしいようにも感じられた。一冊は半紙廿枚綴りで、七冊百四十枚、それに御家《おいえ》流で丹念に細かく書かれているのであるから、全部を読了するにはなかなかの努力を要すると、わたしも始めから覚悟して、きょうはいつもよりも早く電燈のスイッチをひねって、小さい食卓《ちゃぶだい》の上でその第一冊から読みはじめた。
 随筆というか、覚え帳というか、そのなかには種々雑多の事件が書き込まれていて、和歌や俳諧の風流な記事があるかと思うと、公辺の用務の記録もある。題号さえも付けてないくらいで、本人はもちろん世間に発表するつもりはなかったのであろうが、それにしても余りに乱雑な体裁《ていさい》だと思いながら、根《こん》よく読みつづけているうちに「深川仇討の事」「湯島女殺しの事」などというような、その当時の三面記事をも発見した。それに興味を誘われて、さらに読みつづけてゆくと、「稲城《いなぎ》家の怪事」という標題の記事を又見付けた。
 それにはこういう奇怪の事実が記《しる》されてあった。
 原文には単に今年の七月初めと書いてあるが、その年の二月、行徳《ぎょうとく》の浜に鯨が流れ寄ったという記事から想像すると、それは享保十九年の出来事であるらしい。日も暮れ六つに近い頃に、ひとりの中間体《ちゅうげんてい》の若い男が風呂敷づつみを抱えて、下谷《したや》御徒町《おかちまち》辺を通りかかった。そこには某藩侯の辻番所《つじばんしょ》がある。これも単に某藩侯とのみ記してあるが、下谷御徒町というからは、おそらく立花家の辻番所であろう。その辻番所の前を通りかかると、番人のひとりが彼《か》の中間に眼をつけて呼びとめた。
「これ、待て。」
 由来、武家の辻番所には「生きた親爺《おやじ》の捨て所」と川柳に嘲られるような、半|耄碌《もうろく》の老人の詰めているのが多いのであるが、ここには「筋骨たくましき血気の若侍のみ詰めいたれば、世の人常に恐れをなしけり」と原文に書いてある。その血気の若侍に呼びとめられて、中間はおとなしく立ちどまると、番人は更に訊《き》いた。
「おまえの持っているものは何《なん》だ。」
「これは西瓜でござります。」
「あけて見せろ。」
 中間は素直に風呂敷をあけると、その中から女の生首《なまくび》が出た。番人は声を荒くして詰《なじ》った。
「これが西瓜か。」
 中間は真っ蒼になって、口も利けなくなって、唯ぼんやりと突っ立っていると、他の番人もつづいて出て来て、すぐに彼を捻じ伏せて縄をかけてしまった。三人の番人はその首をあらためると、それは廿七八か、三十前後の色こそ白いが醜《みにく》い女で、眉も剃らず、歯も染めていないのを見ると、人妻でないことは明らかであった。ただ不思議なのは、その首の切口から血のしたたっていないことであるが、それは決して土人形の首ではなく、たしかに人間の生首である。番人らは一応その首をあらためた上で、ふたたび元の風呂敷につつみ、さらにその首の持参者の詮議に取りかかった。
「おまえは一体どこの者だ。」
「本所の者でござります。」
「武家奉公をする者か。」
 それからそれへと厳重の詮議に対して、中間はふるえながら答えた。かれはまだ江戸馴れない者であるらしく、殊に異常の恐怖に襲われて半分は酔った人のようになっていたが、それでも尋ねられることに対しては皆、ひと通りの答弁をしたのである。彼は本所の御米蔵《おこめぐら》のそばに小屋敷を持っている稲城《いなぎ》八太郎の奉公人で、その名を伊平といい、上総《かずさ》[#ルビの「かずさ」は底本では「かずき」]の八幡在から三月前に出て来た者であった。したがって、江戸の勝手も方角もまだよく判らない。きょうは主人の言いつけで、湯島の親類へ七夕《たなばた》に供える西瓜を持ってゆく途中、道をあやまって御徒町の方角へ迷い込んで来たものであるということが判った。
「湯島の屋敷へは今日はじめて参るものか。」と、番人は訊いた。
「いえ、きょうでもう四度目でござりますから、なんぼ江戸馴れないと申しても、道に迷う筈はないのでござりますが……。」と、中間は自分ながら不思議そうに小首をかしげていた。
「主人の手紙でも持っているか。」
「御親類のことでござりますから、別にお手紙はござりません。ただ口上だけでござります。」
「その西瓜というのはお前も検《あらた》めて来たのか。」
「お出入りの八百屋へまいりまして、わたくしが自分で取って来て、旦那様や御新造様のお目にかけ、それで宜しいというので風呂敷につつんで参ったのでござりますから……。」と、かれは再び首をかしげた。「それが途中でどうして人間の首に変りましたか。まるで夢のようでござります。まさかに狐に化かされたのでもござりますまいが……。なにがどうしたのか一向にわかりません。」
 暮れ六つといっても、この頃の日は長いので往来は明るい。しかも江戸のまん中で狐に化かされるなどということのあるべき筈がない。さりとて田舎者丸出しで見るから正直そうなこの若い中間が嘘いつわりを申立てようとも思われないので、番人らも共に首をかしげた。第一、なにかの子細があって人間の生首を持参するならば、夜中《やちゅう》ひそかに持ち運ぶべきであろう。暮れ方といっても夕日の光りのまだ消え残っている時刻に、平気でそれを抱えあるいているのは、あまりに大胆過ぎているではないか。もし又、かれの申立てを真実とすれば、近ごろ奇怪千万の出来事で、西瓜が人間の生首に変るなどとは、どう考えても判断の付かないことではないか。番人らも実に思案に惑った。
「どうも不思議だな。もう一度よく検めてみよう。」
 かれらは念のために、再びその風呂敷をあけて見て、一度にあっ[#「あっ」に傍点]と言った。中間も思わず声をあげた。
 風呂敷につつまれた女の生首は元の西瓜に変っているのである。叩いてみても、転がして見ても、それは確かに青い西瓜である。西瓜が生首となり、さらに西瓜となり、さながら魔術師に操られたような不思議を見せたのであるから、諸人のおどろかされるのも無理はない、それも一人の眼ならば見損じということもあろうが、若い侍が三人、若い中間が一人、その四人の眼に生首とみえたものが忽ち西瓜に変るなどとは、まったく狐に化かされたとでもいうのほかはあるまい。かれらは徒《いたず》らに呆れた顔を見合せて、しばらくは溜息をついているばかりであった。

     

 伊平は無事に釈《ゆる》された。
 いかに評議したところで、結局どうにも解決の付けようがないので、武勇を誇るこの辻番所の若侍らも伊平をそのまま釈放してしまった。たといその間にいかなる不思議があったにしても、西瓜が元の西瓜である以上、かれらはその持参者の申立てを信用して、無事に済ませるよりほかはなかったのである。伊平は早々にここを立去った。
 表へ出て若い中間はほっとした。かれは疑問の西瓜をかかえて、湯島の方へ急いで行きかけたが、小半町《こはんちょう》ほどで又立ちどまった。これをこのまま先方へとどけて好いか悪いかと、かれは不図《ふと》かんがえ付いたのである。どう考えても奇怪千万なこの西瓜を黙って置いて来るのは何だか気がかりである。さりとて、途中でそれが生首に化けましたなどと正直にいうわけにもいくまい。これはひとまず自分の屋敷へ引っ返して、主人に一応その次第を訴えて、なにかの指図を仰ぐ方が無事であろうと、かれは俄かに足の方角を変えて、本所の屋敷へ戻ることにした。
 辻番所でも相当に暇取ったので、長い両国橋を渡って御米蔵に近い稲城の屋敷へ帰り着いたころには、日もまったく暮れ切っていた。稲城は小身の御家人《ごけにん》で、主人の八太郎夫婦と下女一人、僕《しもべ》一人の四人暮らしである。折りから主人の朋輩の池部郷助《いけべごうすけ》というのが来合せて、奥の八畳の縁さきで涼みながら話していた。狭い屋敷であるから、伊平は裏口からずっと通って、茶の間になっている六畳の縁の前に立つと、御新造《ごしんぞう》のお米《よね》は透かし視て声をかけた。
「おや、伊平か。早かったね。」
「はい。」
「なんだか息を切っているようだが、途中でどうかしたのかえ。」
「はい。どうも途中で飛んだことがござりまして……。」と、伊平は気味の悪い持ち物を縁側におろした。
「実はこの西瓜が……。」
「その西瓜がどうしたの。」
「はい。」
 伊平はなにか口ごもっているので、お米も少し焦《じ》れったくなったらしい、行燈の前を離れて縁側へ出て来た。
「そうして、湯島へ行って来たの。」
「いえ、湯島のお屋敷へは参りませんでした。」
「なぜ行かないんだえ。」
 訳を知らないお米はいよいよ焦れて、自分の眼のまえに置いてある風呂敷づつみに手をかけた。
「実はその西瓜が……。」と、伊平は同じようなことを繰返していた。
「だからさ。この西瓜がどうしたというんだよ。」
 言いながらお米は念のために風呂敷をあけると、たちまちに驚きの声をあげた。伊平も叫んだ。西瓜は再び女の生首と変っているのである。
「何だってお前、こんなもの持って来たのだえ。」
 さすがは武家の女房である。お米は一旦驚きながらも、手早くその怪しい物に風呂敷をかぶせて、上からしっかりと押え付けてしまった。その騒ぎを聞きつけて、主人も客も座敷から出て来た。
「どうした、どうした。」
「伊平が人間の生首を持って帰りました。」
「人間の生首……。飛んでもない奴だ。わけを言え。」と、八太郎も驚いて詮議した。
 こうなれば躊躇してもいられない。もともとそれを報告するつもりで帰って来たのであるから、伊平は下谷の辻番所におけるいっさいの出来事を訴えると、八太郎は勿論、客の池部も眉をよせた。
「なにかの見違いだろう。そんなことがあるものか。」
 八太郎は妻を押しのけて、みずからその風呂敷を刎ねのけてみると、それは人間の首ではなかった。八太郎は笑い出した。
「それ見ろ。これがどうして人間の首だ。」
 しかしお米の眼にも、伊平の眼にも、たしかにそれが人間の生首に見えたというので、八太郎は行燈を縁側に持ち出して来て、池部と一緒によく検《あらた》めてみたが、それは間違いのない西瓜であるので、八太郎はまた笑った。しかし池部は笑わなかった。
「伊平は前の一件があるので、再び同じまぼろしを見たともいえようが、なんにも知らない御新造までが人間の生首を見たというのは如何《いか》にも不思議だ。これはあながちに辻番人の粗忽や伊平の臆病とばかりは言われまい。念のためにその西瓜をたち割って見てはどうだな。」
 これには八太郎も異存はなかった。然らば試みに割ってみようというので、彼は刀の小柄を突き立ててきりきりと引きまわすと、西瓜は真っ紅な口をあいて、一匹の青い蛙を吐き出した。蛙は跳ねあがる暇もなしに、八太郎の小柄に突き透された。
「こいつの仕業かな。」と、池部は言った。八太郎は西瓜を真っ二つにして、さらにその中を探ってみると、幾すじかの髪の毛が発見された。長い髪は蛙の後足《あとあし》の一本に強くからみ付いて、あたかもかれをつないでいるかのようにも見られた。
 髪の毛は女の物であるらしかった。西瓜が醜《みにく》い女の顔にみえたのも、それから何かの糸を引いているのかも知れないと思うと、八太郎ももう笑ってはいられなくなった。お米の顔は蒼くなった。伊平はふるえ出した。
「伊平。すぐに八百屋へ行って、この西瓜の出どころを詮議して来い。」と、主人は命令した。
 伊平はすぐに出て行ったが、暫くして帰って来て、主人夫婦と客の前でこういう報告をした。八百屋の説明によると、その西瓜は青物市場から仕入れて来たのではない。柳島《やなぎしま》に近いところに住んでいる小原数馬《おはらかずま》という旗本屋敷から受取ったものである。小原は小普請入《こぶしんい》りの無役といい、屋敷の構えも広いので、裏のあき地一円を畑にしていろいろの野菜を作っているが、それは自分の屋敷内の食料ばかりでなく、一種の内職のようにして近所の商人《あきんど》にも払い下げている。なんといっても殿様の道楽仕事であるから、市場で仕入れて来るよりも割安であるのを幸いに、ずるい商人らはお世辞でごまかして、相場はずれの廉値《やすね》で引取って来るのを例としていた。八百屋の亭主は伊平の話を聴いて顔をしかめた。
「実は小原さまのお屋敷から頂く野菜は、元値も廉し、品も好し、まことに結構なのですが、ときどきにお得意さきからお叱言《こごと》が来るので困ります。現にこのあいだも南瓜《かぼちゃ》から小さい蛇が出たと言ってお得意から叱られましたが、それもやっぱり小原さまから頂いて来たのでした。ところで、今度はお前さんのお屋敷へ納めた西瓜から蛙が出るとは……。尤もあの辺には蛇や蛙がたくさん棲んでいますから、自然その卵子《たまご》がどうかしてはいり込んで南瓜や西瓜のなかで育ったのでしょうな。しかし西瓜が女の生首に見えたなぞは少し念入り過ぎる。伊平さんも真面目そうな顔をしていながら、人を嚇かすのはなかなか巧いね。ははははは。」
 八百屋の亭主も西瓜から蛙の飛び出したことだけは信用したらしかったが、それが女の首に見えたことは伊平の冗談と認めて、まったく取合わないのであった、伊平はそれが紛れもない事実であることを主張したが、口下手の彼はとうとう相手に言い負かされて、結局不得要領で引揚げて来たのである。しかし、かの西瓜が小原数馬の畑から生れたことだけは明白になった。同じ屋敷の南瓜から蛇の出たことも判った。しかしその蛇にも女の髪の毛がからんでいたかどうかは、伊平は聞き洩らした。
 もうこの上に詮議の仕様もないので、八太郎はその西瓜を細かく切り刻んで、裏手の芥溜《ごみため》に捨てさせた。あくる朝、ためしに芥溜をのぞいて見ると、西瓜は皮ばかり残っていて、紅い身は水のように融《と》けてしまったらしい。青い蛙の死骸も見えなかった。
 事件はそれで済んだのであるが、八太郎はまだ何だか気になるので、二、三日過ぎた後、下谷の方角へ出向いたついでに、かの辻番所に立寄って聞きあわせると、番人らは確かにその事実のあったことを認めた。そうして、自分たちは今でも不審に思っていると言った。それにしても、なぜ最初に伊平を怪しんで呼びとめたかと訊くと、唯なんとなくその挙動が不審であったからであると彼等は答えた。江戸馴れない山出しの中間が道に迷ってうろうろしていたので、挙動不審と認められたのも無理はないと八太郎は思った。しかもだんだん話しているうちに、番人のひとりは更にこんなことを洩らした。
「まだそればかりでなく、あの中間のかかえている風呂敷包みから生血《なまち》がしたたっているようにも見えたので、いよいよ不審と認めて詮議いたしたのでござるが、それも拙者の目違いで、近ごろ面目もござらぬ。」
 それを聞かされて、八太郎はまた眉をひそめたが、その場はいい加減に挨拶して別れた。その西瓜から蛙や髪の毛のあらわれた事など、彼はいっさい語らなかった。
 稲城の屋敷にはその後別に変ったこともなかった。八太郎は家内の者を戒めて、その一件を他言させなかったが、この記事の筆者は或る時かの池部郷助からその話を洩れ聞いて、稲城の主人にそれを問いただすと、八太郎はまったくその通りであると迷惑そうに答えた。それはこの出来事があってから四月ほどの後のことで、中間の伊平は無事に奉公していた。彼は見るからに実体《じってい》な男であった。
 その西瓜を作り出した小原の家については、筆者はなんにも知らなかったので、それを再び稲城に聞きただすと、八太郎も考えながら答えた。
「近所でありながら拙者もよくは存じません。しかし何やら悪い噂のある屋敷だそうでござる。」
 それがどんな噂であるかは、かれも明らかに説明しなかったそうである。筆者も押し返しては詮議しなかったらしく、原文の記事はそれで終っていた。

     

「はは、君の怪談趣味も久しいものだ。」と、倉沢は八畳の座敷の縁側に腰かけて、団扇を片手に笑いながら言った。
 親類の葬式もきのうで済んだので、彼は朝からわたしの座敷へ遊びに来て、このあいだの随筆のなかに何か面白い記事はなかったかと訊いたので、わたしはかの「稲城家の怪事」の一件を話して聞かせると、彼は忽ちそれを一笑に付してしまったのである。
 暦の上では、きょうが立秋というのであるが、三日ほど降りつづいて晴れた後は、さらにカンカン天気が毎日つづいて、日向《ひなた》へ出たらば焦げてしまいそうな暑さである。それでもここの庭には大木が茂っているので、風通しは少し悪いが、暑さに苦しむようなことはない。わたしも縁側に蒲蓙《がまござ》を敷いて、倉沢と向い合っていたが、今や自分が熱心に話して聞かせた怪談を、頭から問題にしないように蹴散らされてしまうと、なんだか一種の不平を感じないわけにもいかなかった。
「君はただ笑っているけれども、考えると不思議じゃないか。女の生首が中間ひとりの眼にみえたというならば格別、辻番の三人にも見え、稲城の家の細君にも見えたというのだから、どうもおかしいよ。」
「おかしくないね。」
「じゃあ、君にその説明がつくのかね。」
「勿論さ。」と、倉沢は澄ましていた。
「うむ、おもしろい。聞かしてもらおう。」と、わたしは詰問するように訊いた。
「迷信家の蒙《もう》をひらいてやるかな。」と、彼はまた笑った。「君が頻《しき》りに問題にしているのは、その西瓜が大勢の眼に生首とみえたということだろう。もしそれが中間ひとりの眼に見えたのならば、錯覚とか幻覚とかいうことで、君も承認するのだろう。」
「だからさ。今も言う通り、それが中間ひとりの眼で見たのでないから……。」
「ひとりでも大勢でも同じことだよ。君は『群衆妄覚』ということを知らないのか。群衆心理を認めながら、群衆妄覚を認めないということがあるものか。僕はその事件をこう解釈するね。まあ、聴きたまえ。その中間は江戸馴れない田舎者だというから、何となくその様子がおかしくって、挙動不審にも見えたのだろう。おまけにその抱えている品が西瓜ときているので、辻番の奴等はもしや首ではないかと思ったのだろう。いや、三人の辻番のうちで、その一人は一途《いちず》に首だと思い込んでしまったに相違ない。そこで、彼の眼には、中間のかかえている風呂敷から生血がしたたっているように見えたのだ。西瓜をつつんで来たのだから、その風呂敷はぬれてでもいたのかも知れない。なにしろ怪しく見えたので、呼びとめて詮議をうけることになって、その風呂敷をあけると、生首がみえた。――その男には生首のように見えたのだ。あッ、首だというと、他の二人――これももしや首ではないかと内々疑っていたのであるから、一人が首だというのを聞かされると、一種の暗示を受けたような形で、これも首のように見えてしまった。それがいわゆる群衆妄覚だ。こうなると、もう仕方がない。三人の侍が首だ首だと騒ぎ立てると、田舎生れの正直者の中間は面食らって、異常の恐怖と狼狽とのために、これも妄覚の仲間入りをしてしまって、その西瓜が生首のように見えたのだ。それだから彼等がだんだんに落ち着いて、もう一度あらためて見ることになると、西瓜は依然たる西瓜で、だれの眼にも人間の首とは見えなくなったというわけさ。こう考えれば、別に不思議はあるまい。」
「なるほど辻番所の一件は、まずそれで一応の解釈が付くとして、その中間が自分の家へ帰った時にも再び西瓜が首になったというじゃあないか。主人の細君がなんにも知らずに風呂敷をあけて見たらば、やっぱり女の首が出たというのはどういうわけだろう。」
「その随筆には、細君がなんにも知らずにあけたように書いてあるが、おそらく事実はそうではあるまい。その風呂敷をあける前に、中間はまず辻番所の一件を報告したのだろうと思う。武家の女房といっても細君は女だ。そんな馬鹿なことがあるものかと言いながらも、内心一種の不安をいだきながらあけて見たに相違ない。その時はもう日が暮れている。行燈の灯のよく届かない縁先のうす暗いところで、怖々のぞいて見たのだから、その西瓜が再び女の首に見えたのだろう。中間の眼にも勿論そう見えたろう。それも所詮は一時の錯覚で、みんなが落ち着いてよく見ると、元の通りの西瓜になってしまった。詰まりそれだけの事さ。むかしの人はしばしばそんなことに驚かされたのだな。その西瓜をたち割ってみると、青い蛙が出たとか、髪の毛が出たとかいうのは、単に一種のお景物に過ぎないことで、瓜や唐茄子からは蛇の出ることもある。蛙の出ることもある。その時代の本所や柳島辺には蛇も蛙もたくさんに棲んでいたろうじゃないか。丁度そんな暗合があったものだから、いよいよ怪談の色彩が濃厚になったのだね。」
 彼は無雑作《むぞうさ》に言い放って、又もや高く笑った。いよいよ小癪に障るとは思いながら、差しあたってそれを言い破るほどの議論を持合せていないので、わたしは残念ながら沈黙するほかはなかった。外はいよいよ日盛りになって来たらしく、油蝉の声がそうぞうしく聞えた。
 倉沢はやがて笑いながら言い出した。
「そうは言うものの、僕の家《うち》にも奇妙な伝説があって、西瓜を食わないことになっていたのだ。勿論、この話とは無関係だが……。」
「君は西瓜を食うじゃないか。」
「僕は食うさ。唯ここの家にそういう伝説があるというだけの話だ。」
 私は東京で彼と一緒に西瓜を食ったことはしばしばある。しかも彼の家にそんな奇妙な伝説があることは、今までちっとも知らなかったのである。倉沢はそれに就いてこう説明した。
「なんでも二百年も昔の話だそうだが……。ある夏のことで、ここらに畑荒らしがはやったそうだ。断って置くが、それは江戸の全盛時代であるから、僕らの先祖は江戸に住んでいて、別に何のかかり合いがあったわけではない。その頃ここには又左衛門とかいう百姓が住んでいて、相当に大きく暮らしている旧家であったということだ。そこで今も言った通り、畑あらしが無暗にはやるので、又左衛門の家でも雇人らに言いつけて毎晩厳重に警戒させていると、ある暗い晩に西瓜畑へ忍び込んだ奴があるのを見つけたので、大勢が駈け集まって撲り付けた。相手は一人、こっちは大勢だから、無事に取押えて詮議すれば好かったのだが、なにしろ若い者が大勢あつまっていたので、この泥坊めというが否や、鋤《すき》や鍬《くわ》でめちゃめちゃに撲り付けて、とうとう息の根を留めてしまった。主人もそれを聞いて、とんだ事をしたと思ったろうが、今更どうにもならない。殺されたのは男でなく、もう六十以上の婆さんで、乞食のような穢い装《なり》をして、死んでも大きい眼をあいていたそうだが、どこの者だか判らない。その時代のことだから、相手が乞食同様の人間で、しかも畑あらしを働いたのだから、撲り殺しても差したる問題にもならなかったらしく、夜の明けないうちに近所の寺へ投げ込み同様に葬って、まず無事に済んでしまったのだが、その以来、その西瓜畑に婆さんの姿が時々にあらわれるという噂が立った。これは何処にもありそうな怪談で、別に不思議なことでもなかったが、もう一つ『その以来』という事件は、又左衛門の家の者がその畑の西瓜を食うと、みんな何かの病気に罹って死んでしまうのだ。主人の又左衛門が真っ先に死ぬ、つづいて女房が死ぬ、伜が死ぬという始末で、ここの家では娘に婿を取ると同時に、その畑をつぶしてしまった。それでも西瓜が祟《たた》るとみえて、その婿も出先で西瓜を食って死んだので、又左衛門の家は結局西瓜のために亡びてしまうことになったのだ。もちろん一種の神経作用に相違ないが、その後もここに住むものはやはり西瓜に祟られるというのだ。」
「持主が変っても祟られるのか。」
「まあそうなのだ。又左衛門の家はほろびて、他の持主がここに住むようになっても、やはり西瓜を食うと命があぶない。そういうわけで、持主が幾度も変って、僕の一家が明治の初年にここへ移住して来たときには、空家《あきや》同様になっていたということだ。」
「君の家の人たちは西瓜を食わないかね。」と、わたしは一種の興味を以って訊いた。
「祖父は武士で、別に迷信家というのでもなかったらしいが、元来が江戸時代の人間で、あまり果物――その頃の人は水菓子といって、おもに子供の食う物になっていたらしい。そんなわけで、平生から果物を好まなかった関係上、かの伝説は別としても、ほとんど西瓜などは食わなかった。祖母も食わなかった。それが伝説的の迷信と結びついて、僕の父も母も自然に食わないようになった。柿や蜜柑やバナナは食っても、西瓜だけは食わない。平気で食うのは僕ばかりだ。それでもここで食うと、家の者になんだかいやな顔をされるから、ここにいる時はなるべく遠慮しているが、君も知っている通り、東京に出ている時には委細構わずに食ったよ。氷に冷やした西瓜はまったく旨いからね。」
 かれはあくまで平気で笑っていた。わたしも釣り込まれて微笑した。
「そこで、君の家は別として、その以前に住んでいた人たちが西瓜を食ってみんな死んだというのは、本当のことだろうか。」
「さあ、僕も確かには知らないが、ここらの人の話ではまず本当だということだね。」と、倉沢は笑った。「たといそれが事実であったとしても、西瓜を食うと祟られるという一種の神経作用か、さもなくば不思議の暗合だよ。世のなかには実際不思議の暗合がたくさんあるからね。」
「そうかも知れないな。」
 私もいつか彼に降伏してしまったのであった。西瓜の話はそれで一旦立消えになって、それから京都の話が出た。わたしは三、四日の後にここを立去って、さらに京都の親戚をたずねる予定になっていたのである。倉沢も一緒に行こうなどと言っていたのであるが、親戚の老人が死んだので、その二七日や三七日の仏事に参列するために、ここで旅行することはむずかしいと言った。自分などはいてもいないでも別に差支えはないのであるが、仏事をよそにして出歩いたりすると、世間の口がうるさい。父や母も故障をいうに相違ないから、まず見合せにするほかはあるまいと彼は言った。そうして、君は京都に幾日ぐらい逗留するつもりだと私に訊いた。
「そう長くもいられない。やはり半月ぐらいだね。」と、わたしは答えた。
「そうすると、廿七八日ごろになるね。」と、かれは考えるように言った。「帰りに又ここへ寄ってくれるだろう。」
「さあ。」と、私もかんがえた。再びここへ押し掛けて来ていろいろの厄介になるのは、倉沢はともあれ、その両親や家内の人々に対して少しく遠慮しなければならないと思ったからである。それを察したように、彼はまた言った。
「君、決して遠慮することはないよ。どうで田舎のことだから別に御馳走をするわけじゃあなし、君ひとりが百日逗留していても差支えはないのだから、帰りには是非寄ってくれたまえ。僕もそのつもりで待っているから、きっと寄ってくれたまえよ。廿七日か廿八日ごろに京都を立つとして、廿九日には確かにここへ来られるね。」
「それじゃあ廿九日に来ることにしよう。」と、私はとうとう約束してしまった。
「都合によると、僕はステーションへ迎いに出ていないかも知れないから、真っ直ぐにここへ来ることにしてくれたまえ。いいかい。廿九日だよ。なるべく午前《ひるまえ》に来てもらいたいな。」
「むむ、暑い時分だから、夜行の列車で京都を立つと、午前十一時ごろにはここへ着くことになるだろう。」
「廿九日の午前十一時ごろ……。きっと、待っているよ。」と、彼は念を押した。

     

 その日は終日暑かった。日が暮れてから私は裏手の畑のあいだを散歩していると、倉沢もあとから来た。
「君、例の西瓜畑の跡というのを見せようか。昔はまったく空地《あきち》にしてあったのだが、今日《こんにち》の世の中にそんなことを言っちゃあいられない。僕はしきりに親父に勧めて、この頃はそこら一面を茶畑にしてしまったのだ。」
 彼は先に立って案内してくれたが、成程そこらは一面の茶畑で、西瓜の蔓が絡み合っていた昔のおもかげは見いだされなかった。広い空地に草をしげらせて、蛇や蛙の棲家にして置くよりも、こうすれば立派な畑になると、彼はそこらを指さして得意らしく説明した。その畑も次第に夕闇の底にかくれて、涼しい風が虫の声と共に流れて来た。
「おお、涼しい。」と、わたしは思わず言った。
「東京と違って、さすがに日が暮れるとずっと凌ぎよくなるよ。」
 こう言いかけて、倉沢はうす暗い畑の向うを透かして視た。
「あ、横田君が来た。どうしてこんな方へ廻って来たのだろう。僕たちのあとを追っかけて来たのかな。」
「え、横田君……。」と、私もおなじ方角を見まわした。「どこに横田君がいるのだ。」
「それ、あすこに立っているじゃあないか。君には見えないか。」
「見えない、誰も見えないね。」
「あすこにいるよ。白い服を着て、麦わら帽をかぶって……。」と、彼は畑のあいだから伸び上がるようにして指さした。
 しかも、わたしの眼にはなんにも見えなかった。横田というのは、東京の××新聞の社員で、去年からこの静岡の支局詰めを命ぜられた青年記者である。学生時代から倉沢を知っているというので、ここの家へも遊びに来る。わたしも倉沢の紹介で、このあいだから懇意になった。その横田がたずねて来るのに不思議はないが、その人の姿がわたしの眼にはみえないのである。倉沢は何を言っているのかと、わたしは少しく烟《けむ》に巻かれたようにぼんやりしていると、彼はわたしを置去りにして、その人を迎えるように足早に進んで行ったかと思うと、やがて続けてその人の名を呼んだ。
「横田君……横田君……。おや、おかしいな。どうしたろう。」
「君は何か見間違えているのだよ。」と、わたしは彼に注意した。「横田君は初めから来ていやあしないよ。」
「いや、確かにそこに立っていたのだが……。」
「だって、そこにいないのが証拠じゃないか。」と、わたしはあざけるように笑った。「君のいわゆる『群衆妄覚』ならば、僕の眼にも見えそうなものだが……。僕にはなんにも見えなかったよ。」
 倉沢はだまって、ただ不思議そうに考えていた。どこから飛んで来たのか、一匹の秋の蛍が弱い光りをひいて、彼の鼻のさきを掠めて通ったかと見るうちに、やがてその影は地に落ちて消えた。

 それから三日の後に、わたしは倉沢の家を立去って京都へ行った。彼は停車場まで送って来て、月末の廿九日|午前《ひるまえ》にはきっと帰って来てくれと、再び念を押して別れた。
 京都に着いて、わたしは倉沢のところへ絵ハガキを送ったが、それに対して何の返事もなかった。彼が平生の筆不精を知っている私は、別にそれを怪しみもしなかった。
 廿九日、その日は二百十日を眼のまえに控えて、なんだか暴《あ》れ模様の曇った日で、汽車のなかは随分蒸し暑かった。午前十一時をすこし過ぎたころに静岡の駅に着いて、汗をふきながら汽車を降りると、プラットフォームの人混みのなかに、倉沢の家の若い雇人の顔がみえた。彼はすぐ駈けて来て、わたしのカバンを受取ってくれた。
 つづいて横田君の姿が見えた。かれは麦わら帽をかぶって、白い洋服を着ていた。出迎えの二人は簡単に挨拶したばかりで、ほとんど無言でわたしを案内して、停車場の前にあるカフェー式の休憩所へ連れ込んだ。
 注文のソーダ水の来るあいだに、横田君はまず口を切った。
「たぶん間違いはあるまいと思っていましたが、それでもあなたの顔が見えるまでは内々心配していました。早速ですが、きょうは午後二時から倉沢家の葬式で……。」
「葬式……。誰が亡くなったのですか。」
「倉沢小一郎君が……。」
 わたしは声が出ないほどに驚かされた。雇人は無言で俯向いていた。女給が運んで来た三つのコップは、徒《いたず》らにわれわれの眼さきに列べられてあるばかりであった。
「あなたが京都へお立ちになった翌々日でした。」と、横田君はつづけて話した。「倉沢君は町へ遊びに出たといって、日の暮れがたに私の支局へたずねて来てくれたので、××軒という洋食屋へ行って、一緒にゆう飯を食ったのですが、その時に倉沢君は西瓜を注文して……。」
「西瓜を……。」と、わたしは訊き返した。
「そうです。西瓜に氷をかけて食ったのです。わたしも一緒に食いました。そうして無事に別れたのですが、その夜なかに倉沢君は下痢を起して、直腸カタルという診断で医師の治療を受けていたのです。それで一旦はよほど快方にむかったようでしたが、廿日過ぎから又悪くなって、とうとう赤痢のような症状になって……。いや、まだ本当に赤痢とまでは決定しないうちに、おとといの午後六時ごろにいけなくなってしまいました。西瓜を食ったのが悪かったのだといいますが、その晩××軒で西瓜を食ったものは他《ほか》にも五、六人ありましたし、現にわたしも倉沢君と一緒に食ったのですが、ほかの者はみな無事で、倉沢君だけがこんな事になるというのは、やはり胃腸が弱っていたのでしょう。なにしろ夢のような出来事で驚きました。早速京都の方へ電報をかけようと思ったのですが、あなたから来たハガキがどうしても見えないのです。それでも倉沢君が息をひき取る前に、あなたは廿九日の午前十一時ごろにきっと来るから、葬式はその日の午後に営んでくれと言い残したそうで……。それを頼りに、お待ち申していたのです。」
 わたしの頭は混乱してしまって、何と言っていいか判らなかった。その混乱のあいだにも私の眼についたのは、横田君の白い服と麦わら帽であった。
「あなたは倉沢君と××軒へ行ったときにも、やはりその服を着ておいででしたか。」
「そうです。」と、横田君はうなずいた。
「帽子もその麦藁で……。」
「そうです。」と、彼は又うなずいた。
 麦わら帽に白の夏服、それが横田君の一帳羅《いっちょうら》であるかも知れない。したがって、横田君といえばその麦わら帽と白い服を連想するのかも知れない。さきの夜、倉沢が一種の幻覚のように横田君のすがたを認めた時に、麦わら帽と白い服を見たのは当然であるかも知れない。しかもその幻覚にあらわれた横田君と一緒に西瓜を食って、彼の若い命を縮めてしまったのは、単なる偶然とばかりは言い得ないような気もするのである。
 かれが東京で西瓜をしばしば食ったことは、わたしも知っている。しかも静岡ではなるべく遠慮していると言ったにも拘らず、彼は横田君と一緒に西瓜を食ったのである。群衆妄覚をふりまわして、稲城家の怪事を頭から蹴散らしてしまった彼自身が、まさかに迷信の虜《とりこ》となって、西瓜に祟られたとも思われない。これもまた単なる偶然であろうか。
 彼はわたしに向って、八月廿九日の午前《ひるまえ》には必ず帰ってくれといった。その廿九日の午前に帰って来て、あたかもその葬式の間に合ったのである。わたしは約束を守ってこの日に帰って来たのを、せめてもの幸いであるとも思った。
 そんなことをいろいろ考えながら、わたしは横田君らと共に、休憩所の前から自動車に乗込むと、天候はいよいよ不穏になって、どうでも一度は暴《あ》れそうな空の色が、わたしの暗い心をおびやかした。

底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房
   1999(平成11)年7月2日第1刷
初出:「文學時代」
   1932(昭和7)年2月
入力:網迫、土屋隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

岡本綺堂

鰻に呪われた男—— 岡本綺堂

     一

「わたくしはこの温泉へ三十七年つづけて参ります。いろいろの都合で宿は二度ほど換えましたが、ともかくも毎年かならず一度はまいります。この宿へは震災前から十四年ほど続けて来ております。」
 痩形《やせがた》で上品な田宮夫人はつつましやかに話し出した。田宮夫人がこの温泉宿の長い馴染客であることは、私もかねて知っていた。実は夫人の甥にあたる某大学生が日頃わたしの家へ出入りしている関係上、Uの温泉場では××屋という宿が閑静《かんせい》で、客あつかいも親切であるということを聞かされて、私も不図《ふと》ここへ来る気になったのである。
 来て見ると、私からは別に頼んだわけでもなかったが、その学生から前もって私の来ることを通知してあったとみえて、××屋では初対面のわたしを案外に丁寧に取扱って、奥まった二階の座敷へ案内してくれた。川の音がすこしお邪魔になるかも知れませんが、騒ぐようなお客さまはこちらへはご案内いたしませんから、お静かでございますと、番頭は言った。
「はい、田宮の奥さんには長いこと御贔屓《ごひいき》になっております。一年に二、三回、かならず一回はかかさずにお出でになります。まことにお静かな、よいお方で……。」と、番頭はさらに話して聞かせた。
 どこの温泉場へ行っても、川の音は大抵付き物である。それさえ嫌わなければ、この座敷は番頭のいう通り、たしかに閑静であるに相違ないと私は思った。
 時は五月のはじめで、川をへだてた向う岸の山々は青葉に埋められていた。東京ではさほどにも思わない馬酔木《あせび》の若葉の紅く美しいのが、わたしの目を喜ばせた。山の裾には胡蝶花《しゃが》が一面に咲きみだれて、その名のごとく胡蝶のむらがっているようにも見えた。川では蛙の声もきこえた。六月になると、河鹿《かじか》も啼くとのことであった。
 私はここに三週間ほどを静かに愉快に送ったが、そういつまで遊んでもいられないので、二、三日の後には引揚げようかと思って、そろそろ帰り支度に取りかかっているところへ、田宮夫人が来た。夫人はいつも下座敷の奥へ通されることになっているそうで、二階のわたしとは縁の遠いところに荷物を持ち込んだ。
 しかし私がここに滞在していることは、甥からも聞き、宿の番頭からも聞いたとみえて、着いて間もなく私の座敷へも挨拶にきた。男と女とはいいながら、どちらも老人同士であるから、さのみ遠慮するにも及ばないと思ったので、わたしもその座敷へ答礼に行って、二十分ほど話して帰った。
 わたしが明日はいよいよ帰るという前日の夕方に、田宮夫人は再びわたしの座敷へ挨拶に来た。
「あすはお発《た》ちになりますそうで……。」
 それを口切りに、夫人は暫く話していた。入梅《にゅうばい》はまだ半月以上も間があるというのに、ここらの山の町はしめっぽい空気に閉じこめられて、昼でも山の色が陰《くも》ってみえるので、このごろの夏の日が秋のように早く暮れかかった。
 田宮夫人はことし五十六、七歳で、二十歳《はたち》の春に一度結婚したが、なにかの事情のために間もなくその夫に引きわかれて、その以来三十余年を独身で暮らしている。わたしの家へ出入りする学生は夫人の妹の次男で、ゆくゆくは田宮家の相続人となって、伯母の夫人を母と呼ぶことになるらしい。その学生がかつてこんなことを話した。
「伯母は結婚後一週間目とかに、夫が行くえ不明になってしまったのだそうで、それから何と感じたのか、二度の夫を持たないことに決めたのだということです。それについては深い秘密があるのでしょうが、伯母は決して口外したことはありません。僕の母は薄々その事情を知っているのでしょうが、これも僕たちに向ってはなんにも話したことはありませんから、一切《いっさい》わかりません。」
 わたしは夫人の若いときを知らないが、今から察して、彼女の若盛りには人並以上の美貌の持主《もちぬし》であったことは容易に想像されるのである。その上に相当の教養もある、家庭も裕福であるらしい。その夫人が人生の春をすべてなげうち去って、こんにちまで悲しい独身生活を送って来たには、よほどの深い事情がひそんでいなければならない。今もそれを考えながら、わたしは夫人と向い合っていた。
 絶え間なしにひびく水の音のあいだに、蛙の声もみだれて聞える。わたしは表をみかえりながら言った。
「蛙がよく啼きますね。」
「はあ。それでも以前から見ますと、よほど少なくなりました。以前はずいぶんそうぞうしくて、水の音よりも蛙の声の方が邪魔になるぐらいでございました。」
「そうですか。ここらも年々繁昌するにつれて、だんだんに開けてきたでしょうからな。」と、私はうなずいた。「この川の上《かみ》の方へ行きますと、岩の上で釣っている人を時々に見かけますが、山女《やまめ》を釣るんだそうですな。これも宿の人の話によると、以前はなかなかよく釣れたが、近年はだんだんに釣れなくなったということでした。」
 なに心なくこう言った時に、夫人の顔色のすこしく動いたのが、薄暗いなかでも私の目についた。
「まったく以前は山女がたくさんに棲んでいたようでしたが、川の両側へ人家が建ちつづいてきたので、このごろはさっぱり捕れなくなったそうです。」と、夫人はやがて静かに言い出した。「山女のほかに、大きい鰻もずいぶん捕れましたが、それもこのごろは捕れないそうです。」
 こんな話はめずらしくない。どこの温泉場でも滞在客のあいだにしばしば繰返される。退屈しのぎの普通平凡の会話に過ぎないのであるが、その普通平凡の話が端緒《たんしょ》となって、わたしは田宮夫人の口から決して平凡ならざる一種の昔話を聞かされることになったのである。
 他人はもちろん、肉親の甥にすらもかつて洩らさなかった過去の秘密を、夫人はどうして私にのみ洩らしたのか。その事情を詳しくここで説明していると、この物語の前おきが余りに長くなるおそれがあるから、それらはいっさい省略して、すぐに本題に入ることにする。そのつもりで読んでもらいたい。
 夫人の話はこうである。

     二

 わたくしは十九の春に女学校を卒業いたしました。それは明治二十七年――日清戦争の終った頃でございました。その年の五月に、わたくしは親戚の者に連れられて、初めてこのUの温泉場へまいりました。
 ご承知でもございましょうが、この温泉が今日《こんにち》のように、世間に広く知られるようになりましたのは、日清戦争以後のことで、戦争の当時陸軍の負傷兵をここへ送って来ましたので、あの湯は切創《きりきず》その他に特効があるという噂《うわさ》がにわかに広まったのでございます。それと同時にその負傷兵を見舞の人たちも続々ここへ集まって来ましたので、いよいよ温泉の名が高くなりました。わたくしが初めてここへ参りましたのも、やはり負傷の軍人を見舞のためでした。
 わたくしの家で平素から御懇意にしている、松島さんという家《うち》の息子さんが一年志願兵の少尉で出征しまして、負傷のために満洲の戦地から後送されて、ここの温泉で療養中でありましたので、わたくしの家からも誰か一度お見舞に行かなければならないというのでしたが、父は会社の用が忙がしく、あいにくに母は病気、ほかに行く者もありませんので、親戚の者が行くというのを幸いに、わたくしも一緒に付いて来ることになったのでございます。
 人間の事というものは不思議なもので、その時にわたくしがここへ参りませんでしたら、わたくしの一生の運命もよほど変ったことになっていたであろうと思われます。勿論、その当時はそんなことを夢にも考えようはずもなく、殊に一種の戦争熱に浮かされて、女のわたくし共までが、やれ恤兵《じゅっぺい》とか慰問とか夢中になって騒ぎ立てている時節でしたから、負傷の軍人を見舞のためにUの温泉場へ出かけて行くなどということを、むしろ喜んでいたくらいでした。
 今日《こんにち》と違いまして、その当時ここまで参りますのは、かなりに不便でございましたが、途中のことなど詳しく申上げる必要もございません。ここへ着いて、まず相当の宿を取りまして、その翌日に松島さんをお見舞に行きました。お菓子や煙草やハンカチーフなどをお土産に持って行きまして、松島さんばかりでなく、ほかの人たちにも分けてあげますと、どなたも大層嬉しがっておいででした。わたくし共はもうひと晩ここに泊って、あくる朝に帰る予定でしたから、その日は自分たちの宿屋へ引揚げて、風呂にはいって休息しましたが、初夏の日はなかなか長いので、夕方から連れの人たちと一緒に散歩に出ました。連れというのは、親戚の夫婦でございます。
 三人は川伝いに、爪先《つまさき》あがりの狭い道をたどって行きました。町の様子はその後よほど変りましたが、山の色、水の音、それは今もむかしも余り変りません。さっきも申す通り、ただ騒々しいのは蛙の声でございました。わたくし共は何を見るともなしに、ぶらぶらと歩いて行くうちに、いつか人家のとぎれた川端へ出ました。岸には芒《すすき》や芦《あし》の葉が青く繁っていて、岩にせかれてむせび落ちる流れの音が、ここらはひとしお高くきこえます。ゆう日はもう山のかげに隠れていましたが、川の上はまだ明るいのです。その川のなかの大きい岩の上に、二人の男の影がみえました。それが負傷兵であることは、その白い服装をみてすぐに判りました。ふたりは釣竿を持っているのです。負傷もたいてい全快したので、このごろは外出を許されて、退屈しのぎに山女を釣りに出るという話を、松島さんから聞かされているので、この人たちもやはりそのお仲間であろうと想像しながら、わたくし共も暫く立ちどまって眺めていますと、やがてその一人が振り返って岸の方を見あげました。
「やあ。」
 それは松島さんでした。
「釣れますか。」
 こちらから声をかけると、松島さんは笑いながら首を振りました。
「釣れません。さかなの泳いでいるのは見えていながら、なかなか餌《えさ》に食いつきませんよ。水があんまり澄んでいるせいですな。」
 それでも全然釣れないのではない。さっきから二|尾《ひき》ほど釣ったといって、松島さんは岸の方へ引っ返して来て、ブリキの缶のなかから大小の魚をつかみ出して見せてくれたので、親戚の者もわたくしも覗《のぞ》いていました。
 その時、わたくしは更に不思議なことを見ました。それがこのお話の眼目《がんもく》ですから、よくお聞きください。松島さんがわたくし共と話しているあいだに、もう一人の男の人、その人の針には頻《しき》りに魚がかかりまして、見ているうちに三尾ほど釣り上げたらしいのです。ただそれだけならば別に子細《しさい》はありませんが、わたくしが松島さんの缶をのぞいて、それからふと――まったく何ごころなしに川の方へ眼をやると、その男の人は一尾の蛇のような長い魚――おそらく鰻でしたろう。それを釣りあげて、手早く針からはずしたかと思うと、ちょっとあたりを見かえって、たちまちに生きたままでむしゃむしゃと食べてしまったのです。たとい鰻にしても、やがて一尺もあろうかと思われる魚を、生きたままで食べるとは……。わたくしはなんだかぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました。
 それを見付けたのは私だけで、松島さんも親戚の夫婦の話の方に気をとられていて、いっこうに覚《さと》らなかったらしいのです。鰻をたべた人は又つづけて釣針をおろしていました。それから松島さんとふた言三言お話をして、わたくしどもはそのまま別れて自分の宿へ帰りましたが、生きた鰻を食べた人のことを私は誰にも話しませんでした。その頃のわたくしは年も若いし、かなりにお転婆のおしゃべりの方でしたが、そんなことを口へ出すのも何だか気味が悪いような気がしましたので、ついそれきりにしてしまったのでございます。
 あくる朝ここを発つときに、ふたたび松島さんのところへ尋ねてゆきますと、松島さんの部屋には同じ少尉の負傷者が同宿していました。きのうは外出でもしていたのか、その一人のすがたは見えなかったのですが、きょうは二人とも顔を揃えていて、しかもその一人はきのうの夕方松島さんと一緒に川のなかで釣っていた人、すなわち生きた鰻を食べた人であったので、わたくしは又ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としました。しかしよく見ると、この人もたぶん一年志願兵でしょう。松島さんも人品の悪くない方ですが、これは更に上品な風采《ふうさい》をそなえた人で、色の浅黒い、眼つきの優しい、いわゆる貴公子然たる人柄で、はきはきした物言いのうちに一種の柔か味を含んでいて……。いえ、いい年をしてこんな事を申上げるのもお恥かしゅうございますから、まずいい加減にいたして置きますが、ともかくこの人が蛇のような鰻を生きたまま食べるなどとは、まったく思いも付かないことでございました。
 先方ではわたくしに見られたことを覚らないらしく、平気で元気よく話していましたが、わたくしの方ではやはり何だか気味の悪いような心持でしたから、時々にその人の顔をぬすみ見るぐらいのことで、始終うつむき勝に黙っていました。
 わたくし共はそれから無事に東京へ帰りました。両親や妹にむかって、松島さんのことやUの温泉場のことや、それらは随分くわしく話して聞かせましたが、生きた鰻を食べた人のことだけはやはり誰にも話しませんでした。おしゃべりの私がなぜそれを秘密にしていたのか、自分にもよく判りませんが、だんだん考えてみると、単に気味が悪いというばかりでなく、そんなことを無暗に吹聴《ふいちょう》するのは、その人の対して何だか気の毒なように思われたらしいのです。気の毒のように思うという事――それはもう一つ煎じ詰めると、どうも自分の口からはお話が致しにくい事になります。まず大抵はお察しください。
 それからひと月ほど過ぎまして、六月はじめの朝でございました。ひとりの男がわたくしの家へたずねて来ました。その名刺に浅井秋夫とあるのを見て、わたくしは又はっ[#「はっ」に傍点]としました。Uの温泉場で松島さんに紹介されて、すでにその姓名を知っていたからです。
 浅井さんはまずわたくしの父母に逢い、更にわたくしに逢って、先日見舞に来てくれた礼を述べました。
「松島君ももう全快したのですが、十日《とおか》ほど遅れて帰京することになります。ついては、君がひと足さきへ帰るならば、田宮さんを一度おたずね申して、先日のお礼をよくいって置いてくれと頼まれました。」
「それは御丁寧に恐れ入ります。」
 父も喜んで挨拶していました。それから戦地の話などいろいろあって、浅井さんは一時間あまり後に帰りました。帰ったあとで、浅井さんの評判は悪くありませんでした。父はなかなかしっかりしている人物だと言っていました。母は人品のいい人だなと褒めていました。それにつけても、生きた鰻を食べたなどという話をして置かないでよかったと、わたくしは心のうちで思いました。
 十日ほどの後に、松島さんは果たして帰って来ました。そんなことはくだくだしく申上げるまでもありませんが、それから又ふた月ほども過ぎた後に、松島さんがお母さん同道《どうどう》でたずねて来て、思いもよらない話を持出しました。浅井さんがわたくしと結婚したいというのでございます。今から思えば、わたくしの行く手に暗い影がだんだん拡がってくるのでした。

     

 松島さんは、まだ年が若いので、自分ひとりで縁談の掛合いなどに来ては信用が薄いという懸念《けねん》から、お母さん同道で来たらしいのです。そこで、お母さんの話によると、浅井さんの兄さんは帝大卒業の工学士で、ある会社で相当の地位を占めている。浅井さんは次男で、私立学校を卒業の後、これもある会社に勤めていたのですが、一年志願兵の少尉である関係上、今度の戦争に出征することになったのですから、帰京の後は元の会社へ再勤することは勿論で、現に先月から出勤しているというのです。
 わたくしの家には男の児がなく、姉娘のわたくしと妹の伊佐子との二人きりでございますから、順序として妹が他に縁付き、姉のわたくしが婿をとらねばなりません。その事情は松島さんの方でもよく知っているので、浅井さんは幸い次男であるから、都合によっては養子に行ってもいいというのでした。すぐに返事の出来る問題ではありませんから、両親もいずれ改めて御返事をすると挨拶して、いったん松島さんの親子を帰しましたが、先日の初対面で評判のいい浅井さんから縁談を申込まれたのですから、父も母もよほど気乗りがしているようでした。
 こうなると、結局はわたくしの料簡《りょうけん》次第で、この問題が決着するわけでございます。母もわたくしに向って言いました。
「お前さえ承知ならば、わたし達には別に異存はありませんから、よく考えてごらんなさい。」
 勿論、よく考えなければならない問題ですが、実を申すと、その当時のわたくしにはよく考える余裕もなく、すぐにも承知の返事をしたい位でございました。
 生きた鰻を食った男――それをお前は忘れたかと、こう仰しゃる方もありましょう。わたくしも決して忘れてはいません。その証拠には、その晩こんな怪しい夢をみました。
 場所はどこだか判りませんが、大きい爼板《まないた》の上にわたくしが身を横たえていました。わたくしは鰻になったのでございます。鰻屋の職人らしい、印半纏《しるしばんてん》を着た片眼の男が手に針か錐《きり》のようなものを持って、わたくしの眼を突き刺そうとしています。しょせん逃がれぬところと観念していますと、不意にその男を押しのけて、又ひとりの男があらわれました。それはまさしく浅井さんと見ましたから、わたしは思わず叫びました。
「浅井さん、助けてください。」
 浅井さんは返事もしないで、いきなり私を引っ掴《つか》んで自分の口へ入れようとするのです。わたくしは再び悲鳴をあげました。
「浅井さん。助けてください。」
 これで夢が醒めると、わたくしの枕はぬれる程に冷汗《ひやあせ》をかいていました。やはり例のうなぎの一件がわたくしの頭の奥に根強くきざみ付けられていて、今度の縁談を聞くと同時にこんな悪夢がわたくしをおびやかしたものと察せられます。それを思うと、浅井さんと結婚することが何だか不安のようにも感じられて来たので、わたくしは夜のあけるまで碌々《ろくろく》眠らずに、いろいろのことを考えていました。
 しかし夜が明けて、青々とした朝の空を仰ぎますと、ゆうべの不安はぬぐったように消えてしまいました。鰻のことなどを気にしているから、そんな忌《いや》な夢をみたので、ほかに子細も理屈もある筈がないと、私はさっぱり思い直して、努めて元気のいい顔をして両親の前に出ました。こう申せば、たいてい御推量になるでしょう。わたくしの縁談はそれからすべるように順調に進行したのでございます。
 唯ひとつの故障は、平生《へいぜい》から病身の母がその秋から再び病床につきましたのと、わたくしが今年は十九の厄年――その頃はまだそんなことをいう習慣が去りませんでしたので、かたがた来年の春まで延期ということになりまして、その翌年の四月の末にいよいよ結婚式を挙げることになりました。勿論、それまでには私の方でもよく先方の身許《みもと》を取調べまして、浅井の兄さんは夏夫といって某会社で相当の地位を占めていること、夏夫さんには奥さんも子供もあること、また本人の浅井秋夫も品行方正で、これまで悪い噂もなかったこと、それらは十分に念を入れて調査した上で、わたくしの家へ養子として迎い入れることに決定いたしたのでございます。
 そこで、結婚式もとどこおりなく済まして、わたくしども夫婦は新婚旅行ということになりました。その行く先はどこがよかろうと評議の末に、やはり思い出の多いUの温泉場へゆくことに決めました。思い出の多い温泉場――このUの町はまったく私に取って思い出の多い土地になってしまいました。しかしその当時は新婚の楽しさが胸いっぱいで、なんにも考えているような余裕もなく、春風を追う蝶のような心持で、わたくしは夫と共にここへ飛んで参ったのでございます。そのときの宿はここではありません。もう少し川下《かわしも》の方の○○屋という旅館でございました。時候はやはり五月のはじめで、同じことを毎度申すようですが、川の岸では蛙がそうぞうしく啼いていました。
 滞在は一週間の予定で、その三日目の午後、やはりきょうのように陰っている日でございました。午前中は近所を散歩しまして、午後は川に向った二階座敷に閉じこもって、水の音と蛙の声を聞きながら、新夫婦が仲よく話していました。そのうちにふと見ると、どこかの宿屋の印半纏を着た男が小さい叉手網《さであみ》を持って、川のなかの岩から岩へと渡りあるきながら、なにか魚《さかな》をすくっているらしいのです。
「なにか魚を捕っています。」と、わたくしは川を指して言いました。「やっぱり山女でしょうか。」
「そうだろうね。」と、夫は笑いながら答えました。「ここらの川には鮎《あゆ》もいない、鮠《はや》もいない。山女と鰻ぐらいのものだ。」
 鰻――それがわたくしの頭にピンと響くようにきこえました。
「うなぎは大きいのがいますか。」と、わたくしは何げなく訊《き》きました。
「あんまり大きいのもいないようだね。」
「あなたも去年お釣りになって……。」
「むむ。二、三度釣ったことがあるよ。」
 ここで黙っていればよかったのでした。鰻のことなぞは永久に黙っていればよかったのですが、年の若いおしゃべりの私は、ついうっかりと飛んだことを口走ってしまいました。
「あなたその鰻をどうなすって……。」
「小さな鰻だもの、仕様がない。そのまま川へ抛《ほう》り込んでしまったのさ。」
「一ぴきぐらいは食べたでしょう。」
「いや、食わない。」
「いいえ、食べたでしょう。生きたままで……。」
「冗談いっちゃいけない。」
 夫は聞き流すように笑っていましたが、その眼の異様に光ったのが私の注意をひきました。その一|刹那《せつな》に、ああ、悪いことを言ったなと、わたくしも急に気がつきました。結婚後まだ幾日も経たない夫にむかって、迂濶《うかつ》にこんなことを言い出したのは、確かにわたくしが悪かったのです。しかし私として見れば、去年以来この一件が絶えず疑問の種になっているのです。この機会にそれを言い出して、夫の口から相当の説明をきかして貰《もら》いたかったのでございます。
 口では笑っていても、その眼色のよくないのを見て、夫が不機嫌であることを私も直ぐに察しましたので、鰻については再びなんにも言いませんでした。夫も別に弁解らしいことを言いませんでした。それからお茶をいれて、お菓子なぞを食べて、相変らず仲よく話しているうちに、夏の日もやがて暮れかかって、川向うの山々のわか葉も薄黒くなって来ました。それでも夕御飯までには間があるので、わたくしは二階を降りて風呂へ行きました。
 そんな長湯をしたつもりでもなかったのですが、風呂の番頭さんに背中を流してもらったり、湯あがりのお化粧をしたりして、かれこれ三十分ほどの後に自分の座敷へ戻って来ますと、夫の姿はそこに見えません。女中にきくと、おひとりで散歩にお出かけになったようですという。私もそんなことだろうと思って、別に気にも留めずにいましたが、それから一時間も経って、女中が夕御飯のお膳を運んで来る時分になっても、夫はまだ帰って来ないのでございます。
「どこへ行くとも断わって出ませんでしたか。」
「いいえ、別に……。唯ステッキを持って、ふらりとお出かけになりました。」と、女中は答えました。
 それでも帳場へは何か断わって行ったかも知れないというので、女中は念のために聞合せに行ってくれましたが、帳場でもなんにも知らないというのです。それから一時間を過ぎ、二時間を過ぎ、やがて夜も九時に近い時刻になっても、夫はまだ戻って来ないのです。こうなると、いよいよ不安心になって来ましたので、わたくしは帳場へ行って相談しますと、帳場でも一緒になって心配してくれました。
 温泉宿に来ている男の客が散歩に出て、二時間や三時間帰らないからといって、さのみの大事件でもないのでしょうが、わたくしどもが新婚の夫婦連れであるらしいことは宿でも承知していますので、特別に同情してくれたのでしょう、宿の男ふたりに提灯を持たせて川の上下《かみしも》へ分かれて、探しに出ることになりました。わたくしも落着いてはいられませんので、ひとりの男と連れ立って川下の方へ出て行きました。
 その晩の情景は今でもありありと覚えています。その頃はここらの土地もさびしいので、比較的に開けている川下の町家の灯も、黒い山々の裾に沈んで、その暗い底に水の音が物すごいように響いています。昼から曇っていた大空はいよいよ低くなって、霧のような細かい雨が降って来ました。
 捜索は結局無効に終りました。川上へ探しに出た宿の男もむなしく帰って来ました。宿からは改めて土地の駐在所へも届けて出ました。夜はおいおいに更けて来ましたが、それでもまだ何処からか帰って来るかも知れないと、わたくしは女中の敷いてくれた寝床の上に坐って、肌寒い一夜を眠らずに明かしました。
 散歩に出た途中で、偶然に知人に行き逢って、その宿屋へでも連れ込まれて、夜の更けるまで話してでもいるのかと、最初はよもや[#「よもや」に傍点]に引かされていたのですが、そんな事がそら頼みであるのはもう判りました。わたくしは途方に暮れてしまいまして、ともかくも電報で東京へ知らせてやりますと、父もおどろいて駈け付けました。兄の夏夫さんも松島さんも来てくれました。
 それにしても、なにか心当りはないか。――これはどの人からも出る質問ですが、わたくしには何とも返事が出来ないのでございます。心当りのないことはありません。それは例のうなぎの一件で、わたくしがそれを迂濶に口走ったために、夫は姿をくらましたのであろうと想像されるのですが、二度とそれを口へ出すのは何分おそろしいような気がしますので、わたくしは決してそれを洩らしませんでした。
 東京から来た人たちもいろいろに手を尽くして捜索に努めてくれましたが、夫のゆくえは遂に知れませんでした。もしや夕闇に足を踏みはずして川のなかへ墜落したのではないかと、川の上下をくまなく捜索しましたが、どこにもその死骸は見当りませんでした。
 わたくしは夢のような心持で東京へ帰りました。

     

 生きた鰻をたべたという、その秘密を新婚の妻に覚られたとしたら、若い夫として恥かしいことであるかも知れません。それは無理もないとして、それがために自分のすがたを隠してしまうというのは、どうも判りかねます。殊にどちらかといえば快濶《かいかつ》な夫の性格として、そんな事はありそうに思えないのでございます。ましてその事情を夢にも知らない親類や両親たちが、ただ不思議がっているのも無理はありません。
「突然発狂したのではないか。」と、父は言っていました。
 兄の夏夫さんも非常に心配してくれまして、その後も出来るかぎりの手段を尽くして捜索したのですが、やはり無効でございました。その当座はどの人にも未練があって、きょうは何処からか便りがあるか、あすはふらりと帰って来るかと、そんなことばかり言い暮らしていたのですが、それもふた月と過ぎ、三月と過ぎ、半年と過ぎてしまっては、諦められないながらも諦めるのほかはありません。
 その年も暮れて、わたくしが二十一の春四月、夫がゆくえ不明になってから丸一年になりますので、兄の方から改めて離縁の相談がありました。年の若いわたくしをいつまでもそのままにしておくのは気の毒だというのでございます。しかし、わたくしは断わりました。まあ、もう少し待ってくれといって――。待っていて、どうなるか判りませんが、本人の死んだのでない以上、いつかはその便りが知れるだろうと思ったからでございます。
 それから又一年あまり経ちまして、果たして夫の便りが知れました。わたくしが二十二の年の十月末でございます。ある日の夕方、松島さんがあわただしく駈け込んで来まして、こんなことを話しました。
「秋夫君の居どころが知れましたよ。本人は名乗りませんけれども、確かにそれに相違ないと思うんです。」
「して、どこにいました。」と、わたくしも慌てて訊きました。
「実はきょうの午後に、よんどころない葬式があって北千住の寺まで出かけまして、その帰り途に三、四人連れで千住の通りを来かかると、路ばたの鰻屋の店先で鰻を割いている男がある。何ごころなくのぞいてみると、印半纏を着ているその職人が秋夫君なんです。もっとも、左の眼は潰れていましたが、その顔はたしかに秋夫君で、右の耳の下に小さい疵《きず》のあるのが証拠です。わたしは直ぐに店にはいって行って、不意に秋夫君と声をかけると、その男はびっくりしたように私の顔を眺めていましたが、やがてぶっきら棒に、そりゃあ人違いだ、わたしはそんな人じゃあないと言ったままで、すっと奥へはいってしまいました。何分ほかにも連れがあるので、一旦はそのまま帰って来ましたが、どう考えても秋夫君に相違ないと思われますから、取りあえずお知らせに来たんです。」
 松島さんがそう言う以上、おそらく間違いはあるまい。殊にうなぎ屋の店で見付けたということが、わたくしの注意をひきました。もう日が暮れかかっているのですが、あしたまで待ってはいられません。わたくしは両親とも相談の上で、松島さんと二台の人車《くるま》をつらねて、すぐに北千住へ出向きました。
 途中で日が暮れてしまいまして、大橋を渡るころには木枯しとでもいいそうな寒い風が吹き出しました。松島さんに案内されて、その鰻屋へたずねて行きますと、その職人は新吉という男で五、六日前からこの店へ雇われて来たのだそうです。もう少し前に近所の湯屋へ出て行ったから、やがて帰って来るだろうと言いますので、暫くそこに待合せていましたが、なかなか帰って参りません。なんだか又不安になって来ましたので、出前持の小僧を頼んで湯屋へ見せにやりますと、今夜はまだ来ないというのでございます。
「逃げたな。」と、松島さんは舌打ちしました。わたくしも泣きたくなりました。
 もう疑うまでもありません。松島さんに見付けられたので、すぐに姿を隠したに相違ありません。こうと知ったらば、さっき無理にも取押えるのであったものをと、松島さんは足摺りをして悔みましたが、今更どうにもならないのです。
 それにしても、ここの店の雇人である以上、主人はその身許を知っている筈《はず》でもあり、また相当の身許引受人もあるはずです。松島さんはまずそれを詮議《せんぎ》しますと、鰻屋の亭主は頭をかいて、実はまだよくその身許を知らないというのです。今まで雇っていた職人は酒の上の悪い男で、五、六日前に何か主人と言い合った末に、無断でどこへか立去ってしまったのだそうです。すると、その翌日、片眼の男がふらりと尋ねて来て、こちらでは職人がいなくなったそうだが、その代りに私を雇ってくれないかという。こっちでも困っている所なので、ともかくも承知して使ってみるとなかなかよく働く。名は新吉という。何分にも目見得《めみえ》中の奉公人で、給金もまだ本当に取りきめていない位であるから、その身許などを詮議している暇もなかったというのです。
 それを聞いて、わたくしはがっかりしてしまいました。松島さんもいよいよ残念がりましたが、どうにもしようがありません。二人は寒い風に吹かれながらすごすごと帰って来ました。
 しかし、これで浅井秋夫という人間がまだこの世に生きているということだけは確かめられましたので、わたくし共も少しく力を得たような心持にもなりました。生きている以上は、また逢われないこともない。いったんは姿をかくしても、ふたたび元の店へ立戻って来ないとも限らない。こう思って、その後も毎月一度ずつは北千住の鰻屋へ聞合せに行きましたが、片眼の職人は遂にその姿を見せませんでした。
 こうして、半年も過ぎた後に、松島さんのところへ突然に一通の手紙がとどきました。それは秋夫の筆蹟で、自分は奇怪な因縁で鰻に呪われている。決して自分のゆくえを探してくれるな。真佐子さん(わたくしの名でございます)は更に新しい夫を迎えて幸福に暮らしてくれという意味を簡単にしたためてあるばかりで、現在の住所などはしるしてありません。あいにくに又そのスタンプがあいまいで、発信の郵便局もはっきりしないのです。勿論、その発信地へたずねて行ったところで、本人がそこにいる筈もありませんが――。
 北千住を立去ってから半年過ぎた後に、なぜ突然にこんな手紙をよこしたのか、それも判りません。奇怪な因縁で鰻に呪われているという、その子細も勿論わかりません。なにか心当りはないかと、兄の夏夫さんに聞合せますと、兄もいろいろかんがえた挙げ句に、唯一つこんなことがあると言いました。
「わたし達の子供のときには、本郷の××町に住んでいて、すぐ近所に鰻屋がありました。店先に大きい樽《たる》があって、そのなかに大小のうなぎが飼ってある。なんでも秋夫が六つか七つの頃でしたろう、毎日その鰻屋の前へ行って遊んでいましたが、子供のいたずらから樽のなかの小さい鰻をつかみ出して逃げようとするのを、店の者に見つけられて追っかけられたので、その鰻を路ばたの溝《どぶ》のなかへほうり込んで逃げて来たそうです。それが両親に知れて、当人はきびしく叱られ、うなぎ屋へはいくらかの償いを出して済んだことがありましたが、その以外には別に思い当るような事もありません。」
 単にそれだけのことでは、わたくしの夫と鰻とのあいだに奇怪な因縁が結び付けられていそうにも思われません。まだほかにも何かの秘密があるのを、兄が隠しているのではないかとも疑われましたが、どうも確かなことは判りません。そこでわたくしの身の処置でございますが、たとい新しい夫を迎えて幸福に暮らせと書いてありましても、初めの夫がどこにか生きている限りは、わたくしとして二度の夫を迎える気にはなれません。両親をはじめ、皆さんからしばしば再縁をすすめられましたが、私は堅く強情を張り通してしまいました。そのうちに、妹も年頃になって他へ縁付きました。両親ももう、この世にはおりません。三十幾年の月日は夢のように過ぎ去って、わたくしもこんなお婆さんになりました。
 鰻に呪われた男――その後の消息はまったく絶えてしまいました。なにしろ長い月日のことですから、これももうこの世にはいないかも知れません。幸いに父が相当の財産を遺して行ってくれましたので、わたくしはどうにかこうにか生活にも不自由はいたしませず、毎年かならずこのU温泉へ来て、むかしの夢をくり返すのを唯ひとつの慰めといたしておりますような訳でございます。
 その後は鰻を食べないかと仰しゃるのですか――。いえ、喜んで頂きます。以前はそれほどに好物でもございませんでしたが、その後は好んで食べるようになりました。片眼の夫がどこかに忍んでいて、この鰻もその人の手で割《さ》かれたのではないか。その人の手で焼かれたのではないか。こう思うと、なんだか懐かしいような気がいたしまして、御飯もうまく頂けるのでございます。
 しかしわたくしも今日《こんにち》の人間でございますから、こんな感傷的な事ばかり申してもいられません。自分の夫が鰻に呪われたというのは、一体どんなわけであるのか、自分でもいろいろに研究し、又それとなく専門家について聞合せてみましたが、人間には好んで壁土や泥などを食べる者、蛇や蚯蚓《みみず》などを食べる者があります。それは子供に多くございまして、俗に虫のせいだとか癇《かん》のせいだと申しておりますが、医学上では異嗜性《いしせい》とか申すそうで、その原因はまだはっきりとは判っていませんが、やはり神経性の病気であろうということでございます。それを子供の時代に矯正すれば格別、成人してしまうとなかなか癒《なお》りかねるものだと申します。
 それから考えますと、わたくしの夫などもやはりその異嗜性の一人であるらしく思われます。子供の時代からその習慣があって、鰻屋のうなぎを盗んだのもそれがためで、路ばたの溝へ捨てたと言いますけれども、実は生きたままで食べてしまったのではないかとも想像されます。大人になっても、その悪い習慣が去らないのを、誰も気がつかずにいたのでしょう。当人もよほど注意して、他人に覚られないように努めていたに相違ありません。勿論、止《や》めよう止めようとあせっていたのでしょうが、それをどうしても止められないので、当人から見れば鰻に呪われているとでも思われたかも知れません。
 そこで、ごの温泉場へ来て松島さんと一緒に釣っているうちに、あいにくに鰻を釣りあげたのが因果で、例の癖がむらむらと発して、人の見ない隙《すき》をうかがってひと口に食べてしまうと、又あいにくに私がそれを見付けたので……。つまり双方の不幸とでもいうのでございましょう。よもやと思っていた自分の秘密を、妻のわたくしが知っていることを覚ったときに当人もひどく驚き、又ひどく恥じたのでしょう。いっそ正直に打ち明けてくれればよかったと思うのですが、当人としては恥かしいような、怖ろしいような、もう片時もわたくしとは一緒にいられないような苦しい心持になって、前後の考えもなしに宿屋をぬけ出してしまったものと察せられます。
 それからどうしたか判りませんが、もうこうなっては東京へも帰られず、けっきょく自暴自棄になって、自分の好むがままに生活することに決心したのであろうと思われます。千住のうなぎ屋へ姿をあらわすまで丸二年半の間、どこを流れ渡っていたか知りませんが、自分の食慾を満足させるのに最も便利のいい職業をえらぶことにして、諸方の鰻屋に奉公していたのでしょう。片眼を潰したのは粗相でなく、自分の人相を変えるつもりであったろうと察せられます。おそらく鰻の眼を刺すように、自分の眼にも錐《きり》を突き立てたのでしょう。こうなると、まったく鰻に呪われていると言ってもいいくらいで、考えても怖ろしいことでございます。
 片眼をつぶしても、やはり松島さんに見付けられたので、当人は又おそろしくなって何処へか姿を隠したのでしょうが、どういう動機で半年後に手紙をよこしたのか、それは判りません。その後のことも一切わかりませんが、多分それからそれへと流れ渡って、自分の異嗜性を満足させながら一生を送ったものであろうと察せられます。
 こう申上げてしまえば、別に奇談でもなく、怪談でもなく、単にわたくしがそういう変態の夫を持ったというに過ぎないことになるのでございますが、唯ひとつ、私としていまだに不思議に感じられますのは、前に申上げた通り、わたくしが初めて縁談の申込みを受けました当夜に、いやな夢をみましたことで……。こんなお話をいたしますと、どなたもお笑いになるかも知れません、わたくし自身もまじめになって申上げにくいのですが――わたくしが鰻になって爼板の上に横たわっていますと、印半纏を着た片眼の男が錐を持ってわたくしの眼を突き刺そうとしました。その時には何とも思いませんでしたが、後になって考えると、それが夫の将来の姿を暗示していたように思われます。秋夫は片眼になって、千住のうなぎ屋の職人になって、印半纏を着て働いていたというではありませんか。
 夢の研究も近来はたいそう進んでいるそうでございますから、そのうちに専門家をおたずね申して、この疑問をも解決いたしたいと存じております。

底本:「鷲」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年8月20日初版1刷発行
初出:「オール讀物」
   1931(昭和6)年10月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。