宮城道雄

昔の盲人と外国の盲人—— 宮城道雄

 昔は盲人に特別の位を与えたものである。よく何市、何市とあるが、あれも市名《いちな》といって、盲人の位の一つで、一番下である。しかし何といっても一番よいのは検校であって、昔は 検校 になるには千両の金を納めなければならなかった。その代り十万石の大名に相当する資格が与えられていた。その次は勾当で、これは 検校 の半分位の資格であった。
 昔春先きに小大名が京都に上ると、検校
の性の悪いのが、丁度蜘蛛が網を張って虫のひっかかるのを待っているように、 伏見街道に 検校 の幕を張り廻らしておく。すると小大名はそこを通る時に、駕籠から降りなければならないので、家来が殿様の行列より先きに来て、何々がここを通るから、お駕籠のままで通らして戴きたいといって、金一封を持って頼みに行く。
 平生は大して懐工合がいいわけではないが、春先きになると、大勢の人を雇ってそんな悪戯をしていたものだそうであった。
 江戸あたりでは、
検校 は金貸のようなことをしていたそうである。それは盲人保護の意味で、 検校の貸した金は白洲に出ても、必ず取れることになっていたからだそうである。またそこを狙って普通の金貸が
検校に金を廻して、検校 から又貸をしたのだそうであった。
 幕府の頃は日本では盲人の保護が非常に行き届いていて、音楽家の外に、針医にも位がついていた。同じ頃の西洋の盲人の話を聞くと、あちらでは盲人は乞食より外になかったそうである。
 或る国などは、盲人を全然人間扱いにしなかった。そして、竹の垣を作って、その中に盲人と豚とを一緒に入れて、盲人に豚を捕えさせて、困っているのを目明きが見て喜んでいたという話があるが、それに比較すると、日本の盲人は幸福であったわけである。
 今日では外国でも盲人に対して、保護を与えるようになり、中には大学を出た者もあるそうである。或る国などでは、盲人が四辻を通る時に、黄色の旗を持っていると、自動車でも何でも避けて行くそうである。また独逸あたりでは、盲人が犬を連れて歩くそうで、つまり犬が道案内を勤めるわけである。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「雨の念仏」三笠書房
   1935(昭和10)年2月18日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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宮城道雄

声と性格—– 宮城道雄

 私は盲人であるので、すべてのことを声で判断する。殊に婦人の美しさとか、若い乙女の純な心とかは、その声や言葉によって感じるわけである。従って、声が美しくて、発音が綺麗であると、話している間に、春の花の美しさとか、鳥の鳴き声をも想像する。
 それで、私はなるべく婦人の言葉は優しいことを希望する。あまり漢語などを沢山使わず、ごく平易な、女らしい言葉を用いて貰いたいと思うのである。近ごろは言葉も複雑になって、同じ婦人のうちにも、職業や境遇の相違によって、いろいろ話す言葉も違っているらしい。また年齢によってかなり違うように思う。同じ家庭でも官吏であるとか、実業家であるとか、その他各々の勤めによって、家庭で用いる婦人令嬢の言葉が違うように思われる。また同じ土地のうちでも、場所によって言葉の使い方が違っている。東京を例にとっていえば、山の手と下町とを比較すると、山の手の言葉はどことなく気品があっておちつきがあるが、下町の言葉は多少砕けたところがある。
 女学生の言葉には女学生特有のものがあるが、友達同志が打ちとけて話す場合の言葉はごく簡単で親しみがあり、しかも友情を表わしているものがある。例えば「どこそこに行ってよ」「何々してるわよ」とか、同じ返事をするのに「はい」とか「へい」とか言わずに、近ごろは「ええ」という返事をする。こういう言葉はざつのようであるが「よ」とか「ええ」とかいう言葉に、非常に親しみがこもっている。
 そうかと思うと、言葉の途中を略して、頭と仕舞の言葉をくっつけて言ってしまうのがある。それも中には、耳だけで聞いて可愛らしい感じのするのもあるが、しかしいくらスピード時代でも、言葉全部を言ったところで、そんなに時間はかからないのだから、やはりまともに言って貰った方が、聞いていて気持がよい。
 前にも一寸言ったが、年齢で言葉が違うように、同じ言葉でも年配の人が言って、似合うのと似合わないのとがある。学生の言葉を年輩の人が言ったら、聞いた感じが不似合いなものであろう。また、同じ婦人の中でも子供を持った人と、持たぬ人の言葉を聞いた感じは、どうしても相違があるようである。子供を持った人は、子供に対して情があるせいか、他人に対しても言葉に柔か味があるように思われる。これは一概に言えないが、持たぬ人の中には、同じ話をしていても、どこか言葉の途中に或る冷たさがある人もある。これが実子でなくても、自分の子供として教育した人は、実子を持った人と同様な結果になるわけで、親しみが持てるのである。
 婦人の丁寧であることは望ましいことであるが、中には非常に言葉数が多くて、先がわかっているのに、廻りくどく話す人がある。そういう人に対しては、聞いている途中で、早く止めて貰いたいと思うことがよくある。ところがそれと反対に、言葉数が少くて、婦人であるのに無愛想な人がある。殊にこの頃の若い女学生たちは、あまり勉強に熱中しているせいか、お客とか、はじめて会った人に対しても、無愛想な場合があるように思われる。心にもない媚び諂いは気持が悪いが、婦人の声や言葉には多少の愛嬌とか潤いとかがありたいものである。
 近ごろの世の中は生活においていろいろ苦労があることと思われるが、生活は荒まないようにありたいと思う。心が荒めば従って言葉までが荒んで来る。言葉なり声なりが荒めば、それによって心の荒みを他人に感じさせ、従って他人をも荒ませることになる。われわれは生活は荒んでも、心まで荒まないように心掛けたいものだと思う。
 私は常に音楽を教育する立場として、歌わせていて、発音ということが非常に気になる。私の経験では、発音の綺麗なのは関西に多いと思う。もっとも関西もところや土地によって違うが、京、大阪はアクセントは別として、発音は綺麗なように思う。今の長唄、清元、常磐津その他、元は関西から来て長く江戸に流行って、俗に江戸唄と称せられるものの中に、その道の大家の唄われるのを聞くと、月とか花とか風とかいう言葉には関西のアクセントそのままのものが残っている。
 例えば、関東の方では「花」という言葉にしても、「は」よりも「な」の方を上げて発音し、関西の方は「は」よりも「な」の方を下げて発音する。そして、唄われる場合に「はー」と「は」を引張って「はーな」とか「つーき」とかそういう風に唄われるので、アクセントのことなどと一向気にならずに、花なら花の気分が出るように思われる。
 このほか、国々によって、婦人の声の出し方が違う。これは自分だけの感じか知らぬが、東北の方の寒い地方へ行くと、人々はあまり口を開かずに声を発する。また、極く南の暖かい方へ行くと、口を開いて話し、更に南洋の方へ行くと、裸体で生活しているように、どこか声に締りがないような気がする。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「垣隣り」小山書店
   1937(昭和12)年11月20日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
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宮城道雄

声と人柄—– 宮城道雄

 或時、横須賀から東京に向う省線に逗子駅から乗ったことがあった。ところがその電車が非常に混んでいて、空いた座席が殆どなかった。丁度その時、どこかの地方の青年団の人々が乗っていたが、その中の一人が、私の乗り込んだのを見てか「おい、起て起て」と言ったら、腰かけていた人たちがみな起ちあがって、私たちに席を与えてくれた。
 もしその場合に、私が目が見えていたら辞退するのであるが、私は盲人なので折角の親切を無にしては悪いと思ったので、腰かけさせてもらった。
 私は初めその青年団の人たちが、つい近くへでも行くのかと思っていたら、やはり私たちと同様に東京へ行くらしいのである。そして、独り言のように「なあに、我々は起っていたっていいのだ」と言っていた。それからまた、自分たちが起っている苦痛をまぎらわすためか、元気よくお互に話し合っていた。そうかと思うと、何か手をまるめて、喇叭の真似を始めだした。
 そして、色々の節を吹いていたが、それがなかなか上手にやっていた。一節吹いては興じ合って、みんなが元気に笑っていた。私はそれを面白く感じた。

 私は人の言葉つきで、その人が今日自分に、どういう用向きで来たかということが、あらかじめわかる。
 その人がどういう態度をしているかということも、自然に感じられるのである。
 ある夏の暑い時であったが、或る人が尺八を合せに、私のところに来たことがある。その人とは心易い間柄だったし、丁度その時は誰も居合わせなかったので、その人が上著を脱ぎ、はだかになって尺八を吹き出した。私はそれを感じていたけれども黙って合奏をしたのであった。そしていよいよ済んだあとで、私が今日のような暑い日には、はだか[#「はだか」に傍点]でやると大変涼しいでしょうなあ、と言ったらその人は驚いて、這《ほ》う這《ほ》うの体で帰ってしまった。その人は別に私を誤魔化そうと思ってやったのではなく、心易さからのことだったろうが、私の言ったことが当たったのであった。
 とりわけ、声で、一番私の感ずることは、バスや円タクに乗った場合である。
 声を聞いただけで、今日は運転手が、疲れているなと思ったり、また賃銀でも値ぎられたのか、非常に憤慨した気持のままだとか、ちゃんと知ることができる。
 電車やバスなどの車掌が、わざわざ発車するのを遅らせても、私たち不自由な者の手を引いて、乗せてくれたりすることがある。こういう風に、道の途中を歩いていても、その人の声を聞いて、その人の人柄が知られるのであるが、私は心の持ちようで、声まで変わって来るものだということを信じている。
 そして、非常に感謝の気持で仕事をしている人と、疲れの工合か何か、非常に不愉快らしくしている人があるように思うが、その差は少しの心の持ちようで、どちらにもなるのであると私は思う。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「垣隣り」小山書店
   1937(昭和12)年11月20日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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宮城道雄

声と食物—– 宮城道雄

 私の経験から歌についていうと、言葉と節とが調和する時と、しない時とがある。従って、外国の歌を日本語に訳した際に、訳され方によって、音と言葉とがあっていないような気がする。殊にオペラなどにおいて、そうした点に無理なところがあるのを感じるのである。そこへ行くと、長年聞き馴れた邦楽は言葉と節とがよくそぐうているような気がする。その最もよい例は義太夫であるが、ただ、現代の言葉と違うために、今の若い人にはその言葉や音の味わいが直ぐわかるかどうか――恐らくわからないことが多いと思う。
 義太夫は関西に生れたもので、総てが関西語である。これが東京の発音そのままで語られたら、一つの漫談のたねになることだろうと思う。
 現代は交通が便利になって、土地が狭まったようであり、そのため、その土地特有の民謡とか何々音頭とかが沢山出来ていても、純粋にその土地を踏んだことのない人が作ったりする。それはその土地の風景を歌に詠み込んで、一般の人に歌いよいように作曲しているので、別に地方色を現わすのが目的ではないから、それはそれとしてよいが、交通の不便な時代は隣り国といっても遠いことになるから、その土地だけの言葉やその土地の感じを写して自然に生れた民謡が多いので、その土地と曲とがしっくり合っている。
 また食物などによって、その国々の声が違うように思う。その訳は、私は長く朝鮮にいて妓生《きいさん》の声が非常にいい声だと思って聞いていたが、それは内地流にいえば、錆があるとでもいうか、声が少しかすれたような所があって、非常にいい声である。
 それは、朝鮮の人は唐辛子を非常に沢山食べる。副食物のうちで一番大切な漬物の中に必ず入れる。その上、気候が寒いので、オンドルで部屋を熱くして、唐辛子を食べて寒さを凌いでいる。従って辛いもので、咽喉を刺戟する所為か、声の中に空気の交ったような少しかすれた声が出る。その声がまた何ともいえぬ味があるのである。
 それと比較して、欧州人の歌うあの綺麗な声は、肉食をしているためであると思っている。それで、声楽家の三浦環女史は歌う前にはいつも、ビフテキを食べられるということを聞いた。また私の奉職している音楽学校で、観世流の家元とよくお目にかかることがあるが、観世氏は非常に大事なお能のある前には、ビフテキを二皿も三皿も平らげるということを聞いた。
 すべて、歌う前には動物性の油は咽喉によいが、植物性の油はよくない。テンプラなどを食べた後は声が出ない。或る義太夫語りは或る地方に行って、初日の日にテンプラを食べて出演したため声を悪くして、初日を滅茶々々にしたという話しがある。このテンプラの話しも唄う直ぐ前のことで、時間を経てば差し支えないと思う。
 また、私の経験によると、林檎のようなもの、レモンのような柑橘類の少し熟したものを食べると、声のよく出ることがある。それも人によって違うかも知れぬが、多くの場合一寸酸味のあるものはよいようであるが、鮨などはあまり食べない方がよく、酢は殊にいけない。そして、声を出すのに大切なことは、胃を悪くしないことである。私は唄う前には決して食物をとらない。たとえ食べても、腹八分目にしておくのである。重ねていうておくが、この食養生は唄う直ぐ前のことである。
 少し話しが専門のことになったが、普通の婦人たちが話しをする時も、なるべく美しい声を出して貰いたいと思う。近ごろの若い婦人はかなり音楽的な声や言葉になって来たところもあるように思う。婦人が夫を慰めるのは、あながち、容貌とかお化粧だけにあるのではなく、これは私の音に生活しているためかも知れぬが、声や言葉にもあると思う。夫が疲れて帰って来て、優しい言葉や声で慰めて貰えば、夫婦喧嘩は起こらないだろうと思う。
 言葉はただ目で文字を読んだ感じだけでなく、耳で聞いてもいい感じの言葉を用いたいものである。普通人と対座する時でも、なるべく言葉や声によって、よい感じを与えるようにしたいと思う。それには、お互に婦人に限らず、美しい声と美しい言葉とを遣うようにしたいものである。特に女性の優しさというものは声と言葉にあるように、私は思っているのである。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「垣隣り」小山書店
   1937(昭和12)年11月20日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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宮城道雄

心の調べ—– 宮城道雄

 どんな美しい人にお会いしても、私はその姿を見ることはできませんが、その方の性格はよく知ることができます。美しい心根の方の心の調べは、そのまま声に美しくひびいてくるからです。声のよしあしではありません、雰囲気と申しますか、声の感じですね。
 箏の音色も同じことで、弾ずる人の性格ははっきりとそのまま糸の調べに生きてまいります。心のあり方こそ大切と思います。七歳の年までに私を慰めてくれた月や花、鳥などが、私の見た形ある最後のものでした。それが今でも、美しく大切に心にしまってありますが、その二年後に箏を習い始めてから今日まで、私は明けても暮れても自分の心を磨き、わざを高めることにすべてを向けてまいりました。生活そのものが芸でなければならない、という信念で生きてまいりました。私のきた道――芸に生きてきたことを幸福と思いますし、また身体が不自由であったために、芸一筋に生きられたと感謝しております。
 と申しても、私にはやっぱり眼が必要でした。私の眼は家内でした。貧乏がひどかったので、質屋にもずいぶん通ったり、いろいろな苦労をかけましたが、三十年の月日を通じて、生活の面で私はずっと家内におぶさりっきりです。家内は若い時分はよく箏をひきましたが、いつの頃からかすっかりやめて、私の眼となることだけに生きるようになりました。そして、私の仕事に対する、なかなかの大批評家になりました。母心の適切な批評をしてくれます。他の人と外へ出かけたときでも、何か遠くから家内が見守ってくれていることを私は感じます。それだけで、私は安心して仕事ができます。手をとってくれる年月が永くなるにつれて、母という感じが家内に加わって、私は頼りきって修業をつづけております。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「水の変態」宝文館
   1956(昭和31)年8月1日
入力:貝波明美
校正:小林繁雄
2007年8月13日作成
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宮城道雄

純粋の声—– 宮城道雄

 私が上野の音楽学校に奉職することになった時、色々話があるからというので、或る日学校に呼ばれて行ったことがある。いよいよ講師としての辞令を渡された時、乗杉校長が、この学校は官立であるから、官吏という立場において体面を汚さぬようなことは、どんなことをしてもよいが商事会社の重役になってはいけぬと言った。
 私も長年弟子を教えてはいたが、学校の先生になったのは初めてなので、非常に珍しくまた嬉しい気持がした。第二に嬉しかったのは、鉄道の割引があるので、何だかむやみに嬉しくて、その当時は何処か旅行がしてみたくてたまらなかった。そのお蔭でそれ程用事もなかった所にも行ったりした。しかし最近は割引をして貰うのに、時間がとれて面倒に思うようになった。
 或る日音楽学校で、私の作曲したものを箏曲科の学生に歌わせたことがあった。何れも女学校を卒業した者か、またはそれ位の年頃の者であったが、その声の良し悪しは別として、それが非常に純粋な響きで私の胸を打つものがあった。唄が朗詠風のものであったので、私は歌わせていながら、何だか自分が天国に行って、天女のコーラスを聴いているような、何ともいいがたい感じがした。私は或るレコードで、バッハのカンタータを聴いたことがあるが、そのカンタータのコーラスが、わざわざ少女を集めてコーリングしたので、曲もそうであるが、普通のコーラスとは別の感じがして、私はその演奏に打たれたことがあった。私はその時、これから少女たちの声を入れたものを作曲してみたいと思った。
 音楽学校の講師になって間もなく、盲学校の方にも頼まれて、掛けもちで行くことになった。初めて盲学校の授業があるので、教官室で時間の来るのを待っていたら、どの先生も、どの先生も、とてつもないひどい足音をさせて歩いていた。テーブルの上のものはガラガラ音がするし、どうも大股でわざと音を立てているらしい。建物がしっかりしているらしいからよいようなものの、根太が抜けやしないだろうかと思われた。
 私はどういう訳でこんなひどい音をさすのかと思ったが、それは生徒が盲人なので、大きな音をさせて歩けば、自然に生徒がよけて通る仕掛けになっていたのだそうである。或る先生の如きは腰に鈴をつけて、生徒がぶつからぬようにしていた。
 それで生徒の方でも、いつの間にかその歩く足音で、あれは何先生だということを感別していたのだそうである。私は如何にも音のことに就いて教育されている学校だと思って、感心したことがある。
 盲学校の事について、思い出すのは、或る日、盲学校で演奏会があった。その時、片山校長が、「盲人と音楽」ということに就いて話された。校長の話が終ると聞いていた職員や、盲人の生徒たちが、感激のあまり、先生先生といって校長の傍に近よって行った。私の察するところでは、校長が盲人たちに突き当たられる不安があったらしく、それに元来盲人は感覚の強いものであるという点を思われてか、一々近よって来た盲人たちを、自分の手で触れて行かれた。実はそういう私も手で触れられた一人であった。
 この場の光景は私には見えなかったが、私の想像では、校長が職員や盲人の生徒の群がる中を泳ぐようにして、進んで行かれたのではないかと思った。そして、手を触れて貰った職員や生徒たちは、さぞ校長を懐しく思ったことであろうと思った。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「雨の念仏」三笠書房
   1935(昭和10)年2月18日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

宮城道雄

春雨—– 宮城道雄

 家の者が、「座右寶」に梅原氏の絵が出ていると言うので、私はさわらせて貰った。さわってみても私に絵がわかる筈はないが、それでもやはりさわってみたい。いろいろと説明を聞きながらさわっている中に、子供の時に見た絵を想像した。
 子供の時に見た絵を思い出してみると、主に人物で、景色の絵などはかすかである。私の前にお膳があるとか、茶碗がのっているとか、火鉢があるということがわかると、みんな見えているように思うが、それが昔見た想像である。しかし、さわってみてもあまり見当は違っていない。
 月とか、花とか、景色なども、少し見えていた子供の時のことを、今ではかえって美しく想像する。
 よく人が、盲人は真暗のように思っているが、それは少しでも見えることで、私には暗いのも見えなくなっているので、結局、明るくもなく、暗くもなく、なんにもないことになる。
 こうして現実の光から遠ざかった私は、耳で聞いたり、手に触れたりする感覚によって、また見る世界を想像するのである。
 何時であったか、増上寺のお霊屋で、全国から集った婦人の髪の毛を、一本ずつ織りこんで浮きだしたようになっている極楽の絵をさわってみて、深く感じたことがあった。
 フランスのドビッシーは、日本の絵を見ていろいろ作曲されたといわれている。また昔、ある絵かきが、※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]※[#「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7]の弾く箏の音色を、隣りの間で聞きながら、絵を描いたとかいう話を聞いた。私は耳できいて、絵のようなものを感じるのである。また私は仏像や、その他いろいろの物をさわって楽しむ。それが冬の寒い時など、細かなところをさわるのに、指先の感じがにぶるので、火にあぶったり、摩擦したりして、撫でるのであるが、それが暖かくなると、らくらく指先に感じる。
 嬉しいことには、今年も早や、春が訪れて、つい、二三日前から、家の庭に鶯が来て、しきりに囀っている。
 或る朝、私が眼を醒ますと、春雨のしとしと軒を打つ音が聞こえて、すぐ横の障子の外の方で、鶯の声が続けさまに聞こえた。あまりしきりなく聞こえるので、二匹が掛合に囀っているのかとも思った。
 私は、雨の音や、鶯の声に、春の朝ののどけさを感じて、寝床の中で、のんびりとした気持になりながら、思い出したのは、何時であったか内田百間氏が、私に鶯の声を聞かせたいというので、障子のはまった立派な箱を下げて来られた。
 夕食に一杯飲みながら、私がその箱をさぐっていると、※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]※[#「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7]の書いたものを見ると、鶯のことは、あまりくわしくはなさそうであるから、一つ教えることにするといって、いろいろ話された。
 鶯の声には、上げ、中、下げというのがあって、上げは高く鳴き、中は中音、下げは落著いた静かな声である。鳴きはじめの「ホー」のひっぱり方にも、「ケキョ」の早さにも、いろいろ特徴のあることなど教えて貰った。また、谷わたりの節は、薮鶯が上手であるという話であった。わたしはその話を聞きながら、そっと箱へ耳をつけてきいてみたが、鶯はねむっているのか、何の音もしなかった。
 百間氏は、この鶯を今夜一晩とまらせるから、明日ゆっくり聴くようにといいながら、あかりの工合がむずかしいからと、自分で置き場所を探して、其処において帰っていかれた。翌日は早くから、よい声を聞かせてくれた。わたしが箏の稽古を始めると、興にのったように、谷わたりや、いろいろに囀った。
 私は今寝床の中で、こんなことを思い出している中に、さっきの鶯の声は聞こえなくなったが、春雨の音は、少し強くなっていた。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「古巣の梅」雄鶏社
   1949(昭和24)年10月5日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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宮城道雄

耳の日記—– 宮城道雄

    友情

 いつであったか、初夏の気候のよい日に内田百間氏がひょっこり私の稽古場を訪ねて来て、今或る新聞社の帰りでウイスキーを貰って来たから※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]※[#「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7]にお裾分けしようと言われた。待っていた弟子達は百間先生が来たというので何かひそひそ騒いでいた。百間氏は私に稽古を片附けるようにと言うので私は稽古の合間合間に話をした。こういう時には心嬉しいので稽古もどんどん片附いてゆく。百間氏はこれから次第に暑くなると外へはあまり出掛けないと言う。また寒くなると少し暖かくなる迄は引籠もっていると言う。そこへ出不精な私がたまたま訪問しようと言うと、いや今※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]※[#「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7]に来られると二畳敷の所へ庭の外まで道具が並べてあるから迷惑だと言う。
 こういう風でお互は七夕の星のようである。がしかし私は時々内田氏のことを思い出すとあの低い声が聞こえてくる。近頃はさすがの百間先生もビールには悩んでいられるようである。のどがカラカラになって水の涸れた泉のようであるという手紙を貰ったことがあった。
 いつか帝劇の楽屋で会った時、たった一本であったがおみやげにと遠慮しながら出した。すると、※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]※[#「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7]、そう遠慮しなくともちょうど鏡が前にあるので、それにうつって二本に見えると言われた。また或る時弟子から貰ったのを届けさせたら、私のいる葉山へ、サンキュー・ビールマッチという電報が来た。私はそれを読んで貰って耳で聞いた瞬間、面白いなと思った。
 今年の春私は宇都宮へ演奏にいって急に肝炎と中耳炎を患って旅先で寝ていると聖路加病院の畑先生が東京から駈けつけて、今来ましたよというその声を聞いた時にはなんともいえぬ心丈夫な気がした。しかし耳が遠いのと熱があるので、すべての物音はおぼろであった。その夜先生は一睡もせずに、二時間おきに手当をして下さったが、翌日徹夜のままで帰っていかれる先生にもっとお礼を言いたいと思っても思うように声が出なかった。
 その後土地の人達やみんなが熱心に介抱してくれたので思いの外早くよくなった。まだ腰が充分に立たなかった私はわきまえもなく帰りたくなってみんなの止めるのもきかずに一番列車で立つことになって、朝早く身体を抱えて人力車へのせて貰っていると、弟子の妹のくにちゃんが駈け出してきて、先生お大事にと言いながら手を握った。私はその小さいやさしい手に触れた時思わず熱い涙が頬を伝った。患って遠くなっている耳にも子供の声は可愛く聞こえた。それからうちへ帰ってもまだふらふらしていたが、小田原の吉田晴風氏から手紙が来て、お見舞として箱根の温泉を一週間程奢るから家内をつれて是非来ないかと言う。心をこめた案内であったが、今の世の中に二人が一週間も泊ったら莫大な迷惑になることを遠慮して私が迷っていると、晴風氏はそれと悟られたのか、放送局で会った時、箱根の方は環翠樓を何日から一週間借りにしておいた、此の部屋は余程の人でないと借られないのを無理に都合をして貰ったから来ないとあとの顔が立たんと言われたので私は早速いく事にしたが、いってみて嬉しく思ったのは、そこは全然別世界の離れで不自由な私も人手を借りずに風呂へもはいれる、厠へもいける。私は夜中でもいつでも気の向いた時に一人で自由にお湯にひたったりした。真中の部屋は洋間になっていて私はそこへ腰をかけて流れの音や鳥の声や、いろいろあたりの景色を耳で味わった。新緑の頃であったので見渡す山々が美しいと家内が言った。雨が強く降り出すと流れの音と雨の音を聞きわけるのがむずかしかった。吉田氏夫妻がいろいろ食糧を運んでくれたりして居心地がよかったので、ついつい一週間を過した。私はこのおかげで身体も整い、耳もよくなって今では病気以前にもまさって元気である。

    虫の音

 この葉山では五月の頃みんみんに似た声の蝉がなく。その声は何となく弱く聞こえて現世のものではないように感じられる。今年はいつまでも肌寒くて夏の来るのが遅かったように思われた。七月の十三日に初めて夏らしい蝉の声を聞いた。それはヂーと長くひっ張って鳴くのであった。その日の夕方に裏の山からひぐらしの声が聞こえた。その月の二十五日には昼過ぎにもひぐらしが鳴いた。ひぐらしが朝早くから夕方迄ときをつくって幾度もなくようになると私は秋が近いのだと感じる。ひぐらしは一匹がなき始めると他のひぐらしもうつったように鳴き出す。その声が山全体に段々ひろがってゆくように聞こえる。
 或る時、私が机にもたれているとすぐ傍の障子の処でひぐらしが二三匹声を揃えて鳴いた。私は考え事をしていたのでおどかされたようにびっくりした。しかしその声の調子や拍子が合っていたので不思議に思った。七月二十九日の朝七時過ぎにみんみんの声を初めて聞いた。越えて八月の六日には庭でこおろぎがなきはじめた。また同じ月の十三日には関東ではあまり聞かぬ蝉がないた。この蝉は関西にはよくいてセビセビセビセビと続けてなくのである。私は葉山では毎年聞くが、それも一匹位で日にひとしきり、ふたしきり程なくだけで二日もたつともう声が聞こえなくなる。
 八月も半ばを過ぎると浜辺に打ち寄せる波の音も秋の訪れを思わせるように私には感じられる。虫の音も次第に数を増してくる。夜になると私の床にひとしお床しく聞こえるのはこおろぎ、馬追い、鉦叩き、くさひばり、えんまこおろぎ、またその中を縫うように名も知らぬ虫の声が聞こえてくる。くさひばりは昼間も静かにないている。こおろぎは昼間はゆっくり羽を動かして忍びなきしているように聞こえる。今年の秋は蝉ではオーシーツクが一番あとまで聞こえた。何といってもこおろぎは秋の初めから終りまで鳴き過す。少し寒く感じる日には家の中へはいってきて鳴く。私はその声を聞くと一層かわいらしく思うのである。今はもう秋も末になってこおろぎの声も絶えだえである。風もなく天気のよい午後の空を破るような声を立てて百舌が飛んでいる。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「古巣の梅」雄鶏社
   1949(昭和24)年10月5日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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宮城道雄

私の若い頃—– 宮城道雄

 私は七八歳の頃、まだ眼が少し見えていたが、その頃何よりもつらく感じた事は、春が来て四月になると、親戚の子や、近所の子が小学校へ上ることで、私も行きたいが眼が癒らない。親達は気やすめに、学校用品を一揃い買ってくれたが、私はその鞄をかけて、学校へ行く真似をして一人で遊んでいた。眼を本につけるようにして、字を教えて貰ったこともあった。またおばあさんに時々学校の門へ遊びに連れて行って貰ったが、中でみんなが元気よく体操をしたり、遊戯をしたり、また唱歌を歌いながら、遠足に出かけたりするのを聞いていると、急に悲しくなって学校の門をつかまえて泣いたことが幾度もあった。
 九歳の時、一番最後に診て貰った眼のお医者様が、この子の眼はもうどうしても癒らない。今後もよい医者とか薬とかいわれても決して迷ってはならないと、私のおばあさんに言われているのを聞いて、私はもう胸が一ぱいになった。今日こそは眼が治ると思って、楽しんでいたのに。
 私はその頃、神戸に住んでいたが、その九歳の年の六月一日に、兵庫の中島※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]※[#「てへん+交」、第4水準2-13-7]の許へお弟子入りをした。師匠が手を取って、最初に教えられたのは「四季の花」であったが、その唄い出しの“春は花”という節の箏の音色に、私は幼いながらも、何か美しいものを感じた。
 箏を習いはじめると、昨日よりは、今日、今日よりは明日と言うように、何か希望がわいて、眼のことなど忘れて心が明るくなって来た。しかし、眼の方は何時の間にか明りも見えなくなっていた。
 師匠はきびしく、盲人は記憶力が肝腎である、一度習ったことを忘れたら、二度とは教えてやらないと常に言われた。
 ところが、私が三味線の本手の「青柳」と言う曲を忘れた時、ひどく叱られて忘れたのを思い出す迄は、御飯も食べさせない、家へも帰らせないと、留めおきをくった。ところが不思議なことに、お腹がすいてくると頭がさえて、忘れたのもつい想い出すのである。
 また寒稽古といって、寒中に戸障子を明け放して、寒い方へ向って習った中の一番むずかしいものを、百篇とか、千篇とか繰返して弾く。そして手が冷たくなると、反対に水をつけてまた弾きだす。しまいには指から血が出るようなこともあった。
 師匠がきびしかったおかげで、私は十三歳の年に、師匠の免状を許された。しかし私としては、これから本当の勉強をしたかったのであるが、もともと家が裕福でない上に、父が事業に失敗して朝鮮へ渡って行ったが、また運悪く朝鮮の田舎で賊に襲われて、重傷を受けた。私は、已むを得ず十四の年に朝鮮へ行くことになったが、途中玄界灘で海が荒れて、船の中でおばあさんと心細いおもいをした。
 仁川へ行って見ると、父の身体がまだはっきりしないので、結局私の細腕で箏の師匠をして、一家を支えなければならなくなった。
 しかし年がいかないので、はじめはあまり習いに来る人もなかった。しかし一生懸命に教えている中に、半年程経つと、人が学校の下の少年先生と言うようになった。
 お弟子も大分来てくれるようになり、私は昼間は箏を教えて、夜は鳥なき里のこうもりとでも言おうか、私の下手な尺八をおじさん達に教えていた。
 ところが年がいかないせいでもあったか、昼間の疲れが出て、夜になると教えている中に、居眠りをしてしまう。しまいにはみんな怒って来なくなったりして、また謝りに行って来て貰ったこともあった。こういう中にも、私は箏をもっと勉強をしたいという心持は変わらなかった。
 朝早くみんながまだ寝ている中から起きて一人で箏の練習をしていた。
 私の居た処は、小学校の直ぐ下で、表は広い草原であった。朝鮮へ来て間もなく秋が訪れて、その草原からはいろいろの虫が聞えはじめた。
 また夕方になると、直ぐ上の空の方を雁がたくさん啼きながら通って行く。
 私は表へ出て、それをじっと聞いていると、内地のことが想い出されて、師匠は今頃どうして居られるか、師匠に会いたいなと思うのであった。
 はじめての朝鮮の冬は、身にしみて寒かった。卵が凍って殻を割っても、お膳の上でころがったり、なっ葉の漬物を噛むと、シャリッと音がして、歯にしみわたったり、蜜柑なども噛むと音がした。火箸のような金のものを持つと、手に吸いつくようになる。
 また夜眠っている中に、自分の息が、布団の襟に凍りつく。窓硝子へ部屋の中の水蒸気が凍りついて、さわってみるといろいろの形の小さい粒が、指先に触れる。それに朝の日光が当ると、美しいとみんなが言った。また冬には、かささぎの声が珍らしかった。
 三寒四温といって、思いがけなく暖かい日もあった。
 春が来るのは遅かったが、春になると鳥の声が長閑かであった。夏の昼間はきびしいが夕風が立つと、夜寒を感じるのであった。
 眼で見る楽しみのない私には、この自然の音や、気候を感じるのが楽しかった。
 私は学校へ行けなかったが、学問が好きで弟の勉強して居る側に何時も附いていて、いろいろ聞き覚えをしていたが、読本の中に、水の変態と言うのがあって、水が霧、雲、雨、露、霜といろいろに変るという和歌であった。
 私はそれを聞いて面白く感じたので、十六歳の時、この歌によって、初めて水の変態の作曲を試みた。
 私はその頃から、東京を憧れて何とかして、東京へ出て一勉強したいと思い、一生懸命かせいでいたが、かせいでも、かせいでも、家族が多いので貧乏は続いた。
 私のおばあさんは、私が不自由なのでどの孫よりも可愛いといって、二つの年から面倒を見て可愛がってくれたが、そのおばあさんが突然死んで往った。私は頼りない気がして悲しかった。しかし父は身体もよくなって勤められるようになった。
 私は人の薦めによって、京城へ移って行った。京城に居る中に、友人で文学少年があって、それが私に新しい小説や、西洋の有名なものの翻訳など、いろいろ文学に関する本を読んで聞かせてくれたり、夜になると散歩に連れて歩いてくれた。南山に登ったり、静かな町を歩いたりしながら、若い心持を語り合ったことを今でも想い出す。
 その頃京城に、日希商会というのがあってその店のギリシャ人が、私に西洋のレコードが新しく入ると、何時もいろいろ聞かせてくれた。私はしまいには、工面をしてレコードを時々買うようになった。
 その頃は、西洋音楽のレコードは、未だ一般にあまり知られていないようであった。
 面白いことに私は、何も知らないで聞いて自分の好きなのを求めて来たが、あとで見て貰うと、それが西洋の有名な曲であったりした。私はこのレコードを聞いている中に、箏の曲にも和声や、対位法を取り入れたいと思って、箏の四重奏などいろいろ試みた。
 人は一心にやっておれば、また恵まれる時も来るもので、私は大正六年に機会を得て、宿望の東京へやっと出て来たが、東京へ来てからも、またいろいろの方面で困った。
 それが少し楽になりかけた頃に、東京の大震災に会った。その後少しよくなったと思うと、今度は戦災で家や、楽器や、その他とりかえしのつかない物も焼けてしまい、また一から出直すことになったが、私の人生は芸の旅で、命ある限り修業である。
 これからも若い者に劣らないように、勉強したいと張り切っている。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「古巣の梅」雄鶏社
   1949(昭和24)年10月5日
入力:貝波明美
校正:小林繁雄
2007年8月13日作成
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宮城道雄

私のすきな人 宮城道雄

 私のすきな人はたくさんあるので、みな書くことは出来ないが、最近倒れた印度のガンジー翁などはすきである。ラジオや新聞によると、ガンジーは、いつもヤギの乳や、ナツメの実ばかり食べて生活していたとか、それに何か願いごとがあると、よく断食をやったが、その時は、むろんこのヤギの乳も、ナツメの実も食べなかったのであろう。
 私は子供の時に気に入らないことがあると、怒って御飯を食べないことがよくあった。しまいには、みな愛想をつかして、相手になってくれなかった。ところがガンジーが食事をしないと、世界中の人が注目する。これは信仰のため、世のために行われるからであるが、私は子供の時に、自分がやったつまらないことと比べて、考えてみたことがあった。
 ガンジーは、自分をピストルで射った相手をもうらまずに、助けてやるようにと言われたそうである。ガンジーのお葬式の日には、何十万という民衆が、地方から集って来て、ガンジー夫人が、棺へ火をつけて、炎が燃え上った時には、人々が声をあげて、花束を投げこんだというニュースを聞いて、私は広い川のほとりの、この光景を想像して、何か詩のような感じがした。私はずっと以前から、何かしらガンジー翁がすきであった。

 私のすきなお友達の中で、内田百間先生は、随筆で有名な人であるが、手紙をちょっとよこしても、なんでもないことが書いてあるようでいて、それを読んでいると、どことなく面白いのである。
 百間先生は箏がすきで、中学時代に、自転車で箏を習いにいったそうである。前のころであったが、まるでスポーツでもやるような気分で、夏の暑い時など、肌ぬぎで汗を流しながら、箏をジャンジャン練習していた。そして、ロシヤ文学の米川正夫先生と、箏の合奏をするのを、試合をやろうやろうと言っておった。また若いころ百間先生は法政大学の先生をしていたが、夜おそく、私の寝ている二階の雨戸をステッキでゴツゴツ叩くのである。私が驚いて戸を開けると、もういない。
 またある朝、家の者が起きてみると、家の前にあったごみためが、遠くの方へ持っていってあったり、私の箏を教えるという看板が、他所の所へかけてあったりした。
 百間先生が夜おそく通りがかりに、いたずらをしたことがわかったので家の者がくやしがって、今度やって来ても、何も知らぬ顔をしていようと、みなで申し合わせた。はたして先生がやって来たが、みな知らぬふりをした。あまりみなが知らなそうなので、とうとうしびれをきらして、今朝何も変わったことはなかったかとたずねたので、みながいいえ別に、と言ってしらばっくれていると、百間先生、ふしぎそうにしていた。
 百間先生は、よく私を散歩につれていったり、御馳走を食べにつれていってくれたりした。そしてその合間にドイツ語のことや、文学方面やいろいろなことを教えてくれた。
 私は目が見えないので、声を聞いてその人のすがたを感じる。
 ある時、横須賀線で進駐軍の車へ乗せてもらっていると、アメリカの将校らしい人が、わざわざ私の隣りへ腰かけて、私の背中をなでながら、いたわるような声で「一週間前横浜ミュジック」と言った。考えてみると一週間前に横浜の進駐軍の学校へ、箏をひきにいったのである。目が見える人は、進駐軍の服がよいとか、帽子がよいとか、靴がスマートだとかそのすがたを見るようであるが、私は声を聞いてやさしい親切な心を感じた。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「古巣の梅」雄鶏社
   1949(昭和24)年10月5日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
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宮城道雄

山の声—– 宮城道雄

 私が失明をするに至った遠因ともいうべきものは、私が生れて二百日程たってから、少し目が悪かったことである。しかし、それから一度よくなって、七歳の頃までは、まだ見えていたのであるが、それから段々わるくなって、九歳ぐらいには殆ど見えなくなってしまった。それで、私が、今でも作曲する時には、その頃に私が見ていた、山とか月とか花とか、また、海とか川とかいうものの姿が、浮かんで来る。
 こういうわけで、自然の色も何も見たことがない、本当の生れつきからの盲人にくらべると、私はその点では、恵まれているといわなければならぬ。
 それにしても、私は子供の時に失明したので、私の心を慰めてくれるのは、音楽とか、或は春夏秋冬の音によって、四季の移り変りを知る他にはなかった。それで、音楽でも私は自然のものが非常に好きであった。
 このような関係で、私は音楽の道に入ったが、作曲をするようになった動機というものは、私の父は十二三歳の頃、私と私の祖母と二人を残して、朝鮮に行ったのである。ところが、あちらで父は獰猛な暴徒に襲われて、重傷をおわされたために、私の学資を送って来なくなった。
 私はその頃、二代目中島※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]※[#「てへん+交」、第4水準2-13-7]に就いて、箏を勉強していたが、父からの送金が絶えたので、師匠が教えているお弟子の、下習えというものをして学費を得ていた。私はこうして謝礼を貰って、一種の苦学みたいなことをしていたのである。
 私の師匠は教えることに、非常に厳しくて、弟子が一度教わったことを忘れるということはない。一度教えたことを忘れたら、二度と教えてはやらないという風であった。しかし、やはり子供であるから、一度教わっただけでは忘れることがあった。或る日、私が教えて貰った曲を忘れたので、師匠が怒って、思い出すまでは、家に帰らさんといって、夜になっても帰して貰えなかった。そうして、こういう時には、思い出すまでは、食事をさせられないのである。こういう厳しいお稽古を受けたのであった。これは今から考えると、大変野蛮なことのように思われるが、私はお腹がすいた時が、一番頭がはっきりする。従ってお腹のすいた時程、考えがまとまるのである。今でも何か考え事をする時は、余り沢山食べないように加減している。
 これからまた、冬には、寒稽古といって、千遍弾きということをやる。それは同じ曲を何日もかかって弾くのである。昔の人は万遍弾きといって、お宮のお堂に立て籠って徹夜で弾く。眠くなると、箏を弾いている姿勢のままで、うつむいて寝てしまい、目が醒めるとまた、弾き出すのである。こういう風に、昔の人は私たちよりも、まだ一層厳しい稽古をしたのである。
 私は十四歳の時に、父から呼ばれて朝鮮へ渡った。私が朝鮮に行ってからは、誰も教わる先生がなかったので、私は毎日、自分の師匠から習った曲ばかりを弾いていたが、しかし、それだけではどうも私には物足りなかった。
 その頃、私たちは仁川に住んでいたのである。丁度、私の家は小学校の下にあったので、私は学校の生徒が歌う唱歌や西洋の音楽などが聞こえて来るのを楽しみにしていた。それからまた、家の前が原っぱになっていたので、色々自然の音も聞くことができた。雨の音や霧の音などを聞いて自然の音を楽しみ、その中から得た印象によって、それを基にして、何か作曲してみたいと思っていた。丁度その折、私の弟がいつも読んでいた読本の中に、水の変態というのがあって、それは七首の歌によって、水が霧、雲、雨、雪、霞、露、霜と変って行くことが詠まれていたのである。
 私はそれにヒントを得て、「水の変態」という曲を作った。この曲は自分のものとしてはまだ、昔のお箏の手型からあまり出てはいなかったのである。元来、日本の箏の曲というものはハーモニーが考えられていないので、私はどうしても、日本の音楽にも必ずハーモニーが必要であると感じたので新しい作曲をする上について、西洋音楽を聞き、また、洋楽の先生に訊ねたりして、色々と工夫したわけである。それから年を経るに従って、私は朝鮮のようなところでなく、都会へ行って、勉強もしたり、また、一旗挙げたいと思って、東京へやって来たのである。それで私はまだ色々研究して、自分の芸を勉強しなければならぬと思っている。そして、自分の芸を完成させるためには、自分の一生が二度あっても三度あっても足りないと思っている。
 私は盲人であるけれども、勉強するには点字があるから不自由はしない。音楽の勉強をしたいと思えば、独逸《ドイツ》で出来ている、点字のオーケストラやピアノの曲の譜面があるので、それを手で探り探り読むのである。
 私はいつでも作曲するのに、晩の御飯を食べた後で一寸ひと寝入りして、世間が静かになってから、自分の部屋でコツコツ始めるのである。丁度、学生が試験勉強をするようなものである。或る時は、徹夜をする時もある。そして、夜が更けて、あたりが静まってしまうと、自分の神経の所為か、色々の音が聞こえて来るように思われるのである。
 これは人から聞いた話しであるが、西洋の或る作曲家が、山の静かな所へ行くと、山の音楽が聞こえて来る、しかし、それが、はっきりとしたものではないので、楽譜に書き改めることはできないが、しかしやはり何かしら聞こえて来るので、その音楽を掴もうとして掴み得ずに一生を終ってしまったということを聞いたことがある。
 私も夜が更けるに従って、色々の音が聞こえて来るのであるが、初めは、形のない、混沌としたしかも漠然としたその曲全体を感じる。それで私は最初に絵でいえば、構図というべきものを考えて、次に段々こまかく点字の譜に、それを書きつけるのである。そうして、作曲する時に、山とか、月とか花とかを、子供の時に見たものを想像しながらまとめてゆくのである。
 こうしたわけで、作曲の際とか詩などを読むという場合には、四季のことが人よりも一層深く感ぜられるのである。そうして、私は世の中の音、朝の音、夜の音などを静かに聞いていると、いつかそれに自分の心が誘われて、遠い所へ行っているような気持になることがある。
 次に、同じ雨の音でも春雨と秋雨とでは、音の感じが全然違っている。風にそよぐ木の音でも、春の芽生えの時の音と、またずっと繁った夏の緑の時の音とは違うし、或は、秋も初秋の秋草などの茂っている時の音と、初冬になって、木の葉が固くなってしまった時の音とは、また自ら違うのである。それから、紅葉の色も、自分には直接見えないけれども、その側に行くと、自分には何となくその感じがする。
 私は或る時、音楽学校から岐阜へ演奏旅行に行ったことがある。その時は、昼と夜と二度演奏をしたのであるが、昼の演奏を済ませてから、知事さんの招待で長良ホテルという所に行った。そして、私の傍に居合わせた者が皆、景色がよいといっていたが、私も何となく、河原が広いという感じがしたし、東京を遠く離れてやって来たという感じが沁々としたのである。昔、在原業平が遠く都を離れて東《あずま》へ来た時に、都鳥を見て読んだ、

  名にしおはばいざこと問はん都鳥
   我が思ふ人はありやなしやと

 という歌を思い出して、私は何か知らそういった気持になったことがあった。
 今日はスピード時代で、東京を遠く離れた所も汽車でわけなく行かれるのであるが、しかし、旅で夕方などになると、随分遠い所に来たような感じがする。これは音楽に関係したことではないけれど、私はスピードという言葉で思い出したが、最近はフランスあたりから飛行機で、四日間ぐらいで日本に飛んで来られるようになっている。そういうことのある度に、私は残念に思っていることは、自分の頭や、仕事は、なかなかスピードが出ないことである。私は将来まだ沢山研究したい事があるので、それをやり遂げるためには、今よりもっと、頭にスピードをかけて、勉強しなければならないと思っているのである。


底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「水の変態」宝文館
   1956(昭和31)年8月1日
入力:貝波明美
校正:小林繁雄
2007年8月13日作成
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宮城道雄

五十年をかえりみて—-宮城道雄

 この度の音楽生活五十年記念演奏会に際し、皆様に御支援を戴いたことを心から感謝いたします。
 私は九歳の年の六月一日に箏を習い始めてから、今年が還暦祝などというと、自分でじじくさく感じて心細くもある。しかしこの年を機会に若返っていよいよ勉強したいと思うので、こんどの演奏会を催したのである。
 五十年といえば大変長いようであるが、自分ではもう五十年過ぎたのかなと思う位である。私は箏を中心に音楽生活をしているおかげで人生は明るい。しかしその反面には苦難があった。
 私の父は、貧乏でありながら気前もよかった。自分が困っていても、人にはそれを見せず、おしげもなくふるまった。したがって、お金はあるだけ使うというたちであった。
 父をほめるようでおかしいが、学校は中学を出た位であったが知識は広く、何を尋ねても、何をやらせても人並優れていたらしいが、いわゆる器用貧乏というもので、大した成功はしなかった。それどころか、事業に失敗して朝鮮に渡り、朝鮮で賊に会って重傷を負わされたので、とうとう私が朝鮮へ出かけていって、一家をささえなければならない羽目になった。しかし、まだ年もゆかぬ十四、五歳の私の細腕では、いかにお弟子に箏を教えても、六人暮しの家族を充分に養うことはできなかった。それで父がいつも借金取りの断りを言っているのを聞くのが一番辛かった。しかし、貧乏のせいか気持は家族的であった。
 私がお弟子の家などへ招かれて行って、御馳走が出ると家の者にも食べさせたいなどと思うと、その御馳走がのどを通らなかったことが度々あった。
 私を子供の時から母代わりになって育ててくれたおばあさんが亡くなってから、私は仁川をはなれて京城のある箏のお弟子先で、箏を教えながら居候のようなことをしていたので、自然、父とは別れることになった。
 ある冬の日に、私は人力車にのって出稽古に行く途中、朝鮮の寒い風が吹きまくって、寒気が身にひしひしとしみわたった。その時ふと、父のことを想い出して、この寒さにどうしているかと思うと、矢もたてもたまらなくなって、出稽古から帰るとかせぎためた何がしかを早速、父に送ったこともあった。こんなことを書いているとはてしもないが、私は箏を習い始めてからは、つらさも、悲しさも、うれしさも、いずれの時も箏と二人づれであった。箏に向えば希望が湧いて、いかなる心の苦難も解決出来るような気がした。それは箏と永年、苦楽を共にして来た今でも同じ気持である。
 私が、兵庫の中島※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]※[#「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7]に入門した時は、奥さんが私を抱きかかえるようにして玄関へあげてくれた。そこはお寺の玄関のようであった。普通は横の入口から入るのであるが、その日は特に大門を明けて迎えてくれたらしい。手ほどきをして貰った二代目中島※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]※[#「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7]は老先生であった。私はまだ物を見るくせがあったので、かえって糸間違いをしておぼえが悪かった。おばあさんが心配してものになるでしょうかと先生にたずねると、この子は、声が糸にのるから大丈夫と言われたが、もっとも声がのらなかったら音痴である。それから、十歳から十一歳の頃に、眼が全く見えなくなってから、箏の音色がほんとうに分ってきたようにおぼえている。
 私の眼が見にくくなったのは、二十歳前後からであった。それ以前の子供の頃は、眼が悪いとは思えないほど普通であったらしい。みんなが、卵に目鼻のような大したお子さんだなどと言って可愛がってくれたが、それもつかの間で、だんだん地がねが出て、私より二つ年上の捨吉という兄弟子といたずらを始めた。紙で蛇のようなものをこしらえて、先生の家の二階の手すりからぶら下げて、下を通る女中をびっくりさせてひどく叱られたこともあった。しかし、箏や三味線の練習は怠らなかった。それでも箏の組唄や三味線の本手などというややこしい曲は、よく忘れて始終叱られていた。
 この老先生が亡くなって、私は三代目の先生にも習った。年を取れば取るほど、師の恩を感じるもので、私は四年ほど前に兵庫県の和田山という所へ演奏に行ったが、それは今、後をついでいられる四代目中島※[#「てへん+僉」、第3水準1-84-94]※[#「てへん+皎のつくり」、第4水準2-13-7]と一しょに演奏することを懐しく思ったからである。
 私は東京へ出て来てからも、物資難で借金もあり牧瀬に質屋の使いをさせたこともあったが、家内が借金がきらいで、私の乏しいかせぎのなかから倹約でやりくりをしてだんだんにそれをうめて行った。現在の私は最も幸福な時であると思うが、この幸福な時に気をゆるしてはならぬと思う。世帯が大きければ大きいほどいろいろ面倒なことがあるが、一切のことを家内や牧瀬姉妹が引受けてくれているので、枝に連らなる社中一門の指導と、自分の研究に没頭すればよいのであるから、大いに元気を出して斯道に精進するつもりでいる。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
底本の親本:「あすの別れ」三笠書房
   1956(昭和31)年9月25日
初出:「宮城會々報」
   1954(昭和29)年7月
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
2008年2月24日修正
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宮城道雄

垣隣り—– 宮城道雄

普通の目の見える人が、自分の家のあたりの景色に親しみを持って見るのと同様に、私には自分の住んでいる近所の音が、私の生活の中に入っているわけである。これは自分の住んでいる周囲の音が懐しいのである。
 気候が暖かになると、戸障子を明けるので、近所の音が非常に近くなる。私の住んでいる家の直ぐ裏で、垣一重へだてた向うの家で、いつも年とった御主人の懐しい声が聞こえる。
 その方の耳が少し遠いらしく、家人の方が大きな声で話される。私が引越して来て以来、いつもその声を聞くので、私はいつか一度お話ししてみたいと思っていた。
 或る日、私の所へ一通の手紙が来た。差出人の名は私の知らぬ人であったけれども、読んで貰うと、一度是非お会いしたいから――とあった。それは、裏の御主人からであったことがわかった。それで早速私の方からも、是非お会いしたいという返事を出したら、或る時、その御主人が訪ねて来られた。
 今までは聞き覚えの声だけであったが、話してみたら、やはりその声であった。そして、お互に会ってみたいと思っていたのだと言った。その方は陸軍の将官でかなりのお年寄であった。色々話しの末に言われるには、自分は昔の貴い方の歌を持っている。それが埋れかけているが、何とかその歌を作曲して、世に出して貰いたいと言われた。実は私たちは、お互に垣一重の裏隣りにいて、七年間声だけを聞いていたのが、今日初めて話し合って、懐しく感じたのである。
 その後、私は、その方の避寒していられる先に、私の随筆集『騒音』を一部贈ったところ、或る時、私のところへ来られて言われるには、私は『騒音』を戴いてすっかり読んだが、あなたは私とは全然反対であることを覚った。それは毎年同じ小鳥がやって来て、同じ音色で鳴くと書いてあった。私の庭へも小鳥が飛んで来たが、私は耳が遠いので、鳴かん鳥かと思っていたら、読んでやっぱり鳴く鳥も来るのかなあと思った、などと言われた。
 それで、私も答礼に行こうと言ったら、その方は「いや、私のところは石段が沢山あるし、私は目が見えるから、上り下りのことはよくわかるが、目の悪い方に来られて、怪我でもされては困るから、来て戴かなくても宜しい」と言われた。七十にもなるお年寄であるが、非常に元気な方だと私は思った。そして、その方は国文学の研究をしておられるので、色々の話しを聞いているうちに、私は色々教えられることがあった。私は戴いた歌を充分慎重に作曲してみようと思っている。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「垣隣り」小山書店
   1937(昭和12)年11月20日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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宮城道雄

音の世界に生きる—– 宮城道雄

幸ありて

 昨年の暮、一寸風邪をひいて欧氏管《おうしかん》を悪くした。普通の人ならたいして問題にすまいこのことが、九つの年に失明を宣言されたその時の悲しみにも増して、私の心を暗くした。もし耳がこのまま聞こえなくなったら、その時は自殺するよりほかはないと思った。音の世界にのみ生きて来た私が、いま耳を奪われたとしたら、どうして一日の生活にも耐え得られようかと思った。幸い何のこともなく全治したが、兎に角今の私には、耳のあることが一番嬉しくまた有難い。
 私は、生れて二百日くらいから眼の色が違っていたそうであるが、それが七つの頃から段々見えなくなった。その為に学校に上れなかったが、それが当時の私には何より残念だった。めくら[#「めくら」に傍点]といわれるのがどうにも口惜しくてならなかった。それで無理に見えるふりをして歩いて、馬力につき当ったり泥溝に落ちたりして怪我をしたものである。が、結局諦めねばならなかったので、九つの六月から箏を習いはじめた。音楽は元来非常に好きだったので、間さえあれば箏に向っていた。しかしその頃は――そしてずっと後年まで、やはり時には、眼が見えたらなあと寂しく思うようなこともないではなかった。
 だが、しかし今日では、年も取ったせいであろうが、眼の見えぬことを苦にしなくなった。時々自分が眼の悪いということを忘れていることさえある。「ああ、そうそう、自分は眼が見えなかったんだな」と気がつくようなことがしばしばある。というのは、物事は慣れてしまうと、案外不自由がないものだから、私なども家の中のことなら大抵、人の手を借りることなしにやれる。それだけにまた一しお、この耳とそして手の感触をありがたいものに思うのである。
 私は、眼で見る力を失ったかわりに、耳で聞くことが、殊更鋭敏になったのであろう。普通の人には聞こえぬような遠い音も、またかすかな音も聞きとることができる。そして、そこに複雑にして微妙な音の世界が展開されるので、光や色に触れぬ淋しさを充分に満足させることができる。そこに私の住む音の世界を見出して、安住しているのである。

    声を見る

 まるで見当違いの場合もないわけではないが、その人の風体を見ることのできぬ私どもは、その音声によってその人の職業を判断して滅多に誤ることがない。
 弁護士の声、お医者さんの声、坊さんの声、学校の先生の声、各々その生活の色が声音の中ににじみ出てくる。偉い人の声と普通の人の声とは響きが違う。やはり大将とか大臣とかいうような人の声は、どこか重味がある。
 年齢もだが、その人の性格なども大抵声と一致しているもので、穏やかな人は穏やかな声を出す。ははあ、この人は神経衰弱に罹っているなとか、この人は頭脳のいい人だなというようなことも直ぐわかる。概して頭を使う人の声は濁るようである。それは心がらだとか不純だとかいうのでなく、つまり疲れの現れとでもいうべきもので、思索的な学者の講演に判りよいのが少く、何か言語不明瞭なのが多いのがこの為ではないかと思う。
 同じ人でも、何か心配事のある時、何か心境に変化のある時には、声が曇ってくるから表面いかに快活に話していても直ぐにそれとわかる。初めてのお客であっても、一言か二言きけば、この人は何の用事で来たか、いい話を持って来たのかそれとも悪い話を持って来たか、何か苦いことをいいに来たかというようなことはよくわかるものである。また肥った人か痩せた人かの判断も、その声によって容易である。例えば高く優しくとも肥った人の声は、やはりどこかに力があるものだ。
 声ばかりではない、歩く足音でそれが誰であるかということがよくわかる。家の者が外出から帰って来たのか、客であるか、弟子であるか、弟子の誰であるか、大抵その足音でわかる。道を歩いていても、それが男であるか女であるかは勿論、その女は美人であるかどうかもやはり足音でわかる。殊に神楽坂などという粋な筋を通っていると、その下駄の音であれは半玉だな、ということまでわかる。それは不思議なくらいよくわかる。ところが、この間道を通る人の靴音をきいて、傍の家人に今のはお巡りさんかと尋ねてみたら、「いいえ女学校生です」とのことであった。この頃の女学生は活発な歩き方をするので、私の耳も判断に迷うことがある。

    騒音もまた愉し

 それから、ふだんは普通の人には勿論、私どもにさえも聞こえないような電車の音やいろいろな街の雑音が聞こえてくることがしばしばある。それは丁度、海岸で遠い波の音を聞くようにかすかに低いものであるが、それを私どもの耳ははっきりと聞くのである。すると不思議なことに、それから二三日中の間に必ず天気が変わる。つまり私どもの耳は天気予報の役目も務めるわけで、近頃は警視庁なんかでも、騒音ということを非常に喧ましく取締っているようだが、また事実騒音も聞き方によっては非常に癪に障るものであるが、しかし音の世界に生きる私どもは、波の音を聞く感じを以て電車の音を聞く時、街の騒音にもそこに一脈の愛《いと》しさを覚えずにはいられないのである。
 やがては、誰しも騒音も何も聞こえぬ所へ行かねばならぬのだから、せめて生きている間は、騒音でも何でも聞こえることに感謝しなければならぬと思う。
 それが、音の世界に生きる私共の――少くとも私の「こころ」である。

 先天的の失明でなかったから、私には色というものの記憶が少しはあって、作曲するにはやはりその色を思い出す。はっきりは出ないが、何かやはり眼に浮かんで来るものがある。それと音とが一緒になるのである。どうといって具体的にはいえないが、音にもやはり色はあるもので、あの西洋の作家なんかでも、ドレミファをそれぞれ自分の頭の中でいろいろ勝手に色を出している人があるそうだし、極く普通に黄色い声などというのもそれであると思う。
 自然の音は、私共にとって最も親しいものである。風の音、雨の音、虫の音、小鳥の囀る声、何一つとして楽しくないものはなく、面白くないものはない。
 同じ風でも、松風の音、木枯の音、また撫でるような柳の風、さらさらと音のする笹の葉など、一つ一つに異った趣きのあるものである。
 私は雨の音が殊に好きである。とりわけ春の雨はよいもので、軒から落ちる雨だれの音などきいていると、身も心も引き入れられてしまうような感じがする。
 虫の音にも、まつむし、鈴虫、くつわむし、それぞれ趣きがあってよい。秋の夜長を楽しませてくれるこれ等の小音楽師達に、私は心からの感謝を捧げたく思う。
 私はまた、小鳥が好きで、都会の中に住んでいると、自然の森や林で自由に囀る鳥の音を聞かれぬことは淋しい。私は作曲に感興が湧いて、自然の音にひたりたいと思う時などは、いても立ってもいられない程、懐しい思いがする。
 自然の音はまったく、どれもこれも音楽でないものはない、月並な詩や音楽に現わすよりも、自然の音に耳をかたむける方が、どれだけ勝《すぐ》れた感興を覚えるか知れない。私たちがどんなに努力しても、あの一つにも勝れたものは出来ないであろう。

    音に生きる

 私は子供の時には非常に負嫌いで、喧嘩しても議論しても負けるのが何より厭だった。それがこうして音の世界に生きるようになってからは、不思議に気持が落著いて来て、負嫌いどころか負けることが好きなくらいになった。大概のことは人に勝たしてあげたいと思うのである。
 時にはそれを卑怯のようにも思うけれども、決して人と争わぬ。人の意見に反対しない。若い頃には直ぐ怒ったものであるが、この頃はどうしたものか、腹が立たなくなった。時に、弟子に対して怒ったふりをすることはあるが、心から怒るということはない。
 芸に就いても、かつては他流の人とでも弾く時には、何か一種の競争意識というか、戦闘気分といったようなものに支配されたものであるが、今日はそうでない。誰とやっても静かな気持である。先ず人を立ててその中に自分自らも生きようと希う気持だけである。
 私が一番苦々しく思うことは、相手の人によって言動に階級をつけることである。人間はどうしてああいうことをせねば気がすまぬのか。それは偉い人には敬意を表さねばならぬのは勿論だが、目下の者だから、貧しい者だからといって何故威張らねばならぬのか。私にはそういう気持がわからない。それでよく弟子達に、「先生は誰にでも頭を下げるから威厳がない」と叱られたりするが、しかし私は自分の値打を自分で拵えて人に見せようというような気持にはなれない。
 これは何も私が修養が出来ているかのように仄かすのではない。およそ音の世界に生きる者のすべてが自然に持つ、一つの悟りとでもいうべき心境であろう。有難いと思う。私はいま別に信仰というものはないが、強いていえば、私にとって音楽は一つの宗教である。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「夢乃姿」那珂書店
   1941(昭和31)年11月22日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

宮城道雄

雨夜の駅—– 宮城道雄

 雨のしとしと降っている夜であった。私は京都の駅で汽車を待っていた。親戚の若い人達が早くから来て場所を取ってくれていたが、それでも列の後の方であった。
 そこでは並んでいる人同士で汽車の混む話から、何処其処を何時に出るのが割合に空いているとか、あの汽車は混むとか、あの汽車は比較的早いとか、色々評をしている。その間にも外では、しきりに雨の音がしている。私はそれを聞いていて、また雨夜の汽車定めだと思った。
 私は待遠しいので時計を幾度も出してさぐった。余程時間が経ったつもりでさぐってみても十分位しかたっていない。するとすぐ前にいた人がのぞき込む様にして時計がわかるのか、盲人用の特別の時計かと尋ねたので、盲人用のもあるが、私は普通の時計をさぐって針の見当で三十秒までわかる。それ以上はさぐっている中に過ぎていくので困ると言いながら、私が時間をさぐり当ててみせると、成程と言った。先程からの声の様子では、三十を半ば過ぎたくらいの男の人であると思った。その人が、私に色々の話をした。自分は長らく胸の病になやんだので、あなたの様な不自由な人を見ると、一層気の毒に感じると言った。それから、私に幾つかと聞くので、齢を言うとそれにしては大変若く見えると言った。私は若く見えるといわれると、うれしい気がするのである。
 自分は子供の時以来、鏡を見たことがないので、眼明きの言うことを、真に受けてもよい様な気がして、今迄にも人から若く見えると言われると、そうかなと思って、自分の顔を撫でてみる。
 撫でるといえば、何時か或る彫刻家が、私の顔を彫ってくれたので、早速撫でてみると、でこぼこしている様に感じたので、これは私の顔に似ているかと家の者にたずねると、そっくりだといわれたのには案外に思ったことがあった。
 その人は、私は長生きをする様にと言った。そして、これからは段々医術が進んで来て、なおらぬ眼もあく様になるかも知れぬと言った。
 以前、たしかアメリカの話であったが、八十のお婆さんが、もう老いさきも短いからといって、自分の眼を片一方、或る盲人にあたえた。盲人はその眼と入れ替えて貰うと、片眼見える様になったとか、また動物の眼と入れ替ることも研究されているとかいう話であった。私も何か聞いたことのある様な気がした。
 それから、また或る国では、子供の何かの成分を老人に注射すると、段々若返って、百五十迄は生きられる様になる研究が進められているとか、私にとってはいずれも、耳よりの話であった。しかし私は、今はもう眼が明きたくないと思っている。それは自分が子供の時に見た月とか花とか、いろいろの景色も今も覚えていて美しく想像している。また私は何時迄も長生をしたいと思っているが、しかし寿命が来れば、何時何時でも安心して往きたいと思っている。
 私のただ一つの望みは、寿命の来る迄相変らず箏が弾ける様にと、そればかり願っている。
 こんなことを考えている中に、何かざわめいたと思うと改札が始った。その人は、親切に私をかかえる様にして階段をのぼらせてくれたが、列車が這入って来ると、混雑して、ろくにお礼も言わない中に、その人とはぐれてしまった。
 発車のベルの鳴る頃は降りしきる雨の音が一しきりはげしかった。夜中過ぎても私は眠れなかった。急ぎの作曲があったので、それを考えようとすると、隣りにかけていたおばあさんが小さい声で義太夫を語り始めた。そのうち、おばあさんは眠ったらしい。静かになったので、私はさっきの続きを考えはじめると、おばあさんが急に眼を醒まして、今度は三十三間堂のさわりを始めた。その声が誰にも聞こえない程小さいので、私にはそれが一層気になって仕事がはかどらなかった。
 朝東京へ著くと、早速夕べの人を探したがどうしてもめぐり会うことができなかった。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「古巣の梅」雄鶏社
   1949(昭和24)年10月5日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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宮城道雄

レコード夜話—– 宮城道雄

 メニューヒンの演奏会を日比谷の公会堂へ聴きに行って、あとで楽屋へ挨拶に行くと、握手をしながら how do you do と言われた。その声が高い若々しい調子に聞こえた。帰ろうとすると、もう一度握手されたので私は嬉しかった。
 そのせいか、氏のレコードが集めたくなって、いろいろ買い求めた。そして、氏の写真のついたアルバムへ手さぐりで一枚ずつレコードをはめていった。
 幸いのことに、つい先日ビクターから勤続二十五年以上の御褒美に小型電気蓄音機を貰ったので、それで聴いて楽しんでいる。
 私はレコードを一人で静かに聴くのが好きで、人の寝しずまった夜中などに鳴らすことがよくある。電気蓄音機は調節が出来てよいが、手捲の蓄音機でオーケストラなどを鳴らすと、辺りへひびきわたるので風呂敷をかけたり、蒲団をかぶせたりして音を弱くして聴くのである。
 ある夜、私は変奏曲を作ってみたいと思っていたので、参考に聴きたいと思ってレコードをいろいろ探した。私にわかるように点字で書いてあるのもあるがそうでないのが多いので、そういうのはレコードやアルバムの手ざわりや、形などで探りあてたり、また、置場所などにも心覚えがある。それでやっと探り出したのは、ベートーヴェンのワルツによる三十三の変奏曲であった。ピアノはフイッシャーの演奏であったが、それを電気蓄音機で弱くして聴いた。ところが私の思惑とは違った。
 私は形式などを参考にしたいと思っていたが、それよりも変奏の変る毎に私に感じるのはベートーヴェンの何か心理というようなものであった。
 私は寝床のすぐ側へ蓄音機をおいて、寝ながら聴いていて、レコードを裏返す時にはそのまま手を延ばし、一枚済むと上半身を起してかけ変える。誠に無性なようであるが、こう横になって聴いていると、一層深く味わうことが出来る。
 次第に変わって行く和声的な最低音や、最高音、それに何かを暗示するように続いて聞こえるある低音などが、しんとした真夜中と一体になったように私に感じられて、何か深い人生までが思い浮かんでくるのであった。そしてレコードを七枚聴き終った時はもう夜明近くであった。この名曲もさることながら、私は理解の深いフイッシャーの演奏ぶりに、今更のように敬服の念が湧いてきたのであった。
 私はずっと以前に、ハイフェッツの古い吹込らしかったが「妖精の踊」のレコードを持っていた。友人の内田百間先生は、この曲が非常に好きで、あのタンタンタヽヽヽという節を聴くと妙にビールが飲みたくなるので、私の家で飲んだり、何処かへ飲みにつれていって貰ったりしたが、私もその頃、この曲が好きで、これにヒントを得て、「落葉の踊」を作ってみたのである。
 その後、百間先生が学生を連れて来て、酔っぱらった勢でこのレコードを没収して帰ったように思ったが、今、その話をすると、そんな覚えはない、迷惑な話だというのである。
 その頃は、ハイフェッツ、エルマン、クライスラー、ジンバリストなどが相ついで来朝したのである。
 そして、百間先生はこの曲の実演をきいた時には、たまらなくなって、休憩時間に日比谷の地下室へ降りて、ビールを飲んだとかである。
 クライスラーが来朝した時には、三島さんのお邸で私は「落葉の踊」と、「秋の調」を聴いて貰ったが、このレコードと関連して、今懐しく思い出されるのである。
 私にはレコードが命から二番目位大事なので、戦時中にも荷馬車に積んで疎開先をあちらこちらと持廻ったので、今でも多少残っているのは嬉しい。
 私は気分の勝れない時はモーツァルトの曲を聴くとすがすがしくなって来る。私はクラシックのものが好きであるが、また極く近代的のものも好きである。
 それにレコードを勉強に聴く時と、楽しみに聴く時と二様にわけている。私は忙しい仕事が一段落つくと、何かレコードが新しく買いたくなるので四谷の好音堂へ電話をかける。
 その店が戦災でとぎれていたが、終戦後しばらくして復活したので、またときどき求めているが、しかし、戦争以来レコードによっては針音がひどくてはっきりしないのや、また、途中で針が折れてしまうようなのにもあたることがある。しかし最近、新入荷というのは流石によい音がする。
 とにかく、私にはレコードが先生でもあるので、月謝を払うつもりでよい新譜が出ると毎月求めることにしている。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「春の海」ダヴィッド社
   1956(昭和31)年8月5日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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