国木田独歩

恋を恋する人——国木田独歩

 秋の初《はじめ》の空は一片の雲もなく晴《はれ》て、佳《い》い景色《けしき》である。青年《わかもの》二人は日光の直射を松の大木の蔭によけて、山芝の上に寝転んで、一人は遠く相模灘を眺め、一人は読書している。場所は伊豆と相模の国境にある某《なにがし》温泉である。
 渓流《たにがわ》の音が遠く聞ゆるけれど、二人の耳には入らない。甲《ひとり》の心は書中《しょちゅう》に奪われ、乙《ひとり》は何事か深く思考《おもい》に沈んでいる。
 暫時《しばらく》すると、甲《ひとり》は書籍《ほん》を草の上に投げ出して、伸《のび》をして、大欠《おおあくび》をして、
「最早《もう》宿へ帰ろうか。」
「うん」と応《こたえ》たぎり、乙《ひとり》は見向きもしない。すると甲《ひとり》は巻煙草を出して、
「オイ君、燐寸を借せ。」
「うん」と出してやる、そして自分も煙草を出して、甲乙共《ふたりとも》、のどかに喫煙《す》いだした。
「君はどう思う、縁とは何ぞやと言われたら?」
 と思考《おもい》に沈んでいた乙《ひとり》が静かに問うた。
「左様《そう》サね、僕は忘れて了った。……何とか言ったッけ。」と甲《ひとり》は書籍《ほん》を拾い上げて、何気《なにげ》なく答える。
 乙《ひとり》は其《それ》を横目で見て、
「まさか水力電気論の中《うち》には説明してあるまいよ。」
「無いとも限らん。」
「あるなら、その内捜して置いてくれ給え。」
「よろしい。」
 甲乙《ふたり》は無言で煙草を喫っている。甲《ひとり》は書籍《ほん》を拈繰《ひねく》って故意《わざ》と何か捜している風を見せていたが、
「有ったよ。」
「ふん。」
「真実《ほんと》に有ったよ。」
「教えてくれ給え。」
「実はやッと思い出したのだ。円とは……何だッたけナ……円とは無限に多数なる正多角形とか何とか言ッたッけ。」と、真面目である。
「馬鹿!」
「何《な》んで?」
「大馬鹿!」
「君よりは少しばかり多智《りこう》な積りでいたが。」
「僕の聞いたのは其《その》円じゃアないんだ。縁だ。」
「だから円だろう。」
「イヤこれは僕が悪かった、君に向って発すべき問ではなかったかも知れない。まア静かに聞き給え、僕の問うたのは……」
「最も活動する自然力を支配する人間は最も冷静だから安心し給え。」
「豪《えら》いよ。」
「勿論! そこで君のいう所のエンとは?」
「帰ろうじゃアないか。帰宿《かえ》って夕飯の時、ゆるゆる論ずる事にしよう。」
「サア帰ろう!」と甲《ひとり》は水力電気論を懐中《ふところ》に押《おし》こんだ。
 かくて仲善き甲乙《ふたり》の青年《わかもの》は、名ばかり公園の丘を下りて温泉宿へ帰る。日は西に傾いて渓《たに》の東の山々は目映《まば》ゆきばかり輝いている。まだ炎熱《あつ》いので甲乙《ふたり》は閉口しながら渓流《たにがわ》に沿うた道を上流《うえ》の方へのぼると、右側の箱根細工を売る店先に一人の男が往来を背にして腰をかけ、品物を手にして店の女主人の談話《はな》しているのを見た。見て行き過ぎると、甲《ひとり》が、
「今あの店にいたのは大友君じゃアなかッたか?」
「僕も、そんな気がした。」
「後姿が似ていた、確かに大友だ。」
「大友なら宿は大東館だ」
「何故?」
「僕が大東館を撰んだのは大友君からはなしを聞いたのだもの。」
「それは面白い。」
「きっと面白い。」
 と話しながら石の門を入ると、庭樹の間から見える縁先に十四五の少女《おとめ》が立っていて、甲乙《ふたり》の姿を見るや、
「神崎様! 朝田様! 一寸来て御覧なさいよ。面白い物がありますから。早く来て御覧なさいよ!」と叫ぶ。
「また蛇が蛙を呑むのじゃアありませんか。」と「水力電気論」を懐にして神崎乙彦が笑いながら庭樹を右に左に避《よ》けて縁先の方へ廻る。少女《おとめ》の室《へや》の隣室《となり》が二人の室なのである。朝田は玄関口へ廻る。
「ほら妙なものでしょう。」と少女の指さす方を見ても別に何も見当らない。神崎はきょろきょろしながら、
「春子さん、何物《なんに》も無いじアありませんか。」
「ほら其処に妙な物が。……貴様《あなた》お眼が悪いのねエ」
「どれです。」
「百日紅《さるすべり》の根に丸い石があるでしょう。」
「あれが如何《どう》したのです。」
「妙でしょう。」
「何故でしょう。」といいながら新工学士神崎は石を拾って不思議そうに眺める。朝田はこの時既に座敷から廻って縁先に来た。
「オイ朝田、春子さんがこの石を妙だろうと言うが君は何と思う。」
「頗《すこぶ》る妙と思うねエ」
「ね朝田|様《さん》、妙でしょう。」と少女《おとめ》はにこにこ。
「そうですとも、大いに妙です。神崎工学士、君は昨夕《ゆうべ》酔払って春子|様《さん》をつかまえ[#「つかまえ」に傍点]てお得意の講義をしていたが忘れたか。」
「ねエ朝田様! その時、神崎様が巻煙草《たばこ》の灰を掌にのせて、この灰が貴女には妙と見えませんかと聞くから、私は何でもないというと、だから貴女は駄目だ、凡《およ》そ宇宙の物、森羅万象、妙ならざるはなく、石も木もこの灰とても面白からざるはなし、それを左様《そう》思わないのは科学の神に帰依しないのだからだ、とか何とか、難事《むずか》しい事をべらべら何時《いつ》までも言うんですもの。私、眠くなって了《しま》ったわ、だからアーメンと言ったら、貴下《あなた》怒っちゃったじゃアありませんか。ねエ朝田|様《さん》。」
「そうですとも、だからその石は頗る妙、大いに面白しと言うんですねエ。」
「神崎様、昨夕の敵打《かたきう》ちよ!」
「たしかに打たれました。けれど春子様、朝田は何時も静粛《しずか》で酒も何にも呑まないで、少しも理窟を申しませんからお互に幸福《しあわせ》ですよ。」
「否《いいえ》、お二人とも随分理窟ばかり言うわ。毎晩毎晩、酔っては討論会を初めますわ!」
 甲乙《ふたり》は噴飯《ふきだ》して、申し合したように湯衣《ゆかた》に着かえて浴場《ゆどの》に逃げだして了《しま》った。
 少女《おとめ》は神崎の捨てた石を拾って、百日紅《さるすべり》の樹に倚りかかって、西の山の端に沈む夕日を眺めながら小声で唱歌をうたっている。
 又《ま》た少女《おとめ》の室《へや》では父と思《おぼ》しき品格よき四十二三の紳士が、この宿の若主人を相手に囲碁に夢中で、石事件の騒ぎなどは一切知らないでパチパチやって御座《ござ》る。そして神崎、朝田の二人が浴室《ゆどの》へ行くと間もなく十八九の愛嬌のある娘が囲碁の室《へや》に来て、
「家兄《にい》さん、小田原の姉様《ねえさん》が参りました。」と淑《しとや》かに通ずる。これを聞いて若主人は顔を上げて、やや不安の色で。
「よろしい、今ゆく。」
「急用なら中止しましょう」と紳士は一寸手を休める。
「何《な》に関《かま》いません、急用という程の事じゃアないんです。」と若主人は直ぐ盤を見つめて、石を下しつつ、
「今の妹の姉にお正というのがいたのを御存じでしょう。」
「そうでした、覚えています。可愛らしい佳《い》い娘さんでした。」と紳士も打ちながら答える。
「そのお正《しょう》がこの春国府津へ嫁《かたず》いたのです。」
「それはお目出度い。」
「ところが余りお目出度くないんでしてな。」
「それは又?」
「どういうものか折合が善くありませんで。」
「それは善くない。」
「それで今日来たのも、又何か持上ったのでしょう。」
「それでは早く行く方が可《よ》い。……」
「なに、どうせ二晩三晩は宿泊《とまる》のですから急がないでも可《い》いのです。」と平気で盤に向っているので、紳士《しんし》もその気になり何時《いつし》かお正《しょう》の問題は忘れて了っている。
 浴室《ゆどの》では神崎、朝田の二人が、今夜の討論会は大友が加わるので一倍、春子さんを驚かすだろうと語り合って楽しんで居る。

 箱根細工の店では大友が種々の談話《はなし》の末、やっとお正の事に及んで
「それじゃア此《この》二月に嫁入したのだね、随分遅い方だね。」
「まア遅いほうでしょうね。貴下《あなた》は何時ごろお正《しょう》さんを御存知で御座います?」
「左様《そう》サ、お正さんが二十位の時だろう、四年前の事だ、だからお正《しょう》さんは二十四の春|嫁《かたず》いたというものだ。」
「全く左様《そう》で御座います。」と女主人《じょしゅじん》は言って、急に声をひそめて、「処《ところ》が可哀そうに余り面白く行かないとか大《だい》ぶん紛糾《ごたごた》があるようで御座います。お正さんは二十四でも未《ま》だ若い盛で御座いますが、旦那は五十|幾歳《いくつ》とかで、二度目だそうで御座いますから無理も御座いませんよ。」
 大友は心に頗る驚いたが別に顔色も変ず、「それは気の毒だ」と言いさま直ぐ起ち上って、「大きにお邪魔をした」とばかり、店を出た。
 大友の心にはこの二三年|前来《ぜんらい》、どうか此世に於て今一度、お正さんに会いたいものだという一念が蟠《わだかま》っていたのである、この女のことを思うと、悲しい、懐しい情感《おもい》に堪え得ないことがある。そして此《この》情想《おもい》に耽る時は人間の浅間しサから我知らず脱れ出ずるような心持になる。あたかも野辺にさすらいて秋の月のさやかに照るをしみじみと眺め入る心持と或は似通えるか。さりとて矢も楯もたまらずお正の許に飛んで行くような激越の情は起らないのであった。
 ただ会いたい。この世で今一度会いたい。縁あらば、せめて一度此世で会いたい。とのみ大友は思いつづけていた。何《なん》ぞその心根の哀しさや。会い度《た》くば幾度《いくたび》にても逢《あえ》る、又た逢える筈の情縁あらば如斯《こん》な哀しい情緒《おもい》は起らぬものである。別れたる、離れたる親子、兄弟、夫婦、朋友、恋人の仲間《あいだ》の、逢いたき情《おもい》とは全然《まる》で異《ちが》っている、「縁あらばこの世で今一度会いたい」との願いの深い哀しみは常に大友の心に潜んでいたのである。
 或夜大友は二三の友と会食して酒のやや廻った時、斯ういう事を言ったことがある「僕の知っている女でお正さんというのがあるが、容貌《きりょう》は十人並で、ただ愛嬌のある女というに過《すぎ》ないけれど、如何にも柔和な、どちらかと言えば今少しはハキハキしてもと思わるる程の性分で何処《どこ》までも正直な、同情《おもいやり》の深そうな娘である。肉づきまでがふっくり[#「ふっくり」に傍点]して、温かそうに思われたが、若し、僕に女房《かかあ》を世話してくれる者があるなら彼様《あんな》のが欲しいものだ」
 それならば大友はお正さんに恋い焦がれていたかというと、全然《まったく》、左様《そう》でない。ただ大友がその時、一寸|左様《そう》思っただけである。
 四年前、やはり秋の初であった。大友がこの温泉場に来て大東館に宿ったのは。
 避暑の客が大方帰ったので居残りの者は我儘放題、女中の手もすい[#「すい」に傍点]たので或夕《あるゆうべ》、大友は宿の娘のお正《しょう》を占領して飲んでいたが、初めは戯談のほれたはれた[#「ほれたはれた」に傍点]問題が、次第に本物になって、大友は遂にその時から三年前の失恋談をはじめた。女中なら「御馳走様」位でお止《やめ》になるところが、お正は本気で聞いている、大友は無論真剣に話している。
「それほどまでに二人が艱難辛苦してやッと結婚して、一緒になったかと思うと間もなく、ポカンと僕を捨てて逃げ出して了ったのです」
「まア痛《ひど》いこと! それで貴下《あなた》はどうなさいました。」とお正の眼は最早《もう》潤んでいる。
「女に捨てられる男は意気地なしだとの、今では、人の噂も理会《わか》りますが、その時の僕は左《さ》まで世にすれ[#「すれ」に傍点]ていなかったのです。ただ夢中です、身も世もあられぬ悲嘆《かなし》さを堪え忍びながら如何《いか》にもして前《もと》の通りに為《し》たいと、恥も外聞もかまわず、出来るだけのことをしたものです。」
「それで駄目なんですか。」
「無論です。」
「まア、」とお正《しょう》は眼に涙を一ぱい含ませている。
「僕が夢中になるだけ、先方《むこう》は益々《ますます》冷て了《しま》う。終《しま》いには僕を見るもイヤだという風になったのです。」そして大友は種々と詳細《こまか》い談話《はなし》をして、自分がどれほどその女から侮辱せられたかを語った。そして彼自身も今更想い起して感慨に堪えぬ様《さま》であった。
「さぞ憎らしかッたでしょうねエ、」
「否《いいえ》、憎らしいとその時思うことが出来るなら左《さ》まで苦しくは無いのです。ただ悲嘆《かなし》かったのです。」
 お正《しょう》の両頬には何時《いつ》しか涙が静かに流れている。
「今は如何なに思っておいでです」とお正《しょう》は声をふるわして聞いた。
「今ですか、今でも憎いとは思っていません。けれどもね、お正《しょう》さん僕が若し彼様《あん》な不幸に会わなかったら、今の僕では無かったろうと思うと、残念で堪らないのです。今日が日まで三年ばかりで大事の月日が、殆《ほとん》ど煙のように過《た》って了いました。僕の心は壊れて了ったのですからねエ」と大友は眼を瞬たいた。お正《しょう》ははんけち[#「はんけち」に傍点]を眼にあてて頭《かしら》を垂れて了った。
「まア可《い》いサ、酒でも飲みましょう」と大友は酌《しゃく》を促がして、黙って飲んでいると、隣室に居《お》る川村という富豪《かねもち》の子息《むすこ》が、酔った勢いで、散歩に出かけようと誘うので、大友はお正《しょう》を連れ、川村は女中三人ばかりを引率して宿を出た。川村の組は勝手にふざけ[#「ふざけ」に傍点]散らして先へ行く、大友とお正《しょう》は相並んで静かに歩む、夜《よ》は冷々として既に膚寒く覚ゆる程の季節ゆえ、渓流《たにがわ》に沿う町はひっそり[#「ひっそり」に傍点]として客らしき者の影さえ見えず、月は冴えに冴えて岩に激する流れは雪のようである。
 大友とお正《しょう》は何時《いつし》か寄添うて歩みながらも言葉一ツ交さないでいたが、川村の連中が遠く離れて森の彼方で声がする頃になると、
「真実《ほんと》に貴下《あなた》はお可哀そうですねエ」と、突然お正《しょう》は頭《かしら》を垂れたまま言った。
「お正《しょう》さん、お正さん?」
「ハイ」とお正《しょう》は顔を上げた。雙眼《そうがん》涙を含める蒼ざめた顔を月はまともに照らす。
「僕はね、若し彼女《あのおんな》がお正《しょう》さんのように柔和《やさし》い人であったら、こんな不幸な男にはならなかったと思います。」
「そんな事は、」とお正はうつむいた、そして二人は人家から離れた、礫《いし》の多い凸凹道を、静かに歩んでいる。
「否《いいえ》、僕は真実《ほんと》に左様《そう》思います、何故《なぜ》彼女がお正《しょう》さんと同じ人で無かったかと思います。」
 お正《しょう》は、そっと大友の顔を見上げた。大友は月影に霞む流れの末を見つめていた。
 それから二人は暫時《しばら》く無言で歩いていると先へ行った川村の連中が、がやがやと騒ぎながら帰って来たので、一緒に連れ立って宿に帰った。其後三四日大友は滞留していたけれどお正《しょう》には最早、彼《あ》の事に就いては一言も言わず、お給仕ごとに楽しく四方山の話をして、大友は帰京したのである。
 爾来《じらい》、四年、大友の恋の傷は癒え、恋人の姿は彼の心から消え去せて了ったけれども、お正《しょう》には如何《どう》かして今一度、縁あらば会いたいものだと願っていたのである。
 そして来て見ると、兼ねて期したる事とは言え、さてお正《しょう》は既にいないので、大いに失望した上に、お正《しょう》の身の上の不幸を箱根細工の店で聞かされたので、不快に堪えず、流れを泝《さかのぼ》って渓《たに》の奥まで一人で散歩して見たが少しも面白くない、気は塞《ふさ》ぐ一方であるから、宿に帰って、少し夕飯には時刻が早いが、酒を命じた。

 大友は、「用があるなら呼ぶから。」と女中をしりぞけて独酌で種々の事を考えながら淋しく飲んでいると宿の娘が「これをお客様が」と差出したのは封紙《うわづつみ》のない手紙である、大友は不審に思い、開き見ると、

 前略我等両人当所に於て君を待つこと久しとは申兼候え共、本日御投宿と聞いて愉快に堪えず、女中に命じて膳部を弊室《へいしつ》に御運搬の上、大いに語り度く願い候                          
                        
                                神崎

朝田

大友様

とあるので、驚いた。何時ごろから来ているのだと聞くと、娘は一週間ばかり前からという。直ぐ次の返事を書いて持たしてやった。

 お手紙を見て驚喜《きょうき》仕候、両君の室《へや》は隣室の客を驚かす恐れあり、小生の室は御覧の如く独立の離島に候間、徹宵《てっしょう》快談するもさまたげず、是非|此方《このほう》へ御出向き下され度く待《ま》ち上候

 すると二人がやって来た。
「君は何処を遍歴《へめぐ》って此処《ここ》へ来た?」と朝田が座に着くや着かぬに聞く、
「イヤ、何処も遍歴らない、東京から直きに来た。」
「そこでこの夏は?」
「東京に居た。」
「何をして?」
「遊んで。」
「そいつは下らなかったな」
「全くサ、そして君等は如何《どう》だ。」
「伊豆の温泉めぐりを為《し》た。」
「面白ろい事が有ったか。」
「随分有った。然し同伴者《つれ》が同伴者だからね。」と神崎の方を向く。神崎はただ「フフン」と笑ったばかり、盃をあげて、ちょっと中の模様を見て、ぐびり飲んだ。朝田もお構いなく、
「現に今日も、斯《こ》うだ、僕が縁とは何ぞやとの問に何と答えたものだろうと聞くと、先生、この円と心得て」と畳の上に指先で○《まる》を書き、
「円の定義を平気な顔で暗誦したものだ、君、斯《こ》ういう先生と約一ヶ月半も僕は膳を並べて酒を呑んだのだから堪らない。」
「それはお互いサ」と神崎少しも驚かない。
「然し相かわらず議論は激しかったろう」と大友はにこにこして問うた。
「やったとも」と朝田、
「朝田の愚論は僕も少々聞き飽きた」と神崎の一言に朝田は「フフン」と笑ったばかり。これだから二人が喧嘩を為《し》ないで一ヶ月以上も旅行が出来たのだと大友は思った。
 三人とも愉快に談じ酒も相当に利いて十一時に及ぶと、朝田、神崎は自室に引上げた、大友は頭を冷す積りで外に出た。月は中天に昇っている。恰度前年お正《しょう》と共に散歩した晩と同じである。然し前年の場所へ行くは却って思出の種と避けて渓《たに》の上へのぼりながら、途々「縁」に就《つい》て朝田が説いた処を考えた、「縁」は実に「哀」であると沁み沁み感じた。
 そして構造《かまえ》の大きな農家らしき家の前に来ると、庭先で「左様なら」と挨拶して此方《こちら》へ来る女がある、その声が如何《いか》にもお正《しょう》に似ているように思われ、つい立ちどまって居《お》ると、往来へ出て月の光を正面《まとも》に向《う》けた顔は確かにお正《しょう》である。
「お正《しょう》さん」大友は思わず叫んだ。
「大友さんでしょう、」と意外にもお正《しょう》は平気で傍へ来たので、
「貴女は僕が来て居るのを知っていたのですか」と驚いて問うた。
「も少し上の方へのぼりながらお話しましょうか。」とお正は小声にて言う。
「貴女さえかまわなければ。」
「私はちっとも、かまいませんの。」
 それではと前年の如く寄添うて、渓《たに》をのぼる。
「真実《ほんと》に妙な御縁なのですよ、私は今日、身の上に就《つい》て兄に相談があるので、突然《だしぬけ》に参りますと、妹が小声で大友さんが来宿《みえ》てるというのでしょう、……」
「それじゃア貴女は僕より一汽車後で来たのだ。」
「そうなの。それで今夜はごたごたして居るから明日お目にかかる積りでいましたの。」神崎
 さて大友はお正《しょう》に会ったけれど、そして忘れ得ぬ前年の夜《よ》と全然《まった》く同じな景色に包まれて同じように寄添うて歩きながらも、別に言うべき事がない。却ってお正は種々の事を話しかける。
「貴下いつかの晩も此様《こんな》でしたね。」
「貴下|彼晩《あのばん》のことを憶えていらっして?」
「憶えていますとも。」
「私はね、何もかも全然《すっかり》憶えていて、貴下の被仰《おっしゃ》った事も皆な覚えていますの。」
「僕もそうです。そして今一度貴女に会いたいとばかり思っていました。今度も実はその積りで来たのです。無論|何家《どっか》へ嫁《かたず》いていて会える筈は無かろうとは思いましたが、それでも若しかと思いましてね……」
「私も今一度で可《い》いから是非お目にかかりたいと思いつづけては、彼晩《あのばん》の事を思い出して何度泣いたか知れません、……ほんとにお嫁になど行かないで兄さんや姉さんを手伝った方が如何《どん》なに可《よ》かったか今では真実《ほんと》に後悔していますのよ。」
 大友は初めてお正が自分を恋していたのを知った、そして自分がお正に会いたいと思うのと、お正が自分に会いたいと願うのとは意味が違うと感じた。自分はお正の恋人であるがお正は自分の恋人でない、ただ自分の恋に深い同情を寄せて泣いてくれた柔しサを恋したのだ。そして自分は恋を恋する人に過ぎないと知った。実に大友はお正の恋を知ると同時に自分のお正に対する情の意味を初めて自覚したのである。
 暫時無言で二人は歩いていたが、大友は斯《か》く感じると、言い難き哀情《かなしみ》が胸を衝いて来る。
「然しね、お正さん、貴女も一旦嫁いだからには惑わないで一生を送った方が可《よろ》しいと僕は思います。凡《すべ》て女の惑いからいろんな混雑や悲嘆《なげき》が出て来るものです。現に僕の事でも彼女《あのおんな》が惑うたからでしょう……」
 お正はうつ向いたまま無言。
「それで今夜は運よくお互に会うことが出来ましたが、最早《もう》二度とは会えませんから言います、貴女も身体も大切にして幾久しく無事でお暮しになるように……」
 お正は袖を眼に当て、
「何故会えないのでしょうか。」
「会えないものと思った方が可《い》いだろうと思います。」
「それでは貴下は最早会いたいとは思っては下さらないのですか。」
「決して其様《そんな》ことはありません。僕はこれまで彼女《あのおんな》に会いたいなど夢にも思わなくなりましたが、貴女には会いたいと思っていましたから……」
「それではお目にかかる事が出来る縁を待ちましょうね。」
「ほんとうに、そうです。貴女も今言ったように、くよくよ為《し》ないで、身体を大事にお暮しなさい。」
「難有《ありがと》う御座います。」
 夜の更くるを恐れて二人は後へ返し、渓流《たにがわ》に渡せる小橋の袂まで帰って来ると、橋の向うから男女《なんにょ》の連れが来る。そして橋の中程ですれちがった。男は三十五六の若紳士、女は庇髪《ひさしがみ》の二十二三としか見えざる若づくり、大友は一目見て非常に驚いた。
 足早に橋を渡って、
「お正さんお正さん。彼《あ》れです。彼《あ》の女です!」
「まア、彼の人ですか!」とお正も吃驚《びっくり》して見送る。
「如何《どう》して又、こんな処で会ったろう。彼女《あれ》も必定《きっと》僕と気が着《つ》いたに違いない。お正さん僕は明日朝|出発《たち》ますよ。」
「まア如何《どう》して?」
「若し彼女《あれ》が大東館にでも宿泊っていたら、僕と白昼|出会《でっく》わすかも知れない、僕は見るのも嫌です。往来で会うかも知れません如斯《こん》な狭い所ですから。」
「会っても知らん顔していれば可《い》いじゃア御座《ござ》いませんか。」
「不愉快です。殊に今度貴女に会った場合、猶不快です。」
 翌朝|早《はやく》大友は大東館を立った。大友ばかりでなく神崎や朝田も一緒である。見送り人の中にはお正も春子さんもいた。

底本:「日本の短編小説[明治・大正]」潮文庫、潮出版社
   1973(昭和48)年5月20日初版
   1988(昭和63)年11月30日9刷
初出:「中央公論」
  1907(明治40)年1月
入力:鈴木厚司
校正:鈴木厚司
1999年5月16日公開
2011年5月23日修正
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国木田独歩

夜の赤坂——國木田獨歩

 東京の夜の有様を話して呉れとの諸君《みなさん》のお望、可《よろ》しい、話しましよう、然し僕は重に赤坂区に住んで居たから、赤坂区だけの、実地に見た処を話すことに致します。
 先づ第一に叔母様《をばさん》などは東京を如何《どんな》にか賑かな処と思つて、そろ/\と自分の眼で自分の景色を形《つく》つて居なさるだらうが、実地見ると必定《きつと》その想像の違つて居たことに驚かれるだらうと思ふ。京にも田舎ありとはよく言つた諺で、赤坂は先づ京の田舎です。此田舎が東京には沢山にあるので、叔母様達の想像して居るやうな、画に書いてあるやうな処は東京十五区の中、幾ヶ所もないのであります。
 其中《そのうち》にも赤坂はさみしい処で、下町、則ち京橋や日本橋に住んで居る者は、狐や狸の居る処と心得て居る位。実際又た狐狸の居さうな処がいくらもあるのです。
 夜になると赤坂で、賑かな処と言ふべきは、たゞ田町、一木《ひとつぎ》、新町、先づ此位で、あとは極く淋しい処ばかりです。
 流石に田町附近は賑かです。殊に赤坂芸者と言つて、東京市中、数ヶ所の芸者の居処の一になつて居るから、夜になると、紅燈緑酒の有様が田町の家並に開かれるので、溜池の大通を歩くと、あの二階でも此の二階でも三絃《しやみ》、太鼓の花々しい響か、それとも爪弾とやら、乙に気取つた楽《たのしみ》の音が洩れるのです。下町の方から景気よく車を駆つて溜池の広い通を来る紳士があると仮定なさい、道幅が二十間もある坦々たる道、右は溜池、左は家並《やなみ》、そして桜と柳が左右に並んで植込んである中を車は飛ぶのです。此車の轅《かぢぼう》の下ろされる処は、言はずもがなで、東京の今の紳士といはれる仲間の十の七八は皆な斯んなことを以て得意として居るのです。
 或夜のことでした僕は八時頃、山王の山に散歩にゆくと其夜は月で、而も空に一片の雲なく、なまぬるい春風がそよいで何となく人の心をそゝる[#「そゝる」に傍点]やうな、くすぐる[#「くすぐる」に傍点]やうな気持のする、うつとり[#「うつとり」に傍点]した晩でした。溜池橋の上に立て見ると、葉桜の黒い影、夜露にきらめく月影、溜池の上に立籠めた狭霧《さぎり》、見上ぐれば真黒に繁つた山王台、皆な佳い眺めでした。僕は暫時く橋上に立て眺めて居ましたが、やがて橋を向へ渡ると、此処は麹町区、然し地勢からいふと赤坂に加はへても可いので、山王台は赤坂の者は皆な赤坂のものと思つて居ます、つまり山王台は赤坂の公園と言つても可いので、此処に散歩する者は大概赤坂区の、田町附近の者ばかりです。則ち僕も赤坂氷川町に住んで居ながら、常に此処に散歩にくるのであります。
 神社に樹木の多いことは今更云ふまでもないが、山王台(日枝神社《ひえじんじや》)は別して三抱《みかゝえ》も四抱もある大樹鬱として繁り、全山、日影を見る場処は少ないので、春夏秋の三季は此|木下蔭《このしたかげ》を逍遙する者が少なからぬのです。併し夜! 夜は又これほど物寂しい場処は少なく、夏の熱い最中ならば知らぬこと、其他の季節に夜に入つて此山に登る者は決して普通《ただ》の人ではない。
 僕も夜は余り此山を散歩したことのないのが、其夜は月の景色のめでたさに思はず森蔭を歩いて見る気になつた、表の鳥井の方から登つて見ました。
 村の八幡の境内もこれほどにはないので、其寂寥たる様は、東京の町の中に如何して斯る場処があるかと、とても実地見ぬ諸君には想像がつかない位でした。真黒に繁つた木の葉の間から月影が星のやうに見える処もあり、闇々黒々、まるで穴の中を歩くやうな処もあり。
 僕は探るやうにして上の平地に出で、北向の方に行つて、ベンチの一に腰を下ろし、田町の方を見下すと樹木の間から花やかな灯火が一列になつて直ぐ下に横はつて居る、例の紳士どもの馬鹿騒が手に取るやうに聞える。三絃の冴えた音が響く。笑ひさゞめく声すら做る。
 山王台を一名星が岡と称する、其理由は昔、山王台から、北の方の山の手を望むと農家の灯が点々して恰も星のやうに見える処から出でたとのこと、頗る怪やしい説であるが、兎も角此台の名を定めし其以前此大都会の未だ開けない時分はさうでも有つたかと思はれるのです。
 僕は暫時くベンチに腰かけたまゝ身動きも為ないで居ますと、人声がするのです。何者かひそひそ話しながら暗い影の中を歩いて僕の方へ近いて来る者があるのです。近くに従つて僕は男女の二人であることに気が着きました。果してさうでした。二人は僕の居るのに気がつかぬかして、かすかに笑ひ、かすかに語り、折り/\立どまり、身体《からだ》をすり寄せなどするのです。
 僕は咳をしました。其時、二人の姿は月影のさやかなる中に現はれました。一目見て僕は楽しい恋人同志なることを知りました。二人とも未だうら若い男女恐らく遠からず結婚する仲間でしたらう、それとも結婚早々の新夫婦であつたのか其辺は僕の推察出来ない処です。兎も角二人は僕の居たのに気がつくや少しきまり[#「きまり」に傍点]が悪るさうでした。男はわざとらしく、
『真実《ほんたう》に此処は月の夜に限ぎる』と僕に聞えよがしに言ひました。
『でも暗いじやア御座いませんか』と女はあまへるやうに言ひました。
『影が暗いから月の光が猶ほ可いのです』と男は暗い陰の方へ入りました。女もつゞいて光を避けました。恋人同志にはどうしても人目は禁物と見えます。
 思ふに山王台の月の夜は斯る楽い仲間に数々《しば/\》占領せられるのでしよう。独でぼんやりベンチに腰かけて居た僕は急につまらなく[#「つまらなく」に傍点]なつて帰宅しました。
 又或晩のことでした、十時頃僕は表町から一木町辺に散歩に出ると此日は、何かの祭日で軒提灯が門並に点いて居て随分きらびやかでしたが、時が遅いので人の出は余程減つて居ました。赤坂の中で町らしい町は一木の通だけですけれど、縁日の外は夜もさまでは賑かでなく、これを神田の小川町、牛込の神楽坂、四谷の大通などに比べて見ると人の出は十が一にも及ばないのです。であるから平常《ふだん》は十時頃になると店の戸を閉める家すらある位、夏季《なつば》なら知らぬこと其他は赤坂の夜は確かに日本橋、京橋、神田、本郷、下谷、浅草などの区よりも二時間位は早く夜が更けると見てよろしいので、赤坂区の大部分は十一時十二時は深夜です。
 しかし僕の散歩に出た其夜は祭日であるから十時でもさすがに未だ平常よりは人の往来がはげしかつたのです。僕は一木町と表町の丁字形になつて居る処まで来ると、理髪店《とこや》の前に大さう人が集まつて居ます。そして此人山の中から手風琴の音が起つて、それに合はして軍歌やうのものを歌ふだみ[#「だみ」に傍点]声が聞えるのです。僕は兎ある軒下に立てこれを遠くから見物して居ました。
 この夜も月で、やゝ西に傾いた光が表町の広い道の三分の二をくつきり[#「くつきり」に傍点]と白く照らし三分一は南の家並で黒く陰つて居ました、僕の立て居た処は此黒い影の中であるから、向《むかふ》を見て居ると恰度幻灯を見て居るやうです。
 軒提灯は蝋燭が流れて、並び連ねた紅い団《たま》は一斉に瞬をして居る、人々は最早や祭日の楽を今一時間の中に尽すべく猶ほ浮かれて居る。黒い人山は少しづゝ其処を移して左右前後に動くのです。手風琴の音が絶えては起り、起りては絶え、調子はづれの軍歌が忽ち大声にわめかれるかと思へば、忽ち笑ひ声の中に消えて了ふ。
 此時田町の方から小供の群が万灯《まんどう》をかついで、景気よく押寄せて来ましたが、手風琴の仲間を見るや『万歳!』と口々に叫けんで其中心に割込みました。すると手風琴の人山が左右にドッと割れて『万歳!』『万歳!』と若衆も小供も声をかぎり叫び、わッしよ/\と一団になつてねり[#「ねり」に傍点]出しました。万灯は動く、手風琴は出たらめに鳴りだす。
 此時見附の方から二頭曳の馬車、鉄蹄の響も勇ましく駈けて来ましたが、ねり歩いて居た仲間は道をよけると同時に万歳! と叫びました。馬車は幌馬車で、乗つて居たのは西洋人の男女三四人。
 馬車が通り過ぎるとたん[#「とたん」に傍点]に何と思つたか中の西洋人の一人がフウラーと大声で叫けんで一団の白いものを後ざまに投げ出しました。多分西洋人は酔つて居たのでしよう。其投げだしたのは花束でした、多分夜会の帰りででもあつたのでしよう。
 花束は奪合ひでめちや/\になり、同時に今一度万歳の声が起りました。馬車は既に青山の方へと一丁も先きを駈けて居ました。
 思はず時間を取つたので僕は帰路につきました。仲町辺まで来ると最早別天地です。総てこの辺に住む者は官吏か教師か銀行会社等の役員か、或は利子で食ふ遊民か、其外店を開いて物を商はざる種類の人々で、昔ならば武家屋敷のやうな所であるから夜になると、たゞ街灯が所々《しよしよ》に点いて居るばかり、其淋しさは一通でないのです。十時過ぎれば大概の家は寝て了ひ、灯火の外にもれて居る家は余りない。
 或夜のことでした。僕は青山北町の友人を訪問して十一時頃まで話し、友人が車を呼ばうといふのを辞して外に飛びだすと、外は真暗、北風はピウ/\吹いて寒い/\晩でした。赤坂は東西に長く南北に狭い土地ですから氷川町まで帰るには、随分遠いのです。僕は外套の襟を立てゝ表町から東宮御所の前を真直に郡部(渋谷村)まで達する余一里の大道を郡部の方から表町の方へと逆に大急ぎで歩きました。
 東京の冬の夜と来たら実にたまつたものでないのです。道は石のやうに凍り、吹く風は身をきるばかり。殊に青山の大通は道幅の広いだけに風の当が強く、晴天がつゞくと此寒い風が更に砂を捲いて顔にぶつかるのです。処が其夜は雪あがりで砂の厄難のないかはり、道が氷の上のやうにすべる、僕は物ともせず頸をすくめてどし/\歩きました。
 道はまるで無人の境です。人つ子一人通つて居ません。街灯が寒さうな光をかすかに放つて居るばかり。
 星斗闌干《せいとらんかん》、武蔵野は晴れに晴れて、大空を仰げば気も遠くなるばかり。天の川白く霜を帯びて下界を圧して居るのです。
 かういふ晩に車に乗るは却て寒気《かんき》を増すばかりなることを僕はよく知つて居ますから、此寒さにも客まちして居る車夫の一人を見ましたけれども乗りません。どし/\歩きました。
 新坂を下りると鍋焼うどんが居ました。一人の若い男が頻りと甘さうに食べて居ました。
 僕の家は其頃氷川神社のすぐ脇にありましたから、家に帰るには是非神社の傍を通らなければならないのです。処が此氷川神社、恐らく赤坂区の中これほど物淋しい処はありますまい。
 其森の暗いことは山王台の如く、而も其物すごさは却て氷川神社のほうが甚《ひど》いのです。であるから近処の女などはよく/\の用事がなければ日が暮れて後、氷川神社の傍を通るものは無いのです。況て十時過ぎになると男子とても此境内に散歩するなどの物好はめつた[#「めつた」に傍点]にないのです。夏の夜の月の佳い晩など、氷川町に住む人々の中で折々は此境内に清涼の気を納れるべく出かけるものもありますが冬の夜など、うかと此境内でまごつくと巡査が怪い奴と直ぐ身元を調べるかも知れません。僕は元来臆病者であるから斯ういふ場処を夜更に通行することは余り好まないのですが此夜是非に及ばず真暗な森蔭を通らなければならなかつたのです。
 おつかなびつくり[#「おつかなびつくり」に傍点]で裏門の処まで来ると、境内でひそ/\話を為るものがあるのです。この寒空に如何に気楽な恋人同志でもまさかに氷川神社を撰んで散歩は為ません。僕は急に足を止めて聞き耳をたてました。するとぴかりと眼を射た一閃の光は巡査の角灯でした。
『何んで斯んな処に寝るのだ、貴様の職業は元来何だ』といふ声は巡査です。僕はこの先の問答を聞くよりも早く家に帰つて温まつた方が可いから其まゝ其処を通り過ぎました。多分、寝る処もない男が絵馬堂の隅にでも一夜の宿を借りたのでしよう。それとも悪党が暫時身を潜まして居たのかも知れません。
 中天高く聳えて居る氷川の森はこの時風に吹かれて物すごく鳴つて居ました、少し離れてこれを望むと真黒な小山のやうな輪画[#「画」に「ママ」の注記]を半空に描いて居ます。
 又或夜の事でした。
 僕は妹を二人連れて田町の寄席へ行つたことがあります。この寄席は常に講談ばかりで落語や義太夫は掛つたことのない席で、其客とする処は東京で所謂る職人ばかりです。即ち労働者ばかりです。然し小供には却て落語の渋いのよりも講談の実のあるはうが面白いので妹等は常も僕を促して此寄席にゆくのです。東京人士の中以下の娯楽は此寄席にあるので、『どうだね、今晩寄席にでも行かうかね?』など、極めて手軽に一夜のなぐさみが出来るのです。ですから赤坂は甚だ狭い区であるが田町、一木の辺だけでも寄席が三ヶ所ほどあります。年中客の絶えないのを見ても夜の東京から此寄席をはぶくことの出来ないのが解りましよう。
 僕が妹等と行く寄席の内部をお話すると、客は殆ど男ばかり、そして其行儀の悪いのは驚くばかりで、十人の二三は身体を横にして居るのです、中にはすや/\と眠つて居て、時々張扇の音に目を覚し夢現に宮本武蔵、国定忠次の伝記を聞いて居るのです。そして夜の十時か九時半頃まで、兎も角も罪のない時間を消すのです。
 さて或夜のことでした。僕等は其夜、鈴木|主水《もんど》の講談を聞きましたが席が終《はね》るや外に出ると、二三人の人が黒田下の交番の方を目がけて小走りに走るので、何事が初まつたかと、僕等も其後について走りました。妹等の家は黒田下にあるのだから殊更に走つたわけでもないのです。
『何だ、何だ。』と口々に罵りながら人々がバタ/\走ります。すると一人が、
『人殺、人殺』と叫びます。此声を聞いて両側の家の者がどや/\と外に出ました。中には走りゆく人に加はつて走りだす者もあります。一軒の芸者屋の前に来ると、芸者ども二三人外に出て居ます。
 巡査派出所(交番)まで来て見ると、何事もない様子、巡査は平気な顔をして居るのです。然し人々は猶ほ満足しない。黒田邸を廻ぐる道について走ると、向ふから三四人の若衆ががや/\言ひながら来るのに遇ひました。
『何だ、何だ』と一人が問ひかけました。
『何だか解らない、人を馬鹿にしてらア』と向から来た一人が言ひました。
『だつて人殺しだつて言ふじやアないか』とこちらの一人が言ひました。
『さうかね、人殺だつて? 真実かね?』と向の一人が驚いて問ひました。すると後の方から一人の男がバタ/\走りながら『人殺! 人殺!』と叫んで吾々の傍を飛んでゆきます。これを見て今まで問答して居た仲間が申し合はしたやうに其男の後を逐うて駈けだしました。
 麻布谷町の通りと田町七丁目の交叉して居る三辻に来て見ると何十人といふ人ががや/\言ひながら集まつて居ましたが、一人として取留めた事を言ふものはありません。真面目な顔をして天の一方を睨んで居る者もあれば、ひそ/\と話し合つて居るものもあり、笑つて居るものもあり。三々五々、谷町の方へ行つたり来たりして居るのです。僕は一人の男に向つて、
『何ですか、人殺でもあつたのですか』と聞くと
『何だかそんな話ですが私も今来たばかりで解らないのです』と答へました。兎も角も僕は実際を確めてやらうと谷町の方に向つて三四十間行きますと、向ふから七八人の男が笑いながら、
『何だ馬鹿々々しい、人を馬鹿にして居やアがる、可い面の皮だ』と言ひながら来るのに会ひました。其様子を見ると確に実際の馬鹿々々しい騒動を見届けて来たものらしいから僕も其男どもと後へ引返へして来ました。此時溜池の方から一輛の人車が韋駄天走りにやつて来る、車上の人は警官、御用の提灯を膝の上にのせて居るのです。
 これを見るや、今まで馬鹿々々しいと語りながら歩るいて居た連中は、
『そら! 矢張り人殺だ!』と叫けんで其車の後についてバタ/\駈けだしました。僕は余りの事に吹きだしました。
 妹の家に帰つて三十分ばかり経つて外に出て見ると、三辻に未だ二三十人の人が集まつて居ます。然し今度は誰一人大声で話して居る者はありません、大真面目になつて黒田家の裏門を見詰て居るのです。裏門の前には巡査が一人立番をして居て出入を禁じて居る様子です。此時が十時半。
 馬丁が喧嘩をして其一人が短刀で刺れたといふ事件、而もがや/\騒いで走り廻つた何十人の一人も其実際を見ることは出来ず、たゞ夜ふけに大道を大声をあげ駈け廻はつただけです。
 東京には斯いふ馬鹿気たことが少くないので、火事と弥次馬は東京の名物、それが夜の街をやゝもすると騒がして居るのです。
 山手は総じて樹木が多いが、其中でも赤坂は町の少いかはりに樹木が多く、青山南町、丹後町、氷川町、新坂町辺は庭に樹木が植ゑてあるといふよりも樹木の中に家が建つて居ると言つた方が適当で、此樹木の中に紳士の立派な邸宅が奥ゆかしく潜んで居るのです。夜になると洋灯《らんぷ》若しくは電気灯の光が深緑の間からちら/\と洩れる、そして琴の音優しく響くなどの有難い趣には割合に富んで居るのです。
 六地蔵の縁日は月の六の日に開かれるから其で六地蔵といふのですが、赤坂区中の最も賑かな一木町にあるだけに随分六の日の晩はにぎはふのです。
 地蔵の境内には見世物が出て油煙をすさまじくあげながらドンチヤンと囃し立てゝ客を呼ぶ。一木町の両側には種々の露店が出る。氷川町、仲町、丹後町、表町、新坂町辺の老若男女がぞろ/\と出かける。山王台の上から此光景を見下すと恰度田舎のお祭のやうです。曇つた晩などカンテラの光が雲に映つて遠くから見ると火事かと思はれるばかり。聯隊の兵士、田町の芸者、小役人の細君、会社員、娘、明治の江戸ッ子、種々雑多の人で、一口に言ふと上流社会を除いた其以外の東京人士の標本は悉く縁日の夜に其御面相から風俗から流行までを陳列するのです。

底本:「日本随筆紀行第七巻 東京(下)」作品社
   1986(昭和61)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「國木田獨歩全集 第四巻」改造社
   1930(昭和5)年9月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:向山きよみ
校正:noriko saito
2010年9月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国木田独歩

忘れえぬ人々——国木田独歩

 多摩川《たまがわ》の二子《ふたこ》の渡しをわたって少しばかり行くと溝口《みぞのくち》という宿場がある。その中ほどに亀屋《かめや》という旅人宿《はたごや》がある。ちょうど三月の初めのころであった、この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだにさびしいこの町が一段と物さびしい陰鬱《いんうつ》な寒そうな光景を呈していた。昨日《きのう》降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ茅屋根《わらやね》の南の軒先からは雨滴《あまだれ》が風に吹かれて舞うて落ちている。草鞋《わらじ》の足痕《あしあと》にたまった泥水にすら寒そうな漣《さざなみ》が立っている。日が暮れると間もなく大概の店は戸を閉《し》めてしまった。闇《くら》い一筋町《ひとすじまち》がひっそりとしてしまった。旅人宿《はたごや》だけに亀屋の店の障子《しょうじ》には燈火《あかり》が明《あか》く射《さ》していたが、今宵《こよい》は客もあまりないと見えて内もひっそりとして、おりおり雁頸《がんくび》の太そうな煙管《きせる》で火鉢《ひばち》の縁《ふち》をたたく音がするばかりである。
 突然《だしぬけ》に障子をあけて一人《ひとり》の男がのっそり入《はい》ッて来た。長火鉢に寄っかかッて胸算用《むなさんよう》に余念もなかった主人《あるじ》が驚いてこちらを向く暇もなく、広い土間《どま》を三歩《みあし》ばかりに大股《おおまた》に歩いて、主人《あるじ》の鼻先に突ったッた男は年ごろ三十にはまだ二ツ三ツ足らざるべく、洋服、脚絆《きゃはん》、草鞋《わらじ》の旅装《なり》で鳥打ち帽をかぶり、右の手に蝙蝠傘《こうもり》を携え、左に小さな革包《かばん》を持ってそれをわきに抱いていた。
『一晩厄介になりたい。』
 主人《あるじ》は客の風采《みなり》を視《み》ていてまだ何とも言わない、その時奥で手の鳴る音がした。
『六番でお手が鳴るよ。』
 ほえるような声で主人《あるじ》は叫んだ。
『どちらさまでございます。』
 主人《あるじ》は火鉢に寄っかかったままで問うた。客は肩をそびやかしてちょっと顔をしがめたが、たちまち口の辺《ほとり》に微笑《ほほえみ》をもらして、
『僕か、僕は東京。』
『それでどちらへお越しでございますナ。』
『八王子へ行くのだ。』
 と答えて客はそこに腰を掛け脚絆《きゃはん》の緒《ひも》を解きにかかった。
『旦那《だんな》、東京から八王子なら道が変でございますねエ。』
 主人《あるじ》は不審そうに客のようすを今さらのようにながめて、何か言いたげな口つきをした。客はすぐ気が付いた。
『いや僕は東京だが、今日《きょう》東京から来たのじゃアない、今日は晩《おそ》くなって川崎を出発《たっ》て来たからこんなに暮れてしまったのさ、ちょっと湯をおくれ。』
『早くお湯を持って来ないか。ヘエ随分今日はお寒かったでしょう、八王子の方はまだまだ寒うございます。』
という主人《あるじ》の言葉はあいそ[#「あいそ」に傍点]があっても一体の風《ふう》つきはきわめて無愛嬌《ぶあいきょう》である。年は六十ばかり、肥満《ふと》った体躯《からだ》の上に綿の多い半纒《はんてん》を着ているので肩からじきに太い頭が出て、幅の広い福々《ふくぶく》しい顔の目《まな》じりが下がっている。それでどこかに気むずかしいところが見えている。しかし正直なお爺《やじ》さんだなと客はすぐ思った。
 客が足を洗ッてしまッて、まだふききらぬうち、主人《あるじ》は、
『七番へご案内申しな!』
 と怒鳴ッた。それぎりで客へは何の挨拶《あいさつ》もしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。真っ黒な猫《ねこ》が厨房《くりや》の方から来て、そッと主人《あるじ》の高い膝《ひざ》の上にはい上がって丸くなった。主人《あるじ》はこれを知っているのかいないのか、じっと目をふさいでいる。しばらくすると、右の手が煙草箱《たばこいれ》の方へ動いてその太い指が煙草を丸めだした。
『六番さんのお浴湯《ゆ》がすんだら七番のお客さんをご案内申しな!』
 膝の猫がびっくりして飛び下《お》りた。
『ばか! 貴様《きさま》に言ったのじゃないわ。』
 猫はあわてて厨房《くりや》の方へ駆けていってしまった。柱時計がゆるやかに八時を打った。
『お婆《ばあ》さん、吉蔵が眠そうにしているじゃあないか、早く被中炉《あんか》を入れてやってお寝かしな、かわいそうに。』
 主人《あるじ》の声の方が眠そうである、厨房《くりや》の方で、
『吉蔵はここで本を復習《さらっ》ていますじゃないかね。』
 お婆《ばあ》さんの声らしかった。
『そうかな。吉蔵もうお寝よ、朝早く起きてお復習《さら》いな。お婆さん早く被中炉《あんか》を入れておやんな。』
『今すぐ入れてやりますよ。』
 勝手の方で下婢《かひ》とお婆さんと顔を見合わしてくすくすと笑った。店の方で大きなあくびの声がした。
『自分が眠いのだよ。』
 五十を五つ六つ越えたらしい小さな老母が煤《くす》ぶった被中炉《あんか》に火を入れながらつぶやいた。
 店の障子が風に吹かれてがたがたすると思うとパラパラと雨を吹きつける音が微《かす》かにした。
『もう店の戸を引き寄せて置きな、』と主人《あるじ》は怒鳴って、舌打ちをして、
『また降って来やあがった。』
と独言《ひとりごと》のようにつぶやいた。なるほど風が大分《だいぶ》強くなって雨さえ降りだしたようである。
 春先とはいえ、寒い寒い霙《みぞれ》まじりの風が広い武蔵野《むさしの》を荒れに荒れて終夜《よもすがら》、真《ま》っ闇《くら》な溝口《みぞのくち》の町の上をほえ狂った。
 七番の座敷では十二時過ぎてもまだランプが耿々《こうこう》と輝いている。亀屋で起きている者といえばこの座敷の真ん中で、差し向かいで話している二人の客ばかりである。戸外《そと》は風雨の声いかにもすさまじく、雨戸が絶えず鳴っていた。
『この模様では明日《あした》のお立ちは無理ですぜ。』
と一人が相手の顔を見て言った。これは六番の客である。
『何、別に用事はないのだから明日《あした》一日くらいここで暮らしてもいいんです。』
 二人とも顔を赤くして鼻の先を光らしている。そばの膳《ぜん》の上には煖陶《かんびん》が三本乗っていて、杯《さかずき》には酒が残っている。二人とも心地よさそうに体《からだ》をくつろげて、あぐらをかいて、火鉢を中にして煙草を吹かしている、六番の客は袍巻《かいまき》の袖《そで》から白い腕を臂《ひじ》まで出して巻煙草の灰を落としては、喫《す》っている。二人の話しぶりはきわめて卒直であるものの今宵《こよい》初めてこの宿舎《やど》で出合って、何かの口緒《いとぐち》から、二口三口|襖越《ふすまご》しの話があって、あまりのさびしさに六番の客から押しかけて来て、名刺の交換が済むや、酒を命じ、談話《はなし》に実が入って来るや、いつしか丁寧な言葉とぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]な言葉とを半混ぜに使うようになったものに違いない。
 七番の客の名刺には大津弁二郎《おおつべんじろう》とある、別に何の肩書きもない。六番の客の名刺には秋山松之助とあって、これも肩書きがない。
 大津とはすなわち日が暮れて着いた洋服の男である。やせ形《がた》な、すらりとして色の白いところは相手の秋山とはまるで違っている。秋山は二十五か六という年輩で、丸く肥えて赤ら顔で、目元に愛嬌《あいきょう》があって、いつもにこにこしているらしい。大津は無名の文学者で、秋山は無名の画家で不思議にも同種類の青年がこの田舎《いなか》の旅宿《はたごや》で落ち合ったのであった。
『もう寝ようかねエ。随分|悪口《あっこう》も言いつくしたようだ。』
 美術論から文学論から宗教論まで二人はかなり勝手にしゃべって、現今《いま》の文学者や画家の大家を手ひどく批評して十一時が打ったのに気が付かなかったのである。
『まだいいさ。どうせ明日《あした》はだめでしょうから夜通し話したってかまわないさ。』
 画家の秋山はにこにこしながら言った。
『しかし何時《いくじ》でしょう。』
と大津は投げ出してあった時計を見て、
『おやもう十一時過ぎだ。』
『どうせ徹夜でさあ。』
 秋山は一向平気である。杯を見つめて、
『しかし君が眠けりゃあ寝てもいい。』
『眠くはちっともない、君が疲れているだろうと思ってさ。僕は今日《きょう》晩《おそ》く川崎を立って三里半ばかしの道を歩いただけだから何ともないけれど。』
『なに僕だって何ともないさ、君が寝るならこれを借りていって読んで見ようと思うだけです。』
 秋山は半紙十枚ばかりの原稿らしいものを取り上げた。その表紙には『忘れ得ぬ人々』と書いてある。
『それはほんとにだめですよ。つまり君の方でいうと鉛筆で書いたスケッチと同《おんな》じことで他人《ひと》にはわからないのだから。』
といっても大津は秋山の手からその原稿を取ろうとはしなかった。秋山は一枚二枚|開《あ》けて見てところどころ読んで見て、
『スケッチにはスケッチだけのおもしろ味があるから少し拝見したいねエ。』
『まアちょっと借して見たまえ。』
と大津は秋山の手から原稿を取って、ところどころあけて見ていたが、二人はしばらく無言であった。戸外《そと》の風雨の声がこの時今さらのように二人の耳に入った。大津は自分の書いた原稿を見つめたままじっと耳を傾けて夢心地《ゆめごこち》になった。
『こんな晩は君の領分だねエ。』
 秋山の声は大津の耳に入《い》らないらしい。返事もしないでいる。風雨の音を聞いているのか、原稿を見ているのか、はた遠く百里のかなたの人を憶《おも》っているのか、秋山は心のうちで、大津の今の顔、今の目元はわが領分だなと思った。
『君がこれを読むよりか、僕がこの題で話した方がよさそうだ。どうです、君は聴《き》きますか。この原稿はほんの大要《あらまし》を書き止めて置いたのだから読んだってわからないからねエ。』
 夢からさめたような目つきをして大津は目を秋山の方に転じた。
『詳しく話して聞かされるならなおのことさ。』
と秋山が大津の目を見ると、大津の目は少し涙にうるんでいて、異様な光を放っていた。
『僕はなるべく詳しく話すよ、おもしろくないと思ったら、遠慮なく注意してくれたまえ。その代わり僕も遠慮なく話すよ。なんだか僕の方で聞いてもらいたいような心持ちになって来たから妙じゃあないか。』
 秋山は火鉢に炭をついで、鉄瓶《てつびん》の中へ冷めた煖陶《かんびん》を突っ込んだ。
『忘れ得ぬ人は必ずしも忘れてかなうまじき人にあらず、見たまえ僕のこの原稿の劈頭《へきとう》第一に書いてあるのはこの句である。』
 大津はちょっと秋山の前にその原稿を差しいだした。
『ね。それで僕はまずこの句の説明をしようと思う。そうすればおのずからこの文の題意がわかるだろうから。しかし君には大概わかっていると思うけれど。』
『そんなことを言わないで、ずんずんやりたまえよ。僕は世間の読者のつもりで聴いているから。失敬、横になって聴くよ。』
 秋山は煙草をくわえて横になった。右の手で頭を支《ささ》えて大津の顔を見ながら目元に微笑をたたえている。
『親とか子とかまたは朋友《ほうゆう》知己そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れてかなうまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。世間一般の者にそういう人があるとは言わないが少なくとも僕にはある。恐らくは君にもあるだろう。』
 秋山は黙ってうなずいた。
『僕が十九の歳《とし》の春の半《なか》ごろと記憶しているが、少し体躯《からだ》の具合が悪いのでしばらく保養する気で東京の学校を退《ひ》いて国へ帰る、その帰途《かえりみち》のことであった。大阪から例の瀬戸内通《せとうちがよ》いの汽船に乗って春海《しゅんかい》波平らかな内海《うちうみ》を航するのであるが、ほとんど一昔も前の事であるから、僕もその時の乗合の客がどんな人であったやら、船長がどんな男であったやら、茶菓《ちゃか》を運ぶボーイの顔がどんなであったやら、そんなことは少しも憶《おぼ》えていない。多分僕に茶を注《つ》いでくれた客もあったろうし、甲板の上でいろいろと話しかけた人もあったろうが、何にも記憶に止まっていない。
『ただその時は健康が思わしくないからあまり浮き浮きしないで物思いに沈んでいたに違いない。絶えず甲板の上に出《い》で将来《ゆくすえ》の夢を描いてはこの世における人の身の上のことなどを思いつづけていたことだけは記憶している。もちろん若いものの癖でそれも不思議はないが。そこで僕は、春の日ののどかな光が油のような海面に融《と》けほとんど漣《さざなみ》も立たぬ中を船の船首《へさき》が心地よい音をさせて水を切って進行するにつれて、霞《かすみ》たなびく島々を迎えては送り、右舷《うげん》左舷《さげん》の景色《けしき》をながめていた。菜の花と麦の青葉とで錦《にしき》を敷いたような島々がまるで霞の奥に浮いているように見える。そのうち船がある小さな島を右舷に見てその磯《いそ》から十町とは離れないところを通るので僕は欄に寄り何心《なにげ》なくその島をながめていた。山の根がたのかしこここに背の低い松が小杜《こもり》を作っているばかりで、見たところ畑《はた》もなく家らしいものも見えない。しんとしてさびしい磯の退潮《ひきしお》の痕《あと》が日に輝《ひか》って、小さな波が水際《みぎわ》をもてあそんでいるらしく長い線《すじ》が白刃《しらは》のように光っては消えている。無人島《むにんとう》でない事はその山よりも高い空で雲雀《ひばり》が啼《な》いているのが微《かす》かに聞こえるのでわかる。田畑ある島と知れけりあげ雲雀、これは僕の老父《おやじ》の句であるが、山のむこうには人家があるに相違ないと僕は思うた。と見るうち退潮《ひきしお》の痕《あと》の日に輝《ひか》っているところに一人の人がいるのが目についた。たしかに男である、また小供《こども》でもない。何かしきりに拾っては籠《かご》か桶《おけ》かに入れているらしい。二三歩《ふたあしみあし》あるいてはしゃがみ[#「しゃがみ」に傍点]、そして何か拾っている。自分はこのさびしい島かげの小さな磯を漁《あさ》っているこの人をじっとながめていた。船が進むにつれて人影が黒い点のようになってしまった、そのうち磯も山も島全体が霞《かすみ》のかなたに消えてしまった。その後|今日《きょう》が日までほとんど十年の間、僕は何度この島かげの顔も知らないこの人を憶《おも》い起こしたろう。これが僕の「忘れ得ぬ人々」の一人である。
『その次は今から五年ばかり以前、正月|元旦《がんたん》を父母の膝下《ひざもと》で祝ってすぐ九州旅行に出かけて、熊本《くまもと》から大分《おおいた》へと九州を横断した時のことであった。
『僕は朝早く弟と共に草鞋《わらじ》脚絆《きゃはん》で元気よく熊本を出発《た》った。その日はまだ日が高いうちに立野《たての》という宿場まで歩いてそこに一泊した。次の日のまだ登らないうち立野を立って、かねての願いで、阿蘇山《あそさん》の白煙《はくえん》を目がけて霜を踏み桟橋を渡り、路を間違えたりしてようやく日中《おひる》時分に絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは一時過ぎでもあッただろうか。熊本地方は温暖であるがうえに、風のないよく晴れた日だから、冬ながら六千尺の高山もさまでは寒く感じない。高嶽《たかたけ》の絶頂《いただき》は噴火口から吐き出す水蒸気が凝って白くなっていたがそのほかは満山ほとんど雪を見ないで、ただ枯れ草白く風にそよぎ、焼け土のあるいは赤きあるいは黒きが旧噴火口の名残《なごり》をかしこここに止めて断崖《だんがい》をなし、その荒涼たる、光景は、筆も口もかなわない、これを描くのはまず君の領分だと思う。
『僕らは一度噴火口の縁《ふち》まで登って、しばらくはすさまじい穴をのぞき込んだり四方の大観をほしいままにしたりしていたが、さすがに頂《いただき》は風が寒くってたまらないので、穴から少し下《お》りると阿蘇神社があるそのそばに小さな小屋があって番茶くらいはのませてくれる、そこへ逃げ込んで団飯《むすび》をかじって元気をつけて、また噴火口まで登った。
『その時は日がもうよほど傾いて肥後の平野《へいや》を立てこめている霧靄《もや》が焦げて赤くなってちょうどそこに見える旧噴火口の断崖と同じような色に染まった。円錐形《えんすいけい》にそびえて高く群峰を抜く九重嶺の裾野《すその》の高原数里の枯れ草が一面に夕陽《せきよう》を帯び、空気が水のように澄んでいるので人馬の行くのも見えそうである。天地|寥廓《りょうかく》、しかも足もとではすさまじい響きをして白煙|濛々《もうもう》と立ちのぼりまっすぐに空を衝《つ》き急に折れて高嶽《たかたけ》を掠《かす》め天の一方に消えてしまう。壮といわんか美といわんか惨《さん》といわんか、僕らは黙ったまま一|言《ごん》も出さないでしばらく石像のように立っていた。この時天地|悠々《ゆうゆう》の感、人間存在の不思議の念などが心の底からわいて来るのは自然のことだろうと思う。
『ところでもっとも僕らの感を惹《ひ》いたものは九重嶺と阿蘇山との間の一大窪地《いちだいくぼち》であった。これはかねて世界最大の噴火口の旧跡と聞いていたがなるほど、九重嶺の高原が急に頽《おち》こんでいて数里にわたる絶壁がこの窪地の西を回《めぐ》っているのが眼下によく見える。男体山麓《なんたいさんろく》の噴火口は明媚幽邃《めいびゆうすい》の中禅寺湖と変わっているがこの大噴火口はいつしか五穀実る数千町歩の田園とかわって村落幾個の樹林や麦畑が今しも斜陽静かに輝いている。僕らがその夜、疲れた足を踏みのばして罪のない夢を結ぶを楽しんでいる宮地《みやじ》という宿駅もこの窪地にあるのである。
『いっそのこと山上の小屋に一泊して噴火の夜の光景を見ようかという説も二人の間に出たが、先が急がれるのでいよいよ山を下ることに決めて宮地を指《さ》して下《お》りた。下《くだ》りは登りよりかずっと勾配《こうばい》が緩《ゆる》やかで、山の尾や谷間の枯れ草の間を蛇《へび》のようにうねっている路をたどって急ぐと、村に近づくにつれて枯れ草を着けた馬をいくつか逐《お》いこした。あたりを見るとかしこここの山の尾の小路《こみち》をのどかな鈴の音夕陽を帯びて人馬いくつとなく麓《ふもと》をさして帰りゆくのが数えられる、馬はどれもみな枯れ草を着けている。麓はじきそこに見えていても容易には村へ出ないので、日は暮れかかるし僕らは大急ぎに急いでしまいには走って下りた。
『村に出た時はもう日が暮れて夕闇《ゆうやみ》ほのぐらいころであった。村の夕暮れのにぎわい[#「にぎわい」に傍点]は格別で、壮年|男女《なんにょ》は一日の仕事のしまい[#「しまい」に傍点]に忙しく子供は薄暗い垣根《かきね》の陰や竈《かまど》の火の見える軒先に集まって笑ったり歌ったり泣いたりしている、これはどこの田舎《いなか》も同じことであるが、僕は荒涼たる阿蘇の草原から駆け下りて突然、この人寰《じんかん》に投じた時ほど、これらの光景に搏《う》たれたことはない。二人は疲れた足をひきずって、日暮れて路《みち》遠きを感じながらも、懐《なつ》かしいような心持ちで宮地を今宵《こよい》の当てに歩いた。
『一|村《むら》離れて林や畑《はた》の間をしばらく行くと日はとっぷり暮れて二人の影がはっきりと地上に印するようになった。振り向いて西の空を仰ぐと阿蘇の分派の一峰の右に新月がこの窪地一帯の村落を我物顔《わがものがお》に澄んで蒼味《あおみ》がかった水のような光を放っている。二人は気がついてすぐ頭の上を仰ぐと、昼間は真っ白に立ちのぼる噴煙が月の光を受けて灰色に染まって碧瑠璃《へきるり》の大空を衝《つ》いているさまが、いかにもすさまじくまた美しかった。長さよりも幅の方が長い橋にさしかかったから、幸いとその欄に倚《よ》っかかって疲れきった足を休めながら二人は噴煙のさまのさまざまに変化するをながめたり、聞くともなしに村落の人語の遠くに聞こゆるを聞いたりしていた。すると二人が今来た道の方から空車《からぐるま》らしい荷車の音が林などに反響して虚空《こくう》に響き渡って次第に近づいて来るのが手に取るように聞こえだした。
『しばらくすると朗々《ほがらか》な澄《す》んだ声で流して歩く馬子唄《まごうた》が空車の音につれて漸々《ぜんぜん》と近づいて来た。僕は噴煙をながめたままで耳を傾けて、この声の近づくのを待つともなしに待っていた。
『人影が見えたと思うと「宮地ゃよいところじゃ阿蘇山ふもと」という俗謡《うた》を長く引いてちょうど僕らが立っている橋の少し手前まで流して来たその俗謡《うた》の意《こころ》と悲壮な声とがどんなに僕の情《こころ》を動かしたろう。二十四、五かと思われる屈強な壮漢《わかもの》が手綱《たづな》を牽《ひ》いて僕らの方を見向きもしないで通ってゆくのを僕はじっとみつめていた。夕月の光を背にしていたからその横顔もはっきりとは知れなかったがそのたくましげな体躯《からだ》の黒い輪郭が今も僕の目の底に残っている。
『僕は壮漢《わかもの》の後ろ影をじっと見送って、そして阿蘇の噴煙を見あげた。「忘れ得ぬ人々」の一人はすなわちこの壮漢《わかもの》である。
『その次は四国の三津が浜に一泊して汽船|便《びん》を待った時のことであった。夏の初めと記憶しているが僕は朝早く旅宿《やど》を出て汽船の来るのは午後と聞いたのでこの港の浜や町を散歩した。奥に松山を控えているだけこの港の繁盛《はんじょう》は格別で、分けても朝は魚市《うおいち》が立つので魚市場の近傍の雑踏は非常なものであった。大空は名残《なごり》なく晴れて朝日|麗《うらら》かに輝き、光る物には反射を与え、色あるものには光を添えて雑踏の光景をさらに殷々《にぎにぎ》しくしていた。叫ぶもの呼ぶもの、笑声|嬉々《きき》としてここに起これば、歓呼|怒罵《どば》乱れてかしこにわくというありさまで、売るもの買うもの、老若男女《ろうにゃくなんにょ》、いずれも忙しそうにおもしろそうにうれしそうに、駆けたり追ったりしている。露店《ろてん》が並んで立ち食いの客を待っている。売っている品《もの》は言わずもがなで、食ってる人は大概|船頭《せんどう》船方《ふなかた》の類《たぐい》にきまっている。鯛《たい》や比良目《ひらめ》や海鰻《あなご》や章魚《たこ》が、そこらに投げ出してある。なまぐさい臭《にお》いが人々の立ち騒ぐ袖《そで》や裾《すそ》にあおられて鼻を打つ。
『僕は全くの旅客《りょかく》でこの土地には縁もゆかりもない身だから、知る顔もなければ見覚えの禿《は》げ頭もない。そこで何となくこれらの光景が異様な感を起こさせて、世のさまを一段|鮮《あざ》やかにながめるような心地がした。僕はほとんど自己《おのれ》をわすれてこの雑踏の中《うち》をぶらぶらと歩き、やや物静かなる街《ちまた》の一端《はし》に出た。
『するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶《びわ》の音《ね》であった。そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。歳《とし》のころ四十を五ツ六ツも越えたらしく、幅の広い四角な顔の丈《たけ》の低い肥えた漢子《おとこ》であった。その顔の色、その目の光はちょうど悲しげな琵琶の音にふさわしく、あの咽《むせ》ぶような糸の音につれて謡《うた》う声が沈んで濁って淀《よど》んでいた。巷《ちまた》の人は一人もこの僧を顧みない、家々の者はたれもこの琵琶に耳を傾けるふうも見せない。朝日は輝く浮世はせわしい。
『しかし僕はじっとこの琵琶僧をながめて、その琵琶の音に耳を傾けた。この道幅の狭い軒端《のきば》のそろわない、しかもせわしそうな巷《ちまた》の光景がこの琵琶僧とこの琵琶の音とに調和しないようでしかもどこかに深い約束があるように感じられた。あの嗚咽《おえつ》する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇ましげな売り声や、かしましい鉄砧《かなしき》の音と雑《ま》ざって、別に一|道《どう》の清泉が濁波《だくは》の間を潜《くぐ》って流れるようなのを聞いていると、うれしそうな、浮き浮きした、おもしろそうな、忙しそうな顔つきをしている巷の人々の心の底の糸が自然の調べをかなでているように思われた、「忘れえぬ人々」の一人はすなわちこの琵琶僧である。』
 ここまで話して来て大津は静かにその原稿を下に置いてしばらく考え込んでいた。戸外《そと》の雨風の響きは少しも衰えない。秋山は起き直って、
『それから。』
『もうよそう、あまりふけるから。まだいくらもある。北海道|歌志内《うたしな》の鉱夫、大連《だいれん》湾頭の青年漁夫、番匠川《ばんしょうがわ》の瘤《こぶ》ある舟子《ふなこ》など僕が一々この原稿にあるだけを詳しく話すなら夜が明けてしまうよ。とにかく、僕がなぜこれらの人々を忘るることができないかという、それは憶《おも》い起こすからである。なぜ僕が憶い起こすだろうか。僕はそれを君に話して見たいがね。
『要するに僕は絶えず人生の問題に苦しんでいながらまた自己将来の大望《たいもう》に圧せられて自分で苦しんでいる不幸《ふしあわせ》な男である。
『そこで僕は今夜《こよい》のような晩に独《ひと》り夜ふけて燈《ともしび》に向かっているとこの生の孤立を感じて堪《た》え難いほどの哀情を催して来る。その時僕の主我の角《つの》がぼきり折れてしまって、なんだか人懐《ひとなつ》かしくなって来る。いろいろの古い事や友の上を考えだす。その時|油然《ゆぜん》として僕の心に浮かんで来るのはすなわちこれらの人々である。そうでない、これらの人々を見た時の周囲の光景の裡《うち》に立つこれらの人々である。われと他と何の相違があるか、みなこれこの生を天の一方地の一角に享《う》けて悠々《ゆうゆう》たる行路をたどり、相携えて無窮の天に帰る者ではないか、というような感が心の底から起こって来てわれ知らず涙が頬《ほお》をつたうことがある。その時は実に我《われ》もなければ他《ひと》もない、ただたれもかれも懐かしくって、忍ばれて来る、
『僕はその時ほど心の平穏を感ずることはない、その時ほど自由を感ずることはない、その時ほど名利《めいり》競争の俗念消えてすべての物に対する同情の念の深い時はない。
『僕はどうにかしてこの題目で僕の思う存分に書いて見たいと思うている。僕は天下必ず同感の士あることと信ずる。』
 その後二年|経《た》った。
 大津は故《ゆえ》あって東北のある地方に住まっていた。溝口《みぞのくち》の旅宿《やど》で初めてあった秋山との交際は全く絶えた。ちょうど、大津が溝口に泊まった時の時候であったが、雨の降る晩のこと。大津は独《ひと》り机に向かって瞑想《めいそう》に沈んでいた。机の上には二年|前《まえ》秋山に示した原稿と同じの『忘れ得ぬ人々』が置いてあって、その最後に書き加えてあったのは『亀屋《かめや》の主人《あるじ》』であった。
『秋山』ではなかった。

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「国民之友」
   1898(明治31)年4月
入力:土屋隆
校正:蒋龍
2009年3月28日作成
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国木田独歩

武蔵野——国木田独歩

     

「武蔵野の俤《おもかげ》は今わずかに入間《いるま》郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原《こてさしはら》久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。
 さてこの望みがはたして自分の力で達せらるるであろうか。自分はできないとはいわぬ。容易でないと信じている、それだけ自分は今の武蔵野に趣味を感じている。たぶん同感の人もすくなからぬことと思う。
 それで今、すこしく端緒《たんちょ》をここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果したい。まず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の美《び》今も昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣《ししゅ》といいたい、そのほうが適切と思われる。

     

 そこで自分は材料不足のところから自分の日記を種にしてみたい。自分は二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷《しぶや》村の小さな茅屋《ぼうおく》に住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くというのもそのわけである。
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九月七日[#「九月七日」に白丸傍点]――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影[#「林影」に丸傍点]一時に煌《きら》めく、――」
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 これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲《あまぐも》の南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光|水気《すいき》を帯びてかなたの林に落ちこなたの杜《もり》にかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声|野《や》にみつ、浮雲変幻《ふうんへんげん》たり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしく[#「日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしく」に白丸傍点]きわめて趣味深く自分は感じた。
 まずこれを今の武蔵野の秋の発端《ほったん》として、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。
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九月十九日[#「九月十九日」に白丸傍点]――「朝、空曇り風死す、冷霧寒露、虫声しげし、天地の心なお目さめぬがごとし」
同二十一日[#「同二十一日」に白丸傍点]――「秋天|拭《ぬぐ》うがごとし、木葉火のごとくかがやく[#「木葉火のごとくかがやく」に丸傍点]」
十月十九日[#「十月十九日」に白丸傍点]――「月[#「月」に丸傍点]明らかに林影黒し」
同二十五日[#「同二十五日」に白丸傍点]――「朝は霧[#「霧」に丸傍点]深く、午後は晴る、夜に入りて雲の絶間の月さゆ。朝まだき霧の晴れぬ間に家を出《い》で野[#「野」に丸傍点]を歩み林[#「林」に丸傍点]を訪う」
同二十六日[#「同二十六日」に白丸傍点]――「午後林を訪《おとな》う。林の奥に座して四顧[#「四顧」に丸傍点]し、傾聴[#「傾聴」に丸傍点]し、睇視[#「睇視」に丸傍点]し、黙想[#「黙想」に丸傍点]す」
十一月四日[#「十一月四日」に白丸傍点]――「天高く気澄む、夕暮に独り風吹く野[#「風吹く野」に丸傍点]に立てば、天外の富士[#「富士」に丸傍点]近く、国境をめぐる連山[#「連山」に丸傍点]地平線上に黒し。星光一点、暮色ようやく到り、林影ようやく遠し」
同十八日[#「同十八日」に白丸傍点]――「月を蹈《ふ》んで散歩す、青煙地を這《は》い月光林に砕く」
同十九日[#「同十九日」に白丸傍点]――「天晴れ、風清く、露冷やかなり。満目黄葉の中緑樹を雑《まじ》ゆ。小鳥|梢《こずえ》に囀《てん》ず。一路人影なし[#「一路人影なし」に丸傍点]。独り歩み黙思|口吟《こうぎん》し、足にまかせて近郊をめぐる」
同二十二日[#「同二十二日」に白丸傍点]――「夜|更《ふ》けぬ、戸外は林をわたる風声[#「風声」に丸傍点]ものすごし。滴声しきりなれども雨はすでに止みたりとおぼし」
同二十三日[#「同二十三日」に白丸傍点]――「昨夜の風雨にて木葉ほとんど揺落せり。稲田[#「稲田」に丸傍点]もほとんど刈り取らる。冬枯の淋しき様となりぬ」
同二十四日[#「同二十四日」に白丸傍点]――「木葉いまだまったく落ちず。遠山[#「遠山」に丸傍点]を望めば、心も消え入らんばかり懐《なつか》し」
同二十六日[#「同二十六日」に白丸傍点]――夜十時記す「屋外は風雨の声ものすごし。滴声相応ず。今日は終日霧[#「霧」に丸傍点]たちこめて野や林や永久《とこしえ》の夢に入りたらんごとく。午後犬を伴うて散歩す。林に入り黙坐す。犬眠る。水流[#「水流」に丸傍点]林より出でて林に入る、落葉を浮かべて流る。おりおり時雨[#「時雨」に丸傍点]しめやかに林を過ぎて落葉の上をわたりゆく音静かなり」
同二十七日[#「同二十七日」に白丸傍点]――「昨夜の風雨は今朝なごりなく晴れ、日うららかに昇りぬ。屋後の丘に立ちて望めば富士山真白ろに[#「富士山真白ろに」に丸傍点]連山の上に聳《そび》ゆ。風清く気澄めり。
 げに初冬の朝なるかな。
 田面《たおも》に水あふれ、林影|倒《さかしま》に映れり」
十二月二日[#「十二月二日」に白丸傍点]――「今朝霜、雪のごとく朝日にきらめきてみごとなり。しばらくして薄雲かかり日光寒し」
同二十二日[#「同二十二日」に白丸傍点]――「雪[#「雪」に丸傍点]初めて降る」
三十年一月十三日[#「三十年一月十三日」に白丸傍点]――「夜更けぬ。風死し林黙す。雪しきりに降る。燈をかかげて戸外をうかがう、降雪火影にきらめきて舞う。ああ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風の音す、はたして風声か」
同十四日[#「同十四日」に白丸傍点]――「今朝大雪、葡萄棚《ぶどうだな》堕《お》ちぬ。
 夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒《よさむ》の凩《こがらし》なるかな。雪どけの滴声軒をめぐる」
同二十日[#「同二十日」に白丸傍点]――「美しき朝。空は片雲なく、地は霜柱白銀のごとくきらめく。小鳥梢に囀ず。梢頭《しょうとう》針のごとし」
二月八日[#「二月八日」に白丸傍点]――「梅咲きぬ。月ようやく美なり」
三月十三日[#「三月十三日」に白丸傍点]――「夜十二時、月傾き風きゅうに、雲わき、林鳴る」
同二十一日[#「同二十一日」に白丸傍点]――「夜十一時。屋外の風声をきく、たちまち遠くたちまち近し。春や襲いし、冬や遁《のが》れし」
[#ここで字下げ終わり]

     

 昔の武蔵野は萱原《かやはら》のはてなき光景をもって絶類の美を鳴らしていたようにいい伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林はじつに今の武蔵野の特色といってもよい。すなわち木はおもに楢《なら》の類《たぐ》いで冬はことごとく落葉し、春は滴《したた》るばかりの新緑|萌《も》え出ずるその変化が秩父嶺以東十数里の野いっせいに行なわれて、春夏秋冬を通じ霞《かすみ》に雨に月に風に霧に時雨《しぐれ》に雪に、緑蔭に紅葉に、さまざまの光景を呈《てい》するその妙はちょっと西国地方また東北の者には解しかねるのである。元来日本人はこれまで楢の類いの落葉林の美をあまり知らなかったようである。林といえばおもに松林のみが日本の文学美術の上に認められていて、歌にも楢林の奥で時雨を聞くというようなことは見あたらない。自分も西国に人となって少年の時学生として初めて東京に上ってから十年になるが、かかる落葉林の美を解するに至ったのは近来のことで、それも左の文章がおおいに自分を教えたのである。
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「秋九月中旬というころ、一日自分が樺《かば》の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生《な》ま暖かな日かげも射してまことに気まぐれな空合《そらあ》い。あわあわしい白《し》ら雲が空《そ》ら一面に棚引《たなび》くかと思うと、フトまたあちこち瞬《またた》く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧《さか》し気《げ》にみえる人の眼のごとくに朗らかに晴れた蒼空《あおぞら》がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上でかすかに戦《そよ》いだが、その音を聞いたばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌《しゃべ》りでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語《ささやき》の声であった。そよ吹く風は忍ぶように木末《こずえ》を伝ッた、照ると曇るとで雨にじめつく林の中のようすが間断なく移り変わッた、あるいはそこにありとある物すべて一時に微笑したように、隈《くま》なくあかみわたッて、さのみ繁《しげ》くもない樺《かば》のほそぼそとした幹《みき》は思いがけずも白絹めく、やさしい光沢《こうたく》を帯《お》び、地上に散り布《し》いた、細かな落ち葉はにわかに日に映じてまばゆきまでに金色を放ち、頭をかきむしッたような『パアポロトニク』(蕨《わらび》の類《たぐ》い)のみごとな茎《くき》、しかも熟《つ》えすぎた葡萄《ぶどう》めく色を帯びたのが、際限もなくもつれからみつして目前に透かして見られた。
 あるいはまたあたり一面にわかに薄暗くなりだして、瞬《またた》く間に物のあいろも見えなくなり、樺の木立ちも、降り積ッたままでまた日の眼に逢わぬ雪のように、白くおぼろに霞む――と小雨が忍びやかに、怪し気に、私語するようにバラバラと降ッて通ッた。樺の木の葉はいちじるしく光沢が褪《さ》めてもさすがになお青かッた、がただそちこちに立つ稚木のみはすべて赤くも黄いろくも色づいて、おりおり日の光りが今ま雨に濡《ぬ》れたばかりの細枝の繁みを漏《も》れて滑りながらに脱《ぬ》けてくるのをあびては、キラキラときらめいた」
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 すなわちこれはツルゲーネフ[#「ツルゲーネフ」に傍線]の書きたるものを二葉亭が訳して「あいびき」と題した短編の冒頭《ぼうとう》にある一節であって、自分がかかる落葉林の趣きを解するに至ったのはこの微妙な叙景の筆の力が多い。これはロシアの景でしかも林は樺の木で、武蔵野の林は楢の木、植物帯からいうとはなはだ異なっているが落葉林の趣は同じことである。自分はしばしば思うた、もし武蔵野の林が楢の類《たぐ》いでなく、松か何かであったらきわめて平凡な変化に乏しい色彩いちようなものとなってさまで珍重《ちんちょう》するに足らないだろうと。
 楢の類いだから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨《しぐれ》が私語《ささや》く。凩《こがらし》が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かのごとく遠く飛び去る。木の葉落ちつくせば、数十里の方域にわたる林が一時に裸体《はだか》になって、蒼《あお》ずんだ冬の空が高くこの上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気がいちだん澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞こえる。自分は十月二十六日の記に、林の奥に座して四顧し、傾聴し、睇視《ていし》し、黙想すと書いた。「あいびき」にも、自分は座して、四顧して、そして耳を傾けたとある。この耳を傾けて聞くということがどんなに秋の末から冬へかけての、今の武蔵野の心に適《かな》っているだろう。秋ならば林のうちより起こる音、冬ならば林のかなた遠く響く音。
 鳥の羽音、囀《さえず》る声。風のそよぐ、鳴る、うそぶく、叫ぶ声。叢《くさむら》の蔭、林の奥にすだく虫の音。空車《からぐるま》荷車の林を廻《めぐ》り、坂を下り、野路《のじ》を横ぎる響。蹄《ひづめ》で落葉を蹶散《けち》らす音、これは騎兵演習の斥候《せっこう》か、さなくば夫婦連れで遠乗りに出かけた外国人である。何事をか声高《こわだか》に話しながらゆく村の者のだみ声、それもいつしか、遠ざかりゆく。独り淋しそうに道をいそぐ女の足音。遠く響く砲声。隣の林でだしぬけに起こる銃音《つつおと》。自分が一度犬をつれ、近処の林を訪《おとな》い、切株に腰をかけて書《ほん》を読んでいると、突然林の奥で物の落ちたような音がした。足もとに臥《ね》ていた犬が耳を立ててきっとそのほうを見つめた。それぎりであった。たぶん栗が落ちたのであろう、武蔵野には栗樹《くりのき》もずいぶん多いから。
 もしそれ時雨《しぐれ》の音に至ってはこれほど幽寂《ゆうじゃく》のものはない。山家の時雨は我国でも和歌の題にまでなっているが、広い、広い、野末から野末へと林を越え、杜《もり》を越え、田を横ぎり、また林を越えて、しのびやかに通り過《ゆ》く時雨の音のいかにも幽《しず》かで、また鷹揚《おうよう》な趣きがあって、優《やさ》しく懐《ゆか》しいのは、じつに武蔵野の時雨の特色であろう。自分がかつて北海道の深林で時雨に逢ったことがある、これはまた人跡絶無の大森林であるからその趣はさらに深いが、その代り、武蔵野の時雨《しぐれ》のさらに人なつかしく、私語《ささや》くがごとき趣はない。
 秋の中ごろから冬の初め、試みに中野あたり、あるいは渋谷、世田ヶ谷、または小金井の奥の林を訪《おとな》うて、しばらく座って散歩の疲れを休めてみよ。これらの物音、たちまち起こり、たちまち止み、しだいに近づき、しだいに遠ざかり、頭上の木の葉風なきに落ちてかすかな音をし、それも止んだ時、自然の静蕭《せいしょう》を感じ、永遠《エタルニテー》の呼吸身に迫るを覚ゆるであろう。武蔵野の冬の夜更けて星斗闌干《せいとらんかん》たる時、星をも吹き落としそうな野分《のわき》がすさまじく林をわたる音を、自分はしばしば日記に書いた。風の音は人の思いを遠くに誘う。自分はこのもの凄《すご》い風の音のたちまち近くたちまち遠きを聞きては、遠い昔からの武蔵野の生活を思いつづけたこともある。
 熊谷直好の和歌に、
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よもすから木葉かたよる音きけは
   しのひに風のかよふなりけり
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というがあれど、自分は山家の生活を知っていながら、この歌の心をげにもと感じたのは、じつに武蔵野の冬の村居の時であった。
 林に座っていて日の光のもっとも美しさを感ずるのは、春の末より夏の初めであるが、それは今ここには書くべきでない。その次は黄葉の季節である。なかば黄いろくなかば緑な林の中に歩いていると、澄みわたった大空が梢々《こずえこずえ》の隙間からのぞかれて日の光は風に動く葉末《はずえ》葉末に砕《くだ》け、その美しさいいつくされず。日光とか碓氷《うすい》とか、天下の名所はともかく、武蔵野のような広い平原の林が隈《くま》なく染まって、日の西に傾くとともに一面の火花を放つというも特異の美観ではあるまいか。もし高きに登りて一目にこの大観を占めることができるならこの上もないこと、よしそれができがたいにせよ、平原の景の単調なるだけに、人をしてその一部を見て全部の広い、ほとんど限りない光景を想像さするものである。その想像に動かされつつ夕照に向かって黄葉の中を歩けるだけ歩くことがどんなにおもしろかろう。林が尽きると野に出る。

     

 十月二十五日の記に、野[#「野」に丸傍点]を歩み林を訪うと書き、また十一月四日の記には、夕暮に独り風吹く野[#「野」に丸傍点]に立てばと書いてある。そこで自分は今一度ツルゲーネフ[#「ツルゲーネフ」に傍線]を引く。
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「自分はたちどまった、花束を拾い上げた、そして林を去ッて[#「林を去ッて」に傍点]のら[#「のら」に白丸傍点]へ出た[#「へ出た」に傍点]。日は青々とした空に低く漂《ただよ》ッて、射す影も蒼ざめて冷やかになり、照るとはなくただジミな水色のぼかしを見るように四方に充《み》ちわたった。日没にはまだ半時間もあろうに、モウゆうやけがほの赤く天末を染めだした。黄いろくからびた刈株《かりかぶ》をわたッて烈しく吹きつける野分に催されて、そりかえッた細かな落ち葉があわただしく起き上がり、林に沿うた往来を横ぎって、自分の側を駈け通ッた、のら[#「のら」に白丸傍点]に向かッて壁のようにたつ林の一面はすべてざわざわざわつき、細末の玉の屑《くず》を散らしたように煌《きらめ》きはしないがちらついていた。また枯れ草《くさ》、莠《はぐさ》、藁《わら》の嫌いなくそこら一面にからみついた蜘蛛《くも》の巣は風に吹き靡《なび》かされて波たッていた。
 自分はたちどまった……心細くなってきた、眼に遮《さえぎ》る物象はサッパリとはしていれど、おもしろ気もおかし気もなく、さびれはてたうちにも、どうやら間近になッた冬のすさまじさが見透かされるように思われて。小心な鴉《からす》が重そうに羽ばたきをして、烈しく風を切りながら、頭上を高く飛び過ぎたが、フト首を回《めぐ》らして、横目で自分をにらめて、きゅうに飛び上がッて、声をちぎるように啼《な》きわたりながら、林の向うへかくれてしまッた。鳩《はと》が幾羽ともなく群をなして勢いこんで穀倉のほうから飛んできた、がフト柱を建てたように舞い昇ッて、さてパッといっせいに野面に散ッた――アア秋だ! 誰だか禿山《はげやま》の向うを通るとみえて、から車の音が虚空《こくう》に響きわたッた……」
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 これはロシアの野であるが、我武蔵野の野の秋から冬へかけての光景も、およそこんなものである。武蔵野にはけっして禿山はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏している。それも外見には一面の平原のようで、むしろ高台のところどころが低く窪《くぼ》んで小さな浅い谷をなしているといったほうが適当であろう。この谷の底はたいがい水田である。畑はおもに高台にある、高台は林と畑とでさまざまの区劃をなしている。畑はすなわち野である。されば林とても数里にわたるものなく否《いな》、おそらく一里にわたるものもあるまい、畑とても一眸《いちぼう》数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃《いっけい》の畑の三方は林、というような具合で、農家がその間に散在してさらにこれを分割している。すなわち野やら林やら、ただ乱雑に入組んでいて、たちまち林に入るかと思えば、たちまち野に出るというような風である。それがまたじつに武蔵野に一種の特色を与えていて、ここに自然あり、ここに生活あり、北海道のような自然そのままの大原野大森林とは異なっていて、その趣も特異である。
 稲の熟するころとなると、谷々の水田が黄《き》ばんでくる。稲が刈り取られて林の影が倒《さか》さに田面に映るころとなると、大根畑の盛りで、大根がそろそろ抜かれて、あちらこちらの水溜《みずた》めまたは小さな流れのほとりで洗われるようになると、野は麦の新芽で青々となってくる。あるいは麦畑の一端、野原のままで残り、尾花野菊が風に吹かれている。萱原《かやはら》の一端がしだいに高まって、そのはてが天ぎわをかぎっていて、そこへ爪先《つまさき》あがりに登ってみると、林の絶え間を国境に連なる秩父《ちちぶ》の諸嶺が黒く横たわッていて、あたかも地平線上を走ってはまた地平線下に没しているようにもみえる。さてこれよりまた畑のほうへ下るべきか。あるいは畑のかなたの萱原に身を横たえ、強く吹く北風を、積み重ねた枯草で避《よ》けながら、南の空をめぐる日の微温《ぬる》き光に顔をさらして畑の横の林が風にざわつき煌《きらめ》き輝くのを眺むべきか。あるいはまたただちにかの林へとゆく路をすすむべきか。自分はかくためらったことがしばしばある。自分は困ったか否《いな》、けっして困らない。自分は武蔵野を縦横に通じている路[#「路」に丸傍点]は、どれを撰《えら》んでいっても自分を失望ささないことを久しく経験して知っているから。

     

 自分の朋友がかつてその郷里から寄せた手紙の中に「この間も一人夕方に萱原を歩みて考え申|候《そうろう》、この野の中に縦横に通ぜる十数の径《みち》の上を何百年の昔よりこのかた朝の露さやけしといいては出で夕の雲花やかなりといいてはあこがれ何百人のあわれ知る人や逍遥《しょうよう》しつらん相|悪《にく》む人は相避けて異なる道をへだたりていき相愛する人は相合して同じ道を手に手とりつつかえりつらん」との一節があった。野原の径を歩みてはかかるいみじき想いも起こるならんが、武蔵野の路はこれとは異り、相逢わんとて往くとても逢いそこね、相避けんとて歩むも林の回り角で突然出逢うことがあろう。されば路という路、右にめぐり左に転じ、林を貫き、野を横ぎり、真直《まっすぐ》なること鉄道線路のごときかと思えば、東よりすすみてまた東にかえるような迂回《うかい》の路もあり、林にかくれ、谷にかくれ、野に現われ、また林にかくれ、野原の路のようによく遠くの別路ゆく人影を見ることは容易でない。しかし野原の径の想いにもまして、武蔵野の路にはいみじき実《じつ》がある。
 武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当《あて》もなく歩くことによって始めて獲《え》られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処《ずいしょ》に吾らを満足さするものがある。これがじつにまた、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。武蔵野を除いて日本にこのような処がどこにあるか。北海道の原野にはむろんのこと、奈須野にもない、そのほかどこにあるか。林と野とがかくもよく入り乱れて、生活と自然とがこのように密接している処がどこにあるか。じつに武蔵野にかかる特殊の路のあるのはこのゆえである。
 されば君もし、一の小径を往き、たちまち三条に分かるる処に出たなら困るに及ばない、君の杖《つえ》を立ててその倒れたほうに往きたまえ。あるいはその路が君を小さな林に導く。林の中ごろに到ってまた二つに分かれたら、その小なる路を撰《えら》んでみたまえ。あるいはその路が君を妙な処に導く。これは林の奥の古い墓地で苔《こけ》むす墓が四つ五つ並んでその前にすこしばかりの空地があって、その横のほうに女郎花《おみなえし》など咲いていることもあろう。頭の上の梢《こずえ》で小鳥が鳴いていたら君の幸福である。すぐ引きかえして左の路を進んでみたまえ。たちまち林が尽きて君の前に見わたしの広い野が開ける。足元からすこしだらだら下がりになり萱《かや》が一面に生え、尾花の末が日に光っている、萱原の先きが畑で、畑の先に背の低い林が一|叢《むら》繁り、その林の上に遠い杉の小杜《こもり》が見え、地平線の上に淡々《あわあわ》しい雲が集まっていて雲の色にまがいそうな連山がその間にすこしずつ見える。十月小春の日の光のどかに照り、小気味よい風がそよそよと吹く。もし萱原のほうへ下《お》りてゆくと、今まで見えた広い景色がことごとく隠れてしまって、小さな谷の底に出るだろう。思いがけなく細長い池が萱原と林との間に隠れていたのを発見する。水は清く澄んで、大空を横ぎる白雲の断片を鮮かに映している。水のほとりには枯蘆《かれあし》がすこしばかり生えている。この池のほとりの径《みち》をしばらくゆくとまた二つに分かれる。右にゆけば林、左にゆけば坂。君はかならず坂をのぼるだろう。とかく武蔵野を散歩するのは高い処高い処と撰びたくなるのはなんとかして広い眺望を求むるからで、それでその望みは容易に達せられない。見下ろすような眺望はけっしてできない。それは初めからあきらめたがいい。
 もし君、何かの必要で道を尋ねたく思わば、畑の真中にいる農夫にききたまえ。農夫が四十以上の人であったら、大声をあげて尋ねてみたまえ、驚いてこちらを向き、大声で教えてくれるだろう。もし少女《おとめ》であったら近づいて小声でききたまえ。もし若者であったら、帽を取って慇懃《いんぎん》に問いたまえ。鷹揚《おうよう》に教えてくれるだろう。怒ってはならない、これが東京近在の若者の癖《くせ》であるから。
 教えられた道をゆくと、道がまた二つに分かれる。教えてくれたほうの道はあまりに小さくてすこし変だと思ってもそのとおりにゆきたまえ、突然農家の庭先に出るだろう。はたして変だと驚いてはいけぬ。その時農家で尋ねてみたまえ、門を出るとすぐ往来ですよと、すげなく答えるだろう。農家の門を外に出てみるとはたして見覚えある往来、なるほどこれが近路《ちかみち》だなと君は思わず微笑をもらす、その時初めて教えてくれた道のありがたさが解《わか》るだろう。
 真直《まっすぐ》な路で両側とも十分に黄葉した林が四五丁も続く処に出ることがある。この路を独り静かに歩むことのどんなに楽しかろう。右側の林の頂《いただき》は夕照|鮮《あざや》かにかがやいている。おりおり落葉の音が聞こえるばかり、あたりはしんとしていかにも淋しい。前にも後ろにも人影見えず、誰にも遇《あ》わず。もしそれが木葉落ちつくしたころならば、路は落葉に埋れて、一足ごとにがさがさと音がする、林は奥まで見すかされ、梢の先は針のごとく細く蒼空《あおぞら》を指している。なおさら人に遇わない。いよいよ淋しい。落葉をふむ自分の足音ばかり高く、時に一羽の山鳩あわただしく飛び去る羽音に驚かされるばかり。
 同じ路を引きかえして帰るは愚《ぐ》である。迷ったところが今の武蔵野にすぎない、まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはりおよその方角をきめて、べつな路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうることがある。日は富士の背に落ちんとしていまだまったく落ちず、富士の中腹に群《むら》がる雲は黄金色に染まって、見るがうちにさまざまの形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖《くさり》のような雪がしだいに遠く北に走って、終は暗憺《あんたん》たる雲のうちに没してしまう。
 日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身に沁《し》む、その時は路をいそぎたまえ、顧みて思わず新月が枯林の梢の横に寒い光を放っているのを見る。風が今にも梢から月を吹き落としそうである。突然また野に出る。君はその時、  
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山は暮れ野は黄昏《たそがれ》の薄《すすき》かな
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の名句を思いだすだろう。

     

 今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居《ぐうきょ》を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直《まっすぐ》に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋《かけぢゃや》がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。
 自分は友と顔見あわせて笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」といった。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなにおもしろいかを婆さんの耳にも解るように話してみたがむだであった。東京の人はのんきだという一語で消されてしまった。自分らは汗をふきふき、婆さんが剥《む》いてくれる甜瓜《まくわうり》を喰い、茶屋の横を流れる幅一尺ばかりの小さな溝で顔を洗いなどして、そこを立ち出でた。この溝の水はたぶん、小金井の水道から引いたものらしく、よく澄んでいて、青草の間を、さも心地よさそうに流れて、おりおりこぼこぼと鳴っては小鳥が来て翼をひたし、喉《のど》を湿《うる》おすのを待っているらしい。しかし婆さんは何とも思わないでこの水で朝夕、鍋釜《なべかま》を洗うようであった。
 茶屋を出て、自分らは、そろそろ小金井の堤を、水上のほうへとのぼり初めた。ああその日の散歩がどんなに楽しかったろう。なるほど小金井は桜の名所、それで夏の盛りにその堤をのこのこ歩くもよそ目には愚《おろ》かにみえるだろう、しかしそれはいまだ今の武蔵野の夏の日の光を知らぬ人の話である。
 空は蒸暑《むしあつ》い雲が湧《わ》きいでて、雲の奥に雲が隠れ、雲と雲との間の底に蒼空が現われ、雲の蒼空に接する処は白銀の色とも雪の色とも譬《たと》えがたき純白な透明な、それで何となく穏やかな淡々《あわあわ》しい色を帯びている、そこで蒼空が一段と奥深く青々と見える。ただこれぎりなら夏らしくもないが、さて一種の濁《にご》った色の霞《かすみ》のようなものが、雲と雲との間をかき乱して、すべての空の模様を動揺、参差《しんし》、任放、錯雑のありさまとなし、雲を劈《つんざ》く光線と雲より放つ陰翳とが彼方此方に交叉して、不羈奔逸の気がいずこともなく空中に微動している[#「不羈奔逸の気がいずこともなく空中に微動している」に丸傍点]。林という林、梢という梢、草葉の末に至るまでが、光と熱とに溶けて、まどろんで、怠けて、うつらうつらとして酔っている。林の一角、直線に断たれてその間から広い野が見える、野良《のら》一面、糸遊《いとゆう》上騰《じょうとう》して永くは見つめていられない。
 自分らは汗をふきながら、大空を仰いだり、林の奥をのぞいたり、天ぎわの空、林に接するあたりを眺めたりして堤の上を喘《あえ》ぎ喘ぎ辿《たど》ってゆく。苦しいか? どうして! 身うちには健康がみちあふれている。
 長堤三里の間、ほとんど人影を見ない。農家の庭先、あるいは藪《やぶ》の間から突然、犬が現われて、自分らを怪しそうに見て、そしてあくび[#「あくび」に傍点]をして隠れてしまう。林のかなたでは高く羽ばたきをして雄鶏《おんどり》が時をつくる、それが米倉の壁や杉の森や林や藪に籠《こも》って、ほがらかに聞こえる。堤の上にも家鶏《にわとり》の群が幾組となく桜の陰などに遊んでいる。水上を遠く眺めると、一直線に流れてくる水道の末は銀粉を撒《ま》いたような一種の陰影のうちに消え、間近くなるにつれてぎらぎら輝いて矢のごとく走ってくる。自分たちはある橋の上に立って、流れの上と流れのすそと見比べていた。光線の具合で流れの趣が絶えず変化している。水上が突然薄暗くなるかとみると、雲の影が流れとともに、瞬《またた》く間に走ってきて自分たちの上まで来て、ふと止まって、きゅうに横にそれてしまうことがある。しばらくすると水上がまばゆく煌《かがや》いてきて、両側の林、堤上の桜、あたかも雨後の春草のように鮮かに緑の光を放ってくる。橋の下では何ともいいようのない優しい水音がする。これは水が両岸に激して発するのでもなく、また浅瀬のような音でもない。たっぷりと水量《みずかさ》があって、それで粘土質のほとんど壁を塗ったような深い溝を流れるので、水と水とがもつれ[#「もつれ」に傍点]てからまっ[#「からまっ」に傍点]て、揉《も》みあって、みずから音を発するのである。何たる人なつかしい音だろう!

 “――Let us match
 This water’s pleasant tune
 With some old Border song, or catch,
 That suits a summer’s noon.”

の句も思いだされて、七十二歳の翁と少年とが、そこら桜の木蔭にでも坐っていないだろうかと見廻わしたくなる。自分はこの流れの両側に散点する農家の者を幸福《しやわせ》の人々と思った。むろん、この堤の上を麦藁帽子《むぎわらぼうし》とステッキ一本で散歩する自分たちをも。

     

 自分といっしょに小金井の堤を散歩した朋友は、今は判官になって地方に行っているが、自分の前号の文を読んで次のごとくに書いて送ってきた。自分は便利のためにこれをここに引用する必要を感ずる――武蔵野は俗にいう関《かん》八州の平野でもない。また道灌《どうかん》が傘《かさ》の代りに山吹《やまぶき》の花を貰ったという歴史的の原でもない。僕は自分で限界を定めた一種の武蔵野を有している。その限界はあたかも国境または村境が山や河や、あるいは古跡や、いろいろのもので、定めらるるようにおのずから定められたもので、その定めは次のいろいろの考えから来る。
 僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかしこれはむろん省《はぶ》かなくてはならぬ、なぜならば我々は農商務省の官衙《かんが》が巍峨《ぎが》として聳《そび》えていたり、鉄管事件《てっかんじけん》の裁判があったりする八百八街によって昔の面影を想像することができない。それに僕が近ごろ知合いになったドイツ婦人の評に、東京は「新しい都」ということがあって、今日の光景ではたとえ徳川の江戸であったにしろ、この評語を適当と考えられる筋もある。このようなわけで東京はかならず武蔵野から抹殺《まっさつ》せねばならぬ。
 しかしその市の尽《つ》くる処、すなわち町|外《は》ずれはかならず抹殺してはならぬ。僕が考えには武蔵野の詩趣を描くにはかならずこの町|外《はず》れを一の題目《だいもく》とせねばならぬと思う。たとえば君が住まわれた渋谷の道玄坂《どうげんざか》の近傍、目黒の行人坂《ぎょうにんざか》、また君と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神《きしもじん》あたりの町、新宿、白金……
 また武蔵野の味《あじ》を知るにはその野から富士山、秩父山脈|国府台《こうのだい》等を眺めた考えのみでなく、またその中央に包《つつ》まれている首府東京をふり顧《かえ》った考えで眺めねばならぬ。そこで三里五里の外に出で平原を描くことの必要がある。君の一篇にも生活と自然とが密接しているということがあり、また時々いろいろなものに出あうおもしろ味が描いてあるが、いかにもさようだ。僕はかつてこういうことがある、家弟をつれて多摩川のほうへ遠足したときに、一二里行き、また半里行きて家並《やなみ》があり、また家並に離れ、また家並に出て、人や動物に接し、また草木ばかりになる、この変化のあるのでところどころに生活を点綴《てんてつ》している趣味のおもしろいことを感じて話したことがあった。この趣味を描くために武蔵野に散在せる駅、駅といかぬまでも家並、すなわち製図家の熟語でいう聯檐家屋《れんたんかおく》を描写するの必要がある。
 また多摩川はどうしても武蔵野の範囲に入れなければならぬ。六つ玉川などと我々の先祖が名づけたことがあるが武蔵の多摩川のような川が、ほかにどこにあるか。その川が平らな田と低い林とに連接する処の趣味は、あだかも首府が郊外と連接する処の趣味とともに無限の意義がある。
 また東のほうの平面を考えられよ。これはあまりに開けて水田が多くて地平線がすこし低いゆえ、除外せられそうなれどやはり武蔵野に相違ない。亀井戸《かめいど》の金糸堀《きんしぼり》のあたりから木下川辺《きねがわへん》へかけて、水田と立木と茅屋《ぼうおく》とが趣をなしているぐあいは武蔵野の一領分《いちりょうぶん》である。ことに富士でわかる。富士を高く見せてあだかも我々が逗子《ずし》の「あぶずり」で眺むるように見せるのはこの辺にかぎる。また筑波《つくば》でわかる。筑波の影が低く遥《はる》かなるを見ると我々は関《かん》八州の一隅に武蔵野が呼吸している意味を感ずる。
 しかし東京の南北にかけては武蔵野の領分がはなはだせまい。ほとんどないといってもよい。これは地勢《ちせい》のしからしむるところで、かつ鉄道が通じているので、すなわち「東京」がこの線路によって武蔵野を貫いて直接に他の範囲と連接しているからである。僕はどうもそう感じる。
 そこで僕は武蔵野はまず雑司谷《ぞうしがや》から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円《まる》く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子はけっして武蔵野には入れられない。そして丸子《まるこ》から下目黒《しもめぐろ》に返る。この範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。
 東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到って止まる。この範囲は異論があれば取除いてもよい。しかし一種の趣味があって武蔵野に相違ないことは前に申したとおりである――

     

 自分は以上の所説にすこしの異存もない。ことに東京市の町外《まちはず》れを題目とせよとの注意はすこぶる同意であって、自分もかねて思いついていたことである。町|外《は》ずれを「武蔵野」の一部に入《い》れるといえば、すこしおかしく聞こえるが、じつは不思議はないので、海を描くに波打ちぎわを描くも同じことである。しかし自分はこれを後廻わしにして、小金井堤上の散歩に引きつづき、まず今の武蔵野の水流を説くことにした。
 第一は多摩川、第二は隅田川、むろんこの二流のことは十分に書いてみたいが、さてこれも後廻わしにして、さらに武蔵野を流るる水流を求めてみたい。
 小金井の流れのごとき、その一である。この流れは東京近郊に及んでは千駄ヶ谷、代々木、角筈《つのはず》などの諸村の間を流れて新宿に入り四谷上水となる。また井頭池《いのかしらいけ》善福池などより流れ出でて神田上水《かんだじょうすい》となるもの。目黒辺を流れて品海《ひんかい》に入るもの。渋谷辺を流れて金杉《かなすぎ》に出ずるもの。その他名も知れぬ細流小溝《さいりゅうしょうきょ》に至るまで、もしこれをよそで見るならば格別の妙もなけれど、これが今の武蔵野の平地高台の嫌いなく、林をくぐり、野を横切り、隠《かく》れつ現われつして、しかも曲《まが》りくねって(小金井は取除け)流るる趣《おもむき》は春夏秋冬に通じて吾らの心を惹《ひ》くに足るものがある。自分はもと山多き地方に生長《せいちょう》したので、河といえばずいぶん大きな河でもその水は透明であるのを見慣れたせいか、初めは武蔵野の流れ、多摩川を除《のぞ》いては、ことごとく濁っているのではなはだ不快な感を惹《ひ》いたものであるが、だんだん慣れてみると、やはりこのすこし濁った流れが平原の景色に適《かな》ってみえるように思われてきた。
 自分が一度、今より四五年前の夏の夜の事であった、かの友と相|携《たずさ》えて近郊を散歩したことを憶えている。神田上水の上流の橋の一つを、夜の八時ごろ通りかかった。この夜は月|冴《さ》えて風清く、野も林も白紗《はくしゃ》につつまれしようにて、何ともいいがたき良夜《りょうや》であった。かの橋の上には村のもの四五人集まっていて、欄《らん》に倚《よ》って何事をか語り何事をか笑い、何事をか歌っていた。その中に一人の老翁《ろうおう》がまざっていて、しきりに若い者の話や歌をまぜッかえしていた。月はさやかに照り、これらの光景を朦朧《もうろう》たる楕円形《だえんけい》のうちに描きだして、田園詩の一節のように浮かべている。自分たちもこの画中の人に加わって欄に倚って月を眺めていると、月は緩《ゆ》るやかに流るる水面に澄んで映っている。羽虫《はむし》が水を摶《う》つごとに細紋起きてしばらく月の面《おも》に小皺《こじわ》がよるばかり。流れは林の間をくねって出てきたり、また林の間に半円を描いて隠れてしまう。林の梢に砕《くだ》けた月の光が薄暗い水に落ちてきらめいて見える。水蒸気は流れの上、四五尺の処をかすめている。
 大根の時節に、近郊《きんごう》を散歩すると、これらの細流のほとり、いたるところで、農夫が大根の土を洗っているのを見る。

     

 かならずしも道玄坂《どうげんざか》といわず、また白金《しろがね》といわず、つまり東京市街の一端、あるいは甲州街道となり、あるいは青梅道《おうめみち》となり、あるいは中原道《なかはらみち》となり、あるいは世田ヶ谷街道となりて、郊外の林地《りんち》田圃《でんぽ》に突入する処の、市街ともつかず宿駅《しゅくえき》ともつかず、一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈《てい》しおる場処を描写することが、すこぶる自分の詩興を喚《よ》び起こすも妙ではないか。なぜかような場処が我らの感を惹《ひ》くだらうか[#「だらうか」はママ]。自分は一言にして答えることができる。すなわちこのような町外《まちはず》れの光景は何となく人をして社会というものの縮図でも見るような思いをなさしむるからであろう。言葉を換えていえば、田舎《いなか》の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹《ほうふく》するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるからであろう。さらにその特点《とくてん》をいえば、大都会の生活の名残《なごり》と田舎の生活の余波《よは》とがここで落ちあって、緩《ゆる》やかにうず[#「うず」に傍点]を巻いているようにも思われる。
 見たまえ、そこに片眼の犬が蹲《うずくま》っている。この犬の名の通っているかぎりがすなわちこの町外《まちはず》れの領分である。
 見たまえ、そこに小さな料理屋がある。泣くのとも笑うのとも分からぬ声を振立ててわめく[#「わめく」に傍点]女の影法師が障子《しょうじ》に映っている。外は夕闇がこめて、煙の臭《にお》いとも土の臭いともわかちがたき香りが淀《よど》んでいる。大八車が二台三台と続いて通る、その空車《からぐるま》の轍《わだち》の響が喧《やかま》しく起こりては絶え、絶えては起こりしている。
 見たまえ、鍛冶工《かじや》の前に二頭の駄馬が立っているその黒い影の横のほうで二三人の男が何事をかひそひそと話しあっているのを。鉄蹄《てってい》の真赤になったのが鉄砧《かなしき》の上に置かれ、火花が夕闇を破って往来の中ほどまで飛んだ。話していた人々がどっと何事をか笑った。月が家並《やなみ》の後ろの高い樫《かし》の梢まで昇ると、向う片側の家根が白《し》ろんできた。
 かんてら[#「かんてら」に傍点]から黒い油煙《ゆえん》が立っている、その間を村の者町の者十数人駈け廻わってわめいて[#「わめいて」に傍点]いる。いろいろの野菜が彼方此方に積んで並べてある。これが小さな野菜市、小さな糶売場《せりば》である。
 日が暮れるとすぐ寝てしまう家《うち》があるかと思うと夜《よ》の二時ごろまで店の障子に火影《ほかげ》を映している家がある。理髪所《とこや》の裏が百姓|家《や》で、牛のうなる声が往来まで聞こえる、酒屋の隣家《となり》が納豆売《なっとううり》の老爺の住家で、毎朝早く納豆《なっとう》納豆と嗄声《しわがれごえ》で呼んで都のほうへ向かって出かける。夏の短夜が間もなく明けると、もう荷車が通りはじめる。ごろごろがたがた絶え間がない。九時十時となると、蝉《せみ》が往来から見える高い梢で鳴きだす、だんだん暑くなる。砂埃《すなぼこり》が馬の蹄《ひづめ》、車の轍《わだち》に煽《あお》られて虚空《こくう》に舞い上がる。蝿《はえ》の群が往来を横ぎって家から家、馬から馬へ飛んであるく。
 それでも十二時のどん[#「どん」に傍点]がかすかに聞こえて、どことなく都の空のかなたで汽笛の響がする。

底本:「日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集」集英社
   1967(昭和42)年9月7日初版
   1972(昭和47)年9月10日9版
底本の親本:「国木田独歩全集」学習研究社
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:八巻美惠
1998年10月21日公開
2004年6月17日修正
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国木田独歩

富岡先生——国木田独歩

        一

 何|公爵《こうしゃく》の旧領地とばかり、詳細《くわし》い事は言われない、侯伯子男の新華族を沢山出しただけに、同じく維新の風雲に会しながらも妙な機《はずみ》から雲梯《うんてい》をすべり落ちて、遂《つい》には男爵どころか県知事の椅子|一《ひとつ》にも有《あり》つき得ず、空《むな》しく故郷《くに》に引込んで老朽ちんとする人物も少くはない、こういう人物に限ぎって変物《かわりもの》である、頑固《がんこ》である、片意地である、尊大である、富岡先生もその一人たるを失なわない。
 富岡先生、と言えばその界隈《かいわい》で知らぬ者のないばかりでなく、恐らく東京に住む侯伯子男の方々の中にも、「ウン彼奴《やつ》か」と直ぐ御承知の、そして眉《まゆ》をひそめらるる者も随分あるらしい程《ほど》の知名な老人である。
 さて然《しか》らば先生は故郷《くに》で何を為《し》ていたかというに、親族が世話するというのも拒《こば》んで、広い田の中の一軒屋の、五間《いつま》ばかりあるを、何々|塾《じゅく》と名《なづ》け、近郷《きんじょ》の青年七八名を集めて、漢学の教授をしていた、一人の末子《ばっし》を対手《あいて》に一人の老僕に家事を任かして。
 この一人の末子は梅子という未《ま》だ六七《むつななつ》の頃から珍らしい容貌佳《きりょうよ》しで、年頃になれば非常の美人になるだろうと衆人《みんな》から噂《うわさ》されていた娘であるが、果してその通りで、年の行く毎《ごと》に益々《ますます》美しく成る、十七の春も空しく過ぎて十八の夏の末、東京ならば学校の新学期の初まるも遠くはないという時分のこと、法学士|大津定二郎《おおつていじろう》が帰省した。
 富岡先生の何々塾から出て(無論小学校に通いながら漢学を学び)遂に大学まで卒業した者がその頃三名ある、この三人とも梅子|嬢《さん》は乃公《おれ》の者と自分で決定《きめ》ていたらしいことは略《ほぼ》世間でも嗅《か》ぎつけていた事実で、これには誰《たれ》も異議がなく、但《ただ》し三人の中《うち》何人《だれ》が遂に梅子|嬢《さん》を連れて東京に帰り得《う》るかと、他所《よそ》ながら指を啣《くわ》えて見物している青年《わかもの》も少くはなかった。
 法学士大津定二郎が帰省した。彼は三人の一人である。何峠から以西《いせい》、何川辺までの、何町、何村、字《あざ》何の何という処々《しょしょ》の家の、種々の雑談に一つ新しい興味ある問題が加わった。愈々《いよいよ》大津の息子はお梅さんを貰《もら》いに帰ったのだろう、甘《うま》く行けば後《あと》の高山の文《ぶん》さんと長谷川の息子が失望するだろう、何に田舎《いなか》でこそお梅さんは美人じゃが東京に行けばあの位の女は沢山《やれ》にありますから後の二人だってお梅さんばかり狙《ねら》うてもおらんよ、など厄鬼《やっき》になりて討論する婦人連もあった。
 或日の夕暮、一人の若い品の佳《い》い洋服の紳士が富岡先生の家の前えに停止《たちど》まって、頻《しき》りと内の様子を窺《うかが》ってはもじもじしていたが遂に門を入《はい》って玄関先に突立《つった》って、
「お頼みします」という声さえ少し顫《ふる》えていたらしい。
「誰か来たぞ!」と怒鳴ったのは確《たしか》に先生の声である。
 襖《ふすま》が静《しずか》に開いて現われたのが梅子である。紳士の顔も梅子の顔も一時《いちじ》にさっと紅《こう》をさした。梅子はわずかに会釈して内に入った。
「何だ、大津の定さんが来た?、ずんずんお上りんさいと言え!」先生の太い声がありありと聞えた。
 大津は梅子の案内で久しぶりに富岡先生の居間、即ち彼がその昔《かみ》漢学の素読《そどく》を授った室《へや》に通った。無論大学に居た時分、一夏帰省した時も訪《と》うた事はある。
 老漢学者と新法学士との談話《はなし》の模様は大概次の如くであった。
「ヤア大津、帰省《かえ》ったか」
「ともかく法学士に成りました」
「それが何だ、エ?」
「内務省に出る事に決定《きま》りました、江藤さんのお世話で」
「フンそうか、それで目出度《めでた》いというのか。然し江藤さんとは全体誰の事じゃ」
「江藤侯のことで……直文《ちょくぶん》さんのことで」
「ウーン三輔《さんすけ》のことか、そうか、三輔なら三輔と早く言えば可《え》えに。時に三輔は達者かナ」
「相変らず元気で御座います」
「フンそうか、それは結構じゃ、狂之助は?」
「御丈夫のようで御座います」
「そうか、今度|逢《あ》ったら乃公《わし》が宜《よ》く言ったと言っとくれ!」
「承知致しました」
「ちっと手紙でもよこせと言え。エ、侯爵面《こうしゃくづら》して古い士族を忘れんなと言え。全体|彼奴《あいつ》等に頭を下げぺこぺこと頼み廻るなんちゅうことは富岡の塾の名汚《なよご》しだぞ。乃公《わし》に言えば乃公から彼奴等に一本手紙をつけてやるのに。彼奴等は乃公の言うことなら聴《き》かん理由《わけ》にいかん」
 先ずこんな調子。それで富岡先生は平気な顔して御座る。大津は間もなく辞して玄関に出ると、梅子が送って来た。大津は梅子の顔を横目で見て、「またその内」とばかり、すたこらと門を出て吻《ほっ》と息を吐《つ》いた。
「だめだ! まだあの高慢|狂気《きちがい》が治《なお》らない。梅子さんこそ可《い》い面《つら》の皮だ、フン人を馬鹿にしておる」と薄暗い田甫道《たんぼみち》を辿《たど》りながら呟《つぶ》やいたが胸の中は余り穏《おだやか》でなかった。
 五六日|経《た》つと大津定二郎は黒田の娘と結婚の約が成ったという噂が立った。これを聞いた者の多くは首を傾けて意外という顔色《かおつき》をした。然し事実全くそうで、黒田という地主の娘玉子嬢、容貌《きりょう》は梅子と比べると余程落ちるが、県の女学校を卒業してちょうど帰郷《かえ》ったばかりのところを、友人|某《なにがし》の奔走で遂に大津と結婚することに決定《きまっ》たのである。妙なものでこう決定《きま》ると、サアこれからは長谷川と高山の競争だ、お梅さんは何方《どっち》の物になるだろうと、大声で喋舌《しゃべ》る馬面《うまがお》の若い連中も出て来た。
 ところで大津法学士は何でも至急に結婚して帰京の途中を新婚旅行ということにしたいと申出たので大津家は無論黒田家の騒動《さわぎ》は尋常《ひととおり》でない。この両家とも田舎では上流社会に位いするので、祝儀《しゅうぎ》の礼が引きもきらない。村落に取っては都会に於《お》ける岩崎三井の祝事《いわいごと》どころではない、大変な騒ぎである。両家は必死になって婚儀の準備に忙殺されている。
 その愈々《いよいよ》婚礼の晩という日の午後三時頃でもあろうか。村の小川、海に流れ出る最近《まぢか》の川柳|繁《しげ》れる小陰に釣を垂《たる》る二人の人がある。その一人は富岡先生、その一人は村の校長細川繁、これも富岡先生の塾に通うたことのある、二十七歳の成年男子である。
 二人は間を二三間隔てて糸を垂れている、夏の末、秋の初の西に傾いた鮮《あざ》やかな日景《ひかげ》は遠村近郊小丘樹林を隈《くま》なく照らしている、二人の背はこの夕陽《ゆうひ》をあびてその傾《かたぶ》いた麦藁帽子《むぎわらぼうし》とその白い湯衣地《ゆかたじ》とを真《ま》ともに照りつけられている。
 二人とも余り多く話さないで何となく物思に沈んでいたようであったが、突然校長の細川は富岡老人の方を振向いて
「先生は今夜大津の婚礼に招かれましたか」
「ウン招《よ》ばれたが乃公《おれ》は行かん!」と例の太い声で先生は答えた。実は招かれていないのである。大津は何と思ったかその旧師を招かなかった。
「貴様《おまえ》はどうじゃ?」
「大津の方からこの頃は私を相手にせんようですから別に招《よび》もしません」
「招んだって行くな。あんな軽薄な奴《やつ》のとこに誰が行く馬鹿があるか。あんな奴にゃア黒田の娘でも惜い位だ! あれから見ると同じ大学を出ても高山や長谷川は人間が一等上だのう、その中《うち》でも高山は余程見込がある男だぞ」
 細川繁は黙って何にも言わなかった、ただ水面を凝視《みつ》めている。富岡老人も黙って了《しま》った。
 暫《しばら》くすると川向《かわむこう》の堤の上を二三人話しながら通るものがある、川柳の蔭《かげ》で姿は能《よ》く見えぬが、帽子と洋傘《こうもり》とが折り折り木間《このま》から隠見する。そして声音《こわね》で明らかに一人は大津定二郎一人は友人|某《ぼう》、一人は黒田の番頭ということが解る。富岡老人も細川繁も思わず聞耳を立てた。三人は大声で笑い興じながらちょうど二人の対岸まで来た二人の此処《ここ》に蹲居《しゃが》んでいることは無論気がつかない。
「だって貴様《あなた》は富岡のお梅|嬢《さん》に大変熱心だったと言いますぜ」これは黒田の番頭の声である。
「嘘《うそ》サ、大嘘サ、お梅さんは善いにしてもあの頑固爺《がんこおやじ》の婿になるのは全く御免だからなア! ハッハッ……お梅さんこそ可憐《かわい》そうなものだ、あの高慢|狂気《きちがい》のお蔭で世に出ることが出来ない!」これは明らかに大津法学士の声である。
 三人は一度に「ハッハッハッ……」と笑った。富岡老人|釣竿《つりざお》を投出《なげだ》してぬッくと起上《たちあ》がった。屹度《きっと》三人の方を白眼《にらん》で「大馬鹿者!」と大声に一喝《いっかつ》した。この物凄《ものすご》い声が川面《かわづら》に鳴り響いた。
 対岸《むこう》の三人は喫驚《びっくり》したらしく、それと又気がついたかして忽《たちま》ち声を潜《ひそ》め大急ぎで通り過ぎて了《しま》った。
 富岡老人はそのまま三人の者の足音の聞こえなくなるまで対岸《むこう》を白眼《にら》んでいたが、次第に眼を遠くの禿山《はげやま》に転じた、姫小松《ひめこまつ》の生《は》えた丘は静に日光を浴びている、その鮮《あざ》やかな光の中にも自然の風物は何処《どこ》ともなく秋の寂寥《せきりょう》を帯びて人の哀情《かなしみ》をそそるような気味がある。背の高い骨格の逞《たく》ましい老人は凝然《じっ》と眺《なが》めて、折り折り眼をしばだたいていたが、何時《いつ》しか先きの気勢にも似ずさも力なさそうに細川繁を振向いて
「オイ貴公《おまえ》この道具を宅《うち》まで運こんでおくれ、乃公《おれ》は帰るから」
 言い捨てて去《い》って了った。校長の細川は取残されてみると面白くはないが、それでも糸を垂れていた、実は頻《しき》りと考え込んでいたのである。暫時《しばらく》するとこれも力なげに糸を巻き籠《びく》を水から上げて先生の道具と一緒に肩にかけ、程《ほど》遠からぬ富岡の宅《うち》まで行った。庭先で
「老先生どうかしたのか喃《のう》」と老僕倉蔵が声を潜めて問うた。
「イヤどうもなさらん」
「でも様子が少し違うから私《わし》又どうかなされたかと思うて」
「先生今何をしておいでる?」
「寝ていなさるが枕頭《まくらもと》に嬢様呼んで何か細《こまか》い声で話をしておいでるようで……」
「そうか」
「まア上って晩まで遊んでおいでなされませえの」
「晩にでも来る!」
 細川は自分の竿を担《か》ついで籠《びく》をぶらぶら下げ、浮かぬ顔をして、我家へと帰った。この時が四時過ぎでもあろう。家では老母が糸を紡《ひ》いていた。
 その夜の八時頃、ちょうど富岡老人の平時《いつも》晩酌が済む時分に細川校長は先生を訪《と》うた。田甫道《たんぼみち》をちらちらする提燈《ちょうちん》の数が多いのは大津法学士の婚礼があるからで、校長もその席に招かれた一人二人に途《みち》で逢《あ》った。逢う度《たび》毎《ごと》に皆《みん》な知る人であるから二言三言の挨拶《あいさつ》はしたが、可い心持はしなかった。
 富岡の門まで行ってみると門は閉《しま》って、内は寂然《ひっそり》としていた。校長は不審に思ったが門を叩《たた》く程の用事もないから、其処《そこ》らを、物思に沈みながらぶらぶらしていると間もなく老僕倉蔵が田甫道を大急ぎで遣《やっ》て来た。
「オイ倉蔵、先生は最早《もう》お寝《やす》みになったのかね?」
「オヤ! 細川先生、老先生は今東京へお出発《たち》になりました!」と呼吸《いき》をはずまして老僕は細川の前へ突立った。
「東京へ※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」細川は声も喉《のど》に塞《つま》ったらしい。
「ハア東京へ!」
「マアどうしたのだろう! お梅さんは?」
「御一緒に」
「マアどうしたのだろう!」校長は喫驚《びっくり》すると共に、何とも言い難き苦悩が胸を圧《あっ》して来た。心も空に、気が気ではない。倉蔵は門を開けながら
「マアお入りなされの」
 校長は後について門を入り縁先に腰をかけたが、それも殆《ほとん》ど夢中であったらしい。
「マア先生は何にも知らないのかね?」
「乃公《わし》が何を知るものか、今日釣に行っていたが老先生は何にも言わんからの」
「そうかの?」と倉蔵は不審な顔色《かおつき》をして煙草を吸い初めた。
「貴公《おまえ》理由《わけ》を知らんかね?」
「私《わし》唯《た》だ倉蔵これを急いで村長の処《とこ》へ持て行けと命令《いいつか》りましたからその手紙を村長さん処《とこ》へ持て行って帰宅《かえっ》てみると最早《もう》仕度《したく》が出来ていて、私《わし》直ぐ停車場まで送って今帰った処《とこ》じゃがの、何知るもんかヨ」
「フーン」と校長考えていたが「何日《いつ》頃|帰国《かえ》ると言われた?」
「老先生は十日ばかりしたら帰る、それも能《よ》くは解らんちゅうて……」
「そうか……」と校長は嘆息《ためいき》をしていたが、
「また来る」と細川は突然富岡を出て、その足で直ぐ村長を訪うた。村長は四十|何歳《いくつ》という分別盛りの男で村には非常な信用があり財産もあり、校長は何時《いつ》もこの人を相談相手にしているのである。
「貴公《あんた》富岡先生が東京へ行った事を知っているか」と校長細川は坐に着くや着かぬに問いかけた。
「知っているとも、先刻《さっき》倉蔵が先生の手紙を持って来たが、不在中家の事を托《たの》むと書いてあった」と村長は夜具から頭ばかり出して話している。大津の婚礼に招ねかれたが風邪《かぜ》をひいて出ることが出来ず、寝ていたのである。
「どういう理由《わけ》で急に上京したのだろう?」
「そんな理由《わけ》は手紙に書いてなかったが、大概想像が着くじゃアないか」と村長は微笑を帯びて細川の顔をじろじろ見ながら言った。彼は細川が梅子に人知れず思を焦がしていることを観破《みぬい》ていたのである。
「私《わし》には解《げ》せんなア」と校長は嘆息《ためいき》を吐《つ》いた。
「解せるじゃアないか、大津が黒田のお玉さんと結婚しただろう、富岡先生少し当《あて》が外《はず》れたのサ、其処《そこ》で宜《よろ》しい此処《こっち》にもその積《つもり》があるとお梅|嬢《さん》を連れて東京へ行って江藤侯や井下《いのした》伯を押廻わしてオイ井下、娘を頼む位なことだろうヨ」
「そうかしらん?」
「そうとも! それに先生は平常《ふだん》から高山々々と讃《ほ》めちぎっていたから多分井下伯に言ってお梅|嬢《さん》を高山に押付ける積りだろう、可《い》いサ高山もお梅|嬢《さん》なら兼て狙《ねら》っていたのだから」
「そうかしらん?」と細川の声は慄《ふる》えている。
「そうとも! それで大津の鼻をあかしてやろうと言うんだろう、可いサ、先生も最早《もう》あれで余程《よほど》老衰《よわっ》て御坐るから早くお梅|嬢《さん》のことを決定《きめ》たら肩が安まって安心して死ねるだろうから」 
 村長は理の当然を平気で語った。一つには細川に早く思いあきらめさしたい積りで。
「全くそうだ、先生も如彼《ああ》見えても長くはあるまい!」と力なさそうに言って校長は間もなく村長の宅《うち》を辞した。
 憐《あわれ》むべし細川繁! 彼は全く失望して了って。その失望の中には一《いつ》の苦悩が雑《まじ》っておる。彼は「我もし学士ならば」という一念を去ることが出来ない。幼時は小学校に於《おい》て大津も高山も長谷川も凌《しの》いでいた、富岡の塾でも一番出来が可《よ》かった、先生は常に自分を最も愛して御坐った、然るに自分は家計の都合で中学校にも入《い》る事が出来ず、遂に官費で事が足りる師範学校に入って卒業して小学教員となった。天分に於ては決して彼等|二三子《にさんし》には、劣らないが今では富岡先生すら何とかかんとか言っても矢張り自分よりか大津や高山を非常に優《まさ》った者のように思ってお梅|嬢《さん》に熨斗《のし》を附けようとする! 残念なことだと彼は恋の失望の外の言い難き恨を呑《の》まなければならぬこととなった。
 然し彼は資性篤実で又能く物に堪《た》え得る人物であったから、この苦悩の為めに校長の職務《つとめ》を怠るようなことは為《し》ない。平常《いつも》のように平気の顔で五六人の教師の上に立ち数《す》百の児童を導びいていたが、暗愁の影は何処《どこ》となく彼に伴うている。

        二

 富岡先生が突然上京してから一週間目のことであった、先生は梅子を伴うて帰国《かえ》って来た。校長細川は「今|帰国《かえ》ったから今夜遊びに来い」との老先生の手紙を読んだ時には思わず四辺《あたり》を見廻わした。
 自分勝手な空想を描きながら急いで往《い》ってみると、村長は最早《もう》座に居て酒が初まっていた。梅子は例の如く笑味《えみ》を含んで老父の酌をしている。
「ヤ細川! 突如《だしぬけ》に出発《たった》ので驚いたろう、何急に東京を娘に見せたくなってのう。十日ばかりも居る積じゃったが癪《しゃく》に触《さわ》ることばかりだったから三日居て出立《たっ》て了《しま》った。今も話しているところじゃが東京に居る故国《くに》の者は皆《みん》なだめだぞ、碌《ろく》な奴《やつ》は一匹も居《お》らんぞ!」
 校長は全然《まるで》何のことだか、煙に捲《ま》かれて了って言うべき言葉が出ない、ただ富岡先生と村長の顔を見比べているばかりである。村長は怪しげな微笑を口元に浮べている。
「エえまア聞いてくれこうだ、乃公《おれ》は娘を連れて井下|聞吉《ぶんきち》の所へも江藤三輔の所へも行った、エえ、故国《くに》からわざわざ乃公《おれ》が久しぶりに娘まで連れて行ったのだから何とか物の言い方も有ろうじゃア、それを何だ! 侯爵顔《こうしゃくづら》や伯爵顔を遠慮なくさらけ[#「さらけ」に傍点]出してその※[#「傲」の「にんべん」に代えて「りっしんべん」、第4水準2-12-67]慢無礼《ごうまんぶれい》な風たら無かった。乃公もグイと癪に触ったから半時も居らんでずんずん宿へ帰《もど》ってやった」と一杯|一呼吸《ひといき》に飲み干して校長に差し、
「それも彼奴《きゃつ》等の癖だからまア可《え》えわ、辛棒出来んのは高山や長谷川の奴らの様子だ、オイ細川、彼等《きゃつら》全然《まる》でだめだぞ、大津と同じことだぞ、生意気で猪小才《ちょこざい》で高慢な顔をして、小官吏《こやくにん》になればああも増長されるものかと乃公も愛憎《あいそ》が尽きて了《しも》うた。業《ごう》が煮えて堪《たま》らんから乃公は直ぐ帰国《かえ》ろうと支度《したく》を為ているとちょうど高山がやって来て驚いた顔をしてこう言うのだ、折角連れて来たのだから娘だけは井下伯にでも托《あず》けたらどうだろう、井下伯もせめて娘だけでも世話をしてやらんと富岡が可憐《かわい》そうだと言ッて、大変乃公を気の毒がっていたとこう言うじゃアないか、乃公は直然《いきなり》彼奴《きゃつ》の頭をぽかり一本参ってやった、何だ貴様まで乃公を可憐そうだとか何とか思っているのか、そんな積りで娘を托けると言うのか、大馬鹿者! と怒鳴つけてくれた」
「そして高山はどうしました」と校長は僅《わず》かに一語を発した。
「どうするものか真赤な顔をして逃げて去《い》って了うた、それから直ぐ東京を出発《たっ》て何処《どこ》へも寄らんでずんずん帰《もど》って来た」
「それは無益《つまり》ませんでしたね、折角おいでになって」と校長はおずおずしながら言った。
 先生の気焔《きえん》は益々《ますます》昂《たか》まって、例の昔日譚《むかしばなし》が出て、今の侯伯子男を片端《かたっぱし》から罵倒《ばとう》し初めたが、村長は折を見て辞し去った。校長は先生が喋舌《しゃべ》り疲《くた》ぶれ酔《え》い倒れるまで辛棒して気※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《きえん》の的となっていた。帰える時梅子は玄関まで送って出たが校長何となくにこつ[#「にこつ」に傍点]いていた。田甫道に出るや、彼はこの数日《すじつ》の重荷が急に軽くなったかのように、いそいそと路《みち》を歩いたが、我家に着くまで殆《ほとん》ど路をどう来たのか解らなんだ。

        三

 その翌々日の事であった、東京なる高山法学士から一|通《つう》の書状《てがみ》が村長の許《もと》に届いた。その文意は次の如くである。
 富岡先生が折角上京されたと思うと突然帰国された、それに就《つい》て自分は大に胸を痛めている、先生は相変らず偏執《ひねくれ》ておられる。我々は勿論《もちろん》先輩諸氏も決して先生を冷遇するのではないが先生の方で勝手にそう決定《きめ》て怒っておられる、実に困った者で手の着けようがない。実は自分は梅子|嬢《さん》を貰《もら》いたいと兼ねて思っていたのであるから、井下伯に頼んで梅子|嬢《さん》だけ滞《と》めて置いて後《あと》から交渉して貰う積りでいた、然るに先生の突然の帰国でその計画も画餅《がべい》になったが残念でならぬ。自分は容貌《ようぼう》の上のみで梅子|嬢《さん》を思うているのでない、御存知の通り実に近頃の若い女子には稀《まれ》に見るところの美しい性質を以《もっ》ておられる、自分は随分東京で種々の令嬢方を見たが梅子|嬢《さん》ほどの癖のない、すらりとした、すなおなる女を見たことはない。女子の特質とも言うべき柔和な穏やかな何処《どこ》までも優《やさ》しいところを梅子|嬢《さん》は十二分に有《もっ》ておられる。これには貴所《あなた》も御同感と信ずる。もし梅子|嬢《さん》の欠点を言えば剛という分子が少ない事であろう、しかし完全無欠の人間を求めるのは求める方が愚である、女子としては梅子|嬢《さん》の如き寧《むし》ろ完全に近いと言って宜《よろ》しい、或《あるい》は剛の分子の少ないところが却《かえっ》て梅子|嬢《さん》の品性に一段の奥ゆかしさを加えておるのかとも自分は思う。自分は決して浮きたる心でなく真面目《まじめ》にこの少女を敬慕しておる、何卒《どう》か貴所《あなた》も自分のため一臂《いっぴ》の力を借して、老先生の方を甘《うま》く説いて貰いたい、あの老人程|舵《かじ》の取り難《にく》い人はないから貴所が其所《そこ》を巧にやってくれるなら此方《こっち》は又井下伯に頼んで十分の手順をする、何卒か宜しく御頼《おたのみ》します。
 但《ただ》し富岡老人に話されるには余程《よほど》よき機会《おり》を見て貰いたい、無暗《むやみ》に急ぐと却て失敗する、この辺は貴所に於《おい》て決して遺漏《ぬかり》はないと信ずるが、元来老先生といえども人並の性情を有っておるから了解《わか》ることは能く了解る人である。ただその資質に一点我慢強いところのある上に、維新の際妙な行きがかりから脇道《わきみち》へそれて遂に成るべき功名をも成し得ず、同輩は侯伯たり後進は子男たり、自分は田舎《いなか》の老先生たるを見、かつ思う毎《ごと》にその性情は益々《ますます》荒れて来て、それが慣《なら》い性《せい》となり遂には煮ても焼ても食えぬ人物となったのである、であるから老先生の心底《しんてい》には常に二個《ふたり》の人が相戦っておる、その一人は本来自然の富岡|氏《うじ》、その一人はその経歴が造った富岡先生。そして富岡先生は常に猛烈に常に富岡氏を圧服するに慣れている、その結果として富岡氏が希望し承認し或は飛びつきたい程に望んでいることでも、あの執拗《ひねく》れた焦熬《いらいら》している富岡先生の御機嫌《ごきげん》に少しでも触《さわ》ろうものなら直ぐ一撃のもとに破壊されて了《しま》う。この辺のところは御存知でもあろうが能《よ》く御注意あって、十分|機会《おり》を見定めて話して貰いたい。
 という意味を長々と熱心に書いてある。村長は委細を呑込《のみこ》んで、何卒《どうか》機会《おり》を見て甘《うま》くこの縁談を纏《まと》めたいものだと思った。
 三日ばかり経《た》って夜分村長は富岡老人を訪《と》うた。機会《おり》を見に行ったのである。然るに座に校長細川あり、酒が出ていて老先生の気焔《きえん》頗《すこぶ》る凄《すさ》まじかったので長居《ながい》を為《せ》ずに帰《かえ》って了った。
 その後五日経って、村長は午後二時頃富岡老人を訪う積りでその門まで来た。そうすると先生の声で
「馬鹿者! 貴様《きさま》まで大馬鹿になったか? 何が可笑《おか》しいのだ、大馬鹿者!」
 と例の大声で罵《ののし》るのが手に取るように聞えた。村長は驚いて誰が叱咤《しか》られるのかとそのまま足を停《とど》めて聞耳を聳《た》てていると、内から老僕倉蔵がそっと出て来た。
「オイ倉蔵、誰だな今怒鳴られているのは?」村長は私語《ささや》いた。倉蔵は手を以てこれを止めて、村長の耳の傍《そば》に口をつけて、
「お嬢様が叱咤《しか》られているのだ」
「エッお梅|嬢《さん》が※[#疑問符感嘆符、1-8-77]」と村長は眼を開瞳《みは》った。その筈《はず》で、梅子は殆《ほとん》ど富岡老人に従来《これまで》一言《ひとこと》たりとも叱咤《しから》れたことはない。梅子に対してはさすがの老先生も全然《まるで》子供のようで、その父子《ふし》の間の如何《いか》にも平穏にして情愛こまかなるを見る時は富岡先生実に別人のようだと誰しも思っていた位。
「マアどうして?」村長は驚ろいて訊《たず》ねた。
「どうしてか知らんが今度東京から帰って来てからというものは、毎日酒ばかり呑んでいて、今まで御嬢|様《さん》にはあんなに優しかった老先生がこの二三日《にさんち》はちょっとしたことにも大きな声をして怒鳴るようにならしゃっただ、私《わし》も手の着けようがないので困っていたとこで御座りますよ」さも情なそうに言って、
「あの様子では最早《もう》先が永くは有りますめえ、不吉なことを言うようじゃが……」と倉蔵は眼を瞬《しばだ》たいた。この時老先生の声で
「倉蔵! 倉蔵!」と呼ぶ声が座敷の縁先でした。倉蔵は言葉を早めて、益々小さな声で
「然し晩になると大概校長さんが来ますからその時だけは幾干《いくら》か気嫌《きげん》が宜《え》えだが校長さんも感心に如何《いくら》なんと言われても逆からわないで温和《おとなしゅ》うしているもんだから何時《いつ》か老先生も少しは機嫌が可くなるだ……」
「倉蔵! 倉蔵は居らんか!」と又も老先生の太い声が響いた。
 倉蔵は目礼したまま大急ぎで庭の方へ廻《ま》わった。村長は腕を組んで暫時《しばら》く考えていたが歎息《ためいき》をして、自分の家の方へ引返《ひっかえ》した。

        

 村長は高山の依頼を言い出す機会《おり》の無いのに引きかえて校長細川繁は殆《ほとん》ど毎夜の如く富岡先生を訪《と》うて十時過ぎ頃まで談話《はなし》ている、談話《はなし》をすると言うよりか寧《むし》ろその愚痴やら悪口《あっこう》やら気焔《きえん》やら自慢噺《じまんばなし》やらの的になっている。先生はこの頃になって酒を被《こうむ》ること益々《ますます》甚《はなは》だしく倉蔵の言った通りその言語が益々荒ら荒らしくその機嫌《きげん》が愈々《いよいよ》難《むず》かしくなって来た。殊《こと》に変わったのは梅子に対する挙動《ふるまい》で、時によると「馬鹿者! 死んで了《しま》え、貴様《きさま》の在《あ》るお蔭で乃公《おれ》は死ぬことも出来んわ!」とまで怒鳴ることがある。然し梅子は能《よ》くこれに堪えて愈々|従順《すなお》に介抱していた。其処《そこ》で倉蔵が
「お嬢様、マア貴嬢《あんた》のような人は御座《ごわ》りませんぞ、神様のような人とは貴嬢のことで御座《ござ》りますぞ、感心だなア……」と老の眼に涙をぼろぼろこぼすことがある。
 こんな風で何時《いつ》しか秋の半《なかば》となった。細川繁は風邪《かぜ》を引いていたので四五日先生を訪うことが出来なかったが熱も去ったので或夜七時頃から出かけて行た。
 家内《やうち》が珍らしくも寂然《ひっそり》としているので細川は少し不審に思いつつ坐敷に通ると、先生の居間の次ぎの間に梅子が一人裁縫をしていた。細川が入って来ても頭《かしら》を上げないので、愈々|訝《いぶ》かしく能《よ》く見ると蒼《あお》ざめた頬《ほお》に涙が流れているのが洋燈《ランプ》の光にありありと解《わか》る。校長は喫驚《びっく》りして
「お梅さんどうかしたのですか」と驚惶《あわただ》しく訊《たず》ねた。梅子は猶《なお》も頭《かしら》を垂れたまま運ばす針を凝視《みつめ》て黙っている。この時次の室《ま》で
「誰だ?」と老先生が怒鳴った。
「私《わたくし》で御座います。細川で御座います」
「此方《こっち》へ入らんで何をしているのか、用があるからちょっと来い!」
「唯今《ただいま》」と校長が起《た》とうとした時、梅子は急に細川の顔を見上げた、そして涙がはらはらとその膝《ひざ》にこぼれた。ハッと思って細川は躊躇《ためろ》うたが、一言《ひとこと》も発し得ない、止《とど》まることも出来ないでそのまま先生の居間に入った。何とも知れない一種の戦慄《せんりつ》が身うちに漲《みな》ぎって、坐った時には彼の顔は真蒼《まっさお》になっていた。富岡老人は床に就いていてその枕許《まくらもと》に薬罎《くすりびん》が置いてある。
「オヤ何所《どこ》かお悪う御座いますか」と細川は搾《しぼ》り出《いだ》すような声で漸《やっ》と言った。富岡老人一言も発しない、一間は寂《せき》としている、細川は呼吸《いき》も塞《つま》るべく感じた。暫《しばら》くすると、
「細川! 貴公《おまえ》は乃公《おれ》の所へ元来《いったい》何をしに来るのだ、エ?」
 寝たまま富岡先生は人を圧《お》しつけるような調声《ちょうし》、人を嘲《あざ》けるような声音《こわね》で言った。細川は一語も発し得ない。
「エ、元来《いったい》何をしに来るのだ? 乃公《おれ》の見舞に来るのか。娘の御|機嫌《きげん》を取りに来るのか、エ? 返事をせえ!」
 校長は眼を閉《つぶ》り歯を喰《くい》しばったまま頭《かしら》を垂《た》れ両の拳《こぶし》を膝《ひざ》に乗せている。
「貴公《おまえ》は娘を狙《ねら》っておるナ! 乃公の娘を自分の物にしたいと狙っておるナ! ふん」
 細川の拳は震えている。
「貴公よく考えてみろ! 貴公は高《たか》が田舎《いなか》の小学校の校長じゃアないか。同じ乃公の塾に居た者でも高山や長谷川は学士だ、それにさえ乃公は娘を与《やら》んのだぞ。身の程を知れ! 馬鹿者!」
 校長の顔は見る見る紅《くれない》をさして来た。その握りしめた拳の上に熱涙がはらはらと落ちた。侯爵伯爵を罵《ののし》る口から能《よ》くもそんな言葉が出る、矢張人物よりも人爵の方が先生には難有《ありがた》いのだろう、見下げ果てた方だと口を衝《つ》いて出ようとする一語を彼はじっと怺《こら》えている。この先生の言としては怪むに足《た》らない、もし理窟《りくつ》を言って対抗する積りなら初めからこの家に出入《でいり》をしないのである。と彼は思い返した。
「エ、それともどうしても娘が欲しいと言うのか、コラ!」
 校長は一語を発しない。
「判然《はっきり》と言え! どうしても欲しいと言うのか、男らしく言え、コラ!」
 細川はきっと頭《かしら》をあげた。
「左様で御座います! 梅子さんを私の同伴者《つれやい》に貰いたいと常に願っております!」きっぱりと言い放って老先生の眼睛《がんせい》を正視した。
「もし乃公が与《や》らぬと言ったらどうする?」
「致し方が御座いません!」
「帰れ! 招喚《よび》にやるまでは来るな、帰れ!」と老人は言放って寝返《ねがえり》して反対《むこう》を向いて了った。
 細川は直ちに起って室《へや》を出ると、突伏して泣いていた梅子は急に起て玄関まで送って来て、
「貴下《あなた》何卒《どうか》父の言葉を気になさらないで……御存知の通りな気性で御座いますから!」とおろおろ声で言った。
「イイエ決して気には留めません、何卒《どうか》先生を御大切《ごたいせつ》に、貴嬢《あなた》も御大事《ごだいじ》……」終《みな》まで言う能《あた》わず、急いで門を出て了った。
 その夜細川が自宅《うち》に帰ったのは十二時過ぎであった。何処《どこ》を徘徊《うろつ》いていたのか、真蒼《まっさお》な顔色をしてさも困憊《がっかり》している様子を寝ないで待っていた母親は不審そうに見ていたが、
「お前又た風邪を引きかえしたのじゃアないかの、未だ十分でないのに余り遅くまで夜あるきをするのは可くないよ」
「何に格別の事は御座いません」と細川は何気なく言ってそのま自分の居間へ入った。母親はその後姿を見送ってそっと歎息《ためいき》をした。

        

 その翌日より校長細川は出勤して平常《ふだん》の如く職務を執っていたが彼の胸中には生れ落ちて以来未だ経験したことのない、苦悩が燃えているのである。
 もし富岡先生に罵《のの》しられたばかりなら彼は何とかして思切るほうに悶《もが》いたであろう、その煩悶《はんもん》も苦痛には相違ないが、これ戦《たたかい》である、彼の意力は克《よ》くこの悩に堪《た》えたであろう。
 然《しか》し今の彼の苦悩は自《みずか》ら解く事の出来ない惑《まどい》である、「何故《なぜ》梅子はあの晩泣いていたろう。自分が先生に呼ばれてその居間に入る時、梅子は何故あんな相貌《かおつき》をして涙を流して自分を見たろう。自分が先生に向《むかっ》て自分の希望《のぞみ》を明言した時に梅子は隣室で聞いていたに違いない、もし自分の希望《のぞみ》を全く否《いな》む心なら自分が帰る時あんなに自分を慰める筈《はず》はない……」
「梅子は自分を愛している、少くとも自分が梅子を恋《こい》ていることを不快には思っていない」との一念が執念《しゅうね》くも細川の心に盤居《わだか》まっていて彼はどうしてもこれを否むことが出来ない、然し梅子が平常《ふだん》何人《なんびと》に向ても平等に優しく何人に向ても特種の情態《こころもち》を示したことのないだけ、細川は十分この一念を信ずることが出来ぬ。梅子が泣いて見あげた眼の訴うるが如く謝《わび》るが如かりしを想起《おもいおこ》す毎に細川はうっとり[#「うっとり」に傍点]と夢見心地になり狂わしきまでに恋しさの情《こころ》燃えたつのである。恋、惑、そして恥辱《はじ》、夢にも現《うつつ》にもこの苦悩は彼より離れない。
 或時は断然倉蔵に頼んで窃《ひそ》かに文《ふみ》を送り、我情《わがこころ》のままを梅子に打明けんかとも思い、夜の二時頃まで眠らないで筆を走らしたことがある、然し彼は思返してその手紙を破って了《しま》った。こういう風で十日ばかり経《た》った。或日細川は学校を終えて四時頃、丘の麓《ふもと》を例の如く物思に沈みつつ帰って来ると、倉蔵に出遇《であ》った。倉蔵は手に薬罎《くすりびん》を持ていた。
「先生! どうしてこの頃は全然《まるきり》お見えになりません?」倉蔵はないない様子を知りながら素知らぬ風で問うた。
「老先生の御病気はどうかね?」と校長も又た倉蔵の問に答えないで富岡老人の様子を訊《たず》ねた。
「この頃はめっきりお弱りになって始終床にばかり就ていらっしゃるが、別に此処《ここ》というて悪るい風にも見えねえだ。然し最早《もう》長くは有りますめえよ!」と倉蔵は歎息《ためいき》をした。
「ふうん、そうかな、一度見舞に行きたいのだけれど……」と校長の声も様子も沈んで了った。
「お出《いで》なされませ、関《かま》うもんかね、疳癪《かんしゃく》まぎれに何言うたて……」
「それもそうだが……お梅さんの様子はどうだね?」と思切って問うた。
「何だかこの頃は始終|鬱屈《ふさい》でばかり御座るが、見ていても可哀そうでなんねえ、ほんとに嬢さんは可哀そうだ……」と涙にもろい倉蔵は傍《わき》を向いて田甫《たんぼ》の方を眺《なが》め最早《もう》眼をしばだたいている。
「困ったものだナ、先生は相変らず喧《やか》ましく言うかね?」
「ナニこの頃は老先生も何だか床の中で半分眠ってばかり居て余り口を用《き》かねえだ」
「妙だねえ」と細川は首をかしげた。
「これまで煩《わず》らったことが有《あっ》ても今度のように元気のないことは無《ね》えが、矢張《やっぱ》り長くない証《しるし》であるらしい」
「そうかも知れん!」と細川は眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。
「それに何だか我が折れて愚に還《かえ》ったような風も見えるだ。それを見ると私も気の毒でならん、喧《やか》まし人は矢張《やっぱり》喧しゅうしていてくれる方が可《え》えと思いなされ」
「今夜見舞に行ってみようかしらん」
「是非来なさるが可え、関うもんか!」
「うん……」と細川は暫時《しばら》く考えていたが、「お梅さんに宜しく言っておくれ」
「かしこまりました、是非今夜来なさるが可《え》え」
 細川は軽く点頭《うなず》き、二人は分れた。いろいろと考え、種々《いろいろ》に悶《もが》いてみたが校長は遂にその夜富岡を訪問《とう》ことが出来なかった。
 それから三日目の夕暮、倉蔵が真面目《まじめ》な顔をして校長の宅《うち》へ来て、梅子からの手紙を細川の手に渡した、細川が喫驚《びっくり》して目を円《まる》くして倉蔵の顔を見ているうちに彼は挨拶《あいさつ》も為《し》ないで帰って了《しま》った。
 梅子からの手紙! 細川繁の手は慄《ふ》るえた。無理もない、曾《かつ》て例のないこと、又有り得《う》べからざること、細川に限らず、梅子を知れる青年《わかもの》の何人も想像することの出来ないことである!
 封を切て読み下すと、頗《すこぶ》る短い文《ふみ》で、ただ父に代ってこの手紙を書く。今夜直ぐ来て貰いたい是非とのことである、何か父から急にお話したいことがあるそうだとの意味。
 細川は直ぐ飛んで往《い》った。「呼びにやるまで来るな!」との老先生の先夜の言葉を今更のように怪しゅう思って、彼は途々《みちみち》この一言《いちごん》を胸に幾度《いくたび》か繰返した、そして一念|端《はし》なくもその夜の先生の怒罵《どば》に触れると急に足が縮《すく》むよう思った。
 然し「呼びに来た」のである。不思議の力ありて彼を前より招き後《あと》より推《お》し忽《たちま》ち彼を走らしめつ、彼は躊躇《ためら》うことなく門を入った。
 居間に通って見ると、村長が来ている。先生は床に起直って布団《ふとん》に倚掛《よっかか》っている。梅子も座に着いている、一見一座の光景《ようす》が平常《ふだん》と違っている。真面目で、沈んで、のみならず何処《どこ》かに悲哀の色が動いている。
 校長は慇懃《いんぎん》に一座に礼をして、さてあらためて富岡老人に向い、
「御病気は如何《いかが》で御座いますか」
「どうも今度の病気は爽快《はっきり》せん」という声さえ衰えて沈んでいる。
「御大事《ごだいじ》になされませんと……」
「イヤ私《わし》も最早《もう》今度はお暇乞《いとまごい》じゃろう」
「そんなことは!」と細川は慰さめる積りで微笑《えみ》を含んだ。しかし老人は真面目で
「私《わし》も自分の死期の解らぬまでには老耄《もうろく》せん、とても長くはあるまいと思う、其処《そこ》で実は少し折入って貴公《おまえ》と相談したいことがあるのじゃ」
 かくてその夜は十時頃まで富岡老人の居間は折々|談声《はなしごえ》が聞え折々|寂《しん》と静まり。又折々老人の咳払《せきばらい》が聞えた。
 その翌日村長は長文の手紙を東京なる高山法学士の許《もと》に送った、その文の意味は次ぎの如くである、――
 御申越《おんもうしこ》し以来一度も書面を出さなかったのは、富岡老人に一条を話すべき機会《おり》が無かったからである。
 先日の御手紙には富岡先生と富岡|氏《し》との二個《ふたり》の人がこの老人の心中に戦かっておるとのお言葉が有った、実にその通りで拙者も左様思っていた、然るにちょうど御手紙を頂いた時分以来は、所謂《いわゆ》る富岡先生の暴力|益々《ますます》つのり、二六時中富岡氏の顔出《かおだし》する時は全く無かったと言って宜《よろ》しい位、恐らく夢の中《うち》にも富岡先生は荒《あば》れ廻っていただろうと思われる。
 これには理由《わけ》があるので、この秋の初に富岡老人の突然上京せられたるのは全く梅子|嬢《さん》を貴所《あなた》に貰わす目算であったらしい、拙者はそう鑑定している、ところが富岡先生には「東京」が何より禁物なので、東京にゆけば是非、江藤侯井下伯その他|故郷《くに》の先輩の堂々たる有様を見聞せぬわけにはいかぬ、富岡先生に取ってはこれ則《すなわ》ち不平、頑固《がんこ》、偏屈の源因《げんいん》であるから、忽《たちま》ち青筋を立てて了って、的《あて》にしていた貴所《あなた》の挙動《ふるまい》すらも疳癪《かんしゃく》の種となり、遂《つい》に自分で立てた目的を自分で打壊《たたきこわ》して帰国《かえ》って了われたものと拙者は信ずる、然るに帰国って考えてみると梅子|嬢《さん》の為めに老人の描いていた希望は殆《ほと》んど空《くう》になって了った。先生何が何やら解らなくなって了った。其所《そこ》で疳《かん》は益々起る、自暴《やけ》にはなる、酒量は急に増す、気は益々狂う、真《まこと》に言うも気の毒な浅ましい有様となられたのである、と拙者は信ずる。
 現に拙者が貴所《あなた》の希望に就き先生を訪うた日などは、先生の梅子|嬢《さん》を罵《ののし》る大声《たいせい》が門の外まで聞えた位で、拙者は機会《おり》悪《わる》しと見、直《ただち》に引返えしたが、倉蔵の話に依ればその頃先生はあの秘蔵子なるあの温順なる梅子|嬢《さん》をすら頭ごなしに叱飛《しかりとば》していたとのことである、以て先生の様子を想像したまわば貴所も意外の感あることと思う。
 拙者ばかりでなくこういう風であるから無論富岡を訪《たず》ねる者は滅多になかった、ただ一人、御存知の細川繁氏のみは殆ど毎晩のように訪ねて怒鳴られながらも慰めていたらしい。
 然るに昨夕《さくせき》のこと富岡老人近頃|病床《とこ》にある由《よし》を聞いたから見舞に出かけた、もし機会《おり》が可かったら貴所の一条を持出す積りで。老人はなるほど床に就いていたが、意外なのは暫時《しばら》く会《あわ》ぬ中に全然《すっかり》元気が衰えたことである、元気が衰えたと云うよりか殆ど我が折れて了って貴所の所謂《いわゆ》る富岡氏、極く世間並の物の能く通暁《わかっ》た老人に為《な》って了ったことである、更に意外なのは拙者の訪問をひどく喜こんで実は招《よ》びにやろうかと思っていたところだとのことである。それから段々話しているうちに老人は死後のことに就き色々と拙者に依托《いたく》せられた、その様子が死期の遠からぬを知っておらるるようで拙者も思わず涙を呑《の》んだ位であった、其処《そこ》で貴所の一条を持出すに又とない機会《おり》と思い既に口を切ろうとすると、意外も意外、老人の方から梅子|嬢《さん》のことを言い出した。それはこうで、娘は細川繁に配する積りである、細川からも望まれている、私《わし》も初は進まなかったが考えてみると娘の為め細川の為め至極良縁だと思う、何卒《どう》か貴所《あなた》その媒酌者《なこうど》になってくれまいかとの言葉。胸に例の一条が在る拙者は言句《ごんく》に塞《つま》って了った、然し直ぐ思い返してこの依頼を快く承諾した。
 と云うのは、貴所に対して済ぬようだが、細川が先に申込み老人が既に承知した上は、最早《もはや》貴所の希望は破れたのである、拙者とても致し方がない。更に深く考えてみると、この縁は貴所の申込が好し先であってもそれは成就せず矢張、細川繁の成功に終わるようになっていたのである、と拙者は信ずるその理由は一に貴所の推測に任かす、富岡先生を十分に知っている貴所には直ぐ解るであろう。
 かつ拙者は貴所の希望の成就を欲する如く細川の熱望の達することを願う、これに就き少も偏頗《へんぱ》な情《こころ》を持ていない。貴所といえども既に細川の希望が達したと決定《きま》れば細川の為めに喜こばれるであろう。又梅子|嬢《さん》の為にも、喜ばれるであろう。
 そして拙者の見たところでは梅子|嬢《さん》もまた細川に嫁《か》することを喜こんでいるようである。
 これが良縁でなくてどうしよう。
 拙者が媒酌者《なこうど》を承諾するや直ぐ細川を呼びにやった、細川は直ぐ来た、其処《そこ》で梅子|嬢《さん》も一座し四人同席の上、老先生からあらためて細川に向い梅子|嬢《さん》を許すことを語られ又梅子|嬢《さん》の口から、父の処置に就いては少しも異議なく喜んで細川氏に嫁すべきを誓い、婚礼の日は老先生の言うがままに来《きたる》十月二十日と定めた。鬮《くじ》は遂に残者《のこりもの》に落ちた。
 貴所からも無論老先生及細川に向て祝詞を送らるることと信ずる。

        

 婚礼も目出度《めでた》く済んだ。田舎《いなか》は秋晴|拭《ぬぐ》うが如く、校長細川繁の庭では姉様冠《あねさまかぶり》の花嫁中腰になって張物をしている。
 さて富岡先生は十一月の末|終《つい》にこの世を辞して何国《なにくに》は名物男一人を失なった。東京の大新聞二三種に黒枠《くろわく》二十行ばかりの大きな広告が出て門人高山文輔、親戚《しんせき》細川繁、友人野上子爵等の名がずらり並んだ。
 同国の者はこの広告を見て「先生到頭死んだか」と直ぐ点頭《うなず》いたが新聞を見る多数は、何人なればかくも大きな広告を出すのかと怪むものもあり、全く気のつかぬ者もあり。
 然しこの広告が富岡先生のこの世に放った最後の一喝《いっかつ》で不平満腹の先生がせめてもの遣悶《こころやり》を知人《ちじん》に由《よ》って洩《も》らされたのである。心ある同国人の二三はこれを見て泣いた。

底本:「牛肉と馬鈴薯」新潮文庫、新潮社
   1970(昭和45年)年5月30日初版発行
   1983(昭和58年)年7月30日22刷
入力:Nana Ohbe
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年6月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国木田独歩

非凡なる凡人——国木田独歩

     上

 五六人の年若い者が集まって互いに友の上を噂《うわさ》しあったことがある、その時、一人が――
 僕の小供《こども》の時からの友に桂正作《かつらしょうさく》という男がある、今年二十四で今は横浜のある会社に技手として雇われもっぱら電気事業に従事しているが、まずこの男ほど類の異《ちが》った人物はあるまいかと思われる。
 非凡人《ひぼんじん》ではない。けれども凡人でもない。さりとて偏物《へんぶつ》でもなく、奇人でもない。非凡なる凡人というが最も適評かと僕は思っている。
 僕は知れば知るほどこの男に感心せざるを得ないのである。感心するといったところで、秀吉《ひでよし》とか、ナポレオンとかそのほかの天才に感心するのとは異うので、この種の人物は千百歳に一人も出るか出ないかであるが、桂正作のごときは平凡なる社会がつねに産出しうる人物である、また平凡なる社会がつねに要求する人物である。であるから桂のような人物が一人|殖《ふ》えればそれだけ社会が幸福なのである。僕の桂に感心するのはこの意味においてである。また僕が桂をば非凡なる凡人と評するのもこのゆえである。
 僕らがまだ小学校に通っている時分であった。ある日、その日は日曜で僕は四五人の学校仲間と小松山《こまつやま》へ出かけ、戦争の真似《まね》をして、我こそ秀吉だとか義経だとか、十三四にもなりながらばかげた腕白《わんぱく》を働らいて大あばれに荒《あば》れ、ついに喉《のど》が渇《かわ》いてきたので、山のすぐ麓《ふもと》にある桂正作の家の庭へ、裏山からドヤドヤと駈下《かけお》りて、案内も乞《こ》わず、いきなり井戸辺《いどばた》に集まって我がちにと水を汲《く》んで呑《の》んだ。
 すると二階の窓から正作が顔を出してこっちを見ている。僕はこれを見るや
「来ないか」と呼んだ。けれどもいつにないまじめくさった顔つきをして頭を横に振った。腕白のほうでも人並のことをしてのける桂正作、不思議と出てこないので、僕らもしいては誘わず、そのまままた山に駈登ってしまった。
 騒ぎ疲《くた》ぶれて衆人《みんな》散々《ちりぢり》に我家へと帰り去り、僕は一人桂の宅《うち》に立寄った。黙って二階へ上がってみると、正作は「テーブル」に向かい椅子《いす》に腰をかけて、一心になって何か読んでいる。
 僕はまずこの「テーブル」と椅子のことから説明しようと思う。「テーブル」というは粗末な日本机の両脚の下に続台《つぎだい》をした品物で、椅子とは足続《あしつ》ぎの下に箱を置いただけのこと。けれども正作はまじめでこの工夫をしたので、学校の先生が日本流の机は衛生に悪いといった言葉をなるほどと感心してすぐこれだけのことを実行したのである。そしてその後つねにこの椅子テーブルで彼は勉強していたのである。そのテーブルの上には教科書その他の書籍を丁寧《ていねい》に重ね、筆墨《ひつぼく》の類までけっして乱雑に置いてはない。で彼は日曜のいい天気なるにもかかわらず何の本か、脇目《わきめ》もふらないで読んでいるので、僕はそのそばに行って、
「何を読んでいるのだ」といいながら見ると、洋綴《ようとじ》の厚い本である。
「西国立志編《さいこくりっしへん》だ」と答えて顔を上げ、僕を見たその眼《まな》ざしはまだ夢の醒《さ》めない人のようで、心はなお書籍の中にあるらしい。
「おもしろいかね?」
「ウン、おもしろい」
「日本外史《にほんがいし》とどっちがおもしろい」と僕が問うや、桂は微笑《わらい》を含んで、ようやく我に復《かえ》り、いつもの元気のよい声で
「それやアこのほうがおもしろいよ。日本外史とは物が異《ちが》う。昨夜《ゆうべ》僕は梅田先生の処から借りてきてから読みはじめたけれどおもしろうて止められない。僕はどうしても一冊《いっさつ》買うのだ」といって嬉《うれ》しくってたまらない風であった。
 その後桂はついに西国立志編を一冊買い求めたが、その本というは粗末至極な洋綴で、一度読みおわらないうちにすでにバラバラになりそうな代物《しろもの》ゆえ、彼はこれを丈夫《じょうぶ》な麻糸で綴じなおした。
 この時が僕も桂も数え年の十四歳。桂は一度西国立志編の美味《うまみ》を知って以後は、何度この書を読んだかしれない、ほとんど暗誦するほど熟読したらしい、そして今日といえどもつねにこれを座右《ざゆう》に置いている。
 げに桂正作は活《い》きた西国立志編といってよかろう、桂自身でもそういっている。
「もし僕が西国立志編を読まなかったらどうであったろう。僕の今日あるのはまったくこの書のお蔭《かげ》だ」と。
 けれども西国立志編(スマイルスの自助論《セルフヘルプ》)を読んだものは洋の東西を問わず幾百万人あるかしれないが、桂正作のように、「余《よ》を作りしものはこの書なり」と明言しうる者ははたして幾人あるだろう。
 天が与えた才能からいうと桂は中位の人たるにすぎない。学校における成績も中等で、同級生のうち、彼よりも優《すぐ》れた少年はいくらもいた。また彼はかなりの腕白者《わんぱくもの》で、僕らといっしょにずいぶん荒《あば》れたものである。それで学校においても郷党《きょうとう》にあっても、とくに人から注目せられる少年ではなかった。
 けれども天の与えた性質からいうと、彼は率直で、単純で、そしてどこかに圧《おさ》ゆべからざる勇猛心を持っていた。勇猛心というよりか、敢為《かんい》の気象といったほうがよかろう。すなわち一転すれば冒険心となり、再転すれば山気《やまぎ》となるのである。現《げん》に彼の父は山気のために失敗し、彼の兄は冒険のために死んだ。けれども正作は西国立志編のお蔭で、この気象に訓練を加え、堅実なる有為《ゆうい》の精神としたのである。
 ともかく、彼の父は尋常《じんじょう》の人ではなかった。やはり昔の武士で、維新の戦争にも出てひとかどの功をも立てたのである。体格は骨太《ほねぶと》の頑丈《がんじょう》な作り、その顔は眼《まな》ジリ長く切れ、鼻高く一見して堂々たる容貌《ようぼう》、気象も武人気質《ぶじんかたぎ》で、容易に物に屈しない。であるからもし武人のままで押通したならば、すくなくとも藩閥《はんばつ》の力で今日《こんにち》は人にも知られた将軍になっていたかもしれない。が、彼は維新の戦争から帰るとすぐ「農」の一字に隠れてしまった。隠れたというよりか出なおしたのである。そして「殖産《しょくさん》」という流行語にかぶれてついに破産してしまった。
 桂家の屋敷は元来《もと》、町にあったのを、家運の傾むくとともにこれを小松山の下に運んで建てなおしたので、その時も僕の父などはこういっていた、あれほどのりっぱな屋敷を打壊《ぶちこわ》さないでそのまま人に譲《ゆず》り、その金でべつに建てたらよかろうと。けれども、桂正作の父の気象はこの一事《いちじ》でも解っている。小松山の麓《ふもと》に移ってこの方《かた》は、純粋の百姓になって正作の父は働いているのを僕はしばしば見た。
 であるから正作が西国立志編を読み初めたころは、その家政はよほど困難であったに違いない。けれどもその家庭にはいつも多少の山気《やまぎ》が浮動していたという証拠《しょうこ》には、正作がある日僕に向かって、宅《うち》には田中鶴吉《たなかつるきち》の手紙があると得意らしく語《い》ったことがある。その理由《いわれ》は、桂の父が、当時世間の大評判であった田中鶴吉の小笠原《おがさわら》拓殖《たくしょく》事業《じぎょう》にひどく感服して、わざわざ書面を送って田中に敬意を表したところ、田中がまたすぐ礼状を出してそれが桂の父に届いたという一件、またある日正作が僕に向かい、今から何カ月とかすると蛤《はまぐり》をたくさんご馳走《ちそう》するというから、なぜだと聞くと、父が蛤の繁殖事業を初め、種を取寄せて浜に下ろしたから遠からず、この附近は蛤が非常に採れるようになると答えた。まずこれらの事で家庭の様子も想像することができるのである。
 父の山気を露骨に受けついで、正作の兄は十六の歳《とし》に家を飛びだし音信不通、行方《ゆきがた》知れずになってしまった。ハワイに行ったともいい、南米に行ったとも噂《うわ》させられたが、実際のことは誰も知らなかった。
 小学校を卒業するや、僕は県下の中学校に入ってしまい、しばらく故郷を離れたが正作は家政の都合《つごう》でそういうわけにゆかず、周旋《しゅうせん》する人があって某《なにがし》銀行に出ることになり給料四円か五円かで某町《なにがしまち》まで二里の道程《みちのり》を朝夕《ちょうせき》往復することになった。
 間もなく冬期休課《ふゆやすみ》になり、僕は帰省の途について故郷近く車で来ると、小さな坂がある、その麓で車を下り手荷物を車夫に托し、自分はステッキ一本で坂を登りかけると、僕の五六間さきを歩《ゆ》く少年がある、身に古ぼけたトンビを着て、手に古ぼけた手提《てさげ》カバンを持って、静かに坂を登りつつある、その姿がどうも桂正作に似ているので、
「桂君じゃアないか」と声を掛けた。後ろを振り向いて破顔一笑《はがんいっしょう》したのはまさしく正作。立ち止まって僕をまち
「冬期休課《ふゆやすみ》になったのか」
「そうだ君はまだ銀行に通ってるか」
「ウン、通ってるけれどもすこしもおもしろくない」
「どうしてや?」と僕は驚いて聞いた。
「どうしてというわけもないが、君なら三日と辛棒《しんぼう》ができないだろうと思う。第一僕は銀行業からして僕の目的じゃないのだもの」
 二人は話しながら歩いた、車夫のみ先へやり。
「何が君の目的だ」
「工業で身を立つる決心だ」といって正作は微笑し、「僕は毎日この道を往復しながらいろいろ考がえたが、発明に越す大事業はないと思う」
 ワット[#「ワット」に傍線]やステブンソン[#「ステブンソン」に傍線]やヱヂソン[#「ヱヂソン」に傍線]は彼が理想の英雄である。そして西国立志編は彼の聖書《バイブル》である。
 僕のだまって頷《うなず》くを見て、正作はさらに言葉をつぎ
「だから僕は来春《らいはる》は東京へ出ようかと思っている」
「東京へ?」と驚いて問い返した。
「そうサ東京へ。旅費はもうできたが、彼地《むこう》へ行って三月ばかりは食えるだけの金を持っていなければ困るだろうと思う。だから僕は父に頼んで来年の三月までの給料は全部僕が貰うことにした。だから四月早々は出立《たて》るだろうと思う」
 桂正作の計画はすべてこの筆法である。彼はずいぶん少年にありがちな空想を描くけれども、計画を立ててこれを実行する上については少年の時から今日に至るまで、すこしも変わらず、一定の順序を立てて一歩一歩と着々実行してついに目的どおりに成就《じょうじゅ》するのである。むろんこれは西国立志編の感化でもあろう、けれども一つには彼の性情が祖父に似ているからだと思われる。彼の祖父の非凡な人であったことを今ここで詳しく話すことはできないが、その一つをいえば真書太閤記《しんしょたいこうき》三百巻を写すに十年計画を立ててついにみごと写しおわったことがある。僕も桂の家でこれを実見したが今でもその気根《きこん》のおおいなるに驚いている。正作はたしかにこの祖父の血を受けたに違いない。もしくはこの祖父の感化を受けただろうと思う。
 途上種々の話で吾々二人は夕暮に帰宅し、その後僕は毎日のように桂に遇って互いに将来の大望《アンビション》を語りあった。冬期休暇《ふゆやすみ》が終りいよいよ僕は中学校の寄宿舎に帰るべく故郷を出立する前の晩、正作が訪ねてきた。そしていうには今度会うのは東京だろう。三四年は帰郷しないつもりだからと。僕もそのつもりで正作に離別《わかれ》を告げた。
 明治二十七年の春、桂は計画どおりに上京し、東京から二三度手紙を寄こしたけれど、いつも無事を知らすばかりでべつに着京後の様子を告げない。また故郷《くに》の者誰もどうして正作が暮らしているか知らない、父母すら知らない、ただ何人も疑がわないことが一つあった。曰《いわ》く桂正作は何らかの計画を立ててその目的に向かって着々歩を進めているだろうという事実である。
 僕は三十年の春上京した。そして宿所《やど》がきまるや、さっそく築地何町何番地、何の某方《なにがしかた》という桂の住所を訪ねた。この時二人はすでに十九歳。

     

 午後三時ごろであった。僕は築地何町を隅から隅まで探して、ようやくのことで桂の住家《すみか》を探しあてた。容易に分からぬも道理、某方《なにがしかた》というその某は車屋の主人ならんとは。とある横町の貧しげな家ばかり並んでいる中に挾《はさ》まって九尺間口の二階屋、その二階が「活《い》ける西国立志編」君の巣である。
「桂君という人があなたの処にいますか」
「ヘイいらっしやいます、あの書生さんでしょう」との山の神の挨拶《あいさつ》。声を聞きつけてミシミシと二階を下りてきて「ヤア」と現われたのが、一別《いちべつ》以来三年会わなんだ桂正作である。
 足も立てられないような汚い畳《たたみ》を二三枚歩いて、狭い急な階子段《はしごだん》を登り、通された座敷は六畳敷、煤《すす》けた天井《てんじょう》低く頭を圧し、畳も黒く壁も黒い。
 けれども黒くないものがある。それは書籍。
 桂ほど書籍を大切にするものはすくない。彼はいかなる書物でもけっして机の上や、座敷の真中に放擲《ほうてき》するようなことなどはしない。こういうと桂は書籍ばかりを大切にするようなれどかならずしもそうでない。彼は身の周囲《まわり》のものすべてを大事にする。
 見ると机もかなりりっぱ。書籍箱もさまで黒くない。彼はその必要品を粗略《そりゃく》にするほど、東洋|豪傑風《ごうけつふう》の美点も悪癖《あくへき》も受けていない。今の流行語でいうと、彼は西国立志編の感化を受けただけにすこぶるハイカラ的である。今にして思う、僕はハイカラの精神の我が桂正作を支配したことを皇天《こうてん》に感謝する。
 机の上を見ると、教科書用の書籍そのほかが、例のごとく整然として重ねてある。その他周囲の物すべてが皆なその処を得て、キチン[#「キチン」に傍点]としている。
 室の下等にして黒く暗憺《あんたん》なるを憂《うれ》うるなかれ、桂正作はその主義と、その性情によって、すべてこれらの黒くして暗憺《あんたん》たるものをば化して純潔にして高貴、感嘆すべく畏敬《いけい》すべきものとなしているのである。
 彼は例のごとくいとも快活に胸臆《きょうおく》を開いて語った。僕の問うがまにまに上京後の彼の生活をば、恥もせず、誇りもせず、平易に、率直に、詳しく話して聞かした。
 彼ほど虚栄心のすくない男は珍らしい。その境遇に処《しょ》し、その信ずるところを行なうて、それで満足し安心し、そして勉励《べんれい》している。彼はけっして自分と他人とを比較しない。自分は自分だけのことをなして、運命に安んじて、そして運命を開拓しつつ進んでゆく。
 一別以来、正作のなしたことを聞くとじつにこのとおりである。僕は聞いているうちにもますます彼を尊敬する念を禁じえなかった。
 彼は計画どおり三カ月の糧《りょう》を蓄えて上京したけれども、坐してこれを食らう男ではなかった。
 何がなおもしろい職を得たいものと、まず東京じゅうを足に任《ま》かして遍巡《へめぐ》り歩いた。そして思いついたのは新聞売りと砂書き。九段の公園で砂書きの翁《おやじ》を見て、彼はただちにこれともの語り、事情を明して弟子入りを頼み、それより二三日の間|稽古《けいこ》をして、間もなく大道のかたわらに坐り、一銭、五厘、時には二銭を投げてもらってでたらめを書き、いくらかずつの収入を得た。
 ある日、彼は客のなきままに、自分で勝手なことを書いては消し、ワット[#「ワット」に傍線]、ステブンソン[#「ステブンソン」に傍線]、などいう名を書いていると、八歳《やッつ》ばかりの男児《おとこのこ》を連れた衣装《みなり》のよい婦人が前に立った。「ワット」と児供《こども》が読んで、「母上《かあさま》、ワットとは何のこと?」と聞いた。桂は顔を挙げて小供《こども》に解りやすいようにこの大発明家のことを話して聞かし、「坊様も大きくなったらこんな豪《えら》い人におなりなさいよ」といった。そうすると婦人が「失礼ですけれど」といいつつ二十銭銀貨を手渡して立ち去った。
「僕はその銀貨を費《つか》わないでまだ持っている」と正作はいって罪のない微笑をもらした。
 彼はかく労働している間、その宿所は木賃宿《きちんやど》、夜は神田の夜学校に行って、もっぱら数学を学んでいたのである。
 日清の間が切迫してくるや、彼はすぐと新聞売りになり、号外で意外の金を儲《もう》けた。
 かくてその歳も暮れ、二十八年の春になって、彼は首尾よく工手学校の夜学部に入学しえたのである。
 かつ問いかつ聞いているうちに夕暮近くなった。
「飯《めし》を食いに行こう!」と桂は突然いって、机の抽斗《ひきだし》から手早く蟇口《がまぐち》を取りだして懐《ふところ》へ入れた。
「どこへ?」と僕は驚いて訊《たず》ねた。
「飯屋へサ」といって正作は立ちかけたので
「イヤ飯なら僕は宿屋《やど》へ帰って食うから心配しないほうがいいよ」
「まアそんなことをいわないでいっしょに食いたまえな。そして今夜はここへ泊りたまえ。まだ話がたくさん残っておる」
 僕もその意に従がい、二人して車屋を出た。路《みち》の二三丁も歩いたが、桂はその間も愉快に話しながら、国元《くにもと》のことなど聞き、今年のうちに一度|故郷《くに》に帰りたいなどいっていた。けれども僕は桂の生活の模様から察して、三百里外の故郷へ往復することのとうてい、いうべくして行なうべからざるを思い、べつに気にも留めず、帰れたら一度帰って父母を見舞いたまえくらいの軽い挨拶をしておいた。
「ここだ!」といって桂は先に立って、縄暖簾《なわのれん》を潜《くぐ》った。僕はびっくりして、しばしためらっていると中から「オイ君!」と呼んだ。しかたがないから入ると、桂はほどよき場処に陣取って笑味を含んでこっちを見ている。見廻わすと、桂のほかに四五名の労働者らしい男がいて、長い食卓に着いて、飯を食う者、酒を呑むもの、ことのほか静粛《せいしゅく》である。二人差向いで卓《たく》に倚《よ》るや
「僕は三度三度ここで飯を食うのだ」と桂は平気でいって「君は何を食うか。何でもできるよ」
「何でもいい、僕は」
「そうか、それでは」と桂は女中に向かって二三品命じたが、その名は符牒《ふちょう》のようで僕には解らなかった。しばらくすると、刺身《さしみ》、煮肴《にざかな》、煮〆《にしめ》、汁などが出て飯を盛《も》った茶碗に香物《こうのもの》。
 桂はうまそうに食い初めたが、僕は何となく汚らしい気がして食う気にならなかったのをむりに食い初めていると、思わず涙が逆上《こみあ》げてきた。桂正作は武士の子、今や彼が一家は非運の底にあれど、ようするに彼は紳士の子、それが下等社会といっしょに一膳《いちぜん》めし[#「めし」に傍点]に舌打ち鳴らすか、と思って涙ぐんだのではない。けっしてそうではない。いやいやながら箸《はし》を取って二口三口食うや、卒然、僕は思った、ああこの飯はこの有為《ゆうい》なる、勤勉なる、独立自活してみずから教育しつつある少年が、労働して儲《もう》けえた金で、心ばかりの馳走《ちそう》をしてくれる好意だ、それを何ぞやまずそうに食らうとは! 桂はここで三度の食事をするではないか、これをいやいやながら食う自分は彼の竹馬の友といわりょうかと、そう思うと僕は思わず涙を呑んだのである。そして僕はきゅうに胸がすがすがして、桂とともにうまく食事をして、縄暖簾《なわのれん》を出た。
 その夜二人で薄い布団《ふとん》にいっしょに寝て、夜の更《ふ》けるのも知らず、小さな豆ランプのおぼつかない光の下《もと》で、故郷《くに》のことやほかの友の上のことや、将来《ゆくすえ》の望みを語りあったことは僕今でも思い起こすと、楽しい懐《なつか》しいその夜の様《さま》が眼の先に浮かんでくる。
 その後、僕と桂は互いに往来していたが早くもその年の夏期休課《なつやすみ》が来た。すると一日、桂が僕の下宿屋へ来て、
「僕は故郷《くに》に帰《い》ってこうかと思う。じつはもうきめているのだ」という意外な言葉。
「それはいいけれども君……」と僕はすぐ旅費|等《とう》のことを心配して口を開くと
「じつは金もできているのだ。三十円ばかり貯蓄しているから、往復の旅費と土産物《みやげもの》とで二十円あったらよかろうと思う。三十円みんな費《つか》ってしまうと後で困るからね」というのを聞いて僕は今さらながら彼の用意のほどに感じ入った。彼の話によると二年前からすでに帰省の計画を立ててそのつもりで貯金したとのこと。
 どうだ諸君! こういうことはできやすいようで、なかなかできないことだよ。桂は凡人だろう。けれどもそのなすことは非凡ではないか。
 そこで僕もおおいに歓《よろこ》んで彼の帰国を送った。彼は二年間の貯蓄の三分の二を平気で擲《なげう》って、錦絵《にしきえ》を買い、反物《たんもの》を買い、母や弟《おとと》や、親戚の女子供を喜ばすべく、欣々然《きんきんぜん》として新橋を立出《た》った。
 翌年、三十一年にめでたく学校を卒業し、電気部の技手として横浜の会社に給料十二円で雇われた。
 その後|今日《こんにち》まで五年になる。その間彼は何をしたか。ただその職分を忠実に勤めただけか。そうでない! 
 彼はおおいなることをしている。彼の弟が二人あって、二人とも彼の兄、逃亡した兄に似て手に合わない突飛物《とっぴもの》、一人を五郎といい、一人を荒雄《あらお》という、五郎は正作が横浜の会社に出たと聞くや、国元を飛びだして、東京に来た。正作は五郎のために、所々《しょしょ》奔走《ほんそう》してあるいは商店に入れ、あるいは学僕《がくぼく》としたけれど、五郎はいたるところで失敗し、いたるところを逃げだしてしまう。
 けれども正作は根気よく世話をしていたが、ついに五郎を自分のそばに置き、種々に訓戒を加え、西国立志編を繰返して読まし、そして工手学校に入れてしまった。わずかの給料でみずから食《く》らい、弟を養い、三年の間、辛苦《しんく》に辛苦を重ねた結果は三十四年に至って現われ、五郎は技手となって今は東京芝区の某《ぼう》会社に雇われ、まじめに勤労しているのである。
 荒雄もまた国を飛びだした。今は正作と五郎と二人でこの弟の処置に苦心している。
 今年の春であった。夕暮に僕は横浜|野毛町《のげまち》に桂を訪ねると、宿の者が「桂さんはまだ会社です」というから、会社の様子も見たく、その足で会社を訪《と》うた。
 桂の仕事をしている場処に行ってみると、僕は電気の事を詳しく知らないから十分の説明はできないが、一本の太い鉄柱を擁《よう》して数人《すにん》の人が立っていて、正作は一人その鉄柱の周囲を幾度《いくたび》となく廻って熱心に何事かしている。もはや電燈が点《つ》いて白昼《まひる》のごとくこの一群の人を照らしている。人々は黙して正作のするところを見ている。器械に狂いの生じたのを正作が見分《けんぶん》し、修繕しているのらしい。
 桂の顔、様子! 彼は無人の地にいて、我を忘れ世界を忘れ、身も魂《たましい》も、今そのなしつつある仕事に打ちこんでいる。僕は桂の容貌《ようぼう》、かくまでにまじめなるを見たことがない。見ているうちに、僕は一種の壮厳《そうごん》に打たれた。
 諸君! どうか僕の友のために、杯《さかずき》をあげてくれたまえ、彼の将来を祝福して!

底本:「日本文学全集12 国木田独歩 石川啄木集」集英社
   1972(昭和47)年10月7日初版
入力:宮崎達郎
校正:久保あきら
1999年9月1日公開
2004年5月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

疲労——国木田独歩

 京橋区|三十間堀《さんじっけんぼり》に大来館《たいらいかん》という宿屋がある、まず上等の部類で客はみな紳士紳商、電話は客用と店用と二種かけているくらいで、年じゅう十二三人から三十人までの客があるとの事。
 ある年の五月半ばごろである。帳場にすわっておる番頭の一人《ひとり》が通りがかりの女中を呼んで、
「お清《きよ》さん、これを大森さんのとこへ持っていって、このかたが先ほど見えましたがお留守だと言って断わりましたって……」
と一枚の小形の名刺を渡した。お清はそれを受けとって梯子段《はしごだん》を上がった。
 午後二時ごろで、たいがいの客は実際不在であるから家内《やうち》しんとしてきわめて静かである。中庭の青桐《あおぎり》の若葉の影が拭《ふ》きぬいた廊下に映ってぴかぴか光っている。
 北の八番の唐紙《からかみ》をすっとあけると中に二人《ふたり》。一人は主人の大森|亀之助《かめのすけ》。一人は正午《ひる》前から来ている客である。大森は机に向かって電報用紙に万年筆《まんねんぴつ》で電文をしたためているところ、客は上着を脱いでチョッキ一つになり、しきりに書類を調べているところ、煙草盆《たばこぼん》には埃及煙草《エジプト》の吸いがらがくしゃくしゃに突きこんである。
 大森は名刺を受けとってお清の口上をみなまで聞かず、
「オイ君、中西が来た!」
「そしてどうした?」
「いま君が聞いたとおりサ、留守だと言って帰したのだ。」
「そいつは弱った。」
「彼奴《きゃつ》一週間後でなければ上京《で》られないと言って来たから、帳場に彼奴《きゃつ》のことを言っておかなかったのだ。まアいいサ、上京《で》て来てくれたに越したことはない。これから二人で出かけよう。」
 頭の少しはげた、でっぷりとふとった客は「ウン」と言ったぎり黄金縁《きんぶち》めがねの中で細い目をぱちつかして、鼻下《びか》のまっ黒なひげを右手《めて》でひねくりながら考えている。それを見て大森は煙草《たばこ》を取って煙草盆をつつきながら静かに、
「それとも呼ぼうか?」
「まア、そのほうがいいな。こっちが彼奴《きゃつ》ばかりに頼《たよ》っているように思われるのは、ばかげているからな。」
 大森は「ちょっと」と言って、一口吸った煙草を灰に突っこみ、机に向かって急いで電文を書き終わり、今までぼんやり控えていたお清にそれを渡して、
「すぐ出さしておくれ。」
 お清は座敷を出た。大森はまた煙草を取って、
「それもそうだ、あの先生、りこうでいてばかだから、あまりこっちで騒ぐとすぐ高く止まって、素直に承知することもわざとぐずりたがるからね。」
「それでいてこっちで少し大きく出るとまたすぐおこるのだ。始末にいけない。」と客に言って大あくびを一ツして「とにかく呼ぶとしようじゃアないか。」
「いつ呼ぼう?」と言って、これももらいあくびをした。
「今夜はどうだ。今呼んだって彼奴《きゃつ》宿にいやアしない。」
 大森は机の上の黄金時計《きんどけい》をのぞいて、
「二時四十分か。今はとてもいない。しかし」とまた時計をのぞいて、少し考えて「あすの朝早くしようじゃアないか。中西が来たとなれば、僕はこれから駿河台《するがだい》の大将に会っておくほうがいいと思う。」
「なるほどそれはそのほうがいい。」
「それから今夜は沢田を呼んで、見本の説明の順序をよく作っておいてもらうことにする。」
「なるほど、そいつはなお大切だ。われわれだって中西が相手なら結構説明くらいはできるが、それは沢田に越した事はない。それじゃアそう決めた。これから手紙を持たしてやって、電話じゃアだめだよ、そして明朝午前八時までに御来車を仰ぐとでもしておこう。」
「よし、手紙をすぐ持たしてやろう」と大森は巻き紙をとってすらすらと書きだした。その間に客は取り散らしてあった書類を丁寧に取りそろえて、大きな手かばんに納めた。
「中西の宿はずいぶんしみったれているが、彼奴《きゃつ》よく辛抱して取り換えないね。」と大森は封筒へあて名を書きながら言った。
「常旅宿《じょうやど》となると、やっぱり居ごこちがいいからサ」と客は答えて、上着を引き寄せ、片手を通しながら「君、大将に会ったら例の一件をなんとか決めてもらわないと僕が非常に困ると言ってくれたまえ。大将はどうかして物にしてやろうというので手間取っているだろうが、それじゃア実際君の知ってるとおり僕がやりきれない、故郷《くに》のやつら、人にものを頼む時はわいわい言って騒ぐくせに、その事がうまくゆくと見向きもしないんだ。人をばかにしてやアがる。だから大将に、どちらでもいいからだめだとかできるとか、明白に早く決定を与えてもらいたいと言ってくれたまえ、大将あれでばかに人がいいから、頼むとなんでもかんでもそうしてやらなければならんと心得てるからやりきれない。中に立ってる者はありがた迷惑だ。」と言ってるうちに上着を着てしまう、いつ大森がベルを押したか、女中がはいって来た。
「これは奇妙不思議だ、中西へ手紙をやろうとすると、お蝶《ちょう》さんがやって来る、争えんものだ、」と大森が十七八の小娘に手紙を渡す[#底本では句読点なし。20-8]
「アラまたあんな事をおッしゃる、中西さんなんかなんでもないワ、ほんとにあたしくやしいわ、みんなしてからかうんだもの」と手紙をふんだくるように取って「いいわ、そんな事をおッしゃるならこのお手紙をどっかへうっちゃってしまうから。」
「イヤあやまった、それは大切の手紙だ、うっちゃられてたまるものか、すぐ源公に持たしてやっておくれ。お蝶《ちょう》さんはいい子だ。」
「蝶ちゃんはいい子だ、ついでに人車《くるま》を。」と客が居ずまいを直してあいづちを打った。
「田浦さん、はげが自慢にゃなりませんよ」と言い捨てて出て行った。
 まもなく車が来て田浦は帰り、続いて大森も美麗な宿車《やどぐるま》で威勢よく出て行った。
 午後四時半ごろになって大森は外から帰って来たが室《へや》にはいるや、その五尺六寸という長身を座敷のまん中にごろりと横たえて、大の字になってしばらく天井を見つめていた。四角な引きしまった顔には堪えがたい疲労の色が見える。洋服を脱ぐのもめんどうくさいらしい。
 まもなくお清《きよ》がはいって来て「江上《えがみ》さんから電話でございます。」
 大森ははね起きた。ふらふらと目がくらみそうにしたのを、ウンとふんばって突っ立った時、彼の顔の色は土色をしていた。
 けれども電話口では威勢のよい声で話をして、「それではすぐ来てください」と答えた。
 室《へや》にかえるとまたもごろりと横になって目を閉じていたが、ふと右の手をあげて指で数を読んで何か考えているようであった。やがてその手がばたり畳に落ちたと思うと、大いびきをかいて、その顔はさながら死人のようであった。(終)

底本:「号外・少年の悲哀 他六篇」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年4月17日 第1刷発行
   1960(昭和35)年1月25日 第14刷改版発行
   1981(昭和56)年4月10日 第34刷発行
入力:紅 邪鬼
校正:鈴木厚司
2000年7月10日公開
2004年6月29日修正
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国木田独歩

二老人——国木田独歩

       上

 秋は小春のころ、石井という老人が日比谷公園《ひびやこうえん》のベンチに腰をおろして休んでいる。老人とは言うものの、やっと六十歳で足腰も達者、至って壮健のほうである。
 日はやや西に傾いて赤とんぼの羽がきらきらと光り、風なきに風あるがごとくふわふわと飛んでいる、老人は目をしばたたいてそれをながめている、見るともなしに見ている。空々寂々《くうくうじゃくじゃく》心中なんらの思うこともない体《てい》。
 老人の前を幾組かの人が通った。老えるも若きも、病めるも健やかなるも。されどたれあってこの老人を気に留める者もなく、老人もまた人が通ろうと犬が過ぎ行こうと一切《いっせつ》おかまいなし、悠々《ゆうゆう》行路の人、縁なくんば眼前千里、ただ静かな穏やかな青空がいつもいつも平等におおうているばかりである。
 右の手を左の袂《たもと》に入れてゴソゴソやっていたが、やがて「朝日」を一本取り出して口にくわえた。今度はマッチを出したが箱が半《なか》ばこわれて中身はわずかに五六本しかない。あいにくに二本すりそこなって三本目でやっと火がついた。
 スパリスパリといかにもうまそうである。青い煙、白い煙、目の先に透明に光って、渦《うず》を巻いて消えゆく。
「オヤ、あれは徳《とく》じゃないか。」
と石井翁は消えゆく煙の末に浮かび出た洋服姿の年若い紳士を見て思った。芝生《しばふ》を隔てて二十|間《けん》ばかり先だから判然しない。判然しないが似ている。背|格好《かっこう》から歩きつきまで確かに武《たけし》だと思ったが、彼は足早に過ぎ去って木陰《こかげ》に隠れてしまった。
 この姿のおかげで老人は空々寂々の境《さかい》にいつまでもいるわけにゆかなくなった。
 甥《おい》の山上《やまかみ》武は二三日《にさんち》前、石井翁を訪《と》うて、口をきわめてその無為主義を攻撃したのである。武を石井老人はいつも徳と呼ぶ。それは武の幼名を徳助と言ってから、十二三のころ、徳の父が当世流に武と改名さしたのだ。
 徳の姿を見ると二三日《にさんち》前の徳の言葉を老人は思い出した。
 徳の説く所もまんざら無理ではない。道理はあるが、あの徳の言い草が本気でない。真実|彼奴《きゃつ》はそう信じて言うわけじゃない。あれは当世流の理屈で、だれも言うたと、言わば口前《くちまえ》だ。徳の本心はやっぱりわしを引っぱり出して五円でも十円でもかせがそうとするのだ、その証拠には、せんだってごろまでは遊んで暮らすのはむだだ、足腰の達者なうちは取れる金なら取るようにするが得《とく》だ、叔父《おじ》さんが出る気さえあればきっと周旋する、どうせ隠居仕事のつもりだから十円だって決して恥ずるに足らんと言ったくせに、今度はどうだ。人間一生、いやしくも命のある間は遊んで暮らす法はない、病気でない限り死ぬるまで仕事をするのが人間の義務だと言う。まるで理屈の根本が違って来たじゃないか、――やっぱりわしをかせがすつもりサ……とまで考えて来た時、老人はちょうど一本の煙草《たばこ》をすい切った。
 石井翁は一年前に、ある官職をやめて恩給三百円をもらう身分になった。月に割って二十五円、一家は妻に二十《はたち》になるお菊と十八になるお新の二人娘で都合四人ぐらし、銀行に預けた貯金とても高が知れてるから、まず食って行けないというのが世間並みである。けれども石井翁は少しも苦にしない。
 例を車夫や職工にとって、食って行けないはずはないと主張するのである。むろん食うに食われない理屈はない、家賃、米代以下お新の学校費まで計算して、なるほど二十五円で間に合わそうと思えば間に合うのである。
 それで石井翁の主張は、間に合いさえすれば、それでやってゆく。いまさらわしが隠居仕事で候《そうろう》のと言って、腰弁当で会社にせよ役所にせよ病院の会計にせよ、五円十円とかせいでみてどうする、わしは長年のお務めを終えて、やれやれ御苦労であったと恩給をいただく身分になったのだ。治まる聖代《みよ》のありがたさに、これぞというしくじりもせず、長わずらいにもかからず、長官にも下僚にも憎まれもいやがられもせず勤め上げて来たのだ。もはやこうなれば、わしなどはいわゆる聖代の逸民だ。恩給だけでともかくも暮らせるなら、それをありがたく頂戴《ちょうだい》して、すっかり欲から離れて、その日その日を一家むつまじく楽しく暮らすのがあたりまえだ。よしんば二十五円に十円ふえたらどれだけの贅沢《ぜいたく》ができる。――みんな欲で欲には限りがない――役目となれば五円が十円でも、雨の日雪の日にも休むわけにはいかない、やっぱり腰弁当で鼻水をたらして、若い者の中にまじってよぼよぼと通わなければならぬ。オヽいやな事だ!
 というのである。だから役をひいた時、知人やら親族の者が、隠居仕事を勧め、中には先方にほぼ交渉《わたり》をつけて物にして来てまで勧めたが、ことごとく以上の理由で拒絶してしまったのである。細君は気軽な人物で何事もあきらめのよいたちだから文句はない。愚痴一つ言わない。お菊お新の二人も、母を助けて飯もたけば八百屋《やおや》へ使いにも行く。かくてこそ石井翁の無為主義も実行されているのである。
 ところが武の母は石井翁の細君の妹だけに、この無為主義をあやぶみ、姉は盲従してこそおれ、女はやっぱり女、石井さんの隠居仕事で二十五円の上に十円ふえるならどのくらい楽と思うか知れないと、武をして石井翁を説き落とさすつもりでいるのである。
 彼は変物だと最初世話をしかけた者が手をひいた時分。ある日曜日の午後二時ごろ、武は様子を見るべく赤坂区《あかさかく》南町《みなみちょう》の石井をたずねた。俥《くるま》のはいらぬ路地の中で、三軒長屋の最端《はし》がそれである。中古《ちゅうぶる》の建物だから、それほど見苦しくはない。上がり口の四畳半が玄関なり茶の間なり長火鉢《ながひばち》これに伴なう一式が並べてある。隣が八畳、これが座敷、このほかには台所のそばに薄暗い三畳があるばかり。南向きの縁先一間半ばかりの細長い庭には棚《たな》を造り、翁の楽しみの鉢物《はちもの》が並べてある。手狭であるが全体がよく整理されて乱雑なさまは毛ほどもなく、敷居も柱も縁もよくふきこまれて、光っている。
「御免なさい。」と武は上がり口の障子をあけたが、茶の間にだれもいない。
「武です。」とつけ加えた。すると座敷で、
「徳さんかえ、サアお上がり。」と言ったのが叔母《おば》である。
 武は上がってふすまをあけると、座敷のまん中で叔父《おじ》叔母《おば》さし向かいの囲碁最中! 叔父はちょっと武を見て、微笑《わら》って目で挨拶《あいさつ》したばかり。叔母は、
「徳さん少し待っておくれ。じき勝負がつくから」と一心不乱の体《てい》である。
「どうかごゆっくり。」と徳さんの武もこのほかに挨拶のしようがない。ただあきれ返って、しょうことなしに盤面を見ていた。
「徳さんは碁が打てたかね。」と叔父は打ちながら問うた。
「まるでだめです。」
「でも四つ目殺しぐらいはできるだろう。」
「五目並べならできます。」
「ハハヽヽヽヽ五目並べじゃしかたがない。」
「叔母さんが碁をお打ちになることは、僕ちっとも知りませんでした。」
「わたしですか、わたしはこれでずいぶん古いのですよ。」と叔母は言ったが振り向きもしない。
「しょっちゅう打っていらっしゃったのですか。」
「いいえ、やたらに打ちだしたのは此家《ここ》へ引っこんでからですよ。――ちょっとこれを待ってちょうだい。」
「なりません。」と石井翁、一ぷくつけてスパリスパリと悠然《ゆうぜん》たるものである。
「だってこの切断《きり》は全くわたしの見落としですもの。」
「だからさっきから、わしは「待ちませんよ、」「待ちませんよ」と二三度も警告を発しておいたじゃないか。」
「待ちませんはあなたの口癖ですよ。」
「だれがそんな癖をつけました、わたしに。」
 武は思わずクスリと笑った。
「それじゃどうあっても待ってくださらんの。」
「マア待ちますまい、癖になるから。」
 と言われて、叔母は盤面を見渡してしばらく考えていたが、
「それじゃ投げましょう。そこが切れては碁にはなりませんもの。」
「まずそう言ったような形だね。」
 そこで叔母は投げ出した。これから改まって挨拶《あいさつ》が済むと、雑談に移り、武は叔父《おじ》叔母《おば》さし向かいで、たいがい毎日碁を打つ事、娘ふたりはきょう上野公園に散歩に出かけた事など聞かされた。
 右の次第で徳さんの武もついに手をひいて半年余りもたつと、母はやっぱり気になると見えて、どうにかして石井さんを説き落としてくれろと頼む。そこで武も隠居仕事の五円十円説では到底夫婦さし向かいの碁打ちを説き落とすことはできないと考え、今度は遊食罪悪説を持ち出して滔々《とうとう》とまくし立ててみた。
 石井翁はさんざん徳さんの武に言わしておいたあげく、
「それじゃ、山に隠れて木の実を食い露を飲んでおる人はどうする。」
「あれは仙人《せんにん》です。」
「仙人だって人だ。」
「それじゃ叔父《おじ》さんは仙人ですか。」
「市に隠れた仙人のつもりでおるのだ。」
 これで武はまたも撃退されてしまったのである。

       

 さて石井翁は煙草《たばこ》一本すいおわったところでベンチを立とうとしたが徳の遊食罪悪説がちょっと気にかかりだしたので、また一本取り出してすい初めた。徳の本心を見ぬいている。そして仙人説で撃退はしたものの、なるほど、まだぴんしゃん[#「ぴんしゃん」に傍点]しているのにただ遊んで食うているというのはほめたことではないように思われる。それなら何をする。腰弁はまっぴらだ。いなかに行って百姓でもするか。こいつはいいかも知れんがさし当たって田地がない。翁は行きづまってしまったので、仙人主義を弁護する理屈に立ち返ってしきりと考えこんでいると、どしり[#「どしり」に傍点]とばかり同じベンチに身を投げるように腰をおろした者がある。振り向いて見るや、
「オヤ河田《かわだ》さんじゃないか。」
 先方は全く石井翁に気がつかなかったものと見えて、翁に声をかけらるるといきなり飛びたって帽をとり、
「コレはコレは石井さんですか、あなたとはまるきり気がつかんで失礼しました。」とぺこぺこお辞儀をする。そして顔を少しあからめた様子はよほど狼狽《ろうばい》したらしい、やっぱり六十余りの老人である。
「まアお掛けなさい。そしてその後はどうしました。」
「イヤもうお話にも何にもなりません。」と、腰をおろしながら、
「相変わらずで面目次第もないわけです。」とごま白の乱髪《らんぱつ》に骨太の指を熊手形《くまでがた》にさしこんで手荒くかいた。
 石井翁は綿服ながら小ザッパリした衣装《なり》に引きかえて、この老人河田翁は柳原仕込《やなぎわらじこ》みの荒いスコッチの古洋服を着て、パクパク靴《ぐつ》をはいている。
「でも何かしておられるだろう。」と石井翁はじろじろ河田翁の様子を見ながら聞いた。そして腹の中で、「なるほど相変わらずだな」と思った。
「イヤとてもお話にもなんにも……」とやっぱり頭をかいていたがポケットから鹿皮《しかがわ》のまっ黒になった煙草入《たばこい》れとひしゃげた鉈豆煙管《なたまめぎせる》とを取り出した。ところがあいにくと煙草はごみまじりの粉ばかり、そのまままたポケットにしまいこんだのを見て、石井翁は「朝日」を袋とも出して、
「サアおすいなさい。」
「イヤこれはどうも」と河田翁は遠慮なく一本ぬき取って、石井翁から火を借りた。
 この二老人は三十歳前後のころ、ある役所で一年余り同僚であったばかりでなく、石井の親類が河田の親類の親類とかで、石井一|家《け》では河田翁のうわさは時おり出て、『今何をしているだろう』『ほんとにあんな気の毒な人はない』など言われていたのである。
「しかし遊んでもいなさらんだろうが。」と石井翁はどこまでも心配そうに聞く。
「イヤとてもお話にもなんにも……」
 これが河田翁持ち前の一つで、人に対すると言いたいことも言えなくなり、つまらんところに自分を卑下してしまうのである。
「あなたがわたしの家《うち》へ来てからもう五年になるなア」と石井翁は以前の事を思い出した。
「そうなりますかね、早いものだ……。」
「あの時、あなたが、一杯きげんで『雨の夜《よ》に日本近《にっぽんぢか》くねぼけて流れこむ』をうたって踊った時はおもしろかったがね、ハ、ハヽヽヽヽ」
「ハヽヽ」といっしょに笑ったぎり、河田翁は何も言わない。そしてなんとなくそわそわ[#「そわそわ」に傍点]している。
 三十の年に恩人の無理じいに屈して、養子に行き、養子先の娘の半気違いに辛抱しきれず、ついに敬太郎という男の子を連れて飛びだしてしまい、その子は姉に預けて育ててもらう、それ以後は決して妻帯せず、純然たるひとり者で、とうとう六十余歳まで通して来たのが河田翁の一生である。
 このひとり者が翁の不遇の原因をなしたのか、不遇がひとり者の原因であったのか、これをわかつことはできない。
 善人で、酒もしいては飲まず、これという道楽もなく、出入交際の人々には義理を堅くしていて、そしてついに不遇で、いつもまごまごして安定の所を得ず今日《きょう》が日《ひ》に及んだ翁の運命は、不思議な事としか思えない。
 そこで石井の人々初め翁を知っている者はみな『気の毒な人だ』と言い、また不思議なことだと評している。しかし皆々言い合わしたように一致している『理由』がないのでもない。第一、河田さんはいくじがない。その証拠には、養子に行く前に深く言いかわした女があった、いよいよ養子に行くときまるや五円で帯の片側を買って、それを手切れ同様に泣く泣く別れた。第二に、案外片意地で高慢なところがあって、些細《ささい》な事に腹を立てすぐ衝突して職業から離れてしまう。第三に、妙に遠慮深いところがあること。
 なるほどそう聞かされると翁の知人どものいわゆる『理由』は多少の『理由』を成している。
 けれど大なる理由がまだなければならぬ。人がもし壮年の時から老人の時まで、純然たる独身生活すなわち親子兄弟の関係からも離れてただ一人、今の社会に住むなら並み大抵の人は河田翁と同様の運命に陥りはせまいか、老いてますます富みかつ栄えるものだろうか。
 翁の子敬太郎は翁とまるきり無関係で育ちかつ世に立った。そして二十五六のころ、八百屋《やおや》を始めたが、まもなくよして、売卜者《うらないしゃ》になった。かつ今は行《ゆ》き方《がた》も知れない。そして見ると河田翁その人の脈※[#「月+各」、第3水準1-90-45]《みゃくらく》には、『放浪』の血が流れているのではないか。それが敬太郎へも流れこんだのではないか。
 石井翁はむろんこういうことを考えて研究もせず、ただ気の毒がる仲間の一人ゆえ、どうにかして今の境遇も聞いてみたいと思い、古い事まで話題にしてみたが、河田翁は少しも引き立たない。ただそわそわ[#「そわそわ」に傍点]している。
「何時でしょうか」と河田翁は卒然聞いた。石井翁は帯の間から銀時計の大きいのを出して見て、
「三時半です」
「イヤそれじゃもう行かなきゃならん。」と河田翁は口早に言って、急に声を潜め、あたりをきょろきょろ見回しながら、
「実はわたし、このごろある婦人会の集金係をしているのですから、毎日毎日東京じゅうをへめぐらされるので、この年ではとてもやり[#「やり」に傍点]切れなくなりました、そこでも少し楽な仕事をと頼んで歩きましたら、やっとうまい口が発見《めっか》ったんです。それは食扶持《くいぶち》いっさいむこう持ちで月給が七円だというのです、それでからだを動かすことはあまりないというんですから、さっそくそれに決めたのです。ところが、」とあたりを見回した上にさらに延び上がって近所を見回したが、一段声を潜めて「わたしは大変なことをしているんだ、とかく足らん足らんで一円二円とつかい込み、とうとう十五円ほど会の集金をつかい込んでしまったのです。サアそれもチャンと返して帳簿を整理しておかんと今のうまい口に行く事ができない。そこでこの四五日その十五円の調達にずいぶん駆け回りましたよ。やっと三十間堀《さんじっけんぼり》の野口という旧友の倅《せがれ》が、返済の道さえ立てば貸してやろうという事になり、きょう四時から五時までの間に先方で会うことになっているのです。まアザッとこんな苦しいわけで……けれどつかい込みの一件は、ごく内密にお願いします」と言って立ち上がり、石井翁が何も言い得ぬうちに、河田翁は辞儀をペコペコして去ってしまった。
 石井翁は取り残されて茫然《ぼうぜん》と河田翁の後ろ姿を見送っていた。
 河田翁が延び上がって遠くまで見回したのは巡査がこわかったのだ。そこで翁と巡査とすれ違った時に、河田翁は急に帽子に手をかけて礼をした。石井翁は見ていてその意味がわからなかった。

(完)

底本:「号外・少年の悲哀 他六篇」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年4月17日 第1刷発行
   1960(昭和35)年1月25日 第14刷改版発行
   1981(昭和56)年4月10日 第34刷発行
入力:紅 邪鬼
校正:鈴木厚司
2000年7月12日公開
2004年6月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国木田独歩

二少女——国木田独歩

        上

 夏の初、月色|街《ちまた》に満つる夜の十時ごろ、カラコロと鼻緒のゆるそうな吾妻下駄《あずまげた》の音高く、芝琴平社《しばこんぴらしゃ》の後のお濠ばたを十八ばかりの少女《むすめ》、赤坂《あかさか》の方から物案じそうに首をうなだれて来る。
 薄闇い狭いぬけろじの車止《くるまどめ》の横木を俛《くゞ》って、彼方《むこう》へ出ると、琴平社の中門の通りである。道幅二間ばかりの寂しい町で、(産婆)と書いた軒燈《がす》が二階造の家の前に点《つい》ている計りで、暗夜《やみよ》なら真闇黒《まっくら》な筋である。それも月の十日と二十日は琴平の縁日で、中門を出入《ではいり》する人の多少《すこし》は通るが、実、平常《ふだん》、此町に用事のある者でなければ余り人の往来《ゆきき》しない所である。
 少女《むすめ》はぬけろじ[#「ぬけろじ」に傍点]を出るや、そっと左右を見た。月は中天に懸《かゝっ》ていて、南から北へと通った此町を隈なく照らして、森《しん》としている。人の住んで居ない町かと思われる程で、少女が(産婆)の軒燈の前まで来た時、其二階で赤児《あかんぼ》の泣声が微かにした。少女は頭を上げてちょっと見上げたが、其儘すぐ一軒|置《おい》た隣家《となり》の二階に目を注いだ。
 隣家の二階というのは、見た処、極く軒の低い家で、下の屋根と上の屋根との間に、一間の中窓《ちゅうまど》が窮屈そうに挾《はさ》まっている、其窓先に軒がさも鬱陶しく垂れて、陰気な影を窓の障子に映じている。
 少女は此二階家の前に来ると暫時《しばら》く佇止《たちどま》って居たが、窓を見上げて「江藤《えとう》さん」と小声で呼んだ、窓は少し開《あい》ていて、薄赤い光が煤に黄《きば》んだ障子に映じている。
「江藤さん、」と返事が無いから、少女は今一度、やはり小声で呼んだ。
 障子がすっと開いたかと思うと、年若い姿が腰から上を現わして、
「誰《どな》た?」
「私《わたし》。」
「オヤ、田川《たがわ》さん。」
「少し用事が有《あっ》て来たのよ、最早《もう》お寝《やすみ》?」
「オヤそう、お上がんなさいよ、でも未だ十時が打たないでしょう。」
「晩《おそ》く来てお気の毒様ねエ」と少女は少しもじもじして居る。
 二階の女の姿が消えると間もなく、下の雨戸を開ける音がゴトゴトして、建付《たてつけ》の曲《ゆが》んだ戸が漸《やっ》と開いた。
「オヤ好い月だね、田川さんお上がんなさいよ」という女は今年十九、歳には少し老けて見ゆる方なるがすらりとした姿の、気高い顔つき、髪は束髪に結んで身には洗曝《あらいざらし》の浴衣を着けて居る。
「ちょっと平岡《ひらおか》さんに頼まれて来た用があるのよ、此処でも話せますよ、もう遅いもの、上ると長座《ながく》なるから。……」と今来た少女は言って、笑を含《ふくん》んでいる。それで相手《あいて》の顔は見ないで、月を仰《あおい》だ目元は其丸顔に適好《ふさわ》しく、品の好い愛嬌のある小躯《こがら》の女である。
「用というのは大概解って居ますが、色々話もあるから一寸お上んなさいよ。」
「そう、あの局の帰りに来ると宜《いゝ》んだけど、家に急ぐ用が有ったもんだから……」
 といい乍ら二人は中に入《はい》った。
 入ると直ぐ下駄直しの仕事場で、脇の方に狭い階段《はしごだん》が付ていて、仕事場と奥とは障子で仕|切《きっ》てある。其障子が一枚|開《あ》かっていたが薄闇くって能く内が見えない。
「遅く来《あが》って御気毒様、」と来た少女は軽《かろ》く言った、奥に向《むかっ》て。
「どう致しまして、」と奥で嗄《しわがれ》た声がして、続《つゞい》て咳嗽《せき》がして、火鉢の縁をたたく煙管《きせる》の音が重く響いた。
「この乱暮さを御覧なさい、座る所もないのよ。」と主人《あるじ》の少女はみしみしと音のする、急な階段を先に立《たっ》て陞《のぼ》って、
「何卒《どう》ぞ此処へでも御座《おす》わんなさいな。」
 と其処らの物を片付けにかかる。
「すこし頼まれた仕事を急いでいますからね、……源《げん》ちゃん、お床を少し寄せますよ。」
「いいのよ、其様《そう》してお置きなさいよ、源ちゃん最早《もう》お寝み、」と客の少女は床なる九歳《ここのつ》ばかりの少年を見て座わり乍ら言って、其のにこやかな顔に笑味を湛えた。
「姉さん、氷!」と少年は額を少し挙げて泣声で言った。
「お前、そう氷を食べて好いかね。二三日前から熱が出て困って居るんですよ。源ちゃんそら氷。」
 主人の少女は小さな箱から氷の片《かけ》を二ツ三ツ、皿に乗せて出して、少年の枕頭《まくらもと》に置《おい》て、「もう此限《これぎり》ですよ、また明日《あした》買ってあげましょうねエ」
「風邪でもおひきなさったの!」と客なる少女は心配そうに言った。
「もう快々《いゝ》んですよ。熱いこと、少し開けましょねエ」と主人の少女は窓の障子を一枚開け放した。今まで蒸熱かった此|一室《ひとま》へ冷たい夜風《よかぜ》が、音もなく吹き込むと「夜風に当ると悪いでしょうよ、私《わたし》は宜いからお閉めなさいよ、」と客なる少女、少年の病気を気にする。
「何に、少しは風を通さないと善くないのよ。御用というのは欠勤届のことでしょう、」と主人の少女は額から頬へ垂れかかる髪《け》をうるさそうに撫であげながら少し体駆《からだ》を前に屈《かが》めて小声で言った。
「ハア、あの五週間の欠勤届の期限が最早きれたから何とか為さらないと善《い》けないッて、平岡さんが、是非今日私に貴姉《あなた》のことを聞いて呉れろッて、……明朝《あした》は私が午前出だもんだから……」
「成程そうですねェ、真実《ほんと》に私は困まッちまッたねエ、五週間! もう其様《そんな》になったろうか、」と主人の少女は嘆息《ためいき》をして、「それで平岡さんが何とか言って?」
「イイエ別に何ともお仰《っしゃ》らないけエど、江藤さんは最早《もう》局を止すのだろうかって。貴姉どうなさるの。」
「ソー、夫れで実は私も迷っているのよ」と主人の少女は嘆息をついた。
 客の少女は密《そっ》と室内を見廻した。そして何か思い当ることでも有るらしく今まで少し心配そうな顔が急に爽々《さえ/″\》して満面の笑味《えみ》を隠し得なかったか、ちょッとあらたまって、
「実は少々貴姉に聞《きい》て見ることがあるのよ、」
 と一段小声で言った。
「何に?」と主人の少女も笑いながら小声で言った。これも何か思い当る処あるらしく、客なる少女の顔をじっと見て、又た密《そっ》と傍の寝床を見ると、少年は両腕《うで》を捲《まく》り出したまま能く眠っている、其手を静に臥被《ふとん》の内に入れてやった。
「怒《おこっ》ちゃ善《い》けないことよ」と客の少女はきまり悪るそうに笑って言出し兼ねている。
「凡そ知ッているのよ、言《いっ》て御覧なさい、怒りも何《なに》もしないから。お可笑《かし》な位よ、」と言う主人の少女の顔は羞恥《はずかし》そうな笑のうちにも何となく不穏のところが見透かされた。
「私の口から言い悪くいけれど……貴姉大概解かっていましょう……」
「私が妾になるとか成ったとかいう事なんでしょう。」
 と言った主人の少女の声は震えて居た。

        

 此二人の少女は共に東京電話交換局《とうきょうでんわこうくわんきょく》[#ルビの「とうきょう」は底本では「とうきゃう」]の交換手であって、主人の少女は江藤《えとう》お秀《ひで》という、客の少女は田川《たがわ》[#ルビの「たがわ」は底本では「たがは」]お富《とみ》といい、交換手としては両人《ふたり》とも老練の方であるがお秀は局を勤めるようになった以来、未だ二年許りであるから給料は漸と十五銭であった。
 お秀の父は東京府《とうきょうふ》に勤めて三十五円ばかり取って居て夫婦の間にお秀を長女《かしら》としてお梅《うめ》源三郎《げんざぶろう》の三人の児を持《もっ》て、左まで不自由なく暮らしていた。夫れでお秀も高等小学校を卒えることが出来、其後は宅《うち》に居て針仕事の稽古のみに力を尽す傍《かたわら》、読書をも勉めていたが恰度三年前、母が病《やみ》ついて三月目に亡くなって、夫れを嘆く間もなく又た父が病床《とこ》に就くように成りこれも二月ばかりで母の後を逐い、三人の児は半歳のうちに両親《ふたおや》を失って忽ち孤児《みなしご》となった。そうして殆《ほとん》ど丸裸体の様で此世に残された。
 そこで一人の祖母は懇意な家で引うけることになり、お秀は幸い交換局の交換手を募《つのっ》て居たから直ぐ局に勉《つと》めるようになって、妹と弟は兎も角お秀と一所に暮していた。それも多少《すこし》は祖母を引うけた家から扶助《みつい》でもらって僅かに糊口《くらし》を立てていたので、お秀の給料と針仕事とでは三人の口はとても過活《すぐ》されなかった。しかしお秀の労働《ほねおり》は決して世の常の少女の出来る業ではなかった。あちら此方と安値《やす》そうな間を借りては其処から局に通って、午前出の時は午後を針仕事に、午後出の時は午前を針仕事に、少しも安息《やす》む暇がないうちにも弟を小学校に出し妹に自分で裁縫の稽古をしてやり、夜は弟の復習《さらえ》も験《み》てやらねばならず、炊事《にたき》から洗濯から皆な自分一人の手でやっていた。
 其うち物価《もの》は次第《だん/″\》高くなり、お秀三人の暮《くらし》は益々困難に成って来た。如何《どう》するだろうと内々《ない/\》局の朋輩も噂していた程であったが、お秀は顔にも出さず、何時も身の周囲《まわり》小清潔《こざっぱり》として左まで見悪《みにく》い衣装《なり》もせず、平気で局に通っていたから、奇怪《おかし》なことのように朋輩は思って中には今の世間に能くある例を引《ひい》て善くない噂を立てる連中もあった。
 すると一月半ばかり前からお秀は全然《ぱったり》局に出なくなった。初は一週間の病気届、これは正規で別に診断書が要《い》らない、其次は診断書が付《つい》て五週間の欠勤。其内五週間も経《たっ》た、お秀は出て来ないのみならず、欠勤届すら出さない。いよいよ江藤さんは妾になったという噂が誰の口からともなく起って、朋輩の者皆んな喧噪《やかまし》く騒ぎ立てた、遂に係の技手の耳に入《はい》った。そこで技手の平岡《ひらおか》[#ルビの「ひらおか」は底本では「ひらをか」]は田川お富に頼んで、お秀の現状《ありさま》を見届けた上、局を退《ひ》くとも退かぬとも何とか決めて呉れろと伝言《つたえ》さしたのである。お富は朋輩の中でもお秀とは能く気の合《あっ》て親密《した》しい方であるからで。
 しかしお秀が局を欠勤《やすん》[#ルビの「やすん」は底本では「やす」]でから後も二三度会って多少|事情《わけ》を知って居る故、かの怪しい噂は信じなかったが、此頃になって、或《もしや》という疑が起らなくもなかった。というのもお秀の祖母という人が余り心得の善い人でないことを兼ねて知っているからで。
 お富はお秀の様子を一目見て、もう殆ど怪しい疑惑《うたがい》は晴れたが、更らに其室のうちの有様を見てすっかり解かった。
 お秀の如何に困って居るかは室のうちの様子で能く解る。兼ねて此部屋には戸棚というものが無いからお秀は其衣類を柳行李|二個《ふたつ》に納めて室《へや》の片隅に置《おい》ていたのが今は一個《ひとつ》も見えない、そして身には浴衣の洗曝を着たままで、別に着更えもない様な様である。六畳の座敷の一畳は階子段に取られて居るから実は五畳敷の一室に、戸棚がない位だから、床もなければ小さな棚一つもない。
 天井は低く畳は黒く、窓は西に一間の中窓がある計り東のは真実《ほんと》の呼吸《いき》ぬかしという丈けで、室のうち何処となく陰鬱で不潔で、とても人の住むべき処でない。
 簿記函と書《かい》た長方形の箱が鼠入らず[#「鼠入らず」に傍点]の代をしている、其上に二合入の醤油徳利《しょうゆどくり》と石油の鑵とが置《おい》てあって、箱の前には小さな塗膳があって其上に茶椀小皿などが三ツ四ツ伏せて有る其横に煤《くす》ぼった凉炉《しちりん》が有って凸凹《でこぼこ》した湯鑵《やかん》がかけてある。凉炉と膳との蔭に土鍋が置いて有《あっ》て共に飯匕《しゃもじ》が添えて有るのを見れば其処らに飯桶《おはち》の見えぬのも道理である。
 又た室の片隅に風呂敷包が有って其傍に源三郎の学校道具が置いてある。お秀の室の道具は実にこれ限《だけ》である。これだけがお秀の財産である。其外源三郎の臥て居る布団というのは見て居るのも気の毒なほどの物で、これに姉と弟とが寝るのである。この有様でもお秀は妾になったのだろうか、女の節操《みさお》を売《うっ》てまで金銭が欲《ほし》い者が如何して如此《こん》な貧乏《まず》しい有様だろうか。
「江藤さん、私は決して其様《そん》なことは真実《ほんと》にしないのよ。しかし皆なが色々《いろん》なことを言っていますから或《もしや》と思ったの。怒っちゃ宜《いけ》ないことよ、」とお富の声も震えて左も気の毒そうに言った。
「否《いゝ》エ、怒るどころか、貴姉《あなた》宜く来て下すって真実《ほんと》に嬉れしう御座います、局の人が色々なことを言っているのは薄々知っていましたが、私は無理はないと思いますわ……」と、
 さも悲しげにお秀は言って、ほっと嘆息を吐いた。
「何故《なぜ》。私は口惜《くやし》いことよ、よく解りもしないことを左も見て来たように言いふらしてさ。」
「私だって口惜いと思わないことはないけエど、あんな人達が彼是れ言うのも尤ですよ、貴姉……祖母《おばあ》さんね…」
とお秀は口籠《くちごも》った、そしてじっとお富の顔を見た目は湿んでいた。
「祖母さんが何とか言ったのでしょう……真実《ほんと》に貴姉はお可哀そうだよ……」とお富の眼も涙含んだ。
「祖母さんのことだから他の人には言えないけれど……そら先達貴姉の来ていらしゃった時、祖母さんがあんな妙なことを言ったでしょう。処が十日ばかり前に小石川《こいしがわ》から来て私に妾になれと言わないばかりなのよ、あのお前の思案《かんがえ》一つでお梅や源ちゃんにも衣服《きもの》が着せてやられて、甘味《おいしい》ものが食べさされるッて……」
「それで妾になれって?」お富は眼※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]《まぶち》を袖で摩って丸い眼を大きくして言った。
「否《いゝ》エ妾になれって明白《はっきり》とは言わないけれど、妾々ッて世間で大変悪く言うが芸者なんかと比較《くらべ》ると幾何《いくら》いいか知れない、一人の男を旦那にするのだからって……まあ何という言葉でしょう……私は口惜くって堪りませんでしたの。矢張身を売るのは同じことだと言いますとね、祖母さんや同胞《きょうだい》のために身を売るのが何が悪いッて……」
「まア其様《そんな》なことを!」
「実《じつ》、私も困り切《きっ》ているに違いないけエど、いくら零落《おちぶれ》ても妾になぞ成る気はありませんよ私には。そんな浅間しいことが何で出来ましょうか。祖母さんに、どんな事が有ッても其様《そん》な真似は私はしない、私のやれる丈けやって妹と弟の行末を見届けるから心配して下さるなと言切って其時あんまり口惜かったから泣きましたのよ。それからね寧《いっそ》のこと針仕事の方が宜いかと思って暫時《しばらく》局を欠勤《やす》んでやって見たのですよ。しかし此頃に成って見ると矢張仕事ばかりじゃア、有る時や無い時が有って結極《つまり》が左程の事もないようだし、それに家にばかりいるとツイ妹や弟の世話が余計焼きたくなって思わず其方《それ》に時間を取られるし……ですから矢張半日ずつ、局に出ることに仕ようかとも思って居たところなんですよ。」
「そしてお梅さんはどうなすって?」とお富は不審《ふしぎ》そうに尋ねた。
「ですから、今の処、とても私一人の腕で三人はやりきれない! 小石川の方へも左迄は請求《たのま》れないもんですから、お梅だけは奉公に出すことにして、丁度|一昨々日《さきおととい》か先方《むこう》へ行きましたの。」
「まあ何処へなの?」
「じき其処なの、日蔭町《ひかげちょう》の古着屋なの。」
「おさんどんですか。」
「ハア。」
「まあ可哀そうに、やっと十五でしょう?」
「私も可哀そうでならなかったけエど、つまり私の傍に居た処が苦しいばかりだし、又た結局《つまり》あの人も暫時《しばらく》は辛《つら》い目に遇《あっ》て生育《そだ》つのですから今時分から他人の間に出るのも宜かろうと思って、心を鬼にして出してやりました、辛抱が出来ればいいがと思って、……それ源ちゃんは斯様《こんな》だし、今も彼の裁縫《しごと》しながら色々《いろん》なことを思うと悲しくなって泣きたく成《なっ》て来たから、口のうちで唱歌を歌ってまぎらしたところなの。」
「そして貴姉、矢張局にお出《いで》なさいな。その方が宜いでしょうよ。それに局に出て多忙《いそがし》い間だけでも苦労を忘れますよ」とお富は真面目にすすめた。お秀は嘆息ついて、そして淋びしそうな笑を顔に浮かべ、
「ほんに左様《そう》ですよ、人様のお話の取次をして何番々々と言って居るうちに日が立ちますからねエ」と言って「おほほほほ」と軽く笑う。「女の仕事はどうせ其様《そん》なものですわ、」とお富も「おほほほほ」と笑ッた。そしてお秀は何とも云い難《にく》い、嬉しいような、哀れなような、頼もしいような心持がした。
 兎も角も明後日《あさって》からお秀は局に出ることに話を極めてお富に約束したものの、忽ち衣類《きもの》の事に思い当って当惑した。若い女ばかり集まる処だからお秀の性質でもまさかに寝衣《ねまき》同様の衣服《きもの》は着てゆかれず、二三枚の単物は皆な質物《しち》と成っているし、これには殆ど当惑したお富は流石女同志だけ初めから気が付いていた。お秀の当惑の色を見て、
「気に障《さ》えちゃいけないことよ、あの……」
「何に、どうにか致しますよ」とお秀は少し顔を赤らめて、「おほほほほ」と笑った。
「だってお困りでしょう? 明日《あした》私が局から帰ったら母上《おっか》さんと相談して……四時頃又来ましょうよ。」
「あんまりお気の毒さまで……」
 お秀は眼に涙一杯含ませて首を垂れた。お富は何とも言い難い、悲しいような、懐かしいような心持がした。
 夜が大分更けたようだからお富は暇を告げて立ちかけた時、鈴虫の鳴く音が突然|室《へや》のうちでした。
「オヤ鈴虫が」とお富は言って見廻わした。
「窓のところに。お梅さんが先達《せんだっ》て琴平《こんぴら》で買って来たのよ、奉公に出る時|持《もっ》てゆきたいって……。」
「まだ小供ですもの、ねえ」とお富は立《たっ》て二人は暗い階段《はしごだん》を危なそうに下《お》り、お秀も一所に戸外《そと》へ出た。月は稍や西に傾いた。夜は森《しん》と更けて居《い》る。
「そこまで送りましょう。」
「宜いのよ、其処へ出ると未だ人通りが沢山あるから」とお富は笑って、
「左様なら、源ちゃんお大事に、」と去《ゆ》きかける。
「御壕の処まで送りましょうよ、」とお秀は関《かま》わず同伴《いっしょ》に来る。二人の少女《むすめ》の影は、薄暗いぬけろじの中に消えた。
 ぬけろじの中程が恰度、麺包屋《ぱんや》の裏になっていて、今二人が通りかけると、戸が少し開《あい》て居て、内で麺包を製造《つく》っている処が能く見える。其|焼《やき》たての香《こうば》しい香《におい》が戸外《そと》までぷんぷんする。其焼く手際が見ていて面白いほどの上手である。二人は一寸《ちょ》と立《たっ》てみていた、
「お美味《いし》そうねエ」とお富は笑って言った。
「明朝のを今|製造《こしら》えるのでしょうねエ」とお秀も笑うて行こうとする、
「ちょっと御待ちなさいよ」とお富は止めて、戸外《そと》から、
「その麺包を少し下さいな。」
 三十計りの男と十五位な娘とが頻に焼《やい》ていたが、驚《おどろい》て戸外《そと》の方を向いた。
「お幾価《いくら》?」
 娘は不精無精に立った。
「お気の毒さま、これ丈け下さいな、」とお富は白銅|一個《ひとつ》を娘に渡すと、娘は麺包を古新聞に包んで戸の間から出した。
「源ちゃんにあげて下さいな、今夜焼きたてが食べさせたいことねエ、そら熱いですよ。」とお秀に渡す。
「まあお気の毒さまねエ、明朝《あす》のお目覚《めざ》にやりましょう。」
 二人はお壕|辺《ばた》の広い通りに出た。夜が更けてもまだ十二時前であるから彼方此方《あちらこちら》、人のゆききがある。月はさやかに照《てり》て、お壕の水の上は霞んでいる。
「左様なら、又た明日《あした》。お寝みなさい、源ちゃん御大事に。」お富はしとやかに辞儀して去《ゆ》こうとした。
「どうも色々有難う御座いました。お母上《っかさん》にも宜しく……それでは明日《あす》。」
 二人は分れんとして暫時《しばらく》、立止った。
「あア、明日《あす》お出《いで》になる時、お花を少し持《もっ》て来て下さいませんか、何んでも宜いの。仏様にあげたいから」
 とお秀は云い悪《に》くそうに言った。
「此頃は江戸菊《えどぎく》が大変よく咲《さい》ているのよ、江戸菊を持《もっ》て来ましょうねエ。」とお富は首をちょっと傾《かし》げてニコリと笑って。
「貴姉の処に鈴虫が居て?」
「否《いゝ》エ、どうして?」
「梅ちゃんの鈴虫が此頃大変鳴かないようになって、何だか死にそうですから、どうしたら宜いかと思って。」
「そう、胡瓜をやって?」
「ハア、それで死にそうなのよ」
 と言ってる処へ、巡査が通り掛って二人の様子を怪しそうに見て去った。二人は驚いて、
「左様なら……」
「左様なら……急いでお帰んなさいよ……。」
 お富はカラコロカラコロと赤坂の方へ帰ってゆく、お秀はじっと其後影を見送《みおくっ》て立《たっ》て居た。(完)

(発表年月不詳「濤声」より)

底本:「日本プロレタリア文学大系 序」三一書房
   1955(昭和30)年3月31日第1版発行
   1961(昭和36)年6月20日第2刷発行
※底本に見る旧仮名の新仮名への直し漏れは、あらためた上で注記した。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2001年12月27日公開
2004年7月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国木田独歩

湯ヶ原より——国木田独歩

内山君《うちやまくん》足下《そくか》
 何故《なぜ》そう急《きふ》に飛《と》び出《だ》したかとの君《きみ》の質問《しつもん》は御尤《ごもつとも》である。僕《ぼく》は不幸《ふかう》にして之《これ》を君《きみ》に白状《はくじやう》してしまはなければならぬことに立到《たちいた》つた。然《しか》し或《あるひ》はこれが僕《ぼく》の幸《さいはひ》であるかも知《し》れない、たゞ僕《ぼく》の今《いま》の心《こゝろ》は確《たし》かに不幸《ふかう》と感[#「感」に丸傍点]じて居《を》るのである、これを幸《さいはひ》であつたと知[#「知」に丸傍点]ることは今後《こんご》のことであらう。しかし將來《このさき》これを幸《さいはひ》であつた[#「あつた」に丸傍点]と知《し》る時《とき》と雖《いへど》も、たしかに不幸《ふかう》である[#「ある」に丸傍点]と感《かん》ずるに違《ちが》いない。僕《ぼく》は知《し》らないで宜《よ》い、唯《た》だ感《かん》じたくないものだ。
『こゝに一人《ひとり》の少女《せうぢよ》あり。』小説《せうせつ》は何時《いつ》でもこんな風《ふう》に初《はじ》まるもので、批評家《ひゝやうか》は戀《こひ》の小説《せうせつ》にも飽《あ》き/\したとの御注文《ごちゆうもん》、然《しか》し年若《としわか》いお互《たがひ》の身《み》に取《と》つては、事《こと》の實際《じつさい》が矢張《やは》りこんな風《ふう》に初《はじま》るのだから致《いた》し方《かた》がない。僕《ぼく》は批評家《ひゝやうか》の御注文《ごちゆうもん》に應《おう》ずべく神樣《かみさま》が僕《ぼく》及《およ》び人類《じんるゐ》を造《つく》つて呉《く》れなかつたことを感謝《かんしや》する。
 去《さる》十三|日《にち》の夜《よ》、僕《ぼく》は獨《ひと》り机《つくゑ》に倚掛《よりかゝ》つてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]考《かんが》へて居《ゐ》た。十|時《じ》を過《す》ぎ家《いへ》の者《もの》は寢《ね》てしまひ、外《そと》は雨《あめ》がしと/\降《ふ》つて居《ゐ》る。親《おや》も兄弟《きやうだい》もない僕《ぼく》の身《み》には、こんな晩《ばん》は頗《すこぶ》る感心《かんしん》しないので、おまけに下宿住《げしゆくずまひ》、所謂《いはゆ》る半夜燈前十年事[#「半夜燈前十年事」に白丸傍点]、一時和雨到心頭[#「一時和雨到心頭」に白丸傍点]といふ一|件《けん》だから堪忍《たまつ》たものでない、まづ僕《ぼく》は泣《な》きだしさうな顏《かほ》をして凝然《じつ》と洋燈《ランプ》の傘《かさ》を見《み》つめて居《ゐ》たと想像《さう/″\》し給《たま》へ。
 此時《このとき》フと思《おも》ひ出《だ》したのはお絹《きぬ》のことである、お絹《きぬ》、お絹《きぬ》、君《きみ》は未《ま》だ此名《このな》にはお知己《ちかづき》でないだらう。君《きみ》ばかりでない、僕《ぼく》の朋友《ほういう》の中《うち》、何人《なんぴと》も未《いま》だ此名《このな》が如何《いか》に僕《ぼく》の心《こゝろ》に深《ふか》い、優《やさ》しい、穩《おだや》かな響《ひゞき》を傳《つた》へるかの消息《せうそく》を知《し》らないのである。『こゝに一人《ひとり》の少女《せうぢよ》あり、其名《そのな》を絹《きぬ》といふ』と僕《ぼく》は小説批評家《せうせつひゝやうか》への面當《つらあて》に今《いま》一|度《ど》特筆《とくひつ》大書《たいしよ》する。
 僕《ぼく》は此《この》少女《せうぢよ》を思《おも》ひ出《だ》すと共《とも》に『戀《こひ》しい』、『見《み》たい』、『逢《あ》ひたい』の情《じやう》がむら/\とこみ上《あ》げて來《き》た。君《きみ》が何《なん》と言《い》はうとも實際《じつさい》さうであつたから仕方《しかた》がない。此《この》天地間《てんちかん》、僕《ぼく》を愛《あい》し、又《また》僕《ぼく》が愛《あい》する者《もの》は唯《た》だ此《この》少女《せうぢよ》ばかりといふ風《ふう》な感情《こゝろもち》が爲《し》て來《き》た。あゝ是《こ》れ『浮《う》きたる心《こゝろ》』だらうか、何故《なにゆゑ》に自然《しぜん》を愛《あい》する心《こゝろ》は清《きよ》く高《たか》くして、少女《せうぢよ》(人間《にんげん》)を戀《こ》ふる心《こゝろ》は『浮《う》きたる心《こゝろ》』、『いやらしい心《こゝろ》』、『不健全《ふけんぜん》なる心《こゝろ》』だらうか、僕《ぼく》は一|念《ねん》こゝに及《およ》べば世《よ》の倫理學者《りんりがくしや》、健全先生《けんぜんせんせい》、批評家《ひゝやうか》、なんといふ動物《どうぶつ》を地球外《ちきうぐわい》に放逐《はうちく》したくなる、西印度《にしいんど》の猛烈《まうれつ》なる火山《くわざん》よ、何故《なにゆゑ》に爾《なんぢ》の熱火《ねつくわ》を此種《このしゆ》の動物《どうぶつ》の頭上《づじやう》には注《そゝ》がざりしぞ!
 僕《ぼく》はお絹《きぬ》が梨《なし》をむいて、僕《ぼく》が獨《ひとり》で入《は》いつてる浴室《よくしつ》に、そつと持《もつ》て來《き》て呉《く》れたことを思《おも》ひ、二人《ふたり》で溪流《けいりう》に沿《そ》ふて散歩《さんぽ》したことを思《おも》ひ、其《その》優《やさ》しい言葉《ことば》を思《おも》ひ、其《その》無邪氣《むじやき》な態度《たいど》を思《おも》ひ、其《その》笑顏《ゑがほ》を思《おも》ひ、思《おも》はず机《つくゑ》を打《う》つて、『明日《あす》の朝《あさ》に行《ゆ》く!』と叫《さ》けんだ。
 お絹《きぬ》とは何人《なんぴと》ぞ、君《きみ》驚《おどろ》く勿《なか》れ、藝者《げいしや》でも女郎《ぢよらう》でもない、海老茶《えびちや》式部《しきぶ》でも島田《しまだ》の令孃《れいぢやう》でもない、美人《びじん》でもない、醜婦《しうふ》でもない、たゞの女《をんな》である、湯原《ゆがはら》の温泉宿《をんせんやど》中西屋《なかにしや》の女中《ぢよちゆう》である! 今《いま》僕《ぼく》の斯《か》う筆《ふで》を執《と》つて居《を》る家《うち》の女中《ぢよちゆう》である! 田舍《ゐなか》の百姓《ひやくしやう》の娘《むすめ》である! 小田原《をだはら》は大都會《だいとくわい》と心得《こゝろえ》て居《ゐ》る田舍娘《ゐなかむすめ》! この娘《むすめ》を僕《ぼく》が知《し》つたのは昨年《さくねん》の夏《なつ》、君《きみ》も御存知《ごぞんぢ》の如《ごと》く病後《びやうご》、赤《せき》十|字社《じしや》の醫者《いしや》に勸《すゝ》められて二ヶ|月間《げつかん》此《この》湯原《ゆがはら》に滯在《たいざい》して居《ゐ》た時《とき》である。
 十四|日《か》の朝《あさ》僕《ぼく》は支度《したく》も匆々《そこ/\》に宿《やど》を飛《と》び出《だ》した。銀座《ぎんざ》で半襟《はんえり》、簪《かんざし》、其他《そのた》娘《むすめ》が喜《よろこ》びさうな品《しな》を買《か》ひ整《とゝの》へて汽車《きしや》に乘《の》つた。僕《ぼく》は今日《けふ》まで女《をんな》を喜《よろこ》ばすべく半襟《はんえり》を買《か》はなかつたが、若《も》し彼《あ》の娘《むすめ》に此等《これら》の品《しな》を與《やつ》たら如何《どんな》に喜《よろ》こぶだらうと思《おも》ふと、僕《ぼく》もうれしくつて堪《たま》らなかつた。見榮坊《みえばう》! 世《よ》には見榮《みえ》で女《をんな》に物《もの》を與《や》つたり、與《や》らなかつたりする者《もの》が澤山《たくさん》ある。僕《ぼく》は心《こゝろ》から此《この》貧《まづ》しい贈物《おくりもの》を我愛《わがあい》する田舍娘《ゐなかむすめ》に呈上《ていじやう》する!
 夜來《やらい》の雨《あめ》はあがつたが、空氣《くうき》は濕《しめ》つて、空《そら》には雲《くも》が漂《たゞよ》ふて居《ゐ》た。夏《なつ》の初《はじめ》の旅《たび》、僕《ぼく》は何《なに》よりも是《これ》が好《すき》で、今日《こんにち》まで數々《しば/\》此《この》季節《きせつ》に旅行《りよかう》した、然《しか》しあゝ何等《なんら》の幸福《かうふく》ぞ、胸《むね》に樂《たの》しい、嬉《う》れしい空想《くうさう》を懷《いだ》きながら、今夜《こんや》は彼《あ》の娘《むすめ》に遇《あ》はれると思《おも》ひながら、今夜《こんや》は彼《あ》の清《きよ》く澄《す》んだ温泉《をんせん》に入《はひ》られると思《おも》ひながら、此《この》好時節《かうじせつ》に旅行《りよかう》せんとは。
 國府津《こふづ》で下《お》りた時《とき》は日光《につくわう》雲間《くもま》を洩《も》れて、新緑《しんりよく》の山《やま》も、野《の》も、林《はやし》も、眼《め》さむるばかり輝《かゞや》いて來《き》た。愉快《ゆくわい》! 電車《でんしや》が景氣《けいき》よく走《はし》り出《だ》す、函嶺《はこね》諸峰《しよほう》は奧《おく》ゆかしく、嚴《おごそ》かに、面《おもて》を壓《あつ》して近《ちかづ》いて來《く》る! 輕《かる》い、淡々《あは/\》しい雲《くも》が沖《おき》なる海《うみ》の上《うへ》を漂《たゞよ》ふて居《を》る、鴎《かもめ》が飛《と》ぶ、浪《なみ》が碎《くだ》ける、そら雲《くも》が日《ひ》を隱《か》くした! 薄《うす》い影《かげ》が野《の》の上《うへ》を、海《うみ》の上《うへ》を這《は》う、忽《たちま》ち又《また》明《あか》るくなる、此時《このとき》僕《ぼく》は決《けつ》して自分《じぶん》を不幸《ふしあはせ》な男《をとこ》とは思《おも》はなかつた。又《また》決《けつ》して厭世家《えんせいか》たるの權利《けんり》は無《な》かつた。
 小田原《をだはら》へ着《つ》いて何時《いつ》も感《かん》ずるのは、自分《じぶん》もどうせ地上《ちじやう》に住《す》むならば此處《こゝ》に住《す》みたいといふことである。古《ふる》い城《しろ》、高《たか》い山《やま》、天《てん》に連《つ》らなる大洋《たいやう》、且《か》つ樹木《じゆもく》が繁《しげ》つて居《を》る。洋畫《やうぐわ》に依《よ》つて身《み》を立《た》てやうといふ僕《ぼく》の空想《くうさう》としては此處《こゝ》に永住《えいぢゆう》の家《いへ》を持《も》ちたいといふのも無理《むり》ではなからう。
 小田原《をだはら》から先《さき》は例《れい》の人車鐵道《じんしやてつだう》。僕《ぼく》は一|時《とき》も早《はや》く湯原《ゆがはら》へ着《つ》きたいので好《す》きな小田原《をだはら》に半日《はんにち》を送《おく》るほどの樂《たのしみ》も捨《すて》て、電車《でんしや》から下《お》りて晝飯《ちうじき》を終《をは》るや直《す》ぐ人車《じんしや》に乘《の》つた。人車《じんしや》へ乘《の》ると最早《もはや》半分《はんぶん》湯《ゆ》ヶ|原《はら》に着《つ》いた氣《き》になつた。此《この》人車鐵道《じんしやてつだう》の目的《もくてき》が熱海《あたみ》、伊豆山《いづさん》、湯《ゆ》ヶ|原《はら》の如《ごと》き温泉地《をんせんち》にあるので、これに乘《の》れば最早《もはや》大丈夫《だいぢやうぶ》といふ氣《き》になるのは温泉行《をんせんゆき》の人々《ひと/″\》皆《み》な同感《どうかん》であらう。
 人車《じんしや》は徐々《じよ/\》として小田原《をだはら》の町《まち》を離《はな》れた。僕《ぼく》は窓《まど》から首《くび》を出《だ》して見《み》て居《ゐ》る。忽《たちま》ちラツパを勇《いさ》ましく吹《ふ》き立《た》てゝ車《くるま》は傾斜《けいしや》を飛《と》ぶやうに滑《すべ》る。空《そら》は名殘《なごり》なく晴《は》れた。海風《かいふう》は横《よこ》さまに窓《まど》を吹《ふ》きつける。顧《かへり》みると町《まち》の旅館《りよかん》の旗《はた》が竿頭《かんとう》に白《しろ》く動《うご》いて居《を》る。
 僕《ぼく》は頭《かしら》を轉《てん》じて行手《ゆくて》を見《み》た。すると軌道《レール》に沿《そ》ふて三|人《にん》、田舍者《ゐなかもの》が小田原《をだはら》の城下《じやうか》へ出《で》るといふ旅裝《いでたち》、赤《あか》く見《み》えるのは娘《むすめ》の、白《しろ》く見《み》えるのは老母《らうぼ》の、からげた腰《こし》も頑丈《ぐわんぢやう》らしいのは老父《おやぢ》さんで、人車《じんしや》の過《す》ぎゆくのを避《さ》ける積《つも》りで立《た》つて此方《こつち》を向《む》いて居《ゐ》る。『オヤお絹《きぬ》!』と思《おも》ふ間《ま》もなく車《くるま》は飛《と》ぶ、三|人《にん》は忽《たちま》ち窓《まど》の下《した》に來《き》た。
『お絹《きぬ》さん!』と僕《ぼく》は思《おも》はず手《て》を擧《あ》げた。お絹《きぬ》はにつこり笑《わら》つて、さつと顏《かほ》を赤《あか》めて、禮《れい》をした。人《ひと》と車《くるま》との間《あひだ》は見《み》る/\遠《とほ》ざかつた。
 若《も》し同車《どうしや》の人《ひと》が無《な》かつたら僕《ぼく》は地段駄《ぢだんだ》を踏《ふ》んだらう、帽子《ばうし》を投《な》げつけたゞらう。僕《ぼく》と向《む》き合《あ》つて、眞面目《まじめ》な顏《かほ》して居《ゐ》る役人《やくにん》らしい先生《せんせい》が居《ゐ》るではないか、僕《ぼく》は唯《た》だがつかりして手《て》を拱《こま》ぬいてしまつた。
 言《い》はでも知《し》るお絹《きぬ》は最早《もはや》中西屋《なかにしや》に居《ゐ》ないのである、父母《ふぼ》の家《いへ》に歸《かへ》り、嫁入《よめいり》の仕度《したく》に取《と》りかゝつたのである。昨年《さくねん》の夏《なつ》も他《た》の女中《ぢよちゆう》から小田原《をだはら》のお婿《むこ》さんなど嬲《なぶ》られて居《ゐ》たのを自分《じぶん》は知《し》つて居《ゐ》る、あゝ愈々《いよ/\》さうだ! と思《おも》ふと僕《ぼく》は慊《いや》になつてしまつた。一口《ひとくち》に言《い》へば、海《うみ》も山《やま》もない、沖《おき》の大島《おほしま》、彼《あ》れが何《なん》だらう。大浪《おほなみ》小浪《こなみ》の景色《けしき》、何《なん》だ。今《いま》の今《いま》まで僕《ぼく》をよろこばして居《ゐ》た自然《しぜん》は、忽《たちま》ちの中《うち》に何《なん》の面白味《おもしろみ》もなくなつてしまつた。僕《ぼく》とは他人《たにん》になつてしまつた。
 湯原《ゆがはら》の温泉《をんせん》は僕《ぼく》になじみ[#「なじみ」に傍点]の深《ふか》い處《ところ》であるから、たとひお絹《きぬ》が居《ゐ》ないでも僕《ぼく》に取《と》つて興味《きようみ》のない譯《わけ》はない、然《しか》し既《すで》にお絹《きぬ》を知《し》つた後《のち》の僕《ぼく》には、お絹《きぬ》の居《ゐ》ないことは寧《むし》ろ不愉快《ふゆくわい》の場所《ばしよ》となつてしまつたのである。不愉快《ふゆくわい》の人車《じんしや》に搖《ゆ》られて此《こ》の淋《さ》びしい溪間《たにま》に送《おく》り屆《とゞ》けられることは、頗《すこぶ》る苦痛《くつう》であつたが、今更《いまさら》引返《ひきか》へす事《こと》も出來《でき》ず、其日《そのひ》の午後《ごゝ》五|時頃《じごろ》、此宿《このやど》に着《つ》いた。突然《とつぜん》のことであるから宿《やど》の主人《あるじ》を驚《おどろ》かした。主人《あるじ》は忠實《ちゆうじつ》な人《ひと》であるから、非常《ひじやう》に歡迎《くわんげい》して呉《く》れた。湯《ゆ》に入《はひ》つて居《ゐ》ると女中《ぢよちゆう》の一人《ひとり》が來《き》て、
『小山《こやま》さんお氣《き》の毒《どく》ですね。』
『何故《なぜ》?』
『お絹《きぬ》さんは最早《もう》居《ゐ》ませんよ、』と言《い》ひ捨《す》てゝばた/\と逃《に》げて去《い》つた。哀《あは》れなる哉《かな》、これが僕《ぼく》の失戀《しつれん》の弔詞《てうじ》である! 失戀《しつれん》?、失戀《しつれん》が聞《き》いてあきれる。僕《ぼく》は戀《こひ》して居《ゐ》たのだらうけれども、夢《ゆめ》に、實《じつ》に夢《ゆめ》にもお絹《きぬ》をどうしやうといふ事《こと》はなかつた、お絹《きぬ》も亦《ま》た、僕《ぼく》を憎《に》くからず思《おも》つて居《ゐ》たらう、決《けつ》して其《それ》以上《いじやう》のことは思《おも》はなかつたに違《ちが》ひない。
 處《ところ》が其夜《そのよ》、女中《ぢよちゆう》[#「女中《ぢよちゆう》」は底本では「女中《ぢうちゆう》」]どもが僕《ぼく》の部屋《へや》に集《あつま》つて、宿《やど》の娘《むすめ》も來《き》た。お絹《きぬ》の話《はなし》が出《で》て、お絹《きぬ》は愈々《いよ/\》小田原《をだはら》に嫁《よめ》にゆくことに定《き》まつた一|條《でう》を聞《き》かされた時《とき》の僕《ぼく》の心持《こゝろもち》、僕《ぼく》の運命《うんめい》が定《さだま》つたやうで、今更《いまさら》何《なん》とも言《い》へぬ不快《ふくわい》でならなかつた。しからば矢張《やはり》失戀《しつれん》であらう! 僕《ぼく》はお絹《きぬ》を自分《じぶん》の物《もの》、自分《じぶん》のみを愛《あい》すべき人《ひと》と、何時《いつ》の間《ま》にか思込《おもひこ》んで居《ゐ》たのであらう。
 土産物《みやげもの》は女中《ぢよちゆう》や娘《むすめ》に分配《ぶんぱい》してしまつた。彼等《かれら》は確《たし》かによろこんだ、然《しか》し僕《ぼく》は嬉《うれ》しくも何《なん》ともない。
 翌日《よくじつ》は雨《あめ》、朝《あさ》からしよぼ/\と降《ふ》つて陰鬱《いんうつ》極《きは》まる天氣《てんき》。溪流《けいりう》の水《みづ》増《ま》してザア/\と騷々《さう/″\》しいこと非常《ひじやう》。晝飯《ひるめし》に宿《やど》の娘《むすめ》が給仕《きふじ》に來《き》て、僕《ぼく》の顏《かほ》を見《み》て笑《わら》ふから、僕《ぼく》も笑《わら》はざるを得《え》ない。
『貴所《あなた》はお絹《きぬ》に逢《あ》ひたくつて?』
『可笑《をか》しい事《こと》を言《い》ひますね、昨年《さくねん》あんなに世話《せわ》になつた人《ひと》に會《あ》ひたいのは當然《あたりまへ》だらうと思《おも》ふ。』
『逢《あ》はして上《あ》げましようか?』
『難有《ありがた》いね、何分《なにぶん》宜《よろ》しく。』
『明日《あした》きつとお絹《きぬ》さん宅《うち》へ來《き》ますよ。』
『來《き》たら宜《よろ》しく被仰《おつしやつ》て下《くだ》さい、』と僕《ぼく》が眞實《ほんたう》にしないので娘《むすめ》は默《だま》つて唯《た》だ笑《わら》つて居《ゐ》た。お絹《きぬ》は此娘《このむすめ》と從姉妹《いとこどうし》なのである。
 午後《ごゝ》は降《ふ》り止《や》んだが晴《は》れさうにもせず雲《くも》は地《ち》を這《は》ふようにして飛《と》ぶ、狹《せま》い溪《たに》は益々《ます/\》狹《せま》くなつて、僕《ぼく》は牢獄《らうごく》にでも坐《すわ》つて居《ゐ》る氣《き》。坐敷《ざしき》に坐《すわ》つたまゝ爲《す》る事《こと》もなく茫然《ぼんやり》と外《そと》を眺《なが》めて居《ゐ》たが、ちらと僕《ぼく》の眼《め》を遮《さへぎ》つて直《す》ぐ又《また》隣家《もより》の軒先《のきさき》で隱《かく》れてしまつた者《もの》がある。それがお絹《きぬ》らしい。僕《ぼく》は直《す》ぐ外《そと》に出《で》た。
 石《いし》ばかりごろ/\した往來《わうらい》の淋《さび》しさ。僅《わづか》に十|軒《けん》ばかりの温泉宿《をんせんやど》。其外《そのほか》の百|姓家《しやうや》とても數《かぞ》える計《ばか》り、物《もの》を商《あきな》ふ家《いへ》も準《じゆん》じて幾軒《いくけん》もない寂寞《せきばく》たる溪間《たにま》! この溪間《たにま》が雨雲《あまぐも》に閉《とざ》されて見《み》る物《もの》悉《こと/″\》く光《ひかり》を失《うしな》ふた時《とき》の光景《くわうけい》を想像《さう/″\》し給《たま》へ。僕《ぼく》は溪流《けいりう》に沿《そ》ふて此《この》淋《さび》しい往來《わうらい》を當《あて》もなく歩《あ》るいた。流《ながれ》を下《くだ》つて行《ゆ》くも二三|丁《ちやう》、上《のぼ》れば一|丁《ちやう》、其中《そのなか》にペンキで塗つた橋《はし》がある、其間《そのあひだ》を、如何《どん》な心地《こゝち》で僕《ぼく》はぶらついた[#「ぶらついた」に傍点]らう。温泉宿《をんせんやど》の欄干《らんかん》に倚《よ》つて外《そと》を眺《なが》めて居《ゐ》る人《ひと》は皆《み》な泣《な》き出《だ》しさうな顏付《かほつき》をして居《ゐ》る、軒先《のきさき》で小供《こども》を負《しよつ》て居《ゐ》る娘《むすめ》は病人《びやうにん》のやうで背《せ》の小供《こども》はめそ/\と泣《な》いて居《ゐ》る。陰鬱《いんうつ》! 屈托《くつたく》! 寂寥《せきれう》! そして僕《ぼく》の眼《め》には何處《どこ》かに悲慘《ひさん》の影《かげ》さへも見《み》えるのである。
 お絹《きぬ》には出逢《であ》はなかつた。當《あた》り前《まへ》である。僕《ぼく》は其《その》翌日《よくじつ》降《ふ》り出《だ》しさうな空《そら》をも恐《おそ》れず十國峠《じつこくたうげ》へと單身《たんしん》宿《やど》を出《で》た。宿《やど》の者《もの》は總《そう》がゝりで止《と》めたが聞《き》かない、伴《とも》を連《つ》れて行《ゆ》けと勸《すゝ》めても謝絶《しやぜつ》。山《やま》は雲《くも》の中《なか》、僕《ぼく》は雲《くも》に登《のぼ》る積《つも》りで遮二無二《しやにむに》登《のぼ》つた。
 僕《ぼく》は今日《けふ》まで斯《こ》んな凄寥《せいれう》たる光景《くわうけい》に出遇《であ》つたことはない。足《あし》の下《した》から灰色《はひいろ》の雲《くも》が忽《たちま》ち現《あら》はれ、忽《たちま》ち消《き》える。草原《くさはら》をわたる風《かぜ》は物《もの》すごく鳴《な》つて耳《みゝ》を掠《かす》める、雲《くも》の絶間絶間《たえま/\》から見《み》える者《もの》は山又山《やままたやま》。天地間《てんちかん》僕《ぼく》一|人《にん》、鳥《とり》も鳴《な》かず。僕《ぼく》は暫《しば》らく絶頂《ぜつちやう》の石《いし》に倚《よ》つて居《ゐ》た。この時《とき》、戀《こひ》もなければ失戀《しつれん》もない、たゞ悽愴《せいさう》の感《かん》に堪《た》えず、我生《わがせい》の孤獨《こどく》を泣《な》かざるを得《え》なかつた。
 歸路《かへり》に眞闇《まつくら》に繁《しげ》つた森《もり》の中《なか》を通《とほ》る時《とき》、僕《ぼく》は斯《こ》んな事《こと》を思《おも》ひながら歩《あ》るいた、若《も》し僕《ぼく》が足《あし》を蹈《ふ》み滑《す》べらして此溪《このたに》に落《お》ちる、死《し》んでしまう、中西屋《なかにしや》では僕《ぼく》が歸《かへ》らぬので大騷《おほさわ》ぎを初《はじ》める、樵夫《そま》を※[#「にんべん+就」、第3水準1-14-40]《やと》ふて僕《ぼく》を索《さが》す、此《この》暗《くら》い溪底《たにそこ》に僕《ぼく》の死體《したい》が横《よこたは》つて居《ゐ》る、東京《とうきやう》へ電報《でんぱう》を打《う》つ、君《きみ》か淡路君《あはぢくん》か飛《と》んで來《く》る、そして僕《ぼく》は燒《や》かれてしまう。天地間《てんちかん》最早《もはや》小山某《こやまなにがし》といふ畫《ゑ》かきの書生《しよせい》は居《ゐ》なくなる! と僕《ぼく》は思《おも》つた時《とき》、思《おも》はず足《あし》を止《とゞ》めた。頭《あたま》の上《うへ》の眞黒《まつくろ》に繁《しげ》つた枝《えだ》から水《みづ》がぼた/\落《お》ちる、墓穴《はかあな》のやうな溪底《たにそこ》では水《みづ》の激《げき》して流《なが》れる音《おと》が悽《すご》く響《ひゞ》く。僕《ぼく》は身《み》の髮《け》のよだつを感《かん》じた。
 死人《しにん》のやうな顏《かほ》をして僕《ぼく》の歸《かへ》つて來《き》たのを見《み》て、宿《やど》の者《もの》は如何《どん》なに驚《おどろ》いたらう。其驚《そのおどろき》よりも僕《ぼく》の驚《おどろ》いたのは此日《このひ》お絹《きぬ》が來《き》たが、午後《ごゝ》又《また》實家《じつか》へ歸《かへ》つたとの事《こと》である。
 其夜《そのよ》から僕《ぼく》は熱《ねつ》が出《で》て今日《けふ》で三日《みつか》になるが未《ま》だ快然《はつきり》しない。山《やま》に登《のぼ》つて風邪《かぜ》を引《ひ》いたのであらう。
 君《きみ》よ、君《きみ》は今《いま》の時文《じぶん》評論家《ひやうろんか》でないから、此《この》三日《みつか》の間《あひだ》、床《とこ》の中《なか》に呻吟《しんぎん》して居《ゐ》た時《とき》考《かんが》へたことを聞《き》いて呉《く》れるだらう。
 戀《こひ》は力《ちから》である、人《ひと》の抵抗《ていかう》することの出來《でき》ない力《ちから》である。此力《このちから》を認識《にんしき》せず、又《また》此力《このちから》を壓《おさ》へ得《う》ると思《おも》ふ人《ひと》は、未《ま》だ此力《このちから》に觸《ふ》れなかつた人《ひと》である。其《その》證據《しようこ》には曾《かつ》て戀《こひ》の爲《た》めに苦《くるし》み悶《もだ》えた人《ひと》も、時《とき》經《た》つて、普通《ふつう》の人《ひと》となる時《とき》は、何故《なにゆゑ》に彼時《あのとき》自分《じぶん》が戀《こひ》の爲《た》めに斯《か》くまで苦悶《くもん》したかを、自分《じぶん》で疑《うた》がう者《もの》である。則《すなは》ち彼《かれ》は戀《こひ》の力《ちから》に觸《ふ》れて居《ゐ》ないからである。同《おな》じ人《ひと》ですら其通《そのとほ》り、況《いは》んや曾《かつ》て戀《こひ》の力《ちから》に觸《ふ》れたことのない人《ひと》が如何《どう》して他人《たにん》の戀《こひ》の消息《せうそく》が解《わか》らう、その樂《たのしみ》が解《わか》らう、其苦《そのくるしみ》が解《わか》らう?。
 戀《こひ》に迷《まよ》ふを笑《わら》ふ人《ひと》は、怪《あや》しげな傳説《でんせつ》、學説《がくせつ》に迷《まよ》はぬがよい。戀《こひ》は人《ひと》の至情《しゞやう》である。此《この》至情《しゞやう》をあざける人《ひと》は、百|萬年《まんねん》も千|萬年《まんねん》も生《い》きるが可《よ》い、御氣《おき》の毒《どく》ながら地球《ちきう》の皮《かは》は忽《たちま》ち諸君《しよくん》を吸《す》ひ込《こ》むべく待《ま》つて居《ゐ》る、泡《あわ》のかたまり先生《せんせい》諸君《しよくん》、僕《ぼく》は諸君《しよくん》が此《この》不可思議《ふかしぎ》なる大宇宙《だいうちう》をも統御《とうぎよ》して居《ゐ》るやうな顏構《かほつき》をして居《ゐ》るのを見《み》ると冷笑《れいせう》したくなる僕《ぼく》は諸君《しよくん》が今《いま》少《すこ》しく眞面目《まじめ》に、謙遜《けんそん》に、嚴肅《げんしゆく》に、此《この》人生《じんせい》と此《この》天地《てんち》の問題《もんだい》を見《み》て貰《もら》ひたいのである。
 諸君《しよくん》が戀《こひ》を笑《わら》ふのは、畢竟《ひつきやう》、人《ひと》を笑《わら》ふのである、人《ひと》は諸君《しよくん》が思《おも》つてるよりも神祕《しんぴ》なる動物《どうぶつ》である。若《も》し人《ひと》の心《こゝろ》に宿《やど》る所《ところ》の戀《こひ》をすら笑《わら》ふべく信《しん》ずべからざる者《もの》ならば、人生《じんせい》遂《つひ》に何《なん》の價《あたひ》ぞ、人《ひと》の心《こゝろ》ほど嘘僞《きよぎ》な者《もの》は無《な》いではないか。諸君《しよくん》にして若《も》し、月夜《げつや》笛《ふえ》を聞《き》いて、諸君《しよくん》の心《こゝろ》に少《すこ》しにても『永遠《エターニテー》』の俤《おもかげ》が映《うつ》るならば、戀《こひ》を信《しん》ぜよ。若《も》し、諸君《しよくん》にして中江兆民《なかえてうみん》先生《せんせい》と同《どう》一|種《しゆ》であつて、十八|里《り》零圍氣《れいゐき》を振舞《ふりま》はして滿足《まんぞく》して居《ゐ》るならば、諸君《しよくん》は何《なん》の權威《けんゐ》あつて、『春《はる》短《みじか》し何《なに》に不滅《ふめつ》の命《いのち》ぞと』云々《うん/\》と歌《うた》ふ人《ひと》の自由《じいう》に干渉《かんせふ》し得《う》るぞ。『若《わか》い時《とき》は二|度《ど》はない』と稱《しよう》してあらゆる肉慾《にくよく》を恣《ほしい》まゝにせんとする青年男女《せいねんだんぢよ》の自由《じいう》に干渉《かんせふ》し得《う》るぞ。
 内山君《うちやまくん》足下《そくか》、先《ま》づ此位《このくらゐ》にして置《お》かう。さて斯《かく》の如《ごと》くに僕《ぼく》は戀《こひ》其物《そのもの》に隨喜《ずゐき》した。これは失戀《しつれん》の賜《たまもの》かも知《し》れない。明後日《みやうごにち》は僕《ぼく》は歸京《きゝやう》する。
 小田原《をだはら》を通《とほ》る時《とき》、僕《ぼく》は如何《どん》な感《かん》があるだらう。

小山生

底本:「定本 国木田独歩全集 第二巻」学習研究社
   1964(昭和39)年7月1日初版発行
   1978(昭和53)年3月1日増訂版発行
   1995(平成7)年7月3日増補版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:mayu
2001年11月7日公開
2004年7月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

湯ヶ原ゆき——国木田独歩

        一

 定《さだ》めし今《いま》時分《じぶん》は閑散《ひま》だらうと、其《その》閑散《ひま》を狙《ねら》つて來《き》て見《み》ると案外《あんぐわい》さうでもなかつた。殊《こと》に自分《じぶん》の投宿《とうしゆく》した中西屋《なかにしや》といふは部室數《へやかず》も三十|近《ぢか》くあつて湯《ゆ》ヶ|原《はら》温泉《をんせん》では第《だい》一といはれて居《ゐ》ながら而《しか》も空室《あきま》はイクラもない程《ほど》の繁盛《はんじやう》であつた。少《すこ》し當《あて》は違《ちが》つたが先《ま》づ/\繁盛《はんじやう》に越《こ》した事《こと》なしと斷念《あきら》めて自分《じぶん》は豫想外《よさうぐわい》の室《へや》に入《はひ》つた。
 元來《ぐわんらい》自分《じぶん》は大《だい》の無性者《ぶしやうもの》にて思《おも》ひ立《たつ》た旅行《りよかう》もなか/\實行《じつかう》しないのが今度《こんど》といふ今度《こんど》は友人《いうじん》や家族《かぞく》の切《せつ》なる勸告《くわんこく》でヤツと出掛《でか》けることになつたのである。『其處《そこ》に骨《ほね》の人《ひと》行《ゆ》く』といふ文句《もんく》それ自身《じしん》がふら/\と新宿《しんじゆく》の停車場《ていしやぢやう》に着《つ》いたのは六月二十日の午前《ごぜん》何時であつたか忘《わす》れた。兔《と》も角《かく》、一汽車《ひときしや》乘《の》り遲《おく》れたのである。
 同伴者《つれ》は親類《しんるゐ》の義母《おつかさん》であつた。此人《このひと》は途中《とちゆう》萬事《ばんじ》自分《じぶん》の世話《せわ》を燒《や》いて、病人《びやうにん》なる自分《じぶん》を湯《ゆ》ヶ|原《はら》まで送《おく》り屆《とゞ》ける役《やく》を持《もつ》て居《ゐ》たのである。
『どうせ待《ま》つなら品川《しながは》で待《ま》ちましようか、同《おな》じことでも前程《さき》へ行《い》つて居《ゐ》る方《はう》が氣持《きもち》が可《い》いから』
と自分《じぶん》がいふと
『ハア、如何《どう》でも。』
 其處《そこ》で國府津《こふづ》までの切符《きつぷ》を買《か》ひ、品川《しながは》まで行《ゆ》き、其《その》プラツトホームで一|時間《じかん》以上《いじやう》も待《ま》つことゝなつた。十一|時頃《じごろ》から熱《ねつ》が出《で》て來《き》たので自分《じぶん》はプラツトホームの眞中《まんなか》に設《まう》けある四|方《はう》硝子張《がらすばり》の待合室《まちあひしつ》に入《はひ》つて小《ちひ》さくなつて居《ゐ》ると呑氣《のんき》なる義母《おつかさん》はそんな事《こと》とは少《すこ》しも御存知《ごぞんじ》なく待合室《まちあひしつ》を出《で》て見《み》たり入《はひ》つて見《み》たり、煙草《たばこ》を喫《すつ》て見《み》たり、自分《じぶん》が折《を》り折り話《はな》しかけても只《た》だ『ハア』『そう』と答《こた》へらるゝだけで、沈々《ちん/\》默々《もく/\》、空々《くう/\》漠々《ばく/\》、三日でも斯《か》うして待《ま》ちますよといはぬ計《ばか》り、悠然《いうぜん》、泰然《たいぜん》、茫然《ばうぜん》、呆然《ぼうぜん》たるものであつた。其中《そのうち》漸《やうや》く神戸《かうべ》行《ゆき》が新橋《しんばし》から來《き》た。特《とく》に國府津《こふづ》止《どまり》の箱《はこ》が三四|輛《りやう》連結《れんけつ》してあるので紅帽《あかばう》の注意《ちゆうい》を幸《さいはひ》にそれに乘《の》り込《こ》むと果《はた》して同乘者《どうじようしや》は老人夫婦《らうじんふうふ》きりで頗《すこぶ》る空《すい》て居《ゐ》た、待《ま》ち疲《くたび》れたのと、熱《ねつ》の出《で》たのとで少《すく》なからず弱《よわつ》て居《ゐ》る身體《からだ》をドツかと投《な》げ下《おろ》すと眼がグラついて思《おも》はずのめり[#「のめり」に傍点]さうにした。
 前夜《ぜんや》の雨《あめ》が晴《はれ》て空《そら》は薄雲《うすぐも》の隙間《あひま》から日影《ひかげ》が洩《もれ》ては居《ゐ》るものゝ梅雨《つゆ》季《どき》は爭《あらそ》はれず、天際《てんさい》は重《おも》い雨雲《あまぐも》が被《おほ》り[#「り」に「ママ」の注記]重《かさ》なつて居《ゐ》た。汽車《きしや》は御丁寧《ごていねい》に各驛《かくえき》を拾《ひろ》つてゆく。
『義母《おつかさん》此處《こゝ》は梅《うめ》で名高《なだか》ひ蒲田《かまた》ですね。』
『そう?』
『義母《おつかさん》田植《たうゑ》が盛《さか》んですね。』
『そうね。』
『御覽《ごらん》なさい、眞紅《まつか》な帶《おび》を結《し》めて居《ゐ》る娘《むすめ》も居《ゐ》ますよ。』
『そうね。』
『義母《おつかさん》川崎《かはさき》へ着《つ》きました。』
『そうね。』
『義母《おつかさん》お大師樣《だいしさま》へ何度《なんど》お參《まゐ》りになりました。』
『何度《なんど》ですか。』
 これでは何方《どつち》が病人《びやうにん》か分《わから》なくなつた。自分《じぶん》も斷念《あきら》めて眼《め》をふさいだ。

        

 トロリとした間《ま》に鶴見《つるみ》も神奈川《かながは》も過《す》ぎて平沼《ひらぬま》で眼《め》が覺《さ》めた。僅《わづ》かの假寢《うたゝね》ではあるが、それでも氣分《きぶん》がサツパリして多少《いくら》か元氣《げんき》が附《つ》いたので懲《こり》ずまに義母《おつかさん》に
『横濱《よこはま》に寄《よ》らないだけ未《ま》だ可《よ》う御座《ござ》いますね。』
『ハア。』
 是非《ぜひ》もないことゝ自分《じぶん》も斷念《あきら》めて咽喉疾《いんこうしつ》には大敵《たいてき》と知《し》りながら煙草《たばこ》を喫《す》い初《はじ》めた。老人夫婦《らうじんふうふ》は頻《しき》りと話《はな》して居《ゐ》る。而《しか》もこれは婦《をんな》の方《はう》から種々《しゆ/″\》の問題《もんだい》を持出《もちだ》して居《ゐ》るやうだそして多少《いくら》か煩《うるさ》いといふ氣味《きみ》で男《をとこ》はそれに説明《せつめい》を與《あた》へて居《ゐ》たが隨分《ずゐぶん》丁寧《ていねい》な者《もの》で決《けつ》して『ハア』『そう』の比《ひ》ではない。
 若《も》し或人《あるひと》が義母《おつかさん》の脊後《うしろ》から其《その》脊中《せなか》をトンと叩《たゝ》いて『義母《おつかさん》!』と叫《さけ》んだら『オヽ』と驚《おどろ》いて四邊《あたり》をきよろ/\見廻《みまは》して初《はじ》めて自分《じぶん》が汽車《きしや》の中《なか》に在《あ》ること、旅行《りよかう》しつゝあることに氣《き》が附《つ》くだらう。全體《ぜんたい》旅《たび》をしながら何物《なにもの》をも見《み》ず、見《み》ても何等《なんら》の感興《かんきよう》も起《おこ》さず、起《おこ》しても其《それ》を折角《せつかく》の同伴者《つれ》と語《かた》り合《あつ》て更《さら》に興《きよう》を増《ま》すこともしないなら、初《はじ》めから其人《そのひと》は旅《たび》の面白《おもしろ》みを知《し》らないのだ、など自分《じぶん》は獨《ひと》り腹《はら》の中《なか》で愚痴《ぐち》つて居《ゐ》ると
『あれは何《なん》でしよう、そら彼《あ》の山《やま》の頂邊《てつぺん》の三|角《かく》の家《うち》のやうなもの。』
『どれだ。』
『そら彼《あ》の山《やま》の頂邊《てつぺん》の、そら……。』
『どの山《やま》だ』
『そら彼《あ》の山《やま》ですよ。』
『どれだよ。』
『まア貴下《あなた》あれが見《み》えないの。アゝ最早《もう》見《み》えなくなつた。』と老婦人《らうふじん》は殘念《ざんねん》さうに舌打《したうち》をした。義母《おつかさん》は一寸《ちよつ》と其方《そのはう》を見《み》たばかり此時《このとき》自分《じぶん》は思《おも》つた義母《おつかさん》よりか老婦人《らうふじん》の方《はう》が幸福《しあはせ》だと。
 そこで自分《じぶん》は『對話《たいわ》』といふことに就《つい》て考《かんが》へ初《はじ》めた、大袈裟《おほげさ》に言《い》へば『對話哲學《たいわてつがく》』又《ま》たの名《な》を『お喋舌《しやべり》哲學《てつがく》』に就《つい》て。
 自分《じぶん》は先《ま》づ劈頭《へきとう》第《だい》一に『喋舌《しやべ》る事《こと》の出來《でき》ない者《もの》は大馬鹿《おほばか》である』

        

『喋舌《しやべ》ることの出來《でき》ないのを稱《しよう》して大馬鹿《おほばか》だといふは餘《あま》り殘酷《ひど》いかも知《し》れないが、少《すくな》くとも喋舌《しやべ》らないことを以《もつ》て甚《ひど》く自分《じぶん》で豪《え》らがる者《もの》は馬鹿者《ばかもの》の骨頂《こつちやう》と言《い》つて可《よ》ろしい而《そ》して此種《このしゆ》の馬鹿者《ばかもの》を今《いま》の世《よ》にチヨイ/\見受《みう》けるに[#「に」に「ママ」の注記]は情《なさけ》ない次第《しだい》である。』
『旅《たび》は道連《みちづれ》、世《よ》は情《なさけ》といふが、世《よ》は情《なさけ》であらうと無《な》からうと別問題《べつもんだい》として旅《たび》の道連《みちづれ》は難有《ありが》たい、マサカ獨《ひと》りでは喋舌《しやべ》れないが二人《ふたり》なら對手《あひて》が泥棒《どろぼう》であつても喋舌《しやべ》りながら歩《ある》くことが出來《でき》る。』など、それからそれと考《かんが》へて居《ゐ》るうち又《また》眠《ねむ》くなつて來《き》た。
 睡眠《ねむり》は安息《あんそく》だ。自分《じぶん》は眠《ねむ》ることが何《なに》より好《す》きである。けれど爲《しよ》うことなしに眠《ねむ》るのはあたら一|生涯《しやうがい》の一|部分《ぶゝん》をたゞで失《な》くすやうな氣がして頗《すこぶ》る不愉快《ふゆくわい》に感《かん》ずる、處《ところ》が今《いま》の場合《ばあひ》、如何《いかん》とも爲《し》がたい、眼《め》の閉《とづ》るに任《ま》かして置《お》いた。
[#改行天付きはママ]幾分位《いくら》眠《ねむ》つたか知《し》らぬが夢現《ゆめうつゝ》の中《うち》に次《つぎ》のやうな談話《はなし》が途斷《とぎ》れ/\に耳《みゝ》に入《はひ》る。
『貴方《あなた》お腹《なか》が空《す》きましたか。』
『……甚《ひど》く空《す》いた。』
『私《わたし》も大變《たいへん》空《す》きました。大船《おほふな》でお辨《べん》を買《か》ひましよう。』
 成程《なるほど》こんな談《はなし》を聞《き》いて見《み》ると腹《はら》が空《す》いたやうでもある。まして沈默家《ちんもくか》の特長《とくちやう》として義母《おつかさん》も必定《きつと》さうだらうと、
『義母《おつかさん》お腹《なか》が空《す》きましたらう。』
『イヽエ、そうでも有《あ》りませんよ。』
『大船《おほふな》へ着《つ》いたら何《なに》か食《た》べましよう。』
『今度《こんど》が大船《おほふな》ですか。』
『私《わたし》は眠《ね》て居《ゐ》たから能《よ》く分《わか》りませんが、』と言ひながら外景《そと》を見《み》ると丘山樹林《きうざんじゆりん》の容樣《かたち》が正《まさ》にそれなので
『エヽ、最早直《もうす》ぐ大船《おほふな》です。』
『大變《たいへん》早《はや》いこと!』

        

 大船《おほふな》に着《つ》くや老夫婦《としよりふうふ》が逸早《いちはや》く押《おし》ずしと辨當《べんたう》を買《か》ひこんだのを見《み》て自分《じぶん》も其《その》眞似《まね》をして同《おな》じものを求《もと》めた。頸筋《くびすぢ》は豚《ぶた》に似《に》て聲《こゑ》までが其《それ》らしい老人《らうじん》は辨當《べんたう》をむしやつき[#「むしやつき」に傍点]、少《すこ》し上方辯《かみがたべん》を混《ま》ぜた五十|幾歳位《いくさいぐらゐ》の老婦人《らうふじん》はすし[#「すし」に傍点]を頬張《ほゝば》りはじめた。
 自分《じぶん》は先《ま》づ押《おし》ずし[#「ずし」に傍点]なるものを一つ摘《つま》んで見《み》たが酢《す》が利《き》き過《す》ぎてとても喰《く》へぬのでお止《や》めにして更《さら》に辨當《べんたう》の一|隅《ぐう》に箸《はし》を着《つ》けて見《み》たがポロ/\飯《めし》で病人《びやうにん》に大毒《だいどく》と悟《さと》り、これも御免《ごめん》を被《かうむ》り、元來《ぐわんらい》小食《せうしよく》の自分《じぶん》、別《べつ》に苦《く》にもならず總《すべ》てを義母《おつかさん》にお任《まかせ》して茶《ちや》ばかり飮《の》んで内心《ないしん》一の悔《くい》を懷《いだ》きながら老人夫婦《としよりふうふ》をそれとなく觀察《くわんさつ》して居《ゐ》た。
『何故《なぜ》「ビールに正宗《まさむね》……」の其《その》何《いづ》れかを買《か》ひ入《い》れなかつたらう』といふが一《ひとつ》の悔《くい》である。大船《おほふな》を發《はつ》して了《しま》へば最早《もう》國府津《こふづ》へ着《つ》くのを待《ま》つ外《ほか》、途中《とちゆう》何《なに》も得《う》ることは出來《でき》ないと思《おも》ふと、淺間《あさま》しい事《こと》には猶《な》ほ殘念《ざんねん》で堪《たま》らない。
『酒《さけ》を買《か》へば可《よ》かつた。惜《を》しいことを爲《し》た』
『ほんとに、さうでしたねえ』と誰《だれ》か合槌《あひづち》を打《うつ》て呉《く》れた、と思《おも》ふと大違《おほちがひ》の眞中《まんなか》。義母《おつかさん》は今《いま》しも下《した》を向《むい》て蒲鉾《かまぼこ》を食《く》ひ欠《か》いで居《を》らるゝ所《ところ》であつた。
 大磯《おほいそ》近《ちか》くなつて漸《やつ》と諸君《しよくん》の晝飯《ちうはん》が了《をは》り、自分《じぶん》は二|個《こ》の空箱《あきばこ》の一《ひとつ》には笹葉《さゝつぱ》が殘《のこ》り一には煮肴《にざかな》の汁《しる》の痕《あと》だけが殘《のこ》つて居《ゐ》る奴《やつ》をかたづけて腰掛《こしかけ》の下《した》に押込《おしこ》み、老婦人《らうふじん》は三|個《こ》の空箱《あきばこ》を丁寧《ていねい》に重《かさ》ねて、傍《かたはら》の風呂敷包《ふろしきづつみ》を引寄《ひきよ》せ其《それ》に包《つゝ》んで了《しま》つた。最《もつと》も左樣《さう》する前《まへ》に老人《らうじん》と小聲《こゞゑ》で一寸《ちよつ》と相談《さうだん》があつたらしく、金貸《かねかし》らしい老人《らうじん》は『勿論《もちろん》のこと』と言《い》ひたげな樣子《やうす》を首《くび》の振《ふ》り方《かた》で見《み》せてたのであつた。
 此二《このふたつ》の悲劇《ひげき》が終《をわ》つて彼是《かれこれ》する中《うち》、大磯《おほいそ》へ着《つ》くと女中《ぢよちゆう》が三|人《にん》ばかり老人夫婦《としよりふうふ》を出迎《でむかへ》に出《で》て居《ゐ》て、其《その》一人《ひとり》が窓《まど》から渡《わた》した包《つゝみ》を大事《だいじ》さうに受取《うけと》つた。其中《そのなか》には空虚《からつぽ》の折箱《をり》も三ツ入《はひ》つて居《ゐ》るのである。
 汽車《きしや》が大磯《おほいそ》を出《で》ると直《す》ぐ(吾等《われら》二人《ふたり》ぎりになつたので)
『義母《おつかさん》今《いま》の連中《れんちゆふ》は何者《なにもの》でしよう。』
『今《いま》のツて何《な》に?』
『今《いま》大磯《おほいそ》へ下《お》りた二人《ふたり》です。』
『さうねえ』
『必定《きつと》金貸《かねかし》か何《なん》かですよ。』
『さうですかね』
『でなくても左樣《さう》見《み》えますね』
『婆樣《ばあさん》は上方者《かみがたもの》ですよ、ツルリン[#「ツルリン」に傍点]とした顏《かほ》の何處《どつか》に「間拔《まぬけ》の狡猾《かうくわつ》」とでも言《い》つたやうな所《ところ》があつて、ペチヤクリ/\老爺《ぢいさん》の氣嫌《きげん》を取《とつ》て居《ゐ》ましたね。』
『さうでしたか』
『妾《めかけ》の古手《ふるて》かも知《し》れない。』
『貴君《あなた》も隨分《ずゐぶん》口《くち》が惡《わる》いね』とか何《なん》とか義母《おつかさん》が言《い》つて呉《く》れると、益々《ます/\》惡口雜言《あくこうざふごん》の眞價《しんか》を發揮《はつき》するのだけれども、自分《じぶん》のは合憎《あいに》く甘《うま》い言《こと》をトン/\拍子《びやうし》で言《い》ひ合《あ》ふやうな對手《あひて》でないから、間《ま》の拔《ぬ》けるのも是非《ぜひ》がない。

        

 箱根《はこね》、伊豆《いづ》の方面《はうめん》へ旅行《りよかう》する者《もの》は國府津《こふづ》まで來《く》ると最早《もはや》目的地《もくてきち》の傍《そば》まで着《つ》ゐた氣《き》がして心《こゝろ》も勇《いさ》むのが常《つね》であるが、自分等《じぶんら》二人《ふたり》は全然《まるで》そんな樣子《やうす》もなかつた。不好《いや》な處《ところ》へいや/\ながら出《で》かけて行《ゆ》くのかと怪《あやし》まるゝばかり不承無承《ふしようぶしよう》にプラツトホームを出《で》て、紅帽《あかばう》に案内《あんない》されて兔《と》も角《かく》も茶屋《ちやゝ》に入《はひ》つた。義母《おつかさん》は兔《うさぎ》につまゝら[#「ら」に「ママ」の注記]れたやうな顏《かほ》つきをして、自分《じぶん》は狼《おほかみ》につまゝら[#「ら」に「ママ」の注記]れたやうに[#「に」に「ママ」の注記]顏《かほ》をして(多分《たぶん》他《ほか》から見《み》ると其樣《そんな》顏《かほ》であつたらうと思《おも》ふ)『やれ/\』とも『先《ま》づ/\』とも何《なん》とも言《い》はず女中《ぢよちゆう》のすゝめる椅子《いす》に腰《こし》を下《おろ》した。
 自分《じぶん》は義母《おつかさん》に『これから何處《どこ》へ行《ゆ》くのです』と問《と》ひたい位《くらゐ》であつた。最早《もう》我慢《がまん》が仕《し》きれなくなつたので、義母《おつかさん》が一寸《ちよつ》と立《たつ》て用《よう》たし[#「たし」に傍点]に行《い》つた間《ま》に正宗《まさむね》を命《めい》じて、コツプであほつた。義母《おつかさん》の來《き》た時《とき》は最早《もう》コツプも空壜《あきびん》も無《な》い。
 思《おも》ひきや此《この》藝當《げいたう》を見《み》ながら
『ヤア、これは珍《めづ》らしい處《ところ》で』と景氣《けいき》よく聲《こゑ》をかけて入《はひつ》て來《き》た者《もの》がある。
 可愛《かはい》さうに景氣《けいき》のよい聲《こゑ》、肺臟《はいざう》から出《で》る聲《こゑ》を聞《き》いたのは十|年《ねん》ぶりのやうな氣《き》がして、自分《じぶん》は思《おも》はず立上《たちあが》つた。見《み》れば友人《いうじん》|M君《エムくん》である。
『何處《どこ》へ?』彼《かれ》は問《と》ふた。
『湯《ゆ》ヶ|原《はら》へ行《ゆ》く積《つも》りで出《で》て來《き》たのだ。』
『湯《ゆ》ヶ|原《はら》か。湯《ゆ》ヶ|原《はら》も可《い》いが此頃《このごろ》の天氣《てんき》じやアうんざり[#「うんざり」に傍点]するナア』
『君《きみ》は如何《どう》したのだ。』
『僕《ぼく》は四五日|前《まへ》から小田原《をだはら》の友人《いうじん》の宅《うち》へ遊《あそ》びに行《いつ》て居《ゐ》たのだが、雨《あめ》ばかりで閉口《へいかう》したから、これから歸京《かへら》うと思《おも》ふんだ。』
『湯《ゆ》ヶ|原《はら》へ行《ゆ》き玉《たま》へ。』
『御免《ごめん》、御免《ごめん》、最早《もう》飽《あ》き/\した。』
 平凡《へいぼん》な會話《くわいわ》じやアないか。平常《ふだん》なら當然《あたりまへ》の挨拶《あいさつ》だ。併《しか》し自分《じぶん》は友《とも》と別《わか》れて電車《でんしや》に乘《の》つた後《あと》でも氣持《きもち》がすが/\して清涼劑《せいりやうざい》を飮《の》んだやうな氣《き》がした。おまけに先刻《さつき》の手早《てばや》き藝當《げいたう》が其《その》效果《きゝめ》を現《あら》はして來《き》たので、自分《じぶん》は自分《じぶん》と腹《はら》が定《き》まり、車窓《しやさう》から雲霧《うんむ》に埋《うも》れた山々《やま/\》を眺《なが》め
『走《はし》れ走《はし》れ電車《でんしや》、』
 圓太郎馬車《ゑんたらうばしや》のやうに喇叭《らつぱ》を吹《ふ》いて呉《く》れると更《さら》に妙《めう》だと思《おも》つた。

        

 小田原《をだはら》は街《まち》まで長《なが》い其《その》入口《いりぐち》まで來《く》ると細雨《こさめ》が降《ふ》りだしたが、それも降《ふ》りみ降《ふ》らずみたい[#「たい」に傍点]した事《こと》もなく人車鐵道《じんしやてつだう》の發車點《はつしやてん》へ着《つ》いたのが午後《ごゝ》の何時《なんじ》。半時間《はんじかん》以上《いじやう》待《ま》たねば人車《じんしや》が出《で》ないと聞《き》いて茶屋《ちやゝ》へ上《あが》り今度《こんど》は大《おほ》ぴらで一|本《ぽん》命《めい》じて空腹《くうふく》へ刺身《さしみ》を少《すこし》ばかり入《い》れて見《み》たが、惡酒《わるざけ》なるが故《ゆゑ》のみならず元來《ぐわんらい》八|度《ど》以上《いじやう》の熱《ねつ》ある病人《びやうにん》、甘味《うま》からう筈《はず》がない。悉《こと/″\》くやめてごろり轉《ころ》がるとがつかり[#「がつかり」に傍点]して身體《からだ》が解《と》けるやうな氣《き》がした。旅行《りよかう》して旅宿《やど》に着《つ》いて此《この》がつかり[#「がつかり」に傍点]する味《あぢ》は又《また》特別《とくべつ》なもので、「疲勞《ひらう》の美味《びみ》」とでも言《い》はうか、然《しか》し自分《じぶん》の場合《ばあひ》はそんなどころではなく病《やまひ》が手傳《てつだ》つて居《ゐ》るのだから鼻《はな》から出《で》る息《いき》の熱《ねつ》を今更《いまさら》の如《ごと》く感《かん》じ、最早《もは》や身動《みうご》きするのもいやになつた。
 しかし時間《じかん》が來《く》れば動《うご》かぬわけにいかない只《た》だ人車鐵道《じんしやてつだう》さへ終《をは》れば最早《もう》着《つ》ゐたも同樣《どうやう》と其《それ》を力《ちから》に箱《はこ》に入《はひ》ると中等《ちゆうとう》は我等《われら》二人《ふたり》ぎり廣《ひろ》いのは難有《ありがた》いが二|時間半《じかんはん》を無言《むごん》の行《ぎやう》は恐《おそ》れ入《い》ると思《おも》つて居《ゐ》ると、巡査《じゆんさ》が二人《ふたり》入《はひ》つて來《き》た。
 一人《ひとり》は張飛《ちやうひ》の痩《やせ》て弱《よわ》くなつたやうな中老《ちゆうらう》の人物《じんぶつ》。一人《ひとり》は關羽《くわんう》が鬚髯《ひげ》を剃《そ》り落《おと》して退隱《たいゝん》したやうな中老《ちゆうらう》以上《いじやう》の人物《じんぶつ》。
 ※[#「月+叟」、第4水準2-85-45]《や》せた張飛《ちやうひ》は眞鶴《まなづる》駐在所《ちゆうざいしよ》に勤務《きんむ》すること既《すで》に七八|年《ねん》、齋藤巡査《さいとうじゆんさ》と稱《しよう》し、退隱《たいゝん》の關羽《くわんう》は鈴木巡査《すゞきじゆんさ》といつて湯《ゆ》ヶ|原《はら》に勤務《きんむ》すること實《じつ》に九|年《ねん》以上《いじやう》であるといふことは、後《あと》で解《わか》つたのである。
 自分《じぶん》の注文通《ちゆうもんどほ》り、喇叭《らつぱ》の聲《こゑ》で人車《じんしや》は小田原《をだはら》を出發《たつ》た。

        

 自分《じぶん》は如何《どう》いふものかガタ馬車《ばしや》の喇叭《らつぱ》が好《す》きだ。回想《くわいさう》も聯想《れんさう》も皆《み》な面白《おもしろ》い。春《はる》の野路《のぢ》をガタ馬車《ばしや》が走《はし》る、野《の》は菜《な》の花《はな》が咲《さ》き亂《みだ》れて居《ゐ》る、フワリ/\と生温《なまぬる》い風《かぜ》が吹《ふ》ゐて花《はな》の香《かほり》が狹《せま》い窓《まど》から人《ひと》の面《おもて》を掠《かす》める、此時《このとき》御者《ぎよしや》が陽氣《やうき》な調子《てうし》で喇叭《らつぱ》を吹《ふ》きたてる。如何《いく》ら嫁《よめ》いびり[#「いびり」に傍点]の胡麻白《ごましろ》婆《ばあ》さんでも此時《このとき》だけはのんびり[#「のんびり」に傍点]して幾干《いくら》か善心《ぜんしん》に立《た》ちかへるだらうと思《おも》はれる。夏《なつ》も可《よ》し、清明《せいめい》の季節《きせつ》に高地《テーブルランド》の旦道《たんだう》を走《はし》る時《とき》など更《さら》に可《よ》し。
 ところが小田原《をだはら》から熱海《あたみ》までの人車鐵道《じんしやてつだう》に此《この》喇叭がある。不愉快《ふゆくわい》千萬な此《この》交通機關《かうつうきくわん》に此《この》鳴物《なりもの》が附《つ》いてる丈《だ》けで如何《どう》か興《きよう》を助《たす》けて居《ゐ》るとは兼《かね》て自分《じぶん》の思《おも》つて居《ゐ》たところである。
 先《ま》づ二|臺《だい》の三|等車《とうしや》、次《つぎ》に二|等車《とうしや》が一|臺《だい》、此《この》三|臺《だい》が一|列《れつ》になつてゴロ/\と停車場《ていしやぢやう》を出《で》て、暫時《しばら》くは小田原《をだはら》の場末《ばすゑ》の家立《いへなみ》の間《あひだ》を上《のぼり》には人《ひと》が押《お》し下《くだり》には車《くるま》が走《はし》り、走《はし》る時《とき》は喇叭《らつぱ》を吹《ふ》いて進《すゝ》んだ。
 愈※[#二の字点、1-2-22]《いよ/\》平地《へいち》を離《はな》れて山路《やまぢ》にかゝると、これからが初《はじ》まりと言《い》つた調子《てうし》で張飛巡査《ちやうひじゆんさ》は何處《どこ》からか煙管《きせる》と煙草入《たばこいれ》を出《だ》したがマツチがない。關羽《くわんう》も持《もつ》て居《ゐ》ない。これを見《み》た義母《おつかさん》は徐《おもむろ》に袖《たもと》から取出《とりだ》して
『どうかお使《つか》ひ下《くだ》さいまし。』
と丁寧《ていねい》に言《い》つた。
『これは/\。如何《どう》もマツチを忘《わす》れたといふやつは始末《しまつ》にいかんもので。』
と巡査《じゆんさ》は一《いつ》ぷく點火《つけ》てマツチを義母《おつかさん》に返《かへ》すと義母《おつかさん》は生眞面目《きまじめ》な顏《かほ》をして、それを受《うけ》取つて自身《じしん》も煙草《たばこ》を喫《す》いはじめた。別《べつ》に海洋《かいやう》の絶景《ぜつけい》を眺《なが》めやうともせられない。
 どんより曇《くも》つて折《を》り/\小雨《こさめ》さへ降《ふ》る天氣《てんき》ではあるが、風《かぜ》が全《まつた》く無《な》いので、相摸灣《さがみわん》の波|靜《しづか》に太平洋《たいへいやう》の煙波《えんぱ》夢《ゆめ》のやうである。噴煙《ふんえん》こそ見《み》えないが大島《おほしま》の影《かげ》も朦朧《もうろう》と浮《う》かんで居《ゐ》る。
『義母《おつかさん》どうです、佳《い》い景色《けしき》ですね。』
『さうねえ。』
『向《むか》うに微《かすか》に見《み》えるのが大島《おほしま》ですよ。』
『さう?』
 此時《このとき》二人《ふたり》の巡査《じゆんさ》は新聞《しんぶん》を讀《よ》んで居《ゐ》た。關羽巡査《くわんうじゆんさ》は眼鏡《めがね》をかけて、人車《じんしや》は上《のぼり》だからゴロゴロと徐行《じよかう》して居《ゐ》た。

        

 景色《けしき》は大《おほき》いが變化《へんくわ》に乏《とぼ》しいから初《はじ》めての人《ひと》なら兔《と》も角《かく》、自分《じぶん》は既《すで》に幾度《いくたび》か此海《このうみ》と此《この》棧道《さんだう》に慣《な》れて居《ゐ》るから強《しひ》て眺《なが》めたくもない。義母《おつかさん》が定《さだ》めし珍《めづら》しがるだらうと思《おも》つて居《ゐ》たのが、例《れい》の如《ごと》く簡單《かんたん》な御挨拶《ごあいさつ》だけだから張合《はりあひ》が拔《ぬ》けて了《しま》つた。新聞《しんぶん》は今朝《けさ》出《で》る前《まへ》に讀《よ》み盡《つく》して了《しま》つたし、本《ほん》を讀《よ》む元氣《げんき》もなし、眠《ねむ》くもなし、喋舌《しやべ》る對手《あひて》もなし、あくびも出《で》ないし、さて斯《か》うなると空々然《くう/\ぜん》、漠々然《ばく/\ぜん》何時《いつし》か義母《おつかさん》の氣《き》が自分《じぶん》に乘《の》り移《うつ》つて血《ち》の流動《ながれ》が次第々々《しだい/\》にのろく[#「のろく」に傍点]なつて行《ゆ》くやうな氣《き》がした。
 江《え》の浦《うら》へ一|時半《じはん》の間《あひだ》は上《のぼり》であるが多少《たせう》の高低《かうてい》はある。下《くだ》りもある。喇叭《らつぱ》も吹《ふ》く、斯《か》くて棧道《さんだう》にかゝつてから第《だい》一の停留所《ていりうじよ》に着《つ》いた所《ところ》の名《な》は忘《わす》れたが此處《こゝ》で熱海《あたみ》から來《く》る人車《じんしや》と入《い》りちがへるのである。
 巡査《じゆんさ》は此處《こゝ》で初《はじめ》て新聞《しんぶん》を手離《てばな》した。自分《じぶん》はホツと呼吸《いき》をして我《われ》に返《かへ》つた。義母《おつかさん》はウンともスンとも言《い》はれない。別《べつ》に我《われ》に返《かへ》る必要《ひつえう》もなく又《ま》た返《かへ》るべき我《われ》も持《もつ》て居《ゐ》られない
『此處《こゝ》で又《また》暫時《しばら》く待《ま》たされるのか。』
と眞鶴《まなづる》の巡査《じゆんさ》、則《すなは》ち張飛巡査《ちやうひじゆんさ》が言《い》つたので
『いつも此處《こゝ》で待《ま》たされるのですか。』
と自分《じぶん》は思《おも》はず問《と》ふた。
『さうとも限《かぎ》りませんが熱海《あたみ》が遲《おそ》くなると五|分《ふん》や十|分《ぷん》此處《こゝ》で待《ま》たされるのです。』
 壯丁《さうてい》は車《くるま》を離《はな》れて水《みづ》を呑《の》むもあり、皆《みな》掛茶屋《かけぢやゝ》の縁《えん》に集《あつま》つて休《やす》んで居《ゐ》た。此處《こゝ》は谷間《たにま》に據《よ》る一|小村《せうそん》で急斜面《きふしやめん》は茅屋《くさや》が段《だん》を作《つく》つて叢《むらが》つて居《ゐ》るらしい、車《くるま》を出《で》て見《み》ないから能《よ》くは解《わか》らないが漁村《ぎよそん》の小《せう》なる者《もの》、蜜柑《みかん》が山《やま》の産物《さんぶつ》らしい。人車《じんしや》の軌道《きだう》は村《むら》の上端《じやうたん》を横《よこぎ》つて居《ゐ》る。
 雨《あめ》がポツ/\降《ふ》つて居《ゐ》る。自分《じぶん》は山《やま》の手《て》の方《はう》をのみ見《み》て居《ゐ》た。初《はじ》めは何心《なにごころ》なく見《み》るともなしに見《み》て居《ゐ》る内《うち》に、次第《しだい》に今《いま》見《み》て居《ゐ》る前面《ぜんめん》の光景《くわうけい》は一|幅《ぷく》の俳畫《はいぐわ》となつて現《あら》はれて來《き》た。

        

 軌道《レール》と直角《ちよくかく》に細長《ほそなが》い茅葺《くさぶき》の農家《のうか》が一|軒《けん》ある其《そ》の裏《うら》は直《す》ぐ山《やま》の畑《はたけ》に續《つゞ》いて居《ゐ》るらしい。家《いへ》の前《まへ》は廣庭《ひろには》で麥《むぎ》などを乾《ほ》す所《ところ》だらう、廣庭《ひろには》の突《つ》きあたりに物置《ものおき》らしい屋根《やね》の低《ひく》い茅屋《くさや》がある。母屋《おもや》の入口《いりくち》はレールに近《ちか》い方《はう》にあつて人車《じんしや》から見《み》ると土間《どま》が半分《はんぶん》ほどはすかひ[#「はすかひ」に傍点]に見《み》える。
 入口《いりくち》の外《そと》の軒下《のきした》に橢圓形《だゑんけい》の据風呂《すゑぶろ》があつて十二三の少年《せうねん》が入《はひつ》て居《ゐ》るのが最初《さいしよ》自分《じぶん》の注意《ちゆうい》を惹《ひ》いた。此《この》少年《せうねん》は其《そ》の日《ひ》に燒《や》けた脊中《せなか》ばかり此方《こちら》に向《む》けて居《ゐ》て決《けつ》して人車《じんしや》の方《はう》を見《み》ない。立《た》つたり、しやがん[#「しやがん」に傍点]だりして居《ゐ》るばかりで、手拭《てぬぐひ》も持《もつ》て居《ゐ》ないらし[#「い脱カ」の注記]、又《ま》た何時《いつ》出《で》る風《ふう》も見《み》えず、三|時間《じかん》でも五|時間《じかん》でも一日でも、あアやつて居《ゐ》るのだらうと自分《じぶん》には思《おも》はれた。廣庭《ひろには》に向《むい》た釜《かま》の口《くち》から青《あを》い煙《けむ》が細々《ほそ/″\》と立騰《たちのぼ》つて軒先《のきさき》を掠《かす》め、ボツ/\雨《あめ》が其中《そのなか》を透《すか》して落《お》ちて居《ゐ》る。半分《はんぶん》見《み》える土間《どま》では二十四五の女《をんな》が手拭《てぬぐひ》を姉樣《ねえさま》かぶりにして上《あが》りがまち[#「がまち」に傍点]に大盥《おほだらひ》程《ほど》の桶《をけ》を控《ひか》へ何物《なにもの》かを篩《ふるひ》にかけて專念《せんねん》一|意《い》の體《てい》、其桶《そのをけ》を前《まへ》に七ツ八ツの小女《こむすめ》が坐《すわ》りこんで見物《けんぶつ》して居《ゐ》るが、これは人形《にんぎやう》のやうに動《うご》かない、風呂《ふろ》の中《なか》の少年《せうねん》も同《おな》じくこれを見物《けんぶつ》して居《ゐ》るのだといふことが自分《じぶん》にやつと解《わか》つた。
 入口《いりくち》の彼方《あちら》は長《なが》い縁側《えんがは》で三|人《にん》も小女《こむすめ》が坐《すわ》つて居《ゐ》て其《その》一人《ひとり》は此方《こちら》を向《む》き今《いま》しも十七八の姉樣《ねえさん》に髮《かみ》を結《ゆ》つて貰《もら》ふ最中《さいちゆう》。前髮《まへがみ》を切《き》り下《さげ》て可愛《かはゆ》く之《これ》も人形《じんぎやう》のやうに順《おとな》しくして居《ゐ》る廣庭《ひろには》では六十|以上《いじやう》の而《しか》も何《いづ》れも達者《たつしや》らしい婆《ばあ》さんが三|人立《にんたつ》て居《ゐ》て其《その》一人《ひとり》の赤兒《あかんぼ》を脊負《おぶつ》て腰《こし》を曲《ま》げ居《を》るのが何事《なにごと》か婆《ばあ》さん聲《ごゑ》を張上《はりあ》げて喋白《しやべ》つて居《ゐ》ると、他《た》の二人《ふたり》の婆樣《ばあさん》は合槌《あひづち》を打《う》つて居《ゐ》る。けれども三|人《にん》とも手《て》も足《あし》も動《うご》かさない。そして五六|人《にん》の同《おな》じ年頃《としごろ》の小供《こども》がやはり身動《みうご》きもしないで婆《ばあ》さん達《たち》の周圍《まはり》を取《と》り卷《ま》いて居《ゐ》るのである。
 眞黒《まつくろ》な艷《つや》の佳《い》い洋犬《かめ》が一|匹《ぴき》、腮《あご》を地《ぢ》に着《つ》けて臥《ねそ》べつて、耳《みゝ》を埀《た》れたまゝ是《こ》れ亦《また》尾《を》をすら動《うご》かさず、廣庭《ひろには》の仲間《なかま》に加《くは》はつて居《ゐ》た。そして母屋《おもや》の入口《いりくち》の軒陰《のきかげ》から燕《つばめ》が出《で》たり入《はひ》つたりして居《ゐ》る。
 初《はじ》めは俳畫《はいぐわ》のやうだと思《おも》つて見《み》て居《ゐ》たが、これ實《じつ》に畫《ゑ》でも何《なん》でもない。細雨《さいう》に暮《く》れなんとする山間村落《さんかんそんらく》の生活《せいくわつ》の最《もつと》も靜《しづ》かなる部分《ぶゝん》である。谷《たに》の奧《おく》には墓場《はかば》もあるだらう、人生《じんせい》悠久《いうきう》の流《ながれ》が此處《こゝ》でも泡立《あわだた》ぬまでの渦《うづ》を卷《ま》ゐて居《ゐ》るのである。

        

 隨分《ずゐぶん》長《なが》く待《ま》たされたと思《おも》つたが實際《じつさい》は十|分《ぷん》ぐらゐで熱海《あたみ》からの人車《じんしや》が威勢《ゐせい》能く喇叭《らつぱ》を吹《ふ》きたてゝ下《くだ》つて來《き》たので直《す》ぐ入《い》れちがつて我々《われ/\》は出立《しゆつたつ》した。
 雨《あめ》が次第《しだい》に強《つよ》くなつたので外面《そと》の模樣《もやう》は陰鬱《いんうつ》になるばかり、車内《うち》は退屈《たいくつ》を増《ま》すばかり眞鶴《まなづる》の巡査《じゆんさ》がとう/\
『何方《どちら》へ行《いらつ》しやいます。』と口《くち》を切《きつ》た。
『湯《ゆ》ヶ|原《はら》へ行《ゆか》ふと思《おも》つて居《ゐ》ます。』と自分《じぶん》がこれに應《おう》じた。思《おも》つて居《ゐ》るどころか、今現《いまげん》に行《ゆ》きつゝあるのだ。けれど斯《か》ふ言ふのが温泉場《をんせんば》へ行《ゆ》く人《ひと》、海水浴場《かいすゐよくぢやう》へ行《ゆ》く人《ひと》乃至《ないし》名所見物《めいしよけんぶつ》にでも出掛《でかけ》る人《ひと》の洒落《しやれ》た口調《くてう》であるキザな言葉《ことば》たるを失《うしな》はない。
『湯《ゆ》ヶ|原《はら》は可《い》い所《とこ》です、初《はじ》めてゞすか。』
『一二|度《ど》行《い》つた事《こと》があります。』
『宿《やど》は何方《どちら》です。』
『中西屋《なかにしや》です。』
『中西屋《なかにしや》は結構《けつかう》です、近來《きんらい》益※[#二の字点、1-2-22]《ます/\》可《い》いやうです。さうだね君《きみ》。』と兔角《とかく》言葉《ことば》の少《すく》ない鈴木巡査《すゞきじゆんさ》に贊成《さんせい》を求《もと》めた。
『さうです。實際《じつさい》彼《あ》の家《うち》が今《いま》一|番《ばん》繁盛《はんじやう》するでしよう。』と關羽《くわんう》の鈴木巡査《すゞきじゆんさ》が答《こた》へた。
 先《ま》づこんな有《あ》りふれた問答《もんだふ》から、だん/\談話《はなし》に花《はな》がさいて東京博覽會《とうきようはくらんくわい》の噂《うはさ》、眞鶴近海《まなづるきんかい》の魚漁談《ぎよれふだん》等《とう》で退屈《たいくつ》を免《まぬか》れ、やつと江《え》の浦《うら》に達《たつ》した。
『サアこれから下《くだ》りだ。』と齋藤巡査《さいとうじゆんさ》が威勢《ゐせい》をつけた。
『義母《おつかさん》これから下《くだ》りですよ。』
『さう。』
『隨分《ずゐぶん》亂暴《らんばう》だから用心《ようじん》せんと頭《あたま》を打觸《ぶつけ》ますよ。』
『さうですか。』

 齋藤巡査《さいとうじゆんさ》が眞鶴《まなづる》で下車《げしや》したので自分《じぶん》は談敵《だんてき》を失《うしな》つたけれど、湯《ゆ》ヶ|原《はら》の入口《いりくち》なる門川《もんかは》までは、退屈《たいくつ》する程《ほど》の隔離《かくり》でもないので困《こま》らなかつた。
 日《ひ》は暮《く》れかゝつて雨《あめ》は益※[#二の字点、1-2-22]《ます/\》強《つよ》くなつた。山々《やま/\》は悉《こと/″\》く雲《くも》に埋《うも》れて僅《わづ》かに其麓《そのふもと》を現《あらは》すばかり。我々《われ/\》が門川《もんかは》で下《お》りて、更《さら》に人力車《くるま》に乘《の》りかへ、湯《ゆ》ヶ|原《はら》の溪谷《けいこく》に向《むか》つた時《とき》は、さながら雲《くも》深《ふか》く分《わ》け入《い》る思《おもひ》があつた。

底本:「定本 国木田独歩全集 第四巻」学習研究社
   1971(昭和46)年2月10日初版発行
   1978(昭和53)年3月1日増訂版発行
   1995(平成7)年7月3日増補版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:mayu
2001年11月7日公開
2004年7月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

都の友へ、B生より—国木田独歩

 (前略)
 久《ひさ》しぶりで孤獨《こどく》の生活《せいくわつ》を行《や》つて居《ゐ》る、これも病氣《びやうき》のお蔭《かげ》かも知《し》れない。色々《いろ/\》なことを考《かんが》へて久《ひさ》しぶりで自己《じこ》の存在《そんざい》を自覺《じかく》したやうな氣《き》がする。これは全《まつた》く孤獨《こどく》のお蔭《かげ》だらうと思《おも》ふ。此《この》温泉《をんせん》が果《はた》して物質的《ぶつしつてき》に僕《ぼく》の健康《けんかう》に效能《かうのう》があるか無《な》いか、そんな事《こと》は解《わか》らないが何《なに》しろ温泉《をんせん》は惡《わる》くない。少《すくな》くとも此處《こゝ》の、此家《このや》の温泉《をんせん》は惡《わる》くない。
 森閑《しんかん》とした浴室《ゆどの》、長方形《ちやうはうけい》の浴槽《ゆぶね》、透明《すきとほ》つて玉《たま》のやうな温泉《いでゆ》、これを午後《ごゝ》二|時頃《じごろ》獨占《どくせん》して居《を》ると、くだらない實感《じつかん》からも、夢《ゆめ》のやうな妄想《まうざう》からも脱却《だつきやく》して了《しま》ふ。浴槽《ゆぶね》の一|端《たん》へ後腦《こうなう》を乘《のせ》て一|端《たん》へ爪先《つまさき》を掛《かけ》て、ふわりと身《み》を浮《うか》べて眼《め》を閉《つぶ》る。時《とき》に薄目《うすめ》を開《あけ》て天井際《てんじやうぎは》の光線窓《あかりまど》を見《み》る。碧《みどり》に煌《きら》めく桐《きり》の葉《は》の半分《はんぶん》と、蒼々《さう/\》無際限《むさいげん》の大空《おほぞら》が見《み》える。老人《らうじん》なら南無阿彌陀佛《なむあみだぶつ》/\と口《くち》の中《うち》で唱《とな》へる所《ところ》だ。老人《らうじん》でなくとも此《この》心持《こゝろもち》は同《おな》じである。
 居室《へや》に歸《かへ》つて見《み》ると、ちやんと整頓《かたづい》て居《ゐ》る。出《で》る時《とき》は書物《しよもつ》やら反古《ほご》やら亂雜《らんざつ》極《きは》まつて居《ゐ》たのが、物《もの》各々《おの/\》所《ところ》を得《え》て靜《しづ》かに僕《ぼく》を待《まつ》て居《ゐ》る。ごろりと轉《ころ》げて大《だい》の字《じ》なり、坐團布《ざぶとん》を引寄《ひきよ》せて二《ふた》つに折《をつ》て枕《まくら》にして又《また》も手當次第《てあたりしだい》の書《ほん》を讀《よ》み初《はじ》める。陶淵明《たうえんめい》の所謂《いはゆ》る「不[#レ]求[#二]甚解[#一]」位《くらゐ》は未《ま》だ可《よ》いが時《とき》に一ページ讀《よ》むに一|時間《じかん》もかゝる事《こと》がある。何故《なぜ》なら全然《まる》で他《ほか》の事《こと》を考《かんが》へて居《ゐ》るからである。昨日《きのふ》も君《きみ》の送《おく》つて呉《く》れたチエホフの短篇集《たんぺんしふ》を讀《よ》んで居《ゐ》ると、ツイ何時《いつ》の間《ま》にか「ボズ」さんの事《こと》を考《かんが》へ出《だ》した。
 ボズさんの本名《ほんみやう》は權十《ごんじふ》とか五|郎兵衞《ろべゑ》とかいふのだらうけれど、此《この》土地《とち》の者《もの》は唯《た》だボズさんと呼《よ》び、本人《ほんにん》も平氣《へいき》で返事《へんじ》をして居《ゐ》た。
 此《この》以前《いぜん》僕《ぼく》が此處《こゝ》へ來《き》た時《とき》の事《こと》である、或日《あるひ》の午後《ひるすぎ》僕《ぼく》は溪流《たにがは》の下流《しも》で香魚釣《あゆつり》を行《や》つて居《ゐ》たと思《おも》ひ玉《たま》へ。其《その》場所《ばしよ》が全《まつ》たく僕《ぼく》の氣《き》に入《い》つたのである、後背《うしろ》の崕《がけ》からは雜木《ざふき》が枝《えだ》を重《かさ》ね葉《は》を重《かさ》ねて被《おほ》ひかゝり、前《まへ》は可《かな》り廣《ひろ》い澱《よどみ》が靜《しづか》に渦《うづ》を卷《まい》て流《なが》れて居《ゐ》る。足場《あしば》はわざ/\作《つく》つた樣《やう》に思《おも》はれる程《ほど》、具合《ぐあひ》が可《い》い。此處《こゝ》を發見《みつけ》た時《とき》、僕《ぼく》は思《おも》つた此處《こゝ》で釣《つ》るなら釣《つ》れないでも半日位《はんにちぐらゐ》は辛棒《しんぼう》が出來《でき》ると思《おも》つた。處《ところ》が僕《ぼく》が釣初《つりはじ》めると間《ま》もなく後背《うしろ》から『釣《つ》れますか』と唐突《だしぬけ》に聲《こゑ》を掛《か》けた者《もの》がある。
 振《ふ》り向《む》くと、それがボズさんと後《のち》に知《し》つた老爺《ぢいさん》であつた。七十|近《ちか》い、背《せ》は低《ひく》いが骨太《ほねぶと》の老人《らうじん》で矢張《やはり》釣竿《つりざを》を持《もつ》て居《ゐ》る。
『今初《いまはじ》めた計《ばか》りです。』と言《い》ふ中《うち》、浮木《うき》がグイと沈《しづ》んだから合《あは》すと、餌釣《ゑづり》としては、中々《なか/\》大《おほき》いのが上《あが》つた。
『此處《こゝ》は可《か》なり釣《つ》れます。』と老爺《ぢいさん》は僕《ぼく》の直《す》ぐ傍《そば》に腰《こし》を下《おろ》して煙草《たばこ》を喫《す》ひだした。けれど一人《ひとり》が竿《さを》を出《だ》し得《う》る丈《だけ》の場處《ばしよ》だからボズさんは唯《たゞ》見物《けんぶつ》をして居《ゐ》た。
 間《ま》もなく又《また》一尾《いつぴき》上《あ》げるとボズさん、
『旦那《だんな》はお上手《じやうず》だ。』
『だめ[#「だめ」に傍点]だよ。』
『イヤさうでない。』
『これでも上手《じやうず》の中《うち》かね。』
『此《この》温泉《をんせん》に來《く》るお客《きやく》さんの中《うち》じア旦那《だんな》が一|等《とう》だ。』と大《おほ》げさ[#「げさ」に傍点]に贊《ほ》めそやす。
『何《なに》しろ道具《だうぐ》が可《い》い。』と言《い》はれたので僕《ぼく》は思《おも》はず噴飯《ふき》だし、
『それじア道具《だうぐ》が釣《つ》るのだ、ハ、ハ、……』
 ボズさん少《すこ》しく狼狽《まごつ》いて、
『イヤ其《それ》は誰《だれ》だつて道具《だうぐ》に由《よ》ります。如何《いく》ら上手《じやうず》でも道具《だうぐ》が惡《わる》いと十|尾《ぴき》釣《つ》れるところは五|尾《ひき》も釣《つ》れません。』
 それから二人《ふたり》種々《いろ/\》の談話《はなし》をして居《を》る中《うち》に懇意《こんい》になり、ボズさんが遠慮《ゑんりよ》なく言《い》ふ處《ところ》によると僕《ぼく》の發見《みつけ》た場所《ばしよ》はボズさんのあじろ[#「あじろ」に傍点]の一《ひとつ》で、足場《あしば》はボズさんが作《つく》つた事《こと》、東京《とうきやう》の客《きやく》が連《つ》れて行《ゆ》けといふから一緒《いつしよ》に出《で》ると下手《へた》の癖《くせ》に釣《つ》れないと怒《おこ》つて直《す》ぐ止《よ》す事《こと》、釣《つ》れないと言《い》つて怒《おこ》る奴《やつ》が一|番《ばん》馬鹿《ばか》だといふ事《こと》、温泉《をんせん》に來《く》る東京《とうきやう》の客《きやく》には斯《か》ういふ馬鹿《ばか》が多《おほ》い事《こと》、魚《うを》でも生命《いのち》は惜《をし》いといふ事《こと》等《とう》であつた。
 其日《そのひ》はそれで別《わか》れ、其後《そのご》は互《たがひ》に誘《さそ》ひ合《あ》つて釣《つり》に出掛《でかけ》て居《ゐ》たが、ボズさんの家《うち》は一|室《ま》しかない古《ふる》い茅屋《わらや》で其處《そこ》へ獨《ひとり》でわびしげ[#「わびしげ」に傍点]に住《す》んで居《ゐ》たのである。何《なん》でも無遠慮《ぶゑんりよ》に話《はな》す老人《らうじん》が身《み》の上《うへ》の事《こと》は成《な》る可《べ》く避《さ》けて言《い》はないやうにして居《ゐ》た。けれど遠《とほ》まはしに聞《き》き出《だ》した處《ところ》によると、田之浦《たのうら》の者《もの》で倅夫婦《せがれふうふ》は百姓《ひやくしやう》をして可《か》なりの生活《くらし》をして居《ゐ》るが、其《その》夫婦《ふうふ》のしうち[#「しうち」に傍点]が氣《き》に喰《くは》ぬと言《い》つて十|何年《なんねん》も前《まへ》から一人《ひとり》で此處《こゝ》に住《す》んで居《ゐ》るらしい、そして倅《せがれ》から食《く》ふだけの仕送《しおく》りを爲《し》て貰《もら》つてる樣子《やうす》である。成程《なるほど》さう言《い》へば何處《どこ》か固拗《かたくな》のところもあるが、僕《ぼく》の思《おも》ふには最初《さいしよ》は頑固《ぐわんこ》で行《や》つたのながら後《のち》には却《かへ》つて孤獨《こどく》のわび住《ずま》ひが氣樂《きらく》になつて來《き》たのではあるまいか。世《よ》を遁《の》がれた人《ひと》の趣《おもむき》があるのは其《その》理由《わけ》であらう。
 其處《そこ》で僕《ぼく》は昨日《きのふ》チエホフ[#「チエホフ」に傍線]の『ブラツクモンク』を讀《よみ》さして思《おも》はずボズさんの事《こと》を考《かんが》へ出《だ》し、其《その》以前《いぜん》二人《ふたり》が溪流《たにがは》の奧深《おくふか》く泝《さかのぼ》つて「やまめ」を釣《つ》つた事《こと》など、それからそれへと考《かんが》へると堪《たま》らなくなつて來《き》た。實《じつ》は今度《こんど》來《き》て見《み》ると、ボズさんが居《ゐ》ない。昨年《きよねん》田之浦《たのうら》の本家《うち》へ歸《かへ》つて亡《なく》なつたとの事《こと》である。
 事實《じゝつ》、此世《このよ》に亡《な》い人《ひと》かも知《し》れないが、僕《ぼく》の眼《め》にはあり/\と見《み》える、菅笠《すげがさ》を冠《かぶ》つた老爺《らうや》のボズさんが細雨《さいう》の中《うち》に立《たつ》て居《ゐ》る。
『病氣《びやうき》に良《よ》くない、』『雨《あめ》が降《ふ》りさうですから』など宿《やど》の者《もの》がとめるのも聞《き》かず、僕《ぼく》は竿《さを》を持《もつ》て出掛《でか》けた。人家《じんか》を離《はな》れて四五|丁《ちやう》も泝《さかのぼ》ると既《すで》に路《みち》もなければ畑《はたけ》もない。たゞ左右《さいう》の斷崕《だんがい》と其間《そのあひだ》を迂回《うね》り流《なが》るゝ溪水《たにがは》ばかりである。瀬《せ》を辿《たど》つて奧《おく》へ奧《おく》へと泝《のぼ》るに連《つ》れて、此處彼處《こゝかしこ》、舊遊《きういう》の澱《よどみ》の小蔭《こかげ》にはボズさんの菅笠《すげがさ》が見《み》えるやうである。嘗《かつ》てボズさんと辨當《べんたう》を食《た》べた事《こと》のある、平《ひらた》い岩《いは》まで來《く》ると、流石《さすが》に僕《ぼく》も疲《つか》れて了《しま》つた。元《もと》より釣《つ》る氣《き》は少《すこ》しもない。岩《いは》の上《うへ》へ立《たつ》てジツ[#「ジツ」に傍点]として居《ゐ》ると寂《さび》しいこと、靜《しづ》かなこと、深谷《しんこく》の氣《き》が身《み》に迫《せま》つて來《く》る。
 暫時《しばら》くすると箱根《はこね》へ越《こ》す峻嶺《しゆんれい》から雨《あめ》を吹《ふ》き下《おろ》して來《き》た、霧《きり》のやうな雨《あめ》が斜《なゝめ》に僕《ぼく》を掠《かす》めて飛《と》ぶ。直《す》ぐ頭《あたま》の上《うへ》の草山《くさやま》を灰色《はひいろ》の雲《くも》が切《き》れ/″\になつて駈《はし》る。
『ボズさん!』と僕《ぼく》は思《おも》はず涙聲《なみだごゑ》で呼《よ》んだ。君《きみ》、狂氣《きちがひ》の眞似《まね》をすると言《い》ひ玉《たま》ふか。僕《ぼく》は實《じつ》に滿眼《まんがん》の涙《なんだ》を落《お》つるに任《ま》かした。(畧)

底本:「定本 国木田独歩全集 第四巻」学習研究社
   1966(昭和41)年2月10日初版発行
   1978(昭和53)年3月1日増訂版発行
   1995(平成7)年7月3日増補版発行
入力:鈴木厚司
校正:mayu
2001年11月7日公開
2004年2月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

竹の木戸——国木田独歩

        上

 大庭《おおば》真蔵という会社員は東京郊外に住んで京橋区辺の事務所に通っていたが、電車の停留所まで半里《はんみち》以上もあるのを、毎朝欠かさずテクテク歩いて運動にはちょうど可《い》いと言っていた。温厚《おとな》しい性質だから会社でも受が可《よ》かった。
 家族は六十七八になる極く丈夫な老母、二十九になる細君、細君の妹のお清《きよ》、七歳《ななつ》になる娘の礼ちゃんこれに五六年前から居るお徳という女中、以上五人に主人《あるじ》の真蔵を加えて都合六人であった。
 細君は病身であるから余り家事に関係しない。台所元の事は重《おも》にお清とお徳が行《や》っていて、それを小まめな老母が手伝ていたのである。別《わ》けても女中のお徳は年こそ未《ま》だ二十三であるが私はお宅《うち》に一生奉公をしますという意気込で権力が仲々強い、老母すら時々この女中の言うことを聞かなければならぬ事もあった。我儘《わがまま》過るとお清から苦情の出る場合もあったが、何しろお徳はお家大事と一生懸命なのだから結極《つまり》はお徳の勝利《かち》に帰するのであった。
 生垣《いけがき》一つ隔てて物置同然の小屋があった。それに植木屋夫婦が暮している。亭主が二十七八で、女房はお徳と同年輩位、そしてこの隣交際《となりづきあい》の女性《にょしょう》二人は互に負けず劣らず喋舌《しゃべ》り合っていた。
 初め植木屋夫婦が引越して来た時、井戸がないので何卒《どう》か水を汲ましてくれと大庭家に依頼《たの》みに来た。大庭の家ではそれは道理《もっとも》なことだと承諾《ゆる》してやった。それからかれこれ二月ばかり経《た》つと、今度は生垣《いけがき》を三尺ばかり開放《あけ》さしてくれろ、そうすれば一々御門へ迂廻《まわ》らんでも済むからと頼みに来た。これには大庭家でも大分苦情があった、殊《こと》にお徳は盗棒《どろぼう》の入口を造《こしら》えるようなものだと主張した。が、しかし主人《あるじ》真蔵の平常《かねて》の優しい心から遂にこれを許すことになった。其方《そちら》で木戸を丈夫に造り、開閉《あけたて》を厳重にするという条件であったが、植木屋は其処《そこ》らの籔《やぶ》から青竹を切って来て、これに杉の葉など交ぜ加えて無細工《ぶさいく》の木戸を造くって了った。出来上ったのを見てお徳は
「これが木戸だろうか、掛金《かけがね》は何処《どこ》に在《あ》るの。こんな木戸なんか有るも無いも同じことだ」と大声で言った。植木屋の女房のお源は、これを聞きつけ
「それで沢山だ、どうせ私共の力で大工さんの作るような立派な木戸が出来るものか」
 と井戸辺《いどばた》で釜《かま》の底を洗いながら言った。
「それじゃア大工さんを頼めば可い」とお徳はお源の言葉が癪《しゃく》に触《さわ》り、植木屋の貧乏なことを知りながら言った。
「頼まれる位なら頼むサ」とお源は軽く言った。
「頼むと来るよ」とお徳は猶一《もひと》つ皮肉を言った。
 お源は負けぬ気性だから、これにはむっと[#「むっと」に傍点]したが、大庭家に於《お》けるお徳の勢力を知っているから、逆《さか》らっては損と虫を圧《おさ》えて
「まアそれで勘弁しておくれよ。出入《ではい》りするものは重に私《あたし》ばかりだから私さえ開閉《あけたて》に気を附けりゃア大丈夫だよ。どうせ本式の盗棒なら垣根だって御門だって越すから木戸なんか何にもなりゃア仕ないからね」
 と半分折れて出たのでお徳
「そう言えばそうさ。だからお前さんさえ開閉《あけたて》を厳重に仕ておくれなら先《ま》ア安心だが、お前さんも知ってるだろう此里《ここ》はコソコソ泥棒や屑屋《くずや》の悪い奴《やつ》が漂行《うろうろ》するから油断も間際《すき》もなりや仕ない。そら近頃《このごろ》出来たパン屋の隣に河井|様《さん》て軍人さんがあるだろう。彼家《あそこ》じゃア二三日前に買立の銅《あか》の大きな金盥《かなだらい》をちょろりと盗《や》られたそうだからねえ」
「まアどうして」とお源は水を汲む手を一寸《ちょっ》と休めて振り向いた。
「井戸辺《いどばた》に出ていたのを、女中が屋後《うら》に干物に往《い》ったぽっちり[#「ぽっちり」に傍点]の間《ま》に盗《や》られたのだとサ。矢張《やっぱり》木戸が少しばかし開《あ》いていたのだとサ」
「まア、真実《ほんと》に油断がならないね。大丈夫私は気を附けるが、お徳さんも盗《や》られそうなものは少時《ちょっと》でも戸外《そと》に放棄《うっちゃ》って置かんようになさいよ」
「私《あたし》はまアそんなことは仕ない積りだが、それでも、ツイ忘れることが有るからね、お前さんも屑屋なんかに気を附けておくれよ。木戸から入るにゃ是非お前さん宅《うち》の前を通るのだからね」
「ええ気を附けるともね。盗《と》られる日にゃ薪《まき》一本だって炭|一片《ひときれ》だって馬鹿々々しいからね」
「そうだとも。炭一片とお言いだけれど、どうだろうこの頃の炭の高価《たか》いことは。一俵八十五銭の佐倉《さくら》があれだよ」とお徳は井戸から台所口へ続く軒下に並べてある炭俵の一《ひとつ》を指して、「幾干《いくら》入《はいっ》てるものかね。ほんとに一片何銭に当《つ》くだろう。まるでお銭《かね》を涼炉《しちりん》で燃しているようなものサ。土竈《どがま》だって堅炭《かたずみ》だって悉《みん》な去年の倍と言っても可い位だからね」とお徳は嘆息《ためいき》まじりに「真実《ほんと》にやりきれや仕ない」
「それに御宅は御人数《ごにんず》も多いんだから入用《いる》ことも入用サね。私《あたし》のとこなんか二人きりだから幾干《いくら》も入用《いりゃ》ア仕ない。それでも三銭五銭と計量炭《はかりずみ》を毎日のように買うんだからね、全くやりきれや仕ない」
「全く骨だね」とお徳は優しく言った。
 以上炭の噂《うわさ》まで来ると二人は最初の木戸の事は最早《もう》口に出さないで何時《いつ》しか元のお徳お源に立還《たちかえ》りぺちゃくちゃ[#「ぺちゃくちゃ」に傍点]と仲善く喋舌《しゃべ》り合っていたところは埒《らち》も無い。
 十一月の末だから日は短い盛《さかり》で、主人真蔵が会社から帰ったのは最早暮れがかりであった。木戸が出来たと聞いて洋服のまま下駄を突掛け勝手元の庭へ廻わり、暫時《しばらく》は木戸を見てただ微笑していたが、お徳が傍《そば》から
「旦那様《だんなさま》大変な木戸で、御座いましょう」と言ったので
「これは植木屋さんが作《こし》らえたのか」
「そうで御座います」
「随分妙な木戸だが、しかし植木屋さんにしちゃア良く出来てる」と手を掛けて揺振《ゆすぶ》ってみて
「案外丈夫そうだ。まアこれでも可《い》い、無いよりか増《まし》だろう。その内大工を頼んで本当に作らすことに仕よう」と言って「竹で作《こしら》えても木戸は木戸だ、ハ、ハハハハ」と笑いながら屋内《うち》へ入った。
 お源はこれを自分の宅《うち》で聞いていて、くすくすと独《ひとり》で笑いながら、「真実《ほんと》に能《よ》く物の解る旦那だよ。第一あんな心持の優い人ったらめったに[#「めったに」に傍点]有りや仕ない。彼家《あそこ》じゃ奥様《おくさん》も好い方《かた》だし御隠居様も小まめ[#「まめ」に傍点]にちょこまか[#「ちょこまか」に傍点]なさるが人柄《ひと》は極く好い方だし、お清|様《さん》は出戻りだけに何処《どこ》か執拗《ひねく》れてるが、然し気質《きだて》は優しい方だし」と思いつづけて来てハタとお徳の今日昼間の皮肉を回想《おもいだ》して「水の世話にさえならなきゃ如彼《あんな》奴に口なんか利《き》かしや仕ないんだけど、房州の田舎者奴《いなかものめ》が、可愛がって頂だきゃ可い気になりゃアがってどうだろうあの図々《ずうずう》しい案梅《あんばい》は」とお徳の先刻《さっき》の言葉を思い出し、「大変な木戸でしょうだって、あれで難癖を附ける積りが合憎《あいにく》と旦那がお取上に相成らんから可い気味だ。愚態《ざま》ア見やアがれだ」と又つと気を変えて「だけど感心と言えば感心だよ。容色《きりょう》も悪くはなし年だって私と同《おんな》じなら未だいくらだって嫁にいかれるのに、ああやって一生懸命に奉公しているんだからね。全く普通《なみ》の女《もの》にゃ真似《まね》が出来ないよ。それに恐しい正直者《しょうじきもん》だから大庭|様《さん》でも彼女《あれ》に任かして置きゃ間違《まちがえ》はないサ……」
 こんな事を思いながらお源は洋燈《ランプ》を点火《つけ》て、火鉢《ひばち》に炭を注ごうとして炭が一片《ひときれ》もないのに気が着き、舌鼓《したうち》をして古ぼけた薬鑵《やかん》に手を触《さわ》ってみたが湯は冷《さ》めていないので安心して「お湯の熱い中《うち》に早く帰って来れば可い。然し今日もしか前借して来てくれないと今夜も明日も火なしだ。火ぐらい木葉《こっぱ》を拾って来ても間に合うが、明日《あした》食うお米が有りや仕ない」と今度は舌鼓の代《かわり》に力のない嘆息《ためいき》を洩《もら》した。頭髪《かみ》を乱して、血《ち》の色《け》のない顔をして、薄暗い洋燈の陰にしょんぼり坐っているこの時のお源の姿は随分|憐《あわれ》な様であった。
 其所《そこ》へのっそり[#「のっそり」に傍点]帰って来たのが亭主の磯吉である。お源は単直《いきなり》前借の金のことを訊《き》いた。磯は黙って腹掛から財布を出してお源に渡した。お源は中を査《あらた》めて
「たった二円」
「ああ」
「二円ばかし仕方が無いじゃアないか。どうせ前借するんだもの五円も借りて来れば可いのに」
「だって貸さなきゃ仕方がない」
「それゃそうだけど能く頼めば親方だって五円位貸してくれそうなものだ。これを御覧」とお源は空虚《からっぽ》の炭籠《すみとり》を見せて「炭だってこれだろう。今夜お米を買ったら幾干《いくら》も残りや仕ない。……」
 磯は黙って煙草をふかしていたが、煙管《きせる》をポンと強く打《はた》いて、膳《ぜん》を引寄せ手盛《てもり》で飯を食い初めた。ただ白湯《さゆ》を打《ぶっ》かけてザクザク流し込むのだが、それが如何《いか》にも美味《うま》そうであった。
 お源は亭主のこの所為《しょさ》に気を呑《のま》れて黙って見ていたが山盛五六杯食って、未だ止《や》めそうもないので呆《あき》れもし、可笑《おかし》くもなり
「お前さんそんなにお腹《なか》が空《す》いたの」
 磯は更に一椀《いっぱい》盛《つ》けながら「俺《おれ》は今日|半食《おやつ》を食わないのだ」
「どうして」
「今日|彼時《あれ》から往《い》ったら親方が厭《いや》な顔をしてこの多忙《いそが》しい中を何で遅く来ると小言《こごと》を言ったから、実はこれこれだって木戸の一件を話すと、そんな事は手前《てめえ》の勝手だって言やアがる、糞忌々《くそいまいま》しいからそれからグングン仕事に掛って二時過ぎになるとお茶飯《やつ》が出たが、俺は見向《みむき》も仕ないんだ。お女中が来て今日はお美味《いし》い海苔巻《のりまき》だから早やく来て食べろと言ったが当頭《とうとう》俺は往かないで仕事を仕続けてやったのだ。そんなこんなで前借のこと親方に言い出すのは全く厭《いや》だったけど、言わないじゃおられんから帰りがけに五円貸してくれろと言うと、へん仕事は怠けて前借か、俺も手前《てめえ》の図々しいのには敵《かな》わんよ、そらこれで可《よ》かろうって二円出して与《よ》こしたのだ。仕方が無いじゃアないか」と磯は腹の空《す》いた訳と二円|外《ほか》前借が出来なかった理由《わけ》を一遍に話して了《しま》った。そして話し了《おわ》ったころ漸《やっ》と箸《はし》を置いた。
 全体磯吉は無口の男で又た口の利《き》きようも下手《へた》だがどうかすると啖火交《たんかまじ》りで今のように威勢の可い物の言い振《ぶり》をすることもある、お源にはこれが頗《すこぶ》る嬉《うれ》しかったのである。然しお源には連添《つれそっ》てから足掛三年にもなるが未だ磯吉は怠惰者《なまけもの》だか働人《はたらきにん》だか判断が着かんのである。東京女の気まぐれ者にはそれで済《すん》でゆくので、三日も四日も仕事を休む、どうかすると十日も休む、けれどサアとなれば人三倍も働くのが宅《うち》の磯|様《さん》だと心得ている、だからサアとなれば困りや仕ないと信じている。然し何処《どこ》まで行ったらその「サア」だかそんなことはお源も考えたことはない。又たお源は磯さんはイザとなれば随分人の出来ない思きった大胆なことをする男だと頼《たの》もしがっている。けれどそうばかし思えんこともある。その実案外|意久地《いくじ》のない男かしらと思う場合もあるが、それは一文なしになって困り抜《ぬい》た時などで、そう思うと情《なさけ》なくなるからなるべくそれは自分で打消していたのである。
 実際磯吉は所謂《いわゆ》る「解らん男」で、大庭の女連《おんなれん》は何となく薄気味《うすきび》悪く思っていた。だからお徳までが磯には憚《はばか》る風がある。これがお源には言うに言われない得意なので、お徳がこの風を見せた時、お清が磯に丁寧な言葉を使った時など嬉《うれし》さが込上げて来るのであった。
 それで結極のべつ貧乏の仕飽《しあき》をして、働き盛りでありながら世帯らしい世帯も持たず、何時《いつ》も物置か古倉の隅《すみこ》のような所ばかりに住んでいる、従ってお源も何時しか植木屋の女房連《かかあれん》から解らん女だ、つまり馬鹿だとせられていたのだ。
 磯吉の食事《めし》が済むとお源は笊《ざる》を持て駈出《かけだ》して出たが、やがて量炭《はかりずみ》を買て来て、火を起しながら今日お徳と木戸のことで言いあったこと、旦那が木戸を見て言った言葉などをべらべら喋舌《しゃべっ》て聞かしたが、磯は「そうか」とも言わなかった。
 そのうち磯が眠そうに大欠伸《おおあくび》をしたので、お源は垢染《あかじみ》た煎餅布団《せんべいぶとん》を一枚敷いて一枚|被《か》けて二人一緒に一個身体《ひとつからだ》のようになって首を縮めて寝て了った。壁の隙間《すきま》や床下から寒い夜風が吹きこむので二人は手足も縮められるだけ縮めているが、それでも磯の背部《せなか》は半分外に露出《はみだし》ていた。

        

 十二月に入《い》ると急に寒気が増して霜柱は立つ、氷は張る、東京の郊外は突然《だしぬけ》に冬の特色を発揮して、流行の郊外生活にかぶれ[#「かぶれ」に傍点]て初て郊外に住んだ連中《れんじゅう》を喫驚《びっくり》さした。然し大庭真蔵は慣れたもので、長靴を穿《は》いて厚い外套《がいとう》を着て平気で通勤していたが、最初の日曜日は空青々と晴れ、日が煌々《きらきら》と輝やいて、そよ吹く風もなく、小春日和《こはるびより》が又|立返《たちもど》ったようなので、真蔵とお清は留守居番、老母と細君は礼ちゃんとお徳を連て下町に買物に出掛けた。
 郊外から下町へ出るのは東京へ行くと称して出慣れぬ女連は外出《そとで》の仕度に一騒《ひとさわぎ》するのである。それで老母を初め細君娘、お徳までの着変《きかえ》やら何かに一しきり騒《さわが》しかったのが、出て去《い》った後《あと》は一時に森《しん》となって家内《やうち》は人気《ひとげ》が絶たようになった。
 真蔵は銘仙の褞袍《どてら》の上へ兵古帯《へこおび》を巻きつけたまま日射《ひあたり》の可い自分の書斎に寝転《ねころ》んで新聞を読んでいたがお午時《ひる》前になると退屈になり、書斎を出て縁辺《えんがわ》をぶらぶら歩いていると
「兄様《にいさま》」と障子越しにお清が声をかけた。
「何です」
「おホホホホ『何です』だって。お午食《ひる》は何にも有りませんよ」
「かしこ参りました」
「おホホホホ『かしこ参りました』だって真実《ほんと》に何にもないんですよ」
 其処《そこ》で真蔵はお清の居る部屋《へや》の障子を開けると、内《なか》ではお清がせっせ[#「せっせ」に傍点]と針仕事をしている。
「大変勉強だね」
「礼ちゃんの被布《ひふ》ですよ、良《い》い柄でしょう」
 真蔵はそれには応《こた》えず、其処辺《そこら》を見廻わしていたが、
「も少し日射《ひあたり》の好い部屋で縫《や》ったら可さそうなものだな。そして火鉢《ひばち》もないじゃないか」
「未だ手が凍結《かじけ》るほどでもありませんよ。それにこの節は御倹約ということに決定《きめ》たのですから」
「何の御倹約だろう」
「炭です」
「炭はなるほど高価《たかく》なったに違ないが宅《うち》で急にそれを節約するほどのことはなかろう」
 真蔵は衣食台所元のことなど一切《いっせつ》関係しないから何も知らないのである。
「どうして兄様《にいさん》、十一月でさえ一月の炭の代がお米の代よりか余程《よっぽど》上なんですもの。これから十二、一、二と先《ま》ず三月が炭の要《い》る盛《さかり》ですから倹約出来るだけ仕ないと大変ですよ。お徳が朝から晩まで炭が要る炭が高価《たか》いて泣言ばかり言うのも無理はありませんわ」
「だって炭を倹約して風邪《かぜ》でも引ちゃ何もなりや仕ない」
「まさかそんなことは有りませんわ」
「しかし今日は好い案排《あんばい》に暖かいね。母上《おっかさん》でも今日は大丈夫だろう」と両手を伸して大欠伸《おおあくび》をして
「何時かしらん」
「最早《もう》直ぐ十二時でしょうよ。お午食《ひる》にしましょうか」
「イヤ未だ腹が一向|空《す》かん。会社だと午食《ひる》の弁当が待遠いようだけどなア」と言いながら其処を出て勝手の座敷から女中部屋まで覗《のぞ》きこんだ。女中部屋など従来《これまで》入ったことも無かったのであるが、見ると高窓が二尺ばかり開け放しになってるので、何心なく其処から首をひょい[#「ひょい」に傍点]と出すと、直ぐ眼下に隣のお源が居て、お源が我知らず見上た顔とぴたり出会った。お源はサと顔を真赤にして狼狽《うろたえ》きった声を漸《やっ》と出して
「お宅ではこういう上等の炭をお使いなさるんですもの、堪《たま》りませんわね」と佐倉の切炭を手に持ていたが、それを手玉に取りだした。窓の下は炭俵が口を開けたまま並べてある場処で、お源が木戸から井戸辺《いどばた》にゆくには是非この傍《そば》を通るのである。
 真蔵も一寸《ちょっと》狼狽《まごつ》いて答に窮したが
「炭のことは私共に解らんで……」と莞爾《にっこり》微笑《わらっ》てそのまま首を引込めて了った。
 真蔵は直ぐ書斎に返ってお源の所為《しょさ》に就て考がえたが判断が容易に着《つか》ない。お源は炭を盗んでいるところであったとは先ず最初に来る判断だけれど、真蔵はそれをそのまま確信することが出来ないのである。実際ただ炭を見ていたのかも知れない、通りがかりだからツイ手に取って見ているところを不意に他人《ひと》から瞰下《みおろ》されて理由《わけ》もなく顔を赤らめたのかも知れない。まして自分が見たのだから狼狽《うろた》えたのかも知れない。と考えれば考えられんこともないのである。真蔵はなるべく後《のち》の方に判断したいので、遂にそう心で決定《きめ》てともかく何人《だれ》にもこの事は言わんことにした。
 しかし万一《ひょっと》もし盗んでいたとすると放下《うっちゃ》って置いては後《あと》が悪かろうとも思ったが、一度見られたら、とても悪事を続行《つづけ》ることは得《え》為《す》すまいと考えたから尚《な》お更らこの事は口外しない方が本当だと信じた。
 どちらにしてもお徳が言った通り、彼処《あそこ》へ竹の木戸を植木屋に作らしたのは策の得たるものでなかったと思った。
 午後三時過ぎて下町行の一行はぞろぞろ帰宅《かえ》って来た。一同が茶の間に集まってがやがやと今日の見聞を今一度繰返して話合うのであった。お清は勿論《もちろん》、真蔵も引出されて相槌《あいづち》を打って聞かなければならない。礼ちゃんが新橋の勧工場《かんこうば》で大きな人形を強請《ねだ》って困らしたの、電車の中に泥酔者《よっぱらい》が居て衆人《みんな》を苦しめたの、真蔵に向て細君が、所天《あなた》は寒むがり坊だから大徳で上等|飛切《とびきり》の舶来のシャツを買って来たの、下町へ出るとどうしても思ったよりか余計にお金を使うだの、それからそれと留度《とめど》がない。そして聞く者よりか喋舌《しゃべっ》ている連中の方が余程《よっぽど》面白そうであった。
 先ずこのがやがやが一頻《ひとしきり》止《す》むとお徳は急に何か思い出したように起《たっ》て勝手口を出たが暫時《しばらく》して返って来て、妙に真面目《まじめ》な顔をして眼を円《まる》くして、
「まア驚いた!」と低い声で言って、人々《みんな》の顔をきょろきょろ見廻わした。人々《みんな》も何事が起ったかとお徳の顔を見る。
「まア驚いた!」と今一度言って、「お清様は今日|屋外《そと》の炭をお出しになりや仕ませんね?」と訊《き》いた。
「否《いいえ》、私は炭籠《すみかご》の炭ほか使《つかわ》ないよ」
「そうら解った、私《わたくし》は去日《このあいだ》からどうも炭の無くなりかたが変だ、如何《いくら》炭屋が巧計《ずる》をして底ばかし厚くするからってこうも急に無くなる筈《はず》がないと思っていたので御座いますよ。それで私は想当《おもいあた》ってる事があるから昨日《きのう》お源さんの留守に障子の破目《やぶれめ》から内《なか》をちょい[#「ちょい」に傍点]と覗《のぞ》いて見たので御座いますよ。そうするとどうでしょう」と、一段声を低めて「あの破火鉢《やぶれひばち》に佐倉が二片《ふたつ》ちゃんと埋《いか》って灰が被《か》けて有るじゃア御座いませんか。それを見て私は最早《もう》必定《きっと》そうだと決定《きめ》て御隠居様に先ず申上げてみようかと思いましたが、一つ係蹄《わな》をかけて此方《こっち》で験《た》めした上と考がえましたから今日|行《や》って試《み》たので御座いますよ」とお徳はにやり笑った。
「どんな係蹄《わな》をかけたの?」とお清が心配そうに訊《き》いた。
「今日出る前に上に並んだ炭に一々|符号《しるし》を附けて置いたので御座います。それがどうでしょう、今見ると符号《しるし》を附けた佐倉が四個《よっつ》そっくり無くなっているので御座います。そして土竈《どがま》は大きなのを二個《ふたつ》上に出して符号を附けて置いたらそれも無いのです」
「まアどうしたと云うのだろう」お清は呆《あき》れて了った。老母と細君は顔見合して黙っている。真蔵は偖《さて》は愈々《いよいよ》と思ったが今日見た事を打明けるだけは矢張《やはり》見合わした。つまり真蔵にはそうまでするに忍びなかったのである。
「で御座いますから炭泥棒は何人《だれ》だか最早《もう》解ってます。どう致しましょう」とお徳は人々《みんな》がこの大事件を喫驚《びっくり》してごうごうと論評を初めてくれるだろうと予期していたのが、お清が声を出してくれた外、旦那《だんな》を初め後の人は黙っているので少し張合が抜けた調子でこう問うた。暫時《しばら》く誰も黙っていたが
「どうするッて、どうするの?」とお清が問い返した、お徳は少々|焦急《じれっ》たくなり、
「炭をですよ。炭をあのままにして置けばこれから幾干《いくら》でも取られます」
「台所の縁の下はどうだ」と真蔵は放擲《うっちゃ》って置いてもお源が今後容易に盗み得ぬことを知っているけれど、その理由《わけ》を打明けないと決心《きめ》てるから、仕様事なしにこう言った。
「充満《いっぱい》で御座います」とお徳は一言で拒絶した。
「そうか」真蔵は黙って了う。
「それじゃこうしたらどうだろう。お徳の部屋の戸棚《とだな》の下を明けて当分ともかく彼処《あそこ》へ炭を入れることにしたら。そしてお徳の所有品《もの》は中の部屋の戸棚《とだな》を整理《かたづ》けて入れたら」と細君が一案を出した。
「それじゃアそう致しましょう」とお徳は直ぐ賛成した。
「お徳には少し気の毒だけれど」と細君は附加《つけた》した。
「否《いいえ》、私《わたくし》は『中の部屋』のお戸棚《とだな》へ衣類《きもの》を入れさして頂ければ尚《な》お結構で御座《ござい》ます」
「それじゃ先《ま》あそう決定《きめ》るとして、全体物置を早く作れというのに真蔵がぐずぐずしているからこういうことになるのです。物置さえあれば何のこともないのに」と老母が漸《やっ》と口を利《きい》たと思ったら物置の愚痴。真蔵は頭を掻《か》いて笑った。
「否《いいえ》、こういうことになったのも、竹の木戸のお蔭で御座いますよ、ですから私は彼処《あそこ》を開けさすのは泥棒の入口を作《こしら》えるようなものだと申したので御座います。今となれゃ泥棒が泥棒の出入口《ではいりぐち》を作《こしら》えたようなものだ」とお徳が思わず地声の高い調子で言ったので老母は急に
「静に、静に、そんな大きな声をして聴《きか》れたらどうします。私《わし》も彼処を開けさすのは厭《いや》じゃッたが開けて了った今急にどうもならん。今急に彼処を塞《ふさ》げば角が立て面白くない。植木屋さんも何時《いつ》まであんな物置小屋《ものおきごや》みたような所にも居られんで移転《ひっこす》なりどうなりするだろう。そしたら彼所《あそこ》を塞ぐことにして今は唯《た》だ何にも言わんで知らん顔を仕てる、お徳も決してお源さんに炭の話など仕ちゃなりませんぞ。現に盗んだところを見たのではなし又高が少しばかしの炭を盗《と》られたからってそれを荒立てて彼人者《あんなもの》だちに怨恨《うらま》れたら猶《な》お損になりますぞ。真実《ほんと》に」と老母は老母だけの心配を諄々《じゅんじゅん》と説《とい》た。
「真実《ほんと》にそうよ。お徳はどうかすると譏謔《あてこすり》を言い兼ないがお源さんにそんなことでもすると大変よ、反対《あべこべ》に物言《ものいい》を附けられてどんな目に遇《あ》うかも知れんよ、私はあの亭主の磯が気味が悪くって成らんのよ。変妙来《へんみょうらい》な男ねえ。あんな奴に限って向う不見《みず》に人に喰《く》ってかかるよ」とお清も老母と同じ心配。老母も磯吉のことは口には出さなかったが心には無論それが有たのである。
「何にあの男だって唯の男サ」と真蔵は起上《たちあ》がりながら「然《けれ》ども先《ま》ア関係《かかりあ》わんが可い」
 真蔵は自分の書斎に引込み、炭問題も一段落着いたので、お徳とお清は大急で夕御飯の仕度に取掛った。
 お徳はお源がどんな顔をして現われるかと内々待ていたが、平常《いつ》も夕方には必然《きっと》水を汲みに来るのが姿も見せないので不思議に思っていた。
 日が暮て一時間も経《たっ》てから磯吉が水を汲みに来た。

        

 お源は真蔵に見られても巧《うま》く誤魔化し得たと思った。ちょうど真蔵が窓から見下《みおろ》した時は土竈炭《どがまずみ》を袂《たもと》に入れ佐倉炭《さくら》を前掛に包んで左の手で圧《おさ》え、更に一個《ひとつ》取ろうとするところであったが、元来|性質《ひと》の良い邪推などの無い旦那《だんな》だから多分気が附かなかっただろうと信じた。けれど夕方になってどうしても水を汲みにゆく気になれない。
 そこで磯吉が仕事から帰る前に布団《ふとん》を被《かぶ》って寝て了《しま》った。寝たって眠むられは仕ない。垢染《あかじみ》た煎餅布団《せんべいぶとん》でも夜は磯吉と二人で寝るから互の体温で寒気も凌《しの》げるが一人では板のようにしゃちっ[#「しゃちっ」に傍点]張って身に着かないで起きているよりも一倍寒く感ずる。ぶるぶる慄《ふる》えそうになるので手足を縮められるだけ縮めて丸くなったところを見ると人が寝てるとは承知《うけとれ》ん位だ。
 色々考えると厭悪《いや》な心地《きもち》がして来た。貧乏には慣れてるがお源も未だ泥棒には慣れない。先達《せんだって》からちょく[#「ちょく」に傍点]ちょく盗んだ炭の高こそ多くないが確的《あきらか》に人目を忍んで他《ひと》の物を取ったのは今度が最初《はじめて》であるから一念|其処《そこ》へゆくと今までにない不安を覚えて来る。この不安の内には恐怖《おそれ》も羞恥《はじ》も籠《こも》っていた。
 眼前《めのさき》にまざまざと今日の事が浮んで来る、見下した旦那の顔が判然《はっきり》出て来る、そしてテレ[#「テレ」に傍点]隠しに炭を手玉に取った時のことを思うと顔から火が出るように感じた。
「真実《ほんとう》にどうしたんだろう」とお源は思わず叫んだ。そして徐々《そろそろ》逆上気味になって来た。「もしか知れたらどうする」。「知れるものかあの旦那は性質《ひと》が良いもの」。「性質《ひと》の良いは当にならない」。「性質《ひと》の善良《いい》のは魯鈍《のろま》だ」。と促急込《せきこ》んで独《ひとり》問答をしていたが
「魯鈍《のろま》だ、魯鈍だ、大魯鈍だ」と思わず又叫んで「フン何が知れるもんか」と添足《つけた》した。そして布団から首を出して見ると日が暮れて入口の障子戸に月が射している。けれども起きて洋燈《ランプ》を点《つ》けようとも仕ないで、直ぐ首を引込《ひっこめ》て又た丸くなって了った。そこへ磯吉が帰って来た。
 頭が割れるように痛むので寝たのだと聞いて磯は別に怒りもせず驚きもせず自分で燈《ひ》を点《つ》け、薬罐《やかん》が微温湯《ぬるまゆ》だから火鉢に炭を足し、水も汲みに行った。湯の沸騰《たぎ》るを待つ間は煙草をパクパク吹《ふか》していたが
「どう痛むんだ」
 返事がないので、磯は丸く凸起《もちあが》った布団を少時《しばら》く熟《じっ》と視《み》ていたが
「オイどう痛むんだイ」
 相変らず返事がないので磯は黙って了った。その中《うち》湯が沸騰《わい》て来たから例の通り氷のように冷《ひえ》た飯へ白湯《さゆ》を注《か》けて沢庵《たくあん》をバリバリ、待ち兼た風に食い初めた。
 布団の中でお源が啜泣《すすりなき》する声が聞えたが磯には香物《こうのもの》を噛《か》む音と飯を流し込む音と、美味《うま》いので夢中になっているのとで聞えなかった、そして飯を食い終ったころには啜泣の声も止《や》んだのである。
 磯が火鉢の縁《ふち》を忽々《こつこつ》叩《たた》き初めるや布団がむくむく動いていたが、やがてお源が半分布団に巻纏《くるま》って其処へ坐った。前が開《あい》て膝頭《ひざがしら》が少し出ていても合そうとも仕ない、見ると逆上《のぼ》せて顔を赤くして眼は涙に潤み、頻《しき》りに啜泣を為《し》ている。
「どうしたと云うのだ、え?」と磯は問うたが、この男の持前として驚いて狼狽《うろた》えた様子は少しも見えない。
「磯さん私は最早《もう》つくづく厭《いや》になった」と言い出してお源は涙声になり
「お前さんと同棲《いっしょ》になってから三年になるが、その間|真実《ほんとう》に食うや食わずで今日はと思った日は一日だって有りやしないよ。私だって何も楽を仕様《しよう》とは思わんけれど、これじゃ余《あんま》りだと思うわ。お前さんこれじゃ乞食も同然じゃ無いか。お前さんそうは思わないの?」
 磯は黙っている。
「これじゃ唯《た》だ食って生きてるだけじゃないか。饑死《かつじに》する者は世間に滅多にありや仕ないから、食って生きてるだけなら誰《だれ》だってするよ。それじゃ余《あんま》り情ないと私は思うわ」涙を袖《そで》で拭《ふい》て「お前さんだって立派な職人じゃないか、それに唯《たっ》た二人きりの生活《くらし》だよ。それがどうだろう、のべつ[#「のべつ」に傍点]貧乏の仕通しでその貧乏も唯の貧乏じゃ無いよ。満足な家には一度だって住まないで何時《いつ》でもこんな物置か――」
「何を何時までべらべら喋舌《しゃべっ》てるんだい」と磯は矢張《やはり》お源の方は向《むか》ないで、手荒く煙管《きせる》を撃《はた》いて言った。
「お前さん怒るなら何程《いくら》でもお怒り。今夜という今夜は私はどうあっても言うだけ言うよ」とお源は急促込《せきこ》んで言った。
「貧乏が好きな者はないよ」
「そんなら何故《なぜ》お前さん月の中《うち》十日は必然《きっと》休むの? お前さんはお酒は呑《のま》ないし外に道楽はなし満足に仕事に出てさえおくれなら如斯《こんな》貧乏は仕ないんだよ。――」
 磯は火鉢の灰を見つめて黙っている。
「だからお前さんがも少し精出しておくれならこの節のように計量炭《はかりずみ》もろく[#「ろく」に傍点]に買《かえ》ないような情ない……」
 お源は布団へ打伏して泣きだした。磯吉はふいと起って土間に下りて麻裏《あさうら》を突掛けるや戸外《そと》へ飛び出した。戸外は月冴えて風はないが、骨身に徹《こた》える寒さに磯は大急ぎで新開の通へ出て、七八丁もゆくと金次という仲間が居る、其家《そこ》を訪《たず》ねて、十時過まで金次と将棋を指して遊んだが帰掛《かえりがけ》に一寸一円貸せと頼んだ。明日なら出来るが今夜は一文もないと謝絶《ことわ》られた。
 帰路《かえりみち》に炭屋がある。この店は酒も薪《まき》も量炭《はかりずみ》も売り、大庭もこの店から炭薪を取り、お源も此店《ここ》へ炭を買いに来るのである。新開地は店を早く終《しま》うのでこの店も最早《もう》閉っていた。磯は少時《しばら》く此店《ここ》の前を迂路々々《うろうろ》していたが急に店の軒下に積である炭俵の一個《ひとつ》をひょい[#「ひょい」に傍点]と肩に乗て直ぐ横の田甫道《たんぼみち》に外《それ》て了った。
 大急で帰宅《かえ》って土間にどしり[#「どしり」に傍点]と俵を下した音に、泣き寝入《ねいり》に寝入っていたお源は眼を覚したが声を出《ださ》なかった。そして今のは何の響とも気に留めなかった。磯もそのままお源の後から布団の中に潜《もぐ》り込んだ。
 翌朝になってお源は炭俵に気が着き、喫驚《びっくり》して
「磯さんこれはどうしたの、この炭俵は?」
「買って来たのサ」と磯は布団を被《かぶ》ってるまま答えた。朝飯《めし》が出来るまでは磯は床を出ないのである。
「何店《どこ》で買ったの?」
「何処《どこ》だって可いじゃないか」
「聞いたって可いじゃないか」
「初公の近所の店だよ」
「まアどうしてそんな遠くで買ったの。……オヤお前さん今日お米を買うお銭《あし》を費《つか》って了《しま》やアしまいね」
 磯は起上って「お前がやれ量炭も買えんだのッて八《や》か間《ま》しく言うから昨夜《ゆうべ》金公の家へ往《い》って借りようとして無《ない》ってやがる。それから直ぐ初公の家《とこ》へ往ったのだ。炭を買うから少《すこし》ばかり貸せといったら一俵位なら俺家《おれんとこ》の酒屋で取って往けと大《おおき》なこと言うから直ぐ其家《そこうち》で初公の名前で持て来たのだ。それだけあれば四五日は保《あ》るだろう」
「まアそう」と言ってお源はよろこんだ。直ぐ口を明けて見たかったけれど、先《ま》ア後の事と、せっせと朝飯の仕度をしながら「え、四五日どころか自宅《うち》なら十日もあるよ」
 昨夜《ゆうべ》磯吉が飛出した後でお源は色々に思い難《なや》んだ末が、亭主に精出せと勧める以上、自分も気を腐らして寝ていちゃ何もならない、又たお隣へも顔を出さんと却《かえっ》て疑がわれるとこう考えたのである。
 其処《そこ》で平常《いつも》の通り弁当持たせて磯吉を出してやり、自分も飯を食べて一通《ひととおり》片附たところでバケツを持って木戸を開けた。
 お清とお徳が外に出ていた。お清はお源を見て
「お源さん大変顔色が悪いね、どうか仕《し》たの」
「昨日《きのう》から少し風邪《かぜ》を引たもんですから……」
「用心なさいよ、それは不可《いけな》い」
 お徳は「お早う」と口早に挨拶《あいさつ》したきり何も言わない、そしてお源が炭俵の並べてないのに気が着き顔色を変えて眼をぎょろぎょろさしているのを見て、にやり笑った。お源は又た早くもこれを看取《みてと》りお徳の顔を睨《にら》みつけた。お徳はこう睨みつけられたとなると最早《もう》喧嘩《けんか》だ、何か甚《ひど》い皮肉を言いたいがお清が傍《そば》に居るので辛棒していると十八九になる増屋の御用聞が木戸の方から入て来た。増屋とは昨夜《ゆうべ》磯吉が炭を盗んだ店である。
「皆様《みなさん》お早う御座います」と挨拶するや、昨日《きのう》まで戸外《そと》に並べてあった炭俵が一個《ひとつ》見えないので「オヤ炭は何処《どっか》へ片附けたのですか」
 お徳は待ってたという調子で
「あア悉皆《みんな》内へ入《いれ》ちゃったよ。外へ置くとどうも物騒だからね。今の高価《たか》い炭を一片《ひときれ》だって盗られちゃ馬鹿々々しいやね」とお源を見る、お清はお徳を睨む、お源は水を汲んで二歩《ふたあし》三歩《みあし》歩るき出したところであった。
「全く物騒ですよ、私《わたし》の店《ところ》では昨夜《ゆうべ》当到《とうとう》一俵盗すまれました」
「どうして」とお清が問うた。
「戸外《そと》に積んだまま、平時《いつも》放下《うっちゃ》って置くからです」
「何炭《なに》を盗られたの」とお徳は執着《しゅうね》くお源を見ながら聞いた。
「上等の佐倉炭《さくら》です」
 お源はこれ等の問答を聞きながら、歯を喰いしばって、踉蹌《よろめ》いて木戸の外に出た。
 土間に入るやバケツを投《ほう》るように置いて大急ぎで炭俵の口を開けて見た。
「まア佐倉炭《さくら》だよ!」と思わず叫んだ。

 お徳は老母からも細君からも、みっしり叱《しか》られた。お清は日の暮になってもお源の姿が見えないので心配して御気慊《ごきげん》取りと風邪見舞とを兼ねてお源を訪《たず》ねた。内が余り寂然《ひっそり》しておるので「お源さん、お源さん」と呼んでみた。返事がないので可恐々々《こわごわ》ながら障子戸を開けるとお源は炭俵を脚継《あしつぎ》にしたらしく土間の真中《まんなか》の梁《はり》へ細帯をかけて死でいた。
 二日|経《た》って竹の木戸が破壊《こわ》された。そして生垣《いけがき》が以前《もと》の様《さま》に復帰《かえ》った。
 それから二月|経過《たつ》と磯吉はお源と同年輩《おなじとしごろ》の女を女房に持って、渋谷村に住んでいたが、矢張《やはり》豚小屋同然の住宅《すまい》であった。

底本:「牛肉と馬鈴薯・酒中日記」新潮文庫、新潮社
   1970(昭和45)年5月30日初版発行
   1983(昭和58)年7月30日22刷
※「促急込《せきこ》んで」と「急促込《せきこ》んで」の混在は底本通りにしました。
入力:Nana Ohbe
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年6月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国木田独歩

置土産——国木田独歩

餅《もち》は円形《まる》きが普通《なみ》なるわざと三角にひねりて客の目を惹《ひ》かんと企《たく》みしようなれど実は餡《あん》をつつむに手数《てすう》のかからぬ工夫不思議にあたりて、三角餅の名いつしかその近在に広まり、この茶店《ちゃや》の小さいに似合わぬ繁盛《はんじょう》、しかし餅ばかりでは上戸《じょうご》が困るとの若連中《わかれんじゅう》の勧告《すすめ》もありて、何はなくとも地酒《じざけ》一杯飲めるようにせしはツイ近ごろの事なりと。
 戸数《こすう》五百に足らぬ一筋町の東の外《はず》れに石橋あり、それを渡れば商家《あきんとや》でもなく百姓家でもない藁葺《わらぶ》き屋根の左右|両側《りょうそく》に建ち並ぶこと一丁ばかり、そこに八幡宮《はちまんぐう》ありて、その鳥居《とりい》の前からが片側町《かたかわまち》、三角餅の茶店《ちゃや》はこの外れにあるなり。前は青田、青田が尽きて塩浜、堤高くして海面《うみづら》こそ見えね、間近き沖には大島小島の趣も備わりて、まず眺望《ながめ》には乏しからぬ好地位を占むるがこの店繁盛の一理由なるべし。それに町の出口入り口なれば村の者にも町の者にも、旅の者にも一休息《ひとやすみ》腰を下《お》ろすに下ろしよく、ちょっと一ぷくが一杯となり、章魚《たこ》の足を肴《さかな》に一本倒せばそのまま横になりたく、置座《おきざ》の半分遠慮しながら窮屈そうに寝ころんで前後正体なき、ありうちの事ぞかし。
 永年《ながねん》の繁盛ゆえ、かいなき茶店《ちゃみせ》ながらも利得は積んで山林|田畑《でんぱた》の幾町歩は内々できていそうに思わるれど、ここの主人《あるじ》に一つの癖あり、とかく塩浜に手を出したがり餅でもうけた金を塩の方で失《な》くすという始末、俳諧の一つもやる風流|気《ぎ》はありながら店にすわっていて塩焼く烟《けむり》の見ゆるだけにすぐもうけの方に思い付くとはよくよくの事と親類縁者も今では意見する者なく、店は女房まかせ、これを助けて働く者はお絹《きぬ》お常《つね》とて一人《ひとり》は主人《あるじ》の姪《めい》、一人は女房の姪、お絹はやせ形《がた》の年上、お常は丸く肥《ふと》りて色白く、都ならば看板娘の役なれどこの二人《ふたり》は衣装《なり》にも振りにも頓着《とんちゃく》なく、糯米《もちごめ》を磨《と》ぐことから小豆《あずき》を煮ること餅を舂《つ》くことまで男のように働き、それで苦情一つ言わずいやな顔一つせず客にはよけいなお世辞の空笑いできぬ代わり愛相《あいそ》よく茶もくんで出す、何を楽しみでかくも働くことかと問われそうで問う人もなく、感心な女とほめられそうで別に評判にも上《のぼ》らず、『いつもご精が出ます』くらいの定《き》まり文句の挨拶《あいさつ》をかけられ『どういたしまして』と軽く応えてすぐ鼻唄《はなうた》に移る、昨日《きのう》も今日《きょう》もかくのごとく、かくて春去り秋|逝《ゆ》くとはさすがにのどかなる田舎《いなか》なりけり。
 茶店のことゆえ夜《よ》に入れば商売なく、冬ならば宵から戸を閉《し》めてしまうなれど夏はそうもできず、置座《おきざ》を店の向こう側なる田のそばまで出しての夕涼み、お絹お常もこの時ばかりは全くの用なし主人《あるじ》の姪らしく、八時過ぎには何も片づけてしまい九時前には湯を済まして白地《しろじ》の浴衣《ゆかた》に着かえ団扇《うちわ》を持って置座に出たところやはりどことなく艶《なまめ》かしく年ごろの娘なり。
 よそから毎晩のようにこの置座に集まり来る者二、三人はあり、その一人は八幡宮神主の忰《せがれ》一人は吉次《きちじ》とて油の小売り小まめにかせぎ親もなく女房もない気楽者その他《ほか》にもちょいちょい顔を出す者あれどまずこの二人を常連と見て可なるべし。二十七年の夏も半ばを過ぎて盆の十七日踊りの晩、お絹と吉次とが何かこそこそ親しげに話して田圃《たんぼ》の方へ隠れたを見たと、さも怪しそうにうわさせし者ありたれど恐らくそれは誤解ならん。なるほど二人は内密話《ないしょばなし》しながら露|繁《しげ》き田道をたどりしやも知れねど吉次がこのごろの胸はそれどころにあらず、軍夫《ぐんぷ》となりてかの地に渡り一かせぎ大きくもうけて帰り、同じ油を売るならば資本《もとで》をおろして一構えの店を出したき心願、少し偏屈な男ゆえかかる場合に相談相手とするほどの友だちもなく、打《ぶ》ちまけて置座会議に上《のぼ》して見るほどの気軽の天稟《うまれ》にもあらず、いろいろ独《ひと》りで考えた末が日ごろ何かに付けて親切に言うてくれるお絹お常にだけ明かして見ようとまずお絹から初めるつもりにてかくはふるまいしまでなり、うたてや吉次は身の上話を少しばかり愚痴のように語りしのみにてついにその夜は軍夫の一件を打ち明け得ずしてやみぬ。何のことぞとお絹も少しは怪しく思いたれど、さりとて別に気にもとめざりしようなり。
 その次の夜《よ》も次の夜も吉次の姿見えず、三日目の夜の十時過ぎて、いつもならば九時前には吉次の出て来るはずなるを、どうした事やらきのうも今日《きょう》も油さえ売りにあるかぬは、ことによると風邪《かぜ》でも引いたか、明日《あす》は一つ様子を見に行ってやろうとうわさをすれば影もありありと白昼《ひるま》のような月の光を浴びてそこに現われ、
『皆さん今晩は』といつになきまじめなる挨拶《あいさつ》、黙って来て黙って腰をかけあくびの一つもするがこの男の柄なるを、さりとは変なと気づきし者もあり気づかない者もあり、その内にもお絹はすこぶる平気にて、
『吉さんどうかしたの。』
『少し風邪を引いて二日ばかり休みました』と自ら欺き人をごまかすことのできざる性分のくせに嘘《うそ》をつけば、人々疑わず、それはそれはしかしもうさっぱりしたかねとみんなよりいたわられてかえってまごつき、
『ありがとう、もうさっぱりとしました。』
『それは結構だ。時に吉さん女房《にょうぼ》を持つ気はないかね』と、突然《だしぬけ》におかしな事を言い出されて吉次はあきれ、茶店の主人《あるじ》幸衛門《こうえもん》の顔をのぞくようにして見るに戯談《じょうだん》とも思われぬところあり。
『ヘイ女房ね。』
『女房をサ、何もそんなに感心する事はなかろう、今度のようなちよっとした風邪《かぜ》でも独身者《ひとりもの》ならこそ商売《あきない》もできないが女房がいれば世話もしてもらえる店で商売もできるというものだ、そうじゃアないか』と、もっともなる事を言われて、二十八歳の若者、これが普通《なみ》ならば別に赤い顔もせず何分よろしくとまじめで頼まぬまでも笑顔《えがお》でうけるくらいはありそうなところなれど吉次は浮かぬ顔でよそを向き
『どうして養いましょう今もらって。』
『アハハハハハ麦飯を食わして共稼《ともかせ》ぎをすればよかろう、何もごちそうをして天神様のお馬じゃアあるまいし大事に飼って置くこともない。』
『吉さんはきっとおかみさんを大事にするよ』と、女は女だけの鑑定《みたて》をしてお常正直なるところを言えばお絹も同意し
『そうらしいねエ』と、これもお世辞にあらず。
『イヤこれは驚いた、そんなら早い話がお絹さんお常さんどちらでもよい、吉さんのところへ押しかけるとしたらどんな者だろう』と、神主の忰《せがれ》の若旦那《わかだんな》と言わるるだけに無遠慮なる言い草、お絹は何と聞きしか
『そんならわたしが押しかけて行こうか、吉《きっ》さんいけないかね。』
『アハハハハハばかを言ってる、ドラ寝るとしよう、皆さんごゆっくり』と、幸衛門の叔父《おじ》さん歳《とし》よりも早く禿《は》げし頭をなでながら内に入りぬ。
『わたしも帰って戦争の夢でも見るかな』と、罪のない若旦那の起《た》ちかかるを止めるように
『戦争はまだ永く続きそうでございますかな』と吉次が座興ならぬ口ぶり、軽く受けて続くとも続くともほんとの戦争はこれからなりと起《た》ち上がり
『また明日《あす》の新聞が楽しみだ、これで敗戦《まけいくさ》だと張り合いがないけれど我軍《こっち》の景気がよいのだから同じ待つにも心持ちが違うよ。』お寝《やす》みと帰ってしまえば後《あと》は娘二人と吉次のみ、置座《おきざ》にわかに広うなりぬ。夜はふけ月さえぬれど、そよ吹く風さえなければムッとして蒸し熱き晩なり。吉次は投げるように身を横にして手荒く団扇《うちわ》を使いホッとつく嘆息《ためいき》を紛らせばお絹
『吉《きっ》さんまだ風邪がさっぱりしないのじゃアないのかね。』
『風邪を引いたというのは嘘《うそ》だよ。』
『オヤ嘘なの、そんならどうしたの。』
『どうもしないのだよ。』
『おかしな人だ人に心配させて』とお絹は笑うて済ますをお常は
『イヤ何か吉さんは案じていなさるようだ。』
『吉さんだって少しは案じ事もあろうよ、案じ事のないものは馬鹿《ばか》と馬鹿《うましか》だというから。』
『まだある若旦那』と小さな声で言うお常もその仲間なるべし。
それよりか海に行《い》こうとお絹の高い声に、店の内にて、もう遅《おそ》いゆえやめよというは叔父なり、
『叔父さんまだ起きていたの、今|汐《しお》がいっぱいだからちょっと浴びて来ます浅いところで。』
『危険《あぶない》危険《あぶない》遅いから。』
『吉さんにいっしょに行ってもらいます。』
『そんならいいけれども。』
 さアと促されて吉次も仕方なく連れだって行けば、お絹は先に立ち往来を外《はず》れ田の畔《くろ》をたどり、堤の腰を回《めぐ》るとすぐ海なり。沖はよく和《な》ぎて漣《さざなみ》の皺《しわ》もなく島山の黒き影に囲まれてその寂《しずか》なるは深山《みやま》の湖水かとも思わるるばかり、足もとまで月影澄み遠浅《とおあさ》の砂白く水底《みなそこ》に光れり。磯《いそ》高く曳《ひ》き上げし舟の中にお絹お常は浴衣《ゆかた》を脱ぎすてて心地《ここち》よげに水を踏み、ほんに砂粒まで数えらるるようなと、海近く育ちて水に慣れたれば何のこわいこともなく沖の方へずんずんと乳の辺《あた》りまで出《い》ずるを吉次は見て懐《ふところ》に入れし鼈甲《べっこう》の櫛《くし》二板紙に包《くる》んだままをそっと袂《たもと》に入れ換えて手早く衣服《きもの》を脱ぎ、そう沖へ出ないがいいと言い言い二人のそばまで行けば
『吉さんごらんよ、そら足の爪《つめ》まで見えるから』とお常が言うに吉次
『もうここらで帰ろうよ。』
『背のとどかないところまで出ないと游《およ》いだ気がしないからわたしはもすこし沖へ出るよ』とお絹はお常を誘うて二人の身体《からだ》軽《かろ》く浮かびて見る見る十四、五間先へ出《い》でぬ。
『いい心持ちだ吉さんおいでよ』と呼ぶはお絹なり、吉次は腕を組んで二人の游ぐを見つめたるまま何とも答えず。いつもならばかえって二人に止めらるるほど沖へ出てここまでおいでとからかい半分おもしろう游ぐだけの遠慮ない仲なれど、軍夫を思い立ちてより何事も心に染まず、十七日の晩お絹に話しそこねて後はわれ知らずこの女に気が置かれ相談できず、独《ひと》りで二日三日商売もやめて考えた末、いよいよ明日《あす》の朝早く広島へ向けて立つに決めはしたものの餅屋の者にまるっきり黙ってゆく訳にゆかず、今宵《こよい》こそ幸衛門にもお絹お常にも大略《あらまし》話して止めても止まらぬ覚悟を見せん、運悪く流れ弾《だま》に中《あた》るか病気にでもなるならば帰らぬ旅の見納めと悲しいことまで考えて、せめてもの置土産《おきみやげ》にといろいろ工夫したあげく櫛二枚を買い求め懐《ふところ》にして来たのに、幸衛門から女房をもらえと先方は本気か知らねど自分には戯談《じょうだん》よりもつまらぬ話を持ち出されてまず言いそこね、せっかくお常から案じ事のあるらしゅう言われたを機会《しお》に今ぞと思うより早くまたもくだらぬ方に話を外《はず》され、櫛を出すどころか、心はいよいよ重うなり、游ぐどころか、つまらないやら情けないやら今游ぐならば手足すくみてそのまま魚の餌《えば》ともなりなん。
『吉《きっ》さんおいでよ』とまたもやお絹呼びぬ。
『わたしは先へ帰るよ』と吉次は早々《そうそう》陸《おか》へ上がる後ろよりそんならわたしたちも上がる待っていてと呼びかけられ、待つはずの吉次、敵《かたき》にでも追われて逃げるような心持ちになり、衣服《きもの》を着るさえあわただしく、お絹お常の首のみ水より現われて白銀《しろかね》の波をかき分け陸《おか》へと游ぐをちょっと見やりしのみ、途《みち》をかえて堤へ上《のぼ》り左右に繁《しげ》る萱《かや》の間を足ばやに八幡宮の方へと急ぎぬ。
 老松《おいまつ》樹《た》ちこめて神々《こうごう》しき社《やしろ》なれば月影のもるるは拝殿|階段《きざはし》の辺《あた》りのみ、物すごき木《こ》の下闇《したやみ》を潜《くぐ》りて吉次は階段《きざはし》の下《もと》に進み、うやうやしく額《ぬか》づきて祈る意《こころ》に誠をこめ、まず今日が日までの息災を謝し奉り、これよりは知らぬ国に渡りて軍《いくさ》の巷《ちまた》危うきを犯し、露に伏し雨風に打たるる身の上を守りたまえと祈念し、さてその次にはめでたく帰国するまで幸衛門を初めお絹お常らの身に異変なく来年の夏またあの置座《おきざ》にて夕《ゆうべ》涼しく団居《まどい》する中にわれをも加えたまえと祈り終わりてしばしは頭《かしら》を得上げざりしが、ふと気が付いて懐《ふところ》を探り紙包みのまま櫛二枚を賽銭箱《さいせんばこ》の上に置き、他《ほか》の人が早く来て拾えばその人にやるばかり彼二人がいつものように朝まだき薄暗き中に参詣《さんけい》するならば多分拾うてくれそうなものとおぼつかなき事にまで思いをのこしてすごすごと立ち去りけり。
 お絹とお常は吉次の去った後《あと》そこそこに陸《おか》へ上がり体《からだ》をふきながら
『お常さん、これからちょいと吉さんの宅《うち》をのぞいて見ようよ、様子が変だからわたしは気になる。』
『明日《あす》朝早くにおしよ、お詣《まい》りを済ましてすぐまわって見ようよ。あんまり遅《おそ》くなると叔父さんに悪いから。』
『そうね』とお絹もしいては勧めかね道々二人は肩をすり寄せ小声に節《ふし》を合わして歌いながら帰りぬ。
       *          *
            *          *
 若い者のにわかに消えてなくなる、このごろはその幾人というを知らず大概は軍夫と定《き》まりおれば、吉次もその一人ぞと怪しむ者なく三角餅の茶店のうわさも七十五日|経《た》たぬ間《ま》に吉次の名さえ消えてなくなりぬ。お絹お常のまめまめしき働きぶり、幸衛門の発句《ほっく》と塩、神主の忰《せがれ》が新聞の取り次ぎ、別に変わりなく夏過ぎ秋|逝《ゆ》きて冬も来にけり。身を切るような風吹きて霙《みぞれ》降る夜の、まだ宵ながら餅屋ではいつもよりも早く閉《し》めて、幸衛門は酒一口飲めぬ身の慰藉《なぐさみ》なく堅い男ゆえ炬燵《こたつ》へ潜《もぐ》って寝そべるほどの楽もせず火鉢《ひばち》を控えて厳然《ちゃん》と座《すわ》り、煙草《たばこ》を吹かしながらしきりに首をひねるは句を案ずるなりけり。
『猿《さる》も小簔《こみの》をほしげなりというのは今夜のような晩だな。』
『そうね』とお絹が応《こた》えしままだれも対手《あいて》にせず、叔母《おば》もお常も針仕事に余念なし。家内《やうち》ひっそりと、八角時計の時を刻む音ばかり外は物すごき風狂えり。
『時に吉さんはどうしてるだろう』と幸衛門が突然《だしぬけ》の大きな声に、
『わたしも今それを思っていたのよ』とお絹は針の手をやめて叔父の方を見れば叔父も心配らしいまじめな顔つき。
『叔父さんあっちは大変寒いところだというじゃアありませんか』とお常は自分の足袋《たび》の底を刺しながら言いぬ。
『なに吉さんはあの身体《からだ》だもの寒《かん》にあてられるような事もあるまい』と叔母は針の目を通しながら言えり。
『イヤそうも言えない随分ひどいという事だから』と叔父のいうに随《つ》いてお絹
『大概にして帰って来なさればよいに、いくらお金ができても身体《からだ》を悪くすれば何にもなりゃアしない。』
『ナニあの男の事だからいったんかせぎに出たからにはいくらかまとまった金を握るまでは帰るまい、堅い珍しい男だからどうか死なしたくないものだ。』
『ほんとにね』とお絹は口の中《うち》、叔母は大きな声で
『大丈夫、それにあの人は大酒を飲むの何のと乱暴はしないし』と受け合い、鬢《びん》の乱《ほつれ》を、うるさそうにかきあげしその櫛《くし》は吉次の置土産《おきみやげ》、あの朝お絹お常の手に入りたるを、お常は神のお授けと喜び上等ゆえ外出行《よそゆ》きにすると用箪笥《ようだんす》の奥にしまい込み、お絹は叔母に所望《しょもう》されて与えしなり。
 二十八年三月の末お絹が親もとより二日ばかり暇をもろうて帰り来《こ》よとの手紙あり、珍しき事と叔父幸衛門も怪しみたれどともかくも帰って見るがよかろうと三里離れし在所の自宅へお絹は三角餅を土産に久しぶりにて帰りゆきぬ。何《なん》ぞと思えば嫁に行けとの相談なり。継母《ままはは》の腹は言うまでもなく姉のお絹を外に出して自分の子、妹のお松を後《あと》に据えたき願い、それがあるばかりにお絹と継母《ままはは》との間おもしろからず理屈をつけて叔父幸衛門にお絹はあずけられかれこれ三年の間お絹のわが家に帰りしは正月一度それも機嫌《きげん》よくは待遇《あしら》われざりしを、何のかのと腹にもない親切を言われ先方《さき》は田が幾町山がこれほどある、婿はお前も知っているはずと説かれてお絹は何と答えしぞ。その夜七時ごろ町なる某《なにがし》という旅人宿《はたごや》の若者三角餅の茶店に来たり、今日これこれの客人見えて幸衛門さんに今からすぐご足労を願いますとのことなり。幸衛門は多分塩の方の客筋ならんと早速《さっそく》まかり出《い》でぬ。
 次の日奥の一室《ひとま》にて幸衛門腕こまぬき、茫然《ぼうぜん》と考えているところへお絹在所より帰り、ただいまと店に入《はい》ればお常はまじめな顔で
『叔父さんが奥で待っていなさるよ、何か話があるって。』
お絹にも話あり、いそいそと中庭から上がれば叔父の顔色ただならず、お絹もあらたまって
『叔父さんただいま、自宅《うち》からもよろしくと申しました。』
『用事は何であったね、縁談じゃアなかったか。』
『そうでございました、難波《なんば》へ嫁にゆけというのであります。』
『お前はどうして』と問われてお絹ためらいしが
『叔父さんとよく相談してと生《なま》返事をして置きました。』
『そうか』と叔父は嘆息《ためいき》なり。
『叔父さんのご用というのは何。』
『用というのではないがお前驚いてはいけんよ、吉さんはあっちで病死したよ。』
『マあ!』とお絹は蒼《あお》くなりて涙も出《い》でず。
『実はわたしも驚いてしまったのだ、昨夜《ゆうべ》何屋の若者が来て、これこれの客人がすぐ来てくれろというから行って見ると、その人はあっちで吉さんとごく懇意にしていた方で、吉さんが病気を親切に看病してくださったそうな。それで吉さんの死ぬる時吉さんから二百円渡されてこれを三角餅の幸衛門に渡し幸衛門の手からお前に半分やってくれろ、半分は親兄弟の墓を修復《しゅふく》する費用にしてその世話を頼むとの遺言、わたしは聞いて返事もろくろくできないでただ承知しましたと泣く泣く帰って来ました。』
『マアどうしたらよかろう、かあいそうに』とお絹は泣き伏しぬ。
『それでは遺言どおりこの百円はお前に渡すから確かに受け取っておくれ』と叔父の出す手をお絹は押しやって
『叔父さんわたしは確かに受け取りました吉さんへはわたしからお礼をいいます、どうかそれで吉さんの後《あと》を立派に弔うてください、あらためてわたしからお頼みしますから。』


(明治三十三年九月作)

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「太陽」
   1900(明治33)年12月
入力:土屋隆
校正:蒋龍
2009年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

怠惰屋の弟子入り—-木田独歩

 亞弗利加洲《アフリカしう》にアルゼリヤといふ國《くに》がある、凡そ世界中《せかいぢゆう》此國《このくに》の人《ひと》ほど怠惰者《なまけもの》はないので、それといふのも畢竟《ひつきやう》は熱帶地方《ねつたいちはう》のことゆえ檸檬《れもん》や、橙《だい/\》の花《はな》咲《さ》き亂れて其《その》得《え》ならぬ香《かほり》四方《よも》に立《た》ちこめ、これに觸《ふ》れる人《ひと》は自《みづ》から睡眠《ねむり》を催《もよ》ふすほどの、だらり[#「だらり」に傍点]とした心地《こゝち》の好《よ》い土地柄《とちがら》の故《せい》でもあらう。
 處《ところ》が此《この》アルゼリヤ國《こく》の中《うち》でブリダアといふ市府《まち》の人《ひと》は分《わけ》ても怠惰《なまけ》ることが好《す》き、道樂《だうらく》をして日《ひ》を送《おく》ることが好きといふ次第である。
 佛蘭西人《フランスじん》が未《ま》だアルゼリヤを犯《おか》さない數年前《すねんぜん》に此ブリダアの市《まち》にラクダルといふ人《ひと》が住《す》んで居《ゐ》たが、これは又た大《たい》した豪物《えらぶつ》で、ブリダアの人々から『怠惰屋《なまけや》』といふ綽名《あだな》を取《と》つて居《ゐ》た漢《をとこ》、この漢《をとこ》と比《くらべ》て見《み》ると流石《さすが》のブリダアの市人《まちびと》も餘程《よほど》の勤勉《きんべん》の民《たみ》と言《い》はんければならない、何《な》にしろラクダルの豪《えら》い證據《しようこ》は『怠惰屋《なまけや》』といふ一個《ひとつ》の屋號《やがう》を作《つく》つて了《しま》つたのでも了解《わか》る、綉工《ぬひはくや》とか珈琲屋《かうひいや》とか、香料問屋《かうれうとひや》とか、それ/″\所《ところ》の名物《めいぶつ》の商業《しやうばい》がある中に、ラクダルは怠惰屋《なまけや》で立《た》つて居たのである。
 抑《そ》も此男《このをとこ》は父《ちゝ》の死《しん》だ後《あと》、市街外《まちはづ》れに在《あ》る小《ちひ》さな莊園《しやうゑん》を承嗣《うけつい》だので、此《この》莊園《しやうゑん》こそ怠惰屋《なまけや》の店《みせ》とも謂《いひ》つべく、其《その》白《しろ》い壁《かべ》は年古《としふり》て崩《くづ》れ落《お》ち、蔦《つた》葛《かづら》思《おも》ふがまゝに這纏《はひまと》ふた門《もん》は年中《ねんぢゆう》開《あけ》つ放《ぱな》しで閉《とぢ》たことなく、無花果《いちじく》や芭蕉《ばせう》が苔《こけ》むす泉《いづみ》のほとりに生茂《おひしげ》つて居《ゐ》るのである。此莊園でラクダルはゴロリと轉《ころ》がつたまゝ身動《みうごき》もろくに爲《せ》ず、手足《てあし》をダラリ伸《のば》したまゝ一言《ひとこと》も口《くち》を開《ひら》かず、たゞ茫乎《ぼんやり》と日《ひ》がな一日《いちにち》、年《ねん》から年中《ねんぢゆう》、時《とき》を送《おく》つて居《ゐ》るのである。
 赤蟻《あかあり》は彼《かれ》のモヂヤ/\した髯《ひげ》の中を草場《くさはら》かと心得《こゝろえ》て駈《か》け廻《まは》るといふ行體《ていたらく》。腹《はら》が空《すい》て來《く》ると、手《て》を伸《のば》して手《て》の屆《とゞ》く處《ところ》に實《なつ》て居《を》る無花果《いちじく》か芭蕉《ばせう》の實《み》を捩《もぎ》つて食《く》ふ、若し起上《たちあが》つて捩《もぎ》らなければならぬなら飢餓《うゑ》て死《しん》だかも知れないが、幸《さいはひ》にして一人《ひとり》では食《く》ひきれぬ程《ほど》の實《み》が房々《ふさ/\》と實《な》つて居《ゐ》るので其《その》憂《うれひ》もなく、熟過《つえすぎ》[#ルビの「つえ」に「ママ」の注記]た實《み》がぼて/\と地に落《お》ちて蟻《あり》の餌《ゑ》となり、小鳥《ことり》の群《むれ》は枝《えだ》から枝《えだ》を飛《と》び廻《まは》つて思《おも》ひのまゝ木實《このみ》を啄《ついば》んでも叱《しか》り手《て》がないといふ次第《しだい》であつた。
 先《ま》づ斯《か》ういふ風《ふう》な處《ところ》からラクダルの怠惰屋《なまけや》は國内《こくない》一般《いつぱん》の評判《ひやうばん》ものとなり、人々《ひと/″\》は何時《いつしか》この漢《をとこ》を仙人《せんにん》の一人《ひとり》にして了《しま》ひ、女は此《この》庄園《しやうゑん》の傍《そば》を通《とほ》る時など被面衣《かつぎ》の下でコソ/\と噂《うはさ》してゆく、男の中《うち》には脱帽《だつばう》して通《とほ》るものすらあつた。
 けれど小供《こども》こそ眞《まこと》の審判官《しんぱんくわん》で、小供《こども》の眼《め》にはたゞ變物《かはりもの》の一人《ひとり》としか見《み》えない。嬲物《なぶりもの》にして慰《なぐ》さむに丁度《ちやうど》可《よ》い男《をとこ》としか見《み》えない。であるから學校《がくかう》の歸途《かへりみち》には大勢《おほぜい》が其《その》崩《くづ》れ落《おち》た壁《かべ》に這《は》いのぼつてワイ/\と騒《さわ》ぐ、手《て》を拍《う》つやら、囃《はや》すやら、甚《はなは》だしきは蜜柑《みかん》の皮《かは》を投《な》げつけなどして揄揶《からか》うのである。けれども何《なん》の效果《きゝめ》もない。怠惰屋《なまけや》は決《けつ》して起《お》き上《あが》らない、たゞ一度《いちど》、草《くさ》の臥床《ねどこ》の中《なか》から間《ま》の拔《ぬ》けた聲《こゑ》を張上《はりあ》げて
『見《み》て居《ゐ》ろ! 起《お》きてゆくから!』
と怒鳴《どな》つたことがある。然《しか》し遂《つひ》に起《お》きあがらなかつた。
 處《ところ》が或日《あるひ》のこと、やはり學校《がくかう》の歸途《かへり》に庄園《しやうゑん》の壁《かべ》の上《うへ》でラクダルを揄揶《からか》つて居《ゐ》た少年《こども》の中に、何《なん》と思《おも》つたか甚《ひど》く感心《かんしん》して了《しま》ひ自分《じぶん》も是非《ぜひ》怠惰屋《なまけや》にならうと決心《けつしん》した兒《こ》が一人《ひとり》あつた。つまりラクダルに全然《すつかり》歸依《きえ》して了《しま》つたのである。大急《おほいそ》ぎで家《うち》に歸《か》へり、父に向《むか》つて最早《もう》學校《がくかう》には行《い》きたくない、何卒《どうか》怠惰屋《なまけや》にして呉《くれ》ろと嘆願《たんぐわん》に及《およ》んだ。
『怠惰屋《なまけや》に? お前《まへ》が?』
と親父《おやぢ》さん開《あ》いた口《くち》が塞《ふさ》がらない。暫時《しばら》く我兒《わがこ》の顏《かほ》を見《み》つめて居たが『それはお前《まへ》、本氣《ほんき》か。』
『本氣《ほんき》だよ親父《おとつ》さん! ラクダルさんのやうに私《わたし》も怠惰屋《なまけや》になるのだ。』
 親父《おやぢ》といふは煙管《パイプ》の旋盤細工《ろくろざいく》を業《げふ》として居る者《もの》で、鷄《とり》の鳴《な》く時から日の晩《くれ》るまで旋盤《ろくろ》の前《まへ》を動《うご》いたことのない程の、ブリダア市《まち》では珍《めづ》らしい稼人《かせぎにん》であるから、兒童《こども》の言《い》ふ處《ところ》を承知《しようち》する筈《はず》もない。
『馬鹿を言《い》ふな! お前は乃父《おれ》のやうに旋盤細工《ろくろざいく》を商業《しやうばい》にするか、それとも運《うん》が可《よ》くばお寺《てら》の書役《かきやく》にでもなるのだ。怠惰屋《なまけや》なぞになられて堪《たま》るものか、學校《がくかう》へ行《ゆ》くのが慊《いや》なら櫻《さくら》の木《き》の皮《かは》を剥《むか》すが可《よ》いか、サア如何《どう》だ此《この》大《おほ》たわけめ!』
 櫻《さくら》の皮《かは》を剥《むか》されては大變《たいへん》と、兒童《こども》は早速《さつそく》親父《おやぢ》の言《い》ふ通《とほ》りになつて其《その》翌日《よくじつ》から平常《いつも》の如《ごと》く學校《がくかう》へ行《ゆ》く風《ふう》で家《うち》を出《で》た。けれども決《けつ》して學校《がくかう》には行《い》かない。
 市街《まち》の中程《なかほど》に大《おほ》きな市場《いちば》がある、兒童《こども》は其處《そこ》へ出かけて、山のやうに貨物《くわもつ》の積《つん》である中《なか》にふんぞり返《かへ》つて人々《ひと/″\》の立騒《たちさわ》ぐのを見《み》て居る。金絲の綉《ぬひはく》をした上衣《うはぎ》を日《ひ》に煌《きらめ》かして行《ゆ》く大買人《おほあきんど》もあれば、重《おも》さうな荷物を脊負《しよつ》てゆく人足《にんそく》もある、香料《かうれう》の妙《たへ》なる薫《かほり》が折《を》り/\生温《なまぬく》い風につれて鼻《はな》を打つ、兒童《こども》は極樂《ごくらく》へでも行《い》つた氣になつて、茫然《ぼんやり》と日の晩《くれ》るまで斯《か》うして居《ゐ》た。次《つぎ》の日《ひ》も次《つぎ》の日《ひ》も、此兒《このこ》の影《かげ》は學校《がくかう》に見《み》えない。
 四五日《しごにち》も經《た》つと此事《このこと》が忽《たちま》ち親父《おやぢ》の耳《みゝ》に入《はひ》つた。親父《おやぢ》は眞赤《まつか》になつて怒《おこ》つた、店にあるだけの櫻《さくら》の木の皮を剥《むか》せ(な脱カ)ければ承知《しようち》しないと力味《りきん》で見《み》たが、さて一向《いつかう》に效果《きゝめ》がない。少年《こども》は平氣で
『私《わたし》は是非《ぜひ》怠惰屋《なまけや》になるのだ、是非《ぜひ》なるのだ』と言張《いひは》つて聽《き》かない。櫻《さくら》の皮《かは》を剥《む》くどころか、家《いへ》の隅《すみ》の方《はう》へすつこん[#「すつこん」に傍点]で了《しま》つて茫然《ぼんやり》して居る。
 色々《いろ/\》と折檻《せつかん》もして見《み》たが無駄《むだ》なので親父《おやぢ》も持餘《もてあま》し、遂《つひ》にお寺樣《てらさま》と相談《さうだん》した結極《あげく》が斯《かう》いふ親子《おやこ》の問答《もんだふ》になつた。
『お前《まへ》が若《も》し怠惰屋《なまけや》の第一等《だいゝつとう》にならうと眞實《ほんと》に思《おも》ふならラクダルさんの處《ところ》へ連《つれ》て行《い》かう。じやが先《ま》づラクダルさんに試驗《しけん》をして貰《もら》はなければならぬ、其上でお前に怠惰屋《なまけや》になるだけの眞實《ほんたう》の力倆《りきりやう》があると定《きま》れば、更《あら》ためてお前を彼《あ》の人の弟子《でし》にして貰《もら》ふ、如何《どう》だ、これは?』と親父は眞面目《まじめ》に言《い》つた。
『是非《ぜひ》さうして下《くだ》さい。』と兒《こ》は二つ返事《へんじ》。
 其處《そこ》で其《その》翌日《あくるひ》は愈※[#二の字点、1-2-22]《いよ/\》怠惰屋《なまけや》の弟子入《でしいり》と、親父《おやぢ》は息子《むすこ》の衣裝《みなり》を作《こし》らへ頭《あたま》も奇麗《きれい》に刈《かつ》てやつて、ラクダルの莊園《しやうゑん》へと出《で》かけて行《い》つた。
 門《もん》は例《れい》の通《とほ》り開《あけ》つ放《ぱな》しだから敲《たゝ》く世話《せわ》も入《いら》ず、二人《ふたり》はずん/\と内《うち》へ入《はひ》つて見《み》たが草木《くさき》が縱横《じゆうわう》に茂《しげ》つて居《ゐ》るのでラクダルの居所《ゐどころ》も一寸《ちよつと》知《し》れなかつた。彼方《あつち》此方《こつち》と搜《さが》す中、漸《やつ》とのことで大きな無花果《いちじく》の樹蔭《こかげ》に臥《ね》こんで居《ゐ》るのを見《み》つけ出《だ》し、親父《おやぢ》は恭々《うや/\》しく近寄《ちかよ》つて丁寧《ていねい》にお辭儀《じぎ》をして言《い》ふのには
『實《じつ》は今日《けふ》お願《ねがひ》があつてお邪魔《じやま》に出《で》ました。これは手前《てまへ》の愚息《せがれ》で御座《ござ》います、是非《ぜひ》貴樣《あなた》のお弟子《でし》になりたいと本人《ほんにん》の望《のぞみ》ですから連《つれ》て參《まゐ》りましたが、一《ひと》つ試驗《しけん》をして見《み》て下《くだ》さいませんか。其上《そのうへ》で若《も》し物《もの》になりさうだツたら何卒《どうか》怠惰屋《なまけや》の弟子《でし》といふことに願《ねが》ひたいものです。さうなると私《わたし》の方《はう》でも出來《でき》るだけのお禮《れい》は致します積りで……』
 ラクダルは無言《むごん》のまゝ手眞似《てまね》で其處《そこ》へ坐《すわ》らした。親父《おやぢ》は當前《あたりまへ》に坐《すわ》る、愚息《せがれ》はゴロリ臥《ね》ころんで足《あし》を蹈伸《ふみのば》す、この臥轉《ねころ》び方《かた》が第一《だいゝち》上出來《じやうでき》であつた。三人《さんにん》は其《その》まゝ一言《ひとこと》も發《はつ》しない。
 恰度《ちやうど》日盛《ひざかり》で太陽《ひ》は燦然《ぎら/\》と煌《かゞや》き、暑《あつさ》は暑《あつ》し、園《その》の中《なか》は森《しん》として靜《しづ》まり返《かへ》つて居《ゐ》る。たゞ折々《をり/\》聞《きこゆ》るものは豌豆《ゑんどう》の莢《さや》が熱《あつ》い日に彈《はじ》けて豆《まめ》の飛《と》ぶ音《おと》か、草間《くさま》の泉《いづみ》の私語《さゝやく》やうな音、それでなくば食《く》ひ飽《あき》た鳥《とり》が繁茂《しげみ》の中《なか》で物疎《ものう》さうに羽搏《はゞたき》をする羽音《はおと》ばかり。熟過《つえすぎ》た無花果《いちじく》がぼたりと落ちる。
 其中《そのうち》腹《はら》が空《すい》て來《き》たと見《み》えてラクダルは面倒臭《めんだうくさ》さうに手を伸《のば》して無花果《いちじく》を採《とつ》て口《くち》に入《い》れた。然《しか》し少年《こども》は見向《みむ》きもしないし手《て》も伸《のば》さないばかりか、木實《このみ》が身體《からだ》の傍《そば》に落《お》ちてすら頭《あたま》もあげなかつた。ラクダルは此《こ》の樣《さま》をぢろり横目《よこめ》で見《み》たが、默《だま》つて居《ゐ》た。
 斯《か》ういふ風《ふう》で一|時間《じかん》たち二|時間《じかん》經《た》つた。氣《き》の毒《どく》千萬《せんばん》なのは親父《おやぢ》さんで、退屈《たいくつ》で/\堪《たま》らない。しかしこれも我兒《わがこ》ゆゑと感念《かんねん》したか如何《どう》だか知《しら》んが辛棒して其《その》まゝ坐《すわ》つて居《ゐ》た。身動《みうごき》もせず熟《じつ》として兩足を組《くん》で坐《すわ》つて居《ゐ》ると、園《その》を吹渡《ふきわた》る生温《なまぬ》くい風《かぜ》と、半分|焦《こげ》た芭蕉の實や眞黄色《まつきいろ》に熟《じゆく》した柑橙《だい/\》の香《かほり》にあてられて、身《み》も融《とけ》ゆくばかりになつて來《き》たのである。
 やゝ暫《しばら》くすると大きな無花果の實《み》が少年《こども》の頬《ほゝ》の上に落《お》ちた。見《み》るからして菫《すみれ》の色《いろ》つやゝかに蜜《みつ》のやうな香《かほり》がして如何《いか》にも甘味《うま》さうである。少年《こども》がこれを口に入《いれ》るのは指《ゆび》一本《いつぽん》動《うご》かすほどのこともない、然《しか》し左《さ》も疲《つか》れ果《はて》て居《ゐ》る樣《さま》で身動《みうごき》もしない、無花果《いちじく》は頬《ほゝ》の上《うへ》にのつたまゝである。
 暫《しばら》くは其《その》まゝで居《ゐ》たが遂《つひ》に辛棒《しんぼう》しきれなくなり、少年《こども》[#「少年」は底本では「小年」]は眄目《ながしめ》に父《ちゝ》を見て、鈍《にぶ》い聲《こゑ》で
『父《とつ》さん――父《とつ》さん、これを口《くち》へ入れて下《くだ》さいよう。』
 これを聞《き》くや否《いな》や、ラクダルは手《て》に持《もつ》て居《ゐ》た無花果《いちじく》を力任《ちからま》かせに投《な》げて怫然《ふつぜん》と親父《おやぢ》の方《かた》に振《ふ》り向《む》き
『此兒《このこ》を私《わたし》の弟子《でし》にするといふのですか貴樣《あなた》は? 途方《とはう》もないこと、此兒《このこ》が私《わたし》の師匠《しゝやう》だ、私《わたし》が此兒《このこ》に習《なら》いたい位《くらゐ》だ!』
 そして卒然《いきなり》起上《おきあ》がつて少年《こども》の前に跪《ひざまづ》き頭《あたま》を大地《だいち》に着《つ》けて
『謹で崇《あが》め奉《たてまつ》る、怠惰《なまけ》の神様《かみさま》!』

底本:『国木田独歩全集 第四巻』学習研究社
   1966(昭和41)年2月10日発行
入力:小林徹
校正:柳沢成雄
1999年2月9日公開
2004年5月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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国木田独歩

節操——国木田独歩

『房《ふさ》、奥様《おくさん》の出る時何とか言つたかい。』と佐山銀之助《さやまぎんのすけ》は茶の間に入《はひ》ると直《す》ぐ訊《きい》た。
『今日《けふ》は講習会から後藤様《ごとうさん》へ一寸《ちよつと》廻《まは》るから少《すこ》し遅くなると被仰《おつしや》いました。』
『飯《めし》を食《くは》せろ!』と銀之助は忌々《いま/\》しさうに言つて、白布《はくふ》の覆《か》けてある長方形の食卓の前にドツカと坐《す》はつた。
 女中の房《ふさ》は手早く燗瓶《かんびん》を銅壺《どうこ》に入れ、食卓の布を除《と》つた。そして更《さら》に卓上の食品《くひもの》を彼所《かしこ》此処《こゝ》と置き直して心配さうに主人の様子をうかがつた。
 銀之助は外套《ぐわいたう》も脱がないで両臂《りやうひぢ》を食卓に突いたまゝ眼《め》を閉《とぢ》て居る。
『お衣服《めし》をお着更《きかへ》になつてから召上《めしあが》つたら如何《いかゞ》で御座《ござ》います。』と房《ふさ》は主人の窮屈さうな様子を見て、恐る/\言つた。御気慊《ごきげん》を取る積《つもり》でもあつた。何故《なぜ》主人が不気慊《ふきげん》であるかも略《ほゞ》知つて居るので。
『面倒臭い此儘《このまゝ》で食《く》ふ、お燗《かん》は最早《もう》可《い》いだらう。』
 房《ふさ》は燗瓶《かんびん》を揚《あげ》て直《す》ぐ酌《しやく》をした。銀之助は会社から帰りに何処《どこ》かで飲んで来たと見え、此時《このとき》既《すで》にやゝ酔《よつ》て居たのである。酔《よ》へば蒼白《あをじろ》くなる顔は益々《ます/\》蒼白《あをじろ》く秀《ひい》でた眉《まゆ》を寄せて口を一文字に結んだのを見ると房《ふさ》は可恐《こはい》と思つた。
 二三杯ぐい/\飲んでホツと嘆息《ためいき》をしたが、銀之助は如何《どう》考《かん》がへて見ても忌々《いま/\》しくつて堪《たま》らない。今日《けふ》は平時《いつも》より遅く故意《わざ》と七時過ぎに帰宅《かへ》つて見たが矢張《やはり》予想通り妻《さい》の元子《もとこ》は帰つて居ない。これなら下宿屋に居るも同じことだと思ふ位《くらゐ》なら未《ま》だ辛棒《しんぼう》も出来るが銀之助の腹の底には或物《あるもの》がある。
『何時頃《なんじごろ》に帰ると言つた。』
『何とも被仰《おつしや》いませんでした。』と房《ふさ》は言悪《いひにく》さうに答へる。
 後藤へ廻《ま》はるなら廻《ま》はると朝《あさ》自分が出る前にいくらでも言ふ時《ひま》があるじやアないかと思ふと、銀之助は思はず
『人を馬鹿にして居やアがる。』と唸《うな》るやうに言つた。そして酒ばかりぐい/\呑《の》むので、房《ふさ》は
『旦那様《だんなさま》何か召上《めしあ》がりませんか、』と如何《どう》かして気慊《きげん》を取る積《つも》りで優しく言つた。
『見ろ、何が食へる。薄ら寒い秋の末《すゑ》に熱い汁が一杯|吸《す》へないなんて情《なさけ》ないことがあるものか。下宿屋だつて汁ぐらゐ吸はせる。』
 銀之助の不平は最早《もう》二月《ふたつき》前からのことである。そして平時《いつ》も此《この》不平を明白《あからさま》に口へ出して言ふ時は『下宿屋だつて』を持出《もちだ》す。決して腹の底の或物《あるもの》は出さない。
 房《ふさ》は『下宿屋』が出たので沈黙《だまつ》て了《しま》つた。銀之助は急に起立《たちあ》がつて。
『出て来る。』
『最早《もう》直《ぢ》き奥様《おくさん》がお帰宅《かへ》りになりませう。』と房《ふさ》は驚いて止《と》めるやうに言つた。
『奥様《おくさん》の帰宅《かへる》のを待たないでも可《い》いじやアないか。』
 銀之助はむちやくちや腹《ばら》で酒ばかし呑《の》んで斯《か》うやつて居るのが、女房の帰《か》へるのを待つて居るやうな気がしたので急に外に飛び出したくなつたのである。
『外で何を勝手な真似《まね》をして居るか解《わか》りもしない女房のお帰宅《かへり》を謹《つゝし》んでお待申《まちまう》す亭主じやアないぞ』といふのが銀之助の腹である。
『それはさうで御座《ござ》いますが、最早《もう》直《ぢ》きお帰りになりませうから。』と房《ふさ》は飽《あ》くまで止めやうとした。
『帰つたつて可《い》いじやアないか。乃公《おれ》は出るから』と言ひ放つて、何か思ひ着いたと見え、急速《いそ》いで二階に上《あが》つた。
 火鉢には桜炭《さくらずみ》が埋《い》かつて、小さな鉄瓶《てつびん》からは湯気を吐いて居る。空気|洋燈《らんぷ》が煌々《くわう/\》と燿《かゞや》いて書棚の角々《かど/\》や、金文字入りの書《ほん》や、置時計や、水彩画の金縁《きんぶち》や、籐《とう》のソハに敷《しい》てある白狐《びやくこ》の銀毛《ぎんまう》などに反射して部屋は綺麗《きれい》で陽気である、銀之助はこれが好《すき》である。しかし今夜は此等《これら》の光景も彼を誘引《いういん》する力が少しもない。机の上に置いてある彼が不在中に来た封書や葉書《はがき》を手早く調べた。其中《そのうち》に一通|差出人《さしだしにん》の姓名の書いてない封書があつた。不審に思つて先《ま》づ封を切つて見ると驚くまいことか彼が今の妻と結婚しない以前に関係のあつた静《しづ》といふ女からの手紙である。
 銀之助は静《しづ》と結婚する積《つも》りであつたけれど教育が無いとか身分が卑《いや》しいとかいふ非難が親族や朋友《ほういう》の間に起《おこ》り、且《か》つ其《その》純潔すら疑《うた》がはれたので遂《つひ》に何時《いつ》とはなしに銀之助の方から別れて了《しま》つたのであつた。別れて今の妻《さい》と結婚して後《のち》は静《しづ》の成行《なりゆき》に就《つ》き銀之助は全く知らなかつた。
 ところが五年目に突然|此《この》手紙、何事かと驚いて読み下《くだ》すと其《その》意味は――お別れしてから種々の運命《め》に遇《あつ》た末《すゑ》今は或《ある》男と夫婦同様になつて居る、然《しか》るに貴様《あなたさま》との関係と同じく矢張《やはり》男の家で結婚を許さない、その為《た》め男は遂《つひ》に家出して今は愛宕町《あたごちやう》何丁目何番地|小川方《をがはかた》に二人して日蔭者《ひかげもの》の生活《くらし》をして居る。窮迫《きゆうはく》に窮迫《きゆうはく》を重ね、ちび/\した借金も積《つも》りて今は何としても立行《たちゆ》かぬ様《さま》となつた。そこで如何《いか》なることがあつても貴様《あなたさま》にはと誓つて居たけれど其《その》誓《ちかひ》も捨て義理も忘れてお願ひ申すのである、何卒《どうか》二十円だけ用意して明晩《みやうばん》来て呉《く》れまいか――といふのである。
 明晩とは今夜である銀之助はしみ/″\静《しづ》の不幸《ふしあはせ》を思つた。静《しづ》は男に愛着《おも》はれ又《ま》た男を愛着《おも》ふ女である。そして可憐《かれん》で正直で怜悧《れいり》な女であるが不思議と関係のない者からは卑《いや》しい人間のやうに思はれる女で実に何者にか詛《のろ》はれて居るのではないかと思つた。しかし銀之助には以前《もと》の恋の情《こゝろ》は少《すこし》もなかつた。
 どうせ飛び出すのだ、何しろ訪ねて見ようと銀之助は先《ま》づ懐中《くわいちゆう》を改めると五円札が一枚と余《あと》は小銭《こせん》で五六十銭あるばかり。これでも仕方がない不足の分は先方《むかふ》の様子を見てからの事と直《す》ぐ下に降《お》りた。
『房《ふさ》、遅くなつたら閉《し》めても可《い》いよ。』
『アラ如何《どう》してもお出《で》になりますので御座《ござ》いますか。』と房《ふさ》はきよと/\して気が気でない。
『何《な》に心配しないでも可《い》いよ。奥様《おくさん》に急に用が出来たから出たつて言つてお呉《く》れ。』
 外は星夜《ほしづくよ》で風の無い静かな晩である。左へ廻《まが》れば公園脇の電車道、銀之助は右に折れてお濠辺《ほりばた》の通行《ひとゞほり》のない方を選んだ。ふと気が着いて自家《じたく》から二三丁先の或家《あるいへ》の瓦斯燈《がすとう》で時計を見ると八時|過《すぎ》である。
 外で冷《ひやゝ》かな空気に触れると酔《よひ》が足りない。もすこし飲んで出れば可《よ》かつたと思つた。
 愛宕町《あたごちやう》は七八丁の距離しかないので銀之助は静《しづ》のこと、今の妻《さい》の元子《もとこ》のことを考へながら、歩《あゆ》むともなく、徐々《のろ/\》歩《あ》るいた。
 成程《なるほど》比べて見ると静《しづ》には何処《どこ》か卑《いや》しいところがあつて、元子にはそれがない。
 静《しづ》の卑《いや》しいやうに他《ひと》から思はれるところは何故《なぜ》であるかと考へた。静《しづ》には何処《どこ》かに色ッぽい風《ふう》がある。女性《によせい》にはなくてならぬ節操《みさを》といふ釘《くぎ》が一|本《ぽん》足りないで、其《その》為《た》め身体《からだ》全体に『たるみ』が出来て居る、其《その》『たるみ』が卑《いや》しい色を成して居るのだ、それが証拠には自分の前に静《しづ》には情夫《をとこ》が有つたらしく、自分の後《のち》に今の男があるではないか。
 けれども自分の経験に依《よ》ると静《しづ》は自分と関係してる間《あひだ》は決して自分を不安に思はしめるやうなことは無かつた。正直で可憐《かれん》で柔和《にうわ》で身も魂も自分に捧げて居《を》るやうであつた。
 銀之助は斯《か》う考《かん》がへて来ると解《わか》らなくなつた。節操《みさを》といふものが解《わか》らなくなつた。
 成程《なるほど》元子は見たところ節操々々《みさを/\》して居る。けれど講習会を名《な》に何をして居るか知れたものでない。想像して見ると不審の点は数多《いくら》もある。今夜だつて何を働いて居るか自分は見て居ない。自分の見る事も出来ないこと、それが自分に猛烈な苦悩を与へることを元子は実行して居るではないか。
 考へれば考へるほど銀之助には解《わか》らなくなつた。忌々《いま/\》しさうに頭を振《ふつ》て、急に急足《いそぎあし》で愛宕町《あたごちやう》の闇《くら》い狭い路地《ろぢ》をぐる/\廻《まは》つて漸《やつ》と格子戸《かうしど》の小さな二|階屋《かいや》に「小川」と薄暗い瓦斯燈《がすとう》の点《つ》けてあるのを発見《めつ》けた。「小川方《をがはかた》」とあつた、よろしいこれだと、躊躇《ためら》うことなく格子《かうし》を開《あ》けて
『お宅にお静《しづ》さんといふ人が同居し居られますか。』
と訊《きく》や、直《す》ぐ現はれたのが静《しづ》であつた。
『能《よ》く来て下《くだ》さいました。待《まつ》て居たんですよ。サアどうか上《あが》つて下《くだ》さいましな。』と低い艶《つや》のある声は昔のまゝである。
『イヤ上《あが》るまい。貴方《あなた》は一寸《ちよつと》出られませんか。』
『そうね、一寸《ちよつと》待つて下さい。』と急いで二階へ上《あが》つたが間《ま》もなく降《おり》て来て
『それでは其所《そこ》いらまで御一所《ごいつしよ》に歩《あ》るきませう。』
 二人は並んで黙つて路地を出た。出るや直《す》ぐ銀之助は
『よくこれが出しましたね。』と親指を静《しづ》の眼《め》の前へ突き出した。
『アラ彼《あん》な事を。相変《あひかは》らず口が悪いのね。』
『別れてから、たつた五年じアありませんか。』
『ほんとに五年になりますね、昨日《きのふ》のやうだけれど。』
二人《ふたり》の言葉は一寸《ちよつ》と途断《とぎ》れた。そして何所《どこ》へともなく目的《あてど》なく歩《あるい》て居るのである。
『今のこれとは何時《いつ》からです。』と銀之助は又《ま》た親指を出した。
『これはお止《よ》しなさいよ、変ですから。一昨年《をととし》の冬からです。』
『それまでは。』
『貴様《あなた》と不可《いけ》なくなつてから唯《た》だ家《うち》に居ました。』
『たゞ。』
『そうよ。』と言つて『おゝ薄ら寒い』と静《しづ》は銀之助に寄り添《そつ》た。銀之助は思はず左の手を静《しづ》の肩に掛けかけたが止《よ》した。
『僕も酔《よひ》が醒《さ》めかゝつて寒くなつて来た。静《しづ》ちやんさへ差《さし》つかへ無けれア彼《あ》の角《かど》の西洋料理へ上がつてゆつくり話しませう。』
 静《しづ》は一寸《ちよつと》考《かんが》へて居たが
『最早《もう》遅いでせう。』
『ナアに未《ま》だ。』
 静《しづ》は又《また》一寸《ちよつと》考へて
『貴郎《あなた》私《わたし》のお願《ねがひ》を叶《かな》へて下すつて。』と言はれて気が着《つ》き、銀之助は停止《たちど》まつた。
『実は僕《ぼく》今夜は五円札一枚しか持《もつ》て居ないのだ。これは僕の小使銭《こづかひせん》の余りだから可《い》いやうなものゝ若《も》しか二十円と纏《まとま》ると、鍵《かぎ》の番人をして居る妻君《さいくん》の手からは兎《と》ても取れつこない。どうかして僕が他《よそ》から工面《くめん》しなければならないのは貴女《あなた》にも解《わか》るでせう。だから今夜はこれだけお持《もち》なさい。余《あと》は二三日|中《うち》に如何《どう》にか為《し》ますから。』と紙入《かみいれ》から札《さつ》を出《だし》て静《しづ》に渡した。
『ほんとに私《わたし》は、こんなことが貴郎《あなた》に言はれた義理ぢアないんですけれど、手紙で申し上げたやうな訳《わけ》で……』
『最早《もう》可《い》いよ、僕には解《わか》つてるから。』
『だつて全く貴様《あなた》にお願ひして見る外《ほか》方法が尽《つき》ちやつたのですよ……。』
『最早《もう》解《わか》つてますよ。それで余《あと》の分《ぶん》は何《いづ》れ二三日|中《うち》に持《もつ》て来ます。』

 銀之助は静《しづ》に分《わか》れて最早《もう》歩くのが慊《いや》になり、車を飛ばして自宅《うち》に帰つた。遅くなるとか、閉《し》めても可《い》いとか房《ふさ》に言つたのを忘れて了《しま》つたのである。
 帰つて見ると未《ま》だ元子《もとこ》は帰宅《かへつ》て居ない。房《ふさ》も気慊《きげん》を取る言葉がないので沈黙《だまつ》て横を向いてると、銀之助は自分でウヰスキーの瓶《びん》とコツプを持《もつ》て二階へ駈《か》け上がつた。
 精《き》で三四杯あほり立てたので酔《よひ》が一時《いつとき》に発して眼《め》がぐらぐらして来た。此時《このとき》
『断然|元子《もとこ》を追ひ出して静《しづ》を奪つて来る。卑《いや》しくつても節操《みさを》がなくつても静《しづ》の方が可《い》い』といふ感が猛然と彼の頭に上《の》ぼつた。
『静《しづ》が可《い》い、静《しづ》が可《い》い』と彼は心に繰返《くりかへ》しながら室内をのそ/\歩いて居たが、突然ソハの上に倒れて両手を顔にあてゝ溢《あふ》るゝ涙を押《おさ》へた。


(明治40年9月「太陽」)

底本:「明治の文学 第22巻 国木田独歩」筑摩書房
   2001(平成13)年1月15日初版第1刷発行
底本の親本:「国木田独歩全集 4巻」学習研究社
   1966(昭和41)年1月
初出:「太陽」博文館
   1907(明治40)年9月
入力:iritamago
校正:多羅尾伴内
2004年7月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国木田独歩

石清虚——國木田獨歩

 雲飛《うんぴ》といふ人は盆石《ぼんせき》を非常に愛翫《あいぐわん》した奇人《きじん》で、人々から石狂者《いしきちがひ》と言はれて居たが、人が何と言はうと一|切《さい》頓着《とんぢやく》せず、珍《めづら》しい石の搜索《さうさく》にのみ日を送つて居た。
 或日《あるひ》近所《きんじよ》の川《かは》に漁《れふ》に出かけて彼處《かしこ》の淵《ふち》此所《こゝ》の瀬《せ》と網《あみ》を投《う》つて廻《ま》はるうち、ふと網に掛《かゝ》つたものがある、引《ひ》いて見たが容易《ようい》に上《あが》らないので川に入《はひ》つて探《さぐ》り試《こゝろ》みると一抱《ひとかゝへ》もありさうな石《いし》である。例の奇癖《きへき》は斯《かう》いふ場合《ばあひ》にも直《す》ぐ現《あら》はれ、若しや珍石《ちんせき》ではあるまいかと、抱《だ》きかゝへて陸《をか》に上《あ》げて見ると、果《はた》して! 四|面《めん》玲瓏《れいろう》、峯《みね》秀《ひい》で溪《たに》幽《かすか》に、亦《また》と類なき奇石《きせき》であつたので、雲飛《うんぴ》先生《せんせい》涙《なみだ》の出るほど嬉《うれ》しがり、早速《さつそく》家《いへ》に持《も》ち歸《かへ》つて、紫檀《したん》の臺《だい》を造《こしら》え之を安置《あんち》した。
 靈《れい》なる哉《かな》この石、天《てん》の雨《あめ》降《ふら》んとするや、白雲《はくうん》油然《ゆぜん》として孔々《こう/\》より湧出《わきい》で溪《たに》を越《こ》え峯《みね》を摩《ま》する其|趣《おもむき》は、恰度《ちやうど》窓《まど》に倚《よ》つて遙《はる》かに自然《しぜん》の大景《たいけい》を眺《なが》むると少《すこし》も異《ことな》らないのである。
 權勢家《けんせいか》某《なにがし》といふが居て此《この》靈妙《れいめう》を傳《つた》へ聞《き》き、一|見《けん》を求《もとめ》に來《き》た、雲飛《うんぴ》は大得意《だいとくい》でこれを座《ざ》に通《とほ》して石を見せると、某《なにがし》も大に感服《かんぷく》して眺《ながめ》て居たが急《きふ》に僕《ぼく》に命《めい》じて石を擔《かつ》がせ、馬《うま》に策《むちう》つて難有《ありがた》うとも何《なん》とも言はず去《い》つてしまつた。雲飛《うんぴ》は足《あし》ずりして口惜《くやし》がつたが如何《どう》することも出來《でき》ない。
 さて某《なにがし》は僕《ぼく》を從《したが》へ我家《わがや》をさして歸《かへ》る途《みち》すがら曩《さき》に雲飛《うんぴ》が石を拾《ひろ》つた川と同《おなじ》流《ながれ》に懸《かゝ》つて居る橋《はし》まで來ると、僕《ぼく》は少《すこ》し肩《かた》を休《やす》める積《つも》りで石を欄干《らんかん》にもたせて吻《ほつ》と一息《ひといき》、思《おも》はず手が滑《すべ》つて石は水煙《みづけむり》を立《た》て河底《かてい》に沈《しづ》んで了《しま》つた。
 言《い》ふまでもなく馬《うま》を打《う》つ策《むち》は僕《ぼく》の頭上《づじやう》に霰《あられ》の如く落《お》ちて來た。早速《さつそく》金《かね》で傭《やと》はれた其邊《そこら》の舟子《ふなこ》共《ども》幾人《いくにん》は魚《うを》の如く水底《すゐてい》を潛《くゞ》つて手に觸《ふ》れる石といふ石は悉《こと/″\》く岸《きし》に拾《ひろ》ひ上《あげ》られた。見る間に何《なん》十|個《こ》といふヘボ石の行列《ぎやうれつ》が出來た。けれども靈妙《れいめう》なる石は遂《つひ》に影《かげ》をも見せないので流石《さすが》の權勢家《けんせいか》も一先《ひとまづ》搜索《さうさく》を中止し、懸賞《けんしやう》といふことにして家《いへ》に歸《かへ》つた。懸賞百兩と聞《きい》て其日から河にどぶん/\飛《とび》込む者が日に幾十人《なんじふにん》さながらの水泳場《すゐえいぢやう》を現出《げんしゆつ》したが何人《だれ》も百兩にあり着《つ》くものは無《なか》つた。
 雲飛《うんぴ》は石を奪《うば》はれて落膽《らくたん》し、其後は家《うち》に閉籠《とぢこも》つて外出しなかつたが、石《いし》が河《かは》に落《おち》て行衞《ゆくへ》不明《ふめい》になつたことを傳《つた》へ聞《き》き、或朝《あるあさ》早《はや》く家を出で石の落《お》ちた跡《あと》を弔《とむら》ふべく橋上《けうじやう》に立《たつ》て下を見ると、河水《かすゐ》清徹《せいてつ》、例《れい》の石がちやんと目《め》の下《した》に横《よこた》はつて居たので其まゝ飛《と》び込《こ》み、石を懷《だい》て濡鼠《ぬれねずみ》のやうになつて逃《にぐ》るが如《ごと》く家《うち》に歸《かへ》つて來た。最早《もう》〆《しめ》たものと、今度は客間《きやくま》に石を置《お》かず、居間《ゐま》の床《とこ》に安置《あんち》して何人にも祕《かく》して、只だ獨《ひと》り樂《たのし》んで居た。
 すると一日《あるひ》一人《ひとり》の老叟《らうそう》が何所《どこ》からともなく訪《たづ》ねて來て祕藏《ひざう》の石を見せて呉《く》れろといふ、イヤその石は最早《もう》他人《たにん》に奪《と》られて了《しま》つて久《ひさ》しい以前から無いと謝絶《ことわ》つた。老叟《らうそう》は笑《わら》つて客間《きやくま》にちやんと据《す》えてあるではないかといふので、それでは客間《きやくま》に來《き》て御覽《ごらん》なさい決《けつ》して有りはしないからと案内《あんない》して内に入《はひ》つて見ると、こは如何《いか》に、居間《ゐま》に隱《かく》して置いた石が何時《いつ》の間《ま》にか客間の床《とこ》に据《すゑ》てあつた。雲飛《うんぴ》は驚愕《びつくり》して文句《もんく》が出《で》ない。
 老叟《らうそう》は靜《しづ》かに石を撫《な》でゝ、『我家《うち》の石が久《ひさし》く行方《ゆきがた》知《しれ》ずに居たが先づ/\此處《こゝ》にあつたので安堵《あんど》しました、それでは戴《いたゞ》いて歸《かへ》ることに致《いた》しましよう。』
 雲飛《うんぴ》は驚《おどろ》いて『飛《と》んだことを言はるゝ、これは拙者《せつしや》永年《ながねん》祕藏《ひざう》して居るので、生命《いのち》にかけて大事《だいじ》にして居るのです』
 老叟《らうそう》は笑《わら》つて『さう言はるゝには何《なに》か證據《しようこ》でも有《ある》のかね、貴君《あなた》の物《もの》といふ歴《れき》とした證據《しやうこ》が有るなら承《うけたま》はり度《た》いものですなア』
 雲飛《うんぴ》は返事《へんじ》に困《こま》つて居ると老叟《らうそう》の曰く『拙者《せつしや》は故《ふるく》から此石とは馴染《なじみ》なので、この石の事なら詳細《くはし》く知《しつ》て居るのじや、抑《そもそ》も此石には九十二の竅《あな》がある、其中の巨《おほき》な孔《あな》の中には五《いつゝ》の堂宇《だうゝ》がある、貴君《あなた》は之れを知つて居らるゝか』
 言はれて雲飛《うんぴ》は仔細《しさい》に孔中《こうちゆう》を見《み》ると果して小さな堂宇《だうゝ》があつて、粟粒《あはつぶ》ほどの大さで、一寸《ちよつと》見《み》た位《くらゐ》では決《けつ》して氣《き》が附《つか》ぬほどのものである、又た孔竅《あな》の數《かず》を計算《けいさん》するとこれ亦た九十二ある。そこで内心《ないしん》非常《ひじやう》に驚《おどろ》いたけれど尚《なほ》も石を老叟《らうそう》に渡《わた》すことは惜《をし》いので色々《いろ/\》と言《い》ひ爭《あらそ》ふた。
 老叟は笑《わら》つて『先《ま》づ左樣《さう》言《い》はるゝならそれでもよし、イザお暇《いとま》を仕《し》ましよう、大《おほき》にお邪魔《じやま》で御座《ござ》つた』と客間《きやくま》を出たので雲飛《うんぴ》も喜《よろこ》び門《もん》まで送《おく》り出て、内に還《かへ》つて見ると石《いし》が無い。こいつ彼《あ》の老爺《おやぢ》が盜《ぬす》んだと急《きふ》に追《おつ》かけて行くと老人|悠々《いう/\》として歩《ある》いて居るので直《す》ぐ追着《おひつ》くことが出來た。其|袂《たもと》を捉《とら》へて『餘《あんま》りじやアありませんか、何卒《どうか》返却《かへ》して戴《いたゞ》きたいもんです』と泣聲《なきごゑ》になつて訴《うつた》へた。
『これは異《い》なことを言《い》はるゝものじや、あんな大《おほき》な石《いし》が如何《どう》して袂《たもと》へ入《はひ》る筈《はず》がない』と老人《ろうじん》に言はれて見ると、袖《そで》は輕《かる》く風《かぜ》に飄《ひるが》へり、手には一本の長《なが》い杖《つゑ》を持《もつ》ばかり、小石《こいし》一つ持て居ないのである。ここに於て雲飛《うんぴ》は初《はじめ》て此《この》老叟《らうそう》決《けつし》て唯物《たゞもの》でないと氣《き》が着《つ》き、無理《むり》やりに曳張《ひつぱつ》て家《うち》へ連《つ》れ歸《かへ》り、跪《ひざまづ》いて石《いし》を求《もと》めた。
 乃《そこ》で叟の言《い》ふには『如何《どう》です、石は矢張《やは》り貴君《あなた》の物かね、それとも拙者《せつしや》のものかね。』
『イヤ全《まつ》たく貴君《あなた》の物で御座《ござい》ます、けれども何卒《どう》か枉《まげ》て私《わたくし》に賜《たまは》りたう御座《ござい》ます』
『それで事は解《わか》つた、室《へや》を見なさい、石は在るから。』
 言はれて内室《ないしつ》に入《はひ》つて見ると成程《なるほど》石は何時《いつ》の間《ま》にか紫檀《したん》の臺《だい》に還《かへ》つて居たので益々《ます/\》畏敬《ゐけい》の念《ねん》を高《たか》め、恭《うや/\》しく老叟を仰《あふ》ぎ見ると、老叟『天下《てんか》の寶《たから》といふものは總《すべ》てこれを愛惜《あいせき》するものに與《あた》へるのが當然《たうぜん》じや、此石《このいし》も自《みづか》ら能《よ》く其|主人《しゆじん》を選《えら》んだので拙者《せつしや》も喜《よろこば》しく思《おも》ふ、然し此石の出やうが少《すこ》し早《はや》すぎる、出やうが早《はや》いと魔劫《まごふ》が未《ま》だ除《と》れないから何時《いつ》かはこれを持《もつ》て居るものに禍《わざはひ》するものじや、一先《ひとまづ》拙者が持歸《もちかへ》つて三年|經《たつ》て後《のち》貴君《あなた》に差上《さしあ》げることに仕《し》たいものぢや、それとも今《いま》これを此處に留《と》め置《おけ》ば貴君《あなた》の三年の壽命《いのち》を縮《ちゞめ》るが可《よい》か、それでも今|直《す》ぐに欲《ほし》う御座るかな。』
 雲飛《うんぴ》は三年の壽命《じゆみやう》位《ぐらゐ》は何《なん》でもないと答《こた》へたので老叟、二本の指《ゆび》で一の竅《あな》に觸《ふれ》たと思ふと石は恰《あだか》も泥《どろ》のやうになり、手に隨《したが》つて閉《と》ぢ、遂《つひ》に三個《みつゝ》の竅《あな》を閉《ふさ》いで了《しま》つて、さて言ふには、『これで可《よ》し、殘《のこり》の竅《あな》の數《かず》が貴君《あなた》の壽命だ、最早《もう》これでお暇《いとま》と致《いた》さう』と飄然《へうぜん》老叟《らうそう》は立去《たちさつ》て了《しま》つた。留《と》めて留《と》まらず、姓名《な》を聞《きい》ても言《いは》ずに。
 其後石は安然《あんぜん》[#「然」に「ママ」の注記]に雲飛の内室《ないしつ》に祕藏《ひざう》されて其|清秀《せいしう》の態《たい》を變《かへ》ず、靈妙《れいめう》の氣《き》を失《うしな》はずして幾年《いくねん》か過《すぎ》た。
 或年|雲飛《うんぴ》用事《ようじ》ありて外出したひまに、小偸人《こぬすびと》が入《はひ》つて石を竊《ぬす》んで了《しま》つた。雲飛は所謂《いはゆ》る掌中《しやうちゆう》の珠《たま》を奪《うば》はれ殆ど死《し》なうとまでした、諸所《しよ/\》に人を出《だ》して搜《さが》さしたが踪跡《ゆきがた》が全《まる》で知《しれ》ない、其中二三年|經《た》ち或日|途中《とちゆう》でふと盆石《ぼんせき》を賣て居る者に出遇《であつ》た。近《ちかづ》いて視《み》ると例《れい》の石を持《もつ》て居るので大に驚《おどろ》き其|男《をとこ》を曳《ひき》ずつて役場《やくば》に出て盜難《たうなん》の次第《しだい》を訴《うつた》へた。竅《あな》の數《かず》と孔中《こうちゆう》の堂宇《だうゝ》の二|證據《しようこ》で、石は雲飛《うんぴ》のものといふに定《きま》り、石賣は或人より二十兩出して買《かつ》た品《しな》といふことも判然《はんぜん》して無罪《むざい》となり、兎《と》も角《かく》も石は首尾《しゆび》よく雲飛の手に還《かへ》つた。
 今度《こんど》は石を錦《にしき》に裹《つゝ》んで藏《くら》に納《をさ》め容易《ようい》には外《そと》に出さず、時々出して賞《め》で樂《たのし》む時は先づ香《かう》を燒《たい》て室《しつ》を清《きよ》める程《ほど》にして居た。ところが權官《けんくわん》に某といふ無法者《むはふもの》が居て、雲飛の石のことを聞《き》き、是非《ぜひ》に百兩で買《か》ひたいものだと申込《まうしこ》んだ。何《なに》がさて萬金|尚《な》ほ易《かへ》じと愛惜《あいせき》して居る石のことゆゑ、雲飛は一言のもとに之を謝絶《しやぜつ》して了《しま》つた。某は心中|深《ふか》く立腹《りつぷく》して、他《ほか》の事にかこつけて雲飛を中傷《ちゆうしやう》し遂《つひ》に捕《とら》へて獄《ごく》に投《とう》じたそして人を以て竊《ひそか》に雲飛《うんぴ》の妻《つま》に、實《じつ》は石が慾《ほし》いばかりといふ内意《ないゝ》を傳《つた》へさした。雲飛の妻《つま》は早速《さつそく》子《こ》と相談《さうだん》し石を某《なにがし》權官《けんくわん》に獻《けん》じたところ、雲飛は間《ま》もなく獄《ごく》を出された。
 獄《ごく》から歸《かへ》つて見ると石がない、雲飛《うんぴ》は妻を罵《のゝし》り子《こ》を毆《う》ち、怒《いかり》に怒《いか》り、狂《くる》ひに狂《くる》ひ、遂《つひ》に自殺《じさつ》しようとして何度《なんど》も妻子《さいし》に發見《はつけん》されては自殺することも出來《でき》ず、懊惱《あうなう》煩悶《はんもん》して居ると、一夜、夢《ゆめ》に一個《ひとり》の風采《ふうさい》堂々《だう/\》たる丈夫《ますらを》が現《あらは》れて、自分は石清虚《せきせいきよ》といふものである、決《けつ》して心配《しんぱい》なさるな、君と別《わか》れて居るのは一年|許《ばかり》のことで、明年八月二日、朝《あさ》早《はや》く海岱門《かいたいもん》に詣《まう》で見給《みたま》へ、二十錢の代價《だいか》で再《ふたゝ》び君《きみ》の傍《かたはら》に還《かへつ》て來ること受合《うけあひ》だと言ふ。其|言葉《ことば》の一々を雲飛は心に銘《めい》し、やゝ氣《き》を取直《とりなほ》して時節《じせつ》の來《く》るのを待《まつ》て居《ゐ》た。
 そこで彼《か》の權官《けんくわん》は首尾《しゆび》よく天下《てんか》の名石《めいせき》を奪《うば》ひ得《え》てこれを案頭《あんとう》に置《おい》て日々《ひゞ》眺《なが》めて居たけれども、噂《うはさ》に聞《き》きし靈妙《れいめう》の働《はたらき》は少しも見せず、雲の湧《わく》などいふ不思議《ふしぎ》を示《しめ》さないので、何時《いつ》しか石のことは打忘《うちわす》れ、室《へや》の片隅《かたすみ》に放擲《はうてき》して置いた。
 其|翌年《よくとし》になり權官は或《ある》罪《つみ》を以て職《しよく》を剥《はが》れて了《しま》い、尋《つい》で死亡《しばう》したので、僕《ぼく》が竊《ひそ》かに石を偸《ぬす》み出して賣《う》りに出《で》たのが恰も八月二日の朝であつた。
 此日雲飛は待《ま》ちに待《ま》つた日が來《き》たので夜《よ》の明方《あけがた》に海岱門《かいたいもん》に詣《まう》で見ると、果《はた》して一人の怪《あや》しげな男が名石《めいせき》を擔《かつ》いで路傍《みちばた》に立て居るのを見た。代《だい》を聞《き》くと果《はた》して二十錢だといふ、喜《よろこ》んで買《か》ひ取《と》り、石は又もや雲飛の手に還《かへ》つた。
 其後《そのご》雲飛《うんぴ》は壮健《さうけん》にして八十九歳に達《たつ》した。我が死期《しき》來《きた》れりと自分で葬儀《さうぎ》の仕度《したく》などを整《とゝの》へ又《ま》た子《こ》に遺言《ゆゐごん》して石を棺《くわん》に收《おさ》むることを命《めい》じた。果《はた》して間《ま》もなく死《し》んだので子は遺言《ゆゐごん》通《どほ》り石を墓中《ぼちゆう》に收《をさ》めて葬《はうむ》つた。
 半年ばかり經《たつ》と何者《なにもの》とも知れず、墓《はか》を發《あば》いて石を盜《ぬす》み去《さつ》たものがある。子は手掛《てがかり》がないので追《お》ふことも出來ず其まゝにして二三日|經《たつ》た。一日|僕《ぼく》を從《したが》へて往來《わうらい》を歩《ある》いて居ると忽《たちま》ち向《むかふ》から二人の男、額《ひたひ》から汗《あせ》を水《みづ》の如く流《なが》し、空中《くうちゆう》に飛《と》び上《あが》り飛《と》び上《あが》りして走《はし》りながら、大聲《おほごゑ》で『雲飛《うんぴ》先生《せんせい》、雲飛先生! さう追駈《おつかけ》て下《くださ》いますな、僅《わづ》か四兩の金《かね》で石を賣りたいばかりに仕たことですから』と、恰《あだか》も空中《くうちゆう》人《ひと》あるごとくに叫《さけ》び來《く》るのに出遇《であ》つた。
 矢庭《やには》に引捕《ひつとら》へて官《くわん》に訴《うつた》へると二の句《く》もなく伏罪《ふくざい》したので、石の在所《ありか》も判明《はんめい》した。官吏《やくにん》は直《す》ぐ石を取寄《とりよ》せて一見すると、これ亦た忽《たちま》ち慾心《よくしん》を起《おこ》し、これは官《くわん》に没收《ぼつしう》するぞと嚴《おごそ》かに言《い》ひ渡《わた》した。其處《そこ》で廷丁《てい/\》は石を庫《くら》に入んものと抱《だ》き上《あげ》て二三歩|歩《ある》くや手は滑《すべ》つて石は地《ち》に墮《お》ち、碎《くだ》けて數《すう》十|片《ぺん》になつて了《しま》つた。
 雲飛《うんぴ》の子《こ》は許可《ゆるし》を得て其|片々《へんぺん》を一々《ひとつ/\》拾《ひろ》つて家に持歸《もちかへ》り、再《ふたゝ》び亡父《なきちゝ》の墓《はか》に收《をさ》めたといふことである。

底本:「國木田獨歩全集 第四巻」学習研究社
   1966(昭和41)年2月10日初版発行
入力:小林徹
校正:しず
1999年6月22日公開
2004年7月1日修正
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国木田独歩

星——国木田独歩

 都に程《ほど》近き田舎《いなか》に年わかき詩人住みけり。家は小高き丘の麓《ふもと》にありて、その庭は家にふさわしからず広く清き流れ丘の木立《こだ》ちより走り出《い》でてこれを貫き過ぐ。木々は野生《のば》えのままに育ち、春は梅桜乱れ咲き、夏は緑陰深く繁《しげ》りて小川の水も暗く、秋は紅葉《もみじ》の錦《にしき》みごとなり。秋やや老いて凩《こがらし》鳴りそむれば物さびしさ限りなく、冬に入りては木の葉落ち尽くして庭の面《おも》のみ見すかさるる、中にも松杉の類《たぐい》のみは緑に誇る。詩人は朝夕にこの庭を楽しみて暮らしき。
 ある年の冬の初め、この庭の主人《あるじ》は一人《ひとり》の老僕と、朝な朝な箒《ははき》執りて落ち葉はき集め、これを流れ岸の七個所に積み、積みたるままに二十日あまり経《た》ちぬ。霜白く置きそむれば、小川の水の凍るも遠からじと見えたり。かくて日曜日の夕暮れ、詩人外より帰り来たりて、しばしが間庭の中をあなたこなたと歩み、清き声にて歌うは楽しき恋の歌ならめ。この詩人の身うちには年わかき血|温《あたた》かく環《めぐ》りて、冬の夜寒《よさむ》も物の数ならず、何事も楽しくかつ悲しく、悲しくかつ楽し、自ら詩作り、自ら歌い、自ら泣きて楽しめり。
 この夕は空高く晴れて星の光もひときわ鮮《あざ》やかなればにや、夜《よ》に入りてもややしばらくは流れの潯《ほとり》を逍遙《しょうよう》してありしが、ついに老僕をよびて落ち葉つみたる一つへ火を移さしめておのれは内に入りぬ。かくて人々深き眠りに入り夜ふけぬれど、この火のみはよく燃えつ、炎は小川の水にうつり、煙はますぐに立ちのぼりて、杉の叢立《むらだ》つあたりに青煙一抹《せいえんいちまつ》、霧のごとくに重し。
 夜はいよいよふけ、大空と地と次第に相近づけり。星一つ一つ梢《こずえ》に下り、梢の露一つ一つ空に帰らんとす。万籟《ばんらい》寂《せき》として声なく、ただ詩人が庭の煙のみいよいよ高くのぼれり。
 天に年わかき男星《おぼし》女星《めぼし》ありて、相隔つる遠けれど恋路《こいじ》は千万里も一里とて、このふたりいつしか深き愛の夢に入り、夜々の楽しき時を地に下りて享《う》け、あるいは高峰《たかみね》の岩|角《かど》に、あるいは大海原《おおうなばら》の波の上に、あるいは細渓川《ほそたにかわ》の流れの潯《ほとり》に、つきぬ睦語《むつごと》かたり明かし、東雲《しののめ》の空に驚きては天に帰りぬ。
 女星《めぼし》は早くも詩人が庭より立ち上る煙を見つけ、今宵《こよい》はことのほか寒く、天の河《かわ》にも霜降りたれば、かの煙たつ庭に下《お》りて、たき火かきたてて語りてんというに、男星ほほえみつ、相抱《あいいだ》きて煙たどりて音もなく庭に下《くだ》りぬ。女星の額の玉は紅《くれない》の光を射、男星のは水色の光を放てり。天津乙女《あまつおとめ》は恋の香《か》に酔いて力なく男星の肩に依《よ》れり。かくて二人《ふたり》は一山《ひとやま》の落ち葉燃え尽くるまで、つきぬ心を語りて黎明《あけがた》近くなりて西の空遠く帰りぬ。その次の夜もまた詩人は積みし落ち葉の一つを燃《や》かしむれば、男星女星もまた空より下《くだ》りて昨夜のごとく語りき。かくて土曜の夜まで、夜々詩人の庭より煙たち、夜ふくれば水色の光と紅の光と相並びてこの庭に下れど、詩人は少しもこれを知ることなし。
 七つの落ち葉の山、六《む》つまで焼きて土曜日の夜はただ一つを余しぬ。この一つより立つ煙ほそぼそと天にのぼれば、淡紅色《うすくれない》の霞《かすみ》につつまれて乙女《おとめ》の星先に立ち静かに庭に下れり。詩人が庭のたき火も今夜をかぎりなれば残り惜しく二人は語り、さて帰るさ、庭の主人《あるじ》に一語の礼なくてあるべからずと、打ち連れて詩人の室《しつ》に入れば、浮世のほかなる尊き顔の色のわかわかしく、罪なき眠りに入れる詩人が寝顔を二人はしばし見とれぬ。枕辺《まくらべ》近く取り乱しあるは国々の詩集なり。その一つ開きしままに置かれ、西詩《せいし》「わが心|高原《こうげん》にあり」ちょう詩のところ出《い》でてその中の
[#天から1字下げ]『いざさらば雪を戴《いただ》く高峰《たかね》』
なる一句赤き線《すじ》ひかれぬ。乙女の星はこれを見て早くも露の涙うかべ、年わかき君の心のけだかきことよと言い、さて何事か詩人の耳に口寄せて私語《ささや》き、私語《ささや》きおわれば恋人たち相顧みて打ちえみつ、詩人の優しき頬《ほお》にかわるがわる接吻《くちづけ》して、安けく眠りたまえと言い言い出《い》で去りたり。
 あくれば日曜日の朝、詩人は寝《ね》ざめの床に昨夜の夢を想《おも》い起こしぬ。夢に天津乙女《あまつおとめ》の額《ひたえ》に紅《くれない》の星|戴《いただ》けるが現われて、言葉なく打ち招くままに誘われて丘にのぼれば、乙女は寄りそいて私語《ささや》くよう、君は恋を望みたもうか、はた自由を願いたもうかと問うに、自由の血は恋、恋の翼《つばさ》は自由なれば、われその一を欠く事を願わずと答う、乙女ほほえみつ、さればまず君に見するものありと遠く西の空を指《さ》し、よく眼《まなこ》定めて見たまえと言いすてていずこともなく消え失《う》せたり。詩人はこの夢を思い起こすや、跳《は》ね起きて東雲《しののめ》の空ようやく白きに、独《ひと》り家を出《い》で丘に登りぬ。西の空うち見やれば二つの小さき星、ひくく地にたれて薄き光を放てり、しばらくして東の空|金色《こんじき》に染まり、かの星の光|自《おのず》から消えて、地平線の上に現われし連山の影|黛《まゆずみ》のごとく峰々に戴く雪の色は夢よりも淡し、詩人が心は恍惚《こうこつ》の境に鎔《と》け、その目には涙あふれぬ。これ壮年の者ならでは知らぬ涙にて、この涙のむ者は地上にて望むもかいなき自由にあこがる。しかるに壮年の人よりこの涙を誘うもののうちにても、天外にそびゆる高峰《たかね》の雪の淡々《あわあわ》しく恋の夢路を俤《おもかげ》に写したらんごときに若《し》くものあらじ。
 詩人は声はり上げて『わが心高原にあり』をうたい、『いざ去らば雪をいただく高峰』の句に至りて、その声ひときわ高く、その目は遠く連山の方《かた》を見やりて恋うるがごとく、憤るがごとく、肩に垂《た》るる黒髪《こくはつ》風にゆらぎ昇《のぼ》る旭《あさひ》に全身かがやけば、蒼空《あおぞら》をかざして立てる彼が姿はさながら自由の化身とも見えにき。(二十九年十一月作)

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「国民之友」
   1896(明治29)年12月
入力:土屋隆
校正:蒋龍
2009年3月28日作成
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国木田独歩

少年の悲哀——國木田獨歩

 少年《こども》の歡喜《よろこび》が詩であるならば、少年の悲哀《かなしみ》も亦《ま》た詩である。自然の心に宿る歡喜にして若《も》し歌ふべくんば、自然の心にさゝやく悲哀も亦《ま》た歌ふべきであらう。
 兎《と》も角《かく》、僕は僕の少年の時の悲哀の一ツを語つて見やうと思ふのである。(と一人の男が話しだした。)

     *     *     *

 僕は八歳《やつつ》の時から十五の時まで叔父の家《うち》で生育《そだつ》たので、其頃、僕の父母は東京に居られたのである。
 叔父の家は其土地の豪家で、山林田畑を澤山持つて、家に使ふ男女も常に七八人居たのである。
 僕は僕の少年の時代を田舍で過ごさして呉れた父母の好意を感謝せざるを得ない、若し僕が八歳の時父母と共に東京に出て居たならば、僕の今日は餘程違つて居ただらうと思ふ。少くとも僕の智慧は今よりも進んで居た代りに僕の心はヲーズヲース一卷より高遠にして清新なる詩想を受用し得ることが出來なかつただらうと信ずる。
 僕は野山を駈け暮らして、我幸福なる七年を送つた。叔父の家は丘の麓《ふもと》に在り、近郊には樹林多く、川あり泉あり池あり、そして程遠からぬ處に瀬戸内《せとうち》々海の入江がある。山にも野にも林にも溪《たに》にも海にも川にも僕は不自由を爲《し》なかつたのである。
 處が十二の時と記憶する、徳二郎といふ下男が或日僕に今夜面白い處に伴《つ》れてゆくが行かぬかと誘さうた。
「何處《どこ》だ」と僕は訊ねた。
「何處だと聞《きか》つしやるな。何處でも可《え》えじや御座んせんか、徳の伴れてゆく處に面白うない處はない」と徳二郎は微笑を帶びて言つた。
 此徳二郎といふ男は其頃二十五歳位、屈強な若者で、叔父の家には十一二の年から使はれて居る孤兒《みなしご》である。色の淺黒い、輪廓の正しい立派な男、酒を飮めば必ず歌ふ、飮《のま》ざるも亦《ま》た唄ひながら働くといふ至極元氣の可《よ》い男であつた。常《いつ》も樂しさうに見えるばかりか、心事《こゝろばせ》も至て正しいので孤兒には珍しいと叔父をはじめ土地の者皆に、感心せられて居たのである。
「然し叔父さんにも叔母さんにも内證《ないしよ》ですよ」と言つて、徳二郎は唄ひながら裏山に登つてしまつた。
 頃は夏の最中《もなか》、月影|鮮《さ》やかなる夜であつた。僕は徳二郎の後《あと》について田甫《たんぼ》に出で、稻の香高き畔路《あぜみち》を走つて川の堤《つゝみ》に出た。堤は一段高く、此處に上れば廣々とした野面《のづら》一面を見渡されるのである。未だ宵ながら月は高く澄んで冴《さ》えた光を野にも山にも漲ぎらし、野末には靄《もや》かゝりて夢の如く、林は煙をこめて浮ぶが如く、背の低い川楊《かはやなぎ》の葉末に置く露は珠のやうに輝いて居る。小川の末は間もなく入江、汐に滿ちふくらんで居る。船板をつぎ合はして懸けた橋の急に低くなつたやうに見ゆるのは水面の高くなつたので、川楊は半ば水に沈んで居る。
 堤の上はそよ吹く風あれど、川面《かはづら》は漣《さゞなみ》だに立たず、澄み渡る大空の影を映して水の面は鏡のやう。徳二郎は堤を下り、橋の下に繋《つな》いである小舟の纜《もやひ》を解いて、ひらりと乘ると今まで靜まりかへつて居た水面が俄《にはか》に波紋を起す。徳二郎は
「坊樣早く早く!」と僕を促しながら櫓《ろ》を立てた。
 僕の飛び乘るが早いか、小舟は入江の方へと下りはじめた。
 入江に近《ちかづ》くにつれて川幅次第に廣く、月は川面に其清光を涵《ひた》し、左右の堤は次第に遠ざかり、顧《かへりみ》れば川上は既に靄にかくれて、舟は何時しか入江に入つて居るのである。
 廣々した湖のやうな此入江を横ぎる舟は僕等の小舟ばかり。徳二郎は平時《いつも》の朗《ほがら》かな聲に引きかへ此夜は小聲で唄ひながら靜かに櫓を漕いで居る。潮の退《おち》た時は沼とも思はるゝ入江が高潮《たかしほ》と月の光とでまるで樣子が變り、僕には平時《いつも》見慣れた泥臭い入江のやうな氣がしなかつた。南は山影暗く倒《さかしま》に映り北と東の平野は月光蒼茫として何《いづ》れか陸、何れか水のけじめ[#「けじめ」に傍点]さへつかず、小舟は西の方を指して進むのである。
 西は入江の口、水狹くして深く、陸迫りて高く、此處を港に錨《いかり》を下ろす船は數こそ少いが形は大きく大概は西洋形の帆前船《ほまへせん》で、出積荷は此濱で出來る食鹽、其外土地の者で朝鮮貿易に從事する者の持船も少なからず、内海を往來《ゆきゝ》する和船もあり。兩岸の人家低く高く、山に據《よ》り水に臨む其|數《かず》數《す》百戸。
 入江の奧より望めば舷燈高くかゝりて星かとばかり、燈影低く映りて金蛇《きんだ》の如く。寂漠たる山色月影の裡《うち》に浮んで恰《あたか》も畫のやうに見えるのである。
 舟の進むにつれて此|小《ちひさ》な港の聲が次第に聞えだした。僕は今此港の光景を詳細《くは》しく説くことは出來ないが、其夜僕の眼に映つて今日尚ほあり/\と思ひ浮べることの出來る丈を言ふと、夏の夜の月明らかな晩であるから船の者は甲板に出で家の者は戸外《そと》に出で、海にのぞむ窓は悉《こと/″\》く開かれ、燈火《ともしび》は風にそよげども水面は油の如く、笛を吹く者あり、歌ふものあり、三絃《さみせん》の音につれて笑ひどよめく聲は水に臨める青樓より起るなど、如何《いか》にも樂しさうな花やかな有樣であつたことで、然し同時に此花やかな一幅の畫圖を包む處の、寂寥たる月色山影水光を忘るゝことが出來ないのである。
 帆前船の暗い影の下を潜り、徳二郎は舟を薄暗い石段の下《もと》に着けた。
「お上りなさい」と徳は僕を促した。堤の下で「お乘《のり》なさい」と言つたぎり彼は舟中僕に一語を交へなかつたから、僕は何の爲めに徳二郎が此處に自分を伴ふたのか少しも解らない、然し言ふまゝに舟を出た。
 纜《もやひ》を繋《つな》ぐや徳二郎も續いて石段に上《あが》り、先に立つてずん/\登つて行く、其後《そのあと》から僕も無言で從《つい》て登つた。石段は其幅半間より狹く、兩方は高い壁である。石段を登りつめると或家の中庭らしい處へ出た。四方板塀で圍まれ隅に用水桶が置いてある、板塀の一方は見越《みこし》に夏蜜柑の木らしく暗く繁つたのが其|頂《いたゞき》を出して居る、月の光はくつきりと地に印して寂《せき》とし人の氣勢《けはひ》もない。徳二郎は一寸立ち止まつて聽耳を立てたやうであつたが、つか/\と右なる方の板塀に近《ちかづ》いて向へ押すと此處は潜内《くゞり》になつて居て黒い戸が音もなく開いた。見ると戸に直ぐ接して梯子段《はしごだん》がある。戸が開くと同時に足音靜に梯子段を下りて來て、
「徳さんかえ?」と顏をのぞいたのは若い女であつた。
「待つたかね?」と徳二郎は女に言つて、更に僕の方を顧み、
「坊樣を連れて來たよ」と言ひ足した。
「坊樣お上《あが》んなさいナ。早くお前さんも上つて下さい、此處でぐず/\して居ると可《い》けないから」と女は徳二郎を促したので、徳二郎は早くも梯子段を登りはじめ、
「坊樣暗う御座いますよ」と言つたぎり、女と共に登つて了《しま》つたから僕も爲方《しかた》なしに其後に從《つ》いて暗い、狹い、急な梯子段を登つた。
 何ぞ知らん此家は青樓の一で、今女に導かれて入つた座敷は海に臨んだ一室《ひとま》、欄《らん》に凭《よ》れば港内は勿論入江の奧、野の末、さては西なる海の涯《はて》までも見渡されるのである。然し坐敷は六疊敷の、疊も古び、見るからして餘り立派な室《へや》ではなかつた。
「坊樣、さア此處へ入《いら》つしやい」と女は言つて坐布團を欄《てすり》の下に運び、夏橙《なつだい/\》其他《そのほか》の果物菓子などを僕にすゝめた。そして次の間を開けると酒肴の用意がしてある。それを運び込んで女と徳二郎は差向に坐つた。
 徳二郎は平常《ふだん》にない懊《むづか》しい顏をして居たが、女のさす盃を受けて一呼吸《ひといき》に呑み干し、
「愈々《いよ/\》何日《いつ》と決定《きま》つた?」と女の顏を熟《ぢつ》と見ながら訊ねた。女は十九か二十の年頃、色青ざめて左《さ》も力なげなる樣は病人ではないかと僕の疑つた位。
「明日《あす》、明後日《あさつて》、明々後日《やのあさつて》」と女は指を折つて、「明々後日《やのあさつて》に決定《きま》つたの。然しね、私は今になつて又氣が迷つて來たのよ」と言ひつゝ、首を垂れて居たが、そつと袖で眼を拭つた樣子。其間に徳二郎は手酌で酒をグイグイ煽《あふ》つて居た。
「今更|如何《どう》と言つて爲方《しかた》がないじやアないか。」
「それはさうだけれど――考へて見ると死んだはうが何程《なんぼ》増しだか知れないと思つて。」
「ハツハツヽヽヽヽ坊樣、此|姉樣《ねえさん》が死ぬと言ひますが如何しましようか。――オイオイ約束の坊樣を連れて來たのだ、能《よ》く見て呉れないか。」
「先刻《さつき》から見て居るのよ、成程能く似て居ると思つて感心して居るのよ。」と女は言つて笑を含んで熟《ぢつ》と僕の顏を見て居る。
「誰に似て居るのだ。」と僕は驚いて訊ねた。
「私の弟にですよ、坊樣を弟に似て居るなどともつたい[#「もつたい」に傍点]ない事だけれど、そら、これを御覽なさい。」と女は帶の間から一枚の寫眞を出して僕に見せた。
「坊樣、此姉樣が其寫眞を徳に見せましたから、これは宅《うち》の坊樣と少しも變らんと言ひましたら是非連れて來て呉れと頼みますから今夜坊樣を連れて來たのだから、澤山御馳走を爲《し》て貰はんと可《い》けませんぞ。」と徳二郎は言ひつゝも止め度なく飮んで居る。女は僕に摺寄《すりよ》つて、
「サア何でも御馳走しますとも、坊樣何が可《よ》う御座いますか」と女は優しく言つて莞爾《につこり》笑つた。
「何にもいらない」と僕は言つて横を向いた。
「それじや舟へ乘りましよう、私と舟へ乘りましよう、え、さう爲ましよう。」と言つて先に立つて出て行くから僕も言ふまゝに女の後に從いて梯子段を下りた、徳二郎は唯《た》だ笑つて見て居るばかり。
 先の石段を下りるや若き女は先《まづ》僕を乘らして後、纜《もやひ》を解いてひらりと[#「ひらりと」に傍点]飛び乘り、さも輕々と櫓を操《あやつ》りだした。少年《こども》ながらも僕は此女の擧動《ふるまひ》に驚いた。
 岸を離れて見上げると徳二郎は欄《てすり》に倚《よ》つて見下ろして居た。そして内よりは燈《あかり》が射し、外よりは月の光を受けて彼の姿が明白《はつきり》と見える。
「氣をつけないと危難《あぶな》いぞ!」と、徳二郎は上から言つた。
「大丈夫!」と女は下から答へて「直ぐ歸るから待《まつ》て居てお呉れ。」
 舟は暫時《しばら》く大船小船六七|艘《さう》の間を縫ふて進んで居たが間もなく廣々とした沖合に出た。月は益々冴えて秋の夜かと思はれるばかり、女は漕手《こぐて》を止《とゞ》めて僕の傍に坐つた。そして月を仰ぎ又|四邊《あたり》を見廻はしながら、
「坊樣、あなたはお何歳《いくつ》?」と訊ねた。
「十二。」
「私の弟の寫眞も十二の時ですよ、今は十六……、さうだ十六だけれど十二の時に別れたぎり會はないのだから今でも坊樣と同じやうな氣がするのですよ。」と言つて僕の顏を熟《ぢつ》と見て居たが忽ち涙ぐんだ。月の光を受けて其顏は猶更《なほさら》蒼《あを》ざめて見えた。
「死んだの?」
「否《いゝえ》、死んだのなら却て斷念《あきらめ》がつきますが別れた限《ぎり》、如何なつたのか行方《いきがた》が知れないのですよ。兩親《ふたおや》に早く死別れて唯《た》つた二人の姉弟《きやうだい》ですから互に力にして居たのが今では別れ/\になつて生死《いきしに》さへ分らんやうになりました。それに私も近い中朝鮮に伴《つ》れて行かれるのだから最早《もう》此世で會うことが出來るか出來ないか分りません。」と言つて涙が頬をつたうて流れるのを拭きもしないで僕の顏を見たまゝすゝり泣きに泣いた。
 僕は陸の方を見ながら默つて此話を聞いて居た。家々の燈火《ともしび》は水に映つてきら/\と搖曳《ゆら》いで居る。櫓の音をゆるやかに軋《きし》らせながら大船の傳馬《てんま》を漕《こい》で行く男は澄んだ聲で船歌を流す。僕は此時、少年心《こどもごゝろ》にも言ひ知れぬ悲哀《かなしみ》を感じた。
 忽ち小舟を飛ばして近いて來た者がある、徳二郎であつた。
「酒を持つて來た!」と徳は大聲で二三間先から言つた。
「嬉しいのねえ、今坊樣に弟のことを話して泣いて居たの」と女の言ふ中《うち》徳二郎の小舟は傍に來た。
「ハツハツヽヽヽ大概《おほかた》そんなことだらうと酒を持て來たのだ、飮みな/\私《わし》が歌つてやる!」と徳二郎は既に醉つて居るらしい。女は徳二郎の渡した大コツプに、滿々《なみ/\》と酒をついで呼吸《いき》もつかずに飮んだ。
「も一ツ」と今度は徳二郎が注《つい》でやつたのを女は又もや一呼吸《ひといき》に飮み干して月に向《むかつ》て酒氣を吻《ほつ》と吐いた。
「サアそれで可《よ》い、これから私《わし》が歌つて聞かせる。」
「イヽエ徳さん、私は思切つて泣きたい、此處なら誰も見て居ないし聞えもしないから泣かして下さいな、思ひ切つて泣かして下さいな。」
「ハツハツヽヽヽヽそんなら泣きナ、坊樣と二人で聞くから」と徳二郎は僕を見て笑つた。
 女は突伏《つゝぷ》して大泣に泣いた。さすがに聲は立て得ないから背を波打たして苦しさうであつた。徳二郎は急に眞面目な顏をしてこの有樣を見て居たが、忽ち顏を背向《そむ》け山の方を見て默つて居る、僕は暫《しばら》くして
「徳、最早《もう》歸らう」と言ふや女は急に頭を上げて
「御免なさいよ、眞實《ほんと》に坊樣は私の泣くのを見て居てもつまりません。……私坊樣が來て下さつたので弟に會つたやうな氣が致しました。坊樣も御達者で早く大きくなつて豪《えら》い方になるのですよ」とおろ/\聲で言つて「徳さん眞實《ほんと》に餘り遲くなるとお宅《うち》に惡いから早く坊樣を連れてお歸りよ、私は今泣いたので昨日《きのふ》からくさ/\して居た胸がすい[#「すい」に傍点]たやうだ。」

     *     *     *

 女は僕等の舟を送つて三四町も來たが、徳二郎に叱られて漕手《こぐて》を止めた、其中に二艘の小舟はだん/\遠ざかつた。舟の別れんとする時、女は僕に向て何時までも
「私の事を忘れんで居て下さいましナ」と繰返して言つた。
 其後十七年の今日まで僕は此夜の光景を明白《はつきり》と憶《おぼ》えて居て忘れやうとしても忘るゝことが出來ないのである。今も尚ほ憐れな女の顏が眼のさきにちらつく。そして其夜、淡《うす》い霞のやうに僕の心を包んだ一片の哀情《かなしみ》は年と共に濃くなつて、今はたゞ其時の僕の心持を思ひ起してさへ堪え難い、深い、靜かな、やる瀬のない悲哀《かなしみ》を覺えるのである。
 其後徳二郎は僕の叔父の世話で立派な百姓になり今では二人の兒の父親になつて居る。
 流《ながれ》の女は朝鮮に流れ渡つて後、更に何處《いづこ》の涯《はて》に漂泊して其|果敢《はか》ない生涯を送つて居るやら、それとも既に此世を辭して寧《むし》ろ靜肅なる死の國に赴《おもむ》いたことやら、僕は無論知らないし徳二郎も知らんらしい。


(明治三十五年)

底本:「日本文學全集4 國木田獨歩」新潮社
   1964(昭和39)年4月20日発行
入力:網迫
校正:丹羽倫子
1999年2月12日公開
2004年5月26日修正
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国木田独歩

小春——国木田独歩

 十一月|某日《それのひ》、自分は朝から書斎にこもって書見をしていた。その書はウォーズウォルス詩集である、この詩集一冊は自分に取りて容易ならぬ関係があるので。これを手に入れたはすでに八年前のこと、忘れもせぬ九月二十一日の夜《よ》であった。ああ八年の歳月! 憶《おも》えば夢のようである。
 ことにこの一、二年はこの詩集すら、わずかに二、三十巻しかないわが蔵書中にあってもはなはだしく冷遇せられ、架上最も塵《ちり》深き一隅《いちぐう》に放擲《ほうてき》せられていた。否《いな》、一月に一度ぐらいは引き出されて瞥見《べっけん》された事もあったろう、しかし要するに瞥見たるに過ぎない、かつて自分の眼光を射て心霊の底深く徹した一句一節は空《むな》しく赤い線《すじ》青い棒で標点《しるしづ》けられてあるばかりもはや自分を動かす力は消え果てていた。今さらその理由を事々《ことごと》しく自問し自答するにも当たるまい、こんな事は初めからわかっているはずである、『マイケル』を読んでリウクの命運のために三行の涙をそそいだ自分はいつしかまたリウクを誘うた浮世の力に誘われたのだ。
 そして今も今、いと誇り顔に「われは老熟せり」と自ら許している。アア老熟! 別に不思議はない、
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[#横組み]“Man descends into the Vale of years.”[#横組み終わり]
『人は歳月の谷間へと下る』
[#ここで字下げ終わり]
という一句が『エキスカルション』第九編中にあって自分はこれに太く青い線《すじ》を引いてるではないか。どうせこれが人の運命《おさだまり》だろう、その証拠には自分の友人の中でも随分自分と同じく、自然を愛し、自然を友として高き感情の中に住んでいた者もあったが、今では立派な実際家になって、他人《ひと》のうわさをすれば必ず『彼奴《きゃつ》は常識《コンモンセンス》が乏しい』とか、『あれは事務家だえらいところがある』など評し、以前《もと》の話が出ると赤い顔をして、『あの時はお互いにまだ若かった』と頭をかくではないか。
 自分がウォーズウォルスを見捨てたのではない、ウォーズウォルスが自分を見捨てたのだ。たまさか引き出して見たところで何がわかろう。ウォーズウォルスもこういう事務家や老熟先生にわかるようには歌わなかったに違いない。
 ところで自分免許のこの老熟先生も実はさすがにまるきり老熟し得ないと見えて、実際界の事がうまく行かず、このごろは家にばかり引きこもっていて多く世間と交わらない。その結果でもあろうかウォーズウォルス詩集までが一週間に一、二度ぐらいは机の上に置かれるようになった。
 さて十一月|某日《それのひ》、自分は朝から書斎にこもって書見をしていた、とあらためて書き出す。

 昨日《きのう》も今日《きょう》も秋の日はよく晴れて、げに小春《こはる》の天気、仕事するにも、散策を試みるにも、また書を読むにも申し分ない気候である。ウォーズウォルスのいわゆる
『一年の熱去り、気は水のごとくに澄み、天は鏡のごとくに磨《みが》かれ、光と陰といよいよ明らかにして、いよいよ映照せらるる時』
である、気が晴ればれする、うちにもどこか引き緊《し》まるところがあって心が浮わつかない。断行するにも沈思するにも精いっぱいできる。感情も意志も知力もその能を尽くすべき時である。冬はいじけ[#「いじけ」に傍点]春はだらけ[#「だらけ」に傍点]夏はやせる人でも、この季節ばかりは健康と精力とを自覚するだろう。それで季節が季節だけに自分のウォーズウォルス詩集に対する心持ちがやや変わって来た、少しはしんみり[#「しんみり」に傍点]と詩の旨を味わうことができるようである。自分は南向きの窓の下で玻璃《ガラス》越しの日光を避《よ》けながら、ソンネットの二、三編も読んだか。そして[#横組み]“Line Composed a few miles above Tintern Abbey”[#横組み終わり]の雄編に移った。この詩の意味は大略左のごとくである。
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 五年は経過せり[#「五年は経過せり」に白丸傍点]。しかしてわれ今再びこの河畔《かはん》に立ってその泉流の咽《むせ》ぶを聴《き》き、その危厳のそびゆるを仰ぎ、その蒼天《そうてん》の地に垂《た》れて静かなるを観《み》るなり。日は来たりぬ、われ再びこの暗く繁《しげ》れる無花果《いちじく》の樹陰《こかげ》に座して、かの田園を望み、かの果樹園を望むの日は再び来たりぬ。
 われ今再びかの列樹《なみき》を見るなり。われ今再びかの牧場を見るなり。緑草直ちに門戸に接するを見、樹林の間よりは青煙|閑《しず》かに巻きて空にのぼるを見る、樵夫《しょうふ》の住む所、はた隠者の独座して炉に対するところか。
 これらの美なる風光はわれにとりて、過去五年の間、かの盲者における景色のごときものにてはあらざりき。一室に孤座する時[#「一室に孤座する時」に白丸傍点]、都府の熱閙場裡[#「都府の熱閙場裡」に白丸傍点]([#割り注]ねっとうじょうり[#割り注終わり])にあるの日[#「にあるの日」に白丸傍点]、われこの風光に負うところありたり[#「われこの風光に負うところありたり」に白丸傍点]、心屈し体[#「心屈し体」に白丸傍点]倦《う》むの時に当たりて[#「むの時に当たりて」に白丸傍点]、わが血わが心はこれらを[#「わが血わが心はこれらを」に白丸傍点]懐《おも》うごとにいかに甘き美感を[#「うごとにいかに甘き美感を」に白丸傍点]享《う》けて躍りたるぞ[#「けて躍りたるぞ」に白丸傍点]、さらに負うところの大なる者は[#「さらに負うところの大なる者は」に白丸傍点]、われこの不可思議なる天地の秘義に悩まさるるに当たり[#「われこの不可思議なる天地の秘義に悩まさるるに当たり」に白丸傍点]、これらの風光を憶[#「これらの風光を憶」に白丸傍点]([#割り注]おも[#割り注終わり])うことによりて[#「うことによりて」に白丸傍点]、その圧力を[#「その圧力を」に白丸傍点]支《ささ》え得たることなり[#「え得たることなり」に白丸傍点]。もしそれこれを憶うていよいよ感じ、瞑想[#「もしそれこれを憶うていよいよ感じ、瞑想」に白丸傍点]([#割り注]めいそう[#割り注終わり])静思の極にいたればわれ実に一呼吸の機微に万有の生命と触着するを感じたりき[#「静思の極にいたればわれ実に一呼吸の機微に万有の生命と触着するを感じたりき」に白丸傍点]
 もしこの事、単にわが空漠《くうばく》たる信念なりとするも、わが心この世の苦悩にもがき暗憺《あんたん》たる日夜《にちや》を送る時に当たりて、われいかにしばしば汝《なんじ》に振り向きたるよ、ああ[#「ああ」に二重丸傍点]ワイ[#「ワイ」に二重傍線]の流[#「の流」に二重丸傍点]! 林間の逍遙子[#「林間の逍遙子」に二重丸傍点]([#割り注]しょうようし[#割り注終わり])よ[#「よ」に二重丸傍点]、いかにしばしばわが心汝に振り向きたるよ[#「いかにしばしばわが心汝に振り向きたるよ」に二重丸傍点]!
 しかしてわれ今、再びここに立つ。わが心は独《ただ》に今のこの楽しさを感ずるのみならず、実にまた来たるべき歳月におけるわが生命とわが食物とは今のこの時の感得中にあるべきなり[#「実にまた来たるべき歳月におけるわが生命とわが食物とは今のこの時の感得中にあるべきなり」に傍点]。あえて望むはその感得の児童の際のごとからんことなり。
 あの時は山羊《やぎ》のごとく然《しか》り山野泉流ただ自然の導くままに逍遙《しょうよう》したり。あの時は飛瀑《ひばく》の音、われを動かすことわが情《こころ》のごとく、巌《いわお》や山や幽※[#「二点しんにょう+(穴かんむり/豬のへん)」、第4水準2-90-1]《ゆうすい》なる森林や、その色彩形容みなあの時においてわれを刺激すること食欲のごときものありたり。すなわちあの時はただ愛、ただ感ありしのみ、他に思考するところの者を藉《か》り来たりて感興を助くるに及ばざりしなり。されどかの時はすでに業《すで》に過ぎ逝《ゆ》きたり。
 しかもわれはこの経過を[#「しかもわれはこの経過を」に白丸傍点]唸《なげ》かず哀[#「かず哀」に白丸傍点]([#割り注]かな[#割り注終わり])しまざるなり[#「しまざるなり」に白丸傍点]。われはこの損失を償いて余りある者を得たり。すなわちわれは思想なき児童の時と異なり、今は自然を観ることを学びたり[#「今は自然を観ることを学びたり」に二重丸傍点]。今や人情の幽音悲調に耳を傾けたり[#「今や人情の幽音悲調に耳を傾けたり」に二重丸傍点]。今や落日[#「今や落日」に二重丸傍点]、大洋[#「大洋」に二重丸傍点]、清風[#「清風」に二重丸傍点]、蒼天[#「蒼天」に二重丸傍点]、人心を一貫して流動する所のものを感得したり[#「人心を一貫して流動する所のものを感得したり」に二重丸傍点]。
 かるが故《ゆえ》にわれは今なお牧場、森林、山岳を愛す、緑地の上、窮天の間、耳目《じもく》の触るる所の者を愛す、これらはみなわが最純なる思想の錨《いかり》、わが心わが霊及びわが徳性の乳母《うば》、導者、衛士《えいし》たり。
 ああわが最愛の友よ(妹ドラ嬢を指《さ》す)、汝《なんじ》今われと共にこの清泉の岸に立つ、われは汝の声音中にわが昔日の心語を聞き、汝の驚喜して閃《ひらめ》く所の眼光裡にわが昔日の快心を読むなり。ああ! われをしてしばしなりとも汝においてわが昔日を観取せしめよ、わが最愛の妹よ!
 そもそもまたかく祈る所以《ゆえん》の者は、自然は決して彼を愛せし者に背[#「自然は決して彼を愛せし者に背」に二重丸傍点]([#割り注]そむ[#割り注終わり])かざりしをわれ知ればなり[#「かざりしをわれ知ればなり」に二重丸傍点]。われらの生涯を通じて歓喜より歓喜へと導くは彼の特権なるを知ればなり。彼より[#「彼より」に傍点]享《う》くる所の静と[#「くる所の静と」に傍点]、美と[#「美と」に傍点]、高の感化は[#「高の感化は」に傍点]、世の毒舌[#「世の毒舌」に傍点]、妄断[#「妄断」に傍点]([#割り注]もうだん[#割り注終わり])、嘲罵《ちょうば》、軽蔑をしてわれらを犯さしめず[#「軽蔑をしてわれらを犯さしめず」に傍点]、われらの楽しき信仰を擾[#「われらの楽しき信仰を擾」に傍点]([#割り注]みだ[#割り注終わり])るなからしむるを知ればなり[#「るなからしむるを知ればなり」に傍点]。
 かるが故に[#「かるが故に」に二重丸傍点]、月光をして汝[#「月光をして汝」に二重丸傍点](妹)の逍遙を照らしめよ[#「の逍遙を照らしめよ」に二重丸傍点]、霧深き山谷の風をしてほしいままに汝を吹かしめよ[#「霧深き山谷の風をしてほしいままに汝を吹かしめよ」に二重丸傍点]。汝今日の狂喜は他日汝の裏に熟して荘重深沈なる歓《よろこび》と化し汝の心はまさに※[#「(冫+熈-れんが)/れんが」、第3水準1-14-55]《たの》しき千象の宮、静かなる万籟《ばんらい》の殿たるべし。
 ああ果たしてしからんか、あるいは孤独、あるいは畏懼《いく》、あるいは苦痛、あるいは悲哀にして汝を悩まさん時、汝はまさにわがこの言を憶《おも》うべし。
 他日もし、われまた汝を見るあたわざるの地にあらんか、汝まさにわれと共にこの清泉の岸に立ちしことを忘るなかれ。
[#ここで字下げ終わり]
 まずザットこういう意味である。自分は繰り返して読んだ。そしてどういう句に最も強くアンダーラインしてあるかと見れば、最初の『五年は経過せり[#「五年は経過せり」に白丸傍点]』の一句及び『わが心は独《ただ》に今のこの楽しさを感ずるのみならず、実にまた来たるべき歳月におけるわが生命《いのち》とわが食物とは今のこの時の感得中にあるべきなり』の句を始めとして『自然は決して彼を愛せし者に背《そむ》かざりし』の句のごとき、そして
[#ここから4字下げ]
[#ここから横組み]
“Therefore let the moon
Shine on thee in thy solitary walk;
And let the misty mountain winds
be free to blow against thee.”
[#ここで横組み終わり]
[#ここで字下げ終わり]
の句に至っては二重にも線が引いてある。何のために引いたか、そもそもまたこの濃い青い線をこれらの句の下に引いたのは、いつであるか。
『七年は経過せり』と自分は思わず独語した。そうだ。そうだ! 七年は夢のごとくに過ぎた。

 自分が最も熱心にウォーズウォルスを読んだのは豊後《ぶんご》の佐伯《さいき》にいた時分である。自分は田舎《いなか》教師としてこの所に一年間滞在していた。
 自分は今ワイ[#「ワイ」に二重傍線]河畔の詩を読んで、端《はし》なく思い起こすは実にこの一年間の生活及び佐伯の風光である。かの地において自分は教師というよりもむしろ生徒であった、ウォーズウォルスの詩想に導かれて自然を学ぶところの生徒であった。なるほど七年は経過した。しかし自分の眼底にはかの地の山岳、河流、渓谷、緑野、森林ことごとく鮮明に残っていて、わが故郷の風物よりも幾倍の色彩を放っている。なぜだろう?
『月光をして汝《なんじ》の逍遙《しょうよう》を照らさしめ』、自分は夜となく朝となく山となく野となくほとんど一年の歳月を逍遙に暮らした。『山谷《さんこく》の風をしてほしいままに汝を吹かしめよ』、自分はわが情とわが身とを投げ出して自然の懐《ふところ》に任した。あえて佐伯をもって湖畔詩人の湖国と同一とはいわない、しかし湖国《ここく》の風土を叙して
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 そこには雨、心より降り、晴るる時、一段まばゆき天気を現わし、鳴らざりし泉は鳴り、響かざりし滝は響き、泉も滝も、水あふるれど少しも濁らず、波も泡《あわ》も澄み渡り青味を帯べり、
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とウォーズウォルスが言いしを真とすればわが佐伯も実にその通りである。
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 往々雨の丘より丘に移るに当たりて、あるいは近くあるいは遠く、あるいは幽《くら》くあるいは明らかに、
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というもまた全く同じである、もしそれ雲霧《うんむ》を説いて
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 あるいは黙然《もくねん》遊動して谷より谷に移るもの、往々にして動かざる自然を動かし、変わらざる景色を変え、塊然たる物象を化して夢となし、幻《げん》となし、霊となし、怪となし、
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というに至っては水多く山多き佐伯また実にそうである、しかししいてわが佐伯をウォーズウォルスの湖国と対照する必要はない。手帳《ノートブック》と鉛筆とを携えて散歩に出掛けたスコットをばあざけりしウォーズウォルスは、決して写実的に自然を観《み》てその詩中に湖国の地誌と山川草木を説いたのではなく、ただ自然その物の表象変化を観てその真髄の美感を詠じたのであるから、もしこの詩人の詩文を引いて対照すれば、わが日本国中数えきれぬほどの同風光を見いだすだろう。
 ただ一|言《げん》する、『自分が真にウォーズウォルスを読んだは佐伯におる時で、自分がもっとも深く自然に動かされたのは佐伯においてウォーズウォルスを読んだ時である』ということを。
 爾来《じらい》数年の間自分は孤独、畏懼《いく》、苦悩、悲哀のかずかずを尽くした、自分は決して幸福な人ではなかった、自分の生活《ライフ》は決して平坦《へいたん》ではなかった。『ああワイ[#「ワイ」に二重傍線]の流れ! 林間の逍遙子よ、いかにしばしばわが心汝に振り向きたるよ!』その通りであった。わが心はこれらの圧力を加えらるるごとにしばしば藩匠川|畔《はん》の風光を憶《おも》った。
 今やいかに、今やいかに、わがこの一、二年の生活はほとんど佐伯を忘れしめ、しかしてたまさかに佐伯を憶えばあの時の生活はわれながらわれのごとくには思われなくなった。

 自分は詩集をそのままにして静かに佐伯のことを憶《おも》いはじめた。さすがに忘れ果ててはいない、あの時の事この時のこと、自分の繰り返した逍遙の時を憶うにつけてその時自分の目に彫り込まれた風光は鮮《あざ》やかに現われて来る、画《え》を見るよりも鮮明に現われて来る。秋の空澄み渡って三里隔つる元越山の半腹からまっすぐに立ち上る一縷《いちる》の青煙《せいえん》すら、ありありと目に浮かんで来る。そこで自分は当時の日記を出して、かしこここと拾い読みに読んではその時の風光を思い浮かべていると
『兄《にい》さんお宅《うち》ですか』と戸外《そと》から声を掛けた者がある。
『お上がり』と自分は呼んでなお日記を見ていた。
 自分の書斎に入《はい》って来たるは小山《こやま》という青年で、ちょうど自分が佐伯にいた時分と同年輩の画家である、というより画家たらんとて近ごろ熱心に勉強している自分と同郷の者である。彼は常に自分を兄さんと呼んでいる。
『ご勉強ですか。』
『いや、そうじゃアない、今ウォーズウォルスを読んで佐伯のことを思い出したから日記を見ていたところだ。』
『どうです散歩にお出になりませんか、今日は写生しようと思って道具を持って来ました。』
『なるほど、将几《しょうぎ》ができたね。』
『やっと買いました、大枚一円二十五銭を投じたのですがね、未《いま》だ一度しか使って見ません。』
と畳んで棒のごとくする樫《かし》の将几を開いて見せた。
『いよいよ本式になったナ』と自分は将几と小山とを見比べて言った。
『そうです、もうここまで行けば後《あと》へは退《ひ》けません』と言い放ったが何となくかれの顔色はすぐれなかった、というものはそのはずだ、彼は故郷なる父母の意に反してその将来を決しているからである。画《え》に対する彼の情は燃ゆるようで、ほとんど本気のさたかと彼の友は疑うほどである。これまで彼は父母の意に従って高等学校に入るべき準備をしていた時でも、三角に対する冷淡は画に対する熱心といつも両極をなしていた。さらにさかのぼって、彼の小学校にある時すら彼は画のみを好んでおったのを自分は知っている。この少年に向かって父母は医師たらんことを希望しているのである。彼は父母の旨を奉じて進んで来た。しかるに幸か不幸か、彼の健康はいかにしても彼の嗜好《しこう》に反する学術を忍んで学ぶほどの弾力を有していない。彼は二年間に赤十字社に三度入院した。医師に勧められて三度|湯治《とうじ》に行った。そしてこの間彼の精神の苦痛は身体の病苦と譲らなかったのはすなわち彼自身その不健康なるだけにいよいよ将来の目的を画家たるに決せんと悶《もが》いたからである。
 それでこのごろは彼も煩悶《はんもん》の時を脱して決心の境に入り着々その方に向かって進んで来たが未《いま》だ故郷の父母にはこの決心を秘しているのである。彼がややもすると不安の色を顔に示すはこの故である。
『ナニ画のためになら倒れてやむだけの覚悟はもう決めていますから平気です、』と彼は言いだしてさびしく笑った。
『君のことだからそうだろう。』
『そうですとも、ほんとにね兄さん、昨日《きのう》も日が西に傾いて窓から射《さ》しこむと机の上に長い影を曳《ひ》いて、それをぼんやり見ていると何だか哀れぽい物悲しい心持ちがして来ましたが、ふと画の事を考えて、そうだ今だとすぐ画板を引っ掛けて飛び出ました。画のためとなら小生《わたくし》はいつでも気が勇み立ちます、』といって彼はその蒼白《あおじろ》い顔に得意の微笑を浮かべた。
 彼は画板の袋から二、三枚の写生を取り出して見せたが、その進歩はすこぶる現われて、もはや素人《しろうと》の域を脱しているようである。
『どうです散歩に出ましょう、今日は何だか霞《かすみ》がかってまるで春のようですよ。』と小山は自分を促した。
『そう、もうじき昼だから飯を食ってからにしよう』と自分は小山を止めて、それよりウォーズウォルスの詩について自分の観《み》るところを語った。
『ちょうど君の年だった、僕がウォーズウォルスに全心を打ちこんだのは。その熱心の度は決して君の今画に対する熱心に譲らなかった。君が画板を持って郊外をうろつきまわっているように、僕はこの詩集を懐《ふところ》にし佐伯の山野《さんや》を歩き散らしたが、僕は今もその時の事を思いだすと何だか懐《なつ》かしくって涙がこぼれるような気がするよ』と自分はよい相手を見つけたので、さっきから独《ひと》りで憶《おも》い浮かべていた佐伯の自然について、図まで引いて話しだした。
 同じ自然の崇拝者である、彼は画によって、自分は詩に導かれて。自分の語るところは彼によくわかる。彼の問うところは自分の言わんと欲するところ。
『まずそんなあんばいでただもう夢中であった。しかし君と異《ちが》うのは、君は観《み》るとすぐ画《えが》きたくなる僕はただ感ずるばかりだ。それで君は時とすると自然の美のあまりに複雑して現われているのに圧倒せられてしまう、僕にはそんなことはない、君は自然を捉《とら》えようと試みる、僕は観て感じ得るだけを感ずる、だいぶ僕の方が楽だ。時によると僕も日記中に君の見取り図くらいなところを書きとめたこともあるが、それは真の粗雑《ざっ》としたものだ。』
『そのスケッチが見とうございますね、』と小山の求めるままに十一月三日の記から読みだした。
『野を散歩す日《ひ》暖《うらら》かにして小春の季節なり。櫨紅葉《はじもみじ》は半ば散りて半ば枝に残りたる、風吹くごとに閃《ひら》めき飛ぶ。海近き河口に至る。潮|退《ひ》きて洲《す》あらわれ鳥の群《ぐん》、飛び回る。水門を下《お》ろす童子《どうじ》あり。灘村《なだむら》に舟を渡さんと舷《ふなばた》に腰かけて潮の来るを待つらん若者あり。背低き櫨《はじ》堤《つつみ》の上に樹《た》ちて浜風に吹かれ、紅《くれない》の葉ごとに光を放つ。野末はるかに百舌鳥《もず》のあわただしく鳴くが聞こゆ。純白《まっしろ》の裏羽を日にかがやかし鋭く羽風を切って飛ぶは魚鷹《みさご》なり。その昔に小さき島なりし今は丘となりて、その麓《ふもと》には林を周《めぐ》らし、山鳩《やまばと》の栖処《ねぐら》にふさわしきがあり。その片陰に家|数《かず》二十には足らぬ小村あり、浜風の衝《しょう》に当たりて野を控ゆ。』
 その次が十一月二十二日の夜
『月の光、夕《ゆうべ》の香をこめてわずかに照りそめしころ河岸《かわぎし》に出《い》ず。村々浦々の人、すでに舟とともに散じて昼間のさわがしきに似ずいと寂《さ》びたり。白馬一匹|繋《つな》ぎあり、たちまち馬子《まご》来たり、牽《ひ》いて石級《いしだん》を降《くだ》り渡し船に乗らんとす。馬|懼《おそ》れて乗らず。二三の人、船と岸とにあって黙してこれを見る。馬ようやく船に乗りて船、河の中流に出《い》ずれば、灘山《なだやま》の端を離れてさえさえと照る月の光、鮮やかに映りて馬白く人黒く舟危うし。何心なくながめてありしわれは幾百年の昔を眼前に見る心地《ここち》して一種の哀情を惹《ひ》きぬ。船|回《めぐ》りし時われらまた乗りて渡る。中流より石級の方を望めば理髪所の燈火《あかり》赤く四囲《あたり》の闇《やみ》を隈《くま》どり、そが前を少女《おとめ》の群れゆきつ返りつして守唄《もりうた》の節《ふし》合わするが聞こゆ。』
 その次が十一月二十六日の記、
『午後|土河内《どこうち》村を訪《と》う。堅田|隧道《トンネル》の前を左に小径《こみち》をきり坂を越ゆれば一軒の農家、山の麓《ふもと》にあり。一個の男、一個の妻、二個の少女麦の肥料を丸めいたり。少年あり、藁《わら》を積み重ねし間より頭を出して四人の者が余念なく仕事するを余念なくながめいたり。渡頭《わたし》を渡りて広き野に出《い》ず。野は麦まきに忙しく女子みな男子と共に働きいたり。山の麓に見ゆるは土河内村なり、谷迫りて一|寰区《かんく》をなしことさらに世と離れて立つかのごとく見ゆ、かつて山の頂《いただき》より遠くこの村を望み炊煙の立ちのぼるを見てこの村懐かしくわれは感じぬ。村に近づくにつれて農夫ら多く野にあるを見たり。静けき村なるかな。小児の群れの嬉戯《きぎ》せるにあいぬ。馬高くいななくを聞きぬ。されど一村寂然たり。われは古き物語の村に入るがごとき心地せり。若者一個庭前にて何事をかなしつつあるを見る。礫《こいし》多き路《みち》に沿いたる井戸の傍《かたわ》らに少女《おとめ》あり。水枯れし小川の岸に幾株の老梅並び樹《た》てり、柿《かき》の実、星のごとくこの梅樹《うめ》の際《きわ》より現わる。紅葉《もみじ》火のごとく燃えて一叢《ひとむら》の竹林を照らす。ますます奥深く分け入れば村|窮《きわ》まりてただ渓流の水清く樹林の陰より走《は》せ出《い》ずるあるのみ。帰路|夕陽《せきよう》野にみつ』
 自分は以上のほかなお二、三編を読んだ。そしてこれを聴《き》く小山よりもこれを読む自分の方が当時を回想する情に堪《た》えなかった。
 時は忽然《こつぜん》として過ぎた、七年は夢のごとくに経過した。そして半熟先生ここに茫然《ぼうぜん》として半ば夢からさめたような寝ぼけ眼《まなこ》をまたたいている。

 午後|二人《ふたり》は家を出た。小山は画板を肩から腋《わき》へ掛け畳将几《たたみしょうぎ》を片手に、薬壜《くすりびん》へ水を入れてハンケチで包んだのを片手に。自分はウォーズウォルス詩集を懐《ふところ》にして。
 大空は春のように霞《かす》んでいた。プルシャンブリューでは無論なしコバルトでも濃い過ぎるし、こんな空色は書きにくいと小山はつぶやきながら行った。
 野に出て見ると、秋はやはり秋だ。楢林《ならばやし》は薄く黄ばみ、農家の周囲に立つ高い欅《けやき》は半ば落葉してその細い網のような枝を空にすかしている。丘のすそをめぐる萱《かや》の穂は白銀《しろかね》のごとくひかり、その間から武蔵野《むさしの》にはあまり多くない櫨《はじ》の野生がその真紅の葉を点出《てんしゅつ》している。
『こんな錯雑した色は困るだろうねエ』と自分は小さな坂を上りながら頭上の林を仰いで言った。
『そうですね、しかしかえってこんな色の方がごまかされて描《か》きよいかもしれません、』と小山は笑いながら答えた。
『下手《へた》な画工が描《か》きそうな景色というやつに僕は時々出あうが、その実、実際の景色はなかなかいいんだけれども。』
『だから下手が飛び付いて描くのですよ、自分の力も知らないで、ただ景色のいいに釣られてやるのですからでき上がって見ると、まるで景色の外面《うわつら》を塗抹《なすく》った者になるのです。』
『自然こそいい迷惑だ、』と自分は笑った。高台に出ると四辺《あたり》がにわかに開けて林の上を隠見《みえがくれ》に国境の連山が微《かす》かに見える。
『山!』と自分は思わず叫んだ。
『どこに、どこに、』と小山はあわただしく問うた。自分の指さす方へ、近眼鏡を向けて目をまぶしそうにながめていたが、
『なるほど山だ、どうですこの瞑《かす》かな色は!』とさも懐《なつ》かしそうに叫んだ。
 この時自分の端《はし》なく想《おも》い出したのは佐伯にいる時分、元越山の絶頂から遠く天外を望んだ時の光景である。山の上に山が重なり、秋の日の水のごとく澄んだ空気に映じて紫色に染まり、その天末《てんまつ》に糸を引くがごとき連峰の夢よりも淡きを見て自分は一種の哀情《メランコリー》を催し、これら相重なる山々の谷間に住む生民《せいみん》を懐《おも》わざるを得なかった。
 自分は小山にこの際の自分の感情を語りながら行くと、一条《ひとすじ》の流れ、薄暗い林の奥から音もなく走り出《い》でまた林の奥に没する畔《ほとり》に来た。一個の橋がある。見るかげもなく破れて、ほとんど墜《お》ちそうにしている。
『下手な画工が描《か》きそうな橋だねエ』と自分は林の陰からこれを望んで言った。
『私が一つ描いて見ましょうか。』
『よしたまえな、ありふれてるから。』
『しかしこんな物でも描かなければ小生《わたし》の描く物がありません。』
 そこで小山はほどよき位置を取って、将几《しょうぎ》を置き自分には頓着《とんちゃく》なく、熱心に描き始めた。自分は日あたりを避けて楢林《ならばやし》の中へと入り、下草《したぐさ》を敷いて腰を下《お》ろし、わが年少画家の後ろ姿を木立ちの隙《ひま》からながめながら、煙草《たばこ》に火をつけた。
 小山は黙って描く、自分は黙って煙草をふかす、四囲は寂然《せきぜん》として人声《じんせい》を聞かない。自分は懐《ふところ》から詩集を取り出して読みだした。頭の上を風の吹き過ぎるごとに、楢の枯れ葉の磨《す》れ合う音ががさがさとするばかり。元来この楢はあまり風流な木でない。その枝は粗、その葉は大、秋が来てもほんのり[#「ほんのり」に傍点]とは染まらないで、青い葉は青、枯れ葉は枯れ葉と、乱雑に枝にしがみ[#「にしがみ」に傍点]着いて、風吹くとも霜降るとも、容易には落ちない。冬の夜嵐《よあらし》吹きすさぶころとなっても、がさがさと騒々しい音で幽遠の趣をかき擾《みだ》している。
 しかし自分はこの音が嗜《す》きなので、林の奥に座して、ちょこなん[#「ちょこなん」に傍点]としていると、この音がここでもかしこでもする、ちょうど何かがささやくようである、そして自然の幽寂《ゆうじゃく》がひとしお心にしみわたる!
 自分はいつしか小山を忘れ、読む書にもあまり身が入らず、ただ林の静けさに身をまかしていると、何だか三、四年|前《ぜん》まで、自分の胸に響いたわが心の調べに再び触れたような心持ちがする。
『兄さん!』と小山は突然呼んだ、『兄さん、人の一生を四季にたとえるようですが、春を小生《わたし》のような時として、小春は人の幾歳ぐらいにたとえていいでしょう』と何を感じたか、むこうへ向いたまま言った。
『秋かね?』
『秋と言わないで、小春ですよ!』
『僕のようなのが小春だろう!』と自分は何心なく答えて、そしてわれ知らず、未《いま》だかつて経験した事のない哀情が胸を衝《つ》いて起こった。
『君が春なら僕は小春サ、小春サ、いまに冬が来るだろうよ!』
『ハハハハハ冬が過ぎればまた春になりますからねエ』と小山はさも軽々《かるがる》と答えた。
 四囲《あたり》は再びひっそりとなった。小山は口笛を吹きながら描いている。自分は思った、むしろこの二人が意味ある画題ではないかと。


(明治三十三年十一月作)

底本:「武蔵野」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1972(昭和47)年8月16日第37刷改版発行
   2002(平成14)年4月5日第77刷発行
底本の親本:「武蔵野」民友社
   1901(明治34)年3月
初出:「中学世界」
   1900(明治33)年12月
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2012年8月7日作成
2012年9月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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