永井荷風

正宗谷崎両氏の批評に答う—–永井荷風

去年の秋、谷崎君がわたくしの小説について長文の批評を雑誌『改造』に載せられた時、わたくしはこれに答える文をかきかけたのであるが、勢《いきおい》自作の苦心談をれいれいしく書立てるようになるので、何となく気恥かしい心持がして止《よ》してしまった。然るにこの度は正宗君が『中央公論』四月号に『永井荷風論』と題する長文を掲載せられた。
 わたくしは二家の批評を読んで何事よりもまず感謝の情を禁じ得なかった。これは虚礼の辞ではない。十年前であったなら、さほどまでにうれしいとは思わなかったかも知れない。しかし今は時勢に鑑《かんが》みまた自分の衰老を省みて、今なおわたくしの旧著を精読して批判の労を厭《いと》わない人があるかと思えば満腔《まんこう》唯感謝の情を覚ゆるばかりである。知らぬ他国で偶然同郷の人に邂逅《かいこう》したような心持がしたのである。
 かつて大正十五年の春にも正宗君はわたくしの小説|及《および》雑著について批評せられたことがあった。その時わたくしは弁駁《べんばく》の辞をつくったが、それは江戸文学に関して少しく見解を異にしているように思ったからで、わたくしは自作の小説については全く言う事を避けた。自作について云々するのはどうも自家弁護の辞を弄するような気がして書きにくかった故である。わたくしが個人雑誌『花月』の誌上に、『かかでもの記』を掲げて文壇の経歴を述べたのは今より十五、六年以前であるが、初は『自作自評』と題して旧作の一篇ごとに執筆の来由を陳《の》べ、これによって半面はおのずから自叙伝ともなるようにしたいと考えた。しかしそれもあまり自家吹聴に過るような気がして僅に『かかでもの記』三、四回を草して筆を擱《お》いた。
 谷崎君は、さきに西鶴と元禄時代の文学を論じ、わたくしを以て紅葉先生と趣を同じくしている作家のように言われた。事の何たるを問わず自分の事をはっきり自分で判断することは至難である。谷崎君が批判の当れるや否やはこれを第三者に問うより外はない。紅葉先生は硯友社《けんゆうしゃ》諸先輩の中《うち》わたくしには最も親しみが薄いのである。外国語学校に通学していた頃、神田の町の角々《かどかど》に、『読売新聞』紙上に『金色夜叉《こんじきやしゃ》』が連載せられるという予告が貼出《はりだ》されていたのを見たがしかしわたくしはその当時にはこれを読まなかった。啻《ただ》に『金色夜叉』のみならず紅葉先生の著作は、明治三十四、五年の頃友人に勧められて一括してこれを通読する日まで、わたくしは殆どこれを知らずにいた位である。これも別に確然たる意見があったわけではない。その頃の書生は新刊の小説や雑誌を購読するほどの小使銭を持っていなかったので、読むに便宜のない娯楽の書物には自然遠ざかっていた。わたくしの家では『時事新報』や『日々新聞』を購読していたが『読売』の如きものは取っていなかった。馬琴《ばきん》春水《しゅんすい》の物や、『春雨物語』、『佳人の奇遇』のような小説類は沢山あったが、硯友社作家の新刊物は一冊もなかった。わたくしが中学生の頃初め漢詩を学びその後近代の文学に志を向けかけた頃、友人|井上唖々《いのうえああ》子が『今戸心中《いまどしんじゅう》』所載の『文芸倶楽部《ぶんげいクラブ》』と、緑雨《りょくう》の『油地獄』一冊とを示して頻《しきり》にその妙処を説いた。これが後日わたくしをして柳浪《りゅうろう》先生の門に遊ばしめた原因である。しかしその後幾星霜を経て、大正六、七年の頃、わたくしは明治時代の小説を批評しようと思って硯友社作家の諸作を通覧して見たことがあったが、その時分の感想では露伴《ろはん》先生の『※[#「言+闌」、第4水準2-88-83]言長語《らんげんちょうご》』と一葉《いちよう》女史の諸作とに最《もっとも》深く心服した。緑雨の小説随筆はこれを再読した時、案外に浅薄でまた甚《はなはだ》厭味《いやみ》な心持がした。わたくしは今日に至っても露伴先生の『※[#「言+闌」、第4水準2-88-83]言長語』の二巻を折々|繙《ひもと》いている。
 大正以前の文学には、今日におけるが如く江戸趣味なる語に特別の意味はなかった。もしこの語を以て評すれば露伴先生の文はけだし江戸趣味の極めて深遠なるもので、また古今を通じて随筆の冠冕《かんべん》となすべきものである。『世に忘れられたる草木』『雲のいろいろ』以下幾十篇皆独特の観察に基いている。正宗君は露伴先生が明治三十年代に雑誌『新小説』に執筆せられたこれらの随筆を忘れておられるのであろう。もしこれを思出されたなら、わたくしの雑著についての賛辞は過半取消されるにちがいない。
 明治四十一年の秋西洋から帰って後、わたくしは間もなく『すみだ川』の如き小説をつくった。しかし執筆の当時には特に江戸趣味を鼓吹する心はなかった。洋行中|仏蘭西《フランス》のフレデリック・ミストラル、白耳義《ベルギー》のジョルヂ・エックー等の著作をよんで郷土芸術の意義ある事を教えられていたので、この筆法に倣《なら》ってわたくしはその生れたる過去の東京を再現させようと思って、人物と背景とを隅田川の両岸に配置したのである。短篇小説『狐』と題したものもまた同様である。わたくしはその頃既に近代仏蘭西の小説を多く読んでいた事については、窃《ひそか》に人後《じんご》に落ちないと思っていたが、しかしいざ筆を取って見ると文才と共に思想の足りない事を知って往々絶望していたこともあった。まだ巴里《パリー》にあった頃わたくしは日本の一友人から、君は頻にフロオベルを愛読しているが、君の筆はむしろドーデを学ぶに適しているようだ、と忠告されたこともあった。二葉亭《ふたばてい》の『浮雲』や森先生の『雁《がん》』の如く深刻|緻密《ちみつ》に人物の感情性格を解剖する事は到底わたくしの力の能《よ》くする所でない。然るに、幸にも『深川の唄』といい『すみだ川』というが如き小作を公にするに及んで、忽《たちまち》江戸趣味の鼓吹者と目せられ、以後二十余年の今日に至ってなお虚名を贏《か》ち得ている。文壇の僥倖児《ぎょうこうじ》といわれるのは、けだし正宗君の言を俟《ま》つに及ぶまい。
 大正改元の翌年市中に暴動が起った頃から世間では仏蘭西の文物に親しむものを忌《い》む傾きが著しくなった。たしか『国民新聞』の論説記者が僕を指して非国民となしたのもその時分であった。これは帰朝の途上わたくしが土耳古《トルコ》の国旗に敬礼をしたり、西郷隆盛《さいごうたかもり》の銅像を称美しなかった事などに起因したのであろう。しかし静に考察すれば芸術家が土耳古の山河風俗を愛惜する事は、敢て異となすには及ばない。ピエール・ロチは欧洲人が多年土耳古を敵視し絶えずその領土を蚕食《さんしょく》しつつある事を痛嘆して『苦悩する土耳古』と題する一書を著《あらわ》し悲痛の辞を連ねている。日本と仏蘭西とは国情を異にしている。大正改元の頃にはわたくしも年三十六、七歳に達したので、一時の西洋かぶれも日に日に薄らぎ、矯激なる感動も年と共に消えて行った。その頃偶然|黒田清輝《くろだきよてる》先生に逢ったことがあるが「君も今の中《うち》に早く写真をうつして置け。」と戯《たわむれ》に言われたのを、わたくしは今に忘れない。日本の風土気候は人をして早く老いさせる不可思議な力を持っている。わたくしは専《もっぱら》これらの感慨を現すために『父の恩』と題する小説をかきかけたが、これさえややもすれば筆を拘束される事が多かったので、中途にして稿を絶った。わたくしはふと江戸の戯作者また浮世絵師等が幕末国難の時代にあっても泰平の時と変りなく悠々然《ゆうゆうぜん》として淫猥《いんわい》な人情本や春画をつくっていた事を甚《はなはだ》痛快に感じて、ここに専《もっぱら》花柳小説に筆をつける事を思立った。『新橋夜話《しんきょうやわ》』または『戯作者《げさくしゃ》の死』の如きものはその頃の記念である。浮世絵|並《ならび》に江戸出版物の蒐集《しゅうしゅう》に耽ったのもこの時分が最も盛であった。
 浮世絵の事をここに一言したい。わたくしが浮世絵を見て始て芸術的感動に打たれたのは亜米利加《アメリカ》諸市の美術館を見巡《みまわ》っていた時である。さればわたくしの江戸趣味は米国好事家の後塵《こうじん》を追うもので、自分の発見ではない。明治四十一年に帰朝した当時浮世絵を鑑賞する人はなお稀であった。小島烏水《こじまうすい》氏はたしか米国におられたので、日本では宮武外骨《みやたけがいこつ》氏を以てこの道の先知者となすべきであろう。東京市中の古本屋が聯合《れんごう》して即売会を開催したのも、たしか、明治四十二、三年の頃からであろう。
 大正三、四年の頃に至って、わたくしは『日和下駄《ひよりげた》』と題する東京散歩の記を書き終った。わたくしは日和下駄をはいて墓さがしをするようになっては、最早《もはや》新しい文学の先陣に立つ事はできない。三田《みた》の大学が何らの肩書もないわたくしを雇《やと》って教授となしたのは、新文壇のいわゆるアヴァンガルドに立って陣鼓《タンブール》を鳴らさせるためであった。それが出来なくなればわたくしはつまり用のない人になるわけなので、折を見て身を引こうと思っていると、丁度よい事には森先生が大学文科の顧問をいつよされるともなくやめられる。上田先生もまた同じように、次第に三田から遠ざかっておられたので、わたくしは病気を幸に大正四年の十二月をかぎり、後事を井川滋氏に託して三田を去った。わたくしは最初雇われた時から、無事に三個年勤められれば満足だと思っていた。三年たてば三田の学窓からも一人や二人秀才の現れないはずはない。とにかくそれまでの間に、森先生に御迷惑をかけるような失態を演じ出さないようにと思ってわたくしは毎週一、二回仏蘭西人某氏の家へ往《い》って新着の新聞を読み、つとめて新しい風聞に接するようにしていた。三年の歳月は早くも過ぎ、いつか五年六年目となった。もともとわたくしは学ぶに常師というものがなかったから、独学|固陋《ころう》の譏《そしり》は免《まぬか》れない。それにまた三田の出身者ではなく、外から飛入りの先生だから、そう長く腰を据えるのはよくないという考もあった。
 わたくしの父は、生前文部省の役人で一時帝国大学にも関係があったので、わたくしは少年の頃から学閥の忌むべき事や、学派の軋轢《あつれき》の恐るべき事などを小耳《こみみ》に聞いて知っていた。しかしこれは勿論わたくしが三田を去った直接の原因ではない。わたくしの友人等は「あの男は生活にこまらないからいつでも勝手|気儘《きまま》な事をしているのだ」といってその時も皆これを笑った。谷崎君の批評にも正宗君の論文にもわたくしが衣食に追われていない事が言われている。これについてわたくしは何も言う事はない。唯一言したいのは、もしわたくしが父兄を養わなければならぬような境遇にあったなら、他分小説の如き遊戯の文字を弄《もてあそ》ばなかったという事である。わたくしは夙《はや》くから文学は糊口《ここう》の道でもなければ、また栄達の道でもないと思っていた。これは『小説作法』の中にもかいて置いた。政治を論じたり国事を憂いたりする事も、恐らくは貧家の子弟の志すべき事ではあるまい。但し米屋酒屋の勘定を支払わないのが志士《しし》義人《ぎじん》の特権だとすれば問題は別である。
 わたくしは教師をやめると大分気が楽になって、遠慮|気兼《きがね》をする事がなくなったので、おのずから花柳小説『腕くらべ』のようなものを書きはじめた。当時を顧ると、時世の好みは追々《おいおい》芸者を離れて演劇女優に移りかけていたので、わたくしは芸者の流行を明治年間の遺習と見なして、その生活風俗を描写して置こうと思ったのである。カッフェーの女給はその頃にはなお女ボーイとよばれ鳥料理屋の女中と同等に見られていたが、大正十年前後から俄《にわか》に勃興して一世を風靡《ふうび》し、映画女優と並んで遂に演劇女優の流行を奪い去るに至った。しかし震災後早くも十年を過ぎた今日では女給の流行もまた既に盛を越したようである。これがわたくしの近著『つゆのあとさき』の出来た所以《ゆえん》である。
 谷崎君はこの拙著を評せられるに当って、わたくしが何のために、また何の感興があって小説をかくかという事を仔細に観察しまた解剖せられた。谷崎君の眼光は作者自身の心づかない処まで鋭く見透していた。
 ここでちょっと井原西鶴について言いたい事がある。世人は元禄の軟文学を論ずる時|必《かならず》西鶴と近松とを並び称しているようであるが、わたくしの見る処では、近松は西鶴に比すれば遥に偉大なる作家である。西鶴の面目は唯その文の軽妙なるに留っている。元禄時代にあって俳諧をつくる者は皆名文家である。芭蕉とその門人|去来《きょらい》東花坊《とうかぼう》の如き皆然りで、独《ひとり》西鶴のみではない。試に西鶴の『五人女』と近松の世話浄瑠璃《せわじょうるり》とを比較せよ。西鶴は市井《しせい》の風聞を記録するに過ぎない。然るに近松は空想の力を仮りて人物を活躍させている。一は記事に過ぎないが一は渾然《こんぜん》たる創作である。ここに附記していう。岡鬼太郎《おかおにたろう》君は近松の真価は世話物ではなくして時代物であると言われたが、わたくしは岡君の言う所に心服している。
 西鶴の価《あたい》を思切って低くして考えれば、谷崎君がわたくしを以て西鶴の亜流となした事もさして過賞とするにも及ばないであろう。
 江戸時代の文学を見るにいずれの時代にもそれぞれ好んで市井の風俗を描写した文学者が現れている。宝暦以後、文学の中心が東都に移ってから、明和年代に南畝《なんぽ》が出で、天明年代に京伝《きょうでん》、文化文政に三馬《さんば》、春水《しゅんすい》、天保に寺門静軒《てらかどせいけん》、幕末には魯文《ろぶん》、維新後には服部撫松《はっとりぶしょう》、三木愛花《みきあいか》が現れ、明治廿年頃から紅葉山人《こうようさんじん》が出た。以上の諸名家に次《つ》いで大正時代の市井狭斜の風俗を記録する操觚者《そうこしゃ》の末に、たまたまわたくしの名が加えられたのは実に意外の光栄で、我事は既に終ったというような心持がする。
 正宗谷崎二君がわたくしの文を批判する態度は頗《すこぶる》寛大であって、ややもすれば称賛に過ぎたところが多い。これは知らず知らず友情の然らしめたためであろう。あるひは[#「あるひは」はママ]幾分奨励の意を寓して、晩年更に奮発一番すべしとの心であるやも知れない。わたくしは昭和改元の際年は知命に達していた。二君の好意を空《むな》しくせまいと思っても悲しい哉《かな》時は早や過去ったようである。強烈な電燈の光に照出される昭和の世相は老眼鏡のくもりをふいている間にどんどん変って行く。この頃、銀座通に柳の苗木《なえぎ》が植付《うえつ》けられた。この苗木のもとに立って、断髪洋装の女子と共に蓄音機の奏する出征の曲を聴いて感激を催す事は、鬢糸《びんし》禅榻《ぜんとう》の歎《たん》をなすものの能《よ》くすべき所ではない。巴里《パリー》には生きながら老作家をまつり込むアカデミイがある。江戸時代には死したる学者を葬る儒者捨場があった。大正文学の遺老を捨てる山は何処にあるか……イヤこんな事を言っていると、わたくしは宛然《さながら》両君がいうところの「生活の落伍者」また「敗残の東京人」である。さればいかなる場合にも、わたくしは、有島、芥川の二氏の如く決然自殺をするような熱情家ではあるまい。数年来わたくしは宿痾《しゅくあ》に苦しめられて筆硯《ひっけん》を廃することもたびたびである。そして疾病《しっぺい》と老耄《ろうもう》とはかえって人生の苦を救う方便だと思っている。自殺の勇断なき者を救う道はこの二者より外はない。老と病とは人生に倦《う》みつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦なる道であろう。天地自然の理法は頗《すこぶる》妙《みょう》である。


コノ稿ハ昭和七年三月三十日正宗白鳥君ノ論文ヲ読ミ燈下|匆々《そうそう》筆ヲ走ラセタ。ワガ旧作執筆ノ年代ニハ記憶ノ誤ガアルカモ知レナイ。好事家《こうずか》ハ宜《よろ》シク斎藤昌三氏ノ『現代日本文学大年表』ニ就イテコレヲ正シ給エトイウ。

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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永井荷風

水 附渡船—– 永井荷風

仏蘭西人《フランスじん》ヱミル・マンユの著書都市美論の興味ある事は既にわが随筆「大窪《おほくぼ》だより」の中《うち》に述べて置いた。ヱミル・マンユは都市に対する水の美を論ずる一章に於て、広く世界各国の都市と其の河流《かりう》及び江湾の審美的関係より、更《さら》に進んで運河|沼沢《せうたく》噴水|橋梁《けうりやう》等《とう》の細節《さいせつ》に渉《わた》つて此《これ》を説き、猶《なほ》其の足《た》らざる処を補《おぎな》はんが為めに水流に映ずる市街燈火の美を論じてゐる。
 今|試《こゝろみ》に東京の市街と水との審美的関係を考ふるに、水は江戸時代より継続して今日《こんにち》に於ても東京の美観を保つ最も貴重なる要素となつてゐる。陸路運輸の便《べん》を欠いてゐた江戸時代にあつては、天然の河流たる隅田川と此れに通ずる幾筋の運河とは、云ふまでもなく江戸商業の生命であつたが、其れと共《とも》に都会の住民に対しては春秋四季《しゆんじうしき》の娯楽を与へ、時に不朽の価値ある詩歌《しいか》絵画をつくらしめた。然るに東京の今日《こんにち》市内の水流は単に運輸の為めのみとなり、全く伝来の審美的価値を失ふに至つた。隅田川は云ふに及ばず神田のお茶の水|本所《ほんじよ》の竪川《たてかは》を始め市中《しちゆう》の水流は、最早《もは》や現代の吾々には昔の人が船宿の桟橋から猪牙船《ちよきぶね》に乗つて山谷《さんや》に通ひ柳島《やなぎしま》に遊び深川《ふかがは》に戯れたやうな風流を許さず、また釣や網の娯楽をも与へなくなつた。今日《こんにち》の隅田川は巴里《パリー》に於けるセーヌ河の如き美麗なる感情を催さしめず、また紐育《ニユーヨーク》のホドソン、倫敦《ロンドン》のテヱムスに対するが如く偉大なる富国《ふこく》の壮観をも想像させない。東京市の河流は其の江湾なる品川《しながは》の入海《いりうみ》と共に、さして美《うつく》しくもなく大きくもなく又さほどに繁華でもなく、誠に何方《どつち》つかずの極めてつまらない景色をなすに過ぎない。しかし其れにも係《かゝは》らず東京市中の散歩に於て、今日《こんにち》猶《なほ》比較的興味あるものは矢張《やはり》水流れ船動き橋かゝる処の景色である。
 東京の水を論ずるに当つてまづ此《これ》を区別して見るに、第一は品川の海湾、第二は隅田川|中川《なかがは》六郷川《ろくがうがは》の如き天然の河流、第三は小石川の江戸川、神田の神田川、王子の音無川《おとなしがは》の如き細流《さいりう》、第四は本所深川日本橋|京橋《きやうばし》下谷|浅草《あさくさ》等《とう》市中繁華の町に通ずる純然たる運河、第五は芝の桜川《さくらがは》、根津の藍染川《あゐそめがは》、麻布の古川《ふるかは》、下谷の忍川《しのぶがは》の如き其の名のみ美しき溝渠《こうきよ》、もしくは下水《げすゐ》、第六は江戸城を取巻く幾重《いくへ》の濠《ほり》、第七は不忍池《しのばずのいけ》、角筈十二社《つのはずじふにさう》の如き池である。井戸は江戸時代にあつては三宅坂側《みやけざかそば》の桜《さくら》ヶ|井《ゐ》も清水谷《しみづだに》の柳《やなぎ》の井《ゐ》、湯島《ゆしま》の天神《てんじん》の御福《おふく》の井《ゐ》の如き、古来江戸名所の中《うち》に数へられたものが多かつたが、東京になつてから全く世人に忘れられ所在の地さへ大抵は不明となつた。
 東京市は此《かく》の如く海と河と堀と溝《みぞ》と、仔細《しさい》に観察し来《きた》れば其等幾種類の水――既ち流れ動く水と淀《よど》んで動かぬ死したる水とを有する頗《すこぶる》変化に富んだ都会である。まづ品川の入海《いりうみ》を眺めんにここは目下|猶《なほ》築港の大工事中であれば、将来如何なる光景を呈し来《きた》るや今より予想する事はできない。今日《こんにち》まで吾々が年久しく見馴れて来た品川の海は僅《わづか》に房州通《ぼうしうがよひ》の蒸汽船と円《まる》ツこい達磨船《だるません》を曳動《ひきうごか》す曳船の往来する外《ほか》、東京なる大都会の繁栄とは直接にさしたる関係もない泥海《どろうみ》である。潮《しほ》の引く時|泥土《でいど》は目のとゞく限り引続いて、岸近くには古下駄に炭俵、さては皿小鉢や椀のかけらに船虫のうようよと這寄《はひよ》るばかり。この汚《きたな》い溝《どぶ》のやうな沼地《ぬまち》を掘返しながら折々《をり/\》は沙蚕《ごかひ》取りが手桶を下げて沙蚕《ごかひ》を取つてゐる事がある。遠くの沖には彼方《かなた》此方《こなた》に澪《みを》や粗朶《そだ》が突立《つつた》つてゐるが、これさへ岸より眺むれば塵芥《ちりあくた》かと思はれ、その間《あひだ》に泛《うか》ぶ牡蠣舟《かきぶね》や苔取《のりとり》の小舟《こぶね》も今は唯|強《し》ひて江戸の昔を追回《つゐくわい》しやうとする人の眼《め》にのみ聊《いさゝ》かの風趣を覚えさせるばかりである。かく現代の首府に対しては実用にも装飾にも何にもならぬ此の無用なる品川湾の眺望は、彼《か》の八《や》ツ山《やま》の沖《おき》に並《なら》んで泛《うか》ぶ此《これ》も無用なる御台場《おだいば》と相俟《あひま》つて、いかにも過去《すぎさ》つた時代の遺物らしく放棄された悲しい趣《おもむき》を示してゐる。天気のよい時|白帆《しらほ》や浮雲《うきぐも》と共に望み得られる安房上総《あはかづさ》の山影《さんえい》とても、最早《もは》や今日《こんにち》の都会人には彼《か》の花川戸助六《はなかはどすけろく》が台詞《せりふ》にも読込まれてゐるやうな爽快な心持を起させはしない。品川湾の眺望に対する興味は時勢と共に全く湮滅してしまつたに係《かゝは》らず、其の代《かは》りとして興るべき新しい風景に対する興味は今日《こんにち》に於ては未《いま》だ成立《なりた》たずにゐるのである。
 芝浦《しばうら》の月見も高輪《たかなわ》の二十六夜待《にじふろくやまち》も既になき世の語草《かたりぐさ》である。南品《なんぴん》の風流を伝へた楼台《ろうだい》も今は唯《たゞ》不潔なる娼家《しやうか》に過ぎぬ。明治二十七八年頃|江見水蔭子《えみすゐいんし》がこの地の娼婦《しやうふ》を材料として描《ゑが》いた小説「泥水清水《どろみづしみつ》」の一篇は当時|硯友社《けんいうしや》の文壇に傑作として批評されたものであつたが、今よりして回想《くわいさう》すれば、これすら既に遠い世のさまを描《ゑが》いた物語のやうな気がしてならぬ。
 かく品川の景色の見捨てられてしまつたのに反して、荷船の帆柱と工場の煙筒の叢《むらが》り立つた大川口《おほかはぐち》の光景は、折々《をり/\》西洋の漫画に見るやうな一種の趣味に照《てら》して、此後《このご》とも案外長く或《ある》一派の詩人を悦《よろこ》ばす事が出来るかも知れぬ。木下杢太郎《きのしたもくたろう》北原白秋《きたはらはくしう》諸家の或時期の詩篇には築地の旧居留地から月島永代橋《つきしまえいたいばし》あたりの生活及び其の風景によつて感興を発したらしく思はれるものが尠《すくな》くなかつた。全く石川島《いしかはじま》の工場を後《うしろ》にして幾艘となく帆柱を連ねて碇泊するさま/″\な日本風の荷船や西洋形の帆前船《ほまへせん》を見ればおのづと特種の詩情が催《もよほ》される。私は永代橋《えいたいばし》を渡る時活動する此の河口《かはぐち》の光景に接するやドオデヱがセヱン河を往復する荷船の生活を描《ゑが》いた可憐なる彼《か》の「ラ・ニベルネヱズ」の一小篇を思出《おもひだ》すのである、今日《こんにち》の永代橋には最早《もは》や辰巳《たつみ》の昔を回想せしむべき何物もない。さるが故に、私は永代橋《えいたいばし》の鉄橋をば却《かへつ》てかの吾妻橋《あづまばし》や両国橋《りやうごくばし》の如くに醜《みに》くいとは思はない。新しい鉄の橋はよく新《あたら》しい河口《かこう》の風景に一致してゐる。

 私が十五六歳の頃であつた。永代橋《えいたいばし》の河下《かはしも》には旧幕府の軍艦が一艘商船学校の練習船として立腐《たちぐさ》れのまゝに繋がれてゐた時分、同級の中学生といつものやうに浅草橋《あさくさばし》の船宿から小舟《こぶね》を借りてこの辺《へん》を漕ぎ廻り、河中《かはなか》に碇泊して居る帆前船《ほまへせん》を見物して、こわい顔した船長から椰子《やし》の実を沢山貰つて帰つて来た事がある。其の折《をり》私達は船長がこの小さな帆前船《ほまへせん》を操《あやつ》つて遠く南洋まで航海するのだといふ話を聞き、全くロビンソンの冒険談を読むやうな感に打たれ、将来自分達もどうにかしてあのやうな勇猛なる航海者になりたいと思つた事があつた。
 矢張《やはり》其の時分の話である。築地《つきぢ》の河岸《かし》の船宿から四挺艪《しちやうろ》のボオトを借りて遠く千住《せんじゆ》の方まで漕ぎ上《のぼ》つた帰り引汐《ひきしほ》につれて佃島《つくだじま》の手前まで下《くだ》つて来た時、突然|向《むかう》から帆を上げて進んで来る大きな高瀬船《たかせぶね》に衝突し、幸《さいは》ひに一人《ひとり》も怪我はしなかつたけれど、借りたボオトの小舷《こべり》をば散々に破《こは》してしまつた上に櫂《かい》を一本折つてしまつた。一同は皆《みな》親がゝりのものばかり、船遊びをする事も家《うち》へは秘密にしてゐた位《くらゐ》なので、私達は船宿へ帰つて万一破損の弁償金を請求されたらどうしやうかと其の善後策を講ずる為めに、佃島《つくだじま》の砂の上にボオトを引上げ浸水をかい出しながら相談をした。その結果夜暗くなつてから船宿の桟橋へ船を着け、宿の亭主が舷《ふなべり》の大破損に気のつかない中一同|一目散《いちもくさん》に逃げ出すがよからうといふ事になつた。一同はお浜御殿《はまごてん》の石垣下まで漕入《こぎい》つてから空腹《くうふく》を我慢しつゝ水の上の全く暗くなるのを待ち船宿の桟橋へ上《あが》るや否や、店に預けて置いた手荷物を奪ふやうに引掴《ひつつか》み、めい/\後《あと》をも見ず、ひた走りに銀座の大通りまで走つて、漸《やつ》と息をついた事があつた。その頃には東京府々立の中学校が築地《つきぢ》にあつたのでその辺《へん》の船宿では釣船の外にボオトをも貸したのである。今日《こんにち》築地《つきぢ》の河岸《かし》を散歩しても私ははつきりと其の船宿の何処《いづこ》にあつたかを確めることが出来ない。わづか二十年|前《ぜん》なる我が少年時代の記憶の跡すら既にかくの如くである。東京市街の急激なる変化は寧《むし》ろ驚くの外《ほか》はない。

 大川筋《おほかはすぢ》一帯の風景について、其の最も興味ある部分は今述べたやうに永代橋河口《えいたいばしかこう》の眺望を第一とする。吾妻橋《あづまばし》両国橋《りやうごくばし》等の眺望は今日《こんにち》の処あまりに不整頓にして永代橋《えいたいばし》に於けるが如く感興を一所に集注する事が出来ない。之《これ》を例するに浅野《あさの》セメント会社の工場と新大橋《しんおほはし》の向《むかう》に残る古い火見櫓《ひのみやぐら》の如き、或は浅草蔵前《あさくさくらまへ》の電燈会社と駒形堂《こまがただう》の如き、国技館《こくぎかん》と回向院《ゑかうゐん》の如き、或は橋場《はしば》の瓦斯《がす》タンクと真崎稲荷《まつさきいなり》の老樹の如き、其等《それら》工業的近世の光景と江戸名所の悲しき遺蹟とは、いづれも個々別々に私の感想を錯乱させるばかりである。されば私は此《かく》の如く過去と現在、既ち廃頽と進歩との現象のあまりに甚しく混雑してゐる今日《こんにち》の大川筋《おほかはすぢ》よりも、深川《ふかがは》小名木川《をなぎがは》より猿江裏《さるえうら》の如くあたりは全く工場地に変形し江戸名所の名残《なごり》も容易《たやす》くは尋ねられぬ程になつた処を選ぶ。大川筋《おほかはすぢ》は千住《せんぢゆ》より両国《りやうごく》に至るまで今日《こんにち》に於てはまだ/\工業の侵略が緩慢に過ぎてゐる。本所小梅《ほんじよこうめ》から押上辺《おしあげへん》に至る辺《あたり》も同じ事、新しい工場町《こうぢやうまち》として此れを眺めやうとする時、今となつては却《かへつ》て柳島《やなぎしま》の妙見堂《めうけんだう》と料理屋の橋本《はしもと》とが目ざはりである。

 運河の眺望は深川《ふかがは》の小名木川辺《をなぎがはへん》に限らず、いづこに於ても隅田川の両岸に対するよりも一体にまとまつた感興を起させる。一例を挙ぐれば中州《なかず》と箱崎町《はこざきちやう》の出端《でばな》との間《あひだ》に深く突入《つきい》つてゐる堀割は此れを箱崎町の永久橋《えいきうばし》または菖蒲河岸《しやうぶがし》の女橋《をんなばし》から眺めやるに水は恰《あたか》も入江の如く無数の荷船は部落の観をなし薄暮風|収《をさ》まる時|競《きそ》つて炊烟《すゐえん》を棚曳《たなび》かすさま正に江南沢国《かうなんたくこく》の趣《おもむき》をなす。凡《すべ》て溝渠《こうきよ》運河の眺望の最も変化に富み且《か》つ活気を帯びる処は、この中洲《なかず》の水のやうに彼方《かなた》此方《こなた》から幾筋《いくすぢ》の細い流れが稍《やゝ》広い堀割を中心にして一個所に落合つて来る処、若《も》しくは深川の扇橋《あふぎばし》の如く、長い堀割が互に交叉して十字形をなす処である。本所柳原《ほんじよやなぎはら》の新辻橋《しんつじばし》、京橋八丁堀《きやうばしはつちやうぼり》の白魚橋《しらうをばし》、霊岸島《れいがんじま》の霊岸橋《れいがんばし》あたりの眺望は堀割の水の或は分れ或は合《がつ》する処、橋は橋に接し、流れは流れと相激《あひげき》し、稍《やゝ》ともすれば船は船に突当らうとしてゐる。私はかゝる風景の中《うち》日本橋を背にして江戸橋の上より菱形をなした広い水の片側《かたかは》には荒布橋《あらめばし》つゞいて思案橋《しあんばし》、片側には鎧橋《よろひばし》を見る眺望をば、其の沿岸の商家倉庫及び街上|橋頭《けうとう》の繁華雑沓と合せて、東京市内の堀割の中《うち》にて最も偉大なる壮観を呈する処となす。殊に歳暮《さいぼ》の夜景の如き橋上《けうじやう》を往来する車の灯《ひ》は沿岸の燈火《とうくわ》と相乱れて徹宵《てつせう》水の上に揺《ゆらめ》き動く有様《ありさま》銀座街頭の燈火《とうくわ》より遥《はるか》に美麗である。
 堀割の岸には処々《しよ/\》に物揚場《ものあげば》がある。市中《しちゆう》の生活に興味を持つものには物揚場《ものあげば》の光景も亦《また》しばし杖を留《とゞ》むるに足りる。夏の炎天|神田《かんだ》の鎌倉河岸《かまくらがし》、牛込揚場《うしごめあげば》の河岸《かし》などを通れば、荷車の馬は馬方と共につかれて、河添《かはぞひ》の大きな柳の木の下《した》に居眠りをしてゐる。砂利《じやり》や瓦や川土《かはつち》を積み上げた物蔭にはきまつて牛飯《ぎうめし》やすゐとん[#「すゐとん」に傍点]の露店が出てゐる。時には氷屋も荷を卸《おろ》してゐる。荷車の後押しをする車力の女房は男と同じやうな身仕度をして立ち働き、其の赤児《あかご》をば捨児《すてご》のやうに砂の上に投出してゐると、其の辺《へん》には痩《や》せた鶏が落ちこぼれた餌をも※[#「求/(餮-殄)」、第4水準2-92-54]《あさ》りつくして、馬の尻から馬糞《ばふん》の落ちるのを待つてゐる。私はこれ等の光景に接すると、必《かならず》北斎或はミレヱを連想して深刻なる絵画的写実の感興を誘《いざな》ひ出され、自《みづか》ら絵事《くわいじ》の心得なき事を悲しむのである。

 以上|河流《かりう》と運河の外|猶《なほ》東京の水の美に関しては処々《しよしよ 》の下水が落合つて次第に川の如き流《ながれ》をなす溝川《みぞかは》の光景を尋《たづ》ねて見なければならない。東京の溝川《みぞかは》には折々《をりをり 》可笑《をか》しい程事実と相違した美しい名がつけられてある。例へば芝愛宕下《しばあたごした》なる青松寺《せいしようじ》の前を流れる下水を昔から桜川《さくらがは》と呼び又|今日《こんにち》では全く埋尽《うづめつく》された神田鍛冶町《かんだかぢちやう》の下水を逢初川《あひそめがは》、橋場総泉寺《はしばそうせんじ》の裏手から真崎《まつさき》へ出る溝川《みぞかは》を思川《おもひがは》、また小石川金剛寺坂下《こいしかはこんがうじざかした》の下水を人参川《にんじんがは》と呼ぶ類《たぐひ》である。江戸時代にあつては此等の溝川《みぞかは》も寺院の門前や大名屋敷の塀外《へいそと》なぞ、幾分か人の目につく場所を流れてゐたやうな事から、土地の人にはその名の示すが如き特殊な感情を与へたものかも知れない。然し今日《こんにち》の東京になつては下水を呼んで川となすことすら既に滑稽なほど大袈裟《おほげさ》である。かくの如く其の名と其の実との相伴《あひともな》はざる事は独り下水の流れのみには留まらない。江戸時代とまた其の以前からの伝説を継承した東京市中各処の地名には少しく低い土地には千仭《せんじん》の幽谷を見るやうに地獄谷《ぢごくだに》(麹町にあり)千日谷《せんにちだに》(四谷鮫ヶ橋に在り)我善坊《がぜんばう》ヶ|谷《だに》(麻布に在り)なぞいふ名がつけられ、また少しく小高《こだか》い処は直ちに峨々《がゝ》たる山岳の如く、愛宕山《あたごやま》道灌山《どうかんやま》待乳山《まつちやま》なぞと呼ばれてゐる。島なき場所も柳島《やなぎしま》三河島《みかはしま》向島《むかうじま》なぞと呼ばれ、森なき処にも烏森《からすもり》、鷺《さぎ》の森《もり》の如き名称が残されてある。始めて東京へ出て来た地方の人は、電車の乗換場《のりかへば》を間違へたり市中《しちゆう》の道に迷つたりした腹立《はらだち》まぎれ、斯《かゝ》る地名の虚偽を以てこれ亦《また》都会の憎むべき悪風として観察するかも知れない。

 溝川《みぞかは》は元《もと》より下水に過ぎない。紫《むらさき》の一本《ひともと》にも芝の宇田川《うだがは》を説く条《くだり》に、「溜池《ためいけ》の屋舗《やしき》の下水落ちて愛宕《あたご》の下《した》より増上寺《ぞうじやうじ》の裏門を流れて爰《こゝ》に落《おつ》る。愛宕《あたご》の下《した》、屋敷々々の下水も落ち込む故|宇田川橋《うだがはばし》にては少しの川のやうに見ゆれども水上《みなかみ》はかくの如し。」とある通り、昔から江戸の市中《しちゆう》には下水の落合つて川をなすものが少くなかつた。下水の落合つて川となつた流れは道に沿ひ坂の麓を廻《めぐ》り流れ流れて行く中《うち》に段々広くなつて、天然の河流又は海に落込むあたりになると何《ど》うやら此《か》うやら伝馬船《てんません》を通はせる位《くらゐ》になる。麻布《あざぶ》の古川《ふるかは》は芝山内《しばさんない》の裏手近く其の名も赤羽川《あかばねがは》と名付けられるやうになると、山内《さんない》の樹木と五重塔《ごぢゆうのたう》の聳《そび》ゆる麓《ふもと》を巡《めぐ》つて舟揖《しうしふ》の便を与ふるのみか、紅葉《こうえふ》の頃は四条派《しでうは》の絵にあるやうな景色を見せる。王子《わうじ》の音無川《おとなしかは》も三河島《みかはしま》の野を潤《うるほ》した其の末は山谷堀《さんやぼり》となつて同じく船を泛《うか》べる。
 下水と溝川《みぞかは》はその上に架《かゝ》つた汚《きたな》い木橋《きばし》や、崩れた寺の塀、枯れかゝつた生垣《いけがき》、または貧しい人家の様《さま》と相対して、屡《しばしば
》憂鬱なる裏町の光景を組織する。既ち小石川柳町《こいしかはやなぎちやう》の小流《こながれ》の如き、本郷《ほんがう》なる本妙寺坂下《ほんめうじさかした》の溝川《みぞかは》の如き、団子坂下《だんござかした》から根津《ねづ》に通ずる藍染川《あゐそめがは》の如き、かゝる溝川《みぞかは》流《なが》るゝ裏町は大雨《たいう》の降る折《をり》と云へば必《かなら》ず雨潦《うれう》の氾濫に災害を被《かうむ》る処である。溝川が貧民窟に調和する光景の中《うち》、其の最も悲惨なる一例を挙げれば麻布《あざぶ》の古川橋《ふるかはばし》から三之橋《さんのはし》に至る間《あひだ》の川筋であらう。ぶりき板の破片や腐つた屋根板で葺《ふ》いたあばら[#「あばら」に傍点]家《や》は数町に渡つて、左右《さいう》から濁水《だくすゐ》を挟《さしはさ》んで互にその傾いた廂《ひさし》を向ひ合せてゐる。春秋《はるあき》時候の変り目に降りつゞく大雨《たいう》の度毎《たびごと》に、芝《しば》と麻布《あざぶ》の高台から滝のやうに落ちて来る濁水は忽ち両岸《りやうがん》に氾濫して、あばら家《や》の腐つた土台から軈《やが》ては破れた畳《たゝみ》までを浸《ひた》してしまふ。雨が霽《は》れると水に濡れた家具や夜具《やぐ》蒲団《ふとん》を初め、何とも知れぬ汚《きたな》らしい襤褸《ぼろ》の数々は旗か幟《のぼり》のやうに両岸《りやうがん》の屋根や窓の上に曝《さら》し出される。そして真黒な裸体《らたい》の男や、腰巻一つの汚《きたな》い女房や、又は子供を背負つた児娘《こむすめ》までが笊《ざる》や籠や桶《をけ》を持つて濁流の中《うち》に入りつ乱れつ富裕な屋敷の池から流れて来る雑魚《ざこ》を捕へやうと急《あせ》つてゐる有様、通りがゝりの橋の上から眺めやると、雨あがりの晴れた空と日光の下《もと》に、或時は却《かへ》つて一種の壮観を呈してゐる事がある。かゝる場合に看取《かんしゆ》せられる壮観は、丁度《ちやうど》軍隊の整列|若《も》しくは舞台に於ける並大名《ならびだいみやう》を見る時と同様で一つ/\に離して見れば極めて平凡なものも集合して一団をなす時には、此処に思ひがけない美麗と威厳とが形造られる。古川橋《ふるかはばし》から眺める大雨《たいう》の後《あと》の貧家の光景の如きも矢張《やはり》此《この》一例であらう。

 江戸城の濠《ほり》は蓋《けだ》し水の美の冠たるもの。然し此の事は叙述の筆を以てするよりも寧《むし》ろ絵画の技《ぎ》を以てするに如《し》くはない。それ故私は唯《たゞ》代官町《だいくわんちやう》の蓮池御門《はすいけごもん》、三宅坂下《みやけざかした》の桜田御門《さくらだごもん》、九段坂下《くだんざかした》の牛《うし》ヶ|淵《ふち》等《とう》古来人の称美する場所の名を挙げるに留《とゞ》めて置く。
 池には古来より不忍池《しのばずのいけ》の勝景ある事これも今更《いまさら》説く必要がない。私は毎年の秋|竹《たけ》の台《だい》に開かれる絵画展覧会を見ての帰り道、いつも市気《しき》満々《まん/\》たる出品の絵画よりも、向《むかう》ヶ|岡《をか》の夕陽《せきやう》敗荷《はいか》の池に反映する天然の絵画に対して杖を留《とゞ》むるを常とした。そして現代美術の品評よりも独り離れて自然の画趣に恍惚とする方が遥《はるか》に平和幸福である事を知るのである。
 不忍池《しのばずのいけ》は今日《こんにち》市中に残された池の中《うち》の最後のものである。江戸の名所に数へられた鏡《かゞみ》ヶ|池《いけ》や姥《うば》ヶ|池《いけ》は今更《いまさら》尋《たづね》る由《よし》もない。浅草寺境内《せんさうじけいだい》の弁天山《べんてんやま》の池も既に町家《まちや》となり、また赤坂の溜池も跡方《あとかた》なく埋《うづ》めつくされた。それによつて私は将来|不忍池《しのばずのいけ》も亦《また》同様の運命に陥りはせぬかと危《あやぶ》むのである。老樹鬱蒼として生茂《おひしげ》る山王《さんわう》の勝地《しようち》は、其の翠緑を反映せしむべき麓の溜池《ためいけ》あつて初めて完全なる山水《さんすゐ》の妙趣を示すのである。若《も》し上野の山より不忍池《しのばずのいけ》の水を奪つてしまつたなら、それは恰《あたか》も両腕をもぎ取られた人形に等しいものとなるであらう。都会は繁華となるに従つて益々《ます/\》自然の地勢から生ずる風景の美を大切に保護せねばならぬ。都会に於ける自然の風景は其の都市に対して金力を以て造《つく》る事の出来ぬ威厳と品格とを帯《おび》させるものである。巴里《パリー》にも倫敦《ロンドン》にもあんな大きな、そしてあのやうに香《かんば》しい蓮《はす》の花の咲く池は見られまい。

 都会の水に関して最後に渡船《わたしぶね》の事を一言《いちごん》したい。渡船《わたしぶね》は東京の都市が漸次《ぜんじ》整理されて行くにつれて、即《すなは》ち橋梁の便宜を得るに従つて軈《やが》ては廃絶すべきものであらう。江戸時代に遡《さかのぼ》つて之《これ》を見れば元禄九年に永代橋《えいたいばし》が懸《かゝ》つて、大渡《おほわた》しと呼ばれた大川口《おほかはぐち》の渡場《わたしば》は江戸鹿子《えどかのこ》や江戸爵抔《えどすゞめなど》の古書《こしよ》にその跡を残すばかりとなつた。それと同じやうに御厩河岸《おうまやかし》の渡《わた》し鎧《よろひ》の渡《わたし》を始めとして市中諸所の渡場《わたしば》は、明治の初年|架橋工事《かけうこうじ》の竣成《しゆんせい》と共《とも》にいづれも跡を絶ち今は只《たゞ》浮世絵によつて当時の光景を窺《うかゞ》ふばかりである。
 然し渡場《わたしば》は未《いま》だ悉《こと/″\》く東京市中から其の跡を絶つた訳ではない。両国橋《りやうごくばし》を間《あひだ》にして其の川上《かはかみ》に富士見《ふじみ》の渡《わたし》、その川下《かはしも》に安宅《あたけ》の渡《わたし》が残つてゐる。月島《つきしま》の埋立工事《うめたてこうじ》が出来上ると共に、築地《つきぢ》の海岸からは新《あらた》に曳船《ひきふね》の渡しが出来た。向島《むかうじま》には人の知る竹屋《たけや》の渡《わた》しがあり、橋場《はしば》には橋場《はしば》の渡《わた》しがある。本所《ほんじよ》の竪川《たてかは》、深川《ふかがは》の小名木川辺《をなぎかはへん》の川筋《かはすぢ》には荷足船《にたりぶね》で人を渡す小さな渡場《わたしば》が幾個所《いくかしよ》もある。
 鉄道の便宜は近世に生れた吾々の感情から全く羈旅《きりよ》とよぶ純朴なる悲哀の詩情を奪去《うばひさ》つた如く、橋梁はまた遠からず近世の都市より渡船《わたしぶね》なる古めかしい緩《ゆるや》かな情趣を取除いてしまふであらう。今日《こんにち》世界の都会中《とくわいちゆう》渡船《わたしぶね》なる古雅の趣《おもむき》を保存してゐる処は日本の東京のみではあるまいか。米国の都市には汽車を渡す大仕掛けの渡船《わたしぶね》があるけれど、竹屋《たけや》の渡《わた》しの如く、河水《かはみづ》に洗出《あらひだ》された木目《もくめ》の美しい木造《きづく》りの船、樫《かし》の艪《ろ》、竹の棹《さを》を以てする絵の如き渡船《わたしぶね》はない。私は向島《むかうじま》の三囲《みめぐり》や白髯《しらひげ》に新しく橋梁の出来る事を決して悲しむ者ではない。私は唯《ただ》両国橋の有無《いうむ》に係《かゝは》らず其の上下《かみしも》に今猶《いまなほ》渡場《わたしば》が残されてある如く隅田川其の他の川筋にいつまでも昔のまゝの渡船《わたしぶね》のあらん事を希《こひねが》ふのである。
 橋を渡る時|欄干《らんかん》の左右《さいう》からひろ/″\した水の流れを見る事を喜ぶものは、更に岸を下《くだ》つて水上《すゐじやう》に浮《うか》び鴎《かもめ》と共にゆるやかな波に揺《ゆ》られつゝ向《むかう》の岸に達する渡船《わたしぶね》の愉快を容易に了解する事が出来るであらう。都会の大道には橋梁の便あつて、自由に車を通ずるに係《かゝは》らず、殊更《ことさら》岸に立つて渡船《わたしぶね》を待つ心は、丁度《ちやうど》表通《おもてどほり》に立派なアスフワルト敷《じき》の道路あるに係《かゝは》らず、好んで横町や路地の間道《かんだう》を抜けて見る面白さと稍《やゝ》似たものであらう。渡船《わたしぶね》は自動車や電車に乗つて馳《は》せ廻る東京市民の公生涯《こうしやうがい》とは多くの関係を持たない。然し渡船《わたしぶね》は時間の消費をいとはず重い風呂敷包《ふろしきづゝ》みなぞ背負《せお》つてテク/\と市中《しちゆう》を歩いてゐる者供《ものども》には大《だい》なる休息を与へ、また吾等の如き閑散なる遊歩者に向つては近代の生活に味《あぢは》はれない官覚《くわんかく》の慰安を覚えさせる。
 木で造つた渡船《わたしぶね》と年老いた船頭とは現在|並《なら》びに将来の東京に対して最も尊い骨董《こつとう》の一つである。古樹と寺院と城壁と同じく飽くまで保存せしむべき都市の宝物《はうもつ》である。都市は個人の住宅と同じく其の時代の生活に適当せしむべく常に改築の要あるは勿論のことである。然し吾々は人の家を訪《と》うた時、座敷の床の間に其の家伝来の書画を見れば何となく奥床しく自《おのづか》ら主人に対して敬意を深くする。都会も其の活動的ならざる他《た》の一面に於て極力伝来の古蹟を保存し以て其の品位を保《たも》たしめねばならぬ。この点よりして渡船《わたしぶね》の如きは独《ひと》り吾等一個の偏狭なる退歩趣味からのみ之《これ》を論ずべきものではあるまい。

底本:「日本の名随筆33 水」作品社
   1985(昭和60)年7月25日第1刷発行
   1996(平成8)年2月29日第15刷発行
底本の親本:「荷風全集 第一三巻」岩波書店
   1963(昭和38)年2月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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永井荷風

申訳 —–永井荷風

 昭和二年の雨ばかり降りつづいている九月の末から十月のはじめにかけて、突然僕の身の上に、種類のちがった難問題が二つ一度に差し迫って来た。
 難事の一は改造社という書肆が現代文学全集の第二十二編に僕の旧著若干を採録し、九月の十五六日頃に之を販売した。すると編中には二十年前始て博文館から刊行した「あめりか物語」と題するものが収載せられていたので、之がため僕は九月二十九日の朝、突然博文館から配達証明郵便を以て、改造社全集本の配布禁止の履行と併せて、版権侵害に対する賠償金の支払を要求せられることになった。改造社の主人山本さんが僕と博文館との間に立って、日に幾回となく自動車で往復している最中、或日の正午頃に一人の女がふらふらと僕の家へ上り込んで来て、僕の持っている家産の半分を貰いたいと言出した。これが事件の其二である。
 博文館なるものはここに説くまでもなく、貴族院議員大橋新太郎という人を頭に戴いて、書籍雑誌類の出版を営業としているものである。ふらふらと僕の家へやって来た女は一時銀座の或カッフェーに働いていた給仕人である。本屋と女給とは職業が大分ちがっているが、しかし事に乗じて人の銭を奪去ろうと企てている事には変りがない。然り而して、こいつァ困った事になりやしたと、面色さながら土の如くになったのは唯是僕一人である。
 僕とは何人ぞや。僕は文士である。政治家と相結んで国家的公共の事業を企画し名を売り利を釣る道を知らず、株式相場の上り下りに千金を一攫する術にも晦《くら》い。僕は文士である。文士は芸術家の中に加えられるものであるが、然し僕はもう老込《ふけこ》んでいるから、金持の後家をだます体力に乏しく、また工面《くめん》のよい女優のツバメとやらになる情慾もない。金を獲るには蟻が物を運ぶが如く、又点滴の雫が甃石《しきいし》に穴を穿つが如く根気よく細字を書くより外に道がない。
 二の難事はいかに解決するだろう。解決のしかたによっては、僕は家を売り蔵書を市に鬻《ひさ》いで、路頭に彷徨する身となるかも知れない。僕は仏蘭西人が北狄《ほくてき》の侵略に遭い国を挙げてマルンの水とウェルダンの山とを固守した時と同じ場合に立った。痩せ細った総身の智略を振絞って防備の陣を張らなくてはならない。防備の陣を張るにも先立つものは矢張金である。金を獲るには僕の身としては書くのが一番の捷径《しょうけい》であろう。恥も糞もあるものかと思いさだめて、一気呵成に事件の顛末を、まずここまで書いて見たから、一寸一服、筆休めに字数と紙数とをかぞえよう。
 そもそも僕が始て都下にカッフェーというもののある事を知ったのは、明治四十三年の暮春洋画家の松山さんが銀座の裏通なる日吉町にカッフェーを創設し、パレット形の招牌を掲げてプランタンという屋号をつけた際であった。僕は開店と言わずして特に創設という語を用いた。如何となれば巴里風のカッフェーが東京市中に開かれたのは実に松山画伯の AU PRINTEMPS を以て嚆矢《こうし》となすが故である。当時都下に洋酒と洋食とを鬻ぐ店舗はいくらもあった。又カウンターに倚《よ》りかかって火酒を立飲する亜米利加風の飲食店も浅草公園などには早くから在ったようであるが、然し之を呼ぶにカッフェーの名を以てしたものは一軒もなかった。カッフェーの名の行われる以前、この種類の飲食店は皆ビーヤホールと呼ばれていた。されば松山画伯の飲食店は其の実に於ては或は創設の功を担わしめるには足りないかも知れぬが、其の名に於ては確に流布の功があった。当時都人の中にはカッフェーの義の何たるかを知らず、又これを呼ぼうとしても正確にFの音を発することのできない者も鮮くなかった。然るに二十年後の今日に到っては日本全国ビーヤホールの名を掲げて酒を估《う》る店は一軒もなく、※[#「にんべん+倉」、第4水準2-1-77]父《そうふ》も滑《なめらか》に 〔Cafe’〕 の発音をなし得るようになった。
 さればカッフェーの創設者たる松山画伯にして、狡智に長《た》けたること、若しかの博文館が二十年前に出版した書物の版権を、今更云々して賠償金を取立てるがように、カッフェーという名称を用いる都下の店に対して一軒一軒、賠償金を徴発していたら、今頃は松山さんの家は朱頓《しゅとん》の富を誇っていたに相違はない。
 カッフェープランタンの創設せられた当初、僕は一夕生田葵山井上唖々の二友と共に、有楽座の女優と新橋の妓とを伴って其のカッフェーに立寄った。入口に近いテーブルに冒険小説家の春浪さんが数人の男と酒を飲んでいたのを見たが、僕等は女連れであったから、別に挨拶もせずに、そのまま楼上に上った。僕等三人は春浪さんがまだ早稲田に学んでいた頃から知合っていた間柄なので、挨拶もせずに二階へ上ったことを失礼だとは思っていなかった。就中《なかんずく》僕は西洋から帰ってまだ間《ま》もない頃のことであったから、女連のある場合、男の友達へは挨拶をせぬのが当然だと思っていた。ところが春浪さんは僕等の見知らぬ男を引連れ、ずかずか二階へ上って来て、まず唖々さんに喧嘩を売りはじめた。僕は学校の教師見たような事をしていた頃なので、女優と芸者とに耳打して、さり気《げ》なく帽子を取り、逸早く外へ逃げだした。後になって当夜の事をきいて見ると、春浪さんは僕等三人が芸者をつれて茶亭に引上げたものと思い、それと推測した茶屋に乱入して戸障子を蹴破り女中に手傷を負わせ、遂に三十間堀の警察署に拘引せられたという事であった。これを聞いて、僕は春浪さんとは断乎として交を絶ったのみならず、カッフェープランタンにも再び出入しなかった。尾張町の四辻にカッフェーライオンの開店したのも当時のことであったが、僕はプランタンの遭難以来銀座辺の酒肆には一切足を踏み入れないようにしていた。
 光陰の速なることは奔輪の如くである。いつの間にか二十年の歳月が過ぎた。春浪さんも唖々さんも共に斉《ひと》しく黄泉《よみ》の客となった。二十年の歳月は短きものではない。世の中も変れば従って人情も変った。
 大正十五年八月の或夜、僕は晩涼を追いながら、震災後日に日にかわって行く銀座通の景況を見歩いた時、始めて尾張町の四辻に近い唯《と》あるカッフェーに休んだ。それ以来僕は銀座通を通り過る時には折々この店に休んで茶を飲むことにした。
 これにはいろいろの理由《わけ》があった。僕は十年来一日に一度、昼飯か晩飯かは外で食《くら》うことにしている。カッフェーの料理は殆ど口には入れられないほど粗悪であるが、然し僕は強いて美食を欲するものでもない。毒にもならずして腹のはるものならば大抵は我慢をして食う。若し自分の口に適したものが是非にもほしいと思う時には、僕は人の手を借らずに自分で料理をつくる癖がある。けれども俗事の輻輳した時にはそうもして居られない。且又炎暑の時節には火をおこして物を煮る気にもなれない。まずいのを忍んで飲食店の料理を食うのが或時には便宜である。これが僕をして遂にカッフェーの客たらしめた理由の一である。
 僕は築地の路地裏から現在の家に琴書を移し運んでより此の方、袖の長い日本服を着たことがない。人に招かれる場合にも靴をぬいで畳の上に坐ることは出来得るかぎり避けている。物を食うにも鳥屋の二階を不便となし、カッフェーを便としている。是が理由の第二である。
 銀座通にカッフェーの流行し始めてから殆《ほとんど》二十年の歳月を経たことは既に述べた。二十年の間に時勢は一変した。時勢の変遷につれて、僕自身の趣味も亦《また》いくらか変化せざるを得ない。いかほど旧習を墨守しようと欲しても到底墨守することの出来ない事がある。おおよそ世の流行は馴るるに従って、其の始め奇異の感を抱かせたものも、姑《しばら》くにして平凡となるのが常である。況《いわん》や僕は既にわかくはない。感激も衰え批判の眼も鈍くなっている。箍《たが》が弛《ゆる》んでいる。僕は年五十に垂《なんな》んとした其の年の秋、始めて銀座通のカッフェーに憩い僕の面前に紅茶を持運んで来た女給仕人を見ても、二十年前ライオン開店の当時に於けるが如く嫌悪の情を催さなかった。是が理由の第三である。
 僕は啻《ただ》にカッフェーの給仕女のみならず、今日に在っては新しき演劇団の女優に対しても以前の如くに侮蔑の目を以てのみ看てはいない。今の世の中にはあのようなものが芸術家を以て目せられるのも自然の趨勢であると思ったので、面晤《めんご》する場合には世辞の一ツも言える位にはなっている。活動写真に関係する男女の芸人に対しても今日の僕はさして嫌悪の情を催さず儼然として局外中立の態度を保つことができるようになっている。之を要するに現代の新女優、給仕女、女店員、洋風女髪結のたぐいは、いずれも同じ趣味と同じ性行とを有する同種の新婦人である。
 今銀座のカッフェーに憩い、仔細に給仕女の服装化粧を看るに、其の趣味の徹頭徹尾現代的なることは、恰当世流行の婦人雑誌の表紙を見る時の心持と変りはない。一代の趣味も渾然として此処まで堕落してしまって、又如何ともすることの出来ぬものに成り了《おわ》ってしまうと、平生世間外に孤立している傍観者には却て一種奇異なる興味と薄い気味悪さとを覚えさせるようになる。
 僕は銀座街頭に於て目撃する現代婦女の風俗をたとえて、石版摺の雑誌表紙絵に均しきものとなした。それはまた化学的に製造した色付葡萄酒の味にも似ている。日光の廟門を模擬した博覧会場の建築物にも均しい。菊人形の趣味に一層の俗悪を加えたものである。斯くの如き傾向はいつの時に其の源を発したか。混沌たる明治文明の赴くところは大正年間十五年の星霜を経由して遂にこの風俗を現出するに至ったものと看るより外はない。一たび考察をここに回《めぐ》らせば、世態批判の興味の勃然として湧来るを禁じ得ない。是僕をして新聞記者の中傷を顧みず泰然としてカッフェーの卓子に倚《よ》らしめた理由の第四である。
 僕のしばしば出入したカッフェーには給仕の女が三十人あまり、肩揚のある少女が十人あまり。酒場の番をしている男が三四人、帳簿係の女が五六人、料理人が若干人、事務員が二三人。是等の人達の上に立って営業の事務一切を掌る支配人が一人、其助手が一人あった。数え来れば少からぬ人員となる。是の人員が一団をなして業を営む時には、ここに此の一団固有の天地の造り出されるのは自然の勢である。同じ銀座通に軒を連ねて同じ営業をしていても、其店々によって店の風がちがって来ることになる。店の風がちがえば客の種類もちがって来る。ここに於てか世態観察の興味は一層加わるわけである。
 凡物にして進化の経程を有せざるはない。市井の風俗を観察する方法にも同じく進化の道がある。江戸時代に在っては山東京伝は吉原妓楼の風俗の家毎に差別のあった事を仔細に観察して数種の蒟蒻本を著した。傾城買四十八手傾城※[#「金+攜のつくり」、161-12]の如きは其の冠たるものであろう。京伝等江戸の戯作者の好んで為した市井風俗の観察は多く支那の艶史より学び来ったものである。されば寛政以降漢文の普及せらるるに及んで、寺門静軒は江戸繁昌記を著し、踵いで成島柳北は柳橋新誌を作った。京伝一派の蒟蒻本は文化年代に夙《はや》く其跡を絶っていたが、静軒の筆致を学ぶものは明治年間に至るも猶絶えず、服部撫松は柳巷新史を著し、松本万年は新橋雑記をつくり、三木愛花に及んで此の種の艶史は遂に終を告げた。
 僕はカッフェーの卓子に憑《よ》って目には当世婦女の風俗を観、心には前代名家の文章を想い起すや、喟然《きぜん》としてわが文藻の乏しきを悲しまなければならない。泰西に在っては詩人ミュッセが「ミミイパンソンの晴衣裳」の如き、早くより世人の伝唱して措かざるもの。ウェルレーンの詩集も亦カッフェーの光景を詠じた佳什に乏しくない。
 昭和紀元の冬、銀座通に在ったカッフェーにして、殊に給仕女の※[#「靜のへん+見」、第3水準1-93-75]粧《せいしょう》の人目を牽いたものは、ライオン、タイガー、ギンブラ、バッカス、松月、孔雀の如き名を以て呼ばれた店である。此等のカッフェーの光景と給仕女の評判記に至っては現代の雑誌新聞の紙面を埋むる好資料である。既に「騒人」と称する文学雑誌の如きは、カッフェー特別号なるものを編纂し、文芸諸名士のカッフェーに関する名文を網羅して全冊を埋めていた。されば菲才僕の如きものが、今更カッフェーについて舛駁《せんばく》なる文をつくるのは、屋下に屋を架する笑いを招くばかりであろう。
 僕は平生見聞する事物の中、他日小説の資料になるらしく思われる事があると、手帳にこれを書き留めて置く。一日の天気模様でも、月の夜に虹が出たり、深夜の空に彗星が顕れたりすると、之も同じくその見たままを書き留めて置く。これ等は啻《ただ》に小説執筆の際叙景の資料になるのみならず、古人の書を読む時にも案外やくに立つことがある。僕は曾て木氷というものを見たことがあった。木氷とは樹木の枝に滴る雨の雫が突然の寒気に凍って花の咲いたように見えるのを謂うのである。僕は初木氷の名も知らず、亦これが詩人の喜んで瑞兆となすものであることも知らなかったが、近年に至ってたまたま大窪詩仏の集を読むに及んで始て其等の次第を審にしたのである。
 僕が銀座のカッフェーに関して手帳に覚書をして置いたことも尠くはない。左に之を抄録して読者の一※[#「口+據のつくり」、第3水準1-15-24]に供しよう。
「某月某日晩涼ヲ追テ杖ヲ銀座街ニ曳ク。夜市ノ燈火白昼ノ如ク、遊歩ノ男女肩ヲ摩シ踵ヲ接ス。夜熱之ガ為ニ卻テ炎々タリ。避ケテ一酒肆に[#「酒肆に」はママ]入ル。洋風ノ酒肆ニシテ、時人ノ呼ンデカツフヱート称スルモノ即是ナリ。カツフヱーノ語ハモト仏蘭西ヨリ起ル。邦人妄ニ之ヲ借リ来ツテ酒肆ニ名クト雖其ノ名ノ実ニ沿ハザルコト蓋甚シキモノアリ。是亦吾社会百般ノ事物西洋ヲ模倣セント欲シテ到底模倣ダニ善クスルコト能ハザルノ一例ニ他ナラズ。酒茶ノ味ノ如キハ固ヨリ言フ可キ限リニ非ザル也。銀座街ノカツフヱー皆妙齢ノ婢ヲ蓄ヘ粉粧ヲ凝シテ客ノ酔ヲ侑ケシムルコト宛然絃妓ノ酒間ヲ斡旋スルト異ラズ。是ヲ江戸時代ニ就イテ顧レバ水茶屋ノ女ノ如ク麦湯売ノ姐サンノ如ク、又宿屋ノ飯盛ノ如シト言フモ可ナリ。カツフヱーノ婢ハ世人ノ呼デ女ボーイトナシ又女給トナスモノ。其ノ服飾鬟髻ノ如キハ別ニ観察シテ之ヲ記ス可シ。此ノ宵一婢ノ適《タマタマ》予ガ卓子ノ傍ニ来ツテ語ル所ヲ聞クニ、此酒肆ノ婢総員三十余人アリト云。婢ハ日々其家ヨリ通勤ス。家ハ家賃廉低ノ地ヲ択ブガ故ニ大抵郡部新開ノ巷ニ在リ。別ニ給料ヲ受ケズ、唯酔客ノ投ズル纏頭ヲ俟ツノミ。然レドモ其ノ金額日々拾円ヲ下ラザルコト往々ニシテ有リ。之ヲ以テ或ハ老親ヲ養フモノアリ或ハ病夫ノタメニ薬ヲ買フモノアリ。或ハ弟妹ニ学資ヲ与フルモノアリ。或ハ淫肆放縦ニシテ獲ル所ノモノハ直ニ濫費シテ惜シマザルモノアリ。各其ノ為人ニ従ツテ為ス所ヲ異ニス。婢ノ楼ニ在ツテ客ヲ邀フルヤ各十人ヲ以テ一隊ヲ作リ、一客来レバ隊中当番ノ一婢出デヽ之ニ接ス。女隊ニ三アリ。一ヲ紅隊ト云ヒ、二ヲ緑隊、三ヲ紫隊ト云フ。各隊ノ女子ハ個々七宝焼ノ徽章ヲ胸間ニ懸ケ以テ所属ノ隊ト番号トヲ明示ス。三隊ノ女子日ニ従テ迎客ノ部署ヲ変ズ。紅緑ノ二羣楼上ニ在ルノ日ハ紫隊ノ一羣ハ階下ニ留マルト云フガ如シ。楼上ニハ常ニ二隊ヲ置キ階下ニハ一隊ヲ留ムルヲ例トス。三隊互ニ循環シテ上下ス。サレバ客ノ此楼ニ登ツテ酔ヲ買ハント欲スルモノ、若シ特ニ某隊中ノ阿嬌第何番ノ艶語ヲ聞カンコトヲ冀フヤ、先阿嬌所属ノ一隊ノ部署ヲ窺ヒ而シテ後其ノ席ニ就カザル可カラズ。然ラザレバ徒ニ纏頭ヲ他隊ノ婢ニ投ジテ而モ終宵阿嬌ノ玉顔ヲ拝スルノ機ヲ失スト云。是ニ於テヤ酒楼ノ情況宛然妓院ニ似タルモノアリ。予復問フテ曰ク卿等女給サンノ前身ハ何ゾヤ。聞クナラク浅草公園上野広小路辺ノ洋風酒肆近年皆競ツテ美人ヲ蓄フト。果シテ然ルヤ。婢答ヘテ曰ク閣下ノ言フガ如シ。抑是ノ酒肆ハ浅草雷門外ナル一酒楼ノ分店ニシテ震災ノ後始テ茲ニ青※[#「穴かんむり/巾」、第3水準1-84-10]ヲ掲ゲタルモノ。然ルガ故ニ婢モ亦開店ノ当初ニ在リテハ浅草ノ本店ヨリ分派セラレシモノ尠シトナサヾリキ。今ヤ日ニ従テ新陳代謝シ四方ヨリ風ヲ臨ンデ集リ来レルモノ多シ。曾テ都下狭斜ノ巷ニ在テ左褄ヲ取リシモノ亦無シトセズト。予之ヲ聞イテ愕然タリ。其ノ故ハ何ゾヤ。疇昔余ノ風流絃歌ノ巷ニ出入セシ時ノコトヲ回顧スルニ、当時都下ノ絃妓ニハ江戸伝来ノ気風ヲ喜ブモノ猶跡ヲ絶タズ。一旦嬌名ヲ都門ニ馳セシムルヤ気ヲ負フテ自ラ快トナシ縦令悲運ノ境ニ沈淪スルコトアルモ自ラ慚ヂテ待合ノ女中牛肉屋ノ姐サントナリ俗客ノ纏頭ニ依ツテ活ヲ窃ムガ如キモノハ殆一人モ有ルコトナカリキ。今ヤ人心ハ上下雅俗ノ別ナク僅ニ十年ニシテ全ク一変セリ。画人ハ背景ヲ描カンガタメニ俳優ノ鼻息ヲ窺ヒ文士ハ書賈ノ前ニ膝ヲ屈シテ恬然タリ。余ヤ性狷介固陋世ニ処スルノ道ヲ知ラザルコト匹婦ヨリモ甚シ。今宵適カツフヱーノ女給仕人ノ中絃妓ノ後身アルヲ聞キ慨然トシテ悟ル所アリ。乃鉛筆ヲ嘗メテ備忘ノ記ヲ作リ以テ自ラ平生ノ非ヲ戒ムト云。」
 僕が文壇の諸友と平生会談の場所と定めて置いた或カッフェーにお民という女がいた。僕が書肆博文館から版権侵害の談判を受けて青くなっている最中、ふらりと僕の家にたずねて来て難題を提出したのはこのお民である。
 お民が始て僕等の行馴れたカッフェーに給仕女の目見得に来たのは、去年の秋もまだ残暑のすっかりとは去りやらぬ頃であった。古くからいる女が僕等のテーブルにお民をつれてきて、何分宜しくと言って引合せたので、僕等は始めて其名を知ったわけである。始て見た時年は二十四五に見えたが、然しその後いくつだときいた時、お民は別に隠そうともせず二十六だと答えた。他の女給仕人のように白粉もさして濃くはせず、髪も縮らさず、箆《へら》のような櫛もささず、見馴れた在来のハイカラに結い、鼠地の絣のお召に横縦に縞のある博多の夏帯を締めていた。顔立は面長の色白く、髪の生際襟足ともに鮮に、鼻筋は見事に通って、切れ長の眼尻には一寸剣があるが、案外口元にしまりが無いのは糸切歯の抜けているせいでもあろう。古風な美人立の顔としてはまず申分のない方であるが、当世はやりの表情には乏しいので、或人は能楽の面のようだと評し、又或人は線が堅くて動きのない顔だと言った。身丈《せい》は高からず低からず、肉付は中の部である。着物の着こなしも、初て目見得の夜に見た時のように、いつも少し衣紋をつくり、帯も心持さがり加減に締めているので、之を他の給仕女がいずれも襟は苦しいほどに堅く引合せ、帯は出来るだけ胸高にしめているのに較べると、お民一人の様子は却て目に立った所から、此のカッフェーに出入するお客からは忽江戸風だとか芸者風だとか言われるようになった。大分心やすくなってから、僕達の問に答えて、お民の語ったところを聞くのに、お民は矢張その様子にたがわず東京の下町に生れた者であった。
「わたし、生れたのは薬研堀ですわ。お父《とッ》つァんはとうに死んじまいました。」
 僕は薬研堀と聞いて、あの辺に楊弓場のあったことを知っているかと問うて見たが、お民は知らないと答えた。広小路に福本亭という講釈場のあった事や、浅草橋手前に以呂波という牛肉屋のあった事などもきいて見たが、それもよく覚えていないようであった。日露戦争の頃に生れた娘には、その生れた町のはなしでも僕の言うことは少し時代が古過ぎたのであろう。現在はどこに住んでいるかときくと、
「兄さんや母《おっか》さんと一緒に東中野にいます。母《おっか》さんはむかし小石川の雁金屋さんとかいう本屋に奉公していたって云うはなしだワ。」と言った。
 雁金屋は江戸時代から明治四十年頃まで小石川安藤坂上に在った名高い書林青山堂のことである。此のはなしは其日僕が恰東仲通の或貸席に開かれた古書売立の市で漢籍を買って、その帰途に立寄った時、お民が古本を見て急に思出したように語ったことである。
 お民は父母のことを呼ぶに、当世の娘のように、「おとうさん、おかあさん」とは言わず「おっかさん、おとッつァん」と言う。僕の見る所では、これは東京在来の町言葉で、「おとうさん」と云い、「おかアさん」と云い、或は略して、「とうさん、かアさん」と云うのは田舎言葉から転化して今は一般の通用語となったものである。薗八節の鳥辺山に「ととさんやかかさんのあるはお前も同じこと」という詞がある。されば「とうさん、かアさん」の語は関西地方のものであろうか。近年に至って都下花柳の巷には芸者が茶屋待合の亭主或は客人のことを呼んで「とうさん」となし、茶屋の内儀又は妓家の主婦を「かアさん」というのを耳にする。良家に在っては児輩が厳父を呼んで「のんきなとうさん」と言っている。人倫の廃頽《はいたい》も亦極れりと謂うべきである。因《ちなみ》にしるす。僕は小石川の家に育てられた頃には「おととさま、おかかさま」と言うように教えられていた。これは僕の家が尾張藩の士分であった故でもあろうか。其の由来を審にしない。
 お民は談話が興に乗ってくると、「アノあたいが」と言いかけて、笑いながら「わたしが」と言い直すことがある。お民の言葉使には一体にわざとらしいまでに甘ったれた調子が含まれている。二十六の女とは思われぬ程小娘らしい調子があるが、これは左右の糸切歯が抜けていて、声が漏れるためとも思われるし、又職業柄わざと舌ッたるくしているのだとも思われた。話しながら絶えず身体をゆすぶり、一語《ひとこと》一語《ひとこと》に手招ぎするような風に手を動す癖がある。見馴れるに従ってカッフェーの女らしいところはいよいよなくなって、待合か日本料理屋の女中のような気がしてくるのであった。
「お民、お前、どこか末広のような所にいたことはないのか。」と僕等の中の一人がきいた事がある。するとお民は赤坂の或待合に女中をしていたことがあると答えたので僕は心窃に推測の違っていなかった事を誇ったような事もあった。
 だんだん心やすくなるにつれて、お民の身の上も大分明かになって来た。お民の兄は始め芸者を引かせて内に入れたが、間もなく死別れて、二度目は田舎から正式に妻を迎え一時神田辺で何か小売商店を営んでいたところ、震災後商売も次第に思わしからず、とうとう店を閉じて郡部へ引移り或会社に雇われるような始末に、お民は兄の家の生計を助けるために始てライオンの給仕女となり、一年ばかり働いている中Sさんとかいう或新聞の記者に思いを掛けられ、其人につれられて大阪の方へ行って半年あまり遊び暮していた。別れて東京に帰ってから二三軒あちこちのカッフェーを歩いた後遂に現在のカッフェーへ出ることになったのだと云う。併し始て尾張町のライオンに雇われた其より以前の事については、お民は語ることを好まないらしく成りたけ之を避けているように見えた。それとなく朋輩の給仕女にきいて見ると、十八九の時嫁に行き一年ばかりで離縁になったのだと言うものもあれば、十五六の時分から或華族のお屋敷に上っていたのだ。それも唯の奉公ではないという者もあった。いずれが真実だかわからない。兎に角僕等二三人の客の見る所、お民は相応に世間の裏表も、男の気心もわかっていて、何事にも気のつく利口な女であった。酒は好《す》きで、酔うと客の前でもタンカを切る様子はまるで芸者のようで。一度男にだまされて、それ以来|自棄《やけ》半分になっているのではないかと思われるところもあったが、然し祝儀の多寡によって手の裏返して世辞をいうような賤しいところは少しもなかったので、カッフェーの給仕女としてはまず品の好い方だと思われた。
 以上の観察は僕ばかりではない。いつも僕とテーブルを共にした人々の見た所も大抵同じであった。要するに僕等は初対面の人を看る時先入主をなす僻見に捉えられないように自ら戒めている。殊に世人から売笑婦として卑しめられている斯くの如き職業の女に対しては、たとえ品性上の欠点が目に見えても、それには必由来があるだろうと、僕等は同情を以て之を見ようと力《つと》めている。同情は芸術制作の基礎たるのみではない。人生社会の真相を透視する道も亦同情の外はない。観察の公平無私ならんことを希うのあまり、強いて冷静の態度を把持することは、却て臆断の過に陥りやすい。僕等は宗教家でもなければ道徳家でもない。人物を看るに当って必しも善悪邪正の判決を求めるものではない。唯人物を能く看ることが出来れば、それでよいのである。斯くの如き境遇の下に斯くの如き生活が在るという其の真相を窺いたいと冀《ねが》っているに過ぎない。僕等はこれを以て芸術家の本分となしている。僕等は曾て少壮の比《ころ》ツルゲネフやフロオベル等の文学観をよろこび迎えたものである。歴史及び伝説中の偉大なる人物に対する敬虔の心を転じて之を匹夫匹婦が陋巷の生活に傾注することを好んだ。印象派の画家が好んで描いた題材を採って之を文章となす事を畢生の事業と信じた。後に僕は其主張のあまりに偏狭なることを悟ったのであるが、然し少壮の時に蒙った感化は今に至っても容易に一掃することができない。銀座通のカッフェー内外の光景が僕をしては巴里に在った当時のことを回想せしめ生田さんをしては伯林のむかしを追憶せしめたのも其等の為であろう。僕等は一時全く忘れていた自然派文学の作例を思出して之を目前の光景に比較し、西洋の過去と日本の現在との異同を論じて、夜のふけるのを忘れたこともたびたびとなった。
 斯くの如く僕等がカッフェーに出入することの漸く頻繁となるや、都下の新聞紙と雑誌とは筆を揃えて僕の行動を非難し始めた。僕の記憶する所では、新聞紙には、二六、国民、毎夕、中央、東京日日の諸紙毒筆を振うこと最甚しく、雑誌にはササメキと呼ぶもの、及び文芸春秋と称するもの抔《など》があった。是等都下の新聞紙及び雑誌類の僕に対する攻撃の文によって、僕はいい年をしながらカッフェーに出入し給仕女に戯れて得々としているという事にされてしまった。そして相手の給仕女はお民であるという事になった。
 生田さんは新聞紙が僕を筆誅する事日を追うに従っていよいよ急なるを見、カッフェーに出入することは当分見合すがよかろうと注意をしてくれた。僕は生田さんの深切を謝しながら之に答えて、
「新聞で攻撃をされたからカッフェーへは行かないという事になると、つまり新聞に降参したのも同じだ。新聞記者に向って頭を下げるのも同じ事だ。僕はいやでもカッフェーに行く。雨が降ろうが鎗が降ろうが出かけなくてはどうも気がすまない。僕は現代の新聞紙なるものが如何に個人を迫害するものかと言うことを、僕一人の身の上について経験して見るのも一興じゃアないか。僕は日本現代の社会のいかに嫌悪すべきものかと云うことを一ツでも多く実例を挙げて証明する事ができれば、結局僕の勝になるんだ。」と言った。
 すると友達の一人は、「君の態度はまるで西洋十八世紀の社会に反抗したルッソオのようだと言いたいが、然し柄にないことだからまア止した方がいいよ。君はやっぱり江戸文学の考証でもしている方が君らしくっていいよ。」と冷笑した。
 兎角する中議論はさて措き、如何に痩我慢の強い我輩も悠然としてカッフェーのテーブルには坐っていられないようになった。東京の新聞紙が挙って僕のカッフェーに通うのは女給仕人お民のためだという事を報道するや、以前お民をライオンから連出して大阪へ行っていたSさんという人が、一夕突然僕等のテーブルの傍に顕れ来って、「君は僕の女をとったそうだ。ほんとうか。」と血相を変えて叫んだこともあった。すると、やがて僕の身辺をそれとなく護衛していたと号する一青年が顕れて、結局酒手と車代とを請求した。給仕女に名刺を持たせてお話をしたい事があるからと言って寄越す人が多い時には一夜に三四人も出て来るようになった。春陽堂と改造社との両書肆が相競って全集一円本刊行の広告を出す頃になると、そういう一面識もない人で僕と共に盃を挙げようというものがいよいよ増加した。初めに給仕を介したり或は名刺を差付けたりする者はまだしも穏な方であった。遂には突然僕の面前に坐って、突然「オイ君」という調子でコップを僕の鼻先につきつけるものもあるようになった。
 此等の人々は見るところ大抵僕よりは年が少《わか》い。僕は嫌悪の情に加えて好奇の念を禁じ得なかった。何故なれば、僕は文士ではあるが東京に生れたので、自分ではさほど世間に晦《くら》いとも思っていなかったが、何ぞ図らむ。斯くの如き奇怪なる人物が銀座街上に跋扈《ばっこ》していようとは、僕年五十になろうとする今日まで全く之を知る機会がなかったからである。
 彼等は世に云う無頼の徒であろう。僕も年少の比《ころ》吉原遊廓の内外では屡《しばしば》無頼の徒に襲われた経験がある。千束町から土手に到る間の小さな飲食店で飲んでいると、その辺を縄張り中にしている無頼漢は、必折を窺って、はなしをしかける。これが悶着の端緒である。之を避けるには便所へでも行くふりをして烟の如く姿を消してしまうより外はない。当時の無頼漢は一見して、それと知られる風俗をしていた。身幅のせまい唐桟柄の着物に平ぐけをしめ、帽子は戴かず、言葉使は純粋の町言葉であった。三十年を経て今日銀座のカッフェーに出没する無頼漢を見るに洋服にあらざればセルの袴を穿ち、中には自ら文学者と称していつも小脇に数巻の雑誌数葉の新聞紙を抱えているものもある。其の言語を聞くに多くは田舎の訛りがある。
 ここに最奇怪の念に堪えなかったのは、其等無頼の徒に対して給仕女が更に恐るる様子のないことであった。殊にお民は寧《むしろ》心やすい様子で、一人一人に其姓名を挙げ、「誰々さんとはライオン時代からよく知っているのよ。あの人はあれでもほんとの文士なのよ。翻訳家なのよ。やっぱり郊外にいるから電車の中でもちょいちょい逢う事があるのよ。お酒はよくないらしいわね。」などと言って、僕等が其の無礼なことを語った時には、それとなく弁護するような語調を漏らしたことさえあった。お民は此のカッフェーの給仕女の中では文学|好《ず》きだと言われていた。生田さんが或時「今まで読んだものの中で何が一番面白かったか。」ときくと、お民はすぐに「カラマゾフ兄弟だ。」と答えたことがあった。僕はその時お民の語には全く注意していなかった。僕は最初からカッフェーに働いている女をば、その愚昧なことは芸者より甚しいものと独断していたからである。又文学好きだと言われる婦人は、平生文学書類を手にだもしない女に比すれば却て智能に乏しく、其趣味は遥に低いものだと思っていたからである。然し此等の断定の当っていなかった事は、やがて僕等一同が銀座のカッフェーには全く出入しないようになってから、或日突然お民が僕の家へ上り込んで、金銭を強請した時の、其態度と申条とによって証明せられることになった。お民の態度は法律の心得がなくては出来ないと思われるほど抜目がなく、又其の言うところは全然共産党党員の口吻に類するものがあった。
 書肆博文館が僕に対して版権侵害の賠償を要求して来た其翌日である。正午すこし前、お民は髪を耳かくしとやらに結い、あらい石だたみのような飛白《かすり》お召の単衣《ひとえ》も殊更袖の長いのに、宛然《さながら》田舎源氏の殿様の着ているようなボカシの裾模様のある藤紫の夏羽織を重ね、ダリヤの花の満開とも言いたげな流行の日傘をさして、山の手の静な屋敷町に在る僕の家の門前に現れたのであった。芸者とも女優ともつかぬ此のけばけばしい風俗で良家を訪問することは其家に対しては不穏な言語や兇器よりも、遥に痛烈な脅嚇である。むかしの無頼漢が町家《ちょうか》の店先に尻をまくって刺青《ほりもの》を見せるのと同しである。僕はお民が何のために突然僕の家へ来たのかを問うより先に、松屋呉服店あたりで販売するとか聞いているシャルムーズの羽織一枚で殆前後を忘れるまでに狼狽した。殊にその日は博文館との掛合で、いつもより人の出入の多そうに思われる折とて、何はさて置きお民の姿を玄関先から隠したいばかりに、僕はお民を一室に通すや否や、すぐにその来意を問うとお民は長い袂をすくい上げるように膝の上に載せ、袋の底から物をたぐり出すように巻煙草入を取出し、
「わたし、御存じでしょうけれど、もう銀座はやめにしました。」
「そうだそうですね。この間友達から聞きました。」と僕はそれとなく女の様子を窺いながら次の言葉を待った。するとお民は一向気まりのわるい風もせず、
「きょうはすこしお願いしたいことがあるんです。」と落ちつき払って切り出した。其様子から物言いまで曾てカッフェーにいた時分、壁や窓に倚りかかって、其の辺に置いてある植木の葉をむしり取って、噛んでは吐《は》きだしながら冗談を言っていた時とは、まるで別の人になっている。僕はさてこそと、変化《へんげ》の正体を見届けたような心持で、覚えず其顔を見詰めると、お民の方でもじろりと僕の顔を尻目《しりめ》にかけて壁の懸物へと視線をそらせたが、その瞬間僕の目に映じたお民の容貌の冷静なことと、平生から切長の眼尻に剣のあった其の眼の鋭い事とは、この女の生立ちと経歴とを語って余りあるものの如くに思われた。
 僕は相手の気勢を挫《くじ》くつもりで、その言出すのを待たず、「お金のはなしじゃないかね。」というと、お民は「ええ。」と顎《あご》で頷付《うなず》いて、「おぼし召でいいんです。」と泰然として瞬き一ツせず却て僕の顔を見返した。
「おぼし召じゃ困《こま》るね。いくらほしいのだ。」
 斯ういう掛合に、此方《こっち》から金額を明言するのは得策でない。先方の口から言出させて、大概の見当をつけ、百円と出れば五拾円と叩き伏せてから、先方の様子を見計らって、五円十円と少しずつせり上げ、結局七八拾円のところで折合うのが、まずむかしから世間一般に襲用された手段である。僕もこのつもりで金高を質問したのである。ところが相手は是まで大分諸処方々無心に歩き廻った事があると見えて、僕よりはずっと馴れているらしい。
「いくらでも結構です。足りなければ又いただきに来ますから。きょうはいくらでも御都合のいいだけで結構です。」
「じゃ、これだけ持っておいでなさい。今日は少し取込んだ用事があるから。」と僕は持合せた拾円紙幣二枚を渡すと、お民はそれを手に取ったまま、暫く黙って僕の顔を見た後、
「後はいつ、いただけるんでしょう。」
「それだけじゃ足りないのかね。」
 お民は答えないで、徐に巻煙草をのみはじめた。
「僕はお前さんに金を取られる理由はない筈なんだが、一体どういうわけで、そんな事を言うのだ。」
「わたしカッフェーをやめて、何もしていないから困っているんです。」
「困るなら働きに出ればいいじゃないか。僕はそんな相談をかけられるような弱身はないのだから。そういう事は外に相談をする人があるだろう。お前さんには家まで持たせた旦那があるというはなしじゃないか。」
 お民はまた返事をせずに横を向いた。
「兎に角きょうは用があるから。これから出掛けるのだから。おとなしくお帰んなさい。」と僕は立って入口の戸を明けた。
 お民は身動きもせず悠然として莨の烟を吹いている。僕は再び「さア。」といって促すと、お民は急に駄々《だだ》をこねるような調子をつくって、
「いいえ。帰りません。」と首を振って見せた。
「帰ってくれというのに帰らないのは穏かでない。それではまるで強請《ゆすり》も同様だ。お前さんがいくら何と云っても僕の方では金を出すべき義務も理由もないのだから。駄目だよ。」
「それでも、わたしお金がいるんですよ。あなたはお金のある人なんだからいいじゃありませんか。持っている人が持っていない人にやるのは当前でしょう。」
「当前なものか。そんな事は露西亜へでも行ったら知らないこと、日本じゃ通らない。兎に角ここで議論をしても仕様がない。一体、お前、いくらほしいのだ。黙っていては困る。ためしに言って見た方がいい。」
「半分いただきたいつもりです。」
「半分。百円の半分か。」
「いいえ。」
「じゃ、千円の半分か。」
「いいえ。」
「じゃ、一体何の半分だ。」ときくと、お民は事もなげに、「あなたの財産の半分。」と云切って、横を向いてまた煙草の烟を天井の方へ吹きかけた。
 僕は覚えず吹き出しそうになったのを、辛くも押えて、「兎に角そんな出来ない相談をしたって、暇つぶしはお互に徳の行くはなしじゃないから。どうだ。両方で折合って、百円で一切いざこざ無しという事にしようじゃないか。」
 僕は紙入から折好く持合せていた百円札を出してお民に渡した。別に証文を取るにも及ぶまい。此の事件もこれで落着したものと思っていると、四五日過ぎてお民はまた金をねだりに来た。其の言う語と其の態度とは以前よりも一層不穏になっていたので、僕は自身に応接するよりも人を頼んだ方がよいと思って、知合の弁護士を招いて万事を委託した。
 書肆改造社の主人山本さんが自動車で僕を迎いに来て、一緒に博文館へ行ってお辞儀をしてくれと言ったのは、弁護士がお民をつれて僕の家を出て行ってから半時間とは過ぎぬ時分であった。山本さんは僕と一緒に博文館へ行って、ぺこぺこ御辞儀をしたら、或は賠償金を出さずに済むかも知れないから、是非そうして下さいと言うのである。お辞儀一つで事が済むなら訳のないことだと、僕は早速承知して主人と共にその自動車に乗り、道普請で凹凸の甚しい小石川の春日町《かすがまち》から指ヶ谷町へ出て、薄暗い横町の阪上に立っている博文館へと馳付けた。稍しばらく控所で待たされてから、女給仕に案内せられて廊下のはずれの方へと連れて行かれるので、館主の大橋さんが面会するのかと思うと、そうではなくて、其の使用人の中の重立ったらしい人の詰めている事務室であった。その人はわたくしの一存では賠償金の多寡は即答する事ができないと云うので、結局はなしはまとまらず、山本さんと僕とは空しく退出した。そして三四日の後、山本さんの手から賠償金数千円を支払うことになった。僕が小石川のはずれまでぺこぺこ頭を下げに行ったことも結局何のやくにも立たず、取られるものは矢張取られる事になった。それのみならず金に添えて詫状一札をも取られるという始末である。まだまだその上に博文館では僕を引張り出して飯を食わせたいとの事。然しこれだけは流石の僕も忍びかねて、之を拒絶した。商人から饗応を受けることは昔より廉潔の士の好まざる所である。漂母《ひょうぼ》が一飯の恵と雖一たび之を受ければ恩義を担うことになるからである。
 僕は忍ばねばならぬことは之を忍び、避けねばならぬことは之を避けた。僕としては聊考慮を費したつもりである。拙著の版権問題について賠償金の事を山本さんに一任したのは、累禍を他人に及す事を恐れたが故であった。
 拙著「あめりか物語」の著作権は博文館が主張するが如く、其の専有に帰しているものではない。同書の原稿は明治四十年の冬、僕が仏蘭西にいた時|里昂《リヨン》の下宿から木曜会に宛てて郵送したもので翌年八月僕のまだ帰朝せざるに先立って、既に刊行せられていた。当時木曜会の文士は多く博文館の編輯局に在って、同館発行の雑誌に筆を執っていた関係から、拙著はおのずから博文館より出版せられる事になったのであろう。されば其の際僕の身は猶海外に在ったから拙著の著作権を博文館に与えたという証書に記名捺印すべき筈もなく、又同書出版の際内務省に呈出すべき出版届書に署名した事もないわけである。官庁及出版商に対する其等の手続は思うに当時博文館内に在った木曜会会員中の誰かが之をなしたのでもあろうか。会員の中押川春浪黒田湖山井上唖々梅沢墨水等の諸氏は既にこの世には居ない。拙著「あめりか物語」の著作権が何人の手に専有せられているかは、今日に至るまで未だ曾て法律上には確定せられていないものと見ねばならない。博文館が強いて拙著の著作権専有を主張したいならば、該書出版後今日に至るまで凡二十余年の間に、一応その相談を僕に向ってなすべき筈である。平生之を怠っていながら、一旦同書が現代文学全集中に転載せらるると見るや、奇貨居くべしとなし、俄に版権侵害の賠償を請求するが如きは貪戻《どんれい》言語に絶するものである。それにも係らず黙々として僕は一語をも発せず万事を山本さんに一任して事を済ませたのは、万一博文館が訴訟を提起した場合、当初出版の証人として木曜会会員の出廷を余儀なくせしむるに至らむ事を僕は憚った故である。博文館は既に頃日、同館とは殆三十年間交誼のある巌谷小波先生に対してさえ、版権侵害の訴訟を提起した実例がある。僕は斯くの如き貪濁なる商人と事を争う勇気がない。
 僕は既に貪濁シャイロックの如き書商に銭を与えた。同時に又、翻訳の露西亜小説カラマゾフ兄弟を愛読するカッフェーの女にも亦銭を恵むことを辞さなかった。彼は資本主義の魔王であって、此れは共産主義の夜叉である。僕は図らずもこの両者に接して、現代の邦家を危くする二つの悪例を目撃し、転《うたた》時難を憂るの念に堪えざる如き思があった。ここに此の贅言を綴った所以である。トデモ言うより外に仕様がない。年の暮も追々近くなる時節柄お金を取られるのは誰しもいやサ。
[#地から1字上げ]昭和二年十月記

底本:「日和下駄 一名 東京散策記」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年10月10日第1刷発行
   2006(平成18)年1月5日第7刷発行
底本の親本:「荷風全集 第十三巻」岩波書店
   1963(昭和38)年2月
   「荷風全集 第十六巻」岩波書店
   1964(昭和39)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

永井荷風

深川の散歩—– 永井荷風

中洲《なかず》の河岸《かし》にわたくしの旧友が病院を開いていたことは、既にその頃の『中央公論』に連載した雑筆中にこれを記述した。病院はその後《のち》箱崎川にかかっている土洲橋《どしゅうばし》のほとりに引移ったが、中洲を去ること遠くはないので、わたくしは今もって折々診察を受けに行った帰道には、いつものように清洲橋《きよすばし》をわたって深川《ふかがわ》の町々を歩み、或時は日の暮れかかるのに驚き、いそいで電車に乗ることもある。多年坂ばかりの山の手に家《いえ》する身には、時たま浅草川の流を見ると、何ということなく川を渡って見たくなるのである。雨の降りそうな日には川筋の眺めのかすみわたる面白さに、散策の興はかえって盛《さかん》になる。
 清洲橋という鉄橋が中洲から深川|清住町《きよずみちょう》の岸へとかけられたのは、たしか昭和三年の春であろう。この橋には今だに乗合《のりあい》自動車の外、電車も通らず、人通りもまたさして激しくはない。それのみならず河の流れが丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、ゆるやかに西南の方《かた》へと曲っているところから、橋の中ほどに佇立《たたず》むと、南の方《かた》には永代橋《えいたいばし》、北の方には新大橋《しんおおはし》の横《よこた》わっている川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中洲の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、東の方、深川の岸を望むと、遥か川しもには油堀《あぶらぼり》の口にかかった下《しも》の橋《はし》と、近く仙台堀にかかった上《かみ》の橋《はし》が見え、また上手には万年橋《まんねんばし》が小名木川《おなぎがわ》の川口にかかっている。これら両岸の運河にはさまざまな運送船が輻輳《ふくそう》しているので、市中川筋の眺望の中では、最も活気を帯び、また最も変化に富んだものであろう。
 或日わたくしはいつもの如く中洲の岸から清洲橋を渡りかけた時、向に見える万年橋のほとりには、かつて芭蕉庵の古址《こし》と、柾木稲荷《まっさきいなり》の社《やしろ》とが残っていたが、震災後はどうなったであろうと、ふと思出すがまま、これを尋ねて見たことがあった。
 清洲橋をわたった南側には、浅野セメントの製造場が依然として震災の後もむかしに変らず、かの恐しい建物と煙突とを聳《そびや》かしているが、これとは反対の方向に歩みを運ぶと、窓のない平《ひらた》い倉庫の立ちつづく間に、一条《ひとすじ》の小道が曲り込んでいて、洋服に草履《ぞうり》をはいた番人が巻煙草を吸いながら歩いている外には殆ど人通りがなく、屋根にあつまる鳩の声が俄《にわか》に耳につく。
 この静な道を行くこと一、二|町《ちょう》、すぐさま万年橋をわたると、河岸《かし》の北側には大川へ突き出たところまで、同じような平たい倉庫と、貧しげな人家が立ちならび、川の眺望を遮断しているので、狭苦しい道はいよいよせまくなったように思われてくる。わたくしはこの湫路《しゅうろ》の傍《かたわら》に芭蕉庵の址《あと》は神社となって保存せられ、柾木稲荷の祠《ほこら》はその筋向いに新しい石の華表《とりい》をそびやかしているのを見て、東京の生活はいかにいそがしくなっても、まだまだ伝統的な好事家《こうずか》の跡を絶つまでには至らないのかと、むしろ意外な思いをなした。
 華表の前の小道を迂回して大川の岸に沿い、乗合汽船発着処のあるあたりから、また道の行くがままに歩いて行くと、六間堀《ろっけんぼり》にかかった猿子橋《さるこばし》という木造の汚い橋に出る。この橋の上に杖を停《とど》めて見ると、亜鉛葺《トタンぶき》の汚い二階建の人家が、両岸から濁水をさしばさみ、その窓々から襤褸《ぼろ》きれを翻《ひるがえ》しながら幾町となく立ちつづいている。その間に勾配《こうばい》の急な木造の小橋がいくつとなくかかっている光景は、昭和の今日に至っても、明治のむかしとさして変りがない。かくの如き昔ながらの汚い光景は、わたくしをして、二十年前亡友A氏と共にしばしばこのあたりの古寺《ふるでら》を訪うた頃の事やら、それよりまた更に十年のむかし噺家《はなしか》の弟子となって、このあたりの寄席《よせ》、常盤亭《ときわてい》の高座《こうざ》に上った時の事などを、歴々として思い起させるのである。
 六間堀と呼ばれた溝渠は、万年橋のほとりから真直に北の方|本所竪川《ほんじょたてかわ》に通じている。その途中から支流は東の方に向い、弥勒寺《みろくじ》の塀外を流れ、富川町《とみかわちょう》や東元町《ひがしもとまち》の陋巷《ろうこう》を横ぎって、再び小名木川の本流に合している。下谷《したや》の三味線堀が埋立てられた後、市内の堀割の中でこの六間堀ほど暗惨にして不潔な川はあるまい。わが亡友A氏は明治四十二年頃から三、四年の間、この六間堀に沿うた東森下町《ひがしもりしたちょう》の裏長屋に住んでいたことがあった。
 東森下町には今でも長慶寺という禅寺《ぜんでら》がある。震災|前《ぜん》、境内には芭蕉翁の句碑と、巨賊《きょぞく》日本左衛門《にっぽんざえもん》の墓があったので人に知られていた。その頃には電車通からも横町の突当りに立っていた楼門が見えた。この寺の墓地と六間堀の裏河岸との間に、平家建《ひらやだて》の長屋が秩序なく建てられていて、でこぼこした歩きにくい路地が縦横《たてよこ》に通じていた。長屋の人たちはこの処を大久保《おおくぼ》長屋、また湯灌場《ゆかんば》大久保と呼び、路地の中のやや広い道を、馬《うま》の背新道《せしんみち》と呼んでいた。道の中央が高く、家に接した両側が低くなっていた事から、馬の背に譬《たと》えたので。歩き馴れぬものはきまって足駄《あしだ》の横鼻緒《よこはなお》を切ってしまった。維新前は五千石を領した旗本大久保|豊後守《ぶんごのかみ》の屋敷があった処で、六間堀に面した東裏には明治の末頃にも崩れかかった武家長屋がそのまま残っていた。またその辺から堀向《ほりむこう》の林町三丁目の方へ架っていた小橋を大久保橋と称《とな》えていた。
 これらの事はその頃A氏の語ったところであるが、その後わたくしは武鑑《ぶかん》を調べて、嘉永三年頃に大久保豊後守|忠恕《ただよし》という人が幕府の大目附になっていた事を知った。明治八、九年頃までの東京地図には、江戸時代の地図と変りなく、この処に大久保氏の屋敷のあった事がしるされている。
 かつてわたくしが籾山庭後《もみやまていご》君と共に月刊雑誌『文明』なるものを編輯していた時、A氏は深川夜烏という別号を署して、大久保長屋の事をかいた文を寄せられた。今その一節を見るに、
[#ここから2字下げ]
湯灌場大久保の屋敷跡。何故湯灌場大久保と言うのか。それは長慶寺の湯灌場と大久保の屋敷と鄰接している所から起った名である。露地《ろじ》を入って右側の五軒長屋の二軒目、そこが阿久《おひさ》の家で、即ち私の寄寓する家である。阿久はもと下谷《したや》の芸者で、廃《や》めてから私の世話になって二年の後、型《かた》ばかりの式を行って内縁の妻となったのである。右隣りが電話のボタンを拵《こしら》える職人、左隣がブリキ職。ブリキ職の女房は亭主の稼ぎが薄いので、煙突掃除だの、エンヤラコに出たりする。それで五人の子持である。お腹がふくれると、口が殖《ふ》える将来を案じて、出来ることなら流産《ながれ》てしまえば可《よ》いがと不養生のありたけをして、板の間にじかに坐ったり、出水《でみず》の時、股のあたりまである泥水の中を歩き廻ったりしたにもかかわらず、くりくりと太った丈夫な男の児が生れた。
私の家は二畳に四畳半の二間きりである。四畳半には長火鉢《ながひばち》、箪笥《たんす》が二棹《ふたさお》と机とが置いてある。それで、阿久と、お袋と、阿久の姉と四人住んでいるのである。その家へある日私の友達を十人ばかり招いて酒宴を催したのである。
先ず縁側《えんがわ》に呉座《ござ》を敷いた。四畳半へは毛布を敷いた。そして真中に食卓を据《す》えた。長火鉢は台所へ運んで、お袋と姉とは台所へ退却した。そして境界に葭戸《よしど》を立てた。二畳に阿久がいて、お銚子《ちょうし》だの煮物だのを運んだ。(略)さて当日の模様をざっと書いて見ると、酒の良いのを二升、そら豆の塩茄《しおゆで》に胡瓜《きゅうり》の香物《こうのもの》を酒の肴《さかな》に、干瓢《かんぴょう》の代りに山葵《わさび》を入れた海苔巻《のりまき》を出した。菓子折を注文して、それを長屋の軒別に配った。兄弟分が御世話になりますからとの口上を述べに何某が鹿爪《しかつめ》らしい顔で長屋を廻ったりした。すると長屋一同から返礼に、大皿に寿司を遣《よこ》した。唐紙《とうし》を買って来て寄せ書きをやる。阿久の三味線で何某が落人《おちうど》を語り、阿久は清心《せいしん》を語った。銘々の隠芸《かくしげい》も出て十一時まで大騒ぎに騒いだ。時は明治四十三年六月九日。
[#ここで字下げ終わり]
 この時代には電車の中で職人が新聞をよむような事もなかったので、社会主義の宣伝はまだ深川の裏長屋には達していなかった。竹格子《たけごうし》の窓には朝顔の鉢が置いてあったり、風鈴《ふうりん》の吊されたところもあったほどで、向三軒両鄰《むこうさんげんりょうどな》り、長屋の人たちはいずれも東京の場末に生れ育って、昔ながらの迷信と宿習との世界に安じていたものばかり。洋服をきて髯など生《はや》したものはお廻りさんでなければ、救世軍のような、全く階級を異にし、また言語風俗をも異にした人たちだと思込んでいた。
 わたくしは夜烏子がこの湯灌場大久保の裏長屋に潜《ひそ》みかくれて、交りを文壇にもまた世間にも求めず、超然として独りその好む所の俳諧の道に遊んでいたのを見て、江戸固有の俳人|気質《かたぎ》を伝承した真の俳人として心から尊敬していたのである。子は初め漢文を修め、そのまさに帝国大学に入ろうとした年、病を得て学業を廃したが、数年の後、明治三十五、六年頃から学生の受験案内や講義録などを出版する書店に雇《やと》われ、二十円足らずの給料を得て、十年一日の如く出版物の校正をしていたのである。俳句のみならず文章にも巧みであったが、人に勧められても一たびも文を售《う》ろうとした事がなかった。同じ店に雇われていたものの中で、初め夜烏子について俳句のつくり方を学び、数年にして忽《たちまち》門戸を張り、俳句雑誌を刊行するようになった人があったが、夜烏子はこれを見て唯一笑するばかりで、その人から句を請《こ》われる時は快くこれを与えながら、更に報酬を受けなかった。
 夜烏子は山の手の町に居住している人たちが、意義なき体面に累《わずら》わされ、虚名のために齷齪《あくせく》しているのに比して、裏長屋に棲息している貧民の生活が遥に廉潔《れんけつ》で、また自由である事をよろこび、病余失意の一生をここに隠してしまったのである。或日一家を携えて、場末の小芝居《こしばい》を看《み》に行く日記の一節を見ると、夜烏子の人生観とまた併せてその時代の風俗とを窺うことができる。
[#ここから2字下げ]
明治四十四年二月五日。今日は深川座へ芝居を見に行くので、店から早帰りをする。製本屋のお神《かみ》さんと阿久《おひさ》とを先に出懸けさせて、私は三十分ばかりして後から先になるように電車に乗った。すると霊岸町《れいがんちょう》の手前で、田舎丸出しの十八、九の色の蒼《あお》い娘が、突然|小間物店《こまものみせ》を拡《ひろ》げて、避ける間もなく、私の外出着の一張羅《いっちょうら》へ真正面《まとも》に浴せ懸けた。私は詮《せん》すべを失った。娘の兄らしい兵隊は無言で、親爺らしい百姓が頻《しきり》に詫びた。娘は俯向いてこそこそと降りた。癪《しゃく》に障《さわ》って忌々《いまいま》しいが叱り飛す張合もない。災難だと諦めた。乗り合わした他の連中は頻に私に同情して、娘とその伴《つれ》の図々しい間抜な態度を罵《ののし》った。飛沫《とばっちり》を受けたので、眉を顰《ひそ》めながら膝を拭いている婆さんや、足袋《たび》の先を汚された職人もいたが、一番迷惑したのは私であった。黒江《くろえ》町で電車を下りると、二人に逢った。今これこれだと阿久に話すと、人に歩かせて、自分は楽をしたものだから、その罰だと笑いながらも、汚れた羽織《はおり》の仕末には困った顔をした。幸いとお神さんの亭主の妹の家が八幡様《はちまんさま》の前だというので、そこへ行って羽織だけ摘《つま》み洗いをしてもらうことにして、その間寒さを堪えて公園の中で待っていた。芝居へ入って前の方の平土間《ひらどま》へ陣取る。出方《でかた》は新次郎と言って、阿久の懇意な男であった。一番目は「酒井の太鼓」で、栄升の左衛門、雷蔵の善三郎と家康、蝶昇の茶坊主と馬場、高麗三郎の鳥居、芝三松の梅ヶ枝などが重立《おもだ》ったものであった。道具の汚いのと、役者の絶句と、演芸中に舞台裏で大道具の釘を打つ音が台辞《せりふ》を邪魔することなぞは、他では余り見受けない景物である。寒い芝居小屋だ。それに土間で小児の泣く声と、立ち歩くのを叱る出方の尖《とが》り声とが耳障りになる。中幕の河庄では、芝三松の小春、雷蔵の治兵衛、高麗三郎の孫右衛門、栄升の太兵衛に蝶昇の善六。二番目は「河内山」で蝶昇が勤めた。雷蔵の松江侯と三千歳、高麗三郎の直侍《なおざむらい》などで、清元《きよもと》の出語りは若い女で、これは馬鹿に拙《まず》い。延久代という名取名《なとりな》を貰っている阿久は一々節廻しを貶《けな》した。捕物の場で打出し。お神さんの持って来た幸寿司で何も取らず、会計は祝儀を合せて二円二十三銭也。芝居の前でお神さんに別れて帰りに阿久と二人で蕎麦屋《そばや》へ入った。歩いて東森下町の家まで帰った時が恰度《ちょうど》夜の十二時。
[#ここで字下げ終わり]
 かつて深川座のあった処は、震災後道路が一変しているので、今は活動館のあるあたりか、あるいは公設市場のあるあたりであるのか、たまたま散歩するわたくしには判然しない。
 むかしの黒江橋《くろえばし》は今の黒亀橋《くろかめばし》のあるあたりであろう。即ちむかし閻魔堂橋《えんまどうばし》のあったあたりである。しかし今は寺院の堂宇も皆新しくなったのと、交通のあまりに繁激となったため、このあたりの町には、さして政策の興をひくべきものもなく、また人をして追憶に耽らせる余裕をも与えない。かつて明治座の役者たちと共に、電車通の心行寺《しんぎょうじ》に鶴屋南北《つるやなんぼく》の墓を掃《はら》ったことや、そこから程遠からぬ油堀の下流に、三角屋敷の址《あと》を尋ね歩いたことも、思えば十余年のむかしとなった。(三角屋敷は邸宅の址ではない。堀割の水に囲まれた町の一部が三角形をなしているので、その名を得たのである。)
 今日の深川は西は大川の岸から、東は砂町《すなまち》の境に至るまで、一木一草もない。焼跡の空地に生えた雑草を除けば、目に映ずる青いものは一ツもない。震災後に開かれた一直線の広い道路と、むかしから流れている幾筋の運河とが、際限なき焦土の上に建てられた臨時の建築物と仮小屋とのごみごみした間を縦横に貫き走っている処が、即ち深川だといえば、それで事は尽きてしまうのである。
 災後、新に開かれたセメント敷《じき》の大道《だいどう》は、黒亀橋から冬木町《ふゆきちょう》を貫き、仙台堀に沿うて走る福砂通《ふくさどおり》と称するもの。また清洲橋から東に向い、小名木川と並行して中川を渡る清砂通《きよさどおり》と称するもの。この二条の新道が深川の町を西から東へと走っている。また南北に通ずる新道にして電車の通らないものが三筋ある。これらの新道はそのいずれを歩いても、道幅が広く、両側の人家は低く小さく、処々に広漠たる空地《あきち》があるので、青空ばかりが限りなく望まれるが、目に入るものは浮雲の外には、遠くに架っている釣橋の鉄骨と瓦斯《ガス》タンクばかりで、鳶《とんび》や烏の飛ぶ影さえもなく、遠い工場の響が鈍く、風の音のように聞える。昼中《ひるなか》でも道行く人は途絶えがちで、たまたま走り過る乗合自動車には女車掌が眠そうな顔をして腰をかけている。わたくしは夕焼の雲を見たり、明月を賞したり、あるいはまた黙想に沈みながら漫歩するには、これほど好《よ》い道は他にない事を知った。それ以来下町へ用足しに出た帰りには、きまって深川の町はずれから砂町の新道路を歩くのである。
 歩きながら或日ふと思出したのは、ギヨーム・アポリネールの『坐せる女』と題する小説である。この小説の中に、かつてシャンパンユの平和なる田園に生れて巴里《パリー》の美術家となった一青年が、爆裂弾のために全村|尽《ことごと》く破滅したその故郷に遊び、むかしの静な村落が戦後一変して物質的文明の利器を集めた一新市街になっているのを目撃し、悲愁の情と共にまた一縷《いちる》の希望を感じ、時勢につれて審美の観念の変動し行くことを述べた深刻な一章がある。
 災後、東京の都市は忽ち復興して、その外観は一変した。セメントの新道路を逍遥して新しき時代の深川を見る時、おくれ走《ば》せながら、わたくしもまた旧時代の審美観から蝉脱《せんだつ》すべき時の来《きた》った事を悟らなければならないような心持もするのである。
 木場《きば》の町にはむかしのままの堀割が残っているが、西洋文字の符号をつけた亜米利加《アメリカ》松の山積《さんせき》せられたのを見ては、今日誰かこの処を、「伏見に似たり桃の花」というものがあろう。モーターボートの響を耳にしては、「橋台に菜の花さけり」といわれた渡場《わたしば》を思い出す人はない。かつて八幡宮の裏手から和倉町《わくらまち》に臨む油堀のながれには渡場の残っていた事を、わたくしは唯夢のように思返すばかりである。
 冬木町の弁天社は新道路の傍《かたわら》に辛くもその祉を留めている。しかし知十翁《ちじゅうおう》が、「名月や銭金いはぬ世が恋ひし。」の句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう。(因《ちなみ》にいう。冬木町の名も一時廃せられようとしたが、居住者のこれを惜しんだ事と、考証家島田筑波氏が旧記を調査した小冊子を公刊した事とによって、纔《わずか》に改称の禍《わざわい》を免れた。)
 冬木弁天の前を通り過ぎて、広漠たる福砂通《ふくさどおり》を歩いて行くと、やがて真直に仙台堀に沿うて、大横川《おおよこがわ》の岸に出る。仙台堀と大横川との二流が交叉《こうさ》するあたりには、更にこれらの運河から水を引入れた貯材池がそこ此処《ここ》にひろがっていて、セメントづくりの新しい橋は大小幾筋となく錯雑している。このあたりまで来ると、運河の水もいくらか澄んでいて、荷船《にぶね》の往来もはげしからず、橋の上を走り過るトラックも少く、水陸いずこを見ても目に入るものは材木と鉄管ばかり。材木の匂を帯びた川風の清凉なことが著しく感じられる。深川もむかし六万坪と称えられたこのあたりまで来ると、案外空気の好い事が感じられるのである。
 崎川橋《さきかわばし》という新しいセメント造りの橋をわたった時、わたくしは向うに見える同じような橋を背景にして、炭のように黒くなった枯樹《かれき》が二本、少しばかり蘆《あし》のはえた水際から天を突くばかり聲え立っているのを見た。震災に焼かれた銀杏《いちょう》か松の古木であろう。わたくしはこの巨大なる枯樹のあるがために、単調なる運河の眺望が忽ち活気を帯び、彼方《かたた》の空にかすむ工場の建物を背景にして、ここに暗欝なる新しい時代の画図をつくり成している事を感じた。セメントの橋の上を材木置場の番人かと思われる貧し気な洋服姿の男が、赤児《あかご》を背負った若い女と寄添いながら歩いて行く。その跫音《あしおと》がその姿と共に、橋の影を浮べた水の面《おもて》をかすかに渡って来るかと思うと忽ち遠くの工場から一斉に夕方の汽笛が鳴り出す……。わたくしは何となくシャルパンチエーの好んで作曲するオペラでもきくような心持になることができた。
 セメントの大通は大横川を越えた後、更に東の方に走って十間川を横切り砂町《すなまち》の空地に突き入っている。砂町は深川のはずれのさびしい町と同じく、わたくしが好んで蒹葭《けんか》の間に寂寞を求めに行くところである。折があったら砂町の記をつくりたいと思っている。
[#地から2字上げ]甲戌《こうじゅつ》十一月記

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年4月15日作成
2010年11月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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永井荷風

深川の唄—– 永井荷風

 四谷見付《よつやみつけ》から築地両国行《つきじりょうごくゆき》の電車に乗った。別に何処《どこ》へ行くという当《あて》もない。船でも車でも、動いているものに乗って、身体《からだ》を揺《ゆす》られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。これは紐育《ニューヨーク》の高架鉄道、巴里《パリー》の乗合馬車の屋根裏、セエヌの河船《かわぶね》なぞで、何時《いつ》とはなしに妙な習慣になってしまった。
 いい天気である。あたたかい。風も吹かない。十二月も早や二十日過ぎなので、電車の馳《は》せ行く麹町《こうじまち》の大通りには、松竹《まつたけ》の注目飾《しめかざ》り、鬼灯提灯《ほおずきちょうちん》、引幕《ひきまく》、高張《たかはり》、幟《のぼり》や旗のさまざまが、汚《よご》れた瓦《かわら》屋根と、新築した家の生々《なまなま》しい木の板とに対照して、少しの調和もない混乱をば、なお更無残に、三時過ぎの日光《ひかげ》が斜めに眩《まぶ》しく照《てら》している。調子の合わない広告の楽隊が彼方《かなた》此方《こなた》から騒々しく囃《はや》し立てている。人通りは随分|烈《はげ》しい。
 けれども、電車の中は案外すいていて、黄《きいろ》い軍服をつけた大尉《たいい》らしい軍人が一人、片隅《かたすみ》に小さくなって兵卒が二人、折革包《おりかばん》を膝《ひざ》にして請負師風《うけおいしふう》の男が一人、掛取《かけと》りらしい商人《あきんど》が三人、女学生が二人、それに新宿《しんじゅく》か四《よ》ツ谷《や》の婆芸者《ばばあげいしゃ》らしい女が一人乗っているばかりであった。日の光が斜めに窓からさし込むので、それを真面《まとも》に受けた大尉の垢《あか》じみた横顔には剃《そ》らない無性髯《ぶしょうひげ》が一本々々針のように光っている。女学生のでこでこした庇髪《ひさしがみ》が赤ちゃけて、油についた塵《ごみ》が二目《ふため》と見られぬほどきたならしい。一同黙っていずれも唇を半開きにしたまま遣《や》り場《ば》のない目で互《たがい》に顔を見合わしている。伏目《ふしめ》になって、いろいろの下駄《げた》や靴の先が並んだ乗客の足元を見ているものもある。何万円とか書いた福引の広告ももう一向《いっこう》に人の視線を引かぬらしい。婆芸者が土色した薄《うすっ》ぺらな唇を捩《ね》じ曲げてチュウッチュウッと音高く虫歯を吸う。請負師が大叭《おおあくび》の後でウーイと一ツ※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》をする。車掌が身体《からだ》を折れるほどに反《そら》して時々はずれる後《うしろ》の綱をば引き直している。
 麹町の三丁目で、ぶら提灯《ぢょうちん》と大きな白木綿《しろもめん》の風呂敷包《ふろしきづつみ》を持ち、ねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]半纏《ばんてん》で赤児《あかご》を負《おぶ》った四十ばかりの醜い女房と、ベエスボオルの道具を携えた少年が二人乗った。少年が夢中で昨日済んだ学期試験の成績を話し出す。突然けたたましく泣き出す赤児の声に婆芸者の歯を吸う響《ひびき》ももう聞えなくなった。乗客は皆《みん》な泣く子の顔を見ている。女房はねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]半纏の紐《ひも》をといて赤児を抱き下し、渋紙《しぶかみ》のような肌をば平気で、襟垢《えりあか》だらけの襟を割って乳房を含ませる。赤児がやっとの事泣き止《や》んだかと思うと、車掌が、「半蔵門《はんぞうもん》、半蔵門でございます。九段《くだん》、市《いち》ヶ|谷《や》、本郷《ほんごう》、神田《かんだ》、小石川《こいしかわ》方面のお方《かた》はお乗換え――あなた小石川はお乗換ですよ。お早く願います。」と注意されて女房は真黒《まっくろ》な乳房をぶらぶら、片手に赤児片手に提灯と風呂敷包みを抱え込み、周章《あわ》てふためいて降り掛ける。その入口からは、待っていた乗客が案外にすいている車と見るやなお更に先きを争い、出ようとする女房を押しかえして、われがちに座を占める。赤児がヒーヒー喚《わめ》き立てる。おしめ[#「おしめ」に傍点]が滑り落ちる。乗客が構わずそれをば踏み付けて行こうとするので、此度《こんど》は女房が死物狂《しにものぐる》いに叫び出した。口癖になった車掌は黄《きいろ》い声で、
「お忘れものの御在《ござ》いませんように。」と注意したが、見るから汚いおしめ[#「おしめ」に傍点]の有様。といって黙って打捨てても置かれず、詮方《せんかた》なしに「おあぶのう御在いますから、御ゆるり願います。」
 漸《ようや》くにして、チインと引く鈴の音。
「動きます。」
 車掌の声に電車ががたりと動くや否や、席を取りそこねて立っていた半白《はんぱく》の婆《ばばあ》に、その娘らしい十八、九の銀杏返《いちょうがえ》し前垂掛《まえだれが》けの女が、二人一度に揃《そろ》って倒れかけそうにして危くも釣革《つりかわ》に取りすがった。同時に、
「あいたッ。」と足を踏まれて叫んだものがある。半纏股引《はんてんももひき》の職人である。
「まア、どうぞ御免なすって……。」と銀杏返は顔を真赤《まっか》に腰をかがめて会釈しようとすると、電車の動揺でまたよろけ掛ける。
「ああ、こわい。」
「おかけなさい。姉さん。」
 薄髯《うすひげ》の二重廻《にじゅうまわし》が殊勝《しゅしょう》らしく席を譲った。
「どうもありがとう……。」
 しかし腰をかけたのは母らしい半白の婆であった。若い女は丈伸《せのび》をするほど手を延ばして吊革《つりかわ》を握締《にぎりし》める。その袖口《そでぐち》からどうかすると脇の下まで見え透《す》きそうになるのを、頻《しきり》と気にして絶えず片手でメレンスの襦袢《じゅばん》の袖口を押えている。車はゆるやかな坂道をば静かに心地よく馳《は》せ下りて行く。突然足を踏まれた先刻《さっき》の職人が鼾声《いびき》をかき出す。誰れかが『報知新聞』の雑報を音読し初めた。
 三宅坂《みやけざか》の停留場は何の混雑もなく過ぎて、車は瘤《こぶ》だらけに枯れた柳の並木の下をば土手に沿うて走る。往来《おうらい》の右側、いつでも夏らしく繁《しげ》った老樹の下に、三、四台の荷車が休んでいる。二頭|立《だて》の箱馬車が電車を追抜けて行った。左側は車の窓から濠《ほり》の景色が絵のように見える。石垣と松の繁《しげ》りを頂いた高い土手が、出たり這入《はい》ったりして、その傾斜のやがて静かに水に接する処、日の光に照らされた岸の曲線は見渡すかぎり、驚くほど鮮《あざや》かに強く引立って見えた。青く濁った水の面《おもて》は鏡の如く両岸の土手を蔽《おお》う雑草をはじめ、柳の細い枝も一条《ひとすじ》残さず、高い空の浮雲までをそのままはっきりと映している。それをば土手に群《むらが》る水鳥が幾羽となく飛入っては絶えず、羽ばたきの水沫《しぶき》に動《うごか》し砕く。岸に沿うて電車がまがった。濠の水は一層広く一層静かに望まれ、その端《はず》れに立っている桜田門《さくらだもん》の真白《まっしろ》な壁が夕方前のやや濁った日の光に薄く色づいたままいずれが影いずれが実在の物とも見分けられぬほど鮮かに水の面に映っている。間《ま》もなく日比谷《ひびや》の公園外を通る。電車は広い大通りを越して向側《むこうがわ》のやや狭い街の角に止まるのを待ちきれず二、三人の男が飛び下りた。
「止《とま》りましてからお降り下さい。」と車掌のいうより先に一人が早くも転んでしまった。無論大した怪我《けが》ではないと合点して、車掌は見向きもせず、曲り角の大厄難、後《うしろ》の綱のはずれかかるのを一生懸命に引直《ひきなお》す。車は八重《やえ》に重《かさな》る線路の上をガタガタと行悩んで、定めの停留場に着くと、其処《そこ》に待っている一団の群集。中には大きな荷物を脊負った商人も二、三人|交《まじ》っていた。
 例の上《あが》り降りの混雑。車掌は声を黄《きいろ》くして、
「どうぞ中の方へ願います。あなた、恐入りますが、もう少々|最《もう》一《ひと》ツ先きの釣革に願います。込み合いますから御懐中物を御用心。動きます。ただ今お乗り換えの方は切符を拝見致します。次は数寄屋橋《すきやばし》、お乗換《のりかえ》の方《かた》は御在いませんか。」
「ありますよ。ちょいと、乗りかえ。本所《ほんじょ》は乗り換えじゃないんですか。」髪を切り下げにした隠居風の老婆《ろうば》が逸早《いちはや》く叫んだ。
 けれども車掌は片隅から一人々々に切符を切《きっ》て行く忙《せわ》しさ。「往復で御在いますか。十銭《じっせん》銀貨で一銭のお釣で御在います。お乗換は御在いませんか。」
「乗換ですよ。ちょいと。」本所行の老婆は首でも絞められるように、もう金切声《かなきりごえ》になっている。
「おい、回数券だ、三十回……。」
 鳥打帽《とりうちぼう》に双子縞《ふたこじま》の尻端折《しりはしおり》、下には長い毛糸の靴足袋《くつたび》に編上げ靴を穿《は》いた自転車屋の手代《てだい》とでもいいそうな男が、一円|紙幣《さつ》二枚を車掌に渡した。車掌は受取ったなり向うを見て、狼狽《あわ》てて出て行き数寄屋橋へ停車の先触《さきぶ》れをする。尾張町《おわりちょう》まで来ても回数券を持って来ぬので、今度は老婆の代りに心配しだしたのはこの手代で。しかしさすがに声はかけず、鋭い眼付《めつき》で瞬《またた》き一ツせず車掌の姿に注目していた。車の硝子窓《ガラスまど》から、印度や南清《なんしん》の殖民地《しょくみんち》で見るような質素な実利的な西洋館が街の両側に続いて見え出した。車の音が俄《にわ》かに激しい。調子の合わない楽隊が再び聞える。乃《すなわ》ち銀座の大通《おおどおり》を横切るのである。乗客の中には三人|連《づれ》の草鞋《わらじ》ばき菅笠《すげがさ》の田舎ものまで交《まじ》って、また一層の大混雑《おおこんざつ》。後《うしろ》の降り口の方《ほう》には乗客が息もつけないほどに押合い今にも撲《なぐ》り合いの喧嘩《けんか》でも始めそうにいい罵《ののし》っている。
「込み合いますから、どうぞお二側《ふたかわ》に願います。」
 釣革をば一ツ残らずいろいろの手が引張っている。指環《ゆびわ》の輝くやさしい白い手の隣りには馬蹄《ひづめ》のように厚い母指《おやゆび》の爪が聳《そび》えている。垢《あか》だらけの綿《めん》ネルシャツの袖口《そでぐち》は金ボタンのカフスと相《あい》接した。乗換切符の要求、田舎ものの狼狽《ろうばい》。車の中は頭痛のするほど騒《さわが》しい中に、いつか下町《したまち》の優しい女の話声も交るようになった。
 木挽町《こびきちょう》の河岸《かし》へ止った時、混雑にまぎれて乗り逃げしかけたものがあるとかいうので、車掌が向うの露地口《ろじぐち》まで、中折帽《なかおれぼう》に提革包《さげかばん》の男を追いかけて行った。後《あと》からつづいて停車した電車の車掌までが加勢に出かけて、往来際《おうらいぎわ》には直様《すぐさま》物見高い見物人が寄り集った。
 車の中から席を去って出口まで見に行くものもある。「けちけちするない――早く出さねえか――正直に銭《ぜに》を払ってる此輩《こちとら》アいい迷惑だ。」と叫ぶものもある。
 不時の停車を幸いに、後《おく》れ走《ば》せにかけつけた二、三人が、あわてて乗込んだ。その最後の一人は、一時に車中の目を引いたほどの美人で、赤いてがらをかけた年は二十二、三の丸髷《まるまげ》である。オリブ色の吾妻《あずま》コオトの袂《たもと》のふり[#「ふり」に傍点]から二枚重《にまいがさね》の紅裏《もみうら》を揃《そろ》わせ、片手に進物《しんもつ》の菓子折ででもあるらしい絞りの福紗包《ふくさづつみ》を持ち、出口に近い釣革へつかまると、その下の腰掛から、
「あら、よし子さんじゃいらッしゃいませんか。」と同じ年頃《としごろ》、同じような風俗《みなり》の同じような丸髷が声をかけた。
「あら、まア……。」と立っている丸髷はいかにもこの奇遇に驚いたらしく言葉をきる。
「五年ぶり……もっとになるかも知れませんわね。よし子さん。」
「ほんとに……あの、藤村《ふじむら》さんの御宅《おたく》で校友会のあったあの時お目にかかったきりでしたねえ。」
 電車がやっと動き始めた。
「よし子さん、おかけ遊ばせよ、かかりますよ。」と下なる丸髷は、かなりに窮屈らしく詰まっている腰掛をグット左の方へ押しつめた。
 押詰められて、じじむさい襟巻《えりまき》した金貸らしい爺《おやじ》が不満らしく横目に睨《にら》みかえしたが、真白《まっしろ》な女の襟元に、文句はいえず、押し敷かれた古臭い二重廻《にじゅうまわ》しの翼《はね》を、だいじそうに引取りながら、順送りに席を居《い》ざった。赤いてがら[#「てがら」に傍点]は腰をかけ、両袖《りょうそで》と福紗包《ふくさづつみ》を膝《ひざ》の上にのせて、
「校友会はどうしちまったんでしょう、この頃はさっぱり会費も取りに来ないんですよ。」
「藤村さんも、おいそがしいんですよ、きっと。何しろ、あれだけのお店ですからね。」
「お宅さまでは皆さまおかわりも……。」
「は、ありがとう。」
「どちらまでいらッしゃいますの、私はもう、すぐそこで下りますの。」
「新富町《しんとみちょう》ですか。わたくしは……。」
 いいかけた処へ車掌が順送りに賃銭を取りに来た。赤いてがらの細君は帯の間から塩瀬《しおぜ》の小《ちいさ》い紙入《かみいれ》を出して、あざやかな発音で静かに、
「のりかえ、ふかがわ。」
「茅場町《かやばちょう》でおのりかえ。」と車掌が地方訛《いなかなま》りで蛇足《だそく》を加えた。
 真直《まっすぐ》な往来《おうらい》の両側には、意気な格子戸《こうしど》、板塀《いたべい》つづき、磨《すり》がらすの軒燈《けんとう》さてはまた霜よけした松の枝越し、二階の欄干《てすり》に黄八丈《きはちじょう》に手拭地《てぬぐいじ》の浴衣《ゆかた》をかさねた褞袍《どてら》を干した家もある。行書で太く書いた「鳥」「蒲焼《かばやき》」なぞの行燈《あんどう》があちらこちらに見える。忽《たちま》ち左右がぱッと明《あかる》く開けて電車は一条《ひとすじ》の橋へと登りかけた。
 左の方に同じような木造の橋が浮いている。見下《みおろ》すと河岸《かし》の石垣は直線に伸びてやがて正しい角度に曲っている。池かと思うほど静止した堀割《ほりわり》の水は河岸通《かしどおり》に続く格子戸づくりの二階家から、正面に見える古風な忍返《しのびがえし》をつけた黒板塀の影までをはっきり映している。丁度|汐時《しおどき》であろう。泊っている荷舟《にぶね》の苫屋根《とまやね》が往来よりも高く持上って、物を煮る青い煙が風のない空中へと真直《まっすぐ》に立昇っている。鯉口半纏《こいぐちばんてん》に向鉢巻《むこうはちまき》の女房が舷《ふなばた》から子供のおかわ[#「おかわ」に傍点]を洗っている。橋の向角《むこうかど》には「かしぶね」とした真白な新しい行燈と葭簀《よしず》を片寄せた店先の障子《しょうじ》が見え、石垣の下には舟板を一枚残らず綺麗《きれい》に組み並べた釣舟が四、五|艘《そう》浮いている。人通りは殆《ほとん》どない、もう四時過ぎたかも知れない。傾いた日輪をば眩《まぶ》しくもなく正面《まとも》に見詰める事が出来る。この黄味《きいろみ》の強い赤い夕陽《ゆうひ》の光に照りつけられて、見渡す人家、堀割、石垣、凡《すべ》ての物の側面は、その角度を鋭く鮮明にしてはいたが、しかし日本の空気の是非なさは遠近を区別すべき些少《さしょう》の濃淡をもつけないので、堀割の眺望《ながめ》はさながら旧式の芝居の平《ひらた》い書割《かきわり》としか思われない。それが今、自分の眼にはかえって一層適切に、黙阿弥《もくあみ》、小団次《こだんじ》、菊五郎《きくごろう》らの舞台をば、遺憾なく思い返させた。あの貸舟、格子戸づくり、忍返し……。
 折もよく海鼠壁《なまこかべ》の芝居小屋を過ぎる。しかるに車掌が何事ぞ、
「スントミ町。」と発音した。
 丸髷の一人は席を立って、「それじゃ、御免ください、どうぞお宅へよろしく。」
「ちッと、おひまの時いらしッて下さい。さよなら。」
 電車は桜橋《さくらばし》を渡った。堀割は以前のよりもずッと広く、荷船の往来《ゆきき》も忙《せわ》しく見えたが、道路は建て込んだ小家と小売店《こうりみせ》の松かざりに、築地《つきじ》の通りよりも狭く貧しげに見え、人が何《なん》という事もなく入り乱れて、ぞろぞろ歩いている。坂本《さかもと》公園前に停車すると、それなり如何《いか》ほど待っていても更に出発する様子はない。後《あと》にも先にも電車が止っている。運転手も車掌もいつの間にやら何処《どこ》へか行ってしまった。
「また喰《くら》ったんだ。停電にちげえねえ。」
 糸織《いとおり》の羽織に雪駄《せった》ばきの商人が臘虎《らっこ》の襟巻《えりまき》した赧《あか》ら顔の連れなる爺《じじい》を顧みた。萌黄《もえぎ》の小包を首にかけた小僧が逸早《いちはや》く飛出して、「やア、電車の行列だ。先の見えねえほど続いてらア。」と叫ぶ。
 車掌が革包《かばん》を小脇に押えながら、帽子を阿弥陀《あみだ》に汗をふきふき駈《か》け戻って来て、「お気の毒様ですがお乗りかえの方はお降りを願います。」
 声を聞くと共に乗客の大半は一度に席を立った。その中には唇を尖《とが》らして、「どうしたんだ。よっぽどひまが掛《かか》るのか。」
「相《あい》済みません、この通りで御在います。茅場町《かやばちょう》までつづいておりますから……。」
 菓子折らしい福紗包《ふくさづつみ》を携えた彼《か》の丸髷《まるまげ》の美人が車を下りた最後の乗客であった。

 自分は既に述べたよう何処《どこ》へも行く当てはない。大勢が下車するその場の騒ぎに引入れられて何心《なにごころ》もなく席を立ったが、すると車掌は自分が要求もせぬのに深川行《ふかがわゆき》の乗換《のりかえ》切符を渡してくれた。
 人家の屋根に日を遮《さえぎ》られた往来《おうらい》には海老色《えびいろ》に塗《ぬ》り立てた電車が二、三|町《ちょう》も長く続いている。茅場町《かやばちょう》の通りから斜めにさし込んで来る日光《ひかげ》で、向角《むこうかど》に高く低く不揃《ふぞろい》に立っている幾棟《いくむね》の西洋造りが、屋根と窓ばかりで何一ツ彫刻の装飾をも施さぬ結果であろう。如何《いか》にも貧相に厚みも重みもない物置小屋のように見えた。往来の上に縦横の網目を張っている電線が透明な冬の空の眺望を目まぐるしく妨げている。昨日あたり山から伐出《きりだ》して来たといわぬばかりの生々《なまなま》しい丸太の電柱が、どうかすると向うの見えぬほど遠慮会釈もなく突立っている。その上に意匠の技術を無視した色のわるいペンキ塗の広告がベタベタ貼《は》ってある。竹の葉の汚《きたな》らしく枯れた松飾りの間からは、家の軒《のき》ごとに各自勝手の幟《のぼり》や旗が出してあるのが、いずれも紫とか赤とかいう極めて単純な色ばかりを択《えら》んでいる。
 自分は憤然として昔の深川を思返した。幸い乗換の切符は手の中《うち》にある。自分は浅間《あさま》しいこの都会の中心から一飛びに深川へ行こう――深川へ逃げて行こうという押えられぬ欲望に迫《せ》められた。
 数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚《こうこつ》、悲しみ、悦《よろこ》びの感激を満足させてくれた処であった。電車はまだ布設されていなかったが既にその頃《ころ》から、東京市街の美観は散々に破壊されていた中で、河を越した彼《か》の場末の一劃ばかりがわずかに淋《さび》しく悲しい裏町の眺望《ながめ》の中《うち》に、衰残と零落とのいい尽《つく》し得ぬ純粋一致調和の美を味《あじわ》わしてくれたのである。
 その頃、繁華な市中からこの深川へ来るには電車の便はなし、人力車《じんりきしゃ》は賃銭《ちんせん》の高いばかりか何年間とも知れず永代橋《えいたいばし》の橋普請《はしぶしん》で、近所の往来は竹矢来《たけやらい》で狭《せば》められ、小石や砂利で車の通れぬほど荒らされていた処から、誰《た》れも彼れも、皆|汐溜《しおどめ》から出て三十間堀《さんじっけんぼり》の堀割を通って来る小さな石油の蒸汽船、もしくは、南八丁堀《みなみはっちょうぼり》の河岸縁《かしぶち》に、「出ますよ出ますよ」と呼びながら一向出発せずに豆腐屋のような鈴ばかり鳴《なら》し立てている櫓舟《ろぶね》に乗り、石川島《いしかわじま》を向うに望んで越前堀《えちぜんぼり》に添い、やがて、引汐《ひきしお》上汐《あげしお》の波にゆられながら、印度洋でも横断するようにやっとの事で永代橋の河下《かわしも》を横ぎり、越中島《えっちゅうじま》から蛤町《はまぐりちょう》の堀割に這入《はい》るのであった。不動様のお三日《さんにち》という午過《ひるす》ぎなぞ参詣戻りの人々が筑波根《つくばね》、繭玉《まゆだま》、成田山《なりたさん》の提灯《ちょうちん》、泥細工《つちざいく》の住吉踊《すみよしおどり》の人形なぞ、さまざまな玩具《おもちゃ》を手にさげたその中には根下《ねさが》りの銀杏返《いちょうがえ》しや印半纏《しるしばんてん》の頭《かしら》なども交《まじ》っていて、幾艘《いくそう》の早舟《はやぶね》は櫓《ろ》の音を揃《そろ》え、碇泊《ていはく》した荷舟《にぶね》の間をば声を掛け合い、静《しずか》な潮《うしお》に従って流れて行く。水にうつる人々の衣服や玩具や提灯の色、それをば諸車止《しょしゃどめ》と高札《こうさつ》打ったる朽ちた木の橋から欄干《らんかん》に凭《もた》れて眺め送る心地の如何《いか》に絵画的であったろう。
 夏中|洲崎《すさき》の遊廓《ゆうかく》に、燈籠《とうろう》の催しのあった時分《じぶん》、夜おそく舟で通《かよ》った景色をも、自分は一生忘れまい。苫《とま》のかげから漏れる鈍い火影《ほかげ》が、酒に酔《え》って喧嘩《けんか》している裸体《はだか》の船頭を照す。川添いの小家《こいえ》の裏窓から、いやらしい姿をした女が、文身《ほりもの》した裸体《はだか》の男と酒を呑《の》んでいるのが見える。水門《すいもん》の忍返《しのびがえ》しから老木《おいき》の松が水の上に枝を延《のば》した庭構え、燈影《ほかげ》しずかな料理屋の二階から芸者《げいしゃ》の歌う唄《うた》が聞える。月が出る。倉庫の屋根のかげになって、片側は真暗《まっくら》な河岸縁《かしぶち》を新内《しんない》のながしが通る。水の光で明《あかる》く見える板橋の上を提灯つけた車が走る。それらの景色をばいい知れず美しく悲しく感じて、満腔《まんこう》の詩情を托したその頃の自分は若いものであった。煩悶《はんもん》を知らなかった。江戸趣味の恍惚《こうこつ》のみに満足して、心は実に平和であった。硯友社《けんゆうしゃ》の芸術を立派なもの、新しいものだと思っていた。近松《ちかまつ》や西鶴《さいかく》が残した文章で、如何なる感情の激動をもいい尽《つく》し得るものと安心していた。音波《おんぱ》の動揺、色彩の濃淡、空気の軽重《けいちょう》、そんな事は少しも自分の神経を刺戟《しげき》しなかった。そんな事は芸術の範囲に入《い》るべきものとは少しも予想しなかった。日本は永久自分の住む処、日本語は永久自分の感情を自由にいい現《あらわ》してくれるものだと信じて疑わなかった。
 自分は今、髯《ひげ》をはやし、洋服を着ている。電気鉄道に乗って、鉄で出来た永代橋を渡るのだ。時代の激変をどうして感ぜずにいられよう。
 夕陽《ゆうひ》は荷舟や檣《ほばしら》の輻輳《ふくそう》している越前堀からずっと遠くの方《ほう》をば、眩《まぶ》しく烟《けむり》のように曇らしている。影のように黒く立つ石川島の前側に、いつも幾艘となく碇泊している帆前船《ほまえせん》の横腹は、赤々と日の光に彩《いろど》られた。橋の下から湧《わ》き昇る石炭の煙が、時々は先の見えぬほど、橋の上に立ち迷う。これだけは以前に変らぬ眺めであったが、自分の眼は忽《たちま》ち佃島《つくだじま》の彼方《かなた》から深川へとかけられた一条《ひとすじ》の長い橋の姿に驚かされた。堤の上の小さい松の並木、橋の上の人影までが、はっきり絵のように見える。自分は永代橋の向岸《むこうぎし》で電車を下りた。その頃は殆《ほとん》ど門並《かどな》みに知っていた深川の大通り。角《かど》の蛤屋《はまぐりや》には意気な女房がいた。名物の煎餅屋《せんべいや》の娘はどうしたか知ら。一時|跡方《あとかた》もなく消失《きえう》せてしまった二十歳時分《はたちじぶん》の記憶を呼び返そうと、自分はきょろきょろしながら歩く。
 無論それらしい娘も女房も今は見当てられようはずはない。しかし深川の大通りは相変らず日あたりが悪く、妙にこの土地ばかり薄寒いような気がして、市中は風もなかったのに、此処《ここ》では松かざりの竹の葉がざわざわいって動いている。よく見覚えのある深川座の幟《のぼり》がたった一本|淋《さび》し気《げ》に、昔の通り、横町《よこちょう》の曲角《まがりかど》に立っていたので、自分は道路の新しく取広げられたのをも殆《ほと》んど気付かず、心は全く十年前のなつかしい昔に立返る事が出来た。
 つい名を忘れてしまった。思い出せない――一条の板橋を渡ると、やがて左へ曲る横町に幟《のぼり》の如く釣《つる》した幾筋《いくすじ》の手拭《てぬぐい》が見える。紺と黒と柿色《かきいろ》の配合が、全体に色のない場末の町とて殊更《ことさら》強く人目を牽《ひ》く。自分は深川に名高い不動の社《やしろ》であると、直様《すぐさま》思返してその方へ曲った。
 細い溝《どぶ》にかかった石橋を前にして、「内陣《ないじん》、新吉原講《しんよしわらこう》」と金字《きんじ》で書いた鉄門をはいると、真直《まっすぐ》な敷石道の左右に並ぶ休茶屋《やすみぢゃや》の暖簾《のれん》と、奉納の手拭が目覚めるばかり連続《つなが》って、その奥深く石段を上った小高い処に、本殿の屋根が夕日を受けながら黒く聳《そび》えている。参詣の人が二人三人と絶えず上《あが》り降《お》りする石段の下には易者の机や、筑波根《つくばね》売りの露店が二、三軒出ていた。そのそばに児守《こもり》や子供や人が大勢|立止《たちどま》っているので、何かと近《ちかづ》いて見ると、坊主頭の老人が木魚《もくぎょ》を叩《たた》いて阿呆陀羅経《あほだらきょう》をやっているのであった。阿呆陀羅経のとなりには塵埃《ほこり》で灰色になった頭髪《かみのけ》をぼうぼう生《はや》した盲目の男が、三味線《しゃみせん》を抱えて小さく身をかがめながら蹲踞《しゃが》んでいた。阿呆陀羅経を聞き飽きた参詣戻りの人たちが三人四人立止る砂利の上の足音を聞分けて、盲目の男は懐中《ふところ》に入れた樫《かし》のばちを取り出し、ちょっと調子をしらべる三の糸から直ぐチントンシャンと弾き出して、低い呂《リョ》の声を咽喉《のど》へと呑《の》み込んで、
 あきイ――の夜《よ》
と長く引張《ひっぱ》ったところで、つく息と共に汚い白眼《しろめ》をきょろりとさせ、仰向《あおむ》ける顔と共に首を斜めに振りながら、
 夜《よ》は――ア
と歌った。声は枯れている。三味線の一の糸には少しのさわりもない。けれども、歌出《うたいだ》しの「秋――」という節廻《ふしまわ》しから拍子の間取《まど》りが、山の手の芸者などには到底聞く事の出来ぬ正確《たしか》な歌沢節《うたざわぶし》であった。自分はなつかしいばかりでない、非常な尊敬の念を感じて、男の顔をば何んという事もなくしげしげ眺めた。
 さして年老《としと》っているというでもない。無論明治になってから生れた人であろう。自分は何の理由もなく、かの男は生れついての盲目ではないような気がした。小学校で地理とか数学とか、事によったら、以前の小学制度で、高等科に英語の初歩位学んだ事がありはしまいか。けれども、江戸伝来の趣味性は九州の足軽|風情《ふぜい》が経営した俗悪|蕪雑《ぶざつ》な「明治」と一致する事が出来ず、家産を失うと共に盲目になった。そして栄華の昔には洒落《しゃれ》半分の理想であった芸に身を助けられる哀れな境遇に落ちたのであろう。その昔、芝居茶屋の混雑、お浚《さら》いの座敷の緋毛氈《ひもうせん》、祭礼の万燈《まんどう》花笠《はながさ》に酔《え》ったその眼は永久に光を失ったばかりに、かえって浅間しい電車や電線や薄ッぺらな西洋づくりを打仰ぐ不幸を知らない。よしまた、知ったにしても、こういう江戸ッ児《こ》はわれら近代の人の如く熱烈な嫌悪《けんお》憤怒《ふんぬ》を感じまい。我れながら解《げ》せられぬ煩悶《はんもん》に苦しむような執着を持っていまい。江戸の人は早く諦《あきら》めをつけてしまう。すぐと自分で自分を冷笑する特徴をそなえているから。
 高い三の糸が頻《しき》りに響く。おとするものは――アと歌って、盲人《もうじん》は首をひょいと前につき出し顔をしかめて、
 鐘――エエばアかり――
という一番高い節廻《ふしまわし》をば枯れた自分の咽喉《のど》をよく承知して、巧《たくみ》に裏声を使って逃げてしまった。
 夕日が左手の梅林《うめばやし》から流れて盲人の横顔を照《てら》す。しゃがんだ哀れな影が如何《いか》にも薄く後《うしろ》の石垣にうつっている。石垣を築いた石の一片《いっぺん》ごとに、奉納した人の名前が赤い字で彫りつけてある。芸者、芸人、鳶者《とびのもの》、芝居の出方《でかた》、博奕打《ばくちうち》、皆近世に関係のない名ばかりである。
 自分はふと後を振向いた。梅林の奥、公園外の低い人家の屋根を越して西の大空一帯に濃い紺色の夕雲が物すごい壁のように棚曳《たなび》き、沈む夕日は生血《なまち》の滴《したた》る如くその間に燃えている。真赤《まっか》な色は驚くほど濃いが、光は弱く鈍り衰えている。自分は突然一種悲壮な感に打たれた。あの夕日の沈むところは早稲田《わせだ》の森であろうか。本郷《ほんごう》の岡であろうか。自分の身は今如何に遠く、東洋のカルチェエ・ラタンから離れているであろう。盲人は一曲終ってすぐさま、
「更《ふ》けて逢《あ》ふ夜《よ》の気苦労は――」と歌いつづける。
 自分はいつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇《たたず》んで、歌沢の端唄《はうた》を聴いていたいと思った。永代橋《えいたいばし》を渡って帰って行くのが堪えられぬほど辛《つら》く思われた。いっそ、明治が生んだ江戸追慕の詩人|斎藤緑雨《さいとうりょくう》の如く滅《ほろ》びてしまいたいような気がした。
 ああ、しかし、自分は遂《つい》に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上《あが》って遠く行く、大久保《おおくぼ》の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチェの詩ザラツストラの一巻が開かれたままに自分を待っている……
    明治四十一年十二月作

底本:「すみだ川・新橋夜話 他一篇」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
   2005(平成17)年11月25日第23刷発行
底本の親本:「荷風小説 二」岩波書店
   1986(昭和61)年6月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:米田
2010年9月5日作成
2011年4月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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永井荷風

妾宅 —–永井荷風

 どうしても心から満足して世間一般の趨勢に伴《ともな》って行くことが出来ないと知ったその日から、彼はとある堀割のほとりなる妾宅《しょうたく》にのみ、一人|倦《う》みがちなる空想の日を送る事が多くなった。今の世の中には面白い事がなくなったというばかりならまだしもの事、見たくでもない物の限りを見せつけられるのに堪《た》えられなくなったからである。進んでそれらのものを打壊そうとするよりもむしろ退《しりぞ》いて隠れるに如《し》くはないと思ったからである。何も彼《か》も時世時節《ときよじせつ》ならば是非もないというような川柳式《せんりゅうしき》のあきらめが、遺伝的に彼の精神を訓練さしていたからである。身過《みす》ぎ世過《よす》ぎならば洋服も着よう。生れ落ちてから畳の上に両足を折曲《おりま》げて育った揉《ねじ》れた身体《からだ》にも、当節の流行とあれば、直立した国の人たちの着る洋服も臆面《おくめん》なく採用しよう。用があれば停電しがちの電車にも乗ろう。自動車にも乗ろう。園遊会にも行こう。浪花節《なにわぶし》も聞こう。女優の鞦韆《ぶらんこ》も下からのぞこう。沙翁劇《さおうげき》も見よう。洋楽入りの長唄《ながうた》も聞こう。頼まれれば小説も書こう。粗悪な紙に誤植だらけの印刷も結構至極と喜ぼう。それに対する粗忽干万《そこつせんばん》なジゥルナリズムの批評も聞こう。同業者の誼《よし》みにあんまり黙っていても悪いようなら議論のお相手もしよう。けれども要するに、それはみんな身過ぎ世過ぎである。川竹の憂き身をかこつ哥沢《うたざわ》の糸より細き筆の命毛《いのちげ》を渡世《とせい》にする是非なさ……オット大変忘れたり。彼というは堂々たる現代文士の一人《いちにん》、但し人の知らない別号を珍々先生という半可通《はんかつう》である。かくして先生は現代の生存競争に負けないため、現代の人たちのする事は善悪無差別に一通りは心得ていようと努めた。その代り、そうするには何処か人知れぬ心の隠家《かくれが》を求めて、時々|生命《いのち》の洗濯をする必要を感じた。宿《やど》なしの乞食でさえも眠るにはなお橋の下を求めるではないか。厭《いや》な客衆《きゃくしゅ》の勤めには傾城《けいせい》をして引過《ひけす》ぎの情夫《まぶ》を許してやらねばならぬ。先生は現代生活の仮面をなるべく巧《たくみ》に被《かぶ》りおおせるためには、人知れずそれをぬぎ捨てべき楽屋《がくや》を必要としたのである。昔より大隠《たいいん》のかくれる町中《まちなか》の裏通り、堀割に沿う日かげの妾宅は即ちこの目的のために作られた彼が心の安息所であったのだ。

 妾宅は上《あが》り框《かまち》の二畳を入れて僅か四間《よま》ほどしかない古びた借家《しゃくや》であるが、拭込《ふきこ》んだ表の格子戸《こうしど》と家内《かない》の障子《しょうじ》と唐紙《からかみ》とは、今の職人の請負《うけおい》仕事を嫌い、先頃《さきごろ》まだ吉原《よしわら》の焼けない時分、廃業する芸者家の古建具《ふるたてぐ》をそのまま買い取ったものである。二階の一間の欄干《らんかん》だけには日が当るけれど、下座敷《したざしき》は茶の間も共に、外から這入《はい》ると人の顔さえちょっとは見分かぬほどの薄暗さ。厠《かわや》へ出る縁先《えんさき》の小庭に至っては、日の目を見ぬ地面の湿《し》け切っていること気味わるいばかりである。しかし先生はこの薄暗く湿《しめ》った家をば、それがためにかえってなつかしく、如何にも浮世に遠く失敗した人の隠家らしい心持ちをさせる事を喜んでいる。石菖《せきしょう》の水鉢を置いた※[#「木+靈」、第3水準1-86-29]子窓《れんじまど》の下には朱の溜塗《ためぬり》の鏡台がある。芸者が弘《ひろ》めをする時の手拭の包紙で腰張した壁の上には鬱金《うこん》の包みを着た三味線が二梃《にちょう》かけてある。大きな如輪《じょりん》の長火鉢《ながひばち》の傍《そば》にはきまって猫が寝ている。襖《ふすま》を越した次の座敷には薄暗い上にも更に薄暗い床《とこ》の間《ま》に、極彩色《ごくさいしき》の豊国《とよくに》の女姿が、石州流《せきしゅうりゅう》の生花《いけばな》のかげから、過ぎた時代の風俗を見せている。片隅には「命《いのち》」という字を傘《かさ》の形のように繋《つな》いだ赤い友禅《ゆうぜん》の蒲団《ふとん》をかけた置炬燵《おきごたつ》。その後《うしろ》には二枚折の屏風《びょうぶ》に、今は大方《おおかた》故人となった役者や芸人の改名披露やおさらいの摺物《すりもの》を張った中に、田之助半四郎《たのすけはんしろう》なぞの死絵《しにえ》二、三枚をも交《ま》ぜてある。彼が殊更《ことさら》に、この薄暗い妾宅をなつかしく思うのは、風鈴《ふうりん》の音《ね》凉しき夏の夕《ゆうべ》よりも、虫の音《ね》冴《さ》ゆる夜長よりも、かえって底冷《そこびえ》のする曇った冬の日の、どうやら雪にでもなりそうな暮方《くれがた》近く、この一間《ひとま》の置炬燵に猫を膝にしながら、所在《しょざい》なげに生欠伸《なまあくび》をかみしめる時であるのだ。彼は窓外《まどそと》を呼び過ぎる物売りの声と、遠い大通りに轟き渡る車の響と、厠の向うの腐りかけた建仁寺垣《けんにんじがき》を越して、隣りの家《うち》から聞え出すはたき[#「はたき」に傍点]の音をば何というわけもなく悲しく聞きなす。お妾《めかけ》はいつでもこの時分には銭湯に行った留守のこと、彼は一人|燈火《あかり》のない座敷の置炬燵に肱枕《ひじまくら》して、折々は隙漏《すきも》る寒い川風に身顫《みぶる》いをするのである。珍々先生はこんな処にこうしていじけ[#「いじけ」に傍点]ていずとも、便利な今の世の中にはもっと暖かな、もっと明《あかる》い賑《にぎや》かな場所がいくらもある事を能《よ》く承知している。けれどもそういう明い晴やかな場所へ意気揚々と出しゃばるのは、自分なぞが先に立ってやらずとも、成功主義の物欲しい世の中には、そういう処へ出しゃばって歯の浮くような事をいいたがる連中が、あり余って困るほどある事を思返すと、先生はむしろ薄寒い妾宅の置炬燵にかじりついているのが、涙の出るほど嬉しく淋しく悲しく同時にまた何ともいえぬほど皮肉な得意を感ずるのであった。表の河岸通《かしどおり》には日暮と共に吹起る空《から》ッ風《かぜ》の音が聞え出すと、妾宅の障子はどれが動くとも知れず、ガタリガタリと妙に気力の抜けた陰気な音を響かす。その度々に寒さはぞくぞく襟元《えりもと》へ浸《し》み入る。勝手の方では、いっも居眠りしている下女が、またしても皿小鉢を破《こわ》したらしい物音がする。炭団《たどん》はどうやらもう灰になってしまったらしい。先生はこういう時、つくづくこれが先祖代々日本人の送り過越《すご》して来た日本の家の冬の心持だと感ずるのである。宝井其角《たからいきかく》の家にもこれと同じような冬の日が幾度《いくたび》となく来たのであろう。喜多川歌麿《きたがわうたまろ》の絵筆持つ指先もかかる寒さのために凍《こお》ったのであろう。馬琴《ばきん》北斎《ほくさい》もこの置炬燵の火の消えかかった果敢《はか》なさを知っていたであろう。京伝《きょうでん》一九《いっく》春水《しゅんすい》種彦《たねひこ》を始めとして、魯文《ろぶん》黙阿弥《もくあみ》に至るまで、少くとも日本文化の過去の誇りを残した人々は、皆おのれと同じようなこの日本の家の寒さを知っていたのだ。しかして彼らはこの寒さと薄暗さにも恨むことなく反抗することなく、手錠をはめられ板木《はんぎ》を取壊《とりこわ》すお上《かみ》の御成敗《ごせいばい》を甘受していたのだと思うと、時代の思想はいつになっても、昔に代らぬ今の世の中、先生は形ばかり西洋模倣の倶楽部《クラブ》やカフェーの媛炉《だんろ》のほとりに葉巻をくゆらし、新時代の人々と舶来の火酒《ウイスキー》を傾けつつ、恐れ多くも天下の御政事を云々《うんぬん》したとて何になろう。われわれ日本の芸術家の先天的に定められた運命は、やはりこうした置炬燵の肱枕より外《ほか》にはないというような心持になるのであった。

 人種の発達と共にその国土の底に深くも根ざした思想の濫觴《らんしょう》を鑑《かんが》み、幾時代の遺伝的修養を経たる忍従棄権の悟《さと》りに、われ知らず襟《えり》を正《ただ》す折《おり》しもあれ。先生は時々かかる暮れがた近く、隣の家《うち》から子供のさらう稽古の三味線が、かえって午飯過《ひるめしす》ぎの真昼よりも一層|賑《にぎや》かに聞え出すのに、眠るともなく覚めるともなく、疲れきった淋しい心をゆすぶらせる。家《うち》の中はもう真暗になっているが、戸外《おもて》にはまだ斜にうつろう冬の夕日が残っているに違いない。ああ、三味線の音色《ねいろ》。何という果敢《はかな》い、消えも入りたき哀れを催させるのであろう。かつてそれほどに、まだ自己を知らなかった得意の時分に、先生は長たらしい小説を書いて、その一節に三味線と西洋音楽の比較論なぞを試みた事を思返す。世の中には古社寺《こしゃじ》保存の名目の下《もと》に、古社寺の建築を修繕するのではなく、かえってこれを破壊もしくは俗化する山師があるように、邦楽の改良進歩を企てて、かえって邦楽の真生命を殺してしまう熱心家のある事を考え出す。しかし先生はもうそれらをば余儀ない事であると諦めた。こんな事をいって三味線の議論をする事が、已に三味線のためにはこの上もない侮辱《ぶじょく》なのである。江戸音曲《えどおんぎょく》の江戸音曲たる所以《ゆえん》は時勢のために見る影なく踏みにじられて行く所にある。時勢と共に進歩して行く事の出来ない所にある。然《しか》も一思《ひとおも》いに潔《いさぎよ》く殺され滅されてしまうのではなく、新時代の色々な野心家の汚《きたな》らしい手にいじくり廻されて、散々|慰《なぐさ》まれ辱《はずか》しめられた揚句《あげく》、嬲《なぶ》り殺しにされてしまう傷《いたま》しい運命。それから生ずる無限の哀傷が、即ち江戸音曲の真生命である。少くともそれは二十世紀の今日《こんにち》洋服を着て葉巻を吸いながら聞くわれわれの心に響くべき三味線の呟《つぶや》きである。さればこれを改良するというのも、あるいはこれを撲滅するというのも、いずれにしても滅び行く三味線の身に取っては同じであるといわねばならぬ。珍々先生が帝国劇場において『金毛狐《きんもうこ》』の如き新曲を聴く事を辞さないのは、つまり灰の中から宝石を捜出《さがしだ》すように、新しきものの処々にまだそのまま残されている昔のままの節附《ふしづけ》を拾出す果敢い楽しさのためである。同時に擬古派の歌舞伎座において、大薩摩《おおざつま》を聞く事を喜ぶのは、古きものの中にも知らず知らず浸み込んだ新しい病毒に、遠からず古きもの全体が腐って倒れてしまいそうな、その遣瀬《やるせ》ない無常の真理を悟り得るがためである。思えばかえって不思議にも、今日という今日まで生残った江戸音曲の哀愁をば、先生はあたかも廓《くるわ》を抜け出で、唯《ただ》一人闇の夜道を跣足《はだし》のままにかけて行く女のようだと思っている。たよりの恋人に出逢った処で、末永く添い遂げられるというではない。互に手を取って南無阿弥陀仏と死ぬばかり。もし駕籠《かご》かきの悪者に出逢ったら、庚申塚《こうしんづか》の藪《やぶ》かげに思うさま弄ばれた揚句、生命《いのち》あらばまた遠国《えんごく》へ売り飛ばされるにきまっている。追手《おって》に捕《つか》まって元の曲輪《くるわ》へ送り戻されれば、煙管《キセル》の折檻《せっかん》に、またしても毎夜の憂きつとめ。死ぬといい消えるというが、この世の中にこの女の望み得べき幸福の絶頂なのである。と思えば先生の耳には本調子も二上《にあが》りも三下《さんさが》りも皆この世は夢じゃ諦《あきら》めしゃんせ諦めしゃんせと響くのである。されば隣りで唄《うた》う歌の文句の「夢とおもひて清心《せいしん》は。」といい「頼むは弥陀の御《お》ン誓ひ、南無阿弥陀仏々々々々々々。」というあたりの節廻しや三味線の手に至っては、江戸音曲中の仏教的思想の音楽的表現が、その芸術的価値においてまさに楽劇『パルシフヮル』中の例えば「聖金曜日」のモチイブなぞにも比較し得べきもののように思われるのであった。

 諦めるにつけ悟るにつけ、さすがはまだ凡夫《ぼんぷ》の身の悲しさに、珍々先生は昨日《きのう》と過ぎし青春の夢を思うともなく思い返す。ふとしたことから、こうして囲《かこ》って置くお妾《めかけ》の身の上や、馴初《なれそ》めのむかしを繰返して考える。お妾は無論芸者であった。仲之町《なかのちょう》で一時《いちじ》は鳴《なら》した腕。芸には達者な代り、全くの無筆《むひつ》である。稽古本《けいこぼん》で見馴れた仮名より外には何にも読めない明盲目《あきめくら》である。この社会の人の持っている諸有《あらゆ》る迷信と僻見《へきけん》と虚偽と不健康とを一つ残らず遺伝的に譲り受けている。お召《めし》の縞柄《しまがら》を論ずるには委《くわ》しいけれど、電車に乗って新しい都会を一人歩きする事なぞは今だに出来ない。つまり明治の新しい女子教育とは全く無関係な女なのである。稽古唄の文句によって、親の許さぬ色恋は悪い事であると知っていたので、初恋の若旦那とは生木《なまき》を割《さ》く辛《つら》い目を見せられても、ただその当座泣いて暮して、そして自暴酒《やけざけ》を飲む事を覚えた位のもの、別に天も怨《うら》まず人をも怨まず、やがて周囲から強《しい》られるがままに、厭《いや》な男にも我慢して身をまかした。いやな男への屈従からは忽《たちま》ち間夫《まぶ》という秘密の快楽を覚えた。多くの人の玩弄物《もてあそびもの》になると同時に、多くの人を弄んで、浮きつ沈みつ定めなき不徳と淫蕩《いんとう》の生涯の、その果《はて》がこの河添いの妾宅に余生を送る事になったのである。深川《ふかがわ》の湿地に生れて吉原《よしわら》の水に育ったので、顔の色は生れつき浅黒い。一度髪の毛がすっかり抜けた事があるそうだ。酒を飲み過ぎて血を吐いた事があるそうだ。それから身体《からだ》が生れ代ったように丈夫になって、中音《ちゅうおん》の音声《のど》に意気な錆《さび》が出来た。時々頭が痛むといっては顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》へ即功紙《そっこうし》を張っているものの今では滅多に風邪《かぜ》を引くこともない。突然お腹《なか》へ差込《さしこ》みが来るなどと大騒ぎをするかと思うと、納豆《なっとう》にお茶漬を三杯もかき込んで平然としている。お参りに出かける外《ほか》、芝居へも寄席《よせ》へも一向《いっこう》に行きたがらない。朝寝が好きで、髪を直すに時間を惜しまず、男を相手に卑陋《びろう》な冗談をいって夜ふかしをするのが好きであるが、その割には世帯持《しょたいもち》がよく、借金のいい訳がなかなか巧《うま》い。年は二十五、六、この社会の女にしか見られないその浅黒い顔の色の、妙に滑《すべ》っこく磨き込まれている様子は、丁度多くの人手にかかって丁寧に拭き込まれた桐の手あぶりの光沢《つや》に等しく、いつも重そうな瞼《まぶた》の下に、夢を見ているようなその眼色《めいろ》には、照りもせず曇りも果てぬ晩春の空のいい知れぬ沈滞の味が宿っている――とでもいいたい位に先生は思っているのである。実際今の世の中に、この珍々先生ほど芸者の好きな人、賤業婦の病的美に対して賞讃の声を惜しまない人は恐らくあるまい。彼は何故《なにゆえ》に賤業婦を愛するかという理由を自《みずか》ら解釈して、道徳的及び芸術的の二条に分った。道徳的にはかつて『見果《みは》てぬ夢』という短篇小説中にも書いた通り、特種の時代とその制度の下《もと》に発生した花柳界全体は、最初から明白《あからさま》に虚偽を標榜しているだけに、その中《うち》にはかえって虚偽ならざるもののある事を嬉しく思うのであった。つまり正当なる社会の偽善を憎む精神の変調が、幾多の無理な訓練修養の結果によって、かかる不正暗黒の方面に一条の血路を開いて、茲《ここ》に僅なる満足を得ようとしたものと見て差支《さしつかえ》ない。あるいはまたあまりに枯淡なる典型に陥《おちい》り過ぎてかえって真情の潤《うるお》いに乏しくなった古来の道徳に対する反感から、わざと悪徳不正を迎えて一時の快哉《かいさい》を呼ぶものとも見られる。要するに厭世的なるかかる詭弁的《きべんてき》精神の傾向は破壊的なるロマンチズムの主張から生じた一種の病弊である事は、彼自身もよく承知しているのである。承知していながら、決して改悛《かいしゅん》する必要がないと思うほど、この病弊を芸術的に崇拝しているのである。されば賤業婦の美を論ずるには、極端に流れたる近世の芸術観を以てするより外はない。理性にも同情にも訴うるのでなく、唯《ただ》過敏なる感覚をのみ基礎として近世の極端なる芸術を鑑賞し得ない人は、彼からいえば到底縁なき衆生《しゅじょう》であるのだ。女の嫌いな人に強《しい》て女の美を説き教える必要はない。酒に害あるはいわずと知れた話である。然《しか》もその害毒を恐れざる多少の覚悟と勇気とがあって、初めて酒の徳を知り得るのである。伝聞《きくなら》く北米合衆国においては亜米利加印甸人《アメリカインデアン》に対して絶対に火酒《ウイスキー》を売る事を禁ずるは、印甸人の一度《ひとたび》酔えば忽《たちま》ち狂暴なる野獣と変ずるがためである。印甸人の神経は浅酌微酔の文明的訓練なきがためである。修養されたる感覚の快楽を知らざる原始的健全なる某帝国の社会においては、婦人の裸体画を以て直《ただち》に国民の風俗を壊乱するものと認めた。南|阿弗利加《アフリカ》の黒奴《こくど》は獣《けもの》の如く口を開いて哄笑《こうしょう》する事を知っているが、声もなく言葉にも出さぬ美しい微笑《ほほえみ》によって、いうにいわれぬ複雑な内心の感情を表白する術《じゅつ》を知らないそうである。健全なる某帝国の法律が恋愛と婦人に関する一切の芸術をポルノグラフィイと見なすのも思えば無理もない次第である――議論が思わず岐路《わきみち》へそれた――妾宅の主人たる珍々先生はかくの如くに社会の輿論《よろん》の極端にも厳格枯淡偏狭単一なるに反して、これはまた極端に、凡そ売色という一切の行動には何ともいえない悲壮の神秘が潜《ひそ》んでいると断言しているのである。冬の闇夜《やみよ》に悪病を負う辻君《つじぎみ》が人を呼ぶ声の傷《いたま》しさは、直ちにこれ、罪障深き人類の止《や》みがたき真正《まこと》の嘆きではあるまいか。仏蘭西《フランス》の詩人 Marcel《マルセル》 Schwob《シュオッブ》 はわれわれが悲しみの淵に沈んでいる瞬間にのみ、唯の一夜、唯の一度われわれの目の前に現われて来るという辻君。二度巡り会おうとしても最《も》う会う事の出来ないという神秘なる辻君の事を書いた。「あの女たちはいつまでもわれわれの傍《そば》にいるものではない。あまりに悲しい身の上の恥かしく、長く留《とどま》っているに堪えられないからである。あの女たちはわれわれが涙に暮れているのを見ればこそ、面と向ってわれわれの顔を見上げる勇気があるのだ。われわれはあの女たちを哀れと思う時にのみ、彼女《かのおんな》たちを了解し得るのだ。」といっている。近松の心中物《しんじゅうもの》を見ても分るではないか。傾城《けいせい》の誠が金で面《つら》を張る圧制な大尽《だいじん》に解釈されようはずはない。変る夜ごとの枕に泣く売春婦の誠の心の悲しみは、親の慈悲妻の情《なさけ》を仇《あだ》にしたその罪の恐しさに泣く放蕩児の身の上になって、初めて知り得るのである。「傾城に誠あるほど買ひもせず」と川柳子《せんりゅうし》も已に名句を吐いている。珍々先生は生れ付きの旋毛曲《つむじまが》り、親に見放され、学校は追出され、その後は白浪物《しらなみもの》の主人公のような心持になってとにかくに強いもの、えばる[#「えばる」に傍点]ものが大嫌いであったから、自然と巧《たくま》ずして若い時分から売春婦には惚《ほ》れられがちであった。しかしこういう業《ごう》つくばりの男の事故《ことゆえ》、芸者が好きだといっても、当時|新橋《しんばし》第一流の名花と世に持囃《もてはや》される名古屋種《なごやだね》の美人なぞに目をくれるのではない。深川の堀割の夜深《よふけ》、石置場のかげから這出《はいだ》す辻君にも等しい彼《か》の水転《みずてん》の身の浅間《あさま》しさを愛するのである。悪病をつつむ腐《くさ》りし肉の上に、爛《ただ》れたその心の悲しみを休ませるのである。されば河添いの妾宅にいる先生のお妾も要するに世間並の眼を以て見れば、少しばかり甲羅《こうら》を経たるこの種類の安物たるに過ぎないのである。

 隣りの稽古唄《けいこうた》はまだ止《や》まぬ。お妾《めかけ》は大分化粧に念が入《い》っていると見えてまだ帰らない。先生は昔の事を考えながら、夕飯時《ゆうめしどき》の空腹《くうふく》をまぎらすためか、火の消えかかった置炬燵《おきごたつ》に頬杖《ほおづえ》をつき口から出まかせに、
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※[#歌記号、1-3-28]変り行く末の世ながら「いにしへ」を、「いま」に忍ぶの恋草《こいぐさ》や、誰れに摘《つ》めとか繰返し、うたふ隣のけいこ唄、宵はまちそして恨みて暁と、聞く身につらきいもがりは、同じ待つ間の置炬燵、川風寒き※[#「木+靈」、第3水準1-86-29]子窓《れんじまど》、急ぐ足音ききつけて、かけた蒲団の格子外《こうしそと》、もしやそれかとのぞいて見れば、河岸《かし》の夕日にしよんぼりと、枯れた柳の影ばかり。
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 まだ帰って来ぬ。先生はもう一ツ、胸にあまる日頃の思いをおなじ置炬燵にことよせて、
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※[#歌記号、1-3-28]|春水《しゅんすい》が手錠はめられ海老蔵《えびぞう》は、お江戸かまひの「むかし」なら、わしも定めし島流し、硯《すずり》の海の波風に、命の筆の水馴竿《みなれざお》、折れてたよりも荒磯の、道理引つ込む無理の世は、今もむかしの夢のあと、たづねて見やれ思ひ寝の、手枕《たまくら》寒し置炬燵。
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とやらかした。小走《こばし》りの下駄《げた》の音。がらりと今度こそ格子が明《あ》いた。お妾は抜衣紋《ぬきえもん》にした襟頸《えりくび》ばかり驚くほど真白に塗りたて、浅黒い顔をば拭き込んだ煤竹《すすだけ》のようにひからせ、銀杏返《いちょうがえ》しの両鬢《りょうびん》へ毛筋棒《けすじ》を挿込んだままで、直《す》ぐと長火鉢《ながひばち》の向うに据えた朱の溜塗《ためぬり》の鏡台の前に坐った。カチリと電燈を捻《ね》じる響と共に、黄《きいろ》い光が唐紙《からかみ》の隙間にさす。先生はのそのそ置炬燵から次の間へ這出《はいだ》して有合《ありあ》う長煙管《ながギセル》で二、三|服《ぷく》煙草を吸いつつ、余念もなくお妾の化粧する様子を眺めた。先生は女が髪を直す時の千姿万態をば、そのあらゆる場合を通じて尽《ことごと》くこれを秩序的に諳《そらん》じながら、なお飽きないほどの熱心なる観察者である。まず、忍び逢いの小座敷には、刎返《はねかえ》した重い夜具へ背をよせかけるように、そして立膝《たてひざ》した長襦袢《ながじゅばん》の膝の上か、あるいはまた船底枕《ふなぞこまくら》の横腹に懐中鏡を立掛けて、かかる場合に用意する黄楊《つげ》の小櫛《おぐし》を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢《びん》の後毛《おくれげ》を掻き上げた後《のち》は、捻《ねじ》るように前身《ぜんしん》をそらして、櫛の背を歯に銜《くわ》え、両手を高く、長襦袢の袖口《そでぐち》はこの時下へと滑ってその二の腕の奥にもし入黒子《いれぼくろ》あらば見えもやすると思われるまで、両肱《りょうひじ》を菱《ひし》の字なりに張出して後《うしろ》の髱《たぼ》を直し、さてまた最後には宛《さなが》ら糸瓜《へちま》の取手《とって》でも摘《つま》むがように、二本の指先で前髪の束《たば》ね目《め》を軽く持ち上げ、片手の櫛で前髪のふくらみを生際《はえぎわ》の下から上へと迅速に掻き上げる。髱留《たぼど》めの一、二本はいつも口に銜えているものの、女はこの長々しい熱心な手芸の間《あいだ》、黙ってぼんやり男を退屈さして置くものでは決してない。またの逢瀬《おうせ》の約束やら、これから外《ほか》の座敷へ行く辛《つら》さやら、とにかく寸鉄《すんてつ》人を殺すべき片言隻語《へんげんせきご》は、かえって自在に有力に、この忙しい手芸の間に乱発されやすいのである。先生は芝居の桟敷《さじき》にいる最中といえども、女が折々思出したように顔を斜めに浮かして、丁度仏画の人物の如く綺麗にそろえた指の平《ひら》で絶えず鬢《びん》の形を気にする有様をも見逃さない。さればいよいよ湯上りの両肌《りょうはだ》脱ぎ、家《うち》が潰《つぶ》れようが地面が裂けようが、われ関《かん》せず焉《えん》という有様、身も魂も打込んで鏡に向う姿に至っては、先生は全くこれこそ、日本の女の最も女らしい形容を示す時であると思うのである。幾世紀の洗練を経たる Alexandrine《アレキサンドリン》 十二音の詩句を以て、自在にミュッセをして巴里娘《パリイむすめ》の踊の裾《すそ》を歌わしめよ。われにはまた来歴ある一中節《いっちゅうぶし》の『黒髪』がある。黄楊《つげ》の小櫛《おぐし》という単語さえもがわれわれの情緒《じょうしょ》を動かすにどれだけ強い力があるか。其処《そこ》へ行くと哀れや、色さまざまのリボン美しといえども、ダイヤモンド入りのハイカラ櫛立派なりといえども、それらの物の形と物の色よりして、新時代の女子の生活が芸術的幻想を誘起し得るまでには、まだまだ多くの年月《ねんげつ》を経た後《のち》でなければならぬ。新時代の芸術の力をもっともっと沢山に借りた揚句《あげく》の果でなければならぬ。然《しか》るに已に完成しおわった江戸芸術によって、溢《あふ》るるまでその内容の生命を豊富にされたかかる下町の女の立居振舞《たちいふるま》いには、敢《あえ》て化粧の時の姿に限らない。春雨《はるさめ》の格子戸《こうしど》に渋《しぶ》蛇《じゃ》の目《め》開《ひら》きかける様子といい、長火鉢の向うに長煙管取り上げる手付きといい、物思う夕まぐれ襟《えり》に埋《うず》める頤《おとがい》といい、さては唯《ただ》風に吹かれる髪の毛の一筋、そら解《ど》けの帯の端《はし》にさえ、いうばかりなき風情《ふぜい》が生ずる。「ふぜい」とは何ぞ。芸術的洗練を経たる空想家の心にのみ味わるべき、言語にいい現し得ぬ複雑豊富なる美感の満足ではないか。しかもそれは軽く淡く快き半音|下《さが》った mineur《ミノウル》 の調子のものである。珍々先生は芸者上りのお妾の夕化粧をば、つまり生きて物いう浮世絵と見て楽しんでいるのである。明治の女子教育と関係なき賤業婦の淫靡《いんび》なる生活によって、爛熟した過去の文明の遠い※[#「口+耳」、第3水準1-14-94]《ささや》きを聞こうとしているのである。この僅かなる慰安が珍々先生をして、洋服を着ないでもすむ半日を、唯うつうつとこの妾宅に送らせる理由である。已に「妾宅」というこの文字《もんじ》が、もう何となく廃滅の気味を帯びさせる上に、もしこれを雑誌などに出したなら、定めし文芸|即《すなわち》悪徳と思込んでいる老人たちが例の物議を起す事であろうと思うと、なお更に先生は嬉しくて堪《たま》らないのである。

 お妾のお化粧がすむ頃には、丁度下女がお釜《かま》の火を引いて、膳立《ぜんだて》の準備をはじめる。この妾宅には珍々先生一流の趣味によって、食事の折には一切、新時代の料理屋または小待合《こまちあい》の座敷を聯想《れんそう》させるような、上等ならば紫檀《したん》、安ものならばニス塗の食卓を用いる事を許さないので、長火鉢の向うへ持出されるのは、古びて剥《は》げてはいれど、やや大形の猫足《ねこあし》の塗膳であった。先生は最初感情の動くがままに小説を書いて出版するや否や、忽《たちま》ち内務省からは風俗壊乱、発売禁止、本屋からは損害賠償の手詰《てづめ》の談判、さて文壇からは引続き歓楽に哀傷に、放蕩に追憶と、身に引受けた看板の瑕《きず》に等しき悪名《あくみょう》が、今はもっけ[#「もっけ」に傍点]の幸《さいわい》に、高等遊民不良少年をお顧客《とくい》の文芸雑誌で飯を喰う売文の奴《やっこ》とまで成り下《さが》ってしまったが、さすがに筋目正しい血筋の昔を忘れぬためか、あるいはまた、あらゆる芸術の放胆自由の限りを欲する中《なか》にも、自然と備《そなわ》る貴族的なる形の端麗、古典的なる線の明晰を望む先生一流の芸術的主張が、知らず知らず些細《ささい》なる常住坐臥《じょうじゅうざが》の間《あいだ》に現われるためであろうか。(そは作者の知る処に非《あら》ず。)とにかく珍々先生は食事の膳につく前には必ず衣紋《えもん》を正し角帯《かくおび》のゆるみを締直《しめなお》し、縁側《えんがわ》に出て手を清めてから、折々窮屈そうに膝を崩す事はあっても、決して胡坐《あぐら》をかいたり毛脛《けずね》を出したりする事はない。食事の時、仏蘭西人《フランスじん》が極《きま》って Serviette《セルヴィエット》 を頤《おとがい》の下から涎掛《よだれかけ》のように広げて掛けると同じく、先生は必ず三《み》ツ折《おり》にした懐中の手拭を膝の上に置き、お妾がお酌する盃《さかずき》を一嘗《ひとな》めしつつ徐《おもむろ》に膳の上を眺める。
 小《ちいさ》な汚《きたなら》しい桶《おけ》のままに海鼠腸《このわた》が載っている。小皿の上に三片《みきれ》ばかり赤味がかった松脂《まつやに》見たようなもののあるのは「魚+鑞のつくり」、《からすみ》である。千住《せんじゅ》の名産|寒鮒《かんぶな》の雀焼に川海老《かわえび》の串焼《くしやき》と今戸《いまど》名物の甘い甘い柚味噌《ゆずみそ》は、お茶漬《ちゃづけ》の時お妾が大好物《だいこうぶつ》のなくてはならぬ品物である。先生は汚らしい桶の蓋《ふた》を静に取って、下痢《げり》した人糞のような色を呈した海鼠《なまこ》の腸《はらわた》をば、杉箸《すぎばし》の先ですくい上げると長く糸のようにつながって、なかなか切れないのを、気長に幾度《いくたび》となくすくっては落し、落してはまたすくい上げて、丁度|好加減《いいかげん》の長さになるのを待って、傍《かたわら》の小皿に移し、再び丁寧に蓋をした後、やや暫くの間は口をも付けずに唯《ただ》恍惚として荒海の磯臭い薫《かお》りをのみかいでいた。先生は海鼠腸《このわた》のこの匂といい色といいまたその汚しい桶といい、凡《すべ》て何らの修飾をも調理をも出来得るかぎりの人為的技巧を加味せざる(少くとも表示せざる)天然野生の粗暴が陶器|漆器《しっき》などの食器に盛《もら》れている料理の真中に出しゃばって、茲《ここ》に何ともいえない大胆な意外な不調和を見せている処に、いわゆる雅致と称《となえ》る極めてパラドックサルな美感の満足を感じて止まなかったからである。由来この種の雅致は或一派の愛国主義者をして断言せしむれば、日本人独特固有の趣味とまで解釈されている位で、室内装飾の一例を以てしても、床柱《とこばしら》には必ず皮のついたままの天然木《てんねんぼく》を用いたり花を活《い》けるに切り放した青竹の筒《つつ》を以てするなどは、なるほど Rococo《ロココ》 式にも Empire《アンピイル》 式にもないようである。しかしこの議論はいつも或る条件をつけて或程度に押留《おしとど》めて置かなければならぬ。あんまりお調子づいて、この論法一点張りで東西文明の比較論を進めて行くと、些細な特種の実例を上げる必要なくいわゆる Maison《メイゾン》 de《ド》 Papier《パピエー》(紙の家)に住んで畳の上に夏は昆虫類と同棲する日本の生活全体が、何よりの雅致になってしまうからである。珍々先生はこんな事を考えるのでもなく考えながら、多年の食道楽《くいどうらく》のために病的過敏となった舌の先で、苦味《にが》いとも辛《から》いとも酸《すっぱ》いとも、到底|一言《ひとこと》ではいい現し方のないこの奇妙な食物の味《あじわい》を吟味して楽しむにつけ、国の東西時の古今を論ぜず文明の極致に沈湎《ちんめん》した人間は、是非にもこういう食物を愛好するようになってしまわなければならぬ。芸術は遂に国家と相容れざるに至って初めて尊《たっと》く、食物は衛生と背戻《はいれい》するに及んで真の味《あじわい》を生ずるのだ。けれども其処まで進もうというには、妻あり子あり金あり位ある普通人には到底薄気味わるくて出来るものではない。そこで自然《おのず》と、物には専門家《くろうと》と素人《しろうと》の差別が生ずるのだと、珍々先生は自己の廃頽趣味に絶対の芸術的価値と威信とを附与して、聊《いささ》か得意の感をなし、荒《すさ》みきった生涯の、せめてもの慰藉《なぐさめ》にしようと試みるのであったが、しかし何となくその身の行末|空恐《そらおそろ》しく、ああ人間もこうなってはもうおしまいだ。滋養に富んだ牛肉とお行儀のいい鯛の塩焼を美味のかぎりと思っている健全な朴訥《ぼくとつ》な無邪気な人たちは幸福だ。自分も最《も》う一度そういう程度まで立戻る事が出来たとしたら、どんなに万々歳なお目出度《めでた》かりける次第であろう……。惆悵《ちゅうちょう》として盃《さかずき》を傾くる事|二度《ふたた》び三度《みた》び。唯《と》見《み》ればお妾は新しい手拭をば撫付《なでつ》けたばかりの髪の上にかけ、下女まかせにはして置けない白魚《しらうお》か何かの料理を拵《こしら》えるため台所の板の間に膝をついて頻《しきり》に七輪《しちりん》の下をば渋団扇《しぶうちわ》であおいでいる。

 何たる物哀れな美しい姿であろう。夕化粧の襟足|際立《きわだ》つ手拭の冠《かぶ》り方、襟付の小袖《こそで》、肩から滑り落ちそうなお召《めし》の半纏《はんてん》、お召の前掛、しどけなく引掛《ひっかけ》に結んだ昼夜帯《ちゅうやおび》、凡て現代の道徳家をしては覚えず眉を顰《ひそ》めしめ、警察官をしては坐《そぞろ》に嫌疑の眼《まなこ》を鋭くさせるような国貞振《くにさだぶ》りの年増盛《としまざか》りが、まめまめしく台所に働いている姿は勝手口の破れた水障子、引窓の綱、七輪《しちりん》、水瓶《みずがめ》、竈《かまど》、その傍《そば》の煤《すす》けた柱に貼《は》った荒神様《こうじんさま》のお札《ふだ》なぞ、一体に汚らしく乱雑に見える周囲の道具立《どうぐだて》と相俟《あいま》って、草双紙《くさぞうし》に見るような何という果敢《はかな》い佗住居《わびずまい》の情調、また哥沢《うたざわ》の節廻しに唄い古されたような、何という三絃的情調を示すのであろう。先生はお妾が食事の仕度をしてくれる時のみではない。長火鉢の傍《そば》にしょんぼりと坐って汚《よご》れた壁の上にその影を映させつつ、物静に男の着物を縫っている時、あるいはまた夜《よる》の寝床に先ず男を寝かした後《のち》、その身は静に男の羽織着物を畳んで角帯《かくおび》をその上に載せ、枕頭《まくらもと》の煙草盆の火をしらべ、行燈《あんどう》の燈心《とうしん》を少しく引込め、引廻した屏風《びょうぶ》の端《はし》を引直してから、初めて片膝を蒲団の上に載せるように枕頭に坐って、先ず一服した後《あと》の煙管《キセル》を男に出してやる――そういう時々先生はお妾に対して口には出さない無限の哀傷と無限の感謝を覚えるのである。無限の哀傷は恐ろしい専制時代の女子教育の感化が遺伝的に下町の無教育な女の身に伝《つたわ》っている事を知るがためである。無限の感謝は新時代の企てた女子教育の効果が、専制時代のそれに比して、徳育的にも智育的にも実用的にも審美的にも一つとして見るべきもののない実例となし得るがためである。無筆のお妾は瓦斯《ガス》ストーヴも、エプロンも、西洋綴《せいようとじ》の料理案内という書物も、凡《すべ》て下手《へた》の道具立《どうぐだて》なくして、巧に甘《うま》いものを作る。それと共に四季折々の時候に従って俳諧的詩趣を覚えさせる野菜魚介の撰択に通暁している。それにもかかわらず私はもともと賤しい家業をした身体《からだ》ですからと、万事に謙譲であって、いかほど家庭をよく修め男に満足と幸福を与えたからとて、露ほどもそれを己れの功としてこれ見よがしに誇る心がない。今時《いまどき》の女学校出身の誰々さんのように、夫の留守に新聞雑誌記者の訪問をこれ幸い、有難からぬ御面相の写真まで取出して「わらわの家庭」談などおっぱじめるような事は決してない。かく口汚く罵るものの先生は何も新しい女権主義《フェミニズム》を根本から否定しているためではない。婦人参政権の問題なぞもむしろ当然の事としている位である。しかし人間は総じて男女の別なく、いかほど正しい当然な事でも、それをば正当なりと自分からは主張せずに出しゃばらずに、何処までも遠慮深くおとなしくしている方がかえって奥床《おくゆか》しく美しくはあるまいか。現代の新婦人連は大方これに答えて、「そんなお人好《ひとよし》な態度を取っていたなら増々《ますます》権利を蹂躙《じゅうりん》されて、遂には浮瀬《うかむせ》がなくなる。」というかも知れぬ。もし浮瀬なく、強い者のために沈められ、滅《ほろぼ》されてしまうものであったならば、それはいわゆる月に村雲《むらくも》、花に嵐の風情《ふぜい》。弱きを滅す強き者の下賤《げせん》にして無礼野蛮なる事を証明すると共に、滅される弱き者のいかほど上品で美麗であるかを証明するのみである。自己を下賤醜悪にしてまで存在を続けて行く必要が何処にあろう。潔《いさぎ》よく落花の雪となって消《きゆ》るに如《し》くはない。何に限らず正当なる権利を正当なりなぞと主張する如きは聞いた風《ふう》な屁理窟《へりくつ》を楯《たて》にするようで、実に三百代言的《さんびゃくだいげんてき》、新聞屋的、田舎議員的ではないか。それよりか、身に覚えなき罪科《つみとが》も何の明しの立てようなく哀れ刑場の露と消え……なんテいう方が、何となく東洋的なる固有の残忍非道な思いをさせてかえって痛快ではないか。青山原宿あたりの見掛けばかり門構えの立派な貸家の二階で、勧工場式《かんこうばしき》の椅子テーブルの小道具よろしく、女子大学出身の細君が鼠色になったパクパクな足袋《たび》をはいて、夫の不品行を責め罵るなぞはちょっと輸入的ノラらしくて面白いかも知れぬが、しかし見た処の外観からして如何にも真底《しんそこ》からノラらしい深みと強みを見せようというには、やはり髪の毛を黄《きいろ》く眼を青くして、成ろう事なら言葉も英語か独逸語《ドイツご》でやった方がなお一層よさそうに思われる。そもそも日本の女の女らしい美点――歩行に不便なる長い絹の衣服《きもの》と、薄暗い紙張りの家屋と、母音《ぼいん》の多い緩慢な言語と、それら凡《すべ》てに調和して動かすことの出来ない日本的女性の美は、動的ならずして静止的でなければならぬ。争ったり主張したりするのではなくて苦しんだり悩んだりする哀れ果敢《はかな》い処にある。いかほど悲しい事|辛《つら》い事があっても、それをば決して彼《か》のサラ・ベルナアルの長台詞《ながぜりふ》のようには弁じ立てず、薄暗い行燈《あんどう》のかげに「今頃は半七《はんしち》さん」の節廻しそのまま、身をねじらして黙って鬱込《ふさぎこ》むところにある。昔からいい古した通り海棠《かいどう》の雨に悩み柳の糸の風にもまれる風情《ふぜい》は、単に日本の女性美を説明するのみではあるまい。日本という庭園的の国土に生ずる秩序なき、淡泊なる、可憐なる、疲労せる生活及び思想の、弱く果敢き凡ての詩趣を説明するものであろう。

 然り、多年の厳しい制度の下《もと》にわれらの生活は遂に因襲的に活気なく、貧乏臭くだらしなく、頼りなく、間の抜けたものになったのである。その堪《た》えがたき裏淋《うらさび》しさと退屈さをまぎらすせめてもの手段は、不可能なる反抗でもなく、憤怒怨嗟《ふんぬえんさ》でもなく、ぐっとさばけて、諦《あきら》めてしまって、そしてその平々凡々極まる無味単調なる生活のちょっとした処に、ちょっとした可笑味《おかしみ》面白味を発見して、これを頓智的な極めて軽い芸術にして嘲《あざけ》ったり笑ったりして戯《たわむ》れ遊ぶ事である。桜さく三味線の国は同じ専制国でありながら支那や土耳古《トルコ》のように金と力がない故|万代不易《ばんだいふえき》の宏大なる建築も出来ず、荒凉たる沙漠や原野がないために、孔子《こうし》、釈迦《しゃか》、基督《キリスト》などの考え出したような宗教も哲学もなく、また同じ暖い海はありながらどういう訳か希臘《ギリシヤ》のような芸術も作らずにしまった。よし一つや二つ何か立派などっしり[#「どっしり」に傍点]した物があったにしても、古今に通じて世界第一無類|飛切《とびき》りとして誇るには足りないような気がする。然らば何をか最も無類飛切りとしようか。貧乏臭い間の抜けた生活のちょっとした処に可笑味《おかしみ》面白味を見出して戯れ遊ぶ俳句、川柳、端唄《はうた》、小噺《こばなし》の如き種類の文学より外には求めても求められまい。論より証拠、先ず試みに『詩経』を繙《ひもと》いても、『唐詩選』、『三体詩』を開いても、わが俳句にある如き雨漏りの天井、破《やぶ》れ障子《しょうじ》、人馬鳥獣の糞《ふん》、便所、台所などに、純芸術的な興味を托した作品は容易に見出されない。希臘《ギリシヤ》羅馬《ローマ》以降|泰西《たいせい》の文学は如何ほど熾《さかん》であったにしても、いまだ一人《いちにん》として我が俳諧師|其角《きかく》、一茶《いっさ》の如くに、放屁や小便や野糞《のぐそ》までも詩化するほどの大胆を敢《あえ》てするものはなかったようである。日常の会話にも下《しも》がかった事を軽い可笑味《ユウモア》として取扱い得るのは日本文明固有の特徴といわなければならない。この特徴を形造った大天才は、やはり凡《すべ》ての日本的固有の文明を創造した蟄居《ちっきょ》の「江戸人《えどじん》」である事は今更|茲《ここ》に論ずるまでもない。もし以上の如き珍々先生の所論に対して不同意な人があるならば、請《こ》う試みに、旧習に従った極めて平凡なる日本人の住家《じゅうか》について、先ずその便所なるものが縁側《えんがわ》と座敷の障子、庭などと相俟《あいま》って、如何なる審美的価値を有しているかを観察せよ。母家《おもや》から別れたその小さな低い鱗葺《こけらぶき》の屋根といい、竹格子の窓といい、入口《いりくち》の杉戸といい、殊に手を洗う縁先の水鉢《みずばち》、柄杓《ひしゃく》、その傍《そば》には極って葉蘭《はらん》や石蕗《つわぶき》などを下草《したくさ》にして、南天や紅梅の如き庭木が目隠しの柴垣を後《うしろ》にして立っている有様、春の朝《あした》には鶯がこの手水鉢《ちょうずばち》の水を飲みに柄杓の柄《え》にとまる。夏の夕《ゆうべ》には縁の下から大《おおき》な蟇《ひきがえる》が湿った青苔《あおごけ》の上にその腹を引摺《ひきず》りながら歩き出る。家の主人《あるじ》が石菖《せきしょう》や金魚の水鉢を縁側に置いて楽しむのも大抵はこの手水鉢の近くである。宿の妻が虫籠や風鈴《ふうりん》を吊《つる》すのもやはり便所の戸口近くである。草双紙の表紙や見返しの意匠なぞには、便所の戸と掛手拭《かけてぬぐい》と手水鉢とが、如何に多く使用されているか分らない。かくの如く都会における家庭の幽雅なる方面、町中《まちなか》の住いの詩的情趣を、専《もっぱ》ら便所とその周囲の情景に仰いだのは実際日本ばかりであろう。西洋の家庭には何処に便所があるか決して分らぬようにしてある。習慣と道徳とを無視する如何に狂激なる仏蘭西《フランス》の画家といえども、まだ便所の詩趣を主題にしたものはないようである。そこへ行くと、江戸の浮世絵師は便所と女とを配合して、巧みなる冒険に成功しているのではないか。細帯しどけなき寝衣姿《ねまきすがた》の女が、懐紙《かいし》を口に銜《くわえ》て、例の艶《なまめ》かしい立膝《たてひざ》ながらに手水鉢の柄杓から水を汲んで手先を洗っていると、その傍《そば》に置いた寝屋《ねや》の雪洞《ぼんぼり》の光は、この流派の常《つね》として極端に陰影の度を誇張した区劃の中に夜《よる》の小雨《こさめ》のいと蕭条《しめやか》に海棠《かいどう》の花弁《はなびら》を散す小庭の風情《ふぜい》を見せている等は、誰でも知っている、誰でも喜ぶ、誰でも誘《いざな》われずにはいられぬ微妙な無声の詩ではないか。敢えて絵空事《えそらごと》なんぞと言う勿《なか》れ。とかくに芝居を芝居、画《え》を画とのみして、それらの芸術的情趣は非常な奢侈《しゃし》贅沢《ぜいたく》に非《あら》ざれば決して日常生活中には味われぬもののように独断している人たちは、容易に首肯《しゅこう》しないかも知れないが、便所によって下町風な女姿が一層の嬌艶《きょうえん》を添え得る事は、何も豊国《とよくに》や国貞《くにさだ》の錦絵《にしきえ》ばかりには限らない。虚言《うそ》と思うなら目にも三坪の佗住居《わびずまい》。珍々先生は現にその妾宅においてそのお妾によって、実地に安上りにこれを味ってござるのである。

 今の世は唯《ただ》さえ文学美術をその弊害からのみ観察して宛《さなが》ら十悪七罪の一ツの如く厭《いと》い恐れている時、ここに日常の生活に芸術味を加えて生存の楽しさを深くせよといわば、それこそ世を害し国を危くするものと老人連はびっくりするであろう。尤《もっと》も国民的なる大芸術を興《おこ》すには個人も国家もそれ相当に金と力と時間の犠牲を払わなければならぬ。万が一しくじった場合には損害ばかりが残って危険かも知れぬ。日本のような貧乏な国ではいかに思想上価値があるからとてもしワグナアの如き楽劇一曲をやや完全に演ぜんなぞと思立《おもいた》たば米や塩にまで重税を課して人民どもに塗炭《とたん》の苦しみをさせねばならぬような事が起るかも知れぬ。しかしそれはまずそれとして何もそんなに心配せずとも或種類の芸術に至っては決して二宮尊徳《にのみやそんとく》の教と牴触《ていしょく》しないで済むものが許多《いくら》もある。日本の御老人連は英吉利《イギリス》の事とさえいえば何でもすぐに安心して喜ぶから丁度よい。健全なるジョン・ラスキンが理想の流れを汲んだ近世装飾美術の改革者ウィリアム・モオリスという英吉利人の事を言おう。モオリスは現代の装飾|及《および》工芸美術の堕落に対して常に、趣味 〔Gou^t〕 と贅沢 Luxe とを混同し、また美 〔Beaute’〕 と富貴 Richesse とを同一視せざらん事を説き、趣味を以て贅沢に代えよと叫んでいる。モオリスはその主義として芸術の専門的偏狭を憎みあくまでその一般的鑑賞と実用とを欲したために、時にはかえって極端過激なる議論をしているが、しかしその言う処は敢て英国のみならず、殊にわが日本の社会なぞに対してはこの上もない教訓として聴かれべきものが尠《すくな》くない。一例を挙ぐれば、現代一般の芸術に趣味なき点は金持も貧乏人もつまりは同じであるという事から、モオリスは世のいわゆる高尚優美なる紳士にして伊太利亜《イタリヤ》、埃及《エジプト》等を旅行して古代の文明に対する造詣《ぞうけい》深く、古美術の話とさえいえば人に劣らぬ熱心家でありながら、平然として何の気にする処もなく、請負普請《うけおいぶしん》の醜劣俗悪な居室《きょしつ》の中《なか》に住んでいる人があると慨嘆している。これは知識ある階級の人すら家具及び家内装飾等の日常芸術に対して、一向に無頓着である事を痛罵《つうば》したものである。わが日本の社会においてもまた同様。書画骨董と称する古美術品の優秀清雅と、それを愛好するとか称する現代紳士富豪の思想及生活とを比較すれば、誰れか唖然《あぜん》たらざるを得んや。しかして茲《ここ》に更に一層唖然たらざるを得ざるは新しき芸術新しき文学を唱《とな》うる若き近世人の立居振舞《たちいふるまい》であろう。彼らは口に伊太利亜《イタリヤ》復興期の美術を論じ、仏国近世の抒情詩を云々《うんぬん》して、芸術即ち生活、生活即ち美とまでいい做《な》しながらその言行の一致せざる事むしろ憐むべきものがある。看《み》よ。彼らは己れの容貌と体格とに調和すべき日常の衣服の品質|縞柄《しまがら》さえ、満足には撰択し得ないではないか。或者は代言人《だいげんにん》の玄関番の如く、或者は歯医者の零落《おちぶれ》の如く、或者は非番巡査の如く、また或者は浪花節《なにわぶし》語りの如く、壮士役者の馬の足の如く、その外見は千差万様なれども、その褌《ふんどし》の汚さ加減はいずれもさぞやと察せられるものばかりである。彼らはまた己れが思想の伴侶たるべき机上の文房具に対しても何らの興味も愛好心もなく、卑俗の商人が売捌《うりさば》く非美術的の意匠を以て、更に意とする処がない。彼らは単に己れの居室を不潔乱雑にしている位ならまだしもの事である。公衆のために設けられたる料理屋の座敷に上《あが》っては、掛物と称する絵画と置物と称する彫刻品を置いた床《とこ》の間《ま》に、泥だらけの外套《がいとう》を投げ出し、掃き清めたる小庭に巻煙草の吸殻を捨て、畳の上に焼け焦《こが》しをなし、火鉢の灰に啖《たん》を吐くなぞ、一挙一動いささかも居室、家具、食器、庭園等の美術に対して、尊敬の意も愛惜の念も何にもない。軍人か土方《どかた》の親方ならばそれでも差支《さしつかえ》はなかろうが、いやしくも美と調和を口にする画家文士にして、かくの如き粗暴なる生活をなしつつ、毫《ごう》も己れの芸術的良心に恥《はず》る事なきは、実《げ》にや怪しともまた怪しき限りである。さればこれらの心なき芸術家によりて新に興さるる新しき文学、新しき劇、新しき絵画、新しき音楽が如何にも皮相的にして精神|気魄《きはく》に乏しきはむしろ当然の話である。当節の文学雑誌の紙質の粗悪に植字《しょくじ》の誤り多く、体裁の卑俗な事も、単に経済的事情のためとのみはいわれまい……。
 閑話休題《あだしごとはさておきつ》。妾宅の台所にてはお妾が心づくしの手料理白魚の雲丹焼《うにやき》が出来上り、それからお取り膳《ぜん》の差しつ押えつ、まことにお浦山吹《うらやまぶ》きの一場《いちじょう》は、次の巻《まき》の出づるを待ち給えといいたいところであるが、故あってこの後《あと》は書かず。読者|諒《りょう》せよ。
      明治四十五年四月

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
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永井荷風

書かでもの記—– 永井荷風

 身をせめて深く懺悔《ざんげ》するといふにもあらず、唯|臆面《おくめん》もなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は閲歴《えつれき》を語ると号し、或時は思出をつづるなんぞと称《とな》へて文を売り酒|沽《か》ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、尺八《しゃくはち》吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築地《つきじ》へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり。然るをなほも古き机の抽斗《ひきだし》の底、雨漏る押入《おしいれ》の片隅に、もしや歓場《かんじょう》二十年の夢の跡、あちらこちらと遊び歩きし茶屋小屋の勘定書、さてはいづれお目もじの上とかく売女《ばいじょ》が無心の手紙もあらばと、反古《ほご》さへ見れば鵜《う》の目鷹の目。かくては紙屑拾《かみくずひろい》もおそれをなすべし。
 つらつらここにわが売文の由来を顧み尋《たずぬ》るにわれ始めて小説の単行本といふもの出《いだ》せしはわが友|巴山人《はさんじん》赤木君の経営せし美育社なり。数ふれば早《はや》十七年のむかしとなりぬ。巴山人は早稲田出身の文士にて漣《さざなみ》山人門下の秀才なりしが明治三十四年同門の黒田|湖山《こざん》と相図《あいはか》り麹町三番町《こううじまちさんばんちょう》二七不動のほとりに居をかまへ文学書類の出版を企てき。その頃文学小説の出版としいへば殆ど春陽堂一手の専門にて作家は紅葉《こうよう》露伴《ろはん》の門下たるにあらずんば殆どその述作を公《おおやけ》にするの道なかりしかば、義侠の巴山人奮然意を決してまづわれら木曜会の気勢を揚げしめんがために貲《し》を投じ美育社なるものを興し月刊雑誌『饒舌《じょうぜつ》』を発行したり。『饒舌』は寸鉄かへつて人を殺すに足るとて三十二頁の小冊子とし、黒田湖山主筆となりて毎号巻頭に時事評論を執筆し生田葵山《いくたきざん》とわれとは小説を掲げ西村渚山《にしむらしょざん》は泰西名著の翻訳を金子紫草《かねこしそう》は海外文芸消息を井上唖々《いのうえああ》は俳句と随筆とを出しぬ。これと共に美育社は青年小説叢書と題してまづ生田葵山の小説『自由結婚』次に余の拙著『野心』西村渚山の『小間使《こまづかい》』黒田湖山の『大学攻撃』等を出版し、また星野麦人《ほしのばくじん》をして『古今《ここん》俳句大観』四巻を編纂せしめき。翌年美育社ますます業務を拡張し神楽坂上寺町通《かぐらざかうえてらまちどおり》に書籍雑誌の売捌店《うりさばきてん》をも出せしが突然社主赤木君故ありてその郷里に帰らざるべからざるに及び、惜しい哉《かな》事皆中絶するに至りぬ。雑誌『饒舌』は湖山|一人《いちにん》の手に残りて『ハイカラ』と改題せられしが気焔また既往の如《ごとく》なる能《あた》はず幾何《いくばく》ならずして廃刊しき。
 これより先《さき》生田葵山|書肆《しょし》大学館と相知る。主人岩崎氏を説いて文学雑誌『活文壇《かつぶんだん》』を発行せしめ、井上唖々と共に編輯《へんしゅう》のことを掌《つかさど》りぬ。『活文壇』は木曜会|同人《どうじん》の作を発表するの傍《かたわら》汎《ひろ》く青年投書家の投書を歓迎して販売部数を多からしめんことを試みたり。然れども当時この種の投書雑誌には小島烏水《こじまうすい》子の『文庫』、田口掬汀《たぐちきくてい》氏の『新声』等《とう》その勢力|甚《はなはだ》盛なるあり。新刊の『活文壇』は再三上野|三宜亭《さんぎてい》に誌友懇談会を開き投書家を招待し木曜会の文士|交※[#二の字点、1-2-22]《こもごも》文芸の講演を試むる等甚|勉《つと》むる処ありしが、書肆《しょし》早くも月々の損失に驚き文学を疎《うとん》じて赤本《あかほん》を迎へんとするに至つて『活文壇』は忽ち廃刊となりき。
 ここに本町一丁目の金港堂《きんこうどう》明治三十五年の頃突然文学婦人少年等の諸雑誌|並《ならび》に小説書類の出版を広告して世の耳目《じもく》を驚かせしことあり。金港堂といへば人に知られし教科書々類の版元《はんもと》なり。この書肆の資金を以て文芸その他諸雑誌の発行に着手せんかこれまで独天下《ひとりてんか》の春陽堂博文館ともどもに顔色《がんしょく》なからんとわれ人《ひと》共に第一号の発刊を待ちかねたり。やがて現はれたるものを見れば文学雑誌はその名を『文芸界』と称し佐々醒雪《さっさせいせつ》を主筆に平尾《ひらお》不孤《ふこ》草村《くさむら》北星《ほくせい》斎藤《さいとう》弔花《ちょうか》の諸子を編輯員とし巻首にはたしか広津柳浪《ひろつりゅうろう》泉鏡花《いずみきょうか》らの新作を掲げたり。されどこれらの新作さして評壇の問題とならず雑誌はまた徒《いたずら》に尨大なるのみにて一貫せる主張といふものなく甚締りなしとの非難ありき。されば従来の『文芸倶楽部』と『新小説』、依然として一は通俗的に一は専門的なる本来の面目を把持《はじ》して長く雑誌界に覇をとなへ得たり。
 金港堂の『文芸界』は第一号の発刊と共に賞を懸けて長篇小説を募集しぬ。敢て選者の名を公《おおやけ》にせざりしかど醒雪子以下同誌編輯の諸子なりしや明なり。余が『地獄の花』とよべるいかがはしき拙作はこの懸賞に応募したるもの。選に入ること能《あた》はざりしが編輯諸子の認むる所となり単行本として出版せらるるの光栄を得たるなり。原稿料この時七十五円なりき。さてこの折選に入りしもの一等に米光関月《よねみつかんげつ》の『千石岩《せんごくいわ》』二等に斎藤渓舟《さいとうけいしゅう》の『残菊《ざんぎく》』、田口掬汀の某作等ありしと記憶す。これらの作家皆功成り名遂げて早くも文壇を去りしに、思へばわれのみ唯一人今に浮身を衆毀《しゅうき》の巷《ちまた》にやつす。哀むに堪へたりといふべし。
 懸賞小説といへばその以前より毎週『万朝報《よろずちょうほう》』の募集せし短篇小説に余も二、三度味をしめたる事あり。選者は松居松葉《まついしょうよう》子なりしともいひまた故人|斎藤緑雨《さいとうりょくう》なりしといふものもありき。応募者には知名の大家折々|小遣取《こづかいと》りにいたづらするもの多かりし由。当時懸賞小説さまざまありしが中《なか》に『万朝報』の短篇最もすぐれたるを見ればかかる噂もまんざらの根なしごとにはあらざりしが如し。
 金港堂より単行本出せし後はどうやらかうやらわれも新進作家の列に数へ入れらるるやうになりぬ。たしか明治三十六年の春なりしと覚ゆ。新俳優|伊井蓉峰《いいようほう》小島文衛《こじまふみえ》の一座|市村座《いちむらざ》にて近松《ちかまつ》が『寿門松《ねびきのかどまつ》』を一番目に鴎外先生の詩劇『両浦島《ふたりうらしま》』を中幕《なかまく》に紅葉山人が『夏小袖《なつこそで》』を大喜利《おおぎり》に据ゑたる事あり。またこの一座この度の興行にはわれらの知友たりし畠山古瓶《はたけやまこへい》といへる早稲田出身の文士、伊井の弟子となり初めて舞台へ出づべしといふに、いささか気勢を添へんものと或日|風葉《ふうよう》葵山《きざん》活東《かっとう》の諸子と共に、おのれも市村座に赴きぬ。あたかも好《よ》しその日は与謝野鉄幹《よさのてっかん》子を中心とせる明星《みょうじょう》派の人々『両浦島』を喝采《かっさい》せんとて土間桟敷に集れるあり。幕いよいよ明かんとする時畠山古瓶以前は髯むぢやの男なりしを綺麗に剃りて羽織袴《はおりはかま》の様子よく幕外に出でうやうやしく伊井一座この度鴎外先生の新作狂言|上場《じょうじょう》の許《ゆるし》を得たる光栄を述べき。一幕二場演じをはりてやがて再び幕となりし時、わが傍《かたわら》にありける某子突然わが袖をひき隣れる桟敷に葉巻くゆらせし髭ある人を指してあれこそ森先生なれ、いで紹介すべしとて、わが驚きうろたへるをも構はずわれを引き行きぬ。われ森先生の謦咳《けいがい》に接せしはこの時を以て始めとす。先生はわれを顧《かえり》み微笑して『地獄の花』はすでに読みたりと言はれき。余文壇に出でしよりかくの如き歓喜と光栄に打たれたることなし。いまだ電車なき世なりしかどその夜《よ》われは一人|下谷《したや》よりお茶の水の流にそひて麹町までの道のりも遠しとは思はず楽しき未来の夢さまざま心の中《うち》にゑがきつつ歩みて家に帰りぬ。
 かくて『文芸界』をはじめ『新小説』『文芸倶楽部』なぞに原稿を持ち行きても三度に一度はしぶしぶながら買つてくれるやうになりぬ。されど原稿は三月半年と買はれたるまま公《おおやけ》にせられざれば、売名にのみ心あせるものの長く堪《た》ふべき所ならず。ここに詩人|蒲原有明《かんばらありあけ》子新声社の主人と相知れる由《よし》を聞き子を介して新声社に赴《おもむ》き『夢の女』と題せし一作三百枚ほど持てあましたるものをば原稿料は無用なればとて、ここに再び単行本一冊を出版したり。新声社は即《すなわち》いまの新潮社が前名にて当時は神田錦町《かんだにしきちょう》区役所の横手にささやかなる店をかまへゐたり。この一書さして版元の損にもならざりしと見えつづいて『女優ナナ』の出版にこたびは原稿料三拾円を得たり。これ明治三十六年初夏のことにてその年の秋虫の声やうやく繁くなり行く頃われはふと亜米利加《アメリカ》に渡りぬ。
 わが売文のむかしがたりの中《うち》ここに書漏《かきもら》せしはやまと新聞社に雇はれ雑報とつづきもの書きて月々拾弐円を得しことなり。そは明治三十四年なりしと覚ゆ松下某といふ人やまと新聞社を買取り桜痴居士《おうちこじ》を主筆に迎へしよりその高弟|榎本破笠《えのもとはりゅう》従つて入社しおのれもまた驥尾《きび》に附しけるなり。その時まで一年ほどわれは既に人にも語りし如く桜痴居士の門弟となり歌舞伎座にて拍子木打ちてゐたりしが、今の歌右衛門《うたえもん》福助より芝翫《しかん》に改名の折から小紋《こもん》の羽織《はおり》貰ひたるを名残りとして楽屋を去り新聞記者とはなりぬ。過ぎしことなれば身の耻語りついでに語り出せば楽屋通ひよりまたまた二、三年前のことなり。われ講釈と落語に新しき演劇風の朗読を交へ人情咄《にんじょうばなし》に一新機軸を出《いだ》さんとの野心を抱き、その頃朝寝坊むらくと名乗りし三遊派の落語家の弟子となりし事もあり。当今都下の席亭にむらくと看板かかぐるものはその頃の人とは同じからずといふ。
 余のやまと新聞社に入《い》りし時三面雑報欄を受持ゐたるは採菊山人《さいぎくさんじん》と岡本綺堂《おかもときどう》子なりき。採菊山人は即《すなわち》山々亭有人《さんさんていありんど》にして仮名垣魯文《かながきろぶん》の歿後われら後学の徒をして明治の世に江戸戯作者の風貌を窺知《うかがいし》らしめしもの実にこの翁|一人《いちにん》ありしのみ。さればわれ日々《にちにち》編輯局に机を連ねて親しくこの翁の教を受け得たる事今にして思へばまことに涙こぼるる次第なり。岡本綺堂子はその頃|頻《しきり》にユーゴー、ヂュマなぞの伝奇小説を読まれゐたり。子は半蔵門外に居を構へおのれは一番町なる父の家《いえ》に住みければ新聞社の帰途堀端を共に語りつつ歩みたる事度々なりき。子はその頃より甚《はなはだ》謹厳|寡言《かげん》の人なりき。
 日比谷《ひびや》には公園いまだ成らず銀座通《ぎんざどおり》には鉄道馬車の往復《ゆきき》せし頃|尾張町《おわりちょう》の四角《よつかど》今ライオン珈琲店《コーヒーてん》ある辺《あたり》には朝野《ちょうや》新聞中央新聞毎日新聞なぞありけり。やまと新聞社は銀座一丁目の横町いま見る建物なりしかば、表通|岩谷天狗《いわやてんぐ》の煙草店に雇われたる妙齢の女店員《おんなてんいん》いつもこの横町に集りて緋《ひ》の蹴出《けだ》しあらはにして頻《しきり》に自転車の稽古するさま折々目の保養となりしも既に過ぎし世のこととぞなりぬる。女の自転車と馬乗りとはその頃の流行なりしにや吉原品川楼《よしわらしながわろう》の抱《かかえ》が和鞍《わぐら》に乗りての遊山《ゆさん》また新橋芸者《しんばしげいしゃ》が自転車つらねて花見に出かけし噂なぞかしましき事ありけり。
 さてわが新聞記者たりしもわづか半年《はんとし》ばかり社員淘汰のためとやらにて突然解雇の知らせを得たり。わが記者たりし時世に起りし事件にていまに記憶するは星亨《ほしとおる》の刺客《せっかく》に害せられし事と清元《きよもと》お葉《よう》の失せたりし事との二つのみ。新聞記者をやめたる後は再びもとの如く歌舞伎座の楽屋に入《い》らん事を冀《こいねが》ひしかど敬して遠《とおざ》けらるるが如くなりしかばここに意を決し志を改めて仏蘭西《フランス》語稽古にと暁星《ぎょうせい》学校の夜学に通ひ始めぬ。巴山湖山両子の美育社を興せしはあたかもこの年の秋なれば話の順序ここにて初めに立戻るものと知るべし。
『あめりか物語』は明治四十年|紐育《ニュウヨウク》より仏蘭西に渡りし年の冬|里昂《リオン》市ヴァンドオム町《まち》のいぶせき下宿屋にて草稿をとりまとめ序文並に挿絵にすべき絵葉書をも取揃へ市立美術館の此方《こなた》なる郵便局より書留小包にして小波《さざなみ》先生のもとに送り出版のことを依頼したるなり。この稿料いかほどなりしか記憶せず。翌年《よくねん》秋帰国せし時『あめりか物語』は既に市《いち》に出でゐたりき。われは直《ただち》に仏蘭西滞在中及び帰航の船中にものせし草稿を訂正し『ふらんす物語』と名づけ前著出版の関係よりして請《こ》はるるままに再び博文館より出版せしめしが忽ち発売禁止の厄《やく》に会ひてこれより出版書肆との談判|甚《はなはだ》面倒になりけり。わが方《かた》にては最初出版契約の際受取りたる原稿料金百弐拾五円を返済すべしと申送りしを博文館にてはそれだけにてはこの損失はつぐなひがたし出版契約書の第何条とやらに原稿につきて不都合のことあり発行者に迷惑を及《およぼ》したる時は著作者はその責任を負ふべき旨《むね》明記しあれば既に御承知のはずなりと手強《てごわ》く申出で容易に譲らざる模様なればわれはこの喧嘩相手甚よろしからずと思ひそのまま打捨て如何様《いかよう》に申来《もうしきた》るも一切返事せざりき。わが家《や》の玄関には毎日のやうに無性髯《ぶしょうひげ》そらぬ洋服の男来りて高声《こうせい》に面会を求めさうさう留守をつかふならばやむをえぬ故法律問題にするなどと持前《もちまえ》のおどし文句をならべて帰るなぞ言語道断《ごんごどうだん》の振舞度々なりき。博文館編輯局にはその折木曜会の知友多かりき。小波先生は即《すなわち》編輯総長の椅子にあり。『太陽』には浅田空花《あさだくうか》子『中学世界』には西村渚山人《にしむらしょさんじん》『文芸倶楽部』には思案外史石橋《しあんがいしいしばし》氏|各《おのおの》その主筆なりき。これらの人々と会合せし折博文館の文士に対する甚《はなはだ》礼なき事を語りしに、出版課に雇はれゐるものは皆かくの如し物のわかるものは一人もなければ打ちすて置きて心に留めたまはぬがよしといふ。かくて『ふらんす物語』損害賠償の談判は八年に渡りて落着せず大正五年|籾山《もみやま》書店『荷風傑作鈔』なるものを出版し該書《がいしょ》の一部を採録するに至り重ねて懸合《かけあい》面倒とはなりけり。かの薄気味わるき博文館使用人は再び頻々《ひんぴん》としてわが玄関に来りて文句をならぶ。不愉快いふばかりもなし。さすがの余も遂に譲歩してここに旧著に類似したる『新ふらんす物語』なるものの編纂と出版発売を黙許しその代りとして旧著の版権を著者の方へ取り戻すこととなしぬ。されば過般博文館より発売せし『新ふらんす物語』なるものの芸術並に文学上の責任に至つては毫《ごう》も原著者の与《あずか》り知る所にあらず。かの一書は実に原著者の意志に反して出版せられたるものなりかし。この事ありてより余は書肆《しょし》を恐れ憎むこと蛇蝎《だかつ》の如くなりぬ。今の世士農工商の階級既に存せずといへども利のために人の道を顧みざる商賈《しょうこ》の輩《やから》は全く人の最下に位せしめて然るべきなり。
 毎朝勝手口に御用ききに来る出入商人始めはいかにも正直らしく見せ掛け次第々々に品物を落して不正の利を貪《むさぼ》るを常とす、米屋酒屋薪屋皆然らざるはなし。書肆の月刊雑誌を発行するや最初は何事も唯々諾々《いいだくだく》主筆のいふ処に従ふといへども号を追ふに従つてあたかも女房の小うるさく物をねだるが如く機を見折を窺ひ倦《う》まず撓《たゆ》まず内容を俗にして利を得ん事のみ図る。理想は文士の生命にして利は商人の生命よりも首よりも更に大事とする所なり。両者到底水火相容るるものにあらざるはけだしやむをえざるなり。
 わが著書のその筋より発売を禁止せられしもの『ふらんす物語』についで『歓楽』と題せし短篇集あり。後にまた『夏姿』といふものあり。『歓楽』の一篇は初め『新小説』に掲載せし折には何事もなかりし故その頃|飯田町《いいだまち》六丁目に店を持ちたる易風社《えきふうしゃ》の主人に請《こ》はるるままその他の小篇と合せて一巻となし出版せしめたるに忽ち発売禁止となりぬ。易風社はその以前謝礼として壱百円を贈り来りしが発売禁止となるも博文館の如く無法なる談判をなさざる故わが方にても重々《じゅうじゅう》気の毒になりいそぎ『荷風集』一巻の原稿をつぐなひとして送りけり。この著|幸《さいわい》にして版を重ねき。易風社店を閉ぢし時籾山書店『歓楽』の紙型を買取り店員某の名儀を以て再びこれを出版す。然る処この度は何の御咎《おとが》めもなく今に至つてなほ販売せりといふ。
『夏すがた』の一作は『三田文学』大正四年正月号に掲載せんとて書きたるものなりしが稿成るの後|自《みずか》ら読み返し見るにところどころいかがにやと首をひねるべき箇所あるによりそのまま発表する事を中止したりしを籾山書店これを聞知り是非にも小本《こぼん》に仕立てて出版したしと再三店員を差遣されたればわれもその当時は甚《はなはだ》眤懇《じっこん》の間柄むげにもその請《こい》を退《しりぞ》けかね草稿を渡しけり。然れどもその折出版届にわが名は出《だ》すまじ万一の事ありても当方にては一切責任を負はざればその辺よくよく御承知あれと念に念を押してやりけり。果せるかなこの小冊子発売禁止となりしのみか、籾山書店はその筋へ始末書を取られ厳しきお叱を蒙りけり。籾山書店今に折々人に語りて永井さんのおかげでは度々ひどい目に逢ひますと。かくては罪まつたく作者にあるが如し。
 寛政のむかし山東庵京伝《さんとうあんきょうでん》洒落本《しゃれぼん》をかきて手鎖《てぐさり》はめられしは、板元《はんもと》蔦屋重三郎《つたやじゅうざぶろう》お触《ふれ》にかまはず利を得んとて京伝にすすめて筆を執らしめしがためなりといひ伝ふ。とかくに作者あまり板元と懇意になるは間違のもとなり。
『伊波伝毛乃記《いわでものき》』といふものあり。これ曲亭馬琴《きょくていばきん》暗《あん》に人を誹《そし》りて己《おの》れを高《たこ》うせんがために書きたるものなりとか。おのれがこの『嘉加伝毛乃記《かかでものき》』いささか名は似たれどもゆめゆめさる不都合の下心あるにあらず。書かでもよきこと書くは唯いつもの筆くせとしかいふ。

 このごろ雑誌『新潮』の記者見るにも足らぬわが著作を採《と》りこれを基《もとい》として余が文学年表なるものを編輯し該誌上《がいしじょう》に掲載すべければとて過ぎし日のことどもさまざま問合せ来りぬ。これによりて日頃は全く忘れ果てたりし事どもここに再び思浮ぶる節々多くなりぬ。
 そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、『簾《すだれ》の月』と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町《うしごめやらいちょう》なる広津柳浪《ひろつりゅうろう》先生の門を叩きし日より始まりしものといふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしが一《ひと》ツ橋《ばし》なる校舎に赴《おもむ》く日とては罕《まれ》にして毎日飽かず諸処方々の芝居|寄席《よせ》を見歩きたまさか家《いえ》にあれば小説俳句漢詩狂歌の戯《たわむれ》に耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四、五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念|漸《ようや》く押へがたくなりければ遂に何人《なんびと》の紹介をも俟《ま》たず一日《いちにち》突然広津先生の寓居《ぐうきょ》を尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしは予《あらかじ》め電話にて春陽堂に聞合せたるによつてなり。
 余はその頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。『今戸心中《いまどしんじゅう》』、『黒蜥蜴《くろとかげ》』、『河内屋《かわちや》』、『亀さん』等《とう》の諸作は余の愛読して措《お》く能《あた》はざりしものにして余は当時|紅葉《こうよう》眉山《びざん》露伴《ろはん》諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。
 先生が寓居は矢来町の何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂《かぐらざか》を上りて寺町通《てらまちどおり》をまつすぐに行く事|数町《すうちょう》にして左へ曲りたる細き横町《よこちょう》の右側、格子戸造《こうしどづくり》の平家《ひらや》にてたしか門構《もんがまえ》はなかりしと覚えたり。されど庭ひろびろとして樹木|尠《すくな》からず手水鉢《ちょうずばち》の鉢前には梅の古木の形面白く蟠《わだかま》りたるさへありき。格子戸あけて上れば三畳つづいて六畳(ここに後日門人|長谷川濤涯《はせがわとうがい》机を置きぬ。)それより四|枚立《まいだて》の襖《ふすま》を境にして八畳か十畳らしき奥の一間こそ客間を兼ねたる先生の書斎なりけれ。床《とこ》の間《ま》には遊女の立姿《たちすがた》かきし墨絵の一幅《いっぷく》いつ見ても掛けかへられし事なく、その前に据ゑたる机は一閑張《いっかんばり》の極めて粗末なるものにて、先生はこの机にも床の間にも書籍といふものは一冊も置き給はず唯六畳の間《ま》との境の襖に添ひて古びたる書棚を置き麻糸にてしばりたる古雑誌やうのものを乱雑に積みのせたるのみ。これによりて見るも先生の平生《へいぜい》物に頓着《とんじゃく》せず襟懐《きんかい》常に洒々落々《しゃしゃらくらく》たりしを知るに足るべし。
 初めて余のおそるおそる格子戸|明《あ》けて案内を乞ひし時やや暫くにして出で来《きた》られしは鼻下に髭《ひげ》を蓄《たくわ》へし四十年配の眼《まなこ》大きく色浅黒き人なりき。その様子その年配正しくこの家《や》の主人《あるじ》らしく見ゆるにぞ、この人こそわが崇拝する『今戸心中』の作者なるべけれと思へば、俄《にわか》にをののく胸押静め、漸くに名刺差出し突然ながら先生にお目にかかりたき由|言出《いいい》でしに髭ある先生らしき人は訳もなく主人《あるじ》は唯今不在なれば帰宅次第その趣《おもむき》申伝ふべしといはるるに我は是非なくさらば明朝また御邪魔にお伺ひ致すべしとそのまま格子戸を立去りしが、どうも今の人が柳浪先生らしき気がしてならぬ故そつと建仁寺垣《けんにんじがき》の破《や》れ目より庭越しに内の様子を窺へば、残暑なほ去りやらぬ九月の夕暮とて障子《しょうじ》皆|明《あ》け放ちし座敷の縁先《えんさき》、かの髭ある人は煙草盆引寄せ悠々《ゆうゆう》として煙草のみつつ夕風さそふ庭打眺めつ。さてはわが想像にたがはざりけり。何人《なんびと》の紹介状をも持参せず突然たづね行きける故主人自ら立出でしまま不在といひて謝絶せしなるべし。かくてはわが熱心の先生に通ぜん日まで幾度《いくたび》となく尋ね行くより外に道なしと翌日の夕暮再び案内を乞ひしにこの度は女中らしき媼《おうな》取次に出でて直《ただち》に此方《こなた》へと奥の間に通されぬ。見れば床の間の前なる一閑張の机に物書きゐる人あり筆を擱《お》きて此方に向直《むきなお》らるるに、昨日《きのう》取次に立出でられし人に瓜二つともいふべきほどよく似たれども、近く対座して重ねてよくよく見れば年も少しく若く身体《からだ》つきもまたすこし痩せたる別人なり。後日に至りて先生の話に聞けば取次に出でし人は先生の令兄《れいけい》にて日頃地方を旅行せらるる肖像画家なりとの事なりき。
 さてその夕《ゆうべ》われは是非にも門人となりたき由懇願せしに先生なかなか承知したまはず、小説家なぞにならんと思立つは大《だい》なる心得違なり、君今学業を放擲《ほうてき》してかかる邪道に踏み迷はば他日必ず後悔|臍《ほぞ》をかむ事あらん文筆を好まば唯正業の余暇これをなして可なりかつはまたわれは尾崎や川上とは異なりてかの人々の如く多く門生を養ひ教ふるの煩《はん》に堪《た》へざるものなり、今までも度々人に頼み込まれし事あれど皆ことわりぬ。されば到底貴下の満足する如く丁寧に教ふる事は叶《かな》ひがたかるべし。もしそれにてもよければやむをえざる故唯折々|暇《いとま》あらん時遊びに来《きた》られよ。我もまたいそがしからずば君が草稿の字句|仮名遣《かなづかい》の誤ぐらゐは正すことを得べしといはれけり。わがよろこび誠に筆紙のつくすべき処ならず幾重《いくえ》にもよろしくとてその日は携へ来りし草稿『簾《すだれ》の月』一篇を差置きもぢもぢして帰りけり。
 柳浪先生の繍眼児《めじろ》を飼ひて楽しみとせられしはあたかも余の始めて先生を見たりしその頃より始まりしなり。最初『簾の月』一篇を置きて帰りし折には胸のみとどろきし故にや小鳥の籠の有無《うむ》には更に心もつかざりしが、その後重ねて教を乞ひにと行く度々鳥籠は一ツ二ツと増《ふ》え来《きた》りてその年の冬には六畳の間の片隅一間の壁に添ひて繍眼児の籠はさながら鳥屋の店の如く積重ねらるる事二、三段にも及びやがて鶯の籠さへかの墨絵の遊女が一幅かけたる薄暗き床の間に二ツまで据ゑ置かれぬ。先生がその内相《ないしょう》を失はれたるはこの前年なりしといふ。されば守るにその人なき家の内何となく物淋しく先生独り令息|俊郎《としお》和郎《かずお》の両君と静に小鳥を飼ひて娯《たのし》みとせられしさまいかにも文学者らしく見えて一際《ひときわ》われをして景仰《けいこう》の念を深からしめしなり。それより後明治三十六年に及びてわれ亜米利加《アメリカ》に渡らんとするの時|暇乞《いとまご》ひに赴きし折には先生は麻布龍土町《あざぶりゅうどちょう》に居《きょ》を移され既に二度目の夫人を迎へられたりき。
 先生が矢来町の閑居には小鳥と共に門人もまた加はり来りぬ。最初に長谷川濤涯君次に中村春雨《なかむらしゅんう》君また女流の作家にてその名失念したれど妙齢の人代る代るかの六畳の間に机を据ゑたり。余は一番町《いちばんちょう》なる父の家より一週に一、二度は欠かさず草稿を携へて通ふ中やや読むに足るべきもの二、三篇先生の添刪《てんさく》を経たる後博文館または春陽堂の編輯局に送られき。これと共にわれはまた川上眉山、小栗風葉、徳田秋声等の諸先輩折々矢来の閑居に来《きた》るを見ておのづから辱友《じょくゆう》となることを得るに至れり。かくて明治三十二年七月わが小説『薄衣《うすごろも》』と題せし一篇柳浪先生合作の名義にて初めて『文芸倶楽部』の誌上に掲げられたり。当時文壇に勢力ある雑誌はいづれも新作家が作を掲ぐる事を好まざりしよりかくは先生の許を得てその名を借用せしなり。この年朝日新聞記者|栗島狭衣《くりしまさごろも》君|牛込下宮比町《うしごめしもみやびちょう》の寓居に俳人|谷活東《たにかっとう》子と携提《けいてい》して文学雑誌『伽羅文庫《きゃらぶんこ》』なるものを発行せんとするや矢来に来りて先生の新作を請へり。時に先生|筆硯《ひっけん》甚《はなはだ》多忙なりしがため余に題材を口授《こうじゅ》し俄《にわか》に短篇一章を作らしむ。この作『夕蝉《ゆうせみ》』と題せられ再《ふたたび》合作の署名にて同誌第一号に掲げられぬ。『伽羅文庫』は二号を出すに及ばずして廃刊しき。
 その頃わが一番町の書斎に大山吾童《おおやまごどう》とよぶ人しばしば遊びに来りぬ。当時尺八の名人|荒木竹翁《あらきちくおう》の門人にて吾童といふはその芸名なり。余もまた久しく浅草代地《あさくさだいち》なる竹翁の家また神田美土代町《かんだみとしろちょう》なる福城可童《ふくしろかどう》のもとに通ひたる事あり度々『鹿《しか》の遠音《とおね》』『月の曲』なぞ吹合せしよりいつとなく懇意になりしなり。この人生れてより下二番町《しもにばんちょう》に住み巌谷小波《いわやさざなみ》先生の門人とは近隣の誼《よしみ》にて自然と相識《あいし》れるが中《うち》にも取りわけ羅臥雲《らがうん》とて清人《しんじん》にて日本の文章俳句をよくするものと親しかりければ互に往来する中われもまた羅君と語を交《まじえ》るやうになりぬ。羅氏俳号を蘇山人《そさんじん》と称す。大清《だいしん》公使館通訳官|浙江《せっこう》の人|羅庚齢《らこうれい》の長子なり。この人或日の夕|元園町《もとぞのちょう》なる小波先生の邸宅に文学研究会あり木曜日の夜|湖山《こざん》葵山《きざん》南岳《なんがく》新兵衛《しんべえ》なんぞ呼ぶ門人多く相集まれば君も行きて見ずやとてわれを伴ひ行きぬ。これ余の始めて木曜会に赴《おもむ》きしいはれなり。木曜会の事はここにいはずとも既にその主人が手記せるもの『駒《こま》のいななき』といふ書の中に掲げられたれば就きて看《み》るこそよけれ。

 乙羽《いつう》庵主人大橋氏|逝《ゆ》きて後《のち》『文芸倶楽部』の主筆に三宅青軒《みやけせいけん》といふ小説家ありけり。日頃人に向ひて『文芸倶楽部』はわれを戴きて主筆とせしより忽《たちまち》発行部数三、四万を越《こゆ》るに至れりと誇顔《ほこりがお》に語るを常としき。また人の文学を談ずる事あれば当今小説家と称するもの枚挙に遑《いとま》あらざれど真に文章をよくするものに至つてはもし向島《むこうじま》の露伴《ろはん》子を措《お》きなば恐らくは我右に出《いづ》るものあらざるべしと傍若無人《ぼうじゃくぶじん》しきりに豪語を放ちて自ら高うせしかば新進気鋭の作家一人として青軒を憎まぬものはなかりけり。されど『文芸倶楽部』によりてその作を発表せんには是非にも主筆の知遇を待たざるべからずとて怒を忍び辞を低うして虎の門|外《そと》なるその家を訪《と》ふものも尠《すく》なからず。一日《いちにち》おのれも菓子折に生田葵山《いくたきざん》君の紹介状を添へ井上唖々《いのうえああ》子と打連れ立ちて行きぬ。日頃噂に聞く大家の事なれば最初はまづ門前払なるべしと内々覚悟せしにわけもなく二階の書斎に通され君らは巌谷の門生なりとか。これまでに何か書きたる事ありやと話は容易《たやす》く先方より切出されぬ。唖々子はその頃|頻《しきり》に斎藤緑雨が文をよろこび雅号を破垣花守《やれがきはなもり》と称ししばしば緑雨が『おぼえ帳』に似たるものを作りゐたり。この夜《よ》も一文を懐中にせしままおそるおそる取出《とりいだ》して閲覧を請ひけるに青軒子仔細らしく打見て墨を濃く摺り書体を叮嚀《ていねい》に書かるるは若き人に似ず感心なりとそれよりそろそろ世の新進作家なるものの生意気なる事をさまざま口ぎたなく痛罵したる後君たち文章を書かんと思はば何はさて置き漢文をよく読み給ふべしそれも韓柳《かんりゅう》の文のみにて足れりといふにあらず艶史《えんし》小説の類《たぐい》殊に必要なり。されば支那小説の事に関してはわれもまた露伴子と共に決して人後に落つるものならずと言ふ。唖々子はかつて文学博士|島田篁村《しまだこうそん》翁の家塾にあり漢学の素養浅からざるの人。おのれもまたいはゆる門前の小僧習はざれども父より聞《きき》かじりたる事なきにあらざりしかば問はるるがままに聊《いささ》か答ふる処ありしにぞ大《おおい》に青軒翁の信用を博しその夜《よ》携へ行きける我が原稿は唖々子のものと共に即座に『文芸倶楽部』誌上に掲載の快諾を得たりき。
 この青軒先生こそはやがてわれをば桜痴《おうち》居士|福地《ふくち》先生に紹介の労を取られし人にてありけれ。されどこの度《たび》の訪問は初めて硯友社《けんゆうしゃ》の諸先輩を歴訪せし時とは異りて容易に望を遂ぐる事能はざりけり。福地先生の邸《てい》はその時|合引橋《あいびきばし》手前|木挽町《こびきちょう》の河岸通《かしどおり》にて五世音羽屋《ごせいおとわや》宅の並びにてありき。一番町のわが家《や》よりかしこまでは電車なければかなりの遠路なりしを歩み歩みて朝八時頃われは先生が外出したまはざる前をと思ひて三、四度、また夕刻帰邸の時分をはかりて五、六回、先づ青軒翁が紹介状を呈出し面談の栄《えい》を得ん事を請願せしが、或時は不在或時は多忙或時は不例《ふれい》或時は来客中とばかりにて遂に望の叶ふべき模様もなかりけり。さすがの我も聊《いささ》か疲労しかつはまたこの上|強《し》ひんには礼を失するに至らん事を虞《おそ》れせめてわが芝居道熱心の微衷《びちゅう》をだに開陳し置かばまた何かの折宿望を達するよすがにもなるべしと長々しき論文一篇を草しそつと玄関の敷台に差置きて立ち去りぬ。やがて半月あまりを経たりしに突然福地家の執事|榎本破笠《えのもとはりゅう》子より予《かね》て先生への御用談一応小生より承《うけたまわ》り置《おく》べしとの事につき御来車ありたしとの書面に接し即刻番地を目当に同じく木挽町の河岸通なる破笠子が寓居に赴きぬ。これ明治三十三年わが二十二歳の夏なりき。
 さて破笠子はおのれが歌舞伎座作者部屋に入り芝居道実地の修業したき心底|篤《とく》と聞取りし後|倶《とも》に出でて福地家に至り勝手口より上りてやや暫くわれをば一間《ひとま》に控へさせけるがやがてこなたへとて先生の書斎と覚しき座敷へ導きぬ。川風凉しき夏の夕暮は燈火《とうか》正に点ぜられし時なり。福地先生は風呂より上りし所と見えて平袖中形牡丹《ひらそでちゅうがたぼたん》の浴衣《ゆかた》に縮緬《ちりめん》の兵児帯《へこおび》を前にて結び大《だい》なる革蒲団の上に座し徐《おもむろ》に銀のべの煙管《キセル》にて煙草のみてをられけり。破笠子は恭《うやうや》しく手をつき敷居際《しきいぎわ》よりやや進みたる処に座を占めければ伴はれしわれはまた一段下りて僅に膝を敷居の上に置き得しのみ。破笠子の口添を待ちわれは今夕《こんせき》図《はか》らず拝顔の望を達し面目《めんもく》この上なき旨申述ぶる中にも万一先生よりわが学歴その他の事につきて親しく問はるることあらば何と答へんかなぞ宛《さなが》ら警察署へ鑑札受けに行きし芸者の如く独り胸のみ痛めけるが、先生は更にわが方《かた》には見向きもしたまはず破笠子を相手に今朝《こんちょう》巴里《パリー》の川上《かわかみ》[#割り注]壮士役者音二郎が事なり[#割り注終わり]より新聞を郵送し来《きた》れりとて巴里劇界の消息を語出《かたりいだ》されぬ。かくて三十分ばかりにて我は再び破笠子に伴はれ福地家を辞して帰りしがそれより三、四日にして歌舞伎座盆興行の稽古となるやわれはここに榎本氏|請人《うけにん》にて歌舞伎座へ証文を入れいよいよ梨園《りえん》の人とぞなりける。証書の文言《もんごん》左の如し。

   一 私儀《わたくしぎ》狂言作者志望につき福地先生|門生《もんせい》と相成《あいなり》貴座《きざ》楽屋へ出入被差許候上者《でいりさしゆるされそうろううえは》劇道の秘事楽屋一切の密事|決而《けっして》口外|致間敷《いたすまじく》候|依而《よって》後日《ごじつ》のため一札如件《いっさつくだんのごとし》
 
 歌舞伎座稽古は後々《のちのち》まで三階運動場を使用するが例なり。稽古にかかる前破笠子より葉書にて作者部屋のものを呼集め手分《てわけ》なして書抜《かきぬき》をかく。当日われは破笠子より作者の面々に引合されつづいて翌日|本読《ほんよみ》にと先生出勤の折には親しく皆のものへよろしく頼むとの一言《いちごん》これまことに御前《ごぜん》の御声掛りにして作者の面々|自《おのずか》らわれをば格別の客分たらしめんとするにぞわれは破笠子に計《はか》りて客分の待遇は小生の願ふ所にあらず旦那芸はかへつて甚《はなはだ》しき耻辱なれば何卒《なにとぞ》楽屋古来の慣例に従ひ寸毫の遠慮なく使役せられん事を請《こ》うて止まざりしかば破笠子さればとて重ねて先生へ申上げわれをば竹柴七造《たけしばしちぞう》といふ作者の預弟子《あずけでし》となしこの人より楽屋万端の心得|拍子木《ひょうしぎ》の入れ方など見習ふ事となしぬ。時に歌舞伎座作者部屋には榎本氏を除きて四人の作者あり。竹柴七造|竹柴清吉《たけしばせいきち》は黙阿弥《もくあみ》翁の直弟子《じきでし》にて一は成田屋|付《づき》一は音羽屋付の狂言方《きょうげんかた》とて重《おも》に団菊《だんきく》両優の狂言|幕明《まくあき》幕切《まくぎれ》の木《き》を受持つなり。他に竹柴賢二《たけしばけんじ》浜真砂助《はままさすけ》といふ作者ありき。賢二といへるは寺内河竹新七《じないかわたけしんしち》の弟子なればなほ血気盛《けっきざかり》の年頃なりしが真砂助は先代|瀬川如皐《せがわじょこう》の弟子とやらよほどの高齢なるに寒中も帽子を冠《かぶ》らず尻端折《しりはしょり》にて向脛《むこうずね》を出し半合羽《はんがっぱ》日和下駄《ひよりげた》にて浅草山《あさくさやま》の宿辺《しゅくへん》の住居《すまい》より木挽町楽屋へ通ひ衣裳|鬘《かつら》大小《だいしょう》の道具帳を書きまた番附表看板|等《とう》の下絵を綺麗に書く。この老人|猿若町三座表飾《さるわかまちさんざおもてかざり》の事なぞ委《くわ》しく知りゐたり。
 さてわが始めて劇部の人となり親しく稽古を見たりし盆興行は団菊両優は休みにて秀調《しゅうちょう》染五郎《そめごろう》家橘《かきつ》栄三郎《えいざぶろう》松助《まつすけ》ら一座にて一番目は染五郎の『景清《かげきよ》』中幕《なかまく》は福地先生新作長唄|所作事《しょさごと》『女弁慶《おんなべんけい》』(秀調の出物《だしもの》)二番目家橘栄三郎松助の「玄冶店大喜利《げんやだなおおぎり》」家橘栄三郎の『女鳴神《おんななるかみ》』常磐津《ときわず》林中《りんちゅう》出語《でがた》りなりき。作者見習としてのわが役目は木の稽古にと幕ごとに二丁《にちょう》を入れマハリとシヤギリの留《とめ》を打つ事幕明幕切の時間を日記に書入れ、楽屋中へ不時の通達なすべき事件ある折には役者の部屋々々大道具小道具方衣裳|床山囃子方等《とこやまはやしかたとう》楽屋中漏れなく触れ歩く事等なり。着到《ちゃくとう》の太鼓打込みてより一日の興行済むまでは厳冬も羽織を着ず部屋にても巻莨《まきタバコ》を遠慮し作者部屋へ座元《ざもと》もしくは来客の方々見ゆれば叮嚀に茶を汲みて出しその草履《ぞうり》を揃へまた立作者《たてさくしゃ》出頭《しゅっとう》の折はその羽織をたたみ食事の給仕をなし始終つき添ひ働くなり。わがしばしば草履をそろへ茶を汲みて出《だ》せし楽屋のお客様には大槻如電《おおつきじょでん》永井素岳《ながいそがく》などありけり。
 九月となりてわれはここに初めて団菊両優の素顔《すがお》とその稽古とを見得たり。狂言はたしか『水戸黄門記《みとこうもんき》』通《とお》しにて中幕「大徳寺《だいとくじ》」焼香場《しょうこうば》なりしと記憶す。団十郎はその年春興行の折病に罹《かか》り一時は危篤の噂さへありしほどなればこの度菊五郎との顔合大芝居《かおあわせおおしばい》といふにぞ景気は蓋《ふた》を明けぬ中より素破《すば》らしきものなりけり。つづいて十一月には一番目『太功記《たいこうき》』馬盥《ばだらい》より本能寺《ほんのうじ》討入まで団洲《だんしゅう》の光秀《みつひで》菊五郎|春永《はるなが》なり中幕団洲の法眼《ほうげん》にて「菊畑《きくばたけ》」。菊五郎の虎蔵福助《とらぞうふくすけ》の息女を相手にしての仕草《しぐさ》六十|余《よ》の老人とは思へぬほど若々しく水もたれさうな塩梅《あんばい》さすがに古今の名優と楽屋中にても人々驚嘆せざるはなかりけり。二番目は菊五郎の「紙治《かみじ》」これは丸本《まるほん》の「紙治」を舞台に演ずるやう河竹新七《かわたけしんしち》のその時|新《あらた》に書卸《かきおろ》せしものにて一幕目《ひとまくめ》小春《こはる》髪《かみ》すきの場《ば》にて伊十郎《いじゅうろう》一中節《いっちゅうぶし》の小春をそのまま長唄《ながうた》にしての独吟あり廻つて河庄茶屋場《かわしょうちゃやば》となる二幕目《ふたまくめ》は竹本連中《たけもとれんじゅう》出語《でがたり》にてわれら聞馴れし炬燵《こたつ》の場《ば》引返《ひきかえ》して天満橋太兵衛殺《てんまばしたへえごろし》の場《ば》となる。当時の劇界いまだ鴈治郎《がんじろう》を知らず「紙治」はいと珍しきものなりしが如し。菊五郎と鴈治郎とはもとより雲泥《うんでい》の相違あるものなれば並べていひ出《いづ》るは誤りなれども近頃鴈治郎を見馴れし目より当年の菊五郎を思へば幕明きし時|定木《じょうぎ》を枕に後向《うしろむ》きに横はりし音羽屋《おとわや》の姿は実に何ともいへたものにはあらず小春が手を取りよろよろと駆け出で花道《はなみち》いつもの処にて本釣《ほんつり》を打ち込み後手《うしろで》に角帯《かくおび》引締め向《むこう》を見込むあたり全く二度とは見られぬものなりけり。この狂言|書卸《かきおろし》の事とて稽古に念を入れし事到底|今人《こんじん》の思ひも及ばぬ処なるべし。書抜の読合《よみあわせ》済みし日音羽屋は茶屋|三州屋《さんしゅうや》二階に竹本相生太夫《たけもとあいおいたゆう》を招き置きて「紙治」一段を語らせこれを登場俳優一同に傾聴せしめ、なほ浄瑠璃すみし後《のち》は親しく役々《やくやく》言葉の語りやうをば太夫へ質問するなぞ苦心のほど察するに余《あまり》あり。初日を出せし後にも二、三度|合方《あいかた》を替へそれにてもなほ落ちつかぬ模様なりけり。
 芸談に耽らば限りなき事なれば筆をとどむ。歌舞伎座今は殆《ほとんど》その外観を変じたれど元より改築したるにあらねば楽屋の部屋々々今なほかつてわが見たりし当時に異ならず。十年の後われ遠国《えんごく》より帰来してたまたま知人をここに訪ふや当時の部屋々々空しく存して当時の人なく当時の妙技当時の芸風また地を払つてなし正に国亡びて山河《さんが》永《とこしえ》にあるの嘆あらしめき。長々しく昔をのみ語るの愚を笑ふ勿《なか》れ。当時楽屋口を入りて左すれば福助松助の室《しつ》あり右すれば直《すぐ》に作者|頭取《とうどり》部屋にして八百蔵《やおぞう》の室これに隣りす。それより小道具衣裳方あり廊下の端《はずれ》より離れて団洲《だんしゅう》の室に至る。小庭《こにわ》をひかへて宛然《さながら》離家《はなれや》の体《てい》をなせり。表梯子《おもてはしご》を上《のぼ》れば猿蔵《さるぞう》染五郎|二人《ににん》の室あり家橘栄三郎これに隣してまた鏡台を並ぶ。それより床山を間にして間口《まぐち》甚《はなはだ》ひろきものは即《すなわち》菊五郎の室にして隣りは片岡市蔵《かたおかいちぞう》それよりやがて裏梯子の降口《おりくち》に秀調控へたりき。三階は相中大部屋《あいちゅうおおべや》なればいふに及ばざるべし。団八梅助頭取をつとめき。

 四 

 秋暑《しゅうしょ》の一日《いちにち》物かくことも苦しければ身のまはりの手箱|用箪笥《ようだんす》の抽斗《ひきだし》なんど取片付るに、ふと上田先生が書簡四、五通をさぐり得たり。先生|逝《ゆ》きて既に三年今年の忌日《きじつ》もまた過ぎたり。駒光《くこう》何ぞ駛《は》するが如きや。
 おのれ始めて上田先生が辱知《じょくち》となるを得たりしは千九百八年三月先生の巴里《パリー》に滞留せられし時なり。これより先わが身なほ里昂《リオン》の正金《しょうきん》銀行に勤務中一日公用にてソオン河上《かじょう》の客桟《きゃくさん》に嘲風姉崎《ちょうふうあねざき》博士を訪ひし事ありしがその折上田先生の伊太利亜《イタリア》より巴里に来《きた》られしことを聞知りぬ。わが胸はいまだその人を見ざるに先立ちて怪しくも轟きたり。何が故ぞや。そもそもその年月《としつき》わが身をして深く西欧の風景文物にあこがれしめしは、かの『即興詩人』『月草《つきぐさ》』『かげ草《ぐさ》』の如き森先生が著書とまた『最近海外文芸論』の如き上田先生が著述との感化に外ならざればなり。わが身の始めてボオドレエルが詩集『悪の花』のいかなるものかを知りしは上田先生の『太陽』臨時増刊「十九世紀」といふものに物せられし近世|仏蘭西《フランス》文学史によりてなりき。かくてわれはいかにかして仏蘭西語を学び仏蘭西の地を踏まんとの心を起せしが、幸《さいわい》にして今やその望み半《なかば》既に達せられし折柄、あたかも好《よ》し先生の巴里に来《きた》れるを耳にす。わが欣《よろこ》び譬《たと》へんに物なし。やがてわれは里昂の銀行を辞職し巴里に入りて拉甸区《ラテンく》の一|客舎《きゃくしゃ》に投宿したり。然れども巴里にはもとより知る人ひとりもなかりしかば先生の旅館も知るによしなく紹介を求めんにもそのつてなかりき。われは初めて北米に遊びてよりこの年月《としつき》語るに友なき境涯に馴れ果て今は強《し》ひて人を尋ねもとむる心もおのづからに薄らぎゐたりしかば、唯ひとり巴里の巷《ちまた》の逍遥にうつらうつらと日を過すのみなりき。
 ある夜《よ》元老院門前の大通なる左側|小紅亭《コンセール ルージュ》とよべる寄席《よせ》に行きぬ。この寄席もまた巴里ならでは見られぬものの一なるべし。木戸銭安く中売《なかうり》の婆《ばば》酒|珈琲《コーヒー》なぞ売るさまモンマルトルの卑しき寄席に異《ことな》らねど演芸は極めて高尚に極めて新しき管絃楽またはオペラの断片にて毎夜コンセルヴァトアルの若き楽師|来《きた》つて演奏す。折々|定連《じょうれん》の客に投票を請《こ》ひ新しき演題を定めあるひは作曲と演奏との批評を求むるなどこの小紅亭の高尚最新の音楽普及に力をつくす事|一方《ひとかた》ならぬを察すべし。おのれドビュッシイ一派の新しき作曲大方漏すことなく聴き得たるはこの小紅亭の夕《ゆうべ》なり。初て上田先生を見たるもまたこの小紅亭の夕ぞかし。
 小紅亭の定連は多く拉甸区の書生画工にして時には落魄《らくはく》せる老詩人かとも思はるる白髪の翁《おきな》を見る。その夕《ゆうべ》中入《なかいり》も早や過ぎし頃ふとわれは聴衆の中にわが身と同じく黄いろき顔したる人あるを見しが、その人もまたわれを見て互に隔たりし席より訝《いぶか》しげに顔を見合せたり。然れども何人《なんびと》なるやを知らざれば言葉もかはさで去りぬ。これ即《すなわち》上田先生にして、その夕《ゆうべ》先生は英吉利西《イギリス》風の背広に髭もまた英国風に刈り鼻眼鏡をかけてゐたまひけり。
 次の日われサンジェルマンの四ツ角なる珈琲店《カッフェー》パンテオンにて手紙書きてゐたりしに、向側なる卓子《テイブル》に二人《ににん》の同胞あり。相見れば一人《いちにん》はわが身かつて外国語学校支那語科にありし頃見知りたりし仏語《ふつご》科の滝村立太郎《たきむらりゅうたろう》君、また他の一人は一橋《ひとつばし》の中学校にてわれよりは二年ほど上級なりし松本烝治《まつもとじょうじ》君なり。この旧友二人はその夕クリュニイ博物館前なる旅館にありし上田先生のもとにわれを誘《いざな》ひゆきたり。
 翌年《あくるとし》(明治四十二年)の春もなほ寒かりし頃かと覚えたりわれは既に国に帰りて父の家《いえ》にありき。上田先生|一日《いちにち》鉄無地羽二重《てつむじはぶたえ》の羽織《はおり》博多《はかた》の帯|着流《きなが》しにて突然|音《おと》づれ来給《きたま》へり。この時のわがよろこびは初めて巴里にて相見し時に優るとも劣らざりけり。なべて洋行中の交際としいへば多くは諺《ことわざ》にいふなる旅は道づれのたぐひにて帰国すればそのままに打絶ゆるを。先生のわが身に対する交情こそさる通一遍《とおりいっぺん》のものにてはなかりしなれ。火鉢を間にしてわれらは互に日本服着たる姿を怪しむ如く顔見合せ今更の如く昨日《きのう》となりにし巴里のこと語出でて愁然《しゅうぜん》たりき。
 明治四十三年の初《はじめ》森上田両先生慶応義塾大学部文学科刷新の事に参与せらるるやわが身もその驥尾《きび》に附して聊《いささ》か為す所あらんとしぬ。事既に十年に近き昔とはなれり。当時はあからさまに言ひがたき事なきに非《あら》ざりしかど十年|一昔《ひとむかし》の今となりては、いかに慎みなきわが筆とて最早《もは》や累《わざわい》を人に及さざるべし。その頃われは父への手前心はもとより進まねど何処か学校の教師にてもやせんと思煩《おもいわずら》へる折からなり。ふと第三高等学校仏蘭西語の教師に人を要するやの噂ちらと耳にせしかば早速事を京都なる先生に謀《はか》りしことありき。これに対する先生の返書今偶然これを篋底《きょうてい》に見出しぬ。再読するにまのあたり生ける先生の言を聞くが如し。妄《みだり》にこれを左に録する所以《ゆえん》感慨全く禁ずべからざるがためなり。
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拝啓久しく御無沙汰に打過ぎ候段《そうろうだん》平《ひら》に御宥免被下度《ごゆうめんくだされたく》候しかし毎度新聞雑誌にて面白き御作《おさく》拝見|仕《つかまつ》りわれら芸術主義の徒《と》のためかつは徳川の懐かしき趣味のため御奮闘ありがたく奉感謝《かんしゃたてまつり》候、小生事去年の秋よりついつい上京の機を得ず帝都の眼覚《めざま》しき活動に遠ざかりて残念至極に候まま明日《あす》は明日はと思ひつつ今日《こんにち》までに相成《あいなり》候が今月末は是非とも東京へ参り御眼にかかりたく存《ぞんじ》をり候実はただ今|直《すぐ》にても御面会致し親しく懇願|致度《いたしたき》事件|出来《しゅったい》候が何分意に任《ま》かさず候故手紙にて申上候
昨年御手紙にて当地高等学校仏蘭西語学教師の件御話これあり候が早速その向《むき》を探り申候処今年九月よりの事なれば何分まだ人選|等《とう》の事は校長にも深く考へをらず従つて御尊父様の御親交ある松井《まつい》博士の紹介あらば自然御就任の事となるべしと考へ小生もあまり騒立てぬ方かへつてよろしからむと控《ひかえ》をり候しかし小生の心の底には別に一種の考ありて貴兄の御入洛《ごじゅらく》を小生自身にとりて非常なる幸福と存ずると共にただ今帝都にて新芸術の華々《はなばな》しき活動を試みさせ給ふ貴兄をして教育界の沈滞したる空気中に入れしかも京都の如き不徹底古典趣味の田舎へ移す事は貴兄自身にとりてもわが文学のためにも不得策《ふとくさく》にはあらざるかとやや心進まざる向《むき》もこれあり種々熟考仕候その内段々時日を経てその後の経行《なりゆき》を観察仕候処一、二の候補者も出来《でき》たれど、どれもまだ確定せず教授の細目も聞合せ候が仏語の極めて初歩のみを教へる事にて重《おも》に当地あるひは東京の仏蘭西法科へ入学する者のための如く随《したがっ》て狭い田舎の事なれば自然大学の教師なぞよりも幾分か注文も出るならむと考へ候かたがた取集めて考へればあまり面白き事業とは思へずまたたとへ忍び得る事としても貴兄の如き芸術家をかかる刺※[#「卓+戈」、105-5]の少き田舎に置く事はどうしても口惜しい事ならむと確信の度ますます強く相成申候それ故御返事を今日まで怠りをり申候この段まことに失礼に候ひしが何かもつと華々しき事業をと心掛けついつい今日に相成候然るに一月三十一日に至りて急に東京より来信これあり珍らしき事を聞込候
この事は非常に秘密に致《いたし》をり候やうに承《うけたまわり》をり候が実は今度東京の慶応義塾にてその文学部を大刷新しこれより漸々《ようよう》文壇において大活動を為《な》さむとする計画これありそれにつき文学部の中心となる人物を定むる必要を感じ候|趣《おもむき》に候、そこで三田側の諸先輩一同|交詢社《こうじゅんしゃ》にて大会議を開き森鴎外先生にも内相談《ないそうだん》ありしやうに覚え候が、義塾の専任となりて諸《もろもろ》の画策をする文学家を選び候処|夏目漱石《なつめそうせき》氏か小生をといふ事に相定候由、然るに夏目氏は朝日新聞の関係を絶つ事|難《かた》くして交渉|纏《まとま》らずまた森先生より小生に頼むやうにと義塾の人が千駄木《せんだぎ》を訪問したる時、森先生のいはるるには、京都大学の関係上小生の交渉もむづかしからむと申され候由、そこで先方の言ふには小生のことわりたる時誰がそれならば適当ならむとあるに答へて、森先生は貴兄を推薦なされ候、先方の申すには然らば小生に頼む時いつそ事情を打明けて小生の身上《みのうえ》動きがたき場合には直ちに小生より貴兄へこの事件交渉してもらひたしとの事に御座候、小生は森先生の手紙に対し種々考を述べ置候が要するにただ今京都を去る事は出来兼ね候|趣《おもむき》返事いたし、また貴兄を推薦されし森先生の眼光に服しをる旨申送り候、右やうの次第万事打明け候が貴兄はこの交渉に御応じの御心《おこころ》如何にや、三田の中心となりて文壇にそれより御雄飛の御奮発は小生の偏《ひとえ》に懇願する所何卒御快諾の吉報に接したく存をり候もとより御内意を伺ふまでにて事定らば別に正式の交渉はこれあるべく候
委細の事は御面唔《ごめんご》の節と存候が小生の聞込みたる処にては、唯学校を盛にするだけの事ではなくもつと大《だい》なる運動の序幕かと存をり候例へば帝国劇場の如きは義塾の側より殆ど自在に使ひ得られべきやう見受けられ余《よ》は言はずとも種々《しゅじゅ》面白き事ありさうに候、芸術家最高の事業はどうしても劇部にありと信ずる小生はこれを聞いて直《ただち》にモリエエルやグリックやゲエテ、ワグナアさてはアントワンを思出し何かの形にてこの愉快なる事業に助力したく自分でも大《おおい》に心を動かし候なほ委しくは森先生と御相談あるもよろしかるべきが、以上の成行《なりゆき》筆紙にてニュアンスを尽しがたく候がざつと如斯《かくのごとく》に候
条件については決して不満足のなきやう致《いたす》べく、その方は殆どカルト・ブランシュの如き様子に候、これまた御承諾さへ相成らば森先生が万事|御含《おんふく》みのやうに候とにかく芸術のためこの際御快諾の御報《ごほう》に接するやう祈上《いのりあげ》候 匆々《そうそう》
  二月五日
 
   上田敏《うえだびん》
 
   永井荷風様侍史
  張目飛耳《ちょうもくひじ》の徒《と》多き今の文界なれば万事決定まで何分内密に願上候
悦子《えつこ》よりもよろしく申上候田舎にありて曾遊《そうゆう》の地を思ひつづけをり候ままかつてとまりしホテルの紙を用ゐ候

 この書信は維納《ウィンナ》の客桟《きゃくさん》ホテル・ブリストルの記章を印刷したる書簡箋にペンにてこまごまと認《したた》められたり文中悦子とあるは令夫人なり。諄々《じゅんじゅん》としてわが身のことを説き諭《さと》さるるさま宛《さなが》ら慈母の児《こ》を見るが如くならずや。この一書によりてわが三田に入りし当時の消息もまたおのづから分明《ぶんめい》なるべし。わが返書に対し折返して到着したる先生の書次の如し。その全文を掲ぐ。

   二月七日の御手紙拝見仕候|先《まず》は過日の唐突なる願事御聞届|被下《くだされ》候段深く感謝仕候その後森先生とも種々御打合せの御事と察し申候が何卒折角の壮挙ゆゑ三田の方御助力を懇願仕候御謙遜の御手紙なりしが決して貴兄ならば成功せざるはずなしと確信仕候殊に御自身教鞭を執らるるのみならずその上|向後《こうご》の発展上一種の Elan を与へ奮心を惹起《じゃっき》する任務は普通の学究にては出来にくかるべしと思へばこそ貴兄へ懇請仕候ひしかと存候小生は本月末か来月早々上京のつもりに候故その時|篤《とく》と御話申上ぐべく候
  京都にては全く話対手《はなしあいて》なく困却仕候唯宅の者と散歩して食事でもするより他に致方なく候ただ本年は元日より今日まで毎日拙作を起草しそれにて紛《まぎ》れをり候この地はとにかく読書にも創作にも不適当なるぶるじよあじいの国にて御話にならぬ無聊《ぶりょう》の郷《さと》に候唯この頃はルウィエといふ伊東《いとう》さんのお嬢さんを娶《めと》つた若い海軍士官と往来しこの他《ほか》に先月より二、三人急に仏蘭西人が加はつてややおもしろく相成候
きのふの御作中|柳橋《やなぎばし》の芸者が新橋《しんばし》といふ敵国を見る処おもしろく拝見仕候また先日のモリス・バレスが故郷の白楊《はくよう》の並木をおもふ一節感服仕候当地の平田禿木《ひらたとくぼく》氏はボオ・ブラムメルの処を見て英国好《えいこくずき》の人なれば甚だ嬉しがりをり候文芸に型や主義は要らず縦横に書きまくるが可《よ》しと考ふる小生は貴兄の作物《さくぶつ》が鳥の歌ふ如く自然に流れでるのを羨ましく思をり候今後種々の方面へ筆を向けて、あとから追付かむとする評論家の息をはずませてやり給へと遥かに嘱望《しょくぼう》仕候
有楽座にて二十六日はヴィニエッチ氏の音楽と他に『椿姫』の芝居これあり候由もし上京して間に合はば幸福と存候がちとむづかしく候
過日同座にて一度御眼にかかりしのみなれど何卒御尊父様並に御母堂へよろしく御鳳声被下度《ごほうせいくだされたく》候 匆々
    二月十一日朝
  上田敏
   永井荷風様侍史
 かくの如く先生はわが拙作の世に出《いづ》るごとにあるいは書を寄せあるいはわが家《や》に来給《きたま》ひて激励せられき。『三田文学』第一号漸く出でんとするや先生の書簡はますます細事に渉《わた》りて懇切をきはめぬ。

  拝啓益々御清適の段|奉賀《がしたてまつり》候、その後『三田文学』御経営の事|如何《いかが》に相成候や過日大倉書店番頭|原《はら》より他の事にて二回ほど書面これあり候|序《ついで》に、はじめは談判不調(尤《もっと》も与謝野《よさの》君との間の略式の話について)次にはまた再度貴兄及び塾と談合をはじめたる趣を書添へをり候とにかく雑誌御経営の困難御察申候
これにつき森先生の意見は如何に候や小生の考にては原稿料は多少他よりも高く見積りて置く事必要なるは先日申したる如くに候が何もづぬけて高くするにも及ばずはじめよりあまり多く売らむと計りても無益かと存候、要するに二百頁の雑誌とすれば毎月三百円の総入費あらば事足りむか、自営にすればその幾分は確に戻つて来るはず、書肆《しょし》の方には一年に月数拾円の損として他方に広告機関ともなる利益もあるはずこの条件に近い所にて大倉もうけ合ひさうなものに候がどういふ工合《ぐあい》にて謝絶せしやら何はともあれ来月中旬にいづれ雑誌発刊の運《はこび》と存候ついてはほぼ原稿締切期限等|御示教被下度《ごじきょうくだされたく》候小生も何か一文《いちぶん》寄稿したく候
一昨日より家内および娘とともに宇治川に遊んで河沿《かわぞい》の宿にとまり翌朝奈良へまかりこして新築の奈良ホテルといふに休み、そこより車を雇ひて春日社頭《かすがしゃとう》の鹿をはじめ名所遊覧仕候がホテルの赤旗をつけた車にのつた所はまるでめりけんの観光団に御座候ひき、夢見《ゆめみ》の里《さと》とも申《もうす》べき Nara la Morte にはかりよんの音《おと》ならぬ梵鐘《ぼんしょう》の声あはれに坐《そぞ》ろ古《いにしえ》を思はせ候、その時またおもふやう安倍仲麿《あべのなかまろ》がこの小さき邑《むら》を出でて大陸の支那しかも唐代の支那を見た時、とても帰られなくなりて今欧洲の大都《たいと》に遊ぶ人の心の如くに日本を呪詛《じゅそ》せしものと存候このつぎ御来遊のせつは御一所に奈良へ出かけたきものに候|妻《さい》よりよろしく 匆々
 三月二十一日
   上田敏
    永井荷風様侍史
 大正五年われ既に病みてつかれたり。まさに退いて世の交りを断たん事を欲し妓家《ぎか》櫛比《しっぴ》する浅草代地《あさくさだいち》の横町《よこちょう》にかくれ住む。たまたま両国大相撲春場所の初日に当りてあたり何となく色めき立てる正午《ひる》近くなり。われ銭湯《せんとう》より手拭さげて帰り来《きた》る門口《かどぐち》京都より東上《とうじょう》せられし先生の尋ね来《きた》らるるに会ひぬ。さては先生の寛容深くわが放蕩無頼を咎《とが》めたまはざるかと、思へばいよいよ喜びに堪へず、直に筋向《すじむこう》なる深川亭《ふかがわてい》にいざなひしが、何ぞ図《はか》らんこの会飲|永劫《えいごう》の別宴とならんとは。心ゆくばかり半日を語り尽して酒亭を出でしが表通は相撲の打出し間際にて電車の雑沓|甚《はなはだ》しかりければ、しばしが間《うち》とて再びわが隠家《かくれが》の二階に請《しょう》じて初夜過ぐる頃までも語りつづけぬ。わが家《や》の近くには豊沢松太郎《とよざわまつたろう》竹本播磨太夫《たけもとはりまだゆう》の住居《すまい》妓家の間に交《まじ》りてありければにや、女の音〆《ねじめ》には似も寄らぬ正しき太棹《ふとざお》の響折々漏れ聞ゆるにぞ談話は江戸俗曲の事また先頃先生のさる書肆《しょし》より翻刻を依頼せられしといふ『糸竹初心鈔《しちくしょしんしょう》』がことより、やがてはわがその頃の作品の批判に移りて、かかる種類のものにては笠森《かさもり》お仙《せん》が一篇|詞《ことば》最もおだやかに想《こころ》最もやはらかに形また最もととのひしものなるべしと語られけり。
 数日の後先生再び京都に赴《おもむ》かんとせらるるや我いかにしけん今までは一度も先生を停車場に送りたる事なかりしを。後《あと》にて思合《おもいあわ》すれば虫が知らせしなるべし。この夕《ゆうべ》ばかりは怪しくも中央停車場に出で行く心起りて、食堂の卓子《テイブル》に汽車出づる間際まで令夫人令嬢と共に珈琲《コーヒー》をすすりこの次夏の休みの御上京を待たんと言ひしがそは全く仇《あだ》なる望にてありけり。
 大正五年七月九日先生の訃《ふ》いまだ公《おおやけ》にせられざるに先立ち馬場孤蝶《ばばこちょう》君悲報を二、三の親友に伝ふ。余|倉皇《そうこう》として車を先生が白金《しろかね》の邸《てい》に走らするに一片の香煙既に寂寞として霊柩《れいきゅう》のほとりに漂へるのみ。われこれを見し時|咄嗟《とっさ》の感慨あたかも万巻の図書|咸陽一炬《かんよういっきょ》の烟《けむり》となれるが如き思ひに打たれき。わが当代の文化や先生の訃によつてその失ふところ殆ど計り知るべからざる事を思ひたればなり。
     大正七年稿

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:米田
2010年9月5日作成
2011年4月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

永井荷風

十六、七のころ—– 永井荷風

 十六、七のころ、わたくしは病のために一時学業を廃したことがあった。もしこの事がなかったなら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字《かんもじ》を弄《もてあそ》ぶが如き遊惰《ゆうだ》の身とはならず、一家の主人《あるじ》ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかも知れない。
 わたくしが十六の年の暮、といえば、丁度日清戦役の最中《もなか》である。流行感冒に罹《かか》ってあくる年の正月一ぱい一番町の家の一間に寝ていた。その時雑誌『太陽』の第一号をよんだ。誌上に誰やらの作った明治小説史と、紅葉山人《こうようさんじん》の短篇小説『取舵』などの掲載せられていた事を記憶している。
 二月になって、もとのように神田の或中学校へ通ったが、一週間たたぬ中《うち》またわるくなって、今度は三月の末まで起きられなかった。博文館が帝国文庫という総称の下に江戸時代の稗史《はいし》小説の復刻をなし始めたのはその頃からであろう。わたくしは病床で『真書太閤記《しんしょたいこうき》』を通読し、つづいて『水滸伝《すいこでん》』、『西遊記』、『演義三国志』のような浩澣《こうかん》な冊子をよんだことを記憶している。病中でも少年の時よんだものは生涯忘れずにいるものらしい。中年以後、わたくしは、機会があったら昔に読んだものをもう一度よみ返して見ようと思いながら、今日までまだ一度もそういう機会に出遇わない。
 震災の後、上海《シャンハイ》の俳優が歌舞伎座で孫悟空の狂言を演じたことがあったが、わたくしはそれを看《み》た時、はっきり原作の『西遊記』を記憶していることを知った。『太平記』の事が話頭に上ると、わたくしは今でも「落花の雪にふみまよふ片野あたりの桜狩」と、海道下りの一節を暗誦して人を驚すことが出来るが、その代り書きかけている自作の小説の人物の名を忘れたりまたは書きちがえたりすることがある。
 鶯の声も既に老い、そろそろ桜がさきかけるころ、わたくしはやっと病褥《びょうじょく》を出たが、医者から転地療養の勧告を受け、学年試験もそのまま打捨て、父につれられて小田原の町はずれにあった足柄《あしがら》病院へ行く事になった。(東京で治療を受けていた医者は神田神保町《かんだじんぼうちょう》に暢春医院の札を出していた馬島永徳という学士であった。暢春医院の庭には池があって、夏の末には紅白の蓮の花がさいていた。その頃|市中《まちなか》の家の庭に池を見ることはさして珍しくはなかったのである。)
 わたくしは三カ月ほど外へ出たことがなかったので、人力車《じんりきしゃ》から新橋の停車場《ていしゃじょう》に降り立った時、人から病人だと思われはせぬかと、その事がむやみに気まりがわるく、汽車に乗込んでからも、帽子を眉深《まぶか》にかぶり顔を窗《まど》の方へ外向《そむ》けて、ろくろく父とも話をせずにいた。国府津《こうづ》の停車場前からはその頃既に箱根行の電車があった。(しかし駅という語はまだ用いられていなかった。)病院に着いて、二階の一室に案内せられ、院長の診察を受けたりしていると、間もなく昼飯時になった。父は病院の食物を口にしたくなかったためであろう。わたくしをつれて城内の梅園に昼飯を食べに出掛けた。その頃、小田原の城跡には石垣や堀がそのまま残っていて、天主台のあった処には神社が建てられ、その傍に葭簀張《よしずばり》の休茶屋《やすみぢゃや》があって、遠眼鏡《とおめがね》を貸した。わたくしが父に伴われて行った料理茶屋は堀端に生茂った松林のかげに風雅な柴折《しおり》門を結んだ茅葺《かやぶき》の家であった。門内は一面の梅林で、既に盛りを過した梅の花は今しも紛々として散りかけている最中であった。父はわたくしが立止って顔の上に散りかかる落梅を見上げているのを顧み、いかにも満足したような面持《おももち》で、古人の句らしいものを口ずさんで聞かされたが、しかしそれは聞き取れなかった。後年に至って、わたくしは大田南畝《おおたなんぼ》がその子淑《ししゅく》を伴い御薬園の梅花を見て聯句《れんく》を作った文をよんだ時、小田原|城址《じょうし》の落梅を見たこの日の事を思出して言知れぬ興味を覚えた。
 父は病院に立戻ると間もなく、その日もまだ暮れかけぬ中《うち》、急いで東京に帰られた。わたくしは既に十七歳になっていたが、その頃の中学生は今日とはちがって、日帰りの遠足より外《ほか》滅多に汽車に乗ることもないので、小田原へ来たのも無論この日が始めてであった。家を離れて一人病院の一室に夢を見るのもまた始めてである。東京の家に帰ったのは梅雨《つゆ》も過ぎて庭の樹に蝉の声を聞くころであった。されば始めて逢う他郷の暮春と初夏との風景は、病後の少年に幽愁の詩趣なるものを教えずにはいなかったわけである。
 病院は町はずれの小高い岡の中腹に建てられていたので、病室の窓からも寝ながらにして、曇った日にも伊豆の山影を望み、晴れた日には大嶋の烟《けむり》をも見ることができた。庭つづきになった後方《うしろ》の丘陵は、一面の蜜柑畠《みかんばたけ》で、その先の山地に茂った松林や、竹藪の中には、終日鶯と頬白《ほおじろ》とが囀《さえず》っていた。初め一月《ひとつき》ばかりの間は、一日に二、三時間しか散歩することを許されていなかったので、わたくしはあまり町の方へは行かず、大抵この岡の上の松林を歩み、木の根に腰をかけて、箱根|双子山《ふたごやま》の頂きを往来する雲を見て時を移した。雲の往来《ゆきき》するにつれて山の色の変るのが非常に物珍しく思われたのであった。病室にごろごろしている間は、貸本屋の持って来る小説を乱読するより外に為すことはない。
 博文館の『文芸|倶楽部《クラブ》』はその年の正月『太陽』と同時に第一号を出したので、わたくしは確にこれをも読んだはずであるが、しかし今日記憶に残っているものは一つもない、帝国文庫の『京伝傑作集』や一九の『膝栗毛』、または円朝の『牡丹燈籠《ぼたんどうろう》』や『塩原多助』のようなものは、貸本屋の手から借りた時、披《ひら》いて見たその挿絵が文章よりもかえって明かに記憶に留《とどま》っている。
 その頃発行せられていた雑誌の中で、最も高尚でむずかしいものとして尊ばれていたのは、『国民の友』、『しがらみ草紙』、『文学界』の三種であった。まだ病気にならぬ頃、わたくしは同級の友達と連立って、神保町の角にあった中西屋という書店に行き、それらの雑誌を買った事だけは覚えているが、記事については何一つ記憶しているものはない。中西屋の店先にはその頃武蔵屋から発行した近松の浄瑠璃、西鶴の好色本が並べられてあったが、これも表紙を見ただけで買いはしなかった。わたくしが十六、七の時の読書の趣味は極めて低いものであった。
 四カ月ほど小田原の病院にいる間読んだものは、まず講談筆記と馬琴の小説に限られていたといってもよい。しかし後年芝居を見るようになってから、講談筆記で覚えた話の筋道は非常に役に立った。
 東京の家からは英語の教科書に使われていたラムの『沙翁《さおう》物語』、アービングの『スケッチブック』とを送り届けてくれたので、折々字引と首引《くびッぴき》をしたこともないではなかった。
 わたくしは今日の中学校では英語を教えるのに如何なる書物を用いているか全く不案内である。中学校で英語を教えることは有害無益だという説もだんだん盛になって来るようである。思出すままに、わたくしたちが三、四十年前中学校でよんだ英文の書目を挙げて見るのもまた一興であろう。その頃、英語は高等小学校の三、四年頃から課目に加えられていた。教科書は米国の『ナショナル・リーダー』であった。中学校に進んで、一、二年の間はその頃新に文部省で編纂した英語|読本《とくほん》が用いられていたが書名は今覚えていない。この読本は英国人の教師が生徒の発音を正しくするために用いたので、訳読には日本人の教師が別の書物を用いた。その中で記憶に残っているものは、マコーレーのクライブの伝。パアレーの『万国史』。フランクリンの『自叙伝』。ゴールドスミスの『ウェークフィルドの牧師』。それからサー・ロジャス・デカバリイ。巴里屋根裏の学者の英訳本などである。中村敬宇《なかむらけいう》先生が漢文に訳せられた『西国立志編《さいごくりっしへん》』の原書もたしか読んだように思っている。
 中学を出て、高等学校の入学試験を受ける準備にと、わたくしたちは神田錦町《かんだにしきちょう》の英語学校へ通った時、始めてヂッケンスの小説をよんだ。
 話は前へもどって、わたくしは七月の初東京の家に帰ったが、間もなく学校は例年の通り暑中休暇になるので、家の人たちと共に逗子《ずし》の別荘に往《ゆ》き九月になって始めて学校へ出た。しかしこれまで幾年間同じ級にいた友達とは一緒になれず、一つ下の級の生徒になったので、以前のように学業に興味を持つことが出来ない。休課の時間にもわたくしは一人運動場の片隅で丁度その頃覚え初めた漢詩や俳句を考えてばかりいるようになった。
 根岸派の新俳句が流行し始めたのは丁度その時分の事で、わたくしは『日本』新聞に連載せられた子規《しき》の『俳諧大要』の切抜を帳面に張り込み、幾度《いくたび》となくこれを読み返して俳句を学んだ。
 漢詩の作法は最初父に就《つ》いて学んだ。それから父の手紙を持って岩渓裳川《いわたにしょうせん》先生の門に入り、日曜日ごとに『三体詩』の講義を聴いたのである。裳川先生はその頃文部省の官吏で市ヶ谷見附に近い四番町の裏通りに住んでおられた。玄関から縁側《えんがわ》まで古本が高く積んであったのと、床《とこ》の間《ま》に高さ二尺ばかりの孔子の坐像と、また外に二つばかり同じような木像が置かれてあった事を、わたくしは今でも忘れずにおぼえている。
 わたくしは裳川先生が講詩の席で、始めて亡友|井上唖々《いのうえああ》君を知ったのである。
 その頃作った漢詩や俳句の稿本は、昭和四年の秋感ずるところがあって、成人の後作ったいろいろの原稿と共に、わたくしは悉《ことごと》くこれを永代橋《えいたいばし》の上から水に投じたので、今記憶に残っているものは一つもない。
 わたくしは或雑誌の記者から、わたくしの少年時代の事を問われたことがあったので、後にその事を思出してこの記を書いて見たのである。しかし過去を語るのは、覚めた後前夜の夢を尋ねて、これを人に向って説くのと同じである。
 鴎外先生が『私が十四、五歳の時』という文に、「過去の生活は食ってしまった飯のようなものである。飯が消化せられて生きた汁になって、それから先の生活の土台になるとおりに、過去の生活は現在の生活の本《もと》になっている。またこれから先の、未来の生活の本になるだろう。しかし生活しているものは、殊に体が丈夫で生活しているものは、誰も食ってしまった飯の事を考えている余裕はない。」と言われている。全くその通りである。
 いま現在の生活からその土台になっている過去の生活を正確に顧みて、これを誤りなく記述する事は容易でない。糞尿《ふんにょう》を分析すれば飲食した物の何であったかはこれを知ることが出来るが、食った刹那《せつな》の香味に至っては、これを語って人をして垂涎《すいぜん》三尺たらしむるには、優れたる弁舌が入用になるわけである。そして、わたくしにはこの弁舌がないのであった。
    乙亥《いつがい》正月記

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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永井荷風

十日の菊—– 永井荷風

 

庭の山茶花《さざんか》も散りかけた頃である。震災後家を挙げて阪地に去られた小山内《おさない》君がぷらとん社の主人を伴い、倶《とも》に上京してわたしの家を訪《おとな》われた。両君の来意は近年|徒《いたずら》に拙《せつ》を養うにのみ力《つと》めているわたしを激励して、小説に筆を執らしめんとするにあったらしい。
 わたしは古机のひきだしに久しく二、三の草稿を蔵していた。しかしいずれも凡作見るに堪《た》えざる事を知って、稿《こう》半《なかば》にして筆を投じた反古《ほご》に過ぎない。この反古を取出して今更|漉返《すきかえ》しの草稿をつくるはわたしの甚《はなはだ》忍びない所である。さりとて旧友の好意を無にするは更に一層忍びがたしとする所である。
 窮余の一策は辛うじて案じ出された。わたしは何故久しく筐底《きょうてい》の旧稿に筆をつぐ事ができなかったかを縷陳《るちん》して、纔《わずか》に一時の責《せめ》を塞《ふさ》ぐこととした。題して『十日の菊』となしたのは、災後|重陽《ちょうよう》を過ぎて旧友の来訪に接した喜びを寓するものと解せられたならば幸である。自ら未成の旧稿について饒舌《じょうぜつ》する事の甚しく時流に後《おく》れたるが故となすも、また何の妨《さまたげ》があろう。

庭の山茶花《さざんか》も散りかけた頃である。震災後家を挙げて阪地に去られた小山内《おさない》君がぷらとん社の主人を伴い、倶《とも》に上京してわたしの家を訪《おとな》われた。両君の来意は近年|徒《いたずら》に拙《せつ》を養うにのみ力《つと》めているわたしを激励して、小説に筆を執らしめんとするにあったらしい。
 わたしは古机のひきだしに久しく二、三の草稿を蔵していた。しかしいずれも凡作見るに堪《た》えざる事を知って、稿《こう》半《なかば》にして筆を投じた反古《ほご》に過ぎない。この反古を取出して今更|漉返《すきかえ》しの草稿をつくるはわたしの甚《はなはだ》忍びない所である。さりとて旧友の好意を無にするは更に一層忍びがたしとする所である。
 窮余の一策は辛うじて案じ出された。わたしは何故久しく筐底《きょうてい》の旧稿に筆をつぐ事ができなかったかを縷陳《るちん》して、纔《わずか》に一時の責《せめ》を塞《ふさ》ぐこととした。題して『十日の菊』となしたのは、災後|重陽《ちょうよう》を過ぎて旧友の来訪に接した喜びを寓するものと解せられたならば幸である。自ら未成の旧稿について饒舌《じょうぜつ》する事の甚しく時流に後《おく》れたるが故となすも、また何の妨《さまたげ》があろう。

       二

 まだ築地本願寺側の僑居《きょうきょ》にあった時、わたしは大に奮励して長篇の小説に筆をつけたことがあった。その題も『黄昏』と命じて、発端およそ百枚ばかり書いたのであるが、それぎり筆を投じて草稿を机の抽斗《ひきだし》に突き込んでしまった。その後現在の家に移居してもう四、五年になる。その間に抽斗の草稿は一枚二枚と剥ぎ裂かれて、煙管《キセル》の脂《やに》を拭う紙捻《こより》になったり、ランプの油壺やホヤを拭う反古紙になったりして、百枚ほどの草稿は今既に幾枚をも余さなくなった。風雨一過するごとに電燈の消えてしまう今の世に旧時代の行燈《あんどう》とランプとは、家に必須《ひっす》の具たることをわたしはここに一言して置こう。
 わたしは何故百枚ほどの草稿を棄ててしまったかというに、それはいよいよ本題に進入《はい》るに当って、まず作中の主人公となすべき婦人の性格を描写しようとして、わたしは遽《にわか》にわが観察のなお熟していなかった事を知ったからである。わたしは主人公とすべき或婦人が米国の大学を卒業して日本に帰った後、女流の文学者と交際し神田青年会館に開かれる或婦人雑誌主催の文芸講演会に臨《のぞ》み一場《いちじょう》の演説をなす一段に至って、筆を擱《お》いて歎息した。
 初めわたしはさして苦しまずに、女主人公の老父がその愛嬢の帰朝を待つ胸中を描き得たのは、維新前後に人と為った人物の性行については、とにかく自分だけでは安心のつく程度まで了解し得るところがあったからである。これに反して当時のいわゆる新しい女の性格感情については、どことなく霧中に物を見るような気がしてならなかった。わたしは小説たる事を口実として、観察の不備を補うに空想を以てする事の制作上|甚《はなはだ》危険である事を知っている。それがため適当なるモデルを得るの日まで、この制作を中止しようと思い定めた。
 わたしはいかなる断篇たりともその稿を脱すれば、必《かならず》亡友|井上唖々《いのうえああ》子を招き、拙稿を朗読して子の批評を聴くことにしていた。これはわたしがまだ文壇に出ない時分からの習慣である。
 唖々子は弱冠の頃|式亭三馬《しきていさんば》の作と斎藤緑雨《さいとうりょくう》の文とを愛読し、他日二家にも劣らざる諷刺家たらんことを期していた人で、他人の文を見てその病弊を指※[#「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2-13-57]《してき》するには頗《すこぶ》る妙《みょう》を得ていた。一葉《いちよう》女史の『たけくらべ』には「ぞかし」という語が幾個あるかと数え出した事もあれば、紅葉山人《こうようさんじん》の諸作の中より同一の警句の再三重用せられているものを捜し出した事もあった。唖々子の眼より見て当時の文壇第一の悪文家は国木田独歩《くにきだどっぽ》であった。
 その年雪が降り出した或日の晩方から電車の運転手が同盟罷工《どうめいひこう》を企てた事があった。尤《もっとも》わたしは終日外へ出なかったのでその事を知らなかったが、築地の路地裏にそろそろ芸者の車の出入しかける頃、突然唖々子が来訪して、蠣殻町《かきがらちょう》の勤先からやむをえず雪中歩いて来た始末を語った。その頃唖々子は毎夕新聞社の校正係長になっていたのである。
「この間の小説はもう出来上ったか。」と唖々子はわたしに導かれて、電車通の鰻屋《うなぎや》宮川へ行く途《みち》すがらわたしに問いかけた。
「いや、あの小説は駄目だ。文学なんぞやる今の新しい女はとても僕には描けない。何だか作りものみたような気がして、どうも人物が活躍しない。」
 宮川の二階へ上って、裏窓の障子《しょうじ》を開けると雪のつもった鄰の植木屋の庭が見える一室に坐るが否や、わたしは縷々《るる》として制作の苦心を語りはじめた。唖々子は時々長い頤《あご》をしゃくりながら、空腹《すきっぱら》に五、六杯|引掛《ひっか》けたので、忽《たちま》ち微醺《びくん》を催した様子で、「女の文学者のやる演説なんぞ、わざわざ聴きに行かないでも大抵様子はわかっているじゃないか。講釈師見て来たような虚言《うそ》をつき。そこが芸術の芸術たる所以《ゆえん》だろう。」
「それでも一度は実地の所を見て置かないと、どうも安心が出来ないんだ。一体、小説なんぞ書こうという女はどんな着物を着ているんだか、ちょっと見当がつかない。まさか誰も彼もまがいの大嶋と限ったわけでもなかろうからね。」
「僕にも近頃|流行《はや》るまがい物の名前はわからない。贋物《にせもの》には大正とか改良とかいう形容詞をつけて置けばいいんだろう。」と唖々子は常に杯《さかずき》を放《は》なさない。
「ああいう人たちのはく下駄《げた》は大抵|籐表《とうおもて》の駒下駄《こさげた》か知ら。後がへって郡部の赤土が附着《くっつ》いていないといけまいね。鼻緒《はたお》のゆるんでいるとこへ、十文《ともん》位の大きな足をぐっと突込んで、いやに裾《すそ》をぱっぱっとさせて外輪に歩くんだね。」
「それから、君、イとエの発音がちがっていなくッちゃいけないぜ。電車の中で小説を読んでいるような女の話を聞いて見たまえ。まず十中の九は田舎者《いなかもの》だよ。」
「僕は近頃東京の言葉はだんだん時勢に適しなくなって来るような心持がするんだ。普通選挙だの労働問題だの、いわゆる時事に関する論議は、田舎|訛《なまり》がないとどうも釣合がわるい。垢抜《あかぬ》けのした東京の言葉じゃ内閣|弾劾《だんがい》の演説も出来まいじゃないか。」
「そうとも。演説ばかりじゃない。文学も同じことだな。気分だの気持だのと何処の国の託だかわからない言葉を使わなくっちゃ新しく聞えないからね。」
 唖々子はかつて硯友社《けんゆうしゃ》諸家の文章の疵累《しるい》を指※[#「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2-13-57]したように、当世人の好んで使用する流行語について、例えば発展[#「発展」に丸傍点]、共鳴[#「共鳴」に丸傍点]、節約[#「節約」に丸傍点]、裏切る[#「裏切る」に丸傍点]、宣伝[#「宣伝」に丸傍点]というが如き、その出所の多くは西洋語の翻訳に基くものにして、吾人《ごじん》の耳に甚《はなはだ》快《こころよか》らぬ響を伝うるものを列挙しはじめた。
「そういう妙な言葉は大抵東京にいる田舎者のこしらえた言葉だ。そういう言葉が流行するのは、昔から使い馴れた言葉のある事を知らない人間が多くなった結果だね。この頃の若い女はざっと雨が降ってくるのを見ても、あらしもよい[#「あらしもよい」に丸傍点]の天気だとは言わない。低気圧だとか、暴風雨だとか言うよ。道をきくと、車夫のくせに、四辻の事を十字街だの、それから約一丁先だのと言うよ。ちょいと向の御稲荷《おいなり》さまなんていう事は知らないんだ。御話にゃならない。大工や植木屋で、仕事をしたことを全部完成ですと言った奴があるよ。銭勘定《ぜにかんじょう》は会計、受取は請求というのだったな。」
 唖々子の戯《たわむる》るる[#「戯《たわむる》るる」はママ]が如く、わたしはやがて女中に会計なるものを命じて、倶《とも》に陶然として鰻屋の二階を下りると、晩景から電車の通らない築地の街は、見渡すかぎり真白《まっしろ》で、二人のさしかざす唐傘《からかさ》に雪のさらさらと響く音が耳につくほど静であった。わたしは一晩泊って行くように勧めたが、平素健脚を誇っている唖々子は「なに。」と言って、酔に乗じて本郷の家に帰るべく雪を踏んで築地橋の方へと歩いて行った。

       三

 同じ年の五月に、わたしがその年から数えて七年ほど前に書いた『三柏葉樹頭夜嵐《みつかしわこずえのよあらし》』という拙劣なる脚本が、偶然帝国劇場女優劇の二《に》の替《かわり》に演ぜられた。わたしが帝国劇場の楽屋に出入したのはこの時が始めてである。座附《ざつき》女優諸嬢の妖艶なる湯上り姿を見るの機を得たのもこの時を以て始めとする。但し帝国劇場はこの時既に興行十年の星霜を経ていた。
 わたしはこの劇場のなおいまだ竣成《しゅんせい》せられなかった時、恐らくは当時『三田文学』を編輯《へんしゅう》していた故であろう。文壇の諸先輩と共に帝国ホテルに開かれた劇場の晩餐会に招飲せられたことがあった。尋《つい》でその舞台開《ぶたいびらき》の夕《ゆうべ》にも招待を受くるの栄《えい》に接したのであったが、褊陋《へんろう》甚しきわが一家の趣味は、わたしをしてその後十年の間この劇場の観棚《かんぽう》に坐することを躊躇《ちゅうちょ》せしめたのである。その何がためなるやは今日これを言う必要がない。
 今日ここに言うべき必要あるは、そのかつて劇場に来《きた》り看《み》る事の何故に罕《まれ》であったかという事よりも、今|遽《にわか》に来り看る事の何故頻繁になったかにあるであろう。拙作『三柏葉樹頭夜嵐』の舞台に登るに先立って、その稽古の楽屋に行われた時から、わたしは連宵《れんしょう》帝国劇場に足を運んだのみならず、折々女優を附近のカッフェーに招き迎えシャンパンの盃《さかずき》を挙げた。ここにおいて飛耳長目《ひじちょうもく》の徒は忽ちわが身辺を揣摩《しま》して艶事《つやごと》あるものとなした。
 巴里《パリー》輸入の絵葉書に見るが如き書割裏の情事の、果してわが身辺に起り得たか否かは、これまたここに語る必要があるまい。わたしの敢えて語らんと欲するのは、帝国劇場の女優を中介にして、わたしは聊《いささか》現代の空気に触れようと冀《こいねが》ったことである。久しく薗八一中節《そのはちいっちゅうぶし》の如き古曲をのみ喜び聴いていたわたしは、褊狭《へんきょう》なる自家の旧趣味を棄てて後《おく》れ走《ば》せながら時代の新俚謡《しんりよう》に耳を傾けようと思ったのである。わたしは果してわたしの望むが如くに、唐桟縞《とうざんじま》の旧衣を脱して結城紬《ゆうきつむぎ》の新様《しんよう》に追随する事ができたであろうか。
 現代思潮の変遷はその迅速なること奔流《ほんりゅう》もただならない。旦《あした》に見て斬新となすもの夕《ゆうべ》には既に陳腐となっている。槿花《きんか》の栄《えい》、秋扇《しゅうせん》の嘆《たん》、今は決して宮詩をつくる詩人の間文字《かんもじ》ではない。わたしは既に帝国劇場の開かれてより十星霜を経たことを言った。今日この劇場内外の空気の果して時代の趨勢を観察するに足るものであったか否か。これまた各自の見るところに任すより外はない。
 わたしは筆を中途に捨てたわが長編小説中のモデルを、しばしば帝国劇場に演ぜられた西洋オペラまたはコンセールの聴衆の中に索《もと》めようと力《つと》めた。また有楽座に開演せられる翻訳劇の観客に対しては特に精細なる注意をなした。わたしは漸《ようや》くにして現代の婦人の操履《そうり》についてやや知る事を得たような心持になった。それと共にわたしはいよいよわが制作の困難なることを知ったのである。およそ芸術の制作には観察と同情が必要である。描かんとする人物に対して、著作者の同情深厚ならざるときはその制作は必ず潤《うるお》いなき諷刺に堕《お》ち、小説中の人物は、唯作者の提供する問題の傀儡《かいらい》たるに畢《おわ》るのである。わたしの新しき女を見て纔《わずか》に興を催し得たのは、自家の辛辣《しんらつ》なる観察を娯《たの》しむに止《とどま》って、到底その上に出づるものではない。内心より同情を催す事は不可能であった。わたしの眼底には既に動しがたき定見がある。定見とは伝習の道徳観と並に審美観とである。これを破却するは曠世《こうせい》の天才にして初めて為し得るのである。
 わたしの眼に映じた新らしき女の生活は、あたかも婦人雑誌の表紙に見る石版摺《せきばんずり》の彩色画と殆《ほとんど》撰ぶところなきものであった。新しき女の持っている情緒は、夜店の賑《にぎわ》う郊外の新開町に立って苦学生の弾奏して銭を乞うヴァイオリンの唱歌を聞くに等しきものであった。
 小春治兵衛《こはるじへえ》の情事を語るに最も適したものは大阪の浄瑠璃である。浦里時次郎《うらざとときじろう》の艶事を伝うるに最《もっとも》適したものは江戸の浄瑠璃である。マスカニの歌劇は必《かならず》伊太利亜《イタリア》語を以て為されなければなるまい。
 然らば当今の女子、その身には窓掛に見るような染模様の羽織を引掛け、髪は大黒頭巾《だいとくずきん》を冠《かぶ》ったような耳隠しの束髪に結《ゆ》い、手には茄章魚《ゆでだこ》をぶらさげたようなハンドバッグを携え歩む姿を写し来って、宛然《さながら》生けるが如くならしむるものはけだしそのモデルと時代を同じくし感情を倶《とも》にする作家でなければならない。
 江戸時代にあって、為永春水《ためながしゅんすい》その年五十を越えて『梅見の船』を脱稿し、柳亭種彦《りゅうていたねひこ》六十に至ってなお『田舎源氏』の艶史を作るに倦《う》まなかったのは、啻《ただ》にその文辞の才|能《よ》くこれをなさしめたばかりではなかろう。

       四

 築地本願寺畔の僑居《きょうきょ》に稿を起したわたしの長篇小説はかくの如くして、遂に煙管《キセル》の脂《やに》を拭う反古《ほご》となるより外、何の用をもなさぬものとなった。
 しかしわたしはこれがために幾多の日子《にっし》と紙料とを徒費したことを悔《く》いていない。わたしは平生《へいぜい》草稿をつくるに必ず石州製の生紙《きがみ》を選んで用いている。西洋紙にあらざるわたしの草稿は、反古となせば家の塵《ちり》を掃《はら》うはたきを作るによろしく、揉《も》み柔《やわら》げて厠《かわや》に持ち行けば浅草紙《あさくさがみ》にまさること数等である。ここに至って反古の有用、間文字《かんもじ》を羅列したる草稿の比ではない。
 わたしは平生文学を志すものに向って西洋紙と万年筆とを用うること莫《なか》れと説くのは、廃物利用の法を知らしむる老婆心に他ならぬのである。
 往時、劇場の作者部屋にあっては、始めて狂言作者の事務を見習わんとするものあれば、古参の作者は書抜の書き方を教ゆるに先だって、まず見習をして観世捻《かんぜより》をよらしめた。拍子木《ひょうしぎ》の打方を教うるが如きはその後のことである。わたしはこれを陋習《ろうしゅう》となして嘲《あざけ》った事もあったが、今にして思えばこれ当然の順序というべきである。観世捻をよる事を知らざれば紙を綴《と》ずることができない。紙を綴ることを知らざれば書抜を書くも用をなさぬわけである。事をなすに当って設備の道を講ずるは毫《ごう》も怪しむに当らない。或人の話に現時|操觚《そうこ》を業となすものにして、その草稿に日本紙を用うるは生田葵山《いくたきざん》子とわたしとの二人のみだという。亡友|唖々《ああ》子もまたかつて万年筆を手にしたことがなかった。
 千朶山房《せんださんぼう》の草稿もその晩年『明星』に寄せられたものを見るに無罫《むけい》の半紙《はんし》に毛筆をもって楷行を交えたる書体、清勁暢達《せいけいちょうたつ》、直にその文を思わしむるものがあった。
 わたしはしばしば家を移したが、その度ごとに梔子《くちなし》一株を携え運んで庭に植える。啻《ただ》に花を賞するがためばかりではない。その実を採って、わたしは草稿の罫紙《けいし》を摺《す》る顔料となすからである。梔子の実の赤く熟して裂け破れんとする時はその年の冬も至日《しじつ》に近い時節になるのである。傾きやすき冬日の庭に塒《ねぐら》を急ぐ小禽《ことり》の声を聞きつつ梔子の実を摘《つ》み、寒夜孤燈の下に凍《こご》ゆる手先を焙《あぶ》りながら破れた土鍋《どなべ》にこれを煮る時のいいがたき情趣は、その汁を絞って摺った原稿罫紙に筆を執る時の心に比して遥に清絶であろう。一は全く無心の間事《かんじ》である。一は雕虫《ちょうちゅう》の苦、推敲《すいこう》の難、しばしば人をして長大息《ちょうたいそく》を漏らさしむるが故である。
 今秋不思議にも災禍を免《まぬか》れたわが家《や》の庭に冬は早くも音ずれた。筆を擱《お》いてたまたま窓外を見れば半庭の斜陽に、熟したる梔子|燃《もゆ》るが如く、人の来って摘むのを待っている……。
    大正十二年|癸亥《きがい》十一月稿

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本はこの作品で「門<日」と「門<月」を使い分けており、「間文字」と「間事」では、「門<月」を用いています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

永井荷風

十九の秋—– 永井荷風

 近年新聞紙の報道するところについて見るに、東亜の風雲はますます急となり、日支同文の邦家《ほうか》も善鄰の誼《よ》しみを訂《さだ》めている遑《いとま》がなくなったようである。かつてわたくしが年十九の秋、父母に従って上海《シャンハイ》に遊んだころのことを思い返すと、恍《こう》として隔世の思いがある。
 子供の時分、わたくしは父の書斎や客間の床《とこ》の間《ま》に、何如璋《かじょしょう》、葉松石《しょうしょうせき》、王漆園《おうしつえん》などいう清朝人の書幅の懸けられてあったことを記憶している。父は唐宋の詩文を好み、早くから支那人と文墨の交《まじわり》を訂《さだ》めておられたのである。
 何如璋は、明治十年頃から久しい間東京に駐剳《ちゅうさつ》していた清国の公使であった。
 葉松石は同じころ、最初の外国語学校教授に招聘《しょうへい》せられた人で、一度帰国した後、再び来遊して、大阪で病死した。遺稿『煮薬漫抄』の初めに詩人|小野湖山《おのこざん》のつくった略伝が載っている。
 毎年庭の梅の散りかける頃になると、客間の床には、きまって何如璋の揮毫《きごう》した東坡《とうば》の絶句が懸けられるので、わたくしは老耄《ろうもう》した今日に至ってもなお能《よ》く左の二十八字を暗記している。
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梨花淡白柳深青  〔梨花《りか》は淡白《たんぱく》にして柳《やなぎ》は深青《しんせい》
柳絮飛時花満城   柳絮《りゅうじょ》の飛ぶ時 花《はな》 城《しろ》に満《み》つ
惆悵東欄一樹雪   惆悵《ちゅうちょう》す 東欄一樹《とうらんいちじゅ》の雪
人生看得幾清明   人生《じんせい》 看《み》るを得るは幾清明《いくせいめい》ぞ〕

 何如璋は明治の儒者文人の間には重んぜられた人であったと見え、その頃刊行せられた日本人の詩文集にして何氏の題字や序または評語を載せないものは殆どない。
 わたくしが東京を去ったのは明治三十年の九月であったが、出帆《しゅっぱん》の日もまた乗込んだ汽船の名も今は覚えていない。わたくしは両親よりも一歩先《ひとあしさき》に横浜から船に乗り、そして神戸の港で、後から陸行して来られる両親を待合《まちあわせ》したのである。
 船は荷積をするため二日二晩|碇泊《ていはく》しているので、そのあいだに、わたくしは一人で京都大阪の名所を見歩き、生れて初めての旅行を娯《たの》しんだ。しかしその時の事は、大方忘れてしまった中に、一つ覚えているのは、文楽座《ぶんらくざ》で、後に摂津大掾《せっつのたいじょう》になった越路太夫《こしじだゆう》の、お俊伝兵衛を聴いたことだけである。
 やがて船が長崎につくと、薄紫地の絽《ろ》の長い服を着た商人らしい支那人が葉巻を啣《くわ》えながら小舟に乗って父をたずねに来た。その頃長崎には汽船が横づけになるような波止場《はとば》はなかった。わたくしは父を訪問しに来た支那人が帰りがけに船梯子《ふなばしご》を降りながら、サンパンと叫んで小舟を呼んだその声をきき、身は既に異郷にあるが如き一種言いがたい快感を覚えた事を今だに忘れ得ない。
 朝の中《うち》長崎についた船はその日の夕方近くに纜《ともづな》を解き、次の日の午後《ひるすぎ》には呉淞《ウースン》の河口に入り、暫く蘆荻《ろてき》の間に潮待ちをした後、徐《おもむろ》に上海の埠頭《はとば》に着いた。父は官を辞した後《のち》商となり、その年の春頃から上海の或会社の事務を監督しておられたので、埠頭に立っていた大勢の人に迎えられ、二頭|立《だて》の箱馬車に乗った。母とわたくしも同じくこの馬車に乗ったが、東京で鉄道馬車の痩せた馬ばかり見馴れた眼には、革具《かわぐ》の立派な馬がいかにも好い形に見えた。馭者《ぎょしゃ》が二人、馬丁《ばてい》が二人、袖口《そでぐち》と襟《えり》とを赤地にした揃いの白服に、赤い総《ふさ》のついた陣笠《じんがさ》のようなものを冠っていた姿は、その頃東京では欧米の公使が威風堂々と堀端を乗り歩く馬車と同じようなので、わたくしの一家は俄《にわか》にえらいものになったような心持がした。
 会社の構内にあった父の社宅は、埠頭《はとば》から二、三町とは離れていないので、鞭《むち》の音をきくかと思うと、すぐさま石塀に沿うて鉄の門に入り、仏蘭西《フランス》風の灰色した石造りの家の階段に駐《とま》った。
 家は二階建で、下は広い応接間と食堂との二室である。その境の引戸を左右に明放《あけはな》つと、舞踏のできる広い一室になるようにしてあった。階上にはベランダを廻らした二室があって、その一は父の書斎、一つは寝室であるが、そのいずれからも坐《い》ながらにして、海のような黄浦江《こうほこう》の両岸が一目に見渡される。父はわたくしに裏手の一室を与えて滞留中の居間にさせられた。この室にはベランダはなかったが、バルコンのついた仏蘭西風の窓に凭《もたれ》ると、芝生の向《むこう》に事務所になった会社の建物と、石塀の彼方《かなた》に道路を隔てて日本領事館の建物が見える。その頃には日本の租界《そかい》はなかったので、領事館を始め、日本の会社や商店は大抵美租界の一隅にあった。唯横浜|正金《しょうきん》銀行と三井物産会社とが英租界の最も繁華な河岸通にあったのだという。
 美租界と英租界との間に運河があって、虹口橋《こうこうきょう》とか呼ばれた橋がかかっていた。橋をわたると黄浦江の岸に臨んで洋式の公園がある。わたくしは晩餐をすましてから、会社の人に導かれて、この公園を散歩したが、一時間あまりで帰って来たので、その道程《みちのり》は往復しても日本の一里を越していまいと思った。
 やがて裏手の一室に這入《はい》って、寝《しん》に就《つ》いたが、わたくしは旅のつかれを知りながらなかなか寐つかれなかった。わたくしは上陸したその瞬間から唯物珍らしいというよりも、何やら最《もう》少し深刻な感激に打たれていたのであった。その頃にはエキゾチズムという語《ことば》はまだ知ろうはずもなかったので、わたくしは官覚の興奮していることだけは心づいていながら、これを自覚しこれを解剖するだけの智識がなかったのである。
 しかし日に日に経験する異様なる感激は、やがて朧《おぼろ》ながらにも、海外の風物とその色彩とから呼起されていることを知るようになった。支那人の生活には強烈なる色彩の美がある。街を歩いている支那の商人や、一輪車に乗って行く支那婦人の服装。辻々に立っている印度人の巡査が頭《かしら》に巻いている布や、土耳古《トルコ》人の帽子などの色彩。河の上を往来している小舟の塗色《ぬりいろ》。これに加うるに種々なる不可解の語声。これらの色と音とはまだ西洋の文学芸術を知らなかったにもかかわらず、わたくしの官覚に強い刺戟を与えずにはいなかったのである。
 或日わたくしは、銅羅《どら》を鳴《なら》しながら街上を練り行く道台《トウタイ》の行列に出遇った。また或日の夕方には、大声に泣きながら歩く女の列を先駆にした葬式の行列に出遇って、その奇異なる風俗に眼《まなこ》を見張った。張園の木《こ》の間《ま》に桂花を簪《かざし》にした支那美人が幾輛となく馬車を走らせる光景。また、古びた徐園の廻廊に懸けられた聯句《れんく》の書体。薄暗いその中庭に咲いている秋花のさびしさ。また劇場や茶館の連《つらな》った四馬路《スマル》の賑《にぎわ》い。それらを見るに及んで、異国の色彩に対する感激はますます烈しくなった。
 大正二年革命の起ってより、支那人は清朝《しんちょう》二百年の風俗を改めて、われわれと同じように欧米のものを採用してしまったので、今日の上海には三十余年のむかし、わたくしが目撃したような色彩の美は、最早《もは》や街路の上には存在していないのかも知れない。
 当時わたくしは若い美貌の支那人が、辮髪《べんぱつ》の先に長い総《ふさ》のついた絹糸を編み込んで、歩くたびにその総の先が繻子《しゅす》の靴の真白な踵《かかと》に触れて動くようにしているのを見て、いかにも優美|繊巧《せんこう》なる風俗だと思った。はでな織模様のある緞子《どんす》の長衣の上に、更にはでな色の幅びろい縁《ふち》を取った胴衣を襲《かさ》ね、数の多いその釦《ボタン》には象眼細工《ぞうがんざいく》でちりばめた宝石を用い、長い総のついた帯には繍取《ぬいと》りのあるさまざまの袋を下げているのを見て、わたくしは男の服装の美なる事はむしろ女に優《まさ》っているのを羨《うらやま》しく思った。
 清朝の暦法はわが江戸時代と同じく陰暦を用いていた。或日父母に従って馬車を遠く郊外に馳《は》せ、柳と蘆《あし》と桑ばかり果しなくつづいている平野の唯中に龍華寺《りゅうげじ》という古刹《こさつ》をたずね、その塔の頂に登った事を思返すと、その日はたしかに旧暦の九月九日、即ち重陽《ちょうよう》の節句に当っていたのであろう。重陽の節に山に登り、菊の花または茱萸《ぐみ》の実を摘《つ》んで詩をつくることは、唐詩を学んだ日本の文人が、江戸時代から好んでなした所である。上海の市中には登るべき岡阜《こうふ》もなく、また遠望すべき山影もない。郊外の龍華寺に往《ゆ》きその塔に登って、ここに始めて雲烟《うんえん》渺々《びょうびょう》たる間に低く一連の山脈を望むことができるのだと、車の中で父が語られた。
 昭和の日本人は秋晴れの日、山に遊ぶことを言うにハイキングとやら称する亜米利加《アメリカ》語を用いているが、わたくしの如き頑民に言わせると、古来慣用せられた登高《とうこう》の一語で足りている。
 その年陰暦九月十三夜が陽暦のいつの日に当っていたか、わたくしは記憶していない。しかしたまたまこの稿を草するに当って、思い出したのは或夜父が晩餐の後、その書斎で雑談しておられた時、今夜は十三夜だと言って、即興の詩一篇を示された事である。その詩は父の遺稿に、
[#ここから2字下げ]
蘆花如雪雁声寒  〔蘆花《ろか》は雪の如く 雁《かり》の声は寒し
把酒南楼夜欲残   南楼《なんろう》に酒を把《と》り 夜《よる》残《のこ》らんと欲《ほっ》す
四口一家固是客   四口《しこう》の一家《いっか》は固《もと》より是《こ》れ客なり
天涯倶見月団欒   天涯《てんがい》に倶《とも》に見る月も団欒《だんらん》す〕

としている。
 わたくしはこのまま長く上海に留《とどま》って、適当な学校を見つけて就学したいと思った。東京に帰ればやがて徴兵検査も受けなければならず。また高等学校にでも入学すれば柔術や何かをやらなければならない。わたくしにはそれが何よりもいやでならなかったのである。しかしわたくしの望みは許されなかった。そしてその年の冬、母の帰京すると共に、わたくしもまた船に乗った。公園に馬車を駆《か》る支那美人の簪《かざし》にも既に菊の花を見なくなった頃であった。
 凡ては三十六、七年むかしの夢となった。歳月人を俟《ま》たず、匆々《そうそう》として過ぎ去ることは誠に東坡《とうば》が言うが如く、「惆悵《ちゅうちょう》す東欄一樹の雪。人生看るを得るは幾清明《いくせいめい》ぞ。」である。
[#地から2字上げ]甲戌十月記

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月8日作成
2010年11月1日修正
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永井荷風

寺じまの記—– 永井荷風

雷門《かみなりもん》といっても門はない。門は慶応元年に焼けたなり建てられないのだという。門のない門の前を、吾妻橋《あずまばし》の方へ少し行くと、左側の路端《みちばた》に乗合自動車の駐《とま》る知らせの棒が立っている。浅草郵便局の前で、細い横町《よこちょう》への曲角で、人の込合《こみあ》う中でもその最も烈しく込合うところである。
 ここに亀戸《かめいど》、押上《おしあげ》、玉《たま》の井《い》、堀切《ほりきり》、鐘《かね》ヶ|淵《ふち》、四木《よつぎ》から新宿《にいじゅく》、金町《かなまち》などへ行く乗合自動車が駐る。
 暫く立って見ていると、玉の井へ行く車には二種あるらしい。一は市営乗合自動車、一は京成《けいせい》乗合自動車と、各《おのおの》その車の横腹《よこはら》に書いてある。市営の車は藍色、京成は黄いろく塗ってある。案内の女車掌も各一人ずつ、腕にしるしを付けて、路端に立ち、雷門の方から車が来るたびたびその行く方角をきいろい声で知らせている。
 或夜、まだ暮れてから間《ま》もない時分であった。わたくしは案内の女に教えられて、黄色に塗った京成乗合自動車に乗った。路端の混雑から考えて、とても腰はかけられまいと思いの外、乗客は七、八人にも至らぬ中、車はもう動いている。
 活動見物の帰りかとも思われる娘が二人に角帽の学生が一人。白い雨外套《あまがいとう》を着た職工風の男が一人、絣《かす》りの着流しに八字髭《はちじひげ》を生《はや》しながらその顔立はいかにも田舎臭い四十年配の男が一人、妾《めかけ》風の大丸髷《おおまるまげ》に寄席《よせ》芸人とも見える角袖《かくそで》コートの男が一人。医者とも見える眼鏡の紳士が一人。汚れた襟付《えりつき》の袷《あわせ》に半纏《はんてん》を重ねた遣手婆《やりてばば》のようなのが一人――いずれにしても赤坂《あかさか》麹町《こうじまち》あたりの電車には、あまり見掛けない人物である。
 車は吾妻橋をわたって、広い新道路を、向嶋《むこうじま》行の電車と前後して北へ曲り、源森橋《げんもりばし》をわたる。両側とも商店が並んでいるが、源森川を渡った事から考えて、わたくしはむかしならば小梅《こうめ》あたりを行くのだろうと思っている中《うち》、車掌が次は須崎町《すさきまち》、お降りは御在ませんかといった。降《おり》る人も、乗る人もない。車は電車通から急に左へ曲り、すぐまた右へ折れると、町の光景は一変して、両側ともに料理屋待合茶屋の並んだ薄暗い一本道である。下駄の音と、女の声が聞える。
 車掌が弘福寺前《こうふくじまえ》と呼んだ時、妾風の大丸髷とコートの男とが連立って降りた。わたくしは新築せられた弘福禅寺の堂宇を見ようとしたが、外は暗く、唯低い樹《き》の茂りが見えるばかり。やがて公園の入口らしい処へ駐《とま》って、車は川の見える堤へ上《のぼ》った。堤はどの辺かと思う時、車掌が大倉別邸前といったので、長命寺《ちょうめいじ》はとうに過ぎて、むかしならば須崎村《すさきむら》の柳畠《やなぎばたけ》を見おろすあたりである事がわかった。しかし柳畠にはもう別荘らしい門構もなく、また堤には一本の桜もない。両側に立ち続く小家《こいえ》は、堤の上に板橋をかけわたし、日満食堂などと書いた納簾《のれん》を飜しているのもある。人家の灯で案外明いが、人通りはない。
 車は小松嶋《こまつしま》という停留場につく。雨外套の職工が降りて車の中は、いよいよ広くなった。次に停車した地蔵阪《じぞうざか》というのは、むかし百花園や入金《いりきん》へ行く人たちが堤を東側へと降りかける処で、路端《みちばた》に石地蔵が二ツ三ツ立っていたように覚えているが、今見れば、奉納の小さな幟《のぼり》が紅白|幾流《いくなが》れともなく立っている。淫祠《いんし》の興隆は時勢の力もこれを阻止することが出来ないと見える。
 行手《ゆくて》の右側に神社の屋根が樹木の間に見え、左側には真暗な水面を燈火の動き走っているのが見え出したので、車掌の知らせを待たずして、白髯橋《しらひげばし》のたもとに来たことがわかる。橋快《はしだもと》から広い新道路が東南に向って走っているのを見たが、乗合自動車はその方へは曲らず、堤を下りて迂曲する狭い道を取った。狭い道は薄暗く、平家建《ひらやだて》の小家が立並ぶ間を絶えず曲っているが、しかし燈火《とうか》は行くに従つて次第に多く、家もまた二階建となり、表付《おもてつき》だけセメントづくりに見せかけた商店が増え、行手の空にはネオンサインの輝きさえ見えるようになった。
 わたくしはふと大正二、三年のころ、初て木造の白髯橋ができて、橋銭《はしせん》を取っていた時分のことを思返した。隅田川と中川との間にひろがっていた水田《すいでん》隴畝《ろうほ》が、次第に埋められて町になり初めたのも、その頃からであろうか。しかし玉の井という町の名は、まだ耳にしなかった。それは大正八、九年のころ、浅草公園の北側をかぎっていた深い溝が埋められ、道路取ひろげの工事と共に、その辺の艶《なまめか》しい家が取払われた時からであろう。当時凌雲閣の近処には依然としてそういう小家《こいえ》がなお数知れず残っていたが、震災の火に焼かれてその跡を絶つに及び、ここに玉の井の名が俄に言囃《いいはや》されるようになった。
 女車掌が突然、「次は局前、郵便局前。」というのに驚いて、あたりを見ると、右に灰色した大きな建物、左に『大菩薩峠《だいぼさつとうげ》』の幟を飜す活動小屋が立っていて、煌々《こうこう》と灯をかがやかす両側の商店から、ラヂオと蓄音機の歌が聞える。
 商店の中で、シャツ、ヱプロンを吊した雑貨店、煎餅屋《せんべいや》、おもちゃ屋、下駄屋。その中でも殊に灯《あかり》のあかるいせいでもあるか、薬屋の店が幾軒もあるように思われた。
 忽ち電車線路の踏切があって、それを越すと、車掌が、「劇場前」と呼ぶので、わたくしは燈火や彩旗《さいき》の見える片方を見返ると、絵看板の間に向嶋劇場という金文字が輝いていて、これもやはり活動小屋であった。二、三人残っていた乗客はここで皆降りてしまって、その代り、汚い包をかかえた田舎者らしい四十前後の女が二人乗った。
 車はオーライスとよぶ女車掌の声と共に、動き出したかと思う間もなく、また駐って、「玉の井車庫前」と呼びながら、車掌はわたくしに目で知らせてくれた。わたくしは初め行先を聞かれて、賃銭《ちんせん》を払う時、玉の井の一番賑な処でおろしてくれるように、人前を憚《はばか》らず頼んで置いたのである。
 車から降りて、わたくしはあたりを見廻した。道は同じようにうねうねしていて、行先はわからない。やはり食料品、雑貨店などの中で、薬屋が多く、次は下駄屋と水菓子屋が目につく。
 左側に玉の井館という寄席があって、浪花節語《なにわぶしかた》りの名を染めた幟が二、三流立っている。その鄰りに常夜燈と書いた灯《あかり》を両側に立て連ね、斜に路地の奥深く、南無妙法蓮華経の赤い提灯《ちょうちん》をつるした堂と、満願稲荷《まんがんいなり》とかいた祠《ほこら》があって、法華堂の方からカチカチカチと木魚を叩く音が聞える。
 これと向合いになった車庫を見ると、さして広くもない構内のはずれに、燈影《ほかげ》の見えない二階家《にかいや》が立ちつづいていて、その下六尺ばかり、通路になった処に、「ぬけられます。」と横に書いた灯《あかり》が出してある。
 わたくしは人に道をきく煩《わずら》いもなく、構内の水溜りをまたぎまたぎ灯の下をくぐると、家《いえ》と亜鉛《トタン》の羽目《はめ》とに挟《はさ》まれた三尺幅くらいの路地で、右手はすぐ行止りであるが、左手の方に行くこと十歩ならずして、幅一、二|間《けん》もあろうかと思われる溝にかけた橋の上に出た。
 橋向うの左側に「おでんかん酒、あづまや」とした赤行燈《あかあんどう》を出し、葭簀《よしず》で囲いをした居酒屋から、※[#「魚+昜」、U+9C11、254-6]《するめ》を焼く匂いがしている。溝際には塀とも目かくしともつかぬ板と葭簀とが立ててあって、青木や柾木《まさき》のような植木の鉢が数知れず置並べてある。
 ここまでは、一人《ひとり》も人に逢わなかったが、板塀の彼方《かなた》に奉納の幟が立っているのを見て、其方《そちら》へ行きかけると、路地は忽ち四方に分れていて、背広に中折《なかおれ》を冠《かぶ》った男や、金ボタンの制服をきた若い男の姿が、途絶えがちながら、あちこちに動いているのを見た。思ったより混雑していないのは、まだ夜になって間もない故であるのかも知れない。
 足の向く方へ、また十歩ばかりも歩いて、路地の分れる角へ来ると、また「ぬけられます。」という灯《あかり》が見えるが、さて共処《そこ》まで行って、今歩いて来た後方《うしろ》を顧ると、何処《どこ》も彼処《かしこ》も一様の家造《やづく》りと、一様の路地なので、自分の歩いた道は、どの路地であったのか、もう見分けがつかなくなる。おやおやと思って、後へ戻って見ると、同じような溝があって、同じような植木鉢が並べてある。しかしよく見ると、それは決して同じ路地ではない。
 路地の両側に立並んでいる二階建の家は、表付に幾分か相違があるが、これも近寄って番地でも見ないかぎり、全く同じようである。いずれも三尺あるかなしかの開戸《ひらきど》の傍に、一尺四方位の窓が適度の高さにあけてある。適度の高さというのは、路地を歩く男の目と、窓の中の燈火《あかり》に照らされている女の顔との距離をいうのである。窓際に立寄ると、少し腰を屈《かが》めなければ、女の顔は見られないが、歩いていれば、窓の顔は四、五軒一目に見渡される。誰が考えたのか巧みな工風《くふう》である。
 窓の女は人の跫音《あしおと》がすると、姿の見えない中から、チョイトチョイト旦那。チョイトチョイト眼鏡のおじさんとかいって呼ぶのが、チイト、チイートと妙な節《ふし》がついているように聞える。この妙な声は、わたくしが二十歳《はたち》の頃、吉原の羅生門横町、洲崎《すさき》のケコロ、または浅草公園の裏手などで聞き馴れたものと、少しも変りがない。時代は忽然《こつぜん》三、四十年むかしに逆戻りしたような心持をさせたが、そういえば溝の水の流れもせず、泡立ったまま沈滞しているさまも、わたくしには鉄漿溝《おはぐろどぶ》の埋められなかった昔の吉原を思出させる。
 わたくしは我ながら意外なる追憶の情に打たれざるを得ない。両側の窓から呼ぶ声は一歩一歩|急《せわ》しくなって、「旦那、ここまで入らっしゃい。」というもあり、「おぶだけ上《あが》ってよ。」というのもある。中には唯笑顔を見せただけで、呼止めたって上る気のないものは上りゃしないといわぬばかり、おち付いて黙っているのもある。
 女の風俗はカフェーの女給に似た和装と、酒場で見るような洋装とが多く、中には山の手の芸者そっくりの島田も交《まじ》っている。服装のみならず、その容貌もまた東京の町のいずこにも見られるようなもので、即ち、看護婦、派出婦、下婢《かひ》、女給、女車掌、女店員など、地方からこの首都に集って来る若い女の顔である。現代民衆的婦人の顔とでも言うべきものであろう。この顔にはいろいろの種類があるが、その表情の朴訥《ぼくとつ》穏和なことは、殆ど皆一様で、何処《どこ》となくその運命と境遇とに甘んじているようにも見られるところから、一見人をして恐怖を感ぜしめるほど陰険な顔もなければまた神経過敏な顔もない。百貨店で呉服物|見切《みきり》の安売りをする時、品物に注がれるような鋭い目付はここには見られない。また女学校の入学試験に合格しなかった時、娘の顔に現われるような表情もない。
 わたくしはここに一言して置く。わたくしは医者でもなく、教育家でもなく、また現代の文学者を以て自ら任じているものでもない。三田派《みたは》の或評論家が言った如く、その趣味は俗悪、その人品は低劣なる一介《いっかい》の無頼漢《ぶらいかん》に過ぎない。それ故、知識階級の夫人や娘の顔よりも、この窓の女の顔の方が、両者を比較したなら、わたくしにはむしろ厭《いと》うべき感情を起させないという事ができるであろう。
 呼ばれるがまま、わたくしは窓の傍に立ち、勧められるがまま開戸《ひらきど》の中に這入《はい》って見た。
 家一軒について窓は二ツ。出入《でいり》の戸もまた二ツある。女一人について窓と戸が一ツずつあるわけである。窓の戸はその内側が鏡になっていて、羽目《はめ》の高い処に小さな縁起棚《えんぎだな》が設けてある。壁際につッた別の棚には化粧道具や絵葉書、人形などが置かれ、一輪ざしの花瓶《はないけ》には花がさしてある。わたくしは円タクの窓にもしばしば同じような花のさしてあるのを思い合せ、こういう人たちの間には何やら共通な趣味があるような気がした。
 上框《あがりかまち》の板の間に上ると、中仕切《なかしき》りの障子《しょうじ》に、赤い布片《きれ》を紐《ひも》のように細く切り、その先へ重りの鈴をつけた納簾《のれん》のようなものが一面にさげてある。女はスリッパアを揃え直して、わたくしを迎え、納簾の紐を分けて二階へ案内する。わたくしは梯子段《はしごだん》を上りかけた時、そっと奥の間をのぞいて見ると、箪笥《たんす》、茶《ちゃ》ぶ台《だい》、鏡台、長火鉢、三味線掛などの据置かれた様子。さほど貧苦の家とも見えず、またそれほど取散らされてもいない。二階は三畳の間が二間、四畳半が一間、それから八畳か十畳ほどの広い座敷には、寝台《ねだい》、椅子《いす》、卓子《テーブル》を据え、壁には壁紙、窓には窓掛、畳には敷物を敷き、天井の電燈にも装飾を施し、テーブルの上にはマッチ灰皿の外《ほか》に、『スタア』という雑誌のよごれたのが一冊載せてあった。
 女は下から黒塗の蓋《ふた》のついた湯飲茶碗を持って来て、テーブルの上に置いた。わたくしは啣《くわ》えていた巻煙草を灰皿に入れ、
「今日は見物に来たんだからね。お茶代だけでかんべんしてもらうよ。」といって祝儀《しゅうぎ》を出すと、女は、
「こんなに貰わなくッていいよ。お湯《ぶ》だけなら。」
「じゃ、こん度来る時まで預けて置こう。ここの家は何ていうんだ。」
「高山ッていうの。」
「町の名はやっぱり寺嶋町《てらじままち》か。」
「そう。七丁目だよ。一部に二部はみんな七丁目だよ。」
「何だい。一部だの二部だのッていうのは。何かちがう処があるのか。」
「同じさ。だけれどそういうのよ。改正道路の向へ行くと四部も五部もあるよ。」
「六部も七部もあるのか。」
「そんなにはない。」
「昼間は何をしている。」
「四時から店を張るよ。昼間は静だから入らっしゃいよ。」
「休む日はないのか。」
「月に二度公休しるわ。」
「どこへ遊びに行く。浅草だろう。大抵。」
「そう。能《よ》く行くわ。だけれど、大抵近所の活動にするわ。同《おん》なじだもの。」
「お前、家《うち》は北海道じゃないか。」
「あら。どうして知ってなさる。小樽だ。」
「それはわかるよ。もう長くいるのか。」
「ここはこの春から。」
「じゃ、その前はどこにいた。」
「亀戸《かめいど》にいたんだけど、母《かア》さんが病気で、お金が入《い》るからね。こっちへ変った。」
「どの位借りてるんだ。」
「千円で四年だよ。」
「これから四年かい。大変だな。」
「もう一人の人なんか、もっと長くいるよ。」
「そうか。」
 下で呼鈴《よびりん》を鳴す音がしたので、わたくしは椅子を立ち、バスへ乗る近道をききながら下へ降りた。
 外へ出ると、人の往来《ゆきき》は漸く稠《しげ》くなり、チョイトチョイトの呼声も反響するように、路地の四方から聞えて来る。安全通路と高く掲げた灯の下に、人だかりがしているので、喧嘩かと思うと、そうではなかった。ヴィヨロンの音と共に、流行唄《はやりうた》が聞え出す。蜜豆屋《みつまめや》がガラス皿を窓へ運んでいる。茄玉子《ゆでたまご》林檎《りんご》バナナを手車に載せ、後《うしろ》から押してくるものもある。物売や車の通るところは、この別天地では目貫きの大通であるらしい。こういう処には、衝立《ついたて》のような板が立ててあって、さし向いの家の窓と窓とが、互に見えないようにしてある。
 わたくしは路地を右へ曲ったり、左へ折れたり、ひや合《あ》いを抜けたり、軒の下をくぐったり、足の向くまま歩いて行く中《うち》、一度通った処へまた出たものと見えて、「あら、浮気者。」「知ってますよ。さっきの且那。」などと言われた。忽ち真暗な広い道のほとりに出た。もと鉄道線路の敷地であったと見え、枕木《まくらぎ》を掘除《ほりのぞ》いた跡があって、ところどころに水が溜っている。両側とも板塀が立っていて、その後《うしろ》の人家はやはり同じような路地の世界をつくっているものらしい。
 線路|址《あと》の空地《あきち》が真直に闇をなした彼方のはずれには、往復する自動車の灯が見えた。わたくしは先刻《さっき》茶を飲んだ家の女に教えられた改正道路というのを思返して、板塀に沿うて其方《そちら》へ行って見ると、近年東京の町端《まちはず》れのいずこにも開かれている広い一直線の道路が走っていて、その片側に並んだ夜店の納簾と人通りとで、歩道は歩きにくいほど賑かである。沿道の商店からは蓄音機やラヂオの声のみならず、開店広告の笛太皷も聞える。盛に油の臭気を放っている屋台店の後には、円タクが列をなして帰りの客を待っている。
 ふと見れば、乗合自動車が駐《とま》る知らせの柱も立っているので、わたくしは紫色の灯をつけた車の来るのを待って、それに乗ると、来る人はあってもまだ帰る人の少い時間と見えて、人はひとりも乗っていない。何処まで行くのかと車掌にきくと、雷門を過ぎ、谷中《やなか》へまわって上野へ出るのだという。
 道の真中に突然赤い灯が輝き出して、乗合自動車が駐ったので、其方を見ると、二、三輌連続した電車が行手の道を横断して行くのである。踏切を越えて、町が俄《にわか》に暗くなった時、車掌が「曳舟《ひきふね》通り」と声をかけたので、わたくしは土地の名のなつかしさに、窓硝子《まどガラス》に額《ひたい》を押付けて見たが、木も水も何も見えない中に、早くも市営電車向嶋の終点を通り過ぎた。それから先は電車と前後してやがて吾妻橋をわたる。河向《かわむこう》に聳えた松屋の屋根の時計を見ると、丁度九時……。
[#地から2字上げ]昭和十一年四月

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年5月28日作成
2011年4月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

永井荷風

黄昏の地中海 —–永井荷風

 ガスコンの海湾を越え葡萄牙《ポルトガール》の海岸に沿うて東南へと、やがて西班牙《スペイノ》の岸について南にマロツクの陸地と真白なタンヂヱーの人家を望み、北には三角形なすジブラルタルの岩山《いはやま》を見ながら地中海に進み入る時、自分はどうかして自分の乗つて居る此の船が、何かの災難で、破《こは》れるか沈むかしてくれゝばよいと祈つた。
 さすれば自分は救助船に載せられて、北へも南へも僅か三|哩《マイル》ほどしかない、手に取るやうに見える向《むかう》の岸に上《あが》る事が出来やう。心にもなく日本に帰る道すがら自分は今一度ヨーロツパの土を踏む事が出来やう。ヨーロツパも文明の中心からは遠《とほざか》つて男ははで[#「はで」に傍点]な着物きて、夜《よる》の窓下にセレナドを弾き、女は薔薇《ばら》の花を黒髪にさしあらはなる半身をマンチラに蔽ひ、夜を明して舞《ま》ひ戯《たはむ》るゝ遊楽の西班牙を見る事が出来るであらう。
 今、舷《ふなばた》から手にとるやうに望まれる向《むかう》の山――日に照らされて土は乾き、樹木は少《すくな》く、黄ばんだ草のみに蔽はれた山間に白い壁塗りの人家がチラチラ
えれば其処は乃《すなは》ちミユツセが歌つたアンダルジヤぢやないか。ビゼーが不朽の音楽を作つた「カルメン」の故郷ぢやないか。
 目もくらむ衣裳の色彩と熱情湧きほとばしる音楽を愛し、風の吹くまゝ気の行くまゝの恋を思ふ人は、誰れか心をドンジヤンが祖国イスパニヤに馳《は》せぬものがあらう。
 熱い日の照るこの国には、恋とは男と女の入り乱れて戯《たはむ》れる事のみを意味して、北の人の云ふやうに、道徳だの、結婚だの、家庭だのと、そんな興のさめる事とは何の関係もないのだ。祭礼《まつり》の夜《よ》に契《ちぎり》を結んだ女の色香に飽きたならば、直ちに午過《ひるすぎ》の市場《フエリヤ》に行《ゆ》きて他《た》の女の手を取り給へ。若し、其の女が人の妻ならば夜の窓にひそんで一挺のマンドリンを弾じつゝ、Deh, vieni alla finestra, O mio tesoro!(あはれ。窓にぞ来よ、わが君よ。モザルトのオペラドンジヤンの歌)と誘《いざな》ひ給へ。して、事|露《あらは》れなば一振《ひとふり》の刃《やいば》に血を見るばかり。情《じやう》の火花のぱつと燃えては消え失せる一刹那《いつせつな》の夢こそ乃《すなは》ち熱き此の国の人生の凡《すべ》てゞあらう。鈴のついた小鼓に、打つ手拍子踏む足拍子の音烈しく、アンダルジヤの少女《をとめ》が両手の指にカスタニエツト打鳴らし、五色《ごしき》の染色《そめいろ》きらめく裾《すそ》を蹴立てゝ乱れ舞ふ此の国特種の音楽のすさまじさ。嵐の如くいよ/\酣《たけなは》にしていよ/\急激に、聞く人見る人、目も眩《くら》み心も覆《くつがへ》る楽《がく》と舞《まひ》、忽然として止む時はさながら美しき宝石の、砕け、飛び、散つたのを見る時の心地《こゝち》に等しく、初めてあつ[#「あつ」に傍点]と疲れの吐息《といき》を漏《もら》すばかり。この国の人生はこの音楽の其の通りであらう……
 然るを船は悠然として、吾《わ》が実現すべからざる欲望には何の関係もなく、左右の舷《ふなべり》に海峡の水を蹴つて、遠く沖合に進み出た。突出《つきで》たジブラルタルの巌壁は、其の背面に落ちる折《をり》からの夕日の光で、燃える焔の中に屹立《きつりつ》してゐる。其の正面、一帯の水を隔《へだ》てたタンヂヱーの人家と低く延長したマロツクの山とは薔薇色から紫色にと変つて行つた。
 然し、徐々《おもむろ》に黄昏《たそがれ》の光の消え行く頃には其の山も其の岩も皆遠く西の方《かた》水平線の下に沈んで了ひ、食事を終つて再び甲板の欄干に身を倚《よ》せた時、自分は茫々たる大海原の水の色のみ大西洋とは驚く程|異《ちが》つた紺色を呈し、天鵞絨《びろうど》のやうに滑《なめらか》に輝いて居るのを認めるばかりであつた。
 けれども、この水の色は、山よりも川よりも湖よりも、また更に云はれぬ優しい空想を惹起《ひきおこ》す。此の水の色を見詰めて居ると、太古の文芸がこの水の漂《たゞよ》ふ岸辺から発生した歴史から、美しい女神《によしん》ベヌスが紫の波より産《うま》れ出《いで》たと伝ふ其れ等の神話までが、如何にも自然で、決して無理でないと首肯《うなづ》かれる。
 星が燦《きらめ》き出した。其の光は鋭く其の形は大きくて、象徴的《しやうちようてき》な絵で見る如く正しく五つの角々《かどかど
》があり得るやうに思はれる。空は澄んで暗碧《あんぺき》の色は飽くまで濃い。水は空と同じ色ながら其の境《さかひ》ははつきり[#「はつきり」に傍点]と区別されてゐる。凡《すべ》てが夜《よる》でも――月もない夜ながら――云ふに云はれず明《あかる》くて、山一つ見えない空間にも何処かに正しい秩序と調和の気が通《かよ》つて居るやうに思はれた。あゝ端麗な地中海の夜《よる》よ。自分は偶然|輪郭《りんくわく》の極めて明晰《めいせき》な古代の裸体像を思出した。クラシツク芸術の美麗を思出した。ベルサイユ庭苑《ていゑん》の一斉に刈込まれた樹木の列を思ひ出した。わが作品も此《かく》の如《ごと》くあれ。夜《よる》のやうな漠《ばく》とした憂愁の影に包まれて、色と音と薫香《くんかう》との感激をもて一糸を乱さず織りなされた錦襴《きんらん》の帷《とばり》の粛然として垂れたるが如くなれと心に念じた。

 地中海に入《はい》つて確か二日目の晩である。遠く南方に陸地が見えた。北亜弗利加《きたアフリカ》のアルジエリイあたりであらう。
 食事の後《のち》甲板に出ると夕凪《ゆふな》ぎの海原《うなばら》は波一つなく、その濃い紺色の水の面《おもて》は磨き上げた宝石の面《おもて》のやうに一層の光沢を帯び、欄干から下をのぞくと自分の顔までが映るかと思はれた――美しい童貞《わらべ》の顔のやうになつて映るかと思はれた。無限の大空には雲の影一ツない。昼の中《うち》は烈しい日の光で飽くまで透明であつた空の藍《あゐ》色は、薄く薔薇色を帯びてどんより[#「どんより」に傍点]と朧《おぼ》ろになつた。仏蘭西《フランス》で見ると同じやうな蒼《あを》い黄昏《たそがれ》の微光は甲板上の諸有《あらゆ》るものに、船梯子《ふなばしご》や欄干や船室の壁や種々《いろ/\》の綱なぞに優しい神秘の影を投げるので、殊に白く塗り立てた短艇《ボート》にも何か怪しい生命《いのち》が吹き込まれたやうに思はれる。
 そよ吹く風は丁度|酣《たけなは》なる春の夜《よ》の如く爽《さわや》かに静《しづか》に、身も溶けるやうに暖《あたゝか》く、海上の大なる沈静が心を澄ませる。
 自分の心は全く空虚《うつろ》になつた。悲しいとも、淋しいとも、嬉しいとも、何とも思ふ事が出来ない。唯《たゞ》非常に心持がよくて堪へられない事だけを意識するに止《とど》まつてゐる。自分は却て大なる苦痛に悩むがやうにどつさり有《あ》り合《あ》ふ長椅子に身を落し、遠く空のはづれに眼を移した。
 夕《ゆふべ》の明《あかる》い星は五ツ六ツともう燦《きらめ》き初《そ》めて居る。自分はぢつと其の美しい光を見詰めて居ると、何時か云はれぬ詩情が胸の底から湧起《わきおこ》つて来て殆ど押へ切れぬやうな気がする。肺腑《はいふ》の底から自分はこの暮れ行く地中海の海原《うなばら》に対して、声一杯に美しい歌を唄《うた》つて見たいと思つた。すると、まだ歌はぬ先から、自分の想像した歌は美しい声となつて、ゆるやかな波のうねりに連れて、遠く/\の空間に漂《たゞよ》ひ消えて行く有様が、もう目に見えるやうな気がする。
 自分は長椅子から立上り爽《さわやか》な風に面《おもて》を吹かせ、暖《あたゝか》く静かな空気を肺臓一ぱいに吸込《すひこ》み、遠くの星の殊更美しい一ツを見詰めて、さて唇を開いて声を出さうとすると、哀れ心ばかり余りに急《せ》き立つて居た為めか、自分はどう云ふ歌を唄《うた》ふのであつたか、すつかり選択する事を忘れて居た。歌謡《うた》は要らない。節ばかりでもよい。直様《すぐさま》さう思つて、自分は先づ |la, la, la《ラーラーラー》……と声を出して見たが、其れさへも、どう云ふ節で歌つてよいのか又迷つた。
 自分は非常に狼狽して、頻《しきり》に何か覚えて居る節をば記憶から捜《さが》し出さうと試みた。紫色の波は朗かな自分の声の流出《ながれで》るのを、今か/\と待つやうに動き、星の光は若い女の眼の如くじれつたさうに輝いてゐる。
 自分は漸くカワレリヤ、ルスチカナの幕開《まくあ》きに淋しい立琴《アルプ》を合方《あひかた》にして歌ふシチリヤナの一節《ひとふし》を思付《おもひつ》いた。あの節の中《うち》には南伊太利亜《みなみイタリヤ》の燃える情と、又何処となしに孤島の淋しさが含まれて居て、声を長く引く調子の其れとなく、日本人の耳には船歌とも思はれるやうな処がある。航海する今の身の上、此の歌にしくものは有るまいと、自分は非常に勇立《いさみた》つて、先づ其の第一句を試みやうとしたが、O Lola, bianca come――と云ふ文句ばかりで其の後を忘れて了つた。
 あれは、自分がよく知らない伊太利語だから記憶して居ないのも無理はない。トリスタンの幕開《まくあき》、檣《ほばしら》の上で船頭の歌ふ歌、此の方が猶《なほ》よく境遇に適して居やう。処が今度は歌の文句ばかりで、唱ふべき必要の節が怪しくなつて居る。いか程歌ひたいと思つても、ヨーロツパの歌は唄《うた》ひにくい。日本に生れた自分は自国の歌を唄ふより仕方がないのか。自分はこの場合の感情――フランスの恋と芸術とを後にして、単調な生活の果てには死のみが待つて居る東洋の端《はづ》れに旅して行く。其れ等の思ひを遺憾なく云ひ現《あらは》した日本語の歌があるかどうかと考へた。
 然し此れは歌ひにくい西洋の歌に失望するよりも更に深い失望を感ぜねばならぬ。「おしよろ高島《たかしま》」と能《よ》く人が歌ふ。悲しくツていゝ節《ふし》だと賞《ほ》める。けれども旅と追分節《おひわけぶし》と云ふ事のみが僅な関係を持つて居るだけで、ギリシヤの神話を思出す様な地中海の夕暮に対する感情とは余りに不調和ではないか。「竹本《たけもと》」や「常磐津《ときはづ》」を初め凡《すべ》ての浄瑠璃《じやうるり》は立派に複雑な感激を現《あらは》して居るけれど、「音楽」から見れば歌曲と云はうよりは楽器を用ゐる朗読詩とも云ふべく、咄嗟《とつさ》の感情に訴へるには冷《ひやゝ》か過ぎる。「哥沢節《うたざはぶし》」は時代のちがつた花柳界《くわりうかい》の弱い喞《かこ》ちを伝へたに過ぎず、「謡曲《えうきよく》」は仏教的の悲哀を含むだけ古雅《こが》であるだけ二十世紀の汽船とは到底|相容《あひい》れざる処がある。あれは苫舟《とまぶね》で艫《ろ》の音を聞きながら遠くに墨絵のやうな松の岸辺を見る景色でなくてはならぬ。其他《そのた》には薩摩琵琶歌《さつまびはうた》だの漢詩|朗吟《らうぎん》なぞも存在しているが、此れも同じく色彩の極めて単純な日本特有の背景と一致した場合、初歩期の単調が、ある粗朴《そぼく》な悲哀の美感を催《もよほ》させるばかりである。
 自分は全く絶望した。自分はいか程溢るゝ感激、乱るゝ情緒《じやうしよ》に悶《もだ》えても其れを発表すべく其れを訴ふべき音楽を持つて居ない国民であるのだ。かゝる国民かゝる人種が世界の他《た》にあるであらうか。
 下の甲板から此の時|印度《インド》の殖民地へ出稼ぎに行《ゆ》くイギリスの鉄道工夫が二三人と、香港《ホンコン》へ行くとか云ふ身許《みもと》の知れぬ女とが声を合《あは》せて歌ふのを聞付けた。滑稽な軽佻《けいてう》な調子から、それはロンドンの東街《ひがしまち》の寄席《よせ》などで歌ふ流行唄《はやりうた》らしい。音楽としては無論何の価値もないものだけに、聞き澄《すま》して居るとイギリスの労働者が海を越して遠く熱帯の地に出稼ぎに行く心持が、汚《きたな》い三等室や薄暗い甲板の有様と釣合《つりあ》つて非常に能《よ》く表現されて居る。
 幸福な国民ではないか。イギリスの文明は下層の労働者にまで淋しい旅愁を託《たく》するに適すべき一種の音楽を与へた。明治の文明。それは吾々《われ/\》に限り知られぬ煩悶を誘《いざな》つたばかりで、それを訴ふべく託すべき何物をも与へなかつた。吾等が心情は已に古物《こぶつ》となつた封建時代の音楽に取り縋《す》がらうには余りに遠く掛け離れてしまつたし、と云つて逸散《いつさん》に欧洲の音楽に赴《おもむ》かんとすれば、吾等は如何なる偏頗《へんぱ》の愛好心を以てするも猶《なほ》風土人情の止《や》みがたき差別を感ずるであらう。
 吾等は哀れむべき国民である。国土を失つたポーランドの民よ。自由を持たぬロシヤ人よ。諸君は猶《なほ》シヨーパンとチヤイコウスキーを有してゐるではないか。
 夜《よる》の進むにつれて水は黒く輝き空は次第に不思議な光沢を帯びて、恐ろしく底深く見え、星の光の明《あかる》く数多い事は又驚くばかりである。神秘なる北アフリカに近い地中海の空よ。イギリスの工夫《こうふ》が歌ふ唄《うた》は物哀れに此の神秘の空に消えて行く。
 歌へ。歌へ。幸福なる彼等。
 自分は星斗《せいと》賑《にぎは》しき空をば遠く仰ぎながら、心の中《うち》には今日よりして四十幾日、長い/\船路《ふなぢ》の果に横《よこた》はる恐《おそろ》しい島嶼《しま》の事を思浮《おもひうか》べた。自分はどうしてむざ/\巴里《パリー》を去ることが出来たのであらう。

底本:「日本の名随筆56 海」作品社
   1987(昭和62)年6月25日第1刷発行
   1999(平成11)年8月25日第10刷発行
底本の親本:「荷風全集 第三巻」岩波書店
   1963(昭和38)年8月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月3日作成
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永井荷風

一月一日—– 永井荷風

 一月一日の夜、東洋銀行米国支店の頭取|某《なにがし》氏の社宅では、例年の通り、初春を祝ふ雑煮餅の宴会が開かれた。在留中は何れも独身の下宿住ひ、正月が来ても屠蘇《とそ》一杯飲めぬ不自由に、銀行以外の紳士も多く来会して、二十人近くの大人数である。
 キチーと云つて、此の社宅には頭取の三代も変つて、最《も》う十年近く働いて居る独乙《ドイツ》種の下女と、頭取の妻君の遠い親類だとか云ふ書生と、時には妻君御自身までが手伝つて、目の廻《ま》ふ程に急《せわ》しく給仕をして居る。
『米国《アメリカ》まで来て、此様《こんな》御馳走になれやうとは、実に意外ですな。』と髯を捻《ひね》つて厳《いか》めしく礼を云ふもあれば、
『奥様、此れでやツとホームシツクが直りました。』とにや/\笑ふもあり、又は、
『ぢやア最《も》う一杯、何しろ二年振こんなお正月をした事がないんですから。』と愚痴らしく申訳するもある。
 何れも、西洋人相手の晩餐会《デンナー》にスープの音さする気兼もないと見えて、閉切つた広い食堂内には、此の多人数がニチヤ/\噛む餅の音、汁を啜る音、さては、ごまめ、かづのこの響、焼海苔の舌打なぞ、恐しく鳴り渡るにつれて、『どうだ、君|一杯《ひとつ》。』の叫声、手も達《とゞ》かぬテーブルの、彼方《かなた》此方《こなた》を酒杯《さかづき》の取り遣り。雑談、蛙《かわず》の声の如く湧返つて居たが、其の時突然。
『金田は又来ないな。あゝハイカラになつちや駄目だ。』とテーブルの片隅から喧嘩の相手でも欲《ほ》しさうな、酔つた声が聞えた。
『金田か、妙な男さね、日本料理の宴会だと云へば顔を出した事がない。日本酒と米の飯ほど嫌ひなものは無いんだツて云ふから……。』
『米の飯が嫌ひ……某《それ》ア全く不思議だ。矢張《やツぱ》り諸君の……銀行に居られる人か?』と誰れかゞ質問した。
『さうです。』と答へたのは主人の頭取で、
『もう六七年から米国《べいこく》に居るんだが……此の後も一生外国に居たいと云つて居る。』
 騒然たる一座の雑談は忽《たちま》ち此の奇な人物の噂さに集中した。頭取は流石《さすが》老人だけに当らず触らず。
『鳥渡《ちよつと》人好きはよくないかも知らんが極く無口な柔順《おとな》しい男で、長く居るだけ米国の事情に通じて居るから、事務上には必要の人才《じんさい》だ。』と穏な批評を加へて、酒杯に舌を潤はした。
『然《しか》し、余り交際を知らん男ぢや無いですか。何程《いくら》、酒が嫌ひでも、飯が嫌ひでも、日本人の好誼《よしみ》として、殊に今夜の如きは一月一日、元旦のお正月だ!。』と最初の酔つた声が不平らしく非難したが、すると、此《これ》に応じて、片隅から、今までは口を出さなかつた新しい声が、徐《おもむろ》に、
『然《しか》しまア、さう攻撃せずと許して置き給へ。人には意外な事情があるもんだ、僕もつい此間まで知らなかつたのだが、先生の日本酒嫌ひ、日本飯嫌ひには深い理由があるんだ。』
『はア、さうか。』
『僕はそれ以来、大《おほひ》に同情を表して居る。』
『一体、どう云ふ訳だ?』
『正月の話には、ちと適当しないやうだが……。』と彼は前置して、
『つい此間、クリスマスの二三日|前《ぜん》の晩の事さ。西洋人に贈《や》る進物の見立をして貰ふには、長く居る金田君に限ると思つてね、彼方《あツチ》此方《こツち》とブロードウヱーの商店を案内して貰つた帰り、夜も晩くなるし、腹も空《す》いたから、僕は何の気なしに、近所の支那料理屋にでも行かうかと勧めると、先生は支那料理はいゝが、米の飯を見るのが厭だから……と云ふので、其《そ》のまゝ先生の案内で、何とか云ふ仏蘭西《フランス》の料理屋に這入《はい》つたのさ。葡萄酒が好きだね……先生は。忽ちコツプに二三杯干して了ふと、少し酔つたと見えて、ぢツと目を据ゑて、半分ほど飲残した真赤な葡萄酒へ電気燈の光を反射する色を見詰めて居たが、突然、
『君は両親とも御健在ですか。』と訊く。妙な男だと思ひながらも、
『えゝ、丈夫ですよ。』と答へると、俯向《うつむ》いて、
『私は……父はまだ達者ですが、母は私が学校を卒業する少し前に死亡《なくな》りました。』
 僕は返事に困つて、飲みたくもない水を飲みながら其の場を紛らした。
『君の父親《フアーザー》は、酒を飲まれるのですか?』少時《しばらく》して又|訊出《きゝだ》す。
『いや、時々|麦酒《ビール》位は遣るやうです。大した事は有りません。』
『それぢや[#「それぢや」は底本では「それぢゃ」]、君の家庭は平和でせうね。実際、酒は不可《いか》んです。僕も酒は何によらず一滴も飲《や》るまいとは思つて居るんですが、矢張り多少は遺伝ですね。然し、私は日本酒だけは、どうしても口にする気がしないです……香気《にほひ》を嗅いだ丈けでも慄然《ぞつ》とします。』
『何故です。』
『死んだ母の事を思ひ出すからです。酒ばかりじや無い、飯から、味噌汁から、何に限らず日本の料理を見ると、私は直ぐ死んだ母の事を思ひ出すのです。
 聞いて下さいますか――
 私の父は或人《あるひと》は知つて居ませう、今では休職して了ひましたが、元は大審院の判事でした。維新以前の教育を受けた漢学者、漢詩人、其れに京都風の風流を学んだ茶人です。書画骨董を初め、刀剣、盆栽、盆石の鑑賞家で、家中はまるで植木屋と、古道具屋を一緒にしたやうでした。毎日の様に、何れも眼鏡を掛けた禿頭の古道具屋と、最《も》う今日では鳥渡《ちよつと》見られぬかと思ふ位な、妙な幇間《ほうかん》肌の属官や裁判所の書記どもが詰め掛けて来て、父の話相手、酒の相手をして、十二時過ぎで無ければ帰らない。其の給仕や酒の燗番《かんばん》をするのは、誰あらう、母一人です。無論、下女は仲働《なかばたらき》に御飯焚《おはんた》きと、二人まで居たのですが、父は茶人の癖として非常に食物の喧《やかま》しい人だもので、到底奉公人任せにしては置けない。母は三度々々自ら父の膳を作り、酒の燗をつけ、時には飯までも焚かれた事がありました。其程《それほど》にしても、まだ其の趣好に適しなかつたものと見へて、父は三度々々必ず食物の小事を云はずに箸を取つた事がない。朝の味噌汁を啜る時からして、三州味噌の香気《にほひ》がどうだ、塩加減がどうだ、此の沢庵漬《たくあん》の切形《きりかた》は見られぬ、此の塩からを此様《こんな》皿に入れる頓馬はない、此間《このあひだ》買つた清水焼はどうした、又|破《こわ》したのぢやないか、気を付けて呉れんと困るぞ……丁度落語家が真似をする通り、傍《そば》で聞いて居ても頭痛がする程小言を云はれる。
 母の仕事は、恁《か》く永久に賞美されない料理人の外に、一寸触つても破《こわ》れさうな書画骨董の注意と、盆栽の手入で、其れも時には礼の一ツも云はれゝばこそ、何時も料理と同じ様に行届かぬ手抜《てぬか》りを見付出されては叱られて居られた。ですから、私が生れて第一に耳にしたものは、乃ち皺枯《しはが》れた父の口小言、第一に目にしたものは、何時も襷《たすき》を外した事のない母の姿で、無邪気な幼心に、父と云ふものは恐いもの、母と云ふものは痛《いたま》しいものだと云ふ考へが、何より先に浸渡《しみわた》りました。
 私は殆ど父の膝に抱《いだ》かれた事がない。時々は優しい声を作つて私の名を呼ばれた事もあつたですが、猫の様にいぢけて了つた私は恐くて近《ちかづ》き得ないのです。殊に父の食事は前《ぜん》に申す通り、到底子供の口になぞ入れられる種類のものではないので、一度も膳を並べて箸を取つた事もなく、幼年から少年と時の経つに従つて、私は自然と父に対する親愛の情が疎くなるのみか、其の反対に、父なるものは暴悪|無道《ぶだう》な鬼の様に思はれ、其れにつれて、母上は無論私の感ずる程では無かつたかも知れないが、兎《と》に角《かく》、父が憎くさの私の眼だけには、世の中に、何一つ慰みもなく、楽みもなく暮らして居られる様に見へた。
 此う云ふ境遇から此う云ふ先入の感想を得て、私は軈《やが》て中学校に進み、円満な家庭のさまや無邪気な子供の生活を描《うつ》した英語の読本、其れから当時の雑誌や何やらを読んで行くと愛《ラブ》だとか家庭《ホーム》だとか云ふ文字《もんじ》の多く見られる西洋の思想が、実に激しく私の心を突いたです。同時に我が父の口にせられる孔子の教《おしへ》だの武士道だのと云ふものは、人生幸福の敵である、と云ふ極端な反抗の精神が、何時とは無しに堅く胸中に基礎を築き上げて了つた。で、年と共に、鳥渡《ちよつと》した日常の談話にも父とは意見が合はなくなりましたから、中学を出て、高等の専門学校に入学すると共に、私は親元を去つて寄宿舎に這入《はい》り、折々は母を訪問して帰る道すがら、自分は三年の後卒業したなら、父と別れて自分一個の新家庭を造り、母を請じて愉快に食事をして見やう……とよく其様《そんな》事を考へて居ましたが、あゝ人生夢の如しで、私の卒業する年の冬、母上は黄泉《あのよ》に行かれた。
 何でも夜半《よなか》近くから、急に大雪が降出した晩の事で、父は近頃買入れた松の盆栽をば、庭の敷石に出して置いたので、この雪の一夜を其の儘にして置いたなら雪の重さで枝振りが悪くなるからと、下女か誰かを呼び起して家の中《うち》へ取入れさせやうと云はれた。処《ところ》が、母上は折悪しく下女が日中《ひる》風邪の気味で弱つて居た事を知つて居られたので、可哀さうですからと自ら寝衣《ねまき》のまゝで、雨戸を繰つて、庭に出て、雪の中をば重い松の盆栽を運ばれた……其の夜から風邪を引かれ、忽ち急性肺炎に変症したのださうです。
 私は実に大打撃を蒙りました。其の後と云ふものは、友人と一緒に、牛肉屋だの料理屋なぞへ行つても、酒の燗が不可《いけ》ないとか飯の焚き方がまづいとか云ふ小言を聞くと、私は直ぐ悲惨な母の一生を思出して、胸が一杯になり、縁日や何かで人が植木を買つて居るのを見れば、私は非常な惨事を目撃した様に身を顫《ふる》はさずには居られなかつたのです。
 処が幸にも一度、日本を去り、此の国へ来て見ると、万事の生活が全く一変して了つて、何一ツ悲惨を連想するものがないので、私は云《い》はれぬ精神の安息を得ました。私は殆どホームシツクの如何なるかを知りません。或る日本人は盛《さかん》に、米国の家庭や婦人の欠点を見出しては、非難しますが、私には例へ表面の形式、偽善であつても何でもよい、良人が食卓で妻の為めに肉を切つて皿に取つて遣れば、妻は其の返しとして良人の為めに茶をつぎ菓子を切る、其の有様を見るだけでも、私は非常な愉快を感じ、強いて其の裏面を覗《うかゞ》つて、折角の美しい感想を破るに忍びない。
 私は春の野辺へ散策《ピクニツク》に出て大きなサンドウイツチや、林檎を皮ごと横かぢりして居る娘を見ても、或はオペラや芝居の帰り、夜更《よふけ》の料理屋で、シヤンパンを呑み、良人や男連には眼も呉れず饒舌《しやべ》つて居る人の妻を見ても、よしや、最《もう》少し極端な例に接しても、私は寧ろ喜びます、少くとも彼等は楽しんで居る、遊んで居る、幸福である。されば、妻なるもの、母なるものゝ幸福な様《さま》を見た事のない私の目には、此れさへ非常な慰藉《ゐしや》ぢやありませんか。
 お分りになりましたらう。私の日本料理、日本酒嫌ひの理由《いはれ》はさう云ふ次第です。私の過去とは何の関係もない国から来る西洋酒と、母を泣かしめた物とは全く其の形と実質の違つて居る西洋料理、此れでこそ私は初めて食事の愉快を味ふ事が出来るのです。』
        *
『恁《か》う云つてね、金田君は身上話を聞いて呉れたお礼だからと、僕が止めるのも聞かずに、到頭《たうとう》三鞭酒《シヤンパンしゆ》を二本ばかり抜いた。流石《さすが》西洋通だけあつて葡萄酒だの、三鞭酒なぞの名前は委《くは》しいもんだ。』
 弁者《べんしや》は語り了つて、再び雑煮の箸を取上げた。一座|暫《しばら》くは無言の中に、女心の何につけても感じ易いと見えて、頭取の夫人の吐く溜息のみが、際立つて聞えた。
     (明治四十年五月)

底本:「花の名随筆1 一月の花」作品社
   1998(平成10)年11月30日初版第1刷発行
底本の親本:「荷風全集 第四巻」岩波書店
   1992(平成4)年7月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2009年12月9日作成
2011年12月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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永井荷風

或夜 —–永井荷風

季子《すゑこ》は省線市川驛の待合所に入《はい》つて腰掛に腰をかけた。然し東京へも、どこへも、行かうといふ譯《わけ》ではない。公園のベンチや路傍の石にでも腰をかけるのと同じやうに、唯ぼんやりと、しばらくの間腰をかけてゐやうといふのである。
 改札口の高い壁の上に裝置してある時計には故障と書いた貼紙がしてあるので、時間はわからないが、出入の人の混雜も日の暮ほど烈しくはないので、夜もかれこれ八時前後にはなつたであらう。札賣る窓の前に行列をする人數も次第に少く、入口の側《そば》の賣店に並べられてあつた夕刊新聞ももう賣切れてしまつたらしく、おかみさんは殘りの品物をハタキではたきながら店を片付けてゐる。向側の腰掛には作業服をきた男が一人荷物を枕に前後を知らず仰向けになつて眠つてゐる。そこから折曲つた壁に添うて改札口に近い腰掛には制帽の學生らしい男が雜誌をよみ、買出しの荷を背負つたまゝ婆さんが二人煙草をのんでゐる外には、季子と並んでモンペをはいた色白の人妻と、膝の上に買物袋を載せた洋裝の娘が赤い鼻緒の下駄をぬいだりはいたりして、足をぶら/\させてゐるばかりである。
 色の白い奧樣は改札口から人崩《ひとなだれ》の溢れ出る度毎に、首を伸し浮腰になつて歩み過る人に氣をつけてゐる中、やがて折革包を手にした背廣に中折帽の男を見つけて、呼掛けながら馳出し、出口の外で追ひついたらしい。
 季子は今夜初てこゝに來たのではない。この夏、姉の家の厄介になり初めてから折々憂欝になる時、ふらりと外に出て、蟇口に金さへあれば映畫館に入つたり、闇市をぶらついて立喰ひをしたり、そして省線の驛はこの市川ばかりでなく、一ツ先の元八幡驛の待合所にも入つて休むことがあつた。その度々、別に氣をつけて見るわけでもないが、この邊の町には新婚の人が多いせいでもあるのか、夕方から夜にかけて、勤先から歸つて來る夫を出迎へる奧樣。また女の歸つて來るのを待合す男の多いことにも心づいてゐた。季子はもう十七になつてゐるが、然し戀愛の[#「戀愛の」は底本では「變愛の」]經驗は一度もした事がないので、さほど羨しいとも厭《いや》らしいとも思つたことはない。唯腰をかけてゐる間、あたりには何一ツ見るものがない爲、遣場のない眼をさう云ふ人達の方へ向けるといふまでの事で、心の中では現在世話になつてゐる姉の家のことしか考へてゐない。姉の家にはゐたくない。どこか外に身を置くところはないものかと、さし當り目當《めあて》のつかない事ばかり考へつゞけてゐるのである。
 この前來た時には短いスカートからむき出しの兩足を隨分蚊に刺されたが、今はその蚊もゐなくなつた。二人づれで凉みに來たり、子供を遊ばせに來る女もゐたが今はそれも見えない。時候はいつか秋になり、その秋の夜も大分露けくなつた。と思ふと、ます
ます 現在の家にゐるのがいやで いやで たまらない氣がして來る……。
 季子は三人|姉妹《きやうだい》の中での季娘で、二人の姉がそれ/″\結婚してしまつた後、母と二人埼玉縣の或町に疎開してゐたが、この春母が病死して、差當り行く處がないので、此町の銀行で課長をしてゐる人に片付いた一番年上の姉の許《もと》に引取られたのだ。姉には三ツになる男の子がある。義兄《あに》は年の頃四十近く、職務のつかれよりも上役の機嫌と同僚の氣受を窺ふ氣づかれに精力を消耗してしまつたやうに見える有りふれた俸給生活者。姉も同じく、配給所の前に立並ぶ女達の中には少くとも五六人は似た顏立を見るやうな奧さんである。ヒステリツクでもなく、と云つて、さほど野呂間《のろま》にも見えず華美《はで》好きでも吝嗇でもない。掃除好きでもない代り、また決して無性《ぶしやう》でもない。洗濯も怠らず針仕事や編物も嫌ひではないと云ふやうな奧さんである。毎日きまつた時間に夫が歸つて來ると、新聞で見知つた世間の出來事、配給物のはなし、子供の健康――日々きまつた同じ話を繰返しながら、いつまでも晩飯の茶ぶ臺を離れず、ラヂオの落語に夫婦二人とも大聲で笑つたり、長唄や流行歌をいかにも感に堪へたやうに聞きすます。その中臺所で鼠のあれる音に氣がついて、茶ぶ臺を片づけるのが、其日の生活の終りである。
 さういふ家庭であるから、季子はそれほど居づらく思ふわけの無い事は、自分ながら能く承知してゐるのだ。自分の方から進んで手傳ふ時の外、洗ひものも掃除も姉から言ひつけられたことはない。兄はまた初めから何に限らず小言がましく聞えるやうな忠告はした事がなく、郵便を出させにやる事も滅多にない。日曜日に子供も一緒に夫婦連立つて買物方々出歩かうと云ふ折など、「季ちやん。一緒に行くかね。」と誘ふこともあるが、是非にと云ふ程の樣子は見せず、さうかと云つて留守をたのむとも言はない。季子はおのづと家に居殘るやうになると、却て元氣づき、聲を張り上げて流行唄を歌ひながら、洗濯をしたり、臺所の物を片づけたりした後、戸棚をあけて食殘りの物を皿まで嘗めてしまつたり、配給の薩摩芋をふかして色氣なく貪《むさぼ》り食《くら》ふ。又ぼんやり勝手口へ出て垣根の杭に寄りかゝりながら晴れた日の空や日かげを見詰めてゐる事もあつた。
 季子はどうして姉の家にゐるのがいやなのか、自分ながらその心持がわからなかつたのであるが、日數《ひかず》のたつに從ひ、靜に考へて見ると、姉の家が居づらいのではなくて、それは別の事から起つて來る感情の爲である事に心づいて來た。自分はさし當りこゝより外に身を置く處がない事を意識するのが、情けなくていやなのである。自分にはこゝばかりでなく、外に行く處はいくらもあるが、好んで此の家に來てゐると云ふやうに若しも思ひなす事ができたなら、自分は決していやだとも居辛《ゐづら》いとも、そんな妙な心持にはならなかつたであらう。然し實際は全くそれとは相違して、こゝより外に行きどころのない身である事は明瞭である。さう思ふと心細く悲しくなると同時に、何も彼も癪にさはつて腹《はら》が立つて來てたまらなくなるのである。
 どんな職業でもかまはない。季子は女中でも子守でも、車掌や札切でもいゝから、どこにか雇はれたいと思つてゐるが、それは姉夫婦が許してくれさうにも思はれない。人に聞かれても外聞の惡くないやうな會社や役所の事務員には、疎開や何かの爲高等女學校は中途で止してしまつたまゝなので、採用される資格が無い……。
 ふと思ひ返すと、市川の姉の家へ引取られて、わづか四五日にしかならない頃であつた。一番上の姉よりもずツといゝ處へ片付いてゐる二番目の姉が鎌倉の屋敷から何かの用事で尋ねて來た時、話のついでに此頃は復員でお嫁さんを搜してゐるものが多いから、季子も十七なら、いつそ今の中結婚させてしまつた方がいゝかも知れないと言つてゐたのを、蔭《かげ》でちらりと聞いたことがあつた。
 その當座、季子は落ちつかないわく
わく した心持で、茶ぶ臺に坐るたび
たび 姉や兄の樣子ばかり氣にしてゐたが、その話は今だに二人の口からは言出されない。季子は自分の方から切出して見やうかと思つたこともあるが、氣まりが惡いまゝ、それもいつか、それなりに、季子は日のたつと共に自分の方でも忘れるともなく忘れてしまつた。

 見廻すと、あたりはいつの間《ま》にか大分靜になつてゐる。荷物を枕にぐう
ぐう 眠つてゐた職工もどこへか行つてしまひ、下駄をはいたりぬいだり足をぶら
ぶら させてゐた娘の立去つた跡《あと》には、子供をおぶつた女が腰をかけて居眠りをしてゐる。
 その時季子は烟草の匂につれて其烟が横顏に流れかゝるのに心づき、何心なく見返ると、
「京成電車の驛は遠いんでせうか。」ときくものがある。
 いつの間《ま》にか自分の隣りに、背廣に鳥打帽を冠つた年は二十四五、子供らしい面立《おもだち》の殘つてゐる一人の男が腰をかけてゐた。然し季子は自分に話しかけたのではないと思つて、默つてゐると、
「京成の市川驛へはどつちへ行つたらいゝんでせう。」
 季子はスマートな樣子に似ず妙な事をきく人だと思ひながら、
「京成電車にはそんな驛はありません。」
「さうですか。市川驛は省線ばかりなんですか。」
「えゝ。」と云つて息を引く拍子に、季子は烟草の烟を吸込んでむせやうとした。
「失禮。失禮。」と男は手を擧げて烟を拂ひながら立上り、出口から見える闇市の灯《ひ》を眺めてゐたが、そのまゝ振返りもせずに出て行つた。
 列車の響と共に汽笛の聲がして、上りと下りの電車が前後して着いたらしく、改札口は駈け込む人と、押合ひながら出て來る人とで俄に混雜し初めたが、それも嵐の過ぎ去るやうに忽ちもとの靜けさに立返る。
 季子は聲まで出して思ふさま大きな欠伸《あくび》をしつゞけたが、こんな處にはもう我慢してもゐられないとでも云ふやうに、腰掛を立ち、來た時のやうにぶらり ぶらり 夜店の灯の見える方へと歩き初めた。
 夜店の女達は立止つたり通り過ぎたりする人を呼びかけて、
「甘い羊羹ですよ。甘《あま》いんですよ。」
「あん麺麭《ぱん》はいかゞです。」
「もうおしまひだ。安くまけますよ。」
 道の曲角まで來ると先程驛の事をきいた鳥打帽の青年が電信柱のところに立つてゐて、季子の姿を見とめ、
「もうお歸りですか。」
 季子は知らない振もしてゐられず、ちよつと笑顏を見せて、そのまゝ歩き過ると、男も少し離れて同じ方向へと歩き初める。
 江戸川堤から八幡中山を經て遠く船橋邊までつゞく國道である。立並ぶ商店と映畫館の燈火に明く照らされた道の兩側には、ところどころ小屋掛をしたおでん屋汁粉屋燒鳥屋などが出てゐて、夜風に暖簾を飜してゐる。
「お汁粉一杯飮んで行きませうよ。」
 男はつと立止つて、さアと言はぬばかり、季子の顏を見詰めながら、一人|先《さき》へ入《はい》つたが、腰掛にはつかず立つたまゝ、季子の入《はい》るのを待つてゐる樣子に、そのまゝ行つてもしまはれず、季子はもぢ もぢ しながらその傍《そば》に腰をかけた。
 一杯目の汁粉を飮み終らぬ中、「もう一杯いゝでせう。割合に甘い。」と男は二杯目を註文した。
 季子は初めから何とも言はず、わざと子供らしく、勸められるがまゝ、二杯目の茶碗を取上げたが、其時には大分氣も落ちついて來て、まともに男の顏や樣子をも見られるやうになつた。それと共に、かうした場合の男の心持、と云ふよりは男の目的の何であるかも、今は容易《たやす》く推察することが出來るやうな氣がして來《き》た。二人はもとより知らない人同士である。これなり別れてしまへば、互に家もわからず名前も知られる氣づかひがない。何をしても、何をされても、後になつて困るやうな事の起らう筈がない間柄である。さう思ふと年頃の娘の異性に對する好奇心のみならず、季子は監督者なる姉夫婦に對して、其人達の知らない中に、そつと自分勝手に大膽な冐險を敢てすると云ふ、一種痛快な氣味のいゝ心持の伴ひ起るのを知つた。
 汁粉屋を出てから、また默つて歩いて行くと、商店の燈火は次第に少く、兩側には茅葺の屋根やら生垣やらが續き初め、道の行手のみならず、人家の間からも茂つた松の木立《こだち》の空に聳えるのが、星の光と共に物淋しく見えはじめる。走り過るトラツクの灯に、眞直な國道の行手までが遙に照し出されるたび/\、荷車や人の往來《ゆきゝ》も一歩々々途絶え勝《が》ちになることが能く見定められる。
 鳥打帽の男は默つてついて來る。季子は汁粉屋にゐた時の大膽不敵な覺悟に似ず、俄に歩調を早め、やがて道端のポストを目當に、逃るやうにとある小徑《こみち》へ曲らうとした。男はぐつと身近に寄り添つて來て、
「お宅はこの横町……。」
「えゝ。」と季子は答へた。然し季子の家は横町を行盡して、京成電車の踏切を越し、それからまだ大分歩かなければならないのだ。
 小徑の兩側には生垣や竹垣がつゞいてゐて、國道よりも一層さびしく人は一人も通らないが、門柱の電燈や、窓から漏れる人家の灯影《ほかげ》で眞《しん》の闇にはなつてゐない。季子の呼吸は歩調と共に大分せはしくなつてゐる。男はどこまで自分の後をつけて來るのだらう。線路を越した向の松原――時々この邊では一番物騷な噂のある松原まで行くのを待つてゐるのではなからうか。いつそ今の中、手出しをしてくれゝばいゝのにと云ふやうな氣がして來ないでもない。
 季子が男の暴力を想像して、恐怖を交へた好奇の思に驅られ初めたのは、母と共に熊ヶ谷に疎開してゐた頃からのことで、戰後物騷な世間の噂を聞くたび/\、まさかの場合を、或時はいろいろに空想して見ることもあつた。この空想は鎌倉の姉が來て結婚のはなしを匂《にほ》はせてからいよ/\烈しくなり、深夜奧の間で姉夫婦がひそひそ
はなしをしてゐるのにふと目を覺す時など、翌朝まで寢付かれぬ程其身を苦しめる事があつた。
 突然季子は垣際に立つてゐる松の木の根につまづき、よろける其身を覺えず男に投掛けた。男は兩手に女の身を支へながら、別に抱締るでもなく、女が身體の中心を取返すのを待ち、
「どうかしました。」
「いゝえ。大丈夫よ。あなたも此邊なの。」
「僕。八幡の、會社の寮にゐるんです。今夜驛でランデブーするつもりだつたんです。失敗しました。」
「あら。さう。」
「あなたも誰かとお約束があつたんでせう。さうぢやありませんか。」
 生垣が盡きて片側は廣い畠になつてゐるらしく、遙か向うの松林の間から此方へ走つて來る電車の灯が見えた。
 季子はあたりのこの淋しさと暗さとに乘じて、男が手を下《くだ》し初めるのはきつと此邊にちがひはない。いよ/\日頃の妄想の實現される時が來たのだと思ふと、忽身體中が顫出し、歩けばまた轉びさうな氣がして、一足も先へは踏み出されなくなつた。畠の縁に茂つた草が柔く擽《くすぐ》るやうに足の指にさはる。季子は突然そこへ蹲踞《しやが》んでしまつた。
 季子は男の腕が矢庭に自分の身體を突倒すものとばかり思込んで、蹲踞《しやが》むと共に眼をつぶつて兩手に顏をかくした。
 電車は松林の外を通り過ぎてしまつた。けれども白分の身體には何も觸るものがない。手を放し顏をあげて見ると、男は初め自分が草の上に蹲踞《しやが》んだのに心づかず、二三歩行き過ぎてから氣がついたらしく、少し離れた處に立つてゐて、
「田舍道はいゝですね。僕も失禮。」と笑を含む聲と共に、草の中に水を流す音をさせ始めた。男は季子の蹲踞んだのは同じやうな用をたすためだと思つたらしい。
 季子は立上るや否や、失望と恥しさと、腹立しさとに、覺えず、「左樣なら。」と鋭く言捨て、もと來た小徑の方へと走り去つた。
 やがて未練《みれん》らしく立留つて見たが、男の追掛けて來る樣子はない。先程|躓《つまづ》いた松の木の梢に梟か何かの鳴く聲がしてゐる。
 季子はしよんぼりと一人家へかへつた。
  (昭和廿一年十月草)

底本:「葛飾こよみ」毎日新聞社
   1956(昭和31)年8月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:米田
2010年9月5日作成
2011年4月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

永井荷風

にぎり飯—–永井荷風

 深川古石場町の警防団員であつた荒物屋の佐藤は三月九日夜半の空襲に、やつとのこと火の中を葛西橋近くまで逃げ延び、頭巾の間から真赤になつた眼をしばだゝきながらも、放水路堤防の草の色と水の流を見て、初《はじめ》て生命拾《いのちびろ》ひをしたことを確めた。
 然しどこをどう逃げ迷つて来たのか、さつぱり見当がつかない。逃げ迷つて行く道すがら人なだれの中に、子供をおぶつた女房の姿を見失ひ、声をかぎりに呼びつゞけた。それさへも今になつては何処《どこ》のどの辺であつたかわからない。夜通し吹荒れた西南の風に渦巻く烟の中を人込みに揉まれ揉まれて、後へも戻れず先へも行かれず、押しつ押されつ、喘ぎながら、人波の崩れて行く方へと、無我夢中に押流されて行くよりしやうがなかつたのだ。する中《うち》人込みがすこしまばらになり、息をつくのと、足を運ぶのが大分楽になつたと思つた時には、もう一歩も踏出せないほど疲れきつてゐた。そのまゝ意久地なく其場に蹲踞《しやが》んでしまふと、どうしても立上ることができない。気がつくと背中に着物や食料を押込められるだけ押込んだリクサクを背負つてゐるので、それを取りおろし、よろけながら漸く立上り、前後左右を見廻して、佐藤はこゝに初て自分のゐる場所の何処であるかを知つたのである。
 広い道が爪先上りに高くなつてゐる端《はづ》れに、橋の欄干の柱が見え、晴れた空が遮るものなく遠くまでひろがつてゐて、今だに吹き荒れる烈風が猶も鋭い音をして、道の上の砂を吹きまくり、堤防の下に立つてゐる焼残りの樹木と、焦げた柱ばかりの小家を吹き倒さうとしてゐる。そこら中《ぢゆう》夜具箪笥風呂敷包の投出されてゐる間々《あひだ/\》に、砂ほこりを浴びた男や女や子供が寄りあつまり、中には怪我人の介抱をしたり、または平気で物を食べてゐるものもある。橋の彼方から一ぱい巡査や看護婦の乗つてゐるトラツクが二台、今方佐藤の逃げ迷つて来た焼跡の方へと走つて行くのが見えた。大勢の人の呼んだり叫んだりする声の喧《かしま》しい中に、子供の泣く声の烈風にかすれて行くのが一層物哀れにきこえた。佐藤は身近くそれ等の声を聞きつけるたび/\、もしや途中ではぐれた女房と赤ン坊の声であつてくれたらばと、足元のリクサクもその儘に、声のする方へと歩きかけたのも、一度や二度ではなかつた。
 避難者の群は朝日の晴れやかにさしてくるに従つて、何処からともなく追々に多くなつたが、然し佐藤の見知つた顔は一人も見えなかつた。咽喉が乾いてたまらないのと、寒風に吹き曝される苦しさとに、佐藤は兎に角荷物を背負ひ直して、橋の渡り口まで行つて見ると、海につゞく荒川放水路のひろ/″\した眺望が横たはつてゐる。橋の下には焼けない釣舟が幾艘となく枯蘆の間に繋がれ、ゆるやかに流れる水を隔てゝ、向岸には茂つた松の木や、こんもりした樹木の立つてゐるのが言ひ知れず穏《おだやか》に見えた。橋の上にも、堤防の上にも、また水際の砂地にも、生命拾ひをした人達がうろうろしてゐる。佐藤は水際まで歩み寄つて、またもや頭巾を刎《は》ねのけ荷物をおろし、顔より先に眼を洗つたり、焼焦《やけこげ》だらけの洋服の塵を払つたりした後、棒のやうになつた両足を投出して、どつさり其場に寝転んでしまつた。
 すると、そのすぐ傍《そば》に泥まみれのモンペをはき、風呂敷で頬冠をした若いおかみさんが、頭巾をかぶせた四五歳の女の子と、大きな風呂敷包とを抱へて蹲踞《しやが》んでゐたが、同じやうに真赤にした眼をぱち/\させながら、
「一寸伺ひますが東陽公園の方へは、まだ帰れないでせうか。」と話をしかけた。
「さア、どうでせう。まだ燃えてるでせうからね。おかみさん。あの辺ですか。」
「えゝ。わたし平井町です。一ツしよに逃出したんですけど、途中ではぐれてしまつたんです。どこへ聞きに行つたら分るんでせう。」といふ声も一言毎《ひとことごと》に涙ぐんでくる。
「とても此の騒ぎぢや、今すぐにや分らないかも知れませんよ。わたしも女房と赤ン坊がどうしたらうと困つてゐるんですよ。」
「まア、あなたも。わたしどうしたらいゝでせう。」とおかみさんはとう/\音高く涙を啜《すゝ》り上げた。
「仕様がないから、焼跡に町会が出来たかどうだか見てくるんですね。それよりか、おかみさん。どこか行先の目当があるんですか。」
「家は遠いんです。成田です。」
「成田ですか。それぢや、どの道一度町会へ行つて証明書を貰つて来た方がいゝでせう。一休みしてわたしも行つて見やうと思つてゐるんですよ。わたしは古石場にゐました。」
「あの、もう一軒、行徳に心安いとこがあるんです。そこへ行つて見やうかと思つてゐます。」
「行徳なら歩いて行けますよ。この近辺の避難所なんかへ行くよりか、さうした方がよかアありませんか。わたしも市川に知つた家がありますからね。あの辺はどんな様子か、行つて見た上で、考へやうと思つてるんです。もうかうなつたら、乞食同様でさ。仕様がありませんよ。」
 佐藤も途方に暮れた目指《まなざし》を風の鳴りひゞく空の方へ向けた時、堤防の上から、
「炊出しがありますから町会まで取りに来て下さアい。」と呼び歩く声がきこえた。

 佐藤は市川で笊《ざる》や籠をつくつて卸売をしてゐる家の主人とは商売柄心やすくしてゐたので、頼み込んで其家の一間を貸してもらつた。そして竹細工の手つだひをしたり、また近処の家でつくる高箒《たかばうき》を背負つたりして、時々東京へ売りに行つた。その都度《つど》もと住んでゐた町会へも立寄り、女房子供の生死を調べたが手がゝりがなかつた。せめて死骸のありさうな場所だけでもと思つたがそれも分らずじまひであつた。
 火災を免れた市川の町では国府台の森の若葉が日に日に青く、真間川堤の桜の花もいつの間《ま》にか散つてしまつたころである。佐藤は或日いつものやうに笊を背負ひ、束《たば》ねた箒をかついで省線浅草橋の駅から橋だもとへ出た時、焼出されの其朝、葛西橋の下で、いつしよに炊出しの握飯を食つて、其儘別れたおかみさんが、同じ電車から降りたものらしく、一歩《ひとあし》先へ歩いて行くのに出会つた。
 わけもなく其日の事が思出されて、佐藤は後から、「もし、おかみさん。」と呼びかけた。
「あら。あの時はいろ/\お世話さまになりました。」
 振返るおかみさんの顔にも同じやうな心持が浮んでゐる。見れば葛西橋下で初て見た時よりも今日はずつと好い女になつてゐる。年は二十二三。子供をつれてゐないので、まだ結婚しない女とも見れば見られる若々しさ。頬かぶりをしたタオルの下から縮《ちゞら》し髪の垂れかゝる細面《ほそおもて》は、色も白く、口元にはこぼれるやうな愛嬌がある。仕立直しのモンペ姿もきちんとして、何やら四角な風呂敷包を背負つた様子は、買出しでなければ、自分と同じやうに行商でもしてゐるのかと思はれた。
「おかみさん、もう此方《こつち》へ帰つて来たんですか。」
「いゝえ。まだあつちに居ます。」
「あつちとは。あの、行徳ですか。」
「えゝ。」
「ぢや、あれツきり分らないんですか。」
「いつそ分らない方がいいくらゐでした。警察で大勢の死骸と一緒に焼いてしまつたんだらうツて云ふはなしです。」
「運命だから仕方がありませんよ。わたしの方も今だにわからずじまひですよ。」
「お互にあきらめをつけるより仕様がありませんねえ。わたし達ばつかりぢやないんですから。」
「さうですとも。あなたの方が子供さんが助かつただけでも、どんなに仕合せだか知れませんよ。わたしに比べれば……。」
「思出すと夢ですわね。」
「何か好い商売を見つけましたか。」
「飴を売つて歩きます。野菜も時々持つて出るんですよ。子供の食料代だけでもと思ひまして……。」
「わたしも御覧の通りさ。行徳なら市川からは一またぎだ。好い商売があつたら知らせて上げませうよ。番地は……。」
「南行徳町□□の藤田ツていふ家です。八幡行のバスがあるんですよ。それに乗つて相川ツて云ふ停留場で下りて、おきゝになればすぐ分ります。百姓してゐる家です。」
「その中お尋ねしませうよ。」
「洲崎前の郵便局に少しばかりですけど、お金が預けてあるんですよ。取れないもんでせうか。」
「取れますとも。何処の郵便局でも取れます。罹災者ですもの。通帳があれば。」
「通帳は家の人が持つて行つたきりですの。」
「それア困つたな。でもいゝでさ。あつちへ行つた時きいて上げませう。」
「済みません。いろ/\御世話さまです。」
「これから今日はどつちの方面です。」
「上野の方へでも行つて見やうかと思つてゐます。広小路から池の端の方はぽつ/\焼残つたとこもあるさうですから。」
「ぢや、一ツしよに一廻りして見やうぢやありませんか。下谷も上野寄りは焼けないさうですよ。」
 時候もよし天気もよし。二人は話しながら焼け残つた町々を売りあるくと、案外よく売れて、山下に来かゝつた時には飴はいつか残り少く、箒は一本もなくなり、笊が三ツ残つたばかりであつた。停車場前の石段に腰をかけて二人は携帯の弁当包をひらき、またもや一ツしよに握飯を食べはじめた。
「あの時のおむすびはどうでした。あの時だから食べられたんですぜ。玄米の生炊《なまだき》で、おまけにぢやり/\砂が入つてゐる。驚きましたね。」
 おかみさんはいかゞですと、小女子魚《こうなご》の佃煮を佐藤に分けてやると、佐藤は豆の煮たのを返礼にした。おかみさんは小女子魚は近処の浦安で取れるからお弁当のおかずには不自由しないやうな話をする。
 佐藤は女房子供をなくしてから今日が日まで、こんなに面白く話をしながら物を食つたことは一度もなかつたと思ふと、無暗に嬉しくてたまらない心持になつた。
「ねえ、おかみさん。あなた。これから先どうするつもりです。まさか一生涯一人でくらす気でもないでせう。」
「さア、どうしていゝんだか。今のところ食べてさへ行ければいいと思つてゐるくらゐですもの。」
「食べるだけなら心配するこたアありませんや。」
「男の方なら働き次第ツて云ふ事もあるでせうけど、女一人で子供があつちやア並大抵ぢやありません。」
「だから、ねえ、おかみさん。どうです。わたしも一人、あなたも一人でせう。縁は異なものツて云ふ事もあるぢやありませんか。あの朝一ツしよに炊出しをたべたのが、不思議な縁だつたといふ気がしませんか。」
 佐藤はおかみさんが心持をわるくしはせぬかと、絶えず其顔色を窺ひながら、じわ/\口説きかけた。
 おかみさんは何とも言はない。然し別に驚いた様子も、困つた風もせず、気まりも悪がらず、始終口元に愛嬌をたゝへながら、佐藤がまだ何か言ひつゞけるつもりか知らといふやうな顔をして、男の口の動くのを見てゐる。
「おかみさん。千代子さんでしたね。」
「えゝ。千代子。」
「千代子さん。どうです。いゝでせう。わたしと一ツしよになつて見ませんか。奮発して二人で一ト稼《かせぎ》かせいで見やうぢやありませんか。戦争も大きな声ぢや言はれないが、もう長いことはないツて云ふ話だし……。」
「ほんとにね、早く片がついてくれなくツちや仕様がありません。」
「焼かれない時分何の御商売でした。」
「洗濯屋してゐたんですよ。御得意も随分あつたんですよ。だけど、戦争でだん/\暇になりますし、それに地体《ぢたい》お酒がよくなかつたしするもんで……。」
「さうですか。旦那はいける方だつたんですか。わたしと来たらお酒も煙草も、両方ともカラいけないんですよ。其方《そつち》なら誰にも負けません。」
「ようございますわねえ。お酒がすきだと、どうしてもそれだけぢやア済まなくなりますからね。悪いお友達もできるし……今時分こんなお話をしたつて仕様がありませんけれど、随分いやな思《おもひ》をさせられた事がありましたわ。」
「お酒に女。さうなると極《きま》つて勝負事ツて云ふやつが付纏《つきまと》つて来ますからね。」
「全くですわ。ぢたい場所柄もよくなかつたんですよ。盛場が目と鼻の間でしたし……。」
「お察ししますよ。並大抵の苦労ぢやありませんでしたね。」
「えゝ。ほんとに、もう。子供がなかつたらと、さう思つたこともたび/\でしたわ。」
 あたりは汽車の切符を買はうとする人達の行列やら、立退く罹災者の往徠《ゆきき》やらでざわついてゐるだけ、却て二人は人目を憚るにも及ばなかつたらしい。いきなり佐藤は千代子の手を握ると、千代子は別に引張られたわけでもないのに、自分から佐藤の膝の上に身を寄せかけた。

 休戦になると、それを遅しと待つてゐたやうに、何処の町々にも大抵停車場の附近を重にしてさまざまな露店が出はじめた。
 佐藤と千代子の二人は省線市川駅の前通、戦争中早く取払になつてゐた商店の跡の空地に、おでん屋の屋台を据ゑた。土地の人達にも前々から知合があつたので、佐藤の店はごた/\葭簀《よしず》をつらねた露店の中でも、最も駅の出入口に近く、人足の一番寄りやすい一等の場所を占めてゐた。
 年が変ると間もなく世間は銀行預金の封鎖に驚かされたが、日銭の入る労働者と露店の商人ばかりは物貨の騰貴に却て懐中都合が好くなつたらしく、町の商店が日の暮れると共に戸を閉めてしまふにも係らず、空地の露店は毎夜十一時近くまで電燈をつけてゐた。
 あたりの様子で、その夜もかれこれ其時刻になつたらしく思はれた頃である。佐藤の店の鍋の前にぬつと顔を出した女連の男がある。鳥打帽にジヤンバー半ヅボン。女は引眉毛に白粉口紅。縮髪に青いマフラの頬かむり。スコツチ縞の外套をきてゐる。人柄を見て佐藤は、
「いらつしやい。つけますか。」と言ひながら燗徳利を取上げた。
「あつたら、合成酒でない方が願ひたいよ。」
「これは高級品ですから。あがつて見ればわかります。」
「それはありがたい。」と男はコツプをもう一つ出させて、女にも飲ませながら、
「お前、どう思つた。あの玉ぢやせい/″\奮発しても半分といふところだらう。」
「わたしもさう思つてたのよ。まさか居る前でさうとも言へなかつたから黙つてたんだけど。」
 二人ともそれとなくあたりに気を配りながら、小声に話し合つてゐる。折からごそ/\と葭簀を片よせ其間から身を斜にして店の中へ入つたのは、毎夜子供を寝かしつけた後、店仕舞の手つだひに来る千代子である。千代子は電燈の光をまともに、鍋の前に立つてゐる客の男とその場のはずみで、ぴつたり顔を見合せた。
 二人の面には驚愕と怪訝の感情が電の如く閃き現れたが、互にあたりを憚つたらしくアラとも何とも言はなかつた。
 客の男は矢庭にポケツトから紙幣束《さつたば》を掴出して、「会計、いくら。」
「お酒が三杯。」と佐藤はおでんの小皿を眺め、「四百三十四円になります。」
「剰銭《つり》はいらない。」と百円札五枚を投出すと共に、男は女の腕をひつ掴むやうにして出て行つた。外は真暗で風が吹いてゐる。
「さア、片づけやう。」と佐藤は売れ残りのおでんが浮いてゐる大きな鍋を両手に持上げて下におろした。それさへ殆ど心づかないやうに客の出て行つた外の方を見送つてゐた千代子は俄におぞげ立つたやうな顔をして、
「あなた。」
「何だ。変な顔してゐるぢやないか。」
「あなた。」と千代子は佐藤に寄添ひ、「ちがひないのよ。生きてるんだわ。」
「生きてる。誰が。」
「誰ツて。あの。あなた。」と哀みを請ふやうな声をして佐藤の手を握り、
「あの人よ。たしかにさうだわ。」
「あの。お前のあの人かい。」
「さうよ。あなた。どうしませう。」
「パン/\見たやうな女がゐたぢやないか。」
「さうだつたか知ら。」
「闇屋見たやうな風だつたな。明日《あした》また来るだらう。」
「来たら、どうしませう。」
「どうしやうツて。かうなつたらお前の心一ツだよ。お前、もと通りになれと言はれたら、なる気か。」
「なる気なら心配しやしないわ。なれツて言つたツて、もう、あなた。知つてるぢやないの。わたしの身体《からだ》、先月からたゞぢやないもの。」
「わかつてるよ。それならおれの方にも考があるんだ。ちやんと訳を話して断るからいゝ。」
「断つて、おとなしく承知してくれるか知ら。」
「承知しない訳にや行かないだらう。第一、お前とは子供ができてゐても、籍が入つてゐなかつたのだし、念の為田舎の家の方へも手紙を出したんだし、此方《こつち》ではそれ相応の事はしてゐたんだからな。此方《こつち》の言ふことを聞いてくれないと云ふわけには行くまいさ。」
 二人は貸間へかへる道々も、先夫の申出を退ける方法として、一日も早く佐藤の方へ千代子の籍を入れるやうに話しをしつゞけた。
 次の日、一日一夜、待ちかまへてゐたが其男は姿を見せなかつた。二日たち三日たちして、いつか一ト月あまりになつたが二度とその姿を見せなかつた。
 時候はすつかり変つた。露店のおでんやは汁粉やと共にそろ/\氷屋にかはり初めると、間もなく盂蘭盆《うらぼん》が近づいてくる。千代子は夜ふけの風のまだ寒かつた晩、店のしまひ際《ぎは》にふと見かけた人の姿は他人の空似《そらに》であつたのかも知れない。それともあの世から迷つて来たのではなかつたかと、気味の悪い心持もするので、大分お腹が大きくなつてゐたにも係らず、子供をつれて中山の法華経寺へ回向をしてもらひに行つた。また境内の鬼子母神へも胎児安産の祈願をした。
 或日、新小岩の町まで仕込の買出しに行つた佐藤が帰つて来て、こんな話をした。
「あの男はやつぱりおれの見た通りパン/\屋だよ。あすこに五六十軒もあるだらう。大抵亀戸から焼け出されて来たんださうだがね。」
「あら。さう。亀戸。」
 千代子の耳には亀戸といふ一語《ひとこと》が意味あり気に響いたらしい。
「亀戸にや前々から引掛《ひツかゝ》りがあつたらしいのよ。でも、あなた。よくわかつたわね。」
「裏が田圃《たんぼ》で、表は往来から見通しだもの。いつかの女がシユミーズ一ツで洗濯をしてゐるから、おやと思つて見ると、旦那は店口で溝板か何か直してゐたツけ。」
「あなた。上つて見て。」
「突留めるところまで、やつて見なけれア分らないと思つたからよ。みんなお前の為だ。お茶代一ぱい、七十円取られた。」
 千代子は焼餅もやかず、あくる日は早速法華経寺へお礼参に出かけた。

底本:「ふるさと文学館 第一三巻 【千葉】」ぎょうせい
   1994(平成6)年11月15日初版発行
入力:H.YAM
校正:米田
2011年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

永井荷風

つゆのあとさき—-永井荷風


 女給《じょきゅう》の君江《きみえ》は午後三時からその日は銀座通のカッフェーへ出ればよいので、市《いち》ヶ|谷《や》本村町《ほんむらちょう》の貸間からぶらぶら堀端《ほりばた》を歩み見附外《みつけそと》から乗った乗合自動車を日比谷《ひびや》で下りた。そして鉄道線路のガードを前にして、場末の町へでも行ったような飲食店の旗ばかりが目につく横町《よこちょう》へ曲り、貸事務所の硝子窓《ガラスまど》に周易《しゅうえき》判断|金亀堂《きんきどう》という金文字を掲げた売卜者《うらないしゃ》をたずねた。
 去年の暮あたりから、君江は再三気味のわるい事に出遇《であ》っていたからである。同じカッフェーの女給二、三人と歌舞伎座《かぶきざ》へ行った帰り、シールのコートから揃《そろ》いの大島の羽織と小袖《こそで》から長襦袢《ながじゅばん》まで通して袂《たもと》の先を切られたのが始まりで、その次には真珠入《しんじゅい》り本鼈甲《ほんべっこう》のさし櫛《ぐし》をどこで抜かれたのか、知らぬ間に抜かれていたことがある。掏摸《すり》の仕業《しわざ》だと思えばそれまでの事であるが、またどうやら意趣《いしゅ》ある者の悪戯《いたずら》ではないかという気がしたのは、その後《ご》猫の子の死んだのが貸間の押入に投入れてあった事である。君江はこの年月随分みだらな生活はして来たものの、しかしそれほど人から怨《うらみ》を受けるような悪いことをした覚えは、どう考えて見てもない。初めは唯《ただ》不思議だとばかり、さして気にも留めなかったが、ついこの頃、『街巷新聞』といって、重《おも》に銀座辺の飲食店やカッフェーの女の噂《うわさ》をかく余り性《たち》の好くない小新聞《こしんぶん》に、君江が今日《こんにち》まで誰も知ろうはずがないと思っていた事が出ていたので、どうやら急に気味がわるくなって、人に勧められるがまま、まず卜占《うらない》をみてもらおうと思ったのである。
『街巷新聞』に出ていた記事は誹謗《ひぼう》でも中傷でもない。むしろ君江の容姿をほめたたえた当り触《さわ》りのない記事であるが、その中に君江さんの内腿《うちもも》には子供の時から黒子《ほくろ》が一つあった。これは成長してから浮気家業をするしるしだそうだが、果してその通り、女給さんになってから黒子はいつの間にか増《ふ》えて三つになったので、君江さんは後援者が三人できるのだろうと、内心喜んだり気を揉《も》んだりしているという事が書いてあった。君江はこれを読んだ時、何だか薄気味のわるい、誠にいやな心持がした。左の内腿に初めは一つであった黒子がいつとなく並んで三つになったのは決して虚誕《うそ》でない。全くの事実である。自分でそれと心づいたのは去年の春上野|池《いけ》の端《はた》のカッフェーに始めて女給になってから、暫《しばら》くして後《のち》銀座へ移ったころである。それを知っているのはまだ女給にならない前から今もって関係の絶えない松崎という好色の老人と、上野のカッフェー以来とやかく人の噂に上る清岡進という文学者と、まずこの二人しかないはずである。黒子のある場所が他《ほか》とはちがって親兄弟でも知ろうはずがない。風呂屋《ふろや》の番頭とてそこまでは気がつくまい。黒子の有無《あるなし》は別にどうでもよい事であるが、風呂屋の番頭さえ気のつかない事を、どうして新聞記者が知っていたのだろう。君江はこの不審と、去年からの疑惑とを思合《おもいあわ》せて、これから先どんな事が起るかも知れないと、急に空おそろしくなって、今まで神信心は勿論《もちろん》、お御籤《みくじ》一本引いたことのない身ながら、突然|占《うらな》いを見てもらう気になったのである。
 アパートメントの一室を店にしている新時代の売卜者《うらないしゃ》は年の頃四十前後、口髭《くちひげ》を刈り洋服を着、鼈甲《べっこう》のロイド眼鏡をかけ、デスクに凭《もた》れて客に応対する様子は見たところ医者か弁護士と変りはない。省線《しょうせん》電車の往復するのが能《よ》く見える硝子窓《ガラスまど》の上には「天佑平八郎書《てんゆうへいはちろうしょ》」とした額を掲げ、壁には日本と世界の地図とを貼り、机の傍の本箱には棚を殊《こと》にして洋書と帙入《ちついり》の和本とが並べてある。
 君江は薄地の肩掛を取って手に持ったまま、指示《さししめ》された椅子に腰をかけると、洋装の売卜者はデスクの上によみかけの書物を閉じ廻転椅子のままぐるりとこちらへ向直《むきなお》って、
「御縁談ですか。それとも大体にお身の上の吉凶《きっきょう》を見ましょうか。」とわざとらしく笑顔をつくる。君江は伏目《ふしめ》になって、
「別に縁談というわけでも御在《ござい》ません。」
「では、まず大体の事から拝見しましょう。」と易者はあたかも婦人科の医者が患者の容態をきくように、なりたけ気がねをさせまいと苦心するらしい砕けた言葉づかいになり、「占いも見つけると面白いものと見えまして、いろいろなお客様がお出《いで》になります。毎朝会社のお出かけにお寄りになって、その日その日の吉凶を見る方《かた》もあります。しかしむかしから当るも八卦《はっけ》、当らぬも八卦という事がありますから、凶の卦《け》に当ってもあまりお気におかけなさらん方がよいです。お年はおいくつでいらっしゃいます。」
「丁度で御在ます。」
「それでは子《ね》の年《とし》でいらっしゃいますな。それからお生れになったのは。」
「五月の三日。」
「子の五月三日。さようですか。」と易者はすぐに筮竹《ぜいちく》を把《と》って口の中で何か呟《つぶや》きながらデスクの上に算木《さんぎ》を並べ、「お年廻りは離中断《りちゅうだん》の卦に当ります。しかし文字通り易の釈義を申上げても廻《まわり》遠くて要領を得ない事になりましょうから、わたくしの思いついた事だけを手短《てみじか》に申上げて見ましょう。大体を申上げると、この離中断の卦に当る方は男女に限らず親兄弟にはなれ友達も至って少く一人で世を渡る傾きがあります。それにあなたのお生れになった月日から見ますと、遊魂巽風《ゆうこんせんぷう》の卦に当ります。これは一時お身の上に変った事が起っても、その変った事が追々《おいおい》元の形に立戻るという卦であります。この卦から考えて見ますと、現在のお身の上は一時変った事の起った後、追々もとのようになって行こうという間のように思われます。天気に譬《たと》えて申上げれば暴風のあった後、その名残りがなかなか静まらない。しかし追々|静《しずか》になって、やがてもとの天気になろうというその途中だと申したらよいでしょう。」
 君江は膝《ひざ》の上に肩掛を弄《もてあそ》びながらぼんやり易者の顔を見ていたが、その判断は全くその身に覚えがない事ではない。どこか当っている処があるので、何となく気まりのわるいような心持で再び伏目になった。一時身の上に変った事があったと言うのは、大方《おおかた》両親の意見をきかず家を飛出し、東京へ来て、とうとう女給になった事だろうと思ったのである。
 君江が家を出たわけは両親はじめ親類|中《じゅう》挙《こぞ》って是非にもと説き勧めた縁談を避けようがためであった。君江の生れた家は上野|停場車《ていしゃば》から二時間ばかりで行かれる埼玉県下の丸円町にあって、その土地の名物になっている菓子をつくる店である。君江は小学校の友達の中で、一時|牛込《うしごめ》の芸者《げいしゃ》になり、一年たつかたたぬ中《うち》身受《みうけ》をされて、人の妾《めかけ》になっていた京子という女と絶えず往来《ゆきき》をしていたので、田舎者の女房などになる気はなく、家を逃げ出してそのまま京子の家に厄介になった。田舎から迎いの人が来て、二、三度連れ戻されてもまたすぐ飛出す始末。親たちも困りぬいて、君江の我儘《わがまま》を通させ銀行か会社の事務員になる事を許した。
 君江は京子の旦那になっている川島という人の世話で、間もなく或《ある》保険会社に雇われたものの、これは一時実家へ対しての申訳《もうしわけ》に過ぎないので、半年とはつづかず、その後《ご》はぶらぶら京子の家に遊んで日を暮している中《うち》、突然京子の旦那は会社の金を遣込《つかいこ》んだ事が露見して検事局へ送られる。京子は芸者に出ていた頃のお客をそのまま妾宅《しょうたく》へ引込《ひきこ》み、それでも足りない時は知合いの待合《まちあい》や結婚媒介所を歩き廻って、結句何不自由もなく日を送っているのを、傍《そば》で見ている君江もいつかこれをよい事にしてその仲間にはいった。しかし何分にもその筋の検挙がおそろしいので、京子はもとの芸者になろうと言出《いいだ》す。君江もともども芸者はどんなものか一度はなって見たいと思いながら、鑑札を受ける時所轄の警察署から実家へ問合《といあわ》せの手続をする規定のある事を知って、やむことをえず女給になった。
 京子は田舎の家へ仕送りをしなければならぬ身であるが、君江はそんな必要がない。田舎に育っただけそれほど流行《はやり》の物に身を飾る心もなければ、芝居や活動のような興行物も、人から誘われないかぎり、自分から進んで見に行こうとはしない。小説だけは電車の中でも拾い読みをするほどであるが、その他《ほか》には自分でも何が好きだかわからないと言っている位で、結局貸間の代と髪結銭《かみゆいせん》さえあれば、強いて男から金など貰《もら》う必要がない。金などは貰わずに、随分男のいうままになってやった事もあるほどなので、君江は今までいかほど淫恣《いんし》な生活をして来ても、人からさほど怨《うらみ》を受けるようなはずはないと思い込んでいる。占者の説明を待って、
「それでは今のところ別にたいして心配するようなことはないんで御在《ござい》ますね。」
「御健康はいかがです。現在別に御《お》わるいところがないのなら、無論近い将来にもさして病難があるとは思われません。現在は唯今《ただいま》も申上げたように波瀾《はらん》のあった後むしろ無事で、いくらか沈滞というような形もあります。御自分ではお気がつかないでいらっしゃるかも知れませんが、何か知ら不安で、おちつかないような気がなさるのかも知れません。しかし易の卦では唯今申上げたように一時の変動が追々静まって行くのですから、これから先たいした事件が起ろうとは思われません。しかし何か御心配な事があって、その事をどうしたらいいかと思召《おぼしめ》すなら、その特別な事について、もう一度見直しましょう。それで大抵お心当りがつくだろうと思います。」と易者は再び筮竹を取り上げた。
「実はすこし気にかかる事が御在まして。」と君江は言いかけたが、まさかに黒子《ほくろ》の事は明らさまには言出しにくいので、「自分には別に覚《おぼえ》がないんですけれど、誰かわたくしの事を誤解している人がありはしないかと思うような事が御在ます。」
「はい。はい。」と易者は仔細《しさい》らしく眼を閉じて再び筮竹を数え算木を置き直して、「なるほど。この卦は物に影の添う事を意味します。して見ると、何か御自分でいろいろ思いすごしをなさるのですな。それがためない事もあるように思われて来ます。唯今の言葉で申すと幻影と実体ですな。物があって影の生ずるのが自然でありますが、時と場合には、それとは反対に影から物の起ることもあります。それ故まず影をなくすようになされば、自然と物事は落つく処へ落ついて行くわけで。そういう御心持《おこころもち》でいらっしゃれば、別に御心配には及ばないと思います。」
 君江は易者のいう事を至極|尤《もっとも》だと思うと、自分ながらつまらない事を気に掛けていたと、忽《たちま》ち心丈夫な気になってしまった。それでもまだ何やらきいて見たいような心持がしながら、しかしあまり微細な事まで問掛《といか》けて、それがため現在の職業はまだしもの事、二、三年前京子と二人で待合や媒介所を歩き廻った事まで知られてはと、底気味のわるい心持もする。猫の死骸や櫛《くし》のなくなった事もきいて見ようとは心づきながら、カッフェーへ行く時間が気になるので、今日はこのまま立去ろうと考え、
「失礼ですが、御礼は。」といいながら帯の間へ手を入れる。
「壱円《いちえん》いただく事にしてありますが、いかほどでも思召《おぼしめ》しで宜《よろ》しいのです。」
 出入口の戸があいて、洋服の男が二人無遠慮に君江の腰をかけているすぐ側《そば》の椅子に坐ったのみならず、その一人はぎょろりとした眼付の、どうやら刑事かとも思われる様子に、君江は横を向いたまま椅子から立って、易者にも挨拶《あいさつ》せず、戸を明けて廊下へ出た。
 建物を出ると、おもては五月はじめの晴れ渡った日かげに、日比谷公園から堀端一帯の青葉が一層色あざやかに輝き、電車を待つ人だまりの中から流行《はやり》の衣裳《いしょう》の翻えるのが目に立って見える。腕時計に時間を見ながら、君江はガードの下を通りぬけて、数寄屋橋《すきやばし》のたもとへ来かかると、朝日新聞社を始め、おちこちの高い屋根の上から広告の軽気球があがっているので、立留《たちどま》る気もなく立留って空を見上げた時、後《うしろ》から君江さんと呼びながら馳《か》け寄る草履《ぞうり》の音。誰かと振返れば去年|池《いけ》の端《はた》のサロンラックで一緒に働いていた松子という年は二十一、二の女で。その時分にくらべると着物も姿もずっと好《よ》くなっている。君江は同じ経験からすぐに察して、
「松子さん。あなたも銀座。」
「ええ。いいえ。」と松子は曖昧《あいまい》な返事をして、「去年の暮、暫《しばら》くアルプスにいたのよ。それから遊んでいたの。だけれどまたどこかへ出たいと思って実はこれから五丁目のレーニンっていう酒場。君江さんも御存じでしょう。あの時分ラックにいた豊子さんがいるから、ちょっと様子を見て来ようと思っているの。」
「そう。あなた、アルプスにいたの。ちっとも知らなかったわ。わたしはあれからずっとドンフワンにいるわ。」
「この春だったか、アルプスでお客様から聞いたことがあったわ。お逢《あ》いしたいと思ってもつい時間がないでしょう。あの、先生もお変りがなくって。」
 君江は小説家清岡進の事にちがいないとは思いながら、数の多いお客の中には、弁護士の先生もあれば、医者の先生もあるので、それとなく念を押すに若《し》くはないと、「ええ。この頃は新聞の外《ほか》に映画や何かで大変おいそがしいようだわ。」
 松子はこれを何と思いちがいしたのか、「アラ、そう。」といかにも感に打たれたらしく深く息を呑《の》んで、「男はいざとなると薄情ねえ。わたしもいい経験をしたのよ。だから今度は大《おおい》に発展してやろうと思ってるのよ。」
 君江は心の中で高が五人か十人、数の知れた男の事を大層らしく経験だの何だのと言うにも及ぶまいと、可笑《おか》しくなって来て、からかい半分、わざと沈んだ調子になり、「あの先生には立派な奥様はあるし、スターで有名な玲子さんがあるし、わたし見たような女給なんぞは全く一時的の慰み物だわ。」
 橋を渡ると、人通りは尾張町《おわりちょう》へ近くなるに従って次第に賑《にぎや》かになる。それにもかかわらず松子は正直な女と見えて、忽《たちまち》激した調子になり、「だって、玲子さんが結婚したのは、先生が君江さんを愛したためだっていう評判よ。そうじゃないの。」
 君江はあたりを憚《はばか》らぬ松子の声に辟易《へきえき》して、「松子さん。その中《うち》ゆっくり会って話しましょうよ。何なら、ちょっとお寄んなさいな。ドンフワンでも募集しているから紹介してもいいわ。」
「あすこは今|幾人《いくたり》いて。」
「六十人で、三十人ずつ二組になっているのよ。掃除はテーブルも何も彼《か》も男の人がするから、それだけ他《わき》よりも楽だわ。」
「一日に幾番くらい持てるの。」
「そうねえ。この頃じゃ三ツ持てればいい方だわ。」
「それで、綺羅《きら》を張ったら、かつかつねえ。自動車だって一度乗ると、つい毎晩になってしまうし……。」
 君江はこまこました世智辛《せちがら》いはなしが出ると、他人の事でもすぐに面倒でたまらなくなる。それにまた、金なんぞはだまっていても無理やりに男の方から置いて行くものと思っているので、人込《ひとごみ》の中に隔てられたまま松子の方には見向きもせず、日の光に照付《てりつ》けられた三越《みつこし》の建物を眩《まぶ》しそうに見上げながら、すたすた四辻《よつつじ》を向側へと横ぎってしまったが、少しは気の毒にもなって、後を振返って見ると、松子は以前の処に立止ったまま、挨拶《あいさつ》のしるしに遠くからちょっと腰をかがめ、それでもう安心したという風で、これも忽ち人通りの中に姿を没した。

 女給《じょきゅう》の君江《きみえ》は午後三時からその日は銀座通のカッフェーへ出ればよいので、市《いち》ヶ|谷《や》本村町《ほんむらちょう》の貸間からぶらぶら堀端《ほりばた》を歩み見附外《みつけそと》から乗った乗合自動車を日比谷《ひびや》で下りた。そして鉄道線路のガードを前にして、場末の町へでも行ったような飲食店の旗ばかりが目につく横町《よこちょう》へ曲り、貸事務所の硝子窓《ガラスまど》に周易《しゅうえき》判断|金亀堂《きんきどう》という金文字を掲げた売卜者《うらないしゃ》をたずねた。
 去年の暮あたりから、君江は再三気味のわるい事に出遇《であ》っていたからである。同じカッフェーの女給二、三人と歌舞伎座《かぶきざ》へ行った帰り、シールのコートから揃《そろ》いの大島の羽織と小袖《こそで》から長襦袢《ながじゅばん》まで通して袂《たもと》の先を切られたのが始まりで、その次には真珠入《しんじゅい》り本鼈甲《ほんべっこう》のさし櫛《ぐし》をどこで抜かれたのか、知らぬ間に抜かれていたことがある。掏摸《すり》の仕業《しわざ》だと思えばそれまでの事であるが、またどうやら意趣《いしゅ》ある者の悪戯《いたずら》ではないかという気がしたのは、その後《ご》猫の子の死んだのが貸間の押入に投入れてあった事である。君江はこの年月随分みだらな生活はして来たものの、しかしそれほど人から怨《うらみ》を受けるような悪いことをした覚えは、どう考えて見てもない。初めは唯《ただ》不思議だとばかり、さして気にも留めなかったが、ついこの頃、『街巷新聞』といって、重《おも》に銀座辺の飲食店やカッフェーの女の噂《うわさ》をかく余り性《たち》の好くない小新聞《こしんぶん》に、君江が今日《こんにち》まで誰も知ろうはずがないと思っていた事が出ていたので、どうやら急に気味がわるくなって、人に勧められるがまま、まず卜占《うらない》をみてもらおうと思ったのである。
『街巷新聞』に出ていた記事は誹謗《ひぼう》でも中傷でもない。むしろ君江の容姿をほめたたえた当り触《さわ》りのない記事であるが、その中に君江さんの内腿《うちもも》には子供の時から黒子《ほくろ》が一つあった。これは成長してから浮気家業をするしるしだそうだが、果してその通り、女給さんになってから黒子はいつの間にか増《ふ》えて三つになったので、君江さんは後援者が三人できるのだろうと、内心喜んだり気を揉《も》んだりしているという事が書いてあった。君江はこれを読んだ時、何だか薄気味のわるい、誠にいやな心持がした。左の内腿に初めは一つであった黒子がいつとなく並んで三つになったのは決して虚誕《うそ》でない。全くの事実である。自分でそれと心づいたのは去年の春上野|池《いけ》の端《はた》のカッフェーに始めて女給になってから、暫《しばら》くして後《のち》銀座へ移ったころである。それを知っているのはまだ女給にならない前から今もって関係の絶えない松崎という好色の老人と、上野のカッフェー以来とやかく人の噂に上る清岡進という文学者と、まずこの二人しかないはずである。黒子のある場所が他《ほか》とはちがって親兄弟でも知ろうはずがない。風呂屋《ふろや》の番頭とてそこまでは気がつくまい。黒子の有無《あるなし》は別にどうでもよい事であるが、風呂屋の番頭さえ気のつかない事を、どうして新聞記者が知っていたのだろう。君江はこの不審と、去年からの疑惑とを思合《おもいあわ》せて、これから先どんな事が起るかも知れないと、急に空おそろしくなって、今まで神信心は勿論《もちろん》、お御籤《みくじ》一本引いたことのない身ながら、突然|占《うらな》いを見てもらう気になったのである。
 アパートメントの一室を店にしている新時代の売卜者《うらないしゃ》は年の頃四十前後、口髭《くちひげ》を刈り洋服を着、鼈甲《べっこう》のロイド眼鏡をかけ、デスクに凭《もた》れて客に応対する様子は見たところ医者か弁護士と変りはない。省線《しょうせん》電車の往復するのが能《よ》く見える硝子窓《ガラスまど》の上には「天佑平八郎書《てんゆうへいはちろうしょ》」とした額を掲げ、壁には日本と世界の地図とを貼り、机の傍の本箱には棚を殊《こと》にして洋書と帙入《ちついり》の和本とが並べてある。
 君江は薄地の肩掛を取って手に持ったまま、指示《さししめ》された椅子に腰をかけると、洋装の売卜者はデスクの上によみかけの書物を閉じ廻転椅子のままぐるりとこちらへ向直《むきなお》って、
「御縁談ですか。それとも大体にお身の上の吉凶《きっきょう》を見ましょうか。」とわざとらしく笑顔をつくる。君江は伏目《ふしめ》になって、
「別に縁談というわけでも御在《ござい》ません。」
「では、まず大体の事から拝見しましょう。」と易者はあたかも婦人科の医者が患者の容態をきくように、なりたけ気がねをさせまいと苦心するらしい砕けた言葉づかいになり、「占いも見つけると面白いものと見えまして、いろいろなお客様がお出《いで》になります。毎朝会社のお出かけにお寄りになって、その日その日の吉凶を見る方《かた》もあります。しかしむかしから当るも八卦《はっけ》、当らぬも八卦という事がありますから、凶の卦《け》に当ってもあまりお気におかけなさらん方がよいです。お年はおいくつでいらっしゃいます。」
「丁度で御在ます。」
「それでは子《ね》の年《とし》でいらっしゃいますな。それからお生れになったのは。」
「五月の三日。」
「子の五月三日。さようですか。」と易者はすぐに筮竹《ぜいちく》を把《と》って口の中で何か呟《つぶや》きながらデスクの上に算木《さんぎ》を並べ、「お年廻りは離中断《りちゅうだん》の卦に当ります。しかし文字通り易の釈義を申上げても廻《まわり》遠くて要領を得ない事になりましょうから、わたくしの思いついた事だけを手短《てみじか》に申上げて見ましょう。大体を申上げると、この離中断の卦に当る方は男女に限らず親兄弟にはなれ友達も至って少く一人で世を渡る傾きがあります。それにあなたのお生れになった月日から見ますと、遊魂巽風《ゆうこんせんぷう》の卦に当ります。これは一時お身の上に変った事が起っても、その変った事が追々《おいおい》元の形に立戻るという卦であります。この卦から考えて見ますと、現在のお身の上は一時変った事の起った後、追々もとのようになって行こうという間のように思われます。天気に譬《たと》えて申上げれば暴風のあった後、その名残りがなかなか静まらない。しかし追々|静《しずか》になって、やがてもとの天気になろうというその途中だと申したらよいでしょう。」
 君江は膝《ひざ》の上に肩掛を弄《もてあそ》びながらぼんやり易者の顔を見ていたが、その判断は全くその身に覚えがない事ではない。どこか当っている処があるので、何となく気まりのわるいような心持で再び伏目になった。一時身の上に変った事があったと言うのは、大方《おおかた》両親の意見をきかず家を飛出し、東京へ来て、とうとう女給になった事だろうと思ったのである。
 君江が家を出たわけは両親はじめ親類|中《じゅう》挙《こぞ》って是非にもと説き勧めた縁談を避けようがためであった。君江の生れた家は上野|停場車《ていしゃば》から二時間ばかりで行かれる埼玉県下の丸円町にあって、その土地の名物になっている菓子をつくる店である。君江は小学校の友達の中で、一時|牛込《うしごめ》の芸者《げいしゃ》になり、一年たつかたたぬ中《うち》身受《みうけ》をされて、人の妾《めかけ》になっていた京子という女と絶えず往来《ゆきき》をしていたので、田舎者の女房などになる気はなく、家を逃げ出してそのまま京子の家に厄介になった。田舎から迎いの人が来て、二、三度連れ戻されてもまたすぐ飛出す始末。親たちも困りぬいて、君江の我儘《わがまま》を通させ銀行か会社の事務員になる事を許した。
 君江は京子の旦那になっている川島という人の世話で、間もなく或《ある》保険会社に雇われたものの、これは一時実家へ対しての申訳《もうしわけ》に過ぎないので、半年とはつづかず、その後《ご》はぶらぶら京子の家に遊んで日を暮している中《うち》、突然京子の旦那は会社の金を遣込《つかいこ》んだ事が露見して検事局へ送られる。京子は芸者に出ていた頃のお客をそのまま妾宅《しょうたく》へ引込《ひきこ》み、それでも足りない時は知合いの待合《まちあい》や結婚媒介所を歩き廻って、結句何不自由もなく日を送っているのを、傍《そば》で見ている君江もいつかこれをよい事にしてその仲間にはいった。しかし何分にもその筋の検挙がおそろしいので、京子はもとの芸者になろうと言出《いいだ》す。君江もともども芸者はどんなものか一度はなって見たいと思いながら、鑑札を受ける時所轄の警察署から実家へ問合《といあわ》せの手続をする規定のある事を知って、やむことをえず女給になった。
 京子は田舎の家へ仕送りをしなければならぬ身であるが、君江はそんな必要がない。田舎に育っただけそれほど流行《はやり》の物に身を飾る心もなければ、芝居や活動のような興行物も、人から誘われないかぎり、自分から進んで見に行こうとはしない。小説だけは電車の中でも拾い読みをするほどであるが、その他《ほか》には自分でも何が好きだかわからないと言っている位で、結局貸間の代と髪結銭《かみゆいせん》さえあれば、強いて男から金など貰《もら》う必要がない。金などは貰わずに、随分男のいうままになってやった事もあるほどなので、君江は今までいかほど淫恣《いんし》な生活をして来ても、人からさほど怨《うらみ》を受けるようなはずはないと思い込んでいる。占者の説明を待って、
「それでは今のところ別にたいして心配するようなことはないんで御在《ござい》ますね。」
「御健康はいかがです。現在別に御《お》わるいところがないのなら、無論近い将来にもさして病難があるとは思われません。現在は唯今《ただいま》も申上げたように波瀾《はらん》のあった後むしろ無事で、いくらか沈滞というような形もあります。御自分ではお気がつかないでいらっしゃるかも知れませんが、何か知ら不安で、おちつかないような気がなさるのかも知れません。しかし易の卦では唯今申上げたように一時の変動が追々静まって行くのですから、これから先たいした事件が起ろうとは思われません。しかし何か御心配な事があって、その事をどうしたらいいかと思召《おぼしめ》すなら、その特別な事について、もう一度見直しましょう。それで大抵お心当りがつくだろうと思います。」と易者は再び筮竹を取り上げた。
「実はすこし気にかかる事が御在まして。」と君江は言いかけたが、まさかに黒子《ほくろ》の事は明らさまには言出しにくいので、「自分には別に覚《おぼえ》がないんですけれど、誰かわたくしの事を誤解している人がありはしないかと思うような事が御在ます。」
「はい。はい。」と易者は仔細《しさい》らしく眼を閉じて再び筮竹を数え算木を置き直して、「なるほど。この卦は物に影の添う事を意味します。して見ると、何か御自分でいろいろ思いすごしをなさるのですな。それがためない事もあるように思われて来ます。唯今の言葉で申すと幻影と実体ですな。物があって影の生ずるのが自然でありますが、時と場合には、それとは反対に影から物の起ることもあります。それ故まず影をなくすようになされば、自然と物事は落つく処へ落ついて行くわけで。そういう御心持《おこころもち》でいらっしゃれば、別に御心配には及ばないと思います。」
 君江は易者のいう事を至極|尤《もっとも》だと思うと、自分ながらつまらない事を気に掛けていたと、忽《たちま》ち心丈夫な気になってしまった。それでもまだ何やらきいて見たいような心持がしながら、しかしあまり微細な事まで問掛《といか》けて、それがため現在の職業はまだしもの事、二、三年前京子と二人で待合や媒介所を歩き廻った事まで知られてはと、底気味のわるい心持もする。猫の死骸や櫛《くし》のなくなった事もきいて見ようとは心づきながら、カッフェーへ行く時間が気になるので、今日はこのまま立去ろうと考え、
「失礼ですが、御礼は。」といいながら帯の間へ手を入れる。
「壱円《いちえん》いただく事にしてありますが、いかほどでも思召《おぼしめ》しで宜《よろ》しいのです。」
 出入口の戸があいて、洋服の男が二人無遠慮に君江の腰をかけているすぐ側《そば》の椅子に坐ったのみならず、その一人はぎょろりとした眼付の、どうやら刑事かとも思われる様子に、君江は横を向いたまま椅子から立って、易者にも挨拶《あいさつ》せず、戸を明けて廊下へ出た。
 建物を出ると、おもては五月はじめの晴れ渡った日かげに、日比谷公園から堀端一帯の青葉が一層色あざやかに輝き、電車を待つ人だまりの中から流行《はやり》の衣裳《いしょう》の翻えるのが目に立って見える。腕時計に時間を見ながら、君江はガードの下を通りぬけて、数寄屋橋《すきやばし》のたもとへ来かかると、朝日新聞社を始め、おちこちの高い屋根の上から広告の軽気球があがっているので、立留《たちどま》る気もなく立留って空を見上げた時、後《うしろ》から君江さんと呼びながら馳《か》け寄る草履《ぞうり》の音。誰かと振返れば去年|池《いけ》の端《はた》のサロンラックで一緒に働いていた松子という年は二十一、二の女で。その時分にくらべると着物も姿もずっと好《よ》くなっている。君江は同じ経験からすぐに察して、
「松子さん。あなたも銀座。」
「ええ。いいえ。」と松子は曖昧《あいまい》な返事をして、「去年の暮、暫《しばら》くアルプスにいたのよ。それから遊んでいたの。だけれどまたどこかへ出たいと思って実はこれから五丁目のレーニンっていう酒場。君江さんも御存じでしょう。あの時分ラックにいた豊子さんがいるから、ちょっと様子を見て来ようと思っているの。」
「そう。あなた、アルプスにいたの。ちっとも知らなかったわ。わたしはあれからずっとドンフワンにいるわ。」
「この春だったか、アルプスでお客様から聞いたことがあったわ。お逢《あ》いしたいと思ってもつい時間がないでしょう。あの、先生もお変りがなくって。」
 君江は小説家清岡進の事にちがいないとは思いながら、数の多いお客の中には、弁護士の先生もあれば、医者の先生もあるので、それとなく念を押すに若《し》くはないと、「ええ。この頃は新聞の外《ほか》に映画や何かで大変おいそがしいようだわ。」
 松子はこれを何と思いちがいしたのか、「アラ、そう。」といかにも感に打たれたらしく深く息を呑《の》んで、「男はいざとなると薄情ねえ。わたしもいい経験をしたのよ。だから今度は大《おおい》に発展してやろうと思ってるのよ。」
 君江は心の中で高が五人か十人、数の知れた男の事を大層らしく経験だの何だのと言うにも及ぶまいと、可笑《おか》しくなって来て、からかい半分、わざと沈んだ調子になり、「あの先生には立派な奥様はあるし、スターで有名な玲子さんがあるし、わたし見たような女給なんぞは全く一時的の慰み物だわ。」
 橋を渡ると、人通りは尾張町《おわりちょう》へ近くなるに従って次第に賑《にぎや》かになる。それにもかかわらず松子は正直な女と見えて、忽《たちまち》激した調子になり、「だって、玲子さんが結婚したのは、先生が君江さんを愛したためだっていう評判よ。そうじゃないの。」
 君江はあたりを憚《はばか》らぬ松子の声に辟易《へきえき》して、「松子さん。その中《うち》ゆっくり会って話しましょうよ。何なら、ちょっとお寄んなさいな。ドンフワンでも募集しているから紹介してもいいわ。」
「あすこは今|幾人《いくたり》いて。」
「六十人で、三十人ずつ二組になっているのよ。掃除はテーブルも何も彼《か》も男の人がするから、それだけ他《わき》よりも楽だわ。」
「一日に幾番くらい持てるの。」
「そうねえ。この頃じゃ三ツ持てればいい方だわ。」
「それで、綺羅《きら》を張ったら、かつかつねえ。自動車だって一度乗ると、つい毎晩になってしまうし……。」
 君江はこまこました世智辛《せちがら》いはなしが出ると、他人の事でもすぐに面倒でたまらなくなる。それにまた、金なんぞはだまっていても無理やりに男の方から置いて行くものと思っているので、人込《ひとごみ》の中に隔てられたまま松子の方には見向きもせず、日の光に照付《てりつ》けられた三越《みつこし》の建物を眩《まぶ》しそうに見上げながら、すたすた四辻《よつつじ》を向側へと横ぎってしまったが、少しは気の毒にもなって、後を振返って見ると、松子は以前の処に立止ったまま、挨拶《あいさつ》のしるしに遠くからちょっと腰をかがめ、それでもう安心したという風で、これも忽ち人通りの中に姿を没した。

 松屋呉服店から二、三軒|京橋《きょうばし》の方へ寄ったところに、表附《おもてつき》は四間間口《しけんまぐち》の中央に弧形《ゆみなり》の広い出入口を設け、その周囲にDONJUANという西洋文字を裸体の女が相寄って捧げている漆喰細工《しっくいざいく》。夜になると、この字に赤い電気がつく。これが君江の通勤しているカッフェーであるが、見渡すところ殆《ほとん》ど門並《かどなみ》同じようなカッフェーばかり続いていて、うっかりしていると、どれがどれやら、知らずに通り過ぎてしまったり、わるくすると門《かど》ちがいをしないとも限らないような気がするので、君江はざっと一年ばかり通《かよ》う身でありながら、今だに手前隣《てまえどなり》の眼鏡屋と金物屋とを目標《めじるし》にして、その間の路地《ろじ》を入るのである。路地は人ひとりやっと通れるほど狭いのに、大きな芥箱《ごみばこ》が並んでいて、寒中でも青蠅《あおばえ》が翼《はね》を鳴《なら》し、昼中でも鼬《いたち》のような老鼠《ろうねずみ》が出没して、人が来ると長い尾の先で水溜《みずたまり》の水をはね飛《とば》す。君江は袂《たもと》をおさえ抜足《ぬきあし》して十歩ばかり。やがて裏通を行く人の顔も見分けられるあたり。安油の悪臭が襲うように湧《わ》き出してくる出入口をくぐると、何処《どこ》という事なく竈虫《かまどむし》のぞろぞろ這《は》い廻っている料理場である。料理場は後《あと》から建て増したものらしく、銀座通に面した表附とはちがって、震災当時の小屋同然、屋根も壁もトタンの海鼠板《なまこいた》一枚で囲ってあるばかり。それでも土間から急な梯子段《はしごだん》を土足のまま登って行くと、十畳ばかり畳を敷いた一室があって、四方の壁際ぐるりと十四、五台ばかりも鏡台が並べてある。丁度三時五、六分前。十畳の一室は、朝十一時から店へ出ていた女給と、今方《いまがた》来たものとの交代時間で、坐る場所もないほど混雑している最中。鏡一台の前にはいずれも女が二、三人ずつ繍眼児押《めじろお》しに顔を突出《つきだ》して、白粉《おしろい》の上塗《うわぬり》をしたり髪の形を直したり、あるいは立って着物を着かえたり、大胡坐《おおあぐら》で足袋《たび》をはき替《か》えたりしているのもある。
 君江は竪《たて》シボの一重羽織《ひとえばおり》をぬいで肩掛と一つにして風呂敷《ふろしき》に包んだ。そして廊下への出口に置いてある衣裳棚《いしょうだな》に、名前の貼紙がしてある処を見てその包《つつみ》を載《の》せ、コンパクトで鼻の先を叩《たた》きながら、廊下づたいにパンツリイを通り抜けると、丁度店二階の方から歩いて来る春代という女に出逢《であ》った。帰り道が同じ四谷《よつや》の方角《ほうがく》なので、六十人いる朋輩《ほうばい》の中では一番心安くなっている。
「春さん。昨夜はグレたんじゃないの。後《あと》で何かおごってよ。」
「それァあなたでしょう。わたし随分待っていたのよ。今夜はきっと一緒に帰りましょう。その方が経済だからねえ。」
 君江はそのまま表二階の方へ行きかけると、階段の下から下足番《げそくばん》をしている男ボーイが、「君江さん、電話です。」と頻《しきり》に呼んでいる声が聞えた。
「はアイ。」と大声に答えながら、口の中で「誰だろう。いけすかない。」とつぶやきながら、テーブルや植木鉢の間を小走りに通り抜けて階段を下りて行った。
 階下は銀座の表通から色硝子《いろガラス》の大戸をあけて入る見通しの広い一室で、坪数《つぼすう》にしたら三、四十坪ほどもあろうかと思われるが、左右の壁際には衝立《ついたて》の裏表に腰掛と卓子《テーブル》とをつけたようなボックスとかいうものが据え並べてあって、天井からは挑灯《ちょうちん》に造花、下には椅子テーブルに植木鉢のみならず舞台で使う藪畳《やぶだたみ》のような植込《うえこみ》が置いてあるので、何となく狭苦しく一見|唯《ただ》ごたごたした心持がする。正面の奥深い片隅に洋酒を棚に並べた酒場があって、壁に大きな振子《ふりこ》時計、その下に帳場があり、続いて硝子戸の内に電話機がある。君江は行きちがう人ごとに笑顔をつくりながら、電話室へ駈《か》け込み、「もしもしどなた。」ときくと、電話は君江を呼んだのではなく、清子という女給の聞きちがえであった。
 爪先《つまさき》で電話室の硝子戸を突きあけ、「清子さん。電話。」と呼びながら君江は反身《そりみ》に振返ってあたりを見廻したが、昼間のことで客はわずかに二組ほど、そのまわりに女給が七、八人集っているばかり。植木の葉かげを透《すか》して見ても清子の姿は見えない。誰やらが「清子さんは早番でしょう。」という。君江はその通り電話の返事をして硝子戸の外へ出ると、その姿を見て、洋服をきた中年の痩《や》せた男が帳場の台に身を倚《よ》せたまま、「君江さん。」と呼留めて、「どうしました。占《うらな》いは。」
「たった今、見てもらったわ。」
「どうでした。やっぱり男のおもいでしょう。」
「それなら見てもらわなくっても覚えがあるはずじゃないの。もうそんな景気じゃないわ。小松さん。わたし大《おおい》に悲観しているのよ。」
「へえ。君江さんが……。」と小松といわれた男は円顔《まるがお》の細い目尻に皺《しわ》をよせて笑う。年はもう四十前後。神田の何とやらいうダンスホールの会計に雇われている男で、夕方六時に出勤する頃まで、毎日懇意なカッフェーを歩き廻って女給の貸間をはじめ、質屋の世話、芝居の切符の取次など、何事にかぎらず女の用を足してやって、皆から小松さん小松さんと重宝《ちょうほう》がられるのをこの上もなく嬉しいことにしている男である。いや味な事は言わないかわり、お客になって飲み食いもした事がない。以前はどこかの箱屋《はこや》だともいうし役者の男衆《おとこしゅう》だったという噂《うわさ》もある。君江はこの男から日比谷の占者のことをきいたのである。
「君江さん。どうでした。何か手がかりがありましたか。」
「さア。何だか、いろいろな事を言われたけれど、何の事だかわけがわからないのよ。わたしの方でも別に何ともきいては見なかったんだけれど。」
「それじゃ駄目だ。君江さんと来たら実にのん気だからな。」
「壱円《いちえん》損したわ。」と君江は人に問われて始めて占者の判断の甚《はなはだ》要領を得ていなかった事と、自分のきき方も随分不熱心であった事に心づいた。最少《もすこ》し向《むこう》の困るくらい委《くわ》しくこまかい事まできけばよかったという気がした。
「でもねえ、小松さん。当分今の通りで別条はないんですとさ。覚えているのはそれッきりよ。いろんな事を言われたけれど『何が何だかわからないのヨ』なのよ。まったくさ。何しろ占を見てもらうのは生れて始てでしょう。見てもらいつけないと駄目なものねえ。占もやっぱり聞方《ききかた》があるんじゃないか知ら。」
「占いかたはあっても、別に聞き方はないでしょう。」
「それでも、お医者さまでも始めて見てもらう時には、いろいろこっちから言わなくっちゃ、いけないッていうじゃないの。だから占や何かでもやっぱりそうだろうと思うわ。」
 表梯子《おもてばしご》の方から蝶子《ちょうこ》という三十越したでっぷりした大年増《おおどしま》が拾円《じゅうえん》紙幣を手にして、「お会計を願います。」と帳場の前へ立ち、壁の鏡にうつる自分の姿を見て半襟《はんえり》を合せ直しながら、
「君江さん。二階に矢《ヤア》さんがいてよ。行っておあげなさいよ。うるさいから。」
「さっき見掛けたけれど、わたしの番じゃないから降りて来たのよ。あの人、先《せん》に辰子《たつこ》さんのパトロンだって、ほんとうなの。」
「そうよ。日活《にっかつ》の吉《ヨウ》さんに取られてしまったのよ。」とはなし出した時会計の女が伝票と剰銭《つりせん》とを出す。その時この店の持主池田|何某《なにがし》という男に事務員の竹下というのが附き随《したが》い、コック場へ通う帳場の傍《わき》の戸口から出て来る姿が、酒場の鏡に映った。蝶子と君江とは挨拶《あいさつ》するのが面倒なので、さっさと知らぬふりで二階の方へ行く。池田というのは五十年配の歯の出た貧相《ひんそう》な男で、震災当時、南米の植民地から帰って来て、多年の蓄財を資本にして東京大阪神戸の三都にカッフェーを開き、まず今のところでは相応に利益を得ているという噂である。
 表梯子から二階へ上った蝶子は壁際のボックスに坐《すわ》っている二人連れの客のところへ剰銭を持って行き、君江は銀座通を見下《みおろ》す窓際のテーブルを占めた矢《ヤア》さんというお客の方へと歩みを運びながら、
「いらっしゃいまし。この頃はすっかりお見かぎりね。」
「そう先廻りをしちゃアずるいよ。先日はどうも、すっかり見せつけられまして。あんなひどい目に遇《あ》った事は御在《ござい》ません。」
「矢《ヤア》さん。たまにゃア仕方がないことよ。」と愛嬌《あいきょう》を作って君江は膝頭《ひざがしら》の触れ合うほどに椅子を引寄せて男の傍《そば》に坐り、いかにも懇意らしく卓《テーブル》の上に置いてある敷島《しきしま》の袋から一本抜取って口にくわえた。
 矢《ヤア》さんというのは赤阪《あかさか》溜池《ためいけ》の自動車輸入商会の支配人だという触込《ふれこ》みで、一時《ひとしきり》は毎日のように女給のひまな昼過ぎを目掛けて遊びに来たばかりか、折々店員四、五人をつれて晩餐《ばんさん》を振舞《ふるま》う。時々これ見よがしに芸者をつれて来る事もある。年は四十前後、二ツはめているダイヤの指環《ゆびわ》を抜いて見せて、女たちに品質の鑑定法や相場などを長々と説明するというような、万事思切って歯の浮くような事をする男であるが、相応に金をつかうので女給|連《れん》は寄ってたかって下にも置かないようにしている。君江は既に二、三度芝居の切符を買ってもらったこともあるし、休暇時間に松屋へ行って羽織と半襟を買ってもらったこともあるので、この次どこかへ御飯《ごはん》でも食べに行こうと誘われれば、その先は何を言われても、そう情《すげ》なく振切ってしまうわけにも行かない位の義理合いにはなっている。それ故|矢《ヤア》さんからひやかされたのを、なまじ胡麻化《ごまか》すよりも明《あから》さまに打明けてしまった方が、結句面倒でなくてよいと思ったのである。矢《ヤア》さんは内心むっとしたらしいのを笑いにまぎらせて、
「とにかく羨《うらやま》しかったな。罪なことをするやつだよ。」とテーブルの周囲に集っているお民《たみ》、春江、定子《さだこ》など三、四人の女給へわざとらしく冗談に事寄せて、「お二人でお揃《そろ》いのところを後《うしろ》からすっかり話をきいてしまったんだからな。人中なのに手も握っていた。」
「あら。まさか。そんなにいちゃいちゃしたければ芝居なんぞ見に行きゃアしないわ。わきへ行くわよ。」
「こいつ。ひどいぞ。」と矢《ヤア》さんは撲《ぶ》つまねをするはずみにテーブルの縁《ふち》にあったサイダアの壜《びん》を倒す。四、五人の女給は一度に声を揚げて椅子から飛び退《の》き、長い袂《たもと》をかかえるばかりか、テーブルから床《ゆか》に滴《したた》る飛沫《とばしり》をよける用心にと裾《すそ》まで摘《つま》み上げるものもある。君江は自分の事から起った騒ぎに拠所《よんどころ》なく、雑巾《ぞうきん》を持って来て袂の先を口に啣《くわ》えながら、テーブルを拭いている中《うち》、新しく上って来た二、三人|連《づれ》の客。いらっしゃいましと大年増の蝶子が出迎えて「番先《ばんさき》はどなた。」と客の注文をきくより先に当番の女給を呼ぶ金切声《かなきりごえ》。「君江さんでしょう。」と誰やらの返事に君江は雑巾を植木鉢の土の上に投付けて「はアい。」と言いながら、新来のお客の方へと小走りにかけて行った。
 客は二人とも髭《ひげ》を生《はや》した五十前後の紳士で、松屋か三越あたりの帰りらしく、買物の紙包を携《たずさ》え、紅茶を命じたまま女給には見向きもせず、何やら真面目《まじめ》らしい用談をしはじめたので、君江はかえってそれをよい事に、ひまな女たちの寄集《よりあつま》っている壁際のボックスに腰をかけた。テーブルの上には屑羊羹《くずようかん》に塩煎餅《しおせんべい》、南京豆《なんきんまめ》などが、袋のまま、新聞や雑誌と共に散らかし放題、散らかしてあるのを、女たちは手先の動くがまま摘《つま》んでは口の中へと投げ入れているばかり。活動写真の評判や朋輩《ほうばい》同士の噂《うわさ》にも毎日の事でもう飽《あ》きている。睡気《ねむけ》がさしてもさすがここでは居睡《いねむ》りをするわけにも行かないらしく、いずれも所業《しょざい》なげに唯《ただ》時間のたつのを待っているという様子。その時隅の方でひとり雑誌の写真ばかり繰りひろげて見ていた女が、突然、
「アラ、実にシャンねえ。清岡先生の奥様よ。」という声に、ボックスに休んでいた女は一斉に顔を差出した。君江も屑羊羹を頬張《ほおば》りながら少し及腰《およびごし》になって、
「どれさ。見せてよ。わたしまだ知らないんだからさ。」
「はい。よく御覧なさい。」と以前の女が差付《さしつ》ける雑誌の挿絵。見れば、縁側に腰をかけている夫人風の女の姿で、「名士の家庭。」「創作家清岡進先生の御夫人鶴子さまのお姿。」としてあった。
「君江さん。あんた、何ともない事。そんなもの見て。わたしなら破いてしまいたくなるわ。」と写真の上に南京豆を打ちつけたのは、もと歯医者の妻で生活難から女給になった鉄子である。
「あなた。随分|焼餅《やきもち》やきねえ。」と君江はかえって驚いたように鉄子の顔を見返して、「いいじゃないの。奥様なら奥様で。気にしないだって。」
「君江さんは全く徹底しているわ。」とダンス場から転じてカッフェーに来た百合子《ゆりこ》というのが相槌《あいづち》を打つと、もとは洋髪屋《ようはつや》の梳手《すきて》であった瑠璃子《るりこ》というのが、
「とにかく一番幸福なのは清岡さんよ。令夫人はシャンだし、第二号は銀座における有名なる女給さんだし……。」
「ちょいと何が有名なのさ。止《よ》して頂戴《ちょうだい》よ。」と君江はわざとらしく憤然《ふんぜん》と椅子を立って、先刻《さっき》から打捨《うちす》てて置いた自動車商会の矢田さんの方へと行ってしまった。女たちは無論戯れとは知りながら、少し心配したように斉《ひと》しくその後姿《うしろすがた》を見送ったが、瑠璃子はもともと梳子の時分ないない私娼窟《ししょうくつ》に出没して君江とも一、二度言葉を交えた間柄。偶然このカッフェーで邂逅《かいこう》しても、互《たがい》に黙契する処があるらしく秘密を守り合っているくらいなので、何を言ってもまた言われても互に気を悪くするはずはないと、平気な顔で、折からテーブルを叩《たた》くらしい音がするのを聞きつけ、自分が持番の客ではないかと、音する方へ目を注ぐ。丁度その途端、階段から上って来る新しい客の洋服姿が向《むこう》の壁の鏡に映ったのを早くも認めて、「アラ清岡先生よ。」と瑠璃子は小声で一同《みんな》に知らせた。
「先生。くしゃみが出なかって。」と君江とは仲の好い春代が逸早《いちはや》く駈寄《かけよ》って、「あっちのボックスがいいわよ。」と洋服の袖《そで》に縋《すが》り、人目につかない隅のボックスへ連れて行った。これは君江を張りに来る自動車屋の矢田さんが、まだ帰らずにいるので、万一の事を用心した春代の心づかいである。
「歩いて来るともう暑い。黒ビールか何か貰《もら》おうよ。」と清岡進は抱えていた新刊雑誌と新聞紙とをテーブルの下の揚板《あげいた》に押入れ、新しい鼠色《ねずみいろ》の中折帽《なかおれぼう》をぬいで造花の枝にかけた。紺地《こんじ》二重ボタンの背広に蝶結《ちょうむすび》のネキタイ。年の頃は三十五、六。鼻先と頤《おとがい》のとがっているのが目に立つので、色の白い眼の大きい頬《ほお》のこけた顔立は一層神経質らしく見えるのに、長く舒《の》ばした髪をわざと無造作に後《うしろ》に掻き上げている様子。誰が目にも新進の芸術家らしく、また宛然《さながら》活動写真中に現れて来る人物らしくも見える。その父は漢学者だとかいう事であるが、清岡は仙台あたりの地方大学に在学中も学業の成績は極めて不出来で、卒業の後文学者の仲間入はしたものの、つい三、四年ほど前までは、更に月旦《げったん》に登るような著述もなかった。然《しかる》に、何から思いついたのやら、ふと曲亭馬琴《きょくていばきん》の小説『夢想兵衛胡蝶物語《むそうべえこちょうものがたり》』を種本《たねほん》にして、原作の紙鳶《たこ》を飛行機に改め、「彼はどこへでも飛んで行く。」という題をつけ、全篇の趣向をそのまま現代の世相に当てはめた通俗小説を執筆して、或《ある》新聞に連載した。これが偶然大当りにあたって、新派俳優の芝居や活動写真にも仕組まれ、爾来《じらい》名声は藉然《せきぜん》として、一作ごとに高くなり、今日《こんにち》では大抵の雑誌や新聞に清岡進の名を見ないものはないような勢《いきおい》になった。
「これも先生の御本。」と春代は遠慮なくテーブルの上の一冊を取り上げ口絵を見ながら、「これはまだ活動にはならないんでしょう。」
 清岡はわざとうるさいような顔をして、「春さん。ちょっと電話を掛けてくれ。『丸円新聞』の編輯局《へんしゅうきょく》に村岡がいるはずだから。京橋の丸丸番だよ。呼出してすぐにここへ来いッて。」
「村岡さんて、いつもの村岡さん。」
「そうだよ。」
「京橋の丸丸番だわね。」と春代が行きかけた時、持番の定子《さだこ》というのが、黒ビールと南京豆の小皿を持って来て、酌をしながら、「わたし、先生の小説には思出の深い事があるのよ。あの時分、別に役も何も付いた訳じゃないけれど、始めて蒲田《かまた》へ這入《はい》ったのよ。」
「定さん。蒲田にいた事があるのか。」と清岡はコップを片手に定子の顔を斜《ななめ》に見上げながら、「どうして止《よ》したんだ。」
「どうしてッて。見込みがないんですもの。」
「お世辞じゃないが、定さんのような顔立なら映画には向くんだがね。監督の言う事を聴かないからだろう。女は何になっても男の後援がなくっちゃ駄目だからな。女流作家だって少し売出すまでには、みんな背景があるんだよ。」
 その時君江が巻煙草《まきたばこ》を啣《くわ》えながら歩いて来て、黙って清岡の側《そば》に腰をかける。春代が戻って来て電話の返事を伝え、そのまま腰をかけて、
「先生。何か御馳走してよ。君ちゃんは。」
「わたしこの方がいいわ。」と清岡が飲残した黒ビールのコップを取上げた。
「おむつまじい事ね。じゃア、春代さん、チキンライスか何か一緒にたべましょう。」と定子は帯の間から取出す伝票紙に注文の品を書きながら立って行った。
 明り取りの窓にさしていた夕日の影はいつか消えて、階段の下から突然蓄音機が響き出した。これが五時半になった知らせで、三時過から休んでいた女給も化粧をし直して出てくる。階上階下の電燈には残りなく灯がついて、外はまだ明《あかる》い夏の夕方も建物の内ばかりは早くも夜の景気であ

 帰り途《みち》が同じ四谷《よつや》の方角なので、君江と春代とは大抵毎晩|連立《つれだ》って数寄屋橋《すきやばし》あたりから円タクに乗る。銀座通では人目に立つのみならず、その辺《へん》にはカッフェーを出た酔客がまだうろうろ徘徊《はいかい》しているので、これを避けるため、少し歩きながら、通過《とおりすぎ》る円タクを呼止め、値切る上にも賃銭を値切り倒して、結局三十銭位で承知する車に乗るのである。その晩二人は数寄屋橋を渡ってガードの下を過ぎ、日比谷《ひびや》の四辻《よつつじ》近くまで来たが、三十銭で承知する車は一台もない。春代は腹立しげに、「何だい。馬鹿にしている。停《とま》るかと思ったら、あいつも行ってしまった。」
「いいわよ。ぶらぶら歩きましょうよ。少し酔ったから丁度いいわよ。」
「もうすっかり夏だわねえ。御堀《おほり》の方を見ると、まるで芝居の背景見たようねえ。」
 日比谷の四辻には電車を待つ人がまだ大分立っている。
「今夜は節約して電車に乗ろうよ。」
 二人は道幅のひろい四辻を歩道から線路の方へと歩み寄ろうとした時、横合いからぬっと二人の前へ立ちふさがった洋服の男があったので、二人はびっくりしてその顔を見ると、今日も午後にカッフェーへ来ていたダイヤモンドの矢田さんであった。
「まア、大変御ゆっくりねえ。どこで飲んでいらしったの。」
「送ってあげよう。」と矢田は円タクを呼びかけた。
「わたし、電車でいいのよ。お客様と自動車に乗るのはやかましいから。」と春代は体《てい》よく逃げようとすると、矢田は、度々その手を食っていると見えて、
「それァ銀座通のことじゃないか。ここまで来れば構やせん。僕が責任を負う。」
「あなたも節約して電車になさいよ。矢《ヤア》さん。」と君江は丁度来かかった赤電車の方へとすたすた行きかけたので、矢田はとやかく言っている暇もなく、二人の後について新宿《しんじゅく》行の電車に乗った。
 案外すいている車の中には、二人の知らない他の店の女給が三人ばかりに、男が五、六人。いずれも居眠りをしている。半蔵門《はんぞうもん》を過ぎて四谷見附《よつやみつけ》に来かかる時まで、矢田はさすがにおとなしく、連れではないような風をして口もきかずにいたが、君江が春代を残して一人車から降りかけるのを見るや否や、あわててその後について来て、
「君江さん。もう乗換《のりかえ》はないぜ。自動車を呼ぼう。」
「いいのよ。すぐ其処《そこ》ですから。」と君江は人通《ひとどおり》の絶えた堀端《ほりばた》を本村町《ほんむらちょう》の方へと歩いて行く。円タクの運転手が二人の姿を見て、窓から手を出し指で賃銭の割引を示すものもあれば、垢《あか》じみた顔を出してひやかすものもある。矢田はぴったり寄添い、
「君江さん。どうしても家《うち》へ帰らなくっちゃいけないのか。一晩ぐらい都合できないのか。エ、君江さん。どうしてもいけなければ、一時間でも、三十分でもいい。話をしてすぐ別れてもいいから、ちょっとつき合ってくれ。僕はそんな無理なことは決して言わない。今夜の中にきっと帰すから。」
「もう晩《おそ》すぎるわよ。ぐずぐずしていると、わたし帰れなくなってしまうから。それに明日《あした》は早番だから。」
「早番だって、あすこは十一時じゃないか。こんな事を言ってぐずぐずしている中《うち》に時間がたってしまうじゃないか。この近辺はいけないのか。荒木町《あらきちょう》か、それとも牛込《うしごめ》はどうだ。」と矢田は君江の手を握って動かない。
 土手上の道路は次第に低くなって行くので、一歩《ひとあし》ごとに夜の空がひろくなったように思われ、市《いち》ヶ|谷《や》から牛込の方まで、一目に見渡す堀の景色は、土手も樹木も一様に蒼《あお》く霧のようにかすんでいる。そよそよと流れて来る夜深《よふけ》の風には青くさい椎《しい》の花と野草の匂《におい》が含まれ、松の聳《そび》えた堀向《ほりむこう》の空から突然|五位鷺《ごいさぎ》のような鳥の声が聞えた。
「アラ。何だか田舎へ行ったようねえ。」と君江は空を見上げた。矢田はすかさず、
「どこか静な処へ行こうじゃないか。一晩位犠牲におしよ。僕のために。」
「矢さん。もしか目付《めっ》かって、ごたごたしたら、あなた。あの人の代りになってくれること。わたし、実はもうカッフェーなんかよしたいと思っているの。」と君江は矢田の心を引いて見るつもりで、わざと身を摺《す》り寄せながら静に歩き出した。実は今夜連れられて行った先で、矢田が気前|好《よ》く祝儀《しゅうぎ》を奮発するかどうかを確めて置こうと思っただけである。
「あの人ッて、誰だ。この間一緒に邦楽座《ほうがくざ》へ行った人か。」
「いいえ。」と言いかけて君江は心づき、「え、そうよ。あの人よ。」と狼狽《うろた》えて言直《いいなお》した。邦楽座へ一緒に行ったのは旦那でも恋人でも何でもない。つまり矢田さんと同様なその場かぎりのお客なのである。
「そうか。あの人が君さんの旦那なのか。」と矢田はすっかり本気にして、「しかし、今まで世話をしている関係があっちゃア、そう急によしてしまう訳《わけ》には行かないだろう。恨まれるのはいやだからな。」
 君江は噴き出したくなるのを耐《こら》えて、「ですからさ。もしも、万一の事があったらッて言うのよ。知れると面倒だから、今夜の事は誰にも絶対に秘密よ。」
「そんな事は心配しないだって大丈夫だよ。まさかの時にはきっと僕が引受ける。」と矢田はまず今夜だけはいよいよ自分のものになった嬉しさ。人通のない堀端を幸《さいわい》に、いきなり抱き寄せて女の頬《ほお》に接吻《せっぷん》した。
 本村町の電車停留場はいつか通過ぎて、高力松《こうりきまつ》が枝を伸《のば》している阪の下まで来た。市ヶ谷駅の停車場と八幡前の交番との灯が見える。
「あすこの交番はうるさいのよ。すこしおそくなると、いろいろな事を聞くから、車に乗りましょう。」
 矢田はこの機|逸《いっ》すべからずと、あたりを見廻したが、折悪《おりあ》しく円タクが通らないので、二人はそのまま立止った。
「わたしの家はすぐ其処《そこ》の横町《よこちょう》だわ。角に薬屋があるでしょう。宵の中《うち》には屋根の上に仁丹《じんたん》の広告がついているからすぐにわかるわ。わたしこの荷物を置いて来るから待っててヨ。」
「おい。君さん。大丈夫か。すっぽかしはあやまるぜ。」
「そんな卑怯《ひきょう》な真似《まね》しやしないわヨ。心配なら一緒にそこまでいらっしゃいよ。わたしが帰らないと、いつまでも下のおばさんが鍵《かぎ》をかけずに置くから。」
 高力松の下から五、六軒先の横町を曲ると、今までひろびろしていた堀端の眺望から俄《にわか》に変る道幅の狭さに、鼻のつかえるような気がするばかりか、両側ともに屋並《やなみ》の揃《そろ》わない小家つづき、その間には潜門《くぐりもん》や生垣《いけがき》や建仁寺垣《けんにんじがき》なども交《まじ》っているが、いずれも破れたり枯れたりしているので、あたりは一層いぶせく貧し気に見える。君江は軒先《のきさき》に魚屋《さかなや》の看板を出した家の前まで来て、「ここで待っていらっしゃい。」と言いすて、魚屋の軒下から路地《ろじ》へ這入《はい》った。矢田はすぐにその後について行こうとしたが、君江の感情を害しはせぬかと遠慮して、暫《しばら》く首をのばして真暗《まっくら》な路地の中をのぞくと、がたりがたりといかにも具合のわるそうな潜戸《くぐりど》の音がしたので、いくらか安心はしたものの、どうも、様子が見届けたくてならぬところから、一歩二歩《ひとあしふたあし》とだんだん路地の中へ進み入ると、忽《たちま》ち雨だれか何かの泥濘《ぬかるみ》へぐっすり片足を踏み込み、驚いて立戻り、魚屋の軒燈《けんとう》をたよりに半靴《はんぐつ》のどろを砂利《じゃり》と溝板《どぶいた》へなすりつけている。間もなく、君江は出て来て、
「アラ、どうしたの。」
「イヤ、ひどい道だ。馬鹿にくさい。猫か犬の糞《くそ》だろう。」
「だから、外で待っていらっしゃいッて言ったんじゃないの。ほんとに臭《くさ》いわ。あなた。」と君江は寄添う矢田からその身を離して、「わたし、草履《ぞうり》だから、足袋《たび》へくっ付けちゃ、いやヨ。」
 矢田は歩きながら、砂利に靴の裏をこすりこすりもとの堀端へ出ると、丁度|曲角《まがりかど》の軒下に薪《まき》と炭俵《すみだわら》とが積んであったのでやっと靴の掃除をし終った時、呼びもしない円タクが二人の前に停《とま》った。
「神楽阪《かぐらざか》。五十銭。」と矢田は君江の手を取って、車に乗り、「阪の下で降りよう。それから少し歩こうじゃないか。」
「そうねえ。」
「今夜は何となく夜通し歩きたいような気がするんだよ。」と矢田は腕をまわして軽く君江を抱き寄せると、君江はそのまま寄りかかって、何も彼《か》も承知していながら、わざと、
「矢《ヤア》さん。一体どこへ行くの。」ときいた。
 矢田の方でも随分白ばッくれた女だとは思いながら、その経歴については何事も知らないので、表面は摺《す》れていても、その実案外それほどではないのかという気もするので、この場合は女の仕向けるがまま至極おとなしい女給さんとして取扱っていれば間違いはないと、君江の耳元へ口を寄せて、「待合《まちあい》だよ。」と囁《ささや》き聞かせ、「差しつかえはないだろう。今夜は晩《おそ》いからね。僕の知ってる処がいいだろう。それとも君江さん。どこか知っているなら、そこへ行こう。」
 思いがけない矢田の仕返しに、さすがの君江も返事に困り、「いいえ。何処《どこ》だってかまわないわ。」
「じゃ、阪下で降りよう。尾沢カッフェーの裏で、静な家を知っているから。」
 君江はうなずいたまま窓の外へ目を移したので、会話《はなし》はそのまま杜絶《とだ》える間もなく車は神楽阪の下に停った。商店は残らず戸を閉め、宵の中《うち》賑《にぎやか》な露店も今は道端に芥《あくた》や紙屑《かみくず》を散らして立去った後、ふけ渡った阪道には屋台の飲食店がところどころに残っているばかり。酔った人たちのふらふらとよろめき歩む間を自動車の馳過《かけすぎ》る外《ほか》には、芸者の姿が街をよこぎって横町から横町へと出没するばかりである。毘沙門《びしゃもん》の祠《ほこら》の前あたりまで来て、矢田は立止って、向側の路地口《ろじぐち》を眺め、
「たしかこの裏だ。君江さん。草履だろう。水溜《みずたま》りがあるぜ。」
 石を敷いた路地は、二人並んでは歩けないほどせまいのを、矢田は今だに一人先に立って行ったら君江に逃げられはせぬかと心配するらしく、ハメ板に肱《ひじ》や肩先が触《さわ》るのもかまわず、身を斜《ななめ》にしながら並んで行くと、突当《つきあた》りに稲荷《いなり》らしい小さな社《やしろ》があって、低い石垣の前で路地は十文字にわかれ、その一筋《ひとすじ》はすぐさま石段になって降り行くあたりから、その時静な下駄《げた》の音と共に褄《つま》を取った芸者の姿が現れた。二人はいよいよ身を斜にして道を譲りながら、ふと見れば、乱れた島田の髱《たぼ》に怪《あや》し気《げ》な癖《くせ》のついたのもかまわず、歩くのさえ退儀《たいぎ》らしい女の様子。矢田は勿論《もちろん》の事。君江の目にも寐静《ねしずま》った路地裏の情景が一段|艶《なまめか》しく、いかにも深《ふ》け渡った色町《いろまち》の夜らしく思いなされて来たと見え、言合したように立止って、その後姿を見送った。それとも心づかぬ芸者は、稲荷の前から左手へ曲る角の待合の勝手口をあけて這入《はい》るが否や、疲れ果てた様子とは忽ち変った威勢のいい声で、「かアさん。もう間に合わなくって。」
 君江は耳をすましながら、「矢《ヤア》さん。わたしも芸者になろうと思ったことがあるのよ。ほんとうなのよ。」
「そうか。君江さんが。」と矢田はいかにもびっくりしたらしく、その事情《わけ》をきこうとした時、早くも目指した待合の門口へ来た。内にはまだ人の気勢《けはい》がしていたが、門の扉の閉めてあるのを、矢田は「おいおい」と呼びながら敲《たた》くと、すぐに硝子戸《ガラスど》の音と、下駄をはく音がして、
「どなたさま。」と女の声。
「僕。矢さんだよ。」
「あら、大変御ゆっくりねえ。」と門の扉を明けた女中は、君江の姿を見て、いくらか調子を改め、「さア、どうぞ。」
 女中は廊下の突当りから、厠《かわや》らしい杉戸の前を過ぎて、瓦塔口《がとうぐち》の襖《ふすま》をあけ、奥まった下座敷《しもざしき》の四畳半に案内した。今しがたまでお客がいたものと見え、酒のかおりと共に、煙草《たばこ》の烟《けむり》も籠《こも》ったままで、紫檀《したん》の卓《テーブル》の溝《みぞ》には煎豆《いりまめ》が一ツ二ツはさまっていた。女中は片隅に積み載せた座布団《ざぶとん》を出し、「ただ今《いま》綺麗《きれい》にいたします。やっと今方片づいた処なんで御在《ござい》ますよ。」
「大した景気だな。」
「いいえ。相変らずで仕様が御在ません。」と女中はお定《き》まりの茶菓を取りにと立って行く。
「すこし明けようじゃないか。」
「蒸し蒸しするわねえ。」と君江はいざりながら手を伸《のば》して障子を明けると、土庇《どびさし》の外の小庭に燈籠《とうろう》の灯《ひ》が見えた。
「あら、いいわね。芝居のようだわ。」
「カッフェーとはまた別だな。これが江戸趣味ッていうんだろうな。」と矢田は沓脱石《くつぬぎ》の上に両足を投出して煙草へ火をつけた。
 植込を隔てて隣《となり》の二階の窓が見える。簾《すだれ》がおろしてあるが障子の上に、島田《しまだ》に結《ゆ》った女が立って衣服《きもの》をぬいでいるらしい影のありあり映っているのを見て、君江はそっと矢田の袖《そで》を引いたが、それと同時に艶《なまめか》しい影は雲のように大きく薄くなったまま消え去って、かすかな話声ばかりになった。矢田は何の事やら気がつかなかったらしく、石の上に両脚を踏みのばしたまま洋服の上着を脱ぎ、ネキタイを解きかけたが、君江は女中が茶を運び、続いて浴衣《ゆかた》を持って来る時まで、そのままぼんやり隣の火影《ほかげ》を眺めていた。何ともつかず、突然君江は待合というところへ初めて連れ込まれた時の事を憶《おも》い出したからである。場処は牛込ではなく、大森であったが、中庭を隔てた植込の彼方《かなた》に二階の灯影《ほかげ》を見ながら男と二人縁側に腰をかけて、女中が仕度するのを待っていたその場の様子は今夜と少しも変りがない。変ったのは自分の心持ばかり。その時分恐しかったり珍しかったりした事は、もう馴《な》れた上にも馴れきって、何とも思わなくなってしまった。
「君さん。何かたべるか。もう支那蕎麦《しなそば》ぐらいしか出来ないとさ。」
 矢田の声に君江は振返ると、洋服を浴衣にきかえ、立ってしごきを結びかけている。
「わたし、ほしくないわ。」と君江も一重羽織《ひとえばおり》の紐《ひも》を解きかけた。
 女中は矢田の洋服を入れた乱箱《みだればこ》を片隅に運び、「今夜はどこもふさがっておりますから、お狭いでしょうけれど、ここで、どうぞ。」と床の間につづいた押入から夜具を取出したので、二人は再び濡縁《ぬれえん》に腰をかけて庭の方を向いた。君江の眼にはいよいよ初めての夜の事が浮んで来る。
「お風呂《ふろ》はいつでもわいておりますから。」と女中は出て行く。
「君さん。何を考えているんだ。お着かえよ。」と矢田は心配そうに横顔を覗《のぞ》き込んで君江の手を取った。
 君江は羽織をきたまま坐ったなりで、帯揚《おびあげ》と帯留《おびどめ》とをとり、懐中物を一ツ一ツ畳の上に抜き出しながら、矢田の顔を見てにっこりした。君江は三年前、家を飛出して、学校友達で人の妾《めかけ》になっていた京子の許《もと》に身を寄せ、その旦那の世話で保険会社の女事務員になって、僅《わずか》一、二カ月たつかたたぬ中《うち》、早くも課長に誘惑されて大森の待合に連れられて行った。これが実際男と戯れた初めであったが、君江はその前から京子が旦那の目をかすめていろいろな男を妾宅《しょうたく》へ引入れるさまを目撃していたのみならず、折々は京子とその旦那との三人一ツ座敷へ寝たことさえある位で、言わば待合か芸者家の娘も同様、早くから何事をも承知しぬいていただけ、時にはなお更甚しく好奇心に駆《か》られる矢先。課長の誘惑をよい事にしてこれに応じたまでの事である。課長は五十を越した道楽者にも似ず、その晩君江が酒も飲めば冗談も言うし、更に気まりのわるい事を知らない様子に、かえって興をさましたらしく、そこそこにその場を引上げた。それらの事を憶《おも》い返して、君江はおぼえず口の端に微笑を浮べたのを、矢田は何事も知らないので、笑顔を見ると共に唯嬉しさのあまり、力一ぱい抱きしめて、
「君さん、よく承知してくれたねえ。僕は到底駄目だろうと思って絶望していたんだよ。」
「そんな事ないわ。わたしだって女ですもの。だけれど男の人はすぐ外《ほか》の人に話をするから、それでわたし逃げていたのよ。」と君江は男の胸の上に抱かれたまま、羽織の下に片手を廻し、帯の掛けを抜いて引き出したので、薄い金紗《きんしゃ》の袷《あわせ》は捻《ねじ》れながら肩先から滑り落ちて、だんだら染《ぞめ》の長襦袢《ながじゅばん》の胸もはだけた艶《なまめか》しさ。男はますます激した調子になり、
「こう見えたって、僕も信用が大事さ。誰にもしゃべるもんかね。」
「カッフェーは実に口がうるさいわねえ。人が何をしたって余計なお世話じゃないの。」と言いながら、端折《はしょ》りのしごきを解き棄《す》て、膝《ひざ》の上に抱かれたまま身をそらすようにして仰向《あおむ》きに打倒れて、「みんな取って頂戴《ちょうだい》、足袋《たび》もよ。」
 君江はこういう場合、初めて逢《あ》った男に対しては、度々|馴染《なじみ》を重ねた男に対する時よりもかえって一倍の興味を覚え、思うさま男を悩殺して見なければ、気がすまなくなる。いつからこういう癖がついたのかと、君江は口説《くど》かれている最中にも時々自分ながら心付いて、中途で止《や》めようと思いながら、そうなるとかえって止められなくなるのである。美男子に対する時よりも、醜い老人やまたは最初いやだと思った男を相手にして、こういう場合に立到《たちいた》ると、君江はなお更|烈《はげ》しくいつもの癖が増長して、後になって我ながら浅間しいと身顫《みぶる》いする事も幾度だか知れない。
 この夜、平素|気障《きざ》な奴だと思っていた矢田に迫まられて、君江は途中から急にその言うがままになり出したのも、知らず知らずいつもの悪い癖を出したまでの事である。

 翌日の朝、矢田と合乗りした自動車から、君江はひとり士官学校の土手際で降りて、路地の貸間に立戻ったが、鏡台の前へ坐ると、急に眠くなって来て化粧をし直す力もなく、わずかに羽織をぬぎすてたばかり。着のみ着のまま、ごろりと横になった。腕時計の針はまだ九時半をさしたところなので、十時まで三十分間眠るつもりで眼をつぶったのであるが、忽《たちま》ち格子戸につけた鈴の音と共に男の声のするのを聞きつけて耳をすますと、思いがけない清岡の声なので、君江はびっくりして起直《おきなお》った。
 清岡がこの貸間へ来るのは、いつも君江がその翌日五時出の晩番《おそばん》に当る前の夜にきまっている。それも大抵カッフェーにいる間から予《あらかじ》め知れていることで、今日のような早出の朝、不意に尋ねて来ることは滅多にない。君江は昨夜のことが知れたのではないか。それにしては知れ方が早過ると、心の中では随分あわてながら、何喰わぬ顔で勢《いきおい》好《よ》く、
「お早いことねえ。まだ散らかしたまんまなのよ。」と梯子段《はしごだん》を降りて行くと、清岡は丁度靴をぬいで上ったばかり。戸口を掃いていた小母《おば》さんも抜目《ぬけめ》のない狸婆《たぬきばばあ》と見えて、
「君江さん。おいやでも、もう一度おばさんの薬を上ってお出かけなさいましよ。昨夜はほんとにびっくりしました。」
 君江はそれに力を得て、「もう大丈夫よ。きっと食合《たべあわ》せがわるかったのねえ。」
「どうかしたのか。お腹《なか》でも下したのか。」と言いながら清岡は二階へ上って、窓へ腰をかけた。
 二階は六畳に三畳の二間つづきであるが、前桐《まえぎり》の安箪笥《やすだんす》と化粧鏡と盆に載せた茶器の外には殆《ほとんど》何にもない。箪笥の上にも何一ツこまごました物も載せられていないので、二階中はいかにもがらんとして古畳と鼠壁《ねずみかべ》のよごれが一際《ひときわ》目に立つばかり。座布団《ざぶとん》も色のさめたメリンスの汚点《しみ》だらけになったのが一枚、鏡台の前に置いてある外《ほか》には、木綿麻の随分古ぼけた夏物が二枚壁際に投出されているばかりである。君江はいつものように鏡台の前の座布団を裏返しにして清岡にすすめると、清岡はそれを窓の敷居の上に載せ、ズボンの折目を気にしながら再び腰をかけた。
 窓の下はコールタの剥《は》げたトタン葺《ぶき》の平屋根で、二階から捨てる白粉《おしろい》や歯磨《はみがき》の水の痕《あと》ばかりか、毎日|掃出《はきだ》す塵《ちり》ほこりに糸屑《いとくず》や紙屑もまざっている。この汚らしい屋根の彼方《かなた》は、士官学校門前の通に立っている二階家の裏側で、汚い洗濯物や古毛布や赤児のおしめが干してある間から、絶えずミシンの音やら印刷機の響が聞える。これと共に士官学校の構内で生徒の練習する号令の声、軍歌の声、喇叭《ラッパ》の響のみならず、昼の中《うち》は馬場の砂烟《すなけむり》が折々風の吹きぐあいで灰のように飛んで来て畳の上のみならず襖《ふすま》をしめた押入《おしいれ》の内までじゃりじゃりさせる事がある。清岡は丁度去年の今頃、初めて君江に導かれてこの貸間に立寄った時から、もう少しあたりの清潔な居心地の好い処へ引越したらばと勧めていたが、君江は唯口先でばかり同意しながら、その実今日まで更に引越そうとする様子もなく、家具も一年前と同じで、その後|新《あらた》に湯呑《ゆのみ》一つ買った事もないらしい。金には決して不自由していないのに、机も衣桁《いこう》もなく、電気の笠もかけたままで、いつまでたっても、今方引越して来たばかりだという体裁である。君江は年頃の女のように、窓に草花の鉢を置いたり、箪笥の上に人形や玩具を飾り立てたり、壁に絵葉書を貼ったりするような趣味は全然持っていない。とにかく一風変った妙な女だと清岡は早くから心付いていた。
「お茶はいらない。もうそろそろ出掛ける時分だろう。」と清岡は窓から座布団と共に腰をすべらせて畳の上に胡坐《あぐら》をかき、「僕もこれから新宿《しんじゅく》の駅まで用事があるんだよ。それでちょいと寄って見たんだ。」
「そう。でも、お茶だけ入れましょうよ。おばさん。お湯がわいているなら頂戴《ちょうだい》。」と叫びながら下へ降り、すぐに瀬戸引《せとびき》の薬鑵《やかん》を提《さ》げて来た。
「昨日《きのう》、お前、占を見てもらいに行ったんだってね。『街巷新聞』に出た黒子《ほくろ》の一件は、誰がいたずらをしたのか当《あて》がついたか。」
「いいえ。当も何もつかないわ。」と君江は久須《きゅうす》の茶を湯呑につぎながら、「初めは、いろいろな事をきいて見ようと思って出かけて見たんだけれど、何だか気まりがわるいから止《よ》してしまったのよ。だけれど、考えるとほんとに不思議ねえ。誰も知っているはずがない事なんですもの。」
「占いでわからなければ、今度は巫女《いちこ》か、お先狐《さきぎつね》にでも見てもらうんだな。」
「巫女ッて何。」
「知らないのか、よく芸者なんぞが見てもらうじゃないか。」
「わたし、占者だって全く昨日が始てですもの。何だか馬鹿馬鹿しいような気がするから、ああいう事はわたしには駄目よ。」
「だから、気にしない方がいいッて僕は最初からそう言ってるじゃないか。」
「でもあんまり不思議なんですもの。知れようはずのない事が知れたんですもの。まったく不思議だわ。」
「自分ばかり知れないと思っていても、世の中には案外な事があるからね。秘密はかえって漏れやすいものさ。」と言い終って清岡は自分から言過ぎたと心付き、急いで煙草《たばこ》を啣《くわ》えながら君江の顔色を窺《うかが》うと、君江の方でも何か言おうとしたのをそのまま黙って、飲みかけた湯呑を口の端に持ち添えたまま、じろりと清岡の顔を見たので、二人の目はぴったり出遇《であ》った。清岡は煙草の烟《けむり》にむせた風をして顔を外向《そむ》け、
「何でも気にしないのが一番いいよ。」
「ほんとうねえ。」と君江の方でも心からそう思っているらしく見せかけるために、声まで作ったが、それなり後の言葉が出て来ないので、湯呑の茶をゆっくり飲干して静に下に置いた。君江は昨夜矢田と神楽坂へ泊った事は知られていないにしても、何しろ二年越しの間柄なので、何事に限らず大抵の事は清岡には知られていると思っているが、さてどの辺まで知られているか、それは君江にも当がつかない。君江は何か好い折があったら、清岡とは関係を断《た》ってさっぱりとして、自分の過去の事を少しも知らない新しい恋人を得たいという気にもなっている。君江はどういう訳《わけ》だか、自分の平生を人に知られている事を好まない。秘密にする必要がない事でも、君江は人に問われると、唯にやにや笑いにまぎらすか、そうでなければ口から出まかせな虚言《うそ》をつく。最《もっとも》親しいはずの親兄弟に対しては君江は一番よそよそしく決して本心を明した事がない。自分の方から好きだと思う男に対してはなお更の事で、その男が何か深く聞知ろうとすればいよいよ堅く口を閉じて何事をも語らない。同じ店につとめているカッフェーの女給連は、君江さんほど姿の優しいしとやかな人はないが、不断何を考えているのやらあれほど訳のわからない人もないと言われているのである。
 清岡が君江を識《し》ったのは君江が始めて下谷《したや》池《いけ》の端《はた》のサロン、ラックという酒場の女給になったその第一日の晩からであった。清岡は始めて君江を見た時、女給をした事がないというならば、どこかで芸者をしていた女だろうと想像した。容貌はまず十人|並《なみ》で、これと目に立つ処はない。額は円《まる》く、眉《まゆ》も薄く眼も細く、横から見ると随分しゃくれた中低《なかびく》の顔であるが、富士額《ふじびたい》の生際《はえぎわ》が鬘《かつら》をつけたように鮮《あざや》かで、下唇の出た口元に言われぬ愛嬌《あいきょう》があって、物言う時歯並の好い、瓢《ひさご》の種のような歯の間から、舌の先を動かすのが一際《ひときわ》愛くるしく見られた。この外には色の白いのと、撫肩《なでがた》のすらりとした後姿が美点の中の第一であろう。清岡はその晩、君江が物言いのしずかなのと、挙動の疎暴でないのを殊更うれしく思って、纏頭《ちっぷ》は拾円奮発してその帰途をそっと外で待っていた。それとは心づかない君江は広小路《ひろこうじ》の四辻まで歩いて早稲田《わせだ》行の電車に乗り、江戸川|端《ばた》で乗換え、更にまた飯田橋《いいだばし》で乗換えようとした時は既に赤電車の出た後であった。清岡は自動車でここまで跡をつけて来たので、そっと車を降り、偶然再会したような振りで話をしかけた。君江は問われてもはっきり住処は知らせなかったが、唯|市《いち》ヶ|谷《や》辺《へん》だと答えて、一緒に外濠《そとぼり》を逢阪下《おうさかした》あたりまで歩いて行く中、どうやら男の言うままになってもいいような素振《そぶり》を示した。
 君江はその頃、久しく一緒に住んで共に私娼《ししょう》をしていた京子という女が、いよいよ小石川《こいしかわ》諏訪町《すわちょう》の家をたたんで富士見町《ふじみちょう》の芸者家に住込む事になったので、泣きの涙で別れ、独り市ヶ谷|本村町《ほんむらちょう》の貸二階へ引移り、私娼の周旋宿へ出入する事をよしていたので、一月あまりの間一晩も男に戯れる折がなかった。夜ふけてから外へ出た事さえ稀《まれ》だったので、この夜久しぶり静にふけ渡った濠端《ほりばた》の景色を見てさえ、何とも知れず心の浮き立つ折から、時候も丁度五月の初めで、袷《あわせ》の袖口《そでぐち》や裾前《すそまえ》から静に夜風の肌を撫《な》でる心持。君江は清岡の事を少壮の大学教授か何かだろうと、始めからわるく思っていなかったので、飛び立つような嬉しさをわざと押隠し、誘われるがまま気まりのわるい風をしながら、その夜は四谷《よつや》荒木町《あらきちょう》の待合《まちあい》へ連られて行った。君江は新に好きな男ができると忽《たちま》ち熱くなって忽ち冷めてしまうという、生れついての浮気者なので、翌日も夕方近くまでいちゃついていたが、離れるのがいやさにカッフェーもそれなり休んで、井《い》の頭《かしら》公園の旅館に行き次の夜は丸子園《まるこえん》に明《あか》して三日の後、市ヶ谷の貸間まで一緒に来てやっとわかれた。
 清岡は丁度その頃、一時|妾《めかけ》にしていた映画女優の玲子とやらを人に奪われ、代りの女を物色していた矢先、君江が身も心も捧げ尽したような濃厚な態度に、すっかり迷い込み、どんな贅沢《ぜいたく》な生活でも望む通りにさせてやるから、女給をやめるようにと勧めたが、君江は将来自分でカッフェーを出したいから、もう暫く女給をしていたいと言った。それならば本場の銀座へ出て経験をした方がよいと、池ノ端のサロンは一カ月あまりで止めさせ、半月ばかり京阪を連れ歩いた後、清岡は人を介して、銀座では屈指のカッフェーに数えられている現在のドンフワンに君江を周旋した。間もなく入梅があけて夏になり、土用の半《なかば》からそろそろ秋風の立ち初める頃まで、清岡は何一つ疑う所もなく、心から君江に愛されているものとばかり思込んでいた。ところが或《ある》夜二、三の文学者と芝居の帰り、銀座に立寄って見ると、君江は急に心持がわるくなったと言って夕方から店を休んだという事を、他の女給から聞き、友達にわかれてから、一人本村町の貸間へ病気見舞いに行こうとした時、いつも曲る濠端の横町から、突《つ》と現われ出た女の姿を見た。まだ十二時前ではあったが、片側《かたがわ》町の人家は既に戸を閉め、人通りも電車も杜絶《とだ》えがちになった往来には円タクが馳過《かけすぎ》るばかり。清岡は四、五|間《けん》こちらから、白っぽい絽縮緬《ろちりめん》の着物と青竹の模様の夏帯とで、すぐにそれと見さだめ、怪訝《かいが》のあまり、車道を横断して土手際の歩道を行きながら女の跡をつけた。女はスタスタ交番の前をも平気で歩み過るので、市ヶ谷の電車停留場で電車でも待つのかと思いの外《ほか》、八幡の鳥居を入って振返りもせず左手の女阪を上って行く。いよいよ不審に思いながら、地理に明い清岡は感づかれまいと、男の足の早さをたのみにして、ひた走りに町を迂回《うかい》して左内阪《さないざか》を昇り神社の裏門から境内《けいだい》に進入《すすみい》って様子を窺うと、社殿の正面なる石段の降口に沿い、眼下に市ヶ谷見附一帯の濠を見下す崖上《がけうえ》のベンチに男と女の寄添う姿を見た。尤《もっと》もベンチは三、四台あって、いずれも密会の男女が肩を摺寄《すりよ》せて腰をかけていた。清岡はかえって好い都合だと、桜の木立を楯《たて》にして次第次第に進み寄り、君江がどんな話をしているかを窺《うかが》い、同時に相手の男の何者たるかを見定めようと試みた。
 清岡はいかなる作者の探偵小説中にも、この夜の事件ほど探偵に成功したはなしは恐らくあるまいと、殆どその瞬間には驚愕《きょうがく》のあまり嫉妬《しっと》の怒りを発する暇がなかったくらいであった。男はパナマらしい帽子を冠《かぶ》り紺地《こんじ》の浴衣《ゆかた》一枚、夏羽織も着ず、ステッキを携えている様子はさして老人とも見えなかったが、薄暗い電燈の灯影《ほかげ》にも口髯《くちひげ》の白さは目に立つほどであった。腕をまわして帯の下から君江の腰を抱きながら、
「なるほどここは涼しい。お前のおかげで、おれもいろいろな事を経験するよ。六十になってベンチで女を待ち合わすなんて、実に我ながら意想外だ。この社殿の向《むこう》に今でもきっと大弓場《だいきゅうば》があるだろうが、おれも若い時分に弓をやりに来たことがあった。それから何十年とこの石段を上った事がない。それはそうと今夜はこれからどこへ行こうというんだね。ここのベンチでもいいよ。はははは。」と笑いながら君江の頬《ほお》に接吻《せっぷん》した。
 君江は黙って、暫くの間老人のなすがままになっていたが、やがて静にベンチから立上り着物の裾前《すそまえ》を合せ、鬢《びん》を撫《な》でながら、「すこし歩きましょう。」と連立って石段を降りる。清岡は先刻《さっき》君江が昇った女阪の方へ迂回《まわ》って見えがくれに後をつけた。それとは知らない二人は話しながら堀端を歩いて行く。
「京子は富士見町へ出てから、どうだね。あの女のことだから、きっといそがしいだろう。」
「毎日昼間からお座敷があるんですって。この間ちょいと尋ねたのよ。だけれどろくろく話をしている暇《ひま》もなかったのよ。あなた。これから寄って見ない。いなかったらいなかったで、別にかまやアしないから。」
「うむ。久しぶり、三人で夜明しするのも面白い。諏訪町《すわちょう》の二階では実にいろいろな事をしたね。とにかくお前と京子とは実にいい相棒だよ。僕は昼間真面目な仕事をしている最中でも、ふいと妙な事を考え出すと、すぐにお前の事を思出す。それから京子の事を思出して、夢でも見ているような心持になるんだ。」
「それでも京子さんに較《くら》べれば、わたしの方がまだ健全だわねえ。」
「どっちともいえない。お前の方が見かけが素人《しろうと》らしく見えるだけ罪が深いよ。カッフェーへ行ってから別に変ったのも出来ないかね。西洋人はどうだ。」
「銀座はあんまり評判になり過《すぎ》るから、そう思うようにはやれないわ。そこへ行くと芸者の方が大びらで、面倒臭くなくっていいわ。諏訪町にいる時分はほんとに面白かったわね。」
「旦那はあれっきりか。まだ出て来ないのか。」
「そうでしょう。その後別に話が出ないから、どの道もう関係はないんでしょう。それにもともと京子さんの方じゃ、借金を返してもらった義理があるだけで、別に何とも思っていた訳じゃないんだから。」
「今度は何て言っている。やはり京子というのか。」
「いいえ。京葉《きょうは》さんていうのよ。」
 二人は夜ふけの風の涼しさと堀端のさびしさを好い事に戯れながら歩いて新見附《しんみつけ》を曲り、一口阪《ひとくちざか》の電車通から、三番町《さんばんちょう》の横町《よこちょう》に折れて、軒燈《けんとう》に桐花家《きりはなや》とかいた芸者家の門口《かどぐち》に立寄った。夏の夜の事で、その辺の芸者家ではいずれもまだ戸を明けたまま、芸者は門口の涼台《すずみだい》に腰をかけて話をしているのを、男はなれなれしく、
「京葉さんはいますか。」ときくと、直に家の内から、小づくりの円顔《まるがお》。髪はつぶしにたけなが[#「たけなが」に傍点]を結んだ女が腰の物一枚、裸体のまま上框《あがりがまち》へ出て来て、
「あら、御一緒。まアうれしいわね。わたし今帰って来たところ。丁度よかったわ。」
「どこかいい家《うち》を教えろよ。ゆっくり話をするから。」
「そうねえ。それじゃア……。」と裸体の女は行先を男に囁《ささや》くと、二人はそのまま歩いて四ツ角をまがる。
 ここまで跡をつけて来て路地のかげに身をひそめていた清岡は、万事があまりに都合好く進捗《しんちょく》して行くので、このまま中途《ちゅうと》から帰るわけには行かなくなった。頃合いを計って、清岡は君江のつれられて行った同じ待合へと、振りの客になり済まして上り込み、女中には勘定を先に払って、なりたけおとなしい若い芸者をといい付け、素知らぬ振りで寝てしまった。そして彼《か》の見知らぬ老人が君江と京葉の二人を相手の遊びざまを思い残りなく窺《うかが》った後、翌日の朝はまだ日の照らぬ中《うち》清岡はそっとその待合を出た。しかし赤阪《あかさか》の家へ帰るには時間が少し早過るので、やむことをえず四番町《よんばんちょう》の土手公園を歩みベンチに腰をかけて、ぼんやりとして堀向うの高台を眺めた。
 清岡は三十六歳のその日まで、夢にも見なかった事実を目撃し、これまで考えていた女性観の全然誤っていた事を知って、嫉妬《しっと》の怒りを発する力もなく、唯わけもなく欝《ふさ》ぎ込んでしまった。清岡はその日まで、独り君江に限らず世間の若い女が五十六十の老人に身を寄せて平気でいるのは、恋愛と性慾との不満足を忍んでひたすら生活の安定を得ようがためとばかり思込んでいたのであるが、豈《あに》図《はか》らんや。事実は決してそうでない。自分ばかりを愛していると思っていた君江の如きは、事もあろうに淫卑《いんぴ》な安芸者と醜悪な老爺《ろうや》と、三人|互《たがい》に嬉戯《きぎ》して慚《はじ》る処を知らない。清岡は自分の経験と観察とのいかに浅薄であったかを知ると共に、君江に対しては言うに言われぬ憎悪の念を覚え、このままもう二度と顔は見まいと思った。しかしその日家へ帰ってから一ト寐入りして目をさますと、一時激昂した心も大分おちついている。それと共にこのまま何事をも知らぬ顔に済してしまうのは、あまり言甲斐《いいがい》がなさ過る。面責した上、女の口から事実を白状させてあやまらせねば、どうも気がすまない。しかしまた更に思直《おもいなお》して見ると、君江は見掛けに似ず並大抵の女でない。問われるままに案外無造作に白状してしまうかも知れない。それと共に自分の遊び足りない事と嫉妬を起した事などを心窃《こころひそか》に冷笑しないとも限らない。これは男の身に取っては浮気をされたよりも、なお更忍びがたい侮辱である。清岡は黙殺するのも無念だし、表面は謝罪《あやま》って、蔭で舌を出されるのはなお更|口惜《くや》しいと、さまざま思案した末、やはり何事をも知らぬ振りで表面は今まで通り、あくまで馬鹿にされながら、その代りいつか時節を待って、痛烈な復讐《ふくしゅう》をしてやるに若《し》くはないと決心した。
 清岡は多年原稿生活を営む必要上、腹心の男を二人使っている。一人は村岡といって、早稲田《わせだ》あたりを卒業したばかりの文士で、毎月百円内外の手当を貰《もら》い、清岡の口述する小説を筆記して原稿を製作すると、それを駒田という五十年輩の男が新聞社や雑誌社へ売込みに行く。駒田は多年|或《ある》新聞社の会計部に雇われていたので、原稿料の相場にも明《あかる》くまた記者仲間にも知己が多いので、清岡の受取るべき稿料の二割を自分の所得にする約束で働いているのである。清岡は門人同様の村岡に命じて、君江が歌舞伎座へ見物に行った帰途、安全|剃刀《かみそり》の刃で着物の袂《たもと》を切らせた。尤《もっと》もその衣類は清岡が買ってやったものである。暫《しばら》くしてから清岡はこれも三越で自分が買ってやった真珠入の櫛《くし》を、一緒に自動車に乗った時、その降り際《ぎわ》にそっと抜き取って見た。君江はきっと泣いて騒ぐだろうと思いの外、さして気にも留めないらしく、清岡にもまた間貸しのおばさんにも別にそんな話さえしない様子であった。
 君江は極めてじだらくで、物の始末をしたことのない、不経済な女である代り、着物もそれほど着たがらない事は清岡も不断から心づいてはいたものの、かくまで無頓着だとは思っていなかった。そこで、留守の中に窃《そっ》と猫の児《こ》の死骸《しがい》を押入の中に投込んで様子を見たが、これさえさほど恐怖の種にはならなかったらしいので、遂に清岡はわるくすると感付かれるかも知れぬと危ぶみながら、君江が内股《うちまた》の黒子《ほくろ》の事を、村岡にいい付けて『街巷新聞』に投書させたのであった。これは大分君江の心を不安にさせたらしいので、清岡は内心それ見ろと幾分か胸のすくような心地がした。しかし一度目が覚めた後、君江の生活を探偵して見るといよいよ腹の立つ事ばかりなので、報復の手段も唯一時の悪戯《いたずら》ではなかなか気がすまないようになる。もっと激烈な痛苦を肉体と精神とに加えてやる機会を窺うため、清岡は十分相手に油断をさせ、こちらの胸中を悟られぬよう、以前にも増してあくまで惚《ほ》れ込んでいるような様子を示すようにしていたが、平常心の底に蟠《わだかま》っている怨恨《えんこん》は折々われ知らず言葉の端にも現われそうになるのを、清岡は非常な努力でこれを押えていなければならない。
 今方占者のはなしから、清岡は我知らず言過ぎたと心付き狼狽《うろた》えて言いまぎらしたのも、実はこういう事情《わけ》からである。このまま長く向い合って二階にいるのはよくないと心づいて、腕時計を見ながら、いかにも驚いたように、「もう十時半だ。そこまで一緒に出かけよう。」
 君江の方でも昨夜泊ったまままだ湯にさえ入らぬ身のまわりを男に見廻されるのが、何となく辛くてならないので、何はともあれ一まず外へ出るに如《し》くはないと考え、
「ええ。少し歩きましょう。お天気が好いと店へ行くのがいやになるわ。一日、日の目を見ずにいるんだから。」とぬぎ捨ててあった竪《たて》しぼの一重羽織を引掛けて、窓の障子をしめた。
「今日十一時だと明日《あした》は五時出だね。」
「ええ。だから、今夜店へいらしってよ。何処《どこ》かゆっくり遊びに行きたいわ。いいでしょう。」
「そうだな。」と男は曖昧《あいまい》な返事をしながら帽子を取った。
「ねえ、遊びに行きましょうよ。どの道今夜はゆっくり遊ぶ日じゃないの。」と君江は既に梯子段《はしごだん》の降口に出た清岡の身に寄添い、接吻してと言わぬばかりに顔を近寄せ、睫毛《まつげ》の長い目を軽くふさいだ。
 清岡は憎い仕方だとは思いながら、もともと嫌いではない女のいかにも艶《なまめか》しく情を含んだ姿を見ると、その瞬間はさすがに日頃の怒りも何処へやら消え去って、生れつき売笑婦にでき上っているこういう女に対して、道徳上とやかく非難するのはあるいは過酷かも知れない。男の劣情を挑発する一種の器械だと思えば、自分の見ない処で何をしていても更に咎《とが》むべき事ではない。弄《もてあそ》ぶだけ弄んで随意に捨ててしまえばそれでよいのだというような心持にもなる。忽《たちま》ち進んで、それにしてもこの女がもすこし自分の心を汲《く》み分け、その身を慎しんで、自分の専有物になってくれればという慾望が次第に強くなって来る。清岡は横を向いてさり気なく、
「とにかく夜になったら銀座で逢《あ》おう。その時にきめよう。」
「ええ。そうして頂戴《ちょうだい》。」と君江は急に明《あかる》い顔になって一足先にばたばたと下へ降り、おばさんの手から雑巾《ぞうきん》を奪い取って、手ずから清岡の靴を拭いた。
 市ヶ谷の堀端へ出る横町は人目に立つので、二人は路地から路地を抜けて士官学校の門前に出《い》で比丘尼坂《びくにざか》を上って本村町《ほんむらちょう》の堀端を四谷見附の方へ歩いた。昼前のことで、二人は並びながらも少し離れて話もせず、君江は日傘に顔をかくしていたが、ふとこの堀端は昨夜十二時過電車を降りてから矢田と手を引合って歩いた同じ道だと思うと、夜と昼との相違から、君江はどうして昨夜はあんな矢田のような碌《ろく》でもない男の言う事をきく気になったのだろうと、自分ながらその腑甲斐《ふがい》なさに厭《いや》な心持がした。清岡さんがそれと知ったらどんなに怒ることだろうと、日傘のかげからそっと男の横顔を窺《うかが》うと、少しは気が咎《とが》めもするし、またいかにも気の毒でならないような心持もして、これからはカッフェーの帰り道にはなりたけ慎しんでその場かぎりの浮気は起すまいという気にもなる。せめての申訳というではないが、何やら急に清岡の事が恋しくなって、君江は歩きながら突《つ》と摺寄《すりよ》って人通りをもかまわずその手を握った。
 清岡は君江が石にでも躓《つまず》いて、そのために急に自分の手を握ったとでも思ったらしく、「どうしたんだ。」と言いながら、往来の人目を憚《はばか》って溝際《どぶぎわ》の方へ少し身を避《よ》けた。
「わたし、今日どうしても休みたいの。電話で断るわ。いいでしょう。」
「断ってどうするんだ。」
「あなたの御用がすむまで、わたしどこかで待っているわ。」
「夜になれば会えるんだから、休むにも及ばないじゃないか。」
「だって、わたし何だか急になまけたくなっちまったのよ。でも、あなたの御用の邪魔をしちゃアわるいわねえ。」
 清岡はもともと用事があるのではない。君江の様子を窺いに不意と出て来たので、この場合振切って別れたなら、浮気な君江の事だから、今夜自分の行くまでに何をしだすか知れないと、つまらない事が妙に気になり出した。
 君江の方ではこの年月いろいろな男をあやなした経験で、こういう場合には男がすこしは持て余すほど我儘《わがまま》を言った方がかえって結果の好い事を知っている。それにまた先刻《さっき》占いのはなしから清岡の言った事が何となく気にかかってならぬ矢先、夜になるのを待たず一刻も早く男の心の打解けるような方法を取らなくてはならないと考えたのである。これも度々の実験で、君江は男がどんなに怒っていても結局その場に至れば訳《わけ》もなく悩殺する事ができるものと、あくまで自分の魔力に信頼して安心している所がある。魔力というのは、生れつき君江の肌には一種の温度と体臭とがあって、別に技巧を弄《ろう》せずとも一度これに触れた男は終生忘れることの出来ない快感を覚えるという事である。君江はこれまで一人ならず二人ならず、さまざまな男からお前はほんとの妖婦《ようふ》だなどと言われて、自分の肉体はそんなにまで男に強い刺撃《しげき》を与えるものかと、次第に自覚した後熟練を積み、今では自分ながら深く信ずる所があるようになっている。
 四谷駅の降り口近くまで歩いて来た時、君江は急に悲しいような遣瀬《やるせ》のないような表情を見せて、「じゃ、わたし、あんまり我儘をいうとわるいから、ここから円タクで行きますわ。」
「うむ。」とそっ気《け》なく言ったが、清岡は君江の遣瀬なげな様子に気がつくと、その瞬間どうしたのか、昨日今日《きのうきょう》新《あらた》に得た恋人と別れるような、何とも知れぬ残り惜しい心持になった。君江はわざとぼんやり清岡の顔を見詰めたまま、日傘の尖《さき》で砂利を突きながら立ちすくんでいる。
 清岡は何も彼《か》も忘れて寄り添い、「いいよ。休んでしまえ。どこでもいい。一緒に行こう。」
「あなた。ほんとウ。」と君江は巧《たくみ》に睫毛の長い眼の中をうるませて徐《しずか》に俯向《うつむ》いた。

 府下《ふか》世田《せた》ヶ|谷《や》町|松陰神社《しょういんじんじゃ》の鳥居前で道路が丁字形に分れている。分れた路を一、二町ほど行くと、茶畠を前にして勝園寺《しょうえんじ》という※[#「匸<編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第4水準2-3-48]額《へんがく》をかかげた朱塗《しゅぬり》の門が立っている。路はその辺から阪になり、遥《はるか》に豪徳寺《ごうとくじ》裏手の杉林と竹藪《たけやぶ》とを田と畠との彼方《かなた》に見渡す眺望。世田ヶ谷の町中でもまずこの辺が昔のままの郊外らしく思われる最《もっとも》幽静な処であろう。寺の門前には茶畠を隔てて西洋風の住宅がセメントの門墻《もんしょう》をつらねているが、阪を下ると茅葺《かやぶき》屋根の農家が四、五軒、いずれも同じような藪垣を結《ゆ》いめぐらしている間に、場所柄からこれは植木屋かとも思われて、摺鉢《すりばち》を伏せた栗の門柱に引違いの戸を建て、新樹の茂りに家の屋根も外からは見えない奥深い一構《ひとかまえ》がある。清岡|寓《ぐう》と門の柱に表札が打付けてあるが、それも雨に汚れて明《あきらか》には読み得ない。小説家清岡進の老父|熙《あきら》の隠宅である。
 初夏の日かげは真直《まっすぐ》に門内なる栗や楝《おうち》の梢《こずえ》に照渡っているので、垣外の路に横たわる若葉の影もまだ短く縮んでいて、《にわとり》の声のみ勇ましくあちこちに聞える真昼時。じみな焦茶《こげちゃ》の日傘をつぼめて、年の頃は三十近い奥様らしい品のいい婦人が門の戸を明けて内に這入《はい》った。髪は無造作に首筋へ落ちかかるように結び、井の字|絣《がすり》の金紗《きんしゃ》の袷《あわせ》に、黒一ツ紋の夏羽織。白い肩掛を引掛《ひっか》けた丈《せい》のすらりとした痩立《やせだち》の姿は、頸《うなじ》の長い目鼻立の鮮《あざやか》な色白の細面《ほそおもて》と相俟《あいま》って、いかにも淋《さび》し気に沈着《おちつ》いた様子である。携えていた風呂敷包《ふろしきづつみ》を持替えて、門の戸をしめると、日の照りつけた路端《みちばた》とはちがって、静《しずか》な夏樹の蔭から流れて来る微風《そよかぜ》に、婦人は吹き乱されるおくれ毛を撫《な》でながら、暫《しば》しあたりを見廻した。
 麦門冬《りゅうのひげ》に縁《ふち》を取った門内の小径《こみち》を中にして片側には梅、栗、柿、棗《なつめ》などの果樹が欝然《うつぜん》と生茂《おいしげ》り、片側には孟宗竹《もうそうちく》が林をなしている間から、その筍《たけのこ》が勢《いきおい》よく伸びて真青《まっさお》な若竹になりかけ、古い竹の枝からは細《こまか》い葉がひらひら絶間《たえま》なく飛び散っている。栗の木には強い匂《におい》の花が咲き、柿の若葉は楓《かえで》にも優《まさ》って今が丁度新緑の最も軟《やわら》かな色を示した時である。樹々《きぎ》の梢から漏れ落る日の光が厚い苔《こけ》の上にきらきらと揺れ動くにつれて、静な風の声は近いところに水の流でもあるような響を伝え、何やら知らぬ小禽《ことり》の囀《さえず》りは秋晴の旦《あした》に聞く鵙《もず》よりも一層勢が好い。
 婦人は小禽の声に小砂利を踏む跫音《あしおと》にも自然と気をつけ、小径に従って斜《ななめ》に竹林を廻り、此方《こなた》からは見通されぬ処に立っている古びた平家《ひらや》の玄関前に佇立《たたず》んだ。玄関には磨硝子《すりガラス》の格子戸が引いてあるが、これは後から取付けたものらしく、家はさながら古寺の庫裏《くり》かと思われるほどいかにも堅牢《けんろう》に見える。しかしその太い柱と土台には根継《ねつぎ》をした痕《あと》があって、屋根の瓦《かわら》は苔で青く染められている。玄関側の高い窓が明放しになっていたが、寂《しん》とした家の内からは何の物音も聞えない。窓の下から黄楊《つげ》とドウダンとを植交《うえまじ》えた生垣《いけがき》が立っていて、庭の方を遮《さえぎ》っているが、さし込む日の光に芍薬《しゃくやく》の花の紅白入り乱れて咲き揃《そろ》ったのが一際《ひときわ》引立って見えながら、ここもまた寂《しん》としていて、花鋏《はなばさみ》の音も箒《ほうき》の音もしない。唯《ただ》勝手口につづく軒先《のきさき》の葡萄棚《ぶどうだな》に、今がその花の咲く頃と見えて、虻《あぶ》の群《む》れあつまって唸《うな》る声が独り夏の日の永いことを知らせているばかりである。
「御免下さい。」と肩掛を取りながら、静に格子戸を明けると寂《しん》とした奥の間《ま》から、「どなたじゃ。」という声がして、すぐさま襖《ふすま》を明けたのは、真白な眉毛《まゆげ》の上まで老眼鏡を釣《つる》し上げた主人の熙《あきら》であった。
「鶴子か。さアお上んなさい。今日は婆《ばあ》やはお墓参り。伝助も東京へ使《つかい》にやって誰もおらん。」
「それじゃ、丁度よう御在《ござい》ました。代りに何か御用をいたしましょう。」と婦人は包《つつみ》を持ったまま、老人の後について縁側づたいに敷居際《しきいぎわ》に坐り、
「もう虫干《むしぼし》をなさいますの。」
「いつという事はない。手がないから気の向いた時、年中やるよ。年寄の運動には一番いい。」
 縁側の半《なか》ほどから奥の八畳の間に書帙《しょちつ》や書画帖《しょがちょう》などが曝《さら》してある。障子も襖《ふすま》も明け放してあるので、揚羽《あげは》の蝶《ちょう》が座敷の中に飛込んで来て、やがてまた庭の方へ飛んで行く。鶴子は風呂敷包を膝《ひざ》の上にほどいて、
「先日のお召物《めしもの》を仕立直してまいりました。あちらへ置いてまいりましょう。ついでにお茶でも入れてまいりましょうか。」
「そう。一杯|貰《もら》いましょう。茶の間に到来物《とうらいもの》の羊羹《ようかん》か何かあったと思うが、ついでにちょっと見て下さい。」と老人は鶴子が座を立つのを見て縁側に曝した古書を一冊一冊片づけはじめた。五分刈《ごぶがり》の頭髪は太い眉毛や口髭《くちひげ》と共に雪のように白くなっているので、血色のいい顔色はなお更|赧《あか》らみ、痩《や》せた小づくりの身体《からだ》は年と共にますます矍鑠《かくしゃく》としているように見える。やがて鶴子が番茶と菓子とを持って来たのを見て、老人はそのまま縁先に腰をかけ、
「暫《しばら》く見えんから風邪《かぜ》でも引いたのかと思っていた。市中では今だにインフルエンザがはやるそうだな。」
「お父《とう》さまは去年からお風邪一つお引きになりませんのね。」
「今の若い者とは少し訓練がちがうからな。はははは。その代りふだん丈夫なものはころりと行くからな。当てにはならん。」
「アラ、そんな事をおっしゃるもんじゃありません。」
「むかしから頼みにならない事を、君寵《くんちょう》頼み難《がた》し。老健頼み難しなどというじゃないか。はははは。進は相変らず達者か。」
「はい。おかげさまで。」
「その中《うち》ちょっと逢いたいと思う事があるのだ。実はこの間偶然電車の中でお宅の御兄《おあに》さんにお目にかかってな……。」と老人は言いかけて咳嗽《せき》をしながら眼鏡越しに鶴子の顔を見た。鶴子はかえってさり気《げ》なく、
「何か、わたくしの話が出ましたの。」
「そうだ。わるい話ではない。お前の戸籍をこの後《ご》どうして置くかというはなしさ。なりはじめの事はもうとやかく言った処で仕様のない事だからな。成事《せいじ》は説《と》かず、遂事《すいじ》は諫《いさ》めず、既往《きおう》は咎《とが》めずという教《おしえ》もあるから、わしはいずれにしても異存はないと申上げて置いた。お前の家とわしとが承知なら、進は無論何とも言うはずはないわけだから、どうだね。早くその手続をしてしまったら、届書は区役所の代書にたのめばすぐ出来るから、印さえ押せばそれでいいのだよ。」
「はい。帰りましたら早速そう申します。」
「戸籍などはどうでもいいようなものだが、しかし人倫《じんりん》の道は正しいに越した事はない。幾年も夫婦同様にしていれば結局籍を入れるのがあたり前のはなしだからな。最初の事は能《よ》く知らんが、お宅のはなしではもう五年になるそうだな。」
「はい。たしか。」と鶴子はわざと言葉を濁《にご》して伏目になった。今更指を折って数えて見るまでもなく、鶴子は五年前、年齢《とし》は二十三の秋、前の夫が陸軍大学を出て西洋へ留学中、軽井沢《かるいざわ》のホテルで清岡進と道ならぬ恋に陥ったのである。先夫の家は子爵《ししゃく》で、別に資産はなかったが、とにかく旧華族の家柄なので、世間の耳目を憚《はばか》り親族は夫の帰朝を待たず多病といいなして鶴子を離別した。鶴子の家にはその時既に両親がなく、惣領《そうりょう》の兄が実業界では相応に名を知られていたところから、衣食に窮しないだけの資産を鶴子に与えて生涯実家や親類の家へ出入する事を禁じた。その時分進はまだ駒込《こまごめ》千駄木町《せんだぎちょう》にあった老父|熙《あきら》の家にいて、文学好きの青年らと同人雑誌を刊行していたのであるが、鶴子が離別されると間もなく父の家を去って鎌倉に新家庭をつくった。半年ほどたった時老父の熙は突然流行感冒で老妻を先立たせ、また文官年限令で帝国大学教授の職を免ぜられたので、これを機会に千駄木の家を人に貸して、以前から別荘にしてあった世田ヶ谷の廃屋に棲遅《せいち》した。
 世田ヶ谷の家には十年ほど前まで、八十歳で世を去った熙の父|玄斎《げんさい》が隠居していた。玄斎は維新前|駒場《こまば》にあった徳川幕府の薬園に務めていた本草《ほんぞう》の学者で、著述もあり、専門家の間には名を知られていたので、維新後しばしば出仕《しゅっし》を勧められたが節義を守ってこの村荘《そんそう》に余生を送った。今日《こんにち》庭内に繁茂している草木は皆玄斎が遺愛の形見である。
 熙は初め中村敬宇《なかむらけいう》の同人社に入り後に佐藤牧山《さとうぼくざん》と信夫恕軒《しのぶじょけん》との二家について学を修め、帝国大学を卒業後は直《ただち》に助教授に挙げられ、老免せられるまで凡《およそ》三十年漢文の講座を担任していたのであるが、深く時勢に感ずる所があったと見えて、平素学生に向っては、今の世の中に漢文学の如き死文字を学ぶほど愚《おろか》な事はない。唯|骨董《こっとう》としてこれを好むものが弄《もてあそ》んでいればよいものだと称して、人に意見をきかれても笑って答えず、同僚の教授連とも深くは交《まじわ》らず、唯|自家《じか》の好む所に従って専ら老荘《ろうそう》の学を研究し、著書も少くはないのであるが、一として世に示したものはない。熙はその子の進が人妻と密通して世間を憚《はばか》らず一家を構えたのを知って、深く憤りはしたものの、現代の青年男女は老人の訓戒などに耳を借すはずがないと、あきらめ切っているので、表向は何事も知らぬ振りで、実は義絶したのも同様、世田ヶ谷に隠居してから三年ばかりの間は一度も音信をしたことさえなかった。進の方でも父が平生の気質からその憤りを察して、これに反抗するため、わざとそれなりに月日を過していた。ところが老人は亡妻の命日に駒込の吉祥寺《きちじょうじ》に往《い》った時、一人の若い女が墓前に花を手向《たむ》けているのを見て、不審のあまり、丁度狭い垣根の内のことで、女の方から気まりわるそうに辞儀をするまま、その名をきいて始めてその女が倅《せがれ》の妻の鶴子である事を知ったのである。老人は進の如き乖戻《かいれい》な男と好んで苦楽を偕《とも》にしているような女が、言わばその姑《しゅうとめ》に当るものの忌日《きにち》を知って墓参りをするとは、そもそもどうした訳《わけ》であろう。そんな訳のあろうはずがない。年寄の耳の聞まちがえではないかという気もしたので、墓地の小径《こみち》を並んで歩む折重ねてその名をきき直した。それが話の糸口になって、寺の門を出てから電車に乗って別れる時まで知らず知らず話をしつづけた。老人は平素現代の青年男女には道徳の観念は微塵《みじん》もない。男は大抵乖戻放慢の徒で、女はまず禽獣《きんじゅう》と大差なきものと思込んでいる矢先、鶴子の言葉使いや挙動のしとやかな事がますます不可思議に思われ、更にまた、これほど礼節をもわきまえている女がどうして姦通《かんつう》の罪を犯したのであろうと、家へ帰った後も頻《しきり》に心を労した末、ふと老人は鶴子が操《みさお》を破ったのはあるいは放蕩無頼《ほうとうぶらい》な倅に欺《あざむ》かれたためではないかという気がした。果してそうだとすると、実に気の毒な事だ。何となく親の身として申訳のないような心持がして来るので、その後老人は図《はか》らず新宿の停車場《ていしゃば》で出会った時は此方《こなた》から呼びかけたくらいであった。それらの事から、鶴子はいつともなく世田ヶ谷の隠宅へ出入することを許されるようになったのであるが、しかし進との間柄については、二人とも何やら互《たがい》に遠慮して、問いもせず言いもせず、そのままになっている。生計の事ではその後《ご》進は莫大《ばくだい》な収入がある身となっているし、老人の質素な生活は恩給だけでも有り余るほどなので、互に家事向の話の出《いず》べき所がないわけであった。
 世田ヶ谷の家には庭掃除の下男《げなん》と雇婆《やといばば》がいるものの、鶴子は老人が日々の食事を始め衣類や身のまわりの事に不自由しているらしいのを見て、それとなく陰へ廻って気のつくかぎり世話をするようになった。表向きお世話をするといえば老人はきっとそれには及ばないと言うにちがいはない。かつまた、清岡の家には既に或《ある》医学博士に嫁《か》した姉娘もあるので、鶴子はその手前をも憚《はばか》って、何事も目に立たないようにひかえ目にしている。その態度や心持は月日と共におのずから老人の眼にもわかるようになったので、老人はいよいよ鶴子の胸中を気の毒に思い、心|窃《ひそか》に倅進の如きものの妻にはむしろ過ぎたものと感服しなければならぬようになった。
 老人は茶を飲み干した茶碗《ちゃわん》を膝《ひざ》の上に握りながら、「その中《うち》お宅へ伺ってお話を伺おうと思っているのだがね、年をとると、つい袴《はかま》をはくのが面倒でな。そうかといって、初めて伺うのに着流《きながし》ではあまり失礼だし、何か好い折がと思っているのだが、お前はその後もやはり出入りはせんのかね。」
「はい。そのままになっております。兄ばかりならかえって遠慮が御在《ござい》ませんけれど、義姉《あね》の手前も御在ますから。」
「それは大きにそうかも知れない。」
「とにかくわたくしが悪いのにちがいは御在ませんのですから、別にどなたの事もお怨《うら》み申してはおりません。」
「その心持があればもう立派なものだ。」と言った時、※[#「日+麗」、第4水準2-14-21]《さら》した古法帖《こほうじょう》の上に大きな馬蠅《うまばえ》が飛んで来たので、老人は立って追いながら、「過《あやまち》を改むるに憚《はばか》ること勿《なか》れ。若い時の事はどうもいたし方がない。人間の善悪はむしろ晩節にあるのだよ。」
 鶴子は何か言おうとしたが、自分ながら声が顫《ふる》えはせぬかと思ってそのまま俯向《うつむ》くと、胸が急に一杯になって来て、どうやら眼が潤《うる》んで来るような心持がした。折好《おりよ》く勝手の方に人の声がしたのを聞付けて、これ幸《さいわい》とあわてて坐を立った。老人は馬蠅の飛び去る方を睨《にら》みながら、「酒屋か郵便屋だろう。うっちゃってお置きなさい。」と徐《おもむろ》に石摺《いしずり》の古法帖を畳《たた》んだ。
 鶴子は涙を見せまいと台所へ行って見ると、老人の言った通り、酒屋の男が醤油《しょうゆ》の壜《びん》を置いて立去るところであった。勝手口は葡萄棚《ぶどうだな》のかげになって日の光も和げられ、竹藪《たけやぶ》の間から流れて来る風はひやりとするほど爽《さわや》かである。女中部屋は雇婆《やといばば》が出がけに掃除をして行ったものと見え、火鉢の灰もならしたまま綺麗《きれい》に片づいている。鶴子は酒屋の男の去った後あたりにはもう誰もいないと思うと、こらえていた涙が一時に溢《あふ》れ落るのを急いでハンカチで押えた。ここの家《うち》のお父さまは何も知らずにいらっしゃるのであるが、自分と進との間柄は今では名ばかりの夫婦で、入籍するの、しないのというような状態ではない。夫の進は一昨日家を出たなり今夜も多分帰って来ないであろう。この二、三年原稿の製作を口実にして随意に外泊することはもう珍しくはない。いずれ二、三日すれば帰って来るであろうが、今のような状況では、自分を正妻にして籍を入れる事をまさかに拒みはしまいけれど、さして喜びもしない事は言わずと明《あきらか》である。事によればかえって迷惑そうな顔をしないとも限らない。と思うと、鶴子は老人の好意をかたじけなく思うにつけ、その好意を受ける事のできない身の上を省みて涙を催さずにはいられなかったのである。
 進と鶴子との恋愛生活は鎌倉に家を借りていた間、わずか一年くらいのものであった。進は一躍して文壇の流行児になり、俄《にわか》に売文の富を得るようになると、忽《たちま》ち杉原玲子という活動写真の女優に家を持たせるばかりか、絶えず芸者遊びをするようになった。その後玲子が進を捨てて同業の俳優と正式に結婚をすると、進はすぐその代りにカッフェーの女給を妾《めかけ》にするという有様。鶴子は殆《ほとん》どあきれ返って、嫉妬《しっと》の情を起すよりも次第に夫の人格に対して底知れぬ絶望の悲しみを抱くようになった。鶴子は女学校に通っていた時から、仏蘭西《フランス》の老婦人に就《つ》いて語学と礼法の個人教授を受け、また国学者某氏に就いて書法と古典の文学を学んだ事もあったので、結局それらの修養と趣味とがかえって禍《わざわい》をなし、没趣味な軍人の家庭にはいたたまれなかった。それと共に自分から夫に択《えら》んだ文学者清岡進の人物に対しても永く敬愛の情を捧げている事ができなくなったのである。初め軽井沢の教会堂で人から紹介せられた時の進と、今は通俗小説の大家を以て目《もく》せられている進とを比較すると、全く別の人としか思われない。五年前の進は勉学の志を擲《なげう》たない真率《しんそつ》な無名の文学者であったが、今日《こんにち》の進は何といってよいのやら。思想上の煩悶《はんもん》などは少しもないらしい様子で、その代り絶えず神経を鋭くして世間の流行に目を着け、営利にのみ汲々《きゅうきゅう》としているところは先《まず》相場師と興行師とを兼業したとでも言ったらよいかも知れない。新聞に連載しているその小説を見れば、今まで世にありふれた講談や伝奇を現代の口語に書替えたまでの事で、忌憚《きたん》なく言えば少し読書好きの女の目にさえ、これでは殆《ほとんど》読むには堪えまいと思われるくらいのものである。鶴子は進が去年の暮あたりから或《ある》婦人雑誌に連載し出した小説を見た時、ふと六樹園《ろくじゅえん》の『飛弾匠物語《ひだのたくみものがたり》』の事を思出して、娘の時分源氏の講義を聞きに行った国学者の先生が、いつも口癖のように今の文士にくらべると江戸時代の作者がどれだけ優《すぐ》れているか知れないと言ったことなどを夢のように思返した事もあった。平生《へいぜい》家へ出入する進の友人を見れば、言葉使いから様子合いまで、いずれも兄弟かと思われるほど能《よ》く似た人ばかりで、二、三人集まればすぐ洋酒を飲み、胡坐《あぐら》をかいたり寐《ね》そべったりして、喧嘩《けんか》でもするような高調子。その談話は何かと聞けば、競馬の掛けごとに麻雀賭博《マージャンとばく》、友人の悪評、出版屋の盛衰と原稿料の多寡《たか》、その他は女に関する卑猥《ひわい》極《きわま》る話で持切っている。
 鶴子は既に幾たびとなく決心して、折があったら進の家を去ろうと思っていた。今更兄の家の厄介にはなれないので、その当時義絶の証として与えられた金がまだ半分位は銀行に預けてあるのをたよりに、間借りでもして、何処《どこ》かの事務員にでも雇われようとまで、すっかり覚悟をきめて、それとなく最後の破綻《はたん》の来る時を待っていたが、進の方からはまさか手切金の請求を恐れたわけでもあるまいが、そのままに何事も言出さず、表向きはどこまでも令夫人らしく冷《ひややか》に崇《あが》め奉っているので、月日のたつにつれて、さすがに女の方から突然別ればなしを持ち出す訳にも行かず、つい言出しそびれて今日に至った。それやこれやの思いに暮れて、鶴子はハンケチを口に銜《くわ》えたまま台所の柱に身をよせかけ、葡萄棚に集る虻《あぶ》の羽音を聞いていた。
 突然人の跫音《あしおと》がしたので、鶴子はびっくりして様子をつくろうとしたが、眼の縁に残った涙の痕《あと》と、憂いに沈んだ顔の色とは俄《にわか》にどうする事もできない。
 老人は鶴子が勝手へ行ったままいつまでも戻って来ないので、性《たち》の好くない行商人でも来たのではないかと、何気なく様子を窺《うかが》いに来たのである。
「鶴子。心持でもわるいのじゃないか。何なら少しお休みなさい。」
「いいえ。別に。」と言いはしたものの、鶴子は身体の置場にこまって板の間にべったり坐った。
「顔色がよくない。」と老人は既に様子を察したものらしく、「わしは人から聞いたはなしは何事によらず他言《たごん》はしない。むかし細井平洲《ほそいへいしゅう》という先生は人の手紙を見るとその場で焼いてしまったという事だ。心配せん方がよい。」
 鶴子はこの時胸にある事は何も彼《か》もこの老人だけには打明けてしまいたい気になって、縋《すが》るようにその足下に摺寄《すりよ》り、「お話したい事が御在《ござい》ますの。わたくし、お父さまより外《ほか》には、お話したいと思いましても、誰もお話する方が御在ませんから。」
「うむ。聞きます。先刻《さっき》からどうも様子が変だと思っていた。」と老人は酒屋の男が明放《あけはな》しにして行った勝手口の硝子戸《ガラスど》に心づき、手を伸《のば》してそれを閉めた。
「お父さま。あのおはなし。あれはもう、折角の思召《おぼしめ》しで御在ますけれど、実はもう、なんにもならない事だと存じますから。」と涙を啜《すす》った。
「そうか。家がうまく行っておらんのか。困ったものだ。お前の考《かんがえ》はどうだ。この末望みがないのか。」
「今のところ、別にどうという事も御在ませんけれど、籍を入れましても、ほんの名義だけの事で、いつどういう事になるか分りませんから、かえってこのままの方がよくはないか知らと、そういうような心持もいたします。わたくし、ほんとに我儘《わがまま》な事ばかり申しまして……。」
「いや、それで事情は大抵わかりました。お前に向って進の事を悪くいっては甚《はなはだ》気の毒だが、これは進ばかりには限らん事で、今日文学を弄《もてあそ》ぶ青年に物の道理を説いてきかしてもわかるはずはない。わしは長年教師をしていたからそのくらいの事はよく知っています。見込みのあるものなら、呼びつけて意見もして見るが、わしはまず駄目だとあきらめている……。」
「わたくしが、何か申上げたようになりましても困りますし……。」
「それは今も言う通り、わしは一切何も言いません。しかしこのままにして置いたら、行末お前が困るでしょう。それが気の毒だ。」
「いえ。わたくしは、もうどの道、若い身空でも御在ませんから、行先の事は別にそれほど心配してはおりません。長い間には宅の心持もまたどんな事で直らないとも限りませんし……。」
「うむ。うむ。」と老人は立ったまま腕を拱《こまね》いて嘆声を発したが、裏木戸の方に音のするのを聞きつけ、「伝助が帰って来たらしい。あっちで話をしましょう。」
 老人は手を取らぬばかりに鶴子を急《せ》き立てて勝手から立ち去った。

 雨は降っているが、小降りで風もなく、雲切れのし始めた入梅の空は、まだなかなか暮れきらぬ七時頃。富士見町《ふじみちょう》の待合《まちあい》野田家《のだや》の門口へ自動車を乗りつけた三人|連《づれ》。一人は清岡の原稿売込方を引受けている駒田弘吉という額の禿《は》げ上った鰐口《わにぐち》の五十男に、一人は四十あまり、一人は三十前後の、一見していずれも新聞記者らしい眼鏡をかけた洋服の男である。駒田が先に格子戸《こうしど》を明け、靴をぬぐ間から女中にからかいながら、どやどやと表二階の広い座敷へ通る。前以て電話が掛けてあったものと見えて、煙草盆《たばこぼん》に座布団《ざぶとん》も人の数だけ敷いてあって、煉香《ねりこう》の匂《におい》がしている。「お風呂《ふろ》がわいております。」と女中の挨拶《あいさつ》に、間もなくこの土地では姉さん株らしい三十近い年増《としま》と、二十《はたち》前後の芸者が現われ、女中の運び上げる料理の皿を卓《つくえ》の上に並べる。
 駒田は現在『丸円新聞』に連載せられている清岡の小説がほどなく半月くらいで完結する見込なので、早くも別の新聞社へ交渉して次の原稿を売込む相談をまとめたところから、編輯長《へんしゅうちょう》へは内々で割戻《わりもど》しの礼金も渡してしまい、部下の記者は待合に連れて来て酒肴《しゅこう》を振舞《ふるま》い芸者をあてがう腹である。
「先生も、もうそろそろお出《い》ででしょう。構いませんから先へやりましょう。」と駒田は盃《さかずき》を年上の記者にさして吸物椀《すいものわん》の蓋《ふた》をとる。
「僕はどうも飲む方は得意でない。」と年上の記者は芸者に酌をさせながら、「まず箱なしの一方というやつだ。」
「恐入りましたね。売《うれ》ッ児《こ》はそれでなくっちゃいけません。」
「お前、どこかで見たことがあるな。思出せないが。まさかカッフェーでもあるまい。」
「いいえ。そうかも知れませんよ。この頃は芸者が女給さんになったり、女給さんが芸者になったり、全く区別がつきませんからね。」
「芸者から女給になるのはざらだが、カッフェーから芸者になるのは少いだろう。」
「少いこともないわ。随分あってよ。ねえ。姐《ねえ》さん。」
「そうか。随分いるのか。それは驚いた。」
「そうねえ。五、六人……さがしたらもっといるかも知れないことよ。」
「銀座あたりにいた奴《やつ》はいないか。」
「辰巳家《たつみや》からこの間お弘めした児、なんていったっけ……。」と年増が飲みかけた盃の手を留めて、眉《まゆ》を寄せ、「あの児はたしか銀座にいたんだわね。」
「新橋会館よ。」と若い方の芸者が直《すぐ》に答えた。
「新橋会館に。そうか。いつ時分だろう。」と今まで黙っていた若い記者が急に卓を押し出したので、駒田は女中を見返り、
「その芸者を掛けろ。おい。名前は何ていうんだ。」
「辰巳家の辰千代さん。」と若い芸者が名ざしをしたので、女中はすぐさま立ちかけた時、下から、「お花さん。お客様がお見えになりました。」
「先生だろう。」と駒田は襖《ふすま》の方を見返りながら、少し席を譲る間もなく、梯子段《はしごだん》に跫音《あしおと》がして、パナマ帽を片手に、鼠《ねずみ》セルの二重廻《にじゅうまわし》を着たまま上って来たのは、清岡進である。
「おそくなって失礼しました。」と進は年増の芸者に帽子と二重廻を渡し、お召《めし》の一重物《ひとえもの》に重ねた鉄無地一重羽織《てつむじひとえばおり》の紐《ひも》を結直《むすびなお》しながら、卓の上に小皿と箸《はし》の置いてある空席に坐る。年輩の記者は既に知り合っていると見え、若い記者を紹介したので、直様《すぐさま》茶ぶ台の上で名刺の交換が始まった。女中が芸者の返事と共に銚子《ちょうし》を持って来て、
「辰千代さん。すぐ伺います。」
「ほんとに皆さん、あがらないのね。」と年増が新しい銚子を受取って、「あなた。お一ツ。」
「一向景気がつかないようだね。」と清岡は酌をさせながら、駒田を顧み、「まだ後から来るのか。」
「目下|大《おおい》に選定中なんですよ。まだ外《ほか》に知らないか。女給芸者がいるから、ダンサー上りや女優上りもいるだろう。どうせ、呼ぶなら変ったのがいい。」
「こちら、ほんとに物好きねえ。」
「家にもこのあいだまで一人変ったのがいたんだけれど、誰がいいか知ら。」
「姐《ねえ》さん、ほら。桐花家さんの。評判じゃないこと。」
「ウム。京葉《きょうは》さん。」と年増は膝《ひざ》を叩《たた》いて、「あの人ならむしろダンサー以上。逆立《さかだち》くらいやり兼ねないわ。」
「その代り大変な御面相だろう。」
「ところが綺麗で、色っぽいのよ。何しろこの土地で一番いそがしい人ですもの。」
「いやに宣伝するなア。いくらか貰《もら》っているな。とにかく呼べ呼べ。」と駒田はすこし酔い始めたらしく大分元気づいて来たが、清岡は桐花家京葉の名を聞くと共に、去年残暑の頃の一件を想起して厭《いや》な心持がしたが、この場合よせとも言えないので、素知らぬ顔をしていると、年増の芸者は座談に興を添えるつもりで、
「わたしだって、もう三、四ツ年がわかければ芸者なんぞやめて銀座へ押出しますわ。女給さんの方がとにかく表面《うわべ》だけは素人《しろうと》なんですからね。何をするにも胡麻化《ごまか》しがききますよ。わたし、つくづくそう思っているのよ。わたしの家のすぐ隣《となり》が待合さんなのよ。その家へいろいろなお客さまを連れて来る女給さんがあるのよ。家が建込んでいるから、窓から首を出せば障子一重で、話はみんな聞えてしまうのよ。身丈《せい》がすらりとして、身なりは芸者衆よりいい位だから、銀座でもきっと一流のカッフェーでしょうよ。いつでも来るのは朝早いのよ。九時前の時もあるわ。それから正午《おひる》になるかならない中《うち》お立ちだわ。こっちは九時や十時じゃやっと眼がさめた時分でしょう。それに今のところ抱《かかえ》はいないし家の内はしんとしているから、つい耳をすまして聞く気になるのよ。」
 清岡はだまって若い方の芸者に酌をさせている。記者は二人ともいかにも面白そうに、「うむ、それから、それから。」とあおり立てるので年増も興にまかせて、
「相手のお客様は時々ちがうらしいのよ。だけれど、いつでも君さん君さんというから、きっと君子さんとか君代さんとかいうんでしょうよ。実にすごいものよ。いつだったか感心しちまった事があるわ。」
 清岡は上目《うわめ》づかいにじろりと記者の顔を見た。駒田も年を取っているだけ、すぐに気がつき、芸者のはなしがドンフワンの君江の事でなければいいがと心配したらしく、それとなく記者の方を見たが、記者は二人とも案外銀座のカッフェーの事には明《あかる》くないと見え、別に心当りもない様子で、「感心したというのは一体どういう事なんだ。芸者よりも濃厚だっていうのか。」
「それァ勿論《もちろん》そうよ。まアお聞きなさいよ。虚言《うそ》見たようなはなしだけれど……。」
 駒田はとにかく長く話をさして置いてはいけないと、気転をきかして、「おい。さっき呼んだ芸者はどうした。催促するようにそう言って来い。」
「はい。」と立上ったのは若い方の芸者なので、駒田は更に、「おれはそろそろ飯をくおう。」
「僕もつき合いましょう。」と酒を飲まない記者が駒田に同意した。御飯の給仕やら番茶の入替《いれかえ》やらで、どうやら年増芸者のはなしも中絶した時、辰千代という女が明けてある襖《ふすま》の外に手をついた。
 年は二十《はたち》ばかり。つぶしの島田に掛けたすが糸も長目に切り、薄紫《うすむらさき》に飛模様の裾《すそ》を長々と引いているので、肉付のいい大柄な身は芸者というよりも娼妓《しょうぎ》らしく見られた。
「銀座にいたのはお前か。」
「ええ。そうよ。」と辰千代はむしろ得意らしい調子で、「あっちでお目に掛かったか知ら。何しろわたし眼がわるいんでしょう。だから失礼ばっかりしているのよ。」
 年増の芸者は辰千代が自分の方には見向きもせず独りでぺらぺらしゃべり続けるのを、さも苦々《にがにが》しそうに尻目に見返したが、此方《こなた》は一向気がつかない様子で、さされる盃を立てつづけに二杯干して若い記者に返しながら、「こっちへ来てから一度も銀座の方へ行かないから、きっと変ったでしょうね。今どこが一番|賑《にぎやか》なのか知ら。」
「お前、先《せん》に何処《どこ》にいたんだ。コロンビヤか。」
「あら、失礼しちゃうわ。新橋会館よ。」
「どうして芸者になったんだ。あんまり発展しすぎて睨《にら》まれたんだろう。」
「そう仰有《おっしゃ》るけれどカッフェーは割に堅いことよ。何しろ昼間から夜の十二時まではちゃんとお店にいるんですもの。」
「十二時から先のはなしさ。」
「十二時から先は誰だって寝るんじゃないの。夜通し起きてはいられないじゃないの。ねえ。あなた。」
 その時同じく潰島田《つぶし》に結《ゆ》った小づくりの年は二十二、三の芸者につづいて、ハイカラに結った身丈《せい》の高い十八、九の芸者が来て末座に坐る。清岡は小づくりの女が京葉だということは、いつぞや市《いち》ヶ|谷《や》八幡《はちまん》の境内から窃《ひそか》に君江の跡をつけた晩、一生涯忘れるはずのないほどはっきり見覚えている。しかし相手には自分の顔を見知られない方が何かの場合都合がいいと思って、その後二、三度この土地へあそびに来た時も用心して逢わないようにしていたので、自然横を向いて煙草《たばこ》の烟《けむり》ばかり吹いていると、駒田は飯をすませて廊下へと立つ。
「駒田さん。ちょいと。」と女中が裏梯子《うらばしご》の方へ引張って行って、「お北|姐《ねえ》さん。丁度二本になりますから、もう帰してもよろしいでしょう。」
「後の奴《やつ》はみんな間に合うのか。」と駒田は時計を見た。
「菊代さんだけ少し高いんですけれど。」
「そんならそれも帰してしまえ。どの道、おれはいらないんだから、三人残して置けばいい。」
「じゃア、京葉さんに、辰千代さんに、松葉さん。」と念を押して、「どういう風にしましょう。」
 女中が相方《あいかた》をきめるのに困っているらしいのを見て、駒田は厠《かわや》から帳場へ姿をかくし、それから清岡を呼出し、座敷には招待した記者二人を残して好きな芸者を択《よ》り取らせる事にした。
「そう致しましょう。」と女中はまず年増芸者を帰すように座敷へ行って見ると、若い記者は女給上りの辰千代を膝の上に載せて窓に腰をかけ外を見ながら、流行唄《はやりうた》を唄っているので、これはそのままにして、年上の記者に耳打をした。清岡は様子を察して何とつかず立って厠へ行き、駒田をさがす振りで裏梯子から下へ降りて、再び二階の座敷へ戻って見ると、記者の姿は二人とも見えず、女中が脱いである洋服の上着と折革包《おりかばん》とを持ち、立ちかけた京葉に、「三階のすぐ突当り。」と教えているところであった。清岡は何事も気のつかない振りをして、窓の敷居に腰をかけると、一人取残された身丈《せい》の高いハイカラの芸者は、その場の様子から清岡を自分の出る客と思ったらしく、「もう霽《は》れたようね。」と言いながら並んで腰をかけた。
 雨はいつか歇《や》んで、両側とも待合つづきの一本道には往来《ゆきき》する足駄《あしだ》の音もやや繁くなり、遠い曲角《まがりかど》の方でバイオリンを弾く門附《かどづけ》の流行唄が聞え出した。
「今帰ったお北の家はどこだ。富士見町の方か。」と、清岡は何の訳《わけ》もないような風できいて見た。実は先刻《さっき》その女のはなしをした隣《とな》りの待合の事が気になっていたからである。
「いいえ、三番町《さんばんちょう》もずっと先の方……。」
「それじゃ、女学校か何かある、あっちの方か。」
「ええ。そうよ。わたしの家もお北姐さんの家のすぐそばだわ。」
「そうか。お北の家の隣りは待合だっていうじゃないか。」
「ええ。千代田家さんでしょう。先どなりがお北ねえさんの家で、手前の方がわたしのいる家なのよ。」
「そうか。それじゃその家にちがいない。背中合《せなかあわ》せになっている待合がありゃアしないか。」
「何だか変ねえ。」
「義理があるから、今度行こうと思っているんだけれど、様子がわからないからさ。」
「あの辺《へん》でお茶屋さんは千代田家さんだけだわ。何しろ許可地の一番はずれですもの。」
 女中が三階から降りて来て、「どうぞ。」と言ったが、清岡はあまりぞっとしない芸者なので、
「ちょっと用があるんだが、駒田はどうした。まだ帰りゃアしまい。」
「先ほどお帳場で旦那とお話していらっしゃいました。見て参りましょう。」
 女中が立ちかけた時、駒田は上着のかくしへ大きな紙入を差込みながら、表梯子を上って来た。駒田は商売の取引ならば待合でもカッフェーでも何処へでも出入りするが、自分では滅多に女など買ったことのない男で、新聞社の営業部に勤めていた頃から株相場や家屋地所の売買に手を出し、今では大分|身代《しんだい》をつくり上げたという噂《うわさ》であるが、それにもかかわらず、電車の出来ないむかしから、今以て四谷《よつや》寺町辺《てらまちへん》の車さえ這入《はい》らぬ細い横町《よこちょう》の小家に住んでいる。清岡は駒田の事を爪《つめ》に火をともす流儀の古風な守銭奴《しゅせんど》だと思っている。
「駒田君。帰るなら一緒に出よう。まだ時間は早いし、どうせ電車だろう。」
「君はこれから銀座へ廻るのかね。」
「イヤ、彼奴《あいつ》はもう止《や》めだ。君も知っているような始末で、ああ見さかいなしに誰でも御座れじゃ、全く名誉|毀損《きそん》だからな。すこし相談したい事があるんだ。とにかくぶらぶら出かけよう。」
「アラ、ほんとにお帰りなの。」と芸者はさも驚いたような顔をしたが、清岡は見向きもせず、丁度窓際の柱に呼鈴《よびりん》の紐《ひも》がついていたのを引寄せて、ボタンを押した。
 駒田は清岡と共に表梯子を降りながら、急に思出したらしく、送り出す女中を顧《かえりみ》て、「おいおい。お泊りのようだったら芸者は明日の朝時間通りに帰してしまえ。」
「それはもう承知しております。」
「別に忘れ物はなかったな。マッチを貰って行こう。」と駒田は靴をはきながらも、さすがに抜目《ぬけめ》がない。
「またどうぞ。お近い中《うち》に。」という声を後に二人は格子戸をあけて外へ出ると、雨あがりの空には月が出ていて、色町の横町はいかにも夏の夜らしく、往来する女の浴衣《ゆかた》が人の目を牽《ひ》く。
「駒田君。これから、赤坂までつき合わないか。」
「この頃はあの方面ですか。」
「カッフェーももう飽《あ》きたからね。やっぱり芸者が一番いいな。少しピンとしたやつをどうかしようと思っているんだがね。」
「どうかすると言うのは、身受《みうけ》でもしようというはなしですか。それは考物《かんがえもの》ですよ。」
「君に相談すれば、きっとそう言うだろうと思っていたんだ。」
「まとまった金を出すことはとにかく止《よ》した方がいいですよ。芸者の身受も将来奥さんになれるとか何とかいう目当があれば、女の方もそのつもりで真面目《まじめ》になるでしょうが、そうでなければ、きっと面白くない事が起って結局お止《や》めになるんですからな。」
「将来は、僕の方だってわからない。また一人になるかも知れないし……。」
「そうですか。風雲|頗《すこぶる》急ですな。」
「イヤ、まだそれほどの事でもないんだがね。どういうもんだか、家へ帰ると陰気になっていけない。」
 清岡は問われるままに、家の事情を委《くわ》しく語りたいと思いながら、さてどういう風に、何からはなし出したらいいものかと考えながら歩いて行く中《うち》、忽《たちま》ち富士見町の電車停留場に来てしまった。そもそも清岡には最初から鶴子を正妻に迎えるほどの堅い決心があったわけではない。唯《ただ》折々人目を忍んで逢瀬《おうせ》をたのしむくらいに留《とど》めて置くつもりであったが、女の方が非常にまじめで、事件が案外重大になってしまったので、どうする訳《わけ》にも行かず、幸《さいわい》女がその兄から金を貰ったのを聞いて鎌倉に家を借りて同棲《どうせい》したような次第であった。勿論人の妻として才色|両《ふた》つながら非の打ちどころのない事は能《よ》く承知しているが、その後清岡は月日の立つにつれて自分の品行の修《おさま》らないところから、何となく面伏《おもぶせ》な気がしだして、冗談一ツ言うにも気をつけねばならぬような心持がして窮屈でならなくなった。それがため、一日に一度はどうしてもカッフェーか待合に行って女給か芸者を相手に下らない事を言いながら酒を飲まなければ心|淋《さび》しくてならないような習慣になった。清岡は女給の君江が最少《もすこ》し乗気にさえなってくれれば、明日といわず即座にカッフェーなり酒場なり開業させようと思いながら、そういう相談には君江ではいかにも頼みにならないところから、いっそ方面を転じて、これぞと思う芸者の見つかり次第、芸者家でも出させて見ようかという気になっている。実はそれらの相談もして見たいと思って、駒田を誘い出したのであるが、駒田は電車が近づくのを見ると、早くも折革包《おりかばん》を抱え直して、年寄りのくせに飛乗りでもしかねまじき様子。清岡は忽《たちまち》興がさめて、
「それじゃ失礼。僕はちょっと寄るところがあるから。」
「あした。午後は丸円社にいますから、御用があったら電話をかけて下さい。」と駒田は電車に乗った。
 時計を見ると十時である。清岡はこのまま家へ帰れば、さしておそいというでもなく、丁度ほど好《よ》い時間だとは思いながら、夜ふかしに馴《な》れた身は、何となく物足りない気がして、もう一軒どこへか立寄ってからでなくては、どうしても足が家の方へは向かない。しかし今時分、丁度酔客の込合《こみあ》う時刻には、銀座のドンフワンなどへは君江との関係もあるところから、うかうか一人では行かれない。銀座辺の飲食店を徘徊《はいかい》する無頼漢や不良の文士などから脅迫される虞《おそれ》もあり、また君江が酔客を相手に笑い興ずるのを目の前に見ているのも不愉快である。清岡はこれから立寄るべきところは、まずこの間から折々出かける赤阪《あかさか》の待合より外にはないと思いながら、しかし目ざした芸者は既に五、六度呼んでいるにもかかわらず、今もってなかなか承知する様子がないので、今夜あたりも大抵話はまとまるまいと思うと、行かない先から、何やらむやみに腹立しい心持になって来る。しかしこの腹立しさもよくよく考えて見ると、あの芸者が自分の意に従わないという事から発しているのではなくて、その原因はやはり君江に対する平素の憤りから起っている。君江がもし自分の思うようにさえなっていれば、何もあんな芸者にふられるような馬鹿な目に遇《あ》わなくてもすむ事だと思うと、一時ゆるがせにしていた報復の悪念がまたしてもむらむらと胸中に湧《わ》き立って来る。清岡が君江に対して、何よりも腹が立ってならないのは、平素君江が何の心配もなく面白そうに日を送っている事で、その次には君江が名声|籍々《せきせき》たる文学者の恋人である事をさほど嬉しいとも思っていないように見える事である。もし自分が関係を断つような事があっても女の方では別に名残惜しいとも何とも思わないように見える事である。君江は自分との関係が断《た》えればかえってそれをよい事にして、直様《すぐさま》代りの男を見付けて、今と同じように、たわいもなく浮々《うかうか》と日を送るに相違ない。虚栄と利慾の心に乏しく、唯|懶惰《らんだ》淫恣《いんし》な生活のみを欲している女ほど始末にわるいものはない。こういう女を苦しめるには肉体に痛苦を与えるより外には仕様がないかも知れない。といって、まさかに髪を切ったり、顔に疵《きず》をつけたりする事もできないとすれば、まず二、三カ月も床につくような重い病気に罹《かか》るのを待つより外に仕様がないわけである。そんな事を考えながら足の向く方へとふらふら歩きながら、ふと心づいて行先を見ると、燈火の煌々《こうこう》と輝いている処は市ヶ谷停車場の入口である。斜《ななめ》に低い堀外《ほりそと》の町が見え、またもや真暗に曇りかけた入梅の空に仁丹の広告の明滅するのが目についた。
 君江の家はあの広告のついたり消えたりしている横町だと思うと、一昨日から今夜へかけてまず三日ほど逢わないのみならず、先刻《さっき》富士見町で芸者から聞いたはなしも思い出されるがまま、とにかくそっと様子を窺《うかが》って置くに若《し》くはないと思定め、堀端を歩いて、いつもの横町をまがった。
 角の酒屋と薬屋の店についている電燈が、通る人の顔も見分けられるほど隈《くま》なく狭い横町を照《てら》している。清岡は去年から丁度一年ほど、四、五日目にはここを通るので、店のものにも必《かならず》顔を見知られているにちがいないと、俄に眉《まゆ》深く帽子の鍔《つば》を引下げ、急いで通り過《すぎ》ると、その先の駄菓子屋と煙草屋《たばこや》の店もまだ戸をしめずにいたが、ここは電燈も薄暗く店先には人もいない。路地の入口の肴屋《さかなや》はもう表の戸を閉めているので、ちょっと前後《ぜんご》を見廻し、暗い路地へ進入《すすみい》ろうとすると、その途端にばったり行き会ったのは間貸しの家の老婆である。闇《やみ》にまぎれて知らぬ振りで行き過ぎようとしたが、老婆は目ざとく、「アラ旦那。」と呼びかけ、「一歩《ひとあし》ちがいで、まア能《よ》う御在《ござい》ました。不用心ですから鍵《かぎ》をかけて、お湯へ行こうと思ったんですよ。お君さんも今夜はお早いんですか。」
「イヤちょっと市ヶ谷まで用事があったから、寄って見たんだよ。帰って来るまで、とても待ってはいられないから、今夜寄ったことは黙っていておくれ。また心配するからなア。」
「じゃ、お茶一ツ上っていらっしゃいまし。」
「でも、おばさん、お湯へ行くんだろう。」
「ナニ、あなた。まだ急がないでもよう御在ます。」
 清岡は振切って去るわけにも行かず、勧められるがまま老婆の寐起《ねおき》している下座敷に通り長火鉢の前に坐《すわ》った。座敷は二階と同じく六畳ばかり。壁も天井も煤《すす》けて、床板《ねだ》も抜けた処さえあるらしいが、隅々まで綺麗《きれい》に片づいていて、障子や襖紙《ふすまがみ》の破れも残らず張ってあるなど、もし借手さえあればここも貸間にするのかとも思われるくらいである。床《とこ》の間《ま》には一度も掛替えたことのないらしい摩利支天《まりしてん》か何かの掛物がかけてあって、渋紙色《しぶがみいろ》に古びた安箪笥《やすだんす》の上には小さな仏壇が据えられ、長火鉢にはぴかぴかに磨いた吉原五徳《よしわらごとく》に鉄瓶《てつびん》がかかっている。こういう道具から老婆の年齢も大方想像がつくであろう。老婆が口ずから語る所によれば、日露戦争の際陸軍中尉であった良人《おっと》が戦死してから、下女奉公に行ったり派出婦になったりまた手内職をしたりして、一人の娘を養育したが、その娘は幸いにも資産のある貿易商の妻になり、夫婦とも現在は亜米利加《アメリカ》に居住していて、老婆には不自由のないように仕送りをしているとの事である。しかし人の噂《うわさ》では、娘からの仕送りは真実であるが、娘は始め西洋人の妾《めかけ》になり子供が出来てそのまま旦那の本国へ連れられて行ったのだともいう。いずれが真実やら、清岡は定めかねているのみならず、君江が始めどうしてこの家の二階を借りたのやら、そして何故《なぜ》、もっと場所柄のいい綺麗な家へ引移らずにいるのやら、その事情もはっきり知ることが出来ないのである。老婆は中尉の妻だったというが、現在の様子や物の言いざまから見れば、本所《ほんじょ》浅草辺《あさくさへん》の路地裏によく見るような老婆で、生れも育ちも好くない事は、酒屋の通帳がやっと読める位。洋服を着て髯《ひげ》を生《はや》した人をわけもなく尊敬する事などから万事は大抵想像されるのである。清岡はこの老婆に向って、自分の来ない間君江が何をしているかを、今更きいて見たところで、何の得るところもないだろうと思っているので、日頃の欝憤《うっぷん》などは顔色にも現わさず、努めて機嫌のいい調子をつくり、
「カッフェーへ行くといろいろな人に逢うんで実に困るのだよ。だから夜は前を通ってもなりたけ入らないようにしているのさ。」
「それが能《よう》御在《ござい》ますよ。御身分のある方はつい人が目をつけて、何の彼《か》のと噂をしたがるもんですからね。オヤもう十一時ですね。」と婆《ばば》は隣《となり》の時計の鳴る音を聞きつけ、箪笥の上の八角時計を見上げ、
「旦那、もう一時間お待ちになればいいんでしょう。待ってお上げなさいましよ。火鉢に火でもついで置きましょう。」
「おばさん。何も今夜にかぎった事じゃない。あしたゆっくり来るからさ。」と清岡は敷島《しきしま》の袋を袂《たもと》に入れたが、婆は最初から清岡が時ならぬ時分この近所を徘徊《はいかい》していたらしい様子といい、また日夜見知っている君江のふしだらとを思合せて、大抵それと察しながら、これもわざと気のつかない振《ふり》をして、
「それでも旦那、お待たせして置かないと、後《あと》で君江さんに叱られますから。」
「だまっていれば知れやしない。」
「それでも何だかわたしの気がすみませんからさ。酒屋の電話をかりて掛けて来ましょう。」と婆は長火鉢の曳出《ひきだ》しをさぐって、電話番号をかいた紙片《かみきれ》を取り出した。
「それじゃ、とにかく帰るまで二階にごろごろしていよう。十二時には帰って来るにきまっているんだから、電話なんぞ掛けないでもいいよ。」と清岡は立ちかけて、「おばさん、留守番をしているから、何なら湯へ行ってお出《い》で。」
 清岡は老婆を銭湯にやり、二階へ上って、秘密の手紙でもあったら手に入れようという下心。老婆は前々から不意の事が起ったら電話で知らせるようにと君江からくれぐれも頼まれているので、銭湯への道すがら酒屋か薬屋から電話をかけるつもりで、電話番号の紙片を帯の間にはさみながら出て行った。

 おばさんから電話がかかった時、君江は折よく電話室に近いテーブルのお客と飲んでいたので、呼ばれるが否や、すぐに立って電話を聞いたが、もう三、四十分で店のしまう刻限、大分酔が廻っている上に、あたりの騒々しさに、清岡先生の来ていることだけは通じたけれど、それについておばさんのくどくど言うことは一向に聞取れなかった。とにかく今夜は清岡さんの来べき晩ではなく、かつまた前以て何のたよりさえなかったところから、君江は安心して既に宵の口に木村義男という洋行帰りの舞踏家とどこへか泊りに行く約束をしてしまった所へ、その後二、三度|馴染《なじ》みになった自動車輸入商の矢田さんが来て、カッフェーの帰りに春代と百合子の二人をも誘って、松屋呉服店の裏通にこの頃開店した麗々亭《れいれいてい》とかいうおでん屋へ是非とも寄ってくれ。外に約束があるなら一時間でも三十分でもよいからと言って、一度外へ出てから、今方《いまがた》再び立戻って来て、四、五人の女給にいろいろな物を食べさせている最中である。これと殆《ほとん》ど前後して、いつもカッフェーなどへは来た事のない松崎さんという老紳士が今夜にかぎってひょっくり姿を現した。尤《もっと》も東京駅へ人を送りに行った帰りだという事である。
 銀座通のカッフェーはこのドンフワンに限らず、いずこも十時過ぎてから店のしめ際になって急に込み合って来るのが常である。絶間《たえま》なく鳴りひびく蓄音機の音も、どうかすると掻消《かきけ》されるほど騒《さわが》しい人の声やら皿の音に加えて、煙草の烟《けむり》や塵《ちり》ほこりに、唯さえ頭の痛くなる時分、君江は自分ながらも今夜は少し酔い過ぎたと思っている矢先、目の前には三人の男が落ち合ったのみならず、家の方にも待っているものがあると聞いて、どうしてよいのやら、殆ど途法《とほう》に暮れてしまった。今夜にかぎって、どうしてこうも都合が悪るいようになったのだろうと、自分の身よりも罪のない他人を恨むばかり。一層この場で酔いつぶれてさえしまえば周囲の者が結句どうにか始末をつけてくれるだろうと、君江は松崎老人の卓《テーブル》に来て、
「今夜わたしべろべろに酔って見たいのよ。オトカを飲まして頂戴《ちょうだい》。」
「何かいざこざがあるな。お客と喧嘩《けんか》でもしたのか。」と松崎は年を取っているだけ、すぐに気がついたらしい。
「いいえ。そうじゃないのよ。だけれど。」
「だけれど。やっぱりそういう訳じゃないかね。」
 君江は返事に窮《こま》って黙ってしまったが、その時ふと、この老人とは女給にならない以前からの知合《しりあ》いで、身の上の事は何も彼も承知している人だから、内々打明けて相談した方がよいかも知れないと思いついた。折好くテーブルには一人も女給がいないので、君江はぴったり寄添い、
「今夜、わたしこまってしまったのよ。こんな都合のわるい事は始めてだわ。」
 その語調と様子とで、松崎は忽《たちま》ち万事を洞察したらしく、「おれはもうすぐ帰るつもりだよ。今夜は唯カッフェーの景気を見物に来たばかりさ。逢《あ》うのはその中《うち》ゆっくり昼間にしよう。」
「すまないわねえ。あなた、怒らないで頂戴。よくって。」
「おこるものか。おれにはもう分っている。お客がかち合っているんだろう。」
「さすがに小父《おじ》さんだけあるわねえ。どうして分るんだろう。」と君江は松崎の耳に口を寄せて今夜の始末を包まずに打明け、「何かうまい工夫はないか知ら。」
「いくらでもあるさ。わけはない。」と松崎はすぐに一策を授けた。それは先《まず》カッフェーの帰り大急行で一人のお客を待合へ連れて行き、どうしても泊るわけには行かないからと、暫《しばら》くしてから、男が帰り仕度をしない中、お先へ失礼と言ってあわてて帰る振りで、別の座敷へ姿をかくす。その前に極く懇意な友達の女給に頼んで市ヶ谷の家へ寄ってもらい、間貸しのおばさんに、或《ある》お客様が自動車で送ってやるからと言うので、何の気もなく一緒に乗ったところ、無理やりに待合へ連れて行かれた。仕様がないから芸者を呼ばせお酒だの御料理だの取らせている間に、自分だけ隙《すき》を見て逃げ出して来たのだから、急いで君江さんを迎いに行ってくださいと、言うのだ。そうすればきっと清岡が自身でその待合へやって来るにちがいはない。それまでにたっぷり一時間あまりはかかるから、その間にお客の一人位お前の腕ならどうにでも始末はつけられるはずだ。もう一人のお客には、人目を憚《はばか》るからと口実を設けて、一人先へ別の家へ行かして、気の毒だが、その方はそれなり寐《ね》こかしを喰わしてしまうのだ。勿論《もちろん》その時はひどく怒るだろうが、怒るほど内心未練が強くなるのにきまっているから、翌日|必《かならず》恨みをいいにやって来る。その時思うさま嬉しがらしてやれば効果はむしろ平穏無事の時より以上になるだろう。松崎は刈り込んだ半白の口髭《くちひげ》を撫《な》でながら、微笑して、「しかし、こういう仕事をするには、呑込《のみこみ》の早い、気のきいた家でなくっちゃいけない。心安い家でうまい処があるか。」
「そうね。牛込の彼処《あすこ》はどう。諏訪町《すわちょう》時分にあなたとも二、三度行った家さ。この頃三番町にもちょいちょい往《ゆ》くところがあるのよ。」
 その時持番の女給が来たので、君江は取りとめのない冗談を言いながら立って行った。松崎はもう半時間ばかりたてば戸をしめる時間になるので、その間に君江のお客はどんな人か。また君江が果してどういう行動を取るかをも見究めたいような心持もしたが、それまで自分がここに居坐《いすわ》っていてはやりにくかろうと察して、ほどなく勘定を払って外へ出た。両側の商店は既に灯《ひ》を消し戸を鎖《とざ》している。夜肆《よみせ》も宵の中《うち》雨が降っていたのと、もう時間がおそいのとで、飲みくいする屋台店が残っているばかり。銀座の大通りは左右のひろい横町もともども見渡すかぎりひっそりしていて、雨気《あまけ》を含んだ闇の空と、湿った路の面《おもて》に反映するカッフェーや酒場の色電燈が目につくばかりである。劇場や興行物は既に一時間ほど前には閉場しているので、今頃ぶらぶら歩いている男女は悉《ことごと》くカッフェーへ出入するものとしか思われない。通り過る電車は割合にすいていて、辻自動車ばかりが行先の見えぬほど街の角々に徘徊《はいかい》している。
 松崎は今ではたまにしか銀座へ来る用事がないので、何という事もなく物珍しい心持がして、立止るともなく尾張町《おわりちょう》の四辻《よつつじ》に佇立《たたず》んだ。そしてあたりの光景を観望すると、いつもながら今更のようにこの街の変革と時勢の推移とに引きつづいてその身の過去半生の事が思返されるのである。
 松崎は法学博士の学位を持ち、もと木挽町《こびきちょう》辺にあった某省の高等官であったが、一時世間の耳目を聳動《しょうどう》させた疑獄事件に連坐して刑罰を受けた。しかしそれがため出獄の後は生涯遊んで暮らせるだけの私財をつくり、子孫も既に成長し立身の途についているものもある。疑獄事件で収監される時まで幾年間、麹町《こうじまち》の屋敷から抱車《かかえぐるま》で通勤したその当時、毎日目にした銀座通と、震災後も日に日に変って行く今日の光景とを比較すると、唯《ただ》夢のようだというより外はない。夢のようだというのは、今日の羅馬人《ローマじん》が羅馬の古都を思うような深刻な心持をいうのではない。寄席《よせ》の見物人が手品師の技術を見るのと同じような軽い賛称の意を寓《ぐう》するに過ぎない。西洋文明を模倣《もほう》した都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。この悲哀は街衢《がいく》のさまよりもむしろここに生活する女給の境遇について、更に一層痛切に感じられる。君江のような、生れながらにして女子の羞耻《しゅうち》と貞操の観念とを欠いている女は、女給の中には彼一人のみでなく、まだ沢山あるにちがいない。君江は同じ売笑婦でも従来の芸娼妓《げいしょうぎ》とは全く性質を異にしたもので、西洋の都会に蔓延《まんえん》している私娼《ししょう》と同型のものである。ああいう女が東京の市街に現れて来たのも、これを要するに時代の空気からだと思えば時勢の変遷ほど驚くべきものはない。翻《ひるがえ》って自分の身を省れば、あの当時、法廷に引出されて涜職《とくしょく》の罪を宣告せられながら胸中には別に深く愧《はじ》る心も起らなかった。これもまた時代の空気のなす所であったのかも知れない。月日はそれから二十年あまり過ぎている。一時はあれほど喧《かしま》しく世の噂に上ったこの親爺《おやじ》が、今日泰然として銀座街頭のカッフェーに飲んでいても、誰一人これを知って怪しみ咎《とが》めるものもない。歳月は功罪ともにこれを忘却の中に葬り去ってしまう。これこそ誠に夢のようだと言わなければなるまい。松崎は世間に対すると共にまた自分の生涯に対しても同じように半《なかば》は慷慨《こうがい》し半は冷嘲《れいちょう》したいような沈痛な心持になる。そして人間の世は過去も将来もなく唯その日その日の苦楽が存するばかりで、毀誉《きよ》も褒貶《ほうへん》も共に深く意とするには及ばないような気がしてくる。果して然《しか》りとすれば、自分の生涯などはまず人間中の最《もっとも》幸福なるものと思わなければならない。年は六十になってなお病《やまい》なく、二十《はたち》の女給を捉《とら》えて世を憚《はばか》らず往々青年の如く相戯れて更に愧《はじ》る心さえない。この一事だけでもその幸福は遥《はるか》に王侯に優《まさ》る所があるだろうと、松崎博士は覚えず声を出して笑おうとした。

       *     *     *     *

 君江は舞踊家木村義男と牒《しめ》し合して、カッフェーを出てから有楽橋《ゆうらくばし》の暗い河岸通《かしどお》りで待合せ、自動車で三番町の千代田家という懇意な待合へ行った。そして松崎のおじさんから教えられたように先へ帰る振りをして別の小座敷に姿をかくし、素知らぬ顔で清岡先生を迎えるつもりであったが、車の道すがら話の様子で、君江は木村が案外さばけた男で、女給には恋人の二人や三人あるくらいの事は当前《あたりまえ》だと思っているらしいので、千代田家の裏二階へ通ると、すぐさま今夜の始末をそのまま打明けてしまった。すると、木村は案の定どこまでもおとなしく、
「始めから打明けてくれれば、こんな心配をさせなくってもよかったのに。許してくれたまえ。僕がわるかったんだ。その代り今度都合のいい時ゆっくり逢ってくれたまえ。」
 木村はわざと追立てるように君江をせき立て、手つだってその帯まで結んでやった。
 君江は始め邦楽座の舞台で活動写真の幕間《まくあい》に出演する木村の技芸を見た時から例の好奇心に駆られていたので、このまま別れるのが物足りなくてしようがない。木村の技芸というのは彼自身雑誌や新聞などに書いている議論によれば、露西亜《ロシア》の舞踊ニジンスキイ以後の芸術と、支那俳優の舞技と、即《すなわち》東西両種の芸術を渾和《こんわ》したとか称するもので、男女両性の肉体的曲線美の動揺は、絵画彫刻の如き静止した造形美術の効果よりも遥《はるか》に強烈で、また音楽が与える直感的な暗示の力よりも更に深刻だというのであるが、しかし女給さんの君江にはそういう審美学上の議論はどうでもよい。若い男と女とが裸体になって衆人の面前で時々抱き合いながらさまざまな姿態を示すのを見て、君江はああいう事を商売にしている男と逢《あ》って見たらばどんなだろうと思ったのである。その心持はあばずれた芸者が相撲を贔屓《ひいき》にしたり、また女学生が野球選手を恋するのと変りがない。
「先生。もうおそいから真直《まっすぐ》にお帰りじゃないんでしょう。きっと何処《どこ》かへお寄りになるのよ。口惜《くや》しいわねえ。」
「だって、パトロンが来るんじゃ仕様がないじゃないか。僕はすぐ家へ帰る。虚言《うそ》だと思うなら電話をかけて見給え。」と名刺を渡して、「君江さん。この次きっと逢ってくれるねえ。」
「あなたもよ。きっとよくって。わたし何だかほんとに済まないような気がして、お帰ししたくないのよ。」と君江は例の如く新しい男に対する興味を押える事ができないので、既に帰仕度をしかけた木村の膝《ひざ》によりかかってその手を握った。
 暫《しばら》くしてから君江は木村の帰る自動車を頼もうと、女中を呼びに廊下へ出て、時間をきくと今方二時を打った。そして清岡さんというお客様はまだお見えにもならず、また電話もかからないと言う。自動車が来たので舞踊家の木村先生はお帰りになる。小説家の清岡先生はそれなり二時半を過ぎてもお出《い》でにならない。君江はカッフェーの仕舞際《しまいぎわ》に瑠璃子《るりこ》という女給に市ヶ谷へ立寄って伝言《ことづけ》をするように頼んだのである。瑠璃子はもと洋髪屋の梳手《すきて》をしている時分から方々の待合へも出入をしていたので、こういう事には抜目のあろうはずがない。事によると、清岡先生は瑠璃子の伝言を聞かない先に怒って早く帰ってしまったのかも知れない。そう思うと君江は木村を帰すのではなかったものをと、いよいよ残り惜しくてたまらなくなって来た。帯の間に入れた名刺を見ると、その住処、昭和アパートメントの電話番号が記してあるので、前後の考《かんがえ》もなく電話をかけて見ようと裏梯子《うらばしご》を降りかけた時、表口の方で誰かお客の来たらしい物音がした。清岡先生にちがいないと、君江は耳をすまして表二階へ上る人の声を聞くと、清岡ではなくて、思いもかけない矢田さんらしい。矢田さんにはカッフェーのテーブルで、今夜はいくら誘われても先約があるから裏通りのおでん屋麗々亭へは行かれないがその代り少しおそくなってからならば、何処へでも行かれるから、行先を教えて先へ行って待っていて下さいと虚言《うそ》をついて、それなり寐こかしを食わしてしまうつもりであったのだ。
 矢田の方では君江のいう事を真《ま》に受け、最初の晩君江をつれて行った神楽阪《かぐらざか》裏の待合へ行き、二時過まで待ちあぐんでいたが、電話さえかかって来ないので、矢田は形勢を察し、十日ほど前君江がカッフェーの行掛けに自分を連れて行った三番町の千代田家の事を思合せて、万一まぐれ当りにさがし当てたら、腹いせに騒いで邪魔をしてやろうと、突然自動車を乗りつけたのである。門をたたくと直様《すぐさま》女中が雨戸をあけたので、矢田は鎌をかけて君江さんはと聞くと、女中はてっきり君江の待っている旦那だと思込んで、
「奥様は先刻《さっき》からお待ちかねなんですよ。殿方はほんとに罪だわねえ。」という返事。矢田は烟《けむ》に巻かれて何とも言えず、おとなしく二階へ上り、帽子もとらず床《とこ》の間《ま》を後《うしろ》に胡坐《あぐら》をかいて不審そうに座敷中を見廻していた。
 君江は裏梯子の下で女中から様子をきき、今はどうする事も出来ないと覚悟をきめ、いきなり座敷の襖《ふすま》をあけると共に、
「矢《ヤア》さん。あなた。あんまりだわよ。」と鋭い声で叱りつけた。
 矢田は今方女中の返事に驚かされた後、またしても意外な君江の様子に、何とも言わず、目ばかりぱちぱちさせている。
「わたし、もう帰ろうかと思ったのよ。」と君江はきちんと坐って俯向《うつむ》いた。
「一体どうしたというんだ。」と矢田は始めて心づいたらしく帽子を取り、「何だか、さっぱり訳《わけ》がわからない。」
 君江は俯向いたまま黙って膝の上にハンケチを弄《もてあそ》んでいる。女中が上《あが》り花《ばな》を運んで来て、
「ほんとにお待ちになっていらしったんですよ。お銚子《ちょうし》をおつけ致しましょうか。」
「もう、おそう御在《ござい》ますから。」と君江は妙に声を沈ませて、「こんなにおそくまで。ほんとに済みません。」
「おそいのは、もう馴《な》れております。それでは。どうぞ。」と女中は矢田の帽子と夏|外套《がいとう》とを持って立ちかけるので、矢田はとやかく言うひまもなく、案内されるがまま、先刻舞踊家のいた座敷とも知らず、黙って裏二階の四畳半に入った。

       *     *     *     *

 短夜《みじかよ》の明けぎわにざっと一降《ひとふ》り降って来た雨の音を夢うつつの中《うち》に聞きながら、君江は暫くうとうとしたかと思うと、忽《たちま》ち窓の下の横町《よこちょう》から、急に暑くなったわねえという甲高《かんだか》な女の声と小走りにかけて行く下駄《げた》の音に目をさました。軒に雀《すずめ》の囀《さえず》る声。やや遠く稽古三味線《けいこじゃみせん》の音。表の方でばたばた掃除をする戸障子の音と共に、隣《となり》の屋根に洗濯物でも干しに上るらしい人の跫音《あしおと》がする。雨はすっかり晴れて日が照り輝いていると思うと、昨夜のままに電燈のついている閉切《しめき》った座敷の中の蒸暑さが一際《ひときわ》胸苦しく、我ながら寐臭い匂《にお》いに頭が痛くなるようなので、君江は夜具の上から這《は》い出して窓の雨戸を明けようとした。矢田は既に昨夜の中わけもなく機嫌を直していた後なので、
「お止《よ》しよ。僕があける。実際暑くなったなア。」
「こら。こんなよ。触って御覧なさい。」と君江は細い赤襟をつけた晒木綿《さらしもめん》の肌襦袢《はだじゅばん》をぬぎ、窓の敷居に掛けて風にさらすため、四ツ匐《ば》いになって腕を伸《のば》す。矢田はその形を眺めて、
「木村舞踊団なんかよりよほど濃艶《のうえん》だ。」
「何が濃艶なの。」
「君江さんの肉体美のことさ。」
 君江は知らぬが仏とはよく言ったものだと笑いたくなるのをじっと耐《こら》えて、「矢《ヤア》さん。あの中《なか》に誰かお馴染《なじみ》があるんでしょう。みんな好《い》い身体《からだ》しているわね。女が見てさえそう思うんだから、男が夢中になるのは当前だわねえ。」
「そんな事があるものか。舞台で見るからいいのさ。差向《さしむかい》になったらおはなしにならない。ダンサアやモデルなんていうものは、裸体になるだけが商売なんだから、洒落《しゃれ》一つわかりゃアしない。僕はもう君さん以外の女は誰もいやだ。」
「矢さん。そんなに人を馬鹿にするもんじゃなくってよ。」
 矢田はまじめらしく何か言おうとした時、女中が障子の外から、「もうお目覚《めざめ》ですか。お風呂《ふろ》がわきました。」
「もう十時だ。」と矢田は枕《まくら》もとの腕時計を引寄せながら、「おれはちょっと店へ行かなくっちゃならないんだけれど、君さん、今日は晩番《おそばん》か。」
「今日は三時出なのよ。暑くって帰れないから、わたしその時間までここに寐ているわ。あなたもそうなさいよ。」
「うむ。そうしたいんだけれど。」と考えながら、「とにかく湯へはいろう。」
 矢田は自分の店へ電話をかけ、どうしても帰らなければならない用事が出来たというので、朝飯も食わず、君江を残して急いで帰って行った。その時はかれこれ十二時近くなっていたが、今だに清岡の様子がわからないので、君江は平素《ふだん》から頼んである表の肴屋《さかなや》に電話をかけ、間貸しのおばさんを呼出して様子をきくと、昨夜お友達の女給さんが見えて、先生はその女と一緒にお出かけになったきりだという返事である。君江は事によると先生と瑠璃子と出来合ったのかも知れない。それでこっちへは姿を見せないのだろうと思った。しかし唯《ただ》そう思っただけの事で、君江はそれについてとやかく心を労する気にはならなかった。十七の秋家を出て東京に来てから、この四年間に肌をふれた男の数は何人だか知れないほどであるが、君江は今以って小説などで見るような恋愛を要求したことがない。従って嫉妬《しっと》という感情をもまだ経験した事がないのである。君江は一人の男に深く思込まれて、それがために怒られたり恨まれたりして、面倒な葛藤《かっとう》を生じたり、または金を貰《もら》ったために束縛を受けたりするよりも、むしろ相手の老弱美醜を問わず、その場かぎりの気ままな戯れを恣《ほしいまま》にした方が後くされがなくて好《い》いと思っている。十七の暮から二十《はたち》になる今日が日まで、いつもいつも君江はこの戯れのいそがしさにのみ追われて、深刻な恋愛の真情がどんなものかしみじみ考えて見る暇がない。時たま一人|孑然《ぽつねん》と貸間の二階に寝ることがないでもないが、そういう時には何より先に平素の寝不足を補って置こうという気になる。それと同時に、やがて疲労の恢復《かいふく》した後おのずから来るべき新しい戯れを予想し始めるので、いかなる深刻な事実も、一旦|睡《ねむり》に陥《おち》るや否や、その印象は睡眠中に見た夢と同じように影薄く模糊《もこ》としてしまうのである。君江は睡からふと覚めて、いずれが現実、いずれが夢であったかを区別しようとする。その時の情緒と感覚との混淆《こんこう》ほど快いものはないとしている。
 この日も君江はこの快感に沈湎《ちんめん》して、転寐《うたたね》から目を覚した時、もう午後三時近くと知りながら、なお枕から顔を上《あげ》る気がしなかった。枕もとを見れば、昨夜脱ぎ捨てた着物や、解きすてた帯紐《おびひも》に取乱されている裏二階の四畳半は、昨夜舞踊家の木村が帰った後、輸入商の矢田が来て、今朝方帰りがけに窓の雨戸一枚明けて行ったままで、消し忘れた天井の電燈さえまた昨夜と同じように床の間の壁に挿花《さしばな》の影を描いている。懶《ものう》い稽古唄や物売の声につれて、狭間《ひあわい》の風が窓から流れ入って畳の上に投げ落した横顔を撫《なで》る心地好さ。君江は今こういう時、矢田さんでも誰でもいいから来てくれればいい。そうすればありとあらゆる身内の慾情を投げかけてやろうものをと思うと、いよいよ湧起《わきおこ》る妄想の遣瀬《やるせ》なさに、君江は軽く瞼《まぶた》を閉じ、われとわが胸を腕の力かぎり抱きしめながら深い息をついて身もだえした。その時静に襖《ふすま》の明《あ》く音がして、屏風《びょうぶ》の前に立った男の姿を、誰かと見れば昨夜から名残惜しく思っていた木村義男である。
「あら。」と君江はわずかに顔を擡《もた》げながら、起直りもせず、仰向《あおむ》きに臥《ね》たまま両腕をひろげ、木村が折屈《おりかが》むのを待って、ぐっと引寄せながら、「わたし、夢を見ていたのよ。」
 暫くして後木村は昨夜銀細工の鉛筆を落したから、もしやと思って捜《さが》しに来たことを告げた。
 二人は起きて、表座敷で料理の肴《さかな》に箸《はし》をつけた時、女給の瑠璃子から電話がかかった。瑠璃子は昨夜君江から頼まれた通り、狼狽《ろうばい》した振りで本村町《ほんむらちょう》へ行き、清岡先生に三番町の千代田という家へ行った事を告げると、先生は俄《にわか》に不快な顔色をして、いろいろ弁解するのも聴かず、途中から自分を振捨《ふりすて》てどこへか行ってしまった。その事を知らせたいと思って今まで君江の来るのを待っていたが、三時の出番にも姿が見えないので、最初に肴屋へ呼出しの電話をかけ、おばさんの返事から推量して、更に電話をかけて見たという事である。
 日が暮れて飯を食べてしまうと、木村は明日丸円劇場の初日なので、これから稽古に行かなくてはならないと、急いで仕度をした後、特等の座席券を五、六枚、カッフェーの女給さんたちに売ってくれと頼んで、そのまま晩飯の代も自動車賃も払わずに帰ってしまった。
 君江はまるで落語家《はなしか》か芸人などと遊んだような気がして、俄に興《きょう》が覚め、折角きょう一日夢を見ていたような心持はもう消え失せてしまった。折からたっぷり日が暮れると共に、今のところ何の当もない今夜一晩の事が急に物さびしく思われて来た。女一人では待合にもいられないので、木村の飲み食した勘定を仕払って外へ出ると、横町は丁度座敷へ出て行く芸者の行来《ゆきき》の一番|急《いそが》しい時分。今頃おくれてカッフェーへも行かれない、といって、家へ帰っても仕様がないので、思出すまま桐花家の京葉をたずねて見ようと、四角《よつかど》を曲りかけた時、向から座敷着の褄《つま》を取り、赤い襦袢《じゅばん》の裾《すそ》を夕風に翻しながら来かかる一人の芸者。見れば京葉である。
「君ちゃん。これから銀座?」
「もう晩《おそ》くなったから休もうと思ってるの。」
「あなた。千代田家さんにいたんじゃないの。」
「あら。どうして知ってるの。」
「どうしてじゃないことよ。君ちゃん。あすこはいけないよ。昨夜わたし清岡先生にもお目にかかったのよ。」
「あら。そう。」と君江もさすがに目をみはった。
「ゆうべ、宵の中《うち》に野田家さんでお目にかかったのよ。三、四人お連《つれ》があったわ。わたしは後口《あとくち》で廻って行ったもんだから、ちょっとお目にかかったばっかりなのよ。だから、その時にはどなただか気がつかなかったのよ。だけれど、わたしお連の方に出たもんだから、後ですっかり話をきいてしまったのさ。お前さんがちょいちょい千代田家さんへ行くことを能《よ》く知っている芸者衆があるんだよ。家が隣合《となりあ》っているものだから、窓からよく見えるんだとさ。お座敷でその芸者衆が先生とは知らずにお前さんのはなしをしたんだとさ。何しろ此処《ここ》じゃはなしができないから、わたし明日《あした》かあさって、おばさんにも用があるから、ゆっくり行って話をするわ。とにかくあすこはよした方がいいよ。」
「そう。そんな事があったの。じゃ待ってるわよ。」
 近処の犬だの、箱屋《はこや》だの、出前持だの、芸者などが、絶え間なく通過《とおりすぎ》るので、二人は立談《たちばなし》もそこそこに右と左へわかれた。

 良人《おっと》の起《おき》るのは大抵正午近くなので、鶴子は毎朝一人で牛乳に焼麺麭《トースト》を朝飯に代え、この年月|飼馴《かいな》らした鸚鵡《おうむ》の籠《かご》を掃除し、盆栽に水を灌《そそ》ぎなどした後、髪を結び直し着物をきかえて、良人の起るのを待つのである。その日の朝牛乳と共に女中の持って来た郵便物の中に、番地も宛名も洋字で書いた一封があったので、何心なく手に把《と》ると、自分へ宛てたもので、その筆蹟にも見覚《みおぼえ》がある。女学校を卒業する前後二年あまり教《おしえ》を受けた仏蘭西《フランス》の婦人マダム、シュールの手紙である。
 マダム、シュールは東洋文学研究の泰斗《たいと》として各国に知られている博士アルフォンズ、シュールの夫人で、始め良人に従い支那に遊ぶ事十余年、日本に留ることまた更に数年にして一度本国に帰ったが、その後良人に先立れ孀婦《やもめ》となった悲しみを慰めるため、単身米国を漫遊して再び日本に来て二年ほど東京にいた。鶴子が女学校の友達二、三人と語学と礼法とを学びに通ったのはこの折であった。マダム、シュールは巴里《パリ》で亡夫の遺著を出版するについて至急な用事が出来たので、四、五日前またもや日本に来て、帝国ホテルに投宿したから一度訪ねて来るようにというのであった。
 鶴子は進の起るのを待ち丁度正午の汽笛が鳴った頃、電話で聞合せてホテルへ往《い》った。
 マダム、シュールは西洋の老女にはよく見るような円顔《まるがお》の福々しく頬《ほお》の垂れ下った目の細い肥った女である。日常の日本語は勿論《もちろん》不自由なく、漢文も少しは読める。『説文《せつもん》』で字を引く事などは現代日本の学生の及ばぬところかも知れない。
 丁度食事の頃だったので、マダムは昼餉《ひるげ》のテーブルに鶴子を案内して、亡夫の遺著を編輯《へんしゅう》するについて、第一に社寺または古器物の写真の不足しているのを補うためにこれを買集める事、第二には仏蘭西の本邸に儲《たくわ》えてある東洋の書画載籍《しょがさいせき》の整理を依嘱するため適当な日本人をさがして本国へ同行したいという事を語った。
 鶴子はどの位学識があればよいのかと問うと、別に専門の学者を望んでいるのではない。譬《たと》えば和歌と端唄《はうた》との区別を知っている位の程度でよいのであるが、学問よりもむしろ日本固有の趣味と鑑識とを具備した人で、かたがた幾分なりと仏蘭西語を知っていれば申分はないのだという。マダムはなお言葉をつづけて、
「半年ぐらいで仕事はすみます。あなたがお一人で遊んでおいででしたら、是非ともお頼みするのですけれど、今ではそんなわけには行きませんから、誰か御存じの方をさがしていただかなければなりません。」
 この言葉を聞くと共に、鶴子は食卓を押出さんばかり、殆《ほとんど》我を忘れて半身を突き出し、「わたくし、半年や一年ぐらいなら……わたくしのようなものでもお役に立ちますのなら、どんな都合をしても御一緒に参りたいと存じます。」
「あなた。おいでになれますか。」とマダムも驚きと喜びとにその目を見張った。
「一度はどうかして洋行して見たいと思っておりましたから。」と鶴子は一時に湧起《わきおこ》る感情を見せまいとして努めて声を沈ませた。
 鶴子は今朝マダム、シュールの手紙を受取り、このホテルに来て食卓の椅子につく時まで、自分の生涯にかくの如き大変動が起ろうとは夢にだも思っていなかった。運命ほど測りがたいものはない。鶴子はマダム、シュールの談《はなし》をきいている中、突然何物かに誘惑せられたように、唯ふらふらと遠いところへ往きたくなったのである。往った先の事はよかれあしかれ、鶴子は今住む家の門を出る事が自分の生涯をつくり直す手始《てはじめ》だと日頃から心づいてはいたものの、きょうが日までこれを決行する機会がなかった。一時は深く絶望して何事も皆自分が為《な》した過《あやまち》の報いとのみ思いあきらめ、一日も早く年をとって、半生の悔いと悲しみとを茶のみばなしにする日の来る事を待つより外はないと思っていたが、今突然意外な機会が目の前に現われて来たのを見ては、とかくの思慮を費《ついや》す暇もない。日頃因循していただけ、障碍《しょうがい》が起ったなら、極力これを排斥して思うところを決行しようという元気さえ出て来たような心持になった。
 食事の後廊下の長椅子に並んで腰をかけ珈琲《コーヒー》を啜《すす》りながら、懇談することまた一時間ばかり。鶴子はホテルを出て梅雨晴《つゆばれ》の俄に蒸暑くなった日盛りをもいとわず、日比谷《ひびや》の四辻から自動車を倩《やと》って世田ヶ谷に往き良人の老父をたずねて、洋行のはなしをすると、老父はかつて大学教授のころ両三度シュール博士に面談した事があるといって、「あっちへ行ってから書物の事で何かわからない事があったら遠慮なく手紙で問合せるがよい。」というような次第であった。鶴子はいよいよ門出の幸《さち》あるを喜び、夏の夕陽《ゆうひ》のまだ照り輝いている中、急いで家へ帰り良人《おっと》の承諾を求めようと思うと、良人は既に外出した後で、その夜十二時近くなってからいつものように今夜は晩《おそ》くなるから先へ寝てくれるようにとの事であった。仕様がないので、鶴子はその夜は先に寝て、翌朝は良人の起るまで待っているわけにも行かないところから、マダム、シュールから依頼された用事のある事だけを一筆|認《したた》めて、再びホテルへ出かけた。マダムは次の日に京都へ往き奈良に遊び、二、三日長崎に滞在して神戸に立戻って便船を待つつもりであるから、その日までに仕度をしてその地のホテルへ来てくれるようにと、日割を明細に書いて見せてくれた。そして鶴子が旅行免状の事は至急運びがつくように大使館から直接その筋の役所へ交渉してもらう手筈《てはず》だという事であった。
 鶴子が良人に逢《あ》って始めて洋行の事を打明けたのは次の夜も世間は既に寝静《ねしずま》った頃であった。進はどこかで飲んで来た酒の酔も一時に醒《さ》めるほど驚いたらしいのを、わざとさり気《げ》なく、
「そうか。それは結構だ。行って来るがいい。」
「半年という約束で御在《ござい》ますけれど、都合でもっと早く帰りたいと思っております。」
「別に急いで帰るにも及ばない。二度出掛けるのも大変だから、ゆっくり勉強したり見物したりして来る方がいい。」
 二人のはなしはそれなり途切れてしまった。進は鶴子が洋行する胸中を推察して今更引留めても既におそいと思ったので、未練らしい様子を見せて、「それ御覧なさい。その位なら平素からもう少し大事にしてくれればよいのに。」と思われるのが無念である。そうかといって、「お前のいなくなるのを待っていたのだ。」と思わせるほど冷静な態度を取るのも、かえって腹の底を見すかされるような気がする。いずれともつかぬ曖昧《あいまい》な態度を取るに若《し》くはない。とそう考えたのは、鶴子の身になってもやはり同じことであった。あまり名残を惜しむような様子を見せて、無理に引留められても困るし、といって、あまり冷淡にして、それがため軽薄無情な女だと思込まれるのは元より好むところでない。夫婦は互《たがい》に顔色を窺《うかが》い、できるかぎり真実の事情には触れないようにして、平和に体《てい》よくこの場をすませてしまいたいと心掛けたのである。
 一週間ばかりの後、鶴子は夕方神戸急行の列車に乗った。始め進の友人間には送別会を催すようなはなしが起らないでもなかったが、鶴子は実家へ対して新聞などに自分の名の出るような事はなるべく避けたいからといって固く辞退したので、その夕東京駅まで見送りに行ったものは、良人の進と門生の村岡と、書生の野口という男の外には、鶴子の学友でいずれも相応のところへ嫁しているらしい婦人二、三人だけであった。実兄は窃《ひそか》に旅費を贈ってもいいといったほど好意を持っていたが、世間を憚《はばか》って見送りに行かず、世田ヶ谷の老人もまた頽齢《たいれい》をいいわけにして出て来なかった。
 列車が出発すると、進を始め男二人と婦人たちとは自然別々になってプラットフォームを降口の方へと歩みはじめたが、村岡一人はいつまでも帽子を片手に列車の行衛《ゆくえ》を見送ったまま立っている。進は見返りながら、
「おい。村岡。何をぼんやりしているのだ。」
「実にさびしい出発でしたな。」と村岡は既に人影のなくなったプラットフォームを見廻しながら初めて歩み出した。
「彼《あ》の女の生活もこれで第一篇の終を告げたのだ。」と進は吸いかけの巻煙草を線路の方へ投捨てた。
「でも、半年たてばお帰りになるんでしょう。」
「いずれ帰るだろう。しかし恐らく僕の家へは帰って来ないだろう。」
「先生。僕も実はそういう気がしたんです。一種の暗示ですね。」
「おい。村岡。君はどうして彼女のツバメにならなかったんだ。おれには能《よ》くわかっていた。彼女は君のような感傷的な比較的純情な青年を要求していたんだぜ。」
 村岡はまだ三十にはならない青年なので、顔を真赤にして、「先生。そんな冗談を。うそですよ。そんな事は。」
「ははははは。帰って来てからでも遅くはあるまい。」と進は始めて面白そうに笑った。
 改札口へ来かかると俄に混雑する人の往来《ゆきき》に、談話《はなし》もそのまま、三人は停車場《ていしゃば》の外へ出た。吹きすさむ梅雨晴の夜風は肌寒いほど冷《ひややか》である。
「おい。野口。まだ早いから活動でも見て帰るがいい。ここに招待券があるから。」と進は書生を遠ざけてから、村岡と連立って丸ビル下の往来《おうらい》をぶらぶら当てもなく歩いて行く。村岡は突然思出したように、
「先生。ドンフワンはあれッきりなんですか。」
「うむ。すこし考えていることもあるから。」
「どんな事です。」
「さア、別にまだはっきりした考もないんだがね。しかし君にはもう心配させないつもりだから、それだけは安心していたまえ。君はあんまり善人|過《すぎ》るから。」
「そうでしょうか。」
「どうかすると、まるで田舎の老人見たような事を言うからな。」
「それでも、僕には君江さんはそんなに憎むべき女だとは思われないんですよ。」
「君は傍観者だからさ。僕だってそれほど深く憎んでいるわけでもない。唯|癪《しゃく》にさわるんだ。復讐《ふくしゅう》だとか報復だとかいうほど深い意味じゃない。唯すこしいじめてやろうと思っているんだ。僕の考えている事をはなしたら、君はきっと残酷だとか人道にはずれているとか言うにちがいない。」
「どんな事です。」
「君を信用しないわけではないが、今話をするわけには行かない。」
「警察へ密告でもするというんですか。」
「ばかな。そんな事をしたって、あいつは何とも思やしない。拘留された所で二、三日たてば出て来る。女給でなくってもあいつのする事はまだ沢山ある。僕はあいつが何《なんに》もする事ができなくなるようにしてやりたいと思っているんだ。それもおれが自身に手を下さずに、自然に他の人が手を下すような、そういう機会をつくらせようと思っている。はははは。これは僕の空想だよ。イヤ、僕はこういう男の心理状態を小説にして見たいとこの間から苦心しているんだ。たしかバルザックの小説にあったはなしだと思う。欺《あざむ》かれた男が密夫《みっぷ》の隠れた戸棚を密閉して壁を塗って、その前で姦婦《かんぷ》と酒を飲むはなしがある。僕の空想したのは、……僕の書こうと思っているのは、女を裸体にして自動車から銀座通のような町の上に投《ほう》り出してやりたい。日比谷《ひびや》公園の木の上に縛りつけて置くのも面白い。昔は不義の男女を罰するために日本橋《にほんばし》の袂《たもと》に晒《さら》し者にして置いた。それと同じような事さ。どうだろう。今の読者には受けないか知ら。」
 村岡は進が真実小説の腹案を語るのやら、または戯《たわむれ》に自分をからかうのやら、あるいはまた小説に托して君江に対する報復の手段をそれとなく語るのやら、その区別がつかない。唯何となく薄気味がわるく、総毛立つような気がするばかり。やっと気を取直して、
「いいでしょう。甘ったるい場面にはもう飽《あ》きている時ですから。」
「女が恋人と寝ている処へ放火するのも面白いだろう。乱れた姿で外へ逃げ出すところを、火事場騒ぎにまぎれて女をつかまえ、どこか知らない処へつれて行って思うさま侮辱を与える……。」
「なるほど……。」
「まだ考えている事がある……。」
「先生。もう止《よ》してください。何だか変な心持になるから、もう止してください。」
「暴風《あらし》になりそうだな。今夜は。」
 空は真暗《まっくら》に曇って、今にも雨が降って来そうに思われながら、烈風に吹きちぎられた乱雲の間から星影が見えてはまた隠れてしまう。路傍の新樹は風にもまれ、軟《やわらか》なその若葉は吹き裂《さか》れて路《みち》の面《おもて》に散乱している。唯さえ夜になれば人通りの絶がちな丸の内の道路は、この風とこの闇《やみ》とに一際《ひときわ》物寂しく、屹立《きつりつ》する建物の間の小路から突然|追剥《おいはぎ》でも出て来はせぬかと思われるような気がする。
「帝劇の女優が楽屋から帰り道に、車から引ずりおろされて脚を斬《き》られたことがあった。犯人はわからずじまいだ。」
「そうですか。そんな事があったんですか。」
「寝ている中に黴菌《ばいきん》をなすりつけられて盲目になった芸者もある。君江のような女は最後にはきっとそういう目に遇《あ》うだろう……。」
 突然進がアッと叫んだので、村岡はびっくりして寄添うと、横合から吹つける風に、進は高価なパナマ帽子を奪い去られたのであった。
 知らず知らず日々《にちにち》新聞社の近くまで歩いて来たので、二人はやや疲れたままその辺の小さなカッフェーに小憩《こやす》みして、進はウイスキー村岡はビール一杯を傾け、足の向くまま銀座通へ出た。村岡は別れて帰ろうとするのを清岡は無理に引留め、今夜は顔を見知られていない裏通のカッフェーを観察しようと言出して、つづけざまに五、六軒飲みあるいた。どの店へ入っても四、五|盃《はい》ずつウイスキーばかり飲みつづけるので、いつも強酒の清岡も今夜は足元が大分危くなった。それにもかまわずまたしても通りすがりのカッフェーへ這入《はい》ろうとするので、村岡は清岡が羽織の袖《そで》を捉《とら》えながら、
「先生。もう止しましょう。カッフェーよりか、どこか外の処へつれて行って下さい。僕はもうくたびれてしまいました。」
「一体何時だ。」
「もう十二時です。」
「もうそんな時間か。」
「だから、もうカッフェーはつまりません。」と村岡はとにかく酔って清岡がこの辺を徘徊《はいかい》している事を危険に思い、それよりもどこぞの待合へでも上った方がまだしも安全だと考えて、「先生。もっとゆっくりした処で静に飲み直しましょうよ。」
「うむ。君もなかなか話せるようになった。何処《どこ》でもいい。好きなところへ連れて行け。」
「じゃ、先生、車に乗りましょう。」と村岡は早速清岡の袖を引張って、土橋《どばし》へ通ずる西銀座の新道路へ出ようとした。
「待て待て。」と清岡は真暗な建物の壁に向って立小便をしはじめたので、村岡は少し離れて曲角《まがりかど》に立留った時、女給らしい女が三人つれ立って、摺《す》れちがいに通りかかったのをふと見ると、その中の一人はドンフワンの君江である。君江の方でも村岡の顔を見て、アラとかオヤとか言ったらしかったが、その声はまだ吹きやまぬ烈風に吹き去られて聞えなかった。村岡は咄嗟《とっさ》の間に、先刻《さっき》丸の内を歩きながら清岡が言った事を思出し、何とも知れぬ恐怖を感じて、首と手を振って早く行けと知らせた。いつになく乱酔した清岡が、人通《ひとどおり》のないこの裏通の角で突然君江の姿を見たら、何をしだすか知れない。新聞紙を賑《にぎわ》すような騒ぎを引起しては大変だと心配したのである。
 君江は村岡の心を察したのか、どうか分らぬが、そのまま通り過ぎて、三人|連《づれ》で向側の蕎麦屋《そばや》へ這入《はい》りかけた時、丁度長小便をし終った清岡はひょろひょろと歩み出で、向《むこう》を眺めながら、「どこの女給だ。おれが行っておごってやろう。」
 村岡は驚いて袖にすがり、「およしなさい。変な男がついているようです。」
「かまうものか。おごってやるんだ。」
「先生。およしなさい。」と村岡は力のかぎり抱き留めながら、通り過《すぎ》る円タクを呼留めた。この騒ぎに気がつかずにいたが、風に交っていつの間にやら霧雨が降り出していたと見え、村岡は車に乗ってから窓の硝子《ガラス》の濡《ぬ》れているのに心づいた。

       *     *     *     *

 蕎麦屋を出てから自動車に乗ったのは瑠璃子、春代、君江の三人であった。瑠璃子が赤阪|一《ひと》ツ木《ぎ》で先に降り、次に春代が四谷《よつや》左門町《さもんちょう》で降りると、運転手は予《あらかじ》め行先を教えられているので、塩町《しおちょう》の電車通から曲って津《つ》の守阪《かみざか》を降りかけた。小雨のふり出した深夜のことで人通はない。君江は酔っているので、一人になると急に眠くなって覚えず瞼《まぶた》を合せたかと思うと、突然君子さんと呼ぶ男の声。びっくりして気がつくと自分を呼んだのは見も知らぬ運転手である。いやな奴《やつ》だと思いながら、大方女給同士の話から聞知って冗談を言うのだろうと、気にも留めず、「もう本村町《ほんむらちょう》なの。」
 運転手はゆるゆる車を進めながら、「初めから君子さんにちがいないと思っていたんですよ。忘れましたか。諏訪町《すわちょう》の加藤さんで二、三度お逢《あ》いしました。」と鳥打帽《とりうちぼう》をとり振返って顔を見せた。
 諏訪町の加藤というのは今富士見町に出ている京葉の事なので、君江はそこで知っているというからには二度や三度出たお客にちがいないと思いながら、その顔はとうに忘れ果てて思い出せない。日頃君江はカッフェーの人中《ひとなか》で、もしその時分のお客と顔を見合せた場合、自分の取るべき態度については予め考えていないことはなかった。しかし東京はさすがに広いもので、半年近くも稼ぎ廻っていたにもかかわらず、銀座のカッフェーへ出てから今日まで一人もその時分のお客には出逢わなかったので、月日と共に一時の用心もおのずから忽《ゆるが》せになった時、今夜突然、自分の乗っている車の運転手から呼び掛けられ、君江はさすがにびっくりはしたものの、知らぬ顔で押通すに若《し》くはないと思定め、
「人ちがいでしょう。知らないわ。わたし。」
「君子さんの方じゃ、お忘れになるのも無理はありませんよ。円タクの運転手にまでなり下ってる始末だから。しかし君子さん女給になったからって、何もそうお高くとまるには及ばないでしょう。女給も高等も内実においては変りはないんでしょう。」
「下《おろ》してよ。ここでいいから。」
「雨が降っています。お宅まで是非送らせて下さいな。」
「いいのよ。迷惑よ。」
「君子さん。あの時分は十円だったね。」
「下せっていうのに、何故下さないんだよ。男が怖くって夜道が歩けるかい。馬鹿ッ。」
 君江の威勢に運転手は暴力を出しても駄目だと思ったのか、そのままおとなしく車を駐《と》めると、折からざっと吹ッ掛けて来た驟雨《しゅうう》に傘の用意のないのを、さも好《い》い気味だといわぬばかり。手を伸《のば》して内から戸を明け、
「ここでいいなら。お下りなさい。」
「一円ここへ置きますよ。」と君江は五拾銭銀貨二枚を腰掛の上に投出して、戸口から降りようとするその片脚が、地につくかつかぬ瞬間を窺《うかが》い、運転手は突然急速力で車を進めたので、君江はアッと一声。でんぐり返しを打って雨の中に投げ出された。
「ざまア見ろ。淫売《いんばい》め。」と冷罵《れいば》した運転手の声も驟雨の音に打消され、車は忽《たちま》ち行衛《ゆくえ》をくらましてしまった。
 君江は気がついて泥《どろ》の中に起直って、あたりを見ると、投出された場所は津の守阪下から阪町下の巡査派出所へ来る間の真暗な道だと思いの外、まるで方角のわからない屋敷町の塀外《へいそと》であった。自動車も通らなければ無論人影もない。足を曳摺《ひきず》りながら、石の門柱についている灯《あかり》の下に歩み寄り、塀外へ枝を伸した椎《しい》の葉かげをせめての雨やどりに、君江はまず泥と雨とに濡《ぬ》れくずれた髪の毛を束ね直そうと、額を撫《な》でながらその手を見ると、べったり血がついている。君江は顔の血に心づくと俄《にわか》に胸がどきどき鳴出して、髪や着物にかまっている気力は失せ、声を出して救いを呼ぼうとしたのをわずかに我慢して、唯《ただ》一心に医者か薬屋かを目当に雨の中を馳《か》け出した。

 市《いち》ヶ|谷《や》合羽阪《かっぱざか》を上った薬王寺前町《やくおうじまえちょう》の通に開業している医者が、応急の手当をしてくれた上に、自動車まで頼んでくれたので、君江は雨の夜もいつか明《あかる》くなりかけた頃、本村町《ほんむらちょう》の貸間へ帰って来た。顔と手足との疵《きず》はさほどの事もなかったが、長い間着のみ着のままぐっすり雨に濡《ぬ》れていたので、夜明から体温は次第に昇って摂氏《せっし》四十度を越え、夕方になっても一向下りそうもない容態に、医者は窒扶斯《チブス》か、肺炎でも起さなければよいがと、貸間の老婆にも注意して行ったが、幸《さいわい》にしてそれほどの事もなく、三日目には入院の沙汰《さた》も止み、一週間目には布団《ふとん》の上に起き直ってもいいようになった。
 君江は事実を知らせると、大勢見舞いに来るのが煩《うる》さいのみならず、強姦《ごうかん》の噂《うわさ》が立たないとも限らないと思って、カッフェーへは唯《ただ》風邪《かぜ》をひいたことにして置いたのである。八日目の午後になって、春代が初めて見舞に来たが、その時には額の繃帯《ほうたい》は既に除かれていたので、疵の痕《あと》はその晩|路地《ろじ》で転んだことにいいまぎらしてしまった。次の日には瑠璃子が来たが、これも風邪の重いのに罹《かか》ったのだとばかり思い込んで帰った。体温は既に平生に復し食慾もついて来たが、腰や手足の打身《うちみ》はまだ直らず、梯子段《はしごだん》の上り下りにもどうかすると痛みを覚えるくらいである。間貸の婆《ばば》は市ヶ谷|見附《みつけ》内の何とやらいう薬湯《やくとう》がいいというので、君江はその日の暮方始めて教えられた風呂屋《ふろや》へ行き、翌日はとにかく少し無理をしても髪を結《ゆ》おうと思いさだめた。
 湯から帰って来ると、郵便が届いている。状袋には署名がないが、読んで行く中に清岡の門人村岡の手紙である事がわかった。
[#2字下げ]「私は直接あなたに手紙を上げていいかどうかを一度考えた後にこの手紙を書きました。何故《なぜ》なれば、先生がこれを知ったなら、先生と私との今までの関係は必《かならず》断滅するだろうと思ったからです。私はしかしながらあなたが十分に秘密を守って下さるだけの好意を私のために持っていられる事を信じて、そして私はこの手紙をかきました。あなたは御存じかどうか知りませんが、先生の令夫人は突然先月の末に或《ある》外国の婦人と一緒に日本を去られました。先生はこの別離については何らの感激をも催さないように粧《よそお》っておられますが、しかし現われたる事実が凡《すべ》てを打消しています。その後十日ばかりの間における先生の生活は飲酒と放蕩《ほうとう》とのために俄《にわか》にすさんで行きかけています。この場合、現在とそして将来における先生の生涯を慰める力のあるものは、君江さん、あなたの愛より外にはないものと私は信じています。尤《もっと》も先生はあなたの名をさえ今では私たちの前では発音することを避けていられます。避けていられるだけ、それだけ、私は先生の心の底にあなたの事がまだ真実|消去《きえさ》らずにいるものと推察するのです。先生は令夫人を失った原因をあるいはあなた一人の上に塗りつけようとしているのではないかと疑われることがある位です。私は去年からの凡ての秘密をあなたに打明けなければなりません。私はあなたに向って、先生の心の底に去年から絶えず蠢《うごめ》いている報復の企《くわだて》をお知らせする事を敢《あえ》てするのは、あなたと先生との間を遠くさせるためではなくて、かえって先生がかくの如き残忍性を感じたほど、いかにあなたを愛しつつあるかを、私はあなたに向ってお知らせしたい誠実さからなのです。先生は二、三日中に丸円発行所主催の文芸講演会で講演をされるため仙台から青森の方面へ旅行されます。今年の夏はどこか東北の温泉場で避暑するといわれるので、私もこれを機会に、久しく郷里の地を踏みませんから、先生をお見送りしてから暫《しばら》く東京を去るつもりでいます。その前に一度お逢《あ》いしたいと思って、実は昨日一人でドンフワンへ行って見ました。そしてあなたが御病気で寝ておいでだという事を聞いたのです。私はむしろあなたがこの数日間病気のために外出されなかった事を祝福しなければなりますまい。私は唯それだけを言うに止めて置きます。その理由を明言する事を躊躇《ちゅうちょ》していると言ったら、あなたは直《ただち》に凡てをお察しなさるだろうと思います。それでは、今年の秋風が丈の高くなったコスモスの茎をゆり動《うごか》す頃まで、私は田舎に行っていましょう。夜の涼しさに銀座の賑《にぎわ》いが復活する時分、またお目にかかるのを楽しみにしていましょう。七月四日。」
 君江は手紙の日附を見て、初めて七月になったのに心づいたような気がした。それと共に、わずか十日とはたたぬ先夜の事がもう一月も二月も前のような気がして、それ以来長らく枕《まくら》についていたような心持もした。とにかく一年あまり毎日|通馴《かよいな》れたカッフェーへ行かない事だけでも、境遇が一変してしまったような心持がするのに、時節も丁度その日入梅があけて、空はからりと晴れ昼の中《うち》は涼風が吹き通っていたが夕方からぱったり歇《や》み、坐《すわ》っていても油汗が出るような蒸暑い夜になった。小家の建込んだ路地裏は昨日までの梅雨中の静けさとは変って、人の話声やら内職のミシンの響などが俄に騒々しく聞え始め、路地の外の裏通にもラジオを始め、何という事なくいろいろな物音がしている。君江はおばさんに呼ばれて下へ行き夕飯をすますと、洗髪《あらいがみ》のまま薄化粧もそこそこに路地を出た。家にいると毎晩のようにおばさんに話し込まれるのがうるさいのみならず、俄に真夏らしくなったあたりの様子に、唯何ともつかず散歩したくなったからである。出《で》しなに鏡台の曳出《ひきだ》しから蟇口《がまぐち》を取出す時、村岡の手紙が目に触れたまま一緒に帯の間に挿込《さしこ》んだ。半分から先は夕飯に呼ばれたのと夜になりかけた窓の薄暗さに拾い読みをしたばかりなので、君江はぶらぶら堀端《ほりばた》を歩みながら、どこか静な土手際《どてぎわ》で電燈の光の明《あかる》い処でもあったらもう一度読み直そうという気もしたのである。しかし電車と自動車の往復する堀端は、新見附《しんみつけ》の土手へ来るまでは手紙を読返す事のできるような処もなかった。行手に牛込《うしごめ》見附の貸ボートの灯《ひ》が見え、二、三人女学生風の女が見附の柵《さく》に腰をかけて涼んでいたので、君江は蔦《つた》の葉つなぎの浴衣《ゆかた》のさして目にたたぬを好い事に、少し離れた処に佇立《たたず》んで、束ねた洗髪を風に吹かせながら、街燈の光に手紙を開いて見た。君江には手紙の文体が学生の艶書《えんしょ》と同じように気障《きざ》にも思われるし、また翻訳小説でも読むようにまわりくどくて、どうやら気味のわるい気はしながらも、事実と文飾との境がはっきりしないのである。君江は手紙の意味を手短《てみじか》に言ってしまえば、清岡先生はわたしを二号同様にしていたために奥さんに逃げられたのだから、そのつもりでどうかしなければいけない。このまま知らない顔をしていれば、清岡先生はやけ半分、何か仕返しをしないとも限るまい。どうか、そういう事のないように気をつけてくれというような事になると考えた。そして随分|訳《わけ》のわからない無理な事を言う人だと腹立しい心持になった。
 君江は暫《しばら》くしてこの手紙は村岡の心から出たものではなく、内々清岡さんに言われて書いたものではないかと、気がついて見ると、あの晩西銀座の蕎麦屋《そばや》へ這入《はい》りがけ、意外な処で村岡に出逢《であ》った時の様子から思合せて、自分が車から突落されたのも、事によると清岡さんの教唆《きょうさ》から起った事かも知れない。君江は突然襟首に寒さを覚えるような恐怖と共に、ナニ、先が先ならこっちもこっちで負けているものか。どうでも勝手にするがいいというような心持になった。
 あまりいつまでも同じところに立ってもいられないので、君江は考え考え見附を越えると、公園になっている四番町の土手際に出たまま、電燈の下のベンチを見付けて腰をかけた。いつもその辺の夜学校から出て来て通り過《すぎ》る女にからかう学生もいないのは、大方《おおかた》日曜日か何かの故であろう。金網の垣を張った土手の真下と、水を隔てた堀端の道とには電車が絶えず往復しているが、その響の途絶える折々、暗い水面から貸ボートの静な櫂《かい》の音に雑《まじ》って若い女の声が聞える。君江は毎年夏になって、貸ボートが夜ごとに賑《にぎや》かになるのを見ると、いつもきまって、京子の囲われていた小石川《こいしかわ》の家へ同居した当時の事を憶《おも》い出す。京子と二人で、岸の灯《あかり》のとどかない水の真中までボートを漕《こ》ぎ出し、男ばかり乗っているボートにわざと突当って、それを手がかりに誘惑して見た事も幾度だか知れなかった。それから今日まで三、四年の間、誰にも語ることのできない淫恣《いんし》な生涯の種々様々なる活劇は、丁度現在目の前に横《よこたわ》っている飯田橋《いいだばし》から市ヶ谷見附に至る堀端一帯の眺望をいつもその背景にして進展していた。と思うと、何というわけもなくこの芝居の序幕も、どうやら自然と終りに近づいて来たような気がして来る……。
 火取虫《ひとりむし》が礫《つぶて》のように顔を掠《かす》めて飛去ったのに驚かされて、空想から覚めると、君江は牛込から小石川へかけて眼前に見渡す眺望が急に何というわけもなく懐しくなった。いつ見納《みおさ》めになっても名残惜しい気がしないように、そして永く記憶から消失《きえう》せないように、能《よ》く見覚えて置きたいような心持になり、ベンチから立上って金網を張った垣際へ進寄《すすみよ》ろうとした。その時、影のようにふらふらと樹蔭《こかげ》から現れ出た男に危《あやう》く突き当ろうとして、互に身を避けながらふと顔を見合せ、
「や、君子さん。」
「おじさん。どうなすって。」と二人ともびっくりしてそのまま立止った。おじさんというのは牛込芸者の京子を身受して牛天神下《うしてんじんした》に囲《かこ》っていた旦那《だんな》の事である。君江は親の家を去って京子の許に身を寄せた時分、絶えず遊びに来る芸者たちがおじさんおじさんというのをまねて、同じようにおじさんと呼んでいた。本名は川島金之助といって或《ある》会社の株式係をしていたが遣《つか》い込みの悪事が露《あら》われて懲役に行ったのである。その時分は結城《ゆうき》ずくめの凝《こ》った身なりに芸人らしく見えた事もあったのが、今は帽子もかぶらず、洗ざらした手拭地《てぬぐいじ》の浴衣《ゆかた》に兵児帯《へこおび》をしめ素足に安下駄をはいた様子。どうやら出獄してまだ間がないらしいようにも思われた。
 川島は手拭浴衣の襟を寒そうに引合せ、「このざまじゃア、どうもこうもあったものじゃない。むかしはむかし今は今だ。」と取って付けたように笑いながらも、絶えずそれとなく四辺《あたり》に気を配っているらしく、何とつかずそわそわしている。年はその時分既に四十五、六になっていたが、白髪もさして目につかず、中肉|中丈《ちゅうぜい》の後姿《うしろすがた》は、若い妾《めかけ》とつれ立って散歩に出かける時などは、随分様子のいい血気盛の男に見まがうほどであったが、今見れば、妙に黄ばんだ顔一面、えぐったような深い皺《しわ》ができ、蓬々《ほうほう》とした髪の毛の白くなったさまは灰か砂でも浴びたように爺《じじ》むさく、以前ぱっちりしていただけ、落窪《おちくぼ》んだ眼は薄気味のわるいほどぎょろりとして、何か物でも見詰めるように輝いている。
「その時分はいろいろ御世話《おせわ》になりまして。」と君江は挨拶《あいさつ》にこまって、思出したように礼を述べた。
「やっぱりこの辺にいるのかい。」
「市ヶ谷の本村町におります。」
「そう。じゃ、またその中、どこかで逢《あ》うだろう。」とそのまま行きかけるので、君江は住処だけでも聞いて置きたいと思って、二歩三歩《ふたあしみあし》一緒に歩きながら、
「おじさん。京子さんにお逢いになって。わたしその後はしばらく逢いません。」と鎌を掛けて見た。
「そうか。富士見町に出ているそうじゃないか。噂《うわさ》はきいているけれど、このざまじゃア行ったところで、寄せつけまいから、いっそ逢わない方がいい。」
「あら、そんな事はありませんわ。逢ってお上げなさいましよ。」
「君子さんの方はその後どうしているんだね。定めし好きな人ができて一緒に暮しているんだろう。」
「いいえ。おじさん。相変らずなのよ。とうとう女給になってしまったのよ。病気でこの一週間ばかり休んでいますけれど。」
「そうか。女給さんか。」
 話しながら歩いて行く中《うち》、川島は木蔭《こかげ》のベンチには若い男女の寄添っている他《ほか》には、人通りといっても大抵それと同じような学生らしいものばかりなので、いくらか安心したらしく、自分から先に有合うベンチに腰をおろし、「いろいろききたい事もあるんだ。君子さんの顔を見ると、やっぱりいろいろな事を思出すよ。むかしの事はさっぱり忘れてしまうつもりでいたんだが……。」
「おじさん。わたしも今から考えて見ると、諏訪町で御厄介になっていた時分が一番面白かったんですわ。さっきも一人でそんな事を考出して、ぼんやりしていましたの。今夜はほんとに不思議な晩だわ。あの時分の事を思い出して、ぼんやり小石川の方を眺めている最中、おじさんに逢うなんて、ほんとに不思議だわ。」
「なるほど小石川の方がよく見えるな。」と川島も堀外の眺望に心づいて同じように向を眺め、「あすこの、明《あかる》いところが神楽阪《かぐらざか》だな。そうすると、あすこが安藤阪《あんどうざか》で、樹《き》の茂ったところが牛天神になるわけだな。おれもあの時分には随分したい放題な真似《まね》をしたもんだな。しかし人間一生涯の中に一度でも面白いと思う事があればそれで生れたかいがあるんだ。時節が来たら諦《あきら》めをつけなくっちゃいけない。」
「ほんとうね。だから、わたしも実は田舎の家へ帰ろうかと思っていますの。女給をしていても、それは別にかまわないんですけれど、つまらない事から悪く思われたり恨まれたりするのがいやですし、それにいつどんな目に遇《あ》わされるか知れないと思うと、何となくおそろしい気がしますから……。おじさん、わたし十日ばかり前に自動車からつき落されて怪我をしたんですよ。まだ、痕《あと》がついているでしょう。ね。それから腕にも痕が残っています。」と浴衣の袖《そで》をまくり上げて見せた。
「かわいそうに。ひどい目に逢ったな。恋の意恨《いこん》か。」
「おじさん。男っていうものは女よりもよほど執念深いものね。わたし今度始めてそう思いましたわ。」
「思込むと、男でも女でも同じ事さ。」
「じゃ、おじさんもそんな事を考えた事があって。先《せん》に遊んでいる時分……。」
 突然土手の下から汽車の響と共に石炭の烟《けむり》が向の見えないほど舞上って来るのに、君江は川島の返事を聞く間もなく袂《たもと》に顔を蔽《おお》いながら立上った。川島もつづいて立上り、
「そろそろ出掛けよう。差閊《さしつかえ》がなければ番地だけでも教えて置いてもらおうかね。」
「市ヶ谷本村町丸◯番地、亀崎ちか方ですわ。いつでも正午《おひる》時分、一時頃までなら家にいます。おじさんは今どちら。」
「おれか、おれはまア……その中きまったら知らせよう。」
 公園の小径《こみち》は一筋《ひとすじ》しかないので、すぐさま新見附へ出て知らず知らず堀端の電車通へ来た。君江は市ヶ谷までは停留場一ツの道程《みちのり》なので、川島が電車に乗るのを見送ってから、ぶらぶら歩いて帰ろうとそのまま停留場に立留っていると、川島はどっちの方角へ行こうとするのやら、二、三度電車が停《とま》っても一向乗ろうとする様子もない。話も途絶えたまま、またもや並んで歩むともなく歩みを運ぶと、一歩一歩《ひとあしひとあし》市ヶ谷見附が近くなって来る。
「おじさん。もうすぐそこだから、ちょっと寄っていらっしゃいよ。」と言った。君江はもし田舎へでも帰るようになれば、いつまた逢うかわからない人だと思うので、何となく心|淋《さび》しい気もするし、またあの時分いろいろ世話になった返礼に、出来ることならむかしの話でもして慰めて上げたいような気もしたのである。
「さしつかえは無いのか。」
「いやなおじさんねえ。大丈夫よ。」
「間借をしているんだろう。」
「ええ。わたし一人きり二階を借りているんですの。下のおばさんも一人きりですから、誰にも遠慮は入りません。」
「それじゃちょっとお邪魔をして行こうかね。」
「ええ。寄っていらっしゃいよ。おばさんは誰か男の人が来ると、何でもない人でも、いやに気をきかして、すぐ外へ行ってしまうんですよ。あんまり気が早いんで気まりのわるい事がある位ですわ。」
 君江は堀端から横町へ曲る時、折好く酒屋の若いものが路端《みちばた》に涼んでいたのを見て、麦酒《ビール》三本と蟹《かに》の鑵詰とをいい付け、「おばさん。唯今。」といいながら川島を二階へ案内した。留守の中《うち》老婆が掃除をしたと見え、鏡台の鏡にも友褝《ゆうぜん》の片《きれ》が掛けられ、六畳の間《ま》にはもう夜具が敷きのべてあった。川島は障子際に突立ったまま内の様子を見てびっくりしたように目ばかり光らせているので、君江は何の事とも察しがつかず、「おばさんはまだ病気だと思っているのよ。今片づけますわ。」と押入の襖《ふすま》をあけて枕《まくら》をしまいかける。
 川島は始めて我に返ったらしく狼狽《うろた》えた調子で、「君子さん。かまわずに置いてくれ。お客様にされちゃアかえってこまる。」
「じゃ、このままにして置きましょう。御厄介になっている時分、着物一つ畳んだ事がないって能《よ》くお京さんに言われましたわね。だらしがないのはその時分から、おじさんも御承知なんですから。」と鏡台の前にあったメリンスの座布団《ざぶとん》を裏返しにして薦《すす》めた。
 おばさんが麦酒と蟹の鑵詰に漬物《つけもの》を添えて黙って梯子段《はしごだん》の上の板の間に置いて行く。その物音に君江は立って座敷へ持運び、「おじさん。お肴《さかな》なら何でも御馳走しますわ。表の家が肴屋ですから窓から呼べば何でも持って来ます。」
 川島は君江のついだビールを一息にコップ一杯飲干したまま、何ともいわず、明放《あけはな》した窓から見える外の方へ気をくばっている様子に、君江は一度懲役に行くとこうまで世間へ気をかねるようになるものかと、気がついて見ればいよいよ気の毒になって、
「わたし、今日起きたせいだか、暑いくせに何だか風が寒いような気がするのよ。」とその実蒸暑くてならないのに、窓の障子を半ばしめてしまった。
 川島は二杯目のビールに忽《たちま》ち目の縁《ふち》を赤くして、「世の中は何といってもやっぱり酒と女だな。おれももう一度奮発して働いて見ようかと思うんだが、ひびたけの入った身体じゃどうする事もできない。君子さんなんかはこれからだ。これから先ほんとうに世の中の味がわかって来るんだよ。田舎へ帰るなんて、先刻《さっき》そう言っていたけれど、半月といられるものか。おれ見たようになっても、赤い布団を見たり、一杯飲んでぽうッとすると、やっぱりむらむらとして来るからな。」
「おじさん。もうすっかり堅くなっておしまいなのね。」
 君江は川島が出獄して後現在どうしているのかきいて見たいと思いながら、あけすけには問いかねて遠廻しにこう言って見たのである。川島は大分好い心持になったと見え、調子もいくらか元気づいて、「無い袖《そで》は振れないから一番いいのさ。娑婆《しゃば》へ出てから、乞食《こじき》も同然、お酒どころか飯も食えない事があったよ。倅《せがれ》が丈夫でいたらどうにか力になるんだがね。おれがあっちへ行っている中に肺炎で死んでしまうし、嚊《かかア》は娘と一緒に田舎へあずけてある始末だ。まだ四、五年たたなくっちゃ芸者に売る事もできないのさ。以前世話をした奴らに頼んだら、どうにかしてくれない事もなかろうが、それほど耻《はじ》を晒《さら》して歩く位なら一思《ひとおもい》に死んだ方がまだしもだよ。君子さん、今夜の事はあの世へ行っても……おじさんは忘れないでお礼を言うよ。」
「あら。おじさん。そんな事……。わたしの方がいくらお世話になったか知れませんわ。こうして一人でやって行けるようになったのも元はといえば、みんなおじさんのおかげじゃアありませんか。始め事務員になったのも、おじさんのおかげだし……。それから段々いろいろな事を覚えて……。方々の待合や何かの様子を覚えたのもやっぱりおじさんのおかげですわ。」
「はははは。今夜のビールはわるい事を教えてもらった御礼か。それなら、おじさんも遠慮せずに御馳走になろう。あの時分商売人の京子がびっくりしたくらいだからな。今はたいしたもんだろう。」
「割合にそうでもない事よ。あの時分会社の方《かた》には随分おちかづきになったわねえ。みんなどうなすってしまったんでしょう。カッフェーでもお見かけした事がありません。」
「そうか。みんな相応に年をとっていたからな。それにあの会社もつぶれてしまったから、窮《こま》っているのはおればかりでもないんだろう。」
「おじさんなんか。まだまだそんなに老込《おいこ》む年じゃないわ。六十になっても、いやになるほど元気な人があってよ。」と君江はその実例に松崎博士の事を語ろうとしてそのまま黙ってしまった。
「遊びも癖になるとつい止《や》められなくなるもんだ。」
「おじさんなんかも、以前が以前だから、また直《じき》に癖がついてよ。」
 十日ばかり君江も酒を断っていた後なので、話をしている中に忽《たちま》ち取寄せた三本のビールを空《から》にしてしまった。
「商売だけあって凄《すご》くなったな。あすこにあるのはウイスキイじゃないか。」
「アラ。病気や何かで、すっかり忘れていたわ。」と君江は棚の上に載せたままにして置いた角壜《かくびん》の火酒を取りおろして湯呑《ゆのみ》につぎ、「グラスがないからこれで我慢して下さい。」
「おれはもういけない。」
「じゃア、ビールか日本酒を貰《もら》いましょう。」
「もう何にもいらない。久振りで飲むとカラ意久地《いくじ》がない。帰れなくなると大変だ。」
「お帰りになれなかったら、そこへお休みなさい。かまいません。」と君江は湯呑半分ほどのウイスキイを一口に飲干《のみほ》す。
「女給さんの手並みはなるほど見事だ。」
「日本酒よりかえっていいのよ。後で頭が痛くならないから。」と咽喉《のど》の焼けるのを潤《うるお》すために、飲残りのビールをまた一杯干して、大きく息《いき》をしながら顔の上に乱れかかる洗髪をさもじれったそうに後へとさばく様子。川島はわずか二年見ぬ間に変れば変るものだと思うと、じっと見詰めた目をそむける暇がない。その時分にはいくら淫奔《いんぽん》だといってもまだ肩や腰のあたりのどこやらに生娘《きむすめ》らしい様子が残っていたのが、今では頬《ほお》から頤《おとがい》へかけて面長《おもなが》の横顔がすっかり垢抜《あかぬ》けして、肩と頸筋《くびすじ》とはかえってその時分より弱々しく、しなやかに見えながら、開けた浴衣の胸から坐った腿《もも》のあたりの肉づきはあくまで豊艶《ゆたか》になって、全身の姿の何処ということなく、正業の女には見られない妖冶《ようや》な趣が目につくようになった。この趣は譬《たと》えば茶の湯の師匠には平生の挙動にもおのずから常人と異ったところが見え、剣客《けんかく》の身体には如何《いか》にくつろいでいる時にも隙《すき》がないのと同じようなものであろう。女の方では別に誘う気がなくても、男の心がおのずと乱れて誘い出されて来るのである。
「おじさん。わたしも今ので少し酔って来ましたわ。」と君江は横坐りに膝《ひざ》を崩して窓の敷居に片肱《かたひじ》をつき、その手の上に頬を支えて顔を後に、洗髪を窓外の風に吹かせた。その姿を此方《こなた》から眺めると、既に十分酔の廻っている川島の眼には、どうやら枕の上から畳の方へと女の髪の乱れくずれる時のさまがちらついて来る。
 君江は半《なかば》眼《め》をつぶってサムライ日本何とやらと、鼻唄《はなうた》をうたうのを、川島はじっと聞き入りながら、突然何か決心したらしく、手酌《てじゃ
く》で一杯、ぐっとウイスキーを飲み干した。

       *     *     *     *

 何やら夢を見ているような気がしていたが、君江はふと目をさますと、暑いせいかその身は肌着一枚になって夜具の上に寐ていた。ビールやウイスキーの壜《びん》はそのまま取りちらされているが、二階には誰もいない。裏隣《うらどなり》の時計が十一時か十二時かを打続けている。ふと見ると枕《まくら》もとに書簡箋《しょかんせん》が一枚二ツ折にしてある。鏡台の曳出《ひきだ》しに入れてある自分の用箋らしいので、横になったままひろげて見ると、川島の書いたもので、
[#2字下げ]「何事も申上げる暇がありません。今夜僕は死場所を見付けようと歩いている途中、偶然あなたに出逢《であ》いました。そして一時全く絶望したむかしの楽しみを繰返す事が出来ました。これでもうこの世に何一つ思置く事はありません。あなたが京子に逢ってこのはなしをする間には僕はもうこの世の人ではないでしょう。くれぐれもあなたの深切《しんせつ》を嬉しいと思います。私は実際の事を白状すると、その瞬間何も知らないあなたをも一緒にあの世へ連れて行きたい気がした位です。男の執念はおそろしいものだと自分ながらゾッとしました。ではさようなら。私はこの世の御礼にあの世からあなたの身辺を護衛します。そして将来の幸福を祈ります。KKより。」
 君江は飛起きながら「おばさんおばさん。」と夢中で呼びつづけた。

昭和六年|辛未《かのとひつじ》三月九日病中起筆至五月念二夜半纔脱初稿荷風散人

底本:「つゆのあとさき」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年3月16日改版第1刷
   2010(平成22)年4月26日第28刷
底本の親本:「荷風全集 第八巻」岩波書店
   1963(昭和38)年12月
入力:米田
校正:門田裕志
2012年3月28日作成
2012年9月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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永井荷風

すみだ川—–永井荷風

 俳諧師《はいかいし》松風庵蘿月《しょうふうあんらげつ》は今戸《いまど》で常磐津《ときわず》の師匠《ししょう》をしている実《じつ》の妹をば今年は盂蘭盆《うらぼん》にもたずねずにしまったので毎日その事のみ気にしている。しかし日盛《ひざか》りの暑さにはさすがに家《うち》を出かねて夕方になるのを待つ。夕方になると竹垣に朝顔のからんだ勝手口で行水《ぎょうずい》をつかった後《のち》そのまま真裸体《まっぱだか》で晩酌を傾けやっとの事|膳《ぜん》を離れると、夏の黄昏《たそがれ》も家々で焚《た》く蚊遣《かやり》の烟《けむり》と共にいつか夜となり、盆栽《ぼんさい》を並べた窓の外の往来には簾越《すだれご》しに下駄《げた》の音|職人《しょくにん》の鼻唄《はなうた》人の話声がにぎやかに聞え出す。蘿月は女房のお滝《たき》に注意されてすぐにも今戸へ行くつもりで格子戸《こうしど》を出るのであるが、その辺《へん》の涼台《すずみだい》から声をかけられるがまま腰を下《おろ》すと、一杯機嫌《いっぱいきげん》の話好《はなしずき》に、毎晩きまって埒《らち》もなく話し込んでしまうのであった。
 朝夕がいくらか涼しく楽になったかと思うと共に大変日が短くなって来た。朝顔の花が日ごとに小さくなり、西日が燃える焔のように狭い家中《いえじゅう》へ差込んで来る時分《じぶん》になると鳴きしきる蝉《せみ》の声が一際《ひときわ》耳立《みみだ》って急《せわ》しく聞える。八月もいつか半《なかば》過ぎてしまったのである。家の後《うしろ》の玉蜀黍《とうもろこし》の畠に吹き渡る風の響《ひびき》が夜なぞは折々《おりおり》雨かと誤《あやま》たれた。蘿月は若い時分したい放題身を持崩《もちくず》した道楽の名残《なごり》とて時候の変目《かわりめ》といえば今だに骨の節々《ふしぶし》が痛むので、いつも人より先に秋の立つのを知るのである。秋になったと思うと唯《ただ》わけもなく気がせわしくなる。
 蘿月は俄《にわか》に狼狽《うろた》え出し、八日頃《ようかごろ》の夕月がまだ真白《ましろ》く夕焼の空にかかっている頃から小梅瓦町《こうめかわらまち》の住居《すまい》を後《あと》にテクテク今戸をさして歩いて行った。
 堀割《ほりわり》づたいに曳舟通《ひきふねどおり》から直《す》ぐさま左へまがると、土地のものでなければ行先《ゆくさき》の分らないほど迂回《うかい》した小径《こみち》が三囲稲荷《みめぐりいなり》の横手を巡《めぐ》って土手へと通じている。小径に沿うては田圃《たんぼ》を埋立《うめた》てた空地《あきち》に、新しい貸長屋《かしながや》がまだ空家《あきや》のままに立並《たちなら》んだ処もある。広々した構えの外には大きな庭石を据並《すえなら》べた植木屋もあれば、いかにも田舎《いなか》らしい茅葺《かやぶき》の人家のまばらに立ちつづいている処もある。それらの家《うち》の竹垣の間からは夕月に行水《ぎょうずい》をつかっている女の姿の見える事もあった。蘿月|宗匠《そうしょう》はいくら年をとっても昔の気質《かたぎ》は変らないので見て見ぬように窃《そっ》と立止るが、大概はぞっとしない女房ばかりなので、落胆《らくたん》したようにそのまま歩調《あゆみ》を早める。そして売地や貸家の札《ふだ》を見て過《すぎ》る度々《たびたび》、何《なん》ともつかずその胸算用《むなざんよう》をしながら自分も懐手《ふところで》で大儲《おおもうけ》がして見たいと思う。しかしまた田圃づたいに歩いて行く中水田《うちみずた》のところどころに蓮《はす》の花の見事に咲き乱れたさまを眺め青々した稲の葉に夕風のそよぐ響をきけば、さすがは宗匠だけに、銭勘定《ぜにかんじょう》の事よりも記憶に散在している古人の句をば実に巧《うま》いものだと思返《おもいかえ》すのであった。
 土手へ上《あが》った時には葉桜のかげは早《は》や小暗《おぐら》く水を隔てた人家には灯《ひ》が見えた。吹きはらう河風《かわかぜ》に桜の病葉《わくらば》がはらはら散る。蘿月は休まず歩きつづけた暑さにほっと息をつき、ひろげた胸をば扇子《せんす》であおいだが、まだ店をしまわずにいる休茶屋《やすみぢゃや》を見付けて慌忙《あわて》て立寄り、「おかみさん、冷《ひや》で一杯。」と腰を下《おろ》した。正面に待乳山《まつちやま》を見渡す隅田川《すみだがわ》には夕風を孕《はら》んだ帆かけ船が頻《しき》りに動いて行く。水の面《おもて》の黄昏《たそが》れるにつれて鴎《かもめ》の羽の色が際立《きわだ》って白く見える。宗匠はこの景色を見ると時候はちがうけれど酒なくて何の己《おの》れが桜かなと急に一杯傾けたくなったのである。
 休茶屋の女房《にょうぼ》が縁《ふち》の厚い底の上ったコップについで出す冷酒《ひやざけ》を、蘿月はぐいと飲干《のみほ》してそのまま竹屋《たけや》の渡船《わたしぶね》に乗った。丁度河の中ほどへ来た頃から舟のゆれるにつれて冷酒がおいおいにきいて来る。葉桜の上に輝きそめた夕月の光がいかにも涼しい。滑《なめらか》な満潮の水は「お前どこ行く」と流行唄《はやりうた》にもあるようにいかにも投遣《なげや》った風《ふう》に心持よく流れている。宗匠は目をつぶって独《ひとり》で鼻唄をうたった。
 向河岸《むこうがし》へつくと急に思出して近所の菓子屋を探して土産《みやげ》を買い今戸橋《いまどばし》を渡って真直《まっすぐ》な道をば自分ばかりは足許《あしもと》のたしかなつもりで、実は大分ふらふらしながら歩いて行った。
 そこ此処《ここ》に二、三軒|今戸焼《いまどやき》を売る店にわずかな特徴を見るばかり、何処《いずこ》の場末にもよくあるような低い人家つづきの横町《よこちょう》である。人家の軒下や路地口《ろじぐち》には話しながら涼んでいる人の浴衣《ゆかた》が薄暗い軒燈《けんとう》の光に際立《きわだ》って白く見えながら、あたりは一体にひっそりして何処《どこ》かで犬の吠《ほ》える声と赤児《あかご》のなく声が聞える。天《あま》の川《がわ》の澄渡《すみわた》った空に繁《しげ》った木立を聳《そびや》かしている今戸八幡《いまどはちまん》の前まで来ると、蘿月は間《ま》もなく並んだ軒燈の間に常磐津文字豊《ときわずもじとよ》と勘亭流《かんていりゅう》で書いた妹の家の灯《ひ》を認めた。家の前の往来には人が二、三人も立止って内《なか》なる稽古《けいこ》の浄瑠璃《じょうるり》を聞いていた。

 折々恐しい音して鼠《ねずみ》の走る天井からホヤの曇った六分心《ろくぶしん》のランプがところどころ宝丹《ほうたん》の広告や『都新聞《みやこしんぶん》』の新年附録の美人画なぞで破《やぶ》れ目《め》をかくした襖《ふすま》を始め、飴色《あめいろ》に古びた箪笥《たんす》、雨漏《あまもり》のあとのある古びた壁なぞ、八畳の座敷一体をいかにも薄暗く照《てら》している。古ぼけた葭戸《よしど》を立てた縁側の外《そと》には小庭《こにわ》があるのやらないのやら分らぬほどな闇《やみ》の中に軒の風鈴《ふうりん》が淋《さび》しく鳴り虫が静《しずか》に鳴いている。師匠のお豊《とよ》は縁日ものの植木鉢を並べ、不動尊《ふどうそん》の掛物をかけた床《とこ》の間《ま》を後《うしろ》にしてべったり坐《すわ》った膝《ひざ》の上に三味線《しゃみせん》をかかえ、樫《かし》の撥《ばち》で時々前髪のあたりをかきながら、掛声をかけては弾くと、稽古本《けいこぼん》を広げた桐《きり》の小机を中にして此方《こなた》には三十前後の商人らしい男が中音《ちゅうおん》で、「そりや何をいはしやんす、今さら兄よ妹《いもうと》といふにいはれぬ恋中《こいなか》は……。」と「小稲半兵衛《こいなはんべえ》」の道行《みちゆき》を語る。
 蘿月は稽古のすむまで縁近《えんぢか》くに坐って、扇子《せんす》をぱちくりさせながら、まだ冷酒《ひやざけ》のすっかり醒《さ》めきらぬ処から、時々は我知らず口の中で稽古の男と一しょに唄《うた》ったが、時々は目をつぶって遠慮なく※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》をした後《のち》、身体《からだ》を軽く左右《さゆう》にゆすりながらお豊の顔をば何の気もなく眺めた。お豊はもう四十以上であろう。薄暗い釣《つるし》ランプの光が痩《や》せこけた小作りの身体《からだ》をばなお更に老《ふ》けて見せるので、ふいとこれが昔は立派な質屋《しちや》の可愛らしい箱入娘《はこいりむすめ》だったのかと思うと、蘿月は悲しいとか淋《さび》しいとかそういう現実の感慨を通過《とおりこ》して、唯《た》だ唯だ不思議な気がしてならない。その頃は自分もやはり若くて美しくて、女にすかれて、道楽して、とうとう実家を七生《しちしょう》まで勘当《かんどう》されてしまったが、今になってはその頃の事はどうしても事実ではなくて夢としか思われない。算盤《そろばん》で乃公《おれ》の頭をなぐった親爺《おやじ》にしろ、泣いて意見をした白鼠《しろねずみ》の番頭にしろ、暖簾《のれん》を分けてもらったお豊の亭主にしろ、そういう人たちは怒ったり笑ったり泣いたり喜んだりして、汗をたらして飽《あ》きずによく働いていたものだが、一人々々《ひとりひとり》皆死んでしまった今日《きょう》となって見れば、あの人たちはこの世の中に生れて来ても来なくてもつまる処は同じようなものだった。まだしも自分とお豊の生きている間は、あの人たちは両人《ふたり》の記憶の中《うち》に残されているものの、やがて自分たちも死んでしまえばいよいよ何も彼《か》も煙になって跡方《あとかた》もなく消え失《う》せてしまうのだ……。
「兄《にい》さん、実は二、三日|中《うち》に私《わたし》の方からお邪魔に上《あが》ろうと思っていたんだよ。」とお豊が突然話しだした。
 稽古の男は「小稲半兵衛《こいなはんべえ》」をさらった後《のち》同じような「お妻八郎兵衛《つまはちろべえ》」の語出《かたりだ》しを二、三度|繰返《くりかえ》して帰って行ったのである。蘿月は尤《もっと》もらしく坐《すわ》り直《なお》して扇子で軽く膝《ひざ》を叩《たた》いた。
「実はね。」とお豊は同じ言葉を繰返して、「駒込《こまごめ》のお寺が市区改正で取払いになるんだとさ。それでね、死んだお父《とっ》つァんのお墓を谷中《やなか》か染井《そめい》か何処《どこ》かへ移さなくっちゃならないんだってね、四、五日前にお寺からお使が来たから、どうしたものかと、その相談に行こうと思ってたのさ。」
「なるほど。」と蘿月は頷付《うなず》いて、「そういう事なら打捨《うっちゃ》っても置けまい。もう何年になるかな、親爺《おやじ》が死んでから……。」
 首を傾《かし》げて考えたが、お豊の方は着々話しを進めて染井の墓地の地代《じだい》が一坪《ひとつぼ》いくら、寺への心付けがどうのこうのと、それについては女の身よりも男の蘿月に万事を引受けて取計らってもらいたいというのであった。
 蘿月はもと小石川表町《こいしかわおもてまち》の相模屋《さがみや》という質屋の後取息子《あととりむすこ》であったが勘当の末《すえ》若隠居の身となった。頑固な父が世を去ってからは妹お豊を妻にした店の番頭が正直に相模屋の商売をつづけていた。ところが御維新《ごいっしん》この方《かた》時勢の変遷で次第に家運の傾いて来た折も折火事にあって質屋はそれなり潰《つぶ》れてしまった。で、風流三昧《ふうりゅうざんまい》の蘿月はやむをえず俳諧《はいかい》で世を渡るようになり、お豊はその後《ご》亭主に死別れた不幸つづきに昔名を取った遊芸を幸い常磐津《ときわず》の師匠で生計《くらし》を立てるようになった。お豊には今年十八になる男の子が一人ある。零落《れいらく》した女親がこの世の楽しみというのは全くこの一人息子|長吉《ちょうきち》の出世を見ようという事ばかりで、商人はいつ失敗するか分らないという経験から、お豊は三度の飯を二度にしても、行く行くはわが児《こ》を大学校に入れて立派な月給取りにせねばならぬと思っている。
 蘿月|宗匠《そうしょう》は冷えた茶を飲干《のみほ》しながら、「長吉はどうしました。」
 するとお豊はもう得意らしく、「学校は今夏休みですがね、遊ばしといちゃいけないと思って本郷《ほんごう》まで夜学にやります。」
「じゃ帰りは晩《おそ》いね。」
「ええ。いつでも十時過ぎますよ。電車はありますがね、随分|遠路《とおみち》ですからね。」
「吾輩《こちとら》とは違って今時の若いものは感心だね。」宗匠は言葉を切って、「中学校だっけね、乃公《おれ》は子供を持った事がねえから当節《とうせつ》の学校の事はちっとも分らない。大学校まで行くにゃまだよほどかかるのかい。」
「来年卒業してから試験を受けるんでさアね。大学校へ行く前に、もう一ツ……大きな学校があるんです。」お豊は何も彼《か》も一口《ひとくち》に説明してやりたいと心ばかりは急《あせ》っても、やはり時勢に疎《うと》い女の事で忽《たちま》ちいい淀《よど》んでしまった。
「たいした経費《かかり》だろうね。」
「ええそれァ、大抵じゃありませんよ。何しろ、あなた、月謝ばかりが毎月《まいげつ》一円、本代だって試験の度々《たんび》に二、三円じゃききませんしね、それに夏冬ともに洋服を着るんでしょう、靴だって年に二足は穿《は》いてしまいますよ。」
 お豊は調子づいて苦心のほどを一倍強く見せようためか声に力を入れて話したが、蘿月はその時、それほどにまで無理をするなら、何も大学校へ入れないでも、長吉にはもっと身分相応な立身の途《みち》がありそうなものだという気がした。しかし口へ出していうほどの事でもないので、何か話題の変化をと望む矢先《やさき》へ、自然に思い出されたのは長告が子供の時分の遊び友達でお糸《いと》といった煎餅屋《せんべいや》の娘の事である。蘿月はその頃お豊の家を訪ねた時にはきまって甥《おい》の長吉とお糸をつれては奥山《おくやま》や佐竹《さたけ》ッ原《ぱら》の見世物《みせもの》を見に行ったのだ。
「長吉が十八じゃ、あの娘《こ》はもう立派な姉《ねえ》さんだろう。やはり稽古に来るかい。」
「家《うち》へは来ませんがね、この先の杵屋《きねや》さんにゃ毎日|通《かよ》ってますよ。もう直《じ》き葭町《よしちょう》へ出るんだっていいますがね……。」とお豊は何か考えるらしく語《ことば》を切った。
「葭町へ出るのか。そいつア豪儀《ごうぎ》だ。子供の時からちょいと口のききようのませた、好《い》い娘《こ》だったよ。今夜にでも遊びに来りゃアいいに。ねえ、お豊。」と宗匠は急に元気づいたが、お豊はポンと長煙管《ながぎせる》をはたいて、
「以前とちがって、長吉も今が勉強ざかりだしね……。」
「ははははは。間違いでもあっちゃならないというのかね。尤《もっと》もだよ。この道ばかりは全く油断がならないからな。」
「ほんとさ。お前さん。」お豊は首を長く延《のば》して、「私の僻目《ひがめ》かも知れないが、実はどうも長吉の様子が心配でならないのさ。」
「だから、いわない事《こ》ッちゃない。」と蘿月は軽く握り拳《こぶし》で膝頭《ひざがしら》をたたいた。お豊は長吉とお糸のことが唯《ただ》何《なん》となしに心配でならない。というのは、お糸が長唄《ながうた》の稽古帰りに毎朝用もないのにきっと立寄って見る、それをば長吉は必ず待っている様子でその時間|頃《ごろ》には一足《ひとあし》だって窓の傍《そば》を去らない。それのみならず、いつぞやお糸が病気で十日ほども寝ていた時には、長吉は外目《よそめ》も可笑《おか》しいほどにぼんやりしていた事などを息もつかずに語りつづけた。
 次の間《ま》の時計が九時を打出した時突然|格子戸《こうしど》ががらりと明いた。その明けようでお豊はすぐに長吉の帰って来た事を知り急に話を途切《とぎら》しその方に振返りながら、
「大変早いようだね、今夜は。」
「先生が病気で一時間早くひけたんだ。」
「小梅《こうめ》の伯父さんがおいでだよ。」
 返事は聞えなかったが、次の間《ま》に包《つつみ》を投出す音がして、直様《すぐさま》長吉は温順《おとな》しそうな弱そうな色の白い顔を襖《ふすま》の間から見せた。

 残暑の夕日が一《ひと》しきり夏の盛《さかり》よりも烈《はげ》しく、ひろびろした河面《かわづら》一帯に燃え立ち、殊更《ことさら》に大学の艇庫《ていこ》の真白《まっしろ》なペンキ塗の板目《はめ》に反映していたが、忽《たちま》ち燈《ともしび》の光の消えて行くようにあたりは全体に薄暗く灰色に変色して来て、満ち来る夕汐《ゆうしお》の上を滑って行く荷船《にぶね》の帆のみが真白く際立《きわだ》った。と見る間《ま》もなく初秋《しょしゅう》の黄昏《たそがれ》は幕の下《おり》るように早く夜に変った。流れる水がいやに眩《まぶ》しくきらきら光り出して、渡船《わたしぶね》に乗っている人の形をくっきりと墨絵《すみえ》のように黒く染め出した。堤の上に長く横《よこた》わる葉桜の木立《こだち》は此方《こなた》の岸から望めば恐しいほど真暗《まっくら》になり、一時《いちじ》は面白いように引きつづいて動いていた荷船はいつの間にか一艘《いっそう》残らず上流の方《ほう》に消えてしまって、釣《つり》の帰りらしい小舟がところどころ木《こ》の葉《は》のように浮いているばかり、見渡す隅田川《すみだがわ》は再びひろびろとしたばかりか静《しずか》に淋《さび》しくなった。遥か川上《かわかみ》の空のはずれに夏の名残を示す雲の峰が立っていて細い稲妻が絶間《たえま》なく閃《ひら》めいては消える。
 長吉は先刻《さっき》から一人ぼんやりして、或《ある》時は今戸橋《いまどばし》の欄干《らんかん》に凭《もた》れたり、或時は岸の石垣から渡場《わたしば》の桟橋《さんばし》へ下りて見たりして、夕日から黄昏、黄昏から夜になる河の景色を眺めていた。今夜暗くなって人の顔がよくは見えない時分になったら今戸橋の上でお糸と逢《あ》う約束をしたからである。しかし丁度日曜日に当って夜学校を口実にも出来ない処から夕飯《ゆうめし》を済《すま》すが否やまだ日の落ちぬ中《うち》ふいと家《うち》を出てしまった。一しきり渡場へ急ぐ人の往来《ゆきき》も今では殆《ほとん》ど絶え、橋の下に夜泊《よどま》りする荷船の燈火《ともしび》が慶養寺《けいようじ》の高い木立を倒《さかさ》に映した山谷堀《さんやぼり》の水に美しく流れた。門口《かどぐち》に柳のある新しい二階家からは三味線が聞えて、水に添う低い小家《こいえ》の格子戸外《こうしどそと》には裸体《はだか》の亭主が涼みに出はじめた。長吉はもう来る時分であろうと思って一心《いっしん》に橋向うを眺めた。
 最初に橋を渡って来た人影は黒い麻の僧衣《ころも》を着た坊主であった。つづいて尻端折《しりはしおり》の股引《ももひき》にゴム靴をはいた請負師《うけおいし》らしい男の通った後《あと》、暫《しばら》くしてから、蝙蝠傘《こうもりがさ》と小包を提げた貧し気《げ》な女房が日和下駄《ひよりげた》で色気もなく砂を蹴立《けた》てて大股《おおまた》に歩いて行った。もういくら待っても人通りはない。長吉は詮方《せんかた》なく疲れた眼を河の方に移した。河面《かわづら》は先刻《さっき》よりも一体に明《あかる》くなり気味悪い雲の峯は影もなく消えている。長吉はその時|長命寺辺《ちょうめいじへん》の堤の上の木立から、他分《たぶん》旧暦七月の満月であろう、赤味を帯びた大きな月の昇りかけているのを認めた。空は鏡のように明《あかる》いのでそれを遮《さえぎ》る堤と木立はますます黒く、星は宵の明星の唯《たっ》た一つ見えるばかりでその他《た》は尽《ことごと》く余りに明い空の光に掻き消され、横ざまに長く棚曳《たなび》く雲のちぎれが銀色に透通《すきとお》って輝いている。見る見る中《うち》満月が木立を離れるに従い河岸《かわぎし》の夜露をあびた瓦《かわら》屋根や、水に湿《ぬ》れた棒杭《ぼうぐい》、満潮に流れ寄る石垣下の藻草《もぐさ》のちぎれ、船の横腹、竹竿《たけざお》なぞが、逸早《いちはや》く月の光を受けて蒼《あお》く輝き出した。忽ち長吉は自分の影が橋板の上に段々に濃く描き出されるのを知った。通りかかるホーカイ節《ぶし》の男女が二人、「まア御覧よ。お月様。」といって暫《しばら》く立止った後《のち》、山谷堀の岸辺《きしべ》に曲るが否や当付《あてつけ》がましく、

と立ちつづく小家《こいえ》の前で歌ったが金にならないと見たか歌いも了《おわ》らず、元の急足《いそぎあし》で吉原土手《よしわらどて》の方へ行ってしまった。
 長吉はいつも忍会《しのびあい》の恋人が経験するさまざまの懸念《けねん》と待ちあぐむ心のいらだちの外《ほか》に、何とも知れぬ一種の悲哀を感じた。お糸と自分との行末……行末というよりも今夜会って後《のち》の明日《あした》はどうなるのであろう。お糸は今夜|兼《かね》てから話のしてある葭町《よしちょう》の芸者屋《げいしゃや》まで出掛けて相談をして来るという事で、その道中《どうちゅう》をば二人一緒に話しながら歩こうと約束したのである。お糸がいよいよ芸者になってしまえばこれまでのように毎日|逢《あ》う事ができなくなるのみならず、それが万事の終りであるらしく思われてならない。自分の知らない如何《いか》にも遠い国へと再び帰る事なく去《い》ってしまうような気がしてならないのだ。今夜のお月様は忘れられない。一生に二度見られない月だなアと長吉はしみじみ思った。あらゆる記憶の数々が電光のように閃《ひらめ》く。最初|地方町《じかたまち》の小学校へ行く頃は毎日のように喧嘩《けんか》して遊んだ。やがては皆《みん》なから近所の板塀《いたべい》や土蔵の壁に相々傘《あいあいがさ》をかかれて囃《はや》された。小梅の伯父さんにつれられて奥山の見世物《みせもの》を見に行ったり池の鯉《こい》に麩《ふ》をやったりした。
 三社祭《さんじゃまつり》の折お糸は或年|踊屋台《おどりやたい》へ出て道成寺《どうじょうじ》を踊った。町内一同で毎年《まいとし》汐干狩《しおひがり》に行く船の上でもお糸はよく踊った。学校の帰り道には毎日のように待乳山《まつちやま》の境内《けいだい》で待合せて、人の知らない山谷《さんや》の裏町から吉原田圃《よしわらたんぼ》を歩いた……。ああ、お糸は何故《なぜ》芸者なんぞになるんだろう。芸者なんぞになっちゃいけないと引止めたい。長吉は無理にも引止めねばならぬと決心したが、すぐその傍《そば》から、自分はお糸に対しては到底それだけの威力のない事を思返《おもいかえ》した。果敢《はかな》い絶望と諦《あきら》めとを感じた。お糸は二ツ年下の十六であるが、この頃になっては長吉は殊更《ことさら》に日一日とお糸が遥《はる》か年上の姉であるような心持がしてならぬのであった。いや最初からお糸は長吉よりも強かった。長吉よりも遥《はるか》に臆病《おくびょう》ではなかった。お糸長吉と相々傘にかかれて皆なから囃された時でもお糸はびく[#「びく」に傍点]ともしなかった。平気な顔で長《ちょう》ちゃんはあたいの旦那《だんな》だよと怒鳴《どな》った。去年初めて学校からの帰り道を待乳山で待ち合わそうと申出《もうしだ》したのもお糸であった。宮戸座《みやとざ》の立見《たちみ》へ行こうといったのもお糸が先であった。帰りの晩《おそ》くなる事をもお糸の方がかえって心配しなかった。知らない道に迷っても、お糸は行ける処まで行って御覧よ。巡査《おまわり》さんにきけば分るよといって、かえって面白そうにずんずん歩いた……。
 あたりを構わず橋板の上に吾妻下駄《あずまげた》を鳴《なら》す響《ひびき》がして、小走りに突然お糸がかけ寄った。
「おそかったでしょう。気に入らないんだもの、母《おっか》さんの結《ゆ》った髪なんぞ。」と馳《か》け出したために殊更《ことさら》ほつれた鬢《びん》を直しながら、「おかしいでしょう。」
 長吉はただ眼を円くしてお糸の顔を見るばかりである。いつもと変りのない元気のいいはしゃぎ切った様子がこの場合むしろ憎らしく思われた。遠い下町《したまち》に行って芸者になってしまうのが少しも悲しくないのかと長吉はいいたい事も胸一ぱいになって口には出ない。お糸は河水《かわみず》を照《てら》す玉のような月の光にも一向《いっこう》気のつかない様子で、
「早く行こうよ。私《わたい》お金持ちだよ。今夜は。仲店《なかみせ》でお土産を買って行くんだから。」とすたすた歩きだす。
「明日《あした》、きっと帰るか。」長吉は吃《ども》るようにしていい切った。
「明日帰らなければ、明後日《あさって》の朝はきっと帰って来てよ。不断着だの、いろんなもの持って行かなくっちゃならないから。」
 待乳山の麓《ふもと》を聖天町《しょうでんちょう》の方へ出ようと細い路地《ろじ》をぬけた。
「何故《なぜ》黙ってるのよ。どうしたの。」
「明後日《あさって》帰って来てそれからまたあっちへ去《い》ってしまうんだろう。え。お糸ちゃんはもうそれなり向うの人になっちまうんだろう。もう僕とは会えないんだろう。」
「ちょいちょい遊びに帰って来るわ。だけれど、私《わたい》も一生懸命にお稽古《けいこ》しなくっちゃならないんだもの。」
 少しは声を曇《くもら》したもののその調子は長吉の満足するほどの悲愁を帯びてはいなかった。長吉は暫《しばら》くしてからまた突然に、
「なぜ芸者なんぞになるんだ。」
「またそんな事きくの。おかしいよ。長さんは。」
 お糸は已《すで》に長吉のよく知っている事情をば再びくどくどしく繰返《くりかえ》した。お糸が芸者になるという事は二、三年いやもっと前から長吉にも能《よ》く分っていた事である。その起因《おこり》は大工であったお糸の父親がまだ生きていた頃《ころ》から母親《おふくろ》は手内職《てないしょく》にと針仕事をしていたが、その得意先《とくいさき》の一軒で橋場《はしば》の妾宅《しょうたく》にいる御新造《ごしんぞ》がお糸の姿を見て是非|娘分《むすめぶん》にして行末《ゆくすえ》は立派な芸者にしたてたいといい出した事からである。御新造の実家は葭町《よしちょう》で幅のきく芸者家《げいしゃや》であった。しかしその頃のお糸の家《うち》はさほどに困ってもいなかったし、第一に可愛い盛《さかり》の子供を手放すのが辛《つら》かったので、親の手元でせいぜい芸を仕込ます事になった。その後《ご》父親が死んだ折には差当《さしあた》り頼りのない母親は橋場の御新造の世話で今の煎餅屋《せんべいや》を出したような関係もあり、万事が金銭上の義理ばかりでなくて相方《そうほう》の好意から自然とお糸は葭町へ行くように誰《た》れが強《し》いるともなく決《きま》っていたのである。百も承知しているこんな事情を長吉はお糸の口からきくために質問したのでない。お糸がどうせ行かねばならぬものなら、もう少し悲しく自分のために別《わかれ》を惜しむような調子を見せてもらいたいと思ったからだ。長吉は自分とお糸の間にはいつの間《ま》にか互《たがい》に疎通しない感情の相違の生じている事を明《あきら》かに知って、更に深い悲《かなし》みを感じた。
 この悲みはお糸が土産物を買うため仁王門《におうもん》を過ぎて仲店《なかみせ》へ出た時更にまた堪えがたいものとなった。夕涼《ゆうすずみ》に出掛ける賑《にぎや》かな人出の中にお糸はふいと立止って、並んで歩く長吉の袖《そで》を引き、「長さん、あたいも直《じ》きあんな扮装《なり》するんだねえ。絽縮緬《ろちりめん》だねきっと、あの羽織……。」
 長吉はいわれるままに見返ると、島田に結《ゆ》った芸者と、それに連立《つれだ》って行くのは黒絽《くろろ》の紋付をきた立派な紳士であった。ああお糸が芸者になったら一緒に手を引いて歩く人はやっぱりああいう立派な紳士であろう。自分は何年たったらあんな紳士になれるのか知ら。兵児帯《へこおび》一ツの現在《いま》の書生姿がいうにいわれず情なく思われると同時に、長吉はその将来どころか現在においても、已《すで》に単純なお糸の友達たる資格さえないもののような心持がした。
 いよいよ御神燈《ごしんとう》のつづいた葭町の路地口《ろじぐち》へ来た時、長吉はもうこれ以上|果敢《はかな》いとか悲しいとか思う元気さえなくなって、唯《た》だぼんやり、狭く暗い路地裏のいやに奥深く行先知れず曲込《まがりこ》んでいるのを不思議そうに覗込《のぞきこ》むばかりであった。
「あの、一《ひ》イ二《ふ》ウ三《み》イ……四つ目の瓦斯燈《ガスとう》の出てるところだよ。松葉屋《まつばや》と書いてあるだろう。ね。あの家《うち》よ。」とお糸はしばしば橋場の御新造につれて来られたり、またはその用事で使いに来たりして能《よ》く知っている軒先《のきさき》の燈《あかり》を指し示した。
「じゃア僕は帰るよ。もう……。」というばかりで長吉はやはり立止っている。その袖をお糸は軽く捕《つかま》えて忽《たちま》ち媚《こび》るように寄添い、
「明日《あした》か明後日《あさって》、家《うち》へ帰って来た時きっと逢《あ》おうね。いいかい。きっとよ。約束してよ。あたいの家《うち》へお出《いで》よ。よくッて。」
「ああ。」
 返事をきくと、お糸はそれですっかり安心したものの如くすたすた路地の溝板《どぶいた》を吾妻下駄《あずまげた》に踏みならし振返りもせずに行ってしまった。その足音が長吉の耳には急いで馳《か》けて行くように聞えた、かと思う間《ま》もなく、ちりんちりんと格子戸の鈴の音がした。長吉は覚えず後《あと》を追って路地内《ろじうち》へ這入《はい》ろうとしたが、同時に一番近くの格子戸が人声と共に開《あ》いて、細長い弓張提灯《ゆみはりぢょうちん》を持った男が出て来たので、何《なん》という事なく長吉は気後《きおく》れのしたばかりか、顔を見られるのが厭《いや》さに、一散《いっさん》に通りの方へと遠《とおざ》かった。円い月は形が大分《だいぶ》小《ちいさ》くなって光が蒼《あお》く澄んで、静《しずか》に聳《そび》える裏通りの倉の屋根の上、星の多い空の真中《まんなか》に高く昇っていた。

 月の出が夜《よ》ごとおそくなるにつれてその光は段々|冴《さ》えて来た。河風《かわかぜ》の湿《しめ》ッぽさが次第に強く感じられて来て浴衣《ゆかた》の肌がいやに薄寒くなった。月はやがて人の起きている頃《ころ》にはもう昇らなくなった。空には朝も昼過ぎも夕方も、いつでも雲が多くなった。雲は重《かさな》り合って絶えず動いているので、時としては僅《わず》かにその間々《あいだあいだ》に殊更《ことさら》らしく色の濃い青空の残りを見せて置きながら、空一面に蔽《おお》い冠《かぶ》さる。すると気候は恐しく蒸暑《むしあつ》くなって来て、自然と浸《し》み出る脂汗《あぶらあせ》が不愉快に人の肌をねばねばさせるが、しかしまた、そういう時にはきまって、その強弱とその方向の定まらない風が突然に吹き起って、雨もまた降っては止《や》み、止んではまた降りつづく事がある。この風やこの雨には一種特別の底深い力が含まれていて、寺の樹木や、河岸《かわぎし》の葦《あし》の葉や、場末につづく貧しい家の板屋根に、春や夏には決して聞かれない音響を伝える。日が恐しく早く暮れてしまうだけ、長い夜《よ》はすぐに寂々《しんしん》と更《ふ》け渡って来て、夏ならば夕涼みの下駄の音に遮《さえぎ》られてよくは聞えない八時か九時の時の鐘があたりをまるで十二時の如く静《しずか》にしてしまう。蟋蟀《こおろぎ》の声はいそがしい。燈火《ともしび》の色はいやに澄む。秋。ああ秋だ。長吉は初めて秋というものはなるほどいやなものだ。実に淋《さび》しくって堪《たま》らないものだと身にしみじみ感じた。
 学校はもう昨日《きのう》から始っている。朝早く母親の用意してくれる弁当箱を書物と一所《いっしょ》に包んで家《うち》を出て見たが、二日目三日目にはつくづく遠い神田《かんだ》まで歩いて行く気力がなくなった。今までは毎年《まいねん》長い夏休みの終る頃といえば学校の教場が何《なん》となく恋しく授業の開始する日が心待《こころまち》に待たれるようであった。そのういういしい心持はもう全く消えてしまった。つまらない。学問なんぞしたってつまるものか。学校は己《おの》れの望むような幸福を与える処ではない。……幸福とは無関係のものである事を長吉は物新しく感じた。
 四日目の朝いつものように七時前に家《うち》を出て観音《かんのん》の境内《けいだい》まで歩いて来たが、長吉はまるで疲れきった旅人《たびびと》が路傍《みちばた》の石に腰をかけるように、本堂の横手のベンチの上に腰を下《おろ》した。いつの間に掃除をしたものか朝露に湿った小砂利《こじゃり》の上には、投捨てた汚い紙片《かみきれ》もなく、朝早い境内はいつもの雑沓《ざっとう》に引かえて妙に広く神々《こうごう》しく寂《しん》としている。本堂の廊下には此処《ここ》で夜明《よあか》ししたらしい迂散《うさん》な男が今だに幾人も腰をかけていて、その中には垢《あか》じみた単衣《ひとえ》の三尺帯《さんじゃくおび》を解いて平気で褌《ふんどし》をしめ直している奴《やつ》もあった。この頃の空癖《そらくせ》で空は低く鼠色《ねずみいろ》に曇り、あたりの樹木からは虫噛《むしば》んだ青いままの木葉《このは》が絶え間なく落ちる。烏《からす》や鶏《にわとり》の啼声《なきごえ》鳩《はと》の羽音《はおと》が爽《さわや》かに力強く聞える。溢《あふ》れる水に濡《ぬ》れた御手洗《みたらし》の石が飜《ひるが》える奉納の手拭《てぬぐい》のかげにもう何となく冷《つめた》いように思われた。それにもかかわらず朝参りの男女は本堂の階段を上《のぼ》る前にいずれも手を洗うためにと立止まる。その人々の中に長吉は偶然にも若い一人の芸者が、口には桃色のハンケチを啣《くわ》えて、一重羽織《ひとえばおり》の袖口《そでぐち》を濡《ぬら》すまいためか、真白《まっしろ》な手先をば腕までも見せるように長くさし伸《のば》しているのを認めた。同時にすぐ隣のベンチに腰をかけている書生が二人、「見ろ見ろ、ジンゲルだ。わるくないなア。」といっているのさえ耳にした。
 島田に結《ゆ》って弱々しく両肩の撫《な》で下《さが》った小作りの姿と、口尻《くちじり》のしまった円顔《まるがお》、十六、七の同じような年頃とが、長吉をしてその瞬間|危《あやう》くベンチから飛び立たせようとしたほどお糸のことを連想せしめた。お糸は月のいいあの晩に約束した通り、その翌々日に、それからは長く葭町《よしちょう》の人たるべく手荷物を取りに帰って来たが、その時長吉はまるで別の人のようにお糸の姿の変ってしまったのに驚いた。赤いメレンスの帯ばかり締《し》めていた娘姿が、突然たった一日の間《あいだ》に、丁度今|御手洗《みたらし》で手を洗っている若い芸者そのままの姿になってしまったのだ。薬指にはもう指環《ゆびわ》さえ穿《は》めていた。用もないのに幾度《いくたび》となく帯の間から鏡入れや紙入《かみいれ》を抜き出して、白粉《おしろい》をつけ直したり鬢《びん》のほつれを撫《な》で上げたりする。戸外《そと》には車を待たして置いていかにも急《いそが》しい大切な用件を身に帯びているといった風《ふう》で一時間もたつかたたない中《うち》に帰ってしまった。その帰りがけ長吉に残した最後の言葉はその母親の「御師匠《おししょう》さんのおばさん」にもよろしくいってくれという事であった。まだ何時《いつ》出るのか分らないからまた近い中に遊びに来るわという懐《なつか》しい声も聞《きか》れないのではなかったが、それはもう今までのあどけない約束ではなくて、世馴《よな》れた人の如才《じょさい》ない挨拶《あいさつ》としか長吉には聞取れなかった。娘であったお糸、幼馴染《おさななじみ》の恋人のお糸はこの世にはもう生きていないのだ。路傍《みちばた》に寝ている犬を驚《おどろか》して勢よく駈《か》け去った車の後《あと》に、えもいわれず立迷った化粧の匂《にお》いが、いかに苦しく、いかに切《せつ》なく身中《みうち》にしみ渡ったであろう……。
 本堂の中にと消えた若い芸者の姿は再び階段の下に現れて仁王門《におうもん》の方へと、素足《すあし》の指先に突掛《つっか》けた吾妻下駄《あずまげた》を内輪《うちわ》に軽く踏みながら歩いて行く。長吉はその後姿《うしろすがた》を見送るとまた更に恨めしいあの車を見送った時の一刹那《いっせつな》を思起すので、もう何《なん》としても我慢が出来ぬというようにベンチから立上った。そして知らず知らずその後を追うて仲店《なかみせ》の尽《つき》るあたりまで来たが、若い芸者の姿は何処《どこ》の横町《よこちょう》へ曲ってしまったものか、もう見えない。両側の店では店先を掃除して品物を並べたてている最中《さいちゅう》である。長吉は夢中で雷門《かみなりもん》の方へどんどん歩いた。若い芸者の行衛《ゆくえ》を見究《みきわ》めようというのではない。自分の眼にばかりありあり見えるお糸の後姿を追って行くのである。学校の事も何も彼《か》も忘れて、駒形《こまかた》から蔵前《くらまえ》、蔵前から浅草橋《あさくさばし》……それから葭町《よしちょう》の方へとどんどん歩いた。しかし電車の通《とお》っている馬喰町《ばくろちょう》の大通りまで来て、長吉はどの横町を曲ればよかったのか少しく当惑した。けれども大体の方角はよく分っている。東京に生れたものだけに道をきくのが厭《いや》である。恋人の住む町と思えば、その名を徒《いたずら》に路傍の他人に漏《もら》すのが、心の秘密を探られるようで、唯わけもなく恐しくてならない。長吉は仕方なしに唯《た》だ左へ左へと、いいかげんに折れて行くと蔵造《くらづく》りの問屋らしい商家のつづいた同じような堀割の岸に二度も出た。その結果長吉は遥か向うに明治座《めいじざ》の屋根を見てやがてやや広い往来へ出た時、その遠い道のはずれに河蒸汽船《かわじょうきせん》の汽笛の音の聞えるのに、初めて自分の位置と町の方角とを覚《さと》った。同時に非常な疲労《つかれ》を感じた。制帽を冠《かぶ》った額《ひたい》のみならず汗は袴《はかま》をはいた帯のまわりまでしみ出していた。しかしもう一瞬間とても休む気にはならない。長吉は月の夜《よ》に連れられて来た路地口《ろじぐち》をば、これはまた一層の苦心、一層の懸念《けねん》、一層の疲労を以って、やっとの事で見出《みいだ》し得たのである。
 片側《かたかわ》に朝日がさし込んでいるので路地の内《うち》は突当りまで見透《みとお》された。格子戸《こうしど》づくりの小《ちいさ》い家《うち》ばかりでない。昼間見ると意外に屋根の高い倉もある。忍返《しのびがえ》しをつけた板塀《いたべい》もある。その上から松の枝も見える。石灰《いしばい》の散った便所の掃除口も見える。塵芥箱《ごみばこ》の並んだ処もある。その辺《へん》に猫がうろうろしている。人通りは案外に烈《はげ》しい。極めて狭い溝板《どぶいた》の上を通行の人は互《たがい》に身を斜めに捻向《ねじむ》けて行き交《ちが》う。稽古《けいこ》の三味線《しゃみせん》に人の話声が交《まじ》って聞える。洗物《あらいもの》する水音《みずおと》も聞える。赤い腰巻に裾《すそ》をまくった小女《こおんな》が草箒《くさぼうき》で溝板の上を掃いている。格子戸の格子を一本々々一生懸命に磨いているのもある。長吉は人目の多いのに気後《きおく》れしたのみでなく、さて路地内に進入《すすみい》ったにした処で、自分はどうするのかと初めて反省の地位に返った。人知れず松葉屋《まつばや》の前を通って、そっとお糸の姿を垣間見《かいまみ》たいとは思ったが、あたりが余りに明過《あかるす》ぎる。さらばこのまま路地口に立っていて、お糸が何かの用で外へ出るまでの機会を待とうか。しかしこれもまた、長吉には近所の店先の人目が尽《ことごと》く自分ばかりを見張っているように思われて、とても五分と長く立っている事はできない。長吉はとにかく思案《しあん》をしなおすつもりで、折から近所の子供を得意にする粟餅屋《あわもちや》の爺《じじ》がカラカラカラと杵《きね》をならして来る向うの横町《よこちょう》の方《ほう》へと遠《とおざ》かった。
 長吉は浜町《はまちょう》の横町をば次第に道の行くままに大川端《おおかわばた》の方へと歩いて行った。いかほど機会を待っても昼中《ひるなか》はどうしても不便である事を僅《わず》かに悟り得たのであるが、すると、今度はもう学校へは遅くなった。休むにしても今日の半日、これから午後の三時までをどうして何処《どこ》に消費しようかという問題の解決に迫《せ》められた。母親のお豊《とよ》は学校の時間割までをよく知抜《しりぬ》いているので、長吉の帰りが一時間早くても、晩《おそ》くても、すぐに心配して煩《うるさ》く質問する。無論長吉は何とでも容易《たやす》くいい紛《まぎ》らすことは出来ると思うものの、それだけの嘘《うそ》をつく良心の苦痛に逢《あ》うのが厭《いや》でならない。丁度来かかる川端には、水練場《すいれんば》の板小屋が取払われて、柳の木蔭《こかげ》に人が釣《つり》をしている。それをば通りがかりの人が四人も五人もぼんやり立って見ているので、長吉はいい都合だと同じように釣を眺める振《ふり》でそのそばに立寄ったが、もう立っているだけの力さえなく、柳の根元の支木《ささえぎ》に背をよせかけながら蹲踞《しゃが》んでしまった。
 さっきから空の大半は真青《まっさお》に晴れて来て、絶えず風の吹き通《かよ》うにもかかわらず、じりじり人の肌に焼附《やきつ》くような湿気《しっけ》のある秋の日は、目の前なる大川《おおかわ》の水一面に眩《まぶ》しく照り輝くので、往来の片側に長くつづいた土塀《どべい》からこんもりと枝を伸《のば》した繁《しげ》りの蔭《かげ》がいかにも涼しそうに思われた。甘酒屋《あまざけや》の爺《じじ》がいつかこの木蔭《こかげ》に赤く塗った荷を下《おろ》していた。川向《かわむこう》は日の光の強いために立続く人家の瓦屋根《かわらやね》をはじめ一帯の眺望がいかにも汚らしく見え、風に追いやられた雲の列が盛《さかん》に煤煙《ばいえん》を吐《は》く製造場《せいぞうば》の烟筒《けむだし》よりも遥《はるか》に低く、動かずに層をなして浮《うか》んでいる。釣道具を売る後《うしろ》の小家《こいえ》から十一時の時計が鳴った。長吉は数えながらそれを聞いて、初めて自分はいかに長い時間を歩き暮したかに驚いたが、同時にこの分《ぶん》で行けば三時までの時間を空費するのもさして難《かた》くはないとやや安心することも出来た。長吉は釣師《つりし》の一人が握飯《にぎりめし》を食いはじめたのを見て、同じように弁当箱を開いた。開いたけれども何だか気まりが悪くて、誰か見ていやしないかときょろきょろ四辺《あたり》を見廻した。幸い午近《ひるぢか》くのことで見渡す川岸に人の往来は杜絶《とだ》えている。長吉は出来るだけ早く飯《めし》でも菜《さい》でも皆《みん》な鵜呑《うの》みにしてしまった。釣師はいずれも木像のように黙っているし、甘酒屋の爺は居眠りしている。午過《ひるすぎ》の川端はますます静《しずか》になって犬さえ歩いて来ない処から、さすがの長吉も自分は何故《なぜ》こんなに気まりを悪がるのであろう臆病《おくびょう》なのであろうと我ながら可笑《おか》しい気にもなった。
 両国橋《りょうごくばし》と新大橋《しんおおはし》との間を一廻《ひとまわり》した後《のち》、長吉はいよいよ浅草《あさくさ》の方へ帰ろうと決心するにつけ、「もしや」という一念にひかされて再び葭町の路地口に立寄って見た。すると午前《ひるまえ》ほどには人通りがないのに先《ま》ず安心して、おそるおそる松葉屋の前を通って見たが、家《うち》の中は外から見ると非常に暗く、人の声三味線の音さえ聞えなかった。けれども長吉には誰にも咎《とが》められずに恋人の住む家《うち》の前を通ったというそれだけの事が、殆《ほと》んど破天荒《はてんこう》の冒険を敢《あえ》てしたような満足を感じさせたので、これまで歩きぬいた身の疲労と苦痛とを長吉は遂《つい》に後悔しなかった。

 その週間の残りの日数《ひかず》だけはどうやらこうやら、長吉は学校へ通ったが、日曜日一日を過《すご》すとその翌朝《あくるあさ》は電車に乗って上野《うえの》まで来ながらふいと下《お》りてしまった。教師に差出すべき代数の宿題を一つもやって置かなかった。英語と漢文の下読《したよみ》をもして置かなかった。それのみならず今日はまた、凡《およ》そ世の中で何よりも嫌いな何よりも恐しい機械体操のある事を思い出したからである。長吉には鉄棒から逆《さかさ》にぶらさがったり、人の丈《たけ》より高い棚の上から飛下りるような事は、いかに軍曹上《ぐんそうあが》りの教師から強《し》いられても全級の生徒から一斉《いっせい》に笑われても到底出来|得《う》べきことではない。何によらず体育の遊戯にかけては、長吉はどうしても他の生徒一同に伴《ともな》って行く事が出来ないので、自然と軽侮《けいぶ》の声の中に孤立する。その結果は、遂に一同から意地悪くいじめられる事になりやすい。学校は単にこれだけでも随分|厭《いや》な処、苦しいところ、辛《つら》い処であった。されば長吉はその母親がいかほど望んだ処で今になっては高等学校へ這入《はい》ろうという気は全くない。もし入学すれば校則として当初《はじめ》の一年間は是非とも狂暴無残な寄宿舎生活をしなければならない事を聴知《ききし》っていたからである。高等学校寄宿舎内に起るいろいろな逸話《いつわ》は早くから長吉の胆《きも》を冷《ひや》しているのであった。いつも画学と習字にかけては全級誰も及ぶもののない長吉の性情は、鉄拳《てっけん》だとか柔術だとか日本魂《やまとだましい》だとかいうものよりも全く異《ちが》った他の方面に傾いていた。子供の時から朝夕に母が渡世《とせい》の三味線《しゃみせん》を聴くのが大好きで、習わずして自然に絃《いと》の調子を覚え、町を通る流行唄《はやりうた》なぞは一度聴けば直《す》ぐに記憶する位であった。小梅《こうめ》の伯父なる蘿月宗匠《らげつそうしょう》は早くも名人になるべき素質があると見抜いて、長吉をば檜物町《ひものちょう》でも植木店《うえきだな》でも何処《どこ》でもいいから一流の家元へ弟子入をさせたらばとお豊に勧めたがお豊は断じて承諾しなかった。のみならず以来は長吉に三味線を弄《いじ》る事をば口喧《くちやかま》しく禁止した。
 長吉は蘿月の伯父さんのいったように、あの時分から三味線を稽古《けいこ》したなら、今頃はとにかく一人前《いちにんまえ》の芸人になっていたに違いない。さすればよしやお糸が芸者になったにした処で、こんなに悲惨《みじめ》な目に遇《あ》わずとも済んだであろう。ああ実に取返しのつかない事をした。一生の方針を誤ったと感じた。母親が急に憎くなる。例えられぬほど怨《うらめ》しく思われるに反して、蘿月の伯父さんの事が何《なん》となく取縋《とりすが》って見たいように懐《なつか》しく思返された。これまでは何の気もなく母親からもまた伯父自身の口からも度々《たびたび》聞かされていた伯父が放蕩三昧《ほうとうざんまい》の経歴が恋の苦痛を知り初《そ》めた長吉の心には凡《すべ》て新しい何かの意味を以て解釈されはじめた。長吉は第一に「小梅の伯母さん」というのは元《もと》金瓶大黒《きんべいだいこく》の華魁《おいらん》で明治の初め吉原《よしわら》解放の時小梅の伯父さんを頼って来たのだとやらいう話を思出した。伯母さんは子供の頃《ころ》自分をば非常に可愛がってくれた。それにもかかわらず、自分の母親のお豊はあまり好《よ》くは思っていない様子で、盆暮《ぼんくれ》の挨拶《あいさつ》もほんの義理|一遍《いっぺん》らしい事を構わず素振《そぶり》に現《あらわ》していた事さえあった。長吉は此処《ここ》で再び母親の事を不愉快にかつ憎らしく思った。殆《ほとん》ど夜《よ》の目も離さぬほど自分の行いを目戍《みまも》っているらしい母親の慈愛が窮屈で堪《たま》らないだけ、もしこれが小梅の伯母さん見たような人であったら――小梅のおばさんはお糸と自分の二人を見て何ともいえない情《なさけ》のある声で、いつまで[#「いつまで」に傍点]も仲よくお遊びよといってくれた事がある――自分の苦痛の何物たるかを能《よ》く察して同情してくれるであろう。自分の心がすこしも要求していない幸福を頭から無理に強《し》いはせまい。長吉は偶然にも母親のような正しい身の上の女と小梅のおばさんのような或種《あるしゅ》の経歴ある女との心理を比較した。学校の教師のような人と蘿月伯父さんのような人とを比較した。
 午頃《ひるごろ》まで長吉は東照宮《とうしょうぐう》の裏手の森の中で、捨石《すていし》の上に横《よこた》わりながら、こんな事を考えつづけた後《あと》は、包《つつみ》の中にかくした小説本を取出して読み耽《ふけ》った。そして明日《あした》出すべき欠席届にはいかにしてまた母の認印《みとめいん》を盗むべきかを考えた。

 一《ひと》しきり毎日毎夜のように降りつづいた雨の後《あと》、今度は雲一ツ見えないような晴天が幾日と限りもなくつづいた。しかしどうかして空が曇ると忽《たちま》ちに風が出て乾ききった道の砂を吹散《ふきちら》す。この風と共に寒さは日にまし強くなって閉切《しめき》った家の戸や障子《しょうじ》が絶間《たえま》なくがたりがたりと悲しげに動き出した。長吉は毎朝七時に始《はじま》る学校へ行くため晩《おそ》くも六時には起きねばならぬが、すると毎朝の六時が起《おき》るたびに、だんだん暗くなって、遂には夜と同じく家の中には燈火《ともしび》の光を見ねばならぬようになった。毎年《まいとし》冬のはじめに、長吉はこの鈍《にぶ》い黄《きいろ》い夜明《よあけ》のランプの火を見ると、何ともいえぬ悲しい厭《いや》な気がするのである。母親はわが子を励ますつもりで寒そうな寝衣姿《ねまきすがた》のままながら、いつも長吉よりは早く起きて暖い朝飯《あさめし》をばちゃんと用意して置く。長吉はその親切をすまないと感じながら何分《なにぶん》にも眠くてならぬ。もう暫《しばら》く炬燵《こたつ》にあたっていたいと思うのを、むやみと時計ばかり気にする母にせきたてられて不平だらだら、河風《かわかぜ》の寒い往来《おうらい》へ出るのである。或時はあまりに世話を焼かれ過《すぎ》るのに腹を立てて、注意される襟巻《えりまき》をわざと解《と》きすてて風邪《かぜ》を引いてやった事もあった。もう返らない幾年か前|蘿月《らげつ》の伯父につれられお糸も一所《いっしょ》に酉《とり》の市《いち》へ行った事があった……毎年《まいとし》その日の事を思い出す頃から間《ま》もなく、今年も去年と同じような寒い十二月がやって来るのである。
 長吉は同じようなその冬の今年と去年、去年とその前年、それからそれと幾年も溯《さかのぼ》って何心なく考えて見ると、人は成長するに従っていかに幸福を失って行くものかを明《あきら》かに経験した。まだ学校へも行かぬ子供の時には朝寒ければゆっくりと寝たいだけ寝ていられたばかりでなく、身体《からだ》の方もまたそれほどに寒さを感ずることが烈《はげ》しくなかった。寒い風や雨の日にはかえって面白く飛び歩いたものである。ああそれが今の身になっては、朝早く今戸《いまど》の橋の白い霜を踏むのがいかにも辛《つら》くまた昼過ぎにはいつも木枯《こがらし》の騒ぐ待乳山《まつちやま》の老樹に、早くも傾く夕日の色がいかにも悲しく見えてならない。これから先の一年一年は自分の身にいかなる新しい苦痛を授けるのであろう。長吉は今年の十二月ほど日数《ひかず》の早くたつのを悲しく思った事はない。観音《かんのん》の境内《けいだい》にはもう年《とし》の市《いち》が立った。母親のもとへとお歳暮のしるしにお弟子が持って来る砂糖袋や鰹節《かつぶし》なぞがそろそろ床《とこ》の間《ま》へ並び出した。学校の学期試験は昨日《きのう》すんで、一方《ひとかた》ならぬその不成績に対する教師の注意書《ちゅういがき》が郵便で母親の手許に送り届けられた。
 初めから覚悟していた事なので長吉は黙って首をたれて、何かにつけてすぐに「親一人子一人」と哀《あわれ》ッぽい事をいい出す母親の意見を聞いていた。午前《ひるまえ》稽古《けいこ》に来る小娘たちが帰って後《のち》午過《ひるすぎ》には三時過ぎてからでなくては、学校帰りの娘たちはやって来ぬ。今が丁度母親が一番手すきの時間である。風がなくて冬の日が往来の窓一面にさしている。折から突然まだ格子戸《こうしど》をあけぬ先から、「御免《ごめん》なさい。」という華美《はで》な女の声、母親が驚いて立つ間《ま》もなく上框《あがりがまち》の障子の外から、「おばさん、わたしよ。御無沙汰《ごぶさた》しちまって、お詫《わ》びに来たんだわ。」
 長吉は顫《ふる》えた。お糸である。お糸は立派なセルの吾妻《あずま》コオトの紐《ひも》を解《と》き解き上って来た。
「あら、長《ちょう》ちゃんもいたの。学校がお休み……あら、そう。」それから付けたように、ほほほほと笑って、さて丁寧に手をついて御辞儀をしながら、「おばさん、お変りもありませんの。ほんとに、つい家《うち》が出にくいものですから、あれッきり御無沙汰しちまって……。」
 お糸は縮緬《ちりめん》の風呂敷《ふろしき》につつんだ菓子折を出した。長吉は呆気《あっけ》に取られたさまで物もいわずにお糸の姿を目戍《みまも》っている。母親もちょっと烟《けむ》に巻かれた形で進物《しんもつ》の礼を述べた後、「きれいにおなりだね。すっかり見違えちまったよ。」といった。
「いやにふけ[#「ふけ」に傍点]ちまったでしょう。皆《みんな》そういってよ。」とお糸は美しく微笑《ほほえ》んで紫《むらさき》縮緬の羽織の紐の解けかかったのを結び直すついでに帯の間から緋天鵞絨《ひびろうど》の煙草入《たばこいれ》を出して、「おばさん。わたし、もう煙草|喫《の》むようになったのよ。生意気でしょう。」
 今度は高く笑った。
「こっちへおよんなさい。寒いから。」と母親のお豊は長火鉢の鉄瓶《てつびん》を下《おろ》して茶を入れながら、「いつお弘《ひろ》めしたんだえ。」
「まだよ。ずっと押詰《おしづま》ってからですって。」
「そう。お糸ちゃんなら、きっと売れるわね。何しろ綺麗《きれい》だし、ちゃんともう地《じ》は出来ているんだし……。」
「おかげさまでねえ。」とお糸は言葉を切って、「あっちの姉さんも大変に喜んでたわ。私なんかよりもっと大きなくせに、それァ随分出来ない娘《こ》がいるんですもの。」
「この節《せつ》の事《こっ》たから……。」お豊はふと気がついたように茶棚から菓子鉢を出して、「あいにく何《なん》にもなくって……道了《どうりょう》さまのお名物だって、ちょっとおつなものだよ。」と箸《はし》でわざわざ摘《つま》んでやった。
「お師匠《っしょ》さん、こんちは。」と甲高《かんだか》な一本調子で、二人《ふたり》づれの小娘が騒々しく稽古《けいこ》にやって来た。
「おばさん、どうぞお構いなく……。」
「なにいいんですよ。」といったけれどお豊はやがて次の間《ま》へ立った。
 長吉は妙に気《き》まりが悪くなって自然に俯向《うつむ》いたが、お糸の方は一向変った様子もなく小声で、
「あの手紙届いて。」
 隣の座敷では二人の小娘が声を揃《そろ》えて、嵯峨《さが》やお室《むろ》の花ざかり。長吉は首ばかり頷付《うなずか》せてもじもじ[#「もじもじ」に傍点]している。お糸が手紙を寄越《よこ》したのは一《いち》の酉《とり》の前《まえ》時分《じぶん》であった。つい家《うち》が出にくいというだけの事である。長吉は直様《すぐさま》別れた後《のち》の生涯をこまごまと書いて送ったが、しかし待ち設けたような、折返したお糸の返事は遂に聞く事が出来なかったのである。
「観音さまの市《いち》だわね。今夜一所に行かなくって。あたい今夜泊ってッてもいいんだから。」
 長吉は隣座敷の母親を気兼《きがね》して何とも答える事ができない。お糸は構わず、
「御飯たべたら迎いに来てよ。」といったがその後《あと》で、「おばさんも一所にいらッしゃるでしょうね。」
「ああ。」と長吉は力の抜けた声になった。
「あの……。」お糸は急に思出して、「小梅の伯父さん、どうなすって、お酒に酔《え》って羽子板屋《はごいたや》のお爺《じい》さんと喧嘩《けんか》したわね。何時《いつ》だったか。私《わたし》怖くなッちまッたわ。今夜いらッしゃればいいのに。」
 お糸は稽古の隙《すき》を窺《うかが》ってお豊に挨拶《あいさつ》して、「じゃ、晩ほど。どうもお邪魔いたしました。」といいながらすたすた帰った。

 長吉は風邪《かぜ》をひいた。七草《ななくさ》過ぎて学校が始《はじま》った処から一日無理をして通学したために、流行のインフルエンザに変って正月一ぱい寝通してしまった。
 八幡さまの境内に今日は朝から初午《はつうま》の太鼓が聞える。暖い穏《おだやか》な午後《ひるすぎ》の日光が一面にさし込む表の窓の障子には、折々《おりおり》軒《のき》を掠《かす》める小鳥の影が閃《ひらめ》き、茶の間の隅の薄暗い仏壇の奥までが明《あかる》く見え、床《とこ》の間《ま》の梅がもう散りはじめた。春は閉切《しめき》った家《うち》の中までも陽気におとずれて来たのである。
 長吉は二、三日前から起きていたので、この暖い日をぶらぶら散歩に出掛けた。すっかり全快した今になって見れば、二十日《はつか》以上も苦しんだ大病を長吉はもっけの幸いであったと喜んでいる。とても来月の学年試験には及第する見込みがないと思っていた処なので、病気欠席の後《あと》といえば、落第しても母に対して尤《もっとも》至極《しごく》な申訳《もうしわけ》ができると思うからであった。
 歩いて行く中《うち》いつか浅草《あさくさ》公園の裏手へ出た。細い通りの片側には深い溝《どぶ》があって、それを越した鉄柵《てつさく》の向うには、処々《ところどころ》の冬枯れして立つ大木《たいぼく》の下に、五区《ごく》の揚弓店《ようきゅうてん》の汚《きたな》らしい裏手がつづいて見える。屋根の低い片側町《かたかわまち》の人家は丁度|後《うしろ》から深い溝の方へと押詰められたような気がするので、大方そのためであろう、それほどに混雑もせぬ往来がいつも妙に忙《いそが》しく見え、うろうろ徘徊《はいかい》している人相《にんそう》の悪い車夫《しゃふ》がちょっと風采《みなり》の小綺麗《こぎれい》な通行人の後《あと》に煩《うるさ》く付き纏《まと》って乗車を勧《すす》めている。長吉はいつも巡査が立番《たちばん》している左手の石橋《いしばし》から淡島《あわしま》さまの方までがずっと見透《みとお》される四辻《よつつじ》まで歩いて来て、通りがかりの人々が立止って眺めるままに、自分も何という事なく、曲り角に出してある宮戸座《みやとざ》の絵看板《えかんばん》を仰いだ。
 いやに文字《もんじ》の間《あいだ》をくッ付けて模様のように太く書いてある名題《なだい》の木札《きふだ》を中央《まんなか》にして、その左右には恐しく顔の小《ちいさ》い、眼の大《おおき》い、指先の太い人物が、夜具をかついだような大《おおき》い着物を着て、さまざまな誇張的の姿勢で活躍しているさまが描《えが》かれてある。この大きい絵看板を蔽《おお》う屋根形の軒には、花車《だし》につけるような造り花が美しく飾りつけてあった。
 長吉はいかほど暖い日和《ひより》でも歩いているとさすがにまだ立春になったばかりの事とて暫《しばら》くの間寒い風をよける処をと思い出した矢先《やさき》、芝居の絵看板を見て、そのまま狭い立見《たちみ》の戸口へと進み寄った。内《うち》へ這入《はい》ると足場の悪い梯子段《はしごだん》が立っていて、その中《なか》ほどから曲るあたりはもう薄暗く、臭い生暖《なまあたたか》い人込《ひとごみ》の温気《うんき》がなお更暗い上の方から吹き下りて来る。頻《しきり》に役者の名を呼ぶ掛声《かけごえ》が聞える。それを聞くと長吉は都会育ちの観劇者ばかりが経験する特種《とくしゅ》の快感と特種の熱情とを覚えた。梯子段の二、三段を一躍《ひとと》びに駈上《かけあが》って人込みの中に割込むと、床板《ゆかいた》の斜《ななめ》になった低い屋根裏の大向《おおむこう》は大きな船の底へでも下りたような心持。後《うしろ》の隅々《すみずみ》についている瓦斯《ガス》の裸火《はだかび》の光は一ぱいに詰《つま》っている見物人の頭に遮《さえぎ》られて非常に暗く、狭苦しいので、猿のように人のつかまっている前側の鉄棒から、向うに見える劇場の内部は天井ばかりがいかにも広々と見え、舞台は色づき濁った空気のためにかえって小さく甚《はなはだ》遠く見えた。舞台はチョンと打った拍子木の音に今丁度廻って止《とま》った処である。極めて一直線な石垣を見せた台の下に汚れた水色の布が敷いてあって、後《うしろ》を限る書割《かきわり》には小《ちいさ》く大名屋敷《だいみょうやしき》の練塀《ねりべい》を描《えが》き、その上の空一面をば無理にも夜だと思わせるように隙間《すきま》もなく真黒《まっくろ》に塗りたててある。長吉は観劇に対するこれまでの経験で「夜」と「川端《かわばた》」という事から、きっと殺《ころ》し場《ば》に違いないと幼い好奇心から丈伸《せの》びをして首を伸《のば》すと、果《はた》せるかな、絶えざる低い大太鼓《おおだいこ》の音に例の如く板をバタバタ叩《たた》く音が聞えて、左手の辻番小屋の蔭《かげ》から仲間《ちゅうげん》と蓙《ござ》を抱えた女とが大きな声で争いながら出て来る。見物人が笑った。舞台の人物は落したものを捜《さが》す体《てい》で何かを取り上げると、突然前とは全く違った態度になって、極めて明瞭に浄瑠璃外題《じょうるりげだい》「梅柳中宵月《うめやなぎなかもよいづき》」、勤めまする役人……と読みはじめる。それを待構えて彼方《かなた》此方《こなた》から見物人が声をかけた。再び軽い拍子木の音を合図に、黒衣《くろご》の男が右手の隅に立てた書割の一部を引取ると裃《かみしも》を着た浄瑠璃語《じょうるりかたり》三人、三味線弾《しゃみせんひき》二人が、窮屈そうに狭い台の上に並んでいて、直《す》ぐに弾出《ひきだ》す三味線からつづいて太夫《たゆう》が声を合《あわ》してかたり出した。長吉はこの種の音楽にはいつも興味を以て聞き馴《な》れているので、場内の何処《どこ》かで泣き出す赤児《あかご》の声とそれを叱咤《しった》する見物人の声に妨げられながら、しかも明《あきら》かに語る文句と三味線の手までを聴《き》き分ける。

 朧夜《おぼろよ》に星の影さへ二ツ三ツ、四ツか五ツか鐘の音《ね》も、 もしや我身《わがみ》の追手《おって》かと……

 またしても軽いバタバタが聞えて夢中になって声をかける見物人のみならず場中《じょうちゅう》一体が気色立《けしきだ》つ。それも道理だ。赤い襦袢《じゅばん》の上に紫繻子《むらさきじゅす》の幅広い襟《えり》をつけた座敷着の遊女が、冠《かぶ》る手拭《てぬぐい》に顔をかくして、前かがまりに花道《はなみち》から駈出《かけだ》したのである。「見えねえ、前が高いッ。」「帽子をとれッ。」「馬鹿野郎。」なぞと怒鳴《どな》るものがある。
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※[#歌記号、1-3-28]落ちて行衛《ゆくえ》も白魚《しらうお》の、舟のかがりに網よりも、人目いとうて後先《あとさき》に……
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 女に扮《ふん》した役者は花道の尽きるあたりまで出て後《うしろ》を見返りながら台詞《せりふ》を述べた。その後《あと》に唄《うた》がつづく。
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※[#歌記号、1-3-28]しばし彳《たたず》む上手《うわて》より梅見返《うめみがえ》りの舟の唄。※[#歌記号、1-3-28]忍ぶなら忍ぶなら闇《やみ》の夜は置かしやんせ、月に雲のさはりなく、辛気《しんき》待つ宵、十六夜《いざよい》の、内《うち》の首尾《しゅび》はエーよいとのよいとの。※[#歌記号、1-3-28]聞く辻占《つじうら》にいそいそと雲足早き雨空《あまぞら》も、思ひがけなく吹き晴れて見かはす月の顔と顔……
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 見物がまた騒ぐ。真黒に塗りたてた空の書割の中央《まんなか》を大きく穿抜《くりぬ》いてある円《まる》い穴に灯《ひ》がついて、雲形《くもがた》の蔽《おお》いをば糸で引上げるのが此方《こなた》からでも能《よ》く見えた。余りに月が大きく明《あかる》いから、大名屋敷の塀の方が遠くて月の方がかえって非常に近く見える。しかし長吉は他の見物も同様少しも美しい幻想を破られなかった。それのみならず去年の夏の末、お糸を葭町《よしちょう》へ送るため、待合《まちあわ》した今戸《いまど》の橋から眺めた彼《あ》の大きな円《まる》い円い月を思起《おもいおこ》すと、もう舞台は舞台でなくなった。
 着流し散髪《ざんぱつ》の男がいかにも思いやつれた風《ふう》で足許《あしもと》危《あやう》く歩み出る。女と摺《す》れちがいに顔を見合して、
「十六夜《いざよい》か。」
「清心《せいしん》さまか。」
 女は男に縋《すが》って、「逢《あ》ひたかつたわいなア。」
 見物人が「やア御両人《ごりょうにん》。」「よいしょ。やけます。」なぞと叫ぶ。笑う声。「静かにしろい。」と叱《しか》りつける熱情家もあった。

 舞台は相《あい》愛する男女の入水《じゅすい》と共に廻って、女の方が白魚舟《しらうおぶね》の夜網《よあみ》にかかって助けられる処になる。再び元の舞台に返って、男も同じく死ぬ事が出来なくて石垣の上に這《は》い上《あが》る。遠くの騒ぎ唄、富貴《ふうき》の羨望《せんぼう》、生存の快楽、境遇の絶望、機会と運命、誘惑、殺人。波瀾《はらん》の上にも脚色の波瀾を極めて、遂に演劇の一幕《ひとまく》が終る。耳元近くから恐しい黄《きいろ》い声が、「変るよ――ウ」と叫び出した。見物人が出口の方へと崩《なだれ》を打って下《お》りかける。
 長吉は外へ出ると急いで歩いた。あたりはまだ明《あかる》いけれどもう日は当っていない。ごたごたした千束町《せんぞくまち》の小売店《こうりみせ》の暖簾《のれん》や旗なぞが激しく飜《ひるがえ》っている。通りがかりに時間を見るため腰をかがめて覗《のぞ》いて見ると軒の低いそれらの家《うち》の奥は真暗《まっくら》であった。長吉は病後の夕風を恐れてますます歩みを早めたが、しかし山谷堀《さんやぼり》から今戸橋《いまどばし》の向《むこう》に開ける隅田川《すみだがわ》の景色を見ると、どうしても暫《しばら》く立止らずにはいられなくなった。河の面《おもて》は悲しく灰色に光っていて、冬の日の終りを急がす水蒸気は対岸の堤をおぼろに霞《かす》めている。荷船《にぶね》の帆の間をば鴎《かもめ》が幾羽となく飛び交《ちが》う。長吉はどんどん流れて行く河水《かわみず》をば何がなしに悲しいものだと思った。川向《かわむこう》の堤の上には一ツ二ツ灯《ひ》がつき出した。枯れた樹木、乾いた石垣、汚れた瓦《かわら》屋根、目に入《い》るものは尽《ことごと》く褪《あ》せた寒い色をしているので、芝居を出てから一瞬間とても消失《きえう》せない清心《せいしん》と十六夜《いざよい》の華美《はで》やかな姿の記憶が、羽子板《はごいた》の押絵《おしえ》のようにまた一段と際立《きわだ》って浮び出す。長吉は劇中の人物をば憎いほどに羨《うらや》んだ。いくら羨んでも到底及びもつかないわが身の上を悲しんだ。死んだ方がましだと思うだけ、一緒に死んでくれる人のない身の上を更に痛切に悲しく思った。
 今戸橋を渡りかけた時、掌《てのひら》でぴしゃりと横面《よこつら》を張撲《はりなぐ》るような河風。思わず寒さに胴顫《どうぶる》いすると同時に長吉は咽喉《のど》の奥から、今までは記憶しているとも心付かずにいた浄瑠璃《じょうるり》の一節《いっせつ》がわれ知らずに流れ出るのに驚いた。
  今さらいふも愚痴《ぐち》なれど……

と清元《きよもと》の一派が他流の模《も》すべからざる曲調《きょくちょう》の美麗を托した一節《いっせつ》である。長吉は無論|太夫《たゆう》さんが首と身体《からだ》を伸上《のびあが》らして唄ったほど上手に、かつまたそんな大きな声で唄ったのではない。咽喉から流れるままに口の中で低唱《ていしょう》したのであるが、それによって長吉はやみがたい心の苦痛が幾分か柔《やわら》げられるような心持がした。今更いうも愚痴なれど……ほんに思えば……岸より覗《のぞ》く青柳《あおやぎ》の……と思出《おもいだ》す節《ふし》の、ところどころを長吉は家《うち》の格子戸《こうしど》を開ける時まで繰返《くりかえ》し繰返し歩いた。

 翌日《あくるひ》の午後《ひるすぎ》にまたもや宮戸座《みやとざ》の立見《たちみ》に出掛けた。長吉は恋の二人が手を取って嘆く美しい舞台から、昨日《きのう》始めて経験したいうべからざる悲哀の美感に酔《え》いたいと思ったのである。そればかりでなく黒ずんだ天井と壁《かべ》襖《ふすま》に囲まれた二階の室《へや》がいやに陰気臭くて、燈火《とうか》の多い、人の大勢集っている芝居の賑《にぎわ》いが、我慢の出来ぬほど恋しく思われてならなかったのである。長吉は失ったお糸の事以外に折々《おりおり》は唯《た》だ何という訳《わけ》もなく淋《さび》しい悲しい気がする。自分にもどういう訳だか少しも分らない。唯だ淋しい、唯だ悲しいのである。この寂寞《せきばく》この悲哀を慰めるために、長吉は定めがたい何物かを一刻一刻に激しく要求して止《や》まない。胸の底に潜《ひそ》んだ漠然たる苦痛を、誰と限らず優しい声で答えてくれる美しい女に訴えて見たくてならない。単にお糸一人の姿のみならず、往来で摺《す》れちがった見知らぬ女の姿が、島田の娘になったり、銀杏返《いちょうがえし》の芸者《げいしゃ》になったり、または丸髷《まるまげ》の女房姿になったりして夢の中に浮ぶ事さえあった。
 長吉は二度見る同じ芝居の舞台をば初めてのように興味深く眺めた。それと同時に、今度は賑《にぎや》かな左右の桟敷《さじき》に対する観察をも決して閑却しなかった。世の中にはあんなに大勢女がいる。あんなに大勢女のいる中で、どうして自分は一人も自分を慰めてくれる相手に邂逅《めぐりあ》わないのであろう。誰れでもいい。自分に一言《ひとこと》やさしい語《ことば》をかけてくれる女さえあれば、自分はこんなに切なくお糸の事ばかり思いつめてはいまい。お糸の事を思えば思うだけその苦痛をへらす他のものが欲しい。さすれば学校とそれに関連した身の前途に対する絶望のみに沈められていまい……。
 立見の混雑の中にその時突然自分の肩を突くものがあるので驚いて振向くと、長吉は鳥打帽《とりうちぼう》を眉深《まぶか》に黒い眼鏡をかけて、後《うしろ》の一段高い床《ゆか》から首を伸《のば》して見下《みおろ》す若い男の顔を見た。
「吉《きち》さんじゃないか。」
 そういったものの、長吉は吉さんの風采《ふうさい》の余りに変っているのに暫《しばら》くは二の句がつげなかった。吉さんというのは地方町《じかたまち》の小学校時代の友達で、理髪師《とこや》をしている山谷通《さんやどお》りの親爺《おやじ》の店で、これまで長吉の髪をかってくれた若衆《わかいしゅ》である。それが絹ハンケチを首に巻いて二重廻《にじゅうまわし》の下から大島紬《おおしまつむぎ》の羽織を見せ、いやに香水を匂《にお》わせながら、
「長《ちょう》さん、僕は役者だよ。」と顔をさし出して長吉の耳元に囁《ささや》いた。
 立見の混雑の中でもあるし、長吉は驚いたまま黙っているより仕様がなかったが、舞台はやがて昨日《きのう》の通りに河端《かわばた》の暗闘《だんまり》になって、劇の主人公が盗んだ金を懐中《ふところ》に花道へ駈出《かけい》でながら石礫《いしつぶて》を打つ、それを合図にチョンと拍子木が響く。幕が動く。立見の人中《ひとなか》から例の「変るよーウ」と叫ぶ声。人崩《ひとなだ》れが狭い出口の方へと押合う間《うち》に幕がすっかり引かれて、シャギリの太鼓が何処《どこ》か分らぬ舞台の奥から鳴り出す。吉さんは長吉の袖《そで》を引止めて、
「長さん、帰るのか。いいじゃないか。もう一幕見ておいでな。」
 役者の仕着《しき》せを着た賤《いや》しい顔の男が、渋紙《しぶかみ》を張った小笊《こざる》をもって、次の幕の料金を集めに来たので、長吉は時間を心配しながらもそのまま居残った。
「長さん、綺麗《きれい》だよ、掛けられるぜ。」吉さんは人のすいた後《うしろ》の明り取りの窓へ腰をかけて長吉が並んで腰かけるのを待つようにして再び「僕ァ役者だよ。変ったろう。」といいながら友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の襦袢《じゅばん》の袖を引き出して、わざとらしく脱《はず》した黒い金縁眼鏡《きんぶちめがね》の曇りを拭きはじめた。
「変ったよ。僕ァ始め誰かと思った。」
「驚いたかい。ははははは。」吉さんは何ともいえぬほど嬉しそうに笑って、「頼むぜ。長さん。こう見えたって憚《はばか》りながら役者だ。伊井《いい》一座の新俳優だ。明後日《あさって》からまた新富町《しんとみちょう》よ。出揃《でそろ》ったら見に来給え。いいかい。楽屋口《がくやぐち》へ廻って、玉水《たまみず》を呼んでくれっていいたまえ。」
「玉水……?」
「うむ、玉水三郎……。」いいながら急《せわ》しなく懐中《ふところ》から女持《おんなもち》の紙入《かみいれ》を探《さぐ》り出して、小さな名刺を見せ、「ね、玉水三郎。昔の吉さんじゃないぜ。ちゃんともう番附《ばんづけ》に出ているんだぜ。」
「面白いだろうね。役者になったら。」
「面白かったり、辛《つら》かったり……しかし女にゃア不自由しねえよ。」吉さんはちょっと長吉の顔を見て、「長さん、君は遊ぶのかい。」
 長吉は「まだ」と答えるのがその瞬間男の恥であるような気がして黙った。
「江戸一の梶田楼《かじたろう》ッていう家《うち》を知ってるかい。今夜一緒にお出でな。心配しないでもいいんだよ。のろけるんじゃないが、心配しないでもいいわけがあるんだから。お安くないだろう。ははははは。」と吉さんは他愛もなく笑った。長吉は突然に、
「芸者は高いんだろうね。」
「長さん、君は芸者が好きなのか、贅沢《ぜいたく》だ。」と新俳優の吉さんは意外らしく長吉の顔を見返したが、「知れたもんさ。しかし金で女を買うなんざア、ちッとお人《ひと》が好過《よすざ》らア。僕ァ公園で二、三軒|待合《まちあい》を知ってるよ。連れてッてやろう。万事《ばんじ》方寸《ほうすん》の中《うち》にありさ。」
 先刻《さっき》から三人四人と絶えず上って来る見物人で大向《おおむこう》はかなり雑沓《ざっとう》して来た。前の幕から居残っている連中《れんじゅう》には待ちくたびれて手を鳴《なら》すものもある。舞台の奥から拍子木の音が長い間《ま》を置きながら、それでも次第に近く聞えて来る。長吉は窮屈に腰をかけた明り取りの窓から立上る。すると吉さんは、
「まだ、なかなかだ。」と独言《ひとりごと》のようにいって、「長さん。あれァ廻りの拍子木といって道具立《どうぐだて》の出来上ッたって事を、役者の部屋の方へ知らせる合図なんだ。開《あ》くまでにゃアまだ、なかなかよ。」
 悠然として巻煙草《まきたばこ》を吸い初める。長吉は「そうか」と感服したらしく返事をしながら、しかし立上ったままに立見の鉄格子から舞台の方を眺めた。花道から平土間《ひらどま》の桝《ます》の間《あいだ》をば吉さんの如く廻りの拍子木の何たるかを知らない見物人が、すぐにも幕があくのかと思って、出歩いていた外《そと》から各自の席に戻ろうと右方左方へと混雑している。横手の桟敷裏《さじきうら》から斜《ななめ》に引幕《ひきまく》の一方にさし込む夕陽《ゆうひ》の光が、その進み入る道筋だけ、空中に漂《ただよ》う塵と煙草の煙をばありありと眼に見せる。長吉はこの夕陽の光をば何という事なく悲しく感じながら、折々《おりおり》吹込む外の風が大きな波を打《うた》せる引幕の上を眺めた。引幕には市川《いちかわ》○○丈《じょう》へ、浅草公園|芸妓連中《げいぎれんじゅう》として幾人《いくたり》となく書連《かきつら》ねた芸者の名が読まれた。暫《しばら》くして、
「吉さん、君、あの中で知ってる芸者があるかい。」
「たのむよ。公園は乃公《おいら》たちの縄張中《なわばりうち》だぜ。」吉さんは一種の屈辱を感じたのであろう、嘘《うそ》か誠か、幕の上にかいてある芸者の一人々々の経歴、容貌、性質を限りもなく説明しはじめた。
 拍子木がチョンチョンと二ツ鳴った。幕開《まくあき》の唄《うた》と三味線が聞え引かれた幕が次第に細《こま》かく早める拍子木の律《りつ》につれて片寄せられて行く。大向《おおむこう》から早くも役者の名をよぶ掛け声。たいくつした見物人の話声が一時《いちじ》に止《や》んで、場内は夜の明けたような一種の明るさと一種の活気《かっき》を添えた。

 お豊《とよ》は今戸橋《いまとばし》まで歩いて来て時節《じせつ》は今《いま》正《まさ》に爛漫《らんまん》たる春の四月である事を始めて知った。手一ツの女世帯《おんなじょたい》に追われている身は空が青く晴れて日が窓に射込《さしこ》み、斜向《すじむこう》の「宮戸川《みやとがわ》」という鰻屋《うなぎや》の門口《かどぐち》の柳が緑色の芽をふくのにやっと時候の変遷を知るばかり。いつも両側の汚れた瓦屋根《かわらやね》に四方《あたり》の眺望を遮《さえざ》られた地面の低い場末の横町《よこちょう》から、今突然、橋の上に出て見た四月の隅田川《すみだがわ》は、一年に二、三度と数えるほどしか外出《そとで》する事のない母親お豊の老眼をば信じられぬほどに驚かしたのである。晴れ渡った空の下に、流れる水の輝き、堤の青草、その上につづく桜の花、種々《さまざま》の旗が閃《ひらめ》く大学の艇庫《ていこ》、その辺《へん》から起る人々の叫び声、鉄砲の響《ひびき》。渡船《わたしぶね》から上下《あがりお》りする花見の人の混雑。あたり一面の光景は疲れた母親の眼には余りに色彩が強烈すぎるほどであった。お豊は渡場《わたしば》の方へ下《お》りかけたけれど、急に恐るる如く踵《くびす》を返して、金竜山下《きんりゅうざんした》の日蔭《ひかげ》になった瓦町《かわらまち》を急いだ。そして通りがかりのなるべく汚《きたな》い車、なるべく意気地《いくじ》のなさそうな車夫《しゃふ》を見付けて恐る恐る、
「車屋さん、小梅《こうめ》まで安くやって下さいな。」といった。
 お豊は花見どころの騒ぎではない。もうどうしていいのか分らない。望みをかけた一人息子の長吉は試験に落第してしまったばかりか、もう学校へは行きたくない、学問はいやだといい出した。お豊は途法《とほう》に暮れた結果、兄の蘿月《らげつ》に相談して見るより外《ほか》に仕様がないと思ったのである。
 三度目に掛合《かけあ》った老車夫が、やっとの事でお豊の望む賃銀で小梅行きを承知した。吾妻橋《あずまばし》は午後の日光と塵埃《じんあい》の中におびただしい人出《ひとで》である。着飾った若い花見の男女を載《の》せて勢《いきおい》よく走る車の間《あいだ》をば、お豊を載せた老車夫は梶《かじ》を振りながらよたよた歩いて橋を渡るや否や桜花の賑《にぎわ》いを外《よそ》に、直《す》ぐと中《なか》の郷《ごう》へ曲って業平橋《なりひらばし》へ出ると、この辺はもう春といっても汚い鱗葺《こけらぶき》の屋根の上に唯《た》だ明《あかる》く日があたっているというばかりで、沈滞した堀割《ほりわり》の水が麗《うららか》な青空の色をそのままに映している曳舟通《ひきふねどお》り。昔は金瓶楼《きんべいろう》の小太夫《こだゆう》といわれた蘿月の恋女房は、綿衣《ぬのこ》の襟元《えりもと》に手拭《てぬぐい》をかけ白粉焼《おしろいや》けのした皺《しわ》の多い顔に一ぱいの日を受けて、子供の群《むれ》がめんこ[#「めんこ」に傍点]や独楽《こま》の遊びをしている外《ほか》には至って人通りの少い道端《みちばた》の格子戸先《こうしどさき》で、張板《はりいた》に張物《はりもの》をしていた。駈《か》けて来て止る車と、それから下りるお豊の姿を見て、
「まアお珍しいじゃありませんか。ちょいと今戸《いまど》の御師匠《おししょう》さんですよ。」と開《あ》けたままの格子戸から家《うち》の内《なか》へと知らせる。内《なか》には主人《あるじ》の宗匠《そうしょう》が万年青《おもと》の鉢を並べた縁先《えんさき》へ小机を据え頻《しきり》に天地人《てんちじん》の順序をつける俳諧《はいかい》の選《せん》に急がしい処であった。
 掛けている眼鏡をはずして、蘿月は机を離れて座敷の真中《まんなか》に坐り直ったが、襷《たすき》をとりながら這入《はい》って来る妻のお滝《たき》と来訪のお豊、同じ年頃《としごろ》の老いた女同士は幾度《いくたび》となくお辞儀の譲合《ゆずりあい》をしては長々しく挨拶《あいさつ》した。そしてその挨拶の中に、「長ちゃんも御丈夫ですか。」「はア、しかし彼《あれ》にも困りきります。」というような問答《もんどう》から、用件は案外に早く蘿月の前に提出される事になったのである。蘿月は静《しずか》に煙草《たばこ》の吸殻《すいがら》をはたいて、誰にかぎらず若い中《うち》はとかくに気の迷うことがある。気の迷っている時には、自分にも覚えがあるが、親の意見も仇《あだ》としか聞えない。他《はた》から余り厳しく干渉するよりはかえって気まかせにして置く方が薬になりはしまいかと論じた。しかし目に見えない将来の恐怖ばかりに満《みた》された女親の狭い胸にはかかる通人《つうじん》の放任主義は到底|容《い》れられべきものでない。お豊は長吉が久しい以前からしばしば学校を休むために自分の認印《みとめいん》を盗んで届書《とどけしょ》を偽造していた事をば、暗黒な運命の前兆である如く、声まで潜《ひそ》めて長々しく物語る……
「学校がいやなら如何《どう》するつもりだと聞いたら、まアどうでしょう、役者になるんだッていうんですよ。役老に。まア、どうでしょう。兄さん。私ゃそんなに長吉の根性が腐っちまッたのかと思ったら、もう実に口惜《くや》しくッてならないんですよ。」
「へーえ、役者になりたい。」訝《いぶか》る間《ま》もなく蘿月は七ツ八ツの頃によく三味線を弄物《おもちゃ》にした長吉の生立《おいた》ちを回想した。「当人がたってと望むなら仕方のない話だが……困ったものだ。」
 お豊は自分の身こそ一家の不幸のために遊芸の師匠に零落《れいらく》したけれど、わが子までもそんな賤《いや》しいものにしては先祖の位牌《いはい》に対して申訳《もうしわけ》がないと述べる。蘿月は一家の破産滅亡の昔をいい出されると勘当《かんどう》までされた放蕩三昧《ほうとうざんまい》の身は、何《なん》につけ、禿頭《はげあたま》をかきたいような当惑を感ずる。もともと芸人社会は大好《だいすき》な趣味性から、お豊の偏屈《へんくつ》な思想をば攻撃したいと心では思うもののそんな事からまたしても長たらしく「先祖の位牌」を論じ出されては堪《たま》らないと危《あやぶ》むので、宗匠《そうしょう》は先《ま》ずその場を円滑《えんかつ》に、お豊を安心させるようにと話をまとめかけた。
「とにかく一応は私《わし》が意見しますよ、若い中《うち》は迷うだけにかえって始末のいいものさ。今夜にでも明日《あした》にでも長吉に遊びに来るようにいって置きなさい。私《わし》がきっと改心さして見せるから、まアそんなに心配しないがいいよ。なに世の中は案じるより産《う》むが安いさ。」
 お豊は何分よろしくと頼んでお滝が引止めるのを辞退してその家を出た。春の夕陽《ゆうひ》は赤々と吾妻橋《あずまばし》の向うに傾いて、花見帰りの混雑を一層引立てて見せる。その中《うち》にお豊は殊更元気よく歩いて行く金ボタンの学生を見ると、それが果して大学校の生徒であるか否かは分らぬながら、我児《わがこ》もあのような立派な学生に仕立てたいばかりに、幾年間女の身一人《みひとつ》で生活と戦って来たが、今は生命《いのち》に等しい希望の光も全く消えてしまったのかと思うと実に堪えられぬ悲愁に襲われる。兄の蘿月に依頼しては見たもののやっぱり安心が出来ない。なにも昔の道楽者だからという訳ではない。長吉に志を立てさせるのは到底|人間業《にんげんわざ》では及《およば》ぬ事、神仏《かみほとけ》の力に頼らねばならぬと思い出した。お豊は乗って来た車から急に雷門《かみなりもん》で下りた。仲店《なかみせ》の雑沓《ざっとう》をも今では少しも恐れずに観音堂へと急いで、祈願を凝《こら》した後に、お神籤《みくじ》を引いて見た。古びた紙片《かみきれ》に木版摺《もくはんずり》で、

 お豊は大吉《だいきち》という文字を見て安心はしたものの、大吉はかえって凶《きょう》に返りやすい事を思い出して、またもや自分からさまざまな恐怖を造出《つくりだ》しつつ、非常に疲れて家《うち》へ帰った。

 午後《ひるすぎ》から亀井戸《かめいど》の竜眼寺《りゅうがんじ》の書院で俳諧《はいかい》の運座《うんざ》があるというので、蘿月《らげつ》はその日の午前に訪ねて来た長吉と茶漬《ちゃづけ》をすました後《のち》、小梅《こうめ》の住居《すまい》から押上《おしあげ》の堀割《ほりわり》を柳島《やなぎしま》の方へと連れだって話しながら歩いた。堀割は丁度真昼の引汐《ひきしお》で真黒《まっくろ》な汚ない泥土《でいど》の底を見せている上に、四月の暖い日光に照付けられて、溝泥《どぶどろ》の臭気を盛《さかん》に発散している。何処《どこ》からともなく煤烟《ばいえん》の煤《すす》が飛んで来て、何処という事なしに製造場《せいぞうば》の機械の音が聞える。道端《みちばた》の人家は道よりも一段低い地面に建てられてあるので、春の日の光を外《よそ》に女房共がせっせと内職している薄暗い家内《かない》のさまが、通りながらにすっかりと見透《みとお》される。そういう小家《こいえ》の曲り角の汚れた板目《はめ》には売薬と易占《うらない》の広告に交《まじ》って至る処《ところ》女工募集の貼紙《はりがみ》が目についた。しかし間もなくこの陰鬱《いんうつ》な往来《おうらい》は迂曲《うね》りながらに少しく爪先上《つまさきあが》りになって行くかと思うと、片側に赤く塗った妙見寺《みょうけんじ》の塀と、それに対して心持よく洗いざらした料理屋|橋本《はしもと》の板塀《いたべい》のために突然面目を一変させた。貧しい本所《ほんじょ》の一区が此処《ここ》に尽きて板橋のかかった川向うには野草《のぐさ》に蔽《おお》われた土手を越して、亀井戸村《かめいどむら》の畠と木立《こだち》とが美しい田園の春景色をひろげて見せた。蘿月は踏み止《とどま》って、
「私《わし》の行くお寺はすぐ向うの川端《かわばた》さ、松の木のそばに屋根が見えるだろう。」
「じゃ、伯父さん。ここで失礼しましょう。」長吉は早くも帽子を取る。
「いそぐんじゃない。咽喉《のど》が乾いたから、まア長吉、ちょっと休んで行こうよ。」
 赤く塗った板塀に沿うて、妙見寺の門前に葭簀《よしず》を張った休茶屋《やすみぢゃや》へと、蘿月は先に腰を下《おろ》した。一直線の堀割はここも同じように引汐の汚い水底《みなそこ》を見せていたが、遠くの畠の方から吹いて来る風はいかにも爽《さわや》かで、天神様の鳥居が見える向うの堤の上には柳の若芽が美しく閃《ひらめ》いているし、すぐ後《うしろ》の寺の門の屋根には雀《すずめ》と燕《つばめ》が絶え間なく囀《さえず》っているので、其処《そこ》此処《ここ》に製造場の烟出《けむだ》しが幾本も立っているにかかわらず、市街《まち》からは遠い春の午後《ひるすぎ》の長閉《のどけ》さは充分に心持よく味《あじわ》われた。蘿月は暫《しばら》くあたりを眺めた後《のち》、それとなく長吉の顔をのぞくようにして、
「さっきの話は承知してくれたろうな。」
 長吉は丁度茶を飲みかけた処なので、頷付《うなず》いたまま、口に出して返事はしなかった。
「とにかくもう一年|辛抱《しんぼう》しなさい。今の学校さえ卒業しちまえば……母親《おふくろ》だって段々取る年だ、そう頑固ばかりもいやアしまいから。」
 長吉は唯《た》だ首を頷付かせて、何処《どこ》と当《あて》もなしに遠くを眺めていた。引汐の堀割に繋《つな》いだ土船《つちぶね》からは人足《にんそく》が二、三人して堤の向うの製造場へと頻《しきり》に土を運んでいる。人通りといっては一人もない此方《こなた》の岸をば、意外にも突然二台の人力車《じんりきしゃ》が天神橋の方から駈《か》けて来て、二人の休んでいる寺の門前《もんぜん》で止った。大方《おおかた》墓参りに来たのであろう。町家《ちょうか》の内儀《ないぎ》らしい丸髷《まるまげ》の女が七《なな》、八《やっ》ツになる娘の手を引いて門の内《なか》へ這入《はい》って行った。
 長吉は蘿月の伯父と橋の上で別れた。別れる時に蘿月は再び心配そうに、
「じゃ……。」といって暫く黙った後《のち》、「いやだろうけれど当分辛抱しなさい。親孝行して置けば悪い報《むくい》はないよ。」
 長吉は帽子を取って軽く礼をしたがそのまま、駈《か》けるように早足《はやあし》に元《もと》来た押上《おしあげ》の方へ歩いて行った。同時に蘿月の姿は雑草の若芽に蔽《おお》われた川向うの土手の陰にかくれた。蘿月は六十に近いこの年まで今日《きょう》ほど困った事、辛《つら》い感情に迫《せ》められた事はないと思ったのである。妹お豊のたのみも無理ではない。同時に長吉が芝居道《しばいどう》へ這入《はい》ろうという希望《のぞみ》もまたわるいとは思われない。一寸の虫にも五分の魂で、人にはそれぞれの気質がある。よかれあしかれ、物事を無理に強《し》いるのはよくないと思っているので、蘿月は両方から板ばさみになるばかりで、いずれにとも賛同する事ができないのだ。殊《こと》に自分が過去の経歴を回想すれば、蘿月は長吉の心の中《うち》は問わずとも底の底まで明《あきら》かに推察される。若い頃の自分には親《おや》代々《だいだい》の薄暗い質屋の店先に坐って麗《うらら》かな春の日を外《よそ》に働きくらすのが、いかに辛くいかに情《なさけ》なかったであろう。陰気な燈火《ともしび》の下で大福帳《だいふくちょう》へ出入《でいり》の金高《きんだか》を書き入れるよりも、川添いの明《あかる》い二階家で洒落本《しゃれほん》を読む方がいかに面白かったであろう。長吉は髯《ひげ》を生《はや》した堅苦しい勤め人《にん》などになるよりも、自分の好きな遊芸で世を渡りたいという。それも一生、これも一生である。しかし蘿月は今よんどころなく意見役の地位に立つ限り、そこまでに自己の感想を暴露《ばくろ》してしまうわけには行かないので、その母親に対したと同じような、その場かぎりの気安めをいって置くより仕様がなかった。

 長吉は何処《いずこ》も同じような貧しい本所《ほんじょ》の街から街をばてくてく歩いた。近道を取って一直線に今戸《いまど》の家《うち》へ帰ろうと思うのでもない。何処《どこ》へか廻り道して遊んで帰ろうと考えるのでもない。長吉は全く絶望してしまった。長吉は役者になりたい自分の主意を通すには、同情の深い小梅《こうめ》の伯父さんに頼るより外《ほか》に道がない。伯父さんはきっと自分を助けてくれるに違いないと予期していたが、その希望は全く自分を欺《あざむ》いた。伯父は母親のように正面から烈《はげ》しく反対を称《とな》えはしなかったけれど、聞いて極楽見て地獄の譬《たとえ》を引き、劇道《げきどう》の成功の困難、舞台の生活の苦痛、芸人社会の交際の煩瑣《はんさ》な事なぞを長々と語った後《のち》、母親の心をも推察してやるようにと、伯父の忠告を待たずともよく解《わか》っている事を述べつづけたのであった。長吉は人間というものは年を取ると、若い時分に経験した若いものしか知らない煩悶《はんもん》不安をばけろり[#「けろり」に傍点]と忘れてしまって、次の時代に生れて来る若いものの身の上を極めて無頓着《むとんちゃく》に訓戒批評する事のできる便利な性質を持っているものだ、年を取ったものと若いものの間には到底一致されない懸隔《けんかく》のある事をつくづく感じた。
 何処《どこ》まで歩いて行っても道は狭くて土が黒く湿っていて、大方は路地《ろじ》のように行き止りかと危《あやぶ》まれるほど曲っている。苔《こけ》の生えた鱗葺《こけらぶ》きの屋根、腐った土台、傾いた柱、汚れた板目《はめ》、干してある襤褸《ぼろ》や襁褓《おしめ》や、並べてある駄菓子や荒物《あらもの》など、陰鬱《いんうつ》な小家《こいえ》は不規則に限りもなく引きつづいて、その間に時々驚くほど大きな門構《もんがまえ》の見えるのは尽《ことごと》く製造場であった。瓦《かわら》屋根の高く聳《そび》えているのは古寺《ふるでら》であった。古寺は大概荒れ果てて、破れた塀から裏手の乱塔場《らんとうば》がすっかり見える。束《たば》になって倒れた卒塔婆《そとば》と共に青苔《あおごけ》の斑点《しみ》に蔽《おお》われた墓石《はかいし》は、岸という限界さえ崩《くず》れてしまった水溜《みずたま》りのような古池の中へ、幾個《いくつ》となくのめり込んでいる。無論新しい手向《たむけ》の花なぞは一つも見えない。古池には早くも昼中《ひるなか》に蛙《かわず》の声が聞えて、去年のままなる枯草は水にひたされて腐《くさ》っている。
 長吉はふと近所の家の表札に中郷竹町《なかのごうたけちょう》と書いた町の名を読んだ。そして直様《すぐさま》、この頃《ごろ》に愛読した為永春水《ためながしゅんすい》の『梅暦《うめごよみ》』を思出した。ああ、薄命なあの恋人たちはこんな気味のわるい湿地《しっち》の街に住んでいたのか。見れば物語の挿絵《さしえ》に似た竹垣の家もある。垣根の竹は枯れきってその根元は虫に喰われて押せば倒れそうに思われる。潜門《くぐりもん》の板屋根には痩《や》せた柳が辛《から》くも若芽の緑をつけた枝を垂《たら》している。冬の昼過ぎ窃《ひそ》かに米八《よねはち》が病気の丹次郎《たんじろう》をおとずれたのもかかる佗住居《わびずまい》の戸口《とぐち》であったろう。半次郎《はんじろう》が雨の夜《よ》の怪談に始めてお糸《いと》の手を取ったのもやはりかかる家の一間《ひとま》であったろう。長吉は何ともいえぬ恍惚《こうこつ》と悲哀とを感じた。あの甘くして柔かく、忽《たちま》ちにして冷淡な無頓着《むとんちゃく》な運命の手に弄《もてあそ》ばれたい、という止《や》みがたい空想に駆られた。空想の翼のひろがるだけ、春の青空が以前よりも青く広く目に映じる。遠くの方から飴売《あめうり》の朝鮮笛《ちょうせんぶえ》が響き出した。笛の音《ね》は思いがけない処で、妙な節《ふし》をつけて音調を低めるのが、言葉にいえない幽愁を催《もよお》させる。
 長吉は今まで胸に蟠《わだかま》った伯父に対する不満を暫《しばら》く忘れた。現実の苦悶《くもん》を暫く忘れた……。

 気候が夏の末から秋に移って行く時と同じよう、春の末から夏の始めにかけては、折々《おりおり》大雨《おおあめ》が降《ふり》つづく。千束町《せんぞくまち》から吉原田圃《よしわらたんぼ》は珍しくもなく例年の通りに水が出た。本所《ほんじょ》も同じように所々《しょしょ》に出水《しゅっすい》したそうで、蘿月《らげつ》はお豊《とよ》の住む今戸《いまと》の近辺《きんぺん》はどうであったかと、二、三日過ぎてから、所用の帰りの夕方に見舞に来て見ると、出水《でみず》の方は無事であった代りに、それよりも、もっと意外な災難にびっくりしてしまった。甥《おい》の長吉が釣台《つりだい》で、今しも本所の避病院《ひびょういん》に送られようという騒《さわぎ》の最中《さいちゅう》である。母親のお豊は長吉が初袷《はつあわせ》の薄着をしたまま、千束町近辺の出水の混雑を見にと夕方から夜おそくまで、泥水の中を歩き廻ったために、その夜《よ》から風邪をひいて忽《たちま》ち腸窒扶斯《ちょうチブス》になったのだという医者の説明をそのまま語って、泣きながら釣台の後《あと》について行った。途法《とほう》にくれた蘿月はお豊の帰って来るまで、否応《いやおう》なく留守番にと家《うち》の中に取り残されてしまった。
 家の中は区役所の出張員が硫黄《いおう》の煙と石炭酸《せきたんさん》で消毒した後《あと》、まるで煤掃《すすは》きか引越しの時のような狼藉《ろうぜき》に、丁度|人気《ひとけ》のない寂しさを加えて、葬式の棺桶《かんおけ》を送出《おくりだ》した後と同じような心持である。世間を憚《はばか》るようにまだ日の暮れぬ先から雨戸を閉めた戸外《おもて》には、夜と共に突然強い風が吹き出したと見えて、家中《いえじゅう》の雨戸ががたがた鳴り出した。気候はいやに肌寒くなって、折々勝手口の破障子《やぶれしょうじ》から座敷の中まで吹き込んで来る風が、薄暗い釣《つるし》ランプの火をば吹き消しそうに揺《ゆす》ると、その度々《たびたび》、黒い油煙《ゆえん》がホヤを曇らして、乱雑に置き直された家具の影が、汚れた畳と腰張《こしばり》のはがれた壁の上に動く。何処《どこ》か近くの家で百万遍《ひゃくまんべん》の念仏を称え始める声が、ふと物哀れに耳についた。蘿月は唯《たっ》た一人で所在《しょざい》がない。退屈でもある。薄淋《うすさび》しい心持もする。こういう時には酒がなくてはならぬと思って、台所を探し廻ったが、女世帯《おんなじょたい》の事とて酒盃《さかずき》一《ひと》ツ見当らない。表の窓際《まどぎわ》まで立戻って雨戸の一枚を少しばかり引き開けて往来を眺めたけれど、向側《むこうがわ》の軒燈《けんとう》には酒屋らしい記号《しるし》のものは一ツも見えず、場末の街は宵ながらにもう大方《おおかた》は戸を閉めていて、陰気な百万遍の声がかえってはっきり聞えるばかり。河の方から烈《はげ》しく吹きつける風が屋根の上の電線をヒューヒュー鳴《なら》すのと、星の光の冴《さ》えて見えるのとで、風のある夜は突然冬が来たような寒い心持をさせた。
 蘿月は仕方なしに雨戸を閉めて、再びぼんやり釣《つるし》ランプの下に坐って、続けざまに煙草を喫《の》んでは柱時計の針の動くのを眺めた。時々|鼠《ねずみ》が恐しい響《ひびき》をたてて天井裏を走る。ふと蘿月は何かその辺《へん》に読む本でもないかと思いついて、箪笥《たんす》の上や押入の中を彼方《あっち》此方《こっち》と覗《のぞ》いて見たが、書物といっては常磐津《ときわず》の稽古本《けいこぼん》に綴暦《とじごよみ》の古いもの位しか見当らないので、とうとう釣ランプを片手にさげて、長吉の部屋になった二階まで上《あが》って行った。
 机の上に書物は幾冊も重ねてある。杉板の本箱も置かれてある。蘿月は紙入《かみいれ》の中にはさんだ老眼鏡を懐中《ふところ》から取り出して、先《ま》ず洋装の教科書をば物珍しく一冊々々ひろげて見ていたが、する中《うち》にばたりと畳の上に落ちたものがあるので、何かと取上げて見ると春着の芸者姿をしたお糸の写真であった。そっと旧《もと》のように書物の間に収めて、なおもその辺の一冊々々を何心もなく漁《あさ》って行くと、今度は思いがけない一通の手紙に行当《ゆきあた》った。手紙は書き終らずに止《や》めたものらしく、引き裂《さ》いた巻紙《まきがみ》と共に文句は杜切《とぎ》れていたけれど、読み得るだけの文字で十分に全体の意味を解する事ができる。長吉は一度《ひとたび》別れたお糸とは互《たがい》に異なるその境遇から日一日とその心までが遠《とおざ》かって行って、折角の幼馴染《おさななじみ》も遂にはあか[#「あか」に傍点]の他人に等しいものになるであろう。よし時々に手紙の取りやりはして見ても感情の一致して行かない是非《ぜひ》なさを、こまごまと恨んでいる。それにつけて、役者か芸人になりたいと思定《おもいさだ》めたが、その望みも遂《つい》に遂《と》げられず、空しく床屋《とこや》の吉《きち》さんの幸福を羨《うらや》みながら、毎日ぼんやりと目的のない時間を送っているつまらなさ、今は自殺する勇気もないから病気にでもなって死ねばよいと書いてある。
 蘿月は何というわけもなく、長吉が出水《でみず》の中を歩いて病気になったのは故意《こい》にした事であって、全快する望《のぞみ》はもう絶え果てているような実に果敢《はか》ない感《かんじ》に打たれた。自分は何故《なぜ》あの時あのような心にもない意見をして長吉の望みを妨《さまた》げたのかと後悔の念に迫《せ》められた。蘿月はもう一度思うともなく、女に迷って親の家を追出された若い時分の事を回想した。そして自分はどうしても長吉の味方にならねばならぬ。長吉を役者にしてお糸と添わしてやらねば、親代々の家《うち》を潰《つぶ》してこれまでに浮世の苦労をしたかいがない。通人《つうじん》を以て自任《じにん》する松風庵蘿月宗匠《しょうふうあんらげつそうしょう》の名に愧《はじ》ると思った。
 鼠がまた突如《だしぬけ》に天井裏を走る。風はまだ吹き止まない。釣《つるし》ランプの火は絶えず動揺《ゆらめ》く。蘿月は色の白い眼のぱっちりした面長《おもなが》の長吉と、円顔の口元に愛嬌《あいきょう》のある眼尻の上ったお糸との、若い美しい二人の姿をば、人情本の作者が口絵の意匠でも考えるように、幾度《いくたび》か並べて心の中《うち》に描きだした。そして、どんな熱病に取付かれてもきっと死んでくれるな。長吉、安心しろ。乃公《おれ》がついているんだぞと心に叫んだ。
    明治四十二年八月―十月作

    第五版すみだ川之序[「第五版すみだ川之序」は中見出し]

小説『すみだ川』を草《そう》したのはもう四年ほど前の事である。外国から帰って来たその当座一、二年の間はなおかの国の習慣が抜けないために、毎日の午後といえば必ず愛読の書をふところにして散歩に出掛けるのを常とした。しかしわが生れたる東京の市街は既に詩をよろこぶ遊民の散歩場《さんぽじょう》ではなくて行く処としてこれ戦乱後新興の時代の修羅場《しゅらじょう》たらざるはない。その中《なか》にもなおわずかにわが曲りし杖《つえ》を留《とど》め、疲れたる歩みを休めさせた処はやはりいにしえの唄《うた》に残った隅田川《すみだがわ》の両岸であった。隅田川はその当時|目《ま》のあたり眺める破損の実景と共に、子供の折に見覚えた朧《おぼ》ろなる過去の景色の再来と、子供の折から聞伝《ききつた》えていたさまざまの伝説の美とを合せて、いい知れぬ音楽の中に自分を投込んだのである。既に全く廃滅に帰せんとしている昔の名所の名残ほど自分の情緒に対して一致調和を示すものはない。自分はわが目に映じたる荒廃の風景とわが心を傷《いた》むる感激の情とを把《と》ってここに何物かを創作せんと企てた。これが小説『すみだ川』である。さればこの小説一篇は隅田川という荒廃の風景が作者の視覚を動《うごか》したる象形的幻想を主として構成せられた写実的外面の芸術であると共にまたこの一篇は絶えず荒廃の美を追究せんとする作者の止《や》みがたき主観的傾向が、隅田川なる風景によってその抒情詩的本能を外発さすべき象徴を捜《もと》めた理想的内面の芸術ともいい得よう。さればこの小説中に現わされた幾多の叙景《じょけい》は篇中の人物と同じく、否《いな》時としては人物より以上に重要なる分子として取扱われている。それと共に篇中の人物は実在のモデルによって活《い》ける人間を描写したのではなくて、丁度アンリイ、ド、レニエエがかの『賢き一青年の休暇』に現《あらわ》したる人物と斉《ひと》しく、隅田川の風景によって偶然にもわが記憶の中に蘇《よみがえ》り来《きた》った遠い過去の人物の正《まさ》に消え失《う》せんとするその面影《おもかげ》を捉《とら》えたに過ぎない。作者はその少年時代によく見馴《みな》れたこれら人物に対していかなる愛情と懐《なつか》しさとを持っているかは言うを俟《ま》たぬ。今年花また開くの好時節に際し都下の或《ある》新聞紙は※[#「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25]上《ぼくじょう》の桜樹《おうじゅ》漸《ようや》く枯死《こし》するもの多きを説く。ああ新しき時代は遂に全く破壊の事業を完成し得たのである。さらばやがてはまた幾年の後に及んで、いそがしき世は製造所の煙筒《えんとう》叢立《むらだ》つ都市の一隅に当ってかつては時鳥《ほととぎす》鳴き蘆《あし》の葉ささやき白魚《しらうお》閃《ひらめ》き桜花《おうか》雪と散りたる美しき流《ながれ》のあった事をも忘れ果ててしまう時、せめてはわが小さきこの著作をして、傷ましき時代が産みたる薄倖《はっこう》の詩人がいにしえの名所を弔《とむら》う最後の中《うち》の最後の声たらしめよ。
  大正二|癸丑《みずのとうし》の年春三月小説『すみだ川』幸《さいわい》に第五版を発行すると聞きて
[#地から3字上げ]荷風小史
[#改ページ]

[#3字下げ]すみだ川序[#「すみだ川序」は中見出し]

 わたくしの友人|佐藤春夫《さとうはるお》君を介して小山《おやま》書店の主人はわたくしの旧著『すみだ川』の限定単行本を上梓《じょうし》したいことを告げられた。今日《こんにち》の出版界はむしろ新刊図書の過多なるに苦しんでいる。わたくしは今更二十四、五年前の拙作小説を復刻する必要があるや否やを知らない。しかしわたくしは小山書店の主人がわたくしの如き老朽文士の旧作を忘れずに記憶しておられたその好意については深く感謝しなければならない。依《よっ》てその勧められるがままに旧版を校訂し併《あわ》せて執筆当初の事情と旧版の種類とをここに識《しる》すことにした。
 わたくしが初《はじめ》て小説『すみだ川』に筆をつけたのは西洋から帰って丁度満一年を過《すご》した時である。即ち明治四十二年の秋八月のはじめに稿を起《おこ》し十月の末に書き終るが否や亡友|井上唖唖《いのうえああ》君に校閲を乞い添刪《てんさん》をなした後《のち》草稿を雑誌『新小説』編輯者《へんしゅうしゃ》の許《もと》に送った。当時『新小説』の編輯主任は後藤宙外《ごとうちゅうがい》氏であったかあるいは鈴木三重吉《すずきみえきち》氏であったか明《あきらか》に記憶していない。わたくしの草稿はその年十二月発行の『新小説』第十四年第十二巻のはじめに載せられた。わたくしはその時|馬歯《ばし》三十二歳であった。本書に掲載した当時の『新小説』「すみだ川」の口絵は斎藤昌三氏の所蔵本を借りて写真版となしたものである。ここに斎藤氏の好意を謝す。
 小説『すみだ川』に描写せられた人物及び市街の光景は明治三十五、六年の時代である。新橋《しんばし》上野《うえの》浅草《あさくさ》の間を往復《おうふく》していた鉄道馬車がそのまま電車に変ったころである。わたくしは丁度その頃《ころ》に東京を去り六年ぶりに帰ってきた。東京市中の街路は到《いた》る処旧観を失っていた。以前木造であった永代《えいたい》と両国《りょうごく》との二橋は鉄のつり橋にかえられたのみならず橋の位置も変りまたその両岸の街路も著しく変っていた。明治四十一、二年のころ隅田川《すみだがわ》に架せられた橋梁《きょうりょう》の中でむかしのままに木づくりの姿をとどめたものは新大橋《しんおおはし》と千住《せんじゅ》の大橋ばかりであった。わたくしは洋行以前二十四、五歳の頃に見歩いた東京の町々とその時代の生活とを言知れずなつかしく思返して、この心持を表《あらわ》すために一篇の小説をつくろうと思立った。この事はつぶさに旧版『すみだ川』第五版の序に述べてある。
 旧版発行の次第は左の如くである。
 明治四十四年三月|籾山《もみやま》書店は『すみだ川』の外《ほか》にその頃わたくしが『三田《みた》文学』に掲げた数篇の短篇小説|及《および》戯曲を集め一巻となして刊行した。当時籾山書店は祝橋向《いわいばしむこう》の河岸通《かしどおり》から築地《つきじ》の電車通へ出ようとする静《しずか》な横町《よこちょう》の南側(築地二丁目十五番地)にあって専《もっぱ》ら俳諧《はいかい》の書巻を刊行していたのであるが拙著『すみだ川』の出版を手初めに以後六、七年の間|盛《さかん》に小説及び文芸の書類を刊行した。書店の主人みずからもまた短篇小説集『遅日』を著《あらわ》した。谷崎《たにざき》君の名著『刺青《しせい》』が始めて単行本となって世に公《おおやけ》にせられたのも籾山書店からであった。森鴎外《もりおうがい》先生が『スバル』その他の雑誌に寄せられた名著の大半もまた籾山書店から刊行せられた。
 大正五年四月籾山書店は旧版『すみだ川』を改刻しこれを縮刷本《しゅくさつぼん》『荷風|叢書《そうしょ》』の第五巻となし装幀《そうてい》の意匠を橋口五葉《はしぐちごよう》氏に依頼した。
 大正九年五月|春陽堂《しゅんようどう》が『荷風全集』第四巻を編輯刊行する時『すみだ川』を巻頭に掲げた。この際わたくしは旧著の辞句を訂正した。
 大正十年三月春陽堂が拙作小説『歓楽《かんらく》』を巻首に置きこれを表題にして単行本を出した時再び『すみだ川』をその中に加えた。
 昭和二年九月|改造社《かいぞうしゃ》が『現代日本文学全集』を編輯した時その第二十二編の中に『すみだ川』を採録した。
 昭和二年七月春陽堂の編輯した『明治大正文学全集』第三十一編にも『すみだ川』が載せられている。
 昭和三年二月|木村富子《きむらとみこ》女史が拙著『すみだ川』を潤色《じゅんしょく》して戯曲となしこれを本郷座《ほんごうざ》の舞台に上《のぼ》した。その時重なる人物に扮《ふん》した俳優は市川寿美蔵《いちかわすみぞう》市川松蔦《いちかわしょうちょう》大谷友右衛門《おおたにともえもん》市川紅若《いちかわこうじゃく》その他である。木村女史の戯曲『すみだ川』はその著『銀扇集《ぎんせんしゅう》』に収められている。
  昭和十年十月|麻布《あざぶ》の廬において
[#地から3字上げ]荷風|散人《さんじん》識《しるす》

底本:「すみだ川・新橋夜話 他一篇」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
   2005(平成17)年11月25日第23刷発行
底本の親本:「荷風小説 三」岩波書店
   1986(昭和61)年7月発行
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2009年12月20日作成
2010年11月1日修正
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