佐々木味津三

右門捕物帖 闇男—— 佐々木味津三

   

 ――その第三十番てがらです。
 事の起きたのは新緑半ばの五月初め。
 さみだれにかわずのおよぐ戸口かな、という句があるが、これがさみだれを通り越してつゆになったとなると、かわずが戸口に泳ぐどころのなまやさしいものではない。へそまでもかびのただようつゆの入り、というのもまんざらうそではないくらい、寝ても起きても、明けても暮れても、雨、雨、雨、雨……女房と畳を新しく替えたくなるというのもまた、このつゆのころです。
 しかし、取り替えようにもあいにくと妻はないし、伝六はあいかわらずうるさいし、したがってむっつり名人のきげんのいいはずはない。
「四谷《よつや》お駕籠町《かごまち》比丘尼店《びくにだな》平助ッ」
「…………」
「平助と申すに、なぜ返事をいたさぬか!」
「へえへえ。鳥目でござえますから、どうかもっと大きな声をしておくんなせえまし……」
 お番所同心控え席の三番、それが名人右門の吟味席です。その控え席でそこはかとなくほおづえつきながら、わびしく降りつづけている表の雨を見ながめていると、隣二番のお白州、これが右門とは切っても切れぬ縁の深いあばたの敬四郎の吟味席でした。その二番の席で、敬四郎が何を吟味しているのか、しきりといたけだかになってどなりつけているのが聞こえました。
「人を食ったやつじゃ。鳥目ゆえ耳がきこえぬとは何を申すかッ。上役人を茶にいたすと、その分ではさしおかんぞ」
「でも、当節は耳のきこえぬ鳥目がはやりますんで……」
「控えろッ。いちいちと嘲弄《ちょうろう》がましいこと申して、なんのことかッ。通り名は平助、あだ名は下駄平《げたへい》、歯入れ、鼻緒のすげ替えを稼業《かぎょう》にいたしおるとこの調べ書にあるが、ほんとうか」
「へえ、さようで。稼業のほうはたしかにげたの歯入れ屋でごぜえますが、あだ名のほうはあっしがつけたんじゃねえ、世間がかってにつけたんでごぜえますから、しかとのことは存じませぬ」
「控えろッ。ことごとに人を食ったことを申して、許しがたきやつじゃ。比丘尼店家主|弥五六《やごろく》の訴えたところによると、そのほう当年八歳になるせがれ仁吉《にきち》と相はかり、仁吉めが先回りいたしては人目をかすめて玄関先へ忍び入り、はさみをもって鼻緒を切り断ちたるあとよりそのほうが参って、巧みに鼻緒を売りつけ、よからぬかせぎいたしおる由なるが、しかとそれに相違ないか」
「へえ、そのとおりでごぜえます。なんしろ、この長雨じゃ、いくら雨に縁のある歯入れ屋でも上がったりで、お客さまもまた気を腐らしてしみったれになったか、いっこうご用がねえもんだから、親子三人干ぼしになって死ぬよりゃ牢《ろう》へはいったほうがましと、せがれに緒を切らして回らしたんでござんす」
「なんだと! 雨が降ってお客がしみったれになるが聞いてあきれらあ。雨は雨、お客はお客。槍《やり》が降ろうと、小判が降ろうと、人殺しのあるときゃあるんだ。だんな! だんな! ご出馬だッ。穏やかじゃねえことになりやがったんですぜ」
 他人のこともいっしょにして口やかましくわめきながら、声から先に飛び込んできたのは、断わるまでもないおしゃべり屋のあの伝六です。
「おつに気どって雨なんぞ見ていたとても、りこうにゃならねえんだ。今、麻布の自身番から急訴があったんだがね。あそこの北条坂《ほうじょうざか》で、孫太郎虫の売り子の娘っ子が、首を絞められて殺されているというんですよ。早耳一番やりのおきてがあるからにゃ、この事件は早く聞きつけたあっしとだんなのものなんだからね。急いでおしたくしなせえよ」
 口やかましく注進しているのを、早くも隣の吟味席で聞きつけながら、ぴかりと陰険そうに目を光らしたのはあばたの敬四郎でした。同時に立ち上がると、お白州中の歯入れ屋などはもう置き去りにしておいて、にこりと意地わるそうにほくそえみながら、こそこそ奥へ消えていったかとみえたが、あば敬はなすことすることことごとくがあばた流です。直接、奉行《ぶぎょう》に出馬のお許しを願ったとみえて、ゆうぜんと構えている名人右門をしり目にかけながら、手下の小者を引き具して、これ見よがしにもう駆けだしました。
「そら、ご覧なせえまし。だからいわねえこっちゃねえんだ。まごまごしているから、こういうことになるんですよ! あば敬の意地のわるいこたア天下一品なんだ。あいつが飛び出したとなりゃ、ことごとにじゃまをするに決まってるんだからね。のそのそしてりゃ、せっかく早耳に聞き込んだ事件を横取りされるんじゃねえですかよ!」
 たちまち伝六が目かどをたてて鳴りだしたとき、高々と呼びたてた声がひびき渡りました。
「右門殿、お声がかかりましてござります! 火急に詮議《せんぎ》せいとのお奉行さまお申し付けにござります!」
「えっへへ」
 鳴ったかと思うとこの男、たちまちまたたいそうもない上きげんです。
「うれしいね。扱いが違うんだ、お扱いがね。こそこそと内訴訟してやっとのことお許しが出るげじげじと、お奉行さまおめがねで出馬せいとお声のかかるだんなとは、段が違うんだ。――駕籠《かご》のしたくはもうちゃんとできているんですよ、とっとと御輿《みこし》をあげなせえな」
「…………」
 ようやくに腰を浮かしたが、ひとことも声はない。何を考え込んで何を思いふけっているのか、じつに驚くほどにもむっつりと押し黙って、まったくの無言の行なのです。――雨ゆえに、きょうばかりは二丁きばった御用駕籠を連ねながら、おしの名人と、おしゃべりの名人とは、一路話のその麻布北条坂目ざして急ぎました。
 だが、不思議でした。
 あば敬主従と右門主従とは、お番所を出るのに一町と隔たってはいなかったのに、しかも双方ともにその目ざしたところは、孫太郎虫売り娘殺害の現場と思われたのが、途中でひょいとふり返ってみると、右門の駕籠も伝六の駕籠も、いつのまにどこへ消えていったか、かいもく姿がないのです。
 ひとてがらしてやろうと先手を打って飛び出しただけに、敬四郎、心中はなはだ気味わるく思ったにちがいない。手下の直九郎、弥太松《やたまつ》ふたりを、がみがみどなりつけました。
「ぼんやりしているから、ずらかられちまったんだ。どっちへ曲がったか捜してみろ」
「捜しようがねえんですよ。どこまで姿があって、どこから消えたものか、それがわからねえんだからね」
「文句をいうな! 手下がいのねえやつらだ。所をよく聞かなかったが、人殺しゃどこだといった」
「おどろいたな。あっしどもは、だんなが飛び出したんで、そりゃこそてがら争いとばかり、あとをついてきただけなんですよ」
「いちいちとそれだ。もっと万事に抜からぬよう気をつけろい。たしか北条坂とかいったが、その北条坂はどの辺だ」
「ここがそうなんですよ」
「そんならそうと早くいえッ。殺されたのは小娘だといったはずだ。捜してみろッ」
 麻布もこの辺になると町家もまばらだが、人通りも少ない寂しい通りばかりです。ましてや、明け暮れ降りつづく入梅なのでした。行き来の者はまったくとだえて、見えるものはどろ道と坂ばかり……。
「おかしいな。かりそめにも人がひとり殺されたというからには、物見だかりがしているはずだ。もういっぺん坂を上から下へ捜し直してみろッ」
 三人でいま一度その北条坂を調べてみたが、人影もない。むくろもない。
「右門め、先回りをしてさらっていったな!」
 癇筋《かんすじ》をたてながらひょいと敬四郎が足もとをみると、坂の曲がりかどの、青葉が暗くおい茂った下に、小さなこも包みがあるのです。はねのけてみると、――三人同時にぎょっとなりました。こもの下には捜しまわったその小娘の死骸《しがい》が、見るも凄惨《せいさん》な形相をして、あおむけになりながら横たわっていたからです。
「これはこれは……」
 そのとき、足音を聞きつけたものか、おい茂った道ばたの青葉の陰から、自身番の小役人たちがあたふたと駆けだして、ろうばいしながらしきりと取りなしました。
「あいすみませぬ。ついそのうっかりいたしまして……ご出役ご苦労さまにござります」
「何がご苦労さまじゃッ。怠慢にもほどがあるわッ。これだけの人殺しがあるのに、ご検視の済むまで見張りをせずにおるということがあるかッ」
「つい、その……なんでござります。あんまり寂しいので、つい、その……」
「言いわけなど聞きとうないわいッ。死骸にはだれもまだ手をつけまいな!」
「いいえ」
「いいえとはどっちじゃ! だれか来たかッ。右門めでもがもう参ったかッ」
「いいえ、あなたさまがお初め、だれも指一本触れた者はござりませぬ」
「それならばそうと、はっきり申せい。手数のかかるやつらじゃ。殺《あや》められたのはいつごろか!」
「それがわかりませぬゆえ、ご出役願ったのでござります」
「ことばを返すなッ。これなる死骸の見つかったのはいつごろじゃ!」
「朝の五ツ下がりころでござります。北条坂に小娘が殺されておるとの注進でござりましたゆえ、すぐにここへ出張って、お番所へ人を飛ばせたのでござります。なにしろ、このとおり寂しいところではござりまするし、それにこの雨でござりまするし――」
「うるさいッ。きかぬことまでかれこれ申すなッ」
 あば敬のけんまく権柄、当たるべからざる勢いです。どなり、しかり、当たり散らしながら死骸を見調べると、小娘は年のころ十三、四、手甲《てっこう》、脚絆《きゃはん》、仕着せはんてんにお定まりの身ごしらえをして、手口は一目|瞭然《りょうぜん》、絞殺にまちがいなく、かぶっている菅笠《すげがさ》のひもがいまだになおきりきりと堅く首を巻いたままでした。かぶり直そうとしたところをねらって、ひと絞めにやったものか、それとも押えつけておいて、笠《かさ》のひもをとっさの絞め道具にしたものか、むごたらしくも鼻孔から血の流れ出ているところを見ると、恐ろしい腕力に訴えて強引に絞めつけたことは明らかでした。いや、そればかりではない。その小娘の右手にはいぶかしいひと品がある。着物のそでです。しかも、女物の、同じような仕着せはんてんの片そでなのです。絞められるとき必死に抵抗してそでをつかんだのが、そのまま引きちぎれたとみえて、今なお引いても取れないほどにしっかりと握りしめているのでした。
「ホシは仲間だ。絞めたやつのそでにちがいないぞ。おれだって眼《がん》のつくことがあるんだ。まごまごとしていねえで、もっとよく調べろ」
 まったく敬四郎とても目のきくときがあるにちがいない。よくよく調べると、絞め道具に使った菅笠のそのひもに、小娘の身もととおぼしき文字が見えました。
「日本橋|馬喰町《ばくろうちょう》新右衛門《しんえもん》身内、おなつ」
 読み取るや同時に、敬四郎の得意げな声があがりました。
「そうれみろッ。馬喰町の新右衛門といや、富山《とやま》の反魂丹、岩見銀山のねずみ取り、定斎屋《じょうさいや》、孫太郎虫、みんなあいつがひと手で売り子の元締めをやってるんだ。野郎を洗えばぞうさなくネタはあがるぞ。おきのどくだが、今度だけはこっちのものだぜ。死骸にもう用はねえ。引き取り人があるかもしれねえから、どこか近所の寺へでも始末しろ」
 小役人たちに命じておくと、死骸の手から証拠の片そでを切り取って、鼻高々とひと飛びに乗りつけたところは、ひもに見える馬喰町の呼び商い元締め、越中屋新右衛門の店先です。
「おやじはおるかッ。八丁堀の敬四郎じゃ。いたら出い!」
 横柄《おうへい》に呼びたてながら、ずかずかとはいっていったその鼻先へ、ぬっとその新右衛門が顔を向けると、少し変でした。やにわににやりと笑って、大きな横帳をさし出しながら、何もかも心得ているもののようにいったものです。
「お尋ねはこれでござりましょう。いまかいまかと、お越しになるのをお待ちしていたところでござります」
「なに! その横帳はなんだ」
「身内の売り子の人別帳でござります。麻布で害《あや》められたとか申しましたなつの身もとをお詮議《せんぎ》にお越しであろうと存じますゆえ、お目にかけたのでござります」
「気味のわるいことを申すやつじゃな、どうしてそれがあいわかるか!」
「えへへ。あっしがそれとにらみをつけたんじゃござんせぬ。つい先ほど右門のだんなさまがのっそりとおみえになりまして、この人別帳をおしらべなすった末に、あとからいまひとりこれに用のある同役が参るはずじゃ、親切に応対してあげい、とのことでござりましたゆえ、いまかいまかとお待ち申していたのでござります」
 せつなに、敬四郎のあばたがゆがんで、ふるえて、目に険しい色がみなぎり渡りました。
 来ていたのである! まんまと先手を打ったつもりでいたのに、どうしてそれと眼をつけたか、あざやかにも名人右門が、すでにもう先手を打って、ちゃんとここへ身もとを洗いに来ていたのである。
「見せいッ」
 奪い取るようにして手にしながら調べてみると、なつ、ちか、くに、はつ、うめ、なぞ十二、三人の名まえを連ねた孫太郎虫の売り子たちは、神田《かんだ》旅籠町《はたごちょう》の安宿八文字屋に泊まり込んでいることがわかりました。
「たわけめがッ。お茶なぞ出すに及ばんわい。気に入らんやつじゃ。気をつけろッ」
 わけもなくただふきげんにどなりつけて、ひた走りに神田へ駕籠を急がせました。

     

「これはようこそ。雨中を遠くまでお出かけなさいまして、ご苦労でござりましたな」
 敬四郎の駆けつけた気勢をききつけて、さわやかに微笑しつつ、その八文字屋の奥から出てきたのは、だれでもないむっつりの右門です。あとから伝六がのこのことしゃきり出ると、これが浴びせたのに不思議はない。
「えっへへ。敬だんな、お早いおつきでごぜえましたな。麻布はたぬきの名どころだ。子だぬきにちゃらっぽこやられたんじゃござんすまいね」
「なにッ。早かろうとおそかろうと、いらぬお世話じゃ。どけッ、どけッ」
「きまりがわるいからって、そうがみがみいうもんじゃねえですよ。知恵箱のたくさんあるだんなと、知恵働きの鷹揚《おうよう》なだんなとは、こういうときになって、おのずとやることに段がつくんだ。ここへ先回りしていたのが不思議でやしょう。いいや、不思議なはずなんだ。このあっしでせえ、首をひねったんだからね。ところが、聞いてみると、まったく右門のだんなの天眼通にゃ驚き入るじゃござんせんかい。孫太郎虫の元締めは越中屋新右衛門のはずだ、こっちを洗えば麻布くんだりまで先陣争いに行かなくとも、お先の身もとがわかるじゃねえかよ、とね、あっさりいってネタ洗いに来たのがこれさ。御意はどうでござんすかえ?」
「嘲弄《ちょうろう》がましいことを申すなッ。こちらにはちゃんと証拠の品が手にはいっているのだ。能書きはあとにしろ」
 にらみつけて奥へ通ろうとしたのを、
「お待ちなされよ。その証拠の品とやらは――」
 にこやかに名人が呼びとめると、ずばりといったことです。
「小娘は年のころ十三、四、名まえはおなつ、口にくわえておったか手に握りしめておったかは存ぜぬが、その証拠の品とやらは片そででござらぬか」
「…………」
「いや、お驚きめさるはごもっとも、きのうからきょうへかけて、麻布一円へ呼び商いに出た者は、おなつ、おくに、両人と申すことじゃ。片そでをもぎとられた仕着せはんてんはここにござる。これじゃ。しまがらは合いませぬかな」
 にこやかに笑って、帳場のわきから取り出したのは、だんだらじまの右筒そでをちぎられた仕着せはんてんでした。
「いかがでござる。合いませぬかな」
「…………」
「いや、お隠しなさるには及びませぬ。貴殿もこれが第一の手がかりとにらんだればこそ、おしらべにお越しでござりましょう。ご入用ならば、手まえには用のない品、とっくりとそでを合わせて、おたしかめなされい」
 合わないというはずはない。しまがらも、引きちぎられた破れ口もぴったりと合うのです。
「亭主! 亭主! このはんてんを着ておった女はどこへうせた!」
 敬四郎、鬼の首でも取ったような意気込みで、目かどをたてながら駆け込もうとしたのを、
「あわてたとても、もうまにあいませぬ。このはんてんの主は、いっしょに出かけたおくに、とうにもう帆をかけてどこかへ飛びましたよ。それより、話がござる。ごいっしょにおいでなされよ」
 静かに制しながら先へたって奥のへやへはいると、そこに血のけもないもののごとくうち震えながらうずくまっていた八文字屋の亭主を前に座を占めて、いかにも功名名利に恬淡《てんたん》、右門の右門らしいおくゆかしさを見せながら、穏やかに持ちかけました。
「これなる仕着せの主がおくにとすれば、片そでがふびんなおなつの口なり手なりに残っておった以上、まず十中八、九までおくにが下手人とにらまねばなりませぬ。しかしながら、事は念を入れて洗うがだいじ、てまえ、貴殿よりひと足先にこちらに参るは参りましたが、功名てがら争う心は毛頭ござりませぬ。それゆえ、おくにめ、とうに逐電とは聞いても、足下がこちらへお出向きなさるまではと、なにひとつ洗いたてずにお待ち申しておりました。お番所勤めの役向きは諸事公明正大が肝心、くにの荷物もまだ手をつけずにござります。亭主が知っておることまでも何一つ聞き取ってはおりませぬ。ともども立ち会って吟味いたしとうござるが、ご異存ござりますまいな」
 異存はあったにしても、こう持ちかけられては痛しかゆしです。返事のしようもないとみえて、不承不承に敬四郎、座についたのを見ながめると、名人の声はじつにあざやかでした。
「ご異存ござりませねば、てまえ代わって取り調べまする。亭主、神妙に申し立てろよ。上には慈悲があるぜ。くには何歳ぐらいの女じゃ」
「二、二十……」
「二十いくつじゃ」
「三のはずでござります」
「なつと連れだって麻布へ呼び商いに出かけたのはいつじゃ。けさ早くか」
「いいえ、きのう昼すぎからいっしょに出かけまして、ふたりともゆうべひと晩帰りませんなんだゆえ、どうしたことやら、みなしてうち案じておりましたところ、おくにどんだけがけさがた早くこの片そでをちぎられた仕着せ着のままで帰ってくると――」
「うろたえておったか」
「へえ、なにやらひどくあわてた様子で帰りまして、このとおり商売道具も何もかも投げ出したまま、急いで外出のしたくを始めましたゆえ、不審に思うておりましたら、尋ねもせぬに向こうからいうたのでござります。おなつがまい子になったゆえ、これからお願をかけに行くのじゃ、あとをよろしくと申しまして――」
「願かけにはどこへ行くというたか」
「浅草の観音さまへ、とたしかに申しましてござります」
「出かけたときの姿は?」
「日ごろからなかなかのおしゃれ者で、残った金はみな衣装髪のものなぞへ張りかけるほうでござりましたゆえ、けさほどもはでな黄八丈《きはちじょう》に、黒繻子《くろじゅす》の昼夜帯、銀足の玉かんざしを伊達《だて》にさして、何を急いでおるのか、あたふたと駕籠を気張って出かけましたようでござります」
「その駕籠はどこで雇うたか」
「黒門町手前の伊予源《いよげん》と申しまする駕籠宿からでござります」
「顔だちは? べっぴんか」
「さよう、べっぴんというにはちと縁が遠うござりましょうかな」
「持ち物は?」
「何一つ持たずに、手ぶらでござりました」
「路銀は、いや、金はどのくらい所持しておったかわからぬか」
「きのうがちょうど宿払いの勘定日でござりましたゆえ、きんちゃくの中までもよく存じておりまするが、てまえがたの入費を支払ったあと、まるまるまだ三両ばかり残っておりましてござります」
「男なぞの出入りした様子はないか」
「少しも!」
「しかとさようか」
「なれなれしげに男と話をしていたところさえ見たことがござりませぬ。まして、ここへ男なぞ呼び入れたことは、ついぞ一度もござりませぬ」
「よし。では、くにの荷物、残らずこれへ取り出せい」
 さし出したのは手梱《てこおり》が一つ、ふろしき包みが一個、孫太郎虫呼び商いの薬箱が一つ。
 まず梱から手初めに調べました。着替えが二枚、帯が二筋、それっきりでした。しかも、共にたいした品ではない。亭主の申し立てによると、衣装髪のものに金をかける伊達女といったが、残った品から判断すると、どうやら出かけたときの服装が第一の晴れ着らしいのです――。これは考えようによってこの場合、いろいろのいみを持つ重要なネタでした。晴れ着に装って、このとおりふだん着はじめ手まわりの品々をそっくり残していったところから判断すると、用を足してまたここへ帰ってくるつもりらしくも思われるのです。反対にまた、これらの品々を未練なく捨てておいて、たいせつな晴れ着だけ着用しながら、二度とここへ舞いもどらぬ決心のもとに高飛びしたかとも判定されるのです。
 名人の眼光は、しだいに烱々《けいけい》と輝きを増しました。こういう頭脳の推断を必要とするネタ調べになると、むっつり流|眼《がん》のさえは天下独歩、まね手もない、比類もない。
 さらに要領を得ないもののごとく、いともぼうぜんとして手をこまねいている敬四郎を、じろり、じろりと、微笑とともに見ながめながら、次のふろしき包みの精査に取りかかりました。
 しかし、出てきたものは、いずれも着古したよごれ物、ぼろ切ればかりなのです。きたない手ぬぐいが三本、破れた手甲、脚絆《きゃはん》、それから尾籠《びろう》このうえない女のはだ着……。
「こいつあおどろいたね。この入梅どきだ、よくきのこがはえなかったもんですよ」
「黙ってろ」
「へ……?」
「敬四郎どのと立ち会いのたいせつな吟味だ。おまえなんぞの出る幕ではないよ」
 でしゃばり伝六、横からでしゃばりかけたのを一言のもとにたしなめながら、さらに名人は丹念に見調べました。はねのけてははねのけて調べていくと、ぱらり、下へ散ったものがある。水天宮さまのが一枚、蛸薬師《たこやくし》のが一枚、浅草観音のが一枚、お祖師さまのが一枚。どれももったいなや、お守り札なのです。――これもまた考えようによってははなはだ重要なネタの一つでした。諸々ほうぼうの護符があるところを見ると、よほどの信心家であるようにも推断されるのです。しかし、その尊いお札がこのようなむさくるしいよごれものの中へ、むぞうさに投げ込んであるところから察すると、必ずしもそうではない、ややもすれば人のひとりふたり、殺しかねまじい女とも考えられるのでした。
 名人の目はいよいよ光を増すと同時に、最後の遺留品たる商売道具の小箱に手がかかりました。
 あけてみると、孫太郎虫の黒焼きが三十五、六ほどあるのです。それっきりで、ほかには何もない。――いや、ないと思われたのに、さかさにしながら振ってみると、ぽろッ、落ちたひと品が目を射ぬきました。
 くるくると丸めた小さなかんぜんよりです。丸めてあるところから判断すれば、あけてみて、そのままこの小箱の中へ投げ込んでおいたことが明らかでした。
「そろそろにおうてきましたな」
 開いてみると、不思議なものが書いてあるのです。
「こっちがあぶなくなった。すぐに出かけろ。下の絵のところで待っている」
 まさしく男の走り書きで、下の絵のところというその絵なるものは、なんともいぶかしいことに、だんごを三つくしへ[#「くしへ」は底本では「ぐしへ」]重ね刺しに刺した怪しげな絵模様でした。
 くしだんご! くしだんご!
 三つ刺したくしだんご!
 いうまでもなく判じ絵です。しかも、宿の亭主は、ひとりも出入りした男はないと言明しているのに、奇怪なその紙片に見える手跡文句は、たしかに男なのです。――きらり、名人の目が鋭く光ったかと思うと、おもむろに向き直って、虚心|坦懐《たんかい》、なんのわだかまりもなく敬四郎にいったことでした。
「このとおり調べは悉皆《しっかい》つきました。たどるべき手がかりの道も二つござる。これなる判じ文《ぶみ》を頼りに女の足取りをされてもよい。あるいはまた、亭主の申し条によって、女の行くえを追跡されてもよい。判じ文を唯一の手がかりとなさるならば、貴殿のお知恵によって、絵のところに待っているという三つ刺したくしだんごはいずれの地名か、それをお判じなすってお出かけなさることだ。それとも、亭主の申し条をたよりに足取り追われるならば、乗せていった駕籠宿伊予源から洗いはじめて、たしかに浅草へ願かけにいったかどうか、いったならばそれから先どこへ飛んだか、黄八丈、銀かんざし、黒|繻子《じゅす》帯の女を目あてにびしびしとお洗いたてなさることだ。しかし、いずれにしても女の黒幕には、これなる判じ文でもわかるとおり、男がついておりまするぞ。女の路銀は三両しかござらぬが、男がいるとすればこれに用意があると見なければなりませぬ。さすれば、存外と遠走っているやもしれぬし、もしも浅草あたりへ潜伏したとすれば、この女、なかなかのしたたか者じゃ。その証拠は、これなる守り札の不始末でもわかるはず。尊いお品をこのようなよごれものといっしょに投げ込んでおきますようでは、心がけのほどもまずまずあまり上等ではござらぬゆえ、逃げ隠れたところも、ばくち宿か、あばずれ者の根城か、いずれにいたせあまり感心のできる場所ではござるまい。ただ一つ、特に胸にたたんでおかねばならぬことは、この紙片に見える、こっちがあぶなくなった、とある一句でござる。右左、どの道をたどって女の跡を追うにしても、道の奥に壁、突き当たったその壁の奥になお道があることをお覚悟してかかるが肝心じゃ。てまえは、そなたがお選みなすった残りでよろしゅうござる。こうなれば急ぐが第一、貴殿、いずれをお取りじゃ」
 これには敬四郎、はたと当惑したにちがいない。両方ひとり占めにしたいはやまやまだが、そうすればまた詮議《せんぎ》追跡申しぶんがないが、そもそも二つの道をかぎ出し、探り出し、切り開いてくれたのは、自分ではない、同役右門なのです。しかも、みずからはあとでよい、残りでよいと、公明正大に出られては、あば敬たる者いささかまごつかざるをえないのです。
「えへへ。さあ、おもしれえや。どっちを取るか、腕の分かれめ、てがらのわかれめ、いいや、道のとり方によっちゃ、知恵の浅い深いがおのずとわかることになるんだからね。どうですえ? 敬だんな。右門のだんなは気が長くとも、あっしゃ気がみじけえんだ。早いところどっちかにお決めなさいよ」
 せきたてる伝六をいまいましげににらめつけながら考え惑っていたが、手下の直九、弥太松ふたりに目まぜを送って、さっと立ち上がると、吐き出すようにいいました。
「浅草へ行くわい! かってにせい!」
「えへへ。すうっとしやがったね。浅草へ行くわい、かってにせいがいいじゃござんせんか。くしだんごのところへ行きたくも、あば敬にゃこの判じ絵がかいもく見当がつかねえんですよ。知恵はふんだんに用意しておくものさあ。すっかりうれしくなりやがった。こうなりゃもう遠慮はいらねえんだからね。さあ、出かけましょうよ」
 必死になって駆けだしていった敬四郎たちを見ながめながら、ひとりで伝六が悦に入って促したのを、
「大口たたくもんじゃないよ」
 静かにしたくをしながら、名人がやんわりと一本くぎをさしました。
「偉そうな口をおききだが、そういうおまえはどうだい。みごとにこれがわかるかよ」
「へ……?」
「このくしだんごのなぞが、おまえさんにおわかりか、といってきいてるんだよ」
「バカにおしなさんな、こんなものぐれえわからなくてどうするんですかい[#「どうするんですかい」は底本では「どうするですかい」]。まさにまさしく、こりゃ墨田の言問《こととい》ですよ」
「偉い! 偉いね。おまえにしちゃ大できだが、どうしてまたこのだんごを言問と判じたんだよ」
「つがもねえ。お江戸にだんご屋は何軒あるか知らねえが、どこのだんごでも一くしの数は五つと決まっているのに、言問だんごばかりゃ昔から三つと限っているんだ。だから、この絵のところへ来いとあるからにゃ、墨田の言問へ来いとのなぞに決まっているんですよ。どんなもんです。違いましたかね」
「偉い! 偉い! 食い意地が張ってるだけに、食べもののことになると、なかなかおまえさん細っかいよ」
「えへへ。いえ、なに、べつにそれほど細かいわけでもねえんだがね。じつあ、六、七年まえに、いっぺんあそこで食ったことがあってね、そのときやっぱり三つしきゃ刺してなかったんで、ちくしょうめ、なんてけちなだんごだろうと、いまだに忘れずにいるんですよ。べらぼうめ、さあ来いだ。食いものの恨みゃ一生涯忘れねえというぐれえなんだからね。言問とことが決まりゃ、七年めえからのかたきをいっぺんに討つんだ。駕籠屋《かごや》駕籠屋。墨田までとっぱしるんだよ」
 せきたてて名人ともども、待たしておいた御用駕籠に飛び乗ると、まことに食べものの恨みたるやそら恐ろしいくらいです。七年まえのだんごのかたきを伝六は捕物《とりもの》で晴らすつもりか、雨の道をもものともせずに、ここをせんどと急がせました。

     

 川は長雨に水かさを増して、岸を洗う大波小波、青葉に茂る並み木の土手を洗いながら、雨はまた雨で墨田のふぜいなかなかに侮りがたい趣でした。
 駕籠をすてて、言問までは渡し。
「名物、だんご召し上がっていらっしゃいまし」
「雨でご難渋でござりましょう。一服休んでいらっしゃいまし」
 赤い前だれをちらちらさせて、並み木茶屋の店先から涼しげに客を呼ぶ娘の声が透きとおるようです。
「わるくないね。あれが言問だんごですよ。娘もべっぴんどもじゃないですかい。――許せよ」
 伝六、殿さま気どりで、許せよといったもんだ。しかし、はいりかけてひょいと見ると、いぶかしいことには、茶屋のその店先の人目につきやすいところに、巡礼笠《じゅんれいがさ》が二つ、何かのなぞのごとくにかかっているのです。
 坂東三十三カ所巡礼、同行二人と、あまりじょうずでない字でかいて、笠は二つともにまだ一度もかぶったことのない真新しいものなのでした。
「はてね。ちくしょう、だんご茶屋にゃ用もねえものがありますぜ」
 伝六にすらも不思議に思われたものが、名人の目に止まらないというはずはない。つるしてあるのも不審なら、新しいところも奇怪、しかも笠の主の巡礼は、どこにもいるけはいがないのです。――きらりと光った目の色をかくして、ほのかな微笑をたたえながらはいっていくと、物柔らかな声とともに赤前だれの娘に問いかけました。
「雨で客足がのうていけませぬな。あの笠は?」
「あれは、あの……」
「おうちのものか」
「いいえ、あの、闇男《やみおとこ》屋敷の七造さまがお掛けになっていったものでござります」
「なにッ、不思議なことをいうたが、今のその闇男屋敷とやらはなんのことじゃ!」
「ま! だんなさまとしたことが、向島《むこうじま》へお越しになって闇男屋敷のおうわさ、ご存じないとは笑われまするよ。ここからは土手を一本道の小梅へ下ったお賄《まかな》い長屋に、市崎《いちざき》友次郎さまとおっしゃるお旗本がござりまするが、そのお組屋敷のことでござります」
「なぜそのような名がついたのじゃ」
「それが気味のわるい。なんでも人のうわさによりますとな、ご主人の友次郎というは、お直参はお直参でも二百石になるかならずのご小身で、お城の賄《まかな》い方にお勤めとやら聞いておりましたが、ついこのひと月ほどまえから、まだ二十五、六のお若い身そらでござりますのに、奇妙な病に取りつかれまして、なんでも昼日中お出歩きなさりまするとそのご病気が――」
「決まって出ると申すか」
「そうなんでござります。お年も若くて、まだおひとり身で、このあたりまでもひびいたご美男のお殿さまでござりますのに、どうしたということやら、日のめにお会いあそばすと、にわかにからだが震えだすのじゃそうでござります。それゆえもうお勤めも引き下がり、昼日中はまっくらなお納戸《なんど》へ閉じこもったきりで、お出歩きは夜ばかり、明るいうちはひと足も外へお出ましにならず、このひと月あまりというものは友次郎さまのお姿も見たものがござりませぬゆえ、だれいうとなく闇男じゃ、闇男屋敷じゃといいだしたのでござります」
 奇怪だ!
 じつに奇怪なうわさだ!
 日に当たると震いだすという男!
 日中もまっくらな納戸べやに閉じこもって、人に姿を見せぬという男!
 しかも、奇妙なその病気にかかるまえまでは、年も若くて、ひとり身で、このあたりまでも評判の美男旗本だったというのです。
「いやだね。青っちろい顔をして、ひょろひょろになりながら、くらやみばかりに生きておる男の顔を思い出すと、ぞーっとすらあ。昔からある日陰男ってえいうのは、きっとそれですよ。何かつきものでもしたにちげえねえですぜ」
 物知り顔にさっそくもう始めた伝六をしりめにかけながら、ずかずかはいっていくと、
「奥を借りるぞ」
 何思ったか、不意に言い捨てて、どんどん奥座敷へ通りながら名人は、そのままごろりと横になりました。
「またそれだ。きょうばかりゃゆうちょうに構えている場合じゃねえんですよ。あば敬と張りあってるんだ。まごまごしてりゃ、今度こそほんとうにてがらをとられちまうじゃねえですかよ」
「…………」
「ね! ちょっと! いらいらするな。ホシゃ七造だ。あの巡礼笠の主の七造めがどこへうせたか、はええところ見当をつけなくちゃならねえんですよ。あごなんぞいつでもなでられるんだ。勇ましくぱっぱっと起きなせえよ!」
「うるさい。黙ってろ。その七造を待っているんじゃねえか。七年まえの恨みがあるとかいったはずだ。だんごでも食いなよ」
「え……?」
「えじゃないよ、何かといえばすぐにがんがんやりだして、のぼせが出るじゃねえか。下男だか若党だか知らねえが、その七造が判じ絵文《えぶみ》の書き手、おくにの誘い手、ふたりでいち早く巡礼に化けてからどこかへ高飛びしようと来てみたのが、道行き相手のおくにめがまだ姿を見せねえので、あの笠を目じるしに掛けておきながら、浅草へでも捜しがてら迎えに行ったんだよ。闇男屋敷とやらにも必ず何かひっかかりがあるにちげえねえ。いいや、気になるのはその浅草だ。あば敬の親方、へまをやって、女も野郎もいっしょに取り逃がしたかもしれねえから、むだ鳴りするひまがあったら、ひとっ走り川を渡って様子を見にでもいってきなよ」
「ちぇッ。うれしいことになりやがったね。事がそうと決まりゃ、たちまちこの男、ごきげんが直るんだから、われながら自慢してやりてえんだ。べらぼうめ。舟の中で恨みを晴らしてやらあ。ねえさん! だんごを五、六本もらっていくぜ」
 つかみとってくしごと横にくわえると、気も早いが舟も早い。道がまた言問から浅草までへは目と鼻の近さなのです。
 ギー、ギー、ギーと急いでいった早櫓《はやろ》が、まもなく、ギー、ギー、ギーと急いでこいでもどってきたかと思うと、
「いけねえ! いけねえ!」
 声から先に飛び込みました。
「おそかった! おそかった! だんな、やられましたよ!」
「なにッ。ふたりとも逃がしたか!」
「いいえね、女が、女が、おくにめがね」
「おくにがどうしたんだよ」
「仁王門《におうもん》の前でばっさり――」
「切り口は!」
「袈裟《けさ》だ!」
「敬大将は!」
「まごまごしているばかりで、からきし物の役にゃたたねえんですよ」
 伝六、出がけにつかんでいったくしだんごをまだ食べているのです。
「袈裟がけならば、切り手は二本差しだな」
「へ……?」
「黙って食ってりゃいいんだよ。道の奥にゃ突き当たりの壁があるといっておいたが、案の定これだ。追いかけた肝心のおくにが、死人に口なしにかたづけられておったとあっちゃ、敬だんな、さぞやしょげきっていたろうな」
「ええ、もう、歯を食いしばっちゃ、ぽろり、ぽろりとね」
「あの男が!」
「そうですよ。泣いているんですよ」
「きのどくにな。運がわりいんだ。おめえでさえも判じのつく言問だんごを、今まで食わなかったのが運の分かれめなんだ。あの判じ絵のなぞが解けりゃ、こっちへ来たのにな。食いものだってバカにするもんじゃねえよ」
「そうですとも! ええ、そうですよ!」
「つまらねえところへ感心するない! 七造はどうした。それらしい姿もねえか」
「いりゃあ取り逃がす伝六じゃねえんだが、やつがそれじゃねえかと思やみんなそれに見え、そうじゃあるめえと思やみんなそうじゃねえように見えるんでね。まごまごしているうちに、舟がひとりでにここへ帰ってきちまったんですよ。へえ、舟がね」
 いっているとき、ちらりと店先へのぞいた顔がある――。二十六、七、旅じたくの中間づくりで、のぞいてはしきりと首をかしげていたが、不思議そうにいう声がきこえました。
「おかしいな。いくら女は身じたくがなげえからって、もう来そうなもんだがな」
「あれだ! 七造だ! とって押えろッ」
 とたんに命じた名人の声に、さっと伝六が飛び出したのを、早くも知って七造がまっしぐら。あとを伝六が追いかけて韋駄天《いだてん》走り。見ながめるや、名人がまたさらに早かった。
「手数をかけやがる野郎だなッ! ほら、行くぞッ」
 十手取る手も早く窓から半身を泳がせて、とっさに投げた手裏剣代わりの銀棒が、ひらひらと舞いながら飛んでいったかと見るまに、がらりと足を取られて七造がのめりました。
「笑わしゃがらあ。神妙にしろい!」
 押えつけて伝六が得々と引っ立ててきたのを、庭に降りて待ちうけていた名人が、やにわにずばりと浴びせかけました。
「七造、おくには浅草で殺《や》られたぞッ」
「えッ。――そ、そ、そりゃほんとうですかい!」
「一刀に袈裟《けさ》切りだ。切り手は、おまえの判じ文にこっちがあぶなくなったとあったその相手に相違ねえが、そいつはだれだ。おまえたちがこわがったその相手は、どこのだれだ」
「ちくしょうめ、とうとうばっさりやりやがったんですかい。おくにはあっしのだいじな妹でござんす。無慈悲なまねしやがったとありゃ、こっちもしゃくだ。一つ獄門に首をさらすように、何もかもしゃべっちまいましょうよ。孫太郎虫の小娘おなつを絞め殺したのはこのあっし、てつだわせたのは妹おくに、殺せと頼んだのは、だれでもねえ闇男屋敷のおふくろと、その兄の宗左衛門《そうざえもん》でござんす」
「闇男本人の友次郎とやらはかかわりないか!」
「あるもないもねえ、友次郎だんななんぞ、もうとっくに死出の旅へお出かけですよ」
「なにッ。この世の人でないと申すかッ」
「ひと月もまえにお死になすったんですよ。それもただ死んだんじゃねえ。お直参が情けないといえば情けない、おかわいそうにといえばおかわいそうに、首をくくって死んだんでござんす。闇男のうわさのひろまったもそれがもと、なつを殺すようになったもそれがもと、なにもかも宗左衛門と友次郎だんなのおふくろが、悪党働きやがったから起こったことなんでござんす」
「どんなわるだくみじゃ」
「どうもこうもねえ、あっしゃ渡り中間だから主筋の悪口いうってえわけじゃござんせんが、お旗本のうちにも、ああいう名ばかりお直参の、うすみっともねえ根性の人がいるんだから、世間はさまざまですよ。もっとも、事の起こりゃただの二百石という貧乏知行のせいですがね。お賄い方なんてえお役向きからしてが、はぶりのいいもんじゃねえ。しかし、ひと粒種の友次郎だんな、いかにも男がようござんしたからね。上役の、お賄《まかな》い方支配|頭《がしら》の、大沢高之進様に、あんまりべっぴんじゃねえお嬢さまがおあんなすって、これがつまりぽうっとなっておしまいなすったんですよ。ほかの殿御はいやじゃ、世の中が二つに裂けても、友次郎さまに添わしてたも、でなければ死にまする、死にますると、命を張ってお見そめなすったのが騒動の起こりとなったんでござんす。さっそく高之進さまがやって来て、もらってくれという、上役のお嬢さまだが、いい男がなにもすき好んで醜女《ぶおんな》といっしょになるがところはねえんですからね。友次郎だんなはいやだという。それならおふくろと親類から説きつけて、ということになって、高之進さまが、伯父御《おじご》の宗左衛門と、おふくろに当たってみたところが、このふたり、欲の皮が突っ張ってるんだ。上役の大沢さまと婿しゅうとの縁を結べば出世も早かろう。知行高もじきふえよう、持参金も千や二千はというんで、なにごとも家門のためだ、器量三年、気心一生、ましてやお嬢さまがお見そめとあれば一生おまえをなめるほどおかわいがりくださるんだから、喜んでお受けしろとばかり、おためごかしをいって、いやがるのをむりやりかってに結納まで取りかわしたんですよ。ところが、その晩、忘れもしねえがひと月まえの夜ふけでござんす。友次郎さまが先ほどもいったように、ぶらりと首をつっておしまいなすったんでね。おどろいたのはおふくろと宗左衛門のふたり。たったひとりのご子息に死なれちゃ、お家は断絶、跡目がたたねえからね。わるい知恵の働く兄妹《きょうだい》とみえて、さっそくくふうしたのが――」
「闇男の細工か!」
「そうなんでござんす。せっかくできかかった金のつるを飛ばしたんでは、いかにも残念。七造、おまえも出世のできることだ、力を貸せといってね、それにはまず第一、友だんなさまの死んだことを世間に隠さなくちゃならねえからと、からくり細工の闇男をでっちあげて、いもしねえおかたがありもしねえ病気にかかったように触れ歩きながら、姿は見せぬがさもさもまだこの世にいるように見せかけておいて、いっしょうけんめいに替え玉になるような顔だちの似た男を捜し歩いたんですよ。その捜し手に頼まれたのが、殺された妹のおくになんでござんす。国は越後《えちご》だが、江戸へ来るたんびにちょくちょくあっしをたずねてお屋敷へも来たことがあるんでね、友だんなさまの顔だちはよく見知っておるし、なにをいうにも、稼業《かぎょう》が世間の広い孫太郎虫売りだ。あっちこっちと江戸のうちを売り売り捜しているうちには、ひとりくらいうり二つという町人衆が見つかるだろう。町人衆ならばわけを話して身代わりに抱き込んだら、一生旗本暮らしに出世のできることなんだから、二つ返事で承知するだろうとね、毎日毎日、妹が捜し歩いているうちに――」
「よし、もうわかった。その秘密をいっしょに売り歩いていたおなつがかぎつけたんで、むごいめに会わしたというのか!」
「そうなんでござんす。子どもだ、だいじょうぶでござんしょうといったが、宗左とおふくろがどうしてもきかねえんで、きのう夕がた、麻布へおびき出し、この手で絞めたのが天罰てきめん、おくにといっしょにお屋敷へ帰って、せめても景気をつけようと酒をあふっていたら、事のついでだ、影武者捜しはほかの者を使って捜してもおそくはない、小娘を殺さしてはみたが、人ひとりやってみれば世間が騒ぐだろうし、下郎の口がいつ割れるともかぎるまいから、ふたりもかたづけようとね、宗左たちめが相談しているところをちらりと聞いたんで、判じ文を妹にこっそり渡しておいて、ここから巡礼落ちをしようとしたんでござんす。申し立てにうそはござんせぬ。こうなりゃおくにのかたき、切ったやつはまさしく宗左衛門に相違ござんせんから、お慈悲だ、やつらの首もいっしょに獄門台へ並べておくんなさいまし……」
 なぞは解けたのです。
 しかし、相手は小身ながらともかくご直参の息のかかった旗本屋敷の一族なのでした。手続き、身分、支配の相違から、屋敷においてこれを押え取ることはたやすくいかないのです。
 どうして捕《と》るか?
 巧みに屋敷の外へおびき出すか?
 それとも、伊豆守様の力を借りるか!
「ひとっ走り、行きましょうかい。人足ならば伝六ってえいう生きのいいのがおりますぜ」
「…………」
「はええがいいんだ。行けっておっしゃりゃ、ひと飛びにいってめえりますよ」
 いうのを聞き流しながら考えつめていたかとみるまに、ずばりと声が飛びました。
「知恵箱、小出しにしてやらあ! 七造!」
「へえへえ、なんでもいたしますよ」
「しかとやるか!」
「やりますとも!」
「宗左衛門は、今、どこにいるか」
「ゆうべから人殺し騒ぎがつづいているんだからね、今だってもきっとお屋敷にやって来て、兄妹《きょうだい》ふたり、わるだくらみをしているに相違ねえですよ」
「よしッ。来い! ひと狂言、あざやかなところを書いてやらあ。伝六、小梅まで早舟の用意だッ。早く仕立てろッ」
「ちくしょうめ。さあおいでだぞ。金に糸目はつけねえんだ。船頭、急げ、急げ」
 水かさを増した大川をひと下り。舟は名人、伝六、七造の三人を乗せて矢のような早さです。
 水戸家のお下屋敷かどから堀川を左に曲がって、瓦町《かわらまち》から陸《おか》へ上がると小梅横町、お賄い方組屋敷までへは二町足らずの近さでした。
「あの二つめのお長屋がそうですよ」
「よしッ。では、七造、玄関先へいって呼びたてろ。口止め金を百両くださらば一生口をつぐみます。くださらなければ、今すぐお番所へ駆け込み訴訟をいたしますぞと、大声で呼んで逃げ帰ってこい! 追っかけてこの屋敷をひと足外へ出りゃ草香流だ」
「心得ました」
 飛び込んでいくと、あたりはばからず七造がわめきたてました。
「魚心がありゃ水心だ。百両出すか、出さねえか。出さなきゃ三尺たけえ木の空へ、うぬらの首もいっしょに抱きあげてやるぞッ」
「なにッ。バカな! 七か! 何をたわごと申すんじゃ。まてッ、まてッ」
 策は当たったのです。
 声とともに、たびはだしのままで、しわのきざんだ顔に怒りとろうばいの色を散らしながら、あと追いかけて飛び出してきたのは、だれでもない宗左衛門でした。つづいて母親、同様にろうばいしているとみえて、たびはだしのままお長屋門の外へ追いかけてきたその目の前へ、莞爾《かんじ》と笑《え》みながら名人が現われると、声もかけずに立ちふさがりました。
「うぬは!」
「右門でござる」
「計ったか! 老いても市崎宗左衛門じゃ。手出しができるなら出してみろッ」
 老骨、必死となって抜きかかろうとしたのを、草香流があるのです。手間のかかるはずがない。
「お相手が違いましょう。あばれると痛うござりまするよ。おとなしく! おとなしく!」
 あっさりねじあげて伝六に渡しておくと、懐剣ぬいて、横からおそいかかろうとした老女の小手へぴしり――。
「友次郎どのの魂魄《こんぱく》が迷いますわ。しろうとが刃物いじりなぞするものではありませぬ。あなたもおとなしく! おとなしく!」
 軽くねじあげてふたりをなわにしたところへ、歯ぎしりかみながら悄然《しょうぜん》と現われた顔がうしろに見えました。あば敬とその一党です。
「おう。おいででござりまするな」
 見ながめると、ほろりとさせるように心よい右門流でした。
「あとをつけてお越しのようだが、ちっとそれが気には入りませぬが、相見互い見、てがらを争おうといっしょに出かけたあんたが、手ぶらでも帰られますまい。お分かちいたしましょう。宗左どのたちふたりをなわつきのままさしあげます。身分のある者たちでござりますゆえ、これを引いていったら一段とまたおてがらにもなりましょうからな。てまえはこっちでたくさん――」
 その手になわじりを渡しておくと、静かにふりかえりながら、やさしくいった。
「七造、おとなしゅう行けよ。ふびんとは思うが、小娘ひとりあやめたとあっては、おさばきを待たねばならぬ。右門には目がある。お慈悲のありますよう、取り計らってやるぞ。わかったら行け」
「行きますとも! だんなさまになわじり取っていただけますなら、どこへでも参ります……」
 絹のような雨の中を、うちそろって引っ立てていったあとから、伝六が口ごもっていいました。
「だんなへ……」
「なんだよ」
「いい気性だな。あっしゃ、あっしゃ……泣けてならねえ、泣けてならねえ……」

底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年1月14日公開
2005年9月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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