黒島伝治

土鼠と落盤——黒島傳治

      

 くすれたような鉱山《やま》の長屋が、C川の両側に、細長く、幾すじも這っている。
 製煉所の銅煙は、禿げ山の山腹の太《ふと》短かい二本の煙突から低く街に這いおりて、靄のように長屋を襲った。いがらっぽいその煙にあうと、犬もはげしく、くしゃみをした。そこは、雨が降ると、草花も作物も枯れてしまった。雨は落ちて来しなに、空中の有毒瓦斯を溶解して来る。
 長屋の背後の二すじの連山には、茅ばかりが、かさ/\と生い茂って、昔の巨大な松の樹は、虫歯のように立ったまゝ点々と朽ちていた。
 灰色の空が、その上から低く、陰鬱に蔽いかぶさっていた。
 山は、C川の上で、二ツが一ツに合《がっ》し、遙かに遠く、すんだ御料林に連っていた。そこは、何百年間、運搬に困るので、樹を伐ったことがなかった。路も分らなかった。川の少し下《しも》の方には、衛兵所のような門鑑があった。
 そこから西へ、約三里の山路をトロッコがS町へ通じている。
 住民は、天然の地勢によって山間に閉めこまれているのみならず、トロッコ路《みち》へ出るには、必ず、巡査上りの門鑑に声をかけなければならなかった。その上、門鑑から外へ出て行くことは、上から睨まれるもとだった。
 門鑑は、外から這入って来る者に対して、歩哨のように、一々、それを誰何《すいか》した。
 昔、横井なに右衛門とかいう下《しも》の村のはしっこい爺さんが、始めてここの鉱山を採掘した。それ以来、彼等の祖先は、坑夫になった。――井村は、それをきいていた。子も、孫も、その孫も、幾年代か鉱毒に肉体を侵蝕されてきた。荒っぽい、活気のある男が、いつか、蒼白に坑夫病《よろけ》た。そして、くたばった。
 三代目の横井何太郎が、M――鉱業株式会社へ鉱山を売りこみ、自身は、重役になって東京へ去っても、彼等は、ここから動くことができなかった。丁度《ちょうど》鉱山《やま》と一緒にM――へ売り渡されたものゝ如く。
 物価は、鰻のぼりにのぼった。新しい巨大な器械が据えつけられた。選鉱場にも、製煉所にも。又、坑内にも。そして、銅は高価の絶頂にあった。彼等は、祖父の時代と同様に、黙々として居残り仕事をつゞけていた。
 大正×年九月、A鉱山では、四千名の坑夫が罷業を決行した。女房たちは群をなして、遠く、東京のT男爵邸前に押しよせた。K鉱山でもJ鉱山でも、卑屈にペコ/\頭を下げることをやめて、坑夫は、タガネと槌を鉱山主に向って振りあげた。アメリカでも、イギリスでも坑夫は蹶起《けっき》しつゝあった。全世界に於て、プロレタリアートが、両手を合わすことをやめて、それを拳《こぶし》に握り締めだした。そういう頃だった。
 M――鉱業株式会社のO鉱山にもストライキが勃発《ぼっぱつ》した。
 その頃から、資本家は、労働者を、牛のように、「ボ」とか、「アセ」「ヒカエ」の符号で怒鳴りつける訳にゃ行かなくなった。
 M――も、O鉱山、S鉱山、J鉱山では、昔通りのべラ棒なソロバンが取れなくなってしまった。
 しかし、こゝの鉱山だけは、いつまでも、世界の動きから取残された。重役はこの山間に閉めこまれた、温順な家畜を利用することを忘れなかった。ほかで儲からなくなったその分を、この山間に孤立した鉱山から浮すことを考えた。
 坑夫の門鑑出入がやかましいのは、Mの狡猾な政策から来ていた。
 しかし、いくらやかましく云っても、鉱山だけの生活に満足出来ない者が当然出て来る。その者は、夜ぬけをして都会へ出た。だが、彼等を待っているのは、頭をはねる親方が、稼ぎを捲き上げてしまう、工場の指定宿だった。うまいところがない。転々とする。持って行った一枚の着物まで叩き売ってしまう。そして再び帰って来た。
 そういう者が、毎年二人や三人はあった。井村も流行唄をはやらした一人になった。そういう者が、新しい知識や、新しい話を持って来た。
 女房が選鉱場のベルトに捲かれて、頭と腕をちぎられてしまった。それからヤケを起して方々をとびまわった。武松はO鉱山で普通一ン日三円から四円出している。それを見てきた。彼等は、自分達との差が、あまりにひどいのに眼を丸くした。
「KやAにゃ、すげえ奴が居るぞ。」
 武松は、この鉱山ではすごい方だった。その彼が、たまげた話し方をした。
「役員なんぞ、糞喰えだ。いけすかねえ野郎は、かまうこたない、出刃庖丁で頸をちょんぎったるんだ。それで、そしてその切れたあとへ犬の頸を持ってきてすげかえるんだ。今までえらそうにぶつ/\云っていた奴が、ワン/\吠えることだけしか出来ねえんだ。へへ、役員の野郎、犬になりやがって、ざま見やがれ!――あいつら、もと/\犬だからね。」
「ふむゝ。」
 彼等は、珍しがった。作り話と知りつゝ引きつけられた。
「俺等だって、賃銀を上げろ、上げなきゃ、畜生! 熔鉱炉を冷やしてかち/\にしてやるなんざ、なんでもねえこったからな。」
「うむ、/\。」
「いくら、鉱石が地の底で呻っとったってさ、俺達が掘り出さなきゃ、一文にもなりゃすめえ。」
 だが、そういう者は、よほどうまく、かげにまわって喋らないと、役員に見つかり次第、早速、山から叩き出されてしまう。

      

 圧搾空気の鉄管にくゝりつけた電球が薄ぼんやりと漆黒《しっこく》の坑内を照している。
 地下八百尺の坑道を占領している湿っぽい闇は、あらゆる光を吸い尽した。電燈から五六歩離れると、もう、全く、何物も見分けられない。土と、かびの臭いに満ちた空気の流動がかすかに分る。鉱車《トロ》は、地底に這っている二本のレールを伝って、きし/\軋りながら移動した。
 窮屈な坑道の荒い岩の肌から水滴《しずく》がしたゝり落ちている。市三は、刀で斬られるように頸すじを脅かされつゝ奥へ進んだ。彼は親爺に代って運搬夫になった。そして、細い、たゆむような腕で鉱車《トロ》を押した。
 八番坑のその奥には、土鼠《もぐら》のように、地底をなお奥深く掘進んでいる井村がいた。圧搾空気で廻転する鑿岩機《さくがんき》のブルブルッという爆音が遠くからかすかにひゞいて来る。その手前には、モンペイをはき、髪をくる/\巻きにした女達が掘りおこされた鉱石を合品《カッチャ》で、片口《ヤネハカリ》へかきこみ、両脚を踏ンばって、鉱車《トロ》へ投げこんでいた。乳のあたり、腰から太股のあたりが、カンテラの魔のような仄かな光に揺れて闇の中に浮び上っている。
 そこには、女房や、娘や、婆さんがいた。市三より、三ツ年上のタエという娘もいた。
 タエは、鉱車《トロ》が軽いように、わざと少ししか鉱石を入れなかった。
「もっと入れても大丈夫だ。」
「そんな、やせがまんは張らんもんよ。」
「それ/\動かんじゃないの。」
 そして、鉱車《トロ》を脇から突っぱって手ご[#「手ご」に傍点]をした。
 鉱車は百三十貫ばかりの重量がある。手のさきや、肩で一寸押したぐらいではびくともしない。全身の力をこめて、うんと枕木を踏んばり、それで前へ押さなきゃならない。しかも力をゆるめるとすぐ止る。で、端から端まで、――女達のいるところから、ケージのおりて来るところまで、――枕木を踏んばり通さなきゃならなかった。
 彼は、まだ十五歳だった。時々、こんな、子供のなり[#「なり」に傍点]をして働いている自分をいとおしく思った。涙ぐんだ。親爺は六番坑で竪坑《たてこう》から落ちて来た坑木に脚をやられた。そして、三本脚の松ツァンと呼ばれる不具者になってしまった。
「俺ら、トロ押せねえだ。」市三は、坑内へおりて来るまで、自分の細い腕を危ぶんだ。
「……。」親爺は、燻った四畳半で、足のない脚だけ布団にかくして、悲しげな顔をしていた。
「トロ、なか/\重いだろう。」
「誰れも働く者がなきゃ、お芳さんのようにこの長屋を追い出されるんだ。追い出されたら、ドコへ行くべ。」
 息子は、親爺の眼に光ったものを見た。
 ――米も安いし、雑用もかゝらねえし、それに家賃は只だから、これで東京あたりの一円五十銭も二円もにかけ合うべ。――
 僅か七十銭の賃銀を、親じはこんな考え方で慰めていた。その只の長屋も、家に働く者がなくなれば追い立てをくうのだ。
 市三は、どれだけ、うら/\と太陽が照っている坑外《おか》で寝ころんだり、はねまわったりしたいと思ったかしれない。金を出さずに只でいくらでも得られる太陽の光さえ、彼は、滅多に見たことがなかった。太陽の値打は、坑内へ這入って、始めて、それにどれだけの値打があるか分ってきた。今は、蟻のような孔だらけの巨大な山の底にいる。昇降機《ケージ》がおりて来る竪坑を中心にして、地下百尺ごとに、横坑を穿ち、四百尺から五百尺、六百尺、七百尺とだん/\下へ下へ鉱脈を掘りつくし、現在、八百尺の地底で作業をつゞけている。坑外《おか》へ出るだけでも、八百尺をケージで昇り、――それは三越の六倍半だ――それから一町の広い横坑を歩かねばならない。
 井村は女達の奥で鑿岩機を操っていた。タガネが、岩の肌にめりこんで孔を穿って行くに従って、石の粉末が、空気に吹き出されて、そこら中いっぱいにほこりが立った。井村は鼻から口を手拭いでしばり、眼鏡をかけていた。黄色ッぽい長い湿った石のほこりは、長くのばした髪や、眉、まつげにいっぱいまぶれついていた。
 汚れた一枚のシャツの背には、地図のように汗がにじんでいた。そして、その地図の区域は次第に拡大した。
「さ、這入ったよ。」
 タエは、鉱車《トロ》を押し出す手ご[#「手ご」に傍点]をした。
 それは六分目ほどしか這入っていなかった。市三は、枕木を踏んばりだした。背後には、井村が、薄暗いカンテラの光の中に鑿岩機をはずし、ハッパ袋をあけていた。
 井村は、飴ン棒のようなハッパを横にくわえ、ミチビを雷管にさしこむと、それをくわえているハッパにさしこんだ。
「おい、おい、女《にょ》ゴ衆、ドンと行くぞ。」
「タエの尻さ、大穴もう一ツあけるべ。」
 婆さんがうしろで冷かしていた。
 市三は、岩の破れ目から水滴《しずく》が雨だれのようにしたゝっているところを全力で通りぬけた。
 あとから女達が闇の中を早足に追いついて来た。暫らく、市三の脇から鉱車《トロ》を押す手ごをしたが、やがて、左側の支坑へそれてしまった。
 竪坑の電球が、茶色に薄ぼんやりと、向うに見えた。そして、四五人の人声が伝って来た。
「誰れだい、たったこれっぽちしか入れてねえんは。」市三が、さきに押して来てあった鉱車《トロ》を指さして、役員の阿見が、まつ毛の濃い奥目で、そこら中を睨めまわしていた。「いくら少ないとてケージは、やっぱし一ツ分占領するんだぞ。」
 ほかの者は、互いに顔を見合っていた。市三は、さきの鉱車《トロ》よりも、もっと這入り方が少ない今度のやつを役員の眼前にさらすのは、罪をあばかれるように辛かった。鉱車《トロ》ごと、あとへ引っかえしたかった。しかし、うしろからは、導火線に点火し終った井村がカンテラをさげ、早足に、しかもゆったりとやって来た。――そのカンテラがチラ/\見えた。それは、途中で、支坑へそれた。
 市三は、ケージから四五間も手前で鉱車《トロ》を止めた。そして、きまり悪るげにおど/\していた。
「あンちき生、課長や、山長さんにゃおべっかばっかしこけやがって!」
 阿見がケージをたゞ一人で占領して上へあがると、びっこの爺さんが笑い出した。
 市三は、罪人のようにいつまでも暗いところで小さく悄《しょ》げこんでいた。
「何だい、おじ/\すんなよ。」
「うむ。」
「あいつはえらばってみたいんだ。何だい、あんな奴が。」
 髪がのびると特別じゝむさく見える柴田が、弟をすかすように、市三の肩に手を持って来た。
「あン畜生、一つ斜坑にでも叩きこんでやるか!」十番坑の入口の暗いところから、たび/\の憤怒を押えつけて来たらしい声がした。
「そうだ、そうだ、やれ/\。」
 その時、奥の方で、ハッパが連続的に爆発する物凄い音響が轟いた。砕かれた岩が、ついそこらへまで飛んで来るけはいがした。押し出される空気が、サッと速力のある風になって流れ出た。つゞいて、煙硝くさい、煙《けむ》のたまが、渦を捲いて濛々と湧き出て来た。

      

 井村は、タエに、眼で合図をして、何気ない風に九番坑に這入った。
「いイ、いイ。」
 彼女の黒い眼は答えていた。
 ハッパが爆発したあと、彼等は、煙《けむ》が大方出てしまうまで一時間ほど、ほかで待たなければならない。九番坑の途中に、斜坑が上に這い上って七百尺の横坑に通じている。彼は、突き出た岩で頭を打たないように用心しながら、その斜坑を這い上った。はげしい湿気とかびの臭いが一層強く鼻を刺した。所々、岩に緑青《ろくしょう》がふいている。そして、岩は、手を触れると、もろく、ポロ/\ところげ落ちた。三十度以上の急な斜坑を、落ちた岩は、左右にぶつかりながら、下へころころころげて行った。
 七百尺に上ると、それから、一寸竪坑の方によって、又、上に行く斜坑がある。井村は又、それを這い上った。蜘蛛の糸が、髪をのばした頭にからみついた。汚れた作業衣は、岩の肌にじく/\湿った汚物でなお汚れた。彼は、こんな狭い坑道を這いまわっている時、自分が、本当に、土鼠《もぐら》の雄であると感じた。タエは、土鼠の雌だ。彼等は土の中で密会する土鼠の雄と雌だった。
 彼は、社会でうろ/\した末、やっぱし俺等のような士鼠が食って行けるのはこの鉱山だけだ、どこをほっついたっていゝこたない、と思って帰って来た。
 だが土鼠には、誰れの私有財産でもない太陽と澄んだ空気さえ皆目得られなかった。坑外《おか》では、製煉所の銅の煙《けむ》が、一分間も絶えることなく、昼夜ぶっつゞけに谷間の空気を有毒瓦斯でかきまぜていた。坑内には、湿気とかびと、石の塵埃が渦を巻いていた。彼は、空気も、太陽も金だと思わずにはいられなかった。彼は、汽車の窓から見た湘南のうらゝかな別荘地を思い浮べた。金がない者は、きら/\した太陽も、清澄な空気も、それをむさぼり取ることが出来ない。彼は、これからさき、幾年、こんなところで土を掘りつゞけなけりゃならんか分らない。それを思うとうんざりした。しまいには、落盤にへしゃがれるか、蝕《むし》ばまれた樹が倒れるように坑夫病《よろけ》で倒れるか、でなければ、親爺のように、ダイナマイトで粉みじんにくだかれてしまうかだ。
 彼等は、恋まで土鼠のような恋をした。土の中で雄が雌を追っかけた。土の中で雄と雌とがちゝくり合った。タエは、石をいじる仕事にも割合荒れない滑かな肌を持っていた。その肌の下にクリ/\張りきった肉があった。彼女は、かびくさい坑道を別な道から足音かるくやって来た。井村は、斜坑を上り切ったところに待っていた。彼は、タエが、そこへやって来るのを知っていた。その淀んだ空気は腐っていた。湿気とかびの臭いは、肺が腐りそうにひどかった。しかし、彼は、それを辛抱した。
 彼女はやって来ると、彼の××××、尻尾を掴まれて、さかさまにブラさげられた鼠のようにはねまわった。なま樹の切り口のような彼女の匂いは、かびも湿気も、腐った空気をも消してしまった。彼は、そんな気がした。唇までまッ白い、不健康な娘が多い鉱山で、彼女は、全然、鉱毒の及ばない山の、みず/\しい青い樹のようだった。いつか、前に、鑿岩機をあてがっている時、井村は、坑内を見まわりに来た技師の眼が、貪慾げにこの若い力のはりきった娘の上に注がれているのを発見した。
 技師は、ひげもじゃの大きな顎を持っていた。そして学校に上る子供があった。しかし、その眼は、鉱脈よりも、娘々したタエに喰い入るように注がれていた。ひげもじゃの顎と、上唇をあつかましい笑いにほころばせながら。
「これゃ、この娘も、すぐ、あのひげの顎に喰われるぞ。」
 井村は、何故となく考えた。それから、彼のむほん気が、むら/\と動いて来た。それまでは、彼はたゞ一本のみずみずしい青葉をつけた樹を見るように彼女を見ていたゞけだった。まもなく彼は、話があるから廃坑へ行かないかと、彼女に切出した。
「なアに?」
 彼女は、あどけない顔をしていた。
「話だよ。お前をかっさらって、又、夜ぬけをしようってんだ。」
 ほかの者の手前彼は、冗談化した。
「いやだよ。つまんない。」
 スボ/\していた。
 しかし、昼食の後、タエは、女達の休んでいるカタマリの中にいなかった。彼は、それを見つけた。急に心臓がドキドキ鳴りだした。彼は、それを押えながら、石がボロボロころげて来る斜坑を這い上った。
 六百尺の、エジプトのスフィンクスの洞窟のような廃坑に、彼女は幽霊のように白い顔で立っていた。
 彼は、差し出したカンテラが、彼女にぶつかりそうになって、始めてそれに気がついた。水のしずくが、足もとにポツ/\落ちていた。カンテラの火がハタ/\ゆれた。
 彼は、恋のへちまのと、べちゃくちゃ喋るのが面倒だった。カンテラを突き出た岩に引っかけると、いきなり無言で、彼女をたくましい腕×××××。
「話ってなアに?」
「これがあの、ひげのあいつに喰われようとしとった、その女だ!」
 カンテラに薄く照し出された女の顔をま近に見ながら彼は考えた。そして腕に力を入れた。女のあつい息が、顔にかゝった。
「つまんない!」彼女はそんな眼をした。
 しかし、敏捷に、割に小さい、土のついた両手を拡げると、彼の頸×××××いた。
「タエ!」
 彼は、たゞ一言云ったゞけだ。つる/\した、卵のぬき身のような肌を、井村は自分の皮膚に感じた。
 それから、彼等は、たび/\別々な道から六百尺へ這い上って行きだした。ある時は、井村がケージの脇の梯子を伝って這い上った。ある時は、五百尺の暗い、冷々《ひえ/″\》とする坑道を示し合して丸太の柵をくゞりぬけた。
 彼は、彼女をねらっているのが、技師の石川だけじゃないのに気がついた。監督の阿見も、坂田も、遠藤も彼女をねらっていた。
「石川さん、お前におかしいだろう。」
 井村は、口と口とを一寸位いの近くに合わしながら、そんなことを云ったりした。
「それはよく分っている。」
「阿見だって、遠藤だってそうだぞ。」
 彼女は、平気に肯いた。
「もし追いつめられたらどうするんだい。」
「なんでもない。」タエは笑った。「そんなことしたら、あの奥さんとこへ行って、何もかも喋くりちらしてやるから。」

      

 五百米ばかり横に掘り進むと、井村は、地底を遠くやって来たことを感じた。何か事があって、坑外《しゃば》へ出て行くにも行かれない地獄へ来てしまったような心細さに襲われた。鉱脈は五百米附近から、急に右の方へはゞが広くなって来た。坑壁いっぱいに質のいゝ黄銅鉱がキラ/\光って見える。彼は、鉱脈の拡大しているのに従って、坑道を喇叭《ラッパ》状に掘り拡げた。が、掘り拡げても、掘り拡げても、なお、そのさきに、黄銅鉱がきら/\光っていた。経験から、これゃ、巨大な鉱石の大塊に出会《でっくわ》したのだと感じた。と、畜生! 井村は、土を持って来て、こいつを埋めかくしてやろうと思った。いくら上鉱を掘り出したって、何も、自分の得にゃならんのだ。たゞ丸の内に聳えているMのビルディング――彼はそのビルディングを見てきていた――を肥やしてやるばっかしだ。この山の中の真ッ暗の土の底で彼等が働いている。彼等が上鉱を掘り出す程、肥って行くのは、自動車を乗りまわしたり、ゴルフに夢中になっているMの一族だ。畜生! せめてもの腹癒せに、鉱石をかくしてやりたかった。
 女達は、彼の背後で、ガッタン/\鉱車《トロ》へ鉱石を放りこんでいた。随分遠くケージから離れて来たもんだ。普通なら、こゝらへんで掘りやめてもいゝところだ。喋べくりながら合品《カッチャ》を使っていた女達が、不意につゝましげに黙りこんだ。井村は闇の中をうしろへ振りかえった。白服の、課長の眼鏡が、カンテラにキラ/\反射していた。
「どうだい、どういうとこを掘っとるか?」
 採鉱成績について、それが自分の成績にも関係するので、抜目のない課長は、市三が鉱車《トロ》で押し出したそれで、既に、上鉱に掘りあたっていることを感づいていた。
「糞ッ!」井村は思った。
 課長のあとから阿見が、ペコ/\ついて来た。課長は、石を掘り残しやしないか、上下左右を見まわしながら、鑿岩機のところまでやって来た。そして、カンテラと、金の金具のついた縁なしの眼鏡を岩の断面にすりつけた。そこには、井村の鑿岩機が三ツの孔を穿ってあった。
「これゃ、いゝやつに掘りあたったぞ。」
 彼は、眼鏡とカンテラをなおすりつけて、鉱脈の走り具合をしらべた。「これゃ、大したもんに掘りあたったぞ、井村。」
 井村は黙っていた。
「どうもこゝは、大分以前からそういう臭いがしとりました。」「うむ、そうだろう。」と阿見が答えた。
 阿見は何か、むずかしげな学問的なことを訊ねた。課長は説明しだした。学術的なことを、こまごまと説明してやるのが、大学で秀才だった課長はすきなのだ。阿見は、そのコツを心得ていた。
「全く、私も、こゝにゃ、ドエライものがあると思って掘らしとったんです。」
「糞ッ!」
 又、井村は思った。
 課長の顔は、闇の中にいき/\とかゞやいていた。
 間もなく、八番坑には坑夫が増員された。
 課長は、鉱石の存在する区域をある限り、隅々まで掘りおこすことを命じた。井村の推定は間違っていなかった。それは、恐ろしく巨大な鉱石の塊《かたまり》だった。
「あんたは、自分の立てた手柄まで、上の人に取られてしまうんだね。」
 タエは、小声でよって来た。カンテラが、無愛想に渋り切った井村の顔に暗い陰影を投げた。彼女は、ギクッとした。しかしかまわずに、
「たいへんなやつがあると自分で睨んだから、掘って来たんだって、どうして云ってやらなかったの。」
 なじるような声だった。
「やかましい!」
「自分でこんな大きな鉱石を掘りあてときながら、まるで他人の手柄にせられて、くそ馬鹿々々しい。」
「黙ってろ! やかましい!」
 黄銅鉱は、前方と、上下左右に、掘っても/\どこまでもキラ/\光っていた。彼等はそれを掘りつゞけた。そこは、巨大な暗黒な洞窟が出来て来た。又、坑夫が増員された。圧搾空気を送って来る鉄管はつぎ足された。まもなく畳八畳敷き位の広さになった。
 それから十六畳敷き、二十畳敷きと、鑿岩機で孔を穿ち、ダイナマイトをかけるに従って洞窟は拡がって来た。
「これゃ、この塊で、どれ位な値打だろうか。」
「六千両くらいなもんだろう。」
 彼等は、自分で掘り出す銅の相場を知らなかった。
「そんなこってきくもんか、五六万両はゆうにあるだろう。」
「いや/\もっとある、十五六万両はあるだろう。」
 彼等は、この鉱山から、一カ年にどれだけの銅が出て、経費はどれだけか、儲けはどうか、銅はどこへ売られているか、そんなこた全然知らなかった。それからは、全然目かくしされていた。彼等はたゞ、坑内へ這入っておとなしく、鉱石を掘り出せばいゝ、――それだけだ。採掘量が多くなるに従って、運搬夫も、女達も増員された。市三は、大人にまじって土と汗にまみれて、うしろの鉱車《トロ》に追われながら、枕木を踏んばっていた。
 坑夫は洞窟の周囲に、だに[#「だに」に傍点]のように群がりついて作業をつゞけた。妊娠三カ月になる肩で息をしている女房や、ハッパをかけるとき、ほかの者よりも二分間もさきに逃げ出さないと逃げきれない脚の悪い老人が、皆と一緒に働いていた。そこにいる者は、脚の趾《ゆび》か、手の指か、或はどっかの筋肉か、骨か、切り取られていない者は殆どなかった。家にはよろけ[#「よろけ」に傍点]た親爺さんか、不具者になった息子か、眼が悪い幼児をかゝえていた。女達はよく流産をした。子供は生れても乳がなくなって死んで行くのが少くなかった。
 役員はたび/\見まわりに這入って来た。彼等の頭上にも鉱石は光っていた。役員は、それをも掘り上げることを命じた。
「これゃ、支柱をあてがわにゃ、落盤がありゃしねえかな。」脚の悪い老人は、心配げにカンテラをさし上げて広々とした洞窟の天井を見上げた。
「岩質が堅牢だから大丈夫だ。」
 老人はなお、ざら/\に掘り上げられた天井の隅々をさぐるように、カンテラを動かした。キラ/\光っている黄銅鉱の間から、砂が時々パラ/\パラ/\落ちて来た。
「これゃ、どうもあぶなそうだな。」
「なに、大丈夫だよ。」
 彼等は左右に掘り拡げた。同時に棚を作って天井に向って掘り上げた。そして横坑は、そのさきへも掘り進められて行った。天井からは、なおパラ/\/\と砂や礫《こいし》が落ちて来た。
 昼食後、井村は、横坑の溝のところに来て、小便をしていた。カンテラが、洞窟の土の上や、岩の割れ目に点々と散らばって薄暗く燃えていた。
「今頃、しゃばへ出りゃ、お日さんが照ってるんだなア。」声変りがしかけた市三だった。
「そうさ。」
「この五日の休みは、検査でお流れか。チェッ。」
 又、ほかの声がした。
 食後の三十分間を、皆は、蓆《むしろ》を拡げ、坑木に腰かけなどしてそれ/″\休んでいた。カンテラは闇の晩の漁火《いさりび》のようなものだった。その周囲だけを、いくらか明るくはする。しかし、洞窟全体は、ちっとも明るくならなかった。依然として恐ろしい暗は、そこに頑張っていた。
 井村は、もう殆んど小便をすましてしまおうとしていた。と、その時、突然、轟然たる大音響に彼は、ひっくりかえりそうになった。サッとはげしい風がまき起った。帽子は頭からとび落ちた。カンテラは一瞬に消えてまッ暗になった。足もとには、誰れかゞ投げ出されるように吹きとばされて、へたばっていた。それは一度も経験したことのない恐ろしく凄いものだった。ハッパの何百倍ある大音響かしれない。彼は、大地震で、山が崩れてしまったような恐怖に打たれた。
 湿った暗闇の中を、砂煙が濛々と渦巻いているのが感じられる。
 あとから、小さい破片が、又、バラ/\、バラ/\ッと闇の中に落ちてきた。何が、どうなってしまったか、皆目分らなかった。脚や腰がすくみ上って無茶に顫えた。
「井村!」奥の方からふるえる声がした。
「おい土田さん。」
「三宅! 三宅は居るか! 柴田! 柴田! 森!」
 助けを求める切れ/″\の呻きが井村の耳に這入ってきた。彼も仲間の名を呼んだ。湿っぽい空気にまじって、血の臭いが鼻に来た。女の柔かい肉体が血と、酸っぱい臭いを発しつゝころがっていた。
 井村は恐る/\そこらへんを、四ツン這いになってさぐりまわった。
 ……暫らくして、カンテラと、慌てた人声が背後に近づいて来た。ほかの坑道にいた坑夫達がドエライ震動と、轟音にびっくりして馳せつけたのだ。彼等も蒼白《まっさお》になっていた。
 井村は新しいカンテラでホッとよみがえった気がした。今まで、鉱車《トロ》や、坑木に蹲った坑夫や、女達や、その食い終った空の弁当箱などがあったその上へ、いっぱいに、新しい、うず高い岩石の山が落ちかゝっていた。そして、多くの人間は見えなかった。山のような岩の大塊のかげに、蒼白《まっさお》にぶるぶる顫えている幽霊のような顔が二ツ三ツちらちらしたばかりだ。「これだけしか生き残らなかったんだ!」突嗟《とっさ》に井村は思った。大塊の奥の見えない坑道からふるえる声がきこえて来た。それが土田だった。そこは、出て来る道をすっかり山にふさがれていた。カンテラの光は、そこへ届かなかった。
「おや、脚がちぎれとるぞ。」若い一人がとび上った。
 生ぐさい血に染った土が薄気味悪く足に触れた。小間切を叩きつけたような肉片や、バラ/\になった骨や肉魂がそこらに散乱していた。吹き飛ばされると同時に、したゝかにどっかを打ったらしい妊婦は、隅の方でヒイ/\虫の息をつゞけていた。
 二十一人のうち、肉体の存在が分るのは、七人だった。
 七人のうち、完全に生きているのは四人だった。廃坑で待ちほけにあった、タエは、猫のように這いおりて来た。
「柴田だ!」
 脇腹から××が土の上にこぼれている坑夫は一本残っている脚をぴく/\顫わしていた。彼等はカンテラを向けながら、ぞッとして立すくんだ。二人は、半身を落盤にかすり取られていた。
「まだ息があるじゃないか。早くしろ!」
 人を押し分けて這入って来た監督は顫える声でどなった。彼等が担架《たんか》に乗せるとて血でぬる/\している両脇に手をやると、折れた骨がギク/\鳴った。
「まだ生きとる。」
 監督は念を押して、繰かえした。
 三ツの屍《しかばね》は担架に移された。それから竪坑にまでかついで行かれ、一ツ/\ケージで、上に運びあげられた。
 坑内で死亡すると、町の警察署から検視の警官と医者が来るまで、そのまゝにして置かなければならない。その上、坑内で即死した場合、埋葬料の金一封だけではどうしてもすまされない。それ故、役員は、死者を重傷者にして病院へかつぎこませる。これが常用手段になっていた。
「可愛そうだな!」坑夫達は担架をかついで歩きながら涙をこぼした。「こんなに五体がちぎれちまって見るかげもありゃせん。」
「他人事《ひとごと》じゃねえぞ! 支柱を惜しがって使わねえからこんなことになっちゃうんだ!」武松は死者を上着で蔽いながら呟いた。「俺《お》れゃ、今日こそは、どうしたって我慢がならねえ! まるでわざと殺されたようなもんだぞ!」
「せめて、あとの金だけでも、一文でもよけに取ってやりたいなア!」
 坑外では、緊張した女房が、不安と恐怖に脅かされながら、群がっていた。死傷者の女房は涙で眼をはらしていた。三ツの担架は冷たい空気が吹き出て来る箇所を通りぬけて眼がクラ/\ッとする坑外へ出た。そこには、死者が、しょっちゅうあこがれていた太陽の光が惜しげなく降り注いでいた。死者の女房は、群集の中から血なまぐさい担架にすがり寄った。
「千恵子さんのおばさん死んだの。」
「これ! だまってなさい!」
 無心の子供を母親がたしなめていた。
 井村は、自分にむけられた三本脚の松ツァンの焦燥にギョロ/\光った視線にハッとした。
「うちの市三、別条なかったか。」
 市三は、影も形も彼の眼に這入らなかった。井村は、眼を伏せて、溜息をして、松ツァンの傍を病院の方へ通りぬけた。
「市三、別条なかったかな?」
 不安に戦慄した松ツァンの声が井村の背後で、又、あとから来る担架に繰りかえされた。
「…………」
 そこでも、坑夫は、溜息をついて、眼を下へ落した。
「うちの市三、別条なかったかなア!」
 石炭酸の臭いがプン/\している病院の手術室へ這入ると、武松は、何気なく先生、こんな片身をそぎ取られて、腹に穴があいて、一分間と生きとれるもんですか、ときいた。
「勿論即死さ。」
 医者は答えた。武松は忽ち元気を横溢さした。
「じゃ、先生、この森と柴田の死亡診断書にゃ、坑内で即死したと書いて呉れますね。」
「わしは、坑内に居合《いあわ》さなかったからね。」あやしげな口調になった。「こうして、監督がここへかついで来さしたんだから、勿論、まだ、命はあったかもしれんな。」
「先生が見て即死なら、見られたその通りを書いて呉れりゃいゝじゃありませんか。」
 返事がなかった。
「わしら行って見た時にゃ、もう息はなかったんですよ。」
「村上先生じゃったらなア!」隅の方で拇指《おやゆび》のない坑夫がさゝやいた。村上という医者は、三年前、四カ月程いて、坑山病院から頸になって行ってしまった。その村上も、決して坑夫に特別味方して呉れた医者じゃなかった。たゞ事実を有る通りに曲げなかった。そして、公平に、坑夫でも手子《てこ》でも空いていさえすれば、一等室に這入らした。その事実を曲げない、公平なだけでも、坑夫達には親のように有難かった。だが、それだけに、この坑山では、直ちに、追い出される理由になった。
「糞ッ!」
 彼等は、坑内へ引っかえしながら、むしろ医者に激しい憎悪を燃した。
「町が近けりゃ、ほかの医者にかつぎこんで見せてやるんだがなア!」
「なに、どいつに見せたって同じこったよ!」武松が憎々しげに吐き出した。「今に見ろ! 只じゃ怺えとかねえから。」
 妊婦は、あとで「脳振盪」と、病床日誌に死の原因を書きつけられていた。

      

 今度は、山のような落盤の上に下敷きとなっている十四人を掘り出さなきゃならなかった。洞窟の奥の真暗な横坑にふさぎ込められていた土田は、山を這い渡る途中に、又、第二の落盤でもありやしないか、びく/\しながら、小さくなって、ころび出て来た。
 三本脚の松ツァンは、ケージをおりて、坑内へ這入って来た。彼は巨大な鉱石に耳をつけて息子の呻きがしやしないか神経を集中した。
「市三! 市三!」
 何度も大きな声を出して呼んだ。何ンにも返事がなかった。
「もうあかん!」彼は、ぐったりした。が、すぐあとから、又、「市三! 市三!」と息子を呼びつゞけた。
 そこからは、呻きも、虫の息も、何等聞えなかった。鉄管から漏れる圧搾空気だけがシューと引っきりなしに鳴っていた。
「これゃ、どうしたってあかん!」
 彼は、頭を両肩の中へ落しこんでしまう程がっかりした。
 集って来た死者の肉親は、真蒼になって慌てながら、それでもひょっとすると、椀のように凹んだ中にでも生きているかも知れん。そんな僥倖をたのみにした。事実天井は、墜落する前、椀をさかさまにしたように、真中が窪めて掘り上げられていた。
 皆は、掘出しにかゝった。坑夫等は、鶴嘴《つるはし》や、シャベルでは、岩石を掘り取ることが出来なかった。で、新しい鑿岩機が持って来られ、ハッパ袋がさげて来られた。
 高い、闇黒の新しい天井から、つゞけて、礫《こいし》や砂がバラバラッバラバラッと落ちて来た。弾丸が唸り去ったあとで頸をすくめるように、そのたび彼等は、頸をすくめた。
 松ツァンは、二本の松葉杖を投げ棄ててタガネと槌を取った。彼は、立って仕事が出来なかった。で、しゃがんだ。摺古木《すりこぎ》になった一本の脚のさきへ痛くないようにボロ切れをあてがった。
 岩は次第に崩されて行った。ピカ/\光った黄銅鉱がはじけ飛ぶ毎に、その下から、平たくなった足やペシャンコにへしげた鑿岩機が現れてきた。折れた脚が見え出すと、ハッパをかけるにしのびなかった。
「掘れ! 掘れ! 岩の下から掘って見ろ。」
 鶴嘴とシャベルで、屍《しかばね》を切らないように恐る/\彼等は、落ちた岩の下を掘った。腥《なまぐさ》い血と潰された肉の臭気が新しく漂って来た。
「市三! 市三!」
 跛《びっこ》の親爺は呼びつゞけた。が、そこからは呻きも叫びも何等聞えなかった。
「市三! 市三!……これゃどうしたってあかん!」
 松ツァンの声は、薄暗い洞窟に、悲痛なひゞきを伝えた。井村は面《おもて》をそむけた。
 腥い臭気は一層はげしくなって来た。
「あ、弥助爺さんだ。」
 落盤を気づかっていた爺さんが文字通りスルメのように頭蓋骨も、骨盤も、板になって引っぱり出された。
 うしろの闇の中で待っていたその娘は、急にへしゃげてしまった親爺の屍体によりかゝって泣き出した。
「泣くでない。泣くでない。泣いたって今更仕様がねえ。」
 武松が、屍体に涙がかゝっては悪いと思いながら、娘の肩を持ってうしろへ引っぱった。
「泣くでない。」
 しかし、そう云いながら、自分も涙ぐんでいた。それから、又、一人の坑夫が引っぱり出された。へしゃがれた蟹のように、骨がボロ/\に砕けていた。担架に移す時、バラバラ落ちそうになった。
 彼等は、空腹も疲労も忘れていた。夜か昼か、それも分らなかった。仲間を掘り出すのに一生懸命だった。
 二人、三人と、掘り出されるに従って、椀のような凹みに誰れか生き残っている希望は失われて行った。張子の人形を立っているまゝ頭からぐしゃりと縦に踏みつけたようなのや、××も、ふくよかな肉体も全く潰されて、たゞもつれた髪でそれと分る女が現れてきた。
 三本脚の松ツァンは、屍体が引っぱり出されるごとに鼻をすりつけてかぎながら、息子の名を呼んだ。彼は、ボロ切れをまきつけた脚でいざりながら、鑿岩機を使ったり、槌を振り上げたりした。
 よう/\九人だけ掘り出した。が、まだ市三は見つからなかった。
 役員が這入って来た。そして、皆《みん》な洞窟から出るように云いつけた。
「どうするんだ?」
「検査だ、鉱山監督局から厄介なやつがやって来やがった。こんなところを見られちゃ大変だよ。」
「だって、まだ、ここにゃ五人も仲間が、残っとるんだぞ!」
「なあに、どうせ、くたばってしまって生きとれゃせんのだから二日、三日掘り出すんがおくれたっていゝじやないか。」

      

 鉱山監督局の技師には、危険な箇所や、支柱や柵をやってないところや、水が湧き出る部分は見せないようにつくろっているのだ。切れた捲綱を継ぎ合して七カ月も厚かましく使っていた。坑夫はケージに乗って昇降するたびに、ヒヤ/\せずにいられなかった。それは、いつ、ぷすりと継ぎ目がぬけるか分らないのだ。その捲綱が新しいやつに取りかえられていた。廃坑の入口は、塞がれた。横坑から分岐した竪坑や、斜坑には、あわてゝ丸太の柵を打ちつけた。置き場に困る程無茶苦茶に杉の支柱はケージでさげられてきた。支柱夫は落盤のありそうな箇所へその杉の丸太を逆にしてあてがった。
 阿見は、ボロかくしに、坑内をかけずりまわっていた。
 三本脚の松ツァンが八番坑から仕方なく皆について出て来ると、そこは直ちに、塀を持って来て坑道が途中から塞がれることになった。松ツァンは一番最後に、松葉杖にすがって、ひょく/\出て来た。彼の顔は悲しげにひん曲り、眼だけが、カンテラにきら/\光っていた。
「いつも俺等に働かすんは、あぶないところばっかしじゃないか。――そこを、そんなり、かくさずに見せてやろうじゃないか。」
「そうだ、そうだ。」
「馬鹿々々しい上ッつらの体裁ばかり作りやがって、支柱をやらんからへしゃがれちゃったんじゃないか! それを、五日も六日も、そのまゝ放《ほう》たらかしとくなんて、平気でそんなことがぬかせる奴は人間じゃねえぞ!」
「畜生! 何もかも、検査官に曝露してやれい! 気味たいがえゝ程やったろう!」
 彼等は、不服と、腹立たしさの持って行きどころがなかった。
 監督が上にあがって行くと、出しかけていた糞桶をまたもとの廃坑へ放りこんだ。斜坑の柵や新しくかった支柱は、次から次へ、叩きはずした。八番坑の途中に積んでいた塀も突きくずされた。三木脚の松ツァンは、ひょっくひょっくそこを通り越して息子がへしがれている洞窟へ這入って行った。支柱がはずされたあとは、くずれた岩や土が、柱が突きはずされると同時に、凄《すさ》まじい音を立てゝなだれ落ちて来た。
「こういうところを見せてやりたいなあ!」
 十一時頃に、井村は、坑口にまで上ってきた。そして検査官が這入って来るのを待った。川の縁の公会堂附近に人がだいぶ集っている気配がして唄のようなものがきこえてきた。
 今日こそ、洗いざらい、検査官に、坑内が、どれだけ危険だか見せてやることが出来る。どれだけ法規違反ばかりをやっているか見せてやることが出来る。――彼は、どれだけの人間が、坑内で死んじゃったかそれを思った。まるで、人間の命と銅とをかけがえにしているのと同然だった。祖母や、母は、まだ、ケージを取りつけなかった頃、重い、鉱石を背負って、三百尺も四百尺も下から、丸太に段を刻みつけた梯子を這い上っていた。三百尺の梯子を、身体一ツで登って行くのでさえ容易でない。それを、彼女等は、背に重い鉱石を背負っていた。彼女等は鉱石のために背をうしろへ強く引きつけられた。手と足とがひどく疲れた。我慢をした上に我慢をして登った。が、もう、梯子が三ツか四ツというところまで漕ぎつけて、我慢がしきれなくなって、足を踏みはずしたり、手に身体を支える力がなくなったりして、墜落した。上の者は、下から来ている者の頭に落ちかゝった。と、下の者は、それに引きずられて二人が共に落ちだした。その下に来ている者が又引きずられた。落ちながら、彼女達は坑内に凸凹している岩に、ぶつかった。坑底に落ちてしまうまでには尖った岩に、乳や、腕や、腰や、腹が××られたり、もがれたりした。そして、こなみじんになってしまった。どれが、誰れの手か、どれが、誰の足か、頭か、つぎ合すのに困るようにバラ/\になってしまった。――そんなことが幾度あったか知れない。それは、昔から検査官に内所にしてあった。彼の祖父は、百尺上から、落ちて来た、坑木に腰を砕かれて死んでしまった。親爺はハッパにやられた。彼の母も、母の妹も、坑内で死んでいた。母は、竪坑の、ひどく高いところから、拇指ほどの石がヒューと落ちて来た。それと同時に、鉄砲の弾丸《たま》にあたったように、パタリと倒れてしまった。石は、頭蓋骨を貫いて、小脳に這入っていた。何十人、何百人の者が、銅を掘り出すために死んだことか! 彼は、それを思うと、一寸の銅の針金、一つの銅の薬罐も、坑夫の血に色どられている気がした。
 寒い、かび臭い風はスー/\奥から坑口へ向って流れ出て来た。そこで、井村は検査官を待った。公会堂の人のけはいと、唄が、次第に大きくはっきり聞えだした。八番坑のへしゃがれた奴が、岩の下に見えている。そこへ、検査官をつれて行くことを彼は予想した。山長や、課長が蒼く、顔色をかえて慌てだすだろう。ざま見ろ! 坑内にいる連中は、すべてを曝露してやる計画でうまくやっていた。役員の面の皮を引きむいてやるだけでもどれだけ気味がいゝかしれない。
 二時まで待った。しびれを切らした武松は、坑口まで様子をさぐりに出て来た。
「これゃ君。」武松は、井村の耳もとに口をもって来て、小声に云った。「どうせ、曝露すりゃ、俺等はこっから追ン出されるぞ。」
「一かばちかだ。追ン出されたってかまわんじゃないか。」
「いや/\、そこで、この際、皆が一ツにかたく結びついとくことが必要なんだ。追ン出すたって追ン出されないようにだよ。」
 ほかの者も、坑口まであがって来た。検査官は、やはりやって来るけぶらいも見えなかった。
「どう――もう来るかしら。」モンペイをはいたタエが、にこ/\しながら走り出て来た。「――ちゃんと、ケージのロープまで、もとの継《つ》いだやつにつけ直しちゃったんだよ。」
「今日こそ、くそッ、何もかも洗いざらい見せてやるぞ。」
「何人俺等が死んだって、埋葬料は、鉱車《トロ》一杯の鉱石であまるんだから、会社は、石さえ掘り出せりゃ、人間がどうなったって庇とも思ってやしねえんだ。あいつら、畜生、人間の命よりゃ、鉱石の方が大事と思ってやがるんだぞ!」
「うむ、そうだ、しかし、今日こそ、腹癒せをしてやるぞ! 今に見ろ!」
 坑夫等は山の麓の坑口から、川縁の公会堂に、それ/″\二ツの眼を注いでいた。すばしっこい火箸のような、痩せッこつの七五郎が、板の橋を渡って公会堂に様子をさぐりに、ぴょん/\はねとんで行った。
「おい、のんでるぞ、のんでるぞ!」
 踏みつけられたような笑い方をしながら七五郎は引っかえして来た。
「何《な》に、のんでる?」
「役員どもがより集って、検査官をかこんでのんでるぞ。」
「まだ、選鉱場も熔鉱炉も検査はすまねえんだぜ。」
「それでものんでる。のんでる。」
「チェッ! 酒で追いかえそうとしとるんだな。くそたれめが!」
 三時半に、阿見が公会堂からやって来た。睫毛の濃い眼が、酒で紅くなっていた。
「おーい、もう帰ったから、えゝぞ、えゝぞ。」彼は、板橋を渡ると、ずるげな、同時に嬉しげな笑い方をして、遠くから、声をかけた。
「くそッ! じゃ、もう検査はないんかい?」
「すんじゃったんだ。」
「見まわりにも来ずに、どうしてすんだんだい?」
「略図を見て、すましちゃったんだ。馬鹿野郎!」
「畜生!」
 坑夫等は、しばらく、そこに茫然と立っていた。
 川下の、橋の上を、五六台の屋根のあるトロッコが、検査官や、役員をのせてくだって行くのが、坑口から見えた。トロッコは、山を下ることが愉快であるかのように、するすると流れるように線路を、辷っていた。井村は、坑内で、自分等が、どれだけ危険に身をさらしているか、それを検査官に見せ付てやろうとしたことが、全く裏をかゝれてしまったことを感じた。畜生! 検査官など、何の役にも立ちやしなかったんだ! はじめっから、何の役にも立ちやしなかったんだ! 彼は、やっと、それをのみこんだ。役員とぐるになったって、決して、俺等の味方にゃならんものであることが分ってきた。
「これから、又、S町で二次会だぞ。」
 阿見は、相かわらず、ずるげな、同時にこころよげな笑いを浮べながら、酒くさい息を坑夫達の顔にゲップ/\吹きかけた。     
(一九二九年十月)

底本:「黒島傳二全集 第二巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年5月30日第1刷発行
入力:大野裕
校正:原田頌子
2001年9月3日公開
2006年3月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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