国枝史郎

神秘昆虫館—– 国枝史郎

        一

「お侍様というものは……」女役者の阪東|小篠《こしの》は、微妙に笑って云ったものである。「お強くなければなりません」
「俺は随分強いつもりだ」こう答えたのは一式小一郎で、年は二十三で、鐘巻流《かねまきりゅう》の名手であり、父は田安家《たやすけ》の家臣として、重望のある清左衛門であった。しかし小一郎は仕官していない。束縛されるのが厭だからで、放浪性の持ち主なのである。秀でた眉、ムッと高い鼻、眼尻がピンと切れ上がり、一脈剣気が漂っているが、物騒というところまでは行っていない。中肉中|丈《ぜい》、白色である。そうして性質は明るくて皮肉。
「どんなにあなたがお強くても、人を切ったことはございますまい」阪東小篠は云い出した。
「泰平の御世《みよ》だ、人など切れるか」
「では解らないではございませんか。……はたしてお強いかお弱いか?」
「鐘巻流では皆伝だよ。年二十三で皆伝になる、まあまあよほど強い方さ」一式小一郎は唇を刎《は》ね、ニヤニヤ笑ったものである。
「お侍様というものは、お強くなければいけません」
「だからさ、強いと云っているではないか」
「ねえ、あなた」と阪東小篠は、そそのかす[#「そそのかす」に傍点]ように云い出した。
「一度でも人をお切りになった方は、度胸が決まると申しますねえ」
「どうやらそんな話だな」
「お侍様というものは、度胸がなければいけませんねえ」
「云うまでもないよ」と小一郎は笑止らしく横を向いた。
「あなたに度胸がありますかしら?」
「あるともあるとも大ありだ」
「人を切ったこともない癖に」
「小篠!」と云うと小一郎は、ちょっと睨むように相手を見た。「何か目算がありそうだな」
「何んの何んのどう致しまして」小篠は例によって笑ったが、微妙な笑いであると共に、吸血鬼《バンパイヤ》的の笑いでもあった。「ねえ、あなた、ただ妾《わたし》はこう云いたいのでございますよ。――すべて女というものは、男が度胸を見せた時、すぐ飛びかかって行くものだとねえ」
「うむ、惚れるということか?」
「はいはいさようでございます」
「なるほど」と云ったが小一郎は、いくらか物憂そうに考え込んだ。と、話題をヒョイと変えた。
「それはそうとオイ小篠、南部集五郎はやって来るのかな?」
「よくお呼びしてくださいます」
「あいつも根気がいい方だなあ」
「ホッホッホッホッ、あなたのように」
「そうさ、俺だって根気はいいよ。……ところで小篠、どっちが好きだな?」
「南部様もそんなことをおっしゃいました。――一式|氏《うじ》とこの拙者と、どっちにお前は惚れているかなどと」
「で、どっちに惚れているのだ?」
「どっちがお強うございましょう?」
「ふふん、それでは強い方へ、お前はなびく[#「なびく」に傍点]というのだな?」
「そんな見当でございます」小篠は妖艶にニッコリとした。
「そうか」
 と云うと一式小一郎は、ズイとばかりに立ち上がった。「小篠、それではまた会おう」
「もうお帰りでございますか」
「うん」
 と云うと部屋を出た。
 ここは深川の、桔梗《ききょう》茶屋の、その奥まった一室である。一人になった阪東小篠は、心の中で呟いた。
「南部さんにも云ったものさ。人一人お切りなさいましと。……妾《わたし》のためにお侍さんが、罪もない人間を叩っ切る! ああどんなにいいだろう! そこまで妾に惚れてくれなければ妾の方だって惚れてはやらない。お二人の中でサアどっちが、希望《のぞみ》を叶えてくれるかしら? いい見物だよ、待っていよう」

 桔梗茶屋を出た小一郎は、考えながら歩いて行く。
「小篠という女、俺は好きだ。美しい上に惨酷性がある。完全な女というものさ。惨酷性のない女なんか、女ではなくて雌だからなあ。……それにしても随分|手強《てごわ》い女だ。俺は半年も呼びつづけたかしら? それで未だにうんと云わない。……その上とうとう本性を現わし、人を切れなどと云い出してしまった。……いかにあいつのためとは云え、罪もない人間は切れないなあ。……そう云っても人を切らなければ、手に入れることは出来ないだろう。……そうしてまごまごしている中に、あの恋仇の南部奴に、かっ[#「かっ」に傍点]攫われまいものでもない。こいつだけはいかにも残念だなあ。……それはそうとここはどこだ?」
 四辺《あたり》を見廻わすと小梅田圃で、極月十日の星月夜の中に、藪や林が立っている。

        

「これは驚いた」と小一郎は、思わず足をピタリと止めた。
「いかに考えて歩いたとはいえ、小梅田圃へ出ようとは! こいつ狐につままれたかな?」
 いやそうでもなさそうである。
「寒い寒い、急いで帰ろう」歩き出したがまた考えた。「だが全く竹刀《しない》の先で、ポンポン打ち合った剣術は、実戦の用には立ちそうもないなあ。……人間一人サ――ッと切る! 手答えあって血の匂い! ヒーッという悲鳴、のた[#「のた」に傍点]打つ音! ……悪くないなあ悪くないなあ。……一度辻切りをして見たいものだ」
 ふと小一郎は誘惑を感じた。
「切るにしても女や町人はいけない。うんと[#「うんと」に傍点]屈竟な武士に限る!」
 考えながら歩いて行く。と、行手に藪があり、ザワザワと風に戦《そよ》いでいる。その、裾辺まで来た時である、
「む、こいつは可笑《おか》しいぞ」小一郎はスッと後へ退《の》き、ジ――ッと藪を隙《す》かして見た。
 何んにも変ったことはない。が、小一郎には感ぜられるらしい。小首を傾《かし》げたものである。
「どいつかいるな! 刀を按じて!」
 迫身《ハクシン》ノ刀気《トウキ》ハ盤石ヲ貫ク、心眼察スル者《モノ》則《スナワ》チ豪《ゴウ》――鐘巻流の奥品《おうぽん》にある。その刀気を感じたらしい。で、寂然と動かなかった。
 不意に小一郎は左手《ゆんで》を上げ、鞘ぐるみ大刀を差し出したが、柄《つか》へ手をやると二寸ほど抜き、パチンと鍔鳴りの音をさせた。
 と、黒々と藪を巡り、一個の人影が現われた。
「さすがは一式小一郎氏、拙者のいるのを察しられたと見える」
「や、貴殿南部氏か!」
「さよう」というと南部集五郎は、二歩《ふたあし》ほど前へ進み出たが、「尾行《つ》けて参った、深川からな」
「ははあさようか、何んのご用で?」小一郎は油断をしなかった。
「率直に申す! お立ち合いなされ……」
「ほほう」と云ったが小一郎は、一つの考えを胸へ浮かべた。
「さては貴殿におかれても、阪東小篠にけしかけられ[#「けしかけられ」に傍点]ましたな?」
「では貴殿にも?」と南部集五郎は、いささか興醒めたというように、
「それでは益※[#二の字点、1-2-22]恰好というもの、遁《の》がしはせぬ、お立ち合いなされ!」
「さようさ、こいつは遁がれられまい」――だがにわかにクックッと笑った。「それにしても武士道は廃《すた》れましたな」
「何故な?」と集五郎はトホンとした。
「元亀天正の昔なら、女を賭けては切り合いませんよ」
「これはいかにも」と南部集五郎も、胸に落ちたか笑い出した。
「アッハハハ御世の有難さで」
「ええと今年は天保十年、文化からかけて文政と、武士ども柔弱になりましたな」悠々とこんなことを云い出した。
「これこれ一式氏一式氏、何を云われる、つまらないことを! 命の取りやり、さあ参るぞ!」次第に急《せ》くのは集五郎である。
「心得ておる!」と小一郎は、尚悠々と云いつづけた。「拙者剣侠を志してな、上《かみ》にも仕えず二十三の部屋住み、そこで長剣を横たえて、千里に旅しようと思っていました。ところがとうとうおっこち[#「おっこち」に傍点]ましたよ、あの小篠という河原者にな」
「抜け!」と集五郎は威猛高《いたけだか》である。「ごまかす気だな、卑怯千万!」
「剣侠も女にはまって[#「はまって」に傍点]は」と小一郎はかまわず云いつづける。
「いやはや一向値打ちござらぬ」
「チェッ」と集五郎は舌打ちをした。「これ臆したな! 一式小一郎!」
「剣より女の方が魅力がある」
「何を馬鹿な! それがどうした」
「そこで俺は徹底する」
「え?」と集五郎は一歩|退《の》いた。
「人を切れという小篠の言葉、それに手頼《たよ》って徹底する! 人を切る! 貴様を切る! 女を取る! 悪事をする! 拙者悪剣に徹底する! これ、集五郎!」とヌッと進んだ。「飛び込んで来たな、よいところへ! 俺はな、俺はな!」とまた進んだ。「待っていたのだ! 辻切りの相手を! ……参るゾーッ」と声を掛けた。
 はじめての大音、野面を渡り、まるで巨大な棒のように、夜の暗さを貫いた。
 同時に飛び退いた小一郎は、引き抜いた下緒をピューッと振り、一つ扱《しご》くと早襷《はやだすき》! 袖が捲くれて二本の腕が生白くニュッと食《は》み出したが、つづいて聞こえたは鞘走る音だ。と、にわかに小一郎の体《からだ》がシーンと下へ沈んだが、見れば右足を前へ踏み出し、膝から曲げて左足を敷き、腰を落したは蟠《わだかま》った竜! 曲げた膝頭の上二寸、そこへ刀の柄をあて、斜めに枝を張ったように、開いて太刀をつけたのは、鐘巻流での下段八双! 真っ向からかかれば払って退け、突いて来れば搦み落とす、翩翻《へんぽん》自在の構えである。星を刻むような鋒止先《きっさき》、チカチカチカチカと青光る。居付かぬように動かすのである。ブ――ッと剣気そこから湧き、暗中に虹でも吹きそうである。

        

 だが南部集五郎、こいつも決して只者ではなかった。東軍流ではかなりの手利《てき》き、同じく飛び退くとヌッと延《の》し、抜き持った太刀|柄《づか》気海へ引き付け、両肘を縮めて構え込んだが、すなわち尋常の中段である。
「なるほど」と呟いたは小一郎で、「かなり立派な腕前だな。だがこの俺の敵ではない。よし」と云うと揶揄し出した。「さあ南部氏、かかってござれ! 立っているばかりが能ではない。お揮いなされ、そのだんびら[#「だんびら」に傍点]を! ちょうど星空だ光りましょうぞ! 廻わり込みなされ、右の方へ! すると拙者は左へ廻わる。と、ご両人ぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]合う。そこでチャリ――ンと一合の太刀! ナーニ二合とは合わせませんよ、一合でちゃ[#「ちゃ」に傍点]アんと片が付く。もちろん貴殿が負けるのさ。それ石卵は敵しがたし! 唐人も時にはうまいことを云う。石と卵とぶつかれ[#「ぶつかれ」に傍点]ば、間違いなく石の方が勝ってしまう。拙者が石で貴殿が卵、さあ卵|氏《うじ》、卵氏はずんで、飛び込んでおいでなされ」喋舌りながらも考えた。「俺は案外大胆だな、今夜が最初の実戦だが、大して怖くも恐ろしくもない。うむ、これなら人間が切れる。……よしよしこっちから迫《せ》り詰めてやれ」
 足の爪先|蝮《まむし》をつくり、土を刻んでジリジリと、廻わりも込まずに前へ出た。
 次第に後退《あとじ》さる集五郎、いわゆる気勢に圧せられ、ともすると太刀先が上がろうとする。上がったが最後、「突き」が来る。そこで押し静め、押し静め、盛り返して一歩出た。と、小一郎は一歩引いた。と、集五郎また一歩! と、小一郎一歩退がった。「しめた」と考えた集五郎、相手が「釣手《つりて》」で退くとも知らず、ムッと気息、腹一杯、籠めると同時に躍り込んだ。両肘を延ばし、太刀を上げ目差すは小一郎の右の肩、そいつをサッと左袈裟!
「駄目だよ」と小一郎は一喝した。瞬間に鏘然《しょうぜん》たる太刀の音! つづいて大きく星空に、一つの楕円が描かれた。すなわち一式小一郎が敵の刀を払い落とし、身を翻えすと片手切り、大刀宙へ刎ねたのである。こいつが落ちれば集五郎の首は、斜《はす》に耳から切られただろう。
 その際《きわ》どい一髪の間だ、女の声が聞こえて来た。
「蝶々をご存知ではございますまいか」
 美しい清浄な声であった。ス――ッと小一郎の心から、殺伐な邪気が抜けてしまった。
 と、また女の声がした。
「永生《えいせい》の蝶でございます。……蝶々をご存知ではございますまいか」
 どこにいるのだろう、声の主は? 木立があって、藪があって、後は吹きさらしの、小梅田圃。女の姿などどこにも見えない。それにもかかわらず女の声は、すぐ手近から聞こえるのであった。
「もしご存知でございましたら、昆虫館までお届けください」
 するとどうだろう、それに続いて、老人の声が聞こえて来た。「娘よ、駄目だよ、永生の蝶、何んのこういう人達に、探し出すことが出来るものか」
 非常に威厳のある声であった。手近の所から聞こえて来る。だがやっぱり姿は見えない。
「人殺しをしようという人間に、永久に生きる神秘の蝶が、何んの何んの探し出せるものか」老人の声がまた聞こえた。「さあ娘よ、そろそろ行こう」
「はい、お父様」と女の声がした。「それでは他へ参りましょう」それから優しくもう一度云った。「お止めなさりませ……お侍様……殺生のことはね……さようなら」
 もうそれだけしか聞こえなかった。立ち去る足音もしなかった。声だけが突然土から生れ、倏忽《しゅっこつ》と空へ消えたようであった。
 風が少しく強まったらしい。藪がザワザワと揺れ出した。
 刀を宙へ振り上げたまま、じっと聞き澄ましていた一式小一郎、で思わず溜息をしたものである。
「南部氏!」と呼びかけた。「今夜の立ち合い、止めにしましょう」
「よろしい」と云うと南部集五郎は落とした刀を拾い上げた。
 パチンと鍔音高く立て、刀を納めた小一郎、「お別れ致す」と云いすてると、町の方へスタスタ歩き出した。
「何んだろういったい永生《えいせい》の蝶とは?」小一郎は歩きながら思案した。
「昆虫館とは何んだろう?」何が何んだか解らなかった。「それにしても美しい声だったなあ。心が一時に清まってしまった。……若い美しい娘なんだろう。……逢ってみたいような気がするなあ」
 彼の屋敷は麹町にあった。そこへ帰って来た小一郎は、意外な話を聞いたものである。

        

 意外の話を話したのは、他ならぬ清左衛門であった。
「それお前も知っている通り、この頃|田安《たやす》家と一ツ橋家とは、何彼につけて競争ばかりし、面白くない気勢が醸されているが、とうとう変なものを争うようになったよ」こんな調子に話し出した。「と云うのは、他でもない、江戸の四方五十里の内に、昆虫館という建物があり、永生《えいせい》の蝶と云われている雌雄二匹の蝶がいて、神秘の伝説を持っているそうだ。すなわち二匹を手に入れて、交尾をさせて子を産ませた者は、莫大な財宝を得られるとな。云い出したのは女|方術師《ほうじゅつし》、お前も知っておる鉄拐《てっかい》夫人だ。で今やお館《やかた》には、二匹の蝶を手に入れようと、苦心惨澹をしていられる。が、こいつは、馬鹿な話さ。永生とは何か、無限に生きることだ。ところが蝶は一年とは生きない。永生の蝶などある筈がない。云い出した人間が悪い。方術師とは由来道教の祖述者、虚無|恬淡《てんたん》を旨とする、老子の哲学を遵奉《じゅんぽう》するもので、無慾でなければならない筈だ。ところが例の鉄拐夫人、無慾でもなければ恬淡でもない。ヤレ錬金だの、仙丹だのと、金持ちになることと永生《ながい》きすることとを、セッセとお館に進めている、彼奴《きゃつ》決して方術師ではなく、精々のところ手品使い、初歩の忍術《しのび》の使い手に過ぎない。かような女を召し抱えたは、お館にとって不幸だが、これとてやはり競争から来ておる。一ツ橋家の方でまず最初に、蝦蟇《がま》夫人という女方術師を抱え、大仰に吹聴《ふいちょう》したからさ。で、噂による時は、一ツ橋家でも同じようなことを、その蝦蟇夫人が云い出したため、やはりそいつを手に入れようと、お館にはご苦心をされておるそうだ。今日も一日中御殿では、その評定で大騒ぎだった。困ったものだよ。こういう迷妄はな」
 こいつを聞いた小一郎が、驚きと興味とを感じたのは、説明するにも及ぶまい。膝を進めて訊いたものである。
「で、お父様、昆虫館は、どの辺にあるのでございましょう」
「云ったではないか、江戸を中心に、五十里以内の所にあると」
「確かなあり場所は解りませんので?」
「そうだよ、解っていないそうだ」
「鉄拐夫人が方術師なら、方術を用いて昆虫館のあり場所、すぐにも探し出してよさそうなもので」
「だからよ、彼奴《きゃつ》め、贋方術師さ」ここで清左衛門は眉をひそめたが、「もっとも彼奴《きゃつ》め、こんなことを云ったよ。『半島にして樹木森々、大地あって土地高燥、これ永生の蝶に適す』とな。アッハッハッハッ何を云うやら」
「昆虫館の持ち主は?」
「昆虫学者の老人だそうだ」
「美しい涼しい声を持った、娘と一緒ではございませんかな」
「え?」と清左衛門は眼を円くした。
「いえ何これはこっちの方の話で」こうはごまかし[#「ごまかし」に傍点]たが小一郎は、心の中では考えた。「不思議だな、随分不思議だ。小梅田圃でも永生の蝶! 家へ帰っても永生の蝶! あっちでもこっちでも昆虫館! 待てよ」と一層沈思した。「小梅で聞いた二つの声、その中一つは老人の声で、神々しいほどにも威厳があった。学者か宗教家か剣聖か、とまれ達識の人物でなければ、ああいう声は出せないものだ。永生の蝶を探していたっけ! ひょっとかするとあの声の主が、その昆虫館という建物の、持ち主などではあるまいかな。……いやいやそうではなさそうだ」小一郎は尚も考えた。「なにも昆虫館の持ち主なら、永生の蝶を探す筈はない。と云うのは蝶を持っているからさ、では全然別人かな。……いやいやそうでもなさそうだ」またも小一郎は考えた。
「たしかあの時娘の声で『もしご存知なら昆虫館まで、どうぞお届けくださいまし』と、こうハッキリ云ったのを聞いた。とすると、どうしても声の主達は、永生の蝶と昆虫館とに、関係あるものと見なければならない」ここで一層考えた。
「永生の蝶というようなものが、本当にこの世にいるのなら俺は是非とも手に入れたい。昆虫館というようなものが、本当にどこかにあるのなら、是非とも行って見たいものだ。しかしそれよりより一層、俺の心から殺伐の邪気を、ス――ッと一度に引っこ抜いてくれた、美しい涼しい声の主に、是非とも逢って見たいものだ。全くあの声はよかったよ。あんなにいい声の持ち主だ、素晴しい美人に相違ない。よし俺は探しに行く!」
 年が返って新年《はる》になった。天保十一年一月十日、その晴れた日の早朝《あさまだき》に、一式小一郎は屋敷を出た。
 深編笠に裾縁《すそべり》野袴、柄袋《つかぶくろ》をかけた蝋鞘の大小、スッキリとした旅装《たびよそお》い、足を入れたは東海道で、剣侠《けんきょう》旅へ出たのである。
「考えてみればあぶなっかしい[#「あぶなっかしい」に傍点]旅さ」小一郎は心中|可笑《おか》しくもあった。「たった一度だけ耳にした娘の声を手頼《たよ》りにして、声の主を探しに行くのだからなあ」
 長閑《のどか》にボツボツ歩いて行く。

        

 川崎の宿まで来た時である。
「お武家様え、お馬に召しませ」可愛らしい娘の声がした。
 振り返った一式小一郎、見れば駄賃馬の手綱を取り、女馬子が立っていた。
「さようさな、乗ってもよい」
「これは有難う存じます。どこまでお供いたしましょう」
「そうさなあ、どこへ行こう」
「どこへでもお供いたします」
「さあてどこへ行ったものか、これ女馬子、どこへ行ったらよいな?」
「ホ、ホ、ホ、ホ」と笑ったが、「京大坂などいかさまのもので」
「ちと遠いな」と小一郎はこれも笑いながら考えたが、「これ女馬子、聞きたいことがある。土地高燥で半島で、木が茂っていて大きな池がある、そういう土地はあるまいかな?」
 すると女馬子はどうしたものか、チラリとその眼を険しくしたが、すぐに、表情を取り返した。
「三浦三崎の関宿《せきやど》など、似つかわしいように存ぜられます」
「ああなるほど、そこがよかろう。では関宿へやってくれ」
 小一郎はヒラリと馬へ乗った。ドー、ドー、ドーと馬子が云う。カパカパと馬が歩き出した。シャンシャンシャンと鈴が鳴る。旅が旅らしくなって来た。
「旦那様え」と女馬子は、手綱を引きながら話しかけた。「ご遊山旅でございますか」
「まあザッとその辺だ」
「ご遊山にはお寒うございます」ちょっと皮肉な調子である。
「寒さなどには驚かない」
「それはさようでございますとも」クスッと笑ったが話しかけた。「土地が高燥で半島で、木が茂っていて大きな池がある。そういう土地で旦那様は、何かをお探しなさいますので」
「何!」と云ったが小一郎は、かなり吃驚《びっく》りしてしまった。「どうしてお前、そんなことを聞くのだ!」
「そういう土地には色々の不思議が、沢山あるからでございますよ」
「この女馬子怪しいぞ」はじめて気が付いた小一郎は、仔細に女を観察した。立派な体格で品がある。肌は白く、髪は多く、顔の道具も充分|調《ととの》い、上流の商家の娘のようだ。特にその眼が美しい。情熱のためには理性など、うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]しまいそうな眼付きである。上唇に黒子《ほくろ》がある。かえって愛嬌を添えている。「こいつは本物の馬子ではないな」小一郎はひそかに考えた。「女賊などではあるまいかな」
 すると女が声を掛けた。「大丈夫でございますよお武家様、妾《わたくし》悪人ではございません」
「ううん」と小一郎は参ってしまった。「何を申すか、つまらないことを!」
「お心で思っていらっしゃったくせに」
 これにも小一郎は参ってしまった。
「お前には解るのか、人の心が!」
「旦那様のお心なら解ります」
「これは驚いた。どうして解る?」
「好きなお方でございますもの」
「え?」とまたまた小一郎は、胆を潰さざるを得なかった。「お前は俺が好きなのか!」
「一眼で好きになりました」
「ヤレヤレ」と小一郎は苦笑した。「途方もないことになってしまった」
「恋しいお方のお心持ちだけは、恋している女に解ります」
「馬子! あんまり嚇《おど》してはいけない!」
「ホ、ホ、ホ、ホ、ご免遊ばせ」
 どうにも小一郎には見当が付かない。何んだろういったいこの女は? そこで身の上を調べることにした。
「ところでお前の名は何んというな?」
「はい、君江と申します」
「ああ、君江か。年は幾個《いくつ》だ?」
「はい、十八でございます」
「で、両親はあるのかな?」
「はい健康《たっしゃ》でございます」
「で、家はどこにある?」
「三浦三崎の関宿《せきやど》に」
「えッ」と小一郎はまた嚇《おど》された。「これ、あんまり嬲《なぶ》るものではない」
「いえいえ本当でございます」女馬子の声は真面目であった。
「妾《わたくし》の家は三浦三崎、関宿にあるのでございます。それで妾は旦那様を、妾の家へお連れしようと、こう思っているのでございます」
「それはいったいどうした訳だ?」
「旅籠《はたご》商売でございますもの」
「ははあそうか、旅籠屋か。……旅籠屋の娘が何んのために、馬子稼ぎなどをやっているのだ?」
「探していたのでございます」
「ふうんそうか、何者をな?」
「はい恋人をでございます」こう云うと女馬子はニッコリした。
「そうしてとうとう今日はじめて、恋しいお方を探し当てました。旦那様あなたでございますの」
 さて剣侠一式小一郎は、この女馬子に逢ったばかりに、意外の事件に続々ぶつかり、恋と怨《うら》み、悪剣と侠剣、暗黒と光明、迷信と智恵、神秘の世界と現実の世界へ、隠見出没することになった。

        

 その日からちょうど五日経った。
 三浦三崎の君江の家、その家号を角屋と云って、立派な構えの旅籠屋である。その門口からフラリと出たのは、他ならぬ一式小一郎で、口先に微笑を漂わせている。
「君江という娘、嘘は云わなかった。まさしく家は旅籠屋で、両親もピンピン健康《たっしゃ》でいる。そうして俺には親切だ。親切といえばあの君江、ほんとに俺を愛しているらしい。ちと困ったが迷惑でもない。明るくて快活でわだかまりがない。たしかに野に咲いた一輪の名花さ。そうは云ってもこの俺には、他に愛する女がある。姿形はまだ見ないが、小梅田圃の切り合いの最中、声だけ聞いたあの女だ。是非是非探しあてて逢って見たいものだ。……それはそれとしてその君江、大池のあるという森林の中へ、何故この俺を行かせないのだろう?」
 立ち止まって四辺《あたり》を見廻わした。冬ざれた半農半漁の村が、一筋寂しく横仆《よこた》わっている。それを越すと耕地である。耕地の向こうが大森林で、檜や杉の喬木が、澄み切った空を摩している。
 ヒョイと何気なく振り返って見た。「はてな?」と云ったのはどうしたのだろう? 十五、六人の侍が、いずれも立派な旅姿で、スタスタとこっちへ来るからであった。
「こんなに辺鄙な関宿などへ、ああも沢山の侍が、入り込んで来るとは只事でない。可笑《おか》しいなあ」と呟いたが、物蔭へ隠れて窺った。
 それとも知らぬか侍達は、ガヤガヤ話しながら通り過ぎる。
「まずともかくも森林へな! 昆虫館があるかも知れぬ」こう云ったのは頬髯のある武士で、「なかったら今度は伊豆の方へ行こう」
「いわば我々は先乗りで、探りさえすればいいというものさ」こう云ったのは段鼻の武士。
「永生の蝶! 永生の蝶! はたしてそんな[#「そんな」に傍点]物ありましょうかな」こう云ったのは赤痣《あかあざ》のある武士。
「昆虫館も永生の蝶も、拙者には用はござらぬよ。小梅田圃で耳にした、美しい涼しい声の主、それに是非とも巡り会いたいもので」
 こう云ったのは誰あろう、恋仇《こいがたき》南部集五郎であった。
 タッタッと森林の方へ行ってしまった。
 物蔭から出た小一郎は仰天せざるを得なかった。
「一ツ橋家の武士どもだな! 一ツ橋殿の命を受け、昆虫館を探しあてようと、さてこそやって来たらしい。……憎いは南部集五郎だ、またもや俺の恋仇となった。あの時耳にした声の主を、昆虫館の関係者と、彼奴《きゃつ》も目星を付けたらしい。……これはこうしてはいられない。誰が止めようと森林へ分け入り、彼奴《きゃつ》らより先に声の主を、目付《めつ》け出さなければ心が済まぬ」
 彼らの後を追うように、サ――ッと小一郎は走り出したが、その時角屋の門口から、ヒョイと一人の娘が出た。
「あれ!」と叫んだが君江であった。「お父様大変でございます!」
「どうした?」と云いながら現われたのは、五十年輩の立派な人物で、英五郎と云って君江の父、この辺一帯の顔役で、髪は半白、下膨れの垂《た》れ頬《ほお》、柔和の容貌ではあるけれど、眼附きに敢為の気象が見える。
「小一郎様が森の中へ!」
「おお行かれたか! 困ったなあ」
「お父様! お父様! どうともして……」
「さあはたして助けられるかな!」
「ああ小一郎様のお身の上に、もしものことがあろうものなら……死んでしまいます! 死んでしまいます!」
「よし!」と英五郎は決心した。「ともかくも乾児《こぶん》を猟り集め、森中手を分けて探してみよう! ……しかし名に負う木精《こだま》の森だ、入り込んだが最後出られない魔所! 目付《めつ》かってくれればいいがなあ」
 木精《こだま》の森の底の辺に、一つの岩が聳えていた。裾から泉が湧き出している。
 側で話している二人の男女があった。一人は※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]《ろう》たけた[#「たけた」に傍点]二十歳《はたち》ばかりの美女で、一人は片足の醜男《ぶおとこ》である。
「先生には今日もご不機嫌で?」こう訊いたのは片足の醜男。
「吉や、困ったよ、この頃は、いつもお父様には不機嫌でねえ」こう云ったのは美女である。
「それというのも大切な雄蝶を、お盗まれになってからでございましょうね」片足の男の名は吉次《きちじ》であり、そうして美女の名は桔梗《ききょう》様であり、その関係は主従らしい。

        

 桔梗様の年は二十歳ぐらいで、痩せぎすでスンナリと身長《せい》が高い、名に相似わしい桔梗色の振り袖、高々と結んだ緞子《どんす》の帯、だが髪だけは無造作にも、頸《うなじ》で束ねて垂らしている。もっともそのため神々しく見える。いや神々しいのは髪ばかりではない。顔も随分神々しい。特に神々しいのは眼付きである。霊性の窓! 全くそうだ! そう云いたいような眼付きである。
 山住みの娘などとは思われない。と云って都会の娘とも違う。勝れた血統を伝えたところの、高貴な姫君が何かの理由で、山に流されて住んでいる――と云いたいような娘である。永遠の処女! こう云ったらよかろう。物云いが明るくて率直で、こだわらないところが一層いい。
 これに反して吉次の方は、かなり醜くて毒々しい。低い鼻、厚い唇、その上片脚というのである。しかし不思議にも智的に見える。学殖は相当深いらしい。筒袖を着て伊賀袴を穿き、松葉杖をついている。年は二十七、八でもあろう。
 桔梗様は昆虫館主人の娘、吉次は館主の助手なのである。
「吉次や、そうだよ、お父様はね、あの雄蝶をなくして以来、ずっと不機嫌におなりなすったのだよ」桔梗様の声は憂わしそうである。
「私は不思議でなりませんなあ」吉次は松葉杖を突き代えたが、「だってそうじゃアございませんか、尋常な蝶ではございませんのに、どこかへ消えてなくなったなんて。……」
「でも本当だから仕方がないよ。現在蝶はいないんだからね」
「どうやら先生のお言葉によると、盗まれたように思われますが、さあはたしてそうでしょうか?」
「そうねえ、それはこの妾《わたし》にも、どうもはっきり解らないよ」
「ねえお嬢様、ようございますか、あの永生の蝶と来ては、盗めるものではございませんよ。こうも厳重に私達が、お守りをしているのですからね。それにお山は要害堅固、忍び込むことなんか出来ません」
「ところがそうばかりも云えないようだよ」いよいよ桔梗様は不安らしく、「この頃お父様問わず語りに『恐ろしい敵が現われた』と、こんなことを二、三度おっしゃったからね」
「へえ、そんな事を? 初耳ですなあ。で、いったいどんな敵なので?」
「今のところでは解らないよ。……それはそうと妾としては……」こう云うと桔梗様はどうしたものか、じーッと吉次の顔を見たが、「ああそうだよ妾としては、そんなお父様のおっしゃるような、恐ろしい敵がなかろうと、盗もうと思えば永生の蝶、誰にだって盗むことが出来ると思うよ」
「へえ、さようでございましょうか?」吉次は不安そうに訊き返した。
「お前にも盗めるし妾にも盗める」これは暗示的の言葉であった。
「何をおっしゃいます、お嬢様!」吉次は一足引いたものである。
「仲間うち[#「うち」に傍点]の者なら盗めるよ」
「ああそれではお嬢様は、仲聞のうちに裏切り者があって、そいつが盗んだとおっしゃるので?」
「そうもハッキリとは云っているんじゃアないよ。裏切り者になら盗むことが出来る、ただこんなように云っているまでさ」
「裏切り者などおりますものか」
「ほんとにほんとにそうありたいねえ」
 ここで二人は黙ってしまった。吉次は足もとを見詰めている。泉を湛えた岩壺がある。人間一人がはいれるくらいの、円い形の岩壺である。湛えられた水の美しさ! 底まで透き通らなければならない筈だ。ところが底は真っ暗である。非常に深いに相違ない。水面に空が映っている。その空を小鳥が飛んだのだろう、水面に小鳥の影が射した。が、一瞬間に消えてしまった。吉次の視線が落ちている! その岩壺の水面へ!
 と、大岩の背後《うしろ》から、呼びかける声が聞こえて来た。
「桔梗や、桔梗や、桔梗はいるかな?」
「はいお父様、ここにおります」
 岩を巡って現われたのは、一種異様な老人であった。纏《まと》っているのは胴服《どうふく》であったが、決して唐風のものではなく、どっちかというと和蘭陀《オランダ》風で、襟にも袖にも刺繍がある。色目は黒で地質は羅紗、裾にも刺繍が施してある。その裾を洩れて見えるのは、同じく和蘭陀型の靴である。戴いている帽子も和蘭陀風で、清教徒でも用いそうな、鍔広で先が捲くれ上がっている。

        

 帽子を洩れた白髪の、何んと美しいことだろう。肩に屯《たむろ》して泡立っている。広い額、窪んだ眼窩、その奥で輝いている霊智的の眼! まさしく碩学《せきがく》に相違ない。きわめて高尚な高い鼻、日本人に珍らしい希臘型《ギリシャがた》である。意志! 強いぞ! と云うように、少し厚手の唇を洩れ、時々見える歯並びのよさ、老人などとは思われない。角張った顎も意志的である。顔色は赧く小皺などはない。身長《みたけ》高く肉附きよく、腰もピーンと延びている。永らく欧羅巴《ヨーロッパ》に住んでいたが、最近帰朝した日本人――と云ったような俤《おもかげ》がある。非常な苦痛を持っていながら、強い意志力で抑え付け、わざと愉快そうに振る舞っている。――と云ったような態度がある。
「ここか、桔梗、吉次もいたか。俺はな、やっぱり諦めようと思う」岩の一所へ腰をかけ、こんな調子に話し出した。「なくなったものなら仕方がないよ。随分手分けして探したが、見付からないのだから止むを得ない。それにさ」と云うとやや皮肉に、「雄蝶一匹を手に入れたところで、全く役に立たないばかりか、それを手に入れた人間は、かえって禍《わざわ》いを蒙るのだからなあ。それで恐らく吃驚《びっく》りして、逃がしてしまうに相違ないよ。逃がせば蝶は帰って来よう。ああそうだよ、この山へな。で、そいつを待つことにしよう。よしんば永久に帰らないにしても、後に残っている雌蝶をさえ、握っていれば大丈夫だよ。神秘の秘密は解けるものではない。とはいえもちろん心掛けて、絶えず捜索はするんだなあ。私の云いたいのはこうなのさ。なくなった雄蝶ばかりに心を取られ、雌蝶の方を疎かにしては、かえってよくないとこういうのさ。桔梗、お前はどう思うな?」頤髯を撫したものである。
「これはごもっともに存じます」桔梗様の声は嬉しそうである。
「ようご決心が付きました。ほんとうにさようでございますとも。いずれは帰るでございましょう。待ちましょうねえお父様。……そうしてどうぞお父様には、以前《まえ》通りご機嫌のよいお父様となり、ご研究にお尽くしくださいまし」
「ああいいとも、そういうことにしよう。不機嫌になったって仕方がない。なかなか浮世というものは、思うようにはならないんだからなア。で、私はこれまで通り、愉快な明るい人間となり、セッセと仕事をやろうと思うよ。吉次、お前はどう思うな?」
 すると吉次も安心したように、「まことに結構に存じます。先生に憂鬱になられましては、全く私どもがどうしてよいか、途方に暮れてしまいますので」
「アッハハハ、そうだろうて、主人の私が怒っていたでは、誰も彼も仕事がやりにくかろうて。よしよしこれからは快活にやろう。いつも明るく笑ってな」そこでもう一度笑ったが、取って付けたような笑い方であった。「さあさあ吉次、働け働け、行ってみんな[#「みんな」に傍点]を指図するがよい。ええと今日は温室の整埋だ。ええとそれから孵卵器の取り付け、ええとそれから蜂の巣の製造、忙《せわ》しいぞ忙しいぞ随分忙しい……はてな?」
 と云うとどうしたものか、昆虫館主人は耳|傾《かし》げた。何かを聞こうとするらしい。森林を渡る風の音、岩から滴る泉の音、何んにも聞こえない、それ以外には……だが、どうやら昆虫館主人には、別の物音が聞こえるらしい。見る見る顔が険しくなり、気むずかしそうに眼が顰《ひそ》んだ。「どいつか来るな、邪魔をしに!」
「うるさいことでございますね」こう云ったのは桔梗様で、おんなじように眼を顰めた。
「どっちの方角からでございます?」こう訊いたのは吉次である。
「麓の方からだ、関宿の方から」
「いつもの手段で追っ払いましょう」吉次は、松葉杖をポンと上げた。
「うむ、吉次、追っ払ってくれ!」
「ご免」
 と云うと走り出した。非常に敏捷な走り方である。二本足を持った人間より、ずっとずっと敏捷である。
「桔梗、部屋へ行って茶でも飲もう。……どうもうるさい[#「うるさい」に傍点]よ世間の連中、時々住居を騒がせに来おる!」
「ほんとにうるそう[#「うるそう」に傍点]ございますねえ」
「じっくり研究さえさせてくれない。全く俗流という奴は、鼻持ちのならない厭な奴だ。好奇心ばかり強くてな。そうしてそいつの満足のためには、他人の迷惑など何んとも思わない」
「参りましょうよ、お部屋へね」
 で、二人とも岩を巡り、奥の方へ姿を消してしまった。
 トコトコトコトコと泉の音が、微妙な音楽を奏している。小鳥の啼音《なくね》が聞こえて来る。冬陽が明るく射している。静かで清らかで平和である。
 だがこの平和を乱すべく、大乱闘の行われたのは、それから間もなくのことであった。

        

 木精《こだま》の森を踏み分け踏み分け、一式小一郎は歩いている。
「一ツ橋家の武士達より、どうともして先に昆虫館を、目付《めつ》け出さなければ意地が立たない。だがどうにも歩きにくいなあ」
 喬木がすくすくと聳えている。枝葉が空を蔽うている。昼だというのに陽が射さない。四方《あたり》が宵のように薄暗い、灌木や蔓草が茂っている。それが歩く足を攫《さら》おうとする。巨大な仆《たお》れ木が横仆《よこた》わり、それがやっぱり足を止める。丘のような大岩が転がっている。所々に古池がある。突然飛び出したものがある。純白の兎の群である。サラサラと枝を渡るものがある。幾匹かの野生の猿である。カーッ、カーッと啼くものがある。鳥のようでもあれば獣のようでもある。季節は一月、所は大森林、凍りつくばかりに冷々《ひやひや》する。ヒューッ、ヒューッと風の音がする。梢を渡っているのだろう。だが樹が密生しているためか、森の中には吹き込んで来ない。地面は凍てついてるらしい。その上を腐葉が蔽うている。で、ズボズボと足がはいる。
 一式小一郎は傾斜面を、ズンズン上へ上がって行く。気が忙《せ》くので足が早まる。だが息切れのしないように、丹田へ力をこめている。
「考えてみればあぶなっかしい[#「あぶなっかしい」に傍点]ものだ」小一郎は心中で考えた。
「案内知らぬ森の中を、こんな塩梅《あんばい》にただむやみと、上へ上へと上がったところで、そのあるという大池へ、辿りつくことが出来るかしら? そうしてはたして大池の畔《ほとり》に、昆虫館があるかしら? 幸い大池と昆虫館とを目付け出すことが出来たとしても、あの美しい声の主を、発見することが出来るだろうか? ……だがマアそいつ[#「そいつ」に傍点]は考えまい。ただ歩くんだ歩くんだ! ただ進むんだ進むんだ!」
 そこでズンズンと突き進んだ。と、森の木がまばらとなり、小広い一つの空地へ出た。一座の大岩が聳えている。
「はてな?」とその時小一郎は足を止めて耳を澄ました。その大岩に反響し、人の足音が聞こえたからである。どうやら大岩の向こう側から、こっちを目指して来るらしい。一人や二人の人数ではない。十五、六人の人数である。
「一ツ橋家の侍ども、ははあさてはやって来たな。さてどうしたものだろう?」――こうなっては他に思案もない。逃げるかもしくはぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]ばかりだ。「どうなるものか、ぶつかってしまえ」
 早くも決心した一式小一郎は、素早く四辺を見廻わしたが、足場を計るためだろう。「ちょうど幸い大岩がある。こいつを早速楯として、構うものか、叩っ切ってやろう」
 及び腰をして待ち設けたが、それとも感付かぬ岩向こうの人数、ガヤガヤ喋舌《しゃべ》りながら近付いて来た。その時小一郎は声をかけた。
「ご用心!」とまず一声! それから凛々と云ったものである。
「あいやそこへ参られたは、南部集五郎殿をはじめとし、一ツ橋殿のご家中でござろう。その目的は昆虫館探し、何んとさようでござろうがな」ここでちょっと言葉を切り、先方の様子を窺った。
 と、ひどく驚いたらしく、足音が止み声が絶えた。がすぐ南部集五郎の、物々しい声が聞こえて来た。
「そういう貴殿は何者かな? いかにも我々は一ツ橋家の家臣!」
 そこで小一郎は声を上げた。
「南部氏だな、声で解る。拙者は一式小一郎、貴殿にとっては怨《うら》みあるもの。拙者にとっても怨みがある。小梅田圃では意外のことから、せっかくの果たし合いが中折れ致した。あの夜の続き、今日こそ果たそう。さて次に」と小一郎は、ここで一段声を張ったが、「一ツ橋家の爾余の方々、お互い私怨とてはござらぬが、拙者は田安家のまず家臣、貴殿方は一ツ橋殿の家臣、近来田安家と一ツ橋家、各※[#二の字点、1-2-22]方にもご存知通り、事ごとに競争致しております。そこで」と云うと小一郎は投げたような調子に言葉を変えた。
「お館同志の競争は、家臣同志の競争でござる。そいつが迫《せ》り合うと喧嘩になる。喧嘩のどんづまり[#「どんづまり」に傍点]は果たし合い! これはもうもう決まった話だ。そこで喧嘩! そこで果たし合い! 勝負だア――」
 と威嚇的に叫んだ。それからじいいっ[#「じいいっ」に傍点]と耳を澄ました。向うからは何んの返辞もない。だが何んとなく騒がしい。どうやら用意をしているらしい。
「敵は多勢、俺は一人、多少詭計を用いずばなるまい」こう考えた小一郎はわざと厳《いか》めしく声をかけた。「拙者は大岩のこっちにおる。いつまでもここでお待ち受け致す。左からなりと右からなりと、ご随意にかかっておいでなされ。左右同時にかかられるもよかろう。岩を巡って、さあさあ参られい」
 スルリと刀を引き抜くと、スルスルと大岩の左の角、そこまで行くと腹這いになった。

        

 腹這いになった小一郎は地面へ耳をおっ[#「おっ」に傍点]付けたのは、この方面から一ツ橋家の武士ども、幾人来るか足音を、聞き澄まそうとしたのである。と、忍びやかに腐葉を踏み、近寄って来る足音がした。「うむ、大略《おおよそ》七、八人だな。……ははあそうすると反対側からも、七、八人がやって来るらしい。お誂え通りだ。左右から廻わり、腹背を衝こうとするらしい。よし」と尚も聞き澄ました。「三間……二間……立ち止まったな。……また歩き出した、怖そうに。……来たな!」
 と小一郎は飛び上がったが、飛び上がった時には飛び出していた。上げた一刀、片手切りの呼吸、カーッと掛けたは喉的破音《こうてきはおん》、狙いは感覚、サーッと切った。
「ガッ」という悲鳴、倒れたのは、真っ先に進んで来た段鼻の武士で、頭の鉢を右から斜《はす》、左の眼頭まで割り付けられた。
「おッ」と叫んだは赤痣のある武士、二番手として進んで来たが、凄い気合、素晴しい剣技、目前味方の斃されたのを見ると、居縮《いすくん》だように棒立ちになった。そこを目掛けて小一郎は取り直した大刀、柄を廻わし、一歩踏み出すと身長《せ》を縮《すく》め、相手の左胴を上斜めに、五枚目の肋《あばら》六枚目へかけ、鐘巻流での荒陣払い、ザックリのぶかく[#「のぶかく」に傍点]掬い切った。
 痣のある武士、ムーッと呻くと、ポタリと刀を落としたが、全身を弓のように蜒《うね》らせると、ヒョロヒョロヒョロヒョロと前へ出た。
 と、小一郎は、抑えた呼吸で、ヒョイと刀を手もとへ引いた。連れてドッタリ斃れた敵、ドクドクドクドクと流れる血、下は腐葉だ、滲み込んでしまった。瞬間に二人を討って取られ、浮き足立った一ツ橋家の武士達、思わずタジタジと引くところを、
「参るゾーッ」と声をかけ、ヌッと右足を踏み出したのは、追い迫る気勢を示したのである。胆を奪われた一ツ橋家の武士ども、刀を引くと一息に、元来た方へ逃げてしまった。
 追っかけると見せて身を翻えし、岩角まで飛び返った小一郎は一瞬耳を澄ましたが、「いるな」と呟くと一躍した。はたして七、八人そこにいた。真っ先に立ったは頬髯のある武士で、突然小一郎に飛び出され、ギョッとして一足引くところを、
「参るゾーッ」と例の大音、まず一喝くれて置いて、毬のように弾んで飛びかかったが、刀の柄頭《つかがしら》を胸へあて、肩を縮めたも一刹那、うむ[#「うむ」に傍点]と突き出した双手《もろて》突き、極《きま》った! まさしく! 敵の咽喉へ! だがその間に敵の一人、右手から颯《さっ》と切り込んで来た。何んの驚く、飛び返ると、狙いを外した敵の一人、自分の力に自分から押され、トントンと二、三歩前へ出た。背が低まって右の肩が、さも切りよげに小一郎の、眼の前三尺へ泳いで来た。そこをすかさず小一郎は、刀を上げると横撲り、軽くスッポリと切り付けた。
 右腕を肩から落とされて、悲鳴を上げるとキリキリキリと、独楽《こま》のように二、三度廻わったが、まずグンニャリと腰を砕き、すぐに横倒しに倒れてしまった。
 ここでも一式小一郎は瞬間に二人を斃したのである。二人斃された一ツ橋家の武士ども、太刀を構えたまま後退《あとじさ》り、次第次第に下がったが、岩角まで行くと背中を見せ、一|斉《せい》に岩蔭へ引いてしまった。
 左右の敵を左右に追い込み、一人となった小一郎はここで気息を抜くような、そんな不鍛練な武士ではない。ピッタリと大岩へ背をもた[#「もた」に傍点]せ、敵、眼前にあるがよう、グッと前方を睨んだが、にわかにシーンと体を沈め、ヒョイと踏み出したは右の足だ、膝から曲げて左足を敷き、曲げた膝頭の上二寸、そこへ刀の柄をあて、斜めに枝を張ったように、開いて太刀を付けてしまった。得意の構えだ、下段八双。棒の「掻《か》い手《で》」から編み出された鐘巻流では必勝の手。さてそれからユルユルと、頭《こうべ》を巡らすと右手を見た。が、はたして一ツ橋家の武士ども、岩角を巡って現われたが、以前に懲りたか遠廻わりをし、タラタラと正面数間の彼方へ、一列に並んで構え込んだ。
「ほほう来たな」と呟いたが、小一郎は頭を巡らすと、左手の方をゆるやかに見た。思った通りだ、岩角を巡り、一旦逃げた一ツ橋家の武士ども、同じく遠廻わりに廻わりながら、タラタラと正面数間の彼方へ、一列を作って立ち並んだ。
 つと進み出た武士がある、「一式氏」と声を掛けた。余人ではない。南部集五郎だ、年の頃は二十七、八、赧《あか》ら顔で大兵肥満、上身長《うわぜい》があって立派である。眉太く、眼は円《つぶら》、鼻梁長く、口は大きい。眉の間に二本の縦皺、これがあるために陰険に見える。「一式氏」ともう一度呼んだが、嘲笑《あざわら》うように云いつづけた。「悪縁でござるな、貴殿とは! 一人の河原者を争って、小梅田圃で切り合ったばかりか、どうやら今度は姿さえ知れない、美しい声の持ち主を、争わなければならないようで。……と云うとあるいは貴殿には、さようなものはとんと[#「とんと」に傍点]存ぜぬ。争いの種を阪東小篠、ないしは神秘な昆虫館……などと云われるかも知れないが、何んの何んの、そんなことはござらぬ。小梅田圃で聞いた声、あの美しさを耳にしては、どんな人間でも引き付けられますて。現に」と云うと集五郎は、好色漢らしい厭らしい、不快な笑いを浮かべたが「現に」ともう一度、繰り返した。「拙者においても引き付けられ、その声の主を目付けようと、ここまで出張って来たほどでござる。で、貴殿におかれても、やっぱり美しい声の主を、探しに来られたに相違ござらぬ。狂いましたかな。この眼力! ……だがそれにしてもこんな所で、貴殿にお逢いしようとは、いささか意外でございましたよ。そこでいよいよ悪縁と云う、この言葉がピンと響きますて。……が駄弁はこのくらい。……方々!」というと集五郎は、味方の勢《ぜい》を振り返った。

        十一

 味方を振り返った集五郎は、注意するように云ったものである。「一式氏はな、鐘巻流の名手、瞬間に四人を討ち取ったほどの、素晴らしい腕を持っておられる。とても敵《かな》いませんよ、一騎討ちではな! そこで一同一つに集まり、半円を作ってヒタヒタ攻め、乱刃の中へ取り込めましょう。抜からぬように、よろしいかな。……一式氏!」と集五郎は、今度は小一郎へ声を掛けた。「さあさあ弾んで飛び込んでござい。真ん中を襲わば拙者お相手、その間に左右両翼が、引っ包んで討って取りましょう。左に向かわば右翼が返り、右に向かわば左翼が返り、同じく引っ包んで討って取る。もしいつまでも岩を背に、縮《すく》んでおいでなさるなら、よろしいよろしい次第に迫り詰め、十二本の白刃一時に、雨のように浴びせてお目にかける。……方々!」とまたもや集五郎は味方の勢《ぜい》を見返ったが、「とりかかりましょうか、人間料理!」
 声に応じて一ツ橋家の武士達、左右に延びて半円を作り、ジリジリジリジリと攻め寄せた。
 一方一式小一郎は、岩を背後に下段八双、構えたままで動かない。とはいえ心では考えていた。
「いかにも集五郎の云う通り、真ん中を襲ったら左右の翼、瞬間に畳んで来るだろう。取り込められては敵わない。と云って右を襲っても、ないしは左を襲っても、取り込められるに相違ない。やっぱりここに構えていよう。引き寄せられるだけ引き寄せてやろう。そこで翻然と飛び出して行き、憎いは南部集五郎、まず真っ先に叩っ切ってやろう。もう[#「もう」に傍点]二、三人仕止めたら、おおかた逃げて行くだろう。……来るわ来るわ、ジリジリと。寄せるわ寄せるわ、ジリジリと。……十二人と一人、ちと手強い。ナーニ大丈夫だ大丈夫だ!」
 いよいよ体を押し沈め、腰から上の上半身を、徐々に前方へ傾げたのは、飛び出して行く用意である。
 間隔《あわい》が次第に縮まって来る。今は双方とも物を云わない。十二本の剣がヌラヌラと、宵闇のような森の中を、一本の剣へ迫って行く。そいつを迎えた一本の剣、鶺鴒《せきれい》の尾のように上下へ揺れ、チカチカチカチカと青光る。
 殺気に充ちた静けさである。その殺気に驚いたか、数十羽の雀が棹をなし、森の一方から一方へ、啼く音も立てずに翔け通った。翼に煽られて散る枯葉、ハラハラ、ハラハラ、ハラハラと、向かい合った剣へ降りかかる。
 だがその時どうしたんだ、麓の方から竹法螺《たけぼら》の音が、ボーッとばかりに鳴り渡った。それに続いて大勢の者が、声を揃えて呼ぶ声が、木精《こだま》を起こして聞こえて来た。
「一式様!」
「小一郎様!」
「オーイ、オーイ!」
「オーイ、オーイ!」
 関宿の侠客英五郎と、その乾児《こぶん》の者百人あまり、娘の君江も中に雑《まじ》った、小一郎さがしの同勢が、大森林を上へ上へと、今や上って来るのであった。
 真っ先に立ったは英五郎で、それに引き添って君江がいる。
「お父様大丈夫でございましょうか?」君江の声は顫えている。
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]は解らないよ」英五郎の声は不安そうである。
「魔所だからなあ、この森は。大勢の人間の叫び声がしたり、突然大岩が転がって来たり、にわかに大水が流れて来たり、幾十人かの片輪者ばかりが、手を繋《つな》いで現われたり、そうかと思うと天人のような綺麗な娘が一人きりで、木にもたれてションボリ考えていたり、そうかと思うと神様のような、神々しい老人が虫籠をさげて、木の枝に腰をかけたり、怪しいことばかりがあるのだからなあ……普通《なみ》の人間の分け入るのを、厭《いと》っているのだよ、この森はな。……」

        十二

「だから申したのでございます」顫えた声で君江が云う。「小一郎様、一式様、あの森へはおはいりなさいますな。恐ろしい魔所でございます。はいったが最後、お身の上に、きっと危険がございましょう。いけませんいけません。はいっては。……それだのにあの方|憑《つ》かれたように、スルスルとはいって行かれました。……お父様お父様急ぎましょう! 早く早く目付けましょう! ……どうぞご無事でいられますよう。……妾はこんなに顫えています。……だんだん胸が苦しくなる!」
「そうだそうだ、急がなければならない。早く目付けないと取り返しが付かない。……やいやい野郎ども声を上げろ! お呼びしてみろ、お呼びしてみろ!」
 そこで一同呼び立てた。「小一郎様! 一式様!」
 声々が森に反響する。「小一郎様!」と返って来る。「一式様!」と返って来る。一緒になって君江も呼んだ。君江の声が一番高い。恋人探しの若い娘の、一生懸命の声だからである。
 一人がボーッと竹法螺を吹いた。木精ばかりが、ボーッと返る。
 ドンドン一同押し上る。歩きにくい歩きにくい。
 と、一所森が途切れ、小広い空地が現われた。そこに一座の大岩があった。その前に一人の武士がいた。他ならぬ一式小一郎で、ピッタリ太刀を構えている。それを半円に取り囲み、十二人の武士が構えていた。
 全く意外な光景であった。英五郎も君江も乾児の者も、アッと一時に釘付けになった。
 その時である。小一郎は、一躍前へ飛び出した。キラッと光ったは刀であろう。一声悲鳴が森を縫った。一人の武士がぶっ倒れた。しかしその次の瞬間には、十一人の武士がグルグルと、小一郎を真ん中に引っ包んだ。
「お父様!」
「君江!」
 と親子二人が、思わずヒョロヒョロとよろめいたのは、一式小一郎が、十一人の武士に、討って取られたと思ったからであろう。が、そいつは杞憂であった。数合の太刀音、数声の悲鳴、二人の武士が転がった。と、爾余の武士達が、ムラムラと左右へ崩れ立った。その隙間から毬のように、ポンと飛び出した武士がある。小一郎だ、岩を背負い、軽傷《うすで》も負わぬか、たじろぎ[#「たじろぎ」に傍点]もせず、刀を付けて構え込んだ。
「野郎ども!」と英五郎は、はじめて大音を響かせた。「やっつけてしまえ、背後《うしろ》から! 鏖殺《みなごろし》にしろ! 三ピンを!」
 竹槍、棍棒、道中差し、得物をひっさげた百人あまりの乾児、ワーッとばかり鬨の声を上げた。英五郎を先頭に君江までが、武士達の一団へ切り込んだのである。
 しかしこの時何んという、不思議なことが起ったのだろう!
 森の奥から気味の悪い、妖精じみた叫び声が、はっきり二声聞こえたのである。
「お山を穢《けが》すな! お山を穢すな!」
 それからゴーッという音がした。
 それから大水が流れて来た。河というよりも滝というべきで、石を転ばせ木を倒し、灌木の茂みを根こそぎ[#「こそぎ」に傍点]にし、そうして人間を押し流した。小一郎はどうしたろう? 一ツ橋家の武士達はどうしたろう? 英五郎や君江達はどうしたろう?。

 さてその日から数日経った。
 ここは森林の底である。周囲半里はあるだろうか、大きな池が湛えられている。その岸に点々と家がある。
 ひときわ大きな木造家屋は、全く風変りのものであった。一口に云えば和蘭陀《オランダ》風で、柱にも壁にも扉にも、昆虫の図が刻《ほ》ってある。真昼である、陽があたっている。
 と、玄関の戸をひらき、現われた一人の武士がある。何んと一式小一郎ではないか。
 前庭をブラブラ歩き出した。
「いい景色だな、風変りの景色だ。日本の景色とは思われない」
 こんなことを口の中で呟いている。
「小一郎様」
 と呼ぶ声がして、家の背後《うしろ》から現われたのは、笑みを含んだ桔梗様であった。
「ご気分はいかがでございます」
「お蔭で今日はハッキリしました」小一郎は愉快そうに笑い返した。
「憎い大水でございましたことね」
「かえってお蔭で昆虫館へ参られ、私には本望でございましたよ。その上美しい声の主の、あなたにお目にかかれましたのでな」
「おや」と云うと桔梗様は、花壇の方へ眼をやった。四季咲き薔薇の花の蔭から、誰か覗いていたからである。二人の話を盗み聞くように。

        十三

「どうなされました?」と小一郎は、桔梗様の顔を見守った。
「いいえ何んでもございません」こう云ったは桔梗様で、いくらか不安そうな様子である。
 だが覗いていた眼の主は、すぐに姿を消してしまった。コツンコツンと音がする。松葉杖の音である。覗いていたのは吉次らしい。花壇を巡って立ち去ったらしい。
 そこで小一郎と桔梗様とは、大池の方へ歩き出した。
「あの大水には驚きました。幸いに岩蔭におりましたので、私は流されはしませんでしたが、他の連中は一人残らず、流されたことでございましょう」小一郎は笑止らしく云ったものである。
「しかし私も実際のところ、したたか水を飲ませられ、かなりひどい目には合わされましたよ」
「お気の毒でございましたこと」桔梗様は美しく笑ったが、「ご縁があったのでございましょうよ、何んとなく妾心配になり、平素《いつも》にもなく召使いどもを連れて、あの大岩まで行って見ましたところ、綺麗な若いお侍様が――あなたのことでございますよ――気絶しておいで遊ばすので、すぐお助け致しましたものの、父は不機嫌でございました」
「あなたのお父上昆虫館ご主人、ちと変人でございますな。アッハッハッ」と笑ったが、「学者にあり勝ちの憎人主義者のようで。……それはそうとあの大水、人工だそうでございますな?」
「槓杆《こうかん》一本を動かしさえすれば、大池の水が迸《ほとば》しり、流れ出るのでございます」
「とんでもない悪い槓杆で」小一郎はしかし愉快そうである、「いや俗流を追っ払うには、よい考案でございますよ。承われば、その他にも、いろいろの防備がございますそうで」
「はい」と云ったが桔梗様は、それについて話すのを好まないらしい。ヒョイと話題を変えてしまった。
「厭なお方でございますこと」こんな事を云い出した。
「は?」とちょっとばかり[#「ちょっとばかり」に傍点]面喰らったが「どなたでございますな、厭な奴とは?」
「奴などと申しは致しません」――言葉を慎しめと云いたそうに、桔梗様はちょっと睨んだが、
「厭なお方でございますこと」
「は、どうやら私のことのようで?」
「はいはいさようでございますとも」
「すると」小一郎は故意《わざと》らしく、誇張した悲しそうな表情をしたが、「美しいお声の令嬢に、恋を捧げるということは、あなたにはお気に召さないようで」
「嗜好《このみ》に合いませんとも、妾にはね」
 桔梗様も故意《わざ》と空呆けた。「恋には捧げようがございますよ」
「承わりましょう、捧げようを?」
「跪座《ひざまず》くのでございます」
「ああそれではこんなように」突然小一郎は跪座き、両手を上向けて捧げるようにしたが、「お受けくださいまし、私の恋を!」
「騎士《ナイト》よ」と桔梗様は笑いながら云った。「大岩の蔭や小梅田圃などで、むやみと太刀を揮わないように」
「ああなるほど、そのことで、厭な野郎とおっしゃったのは?」
「厭なお方と申しましたのは」
「心得ました。今後は注意! ――で、令嬢よ、私の恋は?」
「お立ちなさりませ! 妾の騎士《ナイト》!」それから片手をつと延ばした。
 その手を握りしめた小一郎は、立ち上がると今度こそ本当に、歓喜の声を上げたものである。
「あああなたは私のものだ!」それから心で考えた。「こんなに早くこの恋が、成り立とうとは思わなかった」
 だが桔梗様は不安そうに、「伴《ともな》いそうでございますよ。恐ろしい恐ろしい危険がね! ああ何んとなく私達の恋には!」
「お信じください」と小一郎は、自分の胸を指さした。「防いでみせます。この楯で」それから両腕を差し出した。「お信じください、この腕を!」
 二人優艶に抱き合おうとした。
 大池へ通う小径《こみち》である。小径の左右は花壇である。早春の花が咲いている。縞水仙の黄金色の花、迎春花の紫の花、椿、寒紅梅、ガラントウス、ところどころに灌木がある。白梅が枝を突っ張っている。貝のような花をつけている。昼の陽が小径に零《こぼ》れている。敷かれた砂がキラキラと光る。二人の影が落ちている。行手に見えるは大池の水で箔を置いたように輝いている。背後に立っているのは昆虫館で、玄関の戸が開いている。窓のカーテンは引かれている。柱や板壁に彫りつけられた、昆虫の模様にも陽が射している。
 と、そこから呼ぶ声がした。「桔梗、桔梗、ちょっとおいで!」
 カーテンが開けられて現われたのは、昆虫館主人の顔であった。

        十四

 桔梗様と別れた小一郎は、大池の方へ歩き出した。胸の中は幸福で一杯であった。
「態《ざま》ア見やがれ南部集五郎め!」こんなことを呟いた。「勝ったよ勝ったよ俺の方が、昆虫館も先に探し出したし、美しい声の主の桔梗様も、お前より先に手に入れてしまった。もっとも今のところ『心』だけだが。その中|身体《からだ》だって手に入れて見せる。だが集五郎めどうしたかしら? 大水に流されて谿《たに》へ落ち死んでしまやアしないかな」それからまたも呟いた。「態ア見やがれ、阪東小篠め! あんな女には用はない!」ここでちょっとばかり憂鬱になった。「だが君江はどうしたろう? 英五郎殿はどうしたろう? 確かにこの俺を助けようとして、あの時大勢でやって来たが、やはり大水に流されたらしい。死にはしないかな、谿へ落ちて。もしそうなら気の毒なものだ」しかし小一郎は諦めることにした。「考えまいよ、そういうことは。現在の幸福に浸ろうよ」
 大池の岸へ出た小一郎は、枯草を敷いて眺めやった。別に変わった池でもない。熔岩だろう黒い岩が、グルリと池を取り巻いている。池の形は楕円形で、いささか人工は加えられているが、天然に出来たものらしい。黒いまでに蒼い水の色、早春の水としては当然である。漣《さざなみ》一つ立っていない。すなわち風が吹かないからだ。ちょうど鞣《なめ》し革でも敷いたようである。一所箔のように輝いている。日光の加減に相違ない。水鳥が幾羽か浮かんでいる。水草がのびのびと流れている。じっと見ていると心が和み、つい恍惚《うっとり》となってしまう。
 池の周囲に点々と、沢山の家が立っている。それとて変わった造りではない。小さな木造の日本家屋である。だがいずれも平屋建てで、障子が白々と陽に光っている。ここの住民は花好きと見え、家々の前庭には花壇があり、早春の花が咲いている。
 池と家とを守護《まも》るようにして、空を摩すような大森林が、錆びた鉄のような頑丈な幹と、黒曜石のような黒い葉とで、周囲をグルリと取り巻いているのは、まさしく偉観と云ってよかった。で、この場の風景は、こんなように形容することが出来る。大森林という円筒の中に、穏かな池と可愛らしい家と、そうして美しい花壇とが、こっぽり[#「こっぽり」に傍点]囲まれて出来ていて、そこで大勢の人達が、さも愉快そうに働いていると。――
 全く大勢の人達が、そこで働いているのであった。家の中にも人がいる。家の外にも人がいる。みんなクルクルと動き廻わっている。男もいれば女もいる、年寄りもいれば子供もいる。笑い声、話し声、唄い声、それが快い合唱《コーラス》となって、大池の方へ蒔かれている。何を働いているのだろう? 昆虫館の館主のために、各自の仕事をしているらしい。
 森林にかこまれているためか、寒い風など吹いて来ない。季節はたしかに一月だが、気候から云えば三月のようだ。いい天気だ、あたり明るく、小鳥が八方で啼いている。桃源境! 別天地! だが不具者《かたわもの》の社会でもあった。
 と云うのはそうやって働いている、大勢の人間の一人一人が、片耳であったり片足であったり、てんぼう[#「てんぼう」に傍点]であったり盲目《めくら》であったり、唖者《おし》であったり聾者《つんぼ》であったり、満足な人間はないからであった。
 想うに碩学昆虫館主人が、世の廃人《すたれもの》を拾い集め、ここに別社会を建設し、何らか事業をしているのらしい。
 だが遠くから見ていると、不具者《かたわもの》などとは思われない。みんな健康《たっしゃ》そうな人間に見える。
「平和で長閑で美しい。いい境地だ。住みよさそうだ」うっとりしながら小一郎は、こんなことを考えた。「あの桔梗様と婚礼をし、あの学者を舅に持ち、ここでいつまでも住みたいものだ」
 少し睡気《ねむけ》がさして来た。横になろうとした。しかしその時近寄って来る、人の気勢《けはい》が感じられた。コツンコツンと松葉杖の音が、灌木の叢の裾を巡り、現われたのは片足の吉次で、小一郎の前へ立ち止まると、不遜な目付きでジロジロと、小一郎の体を嘗め廻わしたが、
「騎士《ナイト》よ」と云い出したものである。それから嗄《しゃが》れ声で笑い出してしまった。笑いおえると云ったものである。「ここ神秘なる昆虫館で、厳重に禁じられているものを、一式氏にはご存知ないと見える」
「厭な奴だな」と小一郎は、快い睡気を醒ましたが、明るくて皮肉な性質である。負けずに云い返した。
「拙者新米、昆虫館の掟、さようさ、とんと[#「とんと」に傍点]存じませんて」
「そうらしいの」と片足の吉次は、いよいよ不遜な態度をとったが、「穢してはならぬよ! 女王をな! 女王との恋は禁じられているよ」
「ははん、さようか、それはそれは」一式小一郎はこう云ったが、女王が何者だかということは、すぐに推察することが出来た。

        十五

 そこで小一郎は云い出した。
「穢しはせぬよ、崇めるばかりだ」
「それがいけない」と片足の吉次は、「崇めた後では穢すものさ」
「名言」と小一郎は一笑してしまった。「君の人情観察には、徹底したものがあるらしい。で、一応は受け入れて置こう」
「守らっしゃい!」と押し付けるような声で、吉次はグッとたしなめ[#「たしなめ」に傍点]にかかった。「いっそ昆虫館をお立ち去りなされ!」
「さあてね」と小一郎は、わざと困ったような顔をしたが、「女王殿下が許しましょうかしら?」
「ソレソレソレ、それが悪い!」吉次は今度は叱るように、「許すもない、許さないもない、本来神秘昆虫館へは、下界の人間を入れぬが規則、そいつを破って貴殿一人を、ここへ住居を許したのは、桔梗様特別のお慈悲だからだ」
「だからよ」と小一郎は冷《ひや》っこく、「その桔梗様がこの拙者を、お放しなさるまいと云っているのさ」
「だからよ」と吉次も云い返した。「そういうお慈悲深い桔梗様だ、恋してはならぬ、手を取ってはならぬ、うむ、そうして跪座《ひざまず》いてはならぬ」
「ははあ隙見をしていたな」
「見守っていたのだ、厳しくな!」
「手を下されたのは桔梗様だ」
「お前がそれを強請《せが》んだからさ」
「恋の告白をしただけさ」
「オイ」と吉次は憎々しく、「この昆虫館にいるほどの者で、誰一人として桔梗様を、恋していない者はないのだよ。ただそいつを云い出さないまでさ!」
「そこでこの俺が云い出したのさ」
「そうだ、外来者の外道めが!」
「外道、よかろう、恋の勝利者!」
「俺が許さぬ!」とヌッと吉次は、松葉杖を上げると進み出た。
「俺が許さぬ! な、俺が!」
 だがどうやら小一郎には、一向それが風馬牛らしい。「いったいお前は何者かな? 兄か、弟か、桔梗様の?」
「世にも忠実なる女王の僕《しもべ》さ!」これが吉次の返辞であった。
「そうか」と小一郎はゲラゲラ笑い、「引き立ててやろう、この俺がだ! 女王の※[#「馬+付」、第4水準2-92-84]馬《ふば》になった時!」
 怒るかと思ったら反対であった。片足の吉次は、声を窃《ひそ》め、諂《へつら》うように頼むように、囁くような声で云ったものである。
「まあさまあさ小一郎殿、角目立つのは止めにしましょう。お互いろくなことはありませんからな。で、今度はご相談、いやいやむしろお願いでござる。と云うのは他でもないが、今も私申しました通り、昆虫館に住むほどの者で、あのお美しい桔梗様を、愛し崇めていない者は、一人もないのでございますよ。まさしく文字通り女王様でござる。だからどうしてもあの方だけは、永遠の処女で置かなければ、治まりがつかないのでございますよ。一人が占有しようものなら、それこそ誰も彼も怒りますて。まして貴殿は外来者、そうでなくてさえ白い眼で、みんなに見られているのでござる。そういう貴殿が占有したとあっては、昆虫館住民一斉に、騒ぎ立てるは見たようなもの、これが私には心配でな……。で願わくば昆虫館を、至急お立ち去りくだされたいもので」ここで上眼を使ったが、さらに一段声を窃め、「それが厭だとおっしゃるなら、よろしいよろしいお住居《すまい》なされ。ただし充分ご注意くだされ、今後は決して桔梗様の側へ、お立ち寄りなどなさいませんよう。そうして」と云うと狡猾らしく、二、三度|眼瞼《まぶた》を叩いたが、「そうしてどうぞ桔梗様へ、このようにおっしゃっていただきたいもので、『先刻下されたあの御手は、何かのお間違いかと存ぜられます。で、私におきましては、失礼ながらあなた様との恋は、この際お断わり致します』とな。……そうするといつまでもこの里は、平和を保つことが出来ますので」
 こう云われて見れば小一郎も、一思案せざるを得なかった。
「なるほどな、そんなものかも知れない」心の中で呟いた。「昆虫館住民一人残らず、桔梗様を崇めているという、これには嘘はなさそうだ。外来者の俺が占有したら、たしかに不快に思うだろう。せっかくの平和が破れるだろう。こうなっては仕方がない。惜しい恋人ではあるけれど、桔梗様を見棄ててここを去ろう。そうして一まず関宿へ帰り、角屋の安否を尋ねて見よう。それから江戸へ帰るとしよう。だが待てよ」と小一郎は、吉次の顔をつくづくと見た。「醜貌ながらも智恵ありげだ。それもどうやら邪智らしい。こいつの言葉をそのままに、はたして受け取っていいだろうか?」ふとこの点へ気が付いた。
 と、早くも片足の吉次は、小一郎の心中を読んだらしい。ヒョイと二、三歩飛び退ると、俄然態度を一変した。

        十六

「ふふん」とまずもって片足の吉次は、毒々しく笑ったものである。
「承知《きく》か、それとも断わるか、俺の云うこと、どうだどうだ! もしも」と云うとピョンピョンと、二足ばかり飛び出したが、「断わると云うなら覚悟がある! 落ち下るぞよ、恐ろしい危険が! しかも即座だ! さあ返答!」
 云いながら奇妙にも全身を、満足の一本の足の方へ、そろりそろりと傾けて来た。
「はたしてこいつ奸物だわい」見抜いた一式小一郎は、グンと突っ刎ねたものである。「恋も捨てぬよ、この地へも止どまる、アッハッハッ、気の毒だなア」
「きっとか!」と吉次は、いよいよ益※[#二の字点、1-2-22]、片足へ全身をもたせかけたが、心持ち両肩を縮めると、首を突き出し、上眼を使い、狙ったは小一郎の頤の辺。「見損なうなよ、この吉次を!」
「見損なうなよ、一式小一郎を」
 とたんに、「うん!」という凄い呻きが、吉次の口から迸しったが、瞬間ピューッと空を裂き、刎ね上がったは松葉杖で、ピカッと光ったは杖の先に、取り付けてある鋼鉄《はがね》の環、それとて尋常なものではない、無数の鋭い金属性の棘で、鎧《よろ》われたところの環である。意外な利器、素晴らしい手並み、しかも呼吸の辛辣さ、武道以外の神妙の武道!
「あっ」と叫んだは小一郎で、微塵に下頤を叩っ壊され、上下の歯を吹き飛ばし、舌を噛み切り血嘔吐《ちへど》を吐き、グ――ッ背後態《うしろざま》にへたばったなら、ヤクザな武士と云わなければならない。何んの小一郎が、そんな武士なものか、「あっ」と叫んだ一刹那、大略《おおよそ》二間背後の方へ、束《そく》に飛び返っていたのである。
 柄へ片手はかけたものの、抜こうともせず悠然と、吉次の様子を眺めやった。
 すると吉次は、一本足で立ち、高々と松葉杖を振り上げたが、姿勢の立派さ、驚くばかり、地へ生え抜いた樫の木だ。と、そろそろと松葉杖を、下へ下へと下ろして来た。トンと突くと倚《よ》っかかり、して云い出したものである。
「見事、さすがは、一式氏、よく避けましたな、拙者の一撃! 百に一人もなかった筈だ。だが……」と云うとピョンピョンと飛んだ。「二撃がある、三撃がある、四撃五撃といつまでも襲う! 遁がさぬぞよ、遁がすものか! 逃げたら卑怯、武士とは云わせぬ! さあ抜け抜け、汝《うぬ》も抜け!」
 小一郎の前方約一間、そこまで迫って来た片足の吉次は、例によって全身を左へ傾け、一本の足で支えたが、ジリジリジリジリと松葉杖を、上へ上へと上げて来る。狙いはどこだ。解らない! ただジリジリと上げて来る。
「ちょっと凄い」と小一郎は、睨み付けながら考えた。「足か、胴か、横面か、それとも頤か、さっきのように。……あいつ[#「あいつ」に傍点]を受けたら粉微塵、骨肉共にけし[#「けし」に傍点]飛ぶだろう。……習った武道とは思われない。あしらいにくいよそれだけに。……切って捨てるに訳はないが、しかし相手は片輪者、それに昆虫館土着の人間、非難が起ころう、討ち果たしてはな」
 思案に余ってしまったのである。
 その間もジリジリと松葉杖は、上へ上へと上がって来る。一尺二尺、さて三尺! と、グ――ッと振り冠った。光るは棘のある環である。陽に反射してキラキラキラキラと、非常に綺麗な宝石のようだ。そうして吉次は、一本足で、ヌ――ッと突っ立ち微動もしない。例によって樫の木、生え抜いたようだ。
 と、何んとその吉次であるが、翻然片足を刎ね返すと、小一郎の正面三尺の地点、そこまで飛び込んで来たではないか。
 同時に「うん」という例の呻きが、吉次の口から迸しるや、シ――ン真っ向から松葉杖が、小一郎の脳天へ降り下ろされた。
 ひっ[#「ひっ」に傍点]外して[#「ひっ[#「ひっ」に傍点]外して」は底本では「ひっ外[#「っ外」に傍点]して」]右へ小一郎が、飛び交うのを追っかけた吉次の、その素早さ、どうでも妖怪、二本足のある人間より、遙かに遙かに遙かに早い。
「ド、どうだア――ッ」と松葉杖で、一式小一郎の足を払った。
 きわどく、左転、小一郎は、飛び交《ちが》ったが決心した。
「もういけない、叩っ切ってやろう!」
 腰を捻ったおりからであった、「一式様」と、呼ぶ声がした。つづいて、「吉次や!」と同じ声がした。
 すがすがしい桔梗様の声である。
 その桔梗様は花壇を巡り、二人の方へ近寄って来た。
「お話しいたしたいと申しまして、父が待っておられます。おいでくださいまし、一式様」
 吉次の方へ顔を向けた。
「行って砂糖をやっておくれ、蜜蜂を飢えさせていけません」

        十七

 ここは昆虫館館主の部屋で、和蘭陀《オランダ》風に装飾《よそお》われている。壁に懸けられたは壁掛けである。昆虫の刺繍が施されてある。諸所に額がある。昆虫の絵が描かれてある。天井にも模様が描かれてある。その模様も昆虫である。戸外《そと》に向かって二つの窓、その窓縁にも昆虫の図が、非常に手際よく彫刻《ほ》られてある。窓を通して眺められるのは、前庭に咲いている花壇の花で、仄かな芳香が馨って来る。長椅子、卓子《テーブル》、肘掛椅子、暖炉、書棚、和蘭陀《オランダ》箪笥、いろいろの調度や器具の類が、整然と位置を保っている。特に大きいのは書棚である。幅一間、高さ一間半、そんなにも大きい頑丈な書棚が、三|個《つ》並列して置かれてある。だがそれでも足りないと見え、塗り込めになっている書棚があり、昆虫を刺繍した真紅《まっか》の垂《た》れ布《ぬの》が、ダラリと襞をなしてかかっている。いやそれでも足りないと見え、二|個《つ》の瀟洒とした廻転書架が、部屋の片隅に置かれてある。さてそれらの書棚であるが、日本の書籍などきわめて少く、大方洋書と漢書とで、ふくれ[#「ふくれ」に傍点]上がるほど充たされている。
 パチパチパチパチと音がする。暖炉で燃えている火の音である。暖炉の上に置かれてある花は、五月に咲くというトリテリヤである。温室花に相違ない。床には絨緞が敷かれてある。やはり昆虫の模様があり、その地色は薄緑である。
 それは黒檀に相違あるまい、しなやか[#「しなやか」に傍点]に作られた卓子《テーブル》の上に、幾個もの虫箱が置いてある。いや虫箱はそればかりではない。ほとんど無数に天井から、絹紐をもって釣り下げられてある。で、この部屋へはいる者は、多少頭を下げなければ、その虫箱に額をぶッつけ[#「ぶッつけ」に傍点]、軽傷を負わなければならないだろう。
 一方の壁に扉がある。隣り部屋へ通う扉らしい。
「誓ってこの扉をひらくべからず」
 こういう張り紙が張られてある。秘密の部屋に相違ない。
 もう一つの壁にも扉がある。それは廊下への出入口で、その扉にも昆虫の図が、彫刻《ほ》られてあることはいうまでもない。
 窓から日光が射し込んでいる。その日光に照らされて、書き物|卓子《づくえ》が明るく輝き、一枚の図案を照らしている。図案というより模様と云った方がいい。微妙な単純な斑紋を持った、一個《ひとつ》の蝶の模様である。絵と云った方がよいかも知れない。
 長椅子にゆったり腰かけながら、話しているのは昆虫館主人で、鵞ペンを指先で弄んでいる。大分機嫌がいいらしい。
「……あなたは全くいい人だ。あなたのような人物なら、決して私は苦情は云わない。いつまでも昆虫館においでください。……だが恐らくあなたとしては、さぞ不思議に思われましょうな。私のこういう生活と、そうしてここの社会とが。……第一住んでいる人間が、私と桔梗とを抜かしてしまえば、全部が全部|不具者《かたわもの》というのが、不思議に思われるに相違ありますまいな。だがこれとて何んでもないことで、由来不具者というものは、その肉体が不具《かたわ》だけに、心も不具だと思われていますが、これはとんでもない間違いなので、本当のところは正反対ですよ。肉体が不具であるだけに、心の中にひけめ[#「ひけめ」に傍点]があり、傲慢にならずに謙遜になります。人を憎まず、愛されようとします。ところが一般世間なるものは、そういう心持ちを理解せずに、肉体が不具だという点で、その不具者を軽蔑しますね。これが非常によくないことで、これあるがために不具者達は、僻み心を起こすのです。だから私としてはこういうことが云えます。健全な肉体の持ち主こそ、かえって心は不具者で、不具な肉体の持ち主こそ、その心は健全であるとね。そこで私は考えたのです。不具者ばかりを寄せ集め、一つの独立した社会を作ろう、そうしてそういう人達に、思う存分働いて貰い、私の研究をつづけて行こう。……と、こんなようにお話ししたら、この昆虫館の組織なるものが、奇もない変もない合理的なものだと、きっとあなただって思われるでしょうな。そうしてそれはそうなのですよ。……さてところで私の研究ですが、これとて何んでもありゃアしません。私の好きなは昆虫なので、その昆虫の生活状態を、科学的に徹底的に研究してみよう、そうしてその結果法則を見出し、それが人生に必要なものなら、早速人生に応用してみよう。――と云うぐらいなものなのでね。……この試みは成功でした。蜂と蟻との集団生活、この二つを知ることによって、理想的人間の生活の、法則を知ることが出来ましたよ。で、その中あなたへも、お話ししようとは思っていますが、一口に云えばこうなるようです。王への忠誠、公平の労働、完全の分業、協同的動作、等、等、等、といったようなものでね。いや実際人間などより、どんなにか昆虫の生活の方が、正しくて平等だか知れませんよ」
 学者らしい淡々とした口調である。
 向かい合って椅子へ腰をかけ、聞いているのは一式小一郎で、その顔付きは熱心である。

        十八

「だがご主人」と小一郎は、躊躇しながらも訊いてみた。「世間の噂によりますと、永生の蝶とかいう不思議な蝶が、この昆虫館にはありますそうで、どういう蝶なのでございましょう?」
 するとにわかに昆虫館主人は、いくらか憂鬱な顔をしたが、「結局私にも解らないのです」
「ははあ」と云ったが一式小一郎は、ちょっと物足りない思いがした。
「雄と雌との二匹がいて、二つを交尾《つが》えて子を産ませた時、莫大な財宝を得られるという、伝説的の蝶だそうで?」
「あれは絶対に子を産みませんよ」どうしたものか昆虫館主人は、こうにべもなく云ったものである。
「人工的蝶でございますからな」
「ははあなるほど、人工的なもので?」
「だがやっぱり生きてはいます」
 これは小一郎には解らなかった。
「では人間の力をもって、生命というものは作れますもので?」
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]も解らない」主人はいよいよ憂鬱になったが、「とにかくあの蝶は人工的のもので、非常な大昔に作られたものです。しかしやっぱり活きてはいます。だが絶対に子は産みません。しかしひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると[#「しかしひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると」は底本では「しかしひょっ[#「かしひょっ」に傍点]とかすると」]産むかもしれない。それとて普通に云われている、子というものとは違いますなあ。千古の秘密は持っています。だがその謎は解けませんよ。私にさえ解けなかった謎ですからな。しかも不覚にもこの私は、雄蝶の方を逃がしてしまいました」
「ああその雄蝶をお探しになるため、小梅田圃などへ参られましたので。……それにしてもあの時お声だけ聞こえて、お姿の見えなかったのはどうしたのでしょう?」
「藪の中にはいっていたからですよ」
 こう聞いてみれば何んでもなかった。むしろ飽気《あっけ》ないくらいである。
 しばらく部屋の中はしずかである。働きながら唄っているらしい、昆虫館住民の歌声が、窓を通して聞こえて来る。平和と喜びの歌声である。
 と、不意に昆虫館主人は、卓上の図案を指さしたが、
「これでござるよ、一式氏、行衛を失なった雄蝶というのは」声がにわかに威厳を持って来た。
 そこで一式小一郎は、じっと図案を眺めやった。翅《はね》に付いている斑紋が、とりわけ小一郎には奇妙に見えた。普通の蝶の斑紋ではない。それは地図のような斑紋である。どんな人間でも一眼見たら、オヤと思わざるを得ないほど、変わった斑紋と云ってよい。
「奇妙な斑紋でございますな」
「さよう」と主人は頷いたが、「もう一匹の蝶の翅《はね》にも、これに似た斑紋がありましてな、どうやら私の考えによれば、どこかの地図かと思われますよ」
 でまた部屋の中がしずかになった。やっぱり歌声が聞こえて来る。窓から花の香が馨って来る。早春などとは思われない。汗ばむほどに暖かい。どうでも酣《たけなわ》の春のようだ。
「それに致しても」と小一郎は不審《いぶか》しそうに訊き出した。
「どうして先生にはそんな蝶を、お手に入れられたのでございますかな?」
「さあ」と云ったが昆虫館主人は、ここで沈黙をしてしまった。と、気軽に云い出した。「和蘭陀の首府ブラッセル、そこで偶然手に入れましたよ」それからこだわらず[#「こだわらず」に傍点]に云いつづけた。
「私はこれでも名門でな、門地から云えば徳川の連枝、もっとも三代将軍の頃、故あって家は潰されましたが、血統だけは今に続き、まず私が直系の後胤、青年の頃から欧羅巴《ヨーロッパ》へ渡り、そこで一通り昆虫学を学び、帰朝したのは最近のことで。……がマアそれはどうでもよい、ところで問題の雌雄の蝶だが、これは決して外国産ではなく、作られたのは間違いなく日本、それから朝鮮、支那を経て、和蘭陀の国へ渡ったようです。証拠もいろいろありますが、それは専門に属していることで、お話ししても解りますまい。……これは可笑《おか》しい!」
 と昆虫館主人は、にわかに長椅子から突っ立ち上がった。
「敏感な麝香《じゃこう》虫が騒ぎ出した」スルスルと窓まで走ったが、「困ったことだ! 何か起こる! 俺には解る、大事件が起こる!」

 ちょうどこの頃のことである。片手の小男が馬に乗り、関宿《せきやど》とは反対の方角から、大森林を上へ上へと、昆虫館を目差して走っていた。非常に周章《あわ》てているらしい。非常に恐怖しているらしい。
「さあ大変だ大変だ、早く先生へお告げしなければならない。攻めて来る攻めて来る彼奴《きゃつ》らが!」
 こんなことを口の中で呟いている。馬術は精妙、木立をくぐり、険路を突破して走って来る。
 やがて間もなくこの伝騎は昆虫館へ馳せ付けるだろう、そうしたら何かが語られるだろう。美しい平和な昆虫館に、そのため騒動が起こらなければよいが。
 伝騎が着いた。小男が叫んだ。――
「ご用心なさりませ、山尼《やまあま》の徒が、続々入り込んで参りました!」

        十九

「昆虫館閉鎖は山尼《やまあま》の徒の為なり」
 こう古文書に記されてある。
 山尼というのは何んだろう? いわゆる山姥《やまうば》の別名なのだろうか? それはハッキリ解らない。とにかく山間に住んでいる、一種の神秘的の人間らしい。どうしてそういう山尼の徒が、昆虫館を閉ざしたのだろう? それもハッキリ解らない。ただし昆虫館を閉ざしたのは、むしろ館主自身なのであった。
「山尼の徒が攻めて来た!」――伝騎が昆虫館へ知らせて来ると共に、次のような事件が起こったのである。
(一)「とうとう俺の心配していた、恐ろしい敵が攻めて来た。戦えばこっちの負けである。彼らはこの俺から永生の蝶を、手放させようとしているのだ。これはどうでも放さなければならない」こう云いながら昆虫館館主が、一匹残っていた雌蝶の方を、空高く放してやった事。
(二)「昆虫館は閉鎖する。館民は自由に立ち去るがいい」こう云いながら昆虫館館主が、建物の内へ引き籠ったので、多くの集まっていた片輪者達が、館を見すてて立ち去った事。
(三)ただし助手の吉次だけが、一人頑固に居残った事。
(四)桔梗様も父の館主と共に、昆虫館の内へ籠ってしまった事。
(五)そこで一式小一郎は、一旦関宿へ引っ返し、水難を遁がれた英五郎や君江と、再び顔を合わせた事。
 美しくて平和で神秘的であった昆虫館という別社会は、こうして実に一朝にして、寂寞の天地に化したのであった。

 さてその日から十日ほど経ったあるよく晴れた快い日に、一人の武士が馬に乗り、一人の女馬子が手綱を引き、三浦半島の野の路を、江戸の方へ向かって辿っていた。
 武士は一式小一郎で、そうして女馬子は君江であった。
「もうお帰りなさいまし」こう云ったのは小一郎である。
 君江は笑って聞こうともしない。「いいえお送り致します」
 そこで小一郎は揶揄《からか》うように、「かえって迷惑でございますよ」
 君江は承知だというように、「お気の毒さまでございますこと」
 今度は小一郎怒ったように、「ちと無礼ではございませんかな」
「まんざらそうでもございますまい」君江は少しも動じない。
 シャン、シャン、シャンと鈴の音、カバ、カバ、カバと蹄の音、二人の旅はつづいて行く。
「どこまでお送りくださるので?」やがて小一郎はこう訊いた。
「はい、どこへでも、あなたまかせ」君江の返辞はハッキリしている。
「拙者、江戸表へ帰ります」
「それでは江戸までお送りします」
「いささか執拗ではござらぬかな」小一郎は今度は窘《たしな》めにかかった。
「妾の性質でございます」依然として君江は驚かない。
「江戸までお送りくださるとして、一人で帰られるのは寂しかろうに」小一郎は今度は同情してしまった。
「何んの妾帰りましょう」
「え?」と小一郎は訊き返した。
「妾、いつまでもお側にいます」
「ははあさようで、それはそれは、しかし拙者は江戸へ帰れば、父の邸へ入るつもりで」
「お小間使いとなって住み込みます」君江は益※[#二の字点、1-2-22]長閑そうである。
「驚きましたな」と小一郎はほんとにひどく[#「ひどく」に傍点]驚いてしまった。「誰が小間使いに頼みますので?」
「ホ、ホ、ホ、ホ、あなた様が」
「いやはやどうも」と小一郎はさらに驚きを重ねたが、「拙者決して雇いませんな」
「何んのお雇いなさいますとも」君江はすっかり安心している。「こんないい小間使いでございますもの」
 ――どうにもこうにもやり切れない――小一郎は当惑したものである。そこで改めて云って見た。「いやいや拙者江戸へ帰っても、父の邸へは入りますまい。一戸を借り受け所帯を張ります。さよう剣術の道場をな、荒くれ男達が出入りしましょう」
 こいつを聞くと娘の君江は、さも嬉しそうに晴々《はればれ》と云った。
「まあまあ結構でございますこと、それでは妾妹として、お勝手の切り盛りを致しましょう」
 ――最初《はな》からこの娘には嚇されたが、どうやら最後《きり》まで嚇されそうだ。――さすがの一式小一郎も、微苦笑せざるを得なかった。

        二十

 だが一式小一郎には、君江の心が解っていた。「無茶苦茶にこの俺を愛しているのさ」
 そうしてそれは小一郎にとっては、決して不愉快ではないのであった。否々むしろ嬉しいのであった。
「何んと云っても風変りの娘さ。こんな娘と所帯を持ち、町家住居をやらかしたら、とんだ面白い日が暮らせるかもしれない」
 そうはいっても小一郎には、桔梗様のことが忘れられなかった。「あの桔梗様の美しさは、いわば類《たぐい》稀れなるものだ。君江などとは比べものにはならない」とはいえ今に至っては、どうすることも出来なかった。「それにしてもどうして桔梗様は、この俺の恋を入れながら、この俺と一緒に来ようとはせず、昆虫館などへ残ったのだろう?」これがどうにも不平であった。「恋人の愛より親の愛の方が、魅力があったというものかな?」そうとしかとるより仕方なかった。「若い娘というものは、親の愛なんか蹴飛ばしても、愛人の方へ来るものだと、俺は今日まで思っていたが、どうもね、今度は失敗したよ」それが不服でならなかった。
 にわかに小一郎は馬の上で、ク、ク、クッと笑い出してしまった。
「何んの馬鹿らしい、考えてみれば、せっかく昆虫館をさがし中《あ》てた結果、いったい何を得たかというに、あの『騎士《ナイト》よ』という言葉だけだったってものさ」
 自嘲的にならざるを得なかった。
「何をお笑いなさいます?」君江はちょっとばかり怪訝そうに訊いた。
「騎士《ナイト》よ、騎士《ナイト》よ、ハッハッハッ、こんな言葉を覚えましたので」
「綺麗な言葉でございますこと」
「その癖中身はからっぽ[#「からっぽ」に傍点]で」
「どういう意味なのでございましょう?」
「恋人の前へ跪坐《ひざまず》き、恋人のお手々を頂戴し、そのあげくお手々をふんだくられ[#「ふんだくられ」に傍点]、ひどい目に会わされるさむらい[#「さむらい」に傍点]の、毛唐語だそうでございますよ。云ってみればちょうど拙者のようなもので」
「可哀そうな可哀そうな可哀そうな騎士《ナイト》!」
「可哀そうな可哀そうな可哀そうな拙者!」
「でも、妾なら裏切りません」
「また拙者にしてからが、あなたの前では跪坐《ひざまず》きません」
「好きでございます、そういうお方こそ。……女を認めないで虐めるお方! 本当の男でございます」
 二人の旅はつづいて行く。
 ふと小一郎は気になった。
「ご両親はご承知でございましょうな? あなたが拙者と住むことを?」
「妾、勘定に入れませんでした」
「ああ」と思わず小一郎は、嘆息の声を筒抜かせた。それから口の中で呟いた。「何も彼も一切反対だ、あの桔梗様とこの君江とは」
 二月《きさらぎ》である。野は寒い。枯草がサラサラと戦《そよ》いでいる。山々が固黒く縮こまっている。花などどこにも咲いていない。旅人の姿も見あたらない。ひっそり閑とただ寂しい。
 シャン、シャン、シャン……カバ、カバ、カバ、この音ばかりが響き渡る。二人ながら今は黙ってしまった。江戸へ江戸へと歩いて行く。が、このまま江戸入りをしたら、奇もなければ変もない、平凡な旅だと云わなければなるまい。ところが一つの事件が起こった。と云うのは林へ差しかかった時、枯葉でもあろうヒラヒラと、一葉の葉が舞って来た。全く無意識というやつである、ヒョイと小一郎は右手を出し、パッとばかりに掌で受けた。
 と、落ちて来たその木の葉であるが、掌の上に静もったが……
 見れば!
 蝶だ!
 季節違いの!
「ううむ」と小一郎は翅を見た。「斑紋がある! あの斑紋!」それからホーッと吐息をした。
「ああこれこそ永生の蝶!」
 さてこの蝶を得たばかりに、江戸入りをした小一郎はさまざまの危難に遭遇し、その剣侠の剣侠たる所以《ゆえん》を、縦横に発揮することになった。

        二十一

 春がやって来て春が去り、江戸の町々は初夏となった。
 ここは深川上の橋附近の、中洲の渡《わた》しに程近い地点で、そこにささやかな町道場があった。道場の主人は一式小一郎で、君江と二人で住んでいる。一人甚吉という下男がいる。内弟子もない質素な住居――と云いたいがそうでもない、いろいろの人間が集まって来た。浪人、遊び人、小旗本の次男、仲のよい田安家の友人達、安御家人《やすごけにん》やごろん[#「ごろん」に傍点]棒、剣術好きの町家の番頭、それから勇みの鳶の者。
 鐘巻《かねまき》流剣道指南。
 門に看板が上がっている。
 時々竹刀の音もするが、それより無駄話や高笑いの方が、一層繁く聞こえて来た。
 剣道指南所というよりも、倶楽部と云った方がよさそうである。
「父親から仕送りが来るんだよ、束脩《そくしゅう》や月謝なんか宛《あて》にするものか」
 これが小一郎の心持ちであった。
 父清左衛門云って曰く、「どうせお前は次男の身分だ。養子に行くか別家するか、どうかしなければならないのだが、どっちもお前には適しないらしい。戦国の世にでも産まれたら、小城の主ぐらいにはなれたかもしれない。ちょっと当世には向かない性《たち》だ。遊侠の徒になるもよかろう。町道場をひらくもいい。好きな娘とくらすもいい。そうしてそうやってくらしていることが、やがては君侯田安家のおために、ならないこともなかろうからな。いろいろの人間と交わって、沢山同志をつくるもよかろう。台所の方は引き受けたよ。まさかお前に食い潰されもしまい」
 こういう背後楯《うしろだて》があるのである。小一郎たるもの喜ばざるを得ない。
 とはいえ一式小一郎は、そういう父の寛大に付け込み、暢気《のんき》に遊んでいるような、そんなナマクラな人物ではなかった。
「手に入れた永生の蝶の秘密を、是非とも解いて見たいものだ」――こいつに腐心をしているのであった。
 さてその永生の蝶であるが、まことに不思議なものであった。たしかにそいつは生きていた。呼吸もしていれば脈搏っている。しかし翅から肢体から、普通の蝶とはまるで異う。普通の蝶のように軟らかくない。鋼鉄で造られているのである。――いや鋼鉄で造られていると、そう云わなければ云いようのないほど、特殊の堅い物質で、精巧に造られているのである。
 それは実際こういうことが出来る。
 ――生命を持った人工の蝶と!
 火にくべても焼けそうもなく、水へ入れても溺れそうになく、懐中《ふところ》へ入れて抱きしめても、潰れもしなければ死にもしない。
 水も飲めば砂糖も食べる、そうして部屋の中を舞い遊ぶ、指を差し出せば指へも止まる、そうかと思うと幾日も幾日も、一つ所に静まっている。
 普通の蝶のように驚き易く、その上もなく敏感かと思うと、無生物のように鈍感でもある。
「奇怪な存在」と云わざるを得ない。
「だがいったいこの蝶は、雄蝶の方だろうか雌蝶の方だろうか?」これが小一郎には疑問であった。「もしこいつが雄蝶だとすれば、昆虫館から盗まれたものだし、もしもこいつが雌蝶だとすれば、昆虫館主が逃がしたものだ」しかし遺憾ながら小一郎には、雌雄の見分けが付かなかった。「昆虫館主の話によれば、翅に置いてある斑紋が、非常に大切だということだが、どうしてこんな斑紋が、そんなにまでも大切なんだろう?」――小一郎の手に入れた蝶の翅にも、地図のような斑紋が置いてあった。
「盗まれたという雄蝶の翅に、置いてあったという斑紋を、俺は昆虫館館主の部屋で、昆虫館主によって見せられたが、その斑紋と非常に似ている。ではこの蝶は雄蝶だろうか? しかしその時昆虫館主は、もう一匹の雌蝶の翅にも、そっくりの斑紋があると云った。ではこの蝶は雌蝶かも知れない。……俺は実際惜しいことをしたよ、あの時見せられた雄蝶の斑紋を、もっと詳しく見て置けばよかった。不幸にも俺は瞥見しただけだ。で、ハッキリとは覚えていない。で、この蝶の斑紋が、雄蝶の斑紋だとは云い切れない。そうして一方雌蝶の方は、俺は全然見ていない。だが」と小一郎は考えた。「雄蝶であろうと雌蝶であろうと、そんな事は結局どうでもいい。是非ともこの際必要なのは、もう一匹蝶を目付けることだ」
 ところがこの蝶を手に入れて以来、そうして道場を持って以来、次々に左のような奇怪なことが、小一郎の身の上に起こって来た。
(一)絶えず何者か小一郎の家を、深夜になると立ち廻わる事。
(二)一回夜の往来で、何者か小一郎を襲った事。
(三)一回小一郎の不在中に、何者か小一郎の家を襲い、乱暴狼藉を極めた事。
(四)そのつど不思議な美人が現われ、小一郎を危難から救った事。
(五)敵の中にも美人がいて、それが指図をしていた事。

        二十二

 第一の場合はこうであった。
 夜更け人帰り寝静まった頃、家の周囲を忍びやかに、幾人かの者が歩き廻わり、囁き合ったり合図し合ったり、どうやら家の中へ忍び込もうとする、そういう気勢を示すのであった。ある夜の如きは厳重な雨戸が、自然にス――と開いたかと思うと、長い白布がヒラヒラと、生あるもののように入り込んで来て、パッと消滅したりした。突然窓があくこともあった。そうしてそこから袋のような物が、ヒョイと「顔」を覗かせたりした。そうかと思うと若い女の声で「経」を読むのが聞こえたりした。もっともその「経」は意味の解らない、呪文のようなものであったけれど……
 第二の場合はこうであった。
 ある夜一式小一郎は、お茶の水の辺を歩いていた。と突然七、八人の武士が、お誂え通りの黒装束で、木蔭からムラムラと現われたかと思うと、刀を抜き連れて切ってかかった。何者? と訊いたが答えがない。止むを得ず小一郎も刀を抜き、峯打ちに二、三人叩き倒した。と、若々しい女の声で「妾にお任せよ」というのが聞こえ、それと同時に長い白布が、ヒラヒラと小一郎の方へ延びて来た。と思った瞬間に、小一郎はポッと気が遠くなり、グッタリ地上へ倒れてしまった。それからどうやら武士達は、小一郎の体を調べたらしい。そんなように小一郎には感じられた。「持っていないよ。残念だね」こう云う女の声もした。それから幾刻経ったろうか、誰かが介抱するようであった。で、ポッカリ眼を覚ますと、やはり黒装束で身を固めた、五、六人の武士が並んでいたがそれは敵ではなさそうであった。
「我ら介抱いたしてござる。ひどい目に会われたな、ご用心なされ」
 こう云いすてると立ち去ってしまった。たしかにその中に一人の女が、立ち雑《まじ》っているように思われた。
 第三の場合はこうである。――
 ある夜友人の一人から、一杯飲もうという使いが来たので、指定された茶屋へ行ってみた。ところが友人はやって来ない。酒を命じ女をよび、夜の更けるまで待ってみたが、さらに友人はやって来ない。「ははあ」と感付いた小一郎は、いそいで家へ帰って見ると、家内は乱暴狼藉を極め、君江がその眼を真ん丸にし、こんな事を云って説明した。「黒装束のお侍さん達が、ドタドタ家の中へはいって来て、『どこにあるどこにある』と云いながら、何かを探したのでございます。するとその時戸外の方から女の声が聞こえました。呼びかけたのでございます。すると黒装束の武士の中からも、一人の女の声がして、どうやらそれに答えたようでした。そうしてすぐに周章《あわ》てたように、みんな立ち去ってしまいました」
「ははあ」と小一郎は自分へ云った。「永生の蝶を探しているのだ。この前お茶の水で襲われた時、おおかたそうだろうと思ったのだ。今夜は懐中《ふところ》へ入れて行ったので、幸い取られはしなかったが、いささか物騒になった。……二つの出来事を推し計ると、蝶を盗もうとする者と、保護をしようとする者と、二組あるように思われる。いったいどういう連中だろう? そうしてこの俺が永生の蝶を、所持しているということを、どうして知っているのだろう? ……どっちみちこうも襲われては、俺といえどもやり切れないよ。さてどうしたものだろう?」
 一式小一郎も参ってしまった。
「面倒臭いから放してしまうか」こんなようにさえ思うようになった。
 だがその後しばらくの間は、これという変ったこともなく、まずは平穏無事であった。しかし小一郎は油断せず、外出をする時には、永生の蝶を懐中に入れ、またある時は家へ残して出た。
 相変らず色々の人間が、小一郎の道場へ出入りした。全身綺麗に刺青《いれずみ》をした遊び人などもやって来た。
 豪放快活で洒落気があって、一面蕩児の気持ちをさえ備えているところの小一郎である。ふと刺青に誘惑された。
「よしよし俺も刻《ほ》ってやろう」
 そこでその頃有名の、浅草にいる刺青師の、蔦源の店へ出かけて行き、刺青を彫って貰ったりした。
「これでどうやらこの俺も、一人前の悪武士《わる》になったらしい。アッハハ、面白いなあ。どうせ浮世は思うようにはならない。したい三昧をするがいいさ。……だがどうも俺はこの頃になって、少し性質が変わったようだ。桔梗様に失恋したからだろう」
 物憂い初夏の日が続こうとした。
 しかしとうとうある夜のこと、またも小一郎は敵に襲われ、大事な獲物を失った代わりに、より大切の素晴らしい宝を、偶然手に入れることが出来た。
 その夜であるが小一郎は、フラリとばかり家を出た。円々《まるまる》としたよい月夜で家々の屋根も往来も、霜が降りたように蒼白い。
 大川を左に家並を右に、歩いて来た所が尾上《おのえ》河岸、別にこれと云って用もなく、明月に誘われて出たのである。と、にわかに足を止め、じっと行手を透かして見た。

        二十三

 黒装束で身を固めた、見覚えのある武士が一人、家の蔭から現われて、行手を遮ったからである。
「一式氏」とその武士が云った。すたわち南部集五郎であった。
「また逢いましたな、これで三度目」
「南部氏か」と小一郎は、素早く四辺を見廻わしたが、「貴殿一人ではあるまいな」
「さようさ」と云ったが集五郎は、とぼけ[#「とぼけ」に傍点]たような調子となった。
「今のところは拙者一人で」
「三度逢ったと云われたが、拙者を襲ったのは五度目でござろう」
「どう致しまして、三度目で」
「先夜お茶の水の往来で、拙者を襲ったのも貴殿の筈だ」
「ははあ感付きめされたかな。……ひどくあの時は一式氏、いつもに似げなくお弱うござんしたな」
「留守中の拙宅を襲ったのも、貴殿一味でござろうがな」
「敏感敏感、その通りで」
「だからよ五度目だ、今夜を入れて」
「御意《ぎょい》!」と集五郎は揶揄《やゆ》的に笑った。「下世話に三度目が定《じょう》の目というが、そいつが延びて五度目が定の目、今夜こそ遁がさぬ、一式氏、充分観念なさるがよろしい」
「さようよなア」と小一郎は、伝法な口調に砕けたが、眼では四方をジロジロ見廻わし、ちょっとの油断もしなかった。そうして心で考えた。「間を持たせて様子を見てやろう」そこで悠々と云い出した。「それはそれとして南部氏、よく水難から遁がれましたな」
「あああれ[#「あれ」に傍点]か」と集五郎は、鼻白んだ声音を作ったが、「いや全く三浦半島、木精《こだま》の森の大水には、さすがの拙者も参ってござるよ。一同谷間へ流されましてな、アブアブ水を飲みましたっけ。が、それそこは天祐というやつ、二、三人怪我はしましたが、命に別条はげえせん[#「げえせん」に傍点]でした」頼むところがあると見え、南部集五郎いつもに似気なく、寛々《ゆるゆる》としておちついて[#「おちついて」に傍点]いる。「貴殿こそあの際どうなされた?」
「さればさやっぱり天祐というやつ、水にも溺れずピンシャンと、ご覧の通り壮健で」
「めでたい」と集五郎はいよいよ揶揄的に、「その上貴殿におかれては、昆虫館へ参られたようで」
 これにはちょっと小一郎は驚かざるを得なかった。「よくご存知だの、どうして知られた」
「永生の蝶を持っているからよ」
「よくご存知だの、どうして知られた?」
「女方術師、蝦蟇《がま》夫人、その本名は冷泉|華子《はなこ》、そのお方の透視《みとおし》で知れた」ここでウンと威張ったが、「その華子様仰せらく『江戸を中心に五十里の地点、そこに住んでいた永生の蝶、その一匹が江戸へ入った』――そこで探しにかかったところ、目付かりましたよ、貴殿の道場が。鐘巻流剣道指南、一式小一郎とありましたからな。ははあとすぐに感付いて、それからそれと探りを入れると、知れましたなあ、永生の蝶をたしかにお持ちということがな」
「そこでその蝶を奪おうと、再々拙者を襲われたのだな」
「御意」と集五郎はまた揶揄的に、「どうだな、柔順《すなお》に渡されては」
「さればさ」と云ったが小一郎は、わざとらしく首を引っ傾《かし》げた。
「余人へならば渡してもよい。が、貴殿へは渡されぬよ」
「ウフッ、なるほど、恋敵《こいがたき》だからで」
「その恋敵で思い出した。これ南部氏、集五郎氏、小梅田圃で耳にした、例の美しい声の主に、拙者面会致してな、恋の告白をしたところ、早速承知というところで、お手を下されたというものだ。うらやましかろうがな、いかがのもので」――こん畜生め! というような調子、そいつで小一郎はまくし立てた。
 こいつを聞くと集五郎は「ううむ」と唸ったがその唸り、さすがに気色が悪そうであった。「そうさどっちみち[#「どっちみち」に傍点]昆虫館へ入り込み、永生の蝶を盗み出した貴殿だ、乙女の恋も盗んだでござろう」
「無礼な!」と小一郎は一喝した。「盗みはせぬよ、永生の蝶を、手に入れたのだ、偶然にな!」
「さようか」と集五郎は毒々しい。「まあまあそいつはどうでもよい。そうともそいつはどうでもよい。とまれ貴殿永生の蝶を、持っているのは事実だからの。でこっちへふんだくる[#「ふんだくる」に傍点]、それだけで当方用はない。そこでちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]聞きたいは、たった今貴殿ご自慢の、美しいお声の主との恋、首尾よく成就しましたかな? 云い換えるとご婚礼しましたかな?」
「ナニ婚礼!」と小一郎、これにはギョッとしてつまずいたが、「うむ、婚礼か、いや未だ」
「それではいつ頃?」
「いずれその中……」
「気の毒だなあ」
「何が何んだと!」
「プッ」と集五郎はどうしたものか、にわかに吹き出したものである。
「昆虫館主のご令嬢、美しい声の桔梗様が、山を下ってつい[#「つい」に傍点]この頃、江戸へはいったを知らないと見える」
「えッ」と仰天した小一郎は、「それは本当か!」ヌッと出た。
「迂濶《うかつ》な武士め!」
「何を! ……嘘だ!」
「よかろう」と集五郎はヘラヘラ笑い、「嘘だ嘘だと思うがいい。その中我らひっ[#「ひっ」に傍点]攫う」
「云え!」と小一郎の凄じい声! 「云え云え云え、どこにいる!」
「ある所によ、かくまわれ[#「かくまわれ」に傍点]てな」
「どうして知った?」
「透視《みとおし》だあ――」
「参るゾーッ」
 と小一郎は、例の大音に怒りを加え、吠えるがように響かせたが、腰を捻ると抜き打ちだ。鞘走らせたは一竿子忠綱、月光を突ん裂き横一揮、南部集五郎の左胴、腰の支《つが》えをダ――ッと切った。
 だが抜き合わせた集五郎、チャリーンと鍔元で払ったが、ジタジタと退《ひ》くと、脅えた声で「方々出合え、方々出合え!」
 声に応じて家蔭から、ムラムラと現われたは二十人ほどの武士。

        二十四

 引っ包まれた小一郎は、既に覚悟は決めていた。何んのビクとも驚くものか。例によって下段に太刀を付け、身を沈ませて構えたが、残念地の利が悪かった。背後《うしろ》は大川、引くことが出来ぬ。前には敵の二十人、揃って太刀を中段につけ、掛け声もかけず静まり返り、半円を作って寸から寸? ジリジリジリジリと寄せて来る。
「ちと手強い」と小一郎は、考えざるを得なかった。「木精《こだま》の森で切り合った、あの時の連中より強いらしい。じっと構え込んだ様子で解る。……ふふん例によって集五郎め、衆の真ん中に控えておる。こいつも今夜は懸命らしい。……さあてこれからどうしたものだ」考えがグルグル渦を巻く。桔梗様のことに気が付いた。と、カーッと血が湧いた。「桔梗様が江戸にいると云う。本当か知ら? いるなら是非とも逢いたいものだ。どうともしてお探ししたいものだ。……」にわかに一式小一郎は、その場から遁がれたいと思い出した。「永生の蝶などどうでもいい。南部一味にくれてもいい。蝶さえ渡したら文句はあるまい。こんな奴らとかかりあい、傷でも受けたらつまらない。トッ放そうかな、永生の蝶を」
 その間も敵は逼《せま》って来る。
 中段に付けた敵の刀が、月光を吸ってキラキラと、鋩先《きっさき》を上下へ動かすので、無数に螢が飛ぶようだ。
 次第に半円が縮まって来る。後へ後へと小一郎は、退かざるを得なかった。
「どうしたものだ、どうしたものだ!」小一郎は焦燥を覚えて来た。下段に引き付けた太刀構えが、だんだん上へ反ろうとする。
 と、その時小一郎の眼に、チラリと映ったものがある。敵勢の背後《うしろ》、家並の軒、月光の射さない一所に、じっとこっちを見詰めながら、スラリと立っている人影である。黒頭巾で顔を隠している。黒の振り袖を纒っている。裾が朦朧と暈《ぼ》けている。裾模様を着ているためらしい。まさしく女に相違ない。左の肩に生白く、懸けているのは何んだろう? 袋のようなものである。
 と、そこから声がした。
「お放しなさりませ、永生の蝶を」
 その女が小一郎へ云ったのである。「冷泉|華子《はなこ》でございます」
「ははあさてはこいつだな」咄嗟《とっさ》に小一郎は感付いた。「女方術師の蝦蟇《がま》夫人! ……放すかな、永生の蝶を!」
 その間もジリジリと敵の勢は、威嚇的に無言に逼って来る。そいつに連れて小一郎は、後へ後へ後へと下がる。
「これはいけない、崖縁だ!」小一郎は総身汗ばんだ。片足の踵が大川の崖へ、今や半分かかったのである。もう絶対に引くことは出来ない。一足引けば転落だ。
 またも女の声がした。「お放しなさりませ、永生の蝶を」
「うむ」と呻いた小一郎は、グッと懐中へ手を入れたが、その手を抜くと空高く、投げた! 何かを! 黒々と!
 蝶だ! クルクルと月光を縫い、舞い去ろうとする! 舞い去ろうとする! とたんに女が進み出た。ポンと投げたは袋様の物で、ベッタリ地上へへたばる[#「へたばる」に傍点]と、何んと生あるもののように、ムクムクと背中を持ち上げ[#「持ち上げ」に傍点]たではないか。続いて開いたは大きな口だ。と、そこからスラスラと、一筋の白布が濛気のように、空に向かって巻き上がったが、飛び去る蝶を追っかけた。
 何んという卑怯だ、その一刹那に、南部集五郎は声も掛けず、翻然と小一郎へ躍りかかった。
「こやつ!」と叫んで小一郎は、キワドク受けは受けたものの、足を辷らせザンブリと南無三! 南無三! 大川へ落ちた。

 シ――ンと岸上静かである。南部の一味立ち去ったらしい。
 もがいているのは小一郎で、今や溺れようとしているのであった。小一郎は水練には達していた。しかし全身|疲労《つか》れていた。転落する時腕を挫《くじ》いた。で、泳ぐことが出来ないのである。
「無念、死ぬのだ、もう駄目だ!」
 沈んでは浮かび、浮かんでは沈む。
 どこからも救いは来ないらしい。
 だがその時下流の方から、こんな掛け声が聞こえて来た。「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ」
 つづいて現われたは小舟である。一種異様な軽舟で、七人の男女が乗り込んでいる。櫂の数は六挺である。七福神の乗っている宝舟、そんなような形の舟である。船首《へさき》に竜の彫刻《ほりもの》がある。その先から総《ふさ》が下がっている。月光に照らされて朦朧と見える。魔物のように速い速い。六人が櫂を漕いでいる。一人が梶を握っている。
 小一郎の側まで来た時であった。
「オッと止めたり、舟をお止め、人間一人アブアブと、土左衛門になろうとしているじゃアないか。お助けよ、お助けよ、何も功徳だ」こう云ったのは梶を握っていた女。
「合点」と一同答えた時には、舟はピタリと止まっていた。と、その舟から手が延びて、グーッと引き上げたは小一郎の体!
「さあ介抱は韋駄天だ」
「おいよ」と云うと一人の男は、小一郎の衣裳を絞ったが、
「やアいい男のお武家さんだ、弁天の姐《あね》ごが惚れなければいいが」
「何を云うんだよ途方もない」弁天と呼ばれた梶取りの女は、クックックッと笑ったが、「さあさあ漕いだり、お急ぎお急ぎ」エッサ、エッサ、エッサ、エッサと、舟、上流へ駛《はし》って行く。

 ちょうどこの頃のことである。大川の名が隅田川と変わり、向こうの岸は三囲社《みめぐりのやしろ》、こっちの岸は金竜山、その金竜山の一所に、川面へ突き出して造られた、一宇の宏大な屋敷があり、その屋敷の奥まった部屋で、しめやかに話している男女があった。
「そろそろ彼らの来る頃だが、まだ水門は開かないかな」こう呟いたは男である。百歳以上ではあるまいか? そう想われるほどの老人ではあるが、青年のように血色がよい。葵の紋服を纒っている。「それはそうとお前さんが、突然当家へ見えられた時には、俺もいささか驚きましたよ」
「相済みませんでございます」こう云いながら微笑したのは、昆虫館館主の娘であった。すなわち他ならぬ桔梗様であった。

        二十五

「いや全くお前さんが、突然ここへ見えた時には、私はいささか驚いたものだよ。がその代り久しぶりで、お前さんのお父さんの消息を知り、嬉しくもあれば懐しくもあった。だがどうもちょっと困ったな。娘のお前をさえ寄せ付けず、そんなにも酷《ひど》く憂鬱になり、部屋へ一人で閉じこもり、研究に浮身をやつしているとは。……ははあそうか、大事な大事な、永生の蝶とかいうものを、二匹ともなくしてしまったので、それでそんなに変わったというのか。学者というものは変なものだな。変梃《へんてこ》な蝶をなくしたことぐらいで、気が変わるとは解せないよ。もっとも研究材料で、大事なものには相違あるまいがな……まあまあそれはそれとして、お前さんと逢えたのは有難い。遠慮はいらない遠慮はいらない。ここを自分の家だと思って、気随気儘にくらすがいい。何んと云っても私とお前とは、叔父さん姪さんの仲だからな。綺麗な姪さんがやって来たのだ。これまでは陰気過ぎたこの家も、これからは陽気になるだろう。……お前さんにとってもいいことだよ、三浦三崎の山の中などに、そんな虫だの獣だの、片輪者などと住んでいるよりはな。江戸へ来た方がずっといい。……と云って茫然《ぼんやり》遊んでいたでは、お前さんにしてからが退屈だろう。そこで何かを習うがいい。と云ってお父さんはあれほどの学者、したがってお前さんも学者だろう。だから、恐らく学問などは習う必要はないだろう。ひとつ反対《あべこべ》に弟子でも取って、お前さんの方で教授するかな。……いや待ったり他のことがある、生花や茶の湯を習うがいい。山の中にいたお前さんのことだ、そういうことは知らないだろう。茶の湯、生花、これからお習い! え、何んだって、知っているって? 痩せ我慢はいけない、気取ってはいけない。山家育ちのお前さんなどが――と云っても大変別嬪だが、何んの茶の湯や生花などを、知っていることがあるものか。え、本当に知っているって? ふうん、そうか、それは感心。そうかも知れない。そうかも知れない、打ち見たところ上品で、女一通りの芸や作法は、どうやら心得ているように見える。何さ何さ一通りどころか、十二分に心得ているらしい。とするとどうも困ったな。何を習ったらいいだろう? おおそうだ、いいものがある、お習いお習い、泥棒をね」
 葵ご紋の威厳のある武士《さむらい》は、能弁に愉快そうに喋舌って来たが、とうとうこんなことを云い出してしまった。泥棒を習えというのである。
 これにはさすがの桔梗様も、驚いたかというに驚かなかった。
 したたるような美しい眼と、恍惚《うっとり》するほどの美しい声とで、負けずに愉快そうに云ったものである。
「叔父様、結構でございますこと、習いましょうねえ、泥棒を」
「え?」とこれには叔父の方が――葵ご紋の武士《さむらい》の方が、あべこべに仰天したらしい。「本当かな、習う気かな、泥棒という商売を?」
「はいはい妾習いますとも、大喜びで習いますとも。あの、必要がございますので」桔梗様は真面目に云ったものである。
「これはこれは」と葵ご紋の武士は、いよいよ胆を潰したらしい。「度胸がいいの。偉い度胸だ。どんな必要かな? 云ってごらん?」
 すると桔梗様は一層真面目に、それでいて途方もなく愉快そうに、ズケズケこんなことを云い出した。
「お探ししたい人がございますの、綺麗な綺麗なお侍さんなの。少し皮肉ではございますが、そこがまた大変よいところで、可愛らしいのでございますの。……云い交わした人なのでございます、恋し合った方なのでございます。……たしか只今は江戸|住居《ずまい》で。どうともしてお探しし、お逢いしたいのでございますの。……ようございますわね、泥棒は。どこへでも勝手に忍び込め、どんな方とも逢うことが出来、ほんとに何んて結構なんでしょう。でもねえ叔父様」と甘えた声で、「よい先生がございましょうか、上手に泥棒をお教えになる」
「待ったり」と叔父様は――葵ご紋の武士は、眼を円くすると手を振った。「私は知らぬよ、こんな娘は! 驚きましたね、二の句も継げない。どうも当世の娘っ子は、油断も隙も出来ないの。叔父さんを前にちゃアンと据えて、恋人があるというのだから。とんだ姪さんを持ったものさ。私は謝罪《あや》まる、私は謝罪まる。……そうは云っても面白いの。やっぱり血統は争われない、反骨稜々侠気充満、徳川宗家に盾突いて、日本は狭いと云うところから、海を渡って異国へ行った、我々のご先祖の血液が、お前のお父さんにもこの私にも、お前さんにも通っているらしい。……うむ!」と云うとどうしたものか、葵ご紋の威厳のある武士は、にわかに不思議な表情をしたが、すぐに磊落《らいらく》に笑い出した。「先生かな、泥棒さんの。いるともいるとも、ここにいるよ」云うと一緒に手を延ばし、手首を曲げると人差し指を延ばし、ポンと自分を指さした。それから云ったものである。
「大泥棒! 異国をさえも盗む! そういう泥棒の先生がな」
 ――でまたそこで磊落に笑った。

        二十六

 磊落に笑った大きな声に、吃驚《びっくり》したというように、床に活けてあった牡丹の花が、一|片《ひら》ポロリと床の上へ零れた。
 顔輝《がんき》筆とも思われる、蝦蟇仙人と鉄拐仙人、二人を描いた対幅が、床一杯に掛けられてある。それが名筆であるだけに、三十畳ぐらいは敷けるであろう。そのくらい広い部屋の中に、一種云われぬ蒼古な妖気が、陰々として漂っている。
 実際それは名筆であった。二人とも活けるがようであった。二人ながら乱髪である。二人ながら跣足《はだし》である。そうして二人ながら襤褸《ぼろ》を纒い、二人ながら岩に腰かけている。ただし、一方蝦蟇仙人は、左手に躑躅《つつじ》の花を持ち、右肩に蝦蟇を背負っている。白味を帯びた巨大な蝦蟇で、まるで大きな袋のようである。パックリ開いた醜悪の口から、布のように見える白気を吐き、飛び出した眼を輝かせている。一方鉄拐仙人は、腰に大きな瓢《ひさご》を付け、両足の間に杖を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]み、左手で奇形な印を結び、すぼめた[#「すぼめた」に傍点]口からこれは黒気を、一筋空へ吐き出している。そうして黒気の行き止まりの辺に、同じ姿の鉄拐仙人が、豆のように小さく走っている。秘術を行っているところだ。鉄拐仙人には髷があり、蝦蟇仙人には髷がない。で前者は老人に見え、そうして後者は老婆さんに見える。
 二人ながら物凄くいやらしい。
 ちょっとの間部屋中静かであった。
 対に立ててある雪洞《ぼんぼり》の灯が、蒔絵の脇息を照らしている。それに悠然と倚っている、葵ご紋の武士の顔は、昆虫館主人と非常に似ている。広い額、窪んだ眼窩、きわめて高い高尚な鼻、しかし異ったところもある。昆虫館主人は白髪だのに、こっちは艶々しい黒色である。昆虫館主人の眼と来ては、霊智そのもののような眼であったが、こっちの眼は意志的英雄的である。昆虫館主人よりも身長《たけ》が高く、そうして一層肥えてもいる。健康そのもののような体格である。昆虫館主人は学究として、あくまでも真面目、あくまでも真剣、しかるにこっち葵ご紋の武士は、洒々落々としたところがあり、人を食ったようなところがある。
 だがいったい葵ご紋の武士は、何んという姓名を持っているのだろう? 世間の人達は敬称して、隅田のご前と云っている。葵の紋服を着ている以上、将軍家の連枝には相違あるまい。
 隅田のご前を前に置き、端然と坐っている桔梗様と来ては、清浄で、美しくて、自由で無邪気で、いかにもいかにも処女というものを、掬い固めたような俤《おもかげ》がある。
 この二人の対照は、全く一幅の絵と云っていい。
 まだ二人は黙っている。
 と、どこから来たものか、四方雨戸をとざしてあるのに、一匹の火捕《ひと》り虫が飛んで来た。バタバタバタバタと雪洞へ中《あた》る。
「遅いの」と不意に隅田のご前は、独り言のように呟いた。それが桔梗様の気にかかったらしい。
「誰をお待ちでございます!」
「ああ待ち人かな、泥棒さん達だよ」隅田のご前は道化出した。「私はな、大変な大泥棒だ。で沢山手下がある。その手下を待っているのだよ」無邪気な可愛い桔梗様を、嬲《なぶ》ってみるのが面白いのらしい。
「おやおやさようでございますか」桔梗様は一向驚かない。「妾もお待ち致しましょう」
「ご用でもあるかな、私の手下に」
「はいはい沢山ございますとも、参りましたらとっ[#「とっ」に傍点]捉まえ、忍び込みの術を教わります」
「あッ、話はそこへ行くのか、忍び込みの術を教わって、その恋しいお侍さんを、探しに行こうというのだの」
「はいはいさようでございますとも。でもねえ叔父様、実を申せば、もう一つ大切なご用があって、探しているのでございますの。その一式様というお侍さんを」
「ほほう」とご前眼を円くした。「その恋男のご姓名は、一式様というようだの」
「一式小一郎様と申します」
「で、何かの、大切の用とは?」どうやら興味を持ったらしい。
「お父様からお預りをした、大事な大事な大事な物を、お渡ししたいのでございます」
「何?」と云うと隅田のご前は、いくらか驚いた様子があった。「それでは何かの、お前のお父様も、承知しておられるご仁かの、その一式という人物は?」
「私達の住居の昆虫館へ、訪ねておいでくださいました時、お父様もお逢いでございました。そうしてお父様もそのお方を、大変好かれたのでございます」
「ふうん」と云ったが真面目になった。「私はそうとは知らなかったよ、そんな恋人の話など、お前の出鱈目と思っていたよ。うむうむそうか、本当の話か。で、何かの、大事なものとは?」
「はいこれでございます」
 何か帯から出そうとした時、隅田川の方から声がした。
「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ」それはこう云う声であった。
 そうしてこの声が次第に近付き、隅田のご前の屋敷の前で、にわかにプッツリと切れてしまい、つづいて幽かではあったけれど、水門の開く音がした時から、この物語の局面は、新しく展開されることになった。
 まず隅田のご前様が「来たな」と云うと立ち上がり、それから桔梗様へ云ったものである。
「お前もおいで! 度胸がある。見せて置いてもいいだろう。……紹介《ひきあわ》せて置こう、変った奴らを。無頼漢《ならずもの》どもだがためにもなる奴らだ」
 で、部屋から廻廊へ出た。云われるままに立ち上がり、桔梗様が後から従った。
 少し行くと階段になる。螺旋《らせん》形をした階段である。下り切った所に池があった。隅田の川水を取り入れて、作ったところの池らしい。小さい入江! こう云った方がいい。小|船渠《ドック》! こう云った方がいい。水がピチャピチャと石段を洗い、小波をウネウネと立てている。石段の左右に龕《がん》ある。青白い燈火《ひかり》が射しいる。その燈火に照らされて見えるのは、七福神の宝船、それに則って作られた船と、満載されてある武器弾薬と、そうしてそれへ乗り組んでいる、七人の異様な水夫《かこ》達であった。
 いやもう一人|人《ひと》がいた。それは水に濡れた侍であった。
「あッ、あなたは一式様!」
「おっ、これは桔梗様!」

        二十七

 さてその翌日のことである。
 一式小一郎は自分の家の、自分の部屋にこもっていた。襖を締め切り黙然と坐り、じっと膝の上を見詰めている。西向きの窓から夕陽が射し、随分部屋は熱いのに、そんなことには無感覚らしい。視線の向けられた膝の上に、銀製の小さな鍵がある。だが小一郎の表情から推せば、鍵について考えているのではなく、別のことを考えているらしい。
 道場の方からポンポンと、竹刀の音が聞こえて来る。弟子達が稽古をしているのであろう。
 お勝手の方からコチンコチンと、器物《うつわもの》のぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]音がする。君江が洗い物をしているのであろう。
「気の毒なものだな、あの君江は」小一郎はふっと呟いた。
「俺は逢ったのだ、桔梗様に。本当の本当の恋人に。で、君江は正直に云えば、俺には不用の人間になった。邪魔な人間になったともいえる。……がそれはそれとして、全く昨夜は意外だったよ。南部に襲われ蝶を逃がし、大川の中へ転がり落ち、負け籤《くじ》ばっかり引いたかと思うと、今度は恋人の桔梗様と逢う。塞翁《さいおう》が馬っていうやつさな」微笑したいような気持ちになった。「それにさ随分変な人間に、一時に紹介されたものさ。隅田のご前という凄いような人物や、七人の異様な無頼漢《ならずもの》達に。……屋敷の構造も変なものであった。……悪人の住家《すみか》ではあるまいかな? あんな所へ桔梗様を置いて、はたして安全が保たれるかな?」これが小一郎には不安であった。だがしかしすぐに打ち消してしまった。「葵の紋服を召していた。では隅田のご前という人物は、高貴な身分に相違ない。それから桔梗様がその人を、叔父様叔父様と呼んでいた。とすると血筋を引いているのだろう。それでは安全と見てもいい」
 小一郎の心へは次から次と、昨夜のことが思い出された。
 船から上げられて介抱されたこと、濡れた衣裳を干して貰ったこと、別室で桔梗様と二人だけで、しばらく話を交わせたこと……
「昆虫館でのお約束を、反故にしたのではございません」こう桔梗様が云ったこと。「父は憂鬱になりました。『俺は一人で研究したい。娘よ、お前は江戸へ行け! 人間の世を見て来るがいい』こう云って妾を山から出し、人を付けて江戸へ送ってくれました」こう桔梗様が云ったこと。「その節父が申されました『一式氏は人物である。あのお方とお前との交際を、私は好んでお前へ許す、ついてはあの方を探し出し、この鍵を是非とも手渡しておくれ。雌雄二匹の永生の蝶を、一式氏が手に入れて、もしそれが子供を産んだ際には、この鍵が役に立つかも知れない』――で、お渡し致します」こう桔梗様が云ったこと。等、等、等を思い出した。「一式氏とやら、お暇があったら、時々お遊びにおいでなされ。があらかじめ申し上げて置く、拙者の屋敷の構造や、拙者の行動に関しては、絶対に世間へ洩らされぬように。うち見たところ貴殿には、一個任侠の大丈夫らしい。その中拙者の計画や、心持ちなどもお話し致す。時々遊びに参られるよう。それにどうやら姪の桔梗が、そなたを愛しておられるようで、遊びにおいでなさるがよい」――隅田のご前という人が、云ったことなども思い出した。
「時々どころか毎日でも行って、桔梗様と話をしたいものだ」小一郎は恋しくてならなかった。
「今日も、これから行ってやろう」
 フラリと立つと大小を差した。だが何んとなく気が咎める。「気の毒だな、君江には」そこでこっそり[#「こっそり」に傍点]足音を盗み、玄関へかかると雪駄を穿き、「まるで間男でもするようだな」苦笑しながらも門を潜り、うまく君江にも目付からずに、夕陽の明るい町へ出た。
 差しかかった所が大川端で、隅田の屋敷の方へ、急ぎ足に歩き出した。夕暮れ時の美しさ、大川の水が光っている。そこを荷舟が辷っている。対岸の白壁が燃えている。夕陽を受けているからである。鴎が群れて飛んでいる。舞い上がっては舞い下りる。翼が夕陽を刎ね返している。甍を越して煙りが見える。どうやら昼火事でもあるらしい。人々の罵る声がする。「火事だ火事だ! 景気がいいな!」間もなく煙りが消えてしまった。小火《ぼや》で済んだに相違ない。渡し船には人が一杯である。橋にも通る人が一杯である。物売りの声々が充ちている。江戸の夕暮れは活気がある。
「ひどく俺は幸福だよ」小一郎はこんなことを呟いた。「桔梗様にも愛されているし、君江どん[#「どん」に傍点]にも愛されている。色男の果報者というやつさ。……だが待てよ」と考え込んだ。「いかに何んでもこいつ[#「こいつ」に傍点]はいけない。桔梗様とは昨夜逢ったばかりだ。それだのにノコノコ今日行っては、あんまり俺がオッチョコチョイに見える。大人物らしい隅田のご前にも、裏を見られないものでもない。それにさ、幸福というものは、そう続け様に求めても、そう続け様に来るものではない。うかうか図に乗って逢いに行って、変な顔でもされた日には、とても助からないことになる。それにさ、幸福というものは、その幸福を抱きしめて、一人で味わうことによって、二倍の幸福を感ずるものだ。今日は行くのは止めにしよう。それより静かな所へ行き、楽しそうなことを考えよう」
 そこで小一郎は横へ反《そ》れた。
 来た所が品川の海岸で、この頃はすっかり日が暮れて、月が真《ま》ん円《まる》く空へかかった。もうほとんど人通りがない。宛《あて》なしにブラブラ歩いて行く。海では波も静からしい。青葉の匂いが馨《かんば》しい。
「幸福だな、幸福だ」
 呟きながら彷徨《さまよ》って行く。
 だがはたして小一郎の幸福は、幸福のままで済んだろうか? 鮫洲《さめす》の宿までかかった時――一挺の駕籠が江戸の方から、飛ぶように走ってやって来て、小一郎の傍を駈け抜けて、そうして夜の東海道を物怪《もののけ》のように走り去った時――そうしてその駕籠から何物か、地上へポンと落とされた時――そうしてそれを小一郎が、不思議に思って拾い上げた時、彼の幸福は覆えされてしまった。
 拾い上げたのは簪《かんざし》であった。脚に紙片が巻き付けてある。それに文字が書かれてある。恐らく小指でも食い切ったのだろう。そうしてその血で書いたのだろう、生々しく赤くこう書かれてあった。
「悪者に誘拐されております。どなたかお助けくださいまし[#「くださいまし」は底本では「くだいまし」]」そうして「桔梗」と記してあった。
「ム――」と呻いた小一郎は、ブルッとばかりに顫えたが、「駕籠待てエーッ」と思わず大音に呼んだ。しかしその駕籠はついに馳せ去り、もちろん姿は見えなかった。気勢で呼んだまでである。
「これはこうしてはいられない!」
 大小の鍔際を抱えるように、グッと握って胸へあてたが、片手で裾を端折ると、さながら疾風が渦巻くように、月夜に延びている街道を、走り下ったものである。

        二十八

 だがそれにしても桔梗様は、誰に誘拐《かどわか》されたのだろう? どこへ運ばれて行ったのだろう? 隅田のご前というような、あんな立派な人物によって、城廓めいた宏大な屋敷に、秘蔵されていた桔梗様だのに、どんな手段で誘拐されたのだろう?
 そうして一式小一郎は、はたして駕籠へ追い付いて、取り返すことが出来るだろうか?
 今、月夜の東海道は、人通りがなくて静かである。
 と、その時江戸の方から、一つの掛け声が聞こえて来た。「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ!」――だんだんそれが近付いて来る。と、間もなく月光に浮かび、畸型な群像が現われた。屈竟な六人の若者が、体をピッタリくっつけ[#「くっつけ」に傍点]合わせ、六本の腕を組み合わせ、巧みに作った「手組輿《てくみこし》」――その上へ一人の女を乗せ、空いている片手で調子を取り、舞うように走って来るのであった。七福神と称されて当時の旗本や大名などに、非常に恐れられた怪盗である。彼らの掛けるエッサの声が、水上であれ陸上であれ、一旦掠めて通った後には、犠牲者が出来たという事である。だが決して細民や、女子供など襲ったことはなく、衣裳だの宝物だの器具調度だの、そんな物を盗んだこともなく、黄金か武器か弾薬かを、唯一に盗んだということである。町方でも苦心して捕えようとしたが、捕えることが出来なかったそうだ。「ある素晴らしく高貴な方が、蔭ながら保護をしているからだ――」ある方面での噂であった。町方で探ったところによると、蛭子《えびす》三郎次、布袋《ほてい》の市若、福禄の六兵衛、毘沙門の紋太、寿老人の星右衛門、大黒の次郎、弁天の松代、これが彼らの名であって、弁天の松代が一党の頭《かしら》で、そうして松代は美しい、若い女だということであった。彼らが水上を駛《はし》る時は、宝船に則った軽舟を用い、また陸上を走る時は、彼ら独特の「手組輿」――そういうもので走ったそうである。
 その怪盗の七福神組が、今や走って来たのであった。
 手組輿とは変なものではあるが、要するに七人が七人ながら、心と体とを一つに食っ付け、一緒の行動を取ろうがために、彼らの案じた人間輿で、意味深いものでもなさそうである。しかし七人が心身を一にし、一致の行動をとるのであるから、自由の活動、敏速の歩行、これは出来るに相違ない。
 何んと云う速さだ! 走って来る!
 と、突然女の声がした。「おっと待ったり、お止めお止め!」「合点」と一団止まってしまった。同時にバラバラと手組輿が崩れ、ヒラリと飛び下りたは一人の女で、髪は結綿、鬼鹿子、黄八丈の振り袖を纒っている。頭の弁天松代である。手を延ばすと地面から、何かをヒョイと取り上げたが、月に翳《かざ》すと、「やっぱりそうだ!」
「え?」と六人が同音に声を掛けたが首を延ばした。手甲脚半腹掛け姿、軽快至極の扮装《みなり》である。一同お揃いの姿である。
「桔梗様の持ち物の銀簪が落ちていたのさ、これここにね。月が当たってピカピカと光っていたから目付かったのさ」
「それじゃア姐《あね》ごの思惑通り、こっちへ攫《さら》われて来たんだな」腕に蛭子《えびす》の刺青のある小頭の蛭子三郎次である。
「それじゃアどこかに血で書いた、小菊の紙が落ちていなけりゃアならねえ」こう云ったのは十七、八の前髪のある男である。すなわち布袋の市若である。
「ところがどこにもねえようだぜ」四方《あたり》をキョロキョロ見廻わしたのは、三十を一つ二つ越したらしい、顔の細長い男であったが、これ福禄の六兵衛であった。
「なにさなにさ風だって吹く、どこかへ飛ばされて行ったんだろう」こう云ったのは爺むさい小男、他ならぬ寿老人の星右衛門。
「さっき浅草で拾ったのは、これも桔梗様の持ち物? ※[#「王+毒」の「毋」に代えて「母」、第3水準1-88-16]瑁《たいまい》の櫛へ巻き付けた血書! そうしてここには銀簪! とするとこれからも要所々々へ、何か品物を落とすものと見える」こう思料深く云ったのは、四十がらみの大男、すなわち大黒の次郎である。
「何はともあれ走ろうぜ」こう云ったのは髯面の男、「突っ立っていたって仕方がねえ」こいつは毘沙門の紋太である。
「そうともそうともさあ行こう」弁天の松代は意気込んだ。「思案している時じゃアない。桔梗様には処女《おぼこむすめ》だ。一刻半時の手違いで、取り返しの付かない身ともなる。それこそ泣いても泣かれない。それにしてもさ、一体全体、どいつがこんなことをしたんだろう。七福神組を出し抜いて、途方もない真似をしゃアがる。と、云って怒ったってはじまらない。見付け出すより仕方がない! ……さあさあお組みよ、手組輿を!」

        二十九

 声に応じて六人の男は、颯と片手を差し出したが、肩と肩とをすぐ組んだ。ガッシリ手輿が築かれたのである。
「お乗んなせえまし。さあ姐ご!」
「あいよ、あいよ、ソレ乗るよ」
 裾を翻《ひら》めかすと燃え立つ蹴出しだ、火焔が立つかと思ったが、弁天松代ちゃアんと[#「ちゃアんと」に傍点]乗った。
「急いでおやりよ! さあおやり!」
「おっと合点」
「エッサ、エッサ」
 こんな場合にも愉快そうに、こんな場合にも仲がよく、月光を蹴散らし走り出した。

 ちょうどこの頃のことである。全然別の方角で、別の事件が起こっていた。
 ここは赤坂青山の一画、そこに一宇の大屋敷がある。大大名の下屋敷らしい。宏壮な規模、厳重な構え、巡らした土塀の屋根を越し、鬱々と木立が茂っている。
 御三卿の一方田安中納言家、そのお方《かた》の下屋敷である。
 その裏門が音なく開き、タラタラと一群の人数が出た。黒仕立てに黒頭巾、珍らしくもない密行姿、いずれも武士で十五、六人、ただしその中ただ一人だけ、黒小袖に黒頭巾、若い女が雑《まじ》っていた。みんなが尊敬をするところを見ると、これら一群の支配者らしい。身長高く痩せてはいるが、一種云われぬ品位がある。鬼気と云った方がいいかも知れない。あるいは妖気と云うべきかも知れない。縹渺《ひょうびょう》としたところがある。裾の辺が朦朧と暈《ぼ》け、靄でも踏んでいるのだろうか? と思わせるようなところがある。
 一挺の駕籠が舁ぎ出された。
「鉄拐ご夫人、お召しなさりませ」
 一人の武士が会釈した。
 すると頷いたが乗ろうともせず、駕籠の上へ片手を載せたまま、女方術師鉄拐夫人は、頸《うなじ》を反らせると空を見た。
「とうとう後手へ廻わされて、永生の蝶一匹を、一ツ橋家へ取られたが、今度はどうでも先手を打ち、あの桔梗という森の娘を、こっちへ奪って来なければならない。だが迂濶《うかつ》に立ち廻わると、今度も煮え湯を飲まされそうだよ。現に攫《さら》われてしまったんだからねえ」
 心配そうに呟いた。
「だが行先は解っている。それだけがこっちの付け目だろうさ。それもさ街道を辿って行けば、随分時間もかかるだろう。近道を行けば何んでもない。柵頼《さくらい》柵頼」と声をかけた。
「は」と云って進んだのは、今会釈をした武士であった。
「神奈川の宿から海の方へ、ずっと突き出た芹沢の郷、そこまで近道を走っておくれ」
「かしこまりましてござります」
「道の案内は妾がしよう、ああそうだよ。駕籠の中からね。さあそれでは戸をお開け」
 コトッと駕籠の戸が開いた隙から、スルリとはいった女方術師、
「それではおやり、足音を立てずに」
 駕籠を包んだ田安家の武士達、トットットッと、走り出したが、見当違いの玉川の方へ、駈け去ってやがて見えなくなった。
 月ばかりが後を照らしている。
 シ――ンと界隈静かである。
 いやいや界隈ばかりでなく、江戸内一帯静かであろう。
 敢て江戸内ばかりでなく、日本国中夜のことだ。少くも昼間よりは静かだろう。
 がしかしそれは表面だけのことで、裏面においては昼間よりも、さらに一層夜だけに、罪悪が行われているかもしれない。

 まさしく罪悪が行われていた。
 芹沢の郷の海岸に、不思議な建物が立っていた。
 その中で行われていたのである。
 その建物の珍奇なことは!

        三十

 海に臨んで造られた館《やかた》は、一口に云えば唐風であった。幾棟かに別れているらしい。鶴の翼を想わせるような、勾配の劇しい瓦屋根が、月光に薄白く光っている。しかし館は土塀に囲まれ、その上森のように鬱々《うつうつ》とした、庭木にこんもり取り巻かれているので、仔細に見ることは出来なかった。
 館の一方は海である。岸へ波が打ち上げている。白衣の修験者でも躍るように、穂頭が白々と光っている。館の三方は曠野である。木立や丘や沼や岩が、月光に濡れて静もっている。遙か離れて人家がある。みすぼらしい芹沢の里である。
 と、その時里の方から、一挺の駕籠が走って来た。二、三人の武士が守っている。館の方へ走って来る。
 その裏門まで来た時である、内と外とで二声三声、問答をする声がした。
 と、門が音なく開き、音なく駕籠が辷り込んだ。
 後に残ったは月ばかりである。蠢《うご》めくものの影さえない。館からも何んの物音もない。沼で寝とぼけた水鳥が、ひとしきり羽音をバタバタと立てたが、すぐにそれも静まってしまった。
 だが間もなく人影が、ポッツリ丘の上へ現われた。館の方を見ているらしい。と、丘を馳せ下った。
 月に曝《さら》された顔を見れば、他ならぬ一式小一郎であった。
「確かにここへはいった筈だ」
 土塀に沿って小一郎は、館の周囲を廻わり出した。
「うむここに裏門がある」
 そっと裏門を押してみたが、ゆるごう[#「ゆるごう」に傍点]とさえしなかった。で、またそろそろと歩き出した。やがて表門の前へ出た。押してみたがやっぱりゆるぎ[#「ゆるぎ」に傍点]さえしない[#「やっぱりゆるぎ[#「ゆるぎ」に傍点]さえしない」は底本では「やっぱりゆる[#「りゆる」に傍点]ぎさえしない」]。でまたそろそろと歩き出した。もうどこにも出入口はない。
「さてこれからどうしたものだ?」土塀に体をもたせかけ[#「もたせかけ」に傍点]、一式小一郎は考え込んだ。
「桔梗様をさらった駕籠の姿を、やっと神奈川の宿外《はずれ》で目付け、後を追っかけてここまでは来たが、こんな不思議な建物の中へ、引き込まれようとは思わなかった。いったいどういう建物なんだろう?」
 だが酷《ひど》く胸が苦しかった。非常に息切れがするのである。走りつづけて来たからである。
「休もう、万事はそれからだ」
 地面へ坐って胡座《あぐら》を組み、小一郎は心を押し静めた。
「いやこうしてはいられない」小一郎はにわかに立ち上がった。
「どんな危険が桔梗様の上に、ふりかかっていないものでもない。館の中へ忍び込み、何を置いても様子を見よう」
 土塀へ体を食《く》っ付けたが、武道で鍛えた身の軽さ、一丈以上の高さを飛び、ポンと向こう側へ飛び下りた。
 飛び下りたが音さえ立てなかった。胸をピッタリ地面へおっつけ、腹這いになって様子を見た。庭木が真っ暗に繁っている。ところどころに斑のように、葉漏れの月光が射している。ずっと奥深い正面に、建物が一つ立っている。
「まずあれ[#「あれ」に傍点]から探ってみよう」
 そこでソロリと立ち上がり、小一郎は忍びやかに歩き出した。
「役目は終えたというものさ」不意に人声が聞こえて来た。いかつい[#「いかつい」に傍点]男の声である。
「有難い役目ではなかったよ」これはゾンザイな声であった。
「美人誘拐というのだからの」
「それもさ」ともう一人の声がした。「口を開かせて秘密を云わせ、云わせた後では南部氏が、手に入れようというのだからの」
 三人の人影が現われた。
「あれほどの美人を手に入れる、ムカムカするの、うらやましくもある」
「詰所へ帰って酒でも飲もう」
 三人ながら武士であった。広大な庭の反対側に、別の建物が立っていたが、そこが彼らの詰所と見える。木立を縫って築山を越して、小一郎が窺っているとも知らず、庭下駄の音をゆるやか[#「ゆるやか」に傍点]に立て、三人そっちへ歩いて行く。
 こいつを聞いた一式小一郎が、怒りを心頭に発したのは、まさに当然というべきであろう。
「さては桔梗様を攫ったのは、南部集五郎の一味だったのか。憎い奴らだ、どうしてくれよう」
 平素《ふだん》は思料深い小一郎ではあったが、怒りでそれさえ失ってしまった。
「三人血祭りに叩っ切り、その上で家内へ切って入り、桔梗様をこっちへ取り返してやろう」
 身を平《ひら》めかすと背をかがめ、暗い木蔭を伝わったが、行手へ先廻わりをしたのである。
 築山があって築山の裾に、石楠花《しゃくなげ》の叢が繁っていた。無数に蕾を附けている。蔭へ身を隠した小一郎は、刀の鯉口をプッツリと、切り、ソロリと抜くと左手を上げ、タラリと下がった片袖の背後《うしろ》へ、右手の刀を隠したが、自然と姿勢が斜めになる、鐘巻流での居待《いま》ち懸《が》け、すなわち「罅這《こばい》」の構えである。
「来い!」と心中で叫んだが、「一刀で一人! 三太刀で三人! 切り落とすぞよ、アッとも云わせず!」
 ムッと気息をこめた時、ヒョッコリ一人現われた。
 それを見て取った小一郎は、斜めの姿勢を閃めかし、正面を切ると肘を延ばし、一歩踏み出すと横払い! 四辺が木立で暗かったので、ピカリとも光りはしなかったが、狙いは毫末も狂わない、耳の下からスッポリと、一刀に首を打ち落とした。
 と、切られたその侍であるが、そこだけは月が射していた、その中でちょっとの間立っていたが、やがて前仆れに転がった。
 もうこの頃には小一郎は、刀をグルリと背後へ廻わし、元の位置へ返ってひそまっていた。
「おいどうした?」
 と云う声がして、二人目の人影が現われた。
「つまずいたのか? 転んだのか? 生地《いくじ》がないなあ、起きろ起きろ」
 トンと立ち止まって同僚の死骸を――死骸とも知らず見下した時、全く同じだ、小一郎は、一歩踏み出すと、肘を延ばし、颯《さっ》と一刀横っ払った。これも同じだ、首を刎ねられた敵は、そのまま一瞬間立っていたが、すぐ前仆れにぶっ[#「ぶっ」に傍点]仆れた。
「あッ」と叫んだは三番目の武士で、「曲者でござる! 狼藉者でござる!」
 身を翻えして逃げようとした。
 猛然と飛び出した小一郎は、全身を月光へ浮かべたが、
「騒ぐな」
 と抑えた辛辣の呼吸! とたんに太刀を振り冠り、脳天からザックリと鼻柱まで、割り付けて軽く太刀を引いた。
 プーッと腥《なまぐさ》い血の匂い! その血の中に三つの死骸が、丸太ン棒のように転がっている。
 見下ろした一式小一郎は、ブルッと体を顫わせたが、血顫いでもあれば武者顫いでもあった。
「さあ三人、これで退治た、……桔梗様は? 桔梗様は?」
 血刀を下げて小一郎が、館の方へ走ろうとした時、詰所らしい建物の雨戸が開き、数人の武士が現われた。屋内から射す燈火で、ぼんやりと輪廓づけられている。
「騒々しいの、何事でござる」
 一人の武士が声をかけた。衆の先頭に身を乗り出し、縁側の上に立っている。まさしく南部集五郎であった。
 早くも見て取った小一郎は、新しく怒りを燃え立たせたが、「集五郎!」とばかり走り寄った。「拙者だ、拙者だ、一式小一郎だ! ……卑怯姦悪未練の武士め! よくも桔梗様を誘拐《かどわか》したな! 出せ出せ出せ! 桔梗様を出せ!」
 血に塗られた一竿子忠綱を、突き出すとヌッと迫《せ》り詰めた。
「おっ、いかにも汝《おのれ》は一式! やあ方々!」と集五郎は、仰天した声を張り上げたが、「一式小一郎、田安家の家臣、我々の秘密の道場へ、潜入致してございますぞ! 出合え出合え! 打って取れ!」
 幾棟か館が建っている。その幾棟かの館の戸が、声に答えて蹴放され、槍を持った武士、半弓を持った武士、捕り物道具を持った武士が、ちょうど雲でも湧くように、群れてムクムクと現われて、小一郎をおっ取り囲んだのは、実にその次の瞬間であった。
「しまった!」と小一郎は呻いたが、要害さえも解っていない、敵は目に余る大勢である、飛び道具さえ持っている、どうする事も出来なかった。
「ううむ、残念、軽率であったぞ」
 摺り足をして後退《あとじ》さる。
 築山を背負い、木立を楯に、膝折り敷いて下段の構え、小一郎は備えは備えたものの、どうにも勝ち目はなさそうである。
 月が明るいので敵勢が見える。自分の姿も見えるだろう。
 とパッチリ音がした。すなわち弦返りの音である。敵の一人が射たらしい、征矢《そや》が一本月光を縫い、唸りを為《な》して飛んで来た。
 際どく飛び違って小一郎は、刀を上げて払ったが、すぐに続いてもう一本!
 あぶない、あぶない、あぶない、あぶない! ……だがこの時リーンという、微妙な音色の聞こえたのは、いったいどうしたというのだろう?

        三十一

 ここは館の一室である。――
 一人の女が仆れている。
 髪がグッタリと崩れている。裾が淫りがわしく乱れている。死んでいるように動かないが、決して死んでいるのではない。幽かながらも呼吸をしている。どうやら気絶をしているのらしい。誰だろういったいこの女は? 他でもない桔梗様であった。
 と、桔梗様は眼を開けた。
「おや妾はどうしたんだろう?」呟くと衣裳を調えた。「まあ奇妙なお部屋だこと」
 で、グルリと見廻わして見た。眼についたのは大釜である。部屋の正面に据えてある。三人以上の大男が、両手を繋いで抱えなければ、抱えることは出来ないだろう――そんなにも大きな釜であった。そこから湯気が上っている。熱湯が湛えてあるらしい。釜の下には火炉がある。焔がカーッと燃えている。釜の形は筒形である。上の方で花のように開いている。そうして周囲には彫刻《ほりもの》がある。どうでも日本風の釜ではない。古代唐風の釜である。火炉もやっぱり唐風である。唐獅子の首だけを切って来て、押し据えたような形である。ワングリ開いた巨大な口! そこが火口になっている。燃えている焔の真紅の色が、まるで血汐でも含んでいるようだ。
 火炉と釜との背後《うしろ》にあたって、大きな棚が置いてある。一|個《つ》ではない、三|個《つ》である。で正面の部屋の壁は、棚ですっかり埋められている。棚には幾個か段がある。段には壺が載せてある。壺の数は無数である。そうして形が各自《めいめい》異う。角形のもの、円形のもの、菱形のもの、円錐形のもの、八角形のものもある。そうしてその色も異っている。ある壺は紫色を呈している。ある壺は青磁色を呈している。
 薬を盛った壺らしい。
 薬棚の前、釜の横、そこに彫像が立っていた。等身大の像である。まるで生身の人間のようだ。そんなにも活々とした像なのである。今にも物を云いそうである。しかし唇は結ばれている。唇の色の美しさ! 紅を塗ったように紅である。だが顔色は蒼白い。端麗な女の顔である。開いたらどんなに美しかろう? そう思われるような両眼が、軽く軟かく閉ざされている。棘のように高い鋭い鼻、それはむしろ兇相である。肩へかかった髪の黒さ! いや黒いのは髪ばかりではない。着ている衣裳も漆黒である。が形は日本風ではない。胸に刺繍が施してある。裾にも刺繍が施してある。袖は長く指先を蔽い、その形は筒形である。道教の奉仕者方術師、その人の着るべき道服なのであった。すなわちそこにある彫像は女方術師の彫像なのであった。片手に杖を持っている。何んとそれは黄金ではないか! 黄金の杖を持っているのである。
 美しい女の像ではあるが、全体に凄く幽鬼的で、ゾッとするようなところがある。
 彫像である! 動かない! がもしそれが動いたら、一層物凄く思われるだろう。
 部屋全体が煙っている。紫陽花《あじさい》色に暈《ぼ》かされている。とは云え煙りこめているのではない。それは光の加減からであった。
 穹窿形をした組天井、そこから龕が下っている。瓔珞《ようらく》を下げた龕である。さあその容積? 一抱えはあろうか! 他界的な紫陽花色の光線が、そこから射しているのであった。
 部屋の四方は板張りである。板張りは純白に塗られている。釜の据えてある左手に、錦の帳《とばり》が懸けられてある。部屋の外へ通う戸口だろう。深い襞を作っている。襞の窪《くぼ》みは蔭影《かげ》をつくり、襞の高みは輝いている。
 足が冷々と冷たかった。で桔梗様は床を見た。床は石畳になっていた。白と黒との碁盤形、それに畳まれているのである。
 シン、シン、シンと湯の煮える音! それが唯一の音であった。
 が、もう一つ音がした。ドーン、ドーンという音である。岸にぶつかる波の音だ。非常に遠々しく聞こえて来る。
 それからもう一つ音がした。ドン、ドン、ドン、ドンという音である。滝の落ちるような音である。
 その他には音はない。部屋内は気味悪く静かである。
 気丈で無邪気な桔梗様にも、この光景は恐ろしかったらしい。
「ここはいったいどこなんだろう」顫え声で呟いたものである。
 と、すぐに声がした。「錬金部屋でございます。女方術師|蝦蟇《がま》夫人、その本名は冷泉華子、その人の部屋でございます。……所は海岸、芹沢の郷、……江戸の中ではございません。……建てたお方は一ツ橋様! そうしてあなた様は囚人《とらわれびと》で、逃げようとなされても逃げられません。……そうして妾こそその華子なので。でも恐れるには及びません。無益に危害は加えません。……で、お答えなさりませ、これから妾のお訊きすることに!」
 彫像が物を云ったのである。

        三十二

 釜の横に立っていた女の彫像、それが物を云ったのである。いやいや彫像ではなかったのであった。蝦蟇夫人事華子なのであった。
 桔梗様が気絶から蘇甦《よみがえ》るのを、それまで待っていたのらしい。
 と、華子は一足出た。閉じていた眼が見開かれている。結んでいた口が綻びている。眼には針のような光がある。捲くれた唇から見える歯にも、刺すような冷たい光がある。
 と、リーンと音がした。手に持っていた黄金の杖を、石畳の床へ突いたのである。
「昆虫館主のお嬢様の、桔梗様へお訊ね致します。雌雄二匹の永生の蝶の、その一匹は手に入れました、さようでございます、この華子が! もう一匹の蝶のありか[#「ありか」に傍点]を、さあさあお教えなさりませ」
 またも一足踏み出して、またも黄金の杖を突いた。と、リーンと美しい音色が、部屋へ拡がったものである。
 事の意外に桔梗様が、ポッカリとその口を無邪気に開け、ポッカリとその眼を無邪気に見張り、しばらく物の云えなかったのは、当然なことと云わなければならない。
 もちろん返辞はしなかった。もちろん微動さえしなかった。呆然見詰めているばかりであった。
 この桔梗様のそういう態度は、見ようによっては図々しくも、また大胆不敵にも見える。
 それが華子を怒らせたらしい。俄然態度を変えたものである。
「オイ」と云ったが、その声は、優しい女の声ではなく、残忍な悪婆の声であった。「処女《おぼこ》に似わず図々しいの、フフンそうか、そう出たか、よろしいよろしいそう出るがいい。が、すぐにも後悔しよう、顫え上がるに相違ない、悲鳴を上げるに相違ない、そうして許しを乞うだろう、見たようなものだ、見たようなものだ! まず!」
 というと冷泉華子は、そろそろそろそろと黄金の杖を、斜めに上へ振り上げた。
「打ちはしないよ。何んの打とう、もっともっと凄いことをする。……ご覧!」
 と今度は嘲笑った。と、クルリと身を廻わし、釜の方へスルスルと寄ったかと思うと、振り上げていた杖を斜《はす》かい[#「かい」に傍点]に、グーッと釜の中へ突っ込んだ。瞬間湯気が渦巻いたが、すぐに杖を引き出した。尖端《せんたん》から滴たったは水銀色の滴《しずく》で石畳へ落ちたと見る間もなく、どうだろう石畳の一所へ、小穴が深く穿《うが》たれたではないか! 水銀色の滴には、世にも恐ろしい力強い、腐蝕作用があるのらしい。
 と、華子であるが腕を延ばすと、スーッと杖を突き出した。桔梗様の顔から一尺のこなた、そこまでやると止めたものである。
「穴が穿《あ》きましょう、綺麗な顔へ! 鉛を変えて黄金とする、道教での錬金術、それに用いる醂麝《りんじゃ》液、一滴つけたら肉も骨も、海鼠《なまこ》のように融けましょう、……さて付ける、どこがいい? 額にしようか頬にしようか? 眼につければ眼が潰れる、鼻へ付ければ鼻がもげる[#「もげる」に傍点]、耳へ付ければ耳髱《みみたぼ》が、木の葉のように落ちてしまう! さあさあさあ、それそれそれ!」
 そろり[#「そろり」に傍点]と杖を突き出した。距離を五寸に縮めたのである。
「お云い!」と華子はそこで云った。「お前は昆虫館館主の娘、蝶のありか[#「ありか」に傍点]を知っている筈だ! もう一匹、さあどこだ?」
 そろそろそろそろと杖を出す。その杖の先と桔梗様の顔と今にも今にも触れ合おうとする。杖の先が顫えている。と一滴その先から、ポタリと滴が床に落ちた。幽かながらもジーッという音! ポーッと立ったは糸のような煙り! 小穴がまたも開いたものである。
 怪奇な光景と云わざるを得ない。
 龕から射している他界的の光、その中に立っている女方術師、背後《うしろ》で燃えている唐獅子型の火炉、その上に滾《たぎ》っている巨大な釜、……そうしてキラキラキラキラと、黄金の杖が輝いている。そうしてその杖の尖端から、水銀色の滴が落ち、落ちると同時に煙りが立ち、碁盤形の石畳へ穴を穿ける。
 怪奇な光景と云わざるを得ない。――
 桔梗様には夢のようであった。魘《うな》されていると云った方がいい。何が何んだか解らなかった。解っているのは次のことであった。
 夕方叔父の屋敷から出て、隅田の流れを見ていると、突然背後から猿轡《さるぐつわ》を噛まされ、おりから走って来た駕籠に乗せられ、誘拐されたということである。誘拐されたと感付いたので、小指を食い切り血をしたたらせ、懐紙へそのことを認めて、持ち物へそれを巻き付けて、幾個《いくつ》か落としたということである。

        三十三

「それでは妾を誘拐《かどわか》したのは、雌雄二匹の永生の蝶々の、ありかを云わせようためだったのか。……でも妾はありかは知らない。雌蝶の方はお父様が、昆虫館から放してしまった」――で桔梗様は当惑した。と云って黙ってはいられなかった。いつまでも黙っていようものなら、杖の先で顔を突かれるだろう。突かれたら顔へ穴が穿《あ》こう。トロトロに顔が融かされよう。
 そこで桔梗様は云ったものである。
「存じませんでございます」それから正直に云いついだ。「雌雄二匹の蝶の中、雄蝶は盗まれてしまいました。随分探しましたが、目付けることは出来ませんでした。雌蝶の方はお父様が、手放してしまったのでございます。……雌雄二匹の永生の蝶々、只今どこにおりますや、存じませんでございます。……」それから嘆願するように、「叔父様が待っておりましょう、家へお帰しくださいまし。妾何んにも悪いことなど、致した覚えはございません。どうぞ虐《いじ》めないでくださいまし。本当に知らないのでございます。何んにも知らないのでございます。決して嘘など申しません。どこに蝶々がおりますやら、本当に知らないのでございます」
 偽りのない態度である。偽りのない云い方である。そうして沈着《おちつ》いた様子である。
 しかしそういう一切のものは、反対に見れば反対にも見られる。すなわち図太く見られるのである。
 女方術師冷泉華子はどうやら反対に見たらしい。
「嘘をお云いよ!」と一喝した。とたんに引いたは黄金の杖で、斜めに上げると釜の中へ、再びボーンと突っ込んだ。引き上げると滴る水銀色の滴! と、その滴をしたたらせたまま、ズーッとその先を突きつけた。「お云い!」と云ったが憎さげである。「一匹逃がしたのは本当らしい。それを手に入れたのがこの妾だ! で、それは信じよう。盗まれたなどとは信じられない。そう甲斐|撫《な》でに盗まれるような、そんな永生の蝶でもなく、それにまた蝶を盗まれるような、ヤクザな館主でもない筈だ! お聞き!」と云うと歯を剥いた。惨酷に刺すように笑ったのである。「お前の父親昆虫館館主は、無双の学者で恐ろしい人物、唯一の証拠は最近まで、昆虫館のあり場所を、知らせなかった一事でも知れる。何んの貴重な永生の蝶を、他人に盗まれることがあろう。親子ひそかに巧らんで、どこかへ隠したに相違ない。お云い!」
 と云うとスルスルと、黄金の杖を突き付けた。と滴がポッツリと落ち、ボーッと白煙が立ち上ったが、小穴がまたも出来たものである。
 桔梗様は黙っている。ただ杖の先を見詰めている。云いたいにも云うことがないのである。
 端然として動かない。
 波の音が聞こえて来る。滝の落ちる音が聞こえて来る。依然部屋内は静かである。
 と、どうしたのか冷泉華子は、ガラリと態度を一変した。まず突き付けた杖を引き、片膝を突くと首を延ばし、愛想笑いを眼に湛え、その眼で桔梗様の顔を覗き、猫撫で声で云い出したのである。
「立派なお心掛けでございますよ。そうでなければなりますまい。それでこそ昆虫館館主の令嬢、感心を致してございますよ。……云わぬと決心したからには、そこまで徹底しない事には、本当の女丈夫とは申されますまい。嚇して聞こうと致したは、妾の間違いでございました。もうもうすることはございません。……が、桔梗様、そうは云っても、妾も女方術師の、冷泉華子でございますよ。これと一旦決心したことは、きっとやり通してお目にかけます。たとえば……」というと冷泉華子は、いよいよ声を優しくしたが、「たとえばあなたを隅田の屋敷から、ここへお連れして来ましたのも、そうしてあなたが、三浦三崎の、木精《こだま》の森から下られて、江戸へおいでになりました事を、探って知ったのも妾でございます。もっとも直接それをしたは、妾の部下で一ツ橋の家臣の、南部さんというお侍さんと、その一味ではございますが、命じたのは妾でございます。……いやそればかりではございません。まだ色々のことを知っております。昆虫館が閉ざされたこと、郷民がみんな立ち去ったこと、みんな探って知っておりました。知ろうと思えばどんなことでも、きっと妾は知ってみせます。で……」と云うと冷泉華子は、穏かではあるが気味の悪い、叮嚀《ていねい》ではあるが威嚇的の、矛盾した微笑を浮かべたが、「で、あなたがどう隠し、どう口をお噤みなさろうと、最後には一匹の蝶のありか[#「ありか」に傍点]を、きっと云わせてお目にかけます。つまりあなたと致しましては、隠すだけが損なのでございます。いつまでも強情にお隠しになると、好んでしたくはございませんが、今度こそ本当に醂麝《りんじゃ》液で、あなたのお美しい顔や手を、焼け爛《ただ》らせてお目にかけます。オヤオヤ」と華子は苦笑《にがわら》いをした。「またも妾の厭な癖の、嚇しの手が出たようでございますね。いえ嚇しません嚇しません、嚇して口を開くような、そんな臆病な桔梗様ではなかった筈でございますから。……嚇すどころではございません、お願いするのでございます。どうぞお明かしくださいませ、どうぞお知らせくださいまし、永生の蝶の一匹のありか[#「ありか」に傍点]は、いったいどこなのでございましょう」
 どんなに云われても桔梗様には、返事をすることが出来なかった。永生の蝶の居場所を、真実知っていないからである。
 首をうなだれた[#「うなだれた」に傍点]桔梗様は、ただ繰り返すばかりであった。
「妾嘘は申しません。どこに蝶がおりますやら、存じませんでございます。どうぞ虐めないでくださいまし。どうぞ叔父様のお屋敷へ、お帰しなすってくださいまし」
 両袖を顔へあてたのは、涙を見せまいとしたのだろう。やがて泣き声が洩れて来た。肩が細かく波を打つ、耳髱へかかった後毛《おくれげ》が、次第に顫えを増して来る。

        三十四

 しばらく見ていた冷泉華子は、舌打ちをすると突っ立った。取り上げたのは黄金の杖で、引きそばめると後退《あとしざ》りし、煮えている釜の横手まで、一気にスーッと引っ返した。
「なるほど!」
 と云ったが凄じい声だ!
「なるほど、それほどの強情なら、殺されるまでも明かすまい。……女よ! お死に! 殺してあげよう! 嬲《なぶ》り殺しだ、まずこうだ!」
 ジーンと不気味の音がした。杖を釜の中へ入れたのである。湯気が渦巻き立つ。それを貫いて斜《はす》かいに、黄金色の線が引かれている。すなわち黄金の杖である。そろそろとそれが引き上げられた。と杖の先が現われた。弧を描いてその先が、部屋の空間へ差し出された時、ポッツリと一滴水銀色の滴が、石畳の上へしたたった。ボーッと上がったのは煙りである。石畳へ出来たのは小穴である。幽かな顫えを見せながら、杖の先が延びて行く。それの止まった正面に、両袖で顔を蔽い隠した、桔梗様の姿がうずく[#「うずく」に傍点]まっている[#「姿がうずく[#「うずく」に傍点]まっている」は底本では「姿がうず[#「がうず」に傍点]くまっている」]。それを黄金の杖で繋ぎ、向かい合って延々《のびのび》と立っているのが、女方術師の華子である。
 黒の道教の道服を纒い、真っ直ぐに立っている華子の姿は、太くて円い墨の柱が、一本立っているようであった。その頂上に白い物がある。仮面のように冷静な顔である。まくれ上がった唇から、上の前歯が露出している。鈍い銀色の真珠貝、そんなように見える二つの眼が、一点をじっと見詰めている。
「さあ桔梗様、両袖を、顔からお取りなさいまし」
 命ずるような声である、催眠性を持った声である。反抗することは出来ないだろう――そんなように思われる声であった。
「はい」
 と云ったのは桔梗様である。
 と、桔梗様は袖を取った。涙で洗われていよいよ益※[#二の字点、1-2-22]、可憐にも見え美しくも見える、桔梗様の顔が現われた。
「綺麗なお顔でございますこと」
 黄金の杖を差し向けながら、華子は冷やかに云ったものである。
「左の眼から焼きましょうか。それとも右から焼きましょうか。ドカリと二つの真っ暗な穴が、顔へ出来るでございましょう。口があって鼻があって、そうして眼だけが二つながらない、どんなに変った面白い顔が出来上がることでございましょう」
 杖の先を次第に近づけた。桔梗様は見詰めている。放心したような眼つきである。眼を放すことが出来なかった。黄金の杖に磁気があって、それが引きつけているように、眼を放すことが出来なかった。だが心ではハッキリと、こんなことを考えていた。
「妾は決して殺されはしまい。妾は怪我《けが》だってしないだろう。何も悪いことをしないのだから。冷泉華子という人は、冗談をしているのだろう。妾を嬲っているのだろう」
 だがもし桔梗様が眼を上げて、華子の顔を一眼でも見たら、そういう考えは消えてしまったろう。
 華子の顔は無表情であった。まるで事務的の顔であった。どこにも感情は見られない。惨酷な精神の持ち主が、惨酷の行いをやる場合、多くは無表情の顔になる。その惨酷な無表情な顔が、今の華子の顔であった。
 杖の先がだんだん延びて行く。その先から今にも滴ろうとして、水銀色の醂麝液が、顫えを帯びて光っている。と、杖の先が、一息に、桔梗様の左の眼へ延びて来た。
 この時外から聞こえて来たのが、「一式小一郎、田安家の家臣、我々の秘密の道場へ潜入致してございますぞ! 出合え!」という声であった。
「あッ、それでは一式様が!」
 叫んで立ったのは桔梗様である。
 と、ひときわ甲《かん》高く、リーンという音がした。すなわち華子が黄金の杖を、石畳の上へ突いたのである。

 一本二本目の矢を払い、難を遁がれた小一郎は、築山を背に木立を前に、例によって太刀を下段に構え、この時ホッと息吐いたが、敵勢百人はあるだろうか、四方八方取り囲まれ、遁がれ出る隙間はなさそうであった。
 と、左右から二人の敵が月光を刎ねて飛び込んで来た。
「うむ」と呻いたが小一郎は、左の一人へ太刀をつけ、瞬間足を踏み交《ちが》えると、右手の一人へ太刀をつけた。
 左手の一人は肩を割られ、右手の敵は真っ向を割られ、等しく弓のように反り返ったが、月でも捕えようとするように、両手を高く上げたかと思うと、そのまま延びて仆れてしまった。
 スッと後へ引いた小一郎を追って、突き出されたのは一筋の槍だ。
 いうところの逆モーション。かわすところを反対に、前へ飛び出した小一郎は、これもあくまで逆モーション、刀を揮って払いもせず、千段巻を握ろうともせず、飛び込みざまの双手突き、ウンとばかりに突っ込んだ。
 悲鳴をあげたのは槍の持ち主で、槍を前方へ突き出したまま、しばらく堪えて立っていたが、やがてポロリと槍を落とすと、背後《うしろ》ざまに地に仆れた。
 もうこの頃には小一郎は、束《そく》に背後へ飛び返り、ふたたび太刀を下段に付け、「来やアがれーッ!」と構えたが「あッ」とその次の瞬間には、驚きの声を迸らせた。
 月夜に楕円形の抛物線《ほうぶつせん》を描き、蛇のようなものが翻然と、小一郎へ飛びかかって来たからである。
「残念! やられた! 鎖鎌だ!」
 叫んだ小一郎の声と共に、ガラガラという音がした。同時にピカッと何物か、閃めき飛んだものがある。

        三十五

 争闘の後の静けさよ! ただ声ばかりが聞こえて来る。
「一尺になった! 二尺になった!」
 それから少し間を置いて、
「三尺になるのも間もあるまい!」
 滝の落ちる音が聞こえて来る。これまでの音とは少し違う。ドンドンドン……ドンドンドン……これがこれまでの音であった。しかるに今はザーッ、ザーッと、あたかも夕立ちの降るような、そんな音に変わっている。
 女方術師蝦蟇夫人の、その本名は冷泉華子、その華子の錬金道場の、その道場を囲繞している、樹木の鬱々と繁った所は、宏大もない庭である。
 先刻まで、一式小一郎が、南部集五郎一味の者と、切り合っていたところの庭である。
 その庭の隅の一所に、一個の建物が立っていた。木口で作った建物ではない。岩で作った建物である。その形は正方形、いや丈《たけ》の方がうん[#「うん」に傍点]と高い。長方形と云うべきであろう。十畳敷きぐらいの大きさである。その一方に扉がある。どうやら鉄で出来ているらしい。外から閂《かんぬき》が下ろされてある。ずっと高い一所に、四角の窓が開いている。その窓から巨大な棒が、一本ヌッと掛け渡してある。その棒の外れに聳えているのが、雑木に蔽われた崖である。その距離は精々一間であろう。崖からは滝が落ちている。いやその滝は先刻方まで、崖を伝って滝壺へ、素晴らしい勢で落ちていたのであるが、今では少し違う。と云うのは今では滝の水は、巨大な棒――樋なのであるが、それを伝って岩組の建物――すなわち華子の垢離《こり》部屋なのであるが、その中へ落ち込んでいるのであった。
 崖の一角へ足場を定め、窓から垢離部屋を覗き込みながら、叫びを上げている武士がある。他ならぬ南部集五郎であった。
「三尺になるのも間もあるまい! 四尺になるのも間もあるまい。五尺六尺となるだろう。部屋が滝の水で一杯になろう、と窒息だ! すなわち溺死!」さも愉快そうに叫んでいる。
 垢離部屋の中に武士がいる。囚われた一式小一郎である。
 大水が頭上から落ちて来る。部屋の扉は閉ざされている。逃げ出すことは絶対に出来ない。水の疏口《はけぐち》も閉ざされたのだろう。部屋の中の水は増すばかりである。
 窓から外光が射している。青々とした月光である。で岩組の垢離部屋の中が、幽かながらも朦朧と見える。
「鎖鎌で刀を捲き落とされた。そこを大勢に組み付かれた。二、三人投げたがおっつかなかった[#「おっつかなかった」に傍点]。手を取られ足を取られ、担ぎ上げられたと思ったら、ドンとこんな部屋へ投げ込まれた。……水が落ちて来る! 水が湛《た》まる! 天井は高い! 窓も高い! 扉が開かない! 逃げることは出来ない! だがこうしてはいられない! まごまごしていると溺死する! どんなことをしても逃げなければならない! どんなことをしても出なければならない!」
 で、一式小一郎は、扉の方へ走って行った。水が股までつい[#「つい」に傍点]ている。足を取られてヨロヨロする。扉を押したが揺るごうともしない。
「どこかにないか! どこかに出口は!」
 で、一方の岩壁へ走った。叩いたが岩壁は動かない。ツルツルしていて足がかりもない。
 もう一方の岩壁へ走って行った。やはり叩いたが動かない。もう一方の岩壁へ走って行った。やっぱり駄目だ。打っても叩いても、岩壁は微動さえしなかった。
 どっちの壁を叩いても、微塵《みじん》動こうとはしないのである。そうしてどの壁も垂直であり、手もかからなければ足もかからないで、岩壁をよじ上り、窓まで行くことも出来なかった。
 ザ――ッ、ザ――ッと水が落ちる。見る見るその水が量を増す。腰までつい[#「つい」に傍点]た。腹までつい[#「つい」に傍点]た。ととうとう胸までつい[#「つい」に傍点]た。
 間もなく首までつく[#「つく」に傍点]だろう、すぐに顎までつく[#「つく」に傍点]だろう。そうして口までつく[#「つく」に傍点]だろう。鼻までつい[#「つい」に傍点]たら最後である。
 岩壁へもたれた小一郎は、「無念! 駄目だ! 俺は死ぬ! あッあッあッ、溺死する! ……桔梗様アーッ」と呼ばわった。
「そうだ桔梗様はどうしているだろう? 恐ろしい恐ろしいその館、ここに囚われている限りは、ロクな目に逢ってはおられまい! 命のほども危ぶまれる! 助けなければならない、助けなければならない! 桔梗様アーッ」と呼ばわった。
 考えがグルグル渦を巻く。その間も滝は落ちて来る。ズンズンズンズン水が増す。
「出なければならない、この部屋から! ……助けなければならない、桔梗様を! ……だが出られない! 助けることも出来ない! ……桔梗様! 桔梗様!」
 ザ――ッ、ザ――ッと落ちる水! 次第にまさる水の量!
 一式小一郎はこの部屋で、溺死しなければならないだろう。
 だが本当に桔梗様は、この頃何をしていたろう?

        三十六

 ここは華子の錬金部屋である。床へペッタリくず[#「くず」に傍点]折れて、身悶えしているのは桔梗様である。袖で顔を蔽うている。肩で烈しく呼吸をしている。歔欷《すすりない》ている証拠である。
 その前に墨の柱のように、黒の道服を身に纒い、立っているのは華子であった。黄金の杖を差し出している。杖の先からは醂麝液が、水銀色をして落ちている。落ちるに従って石畳の上に、小穴がポッツリポッツリと穿《あ》く。そうして煙りがポ――ッと立つ。
 唐獅子型の火炉の中では、火が赤々と燃えている。火炉には釜がかかっている。巨大な唐風の釜である。釜から立ち上っているものは、乳色をした湯気である。部屋全体が煙っている。紫陽花《あじさい》色に煙っている。天井から下がっている瓔珞龕《ようらくがん》、そこから射している灯の光それが煙らしているのである。
 少しも変わらない錬金部屋の光景!
 いやいや一つだけ変わっている。出入口に垂れてあった錦の帳《とばり》が、今は高々と掲げられ、開いた戸口から遠々しく、声が聞こえて来ることであった。
「一尺になった! 二尺になった!」それから少し間を置いて、「三尺になるのも間もあるまい!」――南部集五郎の呼び声である。
 と、華子は云い出した。
「あなたの恋人の一式様は、岩組で作った垢離部屋の中に、閉じ込められてしまいました。あなたの身の上を案じられ、助けに来られた一式様が! ……お聞きなさりませ滝の音を! ザ――ッ、ザ――ッ、ザッ、ザ――ッと聞こえて来るではございませんか! 落ちているのでございますよ、その岩組の垢離部屋の中へ! ……一尺になった、二尺になった、三尺になるのも間もあるまい! お解りになりましょうか、この意味が? 水が湛まったということです。……湛まり湛まって滝の水が、垢離部屋一杯になった時、溺死することでございましょう、あなたの恋人の一式小一郎様は! で、悪いことは申しません、永世の蝶の一匹の在家《ありか》を、一口お打ち明けなさいませ、そうしたら滝の水を止めましょう。そうして一式小一郎様と、あなたとをお助けいたしましょう」
 で、じっと[#「じっと」に傍点]桔梗様を見た。
 桔梗様は返辞をしなかった。云いたいにも云うことがないからであった。永生の蝶の一匹の在家《ありか》を事実知っていないからであった。
 恐ろしい拷問と云わなければならない。
 助けにやって来た恋人を、一方において水責めに、断末魔の時期を刻々に告げ、さらに一方では恐ろしい、腐蝕性ある醂麝液を、突き付けて威嚇するのである。永生の蝶の一匹の在家を、もし桔梗様が知っていたら、一も二もなく明かせたであろう。そうでなくとも桔梗様に、少しでも不純の心があったら、出鱈目の在家を告げることによって、一時の危難から遁がれたかも知れない。桔梗様にはそれは出来なかった。と云うよりむしろ桔梗様には、一時遁がれの口実等を、考える事さえ出来なかったのである。そんなにも心が純なのであった。
「一式様とご一緒に死ぬ! それこそ妾の本望だ。ちっとも妾は悲しくない。それにしても一式小一郎様は、どうして妾の居場所を、突き止めて助けに来られたのだろう? ……誘拐されたと感付いたので、小指を噛み切り、血をしたたらせ、そのことを懐紙へ認めて、櫛や簪に巻き付けて、幾個《いくつ》か往来へ落としたが、ひょっとかすると[#「ひょっとかすると」に傍点]その一つを、一式様がお拾いになり、それからそれと手蔓を手繰《たぐ》り、ここをお突き止めなされたのかも知れない。もしそうなら妾と一式様は、よくよくご縁があるというものだ。そういうお方と同じ場所で、同じ一味の悪者の手で、同時に殺されてこの世を去る。恋冥加! 怨みはない!」これが桔梗様の心持ちであった。
 で少しも取り乱さなかった。とは云えやっぱり悲しくもあれば、また恐ろしくも思われた。で、泣きながら身顫いをし、顔から袖を放さなかった。
 その間も南部集五郎の声は、戸口を通して聞こえて来た。
「三尺になるのも間もあるまい! 四尺になるのも間もあるまい! 五尺六尺となるだろう! 部屋が滝の水で一杯になろう。と窒息だ! すなわち溺死!」
 ザ――ッ、ザ――ッと滝の音が、伴奏のように聞こえて来る。
 と、またもや集五郎の声が、「腰まで浸《つ》いた! 腹まで浸いた! おおとうとう胸まで浸いた!」
 ザ――ッ、ザ――ッと滝の音!
 と、また集五郎の声がした。
「喉まで浸《つ》いたぞ! 頤《あご》まで浸いたぞ!」
 ザ――ッ、ザ――ッと滝の音!
 つと[#「つと」に傍点]華子は踏み出した。「まだ云わぬか! 汝《おのれ》強情! 云え云え云え、蝶の在家《ありか》を! まだ助かる、さあ桔梗!」
 ヌ――ッと杖を突き出した。キラキラ光る黄金の杖! 水銀色の醂麝液が、その尖端で顫えている。
 だがとうとう聞こえ来た。「口まで浸《つ》いたぞ! 鼻まで浸いたぞ! 水が全身を乗り越したぞ! 姿が見えない! 水ばかりだ! 溺れた溺れた! 一式小一郎は!」
「汝《おのれ》も共々!」と冷泉華子は、一気に杖を突き出した。「くたばれくたばれ! 殺してやろう!」
 が、桔梗様はそれより早く、グ――ッと横仆しに転がった。気絶か、それとも本当の死か? 仆れた桔梗様は動かない。
 恋人同志、桔梗様と小一郎は同時にこの世を去ったらしい。
 だからこの時この館を目掛け、芹沢の方から七福神組が、手組輿に弁天松代を載せ、掠めた調子でエッサエッサと、掛け声を掛けながら馳せつけて来たが、手遅れになったと云わなければならない。
 だが乱闘の始まったのは、それから間もなくのことであった。

        三十七

 裏門まで馳せつけた七福神組は、バラバラとそこで手を解いた。手組輿がこわれた。
 ヒラリと下り立ったのは弁天松代で、ズ――ッと館を見廻わしたが、
「さあさあいよいよ乗り込みだ。唐の建物に則った、珍妙を極めた家のつくり、棟数も随分多いようだ。人数も大分こもっているらしい。七人の仲間がバラバラに、別れて探しにかかった日には、打って取られる恐れがある。成るたけ七人かたまって、片っ端から一棟ずつ、虱潰《しらみつぶ》しに潰すとしよう。何んの何んの潰すんじゃアない。桔梗様を見付けて取り返すのさ。どうせ切り合いになるだろう。刀の目釘を湿すがいい。ええと合言葉は『船と輿』だ。そうは云っても乱闘となったら、チリヂリバラバラに別れるかも知れない。そうなったら仕方がない、各自《めいめい》思うさま働くがいい。そうして危険にぶつかったら[#「ぶつかったら」に傍点]、合図の手笛を吹くことにしよう。一声永く引っ張ってな。ええとそれから誰でもいい、誰か桔梗様を目付けたら、手笛を二声吹くとしよう。……さあさあ乗り込め、まず妾から」女ながらも一党の頭《かしら》、隙のない手配《てくば》りを云い渡したが、やがて土塀へ手をかけると、翩翻《へんぽん》と向こうへ飛び越した。
 後の六人も負けてはいない、これも土塀を飛び越した。
 宏大な庭が拡がっている。樹木や築山が聳えている。泉水も小川もあるらしい。それに介在して建物が、到る所に立っている。月光が、それを照らしている。ある建物からは人声がする。ある建物は沈黙である。
 地に肚這った七福神組は、しばらく様子をうかがったが、
「オイ」と松代がまず云った。「手近の建物から調べよう」
「合点」と答えたのは六人である。もちろん掠めた声である。
 眼の前に一宇の建物がある。厳重に雨戸で鎧《よろ》われている。そこは怪盗七福神組だ。そこまで素早く走ったが、神妙を極めた潜行ぶりで、葉擦れの音も立てなければ、足音一つ立てなかった。
 と、松代だがピッタリと、雨戸へ耳を押しあてた。
「どうやらここは図書庫らしい。人の気勢が感じられない。紙魚《しみ》くさい匂いばかりが匂って来る」すなわち六感で感じたのだろう。「さあさあ、向こうの建物へ行こう」
 そこで七人また潜行し、もう一つの建物までやって来た。と、ピッタリ弁天松代は、雨戸へ耳をおっ[#「おっ」に傍点]付けたが、「ここには四五人|人《ひと》がいる。だが一人も女はいない。何んとなく刀気が感じられる。これは武器庫に相違ないよ。随分沢山|蔵《しま》ってあるらしい。これがいつもの私達だったら、決して決して見逃しては置かない。踏ん込んで行って攫《さら》うのだが、今夜はそうしてはいられない。攫うものが他にあるのだからね。……さあさあそれでは向こうへ行こう」
 行手にあたって林がある。と云っても楓の植え込みである。林のように繁っている。月光を遮って闇である。その右手に建物がある。
「まず植え込みへ隠れよう」こう云ったのは弁天松代。
「合点」と六人は頷いた。
 で七人が潜行し、素早く植え込みへ身を隠した時、ザ――ッ、ザ――ッとさっきから、響を立てていた滝の音が近増《ちかま》さったのか、高く聞こえ、何んとなく凄く感じられたが、その滝の鳴る方角から、肩に月光を浴びながら、一人の武士が小走って来た。右手の建物へ行くのらしい。
 それと見て取った弁天松代は「オイ」とまたもや囁いた。「侍が一人やって来る。館の住人の一人だろう。二、三人同時に飛び出して行き、有無を云わせず引っ捕え、ここへしょび[#「しょび」に傍点]いて来るがいい。桔梗様の居場所を聞いてやろう。が、いいかい間違っても、音を上げさせちゃアいけないぜ」
「おっとよい来た」と答えたのは、小頭の蛭子《えびす》三郎次である。
「それじゃア俺《おい》らも手を貸そう」こう云ったのは大黒の次郎。
「面白いの、俺も行く」こう云ったのは布袋《ほてい》の市若で、前髪立ちの美男子だ。

        三十八

 それとも感付かぬその侍は、植え込みの前を行き過ぎた。
 とたんに飛び出した布袋の市若は、敏捷さながら猟犬のように、背後からパッと飛び付いた。同時に左腕を鈎に曲げ、侍の首へ捲き付けたのは、声を上げさせないためなのだろう。
「うまいぞ市若!」と大黒の次郎は、つづいて颯と飛び出すと、小手を揮って眼潰しだ、侍の眼の辺をひっ叩《ぱた》いた。
 で、侍はひとたまりもなく、捕虜にされたかと思ったら、結果はむしろ反対であった。布袋の市若がドッサリと、まず地上に投げ付けられ、つづいて大黒が蹴仆された。非常に武道の達者らしい。だがこの侍は何者であろう?
 他でもない南部集五郎で、一刀流では達人である。七福神組が怪盗でもまた行動が敏捷でも、なんのそれらにムザムザと、捕えられるようなヤクザではない。ともすると一式小一郎と、互角に勝負をするほどの、腕に覚えのある人物であった。
 垢離部屋に滝の水が一杯に充ち、一式小一郎が完全に、その水に溺れて見えなくなったのを、今や充分確かめて、それを冷泉華子の耳へ、入れてやろうと崖から下り、ここまで小走って来たところであった。
「これ、誰だ!」と集五郎は、一喝声を浴びせかけた。それからグルリと見廻わして見た。不思議なことには誰もいない。たしかに二人の人間を、投げ出し蹴仆した筈であるが、どうしたものか姿が見えない。
 これは見えないのが当然であった。七福神の連中と来ては、動作の素早さ身の軽さ、驚くべきものがあるのであった。で、布袋と大黒だが、投げられ蹴仆された一瞬に弾んだ毬のように刎ね上がり、刎ね上がった時には横へ反《そ》れ、闇を領して繁っている、楓の植え込みの真ん中へ、飛び込んで姿を眩ませたのである。
「可笑《おか》しいなあ」と集五郎は、刀の柄へ手を掛けながら、油断なく前後を睨め廻わしたが、自然と気配が感じられたのだろう。楓の植え込みへ眼をつけた。じっと見込んだが愕然とした。異風をした六、七人の人間が、地上に腹這い鎌首を立て、こちらを狙っている姿が、闇を一層闇にして、黒々と浮かんで見えたからである。
 そこで集五郎は大音を上げた。「やあ方々お出合いなされ! 我らの秘密の道場へ、またも何者か忍び入ってござる! しかも今回は一人ではない、六、七人はおりましょう! いずれも異風の怪しい連中! 討ち取りなされ! 討ち取りなされ!」刀を引き抜くと「出ろ汝《おのれ》ら!」
 ガラガラガラ! と戸を開ける音や、バタバタバタ! と走り出る音が、四方八方で聞こえたが、人影がムラムラと集まって来た。すなわち幾個《いくつ》かの建物に、閉じこもっていた武士どもが、南部集五郎の声に応じ、得物得物をひっさげて、楓の植え込みを包囲するように、一度に集まって来たのである。
「やあ方々!」と南部集五郎は云った。「曲者はそこだ、植え込みの中だ! 押し包んで一気に乱刃に、討ち取りなされ、討ち取りなされ!」
「心得てござる!」
 と十五、六人は、抜いた白刃を「突き」に構え、植え込みの中へ突き行った。
「おっどうした!」「これは不思議!」「いないではないか!」
「一人もいない!」
 まさしく楓の植え込みの中には、人の子一人いなかった。
 駈け引き自在の七福神組達、形勢非なりと見て取るや例の神速の行動で、七人七方へバラバラと、潜行してしまったに相違ない。
 正しくそれに相違なかった。
 次の瞬間にあちこち[#「あちこち」に傍点]から、喚声と悲鳴とが聞こえて来た。
「ここに曲者! ……一人目付けた!」
 築山の方からの声である。
「何を!」と凄い突っ刎ねる声、「斃《くた》ばりやアがれーッ」ともう一声!
 つづいて「ワッ」という恐ろしい悲鳴!
 七福神組の一人が、一ツ橋家の侍を、どうやら一刀に切ったらしい。
 と反対の竹藪の方から、「ここにも一人! 異風の曲者!」
「うるせえヤイ!」と答える声!
 すぐに続いて「ワッ」という悲鳴!
 七福神組の一人に、またもや一ツ橋家の侍が、どうやら討って取られたらしい。
 と、遙かに距離をへだてた、泉水のある方角から、「曲者でござる! 曲者でござる!」
 すぐにチャリ――ンと太刀の音! つづいてドブ――ンと水の音!
「態《ざま》ア見やがれーッ」と言う声がした。
 一ツ橋家の武士が一人、七福神組の一人に、切られて泉水へ蹴込まれたらしい。

        三十九

 太刀音、悲鳴、罵る声、四方八方から聞こえて来る。
 と、石橋のある方角から、数人の声が聞こえて来た。「ここにも曲者」「しかも女!」「異風してござる!」「しめたしめた!」
「さあ取りこめたぞ!」「手捕りにしろ!」
「馬鹿め!」と裂帛《れっぱく》の女の声! どうやら頭《かしら》の弁天松代が、一ツ橋家の武士どもに、目付かって包囲されたらしい。
 だがその次の瞬間であった、そっちの方角から一声永く、ヒュ――ッと笛の音が聞こえて来た。と、忽ち宏大の庭の、木立を揺るがせ、灌木を揺るがせ、枝葉に光っている月光を散らし、三方四方から六個の人影が、まるで小鬼でも走るように、眼にも止まらぬ素早さで、笛の聞こえた方角へ、一度に走って行くと見えたがチャリ――ン、チャリ――ンと太刀の音! 「ワッ」という、悲鳴! 仆れる音! 「船だよ!」「輿だよ!」の合言葉! 物凄じく鳴り渡ったが、間もなく女の声がした。
「もう大丈夫! さあお隠れ! そうしてお探し、桔梗様を!」
 とにわかにひっそり[#「ひっそり」に傍点]となり、またもや月光を刎ね飛ばし、木を揺るがせ、木立を揺るがせ、黒々とした人の影が、七個《ななつ》散るのが見て取れた。
 すなわち頭の弁天松代が、合図の手笛を吹き鳴らし、散っていた六人の仲間を集め、包囲した一ツ橋家の武士どもを、力を合わせて切り散らし、そうして再び六人の仲間に、自由の行動をとらすべく、分散させたものと思われる。
 で、にわかにひっそり[#「ひっそり」に傍点]となった。が、わずかの間であった。色々の声が聞こえて来た。
「ム――」……手負いの呻き声である。「どっちへ行った? どっちへ行った?」……一ツ橋家の武士達が、七福神組の連中を、さがし廻わっている声である。
 いろいろの音が聞こえて来た。
「サラサラサラ! サラサラサラ!」灌木や木立を押し分けて、走り廻わっている音である。七福神組の連中もいよう、一ツ橋家の武士達もいよう。ザ――ッ、ザ――ッ! 滝の音だ! 一式小一郎を葬って、死骸の上へ尚一層、落ち下っている滝の音だ。チャリ――ン! 太刀音! 衝突したのだ! 七福神組の連中と、一ツ橋家の武士達とが。
 キラッと閃めく物がある。揮った刀や槍の穂に、月の光がぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]のだ。
 一所に石楠花《しゃくなげ》の叢があった。その叢の根にうずくまり、様子を窺っている人影があった。
 ソロリと立ち上がった姿を見れば、手に小脇差しを引っ下げている。ベットリと血に濡れている。小褄をキリキリと取り上げている。その下から見えるのは、緋縮緬の長襦袢で、その裾から見えるのは白いふっくり[#「ふっくり」に傍点]とした綺麗な脛だ。髪は結綿、鬼鹿子、着ているのは黄八丈の振り袖である。が、両袖とも捲くり上げている。頭の弁天松代である。衣裳も手足も紅斑々、切られたのではない返り血だ。敵を幾人か切り斃し、その血を浴びたものらしい。
「さあてこれからどうしたものだ。うむ」と云うと合点をした。「さっき隠れた楓の植え込み、右手に立っていた一つの建物。妾にゃア何んとなく気になるよ。ひとつあそこ[#「あそこ」に傍点]を探って見よう」
 これも六感で感じたのだろう、呟くと同時に弁天松代は、クルリと体の向きを変え、暗い木間を伝い伝い、その方角へ引っ返した。
 四方へバラバラに散ったと見え、一ツ橋家の侍達は、その辺に一人もいなかった。「有難いねえ」と弁天松代は、サ――ッと建物へ馳せつけた。円錐形の外廓を持ち、鶴の翼を想わせるような、勾配の烈しい屋根を持った、全く独立した建物であった。その外廓は朱塗りである。屋根の瓦は緑である。月が瓦を照らしている。木洩れの月光が外廓の、諸所へ銀の斑を置いている。全体がきわめて神秘的である。グルリと欄干が取り廻わしてある。その欄干も朱塗りである。「入口はないか? 入口はないか?」松代は欄干を飛び越した。そこは廻廊である。建物について廻廊を、松代はグルリと一周した。入口だろう口があり、錦の帳《とばり》が掲げられ、掲げられた隙から紫陽花《あじさい》色の、燈火の光が射していた。「しめた!」と呟いた弁天松代は、一躍すると駈け込んだが、
「おっ、これは!」と立ち縮《すく》んだ。
 巨大な火炉が燃えている。その上に大釜が懸かっている。朦朦《もうもう》と湯気が立っている。プ――ンと異臭が鼻を刺劇《つ》く。その傍に黒々と、道服を纒った女がいる。左手に持ったは黄金の杖で、そうして右手に抱えたは、死んでいるのか気絶しているのか、両眼を瞑《つむ》ってグッタリと、延びている乙女の体である。女のくせに何んと大力、道服の女――冷泉華子は、抱えた乙女を――桔梗様を、グ――ッと上へ差し上げた。きっと釜の中を睨んだが、「融《と》かしてやろうぞ! 融かしてやろうぞ!」まさに桔梗様を投げ込もうとした。
「待て!」と叫んだ弁天松代は、あたかも雌豹、飛びかかった。
 と、飛び退いた冷泉華子は、思わず桔梗様を床へ置き、黄金の杖を突き出したが、「誰だ誰だ汝《うぬ》は誰だ!」
「世上に名高い七福神組、その頭領の弁天松代だ! 汝《うぬ》は誰だ! 汝は誰だ!」
「女方術師蝦蟇夫人さ! ……弁天とやら、何んしに来た!」スルスルと黄金の杖を出した。
 脇差しを構えた弁天松代、「云って聞かそう、取り返しにだ! 昆虫館館主のご令嬢を」
「桔梗をか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」と冷酷に、「ここにいるわい! 生死は知らぬよ!」
「貰うぞ!」と叫んだが弁天松代は脇差しを揮うと飛び込んだ。
 気勢に圧せられた冷泉華子はタジタジと後へ退ったが付け目、片手を延ばすこれも大力、松代は桔梗様を引っ抱えた。
「お礼は後日! ……思い知れよ!」
 捨て科白《ぜりふ》を残して弁天松代が、部屋から駈け出ようとした時である。
「女賊め、ならぬ!」
 と声を掛け、戸口から現われた武士がある。ドギツク白刃を下げている。
「邪魔だよ、退《ど》きな!」と弁天松代。
「行手は封じた! 遁がさぬぞよ!」
「汝《おのれ》は誰だ?」
「南部集五郎だ」
「一ツ橋家の侍だな」
「桔梗様に焦心《こが》れている者だ!」
「さては汝が……」
「誘拐《かどわか》したあア――」
「観念!」
 と投げ付けた声と共に、松代は片手で突きをくれた。
 と、チャリ――ンと太刀の音! すなわち南部集五郎が苦もなく払って退けたのである。「蟷螂《とうろう》に斧だ! くたばれ女郎!」
 その時ジ――ンと音がした。冷泉華子が黄金の杖を、素早く釜の中に入れたのである! 引き出すとスルスルと突き出した。水銀色の滴が垂れ、例によって床から煙りが立ち、そうして床へ穴が穿《あ》いた。
「熔《と》ろかせてやろう。醂麝液で!」左手からジリジリと詰め寄せた。
 上段に振り冠った集五郎、右手からシタシタと廻わり込んだ。「女郎! 助けぬ! きっと殺す!」
 後へ退った弁天の松代は左右の敵を睨んだが、俄然床の上へ膝を突いた。抱いていた桔梗様を放したかと思うと、人差し指を鈎に曲げ、口に含むと合図の笛だ、長く二声吹き立てた。
 と、聞こえる足の音! むらむらと込み入った人数がある。六人組の怪盗である。
「や、姐ご!」
「お前達!」
「おお桔梗様が?」
「目付かったよ」
「しめたしめた、引き上げろ!」
「手輿をお組みよ!」
「おっと合点!」
 六人は片手をガッシリと組んだ。飛び上がった弁天松代は、桔梗様を軽々と抱き上げたが、「表門から行こう、さあ行け行け!」桔梗様を手輿へ舁《か》きのせた。
「それ!」と叫ぶと怪盗六人、片手の抜身を水平に突き出し、シタシタシタシタとそよがせ[#「そよがせ」に傍点]たが、敵を寄せ付けぬ算段である。
 一切の行動が風のようだ。弁天松代を先頭に、サ――ッと戸口から走り去った。
 冷泉華子と南部集五郎は、あまりの意外、あまりの神速、そのやり口に胆を奪われ、しばらく茫然と立っていたが、気が付くとまず集五郎は後追っかけて走り出た。
「やあ方々!」と大音声、「七人の曲者一団となり、表門の方へ走ってござる! 追っかけめされ追っかけめされ!」
 つづいて華子が走り出た。「方々!」とこれは金切り声、「秘密の道場を剖《あば》いた彼ら、遁がしてはならぬ、討って取りなされ! 一手は裏門へお廻わりなされ! 先廻わりをなされ! 先廻わりを!」
 二手に別れた一ツ橋勢、表門と裏門とへ向かったが、既にこの時弁天松代は、表の大門の閂へ、ピッタリ両手を掛けていた。
 ガラガラド――ン! 門が開いた。
「さあさあ早く」
「エッサエッサ!」
 依然松代を先頭に、七福神組の怪盗一団、魔のように門を駈けぬけた。
 後追っかけるは一ツ橋勢! だが怪盗の神速には、到底及びもつきそうもない。
 とはいえこの時行手にあたり、喊声《かんせい》の起こったのはどうしたのだろう? 裏門をひらいて走り出た、一ツ橋家の一手の勢《ぜい》が、七福神組の先に廻わり、今やおっ[#「おっ」に傍点]取り囲んだのである。

        四十

 ところがちょうどこの頃のこと、大森の方角から海岸づたいに、一団の人影が走って来た。一挺の駕籠を取り巻いた、十五、六人の武士達で、いずれも[#「いずれも」は底本では「いずも」]密行姿である。女方術師鉄拐夫人、その本名は北王子妙子、それを駕籠へ乗せた田安家の武士で、桔梗様を救いの人数であった。
 すなわち田安家の裏門から、この夜こっそり忍び出て、方角違いの玉川の方へ走って行った一団なのであるが、どこをどうして廻わって来たものか、この時姿を現わしたのである。
 海岸を一散に走って行く。と、妙子が声をかけた。
「お急ぎお急ぎ、急いでおくれ! まごまごしていると間に合わない! ……妾には解る、妾には解る! 昆虫館主の娘の桔梗が、今危難に墜落《おちい》っている! 生死のほども気づかわれる! 一刻を争う場合だよ! お急ぎお急ぎ、お急ぎお急ぎ!」
 駕籠の一団はひた[#「ひた」に傍点]走る。
 砂山がある。砂山を越す。流木がある。流木を飛ぶ。とまた砂山が出来ている。それを越さなければならなかった。
「可笑《おか》しいねえ。どうしたんだろう? 何んとも云えない不安の気が、海の方から襲って来るよ」
 北王子妙子の声がした。
「走るのをお止め! 駕籠をお止め!」
 ――止まった駕籠からスルスルと、北王子妙子は現われたが、浪打ち際まで歩いて行き、ズーッと海上を眺めやった。
 が、海上には何んにもない。月光に暈《ぼ》かされて茫漾と、煙りこめているばかりである。
 だが北王子妙子には、どうやら何かが見えるらしい。いつまでも不安そうに眺めている。
 と、にわかに振り返ったが、
「柵頼《さくらい》柵頼!」と声を掛けた。
「は」寄って来た武士がある。柵頼格之進という武士である。慇懃に小腰をかがめたが、「は、何事でございますか?」
「ご覧、海上を、船が来るだろう?」
 柵頼格之進は海上を見たが、船の姿などは見えなかった。
「いえ、見えませんでございます」
「そうかい」と云ったが妙子の声は、依然不安を帯びていた。「お前達のような凡眼には、時刻《とき》は深夜、間隔《あわい》は遠し、なるほどねえ、見えないかも知れない、が、確かに恐ろしい船が、一隻帆走って来るのだよ」
「どういう意味でございますかな? 恐ろしい船と申しますのは?」
「船は何んでもないのだよ。恐ろしいのは乗っている方さ」
「いかなるお方でございますかな?」
「秘密を握っている方さ」
「何んの秘密でございましょう?」どうにも柵頼格之進には、妙子の云うことが解らないらしい。
「妾の秘密を握っている方さ! そうして妾の競争相手の、冷泉華子さんの秘密もね」
「そのお方のご身分は?」
「偉い方だよ、力を持った方さ」
「ご姓名は?」
「うるさいねえ!」
「は」と格之進は引っ込んだ。
「こんな場合にあのお方に、出現されてはたまらない[#「たまらない」に傍点]! 何も彼もみんな駄目になる」譫言《うわごと》のように呟いたが、「ナーニそうなりゃア怨《うら》み恋《こい》なしだ! 妾ばかりが困るのではない、華子さんだって困るのだ。諦めなければならないかもしれない」
 尚も海上を眺めやった。
 だが、海上には何んにもない。風の凪《な》いだ海は、穏かで、事実人魚というようなものが、ほんとに海の中に住んでいるなら、波に浮かび出て美しい声で、歌でもうたいそうにさえ思われる。
 クルリと方角《むき》を変えた北王子妙子は、駕籠の傍まで引っ返したが、
「案じていたところで仕方がない。やるところまでやるとしよう」駕籠へはいると声をかけた。
「おやり! 急いで! 一生懸命!」
 海岸を伝って一散に、駕籠を囲んで田安家の武士達は、芹沢の方へ走ったが、駕籠の中では北王子妙子が、不安そうに呟いていた。
「船! ……あのお方! ……手も足も出ない!」
 だが本当にそんな[#「そんな」に傍点]船が、そんな恐ろしい人物を乗せて、海上を渡って来るのだろうか?
 妙子の透視《みとおし》には狂いがなかった。
 遙か離れた海上を、一隻の船が帆走っていた。

        四十一

 船首《へさき》には老婦人が立っている。
 悠然と行手を眺めている。
 と、老婦人が声をかけた。
「これこれ鯱丸《しゃちまる》、どうしたものだ、眠ってはいけない、起きたり起きたり」
「阿呆らしい」とすぐに返辞が来た。「何んの眠ってなんかおりますものか、こんなに大きくパッチリと、眼をあいているじゃアありませんか」こう云ったのは少年である。船尾《とも》の方に坐っている。青い頭の小法師である。年はようやく十四、五らしい。可愛い腰衣《こしごろも》をつけている。帆をあやつっているのである。
 その帆であるが変わった型で、三角型のものもあれば、菱形をなしたものもある。一本の丁字形の帆柱に、鳥が羽根でも張ったように、風を孕んで懸かっている。だがその地質はひどい[#「ひどい」に傍点]物で、継接をした襤褸なのである。
 船の形も珍しかった。と云うよりそれは筏《いかだ》なのであった。あの木曽川とか富土川とか、山間の河を上下するために、山の人達は丸太を組んで、堅固の筏を作るものであるが、その船もそういう筏なのであった。
 それにしても、速力の速いことは!
 筏船は駸々《しんしん》と走って来る。歌のような帆鳴りの音がする。泡沫《しぶき》がパッパッと船首《へさき》から立つ。船尾《とも》から一筋|水脈《みお》が引かれ、月に照らされて縞のように見える。
「嘘をお云いよ、嘘をお云いよ、何んの鯱丸がパッチリコと、眼なんか開いているものか。居眠りをしていたに相違ない」老婦人はこんなことを云い出した。「その証拠には三角の帆が、ダラリと下がっているではないか」
「おや」と鯱丸は吃驚《びっく》りした。「向こうを向いている癖に、こっちのことが解ると見える。背後《うしろ》に眼でもあるのかしら。小気味の悪い婆さんだよ」
 優れて美しい容貌にも似ず、鯱丸は口が悪いのである。
 ところが老婦人の性質は、寛大で剽軽《ひょうきん》で磊落《らいらく》だと見え、一向それを咎めようともしない。
「背後《うしろ》にもあれば前にもある、足にもあれば手にもある、胸にもあれば背中にもある、妾は体中眼なんだよ。何んのそればかりではない! 頭脳《あたま》! 頭脳! ね、頭脳、頭脳そのものが眼なんだよ。だからさ、妾にはどんなものでも見える、……だからさ、今度山を下り、江戸へ入り込んだというものさ」老婦人はこんなことを云い出した。
「いよいよ迷惑な婆さんだよ」小法師の鯱丸は毒舌である。「江戸入りしたのはいいけれど、筏船を作って帆を上げて、隅田川を上へ溯《さかのぼ》って、大きな屋敷の水門から、屋敷へ入り込もうとしたかと思うと、にわかに後へ引っ返し『鯱丸よ、行手変えだ! 芹沢の郷! 芹沢の郷! やれやれやれ、そっちへやれ』などとむやみに急《せ》き立てて、こんな方へ走らせて来たんだからなあ。その途方もない沢山の眼で何を見たのか知らないが、梶取《かじと》りの俺《おい》らは疲労《つか》れてしまう」どうやら鯱丸は不平らしい。「一体全体何んのために、そんな所へ行くのだろう」
「それはね」と云ったが老婦人の声は、この時いくらか真面目になった。「人を助けに行くのだよ」
「人を助けに? 怪しいものさ」
「綺麗な綺麗な娘をね」
「ふうん、何んだか解るものか」
「そうして叱りに行くのだよ」
「だんだん解らなくなって来た」
「妾の家来でありながら、その妾を裏切って、よくないことをやっている、二人を叱りに行くのだよ。……鯱丸!」と俄然いかつくなった。
「船をお廻わし、陸の方へ! 街道の方へお近付け!」
「はい」と云ったが神妙であった。鯱丸はグ――ッと綱を引いた。ハタハタハタ、ハタハタハタと、方向が変えられた幾個の帆は風を孕んで靡いたが、筏船は素早く方向を変え、街道筋の方へ辷り出した。
 と、間もなく街道が――東海道の陸の影が、遙かにぼんやりと見えて来た。
「鯱丸」とまたも命令的に、「さあさあ松火《たいまつ》へ火をおつけ!」
 カチッ! と燧《ひうち》石の音がした。すぐにボ――ッと火が立った。鯱丸が松火を点したのである。
「およこし」と云ったが老婦人は、松火を取ると頭上へかざし、二、三度グルグルと渦を描いた。
 と、どうだろう、それに答えて、陸から松火の桃色の火が、一点ポッツリと見えたではないか。
 何者かそこにいると見える。
 何者どころではない行列なのであった。
 頭髪《かみ》こそ削《そ》らずに切り下げとして、肩へ掛けてはいたけれど、無地の鼠の衣裳の上へ、腰衣《こしごろも》を纒い袈裟をかけた、尼の一団が足並みを揃え、その数およそ三、四十人、トットと走っているのであった。
 有髪の尼僧の一団なのである。
 筏船に乗っている老婦人も、全く同じ姿であった。鼠の無地の衣裳を着、黒の腰衣を纒っていた。そうして袈裟を掛けていた。その袈裟ばかりは金襴である。松火の火に照り返り、まばゆいまでに美しい。美しいといえばその顔も、随分美しいものであった。男のような高い鼻、凛々しく引き締まった大型の口、延び延びと引かれた長い眉、それより何より特色的なのは「神秘」という言葉を如実に示した、大きくて、窪んで、光が強くて、そうしてともすれば残忍にさえ見え、そう見えるために美しい弓形をした眼であった。血色もよく皺もない。が老女には相違なかった。肩を蔽うている切り下げ髪が、白金のように白くもあれば、眉毛さえも白金のように白いのだから。

        四十二

 火を吹き消した有髪の老尼は「鯱丸」とまたも命令的に云った。
「これでよろしい、方向《むき》をお変え! 芹沢を目指して一直線! 乗っ切れ、乗っ切れ、さあ乗っ切れ!」
 方向を変えた筏船は、帆鳴りの音を響かせて、しんしんしんしん[#「しんしんしんしん」に傍点]と走り出した。
 有髪の老尼は何者であろう?
 街道を走って行く尼の行列は、どういう身分の者だろう?
 もちろん今は解らない。
 とはいえ両者は味方らしい。
 そうして両者の行先は、芹沢の郷に相違ない。
 とにかく水陸呼応して、奇怪な尼僧の一団が、月の明るい更けた夜を、走り走って行くのである。

 ここは芹沢の郷である。七福神組の怪盗七人が、一ツ橋勢に遮られた。
 ドッとあがったは喊声である。一ツ橋家の武士どもが、同音にあげた喊声である。と、同時にキラキラと、月にきらめく[#「きらめく」に傍点]もの[#「月にきらめく[#「きらめく」に傍点]もの」は底本では「月にきらめ[#「にきらめ」に傍点]くもの」]があった。彼らの構えた太刀である。
 グ――ッと一列に押し列《なら》び、来い! 通さぬ! と構えたのである。
「先廻わりをされたよ、残念だねえ! しかしナーニびくつく[#「びくつく」に傍点]ものか!」こう云ったのは松代である。
「さあさあみんないつもの手だ! 卍《まんじ》廻わりに押し廻わり、突き破って行こう、切り抜けて行こう!」
「合点」と云ったのは六人の部下で、で、グルグルと廻わり出した。
 卍廻わりとは何んだろう? 彼ら独特の戦術なのであった。手組輿《てくみごし》の上へ桔梗様を乗せ、群像のように塊《かた》まった。七福神組六人が、塊まったままで廻わるのであった。まず左へグルグルと廻わる。それから右へグルグルと廻わる。それからまたも左へ廻わり、それからまたも右へ廻わる。これを無限に繰り返すのである。そうしてそのように廻わりながら、先へ先へと進むのである。廻わる間も進む間も、右手の太刀を前方へ突き出し、それを上下へシタシタと戦《そよ》がせ、敵を寄せ付けまいとするのである。
 ただし頭《かしら》の松代ばかりは、一団から離れて先頭に立ち、「左へお廻わり! 右へお廻わり!」こんなように指揮するのである。
 今やグルグル廻わり出した。
 何という変わった見物《みもの》だろう?
 月が上から射している。で、白刃がキラキラする。輿の上にいる桔梗様は、蒼白い顔を月光に曝らし、廻わされるままに廻わっている。ダラリと下がった両袖が、廻わるに連れて翻《ひるが》えり、風を孕んでハタハタと鳴る。蝙蝠《こうもり》が翼を振るようである。
 背後《うしろ》には館が立っている。黒々と立っている態《さま》が、異国の魔塔を想わせる。
 右手に煙っているものは、月光に暈《ぼか》された海である。
 何んだろう、あれは、点々と、左手に見える赤いものは? 芹沢の里の燈火《ともしび》である。
 依然行手には一ツ橋勢が、抜き身を揃えて並んでいる。
 それらのものに囲まれた、深夜の広い野の上で、群像が廻わっているのである。
 そうして先へ進むのである。
 変わった見物《みもの》と云わざるを得ない。
 と、松代が声を上げた。
「さあさあ右へお廻わりよ!」
 群像は右へ廻わり出した。
「今度は左だ! 廻わったり!」
 群像は左へ廻わり出した。
 白刃が光る、足が揃う、群像がグルグル渦を巻く。
「お進みお進み、さあお進み!」弁天松代の指揮である。
 廻わりながら群像は進み出した。
 凛々《りり》しい松代の姿である。裾をキリキリと取り上げている。両袖を肩で結んでいる。深紅の蹴出《けだ》しから脛《はぎ》が洩れ、脛には血汐が着いている。たくし上げられた袖から抽《ぬ》きでて、二の腕まで腕が現われている。それにも血汐が着いている。手に握ったは白刃である。中段に構えて押し進む。
 廻わる群像! 進む群像! 指揮をして走って行く弁天松代!
 タッ、タッ、タッ、タッと押し進む。
 一ツ橋家の武士たちが、胆を潰したのは当然と云えよう。全くこんな戦術は、かつて見たことも聞いたこともなかった。
 切り込んで行こうにも行きようがない。取り抑えようにも抑えようがない。迂濶《うかつ》に切り込んで行ったが最後、六本の太刀の幾本かが、同時に落ち下るに相違ない。また抑えようとしたところで、群像の行動は素ばしっこい[#「ばしっこい」に傍点]、容易に抑えられるものではない。
 多勢を頼んで遮ってはみたが、進みもならず一様に、後へ後へと引くばかりであった。
 七福神組は進んで行く。一ツ橋勢は引き退く。
 結果はどうなることだろう?
 そうは云っても一ツ橋家の武士にも、全然勇士がないことはなかった。果然、一人、月光を刎ね、猛然と群像へ切り込んだ。だがその結果は無残であった。それと見て取った七福神組は、一斉に刀を振り上げたが、廻わりながらの薙《な》ぎの手だ、サ――ッとばかりに振り下ろした。すぐに起こったは悲鳴である。つづいて起こったは仆れる音! 一本の刀に脳天を割られ、一本の刀に肩を切られ、もう一本の脇差しに肋《あばら》を刎ねられた一ツ橋家の武士が、悲鳴を上げて仆れたのである。
「こんなものだよ!」と愉快そうな声! 弁天松代が云ったのである。「乗り越せ乗り越せ! さあお進み!」ポンと死骸を飛び越した。
「合点!」と同音! 六人の部下だ。これも死骸を飛び越して、タッ、タッ、タッ、タッと押し進んだ。
 群像は進んで行くのである。依然グルグル廻わるのである。
 蒼白いは桔梗様の顔である。月に向かって曝らされている。翻えるは桔梗様の袖である。蝙蝠《こうもり》が翼を振るようだ。
 手組輿の上の桔梗様は廻わされるままに廻わっている。生死のほどは解らない。されるままになっているのである。

        四十三

 ひた[#「ひた」に傍点]走るひた[#「ひた」に傍点]走る七福神組! 芹沢の里の方へひた[#「ひた」に傍点]走る! こうして首尾よく七福神組は、桔梗様を救うことが出来るだろうか。
 いやいやそれは出来そうもなかった。
 味方の一人を目前において、討って取られた一ツ橋家の武士達は、かえって怒りを発したと見える、四、五人一度に声を掛け合わせ、同時に猛然と飛びかかって来た。
 が、その結果は駄目であった。
 七福神組の六人が、一斉に上げた六本の太刀が、廻わりながらの薙ぎの手で、サ――ッと一度に下ろされた時、数声の悲鳴がすぐ起こり、つづいて仆れる音がした。
 四、五の死骸が野に転がり、その死骸から血が吹き出し、飛沫のように散った先が、煙りのように茫と霞み、月の光を蔽うたので、月が血煙りに暈《ぼか》されて、一瞬間赤く色を変え、まるで巨大な酸漿《ほおずき》が、空にかかったかと思われたが、それを肩にした弁天松代が、
「こんなものだよ、驚いたか! 七福神組の卍廻わり、そう甲斐|撫《な》でには破れない! 相手になろうよ、幾度でもかかれ! ……乗り越せ乗り越せ! さあ進め!」死骸を向こうへ飛び越した。
「オッと合点! さあ行こうぞ!」
 群像は、形を崩さずに、松代の後に従って、死骸を向こうへ飛び越した。
 左へ廻わる。右へ廻わる。そうして先へ進んで行く。
 次第次第に一ツ橋勢は、後へ後へと押されて行く。
 だがこの時背後にあたって、ドッと喊声の起こったのは、いったいどうしたというのだろう?
 表門から走り出た、五、六十人の一ツ橋家の勢《ぜい》が、ようやくこの時追い付いたのである。
 ここに至って七福神組は、腹背敵を受けてしまった。
 と、数声弦鳴りの音が、背後にあたって聞こえたが、数本の征矢《そや》が飛んで来た。
 瞬間に上がった六本の太刀が、キラキラキラキラと閃めいたのは、矢を切り払ったためだろう。
 だが第二の弦鳴りの音! だが第三の弦鳴りの音! ひっきり[#「ひっきり」に傍点]なしに響くに連れ、唸りをなして飛んで来る征矢も、次第に繁くなって来た。
 背後から逼って来た一ツ橋家の勢が、打ち物業を故意《わざ》と避け、飛び道具で打ち取ろうとするのであった。
 それと察した弁天松代は、甲《かん》高く声を響かせた。
「さあさあみんな寝るがいい。一時息を抜こう息を抜こう!」
 声に応じて六人の部下達は、忽然姿を消してしまった。
 と云ってもちろん煙りのように、消えてなくなってしまったのではない。蒼茫たる月光を刎ね飛ばし、卍廻わりに廻わっていた、七福神組の群像が、一刹の間にバラバラに分かれ、地面へピッタリひれ伏したのである。
 桔梗様が地上へ寝かされている。傍に松代が体を伏せている。二人を中心に大円を描き、松代の部下の六人が、地面へ体を食っ付けている。で姿が解らないのである。
 が、一ツ橋家の武士達は、どうやらそうはとらなかったらしい。射掛けた征矢を一斉に喰らい、斃れたものと解したらしい。
 で、腹背の二手の勢《ぜい》は、ドッと喊声を響かせたが、思慮浅くムラムラと、七福神組へ走り寄った。
 待ち設けていたことである、弁天松代は飛び上がった。
「いい潮合いだ。やっつけろ!」
「それ!」
 と声を掛け合わせ、猛然刎ね上った六人の部下、「馬鹿め!」「くたばれ!」「思い知れ!」
 喚きを上げて飛び込んだ。
 で、太刀音だ! 仆れる音! 悲鳴に続く呻き声!
 と、バラバラと人の影が、四方八方へ別れたが、切り立てられた一ツ橋勢が、逃げて走って行く影であった。
 気勢に乗った七福神組は、追い討ちに後を追っかけたが、心配したのは松代である。
「長追いするな! 引き上げろ! 集まれ集まれ、一所へ!」
 しかし足音や喊声や、太刀打ちの音に遮られ、松代の声は通らなかった。
 六人の部下達は、追っかけ追っかけ、馳せ違い行き違い切り仆す。
 いよいよ周章《あわ》てた一ツ橋勢、館へ逃げ込もうとしたのだろう、分かれていたのが一つに集まり、表門の方へ走り出した。

        四十四

 と、その一団が馳せ付けた時、表門から一手の勢《ぜい》が、丸く塊《かた》まって現われた。
 冷泉華子を真ん中にし、南部集五郎を先頭に立てた、一ツ橋家の新手の勢で、その数およそ三十人もあろうか、逃げ込もうとする味方の勢を、押し返すようにして現われたのである。
「やあ方々何事でござる!」こう叫んだのは集五郎である。
「相手は鼠賊、たかが七、八人、討ち取るに手間隙は入らぬ筈、逃げ込むなどとは沙汰の限り、引っ返しなされ、引っ返しなされ!」
 これに勇気づいた一ツ橋勢は、グルリ振り返ると喊声を上げ大波のように引っ返した。
「引っ包んで討って取れ!」
「逃がすな逃がすな縛《から》め取れ!」
 グルグルグルグルと包囲した。
 取り込められた七福神組は、いかに行動が敏捷でも、敵の人数は十倍にも余る、多勢に無勢、敵《かな》うべくもない。
「しまった!」
「やられた!」
「どうしたものだ!」
「とにかく一所へ集まろう!」
「頭《かしら》はどうした」
「桔梗様は」
 互いに呼び合い注意し合ったが、駈け隔てられ追い詰められ、一所になることも出来なければ、頭の松代や桔梗様を、探し出すことも出来なかった。
「もうこうなっては仕方がない! 死ねや死ねや、切り死にをしろ!」
 そこで六人六方へ分かれ、飛び込んでは叩っ切り、引っ返しては叩っ切る。
 全く混戦となったのである。
 月光は益※[#二の字点、1-2-22]冴えて来た。四方《あたり》が明るく暈けて来た。
 その中で乱闘が行われている。
 あっちに一団、こっちに一団、切り結んでいる影が見える。
 サ――ッと一組が走り出す。サ――ッと一組が追っかける。
 組と組とがぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]合う。
 ヒュ――ッと笛の音がする。
 そっちへ走《は》せ付ける人の影!
 と、すぐに太刀の音!
 混戦! 混戦! 混戦! 混戦!

        四十五

 次第に時間が経って行く。
 時間が経つに従って、一ツ橋勢が益※[#二の字点、1-2-22]気負い、七福神組がそれに反し、気萎《きな》えするのは当然と云えよう。
 こうして間もなく七福神組は、一人残らず討ち取られるだろう。
 しかしその時意外の事件が、忽然として勃発した。
 まず凄じい鬨《とき》の声が起こり、つづいて太刀音が消魂《けたたま》しく起こり、一ツ橋勢の一角が、見る見る中に崩されたのである。
 田安家の武士達が到着し、一ツ橋勢の横手から、この時切り込んで来たのである。
 こうして一層の混戦が、展開されることになった。
 と、その混戦の場を抜き、一挺の駕籠が飛んで来た。
 衆に守られた冷泉華子、それの前から数間の手前、そこまで来た時駕籠が止まり、スルスルと現われたものがある。
「華子さん!」と云ったが妙子であった。「貰いに来ましたよ、桔梗様を!」
「妙子さんか!」
 と冷泉華子は、驚いたように進み出たが、「勝手に連れて行くがいいよ。妾は知らぬよ。その生死は!」
「ついでに貰うものがある」妙子は一足踏み出したが、「永生の蝶さ! こっちへおくれ!」
「駄目だよ!」と華子は突っ刎ねた。「お気の毒だが上げられないよ」
「取って見せるよ。腕ずくでね」
「面白いねえ。取れたらお取り」
「どれ」
 と云うと北王子妙子は、腰の辺《あた》りを探ったが、ヒュ――ッと何物かを空へ投げた。
 小さな小さな二つの車輪、そいつを棒で繋《つな》いだようなもので、瓢《ふくべ》と云った方がよいかも知れない。
 クルクルクルクルと空で舞う。
 と、何んという不思議だろう、冷泉華子の懐中から、キリキリ舞い立ったものがある。それは永生の蝶であった。
「おっ」
 と叫んだは冷泉華子で、肩に掛けていた袋よう[#「よう」に傍点]のものを、ドッサリと地上へ投げ付けた。と、その背中がムクムクと動き、パックリ口をあけたかと思うと、ヒラヒラヒラヒラと気を吐いた。
 もうその頃には車輪よう[#「よう」に傍点]のものは、空から地の上へ落ちていたが、袋よう[#「よう」に傍点]のものと向かい合い、独楽鼠《こまねずみ》のように廻わり出した。
 その中間の虚空では、蝶がグルグルと舞っている。
 どっちへ行くことも出来ないと見える。飛び去ることも出来ないと見える。
 それを眺めている女方術師の、北王子妙子と冷泉華子とは、身動き一つしようとさえしない。
 まさに変わった光景と云えよう。
 だがそういう光景に対し、何んのかかわるところもなく、混戦は引き続いて行われていた。
 と、その混戦の場を抜け、一人の女が彷徨《さまよ》っていた。
 気絶から醒めた桔梗様である。
 フラフラフラフラと歩いて行く。
 まるっきり意識などなさそうである。無我夢中でいるらしい。何か口の中で呟いている。
「どうしたのだろう? 解らない! ……切り合っているよ! 恐ろしい! ……妾はどうしたらいいのだろう? ……逃げなければならない! 逃げなければならない! ……」
 フラフラフラフラと歩いて行く。
 どこへ行こうとするのだろう? 自分にも解っていないらしい。どこへ行くのが至当なのだろう? 自分にも解っていないらしい。
 館の方へ歩いて行く。裏門の方へ歩いて行く。
 これこそ正気でない証拠である。
 恐ろしい恐ろしい館ではないか! 彼女を捕えて苦しめた、敵の住んでいる館ではないか! それだのにそっちへ行こうとする。
 フラフラフラフラと歩いて行く。
 どうして誰もが止めないのだろう? 弁天松代はどうしているのか? やっぱり戦っているものと見える。
 桔梗様はフラフラと歩いて行く。
 とうとう裏門から入り込んだ。
 ザ――ッ、ザ――ッと音がする。
 滝の落ちている音である。
 そっちへ桔梗様は歩いて行く。
「綺麗な滝! 落ちているねえ」
 佇《たたず》んで桔梗様は眺めやった。
 石造りの建物がある。その一所に窓がある。そこから滝が落ちている。一式小一郎を葬って、垢離部屋を一杯に充たした水が、窓から落ちているのである。
「落ちているねえ。……綺麗な滝が!」
 ――とその時声がした。
「桔梗様! 桔梗様!」
 滝の中からしたのである。
「どなたか妾を呼んでいるよ」
 ――その時滝の水を分け、ヨロヨロと現われた人影があった。全身水に濡れている。おお水死人の幽霊だ!
「あああなたは?」
「小一郎でござる!」
「一式様か!」
「桔梗様!」
 抱き合ったとたんに鬨の声が、館外にあたって響いたが、つづいて叫び声が聞こえて来た。
「山尼《やまあま》だ! 山尼だ! 山尼だ!」
 と、裏門からムラムラと、一ツ橋勢が逃げ込んで来た。
「や、汝《おのれ》は!」とその中の一人が、一式小一郎へ切りかかった。
「まだ生きていたか! どうして遁がれた!」
 危くヒョロヒョロと小一郎は、身を反《か》わせたが苦しい声で、
「ナ、南部か! 集五郎!」
 桔梗様はフラフラと歩き出した。
「小一郎様! 小一郎様! お逃げなさりませ、お逃げなさりませ」
 フラフラフラフラと裏門を出た。
「桔梗様!」
 と小一郎は、足もと定まらず追おうとする。
 そこを背後《うしろ》から集五郎は、肩を目掛けてただ一刀!

 それから一月の日が経った。女馬子の引く馬に乗り、一人の武士が旅をしていた。

        四十六

 秩父連山の中腹であり、武士は一式小一郎で、そうして女馬子は君江であったが、その同じ日に三浦三崎の方へ、八人連れの旅人が、事ありそうに歩いていた。
 隅田のご前を前後に守り、七福神組の連中が、目立たぬ旅の装いをして、密《ひそ》かに歩いて行くのであった。
 だがもし仔細に見たならば、大工や行商人や、修験者や、農夫や虚無僧や浪人者や、そういう者に身を※[#「にんべん+峭のつくり」、第4水準2-1-52]《やつ》した、二百人あまりの同勢が、無関心な様子はとりながらも、隅田のご前を警護して、先になったり後になったり、歩いて行くのに気が付くであろう。
 すなわち英雄の俤《おもかげ》のある、隅田のご前が部下を引き連れ、三浦三崎の方角へ、密行しているものと見なければならない。
 隅田のご前は例によって、悠々寛々たる態度をもって、弁天松代を相手とし、剽軽《ひょうきん》な口を利いている。
「いやはやいやはや偉いことになったぞ、こんな俺のようないい年をした者が、草鞋穿《わらじば》きでテクテク三浦三崎などへ、出て行かなければならないのだからなあ。……そうは云ってもよい景色だの。一方は海岸一方は野原、秋草も綺麗に咲いているわい」
 葵の紋服など着ていない。無紋の単衣《ひとえ》にぶっさき[#「ぶっさき」に傍点]羽織、自然木の杖をついている。顔を見られるのを嫌ったからだろう、編笠を目深に冠っている。
「そうは云ってもひょっと[#「ひょっと」に傍点]かすると、今度は大騒動になるかもしれない。私は騒動は嫌いでな。わけてもちっぽけ[#「ちっぽけ」に傍点]な日本国内で、いがみ[#「いがみ」に傍点]合うことなどは大嫌いだよ。……と云ってもどうも今度ばかりは、うっちゃって置くことは出来そうもないよ……。何しろこの私の兄にあたる、昆虫館主がやられる[#「やられる」に傍点]のだからなあ……。そうは云っても一方から云えば、私にはこの旅が面白いのさ。久しぶりで兄弟と逢えるのだからなあ。……お前達にとっても楽しかろうよ、変わった建物が見られるのだからな。昆虫館という建物さ。……がその代わり間違うと、それこそ本当に腥《なまぐさ》い、死山血河の大修羅場が、演ぜられることになるだろうよ。いやそうなったらお前達が力だ、思い切って腕を揮ってくれ」
「かしこまりましてございます」こう云ったのは松代である。道行《みちゆき》を着てその裾から、甲斐絹の甲掛《こうがけ》を見せている。武家の娘の旅姿で、歩き方なども上品にしている。「ご前のおためでございましたら、どのようなことでもいたします」充分謹んだ言葉つきである。
「ご前という言葉はよくないなあ。お爺さんとでも呼ぶがいい。人目を避けての旅だからな」
「はいはいそれではお爺さん」
「それがよろしい、さて娘や」
 こんな具合に話して行く。
 こうして一同|関宿《せきやど》まで行き、それから森林を分け上り、昆虫館まで行くのであろうが、この頃小一郎と君江とは、例の秩父の中腹を、上へ上へと辿っていた。
「例によりましてあなたの位置は、お気の毒様でございますなあ」こう云ったのは小一郎である。
 それに答えて君江が云う。「大してそうでもございません」
 馬の足掻《あが》きがパカパカと聞こえ、そうして鈴の音がシャンシャンと鳴る。
 少し秋めいた夏の陽が濃緑の葉を明かるめている。人通りがないので寂しいが、それだけに長閑と云ってもよい。
「そうではないとおっしゃっても、やっぱりそんなようでございますよ」小一郎の調子は軽かったが、それは努めての軽さであり、本当の心持ちは重いのである。「桔梗様を目付けに行きますので」
「はいはいさようでございますとも」君江の調子も軽かった。そうしてこれは雑《まざ》り気《け》のない、心からの本当の軽さらしい。「桔梗様を目付けに行きますので。そうして是非とも桔梗様を、お見付けしなければなりません」
「だが」と小一郎は気の毒そうに、「いよいよ桔梗様が目付かったとして、どうなりましょうな、あなたの位置は?」
「何んの変わりがありましょう。おんなじ位置でございますよ」君江は少しも動じようとしない。そんなようにこだわらず[#「こだわらず」に傍点]に云うのであった。
「さあはたしてそうでしょうか?」小一郎の方が心配そうである。「変わるだろうと思いますよ」
「何んの変わりがありましょう」君江には自信があるようである。「妾《わたし》の心が変わりませんもの」
「そういう私の心持ちも、昔と変わっていませんので。と云うのは昔から今日が日まで、あの桔梗様を心から、愛しているのでございますよ」
「それを知らないでどうしましょう。妾は以前《まえ》から知っておりました」
「ええとところで桔梗様の方でも、私を愛しておりますので」
「それもあなたから一再ならず、承わった筈でございますよ」
「で、桔梗様が目付かったとすると、どういう結果になりましょう」
「どういう結果になりましょうとも、妾には関係ございません」本当に関係がなさそうに、君江の調子には変わりがなかった。「この妾といたしましては、あなたを愛しておりますので、ただそれだけでございますよ」
「しかし」と小一郎はやや物鬱《ものう》く、「競争になるかも知れませんなあ」
「いずれは競争になりましょう」やっぱり君江は変わらないのである。「あなたを取り合って二人の女が、競争することでございましょう」他人事《ひとごと》のような調子である。
「さあどっちが勝ちますやら」かえって小一郎の方が不安そうである。
「はい、妾が勝ちますとも」
「随分自信がありますようで」今度は小一郎は可笑《おか》しくなった。
「そういう自信がないことには、何んで妾がお供をして、桔梗様をさがしの旅などへ、進んで出かけて参りましょう」
「いかさまこれはもっともで」
 話がここで切れてしまった。
 手綱を引いて君江が行く。馬に揺られて小一郎が行く。一見長閑な旅である。
 どこへ向かって行くのだろう? ズンズン行けば桐窪《きりくぼ》へ出る。それでは桐窪へ行くのだろうか?
 それにしても一式小一郎は、芹沢の里に建てられてあった、冷泉華子の道場の、水に充たされた垢離部屋から、どうして出ることが出来たのだろう? それこそ何んでもなかったのである。高い窓から遁がれたのである。水が窓から流れ出るまで、小一郎は垢離部屋で立泳ぎをしていた。そうして流れ出る水と一緒に、窓から外へ出たのである。窓が大きくなかったら遁がれ出ることは出来なかったろう。幸いに窓は大きかった。で、出ることが出来たのである。もしまた南部集五郎が、さらに一層注意深く、窓まで水が浸《つ》く前に、早く樋口を引いたなら、遁がれ出ることは出来なかったろう。集五郎は周章《あわ》てていたようである。で、樋口を掛け放しにして、華子へ知らせに走ったのであった。そうしてその後に起こったのが、あの凄まじい乱闘で、そうして乱闘の行われている間に、窓まで水が浸いたのであった。
 それから小一郎はどうしたか?
 乱闘の場を辛く遁がれ、自分の屋敷へ帰ったのであった。もっとも修羅場を遁がれ出る時、彼はこういう叫び声を聞いた。
「桔梗様を山尼《やまあま》が攫って行く!」と。
 屋敷へ帰った小一郎が、傷付いた体を養いながら、山尼なるものの性質と、その居場所とを調べたことは、云うまでもないことであったが、知ることは出来なかった。
 ただし一旦家を出て、隅田のご前をお訪ねした時、計らずもそれを知ることが出来た。

        四十七

 隅田のご前がこう云ったからである。
「桔梗を山尼が連れて行ったそうだの。いや一切知っておる弁天の松代が話してくれた。いやいや少しも心配はない。桔梗はむしろ安全だろう。と云って捨てては置かれない。……夫婦の間の憎悪《にくしみ》は、恐ろしい結果を呼ぶものだからの……一番不幸なのは昆虫館主さ……が、まあまあそれはよい。この俺が処置をつけてやる。……どっちみち桔梗だけは安全だよ。……と云ってお前の身になってみれば、安心してはおられまい。山尼の何者かを知りたかろう。では簡単に話してやろう。山岳|行脚《あんぎゃ》の尼僧の群だ。と云って尋常な尼僧ではない。一種特別の放浪者だ。不思議な業さえ心得ている。兇暴な性質も持っている。……ところで居場所だが解らない。天幕生活をしているのでな。もっとも大略《おおよそ》の見当はつく。秩父山中の桐窪にいよう。……これ以上は教えられない」
 そこで一式小一郎は、それだけの言葉を手頼りにして、桔梗様を探しに出て来たのであった。
 手綱を引いて君江が行く。馬に揺られて小一郎が行く。懸巣《かけす》が林で啼いている。野の草が風に靡いている。
 二人は旅をつづけて行く。
 はたして一式小一郎は、山尼の居場所を突き止めて、ふたたび恋人の桔梗様を、取り返すことが出来るだろうか?
 一つの森が現われた。と、その森の向こう側から、大勢の人声が聞こえて来た。
「はてな?」と耳を傾《かし》げた時には、風の吹き具合が変わったのだろう、もう話し声は聞こえなかった。それにも拘らず小一郎は、非常に不安の様子を見せた。話し声に聞き覚えがあったからである。
「とは云えまさか[#「まさか」に傍点]あの連中が」口の中で呟いた。「ナーニこの俺の聞き違いだろう」
 いやいやそれは聞き違いではなかった。小一郎にとっては恐ろしい敵が、その時その森の向う側を、まさしく歩いていたのであった。
 山駕籠に乗った冷泉華子を、南部集五郎とその一味とが、守護するように引き包み、話しながら辿っていたのであった。
 山駕籠の引き戸が開いている。華子がそこから覗いている。景色を眺めているのだろう。傍に引き添ったのは集五郎で、旅の装いを凝らしている。
 人数にして三十人あまり、同じ方角へ歩いて行く。
「はたして目付かるでございましょうか?」こう云ったのは集五郎であった。何んとなく不安な様子がある。
「たしかに目付かると思うがね」こう云ったのは華子であった。だがやっぱりどことなく、不安な様子を見せていた。「山尼の居場所を見付けるのは、大して困難ではないのだよ。目付けた後が困難なのさ。つまり取られた永生の蝶を、取り返すのが困難なのさ」
「ひどい目に逢ったというもので」こう云うと集五郎は苦笑をした。「やっと捕えた一匹の蝶を、横取りされたのでございますからな」
 すると今度は冷泉華子が、苦笑を口もとへ浮かべたが、「妾のニラミに狂いがなければ、永生の蝶を取られたより、桔梗という娘を取られた方が、お前さんにとっては苦痛のようで」
 これには集五郎も参ったようであった。
「率直に申せばその通りで、あれは残念でございましたよ。が、それにしても何用あって、永生の蝶や桔梗という娘を、あの不思議な山尼達は、横取って行ったのでございましょう」
「それは妾には解らないよ。……そうは云っても永生の蝶は、あれだけ名高いものではあり、それの秘密を剖《あば》いた者は、道教でいうところの寿福栄華を、一度に掴むことが出来るのだから、山尼の長《おさ》の高蔵尼《こうぞうに》が、欲しく思ったのは当然といえよう」
「その高蔵尼でございますが、あなた様や北王子妙子にとっては、どのような関係がございますので」集五郎にはこれが疑問らしかった。
「旧師匠なのだよ、私達のね。……これ以上は云われないよ。……一度あのお方に出られたが最後、妾にしてからが妙子さんにしてからが、それこそ手も足も出ないのだよ」
「ははあ」と云ったが集五郎には、腑に落ちないところがあるようであった。「それにしても奇観でございましたよ、あなた様の方へも行くことが出来ず、妙子の方へも行くことが出来ず、宙に舞っていた永生の蝶が、あの高蔵尼が現われるや否や、一気にそっち[#「そっち」に傍点]へ翔《か》けて行き、袖へ飛び込んだのでございますからなあ」
「強い力をお持ちだからさ」
「どういう力でございましょう?」
「妾や妙子さんの持っている力と、同じような力なのさ。それが十倍も強いだけさ」
 一行はズンズン歩いて行く。
 やはり秩父の山中の、桐窪《きりくぼ》が一行の行く先らしい。山尼の居場所が目的地のようだ。
「おや」と集五郎が呟きながら、ちょっと小首を傾げたのは、森の向こう側からシャンシャンという、馬の鈴音が聞こえたからである。「旅人が通っているらしい」何んとなく不安の気のしたのは、所は道のない野原であり、山越しをして行く旅人などが、めったに通らない場所だからであった。
「馬の鈴音が聞こえましたようで」華子に向かって声をかけた。
「ああ妾も聞こえたよ」
「同じ方角へ行きますようで」
「どうやらそんな様子だねえ。だが大概は旅人だろうよ」案外華子には苦にならないらしい。
「しかし今回の私どもの旅行は、絶対の秘密になっております。人に姿を見られましては、あまり感心いたしません」
「云うまでもないよ、その通りだよ」
「で、好んで峠路を避け、道のない野原を辿っております」
「そうした方が安全だからね」
「森の向こう側の旅人に、見られないものでもございません」
「同じ方角へ行くのだから、いずれはどこかで出合うだろうよ」
「その旅人が人里へ下って、我々の様子を吹聴しましたら、いささか困りものにございます」
「と云って旅人を掣肘《せいちゅう》して、旅をするなとは云えないではないか」
「ともかくもどういう旅の者か、確かめて置いた方がよろしいようで」
「なるほど、それだけは必要かも知れない」
「森の向こう側へ人をやり、見させることに致しましょう」
「そうだねえ、そうしてごらん」
「山本氏、山本氏」武士の一人を呼びかけた。
「は」と云いながら近寄って来たのは、二十七、八の武士であった。
「ご貴殿森の向こう側へ行き、馬に乗って通る旅人の様子を、それとなく窺《うか》がってくださるよう」
「委細承知」と云いすてると、森を分けて武士は走り去った。
 で、一行は進んで行く。
 華子の乗った山駕籠が、列の先頭を切っている。それに引き添ったは集五郎である。それに続いて三十余人の武士が、旅装いかめしく付いて行く。一ツ橋家の武士である。
 右手は鬱々とした森である。左手は起伏した丘である。行手にも幾個《いくつ》か森がある。長く続いた林もある。小山もあれば谷もあり、川も流れているらしい。灌木や藪が飛び散っている。山は斜面をなしていたが、登りはそれほど険しくはなかった。空を横切って小鳥が飛ぶ。遙かの山の頂きに、入道雲が屯《たむろ》している。晴れた空が海のように深く見える、山地特有の空である。
 一行はズンズン進んで行く。
 五町あまりも歩いたろうか、森は途切れたが林となった。林の左側に沿いながら、一行はさらに進んで行く。
 と、今度は小山となった。山の斜面に瘤《こぶ》のように、うずくまっている小山である。小山の裾を巡りながら、一行は尚も進んで行く。
 と、小山の反対側から、またも馬の鈴が聞こえて来た。
 ところがどうにも腑に落ちないのは、物見に出て行った山本という武士が、いまだに帰って来ないことであった。
「どうしたのだろう、可笑《おか》しいではないか」
 集五郎には不思議でならなかった。
「山本氏が帰りませんようで」華子に向かって不安そうに云った。
「そうだねえ、どうしたのだろう」
 日光を遮って駕籠の中は、ボッと薄暗く煙っていたが、その中に浮いている華子の顔には、幽かながらも不安があった。「十や十五の子供ではなし、迷児《まいご》になったのではあるまいが、それにしても少し手間取り過ぎるよ」
「それに旅人の鈴の音が、小山の向こう側で聞こえております」
「もう一人物見にやってごらん」
「北条氏北条氏」呼ぶ声に連れて、北条という若い武士が、すぐに後列から走って来た。
「は、何事でございますかな?」二十五、六の武士である。
「お聞きの通り小山の向うで、馬の鈴音が聞こえております。どのような旅人が通っておるか、行ってお調べくださるよう」
「かしこまりましてございます」
 北条という武士は馳せ去ったが、すぐに山の向うへ隠れてしまった。
 一行はズンズン進んで行く。

        四十八

 小山と云っても丘のようなもので、高さから云うと知れたものであったが、その延長は著しかった。で、その裾に添いながら一行はズンズン進んで行った。
 依然鈴の音は聞こえて来る。悠々と歩いていると見えて、その鈴の音もおちついている。
 だがその鈴の音が急に止み、罵り合う声が続いて起こり、すぐに消魂《けたたまし》い悲鳴が聞こえ、同時に鈴の音が乱調を作《な》し、甲高く響いた瞬間から、局面が一変することになった。
「悲鳴が聞こえた、不思議千万!」呻くように云ったのは集五郎である。
「うむ」と華子も呻くように云ったが、「そなた小山へ馳せ上り、向こう側の様子を窺うよう」
「心得てござる! では早速!」
 小山には灌木が生えている。しかし丈の高い木などはない。走り上がった集五郎は、頂きに立つと手をかざし、山の向こう側を見下した。と、山の裾の草の中に、見誤りはない山本という武士が、俯向《うつむ》けになって斃れている。肩を大袈裟に切られたと見え、血が流れ出て日に光るのが、かなり間遠ではあったけれど、不思議のようにハッキリと見えた。
「おっ! やられたか! ウーム気の毒! が、それにしても旅人は?」
 集五郎は眼を走らせたが、すぐに旅人を目付けることが出来た。女馬子の引く馬に乗り、旅仕度をした一人の武士が、小山が途切れて谷になっている、そっちを目掛けて急がしく、飛ぶように走らせているのであった。背後《うしろ》姿ではあったけれど、集五郎には見覚えがあった。
「まさしく彼奴《きゃつ》だ! 相違ない!」
 唸るがように云った時、馬上の武士が振り返った。
「また逢いましたな。南部氏! 拙者は一式小一郎、貴殿の部下の二人の武士を、殺生ながらも手にかけてござる。と云っても敢て理不尽ではござらぬ。拙者の行手を遮ったからで……いずれは貴殿のことである。ムザムザ拙者を見遁がしはしまい! 大勢でかかって来られるだろう。遠慮はいらない、かかってござれ! が拙者は騎馬しておる。貴殿方は徒歩《かち》らしい。滅多に滅多に追い付くまい!」
 間隔《あい》は相当へだたっていたが、高原の空気は澄み返り、雑音が雑《まじ》らないためでもあろう、粒立って声が聞こえて来た。
 とまたもや小一郎が、嘲けりの声を響かせた。「それ石卵は敵しがたし、拙者は石で貴殿が卵、幾度ぶつかっても[#「ぶつかっても」に傍点]拙者が勝つ――と云う事はずっと以前に、小梅田圃で云った筈でござる! さあさあ卵氏《たまごうじ》卵氏、ぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]ござれぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]ござれ! ぶつからぬ[#「ぶつからぬ」に傍点]かな、ではご免!」
 クルリと振り返ると小一郎は、女馬子へ何か云ったようであった。とそのとたんに女馬子であるが、持っていた手綱《たづな》を放したが、その手を延ばして馬の背へかけると、翻然飛び乗ったものである。馬上でピッタリ男女の者が、縋るようにして抱き合ったが、キューッと、ひと[#「ひと」に傍点]締め![#「ひと[#「ひと」に傍点]締め!」は底本では「ひと締[#「と締」に傍点]め!」] 馬を締めた! タッタッタッ! タッタッタッ! 野花を蹴散らし砂塵を上げ、走る走る驀地《まっしぐら》!
 怒りとそうして驚きとを、同時に感じたのが集五郎であった。小山の頂きに突っ立って、地団太を踏んだが及ばない、そこでグルリと振り返ったが、
「やあ方々一大事でござる、ご存知の一式小一郎が、山本氏と北条氏とを、切ってすてましてござります! 旅人の正体は小一郎、同じ方角へ向かうからは、我々と同じく山尼《やまあま》の居場所へ、訪ねて行くものと存ぜられます! 谷へ向かって馬を飛ばし、今や驀地《まっしぐら》に走って行きます! 追っかけなされ! 討って取りなされ! 谷を包囲し隙間もなく、探し探してお討ち取りなされ!」
 こう呼び捨てると集五郎は、小一郎の後を追っかけて、一散に小山を馳せ下った。
 そう呼びかけられて一ツ橋勢が、動揺したのは当然と云えよう。
 華子の乗った山駕籠を、真ん中に包むと三十余人、同じく谷の方へ走り出したが、もうこの頃には一式小一郎は、谷の斜面の大岩の蔭に、君江と一緒に隠れていた。

        四十九

「切り合いをするは容易《たやす》いが、他に大事な目的がある。敵は大勢こっちは一人だ。お前は女で用に立たぬ、怪我でもしては大変である。ああは大言は払ったもののうまく危難を遁がれたいものだ」
 いささか心配だというように、小声で小一郎は話しかけた。
「思い付いたことがござます」こう云ったのは君江である。「鹿毛《かげ》を放すことにいたしましょう」
「ああ馬をか? ふうん、何故な」
「ごらんの通り木が繁って、谷間は暗うございます。しかもその木は大木ばかりで、馬が走って行きましても、恐らく姿は見えますまい」
「うむ、そうだな、それは見えまい」
「蹄の音は聞こえましょう」
「おおなるほど、それで解った。馬を走らせて蹄の音を聞かせ、一ツ橋家の武士どもを、迷わせようというのだな?」
「うまく行こうではございませんか」
「鹿毛は戻って来るだろうか?」
「云い聞かせることに致しましょう。きっと大丈夫でございますよ。利口な馬でございますもの」
 大岩を巡って木立がある。二人の居場所は薄暗い。その薄暗い一所に、馬が静かに立っている。青草を食べているのである。君江の愛馬の鹿毛である。三浦三崎の実家から、小一郎を乗せて江戸へ出て、そのまま小一郎の屋敷の裏で、飼われていたところの馬である。
 君江は立ち上がって近寄ったが、優しく鼻面を手で撫でた。「鹿毛よ」と云ったが情のある声だ、「私達にとっては一大事、それをお前にお願いします。さあさあ谷底へ駈けて行っておくれ。そうして谷底を駈け廻わっておくれ。ドンドン遠くまで走って行っておくれ。疲労《つか》れた頃に帰るがいい。いつまでも待っているからね。さあおいでよ!」
 と云いながら、君江は馬の平首を打った。
 君江の言葉を聞き分けたからか、ないしは打たれて驚いたからか、馬は一声|嘶《いなな》いたが、谷底を目掛けて馳せ下った。
 予想は中《あた》ったというべきであろう。
 馬の姿は解らない。蹄の音ばかりは聞こえて来る。
「うむ、これなら大丈夫だ」
「うまくゆくことでございましょう」
 二人が微笑して眼を見合わせた時、谷の上から声がした。
「蹄の音だ! 聞こえる聞こえる!」
「ソレそっちへ追いかけろ!」
 つづいて木を分け草を分け、大勢の馳せ下る音がした。一ツ橋家の武士達であろう。馬の蹄の鳴る方へ、追っかけて行くものと思われる。
「計画的中! しめたしめた!」
 笑みを湛えたが小一郎は、決して油断はしなかった。二人の武士を叩っ切り、血に濡れている大刀を抜いたまんまで膝へ引き付け、全身を大岩の蔭へ隠し、立て膝をして窺った。木洩《こも》れ陽《び》が一筋射している。それが刀身を照らしている。そこだけがカッと燃えている。がその他は朦朧《ぼけ》ている。引き添って背後に坐っているのは、女馬子姿の君江である。用意をして来た懐刀《ふところがたな》を、帯へ差したまま柄《つか》を握り、見現《みあら》わされたら女ながらも、切り捲くってやろうと構えている。
 蹄の音が遠ざかる。追って行く武士の足音も、それに続いて遠ざかる。
 いよいよ危険は去ったらしい――と思った瞬間であった。二人の真上から人声がして、走り下って来る足音がした。
「これはいけない、見現わされそうだぞ!」さすがにハッとして小一郎が、抜き身をユラリと取り直した時、五、六人の武士が馳せ下って来た。とその中の一人であるが、スルスルと大岩の頂きへ登った。見上げた小一郎の眼の上に、わずか一間の間隔を置き、その武士の穿いている野袴の裾が、風に煽られて靡いている。蹄の聞こえる方角を、じっと眺めているようである。もしその武士が振り返り、大岩の蔭へ眼を落としたら、一式小一郎と君江の姿を、見て取ることが出来ただろう。
「平林平林、何をしている。さあさあ早く追っかけよう」大岩の向こうから声がした。一ツ橋の武士達が、そこに五、六人いるようであった。
「むやみと追っかけても仕方がない」岩の上の武士が云い返した。「それに俺には不思議でならない。蹄の音が軽すぎるよ。人間を背にして走っている、馬の足音とは思われない」
「うむ、なるほど、そうだなあ」岩の向こう側からの声である。「ちょっとこいつは可笑《おか》しいぞ」
 するともう一人の声がした。
「馬だけ放して小一郎奴は、どこかに隠れているのではないかな」
 つづいてもう一人の声がした、「オイこの地面を見るがいい。草があちこち千切れている。どうやら馬が食い千切ったようだ」
「ではこの辺で小一郎奴は、馬を休ませたに相違ない」岩の上の武士の声である。「それから馬だけ放したかもしれない……。ひょっとかするとこの辺に、小一郎奴は隠れているかも知れない」
「ではともかくも探してみよう」岩の向こうからの声である。
「よかろう」という声が同時にした。と、大岩をゆるゆると、こっちへ巡って来る足音がした。

        五十

「もういけない」と小一郎は、覚悟の臍《ほぞ》を固めたが、俺一人なら飛び出して、切り死にしても構わないが、君江という娘が附いている、優しい忠実な娘である、一緒に死なしては相済まない、――そこで一式小一郎は、逸《はや》る心を押し沈め、目付けられて声を掛けられるまでは、隠れていよう隠れていよう……そこで一層大岩へ、ピッシリ体を押しつけて、尚も様子をうかがった。この時またもや頭上にあたって、数人の人の声がした。つづいて馳せ下る音がした。一直線に大岩の方へ、走り下って来るようである。
 華子の乗った山駕籠を守り、一ツ橋の武士達が、四、五人下って来るのであった。
 こうして小一郎と君江とは、腹背に敵を受けてしまった。
 目付けられるに相違ない。目付けられたら切り合いになろう。相手は三十余人もある。小一郎は一人である。足手纒いの君江もいる。勝敗の数は知れている。剣侠一式小一郎も、命を落とさなければならないだろう。
 だがそのおりから谷を越した、ずっと向こう側の山の上から、ドッと喊声が湧き起こった。
 一挺の山駕籠がまず現われ、それに続いて二、三十人の武士が、黒蟻のように現われた。谷を見下ろしているのである。
「おおあれは田安勢だ!」こういう声が聞こえて来た。冷泉華子の声である。山駕籠の中から叫んだのらしい。「あの山駕籠に乗っている者は、北王子妙子さんに相違ないよ」
 こうして田安勢と一ツ橋勢とが、顔を合わせることになったが、それにしても田安勢は何んのために、北王子妙子を山駕籠に乗せ、こんな所へあらわれたのだろう。
 説明するにも及ぶまい。同じく山尼の居場所を突き止め、永世の蝶を取り返そうと、やって来たものに相違ない。
 ふたたび乱闘は行われよう。
 秩父山中を血に染めて、切り合うことになるだろう。
 それにしても小一郎や集五郎や、冷泉華子や妙子までが、探し求めている山尼の群が、はたしてそんな秩父山中の、桐窪などにいるのだろうか?

 ここは桐窪の一画である。
 盆地が広く開いている。
 晩夏の日光を刎ね返し、天幕が無数に立っている。わけても大きな天幕の中に、さも長閑《のどか》そうに話している、面白い対照の男女があった。
「ねむねむゴー、ねむねむゴー、こうおっしゃったのでございますよ。ほんとに面白いお師匠様で」
 こう云ったのは鯱丸《しゃちまる》である。
「ねむねむゴー、ねむねむゴー、面白い言葉でございますこと、どういう意味なのでございましょう」
 こう云ったのは桔梗様である。
「そうかと思うとお師匠様は、こうも云うのでございますよ。鯱丸よ鯱丸よパッチリコ! 鯱丸よ鯱丸よパッチリコ!」
「おやおや今度はパッチリコで、どういう意味なのでございましょう」さも楽しそうに桔梗様が訊く。
「そうかと思うと、お師匠様はこう云うのでございますよ」またもや鯱丸はやり出した。
「グルグルチン! グルグルチン!」
 とうとう桔梗様は吹き出してしまった。
「だんだんむずかしくなりますのね。ねむねむゴーからパッチリコになり、そうしてそれからグルグルチン……何んだか妾には解らない」
「何んでもないのでございますよ」いよいよどうやら鯱丸は、その説明に取りかかるらしい。「ねむねむというのは、眠れということで、ゴーというのは鼾《いびき》のことで、つまりゴーッと鼾を立てて、眠れということなのでございますよ。私が晩《おそ》くまで起きていますと、そうお師匠様がおっしゃるので、パッチリコと申すのは反対なので、眼をパッチリコと開けるようにと、こういう意味なのでございますよ。朝寝坊をしておりますと、そうお師匠様がおっしゃいますので、ところでグルグルチンですが、谷川へ行ってグルグルと、顔を洗ったら音を立てて、チンと鼻をかむ[#「かむ」に傍点]がいいと、こういう意味なのでございますよ。はいはいみんな何でもないことで」
 なるほど説明を聞いてみれば、何んでもないことではあったけれど、鼠の衣裳に腰衣《こしごろも》を付けた、縹緻《きりょう》のいい愛くるしい鯱丸が、真面目な顔をして話すのであった。
 どうにも桔梗様には可笑《おか》しかった。で明るく笑った時、その明るさを抑えるかのように、陰気な不気味な梵鐘《ぼんしょう》の音が、盆地の一所から聞こえて来た。

        五十一

「昆虫館再興は山尼《やまあま》の徒の為なり」
 こう古文書に記されてある。
 同じ山尼の連中によって、昆虫館は閉鎖されたのであったが、それがふたたび興されたについては、重大な理由がなくてはならない。
 秩父連山の山尼の部落の、深い谷の底から鐘の聞こえたのは、衆を集める合図であった。で無数の山尼達が、めいめいの天幕から走り出て、谷底の方へ走って行ったが、それは壮観というべきであった。切り下げ髪を風に靡《なび》かせ、また腰衣《こしごろも》を風に靡かせ、数百の尼が走って行く。
 その谷の底の大岩の上に、一人の山尼が立っていたが、他でもない高蔵尼であった。
「物見の者から知らせが来た。昆虫館では衆を集め、戦いの準備をしているそうだ。だから棄てては置かれない。昆虫館へ押し寄せることにしよう」
 これが高蔵尼の命であった。
 それから行われた行軍は、非常に面白いものであった。一挺の山駕籠へ高蔵尼を乗せ、それを囲んで有髪の尼達が、秩父連山を縦断して三浦三崎の方へ出かけたのである。
 ところが一方昆虫館でも、一つの事件が起こっていた。
 と云ったところで変わったことでもなく、戦いの準備をしているのであった。
 隅田のご前の部下の者や、七福神組が走り廻わり、それの準備をやっているのであった。
「さあ壕を掘れ、鹿砦《ろくさい》をつくれ、墻壁《しょうへき》をこしらえろ、掩護物《えんごぶつ》を設けろ、小杭を打ち込め、竹束を束ねろ! 武器の手入れだ、武器の手入れだ! 槍を磨け、刀を磨け、鉄砲の筒を掃除しろ。……一手は森林の裾へ行け。そこへ幕営をつくるがいい。一手は森林の底へ行け。そこへ地雷を伏せるがいい。……火薬袋に注意しろ。点火の手筈の狂わぬよう。……谷川へは橋をかけるがいい。……物見だ物見だ、物見に行け!」
 指揮しているのは、隅田のご前で、昆虫館の建物の前へ、牀几《しょうぎ》を出して腰かけている。
 人々が八方へ駈け巡る。伝令が四方へ飛んで行く。遠くで鉄砲の音がする。恐らく試射をやっているのであろう。と、ゴーッという音がした。水の流れる音である。槓杆《こうかん》を動かしたに相違ない。そこで湛えられた湖水の水が、森林をひらいて流れたのであろう。
 と、麓の方角から、一団の人数が上って来た。醜い不具者の群である。ずっと以前に昆虫館にいて、閉ざされると共に立ち去ったのだが、昆虫館の大事を聞き、今や集まって来たのである。
 ひっそりと寂しかった昆虫館は、こうして活気を呈したが、むしろ活気というよりも、殺気と云わなければならないだろう。
 だがこういう殺気の場を、一向無関心に横目に見て、一人働かない人物があった。他ならぬ片足の吉次である。
「立ち廻われ立ち廻われ騒げ騒げ。が、この俺は騒がないよ」
 岩から落ちて来る滝の前に佇《たたず》み、滝壺の中を睨んでいる。
 と、「吉次さん」と云う声がして、ヒョッコリ現われた女がある。他ならぬ弁天松代であった。
「ヨー。これは松代さんか」
 吉次はニヤニヤ笑い出した。群《あつ》まって来た連中の中で、吉次の一番好きなのは、この弁天松代だからである。
「松代さん相変わらず綺麗だなあ」
「ああいつだって綺麗だよ」松代は並んで佇んだが、「どうしてお前さん働かないんだい」咎めるような調子である。
「一本足じゃ働きもならない」
「そりゃアそうだねえ。もっともだよ」
「それに俺《おい》らは不賛成なのさ」
「何んのことだよ、不賛成とは!」
「むやみと騒がしく立ち廻わることさ」
「だって戦いが始まるんじゃないか」
「さあその戦争だが嫌いなのさ」
「成るようにして成ったんだから、どうにも仕方がないじゃアないか」
「へえ、そりゃアどういう訳だえ」
「だって、山尼の連中は、永生の蝶が欲しいのだろう? ところがその中一匹の方は――つまり盗まれた雄蝶の方だが、どんなことをしたって目付からないのだよ」ここで吉次は変に笑ったが、「松代さんだからちょっと明かすが、盗まれた永生の蝶のありかを、一人だけ知っているものがあるのだよ」

        五十二

「へえ、そりゃア誰だろうね?」さも不思議そうに松代は訊く。
「さあ何奴が知っているかな」吉次は依然として笑っている。と、話題を一変させ、「桔梗様もさらわれた[#「さらわれた」に傍点]ということだの」
「山尼の連中がさらって行ったのさ」
「つまり囮《おとり》に取ったってわけだな」
「え、何んだい、囮というのは?」
「つまり桔梗様を返すから、永世の蝶を引き渡せと、こう連中は云うつもりなのさ」
「ああ山尼の連中がね。そうすると桔梗様は可哀そうだねえ」
「可哀そうには相違ないが、どうも桔梗様という人は、少し見識が高すぎたから、たまには酷い目に逢った方がいいよ」
「見識の高い方がいいじゃアないか」
「そうだろうかなあ、そうだろうかなあ」吉次は何んとなく不満そうである。「が、見識の高い人は、他人の思いなどを受け入れないからなあ」
「おや」と松代は妙に思った。で、黙って吉次を見た。
 滝が涼しそうに落ちている。小さな小さな滝なのである。滝壺の水面は泡立っている。日光が横から射しているので、滝の泡沫《しぶき》に虹がかかり、何んとも云えず美しい。
「そりゃアそうと、ねえ松代さん、俺《おい》らはお前さんが好きなんだよ」こんなことを云い出した。気恥ずかしそうなところがある。
「おや」ともう一度思ったが、松代は故意《わざ》と何気なく、「妾もお前さんが大好きさ」
「ふうん、何んだか解るものか」こうは云ったものの嬉しそうである。
「色気のないところが好きなんだよ」
「ところで俺らはお前さんの、見識張らないところが好きなのさ」
「見識張られる身分じゃアないよ」
「また俺らにしてからが、色気の出せる身分じゃアない」
「一緒にくらしたら面白かろうね」
「え」と云ったものの片足の吉次は、松代の顔を盗むように見た。「嬲《なぶ》っちゃアいけない。嬲っちゃアいけない」
「何んの妾が嬲るものか。本当のことを云ってるのさ」――だが嬲ってはいるようである。
「そうかなあ、そうかなあ」吉次は茫然《ぼっ》として考えたが、「俺《おい》らは醜男《ぶおとこ》で片輪者で、女に思われたことなんかない。俺らの方では想ったがな。でもその女は見高《けんだか》で、相手にしようともしてくれなかった。……だから俺らはやったん[#「やったん」に傍点]だ。……だが俺らには金はある。少しばかり考えを運ばしたら、どっさり金を儲けることが出来る。半分手に入れているんだからなあ。……永生の蝶っていう奴は、水の中ででも活きられるのだよ。……」
「お金がありゃア尚いいねえ。楽な生活《くらし》が出来るんだからねえ……ほんとにお前さんにあるかしら?」窺《うか》がうような調子である。
「少し考えを運ばせさえすれば、莫大な金が手に入るのさ」
「ねえ、吉次さん」と寄り添った。
「うん」と云ったが片足の吉次は、凝然と滝壺を見下ろしている。
 ひん[#「ひん」に傍点]曲がった美しい劇的光景! それはこう云ってもいいだろう。一人は片足の醜男である。一人は妖艶な女賊である。それが互いにもたれ[#「もたれ」に傍点]合い、滝壺を覗いているのである。
 大岩の背後には人声がする。戦闘準備の雑音もする。
 だがここばかりはひそやか[#「ひそやか」に傍点]である。虹が相変わらず懸かっている。

        五十三

 その日の午後のことであったが、昆虫館の一室で、二人の老人が話していた。
「兄ごお前さんは不賛成だろうな」こう云ったのは隅田のご前。
「行くところまで行ったのだから、どうにも仕方があるまいよ」こう云ったのは昆虫館主人で、悩ましい表情が顔にある。
「兄ご夫婦の関係は、私には不思議でならないよ」隅田のご前が云ったのである。
「元からそうではなかったのだが、そういうことになったのさ」昆虫館主人は憂鬱《ゆううつ》であった。
「と云うのも永世の蝶からだろうね?」
「ああそうだよ」と昆虫館主人は、いよいよ悩ましい様子をしたが、「本はといえば扱い方の相違だ。見方の相違と云ってもいい。即座にあれ[#「あれ」に傍点]を役立てよう。――と云うのがあれ[#「あれ」に傍点]のやり方だったのだ。私はそれとは反対だった。まず飼って置いて様子を見よう――」
「どっちみち和睦《わぼく》をした方がいいよ」隅田のご前が不意に云った。
「和睦をしろとはおかしいではないか。こんなに戦備をして置いてからに」怪訝だというような表情である。
 隅田のご前は笑ったが、「和戦両様に備えたのさ。浮世は万事がこういかなければいけない」
「何も私だって争いたくはないよ。……が、向こうのやり口が悪い。……娘に罪はないのだからな」
「実の親子だ。逢いたかったまでさ。それでおおかた連れて行ったのだろう」
「私にはそうは思われない」昆虫館主人は首を振ったが、「威嚇の道具に使うのだろう。囮《おとり》に使おうとしているのだろう。永生の蝶を奪おうためにな」
「さあその永世の蝶という奴だが、兄ごは充分調べた筈だ」
「そうして未だにわからない」
「これから調べても解るまい」
「そうよなア、解らないかもしれない」
「では先方へくれてやるさ」
「一匹は取ったということではないか」
「芹沢の郷で取ったそうだ」
「もう一匹は不明なのだ。どこへ行ったかわからないのだ」
「ふうん、それは本当のことかな?」
「嘘は云わぬよ、盗まれたらしい」
「では先方へそういうことを、云ってやったらよかりそうなものだ」
「云ってはやったが信じないのだよ」昆虫館主人は苦々しそうにしたが、「どうしてもこの土地にいるというのだ」
 部屋は昔と変わりがない。和蘭陀《オテンダ》風に装飾《よそお》われている。壁に懸けられたは壁掛けである。昆虫の刺繍が施されてある。諸所《ところどころ》に額がある。昆虫の絵が描かれている。天井にも模様が描かれてある。その模様も昆虫である。戸外《そと》に向かって窓がある。その窓縁にも昆虫の図が、非常に手際よく彫刻《ほら》れてある。窓を通して眺められるのは、前庭に咲いている花壇の花で、仄《ほの》かな芳香が馨《にお》って来る。長椅子、卓子《テーブル》、肘掛椅子、書棚の類が置いてある。床には絨緞が敷いてあり、それには昆虫の模様が織られ、その地色は薄緑である。
 黒檀細工の卓子《テーブル》の上に、幾個かの虫箱が置いてある。そうして例によって天井からも、無数の虫箱が釣り下げられてある。
 昔と何んの変わりもない。いくらか古びているばかりである。で、この部屋にあるものと云えば、学究的の静寂である。それも昔と変わりがない。
 と、不意に昆虫館主人が、かけていた椅子から立ち上がり、一つの虫箱を覗いたが、
「敏感な麝香虫が騒ぎ出した。……いよいよ山尼の一隊が、迫って来たに相違ない」
 こう云って窓まで身を寄せて行ったが、これも昔とそっくりであった。

 こういう事件の行われている頃、秩父連山の一所でも、風変わりの事件が行われていた。
 馬に乗った一式小一郎が、女馬子の君江に手綱をとらせ、谷の底を歩ませていたのである。
 その左側の谷の上を、山駕籠を囲んだ同勢が、同じ方角へ進んで行く。冷泉華子の一隊である。
 と、右側の谷の上を、同じような同勢が辿っている。北王子妙子の一隊である。
「いや面白い旅行だわい」こう云ったのは一式小一郎で、愉快そうな笑いを漂わせている。「危機一髪、もういけまい。こう思った時現われたのが、あの田安家の勢なのだからなあ。それに牽制されたので、一ツ橋の連中にも討って取られず、両家の者に左右を守られ、こんな塩梅《あんばい》に旅が出来る。どうも浮世って皮肉なものだ」
「結構な皮肉でございます。時々こういう皮肉があるので、ほんとに私達は助かります」
 こう云ったのは君江である。君江の様子も愉快そうである。
「一ツ橋勢が谷へ下り、俺達を討って取ろうとすれば、田安家の連中が下りて来て、この俺達を救ってくれる。この俺達が谷を上り、田安の連中と一緒になろうとすれば、一ツ橋勢が追っかけて来る。そこでどうでも俺達とすれば、いつまでもこうやって谷の底を、辿って行かなければならないのさ」
「面白い身の上でございますよ。強い二つの大きな国に押し付けられておりながら、威張り巻くっている小さな国、それが私達でございますよ」
「俺達がちょっとでも間違うと、すぐに平均が崩れてしまう」
「私達が穏《おとな》しくしていれば、いつまでも現状はつづいて行きます」
「だから随分危険だとも云える」
「危険だからこそ面白いので」
「君江、相変わらず面白いことを云うな」
「あたりまえのことでございますよ」
「そのあたりまえということが、なかなかもって云えないものさ」
 谷底の道は辿りにくい。でも二人は辿って行く。

        五十四

 随分辿りにくい谷底である。大岩が諸所に盛り上がっている。藪や灌木が蔓《はびこ》っている。谷川が一筋流れていて、パッパッと飛沫をあげている。秩父名物の猿の群が、枝から枝へと飛び移り、二人を見ながら奇声を上げる。と、闇のような所へ出た。喬木が蔽うているのである。二人は先へ辿って行く。
 その時右側の谷の上から、ドッと鬨の声が湧き起こった。田安家の勢が一ツ橋家の勢へ、どうやら挑戦したらしい。と左側の谷の上から、それに答える鬨の声がした。一ツ橋勢が応じたものと見える。
 こうして二、三回鬨が上がったが、事件らしい事件も起こらなかった。
「面白いな」と小一郎。
「陽気でよろしゅうございます」
 ――で、三組の同勢は、先へ先へと進んで行く。目差すは同じ場所である。すなわち山尼の居場所である。
 先へ先へと進んで行く。
 だが先は続かなかった。
 遙か向うに盆地が見え、そこに点々と幾個《いくつ》かの天幕が日を受けて白く見渡された。
 それこそ山尼の部落である。
 谷を作っている左右の山も、盆地に向かって傾斜をなし、盆地に到って尽きている。谷も盆地で尽きている。
 で自然の勢いとして、田安家の勢《ぜい》も一ツ橋家の勢も、そうして君江も小一郎も、盆地で一緒にならなければなるまい。
 そういう盆地の中央にある、一つの大きな天幕の中で、桔梗様と鯱丸とは話していた。
 桔梗様を守護する山尼の徒が、十数人残っているばかりで、その他の無数の山尼達は、秩父の山にはいなかった。昆虫館をさして馳せ去ったのである。
「大変寂しくなりました」
 こう云ったのは鯱丸である。
「ほんとにひっそり[#「ひっそり」に傍点]としましたことね」桔梗様は何んとなく物憂そうである。
 天幕の中へ日が射している。それが桔梗様の顔を照らし、鯱丸のぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を照らしている。
「どこへ行ったのでございましょうね?」
 鐘が谷の方で鳴り渡って、山尼の徒がそっちへ走って、そうしてそのまま大忙《おおいそが》しに、山を下って行ったことだけは、桔梗様にも解っていたが、その他のことは解らないのであった。
「わけの解らない連中なので、さあどこをさして行ったものやら」早熟《ませ》た口調で鯱丸が云う。
「ところで高蔵尼とおっしゃる方は、いいお方なのでございましょうね」
 芹沢の里の乱闘の際、突然高蔵尼に攫《さら》われて以来、そうしてこの土地へ来て以来、ただ親切にあつかわれるばかりで、高蔵尼という尼様の素性は、いまだに桔梗様には解らないのであった。
「口小言のうるさい婆さまで」鯱丸は依然として、口が悪い。「でも結構な婆様で」今度は鯱丸は褒めるのであった。
「それにしてもここの人達は、何をして生活《くら》しているのでしょう?」
 一月あまり住居してみたが、桔梗様には山尼の生活が、どうにも胸に落ちないのであった。毎朝毎晩看経をするのは、尼としては当然のことであったが、突然一同が打ち揃って、どこへともなく行くことがあった。托鉢に行くのだとも思われたが、そうでもないようなところもある。規律はいかにも整然としていて、女軍のようなところもある。そういえば武器さえ貯えている。
 今こそ秩父の山中にいるが、以前には信州や上州や、美濃や飛騨にもいたそうである。
 わけのわからない団体なのであった。

        五十五

 そこで鯱丸に訊いたのであった。
 ところが鯱丸の返辞たるやまことに、簡単なものであった。
「人里の人間を憎んでいる、尼さん達の集まりなので。時々行衛を眩《くら》ますのは、人里へ出て行って掠奪《りゃくだつ》をやるので。そうしてお師匠さんの素性はといえば、謀反人の血統だということなので」
 こう云われていよいよ桔梗様には、山尼の性質が解らなくなった。
 しかしそれよりも桔梗様にとっては、一式小一郎の身の上が、心にかかってならなかった。芹沢の里で別れて以来、絶えて消息を聞かないのである。死んだであろうか、生きているだろうか? その点さえも心もとない。
 それより何より桔梗様には、小一郎が恋しくてならなかった。自分はこんな山の中にいる。恋人小一郎の行衛は知れない。もう一生逢えないかもしれない。これが悲しくてならないのである。それにしても何んの必要があって、自分をこんな山の中へ、山尼達は攫って来たのだろう? これからどうするつもりだろう? 一生人里へは返さずに、山の中へ止めて置くのだろうか?
 これを思うと桔梗様は、不安で不安でならなかった。
 しかし桔梗様のその不安は、一瞬の間に喜びとなった。
 というのは盆地の外れにあたって、二派の武士達でも衝突したような、凄じい叫び声が忽然と起こり、太刀打ちの音が聞こえて来たかと思うと、その方角から馬に乗った武士が、女の馬子を後に従え、桔梗様の方へ走って来たが、天幕の前までやって来ると、ヒラリと馬から飛び下りた。
「おお桔梗様、いられたか!」
「まあ、あなたは小一郎様!」
「お助けに参った、さあさあ馬へ!」
 ――で、桔梗様を馬へ乗せ、君江を先立て一式小一郎は、一散に麓へ下ったからである。
 しかしその時邪魔がはいった。いつの間に先に廻わっていたものか、南部集五郎が二、三人と共に、翻然木蔭から飛び出して、素早く行手を遮《さえぎ》ったのである。
「やらぬぞ一式!」
 切り込んで来た。
「集五郎か」
 と太刀を抜いたが、股を一|揮《き》! 充分に切った。
「あっ」
 という悲鳴! 集五郎だ。切られてグダグダに膝を突いたところを、
「許してやろうぞ! 命ばかりは! ……やれ! 君江!」
「あい!」と云うと、君江は馬を追い立てた。
 馬は一散に馳せ下る。馬上の桔梗様の袖が靡き、崩れた髪の毛が渦を巻く。
 血刀を片手に下げたまま、後を追って走る一式小一郎の、その勢いに恐れたのであろう。誰一人それを追おうともしない。
 盆地の一角では田安家の勢と、一ツ橋家の勢とが切り合っている。

「昆虫館再興は山尼の徒の為なり」
 だが本当を云う時は、
「昆虫館再興は弁天松代の為なり」
 こう云わなければならないのである。
 と云うのは山尼の一団と、昆虫館の一団とが、いよいよ衝突しようとした時、片足の吉次が盗み取った雄蝶を、吉次をたぶらかして滝壺から出させ、それを奪って昆虫館へ駈け込み、昆虫館主人に渡したので、それを山尼の一団へ渡し、戦いを未然に防いだからである。

「神秘昆虫館」の物語も、数種説明を加えることによって、大団円とすることにする。永世の蝶の持っていた、奇怪の謎は解けただろうか? 山尼の徒が持ち去ってしまった。そうして山尼はどこへ行ったものか、その消息を失ってしまった。自然永世の蝶の謎もどうなったものか解らない。山尼の迫害から遁がれたため、昆虫館は昔にかえり、昆虫館主人はそこに住んで、研究をつづけたということであるが、そもそも昆虫館主人とは、どういう素性の人物なのであろう? ある伝説による時は、家光に亡ぼされた駿河大納言の、正統の血を引いている人物であり、そうして隅田のご前なる人は、同じく妾腹の血を引いた人で、幕府にとっては二人ながら、恐れられていた人達であり、そうして高蔵尼という一女性は、駿河大納言を亡ぼすべく、活躍したところの本多上野介の、血を引いた姫だということである。昆虫館主人と高蔵尼とは、敵同志でありながら、どうしてかつては夫婦などになったのか? これこそ疑問というべきであるが、詳しいところは伝説にもない。
 ところで一式小一郎は、その後どういう生活をしたろう? 桔梗様と結婚したそうである。では君江は気の毒ではないか。いやいや彼女は風変わりの女で、そうして楽天家でもあったため、自分の運命を悲しみもせず、例の愛馬の手綱を取り、故郷へ帰ったということである。
 隅田のご前に至っては、依然隅田川の岸へ住み何やら大きな企てに、専念したということである。
 北王子妙子や冷泉華子の、その後の消息も明記されていない。

底本:「神秘昆虫館」国枝史郎伝奇文庫(十)、講談社
   1976(昭和51)年3月12日第1刷発行
※「纒」と「纏」、「跪座」と「跪坐」、の混在は底本通りにしました。
※誤植の確認には「大衆文学大系12」(講談社)を用いました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:六郷梧三郎
2008年5月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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