国枝史郎

甲州鎮撫隊—— 国枝史郎

   滝と池

「綺麗《きれい》な水ですねえ」
 と、つい数日前に、この植甚《うえじん》の家へ住込みになった、わたり[#「わたり」に傍点]の留吉《とめきち》は、池の水を見ながら、親方の植甚へ云った。
「これが俺《おれ》んとこの金箱さ」
 と、石に腰をかけ、煙管《きせる》をくわえながら、矢張り池の水を見ていた植甚は、会心の笑いという、あの笑いかたをしたが、
「この水のために、俺んとこの植木は精がよくなるのさ」
「まるで珠《たま》でも融かしたようですねえ。明礬水《みょうばんすい》といっていいか黄金水《おうごんすい》といっていいか」
「まあ黄金水だなア」
「滝も立派ですねえ。第一、幅が広いや」
「箱根の白糸滝になぞらえて作ったやつよ」
 可成り広い池の対岸《むこうがわ》に、自然石《じねんせき》を畳んで、幅二間、高さ四間ほどの岩組とし、そこへ、幅さだけの滝を落としているのであって、滝壺《たきつぼ》からは、霧のような飛沫《しぶき》が立っていたが、池の水は平坦《たいら》に澄返り、濃い紫陽花《あじさい》のような色に澱《よど》んでいた。留吉は、詮索《せんさく》好きらしい眼付で、滝を見たが、
「でもねえ、親方、この庭の作りからすれば、あの滝、少し幅が広過ぎやアしませんかね」
「無駄事云うな」
 と、植甚は、厭《いや》な顔をし、
「俺、ほんとは、手前の眼付、気に入らねえんだぜ」
「何故《なぜ》ね」
「女も欲しけりゃア金も欲しいっていうような眼付していやがるからよ」
「ほいほい。……あたり[#「あたり」に傍点]やした。……だがねえ親方、こんなご時世に、金なんか持っていたって仕方ありませんね」
「何故よ」
「脱走武士なんかがやって来て、軍用金だといって、引攫《ひっさら》って行ってしまうじゃアありませんか。……親方ア金持だというからそこんところを余程うまくやらねえと。……」
「うるせえ。仕事に精出しな」

 劇《はげ》しく詈合《ののしりあ》う声が聞え、太刀音が聞え、続いて女の悲鳴が聞えたのは、この日の夜であった。
 沖田総司《おきたそうじ》は、枕元の刀を掴み、夜具を刎退《はねの》け、病《やまい》で衰弱しきっている体を立上らせ、縁へ出、雨戸を窃《そっ》と開けて見た。とりこにしてある沢山の植木――朴《ほう》や楓《かえで》が、林のように茂っている庭の向うが、往来《みち》になっていて、そこで、数人の者が斬合っていた。あッという間に一人が斬仆《きりたお》され、斬った身長《せい》の高い、肩幅の広い男が、次の瞬間に、右手の方へ逃げ、それを追って数人の者が、走るのが見えた。静かになった。
「浪人どもの斬合いだな」
 と総司は呟き、雨戸を閉じようとした。すると足下から
「もしえ」
 という女の声が聞えて来た。さすがに驚いて、総司は足下を見た。縁に寄添い、一人の女が、うずくまっていた。
「誰だ」
「は、はい、通りがかりの者でございますが……不意の斬合《きりあい》で……ここへ逃込みましたが……お願いでございます……どうぞ暫くお隠匿《かくまい》……」
「うむ。……しかし、もう斬合いは終えたらしいが……」
「いえ……まだ彼方《むこう》で……恐ろしくて恐ろしくて……」
「そうか。……では……」
 と云って、総司は体を開くようにした。
 二人は部屋へ這入った。夜具が敷かれてあり、枕元に、粉薬だの煎薬《せんじぐすり》などが置いてあるのを見ると、女は、ちょっと眉をひそめたが、総司が、その夜具の上へ崩れるように坐り、はげしく咳《せき》入ると、すぐ背後《うしろ》へ廻《まわ》り、背を撫《な》でた。
「忝《かたじ》けない」
「いえ」
 行燈《あんどん》の光で見える総司の顔色は、蒼《あお》いというより土気色であった。でも、新選組の中で、土方歳三《ひじかたとしぞう》と共に、美貌《びぼう》を謳《うた》われただけあって、窶《やつ》れ果ててはいたが、それが却《かえ》って「病める花弁《はなびら》」のような魅力となってはいた。それに、年がまだ二十六歳だったので、初々《ういうい》しくさえあり、池田屋斬込みの際、咯血《かっけつ》しいしい、時には昏倒《こんとう》しながら、十数人を斬ったという、精悍《せいかん》なところなどは見られなかった。
 女は、背を撫でながら、肩ごしに、総司の横顔を見詰めていた。眉《まゆ》は円く優しかったが、眼も鼻も口も大ぶりの、パッと人眼につく、美しい女であった。でも、その限が、剃刀《かみそり》のように鋭く光っているのは何《ど》うしたのであろう。やがて総司は、女に介抱されながら、床の上へ寝かされた。女は、夜具の襟を、総司の頤《あご》の辺まで掛けてやり、襟から、人形の首かのように覗《のぞ》いている総司の顔を見ながら、枕元に坐っていた。慶応《けいおう》四年二月の夜風が、ここ千駄ヶ谷《せんだがや》の植木屋、植甚の庭の植木にあたって、春の音信《おとずれ》を告げているのを、窓ごしに耳にしながら、坐っていた。

   夢の中の人々

「お千代!」
 と不意に、眠った筈の総司が叫んだ。女は驚いたように、細い襟足を延ばし、男の顔を覗込《のぞきこ》んだ。
「お千代、たっしゃかえ! たっしゃでいておくれ!」
 と又総司は叫んだ。でも、その後から、苦しそうな寝息が洩れた。眠りながらの言葉だったのである。女はニッと笑った。遠くの方から、半鐘の音が聞えて来た。脱走の浪人などが、放火したのかもしれない。女はソロソロと、神経質に、部屋の中を見廻してから、懐中《ふところ》へ手を入れた。短刀の柄頭《つかがしら》らしい物が、水色の半襟の間から覗いた。
「済まん、細木永之丞君!」
 と又、眠っている総司は叫んだ。
「命令だったからじゃ、済まん」
 女は眼を据え、肩を縮め、放心したように口を開け、総司を見詰めた。
「済まんと云っているよ。……それじゃア何か理由《わけ》が……然《そ》うでなくても、この子供っぽい、可愛らしい顔を見ては。……」
 尚、総司の寝顔を見守るのであった。

 幾日か経った。お力――それは、沖田総司に、隠匿《かくま》われた女であるが、植甚の職人、留吉を相手に、植甚の庭で、話していた。
「苅込ってむずかしいものね」
「そりゃア貴女……」
「鋏《はさみ》づかい随分器用ね」
「これで生活《くって》て[#「生活《くって》て」はママ]いるんでさア」
「ずいぶん年季入れたの」
「へい」
 木蘭は、その大輪の花を、空に向かって捧《ささ》げているし、海棠《かいどう》の花は、悩める美女に譬《たと》えられている、なまめかしい色を、木蓮《もくれん》の、白い花の間に鏤《ちりば》めているし、花木の間には、苔《こけ》のむした奇石《いし》が、無造作に置かれてあるし、いつの間に潜込んで来たのか、鷦鳥《みそさざえ》が、こそこそ木の根元や、石の裾を彷徨《さまよ》っていた。そうして木間越しには、例の池と滝とが、大量の水を湛《たた》えたり、落としたりしていた。
 鳥羽、伏見で敗れた将軍家が、江戸城で謹慎していることだの、上野山内に、彰義隊《しょうぎたい》が立籠っていることだの、薩長の兵が、有栖川宮様《ありすがわのみやさま》を征東大総督に奉仰《あおぎたてまつ》り、西郷|吉之助《きちのすけ》を大参謀とし、東海道から、江戸へ征込《せめこ》んで来ることだのという、血腥《ちなまぐさ》い事件も、ここ植甚の庭にいれば、他事《よそごと》のようにしか感じられないほど、閑寂であった。
「姐《ねえ》さん、よくご精が出ますね」
 と、印袢纏《しるしばんてん》に、向鉢巻《むこうはちまき》をした留吉は、松の枝へ、一鋏《ひとはさ》みパチリと入れながら云った。
 お力は、簪《かんざし》で、髪の根元をゴシゴシ引掻《ひっか》いていたが、
「何よ」
「沖田さんのご介抱によく毎日……」
「生命《いのち》の恩人だものね」
「そりゃアまあ」
「あの晩かくまっていただかなかったら、斬合いの側杖《そばづえ》から、妾《あたし》ア殺されていたかもしれないんだものね」
「そりゃアまあ……」
「それに沖田さんて人、可愛らしい人さ」
「へッ、へッ、そっちの方が本音だ」
「かも知れないわね」
「あっしなんか何《ど》んなもので」
「木の端《はし》くれ[#「くれ」に傍点]ぐらいのものさ」
 パチリ! と留吉は、切らずともよい、可成り大事な枝を、自棄《やけ》で、つい切って了《しま》い、
「ほいほい、木の端くれか、……と、うっかり木の端くれ[#「くれ」に傍点]を切ったが、こいつ親方に叱られそうだぞ。……と、いうようなことはお預けとしておいて、木の端くれ[#「くれ」に傍点]だなんて云わずに、どうですい、この留吉へも、……」
 お力は返事もしないで、木間を隙《すか》して、離座敷の方を眺めた。
 その離座敷では、沖田総司と、近藤勇とが話していた。
 勇が来訪《たずねてき》たので、お力は、座を外したのであった。

   勇の説得

 この離座敷へも、午後の春陽《ひ》は射して来ていて、柱の影を、畳へ長く引いていた。
「板垣退助が参謀となり、岩倉具定を総督とし、土州、因州《いんしゅう》、薩州《さっしゅう》の兵三千、大砲二十門を引いて、東山道軍と称し、木曾路から諏訪へ這入り、甲府を襲い、甲府城代佐藤駿河守殿を征《おさ》め、甲府城を乗取ろうとしているのじゃ。そこで我々新選組が、甲州鎮撫隊と名を改め、正式に幕府から任命され、駿河守殿を援《たす》け、甲府城を守る事になり、不日《ふじつ》出発する事になったのじゃが……」
 と、色浅黒く、眼小さく鋭く、口一倍大きく、少い髪を総髪に結んでいる勇は、部屋の半分以上も射込んでいる陽に、白袴、黒紋付羽織の姿を焙《あぶ》らせながら、一息に云って来たが、俄に口を噤《つぐ》んで、当惑したように総司を見た。
 総司は、背後《うしろ》に積重ねてある夜具へ体をもたせかけ、焦心《あせ》っている眼で、お力が持って来て、まだ瓶にも挿《さ》さず、縁側に置いてある椿《つばき》の花を見たり、舞込んで来た蝶《ちょう》が、欄間の扁額の縁へ止まったのを見たりしていたが、
「先生、勿論《もちろん》、私も従軍するのでしょうな。何時《いつ》出発なさるのです」
「君も行きたいだろうが、その体ではのう。……それで今度は辛抱して貰うことになっていて、それでわし[#「わし」に傍点]が説得に来たという次第なのだが……ナニ、戦《いくさ》は今度ばかりでなく、これからもいくら[#「いくら」に傍点]もあるのだし、まして今度は戦は、味方が勝つにきまっておることではあり、だから君のような素晴らしい、剣道の天才の力を藉《か》りずとも……尤《もっとも》、我々の力で、甲府城を守り通すことが出来たら、莫大《ばくだい》な恩賞にあずかるという、有難い将軍家《うえさま》のご内意はあった。私や土方は、大名に取立てられることになっている。だから君も従軍したいだろうがいや……従軍しなくとも、従来《これまで》の君の功績からすれば、矢張り一万石や二万石の大名には確になれるし、私からも推薦して、決して功を没するようなことはしない。
 ……だから今度だけは断念してくれ。……それに、従軍しなくとも、君の名は、鎮撫隊の中へ加えておくのだから」
「いえ、先生、私は体は大丈夫なのです。……いえ、私は、決して、大名になりたいの、恩賞にあずかりたいのというのではありません。……私は、ただ、腕を揮《ふる》ってみたいのです。……ですから何うぞ是非従軍を。……それに今度の相手は、随分手答えのある連中だと思いますので。……それに新選組の人数は尠《すくな》し……そうです、先生、新選組は小人数の筈です。京都にいた頃は二百人以上もありました。それが鳥羽伏見二日の戦で、四十五人となり、江戸へ帰って来た現在では、僅か十九人……」
「いやいや」
 と勇は忙しく手を振った。
「それがの、今度、松本先生のお骨折りで、隊土を募ったところ、二百人も集まって来た。いずれも誠忠な、剣道の達人ばかりだ。……それに、勝《かつ》安房守《あわのかみ》様より下渡《さげわた》された五千両の軍用金で、銃器商大島屋善十郎から、鉄砲、大砲を買取り、鎮撫隊の隊士一同、一人のこらず所持しておる、大丈夫じゃ。……そればかりでなく、駿河守殿は、生粋の佐幕派、それに、城兵も多数居る。……人数にも兵器にも事欠かぬ。……だから君は充分ここで静養して……」
「先生、私の病気など何んでもないのです」
「それが然《そ》うでない。松本先生も仰せられた……」
「良順先生が……」
「そうだ、松本良順先生が仰せられたのだ。沖田だけは、従軍させては不可《いけ》ないと」
「…………」
「松本先生には、君は、一方《ひとかた》ならないお世話になった筈だ」
「現在《ただいま》もお世話になっております」
「柳営の御殿医として、一代の名医であるばかりでなく、豪傑で、大親分の資を備えられた松本先生が、然う仰せられるのだ。君も、これには反対することは出来まい」
「はい」
 総司は黙って俯向《うつむ》いて了った。

   思出の人

 総司は、良順の介抱によって、今日|生存《いきながら》えているといってもよいのであった。はじめ総司は、他の新選組の、負傷した隊士と一緒に、横浜の、ドイツ人経営の病院に入れられて、治療させられたのであったが、良順は
「沖田は、怪我ではなくて病気なのだから」
 と云って、浅草今戸の、自分の邸へ連れて来て療治したが
「この病気(肺病)は、こんな空気の悪い、陽のあたらない下町の病室などで療治していたでは治らない」
 と云い、この千駄ヶ谷の植甚の離れへ移し、薬は、自分の所から持たせてやり、時には、良順自身診察に来たりして、親切に手を尽くしているのであった。この良順に
「甲府への従軍は不可《いけな》い」
 と云われては、総司としては、義理としても人情としても、それに反《そむ》くことは出来なかった。
 総司が、従軍を断念したのを見ると、勇は流石《さすが》に気毒そうに云った。
「その代り、わしが君の分まで、この刀で、土州の奴等や薩州の奴等を叩斬るよ」
 と云い、刀屋から、虎徹《こてつ》だと云って買わせられた、その実、宗貞の刀の柄を叩いてみせた。すると総司は却って不安そうに云った。
「しかし先生、これからの戦いは、刀では駄目でございます。火器、飛道具でなければ。……先生は、負傷しておられて、鳥羽、伏見の戦いにお出にならなかったから、お解りにならないことと思いますが、官軍の……いいえ、薩長の奴等の精鋭な大砲や小銃に撃捲《うちまく》られ、募兵は……新選組の私たちは散々な目に……」

 この夜、燈火《ともしび》の下で、総司とお力とは、しめやかに話していた。従軍を断念したからか、総司の態度は却って沈着《おちつ》き、容貌《かお》なども穏やかになっていた。
「妾《わたくし》、あなた様から、お隠匿《かくまい》していただきました晩、あなた様、眠りながら、お千代、たっしゃかえ、たっしゃでいておくれと仰有《おっしゃ》いましたが、お千代様とおっしゃるお方は?」
 と、お力は何気無さそうに訊いた。
「そんな寝言、云いましたかな」
 と総司は俄に赧《あか》い顔をしたが、
「京都にいた頃、懇意にした娘だが……町医者の娘で……」
「ただご懇意に?」
 とお力は、揶揄《やゆ》するような口調でいい、その癖、色気を含んだ眼で、怨ずるように総司を見た。
 総司は当惑したような、狼狽《ろうばい》したような表情をしたが、
「ただ懇意にとは?……勿論……いや、併《しか》し、どう云ったらよいか……どっちみち、私は、これ迄に、一人の女しか知らないので」
 お力は思わず吹出して了った。
「まあまあそのお若さで、一人しか女を。……でもお噂によれば、新選組の方々は、壬生《みぶ》におられた頃は、ずいぶんその方でも……」
「いや、それは、他の諸君は……わけても隊長の近藤殿などは……土方殿などになると、近藤殿以上で。……ただ私だけが、臆病《おくびょう》だったので……」
「これ迄に、二百人もお斬りになったというお噂のある貴郎《あなた》様が臆病……」
「いや、女にかけてはじゃ。人を斬る段になると私は強い!」
 と、総司は、グッと肩を聳《そびや》かした。痩《や》せている肩ではあったが、聳かすと、さすがに殺気が迸《ほとばし》った。
 お力はヒヤリとしたようであったが、
「お千代さんという娘さんが、その一人の女の方なのでしょうね」
「左様」
 と迂闊《うっか》り云ったが、総司は、周章てて
「いや……」
「いや?」
「矢っ張り左様じゃ」
「よっぽど可《よ》い娘さんだったんでございましょうね」
「うん」
 と、ここでも迂闊り正直に云い、又、周章てて取消そうとしたが、自棄のように大胆になり、
「初心《うぶ》で、情が濃《こま》やかで……」
「神様のようで……」
「うん。……いや……それ程でもないが……親切で……」
「そのお方、只今は?」
「切れて了った!」
 こう云った総司の声は、本当に咽《むせ》んでいた。
「切れて……まあ……でも……」
「近藤殿の命《めい》でのう」
「何時《いつ》?」
「江戸への帰途。……紀州沖で……富士山艦で、書面《ふみ》に認《したた》め……」
「左様ならって……」
「うん」
「可哀そうに」
「大丈夫たる者が、一婦人の色香に迷ったでは、将来、大事を誤ると、近藤殿に云われたので」
「お千代様、さぞ泣いたでございましょうねえ。……いずれ、返書《かえし》で、怨言《うらみごと》を……」
「返書《へんしょ》は無い」
「まあ、……何んとも?……それでは、女の方では、あなた様が想っている程には……」
「莫迦《ばか》申せ!」
 と、総司は、眼を怒らせて呶鳴《どな》った。
「お千代はそんな女ではない! お千代は、失望して、恋いこがれて、病気になっているのじゃ!……と、わし[#「わし」に傍点]は思う。……病気になってのう」
 総司は膝へ眼を落とし、しばらくは顔を上げなかった。部屋の中は静かで、何時の間に舞込んで来たものか、母指《おやゆび》ほどの蛾《が》が行燈の周囲《まわり》を飛巡り、時々紙へあたる音が、音といえば音であった。総司は、まだ顔を上げなかった。お力は、その様子を見守りながら、(何んて初心《うぶ》な、何んて生一本な、それにしても、こんな人に、そう迄想われているお千代という娘は、どんな女であろう?……幸福《しあわせ》な!)と思った。と共に、自分の心の奥へ、嫉妬《ねたましさ》の情の起こるのを、何うすることも出来なかった。

   親友は討ったが

「あのう」
 と、ややあってからお力は、探るような声で云った。
「細木永之丞というお方は、どういうお方なのでございますの?」
「ナニ、細木永之丞※[#感嘆符疑問符、1-8-78] どうしてそのような名をご存知か」
 と、総司は、さも驚いたように云った。
「矢張りお眠《よ》ったままで『済まん、細木永之丞君、命令だったからじゃ、済まん』と、仰有《おっしゃ》ったじゃアありませんか」
「ふうん」
 と総司は、いよいよ驚いたように、
「さようなこと申しましたかな。ふうん。……いや、心に蟠《わだかまり》となっていることは、つい眠った時などに出るものと見えますのう。……細木永之丞というのは、わし[#「わし」に傍点]の親友でな、同じ新選組の隊士なのじゃが、故あって、わしが討取った男じゃ」
「まア、どうして?……ご親友の上に、同じ新選組の同士を?」
「近藤殿の命令だったので……」
「近藤様にしてからが、同士の方を……」
「いや、規律に反《そむ》けば、同士であろうと隊士であろうと、斬って捨てねば……細木ばかりでなく、同じ隊士でも、幾人となく斬られたものじゃ。……近藤殿の以前の隊長、芹沢鴨殿でさえ――尤もこれは、何者に殺されたか不明ということにはなっているが、真実《まこと》は、土方殿が、近藤先生の命令によって、壬生の営所で、深夜寝首を掻《か》かれたくらいで。……だがわしは細木を斬るのは厭だったよ。永之丞は可《よ》い男でのう、気象もさっぱりしていたし、美男だったし……尤も夫れだから女に愛されて、その為め再々規律に反き、池田屋斬込みの大事の際にも、とうとう参加しなかった。これが斬られる原因なのだが、その上に彼が溺《おぼ》れていた女が、どうやら敵方――つまり、長州の隠密らしいというので……」
「まあ、隠密?」
「うむ。それで、味方の動静が敵方に筒抜けになっては堪らぬと、近藤殿が涙を呑んで、わし[#「わし」に傍点]に斬ってくれというのだ。しかし私は『細木を斬ることばかりは出来ません。あれは私の親友ですから。……もし何うしても斬ると仰せられるなら、余人にお申付け下さい』と拒絶《ことわっ》たのじゃ。すると近藤殿は『親友に斬られて死んでこそ、細木も成仏出来るであろうから』と仰せられるのじゃ。そこで私も観念し、一夜、彼を、加茂河原へ連出し、先ず事情を話し『その女と別れろ、別れさえしたら、私が何んとか近藤殿にとりなし[#「とりなし」に傍点]て……』と云ったところ……」
 ここで総司は眼をしばたたいた。
 お力は唾《つば》を飲んだが、
「何と仰有いました?」
「別れられないと云うのだ」
「…………」
「そこで私《わし》は、では逃げてくれ、逃げて江戸へなり何処へなり行って、姿をかくしてくれと云うと、俺を卑怯者《ひきょうもの》にするのかと云うのだ。……もう為方《しかた》がないから、では此処で腹を切ってくれ、私が介錯《かいしゃく》するからと云うと、それでは、近藤殿から、斬れと云われたお前の役目が立つまいと云うのだ。私は当惑して、では何うしたらよいのかというと、お前と斬合ったでは、私に勝目は無いし、斬合おうとも思わない、私は向うを向いて歩いて行くから、背後《うしろ》から斬ってくれと云い、ズンズン歩いて行くのだ。月の光で、白く見える河原をなア。背後《うしろ》から何んと声をかけても、もう返辞をしないのだ。……そこで私は、……背後から只一刀で……首を!……綺麗に討《う》たれてくれたよ」
 息を詰めて聞いていたお力は(それじゃア永之丞さんは、話合いの上でお討たれなされたのか。……では総司さんを怨《うら》むことはないわねえ)と思いながらも、矢張り涙は流れた。その涙を隠そうとして、窓の方を向いた。すると、その窓へ、小石のあたる音がした。お力はハッとしたようであったが、
「蒸し蒸しするのね」
 と独言のように云い、立って窓際へ行き、窓を開けた。暈《かさ》をかむった月に照らされて、身長《せい》の高い肩幅の広い男が、窓の外に立っていた。
 お力は窃《そ》っと首を振ってみせ、すぐに窓を閉め、元の座へ帰って来た。
 総司は俯向いていた。自分が斬った、不幸な友のことを追想しているらしい。
「沖田様」
 とお力は、総司のそういう様子を見詰めながら、
「妾《わたし》を何う覚召して?」
「何うとは?」
「嫌いだとか、好きだとか?」
「怖い」
「怖い? まあ」
「親切な人とは思うが……何んとなく怖い!……それにわし[#「わし」に傍点]にはお千代というものがあるのだから……」
「お切れなされたくせに」
「強いられたからじゃ。……心では……」
「心では?」
「女房と思っておる。……それでもうお力殿には今後……」
「来ないように」
「済まぬが……」
「妾は参ります。……貴郎《あなた》様はお嫌いなさいましても、妾は、あなた様が好きでございますから。……それがお力という女の性《しょう》でございます」
(おや?)とお力は聞耳を立てた。
 池へ落ちている滝の音が、その音色を変えたからであった。
(誰かが滝に打たれているようだよ)
 然《そ》う、単調に聞えていた水音が、時々滞って聞えるのであった。
(可笑しいねえ)

   良人《おっと》を慕って

 お力が、総司の為の薬を貰って、浅草今戸の、松本良順の邸《やしき》を出たのは、それから数日後の、午後のことであった。門の外に、八重桜の老木があって、ふっくりとした総《ふさ》のような花を揉付《もみつ》けるようにつけていた。お力がその下まで来た時、
「松本良順先生のお邸はこちらでございましょうか」
 という、女の声が聞えた。見れば、自分の前に、旅姿の娘が立っていた。
「左様で」
 とお力は答えた。
「新選組の方々が、こちらさまに、お居でと承りましたが……」
「はい、近藤様や土方様や、新選組の方々が、最近までこちらで療治をお受けになっておられましたが、先日、皆様打揃って甲府の方へ――甲州鎮撫隊となられて、ご出立なさいました」
「まア、甲府の方へ! それでは、沖田様も! 沖田総司様も※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 悲痛といってもよいような、然ういう娘の声を聞いて、お力は改めて、相手をつくづくと見た、娘は十八九で、面長の富士額の初々しい顔の持主で、長旅でもつづけて来たのか、甲斐絹《かいき》の脚袢には、塵埃《ほこり》が滲《にじ》んでいた。
「失礼ですが」
 とお力は云った。
「あのう、お前様は?」
「はい、千代と申す者でございますが、京都から沖田様を訪ねて……」
「まあ、お前様がお千代さん……」
「ご存知で?」
「いえ」
 と、あわてて打消したが、お力は(これが、総司さんが、眠った間も忘れないお千代という女なのか。……総司さんは、お千代は、恋患いで寝込んでいるだろうと仰有ったが、寝込んでいるどころか、東海道の長の道中を、清姫より執念深く追って来たよ。……どっちもどっちだねえ)と思うと同時に、ムラムラと嫉妬《しっと》の情が湧いて来た。それで、
「はい、沖田様も新選組の隊士、それも助勤というご身分、近藤様などとご一緒に、甲府へご出発なさいましたとも」
 と云い切ると、お千代を掻遣《かいや》るようにして歩き出した。しかし五六間歩いた時、気になるので、振返って見た。お千代が、放心したような姿で、尚、松本家の門前に佇んでいるのが見えた。(態《ざま》ア見やがれ)と呟きながら、お力は歩き出した。でも矢張り気になるので、又振返って見た。一時に痩せたように見えるお千代が、松本家から離れて、向うへトボトボと歩いて行く姿が見えた。(京都へ帰るなり、甲府へ追って行くなり、勝手にしやがれ。総司さんは妾一人の手で、介抱し通すってことさ)と呟くと、足早に歩き出した。
 浅草から千駄ヶ谷までは遠く、お力が、植甚の家付近へ迄帰って来た時には、夜になっていた。
「お力」
 と呼びながら、身長《せい》の高い肩幅の広い男が、大|榎《えのき》の裾《すそ》の、藪《やぶ》の蔭から、ノッソリと現われて来た。その声で解ったと見え、
「嘉十《かじゅう》さんかえ」
 と云ってお力は足を止めた。
「うん。……お力、何を愚図愚図しているのだ」
「あせるもんじゃアないよ」
「ゆっくり過ぎらア」
「それで窓へ石なんか投げたんだね」
「悪いか」
「物には順序ってものがあるよ」
「惚れるにもか」
「何んだって!」
「お前の身分は何なんだい」
「長州の桂小五郎様に頼まれた……」
「隠密だろう」
「あい」
「そこで細木永之丞へ取入った」
「新選組の奴等の様子さぐるためにさ」
「ところが永之丞にオッ惚れやがった」
「莫迦お云い。……彼奴《あいつ》の口から新選組の内情《うちわ》聞いたばかりさ……池田屋の斬込へも、彼奴だけは行かせなかったよ」
「手柄なものか。……彼奴の方でも手前《てめえ》にオッ惚れて、ウダウダしていて、機会を誤ったというだけさ」
「そのため永之丞さん斬られたじゃないか。……新選組の奴等を一人でも減らしたなア妾の手柄さ」
「ところが手前、今度は永之丞を斬った沖田総司を殺すんだと云い出した」
「池田屋で人一倍長州のお武士《さむらい》さんを斬った総司、こいつを討ったら百両の褒美だと……」
「懸賞の金を目宛てにして、総司を討ちにかかったというのかい。体裁のいいことを云うな。そいつア俺の云うことだ。手前は、可愛い永之丞の敵を討とうと、それで総司を討ちにかかったのさ。……そんなことは何うでもいいとして、その手前が何処がよくて惚れたのか、総司に惚れて、討つは愚《おろか》、介抱にかかっているからにゃア、埒《らち》があかねえ。……お力、総司は俺が今夜斬るぜ!」
 と、佐幕方の、目明《めあかし》文吉に対抗させるため、長州藩が利用している目明の、縄手の嘉十郎は云って、植甚の方へ歩きかけた。

   女夜叉の本性

(この男ならやりかねない)
 こう思ったお力は、嘉十郎の袂を掴んだ。
(剣技《わざ》にかけちゃア、新選組一だといわれている沖田さんだけれど、あの病気で衰弱している体で、嘉十郎に斬りかけられては敵《かな》う筈はない。……総司さんを討たれてなるものか!……いっそ妾が此奴《こいつ》を!)
 と、肚《はら》を決め、
「嘉十郎さん、まア待っておくれ、お前が然うまで云うなら妾も決心して、今夜沖田さんの息の音とめるよ。……お前さんにしてからが然うじゃアないか、あの晩、二人でここへ来てさ、通りかかった脱走武士たちへ喧嘩を売りつけ、一人を叩っ斬ったのを見て、妾は植甚の庭へ駆込み、喧嘩の側杖から避けたと云って、沖田さんに隠匿《かくま》われ、そいつを縁に沖田さんへ接近《ちかづ》いたのも、お前と最初からの相談ずく、そこ迄二人で仕組んで来たものを、今になってお前さんに沖田さんを殺され、功を奪われたんじゃア、妾にしては立瀬が無く、お前さんにしたって、後口が悪かろう。……ねえ、沖田さんを仕止めるの、妾に譲っておくれよ。そうして懸賞の金は山分けにしようじゃアないか」
 憎くない婦《おんな》からのこの仕向けであった。四十五歳の、分別のある嘉十郎ではあったが、
「そりゃアお前がその気なら……」
「委せておくれかえ。それじゃア妾は今夜沖田さんを、こんな塩梅《あんばい》に……」
 と、右の手を懐中《ふところ》へ入れ、いつも持っている匕首《あいくち》を抜き
「グッと一突きに!」
 と嘉十郎の脾腹《ひばら》へ突込み……
「わッ」
「殺すのさ!」
 と、嘉十郎を蹴仆《けたお》し、地面をノタウツのを足で抑え、止《とど》めを刺し、
「厭だよ、血だらけになったよ。これじゃア総司さんの側へ行けやアしない」
 と呟いたが、庭へ駆込むと、池の端へ行き、手足を洗出した。途端に滝の中から腕が現われ、グッとお力の腕を掴み、
「矢張りお前も然うだったのか。お力坊、眼が高いなア」
 と、水を分けて、留吉が、姿を現わした。
「只者じゃアねえと思ったが、矢っ張り滝壺の中の小判を狙っていたのかい。俺も然うさ。植甚へ住込んだのも、植甚は大金持、そればかりでなく、徳川様のお歴々にご贔屓《ひいき》を受け、松本良順なんていう御殿医にまで、お引立てを受けていて、然ういう人達の金を預って隠しているという噂《うわさ》、ようしきた、そいつを盗み出してやろうとの目算からだったが、植甚の爺《おやじ》、うまい所へ隠したものよ、滝のかかっている岩組の背後《うしろ》を洞《ほこら》にこしらえ、そこへ隠して置くんだからなア。これじゃア脱走武士が徴発に来ようと、薩長の奴等が江戸へ征込《せめこ》んで来て、焼打ちにかけようと安全だ。……と思っている植甚の鼻をあかせ、俺アこれ迄にちょいちょい此処へ潜込んで、今日までに千両近い小判を揚げたからにゃア、俺の方が上手だろう――と思っているとお前が現われた。偉《えれ》え! 眼が高《たけ》え! 小判の隠場ア此処と眼をつけたんだからなア。…よし来た、そうなりゃアお互い相棒《あいづれ》で行こう。……が相棒になるからにゃア……」
 お力は、(然うだったのかい。滝の背後に金が隠してあるのかい、妾が、体の血粘《ちのり》洗おうと来たのを、そんなように独合点しやがったのかい。……然うと聞いちゃ、まんざら慾の無い妾じゃアなし……ようし、その意《つもり》で。……)
 例の匕首でグッと!
「ウ、ウ、ウ――」
 動かなくなった留吉の体を、池の中へ転がし込んだが、
(人二人殺したからにゃア、いくら何んでも此処にはいられない。行きがけの駄賃に、……云うことを諾《き》かない総司さんを……そうして、矢っ張り懸賞の金にありつこうよ)と、
 離座敷の方へ小走って行き、雨戸を窃《そ》っと開け、座敷へ這入った。総司は、やや健康を恢復《かいふく》し、艶《つや》も出た美貌を行燈に照らし、子供のように無邪気に眠っていた。
 お力は、行燈の灯を吹消した。

   片がついた

 鎮撫隊より一日早く、甲府城まで這入った、板垣退助の率いた東山道軍は、勝沼まで来ていた近藤勇たちの、甲州鎮撫隊を、大砲や小銃で攻撃し、笹子《ささご》峠を越えて逃げる隊土たちを追撃した。三月六日のことである。
 沖田総司を尋ねて、ここまで来たお千代は、峠の道側《みちばた》の、草むらの中に立って、呆然《ぼうぜん》としていた。あちこちから、鉄砲の音や、鬨《とき》の声が聞え、谷や山の斜面や、林の中から、煙硝の煙が立昇ったり、眼前の木立の幹や葉へ、小銃の弾があたったりしていた。そうして、鎮撫隊士が、逃下る姿が見えた。隊士たちは、口々に云っていた。
「敵《かな》わん、飛道具には敵わん!――精鋭の飛道具には」と。――
 一人の隊士が肩に負傷し、よろめきよろめき逃げて来た。お千代は走寄り、取縋《とりすが》るようにして訊いた。
「沖田総司様は、……討死にしましたか?……それとも……」
「ナニ、沖田総司?」
 と、その隊士は、不審そうにお千代を見たが、
「いや、沖田総司なら……」
 しかしその時、流弾が、隊士の胸を貫いた。隊士は斃《たお》れた。お千代は仰天し、走寄って介抱したが、もう絶命《ことき》れていた。
(妾ア何処までも総司様の生死を確める)
 と、お千代は、疲労と不安とで、今にも気絶しそうな心持の中で思った。
(そうして、総司様の前で、総司様から下された、縁切りのお手紙をズタズタに裂いて、妾は云ってあげる「いいえ、妾は、総司様の女房でございます」って)
 そのお千代が、下総流山の、近藤勇たちの屯所の門前へ姿を現わしたのは、四月三日のことであった。近藤勇や土方歳三などが、脱走兵鎮撫の命を受け、幕府から、この地へ派遣されたと聞き、恋人の総司もその中にいるものと思い、訪ねて来たのであった。しばらく門前に躊躇《ちゅうちょ》していると、門内から、二人の供を従え騎馬で、近藤勇が現われた。
「近藤様!」
 と叫んで、お千代は、馬の前へ走出し、
「沖田様は※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「お千代か!」
 と勇は、さもさも驚いたように云った。
「沖田か、沖田は江戸に居る。千駄ヶ谷の植木屋植甚という者の離座敷で養生いたしておる。……詳しいことも聞きたし、話しもしたいが、わしは是から、越ヶ谷《こしがや》の、官軍の屯所へ呼ばれて出頭するので、ゆっくり話しておれぬ。……わしの帰るまで、屯所内《ここ》で休んでおるがよい。知己《しりあい》の土方が居る」
 と云いすてると、馬を進めた。

 四月十一日、江戸城が開き、官軍が続々ご府内へ入込んで来た頃、沖田総司は、臨終の床に在った。枕元には、植甚や、その家族の者が並んで、静まり返っていた。過ぐる晩、お力がやって来て切りかかったのを防いだ時、大咯血をし、それが基で、総司の病気は頓《とみ》に悪化したのであった。近藤勇が、官軍の手で、越ヶ谷から板橋に送られ、其処《そこ》で斬られたということなども、総司の死を、精神的に早めたのでもあった。不幸なお千代が、やっと植甚の家を探しあてて、訪ねて来たのは、この日であった。植甚の人達は、以前からお千代のことは聞いて知っていた。それと知ると、お千代を直ぐに総司の枕元へ進《つ》れて来た。
「沖田様!」
 とお千代は、もう眼も見えないらしい、総司に取縋り、耳に口を寄せて呼んだ。
「お千代でございます! 京都から訪ねて参った、お前の女房、お千代でございます!」
 その声が心に通ったとみえて、総司の視線がお千代の顔へ止まった。
「お千代!……わしの女房!……然うだ!」
 しかしその顔に俄に憎悪の表情が浮かび、
「おのれ、お力イ――ッ」
 と云った。それが最後の言葉であった。

 翌月の十五日に始まったのが、上野の彰義隊の戦いであった。徳川幕府二百六十年の恩誼《おんぎ》に報いようと、旗本の士が、官軍に抗しての戦いで、順逆の道には背いた行為ではあったが、義理人情から云えば、悲しい理の戦いでもあった。しかし、大勢《たいせい》は予め知れていて、彰義隊の敗れることには疑い無かった。江戸の人々は、一日も早く、世間が平和になるようにと希望《のぞ》みながら、家根へ上ったり、門口に立ったりして、上野の方を眺めていた。長州の兵は、根津と谷中《やなか》から、上野の背面を攻めていた。その戦いぶりを見ようとして、権現様側に集まっていた群集の中に、お力もいた。髪を綺麗に結び、新しい衣裳《いしょう》を着ていた。沖田総司を殺しそこなった晩、これも行きがけの駄賃に、池の沖へ潜込み、盗み出した幾十枚かの小判が、まだ身に付いているらしく、様子が長閑《のどか》そうであった。島原の太夫《たゆう》から宮川町の女郎《おやま》、それから、隠密稼ぎまでしたという、本能そのもののようなこの女は、もう今では、細木永之丞のことも沖田総司のことも念頭に無いらしく、群集の中の若い男へ、万遍なく秋波を送っていた。しかしその時、背後から
「こいつがお力だ」
 という聞覚えのある声がしたので、驚いて振返って見た。植甚が群集の中に立って睨んでいた。
 あッと思った時、一人の娘が、植甚の横手から、自分の方へ走寄って来た。
「沖田さんの敵《かたき》!……妾《わたし》の怨み!」
「お千代!」
 お力は、匕首を、自分の鳩尾《みずおち》へ刺通したお千代の手を両手で握ったが、
「ああ……お前さんに殺されるなら……妾にゃア……怨みは云えないねえ」
 と云い、ガックリとなった。
 上野山内から、伽藍《がらん》の焼落ちる黒煙が見えた。幕府という古い制度の、最後の堡塁《とりで》であった彰義隊の本営が、壊滅される印の黒煙でもあった。
「片がついた」
 と植甚は、お千代を介抱しながら、黒煙を仰ぎ、感慨深そうに云った。
(何も彼も是《これ》で片がついた)

底本:「新選組興亡録」角川文庫、角川書店
   2003(平成15)年10月25日初版発行
底本の親本:「新選組傑作コレクション・興亡の巻」河出書房新社
   1990(平成2)年5月
初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社
   1938(昭和13)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大久保ゆう
校正:noriko saito
2004年8月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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