国枝史郎

天主閣の音—— 国枝史郎

 元文年間の物語。――
 夜な夜な名古屋城の天主閣で、気味の悪い不思議な唸り声がした。
 天主閣に就いて語ることにしよう。
「尾張名古屋は城で持つ」と、俚謡《りよう》にまでも唄われている、その名古屋の大城は、慶長十四年十一月から、同十六年十二月迄、約二ケ年の短日月で、造り上げた所の城であるが、豊公恩顧の二十余大名六百三十九万石に課し、金に糸目をつけさせずに、築城させたものであって、規模の宏壮要害の完備は、千代田城に次いで名高かった。
 金鯱で有名な天主閣は、加藤清正が自分が請うて、独力で経営したものであって、八方正面を眼目とし、遠くは敵の状況を知り、近くは自軍の利便を摂する、完全無欠の建築であった。石積の高さ六間五尺、但し堀底からは十間五寸、その初重は七尺間で、南北桁行は十七間余、東西梁行は十五間三尺、さて土台の下端から五重の棟の上端までを計ると、十七間四尺七寸五分だが、是が東側となると、更に一層間数を増し、地上から棟の上端まで、二十四間七尺五分あった。
 金鯱は棟の両端にあった。南鯱は雌でその高さ八尺三寸五分と註され、北鯱は雄で、稍《やや》大きく、高さ八尺五寸あった。木と鉛と銅と黄金と、四重張りの怪物で、製作に要した大判の額、一千九百四十枚、こいつを小判に直す時は、一万七千九百余両、ところで此金を現価に直すと、さあ一体どの位になろう? 鳥渡見当もつきかねる。名に負う慶長小判である。普通の小判とは質が異う。とまれ素晴らしい金額となろう。
 その天主閣で奇怪な音が、夜な夜な聞えるというのであった。
 だが毎晩聞えるのでは無く、月も星も無い嵐の晩に、愁々として聞えるのであった。
「金鯱が泣くのではあるまいかな?」などと天主番の武士達は、気味悪そうに囁いた。
「いずれ可く無い前兆だろうよ。……どうも些藩政が弛み過ぎたからな」
 時の藩主は宗春で、先主継友の末弟であり、奥州梁川から宗家に入り、七代の主人となったものであった。末弟の宗春が宗家を継いだのには、鳥渡面白い事件がある。
 享保元年のことであったが、七代の将軍家継が僅八歳で薨去した。そこで起こったのが継嗣問題で紀州吉宗を立てようとするものと、尾州継友を迎え[#「迎え」は底本では「迎へ」]ようとするものと、柳営の議論は二派に別れた。そうして最初は尾州側の方が紀州党よりも優勢であった。
 で継友も[#「 で継友も」は底本では「で継友も」]其家臣も大いに心を強くしていたが俄然形勢が変わり、紀州吉宗が乗り込むことになった。
 尾州派の落胆は云う迄も無い。「だが一体どういう理由から、こう形勢が逆転したのだろう?」
 研究せざる[#「研究せざる」は底本では「研究せぎる」]を得なかった。その結果或る事が発見された。家臣の中に内通者があって、それが家中の内情を、紀州家へ一々報告し、それを利用して紀州家では、巧妙な運動を行ったため、成功したのだということであった。
 一千石の知行取、伴金太夫という者が、その内通者だということであった。
 継友が如何に怒ったかは、説明するにも及ぶまい。だが是という証拠が無かった。処刑することが出来なかった。
 この頃宗春は宗家にいた。
「兄上、私が討ち果たしましょう」こう彼は継友に云った。
 その夜宗春は金太夫を召し寄せ、手ずから茶を立てて賜わった。金太夫が茶椀を捧げた途端「えい!」と宗春は一喝した。驚いた金太夫は茶椀を落し、宗春の衣裳を少し穢した。
「無礼者め!」と大喝し、宗春は一刀に金太夫を斬った。「それ一族を縛め取れ!」
 そこで、一族は縛め取られ、不敬罪の名の下に、一人残らず殺された。
「宗春、よく為た。礼を云うぞ」継友は衷心から、喜んだものである。
 その継友も八年後には、コロリと急死することになった。その死態が性急だったので、一藩の者は疑心を抱いた。「将軍吉宗の計略で無いかな?」――それは実に大正の今日まで、疑問とされている出来事であった。
 臨終にのぞんで継友が云った。「宗春には恩がある。あれ[#「あれ」に傍点]を家督に据えるよう」
 こういう事情で宗春は尾州宗家を継いだのであった。
 爾来尾州家は幕府に対して、好感を持つ事が出来なかった。その上宗春は活達豪放、英雄の素質を持っていた。で事毎に反対した。
「ふん、江戸に負けるものか。江戸と同じ生活をしろ」
 彼は夫れを実行した。如何に彼が豪放であり、如何に彼が派手好きであったか、古書から少しく抜萃《ぬく》ことにしよう。

「……諸事凡て江戸、大阪等、幕府直轄地同様の政治をなさんとせり。されば同年七月の盆踊には、早くも掛提灯、懸行燈《かけあんどう》等の華美に京都祗園会の庭景をしのばしめ、一踊りに金二両、又は一町で銀五十枚、三十枚、十五枚を与えて、是を見物するに至れり。嘗て近江より買ひ入れたる白牛に、鞍鐙、猩猩緋の装束をなし、御頭巾、唐人笠、御茶道衆に先をかつがせて、諸寺社へ参詣したりといふ。更に侯の豪華なる、紅裏袷|帷子《かたびら》、虎の皮羽織、虎の皮の御頭巾を用ひ、熱田参詣の際の如き、中納言、大納言よりも高位の御装束にて、弓矢御持ち遊ばされ、御乗馬御供矢大臣多く召連れたり。供廻り衆の行装亦数奇を極め、緋縮緬、紅繻子等の火打をさげ、大名縞又は浪に千鳥の染模様の衣服にて華美をつくしたり。
 遊芸音曲の類を公許し、享保十六年には、橘町の歌舞伎の興行を許し、侯自らも見物するに至れり。従来かつて無かりし遊女町を西小路に起し、翌年更に是を富士原、葛原に設け、それより栄国寺前、橘町、東懸所前、主水《かこ》町、天王崎門前、幅下新道、南飴屋町、綿屋町等にも、京、大阪、伊勢等より遊女多く入り込み、随って各種の祭事此時より盛んなり」
「とみに城下は歌吹海となり、諸人昼夜の別無く芝居桟敷へ野郎子供を呼び、酒盛に追々遊女もつれ行き、寒中大晦日も忘れて遊びを事とす」
 云々と云ったような有様であった。
 が、彼が斯う云ったような、華美軟弱主義を執ったのには、一家の見識があったのであった。
 無理想であったのでは無いのであった。
 彼は夫れに就いて斯う云っている。
「すべて人といふものは、老たるも若きも、気にしまり[#「しまり」に傍点]とゆるみ[#「ゆるみ」に傍点]なくては万事勤めがたく、中にも好色は本心の真実より出る故、飯食ふと同じ事なり。それ故其場所なければ男女しまり[#「しまり」に傍点]無し。平常召使い候女も却って遊女の如く成り、おのずから不義も多く出来、家の内も調はず、国の風俗までも悪くなりゆく事なり。此度所々に見物所、遊興所免許せしめたるは、諸人折々の気欝を散じ、相応の楽しみも出来、心も勇み、悪いたく[#「いたく」に傍点]固まりたる心も解け、子供いさかひ[#「いさかひ」に傍点]のやうになる儀もやみ、田舎風の士気を離れ、武芸は勿論、家業家職まで怠らず、万事融通のためなり」

 元文元年の正月であった。
 宗春は城内へ女歌舞伎を呼んだ。
 二十人余りの女役者の中で、一際目立つ美人があった。高烏帽子《たてえぼし》を冠り水干を着、長太刀をはいて[#「はいて」に傍点]、「静」を舞った。年の頃は二十二三、豊満爛熟の年増盛りで、牡丹花のように妖艶であった。
「可いな」と宗春は心の中で云った。「俺の持物にしてやろう」
 で、彼は侍臣へ訊いた。
「あの女の名は何んというな?」
「はは半太夫と申します」
「うむ、そうか、半太夫か。……姿も顔も美しいものだな」
「芸も神妙でございます」
「そうともそうとも立派な芸だ」
「一座の花形だと申しますことで」
 その半太夫は舞い乍ら、宗春の方を流眄《ながしめ》に見た。そうして時々笑いかけさえした。媚に充ち充ちた態度であった。もし宗春が彼女の美に、幻惑陶酔すること無く、観察的に眼を走らせたとしたら、彼女が腹に一物あって、彼を魅せようとしていることに、屹度《きっと》感付いたに相違無い。だが宗春は溺れていた。そんな事には気が付かなかった。
 その日暮れて興行が終え、夜の酒宴となった時、座頭はじめ主だった役者が、酒宴の席へ招かれた勿論その中には半太夫もいた。
 所謂無礼講の乱痴気騒ぎが、夜明け近くまで行われたが、宴が撤せられた時、宗春と半太夫とは寝室へ隠れた。
 そうして座頭は其代りとして、莫大な典物《はな》を頂戴した。
 此夜は月も星も無く、宵から嵐が吹いていた。
 で、天主閣の頂上では、例の唸り声が聞えていた。それは人間の呻き声にも聞え、鞭を振るような音にも聞えた。とまれ不穏の音であった。禍を想わせる声であった。
 其夜以来半太夫は、城の大奥から出ないことになった。お半の方と名を改め、愛妾として囲われることになった。
 宗春は断じて暗君では無かった。英雄的の名君で、支那の皇帝に譬《たと》えたなら、玄宗皇帝とよく似ていた。お半の方を得て以来は、両者は一層酷似した。玄宗皇帝が楊貴妃を得て、すっかり政事に興味を失い、日夜歓楽に耽ったように、宗春も愛妾お半の方を得て、すっかり藩政に飽きて了った。そうして日夜昏冥し、陶酔的酒色に浸るようになった。

 聖燭節《せいしょくせつ》から節分になり、初午から針供養、そうして※[#「さんずい+(日/工)」、第4水準2-78-60]槃会《ねはんえ》の季節となった。仏教の盛んな名古屋の城下は、読経の声で充たされた。
 梅が盛りを過ごすようになり、彼岸桜が笑をこぼし、艶々しい椿が血を滴らせ、壺菫《つぼすみれ》が郊外で咲くようになった。
 間もなく桜が咲き出した。そうして帰雁の頃となった。
 或日宗春は軽装し、愛妾お半の方を連れ、他に二三人の供を従え、東照宮へ出かけて行った。彼には斯ういう趣味があった。一方豪奢な行列を調え、城下を堂々と練るかと思うと、他方軽輩の姿をして、地下の人達と交際《まじわる》のを、ひどく得意にして、好いたものである。
 東照宮は長島町にあった。城を出ると眼の先であった。
 境内の桜は満開で、花見の人で賑わっていた。赤前垂の茶屋女が、通りかけの人を呼んでいた。大道商人は屋台店をひらき、能弁に功能を述べていた。若い女達の花|簪《かんざし》、若い男達の道化仮面、笑う声、さざめく声、煮売屋の釜からは湯気が立ち、花見田楽の置店からは、名古屋味噌の香しい匂いがした。
「景気は可いな。実に陽気だ」宗春の心も浮き立って来た。ぴらり帽子で顔を包み、無紋の衣裳を着ているので、誰も藩主だと気の附くものがない。それが宗春には得意なのであった。
 と、一人の四十格好の香具師《やし》が、爛漫と咲いた桜樹の根元に、風呂敷包を置き乍ら、非常に雄弁に喋舌っていた。
「さあお立合い聞いてくれ。いいや然うじゃあねえ見てくれだ。唐土渡りの建築模型、類と真似手のねえものだ。わざわざ長崎の唐人から、伝授をされて造った物だ。仇や疎かに思っちゃ不可ねえ。……尤も見るだけじゃお代は取らねえ。見るは法楽聞くも法楽! だからとっくり[#「とっくり」に傍点]見て行ってくんな。但し気に入った建築があって、買いたいというなら代は取る。そうして代価は仲々高え! 驚いちゃ不可ねえ一個百両だ! そりゃあ然うだろう屋敷を買うんだからな。それも素晴しい屋敷なのだからな! ……何、なんだって! 高いって? アッハハハ然うかも知れねえ。百両と云やあ大金だ。大道商売の相場じゃねえ。よし来た夫れじゃ負ける事にしよう。それも気前よく負けてやる。一個一両とは是どうだ! 負けも負けたり大負けだ。百両から一両に下ったんだからな。この辺が大道の商売だ。平几張面の[#「几張面の」はママ]商人にや、しよう[#「しよう」に傍点]と云ったって出来る事じゃねえ。え、何んだって未《まだ》高いって? 冗談じゃあねえ驚いたなあ。一両でも高いって云うのかい? 屋敷一個が一両だぜ。一両の屋敷ってあるものか! 堀立小屋を[#「堀立小屋を」はママ]建てた所で、一両ぐらいは直ぐかからあ。それが何うだ御屋敷なんだぜ。門があってよ玄関があって、母屋があって離座敷《はなれ》があり、泉水築山があるんじゃねえか! そうさ尤も模型だから這入って住むことは出来ねえが、そいつあ何うも仕方がねえ。……これがお前さん住める屋敷なら、二百両三百両じゃあ出来ねえんだからな。……とは云うものの考えてみれば、住めねえ屋敷が一両とは、ナール、こいつ高えかもしれねえ。よし来た夫れじゃ最う少し負けよう。ギリギリの所一分とは何うだ。アッハハハ負けたものさなあ。百両から一分になったんだからなあ。さあ最う此辺がテッペンだ。もう是からは一文だって引けねえ。いいかな御立合い引けねえんだよ。……兎も角もじっくり[#「じっくり」に傍点]見てくんな。この精巧な模型をよ。ごまかし[#「ごまかし」に傍点]なんか一個所だってねえ。ガッチリ建築法と造庭と、方位吉凶に合っているんだからな。だからよ、此奴を買って行って、尺に合わせて計ってみるがいい。そうして屋敷でも建ててえ時には、そっくり此奴を参考にして、トンカントンカン建てるがいい。大工を頼む必要はねえ。そうだ板っ切れの削り方と、釘の打ちようさえ知っていたら、自分で結構建てることが出来る。ところで種類なら幾通りでもある。九尺二間の裏店から、百万石の大名衆の、下屋敷まで出来てるのさ。尤も城の模型は無え。こいつは鳥渡物騒だからな。ウカウカそんな物を拵えようものなら、謀叛人に見られねえものでもねえ。おお恐え逆磔刑《さかはりつけ》だ! が、併しお大名衆から、特にご用を仰せ付かるなら、こいつは別物だ遠慮はしねえ、城の模型だって造ってみせる。山本勘介も武田信玄も、太田道灌も太閤様も、俺から云わせりゃ甘えものさ。昔から名ある築城師、そんなもなあ屁の河童だ! だがマア自慢はこれくらいとして、さて夫れでは実物に就いて、説教することにしようかな。……最初は是だ、この模型だ! 五行循環吉祥之屋敷!」
 こう云い乍らその香具師は、地面に置いた風呂敷包から、屋敷の模型を取り出した。
 今日の張ボテ式、子供瞞しの品ではあったが、さすがに自慢をするだけあって模型としては完全であり、殊には精巧を極めていた。

「さあ是だ!」と叫び乍ら香具師は模型を右手に捧げた。「畳の原理から説くことにしよう。由来畳というものは、神代時代からあったものだ。むかし天照大神の御孫、瓊々杵尊《ににぎのみこと》[#ルビの「ににぎのみこと」は底本では「ににぎのみごと」]の御子様に、彦火々出見《ひこほほでみ》というお子様があられ、大綿津見《おおわだつみ》へ到らせ給うや、海神豊玉彦尊《かいじんとよたまひこのみこと》、八重の畳を敷き設け、敬い迎うと記されてある。これ畳の濫觴だ。夫《それに》日本の畳たるや八八《はっぱ》六十四の目盛がある。六十四卦に象ったものだ。で、人間の吉凶禍福は、畳にありと云ってもよい。次に建築法から云う時は、忌む可きことが数々ある。神木を棟に使ってはならない。又逆木を使ってはならない。そうだ特に大黒柱にはな。運命が逆転するからよ。さて次には不祥事だ。すべて柱の礎《いしずえ》へ、石臼などを置いてはならない。地中に兜や名剣あれば、子孫代々出世はしない。石塔類でも埋もれていれば、死人相継いで出るだろう。こいつは説明にも及ぶまい。石の槨《かろうと》を埋めて置けば、財貨一切消滅する。こいつも大いに謹まなければならない。さて最後に間取りだが、こいつが一番むずかしい。陰陽五行相生相剋、こいつに象《かたど》って仕組まなければならない。鎮守、神棚、仏檀[#「仏檀」はママ]、門戸、入口、竈《かまど》、雪隠、土蔵、井戸、築山、泉水、茶室、納屋、隠居所、風呂、牛部屋、厩《うまごや》、窓口、裏口等、いずれも建方据え方に、秘伝があってむずかしい。ところで此処にある此の模型だが、一切吟味が施されてある。その点だけでも大したものだ。それに其上、屋敷というものは、住人に執っては城砦だ。攻めて来る敵を防がなければならない。ところで此処にある此模型だが、そういう点でも完全なものだ。まず見るが可い此小川を。普通の時には用川、一端そいつが戦時となると、忽然として堀になる。嘘だと思うなら見るがいい」
 こう云い乍ら香具師は、地面に置いてある土瓶を取り上げ、模型屋敷の小川の中へ、トロトロと水を注ぎ込んだ[#「注ぎ込んだ」は底本では「住ぎ込んだ」]。張ボテではあるが堅牢だと見えて、滲みも滴りもしなかった。
「よいかお立合い、この水がだ、石一つの動かし加減で、変化するから面白い」
 こう云い乍ら、模型屋敷の小川の一所に飛び出している、[#「、」は底本では「。」]小さい岩型の痣の頭を、香具師は指先でチョイと押した。と、洵《まこと》に不思議にも、水が瞬間に無くなって了った。と思う間もあらばこそ、屋敷の四方から其水が、沸々盛り上って湧き出して来た。そうして見る見る屋敷の四方をグルリとばかりに取り巻いた。門の影や土塀の影や、木立の影がその水面に、逆に映っている態は、小さい小さい竜宮城が、現出したとしか思われない。
「さて大水が現れて屋敷の周囲を取り巻いた。百人の敵が襲って来ても、悠に二日は防ぐことが出来る。次に此処に竹藪がある。これが又非常に重大な武器だ。ひっ削いで火に燻らせ、油壺の中へザンブリと入れたら、それで百本でも二百本でも、急拵えの竹槍が出来る。が、これは真竹に限る。八九の竹や漢竹では、鳥渡そういう用には立たねえ。……ところで屋敷の裏庭にあたって、石灯籠が一基ある。こいつが只の石灯籠じゃあねえ。嘘だと思うなら証拠を見せる。おおお立合い、誰でもいい、鳥渡台笠へ障ってくんな。遠慮はいらねえ障ったり障ったり」
 群集の中に職人がいたが「おお親方俺が障るぜ」
 云い乍ら腕をグイと延ばし、灯籠の台笠へ指を触れた。途端に轟然たる音がして、石灯籠の頂上から、一道の烽火《のろし》が立ち上り、春日|怡々《ついつい》たる長閑の空へ、十間あまり黄煙を引いた。
 あまりの意外に群集は、ワッと叫んで後へ退ったが、これは驚くのが当然であろう。
 群集の中に立ち雑《まざ》り、香具師の様子に眼を付けていた。[#「。」はママ]尾張中納言宗春は、此時スタスタと歩き出したが、境内中門の前まで来ると、ピタリとばかり足を止めた。
「九兵衛、九兵衛!」と侍臣を呼んだ。
 近習頭の小林九兵衛は「はっ」と云うと一礼した。
「其方、あの香具師を何んと思うな?」
「は、どうやら怪しい人間に……」
「うむ、些《いささか》、怪しい節がある。築城術の心得があり、しかも火術にも達しているらしい」
「いかがでござりましょう、縛め取りましては?」九兵衛は顔色をうかがった。
「いやいや待て待て考えがある。……其方、此処に警戒し、彼奴の様子を窺うがいい。立ち去るような気勢があったら、はじれぬように後を尾行け、その住居を突き止めて参れ」
「かしこまりましてござります」
 そこで宗春の一行は、九兵衛を残して帰館した。
 永い春の日も暮に近く、花見の客も帰り急ぎをした。
 中門の袖に身を隠し乍ら、九兵衛は様子を窺っていた。
 と、香具師は荷物を肩にし、チラリ四辺を見廻わしてから、足早に境内を出て行った。
「よし」と云うと小林九兵衛は、中門の袖からヒラリと出た。
 怪しい香具師、妖艶なお部屋、天主閣での唸き声。……どう事件が展開するか?

 香具師はズンズン歩いて行った。
 今日の地理を以て説明すれば、長島町を西へ執り茶屋町、和泉町を北に眺め、景雲橋の方へ進んで行った。景雲橋を渡り明道橋を渡り、尚何処迄も西の方へ進んだ。もう此辺は城下の外で、向うに一塊此方に一塊、百姓家が立っているばかりであった。いつか日が暮れ夜となったが、十五夜の月が真丸に出て、しくもの[#「しくもの」に傍点]ぞ無き朧月、明日は大方雨でもあろうか、暈《かさ》を冠ってはいたけれど、四辺《あたり》は紫陽花色《あじさいいろ》に明るかった。
 と、一軒の家があった。その戸口まで行った時、香具師の姿は不意に消えた。門の戸の開いたらしい音もなかった。と云って裏手へ廻ったようでもない。文字通り忽然消えたのであった。
 後を尾行けて来た小林九兵衛は、おや[#「おや」に傍点]と呟いて足を止めた。どう考えても解らなかった。で兎も角も接近し、其家の様子を見ようとした。変哲もない家であった。ただ普通の百姓家であった。表と裏とに出入口があって、粗末な板戸が立ててあった。二階無しの平屋建で、畳数にして二十畳もあろうか、そんな見当の家であった。屋根に一本の煙突があったが、それとて在来《ありふれ》た煙突らしい。
「さて是から何うしたものだ」九兵衛は鳥渡考えた。「本来俺の役目と云えば、住居を突き止めることだけだ。幸い住居は突き止めた。このまま帰っても可い筈だ。……だが何うも少し飽気《あっけ》ないな」そこで彼は腕を組んだ。
 と、明瞭と耳元で、こう云う声が聞えて来た。「腕を組むにゃァ及ばねえ。遠慮なく這入っておいでなせえ」
「え」と云ったが仰天した。「さては何処かで見ているな」で、グルリと見廻した。併し何処にも人影が無かった。田面が月光に煙っていた。立木が諸所に立っていた。立木の蔭にも人はいない。
「家の中から呼んだにしては、声があんまり近過ぎる」思わず九兵衛は小鬢を掻いた。
「小鬢を掻くにやァ当らねえ。さっさと這入っていらっしゃい。が門からは這入れねえ。門へ障ったら龕燈返《がんどうがえ》しだ。那落の底へお陀仏だ。壁だ壁だ壁から這入りねえ。ようがすかい、向って右だ。その壁へ体を押つ付けなせえ。それからお眼を瞑るんで。開いたが最後大怪我をする。……物事早いが当世だ。さあさあ体を押つ付けなせえ」香具師の声が復聞えた。そうして其声には魅力があった。逆らうことが出来なかった。そこで九兵衛は云われるままに、体を壁に押つ付けた。そうして固く眼を瞑った。すると其壁に蛸の疣があって彼の体へ吸い付いたかのように、ピッタリ壁が吸い付いた。と思った其途端、彼は家の内へ引き込まれた。
「もう可うがす。眼を開いたり」
 云われて九兵衛は眼を開いた。香具師が笑い乍ら坐っていた。
 部屋の内を見廻わして、九兵衛は思わず眼を見張った。何に彼は驚いたのか? 部屋の様子が余りにも、乱雑を極めていたからであった。部屋は二つに仕切られていた。手前の部屋から説明しよう。その部屋は三方板壁であった。形から云えば真四角で、簀子張りの八畳敷で、その点から云う時は、変った所も無いのであるが、天井から様々の綱や糸や、棒や鉄棒が釣り下げられていた。そうして太い煙突が、簀子から天井を貫いて、屋根の上まで突き出ていた。と思うのは間違いで、実は夫れは煙突では無く、煙突の形をした何かなのであった。円周四尺直径一尺、総体が黒く塗られていた。そうして根元から五寸程の所に、斜めに鏡が嵌め込まれていた。
 戸外に面した壁の一点に、棒のような物が突き刺されていた。その端が坐っている香具師の口の辺へ真直に突き出されていた。そうして其先が漏斗《じょうご》型をなし、矢張り黒く塗られていた。
 簀子の上には様々の模型が、雑然紛然と取り散らされてあった。屋根の模型、大砲の模型、人形の模型、動物の模型、鳥の模型、魚の模型……そうして今日の飛行機の模型、そうして今日の望遠鏡の模型、そうして今日の竜吐水《ポンプ》の模型……地球儀の模型、螺旋車の模型、軍船の模型、楽器の模型、磁石の模型、写真機の模型……玩具屋の店へでも行ったように、無雑作に四辺に取り散らされてあった。
「おおおおお侍さん何うしたんだい。場銭は取らねえ。お坐りなせえ。さて小林九兵衛の旦那、ようこそおいで下さいやした。どういう風の吹き廻わしか。中納言様にもお目通り致し、今日は可い日でございましたよ。……尾行《つ》けて来なさるとは先刻承知、ナーニ実はわっち[#「わっち」に傍点]の方から、此処までご案内したんでさあ。此処はね、旦那、わっち[#「わっち」に傍点]に執っちやァ、住居でもあれば工場でもあり、隠家でもありやァ本陣でもあるんで。……が、一番似つかわし[#「つかわし」に傍点]いのは、矢張り工場という言葉でしょうね。まあご覧なせえ向うの部屋を」

 香具師はペラペラ喋舌《しゃべ》り立った。九兵衛はすっかり煙に巻かれ乍ら、隣の部屋へ眼を遣った。まさしく其処は工場であった。大工の道具一式が、整然として並べられてあった。そうして巨大な檜丸太が幾十本となく置いてあった。
 模型は其部屋で作るのらしい。が、それは可いとして、煙突のような黒い物と、壁から突き出た鉄棒とは、一体何ういう物なのだろう?
「城内の旦那のご入来だ。せめてお茶でも出さずばなるめえ」
 こう云い乍ら香具師は、天井から下っている一筋の糸を、グイと掴んで引っ張った。と、天井からスルスルと、茶器を載っけた丸盆が、身揺ぎもせず下りて来た。
「おおおお鉄瓶はどうしたえ。湯が無けりゃァ茶は呑めねえ」こう云い乍ら香具師は、もう一筋の糸を引いた。と、鉄瓶が下りて来た。
「男ばかりじゃァ面白くねえ。ひとつ別嬪を呼びやしょう」
 云い乍ら香具師は手を延ばし、背後の壁の一点へ触れた。と其処へ穴が開き、一人の女が現れ出た、全身がブルブル顫えていた。その歩き方も不自然であった。
「お花さんえ、さあお坐り」ポンと香具師は畳を打った。同時に女はベタリと坐った。その坐り方も不器用であった。
 そこで九兵衛は眼を据えて、じっと女を観察した。何んのことだ人間では無い。木で作った人形なのであった。
「お目見得は済んだ。帰ったり帰ったり。[#「。」はママ]」復もやポンと畳を打った。その拍子に立ち上り、女は壁の方へ辷って行った。そうして元の穴へ身を隠した。と音も無く壁が閉じた、糸筋ほどの継目も見えない。
「おっ、畜生! 来やがったな!」どうしたものか香具師は、俄に叫ぶと居住居を直し、煙突形の円筒へ、斜めに篏め込まれた鏡面をグッとばかりに睨み付けた。驚いた九兵衛も首を延ばし、これも鏡面を覗き込んだ。
 何が其処に写っていたか? 紫陽花色の月光が、鏡一杯に溢れていた。その中に一人の人間が、首を傾げ乍ら立っていた。それは戸外の光景であった。鏡に写った人物は、八十余りの老人で、胴服を着し、伊賀袴を穿き、夜目に燃えるような深紅の花を、一茎《ひとくき》右手に持っていた。
「気色の悪い爺く玉だ! 毎晩家の前に立ちやァがる」香具師は呻くように呟いた。「それにしても綺麗な花だなあ。見たことのねえ綺麗な花だ。焔が其尽凍ったような花だ。……おや、裏手へ廻りやァがる。へ、篦棒《べらぼう》! 負けるものか!」
 円筒に取手が付いていた。その取手をキリキリと廻わした。連れて円筒がグルリと廻った。家の裏手の光景が、鏡の面へ現れた。
 その老人は屋根を見上げ、何やら思案に耽っているらしい。と、そろそろと表へ廻った。そこで香具師は取手を廻わした。尚老人は考え込んでいた。
「どうも彼奴ァ俺の苦手だ。構うものか毒吐いてやれ」
 香具師はヒョイと手を延ばし、壁から突き出された鉄棒を握り、端に付いている漏斗形の口へ、自分の口を持って行った。
「おお爺さん、何をしているんだ。借家を探すんじゃァあるめえし、ためつすがめつ[#「ためつすがめつ」に傍点]人の家を毎晩毎晩何故見るんでえ。用があるなら這入って来な。用がねえなら帰るがいい。気にかかって仕方がねえや。それともお前は泥棒なのか。アッハハハ泥棒にしちゃあ少し年を取り過ぎていらあ。八十の熊坂って有るものじゃァねえ。なんの嘘をつけ[#「つけ」に傍点]熊坂なものか! 昼トンビの窃々《こそこそ》だろう! おっと不可ねえ晩だっけ、晩トンビなんてあるものじゃァねえ。どっちみち好かねえ爺く玉さね。帰ってくんな。帰れってんだ! それとも用でもあるのけえ。お合憎様ご来客だ。今夜は不可ねえ、出直して来な」
 すると戸外の老人の声が、空洞《うつろ》の鉄棒を伝わって、すぐ耳元で話すかのように、明瞭部屋の中へ聞えて来た。
「お若えの、お若えの……」変に気味の悪い声であった。
「糞でも喰らえ! 巫山戯《ふざけ》やがって! 四十の男をとらまえて、お若えのとは何事だ! 尤もお前よりは若えがな」
「花をやろう、珍らしい花だ」
「ままにしやがれ! 仏様じゃァねえ! 花を貰って何んにする」
「珍らしい花だ。眠花だ。唐土渡来の眠花だ」
「唐土渡来の眠花だって?」香具師はチラリと眼を顰《ひそ》めたが「折角だが用はねえ」
「お若えの、お若えの」老人の声は尚つづいた。「天主で聞える唸り声! 止すがいい、一人占めはな!」

「む」と香具師は息を詰めた。
 途端に写っていた鏡面の、老人の姿がフッと消えた。後には蒼茫たる月光ばかりが、鏡一杯に溢れていた。

 小林九兵衛の報告を聞くや、尾張中納言宗春は、ひどく香具師へ興味を持った。
 そこは豪放活達の彼で、香具師を城内へ召すことにした。使者の役は九兵衛であった。さぞ喜ぶかと思いの他、香具師は迷惑そうな顔をした。
「ご領主様のお召しとあっては、お断わりすることも出来ますめえ。だが条件がございます。先ず扮装は此儘の事。次に言葉も此儘のこと、どうも坐ると足が痛え、で、胡座《あぐら》を掻かせて下せえ。それから話は直答だ。これで可ければ参りやしょう」
 これには九兵衛も驚いて了った。一旦城へ引き返し、宗春侯の御意を訊いた。
「名人気質、却って面白い。かまわないから連れて参れ」
 そこで九兵衛はかしこまって[#「かしこまって」に傍点]、ふたたび香具師を訪れた。
「へえ然うですかえ、感心だなあ。流石はご三家の筆頭だ。どうもお心の広いことだ。ようがす、夫れじゃァ参りやしょう」有り合う布呂敷へ模型を包んだ。「こいつあ殿様へのお土産だ。喜んで下さるに違えねえ。只の模型じゃァ無えんだからな」ヨイショと背中へ引担いだ。駕籠へ乗れと進めても、いっかな香具師は乗ろうとしない。表門からは通せない裏門へ廻われと九兵衛が云うと、香具師は不機嫌な顔をした。
「不浄な人間じゃァあるめえし、なんで裏門から通るんですい。面倒臭えなあ俺は帰る」
 とうとうこんなことを云い出して了った。そこで玄関から上ることにした。広大華麗な城内の様子も、一向香具師には感じないと見え、平気でノシノシ歩いて行った。通された部屋は孔雀の間で、襖から欄間から衝立から、孔雀の絵模様で飾られていた。
 出て来たのは宗春であった。
「おお香具師か、よく参った」宗春は気軽に声を掛けた。[#「掛けた。」は底本では「掛けた」]「胡座を掻け、寛ぐがいい」そうして自分も胡座を掻いた。
「よいお天気でございます」香具師はペコンと辞儀をしたが「何かご用がござんすそうで?」
「うん」と云ったが宗春は、じっ[#「じっ」に傍点]と香具師へ眼を付けた。「お前の名は何というな?」
「へい、多兵衛と申します」
「おお模型かな、その包は?」
「へい、さようでございます」
「ひとつそいつ[#「そいつ」に傍点]を見せてくれ」
「ようがすとも、お見せしましょう。見せるつもりで持って来たんで」
 取り出したのは鳩の模型、畳へ置くと懐中から、一掴みの豆を取り出した。
「観音様の使者め。鳩が豆を拾います」云い乍ら颯と豆を蒔いた。と鳩がピョンピョン飛んで、後から後から豆を拾った。
「面白く無いな。子供瞞しだ。もっと面白い模型は無いか」
「ようがす、それじゃァ〈透視光〉だ」こう云い乍ら取り出したのは格恰の機械であった。まず形は長方形、内部は黒く塗られていた。一方の口は硝子張り、反対の口は板で張られ、中央に小さい穴があった。ところで外見からは解らなかったが、角筒の内部の一箇所に薄い板の仕切りがあり、その真中に鳥の羽根を張った、四角な穴が穿たれていた。
「唐土発明の透視光、一切人間の胎内が解る……おお九兵衛さん手をお出しな。……おっと宜しい夫れで結構。あっ、不可ねえ、障子を開けたり。お手をお日様に向けるんだ。……さて殿様ご覧なせえ。肉を透して骨が見える」
 そこで宗春は顔を差し出し、一方の穴から覗いて見た。いかさま九兵衛の指の肉が、ボッと左右に薄れて見え、骨が鮮かに認められた。
「さて此度は殿様の番だ」
 こういうと香具師は機械を持ち換え[#「持ち換え」は底本では「持ち換へ」]、宗春の胸へ硝子口を向けた。
「お心の中が解ります。善心があれば善心が見え、悪心があれば悪心が見える。もし夫れ謀叛心がある時は、その謀叛心が写って見える。好色の心は赤く見え、惨忍の心は黒く見える。これ即ち透視光の威力。どれ拝見いたしやしょう」
「無用だ!」と宗春は威丈高に叫んだ。それから侍臣を返り見た。
「これお前達は隣室へ立て!」
 バラバラと侍臣達は席を立った。
 と宗春は刀を取り、ブッツリ鯉口を指で切った。
 ジリジリと進んで睨み付けた。
「唐土渡来とは真赤な偽! これ貴様は邪教徒であろう! 白状致せ吉利支丹であろう!」

 香具師は微動さえしなかった。透視光の穴へ片眼をあて、じっと[#「じっと」に傍点]宗春を見詰めていた。
「アッハハハ駄目の皮だ。殿様の心が写って見える。お前さんにァ切る気はねえ。嚇すつもりだということが、ちゃあんと透視光に写っている。……え、なんですって、吉利支丹ですって? 冗談云っちゃァ不可ません。そんなものじゃァございませんよ。唐土渡来の建築術で。……ヘッヘッヘッヘッ切りましたね。プッツリ鯉口を切りましたね。そんな事にゃァ驚かねえ。余人は知らず此わっち[#「わっち」に傍点]にゃァ殿様の心は解っていやす。よしんばわっち[#「わっち」に傍点]に解らずとも、透視光の面に書いてある。大丈夫だよ、抜きゃァしねえ。……お止しなせえましそんな真似は。……が、待てよ、こいつァ不思議だ! 真黒の物が写って見える。おっ、こいつァ殿様の心だ! ううむ偖は殿様には。……アッハハハ心配無用必ず素破抜きゃァしませんからね。ははあ成程そうだったのか。そういう心があったので。それでわっち[#「わっち」に傍点]を嚇したんですね。大丈夫でげす大丈夫でげす。決して云いふらしゃァしませんよ。……尤もこいつ[#「こいつ」に傍点]を云いふらしたひにゃァ、日本国中大騒動だ。煙硝蔵が開かれる。鎧甲が櫃から出る。旗指物が空に舞う。矢弾がヒューヒュー空を飛ぶ。ワーッ、ワーッと鬨の声だ。江戸と名古屋と戦争だ! おっとドッコイ云い過ぎた! そこまで云うんじゃァ無かったっけ。……が。併しだねえ殿様、芝居は止めようじゃァございませんか。刀は鞘に納めた方がいい。お互いその方が安穏でげす。但しほんとにお切んなさるなら、わっち[#「わっち」に傍点]の方にも覚悟がある。やみやみ殺されはしませんよ。と云うのは此機械だ」
 透視光をポンと投げ出すと、布呂敷包へ手を掛けた。取り出したのは鉄製円筒、一本の管が付いていて、横手に捩が取り付けられてあった。
「即ち孔明水発火器! 捩を捻ると水が出る。が、只の水じゃァねえ。火となって燃える大変な水だあの赤壁の戦で、魏《ぎ》の曹操の水軍を焼討ちにしたのも、此機械だ! さあ切るなら切るがいい。切られた途端に捩を捻る。一瞬の間に大火事だ! 結構なお城も灰燼だ。お前さんだって黒焦げだ。家来方は云う迄もねえ、可愛いお神さんもお坊ちゃんも、無惨や無惨や白骨だ! さあ切るならお切りなせえ……考えて見りゃァ脆えものさ。人間なんていうものはね! 素晴らしいのは機械だよ! が、その機械は誰が作った? 同じ人間だから面白え。人間が考えて作った機械それが人間を殺すんだからな! そこらが矛盾というものだろう。一旦作られた其機械は、機械として精々と進歩する。そうして人間をやっつける[#「やっつける」に傍点]! [#「! 」は底本では「!」]だがそんな事ァどうでもいい。切るか切らねえか二道だ! おい大将、どうしてくれるんだよう!」
 ノサバリ返った態度には、大丈夫の魂が備わっていた。
 尾張中納言宗春は、じっと様子を見ていたが、莞爾と笑うと刀を置いた。
「これ香具師、もっと進め」
「へい」
 と恐れず進み出た。
「よく見抜いたな、俺の心を」
「それじゃァ矢っ張り江戸に対して?」
「が、先ず夫れは云わぬとしよう。……さて、そこで頼みがある。どうだ香具師、頼まれてくれぬか」
「わっち[#「わっち」に傍点]の力で出来ますなら?」
「お前の器量を見込んで頼むのだ。お前でなければ出来ない仕事だ」
「見込まれたとあっては男冥利、ようがす、ウントコサ頼まれましょう。……で、お頼みと仰有るは?」
「うむ、他でもない、城の縄張」
「ナール、城の縄張で」
 香具師は小首をかしげたが、
「どこへお築きでございますな?」
「どこへ築いたら可いと思う?」
「成程、こいつあ尤だ。そいつから考えるのが順当だ。……壁に耳あり、喋舌っちゃァ不可ねえ。こいつァひとつ掌《てのひら》でも書きやしょう」
「おお夫れがいい。では俺も」
 二人は掌へサラサラと書いた。
「よいか」
「ようがす」
「それ是だ」
 パッと掌を見せ合った。
 さながら符節を合わせたように、二人の掌には同じ文字が、五個鮮かに記されていた。
  居附づくり
 というのであった。

 爾来香具師は名古屋城内へ、自由に出入り出来ることになった。
 人を避けて二人だけで――即ち宗春と香具師とだけで、密談する日が多くなった。そうして度々宗春は、香具師と連れ立って城外へ出た。二人は彼方此方歩き廻わった。何うやら、地勢でも調べるらしい。
 時々酒宴を催した。いつも其席へ侍《はべ》るのは、他ならぬ愛妾お半の方であった。
 何んの理由とも解らなかったが、不安の気が城内へ漂った。家来達は心配した。併し誰一人諫めなかった。それは諫めても無駄だからであった。活達豪放の宗春には、家老といえども歯が立たなかった。宗春以上の人物は、家来の中には居なかった。米の生る木を知らぬというのが、大方の殿様の相場であった。ところが宗春は然うで無かった。極わめて世故に通じていた。うかうか諫言《かんげん》など為ようものなら、反対にとっちめられて[#「とっちめられて」に傍点]了うだろう。
 徳川宗家からの附家老、成瀬隼人正をはじめとし、竹越山城守、渡辺飛騨守、石河東市正、志水甲斐守、歴々年功の家来もあったが、傍観するより仕方なかった。
 それに諫言するにしても、これと云ってとっこに[#「とっこに」に傍点]取るような眼に余る行跡も無いのであった。「素性も知れぬ香具師などを、お側へお近付けなされぬよう」「女歌舞伎の[#「女歌舞伎の」は底本では「女歌舞枝の」]太夫などを、側室にお使いなされぬよう」――精々こんなようなことでも云って、諫言するより仕方なかった。だが三家の筆頭で六十二万石[#「六十二万石」はママ]の大々名が、どんな妾を抱えようと、香具師のようなお伽衆を、大奥へ入れて酒宴しようと構わないと云えば夫れまでであった。
「ご微行をお控え遊ばすよう」こう諫言をした所で「今に始まったことでは無い」と、一蹴されれば夫れまでであった。
「怪しい香具師を近付けられ、何をご密談でございますな?」――まさか家来の身分として、此処まで立ち入って訊くことは、遠慮しなければならなかった。
 傍観するより仕方がなかった。
 しかし何うにも不安であった。
 よりより家来達は相談した。
「香具師の素性を調べようではないか」「お半の方の素性にも、何んとなく怪しい節がある。これも調べる必要がある」「何をご密談なさるのか、それを立聞く必要がある」「何処へご微行なさるのか、これも突き止める必要がある」
 そこで家来達は手分けをし、専門に調べることにした。みんな結局徒労に終った。香具師の素性もお半の方の素性も、掻暮見当が付かなかった。微行毎に尾行を付けたが、何時も巧妙に巻かれて了った。密談立聞きに至っては、殆ど絶対に出来そうも無かった。広い座敷の真中に坐り、四方の襖を開け放しそこで小声で話すのであった。近寄ることさえ出来なかった。
 傍観するより仕方無かった。
 真相の不明ということは、物の恐怖を二倍にする。
 城内を罩《こ》めている不安の気持が、よくそれに宛嵌まった。
 で、家来達は次第々々に、神経質になって行った。
 搗てて加えて、天主閣では例の奇怪な唸き声が、此頃益々烈しくなった。
 こうして時が経って行った。
 だが其中家来達は、意外なことを知ることが出来た。お半の方と香具師とが、同じ穴の貉《むじな》では無く香具師としてはお半の方を憎みお半の方としては香具師を憎み、互に競って宗春公へ、中傷しているということであった。
 そうして是は事実であった。
 或夜寝所でお半の方は、宗春に向かってこんなことを云った。
「妾《わたし》を可愛いと覚し召したら、香具師をお退け下さいますよう」
「何故な?」と宗春は不思議そうに訊いた。
「これということもございませんが、何んだか妾にはあの男が、気味悪く思われてなりません。可く無いことが起こりましょう。どうぞお退け下さいまし」
 その翌日のことであった。香具師が宗春へこんなことを云った。
「婦人に御不自由もございますまい。あのご寵愛のお半の方だけは殿、お退けなさりませ」
「何故な?」と宗春は不思議そうに訊いた。
「これということもございませんが、何んだか俺《わたし》にはあの婦人が変に小気味悪く思われましてな、可く無いことが起こりましょう。殿お退けなさりませ」
 宗春に執っては可笑しかった。
「二人で寵を争っているな。アッハッハッハッ莫迦な話だ」
 で、歯牙にも懸けなかった。

一〇

 春が逝って初夏が来た。花菖蒲の咲く頃になった。庄内川には鮎が群れ、郊外の早苗田では乙女達が、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]秧の業にいそしむようになった。
 間もなく五月雨の季節となった。
 屋敷町の中庭などに、カッと赤い柘榴の花が、こぼれるばかりに咲いているのが、暑い真夏を予想させた。
 やがて土用の季節となった。ムッチリと肥えた名古屋女が、白地の単衣に肉附を見せ、蚊遣の煙の立ち迷う、水縁などに端居する姿の、似つかわしい季節が訪れて来た。夕顔の花、水葵、芙蓉の花、木槿《むくげ》の花、百合の花が咲くようになった。
 そういう季節の或日のこと、香具師《やし》はフラリと家を出て、野の方へ散歩した。
 野には陽炎《かげろう》が立っていた。夏草が塵埃を冠っていた。小虫がパチパチと飛び翔けた。気持のよい微風が吹き過ぎた。ひどく気持のよい日であった。
 児玉を過ぎ、庄内村を通り、名塚を越すと土手であった。
 眼の下に広い川が流れていた。それは他ならぬ庄内川であった。川には橋がかかっていない。渡船《わたし》を渡らなければならなかった。で彼は渡船を渡った。
 もうこの辺は春日井の郡で、如何にも風景が田舎びていた。
 一宇の屋敷が立っていた。
「はてな?」
 と香具師は立止まった。「うむ」と彼は唸り出した。「これは素晴らしい屋敷だわい。四真相応大吉相の図説に、寸分隙無く叶っている。右に道路、左に小川、南に池、北に丘、艮《うしとら》の方角に槐樹のあるのは、悪気不浄を払うためらしい。青々とした竹林が、屋敷の四方を囲んでいるのは、子孫に豪傑を出す瑞象だ。正門の左右に橘を植えたは、五臓を養い寿命を延ばす、道家の教理に則ったものらしい……どれ、間取りを見てやろう」
 南方の丘へ上って行った。
 建物は幾棟かに別れていた。
 中央に在るのは主屋らしい。香具師は夫れから観察した。
「うん中の間が九六の間取だ。金生水の相生で、万福集川諸願成就繁昌息災を狙ったものらしい。つづいて五三の間取がある。家内安寧の間取というやつだ。うん夫れから三八の間取が、即ち貴人に寵せられ、青雲に登るというやつだ。ええと夫れから九八の間取、九は艮で金気を含み、八は坤《ひつじさる》で土性とあるから、和合の相を現している。主屋と離なれ別棟があり、白虎造りを為している。楡と※[#「木+危」、第4水準2-14-64]《くちなし》を植えたのは、火災を封じたものらしい。向き合った一棟が朱雀造りで、梅と棗を植えたのは、盗賊避けから来たものらしい。やや離れて玄武造り、杏と李を植えたのは、悪疫流行を恐れたものらしい。それと向かい合った一棟は、云わずと知れた青竜造りだ。桃と柳を植えたのは、狐狸の災いから遁れるためらしい。西北の隅に土蔵がある。しかも二棟並んでいる。辰巳の二戸前というやつだ。主人の威光益々加わり、眷族参集という瑞象だ。おやおやあれ[#「あれ」に傍点]は何だろう?」
 俄に香具師は眼を見張った。
 土蔵の横手に見たことも無い、変な建物があったからであった。屋根が陽を受けて光っていた。この時代に珍らしい硝子張りであった。屋根が硝子だということが、先ず香具師を驚かせた。建物は正しい長方形で、間口は凡一間半、それに反して奥行は、十間もあるように思われた。鰻の寝所とでも云い度いような、飛び離れた長い形であった。建物は青く塗られていた。
「驚いたなあ」と香具師は云った。「こんな建物は家相には無い。折角の瑞象をぶち壊している。一体どうしたというのだろう」
 万般が法則に叶っていて、それ一つだけが破格だけに、彼には不思議でならなかった。
「納屋で無し厩舎で無し、湯殿で無し離座敷でなし、どういう用のある建物だろう?」
 どう考えても解らなかった。
「不|躾《しつけ》乍ら訪問して見よう」
 彼はこう思って丘を下りた。表門は厳重に鎖されていた。しかし潜戸が開いていた。構わず内へ這入って行った。森閑として人気が無かった。可成り大きな屋敷だのに、人の姿の見えないというのは不思議と云えば不思議であった。玄関に立って案内を乞うた。
「ご免下さい。ご免下さい」
 どこからも返辞が来なかった。尚二三度呼んで見た。矢張り返辞は来なかった。香具師は些か当惑した。
「裏の方にでもいるのだろう」
 裏の方へ廻って行った。だが誰もいなかった。
 ひっそりとして寂しかった。
 近所に家は一軒も無かった。
 香具師は次第に大胆になった。例の奇形な建物の方へ、ズンズン足早に進んで行った。
 建物の戸口が開いていた。で彼は這入って行った。

一一

 一歩踏み入った香具師は「やっ」と云って眼を見張った。
 長方形の建物一杯、天上の虹でも落ちたかのように、紅白紫藍の草花が、爛漫と咲いていたからであった。
 建物は仕切られていなかった。端から端まで見通された。左右の壁に棚があり、それが階段を為していた。その上に大小無数の鉢がズラリと行儀よく並べられてあり、それが一つ一つ眼眩くような、妖艶な花を持っているのであった。
 部屋の恰度真中所に、一基の寝台が置いてあり、その上に老人が横臥っていた。八十歳あまりの老人で、身に胴服を纏っていた。手に煙管を持っていた。それは非常に長い煙管で、火盞が別して大きかった。
 香具師は老人をじっと見た。
「あっ」とばかりに仰天した。見覚えのある老人だからで。――
「おっ、お前か、爺く玉奴!」香具師は声を筒抜かせた。
「お若いの、よく見えた」老人は寝台から起き上った。「無作法な奴だ、爺く玉だなんて言葉を謹め、若造の癖に」こうは云ったが老人は、別に怒ってもいないようであった。
「驚いたなあ」と香具師は、部屋の中を見廻わした。
「何んだい一体この部屋は?」
「流石のお前にも解らないと見える。教えてやろうか、南蛮温室だ」
「え、何んだって、南蛮温室だって? で、一体何んにするものだ?」
「ごらんの通りだ、花が咲いている」
「そんな事は解っている」
「どうしてどうして解るものじゃあねえ。と云うのは花の種類よ。おいお若いの、先ずご覧、幾色の花があると思う」
「ふん」と香具師は憎くさげに「花作りじゃああるめえし、そんな事が何んで解る」
「三百種あるのだ、三百種」
「へえ、そんなにも有るのかい」香具師も鳥渡《ちょっと》驚いたらしい。「そんなに作って何んにするんだ」
「しかも普通の花じゃあ無い」老人は俄に真面目になった。「毒草だよ、毒草だよ」
「毒草※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
 と香具師は鸚鵡返した。少し顔が蒼白くなった。
「おいおいお若いの、何が恐ろしい。恐ろしいことは些少ない。毒草が厭なら云い換えよう、薬草だよ、薬草だよ」
「ははあ成程、薬草なのか」香具師は顔色を恢復した。
「おい、お若いの、あの花を見な」
 老人は一つの花を差した。五弁の藍色の花であった。
「何んだと思うな、この花を?」
「ふん、俺が何んで知る」
「亜剌比亜《あらびや》草よ、亜剌比亜草だ、絶対に日本には無い花だ。本草学にだって有りゃあしない。ところで此奴から薬が採れる。名付けて亜剌比亜麻尼と云う。一滴で人間の生命が取れる。殺人《ひとごろし》をすることが出来るのさ。……此奴は何うだ、知ってるかな?」
 一つの花を指差した。白色粗※[#「米+慥のつくり」、第3水準1-89-87]の四弁花であった。
「いいや、知らねえ、何んで知るものか」
「教えてやろう、虎白草だ。採れた薬を五滴飲ませると、間違い無しに発狂する。……扨《さて》、ところで此花は何うだ? 知っているかな、え、若いの?」
 黄色い花を指差した。
 香具師は黙って首を振った。
「教えてやろう、山猫豆だ。採れた薬を眼の中へ注ぐと一瞬にして潰れて了う。……此花は何うだ? 知ってるかな?」黒色の花を指差した。
 香具師は返辞をしなかった。
「知る筈が無いさ、知る筈が無いさ、本草学にだって無いんだからな。これは西班牙《いすぱにや》の連銭花だ。何んと美しい黒色では無いか。花弁に繊毛が生えている。が、決して障っては不可ない。障ったが最後肉が腐る。それはそれは恐ろしい花だ。……ところであの花を何んだと思う?」
 金黄色の花を指差した。
 香具師は返辞をしなかった。気味悪そうに見ただけであった。
「俗名惚草という奴だ。採った薬が惚れ薬だ。アッハッハッハッ洒落た花だろう。茶の中へ垂らして飲ませるのさ。間違い無く女が惚れる。お望みなら分けてやろう。……さて最後に此花だ。若いの、見覚えがあるだろうな?」
 深紅の花を指差した。
 焔が燃え乍ら凍ったような、凄い程紅い花であった。
 正しく香具師には見覚えがあった。
「唐土渡来の眠花!」
「然うだ」老人は気味悪く笑った。

一二

「然うだ」と老人は最う一度云った。「唐土渡来の眠花だ。二年生草本だ。茎の高さ四五尺に達し、その葉には柄が無い。葉序は互生、基部狭隘、辺縁に鋸歯《きょし》状の刻裂がある。四枚の花弁と四個の萼《がく》[#ルビの「がく」は底本では「かく」]、花冠は大きく花梗は長い。雄蕊は無数で雌蕊は一本、花弁散って殼果を残し、果は数室に分かれている室には無数の微細の種子が、白胡麻のように充ちている。これから採った薬液を、幻覚痳痺性眠剤と呼ぶ。その採り方がむずかしい」
 老人の説明は音楽のような、快い調子を持っていた。
「花落ちて三週間、果実の表面が白粉を帯びる。その時鋭い匕首を以て、果実へ三筋切傷を付ける。この呼吸が困難しい。まず一人が果実を支える。支え方もむずかしい。食指と中指の中間で、その最下端を支えなければならない。それから拇指《ぼし》で頭部を抑え、しずかに前方へ引き寄せる。右手の匕首をそろそろと宛て、果実の中腹へ傷を入れる。その入れ方にもコツがある。深さ二厘|乃至《ないし》三厘、一回に三条入れなければならない。夫れから数を百だけ呼ぶ。呼んだ時分に液が出る。ギヤマンの壺を夫れへ宛てる。竹篦で液を掬い取る。切り手と掬い手とは異わなければならない。即ち二人を要するのだ。普通一つの果実から、四回迄は採収出来る。第二回目の採収は一日後にやるがいい。三回目は二日後だ。四回目は三日後だ。午前十時から午後四時迄、液汁の分泌が特に多い。そうして曇天降雨の時には、更に一層分泌が多い。乾燥の時低温の時、分泌量が減少する。偖、次は製薬法だ。壺から竹の皮へ移さなければならない。これへ小量の種油を雑ぜる。二十五日間天日に干す。尚暖爐を用いてもいい。乾いた所で薬研へ入れる。そうして微塵に粉末にする。こうして出来上った薬品が、幻覚痳痺性眠剤だ」
 ひょい[#「ひょい」に傍点]と老人は立ち上った。
 寝台に添った卓《テーブル》があった。卓の上に手箱があった。それを老人は取り上げた。
「おい、お若いの、此処へ寝な。寝台の上へ寝るがいい、そうして此奴を喫うがいい」
 長い煙管を振って見せた。
「恐く無いよ。大丈夫だ、美しい夢が見られるのだ。華聟《はなむこ》の眠りという奴だ。味を知ったら忘れられまい。人生至極の幸福だ。肉身極楽へ行けるのだ。加陵頻迦《かりょうびんか》の[#「加陵頻迦《かりょうびんか》の」はママ]声がしよう。天津乙女が降りて来よう。竜宮城が現出しよう。現世の苦患が忘れられよう。忽然として花が降ろう。桜も降れば蓮華も降ろうさあ寝るがいい寝るがいい」
 併し香具師は動かなかった。気味悪そうに立っていた。
「ふふん」と老人は冷笑した。「おい、お若いの、怖いのか」
「莫迦を云え」と香具師は云った。「ただ俺には不思議なのだ」
「つまり、矢っ張り怖いんだろう」
「不思議と恐怖とは少し異う」
「解らないから不思議なのだ。不思議だから怖いのだ」
「よし」
 と香具師は寝台へ行った。
「では俺を解らせてくれ」彼はゴロリと寝台へ寝た。
「感心々々そうなくてはならない。勇気のある者は冒険する。一つの冒険は一つの智だ。知って了えば怖くはない。さあ煙管を取るがいい」
 香具師は老人から煙管を取った。老人は煙管へ薬を詰めた。それからそいつ[#「そいつ」に傍点]へ火を付けた。
 芳香が部屋へ漲《みなぎ》った。
 香具師は徐々に煙を喫った。
「厭な気持だ。嘔吐きそうだ」
「ナーニ、すぐに可くなるよ」
「厭な気持だ。変に苦しい」
「そいつあ何うも仕方が無い。その薬の性質だからな。第一多少の辛抱は要るよ。辛抱しないで楽をしよう。こいつあ少し気が可すぎる」
 その中だんだん香具師は、深い眠りへ入るようであった。
 と、ボタリと煙管を落とした。いよいよ睡眠に這入ったらしい。
 じっと老人は見詰めていた。忍び足をして部屋を出た。建物の戸へ錠を下ろした。
 それから屋敷を走り出た。
 野をドンドン横切った。
 香具師の住居の百姓家、その門口まで遣って来た。チラリと四辺を見廻わした。それから裏手へ廻って行った。
 裏口の戸も閉じていた。それへ障《さわ》ろうとはしなかった。彼は足踏をやり出した。地面を足でトントンと踏んだ。そうして音を聞き澄ました。腰を曲げて手を延ばした。地面の一所へ手を触れた。と、何かを握ったらしい。それをグイと持ち上げた。それは鉄の輪であった。ウーンと其輪を持ち上げた地面へポッカリと口が開いた。
 この時三日月が空へ出た。

一三

 老人は穴を覗き込んだ。恰度人一人這入れる程の、それは四角の穴であった。石の階段が出来ていた。階段と云っても、二三段しかない。
 老人は階段を下りて行った。下り切った所で、四方を見た。そこは家の床下であった。その床下を一杯に充し、巨大な何かが置いてあった。四辺が朦朧と薄暗いので、はっきり見ることは出来なかった。しかし夫れは動物では無かった。それは製造られた物であったとは云え夫れは動くものであった。生物で無くて動くもの? 一体何ういうものだろう?
 形はキッパリした長方形で、そうして其色は真黒であった。骨が縦横に突っ張っていた。そうして夫れは扁平であった。地面一杯に拡がっていた。
「思った通りだ」と老人は云った。「どれからくり[#「からくり」に傍点]を調べてやろう」
 老人はやおら腰をかがめた、突然床下が真暗になった。石階《いしばしご》のある出入口から、薄蒼く射していた戸外の夜色が、俄に此時消えたのであった。
「しまった!」と老人は声を上げた。石段の方へ走って行った。
 果たして口を閉ざされていた。
「ううむ」と呻かざるを得なかった。「それにしても不思議だなあ。こんなに早くあの香具師が、睡眠から覚めようとは思われないが、併しあの男以外に、こんな一軒屋へ遣って来て、秘密の出入口を閉じる者は、他にあろうとは思われない。ははあ偖は香具師奴、眠ったような様子をして、その実眠っていなかったのだな。後から尾行けて来たのだな。……さあ是から何うしたものだ。他に戸口は無いだろうか? いやいや他に戸口があっても、容易に目付かるものではあるまい。よしんば仮え目付かったにしても、あの悪党の香具師だ、内側から楽に開けられるような、そんなヘマはして置くまい。……計る計ると思ったが、その実俺の方が計られた哩《わい》」
 石段の下に佇み乍ら、老人は暫く思案に耽った。と其時、閉ざされた口が、そろそろと上へ持ち上った。一筋細目に隙が出来た。そうして其処から棒のような物が――いや匕首が突き出された。
「香具師さん、香具師さん、驚いたかい妾《わたし》だよ」
 女の声が聞えて来た。
「誰だか見当は付いているだろうね。お半だよ、お半の方さ」
「あっ」と老人は仰天した。「これは一体何うしたことだ。何、何んだって、お半の方だって? それじゃあ尾張様のご愛妾じゃないか」口の中で呟いた。
 追っかけて女の声がした。
「お前さんの苦手のお半の方さ。だがお前という人は、妾に執っても苦手なのさ。だから今夜遣って来たのさ。と、こんな所に口があって、ゴソゴソ床下で音がする。そこで口をふさいだ[#「ふさいだ」に傍点]のさ。ホ、ホ、ホ、ホ、可い気味だよ。鼠落しを掛けた奴が、自分でそいつ[#「そいつ」に傍点]へ落っこったんだからね。ジタバタしたって最う駄目だよ。それとも無理に出るつもりなら、匕首を土手っ腹へお見舞いするよ」
「まあお待ち」と老人は云った。「私はそんな香具師じゃあ無い。人違いだよ人違いだよ」
「馬鹿をお云いな、何を云うんだ。そんな老人の作り声をしてさ。そんな手に乗るものか」
「いや本当だ、そんな者ではない。私は赤の他人なのだ。まあ其処から出しておくれ。出た上でゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]相談しよう。旨い話なら乗ってもいい。兎に角外へ出してくれ」
「まあ是で安心したよ」女の声は嬉しそうであった。「実はね、妾は心配だったのさ。大悪党のお前さんの事だ。家にも色々からくり[#「からくり」に傍点]があろう。この口一つふさいだ[#「ふさいだ」に傍点]所で、妾の知らない他の口から、ヒョッコリ出て来ないものでもないとね。ところがお前さんの言葉つきで推すと、そんな心配は入らなそうだね。他に出口が無いと見えて出してくれ出してくれって云ってるじゃあないか。嬉しいねえ。是で安心したよ。殺すも活かすも此方のままさ。そこで掛合いも楽ってものさ。案外、お前さん凡倉だねえ」
「ううん」と老人は唸って了った。「驚いたなあ大変な女だ。とまれ愛妾のお半の方と、香具師とは関係があるらしい。どんな関係だか知らないが、俺を香具師だと信じているらしい。よしよし其奴を利用して、二人の関係を聞き出してやろう」そこで老人はこう云った。
「いや私は香具師では無い。だが香具師だと思うのなら、香具師になってやってもいい。どんな掛合いだか云ってごらん」
「そろそろ本音を吐き出したね。だが作り声は気に食わないねえ。まあそんな[#「そんな」に傍点]ことは何うでもいい。では掛合いにかかろうかね」女の声は改まった。「真先に妾は訊きたいのさ。ああ、お前さんの本当の素性を」
 老人は返辞をしなかった。

一四

「おやおや香具師さん黙っているのね。さては云うのが厭なのだね厭なものなら無理には聞かない。では此奴は引っ込まそうよ。その代り妾の素性だって、お前さんへは話さないからね。……お次はいよいよ本問題だ。ねえお前さん何んと思って、お前さんは尾張様へ取り入ったんだい?」
 だが矢張り老人は返辞をせずに黙っていた。すると女は笑声を上げた。
「おやおや復もや無言の行だ。こいつも云うのが厭だと見える。だがね、お前さん、妾にはね、そのお前さんの目的がちゃあんと解っているのだよ。嘘だと思うなら云ってあげようか? そうだ遠廻わしに云ってあげよう。あんまりむき出しに云われたらお前さんだって可い気持はしまい。……お前さん天主閣へ上りたいんだろう? 決して人を上らせない、天主閣の頂上へさ。ホ、ホ、ホ、ホ、お手の筋だろうねえ」
 女の声は暫く絶えた。
「さて」と女の声がした。「安心おしなさいよ邪魔はしないから。お前さんの出ようさえ気に入ったら妾の方から助けてもあげよう。そうさお殿様へ口添えして、上ることの出来るようにしてあげよう。だが只じゃあ真平だよ。物事には報酬がある。そいつを妾は貰い度いのさ。つまり換っこという訳さ。ねえ、お前さん何うだろう?」
「さあ」と老人はくすぐった[#「くすぐった」に傍点]そうに「私に出来ることならね」
「そりゃあ出来るとも、お手の物なのさ」
「で、一体どんなことかな?」
「妾は人一人殺し度いのさ」
「ほほう」と老人は驚いたように云った。
「私に手助けでもしろって云うのか?」
「まあね、そうだよ、間接にはね」
「どんなことをすれば可いのかい?」
「機械を一つ造っておくれな」
「何、機械? どんな機械だ?」
「人を殺す機械だあね」
「匕首《あいくち》で土手っ腹を刳るがいいやな」
「そうしたら人に知れるじゃあないか」
「それじゃあ殺しても、殺したということの解らないような、そういう機械が欲しいのだな?」
「金的だよ、大中り」女の笑う声がした。「お前さんには出来る筈だ。人の心を見抜く機械、それを造ったお前さんじゃないか」
 老人は暫く考えていた。
「だがな」と老人は軈て云った。「機械よりも薬の方がいい」
「毒薬なら痕跡を残すだろうに」
「残らないような薬もある」
「ああ然うかい、それは有難いねえ。妾ァどっちでもいいのだ。では其薬を妾にお呉んな」
「今は無い、二三日待て」
「ああ待つとも待ってあげよう。お前も随分の悪党だ。妾だって是れでお姫様じゃあ無い。悪党同志の約束だ。冥利に外れたこともしまい。では二三日待つことにしよう。……では妾は帰って行くよ」
 出入口の蓋が退けられた。女の立ち去る気勢がした。老人は注意して床下を出た。表の方へ行って見た。一丁の駕籠が走っていた。
 老人は再び裏へ廻り、出入口の蓋をした。それから三日月を肩に負い、自分の屋敷へ引っ返して行った。

 南蛮温室の寝台の上で、尚香具師は眠っていた。
 と、ノロノロと身を蜒《うね》らした。軈て幽に眼を開いた。一つ大きな欠伸をした。
「ああ素晴らしい夢を見た。……だが何うも体が怠い」寝台の上へ起き上った。
「お若いの、どうだった?」その時側で人声がした。そこに老人が立っていた。気味悪くニヤニヤ笑っていた。
「おお老人、其処にいたのか。全くお前さんの云う通り、この眠剤は素晴らしいね。俺はすっかり驚いて了った」
「音楽の音が聞えたろう」
「おお聞えたとも、聞えたとも、何んと云ったら可かろうなあ、迚《とて》も言葉では云い現せねえ」
「美しい景色が見えたろう」
「天国と極楽と竜宮とを、一緒にしたような景色だった。……だが何うも体が怠い」
「そいつあ何うも仕方がねえ。この眠剤の性質だからな」
「俺は動くのが厭になった」
「アッハッハッハッ然うだろうて。そいつも眠剤の性質だ」
「俺は働くのが厭になった」
「アッハッハッハッ然うだろうて。そいつも眠剤の性質だ」
「俺は動かず働かず、眠剤ばかりを飲んでいたい」
「いと易いことだ、持って行きねえ。沢山眠剤を持って行きねえ。伝手《ついで》に吹管を持って行きねえ。そうだ二三本持って行きねえ」
「や、そいつあ有難え。では、遠慮無く貰って行こう」
「いいともいいともさあ持ってけ」

一五

 老人は二本の吹管と、箱に詰めた眠剤とを取り出して来た。
「ところで」と老人は笑い乍ら云った「お前、尾張様へ取り入っているそうだな」
「うん」と云ったが渋面を作った。
「どうやらお愛妾お半の方と、仲が悪いということだが」
「そんなこと迄知ってるのか?」
「そこはお前蛇の道は蛇だ。そんな事ぐらい解っているよ」
「へえ然うかい、驚いたなあ」香具師は不快な顔をした。「だが一体お前さんは、どういう素性の人間なんだい?」
「そいつあお互云わねえ方がいい。その中自然と解るだろうよ」
「兎に角只の鼠じゃあねえな」
「ナーニ案外白鼠かもしれねえ」
「どう致しまして、大悪党だろう」
「お前こそ何ういう人間なんだい?」老人はヘラヘラ笑い乍ら訊いた。
「お前が云えば俺も云うよ」
「まあまあ夫れは此次にしよう。お互浅黄の頭巾を脱ぐと、気不味いことが起るかもしれねえ。……それは然うとお半の方だが、お前に何か目算があるなら、仲宜くした方が宜かろうぜ。女子と小人は養い難し、その辺から綻びが出来るかもしれねえ」
「ご忠告か、有難えなあ」俄に香具師は苦笑した。
「悪いことは云わねえ。機嫌を取って置きな。それには眠剤が一番いい。吹管を付けて献上して見るさ」
「うん、可いかもしれねえなあ」香具師は鳥渡頷いた。
「ではお別れとやらかそうぜ」
「おお大分遅くなった。では俺等は帰るとしよう。左様ならばご老体」
「もうお帰りか、復の逢う瀬」
「アッハッハッハッ芝居がかりだ。だが爺さんじゃあ色気がねえ」
「何んだ何んだ物を貰って、小言を云う奴があるものか」
「そこらが悪党と云うものさ」香具師は温室を出て行った。「じゃあ爺さん復来るぜ」
 老人は返辞をしなかった。
 香具師はスタスタと行って了った。
「やれやれ」と老人は呟き乍ら、寝台へトンと腰を下ろした。「俺の大役も済んだらしい」
 ヒョイと頭へ手をやった。と、白髪の鬘が取れた。その手で顔をツルリと撫でた。と、若々しい顔になった。
 三十前後の壮漢が、老人の殼から抜けて出た。

 その翌日のことであった。
 香具師はお城へ出かけて行った。
「おお香具師か、よく参った」尾張宗春は愛想よく云った。
「さて殿様」と香具師は、気恥しそうに小鬢を掻いた。「ええご愛妾お半の方様へ、献上物を致し度いので」
「ほほう」と宗春は呆れたように「これは不思議だ、どうしたことだ、お前とお半は仲悪ではないか?」
「はい左様でございます。で仲宜く致したいので」
「おお然うか、それは結構。同じ俺に仕えている者が、仲が悪くては気持が悪い。仲宜くしたいとは宜く云った。よしよしお半を呼ぶことにしよう。……これよ、誰かお半を呼べ」
 間も無くお半の方が来た。
「これはこれはお半の方様、ご機嫌よろしうございます」ニタニタ香具師は世辞笑いをした。
「これこれお半、香具師がな、お前に何か呉れるそうだ。それを機会に仲宜くするよう」
「まあまあ左様でございますか。この妾への下され物、さあ何んでございましょう」お半の方は柔かく笑った。
「はいはいこれでございます」
 壺と吹管とを取り出した。
「唐土渡来の幻覚眠剤、この吹管へ詰めまして、寝乍ら一服喫いますと、何とも云えない美しい夢を見つづけるのでございます」
「これはこれは不思議な薬、ほんとに可い物を下さいました」お半の方の涼しい眼が、この瞬間キラキラと光った。
「香具師、そいつは本当かな」宗春は如何にも興ありそうに「本当にそんな夢を見るのかい?」
「何んの偽り申しましょう。極楽の夢、お伽噺の夢、珊瑚の夢、琥珀の夢、はいはい見えるのでございますとも」
「俺も一服喫って見たいものだ」
「では今晩めしあがりませ」お半の方は意味ありそうに云った。

一六

「ねえ殿様」とお半の方は、溶けるような媚を作り「いろいろ珍らしい機械だの、眠剤などを戴いた上は、何か此方からも香具師殿へ差し上げなければなりますまい」
「うん、いい所へ気が付いた。お前何か欲しいものは無いか」
「はいはい有難う存じます。さあ只今は是と申して……」
「ふうん無いのか、慾の無い奴だな」
「おお殿様、こうなさりませ」お半の方が口を出した。「物慾の無い香具師殿、物を遣っても喜びますまい。それよりご禁制の天主閣の頂上へ上るのをお許しになり」
「これこれお半、それは不可ない」宗春は鳥渡驚いたらしく「家来共が苦情を云おう」
「ホッホッホッホッ」とお半は笑った。「六十五万石のお殿様が、家来にご遠慮遊ばすので」
「莫迦を云え」と厭な顔をした。「何んの家来に遠慮するものか」
「ではお礼として香具師殿を、天主閣へお上《のぼ》せなさりませ」
「香具師、お前は何う思うな?」
「これは結構でございますなあ。あの高いお天主へ上り、名古屋の城下を眺めましたら、さぞ可い気持でございましょう」香具師の眼はギロリと光った。
「うん望みなら上らせてやろう。よし家来共が何を云おうと、一睨みしたら形が付く」
「はいはい左様でございますとも」お半の方はニンヤリと笑った。「香具師殿。お礼でございます」
「お半の方様ありがたいことで」
 こう香具師は嬉しそうに云ったが、腹の中では不思議であった。
「ははあ余っぽど眠剤が、気に入ったものと思われる。成程なあ、あの老人流石に可い事を教えてくれた。こう覿《てき》面にあの薬が、利目があろうとは思わなかった。兎まれ天主閣へ上れるなら、こんな有難え事はねえ。いよいよ大願成就かな」

 大須観音境内は、江戸で云えば浅草であった。
 その附近に若松屋という、二流所の商人宿があった。
 久しい以前から其宿に、江戸の客が二人泊っていた。帳場の主人や番頭は多年の経験から二人の客を、怪しいと睨んでいた。
「どうも商人とは思われないね」
「と云って職人では勿論無し」
「そうして、二人は、友達だと云うが、そんなようにも見えないね」
「あれは主従に相違ありません」
「主人と思われる一人の方は、お大名様のように何となく威厳があるね」
「いや全く恐ろしいような威厳で」
「二人とも立派なお武士《さむらい》さんらしい」
「ひょっとかすると水戸様の、ご微行かなんかじゃあ有りますまいかな。それ一人は光圀様で、もう一人が朝比奈弥太郎」
「莫迦をお云いな、何を云うのだ。水戸黄門光圀様なら、とうの昔にお逝去れだ」
「あっ、成程、時代が違う」
「それは然うと今日はやって来ないね、いつも遣って来る変な老人は」
「そうです今日は来ないようです」
「あれも気味の悪い老人だね」
「年から云えば八十にもなろうか、それでいて酷くピンシャンしています」
「あの人の方が光圀様のようだ」
 これが帳場での噂であった。
 或日元気の可い三十がらみ[#「がらみ」に傍点]の、商人風の男が、ひょこりと店先へ立った。
「鳥渡お訊ね致します」
「へえへえ何んでございますかね」
「お家に江戸のお客様が、お二人泊って居られましょうね?」
「へえ、お泊りでございます」
「私は江戸の小間物屋で、喜助と申す者でございますが、鳥渡お二人様にお目にかかりたいんだ」
「鳥渡お待ちを」
 と云いすてて、番頭は奥の方へ小走って行った。
 と、すぐに引っ返して来た。
「お目にかかるそうでございます」
「ご免下さい」
 と男は上った。
 後を見送った帳場の主人は、首を捻ったものである。
「どうも此奴も小間物屋じゃあねえ」
 そこへ番頭が帰って来た。
「今のお客様を何う思うね?」
「さあ」番頭も首を捻った。「矢っ張り何うもお武士さんのようで」
「私は何んだか気味が悪くなったよ」
 主人は眼尻へ皺を寄せた。

一七

「私は何んだか気味が悪くなったよ」
 若松屋の主人仁右衛門は、もう一度如何にも気味悪そうに云った。「ねえ番頭さん、奥へ行って、お話のご様子を立ち聞きしておいでよ」
「へえ、お客様のお話をね」気の進まない様子であった。「失礼にあたりはしませんかね」
「そりゃあ解ったら失礼にあたるさ。解らないように立ち聞くのさ」
「あんまり可い役じゃございませんな」
 番頭嘉一は不精無精に、足音を盗んで奥へ行った。
 此処は奥の部屋であった。
 三人が小声で話していた。
「吉田三五郎、どうであった?」
 こう云ったのは四十がらみの男、一つか二つ若いかも知れない。商人風につくって[#「つくって」に傍点]はいるが、商人などとは思われない程、立派な風采の持主であった。
「殿、旨く参りました」
 小間物屋喜助と宣って来た、三十がらみの若者が云った。「例の香具師を利用して、阿片をお城へ持たせてやりました」
「うむ然うか、それは可かった」殿と呼ばれる四十がらみの男は、微妙な薄笑いを浮かべたが、
「さて其例の香具師だが、雲切仁左衛門に相違無いかな?」
「どうやらそんな[#「そんな」に傍点]ように思われます」
「で天主閣の唸き声は?」
「あれは滑稽でございました。大凧だったのでございます」
「そんな事だろうと思っていたよ」殿と呼ばれる四十男は、復も微妙に薄笑いをした。
「おそらく其凧で空へ上り、鯱鉾を盗ろうとしたのだろう」
「そんなようでございます。轆轤《ろくろ》仕掛の大凧で、随分精巧に出来て居ました」
「香具師も香具師だが尾張様には、随分乱行をなさるようだな」
「お半の方という側室を愛され、他愛が無いようでございます」
「うむ、他からもそんな[#「そんな」に傍点]事を聞いた」
「さて其側室のお半の方、容易ならぬ悪事を企んで居ります」
「ほほう然うか、どんな悪事だな?」
「はい殺人でございます」
「で、誰を殺そうとするのか?」
「はい、まだ、そこ迄は探って居りません」
「ああ然うか、それは残念、ひとつ其奴を探ってくれ」
「かしこまりましてございます」
「それは然うと御金蔵には、多額の黄金が有るそうだな?」
 殿と呼ばれる四十男は、此処でキラキラと眼を光らせた。
「御三家筆頭の尾張様、唸る程黄金はございましょう」
 三十がらみの男が云った。
「それが何うも可くないのだ。狂人に刄物という奴さ、不祥のことだが尾張様に、ご謀叛のお心などあった時、多額の軍用資金の貯えがあると、ちと事がむずかしくなる」
「ご尤もにございます」今迄じっと[#「じっと」に傍点]黙っていた三十四五の一人の男が、愁わしそうに合槌を打った。
「全く狂人に刄物だからな」四十男は繰り返した。
「将軍家も夫れをご心配になり、隠密として此俺を、こっそり名古屋へ入り込ませたのだが」
「如何でございましょう御金蔵の中を、何んとかしてお調べ遊ばしては?」
 三十四、五の一人が云った。
「だが是は不可能だよ。俺は江戸の町奉行、江戸のことなら何うともなるが、此土地では何うも手も足も出せない」
「大岡越前守忠相と宣られ、ご機嫌をお伺いにご登城なされ、伝手にご金蔵をお調べになっては?」
「吉田三五郎、白石治右衛門、二人の股肱《ここう》を引き連れて、名古屋へこっそり[#「こっそり」に傍点]這入り込み、二流所の旅籠へ宿り、滞在していたとお聞になっては、尾張様にも快く思われまい」
「では何うして御金蔵の中を?」
 三十四、五の一人物――即ち白石治右衛門が訊いた。
「まずゆっくり滞在し、機会を待つより仕方あるまい」
 この時人の気勢がした。
 廊下に誰かいるらしい。
 辷るように歩く足音がした。
「殿、何者か、私達の話を、立ち聞きしたようでございます」
 吉田三五郎は不安そうに云った。
「うむ」
 と云ったが越前守は、気に掛けない様子であった。

一八

「旦那、大変でございますよ」
 番頭の顔は蒼褪めていた。
「何んだい番頭さん大仰な」主人の仁右衛門は怪訝そうに訊いた。
「旦那、何んだじゃありませんよ。三人の江戸のお客様、大変な人達でございますよ」
「それじゃあ何かい兇状持かい?」
「飛んでもないことで、大岡様ですよ」此処で番頭は呼吸を継いだ。「大岡越前守様のご一行で」
 そこで番頭は立聞をした、三人の話を物語った。
 主人の仁右衛門は腕を組んだ。
「これはうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けないね。町役人迄届けて置こう」
「それが宜敷うございます」
 そこで仁右衛門は家を出た。
 仁右衛門の話を耳にすると、町役人は仰天した。
 そこで上役に言上した。上役から奉行へ伝言した。奉行から家老へ伝言した。
 成瀬隼人正、竹腰山城守、石河佐渡守、志水甲斐守、渡辺飛騨守の年寄衆は、額を集めて相談した。
「これは何うも大事件だ。江戸の町奉行が隠密となり、直々他領へ入り込むとは、曾て前例の無いことだ。これが普通の隠密なら、捕えて殺して了えば可いが、大岡越前守とあって見れば、そういう乱暴な手段も執れない。若松屋の番頭の立聞きに由れば、殿に謀叛の疑いがあり、御金蔵に貯えた黄金の額を主として調べに来たのだというから御金蔵の黄金を他所へ移しそれから逆に使者を遣わし、越前守を城中へ召し、夫れとなく御金蔵の内を見せ、安心させるのが可いだろう」
 年寄の意見は斯う決まって主君《との》へ言上することにした。
 この日宗春は奥御殿で、快い眠りに耽っていた。
 その傍にお半がいた。これも矢張り眠っていた。
 薄煙が部屋に立ち迷っていた。
 四辺に散らしてあるものは、眠薬の壺と吹管であった。部屋には最う一人人がいた。それは他ならぬ香具師であった。お伽衆だという所で、自由に奥御殿へ出入ることが出来た。彼一人だけ眼覚めていた。二人の寝姿を真面目に見守り、膝に手を置いて考えていた。
 襖の向うから声がした。
「お半の方様、お半の方様」取締りの老女の声であった。
「お半の方様はお休みで」こう香具師が代って答えた。
「おお、貴郎は香具師殿か。殿様はお居ででございましょうか?」
「へえへえお居ででございます。が、矢っ張りお休みで」
「直ぐにお起し下さいますよう」
「仲々お眼覚めなさいますまい」香具師は鳥渡嘲笑うように云った。
「よい夢の真最中一刻ぐらいは覚めますまい」
「それは何うも困りましたね。成瀬様が何事か急々に、言上致したいとか申しまして、只今おいででございます」
「成瀬様であろうと竹腰様であろうと、この夢ばかりは破れますまい。お待ちなさるようお伝え下され」此処で香具師はヘラヘラ笑った。

「が、それにしてもお前様は、どうしてそんな[#「そんな」に傍点]御寝所などで、何をしておいででございますな」老女の声は咎めるようであった。
「へえへえ私でございますかね、琥珀の夢、珊瑚の夢、極楽の夢、天国の夢、そういう夢の指南番、それを致して居りますので」
「何を莫迦な」と一言残し、老女の足音は向うへ消えた。香具師はペロリと舌を出した。
「これで仲々馬鹿でねえ奴さ」
 二人の夢は覚めなかった。二度ばかり老女が聞きに来た。
「お気の毒さま。まだお寝んね」こう云って香具師は追い返した。
 夕方二人は眼を覚ました。
「ああ綺麗な夢だった」だる[#「だる」に傍点]そうに宗春がこう云った。
「眠剤の功徳でございます」さも得意そうに香具師は云った。
「俺はお前へ礼を云うよ。全く此奴は可い薬だ。だが併し覚めた後は、ひどく万事が物憂くなる」
「可い後は悪いもので」こう香具師は笑い乍ら云った。「両方可いことはございません」
「政治を執るのが厭になった。眠剤ばかり喫んでいたい」
「大変結構でございます。御大名方と申す者は、決して決して御自分で、ご政治など執るものではございません」変に香具師は真面目に云った。「〈居附造りの築城〉もお止めなさるが可うございます」「そうさな」と宗春はだるそうに「〈居附造り〉と眠剤と、どっちを取るかと訊かれたら、俺は眠剤を取るだろう」

一九

 そこへ老女が遣って来た。
「ナニ、成瀬が会いたいというのか。また、諫言かな、うるさい[#「うるさい」に傍点]事だ。会えないと云って断わって了え」
 こう云ったものの立ち上った。
「あの渋っ面の成瀬奴に、ひとつ眠剤を喫ませてやろう」
 手頼りない足どりで部屋を出た。
 お半の方は考えていた。意外だというような顔付であった。囁くように香具師へ訊いた。
「これは毒薬では無いのかい?」
「滅相も無い」と香具師は云った。「唐土渡来の眠剤で」
「でも妾の頼んだのは、後に痕跡の残らない、毒薬の筈じゃあ無かったかい」
「何を仰有るやら、お半の方様」香具師は寧ろ唖然とした。「頼まれた覚えはございませんねえ」
「お止しよお止しよ、空っとぼける[#「とぼける」に傍点]のはね」お半の方は眉を上げた。「部屋にはお前と妾とだけ、聞いている人は無いじゃあないか。……あの時の約束は何うしたんだよ」
「どうも私にゃ、解りませんねえ」いよいよ香具師は驚いたらしい。「一体全体何時何処で、どんな約束を致しましたので?」
「ふん」と如何にも憎さげに、お半の方は鼻を鳴らした。「大悪党にも似合わない、飛んだお前は小心者だね。……だが然う白を切り出したら、突っ込んで行っても無駄だろう。では、あの話はあれだけにしよう。……それでは愈々この薬は、毒薬では無くて眠剤だね」
「毒薬で無い証拠には、殿様も貴女も其通り、娑婆にいるじゃあございませんか」
「成程ねえ、それは然うさ」お半の方はうっとり[#「うっとり」に傍点]とした「妾は綺麗な夢を見た。でも妾は思ったのさあれは決して夢では無くて、極楽浄土に相違無いとね」
「鳥渡お訊ね致しますがね」香具師は探ぐるように云い出した「ほんとに貴女様は眠剤を、毒だと思っていらしったので」
「あたりまえだよ。何を云うのさ」
「では何うして貴女様自身、毒をお飲みでございましたな?」
「ああ夫れはね」とお半の方は、物でも咽喉へつかえ[#「つかえ」に傍点]たように「一緒に死のうと思ったのさ」
「へえ、一緒に? 何人様と?」
「馬鹿だねえ、お前さんは!」叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]するように嘲笑った。「誰と一緒に毒を喫んだか、お前さんには解らないのかい?」
「解って居りますよ。御殿様と……」
「それじゃあ夫れで可いじゃあないか」
「ふうん」と香具師は腕を組んだ。
 お半の方は咽ぶように云った。
「恨みは恨み、恋は恋、妾に執ってはお殿様は、離れられないお方なのさ」
 お半の方は項垂れた。
「……いよいよ毒薬で無いとすれば、別の手段を考えなければならない」これは心中で呟いたのであった。
 そこへ宗春が帰って来た。何となく勝れない顔色であった。ムズと坐って考え込んだ。
「殿様、何か心配のことでも?」こう軟かく香具師は訊いた。
「うん」宗春は顎を杓った。「江戸の吉宗奴が俺を疑い、町奉行の大岡越前奴を、隠密として入り込ませたそうだ」
「あっ!」と香具師はのけぞった[#「のけぞった」に傍点]。「ひええ。大岡越前守様が※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」彼の顔色は一変した。「で、殿様のご対策は?」
「逆手を使って越前奴を、今夜城中へ招くことにした」
 宗春は不意に立ち上った「香具師来い! お半も参れ! 約束の天主閣を見せてやろう。……気が結ばれてムシャムシャする。天主へ上って気を晴らそう。高きに上って低きを見る。可い気持だ、さあさあ来い!」
 荒々しく宗春は部屋を出た。
 二人は後へ従った。
 御殿から出ると後苑であった[#「後苑であった」は底本では「後宛であった」]。西北に小天守が立っていた。小天守の中へ這入って行った。東に進むと廻廊があった。それを真北へ進んで行った。その行き止まりに天主閣があった。入口に固めの番士がいた。宗春を見ると平伏した。尻眼にかけて三人は進んだ。
 這入った所が初重であった。南北桁行十七間、東西梁行十五間、床から天井まで一丈二尺、腰に三角の隠し狭間、無数の長持が置いてあった。網龕燈が灯っていた。仄々と四辺が煙って見えた。
 三人は階段を上って行った。
 やがて三人は二重へ這入った。桁梁は初重と同じであった。天井まで一丈三尺。
 網龕燈が灯っていた。
 やがて三人は三重へ上った。南北桁行十三間、東西梁行十一間、高さ二丈四尺あった。
 四重へ上り五重へ上った。
 五重が天主閣の頂上であった。

二〇

 桁行七間梁六間、天井までは一丈三尺、東西南北四方の壁に、二十四の狭間が穿たれてあった。
 夕陽が狭間から射し込んでいた。
 南面中央の狭間から、宗春は城下を見下ろした。お濠の水は燃えていた。七軒町、長者町、商家がベッタリ並んでいた。屋根の甍《いらか》が輝いていた。若宮あたりの寺々も、夕陽に燃えて明るかった。歩いている人が蟻のように見えた。
 六十五万石の城下であった。広く豊かに拡がっていた。
 宗春は何時迄も眺めていた。
「江戸に比べると小さなものだ」突然呻くように宗春は云った。「あわよくば将軍にも成れた俺だ。俺に執っては狭すぎる」突然宗春は哄笑した。「ワッハハハハ、六十五万石が何んだ、三家の筆頭が何うしたのだ! 貰い手があったら呉れてやろう。ふん何んの惜しいものか! それを何んぞや吉宗奴隠密を入れて窺うとは! 隠居させるならさせるがいい。秩禄没収それも可かろう。そうしたら俺は坊主になる。が決して経は読まぬ。眠剤ばかり喫んでやる」
 この時香具師はソロソロと北面の狭間へ寄って行った。音を盗んだ擦足であった。閉ざされた狭間戸へ手を掛けた。一寸二寸と引き開けた。
 お半の方は佇んでいた。右手を懐中へ差し入れた。何かしっかり[#「しっかり」に傍点]握ったらしい。眼は宗春を見詰めていた。頸の一所を見詰めていた。足音を盗みジリジリと、宗春の背後へ近寄った。と懐中から柄頭が覗いた。それは懐剣の柄頭であった。
 香具師は狭間戸を二尺ほど開けた。
 と体を飜えしポンと閣外《そと》へ飛び出した。閣外から狭間戸が閉ざされた。
 宗春もお半も気が付かなかった。
 宗春は城下を見下ろしていた。
 お半の方は忍び寄った。スルリと懐剣を引き抜いた。それをソロソロと振り冠った。ピッタリと宗春へ寄り添った。
「お半」
 と其時宗春が云った。悩ましいような声であった。
「俺の身に、いかなる変事があろうとも、お前だけは俺を見棄てまいな」
 お半の方は一歩退った。ダラリと右の手を下へ垂れた。
 尚城下を見下ろし乍ら、宗春は悩ましく云い続けた。
「お前と、眠剤とこれさえ有ったら、俺は他には何んにも不用《いら》ない」
 お半の方は懐剣を落とした。床に中たって音を立てた。
 はじめて宗春は振返った。
 お半の方は首垂れた。その足下に懐剣があった。お半の方はくず[#「くず」に傍点]折れた。宗春には訳が解らなかった。お半の方と懐剣とを、茫然として見比べた。
 長い両袖を床へ重ね、お半の方は額を宛てた。肩が細かく刻まれるのは、忍び泣いている証拠であった。
 お半の方は顔を上げた。懐剣を取って差し出した。
「お手討ちになされて下さいまし」
 お半の方は咽び乍ら云った。
「何故な?」
 と宗春は不思議そうに訊いた。
「その懐剣は何うしたのだ?」
「はい、是でお殿様を……」
「ははあ俺を刺そうとしたのか?」
「……その代り妾もお後を追い……」
「うむ、心中というやつだな」
「……お弑《しい》し致さねばなりません。……お弑しすることは出来ません。……恨みあるお方! 恋しいお方! ……二道煩悩……迷った妾! ……お手討ちなされて下さいまし!」
「一体お前は何者だ?」
「妾の父はお殿様に……」
「可い可い」
 と宗春は手を振った。
「云うな云うな、俺も聞かない。……
 ……父の仇、不倶戴天、こういう義理は小|五月蠅《うるさ》い。……訊きたいことが一つある。お前は将来も俺を狙うか?」
 お半の方は黙っていた。
「殺せるものなら殺すがいい。殺されてやっても惜しくはない。だが、よもや殺せはしまい。……俺は野心を捨てるつもりだ。お前も義理を捨てて了え! 二つを捨てたら世のなかは住みよい。住みよい浮世で、活きようではないか。……俺には、お前が手放せないよ」
 お半の方はつっ伏した。両手で宗春の足を抱いた。一生放さないというように。宗春は優しく見下ろした。その眼を上げて四辺を見た。
「や、香具師の姿が見えぬ。はてさて、性急に何処へ行ったものか?」
 寺院で鳴らす梵鐘《かね》の音が、幽ながらも聞えて来た。夕陽が褪めて暗くなった。

二一

 五重の天主の頂上の間の、狭間から飛び出した香具師は、壁へピッタリ背中を付け、力を罩めた足の指で、辷る甍を踏みしめ、四重目の家根を[#「家根を」はママ]伝って行った。
 剣先まで来て振り仰ぎ、屋根棟外れを眺めたのは、鯱を見ようためだろう。しかし、大屋根の庇に蔽われ、肝心の鯱は見えなかった。
「こいつあ見えねえのが当然だ」
 呟くと一緒に香具師は、右手を懐中へグイと入れた。引き出した手に握られているのは、端に鉤の付いた髪編紐《かみひも》で「やっ」と叫ぶと宙へ投げた。夕陽で赤い空の面へ、スーッと放抛線が描かれたが、カチンと直ぐに音がした。鉤が大屋根の剣先へ、狙い違わず掛かったのである。
「よし」と云うと香具師はピーンと髪編紐を引いて見た。大丈夫だ! 切れはしない。
「よし」と最う一度呟くと、香具師は紐を手繰り出した。手繰るに連れて彼の体は、髪編紐の先へぶら下った。実に見事な手繰り振りで、そういう事には慣れているらしい。グングン大屋根の端まで上《の》したと、片手が端へかかる、グーッと体が海老反りになる、すると最う大屋根に立っていた。
 急斜面の天主の屋根、立って歩くことは出来そうもない。腹這いになった香具師は、南側の鯱へ目星を付け、膝頭でジリジリと寄って行った。
 その総高八尺三寸、その廻り六尺五寸、近付いて見れば今更らに鯱の見事さには驚かれる。
「さて」と云うと眼を爼《そば》め、胴の鱗を数え出した。
「うん、片側百十五枚、大鱗の大きさ七寸五分、小鱗の大きさ二寸五分。……よし、これには間違いが無い。……蛇腹の数十六枚。うむ、是にも間違いが無い。……次は耳だ、異変《かわり》が無ければよいが。……右耳一尺七寸五分、左の片耳一尺八寸……やれ有難い、間違いはない。……眉の長さ一尺六寸。うむ是にも間違いが無い。……さて両眼だが何どうだろう[#「何どうだろう」はママ]? [#「? 」は底本では「?」]……や、有難い、定法通りだ。ちゃあんと八寸に出来ていらあ。……上下合わせて十六枚の歯よし是にも間違いが無い。……北側の鯱を調べてやろう」
 屋根棟を伝わって走って行った。
 鯱の背中へふん[#「ふん」に傍点]跨《またが》り、また香具師は調べ出した。
「いや有難え、変ったことも無い」
 ホッと安心したように、こう呟いた香具師は、さすがに疲労を感じたと見え、額の汗を押し拭い、トントンと胸を叩いたものである。それから城下を見下ろした。
「絶景だなあ、素晴しいや」
 いかにも絶景に相違無かった。
 百万石の加賀の金沢、七十七万石の薩摩の鹿児島、六十二万石の奥州の仙台、大大名の城下町は、名古屋の他にもあったけれど、名に負う名古屋は三家の筆頭、尾張大納言家の城下であって、江戸、大阪、京都を抜かしては、規模の広大、輪奐の美、人口の稠密比べるものがない。その大都が夕陽の下に、昼の活動から夜の活動へ入り込もうとして湧き立っていた。
 ゴーッというような鈍い騒音――人声、足音、車馬の響き、そういうものが塊まって、そういう音を立てるのであろう。蜒《うね》り折《くね》った帯のように、町を横断しているのは、西村堀に相違ない。船が二三隻よっていた。寺々から梵鐘が鳴り出した。
「何んの不足があるんだろう?」香具師は声に出して呟いた。「これだけの大都の支配者じゃあ無いか? 結構すぎる程の身分じゃあ無いか……人間慾には限りはねえ。一つの慾を満足させりゃあ、つづいて最う一つの慾が起こる。そいつを果たすと最う一つ。で、一生止む時はねえ。……上を見れば限りはねえが、下を見ても限りはねえ。明日の生活に困るような、然ういう人間だってウザウザ居るその官位は中納言、その禄高は六十五万石、尾張の国の領主なら、不平も何も無い筈だがなあ。……将軍に成りてえのは道理としても、成ったら苦労が多かろうに。……だがマァそれは夫れとして、大岡越前守様が来ていようとは、俺に執っちゃあ寝耳に水だ! いや何うも驚いたなあ」じっと思案に耽ったが「兎も角俺の仕事も済んだ。どれソロソロ引き上げようか」
 屋根の傾斜をソロソロと下った。髪編紐を伝わり四重の屋根へ、素早く香具師は下り立った。
「殿様、ゆっくり大屋根から、城下を眺めさせて戴きやした。えらい景気でございますなあ」
 ヒョイと部屋の中へ飛び込んだ。
 お半の方と宗春は驚いたように眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》った。だが香具師も眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]った。お半の方が泣き濡れて居り宗春がひどく[#「ひどく」に傍点]寂しそうに、悄然と立っているからであった。

二二

 さて其夜のことである。
 若松屋へ城中から使者が行った。
 江戸の町奉行大岡忠相に、宗春話し度いことがある。夜分ではあるが登城するよう。――これが使者の口上であった。
「かしこまりましてございます」
 白を切った所で仕方が無い。大岡越前守はお受けをした。
 白石治右衛門、吉田三五郎、二人の家来に駕籠側を守らせ、越前守が登城したのは、それから間も無くのことであった。幅下門から榎多御門、番所を通ると中庭で、北へ行けば西之丸、東へ行けば西柏木門、そこから本丸へ行くことが出来た。どうしたものか本丸へは行かず、御蔵門から西之丸の方へ、越前守だけを案内した。
 これには深い意味があった。と云うのは西之丸に、六棟の土蔵が立っているからで、それを見せようとしたのであった。
 案内役は勘定奉行、北村彦右衛門と云って五十歳、思慮に富んだ武士であった。
 こうして一之蔵へ差しかかったが、見れば扉が開いている。
 如何にも越前守は驚いたように、蔵の前で俄に足を止めた。
「これは近来不用心、土蔵の扉が開いて居ります」
「お目に止まって恐縮千万」こうは云ったものの北村彦右衛門、内心では「締めた」と呟いた。「番士の者共の不注意でござる。併し内味が空っぽでは、つい警護も疎かになります」
「左様なこともございますまい。大納言様はご活達、随分派手なお生活を、致されるとは承わっては居るが、敬公様以来貯えられた黄金、莫大なものでございましょう」
「いやいや夫れもご先代迄で、当代になりましてからは不如意つづき、困ったものでございます」
 二之御蔵、三之御蔵四、五、六の御蔵を過ぎたが、何の御蔵も用心手薄く、扉が半開きになっていたり番士が眠っていたりした。
 透《すき》御門から御深井丸へ出、御旅蔵の東を抜け、不明門から本丸へ這入った。矢来門から玄関へかかり、中玄関から長廊下、行詰まった所が御殿である。
「暫くお控え[#「お控え」は底本では「お控へ」]下さいますよう」
 山村彦右衛門は引っ込んだ。
 一室に坐った大岡越前守、何やら思案に耽り乍ら、ジロジロ部屋の中を見廻わした。
 御殿の中が騒がしい。歩き廻わる足音がする。何んとなく取り込んでいるらしい。
「大分狼狽しているようだ」ニンヤリ笑ったものである。「御殿の扉を開けて見せたり、番士を故意と、眠らせて見せたり、手数のかかった小刀細工、それで俺の眼を眩まそうとは[#「眩まそうとは」は底本では「呟まそうとは」]、些少《ちと》どうも児戯に過ぎる……いずれ御蔵内の黄金なども、何処かへ移したことだろうがさて何処へ移したかな? これは是非とも調べなければならない」
 その時正面の襖が開いた。だが、一杯に開いたのではない、ほんの細目に開いたのであった。誰か隙見をしているらしい。
「無礼な奴だ」と思い乍ら[#「思い乍ら」は底本では「思ひ乍ら」]、越前守は睨み付けた。
 と、ピッタリと襖が閉じ、引っ返して行く足音がした。
「妙な奴が覗いたものだ」越前守は苦笑した。
「頭巾を冠り袖無を着、伊賀袴を穿いた香具師風、城内の武士とは思われない。……ははあ、大奥のお伽衆だな」
 その時スッスッと足音がして、軈て襖が静かに開いた。
「お待たせ致しました、いざ此方へ」それは北村彦右衛門であった。
 幾間か部屋を打ち通り、通された所が大広間、しかし誰もいなかった。
「しばらくお待ちを」と云いすてて、また彦右衛門は立去った。
 しばらく待ったが誰も来ない。
「これは可笑しい」と越前守は、多少不安を覚えて来た。
 と、正面の襖が開き先刻隙見をした香具師が、チョロリと部屋の中へ這入って来た。
「これはこれは大岡様、ようこそおいで下さいました。何は無くとも、先ず一献、斯う云う所だが然うは云わねえ。ヤイ畜生飛んでもねえ奴だ! 人もあろうに大岡様に化け、所もあろうに名古屋城内へご金蔵破りに来やがったな! 余人は旨々|誑《たば》かれても、この俺だけは誑かれねえ」
 膝も突かず立ったまま、香具師は憎さげに罵った。
「これよっく[#「よっく」に傍点]聞け大岡様は、成程貴様とそっくり[#「そっくり」に傍点]だが、只一点違う所は、左の眉尻に墨子《ほくろ》がある。どうだどうだ一言もあるめえ!」

二三

 どうしたものか是を聞くと、越前守は顔色を変えた。しかし依然として、威厳を保ち、グッと香具師を睨み付けた。
「これ莫迦者、何を言うか! 二人大岡がある筈が無い。江戸町奉行大岡忠相、拙者を置いて他にあろうか?」
「アッハッハッハッ、成程なあ。盗賊の身であり乍ら、盗賊を縛る町奉行、大岡様を騙《かた》って来る程の奴一筋縄では白状しまい。……そこで貴様に聞くことがある、一体俺を誰だと思う?」
「うむ」と云うと越前守は、大音上げて呼ばわった。
「城の方々、お出合いなされ! 大盗雲切仁左衛門が、香具師姿に身を窶し、金の鯱を奪おうと、お城に入り込んでございますぞ!」
 バタバタと四方八方から、宿直の武士が現れた。――斯ういけば大いに可いのであったが、一人の捕方も現れず、城中は寂然と静まっていた。
「アッハッハッハッ馬鹿野郎! 途方もねえ大声を上げやあがる。それで一匹の鼠も出ねえ。気の毒千万笑止々々。よし今度は俺の番だ」香具師は矢庭に大声を上げた。「城の方々お出合いなされ、大盗雲切仁左衛門が、大岡越前守に姿を変え、ご金蔵の金を奪おうと、お城へ入り込んでございますぞ!」
 足踏の音、襖を開ける音、股立をとり襷がけ、おっ取り刀の数十人の武士が、今度こそムラムラと現れた。
「雲切仁左衛門、神妙にしろ」
 越前守を取り巻いた。
「ええ、オイ、雲切、どうだどうだ!」
 香具師は愉快そうに笑い出した。
「俺の威光はこんなものさ。鶴の一声利目があるなあ。だが貴様には不思議だろう。俺の素性が解るめえ。……貴様も年貢の納め時、首を切られて地獄へ行き、閻魔《えんま》の庁へ出た時に、誰に手あて[#「あて」に傍点]になったかと聞かれて返辞が出来なかったら、悪党冥利面白くあるめえ。よし、それでは知らせてやろう!」
 片手でツルリと顔を撫でた。と、温室の老人がツルリと顔を撫でた為め、顔が一変したように、香具師の顔も一変した。燐のように光る切長の眼、楔形をした鋭い鼻、貝蓋のような[#「ような」は底本では「やうな」]薄い唇、精悍無比の若者の顔が、お道化た香具師の顔の代りに、其処へ新たに産れたのであった。
「面ァ見てくれ、雲切仁左衛門!」
「おっ!」
 と云うと睨み上げた。
「や、貴様は大岡越前の……」
「四天王の随一人……」
「ううむ、石子伴作だったか!」
「胆が潰れたか、笑止だなあ!」
「だが大凧を空へ上げ、天主の鯱を狙ったは?」
「何んの鯱を狙うものか、只鱗を調べた迄よ」
「ナニ、鱗を? 何んのために?」
「ついでに云って聞かせてやろう。……大納言様は大腹中、金銀を湯水にお使いなさる。由緒ある金の鯱の、鱗をさえもお剥がしになりお使いなさるという噂、江戸へ聞えて大評判、そこで実否を確かめようと、主人の命で名古屋へ下り、いろいろつまらねえ[#「つまらねえ」に傍点]細工をして、この城内へ入り込んだ迄さアッハッハッ、これで解ったろう!」
 石子伴作は大きく笑った。

 大岡越前守と雲切とが、よく似た容貌を持っていたことは、「緑林黒白」という盗賊篇に、簡単ではあるが記されてある。それを利用して雲切が、越前守の名を騙り、名古屋へこっそり這入り込み、部下の一人を花作りとし、城中の人々を無気力にするため、まず阿片を進めて置いて、それから城中へ堂々と入り、金蔵を破ろうとしたことも、同く、「緑林黒白」にある。
 石子伴作が金鯱調べに、名古屋城内へ入り込んだことも、まんざらの嘘では無いということも、或る名古屋の老人から聞いた。
 お半の方とは何者だろう! もう大方読者の方では感付いていられるかもしれないが、尾張宗春が部屋住時代に、無礼討ちにした伴金太夫、その武士の遺児なのであった。
「居附造り」とは何んなものか? 築城師で無い作者には、残念乍ら解ってはいない。
 さて其後宗春は、どんな生活をしたかというに、覇気も野心もうっちゃっ[#「うっちゃっ」に傍点]て、阿片とそうしてお半の方とに没頭したということである。

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年 9月25日発行
※底本にある、かぎ括弧(「」)のあきらかな誤り(『』となっているものや脱字)については、読み易さを優先し本文中とくに注記は入れないこととした。以下、誤りの修正箇所を示す。
[#底本の閉じ括弧は「』」、58-下15]、[#底本の閉じ括弧は「』」、69-上18]、[#底本では閉じ括弧は「』」、75-下18]、[#底本では始め括弧は「『」、96-上5][#底本では始め括弧が脱字、102-上9][#底本では閉じ括弧が脱字、102-下20]
入力:地田尚
校正:小林繁雄
2002年2月18日公開
2012年3月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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