高村光太郎

智恵子の半生—–高村光太郎

 妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として粟粒性《ぞくりゅうせい》肺結核で死んでから旬日で満二年になる。私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の廃頽《はいたい》生活から救い出される事が出来た経歴を持って居り、私の精神は一にかかって彼女の存在そのものの上にあったので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈《はげ》しく、一時は自己の芸術的製作さえ其の目標を失ったような空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。彼女の生前、私は自分の製作した彫刻を何人よりもさきに彼女に見せた。一日の製作の終りにも其を彼女と一緒に検討する事が此上もない喜であった。又彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作った木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫した。彼女の居ないこの世で誰が私の彫刻をそのように子供のようにうけ入れてくれるであろうか。もう見せる人も居やしないという思が私を幾箇月間か悩ました。美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識というようなものだけでは決して生れない。そういうものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあっても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあろう。大君の愛である事もあろう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。自分の作ったものを熱愛の眼を以て見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。作りたいものを必ず作り上げる潜力となるものはない。製作の結果は或は万人の為のものともなることがあろう。けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらいたいだけで既に一ぱいなのが常である。私はそういう人を妻の智恵子に持っていた。その智恵子が死んでしまった当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかった。作りたいものは山ほどあっても作る気になれなかった。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知っているからである。そういう幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失う事によって却《かえっ》て私にとっては普遍的存在となったのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言わば彼女は私と偕《とも》にある者となり、私にとっての永遠なるものであるという実感の方が強くなった。私はそうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終って製作を眺める時「どうだろう」といって後ろをふりむけば智恵子はきっと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。
 智恵子が結婚してから死ぬまでの二十四年間の生活は愛と生活苦と芸術への精進と矛盾と、そうして闘病との間断なき一連続に過ぎなかった。彼女はそういう渦巻の中で、宿命的に持っていた精神上の素質の為に倒れ、歓喜と絶望と信頼と諦観《ていかん》とのあざなわれた波濤《はとう》の間に没し去った。彼女の追憶について書く事を人から幾度か示唆されても今日まで其を書く気がしなかった。あまりなまなましい苦闘のあとは、たとい小さな一隅の生活にしても筆にするに忍びなかったし、又いわば単なる私生活の報告のようなものに果してどういう意味があり得るかという疑問も強く心を牽制《けんせい》していたのである。だが今は書こう。出来るだけ簡単に此の一人の女性の運命を書きとめて置こう。大正昭和の年代に人知れず斯《こ》ういう事に悩み、こういう事に生き、こういう事に倒れた女性のあった事を書き記して、それをあわれな彼女への餞《はなむけ》とする事を許させてもらおう。一人に極まれば万人に通ずるということを信じて、今日のような時勢の下にも敢て此の筆を執ろうとするのである。
 今しずかに振りかえって彼女の上を考えて見ると、その一生を要約すれば、まず東北地方福島県二本松町の近在、漆原という所の酒造り長沼家に長女として明治十九年に生れ、土地の高女を卒業してから東京目白の日本女子大学校家政科に入学、寮生活をつづけているうちに洋画に興味を持ち始め、女子大卒業後、郷里の父母の同意を辛うじて得て東京に留まり、太平洋絵画研究所に通学して油絵を学び、当時の新興画家であった中村彝、斎藤与里治、津田青楓の諸氏に出入して其の影響をうけ、又一方、其頃平塚雷鳥女史等の提起した女子思想運動にも加わり、雑誌「青鞜《せいとう》」の表紙画などを画いたりした。それが明治末年頃の事であり、やがて柳八重子女史の紹介で初めて私と知るようになり、大正三年に私と結婚した。結婚後も油絵の研究に熱中していたが、芸術精進と家庭生活との板ばさみとなるような月日も漸《ようや》く多くなり、其上|肋膜《ろくまく》を病んで以来しばしば病臥《びょうが》を余儀なくされ、後年郷里の家君を亡《うしな》い、つづいて実家の破産に瀕《ひん》するにあい、心痛苦慮は一通りでなかった。やがて更年期の心神変調が因となって精神異状の徴候があらわれ、昭和七年アダリン自殺を計り、幸い薬毒からは免れて一旦健康を恢復《かいふく》したが、その後あらゆる療養をも押しのけて徐々に確実に進んで来る脳細胞の疾患のため昭和十年には完全に精神分裂症に捉えられ、其年二月ゼームス坂病院に入院、昭和十三年十月其処でしずかに瞑目《めいもく》したのである。
 彼女の一生は実に単純であり、純粋に一私人的生活に終始し、いささかも社会的意義を有《も》つ生活に触れなかった。わずかに「青鞜」に関係していた短い期間がその社会的接触のあった時と言えばいえる程度に過ぎなかった。社会的関心を持たなかったばかりでなく、生来社交的でなかった。「青鞜」に関係していた頃|所謂《いわゆる》新らしい女の一人として一部の人達の間に相当に顔を知られ、長沼智恵子という名がその仲間の口に時々上ったのも、実は当時のゴシップ好きの連中が尾鰭《おひれ》をつけていろいろ面白そうに喧伝《けんでん》したのが因であって、本人はむしろ無口な、非社交的な非論理的な、一途《いちず》な性格で押し通していたらしかった。長沼さんとは話がしにくいというのが当時の女友達の本当の意見のようであった。私は其頃の彼女をあまり善く知らないのであるが、津田青楓氏が何かに書いていた中に、彼女が高い塗下駄をはいて着物の裾を長く引きずるようにして歩いていたのをよく見かけたというような事があったのを記憶する。そんな様子や口数の少いところから何となく人が彼女に好奇的な謎でも感じていたのではないかと思われる。女|水滸伝《すいこでん》のように思われたり、又風情ごのみのように言われたりしたようであるが実際はもっと素朴で無頓着《むとんじゃく》であったのだろうと想像する。
 私は彼女の前半生を殆ど全く知らないと言っていい。彼女について私が知っているのは紹介されて彼女と識《し》ってから以後の事だけである。現在の事で一ぱいで、以前の事を知ろうとする気も起らなかったし、年齢さえ実は後年まで確実には知らなかったのである。私が知ってからの彼女は実に単純|真摯《しんし》な性格で、心に何か天上的なものをいつでも湛《たた》えて居り、愛と信頼とに全身を投げ出していたような女性であった。生来の勝気から自己の感情はかなり内に抑えていたようで、物腰はおだやかで軽佻《けいちょう》な風は見られなかった。自己を乗り越えて進もうとする気力の強さには時々驚かされる事もあったが、又そこに随分無理な努力も人知れず重ねていたのである事を今日から考えると推察する事が出来る。
 その時には分らなかったが、後から考えてみれば、結局彼女の半生は精神病にまで到達するように進んでいたようである。私との此の生活では外に往く道はなかったように見える。どうしてそうかと考える前に、もっと別な生活を想像してみると、例えば生活するのが東京でなくて郷里、或は何処かの田園であり、又配偶者が私のような美術家でなく、美術に理解ある他の職業の者、殊に農耕牧畜に従事しているような者であった場合にはどうであったろうと考えられる。或はもっと天然の寿を全うし得たかも知れない。そう思われるほど彼女にとっては肉体的に既に東京が不適当の地であった。東京の空気は彼女には常に無味乾燥でざらざらしていた。女子大で成瀬校長に奨励され、自転車に乗ったり、テニスに熱中したりして頗《すこぶ》る元気|溌剌《はつらつ》たる娘時代を過したようであるが、卒業後は概してあまり頑健という方ではなく、様子もほっそりしていて、一年の半分近くは田舎や、山へ行っていたらしかった。私と同棲《どうせい》してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰っていた。田舎の空気を吸って来なければ身体が保たないのであった。彼女はよく東京には空が無いといって歎《なげ》いた。私の「あどけない話」という小詩がある。

  
 智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは
 うすもも色の朝のしめりだ。
 智恵子は遠くを見ながらいふ。
 阿多多羅山の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。
 あどけない空の話である。

 私自身は東京に生れて東京に育っているため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染む事だろうと思っていたが、彼女の斯《か》かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった。彼女は東京に居て此の要求をいろいろな方法で満たしていた。家のまわりに生える雑草の飽くなき写生、その植物学的探究、張出窓での百合花やトマトの栽培、野菜類の生食、ベトオフェンの第六交響楽レコオドへの惑溺《わくでき》というような事は皆この要求充足の変形であったに相違なく、此の一事だけでも半生に亘る彼女の表現し得ない不断のせつなさは想像以上のものであったであろう。その最後の日、死ぬ数時間前に私が持って行ったサンキストのレモンの一顆《いっか》を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであったろう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗われているように見えた。
 彼女がついに精神の破綻《はたん》を来すに至った更に大きな原因は何といってもその猛烈な芸術精進と、私への純真な愛に基く日常生活の営みとの間に起る矛盾|撞着《どうちゃく》の悩みであったであろう。彼女は絵画を熱愛した。女子大在学中既に油絵を画いていたらしく、学芸会に於ける学生劇の背景製作などをいつも引きうけて居たという事であり、故郷の両親が初めは反対していたのに遂に画家になる事を承認したのも、其頃画いた祖父の肖像画の出来栄が故郷の人達を驚かしたのに因ると伝え聞いている。この油絵は、私も後に見たが、素朴な中に渋い調和があり、色価の美しい作であった。卒業後数年間の絵画については私はよく知らないが、幾分情調本位な甘い気分のものではなかったかと思われる。其頃のものを彼女はすべて破棄してしまって私には見せなかった。僅かに素描の下描などで私は其を想像するに過ぎなかった。私と一緒になってからは主に静物の勉強をつづけ幾百枚となく画いた。風景は故郷に帰った時や、山などに旅行した時にかき、人物は素描では描いたが、油絵ではついにまだ本格的に画くまでに至らなかった。彼女はセザンヌに傾倒していて自然とその影響をうける事も強かった。私もその頃は彫刻の外に油絵も画いていたが、勉強の部屋は別にしていた。彼女は色彩について実に苦しみ悩んだ。そして中途半端の成功を望まなかったので自虐に等しいと思われるほど自分自身を責めさいなんだ。或年、故郷に近い五色温泉に夏を過して其処の風景を画いて帰って来た。その中の小品に相当に佳いものがあったので、彼女も文展に出品する気になって、他の大幅のものと一緒にそれを搬入したが、鑑査員の認めるところとならずに落選した。それ以来いくらすすめても彼女は何処の展覧会へも出品しようとしなかった。自己の作品を公衆に展示する事によって何か内に鬱積《うっせき》するものを世に訴え、外に発散せしめる機会を得るという事も美術家には精神の助けとなるものだと思うのであるが、そういう事から自己を内に閉じこめてしまったのも精神の内攻的傾向を助長したかも知れない。彼女は最善をばかり目指していたので何時でも自己に不満足であり、いつでも作品は未完成に終った。又事実その油絵にはまだ色彩に不十分なもののある事は争われなかった。その素描にはすばらしい力と優雅とを持っていたが、油絵具を十分に克服する事がどうしてもまだ出来なかった。彼女はそれを悲しんだ。時々はひとり画架の前で涙を流していた。偶然二階の彼女の部屋に行ってそういうところを見ると、私も言いしれぬ寂しさを感じ慰の言葉も出ない事がよくあった。ところで、私は人の想像以上に生活不如意で、震災前後に唯一度女中を置いたことがあるだけで、其他は彼女と二人きりの生活であったし、彼女も私も同じ様な造型美術家なので、時間の使用について中々むつかしいやりくりが必要であった。互にその仕事に熱中すれば一日中二人とも食事も出来ず、掃除も出来ず、用事も足せず、一切の生活が停頓《ていとん》してしまう。そういう日々もかなり重なり、結局やっぱり女性である彼女の方が家庭内の雑事を処理せねばならず、おまけに私が昼間彫刻の仕事をすれば、夜は食事の暇も惜しく原稿を書くというような事が多くなるにつれて、ますます彼女の絵画勉強の時間が喰われる事になるのであった。詩歌のような仕事などならば、或は頭の中で半分は進める事も出来、かなり零細な時間でも利用出来るかと思うが、造型美術だけは或る定まった時間の区劃《くかく》が無ければどうする事も出来ないので、この点についての彼女の苦慮は思いやられるものであった。彼女はどんな事があっても私の仕事の時間を減らすまいとし、私の彫刻をかばい、私を雑用から防ごうと懸命に努力をした。彼女はいつの間にか油絵勉強の時間を縮小し、或時は粘土で彫刻を試みたり、又後には絹糸をつむいだり、其を草木染にしたり、機織を始めたりした。二人の着物や羽織を手織で作ったのが今でも残っている。同じ草木染の権威山崎斌氏は彼女の死んだ時弔電に、


 袖のところ一すぢ青きしまを織りて
 あてなりし人今はなしはや

という歌を書いておくられた。結局彼女は口に出さなかったが、油絵製作に絶望したのであった。あれほど熱愛して生涯の仕事と思っていた自己の芸術に絶望する事はそう容易な心事である筈がない。後年服毒した夜には、隣室に千疋屋から買って来たばかりの果物籠《くだものかご》が静物風に配置され、画架には新らしい画布が立てかけられてあった。私はそれを見て胸をつかれた。慟哭《どうこく》したくなった。
 彼女はやさしかったが勝気であったので、どんな事でも自分一人の胸に収めて唯黙って進んだ。そして自己の最高の能力をつねに物に傾注した。芸術に関する事は素より、一般教養のこと、精神上の諸問題についても突きつめるだけつきつめて考えて、曖昧《あいまい》をゆるさず、妥協を卑しんだ。いわば四六時中張りきっていた弦のようなもので、その極度の緊張に堪えられずして脳細胞が破れたのである。精根つきて倒れたのである。彼女の此の内部生活の清浄さに私は幾度|浄《きよ》められる思をしたか知れない。彼女にくらべると私は実に茫漠として濁っている事を感じた。彼女の眼を見ているだけで私は百の教訓以上のものを感得するのが常であった。彼女の眼には確かに阿多多羅山の山の上に出ている天空があった。私は彼女の胸像を作る時この眼の及び難い事を痛感して自分の汚なさを恥じた。今から考えてみても彼女は到底この世に無事に生きながらえていられなかった運命を内部的にも持っていたように見える。それほど隔絶的に此の世の空気と違った世界の中に生きていた。私は時々何だか彼女は仮にこの世に存在している魂のように思える事があったのを記憶する。彼女には世間慾というものが無かった。彼女は唯ひたむきに芸術と私とへの愛によって生きていた。そうしていつでも若かった。精神の若さと共に相貌の若さも著しかった。彼女と一緒に旅行する度に、ゆくさきざきで人は彼女を私の妹と思ったり、娘とさえ思ったりした。彼女には何かそういう種類の若さがあって、死ぬ頃になっても五十歳を超えた女性とは一見して思えなかった。結婚当時も私は彼女の老年というものを想像する事が出来ず、「あなたでもお婆さんになるかしら」と戯れに言った事があるが、彼女はその時、「私年とらないうちに死ぬわ」と不用意に答えたことのあるのを覚えている。そうしてまったくその通りになった。
 精神病学者の意見では、普通の健康人の脳は随分ひどい苦悩にも堪えられるものであり、精神病に陥る者は、大部分何等かの意味でその素質を先天的に持っているか、又は怪我とか悪疾とかによって後天的に持たせられた者であるという事である。彼女の家系には精神病の人は居なかったようであるが、ただ彼女の弟である実家の長男はかなり常規を逸した素行があり、そのため遂に実家は破産し、彼自身は悪疾をも病んで陋巷《ろうこう》に窮死した。しかし遺伝的といい得る程強い素質がそこに流れていると信じられない。又彼女は幼児の時切石で頭蓋《ずがい》にひどい怪我をした事があるという事であるがこれも其の後何の故障もなく平癒してしまって後年の病気に関係があるとも思えない。又彼女が脳に変調を起した時、医者は私に外国で或る病気の感染を受けた事はないかと質問した。私にはまったく其の記憶がなかったし、又私の血液と彼女の血液とを再三検査してもらったが、いつも結果は陰性であった。そうすると彼女の精神分裂症という病気の起る素質が彼女に肉体的に存在したとは確定し難いのである。だが又あとから考えると、私が知って以来の彼女の一切の傾向は此の病気の方へじりじりと一歩ずつ進んでいたのだとも取れる。その純真さえも唯ならぬものがあったのである。思いつめれば他の一切を放棄して悔まず、所謂《いわゆる》矢も楯《たて》もたまらぬ気性を持っていたし、私への愛と信頼の強さ深さは殆ど嬰児《えいじ》のそれのようであったといっていい。私が彼女に初めて打たれたのも此の異常な性格の美しさであった。言うことが出来れば彼女はすべて異常なのであった。私が「樹下の二人」という詩の中で、

 ここがあなたの生れたふるさと
 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。

と歌ったのも此の実感から来ているのであった。彼女が一歩ずつ最後の破綻《はたん》に近づいて行ったのか、病気が螺旋《らせん》のようにぎりぎりと間違なく押し進んで来たのか、最後に近くなってからはじめて私も何だか変なのではないかとそれとなく気がつくようになったのであって、それまでは彼女の精神状態などについて露ほどの疑も抱いてはいなかった。つまり彼女は異常ではあったが、異状ではなかったのである。はじめて異状を感じたのは彼女の更年期が迫って来た頃の事である。
 追憶の中の彼女をここに簡単に書きとめて置こう。
 前述の通り長沼智恵子を私に紹介したのは女子大の先輩柳八重子女史であった。女史は私の紐育《ニューヨーク》時代からの友人であった画家柳敬助君の夫人で当時桜楓会の仕事をして居られた。明治四十四年の頃である。私は明治四十二年七月にフランスから帰って来て、父の家の庭にあった隠居所の屋根に孔《あな》をあけてアトリエ代りにし、そこで彫刻や油絵を盛んに勉強していた。一方神田淡路町に琅※[#「王+干」、第3水準1-87-83]洞《ろうかんどう》という小さな美術店を創設して新興芸術の展覧会などをやったり、当時日本に勃興したスバル一派の新文学運動に加わったりしていたと同時に、遅蒔《おそまき》の青春が爆発して、北原白秋氏、長田秀雄氏、木下杢太郎氏などとさかんに往来してかなり烈《はげ》しい所謂《いわゆる》耽溺《たんでき》生活に陥っていた。不安と焦躁《しょうそう》と渇望と、何か知られざるものに対する絶望とでめちゃめちゃな日々を送り、遂に北海道移住を企てたり、それにも忽《たちま》ち失敗したり、どうなる事か自分でも分らないような精神の危機を経験していた時であった。柳敬助君に友人としての深慮があったのかも知れないが、丁度そういう時彼女が私に紹介されたのであった。彼女はひどく優雅で、無口で、語尾が消えてしまい、ただ私の作品を見て、お茶をのんだり、フランス絵画の話をきいたりして帰ってゆくのが常であった。私は彼女の着こなしのうまさと、きゃしゃな姿の好ましさなどしか最初は眼につかなかった。彼女は決して自分の画いた絵を持って来なかったのでどんなものを画いているのかまるで知らなかった。そのうち私は現在のアトリエを父に建ててもらう事になり、明治四十五年には出来上って、一人で移り住んだ。彼女はお祝にグロキシニヤの大鉢を持って此処へ訪ねて来た。丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来ていて又会った。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時|若《も》し私が何か無理な事でも言い出すような事があったら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだったという事であった。私はそんな事は知らなかったが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまったく子供であった。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかという予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれていた。
 やがて彼女から熱烈な手紙が来るようになり、私も此の人の外に心を託すべき女性は無いと思うようになった。それでも幾度か此の心が一時的のものではないかと自ら疑った。又彼女にも警告した。それは私の今後の生活の苦闘を思うと彼女をその中に巻きこむに忍びない気がしたからである。其の頃せまい美術家仲間や女人達の間で二人に関する悪質のゴシップが飛ばされ、二人とも家族などに対して随分困らせられた。然し彼女は私を信じ切り、私は彼女をむしろ崇拝した。悪声が四辺に満ちるほど、私達はますます強く結ばれた。私は自分の中にある不純の分子や溷濁《こんだく》の残留物を知っているので時々自信を失いかけると、彼女はいつでも私の中にあるものを清らかな光に照らして見せてくれた。

 汚れ果てたる我がかずかずの姿の中に
 をさな児のまこともて
 君はたふとき吾がわれをこそ見出でつれ
 君の見出でつるものをわれは知らず
 ただ我は君をこよなき審判官《さばきのつかさ》とすれば
 君によりてこころよろこび
 わが知らぬわれの
 わが温き肉のうちに籠れるを信ずるなり

と私も歌ったのである。私を破れかぶれの廃頽《はいたい》気分から遂に引上げ救い出してくれたのは彼女の純一な愛であった。
 大正二年八月九月の二箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田ヴイナス倶楽部《クラブ》で岸田劉生君や木村荘八君等と共に開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。其の頃上高地に行く人は皆島々から岩魚止を経て徳本峠を越えたもので、かなりの道のりであった。その夏同宿には窪田空穂氏や、茨木猪之吉氏も居られ、又丁度穂高登山に来られたウエストン夫妻も居られた。九月に入ってから彼女が画の道具を持って私を訪ねて来た。その知らせをうけた日、私は徳本峠を越えて岩魚止まで彼女を迎えに行った。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登って来た。山の人もその健脚に驚いていた。私は又徳本峠を一緒に越えて彼女を清水屋に案内した。上高地の風光に接した彼女の喜は実に大きかった。それから毎日私が二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまわった。彼女は其の頃|肋膜《ろくまく》を少し痛めているらしかったが山に居る間はどうやら大した事にもならなかった。彼女の作画はこの時始めて見た。かなり主観的な自然の見方で一種の特色があり、大成すれば面白かろうと思った。私は穂高、明神、焼岳、霞沢、六百岳、梓川と触目を悉《ことごと》く画いた。彼女は其の時私の画いた自画像の一枚を後年|病臥《びょうが》中でも見ていた。その時ウエストンから彼女の事を妹さんか、夫人かと問われた。友達ですと答えたら苦笑していた。当時東京の或新聞に「山上の恋」という見出しで上高地に於ける二人の事が誇張されて書かれた。多分下山した人の噂話を種にしたものであろう。それが又家族の人達の神経を痛めさせた。十月一日に一山|挙《こぞ》って島々へ下りた。徳本峠の山ふところを埋めていた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思い出して語った。
 それ以来私の両親はひどく心配した。私は母に実にすまないと思った。父や母の夢は皆破れた。所謂《いわゆる》洋行帰りを利用して彫刻界へ押し出す事もせず、学校の先生をすすめても断り、然るべき江戸前のお嫁さんも貰わず、まるで了見が分らない事になってしまった。実にすまないと思ったが、結局大正三年に智恵子との結婚を許してもらうように両親に申出た。両親も許してくれた。両親のもとにかしずかず、アトリエに別居するわけなので、土地家屋等一切は両親と同居する弟夫妻の所有とする事にきめて置いた。私達二人はまったく裸のままの家庭を持った。もちろん熱海行などはしなかった。それから実に長い間の貧乏生活がつづいたのである。
 彼女は裕福な豪家に育ったのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかった。私が金に困って古着屋を呼んで洋服を売って居ても平気で見ていたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであった。いよいよ食べられなくなったらというような話も時々出たが、だがどんな事があってもやるだけの仕事をやってしまわなければねというと、そう、あなたの彫刻が途中で無くなるような事があってはならないと度々言った。私達は定収入というものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばったり無くなった。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作ってやったのは二三度くらいのものであったろう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、ついに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すようになった。しかも其が甚だ美しい調和を持っていた。「あなたはだんだんきれいになる」という詩の中で、


 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属

と私が書いたのも其の頃である。
 自分の貧に驚かない彼女も実家の没落にはひどく心を傷めた。幾度か実家へ帰って家計整理をしたようであったが結局破産した。二本松町の大火。実父の永眠。相続人の遊蕩《ゆうとう》。破滅。彼女にとっては堪えがたい痛恨事であったろう。彼女はよく病気をしたが、その度に田舎の家に帰ると平癒した。もう帰る家も無いという寂しさはどんなに彼女を苦しめたろう。彼女の寂しさをまぎらす多くの交友を持たなかったのも其の性情から出たものとはいえ一つの運命であった。一切を私への愛にかけて学校時代の友達とも追々遠ざかってしまった。僅かに立川の農事試験場の佐藤澄子さん其の他両三名の親友があったに過ぎなかったのである。それでさえ年に一二度の往来であった。学校時代には彼女は相当に健康であって運動も過激なほどやったようであるが、卒業後|肋膜《ろくまく》にいつも故障があり、私と結婚してから数年のうちに遂に湿性肋膜炎の重症のにかかって入院し、幸に全治したが、その後或る練習所で乗馬の稽古《けいこ》を始めた所、そのせいか後屈症を起して切開手術のため又入院した。盲腸などでも悩み、いつも何処かしらが悪かった。彼女の半生の中で一番健康をたのしんだのは大正十四年頃の一二年間のことであった。しかし病気でも彼女はじめじめしてはいなかった。いつも清朗でおだやかであった。悲しい時には涙を流して泣いたが、又じきに直った。
 昭和六年私が三陸地方へ旅行している頃、彼女に最初の精神変調が来たらしかった。私は彼女を家に一人残して二週間と旅行をつづけた事はなかったのに、此の時は一箇月近く歩いた。不在中泊りに来ていた姪や、又訪ねて来た母などの話をきくと余程孤独を感じていた様子で、母に、あたし死ぬわ、と言った事があるという。丁度更年期に接している年齢であった。翌七年はロザンゼルスでオリムピックのあった年であるが、その七月十五日の朝、彼女は眠から覚めなかった。前夜十二時過にアダリンを服用したと見え、粉末二五|瓦《グラム》入の瓶が空になっていた。彼女は童女のように円く肥って眼をつぶり口を閉じ、寝台の上に仰臥《ぎょうが》したままいくら呼んでも揺っても眠っていた。呼吸もあり、体温は中々高い。すぐ医者に来てもらって解毒の手当し、医者から一応警察に届け、九段坂病院に入れた。遺書が出たが、其にはただ私への愛と感謝の言葉と、父への謝罪とが書いてあるだけだった。その文章には少しも頭脳不調の痕跡《こんせき》は見られなかった。一箇月の療養と看護とで平復退院。それから一箇年間は割に健康で過したが、そのうち種々な脳の故障が起るのに気づき、旅行でもしたらと思って東北地方の温泉まわりを一緒にしたが、上野駅に帰着した時は出発した時よりも悪化していた。症状一進一退。彼女は最初幻覚を多く見るので寝台に臥《ふ》しながら其を一々手帳に写生していた。刻々に変化するのを時間を記入しながら次々と描いては私に見せた。形や色の無類の美しさを感激を以て語った。そうした或る期間を経ているうちに今度は全体に意識がひどくぼんやりするようになり、食事も入浴も嬰児《えいじ》のように私がさせた。私も医者もこれを更年期の一時的現象と思って、母や妹の居る九十九里浜の家に転地させ、オバホルモンなどを服用させていた。私は一週一度汽車で訪ねた。昭和九年私の父が胃潰瘍《いかいよう》で大学病院に入院、退院後十月十日に他界した。彼女は海岸で身体は丈夫になり朦朧《もうろう》状態は脱したが、脳の変調はむしろ進んだ。鳥と遊んだり、自身が鳥になったり、松林の一角に立って、光太郎智恵子光太郎智恵子と一時間も連呼したりするようになった。父死後の始末も一段落ついた頃彼女を海岸からアトリエに引きとったが、病勢はまるで汽缶車のように驀進《ばくしん》して来た。諸岡存博士の診察もうけたが、次第に狂暴の行為を始めるようになり、自宅療養が危険なので、昭和十年二月知人の紹介で南品川のゼームス坂病院に入院、一切を院長斎藤玉男博士の懇篤な指導に拠ることにした。又仕合なことにさきに一等看護婦になっていた智恵子の姪のはる子さんという心やさしい娘さんに最後まで看護してもらう事が出来た。昭和七年以来の彼女の経過追憶を細かに書くことはまだ私には痛々しすぎる。ただ此の病院生活の後半期は病状が割に平静を保持し、精神は分裂しながらも手は曾《かつ》て油絵具で成し遂げ得なかったものを切紙によって楽しく成就したかの観がある。百を以て数える枚数の彼女の作った切紙絵は、まったく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛憐の情の訴でもある。彼女は此所に実に健康に生きている。彼女はそれを訪問した私に見せるのが何よりもうれしそうであった。私がそれを見ている間、彼女は如何にも幸福そうに微笑したり、お辞儀したりしていた。最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑う表情をした。すっかり安心した顔であった。私の持参したレモンの香りで洗われた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去った。昭和十三年十月五日の夜であった。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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