江見水蔭

月世界跋渉記—— 江見水蔭

  引力に因り月世界に墜落。探検者の気絶

「どうしよう。」
と思うまもなく、六人の月世界探検者を乗せた空中飛行船|翔鷲号《しょうしゅうごう》は非常な速力で突進して月に落ち、大地震でも揺ったような激しい衝動をうけたと思うと、一行は悉《ことごと》く気絶して終《しま》った。
 そもそもこの探検隊は目下日本で有名な否《いな》世界中に誰知らぬ者もないほどに有名な桂田《かつらだ》工学博士と、これもその道にかけては頗《すこぶ》る評判の月野《つきの》理学博士とによって主唱され、それに両博士の助手が二名、及び星岡光雄、空知晴次といういずれも中学四年生の少年とで組織されているので、一行は桂田博士が発明した最新式の空中飛行船に乗じて、この試運転の第一着手として、吾が地球から最も近い月世界の探検を思い立ったのである。しかしこんな冒険な一命を賭するような事業に加わるのは実に乱暴極まった話だが、この二人はいずれも月野理学博士の親戚の少年で博士の家に厄介になって、その監督をうけつつ通学しているのだが、いつの間に聞き出したか、桂田博士と月野博士の計画を知って、是非にお伴をさせてくれるようにと、蒼蠅《うるさ》く頼んで何といっても肯《き》かないので、博士も遂に承諾して一行の中《うち》に加えたのだ。それから助手というのは一人は山本広、一人は卯山飛達《うやまとびたつ》といって、ともに博士の手足となって数年来この事業のために尽瘁《じんすい》しているという、至極忠実なる人々だ。日本東京を出発してから十六日目、いよいよ月に近いた時に、不意に飛行器に狂いが生じて遂々《とうとう》こんな珍事が出来したのだ。
 将碁《しょうぎ》倒しになって気絶していた一行の中で、最先《まっさき》に桂田博士が正気に返ってムクムクと起き上った。半ば身を立てて四辺《あたり》を見ると実に何ともいわれない悲惨な有様だ。
 自分らの這入《はい》っていた一室はどうにか壊れずにいるが、部屋の中は宛然《まるで》玩具箱を引繰り返したように、種々《いろいろ》の道具が何一つとして正しく位置を保っているのはなく、悉く転倒して、そこら一面に散在《ちらば》っている中に、月野博士を初め助手も二少年も、折り重って気絶している。
 博士は立ち上ろうとしたが、先刻《さっき》の衝突で酷《ひど》く身体を打ったと見えて、腰の関節が痛んで中々立てそうもない。やっと我慢して這いながら室の隅まで行って、壊れた棚から一つの薬箱を取り出して呑むと、少しは心地よくなったので、まず一番手近な山本を抱き起して薬を呑ませると、暫《しばら》くしてようよう息を吹き返した。二人ながらまだ半病人だが互に協力してほかの一同に同じように薬を呑ませると幸にも皆正気に復したが、いずれもいずれも死人のような真蒼な顔をしている。
 暫時《しばらく》は誰も無言でいたが、少し元気を回復すると、桂田博士は、
「やどうも大変な目に逢ったね。」
と最先に口を切った。
「実に酷い目に逢った。僕はあの時はもう駄目だと思ったが、それでもよく気が付いた。」
と月野博士が答える。
 今迄|喘《あえ》ぐように苦しげに呼吸していた晴次はこの時ようよう口を開いて、
「叔父さん。(月野博士の事を二人ながら叔父さんと呼んでいるのだ。)今迄何でもなかったのが一体どうしてあんなになったんでしょう。」
と如何《いか》にも不思議気に尋ねる。
「それは。」と桂田博士が横から引取って、「始めの中はそうでもないが、飛行船が月に近くなるとともに、今迄は地球の引力に左右されていたのが、俄《にわか》に月の引力に曳かれたからで。」……と苦笑しつつ「僕も勿論始めにこの研究もして充分の設備はしておいたつもりなんだけれど、まだ設備が足りなかったと見えて、遂々《とうとう》こんな目にあわされたんだ。これは全く僕の手落なんだ。」
と半分は晴次への説明、半分はほかの者への申訳のようにいった。
 莞爾莞爾《にこにこ》しながら聞いていた月野博士は、
「ここまでは桂田君の尽力でまず無事に到着したからこれから僕の働く番だ。」
と、いいながら立ち上って、厚い硝子《ガラス》を張った窓から外を覗《のぞ》いて、
「実に荒涼たるもんだなあ。」
と感じ入ったようにいったので、ほかの人々もこの時始めて外を見た。
 実《げ》に見渡す限り磊々《らいらい》塁々たる石塊の山野のみで、聞ゆるものは鳥の鳴く音《ね》すらなく満目ただ荒涼、宛然《さながら》話しに聞いている黄泉《よみ》の国を目のあたり見る心地である。

    空気は皆無

 先刻から大分元気付いて来た晴次と光雄はこの光景《ありさま》を見ると、
「やあ酷《ひど》いなあ。さあいよいよ出かけようじゃないか。」
と、喜び勇んで最先に窓から飛び出したが、出たと思うと、真蒼になって這入って来て、再びそこに仆《たお》れて終った。
 助手はこの有様に驚いて、早速介抱に取り懸ったが、月野博士は笑いながら、今二人の開けた窓を手早く閉めて少年の側に立ち寄って、
「あんまりばたばたするから不可《いけ》ない。僕の思った通りいよいよこの月世界にはもう空気が全くなくなって終っているんだ。」
といったが、急に思い出したように、傍の助手の方を振り向いて、
「おい山本。一寸《ちょっと》あちらの貯蔵庫を検べて見てくれないか。先刻《さっき》の騒ぎで悉皆《すっかり》壊れているかもしれない。あれが使えなくなってはそれこそ大変だ。」
「ハ。」と助手は隣の室へ行ったが直ぐ帰って来て、
「先生、大丈夫です。あちらは後部にあったもんですから、それほどの損害はありません。」
「そうか。それは何より難有《ありがた》い。」
と、今度は自分でその室に這入ったが、暫くして再び出て来たのを見ると大変な恰好だ。

    新式空気自発器

 各自《めいめい》の家によくある赤く塗った消火器のような恰好をした円筒を背にかけ、その下端に続いている一条のゴム管を左の脇下から廻して、その端は、仮面《めん》になっていて鼻と口とを塞いで、一見すると宛然《さながら》潜水夫の出来損いのような恰好だ。これは博士が非常な苦心の末に発見した新式空気自発器で、予め今日の用意のために整えておいたのだ。
 訳を知らない二少年はこの様子を見ると病気を忘れて手を打って、
「やあ面白い恰好だなあ。どうしてそんなものを被るんです。」
 博士は簡単にその理由《わけ》を教えて、まず自分で外へ出た。後に残った助手は同じく人数だけの自発器を持ち出して、各自《てんで》にそれを被らせ、続いて外へ出た。
 頑丈に造ってある飛行器の肝要な室は比較的に安全ではあったが、外に出て見ると誠に酷い有様だ。
 羽根は飛んで了《しま》い、檣《マスト》は折れ、その他表面にある附属物は一切滅茶滅茶に破損して、まるで蝗《いなご》の足や羽根を毟《むし》ったように鉄製の胴だけが残っている。
 この様子を見ると、折角元気を盛り返しかけた光雄と晴次は又心配気な顔をして、
「こんなに壊れて終ったら、もう地球に帰れなくはありませんかねえ。」
と尋ねる。
 桂田博士も尠《すく》なからず困った様子で何とも答えない。

    六探検者の言語不通

 月野博士は最先に立ってズンズン向うに進むのでほかの人々もその後に続いてやって行く。
 広い石塊《いしころ》の原を横ぎり終ると今度は見上ぐるばかりの険山の連脈だ。
 見渡す限り石ばかりで、四辺には草一本もなく、谷間のような処に下りて行っても、一滴の水さえ流れていない。サハラの大砂漠の最中《まんなか》に投げ出されたようなものだ。それで不思議な事には自分の身体の軽い事といったら踏む足が、地に付いているかいないか訳らないくらい。足音さえしない。それでいくら石塊の上を歩こうとも、険しい山を登ろうとも少しも苦しいと感じない。
「これは面白い。」
と少年は大喜びで、どんどん兎の飛ぶように駆け歩くと、その身体は宛然《まるで》浅草の操人形を見るようにくらくら[#「くらくら」に傍点]して首を振りながら、やっている。可笑《おか》しいと思って見れば首を振ったりピョコピョコ跳ねるのはただに少年ばかりじゃない。両博士も変ちきりんな身振をやって歩いている。一番にこれを見付けた助手は、あんまり可笑しいので、
「先生大変お様子がよろしいじゃありませんか。」
と冷評《ひやか》したが何とも返事もしないで相変らず首を振っている。
「どうしたんだろう。それにしてもあの恰好は可笑しい。ハハハハハハ。」
と高笑をしたが、不思議にも自分の笑う声が聞えないのに気が付いた。
「おや。」と思って又大きな声を出して見たが矢張《やっぱり》聞えない。いよいよ不思議に思って、月野博士に追付いて、その袖を引きながら、
「先生、私はどういう加減か耳が聞えなくなっちゃいました。」
と訴えると、矢張博士にも何をいっているんだか判らない。博士は急に思い付いたようにポケットから手帳を出して、
「これは空気がないために音響が伝らないのだ。」と書くと、不思議そうに二人の様子を見ていた他の連中も成程と合点して、
「ははあ。それで聞えなかったのか馬鹿らしい。ははははは。」
と高笑をしたが、口が開いたのが見えるばかり、さっぱり笑声も何もしない。

    不思議なる空気孔の発見。桂田博士の失跡

 でこの後は用事の時は筆談する事として、又ずんずん向うに進んでいると、晴次の踏んだ石がグラッと揺いでそこに一つの穴を見出した。極めて小さな穴だが月野博士は注意してその中を覗いていたが、何を思ったか洋寸《マッチ》を出して火を点ずるとパッと火が付いた。博士は大喜びで四辺の石を少しばかりとりのけてその中に飛び込み、中から手招きをするので、いずれも中に這入ると博士は仮面を脱いで、
「この穴には空気が充満している。」
 今度は声が聞えた。
「これは何かの具合でこの穴にずっと昔の空気が残っていたんだ。」といいながら又懐中|洋燈《ランプ》を点じてそれを高く翳《かざ》して隈なく四辺を見回した。
 一行のいる処は八畳敷ほどの処であるが、その横に一間四方ほどの洞《ほら》があって、そこから先きは何丁あるか判らないほど深いらしい。それは助手が奥へ向って石を投じて見たその反響でも大概は判っている。
 月野博士は非常に喜ばしげな顔付で、
「いや難有い難有い。何にしてもこれだけ大きな空気孔があれば、余程長い間吾々は呼吸には困難しないから、この間に緩々《ゆるゆる》探検もしたり、飛行器の修繕も出来るというものだ。」
と雀躍していたがやがて、
「しかしこうしている中にもこの中の空気が飛散すると大変だから、至急に入口を塞がなければならない。」
「僕らが道具を持って来ましょう。」
と少年はもう駆け出した。
 桂田工学博士は、
「それじゃ僕だけここに留守しているから、皆んなで支度をして来|玉《たま》え。」
「では頼むよ。」
と月野博士は助手を率いて引返した。
 種々の道具を担いで再び大急ぎで、かの洞穴に帰ったがどうしたのか待っているはずの桂田博士がいない。
「どうしたんだろう。」
と大きな声で呼んだが何とも返事がない。五人声を合せて博士の名を呼んだ。それでも何とも答はない。
「多分そこらへ一人で探検に出かけているんだろう。もう程なく帰って来ようから、吾々《われわれ》は少しも早くここの空気の逃げ出さないようにしなければならない。」
と自ら道具を取って石を動かし始める。二少年も助手とともに働いたが、この月世界で物体の軽い事は驚くほどで、馬二頭でやっと運べそうな大石が、杖の先でも手軽く動く。いやそれ処じゃない掌にでも乗せられるくらい。
 間もなくそこの工事も出来上ったので一同は一まず飛行器の処まで帰って、晩餐の用意に取り懸った。
 やがてそれも出来上って月世界第一回の晩餐会は始まった。
 本気で食事をしていた晴次は急に顔を上げて、
「叔父さん。」と博士を呼びかけて、
「桂田さんはどうしたんでしょうねえ。」
「さよう。きっと最先に一人で探検に出かけているのだろうと思う。」
「そうでしょうかしら。僕は何だかこの月世界の中にほかの人類か動物が生存していて、桂田さんは、それに見付かって捕われたんじゃないかと思うんです。」
 博士は笑いながら、
「そんな事があるもんか。どうして空気のない処にそんなものが生存して行けるものか。」
と言うと、光雄は横から、
「だって僕らが今こうして生きているようにほかの者だって生きているかも知れないでしょう。」と一本遣りこめる。
「そりゃそうだけれども少なくとも月にはそんな生存したものは一|疋《ぴき》だっていないという定説なんだから、そんな事はあるまい。もう程なく帰って来るだろうから、それよりは飯でもすんだなら吾々の住宅《すみか》をあの洞穴の横に造るんだ。」
「家を? だってどうして建てるんです。材木も何もありゃしないじゃありませんか。」と又晴次が口を出す。
「何もむつかしい事はありゃしない。この飛行器を皆で担いで行くんだ。」
「飛行器を? 五人や六人で出来るもんですか。日本だって人夫が二十人以上も要ったのでしょう。」
「そうさ。しかしお前は今あしこの穴を塞ぐ時にあんな大きな石をコロコロ転がしていたじゃないか。空気のない処じゃ石でも羽根でも重さは同じだ。飛行船だって己《おれ》一人でも持って行ける。」と説明すると、
「そうですねえ。」と感服して、
「それにしても博士を探しちゃどうでしょう。僕らが迎いに行って来ましょうかしら。」
「さようさ。今に皆で出かけよう。」

    月のアルプス山に於ける紀念碑

 五人は色々な話をしながら食事を終った。暫時《しばし》休息した。
 もうここに着いてからかれこれ二十四時間以上にもなるが夜が来ない。絶えず昼で朝も晩も何にもない。
 しかしいずれも身体は綿のように疲れているので、シートの上に寐《ね》るや否やぐっすり[#「ぐっすり」に傍点]と寐込んで了った。
 かれこれ三時間もたった頃博士はまず眼を醒しほかの者を揺り起した。
「ああ眠い眠い。もう何時でしょう。」
 晴次は目を擦りながら尋ねる。
「何時も糞もあるもんか、一日が二十四時間より長いんだから僕らの持っている時計じゃ訳らない。さあいよいよそれじゃ博士を捜索に出かけようかな。」
と空気自発器に薬品を補充して再びそこを発足した。
 今度も矢張首をグラグラさせながら歩いて前とは少しく方向を換えて山を見かけて進んだ。
 その山の高い事といったら想像も及ばないほどで、その下は一面に広い凹地《くぼち》になっている。
 博士は手帳を出して、
「あそこに見える高い山脈は月世界のアルプス山脈で、今吾々の足下に拡がっているのが、ベポアー海だ。」
と書き示すと、二少年は吃驚《びっくり》して、
「海ですって?」と声を出したが、前と同じくさっぱり聞えない。
 余儀なく鉛筆を出して、
「だって海といっても水は一滴もありゃしないじゃありませんか。」
「昔はこの凹所に水が溜っていて海だったのだが、永い年月の間に全然《すっかり》乾き切って終ったんだ。しかし一度は海だったのだから、天文学者は矢張今でも海とか山とかいうように名称をつけて図を作っているのだ。」
 こんな話をしながら一行はいつとなくこの海を渡って、いよいよアルプス山の麓に出た。
 遠くより望んだよりはさらに一層の険峻で、岩は悉く削ったように聳《そばだ》っている。それを伝って段々と昇って行ってやっとの事で絶頂に達した。
 晴次は何やら見出して、不思《おもわず》また「ヤッ」といったが、気が着いて博士の袖を曳きながら、頻りに先方《むこう》を指差すので、そちらを見ると如何にも石碑らしいものがある。
 無人の境に石碑!
 いずれも審《いぶか》りながらそちらへ駆け付けて見ると、一間四方もあるような四角な天然石を立てて、それに何やら彫刻してある。側によってその字を読むと、英文と日本文とで、

明治四十年十月大日本帝国月世界探検隊この地に達す、一行の姓名を刻んで紀念となす。


工学博士 桂田啓次
理学博士 月野 清
日本少年 星岡光雄
同    空地晴次
助手   山本 広
同    卯山飛達

と記してある。
「博士はもう一番にここまで来たんだ。」
と一同はその無事なのを知って、いずれも安堵の胸を撫で下したが、晴次は又、
「それにしてもここからどちらへ行かれたでしょう。」
「さようさ。」と博士は四辺を見廻していたが、
「とにかくこの山を向側に越して、今少し行って見よう。」
と、その紀念碑の裏に廻った。こちらは足の掛りもないほど急で、頂上《てっぺん》から下を見ると眼も眩むばかり幾十万丈とも知れぬ深さだ。
 光雄はその一番先きに突き出している岩の上に這い出て下を見ていたが、立ち上ろうとする途端によろよろとして底知れぬ千仭《せんじん》の谷に真倒様《まっさかさま》に落ちて終った。
 晴次はこの有様に吃驚して、どうしようと度を失っていると博士は手帳に、
「さああの後に蹤《つ》いて一同《みんな》も飛び降りるんだ。」
「え? ここから」
と晴次が吃驚するまもなく博士は勢をつけて飛んだ。
 乱暴※[#感嘆符三つ、35-上-18] 乱暴※[#感嘆符三つ、35-上-18]
 晴次はますます驚いていると、助手が、
「貴方何も心配なさる事はありません。空気のない処じゃ羽根のようなもんです。いくら高い処から飛んだって平気なんです。」
「さあ一緒に降りましょう。」
と晴次の手を取って否《いや》がる奴を無理に谷底見蒐けて飛び込んだ。
「もう駄目だ。死んで了《しま》うんだ。」
と思って晴次は眼を閉じたが、どうも千仭の谷底へ落ちているとは思われない。まるで風船にでも乗って下っているよう。フワフワとして気持のよさったらない。
 不思議に思って眼をあけると、不思議※[#感嘆符三つ、35-下-10] 不思議※[#感嘆符三つ、35-下-10] 助手が教えてくれたように、春風に鳥の毛が散っているくらいの速力《はやさ》で、そろそろと下降しているのだ。
「これは面白い。」
と横を見るとほかの連中も莞爾莞爾して同じく気持のよさそうにキョロキョロ四辺を眺めながら降っている。
 次第次第に地が見え出すと、下には博士と光雄が笑いながら、三人の飛び降りるのを見上げて待っている。
 やがて地に着くと、粉微塵になると思ったのが大違い、花火の風船玉が落ちたくらいに音もせず一同無事にそこに立った。
 互にその不思議な現象を笑いながら、なおも人々と進んで行くと、また大きな平原=否《いや》海原に出た。
「ここは何という処ですか。」
と晴次が聞くと、
「ここはツランクイリチー大海の痕だ。」
と博士は手帳に書き示した。
 一同は又そこを横切った。
 かれこれ半ば頃にも達したと思う頃、遥か岩の影から一塊の黒い物が現われて、それが段々とこちらへ近づいて来る。
「何でしょう。怪物じゃないかしら、」
「鉄砲を忘れて来ちゃった。どうしよう。」
と二少年はもうそろそろ騒ぎ初める。
「何でもありゃしない。鉄砲を発《う》った処が、こんな処じゃ一寸も利目はありゃしない。あれは多分桂田博士だろう。」
「博士でしょうかしら。」
と、語りながら、少年は尚|怖々《おずおず》と見守っていると、その黒い物は次第に近くよって来る。
 矢張人間だ。
 それが半布《ハンケチ》を振り出した。こちらからもそれに応じて各自にハンケチを振った。
「博士だ※[#感嘆符三つ、36-下-3] 博士だ※[#感嘆符三つ、36-下-3]」

    数万丈の谿谷に博士と再会

 近付くのを見ると、いよいよ博士だ。二少年はバラバラと駆け出してその側によると、桂田博士は微笑しながら、
「どうだ大分元気がいいじゃないか。」
「僕らは愉快で愉快で堪らないんです。」
と筆談をやっている中に月野博士も近づいて握手しながら、
「君が不意に居なくなったものだから、どうしたのかしらと思って大変心配したさ。それで今探しに来た処なんだ。」
「そうかそれは済まなかった。」
と軽く会釈して、
「とにかく、それじゃ帰りながら話しをしようじゃないか。」と先に立って、
「君らの来るのを待っている中にあの山に昇って見ようと思って、頂上に行くと石の恰好のいい奴があったものだから、ナイフで紀念碑を彫《きざ》んで、それから後ろに行くと谷から落ちたんだ。」
「そうか、あの紀念碑を見たから君が無事だった事を知って安心したのだ。それから僕らもあの後ろの崖から飛んで下に降りたのだ。」
「面白いですねえ。」と光雄は横合から鉛筆を引手繰って「僕はあの石を踏み外した時はもう死んで終ったと思ったんだけれど、どうも変だと思って眼をあけるとフウワリと落ちているんでしょう。どうしたんだかさっぱり訳らなかったんです。」
「ははあ。そりゃ吃驚しただろう。」
と打ち興じつつ、今度はアルプス山の谷間を伝うて一まず飛行器まで引き上げた。

    月世界の日課。探検と修繕工事

 一同無事に打ち揃うて引き揚げたが、次に起る問題はまず吾々の地球へ帰るために飛行器の修繕だ。
 空気は前に空気孔を発見したので、二月間は支える事を得るが食料は一月足らずしか貯蓄《たくわえ》がないのだから、どうしてもそれまでにはこの飛行器を修繕しなければならないのだ。
 評議の末六人を二組に分け、一方は月世界の探検、一方は飛行器の修繕とした。勿論、月野博士が前者を率い桂田博士が後を受け持つので。それに助手を一名ずつ、それから二少年の中、晴次を月野博士に光雄を桂田博士につけて、いよいよその日から定めの日課に取り懸った。
 まず月野博士の一隊は二十日の食料を分割して各自の腰に結び付けて出て行った。後には桂田博士が二人を相手に一生懸命、羽根の破れやら、器械の破損などを一々修繕している。
 三人が一心になって働いた揚句は、地球でいえば十八日目に、目出度《めでたく》出来上った。
 博士は一応詳く検査した上で、
「よし。これなら大丈夫だ。初めよりはよくなったくらいだ。これで探検隊さえ帰って来ればいつでも出発出来る。」
「何日くらいで帰れるでしょう。」
「まず一週間だね。」
「じゃもう十日ほどで又日本へ帰れるんですね。」
「どうだ。もう弱ったか。」
「何弱るもんですか。」
と元気よくいって窓の処へ覗いたが、
「やあ帰って来ました。帰ってきました。」
「そうか。」
と博士も助手も一様に窓に出ると、如何にも三人の探検隊は各自に山のような荷物を背負って意気揚々として帰って来た。
「どうだ。結果は。」
 まず桂田博士が尋ねると、月野博士は快活な調子で、
「余程変った現象があるですねえ。」といいながら、包を下して、その大風呂敷を拡げると、中から出たのはいずれも地球上でいまだ見た事もない珍奇な物ばかりだ。修繕方の三人が驚いて見ていると、博士は得意気にまず、珍妙な形をした人形の土器を出して、「これが、例のヒマラヤ山の後方から二十里ばかりの処に石塊の間に転がっていたのです。余程珍らしいもので、これが僕の一番の土産です。これによって見ると、始めにはきっと月にも人類が生存していたに違いない。でその人間は地球上の石器時代くらいの程度まで進化して滅亡したものらしいです。」
と幾十となき古代遺物をさらけ出しては、宛然小児が珍らしい玩具でも貰ったように、一人でホクホクして喜んでいる。
 博士は暫くその獲物に夢中になっていたがやがて思い出したように桂田博士の方を振り向いて、
「貴方の方はどうです。」
「僕の方も先刻出来上った。」
「そうですか、それは何より目出度い。いよいよそれでは明日にでも出発しますかな。」
「さよう。それでは一つ祝杯を挙げようじゃないか。もう空気などありたけ吸う気であの空気孔で大に胸襟を開いて飲もう。」
「賛成※[#感嘆符三つ、38-下-14]」
といずれもその洞内に赴き、ありたけの蝋燭を点じてその中に坐り、各自にブランデーを注いだ洋盃《コップ》を高く差し上げ、桂田博士の音頭で「日本帝国万歳※[#感嘆符三つ、38-下-17] 月世界探検隊万歳※[#感嘆符三つ、38-下-18]」
を三唱すると、その声は遍く洞内に響き渡って、谺《こだま》はさながら月がこの一隊を祝するように、「月世界探検隊万歳※[#感嘆符三つ、39-上-1]」と唱え返した。
「探検世界」明治四〇年一〇月増刊号)

底本:「懐かしい未来――甦る明治・大正・昭和の未来小説」中央公論新社
   2001(平成13)年6月10日初版発行
初出:「探検世界 秋季臨時増刊 月世界」成功雑誌社
   1907(明治40)年10月号
入力:川山隆
校正:伊藤時也
2006年10月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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