古川緑波

甘話休題—– 古川緑波

1

 もう僕の食談も、二十何回と続けたのに、ちっとも甘いものの話をしないものだから、菓子については話が無いのか、と訊いて来た人がある。僕は、酒飲みだから、甘いものの方は、まるでイケないんじゃないか、と思われたらしい。
 ジョ、冗談言っちゃいけません。子供の時は、酒を飲まないから、菓子は大いに食ったし、酒を飲み出してからだって甘いものも大好き。つまり両刀使いって奴だ、だからこそ、糖尿病という、高級な病いを何十年と続けている始末。
 じゃあ、今日は一つ、甘いものの話をしよう。今両刀使いの話の出たついでに、そこから始める。
 僕は、いわゆる左党の人が、甘いものは一切やらないというのが、何《ど》うも判らない。
 然し、まんざら、酒飲み必ずしも、甘いものが嫌いとは限らない証拠に、料理屋などでも、一と通り料理の出た後に、饅頭なぞの、菓子を出すではないか。
 あれが僕は好きでね。うんと酒を飲んだ後の甘いものってのは、実にいい。
 殊に、饅頭の温めた奴を、フーフー言いながら食うのなんか、たまらない。
 アンコのものでも、ネリキリじゃあ、そうは行くまいが、饅頭系統のものは、温めたのに限る。京都の宿屋で、よくこれを朝出すが、結構なもんだ。
 と、話は餅菓子、和菓子に及んだが、僕は、洋菓子党です。
 子供の時から、ビスケットや、ケーキと呼ばれる洋菓子を愛し、今日に至っても、洋菓子を愛している。子供の頃、はじめて食べた、キャラメルの味から、思い出してみよう。
 森永のキャラメルは、今のように紙製の箱に入ってはいず、ブリキ製の薄い缶に入っていたと覚えている。そして、キャラメルそのものも、今の如く、ミルク・キャラメルの飴色一色ではなく、チョコレート色や、オレンジ色のなど、いろいろ詰め合せになっていた。
 味も、ぐっとよくて、これは、森永さんとしては、はじめは、高級な菓子として売り出したものではないかと思う。
 ブリキの缶には、もうその頃から、羽の生えた天使のマークが附いていた。
 森永のミルク・キャラメルに前後して、森永パール・ミンツなどという、これは庶民的なキャンディーも売り出された。
 これらの菓子は、種苗などを入れるような紙の袋に入っていた。
 小学校の遠足に、それらの菓子が如何にもてはやされたか。
 キャラメルも、ネッスルのや、その他色々出来たし、水無飴もその頃出来た。
 チュウインガムが流行り出したのも、その頃。
 その頃というのは明治末期のこと。
 さて然し、それらはみんな庶民的な、西洋駄菓子であって、贅沢なおやつ[#「おやつ」に傍点]には風月堂のケーキ、青木堂のビスケットなどが出たものである。
 風月堂の、御進物用の箱を貰った時の悦びを忘れない。上等なのは、桐の箱入りで、デコレーションの附いた、スポンジケーキが、ギッシリと詰っていて、その上へ、ザーッと、小さな銀の粒や、小さな苺《いちご》の形をしたキャンディーが掛けてあった。
 掛けてある、という感じなのだ。そのスポンジケーキの合間々々に在る姿が。
 桐の箱の蓋を除ると、プーンと、ケーキのにおいが鼻へ来る。温かいような、バタのにおいである。
 青木堂のビスケットと書いたが、ビスケットと言っても、これはクッキーである。その種類色々あり。
 マカロンが先ず第一の贅沢なもの、これは後年「人形の家」のノラが、しきりに食べることを知り、イプセンも、マカロンの愛用者ではなかったかと思った。
 マカロンの、いささか濃厚な味は、然しフランスの乾菓(キャンディーではない。いまで謂《い》うクッキー)の王者だった。
 マカロンの他にデセール、サブレー、ウーブリ、ビスクイなどという種類があり、乾葡萄の枝ごとのもあった。
 これらは、実に美味いとも何とも、口に入れれば、バタのコッテリした味が、ほろほろと甘えて来る。ああ思い出す。
 僕は後年、あれは(あんなに美味かったのは)子供の頃のことを、美化して思い出しているんじゃないかな? という気がして来た。つまり、あれを今食べてみれば、大したことはないんじゃないか、と。
 ところが、最近その頃の青木堂に関係していた人に、青木堂では、それらの乾菓は、当時フランスから輸入していたのだということを聞いて、それじゃあ美味かった筈だと思い、昔は随分日本も贅沢だったんだなあと思った。
 青木堂という店は、当時市内何軒かチェーンストアーがあり、僕の言っているのは麹町の店のことである。
 本郷の赤門傍にも青木堂があって、その二階は喫茶部になっていた。そこで食ったシュウクリームの味、それに大きなコップに入ったココアの味を覚えている。
 そういう乾菓を愛したせいか、長ずるに及んでも、僕はクッキーの類が好きだった。
 戦争前は銀座のコロムバンのクッキーが、何と言ってもよかった。
 神戸のユーハイムその他にも、クッキーは美味いのがあったが、僕はコロムバンのを一番好み、二番目は、トリコロールのだった。トリコロールの方は、少し甘過ぎて、ひつこかったが、又別な味があった。
 これらのクッキーを、僕は旅行先へも送らせて、毎朝愛食したものである。
 さて、それでは、クッキーは戦後何処がうまいか、ということになると、僕は戦前ほどうまいものは現在は無い、と答える。
 然し、それは無理もないのだ。第一にコナの問題だ。第二にバタである。戦前のような、見るからに黄色い、濠洲バタというものが入らなくなったのであるから、(今のようなバタくさくないバタというものは、此の場合何うにもならない)やむを得ないことなのだ。そのため、現在の東京で造られているクッキーは、その原料の関係上何うしても昔のような、適当な堅さが保てなくて、堅すぎるか軟かすぎるか、何っちかになっている。
 イヅミヤのクッキーは、大分有名になったが、一寸煎餅を食うような堅さで、ポリポリ食わなければならない。味はバタっ気こそ少いが、うまく出来ている。
 クローバーのはちと甘過ぎるが、味はリッチな感じ。一方が甘過ぎるからというのか、ここにはチーズ味の(甘味抜きの)クッキーもあり、これは「飲める」。
 ケテルでも、クッキーを売っているが主力を注いではいない、パウンドケーキや、フルーツケーキは上等だが、ここのクッキーは、こわれやすくて、家へ持って帰れば、粉々になってしまう。
 ジャーマン・ベーカリー、コロムバンなども試みたが、今のクッキーの欠点、こわれやすいというのを免れない。
 先日、大阪へ行った時、此の話が出て「そんならうちのを食ってみて下さい」と、阪急の菓子部から、クッキー一箱貰って持って帰ったが、汽車中、こわれることもなく、味もオーソドックスで、結構なものだった。
 アマンドのクッキーは、甘過ぎる行き方でなく、割に淡い味なので飽きが来ない。店の名の通り、アーモンドをうんと使った、クレセントマカロンが一。小さなパルミパイもよし。堅さも適当だ。
 専らクッキーについて語った。
 次回にも、もう少し甘い話を続ける。

2

 クッキーから、ケーキへと、今日は洋菓子の今昔を語ろう。
 ケーキと一口に称される洋菓子にも色々あるが、戦前、はるか明治の昔から、スポンジケーキ(カステラの類い)の上等だったのは、前回にも触れたが、風月堂のチェーンのそれだった。バタを、ふんだんに使った、ガトーの味は、リッチな感じで、贅沢なものだった。
 風月堂には、名物として、ワッフルがあったっけ。日本流に言えば、ワップルだ。そのワップルに二色あって、一つはクリーム入り、もう一つは、杏子《あんず》のジャムが入っていた。戦後も尚、ワップルは健在であろうか。
 風月堂の他に、戦前の銀座でうまいケーキを求めれば、モナミ、ジャーマン・ベーカリー、コロムバン、エスキーモ――順に歩いてみよう、思い出の銀座を。
 モナミは、今もやっているが、昔の方がシックだったし、流行ってもいたようだ。二階の洋食も悪くなかった。ケーキも総て本格的で、美味いし、値段も程々だった。
 戦前のジャーマン・ベーカリーは、独特のバームクーヘンや、ミートパイなど、他の店に無いものが揃っていた。
 ミートパイは、戦後のジャーマン・ベーカリー(有楽町駅近く)でも、やっているが、昔の方が、もっと大きかったし、味も、しっとりとしていて、美味かった。
 それでも、ミートパイは、あんまり他に無いので、僕はわざわざ有楽町の店へ行くが、「ミートパイは、土曜日だけしか造りません」などと言われて落胆する。
 又、此の店独特のバームクーヘンにしてからが、近頃では、土曜と水曜だけというようなことになって、わざわざそれを狙って行く人を失望させている。
 現在、バームクーヘンは、他にだって売っている。神戸のユーハイムあたりから始まった菓子だと思うが、買って帰って、家で食っては、つまらない味だ。第一、ああいう風に薄く切れないし、クリーム無しで食っては半分の値打もない。
 話をもう一度、ミートパイに戻す。ミートパイは、八重洲口の不二家でも売っているが、これはアメリカ式で、ゴツイもの。
 ケテルさんの経営するデリケテッセン(並木通り)にも、終戦直後から、ドイツ流のミートパイがあるが、これは菓子というよりも、酒の肴である。
 パイの話のついでに、最近、新橋のアマンド(喫茶でなく、洋食の店の方)で、久しぶりで、ゲームパイを食ったことを報告しよう。戦前、帝国ホテルのグリルには、常にこれがあった。それが、思いもかけずに、アマンドにあったので嬉しかった。
 話が、甘いものから横道へ入った。表通りへ戻ろう、戦前の銀座の。
 銀座通りのコロムバン。今のは、代が変ったんだそうで、もとの経営者のやっている同じ名前の店が西銀座にある。
 表通りの店は、戦前は、クッキーが一番で、ケーキも念入りに出来ていた。店の表に近いところに椅子テーブルを置いて、そこで、コーヒーを飲みながら、銀座の人通りを眺めるのが、パリー気分だというので、テラス・コロムバンと称されていた。今は大分大衆的になって、昔のようではない。
 エスキーモも、現在やっているが、戦前の感じとは、まるで違う。
 戦前のエスキーモの、ファンシー・アイスクリーム、シンバシ・ビューティーは正に銀座名物と言ってよかろう。挽茶・チョコレート・苺・ヴァニラ等のアイスクリームを五色の酒のように一つコップへ重ねて盛り上げたもの。そのコップの底に、苺のジャムが入っていたのを思い出す。
 ビューティーばかりではなく此店のチョコレートと、挽茶のアイスクリームのよかったことも忘れない。
 段々新橋の方へ近づくと、千疋屋。ショートケーキは、流石に此の店が美味かった。果物屋さんだけにシャーベットもよかった。
 アイスクリームの話になると、又、尾張町の方へ戻って、戦前のオリムピックを忘れてはなるまい。アメリカ式の、色んなファンシー・アイスクリーム、何々サンデーを揃えていた。バナナをあしらったり、胡桃《くるみ》の砕いたのを掛けたりしたのは、オリムピックあたりが、はじまりではなかろうか。
 それらのコッテリしたアイスクリームもいいが、シャーベットの、銀色のコップに入っているのなどは、見るから涼しくて、夏のリフレッシュメントとしては適当だ。然し、戦後の東京には、うまいシャーベットを食わせる店が少くなった。
 これはアメリカ渡来の、ソフトアイスクリームって奴に押されているせいだろうと思う。ソフトって奴も、あれはあれで、結構なものだと思う。が、あれをベロベロと食っている姿は、お子様に限るようだ。そこへ行くと、シャーベットは大人向きだ。それが、銀座あたりでも滅多に見つからないし、いいのが無い。
 神戸へ去年の夏行って、ウィルキンソンで、久しぶりで美味しいシャーベットを食べて、東京へ帰ってから探したが、中々見つからなくて、帝国ホテルのグリルで漸《や》っとのこと、ありついた。そのウィルキンソンにしても、冬行ったら、やっていないのでがっかりした。
 ソフトアイスクリームは、都会なら何処にでもある。シャーベットなどというオツなものは、不急品になってしまったのか。

3

 ソフトアイスクリームを、お子さまたちが、ベロベロと舐め、コーンもムシャムシャと食べてしまう。見ていても、うまいんだろうな、と思う。
 アイスクリームってものを、僕が生れてはじめて、食ったのは、何時頃だったろう?
 銀座の函館屋という、食料品店。その奥が、今で言う喫茶部になっていて、そこで食ったアイスクリームを覚えている。
 小さな、ガラスのコップに、山盛りになっている。そのアイスクリームの山のてっぺんから、少し宛《ずつ》舐めて行く時の悦び。アイスクリームの色が、今よりも、ずっと黄色かったことと、函館屋の照明が、青白いガスだったことを、覚えている。
 明治四十何年ぐらいの、銀座だった。
 その頃、活動写真館の中売りが「ええアイス、アイスクリン」と呼びながら売っていた、薄味のアイスクリームも、少年の日の思い出だ。
 薄味というのは、卵も牛乳も碌《ろく》に入っていない、お粗末な、だから一個五銭位だったろう、そういうアイスクリームなのだ。いいえ、アイスクリームじゃない、売り声の通り、アイスクリンなのである。
 でも、それを買って、活動写真(と言わして呉れ。映画と言っちゃあ感じが違うんだ)を見ながら食べるのは、幸福だった。
 アイスクリームを、うまいと思ったのは、大人になってから、北海道へ行った時、札幌の豊平館で、量も、ふんだんに食った時だった。
 中学時代。はじめて自分の、小遣いというもので、食べたのは、三好野だの、そういう類《たぐい》の、しるこ屋――というより大福屋と言いたい店。豆大福や、スアマなんていう菓子があったっけ。十銭二十銭の豪遊。
 学校の往復に、ミルクホールへ寄るのも、楽しみだった。
 僕は、早稲田中学なので、市電の早稲田終点の近くにあった、富士というミルクホールへ、殆んど毎日、何年間か通った。
 ミルクホールは、喫茶店というものの殆んど無かった頃の、その喫茶店の役目を果した店で、その名の如く、牛乳を飲ませることに主力を注いでいたようだ。
 熱い牛乳の、コップの表面に、皮が出来る――フウフウ吹きながら、官報を読む。
 何ういうものか、ミルクホールに、官報は附き物だった。
 ミルクホールの硝子器に入っているケーキは、シベリヤと称する、カステラの間に白い羊羹を挿んだ、三角型のもの。(黒い羊羹のもあった)エクリヤと呼ぶ、茶褐色の、南京豆の味のするもの。その茶褐色の上に、ポツポツと、赤く染めた砂糖の塊りが、三粒附いているのが、お定りだ。(だからシュウクリームにチョコレートを附けた、エクレールとは全然違う)
 丁度同じ時代に、東京市内には、パンじゅう屋というものが、方々に出来た。
 パンじゅうとは、パンと、まんじゅうを合わせたようなもので、パンのような軽い皮に包まれた餡《あん》入りの饅頭。それが、四個皿に盛ってあって、十銭だったと思う。
 パンじゅうの、餡の紫色が、今でも眼に浮ぶ。
 カフエー・パウリスタが出来たのも、僕の中学生時代のことだろう。
 カフエーと言っても、女給がいて、酒を飲ませる店ではなく、学生本位の、コーヒーを主として飲ませる店だ。
 パウリスタは、京橋、銀座、神田等に、チェーンストアを持ち、各々、一杯五銭のコーヒーを売りものにしていた。そのコーヒーは、ブラジルの、香り高きもので、分厚なコップに入っていた。
 砂糖なんか、あり余っていた時代だ。テーブルの上に置いてある砂糖壺から、いくらでも入れることが出来た。学生の或る者は、下宿への土産として、此の砂糖をそっと紙などに包んで持って帰る者もあった。
 パウリスタで思い出すのは、ペパーミントのゼリー。それから、自動ピアノというものが、各店に設備してあり、これも五銭入れると、「ウイリアム・テル」だの「敷島行進曲」だのを奏するのであった。
 兎も角も、あの時代の、そういう喫茶店、菓子を食わせる店の、明るく、たのしかったことよ。
 そして、例によって、僕は、「それに引きかえて現今の」と言って、嘆こうというのであるが、昔を知る諸君なら、誰だって、同感して貰えると思うのだ。
 いまの、戦後の、喫茶店というものの在り方だが――
 純喫茶というものだけでも、数ばかり如何に多くなったことよ。
 東京も、大阪も、京都、名古屋も、コーヒーの店は、実に多くなった。
 関西へ行くと、コーヒーは、ブラジルの香りが高い。東京では、モカ系が多く、関西は、ブラジル、ジャワなどの豆を、ミックスしているらしい。
 有楽町のアートコーヒーへ行けば、ブラジルでも、モカでも好みの豆が揃っていて、註文すれば、何でも飲める。
 昔の五銭に比べれば、今の、最低五十円のコーヒーは、馬鹿々々しい。が、おしぼりが出たりして、サーヴィスは中々いい。
 喫茶店のサーヴィスで、一番気に入ったのは、アマンドのチェーン、各店が、コーヒーなどの後に、コップ入りの番茶を、サーヴィスすることで、これは、後から後からと、所謂「回転」を急いで、追い立てられる感じと違って、「何卒ごゆっくり」と言われているようで気持がいい。
 そういう、明るい純喫茶とは別に、近頃、ジャズをきかせる喫茶店が、銀座に出来た。
 それも、二軒や三軒ではなく、目下も、殖えつつあるようだ。
 戦前から戦時にかけて、新興喫茶と称する店が出来て、レコードをきかせ、昆布茶などを飲ませたが、そして、それらは、女給の美しいのを売りものにしたものだが、今回の、ナマの音楽を売りものの喫茶店は、(これも社交喫茶の部に入りますか?)随分ヘンテコなものだ。
 最近開店した、ジャズ、クラシック共に演奏するという店へ入ってみた。入口で、飲食券を買わされるのが、先ず落ち着かない。
 入れば、殆んど真っ暗だ。僕など、眼が弱いので、手さぐりでなくては歩けなかった。
 そして、真っ昼間から、音楽をやり、その音が強いから、アベックさんも、碌に話が出来ないらしい。コーヒーもケーキも、決してうまくはないし、こんなところへ入る人は、何を好んで、妙な我慢をしているのかと、全く僕には判らなかった。

底本:「ロッパの悲食記」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年8月24日第1刷発行
   2007(平成19)年9月5日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年11月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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