幸田露伴

ねじくり博士—– 幸田露伴

 当世の大博士にねじくり先生というがあり。中々の豪傑、古今東西の書を読みつくして大悟《たいご》したる大哲学者と皆人恐れ入りて閉口せり。一日某新聞社員と名刺に肩書のある男尋ね来り、室に入りて挨拶するや否《いな》、早速、先生の御高説をちと伺いたし、と新聞屋の悪い癖で無暗《むやみ》に「人を食物《くいもの》にする」会話を仕出す。ところが大哲学者もとより御人好《おひとよし》の質《たち》なれば得意になッて鼻をクンクンいわせながら饒舌《しゃべ》り出す。どうも凡人は困りますよ、社会を直線ずくめに仕たがるのには困るよ。チト宇宙の真理を見ればよいのサ。政事家は政事家で、自己の議論を実行して世界を画一のものにしようなんという馬鹿気《ばかげ》ているのが有るし。文人は文人で自己流の文章を尺度にしてキチンと文体を定《き》めたがッたり、実に馬鹿馬鹿しい想像をもッているのが多いから情ないのサ。親父は親父の了簡で家をキチンと治めたがり、息子は息子の了簡で世を渡りたがるのだからね。自己《おれ》が大能力があッたら乱雑の世界を整頓してやろうなんかんというのが当世の薄ら生意気の紳士の欲望だが、そんなつまらない事が出来るものカネ。天地は重箱の中を附木で境《しき》ッたようになッてたまるものか。兎角《とかく》コチンコチンコセコセとした奴らは市区改正の話しを聞くと直《すぐ》に日本が四角の国でないから残念だなどと馬鹿馬鹿しい事を考えるのサ。白痴が羊羹を切るように世界の事が料理されてたまるものか。元来古今を貫ぬく真理を知らないから困るのサ、僕が大真理を唱えて万世の煩悩を洗ッてやろうというのも此奴《こいつ》らのためサ。マア聞き玉《たま》え真理を話すから。迂濶に聞ていてはいけないよ、真理を発揮してやるから。僕は実に天地の機微を観破したのサ。中々安くない論サ。チンダルから昨日手紙をよこして是非来年は拝聴に上るというのサ。そのくらいの訳だから日本人に分るような浅薄ナ論じゃアない。ダガネ、論をする前に君に教えておく事があるのサ。いいかえ、臆えて置玉え、妙な理屈だゼ。マアこうサ。第一、人間というものは愚なものだ、という事は承知するだろう。その愚なものに好《よし》と思われる論は愚論サ。僕の論は平常《なみ》の人にはきっと悪くいわれるよ。ダカラ愚論でないのサ。愚論でないから分らないのサ。人間に分るような浅薄の議論は仕方がないのサ。人間に分らないくらい高尚幽玄の論だから気を静めて聞玉えよ。よしカネ、まず我輩が宇宙を貫ぬく大真理を発見した履歴を話そうよ。僕がネ幼少の時にフト感じた事があるのサ。実にネ、大発明というものはつまらない所から起るもので、僕の大真理は道から出たのサ。僕が田舎に居て小学校へ通う時分にネ、草の茂ッた広い野を一ツ越して行くのサ。毎日毎日通学するのだがネ。爰《ここ》に或《ある》朝偶然大真理を発見する種になる事に出逢ッたのサ。ちょうど或朝少し後れて家を出たが、時間が例《いつも》より後れたから駈出したのサ。所が何も障害物のない広い野だのに、道が真直についていないのサ。道が真直についていれば早く到着するのだのにサ。君も知ているだろう、二点の間の最も近きは直線なりという訳サ。所がヒニクに道路が曲りくねッてついているのサ。爰だテ、なぜ道が曲ッてついているのだろう。これを研究したらば誰も真理を発明するのサ。余程面白い事だぜ、君も試に考えて見玉え。これが大真理だよ。中々分るまい。どうだ爰だよ、僕の新発明は。

 僕はそれからなぜだか分らないから頻《しき》りに宇宙を見たのサ、道は曲ッてついている、真直にすれば近いものを態《わざ》と迂曲《まわっ》て人のあるく所が妙じゃないか。そこで僕はなぜねじれているのだろうとおもッたが、不思議なもので皆ねじれてるよ天地のことは。イイカネ、ソコデ今日僕が発明したのは「ねじねじは宇宙の大法なり」という真理サ。妙なものだよ、マア聞玉え。即ちスパイラルシステムというのサ、螺線《らせん》サ螺線サ、天地は螺線的なのサ、古今の愚人どもがこの螺線法を知らないから困るのサ。まず手近に例を取て見せようか。犬の尻尾は即ち螺線なのサ。君の頭に生ている毛は螺線に生えてるのサ。イイカネ、螺線の類は非常に多いがネ、第一は直線的有則螺線サ、これは玩弄《おもちゃ》の鉄砲の中にある蛇腹のような奴サ、第二は曲線的有則螺線サ、これはつまり第一の奴をまげたのと同じことサ、第三は級数的螺線サ、これは螺線のマワリが段々と大きくなる奴サ、第四は不規則螺線サ、此奴が実にむずかしいのだ、メチャメチャに蚯蚓《みみず》の搦み合たようの奴だ、まだこの外に大変に螺線の類があるのサ、詳くいえば二十八通りの螺線があるよ、尚詳しくいえば四万八千ぐらいあるのだがネ、君が幾何学的思想に富んでいれば直《じき》に分るのサ。どうもマセマチカルの考えの薄い人は中々奥妙の理を急に会得する事が難《かた》いよ。ダカラ希臘《ギリシャ》の哲学者はまず哲学を学ぶ前に数学をやれと弟子達に教たのだよ。この頃世間に哲学臭い事をいう奴が多いが、叩いて見ると皆数学思想が薄弱だから困るよ。これは日本支那の通弊サ、数学的観念が発達しない人間は馬鹿馬鹿しい事を考えるものだよ。論理学なんぞは学ぶに足らないのサ、数学で沢山サ。イイカネ、「物は或勢力より追やらるる時は螺線的にすすむ」というのが真理だよ、この真理を君に実例で示そうか。吹矢の筒に紙の小さい片《きれ》を入れて吹いて見玉え、その紙は必らずぐるぐる回りながら飛出すよ。水の中に石を落して見玉え、これもぐるぐるまわりながら沈むよ。穴から水を出して見玉え、その水はきっとねじれて出るよ。これも螺線サ。矢は螺線になッて飛ぶから真直に行くのだよ。鉄砲の玉も螺旋《らせん》して飛ぶのサ。筒の中に螺線条をこの頃施こすのもこの規則に従うのサ。鳶《とび》の尾は螺線を空中に描いて飛ぶのサ。魚の尾も螺線をなすのサ。鶴が高く登るのにも空中を輪になッてぐるぐると翔《かけ》りながら飛ぶのサ。是非ねじれて進むのサ、真直に進むものはないよ。地球も自転しながら進むのだからつまり空間に螺旋しているのだよ。太陽も自転している以上はたしかに螺旋して進んでいるのだよ。月も螺転《らてん》しているのサ。星もその通りサ。螺旋螺転なんというのは好い新熟字だろう。人間のつむじを見ればこれも螺旋法で毛が出るのサ。血は血管の中で螺旋して流れているのだよ。酒樽の口から酒は螺旋して出るよ。腸《はらわた》は即ち螺線をなしてるのサ。川はやや平面的に螺線をなして流れる。山脈は螺線さ。木の枝は一つが東に向ッて生える、その上の枝は南それから西北という工合に螺旋している。花を能く見玉え、必らず螺形に花びらが出ている。朝顔の花の咲かない間は即ち渦をなしている。釘も螺状《らじょう》の釘が良いのサ。コロック抜きも螺状をなしているから能く突込めるのだよ。道路は即ち螺状を平面にしたようについているものだよ。事々物々皆螺旋サ。波線で世界を解釈しても解釈が出来るよ、螺線を見つぶしにすれば即ち波線だよ、波線螺線渦線皆曲線より成るものサ、その曲線だらけで出来ているものが良いのサ、強いのサ。尚不思議奇々妙々なのは、植物の芋の蔓《つる》でもムカゴの蔓でも皆螺旋すると同じく、礦《こう》物の蔓もその実は螺旋的になッてるのだが、但し噴火山作用でメチャメチャになッて分らないのサ。火※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《かえん》も螺線になッて燃えるのだが凡眼では見えないのサ。風は年中螺旋に吹てるのサ。小サイ奴が颶風《つむじ》だよ。だから颶風なぞは恐ろしいものではない。推算が上手になれば人間にもっとも幸福を与うるものは颶風だよ。颶風なぞを恐れる世界だから悲しいよ。それで物理学者でござるというのが有る世間だからネ。浪は螺状をなして巻き巻き進むのだよ。まだ沢山例はある、さてこれからがいよいよ奇だよ。

 物は或勢力に逐《お》いやらるる時は螺線的運動をするという真理は、すでに充分に分ッたろう。これは中々争うことの出来ない真理さ。しかも物理学上の明晰なる理だよ。イイカネ、例に挙げたものを能く能く考えて貰いたいのサ。ひとつもこの原則に撞着矛盾するものはない。ソコデ何故に物はかく螺線的運動をするのだというのが是非起る大疑問サ。僕がこの疑問に向ッて与うる説明は易々たるものだよ。曰《いわ》くサ、「最も障碍《しょうげ》の少き運動の道は必らず螺旋的なり」というので沢山サ。一体運動の法則を論じて見れば一点より他点までに移る最近径は前にもいッた通り直線に極《きま》ッてるのサ。ダガ物は直線に進まないよ。直線に進まないのではないが、螺旋をして行く場合には直線にも進むが即ち前にもいッた所の直線的有則螺旋サ。分ッたかネ。たとえば矢が弦を離れてからぐるぐると風を切てまわりながら直線に進む所が近い例サ。あれは即ち直線的に螺旋線を空中に描いてるのだよ。あの矢の鏃《ね》をいろいろに工夫するのだがネ、どうしても雁股《かりまた》はよくいかない。何故というのに雁股は僕の所謂《いわゆる》最も障碍の少きは螺旋的運動なりという原則に反対しているからだ。矢が能く飛ぶには色々の原因もあるがまず第一に螺旋規則に従うからだよ。さて以上二ヶ条の原則を出したが、まだ中々こんな事ではつまらない。もッと不思議な事があるよ、動力学と静力学を君が知ていると、もッと早く分らせることが出来るがネ。早くいッて見れば空漠として広い虚《こ》空《くう》の中に草の蔓は何故無法に自由自在に勝手に這い回らないのだろう。ソコニハ自然の約束があるから即ち一定の有様をなして、左り巻なら左り巻、右巻ならば右巻でちゃんと螺旋をなして這いまわるのだ。虚空に抵抗物は少いのだが斯《か》くなるこの自然の約束を万物の上から観破して僕は螺旋が運動の妙則だと察したよ。サア話しが段々煮えて来た、ここへ香料《やくみ》を落して一ト花さかせる所だ。マア聞玉え、ナニ聞ていると、ソウカよしよし。ここで万物死生の大論を担ぎ出さなけりゃならないが、実は新聞なんぞにかけるような小さな話しではなし一朝一夕の座談に尽る事ではないから、少しチョッピリにしておくよ。一体死とはなんだ、僕は世界に死というような愚を極めた言語があるのが癪《しゃく》にさわる。馬鹿馬鹿しい死の定義を立てて断言することの出来る豪傑があるか。ナンノつまらない、死という言語は千年もたてば字引の中になくなるべき言語だよ。ナニ驚くには足らない、極りきッた論サ。死は休なりとか、死は静なりとか、死は動力の不存在なりとか、死は自営的機能の力が滅して他の勢力のみ働らく場合なりとか、色々の理屈をつける奴もあるが、第一困る事には死という事は世界にひとつもない。君だッて死にはしない。僕だッて死にはしない。関羽だッてまだ生きているよ。仙人にならなくッても生きているよ。虫だッて中々に死ぬものはない。この世界は活世界だぞ。いつでも勢力が漲《みな》ぎッている天地だ。太陽が鼾《いびき》をかいて寐《ね》たためしはない。月も星も山も川もなんでも動いていないものはない。凡眼で静かだと思う石だッて、常に破れかかるか変りかかッているくらいのものだ。その世界の中に死なんという馬鹿馬鹿しい事があるものか。蚕が死ぬ、ナニ死ぬではない蛾《ひひる》になッて生きているよ。蛾が死ぬ、ナニ蝶になッて生きているよ、蝶が死ぬ、ナニ死にはしない、必ず何かになッて生きているよ。一体マア生きているという事が気の毒ながら凡眼家には分らないだろうがネ。此所《ここ》が実に嬉しいところサ。植物も生きている。動物も生きている。実は植物も動物もおなじものサ。婦人の手が触れると喜ぶなんかんという洒落た助倍《すけべい》の木もある。御辞宜《おじぎ》を能くする卑劣の樹もある。這ッて歩いて十年たてば旅行いたし候と留守宅へ札を残すような行脚の樹もある。動物の中でもなまけた奴は樹に劣ッてる。樹男という野暮は即ちこれさ。元より羊は草にひとしく、海ほおずきは蛙《かわず》と同じサ、動植物無区別論に極ッてるよ。さてそれから螺旋でこの生物を論ずると死生の大法が分るから、いよいよ大発明の大哲学サ、しッかりしてきかないと分らないよ。

 一体全体何んでもドンゾコまで分ッてる世界ではない。人間の智慧でドンゾコまで分るものだかどうだか知れないのサ。人間の智慧という奴が無限だか有限だかも人間の智慧では分らないから可笑《おかし》いのだよ。人間の智慧が無限ならば事物を解釈し悉《つく》せるように思うだろうがこれもあやしいのサ。気の毒だけれども誰も人智の有限と無限とを智慧の上から推して断定のできるものはまず無さそうだ。そのくらいの事だからまず動物と植物の区別さえろくにはつかないのサ。それから生物と死物との区別だッてろくに付けることの出来るものはまず無いのサ。生物の最下等の奴になるとなんだかロクに分らないのサ、ダッテ石と人間とは一所《いっしょ》にならないには極ッてるが、最下等生物の形状はあんまり無生活物とちがいはしないのだよ。所を僕のねじねじ論で観念すると能《よ》く分るよ、但しあんまり能く分らない所が少し洒落《しゃれ》ている所だとおもい玉え。僕にいわせると「発生の機は螺線的運動にあり」というのサ。なんでも物の発生するというのは君も知ッている通り「力」の所為サ。その力で逐いやらるるものは則ち先にいうた原則で必らず螺旋的に動くのサ。ソコデこの螺線的運動は力のある限りは続くのだ。何故螺線的運動をするかというに、世界は元来、なんでも力の順逆で成立ッているのだから、東へ向いて進む力と、西に向て進む力、又は上向と下向、というようにいつでも二力の衝突があるが、その二力の衝突調和という事は是非直線的では出来ないものに極ッてるのサ。所で互に曲線的になるのだよ。曲線的ならば衝突してもよいのサ。何故というに、一直線上で同量の二力が衝突する時はともに無となって仕舞《しま》うが、曲線上で衝突する時は中々無になる場合は少い、又直線的で反対の力が互に衝突する時は反射して走しる力の有様が曲線的に反対の力が来て互に撞着《ぶつかる》時よりおもしろくない。直線は一種直線ぎりだが、曲線はいろいろの度を無窮の多数に有している、有則曲線、無則曲線、実に人間には分らないほど色々の曲線がある。たとえば有則の曲線の場合でいおうか。ここに仮定した二点があるとして、二点を貫く曲線をブンマワシで書て見玉え、またそのブンマワシの心を動かして同くその二点を貫く曲線を書て見玉え、又そのブンマワシの心を動かして書て見玉え、有則の曲線が無数に書けるよ、実にその相互に異ったる状態を有せる曲線の即ち弧という奴の数は何箇《いくつ》あるか知れない。まして人間の指で書くような出鱈目《でたらめ》の曲線は何千万状あるか知れるものではない。このくらい曲線という奴は洒落た奴だよ。だから二力が互に異りたる曲線的に来てぶつかる時は、又何千万様の変化を起すか知れないのサ。ここが即ちおもしろい所だ。ここから天地万物がメチャメチャに色々の形状をなしてあらわれて来るのだよ。さてその曲線という奴は無障碍の空間で試みに引のばして見玉え、必ず螺線となるには相違ないのサ。螺線にならなければ環をなすのだよ、環をなしてはつまらないのサ。去年の道をまた今年もあるいているようなものだから、即ち変化生々の大法に反対している。ナニ環をなす気づかいはないのサ。地球の軌道は楕円の環をなしていると君達は思うだろうが大ちがいサ、実は月が地球のまわりを環をなしながら到底《つまり》は大空間に有則螺線を描ていると同じ事に、地球も太陽に従ッて有則螺線を大空間に描いているのサ。即ち自転も螺旋サ。又一年の動きも螺旋サ。有則螺旋を浅薄な考えで見ると環に見えるのサ。イイカネ、いよいよむずかしくなッて来たから中々分るまい。マアしかしこのくらい分らなければ後は中々分らないよ。前からいッて来た通り活動の世界だからネ、どうしても螺旋的の運動に違いないのサ。畢竟《ひっきょう》は螺旋的だから運動が千殊万差の異様をなして長く続くのサ。ソコデ人間の世界に生れて来るのも単に螺旋的にヒョコリと出て来るのサ、そうして人間の意思動作もすべて螺旋的にぐるぐるまわッているのサ。社会の栄枯盛衰も螺旋的にぐるぐるまわッているのだよ。易なんぞというものは感心な奴で、初爻《しょこう》と上爻とが首尾相呼んでぐるぐるとデングリカエシをやッて螺線を描いて六十四|卦《け》だけにコロガリころがッて実はまだいくらにでもコロガリ出すことが出来るのサ。ダカラ甘《うま》く天地を包含したようの事を示せるのサ。又人間の心をもイヤに西洋の奴らは直線的に解剖したがるから、呆れて物がいえない、馬鹿馬鹿しい折詰の酢子《すし》みたような心理学になるのサ。一切生活機能のあるもの、いい直して見れば力の行われているものを直線的にぐずぐず論ずるのが古来の大まちがいサ。アア螺旋法なるかななるかな。といいたるまま、かの学者はクンクンと鼻をならしながら、どうだ分ッたか螺旋法が、少し分ったろう、螺旋法に限るぞ、といい玉う。かの男は閉口してつくづく感心し、なるほどなるほど法螺《ほら》とはこれよりはじまりけるカネ。(終)
                       「読売新聞」明治二三年)

底本:「懐かしい未来――甦る明治・大正・昭和の未来小説」中央公論新社
   2001(平成13)年6月10日初版発行
底本の親本:「読売新聞」読売新聞社
   1890(明治23)年4月
初出:「読売新聞」読売新聞社
   1890(明治23)年4月
※この作品は、1890(明治23)年4月8日~4月20日にかけて「読売新聞」に連載された、「日ぐらし物語」の一話です。
入力:川山隆
校正:伊藤時也
2006年10月18日作成
2007年2月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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