蒲原有明

緑蔭叢書創刊期—– 蒲原有明

 藤村君のこれまでの文壇的生涯を時代わけにして、みんなが分擔して書きたいことを書きとめておくのもよい企である。わたくしには「若菜集」の出るやうになつた頃のことを書かぬかどうかといふ相談があつた。しかし藤村君とのつきあひは「夏草」出版直後からであるから、若菜集時代、即ち文學界末期頃とは全く無關係であつた。さういふわけから、それでは大久保時代をとの注文が出た。
 さてその大久保時代を引うけて書くだんになると、その時期が短かかつただけに、格別これはといふ材料がない。その大久保時代にしても、ざつと今より二昔前のことである。ことに健忘なわたくしのことゆゑ記憶がかすんでゐる。止むをえず古い手筐をひきあけて調べてみたが、その時分のものでは葉書が二三枚出たまでゝあつた。五六年もつづいた小諸期のものならば長文の書簡がいくらでもある、その中には淺間の裾野で摘み取つて押し花にしたすずらんなどが、まださはやかに疊みこまれて殘つてゐたりするけれども、大久保時代のものとては、今云つたとほり短信より外に何もない。
 その短信のうち、一番最初のものは「出京仕り候、五月二日」とあるだけである。ところがきは西大久保四〇五とあり、「新宿より數丁、鬼王神社の側」と注意がしてある。その鬼王の文字に「キワウ」と假名づけがしてあるなど、いかにも藤村君らしいこくめいさである。郵便局の消印と對照すれば、それが明治三十八年であることもよくわかる。その鬼王神社の通筋はその頃漸く開けかけで、藤村君の寓居はたしか植木職の持家になつてをり、新築中から豫約がしてあつたといふやうにおぼえてゐる。豫約と同時に部屋の構造に注文がつけてあつた。それがまた藤村君の性格を遺憾なく發揮してゐた。家は極く普通の四室ぐらゐのさゝやかさであつたが、書齋となるべき一室が主人公の意匠の加はつたもので、まづ類のないものであつた。素より月並な文化的裝飾のあらうはずもなく、ただオリーブ色に染めさせた木綿の壁かけやうのものが自慢であつたものゝ、大體部屋を地床におとしてあつたのがめづらしいのである。それで他室からは一尺以上も下つてゐたので、そこに座つてゐると穴倉めいて書齋といふよりも仕事場といふかたちであつた。
 藤村君の書齋が仕事場であるといふことは、新花町時代の二階住居の模樣をわたくしが始めて見たをりの印象からしてさうであつた。その室内には巖疊な稽古机と煙草盆、その煙草盆すらわざと分厚な材料でこしらへさした品物であるが、すべては主人公の魂とおなじく沈默して整然としてゐた。
 この時代の藤村君には全く死身の覺悟があつた。小諸を切りあげて出て來られるにはそれだけの用意がなくてはならない。その用意としては最初の長篇小説「破戒」がすでに脱稿されてゐた上に、その出版の方法もほぼ熟してゐたことである。それが緑蔭叢書第一編として自力で刊行される運びになるまでの苦心は、いふまでもないことである。それにしても世間がよく君の創作と事業とを重んじ、また理解してゐたといふ點は無論あるにはあつたが、一面詩から小説に轉じた關係もあり、すでに水彩畫家の名作を出してはゐられたわけであるけれども、小説家としての將來は矢張未知數であつたといふところから、文壇的にも、生活上にも、思ひきつて背水の陣を布かれたその處置には、確かに外面から見て危險をおぼえしめるものがあつた。併し文壇に於ける新しい思想の流れは、藤村君をして遂に到るべきところに押進ましめた。自然主義運動の風潮が急であつたといふことは認めておかねばならぬ形勢であつたとしても、その潮流を見事に乘り切つた藤村君の意志と努力とは、自我に徹した意義に於て眞にめざましいものであつた。それゆゑに「破戒」一篇は、その藝術的完成の程度より決められる價値の上下は別問題として、ひろく文壇的に見て、劃時代の作物であることに衆評が一致したといふのも、自然にさうなるべきはずのものであつた。
 わたくしの目はまた第二の葉書に觸れる。それはさきの出京の通知から一週日とたゝないほどのことである。日附は八日、「病兒は遂に死去いたし候、このあたりの長光寺といふへ埋葬いたし候」と、書かれてある。周密な準備をめぐらし眞劒な覺悟を以て山の町から東京へ出て來られた藤村君にも、こればかりは全く思ひもかけぬ變事であつたにちがひない。借家の部屋にまで細かく意を用ゐたこゝろの上に、この家庭に於ける悲慘事が突如として襲ひ來つたことは、いかばかりの打撃であつたらう。想像も及ばぬことである。しかも凶事はいやが上にも迫りかゝつて、小諸で育てられたいたいけな令孃たちは、次から次へと、おなじ病魔の手に捉はれて亡くなつてゆかれた――わたくしは今率直にかう云ひ切つておいて、この事實にはあまり深入りしたくない感情に責められてゐる。なぜなれば藤村君はこれも矢張一の分身に外ならぬ「破戒」を藝術界に送り出す代りに淺間の麓で生ひたつたすずらんの花にも比ぶべき愛兒をことごとく、まがつみの犧牲にさゝげられたやうにも當るからである。
 第三の葉書には、同じ年の九月二十七日附で、「大に貴説に反抗いたし定めしにくきやつとの感情を抱きて御歸宅相成りしかと思へば心苦しくこの葉書差上候次第」とある。どういふ風の議論であつたか、それはすつかり忘れてしまつて語るべき端緒も見出せないが、わたくしが象徴主義に夢中になつてゐた折であるから、恐らくはそんなやうな話題からでもあつたらう。それよりもわたくしにとりておもひだされることは、ある日(翌三十九年五月の交か)君を訪ねての歸りに近所までといつて送つて來られた。裏口からすぐ麥畑につづいてゐる。丁度麥の出穗が揃つてかげろふが蒸してゐる中を、肩をならべながら語り合つたが、藤村君の言葉はいつものとほり結局は限りなき人生の愛慾といふことに落ちていつた。これはそのをりの情景が忘れかねるものがあるので序に書きそへておくまでのことである。
 西大久保から淺草の風流の巷のちかくに居を移されたのは、三十九年も秋に入つてからのことであつたらう。
 藤村君はその後いよ/\坐りつづけて創作に精進されたのである。自我に徹した沈靜な魂の前に底ひもわかぬ愛慾の世界が開展する。そこに何といつても藤村君の藝術境がある。西歐の文人と比較するならば、そこにフローベルの魂との共感が認められるといつてよい。藤村君の人生記録はかゝる魂の仕事場から鍛へ出されたのである。かくして必死の覺悟を以て創められた緑蔭叢書も、「春」を出し「家」を出すに到つてその藝術境は殆んど極所に到つたものと見られるのである。
                       (大正十五年四月)

底本:「明治文學全集 99 明治文學囘顧録集(二)」筑摩書房
   1980(昭和55)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「飛雲抄」書物展望社
   1938(昭和13)年12月10日
初出:「文章往來」
   1926(大正15)年4月
入力:広橋はやみ
校正:川山隆
2007年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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