宮城道雄

昔の盲人と外国の盲人—— 宮城道雄

 昔は盲人に特別の位を与えたものである。よく何市、何市とあるが、あれも市名《いちな》といって、盲人の位の一つで、一番下である。しかし何といっても一番よいのは検校であって、昔は 検校 になるには千両の金を納めなければならなかった。その代り十万石の大名に相当する資格が与えられていた。その次は勾当で、これは 検校 の半分位の資格であった。
 昔春先きに小大名が京都に上ると、検校
の性の悪いのが、丁度蜘蛛が網を張って虫のひっかかるのを待っているように、 伏見街道に 検校 の幕を張り廻らしておく。すると小大名はそこを通る時に、駕籠から降りなければならないので、家来が殿様の行列より先きに来て、何々がここを通るから、お駕籠のままで通らして戴きたいといって、金一封を持って頼みに行く。
 平生は大して懐工合がいいわけではないが、春先きになると、大勢の人を雇ってそんな悪戯をしていたものだそうであった。
 江戸あたりでは、
検校 は金貸のようなことをしていたそうである。それは盲人保護の意味で、 検校の貸した金は白洲に出ても、必ず取れることになっていたからだそうである。またそこを狙って普通の金貸が
検校に金を廻して、検校 から又貸をしたのだそうであった。
 幕府の頃は日本では盲人の保護が非常に行き届いていて、音楽家の外に、針医にも位がついていた。同じ頃の西洋の盲人の話を聞くと、あちらでは盲人は乞食より外になかったそうである。
 或る国などは、盲人を全然人間扱いにしなかった。そして、竹の垣を作って、その中に盲人と豚とを一緒に入れて、盲人に豚を捕えさせて、困っているのを目明きが見て喜んでいたという話があるが、それに比較すると、日本の盲人は幸福であったわけである。
 今日では外国でも盲人に対して、保護を与えるようになり、中には大学を出た者もあるそうである。或る国などでは、盲人が四辻を通る時に、黄色の旗を持っていると、自動車でも何でも避けて行くそうである。また独逸あたりでは、盲人が犬を連れて歩くそうで、つまり犬が道案内を勤めるわけである。

底本:「心の調べ」河出書房新社
   2006(平成18)年8月30日初版発行
初出:「雨の念仏」三笠書房
   1935(昭和10)年2月18日
入力:貝波明美
校正:noriko saito
2007年12月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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