葛西善蔵

死児を産む—– 葛西善蔵

 この月の二十日前後と産婆に言われている大きな腹して、背丈がずんぐりなので醤油樽《しょうゆだる》か何かでも詰めこんでいるかのような恰好《かっこう》して、おせいは、下宿の子持の女中につれられて、三丁目附近へ産衣《うぶぎ》の小ぎれを買いに出て行った。――もう三月一日だった。二三日前に雪が降って、まだ雪解けの泥路を、女中と話しながら、高下駄でせかせかと歩いて行く彼女の足音を、自分は二階の六畳の部屋の万年床の中で、いくらか心許《こころもと》ない気持で聞いていた。自分の部屋の西向きの窓は永い間締切りにしてあるのだが、前の下宿の裏側と三間とは隔っていない壁板に西日が射して、それが自分の部屋の東向きの窓障子の磨《す》りガラスに明るく映って、やはり日増に和《やわ》らいでくる気候を思わせるのだが、電線を鳴らし、窓障子をガタピシさせている風の音には、まだまだ冬の脅威《きょうい》が残っていた。
「早く暖かくなってくれないかなあ!……」と、自分はほとんど機械的にこう呟《つぶや》く。……
 やがて、新モスの小ぎれ、ネル、晒《さら》し木綿などの包みを抱えて、おせいは帰ってきた。
「そっくりで、これで六円いくらになりましたわ。綿入り二枚分と、胴着と襦袢《じゅばん》……赤んぼには麻の葉の模様を着せるものだそうだから」……彼女は枕元で包みをひろげて、こう自分に言って聞かせた。
「そうかねえ……」と、自分は彼女のニコニコした顔と紅《あか》い模様や鬱金色《うこんいろ》の小ぎれと見|較《くら》べて、擽《くすぐ》ったい気持を感じさせられた。
「ほんとに安いものね。六円いくらでみんな揃《そろ》うんだから……」
 自分はクルリと寝返りを打ったが、そっと口の中で苦笑を噛み潰《つぶ》した。
 六円いくら――それはある雑誌に自分が談話をしたお礼として昨日二十円届けられた、その金だった。それが自分の二月じゅうの全収入……こればかしの金でどう使いようもないと思ったのが、偶然にもおせいの腹の子の産衣料となったというわけである。そして彼女はあのとおり嬉しそうな顔をしている。無智とも不憫《ふびん》とも言いようのない感じではないか。それにつけても、呪《のろ》われた運命の子こそ哀れだ……悩ましさと自責の念から、忘れかけていた脊部肋間の神経痛が、また疼《うず》きだした。……
 こうした生活が、ちょうどまる二カ月も続いているのだった。毎日午後の三四時ごろに起きては十二時近くまで寝床の中で酒を飲む。その酒を飲んでいる間だけが痛苦が忘れられたが、暁方《あけがた》目がさめると、ひとりでに呻《うめ》き声が出ていた。装飾品といって何一つない部屋の、昼もつけ放しの電灯のみが、侘《わび》しく眺められた。

 永い間自分は用心して、子を造るまいと思ってきたのに――自然には敵《かな》わないなあ!――ちょうど一年前「蠢《うごめ》くもの」という題でおせいとの醜《みにく》い啀《いが》み合いを書いたが、その時分もおせいは故意にかまた実際にそう思いこんだのか、やはり姙娠してると言いだして、自分をしてその小説の中で、思わず、自然には敵わないなあ! と嘆息させたのであるが、その時は幸いに無事だったが、月から計算してみて、七月中旬亡父の三周忌に帰郷した、その前後であるらしい。その前月おせいは一度鎌倉へつれ帰されたのだが、すぐまた逃げだしてき、その解決方に自分から鎌倉に出向いて行ったところ、酒を飲んでおせいの老父とちょっとした立廻りを演じ、それが東京や地方の新聞におおげさに書きたてられて一カ月と経っていない場合だったので、かなり億劫《おっくう》な帰郷ではあった。郷里の伯母などに催促《さいそく》され、またこの三周忌さえすましておくと当分厄介はないと思い、勇気を出して帰ることにしたのだが、そんな場合のことでいっそう新聞のことが業腹でならなかった。そんなことで、自分はその日酒を飲んではいたが、いくらかヤケくそな気持から、上野駅まで送ってきた洗いざらしの単衣《ひとえ》着たきりのおせいを郷里につれて行って、謝罪的な気持から妻に会わせたりしたのだが、その結果がいっそうおもしろくなかった。弘前《ひろさき》の菩提寺《ぼだいじ》で簡単な法要をすませたが、その席で伯母などからさんざん油をしぼられ、ほうほうの体《てい》で帰京した。その前後から自分は節制の気持を棄てた。その結果が、あと十日と差迫った因果の塊《かたま》りと、なったというわけである。……
 ああ、それにしても、何というおもしろくないことだろう! 書きだしてからもう十日も経っているというのに、まだ五枚と進んでいないのだ。いや、書くことが何もないのだ。それに、実際物を書くべくいかに苦患《くげん》な状態であるか――にもかかわらず、S君は毎日根気よくやってきては、袴の膝も崩さず居催促を続けているという光景である。アスピリンを飲み、大汗を絞《しぼ》って、ようよう四時過ぎごろに蒲団を出て、それから書けても書けなくても、自分は一時間余り机に向わなければならない。そして一枚でも渡さないと、彼は帰ってくれないのだ。むろん雑誌の締切りに間に合わないことを承知でいて、彼は意固地になっているのだ。
「よしよし、きっとうまく逃げてやろう。何もかもいっさい棄ててしまおう……」こう自分は、ほんとうに二三日前に決心したのだ。そして仙台にいる弟に電報を打ったのだ。
 明日か明後日、弟は出てくることになっている。あと十日と迫ったおせいの身体には容易ならぬ冒険なんだが、産婆も医者もむろん反対なんだが、弟につれさせて仙台へやっちまう。それから自分は放浪の旅に出る。
 仙台行きには、おせいもむろん反対だった。そのことでは「蠢《うごめ》くもの」時分よりもいっそう険悪な啀《いが》み合いを、毎晩のように自分は繰返した。彼女の顔にも頭にも生疵《なまきず》が絶えなかった。自分も生爪を剥いだり、銚子を床の間に叩きつけたりしては、下宿から厳しい抗議を受けた。でも昨今は彼女も諦めたか、昼間部屋の隅っこで一尺ほどの晒《さら》しの肌襦袢を縫ったり小ぎれをいじくったりしては、太息《ためいき》を吐《つ》いているのだ。
 何しろ、不憫《ふびん》な女には違いない。昨年の夏以来彼女の実家とは義絶状態になっていたのだが、この一月中旬突然彼女の老父|危篤《きとく》の電報で、大きな腹をして帰ったのだが、十日ほどで老父は死に、ひと七日をすます早々、彼女はまた下宿に帰ってきた。母も姉たちもいるのだが、彼女の腹の始末をつけてくれようとは、実家では言ってくれなかった。「よそへでもやって産ませるくらいなんだから、嫁もいることだし、お産の世話はできないから……」母にこう言われて、彼女もさすがに悄然《しょうぜん》とした気持で帰ってきたのだった。
 産婆の世話で、どこかの病院かで産まして、それから下宿の下の三畳の部屋でもあてがって、当分下宿で育てさせる――だいたいそうと相談をきめてあったのだが、だんだん時期の切迫とともに、自分の神経が焦燥《しょうそう》しだした。
「あなたの奥さんのうちは財産家なんで、子供の面倒も見てくれるんで、それで奥さんのことというと大事に思うんだろうが、わたしのうちはね、貧乏でね、お産の世話もしないというんでね、それでわたしのことというと、どっこまでもそうしてばかにするんだね? そうなんだろう? この悪党野郎が!……」おせいはこんなことまで言いだして、血相を変えて、突かかってきた。
「ばか! 誰がそんなことを言った?……お前の腹の子を大事に思えばこそ、誰も親身のもののいないこうした下宿なんかで、育てたくないと言ってるんじゃないか。それにお前なんかには、とてもひとりで赤んぼうなんか育てられやしないよ。赤んぼがいなくたって、このとおりじゃないか……」
「そんな言いわけは聞かないよ、赤んべえだ。……育てれなけりゃ遣《や》っちまえばいいじゃないか、お金をつけて遣っちまえばいいじゃないか」
「そんなことできやしないじゃないか。だから仙台へ行け……」
「行かないよ。誰が行くもんか、そんなに邪魔にされて。……赤んぼがほしいが聞いて呆《あき》れら、自分の餓鬼《がき》ひとりだって傍に置いたこともないくせに……」
「………」自分の拳固が彼女の頬桁《ほおげた》に飛んだ。……

 ほとんど一カ月ぶりで、二時過ぎに起きて、二三町離れたお湯へ入りに行った。新聞にも上野の彼岸桜がふくらみかけたといって、写真も出ていたが、なるほど、久しぶりで仰ぐ空色は、花曇りといった感じだった。まだ宵のうちだったが、この狭い下宿街の一廓にも義太夫の流しの音が聞えていた。
「明日は叔父さんが来るだ……」おせいはブツブツつぶやきながらも、今日も白いネルの小襦袢を縫っていた。新モスの胴着や綿入れは、やはり同じ下宿人の会社員の奥さんが縫ってくれて、それもできてきて、彼女の膝の前に重ねられてあった。
「いったいどんな気がしているのかなあ?……あんなことをしていて。……やはり男性には解らない感じのものかもしれないな」と、自分は多少の憐憫《れんびん》を含めた気持で、彼女のそうした様子を眺めて、思ったりした。
「蠢《うごめ》くもの」では、おせいは一度流産したことになっている。何カ月目だったか、とにかく彼女のいわゆるキューピーのような恰好をしていたのを、彼女の家の裏の紅い桃の木の下に埋めた――それも自分が呪《のろ》い殺したようなものだ――こうおせいに言わしてある。で今度もまた、昨年の十月ごろ日光の山中で彼女に流産を強いた、というようにでも書き続けて行こうとも思って、夕方近くなって机に向ったのだったが、年暮れに未知の人からよこされた手紙のことが、竦然《しょうぜん》とした感じでふと思いだされて、自分はペンを措《お》いて鬱《ふさ》ぎこんでしまった。
 それは、自分と同姓の、しかも自分とは一廻り下の同じ亥年《いどし》の二十六歳の、K刑務所に服役中の青年囚徒からの手紙だった。彼の郷国も、罪名も、刑期も書いてはなかったが、しかしとにかく十九の年からもう七年もいて、まだいつごろ出られるとも書いてないところから考えても、容易ならぬ犯罪だったことだけは推測される。――とにかく彼は自分の「蠢くもの」を読んでいるのだ。
 で、自分はまた、手文庫の底からその手紙を取りだして、仔細に読んでみた。
 刑務所の書信用紙というのは赤刷りの細かい罫紙《けいし》で、後の注意という下の欄には――手紙ノ発受ハ親類ノ者ニノミコレヲ許スソノ度数ハ二カ月ゴトニ一回トス賞表ヲ有スル在所人ニハ一回ヲ増ス云々――こういった事項も書きこまれてある。そして手紙の日づけと配達された日との消印の間に二十日ほど経っているが、それが検閲《けんえつ》に費された日数なのであろう。そしてその細罫二十五行ほどに、ぎっしりと、ガラスのペンか何かで、墨汁の細字がいっぱいに認められてある。そしてちょっと不思議に感じられたのは、その文面全体を通じて、注意事項の親族云々を聯想させるような字句が一つとして見当らないのだが、それがたんに同姓というだけのことで検閲官の眼がごまかされたのだろうとも考えられないことだし、してみると、この文面全体に溢れている感じが、おそらく係りの人を動かしたものとしか考えられない。いわゆる、悔悛《かいしゅん》の情云々――そういったところだったに違いない。自分はその二三句をここに引いてみよう。自分としては非常に忸怩《じくじ》とした、冷汗を催《もよお》される感じなんだが。――こうした悪虐な罪人がなお幾年かを続けねばならぬ囚人生活の中からただ今先生のために真剣な筆を走らしていますことは、何かしら深い因縁のあることと思います。ぶしつけな不遜《ふそん》な私の態度を御|赦《ゆる》しくださいませ――なおもなおも深く身を焦さねばならぬ煩悩《ぼんのう》の絆《きずな》にシッカと結びつけられながら、身ぶるいするようなあの鉄枠《てつわく》やあるいは囚舎の壁、鉄扉にこの生きた魂、罪に汚れながらも自分のものとしてシッカと抱いていねばならぬ魂を打つけて、血まみれになっているその悲惨さを体味しながらそれでも一条の灯を認めて姑息《こそく》ながらに生きているは「蠢《うごめ》くもの」その他などに現れた先生の芸術云々――モグラモチのように真暗な地の底を掘りながら千辛万苦して生きて行かねばならぬ罪人の生活、牢獄の生活から私が今解放されて満足を与えられつつあるのは云々――私に生きて行かねばならぬ私であることを訓《おし》えてくださった「蠢くもの」は私の醒めがたい悪夢から這《は》いださしてくださいました――私がここから釈放された時何物か意義ある筆の力をもって私ども罪に泣く同胞のために少しでも捧げたいと思っております――何卒紙背の微意を御了解くださるように念じあげます云々――

 終日床の中にいて、ようよう匐《は》いでるようにして晩酌をはじめたのだったが、少し酔いの廻りかけた時分だったので、自分はその手紙を読んで何とも言えない憂鬱と、悩ましい感じに打たれた。自分の作のどういう点がほんとに彼を感動さしたのか――それは一見明瞭のようであって、しかしどこやら捉《とら》えどころのない暗い感じだった。おそらくあの作の持っている罪業的な暗い感じに、彼はある親味と共鳴とを感じたのでもあろうが、それがひどく欠陥のある稚拙《ちせつ》な彼の文章から、自分にそうした曖昧《あいまい》な印象を与えたものであろうと思われたが、それにしても「迂濶《うかつ》に物は書けない……」自分は一種の感動から、こう心に叫んだのだった。彼はあの作の動機に好意を持っていてくれてる。モグラモチのように蠢きながらも生きて行かねばならぬ、罪業の重さに打わなきながらも明るみを求めて自棄してはならぬ――こういった彼の心持の真実は自分にもよくわかる気がする。といって自分のあの作が、それだけの感動に値いするものだとはけっして考えはしないのだが、第一にあの作には非常な誇張がある、けっして事実のものの記録ではないのだが、それがこの青年囚徒氏に単純な記録として読まれて、作品としての価値以上の一種の感激を与えていたということになると、自分は人間としての良心の疚《やま》しさを感じないわけに行かないのだ。どっちにしたって同じことじゃないか?――自分はこうも思いたかったのだが、迂濶に物を書いてはならない――そうした気持を払い退けることができなかった。あまりにも暗い刺戟的な作――つまりはその基調となっている現在の生活を棄てなければ、出て行かなければ――それが第一の問題なのだが、ところがどうだ?……ますます深味に落ちて行くばかりではないか? 「蠢くもの」以前、またその後の生活だって、けっしてこの未知の青年に対して恥じないような生活を、自分にはしてきているとは、言えないのだ。
 たまらないような気持から、自分としてはめったにないことなんだが、寒い風の外に出て、三丁目附近のレストランに出かけて行った。十時を過ぎていた。自分も鎌倉から出てきて一年余りの下宿生活の間に、三四度も来たことのある階下の広い部屋だったが、その晩は思いがけなくクリスマスの夜だった。入口の隅のクリスマスの樹――金銀の眩《まばゆ》い装飾、明るい電灯――その下の十いくつかのテーブルを囲んだオールバックにいろいろな色のマスクをかけた青年たち、断髪洋装の女――彼らの明るい華かな談笑の声で、部屋の中が満たされていた。自分は片隅のテーブルでひとりでいくつかの強い酒の杯を重ねたが、思いがけなかったその晩の光景は、いっそう自分の気分を滅入《めい》らせたのだった。あの鉄枠の中の青年の生活と、こうした華かな、クリスマスの仮面をつけて犢《こうし》や七面鳥の料理で葡萄酒の杯を挙げている青年男女の生活――そしてまた明るさにも暗さにも徹しえない自分のような人間――自分は酔いが廻ってくるにしたがって、涙ぐましいような気持にさえなってきて、自分の現在の生活を出るというためからも、こうした怪しげな文筆など棄てて、ああした不幸な青年たちに直接に、自分として持ってきたすべてを捧げたい――そうしたところに自分の救いの道があるのではあるまいか、などと、いつものアル中的空想に囚《とら》われたりしたが、結局自分はその晩の光景に圧倒され、ひどく陰鬱《いんうつ》な狂おしいような気持で、十二時近く外へ出たのだった。……
 自分はその前年の九月の震災まで、足かけ五年間、鎌倉の山の中の古寺の暗い一室で、病気、不幸、災難、孤独、貧乏――そういったあらゆる惨《みじ》めな気持のものに打挫《うちくじ》かれたような生活を送っていたのだったが、それにしても、実際の牢獄生活と較べてどれほど幸福な、自由な、静かな恵まれた生活であるかを思って、自分はなお自分の乏しい精力で、自分だけの仕事をして行こうという勇気を失わずに来ることができた。が、あの高い煉瓦塀の中でのいっさいの自由を奪われたような苦役生活の八年間――どれほどの重い罪を犯したものか、自分なんかにはほとんど想像もつかないことではあるが、何しろ彼はまだ当年十九歳の、いわばまだ少年と言っていい年齢だったのだ。それがそれほどの重大な犯人……? そしてまた、そうした八年間の実際の牢獄生活の中にも、彼はまだ生の光りを求むる心を失わずにいるかのようにも思える。そしてまた、彼はこのさきまだ何年くらい今の生活を続けなければならないのか――そのことは彼の手紙に書いてなかった。

 四月二日朝、おせいは小石川のある産科院で死児を分娩《ぶんべん》した。それに立合った時の感想はここに書きたくない。やはり、どこまでも救われない自我的な自分であることだけが、痛感された。粗末なバラックの建物のまわりの、六七本の桜の若樹は、もはや八分どおり咲いていた。……

底本:「日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集」集英社
   1969(昭和44)年7月12日初版発行
入力:住吉
校正:小林繁雄
2011年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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