下村千秋

あたまでっかち—– 下村千秋

 霞《かすみ》ガ浦《うら》といえば、みなさんはごぞんじでしょうね。茨城県《いばらきけん》の南の方にある、周囲《しゅうい》百四十四キロほどの湖《みずうみ》で、日本第二の広さをもったものであります。
 日本第一の近江《おうみ》のびわ湖《こ》は、そのぐるりがほとんど山ですが、霞ガ浦は関東平野《かんとうへいや》のまんなかにあるので、山らしい山は、七、八|里《り》はなれた北の方に筑波山《つくばさん》が紫《むらさき》の色を見せているだけで、あとはどこを見まわしても、なだらかな丘《おか》がほんのり、うす紫に見えているばかりであります。
 ですから、この湖《みずうみ》の景色《けしき》は、平凡《へいぼん》といえば平凡ですが、びわ湖《こ》のように、夏、ぐるりの山の上に夕立雲《ゆうだちぐも》がわいたり、冬、銀色の雪が光《ひか》ったりすると、少しすごいような景色になるのとはちがって、春夏秋冬、いつもおだやかな感じにつつまれています。びわ湖を、厳格《げんかく》なおとうさんとすれば、霞ガ浦は、やさしいおかあさんのようだともいえるでしょう。この湖の周囲《しゅうい》には、土浦《つちうら》、石岡《いしおか》、潮来《いたこ》、江戸崎《えどざき》などという町々のほかに、たくさんの百姓村《ひゃくしょうむら》が、一里おき二里おきにならんでいます。大むかし、人間は波のおだやかな海岸とか、川の岸とか、湖のまわりなどに一番さきすんだものですから、このおかあさんのようなやさしい霞ガ浦のまわりには、もちろんずっと大むかしから人がすんでいたのです。いまでも、方々から貝塚《かいづか》がほりだされたり、矢の根石やいろんな石器《せっき》が発見《はっけん》されたりするのでも、それがわかります。
 それで、百姓村でもずいぶんふるい歴史《れきし》をもった村があり、何《なん》十|代《だい》つづいたかわからないような百姓家が、方々に残っているわけです。
 林太郎《りんたろう》の村も、このふるい歴史をもった村のひとつでした。湖の南の岸の丘の上にあって、戸数《こすう》は五十|戸《こ》ばかりでした。また林太郎の家も何十代つづいたかわからないという旧家《きゅうか》で、村の一番北のはずれに、霞ガ浦を見下して、大きなわら屋根をかぶっていました。
 しかし、旧家というのは名ばかりで、いまでは、屋敷《やしき》まわりの大きな杉林はきりはらわれ、米倉《こめぐら》はとりこわされ、馬もいないうまやと、屋根に草がぼうぼうにはえた納屋《なや》があるきりの、貧乏《びんぼう》な百姓《ひゃくしょう》となっていました。同じ村の百姓も年々貧乏になっていきましたが、林太郎の家は村一番の旧家であるうえに、むかしは「名主《なぬし》」というのをつとめ、十年前ごろまでは村の、「総代《そうだい》」というのをやっていただけ、その貧乏がひじょうにめだつのでした。
 林太郎のおじいさんは、それを年中|苦《く》にしていて、
「せめて子どもでも大ぜいいたら、にぎやかでいいのだが、林太郎ひとりきりだから、よけいに家の中がめいるばかりだ。」
といっていました。林太郎はことし十一|才《さい》で、小学校の五年生になっていましたが、弟も妹もなく、まったくの一|粒《つぶ》っ子なのでした。あとは、おとうさんとおかあさんとおじいさんの三人きりでしたから、がらんとした広い暗い家の中にいると、人はどこにいるかわからないほどで、まったく陰気《いんき》だったのです。

 さて、ひとりっ子というものは、わがままっ子のきかんぼうが育《そだ》つものですが、林太郎はどっちかといえば、いくじなしの泣《な》き虫《むし》子にそだちました。おじいさんがかわいがりすぎたせいだ、とおとうさんはよくいいましたが、そうばかりではなく、あんまり陰気《いんき》な家の中にそだったためかもしれません。とにかく林太郎は、ちょっとしたことにもすぐめそめそとなきだすのでした。
 それにもうひとつ困《こま》ったことは林太郎はからだのわりに頭でっかちで、それで口の悪い村の子どもらから、「ごろっこ」というあだ名をつけられていることでした。「ごろっこ」とはかわずの子という意味《いみ》で、あの頭でっかちの「おたまじゃくし」のことです。村の子どもらは、なにかというと、
「やあい、ごろっこめ。」
とはやしたてるのです。すると林太郎は、すぐべそ口になり、くやしそうになきだすのでした。
「頭がでかい子は、えらい人になるんだぞ。なくことはない。」
 おじいさんは、林太郎がなきながら家へかえってくるのを見ると、そういってその頭をなでるのでした。またおかあさんは、夜、林太郎をだいてねるたびに、その頭を平手《ひらて》でなでながら、
「林太郎は、学校がよくできるので、みんながやっかんであんな悪口をいうのだよ。子どもの頭は大きい方がいいんだぞ。みんなの頭は小さすぎるんだぞ。」
と、やさしくいってきかせるのでした。
 実際《じっさい》、林太郎は学校の成績《せいせき》がよく、いままでに三番とさがったことはなかったのです。ただ、頭が重いため、運動がへたで、ことにかけっくらになると、いつもびりっかすでした。で、おとうさんはよくこういうのです。
「学校なぞはできなくてもいいから、かけっくらで一番になれ。いつまでたってもごろっこ[#「ごろっこ」に傍点]じゃ、百姓にもなれやしない。」
 そういわれると、林太郎はまたくやしそうになきだします。するとおとうさんはまた、
「またなきやがる。乞食《こじき》の子にくれてやるぞ。」
と、どなりました。
 おじいさんとおかあさんは、頭が大きいのをほめてくれるのに、おとうさんだけは、いつもそんなふうにいっては、つらくあたるので、林太郎はおとうさんをこわがって少しもなつきませんでした。もの心がついてから、一度だっておとうさんにおんぶしたり、だかさったり、夜、いっしょにねたりしたことはなかったのです。
 そのうえ、林太郎にはどうしてもおとうさんになじめないわけがありました。それはおとうさんが、ときどき夜おそく、お酒《さけ》によっぱらい、人相《にんそう》まで変わってかえってきて、一晩中おかあさんをいじめてなかすことでした。林太郎はこわいので、ふとんの中に頭をひっこめ、かめの子のようにちぢまっているのですが、それでもおとうさんのあらあらしい声がきこえるのです。
 ふだんでもこわい声をだすおとうさんですから、よっぱらってだす、そのあらあらしい声には、なにかこわい動物《どうぶつ》のほえ声みたいなところがあります。それが林太郎には憎《にく》らしくて憎らしくてなりませんでした。それにまたおかあさんをわけもなくいじめるのですから、たまらなかったのです。けれど、どうかすると、おとうさんはそのあらあらしい声の中で、「林太郎をどうする。」とか、「こうする。」とかいうことがありました。林太郎はふとんの中でそのことをきくと、からだ中、ぞくっとしました。それは、やっぱり自分《じぶん》の頭のことについていっているのだと、ひとりぎめにきめてしまうからでした。つまり自分は、「ごろっこ」のように頭でっかちなので、それがおとうさんとおかあさんとのあらそいのたねになるのだというふうに考えるからでした。
 これには林太郎はすっかりまいって、ひとり頭をかかえてべそ口をしているばかりでした。そうして小さな胸の中で、おかあさんにすまない、といっているばかりでした。

 それは、夏のはじめで、田植《たう》えのすんだ頃《ころ》のある夜でした。林太郎は、右どなりの家のおきぬさんという娘《むすめ》につれられて、湖のふちへほたるをとりにいったのでした。
 おきぬさんは、林太郎からみれば、もう「およめさん」になれそうな娘さんでしたので、ねえちゃん、ねえちゃんとよんでいました。おきぬさんもまた林太郎を弟のようにかわいがってくれるので、このひとだけには、おかあさんにもいえないことがいえるような気がしていました。
 林太郎は、おきぬねえちゃんの手につかまって、たんぼのあぜ道を湖《みずうみ》の方へ歩いていきました。月がでていましたが、かすみにつつまれてほの白く見えているだけでした。いくほどにかすみはだんだん深くなりました。そして湖の岸の土手《どて》までいくと、湖面《こめん》はまるで夢《ゆめ》を見ているように、とろんとかすんでいました。「霞《かすみ》ガ浦《うら》」という名はこういうところからでたのにちがいありません。まったくかすみにつつまれた霞ガ浦ほど、なごやかなやさしい自然はないでしょう。
 林太郎はなんだかもの悲《がな》しくなりました。夢のようなかすみの中にいるせいか、それともおきぬねえちゃんに手をひかれているせいか、どっちだかそれはわかりませんが、なんだかひとりでになきたくなってきたのです。うす浅黄色《あさぎいろ》のかすみの中に、ほたるがいくつもほの青い光の尾《お》をひいて、高く低くとんでいましたが、林太郎はそれをつかまえようともしません。ばかりか、ほたるのその青い光までが、目にかなしくうつるのです。
「林太郎ちゃん、どうしたの。」
 おきぬねえちゃんが、ふと林太郎の顔をのぞいてそういいました。
「…………。」
 林太郎は、なんとも答えず顔をふせてしまいました。
「こんなとこ歩いてるの、おもしろくないの。じゃかえろうか。」
「……ううん、かえりたくないよ。」
 林太郎はやっと鼻声《はなごえ》で答えました。
「そんなら元気をだして、ほたるをとりなよ。そら、すぐそこを、すいすいととんでるじゃないか。」
「……ねえちゃん、おれ、おれ……死《し》にたいんだ。」
「……なあに?」
「おれ、死にたいんだよ。」
「林太郎ちゃん、なにいってるのさ。夢を見てるんじゃない!」
「だっておれ、あたまでっかちだろう。それでみんなが笑うだろう。それでおとっつあんも、おっかさんをいじめるんだもの……」
 林太郎は、大きなおでこの下の小さな顔をいかにも思いあまったというふうにして、そういうのでした。そのようすが、おきぬねえちゃんにはちょっとおかしくもなったので、
「林太郎ちゃんは、おばかさんだわねえ。」
といって、林太郎の肩《かた》をだいてやりました。と、林太郎はおきぬねえちゃんのからだへ、大きなおでこをおしつけて、うーん、うーんとむせびながら、
「おとっつあんは、おれのほんとのおとっつあんじゃないだろう。そうだい。だからおれのごろっこ頭が気に入らないで、あんなにおっかさんをいじめるんだろう。だからおら死にたいんだ。」
と、いうのでした。
 林太郎のおとうさんは、きのうの晩《ばん》も酒《さけ》によってきて、林太郎のことをいっては、この家をでていけ、と、おっかさんをいじめたのでした。それがいま、林太郎の頭の中にありありと浮《う》かんでいるのでした。これにはおきぬねえちゃんも困《こま》って、
「林太郎のおとっつあんはほんとのおとっつあんなのよ。ちがうのはおっかさんの方なのよ。だから林太郎ちゃんが頭でっかちだからといって、おとっつあんがおっかさんをいじめるわけはないのよ。」
と、いってきかせました。
 すると、これがまた林太郎をひじょうにびっくりさせました。林太郎はこわい顔でおきぬねえちゃんをにらみつけながら、きゅうに大きな声で、
「そんなことないや、そんなことないや! おっかさん、おれのおっかさんだい。」
とさけびたてました。
 これにはおきぬねえちゃんもはっとしました。悪いことをいったと思いなおして、
「ええ、うそよ、うそよ。そんなことないの。ほんとにそんなことないの。」
と強くうちけして、
「だからまま親なんていうのはみんなうそなのよ。おとっつあんもおっかさんもほんとの親なのよ。だから、林太郎ちゃんの頭でっかちのことで、おとっつあんがおっかさんをいじめるわけもないの。ただ、どこの家にもいろんな心配《しんぱい》ごとがあるものだろう。それでおとっつあんとおっかさんがいいあいするんだろうけど、そんなこと子どもは知らないふりをしていればいいのよ。」
と、しみじみいいきかせました。
 林太郎は、こんどは怒《おこ》りもせず、またなきもまず、ただだまりこんでしまいました。林太郎には、自分が考えていることがほんとうなのか、おきぬねえちゃんのいったことがほんとうなのか、わからなくなったのでした。

 それから三日ほどした朝《あさ》のことでした。おとうさんは野《の》らへ仕事《しごと》にでかけ、おじいさんは湖の岸へ、「のっこみぶな」というのをつりにでかけたあとで、おっかさんはひとりでよそいきの着物《きもの》にきかえ、ふろしきづつみ一つをもって、
「林太郎、おっかさんはむこうの家へいってくるから、おとなしく待っといで。」
と下をむいたままいいました。
 むこうの家というのは、おっかさんのお里《さと》のことでした。林太郎の家の裏手《うらて》の丘《おか》から北の方を見ると、霞ガ浦が入江《いりえ》になっていて、そのむこうに一つの村があり、その村におっかさんのお里《さと》があるので、それで「むこうの家」といっているのでした。
 おかあさんはいままでその「むこうの家」へかえるときは、かならず林太郎をつれていきました。だのにきょうにかぎってそんなことをいいだしたものですから、林太郎の顔色《かおいろ》はみるみる変わりました。
「おれもいくよ、おれもいくよ。」
 林太郎はおかあさんの手にぶらさがってそういいました。
「きょうはつれていけないの。」
 おかあさんはそっぽをむいていいます。
「なんでよ、なんでよ?」
「おとっつあんにしかられるから。」
 そういうと、おかあさんはいきなり土間《どま》へおり、裏庭《うらにわ》へでていきました。林太郎はもう夢中《むちゅう》になり、はだしのままおっかさんの後をおいかけました。そうして、ひきつったような声でなきさけびだしました。
 おかあさんもそれには困《こま》りました。おかあさんはかきの木につかまって考えていました。そして林太郎になにかいいそうにしましたが、それもいわないで、ただ、
「そんならつれていこ。」
とだけいって、林太郎の手をとりました。
 おかあさんのお里の村までは、丘《おか》づたいに入江《いりえ》をぐるりと回《まわ》っていけば、二|里《り》あまりありましたが、舟でまっすぐに入江を横ぎっていけば、十四、五|丁《ちょう》しかありません。それに湖の岸にすむ人たちは、女でも子どもでも船をこぐことはじょうずですから、おかあさんもお里《さと》へかえるときは、いつも自分で船をこいでいきました。船は、このへんで「さっぱ船」という小さな船で、田植えをするときなどなくてならないものですから、どこの家でも一つぐらいは持っていたのです。
 おかあさんは、そのさっぱ船のまん中へ林太郎をのせると、竹ざおをとってするするとおしだしました。その日はいかにも初夏《しょか》らしいお天気で、丘の上の新緑《しんりょく》はほんのりかすみ、空も水もふっくらとふくらみ、かわずはねむそうにないて、なんともいえないいい気持でした。
 しかしおかあさんはだまりこくって、さおをあやつっています。林太郎はぼんやりとゆくての村の方を見ていましたが、その頭の中ではこんなことを考えていました。
「やっぱりおれの頭がでっかちなので、なにか困ったことが起《おこ》ったんだな。」

 まもなくおっかさんのお里のおうちが見えてきました。若葉《わかば》がふっくらとしげった木々のあいだに、大きなわら屋根が見え、それから米倉《こめぐら》の白い壁《かべ》が見えてきました。その白い壁は朝の日をうけて、あたたかそうに光《ひか》っていました。
 おっかさんはそれが見えてくると、いつもにこにこして元気《げんき》よく船をおしだすのでしたが、きょうはその方を見ようともしません。下をむいたまま、たいぎそうにさおをあやつっているばかりでした。
 林太郎は悲しくなりました。それで、ふなべりから手をのばして、水面《すいめん》に白く咲《さ》いているすいれんの花をむしってはすて、むしってはすてて、泣《な》きそうになるのをがまんしていました。
 やがて船は、米倉の下の岸《きし》へつきました。水ぎわにあそんでいた、たくさんのあひるどもが、があがあなきながら泳《およ》ぎにげました。
 おっかさんは林太郎の手をとって丘へ上がると、今わたってきた入江の方へ見返ってため息《いき》をつきました。それから米倉の前を通って母屋《おもや》の庭へはいっていきました。
 母屋の縁《えん》には、おっかさんのおっかさん、つまり林太郎にとってはおばあさんがめがねをかけて針仕事《はりしごと》をしていましたが、林太郎たちの姿《すがた》を見ると、めがねをはずしながら、
「おやおや、よくきた。林太郎もよくきたな。」
と、よろこんで、にこにこしながらいいました。
「きょうはおまえのうちは仕事が休《やす》みかい。林太郎も学校がお休みかい?」
と、聞きました。
 けれどもその日は、林太郎のうちでは仕事が休みでもなかったし、林太郎は学校がお休みでもなかったので、ふたりともなんとも答《こた》えませんでした。
 おっかさんは、持ってきたふろしきづつみを縁《えん》の上へおくと、おばあさんのそばへ腰をかけて、ひくい声でなにか話しだしました。話しているうちにおっかさんの顔はだんだんうつむいてきました。おばあさんは、うんうんといいながら聞いていましたが、やがておばあさんの顔も下をむいてしまいました。
 林太郎は、自分《じぶん》が聞いては悪いことを話しているのだ、と思いました。自分のあたまでっかちのことを話しているのだな、とも思いました。それで、おっかさんのそばをそろそろとはなれて、米倉《こめぐら》の方へとぼとぼと歩いてきました。

「林太郎《りんたろう》や、遠くへいくんじゃないよ。」
と、おっかさんがうしろから声をかけました。
「うん。」
と林太郎はふりむきもしないで答えて、さっきおっかさんとのってきた船がつないである水際《みずぎわ》の方へおりていきました。そこにはさっきのあひるどもが、やっぱりがあがあなきながら、いかにもおもしろそうに泳《およ》ぎまわっていました。林太郎はそれをぼんやり見ながら、自分はとうとうひとりぼっちになってしまったような気持になりました。
 すると、後の方で、おん、おん、おんというなにかのなき声がしました。ふりむいてみると、小さなまっ白なむく犬がいました。ひつじのようにむくむくした、毛ののびた前足を前へつっぱり、くりくりした茶色《ちゃいろ》の目《め》をきょとんとあけて、わん、わんというよりは、おん、おんというような声でほえたてています。
 犬の大好《だいす》きな林太郎は、いままでなきそうにしていた顔をきゅうに明かるくいきいきとさして、その場《ば》にしゃがみながら片手《かたて》をさしだし、ちょっちょっと舌《した》をならしてよびました。が、むく犬はかえってあとしざりしながら、おん、おんとほえたてます。林太郎はそれをつかまえてやろうと思い、立ち上がっていきました。と、むく犬はこんどはむこうをむいてばらんばらんとにげだしました。あんまりきゅうにかけだしたので、前へのめってころんとひとつもんどりをうって、それからあわてておき上がり、またかけだしました。
 子犬というものはみんなあたまでっかちなものですが、そのむく犬はわけてもでっかち頭に見えました。それできゅうにかけだしたりするとのめるのでしょう。林太郎はおかしくなって、
「やあい、でっかちあたまあ……」
と、どなってやりました。しかしそれは、自分が村の子どもらからしょっちゅういわれていることでした。林太郎はへんな気持《きもち》になりました。そしてそのむく犬がとてもなつかしくなりました。自分のきょうだい分《ぶん》のような気がしてきました。
 それから林太郎は、なんとかしてそのむく犬を手なずけようと考えました。口をとんがらしてへたな口笛《くちぶえ》をふいてみたり、なにかたべるものをくれるように見せかけたり、いっしょに遊ぼうというように道ばたの草の上にねころんで見せたりしました。むく犬は、もうにげようとはしませんが、でっかち頭をくるくるまわしたりして、おどけるようなまねをしながらも、なかなかそばへよってきませんでした。
「おまえの名はなんちゅうんだい? 名なしの犬ころかい? 白いからしろだろう。そうだ、おれが名をつけてやるよ。しろ公《こう》とつけてやるよ。……しろ公や、こっちへこいよ。おれのでしにしてやるよ。でしでいやなら、弟《おとうと》にしてやるよ。」
 しろ公はにこっと笑《わら》ったように林太郎には見えました。それから前足をちょいとあげて、ぼく、うれしいな、というようなようすもしました。が、それでも、そばへはよってきません。
 と、母屋《おもや》のお庭《にわ》からおっかさんが、
「林太郎や、おひるだよお……」
とよびました。林太郎は残念《ざんねん》そうにその場をひきあげました。

 林太郎は、いろりのある台所《だいどころ》で、おばあさんとおっかさんのあいだにすわって、おひるのごはんをたべていました。すると、さっきのしろ公が、いつのまにかそこの土間《どま》へきていて、みんながごはんをたべているのを、さもうらやましそうに、しっぽをふりながら見上げていました。林太郎はびっくりしてよろこび、
「やあ、しろ公だ、しろ公だ。」
と、のび上がっていいました。
「おやおや。」
と、おばあさんもしろ公を見下ろして、
「林太郎のうちのかい?」
「ううん、さっき、ひとりであそんでいたから、おれの弟にしてやったんだよ。」
「それじゃ、野ら犬かな?」
「野ら犬であるもんか。しろ公というなまえがついてるんだもの。」
「あの犬が、自分でそういったのかい?」
「……うん、そういった……」
 おばあさんは、
「ああ、そうかよ。」
と、それから声をあげて笑《わら》って、
「それじゃ、なにかたべさしてやろうかな。」
「うん。おれ、くわしてやるよ。」
 やがて林太郎は、おばあさんが、ねこのおわんへもってくれた汁《しる》かけ飯《めし》をもって、土間へおりていきました。しろ公はよっぽどおなかがすいているとみえて、もうにげだすどころか、小さなしっぽをふりちぎりそうにうちふりながら、がつがつとくいつきました。
 それから林太郎としろ公はすっかり仲《なか》よしになりました。しろ公はまったくの弟になったように、林太郎のいくところはどこへでもついてきました。林太郎はもう、ひとりぼっちになってしまったような気持を、きれいに忘《わす》れてしまいました。
 林太郎はしろ公をつれて、母家《おもや》のまわりをかけまわりました。米倉のまわりもかけまわりました。入江のふちの道もいったりきたりしました。ときどきだきあげてやると、しろ公はあんまりよろこびすぎて、おしっこをもらしたりします。草の上へねころんでふざけると、しろ公は夢中《むちゅう》になりすぎて、林太郎の手や足に歯《は》あとがのこるほどかみつきます。そんなとき、
「しろ公のばか。気をつけろよ。」
 そういってかるく頭をぶってやると、しろ公は目をしょぼしょぼさせて、ごめんね、とでもいうように林太郎の手の甲《こう》をしゃりしゃりなめたりします。
 林太郎はどうしていいかわからないほど、しろ公がかわいくなりました。

 そのうちに、晩春《ばんしゅん》のながい日もくれかけました。けれど林太郎は、それも知らずにしろ公と遊んでいると、おっかさんがそこへでてきて、
「林太郎、もううちへかえりなよ。」
と、いいました。
「おっかさんもいっしょにかえるんだろ?」
「おっかさんはきょうはかえれないよ。そのかわり友《とも》さんをつけてやるから、いいだろう。」
 友さんというのは、おばあさんのうちの作男《さくおとこ》でした。
「友さんでは、いやだ、いやだ。」
「そんなこといわないで、きょうだけおとなしくかえっておくれ。でないとおかっさんが困るから。」
「………」
「それじゃ、そのしろ公もいっしょにつれていきな。林太郎にはしろ公という弟ができたんだもの、もうさびしかないだろう。」
「………」
 林太郎はしろ公をだきながら、指《ゆび》のつめをかんでいるばかりです。おっかさんは大きなため息《いき》をついて、
「困ったなあ。」
と、また、うつむいてしまいました。
 林太郎は、うわ目でおっかさんのようすをしげしげと見ていましたが、なにか決心《けっしん》したように、
「そんじゃ、あしたきっと、おっかさんもかえってくる?」
「あした……」
と、おっかさんはちょっといいつまったが、
「そう、あした、かえるよ。」
と、小さなこえでいいました。
 林太郎はそれがまた気になりましたが、とうとう、
「じゃ、おれきょうかえるよ。」
と、答えました。

 林太郎は、しろ公をつれ、作男の友さんに船をおしてもらって自分のうちへかえりました。そしてその夜は、しろ公の寝床《ねどこ》を土間のすみへわらでつくってやって、自分はおじいさんといっしょにねました。
 つぎの朝はいつもより早く起《お》きだして、しろ公をつれて家の裏《うら》の丘の上へのぼり、入江の方を見ていました。が、おっかさんはかえってきませんでした。林太郎は日がくれるまで、何度《なんど》となくその丘へきてみましたが、やっぱりだめでした。
 そうしてつぎの日も、またそのつぎの日もおっかさんはかえってきません。林太郎はおじいさんに、なぜおっかさんはかえらないのか、と一日に三度も四度も聞いてみましたが、おじいさんは
「そのうちに、帰るで、おとなしくしてるだよ。」
というばかりでした。
 夜になるとしろ公も、ひとりでねるのはさびしいというように、くんくんなきたてます。すると林太郎もたまらなくさびしくなって、おじいさんの胸へ顔をおしつけて、しくしくなきました。おとっつあんはときどき、
「林太郎はこっちへきてねるんだぞ。」
と、いいましたが、林太郎はそんなことはいつも聞えないふりをしていました。
 ある夜、林太郎は、おじいさんとねながら、とうとういいだしました。
「おじいさんよ。おれ、あたまでっかちだから、それでおとっつあんはおっかさんをおん出しちまったんだろう?」
「ばか。おまえがあたまでっかちだって、おっかさんの罪《つみ》ではないんだよ。」
「そんじゃ、おれが悪いんだろう。……そんじゃ、おれ……死んじまえばいいんだろう。」
「こら、なにをいうだ。」とおじいさんは林太郎をまじまじと見守《みまも》っていましたが、「よしよし、おじいさんがおっかさんをつれてきてやるから、もう余計《よけい》なことを考えるでないぞ。」と林太郎を胸の中へだきこみました。
 つぎの日おじいさんは、「さっぱ船」にのって、「むこうの家」へでかけていきました。そして夕方、暗《くら》くなってからやっぱりひとりでかえってきて、
「おっかさんはからだが少し悪いでな、なおったらすぐかえるといってたよ。」
と、いいました。
 だが、それから半月たってもひと月たってもおっかさんの方からはなんの音さたもありませんでした。

 そのうちに夏休みがきました。しろ公は、つれてきたときより三|倍《ばい》も大きくなり、夜はよく家の番《ばん》をし、昼間《ひるま》は林太郎のいうことをよく聞いて、いっしょにふざけながら遊んでもおしっこをもらしたり、手や足をひどくかむようなことはしなくなりました。
 それに、しろ公はひじょうにりこうで、林太郎が夕方などさびしそうにしていたりすると、ぴったりと林太郎のそばにすりついて、はなれませんでした。それはまったく林太郎のきょうだいのようでした。
 それで林太郎もいつか、このしろ公といっしょなら、ひとりではできないこともできるような気がしてきました。そして林太郎は、ある日、ひとりではできないことを、しろ公といっしょにりっぱにしてしまいました。それは、しろ公を、例《れい》の「さっぱ船」にのせ、自分が船をこいで、とうとうおっかさんのお里《さと》まで、入江《いりえ》を渡《わた》ってしまったのです。
 お里のおばあさんもそれにはびっくりして、
「まあ、林太郎は、ほんとうにひとりで船をこいできたのかい。」
と、なんべんも聞きました。
 林太郎は、さすがに少し顔色も変わっていましたが、元気よく、
「おれ、ひとりじゃないよ。しろ公とふたりだよ。」と答えて、「おっかさんをむかいにきたんだよ。おっかさんはどこにいるの?」と、聞きました。
 おばあさんは、これは困《こま》ったことになったぞ、という顔をしていましたが、
「おっかさんはな、まだからだがよくならないので、土浦《つちうら》の病院《びょういん》へいってるのだよ。よくなって退院《たいいん》したら、じき林太郎のとこへかえしてやるから、きょうはがまんして帰っておくれ。」
と、やさしくいいきかせました。
 林太郎は、くちびるをくいしばって聞いていましたが、
「うん。」
と、ひとこと答えたきりでした。
 さてその日、林太郎はしろ公をつれて、土浦の病院までおっかさんをたずねていこうと決心《けっしん》しました。土浦までは霞ガ浦のふちをぐるりと回《まわ》って、五里ちかくあります。おとなは自転車《じてんしゃ》で一日に往復《おうふく》しましたが、やっと十一|才《さい》の林太郎が、それも小さな足でぽつぽつ歩いて、まだ一度も歩いたことのない道をいこうというのですから、それはずいぶんの冒険《ぼうけん》でした。が、林太郎はおっかさんに会いたい一心《いっしん》から、もうあぶないことも恐《こわ》いことも忘れてしまったのでした。

一〇

 林太郎はしろ公をつれ、土浦へむかって歩きだしました。左手は、松林《まつばやし》や雑木林《ぞうきばやし》がつづいています。そこには、ひぐらし、みんみん、あぶらぜみなどがにぎやかにないています。右手は青々としたたんぼで、風がわたるたびに青い波がながれます。たんぼのむこうは霞ガ浦で、それは、いかにも夏の湖らしくきらきらと光っています。
 林太郎は、生まれてはじめて歩く道ですが、そういう景色《けしき》をながめながら歩いていると、そんなにさびしいとも感《かん》じませんでした。それに、土浦へいきさえすれば、おっかさんにあえると信《しん》じてもいるので。
 ただ林太郎にとって少し困ったことは、しろ公をおともにつれてきたのに、しろ公はおともらしく神妙《しんみょう》にしてついてこないことでした。しろ公もはじめて歩く道なので、いつものように横道へそれたり、見えなくなるほど先の方へ走っていったりはしませんが、道ばたにたっていつまでもくんくん、鼻をならしていたり、電信柱《でんしんばしら》があるごとに、その根元《ねもと》へおしっこをかけたり、ほかの犬の姿をみつけると遠くからにらめていたり、ちっともおちついていないのです。林太郎は、
「しろ公、ばか。」
「しろ公、げんこつくわせるぞ。」
「しろ公、おとなしく歩かねえと、おっかさんのとこへつれてってやらねえぞ。」
 などと、しょっちゅうどなりつけながら歩いていました。
 そのうちに、きらきら光《ひか》っていた霞《かすみ》ガ浦《うら》がだんだんうすむらさきに煙《けむ》ってきました。丘の上でなきしきっていたせみの声もいつしかしずまり、かなかなのこえだけ、小さなかねをたたくように聞えて、あたりは夕もやにつつまれてきました。気がついてみると、あんなにさわぎまわっていたしろ公も、林太郎の足元にすりつくようにして、とぼとぼと歩いています。
 林太郎はきゅうに心細《こころぼそ》くなりました。
「もう、どのくらい歩いたろうな。土浦はまだかしら。」
 そう思ってゆくてをみると、白い道が夕もやの中へきえて、その先《さき》の空《そら》には二つ三つ、黄《きい》ろい星が光りだしているばかり。ときどきすれちがう人もなんだか気味《きみ》が悪く、うしろからだしぬけに自転車が走りぬけたりすると林太郎はぎょっとしました。そこで林太郎は、こんどはやさしい声でしろ公へ話しかけました。
「しろ公、くたびれたかい。」
「しろ公、おなかがすいたかい。」
「しろ公、おっかさんのとこへいったら、うんとうまいものをくわしてやるよ。」

一一

 そうして林太郎としろ公は、どのくらいの道を歩いたろうか。ふと目を上げるとはるか右手のほうに、たくさんの電灯《でんとう》が、まるで野原|一面《いちめん》にさきみだれた花のようにきれいにともっているのが見えました。
「ああ、土浦《つちうら》だ、土浦だ!」
 林太郎はとび上がってよろこび、
「やいしろ公、おっかさんのいる町がめえるじゃねえか。」
 けれどしろ公はやっぱりとぼとぼと歩いています。林太郎はそのしろ公を両手《りょうて》で高くさしあげて、
「それ見ろよ。あれだよ。すてきだろう。」
 林太郎はすっかり元気づき、走《はし》るように歩きだしました。
 だが、町の灯《ひ》はすぐそこに見えていながらなかなか遠いのです。林太郎が近づいていけばいくほど、町のほうで遠くへにげていくようにも見えます。それで林太郎は、はあはあいいながら夢中《むちゅう》で進んでいきました。そしてやっと町の入口へついたときは、足は棒《ぼう》のようになり、頭はぽうーっとなっていました。しろ公もすっかりまいったとみえ、しっぽをおなかの下へまきこみ、ひょろひょろ歩いています。
 この町の灯《ひ》を遠くから見ながらくるときは、林太郎の目にはこの町がおとぎ話の竜宮《りゅうぐう》のように美しいところに思われたのでした。が、きてみるとそれどころか、小さな店がごちゃごちゃとならんで、いやなにおいがして、むし暑《あつ》くて、どこにも美しいところがありません。それに、人をふきとばしそうなサイレンをならしている自動車《じどうしゃ》、往来《おうらい》いっぱいになってがたがた走《はし》ってくる乗合自動車《のりあいじどうしゃ》、うるさくベルをならしながらとびまわる自転車《じてんしゃ》などで、うかうかと歩いてもいられません。林太郎はしろ公といっしょに幾度《いくど》となく往来《おうらい》のすみっこにたち止まっては、
「まったく、やんなっちゃうなあ。」
と、ひとりごとをいいました。
 しかしそんなことをしていたら、いつまで歩いていてもおっかさんに会うことなどできません。林太郎はある荒物屋《あらものや》の店先《みせさき》へ立ち、学校でならったていねいな言葉《ことば》で聞きました。
「土浦の病院はどこですか。」
「土浦の病院? それだけじゃ、わかんねえよ。」
 荒物屋のことばはらんぼうです。
「土浦の病院だよ。」
「このでっかちあたま、土浦には、病院がいくつもあるんだからな、その名前を聞いてこい。」
 林太郎はおずおずとその店先をさりました。林太郎は、この町へきて「土浦の病院」とさえいえばすぐわかり、それでまたおっかさんにも会えるものとばかり思ってきたのです。林太郎は困ったなと思いました。が、ひょっとしたらあの荒物屋はなんにも知らないのかもしれないと思いなおしました。で、またしばらく歩くと、ある乾物屋《かんぶつや》の前へたって、
「土浦の病院はどこでしょうか。」
と、聞きました。
「へえ?」と、乾物屋のおかみさんは笑いながら、「おまえさん、どこからきたの。」
「……」林太郎はそれには答えず、「おれのおっかさんのいる病院だよ。」
「おや。犬ころとふたありで、おっかさんに会いにきたのかね。だけど土浦の病院だけじゃわからないよ。なんという病院だえ?」
と、おかみさんはやさしくいいます。
 そういわれると林太郎はなんだか少し悲しくなり、きゅうにおろおろ声で、
「土浦の病院というんだよ。そんな病院ないのけ?」
「なるほど、それじゃ、土浦病院のことだろう。それならね、これをまっすぐにいってつきあたったら、右へまがっていくと、左側《ひだりがわ》にあるのがそうだよ。りっぱな西洋館《せいようかん》だからすぐわかるよ。」
 林太郎は、ああよかったと思いました。それでそのおかみさんへぼうしをぬいでていねいにおじぎをして、教わったとおりの道を歩いていきました。
 町はだんだんとにぎやかになり、ならんでいる店もりっぱになり、ある店には、赤や青の電灯が、つばきの花を糸へさしたようにならべてあって、蓄音機《ちくおんき》が大きな声で歌をうたっています。林太郎もその前ではしばらく立ち止まって、
「やっぱり竜宮《りゅうぐう》みたいなところもあるなあ。」と感心《かんしん》したりしました。

一二

 病院はすぐわかりました。林太郎はおそるおそるその玄関《げんかん》へはいって、まっ白な円《まる》い天井《てんじょう》に大きな電灯がともっている下に立ち、
「こんちは、……こんちは……。」
と、いいました。すると受付《うけつけ》とかいてあるところの窓があいて、
「もう夜だからこんばんはというもんだよ。」という声がして、白い服《ふく》をきた若《わか》い女が顔をだし、「なあに、くすりをとりにきたの。」
「ううん、おれのおっかさんいるけ?」
「ほっほほ。おれのおっかさんて、おまえさんなんという名?」
「林太郎……。」
「やな子、林太郎じゃわかんないよ。なに林太郎というの?」
「川並《かわなみ》林太郎というの。」
「川並……? おまえさんのおっかさんだね。」
「うん。」
「そんなお方、うちには入院《にゅういん》していないわ。」
「うそだあ。いるっていったよ。」
「だっていないんだもの。うそなんかいやしないよ。」
「……ほんとにいないの。」
 林太郎はうらめしそうににらみました。
「おまえさん、病院をまちがえたんだろ。この前を左へいくと、むこう側《がわ》にもひとつ病院があるから、そこへいってごらん。」
 林太郎は、しおしおとそこをでて、教わった、つぎの病院へいってみました。が、そこにもおっかさんはいませんでした。林太郎はそこでもまたべつの病院を教わって、また、そこへいってみましたが、やっぱりおなじことでした。そこでは、
「病院の名も知らずに歩いたってわかりっこないから、おうちへおかえり、でっかちあたまさん。」
と、いわれました。
 林太郎はもう顔も上げられないほど悲しくなりました。それでただもう足のむいた方へ歩いていきました。町の灯がちかちか光って見えます。涙《なみだ》が目の中にいっぱいたまっているのでそう見えるのですが、林太郎はそんなことは気がつきません。ただ町中がなんとなく恐《おそ》ろしく見えてきて、早くちかちか光る灯のないところへ出たいと思いながら歩いていました。
 そのうちやっと暗い通りへでました。それをどこまでもいくと、広《ひろ》い原《はら》っぱへでました。そこは霞《かすみ》ガ浦《うら》のふちで、一面《いちめん》に夏草《なつくさ》がはえしげっています。夏草には夜露《よつゆ》がしっとりとおりています。林太郎はその草の露をふみながら、またあてどもなく歩いていきました。
「しろ公、どこへいったらいいんだよ?」
 林太郎は、いつか足元にすりついて歩いているしろ公へ、そう話しかけていました。
「なあ、しろ公、おっかさんは、どこにいるんだよ?」
「なあ、しろ公、たのむからおまえが探《さが》してきてくれよ。」
「しろ公、おらなんだか気が遠くなってきたよ。」
「しろ公、夢《ゆめ》みたいだなあ。」
 そういっていたかと思うと、林太郎は草の上にふらりとすわってしまいました。そこは湖《みずうみ》の岸《きし》で、すぐ下は水です。林太郎はそこにすわったまましばらくはふらふらしていましたが、やがてずるずるとすべって、もう少しで水の中へすべりこむところを、そこに一カ所ちょっとしたくぼみがあり、林太郎のからだはその中へぐあいよくすぽりとはまりました。
 林太郎はそこで、虫のようにまるくなって眠《ねむ》ってしまったのです。かわいそうに林太郎は、おっかさんのお里《さと》を出てから、水一てき飲まずに五里ちかくの道を歩きつづけ、この町へきてもなにひとつたべずに、あっちこっちの病院をたずね回《まわ》ったので、もうからだも頭もへとへとに疲《つか》れてこんなところにゆきだおれてしまったのです。
 しろ公も林太郎とおなじように飲《の》まず食わずですから、もう少しでへたばりそうになっていました。が、林太郎がそんなにたおれてしまったのをみると、これは兄貴《あにき》の一大事《いちだいじ》とわかったらしく、しっかりと両耳《りょうみみ》をたてて、林太郎のそばにきちんとすわっていました。主人《しゅじん》のためには命《いのち》をすてて主人の危険《きけん》を救《すく》う犬がよくありますが、しろ公もまたそういう忠実《ちゅうじつ》な犬にちがいありません。といってしろ公は、そこにゆきだおれてしまった林太郎をどうして救《すく》うのでしょうか。

一三

 こちらは林太郎のおとっつあんです。おとっつあんはその日がくれても林太郎の姿が見えないので、これはてっきりおっかさんのお里へいったにちがいないと思い、さっぱ船にのってお里へいってみました。と、林太郎はおひるすぎにきはきたが、すぐ家へかえっていったとおばあさんのはなしです。
「それじゃ、どこへいったろう?」
「ひょっとしたら、おっかさんに会いたい一心《いっしん》で、土浦《つちうら》までいったかもしれないぞ。」
「でも、あんな子どもがひとりでいけるだろうか。」
「いやいやいったかもしれぬ。そういえばきょうの林太郎はいつもと違《ちが》って、くちびるをくいしばってなにか決心《けっしん》したような顔で、このうちを出ていったからな。」
「しろ公もいっしょだったか。」
「ああ、いっしょだった。」
「そんならやっぱりいったかもしれねえ。よし、じゃこれから迎《むか》いにいってくる。」
「ああすぐいっておくれ。それからひとつ頼みがあるが。」
と、おばあさんは目をしょぼしょぼさしていいます。
「どんなことでしょう?」
「ほかでもないが、林太郎はじぶんの頭がでっかちなので、そのためにおっかさんはおまえさんの家から追《お》い出されたのだと、思っているのだから、な。それをよく考えてやっとくれよ。」
「ああ、よくわかりました。すみません。」
 おとっつあんはそこで、その家《うち》の自転車を借《か》り、それにのって、もうチェーンがきれるほどペタルをふんで土浦《つちうら》へ走っていきました。で、わずか一時間ばかりで町へはいると、林太郎のおかあさんが入院《にゅういん》している病院へ、息せききってはいっていきました。
 林太郎さんのおっかさんは、もう病気《びょうき》もよくなり、少しは外へもでられるようになっていましたので、おとっつあんがたずねたというしらせをうけると、ひとりで玄関《げんかん》へでていきました。おとっつあんはまず、
「林太郎がきているかね。」
と、聞きました。
「林太郎が? きていませんが……」
「きていない。ああそれじゃまい子《ご》になっているのだ。」
「どうしたのです?」
 おっかさんも顔色《かおいろ》をかえました。おとっつあんは手みじかに、実《じつ》はこれこれだと、林太郎がいなくなったわけを話しました。するとおっかさんはもう涙声《なみだごえ》になり、
「林太郎はわたしの子ではないのに、わたしをほんとの親のようにしたってくれるのです。あんないい子をまい子にしてしまってはたいへんです。わたしもいっしょにさがしますから。」
と、外へ出ようとします。
「いや、おまえは病人《びょうにん》だからむりをしないでおくれ。わしがひとりでさがす。きっとさがしだしておまえのところへつれてくるから、気をもまないで待《ま》っていておくれ。」
 おとっつあんはそういいおいて、また自転車にとびのり、町の中へ走《はし》りだしました。
 それからおとっつあんは、無我夢中《むがむちゅう》で町中を走りました。が、どこにもそれらしい姿が見えないと、町はずれを、東へも南へも、北へも西へもでてみました。だが、それでも見あたりません。
 おとっつあんはもう気がくるいそうになりました。それで、まっくらな原っぱへ出たりすると、大きな声をだして、
「林太郎やあー……林太郎やあー……。」
と、どなりました。
 そのうちに夜はふけてきました。おとっつあんはもう声もかれはてて、林太郎をよぶこともできなくなりました。

一四

 そうして、あるまっくらな道をよろよろと走《はし》っているときでした。どこからか一ぴきの白い犬が走りよってきたかと思うと、おとっつあんの足へかみつくようにしてほえたてるのです。見るとそれはしろ公ではありませんか。おとっつあんは自転車《じてんしゃ》から飛びおり、
「ああ、しろ公だ、しろ公だ。林太郎はどこにいるのだ?」
 と、しろ公をだいてさけびました。するとしろ公は、悲《かな》しいような、うれしいような声で、くうーんくうーんとなきながら、自分《じぶん》のからだをおとっつあんの胸へすりつけて、それからまっくらな道を走りだしました。
「ああ、そっちか。ありがとう、しろ公。ありがとう、しろ公。」
 おとっつあんはいいながら、自転車でその後についていきました。
 しろ公は、そのようにして、林太郎がゆきだおれている湖《みずうみ》の岸《きし》へ、おとっつあんをりっぱに案内《あんない》したのです。おとっつあんは、倒《たお》れている林太郎をだきあげると、
「林太郎やあ……林太郎やあ……。」
 声かぎりよびました。林太郎はその声でやっと目をあけました。そして、おとっつあんだと知ると、
「おれ、もう死んじゃうんだよ。」
と、いいました。
「ばかなことをいうでねえ。」と、おとっつあんは林太郎のからだをゆすぶり、「おとっつあんが迎《むか》いにきただ。もう、だいじょうぶだからしっかりするんだぞ。」
「おれ、おとっつあんなんぞいらない。おっかさんだ、おっかさんだ……」
「だから、おっかさんとこへつれていくだ。それで、あしたは、おっかさんと林太郎とおとっつあんと三人で、うちへ帰るだから、しっかりするんだぞ。」
「そんじゃ、おっかさんの病院わかったの?」
「ああわかったとも。おっかさんも林太郎のくるのを一生《いっしょう》けんめいに待《ま》ってるだ。」
「そんじゃ、おとっつあん、もう、おっかさんをいじめねえかよ。」
「だれがいじめるもんか。林太郎がしろ公をかわいがるようにかわいがってやるだ。」
「おれが頭でっかちでも?」
「林太郎の頭も、もうはあでっかちじゃねえだ。それ、しろ公だって、犬ころのときでっかちあたまだったが、いまはそうじゃねえだろう。林太郎もしろ公とおんなじよ。」
 おとっつあんは林太郎を草の上へ立たせ、その前へしゃがんで、
「さあ、おんぶしなよ。おっかさんとこへいくだ。」
「待ってよ、おとっつあん。」
「どうするだ。」
「おとっつあんはばかだなあ。しろ公を忘れてるよ。」
「ああそうか。」と、おとっつあんはしろ公の頭をなでて、
「しろ公、ありがとうよ。われのおかげで林太郎は助《たす》かったぞ。林太郎のおっかさんもおとっつあんも助かったぞ。」
 しろ公もうれしそうにしっぽをふっています。林太郎は、しろ公の前へしゃがんで、
「それ、しろ公、おんぶしなよ。」
「なるほど、そうか、そうか。」
 おとっつあんはそこで、しろ公をだき上げて林太郎の背中へのせ、その林太郎をおんぶして、そうして自転車へのり、ちょうど曲馬団《きょくばだん》の曲芸師《きょくげいし》のようなかっこうで、元気よくおっかさんのところへ走りだしました。       (昭10・2~4)

底本:「赤い鳥代表作集 3」小峰書店
   1958(昭和33)年11月25日第1刷
   1978(昭和53)年4月15日第19刷
初出:「赤い鳥」
   1935(昭和10)年2~4月
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2012年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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