永井荷風

霊廟—– 永井荷風

〔Il suffit que tes eaux e’gales et sans fe^te〕
〔Reposent dans leur ordre et tranquillite’,〕
〔Sans que demeure rien en leur noble de’faite〕
〔De ce qui fut jadis un spectacle enchante’.〕

わが歩みヴェルサイユを訪《と》ひわが眼《まなこ》ヴェルサイユを観《み》んと欲するは
そが壮麗と光栄のためならず。
数知れぬ神となされて路易《ルイ》大王はなほも世にあり。然《さ》れば
われ何ぞ史伝の階段を極め昇るに及ばんや。

荒廃のいとも気高き眺めの中《うち》には、
美しき昔のさまの影もあはれや、
遊楽|後《あと》を絶ちて唯だ変りなきその池水《いけみず》のみ、
昔《いにしえ》の秩序と静寧の中《うち》に息《いこ》ひたるこそ嬉しけれ。
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という句がある。
 自分が頻《しきり》に芝山内《しばさんない》の霊廟《れいびょう》を崇拝して止まないのも全くこの心に等しい。しかしレニエエは既に世界の大詩人である。彼と我と、その思想その詩才においては、いうまでもなく天地雲泥の相違があろう。しかし同じく生れて詩人となるやその滅びたる芸術を回顧する美的感奮の真情に至っては、さして多くの差別があろうとも思われぬ。
 否々《いないな》。自分は彼れレニエエが「われはヴェルサイユの最後の噴泉そが噴泉の都の面《おもて》に慟哭《どうこく》するを聴く。」と歌った懐古の情の悲しさに比較すれば、自分が芝の霊廟に対して傾注する感激の底には、かえって一層の痛切一層の悲惨が潜んでいなければならぬはずだと思うのである。
 ポンペイの古都は火山の灰の下にもなお昔のままなる姿を保存していた実例がある。仏蘭西の地層から切出した石材のヴェルサイユは火事と暴風《あらし》と白蟻との災禍を恐るる必要なく、時間の無限中《むげんちゅう》に今ある如く不朽に残されるであろう。けれども我が木造の霊廟は已にこの間《あいだ》も隣接する増上寺《ぞうじょうじ》の焔に脅《おびや》かされた。凡《すべ》ての物を滅して行く恐しい「時間」の力に思い及ぶ時、この哀れなる朱と金箔《きんぱく》と漆《うるし》の宮殿は、その命の今日か明日《あす》かと危ぶまれる美しい姫君のやつれきった面影にも等しいではないか。
 そもそも最初自分がこの古蹟を眼にしたのは何年ほど前の事であったろう。まだ小学校へも行かない時分ではなかったか。桜のさく或日の午後《ひるすぎ》小石川《こいしかわ》の家《いえ》から父と母とに連れられてここまで来るには車の上ながらも非常に遠かった。東京の中《うち》ではないような気がした。綺麗な金ピカなお堂がいくつもあって、その階《きざはし》の前で自分は浅草の観音さまのように鳩の群に餌を撒《ま》いてやったが何故《なぜ》このお堂の近所には仲見世《なかみせ》のような、賑やかでお土産を沢山買うような処がないのかと、むしろ不平であった事なぞがおぼろに思い返される。
 少年時代の幾年間は過ぎた。今から丁度十年ほど前、自分は木曜会の葵山《きざん》渚山《しょざん》湖山《こざん》なぞいう文学者と共に、やはり桜の花のさく或日の午後《ひるすぎ》、あの五重の塔の下あたりの掛茶屋《かけぢゃや》に休んだ。しかしその時には自分を始め誰一人霊廟を訪《と》おうというものはなく、桜餅に渋茶を啜《すす》りながらの会話は如何にすれば、紅葉派《こうようは》全盛の文壇に対抗することが出来るだろうか。最少《もすこ》し具体的にいえばどうしたら『新小説』と『文芸倶楽部《ぶんげいクラブ》』の編輯者《へんしゅうしゃ》がわれわれの原稿を買うだろうかとの問題ばかりであった。われわれはあまりにトルストイの思想とゾラの法則を論ずるに忙しかった。それから三年ならずして意外なる運命は自分の身を遠い処へ運び去って、また四年五年の月日は過ぎた。再び帰って来たとき時勢は如何に著しく昨日《きのう》と今日との間を隔離させていたであろう。
 久しく別れた人たちに会おうとて、自分は高輪《たかなわ》なる小波《さざなみ》先生の文学会に赴くため始めて市中の電車に乗った。夕靄《ゆうもや》の中《うち》に暮れて行く外濠《そとぼり》の景色を見尽して、内幸町《うちさいわいちょう》から別の電車に乗換えた後《のち》も絶えず窓の外に眼を注いでいた。特徴のないしかも乱雑な人家つづきの街が突然尽きて、あたりが真暗になったかと思うと、自分は直様《すぐさま》窓の外に縦横に入り乱れて立っている太い樹木を見た。蒼白《あおじろ》いガスの灯《ひ》と澄み渡った夜の空との光の中に、樹木の幹は如何に勢よく、屈曲自在なる太い線の美を誇っていたであろう。アメリカの曠野に立つ樫《かし》フランスの街道に並ぶ白楊樹《はくようじゅ》地中海の岸辺に見られる橄欖《かんらん》の樹が、それぞれの姿によってそれぞれの国土に特種の風景美を与えているように、これは世界の人が広重《ひろしげ》の名所絵においてのみ見知っている常磐木《ときわぎ》の松である。
 自分は三門前《さんもんまえ》と呼ぶ車掌の声と共に電車を降りた。そして前後左右に匍匐《ほふく》する松の幹の間に立ってその姿に見とれた時、幾年間全く忘れ果ててしまった霊廟の屋根と門とに心付いたのである。しかしその折にはまだ裏手の通用門から拝観の手続きをなすべき案内をも知らなかったので、自分は秋の夜の静寂の中《うち》に畳々《じょうじょう》として波の如く次第に奥深く重なって行くその屋根と、海のように平かな敷地の片隅に立ち並ぶ石燈籠《いしどうろう》の影をば、廻《めぐ》らされた柵の間から恐る恐る覗いたばかりであった。
 翌日《あくるひ》自分は昨夜《ゆうべ》降りた三門前で再び電車を乗りすて、先ず順次に一番|端《はず》れなる七代将軍の霊廟から、中央にある六代将軍、最後に増上寺を隔てて東照宮《とうしょうぐう》に隣りする二代将軍の霊廟を参拝したのである。この事は巳に『冷笑』と題する小説中|紅雨《こうう》という人物を借りて自分はつぶさにこれを記述した事がある。
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「紅雨の最も感動したのは、かの説明者が一々に勿体《もったい》つける欄間《らんま》の彫刻や襖《ふすま》の絵画や金箔《きんぱく》の張天井《はりてんじょう》の如き部分的の装飾ではなくて、霊廟と名付けられた建築とそれを廻《めぐ》る平地全体の構造配置の法式であった。
先ず彎曲《わんきょく》した屋根を戴き、装飾の多い扉の左右に威嚇的《いかくてき》の偶像を安置した門を這入《はい》ると真直な敷石道が第二の門の階段に達している。敷石道の左右は驚くほど平かであって、珠《たま》の如く滑《なめら》かな粒の揃った小石を敷き、正方形に玉垣を以て限られた隅々に銅《あかがね》の燈籠を数えきれぬほど整列さしてある。第二の門内に這入ると地盤が一段高くしてあって第一と同じ形式の唯《た》だ少しく狭い平地は直様《すぐさま》霊廟を戴く更に高い第三の乃《すなわ》ち最後の区劃に接しているのである。此処《ここ》にはそれを廻《めぐ》る玉垣の内側が他のものとは違って、悉《ことごと》く廻廊の体《てい》をなし、霊廟の方から見下《みおろ》すとその間に釣燈籠を下げた漆塗の柱の数《かず》がいかにも粛々《しゅくしゅく》として整列している。霊廟そのものもまた平地と等しくその床《ゆか》に二段の高低がつけてあるので、もしこれを第三の門際《もんぎわ》よりして望んだならば、内殿の深さは周囲の装飾と薄暗い光線のために測り知るべくもない。
この建築全体の法式はつまり人間の有する敬虔崇拝の感情を出来得べき限りの最高度まで興奮させようと企てたものでしかも立派にその目的に成功した大《だい》なる美術的傑作品である。
紅雨は生涯忘れない美的感激の極度を経験したと信ずる巴里《パリー》の有名なる建築物に対した時の心持に思い較《くら》べて、芝の霊廟はそれに優るとも決して劣らぬ感激を与えてくれた事を感謝した。そればかりでなく、彼はまた曲線的なるゴチック式の建築が能《よ》くかの民族の性質を伝《つたえ》るように、この方形的なる霊廟の構造と濃厚なる彩色とは甚だよく東洋固有の寂しく、驕慢に、隔離した貴族思想を説明してくれる事を喜んだ。なおそれのみに止《とど》まらず、紅雨は門と玉垣によって作られた二段三段の区劃を眺めてメエテルリンクやレニエエなどが宮殿の数ある柱や扉によって用いたような象徴芸術の真髄を会得《えとく》したようにも感じた。」
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 実際この二世紀以前の建築は自分に対して明治と称する過渡期の芸術家に対して、数え尽されぬほどいかに有益なる教訓と意外なる驚嘆の情とを与えてくれたか分らない。
 自分はもしかの形式美の詩人テオフィル・ゴオチエエが凡そ美しき宇宙の現象にして文辞を以ていい現わせないものはないといったように、詞藻《しそう》の豊富に対して驚くべき自信を持っていたなら、自分は余す処なく霊廟の柱や扉の彫刻と天井や襖《ふすま》の絵画の一ツ一ツを茲《ここ》に写生し、そしてまた七代と六代将軍と互に相隣りせる霊廟の構造の全く同一でありながら、単に装飾の細節《さいせつ》において相違する点をもつぶさに書き分けていまだ霊廟を見ない人に向って誇り顔にこれを紹介したことであろう。
 しかし自分の画版《カンバス》はあまりに狭く自分の目の前にひろがっている世界はあまりに荘重美麗である。自分はただ断片的なる感想を断片的に記述する事を以て足れりとせねばならぬ。
 われわれ過渡期の芸術家が一度《ひとた》びこの霊廟の内部に進入って感ずるのは、玉垣の外なる明治時代の乱雑と玉垣の内なる秩序の世界の相違である。先ず案内の僧侶に導かれるまま、手摺《てず》れた古い漆塗りの廻廊を過ぎ、階段を後《うしろ》にして拝殿の堅い畳の上に坐って、正面の奥|遥《はるか》には、金光燦爛《きんこうさんらん》たる神壇、近く前方の右と左には金地《きんじ》に唐獅子《からしし》の壁画、四方の欄間には百種百様の花鳥と波浪の彫刻を望み、金箔の円柱に支えられた網代形《あじろがた》の高い天井を仰ぎ見よ。そして広大なるこの別天地の幽邃《ゆうすい》なる光線と暗然たる色彩と冷静なる空気とに何か知ら心の奥深く、騒《さわが》しい他の場所には決して味われぬ或る感情を誘い出される時、この霊廟の来歴を説明する僧侶のあたかも読経《どきょう》するような低い無表情の声を聞け。――昔は十万石以上の大名がこの殿上に居並《いなら》び、十万石以下の大名は外なる廻廊に参列して礼拝《らいはい》の式をなした。かく説明する僧侶の音声は(言語の意味からではない。)如何によく過去の時代の壮麗なる式場の光景を眼前に髣髴《ほうふつ》たらしめるであろうか。
 自分は厳《おごそ》かなる唐獅子の壁画に添うて、幾個《いくつ》となく並べられた古い経机《きょうづくえ》を見ると共に、金襴《きんらん》の袈裟《けさ》をかがやかす僧侶の列をありありと目に浮《うか》べる。拝殿の畳の上に据え置かれた太鼓と鐘と鼓とからは宗教的音楽の重々しく響出《ひびきで》るのを聞き得るようにも思う。また振返って階段の下なる敷石を隔てて網目のように透彫《すきぼり》のしてある朱塗の玉垣と整列した柱の形を望めば、ここに居並んだ諸国の大名の威儀ある服装と、秀麗なる貴族的容貌とを想像する。そして自分は比較する気もなく、不体裁《ふていさい》なる洋服を着た貴族院議員が日比谷の議場に集合する光景に思い至らねばならぬ。
 これにつけてもわれわれはかのアングロサキソン人種が齎《もたら》した散文的実利的な文明に基《もとづ》いて、没趣味なる薩長人の経営した明治の新時代に対して、幾度《いくたび》幾年間、時勢の変遷と称する余儀ない事情を繰返し繰返して嘆いていなければならぬのであろう。
 われわれは已《すで》に今日となっては、いかに美しいからとて、昔の夢をそのままわれらの目の前に呼返そうと思ってはおらぬ。しかしながら文学美術工芸よりして日常一般の風俗流行に至るまで、新しき時代が促《うなが》しつくらしめる凡《すべ》てのものが過去に比較して劣るとも優っておらぬかぎり、われわれは丁度かの沈滞せる英国の画界を覚醒したロセッチ一派の如く、理想の目標を遠い過去に求める必要がありはせまいか。
 自分は次第に激しく、自分の生きつつある時代に対して絶望と憤怒《ふんぬ》とを感ずるに従って、ますます深く松の木蔭《こかげ》に声もなく居眠っている過去の殿堂を崇拝せねばならぬ。
 欄間や柱の彫刻、天井や壁の絵画を一ツ一ツに眺めよう。
 自分はここにわれらの祖先が数限りなく創造した東洋固有の芸術に逢着する。松、竹、梅、桜、蓮、牡丹《ぼたん》の如き植物と、鶴、亀、鳩、獅子、犬、象、竜の如き動物と、渦巻く雲、逆巻く波の如き自然の現象とは、いずれも一種不思議な意匠によって勇ましくも写実の規定から超越して巧みに模様化せられ、理想化せられてある。われわれは今日《こんにち》春の日の麗《うるわ》しい自然美を歌おうとするに、どういう訳で殊更《ことさら》ダリヤと菫《すみれ》の花とを手折《たお》って来なければならなかったのであろう。
 朱塗の玉垣のほとりには敷石に添うて幾株の松や梅が植えられてある。これらの植物の曲って地に垂れたその枝振りと、岩のようにごつごつして苔に蔽われた古い幹との形は、日本画にのみ見出される線の筆力を想像せしめる。並んだ石燈籠の蔭や敷石の上にまるで造花《つくりばな》としか見えぬ椿の花の落ち散っている有様は、極めて写実的ならざる光琳派《こうりんは》の色彩を思わしめる。互いに異なる風土からは互いに異なる芸術が発生するのは当然の事であろう。そして、この風土|特種《とくしゅ》の感情を遺憾なく発揮する処に、凡《すべ》ての大《だい》なる芸術の尽きない生命が含まれるのではあるまいか。
 雪の降る最中、自分はいつものように霊廟を訪《たず》ねた事があった。屋根に積った真白な雪の間から、軒裏《のきうら》を飾る彫刻の色彩の驚くばかり美しく浮上っていた事と、漆塗の黒い門の扉を後《うしろ》にして落花のように柔かく雪の降って来る有様と、それらは一面の絵として、自分には如何なる外国の傑作品をも聯想《れんそう》せしめない、全く特種の美しい空想を湧起《ゆうき》せしめた事を記憶している。強《し》いて何かの聯想を思い出させれば、やはり名所の雪を描いた古い錦絵か、然らずば、芝居の舞台で見る「吉野山《よしのやま》」か「水滸伝《すいこでん》」の如き場面であろう。けれども、それらの錦絵も芝居の書割《かきわり》も決して完全にこの珍らしい貴重なる東洋固有の風景を写しているとは思えない。
 寒月《かんげつ》の隈《くま》なく照り輝いた風のない静な晩、その蒼白い光と澄み渡る深い空の色とが、何というわけなく、われらの国土にノスタルジックな南方的情趣を帯びさせる夜《よる》、自分は公園の裏手なる池のほとりから、深い樹木に蔽われた丘の上に攀《よ》じ登って、二代将軍の墳墓に近い朱塗の橋を渡り、その辺《へん》の小高い処から、木の根に腰をかけて、目の下一面に、二代将軍の霊廟全体を見下《みおろ》した事がある。
 底光りのする空を縫った老樹の梢《こずえ》には折々|梟《ふくろ》が啼いている。月の光は幾重《いくえ》にも重《かさか》った霊廟の屋根を銀盤のように、その軒裏の彩色を不知火《しらぬい》のように輝《かがやか》していた。屋根を越しては、廟の前なる平地が湖水の面《おもて》のように何ともいえぬほど平かに静に見えた。二重にも三重にも建て廻《めぐ》らされた正方形なる玉垣の姿と、並んだ石燈籠の直立した形と左右に相対して立つ御手洗《みたらし》の石の柱の整列とは、いずれも幽暗なる月の光の中に、浮立つばかりその輪郭を鋭くさせていたので、もし誇張していえば、自分は凡て目に見る線のシンメトリイからは一所《いっしょ》になって、或る音響が発するようにも思うのであった。しかしこの音楽はワグネルの組織ともドビュッシイの法式とも全く異ってその土地に生れたものの心にのみ、その土地の形象が秘密に伝える特種の芸術の囁《ささや》きともいうべきであったろう。
 已に半世紀近き以前一種の政治的革命が東叡山《とうえいざん》の大伽藍《だいがらん》を灰燼《かいじん》となしてしまった。それ以来新しくこの都に建設せられた新しい文明は、汽車と電車と製造揚《せいぞうば》を造った代り、建築と称する大なる国民的芸術を全く滅してしまった。そして一刻一刻、時間の進むごとに、われらの祖国をしてアングロサキソン人種の殖民地であるような外観を呈せしめる。古くして美しきものは見る見る滅びて行き新しくして好きものはいまだその芽を吹くに至らない。丁度焼跡の荒地《あれち》に建つ仮小屋の間を彷徨《さまよ》うような、明治の都市の一隅において、われわれがただ僅か、壮麗なる過去の面影に接し得るのは、この霊廟、この廃址《はいし》ばかりではないか。
 過去を重んぜよ。過去は常に未来を生む神秘の泉である。迷える現在の道を照す燈火《とうか》である。われらをして、まずこの神聖なる過去の霊場より、不体裁《ふていさい》なる種々の記念碑、醜悪なる銅像等凡て新しき時代が建設したる劣等にして不真面目なる美術を駆逐し、そしてわれらをして永久に祖先の残した偉大なる芸術にのみ恍惚《こうこつ》たらしめよ。自分は断言する。われらの将来はわれらの過去を除いて何処《いずこ》に頼るべき途《みち》があろう。
[#地から2字上げ]明治四十三年六月

底本:「荷風随筆集(上)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年9月16日第1刷発行
   2006(平成18)年11月6日第27刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年4月15日作成
2010年11月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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