横光利一

睡蓮《すいれん》—–横光利一

もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰好《かっこう》なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下北沢《しもきたざわ》という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北沢といえば前にたしか一度友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたいと洩《も》らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。
 秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇《うすやみ》の中に際《きわ》立って白く見えていた。
「ここですよ。どうですかね」
 大工は別に良いところでもないがといった顔つきで、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植《うわ》っている平凡な畑だったが、周囲に欅《けやき》や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。腹立たしいときに周囲に気がねして声も出さずにすましていては家に自由のなくなる危険がある。それに一帯の土地の平凡なのが見たときすでに倦《あ》きている落ちつきを心に持たせ、住むにはそれが一番だとひとり定めた。
「どうしますか。お気に入ったら帰りに地主の家へいって交渉してみますが」
「じゃ、ここにしよう」
 こういう話でその土地は地主ともすぐ定められた。そして、その年の暮に家も先《ま》ず建って私たちの一家は移って来た。周囲の景色が平凡なため、あたりの特殊性を観察する私の眼も自然に細かく働くようになった。森に包まれている道も人はあまり通らず、ときどき魚屋が通るほどの寂しさだったが、春さきの芽の噴き始めたころから若い夫婦が二人づれで通るのをよく見かけるようになった。この二人は散歩らしく良人《おっと》の方は両腕を後の帯にさし挟み、樹木を仰ぎ仰ぎゆっくりと楽しそうに歩き、妻君の方はその傍《そば》により添うようにして笑顔をいつも湛《たた》えていた。私は見ていてこの夫婦には一種特別な光がさしていると思った。二人とも富裕な生活の人とは見えなかったが、劣らず堂々とした立派な風貌《ふうぼう》で脊《せい》も高く、互に強く信じ合い愛し合っている満足した様子が一|瞥《べつ》して感じられた。晴れた日など若葉の間を真直ぐに前方を見ながら来る二人の満ち足りたような姿は、遠くから見ていても稀《まれ》に見る幸福そうな良い感じだった。今までからも私は楽しげな夫婦を幾つも見て来ているが、この二人ほど、他所見《よそみ》をせず、壊《こわ》れぬ幸福をしっかり互に守っているらしい夫婦はあまり見なかったのでそれ以来、特に私は注意するようになった。話す機会は一度もなかったが、間もなく良人の方は陸軍刑務所の看守で朝毎に自転車で役所へ通うということや、細君の方は附近の娘たちに縫物《ぬいもの》を教えているということなど、だんだん分って来ると、またその特殊な二人の生活が一層私の興味を動かした。
 主人の方の名を加藤高次郎といい、私の家から二町ほど離れたある伯爵の庭の中の小さな家にいる人だということも、出入りの八百屋の小僧の口から私は知ることが出来た。またその小僧の口から、八百屋の老いた主婦が加藤高次郎氏の立派な姿に、朝ごとにぼんやり見惚《みと》れているとまで附け加えて語ったことがある。とにかく、もう老年の八百屋の主婦が、朝毎にペダルを踏んで通る高次郎氏の姿に見惚れるというようなことは、私もともに無理なく頷《うなず》くことが出来るのである。高次郎氏の容貌《ようぼう》には好男子ということ以外に、人格の美しさが疑いもなく現れていたからだった。老年の婦人というものはただの馬鹿な美男子に見惚れるものではない。
 私はこんなに思うことがある。――人間は生活をしているとき特に観察などをしようとせず、ぼんやりとしながらも、自然に映じて来た周囲の人の姿をそのまま信じて誰も死んでしまうものだということを。そして、その方が特に眼をそばだてて観察したり分析したりしたことなどよりも、ときには正確ではなかろうかということをしばしば感じる。高次郎氏のことにしても、私は眼をそば立てて注意していたわけではなく、以下自然に私の眼に映じて来たことのみで彼のことを書きたいと思う。

 高次郎氏は軍人の間ではかなり高名な剣客だということも、私の耳にいつか努力することなく聞えて来た。見たところ高次郎氏は無口で声も低く、性格も平凡なようだった。私のいるこのあたり一帯の風景が極《きわ》めて平凡に見えたがために、私は即座にこの地を選んで移り棲《す》む決心をしたのであったから、ちょうどその風景に適合したように現れて来た高次郎氏の姿も、自然な感興を喚《よ》び起したにちがいないが、いずれにせよその方が私にはこの地を選んだ甲斐《かい》もあったと喜ぶべきである。私はときどき仕事に疲れ夜中ひとり火鉢《ひばち》に手を焙《あぶ》りながら、霙《みぞれ》の降る音などを聞いているとき、ふと高次郎氏は今ごろはどうしているだろうと思ったりすることもあって、人には云わず、泡のように心中を去来する人影の一人になっていたころである。ある日、私の家の二階から見降せる所に、二十間ほど離れた茶畑の一隅が取り払われ、そこへ石つきが集って十坪にも足らぬ土台石を突き堅めている声が聞えて来た。
「家が建つんだなア。近所へ建つ最初の家だ。あれは」
 こんなことを私は家内と話していると、また八百屋の小僧が来て、そこへは高次郎氏の家が建つのだと告げていった。自分の家の傍へ知らぬ人の家の建つときには、来るものはどんな人物かと気がかりなものだが、それが高次郎氏の家だと分ると急に私は心に明るさを感じた。しかし、また小さな私の家よりはるかに狭い彼の家の敷地を見降して、堂々たる風貌におよそ似もつかぬその小ささに、絶えずこれから見降さねばならぬ私の二階家が肩の聳《そび》えた感じに映り、これは困ったことになったと私は苦笑した。故《ゆえ》もなく自分の好きな人物に永久に怒りを感じさせるということはこの土地を選んだ最初の私の目的に反するのである。
 ともかく高次郎氏は最初の私の家の隣人となって、暮のおし迫ったころ樹木の多い伯爵家の庭の中から明るい茶畑の中の自分の家へ移って来た。高次郎氏が足を延ばせば壁板から足の突き出そうな、薄い小さな平家《ひらや》だった。私は傍を通るたびに、中を注意したがる自分の視線を叱《しか》り反《かえ》して歩くように気をつけたが、間もなく周囲に建ち並んで来るにちがいない大きな家に押しつめられ氏の家の平和も破れる日が来るのではないかと心配になることもあった。
 朝家を出るとき敷島を口に咥《くわ》え、ひらりと自転車に乗るときのゆったりした高次郎氏の姿を私の見たのは一度や二度ではなかった。また細君のみと子夫人が、背中の上の方に閂《かんぬき》のかかった薄鼠色の看守服の良人を門口まで送って出て、
「行ってらっしゃい。行ってらっしゃい」
 と高くつづけさまに云って手を振り、主人の見えなくなるまで電柱の傍に立ちつくしている姿も、これも雨が降っても雪が降っても毎朝変らなかった。私の家内もこの新しい隣家の主婦の愛情の細やかさが暫《しばら》くは乗りうつったこともあったが、とうてい敵ではないとあきらめたらしくすぐ前に戻った。
「どうも、お前を叱るとき大きな声を出したって、ここなら大丈夫と思って来たのに、これじゃ駄目だ」
 と私は家内と顔見合せて笑ったこともある。二階建から平屋の向うを圧迫する気がねがこちらにあったのに、実は絶えず下から揺り動かされている結果となって来た滑稽《こっけい》さは、年中欠かさず繰りつづけられるのであった。私の家の女中も加藤家と私の家とをいつも比較していると見えて、
「あたくし結婚するときには、あんな旦那《だんな》様と結婚したいと思いますわ」
 とふと家内に洩《もら》したことがあった。八百屋の老主婦ばかりではなく、私の家の女中も朝ペタルを踏んで出て行く高次郎氏には、丁寧にお辞儀をするのを忘れない風だった。そのためもあろうか女中は塀《へい》の外の草ひきだけは毎朝早く忘れずにする癖も出来た。この女中は二年ほどして変ったが次に来た女中も、加藤夫妻の睦《むつま》じさには驚いたと見え、塀の外の草ひきだけはまめまめしく働いた。顔自慢で村の若者たちから騒がれたこともあるとかで、幾らか横着な性質だったから、ある日も家内に、
「あのう加藤さんところの奥さんは、やきもちやきですわね。さっきあそこの旦那さんのお出かけのとき、一寸《ちょっと》旦那さんに物を云いましたら、奥さんがじろっとあたしを睨《にら》むんですのよ」
 とこの女中はさも面白そうな声で告げ口した。しかし、この女中も間もなく嫁入りをした。そのころになると、私の家の附近いったいの森はすべて截《き》り払われ、空地には私の家より大きな家が次ぎ次ぎに建ち出した。そのため予想のように加藤家はあるか無きかのごとき観を呈して窪《くぼ》んでいったが、夫妻の愛情の細やかさは、前と少しも変りはなかった。銭湯へ行くときでも二人は家の戸を閉め一緒に金盥《かなだらい》を持って出かけ、また並んで帰って来た。高次郎氏の役所からの帰りには必ず遠くまで夫人は出迎えにいっていた。小さな躑躅《つつじ》や金盞花《きんせんか》などの鉢植《はちうえ》が少しずつ増えた狭い庭で、花を見降している高次郎氏の傍には、いつも囁《ささや》くようなみと子夫人の姿が添って見られた。この二人は結婚してから幾年になるか分らなかったが、私の隣人となって三年目ごろのあるときから、何となくみと子夫人の身体は人目をひくほど大きくなった。
「今ごろになってお子さんが出来るのかしら。加藤さんの旦那さん喜んでらっしゃるわ。きっと」

 こういうことを家内と云っているとき、奇妙なことにまた私の家にも出生の予感があり、それが日ごとに事実となって来た。それまでは、私は年賀の挨拶《あいさつ》に一年に一度加藤家へ行くきりで向うもそれに応じて来るだけだったが、通りで出会う私の家内とみと子夫人のひそかな劬《いたわ》りの視線も、私は謙遜《けんそん》な気持ちで想像することが出来た。
「いったい、どっちが早いんかね。家のか」
 と私はみと子夫人の良人を送り出す声を聞いた朝など家内に訊《たず》ねたこともあったが、加藤家の方が少し私の家より早かった。次ぎに私の家の次男が生れた。すると、二年たらずにまた加藤家の次女が生れた。
 いつの間にか私の家の周囲には八方に家が建ち連り、庭の中へ見知らぬ子供たちの遊びに来る数が年毎に増えて来た。それらの中に額に静脈の浮き出た加藤家の二人の女の子もいつも混っていた。どこから現れて来るものか数々の子らの出て来る間にも、私の家の敷地を貸してくれた地主が死んだ。また隣家の主婦も、またその隣家の主婦も日ならずして亡《な》くなった。すると、その亡くなった斜め向いの主婦も間もなく死んでしまった。裏のこのあたり一帯の大地主に三夫婦揃った長寿の家もあったが、その真ん中の主人も斃《たお》れた。
 こんな日のうちに加藤家ではまた第三番目の子供が生れた。それは初の男の子だった。朝ペタルを踏み出す父の後から、子供たちの高次郎氏を送り出す賑《にぎ》やかな声が、夫人の声と一緒にいつものごとく変らずに聞えていた。実際、私はもう十幾年間、
「行ってらっしゃい。行ってらっしゃい」
 とこう呼ぶ加藤家の元気の良い声をどれほど聞かされたことかしれぬ。その度《たび》に私は、この愛情豊かな家を出て行く高次郎氏の満足そうな顔が、多くの囚人たちにも何か必ず伝わり流れていそうに思われた。この家の不幸なことと云えば、見たところ、恐らく私の家の腕白な次男のために、女の子の泣かされつづけることだけではなかろうかと私は思った。どこからか女の子の泣き声を聞きつけると、私は二階から、「またやったな」と乗り出すほどこの次男のいたずらには梃擦《てこず》った。このようなことは子供のこととはいえ、どことなく加藤家と私の家との不和の底流をなしているのを私は感じたが、それも永い年月下からこの二階家を絶えず揺りつづけた加藤家に対して、自然に子供が復讐《ふくしゅう》していてくれたのかもしれぬ。
「こらッ、あの子を泣かしちゃいかんよ」
 私はこんなに自分の次男によく云ったが、次男は、
「あの子、泣きみそなんだよ」と云ってさも面白そうにまた泣かした。高次郎氏の所へ一年に一度年賀の挨拶に私の方から出かけて行くのも「今年もまた何をし出かすか分りませんから、どうぞ宜敷《よろし》く」と、こういう私の謝罪の意味も多分に含んでいた。この家は門の戸を開けると一歩も踏み込まないのに、すぐまた玄関の戸を開けねばならぬという風な、奇妙な面倒さを私は感じ敷居も年毎に高くなったが、出て来るみと子夫人の笑顔だけは最初のときと少しも変らなかった。
 高次郎氏とも私は顔を合すというような機会はなかった。月の良い夜など明笛《みんてき》の音が聞えて来ると、あれ加藤の小父さんだよと子供の云うのを聞き、私も一緒に明治時代の歌を一吹き吹きたくなったものである。
 高次郎氏が看守長となった年の秋、漢口《かんこう》が陥《お》ちた。その日夕暮食事をしていると長男が突然外から帰って来て、
「加藤さんところの小父さん、担架に乗せられて帰って来たよ。顔にハンカチがかけてあった」と話した。
 私と家内は咄嗟《とっさ》に高次郎氏の不慮の死を直覚した。
「どうなすったのかしら。お前|訊《き》かなかった」
 家内の質問に子供は何の興味もなさそうな顔で「知らん」と答えた。外から見てどこと云って面白味のない高次郎氏だったが、篤実な人のことだから陥落の喜びのあまりどこかで酒宴を催し、ふらふらと良い気持ちの帰途自動車に跳《は》ねられたのではなかろうかと私は想像した。それならこれはたしかに一種の名誉の戦死だと思い、すぐ私は二階へ上って加藤家の方を見降した。しかし、家中は葉を落した高い梧桐《あおぎり》の下でひっそりと物音を沈めているばかりだった。そのひと晩は夜の闇が附近いちめんに密集して垂れ下って来ているような静けさで、私は火鉢につぐ炭もひとり通夜の支度をする寂しさを感じた。すると、次の朝になって次男が、
「加藤さんの小父さん、お酒飲んで帰って来たら、電車に突き飛ばされて死んじゃったんだって」とまた云った。
「違うよ。まだ生きてるんだよ」
 と長男が今度はどういうものか強く否定した。
「死んだんだよ。死んだと云ってたよ」
 とまた次男は声を強め倦《あ》くまで長男に云い張った。どちらがどうだかよく分らなかったが、とにかく不慮の出来事のこととてこちらから訊ねに行くわけにもいかずそのままでいると、その翌日になって高次郎氏の家から葬《とむらい》が出た。
 私は家内を加藤家へお焼香にやった後、小路いっぱいに電柱の傍に群れよって沈んでいる、看守の服装をした沢山な人たちの姿を眺めていた。そのときふと私はその四五日前に見た、加藤家の半白の猫が私の家の兎《うさぎ》の首を咥《くわ》えたと見る間に、垣根《かきね》を潜《くぐり》り脱けて逃げた脱兎《だっと》のような身の速さを何となく思い出した。
 高次郎氏の不慮の死はやはり子供たちの云い張ったようだった。酔後終電車に跳ねられてすぐ入院したが、そのときはもう内出血が多すぎて二日目に亡くなったということである。みと子夫人は裁縫の名手だから高次郎氏の死後の生活の心配は先ず無くとも、見ていても出来事は少しこの家には早すぎて無慙《むざん》だった。加藤家はその後すぐ人手にわたった。そして一家は高次郎氏やみと子夫人の郷里の城ヶ島へ水の引き上げてゆくような音無《おとな》しさで移っていった。
 三カ月は不慮の死の匂いがあたりに潜んでいる寂しさで私は二階に立った。ある日みと子夫人から、香奠返《こうでんがえし》に一冊の貧しい歌集が届いた。納められた中の和歌は数こそ尠《すくな》かったがどれもみな高次郎氏の遺作ばかりだった。私は氏を剣客だとばかり思っていたのにそれが歌人だったと知ると、俄《にわか》に身近かなものの死に面したような緊張を感じ、粗末な集を先ず開いたところから読んでみた。
「宵月は今しづみゆき山の端《は》におのづ冴《さ》えたる夕なごり見ゆ」
「夕暗《ゆふやみ》に白さ目につく山百合《やまゆり》の匂ひ深きは朝咲きならむ」
 月夜に明笛を吹いた剣客であるから相当に高次郎氏は優雅な人だと私は思っていたが、しかし、これらの二首の歌を見ると、私は今まで不吉な色で淀《よど》んで見えた加藤家の一角が、突然|爽《さわ》やかな光を上げて清風に満ちて来るのを覚え襟《えり》を正す気持ちだった。
「冷え立ちし夜床にさめて手さぐりに吾子の寝具かけなほしけり」
「井の端にもの洗ひ居《を》る我が妻は啖《たん》吐く音に駆けてきたれる」
 この歌など高次郎氏の啖吐く音にも傍まで駆けよって来るみと子夫人の日常の様子が眼に泛《うか》んで来るほどだが、これらの歌とは限らず、どの歌も人格の円満さが格調を強め高めているばかりではない、生活に対して謙虚清澄な趣きや、本分を尽して自他ともどもの幸福を祈ってやまぬ偽りのない心境など、外から隣人として見ていた高次郎氏の温厚質実な態度以上に、はるかに和歌には精神の高邁《こうまい》なところが鳴りひびいていた。
 暫くの間、私はこのあたりに無言でせっせっと鍬《くわ》を入れて来た自分の相棒の内生活を窺《のぞ》く興味に溢《あふ》れ、なお高次郎氏の歌集を読んでいった。妻を詠《うた》い子を詠う歌は勿論《もちろん》、四季おりおりの気遣《きづか》いや職務とか人事、または囚人の身の上を偲《しの》ぶ愛情の美しさなど、百三十二ほどのそれらの歌は、読みすすんでゆくに随《したが》い私には一句もおろそかに読み捨てることが出来ないものばかりだった。私ら二人は新年の挨拶以外に言葉を交《まじ》えたことはなかったとはいえ、どちらも十幾年の月日を忍耐して来た一番の古参である。この歌集の序文にも加藤高次郎君は剣道よりも後から和歌に入りまだ十幾年とはたたぬのに、かくも精神の高さにいたったことは驚歎に価すると歌の師匠が書いているが、私には、高次郎氏の歌はどの一首も思いあたることばかりだったのみならず、すべてそれは氏の亡くなってから私に生き生きと話しかけて来る声だった。私は身を乗り出し耳を傾ける構えだった。
「一剣に心こもりておのづから身のあはだつをかそかに知れり」
「正眼に構えて敵に対《むか》ひつつしばし相手の呼吸をはかる」
 これは戸山学校の剣道大会に優勝したときの緊張した剣客の歌である。次にこういうのがあった。
「ことたれる日日の生活《たつき》に慣れにつつ苦業求むる心うすらぐ」
 この歌は恐らくみと子夫人の情愛に、いつとなく慣れ落ちてしまった高次郎氏の悔恨に相違あるまい。このような歌を作った歌人はあまり私の知らないところだが、また私にも同様の悔恨が常に忍びよって来て私を苦しめることがある。
「現身《うつしみ》のもろき生命《いのち》の思ひつつ常のつつしみかりそめならず」
 これは囚人を絶えず見守っている人の家に帰った述懐であろうが、この述懐がつもり積って次のような歌となり、人人の心を襲って来るのが一首あった。
「生きの身をくだきて矯《た》めよ囚人《めしうど》の心おのづとさめて来たらむ」
 看守長のなさけはまだこの他にも幾つとなくつづいていた。折にふれてと題して、
「口重き吾《われ》にもあらず今日はまたあらぬ世辞言ひ心曇りぬ」
 この人は心の騒ぐ日、いつも歎き悲しむ歌を詠むのが習慣となっているが、その一つに、
「己が身の調《ととの》はざるか人の非にかくも心のうちさわぎつつ」
 というのがある。私は自分にもこんな日がしばしば来たばかりか、他人の非に出あわぬ朝とて幾十年の間ほとんどないのを思いよくも永年《ながねん》この忍耐をしつづけて来たものだと、我が身をふり返って今さら感慨にふけるのだった。
「上官のあつきなさけに己が身を粉とくだきて吾はこたへむ」
 この歌も高次郎氏を思うと嘘ではなかった。私はこのような心の人物の一人でも亡くなる損失をこのごろつくづくと思うのだが、上官に反抗する技術が個性の尊重という美名を育て始めた近代人には、古代人のこの心はどんなに響くものか、私は今の青年の心中に暗さを与えている得も云われぬ合理主義に、むしろ不合理を感じることしばしばあるのを思い、私の子供にこれではお前の時代は駄目になるぞと叱る思いで、次の歌を読みつづけた。
「移されしさまにも見えずわが池の白き睡蓮《すいれん》けさ咲きにけり」
 加藤高次郎氏のこの歌集は題して「水蓮」という。これは高次郎氏の歌の師匠のつけた題であるが、この師は高次郎氏の「睡蓮」について睡を水としたまま次のように書いている。
「加藤君がかつて水蓮によって、人生をいたく教えられたことがあると言って、しみじみと洩《も》らされたことがあった。先年役所(刑務所)の庭に造った池に、所長さんの処から一株の水蓮を根分けしていただいたことがある。この水蓮は刑務所の池へ移されて来ても、少しもかわるところがない。やはり水蓮としての性を十分発揮してその可憐《かれん》なやさしい美しい花を開いているではないか。この水蓮の可憐な花の姿に加藤君は魂をうたれた。人間であればいかなる偉い人でも、刑務所へ移されると態度が変ってしまう。それなのに水蓮は移されたことも知らぬ顔に咲き誇っている。なんたる自然の偉大さであろう。出来得べくんば自分もこの水蓮の花のように、如何《いか》なる事件に逢おうとも心を動かすことなくありたい。これが加藤君の水蓮によって悟入した心境であった」
 師匠というものは弟子の心をよく知っているものだが、高次郎氏もまた、水蓮のような人として師の眼に映じていたにちがいない。この遺歌集の最後の二首は、また氏の最後のものらしく円熟した透明な名残《なご》りをとどめている。
「しののめはあけそめにけり小夜烏《さよがらす》天空高く西に飛びゆく」
「大いなるものに打たれて目ざめたる身に梧桐《あをぎり》の枯葉わびしき」 
 高次郎氏の師匠はさらにこの歌集の巻末に、加藤君はある夜役所の帰りに突然私の所へ来て、雑誌に出た自身の歌を全部清書したいからと云い、端座したまま夜更《よふけ》までかかって清書をし終えた。その後で酒を二人で飲んで帰途についたが、翌日加藤君の危篤の報に接し、次の日に亡くなった。人生朝露のごとしといえあまりのことに自分は自失しそうだと書いてあった。
 してみると、高次郎氏が電車に飛ばされたのは、自分の歌集を清書し終えたその夜の帰途にちがいないと私は思った。私には高次郎氏の死はもう他人の事ではなく、身に火を放たれたような新しい衝撃を感じた。一度は誰にも来る終末の世界に臨んだ一つの態度として、端座して筆を握り自作を清書している高次郎氏の姿は、も早や文人の最も本懐とするものに似て見え、はッと一剣を浴びた思いで私はこの剣客の去りゆく姿を今は眺めるばかりだった。
 高次郎氏が亡くなってからやがて一周忌が来る。先日家内は私の家の兎を食い殺した加藤家の猫が、老窶《おいやつ》れた汚《きたな》い手でうろうろ食をあさり歩いている姿を見たと話した。私は折あらば一度その猫も見たいと思っている。

底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年8月20日初版発行
   1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:松永正敏
2000年10月7日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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