日本文学全集第一巻に掲載中の原作者紹介

本文学全集では 著作権の消滅した作品と、「自由に読んでもらってかまわない」とされたものを、誰にでも読んでいただこうと。幅広く揃えていきます。第2巻準備中


下村 千秋


しもむら ちあき、男性、1893年9月4日 – 1955年1月31日

茨城県稲敷郡朝日村(現阿見町)生まれ。1908年、土浦中学校(現茨城県立土浦第一高等学校)へ進み、1919年、早稲田大学英文科卒業、読売新聞社入社、社会部記者となるが同年12月に退社、文筆活動に入る。小説・短歌・戯曲などを発表するほか、ゴーリキー全集の翻訳も行う。1923年、結婚を機に東京市役所労務課翻訳係に就職するが、8ヵ月程で退職、再び作家生活に入り、『赤い鳥』などに童話を発表した。昭和時代に入ると、私娼を描いた「天国の記録」で有名となり、「ルンペン小説」の作家となる。一方、農村の窮状を描いた農民小説を発表。太平洋戦争中は大政翼賛会の下で村の報告書を書くなどし、戦後はほぼ沈黙、1953年、『中学生』を出版したにとどまった。

昭和時代に入ると、私娼を描いた「天国の記録」で有名となり、「ルンペン小説」の作家となる。一方、農村の窮状を描いた農民小説を発表。太平洋戦争中は大政翼賛会の下で村の報告書を書くなどし、戦後はほぼ沈黙、1953年、『中学生』を出版したにとどまった。

佐々木味津三

ささき みつぞう、明治29年(1896年3月18日 – 昭和9年(1934年2月6日)は、日本の小説家佐佐木 味津三と表記されることもある。 愛知県北設楽郡下津具村(現・設楽町)出身。本名・光三。

旧制愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)を中退した後、明治大学政経科を卒業。雑誌記者のかたわら小説を書き、1919年『大観』に載せた「馬を殴り殺した少年」で菊池寛に見出される。文壇に姿を現した当初は純文学を志していたものの、父親が遺した借金の為に経済的環境が厳しく、長兄を早くに亡くした事で家族を養い、また家の負債を返す必要が生じたために大衆小説に転向。当時は格下といわれていた大衆向け小説を書くことに抵抗を感じたが、芥川龍之介から激励を受け感激し、そのことが後々まで影響したと自著に記している。

右門捕物帖』『旗本退屈男』など主に江戸時代を舞台にした時代小説を発表し、その当時の花形作家となる。しかし、自らの体力を削って無理な執筆を重ね、そのため健康を害してしまい、1934年2月6日、急性肺炎のため東京市杉並区高円寺の自宅において若くしてこの世を去った。その死は、現在でいうところの過労死であるといわれている。37歳没。戒名は文光院真諦三味居士(自らの撰)[1]。また、小説家として成功した後は弟や妹一家を東京に呼び寄せ、家計の面倒も見たという。 佐々木の代名詞ともなった作品『旗本退屈男』は、1930年(昭和5年)にこれを読んだ市川右太衛門が気に入って映画化。以後右太衛門の主演代表作となり、計31本の大ヒットシリーズとなった。以来、現在に至るまで度々映画テレビドラマ化され高い人気を得ている。

佐々木直次郎
ささき なおじろう、1901年3月27日 – 1943年5月24日)は、日本翻訳家

石川県小松市生まれ。小松中学校を経て金沢第一中学校に転じ、四年修了で第四高等学校に進む。1925年東京帝国大学文学部英吉利文学科卒。同大学院を経て、日本大学で短期間教える。

1931年9月から1932年11月にかけて第一書房より刊行された『エドガア・アラン・ポオ小説全集』を訳出。ポーの本格的翻訳として注目を浴びる。その他、ロバート・ルイス・スティーヴンスン宝島』『ジーキル博士とハイド氏の怪事件』、チャールズ・ディッケンズ二都物語』などの訳書がある。肺炎で急死。42歳没。

原田義人
はらだ よしと、1918年8月5日 – 1960年8月1日)は、ドイツ文学者。元東京大学教養学部教授。
東京に生れる。1942年、東京帝国大学独文科卒業。在学中から新演劇研究会に参加、『亭主学校』では自らも舞台に立った。卒業後、応召。戦後、俳優としてNHKに出演したこともある[1]。復員して東大独文科助手ののち、1950年、東大教養学部助教授。1954年、ハンブルク大学日本語講師として渡独、ヨーロッパ各地を回り、1956年帰国。同人雑誌「方舟」の編集長を務め、評論家・ドイツ文学者として翻訳にも健筆を振るい、将来を嘱望されたが、1960年7月、教授昇任の後、8月、42歳の誕生日直前に死去。その最期の様子は友人であった加藤周一の『続羊の歌』に詳しい。今も「原田ギジン」として話題に上ることがある。

古川緑波

ふるかわ ろっぱ、古川 緑波とも、1903年明治36年)8月13日[1] – 1961年昭和36年) 1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン編集者エッセイストとしても活動した。

本名は古川 郁郎(ふるかわ いくろう)

国木田独歩

くにきだ どっぽ、1871年8月30日明治4年7月15日) – 1908年(明治41年)6月23日)は、日本小説家詩人ジャーナリスト編集者千葉県銚子生まれ、広島県広島市山口県育ち。

幼名を亀吉、後に哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。 田山花袋柳田國男らと知り合い「独歩吟」を発表。詩や小説を書き、次第に小説に専心した。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編「巡査」を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた。ロシア語などへの翻訳がある。

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国枝史郎
くにえだ しろう、1887年10月4日 – 1943年4月8日)は日本小説家。怪奇・幻想・耽美的な伝奇小説の書き手。他に探偵小説戯曲なども執筆。

長野県諏訪郡宮川村(現在の茅野市)に、県庁・郡役所勤めの父の四男に生まれる。父の仕事の都合で小学校を点々とし、旧制長野中学に入学、剣道に熱中する。しかし蛮勇が元で放校処分を受け、海軍士官の兄により東京に引き取られ、郁文館中学校入学。

1908年(明治41年)中学卒業後、海軍兵学校を受験するが失敗し、早稲田大学英文科に入学。詩や演劇などの創作活動に熱中し、『文庫』『三田文学』『太陽』などに小説を寄稿、大学の先輩小川未明の主宰した青鳥会にも参加。1910年にフォン・ショルツ、ダヌンツィオワイルドメーテルリンクなどの影響を受けた戯曲集『レモンの花の咲く丘へ』を自費出版し、高い評価を受けた。1911年頃から演劇活動に打ち込み、東京俳優座や川村花菱の活動に参加、また『劇と詩』『早稲田文学』に詩や戯曲を執筆した。

1914年(大正3年)に大学を中退して大阪朝日新聞に入社し、新聞記者となる。1917年、松竹座に入社、同社専属の脚本家となる。この年、第二戯曲集『黒い外套の男』を自費出版。

1920年バセドウ病を患い、松竹座を退社。茅野の実家に戻る。1921年木曽福島町に移住、この頃から大衆文学の執筆を始め、『講談倶楽部』『講談雑誌』『少年倶楽部』などに執筆。1922年 岐阜県中津川に移住するが、すぐに徳島県相生町に移る。青い鳥会のメンバーだった生田蝶介の求めで9月から『講談雑誌』誌上で『蔦葛木曽桟』の連載を開始、一躍人気作家となる。1923年に市川すゑと結婚。同年『新趣味』に探偵小説「砂漠の古都』を、イー・ドム・ムニエ作の翻訳として発表。翌年『文芸倶楽部』に「八ヶ嶽の魔神」を連載。この頃、鎌倉彦郎宮川茅野雄西井菊次郎のペンネームも用いた。翌年には『苦楽』で「神州纐纈城」、『サンデー毎日』で「名人地獄」も連載開始し、4本の長編連載をかかえることになった。また白井喬二の「二十一日会」に参加、1926年創刊された『大衆文芸』にも執筆した。

1927年(昭和2年)小酒井不木らとともに合作組合「耽奇社」を結成、「飛機脾睨」「白頭の巨人」などに参加、『講談倶楽部』に「神秘昆虫館」、『文藝春秋』に「暁の鐘は西北より」執筆。

1929年愛知県知多市新舞子に転居。1935年頃から現代小説を書き始めるが成功せず、ダンス教習所や喫茶店などの経営に手を染め、執筆からは遠ざかる。1943年喉頭癌のため聖路加病院で死去。戒名は恭徳院文峰史乗居士[1]。茅野市の宗湖寺に葬られる。

1968年『神州纐纈城』復刊により再評価され、三島由紀夫にも「文藻のゆたかさと、部分的ながら幻想美の高さと、その文章のみごとさと、今読んでも少しも古くならぬ現代性に驚いた」(「小説とは何か」1972年)と評される。またこれに続く小栗虫太郎江戸川乱歩夢野久作久生十蘭など怪奇幻想ものブームのさきがけとなった。

宮原晃一郎


みやはら こういちろう、1882年9月2日 – 1945年6月10日)は、日本の児童文学者、英文学北欧文学者。本名、宮原知久。

鹿児島県鹿児島市加治屋町に生まれ、10歳より北海道札幌市に育つ。成績優秀のため高等小学校を飛び級で卒業、鉄道運輸の事務職に就く。

20歳でキリスト教洗礼を受け、牧師から英語を学ぶ。小樽新聞記者のかたわら外国文学を読み漁り、英語を基礎に独学でドイツ語フランス語ロシア語イタリア語ノルウェー語スウェーデン語デンマーク語を身につけ、翻訳家となる。ノルウェーノーベル文学賞作家、クヌート・ハムスンを初めて原語から邦訳した。シグリ・ウンセットヨハン・アウグスト・ストリンドベリの翻訳も行った。

1924年『世界文学』に参加する[1]児童文学の創作も行い、童話雑誌『赤い鳥』にて54篇の作品を残した。1930年代には、雑誌『作品』に北欧文学、ソビエト文学を紹介する記事を書いた[2]。疎開中の1945年に死去し、蔵書は北海道大学附属図書館に寄贈された。

文部省唱歌われは海の子』の作詞者と目されている。詳細はわれは海の子#作詞者にて。

宮城道雄

みやぎ みちお、1894年明治27年〉4月7日 – 1956年昭和31年〉6月25日)は、日本作曲家箏曲家である。兵庫県神戸市生まれ。旧姓は菅(すが)[1]十七絃の開発者としても知られる。大検校であったため、広く “宮城検校” と呼ばれた。

『雨の念仏』(1935年)などの随筆により文筆家としての評価も高い。作家の内田百間とは親友同士であり、交友も深く、双方の随筆でたびたび言及していた。

1894年(明治27年)に菅国治郎とアサの長男として兵庫県神戸市三宮居留地内で生まれる[1][2]。父親は広島県沼隈郡鞆町(現:福山市)の出身で分部氏の次男[3]、母親も同県安佐郡祇園町(現:広島市安佐南区)出身である。生後200日頃から眼病を患い、また、4歳の頃に母と離別して祖母ミネのもとで育てられた[2]。7歳の頃に失明。以降、生涯において咽頭炎など発病の際に折に触れて眼痛を訴えることもあったが、しかし、この失明が転機ともなり音楽の道を志す。

8歳で生田流箏曲の二代菊仲検校に師事するも、その後兄弟子菊西繁樹の紹介により二代中島検校に師事した。2年後に師匠が病没したため、以降は三代中島検校のもとに師事し11歳で免許皆伝となる[1]。師匠から「中島」の「中」の字をもらい受け、中菅道雄と名乗った[2]。13歳の夏、一家の収入を支えるため父の滞在する朝鮮仁川へ渡り、昼間は、夜間は尺八を教えて家計を助けた[1][2]。道雄は既習の曲の演奏だけでは満足せず新規の作曲も目指し、1909年(明治42年)には14歳で第一作の箏曲「水の変態」を書き上げ、伊藤博文に評価された[1][2]。伊藤は道雄を上京させて支援することを約したが、同年に伊藤が暗殺されたため、これは叶うことは無かった[2]

1910年(明治43年)に朝鮮京城(現:ソウル)へ渡って頭角を現し、1913年(大正2年)、入り婿として喜多仲子と結婚したのち、妻の生家の宮城に改姓してからは芸名を廃止、本名の宮城姓を名乗った[1][2][3]1914年大正3年)に同地で尺八家の吉田晴風と知り合い、2人は生涯の親友となった[1][4]。道雄は朝鮮滞在中も神戸の旧師である中島や、熊本地歌名手として知られる長谷幸輝のもとを訪ねて更なる研鑽に励み、1916年(大正5年)に最高位である “大検校” の称号を受けた[1][2][註 1]1917年(大正6年)4月、晴風の招きにより上京するが程なくして妻が病死し、再び道雄は貧窮した[1][2]

1918年(大正7年)に吉村貞子と再婚し、貞子の姪である牧瀬喜代子(後の宮城喜代子)、数江(後の宮城数江)姉妹がのちに道雄の元へ入門した[2]。道雄は葛原しげる高野辰之、山田源一郎、田辺尚雄らの洋楽作曲家や評論家、学者などに注目され、また彼らの支援や助言により、1919年(大正8年)、本郷春木町の中央会堂で念願の第1回作品発表会を開催し作曲家としての本格的なデビューを果たした[1][2]。翌1920年(大正9年)5月、葛原の紹介により、箏の経験を持つ内田百閒が道雄に入門する。箏では弟子である百閒は文学面では逆に道雄の師となった[5]。同年11月には東京の有楽座本居長世とともに合同作品発表会を開き、この場で尺八演奏を担当した晴風が『新日本音楽大演奏会』と命名した。これは後に「新日本音楽」という邦楽と洋楽の結集による新しい日本音楽を創造することを目的とした活動になり、道雄、長世、晴風がその中心的な役割を果たし、開始されたばかりのラジオ放送や、レコード録音、初世中尾都山との演奏旅行などによって全国的に広められ、日本音楽の潮流に数多の影響を及ぼした[1][6]

1925年(大正14年)、JOAKのラジオ試験放送初日に出演する。以後、道雄は毎年の正月放送を筆頭に海外との交歓放送や国際放送、初となる放送による箏曲の講習などを実施した。これらの放送文化に対する多くの功績が認められて1950年(昭和25年)に第1回NHK放送文化賞を受賞している[2]1929年(昭和4年)に道雄が発表した箏と尺八の二重奏曲「春の海」は、来日したフランス人女流ヴァイオリニストルネ・シュメーイタリア語版)が尺八部分をヴァイオリンに編曲し道雄との合奏がなされ、世界的な評価を得ることになった。その合奏は1932年(昭和7年)にレコードに吹き込まれで発売された[1][2][7]。「春の海」は翌年の歌会始勅題「海辺巌」にちなんで制作されたもので、かつて道雄が瀬戸内海を船で巡った時の印象を基に、それに波の音や鳥の声、漁師の舟唄などを加えて作られた[7]

1930年(昭和5年)、東京音楽学校講師に赴任。1937年(昭和12年)に同校の教授となり、翌年には東京盲学校の講師も務めた[3]。道雄の教育は箏曲に五線譜や絃名譜を能動的に取り入れるなどの斬新なものであった。また、初心者向けの箏や三味線用教則本を執筆した。また、門人の指導をし後進の育成に努めた[1][2]1938年には百閒原作の東宝映画『頬白先生』で、百閒の娘役を演じることとなった高峰秀子に対して箏の手ほどきも行っている[5]戦災の悪化に伴い1944年(昭和19年)12月1日、神奈川県葉山町の別荘へ疎開し、翌1945年(昭和20年)3月29日には栃木県の現高根沢町へと再疎開した[8]。同年5月25日の山の手空襲により道雄の牛込中町の住居は焼失した[3] 。9月6日、疎開地より引き上げる。

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箏を奏でる宮城道雄

1948年(昭和23年)5月に中町の住居を再建し、8月には父の故郷である鞆の浦で初の演奏会を開催した[3] 。同月、日本芸術院会員を拝命[1][3] 。1951年(昭和26年)3月には国内外の道雄の門人による「宮城会」が創設された[9]。同年4月には、箏制作者であり、また、楽器の収集家としても著名な水野佐平が開設した「丹水会館」においてこけら落としとなる演奏も行っている[10]1953年(昭和28年)夏、フランスビアリッツスペインパンプロナで開催された『国際民族音楽舞踊祭』に日本代表として参加、道雄は賛美され最優等賞を獲得した[1][2][3]。また、英国放送協会より「ロンドンの夜の雨」を放送初演した[2]

1956年(昭和31年)6月25日未明、大阪での公演へ向かうため、下りの夜行寝台急行列車銀河」に付き添いの内弟子牧瀬喜代子と共に乗車中、午前3時頃、愛知県刈谷市刈谷駅手前で客車ドアから車外に転落した。午前3時半頃現場を通りかかった貨物列車の乗務員から〝三河線ガードのあたりで線路際に人のようなものを見た〟という通報を受け現場に向かった刈谷駅の職員に救助され豊田病院へと搬送されたが、午前7時15分に病院で死亡が確認された[1][2][11][12]。救助時点ではまだ意識があり、自らの名前を漢字の説明まで入れて辛うじて名乗ったと伝えられる[11]

道雄の死については寝ぼけてトイレのドアと乗降口を間違えた[註 2]などの推測や一方では自殺も噂されたが、どれも推測や憶測にとどまり事故の真相は不明である。周囲の人物評では、百閒が道雄の行動を常々観察して「カンの悪い盲人」と評しており、高峰秀子もまたこの訃報を新聞で知った時に、ただちに「宮城先生は誤ってデッキから落ちられたのだ」と思ったという[5][註 3]。実際に道雄は晩年(場慣れているはずの)自宅内で転倒して片方の眼球を痛め、眼球摘出手術を受けるという事故も経験しており(その後は義眼を入れていた)、視覚障害者としては歩行感覚が鋭敏でなかったことを窺わせる。

谷中霊園内の宮城道雄の墓

墓所は東京都台東区谷中霊園にある[2]。命日の6月25日は遺作の歌曲にちなみ、「浜木綿忌」と呼ばれている。一周忌に際して水野佐平は邦楽再興に奉じた道雄の死を無意味にしてはいけないと考え、所蔵していた名作筝などを自宅の「和楽荘」及び邸内の「丹水会館」に展示した[13]。また同年には前述の事故現場近く[註 4]に、宮城会・日本盲人会・刈谷市により供養塔が建立されている[14]

宮城道雄の功績として、箏曲の伝統に根を下ろしながら洋楽を組み込んで新しい日本の音楽を創造した点が挙げられる。道雄は生涯に大構成の合奏曲から童曲に亘る幅広い作品を400曲以上制作した。また、自作曲や古典曲の演奏を行う一方、古典楽器の改良や新楽器の開発を行い、十七絃、八十絃、短琴(たんごと:家庭用の)、大胡弓(だいこきゅう:大型の胡弓)などを発明した[2]。他方では、1935年(昭和10年)に百閒の薦めで随筆集『雨の念仏』を執筆して以降、随筆にも才能を発揮し、これらの随筆は川端康成佐藤春夫らから高評価を得ている[15]

神戸の旧居留地58番地(現:56番の三井住友銀行神戸本部ビル敷地内)に生誕地の碑が建ち、1978年(昭和53年)には道雄が晩年まで住んでいた東京都新宿区中町に “日本で最初の音楽家の記念館”「宮城道雄記念館」が設立された[1][16]。その曲風に西洋音楽の息吹を感じられるのは、幼少の頃、神戸のレコード屋の前で熱心に立ち聞きして覚えた旋律にあると言われる。

岡本綺堂

おかもと きどう、1872年11月15日明治5年10月15日) – 1939年昭和14年)3月1日) は、小説家劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)[1]。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。新歌舞伎の作者として知られ、また著名な作品として小説「半七捕物帳」などがある。

養子の岡本経一は、出版社「青蛙房」の創業者であり、社名は綺堂の作品「青蛙堂鬼談」に由来している。

徳川幕府御家人で維新後にイギリス公使館に書記として[2]勤めていた敬之助(後に純(きよし)、号は半渓[2])の長男として東京高輪の泉岳寺の近くに生まれる。1873年、公使館の麹町移転とともに飯田町をへて麹町元園町に移って育つ。3歳にして父から漢文素読、9歳から漢詩を学び[2]、叔父と公使館留学生からは英語を学んだ。平河小学校(現・千代田区立麹町小学校)卒業後[2]、東京府尋常中学(のちの東京府立一中、現・東京都立日比谷高等学校)に進み、在学中から劇作家を志した。卒業後は第一高等中学(現在での大学)には進学せずに1890年東京日日新聞入社[2]。以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、1913年まで24年間を新聞記者として過ごす。日露戦争では従軍記者として満州にも滞在した[3]吉原芸妓をしていた宇和島藩士の娘の小島栄を落籍して結婚。

記者として狂綺堂の名で劇評や社会探訪記事を書きながら、1891年、東京日日新聞に小説「高松城」を発表。1896年、『歌舞伎新報』に処女戯曲「紫宸殿」を発表。1902年、「金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)」(岡鬼太郎と合作)が歌舞伎座で上演される。この作品の評価はいまひとつだったようだが、その後、「維新前後」や「修禅寺物語」の成功によって、新歌舞伎を代表する劇作家となり、「綺堂物」といった言葉も生まれた。

1913年以降は作家活動に専念、新聞連載の長編や、探偵物、怪奇怪談作品を多数執筆。生涯に196篇の戯曲を残した。1916年には国民新聞時事新報の2紙に新聞小説を同時に連載(「墨染」「絵絹」)。同年、シャーロック・ホームズに影響を受け、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の執筆を開始、江戸情緒溢れる描写で長く人気を得た。怪奇ものでは、中国志怪小説英米怪奇小説の翻案や、『世界怪談名作集』、『支那怪奇小説集』などの編訳もある。幼少期からの歌舞伎鑑賞を回想した『ランプの下にて』は明治期歌舞伎の貴重な資料となっている。

1918年に欧米を訪問し、作風が変わったとも言われる。1923年9月1日の関東大震災麹町の自宅・蔵書(日記)を失い、門下の額田六福の家に身を寄せ、その後麻布、翌年百人町に転居。1930年には後進を育てるために月刊誌『舞台』を発刊、監修を務める。1937年には演劇界から初の芸術院会員となる。昭和10年頃からは小説(読物)や随筆は、散発的に『サンデー毎日』誌に書く巷談ぐらいになり、1937年「虎」が最後の読物となるが、戯曲は『舞台』誌で1938年まで発表を続けた。

1939年、上目黒の自宅にて気管支炎に肺浸潤を併発して死去。戒名は常楽院綺堂日敬居士[4]青山墓地に葬られる。没後、元書生で養嗣子の岡本経一が綺堂作品の保存普及を目的として出版社「青蛙房」を創立した。現社長の岡本修一は綺堂の孫にあたる。

また、没後に経一の寄付金をもとに戯曲を対象とする文学賞である岡本綺堂賞[1]が創設されたが、日本文学報国会が運営していたため、終戦とともにわずか2回で終了した。

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岡本かの子


おかもと かのこ、1889年3月1日 – 1939年2月18日)は、大正昭和期の小説家歌人仏教研究家。本名カノ。東京府東京市赤坂区(現東京都港区)青山南町生まれ。跡見女学校卒業。漫画家岡本一平と結婚し、芸術家岡本太郎を生んだ。小説家として実質的にデビューをしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。私生活では、夫一平と「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られる。

幼少期

代々幕府や諸の御用達を業としていた豪商の大貫家の別邸で誕生。大貫家は、神奈川県橘樹郡高津村(現川崎市高津区二子に居を構える大地主であった。腺病質のため父母と別居し二子の本宅で養育母に育てられるが、この病気は晩年まで続いた。養育母から源氏物語などの手ほどきを受け、同村にあった村塾で漢文を習い、尋常小学校では短歌を詠んだ。

歌人として活動

16歳の頃、「女子文壇」や「読売新聞文芸欄」などに投稿し始める。この頃谷崎潤一郎と親交のあった兄の大貫晶川の文学活動がはじまり、谷崎ら文人が大貫家に出入りするようになり影響を受けるが、谷崎は終生かの子を評価しなかった。17歳の頃、与謝野晶子を訪ね「新詩社」の同人となり、「明星」や「スバル」から大貫可能子の名前で新体詩和歌を発表するようになる。

岡本一平との出会い

19歳の夏、父と共に信州沓掛(現長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢)へ避暑、追分の旅館油屋に滞在した。同宿の上野美術学校生を通じて岡本一平と知り合う。21歳の時、和田英作の媒酌によって結婚、京橋の岡本家に同居するが、家人に受け入れられず2人だけの居を構える。翌年、長男太郎を出産。赤坂区青山のアトリエ付き二階屋に転居する。

暗黒の時代

その後一平の放蕩や芸術家同士の強い個性の衝突による夫婦間の問題、さらに兄晶川の死去などで衝撃を受ける。一平は絶望するかの子に歌集『かろきねたみ』を刊行させた。しかし翌年母が死去、さらに一平の放蕩も再燃し家計も苦しくなった。その中で長女を出産するが神経衰弱に陥り、精神科に入院することになる。

翌年退院すると、一平は非を悔い家庭を顧みるようになるが、長女が死去。かの子は一平を愛することができず、かの子の崇拝者であった学生、堀切茂雄(早稲田大学生)と一平の了解のもと同居するようになり、次男を出産するが間もなく死去してしまう。

仏教に救い

かの子と一平は宗教に救いを求め、プロテスタントの牧師を訪ねるが、罪や裁きを言うキリスト教には救われなかった。その後親鸞の『歎異抄』によって生きる方向を暗示され、仏教に関するエッセイを発表するようになり、仏教研究家としても知られるようになった。

1929年昭和4年)、『わが最終歌集』を刊行して小説を志すが、12月から一家をあげてヨーロッパへ外遊。太郎は絵の勉強のためパリに残り、かの子らはロンドンベルリンなどに半年ずつ滞在し、1932年(昭和7年)、太郎を残したままアメリカ経由で帰国。帰国後は小説に取り組むつもりだったが、世間はかの子に仏教を語ることを求め、仏教に関するラジオ放送、講演、執筆を依頼され、『観音経を語る』、『仏教読本』などを刊行した。

小説家として活動

かの子が小説に専心したのは晩年の数年間だった。1936年(昭和11年)6月、芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』を、川端康成の紹介で文壇に発表し作家的出発を果たす[1]。川端の知遇を得るきっかけは、青山に住んでいた頃、同居した恒松安夫の中学時代の同窓・三明永無(川端の一高からの友人)の紹介であった[2]。1923年(大正12年)8月に銀座のモナミ(レストラン)で、夫・一平と共に初めて川端と会合して以降、3人は親交を持つようになり[2][3]、かの子は1933年(昭和8年)頃から川端から小説の指導を受けていた[4][5][注釈 1]

パリに残した太郎への愛を、ナルシシズムに支えられた母と子の姿で描いた『母子叙情』、自由と虚無感を描き、当時の批評家に絶賛された『老妓抄』、女性が主体となって生きる姿を、諸行無常の流転を描いて確立させた『生々流転』などは代表作となったが、1939年(昭和14年)、油壷の宿にある青年と滞在中に脳溢血で倒れた。その頃には恋人ができた恒松安夫は去っていたが、岡本一平と同居していた新田亀三がかの子を献身的に看病するのである。2月に入って病勢が急変、2月18日東京帝国大学附属病院小石川分院で死去[7]。49歳没。戒名は雪華妙芳大姉[8]

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幸田露伴

こうだ ろはん、1867年8月22日慶応3年7月23日) – 1947年昭和22年)7月30日)は、日本小説家。本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん[1])、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都下谷生れ。帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章。娘の幸田文随筆家・小説家。高木卓の伯父。

『風流仏』で評価され、『五重塔』『運命』などの文語体作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。擬古典主義の代表的作家で、また漢文学・日本古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。

1867年8月22日慶応3年7月23日)、武蔵国江戸下谷三枚橋横町(現・東京都台東区)に、四男として生を受ける。父は幕臣の幸田利三(成延(しげのぶ))で、母は猷(ゆう)。幸田家は江戸時代、大名の取次を職とする表御坊主衆であった[2]。幼名は鉄四郎[2]。 もともと病弱であり、生後27日目にして医者の世話になるなど、幼時は何度も生死の境をさまよったことがあった。翌年、上野戦争が起こったため、浅草諏訪町に移る。

下谷に戻った後、神田に落ち着いた。下谷泉橋通りの関千代(書家関雪江の姉)の塾で手習い、御徒士町の相田氏の塾で素読を学んだ。1875年明治8年)、千代の勧めで東京師範学校附属小学校(現・筑波大附属小)に入学。このころから草双紙、読本を愛読するようになった。

卒業後の1878年(明治11年)、東京府第一中学(現・都立日比谷高校)正則科に入学する。尾崎紅葉上田萬年狩野亨吉らと同級生であった。のちに家計の事情で中退し、数え年14歳で、東京英学校(現在の青山学院大学)へ進むが、これも途中退学。東京府図書館に通うようになり、淡島寒月を知った。また兄・成常の影響で俳諧に親しみ、さらに菊地松軒の迎羲塾では、遅塚麗水とともに漢学、漢詩を学んだ。

数え年16歳の時、給費生として逓信省官立電信修技学校(後の逓信官吏練習所)に入り、卒業後は官職である電信技師として北海道余市に赴任。現地の芸者衆に人気があったと伝えられるが、坪内逍遥の『小説神髄』や『当世書生気質』と出会った露伴は、文学の道へ志す情熱が芽生えたと言われる。そのせいもあり、1887年(明治20年)職を放棄し帰京[2]。この北海道から東京までの道程が『突貫紀行』の題材である。また、道中に得た句「里遠し いざ露と寝ん 草枕」から「露伴」の号を得る[3]

免官の処分を受けたため父が始めた紙店愛々堂に勤め、一方で井原西鶴を愛読した。1889年(明治22年)、露伴は「露団々」を起草し、この作品は淡島寒月を介して『都の花』に発表された[4] 。これが山田美妙の激賞を受け、さらに『風流佛』(1889年)、下谷区の谷中天王寺をモデルとする『五重塔』(1893年)などを発表し、作家としての地位を確立する。

1894年(明治27年)、腸チフスにかかり死にかけるが、翌年に結婚。それ以降の数年で『ひげ男』(1896年)『新羽衣物語』(1897年)『椀久物語』(1899年1900年)を発表。また当時としては画期的な都市論『一国の首都』(1899年)『水の東京』(1901年)も発表する。

この頃に同世代の尾崎紅葉ととも「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され明治文学の一時代を築いた露伴は、近代文学の発展を方向づけたとされる。また尾崎紅葉・坪内逍遥・森鴎外と並んで、「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもある。

1904年(明治37年)、それまで何度も中絶のあった「天うつ浪」の執筆が途絶えた。これ以後、主に史伝の執筆や古典の評釈に主眼を移した。史伝の作品としては「頼朝」「平将門」「蒲生氏郷」などがある。一方、井原西鶴や『南総里見八犬伝』を評釈し、沼波瓊音太田水穂ら芭蕉研究会の6人との共著『芭蕉俳句研究』を出した。1920年大正9年)には『芭蕉七部集』の注釈を始め、17年かけて晩年の1947年昭和22年)に評釈を完成させている。

1907年(明治40年)、の伝奇小説『遊仙窟』が万葉集に深い影響を与えていることを論じた『遊仙窟』を発表。1908年(明治41年)には京都帝國大学文科大学初代学長の旧友・狩野亨吉に請われて、国文学講座の講師となった。同時期に内藤湖南も東洋史講座の講師に招聘されている。この両名はそれぞれ小説家として、ジャーナリストとして当時から有名であったが学者としての力量は未知数であり、狩野の招聘は破天荒とさえいわれた。

露伴の指導を仰いだ青木正児によると、日本文脈論(日本文体の発達史)・『曽我物語』と『和讃』についての文学論・近松世話浄瑠璃などの講義内容で、決して上手な話し手ではなかったが学生の評判は非常によかったという。ただし、黒板の文字は草書での走り書き、しかも体格ががっちりして頭が大きいのでその文字を覆ってしまい学生達はノートを取ることが難しかったという。露伴は学者としても充分な素養があったのだが、何かの事情により夏季休暇で東京に戻ったまま、僅か一年足らず(京都へ移り住んだのは当年初めだった)で大学を辞してしまった。露伴自身は冗談めかして、京都は山ばかりで釣りが出来ないから、と述べているが、官僚的で窮屈な大学に肌が合わなかったようだ。また、妻の幾美が病気がちであったことも理由に考えられる(幾美は翌1910年に亡くなっている)。皮肉なことに、大学を辞めた翌年の1911年(明治44年)に文学博士の学位を授与されている(『遊仙窟』が主要業績)。

しばらく作品を発表しなかった時期の後、『幽情記』(1915年から1917年の作品をまとめた短編集)『運命』(1919年)を発表し、大好評を博して文壇に復活する。これらは中国の古典を踏まえた作品であり、これ以降も中国から素材をとった作品を多く発表している。小説を書くだけではなく、道教研究でもパイオニアの一人であり、世界的にまだほとんど道教が研究されていない時期に幾つかの先駆的な論文を表している。これらの評価については、『運命』は谷崎潤一郎らの絶賛を博したが、高島俊男は中国の史書の丸写しに過ぎないと批判している。道教研究に関しては南條竹則が「道教の本を色々漁ったが、最も感銘を受けたものは露伴とマスペロのものだった」と述べており、アンリ・マスペロの『道教』と並んで未だに道教研究の古典として名高い。

1937年(昭和12年)4月28日には第1回文化勲章を授与され、帝国芸術院会員となる。1947年(昭和22年)7月30日肺炎狭心症を併発し[5]、戦後移り住んだ千葉県市川市大字菅野(現:菅野四丁目)において、満79歳で没。墓所は池上本門寺戒名は、露伴居士。

死後、墨田区寺島町にあった露伴が長く住んでいた民家の老朽化が進み取り壊された時に、その跡地に公園が建設される事となった。公園は1963年(昭和38年)4月24日に完成し5月上旬に開園式が行われ、「露伴公園」の名前が付けられた。

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梶井基次郎

かじい もとじろう、1901年明治34年)2月17日 – 1932年昭和7年)3月24日)は、日本の小説家感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し、文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した[1][2][3]

死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている[4][5]。その作品群は心境小説に近く、散策で目にした風景や自らの身辺を題材にした作品が主であるが、日本的自然主義私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出している[2][4][6]

梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、夏目漱石森鴎外有島武郎志賀直哉などの白樺派大正デカダンス西欧の新しい芸術などの影響を受け、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う数多くの作家たち(井伏鱒二埴谷雄高吉行淳之介伊藤整武田泰淳中村光夫川端康成吉田健一三島由紀夫中村真一郎福永武彦安岡章太郎小島信夫庄野潤三開高健など)から、その魅力を語られ賞讃されている。

生い立ち

1901年(明治34年)2月17日大阪府大阪市西区土佐堀通5丁目34番地屋敷(現・土佐堀3丁目3番地)に、父・宗太郎、母・ヒサ(久)の次男として誕生した[7][8]。両親は2人とも1870年(明治3年)の生まれで当時数え年32歳、共に明治維新後に没落した梶井姓(同じ名字)の屋の出であった(ヒサは梶井秀吉の養女[1][7]。父親を早くに亡くし第三銀行大阪支店(安田善次郎の経営系列)の丁稚から苦労してきた宗太郎は、貿易会社海運会社)の安田運搬所に勤務し、軍需品輸送の仕事に就いていた[7][9]

この安田運搬所の西隣りに一家は住んでいた(中から行き来ができた)[1][7]。宗太郎はヒサとは再婚で、婿養子であった。ヒサは明治の女子教育を受け、幼稚園保母として勤めに出ていた[1][7]。同居家族は他に、祖母・スヱ(宗太郎の母)、祖父・秀吉(ヒサの養父)、5歳上の姉・冨士、2歳上の兄・謙一がいた[1][7]

基次郎が誕生した同年9月には、父・宗太郎と芸者・磯村ふく(網干出身で生家も網干姓)の間に、異母弟にあたる順三が生まれた。日露戦争の特需により安田運搬所は大砲の輸送で潤い、酒色を好む宗太郎は接待などで茶屋に通っては放蕩な日々を過ごしていた[1][7][10]1905年(明治38年)10月、基次郎が4歳の時に一家は大阪市西区江戸堀南通4丁目29番地(現・江戸堀2丁目8番地)に転居[1][7]。翌1906年(明治39年)1月17日に弟・芳雄が生まれた[7]

1907年(明治40年)4月、6歳の基次郎は西区の江戸堀尋常小学校(現・大阪市立花乃井中学校)に入学[1][11]。式の時はを着け、平素は紺着流し姿で草履袋と風呂敷包みを持って登校した[11]。同月、母・ヒサは東江幼稚園の保母を辞めて家庭に入った[11]

しつけに厳しく教育熱心なヒサはオルガンを弾きながら歌い、子供らに和歌の『百人一首』『万葉集』や古典の『源氏物語』『平家物語』『南総里見八犬伝』を読み聞かせ、与謝野晶子岡本かの子の文学の話をした(基次郎は成人してからも、久野豊彦の『ナターシャ夫人の銀煙管』などを母から勧められたこともあった)[7][12]

宗太郎は家を顧みず、金も入れないこともあったため、ヒサは子供を道連れに堀川に身を投げ自殺しようと思いつめたこともあった[1][7]。基次郎は元気な子供で、夏は兄と中之島水泳道場に通い、川に飛び込んで遊ぶのが好きであったが[11]1908年(明治41年)1月に急性腎炎に罹り、危うく死にかけた[11]。同月21日には次弟・が生まれた。

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横光利一

よこみつ りいち、1898年明治31年)3月17日 – 1947年昭和22年)12月30日)は、日本の小説家俳人評論家である。本名は横光利一(としかず)[4]

菊池寛に師事し、川端康成と共に新感覚派として大正から昭和にかけて活躍した。『日輪』と『蝿』で鮮烈なデビューを果たし、『機械』は日本のモダニズム文学の頂点とも絶賛され、また形式主義文学論争を展開し『純粋小説論』を発表するなど評論活動も行い、長編『旅愁』では西洋東洋の文明の対立について書くなど多彩な表現を行った。1935年(昭和10年)前後には「文学の神様」と呼ばれ、志賀直哉とともに「小説の神様」とも称された[5]

戦後は戦中の戦争協力を非難されるなか、『夜の靴』などを発表した。死後、再評価が進んだ。

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永井荷風

ながい かふう、1879年明治12年)12月3日 – 1959年昭和34年)4月30日)は、日本小説家。本名は永井 壮吉(ながい そうきち、旧字体:壯吉)。金阜山人(きんぷさんじん)、断腸亭主人(だんちょうていしゅじん)ほか。

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(1912年(大正元年)11月刊)のころ

幼年時代〜少年時代

永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現文京区春日二丁目)にて出生。父・久一郎はプリンストン大学ボストン大学に留学経験もあるエリート官吏で、内務省衛生局に勤務していた(のちに日本郵船に天下った)[1]。母・恒は、父久一郎の師でもあった儒者鷲津毅堂の次女。

東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)、小石川区小日向台町(現文京区小日向二丁目)に存在した黒田小学校初等科、東京府尋常師範学校附属小学校高等科(現・東京学芸大学附属竹早小学校)と進み、1891年に神田錦町にあった高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)2年に編入学した。また芝居好きな母親の影響で歌舞伎や邦楽に親しみ、漢学者・岩渓裳川から漢学を、画家岡不崩からは日本画を、内閣書記官の岡三橋からは書をそれぞれ学ぶ。

文学への目覚め

1894年に病気になり一時休学するが、その療養中に『水滸伝』や『八犬伝』『東海道中膝栗毛』などの伝奇小説や江戸戯作文学に読みふけった。彼自身「もしこの事がなかったら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかもしれない」(『十六、七のころ』岩波文庫より)と書いているように、後の文学活動への充電期間でもあった。また、帝国大学第二病院に入院中に恋心を寄せた看護婦の名・お蓮に因み「荷風」の雅号を用いた[2]のもこのころである。

中学在学中は、病気による長期療養が元で一年留年し、「幾年間同じ級にいた友達とは一緒になれず、一つ下の級の生徒になったので、以前のように学業に興味を持つことが出来ない。……わたくしは一人運動場の片隅で丁度その頃覚え始めた漢詩や俳句を考えてばかりいるようになった」(『十六、七のころ』より)とあるように文学活動を始めていたが、軟派と目されて後の元帥寺内寿一らに殴打される事件に遭っている[3]。1897年3月中学を卒業する。同年7月第一高等学校入試に失敗[4]、9月には家族と上海に旅行し、帰国後の1898年、旅行記『上海紀行』を発表。これが現存する荷風の処女作といわれている。

1897年、神田区一ツ橋に新設された官立高等商業学校(現一橋大学)附属外国語学校(現東京外国語大学)清語科に入学し、99年に中退した。


6歳のときの永井荷風

江見水蔭

えみ すいいん、明治2年8月12日1869年9月17日) – 昭和9年(1934年11月3日)は、岡山市生まれの小説家翻訳家編集者冒険家。本名忠功(ただかつ)。

文学作品を皮切りに、通俗小説、推理小説、冒険小説探検記など多岐に渡る分野に作品を残し、硯友社博文館など数々の出版社で雑誌の編集発行に関わった。代表作に小説『女房殺し』、『地底探検記』、随筆『自己中心明治文壇史』、翻案戯曲『正劇  室鷲郎』など。

生い立ち

江見忠功は岡山の一番町一番屋敷に生れた。父の鋭馬は水蔭が幼少の頃死去。1881年(明治14年)、叔父の水原久雄の勧めで軍人を志して上京したが、次第に文学に惹かれるようになり、15歳のときに軍人を諦める。明治18年、従兄の富田嘉則のもとに預けられ、東京英語学校に通いながら、杉浦重剛称好塾に入り同人誌『毎週雑誌』を発刊する。19歳の時に『毎週雑誌』に水蔭亭居士名義で掲載した韻文「賤のふせや」の上巻が、川那辺貞太郎の推薦で『日本文芸雑誌』に掲載され、下巻は1887年(明治20年)に『日本之女学』に掲載され、以後同誌に小説や新体詩を寄稿し、「桜かな」「驚く鷗」の連載がある。またこの頃、巌谷小波が塾に入り知り合うようになり、1888年に小波とともに尾崎紅葉を訪ねた。叔父も忠功が作家として活動することを認める。この頃また川上眉山石橋思案石橋忍月広津柳浪らを知った。

作家活動

その後小波の勧めで硯友社に属し、『我楽多文庫』誌第3号に狂歌一首が載せられ、新人社員水蔭亭雨外(すいいんてい うがい)として紹介される。1889年(明治22年)に岡山帰郷中に『我楽多文庫』から改名した『文庫』に「旅画師」を発表し、本格的な文筆活動を始めた。紅葉の紹介で『小説無尽蔵』誌、『新著叢詞』誌、その他の新聞、雑誌に作品掲載、武内桂舟の紹介で『都の花』『小説叢書』に執筆。紅葉に私淑し、杉浦塾から牛込の紅葉宅の筋向かいに移る。また硯友社の雑誌『江戸紫』では紅葉の助手、続いて発刊した『千紫万紅』の事務として働いた。『千紫万紅』が『読売新聞』の文芸欄に移ると、巌谷小波、川上眉山、石橋思案とともに社友となって読売の四天王と呼ばれ、『読売』『中央新聞』などに作品を執筆、この頃の文体は雅俗折衷文で、多作家と非難されることもあった。

1892年(明治25年)に、都会的な作品中心の硯友社に飽き足らず、江水社を起こし、天然描写にも重きを置く『小桜緘』を発刊。これは水蔭自身の他に、当時親しかった田山花袋、玉茗堂(太田玉茗)、高瀬文淵などの作品を掲載したが、5号で廃刊となった。日清戦争の始まった1894年(明治27年)に博文館が『征清画報』を刊行すると編集長となるが、2号で廃刊。同年『中央新聞』に誘われて入社、軍事小説「電光石火」を執筆して人気を得た。浪漫的に始まった作風もこの頃から広がりを見せ、脚本も書くようになり、特に芸術家の苦悩を描いた作品を数多く世に出した。さらに通俗的な作品も書くようになり、また川上眉山とともに高瀬文淵の影響を受けて社会小説的要素もあって[1]言文一致体による「女房殺し」(『文芸倶楽部』1895年)は好評を博して悲惨小説の傑作と呼ばれ、内田魯庵に「眉山の『大盃』と共に硯友社諸才子金業の双璧」と賞された[2]。そのほか「新潮来曲」「旅役者」「泥水清水」といった作品を発表し最盛期を迎え、多くの単行本が出版された。

1896年(明治29年)に住まいを片瀬に移り怒濤庵と称する。また『読売新聞』に移って作品を発表するが、一方では生活が乱れ、1897年に退社、1898年に『神戸新聞社』に記者として転職、さらに1890年に博文館、1907年には『二六新聞』と職を転々とした。しかしそうした中でも、1903年(明治36年)には欧州公演から帰朝した川上音二郎に口説き落とされシェークスピアの『オセロ』を翻案、『正劇  室鷲郎』。脚本作家を重視する川上がこのとき江見に支払ったのは一千円という当時としては目が飛び出るほどの大金で、大きな話題となった。

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沖野岩三郎

おきの いわさぶろう、1876年1月5日 – 1956年1月31日)は、日本の小説家牧師

和歌山県生まれ。明治学院神学科卒。和歌山県で伝道中に大逆事件に巻き込まれる。1917年大逆事件をモデルとした小説『宿命』が大阪朝日新聞の懸賞に当選、1918年上京して芝三田統一基督教会の牧師となり、宗教活動をしながら小説を書き、牧師作家と呼ばれ、児童読物、通俗小説のほか『娼妓解放哀話』で知られる。

甲賀三郎

こうが さぶろう、1893年(明治26年)10月5日 – 1945年(昭和20年)2月14日)は、小説家作家推理作家戯曲作家。本名は春田 能為(はるた よしため)。

将棋、麻雀、スポーツ、旅行が好きで、休日には家族サービスを怠らなかった。「甲賀三郎ではなく甲賀シャベロウだ」と言われたほどの能弁家で、面倒見がよく、大阪圭吉小栗虫太郎を世に送り出している。

甲賀の自伝『世に出るまで』では自ら進んで科学の道を選んだように書かれているが、子息俊郎によると本人は文科に進みたかったものを、「文科など卒業しても職がない」という当時の情勢を恐れた両親が、ほとんど無理やりに理科に進ませてしまったのだという。

中学時代からホームズ物が好きで、最初に読んだのは佐川春水が『銀行盗賊』と訳述した『赤髪組合』、もしくは『太陽』で発表された『青い宝石』だったといい、その他のホームズ物を、「或いは原文を講義で聞き、邦訳対照のものを読み、或いは未熟の力で直接原文を読んだりした」という。「そのいずれもが、次々に異った驚異と興奮を与えて呉れたのだった」。勤めの身になってからは森下雨村訳の『月長石』、小酒井不木訳の『夜の冒険』が甚しく興味を刺戟したといい、「この二長篇が発表されて間もなく私が探偵小説を書いたということは偶然でないような気がする」と振り返っている。また保篠龍緒訳の『虎の牙』も大きな驚異だったといい、多少の影響を受けているかも知れぬ、としている[2]

通俗的本格探偵小説家として「気早の惣太」、「手塚龍太」、「怪紳士」、「獅子内俊次」など、多数のシリーズ探偵を生み出した。

義父の春田直哉は15歳で上野彰義隊に参加した経歴をもつ三河吉田藩士[3]

江戸川乱歩大下宇陀児と並んで、大正期の日本で本格派の探偵小説に取り組んだ先駆者として後年の批評家からも評価されているが、トリック設定では科学知識に過剰依存する傾向もあった。他者作品である江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』での、塩酸モルヒネによる殺害描写については、『探偵小説講話』で「あの分量では致死量に足りない」と指摘を行っている。昭和初年当時、自動車が普及しつつあった実情を鑑み「今後は現実の犯罪でも自動車が多用されるようになるであろう」と指摘しており、その予見は以後のモータリゼーション進展によって的中した。

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葛西善蔵


かさい ぜんぞう、1887年明治20年)1月16日 – 1928年昭和3年)7月23日)は、日本の小説家である。青森県中津軽郡弘前松森町(現・弘前市)で当時米の仲買業をしていた父・卯一郎、母・ひさの長男として生まれた。姉二人(長女・いそ、次女・ちよ)と祖母・かよがいた。

1889年(明治22年)、一家は北海道に移住、弟・勇蔵が生まれる。1891年(明治24年)、一家は青森県に移住する。1893年(明治26年)、青森県五所川原小学校に入学するが、一家の転居にともない碇ヶ関小学校に転校する。1902年(明治35年)、母・ひさが死去する。上京し新聞売りのかたわら夜学に通う。1903年(明治36年)、北海道にわたり鉄道の車掌や営林署で働く。

文学を志して上京し、東洋大学早稲田大学聴講生となるなかで、舟木重雄広津和郎たちと知り合い、同人雑誌『奇蹟』のメンバーとして迎えられる。1912年、『奇蹟』創刊号に「哀しき父」を発表して、作家としての力量を発揮した。

その後は、しばらく故郷と東京を往復しながら作品を書くも、生活は困難をきわめた。1919年に創作集『子をつれて』を新潮社から刊行し、作家としての地位を確立することはできたが、家族を養うことは難しく、それがその後の葛西の生活におおきな影響をもたらした。 1923年(大正12年)、持病の喘息の療養のため、鎌倉建長寺塔頭宝珠院の庫裏を借りて生活を始める。食事は茶店招寿軒に頼んでいたが、食事を運んでくれたのが招寿軒の娘の浅見ハナ(おせいさん)で、のちに同棲を始める。

40歳に近づく頃から生活も荒れ、執筆もほとんどが口述筆記となり、嘉村礒多がその任にあたった。晩年は東京の、現在の世田谷区三宿界隈に住んだが、肺病が重くなり、1928年(昭和3年)3月23日、41歳で死去した。戒名は「藝術院善巧酒仙居士」。弘前市徳増寺と、鎌倉市の建長寺塔頭の回春院にある。回春院の墓には従兄弟である北川清蔵および、1992年(平成4年)12月30日に92歳で死去した浅見ハナも葬られている。

葛西の作品は、ほとんどが自らの体験に取材した〈私小説〉といってよいもので、そこに描かれた貧困や家庭の問題は、その真率さで読者に感銘を与える。一方、妻を故郷に置いたまま別の女性と同棲して、子もなしたことへの批判は当時から根強く、それへの反発が葛西の作品の底流にある。

生活の悲惨さのなかで、それを逆手にとったような葛西の文学には、人をひきつけるところがあり、それが葛西の作品を広めているところがある。破天荒かつ酒乱、生活破綻などと言われるが、死の床にも見舞い客はひっきりなしに訪れ、葬式には200人が集まった。弔辞は徳田秋声谷崎精二が務め、文壇では「葛西善蔵遺児養育資金」が集められ、志賀直哉佐藤春夫室生犀星といった面々が協力した。 故郷の弘前では、石坂洋次郎や戦後代議士となった津川武一が、葛西文学の顕彰のために力をつくした。

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葛西善蔵(1925年撮影)

蒲 松齢
ほ しょうれい、Pu Songling、崇禎13年4月16日(1640年6月5日) ‐ 康熙54年1月22日(1715年2月25日))は、清代の作家。字は留仙または剣臣、号は柳泉居士。聊斎先生と呼ばれた。 済南府淄川の地元の名家に生まれた 。
蒲松齢(1640年(崇禎13年) – 1715年(康熙54年))。 藤田祐賢によれば「中國古来の筆記小説の系統を引く數多い文語體の小説の中に在って、短編小説として最も傑出しているということは、既に定評となって」おり、また今井弘昌によれば、怪異文学の最高峰と言われている

蒲原有明

かんばら ありあけ、1875年明治8年)3月15日 – 1952年昭和27年)2月3日)は、日本詩人。本名、隼雄(はやお)。東京生まれ。

D・G・ロセッティに傾倒し、複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人として『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され、北原白秋三木露風らに影響を与えた。

東京市麹町区隼町に、佐賀藩士・蒲原忠蔵、石川ツネ(1879年入籍、のち離婚)の子として生れた。地名にちなみ隼雄と名付けられた。生まれつき体が弱かった。平河小学校(現・千代田区立麹町小学校)、東京府尋常中学校(現・都立日比谷高校)を卒業し、第一高等中学校(のちの一高)を受験したが失敗。国民英学会で学び、卒業後小林存山岸荷葉らと同人雑誌「落穂双紙」を発刊し、ここに初めて詩を載せた。

読売新聞の懸賞小説に応募し「大慈悲」が当選し、この時期小説を書いたが、すぐに詩作に専念する。巌谷小波の木曜会に顔を出すようになり、D.G.ロセッティの訳詩や、新体詩集『草わかば』を出版した。さらに上田敏の訳詩に強く影響を受け、『独絃哀歌』『春鳥集』を刊行し象徴主義を謳歌。このころ青木繁と親交を結ぶ。

1908年に刊行した『有明集』で象徴詩手法を確立し、薄田泣菫と併称された。だがすでに時代は自然主義の流れに向かっており、文壇から激しく批判され孤立するとノイローゼに陥った。大正以後は文壇を離れ、詩の改作を行ったが、作品の質は改作前の方が高いという意見が多い。さらに、フランス象徴派の翻訳や散文詩の創作を試みたが、フランス語は不得手だったこともあり、発表したのは少数だった。

1919年に鎌倉に移り、関東大震災後は静岡へ移転。この際改修した自宅は貸家とし、1945年から1年間川端康成が泊まっていた。敗戦後は鎌倉に戻った。自伝『夢は呼び交わす』を刊行後の1948年、日本芸術院会員に選ばれる。1952年2月3日、急性肺炎のため鎌倉の自宅で死去した。77歳没。戒名は龍徳院宏文有明居士[1]。墓は港区元麻布・賢宗寺にある。

近松秋江


ちかまつ しゅうこう、1876年明治9年)5月4日 – 1944年昭和19年)4月23日)は、日本小説家評論家岡山県生まれ。本名は徳田丑太郎。17歳のとき、浩司と改名。露骨な愛欲生活の描写によって、代表的な私小説作家の一人とされる 。

1876年(明治9年)岡山県和気郡藤野村田ヶ原(現和気町藤野)に生まれる。少年時代は『雪中梅』(末広鉄腸)や『経国美談』(矢野龍渓)などの政治小説を好んだ。家は代々農業を営んでおり、1892年(明治25年)、岡山県尋常中学校(後の岡山一中、現在の岡山県立岡山朝日高等学校)に入学するが翌年退学、1894年(明治27年)、父に書置一通を残し上京。慶應義塾に入るも父の急逝により2ヶ月で退学し、帰郷、一年余り家業に就く。その間、村井弦斎尾崎紅葉泉鏡花等の軟文学に親しんだ。1896年(明治29年)、小説家を志し、9月再度上京し、国民英学会に英語を、漢学私塾二松學舍(現二松學舍大学)にて漢学を学んだ。1898年(明治31年)、東京専門学校(後の早稲田大学文学部史学科に入学。卒業後、坪内逍遥の紹介で、博文館に入社するも5ヶ月で退社。その後、東京専門学校出版部に入る。1904年(明治37年)、中央公論の記者となるが、ここも7ヶ月で退社している。文壇デビューは、在学中の1901年(明治34年)、読売新聞紙上の文学合評「月曜文学」第一回、「鏡花の註文帳を評す」である。最初の小説は『食後』(1907年)。作家としての地位を確立したのは、『別れたる妻に送る手紙』や『黒髪』を代表とする、いわゆる情痴文学である。1916年(大正5年)、赤木桁平から「遊蕩文学」の作家の一人として攻撃された。晩年は両目とも失明した[2][3][4]

1944年4月23日、老衰と栄養失調のため東京都杉並区の自宅で死去。戒名は策雅秋江居士[5]

筆名の近松秋江は、近松門左衛門を慕うことから近松、また秋の絵を好むことから秋江としたといわれる。また、はじめは徳田秋江を使用していたが、徳田秋声と紛らわしいため改名した。

東京専門学校時代に出会った正宗白鳥との交友は有名。

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高村光太郎

たかむら こうたろう、1883年明治16年)3月13日 – 1956年昭和31年)4月2日)は、日本詩人歌人彫刻家画家東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現在の東京都台東区東上野一丁目)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読む。

日本を代表する彫刻家であり、画家でもあったが、今日にあって『道程』『智恵子抄』などの詩集が著名で、教科書にも多く作品が掲載されており、日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。著作には評論随筆短歌もある。能書家としても知られる。弟は鋳金家高村豊周。甥は写真家高村規で、父である高村光雲などの作品鑑定も多くしている。

高村光雲

1883年(明治16年)に彫刻家の高村光雲の長男として生まれ、練塀小学校(現在の台東区立平成小学校)に入学。1896年(明治29年)3月、下谷高等小学校卒業。同年4月、共立美術学館予備科に学期の途中から入学し、翌年8月、共立美術学館予備科卒業。

1897年(明治30年)9月、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿。1902年明治35年)に彫刻科を卒業し、研究科に進むが、1905年(明治38年)に西洋画科に移った。父・高村光雲から留学資金2000円を得て、1906年(明治39年)3月よりニューヨークに1年間2ヶ月、ロンドンに1年間1ヶ月、その後パリに1年滞在し、1909年(明治42年)6月に帰国[1]。アメリカでは、繁華なニューヨークの厳しい生活の中で「どう食を求めて、どう勉強したらいいのか、まるで解らなかった」と不安でおどおどと悩んでいる時に、運良くメトロポリタン美術館で彫刻家ガットソン・ボーグラムの作品に出会う。感動した光太郎は熱心な手紙を書き、薄給ではあったが彼の助手にしてもらった。このようにして、昼は働き夜はアート・スチューデンツ・リーグの夜学に通って学んだ[2]。世界を観て帰国した光太郎は、旧態依然とした日本の美術界に不満を持ち、ことごとに父に反抗し、東京美術学校の教職も断った。パンの会に参加し、『スバル』などに美術批評を寄せた。「緑色の太陽」(1910年)は芸術の自由を宣言した評論である。

1912年(明治45年)、駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品。1914年大正3年)に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1916年大正5年)、塑像「今井邦子像」制作(未完成)。この頃ブロンズ塑像「裸婦裸像」制作。1918年(大正7年)、ブロンズ塑像「手」制作。1926年(大正15年)、木彫「鯰(なまず)」制作。1929年昭和4年)に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病した。1938年(昭和13年)に智恵子と死別し、その後、1941年(昭和16年)に詩集『智恵子抄』を出版した。

智恵子の死後、真珠湾攻撃を賞賛し「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した「記憶せよ、十二月八日」[3]など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。歩くうた等の歌謡曲の作詞も行った。1942年(昭和17年)4月に詩「道程」で第1回帝国芸術院賞受賞[4]1945年(昭和20年)4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年5月、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮沢清六方に疎開(宮沢清六は宮沢賢治の弟で、その家は賢治の実家であった)。しかし、同年8月には宮沢家も空襲で被災し、辛うじて助かる。終戦後の同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。この小屋は現在も「高村山荘」として保存公開され、近隣には「高村記念館」がある。

1950年(昭和25年)、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。翌年に第2回読売文学賞を受賞。1952年(昭和27年)、青森県より十和田湖畔に建立する記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京都中野区桃園町(現・東京都中野区中野三丁目)のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作。この像は「乙女の像」として翌年完成した。

1956年(昭和31年)4月2日3時40分、自宅アトリエにて肺結核のために死去した。73歳没。この高村の命日(4月2日)は連翹忌と呼ばれている。戒名は光珠院殿顕誉智照居士[5]

著名な芸術家・詩人であるとともに、美や技巧を求める以上に、人間の「道」を最期まで探求した人格として、高村を支持する人は多い。

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29歳時の肖像写真

智恵子と光太郎

黒島伝治

くろしま でんじ、1898年12月12日 – 1943年10月17日)は、日本の小説家である。

香川県小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)に生まれた。壺井栄は隣村(現在は合併で同じ町になっている)の出身である。上級学校への進学はかなわず実業補習学校を卒業して醤油工場に勤務、学資を貯めて上京し早稲田大学予科の選科生となる。このため徴兵猶予の対象とならず1919年には兵役の召集を受け姫路の連隊に在営、シベリア出兵に看護卒として従軍した。この体験が、彼の代表作である『渦巻ける烏の群』『橇』などの〈シベリアもの〉とよばれる日本文学史上稀有な戦争文学として結実することとなる。

兵役を終えた後に小説を書き始め、1925年に貧困のために合格した中学への進学を断念させる家庭の姿を描いた「電報」で世に知られるようになる。当時のプロレタリア文学はほとんどが労働者を題材にしていたなかで、農村を舞台にした黒島の作品は好感をもって迎えられた。この傾向の作品としては、差し押さえに抵抗する農民を描いた『豚群』が有名である。1930年には済南事件に取材した日本と中国との関係をえぐった長編『武装せる市街』を書き下ろしで刊行するが、即座に発禁となる。

文芸戦線』同人だったものの、母体の労農芸術家連盟の粛正を要求して離脱。更に全日本無産者芸術連盟(ナップ)へと参加するものの、1930年代始め頃に肺病に罹患して故郷・小豆島に隠棲。特別高等警察の監視下に置かれながらも作品の発表もせぬまま、1943年に生涯を閉じる。遺稿・書簡の類は夫人の手によってその多くが焼却されたものの、軍務についていた頃の日記は消滅をまぬかれ『軍隊日記』として戦後に刊行。『武装せる市街』も戦後出版が計画されたもののGHQの検閲で実現に至らず、講和条約の発効後にやっと陽の目を見るに至った。


日本現代文学研究会『現代日本小説大系』第42巻(1949)より

郷里には文学碑が建てられている。

没後、全集が2回(筑摩書房勉誠出版)刊行された。